JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.08.06
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
『​ 鎌倉散策 目次 ​』 👈リンク
【​ 鎌倉の寺社リスト ​】 👈リンク

「鎌倉駅」までバスを利用し、次に駅前の「大巧寺(だいぎょうじ)」に立ち寄る。
大巧寺は別名「おんめさま」とも呼ばれ、安産祈願の寺として知られている。
「おんめさま」とは「お産女様」(おうめさま)が訛った言葉で、境内に祀られている
「産女霊神」を指す。



「山門」を潜り参道を進む。



このピンクの花は?



「イワフジ(岩藤)」であると。
別名ニワフジ(庭藤)とも。







黄色の花。オクラの花にも似て。



「本堂」。
長慶山正覚院大巧寺(ちょうけいざんしょうがくいんだいぎょうじ)。
大巧寺の詳しい歴史は今でも不明点が多いが、鎌倉幕府の源頼朝が祈願所としたことが
わかっており古くから鎌倉にある寺院の一つであると。
大巧寺の創建当初の開山は不明ととされているが、日蓮宗へと改宗を行った日澄を開山と
捉えることが多いとのこと。日澄は日蓮の弟子であった僧侶。
はじめは十二所の「大行寺」という真言宗の寺で、源頼朝がある戦いのときこの寺で練った
作戦(戦評定)により大勝したため「大巧寺」と改めたろ。
1320年(元応2年)にこの小町に移転したのちに、時の住職が日蓮上人に帰依し日蓮宗に
改宗したと。




現存する本堂は関東大震災以後に再建されたもので、おんめさまを祀る、5世住持の日棟が
難産で苦しんで死んだ秋山勘解由という人物の妻の霊を供養して成仏させ、その後お産に
苦しむ人のために産女神霊を本尊として祀ったのが始まりという。



「ヒメノカリス」の花。
「ヒメノカリス」の仲間は、中南米と西インド諸島に25~30種が分布。
アサガオの花のような副花冠(花弁の内側にある付属物)とクモの脚のように飛び出した
6本の花弁が特徴で、そのユニークな姿からスパイダーリリーと呼ばれているのだと。



オニユリ (鬼百合) 。




「南無妙法蓮華経 南無日蓮大菩薩」。



そして右に折れて「小町大路」を進むと左手にあったのが既に何回か訪ねた
「​ 本覚寺 ​」👈リンク。
鎌倉市小町1丁目12−12。



「本覚寺
本覚寺のあるこの場所は慕府の裏鬼門にあたり、源頼朝が鎮守として夷堂を建てた所と
いわれています。
この夷堂を、日蓮が佐渡配流を許されて鎌倉に戻り、布教を再開した際に住まいにしたと
伝えられます。その後、鎌倉公方・足利持氏がこの地に寺を建て、日出に寄進したのが
本覚寺であるといニ代目住職の日朝が、身延山から日蓮の骨を分けたので「東身延」と
呼ばれています。
日朝は「眼を治す仏」といわれ、本覚寺は眼病に効く寺「日朝さま」の愛称で知られています。
十月は「人形供養」、正月は福娘がお神酒を振舞う「初えびす」でにぎわいます。
鎌倉の住人、名刀エ・正宗の墓が境内にあります。」
・宗派   日蓮宗
・山号寺号 妙厳山本覚寺
・建立   永享8年( 1436 )
・開山   日出



山門(仁王門)の阿形像。



お顔をズームで。



山門(仁王門)の吽形像。



お顔をズームで。



以前頂いた「鎌倉江の島七福神 本覚寺 夷神」の「御朱印」。



「夷堂橋(鎌倉十橋)」。



「夷堂橋(えびすどうはし)」碑
「鎌倉十橋ノ一ニシテ 此辺ハ往昔夷堂アリシトイフ 此川ハ上流ニテ胡桃(クルミ)川ト イヒ 
浄明寺門前ニ至リ滑 (ナメリ)川ノ名アリ 文覚(モ ンガク)屋敷ト伝ヘラルル辺ハ
坐禅(ザゼン)川ト唱ヘ 此辺ハ夷堂川ト呼ビ 延命寺ノ 傍ヨリスミウリ川ト名ツケ 
閻魔(エンマ)堂址ノ辺ニテハ 閻魔堂川トイフ」

【この橋は鎌倉十橋のひとつです。ここには昔夷堂があった と言います。この川は現在は
滑(なめり)川といいますが、 昔は場所によって多くの呼び 名がありました。上流では
胡桃(くるみ)川といい、浄明寺 門前では滑川といい、文覚 (もんがく)屋敷跡の辺りでは
坐禅(ざぜん)川といい、この辺りでは夷堂川と呼び、延命 寺の辺りはスミウリ川とい い、
閻魔(えんま)堂跡の辺は 閻魔堂川といいました。】



