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【続き】 木流堀の合流点から国道286号に戻る。このあたりの住所は「鹿野」である。国道に出る手前に文字通りの鹿野公園がある。芝生と遊具の公園で、樹木は少ない。公園の入口でイオよりやや小型の白い犬がウンチの態勢に入ろうとしていたので、驚かせないように離れたところで少しばかり待っていた。 その犬がどうかは分からないが、我が家のイオは他の犬に出会うとウンチのことがすっ飛んでしまうことがある。散歩が終ってからそれを思い出して、二度目の散歩に連れ出されることがある。飼い主としては、けっこう不都合なのだ。 Photo H1(上) 鹿野公園で。(2014/12/28 7:29)Photo H2(下) 国道を歩道橋で越えて。(2014/12/28 7:34) 鹿野公園を抜けて、国道を越える歩道橋を渡る。後肢に難のあるイオは、階段を上るときに後肢の調子がよく分る。今日の歩道橋は快適に登って行くので、少しほっとする。もう少し経てば、このような朝ドラ散歩も無理になる時期がやってくるのだろうが、少なくとも今日明日ではない。Photo I1(左) 旧笹谷街道の道。(2014/12/28 7:34)Photo I2(右) 雰囲気のある商店街に続く。(2014/12/28 7:43) 歩道橋を降りるとすぐに旧国道4号へ向かう道がある。その道に入ると、左手に仙台三桜高校のグランドがあった。校舎とグランドが国道286号で隔てられているのだ。生徒たちはさっきの歩道橋を並んで渡って来るのだろう。 さらに進むと長町小学校があり、その前の道に「笹谷街道」と書かれた石標があった。藩政時代には、仙台城下から、南の宿場町である長町を通り、笹谷峠の有耶無耶関を越えていくこの笹谷街道が仙台と山形を結ぶ主要な交通路だったということだ。 私にとっての笹谷峠は、雁戸山、山形神室岳、仙台神室岳への登山口でよく利用する道である。国道286号は笹谷トンネルで山形に抜けるのだが、そのトンネルだけ高速道と共同利用になっている。峠越えの道は大型車は通行止めになっているが、高速料金を節約するためか、ときどき大型車が登って行っては、すれ違い出来ずに立ち往生していることがあった。Photo I3(上) 「石田酒店」。(2014/12/28 7:45)Photo I4(下) 「郡山餅店」。(2014/12/28 7:46) 長町小を過ぎると、道はきれいに舗装され、街灯も商店街らしい雰囲気で整備されている。通りの並びには、仙台では姿を消しつつある個人商店の酒店とか、ケーキ屋や和菓子屋ならぬ「郡山餅店」という古くからの町屋らしい店が並んでいる。Photo J 左: 舞台八幡神社、右:蛸薬師如来。(2014/12/28 7:48) 笹谷街道沿いの商店街から左の路地に入ると、「舞台八幡神社」と「蛸薬師如来」への細い西参道がある。参道は、裏手から神社と寺の間を通っていく。舞台八幡神社の社殿と蛸薬師如来の本堂は並んで建てられていて、寺と神社の屋根の造りの違いが見られて面白い。 舞台八幡神社の「舞台」は地名で、源頼義がこの地に八幡宮を創建して陸奥の乱平定の本営したことに由来するという。蛸薬師如来は、正式には「淵上蛸薬師瑠璃光如来」で、淵上の地に京都西洞院蛸薬師如来に仏像を勧請したことに由来するとあった。Photo K1(左) 笹谷街道を横切る舞台八幡前の道。(2014/12/28 7:52)Photo K2(右) ビルの二階の銭湯。(2014/12/28 7:52)Photo L1 国道286号からの広い道。(2014/12/28 7:53) 表(東)参道から出た蛸薬師前の道は、笹谷街道を横切っていく。そのまま進むと、二階に銭湯のあるビルの前を通って広い道に出る。国道286号から来る道で、商店が並んでいる。左折して旧国道4号に向かう。 右手に「キャバレー ジャンボミカド」と大書した建物があった。シャッター前の様子からみて使われなくなってだいぶ経つようだ。キャバレーなる名前が仙台中心部から消えてどれぐらい経ったのか忘れてしまったが、その建物には、「焼肉」や「マージャン愛好会」の看板も張り付けられていて、キャバレー以後の歴史が偲ばれるのであった。Photo L2(左) 「2番街」という飲食店街。(2014/12/28 7:55)Photo M2(右) 旧国道4号からの「2番街」。(2014/12/28 7:57) 白塗りのキャバレーの建物の向かいには「2番街」の看板を掲げた路地があって、小さな飲み屋が並んでいる(「2番街」の看板は旧国道4号側にもあって、飲食店の並ぶ路地はL字型に連なっているらしい。)