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朝6時にイオと散歩に出かけたときは、小雨にちらちら雪が混じる程度だったが、明るくなったらすっかり雪になっていた。天気予報では曇りときどき晴れだというのに、一日中ずっと降ったり止んだりしている。デモに出かける前、ふたたびイオと夕方の散歩に出かけたときには、広瀬川の河原には10cmほど積もっていた。 デモに出かけるかどうか、少しためらっていた。なんとなく体の動きがほんとうではない。昨日まで4日間、東京を歩き回ってきた。登山後の疲労のような感じだ。 デモをさぼる理由がただの遊びすぎでは、自分に向けてうまくエクスキューズができそうにないので、とにかく出かける。雪は小降りだがまだ降り続いてる。勾当台公園野音のベンチには雪が。 (2014/1/31 18:16) 18時15分頃、勾当台公園野外音楽堂に着く。ベンチには雪が積もっていて、みんな立ったままスピーチを聞いている。当然ながら、いつもよりは人は少なめだ。雪が降るくらいだから、冬としてはそんなに寒くない。仙台は雪降りの日は暖かいと相場が決まっている。中途半端に濡れるのが不都合なのだ。定禅通りの向こうは一番町。 (2014/1/31 18:46) デモに出発したが、今朝から張りを感じていた大腿部に筋肉痛が起きはじめているようだ。それに、気持ちがどことなくぼんやりしていて、どうにもコールに合せて大きな声が出ない。列の最後部にくっついて歩いているだけ、という感じになってきた。 一番町を行く(1)。(2014/1/31 18:46) 東京に4日間いたが、都知事選挙のポスター掲示板はいくつも見たけれど、選挙カーや選挙演説の場面には一度も出会わなかった。選挙権はないものの一時は注視していたのだが。 宇都宮さんだけが立候補表明しているときは、前回の都知事選の票数から見て、よほどの奇跡が起きないかぎり当選は覚束ないとはいえ、「脱原発」キャンペーンとしてとても大事な運動になると思っていた。 そこに、細川さんが「原発ゼロ」を標榜して立候補するというニュースで、にわかに「脱原発」候補が知事選に勝つ可能性が現実味を帯びてきた。明らかに政治的立場が違うとはいえ、政治を志している人たちなのだから、困難があっても共闘の話し合いぐらいには入るだろうと淡い期待もしていた。少しばかり夢中になって情況をネットで追っかけていたのだが、どちらもまったくその気配はない。それどころか期待とは真逆に脱原発派同士のネガティブ・キャンペーンが始まった(ネット用語でそれを「互いにdisる」と言うことを今回初めて知った)。 愚かなことにそのときはじめて気がついたのである。これはデジャブだ。何度も何度も見てきたことだ。長い年月、どれほどの選挙で投票してきたことだろう。私が投票した候補者が当選するなどということはほとんどなかった。何よりも当選しそうな状況が生まれたとき、いつも左翼どうしの足の引っ張り合いが始まるのだった。それでも私は投票するしかない。 左翼病である。日本の左翼にとって大事なのは「左翼としての正統性」なのだ。そして、選挙に勝ちそうになればなるほど「正統」争いは激しくなるのだ。その姿は、政党なのに政権に近付くことより正統左翼だと自認できることの方が大事だと言わんばかりなのである。政治的アクチュアリティへの対応能力が絶望的に欠如しているのだ。ずっとそうだった。 それで、いまは東京都知事選挙を少しは距離を置いて眺められる。せめて私は「dis」らないようする。仮にどちらかの脱原発候補者が勝つという結果で選挙が終ったにしても、脱原発運動は続くのだから。 一番町を行く(2)。(2014/1/10 18:48) ただ、ネット言説でとても気になるものがあった。「たとえ今度の選挙で勝てなくとも、正しい脱原発運動は子どもたち、孫たちに受け継がれていくだろう」という趣旨のものだった。それは違う。少なくとも私は、子どもたちの世代に原発を残したくないと思ってデモを歩いている。 脱原発の運動そのもの、運動を続けることそのものに意味があるのではない。脱原発が実現することにしか私がこうしてデモを歩いている意味はないのだ。「正しい運動」をやっているのだから脱原発が実現しなくてもいい、などという自己満足は明らかに欺瞞だ。それでは、脱原発デモはただのマスタベーションに過ぎなくなる。 そんなことを考えながら歩いていたら、身体がだんだん重くなってきた。デモから離脱して、近くの本屋に入った。奥の方の椅子に座って本を読むふりをしながらの休息である。身体が温まってから、バス停に向かう。
2014.01.31
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【続き】 Photo K1(左) 尾久銀座入口。(2014/1/30 11:11)Photo K2(右) 尾久銀座の看板犬。(2014/1/30 11:15) 尾久銀座は人通り(人より自転車)が多い。第1、第3土曜日の午後4時から7時まで「下町名物」の夕市を知らせる横断幕も張られていた。そういう時間帯こそ商店街らしいのだろうが、仙台からの通いの街歩きではそうそう自由にはならない。 下町らしくお総菜屋さんが多い。なかには,かなり高齢と思われるおばあさんが一人で総菜を並べているお店もある。これから増えるのかもしれないが、4品ほどしか並んでいなかった。 路上に商品を展開して開店している衣料品店では、立派な骨格の赤犬が静かにかつ威厳をもって店番をしている。 写真を撮るのも忘れてしまって、ずいぶんと楽しみながら歩いているうちに明治通りに出てしまった。Photo L 明治通りの上を日暮里・舎人ライナーが。(2014/1/30 11:25)Photo M 尾久橋通りに挟まれた公園。(2014/1/30 11:30) 明治通りを東に進んで、日暮里・舎人ライナーの高架をくぐって、尾久橋通りに平行する細道に入った。右手、尾久橋通りとの間にち小さな公園があって、ベンチでは3、4人のお年寄りが熱心に話し込んでいる。 公園でトイレを使わせてもらって、さらに道なりに歩いて行くと「冠新道」と交差する。Photo N1(左) 冠新道の商店街。 (2014/1/30 11:33)Photo N2(右) 「冠新道商興会」の看板が。 (2014/1/30 11:37) 「冠新道」という名前は,その由来が気になるようなネーミングではあるが、ネット情報では冠さんという人が土地を提供してこの新道ができたというシンプルな由来だった。 事務所やアパート、マンションのビルも混じる商店街で、東に歩いて行くと「冠新道商興会」のゲート看板が見えてくる。あそこが商店街の東の入口なのだろう。Photo O 京成本線脇の道。 (2014/1/30 11:41) 冠新道の商店街の東端に着く手前で右に折れ、京成本線の高架をくぐる。そこから、京成本線に沿って西日暮里駅に向かう。 道なりに行けば、まずはじめに常磐線の踏切を渡り、尾久橋通りを渡りながら京成本線の高架をくぐり、尾竹橋通りに出て西日暮里駅でJR線(山手線、東北本線、東北新幹線)の高架をくぐるのである。Photo P1(左) JR線高架をくぐる尾竹橋通りからの道。 (2014/1/30 11:50)Photo P2(右) JR線に沿って高台に登る道。 (2014/1/30 11:53) JR線のガードをくぐると線路に沿って坂道がある。坂道の上が「日暮里台緑地」のはずである。その坂を登る。Photo Q 坂道から見る西日暮里駅。 (2014/1/30 11:55)Photo R 西日暮里公園。 (2014/1/30 11:56) 坂道は、西日暮里駅のホームの高さを越えてから右に曲り、西日暮里公園入口に達する。道はそこで高台の尾根を進むように左に折れるが、公園に寄り道をする。 公園には荒川区の史跡や文化財を丁寧に紹介する看板がいくつか設置されている。明治以降の旧加賀藩の墓地の跡地に公園が造成されたという。ほかに、道灌山が虫聴きの名所として描かれた尾形月耕の「大日本名所図絵」、このあたりにあったという「道灌船繋松」が記載されている「江戸名所図絵」の絵入りの説明がある。Photo S1(左) 日暮里高台緑地の尾根道。 (2014/1/30 11:59)Photo S2(右) 富士見坂を下る。 (2014/1/30 12:05) 公園を出て、尾根筋の道を行く。