全104件 (104件中 1-50件目)
ショット shot 1.一つの場面を連続的に撮影すること。または その映像、カット 2.ボールを打つこと 3.射撃、発射、狙撃する。カット Cut 1.切ること、削除 2.髪を切り整えること 3.裁断 4.小型の絵や図案 5.撮影の一時中断、単位画面。 先日テレビでアメリカのアクションドラマを見ていて、「何だこれは?」と驚きました。そのワンショットが数秒しかなく、それを編集でつないだだけです。 会話の一つのセリフが一つのショットになっていて、それをつないでいる。 普通なら、カメラが回り始めて、俳優が演技をする。いくつかのセリフのやりとりがあって、監督が「カット」の指示を出すまでカメラが回り続けるものです。強調などの、必要な演出におけるクロースアップやバストショットを挿入したりして画面をつないでゆくものでしょう。 それなのに、一人の俳優が一つのセリフを言うたびにカット。それを受ける相手のセリフが別のショットで撮られていて、これではセリフを言い間違えても、とちっても、そこだけを撮りなおして編集で入れ替えれば済む、お手軽な撮影法ではないか。 かつては、セリフがいくつも連続する数十秒数分間の長いショットが撮影されていたはずです。長いワンショット撮影では、おしまいの方になって誰かがセリフを間違えたら、もう一度初めからやりなおしになった。一人がとちったら、他の俳優に迷惑をかけることになったのですが、しかし、それでこそ、俳優も演技のし甲斐があったのだろうし、監督の演出も、監督の個性もそこに発揮できていたのではなかったか。 それなのに、現代らしいというか、いとも簡単にお手軽に、俳優の一つのセリフが一つのショットで撮影されて、俳優が間違えても、誰にも迷惑をかけることなく、そこだけを撮りなおして入れ替えれば済んでしまう。しかし、こんなことをやっていたら、テレビドラマも、映画もダメになってしまうのではないかとあきれ返ってしまいました。 画像はヒッチコック監督の「ロープ」(1948)です。本編80分くらいのサスペンス映画で、全編ワンシーン、ワンショットで撮影されたとされるものです。実際には10分間くらいのショットが観客にはわからないようにつなぎ合わされているのですが、それでもワンショットが10分間もある。その間、俳優はカメラの前で演技を続け、セリフのやりとりを続けています。ちょっと極端な例かもしれないけれど、少しは見習うべきではないかい。 昔のようなフィルム撮影ではなくデジタル撮影になった現代ですが、機器の発達で10分間以上の長い撮影ができるはずなのに、そうではなく、これからは逆にお手軽な、簡単に済ませようとする撮影が一般的になってゆくのだろうか。
2023年12月06日
コメント(0)
書くのが遅くなりましたが、アメリカ映画の俳優リチャード・ラウンドトゥリーさんが10月24日にお亡くなりになったのを先頃のニュースで知りました。 Richard Roundtree 1942年7月9日 ~2023年10月24日 ニューヨーク州出身のアフリカ系アメリカ人。すい臓がんだそうで、81歳でした。 現在では知らない人が多いかと思いますが、映画「黒いジャガー」(1971)のヒットで一躍、有名になりました。 犯罪多発都市ニューヨークの私立探偵ジョン・シャフトを颯爽と演じて、黒人の主人公が活躍する「ブラックパワー・ムービー」のはしりとなった作品です。 第1作が、アイザック・ヘイズのテーマ曲の格好良さも影響したのか、大ヒット。第2作「黒いジャガー シャフト旋風」(72)第3作「黒いジャガー アフリカ作戦」(73)と、続編が作られて、2000年にはサミュエル・L・ジャクソン主演のリメイク版「シャフト」もあります。 いま、思い返してみると、リチャード・ラウンドトゥリーさんが活躍した1970年(それ以前の68年頃)から75年頃のアメリカ映画には、刑事や私立探偵ものだけでなく、巨大な犯罪組織に挑戦したり、ヤバイことに手を出したために組織に狙われる主人公のアクション映画がいくつもありましたね。 現在のアメリカ映画には、そういうのが一つもないのは、これは、その時代の流行というか、時代の特徴を表した物だったのでしょうか。
2023年11月01日
コメント(0)
漫画家の松本零士さんの訃報をテレビのニュースで知りました。 急性心不全で13日にお亡くなりになったそうです。85歳とのこと。 ニュースを見ていて思ったのですが、「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」が代表作にされるけれど、そのようなテレビのアニメとして話題になった作品ではなくて、漫画家だから、やはりマンガ作品を代表作として紹介してほしいなあ、と。 私は小学生の頃に、マンガ月刊誌の「日の丸」と「ぼくら」を愛読していました。 その頃に連載していた、「電光オズマ」と「ララミー牧場」。それと「燃えろ南十字星」が大好きでした。当時は松本零士名義ではなくて、本名の松本あきら(晟)で発表していましたね。「電光オズマ」は講談社の「ぼくら」、「ララミー牧場」と「燃えろ南十字星」は集英社の「日の丸」(のちに「少年ブック」に吸収された)での連載で、松本零士さんは1938年の生まれだから、この時はまだ25歳か26歳で、ずいぶん若かったのですね。「燃えろ南十字星」はゼロ戦パイロットが主人公の戦記マンガです。のちに「ビッグコミックオリジナル」で不定期掲載された「ザ・コクピット」の原型?となるような作品でした。当時は戦記ブームの末期にあたる時期だと思うのですが、松本さんが描く戦闘機や兵器は、他の漫画家の作品である「紫電改のタカ」や「大空のちかい」「0戦はやと」などとは異なるものがあって、メカ好きな子供だった私はとても気にいっていました。メカに対するこだわりのようなものを感じました。その感じは小沢さとるさんの作品と共通するマニアックな雰囲気だったのだろうか。 手塚治虫さん、横山光輝さん、石森章太郎さん、水木しげるさん、桑田次郎さん、一峰大二さん、白土三平さん、望月三起也さん、さいとう・たかをさん、藤子不二雄Aさん・・・・ 私がマンガを夢中になって読んでいた頃の、マンガ作家さんがみんなお亡くなりになってしまった。 夢のあるマンガがあったことで、夢のある楽しい少年時代を送ることができました。どうもありがとうございました。ご冥福をお祈り申し上げます。
2023年02月20日
コメント(4)
今朝の新聞記事で知ったのですが、アメリカのポピュラー音楽 作曲家バート・バカラックさんが2月8日にお亡くなりになりました。ロサンゼルスの自宅で自然死だそうです。94歳 バート・バカラック Burt Bacharach 1928年 5月12日 - 2023年 2月8日 個人的な思い出ですが、私が高校生時の学友に洋楽好きなのがいてレコード盤をたくさん持っていました。彼は外国のポピュラー音楽は好きだけれども、映画はそれほど関心がない。私は映画が好きだが洋楽には知識がない。そんな二人だったけれど、映画の音楽としては共通するものがあり、気が合って話がはずみました。 映画「卒業」のサイモン&ガーファンクル、「イージー・ライダー」のステッペンウルフの曲。そして「明日に向って撃て!」でB・J・トーマスが歌って大ヒットしたバート・バカラックの「雨にぬれても」。そんな映画音楽の話や、流行の末期を向かえていたグループサウンズの話題で盛り上がったものです。ザ・ゴールデン・カップスの「長い髪の少女」が大好きだった、彼との懐かしい思い出です。 バート・バカラックさんのお顔を写真でご存じの方も多いと思いますが、映画俳優のようにハンサムな顔立ちです。1960年頃から、「雨にぬれても」(69年)でアカデミー主題歌賞を受賞した1970年頃にかけて、作詞家のハル・デヴィッドとコンビを組んで数々のヒット曲を発表。 2人のコンビによる、カーペンターズの代表的な「遥かなる影」は私の好きな曲です。1967年の映画「カジノ・ロワイヤル」では「恋の面影」をダスティ・スプリングフィールドさんが歌って、これもとても素敵な曲です。 バート・バカラックさんの訃報を知って、昔の学友を思い出しました。
2023年02月11日
コメント(0)
先日、「女優ベスト150 わが青春のアイドル」(文春文庫)を読んでいて思ったのですが、「女優」の「優」の字にはどのような意味があるのだろう、なぜ「優」なのだろう?と。「俳優」「男優」「女優」「名優」「優秀」「優良」「優等」「優越」「優勢」「優劣」「優勝」「優先」「優しい」 辞典(新選漢和辞典 小学館)で調べると、「優」の項では、 意味として、1. ゆたか、多い、厚い、広い。2. のびやか、ゆるやか。 3. やさしい、しとやか。 4. いうがままになる。 5. すぐれる。6. たわむれる、おどけ。 7. わざおぎ(わざをぎ)役者、芸人。 映画俳優とか女優とかの場合は、7番目の「わざおぎ。役者、芸人」が当たっているようです。「俳優」の漢字は「俳」も「優」も部首は人偏です。にんべんは人を意味し、「憂」は「ゆるやかでやわらぐ」という意味だそうな。優は人の心がゆったりすること。また、しなやかな動作をする役者を表すとともに、人よりすぐれる意味になる。「俳優」と書いて「わざおぎ(わざをぎ)と読むそうですが、古事記や日本書紀にみえる古語で「いろいろのおもしろおかしい事を舞ったり歌ったりして、神人の心をやわらげ楽しませる人のこと。天岩戸の前で舞い歌った人たちのことだろうか。「俳優」の「俳」は、1. わざおぎ、芸人。 2. おどけ、たわむれ。 3. さまよう、うろつく。 舞台で演技をする役者たちをいい、貴族の宴会で芸をした者のこと。 ふだんは、こんなこと考えないのですがね。
2022年11月26日
コメント(2)
昨日の夕方6時半ごろだったかに、テレビを見ていたら古谷一行さんがお亡くなりになったとのテロップが出ました。 意外な人の訃報に驚いたというか、思いもしない人が亡くなったので驚きました。まだ78歳だそうです。 サスペンスドラマを始め、たくさんのテレビドラマに出演なさいましたが、私にとっては、やはり「横溝正史シリーズ」です。 質の高いテレビドラマであり、映画の石坂浩二さんに負けていない、金田一耕助を演じて、印象に強く残っています。今でも時々、録画したのを見ているくらいです。 古谷一行さんにとっては、「横溝正史シリーズ」は降ってわいた話だったそうです。1977年の当時、古谷さんは「新選組始末記」の撮影でいそがしかった時で、そこへ金田一耕助をやらないか、との話が持ち込まれたと。古谷さんは「新選組始末記」のプロデューサーに相談したら、「ぜひ、やりなさい」と快諾してくれたそうです。この時にプロデューサーが「ダメだ」と云っていたら、金田一耕助の役は生まれなかった。「横溝正史シリーズ」はとても豪華に作られた作品です。映画で活躍なさった監督や撮影、美術スタッフが参加して、出演俳優も一流で良かったです。 1977年、「新選組始末記」で古谷さんは土方歳三を演じ、沖田総司は草刈正雄さんでした。これも良くできた時代劇だったと思うのですが、当時はスタッフも俳優も潤沢な時代だったのでしょうか。 角川文庫の横溝正史ブームにうまく乗ったことで、「横溝正史シリーズ」は相乗効果での大ヒットとなったようですが、エンディングで流れる茶木みやこさんのテーマ曲「幻の人」が番組の締めくくりとして思い出深いです。
2022年09月03日
コメント(0)
