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JR中央線が高架橋に突き当り、国立駅の方へ向かいました。ゴールとなっていたJR国立(くにたち)駅に到着しました。国立という駅名は、国立一橋大学があったから、東横線の学芸大前と同じノリで国立という駅名にしたのかと思っていましたが、どうやら中央線の国分寺駅と立川駅の間に駅を設置するため両駅の頭文字をとって「国立駅」と命名されたそうですね。だから「こくりつ」とは読まずに「くにたち」だったんですね。駅の南側にある建物、丁度訪れた2022年11月19日は一橋大学の学園祭が行われていたようで、「一橋祭」という幟や幕が飾られていました。この三角屋根の木像の建物は、国立駅の旧駅舎で、平成15年(2003)から始まった中央線の高架化工事に併せて解体撤去されるところを、国立市が撤去されることを惜しんで解体し新たに駅前に復元して建てたのだそうです(→→→こちら)。【追補:もう一つの東京都の中心(重心)について】1月22日のブログで紹介した東京都の中心(重心)についてですが、紹介したのは、「東京都全体(島しょ部は除く)を平面と仮定した場合、ある一点でうまくバランスがとれる位置、つまり「東京都の中心(重心)」が国分寺市富士本3丁目になる」でしたが、もう一つ別の重心もあります。それが人口重心です。人口重心しは人口の一人一人が同じ重さを持つと仮定して、その地域内の人口が、全体として平衡を保つことのできる点をいいます(→→→こちら)。その最新のデータとして令和2年国勢調査に基づく人口重心が令和5年1月17日に総務省から公表されていて、それによると東京都の人口重心は 杉並区松ノ木一丁目にあるそうです(→→→こちら)。(秋の国分寺のコースです)【了】人気ブログランキングへ秋の国分寺(その12) 旧国立駅舎
2023年01月24日
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東京の中心から住宅街の中を抜けて、国立駅方面に向かって歩くと、広い敷地を持った建物が見えてきました。公益財団法人鉄道総合技術研究所(→→→こちら)という施設です。文字通り、鉄道技術の研究・開発を行う日本の公益財団法人で、国鉄の鉄道技術研究所(鉄道技術に関する研究機関、新幹線開発やリニアモーターカーの研究などを行っていた)と鉄道労働科学研究所(人間工学・心理学・精神医学的見地から職員の労働管理を行う研究をしていた)等の業務を継承する法人として昭和61年(1986)設立された組織です。その鉄道総合技術研究所の前に展示されている新幹線の車両。これが新幹線資料館(→→→こちら)です。中に入れるようになっていますので、早速入ってみました。運転台の中にも入ることができます。運転席に座ってみてしばし、新幹線の運転手になった気分を味わいました。正直言うと、窓は広くなく視界は狭いです。展示されている車両の紹介です。この新幹線は、951形という名称で、昭和44年(1969年)に製造された2両編成の試験車両です。この車両は、昭和44年(1969)に製造され、昭和47年(1972)に開通前の山陽新幹線西明石から姫路間で時速286キロの当時世界最高記録をだした記念すべき車両ということです。その後、昭和49年(1974)に廃車となり、鉄道技術研究所(現在の鉄道総合技術研究所)に引き取られ、1両(951-2)は試験に使用された後、解体となり、残りのもう1両(951-1)が展示され、平成3年に現在の公益財団法人鉄道総合技術研究所から国分寺市に無償譲渡されたそうです。車内の様子です。座席は今の新幹線とは違って背もたれが分割になっていませんしリクライニングもしなかったのですが、後ろにあるグリーン車のシートはリクライニングできました。今の新幹線は普通車でもリクライニングできますが、倒す時、「倒してもいいですか?」と気を使って声をかけて下さる方がいて恐縮します。マックスまでリクライニングされるとちょっと圧迫感ありますが、MoMo太郎はいつもちょっと傾けるだけなので、後ろの人に声を掛けたことがありません。新幹線資料室の隣に建つビルです。国分寺市ひかりプラザ(→→→こちら)という施設です。教育関係の施設のようですね。「ひかり」というのは、ここが国分寺市光町という町名だからだそうです。この地域は、以前は大部分が大字平兵衛新田と呼ばれていましたが、昭和41年の「町名整理」および「地番整理」の実施によりそういう地名にしたそうです。これは、鉄道技術研究所で東海道新幹線の開発研究を行っていたことから、新幹線「ひかり号」にあやかり、「光町」と名づけられたそうです。確かに、ちょっとハイクラスな住宅街のこのあたりが「平左衛門新田」という町名だと、ちょっと引くかな。(秋の国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキングへ秋の国分寺(その11) 新幹線資料館
2023年01月23日
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国分寺市の住宅街にあるこの小さな公園「富士本90度公園」というそうです。なんか変な名前ですが、その由来はわかりません。災害時の給水用の井戸があります。これがその井戸です。それ以外は何の特徴もない公園ですが、公園の入口に「東京都の中心(重心)」と記した看板が設置されていました。日本数学検定協会が認定し、2005年の「数学の日」(3月14日)にこの看板が設置されたそうです。東京都全体(島しょ部は除く)を平面と仮定した場合、ある一点でうまくバランスがとれる位置、つまり「東京都の中心(重心)」がこの公園のある国分寺市富士本3丁目であるそうです。これらの家屋が、東京の中心に住んでいる人達の住宅なんですね。(秋の国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキングへ秋の国分寺(その10) 国分寺は東京の中心です
2023年01月22日
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国分寺市を歩くとよく目につきました。電柱に備え付けられた、防犯カメラ。勿論、どこの街にも設置されているんでしょうけど、特に国分寺では目につきました。(秋の国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキングへ秋の国分寺(その9) 町の治安を守ります
2023年01月21日
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玉川上水から離れ南側の五日市街道に向かって歩いていきます。再び国分寺市のエリアに戻ってくると広々とした農地が広がっていました。こちらは農地と言うより庭木みたいなものを育てているのでしょうか。こちらはビニールでトンネルを作り、野菜を栽培しているのでしょうか。国分寺市にはまだ農業が残っているのには驚きました。野菜の無人販売所もありまた。この細長い土地は、砂川分水(→→→こちら)の用水路の跡だと思われます。砂川分水は、砂川用水とも呼ばれ、国分寺市付近では、五日市街道を挟んで南北に別れていますが、北側水路はほとんど空堀の状態となっているそうです。五日市街道を越えて、国分寺市立並木公民館の辺りに来るとこんな説明板がありました。、看板には、以下のようなことが記されていました。砂川用水(野中新田分水)の由来この水路は、八代将徳川吉宗の治世の享保14年(1729年)、新田開発が進みつつあった野中新田六左衛門組と榎戸新田(現在の北町・並木町など)の飲み水に利用するため、「野中新田分水」として玉川上水から分水してつくられました。この分水から飲み水を確保できるようになったことから、農民(新田開発者)の入植が進み、五日市街道に沿って新田開発が更に進むようになりました。その後、明治になって玉川上水に船を通すため分水口の統合が行われ、「野中新田分水」をはじめ九つの分水が「砂川村分水」(明暦3年、1657年開通)に統合され、「砂川用水」と呼ばれるようになりました。現在、「砂川用水」は、玉川上水にかかる松中橋(立川市と昭島市境)のたもとに分水口があり、羽村堰で多摩川から取入れられた水が流れる玉川上水より分水しています。国分寺市内では、立川市境で五日市街道をはさみ南北二本の水路に分かれて西から東に流れ、小平市境で再び一本の水路となります。南側水路は延長約2000メートル、北側水路は延長約1600メートルあり、多くが掘割として残っていますが、水量が少なく、北側水路は空堀となっており、この南側水路でしか用水の流れを見ることができなくなっています。このあたり、砂川用水の水路を中心に親水公園として整備されていました。(秋の国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキングへ秋の国分寺(その8) 都市農業と砂川用水
2023年01月20日
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小平市ふれあい下水道館のすぐぞにあるのは、この水路、「玉川上水」(→→→こちら)です。玉川上水とは、玉川上水は、羽村取水堰で多摩川の水を取り入れ、新宿区四谷にあった四谷大木戸まで全長約43キロにわたって掘られた、素掘りの水路のことです。この先は地下に埋められた石樋や木樋により、江戸城や武家、町家にも配水され、主に飲み水に利用されていたそうです。江戸の町の飲み水確保のため、玉川上水以外にも5つの上水が建設され、これを江戸の六上水(→→→こちら)といったそうです。江戸の六上水とは、次の6つの上水のことです。神田上水:神田川の水を今の椿山荘の近くにある江戸川公園付近にあった関口大洗堰で取水し、後楽園、水道橋を経て日本橋あたりまで給水していた上水です。玉川上水:羽村取水堰で多摩川の水を取り入れ、武蔵野台地を東流し、江戸市中に給水されていた上水です。本所上水(亀有上水):現在の埼玉県越谷市付近の古利根川から取水し、亀有、四ツ木、そして今の東京スカイツリー周辺を通り、隅田川東岸の本所・深川へ給水されていた上水、後に曳舟川となった。青山上水:玉川上水の四谷大木戸から分水し、青山・赤坂・麻布・六本木から飯倉を経て芝方面まで給水した上水です。三田上水(三田用水):今の世田谷区北沢で、玉川上水から分水され、渋谷区を通り、恵比寿、目黒区目黒付近等を流れ、三田方面へ給水されてた上水です。千川上水:玉川上水を境橋(現在の東京都西東京市新町と武蔵野市桜堤との境界付近)で分水し江戸城の城北地域へ給水していた上水です。これら六上水のうち、玉川上水の一部区間は現在でも東京都水道局の現役の水道施設としては村堰から東村山浄水場への送水に活用されていますが、他の上水は廃止されています。また、玉川上水は沿岸の各村々へも分水が認められました。上水完成の翌年に野火止用水への分水、ついで小川、砂川、国分寺分水などが開かれ江戸後期には分水の数は30を超えました。羽村で取水された水量の約半分は途中の村々に分水として流されて、飲み水や田用水として沿岸の村々や多くの新田開発などにも使われていたそうです。恋ヶ窪村分水もそのひとつになります西武拝島線の玉川上水駅近くにある東京都水道局小平監視所から下流に水は流されていませんが、昭和61年(1986)東京都の「清流復活」事業が実施され、小平監視所から杉並区の浅間橋の区間に下水処理水ではありますが水が流されています。また小平市の玉川上水沿いには玉川上水緑道が整備され。この緑道から間近に玉川上水の水路を見ることができます。玉川上水緑道に咲いていたキバナコスモスです。西武国分寺線を越えてさらに東に向かいます。この踏切の付近が今回の駅からハイキング「水の歴史と実りの大地を廻る、秋の国分寺ネイチャーウォーキング」の中間地点になります。(秋の国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキングへ秋の国分寺(その7) 下水の次は上水を勉強します