左手、JR線との間に諏方神社がある。日暮里・谷中の総鎮守で、西入口の鳥居に「新堀谷中 総鎮守」の石碑が掛けられている。神社の境内を西から入って、南の正面から抜ける。 定光寺の看板が出ている墓地があり、そこに左へ下る坂があって「富士見坂」の案内があった。尾根筋の道はまっすぐ続いていて、その高台緑地を下ってしまうことになるが、富士見坂に右折した。 あいにく全天曇り空で富士山を望むべくもないが、「都内にはいくつか富士見坂があって、近年はどこでも富士山を見ることができない」というニュースを聞いた気がする。あるいは、「ここだけが見える坂だ」ということだったかもしれないが、それにしてもその「ここ」がどこだったかは記憶にない。 坂は墓地の脇を下る。下りきって左折すると、寺町らしい道になる。法光寺、南泉寺と続き、「墓苑受付中」や「浄苑56万円」などという看板が出ていたりする。Photo T 谷中銀座から御殿坂へ向かう階段。 (2014/1/30 12:05) 道は寺の多い住宅地というほうが適切で、湾曲しながら南へ下る。十字路があって、その先にも寺の塀が見える。寺町がつづくのだな、と思って十字路に差しかかると、全くの予想外だったが、そこは昨日歩いた谷中銀座の入口であった。地図を見ながら気が付いていなかったのである。Photo U1(左) 山門板塀の銃弾跡(たぶん)。 (2014/1/30 12:16)Photo U2(右) 経王寺山門。(2014/1/30 12:16) 階段を登り、御殿坂を下れば、今日の最終地点の日暮里駅である。階段を上がって、高台を横切るように進むと、延命院、経王寺と続く。 経王寺の山門前によく見かける荒川区教育委員会の看板があって、「新堀村の名主、冠権四郎」の子孫の「豪農、冠勝平」がここの寺地を寄進したという。さっき歩いた「冠新道」の土地の提供者もこの一族だったのだろう。 看板にはさらに、寺が彰義隊を匿ったため,明治新政府軍に攻撃された際の銃弾跡が山門に残っていると記されていた。確かに,山門の板塀にはそれらしい穴が開いている。 御殿坂を下り、線路に掛かる跨線橋「しもごいんでんばし(下御隠殿橋)」の途中から日暮里駅に入って、今日の街歩きと、東京の四日間はおしまいである。 街歩きMap。A~Uは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。
2014.01.30
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4日連続の東京の街歩きも4日目となると、どこを歩きたいのか簡単には決まらない。昨日は日暮里駅から歩き出したのだが、当初は日暮里と西日暮里の間にある「日暮里台緑地」に惹かれて選んだ場所だが、谷中銀座にぶつかったあたりから予定が狂いだし、結局、日暮里台緑地にはかすりもしなかったのだ。Photo A 町屋駅前の都電荒川線。 (2014/1/30 10:08) 今日は、日暮里台緑地を最終目標として少し離れたところから始点としたい。それで、日暮里駅から京成本線に乗り、先日降り立った「千住大橋」駅の一つ手前、「町屋」駅から歩き出すことにした。これが二度目の京成本線乗車経験である。Photo B 尾竹橋通り。(2014/1/30 10:13) 町屋駅前は、文字通り、都電荒川線の「町屋駅前」停留所である。あまり高くないビルと商店の並ぶ都電沿いの道を少し歩けば尾竹橋通りとの交差点である。その「町屋」交差点から右折して尾竹橋通りを歩く。 尾竹橋通りも駅前の通りと同じようなビルと商店がずらっと並んでいるまっすぐな道だ。どこか横道に入りたくなる道でもある。Photo C1(左) 第四峡田小学校が見える。(2014/1/30 10:17)Photo C2(右) 不規則な十字路。(2014/1/30 10:20) 左手の細道に入っていくと学校が見えてくる。第四峡田小学校である。「峡田」は、サカイダだろうか、タニダだろうか、まったく見当が付かなかった。後でネットで調べたら、難読地名・人名に数えられていて、「ハケタ」と読むのだそうである。 地図を見ると、第四ハケタ小学校の周辺の道は細い道が不規則に交差している(Photo C2)。いくぶん不安になったこともあって、なるべく早めに都電荒川線の道に戻った方が無難な気がする。Photo D 慈眼寺脇を電車道へ。(2014/1/30 10:24) 第四峡田小前の道をまっすぐ西に歩いていると、塀の上に墓石と卒塔婆の先端が覗いている墓地がある。「慈眼寺」という寺の墓地だ。Photo E 荒川線沿いの道。 (2014/1/30 10:26) 慈眼寺の手前を左折して都電荒川線の道にむかうと、そこは「町屋二丁目」停留所である。線路を越えて続く道は、商店街らしいたたずまいで足がむきかけたが、線路沿いを歩いてみるという気分に負けて、荒川線沿いの道を少しだけ歩いてみた。Photo F 満光寺の本堂。(2014/1/30 10:31) 都電沿いの道を、電車が走ってくるのをちょっとは期待しながら歩く。こういうときには電車は来ないもので、あっという間に信号のある踏切交差点である。 その踏切のところで左折してすぐに信号のある交差点があって、「満光寺前」の表示がある。その満光寺を覗いてみるために右折した。 満光寺の本堂は、コンクリート造りの近代的なものだった。先ほど通りがかりに見た慈眼寺も、マンションのような建物の三階とおぼしき高さに金色の仏像が飾られ、その上の四階に「慈眼寺」という金文字で記されていた。仏教寺院も近代化、現代化が進むのは当然だろうと思うものの、一瞬だけ異様な感じが胸のあたりを通り抜けていくのも事実なのである。 踏切交差点からの道の西側(満光寺側)は東尾久で、東側は荒川である。その荒川・町屋地区を歩くために満光寺から引き返した。Photo G1(左) 荒川町屋地区の道(1)。 (2014/1/30 10:33)Photo G2(中) 荒川町屋地区の道(2)。 (2014/1/30 10:37)Photo G3(右) 荒川町屋地区の道(3)。 (2014/1/30 10:51) 満光寺から引き返して「満光寺前」交差点を越えて細い道に入る。少し進めば、先ほど町屋二丁目停留所で見た商店街らしき道に出る。その商店街に右折する。 商店街らしいのだが、店はそんなに多くない。すぐに三叉路で道が分かれ、自転車屋さんの前を左の道を取る。似たような雰囲気の家並みが続く。 少しばかり変化を求めて右に曲ってみると、荒川区立第四中学校に突き当たる。中学校の塀沿いの道を左に進むと、三叉路、そのすぐそばにY字路がある。 その変形十字路を左折したのだが、少し歩いて地図を確認した。ところがどこを歩いているのか分らない。地図との対応がつかないのだ。少し慌てて、スマホを出し、GPSをオンにし、グーグルマップで現在地を確認し、少し歩いてみて、方角を確認した。 目指す方向とは反対に歩いていた。引き返す。まっすぐにさっき歩いた踏切交差点から続く広い道を目指して歩く。Photo H 広い道から分岐する裏通りへ。(2014/1/30 10:55) 出てきたところは「荒川五丁目北」交差点で、そこを右折した。ここから目指すのは東尾久の商店街である。その交差点からは北西の方向に在るはずなので、広い道から分岐する裏道に入った。Photo I1(左) 尾久本町通り入口。(2014/1/30 11:01)Photo I2(右) 尾久本町通り。(2014/1/30 11:06) 裏道からやや広い横道に折れて、荒川区立第九中学校の北東端を右折すれば、尾久本町通り商店街である。万国旗が道迂遠を賑わしているが、人通りは少ない。 昔ながらの落ち着いた商店街で、「人々の暮らす街」という雰囲気が溢れている。活気があろうがなかろうが、人はここで暮らすのである。Photo J1(左) 尾久橋通りを越えて「川の手もとまち商店街」へ。(2014/1/30 11:06)Photo J2(右)川の手もとまち商店街。(2014/1/30 11:06) 尾久本町通りを進むと、前方に日暮里・舎人ライナーの高架が見えてくる。尾久橋通りである。 尾久本町通りから続く道は、尾久橋通りを越えると「川の手もとまち商店街」に変わる(Photo J1)。名前は変われど尾久本町通りとよく似た商店街だ。人通りは少し多いようだ。 すぐに賑やかな十字路に出て、右の道は「はっぴいもーる熊野前」、左は「おぐぎんざ」という看板ゲートを掲げた商店街である。日暮里に近付く方向なので、尾久銀座の通りを行くことにする。 街歩きMap。A~Uは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。【続く】