今日は8月15日。「終戦記念日」「終戦の日」。「終戦記念日」という言い方に抵抗を感じるので「終戦の日」が良いかと思います。 新聞などを見ると、この季節には「戦争体験を語りつぐ」との見出しを目にします。戦争体験と戦時下体験。高齢化が進むなか、体験者は年々減少しています。 うちの父親は20年以上前に亡くなりましたが、ついに戦争体験を語ることがありませんでした。 満州で終戦を迎え、ロシアにシベリアへ連れていかれて強制労働をさせられた。日本に帰ってこられたのは昭和23年の秋だったらしいのですが、戦地でのことやシベリア抑留の体験を一言も語らなかった。 子供の私が、戦争の話を聞くと、すぐにそらしてしまった。何かの折につぶやいた「軍靴のザクザクいう音が、耳の奥に残って忘れられない」と、これだけです。 思い出したくない、忘れてしまいたい、本当に戦争で地獄のような悲惨な体験をした人はそうなのではないか。戦地での体験など、思い出したくない。それを人に語るなどとんでもない。 以前にも書いたかと思いますが、子供たちに「戦争の悲惨さを教える平和教育」とは何なのか? 戦争体験とは、日本だけのことでなく、戦勝国にも戦争体験者はいる。戦争に負けて悲惨な目に遭っただけが戦争体験ではないだろう。戦勝国と戦敗国では戦争の意識も異なるだろう。 南の島に送られて守備についたが、アメリカ軍から相手にされず、アメリカの飛行機は頭の上を飛んで行くだけで1発の爆弾も落とされなかった。毎日毎日、畑を耕していたという兵隊さんの話を聞いたことがあります。100人いれば、100通りの体験があるのだろう。 そんなことよりも、なぜ日本は戦争をしたのか? 戦争以外の選択肢はなかったのか? 対米英戦を回避できなかったのか? なぜ勝てる見込みがない戦争を、空襲されて焼け野原になり、原爆を落とされるまで、ずるずると続けてしまったのか? なぜもっと早くに降伏しなかったのか? そのようなことを学校の授業で、先生が生徒といっしょに考える授業が必要なのではないだろうか。「戦争は悲惨だからやってはいけない」「平和が何より大切」を唱えているだけではだめで、「話し合いで解決を」というのは常套句であり、そう言っておけば何も考えずに済む逃げ言葉ではないだろうか。
2022年08月15日
コメント(0)
2月20日に西郷輝彦さんが前立腺がんのために、都内の病院でお亡くなりになったそうです。21日の朝刊に大きく記事が載っていましたが、75歳とのことで、団塊の世代ですね。 歌手デビューは1964年2月の「君だけを」で、舟木一夫さん、橋幸夫さん(これまで三田明さんだと思っていた)とともに「御三家」と称されて絶大な人気がありました。 西郷さんのヒット曲はたくさんありますが、私がいちばん好きなのは「兄妹の星」で、水沢有美さんとのデュエット曲です。シングル盤が発売されたのは1966年10月です。この同年7月の「星のフラメンコ」が大ヒットした陰にかくれた感じで、こちらはあまり話題にならないようです。「兄妹の星」の水沢有美さんの歌声が大好きで、「母さん恋しと泣いた夜を~♪」のところで、泣けてしまいます(最近は涙もろくなってしまって、ちょっとしたことで感動して涙がでます)。「歌謡曲」という言い方がされなくなった現在ですが、なんでか「演歌」といわれていっしょくたにされているような。西郷輝彦さんが活躍していた昭和の時代は、こまどり姉妹もザ・ピーナッツも、島倉千代子さんも美空ひばりさんも、坂本九さんや守屋浩さん、平尾昌晃さんも、弘田三枝子さんも、舟木さんも橋さんも、吉永小百合さんも、すべて「歌謡曲」でした。テレビでも歌謡曲の番組があったし、ラジオでもよく聴いていました。いまは、「青春歌謡曲」などは死語ですが、つまらない時代になったものだと思います。昭和の時代は良かったと思うのは、たんなる懐古的な感傷だけではないのではないかと。
2022年02月22日
コメント(0)
昨晩のTVニュースで漫画家 水島新司さんがお亡くなりになったのを知りました。今朝の新聞にも大きな記事が載っています。82歳とのことです。ご冥福をお祈りいたします 私が水島新司さんの漫画に夢中になったのは40年以上前で、最初は「男どアホウ甲子園」だったかと。「週刊少年サンデー」での連載ではなく、秋田書店のサンデーコミックスになった時で、新刊が出るたびに買って読みました。 高校野球から東大の野球部へと、阪神タイガースへと進む主人公 藤村甲子園の活躍に胸躍らせました。 その後は、やはり「ドカベン」かなと思いますが、週刊誌を毎週読むより、コミックスになるのを待って、まとめて読むほうが好みなので、これも秋田のチャンピオンコミックスを読みました。 次はやはりというか、何といっても講談社コミックスで読んだ「野球狂の詩」が私には決定的な作品になっています。 東京メッツの岩田鉄五郎と、五利監督。火浦健や国立玉一郎などのチームメンバー。そして水原勇気の登場でとどめをさされました。ソフトボールから野球に転身してプロ野球球団に入団するという、女子野球のパイオニア的な存在かと思います。新聞記事にも書かれていますが、水原勇気に憧れて野球を始める少女が増えるなど影響を与えた、と。 水島新司さんのたくさんある作品では、「野球狂の詩」がいちばん好きです。水原勇気のドリームボール。その投球フォームが最高に美しい。野球をよくご存じの水島新司さんでしか描けないのではないでしょうか。 水島新司さんが野球漫画という漫画のジャンルを確立させたと私は思っています。それ以前にも野球漫画はあったけれど、例えば、「スポーツマン金太郎」(寺田ヒロオ)「ちかいの魔球」(ちばてつや)「黒い秘密兵器」(一峰大二)「巨人の星」(川崎のぼる)など。それらは魔球を会得するための特訓だとか、汗と血との根性だとかがテーマであって、水島新司さんは、野球というスポーツの対戦相手チームとの攻防や駆け引きを描き、試合そのものの面白さを描きました。漫画の紙上で野球の試合を描きだしました。「ドカベン」がその代表的なものかと。「ドカベン」はTVアニメ化されましたが、作品の質が低く、ファンには満足のできるものではありませんでした。アニメでいえば、やはり、これも「野球狂の詩」が第一等のものかと思います。選手たちの動きもうまく描かれているし、堀江美都子さんが歌う主題歌「勇気のテーマ」(作詞 水島新司)がとても良かったです。 根性だとか特訓だとか、そんなことよりも野球への愛と努力。そして野球の面白さを水島新司さんの作品で教えてもらいました。
2022年01月18日
コメント(0)
女子ゴルフのスタンレー・レディース(10月10日最終日)で渋野日向子さんが優勝しました。ずっと不振がつづいていましたが、4人でのプレーオフを制しての復活優勝です。 地上波テレビではなぜか中継放送がなくて、その瞬間を見ることができなかったけれど、しぶこさんが泣くのを見たらもらい泣きしたことでしょう。 おめでとうございます。本当によかった、よかったね。(なんでテレビ中継がないのか? 優勝の瞬間をリアルタイムで見たかったです)
2021年10月11日
コメント(0)
今朝の新聞に劇画家さいとう・たかをさんの訃報記事が大きく載っていました。9月24日にすい臓がんでお亡くなりになったそうです。84歳。 さいとう・たかをさんは私の少年時代、青年時代に愛読した、最も好きな作家のひとりです。といっても、1975年あたりまでの作品に限られるのですが。 小学生の頃に兄が読んでいた貸本劇画「影」や「刑事」で、さいとうさんの名前を知り、その頃に少年月刊誌「日の丸」(集英社)に載っていた「なけなけ嵐丸」を読んだ記憶があります。 その後は、やはり「007シリーズ」になるわけで、「ボーイズライフ」(小学館)の「死ぬのは奴らだ」「サンダーボール作戦」「女王陛下の007号」「黄金の銃を持つ男」。「冒険王」に連載の「0011ナポレオン・ソロ」。週刊少年マガジンの「刃ノ介」と「無用ノ介」 私が中学3年から高校1年生になった年に「ビッグコミック」が月刊誌として創刊され、その時に大人の漫画として「探し屋はげ鷹登場!!」を胸ときめかせて読んだ甘酸っぱい記憶。 新聞記事でも代表作として取り上げられている「ゴルゴ13」は、私にはそれほどの思い入れはなく、読んだのは1980年くらいまでで、作画スタッフが変わってしまったことで好みの画風ではなくなり、その後は関心がなくなりました。 池波正太郎さんの代表作である「鬼平犯科帳」「仕掛人 藤枝梅安」「剣客商売」もさいとうさんが劇画化していますが、これらも私が好きなさいとう・たかをではなくなっていて、食指がわきません。「鬼平犯科帳」を読んだときに、長官の鬼の平蔵だけが鎖帷子を着て、部下の同心たちが誰も着ていない。自分だけが安全ならそれで良いのか!と反感を持ってしまい、それ以来「鬼平」を読むことがなくなりました。 そんなわけで、「怪盗シュガー」も面白く読みましたが、私が最も好きだと思える作品は「影狩り」かな?と思います。連載が私の好きな画風だった時期でもあり、スタッフに武本サブローさんや甲良幹二郎さんがいた頃です。 十兵衛、月光、日光の3人の浪人者が「影狩り」と称して幕府の忍者(影)と戦う話。主人公が3人というのが面白く、それぞれのキャラクターがよくできている。映画化された時に、月光を演じた成田三樹夫さんがカッコ良かったですね。 さいとう・たかをさんの作品は、私の人生のなかで、大きな影響を与えてくれました。 ご冥福をお祈りいたします。「ゴルゴ13」が開始された時、構想では全10回くらいで終わる予定だったそうです(ビッグコミック創刊物語 祥伝社黄金文庫)。それが50年以上も連載されることになった。
2021年09月30日
コメント(0)
今朝の新聞記事で知ったのですが、フランス映画の大スターだったジャン・ポール・ベルモンドさんが今月6日にパリの自宅でお亡くなりになりました。88歳。死因は明らかにされていないそうです。 かつての、1960年代から70年代頃の外国映画ファンならば、誰もが知っていた有名な俳優です。フランス映画ではアラン・ドロンさんと双璧の人気を誇りました。 私が映画を好んで見るようになったのが1968年からで、その最初に見たのがおそらく「オー!」です。ロベール・アンリコ監督の犯罪映画で、ジョアンナ・シムカスとの共演。つづいて「大頭脳」(69)「暗くなるまでこの恋を」(69)「ボルサリーノ」(70)「華麗なる大泥棒」(71)「ラ・スクムーン」(72)「相続人」(73)など、新作が封切られると必ずといって良いほど見に行きました。 1968年以前の作品、「勝手にしやがれ」(59)「雨のしのび逢い」(60)「ダンケルク」(64)「いぬ」(63)「気狂いピエロ」(65)などはテレビ洋画劇場やDVDソフトでの鑑賞です。 私が外国映画のファンになったのはアメリカ映画よりフランスやイタリア映画を見て、その面白さを知ったのがきっかけだったのではないか?と思わせるのが、当時の大スター ジャン・ポール・ベルモンドさんとアラン・ドロンさんの存在です。 ベルモンドさんはスタントマンを使わないで自分でアクションシーンをこなしていましたね。「華麗なる大泥棒」と「恐怖に襲われた街」がアクションが目立つ代表作かと。 現在はアメリカ映画もフランス映画もイタリア映画も、当時の隆盛が信じられないほど凋落してしまった。ベルモンドさんやドロンさんのような存在感のある、魅力ある映画スターも皆無といっていいくらいです。 映画鑑賞は過去の娯楽になってしまったのでしょうか?
