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昨日は、巨木の森へ行った。着いた時は、ほとんど快晴に近かった。透き通るような秋晴。すばらしい天気だった。真赤に紅葉している木があった。前回来た時よりも、一段と色が濃くなっていた。秋が深まっている。さわやかな空気のなかを、巨木を見ながらゆっくり歩く。四番目の屋久杉の大きさに驚く。何度見ても感動する。たぶん縄文杉よりもスケールは大きいだろう。確かに幹の太さでは敵わない。しかし、枝ぶりのダイナミックさでは、屋久島でも一、二を争うのではないだろうか。こんなに活き活きとして元気な屋久杉も珍しい。何よりも縦横のスケールが大きい。まさに見上げるような大木。行きも帰りも長いこと、この木の前で佇んだ。何回見ても、いつまで見ていても飽きない。すばらしい巨木。屋久杉を代表する巨木の一つ。最後の屋久杉は、古木。三千年の風雪に耐えただけのことはある。ほとんど神社に近い。益救神社に参拝した時と似たようなエネルギー。ここでも長い時間、木の周りにいた。この木は、幹が太い。何よりも瘤(こぶ)が、すばらしい。大きな瘤が、たくさん付いている。この森には、屋久杉に限らず巨木が林立している。その数は、数えきれない。いかに屋久島の森が深いかが、よくわかる。ほとんど切られずに残っている貴重な原生林。ゆっくり、じっくり味わいながら歩く。昼食抜きで歩く。エネルギーの高い森では、あまりお腹が空かない。海抜1400mの森の空気は、格別。途中から霧がかかってきた。霧の森も、またすばらしい。森が、霊気に満ちる。山の神気が、辺りに満ち満ちる。十二分に巨木の森を堪能して、帰路に就く。海抜1400mの森から、海抜0mに近い一周道路まで下りる。すると、隣にいたお客さんが言った。「里は、重たいですね。」そう言われてみると、確かに重たい。先程までの森の軽さとは、比べものにならない。まるで大気圏外から、大気圏内に戻ってきたような・・・重力を感じる。巨木の森が、いかに軽かったか。まったく世俗感がなかった。俗世間から完全に隔離されていた。まさに別世界。人間的なものが、何もない。クリアーそのもの。透き通るような空間があるだけ。エネルギーの次元が違っていた。世俗は、重たい。実際、気圧も違う。海抜1400mまで上ると、かなり気圧が低くなる。肉体的には感じないが、空のペットボトルが少し膨らむ。巨木の森は、世俗とは異なる。まるでアセンションした後の世界のよう。クリアーな空気が、満ちている。いつも森へ行っていると、半分アセンションしたみたいなものだろうか。最近は、特に感じ方が変わってきている。物質的ではなくなっている。非常にスピリチュアルになっている。感性が違ってきている。一段一段、ステップを踏みながらアセンションに近づいている。アセンションすること自体は、もう間違いのないこと。今は、それに加速度が付いている状態。クリアーにクリアーになっている。『秋晴れの 巨木の森は 軽やかな これから向かう 光の世界』これが日記を書き始めて1753日目の心境。
2009.10.22
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屋久島は、新しいススキの穂が出始めている。風になびく姿は、新鮮で美しい。今日は、木霊の森へ行った。じっとしていると、少し寒かった。今日のお客さんも、ゆったりタイプ。普段の仕事の疲れを癒したいとのことで、超スローペース。昼寝をしたり、沢の音を聞いたり、霊気を感じたり・・・その度に、こちらは瞑想。歩いている時間と瞑想している時間が、同じくらいに感じる。ほとんど瞑想しに行っているようなもの。あまりガイドしているという実感はない。今日の瞑想で感じたことは・・・人は、殻付きのドングリのようなものだった。もう少し正確に言うと、器に載った光の玉。器とは、肉体。光の玉とは、魂。ベースは、器。肉体という器。この器は、地球の中心と繋がっている。地球に根を張った器。そのお椀のような器の上に、光の玉が載っている。光の玉を感じてみると、眩しかった。光そのものだった。それが、器の上にあった。器と光の玉を結んでいるものは、愛。