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私は、早稲田大学を夢見ていました。しかし、貧乏人の子沢山の家庭では許されないことだったようです。母の嫁ぎ先では、他の6人兄弟姉妹の学歴は、二男の義兄だけが高校卒でした。『おまえは、どこの王子さまと思ってるのか』進学を決める学校の父兄会から帰ってきた母の弟の叔父の目を三角した大きなどなり声が、私の人生の分岐点でした。私は、自暴自棄になりました。向こう所の無い怒りが、私の思考も行動も全てを停止させました。“何もしない、何も考えない。”と。時々、中学時代の友達が、遊びにきて言いました。『ぼんちゃんの机には、いつ来ても本が置いてないね。勉強してないみたい。』と。今だから言えますが、“あの時、腹を立てないでちゃんと勉強しとけば”としかし、目指す学校には行けませんでしたが、人生万事塞翁が馬それからの人生、それなりに幸せに暮らしてきました。クリスタルガイザー ミネラルウォーター 500ml*48本入り(並行輸入...価格:1,680円(税込、送料込)【1週間前後発送】【代引き不可】16型折りたたみコンパクト自転車...価格:21,000円(税込、送料別)5年連続シフォンケーキ部門年間ランキング1位獲得商品11種類のシフォンケーキ【送料無料】こど...価格:3,530円(税込、送料込)
2012.04.21
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危険な18歳が私の人生最大の試練の時期でした。当時、18歳の少年が有名な政治家をナイフで刺すテロがあり、私達18歳は危険な18歳と呼ばれていました。私は、母の嫁ぎ先の“貧乏の子沢山”の典型のような家庭で、悩みの多い毎日でした。通っている高校は、有名な私立の進学校。学友みんなは幸せな家庭で勉強だけをしているとしか見えませんでした。自分の気持が抑えきれなくなったら、“何も考えない、考えない”とつぶやきながら自転車を1時間も2時間も力一杯走らせました。高校3年の1学期、学校参観に義父の代わりに長男の義兄が出席しました。義兄は家に帰るなり、私をどなりつけました。『おまえは、どこの王子さまか!!。』と。担任の先生は、“他校と競争もしているので、地元の国立に”と言ったそうです。私は、あこがれの早稲田の政経しか考えていませんでした。義兄に怒鳴られた瞬間、腹が立って腹が立って仕方ありませんでした。下を向いて握ったこぶしが、ブルブルふるえて止まりませんでした。もう、勉強止めた、私は思いました。 若かったのです。クリスタルガイザー ミネラルウォーター 500ml*48本入り(並行輸入...価格:1,680円(税込、送料込)【1週間前後発送】【代引き不可】16型折りたたみコンパクト自転車...価格:21,000円(税込、送料別)5年連続シフォンケーキ部門年間ランキング1位獲得商品11種類のシフォンケーキ【送料無料】こど...価格:3,530円(税込、送料込)
2012.04.18
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中学校まで祖父母のもとで育てられ、高校から母の嫁ぎ先に行きました。私の高校は、私立の有名な進学校で、遠くからの生徒が多く他県からも来ていました。私は、自転車・電車・バスを乗り継いで、片道1時間半かけて通学しました。母の嫁ぎ先は、子供が私をいれて7人で、いわゆる貧乏人の子だくさんでした。最初は、祖母が心配して、もみ殻の中に生卵を12個入れてことづけてくれていました。家族の多い中、その卵をどうしたか覚えていません。私は、学校から帰宅すると予習復習でしたから、義兄たちから『いさみは何にもせん。勉強ばかりして。』と皮肉を言われました。その家で勉強するのは、私だけでした。私も悩みましたが、母にもたくさん苦労かけたと思います。県庁のある都市から30分かけて通学している家が薬屋の親友がいました。『彼の家に下宿させてもらい、昼は薬屋を手伝い、夜はその都市にある県立の有名な進学校の夜間に通いたい。』とその友達に相談しました。そしたら、『君より成績の悪い僕が、昼間、学校に行って、君が夜間!。そういうわけいかんやろ!。』と、断られました。クリスタルガイザー ミネラルウォーター 500ml*48本入り(並行輸入...価格:1,680円(税込、送料込)【1週間前後発送】【代引き不可】16型折りたたみコンパクト自転車...価格:21,000円(税込、送料別)5年連続シフォンケーキ部門年間ランキング1位獲得商品11種類のシフォンケーキ【送料無料】こど...価格:3,530円(税込、送料込)
2012.04.16
