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「お疲れ様~」「また明日~」 終業時間を迎え、香帆をはじめとする事務の女性パートたちはそう挨拶を交わしながら次々と事務所から出て行った。香帆は事務所を出て、アパートへと向かって歩き出していた。その時、背後から車のクラクションが聞こえた。「乗ってく?」「え、いいんですか?」「いいよぉ。ここ観光地っていってもさぁ、夜は人通りが少ないから、若い女の一人歩きには向かないよ。」「ありがとうございます、じゃぁ・・」のぞみの厚意に甘え、香帆は彼女の車の助手席に乗り込んだ。「すぐ近くですから。」「そう。あたしん家、駅の近くなんだ。そこで両親と兄夫婦と暮らしてる。でも嫁(い)き遅れって両親から毎日言われてさぁ、肩身狭い思いしてるよ。」「そうですか・・」「あたしはさぁ、来年で28になるんだよねぇ。でもここいらじゃぁ、高校で一緒だった子達はもう結婚して肝っ玉母ちゃんになってる子が殆ど。東京でバリバリ働いてて毎日充実してたと思ったんだけどねぇ。何か現実は違ったみたい。」「・・わたしも、今の人と一緒になる前、好きな人と結婚して、家庭を持って・・幸せだと思ったことがあったけど、何かが物足りなかった。だから・・」「もういいよ、それ以上は言いなさんな。はい、着いたよ。」のぞみはコーポ・リメージュの前で車を停めた。「ありがとうございました。」「うん、また明日ね。」「おやすみなさい。」香帆はのぞみの車から降りると、彼女に礼を言ってアパートの外階段を上がっていった。「ただいま。」歳三と借りている304号室のドアを開けると、まだ歳三は帰ってきていないらしく、ドアに鍵がかかっていた。香帆は溜息を吐くと、バッグから鍵を取り出してそれをドアに挿し込んで中に入った。部屋の明かりをつけると、リビングは几帳面な歳三の性格を現しているかのように小奇麗に片付けてられていた。歳三に夕食のことを聞こうと彼の携帯に掛けたが、それはダイニングテーブルの上に置いてあった。「歳兄ちゃんったら・・」香帆はそう言って苦笑すると、こたつのスイッチを入れて歳三の帰りを待った。「じゃぁ土方さん、お疲れ様です。」「ああ、お疲れ様。」 漸く仕事が終わった歳三は、香帆に連絡しようと携帯を探したが、家に置き忘れてきたことに気づいて苦笑した。事務所から出て駐輪場へと彼が向かっていると、誰かが自分の方へと小走りでやってくる気配がした。「土方さん、お疲れ様です!」「ああ、お疲れ・・」息を切らしながらやってきたのは、パートにきている女子大生の水田沙織だった。「もうお帰りですか?」「ああ。」「あの、送っていきましょうか?」「いいよ。一人で帰れるから。」沙織が何かと口実を作っては自分との距離を縮めようとしていることに勘付いていた歳三は、そう言うと自転車に跨って駐輪場から去っていった。「ただいま。」歳三が帰宅すると、キッチンから良い匂いがしてきた。「お帰りなさい。ハンバーグ作ったんだけど、食べる?」「ああ。」家庭も仕事も何もかも捨ててきた香帆と歳三は、幸せだった。にほんブログ村
2012年11月26日
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「これから何処行こうか?」「温泉地でも行こうか。お前は何処に行きたい?」「そうだなぁ、伊豆がいいな。歳兄ちゃんは?」「伊豆にしよう。お前がそう言うんなら。」 途中で特急列車を降りた二人は、伊豆の温泉旅館・きぬたで働き口を探し始めた。「いきなりじゃぁねぇ・・ちゃんと履歴書持ってきてくれないと。それに事務として働きたいんなら、何か資格あるの?」「簿記2級持ってますし、パソコンも出来ます。」「そう・・じゃぁ、今日から宜しくね。これだけは言っておくけど、うちは客商売だから、お客様に愛想よくね。」「ええ。宜しくお願いします。」香帆は、そう言って女将に頭を下げた。 きぬたでの事務仕事は、帳簿の管理が主で、エクセル2級を持っている香帆にとって結婚前に働いていた職場の仕事よりも楽だった。「随分と手際がいいのね。」「はい・・ありがとうございます。」事務室で香帆がパソコンで仕事をしていると、女将がそう言って彼女のデスクにお茶を置いた。「この調子で、頑張ってね。」「はい・・」時計を見ると、もうすぐ正午になろうとしていた。「ねぇ、お昼行かない?」そう言って香帆の肩を叩いたのは、仲居の堀田のぞみだった。「はい・・」「じゃ、行こうか!」のぞみとともに、香帆は旅館の近くの喫茶店へと向かった。「ここのBLTサンド、絶品なんだよ!」「そうですか、それじゃぁそれのランチセットを。」のぞみはランチセットを注文した後、香帆を見た。「ねぇ、何処に住んでるの?」「旅館の近くにあるコーポ・リメージュです。」「ふぅん。あのね、女将さんは従業員の男関係には厳しいのよ。前に一度さぁ、ここで働いていた子が客と出来ちゃってさぁ。」のぞみはそう言うと、両手で妊婦のジェスチャーをしながら、“きぬた騒動”と呼ばれた事件のことを話した。 高校を卒業したばかりの仲居が、一人の客と恋に落ち、駆け落ち同然に辞めて姿をくらましてしまったのだという。「相手の男が、県会議員の息子だったんだよねぇ。そいつ、大きな会社の社長令嬢と婚約してたんだけど、それを蹴って逃げちゃったのよ。」「あの、二人は今何処に?」「さぁ、それは知らないわ。でも駆け落ちなんてしてもさ、一時の感情に走ってそれが冷めると激しく後悔するもんよ。」のぞみがそう言葉を切った時、店員がランチセットを運んできた。「さ、いただきましょ!」「いただきます。」出来立てのBLTサンドを頬張りながら、のぞみは香帆を見た。「あの、どうしたんですか?」「昨日、あんたの歓迎会やってあたしがあんたを送っていったでしょう?部屋から出てきたイケメン、もしかしてご主人なの?」のぞみの言葉を聞いた香帆は、コーヒーで咽(むせ)てしまった。「ちょっと、大丈夫?」「はい・・」「これ使いなよ。」「ありがとうございます。」香帆はのぞみからナプキンを受け取ると、それで口元を押さえた。「それで、どうなの?」「彼とは同棲しているだけで、結婚はしてません。」「ふぅん。色々と事情抱えてるの?」「はい・・」香帆の言葉に何か思うところがあったのか、のぞみはそれ以上何も聞かなかった。にほんブログ村
2012年11月26日
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「あ~、疲れた。」部屋に戻った悠はそう言うとハイヒールを脱ぎ捨て、ベッドに寝転がった。「悠里様、部屋着にお着替えください。服がシワになってしまいます。」「うん、わかった・・」疾風が持ってきた部屋着に着替えると、悠はシーツを頭から被って眠った。「お休みなさいませ、悠里様。良い夢を。」疾風はそう呟くと、寝室から出て行った。 艶やかな黒髪をなびかせながら、彼は部屋から出ていき11階のバーへと向かった。「マティーニを。」「かしこまりました。」テムズ川沿いの夜景を望めるカウンター席に腰を下ろした彼が飲み物を注文すると、隣のスツールに誰かが座る気配がした。「おや、これは珍しい。」隣から涼やかな声が聞こえたので、疾風がちらりと隣の方へと視線を向けると、そこにはブロンドの長い髪をなびかせた男が、じっと疾風を見ていた。疾風は初対面である筈の男に、何処か既視感を抱いた。「失礼ですが、何処かでお会いいたしましたか?」「いや、あんたとはここで初めて会ったんだが。もしかして、ナンパのつもりか?」男はブルーの瞳を悪戯っぽく光らせると、疾風を見た。「忘れてください。それと、わたしはゲイではありません。」「そうか、それは残念。あんた、いい男なのにな。」本気なのか冗談なのか、男の言葉は軽薄そのものに聞こえ、疾風は思わずムッとした。バーテンがマティーニを疾風の前に置くと、疾風はそれを一気に飲み干した。「あんた、名前は?」「疾風だ。あなたは?」「俺?俺は、ジェファー=マクドナス。」ジェファーはそう言うと、疾風に右手を差し出した。だが疾風は彼の手を握らずに、彼が左手に嵌めているルビーの指輪を凝視していた。「その指輪、何処で?」「あぁ、これか?お袋の形見だよ。女物だったから、宝石屋に頼んでサイズを直して貰ったんだ。俺にとっちゃ幸運のお守りみたいなもんだ。」「そう・・ですか。」悠がしている指輪と同じ型をしている指輪を嵌めたジェファーとの出会い、疾風は何故かこれは運命ではないと思った。「わたくし、こういう者です。」疾風はそう言って名刺をジェファーに渡すと、彼はそれを受け取りバーから出て行った。「ハヤテねぇ・・何かどっかで聞いた名前だよなぁ。」鬱陶しそうに絡まった髪を手櫛で整えながら、ジェファーはエレベーターの中で疾風から渡された名刺を眺めていた。「ジェフ、遅かったな。」「ああ。さてと、久しぶりのロンドンだ、パーッと派手にいこうぜ!」「わかったよ・・」(やれやれ、久しぶりにロンドンに来たかと思えば・・)友人の結婚式に出席したついでに、ジェファーに誘われるがままに彼とともにロンドンへと戻ったマイケルだったが、バーから少し酔っ払った様子で出てきた親友の姿を見て、彼が変なことをしでかさないように監視しなければと思いながら、ジェファーの肩に手を回し、夜のロンドンへと繰り出した。 一方、ロンドンの高級住宅地・メイフェア地区に邸宅を構えているある貴族が、書斎で仕事をしながら、執事の報告を聞いていた。「そうか、ジェファーは今ロンドンに居るのか。」「旦那様、どうなさいますか?」「決まっている。」貴族―ジェファーの父・ウィリアムは仕事の手を休めると、くるりと椅子を回転させ、執事にこう命じた。「あいつを見つけ出せ、今すぐに。」
2012年11月26日
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「さ、そんなところで突っ立ってないで座りなさいな。」「ええ、ではお言葉に甘えて。」疾風はそう言って金髪の少女を睨むと、彼女の前に腰を下ろした。「お久しぶりね、姉様。」「え、姉様って・・」「あなたのことに決まっているじゃないの。忘れてしまったの?」金髪の少女は悠の手を握ると、悲しげに蒼い瞳を曇らせた。「それ・・」「ああ、これ?これはわたしと姉様を繋ぐ絆のようなものよ。」少女は左手薬指の指輪を掲げ、悠に微笑んだ。「あなたも、同じものを持っているんでしょう?」「あ・・」悠が左手薬指に嵌めたルビーの指輪を見下ろすと、それが少女が嵌めている指輪と同じデザインであることに気づいた。「これは、一体何?」「だからぁ・・」「この指輪、あの人も嵌めてた。」「あの人ってだぁれ?」「金髪に、ブルーの瞳。名前は確か・・確か・・」“ルシフェル”突然悠の脳裏に、誰かの声が聞こえた。「確か、ルシフェルっていった・・」「姉様。」少女はすっと立ち上がると、悠の手を握った。「漸く思い出せそうなのね?わたしと過ごした幸せな記憶のことを。ああ、何てことでしょう!」少女は嬉しそうな声を出すと、悠を抱き締めた。―姉様、大好き! 何処かで誰かの声が聞こえ、悠の脳裏に金髪の少女の顔が浮かび上がってきた。長い間生き別れていた同胞。輝くような美しい金髪をなびかせた、天使のような少女。「アンジェ・・アンジェなの?」「ああ姉様、やっと思い出してくれた!」「お嬢様、場を弁えてくださいませ。」少女の隣に控えている中年女性がそう言って彼女を軽く窘(たしな)めると、少女は舌打ちして悠里から離れた。「この店で最高級のワインを頂戴。」「かしこまりました。」ウェイターが奥へと去っていった後、少女は悠の方にくるりと向き直り、満面の笑みを浮かべた。 数分後、少女はワイングラスを掲げてこう言った。「二人の再会に乾杯。」「う、うん・・」ワイングラスの中に注がれたワインが揺らめき、シャンデリアの光を受け、それは宝石のように輝いた。それから悠里と疾風は、少女とともに楽しいひとときを過ごした。「じゃぁね、また会いましょう。」レストランの前で別れた少女は、エレベーターに乗り込んだ悠里に手を振った。「悠里様、どうされましたか?」「あの子と話してると・・何だか懐かしく感じちゃうんだよね。」そう言った悠は、左手薬指に嵌めた指輪を見つめた。
2012年11月26日
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「ねぇ、どうなの?」「また、連絡する・・」一度は別れたつもりだったが、再び歳三は香帆と付き合い始めた。二人は“友人に会う”という名目で、密会を重ねていった。「お父さん、また香帆さんと会ってるの?」「ああ。」「香帆さんと駆け落ちでもするつもり?俺と千歳はどうなるの?」「・・すまない。」ある日の朝、それだけ言うと歳三はスーツケースを引いて玄関から出て行った。「父さんだけは、違うと思ったのに・・」絶望に包まれながら、香は溜息を吐いた。妹に何と説明すればいいのだろう。 約束の時間に、香帆は来た。「じゃぁ、行くか。」「ええ・・」「携帯は変えないとな。俺はもう変えた。」「わたしも・・もう、何もかも捨ててきた。」「じゃぁ、行こうか。」二人が立っているホームに、特急列車が滑り込んできた。特急列車が動き始めたとき、二人の姿はそこにはなかった。「ねぇ、パパはどこなの?」「もうパパのことは忘れろ。」歳三と香帆が一緒に姿を眩ました後、香と千歳は歳三の姉・のぶの元に身を寄せた。「全く、歳は一体何をしているんだか・・」台所で夕飯の支度をしながらのぶがそう呟くと、隣で彼女を手伝っていた香は、溜息を吐いた。「もう、あの二人のことは諦めたよ。」「香ちゃん・・」歳三と香帆の行方は、ようとして知れなかった。 二人が姿を消してから一年半もの歳月が過ぎた。二人の行方は、依然としてわからないままだ。それでも香はよかった。香にとって歳三は良い父親だったー香帆と駆け落ちするまでは。二人がー特に香帆が歳三に想いを寄せていたことは、のぶから聞いて知っていた。母親と離婚し、既婚者であるにもかかわらず、香帆は歳三との関係に溺れた。そして夫と子ども達、大切な家族を失った。帰る家、居場所さえも失った彼らは、案外すぐ近くに居るのかもしれないー「いらっしゃいませ~」大学進学資金を溜める為に、香はファストフード店でアルバイトを始めた。はじめは慣れない仕事ばかりできつかったが、何度も繰り返せば慣れてきた。高校の学費は叔母が卒業まで出してくれるが、これ以上彼女に甘えていられない。昼食時には主婦や学生達のグループで混む店内も、深夜には殆ど客足が少ない。繁華街の近くに面しているからか、この時間帯に来るのはホストやホステスが多かった。華やかなドレスに包み、片手で携帯を弄りながらポテトを頬張る窓際の席に座るホステスは、どこか疲れているような顔をしていた。一般事務職のOLとは桁違いの月給を稼ぐといわれるホステスだが、それはあくまでも売れっ子の場合だけだ。一見華やかに見えていても、中を覗けばノルマや酒代・ドレス代だけで給料は消えてゆくという、過酷でシビアな職業だ。香はホステスの疲弊しきった表情をちらりと見ながら、一人のホステスが店に入ってくるのを見た。「いらっしゃいませ~!」満面の笑顔を浮かべながらレジカウンターで彼女を迎えた香は、そのホステスが香帆だということに気づいた。「すいません、サラダセットください。」「かしこまりました、640円になります。」「それじゃぁ、これ・・」おそらく客に買って貰ったであろう、高級ブランドの新作財布から香帆が取り出したのは、しわくちゃの千円札だった。[完]
2012年11月23日
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「・・誰だよ、こんな夜中に・・」ホテルから出て行った後、歳三は香を叱った後、頭痛がしたのでそのまま部屋に入って横になって休んだまま、いつの間にか寝てしまった。彼が手探りでベッドサイドにある携帯を探って通話ボタンを押すと、そこから香帆の声が聞こえた。「香帆、どうした?」『歳兄ちゃん、今から会えない?』「ああ・・」ベッドサイドに置いてあるデジタル時計は午前2時を指していた。『わかった、今行く。』歳三は舌打ちするとスーツを羽織り、部屋から出てエレベーターに乗ってマンションの地下駐車場へと向かった。「お前、今何処だ?」『国道沿いのファストフード店。』「わかった・・」車を何分か走らせると、国道沿いにある24時間営業のファストフード店の駐車場に停めた歳三が店内に入ると、窓際の席に香帆が座っていた。自分の子を中絶したという連絡を受けてから数ヶ月経つが、香帆は少しやつれたかのように見えた。「どうしたんだ?」「あのね・・今夜、歳兄ちゃんに抱かれに来たの。」「もう、俺とは終わったんじゃないのか?」「終わらせたくないの。」香帆はそう言うと、歳三に抱きついた。「お願い・・抱いて・・」「わかったよ・・」店を後にし、歳三は香帆とともに国道沿いのラブホテルへと入っていった。ここで何度も歳三と身体を重ねたが、香帆はまた歳三に初めて抱かれたときのような感覚に襲われた。「どうした?」「歳兄ちゃん、抱いて・・」「わかってるよ。」歳三は香帆を横抱きにすると、彼女のブラウスを脱がせ、乳房に顔を埋めるとそれに唇を這わせた。「あぁ・・いやぁ・・」「何が嫌なんだ?こんなに溢れてるぜ?」歳三はそっと香帆の内腿を撫ぜると、彼女は悩ましげな声を上げた。香帆が歳三を見ると、彼のものがズボン越しに怒張しているのがわかった。「ねえ、舐めてもいい?」「ああ、いいぜ。」香帆は歳三のズボンを下ろして彼のものを咥えると、それに舌を這わせた。祐司とまだ夫婦だった頃、こうして彼のものを咥えてはいたが、それは夫の溜まった性欲を鎮める為の、彼女の仕事だった。だが自分の頭を両手で押さえつけ、快感に呻いている歳三を見ていると、香帆の中に欲望の炎が灯った。「もういい・・」歳三はそう言って香帆を突き飛ばすと、彼女の足を大きく広げてじぶんのものを彼女の中に挿れた。「歳兄ちゃんの、熱いぃ!」「香帆、お前のが絡みついてきて、もう出そうだ!」「駄目、まだ出しちゃ駄目ぇ!」その夜、二人は夜が明けるまで激しく互いの身体を貪り合った。「ねぇ、お願い!お願い!」香帆は狂ったように歳三の背中に爪を立てると、熱に浮かされたかのように何度もそんなことを呟いていた。「ねぇ歳兄ちゃん、一緒に何処かへ逃げない?」「香帆、お前どうしちまったんだ?」「あたし、歳兄ちゃんと一緒だったら、何処へでも行けるよ?だから、逃げよう、ね?」香帆はうつろな目をして歳三にそう言うと、彼にしなだれかかった。
2012年11月23日
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「いってぇ~!ほんとに殴ることないじゃないですかぁ!」「うるせぇんだよ。大体、俺の息子を拉致りやがって・・ただじゃおかねぇぞ!」エレベーター内で歳三は男の顔を拳骨で殴ると、彼は悲鳴を上げた。「香、お前ぇもお前ぇだ。変なやつにのこのこ着いてきやがって・・」「俺だってこんな猿芝居に付き合いたくはなかったよ。でもこいつ、日当くれるっていうからさぁ・・」「それ、いくらだ?」「5万だってさ。」「へぇ、そうか。後でじっくりと話をこいつから聞く必要があるな。」「は、はい・・」エレベーターが漸くロビーに着いたとき、そこには千尋と彼女の再婚相手が立っていた。「あら、お久しぶりねあなた。紹介するわ、この人がわたしの再婚相手の、松下よ。」千尋は何処か勝ち誇ったような笑みを浮かべると、歳三は舌打ちして彼女と目を合わさずにエレベーターから降りた。そんな彼を慌てて香が後を追いかけた。「千尋、あれが君の前の夫かい?」「ええ。顔もいいし、彼、ベッドの中ではモンスターなのよ。でも性の不一致で別れたのよ。」「そうか。10年も連れ添ってきたっていうのに、白状だな。」「もうあの人への愛情はないわ。でも、子ども達のこととなると話は別よ。」千尋の蒼い瞳が、獲物を仕留めた獣のような満足げな光を湛えた。「先生、退院おめでとうございます。」「これはマダム、来てくれて嬉しいよ。」吉田議員の快気祝いパーティーに出席した千尋は、そこで吉田議員に手厚く迎えられた。「松下先生もお忙しい中よくきてくださって。」「いえいえ、妻から話を聞いて、是非あなたにお会いしたいと思っておりましてね。今日は奥様ご一緒ではないのですか?」「ああ、家内は女同士の集まりに行っていてね。まぁ、余り顔を合わせないほうがいいかもしれないが。」吉田議員はそう言うと、ワインを一口飲んだ。「あなた、吉田先生とお話がしたいの。いいかしら?」「いいよ、行っておいで。でも吉田先生はまだ病み上がりなんだから、余り無理させないように。」「ええ、わかったわ。」千尋は夫にそう言うと、吉田議員と目配せしてパーティー会場から誰も気づかれずに出て行った。「それで?君のご主人とは親権について話がついたのかい?」「いいえ。でもわたくしのところにいるよりも、あの人のところで暮らした方があの子達にとってはいいんじゃないかって思うのよ。」「ほう、そうか?随分と心変わりしたんだね、マダム。」「ええ。わたくしはもう、一人で生きることに決めたのよ。あの人のことは諦めたわ。」「諦めが早いのは感心するよ。瑠美にも見習って欲しいくらいだ。」エレベーターから降りると、吉田議員はスーツの内ポケットからカードキーを取り出すと、それを部屋のドアに挿し込んで中に入った。 ドアが閉まった途端、彼は千尋の唇を荒々しく奪った。「いけませんわ、本調子ではありませんのに・・」「そうか?誘ったのは、君の方だろう?」吉田議員は千尋のパンティを素早く脱がせ、自分もスラックスと下着を脱ぐと彼女の中に入っていった。「君の中はいつも熱いな。」「先生のものも熱いですわ。」吉田は暫く腰を振っていたが、やがて千尋の中に精を吐き出した。「こんなに沢山出ているのに、無精子症だなんておかしいですわ。」「そうか?実はね、不妊の原因があるのは、実は私ではなく妻の方なんだ。」「まぁ、それじゃぁ先生は嘘を?」「ああ。彼女に束縛されるのにはもううんざりしていたからね。家同士の結婚だから、何のしがらみもなく別れられる方がいいと思ったんだ。」吉田はそう言うと、ベッドに寝転んだ。
