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大容量 ポータブルHDD がお買い得になりました こんにちは、上海問屋です。今上海問屋で一番人気のUSBメモリというと、この上海問屋セレクトの8GB USBメモリ。今までの(といっても半年前や1年前)USBメモリと比べると、8GBというと何倍もの容量を持っています。といっても8GBだと、あんまり沢山のファイルを入れられないのも事実。MP3ファイルや動画ファイルを入れると、あっという間に満タンになってしまいます。そんなときに使いたいのが「外付けハードディスク」。トランセンド2.5インチ ポータブル ハードディスク 250GB 今まで2万円ちょっとでしたが、19,999円に値下げしました。容量も今の2.5インチハードディスクでは最大容量クラスの250GB。これだけあればマルチメディアファイルもたくさんたくさんたくさん入れることができます。 大量のデータを持ち歩きたい、離れたパソコンとファイルを共有したいなどなど、パソコンライフがもっと楽しくなります♪
2008.01.30
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【新登場】 色々使えるマルチカードリーダーが 499円 こんにちは、上海問屋です。今日も新登場のお知らせ。上海問屋といえば、メモリカードが得意ですが、メモリカードに欠かせないモノといえば「カードリーダー」ですね。なのでがんばって作りました。いろいろな種類のメモリカードが使えて、かつお買い得なカードリーダー。 Donya ダイレクト DN-CR401 499円 SDカード、SDHCカード、コンパクトフラッシュ、メモリースティックのそれぞれに対応するカードリーダー。それがなんと499円!でも、ただ安いだけじゃないんです。安いのにデータ転送が早い!当店でスピードを計測すると、最高で20MB/秒というUSBカードリーダーでは最速クラスの転送スピードを記録しました。1GB、2GBという大きな(たくさんの)データを、パソコンにコピーしようとするときにはこの違いは大きいです。コピーするときの待ち時間が待てないあなた、お一ついかがですか?小さいパッケージに収めたので、メール便(送料210円均一)でも送れます。詳しくは…http://item.rakuten.co.jp/donya/59723/ お買い得microSDカード 上海問屋の一番人気、microSDカードを一気におさらいです。オリジナルmicroSDHCの4GBがお買い得になりました♪ 1GB2GB4GBお勧めポイント上海問屋オリジナル769円1399円3799円値下げしました楽天市場でも1番の人気メモリトランセンド1199円1999円 ずっと使える永久保証PhotoFast 1999円 150倍速で速い!!
2008.01.29
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32GB SSD が 22,999円で登場 次世代ハードディスクとして少しずつ普及してきている、SSD(半導体メモリを使ったハードディスクを置き換える記憶媒体)。ついに上海問屋が気合いを入れて始めます! 上海問屋セレクト 2.5インチ 32GB SATA接続 SSD22,999円 !! 今まで容量が小さくて値段も高かったSSDですが、32GBの容量で2万円ちょっとまでお買い得になりました。ただし、今回は最初なので在庫はかなり少なめになっています。 もちろん他の容量とIDE接続版もご用意しています。 32GB16GBSATA22,999円34,999円IDE22,999円34,999円「16GB版は、なんで容量が半分なのに32GB版より値段が高いの?」と思われるかもしれませんが、16GB版は高速転送することができるメモリを使っています。 32GBあればWindows Vistaもインストールすることができます。最新の技術をいち早く使ってみませんか? 詳しくは… http://item.rakuten.co.jp/donya/c/0000000472/
2008.01.27
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16GBのUSBメモリが 7,999円!? 今週末も上海問屋はおとくな週末です。今週末のイチオシは…上海問屋セレクト USBメモリ 16GB 7,999円!http://item.rakuten.co.jp/donya/60424-ss/上海問屋がそのときそのときで一番お勧めする商品をチョイスしてお届けする「上海問屋セレクト」。どの製品かは届くまでのお楽しみですが、ちゃんとしたメーカーのパッケージに入った製品をお届けします。そんな上海問屋セレクトのUSBメモリ、それもチョー大容量の16GB版が、なんと7,999円というお買い得価格で登場しました。入らないデータはない!というぐらいの容量である16GB。デジカメ写真でもムービーでも山ほど入りますよ。 上海問屋セレクト コンパクトフラッシュ 8GB 3,799円!http://item.rakuten.co.jp/donya/58844-ss/上と同じく上海問屋セレクトのコンパクトフラッシュ 8GBです。デジタル一眼などにお勧めするメモリカードですが、こっちの容量も大容量の8GB。とにかく、大容量をお買い得に使いたい方へお勧めです。
2008.01.25
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【新登場】ドクロ型スピーカー & Webカメラ こんにちは、上海問屋です。関東では雪が降るか降らないか、積もるか積もらないか、微妙な日が続いています。年に1回ぐらいはしっかりと雪に降って欲しいと思うような思わないような…というわけで、今日も新登場のお知らせ。 ドクロ型スピーカー ドクロ型Webカメラ ちょっとびっくりな造形。好きな方なら「おっ」と思うはずの、ドクロ型のスピーカーとWebカメラです。細かいところまで作り込んで、色つけもこだわって作っています。しかもスピーカーは、そこまでする?という機能付きです。 詳しくはスピーカー http://item.rakuten.co.jp/donya/58913/Webカメラ http://item.rakuten.co.jp/donya/58914/
2008.01.22
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【受賞セール】第2弾を開催! さて、昨日はマイクロSD1GBを100円お買い得にします!とお知らせした、「楽天市場ショップオブザイヤー2007 受賞記念セール」。今日は今週末分のお買い得セールのお知らせです。 上海問屋オリジナルSDHCカード 4GB\2,199 上海問屋オリジナルSDHCカード 8GB\3,999ビデオカメラや高画質デジタル一眼などの、大きなファイルを沢山記録いたい時の大容量SDHCカードです。どちらも毎秒6MBの書き込みを行うことが出来る、Class6 に対応しています。1GBあたり500円という、びっくり価格にしました。 上海問屋セレクト コンパクトフラッシュ [通常版] 2GB:\1,499 4GB:\2,299 8GB:\3,999 16GB:\6,999「何が届くかわからない」がコンセプト?の上海問屋セレクトのコンパクトフラッシュです。わからないといっても、ノーブランドやバルク品ではなくちゃんとしたメーカーのパッケージに入っています。その分お値段も過激に… 16GBで7,000円を割るというスペシャル価格です。 【新発売】 オリジナル 4GB microSDHC カード ドコモの905iシリーズで正式に対応した microSDHC カード。今までのmicroSDカードの上限である2GBを大きく上回る、4GBの大容量メモリが上海問屋オリジナルメモリから登場しました。今までのメモリでは保存することが出来なかった大量のファイルも、余裕で保存することができます。今回の目玉は、なんといってもその価格。4GBでもなんと 3,999円今まで高かったmicroSDHCですが、上海問屋ならではのお買い得価格で新登場です。 でも… microSDHCは対応した機器でないと使えません。お買い求め前に、お使いになる機器の説明書などでご確認ください。 詳しくは… http://item.rakuten.co.jp/donya/59921/
2008.01.19
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3年連続! 上海問屋が楽天市場ショップオブザイヤー2007を受賞しました 昨日のメルマガの最後になんとなく予告しましたが、上海問屋が2007年の楽天市場ショップオブザイヤーを受賞しました。受賞したのは、上海問屋が所属している「パソコン・周辺機器」ジャンルの最上位である「ジャンル大賞」。この賞を2005年、2006年、2007年の3年連続しての受賞です。私たちだけでは絶対に受賞できないこの賞をとれたのも、皆さんがあってこそ。先月には「ユーザー投票に一票お願いしま~す」とお願いしていろいろなコメントを頂いたのも、受賞への大きな力になりました。 本当に本当に本当に、ありがとうございます! 残念ながら、「ベスト店長賞」はとることが出来ませんでしたが、こっちは来年とれるようにがんばります! と、前置きはこれぐらいにして、さっそく「受賞記念セール」のお知らせ。何段かに分けての開催となりますが、第1弾はこれ↓ 上海問屋オリジナル microSD カード 1GB 799円!ケータイはもちろん、変換アダプタを使えばデジカメでも使える、マイクロSDカード 1GBを、100円offの799円でご提供です。数はた~っぷりご用意しています。詳しくは…http://item.rakuten.co.jp/donya/52730/ 加えて… 今まではメール便では1個しかおくることが出来ませんでしたが、2品までOKになりました。ご家族やお友達の分も一緒にいかがですか? メール便なら日本全国送料は210円均一です。 この後のセールは、明日以降のメルマガでお知らせします♪
2008.01.18
