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さだまさしが毎年、8月6日の広島の原爆の日に、長崎でコンサートを続けてきた。どれくらい続けてきたかというと、なんと20年である。延べにして50万人以上の観客を動員したらしい。そしてこのコンサートは今年で一旦一区切りつけると彼は決めた。私は彼のファンなので、客観的に見ることは難しいのかもしれないが、これは凄いことだと思う。毎年毎年地味に(失礼)、こういうことを20年も続けたアーティストはいない。ノボセて1回こっきりやったアーティストはいるだろう。ノボセることは何も悪いことではないが、20年継続できるというのは本当に凄い。昔、さだは軟弱だの何だのと謗られたが、20年の「時」は、彼が鉄人のような意思を持ち、そのようなコンサートを継続できるだけの人気と、さらには体力を持ったアーティストであったことを証明した。山崎まさよしが、何かのインタビューで話していたけれど、どの地方へいってどのプロモーターに話を聞いても「さだまさし」の悪口を言う人はいないのだそうだ。アーティストの中には悪口を言う人もいたが、あれは妬みだったのだろう。 結局、「夏、長崎から」は一度も行くことはできなかったな。とても残念だ。
August 8, 2006
昨日のブログでちょこっと書いたが、ギターアンプを買った。ローランドのマイクロキューブという小さい小さいギターアンプである。1辺が20センチ少々の立方体型のアンプである。15000円くらいのギターアンプとしてはそう高くないものなのであるが、超高性能アンプだ。色んな音が出せる。電池駆動もできる。30年前なら100万円だしても出せない音がいっぱい入っている。気軽に使うには本当にいい。これとギターを一本、本気で職員室においておこうかと思うくらいである。いや、別にここから教育の話をするわけではなく、本当に買い物をしたら、それが大当たりで嬉しいという話をするだけで大変恐縮であるが、プチ感動である。高校生がエレキ一本と、このアンプを電池で駆動させたら、ストリートでライブができる。最近はアコギばっかりなので結構目立つはずだ。しかもリバーブやディレイ、色んなアンプのシュミレートが入っているので、絶対に目立つはずだ。いい時代だなあ。今の高校生が羨ましい。昨日も文化祭のオーディションで受かったの、落ちたのという話を聞いていて楽しかった。ギター弾く方、どうですか。いいですよ、これ。
August 2, 2006
井上陽水のむかーしのライブCD「もどり道」というのを最近ずっと聴いている。聴くたびに思う。あと10年早く生まれたかった。私はこのころの「フォーク」が大好きなのだ(以前も書いたが)。自意識が異常に高い陽水のMCまでもが70年代の雰囲気をとてもかもし出している。一曲目の「夏まつり」という曲には思い出がある。高2の文化祭で、友人とアコギ2台でライブをやったとき、友人がこの曲を歌ったのである。友人は声が低く、何とこの曲を1オクターブ低く歌った。何とも地味な仕上がりだった。今回私は初めて陽水の歌う「夏まつり」を聴いた。よい。友人の「夏まつり」はお経みたいだった。何で二十歳のころ、このアルバムを買わなかったんだろう。自分の音楽の志向が変わっていたかもしれない。弾き語りにしても、バンドをつけても、パフィーが歌っても陽水の曲はいい。「夏まつり」といえば、私が高校生のときは長淵剛が大人気で、文化祭では皆長渕の「夏祭り」という曲をやっていた。私は聴いていなかったのであるが、あんまり皆がやるのでイントロを聞きかじりでコピーしてしまったくらいである。最近その長渕「夏祭り」が入っているCDを聴いたら、ギターが曲中で走ることこの上ない。あの頃は気がつかなかったがデビュー当時の剛はリズムが甘かったのだ。ああ懐かしいあの頃。「もどり道」があったらそっと覗いてみたい。もう一回やれといわれたらちょっと嫌だけれど。
July 8, 2006
