JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Favorite Blog

多様な植生がもたら… New! 隠居人はせじぃさん

寒川神社の第57回菊… New! オジン0523さん

【アブチロン姫姫り… New! Gママさん

2024年はムベが不作 noahnoahnoahさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん

Calendar

2024.10.11
XML
カテゴリ: JINさんの農園
「松原神社」を後にして、東側の路地を歩くと「 西光院(さいこういん) 」があった。
コンクリート製の民家の如き建物であったが、屋根には鳥居の上部の如きものが立っていた。
西光院、松原山南勝寺は、本町2丁目にある東寺真言宗の寺院。松原明神社供僧。
本尊は不動明王。往古は東寺(塔中)宝菩提院の直末(直属の末寺)で、『風土記稿』のときは
大工町(浜町)・蓮上院の末寺だった。
『箱根(権現)縁起(絵巻)』によると、文武天皇(在位697-707)の時、玄昉僧正が
箱根・芦ノ湖室河津に創建し、当初は西光寺と号した。のちに行基が「西光院」と改めたという。
寺伝によると、天文年間(1532-1555)に北条氏綱が、松原明神の社中に寺院を建立して法楽を
執行させようと、箱根の金剛王院41世・融山僧正に相談して西光院を小田原へ移し、
「松原山南勝寺」の山・寺号を命名したといわれていた。
このため、融山を西光院の開基と称していた。
小田原市文化部文化財課によると、明治2年(1869)の神仏分離令により松原神社から玉滝坊と
西光院が分離されたときに、その什宝や古文書類も蓮上院の所有となっており、1976年
(昭和51)に蓮上院の古文書15点として文化財指定を受けているとのこと。



そして、旧東海道の1本北側の道を東に進む。



民家の庭先にあったのは コンロンカ(崑崙花) であろうか?







小田原本町郵便局



本町2丁目交差点 に突き当たる。
道路の先に「旧地名」碑が見えた。



青物町 ( あおものちょう) 」碑。



「小田原北条氏時代、町内に野菜の市(いち)が開かれていたのでこの名がついたといわれ、
商人の多い町であった。東京の日本橋にあった青物町は、徳川家康のころ江戸の町づくりのため、
この土地の人たちが移り住んだ町といわれる。」
別の説明では
この町は、藩主稲葉氏の「永代日記」、延宝3年(1675)の記事に初めて町名が見られます。
「新編相使国風士記稿」(1841年)には、「いにしへ野業の市立ちしより町名になる」と
あります。東京の日本橋にあった「青物町」は、徳川家康のころ江戸の町づくりのため、
この士地の人達が移り住んだといわれています。
この町は、商人町の色が濃いところで、旅篭はありませんでした。
なお、天保初期(1830年代)、町内の戸数は46軒でした と。



南北に延びるこの道沿いは「 シャッター通り 」になっていた。

シャッター通り 」とは、商店や事務所が閉店・閉鎖し、シャッターを下ろした状態が目立つ、
衰退した商店街や街並みを指す言葉である。中心市街地の空洞化現象を表すキーワードの一つで
あり、特に 商店街を指す場合はシャッター商店街、街並み全体を指す場合はシャッター街と
呼ばれる こともある。地方では1980年代後半頃から顕著化しており、身近な都市問題として

シャッター通り 」と言うよりは、「 シャッター街 」であろうか。



北に進むとここにも「 青物町 」の 旧地名碑 があった。



旧地名碑「青物町(あおものちょう)」



「旧地名碑」配置案内図。



さらに北に進み 「国際通り」交差点 へ。



「国際通り」交差点 の先にも、「旧地名碑」が。



「一丁田町(いっちょうだちょう)」碑



「この町は、商人町の色が濃く、郷宿(ごうやど・公用で藩役所などへ出向く村人が泊まる
宿屋)も数軒あった。町内の東北部に「誓願町」という小町があるが、この名は、誓願寺の
門前にあたるためといわれています。」
別の説明では
この町は、天正19年(1591)の文書に初めて町名が見られます。
ここは、商人町の色が濃く、郷宿(ごうやど:公用で藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)も
数軒ありました。町内の東北部に「誓願町」という小町がありますが、この名は、誓願寺門前に
あたるためで、藩主稲葉氏の「永代日記」の明暦2年(1656)の記事には「誓願寺町」とあります。
なお、天保初期(1830年代)、町内の戸数は63軒でした と。