2021年09月08日
コメント(0)
漫画家の一峰大二(かずみね・だいじ)さんが先月27日にお亡くなりになったのを、今朝の新聞記事で知りました。 脳出血と大葉性肺炎による死去とのことです。84歳。 私が小学校低学年の頃に夢中になって読んでいて、大好きだったのが一峰大二さんの漫画でした。 兄が「少年」(光文社。毎月5日発売)を購読していて、私は小学校高学年向けの「少年」よりも対象年齢が低い「ぼくら」(講談社。毎月3日発売。130円くらい?)を毎月買ってもらっていた。 当時の「ぼくら」に載っていたのが一峰大二さんの「七色仮面」(原作 川内康範)と、「ナショナルキッド」です。当時からギャグ漫画はあまり好きではなく、断然ストーリー漫画の方が好みでした。「ぼくら」には武内つなよしさんの「新・少年ジェット」と「コンドルキング」。松本あきら(松本零士)さんの「電光オズマ」などもあって好きだったけれど、でもやはり一峰大二さんの「七色仮面」と「ナショナルキッド」が心に強く残っています。当時小学2年、3年生だった頃の私です。私の人格形成に、その頃に読んだ漫画が大きく影響しているのではないでしょうか。 子供だった私に夢を与えてくださった、一峰大二さんのご冥福をお祈りいたします。
2020年12月16日
コメント(0)
英国の映画俳優ショーン・コネリーさんがお亡くなりになったのを今朝の新聞で知りました。 英BBC放送が10月31日に報じたそうで、滞在先のバハマで家族に見守られて亡くなったそうです(90歳)。死亡日時や死因は伝えていませんが、息子さんによると「しばらくの間、具合が悪かった」とのこと。 コネリーさん本人はジェームズ・ボンドと呼ばれるのを嫌っていたそうですが、私たちにとっては、やはり何といっても「英国海外秘密情報部員007号ジェイムズ・ボンド」ではないでしょうか。ちなみに「007」はダブルオーセブンなどと気取った読み方はせず、「ゼロゼロセブン」です。 映画「ゴールドフィンガー」が大ヒットした1964年から65年年頃は当然のこと、「007は二度死ぬ」が日本でロケ撮影された1967年当時もゼロゼロセブンが正式名だったはずです。映画の中で丹波哲郎さんも「ゼロゼロ」と云ってますね。さらにボンドが属する機関も「MI-6」なんかではなく「英国海外秘密情報部」でした。(「007」がダブルオーセブンになるのは1973年の第8作「死ぬのは奴らだ」から。それ以前は「ゼロゼロセブン」が正式タイトルです) とにもかくにも1964年に公開された映画「ゴールドフィンガー」が巻き起こした世界的な「007ブーム」はすさまじいものだった。ジェームズ・ボンド、私は早川書房の原作小説にならってジェイムズと云っていますが、その役を演じたショーン・コネリーさんの名前を知らない日本人はいないといっても過言ではないでしょう。 ショーン・コネリーさんは2003年の「リーグ・オブ・レジェンド 時空を超えた戦い」を最後に映画出演を引退していました。 出演作はたくさんあるけれど、私にとって印象に残っているのは、「SOS北極 赤いテント」(1969)「オリエント急行殺人事件」(1974)「風とライオン」(1975)「遠すぎた橋」(1977)です。それと珍しく悪役を演じた「アベンジャーズ」(1998)。 この中では「風とライオン」が最高傑作。未見の方に自信を持ってお薦めします。 007映画以前の「地獄特急」(1959)は数年前までワンコインDVDが売られていたが、現在は店頭で見かけなくなった。画質も良かったし、砂利ダンプ運転手がスピードを競うアクション映画の大傑作なのに、廃盤になったとしたら惜しいことです。コネリーさんの若々しい?姿が見られるのに。 007号のイメージとして、また「風とライオン」の族長ライズリの勇姿が忘れられません。ショーン・コネリーさんのご冥福をお祈りいたします。
2020年11月01日
コメント(0)
今朝の新聞記事で知ったのですが、英国女優のオナー・ブラックマンさんが今月5日にお亡くなりになりました。 94歳で、安らかな自然死だったそうです。 オナー・ブラックマン Honor Blackman 1925年8月22日 生まれ ロンドン出身 映画「007シリーズ」の代表的作品「ゴールドフィンガー」(64)のボンドガール プッシー・ガロア(原作小説はギャロアと表記)を演じて一躍、その名を世界的に知られることになった。ジェイムズ・ボンドのショーン・コネリーより年長ですが、当時はコネリーが老け顔だったので、年齢はまったく感じませんでしたね。 007映画のDVDに収録されているメイキングやインタビュー映像で、よくお顔を拝見しましたが、お歳をめしてもその美貌はかわらず、お元気にお話ししていました。 私にとっての007映画は「女王陛下の007」(69)が初でしたが、その次に見たのが「ゴールドフィンガー」のリバイバル上映だったので、その印象は大きなものがあります。「007映画」を代表する不動のボンドガールであり、007映画シリーズではピカイチの女優さんでした。「SOSタイタニック忘れえぬ夜」(58)「アルゴ探検隊の大冒険」(63)「シャラコ」(68)「刑事コロンボ ロンドンの傘」(72) ご冥福をお祈りいたします。
2020年04月08日
コメント(0)
アメリカ映画の大スターだったカーク・ダグラスさんが5日にお亡くなりになりました。大正5年(1916)12月5日生まれなので103歳でした。「氷の微笑」や「コ-ラスライン」の俳優マイケル・ダグラスさん(お父さんにそっくり)が1944年生まれの、今では75歳だから、そのお父さんカーク・ダグラスさんの103歳という年齢はびっくりするくらいのご長命でした。何しろかつて共演したスターたちはとっくにお亡くなりになっています。 代表作としてはあのオランダの大画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホを熱演した「炎の人ゴッホ」(56)と西部劇「OK牧場の決斗」(57)でしょうか。 私が外国映画を見るようになった1968年頃にはまだまだ現役でご活躍でした。戦争映画「パリは燃えているか」(66)ではパットン将軍の役(キャラクターイメージは異なるけれど)、それと「テレマークの要塞」(65)。 ジョン・ウェインと共演した「戦う幌馬車」(67)も痛快な娯楽西部劇でした。 マルレーヌ・ジョベールと共演の「雨のパスポート」(71)と、イタリアのジュリアーノ・ジェンマとの「ザ・ビッグマン」(72)。それと比較的あたらしい(新しくないって)「フューリー」(78)は超能力少女の悲劇を描いた哀しい物語でした。 出演作品はそれこそたくさんあって、かつてのテレビ洋画劇場でも、現在のようなDVDソフトなんかない時代でしたが、いろんな映画を見ることができた。「探偵物語」(51)はエレノア・パーカーさんと共演した刑事ドラマ。ジョン・スタージェス監督の「ガンヒルの決斗」(59)は西部劇の傑作です。 前々と前が三つくらい付く時代のアメリカ映画の大スターでした。ご冥福をお祈りいたします。 最近は訃報記事ばかりです。
2020年02月07日
コメント(0)
俳優の宍戸錠さんの訃報記事が今朝の新聞に大きく載っていました。 宍戸さんは昭和8年、大阪生まれで、86歳とのこと。東京のご自宅でお亡くなりになったそうです。 昭和29年に日活ニューフェイスの第一期生として俳優になり、翌年に映画「警察日記」の若い巡査役でデビュー。 当初は二枚目俳優として売り出したそうですが、イメージを変えるために頬を膨らませる手術を受けたのちは、日活のアクション映画で活躍しました。膨らんだ頬をトレードマークとし、ニヤッと不敵な笑みを浮かべるのがカッコいい、個性のある悪役として観客の人気を得ました。 小林旭さんとの「渡り鳥」シリーズ、赤木圭一郎さんとの「拳銃無頼帖」シリーズなど、敵に雇われた殺し屋でありながらも主人公に味方する。 よく云われる「エースのジョー」はニックネームで、映画では殺し屋ジョージとか、コルトの銀とか、ハジキの政とかの役名でしたね。 日活アクション映画の主役である小林旭さんや赤木圭一郎さんの人気を陰でささえた悪役の金子信雄さんや藤村有弘さんとともに、大きな貢献を残した宍戸錠さんの存在です。 それと、かつてNHK総合で放送されたテレビ映画「警部マクロード」のデニス・ウィーバーの声を吹替えたのも宍戸錠さんでした。クリフォード部長の加藤武さんとのやり取りも愉快で可笑しかったです。 昭和を代表するカッコいい男でした。ご冥福をお祈りいたします。
2020年01月22日
コメント(0)
俳優の梅宮辰夫さんが12月12日の朝にお亡くなりになったニュースをネットで知り、今朝13日の新聞にも大きく記事が載っていました。享年81、慢性腎不全とのことです。ご冥福をお祈りいたします。 梅宮さんは、大学在学中の1958年に東映ニューフェイス(第5期)としてデビュー。東映映画を鶴田浩二さんや高倉健さん、菅原文太さん、松方弘樹さんとともに支えた俳優でした。 記事に代表作として載っている「仁義なき戦い」は私には縁がなく、知っているのは「不良番長」のシリーズです。藤純子さんの任侠映画が好きだったので、その時に同時上映されていたのが「不良番長」だった。このような作品は現在ではあまり作られることがない、当時は番長や女番長がちょっとしたブームだったのだろうか。 私は、映画では梅宮さんの作品はあまり見ていなくて、知っているのはテレビドラマです。「はぐれ刑事純情派」の署長の役。「特命係長 只野仁」の会長の役。やはりこの二つの役が印象に強く残っています。 ずっと昔の、テレビのヒーロー物「遊星王子」ですが、いままでこれに梅宮さんが主役を演じていたとばかり思っていた。私の勘違いで、梅宮さんのは劇場版の方だったと知らされました。「白馬童子」の山城新伍さんと「七色仮面」の千葉真一さんとともに、梅宮さんの「遊星王子」だとばかり。テレビ版はちがう人だったとは、記憶はいいかげんなものです。東芝の提供で、「遠い星から来た人は、正義の味方~♪」と、今でも主題歌を歌えるのに。
2019年12月13日
コメント(0)
フランスの映画音楽の作曲家ミシェル・ルグランさんがお亡くなりになったニュースを新聞で読みました。1月26日にパリの自宅で死去、86歳。死因は明らかにされていないとのことです。 記事には「シェルブールの雨傘」(63)が代表作として取り上げられていますが、私の年代の作品ではなく、私の場合ではやはり「華麗なる賭け」(68)と「おもいでの夏」(70)が忘れられない記憶になっています。 大富豪が趣味で?犯罪をおかして、当局の追及をかわし、まんまと逃亡に成功する「華麗なる賭け」。スティーブ・マックイーンとフェイ・ダナウェイさんが共演したおしゃれな犯罪映画の秀作です。それと「おもいでの夏」は多感な高校生が年上の美しい人妻にあこがれるノスタルジックな青春映画。「華麗なる賭け」の主題歌「風のささやき」はノエル・ハリソンが歌って、挿入歌として、またはインストルメンタル曲として、作中で流れてメロディが心に残ります。「おもいでの夏」の流麗な主題曲は哀調があり、それがノスタルジックでもあり、とても素敵な曲で、この映画を見た当時、サウンドトラック盤レコードを何度も聴いたものです。 かつては、映画音楽は映画と切り離して聴いても名曲がいくつもありました。 このような話題になるといつも同じことを云ってしまいますが、現代の映画にはこのような、心に永く残る映画音楽がないのはなぜだろう? ミシェル・ルグランさんの曲では「栄光のル・マン」(71)もそうですね。これもスティーブ・マックイーン主演のカーレース映画の傑作。北国シネラマ会館での鑑賞。サウンドトラックのLPレコードを持っていました。このレコード盤には映画の効果音も入っていてお気に入りでした。
2019年01月27日
コメント(0)
今朝の新聞で知ったのですが、フランスの映画音楽家フランシス・レイさんがお亡くなりになったそうです。 フランシス・レイ Francis Lai 1932年4月26日フランスのニース生まれ 86歳 フランスのメディアによると、7日までに死去。亡くなった日や死因は明らかにされていないとのことです。 外国映画の主題曲が注目されたり話題になることが全くと言っていいほどになくなった昨今ですが、 往年の外国映画ファンならフランシス・レイさんを知らない人はいないでしょう。「男と女」(66)「白い恋人たち」(68)「個人教授」(68)「雨の訪問者」(70)「さらば夏の日」(70)「ある愛の詩」(70)「続エマニエル夫人」(75)などなど。 グルノーブル冬季オリンピックのドキュメント映画「白い恋人たち」が大ヒットしたあたりから、私には思い出深く、懐かしく甘酸っぱい記憶がよみがえります。「個人教授」では、降りだした雨の中を原付バイクを走らせるルノー・ヴェルレーの哀しみに満ちたラストシーンで流れる主題曲。「雨の訪問者」のメランコリックな主題曲と、明るいワルツ曲。「ある愛の詩」は映画館ではそれほどだなあ、と思った悲恋物語だけれど、その夜、家に帰って主題曲をレコード盤で聴いたとたんに涙があふれました。 先にも書きましたが、現代では映画音楽がまったく注目されることがないし、その曲が大ヒットするということが無くなったのはなぜだろう? 昔の映画では、映画とその音楽がセットになって楽しめたものですが。
2018年11月09日
コメント(0)
