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昨日は、フィンランドのインクルーシブ教育に関するブログ記事を書きました。それに関連して、来月のおすすめのシンポジウムの情報をシェアいたします。お世話になっている大学の先生から、教えていただきました!▼シンポジウム「インクルーシブ教育の実践と地域で生きる権利in大阪~障害者権利条約2022年総括所見の実現を目指して~」 (日本弁護士連合会)本シンポジウムでは、先駆けてインクルーシブ教育が実践されている大阪や外国の制度の紹介、当事者の体験などを報告いたします。(上のリンク先の公式の説明より引用)いやあ、いいですね!大阪では非常に長い原学級保障の歴史があり、ここから発信される弁護士会のシンポジウムというのは、大変貴重で、意味があると思っています。参加費は、無料。開催日時は、2024年6月29日(土) 13時00分~16時30分。会場まで行けない方も、オンラインでも視聴可能だそうです。以下、具体的な予定内容です。■基調講演「人権としてのインクルーシブ教育」 大谷恭子(東京弁護士会)■基調講演「北欧のインクルーシブ教育視察の報告」 大胡田誠(第一東京弁護士会)■人権救済申立事件報告「令和4年4月27日付け文部科学省通知が投げかけたもの」 橋本智子(大阪弁護士会)《パネリスト》 豊中市で育った元生徒たち・家族 常清麻紀氏(豊中市立小学校教員)、大谷恭子、大胡田誠《コーディネーター》 辻川圭乃(大阪弁護士会)(公式案内より)このところ頻繁に開催されている東京大学インクルーシブ定例研究会のオンラインセミナーでも、昨年、「弁護士が見た学校で起きている差別-インクルーシブ教育のために知っておいて欲しい権利と制度」というテーマで開催がありました。▼弁護士が見た学校で起きている差別-インクルーシブ教育のために知っておいて欲しい権利と制度 (東京大学インクルーシブ定例研究会、2023/10/13に開催済)このときは今回のシンポジウムに登壇される大谷弁護士の弟子の方のお話をうかがいました。「丁寧に進めていく背景にはすさまじい怒りがある」と言われていたのが、すごく、印象に残っています。今回のシンポジウムに先立って、大阪弁護士会の以下のサイトも、ぜひ、ご覧下さい。▼文部科学省が初等中等教育局長名義で発出した令和4年4月27日付「特別支援学級及び通級による指導の適切な運用について(通知)」(4文科初第375号)のうち、特別支援学級に在籍している児童生徒について、原則として週の授業時数の半分以上を目安として特別支援学級において授業を行うことを求めている部分を撤回するよう勧告した事例 (大阪弁護士会 人権擁護委員会)文科省が出した、いわゆる「4.27通知」に関して、人権侵害の恐れがあるとして、「原則として週の授業時数の半分以上を目安として特別支援学級において授業を行うことを求めている部分を撤回するよう、勧告する」という勧告書を大阪弁護士会が出した件の詳細が掲載されています。(引用部分は同サイト内の勧告書1ページ目による)リンク先の最下部にあるPDFファイルを開いていただくと、勧告書が表示されます。サイトの事例報告よりも、勧告書そのものを見ていただく方が、読みやすいと思います。国連の勧告でも「人権モデル」が強調されていました。「人権」の観点から「インクルーシブ教育」をとらえ直すことが、必要です。そのためにも、弁護士の方々のお話を聞くことは、今非常に求められていることではないかと思います。▼NHK「合理的配慮」特集が記事に! 『「合理的配慮」がよく分かる 考え方と具体例』など (2023/08/30の日記)
2024.05.24
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ずいぶん前に参加したオンラインセミナー。ネット記事でその詳細が出ているのを見つけました。こちらです。▼インクルーシブ教育先進国から日本が学ぶことは第130回オンラインシンポレポート・前半(2023.9.1、超教育協会)当日のスライドも掲載されており、大変詳細な報告となっています。最後まで読むと、後半へのリンクも掲載されています。「海外のインクルーシブ教育先進国について知りたい」という方は、ぜひご覧になるといいのではないかと思います!たとえば「何か支援を受けるにあたって医師や心理士からの診断は必要ありません。」「全ての子どもが「デイケア(保育園)」に入園した時点で教育計画が作成される」といったことが、紹介されています。いわゆる「特別な支援を受ける」ということへのハードルが非常に低いように感じます。「すべての通常学校にクラス担任を持たない特別支援教諭が常駐しています。」ということも紹介されいて、これは僕が今やっている「学校生活支援教員」(通級担当)としての動きに近いな、と感じました。具体的な個別事例についても紹介されていて、非常に興味深かったです。なお、YouTube動画も一般公開されています。海外のインクルーシブ教育~フィンランドのインクルーシブモデル(超教育協会、2023/10/06)こうやってアーカイブを誰でも見られる形で残していただけるのは、ありがたいです!▼フィンランドのインクルーシブ教育 ~矢田明恵「フィンランドにおける学習困難への対応」(2023/08/15の日記) ▼「カナダの学校に学ぶインクルーシブ教育」(8/11オンライン学習会の案内を含む) (2023/08/07の日記)▼2月12日「イタリアのフルインクルーシブ教育」無料オンラインセミナー (2023/01/29の日記)▼【紹介】「日本型インクルーシブ教育への挑戦 ― 大阪の「原学級保障」と特別支援教育の間で生じる葛藤とその超克 ―」(ネットで無料で読める論文) (2023/07/04の日記)
2024.05.23
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相談を受けて、いろいろな授業を見に行くことをしています。すると、なかには、よく動く子ども、常に何か触っている子、考えなしに行動して雑に済ませてしまう子がいます。そういったお子さんのなかには、ADHDの診断を受けているお子さんもいます。さて、はたして前提として、授業中に落ち着きなく動くことは、いけないことなのでしょうか。もしかすると授業者は、子どもたちが動かずにだまって話を聞くことを前提に、授業を組み立てているかもしれません。その場合、授業中に動く子は、「いけない」存在になってしまいます。でも、その子どもの側からすれば、どうでしょうか。もしかするとその子どもにとっては、動くことは、必要なことなのかもしれません。動くことが学ぶために必要なタイプであれば、それを保障してやることが、学習権の保障になるのではないでしょうか。そういったことが、次の本の中の一節にも、書いてありました。『学習指導の「足並みバイアス」を乗り越える』(渡辺道治・フォレスタネット、学事出版、2021、1980円)本書の内容は次回以降もふれたいと思いますが、まずは今日のところはp61~63「動きの足並みバイアス」というところを、ご紹介します。以下、引用です。■動きの足並みバイアス 学習中は静かに座っていなくていい・ADHDの子どもが学習する時には、足でリズムをとったり、足をぶらぶらさえたり、椅子をゆらしたりすることは必要な行為との結果が出た。 (p61 アメリカのセントラルフロリダ大学の発表より)・普通学級において2~3割程度の子どもは、何らかの配慮や支援が必要な子どもであり、その中において例えば「学習中に動かすことが必要」などの配慮が必要である (p62 杉山登志郎『発達障害の子どもたち』をふまえた記述より) 『発達障害の子どもたち』 (講談社現代新書) [ 杉山 登志郎 ]・授業で集中が切れたら、この飛び石をポンポンと移動して、自分の席に戻る。 欧米の学校では、こうしたことが普通に認められています。 (p63 「バランスストーン」について書かれた記述より) バランスストーン(楽天で販売しているもの)・「動くこと」を禁止事項ではなく、より良い学びを実現する上での「必須要素」としてとらえることで、学習の場づくりは大きく変わります。(p63)※中に挿入した画像やリンクは僕が見つけてきたものです。僕もけっこうこのブログの中でいろいろなことを紹介してきたつもりですが、本書もまた、いろいろな情報を紹介しつつ、今の日本の教育現場にとって実現可能な提案を、かなり具体的にされています。3年前の5月に出版された本ですが、内容は全然古びていません。「足並みバイアス」が気になっている方は、ぜひ、お読みください!▼LDの俳優が主人公のマンガ『君の名前をよんでみたい』(2023/03/19の日記)▼『うちの子はADHD 反抗期で超たいへん!』『発達障害 うちの子、将来どーなるのっ!?』 (2020/06/21の日記)
2024.05.16
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以下の本の読書メモを書いています。『関係支援を核とした学級づくり 「特別でない」特別支援教育をめざして』(拝野佳生(はいのよしき)、解放出版社、2023/11、税別2000円)今回が、第4回(最終回)です。↓過去記事は、こちら。第1回: 子どもたちをつなごう!第2回:「人権意識の”変わり目”となったエピソード」第3回:「『関係支援』の具体的展開」前回の続きのページで、僕がどうしてもふれておきたいのは、Dさんの事例です。(p62~69 第2章第2節第4項「『仲間の変化』とマイペースなD」)Dさんは転入生でした。広汎性発達障害の診断を受けており、「ちょっと変わったやつ」という印象をもった子だったそうです。(p62)トラブルメーカーだったDさんですが、トラブルつづきだったところから、変化が変化を呼び、Dさんは次第に落ち着いていきます。その説明の中で著者は、「まわりが変わってDが変わる。Dが変わり、まわりも変わる。」と書かれていました。(p65)そして、象徴的なのが、3学期に入ってすぐの、長なわの練習のシーンです。Dさんが長なわを跳べたことを自分のことのように喜ぶクラスメイトの作文が、紹介されていました。その作文について、担任だった著者は、次のような感想を述べています。・この文を書いた子はDが跳べたことをクラスの喜びとしてとらえ、 自分が跳べたかのように素直に綴っています。 こういう思い方ができる子を育てることが、 「関係支援」がめざす1つの着地点だと考えています。 (p66より)「関係支援」をテーマにした本書ですが、その「着地点」としての事例もこうやって示していただいていることで、読んでいる僕たちにとっても、めざすものが非常にイメージしやすくなっています。担任の経験がある者なら、こういった経験は、少なからずお持ちではないかと思います。仲間の成功を自分の成功のことのように喜ぶ。ここでは、自分と他者の境界線が区切られることなく、自分と他者が一体化しています。学校でみんなと学ぶ意味は、まさにこういったところにあるのではないかと思います。実は本書の後半では「着地点」だけでなく「終着点」としての事例も述べられています。本書でおそらく最もページ数が割かれているのは、この事例です。このブログ記事は公開直後に著者の拝野先生にも見ていただいているのですが、拝野先生から、次のような言葉をいただきました。「このように、関係支援の着地点は"周囲の変化"でした。しかしこの後に登場するGさんは、周囲の変化もさることながら、"本人の劇的な変化"が見られました。 これを私は『関係支援の"ひとつの"終着点』であると言ってます。」「終着点」に関する事例は、僕は拝野先生の研修会で直接お聞きしたのですが、これは「又聞き」ではなく、ぜひ、直接ふれていただきたい事例です。本書ではかなり詳細にそのことにふれられていますので、その詳細は、ぜひ本書でご確認ください。ほかにも、本書ではまだまだたくさんのことが述べられています。ただ、それを全て書いているときりがないので、最後に、ひとつだけ。「教育の目的」を大きくとらえ直すところについて、紹介して終わりたいと思います。前回もテーマに挙げた「育てる」ということ、「教育する」ということについて。その全体をとう捉えるのか。本書は一貫して、当事者の人権という視点に立った考察がされています。最後に引用するのは、「子どもの権利条約」です。その、「教育の目的」の部分です。・子どもの権利条約(6)「教育の目的」(第29条) 「教育は、子どもが自分のもっているよい所をのばしていくためのものです。 教育によって、子どもが 自分も他の人も みんな同じように大切にされるということや、 みんなとなかよくすること、 みんなの生きている地球の自然の大切さなどを 学べるようにしなければなりません」(p111 ユニセフ訳による)非常に分かりやすく、読みやすい訳です。本書では「ユニセフ訳」となっていますが、今ネットで検索すると、同様の内容はアムネスティ・インターナショナルのサイトで見られました。他の条文も含めて、ぜひ読んでみてください。▼子どもの権利 - 子どもの権利条約(アムネスティ日本のサイトより)分かりやすい本も出ています。興味があればそちらも参照してください。『子どもの権利条約ハンドブック』(木附 千晶・ 福田 雅章、自由国民社、2016、1870円)最近は、中学校の校則を子どもの意見をふまえて見直すなど、「第12条 意見を表す権利」にもスポットが当たるようになってきましたね。本書でおこなわれている「子どもをたいせつにする」ということの具体は、子どもの権利条約に表されているような、子どもの権利に依って立つものです。それは、決して大人の都合や、強制により、おこなわれるべきものではありません。そういった原点を再確認して、4回にわたって書いてきた本書の読書メモを終わります。この4回の連載記事については、公開直後に著者の拝野先生にも見ていただき、ご感想をいただくことができました。すばらしい著書を世に出していただいたことに、改めて感謝申し上げます。多くの皆様が本書を手に取って、読んでいただけることを、切に願います。たいせつなことを たいせつにしよう▼「どんな子どもも、それは1つの個性であり、正解である」 ~映画「夢みる小学校」 (2022/12/18の日記)▼「今、学校に求められていることは?」~佐藤豊先生より (2007/03/17の日記)
2024.05.07
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一昨日から、以下の本の読書メモを書いています。本日が、第3回です。『関係支援を核とした学級づくり 「特別でない」特別支援教育をめざして』(拝野佳生(はいのよしき)、解放出版社、2023/11、税別2000円)↓過去記事は、こちら。第1回: 子どもたちをつなごう!第2回:「人権意識の”変わり目”となったエピソード」本書には僕の心に突き刺さったエピソードや著者の考えがたくさんあるのですが、全部紹介しているときりがないので、絞りに絞って、書いていきます。今日は、「第2章 『関係支援』の具体的展開」の内容に、入ります。著者の拝野先生は、現場の教員を長く勤められておられましたが、1997年には兵庫教育大学の大学院に進学されています。#その後、現場に戻ってこられています実践者でありながら研究者でもあり、先行研究などにもお詳しいようです。そのため、本書には具体的な先行研究や文献の引用もみられます。たとえば、第2章では、鯨岡峻(くじらおか たかし)さんの次の言葉が引用されていました。・「子どもを育てる立場の多くの人は、 『育てる』ということの根本を見失って、 ひたすら何かを教えて力をつけることが育てることだと 錯覚してしまっているように見えます」(p57 鯨岡峻(2011)『子どもは育てられて育つ-関係発達の世代間循環を考える』慶應義塾大学出版会より)「育てる」ということを改めて問い直す、ドキリとする文です。「育てる」とは、はたして、「教える」ことなのでしょうか。「力をつける」ということなのでしょうか。鯨岡さんも、著者も、それは同義ではないと考えているようです。この引用の後、この項の最後で、著者は「個別支援をしてくれる大人が複数いることについて、いま一度、しっかり考えておく必要がある」と書かれています。ここに、大人が子どもを育てるのか、子どもが育つのか、という、発想の逆転があるのです。「子どもを主語にした教育」といったみみざわりのいい言葉は、昔からありました。しかし、それが単なる標語ではなく、ほんとうに子どもたちのものになっているのか、僕たちは今一度、しっかりと考えていかなくてはなりません。その次の項は事例ですが、その事例の中で著者は「当時、私は、友だち同士の『教え合い』を授業に取り入れた『仲間づくり』にとりくんでいたので、単刀直入にいえば、支援員は不要でした。」と書かれています。#「教え合い」の具体的な内容は本書をお読みください大人がいなくても子どもたちが育つ教室。僕は、これが、理想だと思います。僕も、ここ20年くらい、ずっと追い求めてきたかたちです。#昨年もこのブログで実践報告を書きました。支援員も、教師すら、いなくて成り立つような教室が、理想なのです。事例後の「考察」から、そのエッセンスを、少しだけ引用します。・友だち同士を互いの支援者にするという発想・そういう関係を意図的に組織すればいいのです。・私は、ここに特別支援教育の活路を見いだせると考えています。(p61)「特別支援教育」の発想を逆転させる。そのことで、むしろ、活路が見いだせるのです。一昨年、日本の「特別支援教育」のあり方が国連から批判されたのは、まだ記憶に新しいところです。(参考リンク)▼国連が日本政府に勧告「障害のある子どもにインクルーシブ教育の権利を」(Yahooニュース、野口晃菜、2022/9/10記事)過度に競争主義に陥っている通常学級のあり方を見直し、分離教育のシステムを改めるように、勧告がなされました。日本の「特別支援教育」は、舵を切る局面に立たされています。著者の提案はなにも珍しい突飛なものではなく、同じような考え方で実践されている教育実践者は無数にいます。その実践を、国を挙げて広げていくときにきているのではないでしょうか。「考察」の最後では、伊藤良子(2009)の論文中での言葉が引用されています。最後に、その言葉も、みておきましょう。#長くなるので、部分的な引用にとどめています。・「人間はみな偏りをもっている。 人間はみな発達障害なのである。 自らの偏りを誇り、他者の偏りを尊敬しよう。」(p57 伊藤良子(2009)「人間はみな発達障害」伊藤良子・角野善宏・大山泰宏編『京大心理臨床シリーズ7「発達障害」と心理臨床』創元社 より)ここにきて、発達障害か、そうでないかというくくりも、消えてしまいました。上の言葉を借りれば、みんなが発達障害であり、「障害者」なのです。みんなが、当事者なのです。僕は若い頃、国語の研究大会で、斎藤孝さんの講演を聞いたことがあります。斎藤孝さんは、「偏って愛す」と書いて「偏愛」というものを重視されていました。偏って愛しているものをお互いに知らせ合い、つながり合うことを説かれていました。「偏愛マップ」をつくり、お互いに見せ合うという取組は、上に書かれている考え方と、重なる取組ではないかと思います。『偏愛マップ キラいな人がいなくなるコミュニケーション・メソッド』/齋藤孝僕自身、かなり偏った人間です。#得意と不得意の差が激しい#好きなことについてはかなりこだわります日本社会は同調圧力が強いので、偏った人間が、偏っているところをまるでイケナイことかのように、錯覚してしまう傾向があります。そうでは、ないでしょう。むしろ、そこを、大切にしていかないと、いけないのではないでしょうか。それこそ、SDGsでも言われている、多様性尊重の教育の、ほんとうの意味です。いろいろな人がいるからこそ、いいのです。だからこそ、楽しいし、おもしろいし、学び合えるのです。長くなりました。あなたは、いかが思われたでしょうか?続きは、また明日!(明日が、本書の読書メモの最終回の予定です。)▼斎藤孝『今、そこにある苦悩からの脱出』1 ~四股踏み、ストレッチで身体に関わる (2012/09/09の日記)▼【障害理解教育】4 そのほかの教材(本や絵本) (2015/08/21の日記)
2024.05.06
