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2025年11月26日
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カテゴリ: 御朱印:石川県
先の三連休で愛知県から滋賀、北陸に入り富山までまわって来ました。諸国の一之宮を中心に巡礼したんですが、いやはや、やはり大和の根幹地に近いこともあり、神社の造りがまずこちらの神社とは異なっていました。
こちらの神社は主に拝殿・本殿が一列に並ぶ造りが大半です。
しかし、関西に近い土地の大社はそうではなく、本殿が独立しているのです。本殿を囲むように瑞垣が建てられ、その一部が拝殿となっています。必ずしも本殿と連結しているわけではなく、瑞垣内に複数の本殿があるものも見られます。
こうした社の姿を見ていると、まず氏神や土地の神を祀る小さな社があり、それを守る様に瑞垣が建てられ、拝みやすいように拝殿が設けられ、更に大人数が拝めるように拝殿・幣殿が分けられ・・・というような造りの変化があったんではと感じます。
そして更に遡ると、森自体を御神体として祀ったり、山頂の磐座を御神体としたり・・・という原始祭祀にまで辿り着くんではないでしょうか。今回紹介する神社は、そうした原始祭祀の姿を残した北陸の古社です。かつて蝦夷対策の最前線として機能した社と聞いています。

2025.11.24
氣多大社


石川県は能登半島の付け根に、大社を冠する古い神社があります。一般的に大社ともなるとゴテゴテの装飾をした豪華絢爛な社を想像してしまいますが、この社はそうではありません。古びた木の色合いが非常に美しく、古来よりの姿をよく残している様に感じました。
鳥居は大きく両部式です。その脇には国幣大社と刻まれた石柱が建っていました。



鳥居をくぐり落ち着いた空気の漂う参道を進んでいると、左側に社が置かれていました。これは末社の大黒社です。祭神は大黒天でしょう。







檜皮葺きの随神門が見えてきましたね!その背後には鬱蒼とした原始の森が広がっています。右手には社務所、左手の小道の先にはかつての神宮寺である​ 亀鶴蓬莱山 氣多太神宮寺 正覚院 が境内を構えています。神仏混淆時代の遺物などもこちらでご覧になれます(要予約)。



手水舎も大きく立派ですねぇ!



再び随神門。建立は遅くとも天正12年(1584年)、安土桃山時代の建築的特徴がよく残されているそうです。延宝8年(1680年)に本堂などの社殿と共に修理を受けているそうです。重要文化財の指定を受けているんですが、それも納得の美しさです。



門をくぐった瞬間に息を呑んでしまいました・・・。森を背にして3つの社が並び立ち、その手前に拝殿が独立して立っているのです。
”おぉ、祭神が3柱で、それらを祀るために拝殿が建てられているんだな”と思ったんですが、祭神は大国主神1柱のみ。奥の3つの社の内、中央は氣多大社の本殿ですが、その両脇は摂社の社だそう。・・・思っていた感じではありませんでしたが、初見で受けた衝撃は相当のものでした。

拝殿について公式サイトの説明を見てみましょう。
氣多大社 拝殿

 気多神社拝殿は、桁行3間、梁行3間で、屋根は入母屋造り、桧皮葺、妻入りである。4面に切目縁を巡らしているが、高欄は付いていない。縁へは正面と両脇側から石段で昇る。軸部は、粽のある円柱に頭貫・台輪をのせ、柱上・柱間ともに阿麻組の組物で軒先を支えている。柱間には長押を付けず、正面と背面中央には藁座を付けて桟唐戸を建て込み、その他の間には舞良戸が入れてあるが、唐様を主調とした建造物である。

 建立年代は、小屋梁の墨書によって、承応2年(1653年)から同3年(1654年)にかけて建立されたことが知られる。建仁寺流の加賀藩御大工 山上善右衛門嘉広の作と伝えるが「山上家由緒書」に小松天満宮や那谷寺とともに気多神社の拝殿を建てたと記しているのみで、確証は得られない。しかし、妻の破風部分を強調していることや、細部が那谷寺護摩堂ときわめてにていることなど、善右衛門の作と感じさせる点が多い。
​​ 氣多大社 / 由緒 ​ より引用