その先、 「浜町一丁目」交差点の手前 にも。



ゴミ用ネットが石碑に巻かれて・・・!?。



説明文は同じ内容が。



旧地名碑が。



台宿町 」碑。



だいじくちょう 」。



「この町は江戸時代からの商人町で、後には衣類を扱う店が多かった。
町内の東には、山上横町という横町があり、林角(林学)小路かこの町と一丁田町との境を
西に向かっている。」
別の説明では
この町は、万治年間(1658 ~ 60年)の文書に初めて町名が見られます。
ここは、江戸時代からの商人町で、後には衣類を扱う店が多くなりました。町内の東には、
小田原北条氏(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏5代( 1495 ~ 1590年) )の家臣
山上強右衛門(「新編相模国風上記稿」(1841年)によれば、山上強右衛門は、小田原北条氏
第4代氏政、第5代氏直に仕えた人で、小田原落城後の天正18年(1590) 7月、氏直が高野山
に人った時にお供をしたとある)屋敷跡に山来する「山上横町」という横町があり、林学
渡辺利右衛門(「新編相模国風上記稿」(1841年)によれば、渡辺利右衛門は、もと伊豆の浪士で
あったが、享禄年間(1528年~ 31年)に台宿町に住み着き、一丁田町にある安国寺を中興開基
したとある)にちなんだ「林学(林角)小路」がこの町と一丁田町との境を西に向かっています。
なお、天保初期(1830年代)、町内の戸数は41軒でした と。


「浜町一丁目」を西に進むと、右手前方に「旧地名」碑が現れた。



林学小路 」碑。



「林学小路は、小田原城三の丸堀端から一丁田町と台宿町の境とを東西に結ぶ小路をいう。
この地名は小田原北条氏時代からの住人であった渡辺利右衛門の号「林学」にちなんだものと
いわれている。」
別の説明では
林学小路は、小田原城絵図の一つである「加藤図」(1614 ~ 32年)に地形が見られ、
「新編相模国風士記稿」(1841年)に初めて地名が見られます。
南北に走る林学小路の北側には、林学長屋がありました と。



手前路地の先にあったのが「 石川漆器(株)



小田原の伝統的工芸品である小田原漆器を制作販売する老舗の工房であると。



店頭にあった 象の石像



伝統工芸 石川漆器 」。



店内を入口ドア越しにズームして。



引き返して、その先を右に折れて進む。



林学横町 」碑。



りんがくよこちょう 」。



「この地名は、小田原北条氏時代からの住人であった渡辺利右衛門の号「林学」にちなんだもの
といわれている。
林学横町は、大工町から林学小路まで南北に走る横町をいう。」
別の背名では
この横町は、小田原城絵図の一つである「正保図」(1644 ~ 54年)に地形が見られ、
「新編相模国風上記稿」(1841)に初めて地名が見られます と。



引き返して 「本町二丁目」交差点 まで進む。



「本町二丁目」交差点を右折 して北に進む。
林学(りんがく) 」碑。



「この地名は、小田原北条氏時代からの住人であった渡辺利右衛門の号「林学」にちなんだものと
いわれている。なお、この地は「林角」や「林岳」とも表記された。」
別の説明では
この地名は、「新編相使国風上記稿」( 18羽年)に小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、
氏政、氏直の北条氏5代( 1495 ~ 1590年) )からの住人渡辺利右衛門(新編相模国風上記稿
(1841)によれば、渡辺利右衛門は、もと伊豆の浪士であったが、享禄年間(1528 ~ 31年)に
台宿町に住み着き、一丁田町にある安国寺を中興開基したとある)の号「林学(林角)」にちなんだものと
記されています。なお、この上地は、「林角」「林岳」とも表記されました と。




                                  ・・・​ もどる ​・・・



                 ・・・​ つづく ​・・・



















お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2024.10.28 05:00:23
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: