JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.08.23
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
『​ 鎌倉散策 目次 ​』
【​ 鎌倉の寺社リスト ​】 👈リンク

「明王院」の入口まで戻る。
「五大堂 明王院」碑が参道入口に。
「不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉」の五大明王を祀り、それぞれの明王に大きな
お堂があったことから「五大堂」とも呼ばれている。
鎌倉で五大明王を祀るのは明王院のみであると。



「五大堂 明王院」碑の下にも五輪塔と石碑があった。



そして「山門」に向かって進む。



「冠木門」。



「明王院(みょうおういん)
鎌倉幕府の四代将軍藤原頼経が、将軍の祈願寺として建立しました。幕府の鬼門の方角にあたる
ため、鬼門除け祈願寺として本尊の五大明王が大きなお堂にそれぞれ祀られていたことから、古
くから五大堂と呼ばれていました。五大明王とは不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明
王、金剛夜叉明王で、鎌倉市内で祀られているのは明王院だけです。
● 宗  派  真言宗御室派
● 山号寺号  飯盛山寛喜寺明王院 (はんせいざんかんきじみょうおういん)
● 創  建  嘉禎元年 (1235)
● 開  基  藤原頼経
● 開  山  定豪 (元鶴岡八幡宮別当)」



石畳の参道を進む。







そして藁葺き屋根の「本堂」。
宗 派 真言宗
本 尊 不動明王(五大明王)
創 建 1235年
開 基 藤原頼経
札 所 鎌倉三十三観音第8番、鎌倉十三仏第1番



「護摩法要
明王院は鎌倉時代から続く祈願寺(供養ではなく、祈願を主とする寺院)です。
現在、毎月ニ八日(本尊不動明王の御縁日)午後一時より、どなたでも参加していただける
護摩法要(本堂内で火をたいて祈願する法要)を奉修しております。」



「本堂内陣」。



不動明王坐像(鎌倉時代) 寄木造像高84cm 肥後定慶作? 国指定重要文化財。


  【https://butszo.jp/2013/12/1570/】より

お顔をズームで。


    【https://butszo.jp/2013/12/1570/】より

境内の石仏と石碑。



「南無大師遍照金剛」碑。



「地蔵菩薩像」。



「寺務所」。







美しい茅葺屋根と趣のある佇まいを残した寺院。
「客殿」。



「鐘楼」。



境内右手奥のこの建物は?



明王院の東側・胡桃山の山道を上り、瑞泉寺方向に向かうハイキングコースの途中に

広元邸の山頂に墓を建てたと。
石層塔で高さは1m70cmほどで、椎(しい)の木の側に建っていた。



以前に頂いた「鎌倉三十三観音霊場 第八番 五大堂明王院」の「十一面観世音」の御朱印です。



以前に頂いた「鎌倉十三佛 第一番 五大堂明王院」の「不動明王」の御朱印です。



「明王院」を後にして、滑川沿いを「明石橋」に向かって進む。



「明石橋」。



「明石橋」交差点を渡る。



滑川沿いを東に進むと右手前方に石碑があった。



「大江廣元邸址」碑。
「大江氏 奕世(えきせい:累代)学匠トシテ顕(あらわ)ル 嘗(かっ)テ匡房(まさふさ) 兵法ヲ
以テ義家ニ授ク 広元ハ其ノ匡房ノ曽孫(ひまご)ナリ 頼朝ニ招カレテ鎌倉ニ来リ 
常ニ帷握(いあく:中枢)ニ持シ 機密ニ参画ス 幕府創定ノ功 広元ノ力与リテ多キニ居リ 
相模毛利荘ヲ食ム(俸禄ス) 子孫依リテ毛利ヲ氏トス 而 (しこう)シテ因縁奇シクモ 
此ノ幕府創業ノ元勲ガ七百年後ノ末裔ハ 王政復古ニ倡首(しょうしゅ:先導)タリ 
此ノ地即チ其ノ毛利ノ鼻祖(始祖) 大膳大夫ノ邸址ナリ」。

