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小栗上野介ゆかりの東善寺の散策を続ける。11月16日(水) 15:50小栗上野介父子の奥に家臣の墓が並んでいた。手前にも5人の墓があった。こちらは養嗣子の小栗又一源忠道関係の家臣の墓であった。家臣の墓(右から)塚本真彦源勉 江戸からの家臣 上野介随員として渡米、権田へ移り西軍により宮崎城内で又一と共に斬首さる。三十七歳 又一と共に高崎市下斎田に葬られる。沓掛藤五郎 江戸からの家臣 上野介に従って権田へ移り、西軍により宮崎城内で又一と共に斬首さる。 二十五歳 又一と共に高崎市下斎田に葬られる。多田金之助 江戸からの家臣 上野介に従って権田へ移り、西軍により宮崎城内で又一と共に斬首さる。 二十歳 又一と共に高崎市下斎田に葬られる。塚本 ミツ 真彦の母 難を逃れ富岡市七日市へ向かう途中、地蔵峠付近の山中で四月八日孫チカと共に自害。塚本 チカ 真彦の長女 難を逃れ富岡市七日市へ向かう途中、地蔵峠付近の山中で四月八日祖母と共に自害。七歳位こちらの石碑には「霊光院○山智劔居士」。上の段に小栗家臣の墓が並んでいる。本堂前に戻り、歌碑には、 「慈恩 いろどるゆめ詣で 久遠のひびき東善寺 妙音うれし 花浄土 雨」妙音碑 横手由男 平成四年九月二十三日 寄進 沼田運新次郎 二十一世泰賢代妙音碑 妙音とは観音さまのことです。 画・文 雨・横手 由男横手由男は、群馬県渋川に生まれた「さすらいの画家、通称:雨さん」であると。15:55境内から国道406号 (草津街道・信州街道) へ戻る。 木柱の側面には「右 江戸駿河台へ 131.5km、横須賀へ 189.2km」。約15分であったが小栗上野介ゆかりの東善寺を参拝し後にした。16:00岩窟観音 熊谷次郎直実愛馬権田栗毛 守護所在地:群馬県高崎市倉渕町権田岩窟観音は熊谷次郎直実の愛馬・権田栗毛の母衣についていた金の観音像 (一寸八分:約5cm)を胎内に奉蔵した観音像を祀る。国道406号 (草津街道・信州街道) の道路脇に車を停める、旅友は既に引き返し撮影に・・・。右側の斜面には「岩窟観音 南参道」。国道沿いに「上州 権田の里」「幕末の史蹟」「小栗上野介埋骨の地」。また、道路沿いには「観音山小栗邸跡 → 500m」の案内板も。小栗邸跡には駐車場が完備されている。訪れなかったので以下2枚の写真はネットから。案内板には「小栗上野介の屋敷はこの下の平地です」と。石碑には、小栗上野介の業績を刻んでいる。屋敷跡には、高崎市指定 史跡 観音山小栗邸跡 指 定 昭和五十七年四月一日 所在地 倉渕村大字権田字観音山3584-1 小栗上野介忠順は、江戸幕府の要職を免ぜられ、慶応四(1868)年三月一日、家族、家臣とともに権田村に隠棲した。当初は東善寺を仮住居とし、ここに住宅の建設を始めた。宅地の造成、用水路、田畑の開発を行い、そして三棟の住宅建築にかかり五十余日で、間口十二間、奥行き七間半総二階の主屋一棟が上棟のはこびとなった。小栗日記によるとこれは四月二十八日のことである。ところが、翌二十九日から事態が急変し、江戸城総攻撃のため薩長の東山道軍が高崎を通過の際、小栗に謀反の意志ありとして配下を差し向け、ついに翌月閏四月五日高崎・安中・吉井の三藩に命じて小栗を捕らえ、一言の取り調べもなく翌六日 (太陽暦では五月二十七日) 烏川の水沼川原で家来三人と共に斬首した。完成を見なかった小栗の邸は、現在前橋市総社町の都丸家の住宅となって現存している。邸跡には礎石など残り、水路は今も利用されている。 平成九年三月 倉渕村教育委員会山斜面に「巌窟観世音」の標石。石段を上ると正面に、岩を背に岩窟観音堂が建っていた。平成十二年(2000) 十月六日突如背後の岩石が崩れて観音堂を押しつぶした。この為、平成十五年十月に改修されたきれいなお堂である。本堂の扁額「岩窟観世音」。みごとな獅子の彫りものも復元。岩窟観音堂の縁起熊谷次郎直実の愛馬権田栗毛は、この地で育った名馬です。栗毛は源平の合戦に活躍しましたが、一ノ谷の合戦で傷ついてしまいました。直実は「よくやってくれた。これからは権田で暮らすがよい」と権田へ帰しました。栗毛はなつかしい故郷へ帰ってきましたが、育ててくれた生家は絶えてありません。栗毛は悲しみのあまり屋敷跡でいななきました。その時、栗毛は母衣(ほろ・武士が馬上で背負う矢よけの袋)を落とし、一寸八分の観音像が現れました。栗毛は再び熊谷の主君のもとへ帰ろうとしました、三ノ倉土城谷戸で力つきて亡くなりました。村人は母衣から現れた観音像を胎内に納めた木像を作り、この岩窟に観音堂を建てて祀りました。「観音清水」は栗毛が権田の里に帰ってきた時、飲んだといわれる泉です。 関連史跡● 栗毛の母衣を祀ったお母衣明神は、栗毛の生地と言われる権田小池にあります。● 三ノ倉土城谷戸の馬頭観音堂跡には馬頭観音が祀られています。▲ 小栗上野介の邸宅跡はこの山の上にあります。 観音堂の背後には平成十二年(2000) 十月六日に突如崩れた岩山が迫る。観音堂の右側に、「石仏」、背後の岩山も補強されたのか。屋根は銅板葺きに、また屋根の下隅にはかわいい風鐸(ふうたく)が下げられていた(黄色丸内)。境内から草むらの南参道を下り振り返る。16:05小栗上野介忠順終焉の地所在地:群馬県高崎市倉渕町権田慶応四(1868)年閏四月五日、上野介と家臣3人は捕縛され何の取り調べもなく、翌日ここ水沼川原において斬首された。上野介42歳でした。終焉の地には、「偉人小栗上野介、罪なくして此所に斬らる」と刻まれた碑が、昭和七(1932)年地元の有志等によって建てられた。国道406号西側の田の一角に「小栗上野介顕彰会」の旗がはためいていた。かつては、烏川の水沼川原の河川敷であったのだろう。今は石垣で囲まれ一段高くなっている。地元の有志等によって昭和七 (1932) 年に建てられた「顕彰慰霊碑」。高崎市指定 史跡 小栗上野介忠順終焉の地 指 定 昭和五十七年四月一日 所在地 高崎市倉渕町水沼字中川原1613-3小栗上野介忠順は、安政七年(1860)一月 日米通商条約批准書交換のため目付役として渡米し、帰国後、外国奉行・勘定奉行・陸軍奉行の要職につき、幕府の重鎮として活躍した。なかでも横須賀造船所の建設は彼の提唱によるもので、当時は東洋一といわれた。慶応四年(1868)、薩長等倒幕勢力に対し主戦論を唱えたがとり入れられず免職され、領地権田村に隠棲した。この頃、野州、武州一帯に起こった暴徒の一隊は、小栗が多額の軍用金を持ち帰ったというデマに踊らされて本村に襲来した。小栗方はこれを見事に撃退したが、これらの行動が、「小栗は強力な兵力を持ち叛逆の企図あり」の虚言を生み、東山道総督府がそれを取りあげるところとなり、小栗追討令が下った。小栗は養子又一を高崎藩に遣わして他意のないことを開陳したが入れられず、遂に囚われの身となり、慶応四年閏四月六日(太陽暦では五月二十七日)、家来三人と共に水沼川原の露と消えた。時に四十二才であった。 平成九年三月 高崎市教育委員会 石碑には、「偉人小栗上野介、罪なくして此所に斬らる」と刻まれている。烏川の東側堤下にある。16:12終焉の地を後にし、この倉渕郵便局前交差点を右折して国道406号を高崎方面へ向かう。この後の帰路のルートは、上野介終焉の地 → 高崎インタ → 鶴ヶ島JCT → 八王子JCT → 茅ヶ崎西インタ目的地までの所要時間は、2時間33分、172km。カーナビの案内は、167km、到着予定は19:07と。国道406号(草津街道・信州街道)を進み三ノ倉落合交差点を直進。ここを右折すると9kmで安中榛名 (あんなかはるな) 駅へ。16:28室田交差点を直進して、国道406号から県道29号線 (あら町下室田線) へ進む。16:34県道29号線 (あら町下室田線) の鳥井沢交差点を直進。16:35県道29号線 (あら町下室田線) のこの先高浜交差点を直進。県道29号線 (あら町下室田線) のドドメキ交差点を直進。16:40右折して県道29号線 (あら町下室田線) へ進む。県道29号線の町屋橋東交差点16:42我峰町交差点を右折して県道29号線を進む。16:45県道29号線の下小塙町交差点を直進。市街地に入り車の通行量が多くなる。この辺りは、高崎市下小塙町1030。高崎インタに向け県道29号線を進む。17:08県道29号線から27号線に入り、高崎インタまで200m。17:10関越自動車道高崎インタ入口18:00関越自動車道を進み、鶴ヶ島JCTまで 1km。19:10鶴ヶ島JCTから圏央道を走り茅ヶ崎西インタを下りる。出発時の到着予定時間とほぼ同じ時間に到着した。ちょうど夕食時でここ茅ヶ崎西インタ出口にある「かつや」で食べることに。後日旅友から頂いた今日のドライブルート、走行距離は昨日と同じで300キロ。二日間での累計距離は600キロで、今回も無事故無違反であった。いつもの「ロースカツ定食」をオーダー。豚汁も美味しかった。飲み物も欲しかったが運転中で我慢。今回の旅で、続日本100名城の征服も累計48城に。今年何城攻略できるか。また、江戸末期の人材、國定忠治の知らなかった一面、明治以降の日本の近代化への道を開いた小栗上野介を知ることができた旅であった。今回も旅友にはお世話になりました。 END
2023.01.27
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今回の旅を計画してGoogleマップを見ていて「国定忠治の地蔵」があることを知り是非訪れたいと、帰路は国道406号 (草津街道・信州街道) のルートを選んだ。11月16日(水) 15:20忠治地蔵 (国定忠治刑死場跡)所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町大戸3412国道406号を高崎方面へ南下。道路沿いに大きな木が聳え、石柱が立っていた。石柱には、正面に「國定忠治処刑場跡」側面に「國定忠治慰霊碑入口」と深い彫り。バス停の「忠治地蔵前」。国定忠治は、江戸時代後期の侠客である。「国定」は生地である上野国佐位郡国定村に由来し、本名:長岡忠次郎。 後に博徒となって上州から信州一帯で活動し、「盗区」として一帯を実質支配する。天保の大飢饉で農民を救済した侠客として、講談・浪曲や映画、新国劇、大衆演劇などの演劇の題材となっている。国道沿いから、国定忠治刑死場跡を見下ろす。国定忠治の刑の執行は有名なはりつけ刑ですが、現在そこには慰霊碑が建てられている。因みに処刑場跡の駐車も見学も無料となっている。国道406号 (草津街道・信州街道) の大戸宿方向を振り返る。道路脇には「山のきのこ 直売所」があったが閉店中。國定忠治礫刑場遺跡上州侠客此処に眠る忠治は四十一才の時、関所破りの罪に依り礫の刑に処せられ、今の一番奥の石塔の下に埋められて居るのである。天保七年忠治は二十七才の時に三十余人を連れて大戸の関所を破り反逆の罪となり礫刑された。(注) 当時の刑法の條文からすると、徳川氏制検札宣告文百ヶ条の内第二〇に於て関所を破って山越した者、関所を忍び通った者関所通らず山越した者、又案内者等は其の関所にて礫刑にし女は郷土より追放すとある。秋に二夜三日間晒首とされた。郷土の人々は忠治の冥福を弔って墓碑と地蔵尊建立し (現在は新しく石碑建直した)。尚、処刑に関する当時の準備始末書は、同地大字須賀尾高橋慶重氏及び元大戸郵便局長一場氏宅に保存されて居る。 昭和四十九年十一月忠治刑死場跡に建つ忠治の地蔵尊。旅姿三度笠には程遠い姿であるが。侠客の国定忠治、清水次郎長の名は映画等でよく知っている世代だが今の若者は?。この旅をするまで忠治が関所破りをやって此処で磔刑されたことは知らなかった。磔 (はりつけ):罪人を板や柱などに縛りつけ、槍などを用いて殺す公開処刑の刑罰の こと。磔刑 (たっけい)。ズームアップするが忠治の顔も風化して無残にも。忠治ファンが生け花、お酒を供えていた。忠治処刑場の跡この地を尋ねた俳人等のなかに次に掲げる名句がある。 