2014.01.30
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【続き】Photo L 千駄木小学校前の通り。(2014/1/29 14:24) 千駄木小学校から帰校中の小学生の一団と抜きつ抜かれつしながら歩いて行くと、都道458号線「動坂上」交差点に出る。それにしても、子どもたちというのは、突然走り出したり、立ち止まっておしゃべりしたり、その予測不能な行動は見ていて飽きないものではある。Photo M(左) 不忍通り「動坂下」交差点。(2014/1/29 14:31)Photo N(右) 田端駅に向かう道。 (2014/1/29 14:33) 「動坂上」から不忍通り「動坂下」へ下る。交差点を渡って、「りゅうのすけ商店街」の旗がなびく道を直進すれば、今日の最終地点「田端駅」だが、まだ時間が早い。もう少し歩くことにして、最初の信号を右折する。Photo O 道の向こうに坂道が。 (2014/1/29 14:41) 芥川龍之介の匂いも雰囲気も感じないアパートの多い道を行く。左手の道に入ると向こうに坂道が見える。坂と曲がり角と橋は、散歩道の大事なポイントである。 その坂は道灌山を登る坂で、「道灌山幼稚園」脇の急坂を登っていくと、前を親子連れが歩いている。親子連れは、山手線沿いの高台(つまり、道灌山)の公園に入っていく。Photo P 道灌山の公園。 (2014/1/29 14:46) 公園ではたくさんの親子連れが遊んでいて、風体卑しい私としては、子どもたちにも親御さんにも不安を与えないように、公園内には入らず、公園脇の道をただまっすぐ歩くだけである。 このあたりの地図は線路だらけなので、J Rの線路を見下ろしに行ったが、どの線路が何線なのか私には分るはずもなく、すぐに引き返す。私に鉄道趣味が生じる兆しはないようだ。Photo Q(左) 寺院脇の急坂。 (2014/1/29 14:51)Photo R(右) 先は「りゅうのすけ商店街」。 (2014/1/29 14:56) 公園からの道は二つに分かれ、右手の細道に入ると、寺院の脇を急に下っていく。地図には「不動坂」という文字が見えるが、この坂が不動坂かどうかは分らない。道灌山に通じる道はどれも坂に違いない。 坂を下りきって、住宅地を抜けて「りゅうのすけ商店街」に出る。Photo S 田端八幡神社の参道。 (2014/1/29 15:00)Photo T 東覚寺と赤紙仁王堂。 (2014/1/29 15:05) りゅうのすけ商店街を渡ると、田端八幡神社と東覚寺が並んでいる。細長い八幡神社の境内敷地の参道沿いには各町内会の御輿の保管小屋が並んでいる。本殿は最奥の石段の上にあるが、ご老人が一人だけ、石段下の脇社に拝礼している。 東覚寺山門脇に赤紙仁王堂がある。赤い紙が全面に貼り付けられたものが一対、仁王堂前に並んでいる。これが阿像と吽像の仁王様で、自分の病気の患部と同じ場所に赤紙を貼って治癒を祈願するという。 田端八幡神社の由来書きによれば、この石造りの対の仁王像はもともと神社の参道にあったもので、明治の神仏分離で東覚寺に移されたそうだ。Photo U 道はまっすぐ。住宅地の道。 (2014/1/29 15:12) 新しく造られたらしい東覚寺前の広い坂道を登って行き、滝野川小学校前の道に右折する。小学校の門脇には公立小学校のお約束のようにソメイヨシノの古木が並んでいる。Photo V 「田端高台通り」。 (2014/1/29 15:18) 道は、交番前で「田端高台通り」にでる。左に折れてこの通りを歩き出したが、やや疲れも出てきたので、そろそろおしまいにしようと途中から引き返した。 田端高台通りを田端駅方向に進むと、りゅうのすけ商店街から続く道を陸橋で越える。Photo W 東台橋の上から田端駅方向の眺め。 (2014/1/29 15:21) 陸橋の東端の石の欄干に「とうだいはし」とあった(ネットで調べたら「東台橋」だった)。その東詰の欄干脇から田端駅方向に降りる階段がある。その階段を下れば、目の前は最終地点の田端駅である。街歩きMap。A~Wは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。
2014.01.29
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国立西洋美術館や東京都美術館で展覧会を見る機会は多いので、街歩きの始点が上野公園になることも多い。今日も西洋美術館で「モネ展」を見た後だ。同じ道は避けたいので、上野駅公園口から乗って日暮里まで移動する。 日暮里駅に降り立ったのは正午ちょっと前。昼食時の混雑はまだ始まっていないだろうと考えて、歩き出す前にどっかで昼飯を取ることにした。Photo A 「御殿坂」を上がる。 (2014/1/29 11:56) 駅を出て「御殿坂」という道標のある坂を上がると、右手に「生蕎麦 川むら」という看板の店を発見した。注文したのは「鴨せいろ」で、思い切って大盛りを頼んだ。 最近は食べきる自信がなくなっているが、2年ほど前までは、蕎麦は必ず大盛りを注文していたのだ。とてもおいしくて、食べ終わってもまだ食べられそうな感じがした。 Photo Aの道向こう、白い車の停まっているあたりに「川むら」はある。Photo B 坂下に谷中銀座。(2014/1/29 12:24) 右手のいくつかの寺を見ながら坂を登り切ると、坂の下に「谷中銀座」の看板ゲートが見え出す。谷中銀座があることは知っていたが、上野から谷中の墓地を抜けて根津や本郷を歩いたときには、下調べもしなかったので辿り着けなかったところだ。 日暮里駅にこんなに近いとは思っていなかった。Photo C(左)谷中銀座の街並み。(2014/1/29 12:26)Photo D(右)「小野陶苑」。江戸木箸を買う。(2014/1/29 12:44) 路上に工芸品を並べる店を過ぎて、階段を下って谷中銀座に入る。ここは地元の商店街と言うよりは観光地のそれのような雰囲気である。私もそうなのだが、歩く人間自体が観光客の雰囲気が満々なのであった。 左手に「江戸木箸/江戸切子」の看板を出している「小野陶苑」という店がある。予備の箸がなくなったという妻の話を思い出して、江戸木箸なるものを見ることにして店に入る。店のご主人は私より4、5歳年長(世間話で分った)の気さくな人で、江戸木箸の話を2割、戦争や兄弟の話を8割くらいのおしゃべりを楽しんだ。 五角や六角の木箸があって、なかに使い方が下手な人のための箸というのがあった。短くて、持つところは太く、先端は極端に細くなっていて、つまむ力が効率的に発揮できるのだという。 この3月で110歳になる義母は、指関節の変形が少し現われ、小さな食べ物をつまむのに苦労して、ときどき癇癪を起こすので、さっそくその箸を買うことにした。ほかに4膳の箸を予備用に買ったが、全部合せても義母用の1膳の箸と同じくらいのお金で支払えるのだった。Photo E(左)よみせ通り商店街。 (2014/1/29 12:46) Photo F(右)不忍通り。(2014/1/29 12:48) 谷中銀座は、「よみせ通り商店街」の道に突き当たり、そこを右折する。この通りは、普通の地元の商店街である。 左手に「すずらん通り」のゲート看板のある路地がある。飲み屋さんが並ぶこの路地を抜けて不忍通りに出る。Photo G(左)不忍通りを南へ。 (2014/1/29 12:50)Photo H(右)路地の向こうは須藤公園。(2014/1/29 12:54) 不忍通りを南に下り、途中から地図上に「千駄木」の文字があるあたりに入っていきたいと考えていた。適当なところで右手の路地に入ると、向こうに木々の緑が見える。「須藤公園」である。Photo I 須藤公園。(2014/1/29 12:56) 須藤公園は、須藤吉右衛門という人の庭園だったのを昭和8年に東京市に寄付したものだという。