【大江(おおえ)氏は、代々学門の家柄です。大江匡房(まさふさ)は、そのむかし源義家に、
兵法を教えたといわれており、大江広元は匡房のひまごにあたります。広元は頼朝に招かれて
鎌倉に来てからは、常に政治の中央におり、 幕府を創るのに当っての功績は広元による所が
大きいといわれています。そして神奈川の毛利に領地をもらって、毛利を名乗りました。
しかし皮肉にも、この鎌倉幕府を創った功績者の子孫は、700年後の明治維新の時、天皇制の
復活運動に活躍しております。この場所がその毛利の先祖の家の跡であります。】



そして再び橋を渡り「金沢街道」に戻ると、正面の道の先にあったのが
「イエズス会日本殉教者修道院」の入口門。



「NPO法人 アルペ難民センター」 ​👈リンクの文字が。
神奈川県鎌倉市十二所80。
来日した難民に対して、情報提供、難民認定手続き支援、定住支援に関する事業を行い、
難民が自立して日本社会で生活し、地域社会とつながり、寛容性と多様性にあふれた
多民族・多文化共生社会づくりを行っている と。



「ここは修道院(黙想の家)です。
関係者以外の立ち入りはご遠慮下さい。」と。



ここまでとし、引き返したがネットより「イエズス会日本殉教者修道院」を。


   【https://rubese.net/gurucomi001/?id=2768283】より

そして金沢街道を戻ると左手にあったのが「十二所公民館」。



その先の路地を右手に折れると、その先の路地の角にも石碑が。



「大慈寺跡」碑。
「大慈寺ハ建暦二年(1212) 源実朝ノ創建ニカカリ 新御堂ト号ス 建保二年(1214)七月
二十七日 大供養ヲ行ハレ 尼御台政子及ヒ将軍実朝 大ニ儀衛(格式)ヲ張リ之ニ臨メリ 
後正嘉元年(1257) 征夷大将軍宗尊親王ノ時  本堂 丈六堂 新阿弥陀堂 釈迦堂 三重ノ塔 
鐘楼等悉(ことごと)ク修理ヲ加ヘラレ 荘厳ノ美殆ント古跡ニ軼(過)タリト 東(吾妻)鑑ニ見 ヘ
タリ 当時ノ盛観以テ想フベシ 爾来(以後)星霜七百年 布金ノ地マタ一片ノ礎石ヲモ止メス 
桑滄(滄海桑田)ノ変嘆ズベキ哉」

【大慈寺は、1212年に、源実朝(さねとも)が建てた寺で、またの名前を新御堂(しんみどう)と
言いました。1214年7月27日に、大がかりな供養(くよう)が行われ、頼朝の妻の政子と
将軍実朝が、格式張って参列いたしました。  その後1257年に、将軍宗尊(むねたか)親王の時、
本堂、丈六(じょうろく)堂、新阿弥陀(しんあみだ)堂、釈迦(しゃか)堂、三重の塔、鐘楼
(しょうろう)などことごとく修理を加えられて、その美しさは、ほとんど前の建物以上である、
と吾妻鑑(あずまかがみ)に書いてあります。 当時の素晴らしさが目に浮かぶでしょう。 
その後740年過ぎた現在、ひとかけらの礎石(そせき)をも見付けることができません。
本当に時代の変化の大きさには驚かされます。】



再び金沢街道の「明石橋」交差点を通過する。



道端には「クレオメ」の花が。



和名は「西洋風蝶草(セイヨウフウチョウソウ)」
風に蝶が舞うような花姿から。



または「酔蝶草(スイチョウカ)」。
クレオメの花が蕾のときは濃いピンク色で、咲き進むにつれて
だんだん白っぽく変化する様子を酔った蝶に見立てたことから。
酔芙蓉と色の変化は反対。



そして「浄明寺」バス停まで戻ると、「浄明寺周辺観光案内図」が。




                              ・・・​ もどる ​・・・


                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2023.01.31 11:41:01
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