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使用カメラ:Canon EOS 70Dカメラの設定、 ① 三脚とレリーズを使用 ② 撮影モード:B(バルブ) ③ 感 度:ISO200 ④ 絞 り:F8 フィルター:ND8 ⑤ ホワイトバランス:「オート」 ⑥ 手振れ補正:「OFF」 ⑦ ピント合わせ:最初にAFでピントを合わせた後「MF」に。 ⑧ カメラは縦にセット今回も試行錯誤しながら撮影しました。8月25日(金) 19:50湘南ひらつか花火大会は約1時間で約3,000発。打ち上げもあと10分ほどになる。撮影情報:44mm、f/8、13秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、10秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、3秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、4秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、6秒、ISO 200焦点距離を44mm → 35mmと広角に変更。撮影情報:35mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、10秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、3秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、2秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、3秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、10秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、3秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、10秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、3秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、2秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、3秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、4秒、ISO 200縦で撮影した写真をトリミング。撮影情報:35mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、3秒、ISO 200トリミングしてアップ。撮影情報:35mm、f/8、3秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、1/10秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、4秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、5/2秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、8/5秒、ISO 20020:00撮影情報:35mm、f/8、8/5秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:35mm、f/8、10秒、ISO 20020:00最後の打ち上げ。撮影情報:35mm、f/8、10秒、ISO 20020:03打ち上げが終了、上流側のトラスコ湘南大橋を望む。撮影情報:35mm、f/8、13秒、ISO 200上流側でも花火が打上げられていた。撮影情報:35mm、f/8、8秒、ISO 20020:04ズームアップ。撮影情報:117mm、f/8、5秒、ISO 20020:26打ち上げが終了してから渋滞を考え少し遅れて出発して帰路につく。茅ヶ崎海岸での花火大会は国道134号を渡るのに時間を要するので大渋滞だが、ここではスムーズに走ることができた。道の駅予定地に「工事案内の看板」。20:53途中いつもの居酒屋で一杯やる予定であったが既に閉店で、自宅へ到着。到着時のバッテリー残量は70%、走行可能距離は65kmであった。今回での反省は、 ① ピントがあっているか途中で確認。 ② 手元用のペンライトを準備。 ③ 露出時間がまだ短いようだ。花火の色で露出時間も調整か。 ④ 打ち上げまじかに行っても場所取りは問題ない。試行錯誤の拙い写真にお付き合いありがとうございました。 END
2023.08.29
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使用カメラ:Canon EOS 70Dカメラの設定、 ① 三脚とレリーズを使用 ② 撮影モード:B(バルブ) ③ 感 度:ISO200 ④ 絞 り:F8 フィルター:ND8 ⑤ ホワイトバランス:「オート」 ⑥ 手振れ補正:「OFF」 ⑦ ピント合わせ:最初にAFでピントを合わせ後は「MF」に。 ⑧ カメラは縦にセット今回も試行錯誤しながら撮影しました。8月25日(金) 19:30湘南ひらつか花火大会は打ち上げ時間約1時間で、約3,000発。既に打ち上げが始まってから30分、この間次から次と打ち上げられた。撮影情報:46mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:46mm、f/8、10秒、ISO 200露出時間は10秒だが、難しい。撮影情報:46mm、f/8、4秒、ISO 200焦点距離を46mm → 44mmと広角に変更。撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、3秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、4秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、4秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200海原が赤く染まる。撮影情報:44mm、f/8、3秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、3秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、4秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、4秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、13秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、10秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、1秒、ISO 200露出時間が1秒と短かった。撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、4秒、ISO 200カメラを横に変更。撮影情報:44mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、13秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、5秒、ISO 200カメラを横にしたので上が入らず。撮影情報:44mm、f/8、4秒、ISO 200急遽、縦方向に変更。撮影情報:44mm、f/8、4秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、10秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、4秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、4秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、4秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、10秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、6秒、ISO 20019:50撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200上記写真をズームアップ。 ー 続く ー
2023.08.28
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今回も、自宅でカメラを下記に設定、使用カメラ:Canon EOS 70D ① 三脚とレリーズを使用 ② 撮影モード:B(バルブ) ③ 感 度:ISO200 ④ 絞 り:F8 フィルター:ND8 ⑤ ホワイトバランス:「オート」 ⑥ 手振れ補正:「OFF」 ⑦ ピント合わせ:最初にAFでピントを合わせ後は「MF」に。 ⑧ カメラは縦にセット今回も試行錯誤しながら撮影しました。8月25日(金) 19:00湘南ひらつか花火大会は打ち上げ時間約1時間で、約3,000発。撮影情報:92mm、f/8、8秒、ISO 20019:09少し遅れて打ち上げが開始された。打ち上げ場所がわからず開始後カメラを左(海側)へ振る。よってこの花火は数発目か?撮影情報:92mm、f/8、10秒、ISO 200撮影情報:92mm、f/8、13秒、ISO 200今回は、露出時間を長くする。撮影情報:92mm、f/8、10秒、ISO 200上が入らないので焦点距離を92mm → 57mmに変更。撮影情報:57mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:57mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:57mm、f/8、10秒、ISO 200撮影情報:57mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:57mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:57mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:57mm、f/8、5秒、ISO 200下の海岸線が多く入り過ぎであった。カメラを上向きにする必要があった。撮影情報:57mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:57mm、f/8、8秒、ISO 200もう少しカメラを上向きにすべきであった。残念な構図であった。撮影情報:57mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:57mm、f/8、4秒、ISO 200撮影情報:57mm、f/8、5秒、ISO 200焦点距離を57mm → 55mmに変更。撮影情報:55mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:55mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:55mm、f/8、5秒、ISO 20019:15打ち上げ開始から十数分だが次から次といろんな花火が上がる。撮影情報:55mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:55mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:55mm、f/8、10秒、ISO 200焦点距離を55mm → 48mmと広角に変更。下の陸地をカットすべき。撮影情報:48mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:48mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:48mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:48mm、f/8、10秒、ISO 200撮影情報:48mm、f/8、10秒、ISO 200露出時間を長くして多くの花火を取り入れた。焦点距離を48mm → 44mmと広角に変更。撮影情報:44mm、f/8、10秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200花火が打上げられてから8秒間レンズを開放。撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、13秒、ISO 200レリーズでレンズを開放しているので頭の中で時間を刻み、露出時間を13秒に。撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、3秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、5秒、ISO 200同じ種類だがいろんな色の花火が打上げられた。撮影情報:44mm、f/8、3秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:44mm、f/8、5秒、ISO 200焦点距離を44mm → 46mmに少しズームアップ。撮影情報:46mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:46mm、f/8、13秒、ISO 200撮影情報:46mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:46mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:46mm、f/8、8秒、ISO 200露出時間が長いと海面が染まる撮影情報:46mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:46mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:46mm、f/8、4秒、ISO 200撮影情報:46mm、f/8、4秒、ISO 200撮影情報:46mm、f/8、4秒、ISO 200撮影情報:46mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:46mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:46mm、f/8、5秒、ISO 200まだ露出時間を10秒ぐらいに長くする必要があったか。撮影情報:46mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:46mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:46mm、f/8、13秒、ISO 200露出時間を13秒にしたがまだ露出不足か?。バルブに設定、打ち上げられてから開放、花火が消える13秒で閉じたが。撮影情報:46mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:46mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:46mm、f/8、10秒、ISO 200撮影情報:46mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:46mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:46mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:46mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:46mm、f/8、8秒、ISO 20019:30撮影情報:46mm、f/8、8秒、ISO 200上記写真をトリミングしてズームアップ。 ー 続く ー
2023.08.27
