JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.02.08
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カテゴリ: JINさんの農園
熱海市内にあった「走り湯」を後にして、「熱海ビーチライン」~国道135号、そして
湯河原市内を左折して静岡県道75号線を暫し進む。
そして椿ラインに入り、箱根・大観山方面に急な細い坂道をウネウネと進む。
「椿台駐車場」入口から、眼下に初島、大島の姿が確認できた。
神奈川県足柄下郡湯河原町宮上。



そして「 しとどの窟 」への入口にある「 椿台駐車場 」に到着。
しとどの窟(いわや) 徒歩20分➡
治承4年(1180)8月23日、石橋山の合戦に敗れた源頼朝は、郷土の英雄・土肥実平に
導かれて、椙山(湯河原町の山中)に隠れ、この『しとどの窟』へ隠れた。
この付近は、地域信仰の霊地で、窟に至る急な道沿いにも、数多くの石仏地蔵が
安置されている。」



昭和17年建立の『 土肥郷椙山鵐ノ窟之碑 』があった。
石橋山合戦に敗れた源頼朝が土肥実平に匿われた「しとどの窟」はここから1Km程先に
あったのだ。



土肥郷椙山鵐ノ窟之碑
「源頼朝の志を天下に為せるは箱根外輪山南部の複雑なる嶺谷と土肥氏並源氏の爲に
隠したる地と人とに依ること大なり。突兀(とつこつ)たる幕山鍛冶屋川の深渓遊?子

二月此の地人士二十餘名と共に寒雨を冐し雑木荊蕀(けいきょく)を分ち之を踏査して
感慨深きものあり仍て文を作ると云爾?
昭和十七年八月廿三日 神奈川縣史跡調査委員 從六位石野瑛撰
                         箱根振興會」
超訳すると

そんな事を想起しながら昭和10年2月地元民20余人と茂みの中に入り調査し、その感慨深い
思いをこの碑文とした。】と。



そして「しとどの窟」入口への 白銀林道 を歩いて進む。
「しとどの窟まで徒歩20分」  と。



城山隧道 」が姿を現した。



城山隧道を潜ると、右手は地蔵信仰の霊地で、広場に石塔・燈籠・弘法大師石仏群があり、
ここが「しとどの窟への入口になっていた。
そしてここより先の白銀林道はゲートが閉鎖され通行禁止となっていた。
しとどの窟 とは「 源頼朝がこの岩屋に隠れようとしたとき、鵐(しとど)と呼ばれる鳥が
舞い出た 」あるいは、「 大庭・伊東らの追手が岩屋を覗いたときに鵐が飛び出してきて人が いないと
勘違いさせた
」という言い伝えから「 鵐ノ窟(しとどのいわや) 」と呼ばれているのだと。
前回、訪ねた時はここまで車で来たことを想い出したのであったが・・。



廻り込んで。



この先中央が「しとどの窟」への山路。



左に「 弘法大師像群之由来碑 」、中央に「 桜郷史跡碑



左手に「 弘法大師石像 」、右手に「 子安地蔵尊 」の社。



弘法大師石像 」に近づいて。



桜郷史蹟由来 」案内板。 



桜郷史蹟由来
随って、 この地点一帯は、山伏たちの行場 であった。
殊に、 この城山は土肥郷(湯河原)の豪族土肥氏城壁であり、治承4年8月24日、源頼朝の堀口合戦
の古戦場で、この谷底の「しとど岩窟」は、その時の頼朝が隠れた遺跡であるために神奈川県文
化財保護指定地であるが、また同時に山伏に関係する聖地でもある湯河原地方には、地蔵信仰・
観音信仰の遺跡と共に、弘法大師を崇敬する大師信仰の遺跡が多い。
ここに安置された弘法大師石像群
出し、併せて付近の史跡顕揚の上にも永く益せん為に、この聖地に遷座したものである。」



広場から九十九折れの急な山道を20分ほど下ると『しとどの窟』に達したのであった。
現在、道は観光的に整備されていていたが、かなり厳しい坂道であった。



しとどの窟まで四〇〇百米 」とあったが 「〇〇」又は「百」は不要 ではと。



奉納された石灯籠が並ぶ急な下り坂を進む。



この弘法大師石像は石祠から手前に出され、帽子が被されていたが、その目的は?
弘法大師像は、山裾に散乱していたものをここに移設した と。



行きはよいよい、帰りは・・・の急坂を下る。



しとどの窟まで一五〇米 」と。



「しとどの窟」への木製案内板。 
写真右手、大木の先からは、湯河原梅園からの旧山道、現登山道が合流するのであった。
源頼朝一行はこの旧山道を上って来た のであろう。



近づいて。
長い下り坂が終わると、上り階段がはじまった。



頼朝の推定逃走ルート をネットから。


石橋山~箱根神社/
別のネットでは。逃走ルートは諸説あるのだと。
逃走ルートが上図とは微妙に異なるのであった。
この「しとどの窟」と「箱根神社」には立ち寄った事は事実のようだ。  
こちらのルートでは、 港の程近くにある「鵐窟(しとどのいわや)」でも身を
隠したと明確に。



1180年(治承4年)8月17日、伊豆国で源氏再興の挙兵をした源頼朝は、相模国へ軍を
進めたが、8月24日、石橋山で大庭景親・伊東祐親らの平家軍に敗れてしまう。
源頼朝の「石橋山の戦い」のからの逃亡については「吾妻鏡」に記載されているとのこと。
これを、纏めたものをネットから。




登山道に覆い被さる巨大な岩。その下の隙間にも多くの石仏の姿が。
これだけでも修験者の行場の雰囲気に満ち溢れているのであった。



廻り込んで。
ここが窟かと思いきや、「しとどの窟」はもう少し先であった。





                 ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2024.02.09 10:49:54
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