風花や忠治終焉の薮川原 八束 (東京) 任侠の名やとこしえに松の花 樗雀 (東京) 蜩に「忠治の松」のいわれ聞く 空望 (千葉)小説 新説国定忠治 左保著 (東京)昔からこの地蔵尊におすがりすると脳卒中に掛らないという百五十年記念 忠治史蹟保存会 大運寺浄友会石碑には「侠客 國定忠治慰霊碑」と。國定一家 十二人衆 慰霊碑苔むした石碑には「慰霊碑建立之由来」侠客国定忠治は上州佐波郡国定村に生れ天明の大飢饉に際し近○の民・・・後略 昭和四十三年七月吉日 世話人 群馬高崎 茂木○○ 高橋○○ 富田○○ 埼玉大宮 山本○○ 榛名町○○○○ 大戸 土谷○○忠治処刑場跡を後にする、石柱の裏面には、「昭和五十六年四月 五代目酒梅組内 橋本 実 田渕政治 建之」側面には、「國定忠治慰霊碑入口」次に訪れたのは、ここも帰路に訪れたいと思っていた「小栗上野介ゆかりのお寺 東善寺」。忠治処刑場跡から、国道406号 (草津街道・信州街道) を高崎方面へ南下。15:40曹洞宗 東善寺 (とうぜんじ)所在地:群馬県高崎市倉渕町権田169県史跡指定による小栗上野介忠順(ただまさ)の墓が有ることで知られている。小栗忠順は江戸に生まれた。安政7年(1860)日米通商条約批准のため米国に渡航し帰国して外国奉行となった。以降も陸海軍奉行・江戸町・歩兵・軍艦・勘定などの奉行を歴任する逸材であった。また、横須賀製鉄所建設や兵制改革などに尽くしたが、戊辰戦争では抗戦論を唱えて失脚し、領地である権田村に隠棲していた。しかし、官軍の探索により捕らえられ、滞村64日後の4月6日烏川畔で斬首された。この処刑場跡にも碑が立てられている。国道406号 (草津街道・信州街道) 沿いに建つ、「県指定史跡 小栗上野介忠順の墓」「清酒 小栗上野介の里 本醸造 権田」の看板。国道沿いに駐車場があり車を停め参拝。木柱には「草津街道 信州街道」側面には「左 草津温泉へ 43.9km、小布施へ 96.9km」。寺の門前に建つ「小栗上野介の寺 東善寺」小栗上野介は日本近代化の礎を築いた。ここ東善寺は小栗家五代政信公を中興開基とする曹洞宗のお寺である。上野介一家は、このお寺に二ヶ月あまり仮住まいして、観音山に住居建設を進めた。境内には上野介、又一、殉難の家臣らの墓が並んでいる。墓右脇には黒椿が植えられている。遺品館もあり遺品も見られる小栗上野介ゆかりのお寺である。参道に建つ門碑には「・・・・・」左側にも石灯籠と、門碑石柱には「曹洞宗 諏訪山 東善寺」と。石像三体が西日を浴びる。石碑には「御手水」と刻まれていた。掲示板に、小栗上野介関係の記事が貼られていた。 • NHK大河ドラマ『青天を衝け!』 小栗忠順役 (武田真治) • 小栗上野介情報 82 対馬事件ー1 • 小栗上野介情報 83 対馬事件ー2 • 3年ぶり 小栗まつり 再開 等々。境内の紅葉が西日を浴びて鮮やかに映えていた。黄葉も負けじと。境内に入り手前に寺務所。拝観受付の札があり、資料館もあったが時間が遅くなるのでスルーした。東善寺の境内に大切に保管されている1本のネジがある。一見なんの変哲もないただのネジだが、その伝来を聞けば、印象は一変すると。本 堂本堂の扁額「東善寺」境内には石祠、右側には妙音碑が建っていた。石像も西日を浴びていた。像の足元には米俵?、手には槌か。本堂左側の庭、松の古木の下に上野介と栗本鋤雲の胸像が並ぶ。小栗上野介源忠順 (ただまさ)(1827~1868) 昭和二十八年九月横須賀市より贈られた胸像 朝倉文夫制作 ※ 横須賀市博物館前庭の像はこの胸像を複製西日を浴びる「上野介 胸像」。小栗上野介の優しそうなお顔今は亡き某先輩を思い出すようなお顔である。栗本鋤雲 (じょうん)栗本鋤雲 瀬兵衛安芸守 (1822~1897)横須賀製鉄所建設の功労者 函館で開拓、病院開設、蝦夷、樺太千島巡視等に功績あり、慶応三年滞欧中にアルプス登山した最初の日本人小栗上野介とともに、幕末の日本近代化に尽力、明治以後報知新聞主筆として活躍、この胸像は鋤雲の門人犬養毅が作らせ御蔵島に蔵置せられる石膏像を原形とする。著「匏庵 (ほうあん) 遺稿」。 昭和三十一年五月六日 元海軍建築局長吉田直殿建贈 ※ 横須賀市博物館前庭の像はこの胸像を複製境内には石祠、いろんな石像、六地蔵が立っていた。県指定史跡 小栗上野介忠順の墓 指 定 昭和二十八年八月二十五日 所在地 高崎市倉渕町権田一六九 東善寺小栗忠順は、徳川譜代の旗本で文政十(1827)年江戸で生まれ、権田村(三七五石)は禄高2,700石(九ヶ村)の領地の一つであった。上野介を称し、安政六(1859)年 三十三歳で井伊大老に抜てきされ豊後守に任官、万延元(1860)年 日米修好通商条約批准書交換の遣米使節として新見豊前守正興、村垣淡路守範正と共に米艦ポーハタン号で渡米。任務を果たし大西洋、インド洋を経て帰国。それより外国、軍艦、江戸町、歩兵、陸軍、勘定の各奉行を歴任、フランスと結び幕府の財政や洋式軍隊の創設など幕政の改革に尽くし、日本産業革命の地横須賀製鉄所(後の海軍工廠)をつくった。明治維新の幕府解散で勘定奉行を免ぜられ、慶応四(1868)年三月一日、権田東善寺に隠棲す。西軍(明治政府軍)がこれを無実の罪で追捕し、閏四月六日、水沼村烏川原にて斬首。時に四十二歳であった。 平成七年十一月 群馬県教育委員会 倉渕町教育委員会この石碑には「吊小栗上州公」と。漢字が刻まれていたが風化して読めなかったが。・・・・・ 啓蒙興産百年○ 何知罪得天○ 従容○死烏川畔 昭和二十九年五月六日 こちらの石碑も「仁義禮智信」、後方には六地蔵。墓参用の水汲み場であったか。六地蔵が並ぶ。家臣の墓(右から)塚越冨三郎 権田出身 小栗夫人を護衛して会津へ行き、慶応四年九月一日耶麻郡高郷村一竿で戦死 二十三歳 一竿に慰霊碑がある。佐藤銀次郎 権田出身 小栗家歩兵の一人、 小栗夫人を護衛して会津へ行き、九月十一日喜多方市熊倉で戦死 二十一歳 熊倉に葬られ墓がある。渡辺太三郎源𠮷享 江戸からの家臣 上野介に従って権田へ移り、西軍により上野介とともに斬首さる 二十歳大井磯十郎 権田出身 小栗家歩兵の一人、西軍により上野介とともに斬首さる荒川(江幡)祐蔵 江戸からの家臣 上野介に従って渡米、権田へ移り西軍により上野介とともに斬首さる 三十六歳 墓石には戒名が刻まれている。皆さん若く一人を除き二十代そこそこ、有望な人材が斬首、戦死に。五人の家臣の奥に「小栗上野介忠順墓 群馬縣指定重要文化財史跡」の木柱。右側に「小栗上野介源忠順」。左側に「小栗又一源忠道(養嗣子)」地元ファン等が多いようで墓の廻りには多くの塔婆が並べられていた。上野介の墓右脇には黒椿が植えられているので鬱蒼としている。小栗上野介 遺愛の椿 小栗上野介が江戸神田駿河台の屋敷が・・・・・・・・・ 五月に黒味がかった赤い八重の名花を咲かせる。小栗上野介源忠順 慶応四年閏四月六日 西軍により無実の罪で村内水沼河原に斬首さる。 四十二歳 ここは供養墓で遺体首級とも上の本墓にあり。上野介の左側に、養嗣子の小栗又一源忠道又一は、上野介の養嗣子で父の命により申し開きをするために官軍に出向いたが、翌7日、主従4人とともに高崎城下で斬首された。15:50小栗又一源忠道の墓石の上には大きな?。 ー 続く ー
2023.01.26
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八ッ場ダムへは完成前に2度、令和2年(2020)3月に完成してから初めての訪問である。2014年11月2日(日)に訪れた完成前の「八ッ場ダム、吾妻渓谷」👈 をクリック願います。八ッ場ダムは、令和2年(2020)4月1日より運用を開始した。11月16日(水) 14:35前方の丘に「やんば見放台」の看板。所在地:群馬県吾妻郡長野原町川原畑994八ッ場ダム全体を高い位置から見学できる無料展望台。近くには無料駐車場があり、ドライブの休憩に立ち寄るのもおすすめであると。ズームアップ「やんば見放台」。折り返しの手摺付きのスロープが設置されている。やんば見放台には双眼鏡、ベンチが設置されていた。八ッ場ダムのダムデータ河 川 利根川水系吾妻川目的/型式 多目的ダム/重力式コンクリートダム堤高/堤頂長/堤体積 116m/291m/911千m3流域面積/湛水面積 711.4k㎡ /304ha総貯水容量/有効貯水容量 107,500千m3/90,000千m3本体施工者 清水建設・鉄建建設・IHIインフラシステム着手年/竣工年 1967年/2019年 紆余曲折し着手してから52年で完成。ダム湖 八ッ場あがつま湖八ッ場あがつま湖には網場 (あば) が2本。八ッ場あがつま湖満 水 時 :標高 583m最低水位:標高 536.3m 夏期制限水位:標高 555.2m 令和2年3月撮影 ※ 試験湛水中の最低水位時の写真です。ここから見える景色(上流側)川原湯温泉街 吾妻川沿いから移設された。八ッ場大橋 標高:586m=ダムの天端の高さ、標高:583m=満水時の水面の高さ不動大橋丸 岩 令和2年3月撮影 ※ 試験湛水中の最低水位時の写真です。逆光の中に八ッ場大橋八ッ場ダム建設に伴う付替道路として建設された。建設中の仮称は湖面1号橋。同様の付替道路として群馬県道375号の不動大橋と国道145号の丸岩大橋がある。全長:494m、幅員:14m、高さ:73.5m、開業:2014年10月1日。八ッ場大橋をズームアップ。右奥には湖底から移転された住宅が広がる。左奥には不動大橋。八ッ場あがつま湖 浅間山北麓ジオパーク 吾妻川エリア F-6 なぜ、この場所にせまくて深い谷が生まれたのでしょうか。大地の活動 八ッ場あがつま湖は、幅がせまく深い谷地形を利用して作られました。吾妻川は吾妻渓谷 を削り込んで東向きに流れていますが、数10万年前には南(長野県側)へ流れていたと考え られています。その後、現在の浅間高原の南側で浅間・烏帽子火山群の噴出物が流路をふ さぎ、大きな湖(古嬬恋湖)ができました。湖水は標高の低かった場所からあふれ、今の東 向きの流れに変わり谷を削り始めました。加えて、渓谷地域は古く硬い岩石からできてい るため、切り立った断崖になったのです。人の暮らし 八ッ場あがつま湖は吾妻川の水をためています。吾妻川はかつて「死の川」と呼ばれてい ました。草津温泉からの水が強い酸性のため、魚や虫が住めなかったのです。また、この 水は農業にも使えず、コンクリートを溶かすため、河川の構造物にも影響がありました。 そこで、河川を中和する工場が1963(昭和38)年に草津町に作られました。それからは、 24時間、365日休むことなく石灰を上流の酸性河川に投入し中和を行っています。吾妻川 は、いまでは魚類が生息する川に生まれ変わっています。ダム頂部をズームアップ。八ッ場ダムの設備なるほど!やんば資料館(八ッ場ダム管理支所)展望デッキ選択取水設備(任意の水深から取水する設備)非常用洪水吐設備水位維持放流設備網場 令和2年3月撮影 ※ 試験湛水中の最低水位時の写真です。民主政権と八ッ場ダム八ッ場ダムといえば、今から13年前の2009年の秋に、「マニフェストに書いてあるから中止します!」と、民主党政権が発足して国土交通相になった前原誠司氏は就任直後にこう公言したことが私の記憶に。しかし、地元の反発は強く、2年後に結局「中止」は撤回された。ダム建設の総事業費は約5,320億円。計画が浮上したのは1952年だからもう70年近い。因みに民主党の迷走で完成が4年遅れたとあったが、他にも原因はJR移設が遅れたことも。なるほど!やんば資料館 (八ッ場ダム管理支所)、展望デッキ展望デッキをズームアップ。ここへ行くつもりであったのだが。やんば見放台から北側を見下ろす。右側に長野原側の茂四郎トンネル入り口。手前には駐車場があり数台の観光バスが駐車。やんば資料館へは手前の道を入る必要があったようだ。正面には昼食をとった「そば処 やんば」。八ッ場ダムを見納め、やんば見放台を下りることに。ダムの網場 (あば) は放流設備を守る設備だが流木・ゴミ等はなかった。やんば見放台を下りると道路脇に歌碑。