私が囲碁を憶えたのは中学2年生の頃です。近所の悪童から手ほどきを受けて、そこの80歳くらいのお爺さんがよい相手でした。
ルールを憶えて2~3級くらいになった頃から、近所の親類の家にプロが毎週教えに来ていたので、そこへ出入りするようになりました。そのプロは西條雅孝先生といって、名大を中退してプロになった先生で、8段まで上りましたが、数年前に現役を引退しました。星目置いても、そんなに無理な手を打って来ないのですが、いつの間にか負けてしまいます。
そして父がアマチュアの3段くらいはあったのですが、父にも教わるようになりました。父は筋が悪くなるからと、弱いうちから4子以上は置かしてくれませんでした。当然のように1年くらい負け続けました。最初に父に勝ったときにはとても嬉しかったことを憶えています。
高校に入るころにはアマチュアの初段くらいになっていたでしょうか。
そして、高校1年のときに、東海高校に囲碁同好会を作り、高2の夏に東京へ行き高校囲碁選手権に出場しました。1回戦は当時対局時計がなかったので判定となり、坂田栄寿本因坊の判定で私が勝ちとなり、2回戦まですすみました。
その後しばらく、受験勉強で碁盤から遠ざかっていましたが、大学に入ると、授業がないことをいいことに、囲碁部に入って朝から晩まで囲碁三昧の毎日でした。京大病院の近くに日本棋院の京都本部(藤田悟郎先生が主宰する吉田塾)があり、そこで週1回あったOB会(亡くなった高坂正尭先生など錚々たるメンバーが集まっていました)に出るようになりました。
入学時には初段くらいでしたが、あっという間に5~6段の力が着き、団体戦では関西リーグで2度優勝して全国大会にも行き、学生の十傑戦でも一度9位に入ったことがあります。8位は3回負けますが、9位は一度しか負けていないので、価値があります。その負けた相手は中園清三という選手でした。
私の碁は力碁で、厚みを利して戦いに持ち込み、一気に大石を屠って、勝負を決めようとする碁です。ちまちまと地を取り合うような碁は性分に合いません。このように白につけられると突き当たって切るという筋の悪い手を打つことが多いので、突き当たって切る安藤(旧姓)流と言われたものです。
こちらへ帰り、医学部に入り直し、結婚した時にも父からもらった碁盤が婿入り道具の中にしっかり入っていました。大学に通っている時には、月に1回日本棋院の中部総本部で行われていた、愛石会(愛知県のアマチュアのトップクラスが集まる会)に顔を出していました。この時の先生も西條先生でした。そして、その頃に愛知県の十傑戦でも9位に入りました。
医学部を出てからは忙しくなったこともあり、たまに団体戦のメンバーに誘われると出るくらいで囲碁からは遠ざかっていました。
これからは少し碁盤の前にも座りたいと思います。晴耕雨読ではなく、晴山雨畳というのはどうでしょうか
医学会総会ソシアルイベントで囲碁大会( ^… 2019年04月28日
とうとう12子局になりました。 2014年12月31日 コメント(2)
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