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昨日から、以下の本の読書メモを書いています。『関係支援を核とした学級づくり 「特別でない」特別支援教育をめざして』(拝野佳生(はいのよしき)、解放出版社、2023/11、税別2000円)前書きについてふれた、前回のブログ記事は、こちら。本書には僕の心に突き刺さったエピソードや著者の考えがたくさんあるのですが、全部紹介しているときりがないので、絞りに絞って、書いていきます。最初の方の記述で、僕がどうしてもふれておきたいのは、第1章第1節第2項「在日コリアンとのかかわり」です。ここでは、著者が小学校教員として採用後に初めて勤めた小学校での出来事が書かれています。その学校は、当時、全校児童数の約1割が在日韓国人・在日朝鮮人の子どもたちだったそうです。(p15)このとき、著者は、ある人の発言で、「周りの子」にこそ目を向けるべきであると気づかされます。ある研究会で、朝鮮初級学校の先生が、こんなことを言われたそうです。・「ことばにこだわるようですが、 『在日朝鮮人問題』という言い方がありますよね。 私、これ、どうかと思うのです。 差別しているのは日本人ですよね。 問題は日本人なのに、なんで『在日朝鮮人問題』と言うのでしょう。 私たち朝鮮人が問題ですか?」(p15より)僕は、これを読んで、ガツンと、鉄槌をくらったような気がしました。そして、これは、「在日朝鮮人問題」に限らず、ほかのことでも、同じことが言えると思いました。「障害者」の問題にしても、そうです。「不登校」の問題にしても、そうです。「学力問題」ですら、そうです。「あの人たち」「あの子たち」の問題にしてしまっていて、自分たちの問題としてみなしていない。僕たちの姿勢が、問われている気がしました。「問題だ」と問題視している、僕たちのほうが、「問題」かもしれないのです。まさに、「問題はつくられる」であります。この後のページに、「在日朝鮮人問題」の当事者である、対象の子どもたちが、ホンネを吐露する場面の記述があります。「自分たちだけ別室で事前に人権学習をしていた話」(p20)についてです。・「私、あれ、あんまり好きじゃなかったわ。 なんで私らだけ特別なん? とか思っていた。」(p20)周りで思っていたことと、当事者が思っていたことが、違っていたのです。本人たちの思いが、おいてけぼりをくらっていた、というのです。別室で特別に学習すると言えば、今、「特別支援教育」のなかで、普通におこなわれていることです。いえ、「特別支援教育」という範疇にとどまらず、「集団での学習や集団生活についていけない子を、特別に個別に見てあげるのが丁寧だ」という考え方が、幅をきかせています。そういう指導が、その子たちの気持ちを確かめずに、おこなわれています。ここでも、やはり、「これは、この子たちだけの問題ではない」と思いました。本書が重要なのは、こういった当事者目線に立った、人権問題としての視点に、気づかせてくれるところにあります。僕たちは、ともすれば、親切心で対象の子どもたちだけを、別室で少人数で学習させるなどして、本人たちの気持ちも確かめずに、手前勝手な指導をしているのかもしれません。本書のサブタイトルに、「『特別でない』特別支援教育」という言葉があります。一見、矛盾したように見えるこの言葉に、「学校を特別なものにしない」という、著者の決意が隠されているように思えてなりません。当事者主体の「『特別でない』特別支援教育」を考え、それを実現しようと実践を重ねていくことは、すなわち「ともに」考えることであり、「ともに」実践をつくっていくことであります。今回ご紹介した第1章第1節のタイトルは、「人権意識の”変わり目”となったエピソード」です。僕は、まさにこの、本書での著者の立ち位置、スタート地点をこそ共有したいと思います。多くの皆様が本書を手に取って、この第1節だけでも、読んでいただけることを、切に願います。明日以降のブログでは、「第2章 『関係支援』の具体的展開」の内容に、入りたいと思います。よろしければ、明日もまた、見に来てくださいね。▼「困った」子への向き合い方 ~木村泰子『「ふつうの子」なんて、どこにもいない』 (2021/05/05の日記)▼「いろいろなものが分けられたことによって・・・」 ~孫泰蔵『冒険の書 AI時代のアンラーニング』その4 (2023/08/20の日記)
2024.05.05
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1ヶ月ほど前に、以下の本を読み終わりました。大変共感し、感銘を受けました。『関係支援を核とした学級づくり 「特別でない」特別支援教育をめざして』(拝野佳生(はいのよしき)、解放出版社、2023/11、税別2000円)タイトルに「インクルーシブ教育」という言葉はありませんが、学校現場におけるインクルーシブ教育の実践を追求している本です。「特別支援教育」が個別支援や個別指導に重きを置きすぎていることを問題視し、通常学級の集団内における関係支援こそ重要であると説かれています。具体的なエピソードも多数紹介されており、通常学級の中でインクルーシブ教育を実践しようとする際のまたとない参考書になると思います。今日から何回かにわたって、本書の内容を読書メモとして残していきます。冒頭部分だけでしたら、ネット上で試し読みができますので、皆さんもぜひ、チェックしてみてください。出版社公式サイトなどで、試し読みできます。▼〝関係支援〟を核とした学級づくり (出版社公式サイト)「版元ドットコム」でも、「前書き等」のところで、少し読めるようになっています。今日は、その冒頭のところから1つだけ、引用させていただきます。本書における著者の主張は、次のフレーズに集約されているように思いました。・たまにしか行けない教室で、私がいないときにこそ、子ども同士の支援が必要ではないかと考え、子どもたちを〝つないで〟いました。(「はじめに」ⅶより)僕も全く同じ考え方で、支援学級担任や、通級担当をしてきました。僕が以前働いていた勤務市の特別支援学級担任にとっては、この考え方は、当たり前だったのです。「支援学級担任の役割は、周りの子とつなぐことだ」と言われていました。ただ、全国的には、これが当たり前の考え方にはなっていません。でも、これは、今こそ必要な考え方だと思うのです。インクルーシブ教育関係の研修が増えてきて、国連の勧告もあり、子どもたち同士がつながりあって、いろんな子を包摂して一緒にやっていくことが、より一層求められてきています。「子どもは、子どもの中で育つ」僕が前の勤務市で教わったことです。「子どもたちをつなぐ実践」こそ、今まさに僕たち教職員が互いに実践交流をしあいながら、学んでいくべきことではないでしょうか。多くの皆様が本書を手に取って、読んでいただけることを、切に願います。明日以降のブログでも、本書の中の具体的なところで、僕が印象に残ったところを書いていきたいと思います。▼動画「分離教育をやめたイタリアのインクルーシブ教育の挑戦」 (2023/11/05の日記)
2024.05.04
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昨日のブログは映画の話でした。#すずめの戸締まり本日も、映画の話です。ただ、今回の映画は上映前の映画の話。今朝の神戸新聞に載っていた記事に、目を奪われました。「中絶、不妊 強いられた沈黙」という大きな文字の柱が僕の目に飛び込んできました。(神戸新聞、2024/4/29朝刊社会面(23面))兵庫県明石市のご夫婦の半生をもとにした映画が、この5月4日に神戸で初上映されるという記事でした。ネット上でそのWeb版を見ることができます。▼授かった命、何の説明もなく奪われた 中絶、不妊強いられた夫婦の半生が映画に 5月に神戸で初上映 (神戸新聞NEXT、2024/4/29記事 ※会員限定記事)旧優生保護法のもと、やっと授かって喜んでいた命を、説明もなく奪われ、その後子どもを授かることもなくなったというご夫婦の話に、「自分がもしこの立場だったら・・・」と思いました。優生保護法自体は、今は失効していますが、「子どもを産み育てる権利」というのが現代の日本社会でちゃんと守られているのか、みんながそれを認識しているかというと、僕は危うい気がしています。優生保護法については、NHKのものが詳しいと思いますので、そちらへのリンクを貼っておきます。▼旧優生保護法について (NHKハートネット)なお、上の法律の説明ではあまり出てきませんが、「親に障害があるんだから、そもそも子育てが自分たちでできないでしょう」という考え方も、社会に根強くはびこっているように思います。これもまた、障害者への差別にほかなりません。20年ほど前ですが、障害のある保護者に対して「親として親の義務を果たせるのか」を心配され、「子どもを持うこと自体に反対だ」と仲間内にぽろっとお話された方がいらっしゃいました。僕はそのときに「子育て支援は親だけでなく福祉などのいろいろな領域でいろいろな人が関わっておこなっていくものである」ということをその方にお話ししました。その思いは、今も変わっていません。そのためにも、みんなで知り、みんなで考えなくてはいけないことだと思います。普段はあまりこういった話をする機会自体が、ないかもしれません。でも、話題にすることがないと、無意識の差別として、社会全体で何も変わらないまま、結局は法律はなくなっても社会的に差別されてしまうということが、残ってしまいます。今回の映画を作られたこと自体が、大変意義のあることだと思いました。おそらく神戸以外でも、順次、上映会が行われると思います。ぜひ、見ておきたい映画です。▼映画「沈黙の50年」公式サイト https://aboutme.style/chinmoku50.m▼映画製作の支援を求めるリーフレット https://ida-hp.normanet.ne.jp/tinnmokuno50nennri-huretto.pdf
2024.04.29
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4月になったら、やっぱり怒濤のように忙しくなりました。そんななか、明日の夜は地元のラジオに、「とっておきの音楽祭」のPRのために出演します。もちろん、音楽祭本番も出ます。日にちは、4月20日(土)兵庫県丹波篠山市の、篠山城周辺の各会場で、各団体がそれぞれ20分ほどの演奏を次々と行います。参加者と一緒に歌ったり踊ったりする時間も、かなりありますよ♪無料です。というか、入場口とかは特にない、ストリート演奏です。田園交響ホール西横の広場に本部テントがあります。そこに開催時間帯中に行くと、パンフレットがもらえます。そのパンフレットを見れば、どこでいつどんな団体が演奏するかが分かります。▼公式サイトで昨年のハイライト映像をご確認いただけます。#僕も映っています!「とっておきの音楽祭」は、障害のある人もない人も、共に音楽を楽しみ、音楽のチカラで心のバリアを取り払いたい、そんな想いが結集し、受け継がれてきた音楽の祭典です。もともとは仙台市で始まったのが、発祥です。丹波篠山市でもかなり長く続いており、僕も第1回から、出させてもらっています。僕が出演するのは、円応教篠山協会さんの前に設営する特設ステージです。教会名でネット検索しても出てきませんが、青山歴史村のすぐ西隣です。時間は、13:40~14:05になります。その前後にも他のアーティストさんが次々と出演されます。僕のステージ内では、みなさんでいっしょに歌う合唱のステージも企画しています。能登地震の被災地への祈りをこめて、みなさんで「しあわせ運べるように」を歌いたい!また、卒業式の定番曲「旅立ちの日に」も歌いたいと思っています。ぜひ、いっしょに歌いましょう。ラジオ出演に関しては、もともとの予定にはなかったのですが、今年から運営委員もさせていただいている関係で、お呼びがかかりました。なんと、人生初のラジオ出演です。#ラジオに投稿ハガキが読まれたことは、学生時代に一度だけ、あります。出演するのは、丹波市にあるラジオ局、FM放送の「805たんば」です。ラジオ出演日時: 2024年4月3日(水) 20:00〜20:45 FM80.5MHz✨ ↑なんと、明日! 再放送 4/7(日) 12:45〜13:30インターネット放送⇒ http://805.tanba.info/internetradioもしよかったら、聴いてみてください。▼【みんなで歌おう】「しあわせ運べるように」 (2024/02/24の日記)▼「シャボン玉とんだ宇宙(ソラ)までとんだ 2023年公演版」♪ (2024/01/16の日記)▼「障害をもつ人も、もたない人も・・・」~『クラス合唱名曲秘話 楽譜に書ききれなかったこと』より (2023/07/11の日記)
2024.04.02
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「ナニコレ珍百景」が好きで、毎回、録画しています。日本中のユニークな取組や先進的な取組を紹介してくれるので、毎回の放送を楽しみにしています。学校が取り上げられることも多いですね。#前の勤務校の児童も、これに応募しようとしたことがありました。いつも想像を上回る取組が紹介されているのですが、先週の放送回も、とてもよかったです。メインで取り上げられているところではなく、後半に短時間で紹介されていたものなのですが、「病気や障害などで外出が困難な人が遠隔で働く職場の事例」が紹介されていました。(画像は該当店舗公式サイト内「ギャラリー」より)#分身ロボットカフェ↓下のリンク先のTVer見逃し配信で、24分50秒のところから再生してみてください。▼TVer「ナニコレ珍百景」3月17日(日)放送分(※3月24日(日)19:00 配信終了予定)以下、番組公式サイトから、その部分の紹介だけを転載します。●遠隔操作のロボットカフェ 東京都中央区日本橋 DAWN東京の日本橋にある一見普通のカフェだが、入るとロボットが接客をしている光景。そのロボットは、富山県在住の方が遠隔操作していた。接客しているロボットは、病気や障害などで外出が困難な人が自宅から、パソコンやタッチパネルを使って遠隔でロボットを操作しているという。現在約20台のロボットが、調理以外のほとんどの工程を担っているそうで、職業支援より孤独の解消が目的なんだとか。(「ナニコレ珍百景」公式サイト内 2024年3月17日放送内容より)「おお!これは、インクルーシブ教育にもつながる取組だな!」と思いました。インクルーシブ教育というのは多様な個性を持った子どもたちが同じ場で共に学ぶ教育のことをいいます。ご存じのように、現在は通常の学校以外に特別支援学校があり、また、特別支援学校に通えないお子さんの中には、支援学校の教師が病院等に出向く訪問学級という制度もあり、病気や障害を理由に多様な子どもたちが別々の場で学ばざるを得なくなっている、というのが実情です。別々の場で学ぶことの弊害は、友だちとの出会いや交流の機会を奪ってしまうことにあります。本来はもちろん対面で出会いや交流の機会を保障することが一番だとは思いますが、今の世の中、オンラインでの出会いや交流がどんどんやりやすくなってきています。こういう技術も、「全く出会いや交流の機会がない」という状況を打破するものとしては、かなり可能性を感じるものであると思っています。コロナ禍で登校を制限される子がどんどん出てきた時に、オンラインで自宅から授業を受けるということがかなり一般的に行われていました。長期的な不登校の場合にも、「せめて友だちとの心のつながりを持たせたい」との思いから、授業は無理でも休み時間とか朝の会とかだけでもオンラインでつなげて、不登校のお子さんの顔を画面で見ながら、タブレット越しに友だちが手を振る、という光景が生まれました。院内学級とか訪問学級といったケースも含めて、「遠隔でつながる」ということは、実験的にどんどんやっていけるのでは、と思っています。また、社会に出た後も、今回番組で紹介された会社のように、たとえば寝たきりであったとしても働ける、画面越しに職場でコミュニケーションをとれる、ということができると、どんなにいいだろうと思います。皆さんは、どう思われますか?▼遠隔操作のロボットカフェDAWNさんの公式サイト https://dawn2021.orylab.com/・『分身ロボットカフェ DAWN ver.β』とは、株式会社オリィ研究所が運営する、さまざまな理由で外出することが困難な方々が分身ロボット『OriHime』&『OriHime-D』を遠隔操作しサービスを提供している常設実験カフェです。 私たちはテクノロジーによって、人々の新しい社会参加の形の実現を目指しています。(上のリンク先の公式サイトより)↓公式サイトだけでなく、ぜひ、他のサイトで紹介されているのも、見てみてください。(参考サイト)▼分身ロボットで人々がつながる、日本橋の実験カフェ (TOKYO UPDATES(トーキョー・アップデーツ)、2022年09月07日記事)▼「分身ロボットカフェDAWN ver.β」常設実験店レポート 難病や外出困難の人達が活き活きと働けるカフェがついに常設店に (ロボスタ、2021年6月21日記事)↓こちらの体験レポートもかなり詳しいです 先に働いて慣れている人が、後輩に教える光景も!(遠隔で!)▼【体験レポート】分身ロボットカフェDAWNは障がいやロボットを感じない最高に楽しい場所だった(ファミケア様、2024/1/4記事)#「ロボットがロボットに教える、という光景がとても斬新で、微笑ましく見届けました。」という記述を探してみてください。#遠隔でここまでできるんだ!▼「インクルーシブ教育」がなぜ必要なのか~『「共に生きる教育」宣言』などから考える その2 (2023/07/08の日記)
2024.03.20
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今の時期、勤務市の5年生は椋鳩十の「大造じいさんとガン」を読んでいます。『大造じいさんとガン』 (偕成社文庫) [ 椋鳩十 ]この作品は、名作ですよね。昔から小学校の国語教科書に載っています。今日は、「大造じいさんとガン」には直接関係ありませんが、ガンの話を、ある本から引用します。ガンという鳥は、群れをなして飛びますよね。一羽で飛ぶのと、群れをなして「V」の字になって飛ぶのでは、どんな違いがあるか、知っていますか?木下晴弘著『涙の数だけ大きくなれる!』には、次のような話が書かれています。・前を飛ぶガンが羽ばたくと上昇気流が起きて、後ろのガンが少ないエネルギーで飛ぶことができる・そのガンが羽ばたくと、今度はその後ろのガンがもっと楽に飛べるようになる。(p106より)・疲れた先頭のガンは編隊を離れ、ほかのガンが前に1つずつ詰めていく。 離れたガンは楽な後ろに移るんだ。 一方、今まで楽をしていたガンは、まだエネルギーが余っているから、先頭を切って飛ぶことができる。・こういう方法により、ガンは単独で飛ぶのに比較して71%の力で、同じ距離を飛ぶことができる。 しかも、疲れているガンに対して鳴いて励ますこともする。 また、1羽が編隊から脱落すると、2羽のガンが編隊からはずれていってサポートするんだ。(p107より)「大造じいさんとガン」でも、ガンのリーダーである残雪が、我が身を呈してほかのガンを助けるシーンが描かれています。ガンというのは、仲間を大切にする鳥なのですね。このガンの話をすることで、「人間も含めて動物というのは、ほかのサポートがあって初めてより良く生きられる」(p107)ということを、著者の木下先生は、子どもたちに教えられているのだそうです。#もともとは、木下先生が比田井和孝先生からお聞きした話だそうです。『生きる力がわいてくる「自分へのメッセージ」 涙の数だけ 大きくなれる! 』(青春文庫) [ 木下晴弘 ]上の本は文庫本で小さいのですが、こういった「子どもたちに伝えたい、いい話」がたくさん載っています。ご存じなかった方は、一度、読んでみるといいかもしれません。そして、自分が感動した話を、子どもたちにしてみて、「いい話のリレー」をしていけると、ステキですね。▼「説明ではなく、物語に」 ~中野敏治『一瞬で子どもの心をつかむ15人の教師!』 (2023/03/22の日記)
2024.02.28
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Yahooニュースの「インクルーシブ教育」に関する記事が、ぜひお知らせしたい内容でしたので、シェアします。▼まずはお互いを知る機会を――インクルーシブ教育を目指す、障害当事者たちの声(Yahooニュース 2024/2/10配信記事)上のリンク先の記事は5ページにわたる記事ですが、その2ページ目に引用されている、映画『養護学校はあかんねん!』の中の当事者の声が、教育の本質を如実に表していると思いました。・「私は、教育とは、人間が人間として、みんなと共に生きぬく(ことだ)と教える場だと思います」(上掲先記事2ページ目より)教育とは何か。学校とは何をするところか。いろいろな情報があって、あれもこれもになりがちな今の時代だからこそ、一言でシンプルに言ってどういうことを目指しているのか、本質を捉えることが重要だと思います。「共に生きることを学ぶ場」というのは、令和の今の時代にあって、ますますその必要性を増すように思います。あなたは、いかが思われますでしょうか?▼「大切なことは、なにか」 ~『イタリアのフルインクルーシブ教育』などから (2023/08/13の日記) ▼NHK「バリバラ」で「インクルーシブ教育」特集! (2023/10/23の日記) ▼動画「分離教育をやめたイタリアのインクルーシブ教育の挑戦」 (2023/11/05の日記)
2024.02.13
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アイヌ関連のブログ記事を続けています。今回も、以下の本の読書メモの続きです。『知里幸恵物語 アイヌの「物語」を命がけで伝えた人』 (PHP心のノンフィクション:小学校高学年・中学生向け)(金治直美、PHP研究所、2016、税別1400円)↓過去記事はこちら▼アイヌへの差別 ~『知里幸恵物語』その1▼「外からの目」で見えてくるもの ~『知里幸恵物語』その2本書の読書メモの最終回として、僕がどうしても引用したいと思ったところを紹介します。『アイヌ神謡集』の出版直前、ある雑誌から執筆依頼がきたときのことです。雑誌社の方から、「アイヌと知られると世間の人に見下げられるのではないか」と心配されたと聞いた時の、幸恵さんのことばを引用します。・だまっていればアイヌとわからない、ですって? では、わたしにシサム(和人)のふりをしろ、と? そんなことをしたって、わたしはアイヌよ。 口先でシサムといって、なんになるの? アイヌだから世の中から見下げられるなら、それでもいいわ! 自分のウタリ(同胞)が見下げられているというのに、 わたしひとり、立派な人に見られたって、なんにもならないもの。 それよりも、たくさんのウタリとともに見下げられたほうがいい。 それはちっともおそれることではないわ。(『知里幸恵物語』p134-135より)アイヌとしての誇り、プライド、仲間意識・・・いろいろなものが、真摯に伝わってきます。ひるがえって自分自身のことを考えたときに、自分はこれだけの思いを持って生きていっているだろうか?ということを思います。「何のために生きるか」そういったことを、あらためて思いました。3回にわたって書いてきた本書の読書メモはこれで終わります。次回からは、次の本の読書メモを書く予定です。現代日本の北海道における、巡回の記録です。『アイヌのことを考えながら北海道を歩いてみた 失われたカムイ伝説とアイヌの歴史』[ カベルナリア吉田 ]▼この冬読んだ、アイヌに関する本4冊 (2024/01/29の日記)▼過去に学べ ~万博が抱える黒歴史「人間動物園」(東京新聞) (2024/01/28の日記)▼「文字」という文化で失ったものがある(『ハルコロ』その1)▼「文字」という文化で失ったものがある2(『ハルコロ』その2)
