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城南五山を巡る山行記録、次は島津山(→→→こちら)です。高台に登るため緩やかな坂道になっています。現在の品川区東五反田1・3丁目付近の高台に相当するエリアですが、住居表示にはないので、このようにアパートの名前に表示されています。こちらはちょっとシャレて、アルファベットで表記されています。また、自治会の名前にも島津山が使われています。山なので登山道らしく階段が整備されていました。こちらも高級感が漂う建物が広い敷地にゆったりと建てられた高級住宅街ですね。このエリアは、江戸時代に仙台伊達藩の7万5000㎡におよぶ広大な下屋敷があった場所です。そして、明治時代に旧鹿児島藩主島津公爵が購入し、私邸として英国風洋館を建設、多くの財界人の社交場として利用されたそうです。そのため島津山と呼ばれるようになったそうです。その島津公爵邸は戦前・戦後の財政難により所有権は日銀に移転され。その後清泉女子大学が購入したそうです。旧島津公爵邸はルネッサンス様式の美しい洋館で、現在も清泉女子大内に存在あるそうです。こちらが清泉女子大学の正門です。東大、京大には自由に出入りできるのですが、さすがに女子大学に入るのは憚られました。(城南五山のコースです)【つづく】人気ブログランキング山行記録 城南五山(その8) 島津山
2022年09月30日
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桜田通り沿いにある神社です。社号碑には「雉子神社(きじじんじゃ)」(→→→こちら)とありました。石造りの明神鳥居です。神社の由緒が掲示されていました。雉子神社は、文明年中(1469-1487)の創立といわれています。江戸時代までは「大鳥大明神」と呼ばれていたそうですが、慶長年間に徳川三代将軍家光が当地に鷹狩りに来た時、一羽の白雉がこの社地に飛び入ったのを追って社前に参詣し、「以後雉子宮と称すべし」との言葉があり、雉子ノ宮と改称し、明治維新の際に雉子神社と改められたそうです。こちらの石碑は、「立石知満頌徳碑」です。立石知満とは旧大崎町長及び大崎信用組合創立者だった人で、碑文は楷書ではっきり刻まれていました。整地治水 聲名忽揚殖財興産 商工以昌至誠効力 寝食為忘城南老少 長仰其慶土地開発や治水によって城南地区を発展させたというような意味なんでしょうね。神社の境内はビルの1階になっていました。こちらの板碑は昭和20年(1945)に建てられたもので、放射14 号線の改修による鳥居新造を記念したもののようです。拝殿の上方は吹き抜けになっていて、そのあたりは神様への配慮なんでしょうね。また、ガラス張りになっているので、参拝した人がどこにいても神様に観られている感じですね。ガラス張りの神輿庫が展示されています。中には町内の氏子が奉納したお神輿が2体と、真ん中には鳳輦(→→→こちら)でした。また、こちらには海老澤啓三郎という方の半身像も設置されていました。銅像の裏側に、海老沢啓三郎氏の業績が記されていました。この銅像を建立したのは大崎町・目黒村耕地整理組合長の立石知満でした。大崎目黒耕地整理組合の組合長としての業績を讃えた内容のようでした。(城南五山のコースです)【つづく】人気ブログランキング山行記録 城南五山(その7) 雉子神社
2022年09月29日
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池田山を下って行くと、大きな建物がありました。NTT東日本関東病院(→→→こちら)です。こういう民間企業が設置して運営する、医療法人ではない株式会社の病院ですが、ここは従業員とその家族だけではなく、地元の一般住民でも医療を受けることができるようです。そして、国道一号線、桜田通り(→→→こちら)に出ます。この坂道を下って行くと五反田駅になります。通りの向こう側に鳥居と大きな木が見えました。次は、そちらに行ってみます。(城南五山のコースです)【つづく】人気ブログランキング山行記録 城南五山(その6) 桜田通りへ
2022年09月28日
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池田山の高級住宅街の中を歩いて行きました。閑静で落ち着いた感じの町並みですね。しかし、こんな邸宅を相続することになったら相続税を納められないかも。こちらの邸宅は、国旗があることからもわかるでしょうが、インドネシア大使公邸です。デビ夫人もこちらのお宅を訪問されたこともあるんでしょうね。更に、東に向かって歩いてくと、大きな木が目立つ公園がありました。ねむの木の庭(→→→こちら)です。「ねむの木の庭」についての説明がありました。元は上皇后美智子様のご生家の跡が公園として整備されたんですね。美智子様の御尊父正田英三郎氏が亡くなった後、相続税が払えなかったので土地を売って相続税に充てたんでしょうか。こちらが庭園の中の様子です。江戸時代の大名屋敷跡の池田山公園と比べるとそれほど広くはないですが、考えてみれば大名屋敷というのは、大名の家族だけで生活しているのではなく、仕事場でもあり、また家臣も住んでいた場所なので、その跡地の池田山公園と比べて狭いので当たり前ですね。やっぱり、公園の名前になった中央の「ねむの木」が目立ちますね。この「ねむの木」は、美智子様が高校時代に自身で作った詩「ねむの木の子守歌」に因むそうです。周辺には、樹木や草花が植えられています。キキョウの花が見事に咲いていました。(城南五山のコースです)【つづく】人気ブログランキング山行記録 城南五山(その5) 高級住宅街池田山と「ねむの木の庭」
2022年09月27日
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池田山に行くと、まずここへ訪れて緑豊かな池泉回遊式庭園を楽しむことにします。品川区立池田山公園(→→→こちら)です。旧岡山池田藩下屋敷跡を品川区が整備し公園で、昭和60年(1985)に開園しました。武蔵野台地の先端にある池田山の北端部斜面の崖から湧き出る水を利用した大きな池のあり、高低差を生かした池泉回遊式庭園になっています。また、霊峰富士山からの「気」が流れる龍脈上に位置し、園内の滝や池は浄化効果が高いと言われる等、近年はパワースポットとしても注目されているまだとか。園内にはこのように果物のなる木が植えられていました。これは柿でしょうか?こちらの木には、やっぱり、蜜柑ですね。公園からの眺望もまた楽しめますね。(城南五山のコースです)【つづく】人気ブログランキング山行記録 城南五山(その4) パワースポット池田山公園
2022年09月26日
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首都高速2号目黒線の下をくぐり抜けて行くと、再び閑静な住宅街になります。このたあたりの品川区東五反田4・5丁目付近の高台が池田山(→→→こちら)と呼ばれるエリアになります。池田山という地名は、備前岡山藩の池田家の下屋敷があったことに因むものてす。やはり池田山という名前もこのようにマンションやアパートに使われて残っています。高台から、この見晴らしの良い坂道を少し下って行きます。(城南五山のコースです)【つづく】人気ブログランキング山行記録 城南五山(その3) 池田山
2022年09月25日
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この道から花房山に入ります。山になるので気持ち坂道です。花房山という住所はなくて、品川区上大崎3丁目付近の高台が花房山と呼ばれています。しかしながら、花房山という地名は、マンションやアパートの名前にこのように残っています。花房山の地名の由来は、明治、大正期の外交官である花房義質(はなぶさ よしもと)の別邸があったことに由来するのだとか(→→→こちら)。地名に残るくらいなので、この花房義質(→→→こちら)並みの外交官ではなかったようで、岡山藩士花房端連の長男で明治・大正期の外交官。枢密顧問官、日本赤十字社社長などを歴任し、爵位は子爵だったそうです。そのような外交官関係のご縁なのか、駐日コロンビア共和国大使館が花房山にありました。大使館の門の脇にあるこの胸像は、「南アメリカ解放の父」と言われるシモン・ボリバル(→→→こちら)という人のものです。また、花房山にはこのようなタワーマンションが立ち並んでいる一角がありました。(城南五山のコースです)【つづく】人気ブログランキング山行記録 城南五山(その2) 花房山
2022年09月24日
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台風14号が近づく9月19日、品川区にある山々、通称「城南五山」へ山行してきました。スタートは山手線の目黒駅からです。ちなみに目黒駅の所在地は目黒区ではなく品川区だそうで、品川区最北端の駅なんだそうです。目黒駅には、JR以外にも都営三田線、東京メトロ南北線、そして東急電鉄の目蒲線ではなく今は目黒線というそうです。の4社4路線が乗り入れています。目黒駅には大きな駅ビルがあるんですね。そして、駅前からこの「花房山通り」を歩いて城南五山のひとつ花房山に向かいます。花房山通り、山手線に沿って道が延びています。ところで、城南五山(→→→こちら)とは品川区にある高台5ヶ所の総称で、「花房山」、「池田山」、「島津山」、「八ッ山」そして「御殿山」の五っの高台のことです。いずれも住居表示には現れない地名ですが、江戸時代からそれぞれ由緒ある大名屋敷や大名出身の邸宅があった場所で、古くから高級住宅街として知られ、マンションやアパートの名称に使われています。(城南五山のコースです)【つづく】人気ブログランキング山行記録 城南五山(その1) 目黒駅
2022年09月23日
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池袋西口駅前のある植物で作られたフクロウの一家がいました(→→→こちら)。これは、モザイクカルチャー(→→→こちら)という方法で作られたもので、人、動物、風景などの形を金属のフレームで作り、土を入れ、花や草を植え込んだものですそうです。こちらはお母さんと子供のようです。子供のふくろうの名前は「えんちゃん」というそうです。おかあさんフクロウの名前は「えんちゃん母」だとか、こちらのフクロウはお父さんのフクロウで名前は「えんちゃん父」だそうです。確かに、子供がいると「〇〇(子供の名前)ちゃんのパパ」とか近所の人に呼ばれるようになるので、名前は必要はないのでしょうか、なんだか「バカボンのパパ」みたいですね。そして、池袋西口です。池袋からJRに乗って帰宅しました。(池袋まち散歩のコースです)【了】人気ブログランキング池袋まち散歩(その11)池袋駅西口駅前広場モザイカルチャー
