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NHKのBSプレミアム『英雄たちの選択』の8月19日「衛生国家への挑戦~3人の先覚者たち~」を観て、強い違和感を覚えた。この回は、むろん武漢肺炎パンデミックの最中に、幕末から明治、大正にかけての先人の防疫の闘いを紹介するものであった。
◎緒方洪庵、「天然痘の治療に革命を起こした」?
『英雄たちの選択』シリーズはだいたい毎回観ているのだが、今回、取り上げられた3人のうち、明治初期に防疫に力を尽くした長与専斎、日本の衛生力の高さを示した後藤新平は異論は無いとしても、天然痘(疱瘡)の治療に革命を起こしたと紹介された緒方洪庵はミスキャストだろうと感じたのだ( 写真
=左から長与専斎、緒方洪庵、後藤新平)。
むろん幕末の偉才を育てた適塾の創設者である緒方洪庵の幕末日本の蘭学・蘭方の発展に尽くした功績は否定しない。間違いなくその名は、当時も今もビッグネームである。
しかし洪庵を「天然痘の治療に革命を起こした」として取り上げるのは、明らかに見当外れ、不適切である。
◎京・大阪から離れた田舎の町医者、笠原良策
むしろ幕末の天然痘の治療に革命を起こしたとして紹介さるべきは、幕末の福井藩の町医だった笠原良策(後、白翁)であろう( 写真
=笠原良策とその墓所)。当時の政治と学問のセンターだった京・大坂から離れた地の、それも町医者風情だったために歴史に埋もれている。

だが笠原こそ、日本で最初に牛痘法の意義に気づき、その痘苗入手に奮闘した医家だった。
彼は、当時は主流だった無理解な漢方医と藩役人の妨害とサボタージュを乗り越え、バタヴィアからオランダ船によって持ち込まれた牛痘苗を京都の蘭方医の日野鼎哉の所まで行って苦難の末に福井藩内に持ち帰り、民衆の無理解という障害にめげず、私財を投げ打って領内諸地域や府中藩、加賀藩など北陸の近隣諸藩に種痘を広めた功績者であった。
洪庵は、種痘を組織的に展開したことに功績はあったが、笠原良策が後述する京都で得た痘苗を彼の好意で分けてもらったに過ぎず、笠原良策の先駆的業績には一歩も二歩も譲るのだ。
◎熱意で藩主・松平春嶽を動かす
ちなみにバタヴィアからオランダ船によって牛痘苗がもたらされ、長崎のオランダ商館内で初めて日本人の小児に種痘が実施され、その種を継いで幕末日本で笠原、そして緒方洪庵によって広く実施されるようになったのは嘉永2(1849)年だったが、笠原はそれ以前にも持ち込まれた牛痘苗で何度も牛痘法を試しながら失敗している。
苗の保存用の凍結保存装置もなかった時代だから、それも無理もなかった。思い詰めた笠原は、バタヴィアより近い清国から痘苗を輸入しようと福井藩主の松平春嶽( 写真
)に上申、願いは春嶽から幕閣最高位の阿部正弘に伝えられ、承認を受けた。この間、春嶽への上申でも、下級役人に握りつぶされ、春嶽に取り上げられるまで2年も要している。
◎致死率最大5割、未開村落を崩壊させる
現代の世界では、天然痘は根絶されている。1977年にソマリアの青年を最後に自然感染の天然痘患者は報告されておらず、3年後にWHOは地球上からの天然痘の根絶を宣言した。それから30年、現代人は天然痘の怖さを知らない
しかし根絶されるまでは、天然痘は恐るべき流行病として人々から恐れられた。致死率は3~5割に達し、流行地では屍の山を築いた。治っても、失明や醜い疱瘡痕を残し、その人の人生を暗転させた( 写真
=体中に水疱瘡が出来た子ども)。
例えば1663年、開拓時代のアメリカで、人口約4万人のインディアン集落に大流行があり、数百人の生存者を残したのみで全滅したと言われる。さらに1770年のインドの大流行では300万人が死亡したという記録もある。医学史上、有名なジェンナーによる種痘が発表された1796年、イギリスでは4万5000人もが天然痘で死亡している。
◎近世日本に恐れられた天然痘の唯一の予防策種痘が北辺の蝦夷で
その後、日本でも何度も大きな流行があった。「独眼竜」の奥州の伊達政宗が幼少期に右目を失明したのも、疱瘡(天然痘)によるものだった。
江戸時代にも何度も波状的に流行し、一度、流行すればなすところはなく、ただ患者の出た家を閉鎖したり、集落全体をロックダウンしたりするしかなかった。
笠原良策や緒方洪庵がオランダを通じて知ったジェンナーによる種痘法は、天然痘予防の最良の方策だった。
ただ、実は嘉永2年に日本で初めて種痘が行われる25年も前に、北辺の蝦夷でロシア経由で伝わった種痘が初めて行われていたのだ。
(この項続く)
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