。 笹谷街道沿いの商店街も含めて、このあたりは、藩政時代の宿場町から明治以降の副都心として賑わっていたところである。現在は、JR線の東側に大きな商業施設が並んでいる地区が出来ているが、街歩きなら当然こちら側がふさわしい。Photo L3 旧国道4号の向こうに新幹線の高架。(2014/12/28 7:55)Photo M1 旧国道4号。(2014/12/28 7:57)Photo N パーキングの前で(後は新幹線の高架)。(2014/12/28 8:03) 旧国道4号の向こうの高架の上を上り新幹線が走っていく。旧国道に出て北上すれば、今日の散歩の終点である。イオは、並木の根元を1本ずつ調べるのでかなりのんびりと進み、パーキングにやっと辿り着いて、車の前で記念写真を写して散歩は終った。 撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。
2014.12.28
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朝ドラ散歩を少しさぼっていた。天候もあったが、何よりも気分が乗らなかったのだ。30年も前に、朝起きると全く気力がないという時期があった。低血圧だったのだ。それと似ているが、いまやちょっとした高血圧症(かかりつけの医者が140は高血圧症だと言い張っている)で、それは理由にならない。ただの「めんどくさがり」なのだ。 イオの顔を見るのが少しばかり気が引けて辛くなったので、まだ明るんでいない時間に家を出た。長町に着く頃には明るくなるだろうという算段だったが、なかなか明るくならないので、少しばかり遠回りの道をゆっくりと走った。Photo A 旧国道4号(奥州街道)。(2014/12/28 6:35) コインパーキングから大通りに出て、北に歩く。道脇に国道4号のマークと東京から348kmの看板があるが、ここは旧奥州街道の旧国道4号である。この道に平行にJRの東北本線、東北新幹線が走っていて、その東側に新しい国道4号が出来ている。さらにその東には国道4号のバイパスが走っている。Photo B1(左) 長町一丁目の住宅地(1)。(2014/12/28 6:42)Photo B2(右) 長町一丁目の住宅地(2)。(2014/12/28 6:45) 旧国道を北に歩いて最初の信号で道を渡り、すこし引き返してから住宅地の細道に入った。旧国道沿いには大きなマンションが多く建てられていたが、裏道には民家に混じってアパートがたくさんある。 戸建ての民家と思って近づいたら、一階にドアが一つ、二階にもドアが一つという二階建てのアパートだった。一階に何室あるのか分からないがそんなに広くはない。2所帯だけのアパートというのは珍しいのではなかろうか。Photo C1 木流堀沿いの道。(2014/12/28 6:49) 住宅地の中を二度ほど曲って、まっすぐな道を行くと突き当たりは、木流堀沿いのやや広い道である。その道を左折する。 木流堀は、藩政時代初期に作られた堀で、名取川の六郷堰から広瀬川の広瀬橋上流に繫がっている。名取川上流で切り出した木材を広瀬川経由で城下に運ぶという目的だったのだが、一般の農産物の運搬にも使われたという。 7、8年まえに広瀬川が大渇水のとき、この堀を使って名取川の水を広瀬川にある程度の量を流したということがあった。名取川から広瀬川への一方通行だが、そういう役にも立っている堀である。 木流堀沿いを西に進む道の向こうには大年寺山が見える。その高台には東北工業大学の建物、中腹には仙台三桜高校の建物が見える。三桜高はかつて仙台第三女子高校だったのだが、宮城県立高校の男女共学に伴って校名が変わった。Photo C2(左) 木流堀を渡って大年寺方向へ。(2014/12/28 6:56)Photo C3(右) 国道286号をくぐる隧道。(2014/12/28 6:59) 木流堀には住宅に応じて小さな橋がたくさん架けられている。堀沿いの道を西に歩き、橋を渡って大年寺へ向かう道に入る。道は国道286号で行き止まりになるが、脇に国道の下をくぐる歩行者専用のトンネルがある。Photo D1 大年寺の参道と山門。(2014/12/28 7:02)Photo D2(左) 山門の向こうは高い石段。(2014/12/28 7:03)Photo D3(右) 石段を眺めるだけ。(2014/12/28 7:04) トンネルの最後は階段になっていて、国道の歩道に出る。階段を上がったところが大年寺の参道入口である。坂の上に山門が見える。この大年寺は、仙台市野草園やいくつものテレビ塔が建っている大年寺山の名前の由来の寺である。 