愛が、器と光の玉を包み込んで一つにしていた。人は、器であり、光の玉であり、愛だった。人は、肉体であり、魂であり、愛だった。肉体は、卵子のようなもの。魂は、精子のようなもの。愛が、それを一つに結び合わせていた。人と受精卵の構造は、とてもよく似ていた。器は、卵子であり、陰。光の玉は、精子であり、陽。愛は、陰陽を超えた全体。すべてを包み見守る、ひとつ。意識の中心を器の方に持っていくこともできる。逆に、光の玉の方に持っていくこともできる。あるいは、包み見守る愛の方に持っていくこともできる。人は、肉体にも、魂にも、愛にもなれる。意識の中心をどこに置くかによって、人の在り様も変わってくる。肉体にベースを置いて生きる人は、多い。魂にベースを置いて生きる人は、少ない。愛にベースを置いて生きる人は、更に少ない。しかし、どれが優れているとも言えない。どれがベストということもない。すべてが、必要。すべての調和。器である肉体がなければ、地上では生きられない。魂を忘れては、自分の本質がわからなくなる。愛がなければ、虚しい人生となる。これらすべてが必要。しっかりと肉体にグランディングして生きる。魂としてスピリチュアルに生きる。愛を持ってすべてを見守りながら生きる。そのどれもが、必要不可欠。肉体だけでも、魂だけでも、愛だけでも足りない。それぞれが調和し、バランスよく生きる必要がある。人は、結局は全体。個であると共に全体。しっかりと肉体にグランディングし、スピリチュアルに、愛と共に生きる。そのどれが欠けてもアンバランス。すべての調和のなかで生きるしかない。人は、今ここで個であり全体。『肉体に 載った魂 愛により 結び付けられ この世を生きる』『肉体も 魂もいる 愛もいる すべて必要 すべての調和』『肉体に ベースを置いて 魂を 輝かせつつ 愛に生きる』これが日記を書き始めて1749日目の心境。
2009.10.18
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今日の屋久島は、曇。明るい曇。気温は、25度近くある。寒くもなく暑くもなく、ちょうどいい。人は、自己イメージによって、ずいぶんと変わってしまう。自分というものは、意外と不安定。固定したものではない。例えば・・・自分自身を力強く男らしくイメージしてみる。あるいは、やさしく女性的にイメージしてみる。または、ニュートラルに中性的にイメージしてみる。それによって、自分自身の感じがまったく異なる。豊かな緑の髪の毛が、風に揺れる自分。白い歯が、キラリと光る自分。活き活きと輝く目を持つ自分。透き通るような美しい肌をした自分。不安や心配に怯える自分。夢も希望もなくした自分。失恋や失敗に打ちのめされている自分。親しい人や財産をなくした自分。自分のイメージしだいで、気分はどうにでも変わる。思いが、自分自身を形作る。思い方しだいで、人生が変わる。自分という存在が、違ってくる。固定した自分というものはない。ただ、固定した思い込みがあるだけ。自分はこういうものだという決めつけ。それによって自分自身が決定されていく。自分自身のイメージをチェンジすれば、自分自身も変わる。自分が生きたいように自分を変えればいい。特に決まりはない。望みのままに変えられる。ダイナミックな自分にもなれる。つつましやかな自分にもなれる。チャレンジ精神に満ちた自分にもなれる。心やさしい自分にもなれる。逆に、もうどうにもならないと思えば、どうにもならなくなる。後は歳を取って老いぼれていくだけだと思い込めば、その通りになってしまう。人生はこれからだと思えば、新たな人生が開ける。自分というものは、今の自分自身が形作っているだけのこと。つまり、自己イメージ。思い込み。固定観念。それ以外に自分というものはない。肉体は?病気の体は?この悲惨な現実は?それも自分が創っているもの?自分以外に原因はない。もし自分以外に原因があったら、運命に翻弄される悲劇のヒロインになってしまう。そうなれば、天を呪い神を恨むしかなくなる。それが人生であるはずがない。自分というのは、自分がイメージして維持しているもの。それ以外に自分というものはない。自己イメージを変えれば、自分も変わる。極めて単純。逆に言えば、どのような自分にもなれるということ。