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泉ヶ岳に登ることにしたのは、今の私の体力がどれほどのものか、早く知りたかったからである。440m(傾城森)、621.3m(寒成山)、994.2m(龍ガ岳)とリハビリ登山は進んできたが、龍ガ岳は途中で登山道を失ってほとんどリハビリに寄与していない。 かといって、龍ガ岳に代わる手ごろな山というのも思いつかない。それなら、少し無理目かもしれないが泉ヶ岳に行こうと思ったのである。泉ヶ岳に上れば、これからの山行がどれほどのものになるか、想像できるだろうと踏んだのである。 何度も登っている泉ヶ岳はとても手軽で、冬山をやらない私にとってシーズン初めには必ず登る山で、いわば年々衰える体力を確かめる基準になる山である。このブログにも、2012年5月7日、2013年5月18日、2015年5月18日と山の雪が消えかかるころに昇った泉ヶ岳の記事を掲載している。 全天雲に覆われた暑い日になった。 車で山麓に近づいて行っても、どの山も雲のなかである。泉ヶ岳スキー場の大駐車場はほぼ満杯になっていた。こんなことは初めてだが、夏休みの時期の午前9時半ごろに泉ヶ岳の登山を始めるのも初めての経験で。季節も時間帯も違うので何とも判断しがたい。Photo A 「オーエンス泉岳 自然ふれあい館」。 (2018/7/31 9:46)Photo B1,B2 コバギボウシとその白花(?)。Photo C シシウド。Photo D ガクアジサイ。 登山口から一番遠いところに車を止めて、歩き出した。昨夜、雨が降ったらしく地面が濡れていて、やたらと蒸し暑い。駐車場の西端近くに「オーエンス泉岳 自然ふれあい館」という施設があって、15人ほどが玄関に入って行った。駐車場が満杯なのはこの施設の利用者が多いということもあるのだろう。 施設横の舗装道路を通って登山口に向かう。前に私と同年配の先行者がいる。道端のコバギボウシやガクアジサイの写真を撮っている間に、その人は林のなかに見えなくなっていた。 舗装路が終わり、いよいよ登山道というところで女性二人の登山者が休憩している。私ももうすでに大量の汗をかいている。いくら夏とはいえ、ここの標高(580mくらい)で、この湿度、気温の高さは異常としか思えない。私は、汗の処理もせず、挨拶をして通り過ぎた。Photo E 先行者。(2018/7/31 10:23) Photo F 分岐。(2018/7/31 10:30)Photo G 水神。(2018/7/31 10:41) 泉ヶ岳の水神コースを上りに選んだが、このコースは水神までは傾斜が緩やかで体が慣れるまでの歩き出しとしてはいいコースである。振り返れば、林のなかにちらちら見えていた先ほどの女性二人の姿もしだいに見えなくなった。 できるだけゆっくりと歩くように心がけていたが、上の方に先行者が見え出した。私と同年配のご夫婦らしいカップルで、「どうぞお先に」と挨拶されて追い越した。今日は追い越されることはあっても追い越したりしないようにしよう、そんなふうに思っていたが、もう計画倒れである。 どんなゆっくりでも登り切って帰ろうと思っていたのだが、歩きながら「登り切れずに引き返すことになったらどうなるのだろう、ということに思い至った。ちゃんと登り切って帰ることばかり考えていたが、もしダメだったら私のこれからの登山はどうなってしまうのだろう。潔く諦めるのか、もっとしつこく体を鍛えることに向かうのか、この年齢で体力は回復するのか、などと考え出していたのだが、水神に到着し、そこから始まるごろごろ石の急坂に取りかかると、みんな吹っ飛んでしまった。とにかく登らなくては、そればかりになった。Photo H オヤマボクチ。Photo I1,I2 キンレイカ。Photo J 賽の河原。 (2018/7/31 11:44) 足は予想以上に動くのだが、息が切れて長続きしない。花の写真を撮っては一休み、大汗を書くので意識的に水分補給回数を増やしてひと休み、そんなペースになった。 途中、下ってくる2人連れ、2組に出合った。最初の二人ずれは、私を待っていてくれたので、礼を言って通り過ぎた。