全3件 (3件中 1-3件目)
1

伊賀市上野恵比須町にある山渓禅寺の 藤堂正高の墓と伝えられています。藤堂正高は藩主、藤堂高虎の異母弟で初代伊賀城代家老、藤堂高清の弟です正高は徳川家康に大名の身内が人質に出された第一号ではないかと思われます。第一号の人質は、前田利家が母を差し出した時、慶長5年(1600)のこととされていますすが、高虎が弟正高を江戸に人質として差し出したのは、慶長4年(1599) 3月 徳川家康が伏見城西の丸に入って、諸将に帰国を命じたときとされているので第一号の人質は当時十一歳の正高だと思われます。まだ、関ヶ原の戦いがおこるかどうかもわからない段階で、なぜ高虎は人質を出したのでしょうか。おそらく、高虎は家康と三成とが戦いをはじめるであろうことを見通し、早くから、「自分は家康様のために働く覚悟です」とアピールするためだったのでしょう。 こうした高虎の行動を、「風見鶏」だとか、悪くいう傾向がありますが、これは、江戸時代の儒教的武士道徳が定着してからの評価で戦国時代は強い者に付くことは当然の選択だったのです。正高はその人質の間、家康・徳川秀忠に気に入られ、下総国内で3千石を与えられ、内匠助を称するように命じられます。1605年に高虎の息子・高次らが人質として江戸に送られたため帰国しました。家康より下総(千葉県香取郡神崎町)に与えられた3000石の地では今もその藩政を讃えた「下総国香取郡藤堂氏旧封邑之碑」が 建っています。藤堂新七郎家の墓、藩主高虎の従兄弟筋に当たり芭蕉が料理人として使えた家で嫡男、良忠とは共に京都の北村季吟に俳句を学びました。その藤堂良忠の墓芭蕉は主にこの良忠に使えましたが若くして亡くなり、芭蕉も料理人を辞めました。家督を継ぐ前に亡くなったので代々の墓ではなく独立したこの墓に祀られています。山渓寺境内 句碑「若水乃(の)玉と まろふをふゝむなる」右下作者名 米寿翁干柿杉森干柿(万之輔)初代上野市長
2016年01月25日
コメント(0)

1月16日にいがうえのボランティアガイド養成講座が始まりました。 かたりべガイドを募ったら27名の方が応募されました。 上野公園と城についてスライド説明をさせていただきましたが うまく出来たのかのかどうか。 これからあと4回、計5回の講座がありその後、活動する意欲のある方が 入会されます。
2016年01月18日
コメント(0)

夏見廃寺は、名張市にある7世紀末から8世紀前半に建立され、10世紀末頃に焼失した寺院です。大来皇女が創建した寺跡で寺号は分からないが夏見にあるので夏見廃寺跡と呼ばれています。天皇を弔うために建てたので何年かはこの近辺に住み、もしかしたら陵墓も発見されていませんが近くにあるのかもしれません。大来皇女(おおくのひめみこ、斉明天皇7年1月8日(661年2月12日) - 大宝元年12月27日(702年1月29日))は、飛鳥時代の皇族。天武天皇の皇女で初代斎王(さいおう)となりました。斉王とは伊勢神宮に巫女として奉仕した未婚の内親王(親王宣下を受けた天皇の皇女) で天武天皇が壬申の乱の戦勝祈願の礼として伊勢神宮に自らの皇女大来皇女を捧げたのが初代で、以後は天皇の代替わり毎に必ず新しい斎王が選ばれ、南北朝時代まで続く制度となりました。礒之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓「磯の上に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たお)らめど見すべき君が在りといはなくに」父・天武天皇の死去に伴って13年間務めた斎王を解任され、同母弟の大津皇子(おおつのみこ)は謀叛(むほん)の罪により処刑されるという悲劇に遭遇しました。 これは、嫡子草壁皇子を後継ぎにせんが ため、母である後の持統女帝が仕組んだ陰謀ではなかったかというのが通説です。 死の直前に斎宮を訪れた弟を見送った歌や弟の死の悲しみを詠んだ歌は万葉集の中でも名歌として知られ、万葉詩人としてもその名は後世に伝えられています。壬申の乱のとき大津皇子は高市皇子とともに大津にいたが2人の皇子は別行動をとり、高市皇子は鹿深を越えて6月25日に積殖山口で父に追いついた。鹿深(かふか)は甲賀、積殖は伊賀の阿拝郡の柘植である。大津皇子は遅れて鈴鹿関に着き、無事に合流した。史跡地図夏見廃寺展示館 この後ろに史跡が在ります。
2016年01月06日
コメント(0)
全3件 (3件中 1-3件目)
1