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このサロンを開いたのは今年の初めのことでした。特に宣伝をしたわけではないのに、たくさんの方が訪れてくださいました。そして、その時々になんと奥深い会話がなされたことでしょう。その中から私が聞き取ったものをほんの少しおすそ分けをしてまいりました。私はこのサロンを「仮面舞踏会」と名づけました。仮面を被らなくては生きていけないくらい、この世は恐ろしいものだと思っていたからです。仮面を被ることで本音を語ることが出来るに違いないと思っていたからです。サロンを開いて8ヶ月たちました。もしかしたら私はずい分ひにくれた懐疑心の強い人間なのかもしれないと感じ始めました。なぜならこのサロンで、ワインを傾けながらぼつりぼつりと語られた一人一人の言葉は、決して仮面の中から語られたものではないと気がついたからです。語る言葉を選んだり、自分を飾ったり、人にどう思われるかを計算したりするような「仮面」が語るものではなかったのです。『嘘に頼らなくても人と人はつながれる』ということを、サロンに集う方々が教えてくださったように思います。このサロンを閉じようと思います。「仮面舞踏会」を閉じます。そして私は自分が被って生きている仮面を一枚一枚はずしていこうと思っています。仮面をとることを恐れずに、傷ついた心もそして顔も、これが私なんだと勇気をもって素顔で生きていこうと思います。勇気をもつことの素晴らしさを教えてくれたのは、サロンにいらしてくださったお一人お一人です。ありがとうございました。こころからの感謝を表すのは、この後の私の生き方だと思っています。『浄玻璃の鏡の前で』という文字をどこかで目にしたら、この仮面舞踏会のサロン主が、一つずつ仮面をはがす苦しい作業をしているのだなと、思い出してください。その鏡の前で私は真実の私としてあなたにお会いできることをお約束いたします。・・・・・心からの感謝をもってお別れいたします。
2002年09月03日
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来年の2月1日、テレビが50歳のお誕生日を迎えるということです。折も折、広島原爆記念日につづき、長崎の原爆記念の式典がテレビに映し出されています。そして間もなく終戦記念日がきます。戦争が終わって57年です。テレビが生まれたのは、戦争が終わって7年しかたっていない時だったのかとびっくりします。「我が家にテレビが来た日」に話題が集中しました。サロンにはいろんな年齢の方がいらっしゃるので、「その日」も千差万別です。さすがに「その日」が50年前だという上流階級の方はいらっしゃいませんが、40年ほど前、お座敷のテレビの前に正座したことを懐かしそうに話される方。ご近所のお友達の家でテレビを見せてもらうのが楽しみだったとおっしゃる方。そうかと思えば、生まれた日からテレビがあるのは当たり前の年代の方たち。しばし、自分とテレビということをちょっと感慨深く考えていました。その時一人の男性が口を切りました。「最近、バーチャルということが言われますよね。パソコンやゲームなど生身の人間を介さない世界のことなんでしょうか。」「世界のどんな隅っこで起きていることも、今はテレビでリアルタイムに報道されますよね。ニュースは確かに現実ですけど、テレビという画面の中に収められるものは、やっぱり一種のバーチャルなんじゃないかなあと、思うことあるんですよね。」「事故や災害の報道、犯罪や戦争の報道。私たちはまゆをひそめて時には涙を流して見るけれど・・・どうなんだろう。それはあくまでもテレビの画面の中に切り取られた映像でしかないと感じることありませんか。」「私ね。もしテレビに『におい』がついたら、この世から犯罪や戦争が少なくなるような気がするんですよ。ちょっと、突飛かな・・・。」「もし、戦争の映像に倒れて死んで腐っていく死臭があったら、きっと誰一人としてその映像を見ることはできないんじゃないかって。コーヒーを片手に、スナック菓子をほおばりながら見ることはできないんじゃないかって・・・」「もし、不法ごみの山の映像に腐臭があったら、きっと誰一人として『ひどいねえ、ひどいじゃないか』とコメントしながら見ることは出来ないんじゃないかって・・・・」「つまり、テレビのニュースは現実を映し出しているようでありながら、決して現実ではないんじゃないかと、次から次へと起こる犯罪のニュースや事件の報道を見ていて思うんですよね。」誰も意見を述べる人はいません。みんなその人の言った言葉を心の中で反芻し、そして、いろんな場面を想像しただけで気分が悪くなってしまいました。それは・・・不可能なことではあるけれど、なるほどと頷けるものでもあります。私たちは分かっているつもりでいて、まったく分かっていないことが多いのだと思ったのです。世界に存在している飢えや不純。その現場にあるものは確かに映像で伝えることの出来ないものだということを、知るべきなのでしょう。その限界を知った上で、私たちはテレビの50歳のお誕生日をお祝いしなくてはいけないのだと、みんなそう思いました。来年2月、テレビの50歳のお誕生日には南極からの生中継の映像がながれるそうです。録画でしか見たことのない南極のオーロラが、まさにリアルタイムで放映されるというのです。その臨場感はバーチャルではない感動を与えてくれることでしょう。科学の進歩は人間の限界を次々に乗り越えるように感じるけれど、私たちはいろんなものが進歩すればするほど、不感症になっていくという人間の恐ろしい限界を常に自覚しなくてはいけないのでしょう。
2002年08月09日
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「歯医者さんが往診をしてくださったんです」と、年老いた親御さんを介護していらっしゃる女性がうれしそうに離されました。「入れ歯をしているのですが、だんだん歯茎がやせてきますでしょう。そこがすれてただれてくるんですね。歯医者さんに連れて行くのは大変だなあと気が重かったんです。」「1年前に同じような症状が起きたときは、まだ今より元気だったので杖をついて、手を引いて歯医者さんまで行きました。そのとき先生が『往診しますから無理をしないで連絡してください』と言ってくださったことを覚えていたので、往診していただこうと母に言ったのですが、明治生まれの人なのでなかなか納得しません。」「そんな、もったいないこと。それに歯医者のイスもないのに、治療の器械もないのにどうやって治療できるの」「それなら病院に行くの?という言葉に母は答えました。どっちでもいいよ。」「病院に行くだけの気力と体力がないことを自覚するようになったのかと、ちょっとどきっとしましたが、歯医者さんに往診していただくことになりました。」「先生は看護婦さんを二人伴って往診にみえました。歯医者さんのイスは普段母が座っているイス。口をすすぐ紙コップもその水を受けるボールも、全部用意されていました。私がしたことは、先生が手を洗うために洗面所に案内することと、入れ歯を削る器械をつなぐコンセントを用意しただけです。おかげさまで食事もままならなかったのが嘘のように、翌日から元気になりました。」「ありがたい時代なんだと思いました。昔からかかりつけのお医者様がいて、風邪を引いたりしたときに往診をしていただいたことがありましたが、まさか歯医者さんが往診で歯の治療をしてくださるとは思ってもいませんでしたから、本当に感謝でした。」「母が心配していたもう一つのこと。それはお金がかかるだろうということでした。確かにそのことは私もひそかに心配をしていましたが、なんと帰り際に看護婦さんが請求したのは、850円です。ああ、これが老人保健、そして介護保険というものなんだなと、私は改めてこの保険の恩恵によくしたことをありがたいと思いました。」「歯医者さんが往診をしてくださるということをご存知ない方はきっと多いことでしょう。そして、この介護保険というものの実態はまだまだ理解されていないのでしょう。私たち一人一人が保険料を払っている介護保険の全貌を、もっと私たちは積極的に理解して、受けるべき正当な権利の範囲を知っておくことが必要だろうと、そんな思いで今日はお話しました。」「少子時代ですもの。多かれ少なかれ親の介護に携わることが必然となる時代です。そして時代は在宅介護を求めています。この在宅介護を支えるシステムとして生まれたのが介護保険です。この国民の権利と義務が常識として根付いていくにはきっと時間がかかるのでしょうけど・・・・」
2002年08月01日
