JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.02.09
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カテゴリ: JINさんの農園




「​ しとどの窟(いわや) 👈リンク
治承四年(一一八〇)八月十七日、源頼朝は伊豆で源氏再興の旗上げをしたが、同年八月
ニ十三日、 石橋山の合戦に敗れ逃げる時、従者七人とともにこの窟に隠れ、九死に一生を
得た と伝えられている。
      湯河原町」



源頼朝としとどの岩屋の由来
源頼朝は14才の時父義朝が平治の乱で敗れ、頼朝は捕われて清盛の母池の禅じのなさけに
よって一命を助けられ伊豆の蛙が小島に流され平兼隆の監視によって二十年間をすごした。
治承四年八月望仁王が平家討閥の宣旨が全国の源氏に伝えられた。頼朝は機を窺っていたが
八月一六日三島大社の祭典の晩、北条時政らと平兼隆の首を取り伊豆の源氏に組する者たちを
集め十九日伊豆を出発土肥実平を道案内で日金山を越え土肥郷(現湯河原町)に着いた。
土肥実平の館勢総大将大庭景親三千余騎と戦ったが十対一の多勢に無勢で敗れ一旦土肥へ
引返し堀口の合戦(鍛冶屋瑞応寺附近)にも敗れ 土肥実平の守護とみちびきによって
土肥の椙山に逃げかくれ実平のお蔭で人の知らない谷底しとどの岩屋や大木の洞(土肥の大杉)
にかくれたり 、又小道地蔵において僧純海の気転により床下にかくれ一命を救ってもらった。
この岩屋に五日間かくれていた 。その間食糧を運んでくれたのは土肥の女房である。
源平盛衰記に残っている 暫(ようや)くして敵も引揚げたので山から降りて来たら吾が家が盛んに
燃えていた。
この状況を見た実平は頼朝を勇気づけるため延年の舞を舞って慰めた。あづま鑑には
じょうもうの舞と記されている。 この岩屋は関東大震災のため入口が崩れたが水は
一年中湧いている。
実平のお蔭で平氏を滅し鎌倉幕府大業成功させた実平の功績を称え、土肥会では昭和五十五年
湯河原駅前に実平の銅像を建立した。
このたび小沢進夫氏寄進によって案内板を建立した。
   平成八年十二月吉日 桜郷史跡保存会」



箱根ジオパーク しとどの窟 」案内板。



箱根ジオパーク しとどの窟
しとどの窟は「土肥椙山岩窟」として、神奈川県で史跡文化財に指定されています。
1180年に石橋山合戦で平家に敗れた源頼朝(みなもとのよりとも)がこの地にあった窟に
身を隠し、箱根権現別当(はこねごんげんべっとう)のもとに逃れた後、真鶴(まなづる)の
しとどの窟から安房国(あわのくに)へ脱出したとつたえられています。
また、「しとどの窟」の由来は、追っ手が「シトト」と言われる鳥が急に飛びだしてきたので、
人影がないものとして立ち去ったためだと言われています。

(噴火で放出された石や砂など)からできており、窟は固結した火山砕屑物の部分が削れて
できた洞です。」 



「源頼朝と土肥実平
石橋山の合戦にて大敗した源頼朝は、主従わずか8名で山中に逃れ、湯河原近辺を領地とする
土肥実平、遠平親子の案内で洞窟や大木の洞に隠れて敵の追手をかわしました。
土肥実平とは相模国の豪族、中村氏の出で、平安末・鎌倉初期に活躍した武将です。
土肥郷(現在の湯河原町)を本拠としており、JR湯河原駅から城願寺の辺りに実平の館があったと
言われています。この後、頼朝は実平が手配した小舟で安房国に渡って、再起を図り、敗戦の
一か月半後である10月7日、大軍を率い堂々と鎌倉へ入りました。
現在、湯河原駅前のロータリーには土肥実平とその妻の像が設置されています。

頼朝主従七騎
源頼朝、土肥次郎実平、岡崎四郎義実、安達藤九郎盛長、田代冠者信綱、土屋三郎宗遠、
新開次郎忠氏の7人。 土肥実平の菩提寺・「​ 城願寺 ​」👈リンク には、この7人の武者像が
安置されています。なお、 土肥実平の嫡男遠平は安房国へは渡らず 、源頼朝の妻である
北条政子のもとへ頼朝の安否を知らせに行ったため、七騎には含まれていません。」 