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湘南ひらつか花火大会は、昭和26年(1951)に平塚空襲で亡くなられた人達を慰霊するために開催された須賀納涼花火大会が前身で、その後主催者が変更となり今回で71回目となる。写真はネットで湘南平辺りからか。開催日:8月25日(金) 午後7:00 ~ 8:00場 所:湘南潮来相模川河口打上数:約3,000発有料席が設けられている。花火会場案内花火の豆知識花火は打上火薬に点火すると玉が発射され、玉の導火線が燃焼しながら上昇し、上空で割薬に火が入り爆発します。爆発により星が燃えながら四方八方に飛び散るわけです。玉の大きさが大きいほど花火も大きくなり、星のならべ方や割薬の量などで夜空に広がる光や色、そして形が決まります。スターマインとは、1本の打ち上げ筒に、小さいサイズの玉を2個重ねて詰め、その上にザラ星や小花などが入っています。点火と同時に筒口から火のついたザラ星が火柱となり、その上に小花が咲き、さらに、上空に2個の玉が一斉に開きます。これら連続して打ち上げられていく花火をスターマインといいます。8月25日(金) 17:05打ち上げが午後7時からのため5時過ぎに自宅を出発、愛車のリンちゃんで相模川左岸河口へ向かった。茅ヶ崎駅からサザン通りを南下、鉄砲道の中海岸二丁目交差点。この交差点を右折して鉄砲道を西へ向かう。鉄砲道の中海岸二丁目交差点から西はアップダウンが激しい。右側は、茅ヶ崎市消防署海岸出張所。坂を上るが愛車のリンちゃんは電動アシスト自転車のため楽に上れる。最後の坂を上り終え下る。天気が良ければ富士が見えるのだが。信号は南湖通りと交差する南湖中央交差点。南湖中央交差点交差点角に「正一位 川端稲荷神社」がある。道路標識「南湖中央」。川端稲荷神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖5丁目2一の鳥居の扁額「正一位 川端稲荷神社」。二の鳥居の先に社。前回訪れた時は草が生い茂っていたが整備されていた。川端稲荷神社前の南湖中央交差点から鉄砲道の東方向を望む。この先は緩い坂道になっており、鉄砲道唯一の峠である。この交差点を右折して南下すると浜降祭が行われる西浜海岸、茅ヶ崎漁港へ。セブン・イレブン 茅ヶ崎南湖店所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖5丁目18-19午後8時まで花火の打ち上げがあるので夕食のおにぎりを購入。鉄砲道を西へ進み、左富士通りと交差する浜見平交番前交差点。交差点角にある「BRANCH」。浜見平団地内を抜ける鉄砲道を更に西へ進む。浴衣姿の女性。左前方は令和7年度にオープンする道の駅予定地。右側は柳島スポーツ公園へ入る車の列。新湘南バイパスの湘南ベルブリッジ。柳島歩道橋上から東方向の茅ヶ崎市街地。かつて関東大震災以前は柳島湊になっていたと。この先の交差点が鉄砲道の起点。国道134号との角地に「道の駅」が開業する。柳島歩道橋上から西方向に国道134号のトラスコ湘南大橋。天気が良ければ富士が見えるのだが。左には柳島水再生センター。17:35松尾川排水樋菅からの松尾川。右側は湘南シーサイドゴルフ練習場のネット。今日の花火打ち上げはこの対岸から。目的地の相模川左岸河口へ到着。伊豆大島も見えていた。花火会場の平塚新港。箱根の山並みは雲に覆われていた。国道134号のトラスコ湘南大橋。大山、丹沢の山並みは雲の中。トラスコ湘南大橋の後方に平塚漁港の入口。警備の警察官、消防団。「こちら側は無料で交通規制はない」と。この階段を渡り斜面で撮影することに。ここへ三脚をセットし撮影することに。右には柳島水再生センターの汚泥処理設備。湘南平の後方に富士が見えるのだが厚い雲に覆われていた。17:55南の空には上弦の月。この方向から花火を打ち上げると。18:20三脚にカメラをセットして待機。打ち上げ前30分位だが思ったほど人が少なかった。相模川左岸の河口方向にも花火見物客。伊豆大島をズームアップ。花火会場の平塚新港。相模川の河口には花火見物のボート。18:30スマホで茅ヶ崎の日の入りをチェックすると「18:20」。打ち上げ前30分になり会場をズームアップ。湘南ひらつか花火大会は初めてであるので打ち上げ場所がわからず。18:33雲が広がっていたがいつのまにか富士が顔を出していた。大型のボートが河口へ向かう。雲が無ければ日の入り後が楽しめたのだが。箱根の山並みも一部見えていた。大山、丹沢の方向は厚い雲に。大型のボートが沖に出て行ったが花火見物であろうか。夕焼けに染まる箱根の山並みが一部顔を出していた。ボートは荒波にもまれながら沖へと。18:40湘南平の後方に富士山。カメラを左に振り箱根の山並み。再度富士を見る。花火と富士のコラボが見れるのか。いつのまにか打ち上げ10分前になり多くの人が斜面に待機してい。18:52打ち上げ8分前になる。海風にのり雲が流れていた。 ー 続く ー
2023.08.26
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湘南ベルマーレ・ひらつかビーチパークの西側にある「平塚八景 平塚砂丘夕映え」へ。11月21日(月) 15:30国道134号の平塚駅南口入口交差点から大磯方面へは海側には歩道がなく、安全に注意しながら車道を走ってここ袖ヶ浜交差点へたどりついた。目的地への入口を通り過ぎたので戻ることに。目的地の「平塚八景 平塚砂丘夕映え」はここ扇の松入口交差点を入る。扇の松入口交差点この交差点はもう何度も走っているが始めて入る場所である。平塚八景 平塚砂丘の夕映え所在地:神奈川県平塚市袖ケ浜20扇の松入口交差点から入ると直ぐにある絶景ポイントである。湘南平の上に富士が見えていた。右側は湘南平のテレビ塔。相模川から花水川までの約4キロメートルの平塚海岸は、砂丘と松林が続く自然のままの素朴な海岸です。休日には憩いを求める家族連れや釣り客でにぎわい、特に、伊豆大島の眺望や雄大な箱根連山に沈む夕日に映し出された海岸の美しさは絶景ですと。この辺りは波が荒く遊泳禁止のようだが。左方向は大磯漁港辺りであろうか。東方向には先程立寄った「湘南ベルマーレ・ひらつかビーチパーク」。防波堤は、ひらつかタマ三郎漁港、遠く江の島が見える。東方向をズームアップ。平塚海岸には大きな波が押し寄せる。沖合に「平塚沖総合実験タワー」平塚総合海洋実験場は、平塚海岸沖合1km、水深20mに立つ沖合プラットフォーム「平塚沖総合実験タワー」と、データ採取処理装置を完備し共同利用や試験研究に供する陸上施設とで構成され、これらの施設を海洋アライアンス(事務局:生産技術研究所)が管理運営を行なっています。海の中にはサーファーがひとり。平塚沖総合実験タワー平塚タワーでは1965年設置以来、海象および気象の観測を行ってきています。波浪、水位、水温、流れなどの海象データ、風、気圧、気温、湿度、温度などの気象データ、ライブカメラによる映像データの観測を行い、データベース化するとともに、神奈川県と共同でWEBによるリアルタイム公開を行っています。WEBで公開される平塚タワーの観測データは、水産業、海洋レジャー、気象解析、海難事故解析、海岸構造物の設計等に幅広く活用されています。また、平塚沖の観測データは海洋工学の研究においても貴重な資料であり、波浪現象の解明等に利用されています。崖下の砂浜では釣り人が数人。休憩所のベンチに座ると相模湾を囲む、三浦半島、伊豆半島そして大島が眺められる。ことに雄大な箱根連山に沈む夕日に映しだされた海岸の美しさは、昔から絶景だと。休憩所の横に「平塚八景 平塚砂丘の夕映え」の説明。平塚八景 平塚砂丘の夕映え相模湾の中央に位置する平塚市の海岸は、東の相模川から西の花水川まで、4キロメートルほどである。相模湾の沿岸に発達した湘南砂丘は、相模川以西から平塚砂丘となっている。海岸線を東西に走る平塚砂丘に立つと、三浦半島、伊豆半島そして大島が眺められる。ことに雄大な箱根連山に沈む夕日に映しだされた海岸の美しさは、昔から絶景とされている。平塚八景 平塚砂丘夕映えこのような石碑は須賀港東の朝霧河畔緑地にも「湘南潮来」が立っていた。いつか「平塚八景」を全て回りたいものだが!石碑の後方に休憩所。休憩所の右奥にあった名もない地蔵像にはレイ、花が供えられていた。平塚砂丘に咲く花。この辺りは砂が堆積し鉄製の手摺はハンドレール部のみが一部地上に出ていた。サーフィンをするカップルかと思ったが。大きな波が押し寄せる。茅ヶ崎、辻堂、鵠沼海岸に比べると波が大きい感じがしたが。海岸線の上は遊歩道になっているようで犬を連れた散歩者も。左側の海岸線は浸食され危険なためロープで立入禁止に。国道134号が危険なためこの海岸線を大磯漁港まで自転車で走れるか?ここで迎える朝日もよさそうだが。海岸線では波が荒いので水しぶきが舞い上がる、陽も下がり夕陽の撮影に。15:50海岸から扇の松入口交差点へ戻り、西方向を望む。日の入りが16時半過ぎになるので急ぎいつもの撮影ポイントへ戻ることに。16:00トラスコ湘南大橋のテラス。車道は危険なため国道134号の山側の歩道を走り、高浜台交差点を渡り海側の歩道を走った。振り返ると富士山が見えていた。湘南平の後方の富士山をズームアップ。16:08いつもの撮影ポイントに到着、日の入りは二子山の南側のようだ。日の入り前の富士山をズームアップ。カメラの設定を下記に、 ① 三脚とレリーズを使用 ② 撮影モード:Av(絞り優先)→ 「P」で撮影 ③ 感 度:ISO100 ④ 絞 り:F8 ⑤ ホワイトバランス:「曇」 ⑥ 露出補正:ー3 ~ ー216:17撮影情報:Canon EOS 70D 28mm、f/8、1/200秒、ISO100撮影ポイントには数人のカメラマンが待機していたが皆さん手持ち撮影。16:19撮影情報:Canon EOS 70D 70mm、f/8、1/250秒、ISO100箱根の山は雲が覆っていた。16:20撮影情報:Canon EOS 70D 30mm、f/8、1/125秒、ISO10016:23撮影情報:Canon EOS 70D 63mm、f/7.1、1/160秒、ISO100撮影モードを「P」としたため、絞りが f/7.1 になった。16:23撮影情報:Canon EOS 70D 63mm、f/5.6、1/100秒、ISO100撮影モードを「P」としたため富士山の陰影が川面に映えたか?16:24撮影情報:Canon EOS 70D 28mm、f/8、1/160秒、ISO10016:26撮影情報:Canon EOS 70D 70mm、f/5、1/100秒、ISO100箱根の山並みは雲で覆われているが富士山の頂上はよく見える、川面に富士が映える。16:35撮影情報:Canon EOS 70D 63mm、f/5、1/50秒、ISO10016:41撮影情報:Canon EOS 70D 52mm、f/5、1/30秒、ISO100富士の廻りの雲が動く。16:46撮影情報:Canon EOS 70D 52mm、f/5、1/25秒、ISO100いつも来られるご婦人はこの時間で帰宅された。16:55撮影情報:Canon EOS 70D 52mm、f/5、1/6秒、ISO100空が茜色に染まる。16:58撮影情報:Canon EOS 70D 55mm、f/5、3/10秒、ISO10016:59撮影情報:Canon EOS 70D 141mm、f/6.3、3/5秒、ISO10017:01撮影情報:Canon EOS 70D 28mm、f/4、1/4秒、ISO10017:04撮影情報:Canon EOS 70D 41mm、f/4.5、3/5秒、ISO100川面に富士山が映える。17:05撮影情報:Canon EOS 70D 73mm、f/5、3秒、ISO100富士山をズームアップ。17:07撮影情報:Canon EOS 70D 24mm、f/3.5、4/5秒、ISO100日の入り後約30分になり、廻りが暗くなる。17:08撮影情報:Canon EOS 70D 73mm、f/5、5/2秒、ISO10017:10撮影情報:Canon EOS 70D 57mm、f/5、2秒、ISO100廻りが暗くなり帰ることに。この日は風もなく寒さもそれほどでもなかったがこれからは厳しくなるので防寒対策が必要である。18:00焼鳥屋 よしこ所在地:神奈川県茅ヶ崎市元町辺り焼鳥は備長炭で焼き1本100円、刺し身もリーズナブルな価格である。げそ焼を注文するがママさんから「朝取り真いわしが美味しい」とのことで変更。刺し身にする前に「脂がのったいわしだよ」と。朝取り真いわし 380円ズームアップ。この他焼鳥等をつまみに日本酒を常温で大小の徳利を各1本飲み帰宅した。この日は午後急遽愛車のリンちゃんで出かけ、平塚、相模川左岸河口を訪れたヒロ散歩でした。この日の走行距離は、34キロであった。 END
2022.12.05
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馬入橋から今日の目的地のひとつ「西町稲荷神社」へと愛車のリンちゃんを進めた。11月21日(月) 14:50国道129号を南下、港第一歩道橋交差点を振り返る。港第一歩道橋交差点から北西方向へ進む道。我が茅ヶ崎市に比べ平塚市は第二次大戦で焼失したため区画整理されたので道幅が広い。この道路は「学園通り」と命名されている。学園通り周囲に学校が4校あり、朝夕に児童生徒の通行が多いことから名づけられています。全長約998メートルで、代官町派出所前交差点から国道129号線までが区間です。この道路愛称名は、市制60周年を記念する事業として、平成4年度に選定委員会を設置し、市民公募を行って選定いたしました。 平塚市スマホの案内で国道129号へ戻り南下、道路標識、この先は国道134号の高浜台交差点。道路標識をズームアップ。高浜台交差点の手前を右折して、今日の目的地である西町稲荷神社へ到着。住宅街に建つ神社である。西町稲荷神社所在地:神奈川県平塚市高浜台21-21石鳥居の扁額「西町稲荷神社」。社号標石には「正一位 稲荷山神社」。正一位 稲荷山神社御由緒社伝によると、今よりおよそ千二百年前、「僧空海 (弘法大師) が伊豆の国より布教のため須賀湊に上陸され、此の地に留まりし時に勧請せし」と言われ、よって当社の創建はこの時代と思われる。御祭神は、京都伏見稲荷大社と同じ「宇賀御魂命」で五穀を司る神である。その後真言宗僧鎮海師、大師の足跡を慕ってこの地に草庵を結び「邑中鎮護のため稲荷大明神再建ありし由、稲荷山と申し候」と言う記録があり、平塚市最古の稲荷社でもある。昭和二十年七月の戦災以前は、現在の所が小山の頂きにて、お稲荷様の社殿が建ち、形の良い磯馴松が点在する中に真赤な鳥居が五、六十基立ち並び参道を形造り、周囲の麦畑と調和して一幅の絵の様な美観であった。古老の話によれば、海上の漁船より稲荷山の松の木が展望され、陸地の目印とされていたと言う。古きより稲荷山のお稲荷さんと親しまれ、家内安全、海上安全、商売繁昌を祈願する善男善女の参拝者が後を絶たず、毎年四月二十九日に例大祭が行なわれる。御由緒の裏面には、「世話人代名」總代々表 金子長太責任總代 金子長太、宮崎清一、服部一郎、古田鱗作總 代 内海泰明、宮尾芳宜、湯川 登、中澤静雄、岩崎和子、湯川富恵宮 司 柳田直継 平成五年十一月吉日 湘南石材鳥居の右側にふたつの石碑が並ぶ。前の石碑には、「御造営記念誌」 昭和五十六年四月吉日 御社殿一宇造営 昭和五十七年十二月吉日 大鳥居建設 昭和六十二年十二月吉日 社務所建設 昭和六十三年十月吉日 神楽殿造営 昭和六十三年十月吉日 おきつね像一対造営昭和五十六年以降、氏子の努力で社殿等が再建されたようだ。御造営記念誌の裏には、社地二百二十一坪 昭和三十五年二月十一日建之 寄附者 米善本店 杉山茂殿玉垣の傍に、移設された庚申供養塔が並ぶ。社殿前に朱色の鳥居が並ぶ。鳥居を下から見上げる。鳥居左側に手水舎。鳥居を潜ると社殿の扁額「稲荷山神社」。社殿の右側に建つ神楽殿。神楽殿の前は草が生い茂っていた。神楽殿の扁額「神楽殿」。昭和六十三年十月吉日に造営された「おきつね像」が鳥居の左右に建つ。左側のおきつね像。台座には、「奉賛者御芳名 昭和63年10月吉日」「一金拾萬圓也 三興製鋼、石田電業社、三保鑛業生コン、米善本店、一金七萬五仟圓也」。右側のおきつね像。こちら側の台座にも、「奉賛者御芳名 昭和63年10月吉日」「一金拾萬圓也 浅八丸、伝平網、㈲中澤組、㈲秋山一夫石材店、一金七萬圓也 魚春魚店」。御神燈には「明治三十九年二月十一日」とあったが戦災前のものであろう。社殿左側に社務所。狭い境内に所狭しと建つ。幟用の支柱も。新しく奉納されたこれは?台座には「令和元年四月吉日 寄贈者 総代代表 中澤静雄・真美」裏面には「正一位西町稲荷神社」。こちらの石碑には「勲六等單光旭日章 記念植樹 敬 神 功 労 賞 記念植樹」と。玉垣造営寄贈者壱拾萬圓 ㈱石田電業社、三興製鋼㈱、ほか八萬圓 ㈲椿商店 平成八年六月吉日 正一位 稲荷山神社北西方向から西町稲荷神社を振り返る。狭い境内も寄付されたものだがその敷地内に、昭和56年以降いろんな方の奉賛金で再興されているようだ。合流マンホール蓋「高浜台」。15:10西町稲荷神社を後にし、「ひらつかビーチパーク」へ進む。スマホの案内で国道134号を大磯方面へ進む。藤沢、茅ヶ崎の海岸線はサイクリングロードがあり安全に移動できるが平塚にはないため道路沿いの歩道を走る。前方に高浜台歩道橋。国道134号の平塚駅南口入口交差点。県道608号線へ進むと直ぐに、バリアフリー構造になっている高浜台歩道橋の入口。緩いスロープになっているが「自転車降りて押してください」と。仕方がなく重い電動アシスト自転車を押して移動。国道134号の江の島、茅ヶ崎方面。県道608号線の平塚駅方向。高浜台歩道橋はこのスロープだけで数十メートルになっている。右側の松林の先は「湘南海岸公園」になっている。高浜台歩道橋に横断幕「西湘BP 西湘PA(下り) 工事閉鎖 2023年4月末まで」。高浜台歩道橋上から大磯方向を望む。富士が顔を出していた。露出を変更して撮影、今夕の夕焼けも楽しみだが。15:20高浜台歩道橋を下りると、国道134号の海側は歩道がない。案内板には、「湘南ベルマーレ・ひらつかビーチパーク & 平塚海岸・海水浴場入口」。湘南ベルマーレ・ひらつかビーチパーク所在地:神奈川県平塚市高浜台33-1平塚海岸は、全長4kmの自然豊かな海岸で、中央部に位置するビーチパークでは、ビーチバレーやバスケなどのビーチスポーツが1年中楽しめます。江の島方向を望む。湘南ベルマーレ・ひらつかビーチパーク配置図ここははじめて訪れたが設備として、公共シャワーが1箇所、公共トイレが1箇所の他に、ビーチサッカーコート・ビーチラグビーコート・飲食ブースなど、通年通してファミリーで楽しめる海水浴場になっていますと。ビーチバレーコートが何面もある。湘南ベルマーレ・ひらつかビーチパーク海水浴場を利用する際は、無料の「湘南海岸公園駐車場」が利用できる。台数は91台停めることができる(2台は身体障がい者用)。15:25海水浴場の先には防波用のテトラポット。平塚八景「平塚砂丘の夕映え」を目的地にしていたので再度訪れることとし後にする。 ー 続く ー
2022.12.04