次の二人組のときは、私が先に止まって待っていた。そうやって休んだのだ。 「さいの河原」の道標がみえてほっとしたのだが、疲れた身にはその道標が賽の河原からかなり下の方に設置しているとしか思えないのだった。なんとか眺望がいいはずの賽の河原にたどり着いても、何にも見えない。賽の河原の上をガスが通り過ぎてゆくだけだった。Photo K フジバカマ。Photo L ヤマハハコ。Photo M 泉ヶ岳山頂。(2018/7/31 12:04)Photo N ノアザミ。 賽の河原を過ぎれば傾斜は緩やかになり、頂上はもうすぐだ。ヤマハハコの写真を撮るためにしゃがみこんでいる私に声をかけて登ってゆく人がいた。私がついた頂上にはその人が休んでいるだけだった。大駐車場を満杯にした人たちのほとんどはやはり下の施設の利用者ということらしい。 頂上尾根を北に向かい、いつも休憩をとる船形連山の眺望がある(はずの)場所で昼食とした。ここも眺望はまったくない。灰色の雲に覆い尽くされているだけである。 ここは、ずっと私の相棒だったイオと登った時に、いつも朝食をとりながら休んだ場所だ。泉ヶ岳に登ると決めたとき、イオのことを思い出して感傷的になるだろうとも思ったのだが、そんなことはなかった。たぶん、疲労が感傷を追い出してしまったのだろう。 20分ほどの昼食休憩で頂上に戻ったら、頂上広場は人で満杯だった。次々登ってくる二十歳前後の若い人たちで賑わっていて、かき分けて下山口に向かうのに苦労するほどだった。登り切った人々は、喜びからか、疲れからか、私など眼中にないのである。 下山路に入っても、次々登ってくる。集団の切れ目を見つけは下り、一グループをやり過ごしてから下り、ときにはリーダーらしい人が声をかけて待ってくれていたりして、ゆっくりと急坂を下って行った。最後の集団とすれ違う頃には、急坂の半分以上を下っていた。 Photo O オミナエシ。 Photo P ヤマユリ、コバギボウシ、ヤマドリショウマ。Photo Q1,Q2 ソバナ。 集団とすれ違う時にも、花を見つけては写真を撮っていたが、若い登山者のなかには写真を撮っていることに興味を示す人が結構いた。たしかに大集団の彼らのなかには一眼レフをぶら下げて登っている人は一人もいなかったので、珍しかったのだろう。 さて、その花の写真だが、オミナエシは写真のたった一本だけを見つけただけだった。上りの頂上近くで見つけたキンレイカは、はじめアキノキリンソウだと思ったのだが、澄んだ明るい黄色はアキノキリンソウのものではない。帰宅して写真を拡大してはじめてキンレイカということが分かった。オヤマボクチはまだまだ若くて、威厳ある風姿というわけにはいかなかった。 私には、頂上の尾根道にあったノアザミの色が見慣れているとはいえ、一番好もしかった。アザミは種類が多くて判別が難しいが、ノアザミだけは容易に見分けがつく。正確に言えば、私に見分けられるアザミはノアザミだけということだが………。Photo R 大壁。 (2018/7/31 12:57)Photo S 見返平。 (2018/7/31 12:57)Photo T お別れ峠。 (2018/7/31 12:57) 大集団と別れてからはもう新たな登山者とは行き会わなかった。「大壁」の」急斜面を下れば、ほどなく「見返平」に着く。上り道で振り返れば、遠く仙台平野が望め、下り道で振り返れば泉ヶ岳の山容が望める場所で、泉ヶ岳のコースの中で私がいちばん好きなところだ。 だが、今日は何も見えない。びっしり張りつめた雲で遠望はまったく効かない。泉ヶ岳は頂上がすっかり隠れている。 見返平からは緩やかな道になる。「お別れ峠」というのは私が下って来た「滑降コース」から「カモシカコース」や「水神コース」へ向かう道が交差している場所である。ここを過ぎれば、駆け出したくなるような快適な林の道になる。以前なら速足になるのだったが、今日はそうならない。 緩やかな下り道で、足の負担もさほど感じないし、息切れもしない。それなのに体全体がゆっくり歩くことを強要している。そんな感じだ。自覚はないが、とても疲れているのだろう。 大駐車場に着くと、出発する時にはなかった大型バスが3台駐車していた。