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(ジリチン毛/ジリチンモー)沖縄本島中南部にある浦添市「前田集落」に「ジリチン毛/ジリチンモー」と呼ばれる丘陵の森があります。「毛/モー」とは「野」の当て字で野原や広場を意味し「毛遊び/モーアシビ」という若い男女が野原や海辺に集まり飲食を共にして歌舞などで交流した集会にも「毛/モー」言葉が使われており、恩納村の「万座毛/マンザモー」の名称にも「毛/モー」という字が使われています。「前田集落」の「ジリチン毛/ジリチンモー」は県道38号線(警察署通り)沿いの「浦添グスク」や「浦添ようどれ」がある「浦添大公園」の南東端と「浦添市消防本部」に挟まれた丘陵の森に位置しています。「ジリチン毛/ジリチンモー」の西側には入り口の階段が丘陵の内部に続いています。(ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷)(ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷のウコール)(ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷の火の神)「ジリチン毛/ジリチンモー」入り口の階段を登ると左手に「ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷」の拝所があり、社の内部には石造りの古いウコール(香炉)と霊石が祀られています。拝所に向かって左側にはブロックで囲まれた「火の神/ヒヌカン」があり数個の霊石が供えられています。「ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷」は「前田集落」発祥の地で、初めてこの地に住んだ「根人/ニーチュ」の屋敷(根屋/ニーヤー)がありました。「前田」は「浦添グスク」の前方に広がっていた田畑の土地から名前が付けられたと伝わり、首里の士族がこの地に移り住み「ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷」に住み始めたのが「前田集落」の始まりだと言われています。現在は「前田集落」発祥の地たして人々に拝されています。(前田髙御墓/前田タカウファカ)(前田髙御墓の石碑)(前田髙御墓の手水鉢と霊石)(前田髙御墓のウコール)「ジリチン毛/ジリチンモー」の頂上付近には「前田髙御墓/前田タカウファカ」という墓があり、丘陵の高い場所に設けられた墓である事から「髙御墓/タカウファカ」と呼ばれています。この墓は県道38号線の改良工事のため、旧暦昭和50年乙卯12月13日に「前田名川原頂上1468番地」から現在の「前田山川原1962番地」に移転改修されました。この墓の前方に隣接する場所には「前田髙御墓」と刻まれた石碑、手水鉢、霊石が設置されています。さらに「前田髙御墓」の門石には霊石が祀られ、墓前には陶器製ウコール2基と石造りのウコール1基が祀られています。この石造りのウコールには「奉寄進/恵祖按司/前田按司/はか君加那し/恵祖子あや/久米きつは/てる君加那し/咸豊十一年辛酉九月/大里間切大城村/嶋袋筑登之親雲上」などの文字が記されています。(火の神/グフンシジの拝所)(火の神/ウミチムン)(グフンシジ)「前田髙御墓」の北側に隣接する小高い丘には「火の神/ウミチムン」と「グフンシジ」が祀られる拝所が建立されています。「火の神/ウミチムン」には3体の岩がカマド型に組まれており、4基の石造りウコール(香炉)と数個の霊石が供えられています。「ウミチムン」とは「3個のカマド石」を意味する言葉で、琉球古来から伝わる信仰で「火の神/ヒヌカン」が祀られています。一方「グフンシジ」は神が宿るとされる「ビジュル/霊石」を集落の守護神として崇めるのが一般的で、この拝所には数体の霊石と石造りのウコール(香炉)が祀られています。「火の神/ウミチムン」と「グフンシジ」のウコール(香炉)にはヒラウコー(沖縄線香)が供えられ、現在も集落の住民により拝されています。(後之御嶽/クシヌウタキ)(まさら神)(ふえしじ之御嶽)「前田髙御墓」の西側には「後之御嶽/クシヌウタキ」「まさら神」「ふえしじ之御嶽」の合祀拝所があります。「前田髙御墓」と同様に県道38号線の改良工事のために「ジリチン毛/ジリチンモー」の丘陵に移設された拝所であると考えられます。もしくは「前田集落」は沖縄戦の激戦地でもあったため、戦争で破壊された御嶽や拝所がこの地に移動して祀られているとも考えられます。「後之御嶽/クシヌウタキ」にはウコール(香炉)2基が祀られており「まさら神」には、神が宿るとされる琉球石灰岩の岩塊とウコール1基が供えられています。更に「ふえしじ之御嶽」にはウコール(香炉)1基が設置された合祀拝所となっています。(ティーダウカー)(ユーアキガー/男泉)(ユーアキガー/女泉)「ジリチン毛/ジリチンモー」の南東端で「沖縄消防本部」に隣接する崖の上に「ティーダウカー」と刻まれた石碑が立つ井戸があります。「ティーダ」は沖縄の言葉で「太陽」を意味し、この井戸は見晴らしの良い南西方面に向いています。「ティーダウカー」の南側に隣接して「ユーアキガー/男泉」と呼ばれる井戸があり、円形の石で蓋が施された井戸の脇には石造りのウコール(香炉)が1基設置されています。この井戸は「ジリチン毛/ジリチンモー」の西側に隣接する位置にある「ユーアキガー/女泉」と対になっており、丘陵の森の地下に流れる同じ水脈から湧き出ていると考えられ「ジリチン毛/ジリチンモー」の「ミートゥーガー/夫婦井戸」とも呼べる古井戸となっています。この「ユーアキガー/女泉」には霊石1体と石造りのウコール(香炉)1基が祀られています。(前田大屋の墓/前田大王の墓)(前田大屋の墓/前田大王の墓の石碑)「ジリチン毛/ジリチンモー」の北西側の丘陵中腹には2基の「平葺墓/ヒラフチバー」と呼ばれる掘り込み墓が並んでいます。向かって左側が「前田大屋の墓」右側が「前田大王の墓」となっています。「平葺墓/ヒラフチバー」の古墓は主に士族層の墓で、首里から「前田集落」移住した士族がこの古墓に祀られていると考えられます。墓前の石碑には次のように記されています。『前田大王 昭和三九年 甲辰 旧八月十六日 (一九六 四年) 浦添市字仲間稲俣原一三二三番の墓より 前田 山川原一九五九番の墓に移転する 前田大屋 昭和三九年 甲辰 旧八月十六日 (一九六 四年) 浦添市字仲間稲俣原一二六六番の墓より 前田 山川原一九五九番の墓に移転する 平成十五年十二月十三日 戌申 旧十一月二十日』
2022.07.17
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(玉城朝薫/邊土名家の墓)沖縄本島中南部の浦添市前田にある「前田トンネル」の上部に「玉城朝薫/邊土名家の墓」があります。「玉城朝薫/たまぐすくちょうくん(1684-1734年)」は琉球独自の歌舞劇である「組踊/くみおどり」の創始者です。「玉城朝薫」の家系は代々、玉城間切の総地頭職を務めていた事から「玉城」を名乗りましたが、子孫の代に「邊土名/へんとな」と実名が変わりました。「玉城朝薫」は中国からの「冊封使/さっぽうし」を歓待するために琉球王府より踊奉行に命ぜられ、この時に生み出された「組踊」は1719年に初めて首里城で演じられました。「組踊」は音楽、舞踊、所作、台詞で構成され、その創作には琉球の故事をもとに物語が作られています。(三味台/サンミデー)(墓庭/ハカナーにある三味台/サンミデー)「玉城朝薫」が作った『二童敵討/にどうてきうち』『執心鐘入/しゅうしんかねいり』『銘苅子/めかるしぃ』『女物狂/おんなものぐるい』『孝行の巻/こうこうのまき』は特に「朝薫の五番」と呼ばれ高く評価されています。「組踊」は2010年に「ユネスコ」の無形文化遺産リストに登録されました。「玉城朝薫/邊土名家の墓」は沖縄特有の堀込式「亀甲墓/かめこうばか」で、墓の入り口である「門石/ジョウイシ」の正面は「三味台/サンミデー」と呼ばれ「香炉/ウコール」や御供物が備えられています。この古墓に向かって「墓庭/ハカナー」の左側には「三味台/サンミデー」の石台が設置されており、石造りの香炉、花瓶、湯呑が備えられ、普段から多くの参拝者に拝されています。(門冠い/ジョウカブイと相方積みの鏡石/カガミイシ)(亀甲墓に使われる実際の石柱)(玉城朝薫/邊土名家の墓下を通る前田トンネル)この古墓の内部は石を積んで壁や天井を組み上げており、天井は4本の柱で支えられています。「墓庭/ハカナー」の石積みは撥状に跳ね上がる形に開くなど、石積みに曲線を多用しているのが特徴です。