銀河はるかに
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何度か、文章に手を入れたので再アップします。去る1999年8月13日に「国旗及び国歌に関する法律」として成立し即日施行された法律は、国旗を日章旗とし、又国歌を君が代とするものでありました。昨日は橋本大阪府知事の推進した「君が代起立条例」が成立しました。それに先立つ5月30日、東京都立高校の卒業式で、国歌の起立斉唱の職務命令に従わず、定年後の再雇用選考で不合格とされた元都立高教員が、命令は思想・良心の自由を保障した憲法に反するとして、都に損害賠償などを求めた訴訟の上告審判決が30日、最高裁第2小法廷であり、判決は上告の棄却という、原告の敗訴が確定したのです。この二つのニュースは、公立の教育現場でしばしば問題になっていた、教師が国歌斉唱を拒み、起立もせずに自分の信条をあらわす行為に対し、正等ではないと言う結論を法律や条令を以って下したものであり、賛否が分かれるものでもあるが、5月末の最高裁の判決は法治国家である日本国の公務員は、憲法の定める思想良心の自由を侵すことがあるとしても、公務員としての職務中の秩序を保つことは、個人の有する憲法上の思想良心の自由よりも優先するものであると言うことを確定させる判決となった。「国旗及び国歌に関する法律」は、起立することを強制する法でもなく、国歌を歌うことを強制するものでもなかったわけですが、依然として卒業式や入学式などで国旗掲揚や国歌斉唱という式典のプログラムのなかで起立せずにいる教師がいることを問題視した橋本氏は、自らが率いる「大阪維新の会」が過半数を占めた府議会で罰側を適用できる条例として成立させたものである。この現状を見るに付け、いったいどんな理由がそうした一部の教職員を君が代を歌わずに、又起立もしないという行為に駆り立てるのか少し不思議な気持ちになったのも事実である。国旗の掲揚や国歌の斉唱を卒業式に組み込むことの是非は、様々な立場の人がいるのだから一概に語れないが、少なくとも組織の意思決定機関の中で信任、継承されてきた手法であり、たとえ一部の人にとって看過できないことであったとしても、公立校の卒業式で教師が教え子の前でボイコットするようにして、それに反対の意思を表現することの是非を考えたいと思う。先ず知らねばならないことは、わが国の成人であれば、どんな思想や心情を持って行動することも自由ではあるが、それはこの国に住む国民としての権利と義務と言う面から見るならば、個人の自由が許されるのは法と社会通念が許し得る範囲に限られるという事であり、それを逸脱すればなんらかの社会的制裁を受ける可能性があるという、現実の社会契約の中で我々は生活していると言う事実である。社会人として、企業の中にいればその中での規則があり、上司の指示や命令に背いた行為をすれば、左遷されたり、会社を辞めろと言う趣旨の冷遇を受けたりすることもあるだろう。実際に正面から「嫌です」と言う時には辞表を書く覚悟で臨むしかない場合が多いと思う。この公立学校の教師の場合でも、国旗掲揚や国歌の斉唱時に起立をすることが個人の信条に合わないとしても式典の中でそれを拒否することは、公務員として職務中であることを考えるなら、そして職を辞する覚悟で実行するのであれば、それはそれで本人の自由であると言えるだろうが、そんなことをしても何の懲戒も受けずに済むと考えるのは間違いであろう。法や規則という括りの中だけでなく、学校教育の中で、生徒に規律や規則を守らせる必要性は何のために在るのだろうか?社会生活の教育現場として、教師が自分の心情や考え方に合わないからと言う理由で自分の属する組織の中で決められたことを拒否しても良いと言う誤った手本を、実際の行為で生徒に示すことが許されるものだろうか?少なくともそういう行為を行う教師に於いて、生徒は学校の規則は守らなくてはならないと言う論理で、指導することは出来なくなるし、教師と言うものの指導に信頼感を得られなくしてしまうだろう。そのくらいのことはどんな教師でも一瞬で理解できることのはずだが、実際はそうでもないらしい・・・。つまりそういうパフォーマンスを演じた後、辞表を書いて辞めるわけではないらしいのだ。ここで書くべきこと以前の問題だが、君が代の詩の内容が如何であるか?日章旗が戦争に駆り立てた歴史を容認することになる等と言うのは所詮それに反対する者の屁理屈に過ぎないだろう。何故かと言うなら、もし日本が軍国の歴史を払拭する目的であろうと無かろうと、国旗を異なるデザインにして見たとしても、外国からはそれで、日本が軍国主義に決別したと思ってくれる訳はなく、国旗を変えれば侵略の歴史を忘れてもらえるとでも思ったのか?