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60も半ばのご婦人が、最近の経験を話してくださいました。「実はまぶたが上がらなくなってしまいました。目が半分しか開かないので、テレビを見るのも本を読むのも、顎をあげて下半分の目で見るようになって、疲れがひどくなりましてね。」「黒目が全部開いたらどんなに明るいだろうと思いました。眼科の先生に相談に行きました。まぶたを上げる手術を勧められました。検眼をするにも、手でまぶたを持ち上げなくてはならないほどだったのです。」「紹介された病院は形成外科でした。いわゆる美容整形の病院です。気持ちの中には、別にいのちに別状のないことなのに、まったく視力がなくて闇の中で暮らしている人もいるのにという思いがあってためらっていました。」「訪ねた病院でお医者様の前に座ったとき、私はまだ迷っている気持ちを伝えました。問わず語りに私が老親の介護を5年間していることを口にした途端、先生がおっしゃいました。よし、せめて目からだけでも光をいっぱい入れよう。世の中が明るくなったら、気持ちも明るくなるかもしれないよ。」「私は思わず涙があふれました。光がほしい。こころのそこからそう思いました。そして私は眼けん下垂の手術を受けました。」手術の間、先生はいろんな話をしてくださいました。人間の身体は謎だと。奥さんが癌と診断されて一晩で真っ白な白髪になった方のこと。受け入れられない哀しみに直面して、一晩泣き明かして翌日まぶたが完全にふさがってしまった方のこと。精神的なものが肉体に及ぼす力の大きさを、いろんな例をあげて話をしてくださいました。そして最後にこうおっしゃいました。私は目をあけてあげることはできる。でも、こころの目を開けてあげることはできないんだよ。せめて目から光を入れて、その光がこころにも届くといいねえ。たった一言で、その人のこころの襞に巣くっている哀しみや苦しみの病因を感じ取る力。それはいのちをいとおしむ優しさと、豊かな感受性なのでしょう。「目を開いていただいたことはとてもありがたいことでしたけど、私はその先生に出会えたことがとてもうれしいんです。私も相手の言葉や行動に潜んでいる心の声を、少しでも聞き取れるようになりたいと思いました。それにはまず、もっと、もっと、自分自身のいのちを愛せるようにならないといけないんですよね。・・・・きっと、そうなんですよね。」
2002年07月24日
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あまりにも時間の流れが速すぎて、ときどき、あらっ?あの事件はどう解決したんだっただろうと、記憶を探すことがありませんか。その事件が起こった時には、世界が震撼し、世界が耳目をその一点に集中したものも、次から次へとそれを上回る恐ろしい事件が起こってくると、いつの間にか一つずつの出来事は、まるで映画の中のことだったような臨場感を失っているという思いになることはありませんか。神戸で起きた事件も、和歌山で起きた事件も、あの事件も、あの事件も、こうして列記しようとしても、正確にその事件をあらわす名前すらも曖昧になっているのは、私だけなのでしょうか。あなたはこの10年間に起きた事件の中で忘れることの出来ないものを一つあげるとしたら、なにを思い出すでしょう。私は自分が正確に思い出すことの出来ない事件簿の中で、一つだけ忘れることのできないものがあります。それは「旧石器捏造」の事件です。子ども虐待でもないし、いじめによる自殺でもないし、精神障害者による無差別の殺人でもないし、テロでもないし、抗しがたい天災でもないので、いのちとの関わりで考えるなら、これは事件ともいえないほどのものかもしれません。でも、思い出すたびに心の中がじくじくと疼きます。その人の発掘は百発百中でした。「神の手」と言われたその人の手は、人類学の歴史を次々に更新していきました。一気にではなく、徐々に徐々に塗り替えていきました。その人はいったいどんな気持ちで生きていたんだろう・・・。その人の気持ちを想像すると、私の心の中はじくじくとします。テロを実行することは「多分」ないでしょう。隣の家の人を気に食わないからと殺すことは「多分」ないでしょう。祭りのカレーに毒を入れることは「多分」ないでしょう。初めは小さな出来心だったこの事件は、もしかしたら、私もしてしまうかもしれないという恐れがあるからなのでしょうか。みんなに期待される。なんとかして期待に応えたい。ふっと、ふっと頭をよぎった捏造という行為が成功してしまった。自分自身で歯止めが利かなかったことは、もちろん、その人本人の罪です。許されることではありません。たとえ、この何十年という時間を、怯えながら暮らしてきたとしても、決して許されるものではありません。ただ、誰も気がついて「あげられなかった」のか・・という思いがするのも正直な思いです。もっと、早くに、その最初に、気がついてあげる人が一人もいなかったということが、捏造をしたその人の罪と同じ種類の罪が、人間という生き物の中にあるように感じてしまいます。「その人は今、どうしているんですか?」もう数年前にリタイアなさった大学の先生が、心から手繰りだすようにして話されたお話しに、若い人が尋ねました。「病院にね。入院しているそうですよ。なんの病気だろうね。どんな気持ちで寝ているんだろうね。」
2002年07月16日
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「整形美人」という連続テレビドラマが終った夜、ひとしきり今期のドラマ談義に花が咲きました。最近のテレビドラマは深い問題意識を投げかけてくれるものが多いように感じます。このドラマは、幼いころから「ブスがうつるからあっちにいけ」といじめられてきた女の子が、一念発起、お金を貯めて外国に行き、全身整形をして帰ってくるところから始まりました。彼女の整形前の顔やスタイルがどういうものだったかは、区別がつかないほどよく似ていたという双子の姉妹を登場させることで対比を表します。彼女は一人の男性と出会い、恋をします。彼は華道の家元という設定です。つまり、「美」を追求する人間ということです。彼は「美しい彼女」を愛するようになりました。やがて彼女は愛する人に嘘をついていることが辛くなって、自分が整形をしていることを告白します。そこで彼がどういう反応をするだろうということが、観客の関心事でした。案の上彼は完全に引いてしまいます。彼女は苦しみ哀しみ、ついには又整形前の姿にもどる決意をします。そうなったら、彼が受け入れてくれるとでも思っているわけ?・・・と、観客はいらいらします。彼の苦しみはどこにあったのでしょう。瓜二つだという双子の妹の顔が、美しい彼女の顔にオーバーラップするたびに、彼は苦しみます。愛せないと頭を振ります。彼が苦しんだのは二つあったように思います。一つは自分は外見の美しさで人を愛したのだろうかという思いです。もう一つは外見の美しさがその人の価値を決めるのだろうかという思いです。これはとても難しいことだと観客も共に悩みます。美しさは外見じゃないはずだと思う気持ちは誰もが持ちます。しかし、しかし・・・です。美しいものと醜いものが並んでいたとき、目を引かれるのは美しさではないだろうか。人事として考えるのではなく、あの彼が自分だとしたら、さあ、お前はどうする!という自問自答です。これはドラマのお話しです。それこそ案の上、彼は自分が彼女の天真爛漫な明るい心、前向きなひたむきな生き方に引かれ、救われたことを思い出して、再び整形をし直しに旅立った彼女をありのままに愛する自信をもって彼女の前に立ちます。華道の家元である彼が、悩み苦しみぬいた果てに出した結論を象徴的にあらわした場面があります。彼は大きな作品を作ります。その披露の場に参会した人たちは、その作品の美しさと気高さに賞賛の声をあげます。その会衆に向かって彼はこう言います。「今みなさんが美しいと褒めちぎってくださったこの花は、実は造花です。」華やいでいた会場は水をあびたように静まりかえり、やがて造花を作品にした家元を罵倒し始めます。しかし実はその花たちは造花ではなく生花だったのです。家元が造花を活けるはずがないと疑わない目がある。そして、その同じ目が一瞬の後に、そこにある同じものに命を見ることが出来なくなる。人間が「美」を感じ取るのは目なのでしょうか。それとも、心なのでしょうか。・・・これはあくまでもドラマのお話しです。私が彼だったら、私が彼女だったら・・・。そこには人の数と同じだけのさまざまなドラマがうまれることでしょう。
2002年07月06日
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今夜サロンには黒人霊歌のDeep Riverが流れていました。「深い河よ、私の故郷はヨルダン川の向こうにある。私は川を渡って宿営地へ行きたい・・・・」魂を揺さぶられるような黒人霊歌は、奴隷貿易が最も盛んだった18世紀の中ごろから終わりにかけて多くつくられたとされています。奴隷貿易とはなんと哀しい言葉でしょう。真っ暗闇の絶望の中で求めた唯一の救いが死だったのです。それでも、その死が全ての終わりではなく「故郷」に帰るものだという希望の祈りであるところに、黒人霊歌のもつ限りなく大きな力があるのでしょう。「この歌、なんていう歌ですか?」と一人の若者が尋ねました。「えーっ、Deep Riverっていうんですか。宇多田ヒカルの曲と同じだなあ・・・」君の知っているDeep Riverというのはどういう歌なの?と問う中年男性に彼は答えます。「点と点をつなぐように 線を描く指がなぞるのは 私の来た道それとも行き先線と線を結ぶ二人 やがてみんな海に辿り着き ひとつになるから怖くないけれどいくつもの河を流れ わけも聞かずに 与えられた名前とともに 全てを受け入れるなんて しなくてもいいよ 私たちの痛みが 今飛び立った」今も昔も、老いも若きも、肌の色も国籍も、時代も環境も全てがまったく違っても、人はいつも同じように今この時の救いを求め続けるものなのだなあと、参会者はそれぞれに、抱えている今この時の現実をかみ締めた夜です。河、それはたどり着くいつかどこかに、光と希望を描かせるものなのかも知れません。その河がどんなに深くて長くて暗くても、この河さえ渡りきればそこに救いがあると、どれほどたくさんの人間がこの河に祈りを託したことでしょう。現実に流れる河、心の中を流れる河。この河を渡りきれば、そう、そこは彼岸です。
