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テレビを見ていたら、余白の多い映画という言葉を耳にしました。その映画はどんなタイトルだったか聞き漏らしましたが、なぜかこの言葉が耳に残ってしまいました。余白の多い映画ってどんな映画なんだろうと、ずっと思いをめぐらせています。「余白を読む」という言葉に、物悲しさと切なさと、なんともいえない情緒を感じたのは、もしかしたら文字よりも余白に希望を託さなくてはならない手紙を受け取ったときだったかもしれません。こんなことを書いてあるけれど、これはあの人の全てではない。こんなことを書きながら、あの人はきっと心の中で泣いているに違いない。言葉と言葉の間、余白にはあの人の言葉にできない本当の思いが込められているに違いない・・・・。そんなはかない希望を託して、懸命になって余白を読もうとしていたときを、その「余白の多い映画」という言葉で鮮やかに思い出しました。この「余白を読む」という言葉も多分死語になりつつあるように感じます。最近はe-mailが手紙の代名詞のように使われるようになりました。「手紙ちょうだいね」は「メールちょうだいね」という意味に使われるようになりました。そして、そのメールには自分で自分の書いた言葉に(笑)とか、(涙)とか、(怒)など、自分の感情を言葉で付け足すようになっています。余白どころのさわぎではありません。全部表現しなくては心配なくらい、言葉の文化は衰退してきているのでしょうか。日本語の美しさ、表現の微妙さ、漢字とひらがなで、思いの違いを表現しようとする細やかさ。そういう言葉の文化はe-mail世代には引き継がれることはないのでしょうか。もう何年も前にはやった歌の一節です。「寂しくなったら手紙を書きます。涙で文字がにじんでいたら、分かってください・・・」e-mailは決してその文字が涙でにじむことはないけれど、人の心はそんなに変わっていないのかもしれない。今の若者も切ない恋ごころを、にじまないメールの文字で伝えたくて、言葉のあとに(涙)と書くのだろうかと・・・・いまこれを書きながらふと思いました。
2002年03月24日
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「息子が第一志望の大学に受かりました!」にこやかにはじけるような笑顔で、中年のご夫婦が入っていらっしゃいました。おめでとう、おめでとうの祝福がこだまして、一緒に祝ってくださいとお持ちになったきれいな赤ワインで、ひとしきり乾杯をしました。「そんな季節なんですね」と、みんな自分のことや、子どもことや孫のことなどを思い出しました。「私のころは合格通知が電報できましてね」「はい、はい、私もそうでした。」「えっ?電報ですかぁ?」と若者。「そうだよ。電報でね。その学校学校で、合否の言葉が暗号のように決まっていたんだと思うよ。合格なら『サクラ サク』不合格なら『サクラ チル』というのが一般的だったというお話しに、若者たちはびっくり仰天です。「オレのかあさんは、オレの高校の発表の時に、早く知らせようと思っても公衆電話に長い長い列が出来ていて、気持ちばかりがあせったと言っていたっけ」「私も娘の発表を見にいって、そのとき娘は落ちていたんですよ。それを知らせるために公衆電話に並んだけれど、周りが浮き立っている中で、一人だけ暗い顔をしているのがなんだか惨めで、自分も合格組みですとばかりににこにこしようとして、思わず涙がこぼれそうになったことがありました。」今は・・・・と、みんなが思いました。今は携帯電話をほとんどの人が持っているから、公衆電話に並ぶ人も少ないのだろうなと。そして、一日中、身体を固くして電報を持ってきてくれる郵便局の自転車の音を待つこともないんだなと。時代とともに、文明の発達とともに、たくさんのことが過去の風物詩になっていきます。「不合格」という3文字ですむ事柄を、さくらの花に託して伝えようとした日本人の優しさや、娘の心の痛みを少しでも小さくするための言葉を捜しながら、長い行列を待つ母親の思いなども、遠くにかすんでいくのでしょう。いくつになっても、春爛漫のサクラ吹雪の下で、『サクラ チル』の文字を読んだ時の自分自身を、甘酸っぱい思いで懐かしむ人の数も、少しずつ少なくなっていくのでしょう。東京にサクラ開花宣言の出された夜でした。
2002年03月16日
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「今日は死ぬのにもってこいの日」という本を本屋さんでみかけたんですよね。どういう意味なのかなあと、二十歳になったばかりのお嬢さんが聞きました。周りにいたのは中年を過ぎた方たちが多かったので、そのお嬢さんに誰がなんと答えるのかを、それぞれに考えてしまいました。だって、簡単に答えられる質問ではありませんものね。「私の父は96歳で亡くなりましたけど、晩酌のビールを飲みながらの父の口癖は、ああ幸せだなあ。この幸せの時に、ぱっと死ねたらなあ・・・というものでした。父を見送ったあと、母を介護しているんですが、母はこういうんですよ。幸せだから死にたくないって。そうして、92歳になる母はお乳の形がおかしいから癌ではないだろうかとか、夕べはトイレに何度も起きたから、何か病気じゃないだろうかなどと、毎日「じっくりと心配」をしながら生きています。」こう話してくださったのは、ご両親を引き続き介護していらっしゃる年配の女性でした。みんなは、自分はどっちだろうと考えました。幸せの時に死にたい。それが一番の幸せだと思うのか、幸せだから死にたくない。死なないように病気を見過ごさないようにしようと思うのか。自分がどう考えるかは、自分の死をある程度射程距離に置いたときでなくては、単なる言葉遊びになってしまうことでしょう。その年配の女性は続けました。「お嬢さん、あなたは自分にも死ぬ日がくるなんてことを考えたこともないでしょうね。それでいいんですよ。それは考えなくてもくるんですもの。そして、一人の人の死は、きっとその人にとってもってこいの日なんですよ。死ぬ日を決めることは誰にもできないんですものね。生まれてくる日が決められないように、死ぬ日も自分では決められない。その人にとって、もってこいの日に、人は死ぬんですよ。きっと・・・・」何年も引き続いてのご両親の介護で、いつも疲れていらっしゃるその女性は、一週間に一度ほんの1時間ほど顔をお出しになって、心をほっと解きほぐして、またそそくさとお帰りになります。幸せの瞬間に死にたいとおっしゃっていたお父上の死、幸せだから死にたくないとこの世に執着なさるお母上。人間がどのように願おうと、そのどちらにも訪れる公平な死を見届ける女性の言葉は、なにかしら悟りにも似た安心感を聞くものたちに与えました。この話題を持ち出したお嬢さんは、あらあら、もうすっかりその輪の中から抜け出して、今度は流行のブランドバッグの話題で仲間と盛り上がっています。今日はワインを楽しむのにもってこいの日かもしれません。
2002年03月08日
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