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雨上がりで富士山が顔を出していたので天気も回復し急遽、昼食後平塚へ向かうことに。11月21日(月) 13:15千ノ川沿いを下り「南湖の左富士」ポイントへ。昨夜来の雨で富士山には雪が積もっていた。千ノ川に架かる国道1号(旧東海道)の鳥井戸橋。この場所は「関東の富士見100景」に指定されているのだ。欄干に取り付けられているネームプレート。鳥井戸橋から千ノ川の下流側をズームアップすると雲の中に富士山。更にズームアアップ、手前は新湘南バイパスの高架橋。国道1号(旧東海道)の鳥井戸橋交差点に建つ鶴嶺八幡宮の大鳥居。この交差点を左折すると「左富士通り」を南下、国道134号の浜見平入口交差点へ至る。左富士通りの石原橋。正面に雲で覆われる雪化粧の富士山。交差点の片隅に建つ「南湖の左富士之碑」。南湖の左富士の由来浮世絵師安藤広重は天保三年(1832)に東海道を旅し、後続々と東海道五十三次の風景版画を発表した。その中の一枚に南湖の松原左富士がある。東海道の鳥井戸橋を渡って、下町屋の家並の見える場所の街道風景を写し、絵の左には富士山を描いている。東海道のうちで左手に富士山を見る場所は、ここと吉原(静岡県)の二か所が有名。昔から茅ヶ崎名所の一つとして南湖の左富士が巷間に知られている。国道1号を更に平塚に向けて走る。右側には「日蓮宗 信隆寺」の山門、また道路脇に案内板。第17回 湘南国際マラソン 12月4日(日) 通行止め8:00 頃 ~ 15:45 頃 国道134号 西湘バイパス 江の島入口付近 ~ 西湘二宮IC間 江の島には入れます6:00 頃 ~ 16:30 頃 大磯町 国府本郷及び大磯西IC 会場付近 ご理解・ご協力の程、お願い致します。 主催:湘南国際マラソン実行委員会更に国道1号を西へ向かうと馬入橋上に富士山。馬入橋から見る富士をズームアップ。更に頂上をズームアップ。大山、丹沢連峰を望む。馬入橋を渡り、工業団地入口交差点を数十メートル戻り、ホテル サンライフガーデン所在地:神奈川県平塚市榎木町9-41平塚市の結婚式場で、落ち着いた雰囲気の客室を備えたくつろげるホテル。レストラン、チャペル、イベント スペースがある。ホテル入口の駐車場には車両ナンバー「11ー22」の「いい夫婦」。ホテル玄関前に「明治天皇馬入御小休所跡」の石柱。遺跡の由来平塚市榎木町ホテルサンライフガーデンの敷地はわが平塚市の文化史、経済史の上で特筆されるべき遺跡だといわれている。大住郡公所村の大官端山家に生まれた杉山久五郎は、若い頃江戸に出て生薬を学習。縁あって杉山家を襲い、この場所で薬種商を営んで大成功を収め、子息泰助を大阪に遺し緒方洪庵に就いて医学を学ばせたという。かくて父子協力して家業の発展に努め財を成す。又、折柄、明治の新時代を迎えて、石油と砂糖の需要の増加を予測し、馬入川(相模川)の舟行を利用して、上流各地に広く販路を拡大していった。更に陸路は馬力を利用し神奈川県中央部で石油と砂糖の大問屋となって、大成功を遂げ、豪壮な家屋を建築した。屋敷の周囲には石垣を構築みずから「石垣」と称し、世間もまた「石垣」と敬称した。明治六年八月三十日、天皇(明治)皇后(昭憲)お二方が東海道御通行の時、ここに立寄られ休息されたのは天皇二十二歳、皇后二十四歳のときである。又、明治十一年十一月八日には明治天皇の再度御立寄の光栄に浴した。明治十五年七月、この石垣の邸内に株式会社江陽銀行が開業したが、同行は神奈川県中央地域に於ける最初の銀行で頭取は杉山泰助、江陽の名は耕餘塾小笠原東陽の命名である。「明治天皇馬入御休所跡の碑」は昭和十五年皇紀二千六百年記念に泰助の孫久吉が建立した。揮毫は子爵金子堅太郎である。 平塚市文化財保護委員 八十三叟 高瀬慎吾14:00ホテル サンライフガーデン前を通り抜け東側へ回り込む。この辺りには今まで見落としていた、馬入渡川会所跡、馬入ポンプ場があったので訪れる。正面の建物は結婚式場の「グランドビクトリア湘南」のチャペル。石碑には「馬入渡川會所跡」と刻まれていた。所在地:神奈川県平塚市榎木町9川会所は江戸時代に川越を取り締まった役所で、川役人がいて、渡船の管理や渡賃の徴収などを行っていた。川会所跡(かわかいしょあと)川会所は、江戸時代に川越を取り締まった役所で川役所とも言いました。川会所には川役人(川名主と年寄)が在勤し、川の深浅を計り、川留・川明を決めたり、渡船の管理や渡賃の徴収などを行っていました。通行人は渡賃を払って、川越をしていました。元禄三年(1690)当時の旅人一人の渡賃は十文でした。馬入の川会所は、間口一間半、奥行二間ほどの家で、馬入川渡し場の西川端にありました。馬入の渡しには渡船が常備されていて、定掛り村が須賀と柳島村、定助郷村が馬入村ほか四か村、加助郷村が田端村ほか十か村で、それぞれの村々が渡しの業務の負担をしていました。 平成十九年(2007)三月 平塚市南側には馬入ポンプ場。左側に「馬入渡川会所跡」の石碑、奥に「馬入ポンプ場」の建屋。 グランドビクトリア湘南チャペルの下に「史跡 東海道 馬入の渡し跡」木柱の「史跡 東海道 馬入の渡し跡」をズームアップ。右側の鉄塔が気になる「グランドビクトリア湘南」のチャペル。馬入ふれあい公園の紅葉。馬入ふれあい公園のメタセコイア並木。子供連れの人が散歩。相模川の河川敷に下り、馬入排水樋管前の河川敷にある橋を渡る。橋上からの馬入排水樋管。橋の名は「馬入水門橋」。馬入排水樋管の全景。馬入排水樋管 1981年 1月 建設省関東地方建設局 管理者京浜工事事務所 幅 5.00m 高 3.75m 施 工 株式会社奥村組馬入排水樋管門扉純径間×扉高 5.00×3.75m×2門開閉速度 0.3m/min.扉体重量 6.400ton×2門扉体材質 SMA41A製作年月 昭和55年11月製 作 日本鋼管株式会社いつもは多くの釣り人がいるが今日は月曜日で少なかった。水面にはハゼ?が泳いでいたが。カモ?が群れを成して泳ぎ回る。国道1号の馬入橋を見上げる、下流側にJR東海道本線の馬入川橋りょう。上流側にはモーターボートの陸揚げ施設。相模川河川敷から馬入橋へ上がり茅ヶ崎方向へ進み橋の中程から、丸いドームのひらつかサン・ライフアリーナ、大山を望む。馬入ポンプ場、馬入排水樋管を望む。後方には雪化粧の富士山。上流の湘南銀河大橋を望む。相模川の中に大きな中洲が確認されたがこの中洲はほとんどが茅ヶ崎市に属する。14:30馬入橋を戻り、次の目的地「西町稲荷神社」へと向かった。 ー 続く ー
2022.12.03
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善性寺の後は、相模川右岸にある「久領樋管」へ。11月12日(土) 13:35三嶋神社、善性寺の近くにある、須賀公民館交差点。マンホール蓋の「うすい 夕陽ケ丘」。14:00途中、港小学校へ立ち寄りここ相模川右岸へ到着。上流側に架かる、JR東海道本線の馬入川橋りょう。釣りからの帰りであろうか上流へ向かうモーターボート。相模川右岸を河口に向って進み、振り返って電車を撮影。久領樋管所在地:神奈川県平塚市須賀堤防を横断する水路のことを樋管や樋門、水門といいます。排水路や支川が堤防を横断して川へ流れ込む場合に、堤防の中をトンネルのように通り抜けるものを樋管または樋門(※1)といいます。堤防を分断し完全な開水路で通り抜ける場合の構造を水門といいます。水門はゲートを閉めたときに堤防の役割を果たします。(※1)樋門と樋管には明確な定義はなく、一般的に、断面が比較的小さいものを樋管、大き なものを樋門と呼びます。上流には最近訪れた「馬入排水樋管」があった。久領樋管 久領樋管ゲート設備 1990年8月 純径間×有効高 3.60M × 1.80M 関東地方建設局 門 数 1門 管理者 平塚市長 扉 体 重 量 2.2T 幅 3.6m 高 1.8m 施 工 年 月 1990年8月 施工 国土総合建設株式会社 施 工 日工ゲート株式会社占用目的 公共下水道雨水排除のための放流出口ゲート占用面積 357㎡占用者名 平塚市連 絡 先 平塚市土木部下水道整備課所轄事務所 国土交通省 京浜河川事務所 相模出張所相模川もこの辺りまで河川敷があり下りる、下流側はトラスコ湘南大橋。久領樋管ゲート設備純径間 × 有効高 3.60M × 1.80M上流側をズームアップ。河川敷にはオギが生い茂る。この辺りでも河川敷から釣りをする人がいた。この場所には初めて来たが、翼?らしきものを持った人が川へ進んでいた。風流しがあったが。新しいマリンスポーツなのかしばし動きを追う。ズームアップするが、ウインドサーフィンではなさそうだが。風方向が海から上流側に向かっていたので水の中を歩いて下流側へと進んでおられた。陸地にあった注意書きの看板。水上バイクライダーのみなさんへ!!海 編 ・水上バイクのライダーは船長です。海上法規や利用のマナーを守りましょう。 ・操業中の漁船の周辺には接近せず、徐行して大きく迂回しましょう(しらす船曳き網)。 ・ブイの下は漁貝があります。遠く離れて航走しましょう(地曳き網)。河口編 ・波が高いときの入港船は、サーフィン状態で舵がききません。また波間の水上バイクは船 から死角となっています。河口付近では入出港船の船尾側を大きく迂回して下さい。 ・転覆した水上バイクやライダーは、船から死角となります。河口航路周辺での遊走はたい へん危険ですので厳禁です。 ・入出港する船と出会ったら進路を譲り、船にわかるようオーバーアクションで待機行動を とって下さい。相模川編 ・釣りや投網を打つ小舟は、引き波で転覆する危険があります。徐行して大きく迂回して下 さい。 ・相模川では3~6月にアユの赤ちゃんが海からたくさん遡上します。この時期は静かに安 心して遡上できるよう、優しさを分けて下さい。 ・のんびり釣りを楽しむ人たちへの思いやりをお願いします。また金属ラインの釣り糸は、 水上バイクライダーにとってもたいへん危険です。「平塚」海・川・浜のルールブック相模川河口の航行ルール●相模川河口は船の難所●水上バイクの河口航行ルール ①船舶の航行優先 ②右岸導流堤側の通行と入港船の後方迂回 ③漁港(須賀港)前面から河口周辺海域での安全走行の徹底 ④船から目立つ恰好をしてください。徐行エリア遊走禁止エリア走行禁止エリア が記されている。この辺りから水上バイクが発進しているようだが、この日は楽しんでいる方がおられなかった。久領樋管辺りから上流側を望む。右奥は馬入川橋りょう。河川敷から三興製鋼の煙突をズームアップ。河川敷に生い茂るオギであろうか風になびく。先程の方はボードの上に立とうとしているのか。風に乗って舞い上がるのか?ウィンドサーフィンではないようだが。翼らしきものを持って水面を走るのか? カヤックを楽しむ人も。河川敷から堤防上に上がり河口へ向けて進むとモーターボートの桟橋。川面からの斜面がありしばし見学。桟橋にモーターボートが入り水面に入った台車上に。ズームアアップ。台車上にボートを固定し車で引き上げる。この後、右岸の堤防を越え他の保管場所へ移動して行った。こちらの二艘は台車に乗せられて護岸に置かれていたが、台車はボート所有者のものなのか。この日は土曜日で朝から釣りを楽しんだ人が次々と桟橋へ帰港。水上バイクを楽しむ人もいたがルールを守って!帰港すると船を洗浄し、引き上げエリアへ移動。一回の作業でどれだけ請求されるのか?左側の坂を上り保管場所へと陸揚げ。桟橋から更に右岸の堤防上を下るが須賀港があり堤防が寸断されているので須賀港の西側へ。須賀港の西側入口にある「札の辻跡」。白い二階建ての建物は「旧須賀交番」で令和3年3月31日をもって閉鎖したと。左側は県道607号線(平塚港平塚停車場線)で平塚駅へと進む。須賀港前から再度相模川右岸堤防上を進みトラスコ湘南大橋へ。トラスコ湘南大橋を潜り抜けると、駐車場入口の看板。左側:ひらつかタマ三郎漁港有料駐車場入口右側:しらす購入客・遊漁船利用者出入口この界隈の観光案内。案内板の隅に「ひらつかタマ三郎」ひらつかタマ三郎は、東海大学教養学部芸術学科デザイン学課程により平塚の漁業PRキャラクターとして生み出されましたと。代表的な、① 平塚灯台 ② 湘南潮来◇ 須賀の頓狂(頓狂) 頓狂(とんきょう)は須賀の代名詞のように言われていました。須賀の土地柄が川と海に 接して開放的であるので、そこに住む住民も明るく天真爛漫な人柄が多いといわれてい ます。頓狂は頓智(とんち)とも解することができ、昔、須賀の魚売りが得意先で手真似 顔つき面白く語り、聴く人達を喜ばせながら商売をしたといわれます。◇ 須賀のおもしろ話 三嶋神社の境内に大きな銀杏(いちょう)の木がある。昔、一人のおばあさんが袋いっぱい 「ぎんなん」を拾っていた。神社におまいりに来た人が「おばあさん随分拾ったね。これじ ゃご飯の代わりになるね。」 と冗談を言ったらおばあさんが「何を言ってるんだい!?、お 前さん、そんなに食べたら胃腸(いちょう)に悪かんべぇ!」とまじめな顔で言ったという。写真は昔の須賀港ひらつかタマ三郎漁港入口から国道134号へ戻ると多くの人がゼッケンをつけ歩いていた。背中のゼッケンは「TOKYO XTREME WALK100」。帰宅してネットで調べるとこの日は、「第5回東京エクストリームウォーク」が開催され、小田原城址公園を出発し東京江東区の有明ガーデンまで100キロを歩く。「東京エクストリームウォーク」とは、自身の体力と気力の限界に挑み、100キロを歩ききるイベントです。制限時間は26時間。多くの人が夜通し歩く「エクストリーム(過激)」なウォーキングです。一人で挑んでも、仲間とともに挑んでも、きっと、これまでにない気づきや絆が生まれるはずです。江の島付近までの34キロを制限時間8.5時間で歩くビギナーズ部門もございます!。ご夫婦で参加されている人も「私たちは江の島までの34キロです」と。一人で歩いていた若い男性と話をすると、東京まで歩くとのことで100キロコースの参加費は16,000円である。「高いですね」と話すと「途中のポイントで食事、飲料水が出ます」と。先程立寄ったタマ三郎漁港近くの「しおかぜ広場」が中継点になっていたようだった。国道134号の柳島交差点。私はここを右折して相模川左岸河口へ進む。ウオーキングコースは直進し、数百メートル先でサイクリングロードへ入るようだった。15:35サイクリングロードを進むと多くの参加者がゴールの江の島、有明に向かっていた。ネットによるとゴール率(100km部門)は75.9%であったようだ。次回は、2023年6月3日(土)、4日(日)に開催予定ですと。サザンビーチから鉄砲道へ戻り東へ進み、雄三通り中央交差点。更に鉄砲道を東へ進み、この先の松が丘交差点を左折しラチエン通りへ。15:55肉の老舗 香川屋分店所在地:神奈川県茅ヶ崎市東海岸北5丁目15-65途中妻に電話をし今夜のおかずにメンチカツ、コロッケを購入。この後、自宅へは16時過ぎに到着。バッテリー残量は12%、走行可能距離は11kmとギリギリ。今日の走行距離は42-11=31kmであった。 END
2022.12.02
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三嶋神社の参拝を続ける。11月12日(土) 13:00三嶋神社拝殿創建時期不明。平安時代の別当寺長楽寺の古文書に「薬師、三嶋明神の本地仏なり」の記録がある。永禄9年(1566)には小田原北条氏の保護を受け、江戸時代には、伊豆、安房の住人を始め、海路の大山詣では平塚須賀港で上陸すると、当神社に道中安全を祈願する習わしであったという(平塚三嶋神社由緒書より)。拝殿の左前には大きな「えびす様御神像」。七五三の幟も立つ。拝殿の彫り物が素晴らしいと。彫 刻:三世一元 永田謹一郎・渡辺豊雲 作 社名額:田中真州 作ズームアップ、鳩と松の枝。正面の下に飾られた彫り物。拝殿の扁額の両脇にも彫り物。拝殿の扁額「三嶋神社」は田中真州 作。拝殿の右側の彫刻はおとぎ話の「浦島太郎」。左側はおとぎ話の「天の羽衣」の彫刻が飾られています。福笹を持つえびす様をズームアップ。湘南ひらつか「七福神めぐり」 三嶋神社・・・恵比寿神 恵比寿神は、七福神の中で唯一日本の神様です。「因幡の白兎」の神話で有名な大国主命の 子供の事代主命がもとであるとされ、漁業と五穀豊穣、商売繁盛の神様として人々から厚く 信仰されています。七福神と秋の七草 秋の七草は、万葉集に出てくる歌人、山上憶良が「萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花 女郎花 また 藤袴 朝貌の花」という和歌を詠んだことから生まれたとされています。 湘南ひらつか七福神では、各境内(五ヶ所)に秋の七草を植栽・育成中です。三嶋神社の七草 桔梗 日本各地、朝鮮、中国、東シベリアなどに分布されています。 園芸店ではよく見かけますが、自生しているものは少なく、絶滅危惧種に指定されています。 山上憶良の歌では「朝顔」ですが、桔梗の事であるとされています。根はサポニンを多く含 むことから「桔梗根」という生薬として鎮咳、鎮静、解熱などの効果があるとして昔から利 用されています。拝殿の左側に、境内社の案内「厄神社と伊邪那岐社」。社殿の裏側に、境内社の「厄神社、伊邪那岐社」が建つ。手前に「厄(やく)神社」。厄神社古くより厄神様と言われ除厄開運・流行病はもとより種々の病気を癒す守護神であり特に子を守り子供の病をお守り下さる。鳥居の奥に厄神社の社。右へ進むと「伊邪那岐(いざなぎ)社」。伊邪那岐社 祭神 伊邪那岐尊命多くの神々の祖父神であり日本国の発展を司る高霊な神様です。平塚は大戦での空襲で焼失したので集められたのであろうか多くの石塔が立っていた。左側から、道了命、御嶽大神、大山不動明王、若宮霊神などで、右側の3つは?。三嶋神社と大東亜戦争後の記念碑昭和二十年七月十六日の戦災により、三嶋神社社殿一宇を始め須賀地区は一面焼け野原になってしまいました。同年二十年九月始め、当時宮総代並びに二十六区の区長であった田中壮太郎氏と当時の宮司亀井八朗氏が相談の結果、何とか仮社殿でも建てなければと戦後の材木の入手困難な時節、大山より苦心に苦心を重ねて材木を入手し仮社殿を建てることができました。現社殿は昭和二十五年になって当時の神社役員氏子中の奉賛により建立されております。戦災による焼失にもかかわらず神社社殿の歴史を一年をも断絶することなく現在に到っていることを考えますと、当時の役員田中氏と亀井宮司の御苦労に心より感謝申し上げる次第です。平成十七年が戦後六十年の年となる今日、右の記念としてこの碑を建立し、末永く感謝の意を表します。 平成十七年六月吉日 三嶋神社役員一同 記 記念碑建立寄贈者 平塚市代官町二十九 - 三 田中壮太郎氏六女 神山淑子裏側から本殿を見る。本殿裏に建つ伊邪那岐社。社殿裏から拝殿前へ、右側にナマコ壁の蔵が建つ。彫刻もされているナマコ壁の蔵で、宮行事に使用する機材を保管していると。石碑には、「奉納 大正十年三月 金四百圓」。初めて訪れた三嶋神社を後にする。二の鳥居の台座に銘板、「奉納 一の鳥居・二の鳥居改修 代官町和田桂司 平成四年十一月吉日」。 13:15昼時も過ぎたので、公園のベンチに座りパン祭りで購入したパンを食することに。あげぱん 200円昔よく食べた懐かしいパンであった。購入してから時間を経ていたが砂糖味が美味しかった。イチョウの木の黄葉にはまだ早いようであった。境内のクスノキが聳える。三嶋神社への脇道。道路を挟んだ向かい側に日蓮宗のお寺があった。南東方向の須賀港方向を振り返る。山門左側に建つ寺号標石「善性寺(ぜんしょうじ)」所在地:神奈川県平塚市夕陽ケ丘45-6山号を「梵行山」と号し、「梵行山・善性寺」と称する、日蓮宗の寺院。正面に立つ本堂開山は、日栄上人(1661年)により約350年前に創建されたと伝わる。もとは三浦郡横須賀にあったが、国の政策により昭和17年(1942)平塚市に移転され、平塚では明治時代より中山祈祷所、鬼子母神堂と称し親しまれていた。別名「湯呑み寺」。湯呑みの芸術品を愉しめる全国唯一の寺。秋の七草は、オバナ(ススキ)が咲きます。昭和20年7月の平塚大空襲で全焼し、昭和39年(1964年)に再建されました。本堂の扁額「梵行山」本堂内をどうぞとの貼紙で扉を開け内陣を見る。右手前に「福禄寿(ふくろくじゅ)」福徳・財宝・長寿の三徳に御利益をもたらす神。善性寺の福禄寿は、本山から賜った象牙で掘られていますと。本堂の扉前には「七福神」の旗が立つ。また柱には「我○○安穏天人〇満」と。扉のガラスも綺麗だった。本堂入口の右側に「福禄寿」「台座に「湘南ひらつか七福神 福禄寿」と。 石塔も、文字が刻まれていたが風化して判読できなかった。庫裡の入口上に、当寺の別名「湯呑寺」と書かれていた。定期的に何かを開催しているのか。山門を入ると右側にあった石像。観音像であろうか。境内の隅に社があり、石像が2基並んでいた。男女の仏像。13:35本堂入口両側に境内にはツワブキが綺麗に咲いていた。ズームアップ。 ー 続く ー