2002年06月28日
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世の中サッカー月間でこのサロンも開店休業です。しばし一人でワインを楽しんでから、そろそろ扉を閉めようかと思っていたとき、いつも会の終わりごろにいらっしゃる60台の女の方が、一冊の本を片手にお顔を見せてくれました。「まあ残念。今日はいい本をご紹介に参りましたのに」その方が差し出した本は「親の介護が私を変えた」という本でした。その方ご自身が、二年前に、在宅で介護していたお父さんを看取られ、引き続きおかあさんの介護に専念なさっていることを知っていた私は、その本の題名にひきつけられました。その方がご両親の介護で疲れ果て、苛立ち、先の見通しのない毎日を、これが自分の運命だと虚無的にすごしておられることを知っているからです。「いい本と出合いました。買い物の途中、ふと足を止めた本屋さんでこの本を見つけました。難病との闘病記や、逆境を強く生き抜く奮闘記などは書店にあふれていますが、今の私には、そういう強い生き方を書いた本から何かを学ぶだけの力がありません。この本をぱらぱらとめくったときに飛び込んできたのは『密室化する在宅介護は危険をはらんでいます。母も私も自分らしく生きる暮らし方を模索しました。』という言葉でした。」「『母を傷つけ、私も傷つき、年をとったゆえの病なのだと、やっと思えるようになったとき父が母を迎えにきました。』という言葉もすっと心の中に吸い込まれました。」この本は15人の社会的に著名な方々が、ご自分の親の介護経験を、赤裸々につづっています。思わず振り上げてしまった手、思いがけず口から飛び出した恐ろしい言葉。15人の方が苦しみ、哀しみ、怒り、あきらめ、工夫し、納得して生きた時間の告白の一行一行の全てが、今、親の在宅介護の現場で暮らしている人々に勇気と解放を与えてくれるに違いありません。老親の介護の苦痛は、ともすれば介護者自身の人格の破壊をも招きます。いかにして自責の念から解放され、看取った後の罪責感から立ち直ることができるか、それは介護保険の実施によって、親を持つ者だれしもが抱えている大きな課題です。その方が置いていってくださったその本を、私は一気に読みきりました。そして、この本はもっともっと読まれる使命をもっていると感じました。私には介護するべき親はすでにいませんが、この本でたくさんの人が救われてほしいと心の底から思います。本を置いていかれたその方は、最後にこういわれました。「私はこの本の16人目の書き手になろうと思います。介護で悩んでいる人が一人一人、この本の16人目の著者になろうと自覚できたら、自分自身を、そして親を今よりもっともっと愛して生きられるようになると思います。」『親の介護が私を変えた』編集:「いきいき」編集部発行所:ユーリーグ株式会社(Tel・03ー3235ー3579)
2002年06月19日
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サッカー、サッカー、サッカーです。ニッポン、ニッポン、ニッポンです。テレビの画面が青一色に染まり、日の丸が右に左にと華麗に舞います。スポーツの勝敗に興奮するのは、例えば早慶戦。例えば巨人阪神戦。でも、今回のサッカーはまるで違います。プロ野球にしたって六大学にしたって、国の中で二つに分かれる。私は巨人、僕は阪神というように分かれます。ところが、なんと、なんと、今回のサッカーは日本が一つになってしまいました。応援はニッポン、チャチャチャの一つだけ。「僕、運良く初戦のチケットが手に入って見てきましたぁ!」と、茶髪の青年が飛び込んできました。なんと顔には日の丸のペインティング、手には日の丸の旗までもってきました。その日の感激が、今から数日前のロシア戦の初勝利で更に大きくふくらんだようです。「僕ね、生まれて初めて日本人って、いや僕ってこんなに愛国心があったのかあ・・・って、なんだか感動しちゃいましたぁ」もちろん、会場の参加者もみんなニッポン・チャチャチャで興奮した方たちだったので、その若者はまるで英雄のように輪の中心になり、彼の言うことにうん、うんと頷いています。今夜の会場もまた、愛国心のかたまりみたいになっています。その様子をにこにこしながら見ていた老人がいます。彼は心の中でなんだか不思議なものを感じていました。「愛国心か・・・。この日の丸はあの特攻隊の鉢巻の日の丸と同じものなのになあ。同じものが時には狂気の旗印となり、時には国民の歓喜の象徴になるんだなあ。しかし、このワールドカップがもたらしたものは、きっと想像を超えて大きいにちがいないな。日の丸が日本の旗だという認識も持たなかった若者たちが、今自分のものとして日の丸を握り締めている。日の丸が戦争の悲劇の象徴だったことを忘れていいのかどうか、私には分からないけど、新しい認識で日の丸を振ることのできる時代がくるのかもしれないな。」このニッポン・チャチャチャを経験した国民は、自分が振った旗が「悪の象徴」だと訂正されても、その認識に逆行することは不可能のように思います。それほどに老若男女の区別なしに気持ちを一つにまとめたサッカー・ワールドカップ。この事実を私たちはこれからじっくりと方向付けしていくべきなのでしょう。日の丸を目の敵にしても解決しない、この愛国心というものの形を、ニッポン・チャチャチャをきっかけに考えていけたら、ワールドカップはスポーツを超えて大きな働きをするのではないかと、そんなことを考えた夜でした。
2002年06月11日
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いつも宴の終わり近くになってそっと入っていらっしゃる女の方が今日もいらっしゃいました。「明日よりは、今日がいいんですよね」疲れがずっしりと積み重なったような声でテーブルの端に腰を下ろして、その方が言いました。「えぇーっ! おばさん! 今日よりは明日でしょう!」と声を張り上げた若者が、はっとして口を押さえました。この会で唯一のご法度は、「おじいさん、おばあさん、おじさん、おばさん」という称号をつかわないこと・・だからです。「いいんですよ。あなたからみたら私はおばあさんだもの。おばさんだなんて、ありがとうね」「でもね。これは私の心の底からの思いなんですよ。明日よりはきっと今日がいい日というのがね。」「どうしてですかぁ。『♪♪明日があるさ、明日がある♪♪じゃないですか』今日よりいい明日があると思うから今日を頑張れるんじゃないですか」「そうだよ。そうだよ。あしたこそ、あしたこそって。ほら、風と共に去りぬのスカーレット・オハラだってそう叫んだじゃないですか。」若者の集団は一致団結しました。「私ね、毎回この会に来る前に、92歳の母をお風呂に入れてベッドに寝かせつけてくるんですの。今はまだ一度寝かせつけると、夜中までぐっすりと寝入ってくれるのが分かっているので、2時間くらいは安心していられます。一週間に一度でも、こうして解放される時間がほしくて寄せていただいているんです。」「でも、こんなことも、もしかしたら明日は出来なくなるかもしれないと、毎回思いながら来るんですよ」「母の前に父を見送りました。96歳でした。最後の数日を残して在宅で介護をしたので、老人の時間に閉じ込められたような時間でした。」若者たちはもう面と向かって反論はしませんでした。でも、多分、心の中では反論していたことでしょう。そんなぁ・・・。いくつになったって、どんな環境になったって、明日を信じて生きる人間にオレはなりたいな・・・と。「私も若いころは、今日はこんなに辛くても、明日はきっといいことがあると、そう思っていたのにねぇ・・。もう何年も老人の介護で暮らしているうちに、明日よりは今日がいいんだ。こんな辛い今日でも、明日よりは今日がいいんだ。明日はもっと辛くなるかもしれないんだから、今日を感謝して生きなくてはと、自分に言い聞かせるようになったんでしょうね。明日、もっと辛いことが起きても、それを受け取る覚悟を今日からしておこうということなのかしらね。」その方の置かれている場所、その方の生きている時間の重さを、その重さそのままには理解できないまでも、いつの日か自分の思いとしてかみ締める時が誰にもくるのだと、私はしっかりと心の中に収めました。そして、次の週も、次の週もその方にお会いしたいと心から思いました。「そのとき・その場」に身を置かなくてはきっと本当に分からないことがある。それは健常者が障害者に対しても言えること。若者が老人に対しても言えること。健康な者が病弱の者に対しても言えること。天才が凡才に対しても言えること。裕福なものが貧困なものに対しても言えること。この世の中のすべての人間関係の中に存在する最も大きな壁なのかもしれません。
2002年06月03日