2022年07月04日
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池袋駅西口一帯の鎮守である池袋御嶽神社(→→→こちら)に到着です。池袋の「袋」と「フクロウ」の音が似るところから、苦労を除き(不苦労)福を呼び込む(福籠)神としても信仰を集めているようですね。この神社にフクロウが生息しているわけではありません。ご時世ですね、手水舎は消毒液です。こちらが社殿です。ところで、御嶽神社と書いて、「みたけじんじゃ」と読む場合と「おんたけじんじゃ」と読む場合がありますが、こちらは「みたけじんじゃ」と読みます。覚明行者、普寛行者が創始した木曽御嶽信仰に基づく神社は「おんたけじんじゃ」、修験道の神である蔵王権現を祀る神社は、「みたけじんじゃ」と呼ぶようです。しかし、この池袋御嶽神社のご祭神は、倭建命、神武天皇、武甕槌命で、蔵王権現ではありません。しかし、蔵王権現は、日本独自の山嶽仏教である修験道の本尊でなのですが、神道において、蔵王権現は大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊(倭建命) 、金山毘古命等と習合し、同一視されることがあるので、神社としてのご祭神に倭建命があるのでしょうね。おそらく、社殿そのものは昭和の頃に改築されたのでしょうが、結構、見事な彫り物が使われていますね。神社を後にさらに東にみたけ通りを歩くと、ようやく池袋という町名に着きました。(池袋まち散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング池袋まち散歩(その10) 池袋御嶽神社
2022年07月03日
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再び要町通りに戻って、池袋方面に向かって歩いて行くと、えびす通り商店街という商店街の前を通り過ぎて、東京メトロ有楽町線の要町駅がありました。要町通りの下を有楽町線が走っているのですね。要町通りと山手通りが交差する要町一丁目交差点に差し掛かりました。要町一丁目の交差点を過ぎると、こちらの谷端川(やばたがわ)緑道を北に向かって歩きのます。谷端川は豊島区および北区、板橋区、文京区をかつて流れていた河川。現在はほぼすべての区間が暗渠の下水道幹線となっているそうです。その上を緑道として整備されているようです。ちなみに、この川は、豊島区、板橋区では谷端川と呼ばれ、文京区内では小石川(こいしかわ)または礫川(こいしかわ、れきせん)と呼ばれていました。エサを与えないでの看板の近くにあった銅像。この子供、エサを上げられないのに、うまく小鳥を手なづけていますね。緑道はこんな様子で、建物の間を縫うように続いています。きっと、付近にお住まいの方には憩いの場になりそうですね。みたけ通りまでやってきました。次は、この「みたけ通り」を東に向かって、池袋の街の方へ向かって歩いていきます。(池袋まち散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキングと池袋まち散歩(その9) 谷端川緑道
2022年07月02日
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粟島神社から「要町通り」という広い道に出ました。要町通りからこの脇道に入って北へ向かってテクテクと行くと、豊島長崎の富士塚(→→→こちら)に到着です。豊島長崎の富士塚は、「富士講」の一つである月三椎名町元講の人々によって文久2年(1862)に築造されたものです。江戸時代に築造された富士塚の中でも、よく原形をとどめていることが評価され、昭和54年(1979)年に国の重要有形民俗文化財に指定されています。富士講の方々が石碑を富士塚に建てられているようです。こちらが登山口のようですが、普段は閉じられていて入山できませんが、今日のような富士山が山開きの7月1日には入山できるかもしれませんね。(池袋まち散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング池袋まち散歩(その8) 豊島長崎の富士塚
2022年07月01日
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千早フラワー公園から次の目的地に向かう途中。このあたりが今回の駅からハイキングの中間点となるようです。そして、豊島区要町にあるこの粟島(あわしま)神社(→→→こちら)が次の目的地です。創建年代は不詳ですが、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将、新田義貞の祈願所として知られていた伝わる神社ですが、あったのは新田義貞ではなく二宮金次郎の石像でした。そして、池袋に因んででしょうか、フクロウのオブジェがありました。大きな瞳の後ろにある耳のように突出した羽角(うかく)があるので、フクロウというよりはミミズク(→→→こちら)がモデルでしょうか。粟島神社の狛犬です。こちらの狛犬は足元の米俵のようなものに足を乗せ、こちらの狛犬は子供の狛犬を足で押さえつけています。粟島神社は江戸時代は弁天社と称され村人の信仰を集めていたそうです。そして現在は長崎神社の境外末社となっているといいます。この池は弁天社なので弁天池と呼ばれています。また、この弁天池は谷端川(→→→こちら)の水源地だったそうです。谷端(やばた)川は、豊島区および北区、板橋区、文京区を流れ水道橋の付近で神田川に合流していた川ですが、今は暗渠化され下水道幹線となっています。また、神社の言い伝えでは、日照りのとき、この池をさらうと雨が降るそうです。そんな弁天池、今では外来種のミシシッピアカミミガメが棲みついていました。こちらの社殿で今年は日照りにならずに豊作となるようお願いしてきました。(池袋まち散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング池袋まち散歩(その7) 粟島神社の弁天池
2022年06月30日
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椎名町には沢山の商店街があるようですが、この仲通り商店街から北の要町方向に延びる道を歩いて行きました。そして、親子連れでにぎわう広い千早フラワー公園にやって来ました。もちろん名前のとおりお花もあるのですが、この公園のポイントは、木立に囲まれたこれです。鉄道の車両が展示されていました。中に入ってみると、先頭車両が2両、ホームをイメージしたのりばをはさんで展示されています。ホームにあったのは都営地下鉄12号線の説明。都営12号線とは、今の大江戸線のことですね。確かに大江戸線が光が丘から新宿までしか開通していなかった頃は「都営12号線」と呼んでいました。大江戸線という名前にしたのは当時の石原慎太郎都知事でしたっけ。その都営12号線として計画されていた頃の試作車両が、この千早フラワー公園で展示されています。今の大江戸線の車両よりはちょっと角張った感じで、車体の赤い色も退色してしまったようです。車内に入ることもできます。座席が木製なのは、公園で展示されているからなんでしょうか。しかし、このように試作車が展示されているということは、豊島区のこのあたりの人達は、大江戸線の開通を待ち望んでいたということなんでしょうか。でも大江戸線の今のルートはもっと南の方を通っていますが。(池袋まち散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング池袋まち散歩(その6) 大江戸線は都営12号線だったんです
2022年06月29日
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そして、西武池袋線椎名町駅近くにある長崎神社(→→→こちら)が駅からハイキングの次の目的地です。この神社の江戸時代中期の祭神は十羅刹女(仏教の天部における10人の女性の鬼神)で、「十羅刹女社」と呼ばれていましたが、明治初期の神仏分離により、十羅刹女は祭神から排除され、代わりに埼玉県の氷川神社から須佐之男命を祀るようになり「氷川神社」に改称しました。さらに、明治7年(1874)に現在の「長崎神社」に改称したそうです。境内にあった「日露戦役記念碑」です。このような石碑がウクライナにも建立される日は来るのでしょうか。ちなみに揮毫は山縣有朋でした。椎名町駅が出来たことを記念する石碑もひっそりと目立たないように建てられていました。大正時代、椎名町駅が設置されるに至った経過を記した石碑のようです。このあたりの地名がどうして「長崎」かというと、鎌倉時代の執権北条氏の御内人・長崎氏の領地であったことによるという伝承があるそうです。また、椎名町という地名は江戸時代後期にはすでに存在していたそうで、そのまま昭和14年(1939)から昭和41年(1966)までの間、椎名町という町名が存在していたそうですが、長崎神社の近くにあった帝国銀行(今の三井住友銀行)椎名町支店で帝銀事件(→→→こちら) があったことから、重大事件の起きた地域だということを嫌った人たちにより豊島区長崎に町名が変わったそうです(→→→こちら)。このような事件から、町名が消えた例としては、昭和37年(1962)に起こった国鉄の三河島事故(→→→こちら)により荒川区から「三河島町」という町名が消えてしまったというのもあるようです(俗説だそうですが)。長崎神社の狛犬は、岩壁をよじ登ってくる子供の狛犬を励ましているようなデザインでした。こちらが長崎神社の拝殿です。(池袋まち散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング池袋まち散歩(その5) 長崎神社と椎名町
2022年06月28日
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住宅街の中にある上り屋敷公園(→→→こちら)です。「お上(あが)り屋敷」とは江戸時代の狩場の休憩所のこと。やがてこのあたりの地名となったようです。大きな木陰があって、今でも住民の皆さんの休憩所になっていますね。上り屋敷というだけあって、屋敷とはいわないまでも閑静な住宅が立ち並ぶ中を歩いて行きます。そして、立教大学池袋キャンパスが見えてきました。立教大学に沿って延びる西池袋通りを西に向かって歩いて行きます。山手通りとの交差点にやってきました。こちらが山手通り。首都高速中央環状線の入口が見えています。この山手通りを渡って、豊島区長崎のエリアに入って行きました。(池袋まち散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング池袋まち散歩(その4)上り屋敷と西池袋通り
