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【ホームページを閉じるにあたり、2011年3月4日に掲載したものを転載した】【続き】 道はどんどん下り、途中公営住宅らしい同じ造りの木造の人家を見ながら進むと、登米小学校の北東端に出る。つまり、この道は「遠山之里」駐車場脇の道につながるのである。Photo J Photo G からの坂道を下り、登米小学校東を通る。Photo K Photo J の道から左、登米懐古館のある寺池城趾へ上る。 登米小学校脇を歩いて、「遠山之里」駐車場が見え出すころ、左、寺池城趾に上る道がある。ケヤキやツバキの坂道を上がり、広場(Photo K)を過ぎて階段を上がると見晴らしが開ける。 この城趾の高台は、Photo F の坂を上った尾根、高台院霊屋のある丘陵から南に延びた突端に相当する。そこには「登米懐古館」があるが、やはり犬連れのため、見学は遠慮した。この高台から見えるのは、まだ歩いていない北上川沿いの登米町東部である(Photo H のパノラマ)。 城趾を南に行くと下る道があって、この道が城趾に行く表の道らしい。屋根のある門を過ぎ、黒木の柱の門をくぐってふり返ると「寺池城址公園」の板が掛けられてあった。Photo L 登米懐古館の高台から登米町東部の見晴らし。Photo M 登米懐古館の高台から東に下りた場所。左は簡易裁判所へ。右は登米診療所へ。右へ進む。 城址公園から東の道に下りると、北に向かう道は二つに分かれている。一方は、ふたたび坂を上る道で、「裁判所」「懐古館」の表示がある車道である。一方は、「公立病院」の案内表示があり、その道(Photo M の右の道は行き止まり、さらに右に下る道がある)を下ることにした。 道はすぐ右に曲がり、「登米市立登米診療所」と名前を変えた旧公立病院がある。 登米診療所の端は、南北に走る道に接している。その道に左折し、北に向かう。次第に人家がまばらになる道である。 道端の畑に大きなマサキがあり、赤い実をたくさんつけている。Photo N 登米診療所前の道。診療所向こう端を左折。 地図に記載されていながら実際にはなかった道に相当する場所(Photo P)で左折して、北上川に向かう。Photo O 国道342号の西隣を北進する道。Photo Oa Photo O の道脇のマサキの実。 北上川には直接は行けなくて、いったん国道342号を北上する。国道は右にカーブしながら北上川の堤防の上を北上している。堤防道路と国道が一致する付近(Photo Q)から堤防を南下した。Photo R は堤防からの北上川のパノラマである。写真は歪んでいるが、実際は、撮影地点付近が突き出しているような形の写真とは逆のカーブになっている。Photo S は下流、登米大橋の遠望である。 Photo P Photo G 付近で東に行く地図上の道が出るはずの道。行き止まり。Photo Q 国道342号が北上川左岸に寄る付近。Photo R Photo Q 付近で北上川左岸堤防に上がる。そこからのパノラマ、左が上流。Photo S 北上川左岸堤防の道から下流、登米大橋を見る。 堤防から町を見ると、登米町が城下町であることがよく分かる。国道342号と堤防の間に民家の敷地割りが、京都の町屋に見られるように、道に面した間口は狭いものの堤防まで細長く区切られているのが判然と見てとることができる。現在では、それぞれの家の建て方、土地の利用の仕方はまちまちではあるけれども、区割りそのものは整然となされているのである。 まもなく登米大橋というところに、「芭蕉翁一宿之跡」という石碑があり、隣には板碑の説明がなされている。芭蕉が石巻から平泉に向かう途中で登米に 宿をとったという「おくのほそ道」の記述によるものである。思ひかけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸(やうやう)、まどしき小家に一夜をあかして、明れば又、しらぬ道まよひ行。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて、遥なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊麻(といま)と云所に一宿して、平泉に到る。 松尾芭蕉「おくのほそ道」より [5] 戸伊麻は登米の当て字表現である。残念ながら句はない。石碑は、河東碧梧桐の筆であると記されていた。碧梧桐は虚子と並び、子規門下の双璧である。「碧梧桐は……登米とは深いゆかりがあったのである。」と説明がなされていた。これほどのゆかりがあっても、碧梧桐の句碑は登米にはないのである(「遠山之里」前の句碑案内によれば)。もちろん、句碑というものがどのような契機で建てられるものか、門外漢の私には分かろうはずもないのだが。 