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どういう人だったのだろうか原始経典を見てみると、それでもだいぶん神秘化、神格化は避けられないけど、いまの自分の感じでは、教祖というより、なにかノーベル賞級の重大な原理を見つけた、教師の様にみえます。今までのなにか訳のわからないというより、良く出来た厳しい先生のように見えるのです。でも見つけた原理が余りにもすごい発見だったので、時間と共に神格化された様に思えます。仏陀という名称は、相当神秘化し持ち上げられていますが、言いすぎかもしれませんが私の中では、悟った人という意味のように感じられるのです。
2013.01.30
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残心というかそういうものがどういうものか、そしてだんだんとできる様になっているみたいだwikiより残心(ざんしん)とは日本の武道および芸道において用いられる言葉。残身や残芯と書くこともある。文字通り解釈すると、心が途切れないという意味。意識すること、とくに技を終えた後、力を緩めたりくつろいでいながらも注意を払っている状態を示す。また技と同時に終わって忘れてしまうのではなく、余韻を残すといった日本の美学や禅と関連する概念でもある。つまり気づきができる様になる自分は拳法をしていたので、これはよく言われたことだけど、今になってこれが何を言いたいのか痛いほどよくわかる。ウィパッサナーをすると、自動的にこれが身につく様になるのだと言うことがこれは仏道の修行から自動的にできてくるので、これを意識してするのでは無く自動的にできてしまうと言うことになる。そうならざるを得ないなんと言うことかどんどん細かく認識するようになってくる、そうすると意識領域が広がってくるそうすると、いろいろな事に気がついてくる必然的に、以下のような動きになってくるとおもう。wikiより茶道における残心とは、千利休の道歌に表れている。 何にても 置き付けかへる 手離れは 恋しき人に わかるると知れ(茶道具から手を離す時は、恋しい人と別れる時のような余韻を持たせよ)というか自動的にそうならざる得ないことが理解できる。たぶん最短でそれが理解できるはずだ
2013.01.29
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できることがわかったみたいだしばらくしてみて聞いてみたいどうなるか
2013.01.29
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この歩く方法認知症予防には最適では無いかと、思えるのです。
2013.01.27
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生命が生まれて何億年たったでしょうかこの地球はいつか、火に包まれ、すべての水は蒸発し、生命はすべて死に絶える運命を持っています。生命は強い牙、鎧のような皮膚、巨大な体、海を陸を空を動く尾びれ、足、翼を作りました。が生命は何度も絶滅の一歩手前まで何度も破壊を受けているのです。それは空の彼方からやってきます。ついに生命は人を作り出し、そのような災いがいつかやってくることを、知りかつその力を空に向ける所まで来ています。おそらく時間さえあれば、その最後の災いを人は止めることができる唯一の生命と思います。人間が生まれた理由がもしあるなら、わたしはこれがその理由だと思っています。すべての生きとし生けるものが幸せでありますように
2013.01.26
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人は、父と母から生まれてくる1世代は2人、2世代は4人、3世代は8人と日本の人口1億強に達するには、だいたい室町時代までさかのぼれば、すべてとつながる。日本はわかっているだけでも、その倍の時間がある。と言う事は1億×1億で重なり合っているつまり日本人はすべて親戚と言っても過言では無いだろうこれを人類に広げれば、遺伝子の情報から、1人の女性から別れたことがわかっているのであたりまえだが、全人類は親戚といえる。すべての衆生が幸せでありますようにとしか言えないさらに地球に住む生物は、同じ遺伝構造を持っているので、すべては一つに収斂する。生きとし生けるものは、すべて親戚みたいなもの外に立つ木々ですらも、おなじ生きる仲間としか見えないしかし、生命が生きていくには、他の生命の命を奪っていかなければ、いきられない宿命を持っている。こう思ったとき、この地球は、殺し合いし続ける閉じ込められた牢獄のようなものに見えてくるそれだからこそ、生きとし生けるものが幸せでありますようにとしか言えない
2013.01.26
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気がついたことがある第三者の視点が現れた 食べながら観ているというかそうなると、動作がすべて確認するようになりゆっくりとなる。これは一種の観ると言うことなのでは無いかと思える。いまは消えているが丁寧になる何なんだろうか?茶道とか言うものは禅宗から出てきたのだけど、その言おうとしていたものとある意味通じる所があると思えるのだが生活するあちこちに、この観とでも言うものがひょこひょこ現れてくる様にみえる。ウィパッサナー 止観 は座禅などをしている時だけで無く、常に歩いているときですらできるのから、おきているあいだ、ずっとそれをしているのでは無いだろうかそう考えてみると、高僧と呼ばれた人たちの訳のわからない行動や言行が、よく見えてくるように思えるのだけどまさか?