「玉城朝薫/邊土名家の墓」は亀甲墓が成立してゆく17世紀後半から18世紀前半に造られたと考えられています。この墓の敷地には亀甲墓の内部に実際に使われた石柱のサンプルが展示されており、沖縄の古墓を知る上で非常に重要な資料となっています。墓下には2000年に開通した「前田トンネル」が通り、墓の東側には沖縄都市モノレール「ゆいレール」のレールが空中に敷かれています。このレールは墓の地点で軌道が不自然にカーブしており「玉城朝薫/邊土名家の墓」を迂回するため特別に建設されたと言われています。(メーヌハルガー/前ヌ原井戸の井戸跡)(メーヌハルガー/前ヌ原井戸の大岩)(ジングスク/銭グスク跡)「前田集落」の北東部に「メーヌハルガー/前ヌ原井戸」と呼ばれる井戸跡があります。かつて集落の農業用水として使われた「ハルガー/原井戸」で、集落の前方にあった事から「メーヌハルガー/前ヌ原井戸」と呼ばれていた考えられます。現在は井戸は塞がれていますが、井戸の脇に鎮座する大岩は現在も残されています。更に、集落の東側丘陵上に「ジングスク」と呼ばれるグスク跡があり、グスクを形成した巨岩の集落側崖下には墓があったと言われています。現在は丘陵が削られて公務員住宅が立ち並び、巨大な貯水タンクが建設されています。「ジングスク」の遺構や遺物は発見されていなくグスクの詳細は全く不明となっています。古老の伝承によると「ジングスク」は「銭グスク」の意味で「金蔵」があった場所だと伝わっています。(井の大人川/ヰのウシガー)(井の大人川/ヰのウシガーの拝所)(井の大人川/ヰのウシガー)「前田集落」の最西端に「井の大人川/イノウシガー」と呼ばれる古井戸があり「ヰのウシガー」とも表記されます。「大人/ダイジン」と書いて「ウシ」と言う尊い言葉から『井の中でも尊い井戸』の意味を持ち、その昔に琉球王府から授かった名称だったと伝わります。そもそも「前田」とは「浦添グスク」の"前"に広がっていた"田"から付いた集落の名前であり、周辺は水が豊富な土地でした。明治時代には7ヶ月も日照りが続いても井戸が枯れなかったと言われています。「井の大人川/ヰのウシガー」に向かって右側には井戸の拝所が設けられ、霊石が数体祀られており、水への感謝と水の神への祈りの場となっています。井戸の正面に立つ2つの石柱にはそれぞれ蛇口が設置され、井戸水が出る非常に珍しい仕組みになっています。(井の大人川/ヰのウシガーのウコール)(井の大人川/ヰのウシガーのコカコーラ商標)(社長 ウイリアム E. マチェットの刻銘)井戸に向かって左側にはウコール/香炉が設置されており、こちらも井戸に拝する場となっています。戦前は半月状に切石で縁取られた水溜めから湧き水を汲んでいましたが、戦後の1959年(昭和34)にコンクリート製のタンクに改修され蛇口から水が出るようになりました。この時「井の大人川/ヰのウシガー」の改修工事の費用を寄付した人物の名前が現在もタンクに刻まれています。総工費用は480ドル53セント(約17万3,000円/当時1ドル=360円)と記録が残されています。井戸のタンクには『Coca Cola』の標識ロゴが彫られており、その下には『社長 ウイリアム E. マチェット』と記されています。ウイリアム エドワード マチェット氏は当時「沖縄ソフトドリンクス」の社長を務めており、この会社は1968年(昭和43)に沖縄コカコーラボトリング株式会社として生まれ変わりました。「井の大人川/ヰのウシガー」は長い歴史を経て、現在も変わらず豊富な水が湧き出ているのです。
2022.07.12
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(前田の権現)沖縄本島中南部の浦添市「前田(まえだ)集落」の西部に「前田権現」と呼ばれる拝所があります。「キッチャキ石」と呼ばれる霊石を権現として祀られ、旅の安全や家内安全が祈願される拝所として人々に崇められています。「キッチャキ石」は「つまずき石」を意味する霊石で、四方をコンクリートで囲い正面に2箇所の覗き穴が設けられた祠の内部に「キッチャキ石」が祀られています。「前田権現」の祠には2つの石造りウコール(香炉)が設置されており、ヒラウコー(沖縄線香)と共に小さな霊石も供えられています。祠に向かって右側には中型の霊石も数体祀られており「前田権現」に於ける沖縄の霊石信仰の文化が現在も大切に継承されています。(前田権現/向かって左側の灯籠)(前田権現/祀られるウコールと霊石)(前田権現/向かって右側の灯籠)「前田権現」の祠には2基の灯籠が建立されており、左側の灯籠の3面にはそれぞれ「奉寄進」「嘉利二拾 庚戌 吉日」「阿氏 佐久田親雲上守祥」と彫られています。「阿氏/あうじ」とは琉球三国時代(南山・中山・北山)の南山王国の王族の血筋であり「佐久田」は前田集落に多く見られる姓です。さらに「親雲上/ペーチン」とは琉球士族の事で、その中でも地頭職という行政区域の領主を務めた士族は「親雲上/ペークミー」と呼ばれて区別されていました。「前田権現」には次のような伝承が残されています。『その昔、首里を往来する人々がこの地を通るたびにキッチャキ(つまずく)する石がありました。いくら片付けても石は元の場所に戻り、再び人々がつまずくので「キッチャキ石」と呼ばれるようになりました。(前田権現/向かって左側の灯籠)(前田権現/古井戸)(ハンタタイガー)そんな時、ある役人が使者として中国に赴く事になり「もしキッチャキ石の神様が権(かり)の姿であるならば、役目をきちんと果たし、何事もなく無事に帰国できるという私の願いをきっと叶えて下さるに違いない」と一心に祈りを捧げました。その後、役人は中国で役目を果たし、無事に沖縄に帰る事が出来たのです。』以来「キッチャキ石」は権現として人々が崇拝するようになり、古老によるとこれが「前田権現」の起源となり今も語り継がれています。「前田権現」には古い井戸があり権現の地から湧き出る水として住民に崇められています。井戸には古い石造りのウコール(香炉)と霊石が祀られています。「前田権現」の西側には「ハンタタイガー」と呼ばれる井戸があり「前田権現」の丘陵の地下を通る水源から湧き出ていたと考えられます。(トゥンチガー)(トゥンチガー向かいのヒヌカン/火の神)(トゥンチガー向かいのヒヌカン/火の神祠内部)「前田権現」から南東に60メートル程の場所に「トゥンチガー」と呼ばれる井戸跡があります。この井戸の北側には1基のウコール(香炉)と1体の霊石と思われる石が祀られています。「トゥンチ/殿内」はドゥンチとも言われ、脇地頭以上の家柄や親方(ウィーカタ)及び士族の家柄の屋敷を意味します。「トゥンチガー」はその屋敷で使われていた井戸の事で、そこから南側に道を挟んだ場所にある古い「ヒヌカン/火の神」は、かつてこの地に建てられていた「トゥンチ/殿内」の敷地に祀られていた「ヒヌカン/火の神」であると考えられます。北側に向けて造られた「ヒヌカン/火の神」の祠は3つの琉球石灰岩を組んで造られており、祠内部には古いウコール(香炉)と霊石が祀られています。(ナカミーヤーヌメーヌカー/仲新屋ヌ前ヌ川)(ナカミーヤーヌメーヌカー/仲新屋ヌ前ヌ川の拝所)「トゥンチガー」から東側に150メートル程の場所に「ナカミーヤーヌメーヌカー/仲新屋ヌ前ヌ川」と呼ばれる古井戸があります。屋号「ナカミーヤー/仲新屋」の屋敷前にあった井戸であると考えられ、井戸の北側に向けて霊石が祀られており古い石造りのウコール(香炉)が設置されています。比較的に井戸の敷地が広いため、水量が豊富で様々な用途に使用されていたと考えられます。沖縄の屋号は「ヤーンナー」と呼ばれ、家の方位、位置、地理、家主の職業、本家か分家、兄弟の何番目など様々な事柄や特徴に因んで名付けられました。「ナカミーヤー/仲新屋」は屋号「ミーヤー/新屋」の一つの呼び名で、他にも「ミーヤーグヮー/新屋小・イリミーヤー/西新屋・ウシミーヤー/牛新屋・メーミーヤーグヮー/前新屋小」など多種に渡ります。(石川門中/川端の拝所)(石川門中/川端の仏壇)(石川門中/川端の位牌/ウチナーイフェー)(石川門中/川端のヒヌカン/火の神)「ナカミーヤーヌメーヌカー/仲新屋ヌ前ヌ川」から東に20メートル程の場所に「石川門中/川端の拝所」が建てられています。「石川門中/川端」と記された表札の建物の内部には仏壇があり3基のウコール(香炉)が設置され、それぞれに花瓶、酒椀、水椀が供えられています。向かって一番左端には「石川門中/川端の位牌」が祀られており、中央に『石川家先累代之 霊位』右上から『自得宗寿信士/釋浄徳信士/木覚道全信士』右下から『徳室妙寿信女/貞室豊雲信女』と名前入れされています。沖縄の位牌は「ウチナーイフェー」と呼ばれ、位牌札は上段が男性で下段が女性と決められています。仏壇に向かって左側には「石川門中/川端のヒヌカン/火の神」が祀られ、石造りウコール(香炉)に花瓶、酒椀、水椀が供えられています。(カーバタガー/川端井戸)(瑞穂の泉の石碑)(カーバタガー/川端井戸のウコール)「石川門中/川端の拝所」敷地の南側に面して「カーバタガー/川端井戸」があります。この井戸はこの土地に昔から住んでいた「川端家」の屋敷で使われていた井戸で、隣接する拝所はその後「旧姓川端の石川門中」として受け継がれたウガンジュであると考えられます。円形コンクリートの蓋が施された井戸には「瑞穂の泉」と彫られた石碑が立っており「昭和十八年四月二十二日改修」とも記されています。さらに、井戸の北側には石造りの古いウコール(香炉)が設置されています。「前田集落」に点在する井戸のウコール(香炉)はいずれも北側を向いており、その北側の先には「舜天王・英祖王・察度王」の3王朝が10代に渡り居住した「浦添グスク」の丘陵が構えています。「前田集落」では井戸からの水の恵みを王様からの恵みと重ね合わせて敬意を込めて拝していたと思われます。