「夷堂橋」を渡ると正面にあったのが、ここも何回か訪ねている
「​ 妙本寺 ​」👈リンク の題目碑。



題目碑「南無妙法蓮華経」。
横側には「閻浮提内本化最初霊窟」と。
「閻浮提(えんぶだい)」=仏教の世界で須弥山(しゅみせん)の南方にあるとされる島。
「本化(ほんけ)」=仏の教えの意。
すなわち「この世で釈迦の教えを最初に伝える寺」の意であると。



正面に「総門」。



「妙本寺(みょうほんじ)
この寺一帯の谷を比企谷といい、源頼朝の重臣・比企能員らの屋敷がありました。比企一族は
二代将軍・頼家の後継者争いの際、北条氏を中心とした軍勢にこの地で滅ぼされました
(比企の乱)。その後、乱から逃れていた末子能本が、日蓮聖人に帰依し、一族の屋敷跡である
この地に法華堂を建てました。これが妙本寺の始まりといわれています。
四月から八月にかけて、桜・カイドウ・シャガ・ノウゼンカズラなどが鮮やか花をつけ、静かな
境内を彩ります。
  ● 宗  派:日蓮宗
  ● 山号寺号:長興山妙本寺 (ちょうこうざん)
  ● 建  立:文応1年 (1260)
  ● 開  山:日蓮聖人
  ● 開  基:比企大学三郎能本」



「比企能員邸址(ひきよしかずていあと)」碑
「能員ハ頼朝ノ乳母(ウバ)比企禅尼ノ養子ナルガ 禅尼ト共ニ此ノ地ニ住セリ 此ノ地
比企ガ谷(ヤツ)ノ名アルモ之ニ基ヅク  能員ノ女(ムスメ) 頼家ノ寵(チョウ)ヲ受ケ
若狭局(ワカサノツボネ)ト称シ  子一幡(イチマン)ヲ生ム 建仁三年(1203)頼 家疾(病)ムヤ
母政子関西ノ地頭(ジトウ:庄官)職ヲ分チテ 頼家ノ弟千幡(センマン)ニ授ケントス 
能員之ヲ憤リ蜜(ヒソカ) ニ北条氏ヲ除カント謀(ハカ)ル  謀泄(漏)レテ 卻 (反)ツテ北条氏ノ
為一族此ノ地ニ於テ滅サル」

【比企能員(よしかず)は、源頼朝の乳母(うば)であった比企禅尼(ひきのぜんに)の養子であり、
禅尼と共にこの場所に住んでいました。この土地の名前が、比企ヶ谷(ひきがやつ)というのも
このためです。 能員の娘は頼家の妻になり、 若狭局(わかさのつぼね)とよばれて、
一幡(いちまん)という子供を生みました。1203年頼家が病で倒れると、母親でもあり、
頼朝の妻でもある政子が頼家の権力を2分して、頼家の弟千幡(せんまん)に渡そうとしました。
このことに能員が怒り、 ひそかに北条氏を滅ぼそうと計画しましたが、逆に北条方に覚られ、
比企一族はこの地で滅ぼされてしまいました。】



この案内板には何が書かれていたのであろうか。
「文学案内板 妙本寺境内」のようであったが。



この日は「蛇苦止堂(じゃくしどう)」のみをを訪ね、境内は後日とした。
蛇苦止堂は若狭局(わかさのつぼね:讃岐局(さぬきのつぼね)と同一人物と。)を祀っている。
1203年(建仁3年)、比企能員が北条時政邸で暗殺され、比企ヶ谷の比企一族は、
北条義時らに攻められ滅ぼされた(比企の乱)。
二代将軍源頼家の側室であった若狭局(能員の娘)は、家宝を抱えて井戸に飛び込み
自害したと伝えられている。
後に文応元年(1260)のその日の夕刻、後の執権・北条政村の娘が突然錯乱しそして語り始めた。
娘の口をかりて話始めたのは「讃岐局」を名乗る怨霊。
「われは大きな角の生えた大蛇となって比企ヶ谷の土中で火炎のごとき苦を受けている」と。
その場にいた者たちは身の毛もよだつおもいで恐れおののいたと。
その後政村は経典を写し讃岐局を供養した。また加持祈祷をして政村の娘を癒したと。
そこで妙本寺建立にあたって、若狭局(=讃岐局)の怨霊を鎮めるため、
蛇苦止大明神として祀ったと。