「ダムとなる 村に知人の 家は無く 行き交ふダンプ 枯草ゆらす 義夫」歌碑の横に、移設されたのであろう地蔵、道祖神も立っていた。地蔵の前には浄財の箱も。14:45駐車場脇に立っていた観光案内板 ← 0.5km 名勝 吾妻峡 下流側から入れなかったのでこちら側から?。 ← 0.3km 八ッ場ダムサイト ダム頂上部を歩けるのだ。 ← 0.2km やんば茶屋 お土産スペースと食事スペースがある。八ッ場ダムサイトへはここから行くべきであったが。今回の旅の予定は全て終わり帰路につくが、関越自動車道の渋川 or 高崎インタどちらにするか。折角であるのでGoogleマップで調べて気になった、国道406号 (草津街道・信州街道) 沿いにある「大戸関所跡」「忠治地蔵」「小栗上野介の東善寺」へ行き、高崎インタを目指すことに。14:53八ッ場ダムを出発、ダムサイトへ行くつもりであったがトンネルに入りそのまま進む。カーナビの案内で国道145号のここ岩島駅前交差点を右折。途中、工事中のバイパス横から岩櫃山を見上げる。岩櫃山南面の約200メートルの絶壁をズームアップ。県道58号線(中之条東吾妻線)を南下、最初の目的地「大戸関所跡」も近い。15:07国道406号 (草津街道・信州街道) の大戸交差点を左折。目的地へ到着、大戸交差点を振り返る。大戸関所跡所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町大戸2875-8大戸関所は江戸時代信州・草津街道の要所にあったことから、寛永八年(1631年)に関所が設置された。幕末に国定忠治がこの関所破りに失敗し、処刑されたことで有名になった。 大戸関所は元和九年(1623)五月将軍秀忠上洛の時に、要害の此の地を守護したのが始まりといわれる。其の後、寛永七年に幕府目付によって、関所見立の巡検があり、翌八年に正式に関所が設けられた。四阿風のお休み處「御番屋」が建っている。大戸関所跡大戸関所は信州街道の要点をおさえる重要な関所で、近世初頭の寛永八年(1632)に設置された。信州街道は草津温泉を始めとする湯治客、善光寺参り、北信濃の三候の廻米や武家商人の荷物、各地の産物輸送路として、中山道を凌ぐ程の活気を呈したともいわれ、江戸と信濃を結ぶ最短経路として重要な街道であった。別名信州道、草津道、善光寺道、大戸廻りとも呼ばれていた。大戸関所は元和九年(1623)五月将軍秀忠上洛の時に、要害の此の地を守護したのが始まりといわれる。其の後、寛永七年に幕府目付によって、関所見立の巡検があり、翌八年に正式に関所が設けられた。中山道の脇往還で碓氷関所の裏固めの意味を持っている。以後二百三十有余年の間幕府代官の管理の下に運営され、明治元年九月に廃止された。関所は通行手形によって往来の旅人を厳重に取締り、関所破りは重罪として処刑された記録がある。註「関所を避けて山越しなどをした者」。通行の門限は明六つから暮六つ(午前六時より午後六時)までと定められていた。また要害地域を守る関所付の村として、大戸、萩生、本宿の三ヶ村は関所番人を出し警備に当たったり関所破りを監視するなどの負担を義務づけられ近隣の十一ヶ村は関所普請村に充てられていた。嘉永三年(1850)十二月に関所破りの罪を受け侠客国定忠治はこの地で処刑された。映画演劇や講談浪曲でも知られる處である。 吾妻町観光協会・史蹟保存会御番屋の中には国定忠治の映画ポスター(東宝映画)出演:三船敏郎、加藤大介、新珠三千代、夏木陽介、藤木悠、水野久美、中村勘九郎国定忠治が子分の仇をとるため手下30人余りをひき連れ信州へ向かった際、大戸関所を破ったため関所破りの罪で手配され捕縛、はりつけの刑に処せられた場所としても知られている。大戸宿の言われ北国街道の脇往還である信州街道は、高崎で中山道より分岐し神山、室田、三ノ倉、、大戸、本宿、須賀尾、狩宿、鎌原、大笹、仁礼、井上、福島(須坂市)、に至る、途中11の宿場をもつ。大戸宿は、高崎より4番目の宿場町で寛永8年(1632年)に関所が設置された。信州街道は、草津温泉をはじめとする湯治客、善光寺参り、北信濃の三候の廻米や武家商人の荷物、各地の産物輸送路として、中山道を凌ぐほどの活気を呈していたとも言われ、江戸と信濃を結ぶ最短経路であった。文化5年(1808年)には、71軒の宿屋があったと言われています。可部安佐右衛門上州吾妻郡大戸村に代々、可部安左衛門を名乗る上州一の分限者がいました。みんなから可部安(かべやす)と呼ばれて親しまれていました。初代は富沢掃部といって、戦国時代に生きた武士だったようです。三代目から可部姓を名乗ります。三代目から五代目までは八右衛門を名乗っていて、六代目から安左衛門を名乗っています。七代目の可部安が立派な人だったようで、酒造業を始めて、麻の仲買いなどもして、財産を蓄えます。八代目も立派な人で、父親の家業を継いで財産を増やし、巨万の富を蓄えます。天明三年(1783年)に浅間山が大噴火を起こして、鎌原村をはじめとして吾妻郡の村々は壊滅状態にとなり、避難民が溢れます。八代目は財産を惜しまず避難民の救済に当ります。翌年の正月、その功績によって幕府より帯刀を許されます。天明六年の大洪水の時も、避難民たちを救っています。九代目は婿養子で、松井田の分限者、儘田又兵衛の次男だったようです。十代目は八代目の長男で、学問を好みましたが、それ以上に遊興を好み、江戸に出ては、吉原遊郭で派手に豪遊していました。お陰で、父親の残した財産を使い果たしてしまいました。晩年は江戸で暮らしたようです。十一代目は江戸で生まれて、江戸で育ちますが、郷里に戻って、家業の建て直しを図ります。この十一代目は侠客の国定忠治とも仲がよく、忠治が処刑される時、最期に望んだのが可部安が造った銘酒「牡丹」でした。十二代目は琴堂と号して、俳諧に熱中します。明治の時代になって、横浜に進出して大きな店を出し、貿易に手を染めますが、どうやら失敗したようです。現在、大戸の関所跡の近くに可部安の屋敷跡がひっそり残っています。宿場の記憶 上州歴史街道忠治の記憶、豪商邸宅石碑には「大戸関○○碑」全て漢字で判読できなかった、裏面には「寄附者芳名」多くの人の名が刻まれていた 大正五年丙辰十一月三日建立大戸関所図右側:寛保九年 (1724)左側:文久元年 (1861) 御番屋 間口六間、奥行三間大戸関所跡に車を停め、国道406号 (草津街道・信州街道) を高崎方面へ歩き振り返る。交差点は大戸交差点で、八ッ場ダムまで12km(左方向)、我々は右側から来たが。大戸宿の高崎方面の右上に碑があり立ち寄る。町指定史跡 可部安左衛門関係遺跡可部安左衛門邸跡所在地:吾妻郡東吾妻町大戸家の前に廻り込む。石柱には「吾妻町指定重要文化財 可部安左衛門関係遺跡」。街道脇には「可部安」の看板。大戸関所関係遺跡(町重要文化財 昭和58.9.12 指定)大戸関所は、寛永八年(1631)に設置された。大戸の地は信州・草津街道の宿場町で、北信濃地方の物資や旅人の往来などで大変賑わったといわれ、交通上重要な位置を占めた。関所の構造は、番屋・御門・高札場・牢屋からなり、番人4人で「入鉄砲と出女」といわれるように、この二つについては特に厳重な取り締まりを行った。幕末に国定忠治が関所破りの罪によりこの地で処刑されている。国道406号 (草津街道・信州街道) を高崎方面へ進むと、門前に屋号の「永楽屋」。大戸宿 屋籠看板配置一覧図こちらには「萬屋」と。各家の前に屋号の札が建てられていた。15:20こちらの屋号は「角屋」。 ー 続く ー
2023.01.25
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岩櫃山を見た後は、吾妻渓谷、八ッ場ダムへ向かうことに。農道から国道145号に戻り郷原交差点を左折、走っていると右側に大きな神代杉を見つけ急遽、ユーターンして神社脇の駐車場に車を停め参拝。11月16日(水) 13:30矢倉の神代杉所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町矢倉矢倉島頭神社の境内入り口にあり、樹齢1400年。中の空洞には樹齢200年の杉がはえており、親子杉とよばれている。鳥居の扁額は「鳥頭宮」国道145号沿いの神社入口に神代杉、根巻鳥居。この神代杉は樹齢1400年。現在周囲9.75m余ありますが、氏子さん達が代々に亘り修復を重ね、今にその姿を伝えています。虚内にある杉は、約200年前に何度か植栽され苦労の末に根付いた木で、一名親子杉とも呼ばれるこの神代杉の名声を天下に広めた由縁です。神代杉の由来そもそも神代杉(一名親子杉とも言う)は、その昔日本武尊御東征のみぎりお手植されたと言い伝えられ、以来幾千歳うつ蒼たる神域を近隣に誇りしが、寛保二年(1742年)草津への旅人一夜をこの大杉の虚にて暖を焚き、その失火により神代杉は半枯の状態になりしとか、その後天明三年(1783年)浅間山噴火による熱泥流は、再びこの神代杉を厄火に包みたり。ときに龍徳寺住職円心和尚は、その焼失の危機を憂慮し神代杉を後世に残さんと余燼のくすぶる中、己が危険を侵し十米の高所より切倒してその祈念を果たし、今の世に往時の面影を残存したると言う。この神代杉は現在周囲九、七五米余あるが、当村の氏子たち代々に亘り修復を重ねて、今にその姿を伝えるものなり。また、虚内にある杉は約二〇〇年前何度か植栽に挑みたるがいずれも枯死したため氏子たち笹原台地の黒土を馬にて運び混土し、杉苗も長尺ものを切株より大空に突出して植えるなど、幾多先人の辛苦により漸くその目的を達し活着したものと言われしが、それより一名親子杉とも呼ばれこの神代杉の名声を天下に広め、今尚誇りを保ち尊ばれるものである。 昭和六十三年十一月 神代杉保存会 吾妻町観光協会 右に掲示する神代杉は国道拡巾工事により移動前の神代杉であります。(枯幹の中に植えられた杉の年輪は二百十六本でありました。) 平成八年五月 吉日 平成七年撮影杉林の参道に立っていた石碑「○○○○碑」。我征清之為○援・・・・・・・・・・中境内と上境内への石段参道。力石も置かれていた。力石の由来力石とは労働を人力に頼らざるを得なかった時代に発生され、力くらべや、体力を養うを目的にした担ぎ石を指す。すべての作業に若者の人々は強い力を重んじ軽軽と運ぶのが誇りであった。岩島地域の力石は丸石で二石組で保存されている。因みに「力石」の大玉が九十八キロ小玉が四十七キロである。力石奉納競技で大玉を担ぎ得る若は名誉と賞賛を得たると知らされる。岩島地区は他に六ヶ所の力石の所在が確認され、形や同数で在るのは岩島地区は麻の栽培で共通点があり庶民の力比べの文化遺産でもある。「力石」は若者が他の地域との交流を有した証であろうし、有形文化財であろう。力石の文献は無くても、素朴な自然であっても、若者が体力を養い親しんだ「力石」は先人と信仰の先史をたずね後世に伝承すべく保存するものである。 神杉の種舞い降りて力石 初蝶の吹きもされし力石 鳥頭神社力石保存会 平成二十年四月 吉日 撰文 小池都史雄狛犬(右側)狛犬(左側)後方に社務所(左)、神楽殿(右奥)。拝 殿 拝殿・本殿覆い屋(写真はネットから)。左側からの拝殿、本殿。彫刻も立派であったのだが・・・。鳥頭神社由緒一、所在地:吾妻郡東吾妻町大字矢倉字宮の脇八九九番地二、祭 神:大穴牟遅神 (大国主命)、宇迦之御魂神、倭健命、建御名方命三、祭 日:春季大祭・4月吉日、秋季大祭・11月吉日、茅の輪祭・7月吉日四、境内地:二,六三六坪五、沿 革 創建年月不詳、伝承によると吾妻七社の一つで建久年中(1190)の建立と伝えられている。 古末武将郷民の信仰が厚く、元享年間(1321)岩櫃城主吾妻太郎行盛が社殿を改修したという。 延文三年(1358)頃京都安居院で編集された「神道集」によると、父が加若和利 母が子持御 前の御子愛東(とのき)宮を祭った神と記されている。 叔父藤原成次は元上野国目代(次官)で、この地に住居し中世は吾妻、西条郷岩下村と称した。 