碧梧桐に敬意を表して、その2句を。秀衡と芭蕉君にも寒さかな 河東碧梧桐 [6]椀程な塚の上にも冬木かな 河東碧梧桐 [7]Photo U 登米大橋西詰めから寺池方向へ進み、三日町を左折、郵便局方向へ。 登米大橋は国道342号の橋である。登米大橋は渡らず、右折して町中心へ向かう。歩き始めて4時間、そろそろ切り上げ時を考えはじめるのである。国道は橋からすぐの交差点で北へ向かって直角に曲り、先ほど北上川へ出るために少し歩いた道につながる。 その信号のある交差点の角には、造り酒屋のなまこ壁、藏造りの店舗が見える。ここのところ日本酒をほとんど飲まなくなったこともあるが、「洋々 きたかみ」という清酒は飲んだことがない。若い時は、日本酒ばかりで、ひたすら酔っぱらうだけの日々もあったというのに。 十字路を国道が進む反対、左に折れて、午前中に歩かなかった道を歩いてみることにする。この通りは商店街であるが、白壁、藏造りの建物が並ぶ。薬局(ガラス戸には白壁、総二階の藏造りである。この通りにもある「ヤマカノ」も大きな藏造りの店である。それに並ぶ七十七銀行は新しいが、白壁、瓦葺きで調和をはかろうとしている。郵便局もまた、白壁、スレート瓦葺きの新しい平屋である。 木造総二階、瓦葺きの商家なども見ながら進むとT字路である。その右角には、警察資料館の木造白ペンキ塗りの洋館、鉄骨製の火の見櫓がある。警察資料館は、昭和43年まで登米警察署として使われていたのである。つまり、私が成人になるころまで現役だったのである。そうなのだ。ここが「旧登米警察署」であるように、私もまた「旧○○○人」と呼ばれるだけの歳月は十分に経たのである。Photo V 警察資料館と火の見櫓。 年甲斐もなく少し感傷的な気分で警察資料館前を西へ歩を進める。この道は、その途中を午前中に少し歩いた県道15号である。この道は、商店と普通の民家が並ぶ通りであるが、中には白壁塀、木造瓦葺きの門に囲まれた屋敷もある。スレート瓦葺きの商家には、飾り破風のある屋根付きの門があったりする。Photo W 警察資料館野門を右折して西へ進み右折、養雲寺から北進してくる道に入る。 3ブロック歩くと、午前中に歩いた養雲寺の山門からまっすぐ北に進む道と交差する。ここを右折する。 道の途中には、太い梁を使った瓦葺き、白壁、黒腰板の立派な家がある。正面高みには「城下町」と墨書きされた自然木の大きな扁額がかかっている。日本料理店かそば屋の豪勢な店舗らしい造りの家であるが、格子ガラス戸に大きな赤字の「貸家」の張り紙があった。 右手の屋敷の門から覗くと、コンクリート歩道のうえに大きな黒猫が向こうを向いて坐っている。それを黙って見ている一人と1匹の気配を感じたのか、振り向いてくれた。そして、そのまま彫刻になってしまったかの如くなのである。一人と1匹の方が根負けして、お別れした。 直進すると県道36号に出て、右折すれば教育資料館、「遠山之里」で、登米町の町歩きは終了である。Photo Wa Photo W の道沿いのお屋敷の庭の大黒猫の悠然とした挨拶。Photo X Photo W の道を直進、通りを一本越えた付近。[1] 『現代日本文學大系19 高浜虚子・河東碧梧桐集』(筑摩書房 昭和43年) p. 4。[2] 『定本 種田山頭火句集』(彌生書房 昭和46年) p. 25。[3] 『定本 種田山頭火句集』(彌生書房 昭和46年) p. 45。[4] 『現代日本文學大系95 現代歌集』(筑摩書房 昭和48年) p. 437。[5] 『日本の古典55 芭蕉文集 去来抄』(小学館 昭和60年) p. 68。[6] 『現代日本文學大系19 高浜虚子・河東碧梧桐集』(筑摩書房 昭和43年) p. 354。[7] 『現代日本文學大系19 高浜虚子・河東碧梧桐集』(筑摩書房 昭和43年) p. 359。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2020.05.11
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【ホームページを閉じるにあたり、2011年3月4日に掲載したものを転載した】 午前中は南西部を歩いたので、午後は北東へ歩くことにする。それでも、先ほどは急ぎ足であった教育資料館前をもう1度歩くことからはじめる。 「遠山之里」前の県道36号(Photo A)の舗道脇に大きな「句碑案内板」なる看板がある。文字どおり登米町内の句碑の場所を示したものである。9基の句碑があるらしいが、私が知っている俳人は松尾芭蕉と高浜虚子だけであった。虚子の句は、遠山に日の当りたる枯野かな 高浜虚子 [1]がとられている。私の中では、この句は虚子の句中、2番目くらいに好きな句である。ここで初めて気づいたのだが、 「遠山之里」はこの句に準拠しているのではないか。