2024.02.04
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最近の記事では、アイヌのことを書いています。なお、「アイヌ」には「ひと」という意味があるそうなので、「アイヌの人」という言い方はあえてしていません。なんだか呼び捨てのように感じられるかもしれませんが、ご了承ください。アイヌ文化に詳しい方の監修で描かれたマンガ『ハルコロ』の第2巻に、次のような記述があります。・アイヌは文字を持たなかったとよく言われるが 人類が出現して百万年単位の中で見れば 文字を持った民族と持たなかった民族との差は わずかな時間的なものである・しかも 多くの民族は 文字を得たことによって 失ったものがかなりあった・その中でも特に重要なひとつに 暗誦による民族文学――伝承の世界がある(『ハルコロ』文庫版 第2巻 p77より)僕はこれを読んで大変驚きました。今、僕が勤めている「学校」というところでは、「文字」の読み書きに依存した学習が当たり前のようにおこなわれています。そのなかで、「読み書き障害」と言われるお子さんが、とても苦しんでいます。僕は、LD通級の担当者として、「文字の読み書きに依存しない授業」を模索し、通級児童の所属する学級に提案することをおこなっています。「文字」は非常に重要なものであり、知的活動において欠くことのできないことのように思い込んでいましたが、実際は、そうではないのかもしれません。アイヌは文字を持たなかった。しかし、とても豊かな文化を持っていました。もっと、「文字」以外に目を向けてもいいのではないか、と思いました。上の引用箇所の最後に述べられている「暗誦による民族文学――伝承の世界」を現代に伝えるものとして、知里幸恵さんの『アイヌ神謡集』があります。町の書店で購入できるほか、今ならオーディオブックで聴くこともできます。知里幸恵さんオリジナルの序文は、アイヌの文化に誇りをもった知里幸恵さんの思いの詰まった名文です。文字ではなく、朗読で聴くと、より一層、感慨深いものがあります。『知里幸惠 アイヌ神謡集 』(岩波文庫 赤80-1)[ 中川 裕 ]「知里幸恵 『アイヌ神謡集』」(100分 de 名著)[ 中川 裕 ]「アイヌ神謡集 朗読CD」<Audible>アイヌ神謡集(ナレーター: 村上 めぐみ)※試聴できます。▼この冬読んだ、アイヌに関する本4冊 (2024/01/29の日記)▼過去に学べ ~万博が抱える黒歴史「人間動物園」(東京新聞) (2024/01/28の日記)
2024.01.30
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以下の本の読書メモを続けてきました。本日で、一区切り。最終回です。『どうして、もっと怒らないの? 生きづらい「いま」を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる』(荒井裕樹、現代書館、2019、税別1700円)連続記事です 過去記事はこちら↓第1回→ 「障害者に『主体』があるとは思われていなかった」第2回→ 「本当の社会参加とは」第3回→ 「健全者がつくった空気」第4回→ 「生きるに遠慮がいるものか」第5回→ 「愛」という言葉も、とらえ方次第?前回に引き続き、本書の第5話「『ポスト相模原事件』を生きる」から、覚えておきたいことのメモを続けます。本書の終わり際の部分からの引用になります。第5話に収録されている対談の終わりの方で、荒井さんが、次のようなことを語っておられます。・横田さんに「差別のない社会はあり得るのか」と聞いたことがあるんです。 横田さんのお答えは「あるわけない」でした。 「健全者」が障害者を差別しない世界なんて、自分が死んで地球が1回ぶっ壊れても訪れることはない・「差別のない社会」ではなく、差別が起きるたびに乗り越えられる社会のほうがいいし、自分が差別されたときにどう闘うかを考えたほうがいい・愚かでどうしようもない人間は、やっぱり差別してしまう。 差別してしまう自分を認めろと。 そういうふうにしか生きられない自分を受け入れろと。(p178より)ここのところも、学校教育に引きつけて、大変考えさせられるところがありました。障害児者差別だけでなく、部落差別や男女差別など、すべての「差別」に通じるところがあると思います。学校教育では、「差別のない学校」を安直につくろうとして、分離教育が進められてきたという経緯があります。「一緒に勉強すると、いろいろ問題があるんだ」という理由で、「分けた教育」が進められてきました。これは、大きな反省点だと思います。問題は、あって当たり前、起こって当たり前なのです。上の引用箇所で僕が赤字にしたところは、僕は、死ぬまで覚えておきたいところだと思いました。ふたをして見ないようにする教育ではなく、いっしょにぶつかり合い、考え合う教育を。ふたをして見ないようにする社会ではなく、いっしょにぶつかり合い、考え合う社会を。横田さんが訴えられていたことは、たいへん重要なことだと思います。今は、「多様性尊重」の社会だと言われるようになりました。その中で僕たちは、いいことも悪いことも引き受けて、ほんとうに多様な人たちとともに社会で過ごしていく覚悟を持っているでしょうか。僕たちひとりひとりの覚悟が問われている気がしました。一連の記事へのコメント、いただけると幸いです。ともに、考えていきましょう。
2024.01.14
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以下の本の読書メモを続けています。『どうして、もっと怒らないの? 生きづらい「いま」を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる』(荒井裕樹、現代書館、2019、税別1700円)連続記事です 過去記事はこちら↓第1回→ 「障害者に『主体』があるとは思われていなかった」第2回→ 「本当の社会参加とは」第3回→ 「健全者がつくった空気」第4回→ 「生きるに遠慮がいるものか」今回が第5回。本書の第5話「『ポスト相模原事件』を生きる」を読み返しながら、覚えておきたいことのメモをさらに綴っていきたいと思います。章タイトルになっている、相模原の山ゆり園の事件については、ご存じでしょうか?「障害者」に関わる様々な問題について考えるとき、この事件のことはどうしても忘れることはできません。ネット上でその概要を見ることができます。今回の内容に入る前にご一読いただいておくといいかと思います。NHKが以前報道したものへのリンクを貼っておきます。▼相模原 障害者施設19人殺害事件6年 「誰もが生きやすい社会に」 (NHK首都圏ナビ、2022年7月26日)非常にショッキングな事件であり、それと同時に、加害者の殺害動機については、非常に考えさせられるものがありました。加害者1人の問題ではなく、この社会全体の「空気」が加害者にそうさせた部分もあるのではないかと、感じています。前回僕が書いた「生きるというだけで意味がある」という価値観と真逆の価値観が引き起こした事件ではないかという気がしています。それを受けて、第5話は、中島岳志さんとの対談回です。荒井さんの前著『差別されてる自覚はあるか 横田弘と青い芝の会「行動綱領」』の出版後に開催された公開対談会で、そちらの本についての話が交わされています。『差別されてる自覚はあるか 横田弘と青い芝の会「行動綱領」』(荒井裕樹、現代書館、2017、2420円)以下は、その本に書かれていた内容によるものです。発言者は、中島さんです。・障害者に向けられた愛とか正義というもののなかに含まれている暴力を告発するというのが、横田さんにとっての非常に重要な指摘だった・「やってもできないに決まっているから、代わりにやってあげる」。 これが「代わりにやってあげるから、何もしないで」になり、 「なにかしようと思わないで」になり、 「私の言うことを聞いて」になり、 最後は「自分の意志をもたないで」になっていく。・(横田さんは)過剰な保護がもつ「優しさ」や「親の愛」に対して非常に厳しい人だった(p169-170より)僕は横田さんの当事者運動における行動綱領を読むまでは、「愛と正義」については、いいイメージしか持っていませんでした。#「正義」については、「戦争はすべて正義の戦争として始まる」という意見にふれてからは、少し警戒して考えるようになっていましたが、「愛」については手放しで礼賛するところがありました。それが、荒井さんの前作の『差別されてる自覚はあるか 横田弘と青い芝の会「行動綱領」』を読むことで、くつがえされました。それは非常にショッキングであり、たくさんの「?」を僕に投げかけてきました。だからこそ、こうやって、「?」の背景を追究しようとしています。2冊目である『どうして、もっと怒らないの?』も読むことで、この行動綱領の理由が、よりはっきりと見えてきた気がします。結局は「愛」という言葉も、とらえ方次第なのだなあと思いました。「愛」にもいろいろな愛があり、一方的な「愛」もあります。僕は、人間のすべての問題は、つまるところ最後は「愛」の問題に帰着するのではないかという気がしています。その「愛」のとらえ方ひとつで、真逆に行ってしまうことがあるのを山ゆり園の事件などから感じ、恐ろしく思っています。僕が上に引用したところの続きにも、とても印象的な言葉が多く出されていました。僕は、そのひとつひとつにとても考えさせられました。たとえば、「最終的に機会を奪う親の『優しさ』」「親が障害者を囲い込んでしまっていた」「青い芝の会の運動って、『能力主義』にたいして徹底的に反発した」といったことなどです。(3つの言葉はすべてp170より)皆さんは、どう思われるでしょうか?横田さんは親の「愛」を糾弾した方でした。横田さんの場合だけでなく、「子ども」を親の「愛」が縛っていることが、大人がよかれと思って勝手に判断して、子どもから主権を奪っていることが、多々あるように思います。僕は第1回のときに、「学校教育の中で、あまりにも『子ども』を客体としてとらえすぎているのではないか」ということを書きました。ここのところで、僕が第1回に書いたこととも、つながってくる気がしています。僕は、子どもが問題を起こした時に、恥ずかしながら、「黙って言うことを聞いていればいい」と思ってしまうことが、たくさんありました。大人として、親として、教師として、自分を振り返って、反省するところが、たくさんあります。さらに、荒井さんは次の言葉も、言われています。・結局は「健全者」にとって都合の良いかたちでなら障害者は生きていてもいいよ、ということではないか(p171)逆の言い方をすれば、「健全者」が中心の社会で、障害者は簡単に「生きていてもしょうがないよ」とみなされてしまうこともある、ということだと思います。そういった「健全者」中心の社会が、相模原事件を生んだことは、想像に難くありません。ひるがえって、「学校」という場に置き換えて考えてみても、そのままこのことが「学校」という場でも当てはまってしまいそうで、恐ろしくなります。「大人にとって都合のいいかたちでなら、子どもはその場にいていい」ということになっていないか。障害者問題に限らず、差別や貧困、子どもを取り巻く様々な問題が、学校という社会の縮図の中で、現れています。学校や社会が、多様な人たちにとって、必ずしも生きやすい場になっていないということが言われています。本書は学校教育に関して書かれてものではありませんが、本書の問題提起を、僕は「学校」という場に置き換えて考えてみたいなあ、と思っています。次回も、第5話「『ポスト相模原事件』を生きる」の後半から、いろいろと考えてみたいと思います。もう少しだけ、本書の読書メモを続けます。ぜひ、また明日も、見に来てください。
2024.01.13
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以下の本の読書メモを続けています。『どうして、もっと怒らないの? 生きづらい「いま」を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる』(荒井裕樹、現代書館、2019、税別1700円)連続記事です。過去記事はこちら↓第1回→ 「障害者に『主体』があるとは思われていなかった」第2回→ 「本当の社会参加とは」第3回→ 「健全者がつくった空気」筆者の荒井さんは、「日本の障害者運動って、名言をたくさん残しているんですよ。」と書かれています。(p79)今まで紹介してきた内容をふまえて、ここでぜひ引用しておきたい「名言」があります。それを紹介せずにはおれないので、ババンと!引用させていただきます。・「生きるに遠慮がいるものか」(p80、花田春兆さんの言葉)これは、すごい。短い言葉の中に、今までの話がすべて凝縮されているように感じました。結局、日本の社会が「遠慮」を強いているんです。そんな社会はおかしい、という声を、あげなくちゃいけない。「遠慮しながら生きていけ」と遠回しに言ってくる社会を、社会自体を変えていかなければならない。そのためには、遠慮しながら生きていくなんてことは、はなから、しなくていいんだ。僕は、「生きる」ということが、ただそれだけで尊いものだということを、改めて教えてもらった気がしました。それにつなげて、今度は川口有美子さんとの対談のところから、川口さんの言葉を引用させていただきます。・私ね、エゴってすごい大事だと思っているのね。(p92、川口有美子さんの言葉)キターーーーって感じです。これぞ、「全肯定」。こう言ってもらえると、安心できる自分がいます。「エゴ」と「遠慮」って、表裏一体なんですよね。エゴイズム丸出しだと、もっと周りのことを考えろ、と言われる。そこを、「エゴって大事」と言われると、救われる。むしろ、そう言っていかなくちゃいけないんじゃないか、と思います。そうでないと、救われない場合もあるのではないか。日本は文化的に自己主張をしないことを美徳とするところがあって、学校でも「自分勝手」はすごく戒められるし、社会の中でも「出る釘は打たれる」というところがあります。ただ、外国ではむしろ逆に、「自己主張をしないといけない」と教育されているところを感じるので、そのあたりは日本と外国を対照的に見ながら、自分自身、日本の社会を考える上で、もっと考察を重ねていきたいなあと感じているところです。とりあえず今のところは、僕は、「エゴ」とか「自分」というものは、少なくとも今の日本の社会では、もっと出していっていいのではないか、それが当たり前ではないか、ということは思っています。それが、生きにくい社会を変えていくことにつながるのではないか、と思っています。今回引用したところは、第3話「『いのち』を支える言葉たち」のところです。荒井さんと川口さんの対談の回です。このお2方の対談のシーンでは、詳しくは引用しませんが、かなりショッキングな実際にあったことの話も次々と出てきて、僕はめまいがしそうでした。社会というものの残酷さに、絶望しそうになりました。社会が、いのちに対して、次々と要求をしてきている。そのいのちに意味があるのかとか、役に立っているのかとか、冷たい刃で突きつけてくる。そういうときに、はねかえせる力というのは、「生きるに遠慮がいるものか」とか、「エゴってすごい大事」とかの、強い言葉です。僕たちは、「なんのために」生きているのか。それを社会から問われるのは間違っている。個人の命よりも社会が優先されている社会ならば、僕たちはむしろ、こう問い返さなければならない。「なんのための、社会なのか」と。前回僕が書いた言葉を、ここで、もう一度書きます。「インクルーシブ社会」や「共生社会」をほんとうに実現していくなら、社会の「空気」を変えなければならない。それに気づかせてくれるのが、当事者の言葉です。当事者側からの発信です。こういった本でそれを知らせてくれることを、ほんとうにありがたいことだと感じます。次回は、第5話「『ポスト相模原事件』を生きる」を読み返しながら、覚えておきたいことのメモをさらに綴っていきたいと思います。もう少し、本書の読書メモを続けます。よかったら、また明日も、見に来てください。
2024.01.12
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以下の本の読書メモを続けています。『どうして、もっと怒らないの? 生きづらい「いま」を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる』(荒井裕樹、現代書館、2019、税別1700円)連載ブログ記事です。第1回→ 「障害者に『主体』があるとは思われていなかった」第2回→ 「本当の社会参加とは」本書の第1話の中だけでも、今後のために覚えておきたいことがとにかくたくさん出てきます。とにかくどんどん書いていきます。第2回に引き続き、第1話の対談の中での、荒井さんの言葉を引用します。・青い芝の会の人たちは、なにかをする前から「危ない」という理由で、やりたいことを禁じられてきた人たちなんです。 「障害者のためを思って」というやさしさを装った禁止は、障害者を1人の「主体」として見てないということではないか。(p31)・自分にとって「危ない/危なくない」「できる/できない」の境目はどこかを判断できるようになることが大切なんです。 そうした判断さえさせてもらえない状態を、横田さんは「障害者は自己を奪われている」と表現されていました。(p32)・横田さんたちには、そうやって他人に勝手に先回りをされることで行動を制限されてきた、という歴史があるわけです。(p32)引用が長くならないように部分的な引用にとどめていますが、ここのところはぜひ全体をつなげて続けて読んでもらいたいところです。ぜひ原文全体を参照されますようお願いします。第1回のブログ記事で、僕は「『障害のある子ども』は、二重の差別を受けているのかもしれない」と書きました。子どもだから危ないからさせてもらえない、とか、意見を聞いてもらえないということが頻繁にある状況もふまえると、障害者だけでなく、今の日本全体で当たり前に行なわれている差別に行き着きます。おそらく多数派の人は、「そんなの当たり前やん」と思っているのではないかと思います。でも、ちょっと立ち止まって、制限される立場になって感じてみることが必要なのではないかと思います。僕がよく話をするのは、以下の2つのエピソードです。1つめは、自分の子どもの話です。散髪屋に行ったら、「どんな髪型にしますか」というのを、子ども本人に聞かずに、親の僕に聞いてくるんです。僕は、そのたびに、「子ども本人が決めるから、本人に聞いてください」と言い続けてきました。2つめは、過去に学校で担任した子の話です。2年生のAさんは、自分で立って歩けないので、バギーに乗っていて、常に介助の先生がそばについていました。介助の先生がバギーを押して移動していると、子どもたちが寄ってきて、聞きました。「今からどこいくん~?」それを、Aさん本人ではなく、バギーを後ろから押している、介助の先生に聞くわけです。それを見ていた僕は、子どもたちに言いました。「Aちゃん本人に聞いてね」Aさん本人にあらためて聞き直した子どもたち。とたんに、Aさんの顔がぱっと明るくなりました。Aさんは自由に話をすることができませんが、一所懸命顔の筋肉を動かして、どこに行こうとしているのか、子どもたちに伝えようとしていました。子どもたちには、バギーを押されているAさんは客体でしかなく、押している介助の先生こそが主体に見えたのだと思います。でも、移動介助は、あくまでも「介助」です。移動は本人の主体によってなされるものであり、「介助」はあくまでも本人の主体性に基づくものです。あたかも本人に意志がないかのように、本人を飛び越えて、介助者と周囲で話をされたとしたら、それを聞いているAさんはどう思うだろうか、と思います。あまりにも当たり前になりすぎている現実を、改めて問い返すことをしていきたいのです。「共に生きる」ために。今回の記事の最後に、荒井さんと九龍さんのそれぞれの言葉を引用します。・荒井: 青い芝の会の人たちは空気を読まなかったですね。 つまり、「健全者がつくった空気は、障害者を排除するためのものだから読む必要はない」と考えた。・九龍: この「健全者」という言葉も、障害者に対抗して、マイノリティの側からレッテルを貼り返すための言葉なんですよね。(p39)当事者運動から出てきた当事者の言葉というのは大変重いです。同時に、マイノリティの側が、主体性を取り戻す、勇気をもらえる言葉であることも多いです。上に引用した「レッテルを貼り返す」といったことは、まさに当事者の側からしか出てこない言葉であり、発想だと思います。僕が子どもの頃、「ビックリマンシール」というのが流行りました。そのキャッチフレーズが、「はられたら、はりかえせ」でした。この言葉に、わずか5文字を付け加えて、「レッテルをはられたら、はりかえせ」とする。すると、それだけで、痛烈で痛快な逆転現象が起きます。いつも「される側」でしかなかった側が主体に回ってやり返す姿は、痛快です。でも、これは、対等な関係であるならば、当然起こってしかるべきことです。あんのんとしているマジョリティは、たまにはそういう立場を経験するべきではないか、と思います。そうでなければ、気づかない。自分がされてみて初めて気づく。悲しいかな、そういった現実もあるように思います。荒井さんの言葉にあるように、「障害者を排除する空気」が、今の日本にはたしかにあります。外国の話を聞くたびに、日本はそういった空気が諸外国よりも強くあることを実感せずにはおれません。「インクルーシブ社会」や「共生社会」をほんとうに実現していくなら、その「空気」を変えなければならない。それに気づかせてくれるのが、当事者の言葉です。当事者側からの発信です。こういった本でそれを知らせてくれることを、ほんとうにありがたいことだと感じます。次回以降も、まだまだ本書を読んで感じた話を、続けていきます。よかったら、明日もまた、見に来てください。(平日は、なるべく20時に更新するようにしています。)