と言われるぐらいがせきのやまであるとは気づかないだろうか?まして実際に戦争そのものを知らない世代の人間が軍国の歴史と日章旗を結びつけて、その日の丸デザインを忌避しようというのはこじつけであろう。君が代の歌詞については、とっくの昔に形骸化した日本の天皇制であるにもかかわらず、いまだに「君=君主としての天皇」と言う解釈を譲らずに、天皇を奉るような歌詞を歌えないと主張することは個人の自由の範囲だが、「君が代」の君という表現はこの詩が作られた時代背景からは帝を指し示していたものと認められるが、国旗及び国歌に関する法律を施行した後の政府見解では主権者である国民の象徴としての天皇を指すと言うことが発表されており、天皇制を否定し象徴としての天皇の地位を憲法で定めた解釈に沿ったものとしている。こうした政府の公式見解が存在することもあり、過去のことを改めた事実を認めないということであれば、一度犯した罪を理由に刑に服し悔い改めた人おも生涯犯罪者として扱い続けること言うことと同じであり、あまりに寛容さに欠けると私は感じます。現実的に国歌を歌うことが耐えられず、起立することが自分の思想信条に照らして耐え難いのであれば、有給休暇届けを出すなどして卒業式を欠席するべきではないだろうか。それは公務員として許されないことではないと思うのです。問題なのは、欠席することや、起立しても歌わないなど、自分の信条に反する行為を回避する手段は他にあるにもかかわらず、卒業式等にあえて出席し、自分の政治的イデオロギーに基づく主張を、公務員の教師という立場にありながら、君が代斉唱のときに起立しないという手段で表現することは、生徒にその思想的メッセージをあえて示威(政治的パフォーマンス)することになることです。教師として生徒からの信頼を得るように振る舞い過ごして来た上で、その信頼を利用する形で、その抗議行動が正しい行為であるかのように、無垢であるかもしれない生徒に対し政治的な思想を卒業式を利用して刷り込もうとする卑劣な行為ではないか?という風に思われても仕方ないものだと思うのです。例えてみれば、結婚式に列席する時のように、式に参加すると自分が決めることは、たとえ神道を信じていなくとも、或いはキリスト教を信じていなくても、その式典のしきたりに従い、その場を繕ってでも自分の思想的主張をあえてしない事が必要なわけであり、同様に卒業式の中では、その式典の終わるまで自分を抑制して臨まねばならないということなのです。おそらく君が代に起立しない教師も、自分の息子や娘が自分の信じていない宗教形式の結婚式をすることになれば、きっとそこで無神論などを展開し、「そんなことは出来ない」などと言い出したりして無用な摩擦を引き起こさないはずですし、列席した人の中に、そういう無粋で迷惑な行為をする人が現れたら、新郎新婦の親としてどう思うでしょうか・・・・?君が代に起立しない姿を卒業式に於いて列席者に見せると言うことは、自分の子供の結婚式に列席した人の中に、故意に普通ではない行動をとって物議をかもし、話題になることで何らかの思想的メッセージを伝えたがっているような非常識で場違いな人が居るのと変わりないです。もし国歌を起立して歌うことを心の底から止めさせたければ、現行の法律に則って立法にこぎつけるか、自分がそういう発言力の在る立場にまで至って、会議の席で国歌斉唱や国旗の掲揚を止めるように議案を出して、決議に持ち込んで実現しなくてはなりません。正当な手段とはそういうものであり、尊敬を集めるような教師を演じた一年の終わりに、国歌斉唱という時に起立せずに歌いもしないという行為は、テロに等しい行為を自らの教え子を前に正当化する行為に他ならないのです。しかもそんな確信犯的な手段に訴えた後も職を辞さず、その職に留まろうというのはあまりにも身勝手であり、甘えていると言わざるを得ないのです。私は、それでも組織からの反作用を覚悟して行うことは、生物として自由だと言うのならたしかに自由の範囲だと思っています。処分を受けることを受け入れてするのであれば、決して褒められることもないし、社会から許されることはないだろうが、生物として選びえる可能性までは制約することは誰にも出来ないのだから、やればいいでしょう・・・と思います。でも、君が代に不起立を実行しようとしている先生!忘れないで下さい・・・・それはテロ行為を容認すると言う姿勢だと言うことと、応分の社会的制裁を受けるに値する卒業式を利用した卑劣な政治的表現手段であると見なされると言うことを。
2011.06.04
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