2022年06月27日
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豊島区立目白庭園(→→→こちら)にやってきました。目白の閑静な住宅街の中にある白い表門が雰囲気ですね。公立学校共済組合住宅跡地に平成2年に開園した池泉回遊式の庭園だそうです。庭園内にある「赤鳥庵」(せきちょうあん)の説明です。大正7年、鈴木三重吉が現在の目白で創刊した雑誌「赤い鳥」にちなんだ名前だそうですが、鈴木三重吉の邸宅はこの近くにあったそうですね。こちらが「赤鳥庵」の入口になります。有料事前申し込みで、茶道・華道・句会などの趣味の集まり、その他各種会合や発表会などにご利用できるそうです。庭園の中にある大池。写真の左手に見える建物が「赤鳥庵」です。池にはカルガモが棲んでいます。春に生まれた子供と泳ぐカルガモ一家です。こちらは、まだ小さい仔カモが泳いでいました。水鏡に写る「赤鳥庵」を撮影しましたが、上手く撮影できませんでした(~_~;)。築山の谷間から流れ出る、深山幽谷を思わせる滝もありました。高さ4mの滝口から3m3/分の水が流れ出ているそうですが、そんなに沢山の水、どこからやってくるのでしょうか。池の中の鯉、体長1mはあるような大きな錦鯉でした。こんな井戸も池の周りにありました。目白庭園、季節ごとに変わる風景を楽しみたい庭園でした。(池袋まち散歩のコースです)【つづく】2022年6月25日7:03AMに500万アクセスを達成できました。これもMoMo太郎日記をご覧いただいている皆様のおかげです。ありがとうございました。ここで改めて深く御礼申し上げます。人気ブログランキング池袋まち散歩(その3)豊島区立目白庭園
2022年06月26日
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池袋の住宅街の中に入ってきました。民家の庭先に咲くアジサイの花にちょっと安らぎますね。こちら建物は「自由学園明日館(じゆうがくえんみょうにちかん)」(→→→こちら)です。近代建築の巨匠であるフランク・ロイド・ライトによる建物で、大正10年(1921)から昭和9年(1934)まで、学校法人自由学園の校舎として利用された建物です。平成9年(1997)に国の重要文化財に指定されています。建物の中は入館料(500円)を払えば見学できます。自由学園とはクリスチャンだった思想家の羽仁もと子と羽仁吉一の夫婦によって、大正10年(1921)に設立された学校です。そして、自由学園明日館のそばにあるこの建物は、同じく羽仁もと子と羽仁吉一の夫婦が設立した婦人之友社(→→→こちら)です。羽仁もと子氏といえば、家計簿の考案者としても知られているそうです。だから婦人之友社なんですね。さらに歩いて行くと、西武池袋線(高架橋)とJR山手線が交差しているところに出ました。西武池袋線沿いに歩いて、この西武池袋線のこの踏切を渡ります。この踏切、とじこめられたら押して出るようなんですね。(池袋まち散歩のコースです)【つづく】追伸※そろそろ今日あたり、アクセス数5百万を越えそうです。追伸 続報※本日(2022年6月25日)7:03AMに5百万アクセスを達成した模様です。人気ブログランキング池袋まち散歩(その2) 自由学園明日館
2022年06月25日
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5月29日にJR東日本が開催した駅からハイキング「梟を探せ!新緑豊かな池袋の歴史と文化を感じるまち散歩」に参加した時の報告です。池袋駅西口からスタートです。こちらが元池袋史跡公園です。池袋の地名の由来となった「丸池」(袋池ともいわれる)があった元池袋公園が、現在の池袋デュープレックスタワーの敷地内にありましたが、下水道工事で閉鎖されたあと、後世に池袋の歴史を伝えるため平成10年(1998)に隣接地に史跡公園として開園しました。。この石碑、手すりに隠れてまっていますが、成蹊学園発祥之地の石碑です。刻まれた「桃李不言 下自成蹊」という言葉は、 成蹊学園(→→→こちら)の名称のもとになった言葉ですね。意味は、「桃李(とうり) もの言わざれども 下おのずから 蹊(こみち)を成す 」つまり 人格のある人には その徳を慕って 人々が集まってくるということだそうです。こちらの石碑には、「池袋地名ゆかりの池」と刻まれています。横に設置されている説明板には、むかしこのあたりに多くの池があり、池袋の地名は、その池からおこったとも伝えられている。池には清らかな水が湧き、あふれて川となった。この流れはいつのころから弦巻川とよばれ、雑司が谷村の用水として利用された。 池はしだいに埋まり、水も涸れて今はその形をとどめていない。これは、むかしをしのぶよすがとして池を復元したものである。 東京都豊島区教育委員会 石碑寄贈 東京池袋ライオンズクラブと記されていました。池袋消防署の横にあるビルには、郷土博物館はじめ色々な施設があります。ここには書いていませんが体育館もありますよ。この「IKE・Biz としま産業振興プラザ(→→→こちら)」。以前は、勤労福祉会館でしたが、建て替えられて、このような小企業で働く勤労者の文化・教養及び福祉の向上を図ることを目的とした施設となっています。(池袋まち散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング池袋まち散歩(その1) 元池袋史跡公園
2022年06月23日
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ゴールデンウィークの休みを利用して八王子城跡へ行ってきました。八王子城は、小田原に本拠地をおいた小田原北条氏の三代目氏康の三男、北条氏照(?ー1590)が築いた山城です。天正10年(1582)頃に築城が開始され、天正15年(1587)頃までに同じ八王子にあった滝山城から拠点を移したとされています。豊臣秀吉の関東制圧の一環で、天正15年(1590)、前田利家・上杉景勝軍に攻められ八王子城は落城しました。この落城が決め手となって、本拠地の小田原城は開城し、北条氏は滅亡しました。八王子城跡へはここから登って行きます。鳥居があるのは八王子城の守護神として八王子権現を祀る八王子神社が山頂にあるからでしょう。八王子城本丸へ登る途中から見える東京の風景です。霞んではっきりとは見えませんが、東京スカイツリーもここから見えます。写真は一応、スカイツリーの方を撮影したものです。山頂付近にはこのような東屋がありました。こちらが八王子神社の社殿です。牛頭天王とその眷属神(主神に付き従う神々)である八人の王子を祀ることから八王子神社と名付けられているそうです。そして、この八王子神社が八王子の地名の由来でもあるようです。八王子の山には、天狗が棲みついているようですね。信者の近くには城の曲輪と呼ばれる広場がありそこには2基の石碑が建立されていました。こちらは八王子城址碑とあり、この石碑は八王子神社碑でした。この石碑の前から、眼下に広がる東京の市街地です。さらに山道を登っていくと本丸跡があります。八王子城本丸跡と刻まれた立派な石碑。本丸跡にも八王子権現が祀られていました。このあたりで標高は460mでした、ちょっと軽めの登山としていいかもしれませんね。人気ブログランキング八王子城跡へ登ってきました
2022年05月11日
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国道122号線と環八通りの分岐点に差しかかりました。この交差点が赤羽(あかばね)の中心地なんですね。このあたりが「赤羽」と呼ばれるようになったのは、定説では、土器制作に適したきめの細かい上等の赤土(赤埴・あかはに)が多い土壌から、と言われています。そう言えば、国道1号で東京タワーから三田へと向かう途中にも赤羽橋という橋があり、都営地下鉄大江戸線の駅名にもなっていますが、その名前も赤土に由来しているのでしょうか。そして、次の目的地の真言宗智山派宝幢院(ほうどういん)の入口に着きました。ここには、北区教育委員会の設置した説明板と覆いにつけられた道標(みちしるべ)がありました。「宝幢院前の道標」についての説明です。宝幢院の前は、板橋道が日光・岩槻道と合流する位置だったので、道標の銘文には「東川口善光寺道日光岩付道」・「西西国冨士道板橋道」・「南江戸道」と刻まれているそうです。道標の石柱を見てみると、確かに「南 江戸道」と刻まれています。そして、こちらには「東 川口善光寺道日光岩付道」と刻まれていました。「川口善光寺道」とあるのは、荒川を渡ったところにある川口市にある善光寺のことで、僧定尊が建久6年(1195)信濃善光寺の弥陀を模鋳(もちゅう、「まねて鋳造すること」の意)して開山したお寺です。また「日光岩付道」というのは、岩淵宿から川口へと船で渡り、鳩ヶ谷・大門・岩槻の宿場をへて幸手宿で日光街道に合流する道筋のことで、江戸幕府の歴代将軍が徳川家康・家光のある日光に社参するための専用の道だったそうです。こちらは北区教育委員会が設置した宝幢院に関する説明書きです。説明書きによると、寛正2年(1461)宥鎮和尚によって開山された寺院のようです。正式な山門は閉じられていたので、脇の門から境内に入ります。宝幢院には、文化財となっている石碑が3柱あるそうです。こちらは本堂落成記念碑ですね。こちらは信州善光寺参拝記念の石碑です。善光寺にお参りするのは大旅行で記念に建立したのでしょうね。南無馬頭観世音と記された石塔です。馬持講中(当時馬を飼っていた資力のある村民)の人名が記されているもので、この土地の歴史を示す貴重なものだそうです。出羽三山の月山、湯殿山、そして羽黒山の供養塔です。その昔、遠く山形県にある出羽三山神社へ参拝された人が、赤羽にもおられたのでしょうね。こちらが宝幢院の本堂です。寺号額です。山号は医(醫)王山というのですね。真言宗のお寺なので、やっぱり弘法大師が巡礼されている銅像は外せないアイテムのようです。そして、宝幢院の前から赤羽駅に続く、この商店街を通ります。賑やかな商店街かと思いきや、駅に近づくにつれて、昔ながらの歓楽街で飲食店が立ち並ぶようになりました。そして、赤羽駅東口到着、ここから京浜東北線で帰りました。赤羽の町を歩きましたが、昔からイメージしていた東京の北の繁華街というよりも、周辺は緑のある自然にも恵まれた住宅街という印象を持ったのが、今回の収穫でした。(赤羽散歩のコースです)【了】人気ブログランキング赤羽散歩(その9) 真言宗智山派宝幢院
2022年02月22日
