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かねてから行きたいと思っていた小田原市にある「紹太寺のしだれ桜」を愛でに、併せていつものように近隣の寺社史跡巡りをした。この時期 ”菜種梅雨” のため何処へも行けず曇り空であったが、雨が降らないとのことで愛車のノートで訪れた。4月6日(月) 11:55長興山・紹太寺門前この門前は旧東海道で、平成30年(2018)12月4日(火)に旅友のKさんと歩いている。その時に「紹太寺の枝垂れ桜」の存在を知りいつか来たいと思っていた。因みにこの時は、国府津から三枚橋まで歩き約29,900歩であった。その時のブログは「国府津から三枚橋へー6」👈をクリック願います。カーナビを「紹太寺」にセット、西湘バイパスを走り箱根新道手前を国道1号を走り門前へ。自宅から約35キロ、所要時間50分と(Googleマップより)。黄檗宗(オウバクシュウ) 長興山・紹太寺春日局ゆかりの禅寺長興山紹太寺の文化財 重要文化財(小田原市指定) 宗派:黄檗宗(禅宗) ・稲葉氏一族と春日局の墓 ・長興山開発供養塔 開山:鉄牛和尚 ・鉄牛(テツギュウ)和尚の寿塔 ・鉄牛和尚の画像 本尊:釈迦如来 ・長興山紹太寺の境内絵図 ・鉄牛和尚の血書 開基:稲葉美濃守正則 重要文化財(小田原市指定) ー第二代小田原藩主 ・長興山のしだれ桜 ・長興山の樹叢 本山:黄檗山万福寺 (京都府宇治市五ヶ庄)太閤一夜城と長興山史跡巡りコース旧東海道沿いに立つ寺号標石。枝垂れ桜を見に訪れる人が多いのか、交通整理のおじさんが2名おられた。長興山紹太寺(ショウタイジ)紹太寺は、江戸時代の初期(寛永9年(1632)~貞享2年(1685))小田原藩主であった稲葉氏一族の菩提寺で黄檗宗(オウバクシュウ)大本山萬福寺の末寺である。はじめ小田原城下山角町(現・南町)に建立された臨済宗の寺院であったが、寛文9年(1669)稲葉正則は寺を入生田牛臥山のこの地に移し、黄檗宗長興山紹太寺と号して、父母及び祖母春日局(徳川三代将軍家光の乳母)の霊を弔った。往時は寺城方10町(1092m四方)に及ぶ広大な地に七堂伽藍の整った大寺院であった。元禄4年(1691)この地を通過したオランダ商館医師ドイツ人ケンペルの紀行文にも、その壮麗な姿が描かれている。しかし、幕末と明治初年の火災で焼失してしまった。現在の紹太寺は、その折、難を逃れた子院の清雲院がその法灯を継いでいる。現在の市指定文化財 ●稲葉一族の墓所と鉄牛(テツギュウ)和尚の寿塔 ●長興山開発供養塔 ●長興山紹太寺の境内絵図 ●開山鉄牛和尚の画像 ●鉄牛和尚の血書 ●長興山のしだれ桜 ●長興山鉄牛和尚寿塔付近の樹叢旧東海道沿いから参道を見る。交通整理の方から「参道手前は個人の駐車場です」と。門前を横切る旧東海道の江戸方面を振り返る。反対の箱根側には箱根登山鉄道の「入生田(イリウダ)駅」がある。寺号標石の西側に地蔵が並んでいた。赤い前掛けで飾られた六地蔵。六地蔵この六地蔵には、寛永・慶安・寛文などの年銘があり、一時に造立されたものでないことがわかります。江戸時代初期の石仏で、このようにそろっているのは、小田原地方では貴重な存在です。六地蔵には花が供えられていたが自由奔放に立っていた。参道には桜が満開であった。長興山紹太寺総門(大門)跡紹太寺の総門は、東海道に面したこの場所にありました。元禄四年(1691)ドイツ人博物学者ケンペルは、江戸に向う途中、この総門をみて彼の著書「江戸参府紀行」に次のように記しています。「入生田村は、小さな村で、その左手の四角の石を敷き詰めた所に紹太寺という立派な寺がある。この寺の一方側には、見事な噴水があり、もう一方の側には、金の文字で書かれた額があり、しかも前方には、金張りの文字のついた石造りの門が立っている。」この長興山の扁額は、黄檗宗の開祖隠元禅師の書き下ろしたもので現在子院清雲院(現・長興山紹太寺)の本堂正面に掲げられています。なお、現在道路の左側に積み上げてある加工された石は、この総門に使われていたと考えられます。 小田原市教育委員会この場所は個人の駐車スペースになっているとのことで北側へ移動。交通整理の方に駐車場を聞き紹太寺横へ駐車。駐車スペースの向かい側に石碑、石燈籠が立っていた。字が刻まれていたが判読できなかった。説明板がなく詳細は不明。指定エリアに駐車(無料)し坂を下り紹太寺の入口へ。紹太寺 境内案内左下に「山神神社」があったので先に参拝することに。宮沢川を渡り紹太寺境内を振り返る。仮設トイレがあった。鬱蒼とした林の中へ入ると「入生田の山神神社」と。小田原市指定保存樹林この樹林は、小田原市緑と生き物を守り育てる条例に基づき、小田原市と市民が一体となって、緑豊かな住み良い環境づくりをするために指定されたものです。 指定番号 第13号 指定年月日 平成8年2月14日 所 在 地 小田原市入生田288番地1ほか5筆 主要な樹種 スタジイ、カヤ、ケヤキ、モミ 面 積 1,900㎡ 小田原市環境部山神神社の境内から階段を下り旧東海道から「市指定保存樹林」を見上げる。鳥居をズームアップ。階段両側には祭礼があったのか笹が立っていた。旧東海道のこの先に紹太寺の入口がある。民家の北側は格子戸作りになっていた。格子戸に花が飾られていた。箱根方面を望む。この先の左側に入生田駅、また約2キロで三枚橋へたどり着き、いよいよ箱根路になる。山神神社所在地:神奈川県小田原市入生田289ネットで神社の名は、さんしん、やまがみ、さんじんとあったがどれが正?。長い石段を登った境内は鬱蒼たる照葉樹に覆われており、薄暗い中に社殿が建っている。社殿の屋根は銅板葺きで重厚な構えである。境内へは、旧東海道からは長い階段があるが、紹太寺からはフラットである。巨木の下に手水舎があった。大山祇命と木花咲耶姫命を祭神とし、林業や石切の仕事をする人たちが祀ったものという。拝殿の扁額「山神社」。拝殿入口の彫り物ズームアップ。右側の木鼻左側の木鼻社殿の左側に建っていたのは神楽殿であったか。神楽殿の右奥に立っていた石碑。石碑には富士の絵が刻まれ、「佐久夜毘賣命 天下泰平 村中安全」と。12:15社殿の左側から見る。寺社の屋根は銅板葺きが多くなっているが、近年は銅は貴重品で「神社の塀の銅板屋根を盗む」という輩もいる世知辛い世になっている。まさか社殿の銅板までは・・・。 ー 続く ー
2026.05.14
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昼食を終え、松原神社へ立ち寄り、小田原城経由三枚橋へ向かう。小田原宿は、江戸から20里、箱根越えと関所を控え、上りは二泊目(足の弱い人は三泊目)の宿として、下りは箱根越えのあとの泊まり客が多かった。そのため本陣4軒、脇本陣4軒、旅籠95軒と宿泊施設が多いのが特徴である12/4(火) 13:03旧東海道の宮前町小田原宿 脇本陣古清水旅館 2F資料館「8月15日の小田原空襲」まさに敗戦当日、深夜1時か2時頃、小田原市は米軍の戦略爆撃機B-29、一機による焼夷弾空襲を受けた。小田原空襲の直前には、埼玉県熊谷市と群馬県伊勢崎市が空襲を受けており、その二都市を攻撃した編隊の内の一機が、マリアナ諸島の米軍基地へ帰還する途中に小田原を空襲したものと考えられる。米軍のその日の作戦任務報告書には、小田原空襲の記載は一切なく、計画されたものではなかったと小田原宿 清水金左ヱ門本陣跡天保年間(1830~1844)当時、小田原宿には4軒の本陣、4軒の脇本陣、95軒の旅籠があった。このうち、清水金左ヱ門本陣跡と片岡永左ヱ門本陣跡は、明治天皇が全国巡幸のおり宿泊していたことから、それぞれ「宮ノ前行在所」「本町行在所」として小田原市の指定史跡となっている明治天皇宮ノ前行在所跡明治天皇宮ノ前行在所跡この場所は、明治天皇が宿泊した清水金左ヱ門本陣のあった場所。本陣の敷地面積はおよそ240坪で、大名、宮家などの宿泊にあてられた。明治天皇が宿泊したのは、明治元年(1868)10月8日の御東行の際を初めとして5回を数える13:05昼カラオケ(12:00~16:00)、1000円で歌い放題13:06旧東海道からそれて、小田原宿総鎮守の松原神社へ松原神社鳥居所在地:小田原市本町2-10-16神輿を納めている「神庫」祭り時の写真松原神社社誌吉兆の大亀天文14年(1545)3月、小田原の海岸に現れた大亀を土地の者が当社の池に持参したところ、小田原北条三代当主氏康は、これを聞き、吉兆なりとて参詣し舞を奉納した。果たして翌天文15年、関東管領上杉軍八万の兵を、わずか八千の兵で見事に破り【河越夜戦】念願の関八州の平定に成功した松原神社の鳥居と本殿13:11松原神社から旧東海道への参道13:13小田原宿は、東海道起点の江戸日本橋からおよそ80kmの距離にあり、第一宿の品川宿から数えて九番目の宿場で、通常は途中一泊してここに到着した。東は徒歩(カタチ)渡り(10月から3月の間は橋が架けられた)の酒匂川、西は東海道一の難所箱根越えが控えていたので、小田原で宿泊する人が多く、常時90軒前後の旅籠が軒を連ねていた小田原宿なりわい交流館本町交差点、石柱は「宮前町」小田原宿は宿泊者が多かったため、土産物や旅の必需品を売る店も多く、蒲鉾・梅干ういろう・小田原提灯などが小田原の名物として広く知れ渡るようになった本町交差点石柱は「宮前町」、正面方向は国道一号線で小田原駅へ、右折は旧東海道宮前町小田原北条氏時代、この町は上町、下町に分かれていたとの伝え。江戸時代には、町の中央に城主専用の出入口である浜手門と高札場があり、同時代末期町内には本陣1、脇本陣2に旅籠が23軒ほどあって隣の本町とともに小田原宿の中心であった片岡本陣跡小田原宿には4軒の本陣があり、片岡本陣もその一つです。伊予(愛媛県)松山の松平家などの大名家が定宿としていた。幕末の当主片岡永左ヱ門は明治時代には小田原町の要職を歴任し、当時の貴重な記録を数多く残している13:16明治天皇本町行在所跡明治天皇がこの場所に宿泊したのは、明治11年北陸・東海御巡幸の際、11月7日の事本町の石柱小田原北条氏時代、この町は通小路といわれていた。江戸時代前期にこの町を基準にして、城下の町人町を左右に町割りしたとき、本町と改められた。隣の宮前町とともに小田原宿の中心で江戸時代末期には本陣2、脇本陣2に旅籠が26軒ほどあった13:17久保田本陣跡小田原宿には4軒の本陣があり、久保田本陣はその一つ。紀州徳川家や九州の黒田家鍋島家、中国地方の毛利家といった大名家が久保田本陣を定宿としていた。なお、久保田氏は、江戸時代の前期から町年寄や名主役も務めていた旧東海道(国道一号線)、御幸の浜交差点御幸の浜(ミユキノハマ)は、明治6年(1873)明治天皇と皇后がおそろいで、当海浜において漁夫の地曳網をご覧になり、以来「御幸の浜」と呼ばれるようになった13:19中宿町この町には、上の問屋場が置かれ、高梨町の下の問屋場と十日交代で勤めていた。町内には御用商人の小西家があり、江戸時代末期には脇本陣1、旅籠が11軒ほどあった13:20清水彦十郎本陣跡小田原宿には4軒の本陣があり、清水彦十郎本陣もその一つ。出雲松江の松平家や美濃大垣の戸田家などの大名家が定宿としていた旧東海道(国道一号線)沿いの「ういろう本店」所在地:小田原市本町1-13-1713:21欄千橋町ういろう(外郎)本店創業600年、日本最古の薬屋。先祖は中国「元」の官僚で、中国での官職名「礼部員外郎」から「外」の字を唐音で「うい」と読んで「外郎(ウイロウ)」と名乗った。江戸時代中期の歌舞伎役者二代目・市川團十郎は持病が「ういろう」で治ったことから、歌舞伎に「外郎売」の台詞を創作して取り入れ宣伝した13:23旧東海道(国道一号線)から小田原城へそれる三の丸小学校の脇にある「箱根口門跡」町並みに合わせた小学校デザインが「都市景観大賞受賞」三の丸小学校の正門13:26国指定史跡 小田原城日本百名城の一つである。15世紀後半に西相模一帯を支配していた大森氏の小さな山城だった小田原城は、明応4年(1495)、後の北条早雲が大森氏を攻め滅ぼしてから、北条氏の居城となった。以降、城下町全体を総構と呼ぶ9kmに及ぶ土塁や堀で囲み、堅牢な城郭を築いて難攻不落を誇った小田原城の石垣小田原城 馬出門小田原城南曲輪西南二重櫓13:27報徳二宮神社二宮金次郎こと二宮尊徳を御祭神とする神社。学問の神として親しまれ、ブロンズの金次郎像がある13:28報徳博物館二宮尊徳の実績と思想・方法論を紹介している博物館13:28木の合間からの天守閣13:30清閑亭(セイカンテイ)の正門だが、本日は休館日と清閑亭(セイカンテイ)(黒田長成別邸)黒田長成侯爵の別邸だった邸園(邸宅と庭園を合わせた造語)。明治39年(1906)黒田家が別荘を造営、その後、平成17年(2005)に建物が国登録有形文化財となり、翌年には敷地が国の史跡に指定された。清閑亭の特徴は、格式ばらない近代数寄屋建築の建物と、その座敷から見ることのできる相模湾の大らかな眺望にある13:31小田原城の西方向の天神山からの天守閣13:32天神山の石柱地名の由来は、この地に南側中腹に天神社が祀られていたので、この名があると。この社には室町時代の天神画像が伝えられており、この地名の古いことがわかる。なお、天神山には社の背後に小田原北条氏時代の三の丸の空堀が東西に延びていた13:34八角(ヤマカク)天神社の菅原道真画像芭蕉の句碑有米家可耳 乃都登 日能伝る 山路閑難(ウメガカニ ノツト ヒノデル ヤマジカナ)山角天神社地元の人々から「天神さん」と親しまれている山角天神社は、菅原道真を祭神とする神社で、毎年1、5、9月に例大祭が開かれる山角天神社「天満宮」鳥居瓜生外吉海軍大将之像日露戦争で活躍し、1912年に海軍大将に昇進した。ここから西に200m程の高台に別荘を設けた。海を眺めての小田原の生活をこよなく愛した13:37対潮閣(山下亀三郎別邸)跡、秋山直之終焉の地明治時代から小田原には、伊藤博文、山縣有朋、益田孝(純翁)、田中光顕、北原白秋など多くの政財界人や文人が居を構えたり訪れていた。山下汽船(現・商船三井)の創業者山下亀三郎の別邸「対潮閣」の正面入口がこの辺りにあった。対潮閣には、山下と愛媛の同郷であった海軍中将秋山直之がたびたび訪れ、山縣の別邸「古稀庵」を訪ね「国防論」について相談していたが、患っていた盲腸炎が悪化し、大正7年(1918)2月4日未明に対潮閣内で亡くなった(享年49歳) 小田原宿-3 小田原宿続く
2019.01.20
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この日はかねてより購入していたコンサートへ。8月27日(土)の『レ・フレール&神奈川フィルハーモニー管弦楽団 ジョイント・コンサート』に続いての演奏会である。9月11日(日)茅ヶ崎交響楽団 第78回定期演奏会入場料 1,000円 全自由席・当日券あり指揮者のプロフィール指揮者「碇山隆一郎」鹿児島県喜界島初の指揮者。幼少よりピアノとエレクトーンを学び、浜松学芸高等学校に入学し専門的な音楽教育を受ける。東京音楽大学指揮科では指揮を広上淳一、汐澤安彦の各氏に師事。在学中より演奏活動を開始し、現在まで各地のオーケストラと演奏会を行っており、バロックから近現代までさまざまなジャンルをレパートリーを持っている。・・・・・後略。13:25茅ヶ崎市民文化会館昼食後愛車のリンちゃんで出かけ13時開場の大ホール前へ。今回は自由席のため席取りで一階席へ。二階席への途中ホールを見下ろす。数年前に耐震構造工事が終了したので柱が太い。茅ヶ崎交響楽団の紹介 団長 西山実、コンサートマスター 藤本康嗣1983年に、市内、近郊のアマチュア演奏家を中心に約50名で発足し、地域の音楽振興および音楽を通じての社会貢献を目的として活動しており、これまでに77回の定期演奏会を主催してきました。市制の祭典や市民音楽祭などにも積極的に参加しており、特に、市民による第九演奏会には18回、オーケストラ演奏として参加しています。また、小編成でのアンサンブル活動として公民館での室内楽コンサート、老人保健施設や美術館、図書館などでのコンサートなど地域に密接した活動も行っています。現在、在籍している団員は67名。毎週日曜日の夜に、主に茅ヶ崎市総合体育館地下にあるオーケストラ練習室に集まり、地域の皆さまに喜んでいただける演奏ができるよう、練習を重ねています。団員募集のご案内茅ヶ崎交響楽団では現在、以下のパートを募集しています。 ♪ ヴァイオリン ♪ ヴィオラ ♪ チェロ ♪ コントラバス ♪ ファゴット 前回と同じ二階席の後方に席を取る。二階の最前列に演奏を撮影するカメラマンが待機していた。茅ヶ崎交響楽団の演奏は、今年1月22日(土)に続いて2度目である。ステージ上の配置も完了。本日のプログラム前半の部1、メンデルスゾーン/序曲「ルイ・ブラス」2、モーツァルト/交響曲第35番「ハフナー」 第1楽章 Allegro Con Spirito 第2楽章 Andange 第3楽章 Menuetto 第4楽章 Presto後半の部3、シューマン/交響曲第3番「ライン」 第1楽章 Lebhaft 第2楽章 Sehr Massig 第3楽章 Nicht Schnell 第4楽章 Feierlich 第5楽章 Lebhaft14:00演奏者が入場。演奏者全員が集まり音程の調整。第1 ヴァイオリンのリーダーが音程の調整役。14:04指揮者が壇上に、演奏者も立ち上がり挨拶。指揮者の碇山さん。指揮者はマスクをつけていないが演奏者は全員マスクを装着。最初に、メンデルスゾーン/序曲「ルイ・ブラス」。前半の部の、1、メンデルスゾーン/序曲「ルイ・ブラス」 この曲は『レ・ミゼラブル』の著者でも有名なフランスの小説家ヴィクトル・ ユーゴ―の戯曲「ルイ・ブラス」の上演にあたってメンデルスゾーンが作曲し たものです。メンデルスゾーンは実はこの戯曲があまり気に入っておらず、 たった3日間で作ったという説のある曲であるものの、荘厳なファンファーレ、 そして続く憂いを帯びたせつなくメロディはとても情熱的で、皆様を音楽の 世界に一気に引き込む曲となっています。2、モーツァルト/交響曲第35番「ハフナー」 結婚を目前に控えたモーツァルトが1782年7月、オーストリアのザルツブル クのハフナー家が貴族になったことを祝う祝賀会のために作曲したセレナー デ。その後、そのセレナーデを交響曲に編曲したかったモーツァルトが、返 却を何度も依頼してまで手に入れたセレナーデの楽譜を元に、1783年3月に 交響曲として完成した曲です。初演はウィーンの劇場でモーツァルト自身が 指揮をし、大成功をおさめたと言われています。 ・・・・・後略モーツァルト/交響曲第35番「ハフナー」。指揮者は暑いようで演奏の合間にはハンカチで汗を拭い。モーツァルト/交響曲第35番「ハフナー」も終盤に。14:33前半の部が終了し立ち上がって挨拶。14:46前半が終了、20分の休憩になると。前回もそうであったが、コンサートの場合は休憩時間が20分。14:55後半の部が始まる。後半部の準備で音程調整。14:58指揮者が壇上へ。後半の部の、シューマン/交響曲第3番「ライン」が始まる。3、シューマン/交響曲第3番「ライン」 「ライン」という副題で親しまれるこの曲。実はラインという愛称はシュー マン自身がつけたものではなく、この曲の持つ雰囲気が明るく開放的なドイ ツ西部に位置するライン地方のそれに似ていることからつけられたものです。 当時のシューマンは、盟友メンデルスゾーンの訃報を受け、またドレスデン での生活に疲れ、妻クララと共にライン地方のデュッセルドルフに移り住み、 その直後に作られたのが、この「ライン」です。・・・・・後略15:00ヴィオラ、チェロ、コントラバスの弦楽器。フルート、トランペット、クラリネット等の管楽器。シューマン/交響曲第3番「ライン」は、第1楽章から第5楽章まで演奏。ヴァイオリン、ヴィオラの弦楽器15:07座席数 1,381席(1階 1,043席、2階 338席)であったが入場者は4分の一程度か。第1楽章は、ライン川の雄大な世界観に誘うような雄大なメロディーで始まり、川の流れの力強さを感じる楽章です。流れが早く航行の難所とも言われたローレライと関わりがあるとも言われるこの楽章は、かつてN響アワーのオープニングでも流れていたので、聴き馴染みのある方も多いかもしれません。第2楽章では、のどかな田園風景を彷彿させるこの楽章は、コブレンツからボンまでの町のイメージと言われています。途中に聞こえてくる細かい音の旋律が、そこで生きる人々の様子を表しているようです。第3楽章は、さらに川下に向かったボンからケルン。さらにゆったりとした流れを感じさせてくれます。弦楽器の美しい旋律が、落ち着いた人々の暮らしを想像させてくれます。第4楽章は、ケルンにある大聖堂。非常に荘厳な雰囲気で美しい楽章です。人々の持つ苦悩や悲しみが渦巻き、しかし、それらが少しずつ神により救われて安らぎや悟りへと向かっていくような、とても神々しさを感じる楽章です。15:30第5楽章は、デュッセルドルフのカーニバルをイメージした曲。この地域一帯の経済の中心的な役割を果たす街のお祭りを楽しむ人々の様子が目に浮かぶような軽やかな楽章。その軽快さを保ったままフィナーレとなります。15:30全ての演奏を終える。15:31指揮者がいつものように演奏者をねぎらう。15:31指揮者から紹介され演奏者は立って答える。ティンパニの小幡秋歩さん。今日の演奏曲目全てを終え演奏者とハイタッチの指揮者碇山さん。15:32指揮者が退場。手拍子が鳴りやまず恒例のアンコールに応えて再登場。15:37聴きなれた曲であったが、アンコールの演奏も終わる。カメラマンもご苦労様でした。15:39演奏者も退場して演奏会が終了。第78回 定期演奏会 出演者名簿チケット売り場でもらったウィーン弦楽合奏団「クリスマス/アヴェ・マリア」2022年12月25日(日) 14:00 開演茅ヶ崎市民文化会館 大ホール 9月14日に発売開始、全席指定で 4,800円(税込)。15:44途中に20分の休憩があり実質1時間強の演奏であった。皆さん満足して会場を後にし家路に。シューマンの曲は初めて聞いたが、ラインの流れと共に下ったような気になった・・・。 END
2022.09.21
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成就院で”なんじゃもんじゃ”を見た帰りに、大山街道(田村通り大山道)の一部を走る。旧東海道の大山道の起点「四ツ谷不動尊(田村通り大山道入口)」ここからの田村通りは大山道の中で最も主要とされ、起点の藤沢四ツ谷に置かれた石造の「一の鳥居」は、万治4年に木造で設置された後、昭和35年に大改修された。所在地:神奈川県藤沢市城南1丁目1四谷不動(大山道標)東海道と大山道が交差する四谷辻に建てられていた道標で、大山不動尊の下、正面に「大山道」、両側面に「これより大山みち」とあります。延宝4年(1676)に江戸横山町の講中が建てたものです。堂外の道標が初代のもので、万治4年(1661)に江戸浅草蔵前の講中によって建てられたものです。江戸時代を通じて、江戸町人の大山参詣が盛んでした。四谷辻には多くの茶屋が立ち並び参詣客を誘いました。今でも7月1日の大山開きには、四谷町内会の年中行事として、辻堂元町の宝珠寺の住職のもと護摩供養が行われています。 平成5年2月 藤沢市教育委員会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4月23日(金) 11:18県道404号線(小出県道)の高田交差点を左側に入り県道44号線を東へ進む。この通りは県道44号線の伊勢原藤沢線(田村通り大山道)であるが狭い。前方は「熊野神社」の森熊野神社(くまのじんじゃ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市高田1丁目10-44茅ヶ崎市高田の鎮守社で、大岡忠相の父が徳川将軍から拝領された地で熊野大神が奉られています。現在の社殿は昭和2年に建てられたものです。敷地内には日枝神社(山王社)があります拝殿の扁額「熊〇社」拝殿右側にある稲荷神社由 緒元和3年森武右エ門が一族狼徒を連 高田に土着をし屋敷内に京都伏見稲荷大神系の秦野大泉に鎮座する白笹稲荷神社の分霊を勧進建立をしたの始です。その後、同屋敷内に紀州熊野本宮を分霊し熊野神社を建立をして、その機会に同屋敷を分割をして熊野神社境内社として現在に至ている。当然今の社殿は当時の物とはちがいます。森家を始め高田人々の篤い信仰を受けて、大切に保存されています。 令和三年初午 森 久雄謹書正一位○○稲荷大神白笹稲荷大神高田総鎮守 熊野神社高田の鎮守熊野神社は、万治元年(1658)に高田村の領主大岡氏が紀伊国熊野本宮より遷祀された神社で、熊野大神が奉祀されております。慶長8年(1603)に大岡兵蔵(忠吉公)が、高田村のうちで160余石を徳川将軍より賜わり、爾夜、明治維新に至るまでその子孫の采地であったのです。熊野神社を創建されたのは大岡隼人(忠高公)で、越前守忠相公の父君にあたる方です。現在の社殿は、勿論当時の建物ではなく、昭和2年に高田総氏子によって新築されたものです拝殿の左に「日枝神社」当社は、享保5年(1720)に大岡氏が、近江国東坂本の山王大権現を分祀された神社で、祭神は大山昨命であります。昔の社殿は、山王山と稱する丘陵上に建てられていて、そこは青々と松が茂り、高田耕地を眼下に見下す景勝の地でありましたが、後に、熊野神社境内に移されたものです。現在の社殿は、昭和47年に新築された建物です日枝神社の扁額「山王社」拝殿と右に神輿殿拝殿の右奥には、庚申塔、地神塔、太白金星大金神田村通り大山道沿いには数基の墓石一番手前は「元禄十四年七月 吉日」と熊野神社から大山街道を東へ進み直ぐ右側にあるお寺街道沿いの石柱には「日蓮宗 本在寺」日蓮宗 本在寺(ほんざいでら)所在地:神奈川県茅ヶ崎市高田1丁目7-38立派な山門手前に駐車場がありここへ駐輪して境内へ山門を入ると正面に本堂本尊は十界曼荼羅本尊本堂の扁額「○○山」本堂前から山門山門左に立つ、日蓮聖人之像本在寺前から大山街道を振り返る。街道正面に熊野神社街道を進むと「赤羽根六地蔵堂」所在地:神奈川県茅ヶ崎市赤羽根毛糸の帽子を被り一、地獄道、二、餓鬼道、三、畜生道、四、修羅道、五、人道、六、天道広場に「大山街道句碑」添田唖蝉坊、杉﨑鳥花句「春風や いそがぬ人の そでを吹く」「密会の かなしみを泣く 蛍かな」 添田唖蝉坊は、明治大正期の演歌師で名は平吉。神奈川県大磯の生まれで一時茅ヶ崎に住んだ赤羽根六地蔵堂から大山街道(田村通り大山道)の西方向を望む。昔は天気が良いと富士山が見えたのであろう大山街道(田村通り大山道)を東へ進み「神明大神の参道入口」右側は「水越家の長屋門」大山道が通る赤羽根の神明大神の参道前には、樹齢400年以上と思われる大ケヤキがあります。この部分の道幅は約3.6メートルあり、天保12年(1841)にまとめられた『新編相模国風土記稿』にある「道幅約2間」に一致しています。かつての大山道を偲ぶことができる貴重な場所です。しかし根元は車等で疲れてきているようだが養生は?水越家の長屋門神明大神社 一之鳥居所在地:神奈川県茅ヶ崎市赤羽根468大山街道(田村通り大山道)に建つ鳥居、神明大神へはここから参道を約200メートルほど進む参道には杉林があるが近くに住宅ができ徐々に伐採右側に鐘楼鐘 楼梵鐘の下には鉄柵で安全確保鐘楼、一之鳥居を振り返るここまで自転車で来る高架橋の向こうに神明大神新湘南バイパスが境内を横切るように建設されたため、下にも道路があり歩道橋を渡り境内へ。昭和63年(1988)3月に完成した神明歩道橋神明歩道橋の上から東方向を望む。この辺りには20年以上前に惜しまれて閉店した、カラフルな田代ラーメンの店舗が残っている。また、下の一般道には参宮橋があるとのことで次回確認したいものです後日確認した、20年以上前に惜しまれて閉店したカラフルな田代ラーメンの店舗であろうか。外から見るとライトが点いていたが。昔、現横浜ベイスターズの田代内野手が経営した店神明大神の二之鳥居手水舎と拝殿鶴嶺八幡宮が兼務、神職不在の神社拝殿の右側に神輿殿 境内が広い赤羽根神明大神 掲示板祭 事一月 元旦祭七月 浜降祭(海の日)九月 例大祭(第三日曜日)神明大神社 一之鳥居と大ケヤキ道路が狭いので大型車は進入禁止になっている県道44号線(田村通り大山道)県道44号線(伊勢原藤沢線:田村通り大山道)の室田小学校正門交差点大山街道(田村通り大山道)から南へ200メートルほど入りバス道へ道祖神昭和三十三年正月十四日 室田部落講中八王子神社(室田)の鳥居所在地:神奈川県茅ヶ崎市室田1丁目13-35鳥居の扁額「八王子神社」八王子神社拝殿奥に神輿殿拝殿の左の脇障子には龍の彫り物拝殿の右の脇障子拝殿から鳥居を見下ろす県道44号線(田村通り大山道)に戻り街道脇に「松林村役場跡」県道44号線(伊勢原藤沢線:田村通り大山道)を東へ進む。左上は新湘南バイパスの高架かつては数件のスナックが経営していたが、現在は一軒のみ。この辺りは、茅ヶ崎市菱沼1丁目ジャーマンアイリスが咲いていた END
2021.05.13
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宗賢院は、永正二年 (1505) の創建と伝えられる曹洞宗の寺院。開山は虚堂玄白、開基は宝珠院殿華窓智栄大姉。4月19日(水) 16:25参道を進むと右側に建つ「宗賢院寺務所」。寺宝に大庭景親の陣釜とされる茶釜や、面山老師自筆の『相州養命寺記』一巻、「相州大庭荘」の扁額が伝えられている。宗賢院の裏手には、大庭御厨の経営を行った大庭景親の居館があったものと考えられている。宗賢院寺務所の表札寺務所の前に置かれた石像。芍薬が綺麗に咲いていた。参道を進むと正面に大きな宝篋印塔が立っていた。宝篋印塔の前には地蔵菩薩石像が二体。かつてはこの間に大師像が露座で置かれていたが。宝篋印塔の横に「宗賢院」の説明板。蟠龍山と号し曹洞宗の寺院で、永正二年(1505)に開創され開山虚堂玄白です。慶安三年(1649)三代将軍家光のとき寺領十石の御朱印を賜わり十七箇寺の末寺がありました。本堂前の竜骨堂にまつってある竜骨は雨乞いの霊験あらたかであると有名でかんばつになると近くの村から借りる人が多かったといわれています。宗賢院本堂本尊は「釈迦如来」。本堂の扁額「蟠龍山」。本堂前から振り返り龍骨堂を見る。本堂右手前には象に乗って経文を読む賢者らしき像。また木立の中に十三重塔。龍骨堂幕末頃に納められたという「龍骨」を安置する堂である。筑波山中で発見されたものといわれ、夏の旱魃のときに水中にひたして雨を祈ると、必ずそのご利益があったといわれ、大正年間頃まで、近隣の村から龍骨を借りにきていたという。 龍骨堂の右手前には黒い「宗賢院歴代住職供養碑」が立っている。本堂左前には、大師像と社の中には六地蔵。かつては大師像は宝篋印塔の前に置かれていたが移設されたようだ。六地蔵が並ぶ。本堂の左側に建つ「蟠龍〇」、左には「翠龍 永代供養塔」。扁額には「蟠龍〇」と。龍骨堂は高床式になっている。右側に本堂。境内の西側奥は墓地になっており、更に奥は芙蓉カントリー俱楽部のコースになっている。コースから打ち込まれないように高いネットが張られている。境内と墓地との間の通路。根元が太くなった珍しい木。木柱には「藤沢市保存樹木 主な樹種 クス」と。保存樹木のクスノキであろうか。後方には龍骨堂。境内の南側に阿弥陀像を中心に多くの墓石が並んでいたが無縁仏か。阿弥陀像の背後には「慶雲院淨戒〇」。階段を上ると高台には、歴代上人の墓所。中央に「開山之〇」と。歴代上人の墓所から北側に建つ本堂を見下ろす。右奥に寺務所、左に龍骨堂。輪光背を持つ観音菩薩立像。右奥に龍骨堂。龍骨堂の左下に小さな社があったが説明板がなく・・・。社をズームアップ。社の右側に立つ石仏。同左側に立つ石仏。どれも移設してここに集められたようだが。木の右下には「為先祖代々菩提 施主大竹○○」とあった。龍骨堂を見上げる。龍骨堂の扁額「宗龍殿」。龍骨堂から北側に本堂を見下ろす。龍骨堂から東方向の駐車場、イチョウの木を見る。階段下には大きな宝篋印塔。龍骨堂の前に立つ宝篋印塔寛政八年(1796)、十九世大温知暾のときに建立されたものである。川越城主の武運長久、天下泰平、五穀豊穣、西国・坂東・秩父札所の観世音供養などをために法華経一千部を漸読した祈念碑。境内中央に堂々と立つ大イチョウで、秋には知る人ぞ知るイチョウの名所であると。境内の手入れをしている人の話では、午後2時頃が陽が当たり一番綺麗だと。この秋は撮影に挑戦。参道にある太鼓橋を渡り山門へ。参道には八重桜の絨毯。宗賢院の山門を後にする。16:45普段は通行止めになっている冠木門。参道にあった藤沢市のマンホール蓋。市の木クロマツをデザイン。こちらは市章の下に「おすい」の 文字が入っている。 ー 続く ー
2023.06.03
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ここも今年知り訪れたいと思っていた「旧大山豆腐山北工場裏のジャカランダ」である。6月7日(金) 12:05県道74号線(小田原山北線)の新大口橋を渡り山北町へ入り道路脇に車を停める。アーチ橋の下流側に「大口橋」とあったが。上流側には「酒匂川」と。新大口橋のセンター辺りから南足柄市になる。道路脇に車を停め、ジャカランダが咲いていたので見下ろす。枝先をズームアップ。更にズームアップ。枝先につぼみがあり満開までにはまだ早いようだ。酒匂川の河川敷に車があったので下りることに。下り口がわからず探すことに。新大口橋の手前に下流側に進む県道721号線(東山北停車場線)があったので左折。県道721号線(東山北停車場線)を進むと左側に広場があり石碑群。石仏群所在地:神奈川県足柄上郡山北町岸770−4点在していた石仏が開発により集められたのであろう。一番背の高い石仏。どれも苔むして字は読みとれなかった。補強された石碑には「水神」と。暴れ川の酒匂川から住民を守るために祀られたのであろう。説明板が立っていなかったので詳細は不詳。石仏の後方から酒匂川の下流を望む。石仏前から更に県道721号線を進むと「神奈川県柑橘果工㈱」入口の看板。神奈川県柑橘果工㈱所在地:神奈川県足柄上郡山北町岸716清涼飲料製造業主としてアルコールを含まない飲料でサイダー、ラムネ、炭酸水、ジュース、シロップなどの清涼飲料及びし好飲料を製造している。いつも高台から見下ろしている工場である。工場入口道路脇に「地蔵堂」があった。お堂に入った地蔵。県道721号線をここまで来たが河川敷への入口が見つからなかったので折り返すことに。折り返す途中車窓右側に石碑。大きな石に字が刻まれていたが?。石碑には「?神」と。新大口橋に戻る。橋の上流側にジャカランダの木が聳える。県道74号線(小田原山北線)に戻り、三菱ガス化学㈱山北工場の向かい側にある旧大山豆腐脇を入る未舗装の道路があり左折。左側には三菱ガス化学のグランド。旧大山豆腐山北工場裏のジャカランダ所在地:神奈川県足柄上郡山北町旧大山豆腐山北工場裏旧大山豆腐脇を通り河川敷へと下りた。左側の建物は旧大山豆腐山北工場。上流側から新大口橋を見上げる。ジャカランダは青紫色の花を咲かせるのが特徴で「世界三大花木」としても知られる。かつて工場に勤務していた元従業員の石田貢さん(88)らが2000年に植えたのが始まりだと。上流側の入口を望むが案内板はなかった。酒匂川の旧大山豆腐側の堤に植えられているジャカランダは十数本あったか。熱海のジャカランダには何度も訪れているが、ここまでの大木にはなっていない。熱海のジャカランダは「四年連続熱海のジャカランダ」👈 をクリック願います。ジャカランダの幹にぶら下げられていた説明板。【世界三大花木】 (ノウゼンカツラ科)ジャカランダ (オーストラリア)産 植えつけ 平成12年 (2000) 6月26日写真が貼られていた。植えつけ時の写真であろうか。夕日に染まるジャカランダの花お花の見頃は目安で石田6月20日前後の一週間6月13日 → 6月20日 → 6月27日花期間は7月10日ごろまで咲いています。お花見きて下さい。 石田この日は6月7日でまだ咲き始めであろうか。枝先の花をズームアップ。花の間に茶色の種子らしきものが。花の間に茶色の種子がぶら下がる。種子をズームアップ。5.0センチほどの大きさであったか。枝先の花をズームアップ。まだこれから咲くつぼみも多い。枝先にはまだ多くのつぼみがある。新大口橋下から酒匂川の下流側を望む。右側の森は文命堤、大口広場。正面の松田山の頂上には ”チェックメイト・カントリークラブ” がありいつも見下ろしている。ジャカランダは常緑高木で、自生地では高さ15mに育つのでこれがマックスか。新大口橋下から旧大山豆腐の工場を見上げる。満開時にはどのような光景になるのであろうか。酒匂川はこの辺りで左方向へ大きく曲がっている。まだ花が少ないのであろうか。枝先に咲く花をズームアップ。ジャカランダはノウゼンカツラ科だけに、花が長さ5センチぐらいのラッパの形をしている。ラッパ状の花をズームアップ。隠れたジャカランダの名所で地元の方達が訪れておられた。来ておられる方に聴くと「綺麗でいつも来ています」と。高齢の女性達がグループで。12:25女性達は草むらに入り花柄を探しておられた。お花見の見頃は6月20日以降とのことで再度訪れたい。 ー 続く ー
2024.06.29