この造りの拝殿自体は当地域でもよくよく見られますが、屋根の葺き方や全体の装飾などは、なかなか他では拝めないでしょう・・・!うっとりするような姿ですよ



御由緒も見てみましょう。
氣多大社

祭神:大国主神

 8世紀、9世紀の能登の氣多大神宮は、渤海と蝦夷の境界線であった。渤海からの疫病を抑え、能登の製塩技術を越中・佐渡・越後に伝搬し対蝦夷政策に塩が軍事物資として使用された。仁明天皇承和元年(834年)には越前の気比神宮に先んじて、祢宜祝2人が把笏せしめられる。寺家遺跡の祭祀遺物は8世紀、9世紀のものであり氣多大神宮の祭祀の盛期を物語っている。氣多大神宮で国家祭祀が行われていたと考えられる。
 称徳天皇神護景雲2年(768年)に封戸20戸と田2町を寄進され、しばしば奉幣を受けた(『続日本紀』)。また、桓武天皇延暦3年(784年)に従三位から正三位(『続日本紀』)、仁明天皇承和元年(834年)に正三位勲一等(『続日本後紀』)、清和天皇貞観元年(859年)には従一位勲一等、醍醐天皇寛平9年(896年)には正一位の神階を賜った(『日本三代実録』)。

 氣多大社は、氣太神宮(『万葉集』)、氣太神(『続日本紀』)、氣多大神宮(『続日本後紀』)のほか、氣多大神、一宮大神、能登大神とも称される。六国史で大神宮と呼ばれたのは氣多大神宮だけだった。蝦夷の境界線であった能登国氣多神宮、越前国気比神宮、常陸国​ 鹿島神宮 ​、下総国​ 香取神宮 ​と共に「日本四社」と称せられた。

 氣多大社が中央の文献に初めて見えるのは、『万葉集』である。聖武天皇天平20年(748年)に越中守 大伴家持が氣太の神宮に赴き参詣した折に、海辺にて歌を一首つくり、

之乎路(しをぢ)から 直超え(ただこえ)来れば羽咋の海 朝凪したり 船楫もがも

と詠んだ。万葉は永遠の意味です。当社の入らず森は永遠の命を伝える森、昭和天皇の御製は現代の万葉集。加賀藩の保護した入らずの森(天然記念物)の奥宮には素戔嗚尊・櫛稲田姫命が鎮座。
 昭和58年5月、石川県で植樹祭があった。それは22日に、津幡町の森林公園で行われた。その日は雨の心配は全くなく、そしてよく晴れてはいても、陽が強すぎることもない。先ずあれ以上の天候はあるまい。まさに最高のものであった。その行事がとどこおりなくおわったあと、天皇陛下は羽咋市にお向かいになり、氣多大社をお参りになった。そしてその後、三井秀夫宮司の案内で、入らずの森にお踏み入りになり、金沢大学の里見信生氏の御説明をお聞きになった。そこが、神域なるが故に、少しも荒らされることなく、原始のこの方、変わらぬ姿が保たれていることに、深い感銘をお受けになった。

斧入らぬ みやしろの森めづらかに からたちばなの 生ふるを見たり

というお歌は、すなわちこの御感動があったればこそのものである。
 陛下は植物に深い関心をお持ちになっているが、決してみだりに採取などあそばさない。それぞれの植物が、平穏に生存をつづけ、その場所の植物相がいつまでも変わらないようにお祈りになっているからである。「斧入らぬみやしろの森」は、そのところのおよろこびなのである。(当社編『天皇陛下行幸記念誌』より)。

 『延喜式』神名帳によると、名神大社に列せられて祈年の国幣にあずかった。神名帳によれば、「気多」を称する神社が但島、能登、越中、越後(居多神社と称する)に分布し、加賀にも気多御子神社があり、国史見在社として越前に気多神社が鎮座する。このことから、 古代から日本海沿岸を中心に、氣多大神の信仰圏が広く分布していた ことは明らかであり、その高い神威は今も変わらない。
 順徳天皇建保5年(1217年)に将軍 源実朝が公田として11町余を寄進したが、これは古代の封戸などによる神領とみられる。中世末期には、980俵と56貫余の社領を有していたという。
 正親町天皇永禄4年(1561年)に、能登守護 畠山氏が正親町天皇の勅許を得て社殿の造営を進め、同12年(1569年)には摂社 若宮神社(事代主神・国指定重要文化財)を再建した。この若宮神社は現存し、石川県の重要な中世建造物のひとつである。
 天正5年(1577年)に能登畠山氏が滅ぶと、その後、上杉氏、織田氏、前田氏等の武将たちが能登国を支配したが、その間も気多社への崇敬は絶えることはなく、社領の安堵や寄進がしばしばなされた。特に前田利家やその後の加賀藩歴代藩主からの崇敬は厚く、社領350石の寄進をはじめ、前田家への祈願、祈祷、しばしば社殿の造営がなされた。
 本殿(大己貴神)・拝殿・神門・摂社白山神社(菊理姫神)(以上、国指定重要文化財)・神庫・随身門(ともに県指定文化財)がそれである。
 明治4年(1871年)に国幣中社、大正4年(1971年)には国幣大社に列せられ、現在も北陸道屈指の大社として知られている。