特にこれからは、波動が更に速くなる。波動が速くなれば、変化も速くなる。自己イメージが、現実化するスピードもアップする。固定観念を外すことだろうか。自分に対する思い込みを手放すことだろうか。自分の思い込みを、もう一度チェックすることだろうか。自分はこういうものというイメージを、再検討することだろうか。イメージという力が、自分というものを形成している。イメージに沿って、自分はできあがっている。イメージが、自分を創り出す。イメージが、いろんな材料を集めて自分というものを形作る。自分という固定的なものはない。今の自分は、今の自分が創り出しているもの。イメージによって維持されているもの。イメージの力がなくなれば、今の自分というものは崩壊する。もちろん、イメージを使う主体は別にある。自我以上の主体がある。でも、自我もイメージを使える。望みの自分になれる。どこに主体を置くかというのは、人の生きる深さによる。主体が深ければ深いほど、動揺することは少なくなる。しかし、いくら主体が深くても現実を生きるには自己イメージがいる。現実の自分を形成しているのは、自己イメージ。自分という存在も、現実創造の一部。周りの環境だけでなく、自分自身も被造物。自己イメージが創り出す、自分という作品。それは、いかようにも変えられる。『自分とは 自分が創る 被造物 望む自分を 創り出すこと』『人生は 自分が創る 大叙事詩 望む現実 創る楽しみ』『人生も 自分自身も 被造物 自分が創る 自分のアート』これが日記を書き始めて1748日目の心境。
2009.10.17
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昨日は、木霊の森へ行った。お客さんは、二人。一人は、今年の五月に来た人。もう一人は、19歳になるその娘さん。今回は、屋久島に住むための不動産を見に来た。ここ二日ほど、不動産を見て回ったらしい。しかし、娘さんが屋久島に住むことに難色を示す。結果、一人では住む自信がないとのこと。せっかく屋久島まで来たので、娘さんを自然のなかへ連れていくことに。少しゼンソクがあるとのことで、あまりハードなコースは避ける。木霊の森でドングリ拾いをすることになる。今、木霊の森には、たくさんのドングリが落ちている。木霊の森へ行く途中の林道にも、ドングリが落ちていた。さっそく拾い始める。先日の台風のせいで、たくさん落ちている。ここのは、サイズが大きかった。木霊の森へ入って、まずはお昼寝。それから、ゆっくり歩く。ルート上に、たくさんのドングリ。みんなで拾う。きれいなドングリが、あちこちに落ちている。拾い切れないほどある。美しいものだけを選んで袋に入れる。すぐに数十個集まる。また歩く。しばらくすると、またドングリ。少し拾って、また歩く。またドングリ・・・ヤクシマツチトリモチも、今年は大豊作。いたるところに赤やオレンジが、目につく。まるでイチゴのよう。森のイチゴと言っても、知らない人は本気にするかも?秋の森は、豊か。ドングリ、ヤクシマツチトリモチ、キノコ、そして少しだけ紅葉。飽きることがない。時々は静かに立ち止まって、せせらぎの音に耳を澄ます。ドングリは、最後の滝の近くにもあった。ここは、殻が付いた青いのがたくさん落ちていた。なんとも新鮮。台風の置き土産。昨日は、特に木漏れ日がきれいだった。三人で、たくさん写真を撮った。美しい光が入った写真が撮れた。お母さんの携帯で。それはそれは、美しかった。まるで天国から降り注ぐ虹色の光のようだった。携帯でも、こんなに美しい写真が撮れるとは・・・それは、ちょっとした驚きだった。ゆっくり、のんびり木霊の森。行き帰りに、たくさんのシカが現れた。駐車場では、サルの群も。そこには、母親に抱かれた子ザルもいた。森は、動物も植物も豊か。静かな屋久島の秋。喧騒から離れて自然と一緒にいる幸せ。何もない幸せ。『降り注ぐ 光は天使の 虹となり 秋の屋久島 ドングリ拾い』これが日記を書き始めて1747日目の心境。☆ 拾ったドングリは、天秤座の水晶祭りのオマケとして同封することにしました。 天秤座の水晶祭りで残っているのは、4組だけ。 水晶祭りは、明日で店じまいとなります。 残りものに福?