あの大集団のグループが乗って来たものだろう。「いじめ○○リーダー研修会」という団体名が貼ってあった。○○がなんだったか思い出せない。バスの定員50人とすれば150人の集団で、すれ違ったときの実感とよく合う。 何とか登って降りてくることができた。疲れをさほど感じていないことが恐ろしいが、結果が判るのは二日後か、三日後か。それでも、少しは希望が繋げたということだ、そう結論した(心細いが、いちおう)。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2018.07.31
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「ちゃんとバンドしてよ!」 義母を抱え上げて車椅子の座らせようとしている私に妻の声が厳しい。バンドとは「骨盤安定サポーター」という商品名の腰に巻くベルトである。十数年前に初めて「ぎっくり腰」になってから使っている何種類かのサポーターの一つだ。 十日ほど前、義母をトイレに座らせようとしたとき腰を痛めて3日ほど介護の手伝いができなかった。背筋をまっすく伸ばして歩けばいくらでも歩けるし、私の日常生活にさほどの不自由は感じないのだが、いったんは必ず中腰になる義母の移動は無理なので、妻は大いに機嫌が悪いのである。 先週の金デモも休み、おとなしくいて三日ほどで治ったのだが、それ以来、義母の介護で腰を痛めたなどと言わせないために、必ず妻の号令がかかるのである。 実は、義母を抱えてトイレに座らせようとした動作が腰を痛めた要因のすべてではない。ここのところ、「体を使い切って死にたい」などと自分の老いの暮らし方を考えるようになった。「●●のために」などと考えているわけではない。動かせる体は動かしておこうというだけのことだ。 まず、足だ。平地を歩くだけの1時間の散歩を、340段ある神社の石段と仙台城址の天守台への坂道が入るコースに切り替えた。しばらくそんな朝の散歩を続けていた。そのせいか、以前には金デモが終えた後に感じていた軽い疲労感をまったく感じることがなくなった。 気をよくして、夕方に腕立て伏せやスクワット、鉄亜鈴を使った上腕の運動なども始めた。年相応にごくごく軽い運動を心掛けていたつもりだったが、どうもスクワットが悪かったらしい。自覚症状はなかった(これが年寄りの年寄りたるゆえんである)が、腰回りの筋肉に疲労がたまっていたらしいのである。腰を痛めたあとで気が付いたのだが、筋肉痛も起きていた。 妻には介護時に起きたと言い募っているが、反省しきりである。このような典型的な「年寄りの冷や水」をどれほど繰り返せば老人らしい知恵がつくのか分からないが、こんなふうに足掻き続けるのが私の老後というものだろう。というより、足掻くことが私の趣味のような気がしてきた。 先週の金デモを休んだ分、今日は遅刻をしないで集会に出ようと思って家を出たが、5分ほどの遅刻だった。勾当台公園から一番町へ。(2018/7/27 18:37~19:08) ここ数日、だいぶ過ごしやすくなった。日中の気温もいくぶん下がったが、朝晩はやっと仙台の夏らしい過ごしやすさになった。 私がさぼった前回は日曜昼デモで、暑さを避けて午後4時からの開催だったが、午後4時でもまだまだ暑い日だった。勾当台公園の野外音楽堂の木々が日差しを遮っている場所でも相当暑かったに違いない。 今日は快適な夕暮れの集会、快適な夕暮れのデモになった。すこしずつ暮れていく仙台の道を一番町に向かう。 心地よい夏の夕暮れ、一番町はいつになく賑わっていた。一番町。(2018/7/27 19:09~19:17) 7月24日付けの朝日新聞デジタルに「原発新増設「とても競争力持てない」 IEA元事務局長、原発推進派の田中氏」という記事が掲載されていた。 国際エネルギー機関(IEA)の事務局長だった田中伸男さんという人はガチガチの原発推進派である。その人が原発の新増設について「1基1兆円以上かかり、べらぼうに高い。とても競争力を持てない」と講演で話したというのである。「IEAが昨年の報告で『多くの国で太陽光が最も安くなる』と指摘したことにショックを受けた」ということからそのような認識になったらしい。 