2023年01月19日
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小平市に入ってしばらく歩くと大きな円形の変わった建物が見えてきました。小平市ふれあい下水道館(→→→こちら)という施設です。日本で、唯一、誰でも自由に本物の下水道管の中に入れる。しかも、MoMo太郎の大好きな「入館無料」。これは見学するしかないですね。中に入ると、ちょっと何をイメージしているのかよくわからないモニュメントが。台座にある銘板を読むと小平市の公共下水道は昭和45年度に着工し、幾多の難工事に遭遇したが、多くの工事関係者の懸命な努力により平成2年度についに完成した。ここに工事関係者に感謝し、工事中に不慮の事故により亡くなられた方々のご冥福を祈り、長く後世に伝える記念碑とする。 平成7年10月吉日と記されていました。昭和45年から平成2年までというと、20年の長い歳月を掛けた大事業だったんですね。こちらに展示されているのは「礫泥水加圧セミシールド掘進機」の模型です。解説によると、長い溝を掘ることなく、立坑という、この機械を入れる穴だけを掘り、地中をこの機械で掘り進んでいくという機械だそうです。館内に入ると、トイレの中で新聞を読んでいる模型がありました。当然トイレで排泄したものは下水道に流れて込んでいくのですね。建物の中は地下五階まであり、階段を使って降りて行きながら、途中の階で下水道の役割や仕組み、歴史などを分かりやすく映像システムやパネルで展示しています。階段の中央には、土壌モノリスという、地面に穴を掘るなどして現れた断面を、そのままの姿で固定した標本が展示されていました。そして地下五階からはこの下水道の中に入って見学することができます。写真ではお伝え出来ませんが、水が流れる音と強いニオイがします。しかし、私たちの生活には欠かせない下水道、よく勉強しておくべきだと思いました。(秋の国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキングへ秋の国分寺(その6) 下水道について勉強しました
2023年01月18日
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厳島大弁財天から更に府中街道を北に歩くと、大きな公園がありました。窪東(くぼひがし)公園(→→→こちら)という公園でした。国分寺市のホームページによると、窪東公園は、水と緑と芝生大広場と大型カラフル複合遊具の公園として、市民に親しまれています。広い園内には、すべり台・鉄棒・水遊びの川・ベンチ・トイレ・あずま屋休憩所などが設置されており、子ども連れにも人気のスポットです。ということでした。確かに、広い芝生広場がありました。公園を出てさらに北に歩くと小平市に入ります。小平市、MoMo太郎がこれまで足を踏み入れたことはない街です。何があるのでしょうか、楽しみです。(秋の国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキングへ秋の国分寺(その5) 窪東公園
2023年01月17日
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府中街道(→→→こちら)は、JR・川崎駅付近と西武・所沢駅付近を結ぶ道路の通称ですが、東京都府中市はかつて武蔵国の国府が置かれていたところで、そこに行く街道だったので府中街道と呼ばれているのですが、鎌倉幕府が開かれると、各地の武将と鎌倉を結ぶ政治・軍事上の道「鎌倉道」が生まれ、府中街道の一部分もその役目を果たしていました。その歴史ある府中街道を北に進むと、「JA東京むさし国分寺ファーマーズマーケット」(→→→こちら)という、地元の農産物を直売する施設があります。こういうところで野菜なんかを買うのもいいですね。その近くにあったこの小さな祠は「厳島大弁財天」(→→→こちら)です。実はこの場所は、明暦3年(1657)に玉川上水から国分寺村へ水を通すために造られた用水路である国分寺村分水と貫井村方面へ通された貫井村分水の分岐点であり、更に付近には国分寺村分水と恋ヶ窪村分水の分岐点もあったそうです。そんな水の要所となっていたようなことから、このような石碑も境内に建立されているんでしょうか。ここで地図を確認してみると、丁度このあたりJR武蔵野線があるはずですが、線路らしきものが見えませんでした。調べてみると、この武蔵野線、西国分寺駅を出ると、西武国分寺線との交差地点から次の新小平駅までトンネルなんですね。武蔵野線一度全線乗ってみたくなりました。(秋の国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキングへ秋の国分寺(その4) 厳島大弁財天
2023年01月16日
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西武国分寺線を走る西武鉄道の車両です。国分寺線は、今では、中央線の国分寺駅から西武新宿線の東村山駅までを結ぶ支線ですが、元々は西武鉄道で最も歴史の古い路線であり、明治27年(1894)に川越鉄道が敷設した国分寺駅と川越駅(現在の本川越駅)を結ぶ本線でした。この川越鉄道は甲武鉄道の子会社であり、現在の中央本線と直通する飯田町駅 - 川越駅(国分寺駅経由)間運転の列車も設定されていたそうです。しかし、昭和2年(1927)に東村山駅 - 高田馬場駅間の村山線(現在の新宿線)が開業すると国分寺駅 - 東村山駅間は分離され支線となったそうです。国分寺線を横切る府中街道の踏切を越えて、脇道に入ったところにある「仲よしばし」です。橋といっても、下は川ではなく草花が植えられた細長い土地となっていて、ここも恋ヶ窪村分水の水路跡になるようてす。この水路跡を北に辿ると、小さな公園になっていました。「東恋ヶ窪ライオン公園」とありますが、ライオンの形をした遊具もないのに「ライオン」とつけた理由がわかりませんでした。(秋の国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキングへ秋の国分寺(その3) 西武国分寺線
2023年01月15日
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姿見の池から北へ向かって住宅街の中を歩いて行くと、こんもりと茂った緑地がありました。国分寺市重要史跡「恋ヶ窪村分水」(→→→こちら)という説明板がありました。恋ヶ窪村分水は、玉川上水の分水で明暦3年(1657)に国分寺村・恋ヶ窪村、貫井村(今の小金井市)の3つの村が幕府に願い出て開削した。玉川上水の分水にしては規模が大きく、緑地内の堀の幅は上端部で約6~9m、堀底で約50センチメートル、深さは約5mで、堀底は北から南に向かって低く傾斜しています。恋ヶ窪村分水は水田の灌漑用水として1970年代まで利用されてきました。現在は、大部分は暗渠となり姿を消しましたが、この恋ヶ窪用水路周辺緑地内に空堀の状態で保存されているそうです。左手の柵の向こう側が水路の跡になっています。これが空堀の状態で保存されている恋ヶ窪村分水の水路の跡です。江戸時代には、こうやって水を確保して地域の農業を盛んにし、江戸に住む人達の食を支えていたんですね。(秋の国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキングへ秋の国分寺(その2) 恋ヶ窪村分水
2023年01月14日
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去年の11月19日の駅からハイキング「水の歴史と実りの大地を廻る、秋の国分寺ネイチャーウォーキング」の報告です。出発点の国分寺駅北口から出て少し行くと、元WBA・WBC世界ジュニアミドル級(現在はスーパーウェルター級)王者でカエル跳びパンチが代名詞の輪島功一さんが経営するだんご屋さんがありました。JR中央線と西武国分寺線が並行して走っている線路沿いを歩きます。右手のフェンスの向こうは日立製作所中央研究所です。西武国分寺線のガード下を潜ってさらに東に進むと、遊歩道があり、また遊歩道沿いには、小川が流れていました。そして「姿見の池」(→→→こちら)と呼ばれる池に出ました。姿見の池は、かつては付近の湧水や恋ヶ窪用水が流れ込み、清水を湛えて、野川最上流の水源にもなっていたそうです。現在の府中街道とほぼ同じ道筋にあたる東山道武蔵路や鎌倉上道の宿場町であった恋ヶ窪の遊女達が、朝な夕なに自らの姿を映して見ていた ことから、「姿見の池」と呼ばれるようになったと言い伝えられています。恋ヶ窪という地名の由来の一つとも云われるのが、鎌倉幕府成立に活躍した武将・畠山重忠に関するものです。重忠が宿場町・国分寺の傾城(遊女)、夙妻太夫(あさづまたゆう)を気に入り、恋仲になった。しかし、重忠は、平家追討のため西国に旅立ち、夙妻に横恋慕する男が重忠のことを諦めさせるため、重忠が討ち死にしたと嘘をついたところ、悲しんだ夙妻は、この姿見の池に身投げした。という伝説があります。考えてみれば、遊女、つまり今でいう風俗で働く女性って、かなり昔からの伝統ある職業婦人なんですね。こちらは国指定史跡「東山道武蔵路跡」(→→→こちら)の説明板です。これによると、恋ヶ窪谷低地は、古代も湿地が広がる地域だったのですが。恋ヶ窪地区では、東山道武蔵路を直線でつくるために敷粗朶工法と呼ばれる葦の茎や枝葉を敷いて地盤の滑りを防止し、さらに土を交互に重ねて基盤強化した痕跡が見つかっているるということでした。看板には畠山重忠と夙妻太夫のイラストによる解説もありました。このような伝承に彩られた姿見の池ですが、昭和40年代に埋め立てられました。しかし、平成十年度、環境庁及び東京都の井戸・湧水復活再生事業費補助を受け、昔の池をイメージて整備したたそうです。また、ほかに湿地、用水路、水辺林等を、周辺の東京都指定「国分寺姿見の池緑地保全地域」の雑木林等と一体になるよう整備されたそうです。かつての武蔵野の里山風景を見ることができようになっています。一度は埋め立てた池なのに、再び整備されるとは複雑な感じがしますが、自然に親しめるように整備されたのは、いいことですね。(秋の国分寺のコースです)【つづく】人気ブログランキングへ秋の国分寺(その1) 姿見の池
