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「わたしは、忌野清志郎までだね」と、一月ほど前、妻が言った。聞き流したが、微妙にわからない。「まで」の意味が分からない。清志郎より若い世代は無理だということか、あるいはロックでも清志郎ならいいのか、メッセージ性のことを言ってるのか、とにかくわからない。 妻の助詞(「てにおは」)の使い方は、規則に縛られず自由奔放かつ創造性に富むので、介入のしようがない。聞き流すに限るのである。いずれにせよ、清志郎は受容範囲ということだけは確からしい。 忌野清志郎が「Love Me Tender」の曲に乗せて歌った「放射能はいらねー」という歌を、仙台の脱原発デモで若い人たちが歌うなどということもあって、最近、少しばかり忌野清志郎の歌を聴く機会が増えていた。 そんなところに、ミュージシャンの浦邉力さんがフェイスブックで「たまらん坂」の写真を清志郎の「多摩蘭坂」の歌詞のフレーズと一緒に載せているのを見かけたのだ。 東京に出かけるチャンスがあれば街歩きということにしているが、そろそろ場所を選ぶ決め手がなくなってきていた。忌野清志郎→多摩蘭坂→たまらん坂という連想で、結局、国立駅から「たまらん坂」を越えて国分寺駅まで歩くことに決めた。 Photo A 国立駅南口からまっすぐの「大学通り」。 (2014/5/31 12:06) 国立駅を南口に出ると、ロータリーの向こうに緑豊かな並木道、「大学通り」が南にまっすぐ延びている。「たまらん坂」へ行くなら、左斜めの旭通りを行けばよいのだが、並木の緑に惹かれて大学通りに入った。 大学通りはよく整備された道で、広い歩道に自転車専用道、桜並木の間も丁寧に植栽され、車道には駐車スペースがある。立派な道で、人工的に作る道としては最良に属するだろう。ただ、人工的な立派さにどことなくうろたえる気分が生じてきて、すぐに左手の路地に入って、旭通りに向かう。 Photo B 「旭通り」。(2014/5/31 12:10) 「Asahi st.」というロゴの旗が街灯に懸けられた商店街に入ると、「大作」という日本蕎麦屋があったので、大ざるを頼んで昼食とした。蕎麦屋さんを出て、陽の当たる道を歩き出すと、暑さで先行きが少し不安になる。体はまだこんな暑さには慣れていないのだ。Photo C 「たまらん坂下商店街」から見る「たまらん坂」。(2014/5/31 12:39) 旭通りは「東二丁目」交差点で変則的な五差路となる。東に向かう都道145号が「たまらん坂」の道で、140mmの望遠で覗くと、坂の立ち上がりが強調されて見える。この通りには「たまらん坂下商店街」のロゴの入った旗が掲げられていたが、それは「国立東坂下商店街」の別称らしい。Photo D 「たまらん坂」標。(2014/5/31 12:53) 坂の中腹、左の歩道端に「たまらん坂」という道標があった。たまらん坂で清志郎が「多摩蘭坂」を歌っているユーチューブの映像がある。石垣はコンクリート壁に変わっているが、おそらくこの場所で歌ったのではないか。多摩蘭坂を登り切る手前の坂の途中の家を借りて住んでる 確かに、たまらん坂から左に入る道は坂道である。坂を少し上ってみると、案内看板があって、この坂は新田義貞と鎌倉幕府軍との戦いに由来する「白明(しらみ)坂」だと記している。 「たまらん坂」標は、ちょうど国立市と国分寺市の境界にあって、ここからは国分寺市の坂を上ることになる。坂を上りきった台地を歩いて行くと、緑に囲まれた根岸病院があり、さらに先には「東京ER府中」、「都立府中病院」など5、6の医療機関の案内看板がある。 この地点は府中市らしい。地図で確認すると、この台地の部分だけ府中市が入り込んでいる。医療機関の看板から先はふたたび国分寺市である。Photo E 「むさしだいこみち」。(2014/5/31 13:10) 変則的な五差路の交差点を右の一番細い道に入り、坂を下っていく。「むさしだいこみち」という石版の上に子どもの彫刻が腰掛けている。「武蔵太鼓」という民俗芸能があるのか、と一瞬思ったが「武蔵台小径」である。 左手はアパートだが、右手の木々が覆い被さるような涼しい「むさしだいこみち」を下って行くと、アパートの向こうに小高い林が見える。「武蔵国分尼寺跡」の看板があって、この丘には「伝祥応寺跡」があるという。涼しそうな森中の道に誘われて丘を登る。寺跡は何もない広場で、人の踏み跡だけで出来たような尾根道があり、そこを辿ればすぐに丘は終る。下れば、右は黒鐘公園、左は緑地広場でその先には国分尼寺跡地が広がっている。Photo F 国分尼寺跡。左の森は「黒鐘公園」。(2014/5/31 13:22) 四、五歳の子どもたちが史跡を走り回っていて、傍の木陰では数人のお母さんたちがおしゃべりをしている。JR武蔵野線をくぐる前に振り返ると、史跡から続く一帯は緑一色である。Photo G 武蔵国分寺金堂跡。(2014/5/31 13:30) 史跡を過ぎ、JR武蔵野線の下をくぐり、JRと平行に走る府中街道を横断して、「元町通り」の指標のある細道に入る。人家の間に葱畑や果樹園が散在する曲がりくねった道を行けば、国指定史跡「武蔵国分寺跡」である。 この史跡のどこをどう見ればよいのか分からず、礎石が並ぶ金堂跡の脇を通って史跡を横断し、北の細道に出る。Photo H 国分寺薬師堂への参道。(2014/5/31 13:38) 細道を北に歩くと、武蔵国分寺という寺がある。