まあ、世界の常識を語ったに過ぎないのだが、「米国などと共同で、経済性のある次世代原子炉の開発を進め、信頼回復に努めるべき」などと述べることで原子力村の居住権を守るべく講演を締めくくったらしい。 「次世代原子炉の開発」という妄想については、先々週の金デモのブログで少し触れたのでもう書かない。原発からの脱却が世界のエネルギー政策の趨勢であることだけは間違いない。青葉通り。(2018/7/27 19:22~19:30) 青葉通りに出れば、仙台はしっかりと夜になっている。真夏の宵の口、街で遊んでみたい誘惑にかられるが、三日ほど介護をさぼっていたときの妻の気分がまだ回復していないので、おとなしく帰るしかないのである。 「体を使い切って死にたい」のだが、その体にそんなに自由があるわけではない、などと考えながら帰途についたのだが、とくに感慨があるわけではない。当たり前ということだ。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2018.07.27
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440m(傾城森)、621.3m(寒成山)と続いた5年間の空白を埋めるリハビリ登山の3回目は、994.3mの龍ガ岳である。 福島県の西北端で山形県へ越えてゆく国道399号の鳩峰峠から登る龍ガ岳は、楽しい山歩きができそうな匂いがした。奥羽山地を越える峠から登る山は、いつも強風が通り抜ける風衝地である可能性が高く、草地か低木だけの見晴らしの良い尾根歩きが最初から楽しめることが多い。峠そのものが尾根を越える地点なのだから、標高もだいぶ稼いでいるということもある。 東北道を白石ICでおり、国道4号から国道113号(七ヶ宿街道)に入り、田中という集落で左折して稲子峠を越える道で福島県を走る国道399号に行く。稲子峠への道の入り口に「国道399号は山形県側の工事のため鳩峰峠は全面通行止め」の表示があった。 ガイド本にも、国道399号は工事でしばしば通行止めになると書いてあった。曲がりくねる山道を延々と走ってから諦めるか、ここで諦めるか、悩みどころだった。もっと手前の峠田宿から入る峠田岳に変更することも考えたが、峠田岳の詳細地図(国土地理院)の準備をしていなかった。いつも携行するGARMINNのGPSmapは1mほどの精度で緯度、経度を確定することができるが、詳細な緯度、経度を記した地図がなければ役に立たないのだ。 山形県側の工事ということは県境にある鳩峰峠(またはそのごく近く)までたどり着ける可能性がある。それに期待して行くことにした。Photo A 国道399号鳩峰峠から見る龍ガ岳。 (2018/7/17 9:55)Photo B 放牧場から森林への再生を記念する石碑。 (2018/7/17 10:00)Photo C クマザサで覆われた登山道。 (2018/7/17 10:00)Photo D 放牧場跡の草原。(2018/7/17 10:03) 稲子峠の道から国道399号に出て右折すると、道の半分に車止めの柵が建てられ、通行止めの案内があった。半分は開いているのでここで全面通行止めというわけではないと判断して通り過ぎた。 集落近くの国道は車のすれ違いも難しいほどの狭さだったが、曲がりくねった道で標高を稼ぐとしだいに道幅は広がり、中央線がひかれているところもあった。 鳩峰峠に着き、駐車場(道脇のただの広場)に車を止めたその先、山形県側に入って100mほどのところに全面通行止めの関が設けられていた。 登山道の案内はなかったが、大きな道路標識のところに道がついているのが見えたので、さっそく身支度をした。 9山道に入って数歩のところの藪の中に石碑があった。登山道からは裏面しか見えず、そこには昭和26年から平成6年まで放牧地として利用されてきたこの地を休牧後に福島森林管理署に返還する際に森林復活を目指して植栽をしたときの記念の碑で、平成16年に建てられたことが記されていた。 藪を漕いで表側にまわると、「共生の碑」と題して次のような碑文が刻まれていた。