2023年01月13日
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また、秋川を渡ります。渓谷を流れる滝のような秋川の流れです。秋川に架かるこの吊り橋が石舟橋です。この橋を渡ります。全長96mの吊り橋です。橋の上からは、渓谷美と紅葉が楽しめます。落差があり激しい流れとなっています。石舟橋を渡ると「秋川渓谷瀬音の湯」(→→→こちら)という温泉施設があります。ハイキングはここで終わり、このバス停から武蔵五日市駅に戻りました。帰りは、拝島駅で、西武線に乗りかえて、家に帰りました。(秋川渓谷のコースです)【了】人気ブログランキング秋川渓谷を歩く(その7) 石舟橋
2023年01月11日
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かなり紅葉が進んだ秋川渓谷をまた渡って、道端にあったお地蔵さん。せせらぎ通りと名前のある道を山に向かって歩いて行きました。山の中のせせらぎ通りから見下ろす秋川の流れ。途中にあったお宅の門に飾られた鹿の骨。ちょっとビックリ!。こちらの蔵造り建物は、「一穂のコンニャク池谷」(→→→こちら)といって結構、有名店のようです。コンニャクには多くの水が含まれているので、清流秋川の水が豊富なこの土地ならでは名産かもしれませんね。(秋川渓谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング秋川渓谷を歩く(その6) 山道を歩きます
2023年01月10日
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造り酒屋さんから山を登って行くと、いかにも小学校という建物がありました。ここは閉校したあきる野市立戸倉小学校を活用した「戸倉しろやまテラス」(→→→こちら)という、団体向け滞在型観光施設です。あきる野市立戸倉小学校は、平成25年3月、139年の歴史をもって閉校したそうです。敷地内にはその歴史を偲ばせる石碑がありました。戸倉小学校の石碑。地元の人達の思いでの詰まった小学校なんでしょうね。石碑の横にある学校の沿革を記した石碑です。小学校の正面玄関です。小学校にあった水の出口の向きを変えられる蛇口、万能ホーム水栓というそうですね。小学校から見えるあきる野市戸倉地区の風景。結構、住宅もありますが、昔は静かな山里だったんでしょうね。施設の中にあった里山の学校レストラン「食飲室(しょくいんしつ)」で売られていた揚げパン。230円はちょっと高かった。校庭の中にあったモミジの大木。あきる野市保存樹木だそうです。見事に紅葉していました。葉の切れ込みが深いカエデを「 モミジ」、葉の切れ込みが浅いカエデを「 カエデ」と呼ぶそうですね(→→→こちら)【追伸:こんな意見もあったとは】先日、投にした「秋川渓谷を歩く(その3) 法務大臣の心は」について、このようなコメントを頂きました。>犯罪を犯さなければ死刑にもならないのですから、弔いとは可笑しな事です。>日本では終身刑は無いし>それだけの事をしたんだから死刑もありだと思ってますこういう人の心がないような、鬼畜に近い考えをお持ちの方もいるのだなと改めて思いました。死刑という刑罰があるのは、人の命を奪うことが最も残酷で、そのことが人間社会の秩序(人と人が殺し合うことを避ける)を維持するために効果があるからだはないかと考えています。死刑を廃止すべきかどうかは、意見が分かれるとは思いますが、この人の命を奪うという最も残酷な権限を行使する時になんの疑問を持たず、躊躇しないというのは、死刑囚の家族の気持ちや、刑の執行が社会に与える影響などについて思いを巡らせないということで、それは、想像力或いは思いやりといってもいいような知能が欠如しているのではないかと思います。英国のヘンリー王子は「タリバンの戦闘員25人を殺害した、満足を覚える数字ではないが、恥じ入るものでもない」と述べたと言われますが、戦争とはいえ、タリバンの戦闘員でもその帰りを待つ家族もいたでしょうし、イギリス軍が単なる人殺したちの集団だとも思われかねませんね。人の命について語る時は、やはり慎重さを心がけて、思慮深くありたいものです。(秋川渓谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング秋川渓谷を歩く(その5) 戸倉しろやまテラス
2023年01月09日
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ここからぱ東京都檜原村に向かう檜原街道(→→→こちら)に沿って歩きます。この付近が今回の駅からハイキング「~秋川渓谷~都心から約60分の大自然ので紅葉巡り」の中間点です。秋川にかかる沢戸橋です。このあたりになると、五日市の町はずれ、檜原村への山道にさしかかってきたという雰囲気です。この橋から見えた紅葉。見事に色づています。沢戸橋付近から下流にある佳月橋までの間は岩瀬峡とも呼ばれ、大中の岩が数百個以上集中して川の流れに変化をつけています。この辺りまで来ると、本当に檜原街道を更に進むと、こちらの建物が見えてきました。ここは「喜正(きしょう)」(→→→こちら)という東京の銘酒を作る造り酒屋さん。このような山と森に囲まれた山里の中で「喜正」というお酒が造られています。(秋川渓谷のコースです)人気ブログランキング秋川渓谷を歩く(その4) 岩瀬峡と山里の造り酒屋
2023年01月08日
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あきる野市は、江戸時代から林業が盛んで、このように植林した山もあるんですね。そして、再び秋川沿いの道に出てきました。このあたりはあきる野市でも旧五日市町で小和田という地区になります。このような自然に恵まれた所ですが、この五日市町小和田出身者の中に、「オタク」という人達にネガティブな印象を与えただけではなく、おそらくかってないほど凶悪な事件として多くの人の記憶に残っている東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人だった宮崎勤(→→→こちら)という方がいます。宮崎は平成20年(2008)に死刑が執行されたそうです。最近「法務大臣は死刑のはんこを押したときだけニュースになる地味な役職だ」という発言で大臣を辞任された方がいますが、宮崎の死刑執行を決裁したのは当時の法務大臣の鳩山邦夫氏です。MoMo太郎が福岡県久留米市にいた時のお客様で、この鳩山邦夫氏の熱心な支持者だったご高齢の婦人がいましたが、この方の語るところでは、「鳩山先生はいつも手首に数珠をつけていました。先生は法務大臣をしていた時に死刑にした人達への弔いの心で数珠をしていると言われていました」ということでした。鳩山邦夫という方を直接は知りませんが、それなりにこの人は職責の重さのようなものは感じていたんでしょうね。古くからある道標の石柱がありました。「向右五日市御嶽山道」と刻まれていました。この近くに「御嶽神社(→→→こちら)があるのでしょうね。秋川にかかる小和田橋から見た下流の景色です。こちらは上流側の景色です。渓谷と紅葉があって、東京都内でもこういう場所があるんだなと改めて実感しました。ちなみに秋川ではアユやヤマメが放流されていて、魚釣りをするには遊漁証を購入する必要があります。武蔵五日市駅前のセブンイレブンでも遊漁証は購入できるようです。(秋川渓谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング秋川渓谷を歩く(その3) 法務大臣の心は
2023年01月07日
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東京都あきる野市にある五日市駅前から東京都檜原村に向かう檜原街道を歩くと、秩父多摩甲斐国立公園(→→→こちら)秋川渓谷という看板がありました。とはいえこの辺りはまだ国立公園の区域には入っていないとは思います。国立公園の地域に指定されると、多分、最も緩い規制の普通地域になっても、基準を超える工作物の建築、広告の表示、土石の採取、地形の変更などには届出が必要になります。特別保護地区になると落ち葉や枯れ枝を採取することさえ禁止になるようです。多摩川の支流の中で最大の川 「秋川」沿いに あきる野市網代付近から、檜原村の北秋川・南秋川まで20kmにも及ぶ範囲が「秋川渓谷」になります。写真に見える範囲は秋川橋河川公園になります。訪れた11月中旬はそろそろ紅葉が見頃となる時期のようで、色づいた木々もありました。最初に訪れたのは都立小峰公園(→→→こちら)です。小峰公園は、都立秋川丘陵自然公園内にあり手軽にピクニックやハイキングを楽しめる公園です。駐車場もあって、ドライブがてらにやってきても良さそうですね。こちらの建物が小峰ビジターセンターです。ここでは、自然や地域の里山文化などの案内解説や体験プログラムの提供など、さまざまな活動を行っているそうです。里山の自然と言うことで、秋川丘陵に棲んでいる動物のはく製なんかも展示されていました。二ホンアナグマ(→→→こちら)だそうです。クマといいながらイタチの仲間だそうです。こちらはホンドタヌキ(→→→こちら)はイヌ科の動物だそうです。本土といっても四国や九州にも棲んでいるらしく、北海道にいるタヌキはエゾタヌキと言うそうです。タヌキにしてもアナグマにしてもどちらも同じ穴のムジナ(貉)ですね。(秋川渓谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング秋川渓谷を歩く(その2) 都立小峰公園