2022.07.07
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(真地大権現堂/前田の普天間グヮー)沖縄本島中南部の浦添市「経塚(きょうづか)集落」に「真地大権現堂」という洞窟の拝所があり、一説によると権現八社の1つであると伝わっています。この土地は「経塚子の方原」と呼ばれる小字の東側丘陵で「前田/経塚近世墓群」に分類される古墓群に位置しています。この古墓群からは1701年に洗骨された「我謝筑登之親雲上」と女房、さらに1757年に洗骨された「那氏平敷筑登之親雲上」と同人妻の骨が発掘されました。「親雲上/ペーチン」とは琉球士族の事で、その中でも地頭職という行政区域の領主を務めた士族は「親雲上/ペークミー」と呼ばれて区別されていました。この丘陵にある「真地大権現堂」は別名「前田の普天間グヮー」と呼ばれており「普天満宮」の女神が休憩した伝説の洞窟として知られています。(真地大権現堂の鳥居)(真地大権現堂の石獅子/向かって左側)(真地大権現堂の石獅子/向かって右側)沖縄には「普天間グヮー」と呼ばれる拝所が6ヶ所あり、その内の5ヶ所は首里と普天間の間に点在する洞窟となっており女神が休憩した場所とされています。琉球八社の1つである「普天満宮」には首里桃原に女神が出現され、のちに「普天満宮」の洞窟に籠られた縁起伝承があります。 1「普天間グヮー/女神の生誕地」那覇市首里桃原 2「普天間グヮー/西森御嶽洞窟」那覇市首里儀保 3「普天間グヮー/真地大権現堂洞窟」浦添市経塚 4「普天間グヮー/前田権現洞窟」浦添市前田 5「普天間グヮー/嘉数ティラガマ」宜野湾市嘉数 6「普天間グヮー/神山ティラガマ」宜野湾市愛知 (旧神山/普天間基地内)(真地大権現堂の龍柱/向かって左側)(真地大権現堂の洞窟)(真地大権現堂の龍柱/向かって右側)次のような「普天満女神」由来の伝承が残されています。『昔、首里の桃原に美しい乙女が住んでいました。 とても優しく気品に満ちたその容姿が人々の評判となり、島中で噂となりましたが不思議なことに誰一人その姿を見た人はいません。彼女はいつも家で機織りに精をだし、決して他人に顔を見せませんでした。彼女の神秘的な噂に村の若者達は乙女に熱い想いを寄せていたのです。ある日の夕方、彼女が少し疲れてまどろむうちに荒波にもまれた父と兄が目の前で溺れそうになっている夢を見ます。乙女は驚き二人を必死で助けようとしましたが、片手で兄を抱き父の方へ手を伸ばした瞬間、部屋に入ってきた母に名前を呼ばれて我に返り、父を掴んでいた手を思わず放してしまいました。幾日か過ぎ、遭難の悲報とともに兄は奇跡的に生還しましたが、父はとうとう還りませんでした。(真地大権現堂の賽銭箱とウコール)(真地大権現堂の洞窟内に祀られた霊石とウコール)(真地大権現堂の燈篭と手水鉢)乙女はいつものように機織りをしていましたが、その美しい顔に愁いが見えます。 神様が夢で自分に難破を知らせて下さったのに、父や船子たちを救うことができなかった悲しさが乙女の心から放れません。以来、旅人や漁師の平安をひたすら神に祈り続ける毎日でした。 乙女の妹は既に嫁いでおりましたが、ある日夫が「姉様は美人だと噂が高いが、誰にも顔を見せないそうだね。私は義理の弟だから一目会わせてくれないか。」 と頼みました。暫く考えた妹は「姉はきっと断わるでしょう。でも方法があります。私が姉様の部屋に行き挨拶をしますから、そのとき何気なく覗きなさい。中に入ってはいけません。」と答えました。(御神託拜聞記念/陳氏比嘉門中の石碑)(真地大権現堂鳥居建立/奉納者/施工者)(真地大権現堂の土地に関する案内板)「姉様しばらくでございます!」 妹の声に振り向いた乙女は、障子の陰から妹の夫が覗いているのを見つけ、途端に逃げるように家を飛び出しました。末吉の森を抜け山を越え飛ぶように普天間の丘に向かう乙女に、風は舞い樹々はざわめき、乙女の踏んだ草はひら草になってなびき伏しました。乙女は次第に神々しい姿に変わり、普天間鍾乳洞に吸い込まれるように入って行ったのです。そして、それ以来再び乙女の姿を見た人はありません。 現身の姿を消した乙女は「普天満宮」の永遠の女神となったのです。』この時に乙女が暫し休憩を取ったとされる場所が、那覇市首里から宜野湾市普天間にかけて現在も点在する5ヶ所の「普天間グヮー」と呼ばれる洞窟となっています。(真地大権現堂/鳥居の額束)(真地大権現堂の前田/経塚近世墓群の丘陵)(比嘉家納骨堂)「真地大権現堂」の土地は戦後の所有者確認作業(1946-1951年)にて所有者が確認出来なかったため、現在も「所有者不明土地」となっています。しかし「真地大権現堂」には「乾隆四拾六年 辛丑 九月拾貳日 御神拜聞記念 陳氏 比嘉門中」と彫られた石碑が建立されており、鳥居建立の奉納者は「比嘉仁和氏」であり、更に「真地大権現堂」南側の丘陵中腹には「比嘉家納骨堂」があります。「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」第62条により、この120平方メートルの土地は浦添市が管理を行なっていますが「真地大権現堂」には「比嘉家」が深く関連している事が見て取れます。ちなみに「門中/ムンチュー」とは沖縄に於ける始祖を同じとする血縁集団の事です。17世紀後半、琉球王府による士族の家譜編纂の開始以降、士族階層を中心に沖縄本島中南部で「門中/ムンチュー」が発達したのです。(比嘉門中の墓/2号墓)(比嘉門中の墓/3号墓)(比嘉家之墓/比嘉家門中之墓)「真地大権現堂」がある「経塚子の方原」の小字から北東側に「前田東前田原」と呼ばれる小字があります。この小字の中心部にある「前田小学校」北側の砂岩層(ニービ)の丘陵中腹には初期の堀込墓である「比嘉門中の墓/2号墓」の古墓があります。ここから更に北東側は「前田前田原」の小字があり「比嘉門中の墓/3号墓」の堀込墓がある琉球石灰岩が隆起した大岩があります。この古墓の敷地には新しい「比嘉家之墓」と「比嘉門中之墓」が隣接しています。「真地大権現堂」も「比嘉門中の墓」の古墓も同じ「前田/経塚近世墓群」に属しており、昔から前田集落の住民と首里から移り住んだ琉球士族の墓が多数存在しています。「真地大権現堂」は家族の健康祈願に加えて、子どものすこやかな成長を願う「子育て祈願」に訪れる人が旧暦の9月を中心にして多くなり大切に拝されています。
2022.07.02