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【新登場】 HDMIをもっと遠くへ! HDMIエクステンダー 「デジタルだから信号が劣化しない」というのが売りのHDMIです。が、実際にはなが~いケーブルをつかって遠くにある機器同士をつなごうとすると希に画面や音にノイズが入ってしまうことがあります。せっかくの楽しい時間を、そんなノイズに邪魔されたくないから… こんなのが登場しました。 HDMI エクステンダー (中継器) HDMIケーブル内に流れる信号の劣化を最小限に抑え、ケーブルとケーブルの間に挟むことにより最高で30mまでケーブルを延長することが出来ます。天井吊りプロジェクターなど、配線長が長くなりがちな環境に最適。HDMIケーブル内を流れる電源を使うので、別途電源を用意しなくてもOK(予備用としてACアダプタも付属しています)。HDMI 1.3にももちろん対応しています。 詳しくは… http://item.rakuten.co.jp/donya/58170/
2008.01.17
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【新登場】メディアプレーヤー内蔵2.5インチHDD外付けケース せっかくの休みなのに風邪で寝込んでいた三連休。私が寝込んでいても動き続けるのは上海問屋です。というわけで、新しく登場したのがこれ↓ メディアプレーヤー機能付き 2.5インチハードディスクケース普通のハードディスクケースはパソコンと接続するのが前提ですが、これは単体でも使えるようにメディアプレーヤー機能をケースに内蔵しています。パソコン上では相性のいい動画ファイルもいざテレビで映そうとすると、、、 「パソコンを持ち歩く」か、「DVDなどのメディアに変換する」必用がありました。パソコンを持ち歩くのは重たくて邪魔で動きにくいし、DVDに変換するのは不思議なぐらい時間がかかるし。と悩んでいた方に特にお勧めなのがこれ。 HDDを中に組み込んで、普通の外付けHDDのようにファイルをコピー。あとは映像/音声出力ケーブルと電源ケーブルをつなぐだけで、どこでも映像を楽しむことが出来ます。ありそうでなかった便利なハードディスクケースです。 詳しくは…http://item.rakuten.co.jp/donya/c/0000001445/
2008.01.16
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好きな角度で固定できます ケータイ用ホルダー ワンセグ対応のケータイが増えてきて、出先以外でもケータイを固定して使う機会が増えてきてます。ケータイを買ったときについてくる充電ホルダーも、そういった用途にも使えるような形をしてますね。でも、ホルダーにセットしたままワンセグをみたり画面を覗いたりするのは、微妙な角度が合わなくて… なんて事も多々。そんなときに使ってみて欲しいのが、今日紹介する「ケータイ用ホルダー」 充電ホルダーの変わりに、ケータイをしっかりとつかむ専用ホルダーです。左右にカチカチと動き幅を変えられる爪と回転して縦位置と横位置を選べる台と、自由に曲げられるアームによって、今までセットすることができなかったアングルを選べるます。 詳しくは…http://item.rakuten.co.jp/donya/c/0000001405/
2008.01.11
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USBメモリがお得になりました! 8GB 3,999円 「どこのメーカーの商品が届くかわからない、けどお値段は取ってもお得」な、上海問屋セレクトシリーズ。おかげさまでパソコン用メモリやデジカメ用メモリを中心に、多くのお客様にお求めいただいております。そんな上海問屋セレクトシリーズのなかで、じみ~な存在だったUSBメモリを今日はピックアップです。 USBメモリ 8GB 3,999円!今上海問屋で一番売れているSDカード 1GB のお値段は799円、2GBは1790円と、1GBあたりの単価に直すと、800円~900円/GBになります。 そんな中で今日お買い得になったこのUSBメモリは、8GBで 3,999円。1GBあたり 500円/GB というすっごいお買い得なUSBメモリなのです。容量もたっぷりの8GB。DVDだって余裕で入ります(DVD-R 1枚は約4.7GBです)。最初のUSBメモリはもちろん、今つかっているメモリの容量がだんだん少なくなってきた方へもお勧めです。 詳しくは… http://item.rakuten.co.jp/donya/53788-ss/他にも、2GBは1,299円、4GBも2,299円とお買い得価格♪ 上海問屋セレクトのUSBメモリは写真は赤いUSBメモリですが、実際に届くのはコレとは違ったメーカー品となります。
2008.01.10
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敬作は最後に「イネを江戸に連れて行ってくれ。」自分の寿命はいつ尽きるかも知れず蔵六に頼るしかないのだと言う。蔵六は断ることは出来ず、黙って頷くしかなかった。しかし旅に婦人は同行できないとだけ何とか言えた。それは分かっている。イネには落ち着いた頃に後から追わせる。と敬作は言った。こうして敬作に別れを告げた。次はこの事をイネに伝えねばならない。---------------------------江戸に旅立つ事をイネに伝えねばならない。蔵六は、イネの部屋を訪ねた。イネ殿、私は江戸へ旅立つと一息に告げた。そして勢いをつけて参勤交代に同行する事になり、そのためだと告げた。イネは呆然としていた。蔵六との生活が永遠に続くような気がしていた。だからこそ焦りもせず、この不安定な関係を楽しんでいられた。それが、この関係が、この様に一方的に無くなってしまうなど受け入れようがない。イネはそう思った。「蔵六先生」イネは言った。---------------------------私も付いていきます。イネにそう言われた蔵六は目も合わせずに「あとは敬作どのに任せてある。失礼する」と慌てて部屋を出て逃げるようにいなくなった。イネは呆然として追いかける事も出来ず「敬作どのに任せてある」という返答を思い返すと、なんて無責任な人なんだろう、という気持ちがふつふつと湧いてきて腹が立って仕方が無かった。この夜、敬作がイネのもとへ訪ねて来た。---------------------------敬作が言う、蔵六どのについて江戸に行け、学問という物はどれだけの人物に師事したかで結果が決まる。イネ、そなたは蔵六どのについて行くのだ。あの人物は天下でも稀に見る才能である。決して放してはいけない。蔵六先生は私が付いて行くのはお許しくださるのですか?とイネは敬作に聞いた。私から蔵六どのにはお願いしてある。大丈夫だ。と敬作は言った。この時の敬作の心境は、おそらく娘を嫁に出す父親のようなものだろう。この感情家の男は、涙をこらえてイネにたいして最後に言うのである。「私はそなたが蔵六どのと出来れば結ばれて欲しいと思っている。」---------------------------「イネを貰ってくれ」敬作のこのあたりの気持ちを蔵六は阿呆のつくほどの鈍感さで気が付かない。イネの養父である敬作は蔵六が現れなければイネをいつまでも手元に置いておきたかったに違いない。この愛情が深すぎる蘭学者は恩師の娘を自分の娘以上に溺愛し育ててきた。しかし蔵六が現れた。敬作にとっては尊敬してやまない蘭学者であり人格的にも優れていると思っていた。そしてイネもどうやら惹かれているようである。したがって敬作は娘を嫁に出す決心をしたのであった。さて敬作が高く評価する蔵六の人格とはどういう物なのか触れてみたい。---------------------------さて敬作が高く評価する蔵六の人格とはどういう物なのか触れてみたい。蔵六。この人物の特徴として非常に禁欲的だったという事が言える。この時代の日本には禁欲的な思想は少なかった。が、蘭学的な思想では禁欲を賛美する匂いがある。その影響なのか蔵六は非常に禁欲的で、金銭にも興味を示さなければ、出世して名声を欲するという事もなく権勢欲もない。分かりやすい欲求をおよそ持たない人格であった。では蔵六は何を求めて生きているのかという事になる。彼は出来る限り単純明快に生きる事に快感を得る種の人間のようである。蘭学者は蘭学をする。医者は患者を治す。農民は農業をする。などのように至極単純にしたいという欲求がある。これを言葉にするなら主題主義者とでも言えば良いのか。---------------------------人間関係までも含めて物事を単純に捉えようとする。この習性を、蔵六が蘭学に長けた原因とする事も出来る。蔵六はこう考えている。科学や技術を何か複雑に考える人間がいるが、その種の人間には科学や技術は修められない。真理は常に単純な法則の塊である。確かに蔵六は蘭学者として、この時代の一流まで昇った。しかし蔵六の間違いはこの真理が人間関係でも絶対だと信じていた事である。この間違いが今の蔵六を苦しめてもいるし、未来の蔵六の運命さえも決めていくのだが当然蔵六はこの当時、知る由も無い。---------------------------以前触れた事があるが、暑い夏の日に村人同士の他愛もない挨拶として、「今日は暑いですね」などと言う事がある。蔵六は夏は暑いものです。などと愛想もなく答えてしまうのだが、そこにこの人物の内面が現れているかもしれない。蔵六に言わせれば夏は暑いのである。それも今年の暑さも例年通りで、わざわざ確認する意味もないだろうという事である。この一事を取ってみても蔵六は人間関係をも数式で割り切れると思っているようにみえる。---------------------------蔵六は、江戸へ旅立った。江戸についた蔵六は、宇和島藩主宗城に塾を開く許可を得た。宗城は開明派の藩主で、宇和島藩の安泰のみを考えるという気宇の小さな人物ではなく日本全国の安寧を常に考えるという、殿様には珍しい人物だった。そのため蔵六の才能を独占しようという気持ちが無く気持ちよく許可をだした。少し宗城の話をすると、この後蔵六が幕府に認められ幕府付きになる。その時も宗城は気持ちよく送り出し更に今まで通り蔵六には給料を払い続ける事にしている。蔵六の才は、天下の才でありこれを援助したいという気持ちの現れであった。---------------------------現在の東京都の千代田区麹町。ここで蔵六は鳩居堂という蘭学塾を開いた。現在では英国大使館のあたりである。この当時江戸では蘭学がにわかに流行しつつあったが蘭学者が足りていなかった。教える人間がいなかったのである。---------------------------鳩居堂には、伊藤という塾生がいた。伊藤は丹後田辺藩から派遣された。藩命で伊藤は砲台と大砲を作らなければならない。その作り方を教えてくれと蔵六に言うのである。この時期、幕府の命令により沿岸の藩に砲台と大砲を作って諸外国の脅威に備えろという命令が出ていた。田辺藩はそのため、この伊藤という若者を江戸に派遣していた。しかし蔵六は「1年や2年でそのような技術は学べるものではありません」という。田辺は、それでは私は打ち首になってしまいます。と悲鳴に似た声で蔵六にすがりついた。