2012年11月23日
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「先生、どうしたんですか?あんまり飲んでいませんねぇ?」香の身を案じている歳三の前に、突然ビールグラスが突き出された。不機嫌さを隠さずにジロリと彼が相手を睨むと、そこには内科の看護師・上村栄子だった。「すまねぇが、俺は下戸でな。」「そうなんですかぁ、残念!」看護学校を卒業して誠心会病院に勤務して2年目を迎えた彼女は、大のミーハー好きで、歳三が独身だと知り猛烈にアタックしてきていた。今夜の彼女は胸元を露にしたパーティードレスを纏い、自分のセクシーポイントであるGカップの巨乳を見せ付けるかのように歳三に近寄ってきた。「さてと、俺はもう帰るか。」「え~、帰っちゃうんですかぁ。」唇を尖らせて拗ねる栄子を見て、歳三は愛らしさよりも嫌悪感を抱いた。「栄子、ここにいたのか。」「優ちゃん!」宝石のような輝く白い歯を煌かせながら、一人の青年医師が栄子に近づいてきた。彼は小児外科の西村優吾といって、甘いマスクを漂わせ、まるで童話に出てくる王子のようなチャーミングな笑顔を浮かべているが、彼の歯が全てインプラントであることを、歳三は密かに小児外科の看護師から聞いた。「あ、外科部長じゃありませんか?向こうで一杯、飲みません?」「優ちゃん、土方先生は下戸なんだって。だからあたしと飲もう!」先ほどまで自分に気を惹かせようと必死になっていたくせに、歳三がそれになびかないとなると、栄子は優吾に標的を変え、彼にしなだれかかった。「わかった。じゃぁ、行こうか。」さり気無く栄子の腰に手を回す振りをしながら、優吾は彼女の尻をそっと撫でると、彼女と共にパーティー会場から出て行った。(ったく、したたかな女だぜ。)女という生き物は、強かでずる賢いものなのかもしれない。歳三がそう思ったのは、悪夢のような結婚生活から得た経験からであった。まるでつかみどころがない闇のようなものを持っている千尋。そんな彼女の魔性に惹きつけられていく男達。千尋と離婚してから、歳三は再婚する気が全く起きなかった。寧ろ、独身の方が気楽でよかった。さっさとパーティー会場から出て行った歳三は、フロントへと向かうためにエレベーターへと乗り込んだ。フロントがある1階のボタンを押すと、途中のレストランフロアとなっている6階で、一組のカップルが入ってきた。男の方はホスト崩れの高そうなスーツを着ており、女の方は一点物だろうか、高級そうな振袖を着ていた。エレベーターがフロントへと降りてゆく間、カップルは一言も話さなかった。気まずい空気を感じながら、歳三が溜息をついていると、女の方が突然男の腕を振りほどいて歳三に抱きついてきた。「おい、何だてめぇ!?」「父さん、俺だよ、俺。」耳元でそう囁いた女の顔を見ると、それは確かに息子の香だった。「お前ぇ、何でこんなところに居るんだよ?」「それは後ろのあいつに聞いてよ。」「あれ?このおっさん、知り合いなの?」「知り合いも何も、俺の息子にこんなふざけた格好させやがってどういうつもりだ!?」歳三がカッとなって男の胸倉を掴むと、彼は情けない悲鳴を上げた。「いやぁ~、何処から話せばいいのかわからないんですが・・」 数分後、ホテルのティーラウンジで歳三と香と向かい合わせに座った男は、頭をぼりぼりと掻きながら、事情を話し始めた。「親が結婚しろってうるさいから、こいつを女装させて婚約者として連れて行ったんですよ、見合い場所のレストランに。親父は怒鳴るわ、お袋は泣くわ、先方の娘さんは泣き叫んで過呼吸の発作を起こすわ・・もうカオスでしたよ。」「父さん、こいつに突然声掛けられて変なところに連れてかれたんだよ!」「お前、歯ぁ食い縛れ。」歳三はそう言うと、拳を鳴らした。
2012年11月23日
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香が裏サイトを見ると、そこには歳三の不倫のことや、香の実母・千尋が高級娼館を経営していることなどが書かれており、掲示板には香の悪口で溢れていた。掲示板のスレッドを読んでいる途中で香は気分が悪くなり、履歴を消してから二ノ宮の携帯に掛けた。「なぁ、あれ、誰の仕業だ?」『きっと足立のやつらだよ。多分、お前の教科書を切り裂いたのもあいつらの仕業だよ。』「証拠もであるのか?」『まぁな。』 翌日、香が登校すると、二ノ宮からメールが来ていた。『証拠持ってきた。教室じゃ不味いから学食で。』学食へと香が向かうと、二ノ宮が笑顔で彼に手を振った。「それで、証拠っていうのは?」「ああ、これ。」二ノ宮がそう言って鞄から取り出したのは、何の変哲もない万年筆だった。「何だ、これ?」「俺の親父、弁護士なのは知ってるだろ?俺中学ん時にいじめに遭っててさ、親父に相談したらこういうやつに小型カメラ仕掛けて動画や写真を撮れって言われたんだよね。朝練行く前、何かあるだろうなと思って俺、お前の机にこれを入れたんだよね。そしたらビンゴだった。」そう言って二ノ宮はにっこりと笑った。「ビンゴって?」「撮れてたんだよ、あいつらの顔がさ。じゃ、行こうか。」二ノ宮に連れられ、香はPC室へと入った。二ノ宮はおもむろに万年筆のキャップを取り外し、ペン先を引っ込めてUSB端子をPCに接続すると、動画が自動再生された。そこには、剣道部の更衣室で足立たちが石灰を香の袴に掛ける姿や、香の教科書を引き裂きノートに剃刀を仕込む姿がばっちりと写っていた。「な?これって、確実な証拠になるだろ?」二ノ宮はそう言うと、万年筆をPCから抜いた。「これ、二階堂先生に見せたらいいかもな。あと、コピーも作ってCDや他のメモリにも焼いといたから、場合によっては教育委員会に送った方がいいな。」「二ノ宮、サンキュ。」「礼なら親父に言ってくれよ。ま、暫く足立たちも気まずくなるだろうな。」そう言った彼の顔は、何処か嬉しそうだった。 案の定、足立たちは無期限の謹慎処分を食らい、来年度の全試合出場停止処分を受け部活にも居づらくなったのか退部していった。足立たち二年部員が居なくなったので、それまで彼の影に怯えていた一年部員達は、今までのように練習に精を出すようになった。「これでお前が部長になることは確定したな。でも気を緩めちゃ駄目だからな。」「うん、わかってるよ。」「じゃぁ、おれこっちだから。」「ああ、またな。」部活が終わり、校門の前で二ノ宮と別れた香は、バス停の前でバスを待っていると、突然赤いスポーツカーが彼の前に停まった。「お前、土方香だよな?」「はい、そうですが?」運転席に乗っている開襟シャツの上に高級そうなジャケットを羽織った男は、掛けていたサングラスを外すと香をじろじろと見た。「ちょっと付き合ってくんないかな?」「はい?」香がキョトンとしていると、男が急に腕を伸ばし、彼を無理矢理助手席に座らせた。「え、あぁ、ちょっと!」抵抗する間もなく、あっという間に香を乗せたスポーツカーはエンジンを唸らせながら高校の前から走り去っていった。(香のやつ、家にはまだ帰ってねぇのか・・)何度掛けても繋がらない息子の携帯のアナウンスに、歳三は舌打ちしながら携帯を閉じた。
2012年11月23日
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「おはようございます!」「土方、ちょっと来い。」 他の一年生部員達よりも少し遅れて朝練にやってきた香は、顧問の二階堂に呼び出された。「もう知っていると思うが、部長以下三年の連中は受験の為引退して、今後継者を探しているところなんだ。そこでな、お前に部長をやらせたいって一年連中から意見が出たんだよ。」「俺が、部長に?」「ああ。剣の腕も立つし、人望も厚いし、お前にはぴったりだと思ってな。それに、山下から練習メニューや合宿中のスケジュールを作成したり、部費の管理も徹底しているだろう?」「ええ、山下先輩から教わってますけど・・でも部長になるとのは話が違います。それに、二年の先輩方がどう思っているのか・・」二年の先輩部員達を差し置いて、一年の自分が部長になることで彼らの反感を買うのではないかと香は不安を抱いていた。「その点については問題ない。話は以上だ、練習に戻れ。」「はい、わかりました。」 朝練を終えた香が教室に入ると、同じ剣道部の二ノ宮が彼に話しかけてきた。「なぁ、お前次期部長になるって本当か?」「ああ、そんな話を二階堂先生から聞いたけど、まだ部長になることは決めてないから。」「そうか。二年の先輩達はどう思っているのか知らないけどさ、俺ら一年はお前が部長になるの、大賛成だからな!」二ノ宮はそう言うと、香の肩を叩いた。まだ部長になるとは決まった訳ではないのに、二ノ宮たちはすっかり乗り気になってしまっていることに、香は少し困惑していた。 昼休み、香が学食でカレーを食べていると、サッカー部に所属している二年生が彼に話しかけてきた。「お前、余りいい気になるなよ。」「はぁ、何言ってんすか?先輩確かサッカー部ですよね?部外者がどうしてそんな事知ってんすか?」香がそう言って彼を見ると、彼は急にバツが悪そうな顔をして学食から出て行った。「大丈夫か?」「なぁ、今のやつ誰?」「ああ、あの人西岡って奴。ほら、うちの部に二年の足立っているじゃん?そいつと仲良いんだってさ。」「そうなのか・・」二年の足立は、何かにつけては先輩風を吹かしては一年をこき使って威張り散らし、一年が口答えするとビンタするというチンピラのような不良だった。「あいつさぁ、部長達が引退して自分が部長になれると思ってたんだろうな。部活サボってんのになれるわけねぇのに。」二ノ宮はそう言って笑った。 放課後、香が更衣室で道着に着替えようとしたとき、袴に陸上部が使うライン引きの石灰がついていた。「何だよ、これ!」「多分あいつらの嫌がらせじゃねぇ?気にすることないって。」香は袴を外で払い、染みが残っていないことを確かめると更衣室へと戻った。「大丈夫か?」「うん、何とかいける。」香が練習に出たが、その日は何も起こらずに終わった。 彼の周辺で異変が起き始めたのは、学食で西岡に絡まれてから数日後だった。教室に入って自分の席に座ると、机の中にしまっておいた教科書の表面が剃刀で切り裂かれたようにボロボロとなっていた。「あいつらの仕業かもよ。ったく、陰湿なことしやがるよな。」「ま、大丈夫だからいいや。」授業が始まり、香がノートを開こうとしたとき、指先に激痛が走った。何だろうと思ってよく見ると、ノートの右上に剃刀が両面テープで貼られていた。保健室で患部を消毒して貰い、香は二階堂に部活を休む旨を伝えた。『お前、今大変なことになってるぞ。』帰宅後、二ノ宮のメールを見た香は、そこに添付された裏サイトのURLをクリックした。
2012年11月23日
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自業自得とはいえ、祐司と共に育んできた5年もの結婚生活がいとも簡単に終わることになろうとは、思いもしなかった。しかし、もう後戻りはできないのだ。彼と離婚し、子ども達を手放すーそれが香帆に残された唯一の道なのだから。「ただいま。」「お帰りなさい。どうだったの?」「離婚することになった。」母に離婚することになったことを告げると、彼女は何も言わずに奥へと引っ込んでいった。子ども達には、ママはお仕事で遠いところに行くことになったから、パパと三人で仲良く暮らすようにと言おう―香帆はそう思いながら勇太郎と篤朗が居る部屋へと向かった。「ママ、パパはいつ迎えにくるの?」「明日、迎えに来るよ。それよりもゆーちゃん、ママ、明日からお仕事ですごく遠いところに行かないといけなくなったの。それまでパパとあっちゃんと仲良く暮らしてくれる?」「うん・・」まだ5歳の勇太郎に、不倫だの離婚だのという大人の事情はわからない筈だが、両親の様子が尋常ではないと、彼なりに察しているようだった。「ママ、これからママは一人なの?」「うん、そうなるね。あっちゃんと仲良くしてあげてね。」「わかった。」その日の夜、香帆は子ども達と二人で川の字で寝た。 翌朝、祐司が子ども達を迎えに来た。「あなた、子ども達のことを宜しく頼みます。」「ああ、わかったよ。」子ども達を先に車に乗せ、祐司はそう言うと香帆に微笑んだ。「元気でな。」「あなたも。」祐司は何かを言いたそうに暫く口を動かしていたが、結局何も言わずに車に乗り込んだ。 三人が乗った車が住宅街の角を曲がって完全に見えなくなってしまったとき、今まで堪えていた涙を香帆は流し、地面に崩れ落ちた。「父さん、最近香帆さん来ないね。」「ああ・・」昨夜のドライブから、香帆がどうなったのか、彼女と縁を切った今になって歳三はわかるはずがなかった。「じゃぁ、俺朝練に行って来る。」「気をつけて行って来いよ。」「わかった、行ってきます。」香は玄関から外へと向かうと、最寄のバス停まで歩き始めた。「寒ぃ・・」街はクリスマスムードで溢れ、朝晩になると凍えるような寒さが肌に突き刺さる。厚手のコートを羽織っていてよかったと香は思いながら、バスに乗り込んだ。『次は~高校前、~高校前』目的地を告げるアナウンスが車内に流れたので、香は降車ボタンを押した。定期を見せてバスから降りようとした彼の肩を、誰かが叩いた。「ねぇ、そこの君。」「何ですか?」不機嫌さを微塵にも隠さずに香がそう言って背後を振り向くと、そこには私立のお嬢様学校の制服を着た少女が立っていた。「あなた、土方香くんでしょ?少し話したいんだけど、いいかな?」「忙しいんで。」「ちょっとでもいいじゃない。」少女は香にしつこく食い下がり、己の腕を彼の腕に絡ませてきた。ちらりと背後に目をやると、他の乗客が迷惑顔で香を見ていた。「運転手さん、降ります。」香はさっと少女の腕を振りほどくと、バスから降りていった。少女が何か言おうと口を開いたとき、バスの自動扉が閉まり、高校の前から離れた。
2012年11月23日
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第三部「どうしたの、もう会わないんじゃなかったの?」「香帆、俺と逃げねぇか?」「え・・」歳三が放った信じられない言葉に、思わず香帆は彼の顔を見た。「ねぇ、どういうこと?一体何を言っているの?」「俺と何処か遠いところに逃げよう。そうしよう。」「馬鹿なこと言わないで、あたしにも歳兄ちゃんにも家族が居るんだよ!?それを全部捨てて逃げるなんて無理!」「・・そうだよな。すまねぇ、さっきのは本気にしなくていいから。じゃぁな。」「言いたかったことは、それだけ?」香帆の問いに、歳三は何も答えなかった。「ただいま・・」「お帰り。歳三君、何だって?」「さぁ。ただ会いたいって。それだけ。」「香帆、ちょっといらっしゃい。」母はそう言うと、香帆を自分の部屋に連れて行った。「あなた、歳三君とはもう別れたのよね?」「ええ。お母さん・・この際だから言うけど、わたし彼の子を中絶したの。祐司さんにもそのことを言ったわ。暫く距離を置きたいって言われたの、彼の方から。」「そう。今あんたに言えることは、現実から逃げないでとことん悩むこと。不倫した女の気持ちなんて誰にもわからないし、わかりたくない。誰にも頼らず、あんたは自分ひとりで答えを出しなさい。いいわね?」「わかったわ・・」 その夜、香帆は自分の部屋でベッドに寝転がりながら、今まで何て馬鹿なことをしたんだろうと思い始めていた。千尋と歳三が結婚し、彼女との結婚生活が破綻したとき、歳三が自分を頼りにしてくれて嬉しかった。(やっとわたしに振り向いてくれた、歳兄ちゃん。)今まで憧れてはいるものの、決して手には届かなかった存在が、急に自分の目の前に現れ、頼りにしてくれているーそれだけでも、香帆は幸せだった。しかし、歳三との愛を得た代償は、大きかった。今まで不倫なんてドラマや小説といった、フィクションの世界の中にあるものだと思っていた。歳三は憧れの人であって、決して彼を愛すことはないーそんなことを思っていながら、いつしか香帆は歳三との情事に夢中になってしまっていた。自らの首を絞める結果を招いてしまったことに、苦笑せざる終えない。これからどうするのかー祐司との別居生活を続けるのか、それとも離婚して一人で生きるのか。自分に残された選択肢は二つしかなかった。目を閉じたとき、香帆はその中の一つを消し、後者のほうを選んだ。「祐司さん、話があるの。」『そうか。じゃぁ駅前のカフェで会おう。』「わかった・・」数分後、香帆は数週間ぶりに祐司と会うことになった。「話って、何だ?」「離婚しましょう、わたしたち。子ども達の親権はあなたにあげる。」「そう。わかった。」あれまで離婚を拒んでいた祐司があっさりと香帆の要求を呑んだことに、香帆は不審に思った。「ねぇ祐司さん、どうして離婚を拒んでいたのに、今になって・・」「応じたかって?もう、互いを深く傷つけあう前に、別れた方がいいと思ってね。」「ありがとう、あなた。」「じゃあな。今まで・・楽しかったよ。」祐司はそう言うと、ゆっくりと立ち上がりカフェから出て行った。
2012年11月23日
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手術から一ヵ月後、吉田議員は無事退院した。「退院おめでとうございます、吉田先生。」「ありがとう、土方君。君のお陰だよ。」看護師から花束を受け取りながら、稔麿はそう言うと歳三を見て笑った。「あなた、行きましょうか?」瑠美はわざと歳三に見せ付けるかのように、稔麿の腕に自分の腕を絡めた。「じゃぁね。」リムジンに乗り込む吉田夫妻を見送ると、歳三は病院の中へと戻った。「もう、終わりましたよ。」「そうですか・・」中絶手術を終えた香帆は、病衣のまま待合室へと向かった。「その様子だと、中絶したみたいね?」「千尋さん・・」「ねぇ、おなかの子を殺したあと、どんな気持ち?」「やめてください・・」「そう。あなたは人殺しなのよ。その事をしっかりと憶えておくことね。」勝ち誇った笑みを浮かべると、千尋は香帆の前から立ち去っていった。 中絶手術を受けた後、香帆の耳に千尋の言葉がこびりついて一度も離れなかった。“あなたは人殺しなのよ”自分は新しく宿った命を殺した。自分の保身のために。その罪は、決して消えることはない。「パパ、ママは?」「ママは少しからだの調子が悪いから、今日はパパがお弁当を作ったからな。」昨夜から寝室に籠もったまま出てこない妻を心配しながらも、祐司は勇太郎と篤朗を幼稚園へと送った。「香帆、どうしたんだ?」「あなた・・ごめんなさい、気分が優れなくて・・」祐司が寝室に入ると、香帆が気だるそうにベッドから起き上がってきたところだった。「一体どうしたんだ?子ども達も心配してるぞ?そんなに悪阻が酷いのか?」「いいえ。」「じゃぁ・・」「昨日、中絶してきたの。」「本当なのか、それは?」「ええ。あなた、暫く子ども達を連れて実家に戻るわ。」「わかった・・」不貞を犯した妻を罵りたかったが、祐司はそれをぐっと堪えて寝室から出て行った。 香帆は子ども達を連れて実家に戻り、気持ちの整理がつくまで祐司とは別居することになった。「香帆、一体どういうことなの?いきなり祐司さんと別居するなんて。」「ごめんなさい、お母さん。今は何も言えないの。」「そう・・」突然実家に戻ってきた娘に、両親は何も言わなかった。彼らは何かを察していたのかもしれない。 ある日の夜、香帆がキッチンで夕飯の支度をしていると、玄関のチャイムが鳴った。「わたしが出るわ。」香帆がそう言って玄関先に出ると、そこには歳三が立っていた。「今、時間あるか?」「ええ。うちではちょっと・・」「わかった。」「お母さん、少し出かけてくるわね。」香帆はそう言うと、家から出て歳三の車へと乗り込んだ。
