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1989年4月。結婚式を終えたわたしの行き先は新婚旅行ではなく、病院のベッドであった。余命一年の宣告を受けてから半年が過ぎていた。三井記念病院は当時心臓手術では国内で最も忙しい病院であった。一人の天才心臓外科医を頼って、日本中から患者が集まっていた。世界で5本の指に入る「神の手」を持つ心臓外科医。TVドラマ医龍のモデルにもなっている人物である。最前線で戦う病院とはこのように常にベッドは満員、予約が半年先までぎっしり埋まっているまさに戦場であった。9時間近くにも及んだ大手術から生還し、最新医療や家族、そして善意ある人たちに支えられて20年の歳月を生かしてもらった。昨年6月の循環器外科で主治医から告げられた言葉がわたしの心に重くのしかかる結果になるとは全く予想もしていなかった。20年前、執刀医は言った。「神戸さん、3回目はありませんからね、安心してください。」その言葉をこの20年信じて生きてきた。しかし、病魔は足音も立てず、わたしの心臓を再び蝕んでいったのである。「神戸さん、手術しないとまずいです。」「え?...」わたしは冗談だと思った。有り得ない、そんなことは絶対有り得ない...。頭の中が混乱し収拾がつかないまま、診察室を後にした。3回目の手術?しかも、前回手術した部位ではなく、三尖弁閉鎖不全。僧坊弁閉鎖不全は子どもの頃に罹患し、打つ手なし。と言われていた。長い闘病生活の末、19歳で1回目の弁形成術を受けた。そして13年後に人工弁置換術を行った。そしてみたび傷口をさらけ出し、内臓を外気に触れさせ、傷だらけの心臓に三度目のメスが入る。命の保証はない。詩集「天国の地図」冒頭の詩「手術台に上がれば」その恐怖がまたもわたしを襲うのである。しかしもう逃げる訳にはいかない。今のままでは10年持たない。人はよくわたしのことを強運の持ち主と呼ぶ。自分の人生を振り返るとまさに「強運」としかいいようのない人生を送ってきた。だから大丈夫、最初の手術の時、亡き父が現れわたしの心臓に生命の息吹を吹き込んで行った。あの出来事は今でも忘れない。わたしは大きな愛に守られている自分を感じている。この命、今終わらせる訳にはいかない。鋼鉄の心臓を手に入れ、やるべきことを果すまでわたしは死なない。1月29日、入院します。
2008.01.28
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先日は東京都内でも二年振りの雪になり、僅かではあったが薄っすらと雪景色を見ることが出来た。雪にあまり馴染みがないので、雪がやってくるとつい子ども心に帰ってしまい、白銀の世界を自分の足で楽しむのだが、今年は手術を目の前にしていることもあり、寒さは心臓に堪えるので、二階の窓から降り積もった雪を眺めるだけに留まった。この時季、心臓発作などで倒れ、命を落とす老人が多くなる。そしてその場所が風呂場であること。家の気温と風呂場の気温差があまり離れていると、その気温の変化に心臓が耐え切れず不整脈を起こす。その結果、心臓に持病が無くとも心筋梗塞に襲われ、運が悪ければその場で即死する。もちろんわたしも当然ながら不整脈の持ち主だが、命に関わる不整脈ではなく、「心房細動」という一般的な不整脈であるため、特に命に関わることはないが、厄介なのは血栓が出来安いということだ。最も恐い不整脈は「心室細動」「心室頻拍」である。つまり心臓停止状態。この不整脈に襲われたら、一刻の猶予もない。助かる道は時間との勝負。救急車を呼び搬送される時間と治療開始が運命を分けることになる。さて、今年に入ってからも頻発する、救急車の受け入れ拒否。特に関西地方で多く見かけられたのだがが、つい先日、関東地方でも起こった。東京都清瀬市での事例。救急搬送された女性は95歳と高齢であり、心臓に持病を抱えていたと思われる。受け入れ拒否した病院は11。一昔前であれば、救急車が自宅に着いた時点で安心出来たものである。救急車は命を助ける車であると誰もが思っていた。そんな昔が懐かしい。11もの病院が同時に受け入れ出来ない状態だったのか疑問が残る。もしこの患者が政治家だったらどうなっていただろう。治療中の患者を隣のベッドに移し、この政治家を助けるべく準備に大慌てだ。「病院の名誉にもかかるから、必ずこの政治家をわたしの病院に...」となるかどうか知りませんが、病院が一般庶民の味方では無い事は明らかである。ここにも格差社会が蔓延っているのである。助かるのは金持ち、命は金で買うのが現実。現代の医療現場が崩壊していること。医師不足、行政の遅すぎる対応など、救急車はそんなことなどにかまっていられない。一刻も早く受け入れ可能な病院を探すのに必死なのだ。少子高齢化が進んでいることも安全で確実な医療体制が整わない現実が拍車をかけているのだろう。