ここには、一度来たことがある。上野から谷中霊園を通って須藤公園に辿り着いたのだ。 その時は、ここから団子坂を下り、不忍通りに沿って、根津神社、不忍池、湯島天神、本郷(菊坂通り、東大)、神田明神、お茶の水まで歩いた。5年前は一度の街歩きでそれぐらいは歩けたのである。Photo J 旧安田楠男邸の門。(2014/1/29 13:03) 須藤公園を出て、住宅地を抜けると、正面に寺か神社と思えるような緑の多い屋敷が見える。近付くと門の前に白い案内板があって、それを読もうと思って近付いたら門の奥、玄関前の机に掛けている二人の婦人と目があった。 ここは旧安田楠男邸で、1996年に安田夫人から財団法人日本ナショナルトラストに寄贈され、東京都指定名勝の庭園とともに大切に保存されていたお屋敷で、たまたま今日が週2日だけの公開日だという。Photo K 旧安田楠男邸の内部。(2014/1/29 13:05~14:19) ボランティアの人の案内と説明付きの贅沢な見学になった。伝統的な日本建築の大邸宅で、洋風の応接室が違和感なくおさまっている。ガラスは建築当時のもので、表面が波打っており、ガラスを通して廊下に落ちる光が水面のさざ波に反射されているように見えてとても美しい。 長い廊下、床の間、書院、長押、欄間、そして江戸琳派を思わせる繊細な襖絵。どれもこれも、今は目にすることがほとんど無くなったものばかりだ。 見学の最後には甘酒をごちそうになって、旧安田邸を後にする。屋敷の前の通りを千駄木小学校に向かう。緩やかにカーブする静かな道だ。街歩きMap。A~Wは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。 【続く】
2014.01.29
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【続き】 Photo J 大楠に覆われる西向天神社。(2014/1/28 13:59~14:02) 都道302号線を東に少し歩いて信号を渡り、ふたたび横道に入って南に進む。マンションとビルの道だが、左手の路地の奥に緑が見えるので入ってみる。 そこには「西向天神社」という旗と鳥居があって、ちょっとした丘の上に神社がある。境内は立派な大楠に覆われていた。こんな雰囲気も仙台とは違う。常緑広葉樹の大木は仙台には少ない。神社といえば大杉が普通である。 境内をぐるっと廻って、南側の石畳の坂と階段を下りてふたたび南に歩き出すPhoto K 新宿中と天神小の間の道。(2014/1/28 14:03) 神社を出た道は新宿中学校と天神小学校の間を通る。この天神小の名前は、西向天神社に由来しているのだろうか。地図を調べたら、先ほどの西向天神社のところに「天神山児童公園」というのがあるらしい。その児童公園には気が付かなかったのだが、神社の丘は「天神山」なのであった。 学校道を少し歩いて、次は西に進路を取ることにする。せっかく新宿駅東口に向かうのだから、歌舞伎町の中を通ってみようということである。西へ西へと向かえば歌舞伎町に入るはずなのだ。Photo L 「新宿六丁目」交差点で明治通りを渡る。(2014/1/28 14:12) 西に向かう細道は途中で突き当たったりしたが、明治通りの「新宿六丁目」交差点に出る。交差点を渡り、直進して歌舞伎町に突入する予定だったが、道脇に遊歩道と言うべきか歩行者専用道というべきか、緑の道が見える(Photo M)。Photo M(左) 遊歩道入口。(2014/1/28 14:16)Photo N(中) 橋のような道。 (2014/1/28 14:16)Photo O(右) うねりながら続く道。 (2014/1/28 14:17) その遊歩道に歩いてみることにした。入ってすぐの地面は1mほど低くなっていて、道はその付近では木製の橋のようになっている。登山道で湿地を越える道のようだ。道は石畳となり、次第に左に湾曲していく。 遊歩道と交差する路地を覗くと「新宿ゴールデン街」の看板がみえる。この名前には記憶がある。 じつは、大学1年か2年の頃、何を思い立ったか、夜行列車で東京に来たことがある。新宿が目当てだった。たぶん、アングラ演劇の聖地、新宿と花園神社あたりに行きたかったのだろう。寺山修司だったのか唐十郎だったのか、実際にたどり着けたのか、記憶は一切ないのだが、「新宿ゴールデン街」と「花園神社」という名前だけはよく覚えている。 そのとき、ひどい人酔いをして「私には東京は無理だ」と思ったこともなぜか覚えている。たぶん、人酔いをするたびにその時の人酔いを思い出していたからだろう(人酔いのことしか覚えていない東京経験というのも情けないが)。 そうだ、花園神社だ、と思ったが、その時私が持っていた地図には花園神社の名前は載っていない。スマホを取り出し、グーグルマップで検索をかけたら、遊歩道の途中を左の路地に入れば、すぐに花園神社に出るという。Photo P 花園神社。 (2014/1/28 14:24) 路地を抜けると、コンクリート階段の上に鳥居があり、花園神社本殿の脇に出る。本殿を過ぎ、境内を正面参道の方に行く。境内の広場の端に「芸能浅間神社」という石碑が有り、その石碑よりもずっと小さな社が祀られている。 その神社を囲む低い塀には金属板に赤い文字で記した名前がたくさん並んでいる。中に「唐十郎」や「三ツ木清隆」の名前が見えたので、役者などの芸能人がたくさん参っているということらしい。Photo Q ふたたび遊歩道の中で。 (2014/1/28 14:30) 花園神社横からビルの間を抜け、靖国通りに出た。歌舞伎町を抜けるには遊歩道を南に下った分を北に戻らなければならない。そう思っていたら、遊歩道が靖国通りに抜け出るところがあったので、遊歩道をさっきの逆方向に歩いた。 そこにはちょっとおしゃれな公衆トイレがあり(使わせてもらった)、イルカに乗った子供やカタツムリに乗った子供の彫刻があった。 先ほど花園神社をめがけて曲った路地の反対の路地に入り、新宿区役所通りの文字通り「新宿区役所」の前に出る。Photo R 「新宿区役所通り」交差点を曲ると。 (2014/1/28 14:33)Photo S 歌舞伎町を客引きに悩まされながら。 (2014/1/28 14:36) 区役所通りを北上して「新宿区役所通り」交差点を左折して歌舞伎町に入る(Photo R)。路地を二つほど過ぎてから左折して、歌舞伎町飲み屋街のどまんなか(たぶん)を歩く。 午後2時過ぎの真昼だというのに客引きがけっこううるさい。何を言ってるのか小声で聞き取れないのだが、誘われているのは間違いない。あまり経験がなくて戸惑うが、さすが歌舞伎町というべきか。 辻ごとに客引きに誘われて悩ましいのだが、向こうに歌舞伎町の大きなゲート看板が見えてきて(Photo S)、そこが端だと思うと少し足早になる。Photo T 道の突き当たり、ビルの向こうが新宿駅。 (2014/1/28 14:39)Photo U 向こうに国際劇場の看板が。 (2014/1/28 14:41) 歌舞伎町からまた靖国通りに抜ける。靖国通りを渡って、新宿駅東口への道に入る(Photo T)。欅並木のその道を突き当たり、クランク上に国際劇場のある通りに入る。 国際劇場のある通りから左折して、新宿駅に行く地下道の前で今日の街歩きは終わりとした。 真昼の歌舞伎町は異世界のようだった。私にとって、日本の中で私からずっと遠い場所と言えば、東京都千代田区千代田1番の皇居の中、あるいは千代田区永田町・霞ヶ関界隈の政治中枢だろうとぼんやりと思っていた。しかし、まったく逆方向の感覚だが、歌舞伎町もずっとずっと遠い場所に思えた。若い頃、私は大酒飲みだったが、歌舞伎町のようなところで飲む酒飲みではなかった。街歩きMap。A~Uは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。 [1] エマニュエル・レヴィナス(合田正人訳)「時間と他なるもの」『レヴィナス・コレクション』(筑摩書房、1999年)p. 260。
2014.01.28