「fine day」これは素晴らしい。いや、ここまでのことになるとは思っていませんでした。ホンダ先生、ナメていました。心からお詫び申し上げます。塾の準備で忙しくチェックができていませんでした。 勤務していた塾のCMを数年前に作成したときに、プロのバンドに曲を書いてもらったのですが、その歌詞にさえ、注文をつけた上に歌詞を書き直すという暴挙に出た私ですが、この曲には感動しました。まあ、プロが短い時間で書き下ろすのとは、まったく違う「思い入れ」と数々の「経験」が先生にはおありですものね。どちらに「音楽の神様」が降りてくるといえば、そりゃこっちですよね。間奏のリードギターが、「カノン」をモチーフにしているところがまたイイ先生、これは音源だけでなく、ライブで披露しなければいけませんね。これはライブ向きの曲ですよ。いや~感動しました。もっと言いたいのでお電話させてくださいね。よろしくお願いします。
June 2, 2006
以前にも書いたがポールサイモンの新譜「サプライズ」は傑作だ。ジャケットと歌詞集が最高にいい。これは写真集つきの詩集になっている。「ジャケ買い」していただいても後悔はしないものになっていると思う。参加ミュージシャンもすごい。世界最強。ドラムがスティーブガッドで、ピアノはハービーハンコックだ。エレクトリックはブライアンイーノである。文字通りサプライズだ。時折ポールサイモンならではという6度の和音のフレーズがギターで入る。64歳とは思えない若々しい声。ぜんぜん枯れていない。こ、これはグラミーを獲れるのではないでしょうか・・・ 最後に言うと、歌詞が深いのである。私は泣いた。
June 1, 2006
寝ている間にまぶたを蚊にさされてちょっと地獄小僧っぽくなった息子が遊びにいきたいとせがむ。どこかに連れて行ってやろ。
May 21, 2006
ポールサイモンの6年ぶりの新譜の海外盤が今日アマゾンから届いた。SURPRISE/Paul Simon素晴らしい。傑作だ。前作のコンセプトをさらに昇華させている。齢60を越えて何故これくらい枯れずに音楽を創造できるものか。ジャケットの写真から歌詞にまで彼の「今の世界へのメッセージ」が込められている。ポールサイモンは自分の心惹かれる音楽を常に吸収し、作品を作っていく。だからサイモンとガーファンクルのイメージでポールサイモンのアルバムを聴くと面食らってしまうだろう。様々なジャンルの音楽を吸収するがゆえにポールサイモンは「音楽の搾取」をしていると批判されることもあるが、それはちょっと彼のことを悪く見過ぎだと思う。才気溢れる無邪気な少年がそのまま大人になってしまったのだと思う。さて今回のこのアルバム、ポールサイモンはある意味、メロディを捨てている。無造作に紡ぎ出した(ように見える)言葉をメロディと非メロディの境を縫うフレーズで歌う。様式美はない。AメロBメロがあってサビ、というようなものも、間奏でギターやサックスが鳴くということも全くない。音作りは一言でいうと、「ノイズ」と「ミュージック」の境目のサウンド作りだ。ギターがメロディともノイズともつかない音を奏でる。(しかしフィードバックのノイズとはまたちがう)不思議な感じだ。民族音楽的なものとエレクトリックなものが融合している。一方、「リズム」はしっかり存在する。ドラムはスティーブ・ガッドだ。ポールがリズムをいかに大切にしているかが分かる。結局彼は「言葉」を優先し、リズムと、最低限のメロディで作品を仕上げた。現代の「技術」と最高の「音楽理論」で、「原初の音楽」を再構築した。これが私に一通り聴いてみての感想である。何度も言うが、60を過ぎていつまでも枯れないのが凄い。アルバムのタイトル通りSURPRISEだ。
May 9, 2006