元々の国分寺は1333年頃に終末を迎えたと考えられているので、その後に建立されたものだ。道は丘ににつながり、国分寺仁王門をくぐって石段を登っていくと、鬱蒼とした森の向こうに薬師堂が見えてくる。誰もいない、静かで涼しい快適な道だ。 参道の左端、笹薮の前に宮柊二の歌碑があった。むらさきの葛の花ちる石段を武蔵国分寺へわれのぼりゆく 薬師堂の前から左へ、小さな「国分寺公園」を抜けて道に出れば、右に国分寺の森から続く「武蔵国分寺公園」の緑が広がっている。国分寺第四小学校の校庭に沿って公園に入る。Photo I 「ふれあい橋」から見る東の「多喜窪通り」。(2014/5/31 13:50) 武蔵国分寺公園は多喜窪通り(都道145号)を挟んで広がっていて、南側の西元地区と北側の泉地区は、「ふれあい橋」という陸橋でつながっている。泉地区には広い円形広場があって、所々に生えている木陰を中心に大勢の人が遊んでいるのが見える。Photo J 広い緑地公園の傍に林立するマンション群。(2014/5/31 13:51) ふれあい橋から西に目をやると、マンションが林立している。広い緑地公園に隣接するマンション群というのは典型的な近代巨大都市の姿のように見える。例えば、東北の都市、仙台では杜の都と呼ばれながら、周辺に山林が多いために都市型公園・緑地の建設に関心がないように見え、このような風景は成り立たないように思えるのだ。Photo K この坂を下ってきた。(2014/5/31 14:00) 武蔵国分寺公園を出て、滝窪通りを東へ、国分寺駅に向かう。道はカーブしながら坂を下り、谷を越えてまた上る。坂を上りきれば、道の向こうに国分寺駅ビルが見えてくる。Photo L 坂上の道はまっすぐ国分寺駅へ。(2014/5/31 14:00) 喉はカラカラだがここで水は飲まない、ビールのために。街歩きMap。A~Lは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。
2014.05.31
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年に数日しかない東京での仕事を終え、急いでホテルにチェックインした。スーツ、ネクタイから我が身を開放して、急いで地下鉄で霞ヶ関へ向かう。6月1日には、「0601 官邸・国会前★大抗議」という大きなイベントがあるので、今日はお休みだろうと思っていたのだが、官邸前はやるのだという。「0530再稼働反対!首相官邸前抗議!」である。 仙台にいれば「脱原発みやぎ金曜デモ」だが、帰っても間に合わないので、ホテル泊まりにして、東京をうろつく予定を立てた。その最初の予定である。 地下鉄を出れば経産省「脱原発テント」前。 (2014/5/30 18:11) 地下鉄「霞ヶ関」駅構内をうろうろしたあげく、偶然目にしたエレベーターで地上に出たら,経産省テント村のすぐ脇に出た。テント村からまっすぐ、たくさんのビラを受け取りながら、官邸前に向かう。 官邸前まではかなり距離があるのに、ひとかたまりの人たちがいてコーラーの大きな声がしている。それは歩道沿いに適当な間隔で配置されたスピーカーの声で、コーラーは官邸に一番近い「総理官邸前」交差点脇の歩道にいた。抗議列の先頭。右端にコーラー。(2014/5/30 18:35) 抗議列の全体を眺めたくて国会議事堂側の歩道を渡った。急いで渡って写真を撮って戻り、最前列グループの最後尾に入った(写真の左端、切れた付近)。私と同じようにこの交差点を国会議事堂側に渡ろうとする人にときどきお巡りさんが質問している。地下鉄「国会議事堂前」駅を利用する人が多いようで、質問は簡単に終るのだったが、ときどき衆議院会館の方を指さす人がいて、交差点を渡る間もお巡りさんがなにかずっと話しかけている。 私が交差点を渡るときは何もなかったので不思議に思っていたが、首都圏反原発連合のスタッフと報道関係者は自由に動いているので、たぶん、私が首からぶら下げていた一眼レフカメラが免罪符になったらしいと想像できた(いつでも人は見かけが大事なのだ?)。先頭グループの最後尾で。(2014/5/30 18:36) 抗議の列の中でコーラーの声に応えて大声を上げる。迫力ある女性コーラーから、すごみのある男性コーラーに変わる。ひとしきりコールの声を上げると、スピーチが始まる。 スピーチは官邸に向かってなされるので、どの人も自然に激しい抗議口調になる。首相はシンガポールへ行っていて不在で、「帰ってくるな」という声も上がる。ドラム隊。(2014/5/30 18:51) スピーチが続いている間に、思い切って先頭へ行ってみた。そこではドラム隊の人が快調にリズムを刻んでいた。前の時もそうだったが、ドラム隊がいるその場所には、元気そのものが盛り上がると言いたくなるようなエネルギーが生まれてくる。後ろに続く人びと。(2014/5/30 18:41) 延々と続く抗議する人びと。 (2014/5/30 18:52~55) 最先端のドラム隊を見たので、それなら最後尾まで全部見てみようと下って行ってみた。延々と続く列に並ぶ人たちは、スピーカーから流れるコールに声を合わせている。列は衆議院南門の向かいのあたりまで続き、ゆうに200メートルは超えているようだ。宵闇の中で。(2014/5/30 19:35) ふたたび前の場所に入って抗議の声をあげていると、しだいに夕闇は濃くなっていく。