次に訪ねたのが近くにあった「琴弾橋(ことひきはし)」。
小御所山とは、二代将軍源頼家の子一幡の館があった山の名。
一幡の館が「小御所」と呼ばれていたことから「小御所山」と呼ばれる。
この山には、風がわたると琴を弾くような音がしたことから名付けられた「琴弾の松」という
名木があったといわれている。
蛭子神社の脇を流れる滑川には、小御所山の「琴弾の松」にちなんで、「琴弾橋」が
架けられている。
鎌倉市小町2丁目22−1。



「ことひきはし」。



下を流れる川は「滑川」。上流側を見る。



下流側を見る。



そして次に訪ねたのが「蛭子神社(ひるこじんじゃ)」。
鎌倉市小町2丁目23−3。



「小町大路」沿いにあった「蛭子神社」の石鳥居。



扁額「蛭子神社」。



この案内板も・・・・。



「手水舎」。



美しい木彫りの「本殿」。
かつて本覚寺山門、夷堂橋のあたりに源頼朝が鎌倉幕府を開く際に鬼門の鎮守として建てた
天台宗系の夷堂があり、これが蛭子神社の起源です。
佐渡配流から帰った日蓮が1274年(文永11年)頃にこの夷堂に滞在して布教の拠点としたと
いわれている。室町時代の1436年(永享8年)に日出が夷堂を日蓮宗に改宗して現在の本覚寺を
創建した。明治に入って神仏分離令により本覚寺と分離し、七面大明神、山王大権現
(北条氏の守神)を合祀して蛭子神社となり現在の地に移った。
その後1981年(昭和56年)に本覚寺境内に夷堂が再建されていると。
本殿は1923年(大正12年)の大震災で倒壊し、1933年(昭和8年)に再建されたのだと。



扁額「蛭子神社」。



「蛭子神社」には壮麗な神輿があり、ガラス張りの神輿庫に入っていた。



巨大な神輿が二基安置されていた。





「社務所」。



そして「小町大路」に出て北方向に向かうと右手にあったのが「日蓮上人辻説法跡」。
扉には鍵がかかり、中に入ることはできないようになっていた。



「日蓮上人辻説法跡
日蓮上人は建長五年(一ニ五三)、安房(千葉県)ら鎌倉に来て、松葉ヶ谷(現在の長勝寺、
安国論寺の辺り)に草庵を結びました。
鎌倉時代、この辺りは武士の屋敷と商家町が混在した地域と考えられ、毎日のようにこの辺りを
訪れて、法華経の功徳を説く辻説法を行ったと伝えられます。
文応元年(一ニ六O)、五代執権・北条時頼に提出した『立正安国論』が原因で、松葉ヶ谷の草庵は
焼き討ちされました。」



「日蓮上人辻説法図」。

鎌倉史跡ー日蓮辻説法跡 / 鎌倉ぶらぶら

「日蓮大士辻説法之霊」碑。
日蓮宗(法華宗)を開き、1254年(建長6年)に鎌倉に入った日蓮は、松葉ヶ谷に草庵を
むすび、小町大路を中心に辻説法を行った。
日蓮は、この場所で熱心に法華経の布教に努め、他宗を「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」
として厳しく批判した。
辻説法跡碑は、日蓮信者の田中智学が整備したもの。
智学の研究によると、実際に日蓮が辻説法を行ったのは、蛭子神社のある辺りとされている。
大町の本興寺も日蓮が辻説法を行った場所とされ、「日蓮辻説法の碑」が建てられている。



中央に題目碑「南無妙法蓮華経」碑。



明治34年5月12日建立の漢文の石碑。
彫も薄く、柵の外からは碑銘も読めない。上が欠けていた。



「日蓮聖人辻説法之阯」碑。
「此辺ハ往昔ニ於ケル屋敷町ト商家町トノ境ヲナス地点ニ位シ 幕府ニ近キコトトテ 
殷賑(隆盛)ヲ極メシ所ナリ 建長五年(1253)五月 日蓮聖人房州ヨリ鎌倉ニ来リ
松葉ガ谷(ヤツ)ニ草庵ヲ結ビ 日ニ日ニ此辺リノ路傍ニ立チ  弘通(グツウ:布教)ノ為メ
民衆ニ対シ獅子吼(シシク:強声)ヲ続ケシ址ナリトテ 世ニ辻説法ノ旧蹟ト伝ヘラル」

【この辺りは、屋敷町と商家町との間にあって、幕府に近いことから大変にぎわっていた
場所です。1253年5月、日蓮聖人(にちれんしょうにん)が房州(千葉県南部)から鎌倉に来て
松葉が谷(まつばがやつ)に住み、民衆への布教のため、 毎日のようにこの辺りの道端に立って、
大声を張り上げていた場所であるといわれています。一般に辻説法の跡といわれています。】




                              ・・・​ もどる ​・・・



                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.05.19 16:07:40
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