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氣多大社 拝殿
気多神社拝殿は、桁行3間、梁行3間で、屋根は入母屋造り、桧皮葺、妻入りである。4面に切目縁を巡らしているが、高欄は付いていない。縁へは正面と両脇側から石段で昇る。軸部は、粽のある円柱に頭貫・台輪をのせ、柱上・柱間ともに阿麻組の組物で軒先を支えている。柱間には長押を付けず、正面と背面中央には藁座を付けて桟唐戸を建て込み、その他の間には舞良戸が入れてあるが、唐様を主調とした建造物である。
建立年代は、小屋梁の墨書によって、承応2年(1653年)から同3年(1654年)にかけて建立されたことが知られる。建仁寺流の加賀藩御大工 山上善右衛門嘉広の作と伝えるが「山上家由緒書」に小松天満宮や那谷寺とともに気多神社の拝殿を建てたと記しているのみで、確証は得られない。しかし、妻の破風部分を強調していることや、細部が那谷寺護摩堂ときわめてにていることなど、善右衛門の作と感じさせる点が多い。

氣多大社
祭神:大国主神
8世紀、9世紀の能登の氣多大神宮は、渤海と蝦夷の境界線であった。渤海からの疫病を抑え、能登の製塩技術を越中・佐渡・越後に伝搬し対蝦夷政策に塩が軍事物資として使用された。仁明天皇承和元年(834年)には越前の気比神宮に先んじて、祢宜祝2人が把笏せしめられる。寺家遺跡の祭祀遺物は8世紀、9世紀のものであり氣多大神宮の祭祀の盛期を物語っている。氣多大神宮で国家祭祀が行われていたと考えられる。
称徳天皇神護景雲2年(768年)に封戸20戸と田2町を寄進され、しばしば奉幣を受けた(『続日本紀』)。また、桓武天皇延暦3年(784年)に従三位から正三位(『続日本紀』)、仁明天皇承和元年(834年)に正三位勲一等(『続日本後紀』)、清和天皇貞観元年(859年)には従一位勲一等、醍醐天皇寛平9年(896年)には正一位の神階を賜った(『日本三代実録』)。
氣多大社は、氣太神宮(『万葉集』)、氣太神(『続日本紀』)、氣多大神宮(『続日本後紀』)のほか、氣多大神、一宮大神、能登大神とも称される。六国史で大神宮と呼ばれたのは氣多大神宮だけだった。蝦夷の境界線であった能登国氣多神宮、越前国気比神宮、常陸国 鹿島神宮 、下総国 香取神宮 と共に「日本四社」と称せられた。
氣多大社が中央の文献に初めて見えるのは、『万葉集』である。聖武天皇天平20年(748年)に越中守 大伴家持が氣太の神宮に赴き参詣した折に、海辺にて歌を一首つくり、
之乎路(しをぢ)から 直超え(ただこえ)来れば羽咋の海 朝凪したり 船楫もがも
と詠んだ。万葉は永遠の意味です。当社の入らず森は永遠の命を伝える森、昭和天皇の御製は現代の万葉集。加賀藩の保護した入らずの森(天然記念物)の奥宮には素戔嗚尊・櫛稲田姫命が鎮座。
昭和58年5月、石川県で植樹祭があった。それは22日に、津幡町の森林公園で行われた。その日は雨の心配は全くなく、そしてよく晴れてはいても、陽が強すぎることもない。先ずあれ以上の天候はあるまい。まさに最高のものであった。その行事がとどこおりなくおわったあと、天皇陛下は羽咋市にお向かいになり、氣多大社をお参りになった。そしてその後、三井秀夫宮司の案内で、入らずの森にお踏み入りになり、金沢大学の里見信生氏の御説明をお聞きになった。そこが、神域なるが故に、少しも荒らされることなく、原始のこの方、変わらぬ姿が保たれていることに、深い感銘をお受けになった。
斧入らぬ みやしろの森めづらかに からたちばなの 生ふるを見たり
というお歌は、すなわちこの御感動があったればこそのものである。
陛下は植物に深い関心をお持ちになっているが、決してみだりに採取などあそばさない。それぞれの植物が、平穏に生存をつづけ、その場所の植物相がいつまでも変わらないようにお祈りになっているからである。「斧入らぬみやしろの森」は、そのところのおよろこびなのである。(当社編『天皇陛下行幸記念誌』より)。
『延喜式』神名帳によると、名神大社に列せられて祈年の国幣にあずかった。神名帳によれば、「気多」を称する神社が但島、能登、越中、越後(居多神社と称する)に分布し、加賀にも気多御子神社があり、国史見在社として越前に気多神社が鎮座する。このことから、 古代から日本海沿岸を中心に、氣多大神の信仰圏が広く分布していた ことは明らかであり、その高い神威は今も変わらない。
順徳天皇建保5年(1217年)に将軍 源実朝が公田として11町余を寄進したが、これは古代の封戸などによる神領とみられる。中世末期には、980俵と56貫余の社領を有していたという。