2009.10.16
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昨日は、久しぶりに木霊の森へ行った。台風明けの森は、たくさんの枝が落ちていた。それだけでなく、多くのドングリもあった。杉の葉の香りがしていた。一番驚いたのは、ハートマークがなくなっていたこと。ハートマークとは、ハートの形をしたキノコ。何度か「屋久島ナチュラルヒーリング」のHPのトップ写真で紹介したことがある。木霊の森のアクセントの一つだった。そのハートマークが付いていた木が、見事に折れていた。元々枯れてはいたが、こんなに早く折れるとは思ってもいなかった。木霊の森の観光資源が、一つ減ってしまった。森は、刻々に姿を変える。お客さんは、4人。一度に昼寝できないので、交代でやってもらった。その間、こちらは瞑想。長い間、瞑想することができた。瞑想しながら感じたことは・・・人は、花のようなもの。頭の上が、花びらのように開く。尾てい骨は、地球深くに根を張っている。静かに瞑想していると、自分が花になったような気になる。頭は、花びらのように全開。宇宙からのエネルギーが、ドーンと入って来る。同時に、地球からのエネルギーも天に向かって解放される。人は、元々花だったのだろうか。植物だった時があるのだろうか。静かに動かなければ、花と変わらない。森のなかに咲く花となる。沢は、水量が多かった。台風の後は、雨は降っていない。台風の雨が、まだ流れているのだろうか。森の保水力のすばらしさ。誰もいない森をゆっくり歩く。美しい森を堪能する。屋久島の自然そのものを満喫する。森の霊気が、全身を包む。『静けさの 森で瞑想 する人は 大地(つち)に根を張り 宇宙(そら)に花咲く』これが日記を書き始めて1743日目の心境。
2009.10.12
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今日の屋久島は、曇空。台風が過ぎて、かなり秋らしくなってきている。もうTシャツでは、肌寒い。薄手のワイシャツが、必要になってしまった。アメリカのオバマ大統領が、ノーベル平和賞に決まった。政治的な人が平和賞になることが多いが、それにしても時代の変化を感じる。最近は、ますます三次元と四次元以降が近づいている気がする。これまでより距離が縮まっているようだ。意識的にイメージすることが、より現実化するようになっている。これまでは、イメージしてから現実化するまでに時間がかかった。それが、かなり短縮されている。イメージのすぐ隣に現実がある感じ。毎日、自分の望む現実をイメージすることだろうか。イメージを楽しめばいい。そうすれば、やがてそのイメージが現実化するだろう。現実創造が、より現実味を帯びてきている。実は、イメージすることにより、即座に変わる部分もある。イメージした直後に変化する。感受性が繊細であれば、それがわかるだろう。現実とは、イメージが固定化したもの。イメージが、現実を創り出している。そういうことをわかったうえで、イメージすることだろうか。自分の人生を自分で創造すればいい。楽しみながら創造すればいい。イメージの世界は、自由。何でもイメージできる。まずイメージのなかで、自分の望み通りに生きてみればいい。そうすれば、やがてそれが現実となることだろう。『イメージの なかで創造 楽しめば やがて望みが 現実となる』これが日記を書き始めて1743日目の心境。
2009.10.10
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昨日は、一日中、台風だった。しかし、思ったほどのことはなかった。午後3時過ぎには、一段落した。猛烈な風雨には慣れているので、それほどのこともなかった。今日は、台風一過。朝からスッキリしている。気が全面的に新鮮になっている。すべてが、リフレッシュされた感じ。台風は、浄化。古い気を一掃してくれる。そして、気がつけば、すべてが一新されている。時代の変化も、同じような感じだろうか。台風のように目に見えることはない。しかし、着実に浄化が進んでいる。最近は、夢を見ることが多くなっている。それは、多くの人に見られる現象。潜在意識が、大掃除されている。年末の大掃除をすると、意外なところにチリやホコリが溜まっているのに気づく。それと同じようなもの。普段気づいていないところに、たくさんの記憶がしまいこまれている。もう必要のない記憶も多い。そういうものを整理整頓している。誰が?もちろん表面意識ではない。潜在意識が、潜在意識を掃除している?魂やハイアーセルフと呼ばれる意識が、今生の潜在意識を掃除している。いつまでも持っている必要のない記憶を、夢という形で解放している。頭のなかをシンプルにしている。