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「試合にダンスシューズ忘れました」事件から一週間、2002年10月6日、第14回八王子ダンススポーツ大会に参加しました。この日のメイン競技は、「読売新聞杯」、JDSFのD級以下の選手が参加できるチャンピオン戦です。横に長い東京を東から西へ横断し、初めて西八王子の駅に下り立ちました。八王子市民体育大会の行事として行われたこのダンス競技会には、市民だけが参加できる「桑都杯」や「連盟会長杯」が用意されていて、オープン戦としては、3級戦、4級戦、ミドルシニアC級戦、そして、私たちが出場した「読売新聞杯」がありました。場所は八王子市民体育館です。お天気にも恵まれ、何の忘れ物もなく、体調も万全。参加組数約200組のうち、「読売新聞杯」ラテンに参加する選手は15組でした。種目はサンバ、ルンバ、パソドブレ。第一次予選は、15組全員で踊りました。最初の種目サンバで、ウィッグ(付け毛)が吹っ飛んだ選手がいて、フロアにうずくまるススムシみたいにしばらくそこにありましたが、近くのお客さんが機転を利かせて取って下さったので、踏ん付けて転ぶ人がいなくて済みました。誰も知り合いのいないアウェーの試合でしたが、一階アリーナの一番前で観戦しておられた、3人の女性達が、私たちに大きな拍手と声援を送って下さって、とても心強かったのを覚えています。多分、地元八王子の方達だと思います。12組がアップして、準決勝。役者が「役になりきる」ように、踊りでもキャラクターになりきります。サンバならカーニバルで楽しく踊る男女、ルンバなら愛を語る男女、そして、パソドブレは闘牛の風景です。今回ちょっと失敗だったのは、パソドブレで、私たちの間に別のカップルが進入してきて、私が一瞬「素にもどって」しまったことです。選手同士の交錯はよくあることなので、大したことはありませんが、今だったらあれはしないだろうな、という「トコトコ歩き」で、リーダーを追い掛けてしまいました。決勝に残った6組に、私たちも入っていました。広い体育館を十分に使えるので、踊りに集中できます。一番前で応援して下さっている即席応援団の方々も、大変喜んで下さって、ますます声援に力が入ります。そして、「読売新聞杯」を手にしたのは、何と私たちでした。優勝です!しかも、初めて、「オナーダンス」を踊りました。これは、チャンピオン戦で優勝したカップルが、もう一度観客の前で一組で踊るという、大変名誉なことです。いつか、これをやってみたくて仕方ありませんでした。私たちはルンバを選びました。そして、ずっと、声援を送って下さっていた、即席応援団の方々の正面で、感謝をこめて踊りました。「オナーダンスってすごい」と思ったのは、踊り終わって席に帰るまでの間、すれ違った全ての方に「おめでとう」と言っていただいたことです。やっぱり1組で踊ると、覚えていただけるんだな、と感動しました。その日、東京を西から東に横断して、帰りに私の実家に寄り、「今度は優勝したよ」といって、カップを置いてきました。実家には「東京新聞杯準優勝」と「読売新聞杯優勝」の二つのカップが、父のゴルフのカップに紛れて飾ってあります。いつも応援に来て下さるY家の方々に「オナーダンス」の報告をすると、来られなかったのを大変残念がって下さって、翌月ダンス雑誌に載った私たちの写真を、大きく引き伸ばして立派な額に入れて贈って下さいました。その写真は、これから何十年も私たちに勇気を与えてくれるでしょう。初めてオナーダンスの栄誉を与えられた、輝ける一瞬です。 蔵元直送生ビール多摩の恵3種6本セット 東京都 新住宅地図 [八王子市 南-1]【B4】
2005/02/05
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準決勝での踊りは、今日の中で最高の出来でした。靴を忘れて、出場できなかったかもしれないのに、こんなに勝ち残ってしまって、もう、ここで落ちても悔いはない、くらいの謙虚な気持ちになっていました。決勝には通常6組が進みますが、この時は同点がいたのか、7組が決勝のフロアにコールされました。そして、なんと、私達もその中に入っていたのです。Nさんたちも、「すごいじゃない!がんばって。」と熱い言葉をかけて下さいました。今まで10曲踊ってきて、実はかかとに靴擦れを起こしていました。やはり、いくらピッタリといっても、履き慣れた靴とは違いますから、あたるところがあったのです。ここまでこれただけでも、奇跡のようなものですから、あと、この決勝を踊りきるだけです。私は踵にテープを貼って、元気にフロアに飛び出しました。表彰式では、下の順位から名前が呼ばれます。「C級戦ラテン、第6位....」私たちではありませんでした。合気道の友達も、私たちも、固唾を飲んで次の発表を待ちます。第5位、これも違いました。第4位、あれ?うそでしょ。私達ではありません。第3位、まだ違います。そんなバカな!心臓がドキドキしました。まさか、優勝?あれ?名前呼ばれなかったよ。えーー! 7位!C級からB級への昇級は、年間を通じて、C級戦で6位以内に2度以上入る必要があります。アトラクションに並んでて、「はい、ここまで。」といって、目の前で締め切られたような、そんな気分でした。7位か....。目を下に落とすと、Nさんの白い、といっても、かなり履きこまれた、グレーに近い白のダンスシューズが目に入りました。そうだ、今日は、この競技で踊れなかったかもしれなかったんだ。決勝まで残れて、上出来じゃない。103組中の7位だもの。全部、Nさんのお陰だ。それと、Nさんに聞いてくれたうちの王子様のお陰だ。私は丁寧に靴底をブラシで削ってゴミを落とし、Nさんに、シンデレラの靴をお返ししました。このことがあってから、私は履き古したダンスシューズを車に積んでおくことにしました。また、自分が忘れたときのためでもありますが、私のような、裸足のシンデレラを、いつか、助けてあげることができるように。(おわり) スワロフスキー シルバークリスタル シンデレラ『JuJu Palais Royal』ペンダント/限定商品(スワロフスキー) モチーフ / ハイヒール&クロス...超ロングなドレスにピッタリの究極サンダル(シンデレラサンダル)
2005/01/29
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C級戦ラテン、出場組数103組。靴を貸して下さったNさんも、同じC級戦に出場していました。種目は、チャチャチャとルンバです。一次予選では、約40組が落とされます。私はいつも8センチヒールの靴を履いていました。お借りしたのは7センチヒール。たった1センチ違うだけでしたが、足が床をとらえる面積がとても大きく感じられました。人の靴なのに、すごく踊りやすく、安定しています。フロアをA, B二つに分けて、競技は同時並行で進んでいき、嬉しいことに靴を貸して下さったNさんとはフロアが違って、直接対決しなくてすみました。私たちは一次予選を突破しました。Nさんもアップしたようです。二次予選では、一次を通過した64組から、22組が落とされます。Nさんはここで敗退してしまいました。靴をお借りしている自分たちだけ勝ち残って、なんだか気まずい感じでした。しかし、Nさんたちは、午後のスタンダードがメインなので、体力温存です。合気道の友達は、ずっと二階席からビデオを撮ってくれていました。最初、審判の立っている側から撮ってくれていて、もどってきた彼女が、「何でこっちむかないの?」といっていました。審判には、顔より背番号見て欲しいから、反対むいて踊るんだ、というと、次からは反対側から撮ってくれました。三次予選。残った42組から24組が選ばれて、四次予選に進みます。撮ってもらったビデオを見てみると、なんだかやけに、お借りしている白い靴が目立ちます。いつも足と同じようなベージュの靴を履いているので、気にしたことがありませんでした。そういえば、フィギュア・スケートも、以前は白い靴が主流でしたが、最近はベージュの靴カバーを履いている選手が多いです。「靴に目がいく」ということは、それだけ足下をきれいに踊らないと、審判にも見られているということです。四次予選、これが最終予選です。さらに半分の12組がピックアップされ、ここで勝ち残れば、いよいよ準決勝に進みます。最終予選では、特に、足下を丁寧に踊りました。大会のお手伝いに来られていた先生も、仕事の合間に声をかけて下さり、「いいね。頭だけ、ちょっと気をつけて。」一反木綿系のグニャグニャ踊りから、ようやく脱皮しそうになっていたころです。まだ、よほど注意していないと、妖怪踊りになってしまうので、先生の言葉に「はっ」としました。私達は、最終予選を制し、準決勝に進みました。北関東のC級戦ラテンでは、いままで最高はこのベスト12で、決勝に進めば、自己最高になります。準決勝のフロアには、茨城の大会でよく見かける「上手な」選手が、あちらにも、こちらにも。1週間前に千葉の大会で優勝したKさんたちの姿もありました。しかし、日々進化し続ける私達は1週間前の私達ではありません。私達の心には、何の迷いもありませんでした。(つづく)高級クリスタルガラス細工ガラスの靴パーティーにピッタリ☆シンデレラパンプスイヤリング シルバーモダンダンスシューズ シンデレラシンデレラ " Cenerentola"
2005/01/28
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「先生、靴忘れちゃったんです!」裸足でバタバタ走ってきた私のこの言葉に、先生は大変驚かれて、すぐに貸してくれそうな方を探しに走って下さいました。フロアで練習していた、ノービス級に出場予定の選手にお願いして、靴を試させていただきましたが、ちょっとゆるめでした。お借りするにしても、予選が終わるたびに、返したり借りたり、この大混雑の競技場ではとても大変です。そのノービス出場の方だって、ただでさえ緊張しているのに、「靴がまだ返ってこないわ。」なんて、変な心配をさせてしまっては申し訳ない気がします。私は、ダンスシューズを買うとき、とても慎重に調整します。それが、踊りのほとんどを決めると言っても過言ではないと思うからです。ハイヒールですから、足に完全にフィットした靴でないと、激しい動きで足首を痛める心配があります。しかし、今回ばかりは、そんな贅沢はいっていられません。貸していただけるだけでも、十分すぎるくらいですから、こんなところでピッタリの靴を探している時間もないし、立場でもありません。ああ、どうしたらいいんだろう。誰か助けて下さい。私はフロアの中心で叫びたい気持ちでした。試合開始時間が刻々と迫っているのに、まだ着替えも化粧もしていませんでした。そのとき、よく目立つ黄色いコスチュームに着替えた、私の王子様が探しにやってきました。「スペアの靴、持ってる人見つけたから、早く着替えて。」私は、先生と、「靴を貸してもいい」といって下さっていた、ノービス出場の方に丁寧にお礼をいって、急いで彼の後を追いかけました。その救世主は、茨城の大会事務局で一緒にお手伝いさせていただいたNさんでした。若いご夫婦で、いつもご主人そっくりの小さな男の子二人を連れて、競技会に参加していました。彼が私の窮状を話すと、「車に古いダンスシューズが積んであるから、持ってきてあげる。」といって、わざわざ取りにいって下さっているとのこと。その方の靴なら、私と背格好も似ているし、合うかもしれない。少し希望の光が見えた気がして、私は大急ぎで着替えに入りました。ラテン・ノービス級の試合が始まりました。6ヒート2種目ですから、この後のD級戦が始まるまであと15分。D級戦が始まると次のC級戦出場選手は、スタンバイに入るので、それまでにすべての支度を整えなければなりません。靴を取りにいって下さったNさんの奥さんが、戻ってこられました。「こんな汚い靴でごめんね。入るかな。」私はおそるおそる、その靴に足を通しました。信じられません。ああ、神様、ありがとうございます。ピッタリでした。私は嬉しくて、泣きそうになりながら、何度も何度もお礼をいいました。お化粧の最後の仕上げをして、いよいよC級戦一次予選開始です。(つづく)日本未入荷●天使のお守り~シュッツエンゲル・Aセット(3個セット)~ガーディアン・エンジェル K18セミオーバルネックレスパワーストーン、ブレスレット守護神 水晶彫勢至菩薩8MM
2005/01/27
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JBDF北関東の秋季大会が始まりました。JDSFの試合にたくさん出て、少しずつ自信を取り戻してきていた私たちは、今年こそB級昇級の意気込みに燃えていました。最初の試合は、2002年9月29日、全茨城ダンス大会です。合気道の友達が見に来てくれることになっていて、好天に恵まれたこの日、6時半に家を出発、石下町総合体育館に向かいました。茨城は2年前まで住んでいたので、知り合いもたくさんいますし、教室も茨城なので、先生も事務局のお手伝いでかり出されているはずです。体育館に到着すると、もう、たくさんの人たちが練習していました。彼は受付に背番号をもらいに、私はヒールチェックに並びました。女性のダンスシューズは、ハイヒールなので、そのかかとで体育館の床を傷つけないように、カバーを貼ることになっています。カバーがすり減っていたり、貼っていなかったりすると、100円で購入してその場で貼付けます。カバンをあけて、靴を出そうとして、私は文字通り、血の気が引きました。ダンスシューズが...。受付を済ませて帰ってきたリーダーが、体育館の入り口近くで荷物を全部出して、呆然と立ち尽くす私にただならぬ気配を感じたようでした。「どうしたの?」「靴が...、靴がないの。」何を忘れてもいいけど、靴はいけません。裸足じゃ、試合に出られませんから。「今日は売ってないな。」時々、競技会場の入り口で、ダンス用品を売る店が出るので、靴も手に入るのですが、この茨城の大会には売りにきてませんでした。「ヤッホー。」二人で固まっているところに、合気道の友達が、思いっきり陽気に登場。「あのさ、靴忘れちゃったんだよ。この人。今日は、出られないかも。」来ていきなりそんなこといわれちゃった友達も、顔を見合わせるばかり。「ちょっと、先生探して、相談してくるよ。とりあえず、場所とって、着替えててくれる?」同じ教室から、結構たくさんの競技選手が出場していましたので、同じC級戦でなければ、借りることも可能かもしれないと思ったのです。私は、一人、混雑したフロアに分け入り、裸足のまま先生を捜しました。(つづく) SUPA1413 フレッシュサテン8cmフレアヒール(ダンスシューズ) 男性ラテンダンスシューズSPDL13-418SUPA1413白サテン7cmスリムヒール ヒールキャップ プレゼント付き
2005/01/26
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2002年9月23日、第16回千葉中央支部スポーツダンス競技大会が、千葉ポートアリーナで開催されました。この日のメイン競技はD級戦。そのほかに、1級から6級の試合があり、600組を超える競技選手が、千葉県のみならず関東各県始め、静岡、長野からも出場されていました。千葉ポートアリーナは、千葉県の県庁から車で5分くらいの、ほとんど千葉市の中心にある大きな体育館です。いつも、2階席にビデオを固定して、試合の様子を撮影するのですが、この日は、お化粧している様子や、準備運動の様子なんかも映して、なんとなく余裕の始まりでした。前回の東京体育館の試合が慌ただしかった分、今回は少し早めに家を出たので、ゆっくり支度することが出来たのです。朝の試合前のフロアには、練習用の音楽が流れ、トレーニングウエア姿で練習している人たちがたくさんいます。私はこの日、初のロングヘアのウィッグ装着。細かい三つ編みがたくさんついている、いわば、付け毛です。髪は長いので、自分で結ったり出来れば全然問題ないのですが、私にはそんな技量も根気もないので、いつもお団子です。ただのお団子に飽きたので、今回は付け毛。そして、もう一つの武器は、付け爪です。仕事や合気道で邪魔なので、自分の爪はいつも短く切りそろえています。白地に黒の模様が入った長~い爪を、自分の爪にシールで貼付けます。爪を付けるともう何も出来ないので、お化粧も着替えも全て終わって、靴も履いてから爪を付けます。手が長く見えて、ちょっと美しいのです。この爪を付ける作業で、すべての戦闘準備完了です。ラテンD級戦には、38組が参加していました。種目は、サンバ、ルンバ、パソドブレ。1次予選、2次予選、準決勝と、勝ち上がってきました。準決勝からは、3種目連続で踊ります。これは、1曲1分半、3曲で4分半の全力疾走のようなものです。ハムストリングを痛めていて、よけいなところに力が入ってしまったのか、足裏の筋肉がめちゃめちゃ痛くなりました。決勝を待つ間、靴を脱いで、足裏をマッサージ。「あと、3曲で終わりだから、がんばってね。」自分の足にお願いしていました。決勝に残ったのは、6組全員、千葉の選手でした。名前と所属する都道府県が紹介されると、一組ずつ客席に挨拶をしてフロアに登場します。広いフロアで、たくさんのお客さんに見ていただいて、決勝を踊るのは気分がいいもんです。ぶつかるなんてことは考えなくていいし、後は残る力のすべてをこのフロアにかけるだけですから。結果は、準優勝でした。このとき優勝されたKさんたちとは、これから何度も宿命の対決を繰り返すことになります。Iセット雑誌にも載ってる!PLAYBOY付け爪チップ【2種】自爪セーブコート
2005/01/25
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毎年恒例、夏の京都のダンスパーティ。2002年のこのパーティには、うれしいことが2つありました。一つは、お父さんが退院して、また、一緒にタンゴが踊れたこと、もう一つは、いつも競技会に応援に来て下さるY家の方々も、このパーティに来て下さったことでした。二条城の向かいにある、全日空ホテルで、9月15日に開催されたパーティ、また、たくさんの方々が集まりました。私はこの日、お母さんにいただいた赤いロングドレス。全面にスパンコールをぬいつけた上に、アラビアンナイトのようなシースルーの布が覆っている、タンゴにピッタリのドレスです。私の友達のCちゃんは、ダンスは未経験、というか、小学校以来したことがないといっていました。学校の先生が、社交ダンスが好きで、どういったわけか、クラスのみんなにスローフォックストロットなんていう難しいダンスを教えていたそうです。一方、Y家のお母様は、日本舞踊を長くされていた上、社交ダンスもされていますから、パーティには慣れていらっしゃいます。はるばる東京から来て下さったこの二人が、いつも応援して下さるY家の方々です。パーティが始まるまで、二条城や平安神宮を回り、京都観光をされていたようです。できれば私が、もっと京都をいろいろ案内して差し上げられたらよかったのですが、残念ながら会場の受付で集合ということになってしまいました。Cちゃんは、もっぱら食べることと、カメラマンに徹し、わたしがいくら誘っても、絶対に踊ってくれません。高校時代、陸上の選手をやっていたくらい足が強い人なのに、もったいない限りです。Y家のお母様はとても社交的な方で、どんな踊りでもこなして、とても楽しんでおられました。退院したてのお父さんも、病み上がりとは思えないハッスルぶりで、ダンスタイムは席に座っている時間が全くないほど、踊り通しでした。お母さんは、生徒さんとデモを踊り、フォーメーションもバッチリ決めて、元気いっぱいです。毎年、このパーティでしか、お会いできない面々と2次会に出かけました。東京からのお二人は、誘ったのが急過ぎたので、お休みが取れず、その日の最終の新幹線でもどられました。2次会は、もちろん唄って踊れる店です。みんな「マイ・シューズ」持参で、真ん中にフロアをしつらえたパブのようなお店に行き、夜中過ぎまで時間の経つのを忘れて踊ります。人間は、約30000日しか生きられないのだそうです。その間に、出会うことの出来る人は限られていて、しかもまた会えるかどうかもわからないのです。一年に一度、このパーティに集う皆様が、来年もお元気で、また一緒に踊れますように。京のお抹茶プリン京のお抹茶ケーキ
2005/01/24