2022.12.01
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浄土真宗大谷派真福寺からJR東海道本線の南側へ移動する。11月12日(土) 12:30国道1号(旧東海道)から左折し国道129号を南下、JR東海道本線の地下道を潜る。現役時代の若い頃この先に会社があり自転車で通った懐かしい道である。国道129号の久領堤交差点を斜め右方向へ進む。左側に集合住宅の「グレーシアパーク湘南平塚」が2棟建つ。この場所は昭和の時代まで現役時代の会社があった場所である。現役時代に通った自動車教習所、以前は「米善自動車学校」であったが。現在は「湘南平塚モータースクール」に替わったようだ。三嶋神社所在地:神奈川県平塚市夕陽ケ丘60-27北側にある入口で、車の場合はこちらから境内へ入るようだ。南側に廻り、左側の道路を北西方向へ進むと平塚駅南口へと至る。会社はこの近くにあったがこの神社の存在を知らず初めての参拝である。若い頃はあまり信仰心もなく興味もなかったが。道路脇の社標には「平塚 三嶋神社 えびす様のお宮」と。嵩上げされている「一の鳥居」。三嶋神社に隣接する三島児童公園も紅葉が進む。一の鳥居を潜ると右側に、松の木が4~5本。その間に祠が建つ。三嶋弁天社の朱色の鳥居。鳥居には「三嶋弁天社」。須賀の弁天社の由来その昔、此の処は平塚三嶋神社の所有地で、二つの大きな御神池があり、池の中心に弁天社が祀られてました。戦後の区画整理で、池が埋め立てられ、市の三島児童公園となりました。この弁天社は、財運や芸能上達をもたらし、石造りの手水舎は、およそ三百年以上前の江戸時代の延宝年間(1673年~)に奉納されたものです。現在も多くの参拝者と昔をしのぶ、大きな松が弁天社を見守っています。 平塚三嶋神社 氏子会 会長 山口義高須賀の弁天社の祠 奉 三嶋神社役員一同 納 平成元年十二月吉日参道を進むと二の鳥居石碑には、記念碑 大楠木平塚市指定保全樹 秋篠宮悠仁親王殿下御誕生 玉垣改修二の鳥居の右手前に聳える御神木のクスノキ。平塚市保全樹木 ● くすのき ● 指定第八十二号 ● 平成十八年四月一日 平塚市三島児童公園二の鳥居を潜り右側に「大錨」。石碑には「昭和六年七月三日 八丈島 ・・・・・・ 大 錨 伊平丸」とあったが、説明板が無く詳細は不詳。大錨の東側に大きな「忠魂碑」。忠魂碑には「元帥伯爵東郷平八郎 書〇」忠魂碑の後方に鳥居があり廻り込む。鳥居の奥に道祖神。道祖神にまで紙垂(しで)が付けられていた。道祖神の右側に庚申塔他の石塔が立っていた。参道の左側には、神輿殿。神輿殿の扁額「神輿殿」。神輿殿の壁に、三嶋神社 旧大御輿修理再興奉賛金 北 町 金壱百壱萬円 横 町 金壱百壱拾七萬壱阡円 仲 町 金壱百壱拾八萬円 南 町 金壱百六拾弐萬八阡円 西 町 金壱百五拾八萬六阡円 代官町 金壱百四拾弐萬七阡参百円 日本端子 金五拾萬円 合 計 金八百五拾萬二阡参百円参道を進むと狛犬、鳥居、拝殿、桜の紅葉も進んでいた。参道の左側に、神輿殿、神楽殿が続く。神楽殿の扁額拝殿前に「令和四年度 新春えびすまつり奉賛者御芳名」金拾萬円也、金伍萬円也、金参萬円也、金弐萬円也、金壱萬円也、金伍阡円也、金参阡円也。右側の狛犬後方から高層マンションが見下ろす。左側の狛犬拝殿前には赤い傘、ベンチも。手水舎平塚七福神「湘南のえびすさま」「七福神めぐり」の幟が立つ。拝殿前右側に社務所。右側に「福笹(ふくささ)のえびす様」福笹のえびす様えびす様は七福神の中で「大鯛」をかかえたお姿から商売繫昌・家庭円満を導く神さまとして有名です。福笹についている縁起物は「吉兆」と呼ばれ、あらゆる開運の象徴です。この福笹のえびす様の「大鯛」をなでると「福」が授かるといわれます。拝殿前から参道を振り返る。平塚七福神・湘南のえびす様 平塚 三嶋神社のご由来= ご祭神 大山祇命・事代主大神 =古来、須賀の明神様と称せられ広く遠方に親しまれ崇敬されております。ご祭神の大山祇命は、心身の清浄を尊ばれ厄災を退ける神さまとして崇められています。事代主命は、七福神の中で「えびす様」で親しまれる神さまです。大漁満足、諸産業の繁栄、人々の福徳円満をもたらし、皇居の宮中においても八神の御一柱としてもお祀りされており、誠に御尊厳の高い神様です。= ご創建 =遠い太古の昔、人々が漁業を中心として生活し始めた頃(千年以上前)といわれ、古文書には平安時代(794年~)に「薬師三島明神の本地仏なり 長一尺五寸 弘法の作と殿」と記されています。その頃からすでに多くの人々の信仰を集めていたと思われます。= 須賀のまつりと歴史 = (毎年七月中旬の土・日)地域に流行病や災いがなく、平和で大漁満足・五穀豊穣を祈るお祭り。古くは、五台の山車を先頭に榊・鉾・剣等が従い、次に神輿・名主・組頭百姓氏は麻上下、町頭は羽織姿で警護し、各町内を巡り、海岸で浜降りを行い、深夜に神社(宮入)した。現在は太鼓山車を先導に大御輿、六基の町内神輿が二日間にわたり町内を巡り、神輿を海に入れてもみ上げる「浜降祭」が行われます。夕刻には子供達の七夕パレードをはじめ、太鼓山車、大御輿と町内神輿が神社へ宮入し勇壮な夏祭りです。= 新春えびすまつり = (毎年一月第三の日曜日)新しい年の初めにえびす様の崇高なご神徳を称え、福男・福女が特設舞台から「商売繫盛で笹もってこい」のにぎやかなかけ声で「開運福まき」を行います。また、福笹に色々な招福縁起物を飾り、お店やご家庭に1年間お飾りします。これを通じて人々の繁栄と開運を導いてくれる、新春を彩るにふさわしい名物祭りです。13:00手水舎の右側に「水神社(すいじんしゃ)」。水神社(すいじんしゃ)水鉢に「水みくじ」を浮かべると文字があらわれるのだ!水神様の水占い「水みくじ」の作法 ◇ 「水みくじ」を水鉢に浮かべます。 ◇ しばらくすると「文字」があらわれます。 ◇ 文字があらわれたら「水みくじ」を水鉢からとりだし、水神様のお告げを読みます。◎ 「水みくじ」は「おみくじ掛け」に結ぶか、お持ち帰りの方は添付の「ビニール袋」をご利用 下さい。◎ 「水みくじ」は約30秒間くらいで文字があらわれます。 ー 続く ー
2022.11.30
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3年振りに開催された「茅ヶ崎パン祭り」のあと、国道1号(旧東海道)を走り平塚へ。11月12日(土) 11:50国道1号(旧東海道)の新田入口交差点。神奈中バス停「新田入口」、この先で平塚市に入る。相模川は東海道の難所として知られ、平安時代は浮橋で渡っていた。鎌倉時代、源頼朝が橋の落成式の出席後に落馬し、翌月に亡くなった。旧相模川橋脚の位置は現在の馬入橋の位置より東に2kmほどずれているが、本橋の名称や地名としての馬入の由来はこの逸話にちなんでいる。江戸時代の相模川は現在の馬入橋付近に橋はなく、渡船による往来が行われていた。近代橋としては明治11年(1878)に初代の木桁橋が架設され、明治44年(1911)に2代目の鋼橋に掛け替えられた。大正11年(1922)に再び掛け替えられることとなったが、架け替え工事中の大正12年(1923)に関東大震災により被災、完成状態だった下部工が崩壊した。この崩壊した橋の代わりに陸軍第16師団及び陸軍第15師団が橋梁を架け直しこれが3代目橋梁となる。橋の西岸南側に陸軍第16師団を讃えた記念碑が建立されている。その後、3代目橋梁は老朽化と幅員の不足を理由として架け替えが行われることとなり、4代目橋梁が3代目橋梁の南側に並行して建設された。昭和55年(1980)4月供用を開始。馬入橋の架け替え事業と並行して馬入川の護岸整備も行われたため、4代目橋梁は3代目橋梁より橋長が約80m短くなっている。馬入橋は平成2年(1990)にかながわの橋100選に選定され、平成10年(1998)には日本百名橋にも選定されている。ネームプレートの下にその銘板が付けられている。上流側には湘南銀河大橋の主塔が二本。下流側にJR東海道本線の馬入川橋りょう。この日の富士山は雲に隠れ見えなかった。橋上には「日本橋から 62km」のキロ標柱。下流側にはトラスコ湘南大橋、帰路はこの橋を渡る予定。現役時代の深夜、この橋を渡る轟音で目を覚ましたものだ、当然一駅乗り過ごし。上り電車があればよいのだが、無ければタクシーで国道1号の馬入橋を渡って自宅へと帰った苦い思い出のある橋である。JR東海道本線の馬入川橋りょうの下には、大正12年(1923)の関東大震災により被災、完成状態だった下部工が崩壊した状態で今でも残る。馬入橋を渡り西側から。左下には「平塚市馬入貯留管ポンプ場」。国道1号の北側には、「馬入ポンプ場」「ホテルサンライフガーデン」。道路の斜面には雑草対策のシートが張られていた。馬入橋の西岸南側に陸軍第16師団を讃えた記念碑が建立されている。陸軍架橋記念碑石碑には「大正十二年九月大震ノ際京都工兵第十六大隊ハ馬入橋架設ノ為メ同月十七日・・・ ・・・(中略)・・・ 大正十二年七月工兵・・・・・」と刻まれている。 陸軍架橋記念碑大正十二年(1923)九月一日、関東大震災によって馬入橋が倒壊し、交通が途絶しました。地元の消防組・在郷軍人会・青年団によって即日渡舟が運行されましだが、数日後の豪雨で流失し、しばしば中断してしまいました。九月十七日、陸軍第十五師団(豊橋)所属工兵大隊と、第十六師団(京都)所属工兵大隊が急きょ派遣され、架橋工事が開始されました。橋の全長四五○メートルのうち、馬入側の三○○メートルを第十六師団、茅ヶ崎側を第十五師団が担当して、同年十月三日に完成しました。この記念碑は馬入側を担当した第十六大隊の事績を称えたものです。 石碑の碑文(略) 平成十八年(2006年)三月 平塚市茅ヶ崎側にはこのような碑がない。馬入橋全体が平塚市に属しているので東側にも「第十五師団」を称える碑が必要ではと思うが。平塚市の合流マンホール蓋「馬入本町」。平塚市馬入貯留管ポンプ場の建屋。馬入貯留管ポンプ場にある設備。馬入雨水吐室 ろ過スクリーン施設の東側に廻り「平塚市馬入貯留管ポンプ場」所在地:神奈川県平塚市馬入3097貯留管ポンプ場は、雨天時の初期雨水と汚水が混ざった合流水を貯留管に溜めて、晴天時に処理場に送水する役割を担っており、ポンプ場と同じ設備を備えています。浄土真宗大谷派 真福寺(しんぷくじ)所在地:神奈川県平塚市馬入本町14-10真福寺は、歸命山無量院と号します。真福寺は、釈善秀(永禄2年1559年寂)が開山となり大永5年(1525)に創建したといいます。山門前に立つ2基の石碑。左側に「馬入小学校創設之地」、右側に「真宗 歸命山眞福寺」。真宗 歸命山眞福寺馬入小学校創設之地の碑の裏には、「昭和五十七年十月 松原小学校創設百周年 記念事業実行委員会」と。山門前西側から。平塚市指定重要文化財 絹本着色 親鸞聖人像 絹本着色 聖徳太子像 絹本着色 浄土七高僧像 絹本着色 蓮如上人像 平成七年一〇月二五日指定真福寺は、大永五年 (1525) に諸国行脚の僧釈善秀(しゃくぜんしゅう)が開いたと伝える市内唯一の浄土真宗の寺院です。同寺に伝来するこれらの画像は、その作風から善秀の在世期に遡る室町時代後期の作と推定されます。浄土真宗では、室町時代中期以降、本山の本願寺が中央集権的な勢力を強め、本堂に祀るものとして、浄土真宗の開祖である親鸞像や聖徳太子像・浄土七高僧像のほか、蓮如をはじめとする歴代門主像などの尊像を、本末の証として下付する方式を確立しました。このため浄土真宗の地方寺院には、中世までに下付されたこの種の尊像が残されている例が多く、真福寺が所蔵する四幅もその例といえるでしょう。 神奈川県内では真宗系のこの種の画像は数少なく、戦国期における真宗教団の実態を物語る資料的価値をも有しています。 平成九年三月 平塚市教育委員会 山門に掲げらた表札「真宗大谷派 真福寺」。山門を入ると正面に北向の本堂が建つ。本堂左側にはベンチにお茶が出されていたが何か作業?本堂扉に映える境内のイチョウの木。山号:歸命山、院号:無量院、寺号:真福寺、本尊:阿弥陀如来像。本堂前から山門を望む。真福寺は国道1号の南側に位置している。本堂右側に寺務所、庫裡が建つ。山門左側にはイチョウの木があるが伐採されているようだ。本堂裏に「南無阿弥陀佛」と。境内の東側に駐車場があり、南側に「法楽殿」が建つ。門前の扁額「法楽殿」。真福寺の山門から西へ進みお寺の塀に「真宗大谷派 真福寺」の掲示板。広域避難場所案内板蔵邸公園(くらていこうえん)所在地:神奈川県平塚市馬入本町11-10-12蔵邸公園は平塚市にある住宅街の、子どもが走り回れる広さの公園です。昭和後期につくられた第二次ベビーブームのための公園です。公園の設備にはトイレ、水飲み・手洗い場があります。遊び場には砂場、ブランコすべり台鉄棒があります。公園は昭和後期につくられただけに大きな木が聳える。木々が茂っていて春は桜、夏は蝉しぐれ、木陰で涼しく、秋は紅葉と素敵な公園であると。蔵邸公園から見落としていた「丁髷塚」を見るために国道1号の北側へ移動。前方は馬入交差点で右方向はバイパス。スマホの案内で国道1号から北へ進み墓地の一角に立札を発見。所在地:神奈川県平塚市榎木町5-7丁髷塚に建つ石碑には「丁髷塚」。「むかし馬入村の若衆十六人のちょんまげを埋めた處と言う」。丁髷塚(ちょんまげづか)むかし相模国府祭の日の帰還途中の一之宮寒川神社の神輿と、平塚八幡宮の神輿を担ぐ若者たちが喧嘩をし、馬入の若者たちが一之宮の神輿を馬入川に投ずるという事件が起こりました。幸い神輿は南湖の浜に上りましたが、下手人16名は代官江川太郎左衛門の取り調べで、打首の判決を受けました。しかし処刑の日、代官はその丁髷だけを斬り落とし打首に代えたと伝えられています。蓮光寺の墓地にある丁髷塚は、その丁髷を埋めた所とされています。以前近くの「献上銘菓処 弘栄堂」でちょんまげ最中を購入食した。平塚市の合流マンホール蓋「榎木町」。馬入交差点左側に「東海道 馬入一里塚跡」石碑には「江戸 十五里、京 百十一里、大坂 百二十二里」と。再度、国道1号を横切り南側へ移動。民家の片隅に建っていた社。12:30こちらにも別の社が建っていた。この後、三嶋神社へ向かうことに。 ー 続く ー
2022.11.29