2012年11月23日
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「先生、ご無沙汰しておりますわ。」「おや、誰かと思えば。」吉田稔麿議員が読んでいた文庫本から顔を上げると、病室に千尋が入ってくるところだった。「外が急に騒がしくなったかと思ったら、何でも女子高生が救急車内で出産したというじゃないか?」「ええ。あの子は育てるつもりはないそうですわ。親になる資格がない癖に、簡単にセックスをするなんて、まるで獣ね。」「そんなことを言うもんじゃない、マダム。彼女はある意味被害者だ。身勝手な男に騙された被害者さ。」「それはそうかもしれませんわね。まぁ、事が公になれば、男の方だって無傷ではいられませんわ。」そう言った千尋は、何処か嬉しそうな顔をしていた。「まるで、君ははじめから計画していたんじゃないかい?」「まさか、そんなことありませんわ。それよりも先生、退院したらうちの店に来てくださいな。たっぷりとサービスいたしますわ。」千尋は吉田議員にしなだれかかった。「ああ、わかったよ。」「では、お待ちしておりますわ。」千尋は吉田議員に一礼すると、病室から出て行った。「あら、誰かと思ったら汚らわしい娼婦じゃないの。」「あなたにそんなことを言われたくないわね、奥様。若い男のものを平気で咥えている癖に。」「何ですって!?」廊下で稔麿の妻・瑠美と鉢合わせした千尋がそう言って笑うと、瑠美は顔を怒りで赤く染めた。「土方先生、お客様が来ております。」「ああ、わかった。」医局でカルテの整理をしていた歳三が外へと出ると、そこには香帆の姿が廊下にあった。「どうしたんだ、香帆?」「これから産婦人科に行くの。残念だけど、おなかの子は諦めるわ。それだけ言いにきたの。」「そうか・・」「これにサインして。」「わかった。」香帆に差し出された中絶同意書にサインした歳三は、それを彼女に手渡すと、香帆はその足で産婦人科病棟へと向かった。「中絶手術を受けたいんですが・・」「暫くお待ちください。」待合室の長椅子に彼女が腰を下ろすと、隣には赤ん坊を抱きかかえた少女が座っていた。ところどころ地毛が見えるくすんだ金髪に、濃いメイクをした少女は、ぼうっとした様子で赤ん坊をあやしていた。香帆が声を掛けようかどうか迷っていた時、千尋が少女の下へとやってきた。「どう、決心はついた?」「はい・・」「あなたはいいことをするのよ。もう過去は忘れておしまいなさい。」少女から赤ん坊を受け取った千尋は、赤ん坊をあやしながら少女の前から立ち去っていった。「どうぞ、処置室の方へ。」「はい・・」千尋と何があったのか香帆が少女に聞こうとしたとき、看護師が彼女を処置室へと案内した。「すぐに済みますからね。」「はい・・」「じゃぁ、10から0まで数えてくださいね。」「わかりました・・」香帆は病衣に着替えて下着を脱ぎ分娩台に横たわると、医師が麻酔の注射を彼女の腕に打った。
2012年11月23日
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「頼みって何だ?」「簡単な事よ。この子、妻子ある男と関係を持って妊娠してね。はじめは産む気があったんだけど、産みたくないって言いだすのよ。もうじき臨月なのに。」千尋はそう言うと、歳三を見た。「それで、俺にどうしろってんだ?」「賢いあなただったら、わかるでしょう?」つまり千尋は、少女の腹に宿る胎児を殺して欲しいと言っているのだ。「そんな真似、出来る訳ねぇだろ。みさ、とか言ったな? お前はそれでいいのか?」「あたし、産みたくない。」少女はそう言って、歳三を見た。「あのなぁ、自分の都合で今更産みたくねぇっつっても、もう中絶できる時期は過ぎてんだよ。後は産むしか選択肢はねぇ。」「そんな・・だってあたし、バイトだけじゃ子ども食べさせられない。だったら殺す方が・・」少女の安易な考え方に、歳三は少し苛立った。彼女は子どもの命を何だと思っているのだろうか。まだ10代後半と思しき彼女が、一人で子どもを育てる事は難しい。「だったら、養子にでも出すんだな。親になる覚悟も資格もねぇお前よりも、子が欲しくても出来ない夫婦の子になった方が、幸せってもんだろ。」歳三から厳しい言葉を投げつけられ、少女は俯いた。「俺はな、魔法使いじゃねぇんだよ。てめぇの事はてめぇで解決しな。」「まぁ、あなた、冷酷な人間になったのねぇ。まぁでも、あなたならそう言うと思ったわ。」千尋はそう言ってくすりと笑うと、少女の肩を叩いた。「みさちゃん、赤ちゃんの事は養子に出す方向で考えましょう。さぁ立って。」千尋がそう促しても、少女は椅子から立ち上がろうとはしない。何処か様子がおかしい。「おい、どうした?」歳三がそう言って少女に駆け寄ると、彼女は突然呻き声を上げた。「痛い、痛い!」見ると、彼女の足元に破水した羊水が濡れて水溜りを作っていることに気づいた。「誰か救急車を!」 数分後、千尋と歳三は誠心会病院へと搬送される少女に付き添っていた。「いや、産みたくない、産みたくない!」「みさちゃん、落ち着いて!」千尋がパニックに陥る少女を優しく宥めたが、彼女は四肢を痙攣させ、呻いた。「一体どうなってやがる!」「胎児の心音が下がっています。このままだと母子ともに危険です!」「いつ到着するんだよ!」誠心会病院までは目と鼻の先の距離であるのに、ちょうど帰宅ラッシュに嵌ってしまい、渋滞で身動きが取れずにいた。(畜生・・)「あなた、赤ちゃんをここで取りあげて。」「何言ってやがる。ここじゃ設備が・・」「あなた医者でしょう、さっさと取りあげて。」千尋はそう言って溜息を吐いた。歳三は舌打ちすると、少女に話かけた。「今から赤ん坊を取り上げる。呼吸法は知ってるか?」少女は歳三の問いに首を横に振った。「いいか、陣痛と一緒に息を大きく吸って吐け、わかったな。」「わかった・・痛い!」思わず息む少女の手を、歳三は握った。「まだだ、よし、息め!」少女の苦悶に満ちた声が救急車の中に満ちたかと思うと、新しい命の産声が響いた。「良くやった、元気な男の子だ。」羊水と血に塗れ、臍の緒をつけた赤ん坊を、少女は感慨深げに見ていた。「あなた、素晴らしかったわ。後のことはわたくしがするから、お疲れ様。」病院に到着し、少女と赤ん坊が院内へと搬送された後、千尋はそう言って笑った。「千尋・・」「子ども達のことは諦めないわ。勘違いしないで頂戴ね。」
2012年11月23日
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祐司が自分に対して慰謝料を請求して当然だと、歳三は思った。自分は他人の妻を寝取った上に妊娠までさせたのだから。「いくら欲しいんだ?」そう言って彼がコーヒーを一口飲むと、祐司は笑った。「欲しいのは金じゃない。」「じゃぁ何が・・」「香帆とは離婚しませんよ、子ども達が成人するまでは。あなただって今の生活を壊したくないでしょう? そこで、わたしから提案があるんです。」祐司はそう言うと、鞄から一枚の書類を取り出した。 そこには、来春建設予定の医療センターの図面と、その予定地が印刷されていた。「この医療センターの建設中止を、あなたから理事長におっしゃってくれませんか?」「何言ってやがる。外科部長の俺がそんな権限を持ってる筈がねぇだろう!」歳三がそう祐司に怒鳴って思わず立ち上がると、周囲の客が何事かとひそひそと囁き始めた。「この医療センター、マスコミからは税金の無駄遣いと叩かれているんですよ。それなのに、理事長は建設を強行しようとしてるじゃありませんか。わたしには、彼が来年度の選挙に関する利権絡みで動いているようにしか思えません。」流石、一流新聞社の記者というべきか、祐司の指摘は鋭かった。 建設予定の医療センターには、20億もの金が掛かっており、それらは全て市民からの血税だった。だがわざわざ莫大な血税をかけて医療センターを建設しても、既に設備が整っている誠心会病院がある限り、無用の長物にしか過ぎない。それなのに理事長が敢えてセンターの建設を強行するのには、政治の利権絡みでしかないと、祐司は睨んだのであろう。 理事長の芹沢鴨は医師でありながらも、野心家で患者主体よりもどう金が儲けるかどうかという、損得勘定の上で病院経営を行っていた。医師達や看護師をはじめとするスタッフ達はそんな彼の経営方針に対して反発していたが、病院を私物化しようとする芹沢の暴走を誰も止めようとはしなかった。 仮にそういう者が居たとしても、芹沢の巨大な権力でその存在を抹消され、医療に従事できなくなる。旧態依然の閉鎖的な体制が、誠心会病院には蔓延っていた。「あなたは吉田稔麿議員と親しいのでしょう? 彼にそれとなく医療センターの事を伝えてみては?」「お前は一体何が目的なんだ? 単に自分の女房を俺に寝取られたからって、そこまでする必要があるのか?」「ええ。医療センターの建設予定地の住民達は、今年末まで立ち退きを余儀なくされており、多くは行き場のない高齢者です。彼らに新しい住居を提供することも理事長は考えていらっしゃらないようですし・・もう、直訴するほかありません。」祐司はそう言うと、さっと椅子から立ちあがり、自分のコーヒー代だけ払って店から出て行った。(くそ、一体どうすりゃぁいいんだ・・)残された歳三が溜息を吐きながら今後の事を考えていると、千尋が店に入ってくるのが見えた。「こっちよ。」彼女はどうやら連れがいるらしく、ドアを開けながら誰かが入ってくるのを待っている。「すいません・・」申し訳なさげにそう言って店に入って来たのは、一目で妊婦とわかる少女だった。「あなた、久しぶりね。」千尋は歳三を見ると、ヒールの音を響かせながら彼の前に座り、口端を歪めてにぃっと笑った。 彼女の唇に塗られた真紅の口紅が、夏の陽光に照らされて毒々しく光った。「あの子は?」「ああ、あの子はあなたの患者よ。みさちゃん、いらっしゃい。」千尋が少女を呼ぶと、彼女は大きな腹を大儀そうに抱えて椅子に座った。「どういうことだ、俺の患者って?」「この子ね、今困ってるのよ。あなた、力を貸してくれない?」
2012年11月23日
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「あの、勇太郎の怪我は・・」「大丈夫です、軽い擦り傷でした。」園長から勇太郎が走り回って転んでしまったことを聞き、香帆はほっと安堵の表情を浮かべた。「良かった・・お電話を頂いた時は、勇太郎が誰かと喧嘩したのではないのかと思いまして・・」来年小学校入学を控えているというのに、勇太郎は落ち着きがなく、年少の頃はよく同年代の友達と喧嘩をしたりして、相手方の母親に怒鳴りこまれたこともあった。「お母様、心配なさらなくても大丈夫ですよ。勇太郎ちゃんも小学校に入学したら落ち着きますよ。」「そうでしょうか・・」香帆はそう言って椅子から立ち上がろうとした時、突然眩暈に襲われた。「大丈夫ですか?」「いいえ・・突然椅子から立ち上がったから・・今日はこれで失礼致します。」幼稚園から帰宅した香帆が玄関のドアを開けると、勇太郎が彼女に抱きついて来た。「ママ、お帰りなさい。」「ただいま、勇君。怪我は大丈夫? 痛くない?」「うん。ねぇママ、あーくんがさっきから泣いてる。」「そう。」香帆は勇太郎と共にリビングに入ると、散らばったおもちゃの中で3歳になる次男の篤朗が泣いていた。「あーくん、どうしたの?」「ママぁ!」篤朗は香帆に抱きついた。「あーくん、ずるい! ママから離れろ!」勇太郎はそう叫ぶと、篤朗を香帆から離そうとした。「やめなさい、勇太郎。あーくん、さびしかったでしょう。」「ママ、あーくんと僕、どっちが好きなの?」「何言ってるの、二人とも大好きに決まってるじゃないの。」「嘘だもん、ママあーくんの事ばかり構ってるもん!」勇太郎は癇癪を起こし、手足をバタつかせながら床で暴れ始めた。「ママは僕の事ばっかり怒ってるもん!」「それはあなたの為を思って・・」「ママなんか大嫌い!」 その日の夕食は、ピリピリとした雰囲気のまま終わった。香帆はあの眩暈が夏バテの所為だと思っていたのだが、スーパーで買い物をしている最中に突然意識を失って倒れた。「香帆、大丈夫か?」「あなた・・」香帆が病室で目を覚ますと、祐司が心配そうに自分を見つめていた。「あなた、どうしたの? 子ども達は?」「子ども達は僕がみてるから、心配するなよ。君はもう一人の身体じゃないんだから。」「え・・」「妊娠7週目だってさ。」「そう・・」香帆の脳裡に、歳三に抱かれた日の事が過った。「土方さんにもこの事は知らせておくよ。僕には心当たりがないからね。」「あなた、やめて。」「どうして? 彼は君を妊娠させたんだ。夫として彼に伝えるのは当然だろう?」祐司は冷たい笑みを妻に向けると、病室から出て行った。「香帆が、妊娠?」「ええ、そうですよ。あなたが僕の妻を妊娠させたんです。責任は取ってくださいますよね?」 病院近くのカフェで、祐司は妻の不倫相手を見た。「俺にどうしろっていうんだ? 赤ん坊が生まれたら引き取れっていうのか?」「いいえ、子どもは僕と妻が育てます。それよりも土方さん、まだ子ども達を離婚した奥さんに渡さないつもりでいらっしゃるんですか?」「あなたには関係のないことでしょう?」歳三がそう言って祐司を睨むと、彼はコーヒーを飲んだ。「あなたは、他人の家庭を不幸にしたんだ。その代償を子ども達が成人するまで払って貰いますよ。」
2012年11月23日
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「え~と、こっちでいいんだよね?」「ええ。」 謎の青年・疾風(はやて)とともに、悠はヒールの音を鳴らしながらエレベーターホールでエレベーターが来るのを待っていた。「いたた・・」 ストッキングを穿いているものの、履き慣れないヒールの所為で踵が少し擦れてきたので、悠は痛みに顔を顰めた。「余りこういった靴はお履きにはなられませんか?」「うん。いつもスニーカーだから。男でハイヒールなんて履いたことないし。」「そうですか。」疾風がそう言った時、エレベーターが到着し、ゆっくりと扉が開いた。エレベーターの中には数組のカップルが乗っていた。「では、参りましょう。」「うん・・」疾風の手を取り、エレベーターの中へと乗り込んだ悠だったが、前のめりになり、彼は派手に転んでしまった。くすくすと、カップル達がその様子を見て笑った。(うわぁ、恥ずかしい・・)悠はなるべくカップル達と目を合わせないように、疾風の隣に立った。エレベーターは二階にあるレストランへと停まった。「こちらです。」疾風がそう言って悠をエスコートしようとした時、誰かが自分の腕を引っ張った。(え?) 彼が背後を振りむくと、そこには先程自分を笑っていたカップルの女がじろりと自分を睨みつけていた。「あの、何でしょうか?」「わたしの彼に色目使わないでよ!」「は?」 突然の事で何が何だか解らず、悠が目を点にしていると、女はつかつかと悠の前に近寄ると悠に意味不明な言葉で怒鳴り散らした。隣に立っている彼氏らしき男は黙って女が怒鳴り散らしているところを見ていて、助けてくれない。 丁度ディナーの時間帯だったので、煌びやかにドレスアップしたカップルがジロジロと悠に怒鳴り散らす女を見ながらエレベーターホールの前を通り過ぎて行った。「あんたが彼を奪おうとしているの、解ってるんだからね!」「何言ってんの? っていうか、俺とあんた、初対面じゃん? それに自分の彼女が公共の場で汚い言葉吐き散らかしてんのに注意もせずにただぼーっと突っ立ってるだけの彼氏なんざ、要らねぇよ!」 いい加減女に身に覚えのないことで怒鳴り散らされることにムカついていた悠がそう言って彼女に啖呵を切ると、彼女の手を乱暴に振りほどいてエレベーターのボタンを押した。ぎゃぁぎゃぁ喚く女の声は、エレベーターの扉が閉まるのと同時に聞こえなくなった。「ああ、煩かった。ごめんね、待たせた?」「いいえ。」「行こうか。」疾風とともに、悠は彼の腕を組みながらイタリアンレストランへと向かった。「予約をした者ですが。」「あちらでお連れの方がお待ちですので、案内致します。」案内係によって、二人は奥のテーブルの方へと向かうと、そこには金髪の少女が座っていた。「待っていたわよ、姉様。もう来ないのかと思ったわ。」少女はハート形のルビーの指輪を光らせながら、じっと悠を蒼い瞳で見つめた。「君は・・それに、その指輪・・」「ふふ、やっと思い出してくれたのね? そんな所で突っ立ってないで座ってお食事しながらお話ししましょう。」少女は嬉しそうにそう言うと、ウェイターに目で合図をした。「お前も来たのね、疾風。お姫様のお供が好きなのねぇ、お前は。」「憎まれ口を叩くのは相変わらずですね。」疾風と少女が睨み合った時、彼らが居たテーブルの空気が三度下がったような気がした。にほんブログ村
2012年11月22日
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カフェの二階席で充分に睡眠を取った悠は、疾風の優しい手でまた揺り起こされてカフェを後にした。「これから何処行くの?」「行けばわかります。」疾風はそう言って足早に石畳の道を歩いてゆく。悠は慌ててその後を追った。やがて二人はある高級ホテルに着いた。ロビーに足を踏み入れると、パジャマ姿の悠に客達が好奇の視線をあからさまにぶつけてきた。「ここで暫くお待ちください。」そう言って疾風は悠をロビーへと残し、フロントへと向かった。悠は客達の視線から逃れるため、隅に置かれているソファに腰掛けた。(こんなところに泊まってもいいのかな?見るからに高そうだし・・) ロココ様式で内装を統一されているロビーに集まっている客達の殆どはスーツやシックなワンピースといった上品な装いをしていて、病院から着の身着のままで脱走した悠は何だか急に自分の格好が恥ずかしくなって俯いた。「お待たせいたしました、お部屋に参りましょうか。」暫くすると、疾風がカードキーを持って戻って来た。「う、うん。」二人はエレベーターへと乗り込み、部屋がある階へと向かった。「ねぇ、俺着替え持ってないんだ。このままだと恥ずかしいな。」「お召し物のことでしたらご心配要りません。こちらで手配済みですから。」「え?手配済みってどういうこと?」疾風は悠の問いには答えず、先にカードキーを挿し込んで部屋の中へと入った。 部屋はツインルームだが、家具も内装もヴィクトリア朝様式で統一されていて少し高級感が漂っていた。「こんなところに、本当に泊っていいの?」「支配人には連絡済みです。ユウ様、お召し替えを。」疾風は悠を部屋に残すと、さっさと何処かへ行ってしまった。「着替えろって言ってもなぁ。」悠が溜息を吐きながらクローゼットを開けると、そこには女物のワンピースやチャイナドレスやイヴニングドレスなどがあった。どうやらこのホテルの支配人は、悠を女性だと勘違いしているらしく、男物の下着や衣類はひとつも見当たらなかった。(とりあえず動き易い服に着替えないと・・)溜息を吐きながらクローゼットに掛けてある服をざっと見た悠は、一番動き易いチャイナドレスを手に取った。(これならトイレが楽だし、すぐに着替えられるし。)黒地に真紅の薔薇の刺繍が施されたチャイナドレスに着替え始めた悠は、一瞬既視感に襲われた。チャイナドレスを前に着た事があるような気がしてならなかったが、何処で着たのかが全く思い出せない。(どうしたんだろ、俺。何かさっきから変・・)「お召し替えはお済みになられましたか?」着替えを終えた悠の元に、疾風がそう言いながら部屋へと入って来た。「ねぇ、変じゃない?」「良くお似合いですよ。それでは、食事に参りましょう。」「判った。」クローゼットの中からチャイナドレスに合う真紅のハイヒールとバッグを取り出し、素早くスニーカーからハイヒールへと履き替えた悠は、颯爽と部屋から出て行った。 一方、ホテルの二階にあるレストランでは、煌びやかなドレスを纏った金髪の少女が欠伸をしながら誰かを待っていた。「まだ来ないのかしら、いい加減退屈になってきたわぁ。」そう言いながら欠伸を噛み殺していた少女の元に、1人の青年がやって来た。「お待たせして申し訳ありませんでした、ネネ様。」「遅いわねぇ、スペインで一体何をしていたの?」「少し仕事をしておりました。」「また仕事?お前はいつも仕事ばかりなのねぇ。少しは息抜きをした方がいいんじゃなくて?」少女はそう言って青年を見た。「もうすぐ、あなたが待ち焦がれていた方がお見えになられますよ。」青年の言葉を聞いた少女の蒼い瞳が、美しく輝いた。「姉様が来るのね。やっと会えるのだわ、姉様に。」少女は口元に笑みを浮かべながら、シャンパンを一気に飲み干した。にほんブログ村