2023年01月06日
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昨年の11月12日、JR東日本の駅からハイキング、「~秋川渓谷~都心から約60分の大自然で紅葉めぐり」に参加するために武蔵五日市駅にやって来ました。駅の構内は、高い天井になっていました。JR東日本五日市線の終着駅なので、線路の先は行き止まりになっていますが、まだまだ、この先に延伸できそうな雰囲気を残しています。この先の桧原村まで線路を延ばす計画があるのかな。駅の南口に出ます。駅舎は、なかなか重厚感のある雰囲気の建物になっています。木製の駅名の看板もなんかいい味を出してます。この五日市観光案内所で駅からハイキングのルートが記載されている地図をもらいました。上皇后・美智子さまが奥多摩視察の際に詠まれた歌を青梅市出身の元防衛庁長官・石川要三氏の筆でしたためた歌碑てす。そして、いよいよ武蔵五日市駅から出発です。(秋川渓谷のコースです)【つづく】人気ブログランキング秋川渓谷を歩く(その1) 武蔵五日市駅
2023年01月05日
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駅からハイキング、そろそろゴールの大森駅が近づいてきました。駅近くの飲食店街です。夜は賑やかなんでしょうね。JRの大森駅です。JRの駅ビルにショッピングセンターのアトレ大森(→→→こちら)や東急REIホテル(→→→こちら)などが入っています。駅前ロータリーにあった銅像。「調べ」というタイトルの通りの笛を吹く少女の銅像です。「海苔養殖業発祥の地」(→→→こちら)という記念碑もありました。金属フレーム内に多数のパネルをあしらった記念碑で令和2年(2020)3月に出来たそうです。海苔の養殖技術は江戸時代、東京湾の大森海岸で確立されたそうで、その発祥の歴史と文化を伝承しよういう主旨の記念碑です。品川から大森にかけてが、江戸、明治、大正を通じて日本一の海苔生産地だったのですが、前回の東京五輪を控えた東京湾の改修工事を機に、昭和38年(1963)に大森の海苔養殖の歴史は幕を閉じることになりました。しかし、その後も大森は日本一の海苔問屋街として栄えています。そういうわけで、この記念碑が東京都大田区の大森本場乾海苔(ほしのり)問屋協同組合(加盟50社)が建てたのですね。以前いただいたコメントで>大森の海苔は有名で、屋号に大森を入れている海苔店あるみたいですね。というのがありましたが、店名で「大森」を使っているのは「大森水産(株)」の一社がありました。ちなみに大森屋(→→→こちら)という海苔店は、大阪の会社ですね。こちらはJR大森駅のホームにある「日本考古学発祥の地」の記念碑です。明治10年(1872)、アメリカ人の動物学者・エドワード・S・モースが、横浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎてから直ぐの崖に貝殻が積み重なっているのを列車の窓から発見し、本格的な発掘を行った結果、この近くで大森貝塚を発見したことから、モース発掘100周年として記念碑が建てられたそうです。大森は海苔養殖と考古学の発祥の地だったということですね。(蒲田から大森のコースです)【了】人気ブログランキング蒲田から大森を歩く(その10) 大森は海苔養殖と考古学の発祥の地
2022年12月01日
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京急の大森海岸駅を通り過ぎ、JRの大森駅に向かいます。実は、この京浜急行大森海岸駅とJR大森駅の間には、京浜電気鉄道(現:京浜急行電鉄)大森支線という路面電車が明治34年(1901)から昭和12年(1937)jまで運行されていたのです。この路線は、京急大師線の前身である大師電気鉄道が、京浜間を結ぶ路線を敷設することを目指して京浜電気鉄道と社名を改称し、東京方面への延伸を行った際に、暫定的に東海道本線大森駅との接続を図るべく開業させた路線だそうです。しかし、その後、品川までの延伸工事もでき、昭和期に入ると、東京市の道路改良事業計画で大森支線を廃止して、その跡地を活用して道路の拡幅を行うことが決まり、廃線となったそうです。そのことを偲ばせる「チンチン電車の敷石」というモニュメントが建立されています。その沿革の説明板と軌道に使われた敷石が残されています。こちらは東海道線沿いにある「入新井西公園」(→→→こちら)です。この公園に保存されているのはC57 66(→→→こちら)という蒸気機関車。ただ保存されているのではなく、毎日この時間になると。汽笛を立て大動輪が回りだすのです。以下の写真で判っていただけるでしょうか。動輪の横に付いている棒の動き見て下さい。この棒は、主連棒と呼ばれていて、蒸気機関で生み出されたピストンの水平往復運動を動輪の回転運動に変換するものです。しかし、この動輪を鵜がしている動力源はなんなんでしょうか。むろん蒸気機関ではないので電気の力で動かしているのでしょうか。(蒲田から大森のコースです)【つづく】人気ブログランキング蒲田から大森を歩く(その9) チンチン電車と蒸気機関車
2022年11月30日
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式内社と呼ばれる古い格式をもつ磐井神社(→→→こちら)にやってきました。式内社(しきないしゃ)とは、平安中期,延喜式という法典にある神名帳(法規が適用される神社のリスト)に記載された神社のことだそうです。磐井神社の由緒が記された看板です。こちらが社殿になります。丁度時期的に七五三を祝う子供さん達とその家族がお参りに来ていました。社殿にある扁額には、「武蔵国八幡総社」とあったので、武蔵国の八幡神社の代表という立場なんでしょうね。(蒲田から大森のコースです)【つづく】人気ブログランキング蒲田から大森を歩く(その8) 磐井神社で七五三を祝う
2022年11月29日
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平和の森公園(→→→こちら)にやって来ました。平和の森公園の平和は「恒久平和を求める大田区民の永遠なる願いを込めて名付けられたもの」だそうです。平和の森公園の入口です。この公園は、平和島運河の埋立地を利用して昭和57年(1982)に開園し、総面積は9.9haで、公園の中央を南北に分ける形で環七通りが横断しています。園内にあるひょうたん池です。池の中にはハスがあり、きっと初夏には綺麗な花が咲くのでしょうね地味な羽根の色ですが、これは冬羽になったマガモカルガモですね。これは平和の広場と呼ばれる広い芝生の広場です。学生さん達が応援の旗を振る練習をしていました。これは「愛し子」像です。台座には「平和都市宣言」と刻まれています。台座下部にあるレリーフに刻まれた文です。平和ってなあにしあわせなことよしあわせってなあに自由で楽しいくらしができることだから世界中の人と力をあわせて大切な平和をまもらなければいけないの地球上どこへ行っても笑顔があるように・・・この人類共通の願いをこめて大田区は平和憲法を擁護し核兵器のない平和都市であることを宣言する昭和五十九年八月十五日大田区こちらは、公園の近くにある「ビッグファン平和島」(→→→こちら)です。ここは、平和島クアハウス(平和島温泉)、平和島シネマサンシャインなどが入っている総合アミューズメント施設です。まだ近くには平和島競艇もあります。温泉、競艇が楽しめる、まさに自由で楽しいくらしができるのは、平和って本当にいいですね。また、第一京浜国道に戻ってきました。(蒲田から大森のコースです)【つづく】人気ブログランキング蒲田から大森を歩く(その7) 令和に平和を願う
2022年11月28日
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旧東海道、ミハラ(美原)通り(→→→こちら)と呼ばれているんですね。昭和2年、東海道は拡幅改修され、第一京浜国道が完成しました。その時、美原通りは商店街だったため工事が避けられ別の道が拡幅されて第一京浜国道とされたそうです。そのため、往時の幅員を比較的よく残している道となりました。この道を参勤交代の大名行列のほか、一般の旅人も利用していたんですね。ちなみに、この道はかつては三原通りと言われ、三原とは、字名の南原、中原、北原の三原のことで、美称して美原になったそうです。そんな歴史ある商店街なので、こんな老舗が残っていました。創業は享保元年(1715)の和菓子屋さん餅甚(→→→こちら)。試しに、一本95円のみたらし団子を頂きました。お餅が柔らかったです。つき立てだったんですかね。この薬局の看板もシブイですね。干物を売っているんではなく、居酒屋でした。環七を越えても美原通り商店街は続いていました。(蒲田から大森のコースです)【つづく】人気ブログランキング蒲田から大森を歩く(その6) 美原通り
2022年11月27日
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京浜急行大森町駅です。大森町駅から第一京浜を渡ります。そして、また商店街の中へ入ります。付近はかって海苔の産地だったので、ノリを扱うお店がまだ残っています。旧東海道と旧羽田道の分岐点にやってきました。こちらが羽田道東海道から内川橋際(大森東二丁目2番先)で分かれ、羽田方面に至る道です。分岐点付近に、歌舞伎にも出てくる「駿河屋するがや」という旅籠(はたご)があったことから「するがや通り」とも呼ばれます。内川橋から大鳥居交差点(東糀谷三丁目3番先)まで旧道が残っています。今まで歩いてきたこの道が、旧東海道です。たまたまこの日はこの地区のゴミ収集の日だったのてが、ゴミ集積場の横にある赤い欄干の橋が内川橋です。橋の手前に石碑があります。この石碑に、「するがや通り」の謂れが書いてありました。(蒲田から大森のコースです)【つづく】人気ブログランキング蒲田から大森を歩く(その5) 旧東海道と旧羽田道
2022年11月26日