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「あ~あ、失敗してしまいました・・・」と、ほんとに気落ちをなさった様子で中年の女性がいらっしゃいました。「ひごろ、年寄りの介護をしていて、なかなか自由な時間が取れない生活をしています。遠くに住む息子夫婦の家庭とも疎遠にしています。たまたま家族の法事で妹が訪れたので、ほんの一晩でしたが留守を頼んで息子の家をたずねました。孫たちと会うのは2年ぶりのことでした。子どもが大きくなるのは早いものですね。」「孫は男の子が二人で、上は幼稚園の年長さん、下は今年入園したばかり。その男の子二人のにぎやかなことといったら・・・」「私を歓迎してくれる気持ちだと思うのですが、外でお食事をしました。その食事は私たち家族と、もう一組の家族が個室のようにしきられたところでいたしました。その時ねぇ・・・」「私は自分の家の中でどんなに暴れてもそれはいいと思うんですよ。でもね、人様にご迷惑をかけるようなところでの騒がしさに正直いって、身の縮むような思いをいたしました。」「お嫁さんのいない時間に私は息子に言いました。躾は大事な親の仕事ではないかと。その時息子が言いました。やっぱり、一緒には暮らせないな。」「ああ、言わなければよかった・・・と、私は思いました。又遠く離れて住むのだし、ほんの一日だけの逢瀬だったのだから、お互いにいやな思いをしなくてもよかったのに。」『子どもは王様』というコマーシャルがはやったのはいつごろだったでしょうか。少子時代になって、子どもは王様の地位を獲得しました。親は召使です。子どもは叱らない。子どもはほめて育てる。子どもも一つの人格として尊重する。確かに20歳になっても食堂で騒ぎまわる人はいないのだから、子どもは躾けなくてもいつか大人になっていくのでしょうが、でも・・・と、その女性は肩を落としてしまいました。その場に居合わせたのは、その方と同じ年齢の方ばかりではなく、その方の息子さんと同年代の方も、あるいはお嫁さんの立場の方もいらっしゃったので、今夜は会話がすすむと言うことはありませんでしたが、それでも、それぞれの立場で、もう一度何かを考えるきっかけにはなったように私は感じました。それはどこに根拠があるかと言われたら、そう、その方が最後におっしゃった次の言葉かもしれません。「批判したり、評論したりするだけではだめですよね。私は離れて住んでいて、目の離せない老人を抱えていて、息子たちの生活とあまりにも遠い。そんな私が突然訪れて子育てへの危惧など語っても、そんな言葉が息子の耳に届くわけはないんですよね。私は帰ってきてから孫たちが好きだったベッツというお菓子をいろいろ買って送りました。孫たちがそのお菓子を好きだということだって、今の今まで知らなかったんですもの。」その方が台所の隅っこで、お孫さんたちと頭を寄せ合って、ベッツというお菓子をケースに詰めて遊んだのがどんなにか楽しかったのだろうと、私は思いました。そして、その方がベッツを探して送るのは、お孫さんのためではなく、かってはご自分の心の中に住んでいた息子さんへの思いなのではないだろうかと、なぜか胸が熱くなる思いでした。
2002年05月26日
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いつもお茶を飲みに立ち寄るお店でプチトマトの小さな鉢植えを頂きました。添えられたメッセージカードには「今日はお店の誕生日です。どうぞこのプチトマトを大切に育ててやってください」と書いてありました。すてきなお店だなあと感動をして、家に戻り、さっそく説明書に書いてあるとおりに種まきをしました。栄養のありそうな腐葉土が入った袋と、小さな種が4粒入った袋がついていました。種を植えて一ヶ月以上も変化がなくて、どうもその腐葉土があまりにも水はけが良過ぎて、保水をしないのが悪いんじゃないだろうかとか、水遣りが乱暴で種が動いてしまったのかもしれないとか思いながら、日当たりを探してはその小さな鉢を移動させていました。種を撒いた時期が早すぎたのか、説明書に書いてあった時間よりずっと長い時間がかかって、ひょこんと芽をだしてきました。4粒入れたはずなのに、芽は二つ出てきました。毎日、目に見えて成長してきました。毎日、それを見ながら、一番最初に読んだ説明書がチラチラと頭の中に浮かんできました。「芽が1センチくらいになったら、1本だけを残して他の芽はつむこと」あっという間に1センチを越していきます。どうしよう・・・。間引きをしなくては・・・・。でも、いったいどっちの芽を残してどっちの芽をつんだらいいのだろう。4粒の中で生命の芽を芽吹かせた二つ。その中からまた片方を選べというのは酷だなあと思いました。そのうち二つの芽はまたまた伸びてきました。・・・そして、ついに私は二つのうちに一つを抜きました。いろいろと、なんだかいい人ぶって、迷ったふりして、優しい人を装って、でも私が抜き去ったのは2本の内の貧弱なほうでした。まさに、まさに、間引きをしました。より強く、より大きな果実を期待して、私は必死になって生まれてきて、必死になって生きてきた1本を抜きました。生き残った苗は、毎日ぐんぐんと成長し続けています。私は偽善者だと居直りながら、毎日お水をあげています。
2002年05月18日
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「ねえ、うさぎとかめの話しって、どんなにのろまでも放り出さずに努力すればうさぎにだって勝てるってはなしだよね。」「そうそう、それからもう一つ、どんなに足が速くても慢心したり怠けたりしたら、かめにも負けるぞっていうことなんでしょう。」「けどさあ、この話しって、今の世の中には通用しないよな。」若者たちのグループがわいわいと話し合っています。「ほんとにそうかもしれませんねえ、いくら努力したって、努力だけでどうなるという世の中ではないのだもの・・」と40歳代の男性。「うさぎに生まれた人の人生と、かめに生まれた人の人生は、もう生まれたときから決まっているみたいなもんかもしれませんねえ・・・」と60歳代の女性。「運命って絶対にあると思うなあ。かめがうさぎに勝つなんて千載一遇の奇跡みたいなもんですよ」と30歳代の男性。「あらあら、千載一遇なんて言葉、よく知っていること・・」と茶化したのは先ほどの女性。「へへへ、オレ、恥ずかしいんだけど世間では秀才の誉れ高き大学の出なもんで・・・」と、定職もなくアルバイターで日銭を稼いでいる男性の応酬。あちこちでにぎやかに繰り広げられる話を聞いていた、出版関係の仕事をしている男性は誰にともなくつぶやきました。「うーん、そうなんだなあ。昔話はまさしく昔の話なんだろうな。昔話は、この厳しい時代の人々の心に届かないんだろうな。昔話を書き換えることは出来ないけど、新説・うさぎとかめというような、なにか新しい解釈の出来る糸口が必要かも知れない・・・」そのとき、思いがけない人が思いがけない発言をしました。「あのぉ、私、小さいころからうさぎとかめのお話しが大好きでした。どれだけこのお話しに励まされてきたかわかりません。ねえ、かめはうさぎに勝つことが目的だったのかしら・・・・努力は勝つためのものだったのかしら・・・。結果としてかめはうさぎに勝ったのだけど、かめはきっと自分の生まれてきた道を、自分の足で一生懸命歩いただけのような気がするんだけど・・・・」お説教がましく年配の人がしたり顔に言ったのではなく、その女性が発言したことで会場はうろたえました。その女性は生まれながらに足と腰の骨に障害があって、何度も何度も自分の人生設計の修正を否応なくさせられてきたことをみんな知っていたからです。努力することは勝つためではなく、ただ自分のいのちを生きるためだという、その女性の明るい顔を見ながら、私たちはみんなふっとわれに返った部分がありました。そして、一つの前向きな言葉がその周りの空気を変えるように、投げやりで、悲観的で否定的な言葉は、もしかしたら同じようにその周りの空気を腐らせていくに違いないと、みんなは思いました。「・・そうか。出してみようかな。思いっきり古典的な、思いっきりこの時代に逆らった正統派の教訓集を。もしかしたらどこかに奇跡を生むかもしれない・・・」くだんの出版関係者は、心なしかうきうきとスキップをするような足取りで会場を出て行きました。
2002年05月04日
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「We are the world」アメリカのスーパースターミュジシャン45人が一堂に会して、アフリカの飢餓救済のために、歴史的なボーカルセッションを行ったことを覚えていらっしゃる方は多いと思います、あの出来事はすでに17年前のことだったと知るとき、今の時代がまるで計測不可能なくらいのスピードで動いていることを改めて感じます。私たちはあの歌声が街中にながれるのを聞きながら、なんだか気持ちが高揚するのを覚えていました。こんなすごいことが人間には可能なんだという勇気と希望を与えられたのです。「今こそあの声に耳を傾けるんだ 今こそ世界が一丸となる時だ 人々が死んでゆくいのちのために手を貸す時がきたんだ それはあらゆるものの中で最大の贈り物 これ以上知らん振りを続けるわけにはいかない 誰かが、どこかで変化を起こさなければ ・・・・すべての人に必要なのは愛なんださあ今こそ始めよう 選ぶのは君だ それは自らのいのちを救うことなんだ 本当さ、住みよい世界を作るのさ 君と僕で・・・ 心が届けば支えになってあげられる見放されてしまったら、何の希望もなくなるものさ 負けたりしないと信ずることが大切なんだ 変化は必ず起こると確信しよう 僕らがひとつになって立ちあがればいいんだ」この「We are the world 基金」は17年後の今もしっかりした理念と奉仕のもとに、世界中の善意を一つにしてアフリカの救済にあたっているということです。アフリカは救われたのでしょうか。この世界はさらに深い闇の中へと突き進んでいる現実を私たちは知っています。でもこのムーブメントは地球上のあちらこちらに、自分たちにも何かができるにちがいないと思う力を与えているように感じます。答えを考えることより、行動すること・・という、愛と情熱が純粋に動いたあの出来事を、私たちが一つの時代のモニュメントにしてはいけないのだと自覚して生きるとき、きっと私たち自身の周りに小さな変化を生みだすに違いないと信じます。「We are the world」 これはすべての障害を超えて、いつの時代においても真実でなくてはならない尊いテーゼだと、この運動を起こしたアメリカの音楽プロジューサーが言っています。