アメリカの映画俳優バート・レイノルズさんが6日、フロリダ州の病院でお亡くなりになったそうです。 死因は明らかにされていないとのことです。82歳。 いかにもアメリカ人の典型といった感じがする、ナイスガイ、タフガイのイメージがある大スターでした。 私が初めてその出演映画を見たのは「脱出」(1972)が公開された時です(北国第一劇場)。その後に、西部劇「キャット・ダンシング」(74)と刑務所内でのフットボール試合を反骨熱血に描いた「ロンゲスト・ヤード」(74)を香林坊にあったパリー菊水で。 私にとっては「ロンゲスト・ヤード」が印象に深いです。悪辣な刑務所長の脅迫に屈しない不撓不屈の男を演じて、当時はものすごく感動しました。 1982年には「シャーキーズ・マシーン」という刑事映画の傑作もありました。 1972年には女性誌「コスモポリタン」にオールヌードのグラビアが載ったりして、全米で最もセクシーな男とかいわれましたね。 先年、ラクエル・ウェルチさん、ジム・ブラウンさん共演の「100挺のライフル」(68)と、マカロニウエスタンに出稼ぎ出演した「さすらいのガンマン」(66)をDVDで初めての鑑賞。大スターになる前にはこんなのにも出ていたんだなぁ、と思ったものです。 ご冥福をお祈りいたします。
2018年09月07日
コメント(0)
「用心棒」(1961)監督 黒澤 明製作 田中友幸、菊島隆三脚本 菊島隆三、黒澤 明撮影 宮川一夫美術 村木与四郎振付 金須 宏音楽 佐藤 勝剣技 久世 竜出演 三船敏郎、仲代達矢、司 葉子、山田五十鈴 加東大介、河津清三郎、志村喬、東野英治郎、藤原釜足、沢村いき雄 本編111分 モノクロ シネスコサイズ この町で景気のいいのは桶屋だけだ。棺桶が毎日飛ぶように売れるのさ。一つの宿場に親分が一人っていうなら我慢もできる。ところが一つの宿場に親分が二人とくると、もういけねえ。儲けるのは棺桶屋だけだ、と居酒屋の権爺(東野英治郎)が云う。 血の匂いを嗅いで腹の減った野良犬が集まって来やがる、そんな荒れた宿場町にふらりと現れた素浪人(三船敏郎)が、泥沼の抗争に明け暮れる二大勢力のあいだを立ち回って、お互いを共倒れさせようと画策する話です。 黒澤明監督の時代劇映画。これを見なくて黒澤作品を語れないし、時代劇を語れないだろうというくらいの必見の価値ある傑作映画です。 久しぶりに見ていて、この主人公、桑畑三十郎と名乗る素浪人が、この宿場町にやって来たのは何のためか?と考えました。一本道を歩いてきて、地蔵のある分かれ道にたどり着き、足元の棒をひろい上げて投げる。その棒が指し示した道を歩き出す。そんなわけで主人公がこの血生臭い宿場町に現れたのは目的があったのではなく、まったくの偶然です。 無宿者や凶状持ちが巣くう宿場。凶状持ちとは時代劇でよく耳にする語で、意味を調べると、 兇状(凶状)[きょうじょう] 犯罪のこと。人殺しであることが多い。「凶状持(ち)」とは凶悪犯、また凶悪犯罪の前科者や逃亡犯のこと。「凶状旅」とは、時効というか、ほとぼりが冷めるまで?旅に出て逃げることで、「凶状わらじを履く」といえば凶状旅に出ること。凶状旅の期間は3年3ヶ月が目安であるらしい、とあります。 で、主人公の桑畑三十郎は女郎屋の清兵衛(河津清三郎)に用心棒として雇われ、50両の前金として25両を受け取り、敵対勢力の丑寅(山茶花 究)にも前金30両で雇われたりするが、その30両を助けて逃がした百姓夫婦(土屋嘉男と司葉子)に気前よく持たせてやったりする。 用心棒とはヤクザに金(かね)で雇われた、英語で言えばボディガードのこと。親分の身辺警護や、喧嘩の助っ人になる。 この映画「用心棒」に強い影響を受けて描かれたのがさいとう・たかをさんの劇画「無用ノ介」(週刊少年マガジンに1967年第38号から連載開始。1970年まで)です。 主人公の用なし犬こと無用ノ介は賞金稼ぎで、手配書に書かれた賞金首を追って旅をしている。 凶悪犯の似顔絵が描かれた手配書にはちゃんと賞金額が明記されていて、第1話「虎穴にはいった無用之介」では武州浪人 赤砂多十郎 賞金三十両、押崎三兄弟は三人で参百両という大物。 劇画「無用ノ介」は映画「用心棒」だけではなく、マカロニウエスタン「夕陽のガンマン」の影響も受けていると思われます。「夕陽のガンマン」の日本公開は1967年1月です。第1話の年配の賞金稼ぎ 地獄自斎と無用之介はリー・ヴァン・クリーフとイーストウッドみたいで。 この「夕陽のガンマン」以前にはテレビ映画「拳銃無宿」のスティーブ・マックイーンの役が賞金稼ぎだったけれど、日本ではまだ一般的に知られた職業ではなかったのではないか。西部劇では「デッドアンドアライブ」「生死を問わず」ということで、指名手配犯を生きたまま引き渡さずとも良い。射殺した死体を馬の背に乗せて町の保安官事務所まで運んでくる。それを保安官が確認して賞金を渡す。 その西部劇に出てくる賞金稼ぎを日本の時代劇マンガ(劇画)に登場させたのがさいとう・たかをさんです。現実の日本の江戸時代には賞金稼ぎは存在しないので、この設定は完全なフィクションです。 凶状持ちの無宿人を誰かが役所に密訴しても、賞金は出なく、せいぜいが寸志ぐらい? 職業として成り立たない。架空である賞金制度のシステムがどうなっているのか描かれていませんね。首を斬って持っていく場面もないし、討ち取った指名手配犯の確認はどうやるのだろう? 夏目房之介さんが何かで「無用ノ介」はマカロニウエスタンみたいだ、とおっしゃっていました。そう考えると、映画「用心棒」がそもそもマカロニウエスタン的だったのではないか。マカロニウエスタンの源流はアメリカ映画「荒野の七人」だが、世界的大ブームのきっかけは「用心棒」を無断使用した「荒野の用心棒」がヒットしたことであり、その国籍不明的な雰囲気とヴァイオレンス、主人公の無精ひげと薄汚れた服装や、銃撃場面の迫力あるリアルな描写。それらは黒澤映画「用心棒」から巧みに移植したというか、上手に抽出した結果ではないだろうか?
2018年09月01日
コメント(0)
俳優の加藤剛さんが先月の6月18日にお亡くなりになったのを知りました。 1938年2月4日のお生まれだから、今年で80歳です。 昭和の名優の訃報記事を目にすると、自分の年齢を意識するのか、とてもさびしい気持ちになります。ご冥福お祈りいたします。 私にとって、加藤剛さんの記憶は小学生の時から始まります。 家にテレビが来たばかりの頃で、昭和37年だったか?、両親が見ていた「人間の條件」。五味川純平さんのベストセラー小説の連続TVドラマ化で、戦時下の満州で人間らしく生きようとする主人公 梶と三千子の物語です。親が見ているのを横で見ていたのか?、加藤剛さんを意識したのはこのTVドラマが最初です。 その次が、皆さんご存知の「三匹の侍」(1966年)。丹波哲郎さんが扮した役を途中から加藤剛さんが演じて、共演は平幹ニ朗さんと長門勇さん。この時代劇ドラマは学校でもよく話題になりました。 有名な月曜夜8時の「大岡越前」が始まったのは1970年です。1999年の第15部まで続いた長寿番組。 それと、NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」(1976年)では平将門を演じましたね。 私にとって忘れられないのは司馬遼太郎さんが原作の長時間ドラマ「関ケ原」です。 1981年のお正月に3夜連続で放送された、今では考えられないほどの豪華俳優が出演した大作です。 加藤剛さんの石田三成と森繫久彌さんの徳川家康を中心に、 三船敏郎、三國連太郎、宇野重吉、杉村春子、三浦友和、松坂慶子、高橋幸治、三田佳子国広富之、芦田伸介、丹波哲郎、藤岡弘、竹脇無我、栗原小巻、京塚昌子、辰巳柳太郎沢村貞子、千秋実、大友柳太朗さん、などなど。 三國連太郎さんの本多正信や、三船敏郎さんの島左近。宇野重吉さんの秀吉など、これ以上の配役はないだろうといえるくらいの豪華作品でした。 映画では(これまで日本映画はあまり見てこなかったので)、栗原小巻さんと共演した「忍ぶ川」(1972年)という作品を見ましたが、45年も前の公開時に見た切りなので内容を覚えていません。
2018年07月09日
コメント(0)
女優の星由里子さんが16日にお亡くなりになったのを知りました。 西城秀樹さんの訃報が大きく取り上げられていますが、私には星由里子さんのほうに関心が向いてしまいます。 星 由里子(ほし・ゆりこ)1943年12月6日、東京都神田生まれ。 1958年(昭和33年)、東宝宝塚劇場が公募した「シンデレラ娘」に当選。翌年に映画「すずかけの散歩道」でデビュー。当時、東宝が浜美枝、田村奈巳とともに「スリーペット」の愛称で売り出したそうです。 私が星由里子さんを初めて知ったのは「太平洋の翼」(63)を見た時です。 おそらく1964年3月末、小学5年が終わって6年生になる前の春休み。例によって小中学生だけしか入場できない春夏休み恒例の、片町にあった金劇での「映画教室」です。 この時に、共演していた加山雄三さんを知り、四国松山の海軍第三四三航空隊の戦闘機 紫電改が活躍する、この東宝の戦記映画は子供心に強い印象を残しました。 そして、同じ頃に続けて見た、これも映画教室で、同じく小学6年の時か、翌1965年の中学1年の春か、さだかではないけれども東宝怪獣特撮映画「モスラ対ゴジラ」(64)と、こちらは中学1年の夏休みが確実な「三大怪獣地球最大の決戦」(64)の2本。「モスラ対ゴジラ」では新聞社の新米カメラマンの役。「三大怪獣地球最大の決戦」では放送記者で、刑事の夏木陽介さんの妹役でした。どちらも明るく元気で、ちょっと生意気な、おきゃんな現代っ子的、理想的キャリアウーマンを演じました。 そして、決定的な役となったのが「若大将シリーズ」のマドンナ役 澄子さん。 私が見たのは「海の若大将」(65)からで、「エレキの若大将」(65)「アルプスの若大将」(66)と、これもすべて春夏休みの映画教室です。小学生と中学生、保護者同伴でないと映画館には入れなかった子供にとっては、自分たちだけで映画館に入れる貴重なというか、映画の面白さと楽しさを教わった、大きな恩恵を与えてくれた楽しい催しでした。 加山雄三さんと共演の若大将シリーズの澄子さん役。毎回、若大将の田沼雄一が思いを寄せる女性ですが、すぐに誤解からの焼き餅をやいて、その当てつけから、雄一さん~助けて~、となる、お約束の澄子の危機へと。自己チューのヒロイン 澄子。この役で決定的に、私たちに印象づけることになりました。 現在、65歳くらい以上の年齢の男性だったら、おそらく若大将シリーズを知らない人はいないだろうし、加山雄三さんの田沼雄一と、田中邦衛さんの青大将こと石山新次郎と、星由里子さんの澄子(澄子は同じだが姓は毎回ちがう)。加えて有島一郎さん、飯田蝶子さん、中真千子さん、このメンバーを知らない人はいないといっても過言ではないだろうし、加山雄三さんにとっては永遠の澄子さんなのでしょう。 私の思い出に一生残る映画「若大将シリーズ」をありがとうございました。星由里子さんは永遠にです。 ご冥福をお祈りいたします。
2018年05月18日
コメント(0)
8月15日です。 毎年、今の時期になるとお年寄りたちの空襲体験や戦時下体験が語られます。戦争は悲惨であり、日本はふたたび戦争をしてはならないという内容です。 しかし、語られるのは悲惨な体験をしたということばかりで、日本はなぜ戦争をしたのか、戦争を避けることはできなかったのか、開戦する以外の選択肢はなかったのか、ということにはまったく触れられていない。 そして子供たちの平和教育でも、「世界が平和になればいい」という願望ばかりです。平和とは、なるものではなく、平和にするものだろう。平和な世界にするにはどうすればいいのかを考えるべきではないのか。 夏休みの行事として、先日、カブト虫を闘わせて、それを見物する子供たちが喜んでいるのをテレビで放送していた。カブト虫は好んで闘っているのではなく、人間が闘わせている。それを見物して喜ぶというのは、古代ローマ帝国の奴隷を闘わせて見物したのと同じ残酷な見世物ではないか。なぜこんな無神経な行事がおこなわれるのか。 争いのない平和な世界になったらいいね、と言いながら、その一方で平和とは正反対の残酷な遊びがおこなわれている。なぜカブト虫が可哀相だと言い出す子がいないのか。闘いたくないのに闘わさせられるカブト虫が可哀相だと子供たちに教えるのが平和教育なのではないか。 戦争とは、けっきょくのところ、人間が本能として持つ「闘争を好む」ことの結果ではないのか。気に入らない奴をやっつけて溜飲をさげる。個人の喧嘩を国家間に拡大させたものが戦争だとすれば、人間が人間でなくならないかぎり、永遠に真の平和社会はやってこない。
2017年08月15日
コメント(0)