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(アブチ川に架かる安波茶橋/北橋)沖縄本島中南部の浦添市「経塚(きょうづか)」の最北端で、県立浦添工業高校の東側に「安波茶橋(あはちゃばし)」と呼ばれる石橋があります。南橋は小湾川に、北橋はアブチ川にそれぞれ架かっており、首里から読谷方面に抜ける「中頭方西海道(なかがみほうせいかいどう)」と呼ばれる、琉球王国時代に造られた幹線道路の宿道が通っています。「安波茶橋」周辺には現在も石畳道が当時のまま残されており、このアーチ型の石橋は昔から沢山の旅人や通行人で賑わいました。アブチ川に架かる北橋から川沿いを西側に下ると丘陵の森の麓に井泉があり、琉球王国時代から現在に至るまで変わる事なく水が湧き出ています。(北橋から赤皿ガーに向かう道)(赤皿ガー/アカザラガー)(赤皿ガー/アカザラガーの拝所)「安波茶橋/北橋」からアブチ川を伝って西側に進むと右手に「赤皿ガー」が現れます。琉球王朝最後の王様であった「尚寧王(1564-1620年)」が首里城から琉球ハ社の1つである普天満宮(宜野湾市)に参拝する途中、家来が琉球漆器の赤い皿(椀)で井泉の湧き水を汲んで国王に差し出していた事から、この井泉は「赤皿ガー/アカザラガー」と呼ばれるようになりました。ちなみに「ガー」とは沖縄の言葉で井泉や井戸を意味します。井泉の右脇の小さな洞穴にはビジュル(霊石)が鎮座しており、水の神様が祀られた拝所となっています。「赤皿ガー」は琉球王国時代から原型をとどめていると言われ「尚寧王」もこの「赤皿ガー」のほとりで暫し休憩を取っていたと考えられます。(西の井/イリヌガー)(西の井/イリヌガーの手押しポンプ)「経塚の碑」が建立されている「うちょうもう公園」の西側に「西の井/イリヌガー」と呼ばれる拝井戸があります。浦添市社会福祉協議会「ひまわり学童クラブ」に隣接する契約駐車場に古井戸が残されており、古く錆びた手押しポンプが設置されています。井戸は円形に石垣で積まれており、上部はコンクリート製の蓋が被せられています。井戸の周囲は比較的広い敷地が設けられているため「西の井/イリヌガー」は水量が豊富で、周辺住民の飲料水の他にも井戸の水で衣類の洗濯や野菜などを洗っていたと考えられます。現在は手押しポンプのハンドルは折れて紛失していますが、水道が普及するまで「西の井/イリヌガー」は周辺住民の憩いの場として賑わっていたと思われます。(古井/フルガー)(古井/フルガーの石碑)(古井/フルガーの手押しポンプ)(古井/フルガーの拝所)「経塚集落」を南北に通る「経塚通り/県道153号線」の近くで経塚1丁目6番地の住宅の庭先に「古井/フルガー」と呼ばれる拝井戸があります。その名前の通り「経塚集落」に古くからある井戸で、現在も比較的に保存状態が良い手押しポンプが現存しています。井戸の脇には「ふるがー」と彫られた石碑が建立されていてウコール(香炉)が設置されています。さらに2体のビジュル(霊石)が並んで鎮座しており、古くから水の神様を石に祀り水の恵みに感謝する拝所となっています。この「古井/フルガー」は現在もカーウガン(井戸の拝み)で祈りを捧げる、神聖な場所として周辺住民に崇められています。ちなみに、この手押しポンプは「川本式ポンプ」で、昔から品質の高い井戸ポンプとして広く知られています。(御殿井/ウドゥンガー)(御殿井/ウドゥンガーの手押しポンプ)「古井/フルガー」の南側に「御殿井/ウドゥンガー」と呼ばれる拝井戸があります。琉球王国時代末期の王族である「本部朝勇」と、その弟で空手家(琉球唐手)として名高い「本部朝基」が生まれた「本部御殿」が首里赤平村にありました。かつて「本部御殿」の別邸が経塚のこの地にありましたが沖縄戦で屋敷は失われてしまいました。しかし、別邸の屋敷で使われていた井戸が現在も残っており「御殿井/ウドゥンガー」と呼ばれています。この別邸跡の近くには「本部御殿墓」があり、さらに首里から普天満宮に通じる「中頭方西海道」も近かったため「本部御殿」の人々が墓参りやお宮参りの休憩場として「経塚集落」に別邸が建てられたと考えられています。現在も「御殿井/ウドゥンガー」は王族が使用していた井戸として「経塚集落」では大切に崇められているのです。(龍巻井/ルーマシガー)(龍巻井/ルーマシガーの石碑)経塚にあるショッピングモール「サンエー経塚シティ」の敷地北側に「龍巻井/ルーマシガー」という拝井戸があり、地元では「ドゥーマシガー」とも呼ばれています。井戸にはウコール(香炉)が設置され住民により拝されています。その昔、日照りの時に龍が天に立ち昇るのを見て、その地を掘ったところ水がこんこんと湧き出たことから「龍巻井/ルーマシガー」と呼ぶようになりました。それからこの場所は「龍巻/ルーマシ」と言われ、豊富な水資源に恵まれ稲作が多く営まれました。現在「龍巻井/ルーマシガー」は大型ショッピングモールの裏手にひっそりと佇んでおり、近くには「龍巻松の木公園」が整備されて地元住民の憩いの場となっています。(夫婦河/ミートゥガー)(夫婦河/ミートゥガーの石碑)(夫婦河/ミートゥガー/夫井戸)(夫婦河/ミートゥガー/婦井戸)「経塚の碑」がある「うちょうもう公園」から「経塚通り/県道153号線」を渡った西側に「夫婦河(ミートゥガー)」の拝井戸があります。敷地には2基の井戸が並んで据えられ、それぞれにウコール(香炉)が設置されています。向かって左側の井戸蓋には「夫」と彫られており、右側の井戸蓋には「婦」と彫られています。沖縄の言葉で「夫婦」は「ミートゥ」と言い、2基の井戸にはそれぞれ丸い形の霊石が祀られています。浦添市「経塚集落」は澄んだ水が湧き出る井戸が豊富で、先人は昔から水への感謝を示す為、井戸に線香をあげて祈りを捧げてきました。琉球王国時代から残る拝井戸は「経塚集落」の歴史に欠かす事が出来ない神様からの恵みの象徴として、現在も住民により大切に守られているのです。
2022.06.27
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(経塚の碑)沖縄本島中南部「浦添市」の北側に「経塚(きょうづか)集落」があり、この集落の東端は自然豊かな「ウチョーモー/お経毛」と呼ばれる森の丘となっています。琉球王国時代に造られた首里城と読谷村を結ぶ「中頭方西海道」と呼ばれる宿道沿いにあるこの森に、浦添市指定史跡の「経塚の碑」が建立されています。尚円王統の尚真王の時代(1477-1526年)に紀州(和歌山県)の真言宗知積院の住僧である「日秀上人」が沖縄に仏教を広めていた1522年、首里から浦添に通ずる道中の丘にマジムン(妖怪)が出没して人々を困らせていました。その話は尚真王の仏教の師となった「日秀上人」の耳にも入るようになり、マジムン(妖怪)が出ると言われる浦添の丘に出向いたのです。(経塚の碑/金剛嶺の石碑)(経塚の碑のウコール/香炉)(史跡経塚の碑の記念碑)「日秀上人」は「金剛経」のお経を記した石をマジムン(妖怪)が現れる丘に埋めて、その上に「金剛嶺」と三文字を彫った石碑を建てました。すると、たちまちマジムン(妖怪)は退散して人々は安心して通れるようになったそうです。この言い伝えから「お経を埋めた丘/塚」という意味で、この土地は「経塚」と呼ばれるようになりました。さらに、この「経塚の碑」がある「毛」と呼ばれる森を地元の人々は「お経毛/ウチョーモー」と呼ぶようになりました。現在も「金剛嶺」と記された石碑が建立する「経塚の碑」にはウコール(香炉)が2基と霊石が1体祀られる拝所となっており、集落の人々は「氏神」として大切に崇めて旧暦10月1日の祈願祭が執り行われています。(お経毛/ウチョーモー)(いちゃりば兄弟の碑)(いちゃりば兄弟の碑)「経塚の碑」が鎮座する「お経毛/ウチョーモー」には「いちゃりば兄弟の碑」と呼ばれる巨大な石碑が建立されています。「いちゃりば兄弟/ちょーでー」とは沖縄の有名な言葉で「一度出会えば皆兄弟」という意味を持ちます。「経塚集落」は1944年に、周囲にある「安波茶・前田・沢岻」の3集落の一部を割いて作られた新しい集落で「日秀上人」の『お経を記した石を埋めた塚』から「経塚」と名付けられました。3つの集落が寄り集まり、一度出会えば皆兄弟の一致団結を祈願して「いちゃりば兄弟の碑」は建てられました。さらに「お経毛/ウチョーモー」は「うちょうもう公園」に整備され、緑豊かな憩いの場として地域の住民に親しまれています。(経塚橋/ちゅうちかはし)(経塚橋/ちょうちかはし)「お経毛/ウチョーモー」の北側には小湾川に架かる「経塚橋/ちょうちかはし」があります。「経塚の碑」が建てられた土地周辺は琉球王国時代から「経塚/ちょうちか」と呼ばれており、この地から生まれた、地震の際に唱える有名な呪文が昔から伝わっています。ある時、旅人が「経塚/ちょうちか」で昼寝をしていると、近くの村人が大騒ぎをしているので目が覚めました。旅人が村人に聞くと「今、大地震があったのに知らなかったのですか?」と不思議そうに答えたのです。旅人は近くの村が全て大地震で揺れたのに経塚だけはお経の力で揺れなかったと知りました。この話が広く伝わり、それから沖縄では地震の際に『ちょうちか、ちょうちか』と呪文を唱えて、地震の揺れがいち早く止むように祈願する事になったのです。(安波茶橋/石畳道)(小湾川に架かる南橋)(アブチ川に架かる北橋)(安波茶橋と小湾川)「経塚の碑」の北側に続く「中頭方西海道」に「安波茶橋」があり、現在も琉球王国時代に敷かれた「石畳道」が残っています。「安波茶橋」と「石畳道」は1579年に「尚寧王」の名で浦添グスクから首里平良までの道を整備した時に造られたとされています。首里城と中頭(なかがみ)/国頭(くにがみ)方面を結ぶ宿道(幹線道路)として人々や旅人の往来で賑わい、琉球国王もこの道を通り琉球八社の1つである「普天満宮」に参詣しました。「安波茶橋」は石造りのアーチ橋で、小湾川に架けられた南橋とアブチ川に架けられた北橋から成ります。深い谷の滝壺の側に巨大な石を積み上げる大変な難工事であった事が分かり、当時の石積みや石橋作りの技術の高さが見て取れる非常に貴重な資料となっているのです。