坂道を山門まで上がると、さらにその奥に石段がずっと続いている。その階段を下りてきて、山門前に止めた自転車の乗って行く勤め人ふうの人がいるかと思えば、ジャージー姿の人が石段を上がって行ったりする。 イオと私は、ずっと続く石段とそれを登って行く人をしばし眺めてから、山門を跡にして坂を下った。あの石段を上がって本堂まで行くなどとはついぞ思いもしなかった。ガンガンと山を登っていた昨年の一匹と一人はもういないのである。Photo E1 秋保通り(国道286号)。(2014/12/28 7:06)Photo E2 秋保通りから見る日の出。(2014/12/28 7:06) 大年寺の参道から286号に戻る。ここで初めてこの道を「秋保通り」と呼ぶことを中央分離帯の看板で知った。国道286号は旧秋保町を通るが、秋保温泉の手前で川崎町に向かい、そこから笹谷峠を越えて(今はトンネルだが)山形市に向かう道である。Photo F 福聚院山門。(2014/12/28 7:09) 秋保通りを南に歩く。右手に福聚院の山門が現われる。山門から覗くと、平屋根の近代的(?)な本堂が見える。福聚院は「奥州仙台七福神」の一つで布袋尊を祀っているという。 そういえば、朝ドラ散歩で荒町を歩いたときに仙台七福神の一つである毘沙門堂を見たことがあった。そのとき、七福神巡りをするのも一興だと思った記憶があるが、今の今まですっかり忘れていた。Photo G1 ふたたび木流堀に沿って。(2014/12/28 7:17)Photo G2 木流堀に沢が合流する地点。(2014/12/28 7:23) 木流堀が国道286号と交差するところからふたたび堀沿いに道に入る。堀と道の両脇は普通の住宅地である。やはりその住宅に応じて小さな橋がたくさん架けられている。 やがて道は堀から離れるが、地図を見ると上流に合流点があるので、それを見に行った。木流堀の左岸から同じような堀が合流しているが、すぐ上流は急激な傾斜になっていて、大年寺山や八木山からの自然の沢が流入しているようだ。撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。 【続く】
2014.12.28
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【続き】 街はクリスマスである。お祭りにはお祭り、デモのサンタクロース姿が暮れの街にとてもしっくりと馴染むのだった。それに、デモ納めという思いからか、参加者の誰もがとても元気がいい。 暮れのクリスマス直前の日曜日、一番町の人混みを分けてデモは進む。先週からはシュプレッヒコールとアピールトークに脱原発ソングが加わった。デモのリズムが一本調子ならなくてとても快適に歩ける。一番町に入る。(2014/12/21 14:43) クリスマスらしく。(2014/12/21 14:43~52)ハンドベル演奏を邪魔しないように、そっと。(2014/12/21 14:53) 一番町を藤崎前まで来ると、学生らしき若い女性の一団がハンドベルの演奏をしている。デモの列はそーっと横を通り抜ける。デモの列が通り過ぎてる時にちょうど演奏が終って拍手となった。デモの一団がいっせいに手に持った鳴り物で拍手に加わると、演奏者のみんなが大拍手に驚いてこちらをいっせいに振り向いた。 青葉通りではいっそう元気よく。(2014/12/21 14:58~15:03) 青葉通りに出るとアーケードの天井はなくなり、文字通りの青天井である。反響がないので、コールの声は少しばかり澄んで聞こえるようだ。 交通混雑で時間がかかった大通り交差点。 (2014/12/21 15:09~15:10)大通りも踊りながら。 (2014/12/21 15:11) 暮れの街は、人ばかりでなく車も多くなって、大通り(国道4号)を渡るタイミングがとれずに、時間がかかった。 先週は、地下歩道を歩いている内にデモの列がお踊りを渡り終えていたが、今日は逆にずいぶんと待たされた。交差点の角で、30羽ほどの鳩の群れに混じって、交差点を渡ってくるデモを待っていたのである。 最後尾もまもなく終点へ。(2014/12/21 14:11、13) 日曜日らしく、デモの最後尾は家族連れである。もともと、このような家族連れのために月1回の日曜デモが企画されたのであった。 12月14日の選挙当日に見た「もう一つのヘイ・ジュード」というテレビ・ドキュメンタリーは、チェコのマルタ・クビショヴァという歌手の話である。 マルタは、1968年に「プラハの春」と呼ばれた旧チェコスロバキアの民主化運動を弾圧するために進入してきたソ連軍とチェコ共産党政権に抗議するために、民主化運動を行う民衆を励ます曲であるもうひとつの「ヘイ・ジュード」をレコーディングして60万枚という大ヒットを生んだ。 