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この美しい世界に生まれたのは奇跡的にありがたいことなのだ けれど何年たっても仲間は見つからず 作れずさみしいけど それでもこの世界に生まれてよかったけど でもねぼくのことばは ひとりごとにすぎずぼくは死ぬまで ひとりぼっちかもしれないもうすっかりあきらめかけてたころ神のめぐみのように あなたを贈り届けてくれたそして ひとりごとは ふたりごとになった
2008年10月28日
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天井から落ちてきた大きな猫の、首が切り離される。首と胴がふたたびつながれば、僕は襲われるので、ガラスドアを首と胴の間に入れて、合体を防ごうとしている。鍵が縦に割れる。割れた鍵をなおしてくれる盲目の鍵なおし師がいる。夜中に二人の男に連れられて坂道を下ってゆく。おでんを煮ている。金網で区切られた場所。上の方にほかの客もいる。雪が降っている。道の反対側は広場。馬の足をした男が広場に何人かいる。暖めている鉄鍋の牛乳に、風呂のつもりで入ったらしくしかられている。道から見た旅館の幅は普通なのだが、いざ入ってみると、奥行きには果てがない。動物ハンカチには「小犬になったら、飼主にかわいがってもらえるようにしましょう」と書かれている。動物ハンカチを振ると、ハンカチが蛾のような虫に変わって床低く飛ぶ。どうして犬ではなく虫なんだろうと見ていると、カマキリに変わって床を跳ねていたのが、胴体のところがきれいなつややかな毛になって、そのうち小犬の顔が出てきて、小さな小犬になって僕の両手の中にいる。もういちど動物ハンカチを振ると、20~30センチくらいの魚になって、空中を移動して僕の体に強くぶつかってくる。何だか恐いくらいの強さだ。魚の皮膚はうろこみたいではなく、豚の皮膚に似ている。
2008年10月26日
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左前腕内側に5回注射され、文句を言っているのだが、やがて刺されたところから5行のみごとな詩が浮き出てくる。海辺の空き家らしいコンクリートの建物。屋上にソファー。美しくくもった空。緑の海。自分が死んでいるのか生きているのか、体で確かめようとして、首から上がないのに気づく。きょうは何曜日ですかと尋ねると、ナノ曜日だと言う。ナノ曜日? いったい何曜日のことですかと聞き返すと、そこにいた数人はみな笑う。ナノ曜日とは何曜日のことだったか? ぼくはそんなことまで忘れてしまったのか? だけどナノ曜日なんて聞いたことがない気がする。「木曜のことだよ」とひとりが、答えてくれた。ぼくはほっとする。「ああ、木曜ですね。何月何日でしょう?」外には雪がうっすら積もっているが、さほど寒くはなく、じっさいに雪をさわってみると、雪ではなく、白い粉だ。手紙を出したいから住所を教えてもらおうとすると、こちらを向いたまま逆さまから器用に、こちらからそのまま読めるよう書いてくれる。「ここは夢の中だけれども、目が覚めてからでもあなたに連絡できるよう、住所を紙に書いて欲しい。聞いただけでは、これは夢だから忘れてしまうかもしれないから」と言って、相手に住所を書いてもらう。住所の書かれた紙を握りしめて、夢の中だと知りつつふとんにはいる。夢から覚めたときにも、この紙を握りしめているのを、疑いもしない。
2008年10月26日
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起きて食べ物か何か買い物に行くのだが、どうも体の感じが変だ。スーパーへ入るため階段を降りて行くが、途中で通路は狭くなり体が通らなくなり引き返す。競馬で馬が死んだのは、走っている馬の背中に騎手が上方から急に飛び乗ったからだと、講堂のような部屋にたくさん並んだ長椅子に寝ころんでいる人が言う。バスに乗るため並んでいるのだが、バス停は見えないどころか、行列はビルの二階にまでつづいている。隣にいる人が二階の手すりから人を突き落とす。近くで誰かが大きな卵を割る。中身はぜんぶ黄身のようで、黄身の内側でひよこがうごめいている。すぐに、黄身は潰れないままひよこは黄身から抜け出て大きくなる。人を殺したのだが、死体処理は別の誰かがしてくれたようだ。殺した理由もどうやって殺したかもわからない。僕は海に捨てられたのだろうと思っていたのだが、テレビが出てきて失踪した人たちの住む川のようなダムのような物の下に隠れたコンクリートの大きな管を映す。僕が殺したつもりの人も管の中で住んでいるらしい。目玉のフライ。フライにして移植する前の目玉を保存している。目の周辺は暖かいのだから、そうするのだろうか? ドラム缶の上に置かれた4つほどの目玉のフライ。食べる人がいる。僕の右目が無いから、僕に移植する目玉なのに、食べられてはたまらない。横たわってまどろんでいると、波の音がして、妙だなと思っていると、水が床から昇ってきて、これはたいへんだ、起き上がろうとするがからだは重く、水で息ができなくなってゆく。目が覚めて気づくと、戸外のベットで眠っていたらしい。雨が降っている。あれ? どうして濡れないんだ? 見上げるとベッドを覆って無数の小さな葉が重なって雨漏りを防いでいる。葉は雨粒を抱えてはいるが、どういうわけか、雨粒は落ちそうなのに落ちない。僕はベッドの頭上に置いてある目覚まし時計を見て、もうそろそろ起きないといけないと思っている。
