JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.10.12
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カテゴリ: JINさんの農園
「銀座通り」交差点



「銀座通り」交差点を渡り直進・北上 する。



右手にあったのが
茶葉販売店「小田原 江嶋(Odawara Ejima)」



日本茶と和紙の専門店「小田原 江嶋(えじま)」。
2021年に創業360年を迎えた小田原を代表する老舗。
趣のある建物は1928年に建築され、伝統を感じる重厚な造りが特徴。



店の内部をガラス窓越しに。



店内では急須や海苔、和雑貨、のし袋といった典礼用品なども販売。



その先、左手にも「 旧地名碑



「須藤町」 碑。



すとうちょう」 と。



「町名の由来は、小田原北条氏の総職人頭で、北条氏の領内の職人を統括する立場にあった
須藤左衛門が住んでいたためといわれている。
町並みには商家が多く、江戸時代を通じ有力な商人が住んでいた。」
別の説明では
この町は、「貞享三年御引渡記録」(1686年)に初めて町名が見られます。
町名の山来は、「新編相使国風上記稿」(1841年)によると、小田原北条氏の総職人頭で、
北条氏の領内の職人を統括する立場にあった須藤惣左衛門が住んでいたためとしています。
町並みには商家が多く、江戸時代を通じ有力な商人が住んでいました。
なお、天保初期(1830年代)、町内の戸数は49軒でした と。



その先 「錦通り出口」交差点手前 にも。



内容は同じ。
ここにもゴミ用ネットが。



「錦通り出口」交差点



その先にあったのが 「錦織町(にしごおりちょう/にしこりちょう)」碑



「この地内に「錦織明神」がまつられていたところから「錦織町」(東海道分間延絵図)と
いわれた。
明治以降は、「錦織横町」とも呼ばれ、現在の「錦通り」の名は、この「錦織明神」や

別の説明では
錦織町は、「東海道分間延絵図」(1789 ~ 1806年)に初めて地名が見られます。
地名の山来は、この地内に「錦織明神」(「新編模国風上記稿」( 1841年)によれば、錦織明神は、
むかし修験が火定(かじよう:焼身死)したのをまつったもので、はじめ「西郷明神」と呼ばれて
いたものを慶安年間(1648 ~ 51年)に小田原城主の命令によって、この名になったとある)が
あったためといわれています。
この社は、明治末期から大正初期のころに市内城山1丁日の「大稲荷神社」に合祀されました。
現在使われている「錦通り」の名は、この「錦織明神」や「錦織町」に由来するものです。
なお、明治以降「錦織横町」とも呼ばれています と。



そして南下して 「栄町一丁目」交差点 に出る。



交差点の角にあったのが 「下幸田(しもこうだ)」 碑。



「地名の由来は、小田原北条氏時代、北条氏の家臣幸田氏がこの地に居住していたからと
いわれている。
この地は、小田原城内に入る門の一つ、幸田門近くにあり、隣の上幸田とともにこの門を守る
侍町にふさわしいたたずまいであった。」
別の説明では
この地名は、小田原城絵図の一つである「延宝図」(1675年)に初めて見られます。地名の由来は、
上幸田を含めて小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏5代(1495 ~
1590年) )、北条氏の家臣幸田氏がこの地に居住したからといわれています。
下幸田は、はじめ下幸田町と呼ばれていましたが、江戸時代後期には、「町」の字を略して
下幸田となりました。
この地は、城内に人る門の一つ、幸田門近くにあり、これを守るために隣の上幸田ととも
に侍町にふさわしいたたずまいとなっていました。
通りの右側を高部屋、左手前を下幸田、その先を上幸田と呼んでいました と。



