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今日、四十九日になる。早いものだ。四十九日の法要は27日に行った。眞智子さんの兄弟、私の兄弟や親戚の皆さんに参列いただき、法要を行った。そのあと、家の裏山にある墓地に納骨した。眞智子さんの兄弟は我が家の墓地は初めてで、そこからの景色が美しいことに喜んでいた。東には八ヶ岳連峰が一望でき、南には南アルプスがよく見える高台だ。眞智子さんはここに眠ることになる。墓地の西側には八重桜が植えられ、5月の連休前には美しい花が咲く。墓地の周りはスイセン畑である。花に囲まれた墓地だ。自分にとっては当たり前の景色だが、はじめての皆さんには新鮮に映ったのだろう。葬儀場の「アークホール茅野」では葬儀の最後に「ナレーション」を流してくれる。関係者から聞き取りをして司会者の「語り」が行われる。この語りは死者を丸ごと語ってくれるので、参列者が死者への思いを共有できる場と化す。その原稿を戴いたので掲載する。ナレーション 涙ににじむクリスマスのイルミネーションが街を彩る、その輝く光の粒にあなたの声がして、あなたの笑顔が浮かんでくるこの師走の一日、ひとつの大切な大切な命終わりとなってしまいました。惜しみ見ても余りある66年の華やかきステージに突然幕を下ろされた真智子様。その輝き続けた命の歩み、そして思い出のほんのひとかけらを紐解きながらお別れを告げたいと存じます。お年を感じさせぬ美しいお姿で皆様を見つめておいでのご遺影は2005年3回目の立候補の折撮影された思い出の1枚。まさかこのお写真がご遺影になろうとご本人はもとより、どなたに想像がついた事でございましょう。教師の道に終止符を打ち、志しを政治の世界に向け、平和の為 そして弱者の為にとその身を捧げていらした真智子様。その尊き道のりを訪ねますと昭和22年12月3日長野市篠ノ井の北條家の次女としてご誕生。幼い頃より本の虫と評される程の読書家で、林檎の木に登っては数々の本を読み更け、時として小さな机に兄弟5人で肩を寄せ合いひたすらに勉学に勤しんで来られた懐かしい少女時代。当時教職にあったお父様と共にご家族で朝鮮より引き上げ、そのご両親に経済的なご負担ご心痛は掛けられないと、幼心に自主自立の信念の元あえて短大である日本女子体育短期大学にご入学。ご卒業後はお父様の意志を継ぐかの如く教論として中学校の教壇に立ち、星の数ほどの背中を見送りその希望の命をまだ見ぬ明日へと導いた尊き歩み。高校時代は新体操、短大ではフォークダンスクラブとご活躍された経験を生かし、下諏訪中学校の文化祭では全校ダンスの指導を自らされた校庭でのパーフォマンスは新しいプログラムとして今でも毎年恒例となるなど熱心に取り組まれて来られました。大きく温かい懐で多感な心を包み、時にはその心に刺さったとげも優しく手当して下さった先生としてのお姿にどれだけの方が感謝を胸にされ旅立った事でございましょう。後に障害児童教育にも携わるほか、長野県教職員組合女性部副部長など多くの役職を歴任される礎となりました。女性の権利拡大そして子供やお年寄りへの福祉向上に精魂を注がれる日々、この世で一番輝ける場所を見つけられた真智子様。時には茅野民報コラムで「私は何より人の命が大事だと思います。世界平和を発信して行くことこそ平和憲法を持つ日本。唯一被爆国の日本がやるべき事です」と語られ、命の大切さや弱者が差別されない社会を目指し心血を注いでいらっしゃいました。持って生まれた誠実なお人柄は毎朝5紙の新聞、さらには業界紙までにも目を通され、日夜過密なスケジュールをこなし、寝る間さえ惜しみ市提案の文書に熱心に取り組まれるなど、その活動に命の光を放って来られた真智子様。 そこにはいつも市民の皆様を始め、弱者の方の目線に立ち克己心を原点に、人の痛みの解る政治家としてだけでなく、一人の女性としての心優しい真智子様がいました。ご家庭にあっては昭和51年3月ご結婚。