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浮間公園のすぐ傍は、もう荒川です。荒川の堤防に上がりました。この荒川の堤防の上を川下に向かって歩いて行きます。荒川の対岸は埼玉県川口市、川口にも高層アパートがあって、多摩川沿いにある武蔵小杉のタワーマンション群にも劣らないですね。河川敷にはゴルフ場がありました。このアーチトラス橋は東北線・高崎線の鉄橋です。堤防の上に広場が設けられていました。このマークはヘリコプターの離発着ができるヘリポートのマークでは。さらにこんな建物もありました。これらの施設は浮間地区荒川防災ステーション(→→→こちら)というそうです。防災ステーションとは、洪水による被害を防ぐための水防活動、災害が発生した場合の復旧活動を行うための拠点として活躍する施設のことだとか。この浮間地区荒川防災ステーションは、北区と国土交通省の共同整備により、荒川流域で初めて完成した防災ステーションだそうてす。堤防の上から河川敷の方へ降りてみました。サッカー場ですね。MoMo太郎、サッカーのルールはよくわかりませんし、どこが面白いのか理解できません。JRの鉄橋の下を抜けると野球場です。最近は野球よりもサッカーをする子供たちが増えているとも聞きます。MoMo太郎なんか、子供の頃は野球くらいしか知らず、王貞治の一本足打法を真似て球を打ったり、少年週刊誌で読んだカーブやシュートの握り方を試してボールを投げたりしていましたから、今の野球少年のみんなから見たらふざけた野郎だと思われるでしょうね。また堤防の上に上がって行きます。この橋は埼玉県川口市舟戸町と東京都北区岩淵町を結ぶ新荒川大橋の荒川横断部です。こちらは新河岸川横断部です。こちらには、土手に桜の木が植えられていて、花見の季節にはまた訪れたいですね。橋を渡りきると、東京都北区の標識が。この道は国道122号線、東京から日光までつながる道ですが、東京では北本通り荒川を越えて埼玉県に入ると岩槻街道と呼ばれます。岩槻から先は何と呼ばれているのかわかりません。(赤羽散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング赤羽散歩(その8) 荒川の堤防
2022年02月21日
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埼京線の高架橋沿いに歩いて行きます。このあたりが今回の駅からハイキング「あかばねさんぽ~秋の自然を満喫~」のコースの中間点らしいです。ここで埼京線とお別れして、浮間公園(→→→こちら)です。公園の中を歩いて行きます。この公園の面積の約40%を占めるのが浮間ヶ池です。昭和42年(1967)に東京都は浮間ヶ池を含めた周辺を都立浮間公園としたそうです。昭和60年(1985)に開通したJR埼京線の浮間舟渡駅が出来て、この公園へのアクセスは良くなりました。江戸時代から明治時代にかけて、浮間で荒川は大きく南に蛇行していたのですが、昭和3年(1928)ころに荒川が直線化された際、川の名残としてこの浮間ヶ池が残ったそうです。そして、この池の周りには貴重な生態系が残されています。水辺の公園だけに水鳥の姿が目立ちます。MoMo太郎が訪れた、11月中旬から下旬にかけては400~500羽のカモが飛来し、さらには東京湾からはるばるとカモメが飛んでくることも。公園のシンボルとして設置された風車です。また、野球場やテニスコートなどの運動施設もあり、ジャブジャブ池など各種遊び場もあって子供達が遊ぶにはいいですね。この公園を見下ろすことができる高層アパート、こういう眺めのよいアパートに住んでみたいものです。(赤羽散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング赤羽散歩(その7) 浮間公園
2022年02月20日
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埼京線の北赤羽駅に向かって歩いていると、社号碑を発見。諏訪神社(→→→こちら)と記されています。この社号碑のあるところから、一旦階段を下りて、道路を渡ったその先に神社があります。こちらが諏訪神社になります。諏訪神社の由緒が記された看板です。この神社は応永3年(1396)、赤羽にある真頂院を開山した秀善和尚が長野県の諏訪大社より勧請して創建したそうです。また江戸期には袋村の鎮守社でした。こちらが拝殿。ここでも富士講(→→→こちら)が盛んだったんでしょう。富士登山記念碑が建立されていました。境内にある不思議な石の集団。こちらは標高を測量するために設置された「几(き)号水準点」(→→→こちら)です。ただし、几号水準点とは明治初期に用いられたイギリス式の水準点のことなので、昭和5年に設置されたのは、厳密に几号水準点と言っていいのかどうかはわかりません。この「不」の文字の横棒が標高を測る位置となるそうです。国土地理院のサイトで調べてみましたが、現在この標識は水準点としては使われていないようです。境内にはカヤの大木が、こちらが御神木なんでしょうね。さらに旧御神木というのもありました。秀善和尚が故郷の諏訪から2本の苗を袂に入れて持ち帰り、社殿の前後に杉の木を植えたので、「袂杉」と呼ばれていたそうです。しかし、傷んできたので昭和36年に切られたそうで、切り株だけ残っているそうです。お皿を伏せたような覆いがかけられているのが、旧御神木の袂杉ですね。諏訪神社から坂道を降りて、環八を横切ります。そして、新幹線と埼京線のガードを潜り、歩いて行くと、このワーレントラス橋を渡ります。浮間橋(→→→こちら)です。この浮間地区はかって埼玉県に属していたのですが、洪水対策のため荒川放水路(現在の荒川)が開削されたため、浮間地区は東京都に属することになったのですが、荒川と新河岸川に囲まれたため、交通手段を渡し船に依存せざるを得なくなったのです。そこで、浮間の農家約60軒が橋の建設を要望し、お金を出し合って合計六千円をもって、赤羽台4丁目の国立王子病院跡に駐屯していた近衛師団の工兵隊に架橋を依頼しました。そして昭和3年(1928)5月、幅二間、長さ六十五間半の木橋が架けられたのが、この浮間橋の始まりだそうです。この川が新河岸川です。この川はかっては、江戸と川越を結ぶ水運にも使われたそうです。そして、埼京線の北赤羽駅にやって来ました。でも、ここの住所は東京都北区浮間になります。(赤羽散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング赤羽散歩(その6) 諏訪神社から北赤羽駅へ
2022年02月19日
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赤羽神社からこの坂道を歩いて行きます。この坂道の名前は「師団坂」というそうです。北区教育委員会が建てたこの標識には、 この坂は、 旧陸軍の近衛師団と第一師団に所属した二つの工兵大隊に向かう 坂道でした。 明治二十年(1887)八月から九月にかけてこれらの工兵大隊が現在の丸の内一丁目から赤羽台四丁目内に移ってきたので、 坂はつくられました。この坂は「工兵坂」とも呼ばれ、 休日などの際は軍人や面会者の往来で賑わいました。 当時の工兵隊の兵営は 「赤羽の兵隊屋敷」と呼ばれ、工兵隊による 浮間橋の架橋や花見時の兵営の開放などにより、 付近の住民にも親しまれていました。現在兵営の間にあった練兵場は住宅地となり、 第一師団工兵大隊兵営跡は学校法人星美学園の敷地となっています。 と記されていました。 昔は、兵隊さんになった若者が歩き、今は星美学園に通う若者たちが歩く、青春の坂道なんですね。こちらの建物が「星美学園」(→→→こちら)です。幼稚園から短期大学まである学校なんですね。イエス・キリストの銅像が建物の屋根にあることからわかるように、カトリック・ミッションスクールですね。かっての兵舎の跡地に建つ愛と平和の教育施設ということですね。この坂道を登り赤羽の台地の上を進んで行くと、このような大きな建物が、東京北医療センター(→→→こちら)です。多分、゜MoMo太郎の知る限り北区では一番大きな病院だと思います。元々は国立王子病院だったのですが、いわゆる行政改革の流れの中でできた昭和61年(1986)の「国立病院・療養所の再編成計画」に基づいて、国立病院が順次されていった中で現在に至っているのですね。ちなみに、国立病院は旧日本陸海軍が持っていた病院が戦後、厚生省(今の厚生労働省)に移管されたものなので、ここも軍隊関連の施設の跡地であるのですね。東京北医療センター近くのこのちょっとした公園。この公園の下は、赤羽八幡神社の下から続く新幹線と埼京線のトンネルの出口に当たります。(赤羽散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング赤羽散歩(その5) 青春の坂道
2022年02月18日
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立派な社号碑のある赤羽八幡神社(→→→こちら)にやって来ました。こちらはお祓いにやってくる自動車が入ってくる参道です。やっぱり歩かないと、ということで。こちらの石段から上って行きます。石段の下に設置されている板碑です。日露戦役記念碑と刻まれていました。こちらにも立派な板碑が、そして、この板碑もやっぱり日露戦役記念碑でした。日露戦争の時にこの神社に戦勝を祈念された方が多いんでしょうかね。こちらは石坂碑。この石段を寄進した人達でしょうか、沢山の人の名前が刻まれていました。こちらが拝殿です。延暦3年(784年)に坂上田村麻呂が当地に陣を張り、八幡三柱(応神天皇、仲哀天皇、神功皇后)を勧請したことにより創建されたと伝えられています。坂上田村麻呂といえば、平安時代に朝廷に敵対する蝦夷(えみし)討伐した征夷大将軍。優れた武人が創建した神社ということもあって、日露戦争の戦勝記念碑が建立されたのでしょうか。ちなみに、MoMo太郎は自称「誠意大将軍」です。この神社は、JRの高崎線と埼京線・東北上越北陸新幹線が分岐する地点にあり、境内の下を新幹線や埼京線がトンネルで抜けいます。高崎線・埼京線、新幹線などの車両が眺められて、撮り鉄の皆さんには有名な場所なんでしょうね。こちらの車用の参道からは鳥居を通して、神社にお参りにやってくる新幹線が見えました。撮影位置を工夫して、鳥居と新幹線の写真撮影できました。(赤羽散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング赤羽散歩(その4) 新幹線もお参りします
2022年02月17日
