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芭蕉が処女句集「貝おほい」を書いた伊賀市の自宅にある、釣月軒釣月とは禅宗・曹洞宗の開祖で ある道元禅師の言葉に「釣月耕雲」というのがあり雲を耕し月を釣るという世俗を離れた心境を表していると思われます。「貝おほい」は芭蕉自身が編纂した、ただ一つの句集で江戸に出る前に地元の天満宮に奉納しました。版行は久しく不明でしたが昭和10(1935)年、天理 図書館が所蔵していると発表がありました。 地元に残っていないことを芭蕉生家の係員さんが残念がり不思議に思っているのを聞き、そういえば私の祖母も赤坂町に住み天理教の信者で昭和三十年代までは週一度集って拝んでいたことを思い出しました。赤坂町では天理教の信仰が厚かったのでしょう。そこで調べてみると天理教教祖の中山みき氏が1838年(天保9年)天理教を起こした大和国山辺郡庄屋敷村(現在の奈良県天理市三島町)は藤堂藩の飛び地領でした。そのため伊賀とも親交が持ちやすく普及したのだと思われます。松尾家は明治までこの赤坂町に住んでいたのでその代の人が天理教を信仰し寄進したと思われます。
2015年03月29日
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伊賀上野公園にある山茱萸(さんしゅゆ)の花半年ほど前に三重県上野森林公園の方に伊賀上野公園の(二つは別の公園です)樹木について説明を受けたのですがその時、山茱萸(さんしゅゆ)の説明もされたのですがどこにあるか記憶できずここ数カ月探していましたが昨日みつけました。バスなどの駐車場からまっすぐ登ってきた上野公園観光食堂の手前に咲いていたのですぐ分かりました。山茱萸は蓑虫庵の花ごよみでは2月の花ですが寒いこの地方では今が満開でした。稗搗節(ひえつきぶし)の♪庭のさんしゅゆの木♪は、この木のようです、私は庭の山椒の木だと思っていました。山茱萸の音読みが和名で葉がつく前に花が咲くので観賞に値します。茱萸とはグミのことで秋にはグミのような赤い実をつけるようです。そのため訓読みしてヤマグミとも呼ばれるそうです。 ちょうど咲いていた梅越しの山茱萸 山茱萸と梅
2015年03月23日
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元上野町長(現在の伊賀市)の田中善助の碑 田中善助翁顕彰碑 裏面 月ヶ瀬長引 要旨「 田中善助翁は 明治の上野市(現伊賀市)の実業家。 明治になり月ヶ瀬梅渓の衰退するを憂え私財を投じその保護対策に奔走された。 明治24年月ヶ瀬保勝会を設立、国名勝指定第一号の端緒を開かれた。保勝会創設100周年に当 たり翁の功績を顕彰のため当碑を建立する。」 と刻まれていました。 月ヶ瀬梅林は1922年3月8日 史蹟名勝天然紀念物保存法により金沢の兼六園・奈良公園ととも に日本政府が初めて指定した名勝の一つですがその背景には元上野町長の田中善助という保勝 の祖がいたのです。1892年(明治25年)当時の帝国議会に我が国最初の「風景保護」の請願をしたのは当時35歳の 田中善助でした。『三重県史』資料編によれば「風致区・名所区(社寺古蹟古墳墓)ヲ立ル事、土木大事業ハ風致区内ニ起工スヘカラサ ル事、風致区外ト雖トモ有名ノ樹石ハ切ル事ヲ禁スル事、風景ヲ損シ遂ニ国体ノ害トナル 可キモノハ漸次取払、若クハ改良ヲ為サシム可キ事」などと、具体的でした。法律は通りませんでしたが当時の三重県知事は「意見は非常に好い。……請願書のとおりには法律としては出ないが、そのうち何か形が 変わって出るだろう」と言ったといいます。そして、やがて有名な樹石や名所旧跡の保護、 古社寺保存という問題が出てきました。さらに、「私の一片の文書によって天下の世論を 動かしたとはいいませぬが、……いたるところに保勝会というものができ」たと田中善助 自身が語っています。(1944年発行『鉄城翁伝』)参考文献『月ヶ瀬村史』によると「上野町長を務めたことのある上野の事業家、田中善助は隣村の梅林を守るために 「月瀬保勝会」を発足させた。しかし村民の意識の低さからか、梅林の伐採はおさまらず、 月瀬保勝会の事業は頓挫した」とあります。今日の梅 寒冷地なのでまだ梅の花が残っています。満開を少し過ぎたところでしょうか。