2002年04月26日
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「ああ、ぼく ショックです・・・」と、30代の半ばと思われる男性がため息まじりに言いました。「みなさん、ご覧になりました? あのアポロ11号の月面着陸は捏造だっていうテレビ番組・・・」「僕はあのアポロ11号の年に生まれたんですよ。母が僕の一番最初のアルバムに、その日の新聞をはさんでくれてありました。あなたは人類の偉大な第一歩と共にこの世に生まれました・・・なんて、すごくかっこいいコメントがついていましてね。僕は大きくなってからも、その新聞を取り出して眺めるのがとてもうれしかったんです。なんだかそのたびに自分が月に降り立ったみたいに感動をしていたんですよ」「ああ、それなのに。いやだなぁ。なんだか足元がぐらぐらします・・・」さあ、周りにいたおじさん、おばさんたちは大変です。だいたい彼のそのおかあさんと同年代の人が多かったので、いろんな意味でみんなも大ショックです。テレビを見た人も、見なかった人もこぞって言いました。「そんなこと、よくあることですよ。なんだかんだといちゃもんつけて、テレビが視聴率をとるためによくやる企画ものってやつですよ」「う~ん、僕もそう思いたいですよ。でもなんだか恐ろしいなと思うんです。今はコンピューターでたくさんのことが解明できる時代ですからね。月という無重力の世界で、宇宙飛行士が立ち上がる速度と、そのときに背中から落下した物体の速度が合わないとか、そのほかにもいっぱいの謎が説明されたのを見ているうちに・・・・ね」この番組の意図がどこにあるのか分かりませんが、ずいぶんひどい番組だと思いませんか。興味本位に作られたものだと思うほか納得が出来ません。もし、そんな疑いが実際にあるのなら、世界が黙っているはずはありません。世界の歴史を30年以上も前にさかのぼって覆すことが本当にできるのかどうか、科学のメスとやらを見守っていきたいものです。人類の偉大な第一歩と共に、この世にその命の第一歩をしるしたことを、彼のおかあさんは彼に正確に伝えるために、新聞をアルバムに差し挟んだのです。あのアポロ11号と共に成長し、夢を育み、宇宙への冒険に人生をかける人たちがそのテレビをみたら、怒るのでしょうか。笑うのでしょうか。泣くのでしょうか。おじさん、おばさんたちによってたかって励まされたその男性は、やっといつもの笑顔を取り戻してくれました。そして私たちはその夜、白ワインで乾杯しました。グラスに注がれた白いワインはゆらゆらとゆれて、まるでむらくもの中のお月さまのようでした。でも・・・・・と、居合わせた人たちの心は決してすっきりと穏やかではなかったことでしょう。この世の中には多くの謎があることを誰もが知っているからです。真実・・・それが一番の謎なのかもしれません。
2002年04月18日
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「70年に近く生きてきたのに、世の中には知らないことがたくさんあるんだなあと・・・・・」沈痛な面もちで口を開いたのは白髪が美しい女性でした。 「最近テレビで「性器割礼」という言葉を聞きました。あまりにも衝撃的なことだったので、なかなか口に出すことができませんでした。もっとよく知りたいと思ってインターネットで探してみましたら、多くは興味本位のものだったので、私がテレビで見たことを少しでも口にだすことで、知らなかった世界のことを心に留める人がいるかもしれないとおもいまして・・・・」「そのテレビは教育テレビの「未来への教室」という青少年向けのものでした。アメリカの子どもたちに1人のスーパーモデルが語りかけます。彼女はソマリア出身です。イスラム教徒の中に今もある男子の割礼の儀式は、よく知られることですが、その割礼が女子にも施されているという実態を知るものは多くはないでしょう。それはアフリカから移民してきたアメリカのイスラム教徒の中に、今現在でも行われています。性器割礼というのは、女の子が生まれたらその性器を切りとり、排尿に必要な部分だけを残して縫い合わせるというものだそうです。何のために?その伝統的な文化の初めはきっと宗教的な儀式だったのでしょうが、そのことによって失血や感染などで死亡するものが多く、廃止運動を積極的に進めてきた運動体があって、彼女もその1人です。女性の純潔をまもるということで続けられてきた習慣のようですが、子どものころに有無を言わせず執刀されるだけでなく、かなり成長してからも行われることがあるとのことです。その恐怖から逃げる女性も多くなり、彼女もその1人です。彼女はアメリカの中のソマリアの女性たちに対して、この性器割礼についてどう考えるかを、子どもたちと共に聞き取り調査を始めます。けれど多くの女性は顔を伏せ、ショールで隠して逃げるように立ち去ります。みんな自分が受けた理不尽な人間無視の行為に対して、深い深い傷を負っていることが分かります。そのスーパーモデルの女性の勇気ある行動は、この世の中に存在するいわれのない差別と虐待の実態の一片を広く知らしめてくれました。こんなことが、私たちの生活するこの世界の、この時代の中にきっとたくさんあるのだろうと、戦慄する思いでした。」ここまでのことを話されたそのご婦人は精も根も尽き果てたように疲れた顔をして肩で息をされました。その場に居合わせた私たちもまた、言葉を発することができませんでした。それはそういう恐ろしいことが存在するということへの恐怖であると共に、私たちがいかに何も知らずに生きているかということへの、堪らない罪悪感のようなものに押しつぶされたのだと思います。この話しはあまりにも大きなことで、かいつまんでお話しするようなことではないと思いますが、自分の身の回りの小さな世界の中で、泣いたり笑ったり怒ったり悲しんだりしている私たちの心に小さな風穴を開けることが出来たらと思って書きました。最後に、スーパーモデルと話しをした子どもたちが言った言葉を書いて終わります。「僕たちはあらゆる体験を声に出すことで、犠牲者ではなく勝利者になろう」
2002年04月10日
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「たとえこの後100年生きたとしても、私はこの一瞬を忘れないだろう」という文字を、まさに「その一瞬」に書き残した人がいます。 それは広島に原子爆弾を投下する役目を負わされた、1人のアメリカ空軍兵です。 なんという苦しい一瞬だったのかと、私はその言葉の重さにふるえました。 世界中の人が、あの広島・長崎の原爆に対しては被害者です。そして、加害者はアメリカです。その中でも、自分の手で軍機を操縦して広島上空にたどり着き、その指で爆弾投下のスイッチを押した人がいる。その当事者がいるということは容易に想像はしていても、その人本人がその瞬間に文字にした言葉を目にすることになるとは、きっと誰も予想していなかった出来事ではないでしょうか。 その出来事は、あるオークションで、その人の日記が競売にかけられたときに起こりました。原爆投下の張本人の日記です。 私たち日本人は原爆の唯一の目撃者であり、直接の被害者です。そのことの肉体的・精神的な後遺症はいまもなお続いています。 しかし、この人の日記を私たちは人ごととして読むことが出来るのでしょうか。私は絶対この人のようなことはしないと言いきる人がいたら、私はその方にお会いしたい。人間は誰もみな同じです。加害者と被害者の区別は、ただ、たまたまその立場におかれたからだと思いませんか。 いつもは無口な老齢の紳士が、今夜は珍しく頬を紅潮させて話してくださいました。きっと、この方も戦争で傷を負ったかたなんだと、私たちは思いました。 そして、この100年生きたとしても、この一瞬を忘れることはできないという、あまりにも重い人生を生きた人のことを、あたかも歴史上の人物のように思ってしまう自分自身の傍観者的な感覚を、深く恥じた夜でした。
2002年04月01日