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常盤木橋から常盤木門、本丸跡へ。3月30日(木) 12:40常盤木橋前の常盤木坂。常盤木橋までの坂道は「常盤木坂」。右側の正面入口から、小田原城正規登城ルートを進み天守閣へ。 常盤木橋手前から本丸東堀を見下ろす。菖蒲園になっており6月には「あじさい・菖蒲まつり」が開催される。本丸東堀と常盤木橋江戸時代の小田原城本丸の周囲は、堀に囲まれていました。本丸の東側を画する堀を本丸東堀と呼んでいます。本丸東堀は、発掘調査の結果、幅20m以上の規模をもつ水堀で、現在よりも5m以上深さがあったと想定されています。現在は、堀の形を平面表示しています。文久図にはこの場所に本丸と二の丸をつなぐ木製の橋が描かれており、「常盤木橋」と名付けられていたことが分かります。これから先の本丸に出入りするには、この常盤木橋を渡り常盤木門から入るルートと、北側に位置する相生橋を渡り、鉄門から入るルートがあり、この常盤木門から入るルートが正面入口になります。常盤木橋は、関東大震災で土台の石垣ごと崩れて失われており、現在の橋は、2m以上低い位置に再現されたものです。常盤木橋は、明治3年に撮影された写真が残されており、当時の様子を知ることができます。常盤木門への階段。土塀の後方には「本丸の巨マツ」が聳える。常盤木橋の北側には本丸東堀があり「あじさい・菖蒲まつり」の会場になる。同場所から南側を見下ろす。常盤木坂、中央には市指定天然記念物のイヌマキが聳える。常盤木橋を渡ると「常盤木門」と刻まれた石碑。石碑の台座には、大正十二年九月一日の関東大地震に小田原城址の石垣殆んど崩潰の厄を被った際、本丸正門の常盤木門の塁郭もまた崩れた。その後久しく復旧の機を得なかったが、ここに昭和三十五年二月より国並に神奈川県の補助金を得て、年次計画を以て復原に着手し同三十八年三月三十日総工費五百万圓にて工事を完成した。石〇旧観に復したのを記念して由来を石に刻して伝う。 昭和三十八年三月三十一日 小田原市長 鈴木十郎史跡 小田原城跡 小田原城 常盤木門 本丸には、常盤木門と鉄門というふたつの門があり、本丸にあった徳川将軍家の御殿を守っていました。そのうち、この常盤木門が小田原城の本丸正門です。門の名前である「常盤木」とは常緑樹のことを指し、戦国時代から本丸に存在した七本の松(通称七本松、現在は1本「巨松」のみが残る)に由来しています。命名には、常に緑色の葉をたたえる松のように、小田原城と小田原が永遠不滅に繫栄しますようにとの願いが込められていると言われています。江戸時代初期からありましたが、元禄16年(1703)の地震で倒壊・炎上し、宝永3年(1706)に渡櫓門に南多聞櫓・北多聞櫓が付随する枡形門形式で再建されました(「文久図」右図)。明治3年(1870)、小田原城の廃城とともに解体されましたが、昭和46年(1971)に小田原市制30周年事業の一環として渡櫓門と南多聞櫓を再建しました。江戸時代には、櫓や櫓門の内部は倉庫や武具保管庫として用いられていました。現在、常盤木門の渡櫓は「常盤木門SAMURAI館」となり、往時のように武具・甲冑を展示しています。また、日本で唯一の甲冑に投影したプロジェクションマッピングを上映しています。常盤木門の渡櫓。昭和46年(1971)に小田原市制30周年事業の一環として渡櫓門と南多聞櫓が再建された。常盤木門 (ときわぎもん)常盤木門は、江戸時代の本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に造られていました。古絵図などの記録から、江戸時代初期には設けられていたことが分かっています。元禄16年(1703)の元禄地震で崩壊した後、宝永3年(1706)に、多聞櫓と渡櫓から構成される桝形門形式で再建されましたが、明治3年(1870)の小田原城廃城の際に解体撤去されました。常盤木とは常緑樹のことで、松の木が常に緑色をたたえて何十年も成長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って常盤木門と名付けられたといわれています。江戸時代には、常盤木門に隣接して、戦国時代からの「本丸の七本松」があり、現在もそのうちの一本が本丸の「巨松」として残っています。現在の常盤木門は、市制30周年事業として昭和46年(1971)に再建しました。常盤木門前から右下に常盤木橋を見下ろす。つつじ、サクラが満開に。同場所から、二の丸跡、銅門渡櫓門を見下ろす。常盤木門をくぐり本丸跡へ。常盤木門渡櫓を振り返る。本丸跡のサクラも満開になっていた。本丸跡から本丸東堀方向を見下ろす。満開のサクラをズームアップ、手前にはダイコンの花。史跡 小田原城跡 本丸跡小田原城の本丸は、東西83間(約150m)、南北63間(114m)ほどの規模があり、その西側に天守台、中央には本丸御殿がありました。本丸の周囲には石垣と土塀がめぐらされ、東と北の2箇所に門が設けられていました。東側の門は、本丸正門にあたる常盤木門、北側は裏門で鉄門(くろがねもん)と呼ばれていました。本丸御殿は、他のお城では藩主居館として用いられます。しかし、小田原城では徳川将軍家の宿所としての役割を持っており、寛永10年(1632)の寛永小田原大地震で倒壊したため、翌年に上洛する三代将軍徳川家光の宿所として再建されました。その後、将軍家の上洛が途絶えた後も維持されていましたが、元禄16年(1703)の地震により倒壊・焼失してからは、再建されることはありませんでした。現在、本丸の東南には「巨松」と呼ばれる天然記念物のマツの巨木があります。元禄年間(1688~1704)の小田原城の姿を描いた「寛永年間小田原城廓総図 (通称「宮内庁図」)」には、「七本松」と呼ばれた松の姿が描かれていますが、巨松は「七本松」最後の一本で、樹齢は400年を越えています。本丸跡に老木のサクラ。その幹に「桜の標準木」と書かれた名札がぶら下がっていた。この桜 (ソメイヨシノ) は、小田原城址公園内の開花を観測するために指定した「標準木」です。標準木の周りにはロープが張られ立入禁止に。本丸跡には多くの観光客がサクラ鑑賞に訪れていた。見上げると満開のソメイヨシノ。外国人観光客も多く訪れていた。本丸跡の中央にベンチがあったがシートで覆われ使用禁止になっていた。サクラ越しに天守閣。左側の天守への登城口は列となっていた。満開のソメイヨシノをズームアップ。まだ多くの方はマスクを装着しての観光。天守閣の最上階をズームアップ。相模湾が一望できる標高約60mの天守閣である。館内では、小田原城の歴史資料の展示施設として公開され、甲冑や刀剣、古文書、絵図を展示している。小田原城は日本100名城である。本丸跡の南東部に置かれている記念写真撮影用の台。台の上に立って撮影するのか日付も「2023年3月30日」と。南多聞櫓と巨松。巨松は「七本松」最後の一本で、樹齢は400年を越えている。かながわの名木100選小田原城跡本丸の巨マツ天保年間の相中雑志」に「御本丸と七本松という老松・・・」。松の生き残りと思われる城跡内最大の巨木である。小田原市の天然記念物に指定されている。 樹高 30メートル 胸高周囲 5.3メートル 樹齢 約400年(推定)本丸跡の南側斜面を見下ろす。本丸跡には多くの露天商が出店していた。テント前には長い列。湘南ゴールドエール 700円 神奈川 希少柑橘さくらエール 700円エビス生ビール 7百円じねんじょ棒 500円 カリふわ食感の贅沢な味わい 神奈川大山産のじねんじょを四創白身〇を六創 意味が?小田原港 とろサバ棒 五〇〇円じねんじょ棒、小田原港 とろサバ棒 各500円を炙っている。おでんも500円と。小田原ゴロゴロ みかん氷 500円 ワンコインが主流に!小田原城案内図正面入口からここ天守までの登城ルートが記されている。13:05天守閣登城への長い列。登城の待ち時間を考えると今回は断念、次回とする。史跡 小田原城跡 小田原城天守閣小田原城天守は、外観三重内部四階の天守櫓に、入口にあたる付櫓、さらに両者をつなぐ続櫓で構成されています。江戸時代の城絵図によると、初代天守は、慶長年間(1596~1615)に描かれた望楼型天守(加藤図)、二代目天守は、寛永10年(1633)の寛永地震後に復興された層塔型天守(正保図)、三代目天守は、元禄16年(1703)の元禄地震後の宝永3年(1706)に復興された層塔型天守(文久図)と考えられます。この三代目宝永天守は、その後、江戸時代を通じて存続しましたが、明治3年(1870)に解体されました。現在の天守閣は、昭和25年(1950)から3年かけて天守台石垣の復興工事が行われ、その後、観覧車が設置されるなどしましたが、昭和35年(1960)に小田原市民らの力により、鉄筋コンクリートで復興されました。そして、平成28年(2016)に「平成の大改修」として、耐震補強と大規模な展示リニューアルが行われました。左の絵図は上から、 初代 望楼型天守(加藤図)、二代目 層塔型天守(正保図)、三代目 層塔型天守(文久図)。写真は中央から、 明治3年 解体中の天守、明治26年 天守台に建立された大久保神社 昭和30年頃 天守台の観覧車、昭和35年 天守閣復興工事 ー 続く ー
2023.05.14
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昨年来14回目の電動アシスト自転車による鎌倉散策、今回深沢・大船地区散策も大船地区へ。9月7日(火) 11:58湘南モノレール「湘南町屋駅」所在地:神奈川県鎌倉市上町屋ホームへはエレベーターもできたと、また晴れた日には富士山も絶景改札を入ると左にエレベーター大船西鎌倉線の町屋駅前交差点頭上をモノレールが頻繁に走る、7時から22時代は一時間に八本運航している。モノレールは渋滞もなく予定時間に到着できるので地域の貴重なアクセス湘南モノレール「湘南町屋駅」を振り返る。この駅ではスレ違いが出来ないのだ大船西鎌倉線を更に大船方面へ向かう。大船駅 ー 湘南江の島駅間 6.6 km、8駅、全線単線。全線単線の湘南モノレールでは、富士見町・湘南深沢・西鎌倉・目白山下の4駅ですれ違う(行き違う)のだと。全線の所要時間は13分45秒であると。余談ですが、鋼製の橋脚に錆が発生しているが溶接部分からであるので、その部分の塗装はより丁寧に施工する必要があるようですね!前方に「富士見町駅」軌道が二つに分かれ、すれ違い(行き違う)可能なように12:05富士見町駅大船西鎌倉線の両側に、駅入口がある12:10大船西鎌倉線が県道302号線(小袋谷藤沢線)と合流、北鎌倉方面へ向かう。この先の小袋谷交差点を左折、国道21号線(鎌倉街道)へスマホには「成福寺」をセット、第二鎌倉道踏切を渡るJR横須賀線の第二鎌倉道踏切を渡り、これから参拝する大船地区へこれから訪れる神社寺院(赤丸)12:18成福寺(じょうふくじ)所在地:神奈川県鎌倉市小袋谷2丁目13-33境内にはビャクシンの木が植えられており、市の天然記念物に指定されている。また、鎌倉市内で唯一の浄土真宗の寺院である。成福寺前の第一鎌倉道踏切大船駅から、1K291M 鎌倉市小袋谷2-22-2成福寺の茅葺山門 ● 宗 派:浄土真宗本願寺派 ● 山号寺号:亀甲山法得院成福寺 ● 創 建:貞永元年(1232年)(浄土真宗改宗時) ● 開 山:三代執権北条泰時の子泰次 茅葺きの山門は「四足門」(しそくもん)と呼ばれるもの。四足門とは、二本の親柱の前後に、それぞれ二本の控柱のある門。江戸時代の初め頃、今の鎌倉市山崎の領主の崇高院が自分の館の門を寄進したものといわれている。山門左側の石碑には「宗祖聖人御舊蹟」、右側は「亀甲山成福寺」山門をくぐると左側に、五輪塔、石仏群が並ぶきれいに清掃、花が供えられている本 堂成福寺は、三代執権北条泰時の子泰次によって開かれた鎌倉で唯一の浄土真宗の寺。泰次は、天台宗の僧として裏山の「亀の窟(かめのいわや)」で修行していたが、親鸞の教えを受け、成仏の名をもらい、天台宗から浄土真宗に改宗した。木造聖徳太子像は、泰次が親鸞から与えられたものと伝わる。本堂前右側に、親鸞聖人七百五十回大遠忌法要記念 親鸞聖人像 平成二十三年十一月二日山門を振り返る境内に建つ「忠魂碑」 忠魂碑には、「東郷平八郎書」と。石碑には「戦病歿者芳名」海軍大将 南雲忠一、海軍少将 宮本定知ほかの名が連なる。本堂左側に咲くサルスベリサルスベリを見上げるが樹齢は本堂左側奥に墓地があり、映画俳優で大船に暮らしていた笠智衆はこの寺に眠っている墓地から本堂を見返る右に山門、JR横須賀線の第一鎌倉道踏切12:25門信徒会館元の庫裏跡に平成15年2月に新築完成した。門信徒会館の2階には色々な行事が出来るホールがある。12:28スマホで次に訪れる「厳島神社」をセットするが前回同様に道を間違える。国道21号線(鎌倉街道)沿いから住宅街に入り12:39スマホの案内で住宅街を走りようやく到着厳島神社(いつくしまじんじゃ)所在地:神奈川県鎌倉市小袋谷2丁目13-21成福寺の背後の山、亀甲山にある小袋谷の鎮守。かつては「弁天さま」と呼ばれていた社で、成福寺の南側にあった(JR横須賀線の踏切の向こう側)。しかし、関東大震災で崩壊したため、周辺の吾妻社、八幡社とともに合祀され、厳島神社として現在地に移された。現在地は八幡社があった所で、成福寺の鬼門除けの宮だった。吾妻社は現在の小袋谷公会堂の場所にあったという。ここでも社殿の前にサルスベリが咲く祭神は、市杵島姫命 橘姫命 応神天皇境内は公園にもなっている鳥居前の山道から、右手に先程訪れた成福寺が見える。成福寺からこの石段を上ってくればスムーズに来れたのだが鳥居、狛犬、社殿12:46厳島神社から国道21号線(鎌倉街道)に戻り、東に進み常楽寺交差点。常楽寺へはここを左折だが、東側に、木曾塚(木曽義高の墓)があるので先に行くことにスマホの案内で住宅街を走り木曾塚がある公園へ木曾塚(木曽義高の墓)所在地:神奈川県鎌倉市大船5丁目15-19常楽寺の裏山の粟船山(あわふねやま)には、木曽義高の墓と伝わる塚がある。もともとは、ここから離れた木曽免と呼ばれていた田の中にあって、五輪塔が建てられていたが、1680年(延宝8年)、土地の所有者石井次左衛門が塚を掘ってみると青磁の骨壺が出てきた。「これは義高の骨だ」ということになり、常楽寺の裏山に葬ったと伝えられている。木曽義高(清水冠者)は、木曽義仲の長男。1183年(寿永2年)に挙兵した木曽義仲は、源頼朝と対立したが、長男義高を人質として差し出すことで和睦した。義高は、名目上、大姫の婿ということで鎌倉に送られてきている。しかし、頼朝は義仲討伐の兵を京に派遣し、源範頼・源義経らが義仲を討つと、鎌倉の義高をも誅殺した。大船むくどり公園木曾塚への案内板がないので判りずらいがここを右側へ進む鉄柵があるが一部開放になっておりここから内部へ木曾塚(木曽義高の墓)木曽冠者義高之塚義高ハ義仲ノ長子ナリ 義仲嘗テ頼朝ノ怨ヲ招キテ兵ヲ受ケ将ニ戦ニ及バントス 義高質トシテ鎌倉ニ至リ和漸ク成ル 爾来頼朝ノ養フ所トナリ其女ヲ得テ妻トナス 後義仲ノ粟津ニ誅セラルルニ及ビ遁レテ入間河原ニ至リ捕ヘラレテ斬ラル塚ハ元此地ノ西南約二町木曾免トイフ田間ニ在リシヲ延寶年中此ニ移ストイフ 旭将軍ガ痛烈ニシテ豪快ナル短キ生涯ノ餘韻ヲ傳ヘテ数奇ノ運命ニ弄バレシ彼ノ薄命ノ公子ガ首級ハ此ノ地ニ於テ永キ眠ヲ結ベルナリ 大正十五年一月 鎌倉同人會 建常楽寺の山門左側からここ粟船山(あわふねやま)へ上ってこれるのだが案内板がないので。途中には、「奥 粟船稲荷、 手前 姫宮の墓(北条泰時公の娘)」の看板もあると木曽義高の塚はちゃんと山頂にありました。前が墓碑で後ろの木の根元に卒塔婆が立っているところが首塚のようです墓碑には「木曽清水冠者義高公之墓」とある首塚に生える花 ー 続く ー
2021.09.23
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お宮緑地(ジャカランダ遊歩道)のジャカランダを引き続き楽しむ。6月10日(金) 8:10熱海サンビーチが見下ろせるサンデッキ。サンデッキは、お宮緑地(ジャカランダ遊歩道)の中間部に位置している。サンデッキ上から熱海サンビーチ、熱海ムーンテラスを望む。後方に熱海後楽園ホテル。「熱海八景」画家、山本光一は天保13年(1842)江戸下谷に生まれた。名は信敬。明治36年(1903)10月6日、61歳で歿した。墓は臨済宗南禅寺派の月州寺(東京都台東区竜泉2丁目2-15)にある。山本家は代々江戸で儒学を教授していたが父素堂は二男で画もまたよくし、生涯を画家として終えた。光一の兄、学半も画家を志した。詳細は2人とも不明である。光一は熱海の風土が好きだったにちがいない。度々来遊して、明治21年には、「熱海梅園之図」と「改正熱海市街全図」を、翌22年には「伊豆の浦づたい」と題する絵入りの和綴本を刊行し、熱海の紹介に努めている。この「熱海八景色紙」は明治21年の刊。八景とは、かつて成島柳北(1837~1884)が選んで話題となっていた景勝の地8ヵ所、すなわち梅園の春暁、来宮の杜鵑、温泉寺の古松、横磯の晩涼、初島の漁火、錦浦の秋月、魚見崎の帰帆、和田山の暮雪、を版画にしたのであろう。現今の風景と比べて興味津々たるものがある。今を去る90余年前の熱海である。 「1980年熱海八景色紙」より温泉寺松他にもサンデッキにこのようなタイルがはめ込まれていた。サンデッキ上から西方向を望む。今の時期、木々が伸び剪定作業。作業員の方がサンデッキ廻りで作業を開始しておられた。サンデッキから下り東側へ移動。アメリカディゴとカンナの赤い花が咲く。熱海市のゴミ収集観光地としてはもう少し美観を考える必要があるのではと思うが。サンデッキの下は駐車場、トイレへ。アメリカデイゴ原 産:インド・マレー半島日本名:海紅豆日本では沖縄県が北限とされており、沖縄県の県花になっている。キング・プロテア。キング・プロテア(King protea)学 名 プロテア・キナロイデス分類名 ヤマモガシ科プロテア属樹 高 1m ~ 3m程度原産地 南アフリカ 開花期 4月 ~ 10月花言葉 王者の風格、甘い恋プロテアは花の王様と賞賛される南国の常緑低木で、花名は自由に姿を変えることができるギリシャ神話の海神プロテウスが由来。南アフリカには多種類のプロテアが自生しており、中でもこの「キング・プロテア」は花が大きく優雅であることから南アフリカ共和国のシンボルであり国の花となっています。南国の木々が植えられているエリアである。尾崎紅葉の「貫一・お宮の像」。熱海城をバックに廻り込む。今の時代このようなことをすると大変なことになるのでは。お宮の松の横に建つ「紅葉山人記念 金色夜叉の碑」。石碑には「宮に似た うしろ姿や 春の月 風葉」と刻まれている。国道135号線沿いに面した「お宮の松」も二代目。現在のお宮の松は昭和41年に植えられた2代目で、初代は排気ガスの影響などで枯れてしまったとのことで、初代の根株はそばに展示されている。熱海パールスターホテル所在地:静岡県熱海市東海岸町6-45まだオープンしていないようで、「お宮の松」の正面に位置している。ナチュラルで温かみのあるしつらえを基調とした、全87室の温泉付き客室がある。窓がユニークなデザインになっている。竹灯籠に「また きてね!!」と。キンシバイとユリが咲く。昨年も綺麗に咲いていた。ズームアップ。ジャカランダ遊歩道の東方向。お宮緑地にユニークな形の石造りのオブジェ。説明板がなく不詳。国道135号沿いに、「熱海の風景をテーマにした石碑」が並ぶ。「サンビーチ 花火大会」熱海海上花火大会は、1952年(昭和27年)にはじまった歴史ある花火大会。夏だけではなく年間を通して10回以上も開催されている熱海名物です。会場である熱海湾は、3面を山に囲まれた「すり鉢」状の地形のため、海で上げる花火の音が反響し、 大きなスタジアムのような音響効果があり、花火業者さんも絶賛する日本一の花火打上会場です。シダのような葉とジャカランダの花。ひと際濃い色の「ブッドレア・ブラックナイト」。別名は「房藤空木(フサフジウツギ)」。原産地は中国で、日本へは明治時代にヨーロッパで改良されたものが渡ってきた。ブッドレア・ブラックナイトはそうした園芸品種の1つである。特徴は花の色が濃い青紫色をしていることである。「来宮神社」来福・縁起の神として古くから信仰されている來宮神社。本殿横には国の天然記念物にも指定された樹齢二千百年、幹の太さは24メートルの大楠の御神木があり、パワースポットとしても有名です。幹を一回りすると一年寿命がのびると伝えられており、この木の生命力にあやかろうと長寿・病気平癒・健康祈願の参拝者が多く訪れます。また、願い事のある人は、思うことを誰にもいわず一回りすると願い事がまとまる、とも言われています。熱海♨観光案内マップまだ行っていない場所があるようだ。国道135号沿いの遊歩道に懐かしい赤いポスト。換気用のファンであろうか。「梅見の滝」熱海梅園の中にある、四季の移ろいが感じられる滝である。「姫の沢公園」姫の沢公園は、市街地中心部より北西約5キロメートルに位置している。四季を通じて花と緑を楽しんでもらうように造られた自然を基調とした総合公園であり、園内には、四季折々の花木はもとより、アスレチックコースなどが整備されている。家族連れで自然に触れ合いながら一日中楽しむことができる。サンデッキへの階段。階段横に「ここの海抜は 6.8m」の表示。「貫一お宮」尾崎紅葉の名作「金色夜叉」の名場面。主人公貫一とお宮の別れ場面に熱海海岸が登場し一躍有名になった。現在の像は昭和60年に建立された。ジャカランダの木を見上げる。「中山晋平記念館」大衆音楽の普及に大きな役割を果たした作曲家中山晋平の業績を偲び、晋平が晩年を送った住居をそのままの形にて遺品とともに梅園内に保存されています。「大湯間歇泉」お湯が音とともに噴出し、周囲に湯気とイオウの臭いを立ちこめる大湯間歇泉。関東大震災により噴出が不規則になり、現在は復旧工事にて人工間歇泉となった。伊豆箱根バス、東海バスのピンクのバスのりば「サンビーチ」。お宮緑地(ジャカランダ遊歩道)の広場。ジャカランダ遊歩道広場に「大塚実氏 顕彰碑」お宮緑地は熱海温泉の名を全国に知らしめた、尾崎紅葉作「金色夜叉」の舞台となった熱海海岸に整備された都市公園で、園内にはお宮の松も植樹されています。このお宮緑地が、熱海に由縁の実業家 大塚実氏の多大なるご支援を受け「ジャカランダ遊歩道」として全面的に改修されました。ジャカランダは世界三大花木の一つで、初夏に美しい青紫色の花を咲かせます。熱海の温暖な気候で大きく成長したジャカランダの木陰は、海岸沿いを散歩する市民や観光客にとって、憩いの場所となることでしょう。ここに熱海再生のため、「梅園の梅と紅葉」「糸川のあたみ桜」に続き、この「お宮緑地のジャカランダ」の整備にご尽力いただいた大塚実氏の見識と情熱に、心から感謝の意を表するとともに、これらの財産を大切に守り育て、後世に伝えていくことを誓います。 2014年6月 吉日 熱海市長 齊藤 栄ジャカランダ遊歩道の東方向。「澤田政廣記念館」熱海が生んだ芸術家 澤田政廣。九十三年間の生涯における作品は、木彫、油絵、陶芸、書、リトグラフ等と極めて多彩であり、澤田芸術の集大成がここに展示されています。キンシバイ、ブッドレア・ブラックナイト、ジャカランダの競演。「伊豆山神社」伊豆に流されていた源頼朝と北条政子が、ここで忍び逢い結ばれたことから、縁結びの神様として人々に親しまれているロマンあふれる神社です。熱海警察署中央交番横からのホテル街。 ー 続く ー
2022.06.21
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ビッグパレードも後半に。4月21日(日) 14:25頭取・組頭・纏(まとい)持ち・梯子持ち・平人(へいにん/鳶口[とびぐち]持ち)が続く。続いて尺八を吹く ”虚無僧 (こむそう)” 。虚無僧とは、禅宗の一派の僧侶のこと。剃髪ぜずに半僧半俗の形態で、天蓋(てんがい)という深編笠を被り、尺八を吹きならしながら托鉢をする。越前行列撮影場所が悪く ”越前行列” の後方からの撮影になった。大岡越前守忠相公の旗に続いて ”忠相公” の登場。今年の大岡越前守忠相公役は「岸市議会議長」。かつてはTVで南町奉行の大岡忠相役をやっていた俳優の加藤剛さんが登場していた。現在の大岡越前守役は市長、市議会議長、? 三役の持ち回りになっていると。忠相公役の岸市議会議長。かつては馬に騎乗していたが。茅ヶ崎駅北口に ”越前行列” が勢揃い。越前行列で観衆の注目を集めるのが「奴頭」。駅北口と南口で奴装束をまとい、「見得」を切る姿は圧巻であると。その「奴頭」を務めるのは昨年に引続き、女性がその大役を担っている。担当するのは茅ヶ崎青年会議所(JC)メンバーで、飲食店経営の田中ことみさん(39)。ズームアップすると ”奴頭” が奴装束をまとい、「見得」を切っている。撮影ポイントが悪かった。奴隊(やっこたい)に見得を切る奴頭。奴隊の毛槍を投げるパフォーマンスは見せ場である。また、奴(やっこ)とは、武士が外出する時の荷物を運ぶなどいろいろな雑務を行っていた人で、主に農民や町民が雇われていることが多かったという。奴隊の毛槍を投げるパフォーマンスが終わり後続が続く。始めての撮影でベストポイントがわからなかった。茅ヶ崎一輪車協会当協会は昭和55年(1980)に発足、平成3年(1991)に茅ヶ崎市体育協会に加盟、現在茅ヶ崎梅田めーごーらんど支部、藤沢北部支部の3団体で活動を行っていますと。茅ヶ崎は一輪車競技が強く、昨年は世界大会で優勝したと。一輪車もいろんな乗り方があるようだ。低学年クラスであろうか、簡単なように乗っているようだが。高学年であろうか一段と高い一輪車に乗って登場。右奥には「パレード最後尾」のプラカード。左上には、観光協会新谷会長、茅ヶ崎FMのパーソナリティー杉山玲子さん。高い一輪車の乗り方は?。どのように乗ったのか目の前を通る。昨年もビッグパレードの最後尾を盛り上げていた一輪車。その最後尾は女性群。14:40最後尾に「救護車」「パレード最後尾」のプラカードを持つスタッフ。放送で「ビッグパレードは終了しました。まもなく交通規制は解除されます」と。トラックで引き上げる「湘南連合神輿保存會」の神輿。同じく「暁禊睦会」の神輿。”茅ヶ崎神輿康” のトラックに「南湖」の神輿。神輿康は、茅ヶ崎市に工房を構え、神輿の製造・製作・修復、提灯の製作をしている。14:45多くの人が茅ヶ崎市役所前広場へ。第一カッターきいろ公園で、16時まで ”ちがさき産業フェアー” が開催されているので向かう。新名所になった「加山雄三氏の銅像」Googleマップでみると既に記載されていた。台座にはクラウドファンディング支援者の名前が刻まれている。出来れば住所(市名ぐらい)が欲しかった。市役所前広場ではマルシェも。地元野菜の販売も。萩園の無農薬野菜300円と。銅像前には ”大岡越前祭” 帰りの人が立ち寄っていた。15:00ちがさき産業フェア 場 所:第一カッターきいろ公園 (中央公園) 開催日:4月20日(土) 10時 ~ 15時、21日(日) 10時 ~ 16時 市内企業の製品・物産等の展示や販売、キッチンカー、ゆかりのまちのブースなどが展示。ちがさき産業フェア配置図出展者名&内容ゆかりのまちエリアブースの左から、岩手県陸前高田市:いちご煮、ふのり、すき昆布、あおのり、わかめなど 完売御礼と!大阪府泉佐野市 :物産品相互取扱協定都市/水なすの浅漬け、泉州タオル愛知県岡崎市 :ゆかりのまち/特産品「八丁味噌」をはじめ、地元民に愛される菓子・雑貨 展示・体験エリア 公園の東側にはキッチンカーエリアそれぞれ沖縄料理、たこ焼き、タコスの販売をしておりキッチンカーの前には行列。HOMIE キッチン/タコス他、SITA/台湾まぜそばの前には長い列。茅ヶ崎ビールも販売していた。いい香りがしていたが高齢者が一人で並ぶのは・・・。いい香りの元は「焼鳥トサカ」の焼鳥。焼鳥トサカは北茅ヶ崎駅前にあり行きつけの焼鳥屋である。わたかし ¥300、ラムネ 300円、BIGフランク ¥300、焼き鳥類、かき氷を販売。焼鳥類も、もも 5本盛り 800円、つくね 5本盛り 800円とリーズナブルな価格で販売。右側の物産エリアには、日本精麦、㈱ミツワライス、㈲北村水産、としだ漬物店、パン教室。左側が技術伝承エリア、右側に物産エリア。本部テントに、先程までビッグパレードを紹介していた新谷会長と杉山さんが到着。入口には、自動車展示エリアEVの電力を家電機器へ【パワームーバー】⇒ 実演中 車の電気を取り出す可搬型給電器、コンパクトで車に収納可能 動作音が静かで、排ガスゼロトヨタ車エリア公園の一角の切り株の上に。これも今回のフェアで展示されたのであろうか。プレートには「Melty Works DAIICHI CUTTER」と。いろんな厚肉サボテンが植えられていた。芽吹いた ”ラクウショウ(落羽松)” 。見上げると実が付いたまま新芽が出ていた。この時間帯には曇り空になってきたが、第69回大岡越前祭は無事終了した。 END
2024.05.02
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最近芸能人が茅ヶ崎の飲食店等を訪れテレビ放映、それ以降その店は商売繁盛!に。その中で1年前に「オモウマい店」で取り上げられた北茅ヶ崎駅前の「中華 のんち」は、今だ人気でいつも店頭には長い行列、そのため夜の部はやめ昼間だけの営業になっている。今年もBSテレ東の「飯尾和樹のずん喫茶」で取り上げられ 1月27日(土)に、放映された「cafemurasaki」がある。かねてよりブログのネタで訪れたいと思っていたので、暑さ厳しい折愛車のリンちゃんで出かけた。放映時のテレビ画面も取り入れております。お笑いタレント、俳優である飯尾和樹が、各地のいろんな喫茶店を訪れている番組である。この日の放送では、多く有る茅ヶ崎市内の喫茶店で2店へ、① 新栄町 cafe murasaki② 香川 cafe BLOSSOM店主さんにどのような情報から来たのか聴きたかったが。7月23日(火) 10:35ヤマダデンキ LABI LIFE SELECT 茅ヶ崎店前から茅ヶ崎駅方向を見る。目的地の ”cafe murasaki” の営業は10時からで、モーニングがあるとのことで昼食を兼ね出かけた。駅前の ”みずほ銀行” に用事があり、そこに駐輪して散策。茅ヶ崎北口のペデストリアンデッキへ上がる。タクシー待機所には車が少なかった。昼前で人通りが少ないJR茅ヶ崎駅北口。入口の横断槇に ”パリオリンピック出場!!"「自転車競技 (ケイリン・スプリント) 佐藤水菜さん」と。佐藤水菜選手は、茅ヶ崎市出身で神奈川県立茅ヶ崎高等学校卒業。茅ヶ崎市スポーツアンバサダー第1号に就任している。メダル獲得を期待したい!ペデストリアンデッキから ”cafe murasaki” へ向かう。目的地はこの先のエメロード沿いにある。ここから4枚の写真は録画しておいたテレビ画面から撮影。サザンビーチにある「茅ヶ崎サザンC」のモニュメント。本日のエリア「神奈川・茅ヶ崎」。エメロードのムラサキビル1階にある「おかしのまちおか」。ムラサキビル2階に ”cafe murasaki” 。10:50cafe murasaki所在地:神奈川県茅ヶ崎市新栄町1−3 ムラサキビル2F創業は昭和39年(1964)からで昼時にはランチも提供している喫茶である。営業時間 10時00分 ~ 19時00分定 休 日 日曜日ビルにかかる看板。1階路上に、チョークアートで「モーニングセット ¥700 (税込)」。1月は「いちごパフェ 900円」「おしるこ 950円」「あんみつ 620円」であった。2階への階段下のショーケースに ”メニューのサンプル” 。TVで紹介されました! ”当店の豚の生姜焼き”2階入り口にはワンちゃんが「WELCOME」と。店員さんに撮影の許可を得撮影。早速11時までの「モーニングセット」を注文。奥の書棚の中に飯尾和樹の「色紙とコーヒカップ」が飾られていたのでズームアップ。勘定場は厨房入口にある。会話を聴いていると話し相手は86歳の店主さんで「テレビで放映された」と。当店おすすめ ネルドリップ珈琲当店自慢のコーヒーはネルドリップでたてるコーヒー。やわらかいネル生地がコーヒーの粉をやさしくしっかりと受け止めて、抽出時、味と香りを最後の一滴まで逃さない。ネルドリップコーヒーのおいしさの秘密がここにあります。本当においしいコーヒーをどうぞご賞味ください。注文した ”モーニングセット” 。税込700円。我が家の朝食は毎朝コーヒーをサイフォンで飲んでいるが、ミルクを入れ美味しかった。ネルドリップの違いがあるのか。バター塗りのトースト1枚に、タマゴ、キャベツ、キューリ、トマト。スマホでも一枚撮影。店内は広く数十名は入れるのでは、一人で訪れる人が多かった。壁にはテレビがあるのであろうか。入り口のガラスにはフランス語であったか?ピンボケですがトイレ入口に白黒のワンちゃんが置かれていた。初めて訪れてもどこか懐かしいアットホームな雰囲気老舗喫茶新栄町 cafe murasaki 「 cafe murasaki」が誕生したのは、東京オリンピックが開催された1964年。以来、半世 紀以上にわたって、地域住民に憩いの場所として愛されてきた。コーヒーやスイーツのほ かにも、ランチメニューも人気。茅ヶ崎散策の休憩に、ぜひ立ち寄りたい。白玉クリームあんみつ 昔から変わらぬ手づくりの寒天と黒蜜、季節のフルーツをたっぷり使用。 白玉、あんこ、アイスクリームが微妙にマッチ。LUNCH 昔ながらナポリタンセット 850円 生姜焼きセット 750円 日替わりセット (各コーヒーor紅茶付き) 850円 ~気持ちが落ち着くスペシャルメニュー ムラサキブレンド変わらない味で50年 今も残る縁結びの席録画した画面から、創業は、義母、御主人 (故人)、自分の3人で始めたと。この日は長男の方も登場、千葉の大学で英語の教授をしていると。厨房にも行き従業員の方達とトーク。メニューを見ながらトーク。店主のサチヱさんから「飯尾和樹さんが座った席に貴方が座った」と。置物のワンちゃんに触っていた。飯尾和樹が注文した「ずん飯尾のオーダー」。コーヒーは御主人がこだわったUCC製であると。豚の生姜焼き ~ライス・サラダ付き ~ 990円飯尾和樹が訪問時にサインしたコーヒーカップ。彼が訪れた全ての店でサイン入りカップを置いている。勘定後、書棚の中に大切に保管されている「色紙とコーヒカップ」を撮影。店主の対応は柔らかく、勘定時に亡きご主人の写真を見せられた。また、「コーヒーの御味はどうでしたか」と。店内は広く、昼前で個人客が訪れていた。固定客であろうか私と同じような年代の方が訪れていた。いろんなチラシが階段、店内に貼られていた。ことし創業50年を迎える、駅周辺でも有数の昔からあるカフェ。家庭的な料理も変わらない味。クリームあんみつ ¥550、生姜焼きランチセット ¥750 (ドリンク付き)。創業が1964年であるので今年は創業60年。依ってこの記事は10年前で価格は値上っている。食べ歩記 カフェムラサキ「ナポリタン」テレビ等で良く昔懐かしのナポリタンってやっていますよね。この茅ヶ崎にも40年以上変わらぬ味で喫茶店のナポリタンを出すお店がこちらです。数年前にビルを建替えて小洒落たつくりになっていますが、このお店エメロードが銀座通りと呼ばれていた頃よりあります。昭和の時代は名物ビックパフェが学生達に人気でした。入ると昭和のノスタルジックを感じる落ち着いた雰囲気。王道のナポリタンは一度ご賞味を。今いろいろなお店で食べるパスタとは違ったケチャップ味のほっとする味。もちろんコーヒーの種類も沢山あり飲物・軽食などメニューも豊富です。ランチ時はビジネスマンで溢れています。ちなみにT君は昔ここでバイトしていました。うん十年前を思い出す・・・。その当時のオーナーママが80歳で現役働いています。11:25次回は「ナポリタン」or「豚の生姜焼き」を食べたい。エメロード入り口にある「HARE/PAN」。茅ヶ崎にはパン屋さんが多い。駅前ロータリ沿いにある「名代 箱根そば」。よく食べた立ち食いソバである。かき揚げ天、コロッケは520円。かけ 380円、きつね 470円と値上がりしている。パート・アルバイト大募集 時給 1112円 ~ と、こちらもアップ。朝食は箱根そばで! 朝そばの販売は午前10時までになります。朝そば 440円、朝ミニ天玉 500円 とワンコイン価格。 11:30この日放送の「飯尾和樹のずん喫茶」では、JR香川駅近くの「cafe BLOSSOM」も放送していたので後日訪れたいと思っている。 END
2024.07.26
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伊勢原市の観光案内板で「能満寺」の紹介があったので訪れることに。3月13日(木) 11:00馬頭観音所在地:神奈川県伊勢原市三ノ宮852-1県道612号線(上粕屋南金目線)から西側の農道へ入りGoogleマップに載っていた馬頭観音へ。旧集落の道筋には馬頭観音と刻まれた石仏(自然石に刻まれた仏様)をよく見かけると。石には「馬頭観世音 大正十四年七月二十日 施主 田中□□□」と。個人の敷地内に設けられていた。東側の来た道を振り返る。のどかな農道である。マンホールは「消火栓」用であった。馬頭観音から更に西へ走り、道路脇に珍しい名のバス停があり車を止める。バス停「神奈中 伯母様」と。バス停の横に建っていた観光案内板。伯母様村の名を残した布施氏の伯母様龍池山 高岳院本尊 聖観世音菩薩(伯母様聖観音) 路地の石仏 (小泉家) もあり、伯母様は観音の里開山 貞治5年(1366) 始山智訓禅師 慶安元年8月10日卒開基 布施弾正左衛門康則 法名 高岳院説渓道義 天文22年4月10日卒寺領 御朱印 5石 将軍 徳川家光公より 明治期 境内地 174坪 田 畑 1町3反 山 林 1町1反布施氏の伯母様 梅林理香大姉 天文19年3月1日卒布施禅正康則は、小田原北条氏家臣48衆のひとりで、大変有能な武将だった。白根郷伯母様村と板戸村を領地としていた。その伯母様が梅林理香大姉で、康則は菩提を弔うために高岳院を再興した。伯母様村の地名は、梅林理香大姉が伯母様と呼ばれていたことからついた。バス停の横に道案内。「関東ふれあいの道 比々多神社」「関東ふれあいの道 上粕屋神社」と。右側の「心敬塚 300m」へは帰路に行くことに。伯母様村観音所在地:神奈川県伊勢原市三ノ宮771バス停から少し走り道路左側に覆い屋を見つける。駐車場があり停車。新しいブロック積みの中に祠があった。覆い屋の中には社があり花で飾られていた。扁額に「伯母様村観音 宝暦 江戸時代造立」と。伯母様村観音の周りは千羽鶴などで飾られていた。伯母様村観音・歴史伯母様村村名に由来について。1550年代後半に戦国大名三代後北条氏康が永禄の頃に布施禅正左衛門康則「小田原家の家臣」に当伯母様村を所領として与えていた。この名伯母様村は布施氏の伯母梅林理香大姉が当村を所領したことにより伯母様村と云うようになった。梅林理香大姉は天文十九年(1550)没その位牌は高岳院に安ずとある。伯母様村観音様について。今を遡ること約230年前の宝暦年間伯母様村は大山参詣に関東一円から年間約二十万人が当村を往来していた処であった。当時の伯母様村の民戸は狐橋村を含め八四戸であった。宝暦年間は享保の大飢饉から続く天災により全国的大凶作の時期であった。こうした時期由に農民を含めた江戸庶民は大山講を作り大山参詣に陸海路をいとはず雨降山大山寺にお参りに来た。・・・中略・・・御先祖様方に通ずる村民の皆様の祈りであります。そしてこの観音様こそがその橋渡しで末永く続けて下さる事でしょう。 一九九七年八月吉日 小泉家伯母様村観音の北方向の高台に能満寺の後訪れる「心敬塚」がある。伯母様村観音から更に農道を走りバス停横に案内板。バス停「神奈中 中谷」と。スマホのGoogleマップで近くに道祖神があったので探す。この道はかつては大山参詣、近くの比々多神社への参拝者で賑わった道である。来た道の坂道脇に道祖神があった。道祖神所在地:神奈川県伊勢原市三ノ宮1319右側は風化しているが「観音菩□」と。菩薩の上に彫物があったので「馬頭観音」か。中央の丸石には「□□袖」と。道祖神周りは地域の方が奇麗に清掃されていた。畑の青いネットで覆われた中では何を育てているのか。ブドウではなかった、キウイフルーツか。右上に「斎藤家住宅」の案内板があり訪れることに。関東ふれあいの道の案内板。斎藤家住宅への道は車一台が通れる幅であった。道路脇の民家前に石像。風化した石像であったがGoogleマップには載っていない。斎藤家住宅所在地:神奈川県伊勢原市三ノ宮1346狭い道を走り門前へ、駐車場がないので道路脇の広い場所へ駐車。東方向には先ほどのバス停「神奈中 中谷」。右上の畑はGoogleマップでは「自然薯家 伯母様農場」と。入口から斎藤家住宅を見る。伊勢原市指定重要文化財 斎藤家住宅 所在地:伊勢原市三ノ宮1346 指 定:昭和63年4月30日斎藤家住宅は、同家に残る押板裏の「延享二年丑年八月十四日大工米山源右ヱ門嘉惟」の墨書銘により、延享2年(1745)の建築であることがわかります。これは現在市内に残る建築年代のはっきりした民家としては最古のものです。規模は桁行10間(60尺)、梁行4.5間(27尺)で、これは当初から変化していません。間取も当初1室だったザシキを現在3室に仕切っているほか大きな変化はありません。構造は当地方の江戸時代以前の民家に一般的な、いわゆる四方下屋構造です。全体の構造は土間上部、ザシキ上部、及びナカノマ・オクノマ上部の3部分に分かれます。それぞれの境界には1間ごとに柱が立ち並んでいます。柱材は一部が杉材であるほかは欅です。本柱はすべて5寸以上あり、しかも加工の難しい欅を全面的に使用する例は珍しく、当家の質の高さを示しています。 平成4年11月 伊勢原市教育委員会現状平面図中二階のある東向きの家である。広間型五間取、草葺、入母屋造であったが、現在は亜鉛板葺きに替えられている。北方向の奥の間。南方向の土間側。庭先の樹は枯れたものも、敷地の北側に鳥居があったが。他には説明がなく不明。斎藤家住宅を後にし「能満寺」(左方向) へ。斎藤家の南側にあった「神社」。神社所在地:神奈川県伊勢原市三ノ宮1342Googleマップでは名前がない神社であるが。お酒も備えられており地域の方がお守りしているのであろう。11:30斎藤家住宅、神社からバス道に戻りこの辺りにも道祖神がある。比々多神社の裏に立つ「関東ふれあいの道の案内板」。左奥に道祖神があった。道祖神は丸石であった。 ー 続く ー
2025.04.15