戦国末期は岩櫃城主斉藤氏の庇護を受け、永禄六年(1563)10月斉藤氏滅亡後、同九年海野幸 光同輝幸は武田信玄の吾妻領の郡代となり、天正六年(1578)海野長門守幸光は武田勝頼に忠 誠を顕すため鰐口を奉納したが、享保八年(1723)盗難により現存しない。天正十年(1582) 正月真田昌幸より八貫七百文の寄進を受け社殿を修復、同十八年八月真田信幸沼田入部に際 し三貫五百文の寄進を受けた。沼田真田氏改易の後、貞享三年(1687)検地には境内一反五畝 余、森一反とあり、元禄七年(1694)十一月京都卜部兼連より正一位鳥頭大明神の宣旨を賜っ た。宝暦十一年(1761)本社建替着工、明和元年(1764)九月に完成した。なお宝暦十三年ま で正一位鳥頭大明神と称した。 明治十年七月相殿二座を合祀、同四十年八月境内末社等を合祀した。 撰文 山口武夫 吾妻七社とは児持七社ともいい、児持山大明神・半手木(破敵)大明神・鳥頭大明神・和理 大明神・山代大明神・駒形大明神・白専女大明神の七社を指します。拝殿手前右側に聳える「御神木」の大杉。大杉の幹回りには紙垂、根元には「御神木」の立札。神楽殿例祭には太々神楽が奉納される。神武天皇遥拝所碑の左側に石があり立札があったが?境内裏の斜面に無造作に「末社」。ズームアップ。道祖神も立っていた。境内に聳える「御神木」の大杉。境内の西側に建つ「社務所」「神楽殿」。急遽立ち寄った「矢倉鳥頭神社」だった。13:42吾妻渓谷へ向かって国道145号を進むと前方にJR吾妻線の巨大な鉄道橋。吾妻線第二吾妻川橋梁工事概要 工事延長 431m 3径間連続PC斜版橋 (橋長390m) 単径間PC桁橋 (橋長41m)、橋台 2基、橋脚 2基完 成 2010年2月新しくなる吾妻線JR吾妻線は1945年の開通以来、半世紀以上に及ぶ長い歴史を持っている。渋川駅(群馬県渋川市)から大前駅(同県嬬恋村)間を結ぶ約55.6km の路線である。利根川支流の吾妻川に沿って伸びる沿線には、草津、四万、万座などの名湯が並び、終着の嬬恋村周辺は高原野菜の産地としても知られている。しかし渓谷沿いの地形などから、降雨などで列車の運行が制限されるなどの弱点があった。八ッ場ダム建設に伴って水没する地域は、川原湯温泉駅を含む約6kmである。このため、前後の岩島駅から長野原草津口駅間の線路付替が行われることになった。延長10.4kmのうち約8kmがトンネルになる。これにより降雨、積雪などに対する防災強度の向上による安全、安定輸送の確保が図られるという(情報はネットより)。第二吾妻川橋梁は,岩島駅より上流側の約1.0kmの地点から、曲線半径600mの左曲線を描きながら吾妻川を渡河する橋梁である。単径間PRC桁橋と3径間連続PRC斜版橋で構成された橋長431.0mの中央スパン167.0mは、完成するとPRC斜版橋では国内最長となる。世界的に珍しいという独立4本柱の主塔形状は、地域住民の結束を意味し、みんなで力を合わせて支えるイメージを表現した。また、柱の断面を上下で変化させることで、釣合と安定感を創出していると(情報はネットより)。昼時を過ぎており、道の駅 あがつま峡でそば店を探すことに。13:45道の駅 あがつま峡所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町三島6441道の駅は平成26年(2014) 10月11日にオープンした。施設は年中無休であると。後方の高架橋は国道145号の八ッ場バイパス。吾妻峡温泉天狗の湯営業時間:10:00 ~ 21:00(最終受付 20:30)定 休 日 :毎月第2火曜日入 館 料 :中学生以上 420円(1名様/3時間まで)吾妻峡温泉の玄関口に位置する「天狗の湯」は、自然に囲まれた立地で、源泉かけ流し・体の芯から温まる泉質の良さが魅力の日帰り温泉施設である。道の駅は「あがつまふれあい公園」となっている。八ッ場周辺観光マップ 群馬県東吾妻町・長野原町店先に干し柿が吊るされていた。食べ頃はいつになるのか。昼食でそばを食べによるがうどんしかないとのことで他の場所に。この辺りは吾妻渓谷入口で、紅葉を期待して以前訪れた吾妻渓谷へ向かうことに。その時のブログ「8年前の吾妻渓谷&八ッ場ダム」は後日アップ予定です。道の駅を出発、吾妻川に架かるふれあい大橋を渡り雁ヶ沢交差点を左折して国道145号へ。この観光マップをよく見ておればよかったのだが「関係者以外立入禁止」と(矢印地点)。仕方がなく引き返すことに。国道145号を戻り、雁ヶ沢交差点を左折してループ橋を登り八ッ場バイパス(国道145号)へ。雁ヶ沢トンネル入り口。延長 815m、巾 8.25m、高 4.7m、完成 2008年10月。14:05茂四郎トンネルを出て、そば店を探しに左側の駐車場へ。広い駐車場があったが車はなく。正面の建物は「うどん専科 麦の香り」。そば処だがうどん店も多いようだ!店先をズームアップすると「水曜日 定休日」と。そば処「やんば」所在地:群馬県吾妻郡長野原町川原畑991-6ダム建設にともない移設されたそば店で、手打ちそばが美味しいと。ここで食べることに!店先の駐車場にユニークな「前向き注射でお願いします ♪ 」 の看板。この看板を見て旅友はワクチン接種をしていない高齢者へライン、反応はどうであったのか。こちらには【そばの効果】そばを喰べると、すぐお腹がすくと言われるのはなぜか?それは・・・・そば粉の澱粉には他の穀類より(ジアスターゼ)による消化が非常に早いからです。そばは腹一杯喰べても胃にもたれずに消化吸収されるからです。(タンパク質・カルシウム・カリウム・鉄分) 等多くのミネラルを含んでおります。そばは骨・血液・筋肉を作るのに役立ち、お子様の成長促進に最適です。又、老化を防ぐビタミンEをはじめ血圧を下げる(ルチン葉緑素)が含まれていると言われております。大切なあなた・・・・お子様にも是非、健康の為におそばをお召し上がり下さい。尚、当店のそばは、地元吾妻産の玄そばを自家製粉し、そば粉八つなぎ粉二、の二八そばです。 麦とろ そば処 やんば店先のカエデも白壁とのコラボで映えていた。ダム建設にともない移設されたのであろう、店内は新しい建物であった。店内は広くテーブル、座敷席があり五十人近くが入れるのでは。年配者の方が5,6人で営業されていた。舞茸の天麩羅そば 1,000円 を食しました。昨夜も居酒屋で舞茸の天麩羅を食べたがこの辺りは舞茸の産地なのか美味しかった。他にも麦とろが大好評であると。昼食をとり、令和2年(2020) 3月に完成した八ッ場ダムへ。14:30後方の建物は「うどん専科 麦の香り」。広場にテントがあり「上州名物 焼きまんじゅう」とあったが閉店中?。 ー 続く ー
2023.01.24
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平沢登山口観光案内所 (岩櫃山登山口) から18分で岩櫃城の本丸址へ登頂。11月16日(水) 12:30岩櫃山 (標高802m) の中腹東面にある岩櫃城の本丸址。本丸址には四阿も建っている。本丸址の南東隅に「櫓台」があった。櫓 台主郭の中で1段高くなっている場所で、幅12m、高さ2.5mほどの高台となっている。周囲を観察する郭台と考えられ、ここから周囲の展望・状況を確認し城内外に指棒連絡系統を結んだとされる。落ち葉の中に石祠岩櫃山をバックに東側を見る。ここからの斜面に、本丸、二の丸、中城があった。樹々を見上げる腰曲輪南枡形虎口と二の丸から本丸に上る通路で本丸南面を守る郭。本丸南面の堀切。腰曲輪から本丸を見上げる。カエデの紅葉が見事であった。斜面の草は刈られ整備されていた。本丸から南面の竪堀を見下ろす。南側を流れる吾妻川からは急斜面になっている。傾斜がきつく下から攻めるのもたいへんな竪堀である。本丸址から二の丸跡へ下りる。木柱の表示は「址」と「跡」が混在していたが。二の丸跡から北側の上州の山並みを見る。二の丸からの下りの紅葉中城南側の急傾斜の竪堀 (堀底道) を下り左方向へ。案内板には「平沢登山口観光案内所・平沢登山口駐車場」と。尾根通りを下ると平坦地に。旅友が立ち止まり。ここは中城跡で、西側の二の丸方向を見る。中城跡は草木に覆われていた。発掘調査が行なわれたのであろうが。中城跡から下り、上側の西方向に空堀。山下の東方向の空堀を見下ろす。紅葉が綺麗に!12:45平沢登山口観光案内所へ下り立つ。平沢登山口観光案内所前に「天狗丸」の木柱、「岩櫃神社 入口」の案内。時間があったので行くことにする。天狗丸辺りから畑の中を東側に進み前方に岩櫃神社の鳥居。天狗丸は支城の柳沢城とともに岩櫃城東の守備を担う出丸。現在はその面影もなく、畑地の中にポッカリと黒々とした森がありそこが神社の社地となっている。南側は視界良好で、岩櫃神社の裏には空堀が残る。岩櫃神社所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町原町岩櫃山の北東麓に鎮座するこの神社は、鎌倉時代初期に吾妻太郎助亮が築城したとされている岩櫃城の天狗曲輪だったところで、真田氏が支配していた頃には真田忍者の活動拠点であったといわれている。階段を上がり、参道途中に根巻鳥居、その奥に社殿。岩櫃神社御祭神:斎藤佐太郎基国命 祭礼日:春季例祭 4月17日、秋季例祭 11月3日 境内社:三社 由 緒: 御祭神の斎藤佐太郎基国命は関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275 人の1人です。岩櫃城は吾妻氏に拠り鎌倉時代に築城され、貞和年中 (1345~1349) 吾妻太郎行盛の時に、碓井の里見氏に略取されました。約10年の後、行盛の遺児・ 千玉丸は之を回復し、上杉氏に属して斉藤越前守憲行と称し、6代・基国の永録6年 (1563) 冬、武田氏の将・真田一徳斎幸盛に攻略されたと言います。 岩櫃城落城後、斎藤佐太郎基国命は元の領民の安否が気になり、神照坊大天狗と化し て岩櫃城へ戻り、旧領地の人民を保護したのだといい伝えられています。社殿の扁額「奉納 岩櫃神社」。境内左側に石碑と石祠。石碑には「岩櫃神社祈念碑」。末社の石祠13:05平沢登山口駐車場から平沢登山口観光案内所を望む。岩櫃城を後にし、吾妻渓谷、八ッ場ダムへ向かうことに。13:15山道を下り国道145号へ、ここを右折。旧国道145号線の大戸口交差点。上は国道145号の高架橋。ここを左折すると県道28号線(中之条東吾妻線)、そば店があり昼食をとりたかったが。国道145号を西方向へ進む。右上をJR吾妻線が走る。近場の観光地への距離が示されていた。13:20JR吾妻線 郷原駅。駅の構造は、相対式ホーム2面2線を有する地上駅。互いのホームは構内踏切で連絡している。中之条駅管理の無人駅である。利用状況 (一日平均乗車人員) は、2002年:115人、2011年:86人、現在はデーターなし(ウイキペディアより)。駅の後方には岩櫃山がそびえるが電柱がお邪魔虫だ。 平沢登山口観光案内所で「下山しての岩櫃山のベスト撮影ポイント」を聴き、この先の郷原交差点を左折することに。13:23郷原交差点を左折、(一)郷原 停車場線 (県道237号) に入り吾妻川を渡り農道から撮影。前方はバイパス工事をやっていたのか立入禁止に。岩櫃山を見上げる。岩櫃山は、標高802メートルの岩山で、吾妻八景を代表する景勝地として知られています。南面は約200メートルの絶壁。奇岩、怪石からなる切り立った山容は、中国の南画のような趣があります。山頂からの眺望はすばらしく、眼下には東吾妻町や中之条町の市街地、眼前には上州の山々が広がり、晴れた日には遠く富士山も望めます。新緑と紅葉のシーズンには多くのハイカーでにぎわいますと。13:25岩櫃山の南面をズームアップ。約200メートルの絶壁となっている。天気が良く絶好の撮影であった。 ー 続く ー
2023.01.23