平尾昌晃さんがお亡くなりになったを今朝の新聞記事で知りました。 昭和の大ヒット曲「よこはまたそがれ」「瀬戸の花嫁」などの作曲で知られる作曲家の平尾昌晃(ひらお・まさあき)さんが21日午後11時40分、肺炎のため都内の病院で死去していたことが22日、分かった。79歳。東京市(現・東京都)出身。2年前に肺がんを患い闘病する傍ら、精力的に仕事をこなしていた。葬儀・告別式は近親者で行い、後日お別れの会を開く予定、とのことです。「霧の摩周湖」(1966)「愛するってこわい」(1968)「よこはま・たそがれ」「私の城下町」(1971)「カナダからの手紙」(1978)など、たしかに印象深いのですが、テレビのニュースや新聞の記事では作曲家としての面ばかりを強調しています。 それだけじゃないだろうと、私なんかは思ってしまう。昭和30年代にロカビリー歌手として当時の若者たちに人気があったのを忘れていませんか、と云いたい。「星は何でも知っている」や「ダイアナ」が大ヒットしたのを、私はまだ小学校低学年だったけれど、ラジオから流れていたのを今でも憶えているし、今でも歌詞を見ないで歌うことができます。 79歳とのことですが、普通ならまだまだ亡くなる年齢ではありません。病気には勝てないということでしょうか。 ご冥福をお祈りいたします。
2017年07月23日
コメント(0)
4月20日。地元新聞の朝刊を読んでいると、社説に「ツバメ調査で交流 海越え若者の絆深めたい」という見出しが載っていました。 近年、やたらと軽々しく使われ出した「絆」という文字。ここでもかと、ため息が出る思いがします。 辞書で「絆」を引くと、 1. 動物をつなぎとめる綱。 2. 断ち切ることの出来ぬ愛情。離れがたい情愛。 広辞林 第六版 三省堂 または、1. 動物をつなぎ止める綱。2. 断つに断たれぬつながり。「親子の--」 集英社国語事典 本来は「親子の絆」や「兄弟の絆」というような、肉親の切っても切れない関係の場合に限って用いるべきなのではないか。夫婦の絆という場合もあるが、夫婦関係は簡単に断たれてしまうこともあるので、ふさわしくないのかもしれない。 まったくの見知らぬ他人を相手に「絆」を深めるなどあるわけがないし、そんな関係にはそもそもが初めから絆など存在しないだろう。 近年は「連帯感」や「心を通わせて交流する」、「親しく交流する」の意味で軽々しく用いられている「絆」です。「絆」の価値が大暴落しているようです。 また、「元気をもらった」「勇気をもらった」や、「感動をもらった」という軽薄な言い方も近年になって出てきたものです。 元気や勇気、感動は自分の中で生まれてくるものであって、他人とやりとりするものではない。元気づけられた、勇気づけられた、励まされた、というのが従来の言い方だったのではないか。 「絆」の価値が大暴落。そして「元気をもらった」「感動をもらった」などの空疎な言い方。日本語がおかしくなっているのを感じる昨今です。
2017年04月20日
コメント(0)
俳優の松方弘樹さんが21日にお亡くなりになったそうです。 享年74。リンパ腫で闘病なさっていたのは知っていましたが、まだお若いのに残念なことです。 私が松方弘樹さんを初めて知ったのは1963年の映画「伊賀の影丸」です。数年前に半世紀ぶりかで再見することができた古い映画です。横山光輝さんが「週刊少年サンデー」に連載していた漫画の映画化ですが、漫画とは時代設定がちがっていて、徳川家康が出てくるのには驚いた。当時の小学生の間では話題になったけれど、漫画に親しんでいた子供たちには、影丸らしさのない映画は大不評でした。 その後、中学生になってテレビの「素浪人 月影兵庫」を見た時に、近衛十四郎さんが松方さんのお父さんだと教えられて「へえ、そうなのか」と。 松方さんが歌ってレコード盤が発売された「あゝ同期の桜」(B面「あいつの消えた雲の果て」)は、私の中学生の時ですが、買って何度も聴きました。 映画は「緋牡丹博徒 仁義通します」(72)「柳生一族の陰謀」(78)「真田幸村の謀略」(79)が印象に残っています。有名な「仁義なき戦い」のシリーズは見たことがありません。 テレビでは「名奉行遠山の金さん」がよく知られていますが、私は「HOTEL」の方が好きでした。藤堂マネージャーの役は理想の上司でもあった。伊藤かずえさんのファンだったのでベルさんが出ていた第2シリーズが特に気に入っています。 映画、テレビ、時代劇から現代劇。数え切れないくらいにたくさんの作品に出られたスター俳優。私たちの世代である昭和のスターが亡くなってゆくのは寂しいかぎりです。 ご冥福をお祈りいたします。
2017年01月24日
コメント(0)
今朝の新聞で知ったのですが、俳優のロバート・ヴォーンさんが11日にお亡くなりました。 ニューヨークの病院で白血病の治療を受けていたそうで、享年83。 私の年代にとっては、やはりなんといってもテレビ映画「0011ナポレオン・ソロ」につきます。 1965年6月から1971年6月まで日本テレビ系で放送されたスパイアクションドラマで、当時はものすごい人気を集めました。 ニューヨークに本部を置く「アンクル」という国際機関の捜査官ナポレオン・ソロとイリヤ・クリアキンのコンビが犯罪組織スラッシュを相手に活躍する話。 少女週刊マンガ誌の「少女フレンド」や「マーガレット」の表紙にまで「ナポレオン・ソロ」が載ったほどです。さいとう・たかをさんが「冒険王」に連載したり、これは私もリアルタイムで読んでいたし、秋田書店のコミックスになった時も買って持っていた。 ただ、石川県は日本テレビ系の局がなかったので、初めて見ることができたのは1967年くらいだったか?、第1話「ユーゴスラビアに潜行せよ」が日曜の午後に放送された時は大喜びしました。 映画では「ブリット」(68)でサンフランシスコ市警のブリット刑事(スティーヴ・マックイーン)を相手の悪役?チャルマース上院議員の役。テレビで放送されたときに「ナポレオン・ソロ」と同じ矢島正明さんの吹替えが嬉しかった。 戦争映画「レマゲン鉄橋」(69)では連合軍の侵攻が迫るレマゲン橋の死守を命令されたドイツ軍のクルーガー少佐の役も印象に残るものでした。 そして映画史に残る西部劇の傑作「荒野の七人」(60)。ユル・ブリンナー、スティーヴ・マックイーン、チャールズ・ブロンソン、ジェイムズ・コバーンなどと共演した賭博師ふうのガンマン役(これも矢島正明さんだ)。 ◇ いま思えば「荒野の七人」の7人の俳優たちで最後に残っていたお一人だったんですね。 ロバート・ヴォーン Robert Vaughn 1932年11月22日 ニューヨーク生まれ。 ご冥福をお祈りいたします。
2016年11月13日
コメント(0)
もう50年くらい昔になりますか?、テレビCMでボールペンの歌がありました。「♪ボールペン 三菱マークのボールペン 軽く書いてもまっ黒けのけ これで30円まっ黒けのけ あーあ まっくろけのけ♪」 この歌は今でも忘れないで、時々思い出しては口ずさむことがあります。替え歌で、もともとは大正時代の「まっくろけ節」という曲だというのは、今まで知りませんでした。 日本で国産のボールペンが初めて発売されたのは昭和23年2月のセーラー万年筆からのものだそうです。 昭和35年か36年頃、私の小学生の時にあったボールペンは、鉛筆のような木製の筒にインクの入った軸が収められていました。値段は30円くらいだったのか? その後、中学生の時にBICボールペンというのが発売されて、赤や青、緑などいろんな色のがあった。これも30円~50円くらいだったか?プラスチックの透明で軸が見える(当時は斬新だった)オシャレなもので、友人が学生服の内ポケットに何本も差していたらインクが漏れて、服を汚してしまったのを覚えています。 昭和40年代初め、まだまだ万年筆やシャープペンが高価だった時代で、万年筆は入学祝いの定番。片町に大型書店があり、友人に、シャープペンを買いたいのでいっしょに来て欲しいと頼まれ、ついていったことがあります。その時シャープペン1本が1000円以上もしていました。 万年筆などは早くから実用的ではなくなり、要のないものだったし、1000円以上もしたシャープペンは今では100円ショップで売っている。ボールペンも10本入りが100円(108円)で買える時代になりました。 机の引き出しに、お気に入りのボールペンを使うのが惜しくて取っておいたら、何年か経つとインクが出なくなってしまい、捨てざるをえなくなることがありますね。使うべき物は惜しがらずに使うべし、ということですか。
2016年09月28日
コメント(0)
私が小学生になったばかりの頃に「蛸の八ちゃん」というマンガがありました。もう半世紀以上も昔なので内容は覚えていませんが、調べたところでは「のらくろ」で知られる田河水泡さんの作品だとか。 私の頭の中では、この蛸の八ちゃんと火星人のイメージが重なっているのですが、蛸の八ちゃんは火星人ではなく海にいる蛸でした。 現在では、映画でもマンガでもSF小説でも宇宙人(近年は異星人という)は珍しくなく、しかも金星や火星など太陽系の惑星ではなく、さらに遠い宇宙の果てから来た存在で、このようになったのはテレビの「宇宙大作戦」「宇宙家族ロビンソン」や「ウルトラマン」などの比較的あたらしいSF作品以降でしょうか? それまでの宇宙人。昭和30年代、私が小学生だった頃に読んでいたマンガの宇宙人といえば、土星人や木星人などは皆無で、もっぱら火星人か金星人が定番でした。特に火星人の蛸のイメージが強くて、宇宙人といえば蛸の形をした火星人でした。 太陽系以外の宇宙人の話があったとしても、一般的イメージは宇宙人=火星人=蛸だった。 マンガの「ナショナルキッド」(一峰大二、1960、61年頃に「ぼくら」で連載)はインカ金星人。 手塚治虫さんの「キャプテンKen」(1960~61年、「週刊少年サンデー」)は火星人。「鉄腕アトム」(1951~66年、「少年」)は意外に宇宙人の話は少なくて、「アトム大使」はもう一つの地球。「火星探検の巻」は火星で、「イワンのばかの巻」と「ホットドッグ兵団の巻」は月面。「宇宙の寄生虫の巻」はどこか遠い星から。「地球最後の日の巻」はニコロ星人で、1964年作品だからこの頃になると太陽系惑星にこだわらなくなっているようです。対象とした少年読者(小学生)たちも広くSFになじんできたものと思われます。 一方では手塚先生のもとに、手塚さんのSFマンガが荒唐無稽だとして「子供に嘘を教えるな」という抗議が寄せられたそうです。当時の大人たちはロボットや宇宙人の存在などは嘘っぱちであり、そんな嘘の話をマンガにして子供に読ませるのは教育上このましくないと思った人たちがいた。手塚先生のマンガが悪書、有害図書に指定された時代です。 H.G.ウェルズがSF小説「宇宙戦争」(1898年、明治31年)で描き出した火星人のイメージである蛸。 大きな頭に目と口があり、胴体がなくて触手が8本ずつ2束になって16本ある。消化器官が退化していて、栄養源である動物の血液(人間の)を直接に採取する。 このようなグロテスクな姿として描かれるけれど、元々は地球人と同じような姿だった、それが進化して蛸のようになったのだと。そしてこの姿が未来の人類の進化の果てでもあるのだという。 現代の人類の姿形は進化の途中に過ぎず、これから長い年月をかけて、まだまだ進化してゆく。現代人はあらゆる生命のなかで自分たち人類がいちばん高度な存在だと思うようになった。たんに出現した年代がいちばん新しいというだけなのに、「進化の頂点」だと勘違いしている人が多いのだと。(参考「宇宙戦争」偕成社文庫 巻末の解説) エドガー・ライス・バローズの「火星のプリンセス」(1917年に発表された)を第1巻とする「火星シリーズ」は人間と同じ姿形で赤い肌をした赤色人と緑色で4本腕の緑色人が登場し、地球人ジョン・カーターと緑色人タルス・タルカスの友情と赤色人の絶世の美女デジャー・ソリス姫との恋と冒険の物語。ここでの火星人はウェルズのような蛸形ではないのですが、それでもなぜなのか?火星人といえば蛸の形をイメージしてしまうのは、「宇宙戦争」の影響がそれほどまでに大きかったということだろうか。
2016年09月15日
コメント(0)
1968年(昭和43年)だと思うのですが、「オレと彼女」というTVドラマがありました。 月曜夜8時の放送(TBS系)で、黒沢年男さんと栗原小巻さんが共演した青春ドラマ。 栗原小巻さんの妹役で柏木由紀子さんが、あと笠智衆さんが出ていたような。 その番組内で黒沢年男さんが「海の子守唄」を歌いました。当時は私たちにとって黒沢年男さんは「カッコいい男」のお手本で、あこがれでした。黒沢さんのような男になって栗原小巻さんのような素敵な女性と波打ち際を歩きたいと夢想(妄想?)したものです。 現在、この「海の子守唄」や、同じく黒沢さんが歌う「花と海」を聴くと、懐かしさで感傷的になり、当時の甘酸っぱいような記憶がよみがえって、涙ぐんでしまいます。 この1968年、69年ごろにはグループサウンズの大ブームも下火になっていて、でもピンキーとキラーズの「恋の季節」や「オレと彼女」など、まだまだエレキサウンドが響いていますね。 ピンキーこと今陽子さんが男4人のキラーズを従えて歌う「恋の季節」が大ヒットし、私もシングルレコード盤を持っていました。「恋の季節」「涙の季節」「七色のしあわせ」「星空のロマンス」「かぜの季節」などもシングル盤で持っていたし、現在でもCDで時々聴いています。 高校1年だったあの頃、今陽子さんというよりピンキー(同じだけど)の大ファンで、母親が「ピンキーのような可愛いお嫁さんがきたらいいね」などと、妙なことを言っていた。 ピンキーとキラーズの「オレと彼女」は黒沢年男さんの同名ドラマの主題歌です。なのでドラマとピンキーとキラーズは私の頭の中ではセットになって記憶されています。 ずっと今一度見たいと思っていた松原智恵子さんの「ある日わたしは」が見られたので、「オレと彼女」も見たいものです。いつか念願がかなうだろうか?