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世界における人間の生活は、それを満たす諸対象を超えては進まない。われわれは食べるために生きていると言うのはおそらく正しくないが、われわれは生きるために食べると言うのも正しくない。食べることの究極の目的は、食べ物のうちにある。花の香りを嗅ぐとき、この行為の目的は香りに限定される。散歩すること、それは外気を吸うことであるが、その目的は健康ではなく空気である。世界におけるわれわれの実存を特徴付けているのは様々な糧である。 エマニュエル・レヴィナス [1] 新大久保は、一度は見ておきたい街だった。日本国民の歴史的アイデンティティの中でもっとも醜悪な部分を現代に引きずって体現する人々がデモをする街だ。いわゆる「在日特権を許さない市民の会(在特会あるいはザイトク)」が人種を差別する言葉を叫びながらデモをするいわゆる「ヘイト・デモ」の現場だ。 福島原発事故に次ぐ憂慮すべき最悪のことがらである。自民党の中でも最右翼に位置する阿倍晋三政権が成立したので、すっかり自信をつけたらしい日本のネオナチは「良い朝鮮人も悪い朝鮮人もみんな殺せ!」などというプラカードを持ってデモをするのだ。 しかし、そのニュースが流れたあとでは、彼らの数倍にものぼる人たちがレイシストたちのデモを囲んで差別に反対する抗議の声を上げるようになった。いわゆるカウンターデモがなされるようになったのは心強い。劣悪な精神に蝕まれたレイシストはごく少数には違いないが、その少数が多くの人の心を傷つけている。 新大久保駅を降りて、大久保通りを左(西)に行くか、右(東)に行くか悩んだのだが、結局山手線の内側(東側)を歩いて最終的には新宿駅東口に向かうことにする。 西の方も気になるので、少しだけそちらに歩いたら皆中稲荷神社(Photo A)という小さな神社があった。皆中は「かいちゅう」と読むらしい。その境内でザックからカメラとガーミン(GPSトラック記録装置)を取り出し、今日の出発点とした。Photo A 皆中稲荷神社。 (2014/1/28 13:20) 皆中稲荷神社には例大祭として「鉄砲組百人隊行列」がある、と境内の案内板にある。江戸時代にここ百人町にあった幕府の鉄砲組に由来すると言う。Photo B(左) 百人町文化通りの路地。(2014/1/28 13:20)Photo C(右) 大久保通りと山手線。(2014/1/28 13:21) 神社から新大久保駅の方向に戻ると、道向こうに百人町文化通りの商店街(Photo B)、山手線の下をくぐって続く大久保通り(Photo C)が見える。百人町文化通りに入ってみる。 日本語とハングルの看板に混じって、私の知らない言葉の看板があってspiceやfoodの文字が見えるので食料品店のようだ。そんな店が数軒あるが、商店街はすぐに尽きたので、左の路地に入って、また左に折れて大久保通りに戻って来た。Photo D 大久保通り、山手線のガードをくぐると。(2014/1/28 13:28) 大久保通りには確かにたくさんの外国人が歩いているし、通り沿いの店には確かにハングルの看板が目立つけれども圧倒的というわけではない。大久保通りに交差する路地を眺めてみるが、ほとんどふつうの住宅街のようだ。 新大久保駅からの距離に反比例して、人通りも店も少なくなってくる。駅の反対(西)側の方がよかったかなとちらっと考えたりしたが、そのまま直進する。Photo E 全龍寺の参道と山門。 (2014/1/28 13:33) 大久保通りの右手の奥に全龍寺が見えている。普通に寺があってもなんの不思議もないのだが、外国人と外国語が多い街並みを歩いて来た後では何かしら奇妙な感覚がある。 以前に築地市場を歩いていたとき、コンクリート造りの築地本願寺がインドあたりの石造りの寺院に見えたのだが、そのときの感覚とちょうど逆の感じなのだ。Photo F 「大久保二丁目」交差点付近の柳。(2014/1/28 13:41) 大久保通りも「大久保二丁目」交差点付近まで来ると、そろそろこの通りから離脱して南に向かったほうが良さそうである。交差点を渡ろうとしていると、道向かいに緑の柳並木(二本ほどしかなかったが)がみえる(Photo F)。 銀座周辺がそうだったが東京には柳の並木道が多いな、と思ってなんとはなしに見ていたのだが、今は真冬である。なのに、柳の葉が青々としている。仙台では絶対にこんなことはない。東京は、まるで南国ではないか。 そういえば、山手線のガードをくぐって最初の信号のところで、私は冬物の上衣を脱いでザックにしまったのだった。Photo G 戸山公園(?)。 (2014/1/28 13:45) 交差点を過ぎて、大きなマンションと東戸山小学校に挟まれた緑地に入ってみる(Photo G)。戸山公園の一部なのかどうか判然としないが、なんとなく荒れた感じのする緑地だった。Photo H アパートとマンション。(2014/1/28 13:51)Photo I やはり、アパートとマンション。(2014/1/28 13:54) 戸山公園に続く緑地を出て、狭い道に入って南に向かう。民家もあるが、アパートやマンションの多い道が続く。都道302号線という広い道に出る。地図では、この道の下を地下鉄・都営大江戸線が走っている。街歩きMap。A~Uは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。 [1] エマニュエル・レヴィナス(合田正人訳)「時間と他なるもの」『レヴィナス・コレクション』(筑摩書房、1999年)p. 260。【続く】
2014.01.28
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【続き】 Photo J 中央本線の高架の向こうは「高円寺駅入口」交差点。(2014/1/27 14:04) 道は、JR中央本線の高架の手前でふたたび還七通りに戻る。還七通りに沿って高架をくぐると「高円寺駅入口」交差点で、そこを越えてから左の細道に入る。 杉並第四小学校の南面を道なりに歩いていくと、十字路の右手に「高円寺あづま通り商店街」を掲げた街灯が見えたので、その道に入る。ポツポツと普通の住宅が混じる商店街で、落ち着いていてとても気分のいい散歩道だ。Photo K(左) 高円寺あずま通り商店街。(2014/1/27 14:11)Photo L(右)あずま通り商店街まんなか辺り。(2014/1/27 14:12) 4ブロックほど歩いてもあずま通り商店街はまだ続くようだったが、左の横道に入ることにした。普通の住宅地の道だが、高円寺甲辰通り商店街に突き当たる。Photo M(左) 高円寺庚申通り商店街を南へ。(2014/1/27 14:20)Photo N(右) 同じく庚申通り商店街。 (2014/1/27 14:24) 庚申通りを南へ、JR高円寺駅方向に向かう。先ほど歩いたあづま通りよりはるかに賑やかで、八百屋から本屋まで何でもある商店街である。車が通れない道ではないらしいが、ほとんど車が通らない。人も多いが、歩きやすい道だ。 そういえば、東京に出てきてもこの頃は人酔いをしなくなったように思う。若い頃からずっと、人混みの中では人酔いをしてしまう質で、とくに仕事で東京に出てきていたころの人酔いはきつかった。東京の街歩きを繰り返したことで少しは慣れたのか、それとも、なんの用事もないぶらぶら歩きでは人酔いをしないのだろうか。Photo O 庚申通りの左手の路地。 (2014/1/27 14:26)Photo P 路地の端(駅広場への出口)の青果店。 (2014/1/27 14:27) 東京の商店街はどこでもお総菜屋さんが多いな、などと思いながらゆっくり行くと、左手の細い路地の向こうに何か店があるらしく人で混んでいる(Photo O)。その店は青果店で、客と店員の間をすり抜ける(Photo P)と、JR高円寺駅の前の広場に出る。Photo Q 高円寺駅から始まる高円寺純情商店街。 (2014/1/27 14:27)Photo R 高円寺純情商店街を歩く。 (2014/1/27 14:28) これぐらい歩いて駅に着けば、たいてい街歩きの終了となるのだが、駅の反対側を見れば「高円寺純情商店街」の大きなゲートがある。行ってみることにした。 あずま通りや庚申通りと比べれば、少しばかり近代的だが、すぐに突き当たってしまい、右、右とまがってすぐに駅前広場に戻って来た。Photo S JR高円寺駅前広場。 (2013/12/4 14:34) 駅前広場に戻って今日の街歩きはおしまいである。予想通り、三浦展さんが言うような「共異体」というのは実感としてはまったく分らなかったけれども、歩きやすい(馴染みやすい)商店街が三つもある感じのいい街だった。高円寺Map。A~Sは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。 [1] 三浦展『ファスト風土化する日本』(洋泉社 2004年)p.190。[2] 同上、p.197。[3] 吉本隆明「修景の論理」『情況』(河出書房新社、昭和45年)p.129-130。