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続日本100名城の山城「No.117 岩櫃城」を散策。岩櫃城は戦国期に、上杉謙信に従う斉藤氏と、武田信玄に従う真田氏が当地をめぐり争った。最終的には真田信之の支配下に収まり、慶長十九年 (1614年) に廃城となった。国の史跡に指定されている。11月16日(水) 12:00平沢登山口観光案内所所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町原町1965-2平成28年(2016) 4月に岩櫃山・岩櫃城跡の登山口にオープンした。各種パンフレットをそろえ、主に岩櫃山周辺の案内を行っている。営業時間:9:00 ~ 16:00(4月 ~ 11月) ※ 12月 ~ 3月は休館案内所前に案内板岩櫃城本丸址 現在位置から 10分 ~ 15分密岩神社 (郷原) と岩櫃山トイレ施設はあったがイートインコーナー、食堂等はなく、自動販売機のみが置かれていた。案内所の入口には、 CSF(豚熱) 防疫対策のため「靴底の消毒」にご協力をおねがいします 東吾妻町役場入ると直ぐに、続日本100名城のスタンプが置かれていた。スタンプ設置場所:4月 ~ 11月 平沢登山口観光案内所 12月 ~ 3月 東吾妻町観光協会観光案内所内では、シール、お守り等が販売されていた。続日本100名城の「認定証」が掲示されていた。国指定史蹟・続日本100名城「岩櫃城」登城記念スタンプ台帳。117 岩櫃城スタンプ、真田街道スタンプ「観光案内所」。岩櫃山は、群馬県吾妻郡東吾妻町にある標高802.6mの山で、ぐんま百名山の一つ。登山道の途中には、真田昌幸やその息子の信繁(幸村)、信之が暮らしたとされる岩櫃城の本丸址がある。スタンプを頂きました。今回の旅で目的の4城を攻略、これで48城を征服しました。案内所内では映像で紹介しており、いろんな説明が掲示されていた。その中で我がブログではその一部を紹介します。東吾妻町と真田三代真田氏は、室町幕府の勢力が衰えてきた戦乱の世において、信濃・上州を中心に活躍した武門です。天下取りを目指す戦国武将が入り乱れる中、真田幸隆(幸綱)※父、真田昌幸※子、真田幸村(信繁)※孫は「真田三代」といわれ、幾多の戦いに身を投じました。そして、幸隆が攻略した岩櫃城は、真田氏の吾妻郡統治の中心として歴史の表舞台に立ち、又、吾妻の地は徳川家康の一国一城令が出されるまで、真田氏と深く結びついていました。真田三代と吾妻の歴史この年表は、真田三代の軌跡と、同時期の吾妻の歴史をまとめたものです。永正10年 1513 真田幸隆・誕生天文6年 1537 幸隆の長男・信綱誕生 ・中 略 ・明暦4年 1658 10月、真田信幸・死去(享年93歳)。 以後も真田家は幕末まで大名として存続。細かく記載されていた。天険の要害 岩櫃城真田氏上州の拠点となった岩櫃城は、岩櫃山全体を機能的に活かした巨大な山城でした。甲斐の岩殿城、駿河の久能城と並び武田の三堅城と呼ばれ、西側・南側は巨岩による絶壁と吾妻川により守られており、上杉や北条を意識して、東側の防御に重きをおいたとされています。現在は本丸址を残すのみですが、岩櫃山を登る途中に見られる堀や曲輪に、山城の名残を感じることができます。岩櫃山を背に岩櫃城の本丸が建つ。岩櫃城のジオラマ2016年 (平成28年) にNHK大河ドラマ「真田丸」で放送された時のポスターであろう。真田三代の、真田幸隆(幸綱) ※父、真田昌幸 ※子、真田信繁(幸村) ※孫 。真田氏上州の拠点 岩櫃映像の、岩櫃山(いわびつやま)岩櫃山は、標高802メートルの岩山で、吾妻八景を代表する景勝地として知られている。南面は約200メートルの絶壁。奇岩、怪石からなる切り立った山容は、中国の南画のような趣があります。山頂からの眺望はすばらしく、眼下には東吾妻町や中之条町の市街地、眼前には上州の山々が広がり、晴れた日には遠く富士山も望めます。新緑と紅葉のシーズンには多くのハイカーでにぎわいますと。 赤い旗には、『2016年 (平成28年) NHK大河ドラマ「真田丸」放送決定 真田街道 推進機構』と。真田街道マップ上田城 ~ 鎌原城址 ~ 羽根尾城跡 ~ 岩櫃城 ~ 中山城址 ~ 名胡桃城址 ~ 沼田城跡 ~ 片品村真田三代ゆかりの地をめぐる、真田街道の歴史。真田氏の発祥については依然として謎が多いが、現在の上田市真田町を本拠とした東信濃の名門、海野氏の流れをくむ一族といわれています。真田氏が世に認められるようになったのは真田幸隆の時代からでした。武田信玄の配下となって、村上義清の砥石城を落とし、さらに上野国吾妻郡の諸城を次々と攻略しました。その後、真田家を継いだ信隆の三男 昌幸は、天正11年(1583年)に上田城の築城を開始し、徳川の大軍を二度までも撃退して、天下に真田の名をとどろかせました。また、大坂の陣における昌幸の二男 幸村の獅子奮迅の活躍、江戸末期まで連綿と基礎を固めた昌幸の長男 信之など、いまだに真田一族の名声は尽きることがありません。岩櫃城本丸址岩櫃城は現存していませんが、岩櫃山では現在でも縦横多様に伸びる深い掘を見ることができます。平沢登山口までは車で登ることが可能で、そこから山道を15分ほど登った山の中腹には岩櫃城本丸址があります。岩櫃城は、武田信玄の家臣・真田幸隆によって落城。その後、真田昌幸とその息子である信之・信繁が共に過ごした時期もある城と言われており、全国から真田ファンが訪れています。潜龍院跡 (せんりゅういんあと)1582年(天正10年)、真田昌幸が主君・武田勝頼を岩櫃城に迎えるため、本丸から南西約750メートルの場所にわずか3日で造り上げたといわれる御殿(潜龍院跡)。歴史に「if (もし)」はありませんが、武田勝頼が甲斐から上州の吾妻に逃れ、織田・徳川連合軍と岩櫃城で繰り広げたら、その後の戦国の世はどうかわったのでしょう。御殿は、真田一族の根津潜龍斎に拝領され、潜龍院として名を変え、潜龍院跡と呼ばれています。石垣が並ぶ広大な広場から仰ぎ見る岩櫃山は、とても見応えがあります。観光案内所を出ると左側に「一本松 根元に標高 511m」と。道祖神、石像も立っていた。平沢登山口観光案内所、トイレ施設を振り返る。左の石柱には「奉献大○」と。← 出浦渕 約800m 岩櫃城跡 ↑本丸址までは山道を15分ほど登るとのことであったので挑戦することに。岩櫃山登山コース吾妻八景を代表する景勝地として知られている岩櫃山は、標高802mの怪岩からなる切り立った岩山です。南面は約200mの絶壁で、その山容は中国画のような独特の趣があります。山頂からの眺めはすばらしく近景には原町、中之条の市街地、遠景には上州の山々が広がり、晴れた日には遠く富士山も望めます。新緑・紅葉のシーズンには多くのハイカーで賑わいます。岩櫃山登山コース12:12岩櫃山登山口岩櫃城跡 東吾妻町指定史跡岩櫃城は岩櫃山 (標高802m) の中腹東面に築かれた典型的な中世の山城であり、山頂より約200m低い場所に本丸・二の丸・中城があり、これらの中心に広い範囲で竪堀や曲輪が点在します。岩櫃城はその築城時期や築城者については定かではありませんが、文献によれば南北朝の時代に初めて岩櫃城主吾妻太郎行盛の名が登場します。行盛は、南北方の豪族里見氏に攻められ自害したと伝えられます。その後行盛の子、憲行が関東管領上杉氏の支援によって岩櫃城を奪回し、その後斎藤越前守憲広 (基国) まで六代にわたる東吾妻支配の本拠となりました。戦国時代の上州は甲斐武田氏、越後上杉氏、小田原北条氏による支配権争いが繰り広げられ、永禄六年 (1563) 斉藤越前守憲広 (基国) の本城であった岩櫃城は武田信玄の家臣である真田幸綱 (幸隆) の手によって落城し、武田氏の西上野支配が確立しました。幸綱の推挙により、武田信玄から岩櫃城代に海野長門守幸光が命ぜられ、真田の先兵となり十七年の長きにわたり吾妻の地を守りました。天正九年の海野兄弟誅殺の後、岩櫃城は真田昌幸の嫡男信幸を城代とし、弟である信繁 (幸村) がここで一時代を過ごしたとも言われています。武田氏の滅亡後この地は真田氏の支配となり、岩櫃城は信州上田城から上州沼田城を結ぶ真田道の中間地点として重要な位置を占めることとなりました。徳川幕府開設後も吾妻地域は真田氏の支配となりましたが、徳川家康による「一国一城令」に 伴い、慶長二十年 (1615) 頃、真田信幸は城下町を現在の原町に移し岩櫃城を破脚し、岩殿城、久能山城と並び武田の三堅城といわれた岩櫃城も戦国時代の終焉と共にその役割を終えました。登山口の建屋内に、岩櫃城跡周辺コース岩櫃城は岩櫃山 (標高802m) の中腹東面に築かれた典型的な山城です。頂上より約200m下がった場所 (標高593m) に本丸・二の丸・中城があり、この場所を中心に広い範囲を城域としています。また、近くに2つの支城北東側に柳沢城と岩櫃山南側に郷原城を持っています。おすすめ散策コース登山口 (現在地) → 東尾根通り分岐 → 中城 → 二の丸 → 本丸跡 → 虎口 → 沢通り分岐 →東尾根通り分岐 → 登山口 (現在地)2016年 (平成28年) NHK大河ドラマ「真田丸」放送時のポスター登山口から上り、尾根通りと沢通りの分岐点左の尾根通りを選択正面に「注意 クマ出没地」と。尾根通りの杉林を上る登り道には、ぬかるみ対策でウッドチップが敷かれていた。中城辺り中城跡の木柱が立っていた登り口に「 尾根通り 本丸址 → 」最後の急な上り口に「岩櫃城本丸跡 250m」の案内看板。中城南側の竪堀 (堀底道) を登る。急な坂を上り終えると、紅葉したカエデが迎えてくれた。逆光の中に鮮やかに映えるカエデ。最後の坂であろうと頑張って上る。尾根通りを本丸址へと登る。本丸下の堀切。二つ目の坂を上り左上に「本丸址」。二の丸跡から北方向を見る。木柱に「二の丸跡」と。二の丸から本丸への階段。階段を登り、本丸址へ到着。本丸下に竪堀。本丸址から南方向を見下ろす。建物は県道28号線 (中之条東吾妻線) 沿いの「みつわ運輸(株)」。手前に、吾妻川、JR吾妻線、国道145号がある交通の要衝地である。本丸址に建つ「岩櫃城本丸址」の木柱。12:30平沢登山口観光案内所から尾根通りを登り18分で登頂した。岩櫃城由来記吾妻八景を代表する岩櫃山 (標高八〇二メートル) の中腹東面にあるこの城は、年代は定かではありませんが、鎌倉時代初期のころ、吾妻太郎助亮 (すけふさ) により築城されたといわれています。城郭の規模は一・四キロ平方メートルと上州最大を誇り、後に甲斐の岩殿城、駿河の九能城と並び武田領内の三堅城と称されました。その後、斎藤氏の支配するところとなり、永禄六年 (一五六三) 武田信玄は上州侵略のため、重臣真田幸隆に岩櫃城攻略を命じました。ときの城主は斎藤基国 (または憲弘) といわれ堅城を利して奮戦しましたが、ついに落城してしまいました。こうして岩櫃城は武田氏の手中に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。天正二年 (一五七四) に幸隆が世を去り、岩櫃城主には長子の信綱が収まりましたが、翌年、長篠の戦いで信綱、昌輝兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続しました。その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたといわれています。天正十八年 (一五九〇) 北条氏の滅亡により、信幸は初代沼田城主となり、岩櫃城は沼田の支城として、重臣出浦対馬守を城代としました。そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康が発した一国一城令 (慶長二十年〔一六一五〕) により、四百余年の長い歴史を残し、その姿を消しました。 東吾妻町観光協会 ー 続く ー
2023.01.22
