ぜひ原文全体を参照されますようお願いします。
第1回のブログ記事で、僕は「 『障害のある子ども』は、二重の差別を受けているのかもしれない
」と書きました。
子どもだから危ないからさせてもらえない、とか、意見を聞いてもらえないということが頻繁にある状況もふまえると、障害者だけでなく、今の日本全体で当たり前に行なわれている差別に行き着きます。
おそらく多数派の人は、「そんなの当たり前やん」と思っているのではないかと思います。
でも、ちょっと立ち止まって、制限される立場になって感じてみることが必要なのではないかと思います。
僕がよく話をするのは、以下の2つのエピソードです。
1つめは、自分の子どもの話です。
散髪屋に行ったら、「どんな髪型にしますか」というのを、子ども本人に聞かずに、親の僕に聞いてくるんです。
僕は、そのたびに、「子ども本人が決めるから、本人に聞いてください」と言い続けてきました。
2つめは、過去に学校で担任した子の話です。
2年生のAさんは、自分で立って歩けないので、バギーに乗っていて、常に介助の先生がそばについていました。
介助の先生がバギーを押して移動していると、子どもたちが寄ってきて、聞きました。
「今からどこいくん~?」
それを、Aさん本人ではなく、バギーを後ろから押している、介助の先生に聞くわけです。
それを見ていた僕は、子どもたちに言いました。
「Aちゃん本人に聞いてね」
Aさん本人にあらためて聞き直した子どもたち。
とたんに、Aさんの顔がぱっと明るくなりました。
Aさんは自由に話をすることができませんが、一所懸命顔の筋肉を動かして、どこに行こうとしているのか、子どもたちに伝えようとしていました。
子どもたちには、バギーを押されているAさんは客体でしかなく、押している介助の先生こそが主体に見えたのだと思います。
でも、移動介助は、あくまでも「介助」です。
移動は本人の主体によってなされるものであり、「介助」はあくまでも本人の主体性に基づくものです。
あたかも本人に意志がないかのように、本人を飛び越えて、介助者と周囲で話をされたとしたら、それを聞いているAさんはどう思うだろうか、と思います。
あまりにも当たり前になりすぎている現実を、改めて問い返すことをしていきたいのです。
「共に生きる」ために。
今回の記事の最後に、荒井さんと九龍さんのそれぞれの言葉を引用します。
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