とすれば、これは「当たり」だと思う。良いセンスである。句碑案内板から登米町は俳句の盛んなところらしいことがうかがわれる。Photo A 登米観光物産センター「遠山之里」前から教育資料館方向を見る道(県道36号線)。 虚子は定型俳句、写生俳句の神様のような俳人であるが、無季自由俳句にも同じような光景を詠んだ句がある。とほく山なみの雪のひかるさへ 種田山頭火 [2]山の雪も別れてしまつた人も 種田山頭火 [3] 加えて、短歌を1首。山の向ふの山をし見むと去りゆけばひとりきたりて野の石の上 中野菊夫 [4] 中野菊夫の短歌は、カール・ブッセの詩を思い浮かべさせる雰囲気もあるが、遠い山を見るとき、虚子では空間の美へ、山頭火や中野菊夫では空間から積み重ねた時間へ情が広がってゆくようである。【左】Photo Aa 教育資料館南の桜古木。【右】Photo Ab 教育資料館西の松。 教育資料館の前には、かつての小学校を囲んでいたであろう桜の古木が残っている(Photo Aa)。樹皮の感じからいえば「ソメイヨシノ」だろう。明治期から始まる日本の公教育制度は、どこでもソメイヨシノを伴って歩んできたのである。桜としては寿命の短いソメイヨシノは、木造校舎の寿命と期を一にするのであろう。 私が通った小学校も(この登米尋常小学校ほど古くはなかったが)、 大きなソメイヨシノの並木坂を上ったところにあり、校庭は校舎をのぞく南面と東面が大きなソメイヨシノに囲まれていたのである。私が卒業した後に校舎は建て替えられ、ソメイヨシノもすでにないのである。 団体客でもあろうか、さっきよりも観光客の増えた教育資料館をゆっくりと眺め、敷地を回るように西沿いの道へ右折する。その舗道には松の木が生えており、舗道は松の木を迂回するように造られている(Photo Ab)。 日本では道路を造るといえば、ひたすらまっすぐに邪魔なものは取り払ってしまうのが普通である。それを日本では「合理的」「経済的」と言って、どうもある種の人たちには美徳の一種であるらしい。この松は舗道部分であったことが幸いしたのであろう。ミシェル・フーコーのいう「ホモ・エコノミクス」の理想型である日本人(アメリカ合衆国の白人エスタブリッシュメントほどでもないかもしれないが)には珍しい行いではある。 教育資料館の裏手は、現在の登米小学校である。道は、登米小学校敷地の南西端にかかるあたりで北西に曲がっている。道なりに進むと広い道路に出て、それを右折すると右手は、登米高校である(Photo B)。Photo B 登米高校南側の道を北西へ。町歩きMAP 青線、黒字は午前に歩いたコースと写真のおおよその撮影地点。赤線、赤字は午後のコースである。矢印はと撮影方向を示している。地図のベースは、「プロアトラスSV4」、 歩行軌跡は、「GARMIN GPSMAP60CSx」によるGPSトラックデータによる。 本当によい天気である。こんな見通しの良いところに出ると、天気の良いことをあらためて知る。登米高校の体育館は道路向かいにあり、校舎と体育館の間を進んで、高校の敷地に沿って右に曲がる。校庭(グランド)が尽きるところで道は分かれ、左折して山辺の方に向かう。 目標は「森舞台」である。Photo C 登米高校北橋付近を左折した道。Photo D 「森舞台」へのアプローチ。 小さな木製の行先案内にしたがって山の麓に沿って歩いて行くと、「森舞台」の施設が見えてくる。 「森舞台」という優雅な呼び名は、伝統芸能伝承館の能舞台に当てられている。森舞台の前の道は人通りもほとんどなく、道向かいは広場になっていて、犬を繋いでも支障がないと思われたので、ここは中に入って見ることにした。 私が生まれた町の八幡神社にも、能や神楽のための舞台があったが、私はそこで舞われる能は見たことがない。祭の時に神楽が奉納された記憶がうっすらとあるから、もう50年以上も前にそのような祭の行事は途絶えたのではないかと思う。 能舞台の正面には広い縁のある総ガラス戸の建物が向かいあい、稽古場らしいのだが、能上演のさいには良い客席となるのだろう。左手の野天の客席は、緩やかな段になっていて、玉砂利が敷き詰められている。そこから見る能舞台の背景は、孟宗竹の林の斜面でケヤキらしい大木(落葉していてよく分からなかったのだが)が混じっていて、文字どおりの森舞台である。 印象的だったのは、舞台床下の音響用の大甕である。舞台上の鼓に合わせて踏む足音に共鳴するのであろう。能や神楽のことはあまり知らないが、この甕たちが創り出す共鳴音を聞いてみたいと思う。 このような甕を使って水琴窟を造ることを生業とする知人がいて、何度かその音色を聴かせてもらったことがある。しかし、商売としては不調のようであった。水琴窟があるような日本庭園などというのは、私などにとっては入場料を払って見る(聴く)のがせいぜいで、個人の庭で造る人がいるとしても、私とは無縁の人であろうと思っていた。