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この教室は椅子に座って行うヨガ教室です。普通のヨガ教室から見れば簡単な動きなのです。それだけ見れば、体が動かせない人がやるようにしか見えないでしょう。しかし、心と身体の関係を見れば、実は理にかなっています。その理由は、前から書いていますが心と体はつながっています。これはよく言われることです。よく調心、調息、調身の3者の関係を先生は前回話されています。心は幻影であり、身体が作り出したものである、それから導き出されるのはこの私の心は幻影なのでそれは実は存在しない、つまり無我(わたしはいない)という理解につながるからなのです。前も書きましたが心理学にリベットの実験というものがあります。実験では、被験者がボタンを押す際に、ボタンを押す意識的な意志が最初に出現した時点から、実際にボタンが押されるまでの時間差を測定しました。また、被験者の脳波を記録し、運動の開始に関係する脳活動の出現時期を調べました。その結果、被験者が意識的にボタンを押そうとした時点よりも、約300ミリ秒前に運動開始に関係する脳活動が確認されました。これは、被験者の意識的な意志が運動を開始させるという主観的な印象は幻想であることを示唆しています。この実験の結果から、自由意志は脳の活動の後から生じるということがわかります。つまりボタンを私というものが選択して押したようにみえますが、実はあらかじめわたしとは別のものがその選択を決めており、それに理屈が合うように私がそのボタンを選択した様に心が作り出される。その様にできていると考えています。
2025.01.31
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ヨガ教室で新しい生徒の人が見学に来ていた。といってもこの教室は今まで先生と生徒二人の3人の教室でした。女性の方で5年以上普通で行われているヨガ教室に通っていたのですが、ポーズが難しくなり腰も痛めたみたいですが、ヨガ自体は続けたいので、別の物を探して見学に来たとのことでした。実は現在一般に行われているヨガについては、ハタヨーガという物の、身体操作を取り出して拡げた物です。私の習っているこの教室のヨガを見ると、おそらくこんな簡単な物で良いのかと言う感想になると思います。おそらく相当やりこんでいる方だと思います。先生も説明していましたが、実はヨガの本質は瞑想にあります。あまり知られていませんけど瞑想と身体操作としてのヨガの組み合わせを指導すべきなのです。(私の私見ですが)しかし無理もありませんそれはこころという難しい物を扱う必要が出てくるからなのです。その難しい事を、ヨガを通じて行おうとしているのが、この教室だとかんがえています。
2025.01.31
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インドでは古代、デーヴァダーシと呼ばれる巫女の存在が知られています。6世紀にはその記述が現れるのですが、彼女達はヒンズー寺院に属する舞踊を習得した女性であり、神と結婚した女性と言われています。その出自はアウトカーストなど、カーストの低い出身の人が多かったようです。古代より舞踊という物は、神とつながるものであるというのが最初の始まりであったと考えています。彼女達はムガル帝国の滅亡によりイギリスのインド支配が始ると、悲惨な境遇に陥ってしまった記述は、目を覆うばかりです。この記述を見ていると、後期密教における明妃という存在が重なってしまうのです。
2025.01.30
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小周天法、金剛薩埵の瞑想、なん酥の法など、全て同じで光を動かしているのでは無いかと書きました。この動かし方なのですが、今気がついたのですけど瞑想においてこれを単純に上から下、下から上で動かしていたのですが前も書きましたが、クンダリーニ(らしい)症状を起こしたとき、会陰から湧き上がる快感の渦なのですが、たしか頭上から見て左旋回するように上昇していきました。この動きに沿って、この光を動かし行くべきでは無いかと気がつきました。いまそれを行なっていますが、旋回方向は動かしやすい方向とそうで無い方向があります。
2025.01.29
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熊襲を討つため軍を率い、筑紫の香椎宮(かしいぐう)に向かった。皇后は祭庭(まつりば)に神懸かりする御巫となり、天皇が琴を弾き、武内宿禰が審神者(サニワ・神懸かりした御巫に付いて神との問答を受け渡しする役)となり、この戦について占った。このようにあります。この事は、女性(巫女)と男性(サニワ)が一対となって、その事を行なっているのが古代日本から、少なくはなっていますが現在もある姿です。
2025.01.28