2012年11月22日
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―姉様・・何処からか、声がする。懐かしくも、冷たい声。―姉様・・誰かが自分を呼んでいる。一体誰なのだろう?思いだそうとするが、思い出せない。―早くこちらにいらっしゃいな、姉様。声のする方へと走ってゆくと、そこには紅蓮の炎が邸を包み込みながら踊っていた。ここは何処なのだろう。呆然と辺りの惨状を見渡していると、何かが滴り落ちてくる音がした。何だろうと思いながら頬を汚すそれを拭うと、それは真紅の血だった。悲鳴を上げて後ずさると、何かを踏んでいることに気づいた。そっとそれから足を離すと、それは胎児の遺体だった。 臍の緒が付いたままで人間の形をしている胎児の傍には、腹を切り裂かれ息絶えている女性の遺体があった。それを見た瞬間、パニックを起こしてその場から逃げ出そうとした。だが血を吸っているドレスが足元に纏わりついてそれを阻む。自分は何故、こんな処にいるのだろうか。―姉様、楽しかった?またあの声が聞こえた。反射的に耳を両手で塞いだ。―そんな事をしても無駄よ。だってわたしは・・ 意識が突然闇に包まれ、最期に脳裡に浮かんだのは全身に返り血を浴びて殺戮に興じるもう一人の己の姿だった。「・・リ様、ユウリ様。」また誰かが自分を呼んでいる。ゆっくりと目を開けると、艶やかな誰かの長い黒髪が頬をくすぐった。「悪い夢を見ていらしていたのですか?手がこんなに冷え切ってしまって・・」誰かの温かい手が、そっと自分の手を優しく包み込む感触がした。「余り昔の事は思い出してはなりません。あなたの身体はもう、あなたお一人のものではないのですから。」誰かの手は、自分の手からそっと下腹の方へと移った。「今宵はわたしが傍に付いておりますから、ゆっくりとお休みください。」あなたは誰。どうしてこんなに俺に優しくしてくれるの。そんな言葉を口にしたいと思っていたのに、何故か段々目蓋が重くなってゆく。「ユウリ様、お休みなさいませ。」誰かの心地の良い、低い声が耳朶に優しく響いた。その時、身体の内側で小さな足で蹴られたような感覚がした。「起きてください、ユウリ様。」まどろんでいるところを誰かに揺り起こされ、悠はゆっくりと目を開けた。辺りを見渡すと、そこは24時間営業のカフェらしく、テーブルやカウンターには数人の客しかいない。「ここ、どこ?」そう言って悠が隣に座っている男―疾風を見た。「少しお疲れのようでしたので、ここで休憩を取ろうと思いまして。」彼の言葉を聞いた途端、悠の脳裡に病室で起きた出来事が甦った。 あれから何時間経ったかわからないが、いつの間にか壁際に凭れて眠ってしまう程自分は疲れていたのだ。「ねぇ、これから何処行くの?」「夜明けが来たら、ここを出ます。ですが、こんな処で寝てしまっては風邪を召されます。」疾風はそう言うとスツールから降り、カフェの主人に何か言うとすぐに戻って来た。「二階に横になれる処がありますから、そこでお休みになってください。」「ありがとう。」彼の何気ない心遣いに、悠は少し癒された。「わたしは、あなたの従者として当たり前の事をしたまでです。」疾風は悠に微笑むと、彼の手をそっと取って二階へと向かった。階段を昇ると、そこにはソファが置いてある場所がいくつかあった。悠は隅の方へと向かい、ソファに横になって再び目を閉じた。「良い夢を、ユウリ様。」疾風の声を聞いた時、夢の中で聞いた心地の良い声は彼のものだと悠は気づいた。にほんブログ村
2012年11月21日
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「それにしても、酷いものですよね。大分現場慣れしてきましたが、こんなに酷い現場は初めてだ・・」そう言ってジムはハンカチで込み上げる吐き気を押さえた。「まだまだ青いな。俺はこんなものよりも遥かに悲惨な現場を見てきたぜ。」犯人に繋がる証拠を探しながら、アーノルドはそう言って相棒を鼻で笑った。「あの頃はお前の親父さんも俺の隣でげえげえ吐いてたな。あいつは少し優しかったから。」「父が、ですか?」上司の口から父親の話が出てきて、ジムは思わずアーノルドを見た。「ああ。まぁあいつも色々と修羅場をくぐり抜けてきて、強くなっていったけどな。俺達はいつも助け合ってた。あいつがもうすぐ定年迎えてもそれは同じだと思ってたんだ。あの事件が起こるまでは。」アーノルドの言葉を聞いた瞬間、ジムの脳裡にあの忌まわしい事件の日が浮かんだ。あの日、父はパトロール中に何者かに殺された。彼の体内からは血液が全て抜き取られていた。あの日父の身に一体何があったのか、犯人は一体誰なのか、その謎は未だ判っていない。最近父の事を思い出しては一人で泣く夜が増えて来たように思える。幼い頃母を亡くし、父子家庭で育ったからか、人一倍父親っ子だったからかもしれないが、未だに父の死を引き摺っているのかもしれない。「ジム、どうした?顔色悪いぞ?」ふと我に返ると、アーノルドが心配そうな表情を浮かべて自分を見ていた。「すいません。少し父の事を思い出してしまって。駄目ですね、僕。まだ父の事を引き摺って・・」「無理もない、あんな事件が起きれば、誰だって引き摺るさ。俺だってまだ引き摺ってるんだ。」アーノルドはジムに微笑みながら、優しく彼の肩を叩いた。「ところで話は変わるが、この事件で一番疑わしい奴はどいつだと思う?」「そうですね、最初に殺されたこの学校の生徒数名とそこで働いていた司祭一名がこの事件の被害者で、あとは・・」事件に関する書類を捲っていると、ジムの目にある名前が飛び込んできた。「どうした?」「いえ、それが・・この事件に巻き込まれたユウ=キノシタなんですが、現在ロンドン市内の病院に入院中だということが判りましたが、彼の指紋が何故かこの事件の遺留品に残されているんですよ。」「遺留品に彼の指紋が?それは何だ?」「それが、告解室で倒れていた司祭の遺体の近くに落ちていたナイフです。考えたくはありませんが、もしかすると彼がこの事件の犯人なのではないかと・・」ジムの言葉を聞いたアーノルドは、少し眉を顰めた。「彼の事を調べてみる必要があるな。重要参考人として彼と明日、話をしに行こう。」「わかりました。」ジムは上司の言葉を聞くなり大聖堂から真っ先に飛び出した。一人大聖堂の中に残ったアーノルドは、血で汚れたステンドグラスを見つめた。「天にまします我らの神は、数人の若者の命をお救いになられなかったのは何故なんだろうなぁ。」 アーノルドがそう呟きながら大聖堂を後にしようとした時、何かを踏んだ感触がして歩みを止め、床に転がっていたものを拾い上げた。それは、プラチナのオーバル型ロケットペンダントだった。 ロケットを開くと、そこには黒髪と金髪の少年が微笑む写真と、その二人が成長し同じポーズで微笑む写真が入っていた。このロケットが誰のものなのか、アーノルドは想像がついた。と同時に、このロケットが事件の重要な手掛かりになるとアーノルドは確信した。彼はロケットをハンカチで包み、大聖堂から出て行った。外にはこちらの様子を窺い不安な表情を浮かべる生徒達と、好奇心を剥き出しにした近隣住民達の視線が痛いほど感じられた。「あの、それは・・」「亡くなった司祭様のものだったらしい。中には写真が二枚入っていた。少し調べればその写真について何かわかるかもしれんな。」「え、ええ・・」やがて二人の刑事はロケットとともにロンドンへと帰って行った。遠ざかってゆく警察車両を、ゴシック様式の窓から一人の男が眺めていた。にほんブログ村
2012年11月21日
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「ねぇ、疾風とか言ったよね?一つだけ教えて。俺は一体何者なの?」 悠はそう言って自分の前に立っている青年を見た。「あなたは、ご自分が何者なのかが、おわかりにならないのですか?」青年は怪訝そうに悠を見ながら、ベッドの端に腰を下ろした。「うん。最近変な夢ばかり見るけど、それも俺の正体に関わることなのかな?」「夢?」悠は青年に最近悪夢に魘されていることを話した。「俺、いつもその夢の中で、女の名前で呼ばれているんだよね。“サチ”って。」「サチ・・」青年はその名を聞いた瞬間、顔を強張らせた。「どうしたの?何か心当たりでもあるの?」青年は悠の手をそっと握り、口を開こうとしたその時、病室のドアが乱暴に開かれて数人の男達が入って来た。皆揃いのカソックを着ており、手には洋剣を持っていた。「何なんだよ、あんた達!急に入って来て・・」「やっと見つけたぞ、“スカーレット”。ここで長く続いたお前と俺達との因縁、経ち切ってやる!」 男達の中から一際目立つ黒髪紅眼の男が悠達の前に進み出て、洋剣の切っ先を悠に向けた。「何?突然意味の判らないこと言って・・俺があんた達に一体何したっていうのさ!」「黙れ!」黒髪紅眼の男は洋剣を閃かせながら、悠へと突進した。だが白刃が悠の全身を貫く前に、青年が彼を抱いて窓から脱出した。「走れますか?」優雅に地面に着地した青年は、そう言って己の腕の中でパニックを起こしかけている悠を見た。「あの人達何なの?いきなり俺に襲い掛かって来て・・訳の判らない事ばかり言ってさ。挙句の果てには殺そうとして、意味わかんないよ!」「わたしは彼らの事を知っています。あなたのことを長い間執拗に追い続けてきた者達です。恐らく、ヴァチカンに所属する者達でしょう。」「ヴァチカンって、あのカトリックの総本山の?」「ええ。詳しいことは後でお話しいたします。今は逃げる事が先です。」「逃げるって・・携帯も何も持ってきてないし、お金だって・・」「それはわたしが持ってます。」青年はそう言って悠にバッグを見せた。それは紛れもなく、悠のバッグだった。「いつの間に・・」「彼らに見つかる前に、ここから離れましょう。」青年は悠を肩に担ぐと、病院の出口に向かって走り始めた。周囲の風景が、次から次へと通り過ぎてゆく。「ねぇ、ちょっと止まってよ!吐きそう。」そう言って悠は青年の肩を叩いたが、彼は悠の言葉を無視して更に速く走り始めた。必死に猛烈な吐き気と闘いながら悠が青年の肩で呼吸していると、突然青年が足を止めた。「どうしたの?」「もう彼らの気配を感じませんから、ここからはゆっくり歩いていきましょう。」青年は悠を自分の肩からゆっくりと降ろしながらそう言うと、悠に微笑んだ。「ねぇ、さっきから思ってたんだけど、あんた一体何者?あんなスピードで走れるなんて普通の人間じゃ出来ないことだよね?アスリートか何か?」「それは後でお話しいたします。」青年は悠の問いには答えずに、ゆっくりと歩き出した。(変な奴・・でも俺の命を助けてくれたから、悪い奴じゃないな。)悠は慌てて青年の後を追いかけた。 一方、シーツが切り裂かれた悠のベッドの上では、黒髪紅眼の男が誰かと携帯で話していた。「やつを逃しました。」『そうか。見つけ次第殺せ。』「御意。」携帯を閉じた男は、じっと割れた窓ガラスの向こうに広がる景色を見つめた。「待っていろよ“スカーレット”、お前の息の根はこの俺が止めてみせる。」 同じ頃、凄惨な事件現場と化したマセットリー・スクールの大聖堂の中に、ロンドンからやって来たジムとアーノルドが捜査に当たっていた。にほんブログ村
2012年11月20日
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フェリペは崩壊したエスペラルド伯爵邸に、呆然と佇んでいた。死んだ母親は緑の目を見開き、空を睨んでいた。「母上、安らかにお眠りください。」フェリペはそっと母親の目を手でそっと触れた。「フェリペ、今は辛いだろうが、耐えてくれ。」「心配は要りません、叔父上。」フェリペは涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。「わたしは己の道を行きます。どんな事があっても。」彼は叔父にそう言うと、背を向けて伯爵邸であった瓦礫の山から去って行った。「フェリペ・・」ホテルへと向かう車の中で、フェリペはそっと母から渡された指輪を見た。プラチナの台座に嵌めこまれたアメジストの指輪は、夕日を受けて美しく輝いていた。(母上、いつかあなたの仇を討ちます。いつか必ず!)フェリペは緑の瞳に決意を宿しながら、次第に暗くなってゆく空を睨んだ。 一方、病室で謎の人物から着信を受けた悠は、その人物の指示に従って屋上へとやって来た。そこには、誰もいない。(電話を掛けてきた人は、誰なんだろう?)そう思いながら屋上を見渡すと、やはり悠の他には誰もいない。(悪戯だったんだ。)悠が屋上に背を向けて立ち去ろうとした時、ゆらりと背後で動く人影があった。「なに・・?」 恐怖に震えながら背後を振り向くと、そこにはたしかに人影らしきものが隅の方で動いていた。(不審者?それとも幽霊?)今すぐ屋上から逃げ出したいが、足が竦んで動けない。やがて人影らしきものは、ゆっくりと悠の方へと近づいてくる。「ユウリ様、お久しぶりです。」月光の下で照らされた人影は、黒衣に身を包んだ長身の男だった。「あなた、誰?」男は悠の前に跪いて愛おしそうに彼を見つめた。「わたしはあなたの従者であった者。そして今でもそれは変わりません。」「あの、あなたの言っていること、全然わからないんですけれど。」悠はそう言って男を見た。「ユウリ様、あなたは覚えていらっしゃらないのですか?あの時のことを?」「あの時?」「あなたがわたしを従者にした時のことを、わたしは今でも覚えておりますよ。」男はそっと悠の手の甲に接吻した。「やめて、離して!」悠は男を突き飛ばして、屋上から去って行った。(何なのあの人、突然現れて訳のわからないこと言って・・絶対におかしい!)病室に入ると悠は頭からシーツを被って目を閉じた。急いで走って来た所為か、呼吸が苦しい。激しく咳き込むと、塞がった腹部の傷が痛んだ。(ちょっと無理しちゃったかな?まだ怪我、治ってないのに。)深呼吸をしていると、首に提げている指輪のヒヤリとした感触が悠の心を少し落ち着かせた。(あの人、何処かで会ったような気がする。でも思い出せない。)悠はそっとルビーの指輪を取り出しながら、屋上で会った青年の事を考えていた。(俺の事を“ユウリ”って呼んだ。“ユウリ”って誰のこと?)その夜は一晩中、眠れなかった。(俺は一体何者なんだろう?この指輪は誰のものなんだろう?)じっと指輪を見つめていると、病室に誰かが入ってくる気配がして、悠はドアの方を見た。そこには、屋上で会った青年が立っていた。「もう一度聞くけど、あなたは誰?」「わたしは疾風(はやて)と申します。」「そう。俺は悠。よろしくね、疾風。」そう言って悠は青年に手を差し出した。「こちらこそ。」青年は悠に微笑みながら、彼の手をそっと握った。にほんブログ村
2012年11月20日
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叔父とともにスペインへと急遽帰国したフェリペを待っていたものは、跡形もなく破壊しつくされたエスペラルド伯爵邸だった。「一体、これは・・」呆然としながら瓦礫の山を見渡すと、その中から微かに呻き声が聞こえた。「叔父上、今声が聞こえませんでしたか?」「ああ、あっちだ。」呻き声がする方へと向かうと、そこにはフェリペの母・マリアが瓦礫の下敷きになっていた。「母上、しっかりしてください!一体何が起きたんですか!」フェリペは瓦礫をどかしながら、母の手を握った。「フェリペ・・最期に会えてよかった・・」マリアはそう言うと、フェリペの手を弱々しく握り返した。「駄目です、母上!わたしを置いて逝かないでください!」「あなたに・・危険が迫ってるわ。これを。」マリアは左手の薬指に嵌めていた指輪を抜き取ると、それを息子に渡した。「これは?」「伯爵家当主の証よ。お願い、お前だけは幸せに・・」そう言った瞬間、彼女は吐血して息絶えた。「母上?」フェリペは母の手をずっと握り締めていたが、その手は二度と握り返してくれなかった。「フェリペ、駄目だ。」 叔父がそっと自分の肩を叩く感触がしたが、フェリペはそれに構わず母の遺体に取り縋り泣き始めた。まるでこの世に産まれ落ちた時のように。壮麗な邸宅は瓦礫の山と化し、それらを空が緋に染め始めた。 一方、ロンドン市内の高級ホテルにあるスイートでは、金髪の少女がソファに寝そべりながら電話を待っていた。「まだかしら、あいつ。もうそろそろ終わっている頃だと思うけど・・」少女がそう呟きながら鬱陶しそうに前髪を掻きあげていると、ソファの近くに置いてあった携帯電話がけたたましく鳴った。「遅かったわね。」『申し訳ございません。少し手間がかかりまして。』「ふぅん。ねぇ、“仕事”は終わったんでしょ?今からこっちに来ない?」『また何をお考えなのですか?』「何だっていいじゃない。あのねぇ、お前にいいことを教えてあげるわ。もうすぐ姉様が目覚めそうなのよ。」通話口越しに、唾を呑む込む音が聞こえた。『それは、確かなのですか?』「ええ、確かよ。血を分けたわたしはわかるのよ。姉様がいつ目覚めるのかをね。とにかく、ロンドンにすぐ来て頂戴。話はそれからよ。」携帯を閉じた少女はソファからゆっくり立ち上がると、バッグの中から正方形の箱を取り出してそれを開いた。そこには、ハートを象ったルビーの指輪が入っていた。少女は指輪を箱から取り出すと、それを右手の薬指に嵌めた。「いつ見ても綺麗だわ。」少女は溜息を吐きながらベッドに寝転がると、テレビをつけた。映し出されたのは、悠が通う名門寄宿学校で起きた事件を伝えるニュースだった。『数日前、何者かがこの学校に侵入し、大聖堂で数人の生徒らを殺害しました。犯人への手掛かりは一向に掴めていません。』「馬鹿ね、人間達って。わたしにはあいつらを殺した犯人がわかるっていうのに。」少女は笑いながら指輪を天井に翳した。シャンデリアの光を受けたルビーが、真紅に輝いた。「まるで血の色のようだわ。サファイアやエメラルドも素敵だけど、宝石の中でルビーが一番好きだわ。」少女はそう呟くと、テレビを消した。「姉様、まだ目覚めてくれないのかしら、つまんないわ。」 同じ頃、悠はベッドから起き上がると、フェリペが買って来てくれたデリの紙袋からフレンチフライを取り出して食べ始めた。その時、バッグの中に入れていた携帯電話が静かに振動した。悠は油まみれの手を急いでナプキンで拭うと、携帯電話をバッグから取り出した。「もしもし?」『お久しぶりです、ユウリ様。』悠はその声を聞いた瞬間、何故か懐かしさを感じた。にほんブログ村
2012年11月19日