 神社の生命は、祭祀にある。後水尾天皇元和5年(1619年)の由来書によると、実に74度の神秘な祭祀を執行していた。しかし、明治の神仏分離政策や新しい神社制度の改変により、修正会、仏生会(花まつり)、放生会、法華八講などの仏事は執り行われなくなった。しかし、古儀を伝えた特殊神事の多くは、今も継承されており、日々、神職たちは神明に奉仕している。
​​ 氣多大社 / 由緒 ​ より引用

8世紀には既に北陸道各地に信仰圏を形成していたようです。能登は出雲との交流も盛んだったようで、日本海沿岸に大国主神を祀る神社が多いのは、こうした交流の痕跡とも言えるのかもしれません。蝦夷や渤海との折衝地ということで、朝廷からも重要視されていたようです。
渤海と言うと現在の朝鮮半島北部~中国東部までを収めた国ですが、日本海側の各地と盛んに交流していたようなんです。東北だと秋田城跡の古代式水洗トイレで豚由来の細菌が発見されたそうですが、これは豚食の文化を持つ渤海の使者が来ていたことを示しているそうです。人や物品の往来とともに疫病も持ち込まれ、それを鎮めるために氣多大社は広く信仰されたんでしょうね。



祭事についても見てみましょう。
氣多大社の中心的な祭事は平国祭・例大祭・鵜祭の3つがあります。
平国祭 は、氣多大社から七尾市の能登生国玉比古神社までの距離を御神幸するもので、数日間に渡る大きな祭事です。能登生国玉比古神社は氣多本宮とも称され、気多大社の祭神はここから分霊されたものだという説もあるようです。
公式サイトの説明も見てみましょう。こちらには例大祭の蛇の目神事に関する記述もあります。​
平国祭

3月18~23日

 石川県七尾市の所口町にある気多本宮へ渡御する大規模な神幸祭で、現在は3月18日から23日まで、羽咋・鹿島郡内の2市5町を回る。神輿の長い行列が早春の能登路を巡行し、一般には「おいで祭り」と呼ばれる。沿道には人々が集まり、神幸を迎える。「寒さも気多のおいでまで」といわれ、神が民衆の中においでになり一体となる能登の春祭りとして親しまれている。
 注目したいのは、往路の21日、中能登町金丸の宿那彦神像石神社に一泊し、翌日同社の少彦名命が神輿に同座して七尾の気多本宮に赴き、一泊して祭典を営んでから帰途につくことである。気多大社の大国主神が少彦名命とともに能登を平定した往時をしのぶ行事だといわれている。帰社した神輿は4月3日の例大祭まで拝殿に安置され、平国祭がそれまで連続していると伝える。
 例大祭には境内で蛇の目の的を神職が弓で射、槍で突き、太刀で刺す行事があり、祭神が邑知潟にすむ毒蛇を退治した状況を模したものだと説かれているが、古記録によれば、流鏑馬神事が歩射となったものであることが知られる。昭和63年からはその流鏑馬神事が450年ぶりに復活され、古式に従って執り行われた。平国祭は気多大社鎮祭の由来を伝える重儀で、祭祀の性質としては祈年祭に属する。まことに大規模な渡御祭として全国的にも注目される。

次に気になるのが 鵜祭
鵜祭

12月16日

 12月16日未明の神事である。これより前、遠く七尾市の鵜浦町で生け捕った1羽の鵜を、同地の鵜捕部3人が鵜籠に入れ、二泊三日の道中をして14日の夕方ごろ神社に到着し、鵜は餌止めとなる。
鵜は生け捕られた瞬間から神となり、鵜様と呼ばれ、道中では民衆が「鵜様を拝まずに新年は迎えられん」と手を合わす。 16日午前3時すぎ神社で祭典があり、祝詞奉上、撤饌がすむと、本殿内の灯火だけを残して消灯し、四辺は暗黒となる。鵜捕部が鵜籠を本殿前方に運び、神職との間に問答がかわされる。やがて、「鵜籠を静かにおろし、籠をとりすて、鵜をその所に放てと宣い給う」とおごそかにいわれると、鵜捕部は鵜籠の鵜を本殿に向かって放つ。鵜は本殿の灯火をしたって昇り、殿内の台にとまると取り押さえられ、海浜に運ばれて放たれる。鵜は闇空に飛びたち、行くえも知れず消え失せるのである。
 鵜祭の由来は明らかでない。神社の所伝によれば、祭神の大国主神が神代の昔、初めて七尾市鵜浦町の鹿渡島に来着したとき、同地の御門主比古神が鵜を捕らえて捧げた故事によるとか、あるいは同地の櫛八玉神が鵜に化して海中の魚を捕って献上した故事にもとづくと説かれている。神秘的な行事ではあるが、気多大社の年中祭祀上から大観すると、新嘗祭(11月23日)中の神事だったのである。平国祭から例大祭(4月3日)に連なる行事が、祈年祭(2月17日)の性格を有するのと対比して考えるべきであろう。なお当夜、鵜の神前への進み具合によって年の吉凶を占う習俗があった。
 加賀藩祖の前田利家は、鵜祭の行事を重んじ、天正13年(1585)に鵜捕部へ鵜田二反を寄進しているほどであるが、鵜祭の鵜が例年にまさって神前によく進んだことを聞き、「国家之吉事、不可過之候」(能登国にとり、これ以上縁起のよいことはない)と喜んだ書状が大社にある。
 この神事を脚色した能「鵜祭」があるが、加賀藩祖前田利家がひいきにしていた金春流でもっぱら演じられたことは注目すべきである。