2016年09月10日
コメント(0)
飛行機や船、自動車。民間機から軍用機、軍艦から客船、乗用車やスポーツカーなど、乗り物や機械にはその固有の「性能」というものがあります。 最高速力、航続力、旋回能力、走行安定性、耐久力、軍用なら攻撃力などなど。 人間にもそのような「性能」があるのだろうか? 走るのが速いとか、力が強いとか、耐久力があるとかなどの身体能力だけでなく、精神的な、頭がいいとか、直感にすぐれているとか、手先が器用だとか、人望があるとか、話すのが上手いとか、交渉力があるとか、我慢強いとか。 人間がそれぞれの持って生まれた能力。人間としての性能。 その性能はそれぞれの身長や体重、体力、性格などによって個人差があるだろう。 自分はあの人にはかなわない。自分はあの人より性能が劣っている。 しかし、ある面ではあの人より性能が優れているかもしれない。 自分の「性能」には、長所と短所があり、それは人さまざまだろう。 そして生活では長所を活かして短所をおぎなうべきであり、自分の能力を最大限に活かすようつとめて生きるべきなのだろう。 はたして自分自身が自分の性能を理解し、正確に把握しているのだろうか? 自分自身にもわかっていない自分の隠れた性能があるのではないか。 人間には「三通りの自分がある」といわれます。「他人から見た自分」 あの人からはこのような人だと思われている。「自分で思っている自分」 自分はこうだと思っている。「本当の自分」 他人も自分も気づいていない本当の自分。 自分では、自分に自信がなく、つねに他人にはかなわないと思っていても、他人はそのように思っていなくて、あの人はすごい人だと思っているかもしれず、自分でも気づいていない自分の長所があるのかもしれない。
2016年04月23日
コメント(0)
今朝の新聞に漫画家 望月三起也さんの訃報記事が載っていました。 享年77才だそうで、まだまだ亡くなるような年齢ではないのに。 私の少年時代、青年時代に夢中になって読んでいた漫画作家さんがいなくなってしまうのは寂しいものです。 私が初めて読んだ作品は「少年画報」に連載されていた「最前線」だったかと。 第二次大戦のヨーロッパ戦線を舞台に二世部隊のミッキー熊本軍曹(最初は伍長)を主人公にした物語。 中学生になったばかりの頃に読んだ「別冊少年キング」には「二世部隊物語」として単発でいくつか載っていて、「鬼軍曹」という話などは今でも憶えています。 月刊誌「少年ブック」(集英社)の「ケネディ騎士団」なども懐かしいです。 望月三起也さんは、私が思うところでは、少年画報社の雑誌に載るのが多かったのでは。「秘密探偵JA」と「ワイルド7」は「週刊少年キング」だし。それにマイク・ハスラーの別名で発表した「狂い犬 マッドドッグ」は「ヤングコミック」です。 少年誌ではお色気や女性のヌードなど御法度で、でも「ワイルド7」の表紙などではお色気を感じる女性キャラが描かれていたりして、当時の漫画界では先進的だった? 私としては少年漫画よりも、青年誌に載ったお色気で本領発揮?された作品に興味があります。 マイク・ハスラー名義の「狂い犬」をもう一度読んでみたいと思う。 それと「ビッグコミック」が月刊だった頃に載った短篇で、タイトルはわからないけれど、読んでみたいです。 さいとう・たかをさんの「007シリーズ」が読めて長年の希望がかなったので、望月さんの「狂い犬」も願いがかなうかも?
2016年04月04日
コメント(0)
今朝、4時すぎにラジオをつけると「ラジオ深夜便」の「時代を創った声」が始まったところで、向井真理子さんがゲストでした。 マリリン・モンローの声で知られる声優 向井真理子さんです。「荒馬と女」「七年目の浮気」「ナイアガラ」「バス停留所」「お熱いのがお好き」など、私がテレビ洋画劇場で見たモンロー主演作品はすべて向井真理子さんの吹替えでした。 中学を卒業して宝塚に入ったのは数学と理科がない学校だからという理由だったとか。入ってみると歌とかダンス、日舞など大変で、まだ数学と理科をやっていたほうが良かったと。「宝塚は大変だ」と友人に手紙を出したら、その友人が母に伝えたために母が退団届けを出したことから、辞めて東京に連れ戻されてしまった。 ちょうどTBSが女優を募集していて、劇団に入ったそうです。 ラジオの朝ドラの主役に決まったのが最初で、鬼のようなディレクターによく怒られたと語る向井さん。 怒られて泣くと、「泣くな!女の武器を使うな!」と怒られて、そうか泣くのは女の武器なのか、と思ったそうです。 地獄へ行けとまで言われて、「地獄へ行く道がわかりません」というと、「おまえにはかなわない」と。 マリリン・モンローの前にブリジッド・バルドーの声をやっていて、モンローよりやりやすかったそうで、でもモンロー専門になってしまったと。モンロー以外にやってはいけないと決められた。もっと他の人の声もやってみたかったと。 最初はモンローに良いイメージを持っていなかったけれど、可愛らしく良い人で大好きな女優さんになったそうです。 向井さんは、吹替えの仕事は責任のある難しいものだとおっしゃっています。 吹替えがまずいとその映画を台無しにしてしまう。 その意味では、現在の外国映画の吹替えにお笑いタレントや演技経験のないアイドルを使う傾向があるのはトンデモないことなんですね。 へたくそな声をあてて、その作品を台無しにするのは、その映画や、懸命に演じている俳優に対する侮辱であり冒涜である。 声優ではない流行タレントを安直に使うべきではないはずなんですが。誰がそんなものを望んでいるのだろうか?
2016年04月03日
コメント(0)
Amazonで買ったパソコンゲーム「信長の野望 天道」で遊んでいます。(パワーアップキットもいっしょに買って、4200円くらい) もともとTVゲームなどしないし関心もないのですが、これまでにはコーエーの「三國志」と「信長の野望」はパソコンで何度か遊びました。「信長の野望」はPC98の頃の「武将風雲録」と「覇王伝」、Windows95の「烈風伝」いらいだから、久しぶりです。 個人的には、織田信長で遊ぶことはあまりなく、たいていは薩摩の島津か東北の伊達で始め、今回も例によって島津から。ゆっくり開発に手間をかけているとたちまち隣国が大軍で攻めて来て、これには防ぎようがない。 基本的に大軍で攻められると防ぎようがなく、大軍で攻め込むと勝てます。 開始早々、開発などせずに攻め込んでいって隣国を制圧し、領土を拡大していく。 そんな単純なものなので、ある程度勢力地域が大きくなってしまうと飽きがきて、どうでも良くなってしまうのが難点か。 これまでに島津、北条、武田で遊んだのですが、北条がいちばん面白かった。 パワーアップキットで兵力と軍馬を圧倒的に増やして、これはインチキですが、どんどん攻め込んで勢力拡大してゆく。 北条で始め、早々に武田と今川、松平、長尾を攻めて、武田の最強軍団を配下にして、加賀の本願寺と越前朝倉を攻める。ここまでくると、最強になってしまう。 このゲームの面白さは、自分で武将を作ることができることです。自分でオリジナル武将を作って家臣にできる。武将を作る作業、名前をつけて、顔と性別をきめて、能力値をきめる、のが面白い。 そんなわけで、最近はこの「信長の野望 天道」に暇な時間を費やしてしまって、映画DVDを見る時間がなくなってしまいました。 先日から読み始めた新田次郎さんの小説「武田信玄」は第1巻「風の巻」の「志磨の湯」を終えて「柱石逝く」に入ったところ。晴信の甲軍が村上義清の葛尾城を攻めて大敗する。 新田次郎さんは武田信玄が労咳だった説を採っていて、この第1巻でも晴信が病気に悩まされる場面が多いですね。
2015年12月04日
コメント(0)
グラウンドゴルフを始めました。 先日、町会のバーベキュー大会があって、同じテーブルになった人から誘われたのがきっかけです。 インターネット通販で安価なクラブとボールを買って、さっそく仲間にいれてもらった。 近所の公園には、同好のおじいさんとおばあさんが集まって、8ホールを3ラウンド。昼の約1時間半、みなさん仲良く、和気あいあいと楽しんでいます。 数日前までは、まさかこんなことを始めるとは夢にも思わなかった。 始めてみると、ルールも簡単だし、おもしろくてハマってしまう。経験がなくてもすぐに仲間に入ることができました。 運動にもなって、楽しい時間をすごしています。
2015年08月10日
コメント(0)
毎年8月の、いまごろになると新聞やテレビで戦争体験が語られます。 戦争の悲惨さを語り継ぐということや、子供たちに平和の大切さを教えるということです。 しかし、それは戦争で悲惨なめにあったから二度とあってはならないという論法になっているのではないか。 日本が戦争をしたのは先の大戦だけではなく、日清戦争、日露戦争、第一次大戦とあるのに、なぜ太平洋戦争だけをとりあげるのか。戦争反対、平和の大切さをいうならば、なぜ日清戦争、日露戦争の例もとりあげないのか。 日清、日露、第一次大戦では日本は戦勝国であり、当時の国民は日本が戦えばかならず勝つと信じ込んでいた、それが太平洋戦争ではアメリカに負けて、空襲や原爆などで日本国土が焦土となった、それで悲惨なめにあった、だから戦争は二度とあってはならないという。 本当に戦争反対と平和の大切さを主張するなら、戦争の勝敗に関係なく、戦勝国であろうが敗戦国であろうが、悲惨なめにあおうが戦争で大儲けしようが関係ないはずです。 小学校や中学校の授業で必要なのは、昭和15、16年の時点に立って、当時の国際情勢を考慮にいれて、「日本はなぜ戦争という破滅への道を進んだのか?」「戦争以外の選択肢はなかったのか?」 そういうことを生徒といっしょに考える、それが必要なのではないか。 世界から戦争をなくするにはどうすればいいのか。夢のようなことを語り合っても無意味で、現実的に先生が生徒といっしょになって考える授業です。 それなのに、ただ戦争は悲惨だ、だから平和のほうがいいと。それだけを繰り返しているだけではダメなんじゃないか、と思うのですが。
2015年08月09日
コメント(0)
1965年(昭和40年)から1966年(昭和41年)にかけての2年間。今になって思い返すと、大げさに言えば歴史に残るような楽しい年だったようです。 昨日書いた、夏休みと春休みの映画教室で見た東宝の怪獣映画と若大将。 それだけでなく、好んで読んだ漫画では、たとえば「週刊少年マガジン」(講談社)では「ハリスの旋風」(ちばてつや)や「墓場の鬼太郎」(水木しげる)、「ワタリ」(白土三平)が載ったのが1965年からですね。「墓場の鬼太郎」はまだ連載ではなく不定期だったのですが、「手」が1965年8月1日の第32号。「夜叉」が9月12日の第38号、以下、「地獄流し」「猫仙人」「おばけナイター」「水虎」「吸血木」「ゆうれい電車」と。「巨人の星」(川崎のぼる・梶原一騎)が1966年の第19号から。「あしたのジョー」(ちばてつや・高森朝雄)は、と思ったらこちらは1968年なのだった。「サイボーグ009」の「地底王国ヨミ編」が1966年、楳図かずおさんの「半魚人」が1965年、「ひびわれ人間」「ウルトラマン」が1966年。小沢さとるさんの「エムエム三太」は1965年から66年にかけて。「無用ノ介」(さいとう・たかを)は・・・・これは1967年か。「週刊少年サンデー」(小学館)では、「伊賀の影丸」の「地獄谷金山」が1965年。「邪鬼秘帳」も1965年。「土蜘蛛五人衆」が1965~1966年にかけて。「サブマリン707」(小沢さとる)の最後の話「アポロ・ノーム編」が1965年です。 そして画期的出来事といえば、新書判サイズのコミックスが初めて登場したのが1966年で、これは歴史的な特記事項。 小学館のゴールデンコミックス。「007号死ぬのは奴らだ」と「007号サンダーボール作戦」(さいとう・たかを)の2冊が5月に発売され、すぐあとの7月に秋田書店のSUNDAYコミックスで「サイボーグ009」(石森章太郎)第1巻が。 価格は220円~240円。今思えばけっして安くはないですが、当時は夢中になって買って読んだものです。 石森章太郎さんの「マンガ家入門」が1965年8月に刊行され、「続・マンガ家入門」も1年後の1966年8月に。「龍神沼」や「夜は千の目をもっている」を参考にして、私もマンガを描いてみたりしたものです。 