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政子コースの散策を終え、眞珠院から帰路につく。眞珠院から自宅まで箱根越えで約70キロ、1時間半を要すると。3月14日(月) 15:20蛭ヶ島公園天気が良く富士山が見えていた、また昼食をとっていなかったので立ち寄る。政子の右遠方に富士が顔を出していた。富士を間に入れるが、ここでも電線が景観を損なっていた。頼朝の流刑地は「蛭ヶ島」といわれるが、島ではなく、低地の微高地であったようだ。江戸時代の学者・秋山富南(ふなん)がその場所を推定し、後に石碑が建てられた。現在は公園になっている。ズームアップ蛭ヶ島茶屋 ☎ 055-949-5582店内では軽食もとれ、無料休憩所になっている。昼時も過ぎ再度立寄って昼食をとる予定だったが、営業時間(10:00 ~ 15:00)で既に閉店。富士山に向かって立つ「頼朝と政子の像」15:30蛭ヶ島公園から帰路につくが、旅友が訪れていた「日蓮宗正福山慶音寺」をカーナビにセットして田園地帯を北上する。柿沢川に架かる橋を越える、本来は建物を入れたくなかったが。橋の前方の建物は「駿東伊豆消防本部 田方北消防署」所在地:静岡県田方郡函南町仁田394-1見晴らしの良い田んぼの中にポツンと建つ消防署である、左は火の見櫓であろうか。15:33日蓮宗正福山慶音寺所在地:静岡県田方郡函南町仁田164-1函南町立函南小学校の南側に位置する寺院で、山門には「日蓮宗 正福山 慶福寺」。スマホのマップで検索すると「正福山 慶福寺」ではなく「仁田館跡」と出る。慶福寺は、1570年(元亀元年)に創建された、身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗の寺院。背に霊峰富士を仰ぎて山門をくぐると、紅葉並木と紫陽花の参道がつづき、その右側には大黒堂があり、正面に本堂を拝す。鎌倉時代より続く仁田家の菩提寺でもあり、先祖の仁田四郎忠常公は鎌倉幕府初代将軍源頼朝公の信頼厚く重要な任務を度々任されていた。1193年の富士の巻狩での猪退治は有名な逸話として現代に語りつがれている。境内に車を駐車し、山門を入ると右側に「大黒堂」が建つ。大黒堂の扁額「大黒天」大黒堂の内陣には多くの胡蝶蘭が奉納されていた。昭和初期に建立された大黒堂には、70cm丈ほどの木造大黒天が祀られており、1月に行われている大祭には遠近を問わず祈願者が訪れています。境内奥に「本堂」平成28年には新本堂が建立された。慶福寺はは1570年(元亀元年)に創建。一族が居住した仁田館があったのがこの場所で、「仁田四郎忠常」は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、伊豆国仁田郷の住人。1180年(治承4年) 8月17日、伊豆国に流されていた源頼朝が挙兵するとこれに従った。1185年(元暦2年) の平家追討では源範頼に従って活躍し、西海(九州)において特に功があった として、北条義時・小山朝政・小山宗政・中原親能・葛西清重・加藤景廉・工藤祐経・ 宇佐美祐茂・天野遠景・比企朝宗・比企能員とともに頼朝から感状を受けている。1189年(文治5年) の奥州征伐でも武功を挙げた。1193年(建久4年) の富士裾野の巻狩りの際に起こった「曽我兄弟の仇討ち」では、十郎祐成を 討ち取っている。頼朝亡き後も二代将軍源頼家の信任を得て、頼家の嫡子一幡の乳母夫に就任。1203年(建仁3年) 9月2日の比企の乱では、北条時政の命により天野遠景とともに比企能員を 暗殺したが、9月6日には、恩賞を受けに北条時政邸に向かい、帰宅の遅れを怪しんだ 弟たちの軽率な行動を理由に謀反の疑いをかけられ、加藤景廉に誅殺される。享年37歳。本堂の扁額「慶音寺」本堂手前右側に「歴代上人廟」。枝垂桜が植えられていたがまだ芽は固かった。墓碑には「南無妙法蓮華経法界」の文字が刻まれていた。本堂裏の墓地に建つ「萬霊供養」と。後方を来光川が流れる。墓地には「仁田家之墓」が多い。以下四枚の写真は確認できなかったので旅友から借用。 貴重な文化財を守るため ごみ等を捨てないで下さい。この堀は今から八〇〇年前頃、源頼朝の平家追討に従うなど、鎌倉時代初期に活躍した武将、仁田四郎忠常一族が居住した仁田館の一部で、館の周囲に土塁を築くために堀られた空堀(からぼり)です。県下でも数少ない遺構の一つです。 平成五年四月 管理者 仁田 昇そして境内の南側に「仁田忠常・忠正・忠時公の墓」があった。現在もご子孫の仁田さんが墓地の奥にお住まいになっているようであった。中央が仁田四郎忠常、左が弟五郎忠正、右が同じく六郎忠時の墓。仁田四郎忠常兄弟の墓所在 西南町仁田 素封家仁田家邸内にあり、仁田四郎の富士の巻狩の猪退治は有名である。治承四年(1180)の山木判官平兼隆邸夜襲を初陣として、平家追討奥州藤原攻め等において数多くの手柄をあげ、頼朝の信が厚かった。頼朝の没後建仁三年(1203)北条時政のために弟と共に殺された。 墓は右 六郎忠時 中央 四郎忠常 左 五郎忠正15:45正福山慶音寺を後にし北上、大土肥交差点を右折して伊豆縦貫自動車道下を走る。ここ大場・函南IC交差点を直進して伊豆縦貫自動車道(無料区間)へ入る。伊豆縦貫自動車道(無料区間)は、新東名(10km)、東名(12km)と接続。ところどころ片側2車線になっている区間である。この先三島塚原ICを出て、国道1号へ。カーナビの案内は国道1号を走り箱根方面へと。前方に富士山の裾野が見えてくる。伊豆縦貫自動車道のオーバーブリッジ上からの富士山。残念ながら中腹から下は雲の中。15:50ここ三島塚原IC交差点を右折して国道1号(箱根路)へ進む。16:06箱根峠への箱根路も道路改修され片側2車線になり走りやすくなっている。国道1号の箱根峠交差点、ここから神奈川県に。右前方は、「箱根くらかけゴルフ場」からの出口、皆さんゴルフ帰りであろうか。16:30箱根新道を下り西湘バイパスが工事中と思い、一般道を走り小田原市内へと。途中からカーナビの案内で、国道135号の新早川橋交差点を右折して西湘バイパス高架下へ。旧早川橋際交差点(有料入口)から西湘バイパスへ。早川インター入口の看板。西湘バイパスを東へ進む。下り線は工事中。小田原インタ出口。西湘バイパスの下り線はここから一般道へ。16:41西湘バイパス下り線「橘料金所」。垂れ幕は「ありがとう 西湘バイパス全線開通50周年!!」橘料金所の上り線脇にある西湘パーキングの食堂へ。蛭ヶ島公園の蛭ヶ島茶屋で昼食を取り損なったので遅い昼食を頂く。久しぶりに食べた「天ぷらそば」美味しかった!昔は駅のホームでいい香りがし、よく立ち食そばを食べたが、今では値上がりし550円と。今回は退院後の初診で順天堂大学医学部附属静岡病院へ一泊二日の旅。車での一人旅の移動で妻が心配していたが、無理をしないよう心拍数を気にしながら行動。前回途中で入院したため中断になり、入院した病院廻りの「北条氏ゆかりの伊豆の地」を動き回ったブログでした。今後も、「頼朝、北条氏ゆかりの地」を廻りたいものですが。 END
2022.04.03
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曹洞宗蔵林寺から更に坂道を下り、戸川公園へ行くとき見かけた堀之郷正八幡宮へ立ち寄る。10月28日(木) 12:58堀之郷正八幡宮(ほりのごうしょうはちまんぐう)所在地:神奈川県秦野市堀山下988境内の狭い駐車場に止め神社前の丹沢公園松原町線(県道706号線)から振り返る堀之郷正八幡宮御祭神 誉田別尊 ( ほんだわけのみこと ) (応神天皇) 息長足姫命 ( おきなたらしひめのみこと ) (神功皇后) 高良玉多礼命 ( こうらたまだれのみめい ) (竹内宿弥)由 緒 天安二年(西暦858年)九州宇佐八幡宮から分霊を勧請してこの地に祀り当初は金光山正八 幡宮と号し武門では立身出世・氏族繁栄・行路安全・災難消除の神様として、他に民間では 安産・子育ての神様として信仰された。何れも御祭神の歴史的事蹟によるものである。 天正年間には小田原北條氏が堀四ヶ村(堀山下村・堀西村・堀川村・沼代村)の神官として 祭禮奉串の儀を行ない、その後徳川氏の時代には社領五石の朱印状を受けている。また堀山 下村の領主米倉氏からは守護神として手厚い保護を受けた。明治維新後は郷社に列せられ堀 四ヶ村の鎮守として崇敬護持とされ今日に至っている。特筆事項 例祭日 四月十八日(現在は前後の日曜日)神輿の渡御は白丁・烏帽子姿の氏子が奉仕す る古儀を今に伝える。社頭の用水路に架かる太鼓橋は県内では珍しい古い様式の 物と言われている。社頭に、「堀之郷正八幡宮」の石柱が建つこの用水路に架かる太鼓橋は県内では珍しい古い様式の物と言われている鋼製の鳥居の扁額は、「堀之郷正八幡宮」鳥居をくぐると右側に手水舎石段下左側に建つ「震災復舊記念」碑。碑の正面には、「震災復舊記念」の題字の下に、字名別に寄付金額と氏名が刻まれており、その数は全部で389名です。背面には、大正十五年二月吉祥日に続いて、社司、総代、大世話人、世話人、復興委員などの氏名が刻まれています。この復舊記念碑は表裏ともに氏名を中心としており、具体的な復旧内容は記載されていません。寄付者の属する字名や背面は社司・総代と続くことから考えて、氏子による堀之郷正八幡宮の復旧であると思われます。復旧碑には、字名として堀山下・堀川・堀西森戸・堀西波多川・堀西黒木欠畑等が刻まれています。明治22年の町村制に際し、堀西村・堀川村・堀山下村・千村・渋沢村が合併して西秦野村が生まれました。なお、その前の明治20年には堀斎藤村と堀沼代村が合併して堀西村になっています。復旧碑にある字名は、現在の堀山下・堀川・堀西に相当し、さらに細かい小字も含まれているようです。これらの字名には頭に「堀」が付き、いわゆる「堀之郷」の鎮守が堀之郷正八幡宮に当たります。堀之郷正八幡宮の案内板にある「堀四ヶ村(堀山下村・堀西村・堀川村・沼代村)」とは、西秦野村が生まれる以前の堀山下村・堀斎藤村・堀川村・堀沼代村を指すものと思われます。階段を上り、石灯籠、狛犬、社殿神社前の丹沢公園松原町線(県道706号線)を見下ろす真新しい銅葺き屋根の社殿平成二十九年(2017)三月二十五日に竣工した社殿。新社殿の設計はサイトウアーキデザイン、改築工事は諸星建築が請け負った。諸星建築の諸星文男棟梁によると、社殿の彫刻や枡組は以前のものを使っており、塗り直しなどをして違和感なく仕上げたという。また、狛犬と賽銭箱も新たに氏子から奉納された拝殿の扁額「正八幡宮」左側からの社殿左奥に「金刀比羅神社」金刀比羅神社の扁額、「金刀比羅神社」金刀比羅神社前から、境内を見下ろす平成29年(2017)3月25日、拝殿で行われた竣工祭には関係者が参列。境内には地域住民らが詰めかけた。神事後、建設委員会の村上茂委員長は「この日を目標に熱い想いで取り組んでいただいた皆様に敬意と感謝を述べたい」と挨拶。村上宮司は「新しく生まれ変わった八幡宮をお守りしていきたい」と話した。氏子総代代表の北村瑞徳さんは「この八幡宮は昔から地域のよりどころ。これから200年先も、同じ気持ちで地域の人たちが集ってもらえたら嬉しい」と完成を喜んだと。(ネット情報)堀之郷正八幡宮改築記念碑当社は、平安時代に大分県の宇佐八幡宮から分霊を迎えたのが始まりと伝えられている。応神(おうじん)天皇・神功(じんぐう)皇后、武内宿禰(たけのうちすくね)の三柱をご祭神とし、堀之郷四ヶ村の鎮守として人々から親しまれてきた。同八幡宮の本殿は17世紀後期に、拝殿は1840年に建立されており、かつては茅葺き屋根だったという。1965年に本殿横にあったご神木の杉が雷に打たれ、伐採したご神木を売って茅葺き屋根から瓦屋根に改築。しかし土台は170年余り変わっておらず、老朽化が進んでいたという。平成20年(2008)から氏子や自治会を含め、改築に向けた話し合いが行われ、平成23年(2011)7月に建設委員会を設立。奉賛金8,000万円を目標に掲げて、64人の委員らが地元住民らに熱心な呼びかけを行ってきた。積立金などが一切ないなか、一から呼びかけを行い個人や企業など644人から目標を上回る8,430万1,000円の奉賛金が集まった。2015年12月には境内の假(かり)殿へ御遷座(ごせんざ)の神事が行われ、16年1月から改築工事を開始。5月の上棟式を経て、12月に本殿へ御遷座が行われ、今回の竣工式を迎えたと13:05社殿東側の駐車場から社務所堀之郷正八幡宮から坂を下り前方は国道246号。左側の石碑には、「御嶽神社」秦野市のマンホール蓋秦野市が1987年に採用したデザインです。 丹沢の美しい自然と澄んだ空気をいつまでも大切に守り、次代へと引き継ぎ快適な市民生活環境の保全を願い定めた市の花「なでしこ」を幾何学的に13箇所、そして中央に市章を配置したものを図案化しました。 この鉄蓋は汚水のマンホール蓋に使用されています。カラーも見てみたいが13:18御嶽神社(みたけじんじゃ)所在地:神奈川県秦野市堀西653道路から見上げると鳥居、車を道路脇に駐車して参拝することに石段を十数段上り鋼製の鳥居鳥居の扁額は、「御嶽神社」鳥居から参道の左側に、「この土地に 日本武尊 立ち寄りて 民は喜び後世に祀る」 昭和六十三年九月八日 石原移幹 書 秦野市自治会連合会 会長 谷 好文杉林の参道の先に社殿社殿をズームアップ参道左側に建つ、「聖徳神社」『神社誌』には境内社として「菅原神社」一社が記載されているが、その後「秦野西建築組合の方が太子講を開き」聖徳神社を勧請したとある(社頭掲示)。聖徳太子は宮大工の祖として木地師・木工建築業の人々に祀られる。多く「太子堂」として境内社にあるものと同じである境内社:天神社(菅原神社)菅原神社の御祭神は菅原道真公で、学問の神様です。一月二十五日が祭日で、昔は、子供たちがご神札を印刷し各家庭に配布し勉強が出来るようにお願いした。御嶽神社の社殿御祭神 日本武命 ( やまとたけるのみこと ) 宇迦之御魂命 ( うかのみたまのみこと )御嶽神社御由緒創建年代は不詳であるが、大昔からの言い伝えによれば貞観九年(867)に蔵王権現として創建されたと言う説や、さらに室町時代当初の正平二十年(1365)頃創建されたと言う説もある。又、地頭須田家より永正年間(1504~1520)不闕(欠けることなく)「御供米」として玄米一斗宛上献があり、明治六年村社に列すと言う文書もある。又、江戸時代の寛文十一年(1671)宗旨門別帳が作成され、寺請檀家制度が完成し、神仏混淆思想が盛んになり当神社も月光山桂林寺の持ち分となり「蔵王宮」と呼称される様になり、明治元年神仏分離令が出されて、神道の国教化が進み廃仏毀釈の運動が高まり、仏教を排斥し、寺や仏像を壊す行動が高まり、明治六年より御嶽神社と改称されたようです。新編相模風土記・中郡勢誌等の記述によると蔵王宮(御嶽神社)は、堀四ヶ村の鎮守なり、ご神体は木像、例祭は八月八日となっている。然し、煙草耕作等の関係で例大祭は毎年四月四日と固定されてきたが、近年児童数の激減の為御神輿の渡御が休日で無いと困難になり四月四日以降の土曜日と変更された。堀四ヶ村とは、堀山下村・堀川村・堀斎藤村・堀沼城(沼代)村のことで、尚堀斎藤村と堀沼城村が明治二十年頃から堀西村となった。従って、例大祭には、堀山下の堀之郷正八幡宮の・堀川の八坂神社・森戸の神明神社・黒木の須賀神社・波多川の天津神社・学校前の浅間神社・新生町八幡神社の代表が昔の堀四ヶ村当時の氏子として現在も参列されている。その他に、千村の白山神社・神社境内にある聖徳神社の代表も参列される。◎御祭神 御嶽神社の御祭神は日本武尊で、「古事記」や「日本書紀」によれば景行天皇の皇子で天皇の 命令を受けて、九州の熊襲や、東国の蝦夷を征伐して、帰国の途中伊勢の国で亡くなられた。 昔から武勇の優れた神様で、又、愛情のある歌人としても崇められ、多くの人から信仰されて いる。※大森稲荷神社の祭神は、宇迦之御魂命で五穀豊穣の神様で元亀元年(1570年)「織田信長の頃」 大森式部吉正(大森宮司の先祖)が自宅に創建されておられたが明治末年に県庁の指示によっ て御嶽神社の合祀された。◎境内社※菅原神社(天神様)の御祭神は菅原道真公で、学問の神様です。一月二十五日が祭日で、昔は、 子供たちがご神札を印刷し各家庭に配布し勉強が出来るようにお願いした。※山の神様は、昔から春に山から里に降りて田の神となり秋には再び山に戻り山の神となると信 じられ、農耕の守護神として信仰されてきた。※天社神 春秋の社日(春分、秋分に最も近い前後の戌の日)に農事を休んで地神講を開き農家 の方々が農作物の豊作や収穫の感謝をお祈りした。※聖徳神社の祭神は聖徳太子で秦野西建築組合の方が太子講を開き、毎年一月と七月の二十二日 に例大祭が執行され、工事の安全祈願をされます。 平成十五年(2003年)四月之建社殿の前に、狛犬、石灯籠が建つ拝殿の扁額、「御嶽神社」社殿の左側から境内社:石祠の「山神社」山の神様は、昔から春に山から里に降りて田の神となり秋には再び山に戻り山の神となると信じられ、農耕の守護神として信仰されてきた。13:24車を道路脇に駐車していたので、急いで参拝 — 続く ー
2021.11.21
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この日も天気が良く、愛車のリンちゃんで満開に近い小出川沿いの梅林、河津桜を見に出かけ、その後、寒川町の寺社史蹟巡りで相模川に架かる湘南銀河大橋から上流側を散策した。2月23日(木) 13:10小出川沿いの鶴嶺の梅林鶴嶺通りの新鶴嶺橋から上流の浜園橋の間に紅白の梅が植えられている。近くに鶴嶺八幡宮もあり、地元民の散策コースになっている。白梅をズームアップ。13:25萩園橋から上流側にある河津桜まつり会場を望む。今年も新型コロナウイルスの関係でまつりは中止になった。満開前の河津桜。河津桜、菜の花とのコラボ。この後、相模川に架かる湘南銀河大橋へ向かう。14:05 河津桜まつり会場から県道44号線 (伊勢原藤沢線) を西に走り相模川へ。寒川町が管理する田端スポーツ公園第二野球場。湘南銀河大橋の下流側にある、田端スポーツ公園 親水広場。富士が眺望できる場所であるがこの日は雲の中であった。対岸の平塚側の河川敷にも数ヶ所の野球用グランドがある。相模川の東側の河川敷には湘南銀河大橋を挟んで寒川町の野球場、陸上競技用トラック、サッカー場がある。湘南銀河大橋の上流側にある、田端スポーツ公園第一野球場。第一野球場の北側には広い広場があり、各種の練習場になっている。この日も某大学がブラスバンドとの練習を行っていた。指導者は堤防上から見おろして指示。指揮者は壇上に上がり指揮棒を振っていたが、高所作業で危険ではと!河川敷にも色づいた桜。ズームアップ、河津桜であろうか。このような大会があるのであろうか。堤防上には散歩途中の人が見学していた。更に上流では別のグループがブラスバンドを交えて練習していた。近くには工場があるだけで騒音に対する苦情はなさそうだが、堤防下の公園入口に田端スポーツ公園管理棟が有り寒川町の許可を得ているのであろう。河川敷の平塚側には野球用グランド、後方の左には箱根の金時山、中央に矢倉岳。富士は見えなかったが、手前には河津桜。14:30寒川第二排水樋管所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮更に相模川の左岸 (東岸) を上ると、寒川第二排水樋管。ゲートは二門。下流側を振り返る。排水樋管とは、堤防を横断する水路のことを樋管や樋門、水門といいます。排水路や支川が堤防を横断して川へ流れ込む場合に、堤防の中をトンネルのように通り抜けるものを樋管または樋門 (※1) といいます。堤防を分断し完全な開水路で通り抜ける場合の構造を水門といいます。水門はゲートを閉めたときに堤防の役割を果たします。(※1)樋門と樋管には明確な定義はなく、一般的に、断面が比較的小さいものを樋管、大き なものを樋門と呼びます(ネット情報)。二枚の銘板があり、構造物名称:寒川第二排水樋管工 事 名 称:H27相模川寒川第二排水樋管改築工事工 期:自) 平成27年9月30日 至) 平成28年6月20日河川占用許可標識河川敷に下り排水樋管の全景。相模川への放流口。堤防上から寒川町田端、一之宮を見下ろす。この辺りは工場地帯で川を挟んで南側に、新明和工業 特装車事業部寒川工場、北側に旭ファイバーグラス 湘南工場がある。川は一之宮第二排水路で、川を挟んで田端 (南側)、一之宮 (北側) の境界になっている。寒川第二排水樋管を後にし更に上流側へ進む。散歩コース、ランニングコースになっている。左下は相模川に合流する目久尻川。寒川第一排水樋管所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮まだ新しい設備でロープが張られ立入禁止になっていた。ゲートは一門。ステージへは立入禁止に!機側操作盤をズームアップ。遠隔操作になっているのか。盤にはゲート、水位計 (川表側・川裏側) 。寒川第一排水樋管の上流側から下流を望む。右下は目久尻川。下流の相模川に合流する目久尻川、湘南銀河大橋をズームアップ。河川敷に下り寒川第一排水樋管を見上げるが土砂改良工事を行っているので立入禁止に。二枚の銘板があり、構造物名称:寒川第一排水樋管工 事 名 称:R1相模川左岸寒川樋管設置他土砂改良工事工 期:自) 令和元年11月21日 至) 令和3年6月30日河川占用許可標識寒川第一排水樋管の放流口は目久尻川。ゲートは、形 式:ステンレス製ローラーゲート純径間 × 扉高:2.000m × 1.400mこの辺りも工場地帯で寒川町一之宮。工場の間を流れるこの川の名は一之宮第一排水路であろうか?。寒川第一排水樋管から上流に走り圏央道の一之宮高架橋下から振り返る。右下は目久尻川。高架橋下越しに湘南銀河大橋をズームアップ。14:50目久尻川の上流に、県道47号線 (藤沢平塚線) の河原橋。 ー 続く ー
2023.03.29
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浜降祭参加の寒川地区の神社の帰路に、茅ヶ崎の史蹟を巡った。8月12日(土) 16:50プレンティーズ ミルク&チーズファクトリー所在地:神奈川県茅ヶ崎市みずき3丁目1-62023年8月8日オープンの湘南茅ヶ崎にある牛乳製造所である。すぐ近くにある茅ヶ崎の牧場からしぼりたての生乳を直送して、新鮮な乳製品を製造・販売している。茅ヶ崎のローカルアイスと言えば、Plenty’s(プレゼンティーズ)!。そのPlenty’sは、茅ヶ崎駅南口 (鉄砲道の雄三通り中央交差点) とテラスモールにありますが、今回3号店目を茅ヶ崎市みずきで新しいお店をオープンした。営業時間:9:30 〜 19:00(不定休)PLENTY'S Milk & Cheese Factory店内、テラス席で食べれる。湘南ちがさき牛乳 \200/200ml、\490/750ml市内の契約牧場から毎朝直送だから鮮度と味わいが違います!プレンティーズの商品全ての原点がこの乳です。今までにちがさき産だけの牛乳は存在しませんでした。歴史的な1杯をどうぞ!モッツアレラ \580/100g新鮮な牛乳だからこそ味わえるチーズがあります。しぼりたて、ちがさき産生乳100%のフレッシュモッツアレラをご賞味ください。TODAY'S MENU ♡♡● しぼりたてソフトクリーム \400● 季節のホェトドリンク(パイナップル) ¥400茅ヶ崎駅南口 (鉄砲道の雄三通り中央交差点) にある店もいつも混んでいるがここでも!。Plenty’s(プレゼンティーズ)からスリーハンドレッドクラブのコース沿いを走り帰路につく。草を刈りこんだ先に石碑を見つける。スリーハンドレッドクラブのコースの手前に石碑。上諏訪神社舊跡所在地:神奈川県茅ヶ崎市松風台附近紙垂で飾られていたが説明板がなく詳細は不明。石碑には「上諏訪神社舊跡」と刻まれていた。石碑の後方にはスリーハンドレッドクラブのコース。相模川左岸用水路。自転車は進入禁止になっていたので押して進んだ。サルスベリも満開に。相模川左岸用水路脇に建つ「水と花と緑のこみち整備事業」。この辺りは松風台団地。相模川左岸用水路相模川左岸用水は、昭和5年(1930)から昭和15年の歳月をかけて灌漑用水を完成させた。相模原市、座間市、海老名市、寒川町、茅ヶ崎市の703ヘクタールに今も供給されている。相模川左岸用水路の標準断面図この辺りは県有地の幅が約8Mあり、開放水路、ボックスカルバートになっている。相模川左岸用水路の開放水路。右側が松風台団地、左側はスリーハンドレッドクラブの敷地になっている。◎ 相模川左岸用水路とは この水路は、相模川左岸用水路といいます。この用水は相模川から取水しています。 遠く相模原市磯部(磯部頭首工)から茅ヶ崎市室田まで全長約21kmにもなります。 本水路は、農業用水路として水田を灌漑するために、昭和6年~昭和15年に築造さ れ、先人が極めて多くの努力を払い何度かの工事を経て今日の姿になりました。◎ 農業空間について この水路により育まれている水田を中心とした農業空間は、何世紀にも渡る農業 の営みの中で培われ保全されてきたものです。今後とも、水と緑あふれる農業空 間を保全し、創造することが必要とされています。茅ヶ崎配水池所在地:神奈川県茅ヶ崎市甘沼相模川左岸用水路から急な坂を上り、スリーハンドレッドクラブ前を通り抜けゴルフ場に隣接してこの配水池がある。茅ヶ崎配水池〔災害用指定配水池〕概 要 構 造 鉄筋コンクリート造 大きさ 12m☓12m☓1池 48m☓48m☓1池 有効水深 4.0m 満水時水位 標高 50.0m 容 量 5,184m3この配水池は、寒川浄水場から送られてきた水を貯えて、茅ヶ崎市の皆様に供給するために築造されたものです。また、この配水池は、地震など災害が発生した場合に応急給水に必要な飲料水を確保する配水池に指定されています。 神奈川県企業庁水道局茅ヶ崎営業所Googleマップにこの辺りに「甘沼水道山横穴墓」が載っていたので訪れ探す。道路はスリーハンドレッドクラブへの道路。ここから下る階段があった。スマホのGoogleマップでは「目的地に到着しました」と。急な階段を見下ろす。階段の中間部で下を見下ろす。甘沼水道山横穴墓所在地:神奈川県茅ヶ崎市甘沼下ってきた階段を振り返る、スマホでは左前方だが。階段を降り途中で探すが説明板がなく、それらしきものが発見できなかった。階段の西側には民家があった。スマホではもう少し上に目的地。階段を上ると右側に「水道境界」の石柱。水道境界の石柱から右側に入ると、「甘沼 八幡大神」の境内へ。この花の実はヤブミョウガであろうか。甘沼 八幡大神社殿。拝殿の扁額「八幡大神」。甘沼八幡大神から西側の階段へ戻る。蚊が多く半ズボンの私は蚊に刺される。階段の途中から左側(西方向)を覗くが・・・。階段を上り終え小出県道へ進むと右側に展望台。広場にあった「土砂災害防止法に基づく土砂災害警戒区域等を明示した現地表示板」。広場から茅ヶ崎市街地の南東方向を見下ろす。新湘南バイパスの高架橋が東西に走り、天気が良ければ江の島が見えるのだが。茅ヶ崎駅方向を望む。我が家がある南方向をズームアップするが山に隠れているようだ。広場にはフジ棚もあった。千ノ川の南側にある茅ヶ崎市立病院。17:30茅ヶ崎市立病院所在地:神奈川県茅ヶ崎市本村5丁目15-1新型コロナも第5類になり面会できるようになり、面会時間は15時から19時までで15~30分。病院の前には新型コロナ対策の臨時応対テント。病院に隣接してコンビニがある。千ノ川沿いにススキに似た「パンパスグラス」。パンパスグラスは、南アメリカとニュージーランド、ニューギニアに分布するススキに似た多年草で、約20種が知られています。栽培されるのは、明治中ごろに渡来したセロアナ種(Cortaderia selloana)です。雌雄異株で、雌株の花穂には長い毛があり、観賞価値が高くなります。自宅到着時の愛車のリンちゃんのメーターは、「走行可能距離:71km、バッテリー残量:80%」と標示。出発時のメーターは、91km、100%であったので今日の走行距離は20キロメートルであった。 END
2023.08.20
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久しぶりの熱海梅園の「韓国庭園」の散策を続ける。1月27日(火) 12:50韓国庭園の中央に建つ「堂」。堂の裏にある「花階」。②花 階 母屋の北側の斜面地に築く階段状の花壇。高貴な女性方の愛好の庭園として、季節感 のある身近な植物や薬用植物、果実等の有用植物を植えています。花階に続いて2枚の説明板があった。③煙 家 オンドル(床暖房施設)の煙突で、その形状から「煙の家」と称されています。中には、 壁面に長寿を象徴した動植物等を描いたものもあり、一般に花階に設置されています。頂部をズームアップ。かつて半世紀前に韓国へ出張したのが12月で、オンドルルームにお世話になったことを思い出し各家の傍に練炭の山があったことを思い出すがこの構造物は?。大小の蓋つきの壺があった。⑥チャントッテ 味噌、醤油、漬け物等の壺を置く場所で、台所に近い後庭に造られます。規模の大き さが家勢を表すものとされ、現在の一般家庭でも見られます。堂の周りに「玉石張り土塀」。⑨玉石張り土塀 朝鮮時代の伝統的な塀には、自然石を積んだものから土塀の塀、玉石や瓦を使った塀 が見られます。玉石張り土塀は、玉石で細工された塀で、塀の屋根瓦は韓国から取り 寄せています。堂の周りを廻り北側を望む。こちら側の土塀は「瓦張り土塀」である。大門前から堂を振り返る。広場にはベンチもあり休憩する人も。韓国庭園を後にした。土塀は「瓦張り土塀」である。遊歩道脇のロウバイが逆光に映える。鬱蒼とした樹々に間に建物があった。順路にある「中山晋平記念館」。途中の石に歌碑のタイルがはめ込まれていた。この他にも数枚あった。「立ちて思ひ 居てもそ思ふ 紅の赤裳(も)裾引き 去(い)にし姿を 巻11ー2550 大蔵忌寸麻呂 (おほくらのいみきまろ)」と。中山晋平記念館所在地:静岡県熱海市梅園町8-1入口の石には、「いにしへに 恋ふる鳥かも 弓絃葉(ゆづるは)の 御井(みい)の上より 鳴き渡り行く 春2ー111 弓削皇子 (ゆげのみこ)」と。主屋の前に建つ、中山晋平記念館入口門。中山晋平記念館大正初期~昭和20年代まで大衆音楽の普及に貢献した作曲家・中山晋平氏の別荘を西山町より梅園内に移築し、一般公開している。晋平は第二次世界大戦が苛烈化した頃に東京中野から熱海に移住、昭和27年の死去まで住んでいた。玄関先の水場で咲いていた「黄花亜麻 (きばなあま)」。入口に、中山晋平記念館 開館時間 9:00~16:00 梅まつり期間中 休館日 なし 1月10日(土)~3月8日(日)玄関内部玄関に掲示されていた「中山晋平記念館」間取図。1階 29.63坪 97.98㎡2階 16.65坪 55.07㎡当記念館は、作曲家・中山晋平の別荘として昭和10年に熱海市西山町に建築されました。昭和19年に東京は空襲が激しくなった為、熱海に移住し、昭和27年65才で亡くなるまで、ここで多くの作曲をして来ました。この建物は日本ビクター株式会社様より熱海市が寄贈を受け、平成3年4月、当時のままの姿で、この梅園に移築したものです。玄関ホールの板の間が展示室になっており、白いピアノ、パネルが掲示されていた。左の柱に「中山晋平愛用の黒いピアノから、ご覧ください」と。これは貴重なピアノです。お手を触れないでください。「西条八十・中山晋平がこのピアノで熱海節を作詞作曲した (昭和初期熱海で最初のピアノ) 内田滋氏寄贈」と。日本の歌謡史に偉大な足跡を刻んだ作曲家中山晋平 明治20年(1887)3.22~昭和27年(1952)12.30作曲家。長野県生れ。教員生活1年ののち明治38年(1905)上京。島村抱月家の書生を務めながら、明治45年(大正元年・1912)東京音楽学校本科器楽部(ピアノ科)卒業。小学校教員となる。大正3年(1914)抱月主宰の芸術座公演<復活>(松井須磨子主演)の劇中歌<カチューシャの唄>(抱月・相馬御風作詞)を作曲して好評を博した。つづいて同座公演の劇中歌<ゴンドラの項>(吉井勇作詞、1915)、<さすらいの唄>(北原白秋作詞、1917)などを作曲、一躍名声を得た。以後、野口雨情の詞によるく船頭小唄〉(1921)、(須坂小項〉(1922 )、<波浮の港>(1924)、時雨音羽の詞による<出船の港> (1925)、く鉾をおさめて> (1926)、西条八十の詞による<東京行進曲>(1929)、東京音頭(1933)などヒット曲を生み出した。また<證城寺の狸囃子><砂山><てるてる坊主>などの童謡でも親しまれた。昭和3年(1928)以後ビクター専属。昭和23年(1948)から日本音楽著作権協会会長を務めた。没後「中山普平記念音楽賞」が設けられた。作品総数は3,000余曲に及び、曲集として出版されたものに<中山晋平集>(1952 )、<中山晋平作曲全集>(童謡篇上下2巻、1956。新民謡篇1巻、1963)がある。彼は鋭い感覚で日本民謡の特徴を把握し、音階、リズム、日本語の扱い方などにそれを活用して、独特の明快な日本的・庶民的な歌のスタイルを作り上げ、「普平節」といわれた。童謡運動や新民謡運動に重要な役割を果たし、日本近代の大衆歌曲の道を開き、そのスタイルを確立した。中山晋平年譜明治20年(1887)(0歳) ~ 明治38年(1905)(18歳)明治41年(1908)(21歳) ~ 大正6年(1917)(30歳)大正7年(1918)(31歳) ~ 大正13年(1924)(37歳)大正14年(1925)(38歳) ~ 昭和6年(1931)(44歳)昭和7年(1932)(45歳) ~ 昭和14年(1939)(52歳)昭和15年(1940)(53歳) ~ 昭和21年(1946)(59歳)昭和22年(1947)(60歳) ~ 昭和28年(1953)玄関ホールの左奥に和室4.5畳があり黒いピアノが置かれていた。鍵盤の上に注意書きがあり左に「これは貴重なピアノです。お手を触れないでください」と。右側には、このピアノは、中山晋平先生が昭和27年12月、熱海で逝去されるまで愛用されていたものです。「明治12年(1879)ニューヨーク・コーラー・アンド・チェイス社製で、大正8年~10年ごろ購入されたものです。」このピアノから生まれた曲は今でも歌い継がれている「船頭小唄」(大正10年)「しゃぼん玉」(大正10年)「波浮の港」(大正13年)「あの町この町」(大正13年)「東京行進曲」(昭和4年)「東京音頭」(昭和8年) 等々で数多くの名曲が残されております。 ※ 大変貴重なピアノです。床の間には中山晋平の写真、記念写真が置かれていた。窓際には蓄音機と床の間には「梅沢一勝氏寄贈の楽譜の掛軸」が吊るされていた。懐かしい蓄音機には「中山晋平が愛用した『蓄音機』」と。一階には和室6畳、8畳の連間がある。その縁側の引き戸は歪がある昭和レトロなガラス戸である。南側の縁側奥には「洗面所・便所」がある。和室8畳間には中山晋平関係の資料が所狭しと展示されていた。中山晋平の賀状 昭和6 (1931) 年。左側には、中山晋平直筆のハガキの複製「昭和26年12月2日 熱海市西山町の自宅より下高井高等小学校在学時の恩師佐藤嘉一(佐藤 藤山)宛差し出したハガキを複製したものです」と。表彰状は昭和二十七年十月二十五日に受賞された「民謡文化章」。和室8畳と6畳の間の「板欄間」。13:05和室6畳の茶の間中央には「お手伝いさんを呼ぶときに使用していたつり鐘 日本ビクター㈱ 寄贈」と。訪れていた人が「我が家にも置きたい」と。 ー 続く ー
2026.02.09
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3/7(水) 小雁塔がある旧大薦福寺の境内にある「西安博物院」へ 13:55 西安博物院 2007年5月18日開館、小雁塔の境内に位置し、陳列面積は5000㎡以上ある 西安博物院内の天井 一階展示室「唐・長安城の模型」 日本の平城京・平安京は唐の首都長安城に倣って計画された 4辺の城壁の長さは、25,700mで全部で12の城門があった 西安博物院では、西安付近に首都がおかれた時代、つまり西周から唐までの遺物が 展示されている。紀元前11世紀から紀元後10世紀までの約2000年間の多くの期間 西安付近に都がおかれた 小雁塔 館内には13万点の文化財を収蔵しており、うち国家三級以上の文化財は1.4万点に 達している 地下一階に展示されている 西安近郊から出土 青銅製品 Gold Tree (唐代) 白瓷帯流罐(唐代) 食器 漢・唐文化展示室 右から、三彩文官俑、三彩武官俑 彩絵氈帽俑(明代) 氈帽とはフェルト帽のことらしい 唐時代の美人とか 仕女俑(唐代) 三彩騰空馬(唐代) ラクダに乗る 馬に乗る女性 史君墓石椁(北周代) 最近は中国にも自動販売機が 白衣閣 两層高台式磚木建築で上閣には回廊がある 石碑塔の向こうに大雄宝殿、小雁塔 石碑塔と白衣閣 出口ゲートへ向かう 出口ゲート 旧型の三輪車での露天商 この辺りのレンタル自転車は倒れ 15:20 小雁塔駐車場へ このあと、大雁塔へ 続く
2018.03.21
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県立辻堂海浜公園からサイクリングロードを江の島方面へ進む。12月25日(金) 14:10辻堂海浜公園ジャンボプール 太陽光発電システム当施設では、10kWの太陽光発電システムを設置しています。発電したエネルギーはプールセンター、公園管理事務所の照明などの電力として使っています。 ・ 太陽光発電システムが電気を1時間つくると、テレビゲームだと約33時間遊べます。 ・ 太陽光発電システムが最大で発電すると、電球だと約100個点きます。今の発電電力:5.5kW 今日の発電電力量:38.1kWhオール電化の家が1日に使う電気は約28kWhです辻堂海浜公園から辻堂海岸を望む手前の橋は、国道134号の上り線、下は川だが水源地が近く水がない辻堂海浜公園公衆トイレへ戻る先程の橋を望む作業員が黒板を掲げ写真撮影工 事 名: 令和2年度交通安全施設補修工事 県単(その1)河 川 名: 路線名:国道134号 自転車歩行道(サイクリングロード)地 名: 藤沢市鵠沼海岸四丁目 ~ 茅ヶ崎市柳島地内検査年月日: R21225 晴工 種: 堆砂除去工(路面) S-12 施工前起点側施 行 者: ㈱SHOBUサイクリングロードの橋のたもとで子供たちの声ズームアップすると数家族でのバーベキュー近くには匂いを嗅ぎつけてカラス東方向の辻堂海岸を望む国道134号の辻堂海浜公園東駐車場前交差点この先から上下線の間に「辻堂海浜公園しょうなんの森」辻堂海浜公園東駐車場前交差点?から上り線14:34国道134号沿いに立つ「観光地引き網 五ろ引網」所在地:神奈川県藤沢市辻堂西海岸3丁目6サイクリングロード側に入り、「観光地引き網 五ろ引網」五ろ引網の施設があるが最近地引網をしている光景は見ないが・・・・・・ 注 意1、引地川河口から辻堂海岸通称川中までの間は漁業者専用の操業区域であるので漁船と サーファーとの接触事故防止のため操業中はサーファーの遊技はご遠慮下さい。2、この区域内においてサーファーの遊技をし事故のおきた場合は当方においては一切の 責任を負いません。 藤 沢 市 藤沢市漁業協同組合 注 意・ ハマグリなどの貝類を捕らないで下さい。・ この付近は、漁業活動を行うための共同漁業権が設定されています。・ 漁業者(漁業協同組合員)は、資源増大のため、ハマグリなどを放流し栽培漁業に取り 組んでいます。・ ハマグリなどの貝類などを捕ることは、漁業権の侵害になり、法律により罰せられます。 (漁業法143条)辻堂海水浴場、地引網に使用される船であろうか辻堂海水浴場には多くのサーファー江の島の西側に位置する「稚児ヶ淵」五ろ引網から茅ヶ崎方面富士山が見えればビューポイントだがサイクリングロードから「五ろ引網」を振り返る片瀬西浜海水浴場との間にも多くのサーファー14:45サイクリングロードから、浜見山交番前交差点辻堂海浜公園、JR辻堂駅、スロープ入口の表示板国道134号の浜見山交番前交差点この交差点を右へ進むとJR辻堂駅へ達する同交差点から国道134号の下り線サイクリングロードの表示板「湘洋中学校前」国道134号の湘洋歩道橋歩道橋を渡ると北側に藤沢市立湘洋中学校藤沢市辻堂東海岸鵠沼海岸 0.7km ←→ 柳島 7.0km国道134号の江の島方向道路標識は、鎌倉:11km、江の島:4km藤沢市辻堂東海岸柳島 7.2km ←→ 鵠沼海岸 0.5kmサイクリングロードのキロ標示の前に、「浜辺の歌」作詞場所防砂トンネル今日は、サイクリングロードの堆積砂が除去されていて走りやすい防砂トンネル手前から、辻堂西海岸を振り返る富士山が見えると最高なのだが同場所で振り返り、左側は防砂トンネルで江の島をのぞむ防砂トンネルを下るトンネルの途中を左に曲がると、国道134号の下を潜る国道134号の地下道を潜り北側へ前方は国道134号の松波交差点トンネルを元に戻り江の島方向へこの辺りの、補修工事(右側)は完了しているが、防砂ネットは工事外?公衆トイレ所在地:神奈川県藤沢市鵠沼海岸4丁目5多くのサーファーがシャワー等を利用国道134号の竜宮橋入口交差点交差点を横切り進むと、引地川に架かる竜宮橋があるもう何度も来ているが、S-1 藤沢市鵠沼海岸柳島 7.7km ←→ 鵠沼海岸 起点 km15:24県立湘南海岸公園にある看板、近辺の海水浴場左側(東)から、腰越海水浴場、片瀬東浜海水浴場、片瀬西浜海水浴場ウォーキングコース 案内図 ペンギンコース 680m、ウミガメコース 1,930m、クラゲコース 2,600m イルカコース 3,600m の4コースがある。 ここ(現在地)がスタート/ゴール地点です。石碑には「日本ビーチバレー発祥の地」神奈川県藤沢市鵠沼海岸片瀬西浜海水浴場のビーチバレーコートと江の島因みに、東京オリンピックのビーチバレー会場は、お台場の「潮風公園」である片瀬西浜海水浴場沖には多くのサーファー後方は、江の島弁天橋 ー END ー
2021.02.05