砲台は作れないが打ち首にならない方法ならありますと蔵六は言った。---------------------------以前にもふれたが、品川には徳川幕府が作った台場と砲台跡がある。この品川台場は江川太郎左衛門という幕府の学者が作ったものであり、幕府が各藩への模範にすべしとして通達している。しかしこの台場は蔵六に言わせれば、「全く無駄なものです。役に立ちません」という事だった。諸外国の艦隊に対する防衛が目的である、この台場がなぜまったく役にたたないのか?---------------------------諸外国の艦隊に対する防衛が目的である、この台場がなぜまったく役にたたないのか?蔵六が言うにはこうである。砲台の砲が小さすぎる。これでは台場すれすれまで敵艦に近づいてもらわなければ砲撃できない。更に艦砲の射程は年々伸びている。この台場砲台は戦術的には役に立つのかもしれないが戦略的に言えば場所も砲台の大きさも役に立たないのである。と蔵六は伊藤に言った。所詮、役に立たないのだ。---------------------------戦略と戦術を分けて考えるという事を蔵六はこの時点で思考法として持っていた。この戦略と戦術が分類されるのは明治30年ごろまで日本では確立されず幕末のこの時点では蔵六以外には、この域にいたっている物はいなかった。蔵六は宇和島藩での兵書の翻訳、黒船の建造、砲台の作成を通じて同時代の日本では類を見ない軍事上の知識を手に入れていた。しかし、品川台場が役立たずであろうとも伊藤には関係が無い。私は打ち首になってしまいます。という事実は変わらない。---------------------------蔵六は、言っている意味がわからないのか?とでも言いたそうに伊藤を見据えながら説明をはじめた。所詮は急ごしらえの台場では役に立たないのである。数年もすればその事に幕府も気が付く。その頃には幕府も組織が変革し台場を作れという命令自体、残っているかも怪しい。伊藤どの、そなたは竹と縄で台場を作れば良い。のんびりと数年かけて作業していれば情勢も変わるだろう。---------------------------この時の伊藤は蔵六を神か仏かと感じた。蔵六は、所詮この方法はペテンである。伊藤どの、明日からそなたには砲台と台場の作り方を教えよう。と最後に言った。この時の蔵六の時勢を見る眼は恐ろしく正確であった。事実この数年後幕府は瓦解し田辺藩の台場建設はうやむやになってしまったのである。---------------------------蔵六に役立たずと断ぜられた品川台場についてもう少し触れたい。この品川台場は、たしかに戦略的には役に立たないものであった。が、ペリー艦隊に対しては2度目の来航の際に1年前には無かった台場が突如出現しているという事で、大きな衝撃を与えた。これによりペリーは、日本の底力を感じ他の植民地と同じ様にはいかないだろうと思った。この事がペリーの対日本戦略には少なからず影響を及ぼしたようだ。戦略的には意味の無かった品川台場だったが政略的には意味があったと考える事ができる。---------------------------この当時、蘭学の世界は狭い。鳩居堂で生徒に指導している間に蔵六の蘭学の腕は江戸のその手の筋では相当有名になっていた。オランダ語の翻訳で言えば鳩居堂の先生が一番かもしれない。そんな噂だった。この時期江戸で有名な蘭学者といえば佐久間象山がいたが象山の場合は、オランダ語の理解力は蔵六に比べるべくもなく、たいしたことはない。象山の場合は生来の聡明さで内容を察する。これは人に教えられるものではなく、教えるとしても象山と同じ類の天才に対してのみ有効であった。この点蔵六は違っている。これは適塾でしっかりと学問として学んだという事が大きく影響しているのであろう。そこに独学の象山との違いがある。---------------------------
2008.01.09
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敬作が改まって言う頼みとは何か?蔵六は皆目検討がつかないが、嫌な予感だけした。こういう妙な感のよさを持っている男である。尊公はシーボルトどのを知っているな、と敬作は切り出した。もちろん蔵六はシーボルトを知っている。この時代の日本において蘭学を専門として学んでいればシーボルトを知らない者はいない。敬作は、続ける。シーボルトどのには、ご息女がいる。シーボルト・イネという娘だ。蔵六は敬作に言われるまでもなくシーボルト・イネの事は知っていた。知っていたという会った事がある。実は蔵六は岡山でイネに会って以来イネの事が頭から離れない。「気の迷いだ」と蔵六は自分で思い込み忘れる事にしていた。このあたり蔵六は10代の書生じみた純情さである。すでに三十歳を超えているが女性を知らないというのも、この石頭を作り出している一因であるだろう。---------------------------「イネを尊公に預けたいのだ」敬作は言った。長崎に帰っていたイネがもう一度蘭学を勉強するために、この宇和島藩に来るという事だった。敬作はシーボルトに頼まれて幼少期のイネを育てたのだが今回は自分で面倒を見る事は出来ないと考えていた。敬作は酒乱の気があり酔うと見境無く暴力をふるってしまう所があり最近は年齢のせいか特にその気が強く自分が酔ってイネに万が一にも暴力をふるう事があれば恩師であるシーボルトに顔が立たない。という事であった。敬作は「その点、蔵六どの尊公であればその様な事はないし、年頃の女人にも節度を守れる人格でもある」と理由をつげた。確かに蔵六には酒乱という欠点はなかったし節度を守るという長所もあった。しかしこの時、蔵六の心臓は坂道を駆け上がった直後のように激しく脈打っていた。預かるという事は、ひとつ屋根の下でイネと生活するという事に他ならない。---------------------------シーボルト・イネの宇和島行きの真相は蔵六の元で蘭学を学びたかったからであった。イネは岡山で蔵六に初めて会った。蔵六を知った瞬間にイネは蔵六に対して崇拝に近い気持ちを抱いていた。理由はイネの生い立ちに求めると理解しやすい。イネは父シーボルトの顔を知らない。知っている事は父は蘭学の権威でたくさんの優秀な弟子がいて、弟子たちが蘭学者であるシーボルトを非常に尊敬しているという事であった。弟子たちはイネに高等な蘭学教育をおこなった。イネも蘭学を学んでいるときには唯一父シーボルトを感じられた。この幼少期の経験によりイネにとっては蘭学は父を具現化したものとなっていた。そこへ蔵六が登場する。イネは何の無駄もなく合理の徒となり蘭学に没入する蔵六に父を感じたのかもしれない。結果この蔵六という純粋に蘭学を求道する奇妙な顔をした男に思慕と尊崇の念をいだくようになっていた。---------------------------イネが宇和島に来たのは敬作が蔵六に頼みこんでから数日後の事だった。敬作につれられてイネは蔵六の屋敷に訪ねて来た。蔵六は一言も発しない。「蔵六先生、お久しぶりでございます」とイネが形式的な挨拶をした。蔵六はイネに一室を与えた。敬作の依頼でイネには毎日2時間蘭学の講義をする事になっていた。昼間は黒船作りで忙しい蔵六は毎晩ろうそくの灯りを便りにイネに講義をする事になった。---------------------------黒舟を作る。この造船史の異例に挑戦することになった蔵六は家老の松根の紹介で人と会う事になっていた。寡蔵という町人であった。松根は蔵六一人で黒船を作らせるのは難しいと考え蒸気機関を作れそうな人間を探していた。しかしそんな人間が都合よく城下町に居るはずも無く松根はとにかく器用な人間を探した。そこで白羽の矢が立ったのが何でも屋の寡蔵という町人であった。寡蔵は生まれつきの手先の器用さを使いどんな物でも修理した。鎧兜や仏壇。この42歳の男は素朴で質素で器用だが世渡りべたで常に貧乏だった。寡蔵と会った蔵六は宇和島に来て以来最も大きな感動をした。寡蔵は蒸気機関の話を聞き試作品を作っていた。細長い箱に車輪が4輪ついていて内部には大小の歯車が18個使われている。心棒が一本だけ飛び出ていてこれを回すと車輪が3回転するという仕組みだった。蔵六は、柄にも無く顔を真っ赤にして言った。「寡蔵どの、あなたはもっと評価されるべきだ。でなければ日本は欧米に追いつけない」蔵六の論理では、技術のある人間が評価されなければ文明は進歩しないという事であった。---------------------------船が出来た。蔵六が作った船体に寡蔵が作った蒸気機関を乗せ船が完成した。「まず8割方動けば良い」蔵六は、そう考えていた。寡蔵は不安がぬぐいきれない、自分の作った蒸気機関の馬力が船の大きさに比べて明らかに小さいのだ。今日は宇和島藩主の宗城様も乗船なさる。失敗してしまうのではないか、、、。寡蔵は繊細な手先を持っていて緻密な作業に向いていたが心もそのように出来ている。表面上、動揺なく見える蔵六も寡蔵の心配が伝染したのか心中おだやかでは無くなっていたが、「ともかくやってみるしかあるまい」と試運転を開始した。---------------------------今日の試運転では石炭の変わりに薪を使った。蒸気圧計が気圧が上がっている事を示し始める。少しづつ船が動き始めた。宗城は甲板で興奮して「蔵六、動いたではないか」と叫んだ。「動くのは当たり前です」と蔵六は言った。これには宗城もさすがにムッとしたが蒸気船を動かしたという感動が先にたち咎めなかった。蔵六に言わせれば動くのが当たり前というレベルまで持っていくのが技術であり科学であると言いたかったのである。---------------------------「3年前、黒船が来て日本中が驚愕した。しかし3年後のこの宇和島藩で蒸気機関の船が動いている。これがアジアにおける初めての蒸気船である。」宗城は3年前の黒船来航以来、思いつづけていた目標を達成した感慨にふけっていた。この蒸気船作りは、莫大な金が掛かった。宇和島藩では蒸気船開発に関して「お潰し方」と陰口をする者も多かった。この金食い虫の計画は、宇和島藩を潰してしまうという意味だ。---------------------------何故、宗城はそこまでの反対を押し切って蒸気船作りを断行したのか。宗城はこのような内容の言葉を口にしている。「欧州が今日の様に栄えたのは産業革命があったからである。その象徴的な成果が蒸気船である。しかし幕府は鈍い。宇和島藩がまず蒸気船を完成する事により刺激を与えるのだ。日本が滅びて宇和島藩だけが生き残る事などはありえないのだ。例え宇和島藩がなくなろうともやるべきだ」船は動いた。動力の大きさに問題があったが、それは単に動力を大きく作れば良い。「黒船作り」は成功といえた。---------------------------この間、蔵六の人生は他者に翻弄されている。