頭の回路が、回り道しないように。余計なことを考えないように。不安や心配を起こさないように。過去のトラウマを整理整頓している。たくさん夢を見て、それらに囚われないことだろうか。みんな解放のプロセスと自覚して、手放すことだろうか。どんどん忘れればいい。いつまでもチリやホコリをしまっておく必要はない。チリやホコリがたくさんあっては、風が吹く度に舞い上がる。みんな掃除してスッキリすれば、気持ちがいい。さわやかに生きていける。新しい時代に必要のないものは、みんな整理することだろうか。新しい時代は、目の前。もう大掃除を始めなければ、正月に間に合わない。新年は、さわやかな気持ちで迎えたい。魂もハイアーセルフも、みんな一生懸命。今生の意識も頑張らないと。みんな負んぶに抱っこでは、主体性が問われる。しっかり自覚して、自分の意識を整理整頓することだろうか。身軽になって、新しい時代を迎えよう。『台風も 日本列島 縦断し チリやホコリを 祓い浄める』『家にある ものを整理し 風通し よくしておけば いつもさわやか』『家のなか 心のなかも 風通し よくしておけば いつもさわやか』『流れくる ものを楽しみ 手放して 常に新たな よろこびに会う』これが日記を書き始めて1741日目の心境。
2009.10.08
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台風が近づいている屋久島。しかし、台風のスピードが落ちたようで、まださしたる影響はない。山の方は雲に覆われて見えないが、雨は降っていない。風もなく、嵐の前の静けさだろうか。天秤座の水晶祭りの全員受付が終わった。登場した24組のうち、半分ほどの行き先が決まった。残っているものも、順次決まっていくことだろう。今回も人気が集中したものがあった。それは、No.2の超美インカローズ。「超美」とタイトルが付いているのは・・・滅多にないクオリティだから。透明感のあるインカローズは、そうそうあるものではない。その赤の色は、何とも言えない深みがある。赤と紅の中間のような色。情熱の紅に、冷静な赤も含まれている。情熱と冷静さを併せ持つ愛のインカローズ。一目見て、ほしいと思ったら、即リクエストする。お金のこととか、いろいろ考え始めると熱意が鈍る。ストレートさに優るものはない。つい先日・・・アクアマリンの美しいものがアップされた。ほとんど不純物がなく、宝石に近いクオリティだった。サイズもあり、美しさが際立っていた。アップされた直後に、「カートに入れる」をクリックした。ところが、買えなかった。アップされて10秒も経っていないというのに・・・こちらよりも早くクリックした人がいたということだろうか。実は・・・クリックする前に、一瞬の躊躇があった。既にアクアマリンは、すばらしいものを何本か持っている。だから、どうしてもほしいということはなかった。滅多に出ないものなので、一応買っておこうかという程度だった。しかし、それでは買えなかった。もっと情熱的な人がいたのだろう。切実に欲している人がいたに違いない。そういう人に勝てるような情熱はなかった。購入できなくて、驚きはあった。しかし、悔しさはなかった。それほど、どうしても欲しいということはなかった。切実に欲しがっている人のところへ行ってよかったのだろう。人生は、情熱。情熱的な人には、負けてしまう。情熱とは、どれだけのエネルギーを注ぐかということ。熱意であり、熱心さであり、真剣さ。自分がエネルギーを注いだだけのものが、返ってくる。中途半端な気持ちでリクエストしても、圧倒的な情熱には敵わない。何事も真剣に取り組めば、それなりの結果が付いてくる。水晶も同じ。一目見て、ストレートに素直に申し込む。それが、若さ。率直さ。真っ直ぐなエネルギー。一方、残ったものからリクエストする人もいる。それも、すばらしい。それは、奥ゆかしさ。心の余裕がないと、そういうことはできない。ストレートもいい。奥ゆかしいのもいい。それぞれにすばらしい。最も避けるべきは、中途半端。中途半端ということは、迷いがあるということ。自分が定まらないということ。明確でクリアーではないということ。自分自身がシンプルではないということ。クリアーに、ストレートに生きれたら、なんとすばらしいだろう。何を選ぶかは、どうでもいい。結果についても拘泥する必要はない。ただ、今ここをシンプルに生きること。ストレートで、素直。率直で、迷いがない。そういう生き方ができたら、すばらしい。それには、普段から深く見つめる必要がある。深く見つめ続けるなかで、いろんなことが明確になる。心の曇が消え、クリアーになる。そうならないと、瞬時にストレートにはなれない。シンプルで迷いがない状態にはなれない。心を落ち着け、シンプルに生きる。ストレートに、素直に生きる。率直に、迷いなく生きる。静かに深く、見守りながら生きる。『情熱は 自分が注ぐ エネルギー 注いだだけの 見返りがある』『シンプルに 素直に何も 迷いなく 静かに深く 見守り生きる』これが日記を書き始めて1739日目の心境。* No.2の超美インカローズは、天秤座の人のところへ行くことになりました。 今回は、やはり天秤座生まれの人のところへ行くものが多いですね。