Photo Da 「森舞台」床下の音響効果用の大甕。Photo E 「森舞台」から南への道。 「森舞台」からまっすぐに出る道(Photo E)を歩くが、この道は一回りしてもとの道に戻ってしまう。左に行く道があったのでそちらに進む。小さな谷に出来たような坂の道(Photo F)である。坂道と曲り角は、散歩道の必須要件である。 登ってゆくと、右手の人家の奥からこちらをみている犬がいる。毛色も体型も大きさも、イオと似ている犬である。母屋のずっと奥、広い裏庭から見ているのである。犬は近眼なので、私たちをどのように認識したかは分からない。イオもその犬を見ていたが、イオもまたその犬を認識したかどうか分からない。遠くのものの場合は、犬はその動きから何ものかを判断するのだと思う。多分、2匹とも互いを景色に1部として、すぐに忘れてしまうのである。写真に撮って忘れないための手続きをする人間だけが、だんだん重くなるのである。Photo F Photo E の道を左折、東へ上る坂道。Photo Fa 奥庭から見つめている。 道は地図には記されていない延長を通って、丘の尾根を走る道に出る。そのT字路を右折して少し行って、地図に記載された神社の方へ左折しようと思ったのだが、その道が見つからないのである。 さっきは記載されていない道を通ったが、今度は記載されている道がないのである。町歩きMAPには、「森舞台」でその内部を行きつ戻りつした様子がGPSトラックに示されているが、この付近のトラックが太くなっているのは同じ道を何度も往復して道を探したためである。 通りかかった婦人に尋ねると、知らないと言う。代わりに、近くにある「高台院霊屋」への道を丁寧に教えてくれた。Photo G Photo F の突き当たりのT字路を右折した道。 道探しは諦めて、ご婦人のお薦めにしたがって高台院霊屋へ行く枝道に入った(Photo H)。両脇に石が並べられている土の道である。この道の突き当たりを右に曲がるのだが、それは下の本道からまっすぐに上がってくる細道から続く道でもある。ただし、その細道はあまり利用されていないらしいことは、下草、落葉の様子からうかがわれた。 町歩きだというのに、土の道、落葉の細道、その山道らしさにほっとしてしまうのである。Photo H Photo G の道の下り始めで分岐、右、覚乗寺高台院霊屋への道。 登米伊達家の霊屋は、「方三間」のごく質素なものである。印象に残ったのは不揃いの自然石を敷き詰めた参道である。どう表現していいのか分からないが、えもいわれぬ雰囲気がある。霊屋に向かう石畳の両脇には4基ずつの石灯籠が並べられていて、何となく藩主と家臣の関係をイメージさせるものがある。Photo I 覚乗寺高台院霊屋。 高台院霊屋からの帰りは、使われていないらしい薮道を突っ切って本道に下りた。近道でもあったし、なによりもイオも私もそんな道が好きなのである。[1] 『現代日本文學大系19 高浜虚子・河東碧梧桐集』(筑摩書房 昭和43年) p. 4。[2] 『定本 種田山頭火句集』(彌生書房 昭和46年) p. 25。[3] 『定本 種田山頭火句集』(彌生書房 昭和46年) p. 45。[4] 『現代日本文學大系95 現代歌集』(筑摩書房 昭和48年) p. 437。[5] 『日本の古典55 芭蕉文集 去来抄』(小学館 昭和60年) p. 68。[6] 『現代日本文學大系19 高浜虚子・河東碧梧桐集』(筑摩書房 昭和43年) p. 354。[7] 『現代日本文學大系19 高浜虚子・河東碧梧桐集』(筑摩書房 昭和43年) p. 359。【続く】読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2020.05.10
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【ホームページを閉じるにあたり、2011年3月4日に掲載したものを転載した】【続き】 養雲寺の山門を出る。山門の前を東西に走る道は、さっきの県道15号である。この道を西へ歩く。誰も住んでいない廃業したらしい商家が数軒ある一方、昔風の木造りの門塀の新築も見える通りである。 300mほど進んで、左手の道に入って、地図に見える神社を見に行く。神社の手前に変形十字路があって、その角には白塀の大きな家が見える。敷地内には木造の藏や大きな納屋があり、庭木もたくさんある庭には竹の籬がしつらえてある農家(たぶん)である。Photo K 愛宕神社へ向かう道。 神社に近づくと、右手に1.5m四方で1面が開放された小屋があり、中に焼却炉らしいものが入っている。素焼き粘土製で、もしかすると陶器の焼窯かもしれない。ゴミの焼却炉のために立派な小屋を掛けるというのも変ではある。 