敬作の無理な頼みによりシーボルト・イネを同じ屋根の下に住まわせている。蔵六はあくまで己を教師という立場に封じそれ以上に出ようとはしない。蔵六を好いて宇和島まで来たイネとしてはたまらないが、その関係を打開するきっかけを作れないでいた。決まった時間に蔵六はイネの部屋に来て蘭学の講義を2時間行う。敬作の依頼により毎日きっかり2時間は教えた。しかしイネはそれだけでは物足らず蔵六の部屋に度々訪れては「蔵六先生、分からない部分があるのですが、、、」などと言って困らせていた。---------------------------この時期、蔵六は多忙であった。黒船作りをやりながら軍事関係の書物の翻訳もやり。更にイネの相手もしていたのである。この男の人生は何故か他者から必要とされ多忙の内に過ぎていくという性質を持ち、なかなか自分の意志で進むべき道を決められない定めであった。蔵六は、不思議な気持ちでいた。「蘭学」という技術によりただの村医者であった自分が宇和島藩の殿様に必要とされる人間となっている。敬作という最近の飲み友達も蘭学者で結局の所蘭学がつなげた仲である。そして、、これは蔵六にとってめんどうな事だが住み込みの生徒であるシーボルト・イネも蘭学が引き付けたものだった。蔵六は自分を蘭学という技術を持った一個の機械と感じていた。---------------------------この頃の蔵六の運命は豪雨が堤防を破るかのように加速していく。江戸に行く事になる。宇和島藩主宗城が江戸へ参勤交代に行く、そこに蔵六も同行するようにという、という話が上がった。「これを機に宇和島藩は辞去しよう」蔵六はそう考えていた。蔵六が宇和島藩で行っていた仕事は、黒船作りと砲台作り、あとは兵書の翻訳である。黒船と砲台はすでに完成した。あとは兵書の翻訳であるが、これは江戸でも出来る。翻訳は江戸にておこない、宇和島藩にはもう戻るまいと考えていた。幸い江戸には蘭書も数多くある。江戸で兵書の翻訳塾を開きそれで生活をしようと考えていた。この宇和島藩での日々により蔵六は兵書の翻訳ではこの時点で日本国内の第一人者であったし更には日本国内にはほとんど兵書の翻訳が出来る人間はいなかった。---------------------------蔵六が宇和島藩を辞去したい一番大きな理由は別の場所にあった。イネの事である。蔵六にとっては、イネの存在は重かった。蔵六は敬作の依頼どおりに途切れる事なく毎日2時間イネに蘭学の講義をおこなっている。しかし、その事によりイネの蔵六への思いはより大きくなった。受け入れられない蔵六としては、その思いから逃げ出したい衝動があった。蔵六にしてみれば、イネの思いは受け入れられない、敬作から信頼されて預かったのだ。それを裏切る事は出来ない。蔵六は「単純に生きる」という人生哲学を持っている。敬作の信頼を裏切りイネと結ばれる事は、この自らの哲学に反する事になる。それは蔵六には出来なかった。---------------------------その反面、蔵六は一目会った時からイネに惹かれていた。父がドイツ人であるこの婦人は異人の面影を持っていて、蔵六の目には天女の様に写っていた。イネと同様、毎日の講義の中で蔵六もイネに対するその思いがより大きく育っていたのである。実はイネの養父ともいえる敬作は、蔵六とイネが結ばれるのを望んでいた感がある。「尊公なら安心して預けられる」と蔵六に言った言葉は方便の気がある。しかし阿呆がつくほどに不器用な性格の蔵六は、言葉のとおりに受け入れていた。この場合、蔵六は自らの情念に素直になった方が余程「単純に生きる」事が出来たとは知らなかった。---------------------------江戸へ行く事を決めた蔵六は敬作にその旨を告げた。敬作は、この愛想の無い男が余程気に入っていたらしく涙を浮かべながら「尊公は江戸へ、行くべきだ。」あなたは天下の宝だ、という意味の事を言い涙をこらえる為に上を向いて黙った。蔵六にしてみれば立身出世のために江戸に行くわけでもないので説明をしたかったが、珍しく感傷的になっていて言葉を用意できなかった。敬作は最後に言った。「イネを江戸に連れて行ってくれ。」---------------------------
2008.01.09
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この無料で診察していた。というのは合理主義の塊のようであった蔵六の信念から来たというだけでは無いように思える。大阪の適塾の祖、緒方洪庵の教えによる所も大きいのではないだろうか。洪庵という人は蘭学を立身出世の為には使おうとせず、とにかく人の為に使うという事にこだわった。洪庵は、「医師という物は病気で困っている人がいたら、居ても立ってもいられずに助けてしまうような人間以外向いていない、そうでない人間は結局医師にはなれない。」と平素言っていたらしい。---------------------------洪庵は、何度となく将軍家から奥医師として呼ばれていた。これは大変な出世で医師としての最高の地位とも考えられる栄誉なのだが洪庵は断りつづけた。理由は「町医者が気楽でよい。」という事であったが、名誉や権威にこだわらない洪庵の考え方が見える。洪庵はこの時代には非常に珍しく西洋的なボランティア精神を持っていたようで、その根源は幼少期の体験に基くもののようだ。洪庵は幼少期にコレラの大流行を体験している。当時の医術では感染を防ぐ事も出来ず洪庵の家の近所では相当人が死んだらしい。この体験が、純粋に患者の事だけを考える医師、洪庵を生んだのだろう。---------------------------ここから洪庵の正統な弟子と言えるであろう蔵六は村医者としては全く人気が無く、診療所は常に閑古鳥が鳴いていた。「医者が暇という事は病人が少ないのでいい事だ。」当の蔵六はその程度の意識でいたので深刻さとは程遠かったが客足も遠かった。そんな時天啓の様に蔵六にある手紙が届いた。手紙を持って来たのは宇和島藩の大野という武士だった。手紙には宇和島藩は国を守るために蘭学を必要としている。士分で召抱えるから宇和島藩に来てくれ。という内容だった。---------------------------蔵六は迷わなかった。閑古鳥しか来ない診療所には辟易していたし、そもそもまだ学問をやりたかったにも関わらず大阪から戻ってきていたのだ。学問をやらせてくれるのなら、どこへでも行きたい気分であった。また宇和島藩の蔵六受け入れの条件も破格であった。農民階級の蔵六を武士として迎えるというのだ。さらに100石を取らせるという約束であった。これは宇和島藩では高級官吏という事になり大変な出世であった。---------------------------この蔵六の運命を変えた手紙を書いたのは二ノ宮敬作という蘭学者である。敬作について少し説明する。敬作はシーボルトの生徒であった。紆余曲折オランダに帰国する事となったシーボルトはこの自分に忠実な門下生にひとつの頼み事をした。「自分は日本に残る事は出来ない。気がかりなのは、娘のイネだ。敬作、なんとかこのイネを守ってあげてほしい。」この言葉が敬作の人生の主題となった。敬作はイネの養育の責任は自分にあるとして学問を教えたりした。自分の娘のように思っていた。---------------------------イネは19歳の時に、より広い知識を得る為に敬作から離れ岡山の石井宗謙に学んでいる。そのさいにイネは蔵六と会った。その事を敬作に手紙で書き送っていた。「適塾の秀才で非常に学識の高い人。合理的な思考は非常に優れています。」そのような内容だった。敬作は、イネにより蔵六を知った。その後、宇和島藩主の伊達宗城に「誰かいないのか」と優秀な蘭学者を問われたときに蔵六を思い出した。敬作は適塾の洪庵のもとに行き蔵六を宇和島藩に招聘する許可をとり筆をとり蔵六に手紙をだした。---------------------------蔵六にとっては、イネは運命を変えた女性であった。岡山でイネに会わなければ敬作にも知られずにひっそりと田舎村の医者で一生終えたであろう。しかしこの出会い。イネと蔵六の。これは偶然であるように思えるが、この当時の蘭学界の狭さから考えれば必然と言えるかもしれない。しかし蔵六の栄達はイネによりキッカケを得たという事は事実と言えるのではないだろうか。(栄達というものを蔵六が望んでいたかどうかは疑問が残るが)---------------------------蔵六は宇和島に到着した。もともと蔵六には高級官吏と同様の100石以上の士分という待遇が与えられるはずであった。しかし実際に宇和島で与えられた条件は年に10両という門番並みの給料で明らかに約束とは違っていた。宇和島藩主の使者として蔵六に手紙を渡し、長州から宇和島まで同道して来た大野は、役所を周り「約束と違うではないか」と苦情を言ったが「百姓の出身だからこれで充分」という返答しか得られなかった。実はこの時藩主の宗城は宇和島には居なかった。この為に命令が徹底されずこのような扱いになってしまった。大野は途方に暮れていた。何故なら、年に10両になりました。と蔵六に伝えるのは役割上大野の仕事だからである。---------------------------大野は蔵六に伝えた。わざわざ遠方からお招きいたしましたが当初の約束どおりに高級官吏の待遇は出来ません。全く比べ様のない門番程度の薄給である年間10両で宇和島藩にお仕えください。大野は、蔵六にどれほど怒られるだろうと考え顔を真っ赤にしてうつむいていたが、蔵六からの返事は、「ああ、そうですか」という程度の物で蔵六は全く何も感じていないようだった。大野は計りかねた。この御仁は涼しい顔をされているが、実はとてつもなく怒っているのではないだろうか、大野はそう考えてもう一度蔵六の顔色を伺った。しかし、どうも怒っている様子も無いのである。実際。蔵六は怒っていなかった。もともと給金を気にしていなかったし、この男は豆腐が2丁あれば晩酌の肴にも困らない金の掛からない便利な男だった。蔵六に言わせればこうであるらしい。「一度仕えると決めたのだから金がどうだの境遇がどうだの言うべきではない」---------------------------大野は蔵六に、蘭書を与えた。どうやらこれが蔵六の仕事らしく、蔵六の仕事は蘭書読みのようだった。大野が蔵六に与えた蘭書は、宇和島藩が日本各地で買い集めたもので歩兵操典や、銃の利用解説書、造船技術書などさまざまであったが、軍備の強化という方向性のものだった。ただ蘭書を読むだけで文句を言い出さないかと大野は蔵六の顔色を伺ったが、何を考えているか検討がつかない。蔵六は、常に何を考えているか分からないような所がある男で今回は大野を困惑させていた。蔵六は一月の間蘭書を読んですごしていた所、家老の松根が京から帰ってきた。---------------------------京から戻ってきた宇和島藩の家老、松根図書は蔵六の待遇を大野から聞き、すぐに本来の待遇に改める様に事務方に指示を出した。