小川流れど山は荒れ冬来たれば糧はなしひとの社会の領域荒れど食なければ徳も危うしいま森の復活を喜び永遠の共生をこの碑に刻む 碑文を読み終えて、あらためて登山道を歩き始めたが、30㎝ほどの熊笹が一面に生えていて登山道が見えない。矯めつ眇めつ眺めているとなんとなく筋のようなものが見える。 短い斜面を登りきると放牧地跡の草原が広がっている。登山道はこの尾根筋を辿っていくとガイド本に書いてあった(国土地理院の地図には東斜面を大きく迂回する道が描かれている)ので、とにかく前へ進むのだが、いつの間にかただの草地を歩いている。うろうろと登山道を探すと5mほど外れていたりする。そんなことの繰り返しで草原を渡っていく。Photo E1 ミヤマナデシコ。 (2018/7/17 10:10)Photo E1 イワオトギリ。 (2018/7/17 10:11)Photo E1 オカトラノオ。 (2018/7/17 10:12)Photo E1 ノアザミ。 (2018/7/17 11:00)Photo F 952mピークに向かう登山道(?)。 (2018/7/17 10:22) 傾城森や寒成山ではほとんど花を見なかったが、ここではミヤマナデシコやオカトラノオが道を見失わないように下ばかり見て歩いている目に飛び込んでくる。 草原が終わり、952mピークへの斜面に取りつく段になって、戸惑いは大きくなった。登山道は分かるのだが、小灌木にすっかりと覆われているのだ。草原は30㎝ほどの草やクマザサばかりなので、道を歩いても道から外れても大差ないのだが、私の背丈以上ある灌木では道を外れたら消耗は激しいだろう。 ため息が出たが、とにかくブッシュ道に突っ込むことにした。私としては滅多にないのだが、快適な尾根歩きを想定して、ストックを出してトレッキング気分で歩き出したのだったが、灌木の枝を押し分けて歩くのにこのストックは邪魔になるばかりだった。畳んでザックに縛り付けたが、次は首からぶら下げている一眼レフが枝に引っかかって邪魔になり、これもザックに収めた。Photo G1 トリアシショウマ。(2018/7/17 10:32)Photo G2 ミヤマウツボグサ。(2018/7/17 10:34) 急斜面では枝を押しのけると下に登山道が確認できるので、いちおうは安心して前に進める。952mピーク直下の急斜面の灌木を潜るよう(這うよう)に進むと急に開けて、目の前にミヤマウツボグサが叢生していた。Photo H 952mピークから見下ろす鳩峰峠。(2018/7/17 10:36)Photo I 952mピークから遠望する山形県高畠町方向。(2018/7/17 10:48) 952mピークについて振り返って見下ろすと、鳩峰峠がはっきりと見え、駐車場のたった1台の私の車が小さく光っていた。 952mピークを出発していよいよ龍ガ岳に向かおうとしたが、道は完全に灌木に塞がれている。道を間違えたと思って頂上台地を歩きまわっても、道らしいものが見つからない。唯一はっきりした道が峰の西端に向かっていたが、それは山形県方向の遠望を楽しむ場所までの道で、急斜面で切れていた。 結局、最初の場所が登山道らしいという結論に達して、1mほど入り込んだが、灌木に阻まれて前に進めない。これまでのように枝を手で払ったくらいではとても歩けないのである。もう一度周囲を歩き回って登山道を探したが、どうしてもほかの道を見つけることができない。 尾根筋の登山道と分かっているので、コースを誤る可能性はないが、背丈ほどの灌木のなかを押し切って進むほどの体力に自信はない。諦めて引き返すことにした。 「鳩峰峠から龍ガ岳へ」。地名だけを見れば、なにか素晴らしい山旅が起きそうなイメージだったのだが、なんとも言いようのない結末となった。ふたたび、激しく屈曲する山道(国道399号)を下り、稲子峠を越えて七ヶ宿街道(国道113号)に戻った。 予定時間よりずっと早いため、七ヶ宿街道を山形方面に左折してみた。湯原という(たぶん、七ヶ宿街道の最後の)集落で一軒の蕎麦屋さんを見つけた。メニューには「全そばもり」と「二八そばもり」というのがあった。全そばとは十割ソバということである。メニューにはほかにもおいしそうな名前が並んでいたが、もうここは「全そば大もり」しかない。途中で引き返した山行の埋め合わせとしては十分であった。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2018.07.17