神社は「愛宕神社」であった。愛宕神社は、火伏せの神様である。石段の上に小さなお堂があり、周りは杉木立に囲まれている。右手には真竹の林があるが、あまり手入れはされていない。竹を日常の用として使わなくなった今、竹林の手入れは難しいものなのだろう。 Photo L 愛宕神社。Photo M 愛宕神社からPhoto K の道を戻る途中で左折、西へ。 神社から戻り、変則十字路角の大きな農家を回り込むように左折する。Photo M の真ん中右上の二階家を過ぎた辺りで、元気な歓迎を受けた。右に左に走り回っての歓迎である(Photo Ma)。 疾駆する犬に典型的だが、躍動する犬の肢体は美しい。力の流れに無駄がない。Photo Ma Photo M の道で無言かつ活発な歓迎。 さらに一軒おいて今度は、動きは少ないが、大きな声で歓迎される(Photo Mb)。この犬はイオではなく、私を見ている。怪しげな風体の男をにらみつけて吠えるのである。良い仕事をしているのだが、あまり長く吠えさせるのは迷惑であろうと、急いで通りすぎた。 後で写真を見ると、庭の階段の上で身構える姿は、大理石の台上の塑像のようで、ギリシャ彫刻にありそうではないか。30°くらい斜めから見ることが出来たら、すてきな姿勢、緊張する筋肉が見えるに違いない。彫像ならぬ生身では許してくれそうにないが。Photo Mb すぐ近所で、こちらは大声で歓迎。 犬吠の一天晴れし寒さかな 阿波野青畝 [3]Photo N Photo M の道を北に左折、県道15号線との交差点を見る。 登米町には犬が多いのではないか。歩き始めて一時間もたたないのに、6匹の犬が挨拶してくれた。良い町である。 Photo M の道は二つに分かれ、左は山手へ、右はさっき歩いた県道15号の先へ向かう。県道を越えた向こうの道は、広い道路のようだ。 県道15号を越えた道は、スーパー農道なのかバイパスなのか分からないが新しい広い道である。立派な道路ではあるが、歩いて楽しむ道ではない。 少し進むと左手に家並を抜ける道がある(Photo O)。地図では「八丁田」という地区である。農家も多いのかもしれないが、塀の連なる静かな住宅地である。どの家もよく手入れされた庭を持ち、塀沿いにはベニシタン(紅紫檀)やナンテン(南天)が植えられ、初冬の晴天に映えているのである。 中には、総二階の家があって、その二階にも廊下が回っているらしく、床から立ち上がるガラス戸が全面に張られているのである。木造建築の総二階というのは、最近では珍しいのではないかと思う。Photo O 県道15号線交差点を越えて左折、八丁田地区を西へ行く道。 この道沿いにも犬がいて、挨拶することになる。初めはおとなしい白犬である。伏せの姿勢でイオを見つめるだけである。二匹目は少し吠えたが、やがて注視することに専念したようだ。どこの家も庭が広くて、私たちとの間には距離があるため、どの犬にも気分に余裕があるらしい。Photo Oa 無言、無動の歓迎。ひとりでいるとき 世界はわたしのとりこにすぎないのではないか? だまって坐っているだけで わたしは熟した果実のように豊饒だ 新川和江「犬」部分 [4]Photo Ob 少し吠え、少し動き、そして注視。Photo P 八丁田地区の家並の北裏の道に出る。 やがて道はT字路となり、そこを右折する。道はすぐ広い道路に出る。その道も広い立派な直線の農道で、歩く魅力に乏しい。そんなことを思っていたら、今歩いてきた家並の裏を通るような細い道(Photo P)があったので、そこを歩くことにする。Photo Pa Photo P に入る角でポニーと対面。見つめ合う2匹。 Photo P の道が右に分岐する地点、三角の角地に柵をめぐらし、ポニーが飼われていた。ポニーもこちらに気づいて、柵から顔を出して窺っている。イオは初めての馬に、呆然として見とれている。2匹は無言でしばらく対峙していたのである。 今度は私がイオを急かす番である。ポニーとはいえ、初めての馬を見て興奮したのであろう。イオは、道端に重ねてあった波板トタンに飛び乗って大きな音をたてて、近くで作業をしていたその土地のご主人らしい人を驚かせたのである。 謝って早々に過ぎ去ろうとすると、今度は道端の小屋から牛が顔を覗かせてこちらを見ているのである。イオは一瞬ぎくっとしたが、今度は知らん顔をして通りすぎるのである。山形県・面白山の登山口の牧場でたくさんの牛をたっぷり見たことがあるが、たった1度だけの経験のはずである。突然こんなに近くで出会うと、ポニーと較べてあまりにも大きいので、臆して遠ざけたのに違いないのである。Photo Q 畑のなかを北東へ斜行するする道。左側だけに人家が現れる。 道は畑のなかを通っていて、「く」の字に曲がって進むと人家の前に出る(Photo Q)。 ここにもブロック塀一面に伸びたベニシタンが真っ赤に実をつけている。 