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ダンススポーツフェスティバル in 東京2002が、千駄ケ谷の東京体育館で、2002年8月31日、9月1日の2日間開催されました。1日目は、サマー大ダンスパーティで、北条章宏先生の講習会、トライアル、デモンストレーションの間に、ダンスタイムが設けられ、2000人近いダンサーが集う、文字通り、大きなパーティでした。私たちが参加したのは2日目のJDSF公認競技会。午前9時の受付開始を前に、ラテン競技参加者達が暑い真夏の日差しを受けて、東京体育館の前に長い列を作って、開門を待っていました。この日は、6級から1級までの競技と、D級戦、C級戦、グランドシニア戦があり、1280組の競技選手が関東一円から大集結。「大会の中で一番上位級の試合に出よう」という基本方針通り、私たちはC級戦に出場することになっていました。やっと、受付を済ましてプログラムを見てビックリ。なんと、C級戦の一次予選がプログラムの一番最初で、あと30分しかありません。競技はたいてい下の方の級から始まるので、ゆっくり支度できると思っていた予想は完全にはずれました。大慌てで着替えてお化粧をして、準備体操もそこそこに、もう出番です。東京体育館は、大きな体育館です。二つに分けても、まだ大きいフロア。種目はサンバ、チャチャチャ、ルンバ、パソドブレの4種目です。慌ただしく始まってしまったせいか、気分的に舞い上がっていましたが、その時、この広い体育館に、よく透る声で私たちの背番号を呼ぶ声が聞こえました。本当にビックリしました。こんな朝早くから暑い中、応援に駆け付けて下さった大応援団Y家の方々のために、何としてもいい踊りをしよう、私たちにエンジン全開のギアが入りました。C級戦は私たちにとっては一つ上のレベルの戦いなのに、この日、決勝まで残れたのは1次予選の結果がよかったからでした。準決勝で6位が同点で2組いて、私たちがその内の1組だったのですが、1次と2次の総合得点で私たちが勝り、決勝に進めたのです。ちなみに東京新聞杯(サンライズホール)で一緒に踊って優勝したカップルは、D級戦に出場しており優勝していました。私たちも本当はそっちに出るほうが順当なのですが、なにせ怖いもの知らずで、「大会の中で一番上位級の試合に出よう」なんていってるものですからほんとうは予選落ちしてもおかしくなかったのです。6位でしたが決勝で踊れて、表彰式にも出られ、なんと賞金までもらってしまいました(2000円ですけど)。すべて、一次予選からやる気にさせてもらった応援団の皆さんのお陰でした。この大会の写真が、翌月のダンス雑誌に載りました。まだまだ「ひよこ&ひよこ使い」みたいですが、練習会の成果は確実に出てきたようです。 紅の豚1920年代のアドリア海を舞台に、大空をこよなく愛する豚の姿をした一人の賞金稼ぎの活躍を描いた宮崎駿原作、脚本、監督で贈る一大航空活劇。 関東 セット10 拳銃無宿 DVD-BOX賞金稼ぎのガンマンスティーブ・マックィーン出世作
2005/01/23
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ロンドン留学から帰って来られた先生が、そこにある「セムリー」という練習場の話をして下さいました。世界のトッププロたちが、当たり前のように集まってきて、ラテンダンスを練習しているという練習場。2002年夏、これから秋の大会シーズンが始まるという頃、教室でもこれにならって練習会をやろう、ということになりました。毎週火曜日と金曜日のレッスンが終わった夜10時から、ラテン競技選手だけが集まってひたすら踊る、というその練習会。私達は最初から参加したオリジナルメンバーでした。当時D級だった私達の他に、B級選手、C級選手のカップルが参加して、先生たちを入れて4組でした。夜10時、すべての蛍光灯は消され、薄暗いスタジオにゆっくりとしたルンバの曲がかかり、競技選手たちはそれぞれ、ベーシックやバリエーションの部分練習を始めます。ウォームアップが済むと、あみだくじでヒートが決められ、サンバ、チャチャチャ、ルンバ、パソの順に競技会のような形でヒート別に踊っていきます。この練習会の効果は絶大でした。このおかげで昇級したといっても過言ではありません。ヒート分けをすることによって、自分より上手な選手の踊りを間近で見ることが出来るし、プロの先生たちも一緒に踊って下さるので、イメージトレーニングはバッチリです。競技会でいい成績を取ると、教室に結果が貼り出されるのですが、練習会に参加していたメンバーは、名前を貼り出される常連でした。私達も、少しずつ結果が出るようになってきて、その噂を聞きつけた他の競技選手たちが、どんどん参加するようになってきました。しかし、いいことばっかりではありません。練習会が終わって家に帰ると、いつも12時を過ぎてしまい、それから洗濯、お風呂、ご飯とやっていると、寝るのが2時~3時になって、いつも寝不足です。一週間の半ばを過ぎた頃、木曜日あたりがいつも疲労のピークです。木曜日はダンスはお休み、私は合気道の日なので、大きな荷物を持って電車に乗ると、そのまま爆睡体制に入ります。終点で中距離電車に乗り換えるとまた爆睡。ある日、夢の続きのような状態で、終点で降りた私は、乗り換えホームで電車を待っていました。成田空港に向かう電車もそのホームに停まるので、スーツケースを持った人たちも何人かいました。「大きな荷物で大変そうだなあ。」はっと、夢からさめました。自分の大きな荷物がありません!私は大慌てで、エスカレータを駆けのぼり、さっき降りたホーム にもどると、今、まさに電車が出たところ。「まって~!」行き先を見ると、「回送」。私の荷物が車庫に行ってしまう。追い掛けても空しいだけなので、車掌室に飛び込みました。「すいません!今、走り去ってく、あの電車に忘れ物したんです。大きな白い.......。」大きな白いカバン、と言おうとしたとき、車掌さんの机に、それが乗っているのを見つけてしまいました。「あー、よかったー!それです、それです。」車掌さんと駅員さん達は笑いながら、「こんなでっかいもの、誰が忘れていったんだろって、いまはなしてたとこなんですよ。一応、確認のために、中、何が入ってるか言ってくれる?」「はい。合気道の道着とはかまと、帯とTシャツとタオルと.....。」「もう、いいよ。これから仕事?それじゃ、合気道もがんばって。」駅員さんが車庫入れする前の車両を見回って、網棚に残っていたこのあやしい大きなカバンをとっておいて下さったお陰で、私は遅刻せずにすみました。もう、すっかり目が覚めて、その日以来、網棚に荷物を載せていなくても、降りるときは一応チェックするようになりました。寝不足は、いけませんね。Street Car ロンドンバス 30角 写真シェイクスピア グロービーシアター チェス駒《送料無料!》英国ブリキ看板(ティンプレート)オックスフォード・ストリート
2005/01/22
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東京と千葉を結ぶJR総武線の錦糸町。この駅前の、大変アクセスのいいところに、産業会館サンライズホールがあります。百貨店の8階なので、ちょっとお昼にデパチカに行けば美味しいお弁当が買えますし、試合の合間に、お茶するなんてことも出来ちゃいます。2002年8月18日、東京新聞杯争奪、第11回墨田区アマチュア・ダンス・スポーツ大会がこのホールで開催されました。3級から5級戦、ミドルシニア戦、墨田区民限定の区民戦に出場するたくさんの選手で、会場はごった返していました。この日のメインイベントは、私たちの出場する東京新聞杯です。これは、D級以下相当戦でしたので、C級以上の人は出られません。とても暑い日でしたが、母に説得されて、カメラを持った父がやってきました。大混雑で、客席もいっぱいで、応援に駆け付けて下さった友達や大応援団の皆さん全員立ち見で、大変申し訳ない気がしました。私たちの出番はなかなかやって来ませんでした。お昼近くになって、やっと1次予選です。父はビデオを撮影しながら、待ち兼ねたように、どんどん写真を撮ってくれました。ダンスは動きが速いので、結構写真を撮るのは難しいのです。出場組数29組、種目はサンバ、ルンバ、パソドブレ。私たちは黄色い衣装で出場しました。最初からガンガン飛ばして、今日は優勝!の意気込みでした。1次予選が終わって、両親のところに行き、「どうだった?」と感想を聞くと、思ってたより激しい運動なのでビックリしたと言っていました。父が、「もうフィルム全部撮りきったから、腹減ったし、帰る。」というので、「え゛ー!」と思いました。だって、まだ1次予選終わったばかりよ。そんなのゴルフのトーナメント見に行って、第1ホールだけ見て帰るようなもんじゃないの。母はもう少し見ていたかったようですが、お腹が減るともうそのことしか考えられないのは、父も私も同じなので、気持ちは分かります。大応援団Y家の方々も、「もうお帰りになるの?」と驚かれてました。仕方がありません。父は、ゴーイング・マイ・ウェイですから。試合の方はこの後、2次予選、準決、決勝と進みました。両親が来たので張り切ってたのに、なんだか拍子抜けでしたが、他にも応援してくれている方々がいらっしゃいましたから、もちろん力は抜きませんでした。残念ながら後一歩で「東京新聞杯」には届きませんでしたが、準優勝のトロフィーを頂くことが出来ました。ここの床が硬かったのか、ひょっとしたら両親が来たので普段以上に張り切って足を高く上げたからか、とにかく原因は定かではありませんが、この日の試合で右足太ももの裏側、ハムストリングを痛めて、約3カ月間、思うように前屈が出来なくなってしまいました。しかし、9月からは、本格的な秋の競技シーズンスタート。泣き言はいってられません。この日、帰りに実家に寄っていくと、もう写真が出来ていました。結構ピンボケが多かったのですが、中に数枚、シャッターチャンスをとらえた写真があったので、この年の年賀状はこれできまり。夕飯をご馳走になったお礼に、トロフィーを置いてきました。父のゴルフコンペのカップに混じって、ダンスのトロフィーが、居間に輝きを添えました。TOMIX E231系・総武線4両増結東京新聞出版社 最新クライミング技術シナトラ 1969
2005/01/21
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東京と千葉の県境に流れる江戸川。「男はつらいよ」の寅さんで有名になった葛飾柴又の近くに、私の実家はあります。毎年夏になると、花火大会がこの川の両岸で同時開催されて、数万人の人を集める大きなイベントになります。土手には、早くから陣地取りの人達がビッシリと座り、警察が交通規制を敷いて対応に追われます。私たちはいつも土手の外側の公園で花火見物をしますが、それでもほとんど真上なので、ずっと見ていると首が疲れてきます。「ドン」という打ち上げの音は、背骨に響いて、音と同時にパッと広がる色とりどりの光の輪は、真上から迫る大きな帽子のようです。川をはさんだ両岸3個所で、次々に打ち上げられるので、飽きることはなく、ちょっと眼を南に移すと、ディズニーランドの花火も見えてお得です。風向きが変わると、火の粉どころか、花火の周りを包んでいた厚紙が、火がついたままバタバタ落ちてくるので、みんなキャーキャーいいながらよけます。当たっても大したことはないのですが、ビールを飲んでほどよく盛り上がっているところなので、楽しい余興といった感じです。2002年8月3日、いつものように、私の実家に行き、夕飯をご馳走になってから花火見物にでかけました。この時、富山のお土産を渡して、京都の両親とダンス大会に一緒に行った話をすると、特に私の母はとってもうらやましがり、自分たちともどこか行こう、といいだしました。「でも、二人ともダンス興味ないじゃない。」「そんなことないよ。私だって、マンボ踊れるよ。」と、母。「それなら、今月、この近くで競技会あるから見に来て写真撮ってくれない?」父は全然の乗り気ではありませんでした。ダンスなんてちゃんちゃらおかしくって見になんか行けるか、と心の中で言っているよう。昔は私の運動会に来て、写真いっぱい撮ってくれたのに。小学校の創立10周年記念行事として、初めて鼓笛隊が編成され、運動会で学年全員が演奏するという一大パレードが行われたとき、私は栄えある主指揮に抜擢されました。オーディションが行われ、何人かの候補がリズム感や音感のテストをされた後、審査員を務められていた音楽の先生や担任の先生達の前で、実際に指揮棒を振り、主指揮1名、副指揮2名、バトントワラー数名が選出されました。かわいい女の子は優先的にバトンだったようです。このあと、ドラムや鉄琴、大太鼓などの楽器隊のオーディションがあり、それ以外の約9割の生徒は縦笛を担当しました。主指揮の棒は結構長くて重いので、それをパレードの間中、ずっと振っているだけの腕力をつけるために、家でゴルフクラブを指揮棒にみたてて毎日振る練習をしました。運動会当日、最初で最後かもしれない、娘の一世一代の晴れ舞台。父は会社を休んで来てくれて、先頭で大きな指揮棒を振って歩く私をずっとカメラで追ってくれました。当時は「プロゴルファー」になるかもしれない金の卵だったからでしょうか。今はすっかりただの鶏になってしまったので、面白くないのかもしれません。おまけに、水着みたいな服着て、ダンスなんてやってるし。しかし、うちでは、世界の中心は母なので、母が言えば、しぶしぶ見に来てくれるかもしれません。その競技会は、花火から2週間後の「東京新聞杯」でした。男はつらいよ/柴又より愛をこめて(第36作)男はつらいよ/柴又慕情(第9作)『男はつらいよDVDパーフェクトBOX』打ち上げ花火セット(特大)
2005/01/20
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会場のメインアリーナは、とても広く、フロアを二つに分けて、競技は進行していきました。大会2日目のスタンダード・グランプリを見ようと詰めかけたお客さんで、階段状になった1階席も2階席もいっぱいでした。プログラムを見ると、ライジングスター・ラテンに出る選手は7組。また、準決勝からです。しかし今回は、サンバ、チャチャチャ、ルンバの3種目。まだ、心に余裕があります。C級以下とは思えないような大阪の選手が、このライジングスターに出場していたので、優勝は無理だなというのは最初のサンバで分かりました。このカップルは、グランプリにも出場していた学連の上級生のようでした。明らかに小学校低学年の兄妹だと思われる小さなカップルも同じフロアにいました。小学生と侮れないほど、大きな踊りをしていて、下手をすると負けそうでした。お父さんは、私たちが入場を待っているところから、その様子をビデオに撮ってくれました。お母さんは、私たちの背番号を、そのよく通る高い声で連呼し続け、おかげで、審判も思わず点を入れてくれたんじゃないかという気がします。準決勝は無事通過し、決勝戦。最初のサンバは特にミスもなく、いつも通りの踊りが出来ていました。しかし、次のチャチャチャで、突然リーダーは方向感覚が麻痺しました。きっと、極度の緊張と、他のカップルとの交錯で、自分が何やってるのか分からなくなってしまったのだと思います。最初は二人そろって、シンクロする踊りのはずのところで、トコトコ歩いて、私の右側から左側へ。「どこいくの??」次は間髪を入れずに二人でシンクロして2回転、のはずが、彼だけ2回転半!振り向いたらこっちを向いているはずの彼が、反対向いてます。「こっちこっち!」最後に男性の腕の下を女性が回るアンダーアームターンでも、何を思ったか、男性がムリムリ自分の腕の下をアンダーアームターンしてしまって、突然の手持ち無沙汰に私はあっけにとられました。その間も、お父さんのビデオはアップで回り、お母さんの連呼は続きます。何で、ここで、コメディやってんだろう。あとからこのビデオを見て二人して笑い転げてしまいました。しかし、最後のルンバは全てのマイナスを穴埋めするくらい、いい出来でした。まるで、音楽が、私たちの振り付けのためだけになっているかのように、偶然ですがピッタリと調和し、お辞儀のタイミングまでばっちりでした。私たちは、表彰台に登りました。準優勝です。やはり優勝は、大阪の学連カップル、3位は北海道のちびっ子兄妹でした。あのチャチャチャで、よく勝てたもんだと、思いましたが、両親もとても喜んでくれました。この大きな大会の成功を陰で支えて下さった、地元のたくさんの大会事務局の方々に、感謝したいと思います。競技の合間に会場を沸かせてくれた、アトラクションのスタッフの皆様、審判をして下さった先生方、そしてなにより、競技選手を応援して下さった全ての方々、どうも、ありがとうございました。400年以上の歴史を持つ富山干柿(20個入り)【クール便送料無料】富山の地ビール飲みくらべ8本セット特撰ますのすし
2005/01/19
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日本ダンススポーツ連盟(JDSF)の全日本ランキングは、毎年、「三笠宮杯」「東京インター」「IDSFオープン」、これに、北海道、東北、中部、大阪、九州で各1回ずつ行われる選手権でのポイントが加算されて決定します。この「IDSFオープン」というのは、国際ダンススポーツ連盟(IDSF)の公認戦で、世界ランキングを決定するためのポイントを獲得できる、世界規模の大会です。主にヨーロッパ各国を始め、アメリカ、アジアでも開催されて、世界のトップ・アマチュア選手が集結します。2002年7月20-21日、この世界大会が、初めて日本海側で開催されました。「ダンススポーツグランプリ in 富山」です。2日間にわたる大会には、日本のトップ選手たちはもちろん、海外からのトップ選手も参加して、大変盛大なものになりました。富山はちょっと遠いからどうしようかと迷っていた頃、京都のお父さんが、やっと退院できたから、みんなでどこか温泉でも、という話が持ち上がりました。ちょうどいい機会だから、富山の民宿でのんびりして、世界大会でも見ようか、ということになり、どうせ行くなら見るより出よう、話はトントン拍子に決まってしまいました。基本方針として、「その競技会の中の一番上の試合に出る」と息巻いていた私たちですが、両親が見に来るとなると、「せっかく来たのに、1次予選で終わりかいな。」というのも申し訳ないし、子供としてもいいところ見せたいのが人情ってもんです。大きな大会ですから、いろいろな競技が用意されていて、私たちは「ラテン・ライジングスター戦」に出場することにしました。これは、グランプリに出るほど実力はないけれど、これから上がっていきますよ、というC級以下の選手が出場する競技です。私たちはこの時、D級選手だったので、出場資格十分です。私たちの試合は第二日目の21日でしたので、20日に新幹線で京都に帰り、お父さんの車で両親と共に富山に向かいました。真夏の太陽が照りつける日本海は、青く凪いで、夏休みに入った子供たちが元気に海岸を走っていきます。会場は氷見市のふれあいスポーツセンターという、丘の上の大きな施設のメインアリーナでした。会場の下見を兼ねて様子をのぞくと、メイン競技のグランプリ・ラテンに出場すると思われる外人選手たちが、ロビーを行き来しています。この日、競技終了後、「1000人大舞踏会」が開催されることになっていました。大会事務局の方で用意していただいた宿は、競技選手でいっぱいでした。私たちは早速お風呂でのんびりして、夕食の大部屋に向かいました。富山といえば海の幸。泊まりで試合って、なんて楽しいんでしょう。夕食のテーブルでお隣になったのは、北関東の試合でよくお見かけする選手でした。小柄ですが、踊りが大きくて迫力があり、いつも、「あんな風に踊れたらいいね」と話していた方々です。私たちはよく知っていますが、そちらの方は勿論私たちのことなどご存知ありません。早速自己紹介して、いろいろ歓談するうちに、なんと、両親と同じような年齢だということで、大変驚きました。明日は、ラテンのミドルシニア戦に出場とのことでした。こんな風に、仕事とは全く関係のないところで、いろいろな方々とお知り合いになれるのはとても楽しいことです。さて、初めて両親に見せる私たちの競技ダンス。ただでさえ緊張するうちのリーダーは、ちゃんと眠れるんでしょうか。布団に入ると、静かに打ち寄せる波の音が聞こえました。かすかな磯の香りが、漂っています。しばらく波の音を聞いていると、彼の寝息が聞こえてきました。どうやら大丈夫そうです。私も、フロアで最高の踊りをしている自分をイメージしながら、いつしか夢の世界へと誘われていきました。いきいき地ビール めざめるいきいき地ビール 太閤エール【みりん干し4点セット】ビールがうまい!氷見産殻つき牡蠣(15個入り)
2005/01/18
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社交ダンスもそうですが、結婚するまで全く無縁だったもう一つの世界、それは落語です。テレビでたまに見かけたことがある程度で、きちんと最初から最後までお話を聞くということはありませんでした。主人は男三人兄弟の長男ですが、末の弟が落語の世界に入り、それで初めてその世界にも目が向くようになったのです。彼は、人間国宝である桂米朝一門に入門し、修行して「桂よね吉」としてデビューしました。年に一度、桂一門の若手落語家たちが東京日本橋で寄席を開きます。2002年7月14日、私たちもそれを見に行きました。「さえずり会」といいます。この日はとても暑い日で、私の母も一緒に行きました。大応援団のお母様は、夏の着物をキリっと涼しげにお召しになって、最初から前の方の席でご覧になっていました。合気道の試験のときに、剣と杖の練習をするためにお庭を貸して下さった職場の顧問も、わざわざ茨城から来て下さいました。会はとても盛況で、私たちが行った時、もう立ち席しかありませんでした。よね吉は、とてもよく稽古を積んでいて、お客さんとの駆け引きも新人とは思えないほど上手でした。特に彼はお芝居や歌舞伎が好きなので、そういった題材のお話をすると、とてもいきいきとして見えます。関東では、前座を卒業して真打になる、という制度があるようですが、関西の落語会には「真打」というのはないそうです。これも初めて知ることでした。彼の専門分野は古典落語というもので、おなじみの「いまなんどきだい」と聞いておつりをごまかす「ときそば」に代表される、音楽で行ったらクラシックです。同じ話を何度も聞いて、なんで飽きないんだろう、と思ったこともありましたが、よいクラシック音楽は何度聴いても飽きないように、古典落語も飽きることはありませんでした。また、ベルリンフィルにはベルリンフィルの音があるように、クラシック音楽は、演奏家が違うと、響きが全く違ってきます。それは、ポップスやロックや演歌でも同じことがいえて、落語も語り継がれた話を噺家がどう伝えるかによって、全く面白さが変わってきます。一番差が出るのは、「間」だと思うんです。お笑いの売れっ子の方達は、とても「間」をとるのが上手です。どんなに面白い話でも、息もつかせずしゃべりまくられると、聞いている方は疲れてしまいますよね。ダンスにも、「間」はあります。しかし、「間」とはいわずに、メリハリといったりします。スピーディな動きの後のゆったりした余韻、緊張の後の緩慢な動きが、音楽を体で奏でるダンスの醍醐味です。最近、よね吉は京都のラジオ番組に出演しているほか、日曜日の夜11時から、NHK BSで「熱中時間,忙中“趣味”あり」という番組にも出演しています。これからどんな風に成長していくのか楽しみ。ダンスも含め、芸の道は果てしなく深いですから。特選!!米朝落語全集 <永久保存版> 第三集【TOBS-1023】 =>20%OFF!《発売日:02/10/17》コミック 古典落語 全5巻 講談社コミックス(A5版)特選!!米朝落語全集 <永久保存版> 第八集【TOBS-1028】 =>20%OFF!《発売日:02/10/17》