2008年10月26日
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どこへ向かうかわからぬまま…スタートボタン…まず、「夢の中で暮らす」という表現を使わせてもらうにあたって、ここでの「夢」は寝ているときに見ているいわゆる夢ではありません。しかも白昼夢でもありません。区別するため、とりあえずここしばらくは(途中で変更するかもしれませんけど)「この(起きて見る)夢」と「眠って見る夢」というような表現にします。そんな紛らわしいことせんでも、それやったら夢という言葉使わんと別の言い方せんかい!ところがです、「夢」という表現があまりにぴったりした感じがして、(いまのところ)どうにも別の表現が見あたらないのです。ところで「眠って見る夢」ですが、具体的な夢の体験の仕方というか質感は、人によってじつにさまざまのようですね。ところが、「この(起きて見る)夢」は夢見びと(?)にとって、質感が同じです。(起きている)夢の中で、休息しつつ覚醒しています。
2008年10月23日
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弟子「伝えてもらったんじゃないような気がする」師匠「え? どういうこと?」弟子「「この世界」のこと、師匠から伝わったわけじゃなく…」師匠「ああ、それはそうだね。ぼくの中にある何かを伝えたわけじゃなく、あからさまにひろがってる「この世界」に(自分で)気づくよう、しゃべってただけだからね」
2008年10月23日
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ゲストはヨガの先生でした。ヨガの先生になったのは、初めてのヨガで瞑想体験したからのようです。お話は楽しかったし、なるほどと納得することも多かったです。ただ、「目の変化」には興味は持ってもらったものの、残念ながら、なぜ「目の変化」にこだわるのかは、わかってもらえなかったようです…
2008年10月22日
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(瞑想:p79:クリシュナムルティ:中川吉晴(訳):星雲社)より引用『心が静かになれるのは 心がみずからの動きを理解するときです 心は 思考や感情として動きます この思考や感情の動きを理解するには それを観察しているとき 非難するまなざしがあってはなりません そのように 非難しないで観察することは ひとつの鍛練にほかなりません そのような鍛練は しなやかで 自由なものであり 服従を強いる訓練とはちがいます』
2008年10月21日
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(現代文/正法眼蔵2:p223~233:道元:河出書房新社)より引用(略式勝手訳)『覚者たちは仏法を夢中説夢(むちゅうせつむ)してきた。覚りの中で覚りを見るように、夢の中で夢を説くのである。 覚りによっていよいよあらわにされる世界の実相は、夢である。この夢がさまざまな現象をあからさまに見せてくれる。 夢の中の場所は、どのような場所もあたりまえのようになってしまう捉えどころのない世界である。 夢の中でなければ、覚者たちが世に出て仏法を自在に説くことはない。 夢は寝ているときにも見る、覚めているときにも見る。 師の言葉が端的に伝わるのも、夢の中である。 夢と覚りは本来ひとつである。 夢になる、これが覚りの真実である。 教えには、つねに好い夢がある。 仏法をひたすら学ぶとき、好い夢はその場に現われる。』
2008年10月20日
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(瞑想:p53:クリシュナムルティ:中川吉晴(訳):星雲社)より引用 思考や感情のすべてに なんら選ぶことなく気づき それらを動かす原因や その仕組みを理解し それらが花ひらくままにしておくことこそ 瞑想のはじまりです 思考と感情が よく育ち そして死んでいくとき 瞑想は 時間を超えた動きになります ………ポンチ「それが瞑想であり それが悟りではないでしょうか?」「それが瞑想」の「それ」は 思考や感情のすべてに なんら選ぶことなく気づき それらを動かす原因や その仕組みを理解し それらが花ひらくままにしておくこと「それが悟り」の「それ」は 思考と感情が死に 時間を超えた動きになること ……… ポンチさん、こんな感じでいいでしょうか?