歌謡界ではグループ・サウンズ大ブームの幕開けが1966年で、ザ・スパイダースの「夕陽が泣いている」と、ジャッキー吉川とブルー・コメッツの「蒼い瞳」「蒼い渚」。名曲の「ブルー・シャトー」は1967年。 ザ・ワイルドワンズ、ザ・タイガース、ザ・ゴールデンカップス、オックス、カーナビーツと次々に誕生。 テレビでは、アメリカの戦争アクションドラマ「コンバット!」の第4シーズンが放送開始されたのが1965年の10月か11月で、カラーになった第5シーズンも連続しての放送(72回)でした。金沢ではMROが毎週火曜の夜10時。大正製薬の提供で、リポビタンDのCMとセットになって記憶されている。「奥さまは魔女」も1966年2月から始まり、毎週火曜夜9時半からなので「コンバット!」と一緒に見ていました。 特撮SFドラマ「ウルトラQ」が1966年1月~7月に。NHK総合のイギリス製人形劇「サンダーバード」も1966年4月から始まりました。ともに日曜日で「ウルトラQ」は夜7時、「サンダーバード」は夕方6時から。 そして、1966年当時は中学2年で映画館に一人では入れなかったけれど、マカロニウエスタンのブームが来ようとしていました。「荒野の用心棒」(65)の日本公開が1965年12月末。「荒野の1ドル銀貨」(65)が1966年7月。「続 荒野の用心棒」(66)が1966年9月。 翌1967年1月に「夕陽のガンマン」(65)が公開されて大ヒット。これ以降、1967年はマカロニ西部劇の大ブームの年となる。「真昼の用心棒」「さすらいの一匹狼」「南から来た用心棒」「ガンマン無頼」「続・荒野の1ドル銀貨」などなど。これらはリアルタイムで見られた年齢ではないけれども、主題曲が大ヒットしてラジオなどでよく耳にしました。 私はマカロニウエスタンが大好きで、目がないほうですが、だからといってアメリカの本場の西部劇も大好きです。ところが不可解なことに本場アメリカ製西部劇のファンにマカロニウエスタンが大嫌い、こんなゲテモノは西部劇とは認めないという人がいます。 西部開拓精神、フロンティアスピリットが微塵もなく、西部の文化も何もない、ただの復讐と残酷が売りなだけのそんなものは西部劇ではない、というのがその理由。 日本人が外国アメリカの開拓精神がどうのこうのと、何を言ってるんだいと思うのですが。映画に対する見方が私とはちがうようです。 おまけとして、泥棒映画の傑作「黄金の七人」(65)の日本公開が1966年3月。「続・黄金の七人レインボー作戦」(66)も同年の12月に公開。このような娯楽映画の楽しさが現代の外国映画にはなくなりました。
2015年06月15日
コメント(0)
映画「リーグ・オブ・レジェンド 時空を超えた戦い」(2003)はサラウンド音声効果の高い作品のひとつです。 この映画を数年前にテレビの金曜ロードショーで放送していましたが、日本語吹替だからというのではなく、モノラル音声(二カ国語放送)の平板な音なので迫力がなくて、同じ作品を見ていてもまるで面白さが感じられないものでした。 映画は、その鑑賞環境で受ける印象が大きく異なってしまう。 劇場のスクリーンでも、英語と字幕で見るか、日本語吹替で見るかで受ける印象に差が出てしまいます。 家庭での鑑賞でもモノラル音声のテレビ洋画劇場で見るか、サラウンド音声のDVDソフトで見るかでまた違ってしまう。 サラウンド音声のDVDやブルーレイでも、その再生環境が違えば、受ける印象も違ってしまいます。 小さなテレビと大きなテレビではまったく違った印象を受けるでしょう。極端に言えば大画面テレビで見れば、見慣れた作品でもまったく別の映画を見るような印象を受けるものです。 だとすれば、映画の感想をのべるとして、その作品がつまらなかったと不満を言う場合は、どんな環境で見たかを記さないとならないのではないか、と。 同じ映画を見ても、ある人は面白かったと言うし、ある人はつまらなかったと言います。しかし、つまらなかったという感想を持った人は、どんな環境で見たのでしょうか?と。 劇場のスクリーンで見た?、または小さなポータブルDVDプレイヤーで見た?、モノラル音声のテレビ洋画劇場で見たのか?。その差は大きなものになります 家庭でDVDやブルーレイソフトを再生する場合は、できれば60型くらいの大型テレビにサラウンド・システムを取り付けるのが最良の環境です。 現在では3万円くらいで5.1チャンネルのシステムが発売されているし、一度その音の迫力を知ってしまったら、きっと後戻りはできないでしょう。「リーグ・オブ・レジェンド 時空を超えた戦い」で例をあげるとすれば、開巻早々の夏のイギリス、7月の雨が降る肌寒いロンドンの描写。 雨の音は、本当に家の外で雨が降り出したかと錯覚するし、雷の音がすれば、本当に雷が鳴っていると錯覚します。この雨や雷の音の立体感は素晴らしい。 雨が降る屋外に出た主人公たちをネモ船長の部下がクルマで出迎える場面。彼らは、この白いのはいったい何だ?と自動車を見て驚きます。 オートモービルだ、自動車という未来の乗り物だとネモ船長が解説する。この白いクルマのエンジン音、走っている音もいいけれど、停止してアイドリングしている時の音がよく表現されています。 映画での機関銃や拳銃などの銃撃音、爆発音、そして自動車の疾走音、飛行機やジェット機、ヘリコプターの爆音など。 サラウンド音声効果の大きい映画がたくさんありますが、「バットマン」や「トランスフォーマー」のシリーズ。「ジュラシック・パーク」や「インディ・ジョーンズ」のシリーズのような、ちょっと古い作品でもかなり良い音がします。 同じ映画を見ても、音が違うだけでも面白さが倍増します。
2014年10月06日
コメント(0)
映画「アナと雪の女王」(2013)原題「FROZEN」が大ヒットしています。 日本で公開されたのが今年の3月14日なので、もう3ヶ月が経っている。 現在なお上映中で、石川県のテレビで毎週土曜6時に放送されている映画情報番組「カフェ・ド・シネマ」の上映作品入場者ランキングではいぜんとしてトップの座を占めています。 これだけ大きな話題作ですが、私はまだ見ていません。子供たちでにぎわっている劇場では見る気にならないので、ブルーレイソフトでの鑑賞になるでしょう。 そのブルーレイソフト(DVDも同梱)が来月、7月16日に発売されます。【Blu-ray】アナと雪の女王 MovieNEX。定価は税抜きで4000円。 まさか定価で買う人はいないと思うけれど、20%引きくらいでの販売だとしたら、3000~3200円くらいでしょうか。 一ヶ月後にソフトが発売されるのに、現在まだ上映中。いつまで上映されるのか?、観客が入る限り? 6月2日現在で、日本での興行収入212億円、観客動員数1601万人を超えたそうです。 まだ上映が続いているので、記録はまだまだ伸びることになりそうです。
2014年06月15日
コメント(0)
YouTubeでブローニング・オートマチック・ライフルを実射する動画を見ていたら、その横に面白い動画があった。 イスラエル製のウージー短機関銃を金髪の女性が撃っている動画です。 YouTubeから、こちらです。 インストラクターのおじさんに指導を受けて撃っている。最初はセミオートで、つづいてフルオートで。 弾が出なくなって、おじさんが「やりかたがわるいんじゃないかな、ちょっとかしてみ」、と、やっぱり出ない。 カメラが女性の可愛いお尻を写したりするのはサービスか? おいおい。 相手がきれいな女性だとおじさんも指導のしがいがあるようです。「ウージー短機関銃 IMI UZI 」 全長470ミリ(折りたたみストックを伸ばすと640ミリ)、銃身長260ミリ 重量3.7キログラム、 使用弾薬9ミリパラベラム弾、 発射速度600発/分 第二次大戦後の1950年にイスラエルが開発し、戦後の西ドイツ(当時)陸軍が採用したほか西側諸国で採用された有名な短機関銃です。 最初は木製ストック(動画のもの)のみだったのが、オランダ軍の要望を受けて金属製折りたたみストックのタイプ(写真)が作られ、現在はこの折りたたみストックタイプが一般的です。 アクション映画ではH&K MP5とともに、わりとよく見かけます。 最近はギャングが犯罪に使うサブマシンガンといったイメージがあるようですが、昔、1976年に「エンテベの勝利」というエンテベ空港ハイジャック事件をあつかった映画があって、アラブ諸国から抗議をうけて上映中止になったことで知られる作品ですが、この中で、エンテベ空港奇襲作戦を決行したイスラエル軍が使用していました。 レーガン大統領暗殺未遂事件のニュースがテレビに流れたときにはシークレットサービスの人が持っているのを見たおぼえがあります。
2014年03月31日
コメント(0)
アメリカのスーパーヒーローの活躍を描いた映画で、たとえば「スパイダーマン」を見ていると、戦っているスパイダーマンに多勢の市民が声援を送る場面があります。「ファンタスティック・フォー」にも同じように市民が声援を送るシーンが出てきますね。 このような場面は、日本のヒーローものには皆無なのではないか? なぜだろう?、と考えると、アメリカのスーパーヒーローたちは、まず市民の平和と安全を守ることを第一にしているからではないか。「スーパーマン」も「バットマン」もそうです。街で暴漢に襲われている女性を救う。 スーパーマンともなるとジェット旅客機を墜落から救ったり、豪華客船を沈没から救ったり、暴走する列車を止めたり、これらは人間離れした超人ならではですが、彼らは人々の安全を守ることを最重要としていて、悪漢退治は二の次という姿勢です。 ゴッサム・シティの安全を守るバットマン、ニューヨークの安全と平和を守るスーパーマンやスパイダーマン。 市民は自分たちの街を守ってくれるヒーローたちを自慢にし、誇りに思い、また身近な存在として愛している。 このような市民から愛されるヒーロー像は日本では見られないのはなぜか? 日本のヒーローは市民のことなどおかまいなし、悪者をやっつけることしか眼中にないようです。 アメリカでは、航空機事故や海難事故、鉄道事故、交通事故を防ぎ、救助し、夜の街では女性たちを暴漢や追いはぎから救う、高い木に登って降りられなくなった猫を救う、そのために活躍しているようなものです。 先日、「キック・アス」のところで書いたのですが、日本人がスーパーヒーローに求めるものは市民の平和を守ることではなく、ただ悪者退治だけをやっていればいいと思っているのか? 自分の身を挺して他人を救うこと。アメリカではこのようなレスキュー精神は古くからあるようで、またそれを理想としているようです。 このように見ると、日本のスーパーヒーローに子供ヒーローが存在するのは、ヒーローは悪漢退治さえしていればいいという思い込みからきているのだろうか? 小学生や中学生くらいの子供が市民の安全と平和を守るために日夜おこたりなく街をパトロールするとなれば、あまりにも守られる側の大人たちがだらしなさすぎる。 市民の平和を守るのは立派な大人の務めであり、だからアメリカには子供ヒーローが存在しない、のか。
2014年02月21日
コメント(0)