2013.01.26
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普通だったら心配で真夜中に起きてしまうはずなのに、トイレにもいかずぐっすり寝ている。
2013.01.25
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会社から帰る道
2013.01.24
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この人は、仏の敵として描かれているのだけど資料はここからhttp://www.sakya-muni.jp/monograph/11/11-1/wikiより転載すると彼は釈迦族の諸王子たちと共に釈迦仏の弟子となったが、その後は釈迦に「五事の戒律」を提案するも受け入れられなかったので、分派して新しい教団をつくったという。彼が釈迦に提唱した「五事の戒律」は以下の通り。人里離れた森林に住し、村邑に入れば罪となす。 乞食(托鉢)をして、家人から招待されて家に入れば罪となす。 ボロボロの糞掃衣(ふんぞうえ)を着て、俗人の着物を着れば罪となす。 樹下に座して瞑想すべきで、屋内に入れば罪となす。 魚肉、乳酪、塩を食さず。もし食したら罪となす。 この五事の戒律を逆に読んでくると、当時の集団の戒律は村邑にいてもよかった。俗人の着物を着てもよかった。(もちろん華美なものは着ていないと思われるが当時のほとんどの人は貧しかったので、それと同じような清潔な清楚な衣服を着ていたと予想される。)樹下にいる人もいたが、屋内にいる人もいる。魚肉、乳酪、塩が入っていても良いものを食べていた。などなどそうとう緩く、普通の暮らしをしている人のように見えてくるのです。(それなりの厳しさはあるにしても)人々の中で普通に暮らしているように、みえてくるのです。今私にはなにかお釈迦様という人は、超人的なという近寄りがたい、なにか難しい訳のわからない雰囲気から、なにか身近な、もっとわかりやすい教えであったのでは無いかと言う思いがするのです。
2013.01.24
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朝食の時なのだが
2013.01.23
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途中で起きることも無く、トイレすら行かない ただしていることは、歩く瞑想、右足、左足と確認しながら歩いているだけ心がどんどん揺らがなくなるおそらくこの事は、ほとんどの人が知らないとおもう。健康法としてみるとその意味するところは、とんでもなくふかく、広いある本だったか、僧がなぜ長寿の人が多いかという理由の一つがここにあるように見えてきている。
2013.01.23
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自分でも不安が尽きない人間なんだけど思考病にかかっているのでは無いかと言う本を見つけた現在の文明はできるだけ体を動かさなくなってきてそれはきつい労働からの解放をもたらしたのだけど反面、その空いた時間で余分な考え(妄想)を巡らせるようになったため頭脳は、暇な時間ができると余計な考えが頭に出ざるを得ない構造になっているらしい、これは自分を振り返っても同意できる。この余計な思考が現代人をむしばんでいるのではないかと思えるのです。体をこまめに動かしていると、その動かしている事に思考がもっていかれるので、この脳の暴走が抑えられる部分があるという指摘です。
2013.01.21
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ずっと右足、左足と確認しながら、ラベリングを行った。
2013.01.21
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怒り、不安、後悔、懈怠、
2013.01.20
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実況中継をしながら、余計な雑念を追い出しているんだと気がついた連続的に思考していることで、感情の入った思考を追い出しているというか考えられないように持って行っている。これはスポーツをすると、勉強がよくできる様になると言う事と通じている。この感情というか広義の感情という思念が、相当邪魔をしていることに気がついている。この方法は、普通に歩いた状態より、相当変わっていることがわかる高い山に登ったように、ある意味すがすがしさが、心の中に存在していることがわかる。平安と言っても良いと思える。ともかく心の中から、この余分な感情、広義な感情を追い出している。
2013.01.20