そして、当然のごとく、レコーディングの3ヵ月後、ソ連当局によってレコードの回収と販売禁止が命じられる。さらに、マルタは監視下に置かれるばかりではなく、音楽界から永久追放されてしまった。 もうひとつの「ヘイ・ジュード」の歌詞の作詞者は、ズデニェック・リティーシュという人で、次のような歌詞だという。ヘイ・ジュード 涙があなたをどう変えたの目がヒリヒリ 涙があなたを冷えさせる私があなたに贈れるものは少ないけどあなたは私たちに歌ってくれるいつもあなたと共にある歌をヘイ・ジュード あなたは知っている口がヒリヒリする 石をかむような辛さをあなたの口から きれいに聞こえる歌は不幸の裏にある<真実>を教えてくれるねぇジュード あなたの人生を信じて人生は私たちに傷と痛みを与える時として 傷口に塩をぬり込み棒が折れるほど叩いて人生を操るけど 悲しまないで ブログ「もう一つのヘイ・ジュード(Hey Jude)/ビーバップ!ハイヒール」から テレビ画面に映るプラハのバーツラフ広場を見ながら思いだしたことがある。国際会議のあいまに若い研究者や大学院生5、6人とバーツラフ広場をぶらぶらと歩いたとき、この広場をソ連軍の戦車が蹂躙した「プラハの春」の話をしたのだった。 若い人には遠いことでも、1968年に22歳だった私には「プラハの春」は切実だったのである。1956年の「ハンガリー動乱」などとともにマルクス主義や共産主義国家について深刻に考え込まざるをえないような事件だった。 バーツラフ広場を歩いてから4、5年後、大学院生から研究者になっていた一人が、私が話した「プラハの春」のことをずっと覚えていると語っていて、少し嬉しかったことも思い出した。 そして、「もうひとつのヘイ・ジュード」を見た頃にちょうど読みかけていたのは、アルチュセールの『マルクスのために』 [3] のなかの「マルクス主義とヒューマニズム」という章だった。1968年以前に書かれたものだが、今になってみれば、じつに脳天気な共産主義国家ソ連についての言で、どんなふうに言葉を継いでいいのか分からなくなってしまう。……この〔社会主義ヒューマニズムの〕願いにもとづいてわれわれは、暗闇から光明へ、非人間的なものから人間的なものへ移りつつある。現にソ連邦が入っている共産主義は、経済的な搾取のない、暴力のない、差別のない世界であり、――ソ連邦の人びとに、進歩、科学、文化、食料と自由、自由な発展、こうしたものの洋々たる前途をきり開く世界であり――暗闇もなく、葛藤もなくなるような世界である。 (p. 423)[1] ジョルジュ・アガンベン(上村忠男、廣石正和訳)『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』(月曜社、2001年)。[2] ベルナール・スティグレール(ガブルエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)『象徴の貧困 1 ハイパーインダストリアル時代』(新評論、2006年)。[3] ルイ・アルチュセール(河野健二・田村淑・西川長夫訳)『マルクスのために』(平凡社、1994年)〔旧『甦るマルクスI・II』(人文書院、1968年)〕。[4] ジャン・ボードリヤール(今村仁司、塚原史訳)『象徴交換と死』(筑摩書房、1992年)。[5] 湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日新聞出版、2012年)。
2014.12.21
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先週の金デモから今日までの10日は時間の進み具合がとても遅く感じられた。どうしてかは判然としないが、衆議院選挙のせいかも知れない。自公勝利の予測がマスコミで大々的に流れ、結果もその通りになって、その後の選挙分析もまた完璧なデジャブのごとき時間の流れ方だった。既視であれば注視する必要もなく、すこしばかり現実から遠ざかっていたのかも知れないのだ。 その間、何をしていたのか。しばらくぶりで本屋に出かけた。そこでまだ読んでいなかったアガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの』 [1] を見付けた。ついでに仙台市民図書館に寄って、1ヶ月ほど前に読んだスティグレールの『象徴の貧困』 [2] をもう一度借り出した。そのときアルチュセールの『マルクスのために』 [3] という本を見付けた。