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赤羽自然観察公園に続いて、この道に入ります。北区立赤羽緑道公園(→→→こちら)です。歩道に敷かれたタイルには、よく見ると線路をイメージさせるデザインです。また、風見鶏ならぬ風見蒸気機関車も。途中にあるベンチには駅舎を思わせる骨組みがありました。赤羽緑道公園は、戦前の赤羽にあった兵器庫や陸軍被服本廠という軍事施設を結ぶ軍用貨物線跡を利用して作られたものです。その歴史をここに示しているのですね。自然にあふれるこの緑道、こんな小鳥たちもやってくるのでしょうね。欄干に車輪のデザインがほどこされたこの橋、赤羽緑道パークブリッジというそうです。赤羽緑道公園はここで終わっています。立て看板の上で休むネコちゃんにお別れを告げて、次の目的地へ向かいます。(赤羽散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング赤羽散歩(その3) 赤羽にある廃線跡
2022年02月16日
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東京に住んでいると、なんとなく「自然(Nature )」とは縁遠くなりますが、Nature calls me!でも、これを「自然が私を呼んでいる」と和訳したらですよ、「トイレに行きたい」と訳しましょう。そして自然とふれあいたい人の為に、次の目的地「赤羽自然観察公園」(→→→こちら)にやってきました。自衛隊十条駐屯地として使用されていた跡地の一部に整備された公園です。谷状の地形で、湧水が存在しており、この湧水の保全・活用をした「自然とのふれあい」をテーマにした公園です。そして、この地域に本来生息する植物もしくは生息していた植物を植栽し、長期的に自然の回復を図っているそうです。園内にはこのように水田が復元され、稲刈りが行られるなど農業体験もできるようです。そして、こちらの施設は、北区ふるさと農業体験館(→→→こちら)です。北区有形文化財(建造物)に指定されている旧松澤家住宅を、移築・復原しています。旧松澤家住宅は、かつて浮間地区に所在し、江戸時代後期に建てられた建物です。建物の中に入って、当時の農家の暮らしの様子を見学することもできます。なかなか裕福な家のようで、このような床の間のある座敷もありました。北区の歴史や文化を理解する上での貴重な文化遺産のようです。旧松澤家住宅がかつて所在した北区浮間は、江戸時代には武蔵国足立郡平柳領浮間村でした。また、浮間村は、一貫して江戸幕府の直轄地でしたが、浮間は荒川に接する土地で、そのため、しばしば洪水の被害に遭うことから、年貢を納めるような田はなかったのですが、その一方で屈曲・蛇行を繰り返す荒川の堤外地に発達した寄洲や中洲のおかげで萱(カヤ)に恵まれ、また当時は屋根葺きの材料として需要が高く、ことに火災が多発した江戸では商品価値が高かったそうです。そのため浮間村では江戸幕府に「御用茅」として納めていました。この建物は付属する倉屋です。くらの中には舟が展示されています。洪水に襲われた時に使う船だったのか、それとも荒川を渡る時に使われた渡し船だったのか。この武蔵野台地の森の中を散策して、自然に親しむことができるいい場所でした。(赤羽散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング赤羽散歩(その2) 赤羽自然観察公園
2022年02月15日
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去年の11月23日に参加した駅からハイキング「あかばねさんぽ~秋の自然を満喫~」のご報告です。出発地の赤羽駅にやってきました。赤羽駅北口から西に向かって歩き出します。西口の駅前の通りに並んでいる柱と銅像。よく見てみると、七福神でした。これは大黒天ですね。西口にある商業施設の商売繁盛を願って設置されているのでしょうか。赤羽駅の南西は赤羽台と呼ばれる台地になっていて、その麓に神社がありました。この神社が「亀ヶ池辨財天」(→→→こちら)です。説明板によると、元々は地元商店街の有志で作った弁天講が始まりで同好会的な信仰だったが、昭和55年木彫の弁天像を創り、近くにある静勝寺の弁天堂の弁財天を勧請して祀ったことで正式な弁天堂となった。 また、昭和58年には池の中に亀子宝安産多弁天(石像)を安置した。弁天大祭は静勝寺住職が導師を勤め4月第1日曜に行われる。背後にマンションが建っていて、都会の中の小さな神社ですが、かつては大きな亀ヶ池と呼ばれる大きな池があったそうです。この池は稲付城(今の静勝寺)西側の、天然の防御となっていたそうです。 また、昼なお薄暗く、一角のほこらには無数の亀がすんでいました。特に大亀は甲の周囲8.9尺もあり、 小さな子供はその上に乗って戯れたが、大人が行けば隠れてけっして出てこなかったという伝説が残っているそうです。また一説では、池には一対の大蛇が住んでいたとか。池の中にある祠にお参りして、今回の駅からハイキングの無事をお祈りしました。(写真の後ろ姿の男性はMoMo太郎ではありません)辯財天の前の道を歩いて行くと、「ROUTE2020トレセン通り」に出ました。北区西が丘地区には、日本のスポーツ競技力強化の拠点となるハイパフォーマンスセンター(味の素ナショナルトレーニングセンター及び国立スポーツ科学センター)があるので、これらの施設とJR赤羽駅及び十条駅を結ぶルートに「ROUTE2020トレセン通り」という名称を付けたのでしょうね。そして、次の目的地は赤羽自然観察公園です。この道が「ROUTE2020トレセン通り」です。所々空き地になっているのは、将来この道を拡幅しようということで、立ち退いた建物があるのでしょうね。でも、拡幅工事に反対しているお宅もあるようですね。補償金の値上がりを狙っての反対なんでしょうかね。明石市長の泉房穂さんなら、「(建物に)火付けてこい」(→→→こちら)と言うのでしょうけどね。まあ、建物も何年かうちには建て替えとか考えないといけないのでしょうから、そんなに急いで火をつけなくてもいいのかもしれませんが。ROUTE2020トレセン通りから逸れて、この細い住宅街の道を歩いてゆきます。(赤羽散歩のコースです)【つづく】人気ブログランキング赤羽散歩(その1) 亀ヶ池辯財天
2022年02月14日
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ゴールの大森駅に到着しました。こちらは北口改札です。ここで帰るのもなんだかなと思い。北口があれば南口があるだろうと思い、さらに南に向かって歩くと、池上通りと東海道線の間の谷のようななったところに、山王小路飲食店街という、仕事帰りの勤め人のおじさん達には蠱惑的な名前が。行ってみると、ああやっぱり、こんな感じですね。通称は「地獄谷」だそうです。こちらが南口ではなく中央口改札になります。こっちはちょっとすっきりしていますね。大森駅は、新橋 - 横浜間開業の4年後に開業した非常に歴史の古い駅だそうです。大森駅のホームには、「日本考古学発祥の地」碑がありました。昭和52年(1977)9月に大森貝塚発見発掘100周年を記念して建てられたそうです。以上、大井町から大森まで、結構、濃い内容の駅からハイキングができました。(大井町から大森のコースです)【了】人気ブログランキング大井町から大森へ(その14) 大森駅です
2021年11月29日
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大森貝墟と池上通りをはさんだ向かい側にある日枝神社です。扉がついているのが珍しいような。社格は村社となってます。名称も日枝神社となっていますが、山王権現を祀っていた山王信仰の神社で、大森駅周辺の大田区山王は当社が由来となっているそうです。狛犬がなかなか興味深く。こちらの狛犬は子持ちの狛犬。こちらは鞠を持っています。こちらが社殿です。そろそろゴール近くになると、詳しく鑑賞する気持ちの余裕が少なくなってきて、紹介することがなくてすみません。(大井町から大森のコースです)人気ブログランキング【つづく】大井町から大森へ(その14) 大森山王日枝神社
2021年11月28日
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品川から池上本門寺に続く池上通りに出ました。この池上通りに面してあるのが、「品川区立大森貝塚遺跡庭園」(→→→こちら)です。大森貝塚といえば、アメリカから来日したモース博士によって日本で初めて学術的発掘調査が行われた貝塚です。そこが庭園として整備されているわけですね。そして、この大森貝塚遺跡庭園は、モース生誕の地であるアメリカ合衆国メイン州ポートランド市との姉妹都市提携締結を記念して昭和60年に開園したものだそうです。大森貝塚・モース博士という言葉と、静岡の登呂遺跡という言葉は、それぞれ縄文時代と弥生時代を代表する遺跡として、試験には必ず出ていました(MoMo太郎が中学生の頃ですが)。その考古学界の代表選手が品川区のここにあったのですね。庭園と言っても、それほど広くはなく10分もあれば、一周できますが、内容は濃い庭園です。縄文式土器や貝塚の解説等の説明板があって、これをじっくり読んでいるだけでも、考古学ファンにはたまらないかも。この貝殻のような屋根の下には、貝が捨てられていた貝層の標本が見えました。貝塚といっても、大昔のゴミ捨て場で、貝以外にも動物の骨・土器・石器など様々なものが見つかっているそうです。ということは、東京にある埋め立て地の夢の島や、第二次世界大戦後に瓦礫で埋め立てた中央区新川あたりの霊岸島(→→→こちら)を1万年後くらいの人が掘り返したら、貝塚となるのかもしれませんね(もっとも、その頃までに田所博士(香川照之)が予言している関東沈没がなければの話ですが)。こちらは庭園の中央部にある縄文広場で、縄文時代の気候はこうだっただろうということで、霧が発生する仕掛けになっています。だんだん霧が晴れてきました。ちょっと残念そうなお子様たち。こちらは、アメリカ合衆国メイン州ポートランド市との姉妹都市提携締結を記念した石碑です。大森貝塚を発掘したモース博士(→→→こちら)の銅像です。ちなみにこの人の専門は動物学で、東京大学のお雇い教授を二年間勤め、ダーウィンの進化論を初めて日本に紹介した方だそうです。こちらは、昭和4年(1929)11月に建てられた貝塚碑です。碑文には「The Site of the Omori Mounds discovered by Professor Edward S.Morse 」(エドワード・S・モース教授によって発見された大森貝塚跡)と記されています。 この大森貝塚記念庭園から大森駅の方へ500メートルも歩かない大田区側にも「史跡大森貝塚」と書かれた看板がありました。史跡大森貝塚、「大森貝墟(かいきょ)の碑」とありました。貝墟の「墟」は廃墟の「墟」ですね。中に入ると「モース博士と大森貝塚」と題された説明板がありました。