2014.01.27
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東京の街歩きは、どこを選んでも私に特別な思いがある場所というのはない。高円寺も同じで、せいぜい街の魅力についての三浦展さんの著述が記憶に引っかかっている程度だ。 たとえば、いま若者にどんな街が人気なのか。インタビューしてみればすぐにわかるが、多摩ニュータウンや港北ニュータウンが好きだというものはほとんどいない。雑誌『東京ウォーカー』などの人気投票で上位に来るのは、吉祥寺、下北沢、高円寺といった街だ。そこにも、「共異体」への志向性が現れている。 ...... まず、それらの街には多様で異質な物が存在している。豊かな社会で育った現代の若者にとっては、物がたんに大量に存在するだけでは魅力がない。自分の知らない、異質な物、店、人が多様に存在することが重要である。 [1] 吉祥寺、下北沢、高円寺といった街には車があまり通らない。車の多い幹線道路は街の中心から外れている。代官山、自由が丘もそうだ。道は概して狭く、街路が入り組んでいて、あたかも梅の枝のように微妙に曲り、分岐しながら、ラビリンス的な魅力を生みだしている。こういう魅力は、郊外のロードサイド空間にはまったくないものだ。 [2] この高円寺を歩くのだが、街を一度通り抜けるだけで「共異体」の実感を得るなんてことは不可能だ。ただ、街歩きの場所を決めるとき、地図を見ながら「道は概して狭く、街路が入り組んでいて、あたかも梅の枝のように微妙に曲り、分岐し」ている街を選んでいる。そんなところには確かに歩く楽しさがある。 東京メトロ丸ノ内線「東高円寺」駅から地上に出て、地図にある緑地を見に行くと「蚕糸の森公園」だった。国立の蚕糸試験場が昭和55年に筑波に移った跡地を公園にした旨を記した碑があった。Photo A 蚕糸の森公園広場のプラタナス。 (2014/1/27 12:59) 公園広場の真ん中にはじつに立派なプラタナスの大木(Photo A)がある。その向こうには、壁面を水が流れ落ちる滝(?)が作られている。その背後に回ってみると、小さな一筋の滝があって、そこから流れでた水は公園の中の小川(Photo B)になって、日の光を浴びてきらきら光っている。Photo B 公園の中を流れる小川。(2014/1/27 13:00) 蚕糸の森公園を出発点として歩き始めるが、東高円寺駅前の交差点(Photo C)を渡りながら、イタリアンの店を見つけた。お店が混むランチ・タイムをはずして昼食にしようと、小一時間くらい歩いてから昼食にしようと考えていたのだが、計画変更である。Photo C 「東高円寺駅前」交差点。 (2014/1/27 13:07) 「GRAND PA」というイタリアン・レストランで、頼んだのは「エビのマッシュルーム・クリームソ-ス(タリアッテレで)」という名前のパスタ。ミンチ状のマッシュルームをクリームで溶いたようなソースで、エビと輪切りのオリーブの実が入っていて、とてもおいしいパスタだった(白ワインもついでに1杯)。 自宅にマッシュルームで作った茸ソースの作り置きがあるので、それを生クリームで溶いたら、ほぼ同じようにできるような気がする。レシピを一つ教えてもらったようななんとなく得をした気分で、あらためて歩き出す。Photo D(左) 「ニコニコロード」入口。(2014/1/27 13:32)Photo E(右) 「ニコニコロード」商店街。 (2014/1/27 13:33) 「東高円寺駅前」交差点から北へ向かう道を歩き始めると、すぐ右手に商店街らしい狭い道が見える。入ってみると「ニコニコロード」と看板の付いた街灯の下にさらに丁寧に「ニコニコロード」いう旗がいくつもぶら下がっている小さな商店街である。 ニコニコロードは大久保通りを越えて続いている。大久保通りを越えてすぐ左手に「田中稲荷」という小さな神社がある。そこの案内看板によれば、ニコニコロードは中野駅から蚕糸の森公園脇を通って堀之内の妙法寺まで続く「堀之内新道」の一部だという。明治29年の普請で「新道」なのである。Photo F 犬は歩けない遊歩道。(2014/1/27 13:40) 田中稲荷神社を過ぎると、この堀之内新道は歩行者専用路(Photo F)を横切る。その道の入口に「旧稲荷橋」という小さな石柱があるので、小川の埋め立て地を散歩道にしたものらしい。この手の遊歩道は、東京にはずいぶんたくさんあるようだ。 遊歩道なのだが、「園内に犬を入れないで下さい」という看板があって、犬と一緒に散歩ができない道なのであった。そういえば、小さな公園で同じ看板をいくつか見た。公園にも遊歩道にも犬を連れて行けない東京の愛犬家はどこを散歩しているのだろう。犬好きの私には、なんとも息苦しい話だ。 公園なるものは、何を目的として作られるのだろう。ただ単に、公園は在ることが望ましいもの、として慣性的に作られてはいないか。この余儀ない子供たちの〔街路や入り組んだ露路からなる子供たちのメタフィジカルな〈公園〉からの〕後退に呼応するように、都市公園は、いくらかの罪亡ぼしの意味もふくめて〈新たな部分〉をつけくわえた。この〈新たな部分〉は、極彩色に塗られたコンクリート製の築き山であったり、円筒形の飛び石であったり、動物の模像であったり、セメントの樽でつくったような太鼓橋であったりする。ときには、貝殻やかたつむりのような形をしたコンクリート製の宇宙船である。つまり都市組織工学に結びつけられた建築設計家たちは、超モダンでちゃちな〈枯山水〉を、〈公園〉のなかにしつらえて子供たちに提供しはじめたのである。しかし子供たちが欲しいのはコンクリートつくりの極彩色の〈枯山水〉ではなくて、街路と入りくんだ露路とから成立っている〈街衢〉そのものの占有である。 吉本隆明「修景の論理」から [3]Photo G 還七通りからY字路を過ぎて、桜のある通りへ。 (2014/1/27 13:53) 旧水路上の遊歩道から右に折れると小さな公園があって、そこもまた犬は入園禁止なのであった。公園脇の道を道なりに歩く。次第に左へ曲っていく道は住宅街を通って還七通りの「高円寺南五丁目」交差点に出る。 還七通りを越えるとすぐにY字路に出る。その道に一本だけ桜の木が生えていた(Photo G)。桜並木もいいが、桜の木が一本だけというのは花の季節にはとてもいい景色になるものだ。私はそういう桜が好きだ。Photo H 高円寺参道と山門。(2014/1/27 13:54) 桜の木の下を過ぎると左手に「高円寺」の山門(Photo H)が見えてくる。参道を進むと、山門前には低い柵が並べられて入れない。山門の右脇の道を通って本堂へ向かう。本堂の前には銀杏の大木。寺や神社には銀杏の古木がつきもののようだ。Photo I アロエの大木と金柑の木。(2014/1/27 14:03) 高円寺の山門横の小径を抜けて、寺の西脇の道を北上する。寺と墓地の間の狭い坂を上がって行くと道は少しずつ右へ右へと曲っていく。道脇には、みごとに繁茂したアロエの大木(?)が花茎を四,五本上げている。その少し先には、金柑の木がたくさん実を成らせている。どちらも私の住む仙台ではなかなか見られない。高円寺Map。A~Sは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。 [1] 三浦展『ファスト風土化する日本』(洋泉社 2004年)p.190。[2] 同上、p.197。[3] 吉本隆明「修景の論理」『情況』(河出書房新社、昭和45年)p.129-130。【続く】
2014.01.27