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あくまで私の個人的な感想にすぎないのだがこれは宗教と言うより、技術にしか見えない心を操縦する方法に見えてくるわかる人間にはすぐ気がつくだろうこれはどの民族も、人である限り、どんな宗教を信じていてもこの技術は使えると言う事が、理解できる。心の科学みたいに見えてしようが無い誰でもできる、誰でもそれに気がつくだろうと思う
2013.01.20
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ちょっと気がついた事があるので書いておきたい昔からなぜインドを挟んだようにパキスタンとバングラディッシュというイスラム国が分かれて存在しているのだろうか?と言う事だった。今思っているのは、バングラディッシュのイスラム教徒は、元々は仏教徒が改宗した人々の末裔ではないかと思えるのです。wikiにあるように14世紀以降はインド亜大陸の政治的実権がイスラム教徒に移り、偶像崇拝を否定する名目で仏像や仏教寺院の破壊や、非暴力主義の仏教の僧侶や尼僧に対する虐殺、あるいは仏教徒のイスラム教への半強制的な改宗が行われた。また後期インド仏教はヒンドゥー教の影響を受けてタントラ教化していたが、かえってヒンドゥー教との間での信徒獲得の競合に敗れ去った。 最後の仏教寺院の破壊がイスラムの手で行われたので、仏教を指導する人々がいなくなったのですが(1302年東インドベンガルのヴィクラマンラー寺院の破壊)多数の在家信者が取り残される状況になったはずです。ここで問題となるのはカーストの存在で、元来仏教は身分制度を否定していますので、イスラムとはある意味親和性があります。今更ヒンズーの身分制度に取り込まれるのは、wikiにヒンズーへの改宗の項目にあるように他の宗教から改宗した場合は最下位のカーストであるシュードラに入ることしかできない。(またはそれ以下かもしれない)生まれ変わりがその基本的な考えとして強くあり、努力により次の生まれ変わりで上のカーストに生まれるしか方法はない。と言う状況では、平等主義ですごしていた仏教徒には、耐えられないと想像できるのです。また仏教が消滅した理由は、争いを避けるという事から滅ぼされたのだろうと思えるのです。またイスラム支配においては、他宗教の人々はシズヤと呼ばれる、人頭税を余分に払わなければなりません。仏教の僧は根源において、金銭を持たないので、イスラムの人頭税を払うことを根源的に拒否したために見せしめとして破壊されたのだろうと推測されるのです。
2013.01.19
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サマタなんだサマタ瞑想(パーリsamatha, サンスクリットśamatha、漢訳「止行」「奢摩他」、英語calm meditation)とは、仏教における瞑想の一種である。仏教において瞑想(坐禅)は止観とも呼ばれ、「止」と「観」とに大別されるが、この「止」がここで言う「サマタ瞑想」であるだということがわかる。祈らない人はいないと思う。全世界、人はみな同じ事をしている
2013.01.14
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下手はかわらないのだけど自分の下手さにイライラしなくなっている。練習が続けられそうな気がするいやになるとかが出れば、同じように観るを使っている。これは今日電気店で、ちょっと電子ピアノを弾いてみて気がついたやけに指の動きが速い事にずっと歩く瞑想を繰り返している。だんだん右足、左足からもっと細かく右足かかと、指先へともっともっと細かく観ることをくりかえしている。おそらくものすごいスピードで、数ミリ単位で足の裏を観ていることに気がついている。意思をくわえず、ただただ観ている。将棋をコンピューターとしている。不動、不揺とも言えるが心がゆらがないたしかに少しずつ伸びている。なんだろう この事はもう亡くなった父が、私に何十年前に経文を渡してくれた意味は、こういうことだったのでしょうかそのときは何もわからなかった。いやだったと言ってもよかった。でも強制など何もされなかった。そういうものでは無いから父は気づいてはいない とおもうでも原始経典は 父の書棚にはあり、そして今もある。もし父がいれば 問いてみたい。でも何かある。経典を読むだけではわからない、体験しないとわからないと父はよく言われていたがゆらがない心、様々な気づき、努力することが止まらない方法伸び盛りの若い人がこれを知ればと思う
2013.01.13
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かけていく
2013.01.13