2022.06.22
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(安波茶樋川)沖縄本島中南部の「浦添市」に古琉球より湧き出る「ヒージャー(樋川)」があり「ヒージャー」とは湧き水から樋で引いた井泉を言います。「浦添市安波茶」に「安波茶樋川(アハチャヒージャー)」があり、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」にも記された井泉で、水道が整備される以前まで飲料水を汲む人、洗濯をする人、畑仕事の帰りに農具を洗う人など多くの住民が訪れました。地域住民の出会いや情報交換の場所としても賑わっていたと伝わります。(安波茶樋川の石樋)(安波茶樋川の名水)(安波茶樋川の洗い場)「安波茶樋川」は現在も木々が生い茂る湧き口から長い石樋を通じて豊富な水が流れ出しています。昔は石樋なの下部にタライを設置して水を受けていました。勢い良く注ぎ込む水がタライに当たる大きな音が特徴的であったと伝わっています。昭和30年代の大旱魃の際には周辺の井戸は全て枯れてしまいましたが「安波茶樋川」だけは枯れる事なく水が湧き出ていました。そのため離れた地域からも飲料水や洗濯の為に多くの人が訪れたそうです。「安波茶樋川」の周辺地域では最後まで稲作が行われていたほど水源に恵まれていたと伝わります。(澤岻樋川)「浦添市沢岻」に「澤岻樋川(タクシヒージャー)」があり、この井泉は1000年以上前に「澤岻集落」が発祥した頃から湧き出る名水として大切にされています。琉球王国時代、正月の朝には国王と国民の健康と長寿、国に繁栄と五穀豊穣を祈願した名泉です。また、元旦の朝一番に汲む「若水」を国王に献上した水として良く知られています。現在でも水量が多く湧き出ており、正月には沢山の人々が「澤岻樋川」に若返りの効果があるとされる「若水」を汲みに訪れます。(澤岻樋川の溜め池)(澤岻樋川の拝所)「澤岻樋川」は崖下の岩と「クチャ」と呼ばれる世界で沖縄でしか採れない泥岩の地層の間から水が湧き出て、自然のガマ(洞窟)に水が溜まる仕組みになっています。水量が豊富で非常に澄んだ水は大雨が降った後でも濁ることはありません。綺麗な水質を好むウナギやモクズガニの生息も確認されており、現在でも飲料水として周辺住民の生活に欠かせない名水となっています。「澤岻樋川」には拝所がありウコール(香炉)にヒラウコー(沖縄線香)がお供えされています。水の神様に水源の感謝を祈る神聖な場として地域の人々に崇められてらいるのです。(澤岻樋川のガマ)(澤岻樋川の水路)「澤岻ヒージャー」を管理する玉城弘さんによると、玉城さんの祖父母がまだ子供の頃に国王の健康と国の安泰を祈願する「首里城お水取り」と呼ばれる行事が行われており、元旦に巫女(ノロ)が白馬に乗って「澤岻樋川」で汲まれた水を首里城に届けたそうです。この白馬は「首里城お水取り」の行事の時のみ使われ、井戸にはこの白馬を繋ぐ専用の石が設置されていました。琉球王国に献上する水が湧き出る「澤岻樋川」は神聖な井泉として周辺住民の祈りの対象として崇められていたのです。(仲間樋川)(仲間樋川の石樋)(仲間樋川の溜池)「浦添市仲間」に「仲間樋川(ナカマヒージャー)」があります。「琉球国由来記(1713年)」にも記される歴史の長い「仲間樋川」は、その当時から井泉には石樋が掛けられていました。昭和10年に改修されコンクリートで溜池や平場が造られ井泉は拡張し、現在の石積みは戦前から残っているものとなります。子供が生まれた時の産水(ウブミジ)を汲んだウブガーであり、元旦に汲んだ若水(ワカミジ)を中指で浸し額を撫でるミジナディ(水撫で)と呼ばれる儀式で子供の健康を祈願しました。また、結婚式でも新郎新婦にミジナディを行い新婚夫婦の幸せを祈りました。(仲間樋川の平場)(仲間樋川の水槽)(仲間樋川のウマアミシ)琉球石灰岩の洞穴から湧き出た水は石造りの樋で導かれ溜池に注ぎ込み、飲料水から洗濯用水、雑用水から灌漑用水へと循環させて貴重な水の恵みを有効的に利用していました。「仲間樋川」の平場には3箇所に十字(約24 x 21cm/中央)が刻まれた場所があり、刻印はその位置から内側で洗濯をしてはいけない意味を示しています。平場の脇には石造りの水槽があり水を溜めて洗濯や行水が行われていました。最終的に湧き水はウマアミシと呼ばれる馬の水浴びをさせる場所に注ぎ込みます。更にウマアミシの水は農具や農作物を洗うためにも使用されていました。(平場に刻まれた十字/中央)(仲間樋川の竣工記念石碑)井泉は水の神が宿る神聖な場所として祈りの場所となっています。カー拝み(カーウガミ)はカーウガンや井戸詣(カーメー)とも呼ばれ、集落の年中行事で水の恵みへの感謝や住民の健康や集落の繁栄を祈願していました。現在でも旧暦の5月と6月のウマチー(豊作祈願/感謝祭)や12月の御願解きの祭祀の際に住民により拝まれています。首里に琉球王府が置かれる以前に220年間の繁栄を極めた「浦添グスク」周辺を潤したヒージャー(樋川)は、現在でも決して枯れる事なく聖なる水が湧き出ているのです。
2022.01.07
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(牧港テラブガマ)「テラブガマ」は沖縄本島中南部、国道58号線沿いの浦添市「牧港(まきみなと)」にあるガマで、沖縄の方言で「ティラ」とも呼ばれる琉球石灰岩で形成された自然洞窟です。「ティランガマ」とも呼ばれる洞窟内の広さは約30平方メートルで、現在は御嶽として多くの参拝者が訪れる拝所となっています。沖縄戦の際には「テラブガマ」は防空壕として利用され、子供から年寄りまで多くの住民が集団自決した悲劇の場所としとも知られています。(牧港の殿)(テラブガマ入り口の拝所/右側)(テラブガマ入り口の拝所/左側)「テラブガマ」洞穴の外にある前庭は「牧港の殿(トゥン)」と呼ばれる祭祀場で、現在はソテツ(蘇鉄)が生い茂っています。石段を下ってガマに入るとガマの入り口を守るように左右両側に拝所があり、それぞれ円形に数個の石が組まれて中央には霊石が祀られています。多くの参拝者がヒラウコー(沖縄線香)やウチカビ(あの世のお金)をお供えする神聖な場所となっています。この「テラブガマ」には洞窟が所在する「牧港(まきみなと)」の地名の由来となった有名な伝説が残されています。(テラブガマ内部の1つ目の拝殿)(1つ目の拝殿の左側にある拝所)源頼朝と源義経の叔父にあたる「源為朝(ためとも)」は平安時代の武将でした。身長が2mを超える巨体に加え気性が荒く、強弓の名手で「鎮西八郎」と名乗り、周囲からは剛勇無双と恐れられていました。1156年の「保元の乱」では父親の「源為義」と共に「崇徳上皇」方に加勢いしましたが戦に敗れ島流しになります。伊豆大島に流される時に暴風雨が起こり「為朝」は天を仰いで『運命天にあり、余何ぞ憂えん』と言い運を天に任せました。その数日後に沖縄本島今帰仁(なきじん)のある港にたどり着き、その漂着した地を「運天(うんてん)港」と名付けたのです。(テラブガマの2つ目の拝殿)(2つ目の拝殿の左側にある拝所)その後「為朝」は沖縄本島南部の現南城市に移り住み「大里按司」の娘である「思乙(おみおと)」を妻に迎えて男児の「尊敦(そんとん)/後の舜天王」が生まれました。やがて「為朝」は京都に攻めて「平氏」を打ち破ろうと妻子と共に浦添の港から船出しましたが、伊江島付近に来ると急に暴風が起こり進めなくなったのです。船頭に「女が乗っているから竜宮の神が怒っているのだ」と言われ、仕方なく幼子の「尊敦(舜天)」と妻の「思乙」を港に降ろし「為朝」は一人日本に帰ったのでした。(テラブガマの最奥の拝殿)(テラブガマ内部の甕)(テラブガマの石柱)それから4年後「為朝」は八丈島で20余隻の船、500余りの朝廷の兵に敗れ切腹をして自害したのです。沖縄に残された妻の「思乙」は必ず帰ってくるという「為朝」との約束を信じて、今日帰るか明日帰るか、と毎日「テラブガマ」で暮らしながら待ち続けましたが虚しく月日が流れるばかりでした。「思乙」と「尊敦(舜天)」が待ちわびた港である「待港(まちなと)」が現在の「牧港(まきみなと)」となったと伝わっているのです。「テラブガマ」は古より五穀豊穣、家内安全、航海安全を祈る拝所の洞窟でした。今日は沖縄戦で集団自決したは人々の魂を鎮める拝所も祀られている歴史が詰まったガマとなっています。