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雨上がりで富士山が顔を出していたので天気も回復し急遽、昼食後平塚へ向かうことに。11月21日(月) 13:15千ノ川沿いを下り「南湖の左富士」ポイントへ。昨夜来の雨で富士山には雪が積もっていた。千ノ川に架かる国道1号(旧東海道)の鳥井戸橋。この場所は「関東の富士見100景」に指定されているのだ。欄干に取り付けられているネームプレート。鳥井戸橋から千ノ川の下流側をズームアップすると雲の中に富士山。更にズームアアップ、手前は新湘南バイパスの高架橋。国道1号(旧東海道)の鳥井戸橋交差点に建つ鶴嶺八幡宮の大鳥居。この交差点を左折すると「左富士通り」を南下、国道134号の浜見平入口交差点へ至る。左富士通りの石原橋。正面に雲で覆われる雪化粧の富士山。交差点の片隅に建つ「南湖の左富士之碑」。南湖の左富士の由来浮世絵師安藤広重は天保三年(1832)に東海道を旅し、後続々と東海道五十三次の風景版画を発表した。その中の一枚に南湖の松原左富士がある。東海道の鳥井戸橋を渡って、下町屋の家並の見える場所の街道風景を写し、絵の左には富士山を描いている。東海道のうちで左手に富士山を見る場所は、ここと吉原(静岡県)の二か所が有名。昔から茅ヶ崎名所の一つとして南湖の左富士が巷間に知られている。国道1号を更に平塚に向けて走る。右側には「日蓮宗 信隆寺」の山門、また道路脇に案内板。第17回 湘南国際マラソン 12月4日(日) 通行止め8:00 頃 ~ 15:45 頃 国道134号 西湘バイパス 江の島入口付近 ~ 西湘二宮IC間 江の島には入れます6:00 頃 ~ 16:30 頃 大磯町 国府本郷及び大磯西IC 会場付近 ご理解・ご協力の程、お願い致します。 主催:湘南国際マラソン実行委員会更に国道1号を西へ向かうと馬入橋上に富士山。馬入橋から見る富士をズームアップ。更に頂上をズームアップ。大山、丹沢連峰を望む。馬入橋を渡り、工業団地入口交差点を数十メートル戻り、ホテル サンライフガーデン所在地:神奈川県平塚市榎木町9-41平塚市の結婚式場で、落ち着いた雰囲気の客室を備えたくつろげるホテル。レストラン、チャペル、イベント スペースがある。ホテル入口の駐車場には車両ナンバー「11ー22」の「いい夫婦」。ホテル玄関前に「明治天皇馬入御小休所跡」の石柱。遺跡の由来平塚市榎木町ホテルサンライフガーデンの敷地はわが平塚市の文化史、経済史の上で特筆されるべき遺跡だといわれている。大住郡公所村の大官端山家に生まれた杉山久五郎は、若い頃江戸に出て生薬を学習。縁あって杉山家を襲い、この場所で薬種商を営んで大成功を収め、子息泰助を大阪に遺し緒方洪庵に就いて医学を学ばせたという。かくて父子協力して家業の発展に努め財を成す。又、折柄、明治の新時代を迎えて、石油と砂糖の需要の増加を予測し、馬入川(相模川)の舟行を利用して、上流各地に広く販路を拡大していった。更に陸路は馬力を利用し神奈川県中央部で石油と砂糖の大問屋となって、大成功を遂げ、豪壮な家屋を建築した。屋敷の周囲には石垣を構築みずから「石垣」と称し、世間もまた「石垣」と敬称した。明治六年八月三十日、天皇(明治)皇后(昭憲)お二方が東海道御通行の時、ここに立寄られ休息されたのは天皇二十二歳、皇后二十四歳のときである。又、明治十一年十一月八日には明治天皇の再度御立寄の光栄に浴した。明治十五年七月、この石垣の邸内に株式会社江陽銀行が開業したが、同行は神奈川県中央地域に於ける最初の銀行で頭取は杉山泰助、江陽の名は耕餘塾小笠原東陽の命名である。「明治天皇馬入御休所跡の碑」は昭和十五年皇紀二千六百年記念に泰助の孫久吉が建立した。揮毫は子爵金子堅太郎である。 平塚市文化財保護委員 八十三叟 高瀬慎吾14:00ホテル サンライフガーデン前を通り抜け東側へ回り込む。この辺りには今まで見落としていた、馬入渡川会所跡、馬入ポンプ場があったので訪れる。正面の建物は結婚式場の「グランドビクトリア湘南」のチャペル。石碑には「馬入渡川會所跡」と刻まれていた。所在地:神奈川県平塚市榎木町9川会所は江戸時代に川越を取り締まった役所で、川役人がいて、渡船の管理や渡賃の徴収などを行っていた。川会所跡(かわかいしょあと)川会所は、江戸時代に川越を取り締まった役所で川役所とも言いました。川会所には川役人(川名主と年寄)が在勤し、川の深浅を計り、川留・川明を決めたり、渡船の管理や渡賃の徴収などを行っていました。通行人は渡賃を払って、川越をしていました。元禄三年(1690)当時の旅人一人の渡賃は十文でした。馬入の川会所は、間口一間半、奥行二間ほどの家で、馬入川渡し場の西川端にありました。馬入の渡しには渡船が常備されていて、定掛り村が須賀と柳島村、定助郷村が馬入村ほか四か村、加助郷村が田端村ほか十か村で、それぞれの村々が渡しの業務の負担をしていました。 平成十九年(2007)三月 平塚市南側には馬入ポンプ場。左側に「馬入渡川会所跡」の石碑、奥に「馬入ポンプ場」の建屋。 グランドビクトリア湘南チャペルの下に「史跡 東海道 馬入の渡し跡」木柱の「史跡 東海道 馬入の渡し跡」をズームアップ。右側の鉄塔が気になる「グランドビクトリア湘南」のチャペル。馬入ふれあい公園の紅葉。馬入ふれあい公園のメタセコイア並木。子供連れの人が散歩。相模川の河川敷に下り、馬入排水樋管前の河川敷にある橋を渡る。橋上からの馬入排水樋管。橋の名は「馬入水門橋」。馬入排水樋管の全景。馬入排水樋管 1981年 1月 建設省関東地方建設局 管理者京浜工事事務所 幅 5.00m 高 3.75m 施 工 株式会社奥村組馬入排水樋管門扉純径間×扉高 5.00×3.75m×2門開閉速度 0.3m/min.扉体重量 6.400ton×2門扉体材質 SMA41A製作年月 昭和55年11月製 作 日本鋼管株式会社いつもは多くの釣り人がいるが今日は月曜日で少なかった。水面にはハゼ?が泳いでいたが。カモ?が群れを成して泳ぎ回る。国道1号の馬入橋を見上げる、下流側にJR東海道本線の馬入川橋りょう。上流側にはモーターボートの陸揚げ施設。相模川河川敷から馬入橋へ上がり茅ヶ崎方向へ進み橋の中程から、丸いドームのひらつかサン・ライフアリーナ、大山を望む。馬入ポンプ場、馬入排水樋管を望む。後方には雪化粧の富士山。上流の湘南銀河大橋を望む。相模川の中に大きな中洲が確認されたがこの中洲はほとんどが茅ヶ崎市に属する。14:30馬入橋を戻り、次の目的地「西町稲荷神社」へと向かった。 ー 続く ー
2022.12.03
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行動制限(自分で)を行っている中、11月になり各地で紅葉が見頃になって来たとのことで久しぶりに新車ノートで出かけたブログです。ネットで”山中湖夕焼けの渚紅葉まつり2023” が10月27日(金)から行われているとの情報をえ、山中湖周辺の訪れていないところをリストアップし訪れた。11月3日(金) 文化の日この日はスマホのアラームを4時半にセットして起床、暗い中自宅を5時に出発した。目的地を”山中湖パノラマ台”にし、”朝焼けの富士”を見るため寒川南インタから高速道路へ。カーナビの所要距離は68キロ、到着予定は6時半と。走行中車内の渋滞情報で「東名高速御殿場トンネルの工事で渋滞58キロ」と、カーナビでは大井松田インタを出て国道246号を走るのでの渋滞が心配になる。ブログ作成時のネットでは「文化の日の3連休 (11月3日~5日) には下りで25km、御殿場の通過に1時間40分以上の渋滞が予測されていますと。5:40国道255号と国道246号が籠場インター交差点で合流、予想どうり渋滞していた。右側が国道246号の下り。5:46薄暗い前方に富士が見えてきた。山中湖の日の出は6時8分でまだ日の出前。愛車のノート「エネルギーモニター」。現在は、ガソリンエンジンから蓄電池へ充電中。走行エネルギーは電池から。外気温は12℃。5:52国道が渋滞のため、カーナビが別ルートを案内してきた。この先は酒匂川の渓谷になり別ルートがあるのかと思いながら従ってみることに。前方に”庶子陸橋”の案内板。5:58富士が赤みを帯びてきた。今日は一日富士が見れそうだ。根石交差点から山北町へ入る。山北町は神奈川県の西部に位置し、足柄上郡に属する町。 町内には1978年に完成した丹沢湖がある。町域の大半を占める丹沢山地は美しい山々が連なり、山岳登山、ハイキングに。人口・世帯数 (2023年10月1日現在) 人口:9,468人 男性/4,653人、女性/4,815人 世帯:4,223世帯6:03農産物直販加工所とれたて山ちゃん所在地:神奈川県足柄上郡山北町向原1823-1国道246号の向原西交差点角にあり、農家のおじさん、おばさんが、毎朝新しい品物を届けている。営業時間は9時から16時で定休日は月、木曜日。6:10カーナビの案内で国道246号から斜め右に入り県道76号線(山北藤野線)を進む。県道に「山北駅入口」の交差点があり左折して山北駅前へ。JR御殿場線山北駅所在地:神奈川県足柄上郡山北町山北開業は1889(明治22)年2月で、かつては山北機関区を擁する山越えの拠点駅であり、山間部にありながらも山北は鉄道の町として栄えた。山北駅は、御殿場線の途中駅の中で、丹那トンネル開通以前に東海道本線の駅として開業した7駅の一つであった。公共交流スペース案内図時間が早く、またこの日は文化の日で休日のため人の気配はなかった。中央に黒い建物の”ポッポ駅前屋”その左側の岡本呉服店の左側に”やまきた駅前観音堂”がある。駅前広場の入口には、シックな建物が建っている。山北町観光協会の ”観光案内 お休み処”。駅の出入口は、構内北側と南側の2か所にあり、いずれもICカード入出場用のTOICA改札機が設置されている。令和4年度の一日の乗降客数は903人。無人駅の駅舎内普通運賃表東京:1,690、横浜:1,170、藤沢:770、平塚:510、小田原:420。御殿場線時刻表運行は1時間に2本で、昼、夜間は1本。上りは始発5:35、終電は22:49と遅い。東の空が赤く染まってきた。ホームは島式ホームで1面2線を有する地上駅。ホーム北側が1番線、南側が2番線で、基本的に1番線を上り列車、2番線を下り列車が使用している。また、跨線橋の東側に南北の歩道橋がある。御殿場、沼津方面前方の駅裏手の機関区跡地には公園(山北鉄道公園)が設けられ、御殿場線で使用されたD52形70号機が静態保存されている。建物は山北町健康福祉センターで”さくらの湯”がある。駅舎は木製の珍しい梁構造である。名所案内河村城址 豪族河村氏の居城跡 南 400m泗水の滝 酒匂川の支流にかかる三段滝、文覚上人の修業の地、最下段は69mの落差 南西 2km室生神社 「やぶさめ」で有名 大祭(11月3日) 南東300m河村城址と山北鉄道公園は、平成29年(2017)12月15日(木)に訪れておりその時のブログは「山北町の河村城址」👈 をクリック願います。再度、跨線橋を見る。ホームには扉が絞められた待合室。東の空は先程より更に赤みを帯びた。駅舎から北側の、県道76号線(山北藤野線)の”山北駅入口交差点”を望む。駅前には重要文化財(建物)並みの右側に”タケイ美容室”、左側に”YAMAKITAバル”が建つ。後方の山の中腹には東名高速道路が走る。YAMAKITAバルの前に「11月3日 室生神社の流鏑馬会場」← 大野山まで約2時間30分、泗水の滝まで約35分。駅舎の前には赤いポスト6:16県道76号線(山北藤野線)の山北駅入口交差点から山北駅を振り返る。国道246号に平行する県道76号線(山北藤野線)を進む。脇道から本来の国道246号へ戻る道路標識。国道は相変わらず渋滞中で廻りの山々は紅葉が進んでいた。国道246号の交差点は”樋口橋 (とよぐちばし)”。6:25前方に東名高速道路の橋脚が見えてきた。国道246号沿いに”工事用車両出入口”と。1991(平成3)年に完成した東名高速道路の上り線の橋脚。右側方向は、都夫良野トンネル方面。新鞠子(しんまりこ)橋交差点所在地:神奈川県足柄上郡山北町都夫良野 新鞠子橋国道246号の前方上空に東名高速道路の”酒匂川橋”酒匂川橋は全長750mの曲線連続鋼トラス橋で、トラス部分は朱色に塗装されている。1969(昭和44)年の完成当初は上下線各2車線の橋が2本並列していたが、1991(平成3)年の拡幅事業により南側に離れた位置に上り線が新設され、現在は2本とも下り線(左ルート)として運用されている。リニューアル工事中で橋には渋滞中の車の列。東名高速の大井松田IC~御殿場JCT間で、2023年9月4日から2024年3月29日までの208日間にわたりリニューアル工事を実施している。道路標識には、静岡 99km、沼津 42km、御殿場 17km。かつて観光旅行でこの酒匂川橋を渡っている時、ガイドさんが路面に1万円札を貼り付けた費用が掛かったと説明していたことを思い出す。酒匂川橋の北側に新東名高速道路の橋梁工事現場が現れた。新東名高速道路の架橋建設現場さてこの橋の費用はいかほどになるのか。まだ橋は繋がっておらず橋の上にはタワークレーンが8基か?。橋の詳細がわからないので後日丹沢湖と共に訪れたい。6:35右側の東京側からも伸びていた。この辺りは国道246号の清水橋交差点手前で、左折すると丹沢湖へ至る。橋は丹沢湖からの河内川、県道76号線(山北藤野線)の上空に架かる。山に陽があたる。 ー 続く ー
2023.11.06
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大瀬崎から県道17号線(沼津土肥線)を戸田港に向け南下、途中富士山のビュースポットがあり立ち寄ったが、天気が悪く残念ながらどこからも富士山の眺望はできなかった。 2月15日(木) 15:35県道17号線沿いに「松城家住宅」の案内板があり左折して立ち寄る。松城家住宅所在地:静岡県沼津市戸田 72松城家住宅は、江戸時代から廻船業で財を成した松城家の居宅として明治6年に棟上げされました。建築様式は幕末から明治初期のわずかな期間にのみ建築された擬洋風建築で、日本に現存する擬洋風建築の中でも最初期のものとして重要文化財に指定されている。門柱と外塀門柱は伊豆石の一本物を使用しその高さは270cm以上ある。沼津市エリアマップ ー ここは重要文化財松城家住宅です ー 1⃣ 大川農村公園 2⃣ 部田神社 (Heda Shrine) 戸田・井田地区の郷社であり、平安時代の「延喜式神名帖」や「伊豆国神階帖」に載せ られている伊豆国那賀郡の部多神社。へたの明神にあたると言われており、古い歴史を 持つ神社です。神社境内にある2本の大楠は大コブが特徴です。市の天然記念物に指定 されています。 夕暮れの風景 3⃣ ロシアとの関わり ロシア人のオリガ・プチャーチナが宿泊した宝泉寺。 整備された広場に説明板が立っていた。重要文化財 松城家住宅 7棟松城家住宅は、江戸時代後期から廻船業により財を成した松城家の居宅として明治6年に上棟された。当初は、主屋、ミセ、文庫蔵、東土蔵、北土蔵、西土蔵、醤油蔵が建築されていたが、西土蔵は解体され、醤油蔵は移築されている。敷地を囲う石柱の門や石積の塀、庭の門も建築と同時期に整えられたと考えられ、敷地内に現存する建造物群と供に重要文化財の指定を受けている。建物は主屋の1階が和風建築の装いで、2階が伝統工法を用いて洋風建築の体を模して造られており、擬洋風建築の特徴を示している。文庫蔵、東土蔵、北土蔵については、伝統的な土蔵造りではあるが、東土蔵は屋根漆喰・海鼠壁まで黒漆喰塗となっており、意匠が格式高く整備されている。松城家住宅は明治初期の擬洋風建築として、全国的に見てもかなり早期の遺構であり高い価値がある。【重要文化財(建造物)の指定内容】 名称:松城家住宅 7棟 (主屋・ミセ・文庫蔵・東土蔵・北土蔵・門柱及び外塀・庭門及び塀) 指定の年月日:平成18年7月5日 (官報告示 建第2485号) 所在の場所:静岡県沼津市戸田72番地松城家住宅案内図【重要文化財指定物件及び指定面積】主屋、ミセ、文庫蔵、東土蔵、北土蔵からなる建物群と、外周の石塀、石積の庭塀が重要文化財の指定を受けている。 1⃣ 主 屋 木造2階建 桟瓦葺 建築面積 266.76㎡ 2⃣ ミ セ 木造2階建 桟瓦葺 建築面積 32.23㎡ 3⃣ 文庫蔵 土蔵造2階建 桟瓦葺 建築面積 16.52㎡ 4⃣ 東土蔵 土蔵造2階建 桟瓦葺 建築面積 39.66㎡ 5⃣ 北土蔵 土蔵造2階建 桟瓦葺 建築面積 32.23㎡ 6⃣ 門柱及び外塀 石造 折曲り延長 81.4m 7⃣ 庭門及び塀 石造 延長 8.0m指定基準(一)意匠的に優秀なもの (五)流派的又は地方的特色において顕著なもの(官報告示 建第2485号 重要文化財指定書 平成18年7月5日より) 門柱を入ると正面に「ミセ」。格子戸を入りチケットを販売している。営業時間:9:00 ~ 16:30(入館は16時まで)、休館日:水曜日入 館 料 :大人 300円ミセ(Mise)番頭が詰める帳場として使用された部屋です。そのため、内装は質素な仕上げとなっていますが、帳簿管理のため、押し入れ内部は漆喰塗りとなっています。これは、湿度調整と防虫のためです。2階は住み込みの使用人部屋であったと伝わっています。左側の門柱から入り右側の「ミセ」へ。庭門及び塀”ミセ" でチケットを購入、右側の ”ドマ” へ靴を脱いで入る。スタッフから「説明は無料だがいりますか」と聞かれたが。主屋1階の間取り。ドマの奥で ”松城家の案内” をテレビで見る。約10分ほどの説明であった。保存修理時からの記録ビデオを放映。ドマの入口上にあった、”漆喰鏝絵(こてえ)の「牡丹」” 。主屋の随所に配された漆喰鏝絵。一部の作品には入江長八の落款があることから、他の作品もその一派が手掛けたとされている。入江長八は、漆喰と鏝(こて)で、絵を描き、あるいは彫塑(ちょうそ)して彩色するという独自の方法を編み出した 「左官の名工」伊豆の長八(本名・入江長八)。入江長八は文化12年(1815) 8月5日、伊豆国松崎村明地(現在の静岡県賀茂郡松崎町)に貧しい農家の長男として生まれた。松崎町に ”長八記念館” があるのでいつか訪れたい。”ドマ” から南に面した手前から「ヒロマ」、「ホンゲンカン」、「オザシキ」と続く。各部屋に説明板があった。ヒロマ(Hiroma)この部屋は客人が立ち入る部屋ではないため、襖ではなく、板戸で仕切られているのが特徴です。また、土間から上がった正面には、神棚が設けられており、地元に鎮座する部田神社などの護符があります。護符の前には、大黒天、布袋の小さな像も祀られています。ホンゲンカン(Hongenkan)正門から入り、アーチ状の庭門をくぐった先がホンゲンカンです。特に大切な客人が使用したため、天井は棹天井にするなど大変手の込んだ造りとなっています。懸魚(けぎょ)と欄間の透かし彫りは、現在は平成に作られたレプリカが飾られていますが、創建当時のものは、三島大社社殿 (重要文化財) を手掛けた伊豆出身の大工石田半兵衛ゆかりの作と伝えられており、主屋2階の板の間に飾られています。玄関先は閉まっていて見れず、矢張り説明者を依頼すればよかったと。オザシキ(Ozashiki)奥に付書院があり、地板には黒柿を使用し、花頭窓が設けられています。鴨居の釘隠しは鶴の形をしており、他の部屋との境の襖もそれぞれ異なっているなど、大変凝った造りとなっています。オザシキから「ホンゲンカン」、「ヒロマ」、「ドマ」を振り返る。オザシキの北側に一段高い「ジョウダンノマ」。ジョウダンノマ(Joudan-no-ma)松城家住宅の中で一番格式の高い部屋のため、オザシキからは1段高くなっています。床の間の地板にはオザシキと同様に黒柿を使用し、床の間の横には違い棚を配しています。この部屋は、オリガ・プチャーチナ来訪の際に使用された部屋で、かつては家族や子供も立ち入りを制限された特別な部屋です。ジョウダンノマこの部屋にも漆喰鏝絵(こてえ)の「竹とふくら雀」があったのだが。文庫蔵(Bunko-gura)大事な書物や調度品を保管するための蔵です。湿度調整と防虫のため、室内を漆喰塗壁にしています。また、壁は防火のため分厚くなっています。創建当初にはこの蔵の東側に池がありましたが、その後巨大な金庫を入れるため、この池の上にかかるよう増築が行われました。文庫蔵文庫蔵には、家具、箱階段、歴代の当主の肖像写真が掲示されていた。右から、初代 松城兵作鎮陳 (一叟) 寛政8年 (1796) ~ 明治13年 (1880) 二代 松城兵作苞長 (熊三郎) 天保10年 (1839 ~ 明治25年 (1892)三代 松城兵作 ~ 昭和17年 (1942) 伊豆浦汽船会社の社長、田方郡会議員、静岡県会議員、1912年に衆議院議員、戸田村 長を務めた。松城家は戸田村で廻船業を営み、江戸時代後期には戸田から江戸や瀬戸内方面への船を運行していた。 1818年(文政元年)から1829年(文政12年)に起こった飢饉で当時の当主秋元兵作鎮陳(あきもとひょうさくやすのぶ)が私財を投じて戸田村を救ったことにより、松城の姓と帯刀を領主から許可され、松城兵作と名前を変え、それ以降松城家後継の名前は代々「松城兵作」となった。陳列棚には、当時の写真、金箱等が飾られていた。文庫蔵から出て順路に従い北側の部屋を廻る。オクナンド(Oku-nando)家人および使用人が使用する部屋のため、客人は入らない部屋ですが、戸棚の襖絵は吉原宿 (現在の富士市) で脇本陣をしていた鈴木香峰が描くなど、細部にも気を配っています。マエナンド(Mae-nando)オクナンドと同様に家人および使用人が使用する部屋です。この部屋には来客がわかるようにワキゲンカンとひもでつなげた呼び鈴が付いています。また、天井には秋の実りを表した漆喰鏝絵があります。ここでも ”秋の実り” の確認をしなかった。ナカノマ(Naka-no-ma)この部屋に主屋の大黒柱があり、ガラス窓からは、ワキゲンカンへの来客を知る事ができるようになっています。囲炉裏があり、天井には煙抜きの空間があります。また、奥には仏間が続いており、2階の踊り場の窓から光を採り入れることで、仏壇を照らす仕掛けとなっています。”ドマ”に掲示されていた説明板。左は「家相図と当初建築」。松城家住宅には、附指定を受けた家相図が2枚残っています。家相図とは建物の形・配置・間取りなどから吉凶を判断するもので、松城家住宅では家相図を基本設計とし、吉となるように建築したことが伺い知れます。下の図は家相図と竣工当初の松城家住宅推定配置図と主屋1階の部屋割・間取になりますが、建屋の形や配置、部屋割から間取に至るまで、ほとんどが一致しています。このように原設計から建築までの変遷が読み取れる点において家相図は重要な資料となります。右は「構造補強 ー 主屋 ー」。主屋は震度6強程度の大きな地震が来たときに倒壊の恐れがあると診断されたので、補強として鉄骨支柱を立て、それを受ける頑丈な鉄筋コンクリート耐圧盤を地面に据えましたと。釜屋の釜戸は復元されたものか。焚き場が一段下っており使い勝手が悪いのでは。釜屋(Kamaya)近年まで風呂があった場所ですが、発掘調査によって大中小のかまどが3基発見され、明治時代の建築当初はここが釜屋 (台所) であったことがわかりました。構築材には石が用いられており、実際に使った痕跡として灰や炭化物、焼土なども出土しています。改造特集 ー 釜屋(かまや) ”ドマ" から北側へ出ると、海鼠壁の ”北土蔵” 。防火対策の消火栓が設置されていた。北土蔵 土蔵造2階建 桟瓦葺 建築面積 32.23㎡外壁は黒漆喰塗と海鼠壁でできている。1階の南面には石段と戸口が2個所設けられている。1階南面には通り庇が、2階南面には小庇をつけた小窓が2個所設けられている。内部は中央で間仕切りしており、東を味噌蔵として、西を米蔵として使用していた。松城家住宅の中では最も一般的な造りの蔵となっている。中央で仕切られている北土蔵の東側は ”味噌蔵” として使用されていた。蔵の中にはいろんな絵が飾られていたが。北土蔵の戸口は2個所設けられており、中は中央で仕切られている。仕切られた西側は ”米蔵” として使用されていた。蔵内には修復前の当時の松城家住宅の写真が掲示されていた。西側から ”北土蔵” を見る。主屋の北側から一階は和風で、二階は洋風。二階の部屋は洋風の装いになっており、外の柱、壁も洋風に。裏庭から”ドマ”に入り、”ナカノマ” 、左手前には囲炉裏。南側の各部屋を見る。二階へ上がりたかったのだが、スタッフの方も見学者が私一人で戸締りをしておられた。時間も遅く閉館まじかであったので遠慮し、今回はスルーすることに。表玄関への扉は既に閉ざされていた。この後折角なので見せていただくことに。庭門及び塀 石造 延長 8.0m伊豆石が積み上げられた塀と、アーチ形の門で構成されている。塀は外壁と同様に基礎石上に伊豆石を8段積としている。笠石をアーチに沿ってムクリ破風状にした特徴的な形をとっている。主屋において家人と上客の出入動線を区切る囲障として屋敷構えの主要構成要素の一つとなっている。庭門を入ると直ぐに ”ホンゲンカン” 。江戸時代の表玄関を思い出す。玄関先の彫り物をズームアップ。西側の庭に入りたかったが、立入禁止エリアになっていた。今回は上がらなかった二階のバルコニー。明治から大正時代にかけて設置されていたバルコニーを復元したもの。建築当初は見様見真似で設置していたため、簡易的な造りとなっていた。保存修理工事以前はすでに撤去されていたが復元した。洋間になっている、主屋2階の間取り。庭門前から東側を望む。正面に ”東土蔵” 。東土蔵 土蔵造2階建 西面庇付 桟瓦葺 建築面積 39.66㎡外壁は黒漆喰塗と黒海鼠壁塗でできている。西面中央に両開黒漆喰塗扉付き戸口と、2階南面に両開黒漆喰扉窓が設置されている。1階の床は北半分が切石敷、南半分が板敷となっている。2階には棚が多数設置され、天井は漆喰塗込となっている。棟端瓦には屋号である「〇の中に千」の紋が使われている。松城家は当時、質屋も営んでいたため、東土蔵を質蔵として使用していた。外部や敷地入り口からよく見えるため、黒漆喰塗の格式高い意匠となっている。ここの土蔵内もいろんな説明パネルが展示されていた。1階の床の南半分は板敷となっている。東土蔵内の展示松城家住宅は建てられてからおよそ150年近くが経過していたことから平成28年から令和4年にかけて本格的な修理工事を行いました。東土蔵では今回の修理工事に伴って取り替えた柱などの古材、瓦、裏紙を貼った建具のほか、鬼面の漆喰彫刻や飾り金具など、建築当初のものを展示しています。1階の床は北半分が切石敷になっている。16:10松城家住宅は、平成28年から令和4年にかけて本格的な修理工事を行っているのでまだ新しい。閉館間際の時間であったので追い出されるように見学を終えた。今回は約30数分の見学であったが、次回はガイド付きでじっくりと訪れたいと思いながら後にした。今回の旅で予定外の立ち寄りであった。 ー 続く
2024.03.07
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ハナショウブの開花時期で、綾瀬市、開成町へ行ったが近くの「藤沢市立遠藤笹窪谷公園」でもハナショウブ園があることを思い出し、午後車で出かけた。今回の撮影機材は、かつて使用していた ”OLYMPUS DIGITAL CAMERA” を使用した。6月9日(日) 14:35遠藤宮原線の慶應大学前交差点を右折。遠藤笹窪谷公園駐車場慶應義塾大学看護医療学部の北側にあり、遠藤笹窪谷公園の東側100メートルほどにある。一般車専用の無料駐車場で12台と狭い。左は慶應義塾大学看護医療学部で、右側には竹林が広がっていた。竹林の手前にはビワが実っていた。竹林の間に ”藤沢えびね やまゆり園” への道があった。園はここから100メートル程坂を上る。近郊のMAP「森のさんぽみち 健康の森 少年の森 フットパス」14:45藤沢市立 遠藤笹窪谷公園 (ささくぼやとこうえん)所在地:神奈川県藤沢市遠藤4840遠藤笹窪谷公園は、藤沢市で最も豊かな自然が残されている場所の一つです。ここでは、人の営みによって守られてきた自然について学び、自然と触れ合う体験の場として感性を育て、自然と関わることが好きになることで、生物多様性の保全のために行動する人づくりを目指す。市内三大谷戸の一つである遠藤笹窪谷に、令和4年(2022)7月16日にオープンした。管理棟(生物多様性サテライトセンター)開館時間:午前8時30分〜午後5時休 館 日 :毎週月曜日、祝日の翌日(月曜日が祝日の場合は開館し、翌日火曜日が休館です) 年末年始 12月28日 〜 1月4日管理棟の壁面に、今日の遠藤笹窪谷公園 2024年6月9日(日)予定作業 ・ハチの巣除去しております。見かけたらお知らせ下さい。 ・芝生広場のフェンスが樹木により一部破損しておりますので、ご注意下さい。今日の安全目標 熱中症 注意花菖蒲見頃です。遠藤笹窪谷公園 (えんどうささくぼやとこうえん)この公園の池は、周辺で発生する浸水被害軽減のため、雨水を貯める機能があります。(最大貯留量 約11,000t)。遠藤笹窪谷公園では草むらを育てています。ときどき、「どうして草を刈らないの?」とご質問いただきますが、草むらではたくさんの生きものが暮らしています。虫は葉っぱや花の蜜を食べて育ち、草に隠れて暮らしています。鳥は背の高い草を隠れ家にして、卵を産んでヒナを育てることもあります。水の中の生きものは、水辺の草の葉っぱや根っこに隠れて暮らします。小さな生きものが豊かだと、それを食べる肉食の生きものもやって来ます。生きものがあふれる「自然観察を楽しむ谷戸(やと)」としての姿を大切にしています。季節ごとの生きものたちを、一緒に見守ってくださいますよう、お願いします。 遠藤笹窪谷公園管理棟の西側にある ”交流ゾーン” 。交流ゾーンから西側に向かっての遊歩道。遊歩道下には水が溜まっており周辺で発生する浸水被害軽減のためのバッファーゾーンであろう。立札がなかったが、新しく植えられた菖蒲園であろうか。ハナショウブが満開になっていた。ズームアップ。管理が良いのか畝のハナショウブは平均的に咲いていた。遊歩道はセンターのみで反対側には無かった。ズームアップ。ハナショウブは花の付け根が黄色くなっている。ハナショウブには名札がなかった。反対側にも通路があるのであろうが進入禁止。見事に咲いている菖蒲園。おばさん達もスマホで撮影知り合いに送信。東方向の管理棟の先に慶應義塾大学看護医療学部の建物。ワンちゃんもハナショウブを愛でに訪れていた。管理棟をズームアップ。ハナショウブをズームアップ。隣の園地には、カキツバタ (杜若) の咲き残り。管理人の女性に聞くと「カキツバタはゴールデンウイークが満開であった」と。カキツバタは5月中旬頃に咲き、水の中から生える。 花色は青か青紫(白いのもある)。 花びら中央部に白い筋模様がある。花びらの中央部は、めくれ上がる。咲き終わったカキツバタの種子。水の中に生えるカキツバタ。Googleマップで遠藤笹窪谷公園の奥にあった「猿田彦大神」へ。遠藤笹窪谷公園沿いの道を西へ進むと立札が見えた。猿田彦大神所在地: 神奈川県藤沢市遠藤4687分かれ道の三叉路角に石碑、立札が立っていた。右側にも道があったが鬱蒼として一人では怖かった。道標 (猿田彦大神)石柱の側面に「右厚木道 左一の宮道 遠藤村」とある。この辺りは笹久保堀切りと呼ばれ、関東大震災以前は十一軒程の集落があった。「猿田彦大神」は日本神話にある神で、「ににぎのみこと」が降臨の際に先頭に立って道案内をした神。中世に至り、庚申の日にこの神を祀り、また道祖神と結びつけたと言われる。 (遠藤まちづくり推進協議会)二基の石碑が立っていた。苔むした石碑には「猿田彦大神」、台座には「遠藤村」と。石柱の側面に「右厚木道 左一の宮道 遠藤村」とある。左側の石碑には「二十三夜塔 明治九年」と。猿田彦大神から戻る。左側には竹林が広がっていた。竹林を見上げる。竹以外にも木が聳えていた。遠藤笹窪谷公園沿いの北側に立つ「観音様」。後方には墓地もあり竹林の中に立っている。草が伸び放題の遠藤笹窪谷公園へ戻る。花畑は3つあったか?、一番西側にあるカキツバタ園。東側には二面あり、ハナショウブが満開であった。ハナショウブは地植えだが見事に咲いていた。ズームアップ。15:10今年の見納めかハナショウブ。 ー 続く ー
2024.07.05
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この日は伊勢原の美味しい卵を購入するため、昼食後急遽愛車のノートで訪れた。寿雀卵直売所までは愛車のリンちゃんで片道18kmで良い運動になるのだが。併せて「寿雀(じゅじゃく)卵」近くの史跡を巡った。3月7日(金) 13:35寿雀卵 直売所所在地:神奈川県伊勢原市上粕屋47県道63号線(相模原大磯線)沿いにあり、土日休日は開店前から行列となることが多い人気の卵直売所である。最近の卵の値段は鳥インフルの影響で値上がり。以前は100円→250円に。因みに米国では卵1パック(10個入り)が1,500~2,000円と物価が高い。以前は午後に行くと売り切れで閉まっていたのだがこの日は空いていた。営業時間:午前8時30分~午後3時30分定休日 :第4日曜日・元旦会員登録も出来、メリットがあるようだが。以前の旧カードを無くし新カードに変更する必要があるのだが。カードがなくても購入は可能であったので2パック購入、Mパック 413円(税込)。店先から大山が見えるロケーションである。駐車場脇で肥料の鶏糞を販売。販売時間:午前10時~営業時間内 ※ 卵の販売が終了次第閉店します値 段:期間限定 1袋 ¥100円(税込) おひとり様 10袋まで 午前中は駐車場も満車に近い。次に訪れたのが寿雀から近い、観光めぐりの案内板に「咳止地蔵」が載っていたのでスマホの案内で訪れた。渋田川に架かる市米橋の袂に「自然散策路」。この上流にあると。電柱に「咳止地蔵尊 咳止地蔵尊保□□」の看板。咳止地蔵尊所在地:神奈川県伊勢原市下糟屋98-6-1後方に大山が見える眺望である。左側のフェンス内は渋田川。咳止地蔵尊と後方にふじやま公園。咳止地蔵尊と河津桜。咳止地蔵尊由来渋田川に架せられた「せきど橋」のたもとにある咳止地蔵は古来から痰咳平癒の守護仏として崇められ「せきどめ地蔵」の名で広く霊験を知られた、現尊像は享保八年(1723)の再建になるもので、再々の補修がなされている、地蔵前の古道は相模川の戸田の渡しから大山に通じる「戸田道」で糟屋宿にも程近く大山詣りの道者たちの信仰をも得ていた、現今東京、川崎・立川方面に信者のあるのもそのためで、堂のそばには大山道の道標ものこされている、背後の冨士山は八王子道にも通じるので昔は繭の市も立った、道路や交通機関の変動で、戸田道は往古の面影もないが地元人士の賛同を得て保存会を結成、堂字の修理をなし霊蹟の再興を図るものである。 昭和五十年三月二日 弥杉咳止地蔵尊保存会折から傍の河津桜が満開で出迎えてくれた。覆い屋の中に「銅板屋根寄贈 平成十四年五月吉日 施主 □□玉子殿」と。社の中に、咳止地蔵尊。右側には「咳止地蔵堂再建寄付者芳名」、右奥に「銅板屋根寄贈名」の掲示。河津桜をズームアップするが満開ではなかった。狭い敷地の南側に道標、石仏、壊れた庚申塔群。枯れた株も。大山道と矢倉沢往還 ー ここで道は左右に分かれました ー大山道(戸田道・青山道「図の赤色道」)は矢倉沢往還「図の黄色道」と合流し、ここ咳止め地蔵尊前の渋田川手前で、左右に分かれて川を越えたので、橋は二つありました。新編相模国風土記稿には「せきと橋」しか記載されていませんが今その橋は無く、もう一つが今の「市米橋」と思われます。大山道は橋を渡ると「ひなた道」と分かれ、峰岸を通り千石堰沿いに台久保から石倉橋を経て大山へ向かいました。矢倉沢往還は耕雲寺前を通り片町、串橋、善波を抜け、松田から足柄方面、矢倉沢へ向かいます。また、ここにある庚申塔は道標にもなっていて「大山道」「ひなた」と彫られています。※図の新大山道、小金塚方面への道は、明治後期に拡張造成されました。 平成二十九年七月 吉日 設置管理者 アド・おおやまみち昭和60年頃の写真まだ開発が進んでいない。大山道と矢倉沢往還左 側:現在地赤線上:大山道 (青山通)黄 色:矢倉沢往還赤線下:大山道 (戸田道)右 上:矢倉沢往還&青山通り大山道中 央:矢倉沢往還&大山道 (戸田道)が合流し高部屋神社前を通る。左 下:矢倉沢往還右側は道標の「大山道」。北側に回り込み。河津桜が咳止地蔵尊を覆う。昨年から、咳痰が止まらないので浄財と共に平癒を祈り後にした。咳止地蔵尊前から市米橋を渡り県道63号線の市米橋交差点を南下。次の目的地、「菅原神社(大隅天神社)」へ。寿雀卵直売所から南数百メートルに鎮座。ここ菅原神社の裏に駐車。菅原神社前から東を望む。丘の上に建つ「東海大学医学部付属病院」は伊勢原のシンボル的な建物である。菅原神社 (大隅天神社)所在地:神奈川県伊勢原市田中7県道沿いにある小さな神社である。覆い屋の中に祠が祀られていた。祠の扉の中には「菅原道真公の神像」が納められておりお供え物があった。覆い屋の壁面には奉納された古い写真が掲示されていた。また壁面に墨書き、菅原神社由来この地は昔から天神山と言われ小さな丘に祠が祀られていたと言う。この祠の勧請年月日は不詳であるが、十二柱神社に次いで建てられたと思われ(延宝六年の書物調べ)徳川時代以前のものである。一、名釋は菅原神社であり大隅天神社とも言う一、祭神は菅原宇斬公(菅原道實公のこと)一、御神体は道實公の木像が安置されている一、所有地は風致林四十一坪があり宮内庁名儀であったが後に旗川家の所有となっている明治三十四年旗川鶴蔵等によって石の鳥居が建立されていたが、昭和六十二年三月の大雪で崩れてしまった。明治四十三年稲荷神社第六天社と共に十二柱神社へ一度合祀された。伝 説(明治末期)十二柱神社へ合祀されたあとたびたび天神様の御霊が旗川家へみえ、潜り戸ががらがらと 開けられ、出てみても誰も見えないという珍事が続き夢にまで天神様が見えたということで近隣の話題となった。天神様の御霊はやはり天神山へ帰りたいのであろうということで再び木像を戻しあらためて此所へお祀りしたところこの珍事がばったり止まったと言われている。其の後は旗川の天神様として大事に管理と守護をつづけて現在に至っている。平成三年同所に県道が計画され一部が用地となったことを契機に新たに社殿を作りその中に祠(南無天満大自在天祠とある)を納め現在のかたちとしたものである。 追 記一、菅原宇斬とは社傳によれば天神様と唱え奉り道實公を尊して此如言えりと傳う二、社殿の前の梅の古木は天神山の裾に昔からあったものと言われ樹令二百年から三百年 位と推定され天神社の御神木となっている 平成三年七月十三日 当主 旗川 勲境内の石碑右側は昭和六十二年三月の大雪で崩れた鳥居の座であろうか。句碑「梨畑の □□□□□らす □□□」と。こちらも句碑であったか。社殿の右側から (東側)。駐車場がないので社殿の裏側に駐車。菅原神社の西側を走る県道63号線から大山を見る。河津桜と大山のコラボ。ズームアップ。大住大明神所在地:神奈川県伊勢原市下糟屋84辺り次の訪れたのが、咳止地蔵尊前の矢倉沢往還&大山道 (戸田道)を東へ進むとある祠。周りは宅地化され説明板等はなくスマホの案内で行かないと存在が分からない。左側の祠の中に「大住大明神」と。右側の祠。説明板等がないので詳細は不明。大住大明神の北西方向に大山が見える。小さな大住大明神の南側を矢倉沢往還&大山道 (戸田道)が横切っており、かつては多くの人で賑わったのであろう。14:20市民の森ふじやま公園所在地:神奈川県伊勢原市東富岡134昼時を過ぎ昼食を取りたいがと思いながら公園へ到着。駐車場開場時間 午前8時30分から午後5時まで奥にトイレもあり利用時間は駐車場開場時間内。 ー 続く ー
2025.04.12