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四万川ダムの散策を続ける。11月16日(水) 11:10四万川ダムのダム湖の名は奥四万湖。湖水は透き通ったコバルトブルーで、山の緑と湖の青のコントラストは、人造湖でありながら天然湖のような様相を見せている。湖水は酸性が強く魚は見られない。ただし、銅イオンや鉄イオン濃度はきわめて低いため、湖水がコバルトブルーを呈するのは、酸性水に溶出するこれらの金属イオンによる長波長光吸収のためではなく、湖水に含まれるアロフェン (アルミニウムケイ酸塩粒子) のレイリー散乱によるものと考えられている。これは、裏磐梯の五色沼 (瑠璃沼、青沼) と同様の呈色機構である。(ウイキペディアより引用)。ゴミ収集設備をズームアップ。ダム天端高欄に「網場」の説明、「ニホンカモシカ」の絵。網場(あば)湖の水面に、オレンジ色の浮きのようなものがあります。あれは湖に流れ込んだ木やごみが、ダムの放流設備に入り込まないようにしているもので、「網場」あるいは「流木止め」と呼ばれ、水に浮く構造になっています。なお中央付近に見えるものは、管理用の船が通るためのゲートです。網場と中央にゲート奥四万湖のドライブコースは約4キロで奥まで行きたかったが今回はここで引き揚げた。エレベーター塔【四万川ダムエレベーター 運行見合わせのお知らせ】 当面の間、運行を見合わせとさせていただきますと。 四万温泉協会エレベーターダムの天端 (てんば:ダムの一番高い部分) とダムの底にある通路を結ぶ管理用のもので、ダムの下の公園にも通じています。日向見公園(ひなたみこうえん)を見下ろす。四万川の最上流部にある四万川ダム。正面下の建物が日向見発電所。中央に丸い円形のイベント用ステージ。四万川ダム下の全景。車で下へ行けたのだが時間の関係でスルーした。ダム下の減勢工をズームアップ。減勢工ダムから勢いよく水が流れると、その勢いで河床 (川底) が削られてしまい、下流に土砂が流れてしまいます。そこで、ダムから流れ出た水の勢いを弱めて、河床が削られないようにする必要があります。この働きをするのが「減勢工」です。四万川ダムのダムデータ河 川 利根川水系四万川目的/型式 FNWP/重力式コンクリート堤高/堤頂長/堤体積 89.5m/330m/516千m3流域面積/湛水面積 28.4k㎡ (全て直接流域)/32ha総貯水容量/有効貯水容量 9200千m3/8600千m3本体施工者 大成建設・佐藤工業・間組着手/竣工 1980/1999四万川ダムの南方向を望む。四万川ダムの北方向を望む。車両はこちら側 (南側) から一方通行になっている。四万川ダム利水放流設備名 称 取水ゲート 底部取水口ゲート 制水ゲート型 式 円形多段式ゲート 鋼製スライドゲート 鋼製スライドゲート数 量 1門 (7段) 1門 1門寸 法 Φ1.6m~Φ3.1m 1.5m×1.5m 1.5m×1.5m開閉速度 0.3m/min. 0.5m/min. 0.5m/min.扉体重量 103.2t 4.8t 2.5t取 水 量 8.8m3/s 製作年月 平成10年6月製 作 佐藤鉄工株式会社水位計室水位計湖の水面の高さを正確にはかる計器が「水位計」です。湖にたまった水の量を計算するのに、重要な役目をもっています。この建物の中に水位計が入っています。ダム天端高欄の陶版画。地元の小学生が作成した陶版画を設置している。中之条町立第一小学校8名の児童の名前が書かれていたが、年度が無かった。国道353号は四万川ダムの北側駐車場が終点である。北側駐車場にあった掲示板に。四万の水きれいな水 四万十川(高知県)よりもきれいな四万の日向見川おいしい水 箱島湧水 (全国の名水100選) に匹敵、日向見川の水の「おいしさ」うつくしい水誰もが心を奪われる不思議な色 ”四万川ダムの青”水の色を表現する言葉として「水色」「青」「エメラルドグリーン」「透明」などが多く使われますが、四万の水、特に四万川ダムの水は、まさに「うつくしい青色」をしています。では、なぜ四万の水は「うつくしい青」に見えるのでしょうか?光と色のカラフルな関係 ・・・略・・・四万の青 ・・・略・・・11:20四万川ダムを後にし、今日の主目的地である「岩櫃城」へ向かうことに。国道353号を中之条へ戻る。四万温泉を左下に見ながら中之条町へ向けて下る。11:40中之条ダムを通り抜け、前方に吾妻発電事務所手前にある斜張橋の上妻橋主塔。上妻橋を渡ると「仙下不動の滝」がある。以下2枚の写真は、立寄らなかったのでネットから。斜張橋の上妻橋。仙下不動の滝落差約12mの末広がりの滝で、滝前に転がっている大きな石が特徴的で冬には氷瀑する。11:39国道353号 (日本ロマンチック街道) を走り、上之町交差点まで1.4km。カーナビは目的地の岩櫃城まで、6km、到着予定 11:51と。国道353号を進み、この先の上之町交差点を右折し県道58号線へ。11:45国道145号の長町交差点を進む。左前方に「ファミリーマート 東吾妻原町店」所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町原町 字清光726-1国道145号からの進入口を間違え、行きすぎて戻り登山口へ。道路脇に「六文銭 岩櫃城」の看板。狭い林道を上ると岩櫃城への道案内11:55突き当りを右に曲がると広い駐車場があった。観光案内板では、70台、大型加と。駐車場(無料)に車を停め散策開始。直進すると「平沢登山口観光案内所」がある。岩櫃城のスタンプは4月~11月まではここで頂ける。駐車場入口に建っていた観光案内岩櫃山周辺ガイドマップ周辺7カ所が写真入りで紹介されていたが、我々は「⑥ 岩櫃城 (いわびつじょう)」。周辺マップを拡大周辺にはいろんな史跡があり、真田道も。目的地の「⑥ 岩櫃城跡 (国指定史跡」県内最大級の戦国時代を代表する山城岩櫃城は、中世に築かれたとされる山城です。戦国時代の永禄6年 (1563) 以後、東吾妻は武田氏、そして真田氏の支配地となり、岩櫃城は重要な位置を占めてきました。観光案内板は、親切にも英語、中国語、韓国語で表示されていた。⑦ 岩櫃山 標高 802.6m散策中にこのような写真を撮りたいと!駐車場から「平沢登山口観光案内所」へ向かい坂を上ると右側に石塔群。12:00平沢登山口観光案内所へ到着。一本松の後方にかつての無人観光案内所が建つ。 ー 続く ー
2023.01.21
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中之条町の市街地から国道353号を進み山間部へ入る。11月16日(水) 10:40中之条ダム所在地:群馬県吾妻郡中之条町大字四万字殿界戸29-1国道353号を進むと左側にダムが目に入り急遽駐車場に車を停める。石碑の銘板には「中之条ダム 群馬県電気局」と。中之条ダムは群馬県にあるアーチダムで、ダムは灌漑と発電に使用されている。ダムの流域面積は 143.6 km² 。ダムは、満水時には約 11 ヘクタールの土地を貯水し、118 万立方メートルの水を貯めることができます。駐車場から中之条ダムを見下ろす。放流設備の洪水吐はローラーゲート 5門。中之条ダムへようこそ!! ○ 中之条ダム遊歩道マップ ここから四万湖の西側に遊歩道がある。 ○ 中之条ダム Q&A Q ?が青く見えるのはなぜですか ○ 中之条ダムの目的 中之条ダムは、発電と砂防を目的に建設されました。下流にある中之条発電所まで、 最大 12.57m3/s の水を約3kmの導水路トンネルで運び、最大11,000kWhの発電を しています。中之条発電所概要図下流にある中之条発電所まで、最大 12.57m3/s の水を約3kmの導水路トンネルで運んでいる。駐車場脇に「四万湖」。中之条ダム入口に「慰霊碑」が建っていたが、工事関係の慰霊碑であろうか。中之条ダムのダムデータ河 川 利根川水系四万川目的/型式 AP/アーチ堤高/堤頂長/堤体積 42m/118.2m/23千m3流域面積/湛水面積 143.6k㎡ (直接:86.2k㎡ 間接:57k㎡)/11ha総貯水容量/有効貯水容量 1180千m3/250千m3本体施工者 西松建設着手/竣工 1957/1960 工期が3年とは短期間で完成している!ネットでは堤頂部は軽自動車が通行可能とあったが。ダムの湖面上にはこれも「網場 (あば)」であろうか。 堤体付近の左岸の網場の後方に設置されている発電用の取水口。ここから約3km先にある中之条発電所へ導水路トンネルで水を運んでいる。堤頂部から下流側の深い渓谷の紅葉を見下ろす。ダムからの減勢工の形が面白いと。左岸から出ている水は発電所からのものである。放出部分をズームアップ。ダム湖の名は四万湖。透明度が高く、湖水がコバルト色をした独特の色。周囲の景観とともに美しい。なお、四万川ダムのダム湖は奥四万湖でまぎらわしいと。四万湖の奥にある竹井橋をズームアップ。国道の対岸側にある広場。広場には四阿があり、上流の竹井橋までの遊歩道起点になっている。また、広場には枝垂れ桜が一本。中之条ダムはコンパクトなアーチ式コンクリートダムだが、 きっちりとまとめられた造りで、見ていて美しさを感じる。高所恐怖症の私はこの堤頂部を歩くときは足がすくむので真下は見れず。どうしても左側を歩くのだ。網場 (あば) にはいろんなゴミが集まっていた。丘にゴミの除去設備。ズームアップ。吊り上げアームは伸縮。駐車場にあったおすいマンホール蓋。現役時代にここ中之条町にある機械を納入しており下水普及率の高いことを感じる町である。10:50中之条ダムを後にし、更に国道353号を山の中へ。途中、メロディーラインがあり「いつも何度でも」の曲が流れる。また、右下の四万川沿いには四万温泉がある。四万温泉は温泉大国・群馬県を代表する温泉のひとつである。その名は「四万(よんまん)の病を癒す霊泉」であるとする伝説から由来する。古くから胃腸の名湯として泉質は名高い。県の北西部に位置する上信越高原国立公園の中にあり、周囲を山々に囲まれ、温泉街は四万川に沿って広がっている。四万温泉での滞在時は、「四万ブルー」と呼ばれるコバルトブルーの湖面を持つ奥四万湖でのカヌー体験や非常に透明度の高い四万川でのキャニオニングで大自然を満喫することができるほか、地元産の食材を使った食事や昭和レトロな温泉街で四万温泉ならではのお土産を買うこともできる。歴史ロマンの残る旅館や家庭的な旅館、貸切風呂のある旅館など個性豊かなのでお好みの宿を探そうと。四万川ダムまで後わずかに。この先を右に折れるとダム下の「日向見公園」へ。右前方に四万川ダムが見えた。11:05四万川ダム (しまがわ)所在地:群馬県群馬県吾妻郡中之条町四万4400-28四万川ダムは、利根川水系四万川に建設された重力式コンクリートダムである。堤高の89.5メートルは群馬県が運営するダムとしては最も高い。国土交通省の地域に開かれたダムに指定されており、西洋の城を想起させるデザインが施されている。桐生川ダムにあった写真。四万川ダム利根川水系四万川に建設された重力式コンクリートダムである。堤高の 89.5メートルは群馬県が運営するダムとしては最も高い。国土交通省の地域に開かれたダムに指定されており、西洋の城を想起させるデザインが施されている。ダム湖の名は「奥四万糊」。四万川ダム案内図ダムの目的1.洪水調整 四万川ダム沿川の水害を防ぐため、ダム地点で計画高水流量350m3/s のうち290m3/s の洪水調整を行います。2.水道用水の供給 四万川ダムは、 中之条町の水道用水として、 3,000m3/日 (0.035m3/s) を 太田市の水道用水として、 28,500m3/日 (0.330m3/s) を 群馬県企業局の水道用水として、14,200m3/日 (0.165m3/s) を供給します。 (太田市・みどり市)3.既得用水の安定化、河川環境の保全 ダム下流の四万川既得用水への安定した供給を行うと共に、河川環境保全のための流量 を確保します。4.発 電 ダム下に設置された日向見発電所で最大出力1,000kwの発電を行います。ダムの諸元 形 式 重力式コンクリートダム 堤 高 89.5m 堤 頂 長 330.0m 堤 体 積 516,000m3 ダム天端標高 EL769.5m放流設備 洪水吐き 常用洪水吐 (洪水期用) 半管路型放流管 Φ2.6m×1条 (非洪水期用) オリフィス 2.0m×1.724m×2門 非常用洪水吐 クレスト自由越流型式 径間長12.5m×越流水深3.6m×4径間 計画高水流量 350m3/s 利水放流 円形多段式ゲート Φ1.5m 群馬県吾妻県民局中之条土木事務所奥四万湖四万川ダムポイント ① ダム堤体化粧型枠 周辺環境に配慮した化粧型枠 ② 四万川ダム管理事務所 ③ 稲包せせらぎ公園 ④ 赤沢やすらぎ広場 ⑤ 栂(つが)の広場 ⑥ 四万川ダム資料館 ⑦ 日向見公園 撮影用のパネルが置かれていたが。人物写真も入れるのか?ダム堤体化粧型枠周辺環境に配慮した化粧型枠である。四万川ダム四万川は、過去に幾度となく洪水による災害に見舞われ、多くの死者を出すなど甚大な被害を被って参りました。この為、洪水調整のため作られました。又、水道用水の供給、既得用水の安定化・河川環境保全、発電の目的などににも使われております。このダムは1周4km程度で、新緑や紅葉シーズンは、特に素晴らしい景色を見ながら周遊できます。四万川ダム平成11年6月完成堤頂部から日向見公園を見下ろす。日向見公園(ひなたみこうえん)四万川ダムの入り口であり、人々が集まる場所と考え、公園内のダム側には、イベント開催時にしようできるようステージを設けています。丸いのがそうであるのか。左側の建物が日向見発電所である。堤頂部は一方通行になっている。11:10四万川ダムの電気マンホール蓋。カモシカをデザインした電気マンホールの蓋。 ー 続く ー