2015年03月22日
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伊賀鉄道線路下の小田隧道(小田拱橋) 先日、伊賀学検定の受験対策セミナーの講師をされていた方ににメールで 「鍵屋の辻の北に有る伊賀鉄道のトンネルには名前は有るのでしょうか、 私はいがうえの語り部の会、会員なのですが先輩が質問された時、 「まんぼ」と答えたそうですがこれは、側溝または水路を指す東海地方の 俗称のようで固有名詞ではないようです。」 という質問をしたのですがその返信で 「伊賀鉄道鍵屋の辻北のトンネルは小田隧道で良いと思います。 さらに北に小田カルバートがあります。小田カルバートは人一人が 通れるだけの高さで、大きな延石をいくつか並べただけのトンネルです。」 というのをもらったので調べたら第二暗渠と書かれた市の資料があったので 行ってみたらありました。 小田カルバート(第二暗渠)左の修復されているのが第一暗渠 伊賀鉄道を支える石の橋で、大正8年(1919年)に架けられた長さ1.8mの石桁橋です。 鉄道用の石桁橋としては、全国で2例しかないそうで、貴重な石橋といえます。 カルバートとは土木用語で暗渠のことで水路がかくれた場合に言うようです、 ボックスカルバートとアーチカルバートがありこれはボックスカルバートですね。 小田カルバートと思われる、トンネルのすぐ北にくっ付いているようにある 暗渠、水路がありました。 あれが多分第一暗渠なのでしょう。ほとんど隠れていますが数十センチほど 道の上にみえます。最近修復されたようできれいになっています。 第一暗渠 そしてそのまだ北、数十メートルの所にまた道の上に線路が通っている所がありました セミナーでは、伊賀鉄道の下を通っている道は、小田隧道だけのように聞こえましたが あれを、カウントすると伊賀鉄道の道の上を走っている場所は 二カ所になりますがどうなんでしょうか。 線路下のトンネル? 2021年2月4日、伊賀市では4箇所の建造物 「上野市駅舎」「桑町跨線橋」 「小田第二暗渠」「小田拱橋」 が国登録有形文化財に登録されました。
2015年03月21日
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石垣南側から出発西側を通って北側に途中、伐採した雑木を拾い集めて西側には、1人で作業中の人が、よく分かりませんか。北側に回りましたが木が邪魔でした。画像は、5枚が限界なのでここまでで。伊賀上野城の石垣の積み上げ方は、打込接(うちこみはぎ)です。角々は四角柱の石を互い違いに組み上げていく方法で算木積と呼ばれています。算木とはそろばん以前に計算の道具として使われていたモノで、その後は占いで使われていたものです。この積み方で強度が増しそのため石垣は角を多くして西側に角を4か所作って有ります、これで400年持っています。伊賀上野城の石垣の高さは、約30m、水面からの高さは、26mとあり日本一を争う大阪城は、高さ約30m、水面からの高さは約24mとあります。水面からの高さは、いい勝負に成るのではないでしょうか。
2015年03月14日
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きょう12日、伊賀の城の石垣に自衛隊レンジャー部隊が出動しました。10日から作業していたようですが前日は、風が10m近く吹き中止だったようで今日が作業の中心になったようです。国史跡・上野城跡がある伊賀市上野丸之内の上野公園高石垣で久居駐屯地の陸上自衛隊、隊員約50人の協力で雑木の伐採作業が行われました。 この作業は高石垣の維持管理と景観保持が目的で、前回は2011年8月に実施され約3年半ぶり。高石垣の総延長は東側を除く三方で約320メートル、高さ約30メートル。津藩主の藤堂高虎が1611(慶長16)年に伊賀上野城を大改築したときに、高石垣を現在の姿に改修したと伝えられています。 隊員が登山用ロープを使い、下方の堀に向かって降り、石垣の隙間に茂ったフジやウルシをのこぎりなどで除去しました。 見る見るうちに真ん中の緑の木が無くなりました。 石垣の上に5人ほど見えて下の堀に舟が4艘あり石垣に20人ほど確認出来ました。 この作業をイベントに出来れば良かったのにと感じました。 写真はもう少し撮れたので編集してまた後日載せます。