そして、高さ2メートルを超える板碑があり、碑面には「我国最初之発見 大森貝墟 理学博士佐々木忠次郎書」とあり、なかなか立派です。ちなみに理学博士・佐々木忠次郎(→→→こちら)さんは、東京大学理学部生物学科の学生だった明治10年(1877)、モースの指導を受けて、発掘にも参加。後に近代養蚕学・製糸学の開拓者なった方です。こちらにも「Relic of Omori Shell Mound Discovered by Professor Edw.S.Morse in 1877」(1877年にエドワード・S・モース教授によって発見された大森貝塚の遺構)と記されていました。また、こちらの板碑は昭和5年(1930)に建てられています。こちらの板碑は、東海道線のすぐ脇にあって、電車に乗っていても目につきますね。この大森貝墟の碑の入り口付近、池上通りに面した場所にあるものです。こちらは、マドレーヌの碑ではなく、「モースゆかりの地」と記されたモニュメントです。こちらは大森貝塚とこの貝墟碑に関する説明文です。そして、これは大森貝墟の碑の二分の一のサイズにしたレプリカでした。でも、大森貝塚の場所が二ヵ所あるというのもなんかややこしいですね。実際、モース博士が論文に発掘場所の詳細を書かなかったこと、貝塚発見の報告文書に所在地が大森村と記述されたことから、当初の発掘地点について長い間、品川区説と大田区説の2つが存在したそうです。発掘調査で出土する遺物から品川区が優勢ではあったのですが、断定ができないため、昭和30年には、品川区、大田区の両方が国の史跡の指定を受けています。しかし、東京府が大井村字鹿島谷(現在の品川区大井6丁目)の土地所有者に調査の補償金50円を支払った文書が発見されたこと、貝塚碑周辺の再発掘で貝層が確認された一方、貝墟碑周辺では見つからなかったことから、現在ではモースが調査したのは品川区側であったことがわかってたそうです。ちなみに、佐々木先生の名誉のために付け加えますと、モース博士の報告書に、南の畑にも貝塚があったが、耕作で破壊されたと記されているので、大森貝墟の碑があるあたりにも貝塚が広がっていた可能性はあるのです。(大井町から大森のコースです)【つづく】人気ブログランキング大井町から大森へ(その13) 大森貝塚と大森貝墟
2021年11月27日
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第一京浜(国道15号線)を渡り、京浜急行線の高架の下を進みました。ちなみに第二京浜は国道1号線になります。また第三京浜は世田谷区野毛の玉川インターから横浜市神奈川区保土ヶ谷インターに至る自動車専用の有料道路で昭和39年(1964)に 玉川インター - 京浜川崎インター間が開通し、昭和40年(1965)に保土ヶ谷インターまで全線が開通しましたが、国道になったのは平成5年(1993)でした。そのまま西に向かって歩くと、JR東海道線沿いに細長い「大井水神公園」がありました。この先に水神社があるそうです。ということはこの桜並木の道は水神社への参道なのかも。そしてJR東海道線を跨ぐ跨線橋を渡ります。ひらがなで「さんのうみちこせんじんどうきょう」と書いてありましたが、漢字で書くと山王道跨線人道橋なんでしょうね。JR東海道線です。跨線人道橋を渡り終えると、大田区山王一丁目でした。山王というと日本の神のひとつ大山咋神のことを指すので、この近くに山王権現を祭った日枝神社があるのでしょうか。ということは、水神社への参道と日枝神社へ参道が交わる交差点だったんですね。(大井町から大森のコースです)【つづく】人気ブログランキング大井町から大森へ(その12) 大井水神公園
2021年11月26日
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勝平橋を渡ると品川区に入ります。そして、勝島運河を埋め立てて造成された「しながわ区民公園」(→→→こちら)に入ります公園内には、平成3年(1991)にオープンした「しながわ水族館」(→→→こちら)があります。水族館らしくペンギンのお出迎えです。こちらの建物が水族館のレストランハウスです。「しながわ」という名前が付く水族館といえば、「アクアパーク品川」というのもありますが、あちらは「品川」といっても、港区にある品川プリンスホテルの敷地内にありますよ。ということで、間違わないようにしましょう。こちらは園内にある海水を利用した約6,500平方メートルの人工湖「勝島の海」です。百合鴎(ゆりかもめ)橋と刻まれた石碑です。噴水もあってなかなかいい眺めでした。水族館の全景です。しかし、この後ろのアパートに住んでいると、近くに大きな公園があっていいですね。家賃もお高いでしょうね。京浜急行の立会川駅や大森海岸駅から来ると、こちらの入口になります。(大井町から大森のコースです)【つづく】人気ブログランキング大井町から大森へ(その11) しながわ区民公園
2021年11月25日
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そして、平和島といえば、やはり平和島競艇場。通称はBOAT RACE平和島。ここでちょっと気がつかれましたか、この立体駐車場が「府中市営」となっていることに。実は平和島競艇は府中市が主催しているのです。ところで、府中市といえば、「多摩川競艇場」(→→→こちら)もあり、相当、競艇に熱心な自治体かと思われるでしょうが、多摩川競艇は青梅市および東京都四市競艇事業組合(小平市、日野市、東村山市、国分寺市)により運営されています。駅からハイキングの途中なので、中を見学することもせず、こちらの「勝平橋」の上からレース場をちょっとのぞいてみました。しかし、勝って平らかな心になれないのに勝平橋とは、頓智が効いてますね。コースは勝島南運河を仕切って利用しています。潮の満ち引きによる潮位の差はあるようですが、東京湾からの波は直接入ってくることはなく穏やかですが、ご覧のように付近をマンション等の建物に囲まれていて、春先などはビル風で水面が荒れることがあります。これは本番前に予想の参考やボートやモーターの調子を観客に見せる展示航走でしようね。電光掲示板でレースのリプレイが表示されていました。このサギもレースが好きなんですかね。ずっと眺めていました。(大井町から大森のコースです)【つづく】人気ブログランキング大井町から大森へ(その10) BOAT RACE 平和島
2021年11月24日
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新平和橋を渡って、平和島に入ります。平和島、東京都大田区の大森と大井の間で、東京湾に埋め立てられた人工島の京浜第2区埋立地です。それが「平和島」と名付けられた理由は、大正・昭和へと遡ります。明治・大正の当時は横浜港が活用されていましたが、東京港は資金難のためなかなか開発が進まなかったのです。しかし関東大震災をきっかけに開発を進めることが決定し、東京港の整備が進められました。東京港と横浜港を結ぶ京浜運河も整備されました。東京湾の開発整備が進められると反対する勢力が出で来るのは、今の沖縄の辺野古基地建設と同様です。漁業者やその組合からの猛反対により事業は途中で終了。整備の中止により現在の平和島の一部に未整備の土地が残りました。そして、検討の結果、未整備の土地は太平洋戦争の捕虜収容所としての活用が決まり、戦後は戦犯一時収容所としても活用されました。そういった経緯から、戦争を忘れない象徴としてこの埋立地は「平和島」と名付けられたそうです。その平和島も今ではこのような物流センターや倉庫として活用されています。戦死した多くの兵士や市民の犠牲によって平和を得られたのと同様に、平和島を得た代償として、かつて海苔の養殖が盛んであった平和島周辺の大森地域では、東京湾の開発による排水や埋め立てにより、海苔の養殖はできなくなりました。平和島にこのような流通団地ができたのは1970年代くらいだったです。この東京モノレールの駅名も最初は「新平和島」だったのが1972年には「流通センター前」に変わりましたものね。平和島の中心を縦貫している首都高速羽田線です。ここには平和島出入口や平和島パーキングエリアがあります。平和島が竣工されたのは1967年。その当時はまだ文字通り「島」だったのですが、1981年に運河の一部が埋め立てられ、その地に「平和の森公園」が完成しました。それによって、平和島と大森地域が平和の森公園によって地続きになりました。(大井町から大森のコースです)【つづく】人気ブログランキング大井町から大森へ(その9) 平和島という名前の由来
2021年11月23日
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東京モノレール羽田空港線の高架橋の下をくぐります。この長い橋を渡ります。ここは、東京都港区田町付近より品川区、大田区、川崎市を経て横浜市鶴見区大黒埠頭まで続く京浜運河です。関東大震災後東京-横浜間の海上輸送の重要性が高まり、埋立地造成と共に開削されたそうです。東京モノレールからよく見るこのモニュメント。気になっていたのでこれを近くから見てみることにします。橋の名前は勝島橋というのですね。勝島橋を渡って、大井ふ頭中央海浜公園に着きました。ここは、大井埠頭そばの京浜運河沿いに広がる広大な公園で、釣り・磯遊び、バーベキュー、野球場、雑木林、芝生の広場など様々な要素が詰まった公園でその大きさは東京モノレールの車窓からも確認することができますね。そして、気になっていたモニュメントです。運河をはさんで向こうに見えるのはモノレールの大井競馬場前駅です。「碧翔」という名前のモニュメントです。しかし、ハクチョウの羽根の上に女性が座っていたのでは、ハクチョウも羽ばたけないので飛翔しずらいでしょう。作者ももう少し鳥がどのように飛ぶのかよく観察して欲しかったですね。運河の向こうに見えたモノレール。子供の頃には、このモノレールとか高速道路に将来の町はこうなっていくんだという未来を実現したものだと感じていましたが、なんかもう見慣れるとそうでもなくなりましたね。こちらにもモニュメントがありました。「南の空へ」という名前のモニュメントです。これも鳥の羽根に人がぶら下がって飛んでいるようですが、こんなことしたら鳥も羽ばたけないですよね。それともこのぶら下がっている人間はスーパーマンのように空を飛べるという設定なんでしょうか。こちらは、災害時に船などが着けられるようにした桟橋のようです。こちらは「なぎさの森」というエリアで、森が広がるエリアとなっています。このゲートの中は自然観察路となっていて、樹林の観察や野鳥の観察などもできるようですね。ちょっとした森林浴気分で、鬱蒼とした林の中を抜けて行きます。「夕やけなぎさ」と呼ばれるエリアです。釣りを楽しむ人がいますね。多分、釣れるのはハゼでしょうか。こういうカップルを見ると、女性の方は忍耐強い方だなと思います。それとも晩ご飯のオカズに魚をしっかり釣るように監督しているのかな。火を使ったバーベキューができるエリアがあるようですが、×点が書かれていて、こういう約束を守らなくてもBBQしていいのか、それともBBQは禁止しているのか、判断に悩みます。あの橋を渡って平和島の方へ向かいます。(大井町から大森のコースです)【つづく】人気ブログランキング大井町から大森へ(その8) 大井ふ頭中央海浜公園