2023.01.20
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名胡桃城址の散策を終え次の目的地は「四万川ダム」。その前に、今回の旅にあたって妻から「りんごを買ってきて」と言われていたので、名胡桃城址案内所で近場のりんご販売所を聴いて出発。11月16日(水) 9:45国道17号の名胡桃城址前交差点を横切り南方向へ。Googleマップでは、名胡桃城址から四万川ダムまでは、41.7km、所要時間54分と。黄色の丸は、今日訪れる主目的の沼田城、名胡桃城、岩櫃城。名胡桃城址前交差点から坂を上り、この先の下津交差点を右折。9:5011代内海彌平治りんご園所在地:群馬県利根郡みなかみ町下津2387先祖の彌平治の名前は園主だけが名乗ることができ、次期園主は「名前に違わない力をつけないといけません」と語る。すべてが消費者と直結している販売なので、彌平治の名を汚さぬよう、プライドをもって栽培・販売していると。県道253号線(渋川下新田線)沿いにあるりんご園である(写真はネットから)。店頭ではこの時期の品種は新世界を販売していた。店内で試食品を食べ美味しかったので、1,080円の袋を3袋購入した。店の横にはりんご園。りんご狩りもできるようであったが要予約。若い園長に聴くとりんごの品種「ふじ」はまだ早いと!絵になるりんごである。今年は台風被害はどうであったのか。道路脇に立つ「彌平治りんご園」の呼び込み看板。「新世界蜜入り くるみ」、くるみの意味は?土産用のりんごを購入、四万川ダムへ向かうことに。10:00県道253号線を戻り、ここ下津交差点を右折して県道36号線(渋川下新田線)へ。県道36号線沿いにはりんご園が広がる。県道36号線(渋川下新田線)の赤根トンネルトンネルの中でみなかみ町から吾妻郡高山村へ入る。のどかな県道36号線(渋川下新田線)を進む。ここ中山交差点を右折して国道145号の中之条方面へ。10:07県道36号線と国道145号が交差する中山交差点交差点の西側に「中山城跡」がある。徳川と北条の領土争いが盛んだった頃、真田昌幸は当初北条方に帰属していたものの、一転して謀反を起こし、徳川方に付き従います。これを知った北条氏直が北条氏邦に命じ、真田の拠点「岩櫃城」と「名胡桃城」の中間にある中山の地を占拠させました。この際、北条氏の真田攻めの拠点として設置されたのが中山城です。当時は、かつての沼田城主であった沼田顕泰の子「赤見山城守」が城を守っていました。その後の細かな歴史動向は明らかにされていませんが、北条氏が滅亡した天正十八年(1590年)に、中山城は廃城となりました。10:15国道145号(ロマンチック街道)を進み中之条町へ入る。左側に観音霊場の看板を見つけ急遽車を停める。大塚観世音堂 (西向観音)/吾妻三十三観音33番札所所在地:群馬県吾妻郡中之条町髙山村と中之条町との境界地にあり、道路脇に車を停め振り返る。境内には古木のさくら。国道拡幅工事で直線道路になっているがかつての旧街道沿いには多くの寺社があった。道路脇には、「真田忍者の里 中之条町」「国道145号 長野原まで33km、中之条町大塚」の案内が立つ。中之条町は、群馬県北西部吾妻郡にある町で吾妻郡の観光の中心地である。郡内で最大の人口を有しており、15,570人 (2020年8月)。中之条町の汚水マンホール蓋町の花ヤマユリと、町の木であるケヤキの小枝に止まっている 町の鳥ウグイスのデザインですが、蓋を4分割しそれぞれ2ヶ所ずつ描かれています。「中之条町」「農村下水」の文字入り。古木のさくらの木の根元に「上野國吾妻郡」と刻まれた石塔。道路拡張工事で移設されたのであろうか多くの石塔が立っていた。大塚観世音由来記大塚観世音堂は、榛名山大坊満行院菩提寺よりこの地にわかれたものと伝えられる。寺伝に拠るとその草創は九世紀弘仁年中(810-824)といわれ始め無量山菩提寺と称した。その後応仁の大乱で中絶したが、十六世紀大永年中(1521-1528)に再興して現在に至るという。古来吾妻三十三番観世音札所のうち最古の霊場とされている。昭和三十九年(1964年)本堂敷地を国より払い下げることとなり、大塚村各戸より浄財を集め金参万七百円也をもってこれを受け入れた。昭和五十一年国道拡幅工事に際し、西方二十五メートルの地より現在の地に移転した。たまたま時代の変遷に伴い宗教法人宗学寺の名義を借りて境内地の登記をしたが、実態は大塚村の共有財産として保有し村民一体となり宗教上の儀式はもとより総ての維持管理に当り佛果の鑚仰に努めている。以上子孫のため、大塚観世音堂の由来を綴り石に刻みてこれを後世に伝える。境内には多くの常夜灯や石塔・石仏などが置かれていた。左側の常夜灯には「寛政四年(1792) 奉納」と刻まれていた。町重 吾妻三十三番札所再興記念碑 中之条町教育委員会石塔には「吾妻三十三番札所観世音?」と。国道145号(ロマンチック街道)を振り返る。この先は吾妻郡高山村。観音堂の建立年は不明だが、昭和51年(1976年)の道路拡幅工事に伴い若干移動していると。観音堂は閉められていた。大塚基盤整備事業完成記念碑大塚地区は経済発展と共に近代化農業が発展する中に田畑に散在し耕地も不整形で、狭く農道は狭小で曲折甚しく田においては湿田多く特に大塚温泉近辺は整備事業も不可能ではないかとの噂さえあるほどの超湿田であった。用水は素堀多くその為漏水し多大の人力を必要とした。この条件が願望の機械化農業に対応出来ず常日頃住民の悩みであったが昭和五十七年十二月より町の強力な指導により村興し事業の一環として団体営土地基盤整備事業を取り入れて七年間の歳月を費し組合員九十七名一致団結総面積二十二町一反0畝十二歩総事業費二億四千七百万円で中之条町初の団体営土地基盤整備事業が完成をみたので、石に刻み後世の伝えるものとなり事業の内訳左の通り 田の面積 十八町二反0畝二十七歩 田反当り経費 百十万円 畑の面積 三町八反九畝 十五歩 畑反当り経費 六十万円 補助率 国 四十五% 県 二十七% 町 十三% 個人 十五%石碑の裏には組合員名が刻まれていた。耕地の中に牧歌的な民家が建つ。観音堂横から東方向を望む。右側の低地を名久田川が流れる。国道沿いに建っていた「大塚用水改修記念碑」の石碑大塚用水は昭和十三年先人の偉大なる努力により手掘りによる素掘り隊道であり洪水等の都度土砂が堆積し役員組合員等により手掘りによるバケツリレーで搬出し約六十年余の維持管理をしてきた。各施設の老朽化が進み陥没漏水等が発生現況施設が民地内及び国道を横断しており交通量の増加等に伴い危険にある。温故知新勇躍意を決し全面改修を決断したのである。補助事業を模索して県営ため池等整備事業(用排水施設整備小規模)を取入れ尻高用水組合との連帯と強調で百年の計を立てたのである。この用水は灌漑だけでなく防火用水として大きく役立っている。国県町関係機関の強力な指導のもと、平成四年度採択平成六年度に完成したのである。・・・中略・・・茲に完成を記念して石に刻み永遠の大塚村尻高村の発展を願い後世に伝えるものである左側の柵の中には多くの石塔・石仏が建っていた。10:25観音堂で約10分滞在した後国道145号を進み、カーナビはこの先を右折。ここ伊勢町下交差点を右折。伊勢町下交差点にある、ファミリーマート中之条伊勢町下店。国道145号のJR吾妻線 中之条駅前交差この先を斜め右方向へ案内板には右方向に「中之条税務署 300m」「吾妻中央高等学校 400m」と。国道145号から国道353号への分岐点、伊勢町上交差点を右国道353号を、四万(しま)、暮坂峠方面へ進む。右方向は「大道(だいどう)峠」。10:30中之条町の旧街道を抜け、上之町交差点を右方向へ進み国道353号を更に進む。国道353号沿いにも多くのりんご直売店があった。左側には「金井農園」。続いて右側に「白樺りんご園」と。10:35国道353号を進み隊道、左側を四万川が流れる。この辺りには、桑田城跡、内山城跡、仙蔵城(内山城)跡と山城がある。 ー 続く ー
2023.01.19
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多胡桃(なぐるみ)城址の散策を続ける。11月16日(水) 9:25二郭堀切に架かる木橋を渡り南側虎口からの二郭。中央にスロープ、中央通路が北側へと。二郭(にのくるわ)二郭は約65×50mの台形で、西側の縁辺は広く崩壊して波打った形になっています。中央部に広がる建物敷地は、周囲より1m程低く平坦に造成されていて、西~南~東側には段があり、幅6~7mの土塁基底部が残っています。郭の北側と南側には、それぞれ特徴的な虎口(別に説明)が確認され、両脇に溝を持つ幅2.5m程の通路が南北の門を直線で結んでいます。南虎口からの通路面は、スロープになっています。南北の虎口周辺の土塁基底部には石積みがあり、通路脇の溝の壁には部分的に石が並べられています。また、東側崖面の中間には腰郭が残っています。この通路の西側からは8棟の掘立柱建物址群がみつかり、般若郭等と同様に3時期に分けて考えられます。復元整備では第2期の3棟が平面表示されています。建物と土塁の間には溝が廻り、排水設備が整っていました。右側写真は「二郭調査全景空撮」「二郭掘立柱建物址(中央)」中央写真は「二郭復元想像図」 「掘立柱建物址(南側)」。発掘調査結果、整備状況二郭の遺構(第2期建物址表示)手前から「3号掘立」「5号掘立」「6号掘立」、奥に土塁。二郭 北側虎口土塁には石積みが残る。北側虎口の土塁上から二郭を見下ろす。二郭 南側虎口と土塁が東西に。二郭北虎口(にのくるわきたこぐち)虎口とは防御施設としての出入口のことで、小口や戸口に虎の字をあてて勇猛さ危険さを意味しています。ここ二郭北虎口の特徴は、郭内の通路から続く4個の礎石による門址で、うちひとつは石塔の切石が再利用されています。通路東脇の溝は、門をくぐり暗渠排水として本郭堀切まで伸び、溝横から立ち上がる土塁の腰部には4~6段の自然石による乱石積みがみられます。本郭堀切は幅14~16m深さ7~9mあり、法面は二郭側より本郭側の方が 20度ほど急傾斜で、 土橋の左右で堀幅を変えて、大きくクランク状に進入する構造になっています。また、門址の西側に続く土塁の下からは、幅約3m深さ約1.5mの堀が確認され、空堀から土塁へ改築されていました。堀切造成の際に掘り残した橋の基壇上には、6本の柱穴がみつかり木橋が架かっていたことがわかりました。右側写真は「本郭堀切土橋と木橋柱穴」「二郭北虎口石積み」中央写真は「二郭北虎口復元想像図」 「二郭北虎口門址」。