道はT字路に突き当たり、右方向、町の中心に向かって進む。この付近の家は、ブロックであれ何であれ、きちんと塀囲いした家がほとんどであり、塀の中に庭木はよく手入れされている。Photo R Photo Q の道の突き当たりを右折した道。 道は広い道路(八丁田の家並に入る前に少し歩いた道が北に続いた道)にでる。横切れば寺池の武家屋敷の方向に向かうのだが、いったん左折し県道36号の出会いの交差点まで行って、横断歩道を渡って戻り、町中心に向かった(Photo S)。 このまっすぐな道の走る町は、私の地図では「新町」となっているが、他の地図を見ると「前舟橋」となっていて、よく分からない。一般に直線上の道は散歩には不向きである。健康のためにがんがん歩くのだという準スポーツ志向の歩行向きだろう、などと心の中でぶつぶつ言いながら、この通りを歩き始めたのである。Photo S Photo R を直進、県道36号線に出る広い道を越え、寺池の武家屋敷方向へ。 ブロック塀、石塀に囲まれた住宅の続く道である。遠目に赤い色が見え、近づくとたわわに実のなるピラカンサスである。通りの右左に点々と見える。さっき歩いた八丁田地区ではベニシタンの赤が目立ったが、ここではピラカンサスの朱赤である。和風から洋風の色合いに変わっている。所々の柿の木には多かったり少なかったりするが、必ず残り柿がある。晩秋の色である。 塀の中の庭木はよく手入れされている。植木屋、園芸職人の手になるようで、私の庭とは広さと手入れの質において比較できないのであった。これはこの町の一つの文化のようで、そのような家々が並んでいるのである。【左】Photo Sa Photo S の道沿いのピラカンサス。【右】Photo Sb 残りの柿の実。 しばらく歩くと、信号のある交差点に出る。左手は大きな黒松のある家で、右手は「年賀はがき」「たい焼」「パンダ焼」の幟旗が立つ店である。「パンダのショウガ焼き」などと浮かびあがるイメージに驚き、かつ懸命に振り払いながら、直進する。 右手に白い壁の同じような形の家の並びが現れる(Photo T)。黒い柱に真っ白な壁の洒落た二階建てである。覗くと、奥にも形は少し変わるが同じような住宅が見える。 道脇にある説明看板によれば、「県営前舟橋住宅」である。公開コンペ作品をベースに平成二年に建てられたということである。少し目立つが町並みの景観を乱すわけでもない。公営住宅では最良ではないか、などと建築を知らない素人が感心するような住宅ではある。Photo T Photo S の道沿いにある県営前舟橋住宅。 「県営前舟橋住宅」を過ぎて十字路を一つ越え、千葉釣具店(欲しい小物があったので寄ってみればよかった、と後悔した店)を右に見て進むと、また十字路に出る。そこをを左折して県道36号に向かう(Photo U)。 この道に入ってすぐ左手に、土壁そのものの家がある。門と住居が一緒になったこのような建屋を長屋門というのではなかったろうか。門と一緒になった住居には使用人が住むのが普通で、長屋門があるのは大家である(あった?)ことの証左であろう。 道の突き当たりは教育資料館(旧登米尋常小学校校舎)である。犬連れなので中にははいらず、左手に眺めつつ、「遠山之里」に急いだ。正午を回り、空腹に急かされたのである。Photo U Photo S を左折して教育資料館方向へ向かう道。 「遠山之里」駐車場に戻り、イオを指定席(助手席)の犬用シートベルトに繋いで、私は昼食である。イオは車に乗ってさえいれば1,2時間は平気で待っているので、こういう時はまったく問題がない。外に繋いで、犬恐怖症の人を怖がらせることもないし、なによりも完璧な「車上荒らし」対策なのである。 「遠山之里」のレストランでの昼食はラーメンである。これも後悔であるが、「あぶらふ丼」というのがあったのである。油麩は、わが家の朝食の味噌汁の具の定番になりつつあるが、じつはそれ以外に食べ方を知らないのだ。「あぶらふ丼」をレパートリーにするチャンスを何の考えもなしに逃したのである(最近、おさんどんをはじめた私には必須の教習課程であったのに)。[1] 『現代詩文庫48 北川透詩集』(思潮社 1972年) p. 35。[2] 石原吉郎『詩集 礼節』(サンリオ出版 1974年) p. 18。[3] 『阿波野青畝全句集』(花神社 平成11年) p. 149。[4] 新川和江「詩集 絵本「永遠」」『新川和江全詩集』(花神社 2000年) p. 81。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2020.05.03