以来36年間切ない思いは二人で超え、背負った苦しみは二人で分かち合いそして喜びは二人で笑顔を交わしながら綴ったアルバムへと思い出を積み重ねて来られました。終の棲家でもあったこの地の山々の美しさに魅了された真智子様にとって雄大な風景は、どれほどお忙しい日々の心を和ませて下さった事でございましょう。その多忙な中にも女性としての心配りも忘れることなく、家事もそつなくこなし、さらには季節ごとのファッションにも気を配りおしゃれをも楽しんでいらっしゃいました。和みの時間にはブログでご自分の思いを綴られたり、書道・絵手紙など心の拠り所とされていらした真智子様。時には大好きなお酒を片手に議論を交わされ、楽しまれたカラオケでさえ、気配りを忘れる事無くその場を盛り上げるなど、人との繋がりを何より大切にとの思いを馳せていらっしゃいました。しかし精力的にご活躍される選挙活動の最中、予期せぬ病に見舞われ先日旅立たれお母様の元へと向かわれてしまいました。昨日があり今日を精一杯生き、そして未来という明日を残し 余りにも衝撃的なお別れとなってしまいました。決して離れる事の無かったご主人様との2つの影、たとえあのお部屋のあの場所にそのお姿は見えなくとも、これからはステージを変え心のメールで語り合い寄り添って下さる事でございましょう。毎日の生活の中1ページづつ綴って来られた、たった一つの人生という物語は、もうめくる事は叶いませんが、沢山の皆様が流して下さった涙が真智子様を穏やかな眠りに誘います事を願いご冥福を心よりお祈り申し上げます。
2013年01月31日
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眞智子さんが亡くなってから1ヶ月がたった。朝、眞智子さんの友人から、電話があって「今日、一月目だね。いなくなったなんて信じられない。よく夢に出てくるよ。今日お線香をあげに行きたいけど。」と言うことだった。日程を調整して、明後日来てもらうことにした。 祭壇の花を新しいものに替えた。赤いカーネーションを添えたら明るさが増した。眞智子さんが大好きだったイクラを炊きたてのご飯にのせてあげた。「イクラ丼だ」と言っても、写真はほほえんだままだ。 今日は小正月、この地方では14日の夜、どんど焼きを行う。眞智子さんはお祭りが大好きで、よく行ったものだ。今日は大雪で準備が大変だったが夕方から雪も止み、どんど焼きができた。 日本共産党茅野市委員会で発行している「茅野民報」には議員三人のコラムが持ち回りで掲載されている。10月28日号に掲載されたものを転載する。「就学奨励費受給者増」の報道に思う 伊藤眞智子 先日、全国で就学奨励費を支給されている子どもの割合が、7人に1人から6人に1人となったという報道がありました。子どもの貧困が加速的に進んでいるということです。茅野市の状況は23年度でみると11.4%ですので約10人に1人ということになります。長野県の数値もほぼ同じで全国平均に比べるとまだまだ良い方だと言えますが、生活保護世帯の増加、雇用状況の厳しさや賃金の低下など貧困と格差が広がっている今の社会の状況から考えると、今後ますます増えていくことが予想されます。 義務教育は法律で無償とされていますが(憲法26条)実際は無償となっているのは授業料と教科書代で、ほかの費用は家庭負担となっています。長野県教育委員会の調査によると教材費、PTA、生徒会、学級費給食費、遠足修学旅行等行事の費用などの「学校徴収金」は、小学校で78、812円、中学校で120、601円で、その他に部活などの費用、カバン、制服、家庭によっては学習塾費用など子どもを持つ親にとって大変重い負担です。子どもに貧困の責任はありません。 家庭の貧富の差によって「教育の機会均等」がなし崩しになるようなことはあってはなりません。そう言った意味で学校での徴収金についても改めて考える必要があるのではないかと思います。 