首相官邸を囲むように並ぶビル群の窓の明かりが際立つ。誰かがツイッターで、「都会の夜景は残業から出来ている」と呟いていたが、確かに夜の8時近いこの時間は残業の時間だ。 阿部自民党政権は、「残業代ゼロ法案」を画策している。そうなれば、あそこに見える灯りの下では、報酬なしの労働、つまりは、近代的なガラス張りのビルの中で、人びとは奴隷労働に縛られるということになる。阿倍首相は奴隷集団の入るビルに囲まれて王様気分ということか。コーラーはミサオ・レッドウルフさん。(2014/5/30 19:51) そろそろ終りの時間に近づいた頃、ふたたび迫力溢れる女性コーラーが登場した。どんな人か、とても気になって、列を離れて見に行った。ミサオ・レッドウルフさんだった。 迫力、凄みまで感じさせるコールに圧倒されながらも、最後なので負けじと大声を上げた。喉が痛み出したころ、これで終りという案内があった。ミサオ・レッドウルフさんが告知などの司会をしたのだが、もうそのときは柔らかい暖かみのある声なのだった。帰りもテント前を通って。(2014/5/30 20:10)
2014.05.30
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遠くに薄雲がわずかに見える快晴の朝、5時をまわった頃、イオと家を出た。「ドライブ&朝散歩」なのだが、わずか20分ほどのドライブで目的地である。今日は、旧市街地の北東端に位置する東照宮付近を歩くのだ。 宮町の通りでコインパーキング場を見つけて、そこから歩き出す。宮町の通り(宮町商店街)をまっすぐ北に歩けば東照宮の鳥居にぶつかるのだが、石巻街道を右折、東進してから、梅田川沿いの道を歩くことにした。梅田川は、今はほとんど住宅地になった仙台市の北部丘陵を水源とするとても小さな川だ。流域すべてが住宅地の川の例に洩れず、水質が悪化してしまい、私は、周辺住民の環境保全活動のニュースで梅田川の名前を知ったくらいである。Photo A 梅田川沿いの道。 (2014/5/28 5:21) 石巻街道を300メートルほど東に歩くと梅田川にかかる宝蔵院橋がある。橋を渡って対岸、梅田川の左岸の道を上流に向かう。梅田川の水は極端に汚れてはいない。浅瀬に小魚は見えるし、カルガモも泳いでいた。それでも宝蔵院橋のあたりでは少しどぶ川の匂いがした。 イオにとっては初めての道で、私を引っ張るようにどんどん行く。私が川を覗きこんでいると、イオも立ち上がり、コンクリート護岸に手を掛けて覗こうとするのだが、残念ながら少し届かない。3回ほどチャレンジして諦めた。ずっとコンクリート護岸が続いているので,イオにしてみれば川沿いの散歩の気分は全くしないだろう。Photo B 延壽院の山門。(2014/5/28 5:27) 名前の分からない小さな橋を過ぎて少し行くと,さっきよりやや大きな橋があって、「ほうぞういんばし」というネームプレートが懸けてある。どうみても石巻街道の宝蔵院橋と同じ名前としか思えない。東照宮門前の寺の一つだった宝蔵院は、このあたりの地名にもなっていたらしい。とすれば、二つの宝蔵院橋の間にある橋も宝蔵院橋という名前なのだろうか。 「ほうぞういんばし」を過ぎると右手に大きな樹木の間から小さなお堂のようなもの見えて、とても雰囲気のいい空間を作りだしている。まわってみると、延壽院という寺の境内だった。Photo C 東照宮前橋から仙山線踏切越しに左の仙岳院、奥の東照宮を望む。(2014/5/28 5:28) 再び宮町の通りに戻る。その通りは「東照宮前橋」で梅田川を渡っている。JR仙山線の踏切を渡り、仙岳院山門付近で道を横断し、東照宮の鳥居に向かう。東照宮の丘に朝霧がかかっている。Photo D 東照宮参道。階段の上は霧に隠れている。(2014/5/28 5:30) 国指定重要文化財と記した立て標の向こうに犬の立ち入り禁止の看板があった。国指定重要文化財を見るか、犬と散歩を続けるか、ということだが、私は迷わずイオと一緒に歩くことを選ぶのである。いや、文化財がどうだというわけではない。イオと一緒にいたいだけだ。 東照宮はもちろん徳川家康を祭神とするのだが、由緒書きによれば、仙台藩二代藩主伊達忠宗によって、「徳川幕府への尊崇・感謝の標として」建立されたという。封建制の絶対権力の下での苦労が偲ばれるというものである。 鳥居の手前を道なりに右折し、東照宮周辺を歩くことにする。100メートルほどのところに空き地があって、その向こうに東照宮の森の下を通る小径が見える。そこに入って住宅地の道に抜ける。Photo E 坂上ほど朝霧が濃くなる東照宮裏手の道。(2014/5/28 5:37) 東照宮を周回するような道があって、その坂道を上がって行くと朝霧がだんだんと濃くなっていく。いつ頃からか記憶はないが、快晴なのに朝霧がかかる日は暑くなる、というのが私の経験則になっている。快適な気温のうちに散歩を終えて帰るにかぎる。 坂道を少し上がれば、東照宮の森の裏手で、そこにも丁寧に犬の立ち入り禁止の看板があった。坂道は森に沿って続いている。坂の途中の一軒の家の門扉の脇に「犬を抱き上げて垣の中に入れてウンチをさせないで下さい」という小さな看板があった。 犬のウンチを放置するのも問題だが、わざわざ犬を抱え入れて他人の敷地にウンチをさせる人間もいるのだ。犬好きに悪い人がいない、などという愚昧なことは言わないが、犬好きにそんな人までいるとは思いもよらなかった。