これにより蔵六は宇和島藩の上司待遇となり当初の約束どおりとなった。しかし蔵六は別に喜ぶでもなく、また松根の不手際を責めるでもなく、やはりこの時も薄ぼんやりとして何を考えているかわからなかった。大野は蔵六の機嫌をまたしてもつかめなかったし、そもそも、この男は何も考えていないのではないか、とさえ思い始めていた。---------------------------運命の日。蔵六にとっては、そう言っても過言ではない1日だった。宗城が蔵六を城に呼びつけた。宗城の用件は「黒船を作ってくれ」というものだった。宗城は開明派の藩主としては、すでに有名であり、この鎖国時代の日本において日本の貿易戦略の基盤は西洋の技術にありと、この時点で考えていた天才的な人物で、この構想を実現できる人物を探していた。すでに述べたが、その為に敬作を通じて蔵六を知り宇和島藩に上司待遇という特別扱いで招聘したのであった。黒船を作る、、、、、蔵六は、この瞬間まで、村医者であった事があった。蘭学者だった事もあった。しかし造船技師であった事など一瞬たりともなかった。この殿様は、ただ蔵六が蘭学者であったという一点で、黒船を作れると思っているのだった。蔵六は、少しおかしく感じながらも、殿様とはこういう物かと半ばあきれた。しかし、これは殿様の命令である。蔵六は黒船を作るしかないのであった。---------------------------宗城が何故、蔵六に黒船作りを命じたのか、そこから考えなければこの問題は理解できない。話は、シーボルトから日本を学んだ男、アメリカ太平洋艦隊ペリー提督の来日にさかのぼる。浦賀沖の黒船来航を知った日本人は、島国民族独自というべきの多民族からは理解できない危機意識があり過剰に反応した。黒船来航の最大の過剰反応は、明治維新という革命であるといえる。この危機意識を人一倍強く持っていた三人の大名がいた。一人は宇和島藩主、伊達宗城。一人は薩摩藩主、島津斉彬。一人は佐賀藩主、鍋島直正であった。この三人の大名は、黒船が無ければ西洋とまともに戦えないと考えた。そこで三藩で競って「黒船を作る」という約束をした。黒船が無ければ、近い将来日本は欧米文明に侵略されることになるだろう。三人の大名はそう感じていた。---------------------------「黒船を作る」この浪漫あふれる三人の大名の構想は、普通に考えれば無謀であった。当時世界基準でも蒸気機関で航行する船は少なく、ペリー艦隊と前後して日本に来たロシアのプチャーチン艦隊は、いまだ風帆船を使っていたし、この時代世界最大の海軍国家の英国ですら、大型船には蒸気機関はなく風帆船であった。極東の後進国である日本で蒸気船が完成した場合、造船技術界の快挙、おおげさに言えば奇跡と言えるかもしれない。日本の造船技術が世界の第一線に追いついたという事になる。「黒船を作る」この時代のほとんどの日本人には創造すら出来ない事を。宇和島藩は蔵六の力で成し遂げようとした。その為に蔵六を宇和島へ呼んだのだった。---------------------------蔵六は、二ノ宮敬作と会っていた。敬作は酒乱の気があるものの温厚な人柄で医師として人気が高く人格者と言ってもおかしくはない気質の持ち主である。シーボルトの鳴滝塾の塾生であったことがあり未だにシーボルトを慕っていた。頓狂の心だ、と敬作は言う。西洋人には頓狂の心があるからこそあれほど科学が進んだのだ、時代の先を行く天才とは常に狂人である。その狂人を西欧人は愛する。だから産業革命がおこったのだと敬作は考えていた。シーボルト先生もそうだった。敬作は恩師を思いうかべた。---------------------------シーボルトも頓狂だからこそわざわざ極東の後進国に出向きその国を知りたがった。頓狂だからこそ、その地の住民に蘭学を教えた。西洋世界から見ればシーボルトは未開の地を切り開いた人物であり、その原動力は頓狂さにあったに違いないと敬作は言うのだ。蔵六はシーボルトに会った事が無いのでどれほど偉い先生なのかはわからない。ただ敬作が語るのを聞いているのみであった。敬作は、一通りシーボルトの話をし終えて満足したあとに「蔵六どの、尊公に頼みがある」と切り出した。---------------------------
2008.01.09
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このシーボルトの「開国の親書」は、彼の個人的な欲求から来ているという説もある。前述した様にシーボルトは、「シーボルト事件」によって日本には2度と入国出来なくなっていた。シーボルトは、日本に妻と娘を残していた。彼は妻と娘をこの当時も愛していた。妻子と別れてから15年以上経っていたが未だ再婚をしていない。その愛情の深いシーボルトが妻と娘に会う為に日本の開国を進めていたとは少し美しく考え過ぎとも言えるかもしれないが、日本が開国する。そのくらいの事が無ければ彼が彼の妻子に会う事が出来ない、という事も確かであった。---------------------------シーボルトは意識していなかったに違いない。妻子に会えるから日本を開国させる。おそらくシーボルトはそうは考えてなかったであろう。しかし人間が思考から行動に移るには感情的なエネルギーを必要としていて、それは稀に思考とは、離れた部分に存在しているらしい。シーボルトは家族との再会という石炭を使い、その石炭で働く「日本開国」という蒸気機関車を走らせたのかもしれない。---------------------------結局日本は開国しない。オランダからの「進んで開国すべき」という提案を、相手にせず、結果、開国しない。日本開国という家族との再会の可能性をシーボルトは絶たれた事となる。この翌年、シーボルトはドイツの貴族の娘と再婚する。日本に帰れないという事が、シーボルトにどのような影響を与えたのかは分からないが、自然、その事が関係しいると考えられる。---------------------------1853年 ペリー艦隊のマシューペリー提督は、日本の開港という任務を帯びていた。ペリーは当時ヨーロッパでの日本研究第一人者であるシーボルトを訪ねる。ペリーはシーボルトの下で数ヶ月、日本を学ぶ。この時、シーボルトは中年のアメリカ艦隊の提督に「どうか穏健に日本を開国に導いてくれ」と言っている。しかし、シーボルトは日本に余計な手を出すなという事は言ってはいない。アメリカ艦隊の開国要求が穏健なものになるはずはない。その事を世界情勢に詳しいシーボルトに分からないはずはない。---------------------------シーボルトの中には、まだ日本への想いが滾っていたのだろうか。その為、穏健に開国要求をするはずのないペリー艦隊に対して希望的な観測を持って日本の開国を託したのかもしれない。この後ペリーが浦賀沖に来航し開港を迫る事になる。結果日本は開港する。そして、その後63歳になったシーボルトは、日本に再度入国する事となる。---------------------------楠本イネこのシーボルト娘は、後に日本最初の女医となる。この最初の女医というのも異論はあるがここでは、そのことには触れない。楠本滝は、シーボルトの帰国の2年後再婚し、楠本イネは、12歳になり、宇和島の二宮敬作のもとに行き医者になりた事を告げた。こうして、敬作から外科学を学ぶ事となった。---------------------------二宮敬作は、イネに確かな産科学を学ばせる為に同じシーボルト門下生である、石井宗賢のもとにイネを行かせた。この時イネは19歳であった。この時イネは、村田蔵六と会っている。そして、この出会いが村田蔵六の運命を変えていく事になるが、この時、村田蔵六本人ですら、そんな事は露ほども考えなかった。---------------------------この長州藩の医者、石井宗賢とイネの間に子供が出来る。子供は、「ただ」と名付けられた。女の子だった。石井宗賢には別に妻も子供も居た。石井宗賢は、「イネは自分の妻だ」と人に語っている。しかし実際は手込めにしたという類の話で、イネに言わせると「産科学を学びに来たのに自分が出産する事になるなんて、、難しいものです。」という事になる。この当時、下女に手を付けてしまうというのは、珍しい事ではなかったという背景はある。(イネは下女扱いの住み込みで勉強していた。)---------------------------石井宗賢のもとで、産科医修行をしていたイネは、この時、村田蔵六に出会っている。村田蔵六は、長崎に向かっていた。このオランダ学の秀才は、長崎で、医学を学ぶべく旅をしている。この長州の田舎村出身の村医の息子はオランダ学の先輩である、石井宗賢に会いに来ていた。この当時の蘭学者は、蘭学者がいると聞けば会いにいった、主な目的は情報交換で、これは蘭学者の間では頻繁に行われていた。もちろん石井宗賢が高名だったという事もある。---------------------------村田蔵六は石井宗賢を訪ねた。この村田蔵六という男。奇妙な才能がある。家探しが得意なのだ。この家探しを蔵六は「勘」でやる。蔵六は自分で犬のようだ。と思ったりもする。奇妙な才覚であった。石井宗賢の家を見つけた。中に入ってみる。入ると患者の待合所で、患者が数人座っていた。その患者の頭上には、「和光同塵」という額がかかってる。---------------------------宗賢その人が書いたものである。「和光同塵」、、これは中国道教の祖、老子の言葉である。光とは知徳であり、塵とは俗世、娑婆である。宗賢はこの言葉を、「自分は知徳があるのに俗世に塗れている」という意味で使っている。なかなか面倒な人物かもしれないと蔵六は考えた。何故面倒かと言うと、「和光同塵」という、この老子の教えは、「知徳を持っていたとしても、それを表に出さずに人知れず人々を導いていく」という思想のもので、これを額に入れて人々に見せてしまっては、「自分は脳ある鷹だから爪を隠しているんだ」と人に言ってしまう様なもので滑稽であった。---------------------------この時蔵六は宗謙に会えなかった。蔵六は仕方なく近くに宿を取った。翌日、すでに食事時であったが使いの者が「直ぐに来てくれ」と宗謙の言葉を蔵六に伝えにやってきた。蔵六は食事を一緒に取るのは面倒だと感じたのだろう。あえて少し時間をずらして訪ねると、宗謙は立ち上がり「人の好意を無にするのか」と怒鳴ったらしい。石井宗賢という人物、終始この調子のようだ。---------------------------宗謙と蔵六が話しをしている。その時ふすまが開き湯飲みをもった女性が現れた。異人の様に見える。蔵六は目を奪われた。宗謙が「家内だ。」と紹介した。女は20台前半程度の年齢に見えた。宗謙は50歳を越えている。婦人は、不機嫌そうに「失本イネ」です。