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吞川(のみかわ)という名前の川です。ちょっと吞みたいとは思えない川の水でした。向こうには京浜急行の高架橋が見えました。この先に東邦大学大森病院があるので、医大通りと呼ばれる道です。医大通りにある歯科医院です。多分東邦大学大森病院には口腔外科はあっても歯科はないんですね。そして、梅屋敷商店街、ぷらもーる梅屋敷にやってきました。京浜急行梅屋敷駅前から東邦医大通りに至る、約550mの区間に約140の店が連なる商店街です。地域密着型の庶民派の商店街です。1901年に梅屋敷駅が開業した頃から商店ができ始め、大正末期には商店街の形になっていましたが、東京大空襲で大きな被害を受けましたが、復興して今のような商店街になっています。(蒲田から大森のコースです)【つづく】人気ブログランキング蒲田から大森を歩く(その4) 医大通りとぷらもーる梅屋敷商店街
2022年11月25日
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東海道線を越えてやって来たのはちょっと小さな公園です。「六郷用水の跡」という石碑が建っていました。これが六郷用水の水路跡なんでしょうか。六郷用水(→→→こちら)とは、多摩郡和泉村(現在の東京都狛江市元和泉)の多摩川を水源とし、世田谷領と六郷領、つまり現在の狛江市から世田谷区を通り大田区に至る用水路であった。総延長は23キロメートルで、49の村の約1,500ヘクタールに、主に農業用水として水を供給した。というもので、かつてはこの地域の農業生産に貢献したのでしょう。大田区立新宿小学校がこのすぐそばにあるので、新宿小学校のよい子たちが郷土の歴史を勉強するために造られたの看板でしょうか。子供向けにしては漢字にフリガナがないのは、ちょっと残念なような。こちらには、六郷用水物語のサインです。六郷用水物語サインとは、大田区が整備した旧六郷用水散策路(→→→こちら)沿いに散策路を歩く人たちに、地域の魅力と歴史を知っていただくために設置されたものです。水色の線が六郷用水の水路です。旧蒲田電車区の中で分流されていることがわかりますね。こちらで紹介されているデジャラバとは揚水用の足踏み式水車のことです。実物はこんな感じです。この写真はMoMo太郎が福岡県久留米市民だった時に、近くの三潴郡大木町で行われた「堀干しまつり」で撮影したものです。ちなみにこの地方では、この足踏み式水車の発明者は大木町生まれの猪口万右衛門だと言われています(→→→こちら)。またこの水車を地元に広めたのは柳河藩士の四ヶ所通久(→→→こちら)と言われています。環八通りにやって来ました。ここから大森に向かって北上して行きます。(蒲田から大森のコースです)【つづく】人気ブログランキング蒲田から大森を歩く(その3)「六郷用水物語」サイン
2022年11月24日
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旧蒲田電車区の端っこから続く細長い公園があります。鉄道の車輪みたいなオブジェがついている園名板には「大田区立道塚南公園」(→→→こちら)とありました。延々と続く細長い形状の公園。よく見ると敷石が線路のようなデザインになっています。公園の名前がいつの間にか変わって「道塚第三児童公園」(→→→こちら)となっていました。ところで、公園と児童公園って何が違うんでしょうかね?ちなみに児童遊園は、児童福祉法(昭和二十二年法律第百六十四号)の第40条に、児童厚生施設は、児童遊園、児童館等児童に健全な遊びを与えて、その健康を増進し、又は情操をゆたかにすることを目的とする施設とする。として定義されています(→→→こちら)こら案内板によると、道塚南公園・道塚第三児童遊園は旧国鉄の引き込み線、矢口発電所専用線跡地を利用した公園だそうです。東京近郊のいわゆる国電区間の電化に備え多摩川沿いの矢口村に建設されたのが矢口発電所だったそうです。発電所には大量の冷却水が必要であるため、多摩川の水を利用できる場所が選ばれ、そこへ石炭を運ぶために蒲田駅より敷設されたのが矢口発電所専用線ということです。1930年に川崎火力発電所が稼働し矢口発電所はその役目を終えましたが、引き込み線の一部は旧蒲田電車区に転用されたそうです。この歩道橋で東海道線を越えて、蒲田の東側に入りました。(蒲田から大森のコースです)【つづく】人気ブログランキング蒲田から大森を歩く(その2) 細長い公園
2022年11月23日
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10月22日に、JR東日本が開催した「駅からハイキング 蒲田・大森の今と昔を巡る散歩コース」に参加した時の報告です。こちら蒲田駅西口からの出発です。蒲田駅から南に向かって歩くと、旧蒲田電車区、今は大田運輸区(→→→こちら)と呼ばれています、電車区の傍にあるこの建物は、カムカム蒲田という愛称で呼ばれる新蒲田一丁目複合施設(→→→こちら)です。「区民活動施設、保育園、子育てひろば、中高生ひろば、地域包括支援センター、シニアステーション」といった機能がまとめられた施設です。カムカム新蒲田の近くにある六郷用水散策路の標識(→→→こちら)がありました。六郷用水とは、江戸時代に現在の大田区東部、大森・蒲田・羽田といった平坦なエリアを、新田開発し、そこに水を送るために建設された水路です。また「蛸の手」とは、その六郷用水が今の大田運輸区の敷地付近で糀谷、羽田、六郷方面に分かれて行った様子が、あたかも蛸の手足のように分かれていることからそう呼ばれていたようです。大田運輸区に留置されている京浜東北線の車両です。随分、沢山の電車がありますが、京浜東北線の車両は南浦和にあるさいたま車両センターに配置されていてここには検査のために車両が留置されているそうです。(蒲田から大森のコースです)【つづく】人気ブログランキング蒲田から大森を歩く(その1) 蛸の手と旧蒲田電車区
2022年11月22日
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青梅鉄道公園2階は「青梅鉄道公園歴史コーナー」となっていましたが、ちょっと気になったのは、この今のJR青梅線が、青梅地方で採掘された石灰岩の輸送のため敷設された青梅鉄道当時の路線ガイド図で「青梅鉄道沿線名所圗繪」(→→→こちら)の複写です。本物は青梅市郷土博物館にあるそうです。この青梅鉄道沿線名所圗繪は、大正12年(1923)に当時の人気絵師であり、鳥瞰図作りの作家でもあった吉田初三郎(→→→こちら)によって制作されたものです。こちらは、奥多摩の名所「御嶽神社」(→→→こちら)を描いたものです。このあたりは、小河内ダムができて奥多摩湖(→→→こちら)となっていますが、ダムは昭和32年に完成なので、この図絵では描かれていませんでした。絵図で二つの川が合流するあたりに氷川村と表示されているのですが、ここに青梅線の終点、奥多摩駅が出来ています。この絵図ができた時にはまだありませんでした。ということで、青梅鉄道公園の見学を終えて、まちの駅青梅(→→→こちら)にやってきました。ここでは青梅の特産品や地元のパン屋の商品、地酒などを販売しています。店の前に貼っていたこの商品も、沖縄の特産品ですが、売っていましたよ。(青梅の街を散策のコースです)【了】人気ブログランキング青梅の街を散策(その16) 青梅鉄道沿線名所圗繪
2022年10月29日
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次は青梅鉄道公園にある記念館に入ってみました。入口に飾れていたのは、青梅鉄道公園を訪れた有名人の方々のサインです。その中でも、やっぱり見逃せないのは、鉄道ファンで人気のあるタレントさん達のサイン。こちらは、ダーリンハニーというお笑いコンビの吉川正洋さん(→→→こちら)のもの。この人、二回来てサインも二回残しているようでした。こちらは、タレントさんではなく、歌手の和田アキ子さんや女優の深田恭子さん、綾瀬はるかさんが所属する芸能プロダクションのホリプロ(→→→こちら)の芸能マネージャーなんですが、鉄道番組にはタレントさんよりよく呼ばれる南田裕介さん(→→→こちら)。MoMo太郎が、日本の漫才コンビの中でも一二を争うほど面白いと思っている中川家の礼二さん(→→→こちら)のサインも当然ありました。こちらは、女子鉄アナウンサーと知られている久野知美さん(→→→こちら)。最近までホリプロに所属していて、最初の担当マネジャーが前出の南田裕介さんだったそうです。記念館1階展示室の中心は、この模型鉄道パノラマです。そして、大型精密鉄道車両模型も多く展示されています。これはかって日本海側を通って大阪青森間を結んでいた特急「白鳥」、車両は羽越線が電化される前に使用されていた気動車のキハ82系(→→→こちら)でした。これは準急「日光」かって東京日光間を結んでいた157系電車(→→→こちら)。ブルートレイン、寝台特急「さくら」の14系客車(→→→こちら)だったと思います。濃いオレンジ色濃い緑色のツートーンカラーの「湘南電車」と呼んでいる急行型車両の153系電車。こちらは常磐線を走っていた401系電車。常磐線は日暮里から取手までは直流電化、藤代から岩沼までは交流電化となっているので、それに対応した交直流両用電車です。壁面に展示されているのは、列車のヘッドマークやテールマーク。国鉄時代から鉄道旅行をしていた人にはなっかしいヘッドマーク、テールマークですね。(青梅の街を散策のコースです)【つづく】人気ブログランキング青梅の街を散策(その15) 青梅鉄道公園の記念館
2022年10月28日