2024.01.11
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昨日の続きです。以下の本の読書メモを続けていきます。『どうして、もっと怒らないの? 生きづらい「いま」を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる』(荒井裕樹、現代書館、2019、税別1700円)第1話だけでも、今後のために覚えておきたいことがとにかくたくさん出てきます。とにかくどんどん書いていきます。ただ、僕がこのブログでやっていくのはあくまでも「引用」であり、部分的な「抜粋」でしかありません。言葉はもちろん、文脈の中で理解されてしかるべきものです。僕の部分的な引用で、興味を持たれたり、心に引っかかりをもたれたりした方は、ぜひ本書を手に取っていただき、通して読んでいただきたいと思います。以下は、第1話の対談の中での、荒井さんの言葉からです。・「愛らしく健気な障害者」としてふるまえば、社会は応援してくれたり、優しくしてくれるかもしれません。 でも、「気分がいいときだけ仲間に入れてもらえる」というのは、本当の社会参加とは言えないんじゃないかな。(p26)本書は学校教育ではなく障害者運動のことをテーマにした本ですが、僕は僕のスタンスとして、学校教育に引き寄せて、本書で書かれていることを考えたいと思っています。上で書かれていることは、学校のなかで、非常によく見られる場面を思い起こさせました。たとえば、「友だちがいない子」がいるとする。「お世話される存在」とみなされている子がいるとする。遠足で、お弁当を食べるときに、一緒に食べる子がいないとする。そうすると、周りの子が、しかたないから、「仲間に入れてあげる」ということを言う。それを、先生も周りも、「親切だ」「いいことだ」と思っている現状がある。僕は、本書の中で後で登場される尾上さんと昨年つながりができました。いろいろなことを教えていただきましたが、尾上さんは「思いやり差別」という言葉を使われていました。まさに、「思いやり差別」です。多数派が「いいことだ」と思って思いやりを発揮しているのに、それに従わないとは何事だ、という無意識の圧力がある。あなたは、わたしは、それに対してどうしていきますか?ということが、問われていると思います。・衝突の機会さえ奪ってしまうのは、「やさしさ」の姿を装った隔離です。(p28)ひるがえって僕自身のことを考えると、僕は、「やさしさ」が大好きです。僕はとても弱い人間なので、やさしくしてもらえければ、今まで生きてこれなかったと思います。遠足のお弁当のような場面では、僕は、「仲間に入れてもらっていた派」です。これまで受けてきた周囲の人のやさしさには、感謝しかありません。「でも」「だからこそ」と思います。でも、だからこそ、「やさしさ」が押しつけになってしまうことに、敏感にならなければいけない、と思います。本書のなかの対談を通して、僕は、そんなことを思いました。こういった話を、次回以降も、続けていきます。よかったら、明日もまた、見に来てください。
2024.01.10
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昨日のブログ記事で「ゆるすということ」について書いたのですが、今日は、逆のことを書きます。「ゆるせないこと」というのが、強烈な動機付けとなって、行動につながるということがあります。世の中はけっして理想的なものではなく、理不尽なことがあるので、「ゆるせない」と怒って行動していくことも、一方では必要なことではないかと思っています。「やる気が出ないなあ」と思ってだらだらしている人の中には、「ゆるせない」という気持ちが足りないのかもしれません。僕は「インクルーシブ教育」を自分の実践の柱の1つとして追求していこうとしています。ただ、重要なのは、「なんのために」それをするかです。それは、明らかに、厳然とした差別が、そこにあるからです。障害当事者として当事者運動の中で行動しつづけた方がいらっしゃいます。「インクルーシブ教育」を追求していくにあたり、当事者運動の先輩に学ぶこと、差別の現実を直視することは、避けては通れません。今回から何回かにわたって、以下の本をとりあげます。『どうして、もっと怒らないの? 生きづらい「いま」を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる』(荒井裕樹、現代書館、2019、税別1700円)本書は、荒井裕樹さんが、いろんな方と対談された、対談集です。(以前に、尾上さんと対談されたところを少しだけブログで紹介しました。)本書の第1話「運動はすぐそばにある」では、九龍ジョーさんと対談されています。そのなかで、障害当事者(横田弘さん)が障害者運動をするなかで実際にあった、非常に考えさせられるエピソードが出てきます。九龍:「責任者は?」と警察が聞いて、横田さんが「私です」と答える。 それでもまだ「責任者は誰?」って警察が聞き返す。 つまり、パフォーマンスをした横田さん本人を責任者と認めないんですよね。荒井:障害者に「主体」があるとは思われていなかったんですよ。 だからこそ、青い芝の会の「行動綱領」には「われらは、強烈な自己主張を行なう」と書いてあるんですよね。(p24より)「障害者に『主体』があるとは思われていなかった」ということが、まさに「差別」の状況を端的に示しています。このエピソードは1972年に撮影されたドキュメンタリー映画「さようならCP」の中の場面のことを指していますが、僕たちの今の社会のことを顧みた時に、同じことが起こっていないと言えるでしょうか。DVD『さようならCP』 [ 原一男 ]僕は学校に勤めているので、特に、学校教育の中で、あまりにも「子ども」を客体としてとらえすぎているのではないかということも思います。そうすると、もしかすると「障害のある子ども」は、二重の差別を受けているのかもしれません。社会は偽善に満ちていて、僕自身も、多数派の論理に組み込まれ、無自覚になっています。でも、それに気づかせてくれるのは、当事者の怒りであり、行動です。「ゆるせないこと」が厳然とあることに、怒りの行動で気づかせてくれていることに、僕たちは気づかなければなりません。そして、自分たちも、怒っていいんだということに、気づかなければならないと思います。今回から何回かに分けて、本書の中の記述を引用させていただくことで、皆さんと共にいろいろなことを考えていきたいと思います。著者の荒井裕樹さんは、本書の前に『差別されてる自覚はあるか』を出されています。こちらも、青い芝の会の横田弘さんについて書かれた本です。『差別されてる自覚はあるか 横田弘と青い芝の会「行動綱領」』(荒井裕樹、現代書館、2017、2420円)2冊とも、当事者運動からインクルーシブ教育を考える上で、大変意義深い本です。多くの皆様に読んでいただきたいと思います。▼NHK「合理的配慮」特集が記事に! 『「合理的配慮」がよく分かる 考え方と具体例』など (2023/08/30の日記)▼吉間慎一郎「社会変革のジレンマ ―伴走者と当事者の相互変容からコミュニティの相互変容へ―」 (2023/12/24の日記)
2024.01.09
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年始のあいさつに「ICT×音楽×インクルーシブ教育のコラボレーションをばっちり決めたい」という本年の抱負を書きました。そうすると、思いかげなく同じテーマで実践をされている方のお話を聞くことができました。同じ志をもった方とお出会いすることができて、うれしかったです。音楽教育の研修会の講師として、新年早々、大阪から僕の勤務市まで、わざわざ来ていただきました。最初に「障害とは?」というお話をされ、「バリアフルカフェ」の映像を見せていただきました。障害の社会モデルの話を大変分かりやすく伝えていただき、感激しました。上の映像とは違うのですが、バリアフルカフェについては、僕も合理的配慮をテーマにしたNHKの番組の中ですでに視聴していました。(→過去記事▼NHK「合理的配慮」特集が記事に! 『「合理的配慮」がよく分かる 考え方と具体例』など)▼「合理的配慮」後編① ~てれび戦士が合理的配慮の大切さを体験取材~ (NHK for School)研修会の冒頭でこういった映像で「社会モデル」の話を共有するのっていいな、と思いました。音楽教育の研修会だったので、その後は音楽の授業に関する具体的な演習に入りました。演習その1は、「コップで合奏しよう」。コップひとつでいろんなリズムが演奏できることに驚きました。その演奏方法がけっこう難しくて、前半はなんとかなったのですが、後半は覚えられなくて大変でした。講師の先生は1人1台端末で見られるお手本動画をいくつか紹介してくださいました。一番ゆっくりのお手本動画で、見よう見まねでやってみましたが、最後が混乱してきて困りました。最後から順番に少しずつスモールステップで習得していくやり方が僕には合っていそうだと思いました。そうすると僕の場合、動画よりもスライドで1コマ1コマ静止画で確認していくやり方のほうがあっていたかもしれません。こういう研修は、自分が子ども役をやってみることで、気づくことがたくさんあります。こういう機会を与えてくださった講師の先生に感謝です!最後に全員で円になって合奏した時には、僕はてんで習得できていなくて、最後の最後は半拍ずれてコップを置く音を立てていました。でも、半拍ずれても「曲」っぽくはなっているので、「それはそれでおもしろいなあ」とも思いました。僕が「音楽」に「インクルーシブ教育」の要素を感じるのは、レールから外れる音が出ていても「それはそれでおもしろい」と許容される時間がつくりやすいからです。それは、「リズム合奏」のときに、特に顕著に感じられます。リズムの場合、いろんなリズムが絡み合うことで、かえって面白さが増すことがあるのです。全員が全く同じリズムをやっているのではなく、なんだかちょっとずれている子がいるというのが、かえってそのほうがおもしろい。その場で、そのメンバーで作っている音楽、という気がする。そういった音楽の寛容性が、インクルーシブな時間につながるのではないかという気がしています。演習その2は「ソングメーカー」と「カトカトーン」による音楽作りでした。これについては僕もすでに同じ実践をしていたので、ここでは詳細は省きます。僕の過去記事をご覧下さい。↓▼♪リアルな音で音楽制作体験!音楽教科書会社のWebアプリ「カトカトーン」アプリの説明については僕の上の記事を見ていただくとして、講師の先生から最後に紹介していただいた「生徒作品」がステキすぎてびっくりしました。子どもたちの可能性は無限大ですね。特に、「発語のないお子さんの作品」として紹介された作品がステキすぎてしびれました。実際に楽器の演奏ができなくても、ICTの力を借りてすばらしい音楽を作り出すことができます。ICTでいろいろな子どもたちの表現を引き出せるようになることがよく分かりました。★2024/1/15追記★上の演習その2で、当初「メロディメーカー」と書いていましたが、「ソングメーカー」の間違いでした。上のリンク先で僕は「メロディメーカー」のことを書いていますが、研修では「ソングメーカー」を使っていました。僕がこの2つの違いを分かっておらず、同じものだと勝手に勘違いしていました。すみませんでした!「ソングメーカー」はメロディだけでなく、リズム伴奏をつけることができます!▼ソングメーカー(Chrome Music Lab) https://musiclab.chromeexperiments.com/Song-Maker演習その3は、ハンドベルによる合奏でした。音ゲーのように演奏できるおもしろさにハマりました講師の先生はScratch上で五線譜を描くと、音ゲーのように「落ちてくる音符」に変換されるプログラムを作られていました。僕も自分の学校の子どもたちと、やってみたいなーと思いました。縦型と円形があるのも、おもしろいです。▼動く楽譜を作ってみよう!【縦型】 (Scratch、iwama94様)▼合奏支援ツール「円形アニメーション楽譜」 (Scratch、iwama94様)とても学びになる研修会でした。講師のI先生、ありがとうございました!▼【音楽の練習】小学生向けYouTube動画の具体的な活用のしかた!▼「障害をもつ人も、もたない人も・・・」~『クラス合唱名曲秘話 楽譜に書ききれなかったこと』より▼【動く楽譜】「旅立ちの日に」(3部合唱)を公開♪
2024.01.07
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今日は、インクルーシブ関連の記事です。昨日は、東京大学インクルーシブ教育定例研究会によるオンラインセミナーでした。そのときのチャットで、興味深い論文が紹介されていたので、ご紹介します。▼「社会変革のジレンマ ―伴走者と当事者の相互変容からコミュニティの相互変容へ―」(吉間慎一郎:『更生支援における「協働モデル」の実現に向けた試論』著者)インクルーシブな社会に変えていくのは、もちろんめざすところではあるのですが、そのみちすじについては、はっきりとは見えていませんでした。こちらの論文は障害児者に関するものではありませんが、インクルーシブ教育やインクルーシブ社会につながるものを非常に感じます。PDFファイルにはEdgeでカラーマーカーを引くことができます。2色に色分けしながら、いくつかの部分にラインを引きながら読みました。冒頭の<要旨>で僕がラインを引いたところを引用します。・主流文化への同化としての社会的包摂は,それと同時に主流文化に適合できない者の排除をもたらす。 したがって,支援者が,排他的な社会の状態を放置したまま主流文化への同一化によって社会的包摂を達成しようとしても,ますます当事者は社会からの排除を味わうことになる。 このような支援におけるジレンマを乗り越えるためには,包摂する側と包摂される側という区別をやめ,相互変容的な社会の構築に取り組む必要がある。(J A P A N E S E J O U R N A L O F S O C IO L O G IC A L C R IM IN O L O G Y、 N o .4 4、 2 0 1 9、p46)「インクルーシブ」という言葉やその訳語である「包摂」に対する違和感を口にされる方がいらっしゃいます。その危惧や懸念は、ここで引用した要旨に表れているのかな、という気がします。そこで、吉間先生は、「協働モデル」を提唱されています。その内容に、僕も、強く賛同します。これは、覚えておきたいと思ったので、このブログでも書かせていただきました。「協働モデル」の定義は、以下のようなものです。・伴走者と当事者とのゆるやかな関係性を基礎として,互いの無力さや弱さを受け入れて自分から変わるという実践を第三者を巻き込んで行っていく相互変容過程である(吉間2017: 100)・当事者を変えようとするのではなく,当事者の本音に耳を傾け,自ら変わろうとすることで,両者のコミュニケーション過程が相互に影響を与えあう関係性へと導き,当事者も伴走者もより良い人生を目指していくモデルである。(J A P A N E S E J O U R N A L O F S O C IO L O G IC A L C R IM IN O L O G Y、 N o .4 4、 2 0 1 9、p47)「相手だけを変えよう」とするのは、特に教育の世界では非常によく起こりうることです。大人が、子どもを、指導し、変えようとする。しかし、上の協働モデルでは、互いに変わることが提唱されています。「わたしが正しい。あなたが変われ」と言うだけでは、変わらないのです。これは、かなり本質的な部分を突いている気がしました。また、p50における次の箇所にも、僕は注目しました。・協働モデルは,どこでも普遍的に成り立つ「正解」は基本的にあり得ないという立場に立ち,その場その場で成り立つ「成解」を生み出そうとしている。(J A P A N E S E J O U R N A L O F S O C IO L O G IC A L C R IM IN O L O G Y、 N o .4 4、 2 0 1 9、p50)これも、教育現場が非常によく陥りがちな「正解主義」へのアンチテーゼとして読みました。「成解」というのは吉間先生の造語のようですが、「なるほど。言い得て妙だなあ」と思いました。正解が最初からあるのではなく、関係性の中で見つけていく。こういう考え方をとれば、「教える人」←→「教えられる人」、「正す人」←→「正される人」、「支援する人」←→「支援される人」という2項対立的な図式は、消えてなくなりますね。たとえるなら、円環的な図式になると思います。こういった意識でひとりひとりがとりくめば、今まで対立的であったものを、互恵的な好循環に移行できるかもしれないと思いました。最後に、p58からも引用して、終わります。・自分が安心するために相手を変えるのではなく,相手に安心してもらうために自分から変わる(J A P A N E S E J O U R N A L O F S O C IO L O G IC A L C R IM IN O L O G Y、 N o .4 4、 2 0 1 9、p58)今まで漠然と思っていたことがこんなふうに論文としてまとめられていたことに感動しました。教育論文ではないですが、「教育」の世界でも、じゅうぶん、同じことが言えると思います。『更生支援における「協働モデル」の実現に向けた試論』[ 吉間慎一郎 ]▼福島正伸『キミが働く理由(わけ)』3~環境に期待するより、自分に期待しよう▼「好奇心のスイッチ」が入ると、子どもは自ら学びだす! ~『探究の達人』その2
2023.12.24
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今日は、前回のブログでとりあげたドラマ版「デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士」の放送日です。そこで、関連する本として、次の本をご紹介します。『耳の聞こえない人、オモロイやん!と思わず言っちゃう本』(大谷邦郎・手話エンターテイメント発信団oioi、星湖舎、2019、税別1500円)大阪の手話エンターテイメント発信団oioiさんの本です。聴力の単位はデシベルを使い、その数値が高いほど聞こえにくい、といった知識も知ることができますが、本書の特徴はなんといっても当事者目線。とっても楽しい本なのですが、当事者に対して、ちょっと聞きにくいことも思い切ってインタビューしちゃおう、といったノリが全開です。当事者が語られることから僕らが気づかされることは、ほんとに多いです。「こんなことがあった」と語られる話の数々に、驚かされること、必至です。学校の中での出来事として紹介されていた次の話は、学校関係者として、特に覚えておきたいと思った話です。・「これは聴覚障害者あるあるなんですけど、だいたい僕らを教室の一番前に座らせますよね。」 「だけど、それは意味がない。」(p98)少し聞こえにくいぐらいなら意味があるかもしれませんが、全く聞こえない状態に近い場合、口が動いているのを見てようやく、「今この人はしゃべっているんだ」と認識されるそうです。一番前の席だと、先生は板書をしながらしゃべることが多くて、しゃべっているかどうかが分からないし、クラスの誰かがしゃべっていても、一番前だとそのことに気づけないのだそう。今、日本は国連から、通常学級の場の中で、インクルーシブ教育を進めるように、勧告を受けています。通常学級の中で「耳の聞こえない人」も安心して授業を受けられるようにするには、こういった声にしっかりと耳を傾ける必要がありそうです。なお、このお話をされているのはノブさんという方なのですが、ノブさんは就職後、会社で学校のときとは大違いの、合理的配慮を受けられているそうです。具体的には、会議の時の座席の決定権はノブさんにあるのだとか。「全員の顔が一番よく見えるところがノブさんの席になる」んですって。(p105)学校でも、そんなふうにしてくれていたら、ずいぶん助かっただろうな、と思いました。本書の最後のほうには、別の方々による、学校でのいじめの話も出てきます。「周囲の無理解がつらかった」という話も出てきます。読んでいて、身につまされました。勇気を出して語っていただいたこと、「本」のかたちにまとめていただいたことに感謝し、誰もが安心して通える学校をつくっていくために、活かしたいと思います。みなさんも、ぜひ、読んでみてください。『耳の聞こえない人、オモロイやん!と思わず言っちゃう本』(大谷邦郎・手話エンターテイメント発信団oioi、星湖舎、2019、税別1500円)▼楽しくバリアクラッシュ! 手話エンターテイメント発信団oioiさん (2023/04/26の日記)▼『耳の聞こえない人、オモロイやん!と思わず言っちゃう本』 (2023/06/24の日記)