と名乗った。石井家の妻なのに失本と名乗るのだから蔵六は訳が分からなかった。---------------------------ある日、蔵六の宿にイネが訪ねて来た。この時代男の宿に夫人が1人で訪ねるという事は異常な事で不貞を疑われても仕方がない。しかしイネは訪ねて来た。蔵六は、内心驚いていたが表情には出ない。隠している訳でもなく元々この男はそのように出来ていた。心の中では狼狽していた。イネは、蔵六の部屋に入り口を開き、とうとうと自らの身の上を話し始めた。「オランダ語を教えて欲しいのです。」イネは言った。---------------------------蔵六は、「宗謙殿に教えていただけばいいでしょう」と言ったが、イネは、「それは出来ません」と言って譲ろうとしない。イネの様子を見て、これは男女関係の何かがあるのだろうと蔵六は思った。蔵六は学問を修めるまでは面倒な男女の関係などには関わりたくないと日々考えている様な男で、この時も、面倒だったので「わかりました。」とオランダ語の教師を引き受けた。「では内儀どの」「イネと呼んでください」とイネは言った。しかしあなたは、宗謙どのの内儀ではないか、と蔵六が問うと、「宗謙の家内でありません。」と否定した。蔵六は、面倒な事になったと思った。---------------------------イネは蔵六に、ここが読めないのです。といってオランダ語の医学書を出した。この時イネの持っていた医学書は、シーボルトが日本を去る時にイネに残した物でイネはずっと宝物の様にしていた。蔵六はもちろんその事は知らなかった。蔵六のオランダ語の解説が終わるとイネは、「おんなの身で学問をするのは難しいものです。」と急にいった。---------------------------イネは蔵六に一通りの講釈を受けたあと「岡山を出たいと思ってます」と言い出した。蔵六はあいかわらず異常に大きな額の下の眼をはっきりとは開かずに聞いているが、この時は、心の中では何やら面倒な事になって来たと思っていた。この岡山を出たいのです。大阪に行って学問を学びたいのです。イネがはっきりとした調子で言った。この当時大阪には蔵六が学んだ適塾という蘭学校がありイネはここに行きたいと行った。「女性の身で適塾で学ぶというのは余程大変な事に違いあるまい」と言い蔵六は適塾の独特の学習システムをイネに説明した。---------------------------この緒方洪庵を祖とするオランダ学問の塾は、塾生は共に雑魚寝をする。一人に対して一畳程度の寝起きの場所が与えられる。とても婦人が共に学べるような環境ではなく、ましてイネのような美しい、、、と蔵六は思っている。そのような婦人が適塾で蘭学を学ぶなど想像の埒外であった。「しかし岡山から出たいのです。」というイネに蔵六は、つい深入りして「岡山から出たいという心で適塾に入りたいとは志が不純ではありませんか?」少し強い口調で言った。言ったあと、失敗したと思ったが口から一度出た言葉は時間が戻らない限り二度と戻っては来ない。---------------------------学問とは?イネにとって学問とは父であるシーボルトであった。蘭学を学んでいる時はオランダ人であるシーボルトをもっとも強く感じられるのであった。それだけに、イネに取って学問とは神聖で心魂傾けるに相応しい存在で一種の信仰となっていた。蘭学の聖地とも言える「適塾」において塾頭を務める蔵六に当初から尊敬の念を抱いていたのは、このせいだったと言える。---------------------------蔵六は鋳銭司村へ帰っていた。父親から村医を継ぐように言われ、まだ学問がしたかったが帰郷した。この当時の父親の命令というのは現代人では想像できない絶対性があり、蔵六も例外ではなく結果、村田良庵などと名乗り開業した。しかし、この蔵六の診療所は常に閑古鳥が鳴いている状態であった。むろん原因は蔵六にある。---------------------------村人が「先生、今日は暑いですね。」と挨拶すると「夏は暑いのが当たり前です。」とニコリともせずに返す。村人たちは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で立ち尽くしてしまった。またある時は暑いですね、と挨拶されて「そうです」と返した。そうです、という挨拶があるだろうか。村人たちは、あの先生は挨拶もロクにできないと噂し結果、診療所への客足は遠のいていく事になる。しかし蔵六にしてみれば、言葉は意味があって発するもので誰もが暑いとわかる時に、暑いですね、などと言う意味はなく、それが当たり前です。と返すのが当然だった。---------------------------閑古鳥が鳴いている理由は他にもあった。風邪の患者を診療した場合に先代の良庵であれば「葛根湯」を出したりした。しかし蔵六は多少の風邪であれば暖かくして栄養を取れば大丈夫だと言って薬を処方しない。先代に慣れている患者にしてみれば安心できずに「葛根湯」をいただけませんか?と言ってくるものもある。それでも出さない。蔵六の理屈では必要ないものは、無駄であって、そんなものに金を出す必要はない。という事になる。同じ理屈でただ見ただけで診察料は貰えないという事になり風邪程度の病状の場合は無料で診察していた。---------------------------
2008.01.09
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シーボルト。鎖国時代の日本に来たドイツ人。オランダ人を名乗っていたがオランダ人ではない。医学会の名門の家に生まれた、このドイツ人は、探究心と冒険心が旺盛で、ヨーロッパでは当時未開だった日本という国に興味を示し、危険を顧みず日本に来る。プロイセン(今のドイツ)から日本の内情視察を、命じられて来たと言う説もある。---------------------------日本は当時、鎖国状態。ドイツ人では、日本に入れない。シーボルトはオランダ人としてオランダ政府経由で、日本に入国している。当然、オランダ人として振舞うが、オランダ語が話せる日本人もいる。そんな日本人は、シーボルトのオランダ語が、何か不自然な事はわかる。それを聞かれて、シーボルトは、山地出身のオランダ人だからと答えているが、オランダには山地は無いという事なので、ずいぶん適当な返答だ。---------------------------決闘シーボルトは、ドイツ時代に、数十回「決闘」をしたらしい。この「決闘」というのは、どういう物だったのか良くわからないが、少し調べてみると、西部劇のガンマンみたいに、ピストルで打ち合うという事らしい。当時頻繁に行われた。お互いに、一発だけ打つという事だ。---------------------------「決闘」についてもう少し考えてみる。「決闘」どうやらピストルで打ち合うという事らしい。しかし、こんな決闘を、そんなしょっちゅう(数十回)、やって生き延びているとしたら、伝説のガンマンも真っ青な腕前では、ないだろうか?シーボルトの顔には刀傷もあったらしいので、「決闘」とは、割といろんな方式があって、激しい場合は、刀で切ったり、ピストルで撃ったりする。軽い「決闘」の場合は素手で殴りあったりといろいろな方法があったのではないかと想像してみる。それにしても、数十回の「決闘」とは、ずいぶんと血の気が多かったという事が分かる。---------------------------さて、血気旺盛な青年シーボルトは日本にやって来た。鎖国状態の日本では、外国人が自由に出歩く訳には、当然いかない。自然、長崎の出島内で、駐在の医師となる。この時まだ、30歳にもならないシーボルトは、独身で、健康だ。そんな健康なシーボルト青年は、長崎出島内に出入りのあった遊女、楠本滝さんを見初める。来日3ヶ月でシーボルトは、遊女の、楠本滝と結婚。青年シーボルトは、この辺も早い。---------------------------楠本滝遊女であったと言われている。遊女古来、宴席などで歌舞をし、また、寝所に侍ることを職業とした女。あそびめ。うかれめ。遊君。遊郭の女。女郎。遊女というのは、辞書で調べると、こんな感じであり、寝所を舞台とする職業だ。楠本滝は、遊女だったというのが、一般的な歴史上の見解だが、時として一般的な認識という物は、間違う。楠本滝は、遊女ではなかった。という説が最近ある。偶然、歴史的に誤解されただけ。という話だ。---------------------------楠本滝は、遊女ではなかったのか?遊女では無かったという根拠として、一つ目に考えられるのが、日本に来て3ヶ月程度のシーボルトが、客として遊郭に通い、楠本滝を遊女揚げし、妻にするには、期間が短すぎるという事。二つ目は、もし遊郭から遊女揚げするとしても莫大な遊女揚げ代銀を支払わなければならず、シーボルトがそれを用意する事は、不可能であったという事。この説、どうももっともらしい。しかし疑問が残る。では、出島に居て自由に出歩く事の出来ないシーボルトと、楠本滝が如何にして出会ったのか?---------------------------シーボルトと楠本滝の出会い。どうやらシーボルトは、来日して、すぐに長崎奉行の依頼で、出島より出て、日本人の患者を診察したらしい。この時に、楠本滝と出会ったと言うのが定説のようだ。診察しに来た外国の青年シーボルトと、17歳の楠本滝は、一目ぼれをしたという事になる。その後、出島に戻ったシーボルトを追って楠本滝は、出島に向かう。しかし、出島には一般の日本人は入る事が許されていない、入る事が許されているのは、丸山の遊女のみ。そこで、楠本滝は、遊女に扮装し紛れ込み、愛しのシーボルトに会いに行った。これが後に楠本滝は、遊女である。という誤解の原因になった。---------------------------シーボルトは、楠本滝と結婚した後、故郷の伯父に宛てて、このような手紙を送っている。「小生もまた古いオランダの風習に従い、目下愛くるしい16歳の日本の女性と結ばれました。小生は恐らく彼女をヨーロッパの女性と取替えることはあるまいと存じます。」---------------------------シーボルトは、楠本滝を余程愛していたらしく、日本で見つけたアジサイの花に、「オタクサ」と名付けた。これは、楠本滝を、お滝さんと発音できずに「オタクサ」になったもので、アジサイにお滝さんという名前を付けたという事。シーボルトは、オランダに戻った後にアジサイを、「オタクサ」として発表しているが、先にスウェーデンの植物学者カール・ツンベルクが、別の名前で発表していた為に、正式な学名とはなっていない。---------------------------シーボルトは、オランダに戻った後にアジサイを、「オタクサ」として発表しているが、先にスウェーデンの植物学者カール・ツンベルクが、別の名前で発表していた為に、正式な学名とはなっていない。