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無一山 専求院
浄土宗 光明山無量院誓願寺 末寺
開山:念夢和尚
開基:光明山無量院誓願寺二世 無角和尚
本尊:阿弥陀三尊
専求院は浄土宗・誓願寺の末寺だった。従って誓願寺と地続きになっており、有名な重要文化財・誓願寺山門のすぐ手前を左に入ると同院だ。この寺の入り口に大飛閣というお堂があって、観音様とえんま大王を安置している。ここのえんま様と“脱衣婆”は、高さ1mほどの木像だが、 特に”脱衣婆”は口が大きく割れ、いかにも人を取って食べそうな姿をしている。俗に「塩辛ばさま」と呼ばれ、昔の子供たちには怖がられたという。
えんま様と『脱衣婆”は、近所で織物業をやっていた福島文吉さんが、明治20年(1887年)7月に寄進したものだが、面白いエピソードがある。文吉さんは碁が好きで、当時の住職・哲静師のところに遊びにきては石を並べていたが、哲静師には歯が立たない。えんま様と”脱衣婆”を寄進しても住職は手をゆるめてくれない。怒った文吉さんは「それならば・・・」と寄進した二体を家に持って帰ってしまった。ところがその夜、文吉さんの家は、終夜、震動し眠れなかった。怖くなった文吉さんは早速、専求院に戻し、安置させたという。
専求院は 誓願寺 の寺務を務めていた念夢和尚が、文禄年間(1592~1596年)に同寺二世・無角和尚の助力を得て小庵を開いたのが創建といわれる。また寺伝によると、念夢和尚は藩祖為信から木造新田地方の布教と開拓の内命を受け、寛永6年(1629年)、広須山 長福寺も開いた人といわれる。
専求院には天明、天保の大飢饉で死んだ人たちの無縁仏の墓がある。無縁仏の墓地は、以前、城西団地内の弘工グラウンドの所にあったが、39年、団地造成にあたって現住職の村井竜山師の好意で同院に移したものだ。
大飢饉は津軽藩内にも多くの餓死者を出し、岩木河原にも多くの死体が流れ着いた。樋ノ口部落の船頭・弥次衛門が見かねて河原に埋葬、この姿を見て藩士や部落民も死体を集めて手厚く弔ったという。安政4年(1857年)、4月8日、ここに5つの墓石を建立して供養。この供養を樋ノ口部落のお年寄りたちが引き受け、明治の初めごろから上新町のご詠歌グルーブ・新講会も加わり、無縁墓地を守ってきた。
51年は同院に移転してから十三回忌、お盆には新講会のお年寄りらが集まって盛大な供養が行われた。






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