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【ホームページを閉じるにあたり、2011年3月4日に掲載したものを転載した】ぼくの訪れる家は このあたりだとたちどまって みるのだが その曲がりくねった 路地の先は 必ず茫とした空地になる ながい彷徨が徒労におわって 慣らされた意識が ぼくのさがしているのは この空地ではなかったのかという想いを強いるが ぼくは歩行を断念することができない 北川透「砂埃のなかから」部分 [1] 登米町は、かつて登米(とめ)郡登米(とよま)町で、平成の大合併で登米市登米町になった町である。行政区分としての町ではなくなったが、「宮城の町歩き」では、歴史的に形成されたまとまった生活基盤を持つ集落で、かつては行政の単位とほぼ同じであった地区を町と呼ぶことにしている(勝手に呼んでいるだけだが)。 登米町の近在で生まれた私は、小学校の遠足で登米とか米谷(登米町の北隣)とかに行ったような気がするのだが、具体的な記憶はまったくない。5年生の時は松島で、6年生は仙台であった。一年生の時は歩いて行ったので、町内である。2~4年の記憶がない。距離的には3,4年生の遠足が適当な感じである。ただ、4年生の夏休み前の少しの期間、登校できない時期があって、話だけで聞いた遠足の可能性もないではない。 登米の近在で生まれ育ち、仙台で暮らしている私にとって登米町は、明治期の建築物の保存がなされている観光地として良く知っている町である。娘が小学校の時の遠足先が登米で、アブラフ(油麩)が土産であった。ただ名前をよく知っているというだけであるが。 「宮城の町歩き」を心さだめて、ネットでいろいろ調べていたとき、角田市に次いであっさり候補に決まったのは、角田市と同様、すぐに駐車場が見つかったことによる。「登米観光物産センター・遠山之里」の駐車場を使って登米観光をどうぞ、という旨のページがすぐに見つかったのである。 駐車場はどこにでもあるだろうし、ホーム-ページもあるだろうが、必要な情報に容易にアクセスできなければ無きに等しいのだ(検索下手という問題もあるが)。Photo A 旧水沢県庁舎前を南へ。 「遠山之里」をベースとして、登米町を歩くことにする。駐車場を出て南に向かう。東西に走る県道36号を越えて、旧水沢県庁舎を右に見て、静かなお屋敷の並ぶ通りを歩く。 この地域が、明治の初めには「登米県」、「一関県」、「水沢県」とめまぐるしく行政区割りが変わったということは知らなかった。私の生まれた町もそんなふうであったのかもしれないが、まったく聞いたこともない。暮らし向きに関係なく、記憶され、記述されるべき歴史的意味が地元でも共有されていなかったということだろう。古い建物が大切にされるべき意味は、こういうところにもあるのだと思う。 立派な武家屋敷の門が並ぶが、庭の奥を覗くと茅葺きか藁葺きか遠目では判然としないけれども(常識的には茅葺きと思うが)、見慣れた懐かしい雰囲気の母屋が見える。幼年期に見慣れた大きな農家の母屋とよく似ているのである。庭の構造が農家とまったく違うのは、武家と農家ではそれぞれが庭に要求する機能の違いによるのだろう。農家では、廊下の前の庭は作業用の広いスペースでもあって、その廊下と庭は子供たちの遊び場でもあった。Photo Aa Photo A の道で。茅葺き屋根と開放された廊下。Photo B Photo A の道がクランク状に折れる手前で歩いてきた道をふり返る。 Photo B は、「遠山之里」前の県道36号から南に300mあまり進み、道が折れる手前でふり返って見たものである。どちらから見ても、塀と門が続くばかりである。 道は右に折れ、すぐにまた左に折れ、いわゆるクランク状に歩いて行くことになる。角に「町屋ミュージアム」があり、その1部かどうか分からないが、なまこ壁の土蔵が二つ並んでいる。 「遠山之里」からこのあたりまでは、古い門と、屋敷塀が続く落ち着いた町並みで、観光スポットとして申し分ないのである。観光旅行ではないが、何か得した気分ではある。町歩きMAP 青線、黒字は午前に歩いたコースと写真のおおよその撮影地点。赤線、赤字は午後のコースである。矢印はと撮影方向を示している。地図のベースは、「プロアトラスSV4」、 歩行軌跡は、「GARMIN GPSMAP60CSx」によるGPSトラックデータによる。Photo C クランク状に折れてふたたび南へ。 屋敷町のクランク状の道を南に出ると、東西に走る道に出る。出た付近は県道15号になっている。この通りにはお屋敷もあるがほとんどは商店などの民家である。家のガラス戸越しに動き回る姿があって、私たちの動きに同調してガラス戸のなかを移動している。2匹のチワワである(Photo Da)。私のことはまったく見ていなくて、私の前を行く犬(イオ)に集中している。今日の初めての歓迎である。Photo D Photo C を出て西進する道(県道15号)。左手の道へ進む。Photo Da Photo D のT字路付近でチワワが見ているのは連れの犬。 