2008年10月19日
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(瞑想:p53:クリシュナムルティ:中川吉晴(訳):星雲社)より引用『瞑想は 時間の中にあってもおこり 時間の外にあってもおこります ……… 思考や感情のすべてに なんら選ぶことなく気づき それらを動かす原因や その仕組みを理解し それらが花ひらくままにしておくことこそ 瞑想のはじまりです 思考と感情が よく育ち そして死んでいくとき 瞑想は 時間を超えた動きになります』
2008年10月15日
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(瞑想:p47:クリシュナムルティ:中川吉晴(訳):星雲社)より引用『瞑想とは 隠れたところにある意識であろうと 表面にあらわれた意識であろうと 意識を理解することです 思考と感情をすべて覆っている意識のはたらきを 理解することです』
2008年10月14日
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電子レンジで温めて食べると、なんともおいしかった。
2008年10月14日
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(瞑想:p45:クリシュナムルティ:中川吉晴(訳):星雲社)より引用『瞑想とは すでに知られているものによって まだ汚されていない領域が あるかどうかを 見つけだすことです』
2008年10月14日
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ふと、答だけがはっきりわかる。だけど、そこで、解法に思考を向けると、わからなくなる。
2008年10月14日
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ふかくふかく「自分で考える」と、「自分の考えではない何か」に触れる。
2008年10月12日
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ふかくふかくじぶんのこころに降りていって「自分で考える」のは、頭で考えてるにもかかわらず、頭が頭でなくなってゆく…
2008年10月12日
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これを読んでくれてるあなたへたくさんの言葉をならべても あなたの 気持ちは分からない いろいろ 考えてみても あなたの 考えてること分からない 言葉も考えもなく あなたを 体中で 感じられたら きっと それが 愛なのかな
2008年10月12日
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(瞑想/meditations:p112/p113:クリシュナムルティ:中川吉晴(訳):星雲社)より引用『ひとは そのすべてを 自分自身から 学ばなくてはならないのです 心は そこで 信じられないものを発見するでしょう ……… そのような心には 時間は存在しません それゆえ 生きることは まったくちがった意味をおびるのです』
2008年10月11日
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(瞑想:p29:クリシュナムルティ:中川吉晴(訳):星雲社)より引用『あなたの心の質にもとづいて ひとたび至福がおとずれるなら そのままとどまります 時間もなく 原因もありません』
2008年10月09日
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「目の変化びと」というネーミングは弟子(「目の変化」がぼくから伝わったという明確な一点で、ぼくの弟子です)のぴのきお27さんによるものです。さて、「目の変化」とは何か?これまでの関連文章(弟子のブログからの引用あり)を適当に書き並べてみます。■ということで、これまでのところは、これ(↓)をクリックしてくださいね。目の変化びとこれ読んで、『おお、こんなところに自分と同じ「目の変化びと」がいるじゃないか!』とうれしくなった「目の変化びと」さんがおられましたら、書きこんでくださいね。また、『自分が「目の変化びと」だってことはわかるけど、まわりに「目の変化びと」がいなくって、いまでもきれいはきれいなんだけど、人に「目の変化」のこと話しても話にならないし、なんだか「急激な目の変化」が起こったはじめのころのような「目の(変化)レベル」からは落ちちゃったような…』という方がおられましたら書きこんでくださいね。じっさいに会って、いっしょに見てたら「目の(変化)レベル」は元にもどるなりレベルアップしますよ。ただまあ、このブログが「目の変化びと」さんの目につく確率はかなり低いとは思われますが…■「目の変化」が起こると、嫌いな食べもの、たとえばグリンピースが目にはきれい。感情としては見たくもないグリンピースが、見えてる色形としてはきれい。