この本は、昔、『甦るマルクス』というタイトルで出版されていたものの再刊だというが、何十年ぶりかで読んでみようと思い立ってこれも借りてきた。家に帰って、スティグレールの本に関連するだろうと、納戸を掻き回してボードリヤールの『象徴交換と死』 [4] を探し出した。 選挙(の予測や結果の)情報を遠ざけるような気分になって、本を読みふけっていたばかりではない。選挙当日には、NHKのBSで放送していた『もう一つのヘイ・ジュード』というドキュメンタリー(だいぶ以前に放送したものらしい)をそれなりにしっかりと見ていて、強く印象に残っている。 その長かった10日目の日曜昼デモは、今年のデモ納めでもある。 集会前の歌唱指導。(2014/12/21 14:11、14) 元鍛冶丁公園の集会風景。(2014/12/21 14:25~30) 集会前に、先週も歌った「赤鼻のトナカイ」の替え歌で脱原発ソングの練習があった。サンタクロースとトナカイが主役での声合わせである。 サンタクロースがたくさん参加して集会が始まる。中にはトナカイの着ぐるみの人もいるが、6人ほどのサンタクロースに1尾だけのトナカイである(過重労働だ)。 スピーチする人たち。(2014/12/21 14:16~33) 代表の西さんの挨拶からスピーチが始まる。みやぎ脱原発・風の会代表の篠原弘典さんが女川原発再稼働に向けた東北電力と宮城県の動きを批判しつつ、総括的な報告を行なった。 同じように、仙台市の動き(脱原発への動かなさ)について厳しく批判する市議会議員の花木さんのスピーチがあった。その動かない仙台市に働きかけるムーブメントとして「仙台市に原発ゼロを求める市民連絡会」を作ろうという呼びかけが、広幡さん(女川原発の廃炉をめざす泉区西部の会)からなされた。 元鍛冶丁公園を出発する。(2014/12/21 14:37~40) 風はあるもののそんなに強くはない。それでも集会中にどんどん冷え込んでくる。デモへ出発の合図を聞くと、少しほっとする。歩き出せば、多少は寒さをしのげるのではないかと思ったのだが、これは甘かった。私にはとても寒いデモになってしまった。昼デモなので、防寒戦略に怠りがあったのだ。 アガンベンの本は、アウシュヴィッツに収容された人びとの「証言」を取り上げて、歴史的な極限状況について言葉による証言の可能性(不可能性)を論じたものだが、そこに「der Muselmann」と呼ばれる収容者についての証言が紹介されている。 ムーゼルマンは直訳すれば「回教徒」という意味だが、一般のモスレムではけっしてない。人間としての心を失い、飢えと病気で死に絶えんばかりの肉体がモスレムの祈りの姿のように地面にうずくまる姿勢からそう呼ばれたのだという説がある。 ムーゼルマンは、「あらゆる希望を捨て、仲間から見捨てられ、善と悪、気高さと卑しさ、精神性と非精神性を区別することのできる意識の領域をもう有していない囚人」であり、「よろよろと歩く死体であり、身体的機能の束が最後の痙攣をしているにすぎ」 (p. 51) ない囚人である。ムーゼルマンは「ゴルゴンを見た者」 (p. 67) だ。ゴルゴンを見た者は人間ではなくなり、死に至り、 決して人間の側へ戻ってくることはない。 ムーゼルマンのことを読みながら、気になる一節があった。日本の選挙の時期に、選挙のことどもを連想するというあまりに卑近な私の妄想を少し恥じ入りながら、あえて紹介しておく。W. Sofskyの著作からの引用である。回教徒は絶対権力の人間学的な意味をきわめてラディカルな形で体現している。じっさい、殺すという行為においては、権力はみずからを廃棄してしまう。他者の死は社会的関係を終らせるからである。反対に、権力は、みずからの犠牲者を飢えさせ、卑しめることによって、時間をかせぐ。そして、このことは権力に生と死のあいだにある第三の王国を創設することを可能にさせる。死体の山と同様に、回教徒もまた、人間の人間性にたいする権力の完全な勝利のあかしなのである。まだ生きているにもかかわらず、そうした人間は名前のない形骸となっている。こうした条件を強いることによって、体制は完成を見るのである。 (p. 60) アガンベンも本の後半で論じているように、ナチスがアウシュヴィッツで成し遂げたことは、ミシェル・フーコーの「生政治」の極限の形態である。権力は人民の生殺与奪の権利として定義される。かつての専制権力は殺す権力であったのだが、近代の生政治は「生かしながら死ぬがままにしておくという定式によってあらわされる」 (p. 109) のである。 私がSofskyの言葉から想像したのは、ムーゼルマンの過酷な運命でもなく、ましてや生政治に関する深遠な思想的考察でもない。