以前に訪ねた、JR湯河原駅前の『 土肥實平公並夫人像 』。



神奈川県指定史跡 土肥椙山巌窟(伝源頼朝隠潜地) 昭和三〇年十一月一日指定
このあたりは、今から七・八百年前には杉林でおおわれていたので、土肥椙山と呼ばれていた。
新崎川の上流の山間に杉の埋れ木が発見されるので当時を想像することができる。
[吾妻鏡」には源頼朝が治承四年(一一八〇年)八月一七日伊豆の蛭ヶ島に兵を起し、
相模に入って土肥の館に集結、二十三日三百の兵で石橋山に陣し、大庭景親三千、伊東祐親
三百の兵と戦って敗れ、二十四日夜明け、椙山に追撃され山中の巌窟に潜んで九死に一生を得、
その夜は箱根権現の永実坊にやどり、再び椙山にもどって三日間椙山の山中に隠れ、二十八日
真鶴から安房に向かったとある。
この巌窟は頼朝を救い、後の歴史を大きく変えることになったところ、と伝えられている。」
  平成十四年三月 神奈川県教育委員会」 



湯河原町指定文化財 史跡土肥椙山巌窟内観音像群 昭和五十四年四月一日指定
一、所在地 湯河原町鍛冶屋九五三
一、所有者 吉浜財産区
この観音像群は立像及び坐像六十一体で小松石に彫刻され、これが安置されている巌窟と共に
中世以後近郷庶民の信仰習俗を知る上に貴重な資料である。
観音像は無銘が多く銘があっても解読不能であるが中に嘉永六年、元治元年、新(ら)しいもので
大正一五年のものがあり、これらが近郷の人々により長期的に奉安され続けて来たこと、
ひいては巌窟を含むこの地が古くから観音信仰の聖地であったことを物語るものである。」



そして階段を上り廻り込むと正面に「 ししどの窟 」が現れた。
入口幅は20m弱、深さは10m弱程度であろうか。
関東大震災でも崩壊したとのことであるので、 頼朝はもっと小さな窟に身を隠した



天然の洞窟に並ぶ「 土肥椙山観音像群 」と呼ばれる 20以上の石仏 は厳かな雰囲気を
醸し出しており、湧き水の流れる音や、苔むした岩石、夏でも涼しく暗い洞窟など、
非日常を味わうことができるのだ。







「土肥椙山観音像群」をカメラでさらに追いかけたのであった。



最上部をズームして。





窟の上部からは、湧水が滴り落ちていた。



窟の内部。岩屋の入口は関東大震災(大正12・1923)で崩れてしまった、と。



南無阿弥陀佛 」と。



石仏にズームして。



不動明王像か?



円形の光背を持つ石仏2体を。
手前の石仏は宝戟(ほうげき)を持って。名称は、宝戟のほかに戟鞘(げきしょう)、
三叉戟(さんさげき)とも言われているのだ。
宝戟は、両側に枝があり三股(三又)になっている。
意味付けは「悪魔を打ち滅ぼす武器」ということのようだが三毒煩悩を降伏するための武器と
されているとのこと。

廻り込んで。







様々な角度からこれでもかと。



前田青邨(まえだせいそん)画「 洞窟の頼朝 1929年 大倉集古館 重要文化財 」。
1180(治承4)伊豆で挙兵した源頼朝が最初の合戦である石橋山の戦いで平家方の
大場景親・熊谷直実らの軍に大敗。
そのとき、追手をのがれて主従7人がここ「しとどの窟」に身を寄せた場面。

「前田青邨は甲冑をよく研究し、鎧武者の絵でよく知られています。
平家を倒そうと治承4年(1180)に伊豆で挙兵し、石橋山の合戦に破れた源頼朝主従が洞窟に
篭っている場面を描いた。丸く固まって座る主従は、昂然とした表情の頼朝の辺りは明るく、
周辺は暗く描かれ、緊密な画面になっています。
頼朝の着ている赤糸威大鎧など、甲冑の表現も素晴らしく、武者たちの鎧の千切れた威糸や、
矢のほとんど残っていない箙は戦いの激しさを示しています。
この時従ったのは、土居実平、弟の土屋宗遠、足達盛長、岡崎義実、新開忠氏、田代信綱 とされ、
岡崎義実は70歳近くでした。」とネットから。



中央に源頼朝



そして「 前田青邨 「洞窟の頼朝」 1958年 」。
「この作品も力のみなぎる武者群像になっています。画面奥の武者は孫悟空のような
顔をしています。」とネットから。



俳優の小栗旬(39)が主演を務めたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では
2022年2月13日、第6話が放送された。