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平塚市の寺社史跡巡りの帰りに、いつもの夕陽撮影ポイントへと移動。10月22日(土) 16:10トラスコ湘南大橋を渡り茅ヶ崎市へと入る。トラスコ湘南大橋を渡ると柳島交差点で分岐する。16:17相模川左岸河口の砂浜。右奥に富士が顔を出していた。カメラの設定を下記に、 ① 三脚とレリーズを使用 ② 撮影モード:Av(絞り優先) ③ 感 度:ISO100 ④ 絞 り:F8 ⑤ ホワイトバランス:「曇」 ⑥ 露出補正:ー3 ~ ー216:33太陽が箱根の山に、雲もあり楽しみ。撮影情報:Canon EOS 70D 37mm、f/8、1/800秒、ISO100この日の日の入りは16:50頃で、日の入り後の30分までを撮影することに。 16:40撮影情報:Canon EOS 70D 37mm、f/8、1/400秒、ISO100駒ヶ岳辺りに日の入りだが残念ながら雲が発生。16:42撮影情報:Canon EOS 70D 41mm、f/8、1/80秒、ISO10016:43撮影情報:Canon EOS 70D 60mm、f/8、1/100秒、ISO100箱根の山並み左側から、二子山、駒ヶ岳。16:44撮影情報:Canon EOS 70D 39mm、f/8、1/80秒、ISO100駒ヶ岳の上に太陽。16:45撮影情報:Canon EOS 70D 39mm、f/8、1/100秒、ISO10016:47撮影情報:Canon EOS 70D 39mm、f/8、1/80秒、ISO100まだ太陽は日の入り前であるようだ。16:48撮影情報:Canon EOS 70D 70mm、f/8、1/60秒、ISO10016:49撮影情報:Canon EOS 70D 41mm、f/8、1/80秒、ISO10016:51撮影情報:Canon EOS 70D 41mm、f/8、1/50秒、ISO10016:54撮影情報:Canon EOS 70D 41mm、f/8、1/40秒、ISO10016:57撮影情報:Canon EOS 70D 57mm、f/8、1/30秒、ISO10016:59撮影情報:Canon EOS 70D 57mm、f/8、1/25秒、ISO10017:01撮影情報:Canon EOS 70D 57mm、f/5、1/50秒、ISO10017:03撮影情報:Canon EOS 70D 100mm、f/8、1/10秒、ISO10017:04撮影情報:Canon EOS 70D 35mm、f/8、1/8秒、ISO10017:05撮影情報:Canon EOS 70D 35mm、f/8、1/8秒、ISO10017:06撮影情報:Canon EOS 70D 35mm、f/8、1/10秒、ISO10017:07撮影情報:Canon EOS 70D 35mm、f/8、1/10秒、ISO10017:07撮影情報:Canon EOS 70D 16mm、f/8、1/10秒、ISO10017:08撮影情報:Canon EOS 70D 16mm、f/4、1/40秒、ISO10017:08撮影情報:Canon EOS 70D 20mm、f/8、1/10秒、ISO10017:09撮影情報:Canon EOS 70D 22mm、f/8、1/10秒、ISO10017:10撮影情報:Canon EOS 70D 70mm、f/8、3/10秒、ISO10017:10撮影情報:Canon EOS 70D 39mm、f/8、1/4秒、ISO10017:11撮影情報:Canon EOS 70D 39mm、f/8、1/5秒、ISO10017:12撮影情報:Canon EOS 70D 44mm、f/8、1/4秒、ISO10017:14撮影情報:Canon EOS 70D 44mm、f/8、3/10秒、ISO10017:15撮影情報:Canon EOS 70D 44mm、f/8、2/5秒、ISO10017:16撮影情報:Canon EOS 70D 73mm、f/5、2/5秒、ISO10017:17撮影情報:Canon EOS 70D 73mm、f/8、1秒、ISO10017:18撮影情報:Canon EOS 70D 50mm、f/8、4/5秒、ISO10017:19撮影情報:Canon EOS 70D 66mm、f/8、13/10秒、ISO10017:20撮影情報:Canon EOS 70D 70mm、f/8、13/10秒、ISO10017:21撮影情報:Canon EOS 70D 70mm、f/8、2秒、ISO100開放時間が2秒と長くなる。17:22撮影情報:Canon EOS 70D 70mm、f/8、5/2秒、ISO100川面に富士の影が出る。17:23撮影情報:Canon EOS 70D 70mm、f/8、5/2秒、ISO10017:24撮影情報:Canon EOS 70D 70mm、f/8、3秒、ISO10017:25撮影情報:Canon EOS 70D 70mm、f/8、3秒、ISO10017:26撮影情報:Canon EOS 70D 70mm、f/8、4秒、ISO10017:27撮影情報:Canon EOS 70D 70mm、f/8、4秒、ISO10017:28撮影情報:Canon EOS 70D 70mm、f/8、5秒、ISO100太陽が沈み30分を経ったので夕焼けの撮影は終了し、花火の撮影に移動。19時から始まった「茅ヶ崎サザン芸術花火2022」 👈 をクリック願います。 END
2022.11.23
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港稲荷神社廻りを散策。10月22日(土) 15:35港稲荷神社裏から、須賀港入口を見下ろす。向い側は相模川右岸の堤で朝霧河畔緑地。角に名もなき神社が建ち、右側は相模川の湘南潮来。対岸の神社の鳥居。須賀港(平塚漁港)を見下ろす。民家の上に富士山が顔を出していた。富士をズームアップ。今夜の夕焼けが楽しみだ。港稲荷神社の裏から相模川右岸の堤へ。大きな設備が建つ。堤防の下には公衆トイレがあり24時間利用できる。この施設は、城山ダムから放流する時危険を呼びかけるための施設です。港稲荷神社の向い側にある「千石河岸公園」。所在地:神奈川県平塚市千石河岸31-7近所の人が使う小さな公園で、春先には向かいの港稲荷神社で咲く数本のさくらが綺麗。一段高い所に港稲荷神社、右側に公衆トイレがあり、神社前にはバス停の「須賀港」。相模川右岸の堤へ上がり港稲荷神社廻りを見下ろす。相模川右岸から川岸へ下りるところに設けられていた防潮ゲート。千石河岸防潮ゲート設備 竣工年月 1992年3月 主 材 質 アルミニウム合金製 型 式 片開式ゲート 純径間 × 有効高 3.00×1.738 製 作 日本軽金属株式会社防潮ゲート前から釣り場を見下ろす、トラスコ湘南大橋を望む。この場所は日の出撮影のビューポイントでもある。この場所は港外だが、平塚漁港(須賀港)で釣れる魚は、アジ、カサゴ、マハゼ、クロダイ、キビレチヌ、ウナギ、テナガエビ、マゴチ、シーバス、メッキ、シマイサキなど。港内は船が多数係留されており小物中心の釣り場。特に人気が高いのがハゼ釣りで、夏から秋にかけてがハイシーズン。アオイソメやジャリメを餌に使ったウキ釣り、ミャク釣り、チョイ投げなど様々な釣り方で狙うことができ、比較的手堅く釣果が得られる と。川釣りだが何が釣れるのか。トラスコ湘南大橋の下も釣り場になっている。右岸の堤防から釣り場へ下り再度上り防潮ゲート。下流側の防潮ゲートから釣り場を振り返る。釣り場の近くには駐車場がないので、お隣の平塚新港の駐車場に停めた方が良いと。相模川右岸の堤防上を走り下流へ進む。トラスコ湘南大橋の橋脚は耐震工事を終えているのか。右側が下り線、左側が上り線の橋脚。橋桁の下には点検歩廊が設けられている。右岸の堤防上には「相模川」と書かれた大きな表示板。いつも夕陽を撮影している相模川左岸方向。この後も撮影予定だ。高速ボートが上流へ向けて走る。15:50竜宮社所在地:神奈川県平塚市千石河岸57-6海上安全や漁業の神として、地元の漁師を中心に信仰を受けています。龍宮社の祭りは2月1日と9月1日に行われています。現在は漁業関係者が集まって神官に祝詞をあげてもらう程度となっていますが、かつては盛大な祭りであったといわれています。朱色の鳥居の扁額は「龍宮社」。狭い境内に並ぶ石祠、石塔。石の台の上に鎮座する龍宮社。銘文はないが、石祠の表面は長年の風雨にさらされているためか、波に洗われたような風化が見られる。右側の石柱には「金百五拾圓也 寄附昭和二年十二月・・・」。石碑、祠の風化が激しい。左側の石碑には判読が難しかったが、一部「高雄山大権現」が確認できた。龍宮社は海に向いているのだが。鳥居下から海を見ると、相模川右岸の堤防が高くなり海面は見えず。かつては海面が見えていたのであろうが。竜宮社の直ぐ西側にある「海徳稲荷神社」所在地:神奈川県平塚市千石河岸57-42狭い境内であったが草もとり綺麗に整備されていた。社越しに遠く江の島が見える。手前は相模川左岸河口。更に坂を上ると海徳稲荷神社の直ぐ西側にある「港友会 交通安全地蔵尊」。地蔵尊の前には新しい花が供えられていた。地蔵尊の台座に「為交通安全地蔵尊」と。国道134号を潜り上り側へ移動、途中に「桜河岸公園」所在地:神奈川県平塚市千石河岸13-13桜河岸公園の敷地内には「平塚灯台(須賀の灯台)跡地」の説明板が建っていた。桜河岸公園の敷地内に建つ「千石河岸自治会 防災倉庫」。平塚灯台(須賀の灯台)跡地平塚灯台(須賀の灯台)は昭和八年十一月、東京・大阪間に開設された航空路の安全航行を目的に、この地に設置されました。当時の高さは十六・九六メートル(頂部まで)で、五十キロメートル先からも光が見えたといわれます。その後、航空機の発達に伴って、昭和四十三年には廃止が決まりましたが、船舶の航路標識として、また「平塚空襲」でも戦災を免れたので、地域のシンボルとして残してほしいという要望により、昭和四十四年十二月一日に再スタートします。五十八年には鉄骨部分が建て替えられ、高さが約十メートル伸びて、二十六・ハ六メートルとなりました。この間、二十七年に発表された「なでしこ節」や、三十九年に制定された「港小学校校歌」にも歌われています。しかし、老朽化が進み、船舶も新湘南大橋の照明や人工衛星を使ったシステムなどを利用するようになったため、平成十二年十一月六日に消灯。六十七年の歴史に幕を下ろし、灯台は解体・撤去されました。灯ろう部などは現在、港小学校に展示され、多くの児童の成長を見守っています。 平成十六年(二〇〇四年)三月 平塚市以下3枚の写真は後日訪問撮影したものです。平塚市立 港小学校所在地:神奈川県平塚市夕陽ケ丘22-1須賀小学校の「通用門(船門)」、左側に灯台の頭部が置かれていた。灯台下の説明板に、昭和八年(1933年)、東京と大阪間を飛ぶ飛行機の安全を確保する航空灯台として造られました。昭和四十三年に廃止が決まりましたが、市民の要望で海上灯台として働き続けました。その後、科学技術の進歩によりその役割を終え、平成十二年(2000年)の秋にとりこわされました。郷土いろはカルタに詠まれ、港小学校の校歌にも登場する灯台、市民に親しまれ思い出がたくさん詰まった灯台を地域に残したいという港地区住民の強い要望で、その頭部を港小学校に移して保存することになりました。みなさんの成長を見守っている須賀のシンボルを大切にしてください。 平成十八年(2006年)三月 平塚市中へ入れず手前の一枚がどうにか読めました。他にも三枚の説明板があったが。現在地は赤の矢印。これからトラスコ湘南大橋の上り線側を渡り茅ヶ崎へと戻る。湘南大橋の平塚側に建つ看板「トラスコ湘南大橋」。「かながわの橋 100選」のひとつである湘南大橋は、国道134号線相模川河口に架かり、湘南海岸地域における東西方向の交通を担う橋梁として昭和11年秋に開通いたしました。平成22年4月1日、企業メッセージに「がんばれ!!日本のモノづくり」を掲げる工場用副資材専門商社、トラスコ中山株式会社は日本のモノづくりを応援する企業として物流に欠かせない「橋」である湘南大橋のネーミングライツ(命名権)を取得いたしました。これにより「トラスコ湘南大橋」へと名称を変えた「湘南大橋」は茅ヶ崎市・平塚市を結ぶ重要な交通路として地域、そしてモノづくり現場の人々へのより一層の貢献を目指します。「がんばれ!!日本のモノづくり」 トラスコ中山株式会社道路標識は「江の島 12km、茅ヶ崎 5km」。陽も低くなり胴長おじさんに。この先800mで、国道134号、県道46号線(産業道路)、新湘南バイパス・圏央道へ。道路脇に建つ「太平洋岸自転車道」柳島スポーツ公園まで、1kmトラスコ湘南大橋の上り線側の遊歩道。橋の名はひらがなで「しょうなんおおはし」と、橋の出口側であろう。上流側に架かる東海道本線の鉄橋、馬入橋、奥に斜張橋の湘南銀河大橋の主塔が2本。相模川の河口から帰港するボート。湘南海岸沖へ釣りに行ったのであろうか。川の中には腰までつかって投げ釣り。今日の収穫は?、河口にはボラが多いようだが。湘南シーサイドカントリーに流れ込む小出川。アーチは新湘南バイパスの湘南ベルブリッジ。16:10手前のコースは右側から小出川越しに打つショートホールである。この日の日の入りは 16:40頃だったか、急いで撮影ポイントへと移動。 ー 続く ー
2022.11.22
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平塚競輪場前から須賀湊へ向かう。10月22日(土) 15:10朝霧公園所在地:神奈川県平塚市札場町47-9小さい公園ながらも水道、トイレ施設が完備している。朝霧公園の傍に立っていた「須賀湊の碑 70m」。相模川右岸(西側)の堤を南下。このカルバート(防潮ゲート)を潜り南側へ進む。カルバートを潜ると右側に看板があった占有の目的 朝霧河畔緑地存置占有の場所 平塚市千石河岸61-1番地先占有面積 2,129㎡占有者氏名 平塚市長所轄事務所名 京浜河川事務所Googleマップではこの場所は「朝霞河畔緑地」とあったが・・・。カルバートはゲート設備になっている。須賀周囲堤防ゲート設備竣工年月 1989年8月主 材 質 アルミニウム合金製型 式 横引式ゲート(5号)純径間 × 有効高 3.00 × 2.50製 作 日本軽金属株式会社カルバートを潜り相模川右岸の堤防上へ。右側下に、須賀港(平塚漁港)を見下ろす。須賀港は江戸時代幕府公認の七つの湊の一つであり、相模の国の物流の集散地であり文化の入口でもありました。江戸時代人気のあった大山参拝の海の玄関口として多くの人で賑わいました。天保年間には、平塚宿より須賀村の方が人口が多かったそうです。明治20年鉄道が開通すると船便は寂れ、漁船だけの港となりました。昭和27年平塚漁港に改称。現在は釣り場としても人気で、ハゼ釣りの人気スポットです。目の前にバス停、公衆トイレもあり、お薦めの釣り場です。川沿いに南下すると、湘南大橋付近まで足元の良い釣り場が続き、のんびりとした釣りを楽しめます と。因みに幕府公認の七つの湊は、江戸時代、幕府は相模湾に廻船が立ち寄る湊として、7つの湊(七之浦)を公認しました。須賀の他には、江ノ島、小坪、秋谷、長井、上宮田、浦賀の港が入っています。当時、江戸へ送っていた相州小麦・大豆は当地のブランド品であり全国各地の醤油や味噌の原料となっていました。振り返り「馬入橋水質観測所」を見る。馬入橋水質観測所この観測所では常時自動的に水位及び水質を測定しています。その結果はテレメーターにより送信されており、洪水時の水防警報及び水質の常時監視に役立てられております。相模川において重油の流出など水質異常を発見した場合は、下記に御連絡下さい。 国土交通省 京浜河川事務所 相模川出張所 地図は「観測所系統図」石柱「平塚八景 湘南潮来」と説明板が建つ。石碑には「相模川八景 湘南潮来と河口」。平塚八景 湘南潮来山梨県の山中湖から発し忍野八海の湧水、そして流域の諸川を合わせた流程115キロメートルの相模川は、相模湾の河口に至り川幅は700メートルとなっている。この河口は海抜以下で海水が逆流し、満々と水をたたえていて、景観が水郷潮来に似ているので、湘南潮来と名づけられた。河畔には川釣り、魚釣りなどを案内する観光漁業が盛んで、また夏には花火大会が開催されている。石柱には「平塚八景 湘南潮来」。相模川の上流側にはボートを係留していたが釣り客用か。右岸の堤の上に「相州須賀湊の碑」と「舟繋石」の碑。石碑には「舟繋石(ふなつなぎのいし)」。相州須賀湊の碑この地は相模川の河口に位置する自然港としてまた漁場としてはやくからひらけていたもののようで平安時代僧空海が伊豆の国から来航ししばらく庵をむすんでいたという伝説がのこっている。鎌倉時代には上流の森林地帯から伐り出した巨木を筏としてここにあつめ沿海地に送ると○○○とも行なわれたらしい。つづいて後北条氏時代の記録は穀物魚類などを各処に輸送したことをのせている。特に江戸時代には須賀の○○〇屋が千石船をもって江戸表をはじめ各地と物資の交流を行なったため商業地として繫昌し、かたがた須賀のさかな売が奇智と勤勉と〇○○販路を拡張したことは有名な話である。明治二十年七月平塚ステーション開駅以来一時衰微をみたが近来遠洋漁港としてまた健康な住宅地としてめざましい発展を続けているばかりでなく河海の雄大に○○変化に富む眺望は湘南最高の観光地としてあまねく世人の知るところとなったことはよろこばしい。 昭和四十一年夏 平塚市長 加藤一太郎 題字 元市長 柿澤篤太郎 撰 竹 坪 田中正一郎 書相州須賀湊の碑の西側が須賀湊になっている。馬入橋水質観測所を振り返る。堤防の上には松が植栽されており、下には碑が建っていた。石碑には「平塚漁港周囲堤防」。相模川沿いの平塚漁港周囲堤防の一番南側に建つ神社。左下の民家の上に富士山が見える。神社の名称、由来等が無く詳細は不詳。神社の中には祠が一つ建っていた。神社の前からトラスコ湘南大橋を望む。右側は須賀港の出入口となっており、ちょうど船が戻る。手摺の右側が須賀港の出入口だが幅は20メートルあったか?朝霧河畔緑地の下も絶好の釣り場になっている。湘南潮来と称されている相模川の河口。朝霧河畔緑地の下の釣り場。漁船を陸揚げするウインチ。塗装補修中の漁船。須賀港の山側には防潮用の壁。その壁には岸壁アート。防潮用の堤防に上がり建物には「馬入橋水位水質観測所」の看板。馬入橋 水位観測所馬入橋 水質観測所 相模川水系 相模川< 水位観測 > 位置 :神奈川県平塚市千石海岸 河口から 1.80km 零点高 :T.P 0.00m 観測開始 :昭和58年9月 計画高水位:5.70m< 水質観測 > 観測開始 :昭和46年問い合わせ:国土交通省 京浜河川事務所 計画課堤の上から須賀港全景を見る。正面に「平塚市水産物地方卸売市場」がある。草が生い茂った朝霧河畔緑地。朝霧公園を見下ろす。湘南ひらつか七夕まつりをデザイン。中央に平塚市の市章の中に下水の下の字を入れたもの、町名は「千石河岸」。下部に「合流」の文字、合流管マンホールの蓋。合流は雨水と汚水を集めて流す下水道。平塚市は町ごとに字を入れている。県道607号線(平塚港平塚停車場線)にある「札の辻跡」。白い二階建ての建物は「旧須賀交番」で令和3年3月31日をもって閉鎖したと。石柱に「相州須賀湊 札の辻跡」。所在地:神奈川県平塚市札場町17-22札の辻跡小田原北条氏の時代、須賀の地は交通・経済の要衝の地で、直轄地であったと思われる。その頃、今でいう区画整理が行われ、寺院はすべて西北の地に寄せ集め「寺町」と命名し、「川端町」「北町」「横町」「仲町」「南町」「西町」の町名を用いたと考えられている。そのほぼ中心に近い十字路に掟書の札をかけた掲示板のようなものを設け、ここを「札場」といい、その辻を「札の辻」とよんだ。須賀の商人が各地に向かった起点がここ、「札の辻」であった。 平塚市観光協会湘南ひらつか七夕まつりをデザイン。中央に平塚市の市章の中に下水の下の字を入れたもの、町名は「幸町」。下部に「合流」の文字、合流管マンホールの蓋。合流は雨水と汚水を集めて流す下水道。この辺りも町が入り組んでおり「幸町」「千石河岸」のマンホール。平塚市水産物地方卸売市場の中を通る。須賀港の左奥は、先程訪れた名もなき神社で、手前は須賀港の入口になっている。右上の松林が朝霧河畔緑地になっている。神奈中バス停「須賀港」玉垣の奥に公衆トイレがあり24時間空いている。港稲荷神社所在地:神奈川県平塚市千石河岸64祭神は宇迦之御魂命 ( うかのみたまのみこと )が祭られ、赤い小さな鳥居が並んでいるお稲荷さんです。隣りは須賀漁港で周辺を囲んだ堤防と繋がっており、相模川河口の湘南潮来が近く、気分爽快になるのは間違いありません と。玉垣には土地柄「河野洋平」と刻まれたものも。階段を上ると社号標石の「港稲荷神社」。階段を上ると左側に、鳥居の先に社殿。社殿前の鳥居には「出笹稲荷」と。出笹稲荷の左手の社の中には石塔。石碑には「正一位稲荷利大明神 玉串道祖神 昭和四十年二月建之 仲町氏子中」。正面には朱の鳥居が並び、左側に手水舎。鳥居の下を進むと港稲荷神社社殿。社殿の前には石燈籠、狛犬が並んでいた。15:35港稲荷神社社殿の右側には、狭い境内だが神楽殿が建つ。 ー 続く ー