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日中の暑さがそのまま残っている町は、まだまだ明るい。この頃の金デモはずっと雨に降られつづけていたせいか、すっかり夜デモの雰囲気ばかりだった。しかし、この時期は「夕暮れデモ」のはずなのだ。あらためて、そんなことを思ってみるほどに、勾当台公園はまだ明るく、野外音楽堂の木々の背後の空には、薄い茜色が滲んでいる。 こんな「夕暮れ」はしばらくぶりだ。いったい、私はいつもこの時間帯には何をしていたのだろう。己を訝ってみても詮無いことと気づいて、とにもかくにも今日の「夕暮れデモ」を楽しむことにした。勾当台公園から一番町へ。(2018/7/13 18:48~19:12) 30人のデモが勾当台公園を出発するころ、夕空はいっそう色づいてきた。空の色も写そうと思うとデモ人は真っ黒な陰になり、デモ人に焦点を当てると空の淡い色は飛んでしまう。デモ人を取りたいのか、夕焼けを写したいのか混乱している間にデモの列は一番町に入った。もろ腕に夕陽ばかりが溜りつつ胸のなかまで暮れてわが夏 今野寿美 [1]神ならぬ者らやさしも夕映えの鬱金の中の黒き人々 小島ゆかり [2]眼下(まなした)の町屋根の間(あい)夕光にかがやく人らあはれ畏(かしこ)し 富小路禎子 [3]一番町(1)。(2018/7/13 19:13~19:19) 7月12日付けの『DIAMONND online』に「日立と三菱重工が原発輸出の「底なし沼」から出られない理由」という記事が掲載されていた。日立はイギリス西部のアングルシー島に2基、三菱重工はトルコ北部の黒海沿岸のシノップ地区に4基の建設を計画しているが、建設費が大幅に膨らんでしまったものの自民党政府とのしがらみで引くに引けずに苦境に陥っているという話題である。 日立のイギリス、三菱重工のトルコの場合も、原発の建設と運営をセットで受注しているので、両社は予想以上に膨らんだ建設費を稼働後の売電事業で回収しなければならないのだが、どちらも電力料金の引き上げ交渉は難航するとみられている。 電力自由化前の日本では、コストがいくら膨らんでも電力会社がそのまま発注してくれて、規制に守られた電力会社は自由に電力料金を設定してその嵩んだ建設資金を回収できたのである。このように日本の原子力産業は、規制を通じて国家から守られ、甘やかされてきたのだ。日本は新自由主義的資本主義国家を標榜していながら、このような制度では中国の「国家資本主義」とよく似ているのだ。 そして、政府に保護され甘やかされてきた原子力産業は、原発事業の将来について自己判断できる能力を失っているようにも見え、仮に正常な経営判断ができたとしても、国家の保護下で生き延びてきたために政府(自民党と通産省原子力マフィア)の意向に逆らえないということなのである。一番町(2)。(2018/7/13 19:20~19:25) 通産省原子力マフィアと自己判断力を失った原子力産業という構図を象徴的に晒すようなニュースが報道された(7月11日付け日本経済新聞電子版)。 経済産業省は、電力大手や原子炉メーカーなどが参加する協議体を作り、官民が共同で次世代の原子炉の開発に乗り出す検討に入ったというのである。民としては、ハイリスクの原発輸出に血道をあげている日立、三菱重工に加え、電力各社や原発建設を担う大手ゼネコンが挙げられている。 巷では「フクシマ事故から何も学んでいない」とか「狂気の沙汰だ」などと批判が出ているが、ほんとうに彼らは「学習しないパブロフの犬」としか思えない。まるで、原子力につぎ込まれた膨大な税金に群がって吸った甘い汁だけに条件づけられた犬のようだ。風力や太陽光などの再生可能エネルギーへ転換しようとしている世界の趨勢も見えず、悲惨なフクシマ事故も福島の被災民の苦難も新たな条件付けにならなかった無能なパブロフの犬たちが「原子力」ないし「原発」というキーワードにわらわらと群がってくる計画なのである。 