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テレビを見ていたら、余白の多い映画という言葉を耳にしました。その映画はどんなタイトルだったか聞き漏らしましたが、なぜかこの言葉が耳に残ってしまいました。余白の多い映画ってどんな映画なんだろうと、ずっと思いをめぐらせています。「余白を読む」という言葉に、物悲しさと切なさと、なんともいえない情緒を感じたのは、もしかしたら文字よりも余白に希望を託さなくてはならない手紙を受け取ったときだったかもしれません。こんなことを書いてあるけれど、これはあの人の全てではない。こんなことを書きながら、あの人はきっと心の中で泣いているに違いない。言葉と言葉の間、余白にはあの人の言葉にできない本当の思いが込められているに違いない・・・・。そんなはかない希望を託して、懸命になって余白を読もうとしていたときを、その「余白の多い映画」という言葉で鮮やかに思い出しました。この「余白を読む」という言葉も多分死語になりつつあるように感じます。最近はe-mailが手紙の代名詞のように使われるようになりました。「手紙ちょうだいね」は「メールちょうだいね」という意味に使われるようになりました。そして、そのメールには自分で自分の書いた言葉に(笑)とか、(涙)とか、(怒)など、自分の感情を言葉で付け足すようになっています。余白どころのさわぎではありません。全部表現しなくては心配なくらい、言葉の文化は衰退してきているのでしょうか。日本語の美しさ、表現の微妙さ、漢字とひらがなで、思いの違いを表現しようとする細やかさ。そういう言葉の文化はe-mail世代には引き継がれることはないのでしょうか。もう何年も前にはやった歌の一節です。「寂しくなったら手紙を書きます。涙で文字がにじんでいたら、分かってください・・・」e-mailは決してその文字が涙でにじむことはないけれど、人の心はそんなに変わっていないのかもしれない。今の若者も切ない恋ごころを、にじまないメールの文字で伝えたくて、言葉のあとに(涙)と書くのだろうかと・・・・いまこれを書きながらふと思いました。
2002年03月24日
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「息子が第一志望の大学に受かりました!」にこやかにはじけるような笑顔で、中年のご夫婦が入っていらっしゃいました。おめでとう、おめでとうの祝福がこだまして、一緒に祝ってくださいとお持ちになったきれいな赤ワインで、ひとしきり乾杯をしました。「そんな季節なんですね」と、みんな自分のことや、子どもことや孫のことなどを思い出しました。「私のころは合格通知が電報できましてね」「はい、はい、私もそうでした。」「えっ?電報ですかぁ?」と若者。「そうだよ。電報でね。その学校学校で、合否の言葉が暗号のように決まっていたんだと思うよ。合格なら『サクラ サク』不合格なら『サクラ チル』というのが一般的だったというお話しに、若者たちはびっくり仰天です。「オレのかあさんは、オレの高校の発表の時に、早く知らせようと思っても公衆電話に長い長い列が出来ていて、気持ちばかりがあせったと言っていたっけ」「私も娘の発表を見にいって、そのとき娘は落ちていたんですよ。それを知らせるために公衆電話に並んだけれど、周りが浮き立っている中で、一人だけ暗い顔をしているのがなんだか惨めで、自分も合格組みですとばかりににこにこしようとして、思わず涙がこぼれそうになったことがありました。」今は・・・・と、みんなが思いました。今は携帯電話をほとんどの人が持っているから、公衆電話に並ぶ人も少ないのだろうなと。そして、一日中、身体を固くして電報を持ってきてくれる郵便局の自転車の音を待つこともないんだなと。時代とともに、文明の発達とともに、たくさんのことが過去の風物詩になっていきます。「不合格」という3文字ですむ事柄を、さくらの花に託して伝えようとした日本人の優しさや、娘の心の痛みを少しでも小さくするための言葉を捜しながら、長い行列を待つ母親の思いなども、遠くにかすんでいくのでしょう。いくつになっても、春爛漫のサクラ吹雪の下で、『サクラ チル』の文字を読んだ時の自分自身を、甘酸っぱい思いで懐かしむ人の数も、少しずつ少なくなっていくのでしょう。東京にサクラ開花宣言の出された夜でした。
2002年03月16日
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「今日は死ぬのにもってこいの日」という本を本屋さんでみかけたんですよね。どういう意味なのかなあと、二十歳になったばかりのお嬢さんが聞きました。周りにいたのは中年を過ぎた方たちが多かったので、そのお嬢さんに誰がなんと答えるのかを、それぞれに考えてしまいました。だって、簡単に答えられる質問ではありませんものね。「私の父は96歳で亡くなりましたけど、晩酌のビールを飲みながらの父の口癖は、ああ幸せだなあ。この幸せの時に、ぱっと死ねたらなあ・・・というものでした。父を見送ったあと、母を介護しているんですが、母はこういうんですよ。幸せだから死にたくないって。そうして、92歳になる母はお乳の形がおかしいから癌ではないだろうかとか、夕べはトイレに何度も起きたから、何か病気じゃないだろうかなどと、毎日「じっくりと心配」をしながら生きています。」こう話してくださったのは、ご両親を引き続き介護していらっしゃる年配の女性でした。みんなは、自分はどっちだろうと考えました。幸せの時に死にたい。それが一番の幸せだと思うのか、幸せだから死にたくない。死なないように病気を見過ごさないようにしようと思うのか。自分がどう考えるかは、自分の死をある程度射程距離に置いたときでなくては、単なる言葉遊びになってしまうことでしょう。その年配の女性は続けました。「お嬢さん、あなたは自分にも死ぬ日がくるなんてことを考えたこともないでしょうね。それでいいんですよ。それは考えなくてもくるんですもの。そして、一人の人の死は、きっとその人にとってもってこいの日なんですよ。死ぬ日を決めることは誰にもできないんですものね。生まれてくる日が決められないように、死ぬ日も自分では決められない。その人にとって、もってこいの日に、人は死ぬんですよ。きっと・・・・」何年も引き続いてのご両親の介護で、いつも疲れていらっしゃるその女性は、一週間に一度ほんの1時間ほど顔をお出しになって、心をほっと解きほぐして、またそそくさとお帰りになります。幸せの瞬間に死にたいとおっしゃっていたお父上の死、幸せだから死にたくないとこの世に執着なさるお母上。人間がどのように願おうと、そのどちらにも訪れる公平な死を見届ける女性の言葉は、なにかしら悟りにも似た安心感を聞くものたちに与えました。この話題を持ち出したお嬢さんは、あらあら、もうすっかりその輪の中から抜け出して、今度は流行のブランドバッグの話題で仲間と盛り上がっています。今日はワインを楽しむのにもってこいの日かもしれません。
2002年03月08日
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ああ、外は雪になったんだとみんなは思いました。春の雪なのできっと大きくて重くてゆっくりゆっくりと降りているのでしょう。きれいな若いお嬢さんが、鮮やかな紅色のストールを頭から巻いて入っていらっしゃいました。もうかなりワインを召し上がった白髪の男性が、微笑みながらお嬢さんに声をかけました。「君の名は?」「・・・・?」会場にいた人たちの半分くらいは、その男性が思わず声をかけた思いを理解しました。やはり白髪の女の方が、きょとんとしているお嬢さんに、とりなすようにして言葉をつなぎました。「昔、昔の映画なんですよ。きれいな恋のものがたり・・・。でも、哀しい恋のものがたり・・・。その主人公のお嬢さんが、あなたのようにマフラーを頭から首に巻いていたの。お嬢さんの名前は真知子といったわ。そうそう、男性は春樹さん。二人を引き裂いたのは戦争だったの。あなたはきっと学校の歴史でお習いになったでしょうけど、第二次世界大戦という戦争でした。」初めに声をかけた男性がつぶやきました。「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓うこころの哀しさよ・・・・」若い方がたにはなんのことだか分からなかったようですが、年配の方々はそれぞれにかみ締める哀しさがあるのでしょう。しばらく静かな沈黙が流れました。私も時々この「忘れ得ずして忘却をしなければならない哀しさ」で心が壊れそうになることがあります。そんなとき、「全てを選択」して、「消去」のキーをぽんと押してしまえたら、どんなに楽だろうと思います。でも生身の人間にはそれが出来ません。消去したつもりでも、最後の「ごみばこ」の中にはそっと隠しもっているのが人間かもしれません。ごみばこの蓋を開けないようにして、何年も何十年もたったら、ごくごく自然にその哀しみは形をかえてくれるのでしょうか。ごみが堆肥として生まれ変わり、他の命を育てる力をもつように、私たちの哀しみも形を変えてこころの肥料になる日がくるのでしょうか。「君の名は?」と尋ねられた美しいお嬢さんは、その場の空気を読み取る優れた力をお持ちでした。「春樹さん、お会いできてよかったわ。私の名前は真知子です」と春の花のようにさわやかに微笑んでくださいました。年をとってたくさんの感動や夢を見る力を失って、遠い昔話しか出来なくなっている私たち老年組は、この会場に来てくださる若い方々に、いつも希望を与えられます。どんな時代になっても、若いしなやかな感性が命を引き継いでいくことを、教えられるからです。今夜も素敵な夜でした。若い春樹さんと真知子さんは、戦争という抗し難い哀しみに引き裂かれることなく、大事な愛を、大事な命を生きつづけて欲しいと心から祈った夜でした。