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「フェリペ、久しぶりだな。」そう言ってソファからゆっくりと立ち上がった顎鬚をたくわえた男がフェリペを見た。「ご無沙汰しております、叔父様。」フェリペは男の手の甲に接吻して彼に挨拶した。「数日前、お前の学校で悲惨な事件が起きたらしいじゃないか。まだ犯人は捕まっていないようだな?」「ええ。スコットランドヤードは内部の人間の犯行だとにらんでいるのですが、犯人に繋がる証拠がなかなか見つからないそうです。」「そうか。あそこは断崖絶壁の上に建つからな。証拠は海にでも投げ捨てればいくらでも隠滅することができる。それよりもお前、最近赤毛の日本人と付き合っているそうだな?」男の鋭い目が、フェリペを射るように見た。「ユウのことですか?彼とは何もありません。同じ学校に通っているということだけです。」「そうか、ならいい。それよりもネネの事は聞いたか?」「ネネですか?」叔父の口から忌まわしい娘の名を聞いたフェリペは、美しい眉をひそめた。フェリペの脳裡に、長い金髪を靡かせながら笑う少女の姿が浮かんだ。「あいつがロンドンに居るらしい。マルフィナに命じてあいつを探させているが、なかなか見つからん。困ったものだ。」男は溜息を吐いて眉間を揉んだ。「フェリペ、ネネの事はわたし達が処理する。今日お前を呼びだしたのはお前の結婚相手の事だ。」「結婚ですか?お言葉ですが叔父上、わたしはまだ結婚など考えておりません。」「そんな呑気な事を言うんじゃない、フェリペ。エスペラルド伯爵家の家督をお前に譲る、と弟の遺言状にも書かれてあったんだ。お前が伯爵家を継ぐには、伯爵家と釣り合う家柄の娘を嫁に迎えなければならん。お前はあいつよりも賢い。だからお前にはいい相手を探すつもりだ。」「叔父上・・」 フェリペはスペインで夏の間繰り広げられた醜い家督争いのことを思い出し、深い溜息を吐いた。 エスペラルド伯爵家当主であった父が急死し、彼の遺言状には伯爵家の家督と財産を全てフェリペに譲ると書かれてあった。 伯爵家の嫡子である彼が家督と財産を譲られるのは当然の事であるが、その事について親族たちが猛反発した。 彼ら曰く、フェリペは伯爵家の正当な跡継ぎではない。フェリペは父親が他所の女に産ませた私生児であると。泥沼状態となった家督争いの中、フェリペに唯一味方してくれたのは今目の前にいる叔父だけだった。「フェリペ、お前には何としてでも伯爵家を継がせたいんだ。あいつらの言うことなど気にするな。」「ありがとうございます、叔父上。」叔父に愛想笑いを浮かべながら、フェリペは椅子にゆっくりと腰掛けた。「お前に、渡したいものがあってな。」叔父はそう言って上着のポケットから一枚の封筒を取り出した。「それは?」「お前の母親からの手紙だ。スペインでまた何か動きがあったらしい。」「そうですか。」もしや母の身に何かあったのだろうかーそう思いながらフェリペは叔父の手から手紙を受け取り、封を切った。手紙を読み進める内、フェリペの表情が徐々に強張った。「叔父上、これは・・」「どうやら向こうでとんでもない事が起きたようだな。」フェリペと男がヒースロー空港へと向かっている頃、彼らと入れ違いにロンドンへと降り立ったレオナルドは、スーツケースを引きずりながら雑踏の中を歩き始めた。『レオナルドか?』携帯を取ったレオナルドは、通話口越しから聞こえてくる男の声が誰なのか知っていた。「あなたは、確か・・」『お前に頼みたい事がある。』数分後、携帯を閉じたレオナルドは榛色の瞳を煌めかせながら、再び歩き出した。にほんブログ村
2012年11月19日
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ユーリは漸く、夫と娘達とともに平穏な暮らしを手に入れた。王宮で突然暮らすことになり、麗欖(れいらん)は、はじめは戸惑ったものの、環境に次第に順応してゆき、幼い弟の面倒を見ていた。ユーリは公務に追われながらも、家族と過ごす時間を決して疎かにはしなかった。「陛下、戴冠式の日時が決まりました。」「そう。」「陛下、最近お幸せそうですね。」女官の一人がそう言って、ユーリに微笑んだ。「やはり家族が共にいると、一人で王宮に暮らしているよりリラックスできる。」「そうですか。では失礼致します。」女官は優雅に礼をすると、部屋から出て行った。「お母様、お客様がいらっしゃってるわ。」「そう。」麗欖とともにユーリが謁見の間に入ると、そこには鴇和一族の生き残りの姉弟・羅姫と香欖(こうらん)が居た。「お久しぶりでございます、ユーリ様。このたびのご即位、おめでとうございます。」「ありがとう。何故ここに?」「一族の汚名を返上してくださったお礼に参りました。」「あなた方には、辛いことをしてしまったわね。今更どのような償いをしてもあなた達のご両親は戻ってこない・・」「もういいのです。汚名が返上された今となっては、前の陛下がなさった過ちに恨むことはありません。」「そう・・」ユーリと羅姫の瞳が、ぶつかった。彼女の瞳は、穏やかな光をたたえていた。「では、お元気で。」「姉弟で仲良く暮らすのですよ。」「ええ、お達者で。」故郷へと帰ってゆく羅姫達の背中を見送りながら、ユーリはドレスの裾を払って謁見の間から出て行った。 数日後、戴冠式が行われ、絢爛豪華なドレスを纏ったユーリは、アベルから王冠を授けられ、名実共にダブリス新国王となった。「お母様、見て!」「あら、どうしたの?」「ねぇお母様、百合もお姫様のようになれる?」「ええ、なれますとも。きっとね。」羅姫はそう言うと、愛娘に向かって微笑んだ。「お嬢様、参りましょうか?」「ええ。でもいい加減、その“お嬢様”っていうのはやめて頂戴。もうわたしはあなたの妻なのだから。」「申し訳ございません、いつもの癖で・・」「まぁいいわ。汽車が出てしまう前に行きましょう。きっとリヒトの街は今頃お祭り騒ぎでしょうね。」「ええ。」夫と娘と共に、羅姫はリヒトへと向かった。輝かしい未来を背負いながら。~完~あとがき何だか駆け足気味で書き終わってしまいましたが、それぞれハッピーエンドという形で終わらせました。長い間、お読みくださった読者様、ありがとうございました。2012.11. 19. 千菊丸にほんブログ村
2012年11月16日
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ユーリが王位に即位してから、彼女は息を吐く暇がなかった。疫病によって財政状況が苦しくなり、その所為で亡き皇妃が携わっていた福祉事業を凍結せざるおえなくなってしまった。「ユーリ様、国の為とはいえ、すべての福祉事業を凍結なさるとは、さぞや心苦しいことでしょう。」「ああ。せめて現在進行している事業だけでも残しておきたかったが・・それよりも経済の建て直しの方が重要だからな。」紅茶を飲みながら、ユーリはそう言ってアベルを見た。宮廷内で強い発言権はないものの、司教となってからアベルはユーリの良き相談役となっていた。「それは皆様もよくわかっておられるでしょう。」「そうか・・そうであればいいが。」ユーリはそう言って溜息を吐くと、アベルを見た。理知を湛えた緑の瞳を自分に向けながら、彼は静かにこう呟いた。「何だか、昔のことが思い出されますね。」「そうだな。まだあの頃のわたしは理想に燃えていた。しかし、今は現実に圧されて思うようにならない。」ユーリは再び溜息を吐くと、紅茶を飲んだ。「そう急くことではありません。焦らないでください。」「ありがとう、アベル。」ユーリはそう言うと、そっとアベルの手を握った。「陛下、今しがた汽車が駅に着いたとの知らせが。」「そうか。」ユーリは弾けるような笑顔を浮かべると、椅子から立ち上がった。「どちらへ?」「夫と子どもを迎えに行く。」「お気をつけて。」「では、行ってくる。」匡惟は、隣で寝ているわが子を揺り起こした。「起きなさい、もう着いたよ。」「やっとお母様に会えるね!」「ああ。」匡惟は、もうユーリは自分たちのことを忘れてしまっているのではないのかという不安に襲われた。国王となったユーリは多忙を極め、息をつく暇がないという。そんな中で、彼女が自分達をおぼえているのかどうかー匡惟はそう思いながら、汽車から降りた。「お母様だ!」それまで俯いていた匡惟は、わが子の声でゆっくりと顔を上げた。するとそこには、雑踏の中で自分に手を振るユーリの姿があった。「ユーリ!」「お帰りなさい、あなた。」匡惟は、久しぶりに妻と抱擁を交わした。「もう、わたし達のことを忘れてしまったのかと思っていた・・」「そんなことはない。ずっと会いたかった・・」「お母様、会いたかったよ!」自分に似た紅の瞳を涙で潤ませながら、麗欖(れいらん)がユーリに抱きついた。「出来れば、娘にも会わせたかった・・家族四人で、共に暮らしたかった・・」匡惟の言葉に、ユーリは静かに頷いた。「行こう。ここは冷える。」「そうですね。」「お母様、これからはずっと一緒に暮らせるの?」「ああ、ずっとお前達と一緒に暮らせるよ。」「そう。じゃぁ天国のお姉様も喜んでくださっているよね?」「ああ。いつも天国からみんなを見守ってくれていると思うよ・・」ユーリは泣きそうになるのを堪えながら、娘の手を握った。にほんブログ村
2012年11月16日
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「これは・・」長方形の箱をユーリが開けると、そこには代々ダブリス王家に受け継がれるサファイアのネックレスが入っていた。「そなたに、これを。」「兄上、それは・・」「わたしは、王位から退く。元々その座は皇太子であるお前のもの。さぁ、受け取るがよい。」「よろしいのですか?わたしが、このネックレスを・・」「みなもお前のことを国王にふさわしい器であると認めている。」ユーリが周囲を見渡すと、そこには笑顔を自分に向けている重臣達の姿があった。ユーリは姿勢をただし、優雅に礼をした後ルディガーの前に跪いた。ルディガーは箱からネックレスを取り出すと、それを恭しくユーリの細く白い首に掛けた。「何だと、ルディガー様が王位を退位されたと!?」「では、次の国王はどなたなのだ!?」「ユーリ様なのです。」「そうか、ユーリ様ならば心配ありませんな。」「さよう。ユーリ様は才知に長けるとともに、武術にも優れたお方。傾きかけたこの国を立て直してくださることでしょう。」「ええ。」ルディガーが王位から退いたことは、宮廷中に瞬く間に広がった。そしてその知らせは、海の孤島にも届いた。「ねぇお父様、お母様が国王様になられたら、私達自由になれるの?」「ああ、なれるとも。」匡惟(まさただ)はそう言うと、子どもたちに微笑んだ。その時、クラークが部屋に入ってきた。「今からあなた方を解放いたします!」彼の言葉を聞いた途端、幽閉されていた者達は歓声を上げた。「漸くお家に帰れるね。」「ああ・・」次第に水平線の彼方へと消えてゆく孤島を眺めながら、匡惟は娘の形見であるネックレスを握り締めた。 長い船旅を経て、匡惟達はダブリスの港へと着いた。「お父さん、早くお母様に会いたいね。」「ああ。」汽車に乗り込んだ後、匡惟は流れゆく景色を眺めながらそう言って笑った。「リヒトまでまだかかるから、今のうちに寝ておきなさい。」「うん。」自分の肩を枕代わりにして眠るわが子を愛おしそうに見つめながら、匡惟は今朝買った新聞に目を通した。その一面記事には、王笏(おうしゃく)を持ち、美しいドレスを纏ったユーリの写真が載っていた。“ユーリ皇太子、国王に即位”(もし王となられても、ユーリ様は私達に会ってくださるだろうか?)ユーリとの絆は、彼女が国王となった今でも変わらないと匡惟は信じている。彼女も、そう信じていることを祈って。「ユーリ様、どうなさいました?」「いや・・今夜の汽車で、わたしの家族がここに来る筈なんだが・・何だか落ち着かなくて・・」「そうでございますか。それではわたくし達はこれで。」女官はそう言ってユーリに優雅に礼をすると、彼女の部屋から辞していった。にほんブログ村
2012年11月16日
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「ユリシラ=エーネント?何処の方でしょうか?」青年から渡された名刺の名を読み上げたアベルがそう言って首を傾げると、青年は少しムッとしたような顔をして次の言葉を継いだ。「エーネント家は昔ながらの貴族ではありませんから。」「そうですか、これは失礼いたしました。」「いいえ、気にしておりませんから。」そういいながらも、青年はアベルを睨みつけたままだった。「それで、わたしに何の御用でしょうか?」「いえ、お噂の司教様のお姿を、一目見ておきたいなと思いまして。それでは。」青年はそう言うと、アベルの前から颯爽と去っていった。「何でしょうね、あの方。司教様に向かって無礼な・・」「放っておきなさい。それよりも後のことは宜しく頼みますよ。わたしは忙しいので。」「承知いたしました。」司祭と途中で別れ、アベルは宮殿を出て大聖堂へと戻った。「司教様、お久しぶりです。」「リュシエル、久しぶりだね。元気にしていたかい?」アベルは救護院でボランティアをしている青年に声を掛けられ、そう言って彼に微笑んだ。「ええ。疫病が治まってよかったです。ですが、皇妃様がお亡くなりになられたことは残念でなりません。あのお方は、本当に素晴らしいお方でしたのに。」青年がそう嘆息すると、アベルは静かに頷いた。亡き皇妃は、国民達の医療福祉の充実のために色々と力を尽くしてくれた。だがその皇妃が亡くなった今、彼女が担当する事業がどうなるのかわからない。「陛下は皇妃様のご遺志を継がれて、民のために力を尽くしてくださることを祈っておりますよ。」「そうですよね。まさかいきなり廃止なんてことはないでしょう・・」「ええ。慎重派の陛下ですから、そのような暴挙に出られることはないでしょう。」大聖堂へと戻る道すがら、アベルは青年と話しながら今後のことについて考えていた。皇妃中心で行われている福祉事業は12事業あり、その中の8事業は国の援助を受けてはいるものの、財政状況は芳しくない。しかし疫病の影響の所為で国庫は破綻寸前である。「では、わたしはこれで。」「ええ。」青年と別れ、アベルは大聖堂の中へと入った。「お父様!」信徒席を中ほどまで進むと、アベルの養女・璃音がアベルに駆け寄ってきた。「璃音、元気そうだね。」すっかり貴族の令嬢特有の優雅な雰囲気を纏った璃音は、公共の場であるにも関わらずアベルに抱きついた。「離れなさい、璃音。わたしはお前の娘だが、ここでは・・」「わかりました。それよりもお父様、これから忙しくなるのですか?」「ああ。皇妃様がお亡くなりになられたからね。」「確か、今の陛下との間にはお子様はいらっしゃらないのでしょう?そしたら、陛下がお亡くなりになられたら誰が次の王となられるのかしら?」璃音の鋭い指摘に、アベルは唸った。今ダブリス王家の直系の血をひいている者は、ルディガー以外ユーリしかいない。孤島に幽閉されていたユーリを、今更何故ルディガーがリヒトに呼び戻したのかーその理由を探りながら、アベルはミサの準備をしていた。「ユーリ様、陛下がお呼びです。」「わかった。」ユーリが謁見の間に入ると、そこには左右に重臣達が居並んでいた。「兄上、どうしたのですか?」「ユーリ、そなたに大事な話がある。」「大事な話?」「エリンシスト、例のものを。」「はっ!」ルディガーの傍に控えていた重臣の一人が、彼に長方形の箱をユーリに渡した。にほんブログ村
2012年11月16日
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雪が降る中、ダブリス王国皇妃・羅姫の葬儀がしめやかに行われた。「羅姫、我が妻よ・・」新婚僅か数ヶ月で、腹の子とともに死んでしまった妻の棺に取り縋ったルディガーの姿は、誰から見ても痛々しかった。(兄上、お可哀想に・・)バルコニーからその様子を眺めていたユーリは、羅姫の冥福を静かに祈った。「ユーリ様、陛下がお呼びです。」「わかった。」ドレスの裾を払うと、ユーリはルディガーの部屋へと向かった。皇妃の喪に服す為、貴族達は皆喪服を纏っており、宮殿の中は一面漆黒の闇に包まれたかのようだった。「陛下、ユーリ様がいらっしゃられました。」「さがれ。」「失礼いたします、兄上。」「ユーリ、お前にも葬儀に参列して欲しかったのだが、重臣達が反対していたのだ。」「いいえ、気にしてはおりませんのでお気にならさず。それよりも兄上、少し休まれた方がよろしいのでは?」「いや、わたしはまだやらねばならぬことがある。ここにお前を呼んだのは、お前に会わせたい者がおるからだ。」「会わせたい者?」「入るがよい、アベル。」「失礼いたします、陛下。」扉が開き、胸に金の十字架を提げたアベルが部屋に入ってきた。「アベル・・」「ユーリ様、お久しぶりです。お元気そうでなにより。」アベルはそう言うと、ユーリに向かって優雅に宮廷式の礼をした。「二人きりで話すがよい。わたしは忙しいからな。」ルディガーはさっと椅子から立ち上がると、部屋から出て行った。「アベル、あれからどうしていた?」「あれから色々とありましたが、今ではウテルス大聖堂の司教を務めております。」ウテルス大聖堂は、代々ダブリス王家の結婚式や葬儀を執り行う伝統と格式ある教会であり、その司教の座に着けるものは上位貴族の子弟でも難しいといわれている。「そうか・・それは大出世だな、おめでとう。」「ありがとうございます。これはひとえに、ユーリ様のお蔭です。」「わたしの?」「ええ。あなた様の助けがなければ、わたくしは今の地位にはついておりませんでした。」「アベル、皇妃様は今朝身罷られた。」「存じております。あの病は、妊産婦が罹(かか)ると重症化すると聞きました。疫病の猛威は徐々に治まりつつあるものの、どうなることか・・」アベルがそう言葉を切った時、一人の司祭が部屋に入ってきた。「司教様、お客様です。」「わたしに?」「ええ、至急司教様にお会いしたいと・・」「そうですか・・ユーリ様、失礼いたします。」「わかった。また会おう。」アベルはユーリに頭を下げると、部屋から出て行った。「司教様、こちらです。」アベルが司祭とともに廊下を歩いていると、一人の青年がアベルに気づくと頭を下げた。「アベル様、ですね?」「はい。あなたは?」「初めまして、わたくしはこういう者です。」青年はそう言うと、名刺をアベルに渡した。にほんブログ村
2012年11月16日
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「失礼いたします。」皇妃の寝室に入ってきたのは、全身白装束を身に纏った男だった。「ユーリ、王立研究所のリーヤだ。」「初めまして。あなた様が、ユーリ様ですね?」目元以外の全身を覆い隠した男は、そう言って紅の瞳でユーリを見た。「初めまして。」「ルディガー様、例の件でご報告が。」「そうか、ではユーリ、お前も来るがいい。」「わかりました、兄上。」「もう、行ってしまわれるのですか?」ベッドの中で、羅姫が名残惜しそうにルディガーを見た。「すぐ戻る。」ルディガーはそっと羅姫の手に口付けると、男を従えて皇妃の寝室から出て行った。「やはり、疫病の原因はこの麦角菌と思われます。研究所では既にこの疫病の抗生物質が完成しております。」「そうか。国内では疫病の猛威は沈静化したが、宮廷では汚染されたユーリア麦が入ってきておる。これ以上感染を広げぬ為にはどうすればいいか・・」「汚染されたユーリア麦は、焼却処分いたしました。宮廷の穀物庫に収納されているものも、焼却処分にする予定です。」「それでよい。疫病を拡散させぬ為には感染源を絶つことだ。沈静化するにはどのくらい時間がかかる?」「あと数週間ほどです。では、わたくしはこれで。」王立研究所のリーヤはそう言ってルディガーに頭を下げると、廊下の向こうへと消えていった。「兄上、皇妃様の容態は思わしくないようですが・・」「ああ。ラヒはもう長くはもたぬ。漸く妻を娶り、子が産まれるというのに・・」そう言ったルディガーの表情は、苦痛に満ちていた。「ユーリ、暫くここに滞在してくれまいか?」「何の為に?兄上、あなたが濡れ衣を着せた鴇和一族を根絶やしにしたことは覚えておられますか?今更疫病の原因が判明したところで、彼らの名誉と命は戻りません!」ユーリが怒りを瞳に滾らせながら兄を睨みつけると、彼女は俯いた。「お前の言うとおりだ。すぐに鴇和一族の名誉は回復できぬが、出来る限りのことをしよう。」「そうですか。では、部屋に案内してください。」「わかった。」ルディガーは何か言いたそうだったが、ユーリを部屋へと案内した。「では、ゆっくり休むといい。」「お休みなさい、兄上。」部屋に入るなり、ユーリは着ていたドレスを籠の中へと入れ、浴室でシャワーを浴びながら消毒成分が強いシャンプーと石鹸で髪と身体を洗うと、爪の間に至るまで隅々と磨いた。「ユーリ様、ここに着替えを置いておきます。」「ありがとう。」部屋に入ってきた女官は、にっこりとユーリに微笑むと部屋から出て行った。清潔なシーツを頭から被って目を閉じると、次第に睡魔に襲われユーリは眠りへと落ちていった。 翌朝、皇妃の部屋から悲鳴が聞こえ、ユーリはベッドから飛び起きた。「一体何が!?」「皇妃様が、先ほどご逝去されました。」泣き腫らした目でそう告げた女官を、ユーリは信じられない顔で見た。あの状態では長くはないだろうと思っていたが、まさかこんなに早くなくなってしまうとは、予想がつかないことだった。「兄上はどうしておられる?」「陛下は、葬儀の準備を進めております。ユーリ様は暫く部屋で待機しているようにとのご命令でございます。」「そうか、わかった・・」ふと窓の外を見ると、まるで水鳥の羽のような純白の雪が、空から降っていた。にほんブログ村
