今が生死

今が生死

2022.11.30
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テーマ: 努力(19)
カテゴリ: テレビ番組

本日の「英雄達の選択」は福沢諭吉であった。福沢は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の言葉で有名だが、最初に福沢の簡単な年表を記す。
1835年大阪で生まれるが、1年後父が病死して母と5人の子供は大分県中津に移住。5歳から漢学を学び始め15歳で殆どの漢学書を読破。19歳で長崎で蘭学を学び、その後大阪に移り、緒方洪庵の適塾に入門。22歳で適塾の塾長になった。
1868年23歳の時、学問に秀でている者として江戸に召集され、小さな蘭学の私塾を創設した。それが後に慶応義塾大学となったものである。江戸に出た時最も驚き落胆したのは、外国人の会話はオランダ語でなく英語だった事である。普通の人間なら、あんなに夢中になって勉強してきたオランダ語が通じないとなれば失望落胆して消えてしまったかもしれないが、福沢は違っていた。心を入れ替え今度は1から英語の勉強を習い始めてそれをマスターしてしまったのである。
そして1860年(25歳)には幕府の船、咸臨丸で勝海舟、ジョン万次郎などと共に、アメリカに渡ったのである。それから1867年まで、イギリス、フランス等のヨーロッパとアメリカの間を何度か行き来して見識を深めた。
1872年「学問のすすめ」刊行
1882年日刊新聞「時事新報」発刊
1886年婦人論を執筆し男女平等を訴えた
1901年2月3日脳溢血の再発で68歳の生涯を閉じた。


福沢が外遊から帰ったら日本は大変な事になっていた。禁門の変以降大変革が起ころうとしていたのである。長州攻めの時、福沢は幕府軍は何としても長州を制圧してその後幕府が生まれ変わって幕府の力で封建制を一変させるべきだとの意見書を幕府に提出した。
しかし第15代将軍徳川慶喜には既に戦う気力がなく、大政奉還し、薩長による新政府が成立してしまい福沢にとっては残念な推移であった。
その後明治新政府が動き出し、国会開設の機運が盛り上がってきた。福沢は新政府の要人井上馨に呼ばれ、政府の意見を伝える新聞の発行を依頼され、協力することになる。しかし明治14年の政変で福沢が主張してきたイギリス型議員内閣制を取り入れようとしていた大隈重信が伊藤博文や井上馨の反対にあって追放されてしまったのである。
伊藤や井上は福沢の言うように民衆に力を持たせることは危険極まりないと強硬に反対したのである。そして政府中枢からはずれた大隈が立憲改進党を結成して福沢に一緒に戦っていこうと要請した。ここで大隈と共に政治活動をしていくか、大隈の要請を断って在野の道を歩むのかのどちらを選択するかの設問が出された。
福沢は政治に対する明確なビジョンを持っていたので、大隈の要請を受け入れて共に政党人として戦って欲しかったが、政治の真っただ中で戦う勇気がなく、大隈の要請を断ってしまった。
そして結局伊藤や井上らを中心に制定された大日本帝国憲法はドイツ型の中央政権制の強いものであった。福沢は野にあったが、政府に反対の意見を持っている危険人物として密偵に監視され、東京からの追放も検討されていた。
憲法制定の時、華々しく名を馳せた伊藤や井上とは対照的に密偵に監視されながらひっそりと暮らしていた福沢は、戦後の民主主義時代になって蘇り、死してその名はいやが上にも高まっている。





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Last updated  2022.11.30 21:34:15 コメント(4) | コメントを書く


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