2021年11月22日
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首都高速1号羽田線の高架橋の下を抜けると、東京シティ競馬にやって来ました。勝島という場所にあるにしては、余り勝たしてもらえないのかも。「東京シティ競馬」というのは愛称で、名前は大井競馬場です。この競馬場、歴史は古く、1950年(昭和25年)5月に開場したそうです。主催しているのは東京都の特別区。東京都も昭和48年度(1973)までは主催していましたが、1967年に東京都知事に就任した美濃部亮吉が都営ギャンブルの全廃を宣言したので、開催しなくなりました。そういえば、昔後楽園でやっていた競輪も廃止されましたね。古い話ですが。今はコロナ禍のため入場は事前予約みたいですが、普通は100円の入場料で疾走する馬を見ることができます。こちらがゴール前にある大型スタンドです。最寄駅はこの東京モノレールの大井競馬場前駅、品川駅高輪口から都バスを使っても来れます。(大井町から大森のコースです)【つづく】人気ブログランキング大井町から大森へ(その7) 東京シティ競馬 (TCK)
2021年11月21日
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天祖・諏訪神社を出て、立会川を渡る弁天橋に。橋の上から、川面ものぞき込む人達が、立会川の中に黒い物体が、その正体は、濁った水の中を泳ぐミシシッピアカミミガメ(外来生物)でした。橋を渡ったところにある児童遊園に、坂本龍馬の銅像があります。時節柄、マスクは欠かせませんね。この龍馬像、2010年に放映されたNHK大河ドラマ「龍馬伝」(→→→こちら)の影響で龍馬ブームとなり、2010年にそれまで高知市より寄贈されたプラスチック製だったものから、地元有志が制作したブロンズ像に変わったそうです。坂本龍馬が19歳の時、立会川の土佐藩が築いた浜川砲台で警備に加わったという説が残っていることから銅像は「20歳の龍馬像」だそうです。まだ20歳の時はブーツではなく草履だったんですね。この顔ハメに岸田総理も入って、坂本龍馬のように、「日本を今一度せんたくいたし申候。」と誓っていただけるといいですね。まあ、それができるかどうかはわかりませんが。その近くにあるこの建物。2012年に放映されたテレビドラマ「ラッキーセブン」(→→→こちら)のロケ地だったんですね。でもこのドラマ、観たことはありません。(大井町から大森のコースです)【つづく】人気ブログランキング大井町から大森へ(その6)「日本を今一度せんたくいたし申候」坂本龍馬像
2021年11月20日
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旧東海道に面して、このあたりの鎮守である天祖神社がありました。建久年間(1190~1199)以前に創建されていた天祖神社と寛永8年(1631)には存在していた諏訪神社が昭和40年(1965)に合祀され、天祖・諏訪神社となったそうです。こちらが社殿です。狛犬を奉納した若者中とは、初めて見ました。若中組とか呼ばれる村の若者たちの集団のことなんでしょうね。こちらは神社の境内にある摂社の厳島神社です。日露戦争の記念碑が建立されていました。神社の中にはこういう石碑ってよくありますね。(大井町から大森のコースです)【つづく】人気ブログランキング大井町から大森へ(その5) 天祖・諏訪神社
2021年11月19日
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この道は旧東海道になるそうです。江戸時代後期、タケノコの栽培が品川・目黒を中心に栽培が盛んだったそうです。そのタケノコにちなむおせんべいなんでしょうね。こういう雰囲気のお店が街道だった感を醸し出していますね。こういう石柱も旧東海道を歩く人向けに建てられたんでしょうか。立会川に架かるこの橋を渡ります。浜川橋と言う名前ですが、以前は涙橋と呼ばれていたそうです。涙(泪)橋と呼ばれる橋は江戸に二つあります。ひとつは千住にある小塚原刑場跡近くの思川(おもいがわ)に掛かっていた橋で、もう一つが、この品川、鈴ヶ森刑場跡付近の立会川に掛かっていた橋です。いずれも刑場跡近くにあることに深い関連があるのでしょうね。この橋が架けられたのは、昭和9年(1934)なんですね。もう87年なんですね。立会川を渡ります。橋のたもとにあった謎の構造物。橋に沿って掛けられていた水道管の橋台の跡なんでしょうか。この道を歩いて西に行くと川崎に至るのですね。(大井町から大森のコースです)【つづく】人気ブログランキング大井町から大森へ(その4) 旧東海道
2021年11月18日
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しながわ花海道のすぐ脇にある浜川砲台このあたりには、かつて土佐藩の下屋敷があり、ペリー再来航後の安政初年に立会川河口左岸に砲台が設置されました。その砲台に据えられた大砲を、品川龍馬会のメンバーを中心に地元の人々が資金を集めて復元し、区に寄贈したそうです。説明板によれば、浜川砲台には、計8門の大砲が配備されたそうです。ここに復元したのは6貫目ホーイッスル砲だそうです。実物のない他藩では丸太を大砲らしく見せた偽物もあった中で土佐藩の装備は江戸っ子の評判も上々で、次のような 狂歌も作られていたそうです。品川の固めの出しのよくきくは 下地もうまく なれし土佐武士意味は、[品川の固め場(守備陣地)の良く効果的であったのは、準備もうまい熟練の土佐のサムライだからだ]ということで、これは土佐の鰹節にかけた狂歌で堅目のダシの良く効くは、料理の下ごしらえも、上手くできる土佐ぶし(鰹節) だからだという意味だそうです。この浜川砲台に佐久間象山塾で大砲操練を学んだ20歳の坂本龍馬もいたそうです。復元された大砲は原寸大(全長 3メートル、車輪の直径 1.8メートル)で再現したものですが、これって実際、使われたんでしょうかね。地域を洪水の被害から守る東京都下水道局浜川ポンプ場です。こちらは大砲と違い役立っていますね。海抜は1.9mだそうです。この川が立合川。2002年7月からJR東日本が、馬喰町駅 - 東京駅間の総武線トンネル内に湧き出る地下水の下水費用対策と、立会川の水量増加と水質改善を兼ねて、敷設した12kmの配水管により立会川への送水を開始したことにより水質が大幅に改善したそうです。名前の由来としては、(1) その昔、川を挟んで小競り合いがあったことから「太刀会川」とした。(2) 鈴ヶ森刑場へ送られる罪人を、その親族や関係者が最後に見送る(立ち会う)場所であることから「立会川」となった。(3) 中延の滝間(たきあい)という地を流れていたので滝間川(たきあいがわ)と呼ばれ、それが現在の立会川に変わった。と諸説あるそうですね。(大井町から大森のコースです)【つづく】人気ブログランキング大井町から大森へ(その3) 浜川砲台
2021年11月17日
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この川のように見えるのは、勝島運河です。この運河は海で左側の建物のある土地は勝島(→→→こちら)と呼ばれる埋立て地です。埋め立ては昭和14年(1939)に開始され、日中戦争に「勝つように」という当時の人々の思いからこの人工島の名前を「勝島」と海軍省が命名したそうです。ちなみに、勝島には大井競馬場があります。でも、地名と競馬の結果とは一致しないですね。運河沿いには船だまりとなって小さな船が停泊していました。防潮堤沿いには花壇が設置され、それぞれの花壇には商店街の名前や地元の町内会などの名札が。しながわ花海道とは、勝島運河沿いの防潮堤の緑化プロジェクトだそうです。立会川商店街と鮫洲商店街が中心となって、約2kmに及ぶ防潮堤に季節ごとに違う花が植えられています。しながわ百景(→→→こちら)として選ばれているそうです。なにか貴重な生き物がいるようですね。こちらはちょっと危険な生き物もいるようですね。勝島運河に風景、都会的でもありかつローカルな雰囲気が混在していいですね。(大井町から大森のコースです)【つづく】人気ブログランキング大井町から大森へ(その2) しながわ花海道
2021年11月16日
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10月9日のJR東日本の駅からハイキングで、大井町から大森へ歩いてみました。出発はここ京浜東北線の大井町駅です。歩き出すときの気分はこんな感じです。♪知らない街を歩いてみたい、どこかへ行きたい。駅から歩きはじめると、なんとここに三菱鉛筆の本社があったのですね。子供の頃からお世話になっています。三菱鉛筆本社の脇のこの道を歩いていくと、京浜急行の高架橋が見えてきました。そして、第一京浜と呼んでいる国道15号線を横断して、住宅街の中に公園を見つけました。名前は「鮫浜公園」です。この地帯が運転免許試験場で有名な鮫洲と俗称(ちなみにここの住所は東大井)されていたところで,浜に近かったことにから命名された名前なんでしょうね。ちなみに、鮫洲の由来は昔品川沖に大鮫が死して浮上し,腹中から正観音の木造が出てきたことにちなむと言われています。海に近いせいか、釣船屋さんや屋形舟屋さんがありました。近くの運河には、釣り船や屋形船が停泊していました。(大井町から大森のコースです)【つづく】人気ブログランキング大井町から大森へ(その1) 鮫肌ではなく鮫浜でした。
2021年11月15日