どういうわけだか心惹かれてしまうのである。いや何のことかというと、70年代のフォークソングのことである。昨日、書店でアエラが出版した「フォークソング」の特集本を読んで心ときめいてしまった。私はリアルタイムでフォークソングを聴いていない。実際は幼い頃耳にしているはずだが、そのころの私の興味は「仮面ライダー」やせいぜい「スーパーカー」であった。「中津川フォークジャンボリー」なんて言葉を聞き、その当時の写真を見て、若者の髪型やファッションを目にすると、ときめいてしまうのだ。そのころの雑誌なんかも古本屋で漁ってしまう。さすがに買うところまではいかないのだが、毛羽の立ったような雑な活字と時代を感じさせるレタリングが私をあの時代にトリップさせてくれる。深夜テレビで通販番組の「70年代フォークCD」のしつこい販促もいつまでも聴いていたくなる。下手の横好きであるが、私がギターを弾くことも70年代に惹かれる理由の一つかもしれない。10年早く生まれたらあの時代をリアルタイムで体験できたのに、といつも思う。初期の井上陽水、とてもいい。「傘がない」なんて曲が流行るというのは当時の若者の知的レベルの高さが伺えるのではないだろうか。当時の若者はこの歌を陽水が書いた意図も時代も理解したからこそヒットしたのだと思うからだ。傘がない 作詞/作曲 井上陽水都会では自殺する若者が増えている今朝来た新聞の片隅に書いていただけども問題は今日の雨 傘がない行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ君の町に行かなくちゃ 雨にぬれ冷たい雨が 今日は心に浸みる君の事以外は 考えられなくなるそれはいい事だろ?テレビでは我が国の将来の問題を誰かが深刻な顔をしてしゃべってるだけども問題は今日の雨 傘がない行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ君の家に行かなくちゃ 雨にぬれ冷たい雨が 僕の目の中に降る君の事以外は 何も見えなくなるそれはいい事だろ?行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ君の町に行かなくちゃ 雨にぬれ行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ君の家に行かなくちゃ 雨の中を行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ雨にぬれて行かなくちゃ 傘がない 1972年(昭和47年) 特に歌は時代を映す。時代をそのままパッケージにして詰めて、そのまま私たちの前で再現してくれる。一つ気になることがある。この時代を作った団塊の世代が大量にリタイアし始めるのはご存知の通り。テレビでは団塊リタイア後の社会がどうなるかばかりを説明している。彼ら自身が語られるときはその退職金の使い道をいかに取り込むかというマーケティングとセットになる。何ということだ!懸命に生きてきた彼ら自身が語られることはほとんどない。誰か歌を書いてくれないか。彼らを映し出す歌を!彼らへの賛歌を。
April 20, 2006
先日、教え子であり、塾でも先生をしてくれたOちゃんがサイモンとガーファンクルにNYで出会ったという話をした。これがその写真である。時間が経ったら消すかもしれない。この写真で世界中のファンが再結成が確信したといういわくつきの写真である。あ~あ、載せちゃった。でもこれで私の話が嘘ではないことがお分かりいただけたと思う。(ちょっと自慢したいだけ?でもサインは貰えなかった)塾の先生のページに載せるのは騒ぎが大きくならないように配慮してのことです。すみません。
March 31, 2006
Oちゃんはもうすぐ帰国をするという台湾人の友人とNYの景色の綺麗な場所を歩いておこうと出かけていたらしい。NYの郊外はよく雑誌なんかの撮影に使われているという。確かに摩天楼が遠くに見える緑の多い郊外なんかは素敵だろう。その日も何やら撮影をしているクルーがいた。レフ板を持った集団は確かに目立つ。ミーハーな彼女はわくわくして近づいていった。「誰だろう。ワクワク」てな感じだったろう。しかしながら近づいていっても綺麗なモデルさんはいない。あれ、まだモデルさんはきていないのねと思った瞬間固まってしまった。ベンチに腰掛けていた二人を見て息をのんだ。そこにいたのは「サイモンとガーファンクル」だったのである。