(牧港ガー)「牧港テラブガマ」の南側に「牧港ガー(マチナトガー)」という井泉があります。地元では「シマヌカー」や「ウブガー」とも呼ばれる湧き水で、正月の若水や子供が生まれた時の産水に使用されていました。干ばつでも枯れないほど水量が多く、とても美味しい水で有名だったと伝わります。「牧港ガー」の水は近くのクムイと呼ばれる池に貯められ、洗濯用水から馬や牛の水浴び用水、その後に田畑に流れ込む仕組みになっており、湧き水を最後まで有効利用する工夫が為されていました。(タチチガー/立津ガー)(タチチガーの拝所)「牧港ガー」の南側で「伊祖グスク」の東側に「タチチガー(立津ガー)」という井泉があります。「タチチバル(立津原)」にある事からこの名称で親しまれており、また近くに「伊祖グスク」がある事から「イージュガー(伊祖ガー)」という別名もあります。「琉球国由来記(1713年)」には「伊祖グスク」の用水にも使用されていた記述があり「英祖王」との深い関わりがあり「天人由来(羽衣伝説)」が残る由緒ある湧き水です。昔はガマ(洞窟)から水が湧き出ていましたが、時代と共に修復され現在の形になっています。「タチチガー」には拝所があり祠内には3つの霊石が祀られています。昔から住民により水の神様に感謝を捧げる聖地となっているのです。
2021.12.27
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(浦添グスクの城壁/復元)沖縄本島南部の浦添市にある「浦添グスク」は12世紀から15世紀はじめにかけて「舜天」「英祖」「察度」の3王朝10代に渡り居住したと伝わるグスクです。「浦添グスク」頂上の広場西側にある城壁は、戦後の採石により石材が持ち出されました。城壁のほとんどが残っていなかった為、発掘調査の結果に基づいた整備により復元されました。この城壁は残っていた切り石を生かし、失われた部分に新しい切り石を積み上げる事により復元しました。(伊波普猷の墓)(伊波普猷の墓の顕彰碑)「浦添グスクの城壁」から西側に坂道を下ると「伊波普猷(いはふゆう)の墓があります。「伊波普猷」は明治9年に那覇に生まれました。本土に渡り東大(帝国大学)在学中から、浦添が首里以前の古都であった事を最初に論じた「浦添考」など優れた論文を発表しています。東京で亡くなった後「伊波普猷」の研究にゆかりの深い浦添の地に墓が造られ葬られています。顕彰碑には「おもろと沖縄学の父伊波普猷、彼ほど沖縄を識った人はいない、彼ほど沖縄を愛した人はいない、彼ほど沖縄を憂えた人はいない、彼は識った為めに愛し、愛した為めに憂えた、彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった」と刻まれています。(仲間クシバル遺跡)(仲間あさと原の印部土手)「浦添グスク」の北西側に「仲間クシバル(後原)遺跡」があります。「浦添グスク」と同時期の13〜14世紀に栄えた集落の跡となっています。発掘調査の結果、建物の柱穴や炉跡、更に集落を分けた溝などが発見されました。遺跡は現在「浦添グスク/ようどれ館」の施設と駐車場となっています。「仲間クシバル遺跡」の北側には「仲間あさと原の印部土手」があり、検地(徴税のための土地測量)の基準点に使われていました。「ハル石」と呼ばれる中央の石には地名「あさと原」と片仮名の「ス」一文字が刻まれています。周りには「ハル石」が倒れないように根張石が埋め込まれています。(アトゥガー)(ノロガー)「仲間集落」の北東端に「アトゥガー」と呼ばれる井泉があり、戦前は周囲に住む人々の飲み水や生活用水として使用されていました。「アトゥガー」の辺りは「アトゥモー」と呼ばれ、海に往来する船がよく見える見晴らしの良い場所で、船で本土に出稼ぎに行く地元の人々を婦人達が太鼓を叩き歌いながら見送っていました。「アトゥガー」の南側には「ノロガー」があり、かつて「仲間集落」の祭祀を司った「浦添ノロ(神女)」が身を清める際に使用されました。そのため「ノロガー」は生活用水の他にも、信仰対象として人々に拝まれていました。現在も「ノロガー」からは聖なる水が湧き出ています。(ウマチモウ/御待毛)(中頭方西海道の案内板)「ノロガー」の東側に「ウマチモウ(御待毛)」と呼ばれる場所があります。琉球王国時代に「仲間集落」には首里から読谷に向かう「中頭方西海道」と、宜野湾の普天満宮に向かう「普天満街道」の2つの大きな公道がありました。この場所は2つの道の分岐点にあたり、首里と地方を往来する琉球国王や役人を「仲間集落」の人々が出迎える事から「ウマチモウ(御待毛)」と呼ばれていました。ちなみに「モウ(毛)」とは沖縄の言葉で「広場」や「原っぱ」を意味します。画像の食堂に向かって左側の道は読谷方面に向かう「中頭方西海道」で、右側の道は宜野湾方面に向かう「普天満街道」となっています。(クバサーヌ御嶽)「ウマチモウ(御待毛)」の南東側に「クバサーヌ御嶽」があり「仲間集落」発祥の地と伝えられています。「琉球国由来記(1713年)」には「コバシタ嶽」と記されています。「コバシタ」とは「クバの木の下」という意味であると伝わっています。この一帯は「ウガングヮーヤマ」と呼ばれ、集落の古老によると御嶽の近くには石で積み封じた神墓があったと伝わります。また、遠い昔にはクバの木の下で子供を出産する習わしがあったそうです。祠内にはウコール(香炉)と霊石が祀られ「仲間集落」では5月と6月のウマチー(稲二祭)には住民の村拝みで祈られています。(仲間ンティラ)(仲間ンティラの祠内部)「クバサーヌ御嶽」の南側で「仲間自治会館」の敷地内に「仲間ンティラ」と呼ばれる拝所があります。「ティラ(テラ)」は奄美や沖縄地方に分布しており、その多くは洞穴となっています。「ティラ」は仏を祀る寺ではなく、集落の神が鎮座する場所であると考えられています。「仲間ンティラ」の横穴洞窟は「琉球国由来記(1713年)」に記されている「長堂之嶽」にあたるとされています。旧暦正月の初拝み、5月と6月のウマチー(稲二祭)、12月の御願解きなどの年中行事には「仲間集落」の人々に拝まれています。(仲間樋川/フィージャー)「仲間樋川(フィージャー)」は浦添市内で最も大きな井戸の一つで「仲間集落」の村ガー(共同井戸)として大切にされてきました。「樋川(フィージャー)」とは湧き出る水を樋で導き、水を容易に汲み取れるようにした井泉のことです。「琉球国由来記(1713年)」には「中間泉(中間邑にあり樋川と俗に曰う)と記述があり、その時代から既に樋が掛けられていた事が分かります。「樋川」の清らかな水は人の体を育て健康を保つ特別な霊力(セヂ)があると信じられ、人々の信仰対象になり地域の拝所となっています。(地頭火ヌ神)(地頭火ヌ神の祠内部)「仲間樋川」の西側に琉球王国時代から現在も残る「地頭火ヌ神」があります。「浦添間切番所(現在の役所)」の近くにあった事から「惣(そう)地頭火ヌ神」であると伝わり、間切を領地とした士族が地頭に就任や退任した時に祈られていました。「地頭火ヌ神」の祠は琉球石灰岩の切り石で組まれ、祠内部に安置された3つの霊石とウコール(香炉)は現在も形良く残されています。琉球王府の公的な祭祀として、浦添ノロが執り行うウマチー(稲二祭)に「地頭火ヌ神」が拝されていました。(浦添間切番所跡)浦添郵便局の北側から浦添市立浦添中学校の正門辺りにかけて、かつて「浦添間切番所」がありました。「番所」には地頭代をはじめとする地方役人が置かれ、琉球王府の命を受け「浦添間切」の行政を担いました。また、琉球国王の普天満宮参詣の際には休憩所として利用されました。「浦添間切番所」は南西に構え、樹齢が高い老松が枝を広げてフクギやソテツが植え連なった美しい施設であったと伝わります。更に敷地内には浦添小学校が開校し、浦添の教育発祥の地としても重要な場所となっています。(仲間交番のおもろの碑)「浦添間切番所跡」の東側に「仲間交番のおもろの碑」が建立されています。古い沖縄の神歌を集めた歌謡集「おもろさうし」に登場する一首です。『一 うらおそいの ね國 もゝと つも こがね うらおそいど ありよる 又 とかしきの まくに』「浦添はいつまでも黄金がたまるほどの繁栄が続く。これほどの栄華は浦添にしか見られない」と謳われています。(龍福寺跡)浦添私立浦添中学校の校庭西側には、かつて「龍福寺」と呼ばれる琉球王府の官寺があり、第一尚氏以前の歴代国王が祀られていました。「琉球国由来記(1713年)」によると「龍福寺」は昔「極楽寺」と呼ばれ「英祖王」の時代に「浦添グスク」の西側に建てられました。その後「前谷」という場所に移動した後に火災に遭い、この場所に移されて「龍福寺」と改名されました。1609年の薩摩侵攻の際に焼き払われ、のちに「尚寧王」により再建されました。現在「龍福寺」は沖縄市泡瀬の「泡瀬ビジュル」東側に移設されています。