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現在「熱海市内の花を愛でに」をアップしておりますが、今年1月22日(木)に訪れた「小出川沿いの河津桜の開花状況」へのアクセス数が多いので、第2弾に続いての第3弾です。2月12日(木) 13:55出かけに前回、「FUJIスーパー」前で営業していた移動キッチンカー「たいやき 一丁焼 このは」でたい焼きを購入したかったので営業しているか分からなかったが立寄った。運よくこのキッチンカーが目に入り購入することに。店先に「10分待ち」とあったが迷うことなく3個オーダー。若夫婦で営業しているようで奥さんの対応が丁寧で良かった。スケジュール表があったが「ここでの営業は隔週の木曜日に営業しております」と。車の側面に貼られていた、「月1更新できるかなコラム」。 その100:祝100号!そして20周年目へ右側には、私の尊敬する日本屈指のかき氷店、鵠沼海岸にある氷埜庵のオーナー様から当店のコラム100号にコメントを頂きました!!! (2024年12月のものです)子供の頃に住んでいた下高井戸には「たつみや」さんという鯛焼き屋さんがありました(今もあります)。あの頃は何かお手伝いをすると買ってもらえた。その時の名残りで鯛焼きは今でもご褒美という感じのたべものです。私の一番好きな鯛焼き屋さんはこのはさん。藤沢茅ヶ崎付近のスーパーを移動販売で回っています。キッチンカーなのに、と言ったら失礼ですが一匹一匹焼く天然モノと呼ばれる焼き方にこだわっています。・・・(後略)。黒板に、「1枚1枚焼いています。いわゆる天然もの。 中は自家製あんこ ひとすじ。生地にも乳・卵不使用」と。値段は、 1枚 210円 2枚 380円 @190 3枚 540円 @180(4枚以上も180円/枚。詳しくは早見表をご覧下さい)2月の売り場ここ「フジ鶴嶺店 11時~18時」での営業は隔週木曜日。鶴嶺通りの新鶴嶺橋上流の梅を見た後、小出川の河津桜へ。梅の開花は全体的にピークを過ぎていたが、中にはこれから開花の木もあった。白梅もあり実を収穫しているのであろうか。小出川の下流側の河川敷は奇麗に整備されている。メジロが十羽近く飛来し梅の蜜を吸っていた。動きが早くなかなかピントが合わず。旧浜園橋が撤去され「小出川の護岸整備」が引き続き行われていた。工事掲示板に「工期:令和8年(2026)7月31日まで」とあったので半年後に完成。浄土真宗 来恩寺所在地:神奈川県茅ヶ崎市今宿1-1入口に、「浄土真宗 本願寺派 築地本願寺 湘南布教所 来恩寺 (らいおんじ) 」と。来恩寺裏の西側の住宅街に「鶴嶺公民館」があった。所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園2028-55鶴嶺公民館は、昭和57年に茅ヶ崎市で2番目にできた社会教育法に基づいた公立公民館。先日立ち話したご婦人から所在を知り訪れた。休館日:月曜日(月曜日が休日の場合は、それ以降の平日) 年末年始(12月28日~1月4日)小出川の河津桜会場所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園127番会場の周りは駐車場がないので農道脇に駐車となる。祭り主催者は市に対し申請し許可を得ていると。まつり開催日にはこの辺りにキッチンカーが出店する。前回訪れた2月3日(火)にはつぼみは固かったが、多少赤みを帯びていたか。この8日(日)には雪が降り、前日の11日には雨と寒かったので開花が遅れたようだ。ポスターが新しくなっていた。2026年第17回小出川 桜まつり やっぱり、春は小出川から 2月22日(日)から3月8日(日)まで ともに10時より14時まで ※雨天などの日は中止 土、日、祝日は重点開催日式 典 2月28日(土) 10時30分 雨の日は3月1日祭囃子 2月28日(土)、3月1日(日) ともに10時斉藤よしあきの演歌・民謡ショー 2月28日(土) 11時 カラオケ 3月1日(日) 10時40分2月28日(土) 12:30/鶴嶺フラウエルコール 模擬店・野菜の直売もありますいつもの撮影場所。掲示板近くの河津桜を見上げる。もうすぐ咲き始める蕾もあった。小出川沿いを上流側へ進む。河津桜の枝先をズームアップ。河津桜の間にまだ若木の「おかめ桜」が4~5本植えられていた。おかめ桜の蕾はまだ固かった。上流側の河津桜の下には菜の花が植えられている。河津桜の蕾もだいぶ膨らんでいた。サクラの幹に大きなネームプレート。玉縄桜が2本植えられている。玉縄桜の蕾も固かったが一輪咲いていた。玉縄桜の蕾。寒緋桜も2本植えられているが、こちらも蕾はまだ固かった。寒緋桜の蕾。河津桜の枝にメジロが多く飛来していたが落ち着きがないので撮影に苦慮。桜並木の最上流部の開花は1分咲きぐらいであったか。咲いた花も最近の冷え込みで汚くなっていた中で良い花を撮影。最上流部の河津桜。県道44号線へ上がり西久保橋上からいつものように下流側を見下ろす。この日は午後から曇りで富士は見えなかった。リハビリで「歩くように」と言われているので下流の萩園橋まで左岸を歩くことに。西久保橋の東側から富士を望むが。西久保橋の落書き。堰堤に階段があったので小出川へ下り下流側を見る。草むらにはゴミが散乱していた。上流側数百メートルに「河童徳利ひろば」👈 をクリック願います。2週間後には対岸の桜並木は色付いているのであろう。下流側の萩園橋から上流側の西久保橋までの両岸はよい散歩道になっているのでは。左下の農耕地は「生産緑地地区」になっているのか。畦道に壊れた案山子が数体あった。立札に絵が描かれ「おむすび」とあった。メイン会場に聳える8本の河津桜。下流側から振り返る。下流側の萩園橋。萩園橋手前から振り返る。萩園橋上から上流側を見る。小出川にはいつも多くのカモが飛来している。大きな鯉も。立って休憩しているカモをズームアップ。この辺りには送電線の鉄塔が多い。堤にはアジサイも多く植えられている。両橋間を歩いて何歩あったか次回確認したい。小出川の河津桜は2001年(平成13年)に植え、今年で25年目になると。また、ここの河津桜は小出川の堰堤が完成した時に8本植え、その後各区の工事が完成するたびに植えたと(左側に座っている方からの情報)。河津桜を見上げる。15:25ベンチに座っている方は河津桜の管理関係の方であったようでポスターを頂いた。 END
2026.02.14
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この時期は、愛車のノートがノーマルタイヤのため遠出できないので市内の散策を!。今年も一月下旬になり我が家の梅も開花、いつものように小出川沿いの開花状況の確認に愛車のリンちゃんで出かけた。地球温暖化で梅の開花も例年より早くなっている。1月22日(木) 13:30裏庭の梅開花昨年は豊作であったが、今年の梅(白加賀)の収穫はどうであろうか。ズームアップ。中華 のんち所在地:神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎844 小川アパートJR相模線北茅ヶ崎駅東側にある中華処でテレビで放映以後連日店先には行列。珍しくこの日は13時半過ぎであったが行列はなかった。店先にはテイクアウトメニューの看板。マーボー豆腐丼、シイタケごはん、玉ネギごはん、肉ごはん、中華丼、チャーハンが、それぞれ¥950と。「電話注文OK TEL 50-3199」、いつか注文したいと家族に相談。テレビで放映以降連日行列で地元の人にとっては、「近くにあって遠い店に!」。小川アパートの一階には三店舗が入居、二階はアパートになっているので火の元に注意!。かつては右側店舗は自転車店が入居していたが大衆酒場に変わり、幟には「ランチ」と。店先の看板には「大衆酒場 くろまつ」と。昼時であったが中から若い子の声が、店先には大学生か女の子が数人訪れていた。看板には「11時~13時 ライトオーダー 昼飲みセット 飲み放題90分 税込 2,980円」。営業時間:ランチ 11:00~14:30(14:00 ラストオーダー) 夜 16:00~23:30中央公園北東部入口にある紅白の梅が満開になっていた。目的地の新鶴嶺橋(赤橋)に向かって鶴嶺通りを西へ走る。前方左からの松並木は、国道1号(旧東海道)鳥井戸橋交差点から鶴嶺八幡宮への八丁松並木。FUJI 鶴嶺店所在地:神奈川県茅ヶ崎市浜之郷700鶴嶺八幡宮入口南側にあるスーパーマーケット。14:00鶴嶺通りの鶴岡八幡宮前交差点。右側に社号標石「郷社 鶴嶺八幡宮」と。太鼓橋から旧東海道までの松並木を見る。鶴嶺通りからの参道に二の鳥居。手前には対の狛犬。鳥居の前に新しく設置された「境内案内図」。木漏れ日の参道を境内へ進む。鶴嶺八幡宮境内への途中に空堀の「神池(四池)」があり、左側(西)に「天照皇大神宮」。水はないが島には「天照皇大神宮」。神池に向かって傾いた松の古木には支柱。反対の東側には「懐嶋弁財天」が鎮座。懐嶋弁財天周りの白梅が満開になっていた。懐嶋弁財天懐嶋弁財天前から西側を見る。神池に水が溜まっていると違った光景が期待できるのだが。この東に傾いた「昇り龍の松」。松の根元に「昇り龍の松」と。参道に戻り境内へと進む。このエリアは神域で「犬の散歩お断り」と。鶴嶺八幡宮所在地:神奈川県茅ケ崎市浜之郷462源義家が前九年の役に向かう際、父・源頼義が建立した懐嶋の八幡宮に頼義とともに戦勝祈願を行い、敵の安倍氏を破りました。後三年の役に向かう際も、懐嶋の八幡宮に戦勝祈願し、敵を制圧しました。義家は感謝の意を示すため、懐嶋から新たに浜之郷に分霊し、鶴嶺八幡宮を創建しました。建久二年(1191)には、頼朝の命により大庭景能が社殿を修復し、再興していますと。既にアップしておりますので、詳細については「源頼朝と茅ヶ崎ゆかりの地」👈 をクリック願います。南側の参道の松並木を見上げる。境内の左側には社務所。境内入口にあったいろんな案内板。境内には芽吹き前のイチョウの巨木が聳える。イチョウの巨木の下には神楽殿が建っている。まず参拝することに、右側には手水舎。手水舎。階段を上がり拝殿。拝殿前から境内を見下ろす。新しく作られた「境内案内図」。社殿の周りには多くの境内社がある。社殿の右側に入る。森の中に本殿。社殿の右側に「御神木 槙」。御神木 槙 開運招福 財運龍昇(隆昌)当八幡宮創建の頃に植えられたと伝わる。龍が頭をもたげたように見えることから「昇龍」としても親しまれている。また、木の周りには弁財天のお使いである白蛇がとぐろを巻いているのを見掛ける時もあり、毎月巳の日に卵を供えると金運向上の御利益をもたらすといわれている。拝殿前に聳えるイチョウの巨木。手水舎の裏に説明板が並んでいた。県指定天然記念物 昭和37年10月2日指定 鶴嶺八幡のイチョウ 和名:イチョウ(イチョウ科)多数の側枝が叢成し、その数本がゆ着して成長し幹を形づくっていると言われ、ゆ着したと思われる部分が縦の線となって認められる珍しい巨木である。昭和59年12月には「かながわの名木100選」に選定されている。 樹高:29メートル、胸高周囲:9.0メートル、樹齢:約1000年(伝承)イチョウは中国原産の落葉高木で、その仲間は古生代から中世代にかけて栄え、日本にも化石が産出する。1科1属1種の雌雄異株の裸子植物である。樹高45メートル、胸高周囲14メートル、樹齢約2000年に達するものもあると言われている。鶴嶺八幡宮の大イチョウ 昭和三十七年十月二日 神奈川県天然記念物指定 平成二十二年三月二十六日 茅ヶ崎市指定景観重要樹木第一号 (指定名称 鶴嶺八幡のイチョウ) 根廻り 八・五メートル 目通り 九メートル 樹 高 二十九メートルこのイチョウは実生かまたは移植の際に多くの側枝を叢生し、勢いよいものが四・五本くっついて成長を続け、現在の幹を形づくったものとみられている。きわめて珍しい大木である。なお、次のような伝承がある。この神社は平安時代後期、源頼義が平忠常の乱を平定の折に、このあたり懐島郷を通り風光明媚の小丘に源氏の守り神、石清水を勧請したに始まるといわれ、その後、前九年の役で父頼義を応援に奥州へ向う途中の義家(八幡太郎)がそこに詣で、戦勝を祈願して現在地に遷座したという。このイチョウはその時義家が手植えたものといわれている。 昭和五十九年、「かながわの名木100選」に選ばれている。 茅ヶ崎市 茅ヶ崎市教育委員会 ちがさき丸ごとふるさと発見博物館 (平成二十三年三月) 芽吹き前のイチョウの木を見上げる。14:25境内から南側の参道を見る。鶴嶺八幡宮の参拝を終え、鶴嶺通りへ戻り新鶴嶺橋へ向かうことに。 ー 続く ー
2026.01.25
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糸川遊歩道の御成橋周辺のあたみ桜のライトアップを引き続き見た。1月27日(火) 16:50御成橋上から糸川の下流側を見下ろす。糸川の両側から照明。ライトアップしているのだが色の系統は。赤系の照明で桜がより赤みを帯びた。既に花びらが散った桜も多くあった。糸川遊歩道のライトアップは23時まで行われるようで、周りが暗くなるとまた違った光景になるのであろうが帰路につくことに。16:55御成橋を後にし、歩いて急な坂を上り熱海駅へ向かうことに。熱海 本家ときわぎ所在地:静岡県熱海市銀座町14-1当店は大正7年(1918)、当店の初代・前澤鶴吉が結婚を機に、熱海の和菓子屋として開業。昭和24年には株式会社常盤木を設立したと。道路挟んで向かいのお店は別なので注意!、店内は撮影禁止なので要注意と。店舗入口には「ときわぎ」と。大正、昭和、平成と、お客様のご愛顧おかげで、三つの時代を歩ませて頂いておりますが、特に昭和時代は、日本を代表する経済界、文学界、美術界など、多方面でご活躍のお客様にも、お引き立てを頂きました。初代鶴吉は、なかでも横山大観先生と親しくさせて頂いたそうで、しばしば二人は当店の二階に上がり、長らく話し込んでいることが多かったと。常盤木羊羹店 總本店(ときわぎようかんてん)所在地:静岡県熱海市銀座町9-1”本家ときわぎ”の向かい側にある和菓子屋で、伊豆山神社御用達の羊羹屋である。常盤木羊羹店の代表銘菓、鶴吉羊羹シリーズの「鶴吉」、店舗名が「ときわぎ」であるが向かいの本家ときわぎとは無関係と。常盤木羊羹店の店先にあった木型。熱海駅への急な坂道を上ると反対側に、熱海七湯 風呂の湯・水の湯所在地:静岡県熱海市銀座町14 風呂の湯熱海の街を歩くと、坂道のところどころから湧き出す湯気が発見できる。熱海七湯といわれる源泉で熱海七湯の一つ、「風呂の湯・水の湯」である。風呂の湯は外傷に良いといわれ、また、湯気の上騰が盛んでまんじゅうを蒸したり酒を温めたりして販売している。また、この湯の傍らに塩分の無い温泉が湧き出し、明治時代には淡白無味常水を温めるもののごとしとして「水の湯」と名付けられたと。説明板があったようだが、この時間には歩き疲れ撮影気力も・・・。坂町の寺桜所在地:静岡県熱海市咲見町1-21熱海七湯 風呂の湯・水の湯から急な坂を更に上ると、曲がり角に桜の古木が聳えていたので振り返る。坂町の寺桜明治十四年(1881年)、現在地(咲見町)に移るまで此処に医王寺がありました。明治の初め頃に、寺の境内に植えられたうちの一本と言われています。この桜は「大寒桜」という品種で樹齢およそ百三十年、熱海桜が終わる二月中旬から染井吉野桜が始まる頃まで咲き続けます。この桜は昭和十九年(1944年)の「本町大火」、昭和二十五年(1950年)の「熱海大火」を生き抜きました。坂町とは、当時この辺りの地名です。 管理者 熱海市観光施設課再度振り返る、「桜切る馬鹿」と言われるが町中にあるだけに枝は伐採されていた。歩道に埋められていたタイル。静岡茶専門店 茶千所在地:静岡県熱海市咲見町7-48この時間になると暗くなり、疲れた体を熱海駅へ向けて坂を上り、店先を過ぎ振り返った。当店は、熱海、湯河原に店舗を構える静岡茶専門店です。静岡茶(ぐり茶、川根茶、掛川茶)を中心に、厳選した美味しい日本茶をご用意しておりますと。道路脇にも商品がたくさん並べられていた。お土産に手ごろな値段であった。道路脇にある居酒屋を見ながら上ると左奥に石碑、赤頭巾を被った六地蔵尊が立っていた。ズームアップすると、石碑に「醫王禅寺」と。ここを中に入れば ”醫王禅寺” が建っていたようだ。臨済宗医王寺所在地:静岡県熱海市咲見町12-18熱海にゆかりのある芸術家で、テレビ出演や版画制作をした池田満寿夫の墓がある寺。(参拝しなかったので写真をネットから)。医王寺入口から来た道を振り返る向かいのビルには「熱海 山田屋(お魚のすり身の店)」が入居している。更に熱海駅に向かって歩き「東海ひもの」。干物の土産物店であるが店内には居酒屋があったか、多くの方がいた。左側では”からすみ”であったか干されていた。看板に「おみやげ処 東海ひもの」と。坂を上ってくると左側に熱海駅への「平和通り名店街入口」。道路を挟んだ入口の向かい側に「熱海漁師めし食堂」。所在地:静岡県熱海市田原本町1-10 九ビル海鮮の天ぷら、フライ、お刺身🐟 メニューも盛りだくさん。熱海駅から徒歩5分 新鮮な地魚を使った海鮮丼や天ぷら、 揚げたてフライが楽しめる。参考に、アジづくし定食 ¥2,508、地魚フライとお刺身定食 ¥2,178。熱海おさかなパラダイス所在地:静岡県熱海市田原本町3-1 熱海魚熊ビル 3F平和通り名店街入口に建つシーフード・海鮮料理店で海鮮の食べ放題が楽しめる店。駅入口 平和通り名店街熱海駅まで200~300メートルのアーケード商店街で食堂や土産物店が建ち並んでいる。名店街の坂道を上ると、顔出しパネルの横に「源泉 福福の湯」があった。地蔵の左側に、「お湯掛けて夢が叶って幸せ 夢掛け地蔵さん」と。モニュメントと地蔵を正面から。手湯「福々の湯」 (飲めません)「福々の湯」に手を浸し温泉の暖かさを感じて幸わせになって下さい。(午前十時~午後五時迄)この温泉の源泉名は「福福温泉」で地中三百メートルから湧出しており温泉の温度は七六・七度です。 「手湯」は四〇度に調整して有ります。〈泉質〉 カルシウム・ナトリウム-塩化物温泉〈効能〉 神経痛・関節痛・疲労回復・きりきず・やけど・慢性婦人病 その他成分表は別記のとおりです。熱海市の源泉数は五百ヶ所、平均温度は約六三度、総湧出量は約一六、五六四㍑/分、高温泉の数は、東日本の温泉地で一番多い地域です。 モニュメントは熱海市在住の彫刻家 三澤憲司氏の作です。現在の熱海市の有名人「熱海富士関」、かつての「貫一・お宮」の顔出しパネルがあった。二人の若い女の子がキャーキャーと騒いでいたので、「顔を出して」と依頼。こころよく「がんばれ!熱海富士関」のパネルに顔を出してくれた。金目鯛 とくぞう 熱海本店伊豆稲取に「網元料理 徳造丸 本店」があり、煮つけやしゃぶしゃぶなど、金目鯛料理が味わえる海鮮料理店がある。名店街は坂道にあるので歩き疲れた体には買う気力も。ベンチも設けられていたが。熱海軽便鉄道 7号機関車平和通り名店街を上ってくると熱海駅前のロータリ脇に置かれている。熱海軽便鉄道7機関車この機関車は明治40年から大正12年まで、熱海↔小田原間の25キロメートルを2時間40分かかって走っていたものです。この鉄道は関東大震災により廃止されましたが、その後、各地の鉄道建設工事に活躍したのち神戸市の国鉄鷹取工場内に標本車として展示されていたものを熱海市が払い下げをうけ修復して、ゆかり深い故郷へ貴重な交通記念物としてかえってきたものです。 機関車の規格 車両の長さ 3.36m 高さ2.14m 幅 1.39m 重さ 3.6t 時速 9.7km 客車定員 40~50名 ◎熱海・小田原の所要時間 軽便鉄道=160分 東海道本線=25分 新幹線=10分 《熱海市》一世を風靡したのであろうが時速 9.7kmは自転車より遅い。平和通り名店街、駅側入り口。來宮神社までは坂道を上り歩いて20分であったか。平和通り名店街入口入口横には多くの土産物店があったが。旅友はこの日の朝ここを下ったが、私は来宮駅から逆行してここへたどり着いた。熱海駅ビルの「LUSCA」。ラスカ内の土産物店。数日前に右側の「まぐろの生ハム」をお土産に頂いた。練り物の「熱海セット」も。17:25歩き疲れどうにか熱海駅改札へトウチャコ。上りは「普通 上野東京ライン 17:31 高崎 東京経由」、これに乗車することに。熱海駅の地下連絡通路にあったポスター。初場所で優勝決定戦に敗れ「敢闘賞 おめでとう」と。優勝していたらどのようになっていたか。お腹が空いたので熱海駅のホーム(NewDays)でおにぎりを2個購入、車内で食した。18:20茅ヶ崎駅には18:16に到着。名代 箱根そば 茅ケ崎店駅前にある立ち食いそば店で現役時代からお世話になった店である。車内でおにぎりを食べたが ”かき揚げそば” を食べ帰宅したのであった。この日の歩行数は、22,000歩であった。後日、市立病院でリハビリをしている我が身に、指導者から「ほどほどに」と注意された。 END
2026.02.20
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芦ノ湖畔から国道1号へ上がり、箱根峠から県道20号線(熱海箱根峠線)の稜線を南下。2月18日(水) 10:55森の駅 箱根十国峠所在地:静岡県田方郡函南町桑原1400-20十国峠ケーブルカーの登り口駅に併設されている「箱根・十国峠レストハウス」は、お土産品やそば処が入った便利な施設。1階そば処では「桜えびのかきあげそば」や伊豆産本わさびが丸ごと1本付いた「本わさびざるそば」がいただける。また屋外テラス席もありペット同伴での利用も可能。天気の良い日は富士山も見え絶景スポットである。十国峠パノラマケーブルカー田方郡函南町桑原の十国峠山麓駅から十国峠山頂駅の全長316mを結ぶケーブルカー路線。概ね15分ごとに運行しており、移動にかかる所用時間は3分。山麓駅には沼津産のアジや由比港の桜えびを使ったグルメを提供するテイクアウトショップを、山頂駅には360度のパノラマを楽しめる展望テラスやカフェを併設している。十国峠山頂駅をズームアップ。県道20号線(熱海箱根峠線)沿いに立つ観光案内板。「森の駅 箱根十国峠」「パノラマケーブルカー 絶景展望テラスまで3分」と。県道20号線を挟んだ西側に展望台があり移動。雲の流れが速かったが富士の姿が見えていた。ズームアップ。富士山の宝永火口をズームアップ。先輩は椅子に上がり撮影、富士山の方向ではなかったが。土足で椅子へ上がられたのでこの後拭かれたか。県道20号線を挟んだ”森の駅箱根十国峠駐車場”を振り返る。この日は平日であったが多くの車が駐車していた。森の駅 箱根十国峠の左側に”十国峠パノラマケーブルカー”乗り場がある。窓ガラスに”十国峠パノラマケーブルカー”と。富士山の顔が見えていたので十国峠山頂へ行くかと思案。十国峠パノラマケーブルカーの路線をズームアップ。両駅からケーブルカーが動く。十国峠山麓駅から山頂駅の全長316mを結ぶケーブルカーで標高差は101メートル。標高766mの日金山の山頂に到達する。思い出せば十国峠山頂へは半世紀以上前に一度上ったことがある。しばし童心に戻り動きを追った。2階にある十国峠山麓駅のTICKET売り場。次の発車は「11:15」と。先輩に話をして上ることにしチケットを購入。往復乗車券 おとな 730円時刻表 始 発 9:00 この間15分に1本運行 下り最終 17:00料金表 普通運賃 おとな往復 730円、片道 370円 片道はハイキング専用です。 山頂から山麓に直接歩いて戻る道はありません。十国峠山麓駅の改札口横にケーブルカーの運転席か。モニターに山麓駅、頂上駅の状況が映し出されていた。山麓駅ホーム出発前に記念写真。車体には愛称の「十国峠」のネームプレート。車体に「日金」と。車体は昭和30年(1955)に日立製作所が製造している。最前部から頂上駅を見上げる。白い貼り紙に、「このケーブルカーの制動装置はテオドルベル式で、自動・足踏・過速・手動の四種を併 せて装備しています。」と。ホームに「十国峠山麓」。車両の銘板に、 1号 日金号 自重 7.05t 定員 96人後部座席から山麓駅を見下ろす。ケーブル路線の中間部で下り車両とすれ違う。かつては車体塗装はライオンズカラーであったと。天気が良ければ三島市街地、駿河湾が見えるのであろうが残念ながら・・・。森の駅箱根十国峠の建屋、駐車場を見下ろす。頂上駅に到着。山頂駅のホームに降り、右側に愛鷹山連山が見えていた。愛鷹山連山は見えたが富士山は残念ながら雲に隠れていた。ホームに「十国峠山頂」と。山頂駅のホームは傾斜がきつく足がすくんだ。十国峠山頂から南側にある”天空のドッグラン”を望む。頂上のテラスに「伊豆国 IZU ⇨ 」と。天空のドッグラン所在地:静岡県田方郡函南町桑原1400-20ここへは姫野沢公園手前の峠の駐車場に駐車して、グランピング施設を抜けて徒歩で来れる。山頂の一角に新しい地蔵が立っていた。十国峠「お願い地蔵」建立のご案内十国峠は、昭和初期より伊豆や熱海と箱根を結び、また、日本の交通の要所として大きな役割を果たしてきています。昭和7年、熱海峠と箱根峠を結ぶ「自動車専用道路」が開通するとともに、山頂に日本初の「夜間航空灯台」が設置されました。さらに昭和32年、日本初の「カーブミラー」が自動車専用道路に設置されました。平成18年「十国峠ケーブルカー開業50周年」を記念し、また、この地を訪れた皆さまの「旅の安全と交通災害ゼロ」を祈願しまして平成19年この「お願い地蔵」を建立しました。お願い地蔵お願い地蔵の後方から十国峠展望台を望む。右側奥に富士山が見えていた。展望台の前にステージがあり撮影スポットになっているようで人が絶えない。富士山をズームアップ。11:25東側の眼下には真鶴半島が見えるのだが。 ー 続く ー
2026.04.12
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久しぶりに愛車のリンちゃんで遠出して藤沢市大庭にある民家のフジを愛でに。4月26日(日) 14:30茅ヶ崎市の甘沼にある成就院を後にし東方向へ進む。”農業ふれあい館”の西側にある地元野菜直販所。いろんな野菜を100~200円で購入できるので時々訪れる直販所である。販売時はこの黄色の幟旗が立っている。赤羽根のこの辺りは調整区域になっており田んぼが広がっている。南側の高架橋は”新湘南バイパス”が横切る。東方向を望む。既に田植えの準備が終わっていた。農道脇に「酒米プロジェクト 熊澤酒造株式会社」と。天気が良ければ西方向には富士山が見えるのだが。旧鎌倉道、大山道を走り抜け、市道辻堂駅遠藤線の城南二丁目交差点。上は新湘南バイパスの高架。北側には”芙蓉カントリー俱楽部”の下を抜ける大庭トンネル。南下すると国道1号を横切りJR辻堂駅へ。新湘南バイパス沿いの一般道を走り、集合住宅の”ファミール藤沢城南”前から東を望む。この辺りは高速横浜環状南線やさがみ縦貫道路とともに、広域的な交通ネットワークを形成するため大掛かりな工事が進められている。隠れ里車屋所在地:神奈川県藤沢市城南2丁目9-13四季折々の自然に囲まれた静寂の中に佇む会席料理の店で、都会の喧騒を離れ、ゆるやかな時が流れる“隠れ里”であると。門を入ると、数寄屋造りの趣ある建物と、四季を映す庭園が迎えてくれると。石柱に「隠れ里 車屋」と。門前に「お献立」。日本料理 鉄板焼 ステーキカウンター 隠れ里御膳 6,600円 シェフおすすめランチコース 8,250円 懐石料理 雪 11,000円 国産フィレ&国産サーロインステーキランチコース 9,460円 月 16,500円 鮮魚と和牛ステーキコース 12,100円 花 22,000円 活鮑と和牛ステーキコース 15,950円 葵 27,500円 タラバ蟹と和牛ステーキコース 18,150円 旬華膳 10,450円 活伊勢海老と和牛ステーキコース 19,800円 和風ステーキ膳 16,500円 活鮑・活伊勢海老と 〃 23,100円 至福のグルメコース 30,800円消費税込の金額です。別途、サービス料13%(個室20%)を頂戴いたします。高級会席・懐石料理店で門前からJR辻堂駅まで送迎していた。”隠れ里車屋”からスマホの案内で芙蓉カントリー俱楽部の北側へ廻り「端山藤園」へ。自転車も”ながら運転”ができないので道を間違えた。臺谷戸(だいやと)稲荷神社所在地:神奈川県藤沢市大庭1809大庭郷には、台、谷、小糸、入、稲荷の五地区があり、台谷はそのうちの台と谷からなる地区である。戦前から約20軒が暮らしていた。台地区には、同じ苗字の世帯も多く屋号で呼び合うなど、今でもその頃の面影が残っている。谷地区は、藤沢市の西部開発により、湘南ライフタウンとなり、現在では台谷地区全体で250軒ほどの町内になっていると。臺谷戸(だいやと)稲荷の森 市指定天然記念物 昭和四十八年(1973)三月七日指定中央に稲荷神社が鎮座する小さな森です。このあたりの台地上はダイ(臺)、北側の谷はヤト(谷戸)と通称されているので、このように呼ばれます。中でもタブノキ一株は幹回り約六メートルの巨木です。かつては樹高が約十八メートルありましたが、残念ながら老朽化のため、平成八年(1996)に東側の大枝が折れてしまいました。それでも、地上一メートルで双幹になっているもう一本のタブノキや、ヒサカキ・ヤブツバキ・ケヤキ・ムクノキ・エノキ等が混生して、美しい森を形成しています。昭和五十九年(1984)「かながわの名木100選」にも選定されています。 平成二十年(2008)二月 藤沢市教育委員会この稲荷神社へは、令和5年(2023)4月19日(水)に訪れているので今回はスルーした。臺谷戸(だいやと)稲荷神社前の三叉路を間違え芙蓉カントリー俱楽部のコース下へ。トンネル右側の看板に、「この先、ゴルフ場(私有地)につき車輛の通り抜けご注意下さい。 芙蓉カントリー俱楽部」と。トンネル入口でスマホで目的地を確認折り返す。右側のネット内は芙蓉カントリー俱楽部のコースになっている。芙蓉カントリー俱楽部コースの丘から下り、湘南大庭336号線へ下り立つ。左側に台谷公民館が建っていた。入口の表札に「台谷公民館」と。公民館の脇に「道祖神・庚申塔」。右側は「双体道祖神」で台座に「臺谷戸中」と刻まれていた。目的地が近くなりスマホで位置を確認すると、ここを左折と。端山藤園所在地:神奈川県藤沢市大庭2249当藤園はGoogleマップにも載っている個人宅のフジ棚である。目的地へ到着、庭先を見るとフジの老木がなくビックリ。また、フジも咲き終わっていた。門前に自転車を止め南側の奥を見ると白のフジが咲いていた。フジは既に終盤で路面には花が散っていた。近寄り庭先の藤棚を見上げる。かつては紫色の藤棚もあったのだが。ズームアップ。フジの香りが漂っていた。端山藤園の南側に朱色の鳥居が目に入り回り込んだ。階段は崩れかかっていたが鳥居は綺麗に塗装されていた。祠も奇麗に塗装されていたが説明板がなく由来等は不詳。奥にも小さな祠があった。小さな祠への登り坂はけもの道。南側の林の上は芙蓉カントリー俱楽部のコースになっている。祠から端山藤園へ戻る。門前から再度フジの木があった方向を覗き込む。庭先に人の気配がしたので中に入ると女性がおられ、フジの木がないことを聞くと「昨年、藤沢警察署近くの長久保公園に移植した」と。以前来た時もこの女性と話をし「世話が大変」と言われていた。かつてフジの老木があった場所である(赤丸内)。椅子も置かれていた。以前来た令和5年(2023)4月20日(木)の写真を一枚。その時のブログは「端山藤園」👈 をクリック願います。一分咲き残っていたフジの花。以前あった老木の花房は1メートル近くはあったか。庭先には、他のフジの木もあった。後日「長久保公園へ移植されたフジ」も見に行きたいと。市道辻堂駅遠藤線沿いの東側に大型スーパーがあったが閉店になっていた。近くに、藤沢西部団地があるのだが。辻堂駅周辺に大型スーパーがあり、バス本数も多く車社会で集客が減少したのであろうか。スルガ銀行 湘南ライフタウン支店所在地:神奈川県藤沢市大庭5061-24市道辻堂駅遠藤線を振り返る。藤沢市 大庭台墓園南口大庭台墓園内を通り抜け南口から出る。ゲートがあったが車の出入りは出来なかった。大庭台墓園の南側の小径。看板に「グリーンリサイクル」と。大庭台墓園脇にできた施設。茅ヶ崎バイオマス発電所所在地:神奈川県茅ケ崎市赤羽根3905剪定枝を燃料としてエネルギーに変える「茅ヶ崎バイオマス発電所」が2021年8月1日に赤羽根で運転を開始してから5年が経ちました。発電所では、今日もクリーンなエネルギーを作り続けています。剪定枝を燃やしたあとに出る灰は「草木灰」という肥料になります。この「草木灰」を「グリーンリサイクル茅ヶ崎営業所」にて無料配布していると。入口に「株式会社 都実業 グリーンリサイクル 茅ヶ崎営業所」と。 右側の看板に受入時間が記されていた。営業日 月曜日~土曜日(祝日を含む)一般市民は、9:00~12:00、13:00~16:00 15:50グリーンリサイクル茅ヶ崎営業所から農道を下り”市立赤羽根中学校”へ。茅ヶ崎市立 赤羽根中学校自宅へは16:15に到着。出発時の愛車のリンちゃんのバッテリー残量、走行可能距離は90%、80kmであったが自宅到着時は70%、58kmで今日の走行距離は、22kmであった。 ー 続く ー
2026.05.11
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ジャカランダは、世界三大花木(カエンボク、ホウオウボク、ジャカランダ)のひとつで、ノウゼンカズラ科の高木です。15mほどに成長し、春先になると、枝先につり鐘形の淡い紫色の花をつけ、満開時には木全体を覆うほどに花が咲きます。今年2月にポルトガルへ行った時ジャカランダ並木があり、一度見てみたいと思っていたので、いつもの旅友Kさんと朝6時半に我が家を出発して熱海へ向かった。 6/6(木) 7:48国道135号線沿いの駐車場に車を止め、ジャカランダ遊歩道へ向かう。道路沿いにジャカランダの木木を見上げると国道135号線の熱海港方向ジャカランダ遊歩道に貼られたポスター。『ATAMI ジャカランダフェスティバル2019』 開催日:6/8(土) ~ 23(日) ジャカランダライトアップは期間中、18:00 ~ 22:00場 所:ジャカランダ遊歩道、お宮の松エリアJR熱海駅から歩いて約10分ジャカランダ:ノウゼンカズラ科。中南米原産の落葉高木。。ラッパ形で青紫や青藤色の花が多数集まって咲き美しい。シウンボクなど約50種があるジャカランダ遊歩道フェスティバルは、8日(土)からの開催で準備も整いジャカランダの葉はシダにも似ていて、とてもやわらかい感じ。ジャカランダは熱帯の中南米に多く分布し、街路樹として知られている花先にはまだ蕾があるノウゼンカズラ科だけに、花は釣り鐘形香りはしない?キンシバイ(金糸梅)オトギリソウ科オトギリソウ属の半落葉低木ブーゲンビリアとジャカランダ満開にはまだ早い熱海市はポルトガルの「カスカイス市」と姉妹都市今年2月に訪れたが、リスボン県の都市で国際的なリゾート地である木の上に咲くジャカランダジャカランダ遊歩道にはいろんな花木が植えられている。カシワバアジサイブラシの木キング・プロテア(学名:プロテア・キナロイデス)。樹 高:1~3m程度原産地:南アフリカ 開花期:4 ~ 10月花言葉:王者の風格、甘い恋プロテアは花の王様と賞賛される南国の常緑低木で、花名は自由に姿を変えることができるギリシャ神話の海神プロテウスが由来。南アフリカには多種類のプロテアが自生しており、中でもこの「キング・プロテア」は花が大きく優雅であることから南アフリカ共和国のシンボルであり国の花となっているサンゴシトウ花 期:6 ~ 8月花言葉:優しい気持ちお宮の松尾崎紅葉の小説「金色夜叉」に由来し命名された。この松は二代目で、樹齢はおよそ百十数年とのこと初代「お宮の松」寛一お宮之像紫陽花も咲き寛一お宮の汚水マンホールジャカランダ遊歩道に咲く百合芯をとらえるいろんな百合が植えられていたジャカランダ遊歩道に咲く花バス停は「お宮の松」6/8(土) ~ 23(日)の18時から22時まで「ジャカランダライトアップ」される紫色の花が幻想的になるのか日本で春の訪れを告げる花と言えば桜ですが、ジャカランダは桜の花のようにあっという間に散ってしまうことはなく結構長持ちするとのことまた花が散ってしまった後も、地面は薄紫色の絨毯を敷いたようになり、町並みに彩りを与えている。ちなみに、日本では、ジャカランダの花の形が桐の花にも似ているため、「キリモドキ」と呼ばれることもあるようです海岸へ出る日本百名城、続日本百名城にも選出されなかった「熱海城」。熱海港沿いにある「ホテルニューアカオ」、「後楽園ホテル」熱海沖に浮かぶ初島熱海サンビーチと真鶴半島を遠望する熱海ムーンテラス餌を待つ鳩ヨットハーバー豪華なヨットが係留されていたアガパンサス:和名:紫君子蘭(むらさきくんしらん)。別 名:アフリカンリリー 原産地:南アフリカ科属名:ヒガンバナ科 アガパンサス属梅雨の時期に花開くアガパンサスは、紫や白など涼しげな色合いで見る人を和ませてくれます。西洋では「愛の花」とされ、恋や愛にちなんだ花言葉を持っている多年草で細長く伸びた茎の先から放射状に花を咲かせ草丈は30 ~ 150cmまで成長ジャカランダの木が道路沿いにもう少し多くあると見応えが出るのでは8:43駐車場近くに戻るまだ熱海のジャカランダの木は若木が多く、街路樹となっていないので本場を見てみたいが中南米は遠い、宮崎県日南市にもあるが。花が散ってしまった後も、地面は薄紫色の絨毯を敷いたようになるとのことで、また見たいものです。55分の滞在でジャカランダを楽しみ小田原城へ向かった。オーストラリアのジャカランダ(ネットから)。地面は薄紫色の絨毯を敷いたようになるデジブックでも公開しておりますので「熱海のジャカランダ」をクリック願います。 小田原城の花菖蒲まつりへ
2019.06.15
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この時期例年だとゴールデンウイークになり、日本各地の観光地も混雑、また今年は東京オリンピックも後3か月になり聖火も各地を回り新聞、TVはこの報道であったろう。しかし今年は新型コロナウイルスの感染も先が見えず、GWも緊急事態宣言で「外出自粛要請」が出されどこへも行けない毎日、私も80%接触を避け畑で作業。4月16日(木) GWに野菜を植えるために準備畑を耕していると『イソヒヨドリ』が一羽畑を耕すと幼虫が出てくるのでそれを目当てにイソヒヨドリは、スズメ目、ヒタキ科に分類される鳥の一種。アフリカとユーラシア大陸に広く分布する鳥で、和名どおり海岸や岩山などで多く見られる。全長23cm、オスは頭から胸、背、腰までが青藍色、腹は赤褐色、翼は尾は黒っぽい。このイソヒヨドリはオスであろう鳥は眼が良いのか飛び降りてすばやく幼虫を捕まえるくちばしに幼虫をつかみ私の近く2~3メートルで動き回っていたハクセキレイも飛来幼虫を3匹ぐらい食べると満足なのか鍬の柄の先に留まり3月5日に飛来した『ジョウビタキのオス』幼虫を投げると食べてくれる4月21日(火)庭先で咲くマーガレットフクシアアカバナ科の低木で、花が美しいので鉢植えなどでよく栽培される。日本では訛って「ホクシャ」などとも呼ばれる私の目にはイヤリングに似た花でもあるが、後方にクンシラン(君子蘭)クンシラン(君子蘭)十二単(じゅうにひとえ)和名は、花の咲く様子を宮中の女官などが着る十二単に見立てたものである。俳句の季語は春である石楠花サクラソウオダマキ方向をかえてバックから旅友から頂いたイチゴサヤエンドの花スナップエンドウの花ブルーベリーの花三本植えているが今年はどれだけ実が付くか近くの川沿いではツツジが咲き桜の時期も終わり学校は休校で静か学校の花壇ではチューリップが咲き最後に我が部屋で咲かせた胡蝶蘭を一鉢。この他に玄関先で紅・白が三鉢咲いているどこかへドライブしたいが、最近は往時のように県境には関所(検温)が。明日から、弥次喜多道中最後の道中記をアップします。 END
2020.04.28