2005/01/16
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東静岡の駅を降りると、グランシップ、その名の通り、大きな戦艦のような建物がそびえています。2002年7月7日、ここで、全日本10ダンス選手権および中部日本ダンススポーツ選手権大会が開催されました。この年、私たちは2つのことをJDSFの競技会に出るための指針にしていました。1. 出られる試合は全部出る。社交ダンスの競技会は、自己級より下の試合には出られませんが、上のクラスには何でも出ていいので、当時、D級選手だった私たちには、たくさんの選択の余地がありました。2. どうせ出るなら、その競技会で一番上の競技に出場する。例えば、ある競技会で、B級戦、C級戦、D級戦があるとしたら、どれにでも出られますが、一番上のB級戦を選ぶ、と言った具合です。スタンダードはこの頃お休みしていたので、10ダンスには出られませんが、ラテンで一番上というと、中部日本選手権です。つまり、A級戦。私たちが今まで出ている試合は全て、種目はサンバ、ルンバ、チャチャチャ、パソドブレの4種目の中から数種目が選ばれるといった形式でしたが、ラテンの種目にはもう一つ、ジャイブというのがあります。これはロックンロールに合わせて踊る、一番速いリズムのダンスですが、この種目が試合で使われるのはA 級戦だけなので、通常、みんなあまり練習していません。勿論、私たちも例外ではありませんでした。しかも、準決勝以上で初めてこの種目が入ってくるので、「私たちがA級戦の準決勝以上に入ることなんてありえないよ。」そういって、4種目の練習に力を注いできました。みなさんも、うすうす感づいておられると思いますが、その、「ありえない」ことが、起こったのです。何と、このA級戦にエントリーした強者は11組しかいませんでしたので、最初っから準決勝です!そりゃあもう、あせったのなんの。ジャイブは振り付けすらないんですから。もう一つのメインイベントは、10ダンス選手権。これは、スタンダード5種目、ラテン5種目の、計10種目の総合的な実力で日本一を決める試合でした。ここにもジャイブが入っています。私たちは予選の様子を必死に観察しました。そして、今見たジャイブの振り付けのいくつかを、二人で「あーでもない、こーでもない」と廊下の端っこで試行錯誤し、試合が始まるまでずっと練習していました。そばに陣地とりシートを敷いて、試合を観戦しながら私たちの様子を横目で見ていた選手たちの声が時々耳に入りました。「さっきからずっと跳ねてるわよ。」「元気があっていいわねえ。」違うんです!必死なんです!そして、いよいよ準決勝が始まりました。最初の4種目の間も、ジャイブのことが気になって仕方ありませんでしたが、いつもより大きなフロアでのびのび踊れて、自分たちの中では実力通りの力を出せたと思います。最後にジャイブ。軽快なロックンロールの曲がかかると、ちょっと考えていた振り付けなど、空の彼方にすっ飛んでしまいました。曲に合わせて、飛んだり跳ねたり、すっかりライブのノリです。審判にしてみたら、「なんじゃ、あれは?」という感じだったと思いますが、そんな私たちの即席デタラメジャイブにも、7人いた審判の一人が点を入れてくれました。準決勝1回踊って敗退ですが、この日は一日中踊っていた気がして、すごい充実感がありました。「人生、ありえないことなんてない。」これがこの日得た教訓です。■ムーチョ・ムーチョ・ラティーノ(ジャイブ)(ダンスビデオ)■ABBAソングズフォーダンシング(ダンス音楽CD)■ラテンミュージック 6(ダンス音楽CD)バーン・ザ・フロア【UUSD-70090】 =>20%OFF!《発売日:04/09/10》
2005/01/15
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神戸の結婚式の翌週末、2002年6月30日、ずっと楽しみにしていた、「万難を排して参上」のイベントがありました。大応援団のお母上が、パーティに誘って下さったのです。ゲストは、あこがれの「クリさま」。フラメンコ・ダンサー風に憂いに満ちた表情で、スポットライトに浮かび上がった彼は、愛の苦悩をゆっくりした身体の動きで表現していきます。曲調が激しいスパニッシュギターに変わると、二人は炎に踊るジプシーのように、フロアを駆け巡り、スカートを翻し、汗を飛ばして、情熱と愛で会場全体満たし、観客から割れんばかりの拍手を集めました。彼の名は、スラビック・クリクリビー。ウクライナ出身のダンサーです。子供の頃、「ダンスのレッスンに行ったら、自転車買ってあげる。」と、親に騙されてはじめたという社交ダンス。いまでは、世界のトップダンサーです。パートナーのカリーナも、同じウクライナ出身ですが、早くにプロに転向してアメリカに渡り、ショーダンスの世界で、その名を知られたルイ・ヴァン・アムステルと組んで活躍していました。テニスでいったら「ウィンブルドン」みたいな、ダンス界の世界三大大会の一つである「ブラックプール」。1999年のこの大会で、彼は、ジョアンナ・ルーニスと組んで、アマチュア世界4位。優勝したのは、これで3連覇を決めたイギリスのマシュー&ニコル・カトラーでしたが、決勝で、一番大きな拍手を貰っていたのは、4位だった彼らでした。翌年、プロに転向するにあたって、どういったやり取りがあったのか、興味津々ですが、ルイ・ヴァン・アムステルとパートナーを交換するのです。ウクライナ出身同士の、スラビックとカリーナは恋に落ちました。二人は、出会うべくして出会った、運命のカップルのように見えます。カリーナは子供の頃、フィギュア・スケートをやっていました。「寒いし、痛いし」で、ダンスに切り替えたそうです。長い足と、細くくびれた腰、そして、チャーミングなルックスに、スラビックは一目惚れしたのでしょうか。彼は、ハリウッド・スターのジョニー・デップにそっくりです。実際、この春、日本でも公開される「Shall we dance?」ハリウッド版に二人とも出演していますので、ご覧になってみて下さい。さて、そんなスラビック・クリクリビーの踊りを生で見させてもらって、すっかり参ってしまった私は、それから彼を「クリさま」とお呼びし、手帳の写真も「マイケル&ビアータ」から「クリさま&カリーナ」に取り替えてしまいました。ごめんね、ビアータ。さよなら、マイケル。ファンというのは薄情なものです。現在「クリさま&カリーナ」はニューヨークに住み、アメリカ代表として、ラテン世界大会決勝の常連になっています。まだ20代半ばの二人、これからの活躍が、ますます期待されます。フォトギャラリー紹介:ここで話題のダンサーの写真が、全部載っているサイトを見つけました。一番下がルイ・ヴァン・アムステル&ジョアンナ・ルーニス。下から2番目が、マイケル・ウエンティング&ビアータ。下から3番目が、クリさま&カリーナです。ご興味のある方は、こちらからどうぞ。■イノベーション・チャチャチャ編★ スラヴィック・クリクリヴィー&カリーナ・スマノフ■ イノベーション・ルンバ編 ★スラヴィック・クリクリヴィー&カリーナ・スマノフ★(ダンスビ...
2005/01/14
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結婚式は、六甲山ロープウエイが窓から臨めるホテルで行われました。バンドメンバーは、昨日遅くまで騒いでいたせいで、なんとなく疲れた感じです。しかし、彼らの正装を見るのはこれが初めてで、まるで別人のような、大人に見えました。花嫁は、純白のドレスに身を包んで、輝くばかりの美しさ。新郎は、とても誠実そうな明るい好青年でした。けっこうイケてます。いつもそうなんですが、自分の順番が来るまでビールを飲めないので、なんとなく落ち着きません。一度、ライブの前にみんなでビール飲んじゃって、演奏がめちゃくちゃになったことがあったので、それ以来、本番の前は飲まないことにしているのです。同じテーブルには、彼女が通っていたテニススクールのコーチと奥サンがいました。「デストロイだぜ。」とかいってたメンバーも、神妙にテーブルにつき、多分、昨日騒ぎすぎてエネルギー使い果たしたんだと思いますが、おかげで、式は滞りなく進行していきました。さすが、音楽教室の先生たちの演奏はすばらしいもので、この優雅な雰囲気をうちのバンドの演奏でぶちこわさないでよかった、と思いました。さて、いよいよ私の番です。短いお祝いの言葉と、バンドにとって彼女がどんなに大切な存在であるかをアピールしました。1980年代に公開された「ローズ」という映画は、伝説のブルース・シンガー、ジャニス・ジョップリンの半生を描いたもので、主演のベット・ミドラーはこの映画で絶賛されました。曲は、映画の最後に流れるもので、最近では平井堅がカバーして、コマーシャルソングに使われていたので、ご存知の方も多いかもしれません。つたない和訳ですが、どうぞお聞きください。<Rose>愛は川のようだという人がいるか弱い葦を溺れさせるから愛は刃物のようだという人がいる魂に深い傷跡を残すから愛は終わりない痛みをもたらす飢えだという人がいるでも私にとって愛は花そしてその種を植えることができるのはあなた一人心は傷つくことを恐れてダンスを習おうとしない夢は覚めることを恐れてチャンスをつかもうとしない人は手に入れることに懸命で何かを与えようともしない魂は死を恐れるあまり生きることを学ぼうともしないずっと寂しい夜が続き道がとても遠く感じられる時愛なんて幸運で、強い奴だけが手に入れられるものだと思うかもしれないでも思い出して冬の間冷たい雪のずっと下でじっと横たわっていた種は春になって太陽の愛を受け美しいバラを咲かせることを(おわり)ローズ ◆20%OFF!<DVD>ジャニス・ジョップリンの半生を描いた感動作Love Lights(CD)愛の歌を集めましたこのアルバムの16曲目にローズは入っています神戸チーズムース六甲山の牧場の牛乳をふんだんに使ったまろやかムースおいしそうでしょ? お試し下さい
2005/01/13
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神戸だと、機材運搬も準備も大変すぎる、ということで、結局、私がバンド代表で弾き語りをすることで話がまとまりました。しかし、ほかのお客さんが、ヤマハ音楽教室関連のプロばっかりですから、なんとなくやりにくい感じです。今まで友達の結婚式で、実は何度も頼まれて弾き語りをしたことがあります。いつも決まって演奏するのは、ベット・ミドラーの「ローズ」という曲です。なんでいつもこれかというと、曲が美しくて、歌詞もいい、ピアノが簡単で、英語なのでちょっとくらい歌詞間違えてもあまり気がつく人がいない、という理由です。しかし、ときどき、外人のゲストがいたりして、そのときは少し緊張します。結婚式は、2002年6月23日。たまたま京都で22日に、主人の同窓会が何年ぶりかであるというので、一緒に新幹線に乗りました。彼は、京都で降り、私はその先へ。京都より先は、滅多にいくことがないので、とても楽しみでした。新神戸の駅を降りると、別の車両から、バンド仲間たちがぞろぞろ降りてきました。彼らは、結婚式の行われるホテルに部屋をとってもらっていたので、今日はそこで一泊です。私は、挨拶とリハーサルの打ち合わせだけして、京都の実家に泊まることになっていました。ホテルのロビーで、彼女とご家族の方にお祝いを言って、打ち合わせをすませると、あとは、フリータイム。私たちは早速、三宮の街にくりだしました。なんか、合宿みたいで、みんな楽しくてしかたありません。震災から7年経った神戸は、完全に復活し、活気に満ちていました。「神戸牛だよね。」「神戸の地ビールが飲みたい。」「鉄板焼き?」「おれは何でもいいよ。」あんまり店がたくさんありすぎて、グルグル歩き疲れ、結局落ち着いたのは「お好み焼き」。「やっぱ、神戸はこれだよね。」「ネギ焼きお願いします。」「ねぎー?ネギ嫌いなんだよ」「じゃ、やきそばもたのもっか。」関西のネギは、白くて太い、あの喉に巻くタイプではありませんでした。緑で細くて上品な味。わたしは、すっかりネギ焼きのファンになりました。さんざん飲んで食べて、すっかり何しにきたのか半分わすれちゃってる私たちが、次に向かったのはカラオケです。バンドのメンバーでカラオケにいくことは滅多にないので、異常な盛り上がりを見せました。みんな、途切れることなく大合唱が続き、普段おとなしいベースのはじけた踊りには、みんな息が出来ないくらい笑いました。部屋の電話が鳴って、「時間です」の声がかかるまで、夜通しでも騒いでいたい気分でしたが、私は京都に戻らなければいけないのでした。後で聞いた話によると、かわいいキーボードをとられた男たちの、やけ酒ドンチャン騒ぎはこのあとも続いたらしく、嘘かほんとか、神戸の街にあのうたがこだましたということです。神戸~、泣いてどうなるのか~捨てられた我が身が~みじめになるだけ~(つづく)内山田洋とクール・ファイブヒット・コレクション決定盤 (CD) 神戸牛極上「焼き肉」神戸名物 そばめし
2005/01/12
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「結婚て、いったい誰と?」ちょっとだけ、「メンバーの誰か、抜け駆けしたか?」という疑念が頭をよぎりましたが、みんな同じように驚いていたので、それはなさそうでした。どうやらスキー仲間で知り合ったらしく、まだつきあって間もないのです。福引きで、結婚式の割引が当たったからというので、彼はプロポーズを切り出した、ということでした。「福引きで??結婚式の割引なんて、あんの?」「だまされてるんじゃないの?」「ほんとに、その人でいいわけ?」話を聞いていくと、どうやら福引きも本当らしく、何より彼女が、そのかれのことを「とても好き」ということなので、もう、ばあやとバンド親衛隊にできることは彼女の幸せを祝うことだけでした。みんなそれぞれ心の中で、「なんで、俺じゃないわけ?」と、思っていたに違いありません。何となく、飲み会がしんみりムードになってきました。せっかく、いい雰囲気でメンバーにとけ込んできたのに…。キーボードが加わって、レパートリーも倍増しました。「結婚しても、バンドはやめないよ。」お別れ会みたいに暗くなりつつあった雰囲気に、パッと光が差し込んだようでした。「え?そうなの?旦那さん、何もいわないかな?」彼女は、反対されても説得する自信があると、いいきりました。それより、結婚式で、バンドでなにか演奏してほしい、というので、飲み会の席は一気に盛り上がりました。「ウェエルカム・トゥ・ザ・ジャングル?」「うるさ過ぎだよ」「クリムゾンキング?」「くれーよ」「バーン(燃えろ)は?」「呪いかよ」なかなか決まりません。ところで、機材はどうすんの?場所どこ?「あのね、神戸なの。」こーベ?!!みんなまたまた、ひっくり返りました。(つづく)ガンズン・ローゼズ☆Guns'N'Roses / Greatest Hits(CD) ウェエルカム・トゥ・ザ・ジャングルは、このアルバムの1曲目クリムゾン・キングの宮殿<CD/洋楽>クリムゾン・キングの宮殿は、このアルバムの5曲目DEEPEST PURPLEThe Very Best Deep Purpleバーンは、このアルバムの9曲目
2005/01/11
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月に1回のセッションをしながら、細々と続けてきたロックバンド「Zinc Sulfide」。ついに、新しい風が吹いてきました。私の仕事の関係でおつきあいのある方と、昼食をともにした時のことです。何の気なしに音楽の話になって、彼女が、この仕事に入る前、ヤマハ音楽教室のエレクトーンのインストラクターをしていて、いまでもコンサートをお手伝いしているというのを聞きました。指を見ると、細くて長くて、その先には、きれいに切りそろえられた爪が真珠のように光っていました。でも、まさかヘビメタとかプログレはやだろうなあ、と思いながらも、ダメモトでバンドに誘ってみました。驚いたことに、彼女は興味を示してくれて、セッションに参加することになりました。メンバーにこの話をすると、みんな、大喜び。しかし、私は、別の意味でも、ちょっと心配していました。ギター、ドラム、ベースは皆、独身男性。そして、このキーボードの彼女は、かわいい、若い、独身、の3拍子そろい踏みで、オオカミの群れに子羊を放すようなことになるんじゃないか、と思ったわけです。ここで彼女を取り合って、バンド解散!のシナリオが、漠然と頭を駆け巡りました。なんとしても、私が彼女を守らねば。すっかり、ばあや状態です。いよいよ、初スタジオの日。皆、何となく普段よりテンション高めです。あらかじめ決めておいた課題曲、やはり最初から上手くはいきませんでした。クラシックを長くやっている人は、楽譜さえあれば何でも弾けますが、耳だけで音を拾って、それを再現するのは慣れてないのです。しかも、リズム帯がいて、それに合わせなければなりませんし、ギターとの絡みもあります。これは予想できていたことなので、全然気になりませんでした。それより、これで懲りて、来なくなっちゃう方が心配でした。セッションが終わって、飲み会に入ると、あまり上手く行かなくて小さくなっていた彼女に、全員が、我先に励ましの言葉を投げかけ、「いいひとぶり」をアピール。ばあやは、冷静に観察です。上手く行かなかったのは、選曲したベースが悪いんだとか、ドラムがうるさすぎて聞こえなかったとか、ギターはもっとひっこめとか、いよいよ面白いことになってきました。彼女はあまりお酒を飲まないのに、よくこの大騒ぎのノリについてきてくれました。そして、回数を追うごとに、どんどん溶け込んで、バンドに欠かせないメンバーになっていきます。何よりも感動したのは、「クリムゾンキングの宮殿」という、有名なプログレの曲のコピーを課題曲に選んだ時、彼女はフルートを持参でスタジオにやってきました。間奏部分に入っているフルートを、美しく細い指で紡ぎだし、そのアコースティックな響きに、みんなが聞き惚れました。ばあやとしては、ちょっと、ひっかかることもありました。飲み会の会計です。「遠くから来てくれてるし、2000円でいいよ。」ギターが彼女にいいました。あのさ、私も茨城から通ってたことあるんだけど、その時は何もいわなかったよ(ばあや心の声)。殺気を感じたのか、「あの、女子は2000円でいいよ。」ドラムの提案。いままで「女子だから」って優遇されたことも、一度もなかったんだけどね(またしても、ばあや心の声)。みんな彼女が大好きでした。2002年、そんな彼女の大爆弾発言。「6月に結婚するんで、みんな、結婚式に来てね。」ひっくり返りました。(つづく)クリムゾン・キングの宮殿<CD/洋楽>キング・クリムゾンポセイドンのめざめ<CD/洋楽>キング・クリムゾン真・紅伝説~21世紀のキング・クリムゾン・ガイド Vol.1 1969-1974<CD/洋楽>
2005/01/10
