今が生死

今が生死

2022.03.17
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カテゴリ: 読書


昨夜東北地方を震源地とする大きな地震(震度6~7)があり、その影響で当地方も朝方まで停電があった。お亡くなりになった方もあり、被災なされた方々には心よりお見舞い申し上げる。
昨日文芸春秋4月号で2月にお亡くなりになられた石原慎太郎さんの遺稿「死への道程」等を読ませて頂いた。遺構は少し難しい表現が多く難解な所もあったが、死の直前まで一緒に暮らした四男の画家石原延啓さんに対するインタビュー記事「父は最期まで我を貫いた」は分かりやすく、慎太郎さんがより身近に感じられ、ほのぼのとしたよい話だった。
父慎太郎氏は自由人として誰はばかることなく傍若無人に暮らしてきて死の直前までその姿勢は変わらなかったとのことである。小学校の時はずっと級長で、大学生の時たまたま書いた小説「太陽の季節」が芥川賞を受賞し、その後国会議員にも選ばれ、東京都知事にもなった。自分は選ばれた人間だという意識が強かったのではないかと延啓さんは述べている。
2年前早期すい臓がんが見つかり千葉県の病院で重粒子線治療を受けて腫瘍を撤退させた時も俺は選ばれた人間だからがんも逃げていくと思っていたに違いない。しかし昨年10月腹痛で受診した時CT検査かMR検査で腫瘍の部分が光る画像でほぼ全身に光るものをみて愕然として余命何か月かと聞いたら3か月と言われて観念して上記「死への道程」を書いた。
それが多分に哲学的で難解だったのは「自分は死ぬ時だって女々しくはしていないぞ。選ばれた人間だって死ぬのだ。その死に様をみておけ」というような気迫が感じられれた。画家である延啓さんがみた慎太郎氏の死顔は生きていた時以上に艶があり、生前より優しさが加わっていたとのことである。死してなお尊厳を失わなかったとは大した人間だったのだなと思った。
慎太郎氏は自分を選ばれた人間だと思っていた。自分をどう思うかは勝手でこう思ってはいけないああ思ってはいけないと言うことはないがこう思った方が幸せでこう思った方が不幸という思い方があると思う。
慎太郎氏とは反対に自分は呪われた人間だと思って暮らしてきたらどうだろうか?学校では先生に怒られてばかり、小説を書いても何時も落選ばかり、恋をしても失恋ばかり、仕事もうまくいかず、体調はいつも悪い。これは自分は呪われているからだと思う。そうすると益々不幸が重なっていく。
自分が自分をどう思うかは全くの自由なのだからどうせ自分のことを思うのだったら慎太郎氏のように運が良いように選ばれて生まれてきたのだと思って失敗や調子の悪いことはあまり気にしないで自由気ままに生活するのがいいのではないかと思った。





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Last updated  2022.03.17 18:11:03 コメント(4) | コメントを書く


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