2012年11月16日
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「ユーリ様、お足元にお気をつけて。」銀髪に映える青いドレスを纏ったユーリは、裾を摘みながらゆっくりと船から降りていった。「ユーリ、会いたかったぞ。」頭上で声がしてユーリが俯いた顔を上げると、そこには両手を広げて自分を歓迎しているルディガーが立っていた。「お久しぶりです、陛下。」ユーリはそう言うと膝を折り、優雅な宮廷式の礼をした。「今すぐ王宮へと参るぞ。妻が待っておるゆえ。」「はい・・」ここはおとなしくルディガーに従うしかないようだ。彼とともに馬車に乗り、王宮へと向かう道すがら、ユーリは久しぶりに見るリヒトの市街地を見た。疫病に襲われ、ゴーストタウンと化したリヒトは、以前と同じような活気を取り戻しており、路上では新鮮な果物や野菜・魚などを取り扱った市場は活気に満ちていた。 数分後、ラミレス宮殿の中へと入ったユーリは、活気に満ちた市街地とは対照的に、暗く陰惨とした空気が漂っている宮廷内の空気に気づいた。「一体、これは・・」「疫病の所為だ。国中の疫病が、すべてここに集まってきてしまったのだ。」「そんな・・」馬車から降りたユーリは、ドレスの裾を捌きながら廊下を歩くと、円柱にもたれかかりながら呻く女官達の姿を見て、ルディガーの言葉が嘘ではないことに気づいた。彼女達の顔は、赤い湿疹に覆われ、激しく掻き毟(むし)った所為で血が滲んでいた。だが湿疹は腕や首にも広がっていた。「さぁ、ここだ。」ルディガーに案内され、ユーリは彼の妃である羅姫の部屋へと向かった。「陛下、お帰りなさいませ。」「妻の容態は?」「余り変わりありません。妃殿下はご懐妊中であらせられますので、少量の薬を投与しておりますが・・」「効果はない、ということだな。」ルディガーは失望の表情を浮かべた。「ユーリ様、お部屋に出られる際はお召し物をお脱ぎになってくださいませ。」「わかった・・」ユーリが恐る恐るルディガーの妻・羅姫の寝室を開けると、その途端に肉が腐っているような凄まじい悪臭が彼女の鼻を突いた。「帰ったぞ、ラヒ・・我が妻よ・・」「ああ、あなた・・」羅姫が眠っているであろうベッドには、分厚い天蓋で覆われていて彼女の顔は見えない。だが、その声は弱々しく、容態がかなり悪いと容易に想像できる。「ユーリ、こちらへ。」ルディガーとともに天蓋の近くへと寄ったユーリは、その隙間から見た羅姫の顔を見て絶句した。 彼女の美しい顔は原型を留めておらず、大人の握り拳大ほどの湿疹に覆われていた。「一体何故、このようなことが・・」「疫病の原因は、わが国で獲れるユーリア麦だったのだ。」「ユーリア麦が?」「ああ、今年は旱魃(かんばつ)の影響もあってある菌がユーリア麦に巣食い、それを知らずに収穫した民の口に入り、瞬く間に疫病に流行したのだ。」ルディガーがそう言葉を切った時、部屋のドアがノックされた。にほんブログ村
2012年11月16日
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「ユーリ様、間もなくダブリス領海域内に入ります。」「そうか・・」エステア王国軍の捕虜になったものの、ソーラスに救出されたユーリは、ダブリス王国軍とともに故国へと帰還している最中だった。一ヶ月余りも暗くて湿った船底部に監禁されていたユーリは、顔にはキャサリンによって何度か殴られた赤紫色の痣が残り、荒縄を必死に解こうとして両手の爪には血が滲んでいた。ソーラスに救出された彼女が軍医の手当てを受け回復したのはそれから一週間後のことで、さらに歩けるようになったのはそれから三週間後のことだった。「お加減はいかがですか?」「悪くはない。ただ、あの島に残してきた家族が気になって・・」「あなた様のご家族は、無事だそうです。時期が来たら、本国へ連れてゆくと陛下がおっしゃっております。」「陛下が?」ユーリの美しい眦がつり上がった。自分達混血を、あの島に幽閉させたのは、ルディガーに他ならなかったからだ。「確か陛下は混血児をあの島に幽閉し、隔離しようとしていた筈。それなのに一体何故、わたしを本国へ?」「それは、話せば長い話となります。」ソーラスはそう言って溜息を吐くと、水平線の彼方を見ながら今までの経緯を話し始めた。 王国中が疫病に襲われ、ルディガーはその原因が妖狐と人間との混血児が病を広めている所為だとはじめは決め付けていたが、王立研究所が疫病の原因を突き止めた為、混血児の隔離政策を白紙に戻したのだという。「それで?」「あなた方に、償いをしたいと、陛下はおっしゃっております。」「償いだと?」ユーリの中で、ふつふつとルディガーへの怒りが沸いてきた。脳裏には、無実の罪を着せられて殺された鴇和一族の顔が浮かんだ。「どのような償いを兄上はなさるつもりなのだ?今更償いをしたところで、無実の罪を着せられ殺された者達は二度と帰ってこない!」「ユーリ様が憤られることはごもっともです。ですが、陛下があなたのお力を是非貸していただきたいと・・」「わたしの力?」「ええ・・陛下のお妃・・現在ご懐妊中の羅姫様の体調が思わしくないようなのです。」「そうか。」ユーリは水平線の彼方を見つめると、そこから眩いばかりの太陽が顔を覗かせた。「一度部屋に戻る。」「わかりました。」 部屋に戻ったユーリは、力なくベッドに横たわった。ルディガーは一体何を企んでいるのだろうか。それに、何故死んだ蓮華の姉・羅姫が彼の妃となっているのだろう?そんな謎がぐるぐると頭の中を回り、ユーリはゆっくりと目を閉じた。「ユーリ様、起きてください。」「ん・・」「間もなく港に着きますので、お召し替えを。」「わかった。」ベッドから起き上がったユーリは、クローゼットに入っているドレスを取り出した。「ユーリ様、失礼いたします。」ドアがノックされ、数人の侍女たちが部屋に入ってきた。「陛下が港でお出迎えになられますので、急ぎませんと?」「陛下が?」「ええ。」 一方、港ではルディガーが馬車の中から双眼鏡を構え、艦隊がくるのは今か今かと待ち構えていた。「陛下、そう気を急くことはございませんよ。」重臣の言葉を聞いたルディガーは、苛立ったように舌を鳴らした。「わたしは忙しいのだ。」「申し訳ございません・・」「わかればよいのだ。」にほんブログ村
2012年11月16日
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「ユーリ皇太子をダブリス側に奪還されただと!?それはまことか、キャサリン!?」 自国の領海域内で敵艦の攻撃を受けた上に、人質であるユーリ皇太子を奪還されたことを知り、キャサリンの父でありエステア王国皇帝は、苛立った様子で右足の踵を地面に打ち付けると、娘をにらみつけた。「敵の攻撃を許してしまったのは、ひとえにわたくしの不徳といたすところでございます、陛下。」「キャサリンよ、このまま指を咥えてそなたはユーリ皇太子が奪還されるのを見ているわけではあるまいな?」「そのようなことは致しませぬ。」「そうか。」皇帝はこめかみを人差し指と中指で押さえると、低く唸った。「陛下、まだお加減がよろしくないのでは?」「ああ。我が娘から受けた傷はとうに癒えたと思うておったが、一度傷を負うと人の身体というものは元通りにはならぬものよ。」皇帝の言葉に、キャサリンは彼の前に跪いたまま無言で頷いた。 あのとき、実の娘であるユーフィリアに撃たれた傷は完治しかけているものの、過度の精神的ストレスによる偏頭痛の発作は皇帝を悩ませていることは、宮廷に出入りする貴族の誰もが知っていた。「さがれ。長旅の疲れもあることであろう、今宵は部屋で休むことを許す。」「では、失礼致します。」キャサリンはさっと立ち上がると、マントを翻して謁見の間から出て行った。―あれは、キャサリン様・・―いつお戻りに?―何でも、ユーリ皇太子奪還に失敗したとか・・自分の姿を見るなり、宮廷雀たちが扇の陰で突然ひそひそと悪意ある囁きを交わし始めた。「少し注意していきましょうか?」「止せ。下らぬ女どもの話など、放っておくがいい。」「ですが・・」幼少の頃より刺繍やピアノといった貴婦人の嗜みより、剣術や馬術といった兵士の嗜みの方が性に合ったキャサリンのことを、“キャサリン様が男ならばよかった”と幾度となく陰口を叩かれた経験があったキャサリンにとって、今更宮廷雀たちの陰口などに怯えるほど初心ではなかった。だがキャサリンに心酔し、骨の髄まで彼女に忠実であるアレクシスにとって、彼らの噂話を聞き流せるだけの余裕はないらしく、腰の長剣を抜こうとした彼の手を、キャサリンは制した。「アレクシス、お前は真面目すぎるのが玉に瑕(きず)だ。何事も斜に構えて見てみれば、この世界も悪くはないぞ?」「は、はぁ・・」アレクシスはそう言うと、よくわからないというように首を傾げ、キャサリンの後をついていった。「陛下、お薬の時間でございます。」「うむ・・」皆が寝静まったその日の真夜中、皇帝の寝室に薬湯を持った皇妃・アウロラがすべる様に入ってきた。「アウロラ、済まぬ・・」「何をおっしゃいます、陛下。」蒼い瞳に慈愛の光を宿らせながら、アウロラはそう言って夫に優しく微笑んだ。末の娘・ユーフィリアを亡くした後、あれほど傲慢だった彼はまるで人が変わったかのようにおとなしくなり、それと比例して覇気も失っていった。「エウリケ、居るの?」「はい、ただいま。」いつも自分の傍に控えている女官の名をアウロラが呼ぶと、彼女はすっと主の前に出た。「この前行った場所で、また薬湯を摘んでおいで。誰にも見られぬように。」「はい、皇妃様。」美しい女官は主に一礼すると、闇の中へと消えていった。にほんブログ村
2012年11月16日
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エスティア王国の戦艦・マリスは、エスティア王国領海へと入った。「あと一時間後で着きます。」「そうか。領海に入った以上、他国軍からの攻撃はないと思うが、油断するなよ。」「ハッ!」兵士は両足の踵を鳴らしてキャサリンに敬礼すると、司令官室から出て行った。「これからどうなさいますか、キャサリン様?」「どうするも何も、それは到着するときに考えて・・」キャサリンがそう言ってアレクシスのほうへと振り向いたとき、船体が大きく揺れた。「何だ!?」「キャサリン様、ダブリス艦から攻撃を受けました!」「総員配置につけ!」「一体どういうことでしょう。今になってダブリス艦が攻撃をするとは・・」「敵の狙いは知れたこと。ユーリを奪還しようとしているのだろうよ。」キャサリンはユーリへの私怨に拘り過ぎてすっかり油断してしまったことに臍(ほぞ)を噛んだ。 一方ユーリは、激しく船体が揺れたことに気づいて、ゆっくりと目を開けた。「くそ、この距離ではダブリス艦に弾が届かないぞ!」「一体どうすれば・・うわぁぁ~!」すぐ上の甲板では、ダブリス艦と対峙しているエスティア軍が砲撃を受けて次々と倒れていった。「敵に怯むな!」「ですがキャサリン様、敵勢力の艦隊のほうが我が艦よりも機能性に優れております!」「おのれ、ダブリスめ!いつの間に改良を加えたのだ!」キャサリンの瞳が、鋭い光を放った。その間にダブリス兵がマリスへと乗り移り、刃を煌かせながら彼女に迫ってきた。「おのれぇ!」怒りの雄たけびを上げたキャサリンは、腰に帯びている長剣を抜くと、次々と敵兵を斬り倒していった。「キャサリン様に続け!」「おお~!」甲板でエスティア・ダブリス両国軍が激しくぶつかり合い、血の雨を降らせた。「ユーリ様、ユーリ様、しっかりなさってください!」突然何者かに揺り起こされ、ユーリが再び目を開けると、そこにはかつて自分に仕えていたソーラスが自分の身体を椅子に縛(いまし)めている荒縄を切り裂いたところだった。「さぁ、ここから出ましょう!」「だが、どうしてここへ?」「詳しい話はあとです、さぁ!」ソーラスとともに、ユーリは甲板へと上がった。すると、そこから怒りの形相を浮かべたキャサリンが長剣を振り回しながらユーリの元へと走ってくるところだった。「おのれぇ、逃がすものか!」ユーリは寸でのところでキャサリンの手から逃れ、ダブリス艦へと乗り込んだ。「全員戻れ!ユーリ様は無事奪還した!」エスティア軍と斬りあっていたダブリス軍たちは、次々と撤退していった。瞬く間にダブリス艦隊はエスティア領海内から離れ、一路母国へと帰還していった。「この借りは必ず倍返しにしてやる・・」キャサリンは怒りにたぎった瞳で、水平線の彼方へと消えてゆくダブリス艦隊を睨みつけた。にほんブログ村
2012年11月16日
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「キャサリン様、何をしておいでなのですか?」「誰かと思ったらお前か、アレクシス。」そう言ってキャサリンが振り向くと、そこには自分の副官であり右腕的存在のアレクシスが立っていた。エステアより遥か西にあるシャヒーン出身の元奴隷で、競りに掛けられようとしていたところをキャサリンに救われ、それ以来彼女に忠誠を誓っていた。「また、ユーフィリア様のことを思い出されていたのですね?」「フッ、お前には全てお見通しだな・・」キャサリンの澄んだブルーの瞳が、今は亡き最愛の妹を想い、微かに曇った。 年の離れた姉妹であったため、キャサリンはユーフィリアを溺愛した。キャサリンは病弱なユーフィリアのために新鮮な果物を与え、彼女が熱を出せばそれが下がるまで寝る間を惜しんで看病した。それ故に、キャサリンはユーフィリアの訃報を知ったとき、気が狂いそうになった。絶望に包まれたとき、彼女を救ってくれたのはアレクシスだった。「アレクシス、お前はユーリをどう思う?」「彼女は確かに、ユーフィリア様を殺害されました。しかし、その前後の記憶が曖昧であることが気になります。」「何が言いたい?」「つまり・・あの者の中に巣食う何かが、あの者の意思を操ったのではないかと。」「それは、お前の故郷に伝わる“悪魔の手”というものか?」「はい。」アレクシスは主の言葉に静かに頷くと、漆黒の髪を払った。「あのユーリは、妖狐なのでしょう?」「ああ。」「昔我が部族に伝わる話だと、妖狐の中には邪悪な種が潜んでおり、それがいつ花開き宿主を毒すのかがわからぬというものがあります。」「そうか・・ではあの者は、その邪悪な種とやらに侵されておるのだな?それなら、辻褄が合う・・」キャサリンは右手に携えていた双眼鏡を眼前に構えると、夜空を輝かせる北極星を見つめた。古来より旅人の道しるべとされてきた北極星。キャサリンにとっての北極星は、ユーフィリアであった。しかしその彼女が亡くなった今、それは隣に立つアレクシスへと変わった。(ユーフィリア、必ずやお前の死の真相を暴いてやる・・)「戻りましょう。潮風がお体に障ります。」「ああ、わかった。」遥か上空に輝く北極星を眺めながら、キャサリンはマントを翻してアレクシスとともに船内へと戻っていった。「キャサリン様、本国より電報が届いております。」「そうか。」自室に戻ったキャサリンは、本国にいる父からの電報を見るなり、美しいその顔を怒りで険しく歪ませた。「至急、本国に帰還せよだと・・」父の真意がわからぬまま、キャサリンは暫し怒りに震えた後、全乗員を甲板へと集めた。「先ほど本国におられる陛下より、至急本国へ帰還せよとの命令が下った!これより本艦は、エステアに帰還する!みな、配置につけ!」キャサリンの命令を受けた乗員たちが、慌しく出発の用意を始める足音が、船底に幽閉されていたユーリにもわかった。「あの、一体何が・・」「本国への帰還命令が出た。そなたも連れてゆく。」アレクシスはそう言って僅かな憐憫(れんびん)の光を宿したコバルトブルーの瞳でユーリを見ると、ドアを閉めた。(そんな・・一体どうすれば・・)ユーリは、一人暗闇で孤独と恐怖の中、涙を流した。にほんブログ村
2012年11月16日
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(父様!?)自分を睨みつけている男は、亡き父・香と良く似ていた。「お館様、曲者を捕らえましてございます!」男達の一人がそういうと羅姫(らひ)の腕を掴んだ。「わたしに気安く触らないで!」羅姫は鋭い声を上げると、男の横っ面を張った。「こやつ、女の癖に生意気な!」「やめよ!」男の仲間がそう言って羅姫に拳を振り上げようとしたとき、男が猛禽を思わせるかのような目で男達を睨んだ。「女子に手を上げるなど、言語道断!そなたら、一族の名を汚す気か!?」「も、申し訳ありませぬ、お館様!」「助けてくださってありがとうございます。」男によって窮地を救われた羅姫は、そう言って彼に頭を下げた。「そなた、面妖な格好をしておるが、その髪と瞳を見ると、我が一族の者だな。どのような経緯(いきさつ)でここに参ったのか、中で話を聞こう。」「はい・・」「自己紹介が遅れたな、わしは鴇和颯英(ときわそうえい)と申す。そなたの名は?」「羅姫と申します。」「良い名だ。そなたの父君と母君は生成りの絹のように穢れなく美しい娘に育つよう願ったのであろうな。」香に良く似た颯英に微笑まれ、羅姫は泣きそうになった。「どうした?」「いえ・・」「そなた、辛い目に遭うてきたのであろう。」「両親を最近亡くしました・・」「わしも幼き頃に父と母を亡くした。彼らの記憶はもうおぼろげであるが、そなたはさぞや辛かろうな。」颯英はそっと羅姫の肩を励ますかのように叩いた。「・・そうか。そういうことがあったのだな。」「はい。あの、元の世界に戻る方法がわかりませんので、暫くこちらに置いていただけないでしょうか?」「構わぬ。」「お館様、こんな得体の知れぬ女を置くなど・・我らは反対ですぞ!」颯英の言葉に、彼の近くに控えていた男が声を上げた。「この女、我々と同じ鬼族ですが、人間と通じておるかもしれませぬ!」「そうじゃ、混血の裏切り者やもしれぬ!」周りの鬼族たちが喧々囂々(けんけんごうごう)と口々に叫ぶ中、颯英は持っていた扇を脇息に打ち付けた。「鎮まりゃ!羅姫はわしの客人ぞ!もしさきほどのような非礼を彼女にしてみよ、その場で手打ちにしてくれる!」「は、はは・・」颯英の鶴の一声で、羅姫は暫く鴇和邸に滞在することになった。「この部屋を使うがよい。」颯英に案内された部屋は、美しい調度品に囲まれ、板張りの床は鏡代わりに使えるほどに磨き上げられている。「いいんですか、こんな部屋を使っても?」「そこは今は亡き我が妻が使っていた部屋での。」「そうなんですか・・」「我が同族なのだから、遠慮せずともよい。」「ありがとう、ございます・・」羅姫がそう言って颯英に頭を下げると、彼は花が綻ぶかのような笑みを浮かべた。 一方、ブロンドの髪を海風になびかせながら、キャサリン皇女は水平線の彼方を見つめていた。にほんブログ村
2012年11月16日
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「東宮殿で火災が発生いたしました。」「それがどうかしたのか?あの東宮が自作自演をしたものであろう?」「何をおっしゃっておられるのですか、門主様!内裏上空に突如現れたあの黒雲・・あれは陰の気の塊です!若輩者であるわたくしですらわかるというのに、何故門主様はそのようなことを!?」「ふふ、東宮様を今までそそのかしてきた甲斐があったわ!我が儘な皇子の子守にももう飽きたところだったのじゃ!蜜匡が東宮殿の女房を殺し、あのように素晴らしい黒雲を作ってくれて感謝しておる!」そう言った諒闇の顔は、雷に仄かに照らされて狂気に満ち満ちていた。「門主様、あなたというお方は・・」「稜雲、そなたは甘いのだ。この世を渡ってゆくには、穢れにまみれる必要があるのだ!それがわからぬのか!?」「わかりませぬ、あなたのような狂人の言葉など、到底理解したくない!」「黙れ!」諒闇が刃を閃かせると、稜雲は懐剣で躊躇(ためら)いなく諒闇の頚動脈を切り裂いた。「詰めが甘かったようですね。ではわたくしは先を急ぎますので、失礼。」馬に飛び乗った稜雲は、宮中へと急いだ。「何をしておる、早く火を消さぬか!」「そうは申しましても、炎の勢いが強くて近寄れませぬ!」激しい炎に包まれた東宮殿は、原型を留めぬほどに焼け落ちてしまった。「有爾様、どちらにおられますか!?」「わたしはここだ、惟光(これみつ)!」瓦礫を掻き分けながら主の名を呼んだ惟光の前に、顔を黒い煤で汚しながら有爾が現れた。「ここはもう危のうございます。早く避難を・・」「待て、俺から逃げる気か、有爾(まさちか)?」背筋から這い上がってくるような強烈な悪寒に襲われ、有爾が恐る恐る背後を振り返ると、そこには陰の気を纏った雅爾(まさちか)の姿があった。「紅玉を渡せ!」「何を言っているんだ、雅爾?」「とぼけるな、お前が持っているのはわかっているんだ!」獣のように唸りながら雅爾は太刀を振り回し、じりじりと有爾との距離を詰めていった。「有爾様、危ない!」惟光が雅爾の刃を胸に受け、地面に倒れていった。「惟光、しっかりしろ!」地面に倒れた惟光を介抱する有爾の背に、雅爾が太刀を振り下ろそうとした―その時、激しい音の洪水が響いたかと思うと、上空に渦巻いていた黒雲が瞬く間に掻き消えた。「一体、何が・・」有爾が黒く煤けた東宮殿へと向かうと、そこには息絶えた柚聖(ゆずまさ)が地面に倒れていた。「柚聖、しっかりしろ!」有爾が柚聖に駆け寄ると、彼は何も映さぬ虚ろな蒼い瞳で空を睨んでいた。その手には、血のような鮮やかな紅玉が握られていた。「そんな・・嘘だ・・」突然の親友の死に打ちのめされながら、有爾は惟光に引き離されるまで柚聖の遺体に取り縋って泣いた。その後、次の帝になった有爾は善政を敷き、民から慕われる帝となった。彼は晩年、亡き親友であり兄である柚聖の魂の平安を祈る為の寺を建てた。多忙な日々を送る中でも、彼はその寺を毎日詣でていたという。~蒼之章・完~