2023.12.23
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「合理的配慮」のセミナーの案内を母からもらいました。僕自身は他の用事とかぶっていて行けないのですが、よさそうな内容なので、シェアします。「合理的配慮が福をもたらす」https://www.kokuchpro.com/event/274fddb1e4decc9a7c2af5ce7769f52a/日時:2023年12月23日(土) 13:00〜16:00場所:兵庫県立考古博物館 講堂(オンライン中継あり)参加費:1,000円(18歳以下無料)このタイトル、いいなーと思っています。チラシの中央には七福神が描かれています。実際に、七福神からの取り組み紹介があるそうです。ハイブリッド開催なので、対面参加も、オンラインでの参加も、どちらも可能です。▼チラシ画像は、こちらからご覧いただけます。 (「総合福祉のきらり」様のサイト)※教育関係者向けのセミナーではなく、一般向けのセミナーです。 学校での合理的配慮ではなく、会社やお店や自治会などでの合理的配慮の話が聞けるのだと思います。 僕としては、そういう話はぜひ聞いておきたいと思いました。 お時間ある方、僕の代わりに、ぜひ、聞いてください。▼「合理的配慮」がよく分かるテレビ番組(「フクチッチ」合理的配慮 前後編) (2023/07/09の日記)
2023.12.14
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昨日、12月11日は、サザンオールスターズの原由子さんの誕生日でした。『ザ・バースデー 365の物語』という本には、365日すべての日について、その日を誕生日にもつ人の興味深いエピソードが掲載されています。『ザ・バースデー 365の物語』(7月〜12月)(ひすいこたろう+ふじさわあゆみ、日本実業出版社)僕は、原由子さんの名前と曲は知っていますが、そのお人柄までは知りませんでした。#原由子さんの曲は大好き。#結婚式のときのプロフィールビデオで「少年時代」とセットで原由子さんの「少女時代」を使いました。この本には、原さんのエピソードとして、次のようなことが、書かれていました。・桑田佳祐さんの才能をぞんぶんに引き出したのは、いつも一番近くにいた原由子さんの笑顔だったと思うのです。(同書p352より)筆者の主観が入っているかもしれませんが、「笑顔がちからになる」というのは、僕の経験上も、よく分かります。技術よりも何よりも、そのことが一緒に活動していくうえで、大切なものなのだということを、改めて思いました。「学校」というところは、特に、それを感じる場所です。学校の中で能力を発揮している人はたしかにいるでしょう。でも、そのそばには、笑顔でそれを引き出している人が、いるのです。そういう人に、僕もなりたいと思っています。さて、サザンオールスターズとしてプロになる時、不安そうな原さんに、桑田さんはこう言ったそうです。「うまいやつなんて上を見たらキリがないんだよ。 みんなで一緒にうまくなっていけばいいんだ」(同書p352より)僕は以前このブログの中で、「結果」よりも「プロセス」といったことを書きました。成果主義や能力主義は、ともすればこういった発想を切り捨ててしまいます。でも、人生で大切な考え方は、「優秀なメンバーを集める」ということではなく、「今いるこのメンバーでやっていくんだ」という考え方ではないでしょうか。そして、そう、学校というところも、やっぱり、そうなのです。みんなで、一緒に、うまくなっていけば、いいんです。▼「これでいいのだ!」 悩んだ時こそ、この言葉を・・・ (2023/09/14の日記)
2023.12.12
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インクルーシブ教育関係のオンラインセミナーの情報をシェアします。「映画『みんなの学校』から10年経って、今問い直すこと」を、当時の校長の木村泰子さんが話されるとのことです。以下、主催者様から送られてきた案内メールから、転載させていただきます。主催:東京大学大学院教育学研究科附属バリアフリー教育開発研究センター日時:2023年12月23日 午前10時から12時講師:木村泰子(元大阪市立大空小学校長)題目:<年末特別企画>すべての子どもが育つ学校とはどんな学校か ~映画『みんなの学校』から10年経った今問い直すこと~申し込み先:https://select-type.com/ev/?ev=GLYvU3Hjl3w趣旨: 映画『みんなの学校』に映し出された大阪市立大空小学校の実践の事実は、公立小学校とは、すべての子どもに学びの居場所を保障すべき使命を持つことを鮮やかに照らし出しました。 公開から10年近くが経ちますが、残念なことに、不登校も子どもの自殺も過去最多を更新し続けています。また、特別支援学級在籍児童として、通常学級から分けられて学ぶ子どもたちの数もまた、2倍強となりました。 大空小学校の初代校長木村泰子先生は、2015年に退職された後、全国をまわり、学校に悩む子どもの声、保護者の声、そして教師の声に、ひたすら耳を傾けてこられました。 全国の公立学校の状況は困難を増していますが、その中で、一部の学校では、木村泰子先生の支援を受けながら、「みんなの学校」をつくる取り組みも始まっています。 2024年を迎えるにあたって、あらためて、すべての子どもが育つ学校とはどんな学校なのかについて、悩む子どもたちの幾多の声を聴いてこられた木村泰子先生にお話をうかがいます。 地域の公立学校をなんとか変えたいと思っていらっしゃる保護者、地域、教員の皆様、さらに、いまの学校の現状に疑問を持っていらっしゃる皆様に、ぜひご参加いただきたい企画となっています。僕は、申し込みました。あなたも、いかがですか?無料ですし、録画の後日配信もあるので、その時間に都合がつかない方も、関心がある方であれば、申し込んでおいて損はないと思います。なお、映画「みんなの学校」については、このブログでも何度かとりあげさせていただいています。「こんな学校いいな!」と思える、僕の大好きな映画です。▼「困った」子への向き合い方 ~木村泰子『「ふつうの子」なんて、どこにもいない』 (2021/05/05の日記)▼「インクルーシブ教育」を考えるテキスト『「みんなの学校」をつくるために』 (2020/07/25の日記)▼「みんなの学校」上映会&木村泰子先生講演会 in兵庫県西脇市 (2017/06/08の日記)
2023.12.11
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「漢字50問テスト」というのがあります。(写真提供:写真AC。僕の学校の実際のテストではありません。)漢字の苦手な子が、これに苦しんでいます。ほとんど点数がとれないのに、「テストだから自分でがんばれ」と個人の努力に任されていることが、よくあります。そういったお子さんは、45分のテスト時間中、「分からない」「書けない」という思いをずっと持たされ続けています。僕はよく通常学級の授業に入らせてもらっているので、ときには、「教師が、この子もみんなと同じ条件でさせることにこだわっているから、この子にとって、この時間が意味のあるものになっていない」という指摘をさせていただくことがあります。ただ、担任の先生も、「この子にはこの子に合った支援がいるとは思うが、テストの時にどんな支援ができるのか思い当たらない」という場合が、多々あるようです。そのため僕が教室に入らせてもらったときに、僕の方で支援をさせてもらって、それが有効だということを本人や担任が実感されたら、「同じようなかたちで、よかったら、今後も担任がしてあげてください」とお伝えすることがあります。支援に関してはケースバイケースなのですが、今日入らせてもらった教室の場合、「テストに余分があれば、僕にも1枚、いただけますか」「その1枚を使って、Aさんに支援をしてもいいですか」と、事前に担任に伝えていました。Aさんは通級指導で担当させてもらっているお子さんで、今年度だけでなく、経年で見させてもらっているお子さんです。僕は、テストの回答欄に、正解の漢字を半分書いて、テストを折りたたんでAさんの机上に置きました。正解の漢字を完全に教えてしまうわけではないけれど、書き出しの半分は見せてやって、後の半分をAさんが思い出すことができれば漢字を書けるようにしたわけです。折りたたんだのは、一度にヒントが見える問題数を限定するためです。さて、こういった支援を受け入れるかどうかは、Aさん自身が決めることです。「こんなの作ったけど、いる?」と小声で伝えました。お仕着せの支援になってはいけないので、いらなさそうにしていたら、すぐに引っ込めるつもりでいました。Aさんは、いらない支援を手で払いのけるようにしっかりと拒絶できる子です。僕は今まで何度もAさんに「そんなことしていらん」と拒絶されてきたのですが、今回のAさんは、「それがあるなら、助かる」といった顔をしました。そして、自力ではほとんど無回答だったのが、漢字の半分をヒントで示されたことで、俄然意欲的になり、どんどん漢字を書いていきました。結果的には、今までで一番漢字を書いて提出した漢字テストとなりました。テストに関しては、まだまだ、「みんな同じ」にこだわる風潮があります。ただ、僕は、たとえば0点のテストを子どもがとったとしたら、それは子どもの責任ではなく、学校の責任だと思います。学校が子どもに「できない」思いをさせて帰してしまっては、いけません。逆に、「できる」という思いをさせて帰さなければなりません。それが、優先事項です。「テストはみんなに同じやり方でやらせて、同一基準で評価したい」というのは、教師の都合です。それよりも、子どもの事情のほうが、はるかに重要で、優先されるべきだと思っています。こういった「この子に必要な特別扱い」のことを、近年は「合理的配慮」というようになりました。「合理的配慮」とは、みんなと同じことをすることが難しい場合に、その子・その人に合った個別の変更や調整をおこなうことを指します。「合理的配慮」は、しないことが差別なのであって、それをすることで、その子はようやく他の子と同じように同じ場で学習することができるのです。今回の僕のやり方(正解の漢字の半分を書いて見せて机上に置いてやるやり方)が適切だったかどうかは、検証しなければなりません。しかし、どういったやり方であれ、「何かしなければこの子の学習が保障できない」ということが分かっているのであれば、「何もしない」という放置は、子どもを苦しめるだけです。必要なことがはっきりしなかったとしても、とりあえず思いついた支援をやってみて、そしてその支援について後から検証していき、よりよい支援を考えていけばいいのです。僕はそう思っています。あなたは、どう思われますか?▼「通常学級内での通級担当による支援」 (2023/06/28の日記)▼「広島県の小学5年生の合理的配慮への道!」 (2021/10/17の日記)▼小学校市販テストの合理的配慮等(正進社のパンフレットより) (2019/05/19の日記)▼業者テストの「ルビうち」が標準対応に! (2017/06/10の日記)
2023.12.05
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昨日は午前中は音楽会、午後は自分の研究授業でした。音楽会ライブ中継では想定外のことがありとても焦ってエネルギーを消耗していました。午後の研究授業は想定通り子どもたちが班で楽しそうに学び合っている姿を見ることができ、ほっとしています。研究授業なので授業開始のタイミングからすでに何人かの先生が来られていました。そこで当初からのもくろみどおり、参観の先生方にいきなり「今からこの先生方が、漢字の意味を動作で見せてくださいます」と無茶ぶりをし、「美化」という教科書に書いてある言葉を、動作で示してもらいました。研究授業だろうがなんだろうが、教室に来られた人には、容赦なく「教材」になってもらいます。子どもたちの学習活動を見せてもらうんだから、見に来る人もそれ相応の対価を払ってもらわなくちゃいけません。先生方はちゃんとやってくれました。人によって「美化」の解釈が違うことが、動作を見るだけでわかっておもしろかったです。その後は僕と子どもたちでほかの漢字熟語の動作化をひととおりしました。みんなノリノリでやっていましたメインは、班で相談しながら書いていく「リレー作文」。班学習が始まって早々、普段漢字を書こうとしない子が、他の子が書いているのを見て、自分から自分のノートに、友達が書いたのと同じ漢字を書こうとしていました。その子のそんなシーンは初めて見ましたので、とっても感動しました!!該当クラスの中でも特に「この子のことを考えて授業を計画した」という子どもは、過去最高に楽しそうな様子でした。それに加えて、ほかの子もとっても楽しそうでした。今までの僕が目指していた授業にはなっていたと思うのですが、授業が終わった今、「もっと自分になにかできることがあったのでは」という気もしています。また3学期に同じクラスで授業します。(;^ω^)▼通級指導教室の担当教員が、通常の学級で研究授業をおこなうよ!(2023/11/26の日記)
2023.11.30
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昨日、映画「夢みる校長先生」について書きましたが、その後Facebookで「夢みる小学校2023」ができたことを知り、感動しています。今まで知らなかったのですが、クラウドファンディングで支援を受け付けており、そちらは12月末日まで。翌月の1月には東京で初めての上映会が予定されているそうです。「夢みる小学校2023」は、「夢みる小学校」に登場した小学生のその後3年間を追って追加撮影した内容を加えたものだそうです。監督が書かれていた説明を転載させていただきます。映画に登場した小学校6年生は 今年 中学3年生になり卒業しました「自由に育った小学生たち」の3年後を追加撮影、30分間を新たに再編集しました”あの子たちは大丈夫か❓ 懐疑派のみなさん” に成長した ”夢みる中学生たち” のこの姿を観てほしい↓↓https://vimeo.com/manage/videos/886376905(2023/11/27付 オオタ・ヴィン監督によるFacebookへのご投稿より)上のリンク先で予告編を観ることができます。クラウドファンディングの受付サイトは、こちら。https://www.dreaming-school.com/crowdfunding.html「夢みる小学校」も「夢みる校長先生」も大変よかったので、支援させていただこうかと思っています。初上映会の情報は、こちら。【 夢みる小学校 2023 完結編 SP 初上映会】2024年1月13日(土)13時〜 @東京ウィメンズプラザ「夢みる小学校」自主上映主催者や、クラファン支援者無料。詳細・申込み https://peatix.com/event/3769324「夢みる小学校」自主上映会開催申し込みはこちら。https://www.dreaming-school.com/independent/▼映画「夢みる校長先生」を、日曜日に観てきました!▼「どんな子どもも、それは1つの個性であり、正解である」 ~映画「夢みる小学校」
2023.11.29
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観たかった映画を、日曜日に観てきました。「夢みる校長先生」▼公式サイト「夢みる小学校」のときと同じように、家族4人全員で観てきました。(↑過去記事にリンク)「校長先生」がタイトルになっていますが、もちろん子どもたちが主役です。映画の中の子どもたちは、みんなイキイキと輝いていました。大人は、子どもたちのやりたいことを邪魔しない、やることを代行しないことが大事だな、と思いました。たとえば映画の中で子どもたちが自分たちのやりたいことができるようにお店に電話で交渉するシーンがありましたが、こういうことって、先生が代わりにやってしまいがち。子どもたちが自分で電話した方が、よっぽどいい、と思いました。映画の後でトークショーがあり、「学校ではないけれど、映画に出てきたことと同じようなことをしている」ということで、不登校の子が集まってやりたいことをやっている取組が紹介されました。鑑賞した映画館がある地域でされているデモクラティックスクールの取組です。合わせて、「トーキョーコーヒー」という全国的な取組も紹介されました。トーキョーもコーヒーも関係なくて、「登校拒否」の文字を並び替えただけだそうです。遊び心やゆるさが感じられて、好感を持ちました。映画とトークショーを通して、「子どもがわざわざ遠いところまで通ってくる。 楽しいだけで」という言葉が、非常に印象に残りました。近くにあれば一番いいけど、まずは、エリアに1つぐらい、そういうところがあるといいな。公立の学校が全国的に変わっていくことが理想だけれど、まずは「学校」に限らず、子どもファーストな取組をしているところがどんどん出てきて、そういった取組が広がっていけばいいと思います。↓「夢みる小学校」「夢みる校長先生」の映画監督による著書。『子どもはミライだ! 子どもが輝く発酵の世界』 [ オオタヴィン ]【電子書籍版】[ オオタヴィン ]▼「どんな子どもも、それは1つの個性であり、正解である」 ~映画「夢みる小学校」(2022年12月18日の日記)
2023.11.28
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いよいよ明日は音楽会です。今日、お昼の放送で「音楽会の曲」を放送委員の子が流していました。「手のひらを太陽に」の最初期のバージョンであるボニージャックスがNHK「みんなのうた」で歌ったバージョンが流れたら、あるクラスでは僕が歌っていると勘違いされたみたいです。#こんにちは、ボニージャックスです。#プロの歌声と勘違いされるなんて、うれしい。今日はオープンスクールだったので、自分の授業を保護者にみていただく時間もありましたが、それ以外にも駐車場係をしたり、音楽会練習に行ってちょっとだけ口出ししたり、大太鼓を運んだりしていました。ほかにも、1年生と給食を食べたり、明日のライブ中継の準備をしたり、自分の研究授業の指導案を先生方の机上に配って回ったり、学校便りのゲラを先生方の机上に配って回ったりしました。#マルチタスクがずいぶん身につきました。学校というところは、ずいぶんいろんな仕事があるところです。それを負担に感じる方も、いるかもしれません。ただ、これは、よいことでもあります。「音楽」や「体育」が仕事に含まれる仕事というのは、そうそうありません。学校の先生の仕事の中には、いろんな職種の方がする仕事が混ざり合っています。言ってみれば、いろんなフルーツの味が楽しめるミックスジュースみたいなものです。要は、楽しめるかどうかです。勤務の適正化を進めて、教員の仕事を減らすことは、必要です。喫緊の課題だと思います。ただ、一方で教員の意識として、いろんなことを「楽しめるかどうか」も重要です。学校というところは、どう転んだって、いろんなことがあるところなのです。本質的には、「いろいろあることは 楽しいことなんだ」と思います。そういった経験ができることは、貴重なことです。多様性尊重の世の中だと言われます。それは、多様な人を尊重するということだけでなく、多様な物事を尊重するということとも、セットなのではないでしょうか。いろいろあることを 楽しもう♪「いろいろあって、大変」から、「いろいろあって、おもしろい」への発想の転換をしよう!(この画像は、AIがこのブログ記事をもとに作ってくれました。)
2023.11.22
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Facebookで案内をいただきました。無料のオンラインセミナーです。なかなか興味深い内容です。ご関心のある方は、ぜひ申し込んでみてください。以下、開催要項からの転載です。DO-IT Japan 2023 一般公開シンポジウム中高のインクルーシブをテーマに、省庁から取り組みの話題提供、スカラーの経験談より、私たちがこれから何を行うべきか考える機会にしたいと思います。12月9日(土) 13時から16時Zoomによるウェビナー配信(無料)(公式申し込みサイトより抜粋)情報元および申し込みは、以下のサイトです。▼DO-IT Japan 2023 一般公開シンポジウム小学校よりも、中学校・高校のインクルーシブ教育のほうが進みにくいといった印象があります。ほんとのところはどうなのか、ぜひお話をお聞きしてみたいです。文部科学省からの話題提供もあるということで、どんな話をされるのか、楽しみです。「DO-IT Japan」の第1期生と言えば、小林春彦さんです。6年前のブログ記事で取り上げさせていただきました。あれから6年、「DO-IT Japan」はどうなっているのか、そちらも気になります。▼「DO-IT Japan」公式サイト▼業者テストの「ルビうち」が標準対応に! (2017/06/10の日記)▼小林春彦『18歳のビッグバン~見えない障害を抱えて生きるということ~』 (2017/06/11の日記)