なんとも面白い祭事じゃぁありませんか!鵜を捕る役が鵜捕部とされているのも古代の役職のようで面白いですよねぇ!
因みに氣多大社のおみくじには鵜様の肖像が描かれています。・・・今回は大吉でした。



鵜祭の準備などはこちらからご覧になれます。
・YouTube / 石川テレビ公式チャンネル / “鵜様”を未だ捕獲できず…16日の氣多大社『鵜祭』を前に主役不在 能登半島地震による地形変化が影響か (2024年12月12日)



それでは境内の様子を見ていきましょう。
先ほどから気になっていた拝殿後方の摂社ですが、左側は若宮神社。屋根からは草木が生い茂り、これぞ古社という風情が感じられます。祭神は事代主神。大国主神の子とされています。恵比寿神とも同一視されており、七福神の1柱とされることも。



この屋根の感じ・・・イイですよねぇ!



本殿右側には摂社 白山神社。本殿同様に美しい社殿です。祭神は菊理媛神。白山を神体山とする白山信仰の社で、白山比咩神社を総本社としています。



若宮神社・氣多大社本殿・白山神社が並び立つ様はなんとも壮観!この地において重要な神格を集め祀ったんでしょうねぇ!



白山神社の隣には宝形造の社殿があります。これは神庫、かつては宝物類が収められていたんではないでしょうか。石川県指定文化財になっています。



勇壮な社殿を拝みつつ、境内の右の方に足を運ぶと、森めがけて鳥居が建っていました。これは何かの遥拝所かと近づいてみると、入らずの森と書かれています。・・・これはッ、原始祭祀の姿そのままではないですか!



どうやら入らずの森は氣多大社の奥宮となっているみたいです。そしてそこに祀られているのは、氣多大社祭神:大国主神の親神:素戔嗚神・奇稲田姫神の2柱と激アツの構成・・・!



鳥居からのぞむ入らずの森。まさに原生林といった感じで、”人の手が入っていない原初の森”の姿そのままに、古来より神職のみが足を踏み入れることを許されています。
因みに末社の楊田神社は、特に祠などは見当たりませんでした。祭神は加具土神。



入らずの森の鳥居から右に進むと、末社の太玉神社へと続いています。



厳かな切妻の社に祀られているのは、祭祀の神格である太玉命。岩戸隠れ神話では、春日大社に祀られる天児屋根命と共に太占(ふとまに・骨を焼き吉凶を占う)を行い、方策が正しいかを判断したといいます。忌部氏の祖神ともされているようです。



太玉神社を後にして随神門の方へと進んでいると、沢のすぐ近くに末社発見。



鳥居の両脇から社殿まで、ずらりと並ぶ合格祈願の絵馬。そう、これは菅原道真公を祀った菅原神社。学問の神として、ひろく崇敬を集めています。
なんといっても、僕自身一番気に入っているのが天満宮。見つけるといつも柏手を打っています。



もう1社末社があるみたいなんですが、そちらは見つけられませんでした。奥津島神社、祭神は宗像三女神の市杵島姫命。
この他に境外末社2社があるみたいですが、時間の関係上、今回参拝は見送りました。

斜めから。
いかがでしたでしょうか、能登国一之宮・国幣大社 氣多大社でした。今のままでも十分に荘厳なんですが、今屋根を茅葺に吹き替える計画が進んでいるみたいです。そんなことをしちゃった日にゃぁ、垂涎ものの美社殿になること間違いなし!いつになるかは分かりませんが、その姿も見てみたいですねぇ。
北陸の果てに鎮座する鎮国の大やしろ、しかと目に焼き付けました。



今回貰った御朱印です。



御朱印と共にいただける”氣”と刻まれた縁起物。



公式サイトへのリンクです。
・氣多大社

以上です。

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御門






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最終更新日  2026年03月01日 20時20分45秒
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