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仙台で「在特会」の集会があるという知らせがあった。仙台市民会館で「在特会本出版記念講演会」をやるのだという。脱原発デモと重なる時間帯だが、場所もそんなに離れていないし、何とかなるだろう。そう思って出かけることにした。 「在日特権を許さない市民の会」、略称「在特会」あるいは「ザイトク」(これは、彼らの活動に強い抗議を続けている門真市議の戸田ひさよしさんの造語 [1] )が、東京や大阪で人種差別デモを繰り返していることはニュースやネット情報でよく知ってはいたが、仙台でも何がしかの行動を起こすとは考えていなかった(じつは前にも一度集会が会ったらしい)。 彼らは、在日韓国人・朝鮮人に与えられた「特別永住資格」が特権の最たるものだと主張して、他の外国人と同等の権利にすべきだという。歴史修正主義者がゴロゴロいる自民党政権といえどもその歴史的経緯から認めるしかなかった特別永住資格は、参政権も含めその他の権利を制限したまま在日の人たちの永住だけは認めるという差別の固定化に等しいもので、特権どころの話ではないのである。 しかも、特別永住資格という「特権」が成立した責任は、それを与えた「われわれ日本側にある」というザイトクの公式的な言明(ザイトクのHP)にも関わらず、彼らのやることといえば、日本政府への直接的な抗議ではなく、在日に対する激しいヘイト・デモなのである。彼らに理屈を説くのは難しいかもしれないが、言ってることとやってることはまったく関係がない。「行動保守」という彼らの自称は、「行動ばっかりで言説はいい加減な保守です」という宣言なのかもしれないが(それにしても彼らが「保守」だなんていったら中島岳志さんは泣くだろうな。いま、中島さんの『「リベラル保守」宣言』を読んでいる)。 要するに、ザイトクは人種差別をしたいだけらしいのだ(私にはそうとしか思えない)。彼らは想像を絶するようなおぞましい言葉で在日を罵るデモを繰り広げている。東京や大阪では、彼らのヘイト・デモに対して、彼らを上回る人数のカウンター・デモで差別への抗議が圧倒しているというのは主としてネット情報である。 そんなレイシストたちが仙台に来るのだという。どのような抗議ができるかわからないのだが、ここにも「ナショナル・マイノリティ」への暴力的差別に反対し、抗議する人間が一人いるということだけは示しておきたくて、市民会館に向かった。 午後3時からの講演会なので、2時から待機して、会場にやってくるレイシストに抗議しようと集まったのは10人ほどであった。風が次第に強くなり、冷え込みがきつくなってくるのだが、さっぱり目当ての人たちはやってこない。それでも10人ばかりの人がポツリポツリとやってきて、私たちと対峙するように少し離れて立つようになったものの、それから後は変化がない。公安の人と市民会館の人が中間に立つようにしているが、特に何が起きるわけでもなく時間が過ぎる。 脱原発デモは匂当台公園を2時半に出発したはずだ。2時45分まで市民会館前の路上に立っていたが、誰もやってこなくなったので、急遽デモに参加することにした。一番町、ずっと向こうにデモの旗が。 (2014/1/26 14:53) 市民会館から定禅寺通りを駆け足である。一番町に着いたが、デモは行き過ぎてしまったようだ。今度は一番町を駆け足である。デモはささやかな私の健康法などと普段は嘯いているのだが、これは健康法を越えている。きつい。 息が上がり始めたころ、デモの旗が見えてきた。駆け足をやめて、急ぎ足に変え、息を整える(なにげない風を装ってデモの後方にくっつきたいのだ)。何とか追いついた。(2014/1/26 14:55) 追いついてすぐ、ラッキーなことにデモの列は広瀬通りの赤信号で止まったので、それが休息になってなんとか息を整えることができた。列の少し前には二人のお子さんを連れた参加者がいる。たぶん、市民会館の前で寒さに震えていたとき、暖かい缶コーヒーを差し入れてくれた人である。ほんとうにありがたかった。代謝の低い年寄りにはきつい寒さだったのだ。地下鉄工事現場を一番町から青葉通りに曲がる。(2014/1/26 15:06)ダイエー前。強い寒風に旗が煽られて。(2014/1/17 15:13) 風は相変わらず強いままで、デモの列の旗が煽られる。寒いせいか、なんとなく急ぎ足のデモのような感じになるが、それは市民会館のその後を気にしている私だけなのかもしれない。 仙都会館前で流れ解散。急ぎ足でふたたび市民会館に向かう。会館前には誰もいない。中に入ってみると、ロビーに公安らしき人が4,5人立っているだけだ。どうしようかひとしきり迷ったものの、会館のトイレを使わせてもらって、そのまま帰宅した。なにしろ、疲れてもいたし、明日からは4日間東京に出かける予定もあって、自重したのである。 【後から聞いた話】 デモの後に私が再び市民会館に行ったころ、みんなは暖かいところでお茶をしながら待機中で、講演会が終了して出て来るタイミングを見計らっていたという。 結局、向こうは主催者、参加者あわせて25人くらい、公安らしき人は12、3人だったという。彼らがまとまって会場から出てきたときが抗議の最大のタイミングだったらしい。少し声を荒げたやり取りもあったらしいが、いずれにせよ、そのときがハイライトというかクライマックスというか、今日の一番のポイントの時間だったのである。 私としてはそれなりに寒さに耐え、必死に駈けて、疲れたというのに、肝心な時と場所で抗議に参加できないという、間抜けな日になってしまった。そんな結末……。 [1] ブログ『薔薇、または陽だまりの猫』。
2014.01.26
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吉野弘が亡くなったと、新聞に出ていた。2014年1月15日没、87歳。 一四,五歳の幼い心に吉野弘の二つの詩を刻み込み、それをずっと抱えて生きてきた。「I was born」と「夕焼け」である。私のシュトルム・ウント・ドラングの時代(つまり大学、大学院の学生時代)を駆け抜けようと、肩を怒らせ、空威張りしながら、谷川雁や黒田喜夫、鮎川信夫や吉本隆明の詩を読んでいたときには、なんとなく気恥ずかしくて吉野弘の詩の話はしなかったと思う。その時にも心の奥の方にはいつもその二つの詩があった。大声で生意気ぶってはいたが、あまり思い出したくない辛い時代のことだ。 結婚する前の妻にその二つの詩を読んでやったことがある。今朝の食卓で、吉野弘の死亡記事を眺めながら、その話をしたら、妻は吉野弘の名前も忘れていた。 吉野弘の死が悲しいのか、私の哀れな少年期を悲しんでいるのか、不意打ちのように涙が流れて、驚いている。 その二つの詩を掲げて、吉野弘への弔意とする。 I was born [1] 確か英語を習い始めて間もない頃だ。 或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奧から浮き出るように白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。 女は身重らしかつた。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。 女はゆき過ぎた。 少年の思いは飛躍しやすい。その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。――やっぱりI was bornなんだね――父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。――I was bornさ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね―― そのとき どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見にすぎなかったのだから。 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。――蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだがそれなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね――僕は父を見た。父は続けた。――友人にその話をしたら 或日 これが 蜉蝣の雌だと言って拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげて居るように見えるのだ。