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私は、中学を卒業するまで、母の嫁ぎ先には行かずに、祖父母の家にいました。ただ、祖父は(市町村合併で、町会議員から市会議員になっていましたが)私が中学入学してすぐ、自宅の玄関口で、相談に来た町の人の話を聞きながら、脳溢血で倒れ、翌日亡くなりました。60歳は過ぎていました。その一週間前に、私は中学に入学しました。私達の中学は、近隣の3つの小学校の卒業生が来ます。その入学の式典の時、3ヶ町村からの新一年生を代表し、私が、壇上の校長先生の前で、大きな声を出して挨拶しました。事前に、卒業した小学校の担任の先生に、挨拶の原稿をもらって家で、何度も大きな声を出した練習していたので、ミス無く言えたと思います。校長先生の前で、大きな声を出しながら、来賓席に何故か祖父の顔がありました。神妙な顔をして、私の姿を追っているようでした。祖父は、男っぽい人でしたが、照れやなところあり、その日家に帰っても“今日は良かった。”とか“ご苦労さん。”とかねぎらいの言葉を、口に出していうようなひとではありませんでした。
2012.04.14
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祖父母には、7人も子供がありましたが、私はまるで8人目の末息子のように育てられました。眼の中に入れても痛くないとは、このことを言うのでしょう。祖父は、背はそれほど高くなく、男っぽくて、喧しいひとでしたが、祖母は、どちらかというと背が高く、大らかで、ポケットのお金は使ってしまわないと気がすまないような人でした。買い物が好きでした。この祖母の経済観念のにぶい性質は、祖母の姉妹も同様で、祖母の妹が近所に住んでいましたが、その祖母の妹にある日息子から“入歯をいれるように”とお金が送ってきたそうです。そしたら、彼女は、入歯はいれずに、口に綿を含んだ証拠写真を息子に送ったそうです。勿論、入歯の代金は、とっくに買い物で消えていたということです。近隣の町村では、果物の栽培が盛んでした。よく梨を家に売りにきました。そんな時、祖母は私の為にたくさん買ってくれました。当時は、梨は20世紀が最高でした。お陰で、最近まで包丁を扱ったことはありませんでしたが、果物の皮?きだけは、小さいころから上手でした。
2012.04.13
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私は母一人・子一人でした。母は小学3年の時結婚しました。私は母方の祖父母に育てられました。祖父は、小さい山村の町会議員をしていました。 男っぽく怒ったら本当に恐いひとでした。でも、普段は無口で、やさしいひとでした。豪傑でもありました。ある日、畑で草刈りをしていて、誤って、左手の薬指を第一関節から鎌でスパッと切り落としてしまいました。しかし、切り落とした指先を、そのまま元通りに付けて、普段通り、何も無かったように家に帰ってきました。私は、その祖父によく叱られました。祖父に何か言われるとすぐ口答えするので、『口応えするな!』と大声で怒鳴りながら、(家の中を掃く)柄の長い箒を持って祖父は私を追いかけてきました。そんな時には、家の中を走って逃げ、あげくは裸足で外に飛び出すことがよくありました。でも、いつもは優しい爺ちゃんでした。
2012.04.12
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母が結婚しても、私は母の里である祖父母の家で育てられました。その家には、祖父母のほかに叔父が3人、叔母が1人、私をいれて計7人同居で賑やかでした。時々、母が来たり、近くに結婚して住んでいるもう一人の叔母も加えると9人、みんな揃うようなことがあると、夕食はスキヤキでした。一つのテーブルでは足りずに、二つのテーブルに別れて、ワイワイ云って食べたのを思い出します。私は、みんなから実の子供以上に可愛がってもらいました。クリスマスの日の朝には、枕元にたくさんの本や、お菓子、オモチャが並びました。家族のものが、それぞれ買ってくれていました。その話を、近所の仲良しのシゲちゃんに話すと、(シゲちゃんは、一人息子で、両親と3人家族でした。)『僕の家には、サンタクロースとか来んよ。』と、おかしいと首をひねりながら『僕のところの煙突は小さいけん、サンタクロースが入りきらんのやろう!!。』と、シゲちゃんは残念そうに言いました。
2012.04.11
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私は、片親でしたので、祖父母は母方だけでした。母が結婚しても、私は小学3年でしたが、今までと同じように祖父母と一緒に暮らしました。そこは、周りを山に囲まれた風光明美なところで、春は桜、夏は木の緑、秋は紅葉と小さな城下町でもあるのて、当時はそうでもありませんでしたが、今ではたくさんの観光客が来るようです。祖父は、私が小さい頃は、車力大工でした。車力というのは、全部が木で作られた荷物を運ぶ人力車で、車輪も木で作りますが、ただタイヤの部分が鉄でできていました。車力は、全部を鉄で作る荷車、リヤカーが出てきて、無くなりました。そういえば、昔は全部を木で作る桶屋(おけや)や傘屋さんがその城下町にありましたが、今はどちらも無くなっています。私は、幼いころ、祖父の車力作りを庭で日向ぼっこしながら見ていました。車輪の外側の鉄の大きな輪を、藁を燃やした火の中に入れ真っ赤に熱し、木だけで作った車輪の内側にはめ込んでいました。ジュという音と共に木が焼ける臭いがしてきました。