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ジャパン・カップに出場して、もう一つ思い知ったのは、「もっと化粧うまくしなくちゃダメ!」ということでした。みんな近くで見ると、極楽鳥か歌舞伎みたいなんですが、遠くで見るととても映えて、さすが、という感じでした。それに比べたら、私は、ほとんど素顔同然です。そこで、たまたま駅前のエステを通りかかって見つけた「メイク・アップ講習会」なるものに、参加してみることにしたのです。入って聞いてみると、予約制で、自分の使っている化粧品を持参すると、それを使って、メイクアップ・アーチストさんが、お好みの化粧をしてくれるというのです。これは願ったり叶ったり。早速予約して、次の週末、ダンス用の化粧道具一式、持ってるの全部持ってでかけました。参考資料として、ダンス雑誌なんかも持っていって、「フロアで映えるラテン系美人にしてください!」気合い十分です。下地の化粧水や保湿ジェルは、もの凄くたくさんつけました。いつもの3倍くらいビショビショです。さらに、これが乾かないうちに、ベースのファンデーションを塗り、ここに、茶色のドーランを塗っていきます。というか、むしろ、毛穴に押し込んでいく感じで、押さえていきます。これが結構、時間かかりました。顔がでっかいからじゃなですよ。むらなく丁寧に置いていくからです。パウダーで押さえて、次は眉毛。「これで、顔が決まると思って、絶対に失敗しないこと」そんなこといわれてもねえ…。まぶたには薄い色から順にアイシャドーを塗っていきます。眉の下と目の内側の際には白、目に近くなっていくにつれて濃い青、そして目を縁取る黒です。これでもか、っていう感じで、さらに黒々長い付けまつげ。ここまで来た段階で、私はすでに別人でした。このアラブ人だれ?みたいなノリです。さらに鼻の両側にシャドーを入れ、ほほをキリっとみせるチーク、仕上げは、あきらかに自分の口より大きく口紅をひいて、官能的なグロスで唇キラキラ。経過時間2時間、5千円なり。ペルシャのベリーダンサーかインド映画の踊るマハラジャか、とにかく、笑っちゃうくらい別の人になっていました。このまま家に帰れないので、残念ながらすぐに落としてしまいましたが、証拠写真は残っています。主人に見せると、「すごいね!」感心してました。これは、もとがそれなりでも、化粧次第でどうとでもなる、っていう意味でしょうかね。このとおり試合で出来ればいいですが、化粧に2時間もかけてられないし、再現不能でした。しかし、少しは活かされています。シャドーの入れ方や、まつげの付け方。プロに化粧してもらうって、面白いです。男性も女性も、変身願望のある人もない人も、自分の顔で全く別の人になれます。何事も経験。一度、お試しあれ。メイクアップテキスト(舞踊&ダンス)THE STAGE MAKE-UP POWDER【舞台用メイクアップパウダー】45g舞台メイクのプロが日本人向けに開発…トミーリッチTeicolorくすみ消しプロのメイクさんが愛用しているメイク用パフ【メイクさんのパフ】【obata】
2005/01/08
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無知というのは恐ろしいものです。私たちは2002年6月、3週間連続で試合に出ました。その最後がJDC 主催のジャパン・カップ。一言でチャンピオン戦といっても、ピンからキリまであって、このジャパン・カップは限りなくピンに近い、「日本一のアマチュア選手はだれ?」という試合でした。会場は品川プリンスホテルのメインバンケットホール。豪華なホテルで、選手控え室も立派。絨毯はフカフカ、シャンデリアもキラキラ。選手もなんか、プロっぽい人たちばかり。そしてプログラムを見てビックリ。D級選手は私たちだけでした!名前を知ってるアマチュア・トップ、A級選手ばっかりです。これはまずいことになったか?外人選手もエントリーしてます。しかも全員、外人審判。エレベーターで会場に向かう途中、アマ日本代表の菅野・常磐組と一緒になりました。キャロル先生のレッスンでお会いしたことがあったので、挨拶しました。このレベルの選手になると、ウォーム・アップも迫力があります。肌の色も小麦色通り越して焦げ茶色でした。予選が始まりました。参加組数36組。私たちはすっかり舞い上がって、ダメモトの大暴れ。それが元気よく見えたのか、ちゃんと点が入りました。0点ではありません。こんなビッグな大会の審判で呼ばれてるんだから、たぶん、みんなすごい方々なんだろうなあ、とは思いましたが、実は、全員知りませんでした。マイケル・スティリアノス(イギリス)は、私たちのサンバ、ルンバ、パソにチェックを入れてくれました。ルネ・バルシ(フランス)はチャチャとルンバに、ガード・ワイゼンバーグ(ドイツ)とデビッド・リー(タイ)はチャチャ、シティチャイ・プレイヤダラ(タイ)はルンバにチェックを入れてくれました。残念ながら予選落ちでしたが、全くおよびでない選手でなくてよかったとホっとしました。この日は、プロとアマのジャパン・カップのほかに、アマのD級戦とノービス戦がありました。わたしたちは、アマD級戦に出る方が、ずっと妥当でした。しかしこの最高レベルの試合に出たことで、得ることも勿論ありました。上手い人たちの踊りには、隙がない、無駄がない、無理がない、ということが、一緒に踊ってみてよく分かったのです。外人選手は、足下がとてもきれい。美しい生け花のようでした。魚釣りをするなら、魚のいる所に行け。いい選手になりたかったら、いい選手がいっぱいいる所で踊れ、ってことでしょうか。魚釣りはやったことないですが、見てるのと実際に釣るのは大違いだろうと思います。ダンスも、テレビで上手い人の踊りを見ているのと、自分がそこに混じって一緒に踊るのとでは、インパクトが100倍違います。まだまだ課題満載。今度ジャパン・カップに出るときは、もう少しいい結果が残せるように、これからもがんばります。■2002スーパージャパンカップダンス(ラテン)(ダンスビデオ)■2002スーパージャパンカップダンス(スタンダード)(ダンスビデオ)
2005/01/07
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数日前、TBSで「サスケ」という、肉体の限界に挑戦する番組がありました。毎年毎年、このために特別な訓練をして、鍛え抜き、オリンピック代表選手をはじめとする、予選に勝ち残った100人のチャレンジャーが、第一ステージに挑みました。クリアできたのは、わずか14人。初挑戦の方も何人かいましたが、やはり第3ステージまで勝ち残ったのは、何回もこのサスケに挑んだ人が多かったように思います。私たちも、毎年行われる同じ大会に3度挑戦したことがあります。2002年6月9日は、第18回茨城県南ダンススポーツ大会。<第66話>から<第68話>でお話しした試合から2年、私たちは再び、以前住んでいた場所でのチャンピオン戦に臨みます。この年から、茨城県の選手のみ出場できるグランプリ大会が始まりました。都道府県対抗の茨城県代表選手を決める戦いです。私たちは千葉県なので、これには出られませんが、教室が茨城なので、知り合いはたくさん出ていました。延べ629組の競技選手が関東一都六県ほか、福島県からも参加し、1級戦から3級戦までの競技と、茨城県グランプリ、そして、私たちの出場するチャンピオン戦に挑みました。チャンピオン戦とは、出身県や級に関わらず、この大会で一番上手いカップルを決める競技です。この日は、すばらしい晴天に恵まれ、初夏の筑波山が美しいシルエットを見せていました。2年前までは茨城県民で、大会のお手伝いもさせていただいてましたから、事務局の中にも知り合いが何人かいました。皆さん、顔を合わせるごとに、「あら、久しぶり。がんばってね。」と、声をかけて下さり、まるで地元の試合のような心強さでした。職場の方々も応援に来て下さいました。前回のように「背番号1」をしょっている訳ではないので、とっても気楽。今回背番号1だったのは、6級戦に初めて出場したときに、私たちに賞状をくれた方でした。同じチャンピオン戦に出場です。種目は、サンバ、ルンバ、パソドブレ。この日もレモン色の衣装で試合に臨みました。決勝に残った6カップルの中に、同じ教室のSさんご夫妻もいました。Sさんはオレンジ色のコスチューム。パソドブレの振り付けが一部おんなじなので、そこだけ4人でそろって、同じことをして、まるでミカンとレモンのフォーメーションみたい。見ている方は、不思議な感じがしたと思います。競技ダンスを始めるきっかけとなったのが、年に一度行われるこの大会です。1998年の4級戦は準優勝。このときは、まだ、1級が一番上だと思っていました。2000年に、チャンピオン戦初挑戦。このときも準優勝でした。そして、2002年、ついに私たちは優勝杯を手に入れました。3度目の正直です。この試合を見に来て下さった職場の方が、是非自分たちもダンスを始めたい、とおっしゃって、ダンスの輪が少し広がったのは、とてもうれしいことでした。翌月の雑誌「ダンスビユウ」に、私たちの試合の写真が掲載されました。高校野球や大学対抗戦などは、出られる期間が短いので、必ずしも悲願達成しない場合もあるかもしれませんが、社会人競技は何年越しの挑戦が出来るので、その点は希望が持てます。合気道の心得の中に、「氷山の一角のみを自分の力と思うな」というのがありますが、まだ発掘されていない、才能というすばらしい宝の山を、掘り起こして、磨いていくことが出来るのは、なんて楽しいことでしょう。ダンスも、単なる他との上手さ比べではなく、自分の潜在能力への挑戦だと思っています。自分で限界を決めない限り、可能性は決して、ゼロにはならないのです。筋肉番付GB2~目指せ!マッスルチャンピオン~クイーン/WE ARE THE CHAMPIONS FINAL LIVE IN JAPAN(DVD)
2005/01/06
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2002年春期、JBDF北関東支部の最後の大会は、6月2日、全千葉ダンス競技大会でした。種目はチャチャチャとルンバ。私たちは、ラテンC級戦に出場しました。この日は、セレナ・レッカの黄色いドレス。髪型は1本細い三つ編みを後ろから左肩に垂らし、残りの髪をアップにしてまとめ、ドレスと同じ色の羽をつけていました。出場組数98組。いつもご指導いただいている先生が、応援に来て下さって、私たちの試合を審判の視線でビデオにとって下さいました。よく、人の立場になってものを考えろと言われますが、2階席から定点録画して気付かなかった審判の気持ちが、このビデオを見て、ちょっとわかりました。まず、チャチャチャやルンバのように移動距離の少ないダンスは、3~4組間に入ると、その後ろで踊っている選手は見えない、ということ。決勝のように、フロアに6組しかいないのであれば、どこで踊ってもよく見えますが、15組くらいで一緒に踊る予選の場合は、まず、「背番号」を審判に見せる必要があります。背の高い選手でも、あまり遠くで踊ると頭しか見えないので、1曲のルーチンの間に移動を少し入れたり、回転を入れたりして、360度、全部の審判に「背番号」を見せなければ、フルマークは望めません。衣装の色も、目立つ色の方が有利のようです。同じくらいの踊りのレベルの場合、ぱっと目の行くコスチュームの選手にチェックを入れたくなりますから。さて、私たちの結果は、2次予選敗退でした。これは、なぜでしょうか。コスチュームはとても目立っていました。審判から背番号もよく見えました。では、なぜ??ダンスがいまいちだったからです。当たり前ですが、いくらコスチュームがかっこ良くて目立っても、審判に「背番号」がよく見える位置にいても、ダンスが普通ではだめです。私たちは、先生に習ったことを使い終わったカレンダーの裏に箇条書きにして、食堂のいつも見るところに貼っています。項目はどんどん増えて、今では20項目になっています。それらは、すべてのA級選手ならクリアしているものばかり。しかし、未だにまだ出来ていない基礎的な注意点です。それらに照らし合わせて、このときの私たちに一番足りないのは、「センターの意識」です。以前にも書きましたが、私たちは「一反木綿系」のふにゃふにゃなので、全部が動いてどこが軸なのか分かりません。「よく動いて」見えるのは、体のどこかに動かないセンター(中心点)があるからです。余談ですが、このときのビデオを見直してみて、私の顔がどこかで見たことがある何かに似てるな、と思いました。結婚する前に、誕生日のプレゼントとして彼にあげた「坂本龍馬人形」でした。2頭身のその人形は、おでこ全開でキッと遠くを見つめ、刀を引っ張るとモーターが動いて、しゃべります。「くよくよしてちゃあ、あかんぜよ。」「こころは、太平洋ぜよ。」結婚して、彼と一緒に私のもとにやってきた坂本龍馬は、いつもこう言って私たちを励ましてくれるのです。 坂本龍馬
2005/01/05
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競技会でかかる音楽は、通常、その場になるまで分かりません。フィギュアスケートやシンクロナイズド・スイミングのように、自分たちで決めた曲で踊る訳ではなく、大会事務局側で、曲は用意されます。初めて聞く曲もあります。しかし、上手な選手になると、まるで、その曲のために振り付けた踊りのように、ものすごく音楽に合った表現が出来ます。普通、競技選手は、あらかじめそれぞれの種目の振り付けを決めています。どの曲がなっても、その振り付けを踊るのです。曲のブレイクやアクセントに、たまたま振りが合ったりすると、大喜び。ただ、サンバ、ルンバ、チャチャチャなど、全部種目によってリズムは決まっているので、どんな曲でも一応、合っては見えるのです。私は、音楽には絶対の自信を持っていました。長いことバンドのボーカルをやってるのですから、音が取れないなんてことは、ありえないことです。ところが、2002年5月19日の品川区長杯で、それはおこりました。準決勝の最初の種目はサンバ。8ビートで数えた時、カウント5で、私から踊り始める振り付けだったのに、曲のカウントが取れません。周りはどんどん踊り始めているのに、私は硬直して、喉がカラカラになっていきました。こんなことは、初めてです。あんまり出だしが遅れると、採点に響くので、早くでなくてはと焦るのですが、ドラムやベースの低音がよく聞き取れなかったせいで、どう聞いてもカウントがとれないのです。しびれを切らせたリーダーが、あてずっぽうに踊り始めました。仕方なく私もフォローしましたが、最後まで音に乗れませんでした。このせいだけじゃないとは思いますが、決勝には残れず、ここで敗退してしまいました。あとでビデオを見直してみると、私たちのサンバは完全に2拍外れていました。難しい曲と感じたのは、どうやら私だけではなかったらしく、競技中にもめて、男性が怒ってフロアから出て行ってしまうカップルもいました。こんなことは初めてだったので、非常にショックで、教室で先生にそのCDをお借りしました。じっくり聞いてみると、トランペットがカウント2のシンコペーションで入ってきていて、それを聞いてしまうと、ずれるということが分かりました。最初から注意してボンゴの音を聞いていれば、間違えることはありません。その曲になれるため、何回も聞きました。もう絶対、その曲がなっても大丈夫。やはり、音楽は慣れです。ときどきルンバで、カウント1と2を間違えて踊っている方がいますが、それは、踊り始めるときに2から数え始める癖がついているからではないかと思います。私たちもそうでしたが、サークルで習い始めた時、ルンバは「ツー・スリー・フォー・ワン」と数えて踊り始めるように習います。これは、カウント4と1で一つの動きをするからなんですが、ステップのはじめは2でも音楽のはじめは1です。当たり前のようですが、音楽は必ず1からカウントし始めることを心がけると、競技でもパーティでも、音を外すことがなくなります。どうしても音がとれないときは、ちょっと周りをカンニングしてみたらいかがでしょうか。テストと違って、カンニングで失格になることはありません。カンニングした相手もやっぱりリズムを間違えていたときは?テストと同じで、運が悪かったと思うしかないでしょうね。ラテンブーガル問題の曲は、このアルバムの2曲目です。ときどき競技会でかかります。興味のある方は聞いてみて下さい◆情熱のラテン決定版・CD10枚フルセット【送料無料】ダンスは音楽から!最新ダンス曲はここをクリック
2005/01/04
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茨城大会から3週間後の4月28日、「深谷ねぎ」で有名な埼玉県深谷市の総合体育館で、全埼玉競技ダンス大会がありました。種目は前回と同じ、サンバ、パソドブレ。そして衣装も同じ、私が赤で、男性が黒でした。本当に効くのかどうか知りませんが、私は小さい頃、風邪をひくと、喉に焼いたねぎを巻かれて寝かしつけられ、それがいやでいやで仕方がありませんでした。ねぎは、今でも苦手で、ようやく、そばやうどんに入っている薬味程度なら食べられるようになったものの、冬に欠かせない鍋料理に入っている、あのぶつ切りの白ネギは、どうもいただけません。大会に行くと、案の定、あたり一面、ねぎ畑ばっかり。会場の入り口で、「ねぎみそまんじゅう」なんて、売ってます。はじめは、おにぎりかと思って、お昼に丁度いいや、と買いにいくと、なんと、その饅頭。すごすご引き下がってきました。ラテンC級戦の予選が始まり、出場組数92組。今回は、2次予選も無事、通過しました。3次予選の出番を待って並んでいると、モデルさんみたいな美男美女カップルが近づいてきて、彼に声をかけました。私は、「すてきなカップだなあ。」と、見とれていると、「あの、背番号、付いてませんよ。」えー!!慌てて彼の背中を見ると、ほんとだ、付いてません。彼のこの日のコスチュームは、黒のタートルネックに黒いベストで、その、背番号の付いたベストを、「暑い」といって、さっき、脱いだのでした。もう、次の次が出番です。彼はあわててベストを取りに帰り、猛ダッシュでフロアに登場しました。背番号がついていなければ、点が入りません。この後、試合に出られたのは、この方達のおかげでした。その時から、教えてくださった埼玉のMさんとはよく試合でお会いするようになり、その度にこの事件を思い出して、いつか恩返しをせねば、と思うのです。立っているだけで絵になる、外人みたいな体型の二人ですから、きっとこれからもますます活躍されることと思います。さて、結果は、準決勝進出。92組中、ベスト12でした。あと、もう一息です。その美しいカップルは決勝に残られたので、その時は名前も知りませんでしたが、背番号を呼んで応援しました。せめてもの恩返しです。ゴールデンウィークの、初夏のような一日、私たちは、また、ここで新しい、すてきな出会いがありました。創業昭和26年ふくの老舗!下関「日高本店」とらふく(とらふぐ)料理セット(ふく刺し・ふくち...晴天の富士しゃぶしゃぶセット(B)【送料無料】
2004/12/31
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2002年春、JBDF北関東支部の最初の大会は、4月7日、全茨城競技ダンス大会でした。種目はサンバとパソドブレ。私たちは、ラテンB級戦に出場しました。この頃、パソドブレが種目に入っているときは、いつも赤いドレスを着ていました。髪型はいろいろ試行錯誤しているときで、スピンしたときになびいてかっこいいので、この試合では、一つに結んで、背中に長くたらしていました。実は、合気道の昇段審査のための練習で、4人相手に戦っていたとき、右手親指を突き指してしまい、それがまだ完治していませんでした。ラテンアメリカンのダンスでは、男性の左手と女性の右手をつなぐことが多いので、彼がちょっとでも親指に触れると、「ヒーッ!」というくらい、腕の方まで痛みが走りました。しかし、試合では、そんなこと言ってられません。練習でも、なるべく親指を触らないような工夫をしましたが、いつ触られるかとおもうとビクビクでした。今、ビデオを見直してみると、そんな怪我をしていたようには全然見えません。結果は84組出場で、2次予選落ちですが、そのせいではけっしてありません。昨日、今年最後のレッスンで、先生に、「他の選手との差別化を図らなくてはならない。」というご指導をいただきました。一言でお茶、といってもいろいろある、というお話です。安物の急須で入れる番茶もあれば、高級な器でたてる抹茶もある。他と見分けがつかないお茶ではなく、明らかに他と違う、高級感漂うお茶にならなければいけない。私たちの、この全茨城競技ダンス大会での踊りは、他の選手と比較して、可もなく不可もなく、普通の緑茶でした。確かに、他の選手と明らかに違う上手な選手が4組くらいいます。限りなくAに近いB級選手たちです。私が審判だとしたら、まず、この4組にチェックを入れて、そのあと、まあましなカップルに点を入れると思います。自分たちに点を入れるかどうかは、その時たまたま目に入るかどうかにかかっていると思います。では、どこで差別化を図ればいいのか。そのカップルの特徴を生かした振り付け、正確なベーシックムーブメント、お客さんたちへのプレゼンテーション、そして、自分たちにあったコスチュームや髪型です。例えば、スピンが上手な選手はそれを多用すればいいし、体の柔軟な選手は、その柔らかさを十分に発揮できる振り付けにするべきです。ただ、どんなに凄い振り付けにしても、基礎であるベーシックムーブメントがしっかりできていないと、安っぽいお茶碗に入れたお茶になってしまいます。また、踊りも振り付けもすばらしいのに、何となく暗ーい感じで踊っていては、好印象は望めないので、プレゼンテーションも重要です。審判の前だけアピールして、反対側に行ったら手を抜く、というのを耳にしたことがありますが、反対側に行ったときこそ、がんばってプレゼンテーションするべきだと思います。だって、背番号は審判の方を向いているんですから。そして、コスチュームや髪型などの身だしなみも、重要です。踊りもすばらしい、プレゼンテーションも振り付けも最高、でも、変な服を着ていたり、ボサボサ頭でフロアに立っていたら、適当に入れて、ドンと出されたお茶みたいに、飲む気がおきません。お客様に、入れたての、高級茶を気持ちよく召し上がっていただくつもりで、これからも、日々精進。器も、入れ方も、茶葉も、湯加減も、作法も、すべて整った時、誰からも認められるA級選手になれるのだと思います。■ 玉露「八女の宝禄」・煎茶「八女の茗峰」 300g缶入