「ムーゼルマン」は現代日本社会におけるいわゆる「D層」ではないか、そう思ったのである。日本社会の階層図(ブログ「WJFプロジェクト」からの借用) 上の図は、小泉内閣の政治戦略マーケティングのためにある広告会社が考えた日本社会の階層を表わしている。横軸を「新自由主義に肯定的(否定的)」とすればもう少し一般性が高まるだろうが、縦軸はもう少しなにか適切な基準があるかも知れない。 IQは「生活年齢と精神(知能)年齢の比」として定義されるので、小学生レベルの漢字の読み書きに難のある60歳と74歳のIQはかなり低いと判定される。にもかかわらず、その二人がA層のもっとも象徴的な内閣総理大臣と副総理大臣だというのはこの図の信頼性を貶めている。もちろん、このようなカテゴライゼーションには例外が必ず存在するが、例外として首相と蔵相をA層から放逐したら政治的報復の怖れはないのか。 憎まれ口はさておき、選挙を左右しているのはマジョリティであるB層だというのは間違いないだろう。そして、D層こそは、近代生政治によって「生かしながら死ぬがままにして」おかれた人びとだろう。D層の人びとは、湯浅誠が描く [5] ように、貧困と生活に追われて政治参画などは考えようがない。いわば、貧困によってあたかも政治からも社会からも隔離されるように生きている層ではないのだろうか。 そして、安倍政権は「雇用が増えた」と誇るが、じっさいは正規雇用が減って非正規が増加しているということに過ぎない。つまり、安倍政権はB層の人びとをD層に押し出す政策に奔走しているのである。今、日本の社会はアウシュヴィッツのような生政治の極限に向かって走っているというしかない。 にもかかわらず、将来のD層予備軍であるB層の人びとによって自公政権は衆議院選挙で勝つのである。どう考えても自殺行為だ。「時の権力のイメージ戦略のままに死の崖に突っ走るレミングの群れ」というのはさすがに言い過ぎで心苦しいが、B層こそが私たちがいつでも呼びかけるべき層であることは間違いない。現状の社会ステムでは、マジョリティであるB層が変わらない限り、政治状況を変えられないのだから。 [1] ジョルジュ・アガンベン(上村忠男、廣石正和訳)『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』(月曜社、2001年)。[2] ベルナール・スティグレール(ガブルエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)『象徴の貧困 1 ハイパーインダストリアル時代』(新評論、2006年)。[3] ルイ・アルチュセール(河野健二・田村淑・西川長夫訳)『マルクスのために』(平凡社、1994年)〔旧『甦るマルクスI・II』(人文書院、1968年)〕。[4] ジャン・ボードリヤール(今村仁司、塚原史訳)『象徴交換と死』(筑摩書房、1992年)。[5] 湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日新聞出版、2012年)。【続く】
2014.12.21
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先週に続いて今日も寒い。天気予報の「この冬1番の寒さです」というセリフを厳冬期に向かう時期に繰り返すバカバカしさを笑っているのだが、ブログの出だしも同じパターンになりそうだ。 二週続けて寒い日のデモなのに、二週続けて最近ではやや多めの60人の参加者だった。この程度の寒さで騒ぐのは、風邪引き常習の私ぐらいなものらしく、宮城県人の行動にはまるっきり影響がないようだ。たいしたものだ。元鍛冶丁公園。(2014/12/12 18:22)フリートークの人たち。(2014/12/12 18:14~28) 集会のフリートークは、東京で上映された「フタバから遠く離れて」を見てきた人が、故郷を遠く離れて避難している福島の人びとへの想いを語ることから始まった。 次の話題は、井戸謙一弁護士(志賀原発運転差し止め判決を下した元裁判官)が河北新報に投稿した記事についてだった。 100mSvという数値は、それ以下で晩発性の放射線障害が発生するかどうかという議論でしばしば引用される数値である。100mSv以上では被曝線量に比例して晩発性障害が増加することは確定的に知られている。当然ながら、データの少ない100mSv以下でも、100mSv以上の線形性があると推定して、放射線障害予防策が採られてきた。 しかし、原発を推進する人びとは、「閾値」論を採用して、100mSv以下では障害が発生しないと主張しているが、もちろん科学的根拠はない。