2009.10.06
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今日は、朝から雨が降っている。台風も近づいているので、しばらくは雨が続きそう。気温も低い。但し、湿度は高い。利益優先社会が、変わろうとしている。私利私欲の時代は、終わろうとしている。それは、自我の時代が終わることを意味する。自己中心的な時代が、終焉を迎えようとしている。もちろん、すぐには終わらない。これから何十年もかかるだろう。しかし、その方向性は明確に見えてきた。時代は、個から個を超えたものへゆっくりと変化しようとしている。個だけで生きる時代は、やがて終わる。私利私欲を追求した時代は、過去のものとなる。利益最優先の企業は、生き残れない。社会貢献を前面に出した企業が、これからの花形となる。もっとも、企業の時代そのものも怪しい。これからは、大企業の時代ではない。個性的な企業の時代。友達で始めるような企業の時代。ネットがあるので、簡単に企業が始められる。気の合った友達と地域に根差した企業を始める。利益追求型ではなく、趣味の拡大版。個性を生かした社会貢献の時代。個性を前面に出すけれども、個だけの利益を追求することはない。個を花開かせることで社会に貢献する。その結果、利益も付いてくる。あくまで利益が目的ではない。利益というより、社会に歓迎されて事業が拡大していく。人々が喜ぶものを提供する。自分が楽しいものを提供する。自分も周りもみんなが幸せになるようなものを開発していく。それが、これからの方向性。自分さえよければいいというのは、明らかに時代遅れ。自分も楽しみ、周りの人にも喜んでもらう。そういう意味では、大企業というのは時代遅れ。個々人が個性を発揮できる程度がいい。機械に使われないように。クリエイティブに生きれるように。自分を活かして生きれるように。自分も生き、周りも生きる。共に生きる時代。共に喜ぶ時代。共に楽しむ時代。みんなで生きる時代になる。特定の人だけが富を独占する時代は、終わりに近づいている。物質的なものよりも精神的な豊かさを追求する時代になる。心身共に満たされる時代になる。方向性は、はっきりしている。その方向性に沿って生きることだろうか。自分を活かし、周りを活かす。共に活かし合って生きる。これが、アクエリアス二千年の生き方。時代の流れと共に生きることだろうか。逆行しないように。個と全体の融合という方向性のなかで生きることだろうか。『自分さえ よければいいと 自我は言う 未熟な生は 利益優先』『個を活かし 周りと共に 生きる時 新たな生が 開き始める』これが日記を書き始めて1738日目の心境。
2009.10.05
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昨夜は、美しい中秋の名月が中天にかかった。水晶祭りに登場する水晶たちを月光浴させた。「屋久島ナチュラルヒーリング」のHPでは、今日から天秤座の水晶祭り。実は、今日の15時10分が本当の満月。牡羊座から始まった人生は、天秤座で後半に入る。前半の6星座は、個人的なこと。後半の6星座は、全体的なこと。人生の完成へ向かうスタートとなる。この世に生を受けたのは、牡羊座。肉体人間として生き残れるかどうかが問われる牡羊座。生き残りをかけた必死のサバイバルゲーム。これが、今生のスタート。牡牛座になると、ある程度は安定する。双葉が芽吹く時期。希望に燃え、新しい人生を生き始める。しっかり大地に根を張る時。双子座になると、好奇心が芽生える。何にでも興味を示す。すべてが物珍しい。この世の冒険の始まり。蟹座は、感情が発達する時。快不快の感覚から、感情が芽生える。それは、だんだん複雑になり多様化する。喜びも悲しみも、多くの感情を体験する。獅子座では、自我が確立する。この世を生きる中心ができあがる。「自分」こそが、この世を生きるベース。すべてが自分を中心に回り始める。乙女座では、恋が芽生える。異性に関心が向き、人生が広がる。思考力も発達し、人生を論理的に思考するようになる。しかし、考え過ぎれば、思考人間になってしまう。そして、天秤座。天秤座では、周りとの調和を学ぶ。この世は、自分だけでは生きられない。多くの人と一緒に生きる世界。その多くの人と、どのように生きていくか。それが、天秤座で問われることとなる。