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生起次第とは究極的な存在である法身が 修行者の中に顕現する過程を観想する方法である。究竟次第は呼吸法等の人間の生理を何らかの方法によって究極的な存在である法身に至るための実践方法である。この両次第に説かれるところの観法として「微細ヨーガ(suksma-yoga)」というものがある。微細ヨーガは,経典中には具体的に説かれていないが生起次第究竟次第から見るならば本尊あるいは曼荼羅を具体的なイメージとして行者は眼前に作り上げ尚且つ本尊と入我我入するところのヨーガであるといえよう。後期密教より
2025.01.27
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ひかりの身体というこういうことはよく言われるのだけど瞑想中にあらわれたよく考えると当然のことだとおもう。この身体は光目の前に右手があるが、これが光だって なにを変なことをいっているのかと普通そうなるしかし、よく考えてみると じつはそうなっているこの世界は幻影であるとズッと言っているそうであるなら、この右手も幻影という事になる。なにを馬鹿な事をとなるけど、その返答としては今見えている右手はどこになるのかという問いになる
2025.01.25
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大阪市の中央部の地下鉄阿波座駅の近くにこのサムハラ神社があります。ほんとうはもっと難しい字でかいてありますが、看板にもカタカナで書いてありました。ここに参拝してみましたが、小さい神社でした。街のビルの中にありましたがしっかりした感じがあり、そして綺麗に整えられているという感じで、平日ですが途切れなく参拝者がありました。奥宮は岡山県津山市にあるということです。遠くからも参拝者がおられるようで、もし近くに寄られることがあれば、参拝されることをおすすめします。
2025.01.25
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いま簡単なヨガを習っているのですが、これは運動としても非常に優れていると思います。特に高齢者になればなおさらです。今日本のヨガは、一種の体操なのですが何度も書きましたが、これは瞑想の一部分なのです。私の習っているところは、先生がその観点を持っておられるので習っているといえます。体のポーズの後、瞑想が始まりました。その瞑想が前も書いていますが慈悲の瞑想を披露されました。また、説明として調心、調息、調身の関連性を図表として説明が始まりました。なるほど、よくご存じと思いました。非常に納得の行く方針です。ヨガの真髄はその先にあるはずです。
2025.01.19
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神は常在することは無く、どこからかその場に降臨するものでした。神は不可視であることが普通で、特別な能力を持つ者でなければ 見ることすらかなわなかったのです。その神は往々にして能力を持つ者に憑依することで、その口を借り、人々に大切な言葉をもたらしてきました。この神懸かりという状態が。祀られる神と、それを祀る者が同じの関係になったのです。儀礼を主催する者自身が、巫(かんなぎ)がその状態となり、神としての立場からその言葉を人で伝達することを行なっていたのです。神が降臨する場を依代(よりしろ)とよび、その巫自体もその依代と呼ばれるのです。この神と神懸かりする者が同一であると言うことは、今でもよく見られるものです。そしてその信者からは、神そのものと神懸かりする者も、同じように神様と呼ばれるようになるのです。これらの神は、今の日本にも数多く残っているのです。その神懸かりにおいては、憑依という何者かがその人につくことであり、本来の人格と別の人格が現れてきます。またもう一つ脱魂というものも有ります。その人の魂が身体から抜け出して、どこか全く別の場所に到達し、そこで過ごした後にまた再びその身体に戻ってくるものです。その場合、それを見ると巫は失神した状態に見えます。このどちらかの状態が起こると言われているのです。密教では、その成就法には、まず脱魂して、心身を空の状態にした後、今度は仏菩薩を呼び出して、心身に入れ、人と仏菩薩の融合一体を求める方法もあります。古代においては、神道、仏教などはこのような姿を根底としていると考えておりまた日本においては、両者が融合していくのは当然の流れであったと思うのです。卑弥呼、台与、神宮皇后、聖徳太子、最初の出家者の女性(善信尼)、中将姫、真名井御前などわたしはこれらを能力者と呼んでいますが、日本人にはそれが色濃く残っており大小はありますがだれもがそれをうけついているものでは無いかと思っておりそのあらわれが初詣で動く一億人の姿なのだとおもうのです。
2025.01.14
