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気持ちよさそう!灯台見るための建物
2008年07月27日
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誰かに影響を受けた場合でも、誰かに影響を与えた場合でも、起こってしまったことは起こってしまったのだし、いいもわるいも考えたってしようがないのだろうけど、「これ」を伝えてもらったこと「これ」を伝えたことの影響については、たんによい。
2008年07月27日
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ことばはたんにことばである。 文字はたんに文字である。 たとえば文字である数字「3」と、3そのものは別である。「3」をことば・文字・数字として認識するのと、「3」を曲線として、色形として、パソコンの画面にあらわれた模様として、物として認識するのとは別である。 そして、ああなるほどそうか! と驚いたなら、もうひと押し、 そのように「3」を物として認識するのと、「3」を物として知覚するのとは別である! 認識と知覚は別である。「3」を物として知覚している瞬間、認識は背後に隠れる。「図と地」のようなものである。
2008年07月23日
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わりと誰かれかまわず長い間、「これ」についてしゃべってきて、ようやくひとり「これ」の伝わった人がいて、その人が、知ってる人(知り合いの知り合いでもいい)の中でもうひとり、ふやそう、と言う。 そりゃまあ、何人でも伝わるならうれしいけど、ぼくはもう、身の回りの人に伝えるのは、ほとんどあきらめている。 だいいち、しゃべった相手に、ほとんどいかがわしい宗教の勧誘みたいに受け取られてもきた。(まあ、反対の立場だったら、「息を止めて何かを見つめて数秒間考えない、といった忍耐強い実験によって、あるときふいに「これ」がひろがります」とかなんとか、熱い口調でしゃべってるひとが近くにいたら、この人とはあまり関わらない方がよさそうだな、といった常識が働きますよね) それに、ぼくがいようがいまいが、「これ」は人類が存在している間は、これまでも、これからも、誰かから誰かに伝わっていくのだ。 だけどな、よくよく考えてみるに、「これ」を伝えるのは、ぼくにとっても「生きていてしたいこと」の代表みたいなもんだからな。しかも可能性はじゅうぶんあると思っているらしい理解者があらわれたからには、こいつはひとつ、むだに終わってもいいから、やることになるんだろうな。
2008年07月22日
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小津安二郎監督の『お早よう』と『戸田家の兄妹』を見ていて気づく。 男の子の勉強している英語の例文が同じで、しかも同じ翻訳のまちがいをする。マイシスターイズスリーイヤーズヤンガーザンアイわたくしの妹は三才でわたくしより若い美しい誤りがわざと反復される
2008年07月21日
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以下の文章中の「A」に入れる言葉を当ててください。『そういえば以前、リービさんにうちの短大で講演していただいたことがあるんですが、そのとき古典をやっている学生が「けり」を英語でどう訳すんですかと聞いたら、「A」でいいと言われて、みんなが、そうか!という感じになったことがありました。』
2008年07月18日
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リービ-英雄さんの「星条旗の聞こえない部屋」は、大好きな本です。
2008年07月18日
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私の人生の全体をとらえようとするとき、 私の人生を全体としてとらえようとするなら、 小さい頃から死ぬまでの時間の流れ全体、というようなやり方では、それがいかなるものであれ、「ある特定の人の一生」にすぎず、そんなものは、「ある特定の虫の一生」やら「ある特定の草の一生」やらと同じく、 むなしくなってくる。 むなしさから解放されるには、たとえば この10秒を(10秒などという時間を含んでしまうと、時間にとらわれてしまうので、この瞬間を、と言いたいところだが、10秒からはじめる方が取り組みやすい気がして) くりかえしくりかえし 生きてみようという実験。 どうしても過去をふりかえってしまうというのなら、 この3分だけ(過去をふりかえるのに、さすがに10秒では短いような気がして)ふりかえる。 未来にふけってしまうというのなら、この3分だけ、ふける。 そして、たった今現在の、この新しい10秒を生きる実験。「人生の全体」は、時間を含まないんだろう。 時間から解放されているんだろう。 ぼくはこの30分、書く実験をしました。