そこで想定されている次世代原子炉というのが、「現在の大型炉をより安全に改良したもの」、「小型モジュール炉」、「高温ガス炉」など、従来から言われつづけて来たものばかりで、とくに画期的な技術があるわけではない。やる気ならとうの昔にできていてもいいくらいのものに過ぎない。 記事には「国内の原発は大震災前のように稼働基数が増えず廃炉のコストも増える。次世代炉を実用化しても使用済み燃料の負担は残り、大手電力9社が別々に手がけていくのは厳しい」とも書かれていて、だからこその官民一体の協議体ということらしいが、原子力に関してはさらなる中国化、国家資本主義化が推進されそうな気配である。 この日本の特殊な国家資本主義的原子力政策は、ネグリ&ハートが言うところの資本主義〈帝国〉にきわめて好都合に違いない。〈帝国〉諸国(先進資本主義国家群)における原子力産業のリスク部分を東アジアの一国家に押し付けることができる。その東日本の小さな国では官民挙げて原発をめぐる世界のリスクを背負って暮れるのである。東芝がそのもっとも顕著な象徴となっている。 いずれ、東芝の名前の横に日立や三菱重工の名前が並ぶ日が来るのはないか。そして、その時は日本経済が破綻するときでもあろう。いま安倍自公政権と通産省原子力マフィアは、日本国民を経済破綻(不況と増税地獄)へと導くべく旗を振っている。そう言うしかない。青葉通り。(2018/7/13 19:27~19:33) 街ばかりを見ているとすっかりと夜のようだが、空を見上げればまだ夕べの光を感じることができる。青葉通りの空は、暮れてしまう一瞬前をとどめているかのようだ。 こんな日の金デモは、いい夕暮れの過ごし方の典型のようである。[1] 今野寿美『現代短歌全集 第十七巻』(筑摩書房、2002年)p. 48。[2] 小島ゆかり『現代短歌全集 第十七巻』(筑摩書房、2002年) p. 349。[3] 富小路禎子『現代短歌全集 第十七巻』(筑摩書房、2002年) p. 187。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2018.07.13
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電話であれ、メールであれ、どんな言葉で伝えようかとしばし考え込んだ。「眼を開かなくなりました」というのは事実だが、とんでもない誤解を生むだろう。まるで臨終のようではないか。血圧正常、脈拍正常、体温正常、血液の酸素溶存率正常、ただし丸一日眼を開けないままなのだ。 高齢の義母が二日ほど軽い興奮状態になった。ときどきそうなることがあるのだが、今回は非常に軽くて、寝ているとき1時間ほど何かぶつぶつと呟いては2時間ほど眠り、2時間ほど呟き続けてはまた眠りという繰り返しだった。ただ、食事やトイレで起きているときはいつもの通りで問題はなかった。 その3日目、朝から目を開かないのだった。眼を開かないまま、午前中は体を起こしてお茶を飲ませるのがやっとだった。昼食時もそのような状態で、お茶とゼリーをなんとか食べさせた。夕食は妻が付きっきりで卵かけご飯などを食べさせた。そのあいだ、私が何度も血圧や酸素を測るのだがすべて正常なのである。 食べさせれば食事をとることができる。眼を開けないが半覚醒状態だと思われた。訪問医に連絡するかどうか、妻と二人で悩んだが、いちおう夕食は食べられたので、一晩様子を見ることにした。とはいえ、やはり不安は残って、親族への連絡の文言を考える夜になってしまった。 翌朝(つまり、金曜日の朝)、朝食のために起こしたら、いつものように眼を開け、いつものように「おはようございます」という挨拶に応え(ただし、口パクだった)、いつものように一人で食事を食べ出した。結局、二日間の軽い興奮状態で疲れてしまってずっと眠っていたかったのだろうという結論に落ち着いた。114歳ともなればいろいろあるのだ。 義母が眼を開けないままだったら金デモどころではなかったのだが、ほぼ完全復活となって、小雨そぼ降る街に出かけることができた。