2002年02月28日
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「今日は父の命日なので、父の好きだった『きんつば』をお持ちしました。ワインには合いませんけど・・・」とおっしゃって中年の女性がきんつばを差し出しました。きんつばをご存じない方が多いかもしれませんね。私も作り方は分からないのですが、甘いあずきを固めて表面を軽く焼いた和菓子です。私はそのきんつばを1センチくらいの小さな角に切って、癖のないクリームチーズと一緒にかわいいピックに刺してお出ししました。「え~っ、これなんですか?」と躊躇していらした若い方々が、あずきの食感とほのかな甘さが、塩気のきいたチーズと溶け合って、思いがけずワインによく合うと喜んでくださるのをご覧になりながら、その女性が亡くなったお父上を偲ばれるように話されたことが、こころに残りました。「父は96歳で天に召されました。若いころは仕事一筋だった父ですが、職を退いてからは在職中の夢だった晴耕雨読を楽しんで長寿を全うしました。私は離婚をして実家に戻っていたので、晩年の父の介護をするのは私の生き甲斐でもありました。病院をきらった父を、最後の最後まで在宅でと決意をしていましたが、最後の数ヶ月はかなり大変でした。老人の誤嚥による肺炎に加えて、体力低下で帯状疱疹がひどくなり、とうとう専門家の手を借りなくてはどうすることも出来なくなり入院をさせました。」「でも・・・・・」と、その女性は目を閉じて言葉を捜すふうでした。「でも、私は父をあの時病院に入れたことが本当に父のためだったと思う気持ちにかげりがあります。入院した途端、父は人工呼吸器をつけられ、導尿の管を入れられ、切開点滴につながれました。尿の出が悪くなると出をよくする薬を。血圧が低くなると高くする薬をと、あらゆる症状に対して治療が始まりました。」「苦しくても最早声を出すことも出来ません。父は身をよじりながら苦しみ、弱い視線ながら、私の目を捉えて離しませんでした。私は元気な頃から父と交わした会話がこころを占めていました。無駄な長生きはさせないでくれと父の目が私に必死に訴えていました。」「私は父が尊厳死協会の会員であることを主治医に話し、延命処置はとらないでくださいとお願いしました。けれど、医者は、これは延命ではなく救命だと答えました。」「父は3週間苦しみました。3週間たったとき、私は一切の投薬を拒否し、父は静かに眠るようにして逝きました。終わってみるとたった3週間の地獄でしたが、あの3週間が本当に必要な時間だったのかという疑問は残ります。今でも私は訴えるような父の目を思い出して心が痛みます。」延命と救命の線はどこで、誰が引くのでしょう。これは経験したものがみな等しく悩み苦しむところだと思います。医者はモニターの数値しか見ない。家族は愛する肉親の今この時の苦しみを見続けることが出来ない。答えはきっとありません。その女性の話は、年齢にも性別にも、お金持ちにも貧しいものにも、公平に訪れる自分の死をほんの少しでも現実のものとして考えるひと時となりました。更に年老いた親や、愛する者たちとの別れが必ず来ることにも思いを馳せました。「帰ったらおかあさんに優しい言葉をかけようと思います」と、茶髪の若者が挨拶した素直な言葉に、みんなも素直に感動をした夜でした。
2002年02月20日
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随分春めいてきました。もう南の方では菜の花や梅の花が咲き始めていることでしょう。「アフガニスタンも暖かくなってきたんだろうか・・・」20台の若い男性がそう言いました。それぞれの仲間たちとの話題に花を咲かせていた人たちは、一瞬その会話を止めました。誰もがアフガニスタンのことを忘れてはいませんでした。特にオリンピックの開会式が、嫌でもあのテロ事件の記憶を甦らせていた時です。でも、みんなが一瞬ひるんだのは、その話題を持ち出したのがこの会場で一番若い人だったからです。今どきの若者は・・・などと、若者を定義してしまう感覚に慣れてしまっていた私たちは、この浮世離れをした楽しい空間の中で、アフガニスタンに春がきたかどうかに思いを馳せることの出来る若者に少なからず畏敬の念を抱きました。遠い国の遠い人のことを想像することの出来る力は、愛というつかみ所のないものに頼るしか方法がありません。目の前の目に見えるものを心配したり励ましたりすることは容易なことです。でも私たちは五感に支配される生き物です。一度も見たことのない人のことを想像する力は、なかなか持てるものではありません。その若者がどんな思いでアフガニスタンのことを想像したのかは分かりません。でも、彼のその一言は、そこにいた人たちみんなの心に、なにか大きな力を与えました。ある人は訳あって別れた人のことを思ったことでしょう。どこで、どうしているのだろう。どうか、元気で幸せに暮らしていて欲しい。ある人は遠くに嫁いだ娘のことを思ったことでしょう。今夜はあの子に電話をしてみよう。ある人は今は亡き父親のことを。ある人は最近疎遠でいる友人のことを。ある人は昨日見かけた車いすの人を。想像力は愛だと教えられた日のことを、私も思い出していました。愛がなくてはどんな小さなことも想像することはできません。行ったこともないアフガニスタンの厳しい冬。飢えと貧困で凍えている難民。それはどこまでいっても想像の域をでないことです。私たちは暖かい部屋の中で、ワインを飲みながら談笑をしています。でも、暖房のきいた部屋のなかにいて、人生の中で一度は経験したことのある「寒さ」と「飢え」を自分自身のものとして甦らせることができたのは、ひとえにその若者のおかげでした。無力な人間の自己中心的な生き方のなかで、自分以外のものや、ことや、人のことを僅かでも想像することが出来たら、この殺伐とした時代を生きる私たちの人生に、ささやかでも力強いともしびがともることでしょう。いつもより早めに、みんなは引き上げて帰りました。からになったワインのボトルもいつもの半分でした。
2002年02月12日
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「もう何年も前に、星野富弘さんの『速さのちがう時計』という本を、頂いたことがあるんです。でも、私、その本をまだ一度も開いていないんです。」いつもどこか哀しげで、遠い所を見ているような感じの女性が、話し始めました。「その本、私が好きだった人からの贈り物でした。どうしてこんな本をくれるんだろうと、私は漠然とした不安を感じました。もうあの時、私たちの時間はずれ始めていたのかも知れません。」「心の時差のない関係なんてきっとないのでしょうね。ただ、その時差に気づかないようにしながら関係を保っているだけなのかもしれません。」「私、時々思うんです。あかちゃんを抱いているおかあさんは、あかちゃんの時計の速さに自分の全てをあわせることを無上の喜びとしているんだろうなって。自分の時計の速さを相手の時計の速さにあわせることが出来たら、きっとこの世に哀しみなんてなくなるのでしょうね。」「相手との時差に苛立つのは、そこに愛がないからなんでしょうか。あの時、彼が私に贈りたかったのは一冊の本ではなかったのかもしれないと思うこともあるんです。あの本に託して、感じ始めた心の時差を縮める努力をしてみようというメッセージだったのかもしれないと・・・・。」「でも、私は本を開きませんでした。開いたらこれで終わりだと思ったのです。結果としては開いても、開かなくても、私たちの関係は終わっていきました。お互いの時計の速度を変えることは出来なかった。」「自分の時計の速さを相手の時計の速さにあわせると言うことは、自分を犠牲にするとか我慢するということとは違うんだということに気づいた時は、もうおそかった・・・・。」この女性は、その本を贈ってくださった方をまだ愛しているのだろか。この女性がいつも見ている遠いところには、まだその方がいるのだろうかと、私は思いました。でも、それは違うように思います。この女性が見ている遠いところには、きっとどうしても捨てきれない自分自身。エゴという名の自己愛が、華麗な衣装を着、美しい仮面をつけて立っているにちがいない。たった一人の物語のヒロインとして立ちつくしているにちがいない。そう感じます。・・・私にも、同じような苦しみがありますと、声に出すことはしなかったけど、彼女の冷たい手をそっと握りしめて月明かりの中に見送りました。人間は哀しいけれど美しいものだと思いながら・・・
2002年02月04日