人間の多様性というのは、愚劣な方向にも広いということだ。Photo F 丁字路から東照宮の森を振り返る。(2014/5/28 5:47) 坂道を上りきったあたりに仙台森林管理署があって、その向かい側には高いマンションビルがあった。道は丁字路になっていて、そこで振り返ると東照宮の森はあいかわらず朝霧に煙っていて、霧を通して太陽の形がぼんやりと見える。東照宮の丘にだけ朝霧が立ちこめているらしい。Photo G 坂道の途中のカーブ。(2014/5/28 5:49) 丁字路を左折すると下り坂だ。左手に大きなマンションのビルを見ながら下って行くと、右にカーブする付近で枝道が別れている。道の片側には大きな樹木が残されていて、坂道でしかもゆったりとカーブしている。散歩にとって理想的な道だ。 どんどん下って行くと変則的な十字路に出るが、その手前右手に大きな木々に囲まれた小さな公園があった。「台原六丁目南公園」という看板がある。Photo H 梅田川はJR仙山線に沿って流れている。(2014/5/28 5:57) 仙山線の踏切を越えると、道はすぐ左へ直角に曲るが、仙山線と民家の間に細道がある。そこに入ってみたが,すぐの元の道と合流する。その合流点付近で梅田川を越えるのだが、そこだけ歩道が車道より高くなってちょっとした歩道橋のようになっている。そこから見る梅田川は、川というより用水堀の風情である。Photo I 清浄光院の裏手。(2014/5/28 6:03) 道なりに南に歩いて行くと、左手に民家一軒分くらい離れて平行に走っている道がある。その狭い方の道を歩いて行くと、寺の裏手に出る。小さな墓地があって、ブロック塀のため頭しか見えない黒御影石の墓石や本堂の瓦が朝日に輝いている。ここまで降りてくると朝霧はまったくなくて、雲一つない空だけだ。 道は右に折れ、清浄光院の門前を通って石巻街道に抜ける。Photo J 長屋風の家が並ぶ路地。(2014/5/28 6:07) 石巻街道を渡って、向かいの細道に入る。アパートや民家の並ぶ住宅地である。小さな十字路に出て、まっすぐの道は細くて行き止まりになっているが、そこまで行ってどちらかに曲れば大通りに抜けられるのではないかと入ってみた。どちらの道も行き止まりだったが、懐かしい感じのする雰囲気のいい路地が続いていた。Photo K 大通りを東に進むと石巻街道となる。(2014/5/28 6:15) 路地を抜け出し、住宅地を大回りをして大通りに出る。この大通りの名前を知らないが、西に向けば途中から山形に向かう国道48号となり、東に進めばすぐに石巻街道となる。 大通りを東に進み、宮町商店街を北上して車に戻り、散歩は終了である。撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。
2014.05.28
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2014年5月21日、いいニュースが三つ続いた。(1) 「第4次厚木基地騒音訴訟」で、横浜地裁は、午後10時から午前6時までの間、やむを得ない場合を除き自衛隊機の飛行差し止めを命じる判決を言い渡した。(2) 沖縄県教委は、教科書共同採択地区から竹富町の分離を決定した。この決定は、八重山地区教科書採択問題で竹富町を訴える構えを見せていた文科省にその訴訟を諦めさせた。(3) 「関西電力大飯原発3、4号機運転差し止め訴訟」において福井地裁は、「原子炉を運転してはならない」という判決を出した。 当然ながら、脱原発デモを主張するために肴町公園に集まっている私(たち)にとっては、何よりも「原発の運転差し止め」判決がうれしい。主催者代表・西さん挨拶。(2014/5/23 18:19)浅野さん:「大飯原発運転差し止め判決」朗読。(2014/5/23 18:20) 主催者挨拶では西さんも、運転差し止め判決について話し、上級審での訴訟でもこの判決が維持されるためにはこれからの運動の盛り上げが大事だと締めくくった。 経験的に言えば、上級審ほど当てにならなくなる。高裁、最高裁と上がるにつれて人事に体制的なバイアスがかかるからだ。ましてや最高裁は、政治の側のピックアップ人事があって、最大の体制バイアスがかかっている。しかし、裁判官といえども時の世論には一定の配慮をするだろうし、福島原発事故が起きてしまったという事実は大きいだろう。だからこそ一層、福島原発事故の実態と真実を明らかにしなければならないし、反原発・脱原発の世論を高めなければならない。それは間違いない。 続いて、福井地裁判決要旨(のさらに要旨)を浅野さんが朗々とかつ力強く読み上げた。一文一文に歓声と拍手である。 判決文そのものは、添付資料を含めて117ページに及ぶ長文である(私は「原子力資料情報室」のサイトから判決謄本のpdfファイルをダウンロードした)。 主文はあっさりと次のように断言する。 被告は,別紙目録1記載の各原告に対する関係で、福井県大飯郡おおい町大島1字吉見1-1において,大飯3号機及び4号機の運転をしてはならない。 (「関西電力大飯原発3、4号機運転差し止め訴訟」福井地裁判決謄本、p. 1) 判決は、原子炉の仕組みから始まり、使用済み核燃料の保管方法の説明からその危険性の評価、耐震設計とその審査など仔細に言及する。しかし、なによりも重要なことは、原発の安全性(危険性)を考えるための最も根源的な法的基盤を「人格権」に求めている。