2008.01.26
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毎月必ずといってよいほど届いていた新風舎からの作品募集のパンフレットが、昨年12月から届かなくなった。あんまりしつこいので、断りの電話をいれようと思っていた矢先。今年上旬に新風舎が民事再生の届けを出していることを文芸社の担当社から聞いて初めて知った。碧天舎が2006年4月に倒産した時はまさかと正直思った。たまたま、碧天舎主催の詩歌コンテストに応募し、特別審査員賞を頂いた矢先の出来事であったから、この賞は幻となった分けである。自費出版ブームの中、その一角を担う大手出版社だった碧天舎倒産の影響は大きく、契約済みの230人あまりの人たちは悲痛な思いで、支払い済みの出版費用を返して欲しいと訴えたがその後どうなったのか分からない。わたしは新風舎に対し非常に悪いイメージを抱いていたので、3年前からこの出版社はいずれ倒産するのではないかと疑念を抱いていた。そして先日の朝刊を見ると新風舎が民事再生を諦め、自己破産の申請をするという。事実上の倒産である。出版された本の数は約600万冊、未出版は1000人。そして前受け金10億円。売れる見込みの無い本を作り続けた結果である。まさしく自転車操業を繰り返していたのは、碧天舎も同じであった。2年ほど前の夏、リタイアメントビジネスサービスという会社から取材を受けた。内容は新風舎の悪徳詐欺商法についてであった。わたしは「詩集天国の地図」につて、全国出版しようなどと大それた積りは毛頭なく、単なる記念として出版できればよいと思っていた。自費出版だから当然金がかかる、だからまず一番手軽に安く作ってくれそうな出版社をネットで探した。幾つか地方の出版社を見つけ早速原稿をメールに添付して送った。すると、かなり評判がよく全国流通できるという返事を頂いたわけである。そうなるとこちらも多少欲が出てくる。ならば東京の出版社へ原稿を送ってみようと考え、新聞広告に釣られて、新風舎に早速送った。そして碧天舎、文芸社、新生出版この4社にターゲットを絞った。新風舎以外には直接原稿を届けた。自分の目で出版社がどんなところなのか、調べて見る必要があったからだ。自社ビルは文芸社だけであった。そして新風舎以外の出版社から書評が届く。その内容は巧みな誘い文句で詩集の完成度の高さなど、非常に良い作品であるという文面。初めて出版する人間にとってはおそらく夢のような現実に有頂天になることだろう。さて、ここからわたしの出版社選びが始まったわけである。書店に本が確実に並ぶと謳っていることを自分の目で確かめる必要が出てきた。東京の有名、無名を問わず、書店を探しまわり、友人に頼み静岡の書店の探索も依頼した。そして分かったことは文芸社の本だけが、平積み、面陳、棚指しなどで置いてあった。残念ながら他社は一冊も見つからなかったのである。この時点で文芸社が一歩リード。そしてわたしの出版社選びは更にエスカレートしていくのである。自費出版(協力出版)は制作費の一部を著者が負担して、出版社と共同で本を作り上げていくのであるが、そこに大きな落とし穴があることを殆どの人は気付かない。制作費を出す以上、著者は客である。出版社にとってみれば「鴨が葱をしょってきた」わけであるから、当然の如く作品を褒めちぎるわけである。だが、それをうまく利用するのが客である。お客はどんなわがままを言ってもよい。言うだけならただで金は掛からない。不満や疑問点など徹底的に担当者と話し合うべきだ。出来れば直接出版社に出向く事をお勧めする。遠方であれば電話で「別の出版社とも契約の話しがある」と問いかけてみよう。担当者の対応次第でその出版社の姿が多少見えてくるはず。話し合いの場に編集長を引っ張り出すと更にこちらのペースになる。しかし、それは作品の内容にもよる。持ち込んだ原稿が全て協力出版出来るわけではない。内容によってはもちろん断られる場合もある。ただし、新風舎は別。持ち込まれた原稿は全て本にしてしまう。つまり売れないまま書店にも置かれず、倉庫に眠る運命を辿るのである。わたしの出版社選びは文芸社と碧天舎に絞られた。残るは制作費のみ。碧天舎は電子書籍を含めた金額を提示してきたが、それはかなりの破格値だと今なら思える。しかしわたしは最終的に文芸社を選んだ。もし碧天舎と契約を結んでいたなら、天国の地図は古本屋で探す羽目になっただろう。これもまさしく強運の持ち主と言われる所以かも知れない。そして文芸社と契約を交わした頃、新風舎からは何の連絡もなかったので、こちらから電話をしてみた。原稿を送ってから一ヶ月も経っていた。電話に出た女性が慌てた様子であった。その数分後、メールが届いた。「素晴らしい詩集。生みの苦しみが...」即席で作った書評をメールで送ってくる。作品を何も読んでいない。数日後、パンフレットと見積もりが届いた。作品名がなんと「天国と地獄」に変わっていた。実にいい加減な出版社だったかお分かり頂けると思う。