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大庭神社から高台を南下、引地川沿いを下り再度長久保公園都市緑化植物園へ。5/28(金) 11:56大庭神社から坂を上り飛行場予定地で有った荏原製作所の塀沿いを走る。途中、林の合間から富士山が見える草が生い茂る広場から子供たちの声が聞こえてくるふるさとの森所在地:神奈川県藤沢市稲荷緑を残そう、増やそうとした活動から、子どもたちにすばらしいふるさとを残すために森づくりを推進し、着々と「ふるさとの森」は姿を現してきました。隣接する引地川親水公園から、森へ誘う道は、水に親しみ、森で野鳥、昆虫、植物にふれあう接点としての役割を持っています引地川沿い「鳥獣保護区で見られる野鳥」この広場は一番南側に位置しており、ここより北側の大庭神社まで広がる「ふるさとの森」である。草が生い茂っているが桜の木もあり、その時期は多くの人が訪れるのであろう更に進み、工場の隅に咲いていたユリが満開12:08丘陵地から引地川沿いに下り、藤沢市立 柏山公園所在地:神奈川県藤沢市城南3丁目6引地川沿いにある小さな公園で子供用の遊技施設があるが駐車場はない公園の中に柏山稲荷神社があるがロープを張られ立入禁止にここの公園でもユリが綺麗に愛嬌のあるこのオブジェはズームアップ12:25引地川沿いの鵠沼海岸引地線を南下、長久保公園都市緑化植物園所在地:神奈川県藤沢市辻堂太平台2丁目13-35フジロードを走った5月2日(日)に訪れて以来二度目の訪問である。その時「スイレンの池」「花菖蒲の池」の存在を知り、今回その開花を期待した長久保公園都市緑化植物園「園内MAP」ここでもユリの花が咲くスモークツリーをアップカンナカンナはカンナ科の多年草で、熱帯地方に50種類が自生しています。夏の陽射しが似合うトロピカルなイメージの花です。コロンブスが新大陸を発見したとともに、ヨーロッパにもたされた花としても知られています。カンナの学名「Canna(カンナ)」は、葦という意味のるラテン語が語源となっています。カンナの茎が葦のように、茎の中が空洞になっていることに由来しています。カンナの花言葉は「情熱」「快活」花菖蒲の池ハナショウブは、日本に自生するノハナショウブから改良された品種で主に江戸系、肥後系、伊勢系の3系統に分かれ、現在では2千種類にも及んでいます。日本人に古くから愛されてきた鑑賞植物で毎年6月頃に花を咲かせます。池の先に広がる芝生公園の周りには、ソメイヨシノやオオシマザクラなどのサクラが約40本植栽され、広場の南側には藤沢市の花であるフジを植栽したフジ棚があります。 NAGAKUBO KOUEN花菖蒲の池の四阿折しも小学一年の児童が遠足で訪れていた。「初めての遠足です」といろんなハナショウブが植栽されている。下草は綺麗に除草されていた名札がなく名前は不詳ですが各地に大小の花菖蒲園があるが、公の観賞施設としては、東京都葛飾区の堀切花菖蒲園が、江戸時代にその母体が開設されたのが始まりである現在は全国各地に名所があり、北海道の長沼花菖蒲園、山形県の長井あやめ公園、茨城県の水郷潮来あやめ園、東京の明治神宮内苑、東京都葛飾区の水元公園、伊豆の修善寺自然公園、熊本県玉名市の高瀬裏川沿い、宮崎市の市民の森などがある静岡県掛川の加茂荘花鳥園花菖蒲園は品種が多く、株をすぐ購入できることでよく知られている公園の隅にあったこの設備は展望広場からの江の島シーキャンドル西側の空には富士山やすらぎの庭やすらぎの庭県市町村の木の名が刻まれている。あつぎつつじの丘公園(上古沢緑地)の「交流の森」にも同じようなものがあったやすらぎの庭やすらぎの庭は、かながわ都市緑化藤沢フェアの開催を記念し、神奈川県、県下市町村及び(財)みどりのまち、かながわ県民会議の御協力を得て、県市町村の木を植栽し造成したものです。芝生公園には遠足の児童が走り回っていた。広場の周りにはサクラスイレンの池にハクセキレイ生憎スイレンの池には肝心なスイレンの芽はなくダリアの花とアガパンサスの花芽ボタン園既に花の時期は終わり隣にはバラ園バラ園品種名:"Nell Martin”『ネル・マーティン』分 類:Hybrid Tea rose(HT)藤沢市の姉妹都市であるカナダのウインザー市から1999年11月に寄贈されたバラで、真紅の大輪の花を咲かせます。四季咲きで、病害虫にも比較的強く、樹高は150cm程にもなります真紅のバラが鮮やかである12:57長久保公園都市緑化植物園を後にして帰路につく13:05県道30号線(戸塚茅ヶ崎線)を走り途中から、右方向の路地へ進み、道路脇に気になる案内板を見つける京、鎌倉往還 14(鎌倉街道)三ツ叉元禄13年(1691年)検地の四十四小字(こあざ)の中に三ツ叉がありました。古道(鎌倉道と光明真言道場道)がここから三本に分かれていたのが由来です。 平成24年10月 【問合先 辻堂市民センター】八森稲荷神社所在地:神奈川県藤沢市辻堂元町3丁目15旧鎌倉街道の脇に鎮座する神社である境内に置かれている鉄板鉄板と下瀬火薬明治21年(1888年)に旧海軍技手の下瀬雅充(しもせまさちか)が、ドイツから持ち帰った新火薬を、大砲を使って辻堂海岸で試射しました。試射は成功し「下瀬火薬」と命名。後の日露戦争で実戦に使用され、その威力で威名をはせました。試射には何枚かの鉄板が標的や砲台に使用されましたが、これはその内の一枚とされています。この度、鉄板をここに設置するにあたり、専門家に時代考証をお願いしましたところ、この鉄板は当時英国で製造された戦艦三笠やタイタニックの鋼板と化学成分が類似していることから、英国で製造されたものであることが分かりました。 平成24年4月17日 藤沢市 西町 町内会後日この「京、鎌倉往還」を散策したい。自宅には昼食抜きで13:30に到着、帰宅時のバッテリー残量は40%、走行可能距離は29km。よって今日の走行距離は、55ー29=26km でした。 ー END ー
2021.07.08
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茅ヶ崎市観光協会から発行の下記情報を知る。情報を基に「まち・ひと・茅ヶ崎の煌き」を散策した時にブログアップすることとした。まち・ひと・茅ヶ崎の煌(きらめ)き 茅ヶ崎の歴史・人物・魅力を時代ごとにイラストを交えて紹介時代別リスト初回は、時代別リストの「古墳時代:日本武尊」をアップすることとした。回遊スポット● 茅ヶ崎市芹沢● 腰掛神社(日本武尊の腰掛玉石の他に、市指定天然記念物の森林・神仏習合の名残の鐘楼)● 里山公園● 清水谷● 七曲り● 市民の森● 高座官衙(たかくらかんが)跡● 七堂伽藍跡・・・面白い民話としてアニメで公開しています。追って、上記「回遊スポット」を散策したい。日本武尊(やまとたけるのみこと) 日本古代史上の英雄・茅ヶ崎市芹沢腰掛神社に足跡日本武尊は第十二代景行(けいこう)天皇(71~130)の皇子で、第十四代仲哀(ちゅうあい)天皇(192~200)の父とされている。景行天皇の命により、西方(九州)の蛮族であった熊襲(くまそ)征討から帰るとすぐに東方(関東方面)の蛮族討伐を命ぜられる。その途上、伊勢神宮に立ち寄り、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と袋を賜る。古代の関西・関東を結ぶ道は、足柄坂を通るルートが有った様である。そして茅ヶ崎の昔の相模川河口は、海岸地域一帯の川幅は広く、幾筋にも分かれ、海と川と沼地とで形成されていた様である。元の県立茅ヶ崎北陵高校に高座官衙(たかくらかんが)(中世以前の役所)跡が発見され、近接して七堂伽藍を配した大きな寺跡が有る。県立茅ケ崎里山公園の中央部に日本武尊が腰をかけたと言われている腰掛神社が存在していることは、この辺り(茅ヶ崎市北部)に古代の道が有ったのではないかと想像しながら歩いて見ることも面白い。日本武尊ゆかりの腰掛神社は、里山公園の中央林道を進んだ先にある。社地の森林は茅ヶ崎市指定の天然記念物となっている。日本武尊が東征の途上、石に腰かけて、大山を眺めて休憩したという伝説に由来する。また、そこに住む村人が日本武尊を偲び、その石を御神体として社を建てたのが、腰掛神社のはじまりと伝えられている。本殿脇には、その時の石と伝えられている大きな石(腰掛玉石)が祀られている。(出典は茅ケ崎市観光協会の資料から)。4月23日(土) 10:10県立茅ヶ崎里山公園所在地:神奈川県茅ケ崎市芹沢1030この日も茅ヶ崎の北部、藤沢の西部へ愛車のリンちゃんで出かけた。途中、里山公園へ。10:15里山公園の中央林道を進んだ先にある「腰掛神社」が鎮座。所在地:神奈川県茅ケ崎市芹沢2169腰掛神社は神奈川県茅ヶ崎市芹沢にある神社。日本武尊が御東征の際に腰掛けたと伝わる石がある。茅ヶ崎市の神社では最も北に位置している。里山公園の中央林道の途中から道路は整備され広くなっている。神社前には駐車場はなく、リンちゃんを道路脇に駐輪して参拝。一の鳥居、二の鳥居が連続して建つ。鳥居の右手前に古木が聳え、根元に、庚申塔。庚申塔は「六臂青面金剛像」。元文5年(1740)11月二の鳥居の扁額「腰掛神社」杉の大木が生い茂り昼間でも薄暗い境内。参道脇に建つ木柱に、「杉(すぎ) すぎ科、高さ 二一米、太さ 二・一〇米、樹齢 約三〇〇年」 茅ヶ崎ロータリークラブ参道脇に手水舎後方に切断された古木が積まれていた。切断された御神木のイチョウであろうか?樹齢は何年であろうか、幹は空洞になっている。空洞になり樹皮だけが残っている。参道の右側に「社務所」「芹澤公民館」。境内の手前に、昭和六十三年奉納の狛犬、阿形像。同、狛犬の吽形像。正面に「社殿」、左に「神楽殿」、右奥に「神輿殿」が建つ。神楽殿の左側に御神木のイチョウの木。社殿の前に、石灯籠、狛犬。御祭神 日本武尊 ( やまとたけるのみこと ) 大日霊貴命 ( おおひるめむちのみこと ) 金山彦命 ( かなやまひこのみこと ) 白山彦命 ( しらやまひこのみこと ) 宇迦之御魂命 ( うかのみたまのみこと )祭 礼 1月1日 元旦祭・交通安全祈願祭 2月11日 建国祭 7月海の日 浜降祭 令和4年度も3年連続中止になっている。 9月吉日 秋季例大祭 11月23日 勤労感謝祭 12月31日 除夜祭。社殿前に建つ狛犬の阿形像、大正十四乙丑年十月吉日建之。こちらは江戸唐獅子とか関東型とか言われるタイプのものであると。足下に、「奉納 境内及び参道砂利 相州芹澤神輿連 令和三年五月二日 芹澤祭囃子保存会」 こちらは、狛犬の吽形像。拝殿の見事な龍の彫刻。拝殿の扁額「腰掛神社」拝殿の左側に、屋根付きの建物の下に、「腰掛玉石」。腰掛神社 例祭日 九月十八日鎮座地 茅ヶ崎市芹澤ニ、一六九番地御祭神 日本武尊 由緒沿革 『相模風土記』に「腰掛明神社村ノ鎮守ナリ大庭ノ神腰ヲ掛シ旧跡ト云伝フ、想フニ旅所ノ跡ナドニヤ 小石一顆ヲ置神躰トス 本地大日、寛永十二年八月十九日勧請 爾来此日ヲ以テ例祭ヲ執行フ」とある。又社伝には 景行天皇の朝皇子日本武尊御東征の際 此の地を過ぎ給ふ時、石に腰を掛け暫時此の処に休息せられ 西の方大山を望み指示して大いに喜び給ふ。後 村民永く其の霊跡を存せんとして社を建て尊を祀りしと云い伝えられている。今猶社前には一大石 (凡長さ二尺九寸 幅二尺五寸) が在り 腰掛玉石と称する。再建は寛政元年(一七八九)十一月であり、現在の本殿は大正七年に再建で 拝殿は震災後大正十四年に再建したものである。神社の関係古文書類は 天保四年 鍵取職矢野新兵衞氏居宅の火災により全て焼失した。明治六年村社に列せられ、明治四十二年指定村社に列せられる。凡長さ 二尺九寸(約88センチ)、幅二尺五寸(約76センチ) の「腰掛玉石」。腰掛玉石の後方に先程の切断された御神木の根元。樹勢が旺盛で既に子株が育っている。社殿の左側に2つ並んで境内社。名前が書かれていなかったので詳細は不明だが『神奈川県神社誌』には、境内社として伊勢大神、金平大神、稲荷社、白山大神の記載があるとのことなので、このうちのいずれかではと。社殿の右側からの、「本殿」「神輿殿」。社殿の右側奥に建つ「神輿殿」。石碑は「拝殿屋根葺替竣工記念」。當拝殿は大正十二年九月の大震災の際崩壊 大正十四年 新築再建五十年の永き間夏の暑さにも冬の寒さにも耐へて今日に到れるが最早屋根の亜鉛板も限界と成りたるが故に氏子崇敬者諸氏と相謀り、銅板にて屋根の修復を致す事に決定し九月に工事の竣工を見ました。此の挙を記念しここに碑を建立致しました。 昭和四十八年九月十八日石碑の裏面には、氏子、宮司、改築委員、宮総代、世話人の名前が刻まれている。右側から社殿を望む。御神木のイチョウの木も芽吹き秋には紅葉、銀杏。10:30境内から、参道、鳥居の西方向を望む。 END余談ですが、昨日から一泊二日の検査入院です。事前の18日(水)に「入院前新型コロナウイルス検査」で、唾液をカプセルに入れ持参し「入院可」。検査は「睡眠時無呼吸症候群をはじめとする睡眠呼吸障害の診断と治療」のために必要な入院検査で、4月15日(金)に予約していた。今朝は、朝食を食べ退院で、結果は3週間後に外来で説明を受ける。5月19日(木) 朝咲き始めた「ブラシの木」アーチのバラも終盤になり妻から剪定を依頼される。最後のバラを楽しみ剪定予定。花壇に植えた ”タマネギ” も大中小とありましたが収穫しました。50本植え付けましたが、最近のタマネギは高騰しており、一個70~100円。因みに苗は400円/50本で一本8円であった。 END
2022.05.20
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基本展示室ー7から企画展示室へ。7月30日(土) 11:09川辺を観察してみよう ー7茅ヶ崎市内には相模川、小出川、駒寄川、千ノ川、松尾川、小糸川などの河川が流れています。雨は地表面や地中を通りながら集まり、やがて川となります。川は田畑を潤し、まちなかを通り抜け、海へと流れ出ます。ひとくちに河川といっても、河川の規模や場所によって様々な特徴があります。そうした多様な環境に合わせ、多くの動植物が見られます。市内を流れる河川のうち、小出川とそこに合流する駒寄川・千ノ川の川辺や、相模川河口に生息する生きものを観察してみましょう。川辺を観察してみよう茅ヶ崎の川辺で観察できる野鳥が展示されている。さかな、かに等の標本が展示されている。河川の状況小出川茅ヶ崎市の西部を北から南に向け、相模川河口へと流れています。全長約12.5km。駒寄川堤の清水谷を源流とし、茅ヶ崎市北部を西に向けて流れています。寒川町大曲で小出川に合流します。全長約3.6km。千ノ川茅ヶ崎市の中心部を流れており、下町屋付近で小出川に合流します。全長約6.2km。川辺の野鳥たちむかしのいのり ー8私たちの祖先は、現代人には理解しきれない様々な道具を生み出してきました。その多くは、当時の人びとの精神や考えをもとに作られたもののはずです。もし、それらの意味が絵画や文章で説明されていれば、その用途を想像することができるでしょう。しかし、一見必要がなさそうなそうした道具の使い方は、いまだに謎が多いままです。この茅ヶ崎でも、生きるための道具以外の、いわゆるいのりのための道具がたくさん見つかっています。かつての人びとのいのりの心にふれてみてください。むかしのいのり モノが語るいのりの心モノが語るいのりの心【縄文時代】 狩猟採集の世界でどう使う?縄文時代は、狩猟採集の時代と考えられています。そんな生活の中で、巨大な石を削り出して作った石棒や、人のような形を土で作った土偶が発見されています。茅ヶ崎の縄文人たちはこれらを作ったり使ったりするなかで、何を想っていたのでしょうか。【古墳時代】 墓から見つかるアクセサリー古墳時代の墓からは、金環や勾玉といったアクセサリーや、鉄刀などの金属製品が出土します。当時の一般的な集落では滅多に発見されることはないため、墓には特別な想いがあったのでしょう。集落でも何かしらのいのりの心は存在したはずですが、遺跡からはっきりと読み取れるものは多くありません。【古 代】 律令国家の始まりと精神世界奈良・平安時代の遺跡から、土器や木製品に、文字を記したり、絵を描いたものが見つかります。なかには病という字が書かれているものもあり、健康に対する想いが読み取れそうです。古代の仏教行事である万灯会、放生会といった、いのりの痕跡も市内で発見されており、古代の人びとのいのりの姿の一端がうかがえます。【中世 ~ 近世】 石の加工といのり中世から近世にかけては、五輪塔や庚申塔、馬頭観音、板碑のように、石を削り出した象徴物に人びとが集まり、想いを込めていたようです。また、厄除けや健康祈願の道具もあります。こうして古いものから新しいものまでみてみると、太古のよくわからないものも、なんとなく、想いを感じられる気がしませんか。左上:五輪塔(龍前院)、右上:鶴嶺八幡宮古参道(下町屋)左下:庚申塔(龍前院)、馬頭観音(浜之郷)、右下:地神講左手前:石棒(久保山A遺跡・行谷遺跡) 縄文時代 金属器のない縄文時代に巨大な石を棒のような形に加工したものです。発掘調査で上部しか 見つからなかったものと、上部が見つからなかったものがあります。右側:馬頭観音 家畜の無病息災と、馬で旅をする人々の道中の安全を守る観音として信仰されました。また、 農民の生活に欠かせなかった馬を供養する神様としても信仰されました。 庚申講のオヒョウグ昭和八発酉歳三月新調ス 庚申講中膳腕壱組膳腕壱組かわらけとは、かわらけは、日本の中世から近世にかけて製作・使用された素焼きの土器。その中でも特に碗・皿形の器種を指す語である。古墳時代以来の土師器の系統に連なるため、土師質土器や中世土師器などとも呼ばれる。夏の企画展 入口企画展 『鎌倉殿』の時代の茅ヶ崎企画展 『鎌倉殿』の時代の茅ヶ崎いまから約800年以上前、「鎌倉殿」と呼ばれた人物が全国の武士の頂点に立ち、日本の歴史上はじめての武家政権が誕生しました。そして、最初の「鎌倉殿」となった源頼朝がなくなったあとも、「鎌倉殿」の地位は、征夷大将軍という感触とともに、政権の棟梁に継承されてゆき、その支配は100年以上にわたって続きました。いわゆる「鎌倉時代」です。そうした「鎌倉殿」の時代、このちがさきにはどのような人が生き、その足跡を歴史に残したのでしょうか。本展では、「鎌倉殿」が登場する少し前、湘南に武士が現れ始めた時代から、「鎌倉殿」が歴史に現れてくる時代までを中心に、第1弾として、市内から出土した当時の品々をご紹介いたします。第2弾として、茅ヶ崎やその周辺で活躍した武士を紹介いたします。当時の人びとに思いをはせてみてください。 令和4年7月 茅ヶ崎市博物館略年表(茅ヶ崎市 1987 『写真集茅ヶ崎きのうきょう』より抜粋、一部加筆)。平安時代から江戸時代初期までの年表。企画展会場パネルと出土品が展示されていた。国指定 史跡・天然記念物 『旧相模川橋脚』発掘調査により、橋は北東から南西方向に架けられ、川は北西から南東方向に流れていたと推定されています。橋の幅は、出現した橋杭3本の位置から約9mと考えられます。また、南西側の川岸では土留めの痕跡が確認されていないものの、北東側の川岸では確認されており、少なくとも長さ40m以上の立派な橋であったと考えられます。歴史学者・沼田頼輔は、出現した木の柱を歴史的遺産と捉え、『吾妻鏡』や『保暦間記』などの文献史料から、源頼朝の家臣・稲毛重成(現在の神奈川県川崎市多摩区周辺の領主)が亡き妻の供養のために架けた橋と考証しました。【相模川の流路変化】 【推定される橋の方向と川の流れ】 【調査範囲と発見遺構】。 地層は発掘調査時に一部はぎ取ったもので、橋杭はヒノキだと。現地で精巧に型取りした橋脚、さらに実物を剝ぎ取りした土層を展示している。旧相模川橋脚模型(1/80)。発掘調査の成果によって明らかになったことに基づいて、旧相模川に橋が架かっていた鎌倉時代の姿を推定し、部分的に復元しています。発見されたのは橋脚のみであり、上部の構造ははっきりとわからないため、『石山寺縁起絵巻』などの近い時代の絵画史料に描かれた橋などを参考にしています。旧相模川橋脚茅ヶ崎市の鎌倉時代を語る上で欠かせない遺構として、下町屋に所在する国史跡旧相模川橋脚があります。鎌倉時代のことが記されている吾妻鏡には、1212(建暦二)年に幕府で相模川の橋修復について話合いが行われたことが書かれており、相模川に橋が架かっていたことが明らかになっています。大正年間に沼田頼輔によって鎌倉時代の橋として考証された橋脚は国史跡に指定されました。2001年から行われた発掘調査では10本の橋脚(橋杭)と北側の土留め遺構が確認されました。こうした遺構に加え出土遺物や年輪年代測定などの結果、考古学的にも鎌倉時代の橋であることが追認されました。今回、発掘調査で出土した遺物(鎹と古銭)と現地で精巧に型取りした橋脚、さらに実物を剝ぎ取りした土層を展示しています。なお旧相模川橋脚は、出土の原因となった地震による液状化現象が国の天然記念物として指定され、史跡と天然記念物の重複指定を受けた文化財としても評価されています。旧相模川橋脚模型次の壁面には、「低地に広がる遺跡」「矢畑 明王ヶ谷遺跡」「香川 中通Ⅽ遺跡」。低地に広がる遺跡中世に「懐島(ふところじま)」と呼ばれた市南西部の低地には、多くの遺跡が存在しています。西久保上ノ町遺跡では南伊勢地方で生産された土器が、円蔵下ヶ町遺跡からは愛知県の瀬戸で焼かれた陶器など、各地との交流を窺える資料が出土しています。また土器以外にも石製品や鉄製品、使用されていた古銭、さらに低地遺跡ゆえに残存する木製品などが出土しており当時の様子を知ることができます。写真は、市南西部地域に広がる遺跡(手前道路が新湘南バイパス)。左:下ヶ町(しもがまち)遺跡から出土した古銭右:低地に広がる遺跡下ヶ町遺跡から出土した古銭◆ 下ヶ町遺跡出土の古銭 中世の遺跡からは、貨幣である古銭も出土しています。 当時国内での生産は行われず、大陸で鋳造されたものを輸入しており、渡来銭と呼ばれて います。展示している資料も多くが北宋で鋳造された銭です。 お金は貨幣として使用するだけでなく、地鎮などに際して埋納されたり、死者への副葬品 としても使用されました。下ヶ町遺跡の井戸から出した古銭は、複数枚重なって出土して いる特徴をもっています。なお、お金は長く使われることから、出土資料として時代を考 える際には初鋳年以降の年代となります。矢畑 明王ヶ谷遺跡(やばた みょうおうがやと)第5次地点では、古代、中世、近世、現在の資料が確認されています。中世では概ね13世紀と考えられる掘立柱建物、井戸、溝状遺構などが発見されており、建物をはじめとする土地利用を知ることができます。また調査地点からは、渥美産の刻画文壺の陶器片や、白かわらけの小皿など珍しい遺物も出土しています。こうした内容は、本市における鎌倉時代の様子を把握できる事例として貴重です。明王ヶ谷遺跡 第5次調査井戸(第23号土杭)出土◆ 木製品について 木製品の出土は低地遺跡の特徴で、通常台地の遺跡では残存しない有機質の遺物が発見さ れます。これは地下水などで水分を多く含む土層によって木製品など有機質の遺物が空気 に触れることがなく乾燥から守られてきたためです。こうした木製品などの出土によって、 土器や石製品だけではわからない往時の生活状況を知ることができます。ただ木製品は、 出土して環境が変化すると乾燥してしまい樹種によっては形が崩れて朽ちてしまうため、 保存処理を行い後世に伝えていく必要があります。右側に出土品香川 中通Ⅽ遺跡市北西部の香川地区の砂丘上に位置しています。縄文時代から弥生、古墳、古代、中世近世の資料が確認されており、中世では井戸が発見されています。井戸からは白磁やかわらけとともに出土事例の少ない滑石製の小仏像が発見されており注目されます。小仏像は頭足部を欠損していますが、合掌印を示す立像と思われます。衣のしわ部分は細かい線刻で描かれているなど丁寧に作られています。なお、線刻内には金が塗布されていた可能性もあります。金山遺跡 第4次調査中通Ⅽ遺跡 第2次調査 本社B遺跡 第2次調査次のパネルは、「矢畑 金山遺跡」「浜之郷 本社(A・B)遺跡」「中世の遺跡分布図」。矢畑 金山遺跡(やばたかなやま)市南西部の矢畑地区に位置し、現在まで25地点以上で調査が行われています。第4次調査では古代、中世、近世、近現代の資料が確認されていますが、このうち中世では井戸が発見されており、陶器(常滑産)の甕や船載磁器(青磁)、鉄製品(釘)、古銭なども出土しています。また木材も確認されており木枠を有していた可能性があります。写真:左 2号井戸遺物出土状況 右 第4次調査地点全景(東から)浜之郷 本社(A・B)遺跡本社A遺跡第7次調査地点では、溝より、かわらけと呼ばれる素焼きの土器をはじめ、窯で焼かれた陶器や大陸で生産された磁器などが出土しています。また本社B遺跡第2次調査地点でも、土坑からかわらけがまとまって出土しており、使用後にまとめて廃棄された可能性があります。これらのかわらけのなかには、鎌倉で多く出土する「京風かわらけ」もみられ、鎌倉との関係を考える材料となります。写真は、本社A・B遺跡空撮(南東から)中世の遺跡分布図茅ヶ崎市内の遺跡の位置を示している。今後の散策の参考にしたい。遺跡からみる茅ヶ崎の鎌倉時代茅ヶ崎市内には現在216箇所の遺跡が分布しており、中世(鎌倉~戦国時代)の遺跡は76箇所を数えます。今回はそのなかでも香川、西久保、円蔵、矢畑、浜之郷地区から出土した資料を展示しています。特に円蔵、矢畑、浜之郷地区は「懐島三郷」と呼ばれ中世の中心的な地域でした。展示資料の年代は12~14世紀代であり、史料では懐島氏や二階堂氏が活躍した時代とされています。遺跡からは土器などが出土しており、中世初期から活動を行っていたことが窺えます。しかし、建物跡などの遺構は多くはありません。このことは室町時代以降の活発な土地利用により鎌倉時代の遺構が発見されづらいことが原因と考えられます。出土した遺物は宴会や儀式などで使用した素焼きの「かわらけ」の他、大陸から運ばれてきた青磁や白磁も一定量出土し注目されます。そのほかにも窯で生産された甕や壺などの日常使いの陶器や鉄製品、砥石などの生活道具、古銭も出土しており、茅ヶ崎における当時の人々の活動を垣間見ることができます。本社A遺跡 第7次調査 本社A遺跡 第7次調査第6号溝出土 第6号溝出土 第5号溝出土 ◆ かわらけの成形法と各部分の名称遺跡と発掘調査遺跡には土器などの実物や人が活動した痕跡が残されており、文字で書かれた史料と同様に当時の歴史を知ることができます。遺跡は発掘調査によって調べられますが、現在行われている発掘調査は開発工事などに伴う調査が多く、調査によって土地の歴史は記録されますが、調査地点の遺跡は多くが消滅してしまいます。そのため調査で出土した資料は、完全な形だけでない破片でも、それぞれが茅ヶ崎の歴史を示す大切な資料と言えます。写真は、発掘調査作業。企画展会場を振り返る。11:17夏の企画展「『鎌倉殿』の時代の茅ヶ崎」第2弾は8月中旬公開予定! ー 続く ー
2022.08.07
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寒川神社を参拝後は廻りの寺社史跡を訪れた。2月1日(水) 12:35宮山神社 (みややまじんじゃ)所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山3854宮山地区に鎮座していた七社の神さまを祀る地域の氏神様です。ここの神社もはじめての参拝である。道路脇に立つ社号標石「末社 宮山神社」。鳥居の扁額「宮山神社」。神池に架かる石橋。寒川神社末社 宮山神社一、御祭神 八柱の神 (合祀神社名) (御祭神名) (旧鎮座地) 琴平社(ことひらしゃ) 大物主神(おおものぬしのかみ) 神戸鎮座 八劍社(やつるぎしゃ) 須佐之男神(すさのおのかみ) 八劍鎮座 雷社(いかづちしゃ) 健御雷之男神(たけみかづちのおのかみ) 雷 鎮座 若宮八幡社 大雀命(おおささぎのみこと) 旭 鎮座 祢岐志社(ねぎししゃ) 聖神(ひじりのかみ) 根岸鎮座 稲荷社(いなりしゃ) 宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと) 中洲鎮座 三峰社(みつみねしゃ) 伊邪那岐命(いざなぎのみこと) 上合鎮座 伊邪那美命(いざなみのみこと)一、祭典日 月次祭 毎月 一日 午前八時半 例 祭 九月二十九日 午前十時一、御由緒 寒川神社末社宮山神社は、古くよりこの宮山各地区に鎮座しておりました。 七社の小祠を、現在の社地に御社殿を建て合祀いたしております。 明治四十一年十二月琴平社に八劍社、雷社、祢岐志社、若宮八幡社の四社が合祀され、 大正三年九月稲荷社が合祀されました。 大正十二年の関東大震災により、社殿が半倒壊するなどの被害を蒙りましたが、昭和 五年国費を以って復旧いたしました。 昭和四十四年九月、三峰社が合祀されております。一、御神徳 宮山神社に白豆腐をお供えして祈ると母乳に恵まれる、と云われています。 子供の安産の願い、母子の健やかな生育を願う祈願等の信仰が今に伝えられています。 また、御祭神の御神徳は厚く、家運隆昌、家内安全、無病息災、商売繁盛、五穀豊穣の神 として、宮山地区の人々はもとより、広く一般に崇敬されております。石橋を渡り社殿。社殿を左前から。球体の御影石に「和光」と刻まれた石碑。平和塔 和光今般、大東亜戦争終結二十年を迎え、宮山部落では、往時を回顱し、今後戦争は絶対に之をさけ、永遠の平和をになう意味に於いて、この平和塔「和光」を建立するに至りました。材料は総白みかげ、柱及び玉は磨とし台は八方除に因みて八角、柱は三本にて夫々戦歿者・遺族・国民の三者を象徴し上に支える玉は平和を表すものであります。 昭和四十年八月十五日 宮山区民一同この平和塔は、寒川神社 神鹿苑内に建立されていましたが、神鹿苑整備工事に伴い平成二十一年十一月 宮山神社境内のこの地に移設されました。寒川神社の「神池」から連なる水路に架かる石橋。宮山神社西側の県道を北上、JR相模線の宮山駅への道でもある。道路脇では駐車呼び込みのおばさんが頑張っていた。道路脇に老舗感がある「そば処 八福茶屋」所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山3830古民家風で、一階は椅子席が20席 座敷が8席と小さめな店舗で二階は10名~28名席のご宴会が出来るお部屋がありますと。そば処 八福茶屋自家製の二八蕎麦をはじめ季節の食材を使った料理や、日本全国から店主が選んだ美味しい日本酒が常時10銘柄以上、神奈川県の地酒10銘柄と、そば焼酎を手ごろな価格で取り揃えております(ネットから)。今回のシリーズ「寒川町の寺社史蹟巡り」で訪れたいものです。八福茶屋の先に目久尻川に架かる新旧の橋、右には「寒川大橋」の案内板。12:50左は旧道の「宮山橋」、右は新道の「寒川大橋」。新旧の橋の袂には「宮山橋」の碑、親柱であろうか?宮山橋の手前に、「地蔵堂」所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山3812-2地蔵堂の社が建ち、廻りには多くの石塔が建っていた。 縁 起地 蔵堂内にニ体の地蔵立像がある。地蔵は一般的に安産、育児、信仰の願いをきいて下さるという。この地蔵も「子育て地蔵」として広く崇敬されており、年ニ回の地蔵講には講中が集まり、町内の子供たちもお詣りをする。道祖神道祖神は、村内に疫病なとが入らないように祀ったもので、他に、交通の神、夫婦和合の神ともいわれる。ここにあるのは文政十一年(一ハニ九)に建てられたもので、一月十四日には団子焼きを行っている。庚申塔庚申の日に徹夜をする習俗を庚申講、庚申待などというが、この講中で建てる石塔が庚申塔である。この塔は嘉永元年(一ハ四ハ)に雷の人々が建てたものである。「右なんご 左あつ木・ハ王子」と刻まれ、道標も兼ねている。馬頭観世音人のために働いた牛馬の供養や、無病息災を願って造立するもの。これは天保十三年(一ハ四ニ)に建てられた。雷の歴史宮山は七つの町内で構成されており、雷はその一つである。南湖よりハ王子へ向かう道が町内を抜けている。寒川神社の社人のうち数軒がここにあり、その家系は天正年間以来、四百年余り続いているといわれ、他の家も同社を崇敬してきた。明治ニ十年頃までは祭礼の時に山車を曳いたといい、その頃の戸数はニ十一戸ほとであったという。大正年間には十三戸に減ったが、平成五年一月現在、六十戸を数えるようになった。 (昭和五十ニ年三月ニ十四日、寒川町老人文化教室雷グループ・皆川起司・金子潔之輔氏作成 の文章をもとに作成した。)地蔵堂の前には、右に「道祖神」左に「庚申塔」。地蔵堂内にニ体の地蔵立像があり赤い衣装をまとっていた。子育て地蔵として広く崇敬されており、年ニ回の地蔵講には講中が集まり、町内の子供たちもお詣りをするとのことで後世に伝承されているようだが。目久尻川に架かる宮山橋。目久尻川越しの西側には、JR相模線、圏央道の高架橋。寒川町のマンホール町の花水仙をデザインしている。下部に「さむかわ」「おすい」の文字。寒川神社前の道路脇に朱色の社があったが個人宅のものであった。政治家のポスターの手前に古い石碑。新しい台座の石碑には「馬洗戸橋」と。13:15龍寶山 興全寺 (こうぜんじ)所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山1785相模国一之宮、寒川神社代々の神官が祀られており、徳川家康公とも縁のある興全寺は寒川神社の東隣に創建された曹洞禅宗の寺院である。興全寺山門山門前には二本の寺号標石「龍寶山」と「興全禅寺」。山門を入ると右側に神輿殿が建っていたがお寺に神輿殿があるのは珍しい。表札には「湘南連合神輿保存會」と。興全寺は、天正年間(1573-1592)に創建、三田清源院第五世英顔麟哲(慶長2年1597年寂)が開山したといいます。当地には、かつて大観寺と称する寺院があったと伝えられる。看板には『水子供養・子授け安産御祈祷 相模地蔵菩薩』と。本堂前には香炉が置かれていた。一段高い所に建設された本堂本堂の扁額「興全禅寺」曹洞宗(禅宗)南無本師釈迦牟尼佛当山本尊 釈迦如来 大本山 福井県 永平寺 御開山 高祖道元禅師 横浜市 總持寺 御開山 太祖瑩山禅師(たいそけいざんぜんし)伝 統 お釈迦さまよりの正伝の佛法は達磨大師によって中国へ伝えられ曹洞の禅風として 開花し、鎌倉時代道元禅師のお伝えにより日本開宗となす。その教義は瑩山禅師に よって広く全土に実践教化され今日に至る。教 義 人は本来 佛性有り 己に佛心の具え有り。 正法の経典を讃仰読誦し深く黙照して坐し 脚下照顧して己の足下を見つめ自然(宇 宙)と一体なる自己を見極めて活達なる人生をいかしきるのが 禅の実践なり。経 典 修証義 般若心経 観音経 寿量品等を読誦する 本堂のご本尊に先ず合掌境内では寒川町の花、スイセンが綺麗に咲いていた。畜霊碑とペンドレーバグルボーイ二世号之墓碑の由来についてこの蓄霊碑は、寒川町内で飼育され人々の食生活のために貢献した家畜に対し感謝し、その霊を慰めるため昭和四十二年にこの場所に建立したものである。また、高座豚の元祖であるペンドレーバグルボーイ二世号の功績を讃えた碑が畜霊碑の隣に建てられているが、ペ号は昭和六年に全国に先駆けて当時の郡農会が品種改良のために英国から輸入したもので、寒川では昭和九年から管理され種付け頭数も六百余頭に及び全国にその名声を博せる高座豚の基礎を確立した。毎春、畜産会員及び関係者により供養のため畜霊祭をおこなっている。 維時平成二十四年六月 寒川町畜産会畜霊碑とペンドレーバグルボーイ二世号之墓境内には左側に「とんがらし地蔵」、右側に二基の「宝篋印塔」が並ぶ。とんがらし地蔵昔からいぼとり地蔵として有名で地蔵の前の線香の灰をイボにつけるとイボが取れるといわれており、合掌しながらじっと対面すると、心がなごみ、和らぎを感じられるそうです。イボが取れたお礼には、自分の年の数だけトウガラシを数珠にしてかけることになっていますと。二基の、宝篋印塔宝篋印塔* 右 貞治七年 北朝年号(一三六八)建立* 左 貞治六年 北朝年号(一三六七)建立 寒川町指定重要文化財第十一号 昭和六十年四月一日指定宝篋印塔は「宝筐印経記」によると応和元年(九六一)、中国より日本に伝えられたもので、「宝篋印陀羅尼経」を塔中に納め礼拝すれば生きている間は災害から免れ、死後は必ず極楽に生まれかわるという功徳が説かれていたが、鎌倉中期以降墓碑塔、供養塔に変化していった。この塔は地蔵信仰にかかわりのある宝篋印塔で、寒川町内最古のものである。 寒川町教育委員会境内に聳える「相模地蔵尊」子供たちが親や人生の先達を敬い、自分が人々の力によって生かされていることに感謝する心をもち、お互いを尊重し合い、心を養うことができるよう願いを込めて建立されたと。相模地蔵尊の足元には多くの地蔵尊。子安地蔵興全寺の本堂13:30信玄芝原公園 (しんげんしばらこうえん)所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山1766-1興全寺東側の県道46号線を挟んだ東側の田んぼの中にある公園。県道46号線 (相模原茅ヶ崎線) を振り返る。進入路がせまく駐車場がないので県道沿いに車を停め訪れた。公園は寒川神社の東に位置し、公園の周りの道は狭いです、駐車場は有りませんので要注意!(寒川町観光協会ブログ等より)。また、寒川駅周辺マップにも記載されていない隠れた史跡である。公園の西側入口の門廻りは整備されていた。公園入口には「信玄芝原公園」。公園に聳えるケヤキ。永禄十二年 (一五六九)、武田信玄が小田原攻めの途中、戦勝祈願のため寒川神社に立ち寄った際に、兵を休めたところと伝えられています。この時奉納されたと伝えられる、天文六年 (一五三七) 明珍房宗作の六十二間筋兜は寒川神社に保存され、平成十一年 (一九九九) 神奈川県指定重要文化財となりました。 寒川町教育委員会公園内にはこの説明板が一枚あった。公園の北方向、廻りは田んぼ。フジ棚の下にはベンチが置かれていたので訪れる人もいるのであろう。入り口方向。13:50小出川の河津桜会場信玄芝原公園からの帰路、小出川の河津桜の開花状況を見に立ち寄った。ところどころ咲いていたがまだ蕾は固い。2月中旬が見頃になるのか。14:15かつや 茅ヶ崎今宿店遅い昼食をとりに、いつものかつやへ立ち寄る。ロースカツ定食 (792円) を食べる。今回は100円の割引券があり税込みで約700円。今回も豚汁が美味しかった。 END
2023.02.20
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三之宮比々多神社を後にし近くの寺社史跡巡りへ。比々多の地域には三ノ宮・栗原を中心に多くの遺跡群が存在し、古代文化発祥の地といわれている。古くから歴史ある神社仏閣を中心に生活が営まれ、その伝統と文化が引き継がれている。 9月16日(月) 11:50比々多神社から西側へ走り「自然と緑ようこそ栗原へ 比々多観光振興会」。塞座大神所在地:神奈川県伊勢原市三ノ宮栗原ふれあいの里近くの栗原大橋の袂にある道祖神である。塞座大神道祖神で賽の神(さいのかみ)道境や辻を守る神。塞坐黄泉戸大神(さやりますよもつとのおおかみ)のこと。日本神話の神。『古事記』では、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉比良坂(よもつひらさか)に引き塞(ふさ)いだ千引石のことをいい、道反大神(ちかえしのおおかみ)ともいう。村境や辻を守る境の神として、道祖神と同一視される。石碑には「塞座大神」と。栗原川に架かる栗原大橋。”聖峰不動尊" の案内板長寿・安産・足腰の守護仏 祭典毎年五月三日栗原ふれあいの里栗原川の下流側。栗原川の上流側。普段は水量は少ないが一旦ゲリラ豪雨になると。氏神様所在地:神奈川県伊勢原市三ノ宮道路脇の一段高い広場に朱色の社殿が建っていた。道路脇に車を止め正面に回り込む。狭い通路を上り社殿前へ。説明板がなく詳細は不明であるが地域の氏神様であろう。周りは奇麗に整備されていたので地元の氏子さんが管理しているのであろう。伊勢原市の汚水マンホール蓋伊勢原市の北西にある「大山」を背景に、町の鳥「ヤマドリ」が飛び、前景に町の花「キキョウ」がデザインされている。書き込みで「ヤマドリ」はキジの仲間で、こんなに高く飛ぶことはないと。Googleマップでこの先に「法泉寺」があったので坂を上ることに。三段の滝沿道「コスモス園」の案内板。更に山側へ上ると懐かしい風景が広がっていた。田んぼでは既に稲刈りも終え天日干しに。今年は昨年の猛暑でコメの在庫が少なく店頭には品不足に。また値段も上昇している。主食のコメ対策はどうなっているのか、はて?。牧歌的なこのような光景をいつまでも残してほしいものである。日蓮宗法泉寺所在地:神奈川県伊勢原市三ノ宮2683番地新しい寺号標石には「日蓮宗長光山 法泉寺」と。駐車場脇に古い墓石がたっていた。法泉寺の裏山にはサクラが植えられていた。法泉寺は室町時代の1452年に行学院日朝上人によって建立されました。現在は35代目の住職が務めており、地域の人々と共に様々なイベントや活動を行っています。法泉寺では、和太鼓やヨガのクラス、金継ぎ教室などのイベントが定期的に開催されています。また、歴史ある建物や美しい自然環境も魅力の一つであると。境内に立つ「比々多 聖観音」。観世音菩薩の前には ”摩尼車” も置かれていた。【比々多 聖観音】「南無観世音菩薩」「私の名前を呼び唱える者を、様々な姿形を変えて守ります」との誓いを立てられた菩薩様です。 観音様の台座には、各方角 東(青)・西(白)・南(?)・北(黒)の石版がはめ込まれています。 自分を守護して頂く方角よりお参り頂く事をおすすめします。 ※ 詳しくは住職にお尋ね下さい。境内の隅に立つ「稲荷社」。赤い幟旗には「奉納 稲荷大明神」と。覆い屋で覆われた稲荷社。稲荷社の周りには多くのキツネが奉納されていた。山門前の駐車場から本堂。山門前にも駐車場があり掲示板があった。本堂の前には水鉢が多数ありメダカが泳いでいた。また蓮の花も。本堂の扁額「長光山」。本堂前の板碑には、「宗祖日蓮大聖人第七百遠忌記念之塔」。南側の傾斜地に墓地があった。板碑には、「故陸軍歩兵軍曹 勲七等 功六級 大木卯之助之墓」 下段には漢文で説明があったが。墓地の入口には古木のザクロ。根元には無縁仏であろうか。境内を見下ろす。墓地から境内を見下ろす。12:20境内の東側を見下ろす。小雨が降りだしレンズに水滴。鈴川や栗原川などの恩恵により、豊かな農耕が営まれ、丘陵地では果樹栽培も盛んである。 ー 続く ー
2024.10.01