それは「第4 当裁判所の判断」という章の「1 はじめに」で決然と述べられている。 個人の生命,身体,精神及び生活に関する利益は,各人の人格に本質的なものであって,その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり(13条,25条),また人の生命を基礎とするものであるがゆえに,我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない。 (p. 38) それに続く「2 福島原発事故において」の節で述べられた次の文章に、私は一番感動した。原子力発電所は,電気の生産という社会的には重要な機能を営むものではあるが,原子力の利用は平和目的に限られているから(原子力基本法2条),原子力発電所の稼動は法的には電気を生み出すための一手段たる経済活動の自由(憲法22条1項)に属するものであって,憲法上は人格権の中核部分よりも劣位に置かれるべきものである。 (p. 40) 脱原発デモで「たかが電気のために」というプラカードがあって、ネットではそれに反発する考えも散見されたが、この判決は、「たかが電気のために」という私たちのいわば感覚的主張を、憲法に基づく人格権によって確固とした法哲学、社会正義の考え方として明示しているではないか。たかが電気を作る一手段が人格権を前にして何ほどのことがあろうか、と主張しているのだ。 このような法的な考えに基づけば、原発推進を唱える人びとがよくする主張にたいしても、「危険性を一定程度容認しないと社会の発展がさまたげられるのではないかといった葛藤が生じることはない」(p. 40)と一蹴する。 さらに注目すべき論述が「9 被告のその余の主張について」で為されている。ここには原発問題を考えるうえで極めて重要な法哲学、社会正義の考え方が示されている、と私は考える。第9節の全文を示しておく。9 被告のその余の主張について 他方,被告は本件原発の稼動が電力供給の安定性,コストの低減につながると主張するが(第3の5),当裁判所は,極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり,その譏論の当否を判断すること自体,法的には許されないことであると考えている。我が国における原子力発電への依存率等に照らすと,本件原発の稼動停止によって電力供給が停止し,これに伴なって人の生命,身体が危険にさらされるという因果の流れはこれを考慮する必要のない状況であるといえる。被告の主張においても,本件原発の稼動停止による不都合は電力供給の安定性,コストの問題にとどまっている。このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが,たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても,これを国富の流出や喪失というべきではなく,豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり,これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。 また,被告は,原子力発電所の稼動がCO2(二酸化炭素)排出削滅に資するもので環境面で優れている旨主張するが(第3の6),原子力発電所でひとたび深刻事故が起こった場合の環境汚染はすさまじいものであって,福島原発事故は我が国始まって以来最大の公害,環境汚染であることに照らすと,環境問題を原子力発電所の運転継続の根拠とすることは甚だしい筋違いである。 (p. 66、太字強調は小野寺による) 名文である。文章作りが上手いかどうかよりも、書くべき内容が文章の美を決定するという典型的な例ではないだろうか。判決文という硬い文章にもかかわらず、とても美しい文章だと私は思う。正しい社会正義の品格が顕現している文章と言っていい。 しからば、間違った悪しき考え・思想に基づく文章は悪文である、と言いたくなる。しかし、ほんとうにそうなのかどうか、私にはよく分からない。 そのことを考える一例として、読売新聞の「大飯再稼働訴訟 不合理な推論が導く否定判決」と題した差し止め判決を非難する社説をあげておく。 私は読売新聞を読むことはないのだが、東京大学の安冨歩先生のツイッターで、先生が「「大飯原発3,4号機運転差止請求事件判決」に対する読売新聞の社説の分析」と題するブログ記事を書かれていることを知って、そういう社説があることも知ったというわけだ。 『原発危機と「東大話法」 傍観者の論理・欺瞞の言語』 [1] を著わされた安冨先生は、当然のことながら、この読売社説の欺瞞性を厳しく批判している。ブログは、出だしから快調に飛ばす。 大島堅一教授が指摘していたが、「大飯原発運転差止請求」なのであって、「再稼働訴訟」ではない。社説のタイトルからいきなり、名を歪めている。原告は、「再稼働するな」と言っているのではなく、「そもそも運転すんな」と言っているのである。 中身の引用は控えておきたいと思うものの、この楽しさ、心地よさにたまらず、「出だし」に呼応する「締め」の部分も引用してしまうのだ。大島堅一立命館大学教授のツイートを引用しておく。私と違って温厚な大島氏の発言である。大島堅一@kenichioshima 読売の社説は、阿呆が書いたと思われても仕方がない。判決文、全文読んだんだろうか。しかも「再稼働訴訟」とか書いてるし。判決では「大飯原発3,4号機運転差し止め請求事件」と書いてある。略すとしたら、「大飯原発差し止め訴訟」だろ。名称まで歪めるとは。 集会風景。(2014/5/23 18:37) 集会は暖かい雰囲気で進行した、と書きたいのだが、じつはとても寒い夕方になった。ときおり吹く風が厳しい。その寒さにもかかわらず、差し止め判決はみんなを元気づけている。 今日はいつもより参加者が多いようだし、みんな元気よくデモに出発した。 残念ながら、次の所用をこなすため、私はデモを見送って離脱するのだ。デモは肴町公園を出て行く。後から見送って離脱。(2014/5/23 18:44-5)[1] 安冨歩 『原発危機と「東大話法」 傍観者の論理・欺瞞の言語』 (明石書店、2012年)。