2004/12/30
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早朝5時。携帯アラームの音が、いっせいに鳴り始めました。栃木県は、関東地方でも内陸なので、冬の朝は底冷えがします。真っ白い息を吐きながら、夜明け前の渡り廊下を伝って食堂に行くと、暖かい朝食が用意されていました。朝は軽くしか食べない私ですが、旅行に行くとなぜか食欲が出て、このときもお腹いっぱいいただきました。7時前に道場に行くと、畳はまるで、氷のようでした。足が痛くなるほどの冷たさで、しかも裸足ですから、それが頭の芯まで突き刺さるようです。それぞれ自分の技の練習をしたり、柔軟体操をしたり、寝不足の体を思い思いのやり方で起こしていきます。審査は初段から始まりました。審査項目が多いので、自分の番が来るまで、正座して待ちます。はじめは、統一道の試験。立ち姿、お辞儀の姿勢、様々なポーズでの安定性が試されます。初心者の頃、なかなかできなかったのは、橋の欄干に寄りかかるようなポーズで、うまになった審査官の背に寄りかかり、それが予告なしに崩れ落ちても、自分はバランスを崩さないというものです。あらかじめ予想して、軽く寄りかかっていると、「軽すぎる」と言われ、思いっきり寄りかかっていると、うま共々、崩れ落ちてしまいます。逆に、背中で寄りかかっていた壁が急になくなっても、バランスを崩さない、という試験もあります。ダンスがとても役に立ったのは、片手、片足を上げて統一、という試験です。これは、初段の統一道の中では一番難しいものの一つですが、この状態で審査官に押されても動かないのは、ルンバの練習の成果だと思います。統一道の最後は、呼吸法です。20秒鼻から吸って、20秒口から吐く、という呼吸を先生が納得するまで繰り返します。私は、6番目でした。足がしびれて、膝が痛くなってきて、自分の順番になったとき立てないとまずいので、時々足を動かしながら、じっと待っていました。朝日が斜めに差し込んできて、背中にあたり、暖かく見守られているかのようでした。統一道の後は、技の試験。横面を打ってこられたとき、片手を取られたとき、両手を後ろに取られたとき、そして、短刀で攻撃されたときの撃退法をそれぞれ5種類ずつこなし、剣技と杖技を終えると、多人数がけです。1級のときより一人増えて、4人でかかってきます。このかかっていく敵の係は、審査を待っている人や、終わった人がボランティアで出ることになっていて、足のしびれをほぐす絶好のチャンスなので、積極的に参加しました。無事に審査を終え、マミさんと私は合格しました。帰りの車の中で、マミさんは、自分の戦争体験を話してくれました。20歳の時、イラン・イラク戦争にかり出されたのだそうです。彼は、イラン北部の美しい町で、当時、服飾デザイナーの勉強をしていました。上官は23歳の「変なやつ」で、無謀な突撃を命令し、仲間が目の前で次々とやられていくのを見たそうです。私たちは道場に戻り、先生に合格の報告をしました。先生もとても喜んでくださって、かねてから用意してあったのか、名前入りの黒帯をくださいました。マミさんは、この年の4月にイランに帰りました。1年後、スーパーモデルみたいな奥さんとの結婚式の写真が道場に送られてきました。いまでは、イランで合気道の道場を開き、地元の方達に教えているそうです。合気道帯マギーティスランド イランイラン 12mlラピス×白蝶貝枠メノーカメオ
2004/12/29
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2002年の2月に、大応援団を迎えて出場したチャンピオン戦が終わると、ダンスは週に2回のボチボチ練習モードに切り替えました。3月に、合気道の昇段試験があったからです。1級取得から約3カ月、私は、相変わらず、暗くなると、職場の顧問の庭をお借りして、剣と杖の練習を続けていました。「もっと、たくさんやれば?」と、いっていただきますが、漠然と何度もやるより、真剣に1回やったほうが練習になるのです。外は、真冬。雪こそありませんが、透明感のある冬の星座がまたたき、吐く息は真っ白に凍って、そんなに長くやってられない、というのが実は本音です。初段の審査は、心身統一合気道の本部、栃木県で年3回行われます。泊まり込みの2日間かけて、日本全国の道場から集まった同士が、互いに技を競います。同じ道場から、2段を受けるイラン人のマミさん(本名モハメッド)と、初段を受ける私、そして、指導員の先生の3人が本部に向かいました。本部は、大きな道場と、講義室、男子寮、女子寮、それに食堂も完備された複合施設になっています。ついた途端、いきなり、物凄く大粒のヒョウが降りだしました。庭に白い玉がコロコロ転がって、みんなびっくりして窓にかけより、外にいた人たちはあわてて駆け込んできました。何か起こりそうな予感です。初日は、統一道の体操のテストがありました。「静中の統一はいまだ易し。動中になお、統一を乱さざるが、真の統一である。」統一というのは、バランスコントロールのことで、要するに、動いているときも、ちょっとぐらい押されてフラフラするな、ということです。これを極めたら、ダンスの競技会でちょっとくらいぶつかられても、びくともしない最強のカップルになるかもしれません。このあと、講義がありました。心身統一合気道創始者の藤平先生です。御年80歳を超えてなお、後に続く者たちの育成に力を注いでおられます。「武道は勝つためのものではない。勝つというのは、相対的なもので、絶対的なものではない。」「強いから正しく出来るのではなく、その通りにやれば全ての人が出来ることを、正しいことという。」「目標は、天地(宇宙)と一体となること。天地の理を実行すること。」なんのこと?合気道をやると、なんとなく分かってきます。気は宇宙に満ちているエネルギーです。その気に合するの道が、合気道です。この時は、全部で60~70人位の受験者がいたと思います。大学の合気道部の方が多いなか、九州や大阪、海外からの受験生もいて、女性も2割くらいいたでしょうか。食堂で夕食を済ませると、夜の稽古がはじまります。広い道場を4つに分け、審査をして下さる先生がそれぞれの場所について、稽古を見て下さいます。私が技を掛けるとき、受けを取ってくれるのはマミさんでした。彼は、身長175センチくらいなのですが、手足が長いので、もっとずっと大きく見えます。とても陽気で真面目な青年で、流暢な茨城弁を話します。素晴らしい身体能力を持っているので、まるで私がスーパーウーマンのように、かっこよく投げられてくれるのです。稽古は夜11時近くまであって、それからお風呂に入って女子寮に引上げたときはもう真夜中を回っていました。明日の試験は7時に道場集合。5時には起きなければいけません。同じ部屋に8人の女子がいて、本当はもっと語り合いたかったのですが、自己紹介だけして、すぐに寝ました。久しぶりの2段ベッド。あたりは、シーンと静まり返っています。「昇段審査は厳しくて、3割は落とされるらしい」そんな噂を耳にして、ちょっと不安な夜でした。合気道用木刀高級未晒合気道衣 3L号、4号
2004/12/28
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私の通っていた眼科には、地元では有名な院長先生がいました。数年前、久し振りに近くを通って、大病院になっているのに驚きました。母は、先生の言い付けを守って、私にヤツメウナギの油を飲ませ、ほう酸を浸した脱脂綿で目を拭き、夜になると星を見せました。東京の夜空ですから、明るい星しか見えないのですが、それでも、星座早見板を買ってもらって、次第に星座や星の名前を覚えていき、そのうち、知らない星はないくらい、夜空はすっかり私の庭になりました。眼科には、毎週、夏も冬も、そしてまた次の夏も通い続けました。こめかみや手に電極を貼って、口の中が金属臭くなる、微弱電流を流したり、双眼鏡のような機械を覗いて、赤い光を見続けたり。ノイロと言う名の、プスッと金属が飛び出す器具で、目の周りを物理的に刺激するのもありました。最悪なのは、月1回くらい、眼球注射をされることです。それ自体はそれほど痛くないのですが、針が近づいてくるのが、ものすごくこわいのです。全てが終わると、目を洗ってくれます。これが、至上の快楽でした。スポイトでちょっとずついろいろな薬をたらして、食塩水で流しながら目をマッサージしてくれます。看護婦さんも上手でしたが、院長先生の手は魔法の手でした。そのまま寝てもいいくらい気持ちがいいのです。私は、お人形遊びで、よく「眼医者さんごっこ」をしていました。人形の目を洗ってあげたり、眼球注射したり、普通の子は絶対しないような遊びです。七夕の短冊には「眼がよくなりますように」と、毎年書いていました。夜なかなか眠れないときは、布団の中で「眼がよくなりますように」と何度も繰り返してとなえていました。本を読むと目が疲れるので、音楽を聴くようになりました。たくさんの映画音楽のレコードがあったので、何回も聴いて、イントロクイズ出来るくらいになっていました。それから、ヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」はお気に入りで、よくこれで踊ってました。もちろん、でたらめステップですが。1年後、視力検査で眼鏡をかけなくていいぎりぎりの0.7まで回復しました。自信をつけた母は、私がちょっとでも暗いところで本を読んでいたりすると、すぐに電気をつけるようにいい、本に眼を近付けて読んでいても、背中に和裁用の物差しを入れられました。小学校は1年から3年までがクラス替えなしで進級し、3年になっても相変わらず、眼鏡の男の子は、それだけの理由でからかわれていました。「しつこくいじめるの、やめなよ。」あるとき私は、ついに言ってしまって、しまった、と思いました。予想通り、いじめの標的は私に変わりました。「こいつ、あの眼鏡とできてる。」といって、いろんなところに「あいあい傘」を書かれましたが、バカ男子!と思って、私は徹底的に無視しました。そのうち、彼らも飽きて、また別の標的をみつけていました。4年生の視力検査では、1.0になっていました。両親とも目がいいので、それでも家族の中では、私が一番、目が悪かったのです。そして、5年生、ついに、1.5になりました。一番下の字も、両目開ければ見えました。もう、視力検査はこわくありません。私の近視は、完全に治っていました。この体験は私に多くの事を学ばせてくれました。夢は、それを諦めないかぎり、いつか必ず叶うこと。それまで、辛抱強く、時間をかけて取り組むこと。今思うと、私が一人っ子のせいもあると思いますが、両親は並々ならぬ愛情を私に注ぎ込んでくれていたんです。私がいまでも遠くがよく見えるのは、この両親のお陰だと思っています。1997年に私たちが初めて競技に出場した6級戦。この入賞者の集合写真がダンス雑誌に載ったとき、「いつか、踊ってる大きな写真が載ったらいいなあ。」という夢がありました。それが、2002年2月に出場したチャンピオン戦で優勝したことによって、ついに実現しました。私たちがパソドブレを踊っている大きな写真です。大応援団の友達も、さっそくその雑誌を買って、おめでとうのメールをくれました。大切なのは、いつも夢と希望を持つこと。その光がないと、私たちは、どこに向かっていけばいいのか、ただ迷走するばかりです。大きく構える必要はなく、ただ「こうなるといいなあ」と思うだけでいいんです。「お金持ちになりたいなあ」、「頭よくなりたいなあ」、「きれいになりたいなあ」、何か心に浮かぶごとに、遠くに光が一つ灯ります。後は、それに向けて、歩きだせばいいのです。映画の中のクラシック・コレクション 〔ドレミ楽譜出版〕強力 天然やつめ 200粒
2004/12/24
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一年で一番憂うつな日、それは、視力検査の日でした。小学校に入学して初めての身体検査で、視力が0.6だった私は、すぐ眼科に連れていかれ、「逆さまつげ」の手術を受けました。まつげが眼球を射して、視力を低下させていたからです。その手術の痕が、目の下に残って、誰かに会うたびに、どうしたのかと聞かれました。両親はそれで治ったと思っていたようですが、そうでないことは自分で分かっていました。黒板が見えなかったからです。クラスに一人、メガネの男の子がいて、みんなにからかわれていたので、絶対に眼鏡はいや。目がよく見えないのは、6歳の私の誰にも言えない秘密でした。そして、2年生の春。その日は朝からとても憂うつ。仲良しのちえちゃんは、ちょっと太っていたので、体重測定がいやだと言っていました。が、わたしの抱えている問題は、そんなこととは比べ物にならないほど、世界で一番深刻でした。視力検査の順番を待つ間に、前の子達が読んでいる字を覚え、いよいよ、私の番。先生が差したのは、無情にも、いままで差したことのない記号でした。全然、見えません。私が立ち往生していると、検査の終わった子達が集まってきて、「なんで、みえないの?」とか、「それも見えないの?」と、騒ぐので、ますますプレッシャーがかかりました。視力は0.2。去年よりさらに悪くなっていました。バスと電車を乗り継いでいく、ちょっと遠い眼医者に、母は私を連れていきました。もう一度、手術をすることになり、ついでに前回の傷跡も取ることにしました。しかしこれは、信じられないほどの拷問でした。目の下の肉を、ちょっと手でつまんでみて下さい。それだけでも痛いのに、そこを切り取って縫い合わせるなんて、想像を絶します。7歳の私は手術用のベッドの上で暴れまくりました。看護婦さん5人掛かりで押さえ付けられ、目をこじ開けられ、泣き叫ぶ私にお構いなく、手術は続けられました。最初の右目で懲りた私は、もう左の傷跡はとらなくていいです、と先生にお願いしました。先生も、「大人になったらマスカラつけたりして、目立たなくなるからいいでしょう。」と母を納得させてくれました。数週間後、手術の眼帯が取れると、視力検査のイスに座らされました。検査をしてくれた看護婦さんはとても事務的でした。視力検査のボードがとても遠くに感じられます。イスに座ったときから、私はもう泣きそうでした。「めがね」といわれるのが、この世のなによりもこわかったのです。しかし、いくら目を凝らしても、上から3つめより下は見えませんでした。看護婦さんは、カチャカチャレンズを代えて、「はい、じゃ、めがねね。」と、私の最も恐れていた言葉を、いともたやすくいってのけたのです。私は検査イスの上で、口を真一文字に結び、看護婦さんがレンズをかえて、「こんど、これで、上から読んでみて」というのに対し無言の抗議を続けました。涙がポロポロこぼれて、もう全然見えません。困り果てた看護婦さんは、私を先生のところに連れていきました。先生はやさしく私の話を聞いてくれました。「どうしても眼鏡はいやなんだね。分かった。先生が治してあげる。そのかわり、きちんと毎週来れるかな。」希望というのは、遠くに見えるかすかな光のようなものです。私はそれを信じました。いつかきっと、視力検査の下の方まで見える日が来るに違いない。夢には、その大きさにしたがって、それが叶うまでの「時間」を注ぎ込まなければなりません。しかし、希望の光が消えないかぎり、いつかはそこに到達するものなのです。(つづく)
2004/12/23
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洗濯物がたくさん下がった物干しざおを、主婦が重量挙げのように持ち上げる、妙に感動的なテレビコマーシャル、ご覧になったこと、ありませんか?首に巻いたチタンネックレスの宣伝です。2002年の2月ごろ、私たちがいつものようにダンスの練習をしていると、スタジオに雑誌の取材の方が来られました。教室の生徒さん何人かがモデルになって、チタン製品の使用前/使用後の写真を撮っています。まずは、チタンスパッツを履いた女性。足が90度も上がらなかったのに、履いた途端、120度くらい上がってます。私たちは、練習しながら興味津々でチラチラ見ながら、「ウッソー」とか、思ってました。次の女性はチタン入りシャツにトライ。着る前は、反る、というより、上むくだけ、という人が、な、なんと、床に平行になるまで反ってます。「そんな、ばかなー!」ますます興味津々です。なんで?と思いますよね、普通。そんな私たちににも、チャンスがやってきました。たまたま取材中に男性の生徒さんがいなかったので、教室の生徒じゃないけど、試してもらえませんか、と言っていただきました。「どこか、硬くて困ってるところありませんか」彼は、今練習しているパソで、背中を捻るのが結構きつい、といいました。上半身裸の彼の背中に、チタンローションを塗り込み、その上から背骨の両脇に10個ぐらいチタンテープを貼って、その背中を写真に撮られました。見た感じはピップエレキバンみたいな小さな円形のシールで、よくマラソン選手なんかがいろんなところに貼ってます。そのシールにチタンファイバーがうめこんであって、持久力を高めたり、柔軟性を増強したりする効果があるらしいのです。私も何か試したい、というと、チタンスパッツを履かせてくれ、それで二人でパソドブレのシャッセケープというポーズをとりました。彼が闘牛士の役で、私が、彼の持っているケープの役です。写真を撮る前に、その教室の先生が、シェープを直してくれたので、その格好が、チタンのお陰なのか、先生のお陰なのか、微妙なところになってしまいました。1カ月後、発売されたダンス雑誌に私たちはコメントつきで、モデルとして登場していました。知り合いの人に、載ってたことを教えられ、買いに走りましたが、すでに売り切れ。私たちがモデルしたせいで、ダンス雑誌バカ売れ、なわけないんですが、友達にも連絡して、本屋さんで探してもらいましたが、もうどこにもありませんでした。そのまま、しばらく忘れていましたが、夏に京都の実家に帰ると、そこにありました。「すごい効果ですね。チタンのおかげで、次の大会は好成績が期待できそうです」えーっ!!こんなこと、言ったかなあ?!ま、でも、出演料代わりに、チタンテープとローションのサンプルもらったし、試合で使ってないわけでもないので、いいかな。嘘かほんとか、身体が堅いとお悩みの方、一度おためしあれ。【ファイテン】チタンパワー★効果は半永久的!!?パワーテープ(70マーク入り)(写真左)ラクワネックスポーツボルドー×ホワイトe-ウォーターRAKUスポーツスパッツ[ハーフ]ファイテン ラクシャツ 半袖丸首 ストレッチファイテンRAKUスポーツスパッツ(ロング)
2004/12/21
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友達は、雨女です。いい天気が続いても、彼女がどこかに行く日だけ、雨になったり、最近はパワーアップして台風も連れてくるので、「妖怪あめふらし」の異名をとっています。2002年2月24日、大応援団が来てくれるということで、「雨かな」といっていましたが、誰か強力な晴れ人間がいたのか、冬晴れの好天に恵まれました。のべ900組を超える選手を集めた、この第6回八千代支部ダンススポーツ競技大会は、私たちが到着した段階ですでに近場の駐車場はいっぱいで、かなり離れた場所に誘導されました。私たちの出場するオープン戦ラテンの他に、午前中は1級から6級までのラテンの競技があり、午後はスタンダード競技。大応援団が到着するまで、何としても予選を勝ち残らねば、と使命感に燃えていましたが、予選が始まる前に、来てくれました。「今日は、頑張ってね!!」花束とチョコレートを渡されました。あれ?何か、勘違いしてる?ライブじゃないんだからさ。マラソン大会でスタート前に、選手が花束もらうような感じ?きっと、初めてダンス競技会を見に来るというので、何を持っていったら私たちが喜ぶか、ずいぶん考えてくれたんだろうなあ。その気持ちが、嬉しくて、胸がジーンとしました。優勝を先取りした気分です。遅れてやってきたご主人。駐車場がなくて大変だったでしょう、と聞くと、「係の人がさ、医療班の通行証見て、入口開けてくれてさ。役員の駐車場に置いてきたよ。」何か、うまいことやったなあ。でも、実際だれか怪我したら、応急処置してあげられるから、それも、ありですかね。オープン戦ラテンの1次予選。参加組数18組。2階席中央に陣取った大応援団に、ビデオ撮影をお願いしました。種目はサンバ、ルンバ、パソドブレの3種目。私は赤のドレス、彼は、最近手に入れた黒のタートルネックにベストが付いた、パソドブレにぴったりの衣装で入場しました。最初のサンバから、お母さんのこれ以上ありえないほどの、非常に好意的な解説が、ずっとビデオに録画されています。この大応援団3人の中で、社交ダンスをやっているのは、お母さんだけ。「すごい!場所取りが上手」「あの、ルーチンむずかしいのよォ」「すごく、キレがいいでしょ」この解説だけ聞いてると、どんなすごい選手だろうと、思ってしまいますが、他の二人も黙ってはいません。「おっ、あのまま投げに入るのかとおもったぜ」M君は柔道の達人です。「パソって、タンタカタンタカってやつでしょ。」Cちゃんは音楽解説。踊り見てるより、3人の解説聞いてるほうが、よっぽど面白いのです。そして、踊り終わるたびに、割れんばかりの拍手が録音されています。私たちは順当に勝ち進み、準決勝の段階で2位につけていました。1位だったのは、東京の選手です。M君は競技が終わるたびに、採点表をチェックしに行ってくれていたようです。決勝の前に2階席にご挨拶に伺うと、「あの東京のカップル、競技の合間もずっと練習してるよ。」きっと現段階で1位の選手があれだけやってるのに、2位の私たちはいいのか、と心配して下さっているんだな、と思って、大応援団を安心させるために、ちょっと練習しました。そして、いよいよ決勝です。大応援団はますます盛り上がり、フロアから見上げると、2階席のそこだけ目立っていました。と言うか、浮いていました。私たちの名前が呼ばれると、「4番がんばれー!!」大騒ぎです。なんか、すごくパワーがみなぎってくる感じがしました。たった3人ですが、千万人の味方がついているようなものです。最後のパソドブレの「ジャン!」というキメポーズが決まると、大応援団からの「おーっ!」と言う大きな声と、はじけるような拍手が聞こえました。私たちは、大応援団に向かって感謝の一礼をし、フロアから退場しました。表彰式は、午後のスタンダード競技が全て終了した後。午後の競技に出ない私たちのような選手は、それまで待っていなければなりませんでした。「結果、教えてね。」といって、3人は先に引上げていきました。決勝では、大応援団のいる2階席を意識して踊り続け、それが審判には「パフォーマンスがよい」と、映ったのかもしれません。優勝でした。早速メールで結果を知らせると、!マークがたくさん付いたおめでとう!の返事が来ました。「初めてダンスの大会などという所へいって、皆さんの熱気やら、スバラシサやら・・・・・(最初は少々ビックリしましたが、)楽しませていただきました。 美しさ、かっこ良さ(踊りだよ!)あの中で一番でした。母も、Mも、もちろん私も、二人のダンスにひきこまれて大興奮!!スゴイ、スゴイ、の連発でした。 表彰式を見てから帰りたかったのですが残念です。二人の優勝を信じていてヨカッタです。(夜、何度も、携帯に電話してすみません、どうも気になって気になって・・・・・)次回もぜひさそってください、また力一杯応援します。(今度は手ぶらでいきます)」応援して下さる方がいる、というのは、本当にありがたいことです。2位を優勝に変えてしまう、大きな魔法の力。私たちには、素晴らしい、大応援団がついています!! チョコレート!ローズ 【プリザーブドフラワー】スィーツレッド