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愛知県の旅シリーズをアップ中ですが、一日特報をアップします。12月20日(金) 17:00暮れの押し迫ったこの日に、一人忘年会でいつもの居酒屋へ出かけた。店先まで自転車で行けないので、途中のイオンモールへ自転車を駐輪。やきとり 炭火焼 よしこ所在地:神奈川県茅ヶ崎市元町4丁目JR茅ヶ崎駅から国道1号の茅ヶ崎駅前交差点への途中にある飲み屋街の一角にある。入口に貼り紙があり、年内の営業のお知らせと思ったが。「お知らせ 平素より よしこを ご利用頂きありがとうございます 誠に勝手ながら 当店は 12月27日(金)を持ちまして閉店することになりました 開店以来のご愛顧 誠にありがとうございました。 店主 よしこ」と。以外にも閉店のお知らせであったので二度読み。会社をリタイヤして以来、それまでの東京神田、上野での飲み会が地元茅ヶ崎に。ここは私にとって愛車のリンちゃんでの鎌倉、江の島、湘南海岸の散策後、止まり木的に立ち寄った店であるのだ。歴史を感じさせる黒ずんだ上の札には、一本100円のやきとりのメニューがあったのだが。また、銚子の漁師の娘であったという女将がリーズナブルな価格で刺身を提供していた。が、この日のメニューには刺身はなかった。この日は寒かったが、常温のお酒(大)、揚げ物が出る前に浅漬けをオーダー。おちょこはウズベキスタンへ行った時の我がおちょこである。焼き物の火元は備長炭。左上には火を起こすための半分黒く焼けた ”うちわ" があったが。女将は私と同年代か、コロナ前は年に一度は海外旅行をしていたとのことで、お互いの海外旅行の話が弾んだものだ。また、酒を飲んだ後は手土産で10本焼いてもらったものだ。壁には、「令和5年10月 吉日 店主」のお知らせ。「みなさまへ 本日は「焼き鳥 よし子」にお立ち寄りいただきありがとうございます。 昭和から50年に渡り、安くておいしい焼き鳥をみなさまにご用意して まいりましたが、諸事情があり しばらくの間串焼きのご提供を中止 とさせていただいております。 一品料理は、これまでと変わらず努力させていただいておりますので、 引き続きのご愛顧のほどよろしくお願いします。 令和5年10月吉日 店主」と。しかし、お客様からの「値上げをしても!」とのリクエストがあったが、これ以降名物の焼き鳥のメニューは残念ながら復活しなかった。 カウンター席で振り返ると先ほどのお知らせはカレンダーの裏紙であった。これも昭和生まれの店主の頑固さか。揚げ物の「芝えびの天ぷら」の後はこの焼き魚「カスザメ」を食べたが。始めてカスザメを食べたがエイに似た魚で美味しかった。この夜は常温のお酒(大)2本+つまみを飲み食べ帰宅。閉店の話を聞き来週は馴染みの方の予約が多く入っていると。隣のイタリア料理「ラ・サーラ・八木」も年末の予約でいっぱいと。残り少ない人生、他の止まり木を探す必要があるが。店主に「何故閉店」と聞くと「気力がなくなった」とのこと。来週早い時間に来ることを約束し後にした。 END
2024.12.22
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茅ヶ崎市内を流れる小出川の新鶴嶺橋から梅林沿いを上り浜園橋へ。1月22日(木) 15:00浜園橋周りの工事現場をズームアップ。河川敷には土嚢が積まれ、重機が数台下り作業が行われていた。以下2枚の写真は、令和6年(2024)4月7日の状況、新設の下流側に旧浜園橋が架かっていた。新しい橋が架け替えられていたが通行止め。同場所から下流側を見る。赤い橋は新鶴嶺橋。擁壁側は土盛りされているが歩けるようにされるのか。ズームアップ。工事現場を見下ろす。上流側には新しい浜園橋が完成、擁壁の工事中。河川敷には土嚢。道路沿いに工事の看板が並べられていた。小出川の護岸整備を行っています 令和8年7月31日まで 時間帯 8:00 ~ 17:00浜園橋橋りょう整備工事 (護岸工) 請負金額 ¥273,900,000 発注者 茅ヶ崎市建設部 道路建設課 受注者 亀井工業・湘南いざわ特定建設工事共同企業体災害に強い護岸をつくっています ~浜園橋橋りょう整備工事 (護岸工)施工前と施工後のイラストが描かれていた。左下には進捗率も。施工前進捗率はまだ20%手前のようだ。施工後護岸は、ブロックを張り、ブロック積みに。河床は掘削と。浜園橋上から下流側を望む。上は新湘南バイパスの下町屋高架橋。欄干に取り付けられた「浜園橋」。浜園橋は通行可能になっており、護岸工事が進められていた。旧浜園橋が架かっていた箇所の護岸工事。梅並木をズームアップ。更にズームアップ。浜園橋上から上流側の工事現場を見下ろす。河川敷の流路が変更されている。北側には大山。上流側の新湘南バイパスの高架橋。小出川の堤には広葉樹が植栽されている。浜園橋の上を走る新湘南バイパスの下町屋高架橋。河川敷から浚渫された土砂が搬出されていた。愛車のリンちゃんも充電回数が94回になり累計走行距離は約8,000キロに!。何故かタイヤのパンクは今だ無し。この工事看板の前で写真を撮影していると散歩中の女性から声をかけられ、自分たちは県に対して「小出川の護岸工事に ”多自然型工法” を訴え、採用された」と。ご婦人は山梨から神奈川へ出て来て、同級生の男性と結婚近くに住んでいると。また畑を購入しこれから収穫に行くと。30分程立ち話をし、かつての仕事の話まで・・・。浜園橋から上流へ進み振り返る。工事現場は鉄柵で囲まれ立入禁止になっていた。上流左下は「向田緑地」でソメイヨシノ桜まつりが開催される。この堤が ”多自然型工法” であろうか。小出川の源流まで採用されたと。向田緑地近くには「衆議院小選挙区選出議員選挙ポスター掲示場」が準備されていた。高市内閣がどう評価されるか2月8日が楽しみである。向田緑地から萩園橋を見る。小出川の河川敷には多くの野鳥が飛来していた。下流側の欄干の銘板には「萩園橋」と。15:20萩園橋から上流側を望む。上流側に「小出川河津桜まつり会場」があるので河津桜の開花状況を確認に行くことに。この時間でも我が影は足長爺さんに。 ー 続く ー
2026.01.27
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熱海梅園から歩いて坂を下り「來宮神社」へ。1月27日(火) 14:00來宮神社所在地:静岡県熱海市西山町43-1來宮神社の鳥居横に高い幟が二本。鳥居下には多くの老若男女の参拝者が訪れ記念写真。参拝者は熱海駅からバスで来る人、来宮駅から歩いてくる人と。正面に立っていた駐車場の案内板。鳥居の結び葉所在地:静岡県熱海市西山町43-1駐車場入口にあるカフェ・喫茶で、団子、ソフトクリームを販売、団子はみたらし団子、醤油団子、味噌団子の3種類がある。店先で若い女の子が団子を焼いていたがいかにも若者の店である。来宮神社の由来御祭神 大己貴命(商売繁盛・縁結び・温泉の神) 五十猛命(樹木の神) 日本武尊(決断の神)社伝によると、およそ三千有余年前大己貴命(大国主命)が国を治めるため、遠い西の国(現在の島根県)より諸神を率いて海を渡り伊豆の国のこの地に(現在の熱海の海岸)に上陸されて此の地方をお治めになり、ここは温泉に恵まれ気候風土よく、その上、諸物資の豊かな所なので、非常にお喜びになり、ここに居を定められ、当神社が其の跡と伝えられている。その後第十二代景行天皇の御代に御東征になられた日本武尊をおまつりし、第四十三代元明天皇の御代に(約千三百年前、和銅三年)五十猛命をお祀りしたと伝えられている。大楠の由来大昔の大楠を御神体として、よろずの人が信仰していたもので、いわゆるひもろぎ神社であった。樹齢は二千年以上と謂われております。古くからそのまわりを一周廻る毎に一年間生き延びると伝えられ、廻った人は医者いらずといい、一名不老の楠とも呼ばれている。此の大楠の由来は宮地直一・加藤玄智両博士の著書にも明かである。 昭和八年二月二十八日に文部省より国定の天然記念物に指定された。願事の由来一、縁結びの神 縁結びの神として古くから知られ今も遠近の人より良縁の幸福のご利益 があるので、信仰が厚い。一、商売繁盛・宅地造成・温泉守護の神 昔から商売繁盛・宅地造成・ 温泉守護の神とし て信仰が厚く、御家繁盛の為ここを詣でる人の絶え間がない。一、酒断ちの神 古くから酒断ちの神として近くは関東、遠くは関西に至る迄 大神の御神 徳が拡まり、酒の為家庭を破壊し病に悩む身を滅ぼさんとする人は、 期間を定めて酒 を絶ち、大神の御利益により数多くの人が救われている。その他諸々の 願事を大神に すがり、大願成就して日夜詣でる人は絶え間がない。平成十四年一月吉日 別表社 来宮神社 牧野鳳仙謹書境内マップ來宮神社のパンフレットから。佐佐木信綱 歌碑。「来の宮は 樹齢二千年の 樟のもとに 御国のさかえ いのりまつらく」和歌革新運動の先達となった佐佐木信綱(1872-1963)は、明治の頃から熱海に幾度か静養に来ていたが、1944(昭和19)年、来宮神社近くの自然豊か、閑静で趣のあるこの地に定住するようになった。参道の左側に建つ手水舎。手水舎の裏に朱色の鳥居が立ち並んでいた。石柱には「来宮総社 稲荷社」と。鳥居を潜り、摂末社 來宮稲荷社へ。稲荷社の前に、「來宮総社 稲荷社 御祭神 宇迦之御魂大神 例祭日 二月十五日 令和三年十二月 熱海市水口町山車社殿を改装移築及び周辺整備工事竣工」。当社に鎮座している稲荷神社は、京都伏見稲荷大社より勧請されたものであると。狛狐と社が立ち、現在は、「五穀豊穣」、「家内安全」、「商売繁盛」、「諸願成就」の神様であると。來宮稲荷社の左側から見下ろす。石碑が立っていたが文字は判読できなかった。末社七社鳥居の左側に、戦前に焼失した來宮神社末社七社が並んでいた。昭和7年(1932)不審火により來宮神社末社七社の社殿が焼失しましたが、令和4年2月1日に社殿再建工事が進められ、同年8月1日に無事社殿が復興致しました。末社の御祭神7柱の神様に再建に約90年という長い年月が罹ってしまったことをお詫び申し上げると共に、これからお参りされる方々が御神徳を頂けるよう今後大切に護持奉仕して参りますと。末社七社は、 ○ 小童社(しょうどうしゃ) ○ 秋葉社(あきはしゃ) ○ 神武天皇社(じんむてんのうしゃ) ○ 八坂神社(やさかじんじゃ) ○ 雷電社(らいでんしゃ) ○ 床浦社(とこうらしゃ) ○ 柿本社(かきもとしゃ)参道の右側に「☚ 第二大楠」。 樹齢1300年を超える「第二大楠」 約300年前の落雷にも負けず今なお息吹いています。 漲(みなぎ)る生命力をご覧ください。 御神木大楠 本殿の「左手奥」に鎮座しております。 五色の杜 紡來の緑自撮り用の台も設けられていた。第二大楠樹形は幹周945cm 、樹高11m 、樹齢1300年以上である。 幹周りは紙垂で飾られていた。 幹の一部は朽ちて開いていた。第二大楠の裏にあった石碑には「顕彰碑」とあったが、彫られた字は判読できなかった。説明板もなかった。忠魂碑碑の左側には実弾が置かれていた。奥に建つのは「三峯社」。黒光りの石碑に、「昭和天皇御製 天地の神にぞ祈る朝なぎの 海の如之に波立たぬ世を」と。参道の右側に鎮座する「三峯社」。三峯社は大正期来宮神社の境内に埼玉県三峰神社より末社として祀られた。三峯社の前に、「三峯社 御祭神 日本武尊・伊弉諾尊・伊弉册尊 例祭日 四月十五日 令和三年十二月 社殿を新装移築及び周辺整備工事竣工」。階段下に「御神水取り ☛ 」。來願成就・運勢開運お水取り 初穂料1回 1,000円階段を数段上ると正面に來宮神社の拝殿。拝殿前の右側に建つ神楽殿。神楽殿の扁額「神楽殿」。境内の玉垣に掲げられていたパネルの右側に、來宮神社 來願成就 御神楽祈祷開運招来 家内安全 心願成就 商売繁盛 良縁招来学業向上 星まつり 入試合格 無病息災 交通安全身体強健 厄除け 病気平癒 諸祈願等 初穂料 個人 伍阡円より 法人 壱萬円より 御祈祷次第 約20分間 左側の二枚には、「新春、春、夏、秋、大晦日」のイベント日が記されていた。拝殿前には多くの参拝者。来宮神社由緒沿革祭 神 大巳貴命(おおなもちのみこと) 五十猛命(いたけるのみこと) 日本武尊(やまとたけるのみこと)由緒沿革来宮神社は太古 大己貴命(別名大國主命)が海上遥か西方より諸神を率いて海を渡り伊豆の國の此の地に着かれるや気候温暖にして温泉湧出し 更に海山の幸にも恵まれているので此処に居を定められ当神社が其の跡地と伝えられている 当社及附近からは古代の土器が多数出土する人皇第十二代景行天皇の御代に御東征になられた日本武尊をおまつりし 第四十三代元明天皇の御世 和銅三年(約千二百有余年以前)に五十猛命をおまつりした 現代になってからは畏くも大正二年二月に 今上天皇には皇太子殿下の御時 御参拝に相成り幣帛料を御下賜下され 尚三笠宮 久迩宮 両殿下より金一封を賜り更に 三笠宮寛仁親王殿下には御榊を植樹 伊勢神宮祭主北白川房子様より 来宮神社神額を御染筆くだされ畏き極みである神 徳伊豆の國には古代から来宮信仰が拡まっていたが 当社はその中でも最も著名にして諸願成就の神として広く神徳を慕われている 即ち御祭神の御事蹟にあやかり 殖産興業 温泉守護 縁結び 禁酒 交通安全 等を祈念する人々にて踵を絶たない はるはると尋ねて此こに来の宮の神さみしくも幾代へぬらん 織田従四位侍従 来宮は樹齢二千年の樟のもとに御國の栄へ永久に守らん 佐佐木信綱大樟の由来此の大樟は来ノ宮大神の寄代(よりしろ)とされた御神木であって樹令二千年を数え之を一周すると一年寿命が延びると伝えられている大正八年に文部省から國の天然記念物に指定された 奉納 御鳳輦昭和亥子会 昭和五十二年七月吉日拝殿の扁額「来宮神社」。右側の狛犬「阿形像」。左側の「吽形像」。拝殿前から境内を見下ろし左に神楽殿。参拝者の半数近くはマスクを装着していた。列を成していたがスムーズに参拝できた。神楽殿をズームアップ。拝殿の右側に「摂社 來宮弁財天」があった。來宮辨財天 由緒 御祭神 市杵島姫神安永三年(1775)徳川家の武臣 大久保将監殿は立身出世を願い、奥州の金華山に祀られている弁天社をお参りした際、弁天社別当より神を拝する種々の修法を教えられました。将監殿が二十一日間 禊を続けると、不思議にも滝壺から「軍を破る七つの星」が示された宝珠の石が現れ、その石を七年の間、日夜信心怠ることなく祀り続けたところ、石に威徳があらわれ、官位豊前の守にまで出世されました。天明四年(1784)滝川殿という武臣は、その石を信心常に怠り無く祀り続け、老中の職まで出世されたと古記に残っております。寛政八年(1797)大久保豊前守は斬様な御神徳あらたかな石を俗家に安置しておいては恐れ多いと考え、秩父神社へお預けしたが、文政七年(1825)東秩父山八十一翁万国僧庵が熱海本陣 今井半太夫と接見した際、幕末の混乱、疫病飢餓を鎮める為、熱海の霊場來宮神社に、その石を御神体として祀るよう奨められ、現在の「來宮辨財天」が建立されました。以後、明治大正昭和と時代を経て遠近よりこの御神徳を聞き、参拝に来られる方々が増え芸道上達の願いから熱海の芸妓衆、今では多くの芸能奉仕者からも信仰を集め続けています。 願い事 芸能上達、立身出世、営業繁栄、身体強健などその他諸願の成就 奉 納 熱海芸妓衆 弁天橋、鳥居、白蛇石像、由緒等、諸々祭具等來宮弁財天への通路から境内を見下ろす。來宮辨財天若いお兄ちゃんが参拝していたがお賽銭が出ず待たされた。説明板に、「來宮辨財天 御祭神 市杵島姫神 例祭日 十一月二十三日 令和六年四月 社殿を新装移築及び周辺整備工事竣工」。新しくなった「來宮辨財天」。來宮辨財天を後方から見る。14:20拝殿の左から奥に入ると「御神木の大楠」へ。 ー 続く ー
2026.02.12
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令和6年度(2024)に訪れた浄智寺の紅葉である。妙本寺の後、この日のもう一つの目的地である北鎌倉の「浄智寺」へ参拝した。12月16日(月) 13:05浄智寺総門前。樹々の間から木漏れ陽。甘露の井(かんろせい)総門手前にある井戸は、鎌倉十井のひとつである。左の古い石柱に「甘露」と。この水を飲むと甘かったことから甘露水とも呼ばれている。海に近い鎌倉の水は、あまり美味しくなかったようで、この井戸の水は、五名水にも数えられて、鎌倉の近隣の暮らしを潤していたとされている。苔生した、歴史を感じさせる石段を上る。浄智寺(じょうちじ)鎌倉五山の第四位であり、豊かな緑におおわれた境内は、国の史跡に指定されています。総門の手前にある古い石橋のたもとには、鎌倉十井の一つである甘露ノ井があり、その先には、印象的な苔むした参道の階段と、上に鐘楼がある珍しい山門があります。仏殿には、室町時代に造られたという三世仏坐像(向かって左から阿弥陀・釈迦・弥勅)が安置されており、それぞれ過去・現在・未来を意味するといわれています。また、境内一角の洞窟には、鎌倉・江の島七福神の一つである布袋尊がまつられています。国指定重要文化財に指定されている地蔵菩薩像や「西来庵修造勧進状」などは、鎌倉国宝館に預けられています。 ● 宗 派:臨済宗円覚寺派 ● 山号寺号:金宝山浄智寺 ● 建 立:弘安四年 (1281) ● 開 山:兀庵普寧(ごったんふねい)、大休正念、南洲宏海 ● 開 基:北条宗政、北条師時 ● 史 跡 名 :国指定史跡浄智寺境内(昭和41年2月28日指定)写真は石段と山門総門の扁額、「寶所在近」。扁額の意味は、「がんばって修業を積めば、意外と早く悟りに到達することができる」と。参道方向の紅葉を見る。HELLO CYCLING所在地:神奈川県鎌倉市山ノ内 浄智寺共有自転車ステーションで、参道入口の広場にレンタサイクルが置かれている。電動アシスト自転車であるが防犯対策は?。鎌倉は坂道が多いので助かるのでは。陽の当たっていない参道を進む。背の高いスギの木が聳える。静寂な参道を上る。昼過ぎのこの時間帯は南方向に進むので逆光になる。黄葉した樹々の先に山門が見えてきた。参拝者も少なく結婚前の前撮り写真に良いスポットではと思うが。紅葉しておれば最高だったのだが残念ながら黄葉が多かった。右側に拝観受付、正面に山門が建つ撮影スポットである。拝観受付で頂いた無料のガイドMAP〔Vol.16〕No.61、2024年10月31日発行。受付で聞くと「この写真は前年の2023年12月末に撮影したもの」だと。この光景を求めて来年も来ることに。鐘楼門 (山門)この日は浄智寺の参拝はスルーした。浄智寺脇の葛原岡ハイキングコース。斜面には黄葉したイチョウの葉が積もりその中に紅葉したモミジの若木。本堂 曇華殿(どんげでん)曇華殿と呼ばれる仏殿で、御本尊は室町時代に作られた木像三世仏坐像で県指定の重要文化財に指定されている。本堂前にはイチョウの葉が積もり、ベンチが置かれ参拝者が休んでおられた。モミジの紅葉が映えていた。葛原岡ハイキングコースから本堂を見る。本堂前を落葉したイチョウの葉が彩っている。葛原岡ハイキングコースを奥に進み紅葉した木を追った。逆光に映える樹々である。北鎌倉たからの庭所在地:神奈川県鎌倉市山ノ内1418北鎌倉の浄智寺の境内奥にある古民家をリノベーションして作られたシェアアトリエ・ハウスである。敷地内には「茶室 宝庵」があるが立入は予約者のみになっている。北鎌倉たからの庭入口入口の立札に「Today 敷地内立入禁止 ご予約の方のみ、お入りください」と。たからの庭への案内図。「苔養生中 車輪のついた乗り物、カバンなどは引きずらずにお運び下さい」と。立入禁止になっていたが紅葉が奇麗であったので少し入らせていただいた。竹柵がありここで引き返すことに。引き返し入口を内側から見る。無断で入り失礼しました。北鎌倉の谷戸にあり静かな空間であった。竹林と紅葉のコラボ。逆光を浴び紅葉の葉が映えていた。浄智寺の本堂 曇華殿(どんげでん)前へ戻る。ハイキングコースを挟んだ本堂の向かい側の斜面にイチョウの落葉とモミジのコラボ。浄智寺の拝観受付所帰路も拝観受付所前から参道を下り振り返る。石段は歴史を感じさせるように磨り減っている。参道に立つ参詣者。浄智寺の紅葉スポットはここか。石段を下り振り返る。13:35来年度も訪れたいスポットである。この後、帰路にある紅葉が期待できる藤沢市の「天嶽院」へ立ち寄ることに。 ー 続く ー
2026.01.31
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熱海梅林を後にし、坂を下り次の目的地「來宮神社」へ。1月27日(火) 13:35 熱海梅園正面ゲート中国政府が「日本への渡航を自粛する様に」との呼びかけから中国人観光客は激減しているようだが、他国からの旅行者が多く見受けられた熱海梅園であった。熱海梅園前からあたみ桜が咲く初川沿いの道路を下り來宮神社へと向かった。昼時も過ぎ昼食を考えたが、近くにあった蕎麦屋は生憎の定休日であった。満開のあたみ桜を見上げる。バックにはお月さんがうすく見えていた。坂を下ると道路の右側に「丹那トンネル殉職碑」の案内板。その右側には「丹那神社」の案内板も。ここへはかつて訪れており「熱海市と神奈川県西部を巡る」👈 をクリック願います。この先はまた上り坂になっていた。前回はこの下へ車を駐車した。石柱に「梅園の湯」。前回は笹が生い茂っていたが整備されていた。熱海水力発電所跡かつてここには熱海水力発電所があり、熱海の旅館街に給電していたそうでその記念碑、説明板が立っている。熱海水力発電所由来記 明治二十八年十月二十日送電 日本で八番目の発電所 名 称 熱海電燈株式会社 持 主 国府津村 杉山仲次郎 場 所 熱海町字谷戸六八五番地 出 力 三十馬力 (二十二kW) 電 圧 一千Vを百Vに変圧 電灯数 三百灯 (但し 十六燭光) 熱海の旅館、民家に送電した 平成六年四月吉日 熱海電気協議会 会長 内藤 弘道を挟んで右側に「丹那トンネル殉職碑」、左奥には「丹那神社」。丹那トンネル殉職者慰霊碑所在地:静岡県熱海市梅園町25-34殉職者慰霊碑は東海道本線の丹那トンネル入口の上に設置されている。丹那トンネルの殉職碑この碑は丹那トンネル開通にさいして鉄道省によって建てられました。この工事の際、67名の尊い犠牲者がでました。碑には尊い犠牲者の姓名が刻まれています。 この工事は足かけ16年の歳月を要した世界的な難工事でした。完成まで大事故は6回を数え、死者67名、重傷者610名という多大な犠牲をはらって昭和9年に開通いたしました。殉職者慰霊碑横から東海道本線を見下ろす。丹那神社を見上げる。裏山に來宮神社への道路がある。左側:土木學會選奨土木遺産右側:旧熱海線鉄道施設群 丹那トンネル (熱海ロ) 延長 7,804m 昭和9年12月竣工当初の東海道線を輸送強化するため、御殿場廻りから熱海廻りの旧熱海線が計画され、その最難関工事である丹那トンネルの工事が大正7年から始まった。破砕帯の出水事故などで多くの犠牲を払い、困難を克服して、ようやく昭和9年に完成した。その過程では丹那方式と呼ばれる水抜き坑、圧搾空気掘削法など日本の工事で初めて実用化された工法が数多<ある。このため、世界に誇る日本のトンネル技術の発展を物語る貴重な土木遺産であることから、令和元年度の土木学会選奨土木遺産に認定された。広場脇にあった「丹那遂道工事風景写真」の掲示板。丹那トンネル殉職碑から引き返し、東海道本線を見下ろす。この駐車場は月決めであったか。移動して高台から見ると左側に東海道新幹線のトンネル。道路脇に掲示されていた案内板。左側に、「伊豆國霊社 来宮神社」、← ここから500m バス駐車場3台、乗用車20台中央に、▲ 大楠 樹齢2千年以上・胴回約24米 日本三大楠 国指定天然記念物右側に、「丹那神社 丹那トンネルの英霊を祀る」丹那神社入口バス停ここは丹那トンネル殉職碑入口辺りから坂を登り、県道20号線(熱海箱根峠線)との合流点。左折すると伊豆スカイラインの熱海峠へ、ここから下ると來宮神社・来宮駅へと至る。三差路辺りから熱海の温泉街を見下ろす。左側にはJR伊東線来宮駅、遠く沖には初島が浮かぶ。ビルの合間に聳える2本のヤシの木は来宮駅前であったか。梅園の結び葉所在地:静岡県熱海市福道町8展望台があり、駐車場もあったが・・・。駐車場の壁にあった「熱海 來宮神社」の説明板。結び・結び恋人の縁 家族の縁 友人の縁 商いの縁自然に宿る神々に詣でる正面に「来宮神社」の看板があり神社で設けたのであろうか。左横に立札があり、「來宮神社 梅園の結び葉 熱海市街・初島が一望できる景色をお愉しみください」と。階段を上ると、「梅園の結び葉 展望デッキ 10:00 ~ 16:30 <最大定員 20名様迄> 安全を考慮し 身長130cm以下のお子様のご利用はご遠慮いただいております」「17時 ~ 翌朝9時まで展望デッキのご利用はできません」と。「タイムズのB 予約者専用となります」とあったが?、駐車場の利用か?。ウッドデッキへ上がると眼下を東海道新幹線が走っている。この辺りは、東海道新幹線、東海道本線、伊東線が走る交通の要衝地である。疾走する東海道新幹線。通過する下り電車の後方部を見る。東海道新幹線の新丹那トンネル入口。トンネル入口に「新丹那」と。先ほど訪れた丹那トンネル殉職碑辺りをズームアップ。左側には熱海梅園の駐車場がある。ウッドデッキから初島をズームアップ。初島は処女地であるのでいつか訪れたいと。左側は県道20号線(熱海箱根峠線)の來宮神社方面への下り坂。鉄撮りにとってはビュースポットではなかろうか。いつのまにか団体客が。熱海梅園へ行く方々であったか、右奥は熱海梅園への道。丹那神社入口バス停をズームアップ。県道20号線(熱海箱根峠線)はここを大きく右方向へ登っていく。展望台は県道20号線(熱海箱根峠線)沿いにある。車も駐車していたようだ。梅園の結び葉から県道を下り振り返る。疲れた体には下り坂で助かった、来宮駅から時計回りに廻ったのが正解であった。道路標識には「県道 20 静岡 熱海箱根峠線 熱海市梅園町」と。衆議院 小選挙区選出議員選挙(静岡県第6区)ポスター掲示場掲示板には2名の候補者が貼られていたが、8日の選挙結果は自民党が2/3の議席を獲得し、歴史的な勝利に。今後、衆議院任期の4年間にどれだけの成果を上げることができるか。中道も大幅に議席数を減らしどうなるのか興味津々だが。右上は東海道新幹線の高架橋。高架橋下に「来の宮神社前バス停」があったが多くの人がバスから下車していた。新幹線の高架橋の下には東海道本線が走っている。右側の橋桁には「来宮Bv 九六K四七七M」と。東海道本線のガードを潜ると「 ⇦ 熱海駅、来宮駅 ⇨ 」。14:00 県道20号線(熱海箱根峠線)を下って来て幟が立つ來宮神社へ。 ー 続く ー
2026.02.11
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宝城坊日向薬師から降り、車で上流の日向渓谷へ向かう。9月28日(月) 11:15日陰道「かながわの古道50選」のひとつで、北向きの土地で日陰になるところから、この名が付けられたといいます。全長約1.5kmほどののどかな道で、初夏には紫陽花、秋には彼岸花と季節の花々を楽しむことができます。こうした日陰道の整備は、20年以上前から地域の人々の手で行われています。鎌倉幕府の事績を記した『吾妻鏡』には、源頼朝が1回、北条政子が2回、日向薬師に参詣したことが記されています。また、頼朝は自身が歯痛に苦しんだ時、代理を参詣させています。そのなかで日陰道は、頼朝が参詣した際に家臣たちが通った道とも、北条政子が通った道ともされていますこれからの紅葉時期も楽しめる日向川細道の坂道を登っていくと突然三重の塔が現れた。誰もがビックリするとの書き込み、日向薬師バス停から歩いて約10分11:16おおやまめぐりルート「ここは浄発願寺」上流側に「石雲寺 0.6km」、下流側に「日向薬師 1.6km」石柱には「一の沢 浄発願寺」浄発願寺の文化財無常山浄発願寺は、上野寛永寺の凌雲院の末寺となる天台宗弾誓派の寺です。創建は慶長13年(1608)、ひたすらに修行に勤しみ、口にするのは木の実や草だけという木喰の僧、弾誓上人によります。江戸に幕府を開いた徳川家康が上人に深く帰依したことから、寺は代々幕府の手厚い庇護を受け、山岳修行者や各地を行脚する修行僧の行場として栄えました。また、殺人や放火を犯した者以外であればどんな犯罪人も許される駆け込み寺としても有名となりました。明治維新におこった廃仏毀釈運動では激しい弾圧を受け、徳川本家をはじめ、尾張徳川家、藤堂氏、佐竹氏などの大名や、公家の広幡家など、後ろ盾となる信徒をも失い、寺領も減少して衰退の一途をたどりました。しかし、民間の信仰は根強く、陰暦10月に行われる御十夜法要は相模の三大十夜と称され、昭和初年まで盛大に続きました。また、寺が日向川の水源地に鎮座していることから、伊勢原をはじめ平塚や大磯など下流域に住む人々からは雨乞い信仰の寺としても崇められました。昭和13年(1938)の秋、浄発願寺は台風による山津波に見舞われて崩壊状態となり、現在の場所に移転しました。かつての寺跡はここより約1km上流の一ノ沢に「奥ノ院」として残り、そそり立つ崖と生い茂る草々に囲まれて、静かに往時の面影を偲ばせています。伊勢原市指定重要文化財『浄発願寺縁起絵巻 3巻』浄発願寺開山の弾誓上人の誕生から遷化までを絵と仮名まじりの文で描いています。作者は未詳ですが、小田原狩野派画家の筆といわれます。尾張徳川家あたりからの寄進でしょうか。市内に残る絵巻類の中でも特にすぐれた江戸時代の作です。伊勢原市指定重要文化財『六字名号雨乞軸』幅2m、長さ13m。麻布に、浄発願寺中興の祖である四世空誉上人の筆で「南無阿弥陀仏」の六字名号が認められています。言い伝えでは、空誉上人が自らの衣の袖で書いたといわれます。江戸時代中頃の作と考えられます。日向川流域の高森村・石田村・小稲葉村など13ヶ村の名も書かれており、当時の人々の水に対する信仰をうかがわせる資料です石碑には元伊勢原警察署長田中勝五郎氏ガ其ノ職ヲ勇退サレ第二ノ故郷伊勢原町ニ居住サレ世界プロレス界ノ王者故力道山ノ供養ニト此ノ橋桁ヲ寄贈サレタモノデアル 昭和40年7月吉日建立この橋を寄贈されたのか。桜の時期は桜並木も良いと浄発願寺 本堂所在地:神奈川県伊勢原市日向1816人気ドラマ「半沢直樹」の最終回、北大路欣也さんがお墓参りするシーンのロケ地であった本堂の扁額「無常山」「浄発願寺」三重塔と右手前に「地蔵菩薩坐像」手前に桜並木がありその時期も最高では地蔵菩薩坐像三重塔三重塔の木組み匠の技浄発願寺に招いたお釈迦様は、仏教国ビルマ(現ミャンマー連邦共和国)アヴァ王朝時代(1364~1555年)の、1376年に造立された石仏です。長い歳月色々な時代を過されて、令和元年(2019)9月8日、三重塔内にお座りになられました。どうぞお参り下さい。 合掌日向川の流れ11:31桜並木もあり三重塔と桜とのコラボ、紅葉時期も再度訪れたいものです11:34浄発願寺から日向渓谷への途中にある「大友皇子の墓」史跡 (伝)大友皇子の陵墓 二代目・不老松墓まで歩いて3分と史跡 (伝)大友皇子の陵墓 二代目・不老松日本の第39代天皇で、弘文天皇歩いて登ることにするが11:39途中から草むらになり、山ビルにご注意の看板もあり取りやめる山ビルにご注意を!!草むらや落葉の裏に野生の鹿が運んできた山ビルがいます。吸盤で人の肌について吸血します。特に雨降りの日や地面が湿っているときは活発に活動します。草むらや湿った落葉のそばには近寄らないで下さい。対処法は:山ビルが嫌う、木酢液、食塩水、虫除けスプレーなどを、足元の衣服に 予め塗布しておいてください。専用忌避剤としてヤマビルファイター( イカリ消毒)もあります。吸血されたときは:直ぐに引き離して下さい(ダニのように肌に口が残る心配は有り ません)。かゆくなり血を固まらせないヒルジンを注入されています。 なるべく早く血液と一緒にしぼり出して、バンソウコウなどで止血して ください。危険なウイルスなどは持たないといわれています、後は傷口 を清潔に保てば大丈夫です(伝) 大友皇子之陵石造五重塔でこの墓はレプリカ。実物は近くの石雲寺へ移設されている11:45道路標識← 浄発願寺奥ノ院(約650m)、〈伝〉大友皇子の墓(約550m)・浄発願寺(約530m) →石雲寺718年、諸国行脚の華厳妙瑞法師が紫雲に導かれるままこの地に分け入り、大友皇子の冥福を祈り建立したとされる寺院。1489年、天渓宗恩が曹洞宗の寺として再興し、現在に至る曹洞宗 石雲寺 駐車場所在地:神奈川県伊勢原市日向1767石雲寺縁起寺伝によれば、八世紀初めの養老2年、諸国を行脚していた華厳妙瑞という法師が日向へやって来た。法師が山中の石上に座し瞑想すると、渓谷に紫雲を認め、不思議に思った法師が、河原に降りると周囲三丈(十メートル程)の石の上方に紫雲がたなびいていて、法師は一心に仏・菩薩の名号を唱えたところ、仏・菩薩の御姿が現れたという。里人に尋ねたところ、その昔、壬申の乱で敗れた大友皇子が近江国から逃れ住まわれ、この地で亡くなられ、従者も殉死したという。哀れに思った法師は精舎を建て、皇子の菩薩を弔うこととした。これが石雲寺の草創である。皇子の墓所は当初、遺言により松を植えただけであったが、鎌倉時代になって従者の子孫が石で五重の塔を建てたという。永禄年間、天渓宗恩和尚が曹洞宗として中興開山され、天文12年に北條幻庵から朱印状を拝領した頃、寺院としての基盤が確立したようだ。当初の寺院名は「雨降院」で、後に開創の縁起に因んで「石雲寺」と改められている日本遺産のまち伊勢原 日本遺産の構成文化財 ~ 石雲寺と日向地区の文化財 ~《信仰の地「大山」の生い立ち》大山への信仰は古く、奈良時代には、霊山寺(現・宝城坊。通称・日向薬師)、石雲寺、大山寺が開かれ、平安時代にまとめられた「延喜式神名帳」に記される阿夫利神社や比々多神社、高部屋神社の成立などにより、信仰の地としての姿が整えられていった。※日本遺産は、我が国の文化・伝統を語る ”ストーリー” を文化庁が認定するものです日向地区の文化財位置図①石造五層塔、石雲寺、②〈伝〉大友皇子の墓、③宝城坊、④日陰道、⑤浄発願寺、⑥浄発願寺・奥ノ院、⑦勝五郎地蔵石雲寺山門下紅葉時期も期待できるわたしたちの宗旨は宗 名:曹洞宗(禅宗)です伝 統:曹洞宗はお釈迦さまより歴代の祖師がたによって相続されてきた正伝の仏法です日本開宗:曹洞宗は今から八百年ほど前、鎌倉時代に高祖道元禅師さまが我が国に伝えて、 ゆるぎなき基礎をきずかれ、四代目の太祖瑩山禅師さまが一層盛んになさいまし た。このお二方を両祖大師と申し上げます大 本 山 :福井県の永平寺(高祖道元禅師さま御開山) 横浜市の総持寺(太祖瑩山禅師さま御開山)本 尊:曹洞宗はお釈迦さまをご本尊として仰ぎます本尊唱名:南無釈迦牟尼仏教 義:わたしたちはみな仏の子であり、生まれながらに仏心を具えています。しかし、 それに気づかずに我がまま勝手の生活をして苦しみ悩みのもとをつくっています。 ひとたび仏さまに懴悔し帰依するならば、心が落ち着いておのずから生活が調え られて明るくなり社会のお役に立つことを喜び、又、どんな苦難にも耐えて生き 抜こうとする信念が生まれます。そこに生きがいと幸福とを発見するのが曹洞宗 の教えでありますお 経:修証義 般若心経 観音経 寿量品等の諸経典を読誦します伊勢原市指定文化財 有形文化財 「日向渕ノ上石造五層塔」石雲寺境内に石造りの五層塔があります。かつては、石雲寺から東へ400mほど下り、御所の入橋を渡った日向川の右岸にありました。この石塔は壬申の乱(672年)で敗れた大友皇子の墓との伝承があり、通称「大友皇子の墓」と呼ばれていますが、石塔そのものは鎌倉時代末から南北朝時代の初め(14世紀前半)に造られたものと考えられます。・・・・・略・・・・・参道の階段廻りには彼岸花新しく新築された山門山門新築寄進平成30年10月吉日施主 新田堀江家 二十八世 義仙代山門から本堂を見上げる階段を登り本堂へ本堂前から山門を見下ろす石雲寺 本堂本堂の扁額「雨降山」本堂にぶら下がる「梆(ほう)」梆(ほう)ついて「魚鼓(ぎょく)」とも言われ、木魚の原形と言われます。修行道場では、坐禅や寝食の根本道場である「僧堂(そうどう)」の堂内に吊され、食事の時間になると打ち鳴らされ、修行道場全域にいる修行僧は、この音を聞いて僧堂に参集します11:57伊勢原市指定文化財 有形文化財 「日向渕ノ上石造五層塔」この石塔は壬申の乱(672年)で破れた大友皇子の墓との伝承があり、かつては、石雲寺から東へ400mほど下り、御所の入橋を渡った日向川の右岸にありました。文化財指定を受けた後、貴重な層塔の毀損を防ぎ適正に管理するために、令和2年に当地に移設し、旧所在地にはレプリカを設置しました ― 続く ―
2020.10.12