「サイモンとガーファンクルやん!」と思わず日本語で言うと、一緒にいた台湾人の友人がWho?彼女、Simon and Garfunkel! 台湾人の彼女I don't know about them. Are they famous?これだから若い子は困る。彼らを知らなかったというのだ。O先生はこんな機会は絶対にないと二人に近づいて話しかけた。二人はとてもフレンドリーで一緒に写真を撮ってくれ、サインをしてくれたという。その後、撮影を少しの間、見学していたという。彼女はそのときデジカメで取った写真を私に送ってくれた。ニューヨークの摩天楼を背にベンチに腰掛ける二人。それは秋のNYの空気の匂いまで伝わってきそうなとても美しい写真だった。実はそのころ、サイモンとガーファンクルが再結成するのではないかと噂されていて、全世界のファンはサイトで熱く語っていたのである。その場を後にした二人は少し離れた場所に黒人の青年がアコースティックギターを演奏しているのに気がついた。Oちゃんはその青年にこう言った。「向こうにポールサイモンがいたわよ。こんな機会めったにないわよ。行ってらっしゃいよ。」「いやいや、そんなのいいよ。恐れ多いよ。」消極的なその黒人青年をOちゃんは再びポールの元に連れていったという。アメリカ人でもそんなに消極的なヤツがいるとは思わなかった。その黒人青年の手を引っ張ってポールサイモンのところに連れて行くOちゃんはすごいバイタリティの持ち主だ。ポールはその青年をギターを貸してくれといい、そのギターをベンチに腰掛け弾き始めた。NYの摩天楼、芝生の緑、目の前でギターを弾いているのはポールサイモンなのである。そんな話をOちゃんは、国際電話で教えてくれた。まさか、本当にポールサイモンに会うとは!なんて運の強い子なんだろう。しかし…しかしである。私の頭の中には一つの懸念があった。私は恐る恐る尋ねた。「Oちゃん、サイン俺の分も貰ってくれた…?」Oちゃんは言った。「す、すみません!舞い上がっていたので忘れてしまいました!」私は少し悲しかったが、否、とても悲しかったが、私の手元には素敵な表情をしているサイモンとガーファンクルの写真と黒人青年のギターを弾くポールの10秒ほどの映像がある。それだけでも幸せだ。ちなみにその写真を日本のS&Gのファンサイトに小さくして添付したら、誰かが、アメリカのファンサイトに報告したらしく、私の元に全世界から何百通ものメールが届いた。二人の再結成がその写真から間違いないということになり、全世界のファンサイトで大騒ぎとなった。ところでOちゃんはアパートに帰って隣のおばさんにその日の出来事を伝えると、おばさんは両手を広げ、彼女を抱きしめ、「貴方は今日『歴史』に出会ったのよ」と祝福してくれたという。NYの人にとってサイモンとガーファンクルとはそれだけの存在なのであろう。私が高校生のときセントラルパークで行われた二人の再結成のコンサートは50万人の人を集めたのだ。私もその映像を見てどれだけしびれたか分からない。猫ギター先生のNYの写真を見て、この話を思い出してしまった。ところで私は写真が趣味でもあるが、猫ギター先生は写真が上手い。構図が綺麗だ。さすがは映研出身である。
March 9, 2006
只管打座とは曹洞宗の開祖、道元の言葉である。その意味は「ただひたすら座禅をせよ。」である。もう少し分かりやすく言うと、「あ~もうごちゃごちゃ理屈を言うのはやめてひたすら座っとれ!」ということである。以下は猫ギター先生の今日の日記の引用である。教師は子供に対して、あらゆる事柄を意味も教えず、ただひたすら丸暗記させる潔さがいる。「読書百遍、意自ずから通ず」的な割り切りも、教師には必要だ。意味など教えるな! ひたすら丸暗記させてしまえ!英語の単語は言うに及ばず、社会の歴史人名でも丸暗記が大事だ。英語の単語と同じように、歴史人名も機械的な丸暗記でかまわない。歴史人名を、電話帳に掲載されている人名と同じような、意味がない「記号」と割り切って暗記させることを躊躇してはならない。言いたいことは全く同じだと思う。