100mSv以下でのデータが少ないため意見が分かれているように見えるが、閾値論仮説は政治的恣意性の産物にしか思えない。影響があるかもしれない、ないかもしれないという科学的な段階で、危険があると考えて対処する保健物理学的意見の方が科学的良心(というよりも最低限の人間的良心)というものだろう。 毒が入っているかもしれない食べ物があるとき、どっちか分からないのだから食べましょうという愚か者はいないのである。それを人に食べさせようとすれば、それは犯罪である。 井戸弁護士の投稿の趣旨は、その100mSvの数値が「年間100mSv」として誤って流布されていることへの警告である。晩発性障害が発生するかどうかで議論される「100mSv」という数値は積算量であって、けっして1年間の被曝線量のことではない。少なくとも原発推進側の科学者であっても、生涯で100mSvを越えれば晩発性障害が増加する事実は否定できないのである。 一般人の年間の最大許容被曝線量を1mSvとするのは、積算線量100mSv以下と考えれば当然の数値である。したがって、福島の汚染地区への住民の帰還に際しては、生涯の積算線量を考慮して進められなければならないことは当然であって、年間20mSvなどという数字はもってのほかなのである。 元鍛冶丁公園を出発する。(2014/12/12 18:33、36) 三つ目の話題は、太陽光発電による「地域協同発電所を作ろう!」というアピールである。NPO法人「きらきら発電・市民協同発電所」が設立され、仙台市内に二ヶ所の発電所を設置することを目標に運動が進められている。現在、必要資金の半分、1500万円までの目処が立ち、残りの資金への協力要請があった。 また、「福島の旅」で小高町を尋ねた際、現地では年間1mSvという許容線量は実質的に反古にされていて、若者は町には戻ってこないことや、風が吹くと空間線量が高くなるという実情報告があった。若者がいない町の未来がいかなるものか、帰還した高齢者の苦悩する様子が伝えられた。 クリスマスを前にした脱原発ソングの披露と練習もあった。「赤鼻のトナカイ」の替え歌である。数度の練習で、デモ中に何回か「ダメよダメダメ、原発再稼動………」と声を合わせたのである。ま、私はコールで怒鳴ることはできても歌うことはまるで……なんだけれども。 フリートークの締めは、主催者からの「総選挙で投票先に迷ったら脱原発候補に」というアピールだったが、「選挙のときだけ脱原発を語る候補者がいるのでご注意を!」というコメント付きだった。 そういえば、ある自民党候補者が選挙ポスターに「脱原発」と印刷していて、ネットで話題になっていた。単に印刷してみただけかもしれないが、誰にでもすぐ分かる嘘を公的なポスターに印刷できる神経には驚くしかない。 まっかな嘘を平気でつける人が政治家になるのか、政治家になると嘘が平気になるのか、私にはその機制が分からないけれども、それでも私は選挙に行って確実にそんな政治家の一人に投票するのである。道の真ん中のクリスマスツリー。(2014/12/12 18:42)アーケードの光りもいっそう派手に。(2014/12/12 18:46、47) 一番町に出ると、道の真ん中にクリスマスツリーである。アーケードのイルミネーションも急激に数を増している。普段の夜よりもイルミネーションの分だけ一番町は明るくなっている。 明るくなった街に人出も多くなっている。デモのし甲斐のあるこういう日を「デモ日和」と呼ぶことにしよう。 イルミネーションに照らされてデモは行く。(2014/12/5 18:48~51) 一番町を行くデモの列の写真をあらためて眺めると、電飾の光りを反映するデモの列はどことなく発光している感じがあって、明るいイメージがする。みんなが意識的に明るい彩色の服装をしたらいっそう明るくなって、冬のデモとしては効果的かもしれない。そういう私は、今日も上下真っ黒の服なのだが。 大通りを越えてきた60人。(2014/12/5 19:01)終点、仙都会館前。 (2014/12/5 19:03) デモが大通り(国道4号、東2番丁通り)に差しかかったとき、交差点の向こうから大通りを渡ってくるデモの写真を撮るために地下歩道の階段を下って上ったら、デモは交差点を渡り終えるところだった。いつもはゆっくり間に合うので、のんびりと歩いたことは確かだが、こんなに早く渡ってくるとは。足の衰えだろうか。 3日ほど前、ちょっとした力仕事をしたときに、「あっ、これ以上は無理」という腕の筋肉の限界をありありと感じた。「重い」という感じはしなくて、「筋肉の耐えられなさ」を感じるという具合だった。 腕も足も……。
2014.12.12