2004/12/18
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2002年最初の試合は、千葉県八千代市のオープン戦でした。このとき初めて、大応援団が来てくれることになりました。といっても、3人なんですが、私の友達(Cちゃん)と、その旦那さん(M君)と、彼のお母さんです。Cちゃんは、<第98話>不思議な夢で紹介した友達の、高校からの親友で、ライブに来てくれるようになって仲良くなりました。記憶力がとても良くて、私たちのオリジナル曲も全部歌詞を覚えて、ライブの後、「あの曲、歌詞まちがえたでしょう。」と、よく指摘されました。人生何があるか分からないもんで、彼女はスクーターでコケて、足を骨折し、通っていた病院のお医者さんと恋に落ちて、結婚してしまいました。私たちが茨城に住んでいたころ、夏休みには友達が避暑をかねて、多いときは10人くらい押し寄せてきたんですが、二人はその中の欠かせないメンバーでした。丁度みんなが集まっていたとき、風でアンテナが倒れ、テレビが映らなくなってしまいました。高いところ大好きなM君は、するすると屋根にのぼり、みんながヒヤヒヤしながら下で見守る中、あっというまに直してくれました。バーベキューセットを持ってきてくれたので、庭でやることにしました。M君を含む男子数名が焼きの係、私と主人と、女子数名は材料を切ったり下ごしらえをする係、そして、Cちゃんと残り数名は家の中と外を行ったり来たりしながら、運んだりする係でした。外で焼きそばを焼いているM君が、「C子、紹興酒(しょうこうしゅ)持ってきて!」と、叫んでいるのが聞こえました。(ん?何で紹興酒?かくし味か?それとも、ファイヤーってやるのかな?)ちょっと不思議でしたが、Cちゃんが表からもどってきて、「ねえ、紹興酒なんてある?」と、まじめな顔で聞くもんですから、主人も「たしか、床下収納に入ってたと思うよ。」結婚式のお祝いに来て下さった、上司の方のお土産が残っていました。Cちゃんは、「あった、あった!」元気に外にもどっていきました。すると外から、M君の大きな声が聞こえました。「塩、コショウっていったんだよ!バーカ!なんで、焼きそばに紹興酒、入れんだよ!」これにはみんな大爆笑でした。確かに紹興酒って聞こえたもの。二人はいつもこんな江戸っ子口調で、ワイワイ言い合っていて、端から聞いていると喧嘩しているみたいなんですが、とっても仲がいいのです。この話は、いまでも飲み会の席になると出てくる話で、忘れられない楽しい思い出です。さて、そんなにぎやかな二人と、社交ダンスをされているというM君のお母さんが応援に来て下さるというので、私たちも気合が入りました。このころのルンバのルーチン(振り付け)は、今のに比べてずっとアクロバティックで、難しい技の連続でしたので、こなすだけで精いっぱいでした。気合が入っていたのは私たちだけではなく、この3人も相当気合が入っていたようです。なにしろ、競技会どころか、生で踊ってるのを見るのは初めてという人たちです。さて、いったいどうなることやら。続きは、また明日。紹興皇酒20年陳醸 500mlBird ソルト&ペッパーセット(STOHA design )
2004/12/17
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映画「マトリックス」の中で、主人公ネオを助けて人類救助のために戦う、女戦士トリニティ、かっこいいと思いませんか?私は、この映画が公開されて何度も見てしまいました。そして、トリニティのようになりたい(全然なれるわけないんですが)と思って、同じような形のサングラスしてたりしました。ダンス競技の練習のほかに、地味な練習を続けてきたものがあります。2001年12月に、合気道の1級検定試験を受けるための練習です。トリニティに憧れて、合気道を始めたわけではありませんが、ダンスを理由にさぼっていた昇級試験に挑戦しようと思ったのには、彼女の影響が大です。合気道の1級は、私にとって、ダンスとは比べ物にならないほど大変でした。剣と杖の技は、特別の鍛練が必要で、職場の顧問の庭をお借りして、暗くなってからこっそり仕事を抜け出し、約3カ月間、毎日練習させてもらいました。試験当日。試験は級の低い生徒から順番に行います。子供から大人まで、15人くらいいたと思います。1級は一番上で、受けるのは私一人でした。まず、敵が私の首を狙って討ちかかってきたとき、それを5種類の技を使って撃退しなければなりません。次に、片手をつかまれた時、そして、両手首を後ろで捕まれたとき、同様に5種類ずつの技で撃退します。もうこれだけで結構ヘトヘトですが、さらに、10級から2級までに検定で試された全ての技、約40種類の中から、先生が抜き打ちで技の名前を言い、それを咄嗟に敵にかけなければなりません。これが、だいたい10種類くらい試され、モタモタしていると、もっと数が増えます。ダンスでサンバやルンバ2種目だけ踊ってればいいのとは全く種類が違います。さらに、短刀で切りかかってくる敵に対して、これも5種類の技で対処します。短刀はもちろん木製ですが、ちゃんとドスの形をしていますので、切られるとはっきり分かります。この後、最大の見せ場、多人数掛け。1対3の戦いです。3人でかかってくる所を、千切っては投げ、千切っては投げ、まるで、時代劇の格闘シーンのようなものですが、先生が「ヤメ!」というまで、一人で、押さえ込まれないように持ちこたえる必要があります。これらは、指導員の先生が相手をしてくれますが、ここから先は個人技になります。剣、これも木製ですが、日本刀の形をしていて、結構重く、きちんと臍下(せいか)の一点から動かないと、振り回されてしまいます。剣技1と呼ばれる剣を使った一連の動き、何となく、日本舞踊か、能の舞を連想させるものですが、これを終えると、次は杖です。1メートルくらいの木製の杖で、これも、杖技1と呼ばれる、もっと激しい動きの一連の動作を行います。これらの動きは、敵が色々なところから討ちかかってきたときを想定したものですが、一人でやるとこれまた、踊っているようで、きめポーズが結構かっこいいのです。トリニティみたいに。これら全てが終わると、正座して、合気道の心得、全21個を制限時間内に暗唱します。結構長いので、これが出来ずに試験を落とされることもあるくらいです。10級から2級まで、すでに試験を終わった人たちがかたずを呑んで見守る中、試験は一つ一つ、こなされていきました。最後の、暗証に入ったときは、息も絶え絶えで、3つくらいまでは、息なのか声なのかという感じでした。しーんと静まり返った道場に夕日が赤く差し込み、私はその光の中で黙々と暗証を続けました。「… 人の見ざる所、報いを求めざる所に善因をつまねばばらぬ。しかして、陰徳の最たるものは…」最後の章の暗証を終えて、先生を見ると、先生は静かに頷かれました。その瞬間、じっと見守ってくれていたみんなから、大きな拍手が起こりました。「ああ、やったんだ!」私は、大きな達成感に包まれて、天井を仰ぎました。そして、先生と、見守ってくれていたみんなに、深々とお辞儀をしました。年が明けて、2002年1月20日、一年の稽古の無事を祈願する鏡開き式で、私は、奉納演舞をさせていただくことになり、杖技を披露しました。主人も、このあと振る舞われる「おしるこ」目当てで付いてきて、ビデオを撮ってくれました。道場に通う人たちや、その家族、来賓の方々が静かに見守る前で、私の気合のこもった声は、りんと道場に響き渡り、すがすがしくトリニティ気分を味わうことができました。◆◇◆マトリックスモデルサングラス トリニティタイプ◆◇◆マトリックス 特別版 (DVD)《DVD》 マトリックス リローデッドマトリックス レボリューションズ 特別版【DL-33209】 =>20%OFF!《発売日:04/04/02》
2004/12/16
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何度挑戦しても、結果がついてこないとき、「負け癖がつく」といわれます。少しずつ進歩はしているのかもしれませんが、秒針のないデジタル時計のように、1分過ぎるまで、途中経過が見えないので、本当に進歩しているのかだんだん不安になってくるのです。2001年後期、JBDF北関東で、とうとう来年もC級と決定してから、北関東以外のもっといろいろな試合に出たいと思うようになりました。負け続けることに、飽きてしまったのです。そして、また、ダンス雑誌にも載りたいと思いました。ダンス競技会は複数の団体が運営しているので、選手はそのうちのどれに所属するか、選択することができます。かけもちも、もちろんOK。年間を通じて一番試合数の多いのは、アマチュアの団体、JDSFです。日本全国津々浦々、毎週どこかで試合をやってます。サークルに所属していない選手が、JDSFの試合に参加する資格を得るために取る手段は一つ。プロの団体、JDCかJBPDAのノービス競技に出場して、D級になればいいのです。2001年11月25日、JDCの関東ダンス選手権大会と併催されるアマチュアラテンN級戦に出場しました。東武動物公園に近い、進修館という会場です。とても変わった建物で、明治の洋館のような、それでいてモダンなデザイン。私は、外観を見た瞬間から、建物の中をあちこち探検したくてウズウズしていました。天井や立派な柱や「この奥はどうなってるんだろう」と思わせる廊下に興味を奪われて、キョロキョロしている間に受付をすませた彼が、「ねえ、受付にいたの、二つ森先生だったよ。」二つ森先生といえば、日本を代表するトッププロ、ウリナリのコーチとしても有名な方です。気が付けば、雑誌やテレビで見たことあるような、プロの先生があっちにもこっちにも。建物も面白いけど、ミーハー気分も出てきました。こんなことで、気が散っていてはいけません。試合なんですから、集中、集中。出場組数48組。種目はサンバとルンバでした。2階観覧席にビデオをセットし、1次予選が終わって戻ってくると、スイッチを切りに行った彼が、硬直した顔でもどってきました。「ビデオ、なくなってる....。」「うそ! どうしよう。とりあえず受付に言ってみる?」レモン色のコスチュームを着けた彼は、そそくさと受付に走っていきました。一瞬、盗難かと思いましたが、実は没収でした。プロの試合では、ビデオを撮るのは有料なのです。彼は、うまいこと言い訳したらしく、ビデオをもって帰ってきました。「自分たちの競技を撮ろうと思ってたんです。」(これは本当)「まだ全然撮ってません。」(1次予選撮ったから、これはウソ)ノービス(初心者)級に出場しているということで、特別に許してもらえたのかもしれません。試合は、予選2回と準決勝、決勝で、久し振りにトロフィーをもらえました。準優勝です。これで、2002年からは、いろんな試合に参加できて、上手くすればまた、雑誌に写真が載ることもあるかもしれない。登録手続の時に、こんなことを言われました。「何県の所属にしますか?住んでるところの千葉にするか、男性の職場のある東京にするか、女性の職場の茨城にするか、どれでも大丈夫ですよ。」どこでも良かったのですが、私たちは千葉を選びました。このため、JDSFの試合では千葉県、北関東の試合では茨城県の所属になりました。千葉には、日本のアマチュア選手のランキングでトップ10に入る選手が何組もいるので、この選択によって、県代表への道は、ぐっと遠くになってしまいました。ソニーDVDビデオカメラDCRDVD201SONY デジタルビデオカメラDCR-HC1000+HAKUBA三脚&収納ケースをセットでお得!
2004/12/15
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JBDF北関東支部のラテンB級昇級をかけたこの年最後の試合が、2001年10月28日、栃木県藤岡町総合体育館で開催されました。全栃木競技ダンス大会です。関東・甲信越ブロックのアマチュア昇降級規定の、一番下に、これ以下はありませんよ、というのが載っています。それは、D級登録選手で、2年以上競技に出場しない場合、登録資格抹消というものです。実は、2年前にN級戦で優勝し、D級に昇級して以来、全然スタンダードの試合に出ていなかったので、この、今年最後の試合に出ておかないと、抹消されるピンチでした。しかし、ラテンの方は、リーチがかかっていて、あと1回決勝に残れば、B級になれるところにきていて、ワルツやタンゴを練習する時間があれば、むしろ、ラテンの練習に当てたいくらいでしたから、スタンダードの練習には力が入りません。いくら出るだけとはいっても、せめて1周くらいは踊れないと恥ずかしいので、先生にお願いして、久しぶりにワルツを見てもらいました。2年もやらないと、お話にならないくらいガタガタになっているもんです。ワルツは何とか1周踊れるだけのルーチンが出来ましたが、タンゴまで時間がまわらず、そのまま試合当日になってしまいました。午前中のラテンB級戦、種目は、チャチャチャとルンバ、90組が出場していました。私たちは1次、2次、3次と予選を順当に勝ち進み、最終予選、ベスト24までこぎ着けましたが、惜しくも準決勝に進出することは出来ませんでした。それでも、今期の試合の中では、最高の成績でした。午後、いよいよ問題のワルツとタンゴです。224組も出てました。背番号が後ろの方でしたので、自分の順番が来るまでが、随分と長く感じられます。ワルツは5人の審判の4人までがチェックを入れてくれましたが、タンゴはそうはいきません。私たちの踊れるタンゴのルーチンは限られていて、競技フロアに入るまで、どの順番で何を踊るのか決めていなかったので、周りをビュンビュン通りすぎていく他の選手に圧倒されてなかなか出られません。彼は、あたま真っ白を通り越して、半透明になってたようで、ウォーク、リンク、ファイブステップを果てしなく繰り返すだけで、なかなか流れに乗れず、とうとうフロアの半分くらい踊ったところで、音楽が終わってしまいました。審判の立っているコーナーまで行き着かなかったのです。この時、初めて、「0点」をとりました。いくらなんでも、これは情けなさ過ぎる!やっぱりやった分だけの結果しか出ないんだ。私たちは、思い知りました。まだ、当分はラテン中心に頑張るつもりだったので、2年後の健闘を誓いあいました。2004年から昇降級規定が変更になり、2年ごとに出場するだけで、D級を維持できる時代は終わりました。E級、F級というD級より下の級が出来て、ある程度の成績を取らないと、どんどん下がっていくようになったのです。私たちは一念発起してスタンダード競技を再開し、今年の春、234組出場のD級戦で、あの時と同じワルツとタンゴを踊り、準優勝に輝きました。あの「0点」だったタンゴも、一生懸命練習して、いつしか満点が取れるようになっていました。レッツダンス <NHK DVD> 2.ワルツ・タンゴ【VIBS-2】 =>20%OFF!《発売日:00/12/06》タンゴ DVDバーン・ザ・フロア ◆20%OFF!<DVD> [UUSD-70090]
2004/12/14
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沖縄に着いてみると、台風の影響で風は強めでしたが、泳げないほどではありませんでした。すぐに水着に着替えて、ホテルのプライベートビーチに繰り出し、一泳ぎしたあと、水中メガネだけ持って、裏の岩場の方に行ってみました。「活きている魚、こわい」と言っていた彼も、青や黄色の小さな魚達が岩辺でひらひら泳ぐのは気に入ったらしく、明日はタンクを付けて体験ダイビングをしてみようと、すっかりその気になっていました。もちろん私も、久しぶりに南の海に潜れる、期待で胸は一杯でした。沖縄に来る前に、友達から、耳寄りの情報を得ていました。「沖縄に行くなら、E男ちゃんに連絡してみれば? 彼、今、沖縄で仕事らしいよ」E男ちゃんは、私の昔のバンド仲間です。大柄で口ひげをはやしていた彼は、高校生の時から「30歳以下には見えない」人で、チョッパーという弦を弾くベース奏法が得意でした。ライブになるとますます過激に弾きまくるので、ベースの音だけ物凄く大きくなってしまったものでした。彼は、音響建築関係の仕事に進み、「ベースよりスノボ」にはまって、バンドをやめてしまいましたので、しばらく音信不通でした。沖縄といっても広いので、あまり期待はしていませんでしたが、連絡してみると、なんと、私たちが宿泊しているのと同じ町にいました。夕方、彼は車でホテルに迎えに来てくれて、なじみの郷土料理の店に連れていってくれました。店のママはとても気さくな人で、初対面じゃないみたいな歓迎ぶり。コラーゲンたっぷりの豚足やチャンプルー、ウコン茶で割った泡盛、お腹が一杯になったところで、三線(さんしん)登場。三味線に似た沖縄の楽器です。E男ちゃんはさすがベーシストだけあって、弦ものは得意です。私も主人もカスタネットみたいな「三ば」という沖縄の楽器の叩き方を教わって、でたらめに打ち鳴らしながら、「しまうた」や「はな」を唄い、夜が更けるに連れて、ますます盛り上がっていきました。E男ちゃんは、明日もどっかいこうか、と誘ってくれました。私は、まだ、ダイビングにちょっとこだわっていましたが、沖縄に来てまだ日が浅い彼も、週末は家にいるだけだから、いろいろ回ってみたいと言ってくれているので、観光のついでにシュノーケリングくらいできるかな、と明日も一緒に行動することにしました。沖縄万博の記念公演でイルカショーを見たり、ガラス工房でビールジョッキを買ったり、午前中は有意義に過ぎていきました。あとは、美しい海を素潜りでもいいから満喫すれば、もう何も思い残すことはありませんでした。「E男ちゃん、どっかで泳ごうよ。」「おれ、泳げないの。水着ももってないよ。」なんでーっ?!そういえば、みんなで海に行こうと言っているときに、1度も乗ってこなかった....。突然、色々なことを思い出しました。彼はウィンタースポーツ派で、暑いの嫌いでした。こんなに素晴らしい海と太陽のもとで仕事が出来るのに、泳げないなんて、なんて気の毒なんでしょう。彼はお酒も飲めないのでした。風貌からすると、お酒、強そうなのに、好物はパフェとかでした。それなのに、私たちを喜ばせようと、昨日の夜は、つきあってくれて、今日だって、貴重な休日を割いて、暑い中、車出してくれています。「私、海に潜りたいから、じゃあね」とは、とても言えません。お昼は、海の見える民宿のレストランで食べました。午前中のダイブから帰ってきた、学生風の集団がいて、ちょっと、寂しい気もしましたが、ダイビングはまたいつでもできますから....。結局、台風は進路を変えて、沖縄には来ませんでした。かばん一杯のダイビングギアは、1度も水に濡れることなく、そのまま持って帰りました。ダンスシューズも、予想通り1度も履くことはありませんでした。「東京では、仕事するとき、いつも、でんろく豆ポリポリ食べながらやってたんだけど、沖縄にうってないのよ。」といっていた、E男ちゃんのために、箱一杯のお菓子を送りました。もちろん、でんろく豆も。海に潜るよりずっとたくさんの忘れられない思い出をくれたE男ちゃんに、感謝です。初心者入門楽譜、練習用CD付琉球本皮三線(サンシン)6点セット オムニバス 美ら歌よ~沖縄ベスト・ソング・コレクション~-CD-〔送料無料キャンペーン中〕琉球サンバ 沖縄ミュージックにかかせない!!