2022.11.21
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乗蓮寺から北方向へ進む。10月22日(土) 14:30台町稲荷大明神所在地:神奈川県平塚市札場町15-24乗蓮寺のすぐ北側の道筋の角にあり、敷地いっぱいに石の鳥居、狐像、灯籠が建っていた。正面から、社殿の廻りは綺麗に清掃されており地元に密着したお稲荷さんである。説明板が無く由来等の詳細は不詳である。石鳥居には「正一位 台町稲荷大明神」と。社殿の横には、二重祠があり須賀地区でもっとも古いと言われている道祖神が祀られている。社殿の左側には社の中に3基の塔。背面に説明板があり左から、「六十三夜塔・如意輪観世音」「庚申供養塔・青面金剛」「庚申供養塔・青面金剛 享保九年甲辰天四月吉日」と紹介されていた。台町稲荷大明神から次にスマホの案内で「大門稲荷神社」へ進むと民家の敷地内?に朱色の鳥居。祠の横には五輪塔が2基。説明板が無く詳細は不詳。大門稲荷神社所在地:神奈川県平塚市札場町24ここの稲荷神社も説明板が無く詳細は不詳。道路から階段を上がり社殿の前から。社殿の額には「正一位 大門稲荷神社」。石碑には「鳥居新築紀念」奉納者の名前が刻まれていた。東側を相模川が流れており堤へ上り下流側のトラスコ湘南大橋を望む。同場所から上流側の東海道本線の陸橋を望む。ウインドサーフィンを楽しむ人も民家の中を進み次に訪れたのが「惣助稲荷神社」。前方の林の中に稲荷神社がある。港公園所在地:神奈川県平塚市札場町41-25平塚競輪の南側に位置している。港公園側の敷地に駐輪して惣助稲荷神社を参拝。惣助稲荷神社所在地:神奈川県平塚市札場町39南側に廻り、神社境内一面が木で覆われている。石鳥居の先は鬱蒼としている。境内の幅は10メートル程と狭く、右側に手水舎。御祭神妙徳稲荷大神 中宇氣母智神 八〇比古命 衝立船戸神 八〇比売命木曽御嶽大神 右國常立尊 大己貴命 少名彦那命〇神道日津久宮 左天日津久大神〇美命 天明五十鈴彦命上記のように書かれていたが?であった。境内、社殿屋根には枯れ葉が多く散っていた。提灯には「御宇気神社」「御神燈」と。御宇気神社の奥右側に建つ「?神社」。扁額等が無く神社名は?である。御宇気神社の奥に聳える「平塚市保全樹木 たぶのき」。立札には、平塚市保全樹木 ・たぶのき ・指定第二十一号 ・昭和五十二年四月一日 平塚市たぶのきを見上げる。一番奥に鎮座する「御宇氣神社」?。社殿の扁額は「御宇氣神社」が掲げられていた。御宇氣神社の社殿前から南側を見る。前の社殿の提灯にも「御宇気神社」とあった。Googleマップには「惣助稲荷神社」とあったが、御祭神等の説明板にはこの名がないのは?社が3社あったが配置図等が無く不詳。御宇氣神社の北側にある「港公園」。港公園の片隅に「児童図書館」が建つ。港公園の北側に廻り込み「平塚競輪場」へ向かう。14:55平塚競輪場 (ABEMA湘南バンク)所在地:神奈川県平塚市久領堤5-1平塚市では、令和2年度に平塚競輪場のネーミングライツ契約を締結しました。平塚競輪場は、全国トップクラスの売り上げ実績を誇り、競輪界最高峰のレース「KEIRINグランプリ」をはじめ、G1グレードのレース開催実績も多数あります。また、湘南にちなんだアロハイベントや、夏休みには子ども向けイベントを実施しファミリーで楽しめる、市民に開かれた競輪場を目指しています と。この日はレースがありこの時間でもレースをやっているようだった。自分は競輪のチケットを購入した事がないので解らず。平塚競輪場の正門入口には「本日の開門は10時00分予定」と。書き込みでは、100円で入場でき、ご飯を食べるだけでも楽しいとあったが。平塚駅南口からの神奈中バス。後方の建物は集合住宅の「グレーシアパーク湘南平塚」。まだレース中で乗車客はいないがレースが終わると・・・。競輪場バス乗り場にあったユニークな「TELEPHONE BOX」。前方は国道129号の久領堤交差点。かつてこの辺りに勤務していた会社があり昭和50年まで通った懐かしい所である。久領堤交差点から国道129号の南方面を望む、ここで引返すことにしこの後南下。前方の建物は集合住宅の「グレーシアパーク湘南平塚」が2棟建つ。湘南ひらつか七夕まつりをデザイン。中央に平塚市の市章の中に下水の下の字を入れたもの、町名は「久領堤」。下部に「合流」の文字、合流管マンホールの蓋。合流は雨水と汚水を集めて流す下水道。15:00国道129号の競輪場前交差点。右側の建物は「平塚市東部ポンプ場」。 ー 続く ー
2022.11.20
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次の目的地は海宝寺の北側にある長楽寺。10月22日(土) 14:07道路沿いの山門に「高野山真言宗」「海詠山長楽寺」。所在地:神奈川県平塚市札場町15-42相模川の河口、須賀の地に建つ高野山真言宗・総本山金剛峯寺の末寺、海詠山長楽寺。『新編相模国風土記稿』によると、後に高野山 真言宗の開祖となる空海が青年のみぎりに関東を巡錫し弘仁10年 (819)に当・須賀の地に滞在したことに当寺の起源があると伝えられている。その後の鎌倉時代、空海止宿の霊地に、開山の祖である僧・鎮海が草庵を結び「海詠庵」と称して居住。さらに建保3年(1216)に僧•朝秀が一宇を中興し、庵号を「海詠山」としました。それから約800年の間、高野山の直末寺として大いに栄え、十三ヶ寺の末寺を配し三島神社の別当も務めたとされます。寺務所や集会所として使用される「金剛閣」。明治期以降も連綿と法灯が継がれてきましたが、第2次世界大戦末期の昭和20年(1945) 7月、平塚の地は空襲を受け、長楽寺も塔堂伽藍のほぼすベてを焼失してしまいました。その後、寺の運営は困難を極めましたが、檀信徒による復興への願いが叶い、平成24年(2012)には、新本堂などの伽藍が見事に再興されました。新たな本堂である「金堂」、寺務所や集会所として使用される「金剛閣」、住職の住居となる「庫裡」などの建設が進められ、ついに平成24年(2012)に完成しました。寺務所や集会所として使用される金剛閣の扁額「金剛閣」。金剛閣前から東側に建つ楼門を見る。楼門を潜り市道側から見る。楼門の扁額「長楽寺」。楼門前に建つ寺号標石「高野山真言宗 海詠山長楽寺」。側面には「高野山開創千二百記念 令和三年十二月吉日 智運 代」と。楼門前の道路に平塚市の汚水マンホール湘南ひらつか七夕まつりをデザイン。中央に平塚市の市章の中に下水の下の字を入れたもの、町名は「札場町」。下部に「合流」の文字、合流管マンホールの蓋。合流は雨水と汚水を集めて流す下水道。楼門を入ると階段を降り境内へ、左側に寺務所や集会所として使用される「金剛閣」が建つ。長楽寺・檀信徒の長年の悲願であった新本堂は、多くの建築家や宮大工、職人の力で見事に蘇り、金色に輝く美しさから「金堂」と命名されました。伝統的な寺院建築の技法と最新の設計思想を導入して造られた金堂は、総桧造り・八間角の堂々たる建造物である。重厚な日本瓦が葺かれた大屋根、大胆な木組みで造られた建屋、精緻な彫刻が施された向拝などから成る美しい姿が目をみはります。平成24年(2012)に再興された新しい本堂である。本堂の扁額は「海詠山」。堂内には薬師瑠璃光如来像をはじめ、真言密教の教えを説く諸尊で荘厳されている一方、建物全体にバリアフリーや耐震構造が導入され、エレベーターも設置されるなど、現代の寺院としてふさわしい建築物となっています。長楽寺には、本尊薬師瑠璃光如来や脇侍の日光・月光菩薩をはじめとして数々の仏像が奉安されています。また密教の教えを象徴する両部大曼荼羅や十二天図なども所蔵。いずれも宗教的・美術的価値の高い貴重な文化資産です と。本堂の北側に広がる墓地、右奥にはこの後参拝する「乗蓮寺の本堂」。本堂の右側の濡れ縁を進むと民家の上に富士山が見えた(黄色の丸内)。本堂の上から護摩堂を見下ろす。同場所から楼門、右側に金剛閣。本堂の左側に廻り込み富士山を望む。富士山をズームアップ。海詠山長楽寺 ーーー 縁起海詠山長楽寺は、高野山真言宗の寺院であります。江戸時代後期に編纂された。「新編相模国風土記稿」によれば、長楽寺は紀伊国(和歌山県)高野山の直末寺であり、薬師瑠璃光如来を本尊とし真言宗寺院として大いに栄え、十三ヶ寺の末寺を配し三島神社の別当も務めたとされます。また、関東壇林の一つとして教学盛んな一大教場をなしたとされる相模国の古刹であります。かつて、真言密教の開祖弘法大師空海が関東、東北地方へ巡錫の旅に出られた際、伊豆国修善寺より船で相模川の下流地、須賀湊に上陸され現在の長楽寺の地に最初に滞在されたとの史記もあります。開山は文治元年(1185)頃、僧鎮海が草庵を建て海詠庵と称し住居したことに始まり、その後、建保三年(1216)に、僧朝秀が中興し庵号を海詠山としました。それより約八百年間、栄枯盛衰の年月を経て様々な出来事も多々あったと思われますが、昭和二十年の太平洋戦争による戦災で、塔堂伽藍を焼失したことが悔まれ、現在では、かつての面影は殆ど残されていません。境内には戦災を逃れた地蔵堂や貴重な石仏や石塔が残されています。正面の本堂や庫裏は、平成二十年より進められた、長楽寺平成の大復興計画の一環で、六十七年ぶりに建立されました。本堂の須弥壇には、薬師瑠璃光如来を本尊とし、脇侍に日光、月光菩薩と、それを守護する薬師十二神将が奉安されています。〇 長楽寺年中行事 一月七日 七草会 七草粥で人日(じんじつ)の節句を祝い、邪気をお払いいたします。 一月二十一日 初大師 護摩供養 弘法大師さまが御入定された三月二十一日にちなみ、新春最初の正当日を偲 び、御供養をいたします。 三月十七日 ~ 二十三日 春季彼岸会 春分の中日に当り、御先祖の御霊を供養し、迷いの此岸より悟りの彼岸へ引 導し、滅罪生善を厳修いたします。 三月二十一日 弘法大師御影供 弘法大師さま御入定日で正御影供と称します。当山では御大師の遺徳を偲び 報恩を棒げ、御供養をいたします。 八月八日 施餓鬼供養 餓鬼道に苦しむ餓鬼や有縁無縁の仏、精霊など、三界万霊に施しの法要を修 します。 八月十三日 ~ 十六日 孟蘭盆会 衆僧は施主の七世父母や祖霊の為に法要を修し、功徳の力で、苦をお救いい たします。 九月十九日 ~ 二十五日 秋季彼岸会 秋分の中日に当り、御先祖の御霊を供養し、迷いの此岸より悟りの彼岸へ引 導し、滅罪生善を厳修いたします。本堂から境内に下り立ち、境内の北東部に並ぶ。昭和20年の戦災で堂塔伽藍がすべて焼け、かつての面影はありませんが、境内には多くの石仏が残されている。寛文期の地蔵尊、大日如来像、弘法大師像、六字名号(みょうごう)塔、正保3年(1646)銘の宝篋印塔などがある。境内には多くの石仏や、民間信仰とのつながりが深い庚申塔なども保存されており、民俗学的な視点からも価値のある遺産が並んでいる。大震災殃死者供養塔、庚申塔長楽寺の庚申塔 神奈川県指定有形民俗文化財 平成一八年二月十四日指定長楽寺の庚申塔 一基この石塔は、光背型塔で刻像は四臂青面金剛と二猿で、青面金剛の四臂の持物は右上手に剣、右下手に宝棒、左上手に三叉戟、左下手に索を持ち、頭には三股冠とともに怒髪様のものを刻む。左右の二猿は両膝を立てて正面を向いて座り、右猿は手を膝の上におき、左猿は膝上で手を結ぶ。紀年銘は持たないが四臂青面金剛と二猿の庚申塔は、神奈川県内に他に六基あり、市内大島の正福寺、寒川町大曲の下大曲神社、茅ヶ崎市甘沼の八幡大神、行谷の金山神社、十間坂の神明宮、藤沢市遠藤の御嶽大神に残っている。これらは承応二年(1653)から明暦四年(1658)に建立されていることから同時期に建立されたと考えられる。刻銘は台部にあって、「片倉〔 〕母 為妙□逆修也」など、人名および「逆修也」の刻銘が並んでいる。このことから逆修供養の為に造立されたことがうかがえ、十七世紀には庚申信仰が死後救済の信仰と結びつき広がったと考えられる。神奈川県内にある四臂青面金剛と二猿の庚申塔は、全国で青面金剛を刻像した最初期の石塔であり、特に金山神社の庚申塔は庚申供養と刻印された青面金剛像庚申塔では最古のものである。湘南地区における十七世紀中葉の民間信仰のあり方と、全国に青面金剛と三猿が庚申塔の刻像として定型化していく祖型として、資料的価値が高く貴重な石塔である。(台部右面) 片倉〔 〕母 □妙□逆修也 為妙□逆修也 □鈴木〔 〕 □ 妙正逆修也 〔 〕 妙〔 〕修也 □神保〔 〕 (台部正面) 為□逆修也 〔 〕 為梅〔 〕 〔 〕 〔 〕逆修也 〔 〕(台部左面) 為妙□逆修□ 為妙□逆修也 〔 〕逆修也 〔 〕 平成一九年一月 平塚市教育委員会右側は「山〇福○○○之碑 明治三十九年五月」 全て漢字で判読できず。左側は「藤田定五郎君之碑 明治四十二年十月」 全て漢字で判読できず。戦死者の慰霊碑であろう。永代供養墓 三界萬霊お墓を守る跡継ぎがいない方(絶家) 先々ご供養の心配な方はご安心ください。永太供養墓にお祀りされる六地蔵とともに永代に渡りご供養いたします。永代供養墓 三界萬霊■ お墓の跡継ぎがいない方■ 先々のご供養が心配な方 当寺が永代にわたってご供養いたします。 詳細はお寺までお問い合わせ下さい。 長楽寺護摩堂の前に、七福神の「壽老尊」。護摩堂の扁額「護摩堂」。湘南ひらつか七福神「壽老尊」。湘南ひらつか 七福神めぐり 長楽寺・・・寿老尊(じゅろうそん) 寿老尊は星座の「カノーブス」という星が「寿星」と呼ばれていてその星が人格化したも のといわれています。 この星は地平線すれすれにあって、まれにしか見られないため、世の中が平和な時だけに 出現するおめでたい星として信じられています。無病息災・子孫繁栄・家業繁昌・交通安 全・心願成就などの様々な福徳を授けてくれる神様として信仰されています。七福神と秋の七草 秋の七草は、万葉集に出てくる歌人、山上憶良が「萩の花 尾花 葛花 瞿麦(なでしこ)の花 女郎花(おみなえし) また藤袴 朝貌(あさがお:ききょう)の花」という和歌を詠んだこと から生まれたとされています。 湘南ひらつか七福神では、各境内(五ヶ所)に秋の七草を植栽・育成中です。長楽寺の七草女郎花(おみなえし) オミナエシ科の多年草 花期 8~10月「おみなえし」とは、名前の由来に諸説あり、オミナ(女)、ヘシ(圧)で美女を圧倒するという意味と、黄色い花がアワに似ているため別名粟花(アワバナ)とも呼ぶ、粟の入ったご飯を「女飯(オンナメシ)」と言い、それが変化したという説があります。秋の初めには1mくらいの背丈に伸び、黄色の小さな花を咲かせると、風に乗ってゆらゆらとそよく姿がとても風流です。14:20海詠山長楽寺を参拝し平塚にもこのような古刹があることを知ったが、太平洋戦争での焼失を残念に思う。平成の大復興は檀家からの寄進とあるが、総費用がどうだったのか気になる。14:22花翁山 乗蓮寺(かおうざん じょうれんじ)所在地:神奈川県平塚市札場町15-26乗蓮寺の縁起は、創建年代等は不詳ながら、長楽寺の塔頭寺院として創建したという。長楽寺の北側に位置しており山門前には珍しい石造の仁王像が立つ。山門前の寺号標石には「花翁山 乗蓮寺」。山門前の石造金剛力士像 阿形 宝暦年間(1751~1764年)彫像と伝わる。石造の仁王像としては全国的にも珍しい、人の背丈程の高さで童顔である事も。山門の左側から境内へ入ると、六地蔵と地蔵像が並ぶ。境内から山門を振り返る。本堂前には石燈籠、観音像、五重塔が建つ。本堂には扁額が無く、賽銭箱に「花翁山 乗蓮寺」と。花翁山 乗蓮寺 御本尊 十一面観世音菩薩 宗 派 真言宗 宗 祖 弘法大師(空海) 御宝号 南無大師遍照金剛教義と信仰 宇宙のすべてのものは、大日如来のいのちの顒われであり、このいのちの世界をあらわしてい るのが曼荼羅です。 真言宗の教えは、いのちの平等と尊厳をさとり、大日如来の智慧をこの世に実現するために、 生かせいのちを実践し共存共生の世界をめざすことにあります。 本宗の御宝号念誦運動は、弘法大師の共利衆生の精神に立って、すべてがいのちを共にしてい る社会の福祉をめざす具体的な活動です。 弘法大師は未来永劫にわたって衆生を救済すると御誓願され、高野山奥之院に入定留身されて います。同行二人の信仰のもと、大師の御教えをこの世に生かし実現することが、私たちの務 めであり喜びです。我が姿が映り込む。本堂前左側に立つ「観音像」右下には「金子家先祖代々追善菩提也 平成七年六月吉日 施主 金子泰次」と。本堂前右側には「石造の五重塔」。こちら側も金子家の奉納であるようだ。台座に「奉納 金子」と。弘法大師修行像台座には「南無大師遍照金剛」と。南無ぽっくり地蔵菩薩赤い幟には「相模新西国第十七番札所 乗蓮寺」と書かれている。優しそうな微笑を浮かべたぽっくり地蔵。ぽっくりを願望する人のための地蔵菩薩であろうか。乗蓮寺本堂の南に墓地、その向こうに長楽寺の本堂、護摩堂、楼門が建つ。墓地の入口に、地蔵像と五輪塔。右側:内藤大和守景豊供養塔左側:須賀の伊勢市内藤大和守景豊供養塔佐藤伝左衛門豊成の主人大和守景豊は小田原北条氏滅亡とともに運命をともにしました。乗蓮寺本堂前の古塔を内藤大和守の墓といっていますが、たぶんこれは伝左衛門が主人大和守のために建立した供養塔であろう。山門は佐藤家の裏門の移築という伝承もあり、伝左衛門豊成の法名を「智海院妙〇華翁居士」といい、山門の額「花翁山」に一致する。須賀の伊勢市伊勢屋市良右衛門を略して伊勢市と言いました。市良右衛門の父は佐藤伝左衛門豊成といい、相州津久井城主内藤大和守景豊の臣で主従とも北条氏に属していました。天正18年寅年(1590)の春、白根の戦いに豊臣勢を破って軍功があったため、伝左衛門は大和守から感状を受けましたがその後の混乱で主従は別れとなり、結局大和守は行方不明、伝左衛門は相模川を下って須賀湊の市井の人となりました。境内に建つ宝篋印塔。14:27花翁山乗蓮寺の境内も道路から低いので、右側の坂を上りさんもんま市道に出て左方向へ進む。 ー 続く ー