意味は後でついてくる。まずしっかり知性の源になる知識を増やさなければならない。意味が分かるまで待ってはいけない。器にモノを入れなければ、容量は増えないのだ。人間の脳は動物と違い、未完成で生まれてくる。生まれてからの外部からの刺激を受けて、容量を増やし、完成する。母親の胎内だけでは人間としての機能を育みきれないようになっているのだ。人間が高等な生物であるゆえの特性なのであろう。ところで、話は変わるが、私が中2のときのことである。理科で、原子だの、分子だのの導入の授業だったと思う。「気体は分子が2つくっついてでないと存在しにくいのです。」と先生が仰ったとき、ふと、「それでO2って言うんや!」と思わず、先生に向かって言ってしまった。先生は「おう、そうや、賢いやないか、お前。」と、感心したような顔で言った。意味も分からず、私は小学生のときに、学研の科学か何かで酸素のことをO2と覚えていたのが、結びついたのである。このときの私の気持ちはとても高揚したものであった。こういう思いを子どもにさせるのはいけないことなのだろうか?あのときクラスのどの子よりも私の心は弾んでいたはずだ。あんな気持ちにさせることが非教育的なはずがない。塾の先生はイデオロギーや主義主張、あるいは派閥の論理で子どもを教えているのではない。子どもが伸びたというその事実にのみ実践を構築している。猫ギター先生やぜすと艦長先生の言葉がどれだけ私に勇気とやる気を大きくしてくれることか。広島や静岡まで飛んでいきたいくらいである。
February 26, 2006
久々にギターを出してきて弾いてみる。私が弾くのはアコースティックギターというやつだ。昔はフォークギターと言っていたやつである。最後に触ってから4,5ヶ月も経っているので指が痛い。久々に弾くとリズムが狂う。狙ったタイミングで音が出せない。それでも根気よく弾いていると、ギターが鳴り出す。不思議なことだが、2,30分も弾いているとギターは音がよくなっていく。ギターを手に取ると、手癖というか、必ず弾く曲というのが誰にでもある。私の場合は、ビートルズの「ブラックバード」だ。この曲はピッチの悪いギターでは弾けない。イントロで3弦の開放のソと2弦の12フレットのシの音で3度の和音を作っているが、これが苦しいのである。「ブラックバード」はポールのギター一本弾き語りの曲である。何年か前にポールマッカートニーが来日コンサートを行ったときに本人の弾き語りを聴いたときは感動した。あまりよい席ではなかったけれど。コピーした私のフレットポジションがポールが弾くのと同じだったのでちょっと嬉しかった。この曲の弾き語りをスリーフィンガーで演る人がいるが、それは間違いだ。この曲は裏拍を人差し指で軽くストロークするのである。スリーフィンガーで演るとリズムが表になりがちだが、この曲は裏っぽく演るのが正しい。そうでないと原曲の雰囲気が出ない。(あくまで「ぽく」)こんなギターフレーズを考えるポールって天才だな。ジョンはこの才能に嫉妬したんだろうな。きっとこのあたりが不和のきっかけのような気がする。ともあれ、指が痛い。このリズムの悪さでは人前で演奏はできないな。春になったらもっと真面目に弾こう。
February 12, 2006
今年の紅白歌合戦の大トリはさだまさしだ。いまでこそ紅白は色々な趣向をこらしているが、一昔前は一人2分半という制限時間があった。そのため皆1番しか歌わなかったのである。このルールを最初に破ったのはさだまさしである。「関白宣言」で出場するときに、曲の構成上、一番だけ聴かせてもしょうがないからフルコーラスを歌わせてくれるならという条件を出し、NHKもそれを飲んだ。私は当時初めて「関白宣言」を紅白でフルコーラス聴いていい曲だなあと思ったものだ。当時、フォーク歌手はテレビに出なかった。テレビでは自分たちのメッセージが伝わらないというのがその理由だったらしい。しかしさだはテレビに出た。しかも紅白という一曲勝負の場に出た。しかも他のフォーク歌手からも叩かれた。関白宣言の翌年は「防人の詩」で出た。