2023.11.08
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「インクルーシブ教育」シリーズでブログ記事を続けます。録画していた「インクルーシブ教育」に関するテレビ番組を視聴しました。#本放送は10/27にありました。(該当の放送のサムネイル画像のタイトル部分のみ引用。 引用元には画像からリンクを貼っています。)これが、めちゃくちゃ、よかったです!これひとつに、大切なことがギュギュッと凝縮されている気がしました。今まで僕が長い時間をかけて学んできたり気づかされたりしてきたことが、一気にここで語られていました。「これは絶対ブログで紹介しなきゃ!」と思いました。「障害のある子」だけをことさらに取り上げるのではなく、通常学級で一緒に学び過ごしている「周りの子」がたくさん映っている番組です。学校での様子が撮影されているだけでなく、NHKのスタジオに「お友達」がたくさん来てくれて、それぞれの考えを発言されています。それが、ほんとに、名言・金言の数々!一緒に過ごすからこそ分かってきたこと、気づいてきたことがたくさんあるんだなあ、ということがうかがえました。ほんとに、みなさんにぜひ観ていただきたい番組です。といっても、ネット上では現在公開されていないので、映像を今から観ていただくのは難しいようです。番組内容の紹介記事は見られるので、とりあえずそちらをご覧下さい。▼シリーズ インクルーシブ教育 (2)「ともに学ぶ」ことの意味 (NHK「バリバラ」サイト内「バリバラタイムズ」より)再放送があったら、ぜったい、観てくださいね。※今回の番組は、以前にブログでご紹介した番組の第2弾です。 ↓第1弾の紹介記事は、こちら。▼NHK「バリバラ」で「インクルーシブ教育」特集! (2023/10/23の日記)
2023.11.07
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昨日は、インクルーシブ教育関係の動画の紹介をさせていただきました。そのつながりで、最近読んだ特別支援教育関係の雑誌の中の、「インクルーシブ教育」に関する印象的な記事を、追加でご紹介します。11月2日のブログ記事で紹介した、次の雑誌に載っていたものです。『LD ADHD&ASD』2023年10月号(明治図書出版、990円)この雑誌にはいろいろな著名な先生がたが寄稿されているのですが、今回特に取り上げたいのは、坂井聡先生の記事です。「ほっこり日記」というコーナーの、くだけた感じでラクに読めるように書かれた記事なのですが、それだけに、僕はすごく身近に感じられた内容でした。タイトルは、「国連からの勧告どうするの」。勧告については、研究者の方々による考察など、いろいろな記事や主張がすでにありますが、坂井聡先生の記事は、「ちょっとちょっと、サトシさん、知っていましたか?」で始まる、なんともユーモラスな、雑談的な話し言葉での記事でした。その中の、特に印象的だった一節が、こちらです。「サトシさんのいる学校は、主流と言われている人たちだけを対象とした学校になっていないか」と問うこと(同誌p60より)インクルーシブ教育を考えるうえで、とてもとっかかりになる、シンプルな問いかけだと思いました。こちらの記事を読んで、自分の学校はどうかな?と考えてみるのは、いかがでしょう?▼7/22の豊中のフルインクルーシブ教育に関する学習会を視聴して (2023/07/25の日記)▼「インクルーシブ教育」がなぜ必要なのか~『「共に生きる教育」宣言』などから考えるその2 (2023/07/08の日記)▼「教室で学ぶことの本質」とは~『教師をどう生きるか堀裕嗣×石川晋』その1 (2023/05/18の日記)
2023.11.06
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少しずつ見ていたインクルーシブ教育関係の動画を最後まで見終わりました。すごく勉強になりました。学習会に事前に申し込んでいなかった人も見られるように、開催後に無料で一般公開してもらっているのは、とてもありがたいです!というわけで、シェアします。↓「分離教育をやめたイタリアのインクルーシブ教育の挑戦」(YouTube動画)動画の中では、イタリアがフルインクルーシブ教育を可能にしている仕組みが語られます。また、その後の質疑応答を含めたいろいろなやりとりも、必見です。僕は、後半のやり取りの中で「うちの子は支援学級だが、イタリアの通常学級は日本の支援学級に似ていると思った」というご発言があったのが、新しい視点だな、と思いました。そうすると、すでに日本にもインクルーシブ教育を可能にする芽が、支援学級や支援学校の中にも、芽吹いていることになります。「イタリアと違って日本はできていない」と悲観するのではなく、「日本でもできそうかな?」と少し可能性を感じられる内容だったと感じました。ご関心のある方は、ぜひご覧ください。もともとは「超福祉の学校@SHIBUYA 2023」という、イベントの中のひとつとして開催されたものです。▼「超福祉の学校」とはこのイベント、文部科学省が共催団体として名を連ねています。こういう「共生社会の実現を本気で目指すイベント」を文科省が一緒にやっていることには、希望が持ています。文科省も、本気で日本をインクルーシブ教育に変えていく気があるのかな?この動画を教えていただいた大内紀彦先生、ありがとうございました。大内先生が動画の最後で言われていた「教育とは何のためにあるのか、学校とは何の場なのかをもう一度考えてほしい。 一緒に生きていくための準備をする場所なんだ。」という言葉が、とても印象的でした。▼2月12日「イタリアのフルインクルーシブ教育」無料オンラインセミナー (2023/01/29の日記)▼「大切なことは、なにか」 ~『イタリアのフルインクルーシブ教育』などから (2023/08/13の日記)▼イタリアのフルインクルーシブ教育について、お話を聞きました! (2022/08/23の日記)
2023.11.05
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を非常に苦手にしている子がいるクラスがあります。そのクラスで、1か月に1回のペースで、「漢字」をテーマにした授業を、引き受けています。といっても、9月からなので、今日がまだ2回目でした。通級担当は通級でみている児童のクラスに積極的に関与して、普段の授業におけるその子の困り感の改善に寄与するべきだと思っています。その一環としての、通級担当による、クラス全体の授業です。そういう機会をもたせてもらえていることに、感謝です。1回目の授業の詳細は、以前このブログに書いています。未読の方は、ぜひ読んでみてください。#そしてまた今回の記事に戻ってきてください。↓▼【実践】漢字の読み書きが困難な子どもがみんなと共に学び合えるようにする提案授業(小4「漢字の広場」の授業) ~僕は、こう考えたんだ。~▼【実践】漢字の読み書きが困難な子どもがみんなと共に学び合う提案授業(小4「漢字の広場」の授業)その2 ~こんな授業になりました。~では、2回目の授業の実践レポートです。今日やったばかりの、ほやほやです。基本的には今回も第1回と同じように計画しました。ただ、今回は電子黒板上に出てくるお題の漢字を読んで、動作をつけるというのを、導入でやりました。漢字だけだと興味を示さない子でも、動作をつけると、楽しそうにやっていました。たとえば「鼻血」という熟語を読んで、「鼻血が出たので鼻をおさえているポーズ」をみんなでとったりしました。ただ、こういった漢字熟語の動作化を導入に追加したことや、パワーポイントの投影で手間取ったことから、授業の最後に予定していた、各班の発表時間は、足りなくなりました。時間の見通しという点では、前回より甘かったと思います。内容的には、前回は物語づくりでしたが、今回はいくつかの漢字熟語から言葉を選んで「説明」をする文を作るといった内容でした。リレー作文にしにくいお題だったので、子どもたちの様子を見ながら、「お話がつながっていなくてもいいよ」と言っていました。ただ、発表の時間に代表で発表してくれた2つの班は、どちらも班員の考えた文が、見事につながっていました。各自が別々に考えたのではなく、班の人同士でしっかりと相談して考えたことがうかがえました。特に、最初に発表した班は、最初と最後の文を同じ意味にするという、見事な構成でした。はじめと同じような意味の文に最後にまた帰ってくるという構成です。一連の話が終わったという感じが、非常によく出ていました。中身もよく考えられていて、プロの座付き脚本家が書いたのかと思うような、見事な構成の「寸劇台本」ができていました。そうです。ただ単に「漢字を使った文づくり」をしたというだけでなく、自分たちが演技することまで考えて作られており、実際に、文を読み上げた後、班員がそれぞれの役になって、演技をしてくれたのです。発表の前に、各役割の人たちのポジションどりから始まり、4人がそれぞれ所定の位置につくところから始まったので、びっくりしました。発表時の動作化については、「今回は別に動作をつけなくてもいいよ」と言っておいたのですが、よほど前回の動作化発表会が楽しかったのか、一気にクオリティアップした本気の寸劇が披露されました。短い時間で脚本と演技を考え出した子どもたちの力に、驚かされました。前回・今回ともに、とても楽しい授業になりました。漢字が苦手な数名の子どもたちが特に意欲的に参加していたのが印象的でした。来月もまた機会をいただいているので、子どもたちが自由に考えて思いっきり自分たちの力を発揮できるように、準備したいと思います。▼LD通級担当者が通常学級に対して行う「漢字の読み書き」の苦手さへのアプローチ (2023/09/13の日記)
2023.10.24
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(この画像はAIが「インクルーシブ教育」で描いてきた絵を加工したものです。)日曜日にバリバラを観ました。「インクルーシブ教育」の特集回です。放送は金曜の夜だったのですが、録画を忘れてたので、一時はあきらめていました。でも、放送から1週間以内だったら、NHKプラスで見逃し配信がされていることが分かり、無事観ることができました。▼バリバラ▽インクルーシブ教育(1)「ともに学ぶ」ために大切なこと (NHKプラス。視聴は10/27(金) 午後10:59 まで) ※NHKプラスは、受信料を払っている人なら登録すれば無料で観られます。支援学級在籍の子もすべての時間、通常学級の中でみんなと一緒に学び、過ごす、豊中の小学校。僕が今の地域に異動してくる前の勤務市もそういう学校だったので、「共に学ぶ風景」を「僕も、まさにこういう学校にいたなー」となつかしく視聴しました。ほんとに、18年前にタイムスリップしたかのように、僕が勤務していた学校での運動会のシーンが目の前のテレビで再現されていました。#テレビではなくほんとはパソコンで再生してたけど。番組の中で、キーワードとして「不確実性」という言葉が出てきました。ほんとにそうだな、と思います。この「不確実性」が、一緒にできない不安や心配の理由として使われて分離教育につながることもあれば、その「不確実性」を許容する集団・学校・社会をつくることで、インクルーシブな空間が生まれることもあります。僕は、どうせなら、不確実性を楽しみたい、と思います。「不確実性」を、分離の理由にするのではなく、むしろ積極的に受け入れて、今、この時この場所でしか生まれない経験を大事にしたいと、あらためて思いました。出演されていたお子さんが、「過去の自分に「オイオイ」と言ってやりたい」と言われていたのも、印象に残りました。仲間と一緒に乗り越えた経験が、確実に彼を大きく成長させていると感じました。#「過去の自分」という言葉、僕が昔作った歌にも出てきたので、よけいに印象に残りました。#ついでにその歌をネットで聴けるようにしました。→♪「バリバラ」の「インクルーシブ教育」特集は、まだ続きます。ぜひ、多くの方に観ていただきたい!「共に生き、共に学ぶ」学校の姿が、ここにあります。「バリバラ」の放送は、金曜22:30からです。録画して、一緒に観ましょう!▼NHK「バリバラ」公式サイトところで、今回「バリバラ」で久しぶりにレモンさんを見ました。レモンさんの本、大好きでして、そのページのコピーをずっとカバンに入れて持ち歩いています。ご活躍のようで、何よりです。『レモンさんのPTA爆談』(山本 シュウ)▼3/26(日) オンライン無料「東京大学・インクルーシブ教育定例研究会」豊中のフルインクルーシブ小学校! (2023/03/13の日記) ▼「カナダの学校に学ぶインクルーシブ教育」(8/11オンライン学習会の案内を含む) (2023/08/07の日記) ▼フィンランドのインクルーシブ教育 ~矢田明恵「フィンランドにおける学習困難への対応」 (2023/08/15の日記)▼インクルーシブ教育について考えさせられる新聞連載「眠りの森のじきしん」 (2020/05/17の日記)
2023.10.23
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昨日の続きです。『6カ国転校生』という本に書かれた、諸外国の学校での様子を参照していきます。『6カ国転校生 ナージャの発見』(キリーロバ・ナージャ、集英社インターナショナル、2022、税別2200円)今回は、さらに思いっきり、学習面の評価に関するところに、切り込んでいきます。まず、p58に、いろいろな国での数字の書き方が書かれています。同じように見えても、微妙に、数字の書き方が違います。日本では、他国の数字の書き方が認められず、バツになったそうです。このあたりにも、日本の「みんなと同じでないと、ダメ!」という画一主義的・形式主義的なところがうかがえます。ブログだと数字の書き方の違いを説明しづらいので、ここについては、ぜひ本書を読んで確認してもらえればと思います。この第1章の「数字」の項は、読み物としても大変おもしろく、また、考えさせられるものです。ここのところだけを教材として使って、子どもたちと一緒にこれをテキストに「数字の書き方」について考えてみるのも、おもしろいかもしれません。おっと、なんと検索していたら本書の元になったと思われるWeb上の記事が見つかりました。せっかくなので、リンクをはっておきます。「数字」に関するエピソードはぜひ読んでほしかったので、ちょうどよかったです。▼日本の学校では、数字の書き方も個性より形だった。 (キリーロバ・ナージャ、「電通報」2016/5/19記事)本書では「数字」に続いて、「テスト」についての各国の違いも、詳細にリポートされています。「テストはこうでないといけない」という思い込みも、いろいろな国のテストのやり方を知ることで、解消されていくかもしれません。1つだけ、アメリカのテストの例だけ、すごく印象に残って「いいな」と思えたので、引用させていただきます。・出し方もさりげないし、用紙も構えた感じではなくテスト感をあまり感じない。 何度もやり直せたし、「できない」「わからない」という感覚もあまりなかった。 みんな最後はできる、正解にたどり着ける。 なんだかとても不思議だった。 「これはテストだよね?」と毎回疑ってしまうほどだ。(p68より)具体的にどんなテストなのか、ぜひ見てみたいと思いました。日本のテストの問題点として僕がなんとかしたいとおもっているのは、「できない」「わからない」と感じさせてしまう点です。それをどうやって解消しているのか?好奇心はつきません。ちなみに、「テスト」の次には「満点」に関して書かれています。満点も、日本では「百点満点」をめざしてテストを受けるけれど、これも、国によってちがうんですねー。ほんとに、日本だけしか知らないなんて、井の中の蛙もいいとこだ~。「満点」の項の最後に著者は「採点システムを柔軟に変えていくことで、どんどん子どもたちのやる気を引き出していけるかもしれない。」(p73)と書かれています。本当に重要なヒントをいただいた気分です。世界各国のいろいろなエッセンスを取り入れて、子どもたちの自信ややる気につなげていけるといいですね。本書の内容は大きく2つの章に分かれています。ここまで見てきたところは、すべて第1章「ナージャの6カ国転校ツアー」の内容。次回は、第1章の最後のほうで出てくる「夏休みは?」というテーマについて、参照したいと思います。(P99以降)これもまた、「休み」について、非常に考えさせられる内容でした。興味がある方は、また次回も、見に来てくださいね。第3回につづく!▼工藤勇一『学校の「当たり前」をやめた。』 (2021/07/06の日記) ▼わり算の筆算で手書き数字が雑で読み違えてしまう子のためのエクセル筆算シート (2021/12/22の日記) ▼細貝駿『小学校教師を辞めて、世界の学校を回ってみた』 (2021/08/16の日記)
2023.10.11
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少し古いブックレットですが、推薦されていたので読んでみました。『学力を問い直す 学びのカリキュラムへ 』(岩波ブックレット 548)(佐藤 学、2001、岩波書店、税別480円)前半は少し僕の考えとは違うな、というものもあったのですが、後半になるにつれ、古くて新しい主張に、ひきこまれました。読んでよかったです。少し前に読んだ本に書いてあった「学力とは幻想である」という主張が、22年前のこの本ですでにされていたことに驚きました。佐藤学さんは、学力を「貨幣」に喩えられていました。・学力が「貨幣」であることは、いずれも観念によって抽象化された想像の産物であり、経済社会の状況に応じて、実質以上の価値を持つこともあれば、実質を伴わないと貨幣が紙くず同然になるのと同様に、無価値になってしまう危険があることを意味しています。(p30より)本書では、「基礎学力の徹底」は、すでにアメリカで失敗に終わっている、ということも報告されています。アメリカでそういった運動があったとは、知りませんでした。1980年代初頭のことだそうです。アメリカなので、英語で言いますと、「back to basics(基礎に帰れ)」という運動だったそうです。運動の失敗の要因として、佐藤学さんは「基礎的な知識や技能であればあるほど、反復練習のドリルによる習得ではなく、経験を通して機能的に習得されることを認識していなかった」(p42)などの要因を挙げておられます。また、本書第5章には、習熟度別指導や少人数指導について、書かれています。その冒頭で、次のようなことがはっきりと書かれてあり、これにも、驚きました。・1960年代から1970年代のイギリスの小学校における「能力別編成」の廃止の歴史が示すように、「習熟度別指導」は公立学校が立脚すべき民主主義に反する差別の教育(p49より)昨年、国連が日本の「特別支援教育」について、「能力で分けるのは差別の教育」と批判したのは記憶に新しいところですが、すでに50年以上前に、「能力で分ける」ことの是非に決着がついていたとは、知りませんでした。国連の勧告では障害の「社会モデル」を1歩進めた「人権モデル」がもとになっています。「人権モデル」は最新の考え方なのかと思っていましたが、知らなかったのは僕だけで、全然最新の考え方でもなんでもなかったみたいです。日本ではまだまだ「能力で分ける教育」を志向する風潮がありますが、世界ではとっくに差別的な教育として廃止されていたということを知りました。佐藤学さんの本書では「世界の学校ではすでに20年前に克服されています。」(p51)と書かれています。本書は22年前のものですから、現在の時点から数えれば「世界の学校ではすでに42年前に克服されている」ということになります。国連の勧告はこういった状況をふまえてのものなのですね。日本だけを見ていると、「障害があって通常学級の勉強について来れないものは別の教室で学ぶ」とか、「能力に応じたクラスで学ぶ」といったことがいかにも正当化されて聞こえるのですが、当事者の人権を起点にして考えると、「能力差を包摂した場」ですべての人が尊重されることが大切なのだと思いました。なお、「能力別編成」については、それが「学力」を高めるために無意味であるとまでは、本書では書かれていません。もしかすると効果としてはそれなりにあるのかもしれません。しかし、諸外国では「たとえ効果があったとしても、差別的なので、やらない」ということなのだと思います。それがいかに差別的かは、具体的にイメージすると、分かってきます。1組と2組があり、1組は学力が優秀な者で構成され、2組は学力に劣る者で構成されているとします。そうすると、1組の人は、2組をばかにするようになりませんか?2組の人は、劣等意識を植え付けられませんか?本書でも書かれていますが、いわゆる昔ながらの「勉強」というものは、そんなに大事なものではありません。古い「勉強」観を脱して、未来の教育を論じる必要性が、今こそ高まっています。(画像提供:写真AC)▼「能力という名の信仰」 ~孫泰蔵『冒険の書 AI時代のアンラーニング』その5 (2023/08/21の日記)
2023.10.08