お互いにわかり合い、調和のうちに生きていく。それが、天秤座の本来のあり方。その根底にあるのは、愛と美。天秤座の守護星は、金星。まさに愛の星であり、美の星。愛と美を基調にした調和こそが、天秤座の本質。すべての人が調和しなければ、この地上はうまく回らない。人だけでなく、動植鉱物のすべてが調和する必要がある。宇宙空間も、調和とバランスによって成り立っている。アンバランスでは、星と星とが衝突してしまう。全宇宙は、調和のなかで運行されている。そうでなければ、宇宙そのものが成り立たない。人もまた、調和のなかで生きるようになっている。それが本来の姿。しかし、同時に自由意志も与えられている。未熟な自由意志は、調和を乱す。それが、地球の現状。個から全体への意識の広がりが不十分。これまで発達させてきた思考力を使って、宇宙のシステムを理解する時。そして、その理解に基づいて、調和のなかで生きる時。いつまでもサバイバルゲームをやっている場合ではない。みんなで協力して共に生きる時代。個だけではなく、全体に目覚める時。全体意識に目覚めなければ、全体の調和は覚束(おぼつか)ない。個に埋没すれば、狭い世界に生きることになる。自分さえよければいいというエゴの世界。お互いに自己を主張し、争いが絶えない世界。まさに地獄界。全体から分離した個が辿る運命。バラバラな個に未来はない。個であると同時に全体でもある必要。それが、これからの新しい生き方。調和のなかで生きる生き方。アクエリアスの時代の生き方。個と共に全体を理解しなければ、人類の未来はない。個だけでなく全体も考慮して生きなければ、平和はあり得ない。新しい時代は、個と全体の融合と調和。それには、まず自分自身のなかで全体意識の自覚が不可欠。個を超えていく必要。個から広がる意識。個に拘泥しない意識。すべてを見守り生きる意識。個から全体へ。個と全体の融合。すべてを見守りながら、個として行動する。見守りなくして調和はない。見守ること。自分を見守り、すべてを見守る。見守りながら、行動する。それが、全体意識への入口となる。『見守りが なければ調和 難しい 見守りながら 行動すること』『調和する 世界実現 したいなら 見守る意識 必要不可欠』『見守りは 全体意識の 一里塚 見守るなかで 意識広がる』これが日記を書き始めて1737日目の心境。
2009.10.04
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今日の屋久島は、久しぶりに晴れている。ただ、なんとなく靄(もや)ってもいる。山は、ぼんやり霞のなか。でも、陽射しがあって暖かい。今日は、朝から水を汲みに行った。場所は、白谷雲水峡の近くの不老長寿の水。早い時間だったので、シカがたくさんいた。もう冬毛になっていた。ナチュラルヒーリングとは、何もしないこと。ただ自然と共にあること。自然のなかにある時、人は自然な状態に戻る。作為がないのが、一番ナチュラル。治してあげよう。良くなってほしい。何とかしてあげたい。そういうものは、邪魔になる。作為とは、結局、支配でありコントロール。たとえ対象が病気であっても、何とかしようとすれば支配やコントロールに結びつく。相手を自分の思うとおりにしたい。元気になってほしい、健康になってほしい・・・病気の相手を健康にしようとすることも、また支配。病気は、本人が選んでいる。それを勝手に健康になってほしいと願うのは、自分の我儘。それは、支配となりコントロールとなる。相手を元気にしてあげれば、見返りがほしくなる。たとえ相手が望んだとしても、依存を助長する。元気にしてあげること自体が、支配になりやすい。一方的に元気にしてあげることが、良いこととは限らない。自分自身を光輝かせることだろうか。後は、何もしなくてもいい。ただ一緒にいればいい。そうすれば、自然に光は流れていく。最も必要な形で、最も無理のない形で、自然に癒されていく。それが、ベストのヒーリング。作為がないのが、ベスト。作為が入ると、支配や所有にやりやすい。作為は、自我の行為。作為して成功する度に、自我は肥大していく。俺が治した。俺がしてやった。俺、俺、俺・・・これでは、オレオレ詐欺になってしまう。俺は、どうでもいい。俺が前面に出てくると、ロクなことはない。自我の混迷が深まるだけ。混乱のなかで苦しむだけ。一時的に良くなっても、後は地獄が待っている。何もしないことだけが、非自我の行為。自然な状態で、光の状態で、深い状態で、行為が起きるのであれば、起きればいい。しかし、深くなればなるほど、行為にはなりにくい。ただ静かなだけが多い。静けさのなかで、すべては自然に還っていく。本来の整った状態に戻っていく。何もしない。ただ一緒にいる。ただ光の状態でいる。その時、愛は静かにあふれ出す。『作為とは やってやること 親切に 自分の思い 押し付けること』『何かして 治せば自我が 肥大する 自負し支配し 依存を助長』『輝いて 何もしないで 共にいる 自我なき行為 自然な癒し』これが日記を書き始めて1736日目の心境。