東映動画による日本初のカラー長編漫画映画とされる「白蛇伝」は1958年(昭和33年10月公開)だそうで、私はまだ見たことがありません。 東映動画の第2作「少年猿飛佐助」が1959年(昭和34年12月公開)で、こちらは内容はまったく覚えていないけれども、たしかに劇場で見たおぼろげな記憶があります。 少年猿飛佐助。お姉さんがいて、猿や鹿など山中生活での動物の友だちがいる。 佐助が戸沢白雲斎に弟子入りして忍術を習って修行する。山椒魚に姿を変えた鬼女のような夜叉姫と山賊を退治する猿飛佐助。 私が猿飛佐助を知ったのはこの時期(昭和34年か35年頃)のようです。 東映動画の「少年猿飛佐助」と、杉浦茂さんのヒョロヒョロ、レロレロ~とした感じの「猿飛佐助」の漫画。この杉浦茂さんの漫画はもう一度読んでみたいものです。 この時期の猿飛佐助はまだ「忍術使い」です。「忍術使い」が「忍者」というイメージになったのは、やはり白土三平さんの「サスケ」を「少年」(光文社の月刊マンガ誌)で読んでからで、その連載第1回(1961年4月号)をリアルタイムで読んだ、私は世代です。 柳生宗矩と服部半蔵、真田の忍者猿飛。少年サスケの微塵がくれの術と、猿飛の術。コケシ人形をめぐっての半蔵の妹が率いる忍者団と、30年間も洞窟に住むというお婆ちゃんが登場。 つづく笛吹き城下での辻斬り(通り魔)事件から、ミドリ沼に沈む翡翠(ヒスイ)と猛魚ピラニア。 このあたりまでの「サスケ」はおもしろいですね。 このような忍者冒険マンガとして出発した「サスケ」が、後半になると「階級闘争」がテーマに持ち込まれたことで陰惨な結末を迎えてしまう。 昭和38年、39年頃に子供たちのあいだに「忍者ブーム」が起こったきっかけは、「サスケ」と、テレビで放送された「隠密剣士」の第2部「忍法甲賀衆」以降の「忍法伊賀十忍」、「忍法闇法師」、「忍法風摩一族」などが圧倒的な迫力とアクションを見せてくれたこと。 それと昭和39年1月から始まった「忍者部隊月光」の面白さとカッコ良さ。私が忍者ごっこをしたのは、「隠密剣士」ではなくて「忍者部隊月光」の影響です。 猿飛佐助から脱線しましたが、猿飛佐助が「忍術使い」ではなくて「忍者」になったのはやはり白土三平さんからでしょうか? 仙人のような、「スター・ウォーズ」のオビ・ワンやヨーダのような、人里離れた深山で白い髭のお爺ちゃんに忍術を習って修行する。忍法というより魔法のようなもので、科学的な裏付けのないのが忍術。 白土三平さんの「忍法」はその解説がなされていて、なかには分身の術みたいな超高速で走らないとならない非現実的なものもありましたが、奇術師(マジシャン)の種明かしのような、一応は科学的な理屈のあるものになりました。
2014年02月13日
コメント(0)
映画「キック・アス」(2010)を見て、スーパーヒーローとは何ぞや?と。「スーパーマン」、「バットマン」、「キャプテンアメリカ」、「スパイダーマン」、「ファンタスティック・フォー」・・・・。 アメリカには1930年代から様々なスーパーヒーローたちがコミックの世界で活躍しています。 日本にもその影響が輸入されたのか、昭和30年代には「月光仮面」や「まぼろし探偵」、「七色仮面」、「ナショナルキッド」に「少年ジェット」などが誕生しました。 しかし、日本のヒーローたちはお気楽な感じで、何の悩みを抱くこともなく、ただ悪人を退治していればそれでいいのだ、といった感じがします。 映画「スパイダーマン」の有名な台詞で、「大いなる力には大いなる責任がともなう」というのがあります。 特殊能力を持つ者は、その力を他者の幸福のために用いる義務がある、というのですが、自分の生活を犠牲にして他者のためにつくさなければならない、というので主人公が悩むのですね。 恋も学業も友情も犠牲にして、ニューヨーク市民の平和を守るために日夜戦う。これは決して楽なことではないでしょう。 スーパーヒーローは悪と戦うのが本来の任務ではなくて、人々を危難から救うことがその仕事です。「キック・アス」の主人公は特殊能力も強い力も持たない、ただの高校生。 それがスーパーヒーローのコスチュームを身にして暴漢に襲われている人を救おうとする。 悪人を倒すのが目的ではなく、第一そんな力を持たないし、逆にやられてしまって、自分がボコボコにされても他者を救えるならそれで彼は満足なのです。 それが本来のスーパーヒーローのあるべき姿ですね。「君は誰かの役に立つことができるか?」というわけですが、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ大統領(1917~1963)の有名な台詞に、「国家が自分のために何をしてくれるかを問うのではなく、自分が国家のために何をなしうるかを問いたまえ」というのがある。 このケネディ大統領の台詞はアメリカ人にとって大きな理想なのではないか? だからアメリカ人は他者の幸福のために働くヒーローを描いたコミックや映画やテレビドラマが大好きで、そんな作品が昔から現在に至るまで数多く製作されているのではないか?と。 日本ではスーパーヒーローは他者につくすために存在するのではなく、悪党を退治するためにある、と勘違いされているのでは? だから日本のヒーローはすぐに飽きられてしまって、底の浅いヒーロードラマはしょせんは子供だましでしかなく、長続きしないかもしれない。
2014年02月06日
コメント(0)
2月14日です。 今朝から関東地方で大雪のおそれがあるとテレビのニュースで言っています。どれだけ降るという予想なのか、1センチ、5センチ、10センチ?「大雪」の定義とはなんでしょうか? 先日2月8日、9日の東京では記録的な大雪だと、テレビでは大事件が起こったかのような騒ぎ。 どれだけ降ったのかというと、わずか27センチ。 たったそれだけで、滑って転んで怪我したとか、スリップ事故が続出だとか、交通マヒだとか。 テレビでは、なんと雪道の歩き方まで解説しているし、屋根からの落雪が危険なので屋根の下に近づかないように注意しましょうなどと、幼稚なことを言っている。なんとも、あきれたことです。この人たちは恥ずかしくないのだろうか?「大雪」などと言うから、バカじゃないかこの人たちは、と思ってしまうのでしょうね。「大雪」ではなくて「積雪」と言えば良いのです。「関東地方で積雪のおそれがあるでしょう」と言えば、私たちも「そうなのか」と納得するのに。「大雪」という表現を避ければいいだけのことです。 わずか5センチ降っても大雪などと無神経な表現をするから、バカじゃないのこの人たち、と雪国の人たちが思うのです。 東北や北海道の厳寒・豪雪地の人たちもテレビを見ていることを忘れているのではないか。 わずか5センチで大雪などと言ったら、豪雪地帯の人たちからどう思もわれるか想像ができないのでしょうか、東京の人は。 10センチ降っても20センチ降っても、こちら北陸では大雪とはいわないし、ニュースにならないし、大騒ぎもしません。写真くらいの雪が降ってはじめて大雪と言えるのです。
2014年02月02日
コメント(0)
吉川英治さんの「三国志」。 新潮文庫版で第1巻「桃園の巻」を読んでいて、ちょっと気になった箇所があります。「白芙蓉」の章で、玄徳が黄巾賊の馬元義と李朱氾たちの虜になってしまう。「劉備は縛められて、斎堂の丸柱にくくりつけられた。そこは床に瓦を敷き詰め、太い丸い柱と、小さな窓しかない石室だった」、と。「この床に瓦を敷き詰め」という部分が耳慣れなくて、まず屋根瓦を床に敷くみたいなイメージを浮かべてしまいました。 良い歳をしてそんなことも知らないのか、と笑われるかもしれないけれども、瓦を床に敷くとはどういうことなのでしょう?「瓦」を辞書で引くと、1 粘土を一定の形に作り、瓦窯で焼いたもの。主に屋根を葺(ふ)く材料とするが、床敷きにも用いられる。2 値うちのないもの。くだらないもの。 別の辞書には1 粘土を一定の形に焼き固めたもの。多く屋根を葺(ふ)く材料とし,また地面にも敷く。中国から寺院建築に伴って伝来した。2 (玉に対して)価値のないもの。がらくた。 ↔ 玉 となっていて、ちゃあんと「床敷きにも用いる」、「地面にも敷く」と書いてありますねぇ。 まさか屋根瓦のような波打った曲面の形状であるはずがなく(あたりまえだ)、平板状のもので、現代風にいえばタイルを床に敷く、みたいな感じのようです。 ひとつ勉強をしました(笑)
2014年01月18日
コメント(0)
先日、加山雄三さんの映画「エレキの若大将」を見たことで、昔懐かしいエレクトリックギターのサウンドに魅了されたようです。 もう50年くらいも昔のエレキ・ブーム。当時の熱狂ぶりが懐かしく思い出されます。 まず、ザ・ベンチャーズの演奏をYouTubeから聴いてみてください。 The Ventures - 2009 Special Medley です。「急がば廻れ」、「パーフィディア」、「木の葉の子守唄」、「蒼い星くず」、「急がば廻れ」の4曲。「蒼い星くず」は加山雄三(弾厚作)さんの曲ですが、当時はベンチャーズも演奏していて、「夜空の星」と「君といつまでも」も、ザ・ベンチャーズ・ヴァージョンがシングルレコード盤になっていました。 私の思い出では、加山雄三さんとザ・ワイルド・ワンズ、ブルー・コメッツ、そしてザ・ベンチャーズは同じ範囲内にあるようです。 そして、ベンチャーズで忘れてならないのは、「二人の銀座」(山内賢さんと和泉雅子さんのデュエット曲)、渚ゆう子さんの「京都の恋」、「京都慕情」です。これらのヒット曲もベンチャーズの作曲でした。 ザ・ベンチャーズ。私よりも年上のおじさんたちですが、そのカッコいいこと! 私も、自分で干物の魚などと言ってはならない、見習わないとね。
2013年11月03日
コメント(0)
ビートルズが来日したのが1966年(昭和41年)6月29日で、翌30日と、7月1、2日に東京の日本武道館で公演が開催されました。 当時、中学2年生だったのですが、私はあまり関心がなかったですね。 ザ・ビートルズは、友人のなかに熱心なファンがいたけれど、私は当時も今も、いいなと思ったことはないようです。 当時はビートルズよりも、アメリカのザ・ベンチャーズとスウェーデンのザ・スプートニクスが好きでした。 ザ・ベンチャーズとザ・スプートニクスが結成されたのは同じ1959年だそうです。 ともにエレクトリックギターのインストゥルメンタル・バンド。 そのエレキギターのサウンドに大いにシビレたものです。 写真は当時私が持っていたスプートニクスの「モスクワの灯」の45回転シングル盤です。B面は「悲しみのベルリン」。ポリドールレコードの盤で、たしか定価370円だったかと?「空の終列車」、「霧のカレリア」など、その演奏は哀愁のあるもので、美しいサウンドです。 映画「大砂塵」(54)の主題歌「ジャニー・ギター」は、ペギー・リーさんの歌唱が有名ですが、スプートニクスも演奏していて、その演奏は独特の趣があります。 ちなみに「ジョニー・ギター」と表記する人がいるけれど、正しい日本語表記は「ジャニー・ギター」です。 ザ・ベンチャーズのほうは、日本で人気に火が付いたのは1965年の、2回目の来日からです。 ベンチャーズの影響を受けて日本でグループサウンズ・ブームが起こった。 同じエレキサウンドでも、スプートニクスとはまったく異なるダイナミックなサウンドですね。 ベンチャーズ・サウンドは日本を席捲したといえるくらいで、大げさですが、それほど当時の若者を魅了しました。「ダイヤモンド・ヘッド」、「パイプライン」、「さすらいのギター」。 こういうのを聴くと、老骨の身が震えます。干物の魚が泳ぎだす、ですか。
2013年11月02日
コメント(0)
「司馬遼太郎が考えたこと」第5巻(新潮文庫)の244ページ「無題(アンケート回答)」で、司馬さんは、戦後のある時期に日本は有史以来、弥生式以来の大変化が訪れたように思う、と語っています。 現代の日本は飢えから解放されたという意味で、日本は新しい時代に突入したと。 この司馬さんの文章は昭和46年(1971)7月のものですが、現代の日本は飢えることがなく、飢饉はおとぎ話であると。 そして、今後は「自殺者がふえるだろう」と。人間は飢饉との戦いがあったからこそ、生き続けて来たとして、この条件がなくなったいま、生きることへの執着はかなり希薄になっていくだろう、と司馬さんは語っています。 2013年の現在。さらに生きることへの執着は薄くなっているかもしれない、と思います。 自分自身が、それほど生きたいとは思わなくなっています。 死んでしまえば、すべての苦労や苦痛、苦悩から解放されるとすれば、死んで楽になるのもいいではないか?と考えたりする。 死ぬことがそれほど恐ろしいとは思わなくなり、この世への未練もなくなっています。 日本における自殺者の数は、平成24年度は2万7858人という統計がありますが、それ以前は毎年3万人から多い年では3万4千人を超えていました(平成15年)。 平成9年までは2万~2万5千人だったのが平成10年から急に増加して3万人以上を数えるようになった。実際の自殺者数はもっと多いとも言われています。 司馬遼太郎さんが昭和46年に今後は自殺者が増えるだろうと予見したのですが、まさにそのとおりの時代になっています。 3万人という数は、数字だけを見てもピンときませんが、毎年開催される東京マラソンの参加者数が約3万人ですね。 テレビで誰かが言っていた例えですが、この東京マラソンの3万人がそのまま東京湾に飛び込んで消滅するのと同じことが毎年おこっているのだと。 よく「命の大切さを子供たちに教える」とか言うけれども、そらぞらしく聞こえるのは私だけでしょうか?
2013年10月21日
コメント(0)
全104件 (104件中 1-50件目)