2008.01.23
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冬山登山のシーズンだが、山岳遭難が全国で相次ぎ、過去5年間で最も多い20件にも及んでいる。先日、年末に遭難した男性が12日振りに自力で下山し記者会見で謝罪していたが、登山歴20年というベテランが山を甘く見ていたのか、或いは自信過剰になり油断が生まれたものと思われる。冬山での遭難は雪に覆われ天候が悪ければ吹雪に視界を遮られ、遭難者の発見は夏山より遙かに困難になる。わたしの伯父が若い時から山登りが大好きで、休みの度に山へ出かけていた。登山歴はおそらく40年ほどでかなりのベテラン。「日本の山は全て制覇した」と豪語していたが、その伯父も一度だけ遭難したことがある。その時は助けが来るまで小さな洞窟で一週間ほど過ごしたという。どれほどのベテランであろうと相手は自然であり、突然天候が変わることはよくある。どんなに山を知り尽くしても所詮人間の思い上がりであり、自然の気まぐれな心は掴めない。わたし自身は幼い頃から心臓が悪かったので、山登りは苦手。それでも蓮華寺山にある富士見平まで登って富士山を眺めたり、藤枝の街を一望したりした。そしてつい口ずさんでしまう歌があった。「山男の歌」である。娘さんよく聞けよ山男にゃ惚れるなよ山で吹かれりゃよ若後家さんだよ山で吹かれりゃよ若後家さんだよこの歌は昭和37年のNHK紅白歌合戦でダークダックスが歌い大流行した。元は海軍兵学校で愛唱された「巡航節」の替え歌である。「山で吹かれりゃよ 若後家さんだよ」このフレーズが今になって漸く意味が飲み込めた。新婚ホヤホヤの新郎が山好きで週末になると山に出かける。それがある日遭難し、帰らぬ人となる。家族を悲しませるような登山だけはしないで欲しいとつくづく思う。
2008.01.15
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大相撲初場所を目前に控え、朝青龍がピッチを上げている。横綱同士、白鵬との稽古では「思ったより強い」と白鵬の口から言わしめたほどである。一連の大騒動から数ヶ月が経たったが、当時マスコミや相撲関係者そして相撲ファンから落胆の声が聞かれ、バッシングの荒らしに見舞われ、心身共に相当のダメージを受けたのではないかと思われたが、そんな事があったのかと、過去の不祥事を忘れさせるほどの気合が入った稽古だった。本来なら数ヶ月も土俵や相撲の世界から離れていれば、身体も心も大きなダメージを受けるのだが、朝青龍は違った。彼の復帰振りが予想外の展開を見せる中、横綱審議委員会から厳しい言葉がつき付けられたが、そんなことに動揺することなく、「我が道を行く」を貫き通す朝青龍。彼の心には「日本人には負けない」という闘争心が燃え上がっているのだろう。これは紛れもなく朝青龍から日本人に対する「挑戦状」である。日本相撲協会は朝青龍の確固たる強さを認めている。彼を引退に追い込めない理由のひとつがそれである。高砂親方の指導力不足が指摘され、それが相撲界全体に及び相撲人気を低下させ、更に国技を侮辱されながらも何ら手の打ち様がない相撲協会の体たらくが生んだ現在の土俵。相撲に興味がなかった人たちが朝青龍を見に来る。観客動員数にどうしても朝青龍は欠かせない。これが大相撲の弱点である。人気と実力を兼ね備えた力士が少ない中で、興行成績を何としても上げて行かなければならない。矛盾を押し曲げていよいよ注目の初場所が始まろうとしている。
2008.01.12