2008年07月15日
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意味があるとか意味がないとかを、突きつめてとらえようとするときには、時間の経過はまやかしとなる。 時間の経過によってその出来事や行為に意味があるように見なされたり、まったくの筋ちがいで無意味と見なされたりしてしまうのだが、「時間の経過」は「意味」を作りかえているだけだ。「過去をふりかえってみたところ、その出来事の重大さが今になってわかる」なんて思ったりするけれど、じつのところ、「たった今、その出来事をふりかえっている」という「たった今」に意味はある。 そうすると、「瞬間ごと、意味に満ちている」といった表現になったり、「たった今だけがある」とか「永遠の今」とかいうふうな表現になったりする。
2008年07月13日
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「人間」という「物語」の中、人間に向けて、(他)人に向けて、書く。 他人の夢 読者としての自分が「他人」であるばかりでなく、書く自分もまた、「他人」である。 しかも、ひとりの「他人」ではなく、数えられない「他人」なんだろう。 物に向けて、事に向けて、物思いに向けて書いていたりもする。
2008年07月13日
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なんと、死んだ人については、それがどんなにうらやましく思えそうな人生だったとしても、うらやましくない。 終わった人生はまったくうらやましくない。 終わってしまう人生がうらやましいわけがない。 やがて死んでしまう、いま生きている人の人生がうらやましいわけがない。 前後関係に頼らない「一場面」「一行為」の恍惚感。 だけどな、「終わってしまう人生」抜きで『前後関係に頼らない「一場面」「一行為」』があるわけじゃなし… ということは、これはもう、「時間」は関係ないな。 たった今は、ほんとうに、ほんとうに、永遠の今であって、「時間」とは別の空間に浮かぶ。
2008年07月13日
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自分は何か大きな勘ちがいをしているのかもしれない。 そもそも、「自分」は勘ちがいなしでは存在しえない。 人間なので書く。 ほんとうに? そもそも、人間でなくてもいい。 人間であることにこだわらなければ、書かなくていい。 なんてことだ! しかもこうして「書かなくていい」と書いていることは、 どうしたことか、 まったく矛盾した気分をもたらさないのだった。 つまりだな、「生きなくてもいい」と書きつつ生きるのを楽しむのに、矛盾がどうのこうのと逃げるのはいらないのだった。 こうやって「まじめに」書くのは静かだ。 ただ、「まじめに」書くのは静かだけど、あまりおもしろくないので、だいたいのところは、ふまじめに、書くのを楽しんだり苦しんだりする。
2008年07月08日
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この街にはすすめられてこんなにいつも雨の降るきれいに縦に降る映画館から川へ古い食堂から池へ 生きている間、自分を使って、ちょっとした実験を行うことができる。 どんな実験を行うかの規則はない。 意識がなくなればすべて白紙なんだけれども、意識がある間は、意識の実験室にいる。
2008年07月06日
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いわゆるふしだらな生活というのは、そのふしだらな行為自体が問題なのではなく、そのふしだらな行為が習慣となってしまう危険にあるんだろう。 集められた人たちが、集められた土地で、「ここで何をするのか話し合って下さい」と言われたところで、理由なく話し合いに参加する気にはなれない者、もうすでにこの土地から離れたがっている者、このような奇妙な物事に興味はあるので話し合いをしたいのだがほかの人は乗り気でなさそうなのでとりあえず黙ってようすを見ている者、ばかばかしい、ここで解散してこんなことは終わりにしよう、と言ってみようかどうか迷っている者… しかしながらこのようなゲームに参加させられている(自ら参加した者もいるにせよ)からには、このような状況になるのを避けられなかった事情が、それぞれにあるのだろう。 みんな、ぎりぎりの偶然で生きている。 見知らぬ通りに入ると、ここがどこでもない場所だと身にしみる。朝の広場朝のくっきりとした光の中僕らの影はまだ 僕たちに親しい草たちがひろがる虫たちが泳ぐ
2008年07月02日
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