県道15号に出てすぐ南に向かう道があって、そちらの道が県道15号に指定されている。その道に折れて南にまっすぐ進めば、登米神社である。遠くの高みに神社らしい杉木立が見える。神社に上ってみることにして、その道に進む(Photo E)。「○○」は高いところが好きということなのである。私は山登りも好きだ。Photo E 登米神社へ南進する道。 この通りにも、家は建て替えても古い門構えを残している家は何軒もある。そんな家の奥の方からこちらをじっと窺っている眼があった(Photo Ea)。すてきな自然石の上にあつらえた塑像のような筋肉質である。 県道15号は次の十字路で神社へ進む道から外れ、西に進む道になる。その角には、なまこ壁の大きな藏ががいくつか並んでいる。反対側の角には「ヤマカノ醸造」という会社があって、その裏にも大きな白壁の藏がある。この会社の「人屋根に叶」の商標は、私には馴染みのものである。そのせいで「人屋根」を「山冠」だとばかり思っていたのである。 その十字路を過ぎると、立格子の檻の中、小屋の中からぬっと出て来て、イオを見つめるシェパードがいた。私が声をかけても見向きもせず、私に連れを見ている(Photo Eb)。イオは相変わらずおとなしそうなふりをして、静かに見返している(典型的な「内弁慶外ミソ」なのである)。Photo Ea 登米神社への道での最初の歓迎。Photo Eb 登米神社への道での2番目の歓迎。Photo H 登米神社への石段と鳥居。 登米神社は、もともと八幡太郎義家に由来する八幡神社で、明治初期に稲荷神社を合祀して登米神社となった(と由緒書きに書いてあった)。神社の名前そのものが由緒を表さなくなると言うのは少しさびしい気がする。 鳥居脇には桜の木があり、石段の途中には、幹に歯朶をびっしりと背負う大樹がある。杉を背景とする石段と桜の花、そんな光景を想像してみる(桜の時期に再訪できる当てはまったくないのだが)。 境内に入ると、朱に塗られた高楼が目を引く。それは鐘楼なのであった。楼門も本殿も十分に古びていて風格がある。境内には斜面を背景に大小の石碑が配置されていて、しーんと静まっている。Photo G 登米神社境内。 登米神社の境内を西に抜けると、町へ下りる車道に出る。道の向こうには墓石が見える。養雲寺の裏手なので、その寺の墓地であろう。墓石の間に墓地へ下る道があったので、その道に入った。 山道の脇には三々五々墓が建てられているのである。古い墓も新しい墓もある。道端には黄菊も咲いていて、1級の散歩道なのであった。急斜面の下を通ったとき、見上げると斜面の上には古い小さな墓石(石碑?)が隙間無く並んでいるのが見えたりする。 下っていった谷も墓地で、雑木の混じる杉木立の中に、木漏れ日を受けて墓石が光っている。墓石はほとんど不規則に、場所によっては一部は規則的に配置されている。長い時間をかけてわずかずつ変容をとげたであろう企まざる構造の美しさが溢れている。人間が深く深く関わった場所で、こんなに感動するなどということは、この人生にずっとなかったように思う。Photo H 登米神社から林間の墓地を抜けて養雲寺へ。いまは死者がとむらうときだ わるびれず死者におれたちが とむらわれるときだ とむらったつもりの 他界の水ぎわで 拝みうちにとむらわれる それがおれたちの時代だ だがなげくな その逆縁の完璧において 目をあけたまま つっ立ったまま 生きのびたおれたちの それが礼節ではないか 石原吉郎「礼節」全文 [2] この墓地の景色は、あたかも死者たちから生き残っている者たちへの美しい贈り物のように存在しているのではないか。生きている者たちへの慰めを送りつづける遠い父祖たち。 私の生まれ育った町の墓地も、かつて山の斜面の林間にあったのだが、いつか整地され、コンクリート道、画一的な敷地割りの墓地に改葬された。東から3列目、南端から5番目、と砂を噛むように記憶される墓に、私の父母は眠っている。Photo I 養雲寺山門。 墓地に見とれていたら、イオになんども急かされた。養雲寺の本堂の前を通り、たくさんの水子供養の地蔵尊(水子像?)を横に見て、養雲寺山門に出た。Photo J 養雲寺山門前から西へ進む道(寺池鉄砲町)へ。[1] 『現代詩文庫48 北川透詩集』(思潮社 1972年) p. 35。[2] 石原吉郎『詩集 礼節』(サンリオ出版 1974年) p. 18。[3] 『阿波野青畝全句集』(花神社 平成11年) p. 149。[4] 新川和江「詩集 絵本「永遠」」『新川和江全詩集』(花神社 2000年) p. 81。【続く】読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2020.05.02
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