2012.04.09
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私は母と一緒に嫁ぎ先には行きませんでした。子沢山で裕福とは決して言えない家に、私が一緒に行けば、私も母も苦労するという祖父母の思いやりがあったからです。小学校が休みの時、時々母の家に遊びに行きました。20分程バスに乗り、そのあたりでは一番賑やかな町に着き、そこでまたバスを乗りかえ、3つ目の停留所で降りたら、母のいる家に着きました。往きは一人ですが、帰りは母がバスを乗り換える町まで送ってくれました。バス停の前には、大通りを挟んでうどん屋がありました。母は、そのうどん屋で、必ず、卵とかまぼこが2切れ入った月見うどんを食べさせてくれました。でも、その時、食べているのは私一人で、母はそばでお茶を飲んでいるだけでした。私が、美味しそうに食べているのを、笑いながら嬉しそうに見つめていました。それがいつもの風景でした。母は、少ない自分の小遣いから、無理して、うどんを食べさせてくれていたのだと推察できるようになったのは、ずっと後になってからです。母には、私を祖父母のもとに一人残したことで、償いの気持もあったかもしれません。
2012.04.08
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父の飛行機遭難事故後、しばらくして母は、近隣の町の人の所に嫁ぎました。母は40代前半、相手は50代の製薬工場の経理担当で、子供が6人(一番下は、まだ6歳)、奥さんを亡くしたばかりの人でした。母は、苦労することはわかっていても、これから女手一つで、私を育てることも考えて嫁いだのでしょう。母の嫁ぐ日の朝、母と私そして親戚全員、大型の貸切バスで先方の家に乗り付けました。これから私の義父となる人の家の座敷で、結婚の手続きがはじまりました。“高砂や”のお謡い、三々九度の杯、そして披露宴。夕方すべてが終わり、また朝と同じ貸切バスで、その家に母だけを残して帰りました。私も、他の親戚の人達と一緒に祖父母の家に、戻りました。帰りのバスに乗る時、義父の親戚の人達みんな、玄関の前で見送ってくれました。私は、見送る人の中に、母が義父の6歳の男の子の手を引いて、手を振っているのが、いつまでも見えていました。その子は、私より2つ年下でした。
2012.04.06
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私は、子供の頃も経済的には恵まれていたようで、幼いころの写真は、戦後の時代にしては、似つかわしくないようなものを着ています。最近になって、小学校の同級生から、『他のものはいつも同じものを着ていたが、ぼんちゃんだけは、いろいろ着ていた。羨ましかった。』と言われ、友達が幼心に、そんなことを考えていたのかと驚いた次第です。そういえば、母が、祖母の妹から、“私に送ってきた千円札を見せてほしい。”と頼まれたと聞いたことがあります。 当時は、まだ千円札が珍しい時代だったらしいです。父からの手紙が残っています。でも、切手が貼ってありません。着払いです。父は、一代で成功した実業家でしたが、お金には細かい人だったようです。毛筆で書かれた父の字は、今でも達筆で読めません。
2012.04.06
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2~3日前の春の嵐で満開の桜を心配しましたが、どうやら無事らしいです。テレビで、東北大学の1年ぶりの入学式があってました。今日は、私のことを少し話したくなりました。私は、生まれてから自分の父を見たことがありません。父は、日本でも有数の工業地帯の商工会議所会頭をするような、地域では名の通った実業家と聞いています。日本で最初の飛行機事故木星号の事故で、亡くなりました。私が小学3年のときでした。新聞が、連日、乗客47名の捜索の記事で、賑わったことを子供心に覚えています。 私は、母の両親(祖父・祖母)のもとで、母の兄弟達7人の一番下の弟であるかのように育てられました。そこは、田舎の小さな町で、私の顔が叔父たちに似ていることもあり、殆どの町の人が下の弟と信じていたようです。私は、親の無い子ということで、家族全員に大事に可愛がってもらいました。それで、周りの人が、私のことをいつからか“ぼっちゃん”と呼ぶようになり、それが訛って、家族には“ぼんち”、町の人達には“ぼんちゃん”と呼ばれるようになりました。町を上げて賑わう4月の花祭りの芝居に、5歳で出たりしたこともあり、“ぼんちゃん”は町の皆に可愛がられました。その祭りの芝居は、赤城の山のくだりで、浅太郎役の叔父に背負われ『かんぼう!』と叔父が呼びかけると、『おじちゃん!』と叔父の背中から答える役でした。私の台詞はその一言でした。祭りの日の、最後の夜の芝居では、『かんぼう!』と呼びかけても、もうスヤスヤ眠っていて私は、応えなかったということです。
2012.04.04