ここから「 幸田口通り 起点 」であると。



「銀座通り」を西に進むと「栄町」交差点 に到着。



横断歩道を渡ると 「上幸田(うわこうだ)」 碑があった。
以下は「​ 小田原城下を歩く(その4) ​」👈️リンクの繰り返しになる場所もあるが。



「上幸田」碑



「地名の由来は、小田原北条氏時代、北条氏の家臣幸田氏が居住していたためといわれている。
この地は、小田原城内に入る門の一つ、幸田門から北へ走る道路の両側にあった長方形の侍町で、
下幸田ととも に幸田門を守る重要な位置にあった。」
別の説明では
この地名は、小田原城絵図の一つである「延宝図」(1675年)に初めて見られます。地名の由来は、
下幸田を含めて小田原北条氏時代(北条早雲、氏絅、氏康、氏政、氏直の北条氏5代(1495 ~
1590年) )、北条氏の家臣幸田氏がこの地に居住したからといわれています。
上幸田は、はじめ上幸田町と呼ばれていましたが、江戸時代後期には、「町」の字を略して
上幸田となりました。
南側の幸田門は、小田原北条氏時代には「四ツ門」といわれ、元禄10年(1697)に門」と
改称されました。この地は、幸田門から北に走る道路の両側に開けた長方形の侍町で、
隣の下幸田とともに幸田門を守る重要な位置にありました と。



その先にも 旧地名碑 がった。



「薮幸田(やぶこうだ)」 碑。



「この地名は、小田原北条氏時代、北条氏の家臣幸田氏が居住していたためといわれている。
下幸田(したこうだ)上幸田(うわこうだ)の西方に位置し、幕末には藩士の住まいが
約十六軒あった」
別の説明では
この地名は、「貞享三年御引渡記録」(1686年)に「竹花裏はんこ町」として見られます。
稲葉氏時代(1632 ~ 85年:寛永9年(1632)、稲葉正勝が下野真岡城(栃木県)から移って
小田原藩主になり、正勝・正則・正通を経て、貞享2年(1685)、正通が越後高田域(新潟県)
に転封されるまでの3代53年間)にこの地を「車地蔵小路」と呼びましたが、その由来はここに
あった伝心庵(でんしんあん:小田原北条氏の氏寺であったが、北条氏滅亡後、大久保氏時代に
なってこの寺は、寺町(中町)に移され、その跡に永久寺が建立された)の車地蔵にちなんだものと
考えられます。
文化年間(1819年前後)、この地には、長沼流軍学者山下与太夫も住んでいました。彼は四国から
菱(ひし:池や沼に生える水生の一年草で、実は肩平で菱形をしており、両側に鋭いとげが
ありました。また実は食用になる)の種を取り寄せ、忍びの者の侵入を防ぐため小田原城の堀に
これを植えたといわれています と。



そして 再び「小田原城 三の丸外郭跡」 をカメラに。
小田原城三の丸外郭跡
この場所は、小田原城三の丸の土塁と塀があった所で、道路ができる前までは土塁が
残っていました。
造られた年代は明らかでありませんが、後北条氏四代氏政の時代の永禄四年(西暦一五六一)に
上杉謙信が同十二年武田信玄がそれぞれ攻め寄せ来た時の苦い経験から、当時の大手に近い
この低丘陵を城域に取り入れるこの工事は、急いで行う必要があったと考えられます。
「正保図」と呼ばれる城絵図のこの部分には「堀幅十間、深二間半、内水(水深)三尺、土手高
三間」と書かれています。調査したで、道路下に深く落ち込んでいました。そこには湿泥地が
広がり、堀を形造っていたようです。
                               小田原市教育委員会」 



そしてここが「 幸田口通り 終点 」と。



「お城通り」交差点 まで戻る。



横断歩道の先に「 ローソン ミナカ小田原店 」。



最後に、往路の早朝時には開店していなかったが「​ ミナカ小田原店 ​」👈️リンクに立ち寄り散策。



「​ ミナカ小田原店 ​」👈️リンク の1F店舗案内。



「​ 魚商 小田原六左衛門 ​」👈️リンク 。



「​ 逸品屋 金次郎 ​」👈️リンク 。



「​ いなり寿司 相模屋 ​」 👈️リンク 。



「​ いなり寿司 相模屋 ​」👈️リンク





「​ 金目鯛とくぞう ​」👈️リンク 



「​ おだまめ ​」👈️リンク 



そして最後に「​ 小田原みなと食堂 ​」👈️リンク へ。



北条五代海鮮丼 」を楽しんだので帰宅の途についたのであった。。





                                    ・・・​ もどる ​・・・



                  ・・・​ つづく ​・・・







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Last updated  2024.10.28 05:00:56
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