しかし正式な学名として誤解している人もいる様で、未だにオランダでは、アジサイを「オタクサ」と呼んでいる人もいるという話がある。ある学者は、遊女の名前を、この美しい花に付けたと言う事で、非難しているらしいが、そもそも楠本滝は、遊女ではないようなので、そうなれば的外れだ。---------------------------シーボルトは、鳴滝塾という塾を開設する。この塾でシーボルトは西洋医学を講義し日本の医学会に大きく貢献した。後に深くシーボルト一家と関わる事になる二宮敬作も、この中にいた。鳴滝塾シーボルトは鳴滝塾という私塾を開講した。鳴滝はシーボルト自身が長崎一の健康地といっただけの事はあり、渓谷と木立に囲まれた美しい場所だった。シーボルトはこの鳴滝に日本人名義にて家と土地を購入週に1回ないしは2回この家で病人を診察したりしていた。また日本全国から集まってきた学生に西洋医学を教えたりもした。シーボルトは日本に関する様々な著述を残しているが、この私塾の門下生たちの協力に負う所が多かったという。---------------------------シーボルト・イネ1827年、この時期シーボルト夫婦に子供が生まれる。イネと名づけた。その後このシーボルトイネは日本初の女医になるのだが、それはまだ先の話。イネをもうけ幸せなシーボルト一家だがシーボルトには任期がありオランダに帰ることになる。帰国は1828年。イネ誕生の一年後だった。---------------------------シーボルトは、日本人になろうと思った。思っただけではなく実際に方法をさがした。妻の滝と娘のイネをオランダに連れて帰りたかった。しかし当時の法律では日本人を海外に連れ出す事は出来ない。日本人になって、妻と娘と一生日本で暮らしたい。シーボルトはそう思い、その為に日本人になりかった。本来ドイツ人であるシーボルトは、ドイツに年老いた母をただ1人残している。それでもシーボルトは日本に残ろうと思った。が、結局これは叶わなかった。---------------------------シーボルトはオランダに帰国する。この時に多少事件が起こる。これが後に伝わるシーボルト事件で、事の発端がどこか特定するのが難しい。この当時、日本は鎖国中で日本国内の品を海外に持ち出す事に非常に厳しい規制があった。それがシーボルトの帰国の荷物の中から見つかった。具体的には日本地図、徳川葵の羽織などいろいろと出てきたらしい。---------------------------シーボルト事件国外持ち出し禁制品をどこから手に入れたのか、当然追求される。しかしシーボルトはその出所を一切言わなかった。この持ち出し禁制品は、そのほとんどはシーボルトに親しかった日本人の友人達の協力により集めており、友人に害が及ぶ事をシーボルトは怖れた。国外持ち出し品を渡した日本人も当然罪に問われる事になる。結局この事によりシーボルトは国外永久追放となり日本への入国を禁止される事となる。当然、鳴滝塾の塾生達や自身の妻と娘にも二度と会う事が出来ないという事である。---------------------------十数名が処分された。シーボルトは、誰に禁制品を渡されたか言わなかったに違いないが結局のところ調べて分かった。高橋景保をはじめ十数名が処分された。景保は獄死した後に死罪判決まで与えられている。禁制品の持ち出しという事が余程大きな事件として扱われていた事がわかる。鎖国を300年続けてきた江戸徳川幕府の特殊性と言えるだろう。---------------------------オランダに帰ったシーボルトは当時35歳。当時ヨーロッパでは日本対する知識がほとんどなく、日本は未知の国家と言える程の存在であった。シーボルトは日本からオランダに対して植物などの調査結果を送り続けていた為ヨーロッパの日本研究に大きな貢献をしていた。そのシーボルトが帰国する。という事でその筋の学会では大騒ぎだったらしい。---------------------------シーボルトはオランダ帰国後「日本」を刊行する。日本研究の集大成としてのこの本は全7巻で非常に詳しく、これによりヨーロッパでの日本の理解は飛躍的に進んだ。日本から持ち帰った植物を栽培し「ニッポン」という別荘も建てている。この日本研究が評価されシーボルトはヨーロッパ各国から勲章を受けた。この当時のヨーロッパでは日本研究と言えばシーボルトという方程式が成り立っていたようだ。---------------------------シーボルトは1844年日本開国の為の親書をオランダ国王に提示した。世界情勢に明るいシーボルトは、日本が鎖国状態のままでは、いつか西欧列強に植民地にされてしまう、と思っていた。シーボルトは、日本は進んで開国を行い、対等な貿易条件をヨーロッパ諸国と結び、貿易をして、西欧の技術力を取り込み、国防の力を付ける事以外に占領を避ける方法は無いと考えた。この考え方は、後に歴史の表舞台に現れる坂本龍馬や勝海舟も同じだった。世界を総括して見れば結果この考えに行き着くのかもしれない。この日本開国の為にシーボルトは、オランダ国王に親書を提示した。---------------------------シーボルトの熱意に突き動かされたオランダ国王は、徳川幕府に対して、シーボルトの考えである「日本は積極的に開国すべきである」。という内容を伝えた。それが、日本の国益になる。そう伝えた。この時のオランダの立場から考えてみる。日本に開国を進めるオランダというのは、非常に親切なように感じる。オランダは鎖国する日本と唯一貿易を許されているヨーロッパの国家であり、対日本貿易の利益を独占している状態であった。それが開国をして他国と貿易をしろと薦める。この自国の利益を明らかに減らす行為というのが、純粋な親切心からの発露と考えるのは国家という共同体の性質を前提に考える場合に無理があるかもしれない。もし日本が開国しない場合を考えてみると現実との誤差が少ないかもしれない。シーボルトの理論で言えば、日本が開国しなければ西欧列強の植民地となる。植民地競争に参加していないオランダは、日本の利権の一切を失う事になる。一切を失う。それよりは、日本を開国させ、その恩人として優遇されるほうが、まだマシである。そういう事なのかも知れない。-------------------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2008.01.09
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シーボルト。鎖国時代の日本に来たドイツ人。オランダ人を名乗っていたがオランダ人ではない。医学会の名門の家に生まれた、このドイツ人は、探究心と冒険心が旺盛で、ヨーロッパでは当時未開だった日本という国に興味を示し、危険を顧みず日本に来る。プロイセン(今のドイツ)から日本の内情視察を、命じられて来たと言う説もある。---------------------------日本は当時、鎖国状態。ドイツ人では、日本に入れない。シーボルトはオランダ人としてオランダ政府経由で、日本に入国している。当然、オランダ人として振舞うが、オランダ語が話せる日本人もいる。そんな日本人は、シーボルトのオランダ語が、何か不自然な事はわかる。それを聞かれて、シーボルトは、山地出身のオランダ人だからと答えているが、オランダには山地は無いという事なので、ずいぶん適当な返答だ。---------------------------決闘シーボルトは、ドイツ時代に、数十回「決闘」をしたらしい。この「決闘」というのは、どういう物だったのか良くわからないが、少し調べてみると、西部劇のガンマンみたいに、ピストルで打ち合うという事らしい。当時頻繁に行われた。お互いに、一発だけ打つという事だ。---------------------------「決闘」についてもう少し考えてみる。「決闘」どうやらピストルで打ち合うという事らしい。しかし、こんな決闘を、そんなしょっちゅう(数十回)、やって生き延びているとしたら、伝説のガンマンも真っ青な腕前では、ないだろうか?シーボルトの顔には刀傷もあったらしいので、「決闘」とは、割といろんな方式があって、激しい場合は、刀で切ったり、ピストルで撃ったりする。軽い「決闘」の場合は素手で殴りあったりといろいろな方法があったのではないかと想像してみる。それにしても、数十回の「決闘」とは、ずいぶんと血の気が多かったという事が分かる。---------------------------さて、血気旺盛な青年シーボルトは日本にやって来た。鎖国状態の日本では、外国人が自由に出歩く訳には、当然いかない。自然、長崎の出島内で、駐在の医師となる。この時まだ、30歳にもならないシーボルトは、独身で、健康だ。そんな健康なシーボルト青年は、長崎出島内に出入りのあった遊女、楠本滝さんを見初める。来日3ヶ月でシーボルトは、遊女の、楠本滝と結婚。青年シーボルトは、この辺も早い。---------------------------楠本滝遊女であったと言われている。遊女古来、宴席などで歌舞をし、また、寝所に侍ることを職業とした女。あそびめ。うかれめ。遊君。遊郭の女。女郎。遊女というのは、辞書で調べると、こんな感じであり、寝所を舞台とする職業だ。楠本滝は、遊女だったというのが、一般的な歴史上の見解だが、時として一般的な認識という物は、間違う。楠本滝は、遊女ではなかった。という説が最近ある。偶然、歴史的に誤解されただけ。という話だ。---------------------------楠本滝は、遊女ではなかったのか?遊女では無かったという根拠として、一つ目に考えられるのが、日本に来て3ヶ月程度のシーボルトが、客として遊郭に通い、楠本滝を遊女揚げし、妻にするには、期間が短すぎるという事。二つ目は、もし遊郭から遊女揚げするとしても莫大な遊女揚げ代銀を支払わなければならず、シーボルトがそれを用意する事は、不可能であったという事。この説、どうももっともらしい。しかし疑問が残る。では、出島に居て自由に出歩く事の出来ないシーボルトと、楠本滝が如何にして出会ったのか?---------------------------シーボルトと楠本滝の出会い。どうやらシーボルトは、来日して、すぐに長崎奉行の依頼で、出島より出て、日本人の患者を診察したらしい。この時に、楠本滝と出会ったと言うのが定説のようだ。診察しに来た外国の青年シーボルトと、17歳の楠本滝は、一目ぼれをしたという事になる。その後、出島に戻ったシーボルトを追って楠本滝は、出島に向かう。しかし、出島には一般の日本人は入る事が許されていない、入る事が許されているのは、丸山の遊女のみ。そこで、楠本滝は、遊女に扮装し紛れ込み、愛しのシーボルトに会いに行った。これが後に楠本滝は、遊女である。