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茂辺地川のシャケの遡上を見た後、松前・木古内へ向けて走る。10月19日(月) 7:33国道228号(日本海追分ソーランライン)を進むこの先を右折すると道道29号線、茂辺地市街、函館江差道の北斗茂辺地ICへ7:40国道を進みトラピスト修道院の案内板を発見、右折して直ぐに道南いさりび鉄道の踏切を渡る。修道院への坂道、直線の杉並木トラピスト修道院は、明治29年(1896)に創設された日本最初のカトリック男子修道院。最寄りの渡島当別駅までは函館駅から列車で約40分 7:44トラピスト修道院駐車場所在地:北海道北斗市三ツ石392北海道まちづくり100選『トラピスト男子修道院付近(上磯町)』 平成元年1月27日 北 海 道 北 海 道 新 聞 社 NHK札幌放送局 人間道路会議賞 町道 トラピスト通線 平成8年2月29日緑の牧草畑が広がるなかを一直線にのびる道。ポプラ並木が風に吹かれて葉の裏を返すとき、その奥に静かなたたずまいをみせる赤レンガの尖塔 —美しい自然との調和。その見事な景観は、見る人の心を感動へといざなう。いま、「北海道まちづくり100選」「人間道路会議賞」に輝く —駐車場から坂を上り修道院へトラピスト修道院の正式名称は、厳律シート会燈台の聖母トラピスト修道院。明治29年(1896)、フランス、オランダ、イタリア、カナダから総勢9人の修道士たちがこの地を訪れ、日本最初の男子トラピスト修道院を創設。翌年、フランスからジェラール・プーリエ(のちに帰化し、岡田普理衛と名乗る)が創立修道院長として迎えられました。修道院では創建当初から開墾・農耕・牧畜が盛んに行われ、現在に至ります。ここで作られるトラピストバターやクッキー、バター飴、ジャムは、北海道を代表する観光みやげ品として人気です。修道院に続く道や周辺の散策路は四季それぞれに美しい風景を見せて、歩く人を楽しませてくれます。春には鮮やかなピンク色の桜が満開に。秋には奥にそびえる丸山の美しい紅葉が見られるほか、敷地裏側の壁面や裏手の山麓で聖母マリア像を祀るルルドに伸びるツタが赤く染まります。3月15日から11月第2日曜日までのあいだ、修道院の駐車場にある直売店でソフトクリームが販売されていて、とびきりの味を求めて多くの人が訪れます。トラピスト修道院の正門時間が早く締まったままの鉄扉 灯台の聖母 トラピスト修道院現在の建物は最初の修道院が明治36年(1903)に焼失したため、明治41年(1908)に建てられたものである。この時に使われたレンガは野幌で作られて運ばれていたが、輸送が間に合わなくなった。そのため現地生産となり、現在の石別中学校が建っているところから良質の粘土がとれたため、煉瓦を作ったと伝えられている正門の左側の部屋には過去の写真が展示されていたトラピスト修道院の沿革明治29年(1896)にフランスから数名の修道士が来日して、津軽海峡を眼下に臨む当地にトラピスト修道院を設立しましたが、トラピストの歴史は古く、その起源は11世紀にまでさかのぼります。聖ロベルト(1018~1111年)は、現在のフランス・シトーの地に新修道院を創設し(1098年)、ここからシトー修道会が生まれました。そして、1664年シトー修道会に属するトラップ修道院(フランス)で、より厳格な生活を望む改革運動が起こり、この流れを汲むものをトラピストと呼ぶようになりました。トラピスト修道院はカトリック教会に属し、日本国内には七つの修道院(その内五つは女子でトラピスチヌとして知られています)を持ち、国外には137の修道院(その内、50は女子)があります。聖書の教えと、聖ベネディクト(480~547)の修道戒律に従い、「祈り・労働・聖なる読書」を中心とした観想生活を送っています整備された修道院内正門から見下ろす紅葉も始まる津軽海峡への杉並木三木露風の詩碑「赤とんぼ」の詩人三木露風の詩碑左側には「三木露風の略歴」が刻み込まれていたが判読できず。以下二枚の写真は、我が地元の茅ヶ崎中央公園にある「赤トンボの楽譜」の石碑。三木露風の詩に、作曲家山田耕作が茅ヶ崎に移り住んでいた1927年(昭和2年)に作曲した石碑には「赤トンボの楽譜」があり、三木露風の名前が刻まれている(黄色内)三木露風明治22年(1889)6月23日、兵庫県龍野市龍野町上霞城101番地に生まれる。幼名 操。後早稲田大学、慶応大学に学ぶ。詩集「廃園」(明治42年9月刊行)によって日本詩壇で注目され、「白き手の猟人」(大正2年9月刊行)で象徴詩界の頂点に立ちました。大正9年5月から同13年6月までトラピスト修道院の文学講師として4年間居住し、その間大正11年キリストの復活祭に夫人と受洗しました。昭和39年12月21日、東京三鷹市で交通事故に遭い、同29日死去、カトリック吉祥寺教会で葬儀。享年75歳、法名穐雲院赤蛉露風士。昭和40年1月16日、勲四等瑞宝章を追贈。* 童謡「赤とんぼ」は修道院の文学講師時に作詞されました。 平成23年3月厳律シトー会 灯台の聖母大修道院明治29年(1896)、「祈祷と労働とをもって直接、神に奉仕し、自己の成聖と社会の幸福」を目的とし、日本で最初の男子修道院である この修道院が建てられた。最初の建物は白ペンキ塗り細長い木造建築であった。修道院からは日に何度も鐘の音が流れてくることから、村民たちは修道院のことを「ガンガン寺」と呼んでいた。当初の修道士はフランス人5名、オランダ人2名、イタリア人とカナダ人1名の9名であった。創立当時は荒地であったこの地を開拓し、農耕・牧畜・酪農に力を入れた。明治35年(1902)にオランダからホルスタインの種牛を輸入し、増殖した乳牛はのちに南北海道一帯に広がっていった。南北海道の酪農の原点ともいえる岡田普理衛(D.ジュラール・プゥイエ)初代修院長。安政6年(1859)にフランスのノルマンディー県にて出生し、哲学・物理・科学を学んだ後、大神学校で神学を修めた。その後、自ら志願して明治30年(1897)に日本に渡来した。明治33年(1900)日本人信者であった大工の岡田初太郎の養子となり、岡田普理衛に改名する。性格は喜怒哀楽を表に出さないが豪快であり、質実剛健で行動力が盛んで、トラピスト修道院での労働も頑丈な体で二人分の仕事をこなしたと言われている。地元の人々は「見慣れない外国人が重罪人ではないか」と最初は噂し修道院の作物を荒らしたりしたが、岡田普理衛は病人の介護方法を教えたり相談に乗ったりと徐々に地元の人々からの信頼を得て、親しまれるようになった。大正14年(1925)には福岡県にトラピスト分院を設立するため、現地に出向し、昭和20年(1945)この修道院に帰ってきた。そして昭和22年(1947)7月1日に87歳で死去した。カトリック当別リタ教会フランスで中世に制作された十二使徒の貴重なステンドグラスがあります。修道院敷地内売店横の当別教会では、毎日曜日午前 8:45 からミサが行われています。 どなたでも参加できます。司式は修道院の神父によって行われ、修道院内で修道士が 行っているミサと同じ雰囲気です。トラピストの伝統に則った祭儀を味わうことが出来ます。 カトリックの洗礼を希望される方は、ミサ終了後、神父にご相談くださいと7:56 駐車場横に売店があったが時間が早く開店前のため、ソフトクリームは食べれず。約20分の滞在でトラピスト修道院を後にした。8:16道を間違え早めに右折、前方は木古内駅で左は、道南いさりび鉄道、右は北海道新幹線8:23JR木古内駅 南口所在地:北海道上磯郡木古内町木古内北海道新幹線で青函トンネルを抜けて直ぐの場所にある新幹線が停車する木古内駅。道南いさりび鉄道の終着駅で、かつてはここから江差線が出ていた。駅前からは、江差、松前行きのバスが発着しており、江差町や松前町の観光の拠点である。また、駅前には、レンタカーの、タイムズカーレンタル、駅レンタカー北海道の2社がある。駅舎内には江差線等の鉄道関係の品物が展示されていたようだが道南いさりび鉄道道の駅 みそぎの郷 きこない所在地:北海道上磯郡木古内町本町338-14木古内駅前に位置する「道の駅『みそぎの郷 きこない』」。古くから函館・松前・江差を行き交う人々にとって交通の要衝だった木古内町が、道の駅と北海道新幹線の開業により、現代の交通拠点としての役割を新たにします。 当館の役割は、木古内町を拠点とする道南の西部9町(渡島西部4町・檜山南部5町)広域の魅力を発信することです。そのための代表的な機能として3点をご用意しました。 ① 道南西部9町ならではの特産品を集めたショッピングエリア。 ② 世界的に活躍する料理人の奥田政行シェフが監修するイタリアンレストラン「どうなんde’s Ocuda Spirits」。 ③ 道南西部9町のディープな情報に詳しい「観光コンシェルジュ」常駐。建物は、地域の特産材である「道南杉」を内外装に多用しています。無垢の杉材が放つ芳香や手触りを感じ取ることができるなど、落ち着いた空間となっています。北海道じゃらん 2020年4月号掲載道の駅満足度 ランキング2020 総合1位 3年連続‼自転車は、レンタサイクル「きこりん」道の駅の営業は、休 館 日 :年末年始(12/31~1/1) レストラン 不定休開館時間:9:00 ~ 18:00これ以降、このような案内をよく見かけた。みなみ北海道 最後の武士達の物語馬上から指揮する大鳥圭介 此処が木古内口の戦場地跡陸軍奉行 大鳥圭介(おおとりけいすけ) 1832~1911天保3年(1832)、現在の兵庫県に生まれる。慶応3年(1867)、幕府の歩兵奉行となり伝習隊を結成する。翌年4月、旧幕府軍が市川(千葉県)に集結すると総督となり各地を転戦する。木古内口の戦いでは、薬師山の頂で白馬に跨り全軍を指揮したと伝えられている郵便ポスト(キーコのポスト)キーコは木古内のマスコットである。道の駅が開店前のため早々に次の場所へ移動することに8:35木古内駅から道道5号線(江差木古内線)を北上、木古内町郷土資料館の左奥にある、道南トロッコ鉄道 鶴岡公園駅所在地:北海道上磯郡木古内町鶴岡73木古内駅から北上し、旧江差線渡島鶴岡駅跡にある。建物は旧江差線が営業していた当時のまま木古内町郷土資料館 周辺マップ ・木古内町郷土資料館「いかりん館」 ・禅燈寺木古内町郷土資料館「いかりん館」当館は、平成23年3月に廃校となった鶴岡小学校の校舎を利用して平成27年3月に開設しました。館内は、縄文土器などを展示する「大むかしの木古内」、民俗資料を展示する「マチの歴史と発展」、農機具や漁具などを展示する「木古内の産業」、昔の家庭で使われていた日用道具などを展示する「人々の生活と文化」、JR松前線・江差線などの鉄道資料などを展示する「木古内と鉄道」の5つのカテゴリーに分けて、約2,000点を展示しています。特に幕末から明治維新にかけて活躍した「威臨丸」のものとされているイカリは、天井に届きそうなくらいの大きさと歴史の1ページが刻み込まれた本体にロマンを感じさせます道南トロッコ鉄道 旧江差線渡島鶴岡駅のホーム。旧江差線は、平成26年(2014)5月11日に廃線となった現在は旧江差線のホーム&レールを有効利用してトロッコ鉄道営業は土日のみ料金は、鶴岡公園 ⇔ キーコの郷(江差方面)間 往復約18分 一般席 700円道道5号線沿いの、郷土資料館「いかりん館」に隣接する鶴岡農村公園の駐車場へ駐車場横にある「山形荘内藩士上陸之地」石碑北門の警備と蝦夷地開拓、自立自営の大使命を帯び、明治18年から同19年にかけて山形県鶴岡を出発、酒田港より御用船にて此の地に上陸し、荘内藩士 佐藤洋孝と共に105戸が帯刀を鍬にかえ、土地墾闢を志向す。所謂、士魂を農魂にと皆をあげ決然轉身の勇を揮い、大谷地棚部岱、爪谷、吉堀、中野、建川に移住し、・・・・・の辛苦と苦難の農耕を続け歴代に受け継がれ、此処に87年の今日、水田酪農郷鶴岡地域を築く。改めて先人の労苦と偉業を偲び永遠に傳えん 酒井忠明 書 碑の来歴この碑「山形庄内藩士百五戸開拓者上陸地之標」は昭和40年鶴岡地区開基八十・・・・」として鶴岡農村公園にある記念碑鶴岡市・木古内町 姉妹都市盟約宣言十五周年朝暘第一小学校・鶴岡小学校 姉妹校交流四十周年明治18年より旧庄内藩士開拓団百五戸がここ鶴岡地区に入植したことを縁に、昭和39年5月12日、鶴岡市立朝暘第一小学校と木古内町立鶴岡小学校は姉妹校の契りを交わし、今年で四十周年を迎えました。また、平成元年4月27日、鶴岡市と木古内町は姉妹都市盟約宣言を行い、今年で十五周年を迎えました。両都市は、教育・文化・経済の交流を深め、相互の信頼と友愛の絆を一層強くすることを誓うと共に、互いの限りない繁栄を祈願し、記念碑と致します。 平成16年8月6日 山形県鶴岡市 北海道木古内町鶴岡農村公園に隣接してある、禅燈寺の山門所在地:北海道上磯郡木古内町鶴岡103山門の扁額「忠魂樓」 陸軍中將林大一郎禅燈寺と仁王門明治18年(1885)から19年にかけて山形鶴岡藩士105戸が北門の警備と蝦夷地開拓の大使命を帯び入植したが、故郷山形善寳寺に懇請し、三世岱静和尚が北海道・千島・樺太などの漁場を巡錫して明治35年(1902)本堂を建立した。文安3年(1446)龍神様を祀られているお寺として建立され、北海道・東北6県をはじめ、関東・関西方面に多くの信者を有する山形県龍澤山善寳寺39番目の末寺。大正7年(1918)に仁王門を建立。仏法守護のため寺門の左に立つ密迹金剛と右に立つ那羅延金剛は、明治から大正年間に函館市に在住した〇〇風間壮慶師の作。 平成13年〇〇〇 木古内町観光協会山門から本堂右に立つ那羅延金剛左に立つ密迹金剛仁王門の右奥に鎮座開拓使判官松本十郎之書石碑の字は風化して読み取れず、隣に説明板が立つ天保10年(1839)山形県鶴岡市生まれ。文久3年(1863)父親に従って蝦夷地の庄内藩警備地区浜益・苫前等に勤務。慶応3年(1867)江戸市中取締の任に当たる。翌4年、戊辰戦争では大隊の幕僚として活躍した。庄内藩降伏後、新政府首脳との接渉に当たり、明治2年(1869)黒田清隆の推挙により北海道開拓判官に任ぜられ、根室地区の責任者として、漁業振興や北方領土の警備などに尽力し、根室市の基礎を築いた。明治6年開拓大判官となり、北海道開発の責任者として財政の確立、農業の振興などに尽力し、北海道開拓に偉大な功績を残した。奥羽地方最初の勅任官になった人。 平成13年11月 木古内町観光協会境内の山門と本堂の間をJR江差線が通る珍しいスポットだった禅燈寺。江差線の木古内駅~江差駅間は惜しまれながら2014年5月に運行を終了しましたが、境内を通る線路と踏切はそのまま残されています。現在は土日祝にトロッコ鉄道が走っている線路上から本堂を望む禅燈寺本堂本堂の扁額「禅燈寺」本堂から山門本堂と山門の間を鉄道が走るユニークなお寺である8:54鶴岡農村公園の駐車場へ戻る建物は、鶴岡多目的集会施設「農村ふれあいセンター」 - 続く -
2020.11.18
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高砂緑地の史跡を見た後、茅ヶ崎公園(野球場)経由海岸へ。2月9日(火) 15:15高砂緑地の松林松林の中に「川上音二郎別荘の井戸枠」当時のままの「井戸枠」で立入禁止。【井戸枠の概要】 幅 84cm × 奥行 84cm × 高さ 54cm 石質:花崗岩川上音二郎別荘の井戸枠明治30年代、この地の一画に、新派劇の俳優で、当時有名だった川上音二郎・貞奴夫妻が別荘を設けました。高砂緑地内の井戸枠は音二郎の別荘ゆかりのものと言われています川上音二郎(1864 ~ 1911)・貞奴(1871 ~ 1946)赤とんぼ作曲の街晴朗な湘南茅ヶ崎の大氣 南湖の居にて 山田耕筰 記石碑の裏面には、山田耕筰は茅ヶ崎に住み、赤とんぼをはじめ数々の名曲を生みました。 平成28年6月 吉日 山田耕筰と赤とんぼを愛する会 多くの人の名前が刻まれている15:21駐車場から高砂通りへ出て南下国道134号の野球場前交差点の茅ヶ崎公園歩道橋15:30茅ヶ崎公園歩道橋からサイクリングロード 柳島:2.2km、鵠沼海岸:5.5km茅ヶ崎市東海岸テラスからの、江の島海岸にはコロナ禍の中、多くの家族ずれが訪れていたサザンビーチ他府県ナンバーの車が多く訪れていた茅ヶ崎漁港の整備を行っております工 期:令和3年5月31日まで時間帯:8:30 ~ 17:00茅ヶ崎漁港背後地整備工事【 事業の目的 】水産物の供給拡大を図り、港の活性化を目指し、漁港施設として輸送施設(駐車場)、漁港環境整備施設(網の修理等で利用する多目的広場)を整備するものです東側駐車場東側駐車場の南側に漁港サイクリングロードに鳥が飛来目の前に鳥がとまり、立ち止まって撮影ジョウビタキのオスジョウビタキ(尉鶲、常鶲、学名:Phoenicurus auroreus)は、スズメ目、ツグミ科(ヒタキ化)に分類されます。日本では冬に見ることのできる、小柄な渡り鳥です西側駐車場西側駐車場は現在無料だが、整備後は有料になるようだ15:45西側駐車場の上にあるウッドステージから、茅ヶ崎漁港、江の島方面サイクリングロードを進むと、最近の強風で浸食されたのか通行止めに!サイクリングロード通行止めこの先、危険につき、当面の間、サイクリングロードを通行止めにします。ご利用の皆様には、大変ご不便をお掛けしますが、134号に迂回していただくよう、ご理解とご協力をお願いします。 藤沢土木事務所(汐見台庁舎)浸食された箇所この辺りは海岸線が狭いのでくり返し被害を受けているのではなかろうか。前方はサイクリングロードの柳島起点にある「石積み護岸」茅ヶ崎漁港を振り返る浸食現場から東側は海岸線が広く釣り人も多い16:00遠く房総半島の鋸山、左側には烏帽子岩16:05サイクリングロードが走れず、国道134号沿いを走り柳島起点にある「石積み護岸」へ浸食対応用の多くの土嚢が積まれていた浸食された現場波打ち際からサイクリングロードまでが狭いここへ土嚢を積むのであろうか恒久的な工事として柳島の「石積み護岸」をこの先まで延長する必要があるのでは。現状は鼬ごっこになっているのではなかろうか!16:15サイクリングロードを進み今日の目的地「相模川左岸」へ。この辺りは「相模川流域下水道左岸処理場」の放流口プランクトンが多く魚が集まるので釣り人に人気のポイント。余談ですが、我が家の下水もここへ流れ出ている左岸処理場(柳島管理センター)写真はネットから左側の黄色丸は、いつも撮影するポイント16:23湘南大橋 東岸所在地:神奈川県平塚市須賀この辺りは茅ヶ崎市との市境界で、相模川の河口にある「相模川河口の砂州」台風の被害で工事中の河口、以前は砂州へ行かれたが現在は立入禁止相模川河口の砂州をズームアップ富士山、左に金時山この辺りの夕陽、日の出も撮影ポイントに最高波打ち際をアップ16:36あと数十分で日の入り ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ここからは昼間の湘南大橋 東岸です。トラスコ湘南大橋の下流側にある「湘南シーサイドゴルフ総合練習場」所在地:神奈川県茅ケ崎市中島1567営業時間:平日 7:00 〜 20:00、土日祝 6:30 〜 21:00湘南シーサイドゴルフ総合練習場は、海に面した最高のロケーションです。そのために、練習ももちろんですがリフレッシュのために、気軽に訪れる人も少なくありませんトラスコ湘南大橋の橋脚下にある、湘南シーサイドゴルフ練習場の駐車場(無料)相模湾に向って奥行きは280ヤードになり、天然芝のフェアウェイが特徴です。打席数は75打席有しています。パター練習用のグリーンも完備していますと相模川流域下水道左岸処理場相模川流域下水道左岸処理場の敷地内に何故かボート ー 続く ー
2021.03.05
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引地川親水公園のフジ棚を目指す。4月19日(火) 13:15引地川親水公園所在地:神奈川県藤沢市大庭6510引地川親水公園の北側から公園に入るがサクラは既に咲き終わった後。フジロード Fuji Road「引地川・フジ史跡ロード」① 円行公園、② 桐ヶ谷公園、③ なかむら公園、④ 二番構公園、⑤ 引地川親水公園、⑥ 大庭城址公園、⑦ 舟地蔵公園、⑧ 引地川緑地、⑨ 引地川親水広場、⑩ 長久保公園⑪ 八部公園今回は、④ ~ ⑪ を2日間で巡ることを計画。引地川親水公園の位置図。公園に入り引地川の西側を下流へ向けて進む。ソメイヨシノは花後で新緑に。石碑には「大庭桜並木 藤沢東ロータリークラブ 創立25周年記念植樹 平成13年2月13日」サクラの木も20年も経つと大きくなるものだ。樹齢20年の桜並木遊歩道には飛び散ったサクラの花びらが積もる。ソメイヨシノ染井吉野。落葉高木。葉の出る前に淡紅色で一重の花を枝いっぱいにつけます。花色は満開にちかづくにつれ淡くなります。バラ科桜並木の遊歩道を南へ進む。公園の対岸に「藤棚の回廊」が見える。引地川親水公園 イラストマップ「フジ回廊」は対岸の黄色の丸位置にある。公園の南側にある引地川に架かる天神橋の欄干に「お相撲カエル」が並ぶ。「藤棚の回廊」が引地川の東側にあるので天神橋を渡る。引地川の東側にある「湿生植物園」湿地帯の上に木製の遊歩道がありいろんな花を楽しめる。湿生植物園の北側に「藤棚・ツツジの丘」があり、長いフジ棚がある。藤棚・ツツジの丘にある「フジ棚」開花状況は木によってまばらであった。花の長さも短くこれから伸びるのか。だがフジ棚の長さは長い。まだこれからの蕾も多く見られた。白のフジもあったのだが、白の方が開花が遅いのか。市内の白旗神社には、辯慶藤(紫色)と義経藤(白色)があり、辯慶藤は花房が1mもあると。花房が1mもあると見応えがあるのであろうが。咲き始めのフジツツジとのコラボはこれからであろうか。下にツツジが広がるが蕾状態。フジ棚から花房が垂れ下がる。ズームアップするがアブは飛んでおらず。フジを綺麗に咲かせるためには冬の剪定が大切であると!市内のフジを綺麗に咲かせるために、「藤俱楽部」が取り組んでいる。フジ棚を見上げる。フジの木は何本も植えられている。藤棚回廊の手前にメタセコイアが聳える。メタセコイア生きた化石といわれる落葉針葉高木。樹形は円錐形です。葉は細長く、羽状に対生し、秋に赤茶色に紅葉します。ヒノキ科(旧 スギ科)藤棚回廊から引き返し、天神橋へ。丘は、この後訪れる「大庭城址公園」。天神橋には、カエルのオブジェが設置されています。この橋の下を流れる引地川には、貴重な生物が生息している。引地川親水公園の駐車場入口公園内には、気軽に自然とふれあうことができる湿性植物園や、藤棚、ツツジの丘、桜並木などがあり、市民に親しまれています。また、河川区域内には緩やかな芝生の護岸や、親水広場、水と石の広場など、水とじかに接することができる施設が整備されています。駐車場は無料。石碑の手前に「ナンキンハゼ」南京黄櫨。街路樹に利用される落葉高木。葉は菱状広卵形で秋に鮮やかに紅葉します。果実は白い種子がめだちます。トウダイグサ科。このような説明板があるので勉強になる。奥の八重桜並木をズームアップ。駐車場出口に立つ「不滅業」の石碑。土地改良事業竣工記念碑引地川は昔から巾員狭小、屈曲甚しく、為めに流域耕地に河水氾濫、湛水数日に亘り稲作の被害累年に及ぶ。しかも本河川は平常流量の多いこと他縣に於てさえ稀らしい特長を有するに関らず之れを灌漑用水として利用する施設手段に欠けていたので年毎に早害の面積数町歩を算えたのである。昭和八年、本河川が準用河川縣費支弁の適用を受けるに及び下流より漸次改修が行はれて来た。しかし用地は無償提供であったので勢い鵠沼地区より順を追うて耕地整理事業を遂行するに至ったのである。當改良地区五十町歩の耕作者も河川改修を契機に躓然として起ち上り昭和二十四年大庭稲荷耕地整理組合を設立、同事業の計画を樹立し、尓来組合員百七十四名の総力を結集して区画整理用排水路農道を完成し、更に石川耕地整理組合と協同して幹線用水路を設け、法の改正により両組合俱に土地改良区に組織変更し其の連合を設立。水害による石川取水口を自動堰に改築、以て用水の万全を期したのである。昭和三十二年換地登記其他一切の業務は畧終了したが其の後各所の補修改良を継続し遂に現状に至った。今、往時の耕作者の〇苦精励して猶且つ収穫少く被害に泣いた姿を偲ぶ時、国縣市費の補助を加えて一千万円余の汗血を投じ、役員は能く其の運営遂行に最善を尽し組合員又協力一致したる。此の成果に讃嘆し まさに百年の大計を成就し近代農業の基盤を確立したものと謂うべきか。茲に其の大要を記して後代に伝う。 昭和三十八年四月 藤沢市長 金子小一郎 蒙額及撰文並書 大庭稲荷土地改良区建之13:40引地川親水公園から西側へ出て県道43号線(藤沢厚木線)を南下、前方は県道47号線と合流する舟地蔵交差点。交差点手前に幟が立つ「舟地蔵」。舟地蔵所在地:神奈川県藤沢市大庭5202-7廻りは綺麗に整備され、花も供えられていた。藤沢市指定重要文化財 史跡 大庭の舟地蔵伝承地 平成31年2月1日指定この地蔵尊は、台座が舟型となっていることから、「舟地蔵」と呼ばれている。永正9年(1512)の夏、北条早雲(伊勢宗瑞)は鎌倉の扇谷上杉氏の居城であった大庭城を攻めたが、北条軍と大庭城の間には引地川がつくった大きな沼があり、なかなか攻め入ることができなかった。やがて、北条軍は、近くに住むボタ餅売りの老婆から、沼に引地川の水を取り入れている取入口の堰を止めて、下流の堰を開けば水が干上がることを聞き出したうえ、口ふさぎとして老婆を切り殺した。かくして、北条軍はようやく沼を越えて、大庭城を攻め落とすことができた、と伝わる。この舟地蔵は、殺されたあわれな老婆を供養するために、土地の人々がのちに城の近くに建てたという言い伝えがある。舟地蔵が建てられた時期は後世(江戸時代)に降り、その後この地区の開発により、何回かの移転を経て現在地に落ち着いた。この周辺が上杉・北条両軍の激戦の地であったこと、また引地川の水が昔より周辺を潤していたことを今に伝える史跡である。 藤沢市教育委員会交差点にある「舟地蔵」から、県道43号線(藤沢厚木線)を振り返る。大庭城址駐車場入口に立てられた幟「鎌倉殿の13人 北条時政ゆかりの地 藤沢市」”北条時政ゆかりの地” とあるが。13:45駐車場から管理棟を見上げる。ここの駐車場は無料だが、門限があり「5:30」ですの看板。 ー 続く ー
2022.05.02
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お宮緑地(ジャカランダ遊歩道)から駐車場方向へ戻る。今年は昨年に比べジャカランダの花の量が少ない感じがしたが。6月10日(金) 8:32熱海警察署 中央交番のステージには愛犬家が集まり談話。この樹は低木であったが多くの花を持っていた。ジャカランダを自宅で栽培する場合は寒さに弱いので鉢植えにして、冬は室内に入れる必要があるようだ。以前は本場の南アフリカへ行こうと妻と言っていたが・・・。遊歩道のタイル絵「市の花 梅」。こちらのタイル絵は「熱海ムーンテラス」。熱海の北面の斜面に建つこのビルは?。花火大会時には絶好の場所であろう。熱海桜の木の下に「釜鳴屋平七夫婦像」。釜鳴屋平七安政の頃、熱海の浜に漁民一揆が起こりました。まぐろ網の権利をめぐり漁民と網元との争いが日を追って激しくなり、こうした事態の中で網元の一人平右衛門の長男釜鳴屋平七は、他の網元たちのひどいやり方に反対し漁民側に同情、網元から脱退、漁民に見方して解決をはかったが、争いは収まりませんでした。このため、平七は漁民二百五十余人と共にムシロ旗を立てて韮山代官所に押しかけ、平七は役人の制止を振り切って代官江川大左衛門に訴状を差し出しました。代表者平七ら七人は捕らえられ、首謀者とみらされた平七は島流しの刑を受け、文久三年十月(1863年)江戸から八丈島送りとなりました。しかし、船中での虐待で衰弱した平七は大島におろされ、十一月四日三十五歳で亡くなりました。漁民たちは平七の遺志をつぎ、長い間苦難の戦いを続け、ようやく勝訴を勝ち取ることができました。星露百余年、今なお大衆の心に生きる義人平七の魂はここに眠っています。 熱海市ムーンテラス・恋人の聖地を正面から。恋人の聖地のモニュメント。熱海市の鳥「カモメ」をイメージしたデザインで水が流れ落ちていた。ヨットハーバーには昨年も停泊していたヨット。所有者はどのような人か?ヨットハーバー沿いに曲線美のスカイデッキ。ヨットハーバー、熱海港の先に熱海後楽園ホテル。スカイデッキを振り返る。熱海親水公園のデッキにはいろんな花が植栽されていた。ベンチに座り読書をする人も。アガパンサスが咲き始めていた。こちらは色違いのアガパンサス。ズームアップ。アガパンサスはさわやかな涼感のある花を多数咲かせ、立ち姿が優雅で美しく厚みのある革質の葉が茂る様子には力強さも感じられます。南アフリカに10~20種ほどの原種が自生し、交配などにより300以上の園芸品種が育成されている。また、性質が強く、植えっぱなしでほとんど手がかからないので、公園などの花壇やコンテナの植え込みに利用され、また切り花としてフラワーアレンジメントにも使われている。国道135号の街路樹ジャカランダ。見上げるとこのジャカランダの木は花の量が多いようだ。今年2月2日(水)に、NHK大河「鎌倉殿の13人」の「北条氏ゆかりの伊豆の地」を訪れる途中、糸川沿いの熱海桜を散策した。その時時期外れのブーゲンビリアが綺麗に咲いていたので今回訪れることにした。糸川に架かる「熱海渚橋」から上流に向かい前方に見えてきたのが「柳橋」。大きな波の姿が欄干の両側に。この階段を下り川べりに下り立つ。階段を下り下から楽しむことに。河口から上流に向かって 渚橋 → 柳橋 → 糸川橋 → 桜橋 → ドラゴン橋 → 新柳橋 → 御成橋 とデザインがそれぞれ異なる橋が糸川に架けられている。この橋は、国道135号の上り線に架かる「糸川橋」。川の水は浄化されており下水臭がない。糸川橋下から上流のブーゲンビリアを見る。ブーゲンビリアは、植物名:ブーゲンビリア(ブーゲンビレア)学 名:Bougainvilleae英 名:Bougainvillea和 名:筏葛科 名:オシロイバナ科属 名:ブーゲンビリア属 原産地:中南米鮮やかな赤色のブーゲンビリア。ブーゲンビリアは、夏にピンクやオレンジなどの色鮮やかな花を咲かせるつる植物です。熱帯では20~30mくらいにまで生長し、茎にはトゲがあり木質化しますと。ブーゲンビリアは鮮やかな花色が好まれ、世界中の熱帯で栽培されています。南国へ旅行に行くと、至るところにブーゲンビリアが植栽されているのを見かけます。ブーゲンビリアは日本では夏に咲く印象の強い花ですが、熱帯地域ではほぼ通年開花します。熱海では2月にも咲いていたので通年咲くのであろう。ブーゲンビリアは熱帯や温暖な地域では常緑ですが、10℃以下になると落葉します。日本でも5℃あれば落葉しながらの越冬が可能ですと。水溜りに映えるブーゲンビリア。糸川の下流を望む。上流側には2色のブーゲンビリアが下がる。糸川橋からこの先の桜橋まで進むが途中で通路がなくなり引返すことに。ブーゲンビリアには実は花びらが存在しません。色鮮やかな花のように見える部分は花びらではなく苞葉(ほうよう)で、その中に筒状の小さな花3つが存在しますと。ズームアップ。見上げると遊歩道沿いのモニュメント「灯りの造形」。糸川を覆いかぶさるように咲くブーゲンビリア。赤のブーゲンビリアも。ズームアップすると、オシロイバナ科だけによく似ている。太陽光線で見栄えも違うのであろうが。再度水面を覗き込む。上流側を振り返り階段を上ることに。先程下から見たモニュメント「灯りの造形」を遊歩道の左から。それにしても見事なブーゲンビリアだ。2月の時も綺麗だったが春から夏になると最高では。遊歩道から見おろす。ジャカランダも良かったがブーゲンビリアも最高。新柳橋のたもとにある「村越魚店」所在地:静岡県熱海市中央町7-4熱海の街の小さな魚屋さん。地元民愛用の老舗の一軒である。朝、仕入れた魚を捌き加工した魚たちが店頭に並ぶ。以前来た時魚を購入し酒のつまみにした。8:56新柳橋新柳橋の欄干を覆うブーゲンビリア。 ー 続く ー
2022.06.22
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昨年(2024年)に続いて年末に訪れた浄智寺境内の散策を続ける。12月23日(火) 11:25書院前からお茶室を見上げる。岩場が建物の近くに、右側を上がる布袋様へ。書院から本堂への廻廊から本堂裏を見る。穂を出したススキをズームアップ。本堂裏、書院前に庭園があり座敷でのんびりしたい空間である。2月には梅も咲く。石灯籠と万両。色鮮やかな万両をズームアップ。奥に寺務所、左に書院が建つ境内。書院前の右側には棟門が建っている。左側にはサクラの高木があり開花時には彩るのであろう。境内を一周し正面に山門。山門の後方にはビャクシンが聳える。拝観受付の後ろの紅葉が奇麗で休憩用のベンチが置かれていた。石碑には、仏像が刻まれ「□□者」と。見上げると木漏れ陽の中にモミジが紅葉していた。これ以上に紅葉するのか。鮮やかな紅葉である。植込みの中に別の石碑、「結界に 降る雨あしは 光りつつ 深き杉生の みどりにしつ舞 寛」。棟門を振り返る境内には四季折々いろんな花が咲くようで他の季節にも訪れてみたい。境内から出、山門、書院を振り返る。葛原岡ハイキングコースから本堂を見る。本堂前に聳えるビャクシン。ビャクシンを見上げる。浄智寺奥の紅葉を見に散策することに。かつてはこの一帯は浄智寺の境内であったと。葛原岡ハイキングコースを進むと、850メートルで源氏山公園へ。グループでハイキングする中高年の方が歩んでいた。北鎌倉たからの庭所在地:神奈川県鎌倉市山ノ内1418北鎌倉の浄智寺の境内奥にある古民家をリノベーションして作られたシェアアトリエ・ハウス。常設で「たからの庭」のアーティストたちによって作られた作品を展示するギャラリーがあり、陶芸体験のできる「たからの窯」や、レンタルスペ-スを利用して様々なワークショップも行われていると。たからの庭 案内板敷地内には「茶室 宝庵」があるが立入は予約者のみであった。たからの庭への案内図。「苔養生中 車輪のついた乗り物、カバンなどは引きずらずにお運び下さい」と。門前には正月飾りが置かれていた。インバウンド客が喜びそうな景観であるが「敷地内立入禁止」と。この辺りは北鎌倉駅から徒歩10~15分ぐらいにあり竹林が広がり静かな場所である。”たからの庭”の門前から戻り浄智寺の本堂前へ。本堂前にはベンチが設けられておりこの静寂な空間を楽しめる。浄智寺の周りは高木が聳え日陰に。拝観受付前から境内を見る。インバウンド、日本人観光客が訪れていたが、横須賀線の東側に比べると少ない。総門から苔むした石階段の参道を上るとこの拝観受付がある。この周りの紅葉が素晴らしいのだが、今年は黄葉が多い。ガイドマップの表紙は紅葉が多かったのだが。拝観受付右側の紅葉・黄葉を追った。木漏れ陽が当たるので露出に苦労する。紅葉の枝を探して撮影。枝をズームアップ。12:00陽を浴びるモミジ。 ー 続く ー
2026.01.21
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浄智寺境内の散策を続ける。12月23日(火) 11:00浄智寺境内の最奥部の岩場下に墓石が並んでいたが、歴代住職の墓所か。岩場に入口(左奥)があったが立入禁止になっていたので望遠で撮影。岩場に入口があったが立入禁止になっていたので望遠で撮影。立札には「横井戸」と確認でき、説明文は「山の水をためて用水に使うため、かなり古い時代に堀ったものと思われます。三十数年前まではコウモリの棲家になっていました」と。やぐらの入口に竹林が広がっていた。説明板に、「やぐら この横穴は、古くは住いとして、その後墓所になり、やがて倉庫としても使われました。 大正から昭和初期までは、薪や木炭などのしまい場所になっていました」。岩場の下に地蔵が並んでいた。赤頭巾を被った地蔵を見つけ振り返る。赤頭巾の地蔵の前に古い説明板が立っており、「栃木 小山市の川で亡くなられた一斗ちゃん隼人ちゃん兄弟の供養のためのお地蔵様です。 施主 大倉ゆき子」と。地蔵の前には小銭が供えられていたが、献花がなく説明板も疲れ気味に。関係者も高齢化か?。境内に岩場があり、立札に、「布袋さんはトンネル先の洞窟です」と。布袋様への入口から、裏の墓地から表へ出る狭い路地を振り返る。その入口に柿の木があり小さな実がついていた。実の大きさは5センチほどであったか。岩肌に穴があり「かんのんさま」と書かれた立札。中を覗くと「観音様」が立っていた。表の書院側を望む。トンネルを潜ると「布袋尊」の立札。樹々が聳える鬱蒼とした中に幟旗が立ち「江の島 鎌倉 七福神」と。布袋様の前には多くの観光客が訪れていた。岩場を掘り抜いた洞窟の中に布袋様が立っていた。布袋様 (ほていさま)お腹をさすると、元気をもらえるという布袋様。鎌倉七福神の一人で、弥勒菩薩の化身ともいわれます。指をさしているのは山門と同じ意味!布袋様のお腹は皆さんがさするので磨かれていた。指をさしているのは山門と同じ意味!と言われるが?。洞窟の中に掘られて観音様であろうか。祠も置かれていた。洞窟の中から。外から見る。ズームアップ。布袋様の傍にも墓地があり、鎌倉は土地が狭いので軟らかい鎌倉石の山を掘った祠が多い。岩肌に掘られたトンネル。岩場に延びる木の根。木の生命力に感嘆!その木の紅葉にも。岩場に掘られたやぐらと言われる祠。書院、寺務所方向へ下りる。お茶室が建っていたが休業。お茶室の入口に「龍□荘」と。書院入口正面の壁には「□□」と。書院の入口に、「大本山円覚寺百観音霊場第八番札所」「鎌倉FM番組審議会」と。左側には「臨済宗圓覚寺派第壱區宗務支所」の看板があった。書院の右奥の寺務所入口に、「御朱印受付」。立札に「納経所 七福神 十三佛 観音霊場 他」と。鎌倉 江の島 七福神鶴岡八幡宮(弁財天) ⇨ 浄智寺(布袋尊) ⇨ 宝戒寺(毘沙門天) ⇨ 妙隆寺(寿老人) ⇨本覚寺(夷神) ⇨ 長谷寺(大黒天) ⇨ 御霊神社(福禄寿) ⇨ 江島神社(弁財天)11:25お茶室を見上げる。 ー 続く ー
2026.01.20
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茅ヶ崎の新鶴嶺橋から小出川を上流へ登り、梅を見た後河津桜の開花状況確認に。1月22日(木) 15:20萩園橋から上流へ。温室の上に富士山が見えていた。小出川の河津桜Googleマップに「小出川の河津桜」で載っている場所である。この辺りの河津桜の木は蕾がふくらみ赤みを帯びていた。昨年は開花が遅れ例年2月24日頃に開催される小出川の桜まつりは、3月8日(土)・9日(日)に追加開催が行われたが今年は例年どうりか。掲示板のポスターは「2025年 第16回小出川 桜まつり」であった。桜まつり開催は、2/22・2/23・2/24・3/1・3/2 と。今後、2026年度版に替えられるのであろう。枝を見上げると一輪咲いていた。河津桜は二百メートル程に植えられており、上流側へ登ると開花状況が進んでいた。桜の幹に「河津桜 花とともにくらす会」の名札が吊るされていた。蕾がふくらみピンク色の河津桜が咲いていた。ズームアップ。下流側を望む。足元には菜の花が植えられていた。菜の花は、花とともにくらす会のメンバーにより植えられていた。花のつぼみから1週間後には開花も進むのでは。この辺りは県道44号線の西久保橋下流。河津桜、菜の花、スイセンと咲く。今年は例年の桜まつりの頃には満開になるのでは。寒緋桜河津桜に混じって寒緋桜が数本植えられており幹に「寒緋桜」の名札が吊るされている。いつもは河津桜より先に咲くのだが今年の寒緋桜の蕾は硬かった。寒緋桜を見上げる。小出川の河川敷には野鳥がえさを求めて。鴨であったか数十羽が水辺にいた。ズームアップ。県道44号線の西久保橋西側から富士を望む。帰路も小出川沿いを下る。堤にはソメイヨシノ、ケヤキの木が植えられている。富士の頂上には雲が。ソメイヨシノも古木になり伐採された切り株もあった。浜園橋の工事現場へ戻る。新鶴嶺橋へ向かって下る。来る時、途中にあったFUJIスーパーでたい焼きを売っていたので立ち寄ることに。陽が下がり影が長くなる。この辺りには分譲住宅が多く絶好の散歩コースになっている。浜園橋を振り返る。新鶴嶺橋へ戻る。梅を見上げるご婦人にカメラマン。ご夫婦での散歩中であったか。FUJIスーパー店先の駐車場でたい焼きを販売していた。軽四のキッチンカーで販売「たいやき 一丁焼 このは」と。先ほどは予約があり15分待ちであったが、この時は待ち時間なしで購入できた。車体にはいろんな神社の「交通安全札」が貼られていたが、それぞれの神社で営業されたのであろうか。たい焼きは餡のみに特化していた。値段は、1枚 210円2枚 380円 @1903枚 540円 @1804枚 720円 @180 と割安に、よって3枚を購入し、お土産にした。先日購入した日本一たい焼きでは@270であったが、それなりに大きく餡以外にもいろんな餡の種類があった。ここ以外でも販売しているようで、2月の日程表が貼られていた。FUJIスーパーの北側を走る鶴嶺通り。16:30中華 のんちいつ店先を通っても行列をしているのでテイクアウトをすることに。残念ながら先日の大相撲初場所の優勝決定戦で敗れた「熱海富士」の出身地である「熱海梅林」「來宮神社」をブログアップしていないので、併せて「熱海桜」を見に行くことに。もし初優勝しておれば町は大いに盛り上がっていたのであろうが。 END
2026.01.28
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昨年(2024年)に続いて年末に訪れた鎌倉五山の一つ浄智寺の境内へ。12月23日(火) 10:45受付前の紅葉が ”ガイドMAP” の表紙になっていた。また、七福神の幟旗が立っていた。境内一角の洞窟に、鎌倉・江の島七福神の一つである布袋尊がまつられていると。浄智寺境内案内図山門平成十九年(2007)に再建された鐘楼門で、花頭窓のある上層には慶安二年(1649)の梵鐘が吊るされている。上層の花頭窓を見上げる。山門の扁額「山居幽勝」。山門をくぐると左側に聳える、「市指定天然記念物 ビャクシン 三株」。山門を見上げる。山門の上層には慶安二年(1649)の梵鐘が吊るされている。ビャクシン樹高は、ハイネズの様な低潅木からイブキの様な高木まで様々である。葡萄性の品種も見られる。樹皮は赤褐色で、縦方向に薄く長く剥がれる。葉は短く茎に密着し、互いによりあって葉の付いた枝は棒状の外見を持つ。樹高十数メートルのビャクシンを見上げる。山門を入ると三本のビャクシンが聳えている。山門越しに総門からの参道を見る。受付の方と話をすると「昨年(2024年)は表紙のような紅葉にはならなかった」と。受付前の紅葉を再度ズームアップ。本堂 曇華殿(どんげでん)曇華殿と呼ばれる仏殿で、御本尊は室町時代に作られた木像三世仏坐像で県指定の重要文化財に指定されている。本堂の扁額「曇華殿」。曇華殿に安置されている三世仏は、南北朝時代のもので、わが国に伝わる三世仏の中でも造立年代の早いものである(県重要文化財)。左から『阿弥陀・釈迦・弥勒』の各如来で『過去・現在・ 未来』の時を象徴している。本堂の右側にはビャクシンが聳える。本堂の瓦。瓦には北条氏の家紋「三つ鱗(みつうろこ)」。本堂前の植込みには「世界平和」と刻まれた石碑。掲示板に「海会堂」とあったが。順路に従って本堂の裏に廻る。本堂裏には庭園があり、右奥は曇華殿と書院をつなぐ廊下。右下には消えかかった説明板。「鎌倉三十三観音三十一番 木造観音菩薩立像 南北朝時代造」と書かれていたのか。曇華殿の後ろ一角にある”木造観音菩薩立像”で「□□□」と。中には「鎌倉三十三観音三十一番 木造観音菩薩立像」が祀られている。南北朝時代の造りであると。書 院大正十三年(1924)に建てられた茅葺きの建物で、茅葺き屋根の素朴な外観の書院は庭園側から見ても、正面から見ても実に美しいたたずまいであると。梅の樹の古木が。本堂裏に吊るされた半鐘であろうか。本堂裏を見る。右側にはコウヤマキが聳える。本堂裏に聳える「市指定天然記念物 コウヤマキ」。本堂裏から順路に従って奥へ進む。竹林が広がっていた。奥に墓地があり観光客は立入禁止になっていた。奥の傾斜地に墓地が広がっていた。傾斜地の紅葉を見上げる。ツバキが咲いていた。墓地入口に非常用の井戸があり手漕ぎポンプが設置されていた。孟宗竹の竹林。竹の根元にはシャガが広がっていた。やぐら鎌倉には、山腹の岩をくり抜いて造られた中世の横穴式墓所・供養施設であるこのような「やぐら」が多数存在している。やぐらの中に祀られた墓石。墓石の前にはきれいな花が供えられていた。11:00岩場の下には多くの五輪塔が集められていたが。 ー 続く ー
2026.01.19
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