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担当医(M先生)が、これまで勤務していた総合病院を退職後、私と明子はそのM先生の個人病院を訪ねました。医者(M先生とその奥さん)2人、看護婦2人の典型的な町医者という感じでした。私は、少し不安になりました。地元で一番の最新の設備を揃えた総合病院から、設備も最小限、血液検査さえ数日後でないと結果のわからないこういう町医院で、本当に大丈夫なのだろうか?。明子の病気は、常に検査を必要とするガンなのです。そのM先生の個人病院に、明子と二人で診察に行くようになりました。そこは、家から車で30~40分くらいの所でした。治療は、月に1回の血液検査と飲み薬のホルモン剤の補充でした。それと時々、以前骨に転移がみられたからと、骨を強くする点滴をしていました。医者の薬とは別に、カテキンとレイシの健康食品は、ずっと常飲していました。それから、数ヶ月経ってからでした。『家では変わりないですか?。』と、医者に聞かれました。『すごく元気ですよ。』と、私は、そばの明子に代わって答えました。“ふうん”というような複雑な顔をしたM先生は『血液検査で、腫瘍マーカーの数値が少し上がっています。抗がん剤をしましょう。』と、言いだしました。今から考えると、すべての間違いはここから始まったように思います。後で知ったことですが、“腫瘍マーカーは、あくまでも補助的判断材料であり、結論は超音波検査やX線CT、血管造影などの画像診断、生検などを総合して下される。”ということです。ところが、この時、他の検査は何もしないで(個人病院でそばに何の設備も無いこともあったかもしれませんが)抗がん剤のそれも歯茎から血が出るほどの強い投与が始まりました。抗がん剤とそれまで飲んでいたホルモン剤の併用が始まりました。最初の頃の肝臓の値は、平常の人の数値とそれほど変わらない数値でした。それが、抗がん剤を重ね、最後にはガンが死滅せずに、肝臓が死滅してしまいました。数ヶ月後、明子は、最後は皮肉にもM先生が外科部長として勤めていた総合病院のホスピス病棟で亡くなりました。それをM先生に手紙で伝えると、『あの時は、病状が悪化しているとばかり思っていた。抗がん剤は投与しなくて、そのままホルモン剤で良かったのかもしれない。』との手紙が返ってきました。
2012.04.03
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乳がんの部分切除手術後1年半くらいして、骨に転移があるということで、ホルモン剤を服用始めました。明子は、これまでと同じように明るく元気で、近所の女友達や、学校の友達と、カラオケやドライブ・食事と忙しそうでした。たくさん友達がいましたので。私とは、私が定年になったこともあって、ニュージーランド・オーストラリア・サモア・カナダ・台湾と海外旅行に行きました。それと、歌舞伎が好きで、何度も見に行きました。楽しそうでした。手術後5年が過ぎた頃、外科部長の明子の担当医が定年退職で、その大きな総合病院を去ることとなりました。その担当医が退職後は、次の新しい若い医者に引き継ぐことになっていました。ところが、退職間際になって、『私の病院に付いてきますか?。』と医者に誘われ5年間お世話になった安心感もあり、『お願いします。』と明子は即答したのです。その医者は、自宅で奥さんと医院を開業していました。しかし、『私が、あの時、付いて行かなければ良かったんやね。』と、後に余命3ヶ月と宣告されたとき、明子が反省するように独り言をポツリと言いました。聞こえるか、聞こえないかのその小さい声の独り言に、そばにいた私は、ハッとしたことを覚えています。
2012.04.02
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明子の乳がん部分摘出手術は、うまくいきました。回復も早く、後々は、その手術のあとも分からないくらいになりました。病院で日頃、若い担当医の助手が、『うちの先生は、手術させたらピカイチですよ。』と言っていました。『念には念をいれ、ガンをもう一度叩かないと、これから抗がん剤を投与します。』医者に術後の抗がん剤の使用を薦められました。私は、今から考えると無謀だったかもしれません。術後の抗がん剤を断ったのです。というのは、(明子が今飲んでいる)純粋カテキンの健康食品は、USAで抗がん剤として国立ガンセンターで使用されていると聞いていたからです。現に、それは、USAの薬学辞典PDRに薬として掲載されています。安全な抗がん剤を常時飲んでるから、更なる抗がん剤は必要ないと判断したのです。今回、手術前、患部が小さくなったことで、すでに立証済みと確信していました。抗がん剤は毒であり、いかに危険なものかということは、明子がガンと宣告されてから、いろいろな本を読んで認識していました。結局、医者の“最低限、術後の放射線治療だけは”との薦めで、放射線治療だけをすることにしました。医者にとって、私たちは、扱いにくい患者であったことに間違いありません。今になって思えば、お中元やお歳暮くらいは、明子の為に、すべきであったとさえ思っています。私の至らなさを、今感じています。
2012.04.01
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