2021.12.15
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(浦添グスクの城壁)沖縄本島の浦添市に「浦添グスク」があり、グスクは隆起珊瑚礁が約400m続く断崖の上に築かれています。「舜天王」の時代に創建され12〜15世紀初頭にかけて「舜天王統」「英祖王統」「察度王統」が10代に渡り居住したグスクと伝えられています。グスク内の建物は改築を繰り返しましたが、1609年の薩摩侵攻により焼失してしまいました。また「浦添グスク」は沖縄戦において激戦地となり日本軍と米軍共に多数の死傷者を出しました。(ディーグガマ)(ディーグガマ内部の拝所)「浦添グスク」の頂上広場の西側に「ディーグガマ」があります。鍾乳洞が自然陥没して出来たガマ(洞窟)の御嶽で、デイゴ(ディーグ)の大樹があった事から「ディーグガマ」と呼ばれるようになりました。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に「浦添グスク」内の御嶽について記されており、その中に「渡嘉敷嶽」という名前が見られ、それが「ディーグガマ」にあたると考えられています。ガマの入り口は2箇所あり千羽鶴が供えられています。沖縄戦後にガマの内部に遺骨を収めていましたが、後に糸満市の「摩文仁」に移動されました。(浦添王子遺跡の碑)(ディーグガマの拝所)「ディーグガマ」に向かって右側に「浦添王子遺跡」の石碑が建立されています。「浦添王子」は「浦添朝満(1494-1540)」です。琉球王国第二尚氏王統の第3代「尚真王」の長男でしたが、王位を継ぐ事はなく弟の「尚清」が第4代の王となりました。死後は一旦「浦添ようどれ」に葬られましたが、弟の「尚清王」により琉球王家の陵墓である「玉陵(たまうどぅん)」に移葬されました。「浦添王子遺跡」には「浦添朝満」の魂が祀られています。更に、この石碑に向かって右側には拝所があり霊石とウコール(香炉)が供えられています。(ハクソー リッジ/前田高地の碑)(アメリカ陸軍工兵隊の調査標識)「浦添グスク」頂上の広場北側に「前田高地」と呼ばれる沖縄戦での激戦地跡が残されています。この丘陵一帯は米軍に「Hacksaw Ridge/ハクソー リッジ」と呼ばれていました。米軍の攻撃は北側丘陵の断崖絶壁を正面とし、頂上まで登り詰めた米軍に日本軍が猛烈な戦術を仕掛けました。激しい攻撃を浴びせられた米軍は退却の際に多数の負傷兵が取り残されたのです。「ハクソー リッジ/前田高地の碑」の岩の麓には金属製の「アメリカ陸軍工兵隊の調査標識」が埋め込まれています。(デズモンド ドス ポイント)「Hacksaw Ridge/ハクソー リッジ」は2016年のメル ギブソン監督による米国伝記映画「Hacksaw Ridge」の舞台になり話題になりました。実話に基づくこの映画では、宗教上の理由から武器を持たない衛生兵「デズモンド ドス」が日本軍の猛烈な砲火のなか数多くの兵の命を救った事が描かれています。後に「デズモンド ドス」は名誉勲章(メダル オブ オウナー)が授けられました。この「Hacksaw Ridge/前田高地」の地点は「Desmond Doss Point/デズモンド ドス ポイント」と呼ばれています。(浦添グスク正殿跡)(トゥン/殿)この遺構は1998年に行われた発掘調査で発見されたもので、縁石が置かれ石が敷かれている様子が確認されています。他にも石列や柱の跡と思われる穴などが見つかっています。これらの遺跡は、この場所に正殿があった事を示すものと考えられます。遺構がある広場は「トゥン(殿)」と呼ばれ、ウマチー(豊作祈願/感謝祭)の際に「仲間集落」と「前田集落」が合同で祭りを行なっていました。神々が通る門を表現した2本の竹を結び合わせたアーチを作り、それに向かってノロ(祝女)や参列者が手を合わせて祭りを開始したそうです。(ワカリジー/為朝岩/ニードルロック)(ワカリジーの拝所)「ワカリジー」は「浦添グスク」の南島端に位置する岩で、頂上の標高は148mと浦添市内で最も高い場所となっています。「琉球国由来記(1713年)」には「小城嶽」と記され「為朝(ためとも)岩」とも呼ばれています。沖縄戦の際には米軍に「ニードルロック(針のような岩)」と呼ばれ、日米両軍の間で激しい争奪戦が繰り広げられました。「ワカリジー」は「英祖王」とノロ(祝女)との間に生まれた「イソノシー(伊祖の子)」を祀った場所とされ、ウコール(香炉)や霊石柱が設置される拝所となっており、首里や那覇から多くの人々が参拝に訪れていました。(浦添グスクの前の碑)(石畳道)(カラウカー)「浦添グスク」の南側丘陵に「浦添グスクの前の碑」が建立されています。この石碑は1597年に「浦添グスク」と首里を結ぶ「石畳道」を整備した時の竣工記念碑です。石碑の表には平仮名で琉球文、裏側に漢文で「尚寧王」の命で国民が道路を作った様子が記されています。碑首は16世紀の琉球王国の象徴文様である「日輪双鳳雲文(にちりんそうほううんもん)」で飾られています。石碑の前の大岩は「馬ヌイ石」と呼ばれ、馬に乗る為の踏み台だと言われています。元の石碑は沖縄戦で台座もろとも破壊されたため1999年に復元されました。「石畳道」の脇には「カラウカー」と呼ばれる井泉跡が現在も残されています。(カガンウカー/鏡川)(泡盛「宝船」のラベル)「浦添グスクの前の碑」の南側に「カガンウカー(鏡川)」と呼ばれる井泉があり、旧暦5月6月のウマチー(豊作祈願)や旧暦12月のウガンブトゥチ(拝願解き)などの年中祭祀で「仲間集落」の人々により拝まれていました。「カガンウカー」の水は琉球国王に献上された名水として知られており、水面を鏡の代わりに使用するほど澄んでいました。戦後は「カガンウカー」から湧き出る水で「宝船」という泡盛を造っていました。「宝船」はかつて浦添にあった「宝船酒造場」の地酒で、宝物を沢山積んだ船の帆に「宝」の文字が描かれた印象的なラベルでした。酒造場は本土復帰前に倒産しましたが、現在も「幻の酒」として浦添市教育委員会文化課で保管されています。(シーマヌウタキ)「カガンウカー」の西側にある深い森の奥に「シーマヌウタキ」と呼ばれる聖域があります。この御嶽は「仲間集落」の拝所で旧暦5月と6月のウマチー(豊年祈願)や旧暦12月のウガンブトゥチ(拝願解き)など年中祭祀の際に村拝みが行われています。琉球国時代の地誌「琉球国由来記(1713年)」によると「シマノ獄」(神名:シマノ御イベ)と記されています。沖縄戦の前までは「シーマヌウタキ」にはウコール(香炉)が供えられ灯籠が2つ設置されていました。(ユムチガー/世持ウカー/アガリガー)「シーマヌウタキ」の南西側で「浦添市立浦添小学校」の体育館東側の森に「ユムチガー」があります。小学校の敷地内という事で、事務所にて教頭先生の許可を貰い見学させて頂きました。この井泉は「世持ウカー」や「アガリガー」とも呼ばれ、石を積んで水を溜める造りとなっており「仲間集落」のウマチー(豊作祈願)では浦添ノロをはじめとする神女たちに拝まれていました。更に、隣接する「前田集落」ではこの井泉を「ヌヌサラシウカー(布さらし御井)」と呼んでいたそうで、戦前は芭蕉や布を洗うことにも利用されていました。(暗しん御門)(浦添ようどれのアーチ石門)「浦添グスク」北側の丘陵に「暗しん御門(くらしんうじょう)」と呼ばれる場所があります。造られた当初は加工した岩盤と石積みで造られたトンネル状の通路でした。「暗しん御門」は薄暗く冷んやりしており、地下通路を通って"あの世"に通じる様な雰囲気だったと伝わります。トンネル状であった通路は沖縄戦で破壊され天井部分が崩落してしまいました。「暗しん御門」を通過して更に進むと「浦添ようどれ」のアーチ石門に辿り着きます。(英祖王の墓)(ようどれの碑文)(尚寧王の墓)「浦添ようどれ」は向かって右側の西室に13世紀に造られた「英祖王の墓」があります。向かって正面には「ようどれの碑文」の石碑があり1620年に「英祖王の墓」が「尚寧王」により改修された経緯が記されています。更に、向かって左側の東室は「尚寧王の墓」となっており、彼の一族と共に葬られています。両方の墓室には遺骨を収める石厨子が安置されています。沖縄戦や戦後の採石で「浦添ようどれ」は徹底的に破壊されてしまいましたが、2005年に戦前の荘厳な姿を復元しています。ちなみに「ようどれ」とは「夕どれ」の事で、夕方に波風が鎮まる"極楽の夕凪"を意味しているのです。
2021.12.12