坂元昭二とギター2本の伴奏でフルコーラス歌った。これも紅白の歴史上初めてではないか。テレビに出ないといった歌手達のほとんどはただのポーズだった。自分の信者の前で歌は歌えても、不特定多数の前で一曲限りで勝負をするということからは逃げた。テレビではコンセントレーションがどうのと言うが、歌手は皆その状況で勝負をしているのである。これはただの甘えではないのか。あれだけ突っ張っていた吉田拓郎はKINKIキッズとだらだらテレビに出ていた。なんじゃそりゃと思ったものだ。私は拓郎の全盛期は知らないので私の知る吉田拓郎はオーラの出ていないやる気のないただのおじさんである。さだは歌を歌い続けた。映画制作の借金が理由であるが、3000回のコンサートを重ねた。すごい記録である。アリスが再結成して3曲連続で歌うだけでガッツポーズを取っている有様であるが、さだはその間も年間100回のコンサートをしてきたのである。長渕剛は紅白に出場して、崩壊したベルリンの壁から中継で歌を歌った。「親不知」という歌は素晴らしい曲だったが、中継の際のNHKスタッフの手際の悪さに切れて、生中継でその文句を垂れまくった。みっともなさを振りまいた。曲までただの文句垂れにしか聞こえなくなってしまったのは惜しいことである。さて紅白のトリでさだまさしが歌う歌は『広島の空』という。知名度はまったくない。アルバムに収録された曲である。さだはもう20年間、広島の原爆の日に、長崎で無料コンサートを開いている。二十歳の人間が四十歳になる間ずっとこれをやり続けた。何と骨のある男だろうか。硬派な男だと思う。そのコンサートを開く年月の中でこの『広島の空』は生まれた。この曲をぜひ聴いていただきたい。歴史に残すべき曲である。誰にも書けない曲である。広島の空 その日の朝が来ると 僕はまずカーテンを開き 既に焼けつくような陽射しを 部屋に迎える 港を行き交う船と 手前を横切る路面電車 稲佐山の向こうの入道雲と 抜けるような青空 In August nine 1945 この町が燃え尽きたあの日 叔母は舞い降りる悪魔の姿を見ていた 気付いた時炎の海に 独りさまよい乍ら やはり振り返ったら 稲佐の山が見えた もううらんでいないと彼女は言った 武器だけを憎んでも仕方がないと むしろ悪魔を産み出す自分の 心をうらむべきだから どうか くり返さないで くり返さないで 広島の空に向かって 唄おうと 決めたのは その時だった 今年のその日の朝も 僕はまずカーテンを開き コーヒーカップ片手に 晴れた空を見上げ乍ら 観光客に混じって 同じ傷口をみつめた あの日のヒロシマの蒼い蒼い空を思い出していた In August six 1945 あの町が燃え尽きたその日 彼は仲間たちと蝉を追いかけていた ふいに裏山の向こうが 光ったかと思うと すぐに生温かい風が 彼を追いかけてきた 蝉は鳴き続けていたと彼は言った あんな日に蝉はまだ鳴き続けていたと 短い生命 惜しむように 惜しむように鳴き続けていたと どうか くり返さないで くり返さないで 広島の空に向かって 唄ってる 広島の空も 晴れているだろうか くり返さないで くり返さないで 広島の空に向かって 唄ってる 広島の空も 晴れているだろうかどうだろうか。長崎出身の彼だからこそ歌える歌である。In August six 1945 あの町が燃え尽きたその日 彼は仲間たちと蝉を追いかけていた ふいに裏山の向こうが 光ったかと思うと すぐに生温かい風が 彼を追いかけてきた 蝉は鳴き続けていたと彼は言った あんな日に蝉はまだ鳴き続けていたとこんなリアルな描写は貴重である。これを歌に昇華したさだはやはり天才である。さだは古い世代と新しい世代をぎりぎり何とかつなぎ止められる世代の人間である。この曲が日本全国注目の中流されることには意味がある。変節せず、辛抱強く歌い続けたさだだからこその骨太のメッセージである。愛国がブームになりかけているが、日本を愛し続けてきたさだのメッセージをぜひ聴いていただきたい。
December 24, 2005