冒頭、「石橋山の戦い」(1180年)に大敗し、神奈川県湯河原町と
真鶴町にある洞窟「しとどの窟(いわや)」に隠れたとされる源頼朝(大泉洋)を、
謎の​ 敵将・梶原景時(中村獅童) ​👈リンク が見逃す有名な場面が。
大庭勢は頼朝を捜索。山内首藤(やまのうちすどう)経俊(山口馬木也)から「梶原殿、そこの
茂みを見てきていただけますかな」と頼まれた 景時(獅童)は、洞窟に隠れる頼朝たちを
発見!!
景時は頼朝と目が合ったが、黙って立ち去った。味方には「こちらには隠れる所もござらぬ」と
伝え、頼朝を見逃した。



頼朝が「今のは?」と尋ねると、土肥実平(阿南健治)は「大庭配下の梶原景時にございます」。
頼朝は「覚えておこう」と九死に一生を得た。



義時は景時が石橋山の洞窟にいた頼朝を見逃した理由を尋ねる。
景時「 何故、助けたか。あの時、大庭勢は目と鼻の先にいた。にもかかわらず、わしの他は
誰も頼朝殿には気付かない。そなたは、かのお人が天に守られていると申した。
わしも同じことを感じた。殺しては、神罰を受けると思った。 答えになっておるかな?」
義時「佐殿の元に来ませんか?ご無礼いたしました」
景時「 刀は斬り手によって名刀にもなれば、なまくらにもなる。決めるは決め手の腕次第。 御免」



そして帰路の山道を、息を切らしながらもマイペースで急坂を上り、入口まで戻ったのであった。
「幕山・南郷方面(幕山登山口)7,500m」 と。



道路の反対側にあったのが「 鳥獣之碑 」。



そして「椿台駐車場」に向けて「城山隧道」を潜って。 
ところでこの 「しとどの窟」👈 リンク ​ しとどの窟 は真鶴にも存在する のだ。
土肥実平らと 真鶴に降りて、真鶴・岩海岸(岩海水浴場)にある
「しとどの窟」にて一夜を明かし 、舟で東京湾を横断して、安房国(房総半島)へ脱出したと
伝わっているのだ。



そして駐車場に戻り、再び初島、大島を望んで、この地を後にして帰路についたのであった。



この後も、「椿ライン」をひたすら北に向かって進み、大観山展望台まで進む。
しかし芦ノ湖、富士山の勇姿は完全に雲に隠れていたので、そのまま「箱根新道」を利用して  
小田原市早川にある「 漁港の駅 TOTOCO小田原 」で海鮮丼を楽しんで帰ることに。 
「漁港の駅 TOTOCO小田原」の入口には、巨大な「小田原提灯」 の姿が。



「漁港の駅 TOTOCO小田原」。
相模湾に面する小田原の豊かな漁場を表現し名付けられ、地元の定置網等で漁獲された新鮮な
地魚や干物・蒲鉾などの水産加工品のほか、地元農産物などの提供等を通じて、人と人との
交流の促進を図るとともに、小田原の誇る地域資源を広く発信していく場所 と。
小田原が抱く自然豊かな漁業を表現し魚(とと)の宝庫から「ととこ」と名付けたとのこと。



相模湾に面し種類豊富な魚介類が集まる豊かな漁場に面する小田原漁港、小田原魚市場。
その漁港、魚市場から直送されるこだわった海の幸。
また、ここでしか味わえない海鮮グルメを楽しめる と。
「漁港の駅 TOTOCO小田原」入口



2階にあった「 とと丸食堂 」へ。



悩んだが「まぐろのトロとろ丼」を楽しんだのであった。
いろんな食感と味が一度に楽しめるまぐろの盛合せ。
中とろ、ビントロ、ねぎとろ、赤身、漬けまぐろの5種を味わえたのであった。
新鮮、肉厚、美味!!



そして食後は2階にある売店内部を散策。



サザエの生簀。



甘エビ、ひいらぎ(柊魚)、味付数の子、たたみいわし。



気になる「百花蜜」、「アカシア蜜」、値段が気になって・・・。



3階にあった「 おさしみ天国・小田原海鮮ゴーゴー!! 」 
食べ放題コース もあると。



そして1階も散策。
小田原漁港浜揚げ煮付け 大判金目鯛 」。 



カマスの干物であっただろうか。



そして「新早川橋」から西湘バイパスを利用して、帰宅の途についたのであった。

                               ・・・​ もどる ​・・・



                  ・・・完・・・







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Last updated  2024.02.10 06:42:38
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