2004/12/13
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結婚する前、趣味はダイビングでした。美しい海の魅力に取りつかれた私は、サイパンでオープンウォーターの免許を取りました。冬でも暖かい南の海は、色とりどりの魚達の楽園。パンを持ってはいると、魚達が集まってきて、小さな口でツンツンパンをつまむのが、とてもかわいらしいのです。そのままゆっくりとフィンで進むと、みんな私についてきます。レギュレーターから上がる泡が光に反射して、彗星のように銀色に流れ、カラフルな魚達を従えて泳ぐ私は、まるで海の女王になった気分。サイパンには、たくさんのおすすめダイブスポットがあります。なかでも特に印象深いのは、「グロット」とよばれるスポットです。岩場に開いた池のようなポイントから潜ると、海へと続くトンネルがあります。暗い海底トンネルを進むと、突然現れる青の三角。真っ青に輝く光が、神秘的に差し込み、私たちは吸い込まれるようにその海の出口へと泳いでいきます。トンネルを抜けると、そこはまるで秘密の花園。赤いサンゴや黄色のレモニエローフィッシュ、華やかな海底の楽園に、大きなウミガメやエビもいます。見上げると、マンタが悠々と泳いでいきます。雪が苦手な私は、友達がウィンタースポーツに出かけると、南の島に潜りにでかけました。その後、ナイト・ダイブやディープ・ダイブも楽しめるアドバンストの免許も取り、さらに進んで、レスキューダイバーの免許まで取ってしまいました。彼も何度かダイビングに誘ってみましたが、食わず嫌いの彼は「活きてる魚、こわい」とかいう、分けのわからない理由で、1度も付き合ってくれませんでした。2001年10月、会社の記念行事で家族共々2泊3日の沖縄旅行に行けることになり、私は久しぶりにダイビングができると大喜びでした。このころ私たちが参加していた競技は、JBDF北関東大会だけなので、ダンスの旅行といっても関東平野を出ることはありません。お父さんの病気のこともあり、普通の旅行も京都に限られていました。それだけに、この特別社員旅行は、久しぶりの飛行機搭乗、物凄く気合が入りました。ダンスの競技シーズン真っ只中だったので、練習しないのはちょっと不安でしたが、一応、靴だけは持っていくことにして、心は南の海に飛んでます。今回の旅行で、彼も体験ダイビングをやってみるということになって、かばん一杯にダイビングギアを詰め込み、たった2泊3日の沖縄旅行なのに、まるで、海外旅行に出かけるような荷物でした。しかし旅行の日が近づくと同時に、台風まで近づいてきました。誰か、「嵐を呼ぶ男」がいるんでしょうか?旅行は思ってみなかった方向に展開していきます。(つづく) 3泊4日ダイビングツアー(4ダイブ付) 【PADI】オープンウォーターライセンス取得コース コース料金
2004/12/12
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テレビアニメの「ゲゲゲの鬼太郎」、ここに出てくる妖怪で、一反木綿(イッタンモメン)と塗り壁(ヌリカベ)、ご存知でしょうか。競技会で「ポイントを入れてくれる審判と、入れてくれない審判にはっきり分かれる」とか、出る競技会によって「すごく点が入る時と、全然ダメなときがある」、こんな経験がある方は、妖怪の可能性があります。2001年後期、私たちはラテンで苦戦していました。しかし、少しずつ、本当に少しずつですが、進歩はしています。2001.9.23 北関東全群馬競技ダンス大会 ラテンC級戦 種目チャチャチャ&ルンバ、86組出場、2次予選2001.9.30 北関東全埼玉競技ダンス大会 ラテンB級戦 種目サンバ&パソドブレ、57組出場、1次予選2001.10.14 北関東全茨城競技ダンス大会 ラテンC級戦 種目サンバ&パソドブレ、70組出場、3次予選2001.10.28 北関東全栃木競技ダンス大会 ラテンB級戦 種目チャチャチャ&ルンバ、90組出場、最終予選(ベスト24)前期で一度決勝進出を果たしたので、あと一回、決勝に残ればB級昇級なのに、なかなか、決勝どころか、準決勝すら残れませんでした。なぜか?それは、私たちが妖怪だったからです。同じ山に登るのに、いろいろなルートがあるように、ダンスも目指すものは一つでも、アプローチにはいろいろな方法があります。ラテンで、一番多いのは、次の二つのタイプです。1 姿勢が美しく、フロアでの存在感はあるが、動きが固い2 柔軟で動きは速いが、芯がない前者が、ヌリカベ、後者が、一反木綿です。本当は、芯があって、しかも柔軟な動きが出来る「鞭」のような身体が理想なのですが、そこに到達するまでの過程に、どちらかのルートをたどるのが、よく見受けられます。この2つのタイプは、いずれも妖怪なので、どっちもどっちなんですが、審判の好みによって、ヌリカベ派と一反木綿派に分かれるため、点が割れます。私たちは、典型的な一反木綿でした。ラテン出身の「動き」を重視する審判には好まれますが、スタンダード派の「姿勢」を重視する審判には嫌われます。人間だんだん年をとると、「美しく立つ」ための筋肉も、「素早く柔軟に動く」ための筋肉も衰えてきます。しかし、筋肉は100歳になっても鍛えればたくましくなるそうです。よく、競技会で「若い人はすぐ上がっていく」という声を耳にしますが、それは、「若いから」ではなく、美しく立って、素早く柔軟に動くためのそれぞれの筋肉が、まだ衰えていないからだと思います。最近では、ゲームやパソコンの影響で若い人でも姿勢が悪い人はたくさんいます。近くに行くのも車に乗るようになると、足腰の筋肉が衰えて、すぐ疲れたり、俊敏な動きができなくなったり。これらの筋肉は、使わないと、若くてもどんどんおとろえていくようです。一反木綿に芯を入れるのと、ヌリカベを柔軟にするのでは、どちらも同じように生易しいものではありませんが、一番簡単な方法は、ラテンとスタンダード、両方やることではないか、と最近になって思っています。私達のフニャフニャのラテンの動きにようやく軸らしきものが見えて来たのは、今年になって、スタンダードを再開してからでした。皆さんは、妖怪になっていませんか?そういえば、以前、ダンスの先生に「ネコムスメ」に似てるといわれたことがあります。「砂かけババア」でなくてよかった、と、内心ホっとしました。 鬼太郎ファミリー ミニクリップゲゲゲの鬼太郎切手シート
2004/12/11
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歌と踊りが両方好きといえば、当然ミュージカルも大好きです。2001年9月には、念願の「ライオンキング」を見に行きました。ライオンの王子誕生を祝って、動物達が大集合する最初のシーンで、もう私は感動して、ウルウルでした。舞台を見に行くのは、ちょっと大変ですので、気軽に楽しめるミュージカル映画は子供の時からよく見ていました。ミュージカル映画は、1920年代に初めて映像に音声の付いた、トーキーが登場したのを期に出現したといわれています。始めは、舞台をそのまま映画にしたものが主流でしたが、後に映画でしか出来ない特撮などで、独自の発展を遂げてきました。私の見たことのある一番古い作品は、「オズの魔法使い」。これは何と、1939年の作品です。1950年代になると、有名な「雨に唄えば」(1952)、「王様と私」(1956)、「南太平洋」(1958)。この「王様と私」の中で、「Shall we dance」の歌が歌われます。1960年代、「ウエストサイド物語」(1961)が登場します。ジョージ・チャキリスの踊りが、かっこいいですよね。「シェルプールの雨傘」(1964)では、カトリーヌ・ドヌーブの美しさに目を奪われます。「マイ・フェア・レディ」(1964)は、皆さまご存知のオードリー・ヘップバーンが登場します。この作品は、アカデミー賞8部門受賞しています。「サウンド・オブ・ミュージック」(1965)もご存知の方が多いのではないでしょうか。「ドレミのうた」や「エーデルワイス」は、この映画の中で登場。この映画もアカデミー賞5部門を受賞。ジュリー・アンドリュースのさわやかな歌声が耳に残ります。1970年代、ライザ・ミネリ主演の「キャバレー」(1971)は、これまたアカデミー賞8部門を受賞。「屋根の上のバイオリン弾き」(1971)、「ジーザス・クライスト・スーパー・スター」(1971)、「ラ・マンチャの男」(1972)、「ロッキー・ホラー・ショー」(1975)、「トミー」(1975)等々。このトミーはミュージカルというよりロックオペラといわれています。当時、人気のあったイギリスのロックバンド「ザ・フー」が作った物語です。1980年以降、「ブルース・ブラザーズ」(1980)、ピンクフロイドの「ザ・ウォール」(1982)、「アニー」(1982)、「コーラス・ライン」(1985)、だんだん作品を上げていくのに疲れてきましたが、最近では「ベルベット・ゴールド・マイン」「ヘドウィック&ザ・アングリーインチ」「ムーラン・ルージュ」「ダンサー・イン・ザ・ダーク」「シカゴ」などがありますね。映画の内容が、戦争批判や人種差別のような重いものでも、そこに歌と踊りが付くことで、のど越しさわやかな軽妙感を与えてくれて、すんなり受け入れることが出来るようになります。ミュージカルで使われた音楽の中で、好きな曲はたくさんありますが、どれか一つといわれたら、私は「ラ・マンチャの男」のこの歌を選びます。夢を見よう、見果てぬ夢を最強の敵に挑もう耐えがたき悲しみに耐え勇者も避ける道を進もう不正な誤りを正し清らかな人をひそかに愛そう戦いに疲れ果てた腕で届かぬ星に手を伸ばそうみなさんは、どんなミュージカルがお好きですか?ラ・マンチャの男【楽天野球団】■■■どこかで聴いた歌がここにある!! ミュージカル■■■
2004/12/04
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学生の時、冬休みの短期アルバイトで、新幹線車内販売をしたことがあります。帰省ラッシュで、通路にもたくさんのお客さんが立っている中、カートは通れないので、お弁当を両手に持てるだけ持って、車両を行ったり来たりします。思っていたよりずっとずっと大変でした。このアルバイトで知りあったのが、今日のお話の主役、私の大親友の一人です。彼女は大学卒業と同時に結婚し、友達の中では一番ノリでした。リッチな旦那様と都心の高級マンションの最上階で新婚生活。「友達の友達はみんな友達」ということで、いろんな友達をゾロゾロ連れていって随分迷惑をかけたにもかかわらず、おおらかでさっぱりした性格の彼女は、いつも快く迎えてくれました。私が結婚して茨城に引越したあと、しばらくたって、彼女が家に駆け込んできました。ご主人と喧嘩して、しばらく泊めて欲しいというのです。田舎の一軒家で、部屋は余ってましたから、いくらでも好きなだけいてもらってよかったのですが、二人の仲がちょっと心配ではありました。彼女が泊まりに来た日に、私はとても不思議な夢を見ました。中世のヨーロッパ、だと思うのですが、さだかではありません。私は小さな少年で、村の大きな教会のお手伝いをさせてもらっています。ミサのお手伝いが終わると、好奇心旺盛な私は、帰るふりをして、こっそり一人で教会の中を探検します。そして祭壇の裏に、隠し扉があるのを発見するのです。ワクワクしながら近づいてみると、そこからぼんやり光がもれていました。中に誰かいるようです。音を立てないように、そーっと扉をあけ、するりと忍び込んで、大きなテーブルの影に隠れました。「ドスン」大きな重たい音が頭の上で響いて、私は縮みあがります。「ドスン」恐る恐る覗いてみると、その大きなテーブルの上に、大きな斧を降り下ろしている大女がいました。黒い僧衣を身に付けたその大女は、なにか禍々しい黒魔術のような儀式を行っているところでした。「バベル教こそ、唯一の教えなり」そういって斧を振り下ろす恐ろしい大女は、全く似ても似付かないのですが、なぜか「彼女だ」と私は直感し、ハッと目が覚めました。その夢はあまりにもリアルで恐ろしいものでしたが、不思議とその大女が少年の私に危害を加える気はしませんでした。夢の話は、彼女には内緒にしていました。きっと、自分が恐ろしい黒魔術の大女だったなんて聞いたら、たとえ夢でも、いい気持ちはしないだろうなと思ったからです。その日は土曜日だったので、私たち3人は近くのホームセンターに出かけました。何を買うわけでもなかったのですが、巨大なホームセンターには、インテリア館やアンティーク館、見て回るだけで楽しい建物が集まっていました。私たちは、ジグソーパズル館に入り、壁に飾ってある色とりどりのパズルを見ながら、ゆっくり階段を上がって行きました。「これ、欲しいな。」彼女の声に、ふと振り返って見て、私は目をむきました。彼女が見ていたのは、「バベルの塔」だったのです。背筋が凍る思いがしました。それは、オランダ画家、ブリューゲルの描いた有名な絵を、大きなジグソーパズルにしたものでした。ひょっとしたら、私たちは、前世からずっと知り合いだったのかもしれません。彼女はしばらく滞在し、ご主人と仲直りして帰っていきました。しかしついに2001年9月、離婚が成立し、近所に引越してきました。最近は新しい彼とも知りあって、仕事と恋に燃えているせいか、あまり遊んでもらえません。後になって彼女に夢の話をすると、別に気を悪くするわけでもなく、「バベルの塔は昔から好きだよ。」といっていました。偶然にしてはタイミング良すぎだったあの夢は、正夢だったんでしょうか。ジグソーパズルバベルの塔 1000ピースジグソーパズル[ピーテル・ブリューゲル]バベルの塔 2000ピースジグソーパズル「バベルの塔(ブリューゲル)3000ピース」
2004/12/03
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後楽園ホールといえば、プロレスやK1などの格闘技を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。2001年8月5日、JBDF主催、東京ダンス選手権大会も、ここ、後楽園ホールで開催されました。来年度のアマチュア県別対抗戦の東京代表が選抜されるだけでなく、プロの選手権も行われましたので、ホールは朝からたくさんの応援の方々がつめかけ、ごひいきの選手や、自分の先生の名前を書いた旗や垂れ幕が、会場2階にずらりと並びました。このメイン競技に合わせて、JBDF東部総局に未登録の選手が出場するノービス競技も行われ、私たちは、このアマ・ラテン部門に参加しました。同じJBDFでも、北関東支部と東部総局は登録が別なのです。ノービスとは、初心者という意味ですから、踊っていいフィギュアはベーシックルーチンに限られています。スケートでいったら、規定演技のようなものです。私たちはこのために、チャチャチャとパソの2種目のベーシックルーチンを復習しました。後楽園ホールは、リングが設営される場所に上からスポットライトがあたるようになっているようで、フロアの真ん中だけ、明るい場所ができます。初めて後楽園ホールに出た私たちは、その光に吸い寄せられる蛾のように、そこばっかりで踊っていました。まわりにいるお客さんは、完全に無視です。特にどこが悪いという踊りではないのですが、はっきりいって、彼が黄色、私が赤のコスチュームは、すごく変でした。そして、光の輪の中から、出たり入ったり。床が茶色ですから、ホットドッグのケチャップとマスタードみたい。出場組数は59組で、それほど多いわけではありませんが、ベスト24には届きませんでした。この大会は、私たちにとてもいい反省材料を与えてくれました。踊りの質はもちろん大切ですが、コスチュームも大切な要素です。フィギュアスケートのペアダンスでも、選手は男女のバランスがとれた衣装を身に付けています。二人が踊っていて、カップルに見えなければいけません。この日、先生も東京選手権に出場されていましたので、ビデオをお互いに撮りあうことが出来ました。プロが出場する競技会では、ビデオを撮るのは有料なので、シェア出来たほうがお得です。先生達はC級でしたが、並み居るA級選手の中で健闘しました。しかしさすがに決勝に勝ち残った選手達は、テレビや雑誌に常連の選手ばかり。特に印象に残ったのは、中村俊彦&青柳朋子組の踊りで、中村選手は、自由自在に身体が動く、まるでイルカみたいでした。この時撮ったビデオは、随分何度もみました。自分たちのケチャップとマスタードは、2回くらい見ればもう十分です。プロの競技会でビデオを撮るのは5000円くらいかかって「高いな」と思いがちですが、これだけいいイメージトレーニングになるなら、かえってお得かもしれません。 「黄色い背景の赤いバラ] アイズピリ
2004/12/02
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私たちの通っているダンス教室のサマーパーティで、初めてデモを踊ることになりました。2001年7月22日のことです。先生は、「いつか優勝してオナーダンス踊るときのために、ソロで踊るのにも慣れといたほうがいいよ」なんて、おっしゃるので、自分たちがチャンピオン戦で優勝して、オナーダンスを踊っている様子が、頭のかたすみにポンッと浮かんだりして、「是非やらせて下さい」すっかり、乗せられてしまいました。曲選びと編集は自分たちに任せて下さいました。どうせなら、誰も使ったことのない曲で、私たちの踊りのイメージにピッタリあったものを探そうと、毎晩家にあるCDを片っ端から聞きまくり、ルンバとチャチャチャのメドレーに合う曲をピックアップしていきました。最終的に選んだのは、映画「グラン・ブルー」のオープニングテーマ曲と、ビートルズのオブラディ・オブラダです。私たちは競技ダンスを始める前は、夏になると毎週、ボディボードやビーチバレーをしていました。二人とも海が大好きなんです。映画「グラン・ブルー」は、ジャック・マイヨールという世界素潜り競技チャンピオンの話を映画化したもので、職場の近くにオープンしたスポーツクラブの、オープニングセレモニーにマイヨールが来るというので、会いに行ったこともあります。紺碧のエーゲ海。岩場に隠してある足ヒレをつけ、少年マイヨールがシュンと泡音をたてて飛び込むと、たくさんのさかな達が、彼のパンをめあてに集まってきます。お気に入りのウツボ君にえさをあげるために、小さな魚をゆっくりと手で払いのけると、頭の上にはキラキラと光が揺れています。音楽は、この海の中の世界をとても美しく表現していて、この曲でルンバを踊ると、まるで自分がイルカになったような気がするのです。小さなダイアモンドのようなたくさんの泡が、水面に向かってゆっくりと上がっていくと、曲はフェードアウトし、そこから一気に、「オブラディ・オブラダ」のピアノが、陽気に始まります。私たちは左右に別れて会場を一周し、お客さんに挨拶して、再び出会ったところで、腕を組んで市場にお買い物に出かけます。イメージ的にはこんな感じのデモ、ほんの2分程度の踊りなんですが、私たちは、かつて味わったことのないほどの緊張で、余裕ゼロでした。集まったお客さんの全視線が自分たちに注がれて、シーンと静まり返った会場に、初登場の「ヒヨコとヒヨコ使い」。体中の毛が逆立つようでした。ありがたいことに、スポットライトがあたると、眩しくて周りが見えなくなり、少し自分を取り戻しました。出だしは間違えずにすみましたが、緊張して足に力が入らないので、スピンのあとよろよろっとなり、イルカどころかワカメみたい。こんなオナーダンスしたら、石投げられるんじゃないかと、いまビデオを見直すと思うんですが、その時は、その時なりに、最高の踊りを、私たちは披露したのです。グラン・ブルー アルティメット・エディション (DVD)アトランティス (DVD)オブラディ・オブラダ/Ob-La-Di Ob-La-Da(ブラスバンド 楽譜セット)