『男たちの大和/YAMATO』という映画が話題になっている。主題歌は長渕剛が歌い、そのジャケットには日の丸をバックにギターを抱えた長渕が写っている。世の中も変わったものだなと思う。10年前なら間違いなく、好戦的な映画だと言って公開中止を求める運動が起こっていただろう。驚かれるかもしれないが、このような題材を扱えば、内容に関わりなくそういう声を上げる人達がいたのである。25年前『二百三高地』という映画の主題歌をさだまさしが歌ったとき、彼は「右翼歌手」のレッテルを貼られ、ずいぶんと叩かれたのである。私が『防人の詩』を初めて聴いたのは、その映画『二百三高地』の予告編を映画館で見たときだった。中2の終わり、2月16日だったと記憶している。それまで私はさだまさしをコミックソングを歌う歌手だと思っていたのでずいぶんと驚いた。歌が流れて二重に驚いた。歌で心を揺さぶられたのは生まれて初めてだったのだ。今から思えば若干の青臭さはあったものの、未体験の文学性と、映像との調和があった。やがて私は熱狂的なさだまさしファンとなり、彼の書いた曲や文章を片っ端からあさるようになる。ある日、熱狂的なさだまさしファンの中学生は新聞の雑誌広告の欄に「右翼歌手さだまさし」という文字を見つける。雑誌をチェックすると、明らかに作為的で悪意のあるレッテル貼りであることは当時の私にもわかった。あきらかにこれは当時のさだを打ちのめしただろう。『関白宣言』で女性蔑視論者と言われ、『防人の詩』で右翼歌手と言われ、そのあたりから、彼はスランプに陥る。熱狂的なファンをしても、そのスランプぶりは見て取れた。はな垂れ中学生は、世の中に悪意があることをこんなところから学んだ。さだは一貫して、故郷を愛し、日本を愛し、そういう歌を歌ってきた。それは四半世紀変わらない。『前夜』という曲は名曲中の名曲である。さだフリークとしては、長渕は時流に乗ったとまでは言わないが、少なくとも矢面に立たされるようなことはないだろうとひねくれた見方をしてしまう。さだはずっと戦ってきたのである。長渕の『静かなるアフガン』とさだの『前夜』を聴き比べてみてほしい。さだの凄さが分かる。『前夜』 さだまさし桃花鳥(トキ)が七羽に減ってしまったと新聞の片隅に写りの良くない写真を添えた記事があるニッポニア・ニッポンという名の美しい鳥がたぶん僕等の生きてるうちにこの世から姿を消してゆくわかってるそんな事は たぶんちいさな出来事 それより君にはむしろ明日の僕達の献立の事が気がかりI'm all right I'm all rightそれに僕は君を愛してる それさえ間違わなければ今若者はみんなAMERICAそれも西海岸に憧れていると雑誌のグラビアが笑うそういえば友達はみんなAMERICA人になってゆくいつかこの国は無くなるんじゃないかと問えば君は笑う馬鹿だねそんな風に 自然に変わってく姿こそ それこそこの国なのよ さもなきゃ初めからニッポンなんてなかったのよI'm all right I'm all rightそうだねいやな事すべて切り捨ててこんなに便利な世の中になったしどこかの国で戦さが起きたとTVのNEWSが言う子供が実写フィルムを見て歓声をあげてる皆他人事みたいな顔で人が死ぬ場面を見てる怖いねと振り返れば番組はもう笑いに変わってたわかってるそんな事は たぶんちいさな出来事 それより僕等はむしろこの狭い部屋の平和で手一杯だものI'm all right I'm all rightそうともそれだけで十分に僕等は忙し過ぎる桃花鳥が七羽に減ってしまったと新聞の片隅に……何年か前、この歌を卒業式前のお別れ会で、生徒の前で歌ったら、会の後、あれは何という曲か教えて、と何人もの生徒が言ってきた。ポロポロと泣いていた子もいた。25年前の自分と教え子が繋がったような気がしてうれしかった。
December 9, 2005
今日はジョンレノンの命日だ。つづきを読む
December 8, 2005
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