という誤解の原因になった。---------------------------シーボルトは、楠本滝と結婚した後、故郷の伯父に宛てて、このような手紙を送っている。「小生もまた古いオランダの風習に従い、目下愛くるしい16歳の日本の女性と結ばれました。小生は恐らく彼女をヨーロッパの女性と取替えることはあるまいと存じます。」---------------------------シーボルトは、楠本滝を余程愛していたらしく、日本で見つけたアジサイの花に、「オタクサ」と名付けた。これは、楠本滝を、お滝さんと発音できずに「オタクサ」になったもので、アジサイにお滝さんという名前を付けたという事。シーボルトは、オランダに戻った後にアジサイを、「オタクサ」として発表しているが、先にスウェーデンの植物学者カール・ツンベルクが、別の名前で発表していた為に、正式な学名とはなっていない。---------------------------シーボルトは、オランダに戻った後にアジサイを、「オタクサ」として発表しているが、先にスウェーデンの植物学者カール・ツンベルクが、別の名前で発表していた為に、正式な学名とはなっていない。しかし正式な学名として誤解している人もいる様で、未だにオランダでは、アジサイを「オタクサ」と呼んでいる人もいるという話がある。ある学者は、遊女の名前を、この美しい花に付けたと言う事で、非難しているらしいが、そもそも楠本滝は、遊女ではないようなので、そうなれば的外れだ。---------------------------シーボルトは、鳴滝塾という塾を開設する。この塾でシーボルトは西洋医学を講義し日本の医学会に大きく貢献した。後に深くシーボルト一家と関わる事になる二宮敬作も、この中にいた。鳴滝塾シーボルトは鳴滝塾という私塾を開講した。鳴滝はシーボルト自身が長崎一の健康地といっただけの事はあり、渓谷と木立に囲まれた美しい場所だった。シーボルトはこの鳴滝に日本人名義にて家と土地を購入週に1回ないしは2回この家で病人を診察したりしていた。また日本全国から集まってきた学生に西洋医学を教えたりもした。シーボルトは日本に関する様々な著述を残しているが、この私塾の門下生たちの協力に負う所が多かったという。---------------------------シーボルト・イネ1827年、この時期シーボルト夫婦に子供が生まれる。イネと名づけた。その後このシーボルトイネは日本初の女医になるのだが、それはまだ先の話。イネをもうけ幸せなシーボルト一家だがシーボルトには任期がありオランダに帰ることになる。帰国は1828年。イネ誕生の一年後だった。---------------------------シーボルトは、日本人になろうと思った。思っただけではなく実際に方法をさがした。妻の滝と娘のイネをオランダに連れて帰りたかった。しかし当時の法律では日本人を海外に連れ出す事は出来ない。日本人になって、妻と娘と一生日本で暮らしたい。シーボルトはそう思い、その為に日本人になりかった。本来ドイツ人であるシーボルトは、ドイツに年老いた母をただ1人残している。それでもシーボルトは日本に残ろうと思った。が、結局これは叶わなかった。---------------------------シーボルトはオランダに帰国する。この時に多少事件が起こる。これが後に伝わるシーボルト事件で、事の発端がどこか特定するのが難しい。この当時、日本は鎖国中で日本国内の品を海外に持ち出す事に非常に厳しい規制があった。それがシーボルトの帰国の荷物の中から見つかった。具体的には日本地図、徳川葵の羽織などいろいろと出てきたらしい。---------------------------シーボルト事件国外持ち出し禁制品をどこから手に入れたのか、当然追求される。しかしシーボルトはその出所を一切言わなかった。この持ち出し禁制品は、そのほとんどはシーボルトに親しかった日本人の友人達の協力により集めており、友人に害が及ぶ事をシーボルトは怖れた。国外持ち出し品を渡した日本人も当然罪に問われる事になる。結局この事によりシーボルトは国外永久追放となり日本への入国を禁止される事となる。当然、鳴滝塾の塾生達や自身の妻と娘にも二度と会う事が出来ないという事である。---------------------------十数名が処分された。シーボルトは、誰に禁制品を渡されたか言わなかったに違いないが結局のところ調べて分かった。高橋景保をはじめ十数名が処分された。景保は獄死した後に死罪判決まで与えられている。禁制品の持ち出しという事が余程大きな事件として扱われていた事がわかる。鎖国を300年続けてきた江戸徳川幕府の特殊性と言えるだろう。---------------------------オランダに帰ったシーボルトは当時35歳。当時ヨーロッパでは日本対する知識がほとんどなく、日本は未知の国家と言える程の存在であった。シーボルトは日本からオランダに対して植物などの調査結果を送り続けていた為ヨーロッパの日本研究に大きな貢献をしていた。そのシーボルトが帰国する。という事でその筋の学会では大騒ぎだったらしい。---------------------------シーボルトはオランダ帰国後「日本」を刊行する。日本研究の集大成としてのこの本は全7巻で非常に詳しく、これによりヨーロッパでの日本の理解は飛躍的に進んだ。日本から持ち帰った植物を栽培し「ニッポン」という別荘も建てている。この日本研究が評価されシーボルトはヨーロッパ各国から勲章を受けた。この当時のヨーロッパでは日本研究と言えばシーボルトという方程式が成り立っていたようだ。---------------------------シーボルトは1844年日本開国の為の親書をオランダ国王に提示した。世界情勢に明るいシーボルトは、日本が鎖国状態のままでは、いつか西欧列強に植民地にされてしまう、と思っていた。シーボルトは、日本は進んで開国を行い、対等な貿易条件をヨーロッパ諸国と結び、貿易をして、西欧の技術力を取り込み、国防の力を付ける事以外に占領を避ける方法は無いと考えた。この考え方は、後に歴史の表舞台に現れる坂本龍馬や勝海舟も同じだった。世界を総括して見れば結果この考えに行き着くのかもしれない。この日本開国の為にシーボルトは、オランダ国王に親書を提示した。---------------------------
2008.01.09
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さらに充実&お値段見直し 上海問屋セール ちょっと在庫が多すぎたり、ちょっと訳あり(だけど中身はしっかりしてる)商品たちを集めた「上海問屋セール」。不定期で商品や価格の見直しをしています。というわけで、今回のお勧め商品をご紹介です。 お買い得になりました液晶テレビ 保護用フィルム 20型/26型用 999円~薄くて繊細な液晶テレビの表面を細かな傷から守る、保護フィルムです。大切なテレビを長く大切に使いたいかたへ。20型用と26型用、それそれ光沢/非光沢があります。 お買い得になりましたレザー仕様 2.5インチHDD 外付けケース 999円一風変わったハードディスクケースです。持ち歩いたり人目に付きやすい場所で使うことが多い2.5インチのハードディスク用。「白」「黒」「茶」の3色をそれぞれ999円でご提供です。 新しく加わりました邪魔なケーブルを巻き取ります 99円イヤホンで音楽を聴いているときに邪魔になるイヤホンを、スマートに巻き取る「骨」です。くるくると巻き付ければ、好きな長さで調節することができます。 このほかにも、DSやPSPなどの携帯ゲーム機用シリコンカバーなども、新しく追加されました。ほかにもいろいろラインナップは全部で50種類以上揃えました。 お買い得な商品の一覧はこちら… http://item.rakuten.co.jp/donya/c/0000000422/
2008.01.09
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オリジナル マイクロSD を値下げ!1GB は 899円に、2GB も 1,699円 ケータイには無くてはならない存在になっている、マイクロSDがさらにお買い得になりました。microSD 1GB\999 ⇒ \899 microSD 2GB\1,899 ⇒ \1,699 値下げする前から既にお買い得価格でしたが、上海問屋はまだまだがんばります。通販では、製品価格は安くても送料を加えると… なんて事も多々ありますが、上海問屋ではメモリを1つお買い求め頂くときに、送料かお得なメール便か安心確実な宅配便かを選ぶことが出来ます。メール便なら全国均一送料210円、宅配便でも送料399円からと送料もお買い得な上海問屋でもあります。売り切れる前にお早めにどうぞ。 上海問屋オリジナル microSD 1GB ↓ http://item.rakuten.co.jp/donya/52730/上海問屋オリジナル microSD 2GB ↓ http://item.rakuten.co.jp/donya/54384/ こんなのもあります 上海問屋ストラップ 上ではケータイのメモリをご紹介、昨日はケータイの充電に効くポータブルバッテリーをご紹介しましたので… 今日はケータイといえば!ストラップを一気にご紹介です。 ここで紹介しているのはほんの一例。上海問屋のストラップは… こちら↓http://item.rakuten.co.jp/donya/c/0000000677/
2008.01.08
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【再入荷】PCカード型 折りたたみ超小型マウス パソコンを使うときに絶対になるのが、キーボード&マウス。これがないとパソコンをどうやっても使うことが出来ないですね。どちらもすごいこだわりを持っているから、最初から付いてきたのをそのまま使っている人まで、人それぞれです。(ちなみに私、結構なこだわりを持っています)そんなこだわりを持っているあなたにお勧めしたいのがこのマウス↓ PCカード型 折りたたみ超小型マウスたたむとPCカード(ノートパソコンの横にあるカード型スロット(溝))にも入るぐらいの小ささのマウスです。ケーブルも本体内にくるくると収納できるので、持ち運びも便利! 使うときは起こすだけで、普通のマウスのような形に変身します。 ノートパソコンを持ち歩くときに、マウスが上から滑り落ちそうになったことありませんか? ちっちゃいけど、意外としっかりした作りのマウスです。 詳しくは… http://item.rakuten.co.jp/donya/c/0000001391/
2008.01.07
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