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今年は、我が国の鉄道開業150周年、そして青梅鉄道公園の入場料は、小学生以上100円とすごく安い。しかも今回は駅からハイキングの参加者はさらに半額の50円で入場できるので、青梅鉄道気公園を見学することにしました。入口には、「青梅鉄道公園」という石碑があります。揮毫したのは、日本国有鉄道 総裁の十河信二氏(→→→こちら)。東海道新幹線建設にも尽力されたことでも有名です。鉄道公園ということで博物館ではないのですが、屋外には蒸気機関車や電気機関車、電車車両など色々と展示されていました。こちらは「デゴイチ」として親しまれているD51形蒸気機関車(→→→こちら)です。展示されいる車両への解説板もあって、鉄道に詳しくない人でも鉄道の魅力を理解できそうですね。こちらは、クモハ40(→→→こちら)昭和7年(1932)から走り始めて、昭和53年(1978)jまで活躍していたという息の長い電車だったんですね。MoMo太郎も子供の頃は、このタイプの電車に乗った記憶があります。こちらはC11形蒸気機関車(→→→こちら)。昭和7年(1932)から昭和37年(1962)まで使われていたそうですが、都市近郊の旅客列車に使われていたそうで、その頃までは蒸気機関車の牽く列車が日本の各地を走っていたんですね。E10形蒸気機関車(→→→こちら)は、ちょっと特殊な蒸気機関車のようです。日本国内向けのタンク式蒸気機関車としては最大の機関車で、急こう配用として製造されたそうです。当初は奥羽線の福島-米沢の勾配区間用として、電化後は肥薩線や北陸本線の勾配区間で使用されいそうで、最後は北陸本線の米原-田村間の交直流電化区間の接続用として昭和38年(1963年)まで使用されました。こちらは、夢の超特急と呼ばれた新幹線の0系(→→→こちら)です。展示されているのは0系の中でも22形式と呼ばれるものだそうです。、これは車両の中に入れたので、入ってみました。子供の頃、初めて乗った新幹線の車内です。今とはちがって、座面も2人または3人で一体で、リクライニングもなかったですね。グリーン車はリクライニングシートだったんですけど。子供の頃は、いつかはグリーン車に乗れる身分になりたいものだと思っていました。それから、こんな個室みたいなものが付いていたんですね。初めて知りました。こちらはED16形電気機関車(→→→こちら)。この電気機関車、なんと国の重要文化財に指定されているんですね。蒸気機関車、まだまだ展示されています。9600形蒸気機関車(→→→こちら)です。日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院が大正2年(1913)から製造した、日本で初めての本格的な国産貨物列車牽引用のテンダー式蒸気機関車だそうです。こちらの5500形式蒸気機関車(→→→こちら)は、明治30年(1897)に、イギリスのベイヤー・ピーコック社で製造され、輸入された蒸気機関車だそうです。こちらは8620形蒸気機関車(→→→こちら)。日本で設計製造された機関車で、全部で670両、製造されたそうです。こちらは、イギリス・ドイツ・アメリカ合衆国で大量に発注され使われた国鉄2100形機関車のうち鉄道作業局神戸工場製およびイギリス製である2120形蒸気機関車(→→→こちら)です。日露戦争において大陸で使われるために注文されたそうですが、もちろん国内でも使われていたようですね。以上、鉄道開業150周年を迎える日本の鉄道車両について「にわか」で勉強させていただきました。ところで、2120形蒸気機関車の塗装が剥がれていますが、まあ一人100円の入場料だと、保守費用もなかなか捻出できないのかも知れませんね。(青梅の街を散策のコースです)【つづく】人気ブログランキング青梅の街を散策(その14) 青梅鉄道公園で「にわか」鉄になる
2022年10月27日
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次の目的地は「青梅鉄道公園」(→→→こちら)です。この狭い跨線橋を渡ります。下には青梅線が走っています。青梅線は単線だったんですね。こちらは青梅駅の方です。跨線橋を渡ったところにある喫茶店、この店もモルタル壁の二階建てという昭和感の漂う建物でした。この坂道を登っていきます。そして、桜の木の植わっている公園の中の坂道を登りました。坂道の途中から眺めです。奥多摩の山並みがよく見えます。坂道を登り切ったところに青梅鉄道公園がありました。(青梅の街を散策のコースです)【つづく】人気ブログランキング青梅の街を散策(その13) 青梅鉄道公園へ
2022年10月26日
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旧青梅街道に面して大きな鳥居がありました。神信心は大切ですから、お参りして行くことにしました。しかし、長い急な石段が。登り切って、振り返ってみました。境内にあった、「櫛笥大納言隆望卿女歌碑」。天保4年(1833)の建立した歌碑で、権大納言・櫛笥隆望〔くしげ たかもち〕の女(娘)の和歌を、青梅出身の文人・小林天淵〔こばやし てんえん〕の撰文、小林綾繁の書による万葉仮名で刻んだものだそうです。記されている歌は、「はるかにも ここにうつして すみよしの かみがきふかき めぐみをぞおもふ」でした。歌碑の撰文をした小林天淵(→→→こちら)が拝殿の天井に雲竜図というものを描いたんですね。この住吉神社(→→→こちら)は、応安2年(1369)に創建された青梅宿の総鎮守。雲竜図のように青梅宿の町人文化の高さを伝える遺物が残されている神社です。摂津国一宮・住吉大社からの勧請で、御祭神も住吉大社と同じ。住吉三神の底筒男命・中筒男命・表筒男命は、古くより祓の神、航海安全の神、和歌の神、さらに農耕・産業の神として広く信仰されています。また神功皇后も祀られていて、三韓征伐からの凱旋の途次、住吉大神の託宣により摂津国住吉の地に大神を鎮祭したことから。住吉四社大明神と称されています。この幣殿・拝殿を新築した文政7年(1824)には、村内・近郷はもとより青梅縞(青梅地域で織られていた織物→→→こちら)の取引先であった江戸の豪商からも寄進があったそうです。石段の下には、青梅街道沿いの神社ということでしょうか、道の神、旅人の神の猿田彦大神(→→→こちら)の石碑が建てられていました。(青梅の街を散策のコースです)【つづく】人気ブログランキング青梅の街を散策(その12) 住吉神社
2022年10月25日
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街角に昔の映画の看板が展示されています。これは、名前は聞いたことがありますが、観たことがない映画です。でもこの映画のテーマソングは、よく今でも耳にしますね。と思いながら、この建物がありました。昭和幻灯館(→→→こちら)というそうです。この昭和幻灯館では、墨絵作家の有田ひろみのガラス絵や、ぬいぐるみ作家の有田ちゃぼのぬいぐるみ作品が展示されていようですが、。古い映画の看板が展示されているそうです。ところで、映画の看板を眺めていると、こういう古い映画を観てみたくなりますが、青梅には名画座みたいな映画館ってあるのでしょうかね。それとも"Netflix"や"Amazon Prime"がスポンサーでネットで観て下さいという作戦なのかな。(青梅の街を散策のコースです)【つづく】人気ブログランキング青梅の街を散策(その11) 昭和は幻ですか
2022年10月24日
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青梅街道のバイパスから旧青梅街道に向かって河岸段丘の坂道を登ります。坂の途中には段丘の平らになった地面があり、公園が整備されていました。公園かと思ったら幼稚園の運動場だったんですね。旧青梅街道に出ると、歴史を感じる古い商家が残っていました。着物を買うお金持ち相手の呉服屋さんが残っているということは、青梅にはお金持ちがいるんでしょうか。こちらは昭和レトロ商品博物館(→→→こちら)。昭和30年~40年頃のお菓子や薬などの商品パッケージを中心におもちゃ、ポスター、ドリンク缶など懐かしい生活雑貨を展示しているそうです。入館料は大人350円でしたが、時間がなかったので中には入りませんでした。喫茶店なども併設していたので、時間があれば立ち寄って休憩していたかも。昭和レトロ商品博物館から少し西に行ったところにある「津雲邸」と書いた看板のあるこの路地を入いると、津雲邸(→→→こちら)という国登録有形文化財の建物があります。津雲邸は、地元選出の衆院議員、津雲国利 (1893 -1972)の旧宅で、昭和初期に京都から宮大工を招き、地元の大工、職人たちが、日本建築の粋を結集して建てた純和風家屋だそうです。内部は和・洋・中の異なる建築手法が取り入れられているという、贅沢な邸宅だそうです。金・土・日曜祝日のみの開館で入場料は一般500円、これも時間がなかったので見学はパスさせてもらいました。(青梅の街を散策のコースです)【つづく】人気ブログランキング青梅の街を散策(その10) 昭和レトロな町と津雲邸
2022年10月23日
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青梅街道のバイパスを少し東に移動して、この交差点に着きました。青梅街道と秋川街道の交差点です。秋川街道を南に下っていくと、多摩川に架かるこの橋に出ました。調布橋(→→→こちら)という橋です。このあたりはかつて東京府西多摩郡調布村と呼ばれていたので、それに因んだ名前だそうです。多摩川沿いの地域には、このように、調布市、田園調布(東京府荏原郡東調布町(→→→こちら)など、「調布」とつく地名が多いですね。調布とは、律令制下の租税である租庸調のうち、その土地の特産物を納める「調」が、東国の特産品として知られていた多摩川で晒した布だったことに由来するそうです。布は調布橋の下を流れるこの多摩川の賜物だったのですね。調布橋左岸側にある小さな公園です。公園の奥に飾られている調布橋の橋名版で以前の橋に掲げられていたもののようです。下のレリーフは、以前、この橋が吊り橋だった頃の主塔の絵が絵嗅がれていました。こちらの石碑には、現在までの調布橋の銅製モニュメントが飾られています. 右側にあった、調布橋の歴史です。 むかしよりこの地域は織物がさかんであり、明治22年の市町村制移行にあたり、上長淵、下長淵、友田、河辺、千ヶ瀬、駒木野の六村落が、織物にちなみ調布村として、村制を、施行することとなりました。当時人々はこの少し下流にあった「千ヶ瀬の渡し」により多摩川を往来し、二ツ塚峠を経て五日市と青梅を結ぶ道として利用していました。 しかし、水かさが増すと舟がとまってしまうことから、調布村有志が力を合わせ、幅九尺(2.7m)の吊り橋を大正11年に完成させ大変便利になりました。 その後、昭和10年になりこの吊り橋は東京府によって、掃除の最新の技術による「ブレストリブアーチ橋(幅8m)に架替えられました。美しい姿のこの橋は、東京都の著名橋として、以後58年余りに渡り多くの人々に利用され、大変親しまれてきましたが、寄る年波には勝てず架替えられることとなりました。 吊り橋から数え三代目となる本橋は、上路式鋼逆ローゼ橋(幅16m)で、歩道整備、拡幅が行われ、さらに多くの人々に利用され、親しまれることを願ってここに完成したものであります。平成6年3月 東京都この公園の正面にあった石碑には「雪おんな縁の地」(→→→こちら)と刻まれていました。これは八雲の孫の小泉時(とき)さんが揮毫(きごう)し、地元商店街などが中心となって平成14年(2002)に建てられものだそうです。裏には、小泉八雲(ラフカディオ=ハーン)の肖像と、その作品の「雪おんな」の序文が英語と日本語で書かれているものがありました。この「雪おんな」という奇妙な物語は、武蔵の国、西多摩郡、調布村の農民が、その土地に伝わる古い言い伝えとして私に語ってくれたものであるということは、「雪おんな」の物語、このあたりにあった怪談話だったんですね。てっきり、もっと雪国の新潟とか秋田あたりの伝承かと思っていましたが、昔は青梅にも雪はたくさん降ったんですかね。(青梅の街を散策のコースです)【つづく】人気ブログランキング青梅の街を散策(その9) 調布橋と雪おんな縁の地