正親町天皇永禄4年(1561年)に、能登守護 畠山氏が正親町天皇の勅許を得て社殿の造営を進め、同12年(1569年)には摂社 若宮神社(事代主神・国指定重要文化財)を再建した。この若宮神社は現存し、石川県の重要な中世建造物のひとつである。
天正5年(1577年)に能登畠山氏が滅ぶと、その後、上杉氏、織田氏、前田氏等の武将たちが能登国を支配したが、その間も気多社への崇敬は絶えることはなく、社領の安堵や寄進がしばしばなされた。特に前田利家やその後の加賀藩歴代藩主からの崇敬は厚く、社領350石の寄進をはじめ、前田家への祈願、祈祷、しばしば社殿の造営がなされた。
本殿(大己貴神)・拝殿・神門・摂社白山神社(菊理姫神)(以上、国指定重要文化財)・神庫・随身門(ともに県指定文化財)がそれである。
明治4年(1871年)に国幣中社、大正4年(1971年)には国幣大社に列せられ、現在も北陸道屈指の大社として知られている。
神社の生命は、祭祀にある。後水尾天皇元和5年(1619年)の由来書によると、実に74度の神秘な祭祀を執行していた。しかし、明治の神仏分離政策や新しい神社制度の改変により、修正会、仏生会(花まつり)、放生会、法華八講などの仏事は執り行われなくなった。しかし、古儀を伝えた特殊神事の多くは、今も継承されており、日々、神職たちは神明に奉仕している。
平国祭
3月18~23日
石川県七尾市の所口町にある気多本宮へ渡御する大規模な神幸祭で、現在は3月18日から23日まで、羽咋・鹿島郡内の2市5町を回る。神輿の長い行列が早春の能登路を巡行し、一般には「おいで祭り」と呼ばれる。沿道には人々が集まり、神幸を迎える。「寒さも気多のおいでまで」といわれ、神が民衆の中においでになり一体となる能登の春祭りとして親しまれている。
注目したいのは、往路の21日、中能登町金丸の宿那彦神像石神社に一泊し、翌日同社の少彦名命が神輿に同座して七尾の気多本宮に赴き、一泊して祭典を営んでから帰途につくことである。気多大社の大国主神が少彦名命とともに能登を平定した往時をしのぶ行事だといわれている。帰社した神輿は4月3日の例大祭まで拝殿に安置され、平国祭がそれまで連続していると伝える。
例大祭には境内で蛇の目の的を神職が弓で射、槍で突き、太刀で刺す行事があり、祭神が邑知潟にすむ毒蛇を退治した状況を模したものだと説かれているが、古記録によれば、流鏑馬神事が歩射となったものであることが知られる。昭和63年からはその流鏑馬神事が450年ぶりに復活され、古式に従って執り行われた。平国祭は気多大社鎮祭の由来を伝える重儀で、祭祀の性質としては祈年祭に属する。まことに大規模な渡御祭として全国的にも注目される。
鵜祭
12月16日
12月16日未明の神事である。これより前、遠く七尾市の鵜浦町で生け捕った1羽の鵜を、同地の鵜捕部3人が鵜籠に入れ、二泊三日の道中をして14日の夕方ごろ神社に到着し、鵜は餌止めとなる。
鵜は生け捕られた瞬間から神となり、鵜様と呼ばれ、道中では民衆が「鵜様を拝まずに新年は迎えられん」と手を合わす。 16日午前3時すぎ神社で祭典があり、祝詞奉上、撤饌がすむと、本殿内の灯火だけを残して消灯し、四辺は暗黒となる。鵜捕部が鵜籠を本殿前方に運び、神職との間に問答がかわされる。やがて、「鵜籠を静かにおろし、籠をとりすて、鵜をその所に放てと宣い給う」とおごそかにいわれると、鵜捕部は鵜籠の鵜を本殿に向かって放つ。鵜は本殿の灯火をしたって昇り、殿内の台にとまると取り押さえられ、海浜に運ばれて放たれる。鵜は闇空に飛びたち、行くえも知れず消え失せるのである。
鵜祭の由来は明らかでない。神社の所伝によれば、祭神の大国主神が神代の昔、初めて七尾市鵜浦町の鹿渡島に来着したとき、同地の御門主比古神が鵜を捕らえて捧げた故事によるとか、あるいは同地の櫛八玉神が鵜に化して海中の魚を捕って献上した故事にもとづくと説かれている。神秘的な行事ではあるが、気多大社の年中祭祀上から大観すると、新嘗祭(11月23日)中の神事だったのである。平国祭から例大祭(4月3日)に連なる行事が、祈年祭(2月17日)の性格を有するのと対比して考えるべきであろう。なお当夜、鵜の神前への進み具合によって年の吉凶を占う習俗があった。
加賀藩祖の前田利家は、鵜祭の行事を重んじ、天正13年(1585)に鵜捕部へ鵜田二反を寄進しているほどであるが、鵜祭の鵜が例年にまさって神前によく進んだことを聞き、「国家之吉事、不可過之候」(能登国にとり、これ以上縁起のよいことはない)と喜んだ書状が大社にある。
この神事を脚色した能「鵜祭」があるが、加賀藩祖前田利家がひいきにしていた金春流でもっぱら演じられたことは注目すべきである。

















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