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退職してから10数年、糠漬けを作り続けている(妻は一度も糠床に手を入れたことがないし、それを自慢にしている)。7、8年前から春のフキノトウ漬け、夏のナス漬、秋にはハクサイ漬けと赤カブ付けが加わるようになった。それで、今は糠漬け(ダイコン、カブ、キュウリ、ニンジン、セロリ、ミョウガ)、ハクサイ漬け、赤カブ漬けが食卓に並ぶ。妻は喜んでくれるが、食の細い私が漬物だけで食事を済ませようとするので、とても口うるさくなるのが切ない。
そんな晩秋である。
元鍛冶丁公園から一番町へ。(2022/11/25 18:12~18:33)
季節の変化に鈍感になったというよりも年々季節に置いてきぼりにされる度合が強くなってきた私にも、家を出るときに外が真っ暗になっていれば仙台はすぐそこまで冬が迫っていると感じる。夕デモなどと言っていたが、ほぼ完全な夜デモである。元鍛冶丁公園に着けばケヤキの葉が地面に敷き詰められていて、もう秋は終わったらしいと感じるのである。秋は終わり、冬はもうすぐ、つまり今はどんな季節に属するのだ、などとしょうもないことを思っているうちに集会が始まった。
フリースピーチの主題は、今日南相馬市の住民ら約140人が、東電に損害賠償を求めた訴訟(福島原発避難者南相馬訴訟)に対する仙台高裁の控訴審判決のことだった。
福島地裁での一審判決では総額約1億4600万円だった慰謝料は、今回の控訴審判決では2億7900万円ではほぼ倍額となった。慰謝料の算定方法にはまだ問題が残されているとはいえ、まずは裁判に勝利したと言えるのではないかと思う。
この判決が出されたことで何よりも感じたことは、東電の敗北感にはただならぬものがあったのではないか。判決の慰謝料額は仙台高裁が示した和解案とほぼ同額で、和解案を蹴った東電の主張はほぼ完全に否定されたと言っていいし、何よりも判決そのものが東電の加害責任やその悪質性を厳しく断罪したことは、どう考えても東電の完敗であって、今後の多くの原発裁判に与える影響は大きいだろうと考える。
仙台高裁判決が東電の加害責任を断罪した内容は、判決後直ちに出された原告団・弁護団の声明に詳しいので引用しておく。
判決は、2002年7月に国の機関によって公表された「長期評価」の信頼性が認められることを前提として、これに基づけば、東京電力は、福島県沖を含む日本海溝沿いの領域においてM8クラスのプレート間の大地震が発生する可能性を認識し、遅くとも、津波試算がなされた2008年4月ころには、同試算程度の津波が到来し、浸水により電源設備が機能を喪失し、原子炉の安全停止にかかる機器が機能を喪失する可能性があることを認識していたと認定した。
判決は、このように東京電力が事故の3年も前から具体的な危険として予見していたにもかかわらず、津波対策により原発が運転停止に追い込まれる状況は何とか避けたいなどという経営上の判断を優先させ、原発事故を未然に防止すべき原子力発電事業者の責務を自覚せず、結果回避措置を怠った重大な責任があったと認めるのが相当であると、東電の責任を厳しく糾弾し大な責任があつたと認めるのが相当であると、東電の責任を厳しく糾弾した。
東電1F原発事故は重大な人身事故であったし、深刻な環境汚染を引き起こした。エジプトで開催されたCOP27(国連気候変動枠組み条約第27回締約国会議)も、いつものように環境汚染先進国とこれから環境汚染先進国になりたい国家群の利害調整が進まず、画期的な解決には多くの困難がつきまとっていることを明らかにしながら閉幕した。
COP27では、IAEA(国際原子力機関)が温暖化ガスを減らすには原発が必要だという宣伝をしていたが、あいかわらず「地球は温暖化ガスで滅びるか、放射能汚染で滅びるか」という愚かな二者択一論から抜け出せない醜態をさらしていた。
環境問題の深刻さについては、 ブール&ホワイトサイドの『エコ・デモクラシー』(松尾日出子、中原毅志訳)
著者は、環境問題の五つの特性を上げている。
〔中略〕
二つ目の特性は、環境問題の不可視性、「環境問題は目に見えない」 (p. 21) ということである。福島原発から空中にばらまかれ、福島県ばかりではなく近隣諸県も放射性物質によってひどく汚染されたが、その汚染は目には見えない。もちろん、測定機器によって確認することは可能であるが、目に見えないことを良いことにして、県全域の放射能測定はしないと決めた県がある。測定しないことでデータがない、データがないことで放射能汚染はないと強弁したいのだ。
著者が例示するように、「交通量の多い幹線道路近くの住民たちは、一般的に自分の子供が癌になる確率が平均よりかなり高いということを知らない」 (p. 22) ということからも分るように、不可視性は意図的な情報遮断の問題でもある。福島原発事故は、情報遮断、情報隠蔽がてんこ盛りの事例である。
〔中略〕
「環境問題は世代を超える」 (p. 24) というのが四つ目の特性である。これもまた原発問題がいい例になる。被爆の問題は世代を超える。これは放射能被爆、とくに広範な地域で起きている低線量被爆が抱える最大の問題である。原発を推進したい人々は現時点での被爆被害だけを取り上げ、可能な限り過小評価をしようとしているが、被害はこれから長いスパンをかけて現われてくることは間違いない。
しかも、原発が日々生産し続けている大量の放射性廃棄物を10万年のスパンで管理し続けなければならない。ホモ・サピエンスが地球上に現われたのが15~20万年前であることを考えると、10万年後のホモ・サピエンスがどうなっているか、確かな予想は難しい。どのように言いつくろうとも、原発は未来への責任を完全に無視するか、ないしは責任を放棄することを前提としているエネルギー技術なのである。
〔中略〕
著者は、この五つを環境問題における特性としてあげているが、6番目として「不可逆性」を加えてもいいのではないか。使われてしまった化石燃料は人類が生存するスパンで再生産されることはない。地球上に拡散されてしまった有毒な化学物質を回収するすべはない。ただいまこの瞬間も空中や海水へ垂れ流している福島第1原発からの放射性物質も回収することができない。「取り返しが付かない」のである。
拡散していない有毒化学物質なら中和・無毒化も可能だろうが、原発で作り出された大量の放射性物質を消すことは不可能である。それを支配しているのは人間の知恵や技術を超えた「物理学的半減期」という厳然たる物理事象だけである。科学を知らない無知な人間ほど、いずれ何とかなる、未来の技術が解決するなどと思っているようだが、冷徹な「不可逆性」を人類はひっくり返すことはできない。(2013年9月1日)
地球規模の環境問題を現状の代表制民主主義の国家群が解決するのは困難(政治家は自分を選んだ選挙民だけしか代表しないため)だとして、著者らは「エコ・デモクラシー」を提案しているがそれは専門家を中心とする機関の創設で、いわばハーバーマス流の熟議民主主義によく似ているように思える。熟議民主主義が機能している国家を知らない私には、それが国際的な決定機関・制度として有効かどうかは判断が難しい。
青葉通り。(2022/11/25 18:45~18:51)
まったく寒くはない。デモの周りを急ぎ足で歩いたり、小走りなったりするが汗もかかない。疲れをここちよく感じることができる。いい季節、いい夜である。残念なのは、家で腹をすかした家族が待っていることだけである。急ぎ足で帰るのである。
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