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(伊祖公園のガジュマル)今から600年前、沖縄県中南部にある浦添市は琉球王国の王宮がある都として栄えていました。その後、都が首里に移ってからも「浦添グスク」に居住していた「尚寧」が王位に就いていた時代もありました。琉球王国の中心であった時代の浦添市は「裏うらを襲う(治める)土地」という意味で"うらおそい"と呼ばれていました。「おもろ」は沖縄と奄美の村や間切の祭り、王府の祭りの際に謡われた神に捧げる歌で「神への言葉」だと考えられています。(めじろ公園のおもろの碑)浦添市「沢岻(たくし)」の「めじろ公園」の敷地内に「めじろ公園のおもろ碑」があり「尚清王」の名付け親だった沢岻親方盛里(?〜1526年)を讃えた「おもろ」だと言われています。盛里は中城城主であった「護佐丸」の孫で、中国から王を乗せる「鳳凰轎(ほうおうきょう)」と首里城崖下龍樋の「吐水龍頭」をもたらした事で知られています。『一 たくし たらなつけ 國 こおり うらのかず とよまちへ つかい 又 よかる たらなつけ』「たくしたらなつけ(沢岻太郎名付け)」と呼ばれた沢岻盛里の名声が、国・郡・村々まで鳴り轟き、多くの人々に慕われている様子を歌っています。(仲西公民館のおもろの碑)浦添市「仲西(なかにし)」の「仲西公民館」にある「仲西公民館のおもろの碑」です。「仲西」のすぐれた真人と尊称される人物(にくげ按司)が、朝に夕に、鈴富という名の船を操り干瀬(リーフ)の多い難所を巧みに航海する情景を褒め讃えた歌です。『一 つるこ にくげ あぢはゑ きよらや ほこら 又 よかる にくげ 又 中にしの ゑらびま人 又 あさどれに 世どれに 又 すづとみは はやとみは 又 ゑなんわたて ぢいだかわたて』「ゑなん(伊那武)」「ぢいだか(自謝嘉)」は那覇港の北西にある干瀬(リーフ)のことだと思われ、また「ゑらびま人」とは選りすぐった立派なお方という意味です。この歌は「仲西」の名が登場する数少ない「おもろ」のひとつです。(屋富祖公民館のおもろの碑)浦添市「屋富祖(やふそ)」の「屋富祖公民館」の敷地に「屋富祖公民館のおもろの碑」があります。「親富祖の大親」と「又吉の大親」と呼ばれる村の役人が、王に献上物を届ける状況を詠んだものです。この場合の「王」は浦添グスクを治めた城主、あるいは首里城の王のことだと考えられます。『一 おゑやふその大や 大やこがかない のぼていけば てだがほこりよわちへ 又 またよしの大や 大やこがささえ 又 けおの世かるひに 大やこがさゝげ 又 けおのきやがるひに』「親富祖」の"ムラ"は17世紀に廃止され「屋富祖村」に吸収されたと推定されます。「屋富祖」を直接詠んだ「おもろ」が他にないことから、この「おもろ」が「屋富祖」にかかわる唯一のものとなっています。(泉小公園のおもろの碑)浦添市「城間(ぐすくま)」に「泉小公園」があり「泉小公園のおもろの碑」が建立されています。「城間」と「又吉」の長老様がいらっしゃる広庭に、神女(ノロ)たちよ天降りして祭をしなさい、という「おもろ」です。古琉球の"ムラ"には男性の長老がいて、神々に祈る役割は神女たちが受け持っていました。『一 ぐすくまの あさいによ あさいによ ひろみやに おれなおせ かみた かみ 又 またよしの あさいによ』「またよし(又吉)」は「城間」の隣にあったと伝わる"ムラ"の名前です。神祭りをする広庭で神女たちが、神歌を歌い踊る様子を謡った「おもろ」です。(牧港漁港のおもろの碑)浦添市「牧港(まきみなと)漁港」の公園に「牧港漁港のおもろの碑」があります。この「おもろ」は莫大な利益をもたらす中国との進貢貿易に成功した「察度(さっと)王」を褒め讃えた歌です。このような偉業を成し遂げた「ぢやなもい」は誰の子か、こんなにも美しい、こんなにも見たいものだと謳い上げています。『一 ぢやなもひや たがなちやる くわが こがきよらさ こがみぼしや あるよな 又 もゝぢやらの あぐで おちやる こちやぐら じやなもいしゆ あけたれ 又 ぢやなもいが ぢやなうへばる のぼて けやけたるつよは つよからど かばしやある』「ぢやなもい」とは「察度王」の童名を意味します。「察度王」の使者「泰期(たいき)」は中国泉州から皇帝のいる南京まで進貢の旅をしました。この石碑は泉州市と浦添市の友好都市締結を記念して、泉州から中国産の青石(輝緑岩)に文字を刻んで寄贈されたものです。(伊祖公園のおもろの碑)浦添市「伊祖(いそ)公園」の丘の上にある「伊祖公園のおもろの碑」です。「英祖王」は1260年に「中山王」となり「英祖王統」を開いた人物で「ゑぞのてだ(伊祖の太陽)」と称された偉大な王です。その「英祖王」の居城が現在「伊祖公園」がある「伊祖グスク」と言われています。『一 ゑぞのいくさもい 月のかず あすびたち ともゝと わかてだ はやせ 又 いぢへきいくさもい 又 なつは しげち もる 又 ふよは 御ざけ もる』「ゑぞのいくさもい」とは「英祖王」の童名だと言われています。この「おもろ」は「ゑぞのいくさもい」が夏はしげち(神酒)、冬は御酒と毎月のように神遊びを催している。いつまでも若てだ(英祖王)様が栄えるように、という内容が謳われています。(あさやら公園のおもろの碑)浦添市「浅野浦(あさのうら)」に「あさやら公園」があり、敷地内に「あさやら公園のおもろの碑」が建立されています。浅野浦の土地は元来殆どが伊祖の小字で「伊祖グスク」に関わる由緒ある土地でした。この「おもろ」は伊祖の堅固で立派なグスクは「アマミキヨ」が造ったグスクで、見事な「伊祖グスク」だという意味です。『一 ゑぞゑぞの いしぐすく あまみきよが たくだるぐすく 又 ゑぞゑぞの かなぐすく』「いしぐすく」と「かなぐすく」は共にグスクの美称であり「あまみきよ」は琉球神話の琉球開闢(かいびゃく)の始祖神です。この「おもろ」は「伊祖グスク」が悠久の昔から栄えるグスクとして讃えています。(運動公園メインゲート前のおもろの碑)浦添市「仲間(なかま)」に「ANA SPORTS PARK浦添(浦添運動公園)」があり、メインゲートには「運動公園メインゲート前のおもろの碑」があります。浦添は酒が満ち溢れている豊かな土地だ。その土地に感謝して酒宴を開こうという内容の「おもろ」です。『一 うらおそいや うらおそいや みきどあるな さけどあるな たしや たしや きよや きよや よゝせによがかちへ つかい 又 とかしきや とかしきや さけどあるな みきどあるな』「みき(神酒)」や「さけ(酒)」があることは豊かな土地づある事をいみしています。「たしや(多謝)」と琉球語と不釣り合いな漢語を交えながら、おもしろく浦添の土地を褒め讃えています。(仲間交番前のおもろの碑)この歌碑は浦添市「仲間(なかま)」の「仲間交番」の脇にある「仲間交番前のおもろの碑」です。「浦添」は黄金が寄り集まり、永久に黄金が積もるほど繁栄が続いている、これ程の土地は「浦添」以外に見られないという内容の「おもろ」です。『一 うらおそいの ね國 もゝと つも こがね うらおそいど ありよる 又 とかしきの まくに』「うらおそい」とは国の中心地になってから浦々を治めるという意味です。「もゝと」は百年で永遠を意味し「ね國」と「まくに」は国の中心を意味する褒め言葉です。更に「とかしき」は浦添の古い地名を意味しています。(浦西中学校正門前のおもろの碑)浦添市「当山(とうやま)」にある「浦添市立浦西中学校」の正門前に「浦西中学校正門前のおもろの碑」が建立されています。名高い「按司襲い様」が浦添グスクの「世の頂」におられるので太陽(神)も喜んでいらっしゃる、という意味の「おもろ」です。『一 きこゑあぢおそいや うらおそいに ちよわれば てだが ほこりよわちへ 又 とよむあぢおそいや 世のつぢに ちよわれば』「あぢおそい」は按司(領主)を襲い(治める)者で浦添グスクの王を意味します。「世のづち(頂)」は浦添グスクの中にある聖地で、浦添の美称としても使われています。「てだ」は太陽の意味ですが、王や按司も「てだ」と呼ばれて尊敬されていました。(伊祖公園のガジュマル)「おもろ」には初めに「一」とあり、更に「又」とあります。これは一種の音楽記号で「一」は始まりを意味し「又」は音楽上の繰り返しを意味する記号です。「おもろ」では土地を褒め、領主を讃え、豊かな実りを願い、航海の安全を祈っています。また歴史上の人物を賛美し、戦の事も謳っています。「おもろ」は琉球王国第4代「尚清王」の嘉靖10年(1531年)から「尚豊王」の天啓3年(1623年)にかけて首里王府によって編纂された、22巻の歌謡集である「おもろそうし」にまとめられています。
2021.11.29
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