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金剛薩埵の瞑想(チベット)、小周天法(中国)、なんその法(日本)、クンダリー二(インド)これらの瞑想方法は、非常に共通点があります。なにか(光)を体の中で回転させているのです。金剛薩埵の瞑想では、これを下降法、上昇法がありますが、小周天法では体をぐるっと回すので両方を行っていることになります。なんその法では、蘇(しろいもの=光)を頭上から足下へ流していくことから、下降させています。クンダリー二においては、下半身の会陰部からこれが頭上へ向かって回転して湧き上がっていきます。これは大周天法とそっくりです。なんその法は江戸中期に京都で白幽仙人から白隠禅師が教えてもらったとあったので、もっとも新しいですが密教や道教などとの関連性がうかがわれます。それにしても、これらのものは、私は同一の者であるようにみえております。またこれらのものは、健康、長寿と密接な関連のある瞑想と感じられるのです。おそらくはそれ以上のものでしょう。
2025.01.13
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金剛薩埵の瞑想でやはり気になるのは、頭上の光(光輪)が明妃を抱いた金剛薩埵に変化するとあります。この図については、色々と書かれていますし、色々と物議を醸している図なのです。これは、何をあらわしているのかなのです。わたしの考えとしては、これは生命を表しているのではないかと思えるのです。生命、大切なものです。私たちの命はどのように生まれてきたのか、この世に生命を受けたのかと言うことを考えたとき、父と母、男女の交接により生まれてきたのだという事実をハッキリと表している図なのだと思うのです。この光は生命を象徴しているのだと思うのです。このことについては、前にも書きましたお釈迦様の誕生説話です。白象がマヤ夫人のおなかに入ったというお話です。この白象は光の形で入ったのだと理解しており、それこそ生命が宿ったという事を表しているのです。
2025.01.11
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頭頂部分に金剛薩埵を観想する方法には、月環座を作りとあります。これは阿字観における月輪観や、仏像における光輪です。
2025.01.08
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この金剛薩埵についてなのですが、これは普賢菩薩の化身とも言われています。普賢菩薩は華厳経にあらわれるのですが、その姿については法華経の最後にある妙法蓮華経普賢菩薩勧発品第二十八と仏説観普賢菩薩行法経が有名です。一番気になるのは、普賢菩薩が白い象の上にのって現れるという部分なのです。この白い象が何を顕わしているかですが、もうおわかりと思います。お釈迦様の母である摩耶夫人の受胎説話があります。釈迦の母である摩耶夫人が釈迦を身籠る際に六牙の白象が胎内に入る夢を見たという説話があります。 また普賢菩薩の乗り物も白象です。白象としてあらわしたものは、光なのです。わたしはその様に理解しています。
2025.01.07
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この瞑想においては「甘露降浄法」の観想をします。これは4つの方法が伝えられており「下降法」「上昇法」「蘊の法」「四灌頂下降法」甘露というもの(これは光です)が動くことで、浄化をしていきます。これは、全く同じに見えてしまいます。ちなみにこの光は、光では無く
2025.01.06
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チベット仏教(密教)のゲルク派が行う瞑想があります。そこでびっくりしたのは、前にも書きました江戸中期の名僧白隠が伝える、なんその法に非常に似ていると言う点です。それどころか、チャクラ、ヨーガ、小周天、阿字観などとの関連性まで感じられます。これだけ遠く離れた場所で同じ様なものが存在している。このことは、そこに何か大切なものが残されているように感じます。それはたしかに頭上の光輪が存在しているからです。
2025.01.05
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初詣として参拝する人は、この日本では約1億人がその行動をしているようです。このことから、日本に住む人達は如何に宗教的であることがわかるのです。日本人は無宗教という人がいますが、実は全く正反対なのです。その根底には、見えないが尊ぶべき何かがあるという最も深い根源的とでもいう宗教心とでも言うものがあるからだと思っています。ですから、初詣で神社に行き、お葬式でお寺に行き、結婚式は教会でクリスマスを楽しむそれで良いのだと思うのです。その世界ではその様な争いは起こらないからなのです。
2025.01.05
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朝に祭壇のまえに座る今日も朝を迎えられた今この朝を迎えられない人が、日本では毎日4000人は出ているこの時に座れることは、なんとありがたい事だろうか、もったいないことだろうか礼拝をして、今日も動けるありがたさに感謝して一日を始める
2025.01.02
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