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[New York September11]という写真集をアメリカから取り寄せたので持って来ましたと言って、60台の男性がいらっしゃいました。それはあの同時多発テロの時に、繰り返し繰り返し、私たちがテレビの画面で見ていたものでした。でも、その写真集の中には、テレビの報道では見られなかった画像もたくさんありました。テレビという動画で見ることの臨場感は、私たちに多くの強烈な情報を一瞬にして与えてくれます。しかし、写真という静止した映像は、その切り取られた一瞬を浮き彫りにすることによって、その映像の何十倍もの情報を「想像力」という人間に与えられている能力によって引き出すものだということに気づかされます。この写真集は有名な「Magnum Photographers]という写真家集団によって記録されたものです。私がお金持ちだったら・・・・私はこの写真集を今この21世紀に生きている人たち一人一人に配って歩きたいと、その男性が言いました。決して忘れてはいけないこの事件の記録を、一家に一冊備えてほしいと、私も思いました。人間のつくったものはいつかは壊れる。それは真理です。けれど、このツイン・タワーの壊滅は、造る力と同時に破壊する力を背中合わせに持っている人間の底知れぬ恐ろしさを、思い知らされました。ツイン・タワーという世界に類を見ない繁栄の象徴がターゲットになったことで、私たち一人一人の人間は、自分とは直接に関係のない「テロ」の起こしたことだと、自分を観客席においているところがあるように感じます。けれど、破壊行為は自分自身の心の中にあるのではないか。毎日の生活の中で共に暮らす人の心を破壊する。自然体系を無造作に破壊する。それは「立派な」テロ行為です。ニューヨークの事件から、私たちは自分自身の心の中に存在するテロの不気味さを知りたいものです。今日よりは明日を。明日よりあさってを。どんなに些細なことでもいいから、常に平和を目標にした一日でありたいと、語り合った一夜です。
2002年01月27日
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いつももの静かに会場の隅で、ワインを片手に楽しそうに座っていらっしゃる初老の男性が今日は話しを始めてくださいました。「運命というのは、預けられた命を預け主にお返しする日までで、一生懸命運ぶことだと教えられた時から、私は肩の力を抜いて生きられるようになりました。」運命というのはどこか曖昧で暴力的で、納得できないものだけど、どうすることも出来ないから諦めて我慢して受け入れるものだと思っている私たちは、その方の言葉をすんなりと理解することも納得することも出来ずに、黙ってワインを飲み始めました。若者は率直なものです。「おじさん!それはおじさんの運命が、それほど大変な苦しみとか挫折とか、理不尽なものでなかったから言えるんじゃないの?運命は人間にはどうすることも出来ない宿命みたいなもんだから、みんな苦しむんじゃないか・・・」みんなはお腹の中で頷きました。「そうだね。そうだよ。運命は人間の努力で変えられるようなものじゃない。だから・・・だからさ。だから・・・・」「私は何度も、何度も自殺しようとした。戦争で自分だけが生き残った時。目の前で愛する子どもが車に轢かれた時。脳出血で倒れて会社を首になった時。女房が若い男と出て行った時。あの阪神の震災で瓦礫の下に閉じこめられた時。」みんなは声をのみました。このおだやかなおじさんの過去に耳を疑いました。「でもね。死ねなかったんだよ。死んだら楽になると思ったのに、死ねなかった。これが私の運命なんだと、運命を呪った。そんなときに、あの言葉を聞いたんだ。命を運ぶのが運命だとね。運びきるまで、私は生かされるんだとね。自分の命だと思っていたから、運命を呪った。でも、この命を運ぶのが私の人生なんだと思った時から、焦らなくなった。いつか授けられたこの命をお返しするときが必ず来るのだもの。ああ、ワインがおいしかった。ありがとう。お先に失礼しますよ。」少し足を引きずるのは脳出血の後遺症だったんだなあと、その方の後ろ姿をみんなで見送りました。その背中は、しゃんとしていて、りんとしていて、清々しくさえみえました。こんな夜はこれ以上言葉はいりません。おやすみなさい。
2002年01月19日
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阪神大震災から7年たちました。テレビは「復興」「復興」と神戸の復興を大々的に報道しています。近代的なビルが立ち並び、町並みが整備されている姿を見たら誰でも「よかった。よかった。立派に立ち直った」と安心して喜びます。特にあの被災地で救援活動をほんの少しでも手伝った人たちは、なんだか自分たちの奉仕が報われたような気持ちになって、これでもう安心だと神戸の存在を歴史の一つにしてしまいます。でも、本当に神戸は復興しているのでしょうか。今神戸の街を作り上げているのは、かってそこで生まれ、育ち、生きていた人たちではなく、神戸の外から入ってきた人たちだということです。だとしたら、それを復興というのでしょうか。それは復興ではなくて新興という方が正しいような気持ちになります。新しいものがどんなに素晴らしくても、失ったものの中にあった命が戻ってこなかったら、その喪失感は癒えることがあるのでしょうか。今日この日、テレビの画面の中に映し出される神戸の姿を、神戸とは遠く離れた土地で、深い喪失感をずっしりと抱えたまま見つめている目がどれほどたくさんあることかと思うとため息がこぼれます。そして、神戸の姿にニューヨークの姿がだぶり、手繰り寄せるように世界中の呻きが重いこだまとなって襲い掛かってきます。今夜は誰もが無口です。誰もがそれぞれにかかえている喪失感をいたわるように抱きしめて、その傷ゆえに、限りなく優しく穏やかなひと時を共にいるということだけで感謝できた夜でした。おやすみなさい。またお会いしましょう。
2002年01月17日
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2002・1・14舞踏会の会場ぬしが、体調を崩してしまいご来場のお客様にご迷惑をおかけしてしまいました。ごめんなさい。久しぶりに舞踏会開催です。この舞踏会は踊るのが楽しみというよりも、お茶を飲んだりワインを飲んだりしながら、いろいろおしゃべりをするのが楽しくていらしてくださる方が多いのです。そんなひととき、今夜の話題は誰かが何気なく口ずさんだ「愛のうた」にみんなが集中しました。『ぴくみん』というテレビゲームのコマーシャルで耳にした方がたくさんいらっしゃるでしょう。子どものゲームのはずなのに、この歌の歌詞がなんとも、なんとも、泣かせるというのが一同の一致した感想でした。『・・・いろんないのちが生きているこの☆で、今日も運ぶ、戦う、植える、そして食べられる。引っこ抜かれて、集まって、飛ばされて、でも私たち愛してくれとは言わないよ。力合わせて、戦って、食べられて、でも私たちあなたに従い尽くします。・・・』愛が裏切られて傷ついている人。リストラにあって社会を恨んでいる人。終わりのない努力に疲れて、虚しさを噛みしめている人。舞踏会に集う人たちはさまざまです。そんな私たちが、この小さな歌に素直に励まされました。食べられてしまうほどに報いのない戦いなのに、逃げ出したり恨んだりしないで従い尽くすという無償の愛。神さまじゃあるまいに、人間には考えられないことだけど、ほんのひとときでも、心を優しくしてくれたこの歌を、みんなで歌って、にこにこしながらお別れしました。「ぴくみん」というゲームがどんなゲームなのか、ほとんどの人が知らなかったのだけど、不思議な世界を想像させてくれました。今夜は無心に人を信じて生きていられた幼い頃の仮面をそっと取りだしてきて被って、仮面の下で涙をぬぐう私でした。
2002年01月14日
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今夜は不思議な舞踏会でした。 三々五々、集まった人たちはそれぞれに自由な時間を楽しんだ後、ティーテーブルの上にさりげなく置かれていた一冊の本の周りに集まりました。その本は「Little Tern」(リトル ターン)という本でした。 Tern というのはアジサシという鳥だと年輩の男性がみなに教えました。アジサシ?そんな鳥みたことないなあと若者が言いました。それで、その鳥がどうしたの?髪の毛をこまかく編み込んだきれいなお嬢さんが訊ねました。 誰が持ち込んだ本なのか分からなかったのでみんなでパラパラとめくってみました。それだけで読むに値する本のようだと全員が感じ取ったらしく、一人の女性が頼まれもしないのに朗読を始め、みんなは静かに耳を傾けました。 「この本は必ずしも多くの普通の人に読まれる本ではないが、飛べないことで悩んでいる人、急に飛べなくなって困惑している友に、そっと手渡したい」と、翻訳者のあとがきで朗読が終わったとき、そこにいた人たちはみなほ~っと深呼吸をしました。 生きることに疲れ、光を見失い、迷路の中で膝を抱えてうずくまっている自分の心をアジサシに重ねながら聞いていた人たちは、短い時間の中で焦りという怖れが癒された思いで、来たときと同じように三々五々帰っていきました。 きっと何人かの人は帰り道の本屋さんで、「Little Tern」を買ったことだろうと思います。 今夜は、自分がいい本だと思ったものを人目につきやすいところにディスプレーして、お客様の反応を嬉しそうに観察している本屋のおやじさんの仮面をかぶってみました。 おやすみなさい。どうぞまたいらしてください。
2002年01月05日
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