2014.05.23
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イオも私もまだ若くて元気だった頃、休日に「遠足」とか「長散歩」とか称して、4、5時間かけての仙台市内の街歩きをしていた。少しばかりイオの方が老いが早くて、もうこの春からは山登りばかりではなく、平地といえども長散歩は難しくなってきた。 車で山に出かけることに夢中だったイオを満足させるために、ときどきは車に乗せてやりたい。そう思って、車で朝の散歩に出かけてみることにした。仙台の街歩きをしたい私と、車で遠出をしたいイオと、毎日の朝の散歩を一緒にやってしまおうという算段である。 七郷堀が流れ出すあたり、舟丁とか八軒小路とか南染師町とか、心惹かれる地名のあたりを歩きたいと前から思っていた。それで、広瀬川の愛宕堰から取水する七郷掘の近辺を歩くことにする。 朝5時に家を出る。現在の国道4号線は、東二番丁通りを南下して愛宕大橋で広瀬川を越えるが、愛宕大橋手前を左折して旧国道4号を長町方向に進み、七郷掘手前のコインパーキング場に車を入れて、歩き出す。Photo A 広瀬川。上流に七郷堀が始まる愛宕堰が。 (2014/5/20 5:35) まず、七郷堀の始まりを見に行く。旧国道から入って、七郷堀沿いをまっすぐ行く。イオも張り切って歩いている(続いてくれればいいのだが)。広瀬川の堤防に出る場所に「愛宕堰取水樋門」という金属製の案内柱があるが、取水口はもっと上流にあって、立ち入り禁止で見ることができない。この案内板の少し下流で水は二手に分けられ、左は七郷堀、右は六郷堀として流れていく。Photo B 堤防したの河川敷公園(宮沢公園)の墓三基。(2014/5/20 5:36) 広瀬川の堤防の下、広い河川敷は宮沢公園である。PhotoAを写した堤防の真下に花を供えた石塔のようなものが見える。急な階段を下りて見に行くと、真ん中の上半分が欠如した石には「・・・信士」とあり、両脇は「・・・信女」とある三基の墓である。なぜ河川敷のこの場所にこの三基だけの墓があるのか知る由もないが、左には「元禄」、右には「享保」の年号があって(中の石はその部分が掛けている)、三〇〇年も昔の墓である。Photo C 小橋から見る七郷堀。【左上】上流、【左下】下流。【右】左岸の坂道を上がる。(2014/5/20 5:39) 堀沿いの道を戻ると、小さな鉄製の橋が架かっている。下流にはもう使っていないらしい橋がある。そこに繋がる道もないし、左岸は石組みの急斜面である。もう少し下流にも似たような橋があった。 橋の向こうは坂道で、その坂に惹かれて行く。坂道と橋は、散歩を豊かにする必須条件である。 いくばくかわれの心の傾斜して日当たる坂を登りつつあり 宮柊二 [1] そして、曲がり角と細い路地もまた通り過ぎて行きたい心惹かれる場所である。ただまっすぐに街のとおりがつっぱしっているのもかなしいがふとしたまがりかどへきたときそこになにかしらひとだまのようにぬらりとさびしいものがふらついているのをかんずることがある 八木重吉「無題」 [2] この詩は好きだが、残念ながら「ぬらりとさびしいもの」を感じるほどの繊細な感受性は私にはない。 坂道はとても短くて、大回りで再び七郷堀に下る。七郷堀に沿って旧国道を横切ると、舟丁(ふなちょう)に入る。50メートルほどで舟丁橋に出る。橋のたもとにしだれ桜が一本あり、その隣は仙台駄菓子で有名な「石橋屋」である。Photo D 舟丁橋としだれ桜と仙台駄菓子の石橋屋。(2014/5/20 5:47) 石橋屋の前を通る舟丁の道を北へ歩いてみる。右手に木造、黒板壁の古くて大きな建物がある。この黒板は焼き杉だろう。「武田染工場」という看板が掛けられてはいるが、窓は破れていて使われていないようだ。Photo E 武田染工場・裏。(2014/5/20 5:50)Photo F 南材木町の通り。武田染工場・表。(2014/5/20 5:54) 右折して南材木町に入り、再び七郷掘に向かう。この道(Photo F)は旧奥州街道の一部である。右手に「武田染工場」の看板を出す新しい店がある。こちらが表で、Photo Eは裏手だったのだろう。敷地の半分は南材木町で、もう半分は舟丁にかかる広い敷地の店ということらしい。 七郷堀に出て少し下ると、「越後屋染物店」の看板を掲げた木造の大きな旧家がある。南材木町を抜けて南染師町に入ったのである。藩政時代の名残の染物店というわけだ。Photo G 愛染橋と愛染明王。(2014/5/20 5:59) 越後屋染物店をすぎると愛染橋がある。「愛染明王」の前である。