2022年10月21日
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多摩川に架かるこの鮎美橋を渡ります。この橋は、主塔から斜めに張られた主ケーブルを橋桁に直接つなぎ支える構造の斜張橋(→→→こちら)と呼ばれるタイプの端です。見た目は近代的でスッキリして景色に溶け込んでいますね。鮎美橋を渡って行きます。橋の上から見た上流側です。下流側です。多摩川の蛇行している様子がわかります。はしのすぐ下は、河床にある岩に流れがぶつかって、白い波を立てて流れていました。対岸渡ると、空き地にコスモスの咲いていました。コスモス(Cosmos)、 秩序ある世界や宇宙という意味の名前が付けられているのは、この整った形からなんでしょうかね?多摩川の浸食によって造られた河岸段丘を登っていきます。そしてこの辺りが駅からハイキングのコースの中間地点になります。そこには、道端に小さな祠が建てられていました。(青梅の街を散策のコースです)【つづく】人気ブログランキング青梅の街を散策(その8) 鮎美橋を渡りました
2022年10月20日
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釜の淵公園内にある郷土博物館(→→→こちら)の前にある大きな梅の古木。青梅市の名前の由来にもなった青梅の木から増やしたものだそうです。由来としては、平将門が、青梅の金剛寺あたりを訪れた際に、馬の鞭に使用していた梅の枝を自ら地面に挿し、「願いがかなうなら咲き誇れ、叶わないなら枯れよ」といったところ、梅の枝が根付いたのです。ところが、この木の梅は青いまま熟さず、枝に残ったまま落ちることなかったので、これを見た人々が不思議に思い、この地を青梅と呼ぶようになったと伝えられてるそうです。建物の中に入ってみましたが、内部の展示物を撮影していいものかどうかわからず、屋外にある展示物を撮影して紹介します。こちらは、青梅で作られていた醤油の樽だそうです。こちらは、青梅の山で伐採された木材を運ぶのに使われた荷馬車だそうです。随分重そうそうな荷物を馬が曳いていたんですね。こちらは古民家が展示されていました。国指定の重要文化財、旧宮崎家住宅(→→→こちら)だそうです。旧宮崎家住宅は建築様式から、一般的な農民の家として19世紀初頭に建てられたと考えらる古民家だそうです。庭に置かれたこの石は力比べに用いられた力石だとか。特徴的な、この地方独特の杉皮と茅を交互に混ぜる屋根の葺き方だそうです。元々は北小曾木村(現在の青梅市成木8丁目夕倉地区)にあった住宅ですが、昭和52(1977)年に所有者の方より青梅市へ建物が寄贈され、ここに移設されたそうです。中では、囲炉裏があり、そこで管理をしているおばさんが火を起こしていました。そうすることで換気をしたり、煙でいぶされて湿気ることなく家が保存されるそうです。(青梅の街を散策のコースです)【つづく】人気ブログランキング青梅の街を散策(その7) 郷土博物館と旧宮崎家住宅
2022年10月19日
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橋を渡って、釜の淵公園に入りました。深い森に囲まれた道を歩きます。公園の案内板です。多摩川が大きく北側に蛇行して、ギリシャ文字のオメガ(Ω)を思わせる形状になったところがこの公園ですね。園内にはホテルもあるようです。このように芝生があるところで遊んでもいいのですが、やっぱりこの公園に来れば、公園を取り囲むように流れる多摩川とその広い河原で遊びたいですね。河原でバーベーキューを始めようという人もいますし、魚を釣っている人もいました。やはり、鮎釣りなんでしょうか。対岸の段丘の上には、大きな集合住宅が、多摩川の眺めを楽しめるいい物件ですね。河原に降りてみました。水は澄んでいて魚影も見えそうな。中心部の流れは速そうですね。(青梅の街を散策のコースです)【つづく】人気ブログランキング青梅の街を散策(その6) 釜の淵公園で川遊び
2022年10月18日
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次は多摩川の河原に向かいました。駐車場のある広場に出ました。ここが、釜の淵公園の入口になるようです。釜の淵公園は、多摩川が蛇行して突き出た位置に設けられた公園です。入口にたつ銅像です。女性の人が泳いでいる(?)姿ですが、銅像の題は「若鮎の像」、若鮎のように泳ぎが達者な女性の像ということでしょうか。銅像の横に、この像について説明した石碑がありました。若鮎の像建設の由来大正2年(1913)6月東京帝国大学教授石川千代松博士はこの地先に琵琶湖小鮎数百尾を移植し遡上鮎のように大型鮎となるのかの画期的実験を試みそれに成功し現在の様に全国各河川に琵琶湖産稚鮎の放流をみるに至りました。 博士の功績をたゝえると共に日本最初の放流地奥多摩川大柳原を記念するため奥多摩漁業協同組合を中心として全国同好の者多数の浄財ににより若鮎の像を建てました。昭和四十八年二月二十日 若鮎の碑建設委員なるほどそういうことでしたか。多摩川に棲む鮎は琵琶湖出身の鮎だったんですね。このアーチの曲線部材から吊材を斜めに配置したニールセローゼ橋を渡ります。アーチの真ん中の横つなぎ材の部材長を短くするように設計されているんですね。橋梁の専門家的には「バスケットハンドル型ニールセンローゼ橋」と呼ぶそうです。橋の名称は「柳淵橋」。読み方は「りゅうえんばし」なんですね。橋の上から見る多摩川の景色です。河川の蛇行している様子がよくわかります。上流側です。川の流れが岩盤にぶつかって流れの向きを変えるとき、渦巻く流れによって川底が深く抉られ、いわゆる「淵」になっていくのですが、そういう景観を楽しめる場所です。(青梅の街を散策のコースです)【つづく】人気ブログランキング青梅の街を散策(その5) 柳淵橋を渡る
2022年10月17日
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さらに道沿いを歩いていくと、清宝院というお寺があります。階段を登り境内に入っていくと庭園になっていました。水は枯れていましたが、ここは「梅の滝」というそうです。滝のいわれを書いたこの看板によると明治15年にできた庭園の滝だそうです。歴史のありそうな山門ですね。清宝院は真言宗のお寺なんですね。こちらが本堂です。日差しが強くて白飛びの写真です。本尊は、文政年間に成田山新勝寺の本尊を、京都の仏師中野法橋が心眼をこめて三尺三寸に模刻し、新勝寺第11世、照獄僧正により開眼供養が執行され馬の背中に乗せて運び安置された霊験あらたかな立像不動明王だそうです。清宝院の縁起が書かれていました。また、青梅七福神の恵比寿様が祀られています。清宝院の前にある菓子店です。青梅というだけあって梅大福(→→→こちら)が名物のようです。(青梅の街を散策のコースです)【つづく】人気ブログランキング青梅の街を散策(その4) 清宝院と梅大福
2022年10月16日
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この建物は「ネッツたまぐーセンター」という名称の施設です。青梅市文化交流センターという役割の施設だそうですが、ネーミングライツにより、施設愛称が「ネッツたまぐーセンター」となっているそうです。ネッツたまぐーセンターから多摩川向かって大通りの下り坂を歩いていくと、二基の石碑が並んで建てられていました。こちらの石碑は「開通記念」と刻まれていました。何の開通記念なんでしょうか。こちらの石碑の文字は読み取れませんでした。さらに多摩川へむかって南に行くと広い道との丁字路にでました。この道は青梅街道。町中を通る旧青梅街道のバイパスになのですね。その交差点の横の広場に石柱と説明看板がありました。この説明によると、稚子橋(わかこばし)の碑 都道(現国道四一一号線)が改修される以前、「稚子橋」と呼ばれた橋がこの地に架けられていました。 橋の名前の由来は定かではありませんが、江戸時代から明治時代の初期にかけて、飢饉等のやむを得ない理由で乳飲み子をこの場所に置いていく人がいたことから、「稚子橋」と呼ばれるようになったという悲しい伝承があります。 かつてこの地に架かっていた「稚子橋」を長く旧跡としてとどめるため、この橋の親柱の一片を建立し「稚子橋の碑」とするものです。平成三年三月三十日青梅市教育委員会こういう悲しい話も人々の記憶に留めておきたいですね。(青梅の街を散策のコースです)【つづく】人気ブログランキング青梅の街を散策(その3) 稚子橋(わかこばし)
2022年10月15日
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青梅の街を散策する今回の駅からハイキング、駅からこの旧青梅街道(→→→こちら)を西に向かって歩きました。青梅街道は、、東京都新宿区から東京都青梅市を経由し、山梨県甲府市に至る道で、甲州街道の裏街道的な位置づけですが、元々は江戸城築城の際に青梅の石灰を運ぶために開設されたのが始まりだそうです。古からの幹線道路ということで、街道沿いには今も歴史を感じる古い家が残っていました。このお店は、この近くが産地の狭山茶(→→→こちら)とお米を扱っている商店でした。店頭には、狭山茶と書かれたラベルが貼ってある茶箱かせ並べてあります。また乾麺や砂糖などの食料品も置いてありました。時代劇に出てきそうな土蔵造りのこの家屋が、東京都指定有形民俗文化財旧稲葉家住宅です。無料で見学できる公共施設です。旧稲葉家住宅は江戸時代に青梅宿の町年寄を勤めた稲葉家の旧宅。稲葉家は青梅でも有数の豪商で、材木商や青梅縞の仲買問屋を営んでいたそうです。「店蔵」と呼ばれる土蔵造りの母屋の建築様式から江戸時代後期(18世紀後半~19世紀初め頃)に建てられたと考えられています。正面から、二階建ての店蔵を撮影してみました。中を見学してみたかったのですが、開館時間が午前10時からということで、まだ一時間近く待たないといけなかったので、後日見学ということで、先を急ぎました。(青梅の街を散策のコースです)【つづく】人気ブログランキング青梅の街を散策(その2) 旧稲葉家住宅