勾当台公園から一番町へ。(2018/7/6 18:57~19:08) 勾当台公園の野外音楽堂前に着いたときには早めに集会が終わったらしく、もうデモの隊列ができていた。さっそくカメラを取り出したと言いたいところだが、傘をさしたままバッグからじつにもたもたと取り出して1枚目を写したのだった。 集会でどんな話題が出たのか知る由もないが、最近、原発関連で重要なニュースがいくつかあった。一つは、福井地裁で出された大飯原発の運転差し止め判決を名古屋高裁金沢支部が覆して、稼働を認める決定を下したというニュースである。 また、原子力規制委員会は運転開始から40年になる東海第2原発の安全審査に事実上の合格を認めるというニュースもあった。そのニュースに付随して、東海第2原発の事故時の避難が極めて困難で、要支援者には屋内批難させるしかないというニュースも報道された。 集会ではおそらくそんな悪いニュースが話題になったのだろう。「それでもすべての原発を廃炉にするまで頑張りましょう」という掛け声で30人のデモは勾当台公園を出発した。一番町(1)。(2018/7/6 19:09~19:13)一番町(2)。(2018/7/6 19:16~19:20) 福井地裁の画期的な原発差し止め判決を覆した名古屋高裁金沢支部の判決では(7月5日付け毎日新聞)、「原発の存廃に関わる判断について「司法の役割を超えている」と言及し、司法としての判断を回避した」という。これは、きわめて愚劣な司法の自殺行為である。自らの存在意義を否定してしまった。 また、「地震想定は「裁判所が立ち入って判断する事柄ではない」とし、「自然の前における人間の能力の限界」と言及した」ことは、人間そのものが築いてきた歴史の否定でもある。たしかに地震も津波も台風も洪水そのものを人間は止めることができない。しかし、人類はそうした地震災害が起きても生き延びるために知恵を巡らし、自然を相手に苦闘してきた。そうした歴史的に積み重ねてきた努力によって災害時に受ける人的、物的被害が激減してきたことは間違いない事実だ。 地震が避けられないことと、東電2F事故のような事故を避けられないこととは同じことではない。東日本大震災があっても東電2F原発がなければ10数万人が避難することも大勢の関連死を招くこともなかった。ましてや東電2F原発がすでに知られていた予想津波に対する対策を施しておけばあの過酷事故は防げたはずなのだ。「人間の能力の限界」などと嘯いて人間の努力(つまりは人間の価値)そのものを否定してしまう裁判官の理性(あるいは人間性そのもの)を疑ってしまう。 要するに、関西電力の言い分を丸のみして、安倍自公政権にべったりと服従する姿勢を明らかにした裁判というしかない代物である。安倍政権下では、検察も裁判所もただただ権力に尾を振るだけの機関になりつつあるということらしい。日本という国は民主主義を捨て、独裁国家になりつつあると多くの識者が指摘している通りである。青葉通り。(2018/7/6 19:21~19:27) 雨が降らなければまだ明るい夏の夕方を楽しめる季節だが、今日もまた雨である。空梅雨かと思うほど暑かったのはいつのことやら、すっかり仙台の梅雨らしくなってきた。油断すると風邪をひきそうになるほど寒く感じる朝もある。先週の金デモで降った雨は盛夏の夕立ちのような雨だったが、今日は梅雨時の雨らしい降り方である。 デモが始まる前、「雨の予報です。傘より合羽の方が安全です」というメールが主催者から流れてきたが、私は傘だけで歩いた。だいぶ前に明治公園であった脱原発デモの集会が雨降りだった時、登山用のレインウエアで身を固めたのだが、カメラはそのまま雨に曝されてしまうので、傘をさしてカメラを濡れないようにする必要があった。その時から、雨のときのデモは傘で、ということになった。 デモが終わり、雨の中を歩いて帰るのだが、ズボンのすそがびっしょりと濡れているのだった。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2018.07.06
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