愛染明王は、染師の守り神として京都三条の愛染町から分霊したものだという。 境内に入ってみるとお年寄りが一人で掃除をしている。近寄って挨拶をすると、犬がとても怖いのだという。それで、遠くからこちらをじっと見続けている訳が分かった。早々に退散する。Photo H 東北本線と東北新幹線。七郷掘沿いの道は切れる。(2014/5/20 6:05) 掘沿いのまっすぐな道を直進する。東北新幹線の高架が遠くから見え、近づくとすぐそばを東北本線が走っていて、上り電車が通り過ぎて行く。七郷堀沿いの道はここで分断されていて、大回りしなければさらに東には進めない。 イオの足も少しゆっくりになってきたので、東進は諦め、周回コースで戻ることにした。Photo I 帰り足。(2014/5/20 6:10) 新幹線沿いの道を外れて、まっすぐな住宅地の道に入る。ほどなく山門も本堂も新しい浄澤寺という寺の前に出る。市内には珍しく墓地を隣接する寺である。少し戻って南に向かう路地に入ったが行き止まりで引き返す。 八軒中学校正門前で右折し、南材木町小学校を半周して広い道を旧国道に出る。旧国道の街灯柱に「昭和市電通り」という看板が掛けられていた。昔、八幡町、原ノ町、北仙台、長町を終点とする市電が走っていた。子どもたちを連れて、最後の花電車を見に行った記憶がある。Photo J 六郷堀脇の柳。(2014/5/20 6:32) 旧国道(昭和市電通り)を越えて、宮沢橋に向かう途中で六郷堀を越える。六郷堀はここからいったん地中に潜ってしまう。Photo K 宮澤橋から。上流・愛宕橋方向と下流・広瀬橋方向。(2014/5/20 6:33) いったん宮沢橋に上がり、上流、下流の遠望を楽しんでから、今度は六郷堀沿いを歩くのである。大きな柳の所まで引き返し、堀沿いを歩く。堀と道の間の狭い緑地には小手毬の白い花が咲いていて目を引く。Photo L 水路脇の花壇。(2014/5/20 6:38)Photo M 花壇脇の流れ。(2014/5/20 6:39) 堀沿いの緑地が少し広くなっているところに花壇が作られていて、たくさんの花が植えられている。とくに水辺近くのアヤメやムラサキツユクサの花色が鮮やかで目につく。 花壇の脇には堀を越える橋があって、堀を覆う緑の間から速い流れを見ることができる。その橋の所から六郷堀を離れ、七郷堀を越えて旧国道に出て、今朝の散歩は終りである。助手席に乗り込んだイオは、すぐにも背もたれに寄りかかりそうな風情である。Photo N 帰宅します。(2014/5/20 6:43)撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。 [1] 宮英子・高野公彦編『宮柊二歌集』(岩波文庫 2002年、ebookjapan電子書籍版)p. 77。[2] 『定本 八木重吉詩集』(彌生書房 昭和33年)p.127。
2014.05.20
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朝の散歩路のなかに、杉や雑木と一緒に孟宗竹が生えているところがあって、タケノコが毎年の楽しみだった。この季節になると、「もう出ましたよ」と犬散歩仲間が教えてくれる。今朝も通りがかりに覗いたら、太いタケノコが何本もにょきにょき土から頭を出していたのだが、少しばかり悔しい思いであきらめた。 宮城県では、県南の白石市、丸森町、県北の栗原市のタケノコに出荷制限指示が出ている。宮城県の南と北の地域のタケノコから100Bq/kgの規制値を超える放射能が検出されている。その間にある仙台のタケノコが安全と考える根拠は全くないのだ。 我が家の庭には、コゴミ(クサソテツ)が繁茂して困っている。それも春には食卓に上がっていたので、そのままにして楽しんでいたのだが、いまやただの雑草になってしまった。コゴミの出荷制限指示は、栗原市、大崎市、加美町、気仙沼市と、県の北部のほぼ全域に出されている。これもまた、福島に近い仙台以南のコゴミは安全と考えるのは不可能なのである。 犬と歩く楽しかるべき朝の散歩も、少なからず不愉快になって帰ってくるのだった。脱原発犬「チョモさん」がキャリーカーで登場。 (2014/5/16 18:15) 昨日と打って変わって少し風が冷たく、山沿いに雨雲らしい黒雲が見える夕方、デモに向かう。 集会場の肴町公園には、「脱原発犬」チョモさんがキャリーカーに乗って現われた。右後肢を傷めているのだという。手製のキャリーカーを作るのに手間取って、一月ほどデモに参加できなかったらしい。負荷の大きい大型犬の足の故障はとても心配だ。 我が家のホシという先代犬は後肢が立たなくなって、最後の3年ほどは要介護犬だった。ホシは年齢のせいだったが、チョモさんはまだまだ若いのですぐに直るとは思うのだが。阿部玲さんが反原発ソングを。(2014/5/16 18:29) いつものようにフリートークと告知があり、最後に阿部玲さんが反原発ソング、替え歌で「原発ないって、素敵なことね」と歌った。阿部さんは、明日の「紅次郎ライブin仙台」に出演予定で、仙台に先乗りしたということだ。集会終了はまだまだ明るい。(2014/5/16 18:30)一番町までは歩くチョモさん。(2014/5/16 18:47) だいぶ日が長くなって、デモに出発するころもまだ十分に明るい。チョモさんは、キャリアカーから降りて歩いている。少しばかり痛そうにしているものの、嬉しそうに尻尾を振っている。一番町に入ってまもなく、飼い主さんに促されると、さっとキャリアカーに乗り込んでいくのだった。一番町、広瀬通りで信号待ち。(2014/5/16 18:53)