2022年10月14日
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10月1日(土)、JR東日本が主催しているイベント、駅からハイキング "昭和レトロな猫まち「青梅」散策と多摩川・青梅鉄道公園で遊ぶコース"に参加してきました。今まで奥多摩方面に行くのに乗換で青梅駅で降りたことはありましたが、青梅駅を目的地として降りたのは初めてでした。東京駅から直通の特急列車「おうめ」(→→→こちら)も走っている主要なターミナル駅にしては、ちょっと錆びの浮いた駅名標が、なんとなくローカル線的な哀愁を漂わせています。東京・立川方面から来る10両編成に対応するためにホームが延長されていますが、先頭車両付近はホームと列車のすき間が広いので要注意です。「レトロステーション」青梅駅のイメージ作りになっていて、待合室も木造建築風になっています。実は既存のプレハブに木材を貼りつけただけだとか。駅のベンチも木製になっていて、昭和レトロ感を演出しています。古い映画の看板「裸の太陽」(→→→こちら)が飾ってありました。やっぱり駅にふさわしいということですか、鉄道の乗務員が主人公の映画らしいですね。ホームにあった観光案内。観光地らしきものも多いしホテルもあるんですね。青梅駅は島式ホーム1面2線を有する地上駅で、駅舎とホームは地下通路でつながっています。その地下通路に降りてゆきます。東京アドベンチャーラインというのは、青梅線の青梅から奥多摩までの区間の愛称です。そして、「昭和の街、青梅へ」という看板もあって、昭和レトロで地域振興を図ったていたんですね。地下通路にも、往年の映画看板が掲げられていました。こちらはイタリア映画の「鉄道員」(→→→こちら)。正真正銘1956年(昭和31年)の昭和レトロな映画ですね。その向かい側にあった日本映画の「鉄道員」(→→→こちら)の看板。こちらは昭和というより1999年(平成11年)の映画ですから、昭和の街青梅に飾るにはふさわしくないかも。そして、これが青梅駅の駅舎、三階建てのビルということで、この駅にしては立派過ぎないかと思いましたが、もともとは明治27年(1924)に立川駅 - 青梅駅間で開業した青梅鉄道(のちに青梅電気鉄道に改称し昭和19年(1944)に国有化されて現在に至る)の本社として建てられたもののようです。駅前に停車していた東京都バス。やっぱりここは東京都なんだと改めて思った次第です。(青梅の街を散策のコースです)【つづく】人気ブログランキング青梅の街を散策(その1) 青梅駅
2022年10月13日
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城南五山を巡った後に最後に訪れた品川神社について、追記しておきます。品川神社は、文治3年(1187)、源頼朝が海上交通の安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神である天比理乃咩命を勧請し、品川大明神と称したのがはじまりとされています。明治元年(1868)には明治天皇が新都・東京の安寧と国家の繁栄を御祈願されるために、「准勅祭神社」と定められ、勅使が参拝したそうです。それがこの社号碑にある「元准勅祭」(→→→こちら)意味です。また、新東京百景という石碑は、「都民の日」制定30周年を記念して1982年10月1日に東京都によって選定された100の風景の一つだということです(→→→こちら)。神社のこの鳥居、よく見てみると、鳥居の柱に龍の彫刻がある双龍鳥居です。この石造鳥居は、慶安元年(1648)三代将軍徳川家光公の側近・堀田正盛が奉納したもので、品川区指定有形文化財だそうです。こちらは神楽殿の屋根は銅葺きになっています。こちらが、社殿です。最近改修されたようでかなり新しく感じます。(城南五山のコースです)人気ブログランキング山行記録 城南五山(補遺) 品川神社
2022年10月05日
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城南五山(花房山、池田山、島津山、八ッ山、御殿山)を巡った後は、ここ品川神社(→→→こちら)にある。境内社の浅間神社にお参りさせてもらい、その傍らにある富士塚の「品川富士」へも登りました。明治2年(1869)から5年(1872)にかけての築造された富士塚で、本物の富士山に登ったのと同じ御利益があるそうです。また、富士塚の下には「ぶじかえる」の蛙の石像もあり、台風14号が日本列島を縦断している中、無事に帰宅できました。(城南五山のコースです)【了】人気ブログランキング山行記録 城南五山(その12) 五山回遊の〆は富士山でした
2022年10月04日
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御殿山庭園(→→→こちら)に着いた時には、日本列島を縦断していた台風14号の影響で、午前中は持つかなと思っていた天気もついに崩れて雨が降って来ました。さて、城南五山(→→→こちら)の一つである御殿山(→→→こちら)とは、現在の品川区北品川3~6丁目付近の高台のことで、昔は東京湾を見下ろすことのできた海沿いの高台で、桜の名所としても有名だったそうです。御殿山と呼ばれるようになったのは、徳川家康が建立したと伝えられ、歴代将軍家が鷹狩りの折に休んだ「品川御殿」があったことに因むそうです。そんな桜の名所だった面影を伝えるのが、ここ御殿山庭園です。庭園内には、水量豊かな滝が流れ、そして、庭園には欠かせない池もあります。嘉永六年(1853)の黒船来航後、江戸の最終防衛線構築のために品川台場が建設された時に、土砂の採取場のために切り崩されたくぼ地がこの池になったそうです。雨のためレンズに水滴がついたまま撮影した、庭園に隣接する東京マリオットホテル。大きなホテルですね。御殿山公園のすぐ隣には東海道線と新幹線が走っています。線路を越えたところには、品川女子学院(→→→こちら)があります。大正14年(1925)から続く有名な私立の女中学校・高等学校です。卒業生には、旧統一教会信者として有名な桜田淳子さん、フィギュアスケート選手の八木沼純子さん、女優の広末涼子さん等がおられます。季節だったんですね。品川女子学院近くにあった公園に咲いていたヒガンバナです。ヒガンバナって花が咲く時には葉っぱがないのですね。そのせいか「葉見ず花見ず」という別名があります。その他にも、曼珠沙華(マンジュシャゲ)、リコリスなどの別名も多い花ですね。(城南五山のコースです)【つづく】人気ブログランキング山行記録 城南五山(その11) 御殿山庭園
2022年10月03日
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ソニー通りから住宅街を抜けて御殿山通りに出ました。この通りには、駐日ミャンマー大使館がありました。右側の門柱には、英語表記で「ミャンマー連邦共和国大使館」と表示されていて左側には、視力検査に使う「ランドルト環」(→→→こちら)のようなビルマ文字で、多分、「ミャンマー連邦共和国大使館」と表示されているんでしょうね。この道が御殿山通りです。この道を東に向かって歩いて行きました。(城南五山のコースです)【つづく】【お詫びと訂正】昨日の「山行記録 城南五山(その9) ソニー通りと八ッ山」の中で、開東閣(→→→こちら)と本来、書くべきところを関東嚇と書いてしまいました。昨日の記事を訂正させて頂くとともに、皆様にお詫び申し上げます。人気ブログランキング山行記録 城南五山(その10) 御殿山通りの駐日ミャンマー大使館
2022年10月02日
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島津山を下りてこのソニー通りに出ました。五反田駅から新八ツ山橋交差点にかけての道は、山手通りの一部なのですが、八ッ山通りとも呼ばれていますが、かつてソニーの本社があったことから「ソニー通り」と呼ばれているそうです。ちなみにソニーの本社は平成19年(2007)に品川に移転しています。城南五山巡りをしたのは9月19日の台風14号のが日本列島を縦断した日でしたので、段々と雲行きも妖しくなってきました。こちらの大きなビルが、かってソニー本社があった場所にあるビルです。名前が「ガーデンシティ品川御殿山」です。こ城南五山のひとつ御殿山(→→→こちら)は東京都品川区北品川3 - 6丁目付近に相当するのですが、ここは北品川6丁目になります。このビルの一角にあるソニー発祥の地の記念碑です。植え込みに隠れて見えませんが、下の金属板のところにソニー株式会社は昭和22年(1947年)1月20日この土地に70坪の工場を得て東京通信工業株式会社として今日への第一歩を印した。昭和36年2月 ソニー株式会社と記されています。またこのビルの向かい側には八ッ山の坂の標柱がありました。この八ッ山(→→→こちら)もまた城南五山の一つです。標柱には以下のように記されていました。品川宿のはずれ、芝高輪との境に位置する丘を「八ツ山」と呼んでいました。名前の由来については、この地に八つの岬があったので「八ツ山」と名づけたという説や、八人の諸侯の屋敷があったので「八ツ山」と名づけたという説、この地がかつての谷山(やつやま)村の一部だったことから谷山が「八ツ山」に転化したという説がありますが、いづれも定説ではありません。 この山は、江戸期に道路整備や目黒川の洪水復旧、護岸整備のために切り崩され平地となってしまいました。また、その標柱の横には、旧 因幡鳥取藩池田家下屋敷跡の説明板もありました。こちらは池田山という名前にはならなかったのですね。さて、八ッ山は現在の港区高輪3-4丁目付近のエリアになるそうですが、八ッ山を代表する施設は、ここ関東嚇開東閣です。開東閣は、東京都港区高輪にある洋風建築であり、旧岩崎家高輪別邸で一般公開はされておらず、現在は三菱グループの倶楽部として使われているそうです。(城南五山のコースです)【つづく】人気ブログランキング山行記録 城南五山(その9) ソニー通り
2022年10月01日
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