2022.11.19
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ここしばらく『沖縄本島の史跡巡り』をアップしておりますが、約1か月前の10月22日(土)をアップさせていただきます。この日は夜、サザンビーチちがさきで3年振りに「茅ヶ崎サザン芸術花火2022」が開催されるので昼過ぎに自宅を出て会場の下見に行った。その後、時間があるのでかねてより計画していた、平塚市の南東地区の寺社史跡巡りをした。花火のブログは「茅ヶ崎サザン芸術花火2022」👈 をクリック願います。10月22日(土) 13:40サザンビーチちがさきからサイクリングロードを西へ走り相模川左岸河口へ。ここは夕焼けを撮影する私におけるビューポイントである。今夕の夕焼けが楽しみだ!国道134号から右側奥に富士山。トラスコ湘南大橋の手前から平塚市に、「只今の気温 22℃」と。平塚市の概要横浜・横須賀・川崎に次いで4番目、湘南地区および相模川より西の地域では初めて市となるなど戦後早くから商工業都市として発展した。かつて存在した湘南市構想では存在感を示した。県内の市ではこの平塚市と厚木市だけが昼夜間人口比率が100%を超えている。2010年を境に人口減少局面に入っており、2022年65歳以上の高齢化率が30%に迫った。また、郊外には緑も多い。東海道線を挟んで北側は宿場町が発展した街である。湘南ひらつか七夕まつりや、湘南平、湘南ベルマーレのホームスタジアムがあることでも知られている。総人口:257,713人(推計人口、2022年10月1日)、人口密度:3,800人/k㎡。市の木:クスノキ、市の花:ナデシコ、市の鳥:シラサギ(コサギ)。(ウイキペディアより)今日訪れた「平塚市の南東地区の寺社史跡」だがほんの一部だ(黄色のエリア)。トラスコ湘南大橋を渡るのはいつもは車だが今日は愛車のリンちゃんで。海風が強いので帽子を籠に入れ走る。橋の親柱には「湘南大橋」と。湘南大橋は、神奈川県平塚市の相模川に架かる国道134号の橋。相模川に架かる橋の中で最も河口側に存在している。橋の長さは全長698mで現在の橋は2代目。2010年4月1日より5年間の契約で機械工具卸のトラスコ中山が命名権を獲得し、「トラスコ湘南大橋」の愛称が付けられている。橋への命名権導入は全国初であると。相模川の河口を見下ろす。河口の左側からは茅ヶ崎から流れ込む松尾川。トラスコ湘南大橋のテラス1986年:初代の橋の老朽化に伴い、2代目橋梁(現在の下り線橋梁)に架け替えた。2010年:3月28日 上り線橋梁が完成、4車線化しこの日より供用開始した。 4月1日 命名権導入により「トラスコ湘南大橋」の愛称が付けられた。テラスに自転車を駐輪し撮影。何処でも撮影できるのが自転車における特権であるのだ。テラスから松尾川、左に湘南シーサイドゴルフ練習場、右側が撮影ポイントの相模川左岸河口。松尾川は左(上流側)へ流れ相模川と合流している。松尾川の相模川に流入する辺りは砂州になっており釣りの絶好のポイントになっている。何が釣れるのか知らないが、高波の危険性がないのでいつも親子連れが楽しんでいる。西側は相模川の河口でこちら側にも多くの釣り人。駐車場には多くの釣り客の車。護岸には家族連れの釣り人が多い、さて今日の収穫は。トラスコ湘南大橋の下り線を渡ると左側に「湘南大橋の碑」が建つ。石碑は「湘南大橋の碑」湘南海岸地域は日本の代表的な海浜レクリエーション地域であると共に、温暖で良好な環境に恵まれた住宅地として知られていますが、昭和の初めごろまでは何も変哲もない砂丘地帯でした。昭和6年、県はこの地域の発展のために、藤沢市片瀬から大磯町に至る海岸沿いに湘南遊歩道路の建設を始め、昭和11年秋、この事業最大の工事であった湘南大橋を完成させました。湘南大橋はその後半世紀もの間、東海道筋の重要な交通路としての役割を果してきましたが、老朽化のためこのたび架け替えを行いました。新しい湘南大橋は「人と人とのふれあい」をモチーフに設計し、幅の広い歩道と親柱やバルコニーの紋章に「ふれあい」の空間を表現しました。この橋を含め相模湾沿いの道路の整備は、二十一世紀の湘南海岸地域を展望した「湘南なぎさプラン」の主要な事業の一つとして位置づけております。この橋の完成により湘南海岸地域が生活とスポーツ、レクリエーションが融合した新しい出会いの場となるよう願っています。 一九八六年十月 神奈川県知事 長洲一二スマホの案内で「海宝寺」へ向かい、高浜台交差点の手前を左に下りると、平塚漁港の食堂所在地:神奈川県平塚市千石河岸51-14平塚漁港発!平塚鮮魚と相模湾の地魚満載の食堂!平塚市漁業協同組合と民間とのコラボ事業として農林水産省の6次産業認定を受けて誕生した食堂です。店内を覗くと順番待ち状態であったがいつか。この辺りは平塚市の千石河岸、須賀、札場町、九領堤地区にあたる。13:55スマホの案内で住宅街を進むと、新しい門構えの寺。浄土宗海宝寺(かいほうじ)所在地:神奈川県平塚市幸町26-21静かな住宅街を進むと、新しい本瓦葺四脚門の山門が参拝者を迎えてくれます。山門横の寺号標石には「常圓山 海寶寺」と。山門の扁額には山号の「常圓山」。山門から本堂を見下ろす。山門をくぐり境内に入ると正面に本堂が見える。本堂は鉄筋コンクリート造りの新しい建物で、どっしりとした大きな屋根が風格を感じさせる。本堂の扁額「海宝寺」。本堂の引戸が開いていたので内陣を望む。本尊は阿弥陀如来本堂の南側に墓地がある。海宝寺は1579年創建の寺院で、相模観音第十六番札所となっている。境内には大きな観音菩薩像、馬頭観音像、地蔵菩薩像、庚申塔がある。本堂の右側(北側)には寺務所。本堂手前左側には古い塔が並ぶが説明板が無く。本堂側から撮影本堂手前右側にも古い塔、奉納者の名前が刻まれていたが。新しい「十三重の塔」も建つ。山門を入ると左側にある二基の石碑。右側、「太田貞市氏を偲びて 大人の遺徳 さながら伝布ふ 相模の○○ 波音は 冴ゆ 島津秋圃」左側、「要塞廟兵鳥海元次郎墓」境内から山門に向かって右側に三体が並んでいた。中央に、南無馬頭観音像、左に地蔵菩薩像、右に庚申塔が建つ。地蔵菩薩像庚申塔境内から山門に向かって左側に大きな観音菩薩像が建つ。山門の左側に、観音菩薩像、無縁仏、地蔵菩薩像が並ぶ。地蔵菩薩像こちらの石碑には「須賀小学校跡 明治七年五月開校 港小学校百三十周年」と。港小学校のあゆみ明治 七年(1874) 五月 崇善館第一支校と称し、海寶寺本堂を仮校舎として開校。明治十五年(1882) 十一月 寺町に新校舎が完成。須賀村立須賀小学校と改称、大住郡内の 模範校として注目を浴びる。大正十年 (1921) 四月 校舎増築、工費全額村民の寄付で賄う。大正十二年(1923) 九月 関東大震災で校舎倒壊、三嶋神社境内にて授業を再開。大正十五年(1926) 九月 須賀千三百八十八番地に移転し、新校舎が落成。昭和七年 (1932) 四月 市制施行により平塚市平塚第二尋常小学校と改称。昭和十六年(1941) 四月 平塚市第二国民学校と改称。昭和二十年(1945) 七月 戦災により全校舎焼失、青空教室実施。 十月 元海軍分工場工員寮に移転。昭和二十二年(1947) 十月 平塚市立港小学校と改称。昭和二十五年(1950) 十月 現在地(夕日ケ丘二十二番一号)に新校舎落成、現在にいたる。 平塚市立港小学校開校百三十周年記念碑の建立にあわせ、この説明板を設置しました。 平成十七年(二〇〇五年)三月 平塚市14:05境内の駐車場へは山門の北側から入る。 ー
2022.11.18
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平塚市の八坂神社は、神川橋の架け替え工事で社殿、末社(四社)、鳥居、神楽殿、狛犬、石燈篭等が移設され、修復されたため古さを感じない。5月8日(土) 12:16八坂神社社殿、左側に神輿殿拝殿の扁額「八坂神社」 平塚市保全樹木 ・むくのき けやき ・指定第五十六、五十七号 ・平成五年十一月十日 平塚市神社の右手奥に石造群。正規の場所からここへ移設されたのであろう。正面の大きな道標には、「左大山道」と読み取れる記念石江戸中期に建立されたと言い伝えられる拝殿に使用されていた土台石。神川橋架替工事に伴う社殿移設の際、他の石を補填したのでこれを記念石として保存する記念石の裏には「平成二年五月吉日」後ろ側に廻り刻みを確認移設された、道標であろうか側面に「左 伊勢原町ヲ〇テ大山町ニ至ル 約四里」正面に「神田村青年會田村支部」右 大野村ヲ経テ平塚町ニ至ル左 相川村ヲ経テ厚木町ニ至ル移設時に改築されたのか真新しい社殿の、拝殿、本殿本 殿社殿の奥に反時計回りに末社(四社)をめぐる。神明社五穀豊穣 国家鎮護 開運福徳祭神 天照大御神稲荷社商売繫昌 家内安全 所願成就祭神 宇迦之御魂神日枝社縁結び 恋愛成就 安産祈願祭神 大山咋神金刀比羅社招福除災 金運 農業殖産祭神 大己貴命拝殿右側から鳥居、後方の南側に伊勢原藤沢線(県道44号線)田村ばやしの碑平塚市重要文化財指定無形文化財 平塚市長 石川京一書田村ばやしの碑の裏に、由来、田村は平塚市の東北に位置し、古い街道八王子、中原道大山道に沿っていた関係で文化が早くから開けていた鎌倉時代には、豪族三浦平六義村がこの地に山荘を設け、それを田村の館と称した。このころ九条道家将軍頼経の父のはからいで、京都より楽人雅楽が田村山荘に来道したといわれ、そのころ里太鼓が今日の田村ばやしの源流ではないかといわれている。そのことは吾妻鏡に安貞2年(1228)7月将軍頼経に従ってまた鎌倉の将星達が田村山荘え来遊し、暁に及んでご遊興の記録あり舞女数輩群り集るとみえる。 保存会初代会長 四宮持亮 〃 二代会長 亡 落合福次昭和57年7月吉日 〃 現在会長 吉本孝之 みきや商店開店20周年記念代表 高梨与四郎 藤本市郎謹書境内の西側に、八坂神社社務所奥に神輿殿、左に倉庫神輿殿の扁額倉庫に寄贈者の名前が、かつて訪れたことのある会社だが鳥居前から拝殿、右に神楽殿12:25拝殿をズームアップ、八坂神社を後にする伊勢原藤沢線(県道44号線)の跨道橋下坂を上ると相模川の下流側へ。県道を横切るため自転車はこの道を潜る壁面に描かれた絵田村跨道橋平成5年(1993)10月延長 12.848m 幅 6.000m高 4.500m 神奈川県湘南機械土木㈱ 八坂神社から坂を上り相模川の堤防脇に「魚族供養之碑」所在地:神奈川県平塚市田村8丁目21-22石碑には、組合創立25周年を記念し、鮎と各魚族供養の為建立す 相模川第二漁業協同組合 海雲 水島英耀書この財団法人の基金及び増殖資金は、昭和62年3月に妥結調印した宮ヶ瀬ダム建設、相模大堰の構築に伴う漁業補償金を相模川水系漁業協同組合員、約4,000人が「母なる川、相模川を守り」相模川の漁業を子々孫々まで守り育てる、との考えで拠出した寄付金によって造成されたものであります。このことにより相模川が、未来永劫に、この生み出る果実により漁業の振興を図る体制が確立したわけであります。この基盤を築かれた漁協役員並びに組合員の業績の大なることを思い、基金設立5周年を記念し碑を建立し、永くその功績を讃るものであります。 平成5年10月 吉日 相模川漁業協同組合連合会 津久井漁業協同組合 中津川漁業協同組合 相模川第一漁業協同組合 相模川漁業協同組合 厚木観光漁業協同組合 相模川第二漁業協同組合 12:27上流側から、伊勢原藤沢線(県道44号線)の神川橋ネームプレートは、神川橋1992年6月神奈川県道示:(1980) 一等橋型式:4径間連続PCラーメン箱桁橋工法:張出し架設工法施工:住友建設株式会社八坂神社の鐘楼、神楽殿を見下ろす、左は伊勢原藤沢線(県道44号線)伊勢原藤沢線から、鳥居、手水舎、社殿を見下ろす神川橋へ下流側の、湘南銀河大橋欄干には「大山参り」、「道中姿」、「至大山」下流側寒川取水堰所在地は、左岸:神奈川県高座郡寒川町宮山字十二天 右岸:神奈川県平塚市田村字天神下 上流側を東海道新幹線が横切る寒川取水堰は、高度経済成長で急増する水需要に対し、城山ダムから放流された水に加えて、ダム下流域の流量を取水することを目的に、相模川総合開発共同事業の基幹施設として、昭和39年(1964年)に完成した。その後、相模川高度利用事業で取水堰の増強が行われている型 式:重力式コンクリート堰、堰 幅:6メートル堰 長:270メートルゲートの種類:ローラーゲート取水口には大きな除塵機も数基川とのふれあい公園にテント群?寒川取水堰左の煙突は「平塚市 環境事業センター」取水口あたりをズームアップこの辺りの圏央道の高架橋は2階建て寒川北インタまで1km12:35伊勢原藤沢線(県道44号線)の神川橋東側交差点。この先から、平塚市から寒川町へこの交差点を左折して堤防へ、車は進入できないが自転車はOK川とのふれあい公園所在地:神奈川県高座郡寒川町一之宮3175-15川とのふれあい公園は、神川橋上流側の河川敷に位置し、公園面積は約72,000平方メートル。中央部に約10,000平方メートルの芝生広場がある公園です。その他サッカー場、野球場を併設しています。また、この付近から富士山を見た風景は、「寒川宮山の富士」として、「相模川八景」の一つに選ばれており、そのモニュメントが公園内に設置されています。この日は、コロナ禍の中イベントがあり多くの人が集っていた後日タウンニュースに載っていた記事12:41他府県ナンバー(沖縄・和歌山・愛知県等)のキャンピングカーも — 続く ー
2021.06.26
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寒川の大山街道へ行くために北上、途中にある馬入川(相模川)の渡しへ立ち寄る。5月8日(土) 11:24前鳥神社から北上、「四之宮の渡し」所在地:神奈川県平塚市四之宮4丁目20-37沿川の皆様へ相模川(神川橋より下流)は、国土交通省京浜河川事務所が管理しています。河川区域や河川保全区域で建物の設置・改築、土地の掘削、盛土を行う場合には河川法の手続きが必要です。詳しくは事務所か出張所まで、お問い合わせください。四之宮の渡し江戸時代、幕府は相模川の架橋を禁止し、相模川の渡河は、幕府が定める馬入や田村の渡しによって行われていました。相模川の対岸に飛び地を持つ村々は、飛び地に開けた農地を耕作するため独自に渡し場を設けていました。四之宮の渡しもこうした渡し場の一つでした。江戸時代のはじめ、徳川家康が江戸と中原御殿を往来したとき、四之宮の渡しも利用していたようで、そのときの話が「四之宮の逆さ舟」「箸立の森」などの言い伝えとして残っています。実際の渡し場の位置は、川の流れの変動に応じて、目久尻川合流点付近から前鳥神社付近の間でたびたび移動していました。四之宮の渡しは、昭和30年(1955)頃まで使用されていましたが、その後廃止されました。 平成19年(2007)3月 平塚市昭和20年代の渡し(岩田實 画)四之宮の渡し近くにある、平塚 四之宮霊園平塚 四之宮霊園巨岩の由来ここに鎮座している巨岩は重さ約40tあり、30年程前に奥多摩の地から東京都昭島市の造園家の庭園に運ばれ据え付けられていた巨岩を譲り受け「平塚 四之宮霊園」のシンボルとしてここに鎮座したものです。 平成23年3月 吉祥日 平塚 四之宮霊園管理事務所平塚 四之宮霊園前から、この先を右へ曲がり堤防へ上がる11:29下流側に相模川に架かる湘南銀河大橋同橋を挟んで、上流側に橋側から西湘パワフルズ四ノ宮、横浜都築リトルシニア、平塚シニアの3面、下流側に橋側から平塚リトル、湘南寒川リトルシニア四之宮の各グラウンドの2面があり、将来のスター選手の育成場所になっている!既に何人もの選手が活躍しているのではプロ並みのバッティングゲージ堤防上を上流の神川橋に向って進む遊歩道脇の花自転車、散歩者が、車は進入禁止神奈川県下水道公社 四ノ宮水再生センター所在地:神奈川県平塚市4丁目19-1四之宮水再生センターは、相模川河口から5km上流の平塚市四之宮に位置し、昭和48年6月に流域下水道として、神奈川県内で最初に処理を開始しました。相模川流域の関連市町3市2町(平塚市、伊勢原市、厚木市、大磯町、愛川町)の下水を処理しています。現在は、1日に322,800m3/日最大の下水を処理する水処理施設や汚泥処理施設が稼働している堤防上から同施設内を望む。施設内には四之宮水再生センターの屋上部を利用した四之宮ふれあい広場がある11:33野球グラウンドの上流側には隣接して、湘南銀河大橋ゴルフ。湘南銀河大橋ゴルフは平塚市・寒川町・茅ヶ崎市を結ぶ湘南銀河大橋の上流側約0.9kmにあります。相模川の河川敷を利用したゴルフ練習場は地域最大級の350ヤードを誇ります。ゴルフ練習場からショートコース、アプローチ練習、パッティング練習、バンカー練習場、天然芝打席練習とゴルフ練習に必要な全てがある総合ゴルフ練習場である下流側は、地域最大級の350ヤードを誇るゴルフ練習場。上流側はショートコース湘南銀河大橋ゴルフ 専用駐車場 開閉時間 夏季 7:00~17:30 冬季 7:30~16:00相模川の堤防から降り、四ノ宮水再生センターの東門工事業者が建てた「テロ対策警戒実施中」の看板灰貯留施設下水汚泥を焼却した灰の貯留灰貯留施設11:46平塚市のマンホール蓋平塚市は、関東三大七夕祭りの一つ、「湘南ひらつか七夕まつり」で知られる。そのメイン会場である湘南スターモール(旧東海道本通り)に飾り付けられる大型の竹飾りと、ヨットが浮かびカモメが飛ぶ湘南の海が描かれている。ちなみに、市の鳥は「シラサギ」である平塚市の蓋には設置年度と各地域の名称が入っている。合流用のほか、汚水用も雨水用、農集排、農業用水用もある。