2008年10月09日
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「目の変化びと」というネーミングは弟子(「目の変化」がぼくから伝わったという明確な一点で、ぼくの弟子です)によるものです。さて、「目の変化」とは何か?これまでの関連文章(弟子のブログからの引用あり)を適当に書き並べてみます。ある日あるときある瞬間、とつぜん視覚が急激に変化して、何もかもくっきりはっきり明るくきれいに見えるようになり、そのあとずっと、目をあければその状態である。別の世界に大きく移動させられた感じ。新しい世界に生まれた感じ。目があるとき急激に変化して、そのあとずっと変化したまま。なんだか景色のほうが近づいてくるというか、でも世界が広がってグンと奥行きがでるような感じ。で、色が鮮やかなんです。明るく広がっていて、奥行きがあるのに、遠くのものも近くにあって、細部が鮮やかで、色もくっきりしてて、きれい。「神々は細部に宿る」ってこんなふうに見えることだったのか、と驚く。「こんな、あからさまな世界が、あからさまに広がってるのに、気づいてなかったなんてことあるだろうか?」という世界がど~んと広がってるんですよ!頭に言葉が流れていようがいまいが、きれい。悩んでいようがいまいが、きれい。苦しんでいようがいまいが、きれい。質問「ただきれいなだけ?」目の急激な変化のあと、それに伴っていろんなことが変化するかもしれないけど、それは人それぞれだろうし、根本的には、そのとおり、ただきれいなだけ。瞑想のことはよくわかりませんが、瞑想状態に入ると、その間は一時的に「目の変化」が起こる「いわゆる瞑想家」はけっこうおられるんじゃないかと推測します。ただ、その場合は「目の変化」は瞑想状態に入ったときに起こり、入っていないときには「目の変化」は起こっていないと思われます。「目の変化びと」の場合は、そうではなく、「視覚の急激な変化」がある瞬間起こってからはずっと、変化したままで、変化する前にどういうふうに見えていたのか思いだせません。「目の変化」っていうのはどこが変化したかというと、「脳」だと思います。映像を作ってるのは「脳」(たしか後頭葉)だから。まあ、でもそんなことは結構どうでもよくって、最初わたしは目が変化するなんてことは興味なくて、師匠の話も聞き流していたのですが、ある日車の運転してたら突然、「なんか、景色がくっきりしてるなあ、コンタクトレンズ左右入れ間違えたのかな?」って感じになり、「あれ?あれ?うわあ~。」って感じに変化していった、という経緯になっています。(なんのこっちゃ、とお思いでしょうが。)「「目の変化」という言葉が、まだ、ピンとこない」…表現としては「視覚の変化」のほうが適切でしょうね。「脳の変化」としては、たぶんヘロインとかで(よくないたとえかもしれませんけど…)一時的に得られる変化に近いんじゃないかな(ヘロインしてる人が出てくる映画とか見ててそう思っただけです)、と推測します。「脳の変化」と思うのは、「ひょっとしたら脳外科の病気、脳のある部分にできた病変が脳の視覚に関わる領域に異変を起こしたのかもしれない」という心配もしたくらいですから…
2008年10月07日
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(自己変革の方法:p250:クリシュナムルティ:十菱珠樹(訳):霞ヶ関書房)より引用『宗教心とは、宗教を信ずる心とはまったく別物である。 あなたは宗教的であり、しかも同時にヒンズー教徒、回教徒、キリスト教徒、仏教徒であることはできない。』
2008年10月07日
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弟子(「目の変化」がぼくから伝わったという明確な一点で弟子なのでして、瞑想の弟子ではありません。瞑想をめぐってぼくが書いていることにつきましては、かなりはったりがあると思われます)が「『瞑想』(クリシュナムルティ:星雲社)を読んでいると瞑想状態になってしまい、次のページに進めなくなる」と言った。おお!読むこと自体が瞑想…どこかで聞いたことあるぞ…ということで調べてみました。『本書を初めから終りまで注意深く読めば、それが瞑想することである。』(自己変革の方法/Freedom from the Known:クリシュナムルティ:p244:霞ケ関書房)より引用さすが自慢の弟子だな!