長野県教育委員会では、学校徴収金が家計の重荷になっているという批判が広がるなかで、2011年に県立学校に「学校徴収金の基本的な考え方について」(保護者への説明責任、必要最小限の額の徴収、適切な方法による管理)を基本原則とする文書を示しています。市町村教委に対してはその原則により対応すること、公費で負担すべき経費を私費負担にしている場合は説明を充分行うことと、負担軽減を可能な限り図ること、学校間格差がないようにすること、再利用や有効活用を進めることを要請しています。 13年も前のことになります。議員になって初めての9月決算委員会で、教育費の不用額(予算のうち使わなかったお金)が多いということに疑問を持ちました。現場では学校予算が少ないからとケチケチしながらやりくりしたり父母負担にしていると指摘し、現状を把握することと予算の増額を求めました。その後、教育委員会と事務職員の先生方が検討し、茅野市なりの公費負担と私費負担のルールを決めました。以前勤めていた自治体ではワラ半紙代は父母負担でしたが、茅野市のルールではワラ半紙代は公費からと決めるなど一定の改善が図られたと思います。 しかし、子どもの貧困が大きな社会問題となってきている今、そのあり方についてさらに検討する必要があるのではないでしょうか。改めて憲法、教育基本法、児童憲章に則った方向で、子どもの貧困を子どもの権利として問い直す必要があるのではないかと思います。
2013年01月14日
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いとまち日記をご覧戴いていた皆さんに、悲しいお知らせをしなければいけません。 昨年(2012年)12月14日、伊藤眞智子さんは、衆議院長野4区上田秀昭候補を地元米沢北大塩の公民館に迎え、街頭演説の応援をする予定でした。いつもの御座石神社前で、上田候補を待ちつつ、通勤途中の有権者に手を振って挨拶をしていました。 14日の朝は茅野市は大変寒く氷点下10度を下回っていたのではないかと思います。ダウンのジャンパーを着、オーバーズボンをはいて、マフラーを2枚首に巻きつけて、通勤途上の有権者に手を振っていました。 7時45分頃、眞智子さんは急に胸が痛いとしゃがみ込み、一瞬四つん這いになりました、が、両手の力が抜け、(ここから先は長い一日になりました。いつか機会を作って書こうと思います。)帰らぬ人となりました。 諏訪中央病院の先生は、「心筋梗塞による心破裂」と診断してくれました。心破裂は心筋梗塞と同時ではない。先に心筋梗塞が起きて、心筋がダメージを受け、破裂したと言う説明でした。 2週間位前から、「肩がこった」と言っていましたが、まさか心筋梗塞が起きていたとは本人はじめ、周りの誰もが気がつきませんでした。 選挙が終わって、市議会最終日の前日の19日、葬儀を行いました。市長さん、議長さんはじめ、党県委員長、牛山晴一元市議会議員さんなど大勢の方から弔辞を戴きました。大勢の皆さんにお焼香して戴きました。 それから、大晦日を迎え、正月がやってきました。 そして、明日、一月の命日を迎えます。□このブログを見ていただいていた方に、亡くなったお知らせをしなければいけないと思いつつ、今日になりました。長いこと見ていただきまして本当にありがとうございました。本人に代わって御礼申し上げます。□1000回に及ぶ日記を見返すと、あんなこともあった、こんなこともあったと涙が止まりません。でも、ブログに書かれなかった眞智子さんのことを弔問に来ていただいた方がたからたくさんお聞きすることができました。機会をつくって、書き加えようと思います。お許し下さい。女房のことを眞智子さんと書くことに違和感のある人もいると思いますが勘弁下さい。 眞智子夫正陽
2013年01月13日
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