2015年03月12日
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芭蕉翁生家です。明日案内するので行ってきました。 芭蕉は、寛永21年(1644年)この家で生まれました。 ここから15kmほど離れた柘植で生まれたという説も ありますがここで間違いないと思います。 間口が4間半(8,1m)で奥行きが30m以上ありウナギの寝床の ようになっています。 これは間口の広さによって税がかかる棟別銭のせいで3間で 一軒分の税がかかったようなので4間半は、1軒半分の税が かけられたのでしょう。 瓦に左三つ巴の紋が、松尾家の紋だと受付の方にうかがいました。 松尾家は平家が出自だといわれていますので調べたところ桓武平氏 高棟氏の紋がそうでした、高棟氏が出自なのか確証はありません。 文献に残っているかどうか調べておきます。
2015年03月09日
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「家はみな杖にしら髪の墓参り亅の句碑京都の松尾芭蕉の弟子、 向井去来が建てた落柿舎庵主さん若生小夜さんと飯野哲二さんの建てられたものです。後ろに彫られていました。語り部の会の人の先日の発表では、ほとんど小夜さんが資金を出されたようです。芭蕉故郷塚の前の寿貞さんの塚も小夜さんが建てられたとか自分と大学教授の飯野哲二さんとの関係と芭蕉と寿貞との関係に投影したのでしょうか。天津二(てつじ)小夜と彫られています。故郷塚の入口近くの瓢竹庵です。地元の篤志家、田中善助氏が永らく物置にバラして保有していた茶室の木材で昭和5年に建て、その後昭和35年に森本源吉氏が北側に待合室を建てられたようです。瓢竹庵の中にある芭蕉像。杉山杉風作と言われていました木彫りの像、どうやらそうではないようです。杉山杉風さんは、江戸日本橋、江戸幕府出入りの大店の魚屋で一番最初にやスポンサー弟子、になってくれた人で御子孫が女優の山口智子さんだそうです。
2015年03月06日
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新萬川集海発行記念、忍者シンポジウムに行ってきました。三重大学教授、忍者研究会、忍者の末裔の人達の出版記念のシンポジウムでした。忍者を学問的にリアリティを追究している本で興味深く参考になりました。語り部の会、会長さんらの特別研修会 落柿舎の庵主さんと、歌人、陶芸家の太田垣蓮月さんの研究発表会で個人の研究としては、深く掘り下げていて郷土史家の発表と言える会でした。伊賀市観光ボランティア研修会、にも行ってきました。市長、観光協会会長も参加した市内6地区を統合する会でした。市長の話で「伊賀は文字通り、鈴鹿の関より西にあるので関西」や大化の詔に「畿内の東限は名懇(なばり)の横河とする。」という説は市長がまだアナウンサーの時代に「伊賀は関西」というサイトを立ち上げていてそこに私ががメールした内容と一致していましたが、勿論、市長は以前から知っていた内容だったのでしょう。その証拠に返信はありませんでした。エンカルタ百科事典で知ったのであれはもう8、9年前のことでしょうか。そして伊賀学検定を受けました。初級なので、比較的簡単で問題数もすくないので、合格していると思われます。二週間で5回の会に参加したのでまとめるのが難しく取り留めなくなりました。
2015年03月01日
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