2008年10月07日
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(瞑想:p106:クリシュナムルティ:中川吉晴(訳):星雲社)より引用『瞑想のなかでは なにもくりかえされない 習慣の連続はない』
2008年10月07日
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はやく過ぎてしまえばいいのに、と思う時間がほとんどなくなってゆく…どこを探しても時間なんてないのに…ないものをあると感じていたのがどういう感じだったか、そいつが感じられなくなってゆく…
2008年10月07日
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「あるがままのもの」というのを、これまで「いろんな思惑つきのあるがままのもの」という、言わば否定すべきものとしてとらえてきました。なので、「幻想だらけのあるがまま」でいいわけがない、そのようなくだらない「あるがままのもの」をしっかり見つめることによって、「あるがまま」がいつのまにやら変化していく、と思っていました。 ところが、「幻想のないあるがままのものは神である」、という引用(クリシュナムルティ)を和。。さんのブログで読んで、おお、なるほど、「あるがままのもの」とは「存在のひろがり」のことだったのかと、びっくりしました。 和。。さん、ありがとうございます。
2008年10月05日
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雨の中、屋根にとまったふたつのすずめになってるつもりが、いつのまにやら屋根瓦になっていました。すずめにこころがあるように、屋根瓦にもあきらかにこころがあります。
2008年10月05日
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「目の変化びと」にとっては、たとえば「坐禅」に対応するのは「目をあけること」なんだろう。
2008年10月04日
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あいまいな物は、あいまいだという先入観によって、あいまいに見える(あいまいになる)。わかりやすい形とちがって、ぼんやりとしてあいまいに見える形に対しては、ついつい、これはあいまいだからとあきらめてしまい、「見れるぎりぎりまではしっかり見よう」という見る行為を放棄してしまいやすい。そんなの疲れるよって思うかもしれないけど、ぎりぎりまで見ようとする行為は、やがて「細部まで(努力なしに)見えている」状況を生みだし、それはちっとも疲れない。
2008年10月03日
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(瞑想:p102:クリシュナムルティ:中川吉晴(訳):星雲社)より引用『時間とは 思考が その達成にむけて旅する距離のことです その旅は 新しい装いをこらしていようと 新しい風景に囲まれていようと いつも古い道をとおっていきます いつも同じ道すじをたどり 苦痛と哀しみのほかには どこにもたどりつきません』
2008年10月01日
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ひさしぶりに、なんだかさみしいなあ、と感じてて、でもまあ、こんなにまったくきれいなんだし、とか思いつつ、ソファーにすわってコーヒーを飲みながら、台所で光ってる白いお皿、透明なコップや青く透き通ったゴミ袋にうっとりしつつ、それにしてもなにがさみしいんだろう…ああそうだ、せっかくだからさみしさといっしょにいよう…ってしてるうち、ふいに、そんなこと考えてもいなかったつもりのおもしろいことがこころに浮かんできて、「ああそうか、なるほど身心の働きの最終的なところは、こっちが決められないんだな」とあらためて感心しました。それにしてもなんて静かで気持ちいいんだろう…
2008年10月01日
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