四之宮の「おすい」ようマンホール蓋デザインの図柄「湘南ひらつか七夕まつり」はどれも同じだが、文字のほうには微妙な違いがある。地域名と「たなばた」の文字はゴシック体のものが多いが、中には「湘南 ひらつか」の文字同様のPOP体が使われているものがある。また、年度の数字が幅の狭いフォントになっているものもあり、用途の文字の大きさが異なる蓋もあると。四之宮の「うすい」ようマンホール蓋11:52再度堤防上にあがり上流の神川橋を望む右側の高架橋は圏央道神川橋をズームアップ設備は、寒川取水堰この後、寒川の「水道記念館」へ立ち寄る予定だが11:57四之宮から田村地区へ入りマンホール蓋も変わるいろんなマンホール蓋がありこれは「流量計」ようのマンホール蓋田村の「おすい」ようマンホール蓋田村の「うすい」ようマンホール蓋12:03三浦義村田村ノ館の跡所在地:神奈川県平塚市田村7丁目20-6この碑は、鎌倉幕府の有力御家人三浦義村の山荘跡地と伝えられる当地に、昭和35年市営住宅が建設されることになったことから、館跡地が消えることを惜しんだ地域住民が跡地を市に寄付、石碑を建立したといいます。新編相模国風土記稿では、三浦義村の山荘跡地について、第4代将軍藤原頼経が遊興に訪れたことを記載、江戸期には当地村民の宅地となっていると記しています ー 誌 ーこの附近一帯は三浦平六義村氏の館跡と伝えられています。市はここに昭和35~37年に木造平屋建95戸を建設しました。その当時、田村の皆様は由緒ある館跡地が永遠に消えることを憂慮され、この敷地の一部でも後世に伝えたいと「由縁の碑」及び館跡地の一部281平方米(85坪)を市に寄附され、市は田村館跡地として管理してきましたがその後、昭和56~58年に木造住宅を中層耐火構造住宅に建て替えした時、この事業に伴い寄附当時の位置から北側に若干移設し現在のように整備したものです。 平成元年4月吉日 平塚市 (田村 藤本市郎書)12:05三浦義村田村ノ館の跡の碑方向を振り返る。田村の渡し場跡 80m相模川への堤防口に「田村の渡し場跡」の案内板左に「田村の渡し場跡」の石碑所在地:神奈川県平塚市田村7丁目30県道44号線神川橋の西側下流側にある 田村の渡場跡石碑田村の渡し場田村の渡しは、中原街道と大山道の二つの往還の渡しでした。中原街道は中原村と江戸を結んだ脇往還で、大山道は藤沢・江ノ島からの大山参詣のために使われた道です。渡し場のある田村は、この両往還と平塚から厚木へ向かう八王子道が交差する所で、旅籠屋などもあり「田村の宿」とも呼ばれていました。渡船場の業務は、田村と対岸の一之宮村・田端村(寒川町)の三か村が勤めていました。また、田村の渡し場付近は、大山・箱根・富士山を眺望することができ、景勝地としても知られていました。 平成13年(2001) 3月 平塚市石碑の横に、中村清四郎の短歌 「 阿夫利嶺を まともに仰ぎ 旅人ら 声あげにけむ ここの渡しに 」田村と田村の渡し場田村の地は、古くから、坂上田村麿に由緒の地と伝え、箱根路につづく、陸奥への海道に沿った ところに、相模川の渡し場があった。鎌倉時代には、三浦半島六義村の田村の館があり、鎌倉武士が、しばしば往来したことは、史書にあきらかである。また、江戸時代には関東の霊域大山万尊社への、参詣道として繁昌した。田村の渡し場は、大住郡田村、高座郡一之宮村、同田端村の三村が管理し、渡し船・馬舟など四艘を常置していた。明治初年の記録に「川幅五百二十二間(約九三九米)、水流六十間(約一〇八米)、深さ三尺(約〇・九米)より一丈(約三〇三米)」とみえている。渡し場から、西方諸山岳の眺望の絶佳は、最も芳名で、詩歌の作品が多くのこっている。 昭和四十八年三月二十一日 平塚市観光協会 平塚市田村部落長 落合福次 平塚 本城正龍 敬勤歌川国芳画の「田村の渡し」12:09堤防から降り「田村宮の前公園」この先を右折して神川橋へ自転車を進める12:12田村八坂神社所在地:神奈川県平塚市田村8丁目21-30県道44号線の北側に位置しており神川橋の手前下にある田村八坂神社略誌御祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと) 天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した神様です。御神徳 無病息災の厄払い、学問上達、商売繁盛、家内安全などにご利益があります。創 建 明治35年(1902)に記された『八坂神社由緒調査書』には、「延暦年間(782~806)以前に創 建された」とあります。これとは別に、社殿の最も古い棟札には元禄10年(1697)8月と書か れたものがあります。神社紹介 江戸時代の後期に書かれた『新編相模国風土記稿』に「牛頭天王宮村の鎮守となり、幣殿、 拝殿建てり、鐘楼の鐘は聖徳3年(1713)に鋳造す」と記されています。 明治時代になると神仏分離令によりお寺から村営になるとともに、社名が牛頭天王宮から 八坂神社という称号に変わりました。 また、神輿とともに祭りの華である屋台は、横宿が江戸時代後期天保3年(1832)に、下町は 江戸後期に、一度焼失したと言われている上町は、明治21年(1888)に新調されました。例大祭 7月28日以前の日曜日です。鳥居の横に立つ石碑、八坂神社社殿等移設記念碑 神川橋架替工事に伴い 八坂神社社殿、末社(四社)、鳥居、神楽殿、狛犬、石燈篭等、移設 平成2年5月吉日 氏子中八坂神社の東側の堤防下から12:14八坂神社鳥居鳥居の扁額「八坂神社」 — 続く —
2021.06.25
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前鳥神社の参拝を続ける。境内を歩く前鳥神社はケヤキに囲まれた緑豊かな、平塚八景の一つに数えられています。境内に併設されている、さきとり幼稚園の園児が境内で遊んでおり、参道には木洩れ日がふりそそいでいます。また、御社殿の他に石碑や句碑など様々なものをみることができます5月8日(土) 10:53参道左側に手水舎前鳥神社拝殿拝殿前には携帯撮影用の台拝殿の扁額「佐喜登利神社」拝殿前にあった、「参拝の栞」当神社は学問の宮にして、また商工業の繁栄・厄除・交通の守護神として広く崇敬されています。ご祭神 菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと) 大山咋命(おおやまくいのみこと) 日本武尊命(やまとたけるのみこと)大祭日 九月二十八日月参り 一日、十五日、二十八日参拝の作法 正しく神前に向って、二拝(二礼)、二拍手、一拝相模国四之宮 前鳥神社 御由緒御祭神 境内社 菟道稚郎子命 神戸神社 大山咋命 奨学神社 日本武尊 祖霊社 稲荷社御由緒 前鳥神社の創祀は奈良時代以前、第十五代応神天皇の皇子菟道稚郎子がこの地へ移り込み、 後にこれを祭神として祀ったことに始まると伝えられ、千六百五十年の歴史を有します。 奈良時代から十世紀半ばにかけて、この地には相模国府(現在の県庁)が置かれ、当神社は 国府の鎮護として国司(県知事に相当)を始め官人により神拝がなされたと考えられます。 十世紀初頭に醍醐天皇により勅撰された『延喜式』神名帳では奉幣社の一社に挙げられ、十 世紀末に大磯町国府本郷へ国衙が遷された後は国司巡拝社の第四番に列し、爾来相模国四之 宮と称されております。 鎌倉時代には源頼朝公より夫人政子の安産祈願の新馬奉納に与り、将軍家御祈祷所と定めら れたことが『吾妻鏡』に記されます。続く室町・安土桃山時代の動乱を経て衰微しましたが、 徳川氏の崇敬篤く、家康公より社領地十石の寄進と朱印状を得て再興いたしました。江戸幕 府成立後は、将軍家武運長久の祈願所と定められ、「四之宮大明神」として身分の上下を問 わず広く信仰されてまいりました。 現在は渡来人から最新の学問を学び、その技術を篤く庇護した御祭神の生涯に因み、学徳・ 就職・安全守護の前鳥大神として広く尊崇を集めています。拝殿前から境内を振り返る拝殿の左奥にある境内末社神輿殿天祖参神の碑古事記に伝えられている天祖三神を称えた碑境内の隅にこのような看板が掲げられていた。御鎮座千六百五十年式年大祭 奉祝記念事業 ご奉賛のお願い平安の昔より相模国第四之宮と称えられ、広く崇敬を集める前鳥神社は、来たる平成30年に御鎮座千六百五十年を迎えます。この佳節を奉祝し、さらなる御神威の発揚を願うべく、左記の通り記念事業を執り行うこととなりました。つきましては、皆様にこの歴史的事業の趣意にご賛同いただき、赤誠あふれるご浄財のご寄進を仰ぎたく、お願い申し上げます。記念事業概要 一、子ども神輿新造 二、表参道 新鳥居建立 三、御社殿・手水舎・参道 敷石整備 四、芳名板・記念品他作成〇祝行事予定 一、前鳥神社、真土神社、中原日枝神社合同神輿渡御の執行 二、記念講演会の開催 三、仮称「四之宮と前鳥神社展」の開催 四、書道・絵画展の開催浄財募金額 三千万円竣工予定 平成二十九年度中ご奉賛受付期間 平成二十七年十月より平成三十年九月までご奉賛受付場所 社務所もしくは授与所にてお申し込みください 前鳥神社御鎮座千六百五十年式年大祭 奉祝記念事業実行委員会あなたも前鳥神社崇敬会会員になりましょう。前鳥神社は平塚市最古の神社で、御祭神は応神天皇の皇太子である菟道稚郎子命です。命は百済國から来た王子阿直岐と博士王仁を学問の師とされました。博士王仁は初めて日本に論語と千字文をもたらした人です。よってこの由縁をもって、境内社奨学神社にはこの御二方のほか菅原道真公を祭祀してあります。また菟道稚郎子命を御祭神とする神社は東国では当社のみです。このような御祭神の神徳を崇敬奉賛することを目的として、設立されたのが当崇敬会です。会員にはどなたでもなれますし会員の特典として、毎年一回神符神饌を授与せられ、特に会員のお子様のためには、進学と学業成就祈願がなされます。くわしいことは当社務所にお問い合わせください。三社参りのご案内前鳥神社境内の三社は各々ご祭神が異り、ご神徳霊験はあらたかでございます。お参りは三社をご巡拝下さい。 ご祭神前鳥(さきとり)神社 菟道稚郎子命 大山咋命・日本武尊神戸(ごうど)神社 天照皇大神・素盞嗚尊奨学(しょうがく)神社 王仁命・阿直岐命・菅原道真命拝殿の右側に、神戸神社、奨学神社神戸神社ご祭神:天照皇大神・素盞嗚尊ご利益:農業・諸業繁栄・厄除・防災招福昭和53年(1978年)に境内社八坂神社と同神明神社を合祀して造営された。「神戸」は当社鎮座地の小字奨学神社ご祭神:王仁命・阿直岐命・菅原道真命ご利益:学業・文化・芸能昭和44年(1969年)に境内社天神社を合祀して創祀。当社の祭神菟道稚郎子命に漢籍を教授したという百済人、阿直岐・王仁を勉学の神として祀る奨学神社の中には祈願用のダルマ神戸神社の前から、神符授与所、しあわせの松拝殿、しあわせの松、神符授与所拝殿前のしあわせの松幸せの松この松の木は稀に四本の葉をつけた松葉が見つけられます。いつの頃よりか「しあわせの松」と呼ばれ、この四合わせの松を身に付けると運が開け幸運を招くと伝えられています拝殿と神戸神社の間にある「弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)」の碑日本武尊のお后、弟橘媛命が尊を救うべく入水した際に詠まれた歌の碑ご神木のケヤキ「相模国府祭 六社めぐり限定御朱印」の幟拝殿、神符授与所社務所・研修殿氏子崇敬者の各種研修会、講演会等に使われる研修殿を備えた社務所神楽殿昭和天皇の御即位を記念して造営された神楽殿の扁額「神楽殿」神楽殿の横に立つ石柱「大震災記念碑」裏面には「大正十五年九月一日 建立」参道の南方向の二の鳥居右側に「近藤雪竹先生書碑」が建つ近藤雪竹先生書碑書家近藤雪竹先生を門人の田中真洲先生らがその功績を称えた碑石碑の裏には「近藤雪竹先生略傳」先生名は富壽字は考郷雪竹はその號號である文久3年6月江戸に生る先生人となり恬淡和雅己を誇らず人に阿〇せず毅然として自らを持し座談の間時に諧謔を弄するを得意とされた幼少より學を好み紀州藩儒井上韋齋に漢籍を學び日下部鳴鶴に就いて書道を修め傍ら益を巖谷一六に受け上は三代の鐘・・・・・・略二の鳥居を望む筆墨塚書家の田中真洲先生が神社に論語・千字文を奉献された記念にその筆墨を納めた塚萩原先生句碑と石祠萩原先生句碑萩原夏絵は東京神田の生まれ。平塚に移り、後進の指導にあたった川柳作家手水舎祖霊社の傍にあった、川戸飛鴻の句碑「木の実落ちし 音しんかんと残りけり 飛鴻」川戸飛鴻は伊勢原市に生まれた詩人で俳誌「石楠」にて活躍。平塚に長く住んだ前鳥神社の拝殿西側に立つ鳥居鳥居手前右に立つ石柱には「相模國十三坐之内 前取神社」鳥居の扁額「前鳥神社」車お祓所交通安全祈願。車をお祓いする場所一度に5~6台をまとめてお祓いする前鳥神社の西側にある「車お祓所」11:20駐車場へ戻り前鳥神社を後にする ー 続く ー
2021.06.24
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NHKで平塚市の前鳥神社を紹介していたので愛車のリンちゃんで出かけた。併せて、相模川沿いを上流へ向かい神川橋を渡り、大山街道(田村通り大山道)経由で帰ることを計画。自宅出発時の愛車のバッテリー残量は100%、走行可能距離は92km。5月8日(土) 10:15県道44号線(伊勢原藤沢線)を西に走り小出川に架かる西久保橋、高架は圏央道富士山が顔を出していた。小出川の護岸では人が集まり草刈りのボランティア活動?小出川の河津桜も終わり、これからはアジサイが咲くので伸びた草刈り小出川の下流側、右岸は河津桜並木、これからはアジサイが咲く草刈りの傍に黒板黒板には工事名:小出川(西久保橋~萩園橋)草刈り、清掃 '21/5/08 花とともにくらす会ボランティア活動ではなく、役所からの委託でやっているようだ気温が上がり富士山の頂上部分のみが見える湘南銀河大橋へいつも夕陽を撮影しているポイント10:30橋上のテラスから、富士山を望む湘南銀河大橋の平塚側の河川敷には、下流側に橋側から平塚リトルグラウンド、湘南寒川リトルシニア四之宮グラウンドの2面があり、上流側には3面ある野球のメッカ相模川の下流側湘南銀河大橋を渡り、県道44号線の前鳥神社入口交差点同交差点から東方向の湘南銀河大橋を振り返る前鳥神社入口交差点を北上、約200メートル程で前鳥神社鳥居の左側に駐車場10:35駐車場に自転車を駐輪自転車のバッテリー残量は100%、走行可能距離は86kmで自宅からここまで6km。前鳥神社(さきとりじんじゃ)所在地:神奈川県平塚市四之宮4丁目14-26前鳥神社は、式内社、相模国四宮で、旧社格は郷社。 毎年5月5日に大磯町国府本郷の神揃山で行われる国府祭に参加する相模国六社の1つである。所在地名の「四之宮」は当社が鎮座することによる駐車場脇に「ご祈禱のご案内」初宮詣・学業向上・受験合格・交通安全・家内安全・商売繁昌・身体健全・社運隆昌・工場安全・就職成就祈願・地鎮祭・上棟祭・竣工祭お受けします。厄除(数え年) 男 性:25才、42才、61才 女 性:19才、33才、37才、61才 何事も先取り叶う 前鳥の宮ケヤキに囲まれた緑豊かな前鳥神社は、平塚八景の一つに数えられています。境内に併設されている、さきとり幼稚園の園児が境内で遊んでおり、参道には木洩れ日がふりそそいでいます。また、御社殿の他に石碑や句碑など様々なものをみることができます一の鳥居鳥居の扁額「前鳥神社」延喜式内社 相模國第四之宮 前鳥神社『延喜式』とは、延長5年(927)にまとめられた全国の神社の一覧のこと川はないが朱色の太鼓橋参道は桜並木、来年も元気だったら開花時に訪れたいものだ参道から振り返り南側の一の鳥居参道に桜並木が続く建久3年(1192)、源頼朝が北条政子の安産祈願のため神馬を奉納した祈願所の一つである参道左側に「四之宮東町稲荷社」二の鳥居と狛犬平塚八景 森の前鳥神社ケヤキの老樹などの森にかこまれた、四之宮に鎮座する前鳥神社は、平安時代の延喜式神名帳に、相模国第四之宮として載っている古社である。社号は大住郡サキトリの郷にあったため左喜登利・前鳥・前取の文字があてられている。祭神は菟道稚郎子命と大山咋命、そして日本武尊命であり、これら祭神にちなむ前鳥神事がある。また境内には、奨学神社や神戸神社などがあって、古い時代をしのばせる平塚八景 森の前鳥神社参道の右側に「鐘楼」御鎮座1600年祭で復元された勧学の鐘。鐘楼の前に『鐘つき禁止のお願い』新型コロナウイルス感染拡大防止のため、鐘つきは暫くの間つかないようお願いします。ここにも稚郎子命は学問の道に秀で給ふ 改に學業増進成就の神として仰ぐべく大山祇命は不断活動福禄招運の神と讃へ奉るべし當社に古鐘あり寛政庚戌八月改鋳す太平洋戦争中金属回収に際し供出氏子久しく之を惜む 茲に〇鐘の面影を留め新たに巨鐘を鋳す 宮鐘殿 響き渡るところ鎮守永へに加護あらん 昭和43年戌申秋 創祀壱千六百年記念 前鳥神社宮司神代幸夫謹撰 奥州田中真治敬書こちらの面にも鐘楼の屋根の骨組み鐘楼の傍に立つ「寶篋塔」忠魂碑当地から出征し、戦場に散華された人たちの慰霊碑立札には「平塚市指定保全樹林」 ・しいのき他 ・指定第二十四号 ・昭和五十二年四月一日石碑は「花供養之碑」花供養之碑花の栽培生産者会である大野花き部会の花の御霊を慰め奉る碑参道の左側に立つ「近藤先生書碑」、奥に御神木書家近藤雪竹先生を門人の田中真洲先生らがその功績を称えた碑石碑には「近藤雪竹先生書碑」近藤雪竹は明治・大正期を代表する書家参道の左側に立つ「祖霊社」昭和53年(1978年)創祀。歴代の宮司と氏子総代・副総代、崇敬会会長を祀る祖霊社の扁額「祖霊永鎮」右側の狛犬(オス)左側の狛犬(メス)祖霊社の傍に石塔群祖霊社の裏から御神木境内に立ち並ぶ欅の巨木の中でも、随一の樹高と枝ぶりを誇る大樹である。樹齢は約三百年といわれるが、その樹勢はなお盛んであり強い生命力を感じさせる。天高く真直にそびえ立つ樹形は美しく、御神木が前鳥大神とともにこの地を見守り、人々も大神の鎮まる森を仰ぎ守ってきた永き歴史を今に伝える。御神木を見上げる樹勢がおおせいで強い生命力を感じさせる御神木の後方に休憩所10:52 正面に拝殿、参道右手に神楽殿、手前は筆墨塚 — 続く ー
2021.06.23
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