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武蔵陵墓地から高尾駅に向かって歩きます。駅からハイキングもいよいよ最終章に近づきました。武蔵陵墓地のそばは、このような住宅街がありました。これは武蔵陵墓地を取り囲む柵です。よく見ると柵の上にはギザギザとして容易に進入できないようにしています。高尾街道に出てこの建物の前に出ました。ここは、国立研究開発法人森林総合研究所多摩森林科学園(→→→こちら)です。る森林・林業・木材産業に関する試験研究機関であすが、入園料(大人300円子供50円(高校生まで、ただし4月は大人400円子供150円)を支払えば、施設の見学ができます。施設の中には、7haのもの樹木園やサクラ保存林があり、動物、野鳥、昆虫などの生態を学べる。サクラ保存林は、日本各地のサクラの遺伝子を保存するための林であり、約1,700本の桜が植えられています。また、樹園林にはムササビの生態を学ぶためのスポットがあり、食痕、巣穴、フンなども観測できるそうです。こちらの森の科学館では、パネルや映像、いろいろな資料を展示し森林に関わる研究成果を学ぶことができます。こういう施設は、ここだけを目的に訪れてじっくりと楽しみたいので、今回はパスさせていただき、先を急ぎました。ここからは、先ほど訪れた産業災害で亡くなった人を慰霊するための高尾みころも霊堂(→→→こちら)も見えました。そして、この急な坂道を降りて行くと、ちょっと変わった施設。農林水産省の職員並びに農林水産省の所掌事務に係る事項を担当する地方公共団体及びこれに準ずる団体の職員に対し、その職務を行うのに必要な研修(森林技術総合研修所の所掌に属するものを除く。)を実施している「農林水産省農林水産研修所(→→→こちら)」がありました。ここの町名、廿里町と書いて「とどりまち」と読むそうです。「廿」数字の「20」を表す漢字です。しかし、音読みは「じゅう」、訓読みは「にじゅう」なのに、難しいですね。そして、ゴールのJR高尾駅に着きました。高尾駅周辺、色々と興味深いものがあることを発見したハイキングでした。でもなんか疲れました。(高尾駅周辺のコースです)【了】人気ブログランキング駅からハイキングで高尾駅周辺をめぐる(その12) 多摩森林科学園
2021年11月13日
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入口の案内。皇室墓地なので当然のことながら宮内庁の管轄になります。武蔵陵墓地には、多摩陵、多摩東陵、武蔵野陵、武蔵野東陵の4陵があります。多摩陵は大正天皇の御陵です。その東隣の多摩東陵は、貞明皇后の御陵です。平成2年(1990)には、昭和天皇の御陵「武蔵野陵」、さらに平成13年(2001)には香淳皇后の御陵「武蔵野東陵」がそれぞれ造営されました。敷地は広く47万平方メートル、東京ドーム(46,755平方メートル)10個分の広さです。陵墓地内の参道です。玉砂利が敷き詰められ高く伸び手入れの行き届いた北山杉の並木が続いています。静謐な空間で天皇陛下も皇后陛下も安らかに過ごされているのでしょう。まずは大正天皇量の多摩陵(たまのみささぎ)から参拝しました。石柱の古色蒼然な様が、歴史を感じます。一番下が一般拝所で、その上に特別拝所、そして陵の正面は皇族拝所となるのでしょうか。この階段を上って、皇族の方は参拝するのですね。陵墓の形は上部が円形、下部が方形の上円下方墳で、上円は直径16.5m、高さは10.6m、下部は一片27mの正方形です。陵の葺き石には多摩川の石が用いられているそうです。こちらは大正天皇の后、貞明(ていめい)皇后の陵になります。貞明皇后は昭和26年(1951)に崩御されました。陵名は多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)です。多摩東陵は階段の段数が少ないようです。陵の形状は大正天皇と同じような作りですが、戦後間もない1951年に造営されとしては立派なものですね。やはり皇室とにはそれだけの格式が必要なのだと思いました。そして昭和天皇陵です。昭和天皇は昭和64年(19890)1月7日に崩御され、同年2月24日に斂葬の儀(大喪の礼)が行なわれ、造営中の陵所に埋葬されました。陵名は武蔵野陵(むさしののみささぎ)。また、この昭和天皇陵の造営により、墓地の名称が「多摩御陵」から「武蔵陵墓地」と改称されています。陵の形態は大正天皇陵などと同じく、上部2段・下部3段の上円下方墳。陵の形や拝所の構成などは一般拝所に段がないことを除けば大正天皇陵とほぼ同じだが、一般拝所から墳丘がある段までの高さが低くなっています。また、墳丘は大正天皇陵より上円部の丸みがなだらかになっていて、優しい感じがしました。平成12年(2000)6月16日に崩御された香淳(こうじゅん)皇后の陵です。陵名は武蔵野東陵(むさしののひがしのみささぎ)。陵の構成は貞明皇后陵とほぼ同じですが、基壇迄の高さが低くなっています。子供だったMoMo太郎にとっては、香淳皇后というと、優しい上品なおばあさんという印象が強く残っています。さて、MoMo太郎がこの武蔵陵墓地を訪れた翌々日に小室眞子さんが、秋篠宮家の長女眞子さまとしてこの武蔵陵墓地に結婚のご報告に参拝されたました。この結婚については色々と意見もあるでしょうが、国民に誹謗中傷を受けてPSTDになられた眞子さんがアメリカの地で末永く、また、誹謗中傷されに日本に帰って来ることもなく、幸せに暮らしていただけるのであれば、それはそれで良しと願っています。【追伸】気になっているのですが、眞子さんは妹の秋篠宮家佳子内親王さまのことは、やはり佳子さまとお呼びになるのでしょうね。(高尾駅周辺のコースです)【つづく】人気ブログランキング駅からハイキングで高尾駅周辺をめぐる(その11) 武蔵陵墓地に参拝
2021年11月12日
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南陵公園のグランドでは野球を楽しむ人が、ピッチャーの投球練習。審判の人もいて本格的な試合ですね。サウスポーのピッチャー。バッター見逃しです。そして、都道187号多摩御陵線に戻って武蔵陵墓地へ向かって歩きました。やはり、皇室関連施設ということで、武蔵陵墓地の前には交番がありました。こちらが武蔵陵墓地の入口です。警察官が巡回はしていますが、それほど厳重な雰囲気はなく、一般の人が参拝できるようです。ただし、皇室の行事がある時は中には入れないようです。(高尾駅周辺のコースです)【つづく】人気ブログランキング駅からハイキングで高尾駅周辺をめぐる(その10) 武蔵陵墓地へ
2021年11月11日
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多摩御陵入口の交差点からこの道を辿って武蔵陵墓地へ向かって行きます。交差点に建つ「武蔵陵墓地入口」と刻まれた立派な石柱がありました。ケヤキ並木の美しいこの道は東京都道187号多摩御陵線です。皇室の方が武蔵陵墓地へ向かわれる時はこの道を行かれるのでしょうね。そして重厚感あふれる橋がありました。やはり陛下の乗られるお車が通る道ですから、橋もそれなりに意匠を凝らしているのでしょうね。橋の名称は「南浅川橋」その名の通り、この多摩川の支流の南浅川に架かっています。川沿いの桜並木が春にはきっと見事でしょうね。橋を渡ると多摩陵武蔵野陵と刻まれた石柱があります。そして、武蔵陵墓地の南側にあることが名称の由来の陵南公園があります。1964年東京オリンピックの際に自転車競技場として使用され、その後公園となったものです。自転車競技は1周400メートルのトラック競技と国道20号線を使ってスクラッチレース、タイムトライアルなどが行われたそうです。自転車競技の施設は仮設で、オリンピック終了後は撤去され今では野球場などが整備されています。また、自転車競技の優勝者の名前が刻まれたレリーフが公園の管理事務所の前に設置されていました。(高尾駅周辺のコースです)【つづく】人気ブログランキング駅からハイキングで高尾駅周辺をめぐる(その9) 陵南公園
2021年11月10日
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甲州街道に出ました。昭和4年(1929)、大正天皇の御陵造営を記念して、甲州街道追分交差点付近から高尾駅前にかけての約4kmに763本のイチョウが植えられ、見事なイチョウ並木となっています。しかし、この時期(10月中旬)になるとギンナンの強い芳香が・・・。こちらの交差点は、多摩御陵(皇室の墓地)入口です。ちなみに昭和天皇の御陵が造営されてからは武蔵陵墓地と呼ばれています。この多摩御陵入口から南側の中央線に行くと、このような広場があります。ここは、かって「東浅川駅」という駅がありました。この駅は大正天皇の葬儀にあたり、その陵墓である多摩御陵がある武蔵陵墓地近くに設けられた皇室専用の乗降施設として設置されたそうで、社殿造の駅舎があったそうです。しかし、皇室の多摩御陵参拝に自動車を利用することが多くなったため昭和35年(1960)に廃止されたそうです。そして、駅舎は地元の集会施設「南陵会館」として利用されていましたが、平成2年(1990)10月9日、天皇制に反対する新左翼による爆弾テロに焼失してまいました。このポップな外壁の平屋建ての建物は再建された地元の公民館で、今はここが「南陵会館」と呼ばれています。この広場の中心に記念碑が建立されています。昭和39年(1964)のオリンピック東京大会で、この場所に自転車競技のトラック施設があったそうです。(高尾駅周辺のコースです)【つづく】人気ブログランキング駅からハイキングで高尾駅周辺をめぐる(その8) 甲州街道イチョウ並木
2021年11月09日
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東浅川交通公園にやってきました。ここにはグランドや健康器具のある「東浅川公園」と、安全に交通ルールやマナーを学ぶことができる「東浅川交通公園」が隣接して設置されています。子どもが事故に遭わないように、日頃から交通ルールを教えたり、自転車での運転練習を行なったりということは大切です。そんな時に役に立つ施設が交通公園です。調べてみると、日本初の交通公園は兵庫県尼崎市にある西武庫公園(→→→こちら)で、昭和38年(1963)に開園しています。1955年以降は、交通事故の死亡者数が増加傾向をたどった「第一次交通戦争」と呼ばれた時代でしたから、そういう時代背景の中、全国に交通公園が開園したのでしょうね。公園の中の銅像です。どうしてこの僧侶の姿をした銅像が建立されているのでしょうかね。こちらも立派な銅像で、「麦の詩」という名前もありました。昭和30年代にこのあたりは土地区画整理事業(→→→こちら)により農地から宅地や工業用地に作り変えられたようで、それ以前にここで営まれていた農業とそれに携わった人達を称えるために建之された銅像のようです。この公園は中央線のすぐ脇にあり、この踏切を渡って甲州街道に出ます。JR中央線、線路が真っ直ぐ延びていました。(高尾駅周辺のコースです)【つづく】人気ブログランキング駅からハイキングで高尾駅周辺をめぐる(その7) 東浅川交通公園
2021年11月08日
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