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この見解私たちが「過去」や「未来」と称している時間というものは実はすべて今ここの思考作業によって瞬時瞬時に形成される心理的創造物ということなのですね。それは決して自分から離れたどこか別な所にあるわけではないのです。過去の後悔や恨みつらみも、また、未来の心配や不安も、すべて今ここでの心の中のおしゃべりによる創造物です。ですからそれに気づいて今ここでそのおしゃべりを止めれば、その瞬間に後悔や不安も消失します。誰でもが今この瞬間に、どこにも行かずに過去や未来の苦しみを軽減させたり、滅したりできるわけです。
2013.01.08
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この世界は美しい
2013.01.04
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昨日,,,,
2013.01.03
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悩みとか
2013.01.03
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これも前に書いた道は開けるの中にある言葉ですがインドからロンドンへ出て映画界で駆け出しであったころ、くよくよ悩み、ビクビクと脅えてすごしていた頃だれにも使ってもらえず、おなかも減り、不安で映画界は無理では無いかと思い始めた頃の話です。鏡の前に立ち、鏡をのぞき込むと、そこに現れたのは悩みが顔を台無しにしているではありませんかと言う事だった様です。いままでなかったしわ不安の表情悩みほど女性を老けさせ、気むずかしそうに見せ、表情の美しさを奪ってしまうものは無い悩みがあれば、私たちはあごをこわばらせ、顔には小じわが目立つようになる。悩めばしかめっ面にもなろう、白髪が増え、顔のつやはなくなりさまざまな吹き出物などの原因になるとこれを観て、これ以上悩むまいと決心したと言うことです。悩みが映画スターにとっての最大の財産、顔の美しさを失わせることを痛感したからだと語ったと言う事です。Merle Oberon(1911-79)本名:エステル・マール・オブライエン・トンプソン イギリス出身の女優・映画俳優。 1911年2月19日、英領インド・ボンベイ(ムンバイ)生まれ。
2013.01.03
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慧春尼は室町時代の女性ですが実の兄の了庵慧明禅師の元を訪ね、得度を願い出るのです。しかし三十歳を過ぎていた慧春尼の願いは、聞き届けられませんでした。此処からが並の女性ではないのです。慧春尼はこれを聞くと火鉢に鉄の火箸を焼き自らの顔を焼いたという、この覚悟をみて了庵慧明禅師は、慧春尼となることを許したといいます。気性の激しい人だったようです。ただそうなってもラブレターなどもらうこともあり、その相手に対して説法の後立ち上がって、その相手にもしあなたが私を愛しているならこの場で私を抱きしてみてくださいと言ったということです。
2013.01.02
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掃除をしているとき、
2013.01.01
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お釈迦様の初めのころの弟子となった、カッサパという火を扱う集団を教化したという話が残っていますが、前もお盆のところで書いたようにこの人たちはゾロアスター(拝火教)の人たちではなかったのか?と思える部分です。思った以上に仏教には、この影響が入り込んでいるのではないかと思えるのです。弥勒菩薩(マイトレーヤー)の信仰は、ゾロアスター教のミスラが変化したものの様でさまざまな要素が後から、加わってきているようです。
2013.01.01
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この本を読んでみる機会があったのですが、その第一章をひらいてびっくりすることがありました。最初に今日、一日の区切りで生きよそしてその章のおわりに過去と未来を鉄の扉で閉ざせ、今日一日の区切りで生きようとあります。これは前に述べた時間の考えと、まったく同じことです。この言葉は300年前くらいの英訳された聖書の言葉から出てきたものらしいのです(あすのことを思い悩むな)たしかに正しい考えで、これしかないのですが、では具体的にどうすればという訓練方法までは、残念ながらかいてありませんでした。わたしも書かれてあるのは、確かにわかるのだけど、やはりその思いにまとわりつかれていたといっても過言ではありませんでした。その消し方というか、小さくする方法が仏教の中にあったとは驚きです。
2013.01.01
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