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昼過ぎに雨が降り出したら白いものが混じっている。気温は2~3度くらいということだろう。先日のデモよりもう少し防寒度を上げて家を出たが、かなり寒い。これからはこういう寒い日のデモが続くだろうと思うと、すこし背中に力が入る感じがする。これで精神にも気合いが入ったら、なんとなく高村光太郎の詩の世界のようになるのだろうが、そうはうまくいかない。光太郎の世界は、私には立派すぎるのである。 集会中(元鍛冶丁公園)。(2014/12/5 18:17、26、27) 元鍛冶丁公園に着くと、いつもよりはるかに人が多くみえる。10人を超える新しい参加者が一角に集まっているためらしい。みんな若い人たちである。そのうちの一人がスピーチしたが、宮城ばかりではなく、福島、山形の人も含むグループらしい。みんなそれぞれ手製のプラカードを持っている。 大内真理さんも参加してコーラーを。(2014/12/5 18:08、33) 金デモの仲間で、いつもコールを担当している大内真理さんは、今日も参加している。大内さんは、この総選挙で日本共産党から宮城2区で立候補している。彼女を取材する撮影クルーが、彼女の動きをずっと追っている。今日も、デモ前半のコールを大内さんが担当したのだが、その間もずっとテレビカメラが張り付いていた。スピーチする浅野さんと金デモ代表の西さん。(2014/12/5 18:24) しばらくぶりで加美町から参加している浅野さんのスピーチを聞いた。二つのニュースを取り上げての熱弁である。 一つは、宮城県知事が福島県知事に指定廃棄物の最終処分を福島県で引き受けるように要望して一蹴されたというニュースである。東電福島第1原発から飛散した放射能の汚染された指定廃棄物を自治体で押しつけ合うのが筋違いも甚だしいという話である。国と東電が責任を持って処分すべきものなのだ。知事がものを申すべき相手は国と東電のはずだ。 放射能から県民を守る意識があれば自ずと採るべき行動は明白なはずなのだが、見るべき方向が逆転している。 もう一つのニュースは、原発立地自治体である女川町でのアンケート調査で、町民の過半数は原発反対だったという結果に対して、女川町長は「原発の問題は全体の立場から考えるべき政治問題で、1地方自治体が判断できる問題ではない」と発言したということだ。 ここでもまた、住民を向いていない政治の姿がある。地方自治体の首長は、選挙で選ばれた政治家ではないのか。政治家として全体の立場から原発という「政治問題」に対して採るべき政治的態度を決めるべきではない。もう少し厳密に言えば、女川町民に対して最優先の政治責任を有する女川町長として、(全体のことを勘案しようがしまいが)原発に対する政治的行動を明確にする義務があるはずだ。 知事も町長も、県民や町民に対する本来の責任と義務にまったく関心がないようなのである。それでもその職業から放逐されないあたりに、政治家が「profession」には含まれない理由があるのかもしれないが。ちなみに、professionに含まれる職業は「知性」とか「専門性」を必要とするものばかりである(と、英辞典に書いてあった)。 一番町を行く。(2014/12/5 18:38~39) 元鍛冶丁公園から国分町、稲荷小路を横切って一番町に出る。12月に入って、夜の街は少しばかり賑わいを増しているようだ。通りがかりの人があまり写りこまないような場所を探して写真を撮る。今日は、全体の写真を撮るのにけっこうたくさん歩かなくてはならないように感じる。いつもより20人ほど増えたデモの列の長さが、だいぶ足に効くのである。 新しい照明のアーケードの下を。(2014/12/5 18:44、45) 広瀬通りを越えると、アーケードの工事が終っていて、天井は淡い黄と青の優しい照明になっていた。アーケードの照明に比べると、植栽の電飾はやや暗くて目立たないが、派手な飾りよりずっといい。大通りを越える60人。(2014/12/5 19:00)仙都会館前で歩道へ。ここで解散。(2014/12/5 19:03) 広瀬通りから青葉通りまでの一番町が前より明るくなった分だけ、青葉通りは暗く感じられる。地下鉄南北線工事中の車道を抜け、東二番町通り(大通り、国道4号)にかかる。 ここの交差点には歩道がない。一般歩行者は地下歩道を通らなければならない。大通りを渡るデモの列を交差点の角から写して、急いで地下通路を通ってデモに追いつくのだが、息が切れる。上がった息が治まる頃には、流れ解散地点の仙都会館前だ。
2014.12.05
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