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昨日までの3連休。僕の所属している「障害児を普通学校へ・全国連絡会」の全国交流集会がありました。今年は広島での開催でした。遠隔中継をしていただいたので、自宅からオンラインで参加しました。僕は大学が広島だったので、広島弁が懐かしかったです。「たちまち」とか、久しぶりに聞きました!#標準語での使い方とは違う使い方をします。今回もいっぱい勉強になった2日間でした!1日目のパネルディスカッションの最後に、フロアの方が、次の言葉を言われました。「『できる』ということを基準にしないところが、 すべての人にとって、居心地がいいところ」と。このことは、教育現場の者として、もっと考えていかなあかんのちゃうかなあ、と思いました。学校現場が、「できる」ことを目指すこと一辺倒になって、息苦しい場、一部の子どもたちにとって居心地が悪い場所になったらあかんのちゃうかな、という思いを新たにしました。2日目の分科会は「小・中学校」の分科会に参加しました。そこで、僕も以前連絡を取らせていただいたことがある片桐さんの名前が何度か出ました。ちょうど片桐さんは、その分科会の運営担当者として、その場におられ、何度か発言されました。片桐さんの本、ずいぶん前に読んで、たくさん学びと気づきをいただいたなあ、と思い出しました。記録をたどると、なんと12年も前でした。そういえば今所属しているこの会を知ったのも、片桐さんの本がきっかけでした。『障害があるからこそ普通学級がいい 「障害」児を普通学級で受け入れてきた一教師の記録』(片桐健司、千書房、2009)いい機会なので、本書に関わる過去の一連の全投稿へのリンクを下にまとめました。「インクルーシブ教育」への関心が高まってきた今だからこそ、読んでほしいです。ブログでは僕のやってきたことや思ってきたことを絡めて、全6回にわたって本の中の内容を引用しつつ、読書メモを書いていました。本書を読む入り口として、インクルーシブ教育を考える入り口として、ぜひ、読んでいただけたらと思います。▼障害児を普通学校へ・全国連絡会~「校区の普通学級には誰でも入れます」 (2011/10/04の日記)▼『障害があるからこそ普通学級がいい』1 (2011/10/05の日記)▼『障害があるからこそ普通学級がいい』2~まずは、いっしょにやってみることから始まる。 (2011/10/09の日記)▼『障害があるからこそ普通学級がいい』3~ 「専門性」よりもその子を受け入れる姿勢が、その子を変えていく。 (2011/10/10の日記)▼『障害があるからこそ普通学級がいい』4~「我々の予期しないところに 彼の可能性はあった。」 (2011/10/19の日記)▼『障害があるからこそ普通学級がいい』5~声をかけることで、関係がつながっていく (2011/10/24の日記)▼『障害があるからこそ普通学級がいい』6~「いろいろな子たちとの出会いから」 (2011/10/28の日記)
2023.09.19
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ずっと書きたかった、9月13日に僕がした授業について、書きます。13日のブログに、ちょこっとだけ書いていた授業です。漢字の読み書きが非常に苦手な子どもが、いきいきと参加する小4国語「漢字の広場」の授業です。「漢字の広場」というのは、光村図書の国語教科書にある小単元です。ある小学校での授業実践が写真付きでネット上で公開されていました。どんな教材かを知ってもらうため、そちらへのリンクをまず貼っておきます。僕が授業したページと同じページの授業です。 ↓▼4年生 国語「漢字の広場」 (栃木県大田原市立両郷中央小学校ホームページ内)上のサイトを見ていただければわかるように、「漢字」の学習をする授業になります。#「漢字の広場」だから、当たり前かな。正確には、前年度に習った漢字の復習ですね。「前年度に習った漢字を使って、文を考えて、書く」というのが、想定される学習内容になります。ただ、その想定の通り普通に授業をやったら、僕が通級でみている子は、何も書かないまま、授業が終わってしまいます。一般的には、普通の4年生は3年生の漢字は当然読み書きできると思われているのかもしれませんが、僕の想定している子や、その子に似たところがある子は、前年度に習った漢字の読み書きが基本的にできません。「できる」前提で授業を計画されたら、そういう子はおいてけぼりです。#やめてー。置いてかないで~。なので、僕は、「漢字」がメインでない「漢字の広場」の授業をしないと、その子が実質的にほとんど参加できない、と考えていました。そこで、「漢字」がメインでない「漢字の広場」の授業というのを考えました。そして、担任にお願いして、「僕に代わりにクラス全体で授業をさせてくれ」と頼みました。#「漢字の広場」なのに「漢字」を最重要視しない。#そういうチャレンジをするのが、大好きです。#へそまがりです。#インクルーシブな授業を追究するため、あえて、実験的に、挑戦してみました。ここから、僕が考えたアイデアについて書いていきます。まず、前提として、班での協働学習とします。個人の「一人学び」に任せてしまうと、クラスで数人、書けない子が想定されます。書けない子がいても、周りの子が関わるという時間・環境を保障してやることが必要です。そういうことは、以前該当のクラスで社会科の授業をした時にも、念頭に置いていました。▼支援を要する子どもも一緒に学ぶ小4社会科の授業実践にチャレンジ!今回の授業の場合で具体的に言うと、一人ひとりがそれぞれ漢字を使った文作りをするのではなく、班でひとつの物語を考えさせることにしました。班員による、リレー作文です。そうすることで、書けない子の順番がまわってきてその子が困っていたら、周りの子が一緒に考えて、文を作っていくことができます。また、上のリンク先の、前の社会科の授業でもやったのですが、「動作化」「劇化」が、楽しくするためのキーになります。従来の国語授業は、子どもたち全員が言葉の理解や読み書きができる前提に立ちすぎていると思っています。#そんな子ばかりじゃないんだってば!#いろんな子がいます。#学びにくい子のことも、考えて~具体的には、班のみんながリレー作文で考えた物語に、動作をつけさせます。あとで、考えた物語を発表する時に、実演させます。これだけで、かなり楽しくなります。子どもたちの目が離せない、楽しい発表になります。#実際、そうなりました。#楽しすぎて、たまらなかったです。#演技派が、いっぱいいました。授業実施前日に、石川晋さん(NPO法人授業づくりネットワーク理事長)に、「こんな授業を考えているんですけど、どうでしょう?」と、プランを聞いてもらっていました。お話しする中で、僕の頭の中のプランは、さらにくっきりはっきりしてきました。#石川晋さんとのオンライン対話を月1回やっています。#漠然と考えていたことがくっきりはっきりするすばらしい時間になっています。やっぱり対話しながら整理していくって、大事です!班のなかでの「対話」と「動作化」で、各自が創作した物語文を劇化する授業にすることが、この時点で決定しましたでは、ここからは具体的に、どんな授業だったかを、前日までの準備と、当日の実際に分けて、レポート風にお伝えします。<事前準備 3点>●使用する漢字のカードを作成(実際は使用せず) 「この漢字を使って書く」というのをカードにして班ごとにくじ引きみたいにして引かせることを考えていました。 ただ、カードの準備は、授業の実施が急遽1日早まったので、結局準備できませんでした。#次回は、カードも用意するかもしれません。●ワークシートの作成 班ごとに1枚ワークシートを配るということを考えていたので、 「こんなワークシートでさせようと思いますが、いいですか?」 と、2日前に担任に渡していました。↓こんなのです。担任からは、「とても、いいですね!」と言ってもらいました。使い方としては、(1)班で相談し、どちらの物語の6コマの絵に沿った物語を作るかを選択します。(教科書には、おむすびころりんと、浦島太郎の物語の絵が時系列で並んでいます。)(2)上に並んでいる数字のところに、文を考える人の名前を書いていきます。 (リレー作文なので)(3)1の数字の下には物語の1つめの絵に合う文を書き、2の数字の下には次の人が2つめの絵に合う文を書く・・・というふうに、リレー形式で、続けていきます。(4)4人班を想定しているので、5番目と6番目のところは、それぞれ、1番と2番の人がもう1回入ります。#5~6人の班だと手持ち無沙汰な人が現れるかもしれないので、4人班としました。#2巡目に突入します。なお、本番では漢字が全く書けない子がいることを想定し、「その順番の子は、文を考えるのであって、書くのは他の人が書いてもよい」と説明をしました。#書けない子にとっては、「他の子と一緒に文を考える」のが、めあて。#子どもによっては、漢字を書くことは必ずしも重要ではない。●Padletで情報共有の場所を作成し、リンクを取得し、クラスのチームズに貼る ※Padletについては、9月12日のブログに書きました。 Padletをご存じない方は、下の過去記事を先にお読み下さい。 ▼【ICT活用授業】Padletで共有! 各班が考えた文は、文ごとにPadletの電子掲示板上にアップしていき、 「ほかの班の人は、こんな文を考えている!」 というのが、途中で随時みんなから確認できるように考えました。 そうすることで、文を考えるのに困った場合に、それを参考にして考えることができる、と思いました。 #一人一台端末の有効な活用法として言われている「途中参照」です。 (勤務市ではそういう使い方が一部で奨励されています。) #全部できあがる前の、途中の段階で、各自が参照し合えます。 この授業のために、ずいぶん前に、Padletで次のような場所を作っていました。 ↓実は、Padletでは、上の画面の形式とちがう投稿形式も、選べます。「シェルフ型」というのが、今回の授業に合っているかも、と直前に気づきました。迷いに迷った末、今回の授業は、シェルフ型を採用することにしました。↓こんなやつです。上の画像は、実際に授業で使ったPadletの画像です。なので、画像内に、子どもたちが投稿した文がすでに入っています。ただ、子どもたちが考えた文の著作権は子どもたちにあるので、ここでは読めないように加工しています。#めっちゃおもろいので、ほんとは読んでほしかった。#該当範囲を範囲選択してサイズ縮小してからもとのサイズに戻して、簡易的にぼかしています。「シェルフ型」は、「1」の数字の下に「1」のグループの投稿をし、「2」の数字の下に「2」のグループの投稿ができるといった使い方ができるのが、特徴です。各数字の下にある「+」ボタンを押せば、そのグループに投稿できるのです。#自分で判断して、グループに分けて投稿できる。今回の「漢字の広場」は、「6つの文を班で順につくる」という課題だったので、「1」から順番に、各班から投稿してもらいました。タブレットは、班に1人だけ取りに行かせ、班に1台としました。#このクラスの子は、日頃タイピングゲームに興じているので、タイピングが速い子が多いです。#Padletを使わせるのは初めてでしたが、ばっちり、投稿できていました!実は、計画段階では僕が各班の進捗状況を写真に撮って、それを随時アップしようかと思っていましたが、そんなことをしなくても子どもたちで途中状況をスムーズにアップしていけていたので、「案ずるより産むがやすし」だな、と思いました。#おかげで僕のすることが減って、ラクになりました。(笑)おっと、すでにめっちゃ長く書いてしまいました。すでに当日の様子も混ぜて書いてしまっていますが、当日の授業の詳細レポートは、また明日、改めて書きます。明日も休日なので、ぜひ、見に来て下さい!当日の授業は、ほんとに、楽しかったです。ぜひ、記録に残しておきたい授業になりました。それでは、また明日!▼支援を要する子どもも一緒に学ぶ小4社会科の授業実践にチャレンジ! (2023/06/03の日記) ▼「教室で学ぶことの本質」とは ~『教師をどう生きるか 堀裕嗣×石川晋』その1 (2023/05/18の日記) ▼子どもの学習意欲を高める授業の工夫 (2019/08/30の日記) ▼小学1年生国語「くじらぐも」で、子ども同士が伝え合う姿に感動♪ (2021/11/18の日記) ▼【ICT活用授業】Padletで共有! (2023/09/12の日記)
2023.09.17
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今日も見に来て下さって、ありがとうございます。昨日は「つぶやき」レベルの簡単な投稿で済ませてしまいました。情報元へのリンクすらしていませんでした。昨日書いていたオンラインの学習会は、これです。 ↓▼木村英子国会議員にうかがう「なぜインクルーシブ教育でないとだめなのか」 「分ける」という差別と闘い続けてきた中で-東京大学・インクルーシブ教育定例研究会(オンライン)(画像はリンク先より。)この日、僕はとっても眠かったのです。朝3時に目が覚めてしまい、よく寝られなかったのでした。学習会は20時から始まったのですが、20時40分には、「もう布団に入って、寝たい」という状態になってしまい、目がとろんとしてきました。でも、オンラインでの木村さんの話が、どうしても「起きて聞いておきたい」という内容だったのです。なので、休憩中に、秘蔵のコーヒー飲料を飲んで、目を覚ましました。僕は夜にコーヒーを飲むと寝られなくなるので、普段は夜は飲まないようにしています。でも、昨日は特別でした。学習会は、22時22分くらいまで続きました。とても目が離せない、耳が離せない学習会でした。#時間はうろおぼえです。#印象的な数字でそろえてみました。#東大インクル研のオンラインは毎回興味深い内容で話が尽きず、終了予定時刻を大幅に超過して続くのが、もはや恒例になっています。最後まで視聴できて、とてもよかったです。ただ、チャットにも興味深い投稿が参加者の皆さんから多数されていたのですが、それが追い切れず、すべて読み尽くす前に終わってしまったのが残念でした。読めなかったチャット投稿が気になって、寝られませんでした。#コーヒーのせいかもしれません。とにかくぜひシェアしたい内容だったので、今日は昨日の話について詳しく書こうと思います。木村さんは「幼い時から養護学校で育ち、健常者と分けられてきた。 だから、社会に出てからも生きにくい。」ということを、ご自身の体験から語られました。木村さんは生まれてすぐに施設に入れられ、10歳までは施設で過ごされたそうです。「日課が決められ、管理された生活。 親から離されて、リハビリと手術の毎日。 看護師の気分によってその日の明暗が分かれてしまう。 人の顔色を見て、自分の気持ちを外に出せない子ども時代。 外の世界は窓越しに見るしかなかった。」と、木村さんは当時のことを振り返って言われていました。想像するだけで、気持ちが暗くなります。そのような子ども時代を、今の子どもに味合わせたくないという木村さんの気持ちが、痛いほど伝わってきました。木村さんの養護学校の高等部の時の活動が、衝撃的でした。養護学校の中で、「なぜ養護学校にいなければいけないのか」と教員に訴えられたそうです。また、健常者とのほんのちょっとの交流を拒否、最初から分けずに共に過ごすことを文書で訴えられました。その文書を実際に見せていただき、「地域に出たいという思い」から上演した当時の映像も見せていただきました。大変胸を打つ内容でした。僕は、高校生の時からこういった活動をされてきている木村さんを、尊敬するようになりました。後半の質疑応答も、東大の小国先生がかなりつっこんだことを含めてきかれていて、大変興味深いものでした。木村さんが「いちばんやっかいなのは、一緒にいないことによる心のバリア。これを崩していくのがやっかい。一緒にいないとわからない。」と言われていたのが、印象的でした。具体的に日本の教室がフルインクルーシブ教育に向かっていくための提案も、このなかでずいぶんされていたように思います。小国先生が「欧米では社会の差別がもとにあってのインクルーシブ教育。 日本では差別のサの字もない。」と言われて、木村さんが「まず差別を認識しないと。」と言われていたのが、やはり「原点」かな、と思いました。なんのために、インクルーシブ教育をするのか。「差別」というものが現実にあるということを直視しないと。そこを共有しないと、という思いを強くしました。「高校まで分離されて、その後社会に出たら、こわいんですよ。 とにかく人の目線がこわい。話しかけるのがこわい。 初めてファミレスに行った時、注文が言えない。店員さんの目が見れない。 看護師や医者が健常者の象徴だったので・・・。 社会に出て初めて、わたしが分けられてきたことを実感しました。」こう言われた、木村さんの言葉は、重いです。それを言わせてしまう社会って、なんなんだ、と思います。僕自身、めっちゃ、「自由に生きたい」派なんです。だから、自由を制限されて、閉鎖的な環境に閉じ込められて、広い世界に出て行けない、といったこういった話を聞くと、「もし自分だったら、とても耐えられない」と思います。これを、他人事にせず、自分事にすることが、今の社会や教育で、求められていると思います。「自分は関係ない」と思っている人たちが、もしかしたら今の世の中には多いのかもしれません。でも、ほんとうは、関係なくはないのです。障害者に限ったことではありません。「高齢者など、社会の波に乗っていけない人や、社会の一員として活躍できないと思われている方達は、別のところに、と思われている」という話が、木村さんからもありました。「みんなと同じことができない」という理由だけで、はじかれてしまう社会は、誰にとっても、不安と恐怖を潜在的に持ったまま過ごさなければならない社会だ、と僕は思います。木村さんからは、「『特別支援教育』を選んでいるということ自体が、差別を被っていることの証」という話もありました。別の教育を選ばされている。選ばざるを得なくされている。そして、接点がないまま、別々に過ごしている。そのことの弊害は、計り知れません。今は、接点がたまにあればいいだろうと思われています。でも、木村さんは、たまにある「交流教育」に、非常に強い嫌悪感を抱かれていました。「自分が見世物みたい」と感じられていました。常に共にいる=フルインクルーシブ教育の必要性を、大きく感じました。今回の会の最後に、小国先生はこう言われていました。「僕自身は、差別を差別としてことあげすることが大事だと学んだ。 その機会すら奪われている、より深刻なところを木村さんは見ている。」今回の学習会の意義を端的に言われていたように思います。本当に貴重な学習会を、今回も企画していただき、ありがとうございました。僕は、これまで、基本的に、特定の政党や政治家に関することは、ブログに書かないように心がけてきました。ただ、昨日お話をおうかがいした木村英子さんのことは、なんとしても、書いておきたいと思いました。僕は今回の東大主催の学習会を視聴するまでほとんど知らなかったのですが、木村さんは、障害当事者として長く活動をしてこられた方でした。その活動を知り、非常に尊敬できる方だと思いました。僕がめざしている「インクルーシブ教育」「インクルーシブ社会」のことについて、本当にそれを大切に思い、実現をはかろうとするなら、この方の話について書かないわけにはいかないと思いました。「重度障害者」と言われる立場の方が国会議員になられたのは、この日本の今において、とんでもなく、画期的なことだったと思っています。「健常者」と言われる人たち中心の日本の世の中が、ここから、少しずつ変わっていけるのではないか、という希望を持っています。ほんとうは、上でわざわざ「」をつけて書いたような言い方をしなくてもいい社会が望ましいです。いろんな人がいて当たり前の社会になっていてほしい、と思います。そのために僕も、できることを少しずつ、やっていきたいと思います。(画像の出典:参議院議員木村英子オフィシャルサイト内「政策」のページより)上の動画に関するサイト▼2020.5.28国土交通委員会質疑『しょうがいしゃの現状を国会に!心のバリアフリーについて、当事者の立場から三井絹子さんに参考人としてお話しいただきました。』 (参議院議員木村英子オフィシャルサイト内)↓こちらの記事も、ぜひお読み下さい。▼「対談 日本のインクルーシブ教育を問う」 (インクルーシブ教育研究者の一木玲子さんとの対談です。)いよいよ!明日のブログでは、僕が今週学校の中で実際にやったことを、詳しく書こうと思います。(3日前のブログに少しだけ書きました。)明日の記事は、過去最高に入魂して書こうと思っているので、ぜひ明日もまた見に来て下さい。読んでいただいたことに感謝します。共に、がんばりましょう。▼3/26(日) オンライン無料「東京大学・インクルーシブ教育定例研究会」豊中のフルインクルーシブ小学校! (2023/03/13の日記)▼「カナダの学校に学ぶインクルーシブ教育」(8/11オンライン学習会の案内を含む) (2023/08/07の日記)
2023.09.16
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今、オンラインセミナーを視聴中です。休憩時間の合間を縫って、投稿します。「なぜ、インクルーシブ教育が必要なのか」を、木村英子参議院議員から直接お聞きするオンラインセミナー。主催は東京大学の小国先生です。約1時間お話しいただきましたが、とても胸を打つ内容でした。朝3時に目が覚めて眠いですが、終了予定時刻の22時まで起きておきたいと思います!