つめたい光りの粒々だったね。私が友人の方を振り向いて <卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね> そんなことがあってから間もなくの事だったんだよ。お母さんがお前を生み落してすぐに死なれたのは――。 父の話のそれからあとは もう覚えて居ない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。――ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体――。 夕焼け [2]いつものことだが電車は満員だった。そしていつものことだが若者と娘が腰をおろしとしよりが立っていた。うつむいていた娘が立ってとしよりに席をゆずった。そそくさととしよりが坐った。礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。娘は座った。別のとしよりが娘の前に横あいから押されてきた。娘はうつむいた。しかし又立って席をそのとしよりにゆずった。としよりは次の駅で礼を言って降りた。娘は坐った。一度あることは と言う通り別のとしよりが娘の前に押し出された。可哀想に娘はうつむいてそして今度は席を立たなかった。次の駅も次の駅も下唇をキュッと噛んで身体をこわばらせて――。僕は電車を降りた。固くなってうつむいて娘はどこまで行ったろう。やさしい心の持主はいつでもどこでもわれにもあらず受難者となる。何故ってやさしい心の持主は他人のつらさを自分のつらさのように感じるから。やさしい心に責められながら娘はどこまでゆけるだろう。下唇を噛んでつらい気持で美しい夕焼けも見ないで。[1] 吉野弘詩集『幻・方法』(飯塚書店、1959年)p. 104。[2] 同上、p. 122。
2014.01.21
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平成7年1月17日、午前5時46分。私は、つくば市での研究会に出席するため6時に自宅を出る予定で、まだ居間でお茶を飲んでいた。テレビでの第1報は、逃げようとして軽傷を負った人が一人などというものだった。 車で家を出て、研究室のメンバーと落ち合い、東北道を南下しながらサービスエリアでテレビを探して地震情報を確認するのだが、なかなか判然としない。このとき、被害が甚大なほど情報伝達の手段も失われるということをしみじみ知ったのである。 もともと小規模な研究会だったのに、関西方面からの参加者が欠席だったので、あまり盛り上がらないまま研究会が終ったのだった。気落ちして、東北道を戻ってきた。それが、私の阪神・淡路大震災の日であった。 19年目の今日、阪神・淡路大震災から16年たって起きた東日本大震災がもたらした原発事故を契機に始まった脱原発デモに出かける。 地震国日本で生きていれば、それなりの覚悟はできているが、現代の地震では原発事故という人災事故を事実上避けられないことが明らかになってしまった。 政府が除染を諦めたように、フクシマでは神戸のような復旧は不可能なのである。かつて、日本人は地震や津波、火山噴火などの自然災害にたびたび見舞われながらも、頑張り抜いてきた。ところが、いまやフクシマでは復興・復旧すべき土地がないのだ。勾当台公園・野音。 (2014/1/17 18:17) しばらくぶりの勾当台公園集合である。定禅寺通りの「仙台・光のページェント」は西の西公園と東の勾当台公園も含むため、年の暮れにはデモや集会で勾当台公園を使用できないということらしい。寒くても人は減らない。(2014/1/17 18:18)デモへ出発準備。(2014/1/17 18:37) 遅刻して野音前に到着、スピーチも後半であった。後半に限って言えば、東京都知事選に触れる人はいなかった。「脱原発」が争点となる選挙だとばかり思っていたのだが、当初「脱原発」を掲げて立候補表明していた人を多くの脱原発派の人は支持していたと思う。しかし、他の人が「脱原発」を掲げて立候補を示唆したら、「都知事選を脱原発シングル・イシュウで戦うのは間違っている」などと言い出したりしている。 私自身は、脱原発をシングル・イシュウとして運動することに賛成してデモに参加していて、先の総選挙もそうだったが、今度の都知事選も「脱原発」シングル・イシュウで戦って欲しいと強く期待している。原発の問題は、政治体制や社会制度の微調整的変革以前の「いのち」の問題で、先決的政治課題だと考えるからだ。一番町に出て(1)。(2014/1/17 18:53)一番町に出て(2)。(2014/1/17 18:54)一番町に出て(3)。(2014/1/17 19:00) 私は細川でも宇都宮でもいい、脱原発サイドが選挙で勝って欲しいのだ。選挙で勝ったら、次のステップで脱原発の質を問う闘いを始めればいい、と思う。「前にこう言った」とか「昔はああだった」とか、脱原発派から脱原発派へのネガティブ・キャンペーンも始まっているらしいが、愚かで醜くいとしか思えない。 シングル・イシュウでの脱原発運動をやると決めた、あるいはそれに賛同したということは、政治党派や思想・信仰・宗教を問わないと覚悟したということだろう。いまさら、脱原発の「正統」を争うべきではない。私は、フクシマ以前に脱原発・反原発運動を行なっていた人々を左翼過激派だと罵り、蔑んできた人たち(とくに左翼党派の人々)をよく知っている。 しかし、私は少なくとも、そのようなかつては反・脱原発派だった現・脱原発派への批判を自らに強く禁じたうえで、現在の脱原発デモに参加している(集会やデモで私が寡黙なのは人見知りばかりが理由ではないのである)。 コールはそれなりに大きな声で、それ以外は何も喋らない寡黙なデモは終った。最後に、かろうじて一人に別れの挨拶ができたという体たらくである。
2014.01.17
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2014年の初デモに行く。今朝の最低温度は氷点下4度で、今日から一週間ほど冷え込みが続くという予報が出ている。ちなみに、仙台での氷点下4度は、水道管の破裂事故が起こり始める臨界的な温度である。集会前の肴町公園。 (2014/1/10 18:03) 夕方も冷え込んでいるのだが、肴町公園にはごく普通の日のように人が集まり出している。昨冬のデモもそうだったが、吹雪でもないかぎり、この程度の寒さは仙台人にはあまり問題にならない。 とはいえ、風邪を引きやすい身としては、けっこう寒さに気を遣う。じっさい、正月二日から一週間ほど熱が出て、ぼんやりと過ごしていた。暮れにけっこう張り切って正月の準備をして疲れが残ったせいらしい。南公園口からデモへ出発。 (2014/1/10 18:30) 初デモとあって、元気の良いスピーチが続く。二人ほどが東京都知事選の話題に触れた。脱原発を標榜する候補者が二人になりそうな、いまは微妙な時期である。選挙に敗れても自分の正義感を満足させるだけの選択をするか、それとも「脱原発」という一点で勝つための選択をするか、まもなく結果が出るだろう。 そして、おそらくは「シングル・イシュウ」路線か、全面的な政治対決路線か、議論や批難合戦が起きるだろう。「脱原発」だけで政治全般を考えることはできないという考えは概括としては正しいだろう。しかし、阿倍自民党政権が嵩に懸かって攻勢に出ている現状では、「脱原発」で一点突破できれば、おそらく多くの政治イシュウに大きな影響を与えることができて、得るものは大きいだろうと、私は考える。特別秘密保護法への反対運動も画期的な変化を獲得できるに違いない。 ただ、経験的に言えば、選挙をめぐる政治党派の振る舞いを信じるのは私にはとても難しい。政治党派に関して言えば、ずっと絶望しつつ期待しつづけ、期待しつつ絶望してきたのだ。断言するが、私には無批判に信頼できる政治党派は一つもないのだ。一番町に出て。(2014/1/10 18:38) スピーチを聞きながら、いくぶん重苦しい感じで考え込んでいたが、定時にデモは出発し、一番町に向かった。
2014.01.10
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