2014.05.16
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久しぶりの肴町公園。めずらしく集合時間18:00きっちりに会場に着いた。肴町公園は、青葉通りや晩翠通りなどの大きな道からは奥まったところにあって、どの路地から行くのか、今でも間違うときがある。 「肴町」というのは、大町、立町、南町、柳町、荒町とともに藩祖伊達政宗とともに山形・米沢から岩出山、仙台と一緒に移ってきた商人の町で、6町を「御譜代町」と呼んでいたらしい(ということが立町の交差点の案内看板に書かれていた)。由緒正しい地名だが、この公園に地名が残るだけのようだ。肴町公園全景。 (2014/5/9 18:00) 先週は、幼児のような突然の高熱でデモを休んでしまった。2日間だけの発熱でケロッとおさまってしまった。医者にも診てもらったのだが、「なんだかわからん」といって解熱剤をもらっただけだった。こんなことは、この長い人生で初めてのような気がする。 それでも、休んだ後では、ほんの少しばかり新鮮な気分がして、いそいそとやって来たのだ。おかげで、1秒も遅刻はしなかった。初参加の青年がスピ-チを。(2014/5/9 18:18) 主催者からの挨拶(今日は会計報告)のあと、フリートークは初参加の若者から始まった。原発事故以降、魚と肉を食べていない、放射能汚染、内部被爆の危険性を訴えたいと熱弁を振るった。暮れていく中での集会風景。(2014/5/9 18:39) フリートークの最後は、浅野さんが今日はギターなしで登場して、詩を朗読した。ネットで流れて、いろんな集会で紹介されている詩である。福島県南相馬市からから関西へ避難された青田恵子さんという方の作詩で、『拝啓関西電力様』というタイトルである。「エアコン止めで、耳の穴かっぽじって/よーぐ聞け。」と始まる原発事故への抗議の詩だ。福島弁で書かれていて、それだけいっそう切実で激しい憤りが迸ってくる。 浅野さんの朗読もすばらしくて、会場は静まりかえっていた。一番町に入る。(2014/5/9 18:52) 青田さんの詩に「原発は 田んぼも畑も海も/人の住む所も/ぜーんぶ(全部)かっぱらったんだ。」という一節がある。「ハイマートロス」とか「故郷喪失」というものは、ロマン主義に限らず、ずっと文学、芸術の欠かせない主題だったが、いまやまったく異質の「故郷喪失」の時代になってしまった。 根本昌幸さんという詩人がいる。福島県浪江町に生まれて、原発事故によって相馬市に避難を余儀なくされた一人である。最近、根本さんの詩集『荒野(あらの)に立ちて ――わが浪江町』を読んだ。優れた児童詩も書いている詩人らしく、やさしく平明な言葉で書かれた詩集である。その中の一篇。ふるさとはどこですかと 聞かれてふるさとはありませんと 答える。ふるさとがない――それはほんとうですか。ほんとうです。そう言って うつむくほんとうにないんですよ。生まれた所はあるでしょう。それはもちろんあります。けれど今はありません。捨てた訳ではありません。途中からなくなったのです。悲しいことです。同情などいりません。目を閉じると美しい風景が浮かびます。あれは私のユートピアでした。夢など持ちたくても私も もう年を追いました。 根本昌幸「ふるさとがない」 [1]定禅寺通り、ケヤキ青葉のトンネルの下、デモ列と仙台市営バスが行く。(2014/5/9 19:11)シンプルで美しい。(2014/5/9 19:16) 生まれ育った地は、そこにそっくりそのままの物理空間として存在しているが、いわば異次元空間のようにそこに立ち入ることが出来ない。そこは生命の場所ではない。「死んだ町」だと詩人は語る。死んだ町だったと 言った人がいた。あと一言付け加えればよかったものをその人はそれで大臣を辞めた。しかし それはほんとうのことだある日 突然町から人が消えた。残された犬や猫や豚や鶏たち牛や馬。その他の動物たちは何を思ったであろう。言葉の話すことの出来ない動物たちは人っ子一人いない町を餌を求めてあるいは人間を求めてさまよい続けたに違いない。いったい何がおきたのだろう と。不思議に思ったに違いない。そしておびえるように鳴き声を上げたであろう。やがて動物たちは目に涙を浮かべて死んでいったのだ。ある日突然いなくなった人間たちを恨みながら。死んだ町は 今も死んだままだ。いつまでたっても死んだ町。いつかは消えていく町。幻の町。 根本昌幸「死んだ町」 [2]定禅寺通りから晩翠通りへ曲っていく。 (2014/5/9 19:22) 私たちは、まだ放射能の降り注いだ街で暮らしている。私(たち)の反原発の運動は「福島の人に寄りそって」などというものではない。「私たちも被害者だ」とスピーチした浅野さんの言うとおりである。 昨日、妻は知人から山菜を頂いて困り果てていた。「親切で持ってきてくれたのに……」。若い頃、職業被爆としてけっこうな線量を浴びた私だって食べないのだ。年老いたといえども、私はまだ人生を諦めたわけではない。[1] 根本昌幸詩集『荒野に立ちて ――わが浪江町』(コールサック社、2014年) p. 74。[2] 同上、p. 60。
2014.05.09
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