2023.09.15
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(画像は内閣府の「合理的配慮」リーフレットより)以前このブログでもお知らせした「合理的配慮」の特集番組が、記事になったことを、番組に出られていた尾上浩二さんから教えていただきました。▼「合理的配慮」がよく分かる 考え方と具体例 (NHK福祉情報サイト「ハートネット」、2023/8/28記事)感謝です!番組を見てから1か月以上経って忘れていたことも多く、記事を読むことで、思い出していくことが多かったです。「合理的配慮は、思いやりではない」という言葉は、番組を見たときにとても心に残っていた言葉です。今回、そのことを再確認させてもらいました。忘れずに、ずっと心に留めておきたいと思います。尾上さんからは、「番組では時間の関係で一部しか紹介できなかった、東俊裕さんのインタビューも公開されました。」ということも、教えていただきました。下のリンク先になります。▼弁護士・東俊裕さんに聞く合理的配慮 障害者差別解消法制定から10年障害者差別解消法の成立経緯のことなどが、詳しく語られています。その成立過程の中で、「“Nothing without us, about us”(我々抜きに我々のことを決めるな)」という仕組みが、国内法制度の改革のプロセスに盛り込まれたのは、非常に大きかったと思います。最後に、ちょっとだけ、つけたしのようなことを書きます。実は、尾上さんと荒井裕樹さんが対談された本が、手元にあります。荒井裕樹さんという方が、いろんな方と対談された、対談集です。『どうして、もっと怒らないの? 生きづらい「いま」を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる』(荒井裕樹)まだ尾上さんとの対談のところしか読んでいないのですが、その最後に、尾上さんがこんなことを言われていました。「障害者運動が目指してきた地平というのを、わかりやすく伝えていくこともすごく大切かもしれませんね。」(同書p74より)まさに、今回のNHK特集は、尾上さんが思われていた「わかりやすく伝えていくこと」の、具現化したものなのかな、と思いました。障害者運動の当事者の方の言葉の中には、「わかりやすくすることで、失われていくものもある」といったことも書いてあって、「それも、確かになあ」と思う一方で、やはり、いろんな人に知ってもらう一つのやり方として、こういった「わかりやすく伝えていくこと」も大切だと思うのです。ここから、また広がっていくものがある、と思っています。どうぞ、周りの方にも、お知らせください。僕も、伝えます。インクルーシブな社会をつくるために・・・。▼「合理的配慮」がよく分かるテレビ番組(「フクチッチ」合理的配慮 前後編) (2023/07/09の日記)▼「広島県の小学5年生の合理的配慮への道!」 (2021/10/17の日記)▼小学校市販テストの合理的配慮等(正進社のパンフレットより) (2019/05/19の日記)▼業者テストの「ルビうち」が標準対応に! (2017/06/10の日記)
2023.08.30
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昨日まで7回にわたって、孫泰蔵さんの『冒険の書』の読書メモを書いてきました。ときおり「インクルーシブ教育」の観点での気づきを書いていたので、少し僕の個性も出せたかな、と思っております。さて、「インクルーシブ教育」について大変わかりやすく、様々なポイントを過不足なくおさえているネット記事を、昨日教えていただきました。これは皆さんにも参考になる!と思ったので、紹介させていただきます。「インクルーシブ教育を考える」をテーマにした、2回にわたるインタビュー記事です。ネット上で無料公開されており、全文が読めます。外国でのインクルーシブ教育の実際の様子として、カナダBC州の教室の写真も掲載されており、大変分かりやすい内容になっています。▼インクルーシブ教育を考える 寄せられた声とともに(1) - 記事 | NHK ハートネット → https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/841/▼インクルーシブ教育を考える 寄せられた声とともに(2) - 記事 | NHK ハートネット → https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/842/混乱しがちな現在の日本のインクルーシブ教育の現状についても、問題点を分かりやすく、整理して下さっています。この記事を読むことで、今後の方向性が、見えてくるかもしれませんよ。▼「カナダの学校に学ぶインクルーシブ教育」 (2023/08/07の日記) ▼イタリアのフルインクルーシブ教育について、お話を聞きました! (2023/08/23の日記) ▼「大切なことは、なにか」 ~『イタリアのフルインクルーシブ教育』などから (2023/08/13の日記) ▼フィンランドのインクルーシブ教育 ~矢田明恵「フィンランドにおける学習困難への対応」 (2023/08/15の日記)▼【紹介】「日本型インクルーシブ教育への挑戦 ― 大阪の「原学級保障」と特別支援教育の間で生じる葛藤とその超克 ―」(ネットで無料で読める論文) (2023/07/04の日記) ▼3/26(日) オンライン無料「東京大学・インクルーシブ教育定例研究会」豊中のフルインクルーシブ小学校! (2023/03/13の日記)
2023.08.24
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夏休みを利用して、とことん学んでいる、にかとまです。今日は勤務校での奉仕作業の後、午後は勤務市の隣の市の教育研究集会で学んできました。ブログでは今日も、『冒険の書 AI時代のアンラーニング』の読書メモを書きます!ぜひ、おつきあいください。『冒険の書 AI時代のアンラーニング』(孫 泰蔵、日経BP、2023/2、1760円)過去記事はこちら→ 第1回 第2回 第3回今日は、第2章「秘密を解き明かそう」(p93~)を参照します。2日前の第2回の時にイリイチさんの名前だけを出して、「イリイチさんの言葉は、たぶん、また今度引用することになると思います」と書いていたのを、覚えていますか?今回は、そのイリイチさんの主張から紹介します。・教える側ががんばって教えれば教えるほど、 学ぶ側はどんどん受け身になってしまう。 その結果、教育の専門家である教師に教わらないとダメだとますます思うようになる。(p100、イリイチ『脱学校の社会』(1970)によるあなたは、これを読んで、どう思いましたか?イリイチさんは、「教える人」と「学ぶ人」がきれいに分けられてしまうことによる弊害を語っています。ほんとうは「学ぶ人」はだれもが、自分の力で学ぶ力も意欲も、もっていたはずなのに、「教えられる」ことに慣れてしまい、もともとあった「学ぶ力」を忘れてしまうのです。「教育」を「学校が担うものだ」と教えられてしまったがゆえに、「学ぶ」ことを学校まかせにしてしまうのです。僕たちは「高度に専門化された社会」に生きていると思い込まされているがゆえに、「専門家じゃないから、わからない」「専門家に聞いて、そのとおりにするのが一番だ」と、安易に考えてしまうようになってしまった。いま、社会全体に、こういった画一的な思考が、はびこっています。本書は、それに対する警告を、大変分かりやすいかたちで、書いてくれています。僕がずっと考え続けている、「特別支援教育」についても、同じようなことが言えます。「特別支援教育」では「専門機関との連携」が大事だと言われていますが、それがともすれば、「専門家に任せておけばいい」になってしまっていないでしょうか?ことさら個人の中の「障害」を強調することより、「専門家でなければならない」と思い込むことが、みんなが同じ場所で共に学ぶインクルーシブ教育を阻害していると思えてなりません。第2章では分けられてしまうことによる弊害が、ほかのことに関しても書いてあります。たとえば、「遊び」について。・子どもも大人も 企業が「遊ばせてくれる」ことを期待して お金を払い、期待が裏切られると「損をした」と感じる(p107)「遊び」はもともとすべての人の主体的な、自由な行動の発露であったはずです。それなのに、「遊びのプロ」と呼ばれる人が生まれ、「遊び」を商品化してお金を取るようになると、人々は「遊び」をお金を払って消費するようになってしまった。ここで失われてしまったものは、とても大きいです。「いろいろなものが分けられたことによって、人間の生活はさらにつまらなくなった」(p109)と本書には書いてあります。僕はこれを読んで、非常に共感しました。僕はこれまで「インクルーシブ教育」(共に学ぶ教育)について学んでくるなかで、「分けること」について、何度も考えてきました。本書を読むことで、障害の有無で居場所を分けることだけでなく、「分けること」そのものがもつ、様々な危うさを考えることができました。そんな本は、なかなか出会えないのです。僕がこの本の読書メモを、数回にわたってブログで書き続けているのも、それだけ貴重な指摘がされているからです。本書ではほかにも、「子ども」と「大人」の区別についても触れられています。「区別こそが人間の生活を貧しくした」(p115)という発想。僕はかなり衝撃を受けました。皆さんは、どう感じられるでしょうか?次回は、第3章「考えを口に出そう」の中身を取り上げます。では、また明日、お会いしましょう!!▼「共に学ぶ教育」とは( 「普通学級での障害児教育」本の内容まとめ2) (2006/07/28の日記)▼人権週間に読みたい本 前田良『パパは女子高生だった』 (2020/07/04の日記)
2023.08.20
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これまで、イタリアやカナダのインクルーシブ教育について、本やオンライン学習会で勉強する機会を多く持ってきました。(たとえば→「大切なことは、なにか」 ~『イタリアのフルインクルーシブ教育』などから)「インクルーシブ教育は世界の潮流」と言われますが、ほかの国ではどうなのでしょうか?LD学会の機関誌『LD研究』第32巻第1号(2023/2)に、フィンランドのことが載っていました。よい機会なので、そちらに書かれていたことを、備忘録として書いておきたいと思います。フィンランドと言えば、白夜とオーロラです。オーロラのように、いろんな色が混ざり合うインクルーシブな教育を、フィンランドもやっているのでしょうか?『LD研究』誌に寄稿された記事の正式なタイトルは「フィンランドにおける学習困難への対応」です。寄稿者は、矢田明恵さん。インクルーシブ教育に関する研究者の方で、フィンランドにずっと滞在されているようです。なお、このブログでは僕の主観で覚えておきたいことをメモしているだけに過ぎません。詳細については該当誌を直接ご参照いただき、原文を読まれることをオススメします。(わずか5ページの報告ですので、すぐに読めると思います。 学会誌は大学図書館には基本的にあると思います。)こちらの寄稿の「Ⅱ」が「フィンランドにおけるインクルーシブ教育」になっていました。・1998年には(中略)原則として、重度の障害がある子どもも地域の通常学級に必要な支援を受けながら在籍することが可能となった。(『LD研究』第32巻第1号 p45より)ということが書かれており、イタリアやカナダと同じような教育改革があったことがうかがえました。なお、「障害」を社会モデルで見ているために、支援を受けるための「診断書は原則として必要ない」そうです。(p45より)学級定数や、通常学級の教室に入る大人の数は、どうでしょうか?これも、同じページから引用しますと、・子どもたちの多様なニーズに対応するため、学校規模に応じて1人~複数人、クラス担任を持たない特別支援教員が通常学校に配置される(『LD研究』第32巻第1号 p45より)ということでした。これも、イタリアやカナダの教育と似ています。寄稿の「Ⅲ」は「学校視察から ――ヴァルテリ・オネルヴァ校――」となっており、実際の学校への訪問調査による報告が書かれていました。それによると、フィンランドでのインクルーシブ教育への移行はまだ進行途中であり、「この5年間でヴァルテリ学校にて分離教育を受ける子どもの数は200人減少している」とのことでした。ただ、まだ「分離教育を受ける子どもの数」は0にはなっておらず、それは「地域学校の環境がその子に合うよう整っていない」ことが理由なので、環境を整えて分離教育0をめざしていくという方向性のようです。(「」内の引用はp47から)日本は島国で外国の情報が入ってきにくいところがありますが、今は求めれば情報が得られる時代ですので、外国の情報もどんどん参考にして、日本の教育を総合的に見直していきたいと思います。先ほど「フィンランドのインクルーシブ教育」で検索したところ、次のような情報も見つけました。こちらも参考になるかと思います。▼フィンランドでインクルーシブ教育を実践している小学校の先生にインタビュー!障がいの有無に関わらず、全ての子どもに特別支援の視点を。 (「先生の学校」2021/11/8記事)▼北欧諸国に学ぶインクルーシブ教育の本質 (大内進、日本文教出版Webマガジン「学び!と共生社会」vol.24、2022/1/25記事)下のリンク先の大内先生の記事に、「フィンランドは、日本でいう特別支援学校は残しつつも、できるだけ多くの子どもが地域の学校で学ぶことができる仕組みを整えてきました。つまり、特別支援学校はあるもののニーズがあるからといって安易にそこへの就学を進めるのではなく、基礎学校(小・中学校)での支援を強化することに力を注いでいるのです。」と書かれていました。日本の方向性も、これと同じものかな、と思いました。▼「個別の指導計画」はどうあるべきか?~イタリアやカナダのインクルーシブ教育をふまえて~ (2023/08/14の日記)▼「カナダの学校に学ぶインクルーシブ教育」(8/11オンライン学習会の案内を含む) (2023/08/07の日記)▼イタリアのフルインクルーシブ教育について、お話を聞きました! (2022/08/23の日記)▼2月12日「イタリアのフルインクルーシブ教育」無料オンラインセミナー (2023/01/29の日記)▼【紹介】「日本型インクルーシブ教育への挑戦 ― 大阪の「原学級保障」と特別支援教育の間で生じる葛藤とその超克 ―」(ネットで無料で読める論文) (2023/07/04の日記)
2023.08.15
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カナダのインクルーシブ教育に関するオンライン学習会に、8月に2回参加しました。奇しくも、昨年の8月には、イタリアのインクルーシブ教育に関するオンライン学習会にも、参加していました。オンライン学習会の学習記録は、毎回パソコンの同じフォルダに入れるようにしています。インクルーシブ教育の学習会用には、さらに専用フォルダを作っています。そのフォルダの中身がどんどん増えているので、「インクルーシブ教育に関するオンライン学習会」は、どんどん充実してきているなあ、という思いを強くしています。もちろん僕が参加していないものも、これ以外にたくさんあります。今日、カナダのインクルーシブ教育に関する学習会で知ったことをふまえて、イタリアのインクルーシブ教育に関する本を、もう一度読み返してみました。以下の本です。『イタリアのフルインクルーシブ教育 障害児の学校を無くした教育の歴史・課題・理念』(アントネッロ・ムーラ、大内紀彦 訳、大内進 監修、明石書店、2022、2700円)本書を読めば、イタリアのフルインクルーシブ教育に関する経緯や現状を概観することができます。「日本でフルインクルーシブ教育を行なうには、どうしたらいいのか?」ということのヒントも、得られると思います。たとえば、学級定数です。カナダでもイタリアでも、学級定数は日本より格段に少なく、さらに、教室内にいる大人の数が、多いです。上掲書から引用します。・イタリアでは、通常1学級の児童生徒定数は25名程度と規定されている。 障害がある子どもが在籍している場合は定数が20名に軽減される。 クラスを小規模化した上に、学級担任(カリキュラム担任)の他に支援教師(支援担任)等が加わり、チームで対応することでフルインクルーシブ教育を支えている。)(p23-24より)ちなみにカナダについては、8月11日の学習会での池野さんの報告によると、「BC州の低学年は20人くらい、高学年は25人くらいだった。 制度的には30人以下と決められているが、州としてそれより小規模にすることが多い。」とのことでした。2014年発行の一木さんの本の中にも似たような記述が見られます。(その本については8月7日のブログを参照ください。)ただ、その本の中では2006年のデータとして学級定数はいちおうは35人であり、現状はそれより少なくしているという記述になっているので、もしかするとカナダはここ15年くらいの間に学級定数の上限人数を法的にさらに少なくしたのかもしれません。どちらにしろ、日本は「40人学級」(!)ですから、いかに日本が多すぎるのかがわかります。一応、小学校低学年の35人学級を段階的に上の学年にのばしていくらしいですが、それでも「インクルーシブ教育」を本気でやっていくなら、さらなる定数の引き下げが必要だと言えるでしょう。そうすると「予算がない」という話になるのですが。2日前のカナダの学習会では参加者がチャットで「日本の教員1人あたり児童数は20人程度で国際的にはまんなか程度。 分離体制が通常学級の繁忙を生んでいる。」という指摘をされていました。これについては引き続き考えていきたいところであります。また、日本が今後インクルーシブ教育に本気で取り組んでいこうとした場合、おそらくかなりの反対運動にあうだろうことも、イタリアやカナダの歴史が示唆しています。『イタリアの~』によれば、「障害のある生徒のクラスでの受け容れに、多くの教師が従わなかった」(p153)とあります。カナダでも、転換期には同様のことが起こったようです。ただ、そのときに重要なのは、「声なきものの声を聞く」ことです。『イタリアのフルインクルーシブ教育』第8章「インクルージョンのプロセスに現れる側面」より、僕が大事だと思ったところを、一部分だけ引用します。・「どれほど多くの年老いた障害者たちが、表現ができるなら示せるはずの人間性を欠いた自分の姿に向き合わされて、失意のどん底に突き落とされていることか」(p269)8月6日のカナダのインクルーシブ教育に関する学習会の最後に一木さんが、こんなことを言われていました。「意見を言える人の意見だけを聞くことになってはいけない。 意見を言えない人の意見を聞かなくてはいけない。」僕は、このことを、非常に大事なことだなあと思いながら聞いていました。折しも、同僚の先生からのすすめで重松清さんの『青い鳥』という文庫本を読んでいた時期でした。『青い鳥』には、うまく話せない、吃音の中学校の先生が出てきます。でも、うまく話せないからこそ、その先生は大切なことしか話そうとしないし、どんなに聞きにくくても、生徒はその先生の話を聞こうと、耳をそばだてるのでした。『青い鳥』 (新潮文庫 新潮文庫)(重松 清)(参考リンク)▼【小説】「青い鳥/重松清」(新潮文庫)のあらすじと感想|村内先生の伝えたいこと (りんとちゃーの花しらべ様)▼重松清『青い鳥』~先生は大切なことしか言わない (ブックス雨だれ「少年少女のためのブックリスト」様)「大切なことは、なにか」について、読んでいた本や、参加した学習会での話ややりとりから、非常に考えさせられました。「インクルーシブ教育」というのは障害のある子どもたちと一緒にやっていく教育だけをさすのではありません。多様性を包摂し、すべての生きにくい子どもたちをその中で受容し、つながりあって共に生きていけるようにしていく教育なのだと、改めて思いました。
2023.08.13
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昨日の8/6に、「カナダのインクルーシブ教育」に関する学習会がありました。主催は、「インクルーシブ教育・社会を目指す会」。「インクルーシブ教育は、世界の潮流」と言われますが、カナダもインクルーシブ教育が進んでいる国の一つです。8/6の会では、カナダの実際の教育の様子や、日本とカナダの比較などが、複数の報告者から報告されました。これが、とってもよかったのです。特に、最後の参加者とのやり取りの中で、今目の前で起こっていたことをインクルーシブ教育の観点で捉えなおしをしていただき、ご説明いただいたのが、とても印象に残っています。ご説明いただいたのは、東洋大学人間科学総合研究所客員研究員の一木玲子さん。カナダのBC州には2015年にインクルーシブ教育の視察に行かれており、その時の報告を他の方との共著として、本にして出版されています。(絶版なのが、残念!)ちょっとした豆知識ですが、上の本のような絶版の本を読みたい時、図書館の蔵書を網羅的に検索してくれるWebサービスを使用すると、借りられる図書館が見つかるかもしれません。▼「カーリル」で上の本を探す https://calil.jp/book/4864460256 ※カーリルは複数の図書館からまとめて蔵書検索ができるサービスです。上の本の場合、「兵庫教育大学」の図書館にあることが判明しました。教育大学の図書館だったら、ほかの図書館にもありそうです。ちなみに買うとプレミアがついて、とんでもない価格になっています。(定価は税別700円。)小ぶりの本で、すぐに読めます。それでいて、とてもおもしろい内容です。ぜひこちらのブログでもそのうち中身を紹介したいと思います。このブログ記事を読んで、「カナダのインクルーシブ教育」に興味を持たれた方は、今度、8/11にも、別の主催団体による「カナダの学校に学ぶインクルーシブ教育」のオンライン学習会があります。そちらを申し込まれてみては、いかがでしょうか。無料の学習会で、その時間帯に都合が悪くても、事後の録画配信もあるようです。8/6のときにも報告された池野絵美さんが報告されます。自由に宣伝していいようですので、宣伝します。以下、主催者団体からのメールの転載です。題目:カナダの学校に学ぶインクルーシブ教育(オンライン・無料)特別支援学校の元教員が留学・就労して学んだことー東京大学・インクルーシブ教育定例研究会日時:8月11日 午前10時から12時講師:池野絵美申し込み先:https://select-type.com/ev/?ev=57EEvwwWiU0 今回、ご登壇いただくのは、特別支援学校に6年間勤務した経験を持つ池野絵美さんです。池野さんは、インクルーシブ教育の実際を体験したいと思い、2020年に特別支援学校を退職し、カナダに渡り、2年近く、インクルーシブ教育の先進地であるブリティッシュコロンビア州に滞在しました。現地で半年間、「教育アシスタント」の養成コースで学んだ後、ノースバンクーバー学区の公立学校で勤務されました。 現地では、インクルーシブ教育をすべての子どもにとっての当然の権利として捉え、誰もが参加できるよう環境を整えたり、子ども同士の関わりをサポートしたりすることに力が入れられており、大変感銘を受けたのだそうです。同時に、1クラスの学級規模やカリキュラムなど、制度に根本的な違いがあるとはいえ、カナダもかつて分離教育だった過去から変わってきたことから、日本でもできることがあると信じ、現在は日本の地域の学校で、特別支援学級の担任として勤務されています。 当日は、池野さんから、カナダの教員養成や学校現場の実際について具体的にお話をしていただくとともに、カナダのインクルーシブ教育への変遷を支えてきた発想の仕方や教育技術について教えていただく予定です。インクルーシブ教育にご関心をお持ちの市民の方、日本にどうやってインクルーシブ教育を広めていけば良いのかと考えていらっしゃる方、さらに、多様なクラスの中でどのように教えていけばいいのかと悩んでいらっしゃる現場の先生などにぜひご参加いただきたい内容となっています。 カメラオフ、マイクオフでご参加いただけます。また、お申し込みの方には、後日、録画を配信しますので、当日ご都合が悪いという方も安心してお申し込みいただけます。 皆様のお申し込みをお待ちしています。また、近くにご関心をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご紹介いただけましたら幸いです。どうぞよろしくお願いします。申し込み先:https://select-type.com/ev/?ev=57EEvwwWiU0東京大学大学院教育学研究科附属バリアフリー教育開発研究センターインクルーシブ教育関連のオンライン学習会は、ほんとうに充実しています。「一気に波が来た!」と感じています。カナダのように、日本でほんとうの「インクルーシブ教育」が実現されていく日も、近い!?▼3/26(日) オンライン無料「東京大学・インクルーシブ教育定例研究会」豊中のフルインクルーシブ小学校!▼7/22の豊中のフルインクルーシブ教育に関する学習会を視聴して▼2月12日「イタリアのフルインクルーシブ教育」無料オンラインセミナー▼TBS報道特集「インクルーシブ教育が変えるもの」▼【紹介】「日本型インクルーシブ教育への挑戦 ― 大阪の「原学級保障」と特別支援教育の間で生じる葛藤とその超克 ―」(ネットで無料で読める論文)
2023.08.07
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昨日に引き続き、仲島正教(なかじままさのり)先生に教わったことを続けます。勤務市の人権の研修会で教わったことです。「クラスで一番厳しい立場の子」を念頭に置いたクラスづくりや授業づくりは、僕が念頭に置いているものと同じものでした。とにかく仕掛けがたくさん。前回のマジックブックもそうですが、子どもたちに「見たい」「聞きたい」という主体性を呼び起こさせるものでした。「拍手を〇回!」という仕掛けも、とても楽しく、子どもの参加を自然に促すものになっているなあ、と思いました。「拍手を〇回!」というのは、先生にそう言われたら、子どもたち全員で音をそろえて拍手をする、というものです。「1回」なら、「パン!」です。「3回」なら、「パンパンパン!」です。僕は、授業というものは、「音楽のような授業」が理想だと思っています。そこには、ある種のリズムがないといけません。「拍手を〇回!」というのは、授業にリズムを持ち込むものです。先生に「拍手を1回!」と言われて、子どもたちが全員で心をひとつにして「パン!」と手を打つ。そのとき、子どもたちは、自分のペースで手を打つのではなく、必ず他のクラスメイトを意識しています。心をそろえようとしています。「そろえる」というのは必ずしも教育の最優先事項というわけではないですが、ちょっとしたことでクラスに一体感をもたせる、見事な手法であるというふうには感じました。#そろえることが目的になってはいけません。過程を楽しみましょう!この「拍手を〇回!」というのを、先生は「いつするか、わからへん」と言います。いつでも、言われたら応じられるように、集中して先生の話を聞く子どもたちに、自然となっていきます。このあたり、ほんとうに、うまいなあ、と思います。楽しい仕掛けで前のめりな子どもたちを育てていきたいと思います。今回も仲島先生のYouTube動画を貼り付けて終わります。
2023.08.04
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