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高層ビルの47階から落下すれば100%即死だと誰もが思う。この記事はおよそ一ヶ月前にニューヨークで起こった事故であるが、まさにアンビリーバボー。奇跡以外の何者でもないと誰もが口を揃えて言った。事故が起きたのは2007年12月7日。二人の窓清掃員が仕事中誤って47階の高さから地上に落下。一人はその場で即死。しかしもう一人のAlcides Moreno氏は「脳内出血、内臓損傷、全身骨折」と言う重体を負いながらも9回の手術の末、奇跡的に命を取り留めたと言う。専門家の話によれば、「4階か5階からの落下で50%の人が死亡する。10階、11階の高さになれば、ほぼ100%助からない」という。彼が助かった理由は憶測でしかないが、多くの偶然が重なった結果かも知れない。ただそれだけ理解出来るものではない。運が良かったと一言で片付けるには余りにも信じ難い事例であるだけに興味は尽きることが無い。落下する際彼は約570キログラムのアルミニウム製つり台にしがみつき、それが空中で「サーフボードのような役割を果たした」ためだと推測。高層ビル群が立ち並ぶNYではビルとビルの隙間に気流が発生することは珍しくない。その気流の流れも今回の事故に大きく関わっているものと思われる。まさに「九死に一生」とはこの事である。人間を支配しているものは時間であり、この世に誕生した時点で時間だけは平等に時を刻み始める。が、ただし個々で時間の配分は運命の如く、短時間でその生命を終えてしまう者もいる。大半は順調に育ち、健康を授かり、時間すら意識する事なく、大人へと成長を繰り返し己の道を歩み始める。人生の道は舗装された平坦な道ばかりではなく、時には凸凹だらけの険しい道もある。眼の前に目標がある、しかしそれを遮る大きな川がある。目標は手の届く所に見えているのだが、この川を渡る橋が見当たらない。目標を目前にしながら諦めるか、別の選択をし、別の橋を探すか或いは泳いで渡るか選択支は幾つかあるが、これが激流だったとしたら、川を渡ることを躊躇うのが一般的な考えだ。だが諦めるのは早計。ビルから落ちて助かった人のように100%無理だと言う中にも希望があることを忘れてはいけない。どんな過酷な状況に陥っても絶望の中に奇跡と呼べる空間が僅かでも存在する事を数秒の内に身体が身を持って証明してくれるのである。
2008.01.08
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皆様、新年明けましておめでとうございます。大晦日の晩、調子に乗って水分を摂り過ぎたのが祟ったのか、元日早々体調を崩し、一日中身体を休めておりました。休めども休めもども一向に胸の重苦しさは改善せず、横になろうが起きようが呼吸が楽に出来ない。自分の回りだけ酸素が薄いのではないかと思うほどで、このような症状は初めての経験でもあり、お腹は大きくまるで妊婦さんのように膨れてしまう。利尿剤を飲んでもあまり効果が出ず、排泄される尿量はごく僅かで肩で呼吸をする始末。心肺機能が低下しているので、身体の隅々まで血液が行き渡らず、手足は冷たく去年まであれほど暑がりだったわたしが一転して寒がりになってしまいました。主治医から、「冬場は心臓病が一気に悪化することがあるので気をつけるように」と言われておりましたが、自分の病気に対して40年も付き合って来た中での「油断」が出てしまったのかと自分の心臓への思いやりの無さに今頃になって気付いた大馬鹿者です。元日に予定していた「初詣」、自宅から徒歩で数分の所にある帝釈天が数十キロ先の遠い場所に見え、外に出て歩く気力も失せてしまい今年は初詣を諦めました。本来なら心臓の手術が成功するよう祈願したいところでしたが、断念。ベッドの上から祈願するはめになりました。ただ、わたしの代わりに家内が行ってくれ、お守りを頂いて来てくれたのでそれを持って手術に臨もうと思っております。わたし3回目の手術に対し、かなり弱気になっているようで、こんな自分を見るのも初めてで、生まれて初めて自分が死んだ夢まで見てしまうとは...。ただその夢の中の自分が子どもだったのが救いだった。どんな手術でもリスク0はなく、必ず危険は付き纏うもの。それを全く恐れることもなく、1、2回と手術に臨んだのはやはり若さが持つ生命への揺ぎ無い自信だったのでしょう。その自信が今揺らぎ始めている。死への恐れを感じている。これはおそらく死というものをこの歳になって漸く理解出来たという一種の到達点ではないかと思う。わたしが書く詩はその殆どが生と死であるが、どこかの著名な女流詩人が「詩は死である」という言葉を残している。死の中にこそ生命の躍動感や美しさが見えるのも事実であり、まさにその通りなのだと思った。半月もすればわたしは古巣へ戻る。2回目の生を授かった場所へ3回目の生を授かる為に。
2008.01.05
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