2004/12/01
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京都の夏のパーティが、2001年7月15日、宝ヶ池プリンスホテルで開催されました。母の務めているダンス教室主催の、このパーティに、私たちが参加したのは、この年が最初です。5周年記念ということで、スペシャルゲストに、現世界チャンピオンのティモシー・ホーソン&ジョアン・ボルトン組を迎えるということでしたので、私たちも前々からとても楽しみにしていました。しかし実はその裏に、大変な心配事が潜んでいました。お父さんが入院するかもしれないというのです。主人のお父さんは、凄い二枚目です。主人が子供の頃の8ミリビデオを見せてもらった時、お父さんがあんまりかっこいいので、そっちの方に目が行ってしまったほどです。「君の名は」で岸恵子と共演した、佐田啓二にそっくりです。私も「君の名は」のハイライトシーンしか見たことがないのですが、中井貴一、中井貴恵のお父さんで、1950年代一斉を風靡した、美男美女の物語。きっと、ご存知の方も多いのではないでしょうか。京都に帰ると、お父さんは元気そうでした。パーティ前日、お母さんは、パーティの準備で大忙しでしたので、私たちは3人で祇園祭を見に四条へ行きました。話を聞くと、今、細胞検査をしていて、もし悪性なら切らなければいけないということです。入院なんてことになったらおいしいものもあまり食べられなくなってしまうからと、お父さんの大好きなステーキを食べました。パーティは、とても明るく華やかで、すばらしいものでした。お友達もたくさん来て下さり、お父さんはいつも通り、陽気にマダムキラーぶりを発揮していましたので、誰一人、お父さんの病気に気付く人はいませんでした。私は、パーティで、お父さんとタンゴ大会に出ることになり、「どうぞ、これがラストタンゴになりませんように。また来年もこうして踊っていられますように。」ずっと心でそう祈りながら、踊っていました。私たちは入賞し、記念品をゲットして、お父さんは満面の笑顔。入賞よりも、その笑顔が、何百倍も嬉しく感じられました。パーティの最後のダンスタイムで、お父さんは、お母さんとワルツを踊りました。美しいワルツでした。人間の愛と別れ、喜びと悲しみが凝縮されたようなダンスです。今この時を、共に過ごせる喜びを二人は噛みしめているようでした。「僕たちも踊ろう」彼が、誘ってくれたので、私たちもラストワルツを踊りました。この人とも、いつかは別れなくてはいけないんだなあ、と思うと、胸がギューっと締めつけられるようで、ワルツでくるくる回る景色が、何かとても壊れやすい、大切なもののように思えてきました。パーティの次の日、家族全員で病院へ行き、検査結果を聞きました。やはり、入院が必要ということになり、この日から長く辛い闘病生活が始まりました。しかし、世界の海をまたに掛ける船乗りだったお父さんは、その強靱な体力と精神力で生還し、現在では、仕事にも復帰し、ダンスにも通っています。そして今年の夏も、私はお父さんとタンゴを踊ることが出来ました。来年も、再来年も、ずっとこれからも、タンゴ in 京都です。■ レベルアップ/タンゴ編(VHS) ウィリアム・ピノ&アレッサンドラ・ブッチャレッリ(ダンスビデオ)
2004/11/30
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2001年6月24日、JBDF東部総局主催の東日本県別対抗アマチュア競技ダンスが、茨城県つくば市で開催されました。25回目を迎えたこの大会は、各県の持ち回りで、ダンスの国体のような競技会です。東京、神奈川、千葉、埼玉、栃木、宮城、群馬、岩手、長野、山形、秋田、福島、青森、新潟、山梨、そして茨城の1都15県から、スタンダード、ラテンそれぞれ3組ずつ選抜された県代表が集結し、チームマッチを行います。毎年、海外から素晴らしいゲストを招いて、この時は、イタリアからマッシモ・ジョルジアーニ&アレッシア・マンフレディーニが招待されていました。私たちの通っている教室から、茨城県代表選手が出場するとあって、みんなで応援に行ってみようということになっていました。私たちは1年前から千葉県民でしたが、JBDF北関東に登録したとき茨城県だったので、いまだに所属は茨城県のままです。この大会には、県別対抗戦のほかにチャンピオン戦が用意されていました。JBDFの登録選手は誰でも出られるのですが、県の代表選手たちが、こちらにも合わせて出場するので、私たちのようなC級選手は全然およびじゃありません。「チャチャチャとルンバだけだから、出てみれば。」これは、ランキングに関係しない、お祭りを盛り上げる余興の様な試合なので、A級選手に混じって躍らせてもらうのも勉強になる、と先生はおっしゃっていました。というわけで、私たちもチャンピオン戦に参加。いつも出ているC級戦と違い、なんだかとっても思いっきり踊れます。スケートやスキーで、周りが上手な人ばかりだと、みんなよけてくれるので、スペースが出来るのと一緒です。C級くらいだと制御不能のカップル同士がぶつかったり停まったり、ですが、県代表選手達は、さすが、上級者。絶対にぶつかってきません。私たちは、おかげで思い通りに大暴れし、それが審判には「元気に踊ってる」ように見えたのか、なんと1次予選を通過してしまいました。1コロ必死、と思っていたので、たった1回予選を通過しただけで、大喜びでした。2次予選、周りには、雑誌やいろんな上級競技会で見たことある人たちばかりです。スターには、スターのオーラが感じられるといいますが、もうフロアー中、オーラだらけでした。その中にいると、何だか、自分たちも上手い人になった気がして、普段以上のパフォーマンスができました。驚いたことに、並み居る県代表の中で、私たちは勝ち残り、最終予選に進んでしまいました。2次予選で敗退したA級選手もいるのに、これは物凄い番狂わせです。私たちは、優勝したかのような大はしゃぎ。さすがに、まぐれはここまでで、準決勝には進めませんでしたが、これだけでも十分納得のいく結果でした。県別対抗戦の方は、千葉県が優勝、東京が準優勝、神奈川が3位、茨城も6位に入りました。マッシモ達は得意のタンゴを披露してくれて、会場はおおいに盛り上がり、思い出に残る楽しい一日になりました。
2004/11/29
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春の北関東競技会シーズンが終わり、2001年5月下旬からはしばらく試合も入れてなかったので、家から30分くらいで行けるディズニーランドに行ったり、映画を見たり、演奏会を聞きに行ったり、という「文化的」な生活を送っていました。去年、千葉に引越してきて、サークルをやめてしまったので、JDSF主催の試合には出られなくなってしまいました。北関東の試合は、年に10回しかないのに対し、JDSFの試合は毎週のように日本のどこかで開催されていましたから、サークルに所属していたほうが、たくさんの試合に出られるメリットはありました。ただ、今は、級を上げることより、実力を上げることに専念し、JBDF北関東でそれを試すことが出来たので、それだけで十分でした。少しだけ残念だったのは、北関東の試合には、ダンス雑誌の取材が入らないので、どんなにいい成績でも全然雑誌に載らないということです。文化的生活という意味に含まれるかどうか分かりませんが、この時から地ビールの通販を始めました。ドイツバイエルン地方から、毎月1回、数種類のビールとグラスがクール便で届くのです。ビールの歴史は、実はとても古くて、紀元前4000~3000年ごろのメソポタミアの遺跡から出土したビール造りの記録が、世界最古のものといわれています。何と、エジプトのピラミッドの壁画にもビール造りの様子が描かれているというから驚きです。ビールの製法は、その後、地中海を越えてヨーロッパに伝わりました。ミュンヘンを州都とするドイツ南部のバイエルン州は、特にビール醸造で有名です。以前、ドイツを旅したときに驚いたのは、水よりビールの値段の方が安いことです。しかも、マクドナルドでもビールを売っています。ミュンヘンのビアホールに行くと、がっしりとした長テーブルに、全然知らない同士が並んで座り、大きなビアジョッキでみんなわいわい飲んでいます。私も仲間に入れてもらい、ビールを注文すると、特大ジョッキが出てきてしまいました。日本の大ジョッキがむこうでは中ジョッキ、といったサイズなので、このでっかいジョッキは重たくて、私が飲むと、赤ちゃんが、ほ乳瓶抱えているような格好になってしまいます。ドイツ南部の人たちはとても陽気でひとなつっこく、初対面でもずっと友達だったみたい。ビアホールには、小さな生バンドが入っていて、いっしょに唄ったり踊ったり、それはそれは楽しい一時でした。ドイツのビール醸造が発達した背景は、キリスト教の影響があります。バイエルンでは、ビールは伝統的に「飲むパン」と呼ばれていて、断食の季節(イースター前の40日間)、修道士達は食事はとらずにビールを飲んでいたというのです。「断食っていうのは、食べちゃだめだけど、飲むのはいいんでしょ」という、へりくつみたいな話ですが、ちゃんとローマ法皇の許可もとったそうで、中世から修道院を中心に栄えてきたこのビール醸造技術は、多種多様なビールを編み出し、現在ドイツには約1200ものビール醸造所があるということです。その第1回目のビールが、エルディンガー・ヴァイス醸造所から届きました。ここはドイツ最大のヴァイスビア醸造所です。あんまり美味しいので、1カ月分のビールを一晩で飲んでしまいました。こんなもったいないことは、絶対してはいけません。ビール酵母がお腹の中で大暴れ。二人とも次の日は、一つしかないトイレを奪い合うはめになりました。エルディンガー ヴァイスビアエーデルワイス・ヘレス・オリジナルバイエルンセット■■■なんでこんなにおいしいの?! 地ビール大好き■■■
2004/11/28
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男三人兄弟の長男は、すっかり大人になっても「大きい兄ちゃん」のままらしく、電話で話したりするとき、突然「お兄ちゃん口調」になるのが、一人っ子の私としては面白くて、とてもほほ笑ましく感じます。私たちが結婚してまだ茨城に住んでいたころ、大学生だった末っ子が遊びに来たことがあります。職場の周りには研究機関が多く、毎年春に研究内容の一端を紹介する一般公開がありましたので、それに合わせてやって来て、生物・化学系を中心に見て回っていました。彼は、長男である主人ととてもよく似ていて、笑い方も声もそっくりです。独り暮らしで慣れているのか、私たちのために美味しいギョウザを焼いてくれました。就職のことで「大きいお兄ちゃん」は、いろいろ相談に乗っていて、私は側でギョウザをほお張りながら、「兄弟っていいなあ」と、しみじみ思っていました。彼は、バイオ工学の方向に進みたいようなことを言っていましたので、兄弟3人とも順当にエンジニアの道を歩むのね、と納得していました。ところが、大学を卒業した彼は、人間国宝、桂米朝師匠のもとに弟子入りし、落語家になってしまいました。「あれ? バイオ工学じゃなかったの?」あんまりギャップが大きかったもんで、随分びっくりしました。話を聞くと、突然大親友を亡くして、「人生は短い。好きなことせなあかん。」と、悟ったそうです。桂よね吉のデビューです。私の実家に遊びに来てくれたとき、彼は、母も私もびっくりするような武勇伝を父から引きだし、「とっても聞き上手だから、ついついしゃべっちゃったよ。こんな話、誰にもしたことなかったんだけどな。」父は照れ笑いをしていました。よね吉は、確かに話上手で、聞き上手でした。関西中心に古典落語をやっていたよね吉が、初めて東京で演劇に出る、ということになり、私たちは早速見に出かけました。2001年5月26日のことです。全然知らなかったのですが、演劇が好きな人の中では有名な、下北沢の「すずなり」という劇場。中嶋らもが手掛けた「お祝い」という劇です。たまたま、穴の開いた主役の座を幸運にもゲットしたよね吉は、脇を固めるすばらしい演劇人達に支えられて、立派に舞台をこなしていました。ここでも「大きい兄ちゃん」は、おおいにお兄ちゃん風を吹かせ、終わった後、辛口のコメントを並べていましたが、心の中ではいつも弟の活躍をとても喜んでいるのです。年に1度、東京で落語を披露するときも、会社の同僚や後輩、いろんな人に声をかけて、一人でも多くの人が寄席に来てくれるように、「大きい兄ちゃん」は奮闘しています。私自身、よね吉が落語家になるまで、寄席には1度も行ったことがありませんでした。最近になって、「人生は短い。好きなことせなあかん。」彼の言っていたことが身にしみて分かってきました。したいことは可能なかぎり、今したほうがいい、ということですね。そして今、私たちは社交ダンスに燃えています。-----------@-----------@-----------@<お知らせ> 桂よね吉 独演会12月18日(土)6:30より、京都アバンティホールにおいて、落語家 桂よね吉、初の独演会。関西ピアにて前売り2200円、絶賛発売中。-----------@-----------@-----------@
2004/11/27
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2001年ゴールデンウィークが終わると、もうすぐに全栃木競技ダンス大会。5月13日、藤岡町総合体育館で開催されました。ここは、思い出深いところです。スタンダードの試合にもまだ出ていた頃、あのでっかいドレスを忘れてきて、事務局の方に宅急便で送ってもらった、かっこ悪い思い出です。今回はラテンだけなので、競技は午前中。ゴールデンウィーク前の埼玉の試合で決勝に残った私たちは、この試合でも決勝に残り、B級昇級を決めようという意気込みでした。ただ、埼玉の試合は、得意なルンバ、チャチャチャの2種目だったのに対し、この栃木では、サンバ、パソという、比較的練習密度の薄い種目だったので、それほど楽観は出来ませんでした。しかも、パソは新しい振り付けを覚えきれず、後半のみバリエーション、前半は相変わらずのベーシックでした。この頃の私たちは、よく振り付けを変えていました。自分たちにあったルーチンを試行錯誤して探している時期だったのです。大会の度にビデオを撮っていましたが、毎回どこかしら振り付けが変化していくのがわかります。そして動きが、この年の正月に出たチャンピオン戦に比べると、明らかにシャープになっているのも分かります。特に、大好きなチャチャチャは、どんどん上手くなっていくのが目に見えて、それに対し、サンバは相変わらず、リズムの見えない踊りをしている部分が目につきました。やはり、何でもそうでしょうが、好きなものはどんどん上手くなっていくんです。普段練習する時も、よっぽど競技会とかデモ、とかの理由がない限り、たいてい、チャチャチャかルンバ、から練習を始めるので、そこで二人がもめ始めると、「ああ、また今日も、パソできなかったね」とか、いうことがよくあります。さて、試合結果はどうだったのでしょうか。私たちはレモンイエローのコスチュームでとても目立っていました。審判が見落とすということは、考えられません。でも3次予選で敗退してしまいました。ラテンC級戦、参加組数86組。中の上といったところでしょうか。やはり、種目による差は大きいものがあります。父は子供の頃、「美術だけはダメだった」といっていました。母は、「体育と美術だけはいつもいい成績だった」そうです。彼はどうだったのかな。私は、音楽の成績はよかったですね。クリスタルオーナメント/ピアノ「冬のソナタ」オルゴール グランドピアノ♪
2004/11/26
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イタリアといえば、何を思い浮かべるでしょうか。ルネッサンス芸術、オペラ、ピザやスパゲッティ、ファッション、建築、サッカー、どれをとっても素晴らしいものばかり。いつかきっと行ってみたいと思いながら、いまだに実現していない、私にとっては夢の国です。社交ダンスもとても盛んで、世界の5本の指に入るダンサーが、アマチュアでもプロでもいて、2001年当時のプロスタンダードチャンピオンもイタリア人のルッカ・バリッキという選手でした。他にも、アウグスト・スキアーボ、マッシモ・ジョルジアーニ、ラテンでも、私の黄色いドレスの元の持ち主、セレナ・レッカはイタリア人です。テレビで土曜日の昼頃、「フランス語」「イタリア語」「スペイン語」「ドイツ語」講座の再放送を続けてやっていて、毎週欠かさず見ていました。どれもラテン語系の言語ですから、1つも4つも一緒だろうと思ったわけです。漠然と見ていただけでなく、その内、ノートをとったりし始めて、イタリア語だけは、ちょっと特別扱いで単語帳なんかも作ってしまいました。いったい、いま、どのくらい覚えているんでしょう。はっきりいって、限りなくゼロに近いものがあります。一番頑張っていたイタリア語でさえ、文章で覚えているのは「クエスタ・エ・ラ・ミア・マッキナ(これは私の車です)」これって、英語の最初に習う「ディス・イズ・ア・ペン(これはペンです)」と同じで、こんな文章を使うシチュエーションはまずありません。外人に向かって、こんなこといったら、「だからなに?」とか、いわれそうです。さて、2001年のゴールデンウィーク、全埼玉大会の次の日に、東京ビックサイトで開催中の「イタリア祭り」に出かけました。五月晴れの東京湾を眺めながら初めて乗る「ゆりかもめ」。会場は大盛況で、イタリア各地の観光地の紹介や、特産品販売、スパゲッティにチーズにワインの試食会、何とか言う有名パティシエも来ていて、そこには行列が出来ていました。特設ステージでは、バラエティ・ショーをやっていて、よく見ると、「あれ、ダリオだ。」テレビのイタリア語講座に出演して、ジローラモさんと一緒にいつも面白いコントをしてくれているイタリア人です。私は、いつかイタリアに行くときのために、といっていろんな地方の紹介を書いたパンフレットを集めまくり、重くなった袋を主人に持ってもらって、「大収穫」気分でした。ひょっとして皆さんもご経験があるかもしれませんが、それらのパンフレットは「持ってきた」だけで、読むこともなく、いったい、いまは、どこにしまったやら思い出せないのです。★送料無料★イタリアワイン12本10000円セットFERRARI 355 GTSPACE CAR 1996 【送料無料】ALLESSI エスプレッソメーカー1cup用
2004/11/22
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