2012年11月15日
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柚聖(ゆずまさ)は、東宮殿で起きた殺人事件の犯人を知り、愕然としていた。それは、彼が良く知り、もっとも信頼している人物だったからだ。「ねぇ、柚聖ちゃんはまだ帰ってきてないの?」「暫くは無理でしょう。場合によっては、極刑に処されることもあるだろうし・・」「そんな!」「千里、絵梨花、またそんなところで油を売っているのか?」梓之介が呆れたような顔をして式神たちを睨みつけると、彼女達は主の元へと駆け寄ってきた。「殿、この事件何かがおかしいですわ!」「そうですわ、あの柚聖ちゃんが殺人だなんて・・しかも宮中でそんなことをするだなんて、陰陽師としてしない子ですわ!」帝のおわす宮中を、血で穢し陰の気を招き寄せるなど、陰陽師以前に人間としてはならぬことを、自分の甥がする筈がないと梓之介は柚聖のことを信じていた。「では、お前達は誰がやったと思うのだ?」「それは・・」二人は顔を見合わせると、ある人物の名を口にした。「蜜匡様、三条のお方からまた文が届いております。」「そこらへんに置いておけ。後で読む。」「はい・・」安倍家の離れでは、数日前からそこに籠もって何かをしている密匡に、御簾越しに女房が話しかけてきた。彼女の気配がなくなった途端、蜜匡は人型に刳(く)り貫いた蝋人形を護摩壇の中へと放り込んだ。「不幸になってしまえばよいのだ・・皆、不幸になってしまえ・・」蜜匡は瘧(おこり)にでも罹(かか)ったかのように小刻みに身を震わせると、祭文を唱え始めた。「何だか、嫌な空気ですねぇ・・」「ああ。」有爾(まさちか)は内裏の上空に突如現れた黒雲を見上げながら、すぐさまそれが穢れを孕んだ集合体であることに気づいた。「あれは危険だ!惟光、出来るだけ内裏に居るものをここから避難させろ!」「え、ですが・・」「早くしろ、死にたいのか!?」「はい、ただいま・・」惟光が慌てて部屋から出て行くのを見送った有爾は、御簾を下ろした後結界を張ろうとした。しかし、その前に黒雲の中から幾筋もの稲妻が走り、それらは東宮殿を直撃した。「火事だ~、東宮殿が火事だぁ~!」「水を掛けろ!火が後宮に回らぬうちに!」炎に包まれた東宮殿の中は女達の悲鳴と男達の怒号に満ち、混沌の坩堝(るつぼ)と化した。「僧正様、すぐに参内してください、東宮殿が火事です!」「何だと!?」天海寺で東宮殿の火災を知った稜雲は、雷雨の中馬に乗り内裏へと向かおうとしていた。だが彼が馬の鐙(あぶみ)に足を掛けようとしたとき、諒闇が立ちはだかった。「何処へ行くのだ、稜雲?」「門主様・・」
2012年11月15日
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(一体何だ!?)突然東宮殿から聞こえた悲鳴に、柚聖(ゆずまさ)はすぐさま東宮殿へと向かった。そこには、一人の女房が頭から血を流して死んでいた。柚聖があたりを見回すと、周囲に怪しい人物の人影はなかった。女房の遺体の前で合掌した柚聖は、呪を唱えながら右手を彼女の前に翳(かざ)した。すると、まだ生きている彼女に何者かが襲い掛かり、殺した映像が柚聖の脳裏に浮かんできた。もっとよく女房を殺した犯人の顔をみようと柚聖が近づくと、突然彼の背後で悲鳴が聞こえた。「だれぞ居るか!?宮中で殺人じゃ!」「何と!」「その下手人を捕らえよ!」あっという間に柚聖は衛士(えじ)に取り囲まれ、縄で全身を拘束されて東宮殿から引っ立てられた。「何、柚聖が拘束された!?」「ええ、東宮殿で女房を殺した嫌疑で、先ほど検非違使に連行されました。」「なんということだ、こんな大事な時期に・・」陰陽頭はそう言って唇を噛み締めると、拳で床を叩いた。「おそらくこれは何者かの陰謀でしょう。東宮殿で事件が起きたとなれば、恐らく・・」「みなまで言うな。柚聖の潔白を証明しようではないか。」「ええ。」「東宮殿の動きを暫く探ろう。あちらには最近、不穏な動きがあるからな。」 同じ頃、雅爾(まさちか)は柚聖が検非違使に拘束されたことを知り、嬉しさの余り踊りだしそうだった。「東宮様、どうなさいましたか?」「これで目障りなやつが一人、消えた。あとはお前達の力が頼りだ。」「はい、東宮様。」雅爾に笑顔を浮かべる諒闇とは対照的に、稜雲は何処か沈んだ顔をしていた。「一体どうなってるのよ?東宮殿で殺人事件が起きるなんて。」「まさか、柚聖ちゃんが殺人を犯すなんてねぇ・・」「あるわけないじゃないの、そんなこと!」柚聖のことで、式神達は仕事の手を止めながら今回の事件について話していた。「まさか、東宮様が黒幕っていうことはないわよね?」「そうかしら?」「だってあの子、昔から柚聖ちゃんのことを目の敵にしていたじゃないの!怪しいわよ!」「お前達、仕事よりも噂話をするのが好きなのか!?」梓之介が怒りを身に纏いながら部屋にやってくると、式神達はそそくさと仕事を再開した。「全く、わたしの目が届かないところで仕事の手を抜こうとする・・式神なのに・・」個性が強すぎる式神に、彼は溜息を吐いて自分の部屋へと戻っていった。(一体、どういうことなんだろう?誰が彼女を殺したんだろう?)検非違使に身柄を拘束された柚聖は、牢屋の窓から見える月を眺めながら、今回の事件について冷静に推理してみた。事件が起きたのは東宮殿で、殺されたのは東宮付きの女房。そして脳裏に浮かんだ映像で、彼女に襲い掛かった謎の人影。一体“彼”は誰なのかー柚聖は呪を唱えると、現場を離れる際に女房が握り締めていた櫛に残る彼女の残留思念を探った。すると今度は、彼女を襲った謎の人影の正体がわかった。「まさか、そんな・・」
2012年11月15日
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「ひぃぃ~!」「どうか、有爾(まさちか)様、お許しを!」それまで笑い合っていた貴族達は恐怖に顔をひきつらせながら、有爾に命乞いをした。「今日のところは許してやろう。だが、もし母上を侮辱するようなことをすれば次はないと思え!」有爾は太刀を一人の貴族の前に振り翳(かざ)すと、邸から出て行った。「有爾様、いくらなんでもあれはやり過ぎでしょう?」「よいのだ。あれくらい脅せば、奴らも下らぬ噂を流さぬだろうよ。」そう言って山荘を後にする有爾の表情は、晴々としていた。「ほう、そんなことがあったのですか。」宇治での出来事から数日後、天海寺で件の貴族達の話を聞いた諒闇は、そう言って写経の手を止めた。「有爾様は、きっと気が触れられたのに違いありません!」「そうですとも!普段穏やかなあのお方が、まるで鬼のような形相を浮かべて・・思い出すだけでも、身震いがいたします!」元はといえば自分達の噂が有爾の耳に入り、彼の逆鱗に触れた結果だというのに、それを棚に上げて彼らは諒闇に、“有爾様は気が触れている”と必死に訴えた。「確か有爾様は次の帝にふさわしいと評されるお方。そのようなお方がいきなりあなた方に汚水を浴びせ、太刀を振り回すなどという暴挙をする筈がございませぬ。」「おぬしは話がわからぬお方じゃな!」貴族の一人が、そう言って苛立ったかのように扇子を膝に打ちつけた。「有爾様には鬼が憑いておるのじゃ!そうでないと、あんな振る舞いをなさるはずがない!」「そうじゃ、そうじゃ!」「諒闇よ、今すぐ有爾様に取り憑いておる鬼を調伏せよ!」「承りました。して、金子はいかほどに?」老獪な僧侶の目がまるで獲物を狙っているかのような猛禽を思わせる鋭い光で貴族達を射抜いた。「金子は前払いじゃ!必ずや、調伏するのだぞ!」「よいな、わかったな!」「頼みの綱はそなたしかおらぬ!」好き勝手に貴族達は口々にそう言うと、こんな場所に一秒足りとも居たくないとばかりに、天海寺から足音荒く去っていった。「全く、口ばかりは達者じゃな・・宮廷の利権のおこぼれを待つ下劣な犬どもめが。」諒闇は誰にも聞こえぬほどの低い声でそう毒づくと、途中で止めていた写経を再び始めた。「僧正様、文が届いております。」「どなたから?」「それは申し上げないでくれと、従者の方が。」「そうか。もう下がってよいぞ。」従者を通して文を出す相手は、高貴な身分の姫君だろうかーそう思いながら稜雲が稚児の手から文を受け取ると、そこには白い和紙に朱色の墨で、“呪”と書かれていた。それを不気味に思いながらも、稜雲は文を読んだ。そこには、いつ有爾の呪詛を行うのかという雅爾からの催促の文が書かれていた。余りにも一方的な文に、稜雲はカチンと来たが、東宮に対して礼を欠いては天海寺の名に傷がつくと思い、返事を書くために硯で墨をすりはじめた。「あ~、やっと終わった。」溜まっていた仕事を漸く片付けた柚聖(ゆずまさ)は、凝り固まった筋肉をほぐしながら退勤しようとしていた。 その時、東宮殿から女の悲鳴が聞こえた。
2012年11月15日
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「母上、お加減はいかがですか?」「有爾(まさちか)、きてくれたのか。」有爾は、養母である梅壷女御・儷子(れいこ)の療養先である宇治の別荘へとやって来た。彼女は数年前から病を患い、病臥に伏せていた。原因不明の病で、薬師が煎じた何種類もの薬湯を飲んだが、全く効果は見られなかった。「母上、一度陰陽師に診て貰ったほうがよいのでは?」「そうか?病に臥せた今、妾の地位は地に堕ちたも同然。今更妾を呪う輩が何処におる?」儷子は弱々しく有爾に微笑んだ後、激しく咳き込んだ。「母上、しっかりしてください!」「大丈夫だ、有爾。そなたが次の帝となるその日まで、妾は死んだりはせぬ。そなたが、この国を治めるのじゃ。」彼女はそっと、有爾の手を握った。「そなたが治めるこの国の姿を、妾に見せておくれ。」「わかりました、母上。」有爾はそう言うと、養母の手を握った。「有爾様、お耳に入れたいことが・・」「何だ、惟光(これみつ)?」物心ついた頃から自分に仕えている従者が珍しく自分を呼び止めたので、有爾は石段から降りる途中で足を止め、彼を見た。「実は、梅壷女御様の病ですが・・何者かが呪詛を仕掛けたという噂が。」「何だと!?」有爾の紅の瞳が大きく見開かれるのを、惟光は黙って見ていた。「詳しく聞かせよ。」「噂の発端は、梨壷女御様に仕えていらっしゃる女房の一人がおかしなことを言い出したとか。何でも、前の梅壷女御様が病にお倒れになったのは、自ら犯した罪の業が返ってきた所為だと・・」「下らぬ!母上はかつておのれが犯した罪を悔い改めておられる!誰だ、その噂を流した者は!?」「それは・・」「のう惟光、怒らぬから正直に申してみよ。」「では・・」惟光が噂を流した者の名を有爾に話すと、彼の笑顔がみるみる強張っていった。「そうか。では、その者のところにゆくぞ!」「それはいけません、有爾様!」「そなた、わたしに逆らうのか?」今まで何度か、有爾が本気で怒った時に出す低音を聞き、惟光は主に従うしかなかった。「案内いたせ、その者の所へ。」「は、はい・・」 同じ頃、ある貴族の山荘では、その主と友人達が酒を飲みながら談笑していた。彼らの話題は、いつしか宮中の噂話となっていた。「聞いておられるか?先の梅壷女御は、この地で病に臥しているそうな。」「いい気味じゃ。あの女は神をも恐れぬことをしすぎたからのう。」「呪詛を仕掛けた者に礼を言いたいくらいじゃ。」貴族達がそういいながら扇の陰で笑い合っていると、突然彼らの顔に冷水が浴びせられた。「そなたらか、我が母上を侮辱したのは!」「ま、有爾様・・」汚水を顔に浴び、悪臭を漂わせながら、貴族達は唖然とした顔をして有爾を見た。「そこへなおれ!貴様ら、叩き斬ってくれる!」有爾は腰の太刀の鞘に手を伸ばすと、白銀の刃を彼らに向けた。
2012年11月15日
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「ある人物の呪詛を依頼したのですか?」「ええ。東宮様はお相手の名をわたくしにだけ伝えました。」「それは一体、誰なのです?」「それは・・申し訳ありませんが、言えません。」「そうですか・・」稜雲が呪詛するよう雅爾に依頼された人物に、柚聖(ゆずまさ)は心当たりがあったので、それ以上彼を問い詰めるようなことはしなかった。「稜雲様は、確か天海寺の方でしたよね?あそこの門主様とはお知り合いなのですか?」「門主様・・諒闇様のことで、何かご存知なのですか?」「いえ・・最近妙な噂を宮中で聞いてしまって・・」「噂?」稜雲の美しい眦が微かにつり上がった。「お気をお悪くされるだろうと思い、あなた様には話さないようにと上から言われましたが・・噂によると、諒闇様は東宮様を抱きこみ、あることないこと彼に吹き込んでいらっしゃると・・」柚聖がそう言って稜雲を見ると、彼は突然大声をあげて笑った。「どうなさったのですか?」「いえ・・余りにも聞き飽きたものだと思いまして。寺の世界は狭いものでして、神仏に祈る以外は皆他人の噂話に興じている僧侶も少なくありません。まぁ、その辺は宮中の女房達と同じようなものですよ。」「は、はぁ・・」第一印象では妙に近寄りがたいと思っていた柚聖だったが、話してみれば稜雲は気さくで面白い男だということに気づいた。「まぁ、門主様・・あの方は野心家なのですよ。それは部下であるわたしも否定は致しません。わざわざお呼び立てして申し訳ありませんでした。」「いえいえ、こちらこそ。」稜雲は柚聖ににっこりと微笑むと、部屋から出て行った。「おい、天海寺の稜雲僧正と話したんだって?」陰陽寮に戻るなり、柚聖は同僚数人に突然取り囲まれ、稜雲に対して根掘り葉掘り色々と質問された。「一体みんな、どうしたの?」「いやぁ、稜雲様なんだけどさあ、あの爺さんのこれだって噂があるんだよねぇ。」そう言って同僚の一人が小指を立てて、柚聖を見た。「へぇ、そうなんだ。」彼の言葉に柚聖は驚かなかった。女犯が禁じられている僧侶や呪術師の世界では、衆道(男色)は当たり前のこと、という意識を柚聖は捉えていた。「けれど少しわからないことがあるんだよなぁ、僧正様は門主様よりも法力が高いのに、どうして僧正の地位に甘んじているのか・・」「それは本人にしかわからないんじゃない?」柚聖はそう言うと、やりかけの仕事に戻った。 一方、宮中から戻った稜雲が自分の局に戻ると、そこには諒闇が居た。「遅かったな。」「少し用がありまして・・」「貴様、東宮様の依頼をまさか断る訳はないであろうなぁ?」「さぁ、どうでしょうか?」「まぁ、お主のことだから断るわけにはいくまい。必ず東宮様のお役に立つのだぞ、わかったな。」「はい・・」「わかればよいのだ。」諒闇は笑うと、稜雲の肩を叩いた。「東宮様のお役に立て、か・・見返しに金銀財宝をこちらにくれてやるつもりはないのだろう、生臭坊主めが。」そう呟いた稜雲の横顔は、何かを思いつめているような様子であった。
2012年11月15日
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「ほう・・綺麗な瞳をしておるな。」「よく言われます・・」稜雲(りょううん)は慎重に言葉を選びながら、雅爾を見た。「そうか。それでは稜雲とやら、お前に頼みがある。近う寄れ。」「はい・・」さっと立ち上がった稜雲は、雅爾の近くに座った。「頼みとは、何でしょうか?」「お前に、ある人物の呪詛を任せたいのだ。」「ある人物とは?」「耳を貸せ。」稜雲が雅爾に近づくと、彼は呪詛したい人物の名を稜雲の耳元で囁いた。「それは・・」「俺は本気だ。やるか、やらないのか?」「暫く時間をください。」「そうか、良い返事を待っておるぞ。」雅爾はそう言って笑うと、稜雲の肩を叩いた。「東宮様、いかがですか?」「あいつは使えるな。諒闇(りょうあん)、あやつを監視しろ。」「御意。」諒闇は雅爾に頭を下げると、その場から辞した。「お帰りなさいませ、門主様。今日も宮中に?」「ああ。全く、東宮様には困ったものよ。あの傍若無人な振る舞いや自己中心的な性格は、亡き母君にそっくりだ。」諒闇が吐き捨てるような口調でそう言うと、彼の部下は黙ってそれを聞いていた。迂闊(うかつ)に返事をしては、諒闇が真意を捻じ曲げて雅爾に伝えるからだ。一見人の良さそうな坊主として振舞っているものの、本性は老獪で強かな老人だった。同じ寺の中にあっても、諒闇は自分以外の人間を信用していない。それに僧侶でありながら、神仏を信じていない。だから躊躇いなく悪事に手を染めるのだ。「稜雲様は、どちらに?」「あやつはまだ宮中だ。何でも、陰陽寮に用事があるとか。」「陰陽寮には、確かあの鬼姫の血をひいた陰陽師が居るとか。髪は金色で、瞳は蒼をしているとか。」「ほう・・是非一度会ってみたいものだな。」諒闇の目が、きらりと光った。「柚聖(ゆずまさ)、柚聖はおるか!?」「はい、ここにおりますが。」書物の整理をしていた柚聖がそう言って上司を見ると、彼は何処か慌てた様子だった。「今すぐわたしとともに来るがよい。」「何でしょう?」「いいから、来るがよい!」有無を言わさず、彼は柚聖の手を掴んだ。「稜雲様、ただいま戻りましてございます。こちらが・・」「良い、ここからはわたくしとその者だけで話したいことがある。」「わかりました。」柚聖が顔を上げると、そこにはあの池で会った有髪の僧侶が座っていた。「お久しぶりです。」「あなたが陰陽寮に居ると聞き、失礼でありながらこうして訪ねました。お忙しい中、申し訳ありません。」「いいえ。ご用件は何でしょうか?」「ええ、実は・・」稜雲は紫紺の瞳を曇らせながら、雅爾にある依頼をされたことを柚聖に話した。
2012年11月15日