2009.10.03
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最近は、雨の多い屋久島。庭でナンバンギセルが、咲き出した。今日から十月。秋の気配がしている。夜になると、虫の大合唱。シカも鳴く。昼間は、キジやトンビの声がしている。猫は、すぐ傍で騒いでいる。人は、結局、自分の望む現実を体験しているのだろうか。いや、そんなことはない!こんな現実なんか、ぜんぜん望んでいない!と言う人もいるかもしれない。しかし、やはり潜在意識のどこかで望んでいるのではないだろうか。そうでなければ、このような現実があるはずがない。確かに、表面意識では望んでいないかもしれない。しかし・・・潜在意識の奥では、密かに望んでいるのかもしれない。本当は、今のような現実を体験したいのかもしれない。それ以外に今のような現実が存在する理由がない。望まない現実は、存在しえない。表面意識と潜在意識は、必ずしも一致しない。というより、異なる場合の方が多い。すばらしい出会いもある。しかし、出会わなければよかったと思う出会いもある。表面意識では望んでいなくても、潜在意識では望んでいたりする。潜在意識が望むから、望んだ通りの現実が目の前に現れる。表面意識と潜在意識は、矛盾している。それが、驚きや悲嘆をもたらす。表面意識と潜在意識が融合すれば、現実に驚くことはなくなる。なぜなら、自分の望んだ通りの現実が実現するだけだから。表面意識が望まないことが、現実化することはなくなる。すべては、思いのままとなる。しかし、実際は望まない現実が出現する場合が多い。なぜ?どうして?そうなるのだろうか。潜在意識と一口に言っても、限りなく広い。まずは、生まれてから今日までの意識。その多くが、潜在意識となっている。過去世の意識もある。魂の意識もある。グループソウルの意識もある。そういうものが、すべて潜在意識となっている。表面意識では気づいていない、大きな自分という存在。そういう広い意味での潜在意識を理解するにつれて、サプライズは減っていく。表面意識と潜在意識の乖離(かいり)が、少なくなっていく。そうなると、自分の望むことが現実化していく。自分自身を深く理解するまでは、現実が把握できない。どうしてこんな現実が起きるのか。どうして自分は、いつもこのようになるのか。潜在意識にあるパターンが理解されない限り、同じことを繰り返すこととなる。気がつくまで、アクシデントは起こり続ける。人生とは、自分自身を見ているようなもの。現実は、自分自身の写し鏡。自分の望むものを外に現わし、それを堪能するのが宇宙の基本構造。それは、人に限らず神もやっていること。もし現実を変えたかったら、自分自身を理解すること。自分自身を理解して、自分自身を変えること。潜在意識を変えない限り、望む現実が起きてくるとは限らない。すべては、自分自身のなかにある。慌てることも、急ぐこともない。人生は、自分の望む通りに展開している。ただ、表面面意識には理解できないだけ。もっと深く理解したかったら、自分の潜在意識を理解すること。自分自身を深く理解して、潜在意識を変更する。表面意識と潜在意識を融合させ、統合された自分自身となる。そうすれば、意に反することは起きない。望まぬ現実は、起こり得ない。ゆっくり着実に自分自身と共に生きることだろうか。現実から自分自身を理解することだろうか。自分自身の気持ちを深く感じてみることだろうか。目の前の現実をどうして望んでいるのかを・・・深く深く感じていけば、現実は自分自身に他ならないのがわかる。自分自身が創り出している自分自身の影。自分の体の動きを変えれば、影もまた変わる。現実とは、自分の影に過ぎない。自分で自分を見ているのが、現実というもの。自分のなかにあるものを外に写して、客観視しているだけ。自分で自分を見ているのが、現実というドラマ。それ以外にドラマの脚本はない。自分の周りにあるすべての現実は、自分自身を見ているだけのこと。それ以外の何ものでもない。自分自身を深く理解すること。自分のなかにすべてがある。『目の前に 起きるすべての 出来事は 潜在意識 望んでいること』『内にある ものを形に 現わして 眺め楽しむ 神の楽しみ』『人もまた 神と同様 内にある ものを形に 創り出すだけ』『表面と 潜在意識 融合し 望む現実 創り出す秋』これが日記を書き始めて1734日目の心境。
2009.10.01
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