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有髪の僧・稜雲と会った柚聖(ゆずまさ)が彼を邸の正門前で見送った後に出仕した彼は、雅爾(まさちか)と廊下で出くわしてしまった。「おはようございます、雅爾様。」 いくら気に入らない相手であっても、東宮である雅爾には礼を尽くさなければならなかったので、柚聖は脇に寄るとそう言って彼に頭を下げた。だが彼は柚聖をちらりと見ただけで、さっさと廊下を歩いていってしまった。(相変わらず生意気な奴だ。)年はそう自分とは変わらないのに、東宮だということで肩で風を切り、その権力を行使している雅爾のことを柚聖をはじめ陰陽生達は快く思っていなかった。 それとは対照的に、どのような身分にも限らず分け隔てなく人と接する有爾(まさちか)に対する評価は好意的なものが多かった。「もしどちらかが帝になるのなら、有爾様がいいな。」「俺もそう思うよ。雅爾様は東宮様だけど・・ねぇ?」「ああ、そうだよな。」陰陽生達は今日も仕事をしながら、次期帝の座には誰がなるのかを話し合っていた。 陰陽寮は帝の寝所である清涼殿から近い場所に建てられており、政治的な事柄を決めるときには必ず陰陽師の力が重要不可欠であるし、太政大臣や摂関といった要人達も陰陽師に助言を求めたり、政敵の呪詛を依頼したりと、陰陽師と政治とは切っても切れぬ縁がある。なので彼らは宮中で今何が起きているのか、常に知る必要があった。「でもさぁ、藤壺女御様が帝の御子をご懐妊なさっているから、もしその御子が男なら、次の帝ってことになるよなぁ?」「確かに・・でも、順繰りにいけば雅爾様か、有爾様だろ?」「俺はやっぱり有爾様がいいなぁ。雅爾様が帝になったりしたら、この国は滅びてしまうさ。」「なんていったって、あの總子様の血をひいていらっしゃるし・・」雅爾の母親は、その昔弘徽殿女御として宮中で権勢を振るっていた“烈婦”と呼ばれた總子(さとこ)であり、気性が激しい彼女によって何人もの恋敵が殺されたという噂が彼女亡き後も絶えないほどである。 そんな“烈婦”の血をひいている雅爾が帝となってしまったら、気に入らぬ重臣達やその一族を粛清し、根絶やしにするのではないかと、彼らは懸念していた。帝がまだご健在である現在でも、気に入らぬ家人の目を潰したり、自分の手を噛んだ犬を生きたまま焼き殺したりと、雅爾の苛烈ぶりは宮中だけでなく、市井の者達にも伝わっている。―“烈婦”の血を受け継いでおられる雅爾様よりも、有爾様の方が帝に相応しい―宮中では概ね、有爾に対する期待が高まりつつあった。 それはひとえに彼が品行方正で、細やかな心遣いができ、笙や琵琶を奏で、歌にも精通している、“光源氏”のような少年だからであった。それに比べ、楽や歌も下手で、雅どころか粗暴さが目立つ雅爾の目に余る行動を知った帝は、近く彼を見限ろうとするかもしれないとの噂が最近立っていた。そんな噂を聞いて面白くないのが、当の本人である。「何だよ、みんなしてあいつばっかり褒めて・・どうして僕は褒められないんだ!」雅爾は悔しそうに唇を歪め、脇息を叩くと、衣擦れの音を立てながら1人の僧が彼の隣に座った。「お気をお静めなされませ、東宮様。」「諒闇(りょうあん)、お前は僕のことをどう思っているの?」雅爾がそう僧に問うと、彼は雅爾に笑顔を浮かべた。「あなた様ほど、次の帝に相応しい人物はおりません。」諒闇と呼ばれた僧は、老獪(ろうかい)な笑みを浮かべながら雅爾を励ました。 彼は亡き總子の菩提を弔っている天海寺の阿闍梨(あじゃり)であり、宮中では幅を利かせていた。というのも、彼は密教を通じて政敵を呪殺することで悪名高い僧であった。雅爾はそんな諒闇に心酔しており、諒闇は彼の相談相手として東宮殿へと顔を出していた。「諒闇、お前は有爾をどう思う?」「そうでございますねえ、有爾様は今を煌く光の君でございますが、雅爾様の足元にも及びませんでしょう。」「そうか、僕はあいつより偉いんだよな。」 人をおだて、己の地位を高めることに邁進している諒闇にとって、嘘を吐くのは呼吸をするのと同じくらい簡単なことであった。「お前の愛弟子の稜雲とやらを、ここに呼んで来い。」「かしこまりました。」傍に控えていた弟子に稜雲宛の文を渡し、諒闇は雅爾に向き直り彼に笑みを浮かべた。(愚かな皇子よ・・) 一方、天海寺の本堂では、稜雲がひたすら般若心経を唱え、御仏に世の平安を願っていた。「僧正、阿闍梨様から文が届いております。」「どうせまた出仕しろというものなのだろう。断っておけ。」「しかし・・東宮様が・・」東宮様が来いというのならば、流石の稜雲も断りきれず、彼は出仕した。「東宮様、こちらがわたしの愛弟子・稜雲と申します。」「お初にお目にかかりまする、東宮様。稜雲でございます。」稜雲がそう言って雅爾に頭を下げていると、頭上から傲岸不遜な声が聞こえた。「おもてを上げよ、稜雲とやら。」「は・・」 稜雲が顔を上げると、そこにはいかにも傲慢そうな顔をした東宮が自分を冷たい目で見下ろしていた。
2012年11月15日
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「柚聖(ゆずまさ)ちゃん、遅かったわね。」「うん・・少し遠乗りにね。何かあったの?」 帰宅すると、千里が血相を変えて自分の方へと駆け寄ってきたので、柚聖はそう言って彼女を見た。「あのね、さっき柚聖ちゃんの部屋に獣の毛が落ちてたのよ!」「そうそう。それに邸の上空に黒い靄のようなものが立ち込めていたし。」江梨花は恐怖で身を震わせながら、千里と顔を見合わせた。「そうなんだ。」「あんまり一人になっちゃだめよ。特に夜道ではね。」「わかった。」 自室に戻った柚聖は、江梨花達の話を聞いてあの忌まわしい出来事を思い出していた。あの時、自分の貞操を奪ったのは黒妖狐だった。闇に包まれた洞穴だったので、顔ははっきりと見えなかった。しかし、蜜匡と会った時、微かにあの禍々しい気配を感じた。(気の所為かな?)まさか蜜匡に限って、あんな禍々しい化け物である筈がないーそう思いながら柚聖は眠りに就いた。「一体これはどういうことじゃ!」「女御様・・」「妾にわかるように説明せよ!何故そなたがこの人形を持っておる!?」 一方後宮では、梅壺女御・儷子(れいこ)が憤怒の形相を浮かべて呪詛の人形を一人の女房に突きつけているところであった。「これはあの藤壺女御が宿す腹の子を、男児(おのこ)から女児(おなご)へと変えさせるものぞ!誰にも見られてはならぬと申したであろう!」「大変申し訳ありませぬ、女御様!以後、気をつけますゆえ・・」「もうよい、さがれ。」儷子は女房が去った後、苛立ち紛れに檜扇を乱暴に閉じた。 最近帝に寵愛されている藤壺女御が懐妊し、有爾(まさちか)の東宮の座が脅かされるのではないかと彼女は焦りを感じ、女房に呪詛の人形を藤壺女御の寝所へしのばせるよう命じたのだが、失敗に終わってしまった。(あの女には国母の座は渡さぬ!この国を統べるのは有爾ぞ!)女帝の目が、我が子を帝にしようという壮大な野望の光を宿し、その脅威をなる存在を排除することを彼女は決意した。無論、その中にはあの忌まわしい鬼の子も含まれていた。「柚聖ちゃん、あなたにお客様よ。」「客?」柚聖が眠い目を擦りながら狩衣姿で寝殿へと向かうと、そこには墨染の衣の上に袈裟を纏ったあの美貌の僧の姿があった。「あなたは、昨日の・・」「初めまして。わたくしは稜雲(りょううん)と申す者。こちらの若君様にお話があってこちらに参りました。」そう言って僧―稜雲は、紫紺の瞳で柚聖を見た。「僕に話とは、何でしょうか?」「実は先日、あなたの背後にこの世のものではないものが憑いておりました。」「この世のものではないもの?」稜雲の言葉に、柚聖は眉を顰めた。「ええ。少し失礼を。」稜雲が柚聖の顔を覗き込むと、彼の黒髪がサラリと柚聖の頬に触れた。「あの・・」稜雲は柚聖の額に手を当てると、そこから微かに反応があった。(やはり・・間違いなさそうだな。)「あの、もうよろしいですか?」「ええ。ではわたくしはこれで。」稜雲は柚聖に微笑むと、邸から出て行った。 有髪の僧・稜雲と再び思いがけぬ場所で再会することとなろうとは、柚聖はまだ知る由もなかった。
2012年11月15日
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「ふふ、わたしの求愛を拒むとは・・流石鬼の血を受け継ぐ子だけある・・」蜜匡がそう呟くと、周りの空気が徐々に澱んでゆく。それと同時に、彼の直衣からするすると九本の狐の尾が出てきた。艶やかな黒い尾で寄って来る蚊を叩きながら、蜜匡は鏡に映っている己の姿を見た。 そこには、黒い耳が彼の頭に生えていた。「待っていろ柚聖、鬼の子よ。いつかそなたの魂を喰らってやろうぞ・・」蜜匡は舌なめずりをしながら、笑って部屋から姿を消した。「きゃぁ~!」「何、さっき変なのが・・」千里と江梨花は、嫌な瘴気を感じて辺りを見渡すと、上空に黒い靄のようなものが消えてゆくのを見た。「柚聖様!」「柚聖ちゃん!」彼女達が柚聖の部屋に入ると、そこには黒い獣のような毛が散らばっていた。「これは・・」「梓之介様にお知らせしないと!」バタバタと慌ただしい足音を立てながら、彼女達は主の部屋へと走っていった。 一方、柚聖は部屋を飛び出した後、若草色の水干に着替えて白馬に跨り、お気に入りの場所である池へと向かっていた。「はぁ・・」夏を迎えたその池には、見事な薄紅色の蓮が浮かんでいた。 初めてここで有爾と一緒に来た時はまだ冬で、凍った池の上を興味本位で歩いて溺死しそうになったことがあった。今思えば、何故そんなばかげた事をしたのだと笑えるが、あの頃は本気でばかげた事をしたものだ。 あの頃はまだ、頼人が生きていた。しかし今はもう、優しかった叔父はおらず、土御門家は分家である吉保家の厄介者となっていた。 10年前の出来事以来、柚聖は全く笑わなくなっていた。叔父が自分の身代りに死んだと思い込み、笑顔を浮かべる事は叔父に対する罪悪感に駆られて、笑おうとしても上手く笑えなかった。そうしているうちに、笑顔を忘れてしまった。(僕はこれから、どうすれば・・)梓之介やその親戚は柚聖に優しく接してくれているものの、一部の親戚は彼の事を疎んじ、“いつまであの子を置いておくつもりだ”と梓之介に詰め寄っているところを、柚聖は偶然見てしまった。(僕の所為で、梓之介様が責められるのは嫌だ。)このまま吉保家の厄介者となるのか、己の道を切り開いて生きてゆくのか、柚聖は悩んでいた。 もう帰ろうかと彼が蓮池に背を向けた時、視界の隅に墨染の衣に袈裟姿の若い僧の姿が見えた。端正に整った美貌と、宝玉のような紫紺の瞳を持った僧の顔に、柚聖は暫し見惚れていた。「おや、わたくしの顔に何か?」「あの・・あなたは?」「わたくしは近くの寺に仕える僧です。あなたは何処かの寺の稚児ですか?」「いいえ。」柚聖はそう言うと、白馬に跨り池から去っていった。「あの者、微かだが獣の臭いがした・・恐らく、黒妖狐だな。」 所変わって、京から少し離れた仄暗い洞窟の中で、蜜匡は道中で仕留めた獣の血を美味そうに啜っていた。「あの鬼の子、ぜひともわたしのものに・・花嫁にしたい。その為には・・」彼は水面に映る若い僧の顔を憎々しげに睨みつけた。「あの者を消さねば。」くつくつと笑うその姿は、昼間陰陽寮で見せる凛とした顔とは違い、邪悪な黒妖狐そのものだった。『黒妖狐が、遂に動きだしたか・・』 茂みの中から洞窟の様子を窺っていた黒犬はさっと本来の姿へと戻り、ささっと森から離れた。
2012年11月12日
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「有爾(まさちか)や、何処へ行っていたのじゃ。」「母上・・」「もしや、またあの柚聖(ゆずまさ)とかいう鬼の子と遊んでいたのかえ?」 藤壺女御の元から辞した有爾がこっそりと麗景殿へと戻ろうとした時、養母・儷子(れいこ)に目敏く見つけられてしまった。「よいか有爾、そなたはいずれこの日の本を統べる者なのじゃ。日輪の子であるそなたが、闇の者と馴れ合っていかがする。」「申し訳ありません、母上。」儷子に対する不満が一気に噴き出そうになった有爾だったが、それをぐっと堪えて彼女に頭を下げた。「母上、もう疲れたので部屋で休みます。」「そうか。有爾や、そなたももう元服を迎えたのだから、良き伴侶を貰わねばな。」「まだ結婚はしたくはありませんし、わたくしは修行中の身。今は雑念に囚われずに生きたいのです。」「そうか。では妾がそなたに相応しい相手を選ぼうぞ。」儷子はそう言って満足気に笑いながら、衣擦れの音を立てて部屋の奥へと引っ込んだ。(母上は、どうして柚聖のことを敵視するんだろう?)幼い頃、高熱に魘され生死の境を彷徨ったが、それは柚聖の叔父が有爾の死を願い彼に呪詛をかけたと、儷子が勝手にそう思い込み、その甥である柚聖を憎んでいる事を、有爾はつい最近知った。 病と柚聖のことは関係ないと有爾が言っているにも関わらず、儷子は耳を貸そうとはしない。(柚聖は、僕にとって唯一無二の親友なのに。) 何とか儷子の、柚聖に対する誤解が解けぬものかと、有爾はそう思いながら眠りに落ちていった。「ふあぁ~、よく寝た。」寝癖がついたままの髪を弄りながら、柚聖は御帳台の中から出て来ると、千里と江梨花が部屋に入って来た。「いつまで寝てるのよ、柚聖ちゃんったら!」「休みの日だからって、だらだら過ごしちゃ駄目でしょう!」「別にいいじゃん、ここんところ仕事が忙しくてゆっくり休めなかったんだから。」柚聖がそう言って御帳台の中へと入ろうとした時、廊下の床板が軋む音がして、蜜匡が部屋に入って来た。「おはよう、柚聖殿。」「あの、蜜匡様・・こんな朝早くから何故こちらに?」「それは決まっているだろう?」蜜匡はそう言うと、そっと柚聖の手を取った。「柚聖殿、わたしと付き合って貰えないだろうか?」「は?」突然の蜜匡の告白に、柚聖は目を丸くした。「あの、朝からきつい冗談をおっしゃるのですね。」「冗談じゃないことを、証明してあげるよ。」蜜匡はそう言って笑ったかと思うと、柚聖の顎を持ちあげ、その唇を塞いだ。「んんっ!」江梨花と千里が唖然とする中、蜜匡は自分から逃れようとする柚聖の唇を執拗に吸った。「これが、わたしの君に対する愛のしるしだよ。」「この・・変態!」漸く蜜匡の口吸いから解放された柚聖は、そう叫ぶと上司の股間を蹴りあげ、彼が痛みで悶絶している間に部屋から出て行った。(相当怒ってるわね、あの様子じゃぁ・・)(ほっときなさいよ。)式神達はひそひそと囁きを交わしながら、衣擦れの音を響かせて部屋から出て行った。「どうして、わたしの愛を受け止めてくれないんだ、柚聖?」一人残された蜜匡はそう呟くと、鋭い牙を形の良い唇から覗かせた。
2012年11月06日
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「なぁ、いつまでこうしていなくちゃいけないんだ? いい加減疲れたぞ。」 蜜匡の願いで一日中女装して過ごす羽目になった柚聖(ゆずまさ)は、退屈そうに欠伸を噛み殺しながら脇息に凭(もた)れかかっていた。「後少しの辛抱だよ。それにしても後宮っていうのはいつも華やかだね。物心ついた頃から暮らしているけれど、こんなに詳しく見たことはなかったなぁ。」有爾(まさちか)は部屋にある几帳や自分が纏っている紅の衣を見ながら溜息を吐いた。「そんなに感心することかよ? 女ってのは大変だな、いつもこんな重たくてずるずるした衣を着て一日中過ごさないといけないなんてさ。男に生まれて良かったよ、本当。」柚聖は髪を弄りながらそう言うと、ごろんと横になった。「ちょっと柚聖、はしたないからやめてよ。」 こんな所を藤壺女御のお付きの女房達に見られたら叱責を受けてしまうので、有爾は慌てて柚聖を注意した。「別に誰も見てないからいいじゃん。それにしても一日中一体何すればいいんだか・・」柚聖がぼそりとそう呟いた時、廊下から数人の衣擦れの音が聞こえ、その音がこちらへと向かってくることに気づいた。「あら、お客様だわ。」「やべぇ!」 柚聖は慌てて姿勢を正し、藤壺女御とともに客人を迎えた。「あら、禮子(あやこ)様。ようこそおいでくださいました。」藤壺女御の肩越しに、柚聖と有爾はちらりと客人の顔を見た。そこには弘徽殿女御である禮子がじっと藤壺女御を見つめていた。「お風邪を召されたとお聞きして、見舞いに来たのだけれど・・もう床から起き上がれるようになったのねぇ。」「ええ。わたくし身体は丈夫なんですのよ。でもこれがもし風邪ではなく、呪詛だとしたらわたくしは死んでいたのかもしれないわね。」藤壺女御がそう言った途端、周囲の空気が少し冷たくなった。どうやら彼女は、自分を呪詛しようとした犯人が判っているようだった。「これが女の修羅場かぁ・・おっかねぇ~」「し、黙って!」 藤壺女御の背後に控えていた柚聖がそう言って口を鳴らすと、禮子の視線が藤壺女御から柚聖へと移った。(俺、何かまずいことしたかも・・) 一日中女装をする羽目になり、その上後宮の実力者に睨まれるなんてことは御免だ―柚聖はそう思い、さっと手に持っていた檜扇で顔を隠そうとしたが、遅かった。「ひぃ、鬼姫!」弘徽殿女御付の女房の一人が、柚聖を見て顔を引き攣(つ)らせたかと思うとそう叫んだ。「女御様、鬼姫がおりまする!」一人の女房が叫んだのを皮切りに、弘徽殿女御付の女房達が口々に悲鳴を上げた。「鎮まりなさい!」藤壺女御がそう言って檜扇を荒々しく閉じると、辺りが水を打ったかのように静まり返った。「禮子様、その者達の無礼な態度は、あなたの教育が行き届いていないのではなくて? わたくしの女房を鬼姫呼ばわりするなど、無礼千万だこと。」口調こそは穏やかだが、藤壺女御の言葉には棘が含まれていた。「申し訳ございませぬ。ではわたくしはこれで。」去り際禮子は騒いでいた女房達をじろりと睨みつけると、藤壺から出て行った。「お待ちくだされ、女御様!」「どうぞ、お許しを!」慌てて彼女の後を女房達が追った。「ごめんなさいね柚聖、あなたに嫌な思いをさせてしまって。」「いいえ、あんなの気にしておりませんから。それに母が鬼姫だということは事実ですし・・」 そう言って無理に笑顔を浮かべた柚聖だったが、後宮で鬼姫と呼ばれながら暮らしていた母の想いが、この時痛いほど解った。
2012年11月06日
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「あの、どうですか? 変ではありませんか?」有爾(まさちか)はそう言って御簾の向こうで固まったまま動かない蜜匡に話しかけた。「ちっとも変ではないよ、2人とも。寧ろそこらへんの女人を束にしても敵わないくらいの美しさだ。」「ありがとうございます。」自分達が置かれている状況が解っていないのか、それともただ単に楽しんでいるだけなのか分からない有爾の答えに、柚聖は溜息を吐いた。「どうしたの?」「いや、別に・・有爾、こんな格好させられて嫌じゃない訳?」「ううん、ちっとも。お母様付の女房達にいつもこんな事されてたから、もう慣れっこだよ。」「へぇ、そう・・」幼いころから成人するまで後宮で暮らしてた有爾にとって、女装は日常生活の一部と化しているらしく、余り嫌がっている様子は見られなかった。だが柚聖は有爾とは違い、女房達の玩具になったこともなければ、こうして女装させられたことは一度もない。 藤壺女御たっての希望で女装したのだが、そうでなければ柚聖は全力で女装することを拒否する。男である自分が、わざわざ女装する理由が何処にもないからだ。「蜜匡様、これから僕達はどうすれば?」「1日だけだというから、夕方にわたしがこちらへ迎えに来るまで、暇を潰していなさい。」「は?」柚聖に女装をお願いした蜜匡本人はそう言って彼に全てを丸投げすると、悠々と後宮から去っていった。「暇を潰せって言われてもなぁ・・どうすればいいんだよ?」柚聖は溜息を吐きながら、眉間を揉んだ。「別に今を楽しめばいいんじゃない? 女装なんて滅多に出来る訳じゃないんだからさ。」「それもそうだけどさ・・」 柚聖がそう言った時、1人の公達が藤壺の方へとやって来たので、柚聖は慌てて御簾を下ろして奥へと引っ込んだ。いくら蜜匡の頼みに応じたとはいえ、他人に女装した姿を見せたくないからだ。「あら、あなたは確かこの間の・・」「露草はまだこちらにいらっしゃいますでしょうか?」「いいえ、彼女は里下がりをしているから、当分戻っては来ぬでしょう。」藤壺女御と公達の会話を聞きながら、柚聖はそっと屏風越しに公達の顔を見た。 その公達は、一度宮中で顔を合わせたことがあるが、名は覚えていない。「柚香、こちらにおいで。」 女御に突然呼ばれ、柚聖は慌てて彼女の元へと向かったが、長袴を穿いている上に裾さばきが判らず、彼は袴の裾を踏みつけてしまい、倒れそうになるのを防ごうと、咄嗟に御簾を掴んだが、その拍子に御簾が捲り上がってしまった。「も、申し訳ありませぬ、女御様!」柚聖は女御に慌てて頭を下げると、捲り上がった御簾を下ろそうとした。その時、公達の手が柚聖の手に重なった。「あなたのお名前は?」「柚香、と申します。」檜扇で顔を隠そうとしたが、それは廊下に落ちてしまったので、柚聖の顔は公達に丸見えの状態であった。「柚香さんですか・・お美しい御方だ。」「あ、あの扇を取ってくださいませんか・」柚聖はそう言って公達に背を向けた。「どうぞ。」「ありがとう・・ございます・・」羞恥で顔を真っ赤に染めながら、柚聖は公達の手からそっと檜扇を受け取った。「柚聖、あんなに顔を赤らめて、可愛らしいこと。」公達が去った後、女御はそう言って笑った。「女御様、からかわないでください。僕は必死だったんですから。」「あらあら、それはごめんなさい。」柚聖にそう詫びた女御だったが、笑顔を浮かべたままだ。(美しい方だった、柚香さん・・) 藤壺女御の新しい女房に、公達は過去の恋人のことなど忘れ、たちまち彼女に一目で心を奪われてしまった。
2012年11月05日
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