窪地は本郭堀切、復元された木橋。二郭北側虎口から本郭への木橋。本郭には多くの幟が立っていた。本郭(ほんくるわ)名胡桃城址は、大正12年に地元の有志で結成された保存会によって、よく保存管理されてきました。昭和2年、本郭に「名胡桃城址之碑」を建立し、本郭とささ郭に松・桜などの樹木を植え史跡公園として完成させました。この碑文を書いたのは文豪の徳富蘇峰であり、文字の彫りも深く見事で、石材は地元の富士山でとれた安山岩、村中の人たち総出で運び建てました。隣の副碑は、昭和43年の明治百年記念で建立しています。本郭は長さ約51m幅約30mの洋梨形ですが、両側の崖面とも大きく崩落してコンクリートで補強されていることから、当時はもっと広かったことがわかります。郭の縁辺には土塁の基底部分が残っていて、土塁が廻っていました。この城には天守はなく、本郭内の虎口や建物の状況は分かっていません。県指定史跡 名胡桃城址 昭和二十四年十二月二十日指定南側の本郭堀切。本郭に建つ二つの石碑。本郭から東方向の沼田城を望む。沼田城は右側奥に位置する。昭和2年に建立された「名胡桃城址之碑」この碑文を書いたのは文豪の徳富蘇峰で、文字の彫りも深く見事である。石材は地元の富士山でとれた安山岩、村中の人たち総出で運び建てたと。隣の副碑は、「温故知新之碑」。保存由来記わが郷土の誇りである名胡桃城は天正の頃豊臣秀吉の旗下真田昌幸の所領であった。秀吉一代の悲願である天下統一の最終段階に於て北條氏政と和睦を結ぶにあたり北関東に於て名胡桃城○○○昌幸の領地として残された。然る処氏政は私兵を以て当城を攻略し・・・・・後略 昭和四十三年四月二十日石碑には「温故知新之碑」と。昭和43年の明治百年記念で建立された。二つの石碑を後方から。副碑の裏面には、「名胡桃城址保存會役員」の名が刻まれていた。本郭の北方向。昭和2年、本郭とささ郭に松・桜などの樹木を植え史跡公園として完成させた。本郭から、ささ郭へは下る。ささ郭(ささくるわ)ささ郭とは、城の主体になる本郭が外に対してむきだしにならないように設けた郭で、唯一この城跡に残存る土塁を両側にもつ狭長な通路でした。ささ郭の先端側には袖郭と物見が続き、尾根づたいに下方に通じていました。ささ郭は長さ約31m幅約14mで、中央には約1m掘り込んだ幅2~5mの通路があり、その両側を1mほど盛り上げた土塁を挟んでいました。通路の先端には礎石が4個設置され、搦手門がありました。土塁の内側には、自然石を3~4段乱雑に積んだ石積みがみられます。本郭との間は、幅約12m深さ約6mの堀切で区画され、幅1mほどの狭い土橋で連結されていました。現在、礎石門址・通路・石積み・土橋などは、保存のため埋め戻されてみられません。また、ささ郭堀切に設置した階段通路は当時の復元物ではありません。右側写真は「搦手門 (からめてもん) 址」「土塁断ち割り状況」中央写真は「ささ郭復元想像図」 「土塁石積み」。整備内容ささ郭に下り立つ。ささ郭から東方向を見下ろす。右側奥に沼田城がある。橋は利根川に架かる国道17号の月夜野大橋。ズームアップ。ささ郭に立つ旅友は何を考える・・・。石祠の上には小銭。名胡桃城廻りの城跡。石祠の上に小銭で六文銭。ささ郭を後にし本郭へ。本郭にある四阿カエデの紅葉も見事であった。本郭から二郭へ進む。この先を左へ曲がり二郭北虎口へ二郭南側虎口から二郭北側虎口を望む。国道沿いの馬出へ戻る。国道17号沿いから北東方向を望む。馬出、三郭、二郭、本郭とありその間に堀切がある名胡桃城址であった。名胡桃城址案内所もう一度館内へ入ることに。テレビで名胡桃城の説明をしていたが。名胡桃城址案内所裏にある駐車場へ戻る。東方向に馬出。9:40駐車場(般若郭)からの三郭堀切、三郭。名胡桃城址の散策の後は、「四万川ダム」を目指すことに。 ー 続く ー
2023.01.18
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沼田城跡の散策後は、近くにある多胡桃 (なぐるみ) 城址を目指す。カーナビは沼田城跡から国道17号を北西方向に7.8キロ、所要時間は約15分。11月16日(水) 8:50榛名町交差点を下る。カーナビの案内は、多胡桃城址へは到着時間 9:01、距離は 5.8キロと。県道262号線を進み国道17号へ国道17号の新薄根橋交差点を右折、南魚沼・猿ケ京方面へ進む。左前方は沼田城跡から見えた子持山。国道17号は、日本国道路元標があることでも知られる東京都中央区の日本橋を起点に、高崎市の君が代橋東交差点にかけては五街道の一つである中山道、群馬県北部の一部および新潟県内の長岡市までは三国街道をたどる。群馬県内および新潟県内の長岡市までの区間では関越自動車道と、新潟県内の国道8号との重複区間では北陸自動車道と並走しており、関越道は、当路線の番号を継承した「E17」が付番されている。道路標識は、南魚沼 74km、猿ケ京温泉 17km、みなかみ 5km。いつかこの辺りの「三国街道」を走ってみたい。右折すると「迦葉山 (かしょうざん) 」へ至る。迦葉山は、沼田市街地から北方約16キロメートル、武尊山系に連なる深山幽谷の浄域にあり、春は新緑、夏は霊鳥「仏法僧」の声を聞き、秋は全山紅葉、冬は白雪四囲をおおいます。弥勒寺嘉祥元(848)年に開創。桓武天皇の皇子・葛原親王の発願により天台宗比叡山座主・慈覚大師を招いて第一世とされ、康正2(1456)年、曹洞宗に改宗され、徳川初代将軍の祈願所として御朱印百石・十万石の格式を許された由緒あるお寺であると。沼田市からみなかみ町へ入る。みなかみ町は、群馬県利根郡の町。群馬県最北端に位置し、新潟県と県境を接する。群馬県内で最も広い面積を持つ町域には、水上温泉郷や猿ヶ京温泉など「みなかみ十八湯」と総称される温泉群がある。人口は 1.838万 (2015年8月)。関越自動車道月夜野インタ入口国道17号を更に進む。沼田城跡から見えた月夜野大橋月夜野大橋は、利根郡みなかみ町の利根川に架かる国道17号 月夜野バイパスの橋長431.9mのラーメン橋・桁橋である。昭和57年度の 土木学会田中賞を受賞している。坂を上り多胡桃城址まであとわずかに。9:05国道17号の坂を上り名胡桃城址前交差点を右折して駐車場へ。無料駐車場に車を停め散策開始。駐車場入口にあった説明板、「般若郭 (はんにゃくるわ)」。左上の写真:般若郭復元想像図 右上の写真:般若郭全景空撮左下の写真:般若郭通路と掘立柱建物址 右下の写真:般若郭周囲柵址と掘立柱建物址般若郭 (はんにゃくるわ)般若郭は、主体となる郭の連続部の西側に位置し、独立する小さな台地を堀切で区画していて、長さ約85m幅約56mで名胡桃城のうち一番大きい郭です。ここは館跡として、築城以前から存在していたかもしれません。郭の縁辺には、柵塀を建てた溝や柱列が廻っていましたが、南辺や東側の状況はよくわかりません。また、中央部北西寄りには両脇に溝をもつ通路が、二郭の通路とほとんど同じ方向で敷設されています。この通路の両側からは、全部で24棟の掘立柱建物址群が整然と並んで確認されました。建物群は3時期にわたり重複し、同時に6~7棟が建っていたと考えられます。掘立柱建物址は9m以上の大型総柱の中心的建物から3m程の小型建物まで規模・形態は様々で、郭の北東端には櫓の様な建物址もみられます。現在は駐車場の下に埋め戻されていて見ることができません。六文銭が似顔絵になった幟が立つ。名胡桃城址案内所所在地:群馬県利根郡みなかみ町下津3462-2国道17号名胡桃城址前交差点横にポツンと建つ六文銭の案内所である。入口で検温、消毒をして館内へ入り、まず続日本100名城のスタンプを捺印。続日本100名城の認定証名胡桃城址攻略記念スタンプ帳に頂きました、「No.115 名胡桃城」。これで続100名城は47城攻略だ!館内にはいろんな史料が掲示されていた。・郷土を中心とした 戦国時代・上州をめぐる攻防戦 永禄3年 (1560) 越後の長尾景虎(上杉謙信)が三国峠を越えてはじめて関東へ進攻。 この際に上州の武将はほとんど謙信に従う。 永禄9年 武田信玄・・・・ 天正7年 謙信の死後・・・・・ 天正17年 (1589 ) 北条と真田の対立に対して豊臣秀吉は沼田領2/3を北条領、1/3を 真田領と裁定する。真田との境界線にある名胡桃城を手に入れら れなかったことが北条は不服だった。 天正18年 (1590 ) 名胡桃事件により裁定を破った北条氏は秀吉による小田原征伐を 受け滅ぼされる。上州南部は徳川家康が入国する。 赤色の兜、刀、幟 等々。右下は「鎌倉時代 国宝模造大鎧」国道17号沿いに立つ案内板「名胡桃城跡」。名胡桃城は、室町時代に沼田氏の一族といわれる名胡桃氏が館を築いたのが始まりと言われている。その後天正6年上杉謙信急死の後、真田昌幸が名胡桃館を攻略し、沼田城を手中にする前線基地として名胡桃城を築いた。利根川と赤谷川の合流近く、三方が絶壁となっている天然の要塞に作られた山城である。豊臣秀吉の天下統一の発端となる小田原の北条征伐のきっかけになった城として歴史の上でも有名で、現在でも本郭、二の郭などが原型をとどめている。群馬県指定史跡「名胡桃城址」国道17号が走る中腹から東側を流れる利根川に向っての傾斜地にある城址である。城址入口にいろんな説明パネルがあった。群馬県指定史跡 名胡桃城址ここ名胡桃城は、群雄割拠の戦国時代を勇猛に駆け抜けた真田昌幸が築いた、上野国利根郡の山城で、10年ほどの歴史にもかかわらず、ここを舞台とした小さな事件が乱世を終わりに向かわせることとなりました。この時期の利根沼田地方は上杉氏・武田氏・北条氏による争いが繰り広げられていましたが、天正7年(1579)頃、真田昌幸が吾妻方面から進出し境目城として名胡桃城を築き、翌年には沼田城を手中に収めました。天正17年(1589)、豊臣秀吉は北条氏政・氏直親子と真田昌幸による北毛地域の領地争いを裁定しましたが、同年、真田領に残された名胡桃城を北条氏の家臣が攻略してしまいました。それをきっかけに翌年、豊臣秀吉は小田原北条氏を滅ぼし、事実上、天下統一を果したのです。その後、名胡桃城は廃城になりました。左上、「名胡桃城址全体図」「名胡桃城関係年表」。右下、平安時代に書かれた「和名類聚抄」によると、この付近一帯は呉桃郡(くるみのこおり)といわれ、その後も地名とは別にナグルミと呼ばれ続け、城の名に由来しています。名胡桃城址は、利根川と赤谷川が合流する南西方向に広がる名胡桃平とよぶ河岸段丘面の一角に立地します。この約6万年前にできた段丘には礫層が厚く堆積し、河川敷との間には比高約70mの崖が連なっています。この城は深い開析谷により侵食され突出した要害地を空堀に区画し、ささ郭・本郭・二郭・三郭の主要部分を直に連続させた連郭式の縄張り構造の山城で、西側に般若郭が独立し、南西には外郭が広がります。また、南東を流れる湯舟沢を利用した水の手があり、北東端には物見も見られます。付近には沼田城跡をはじめ小川城址・明徳寺城址があり、南には権現山城址、南東に富士浅間砦址がみられます。右上、「名胡桃城址周辺地形図」「周辺城跡分布図」名胡桃城址全体図名胡桃城址周辺地形図平成4~12年度にわたる発掘調査により、当時の姿をうかがうことができる貴重な成果をあげました。ささ郭と本郭はトレンチ調査により、ささ郭から土塁の石積みと搦手門の柱礎石が発見され、本郭では周囲の土塁址を確認しました。二郭は西側反面を調査し、石積みをもつ周囲の土塁址・喰い違いの南虎口と礎石門をもつ北虎口の間を結ぶ中央通路・大型を含む8棟の掘立柱建物址群などがみつかり、土塁や遺構の一部を整備しました。二郭堀切と本郭堀切では、土橋を壊して木橋に架け替えたことがわかり橋を架けました。三郭と馬出からは、古い三日月堀・掘立柱建物址群・追手門址・土塁址・丸馬出の全容と新たな三日月堀などが確認されました。また、般若郭からは、周囲に柵塀を廻し、通路の両側に24棟の掘立柱建物址群が整然と並んだ館跡が確認されました。左上、「発掘調査概要図」「全体復元想像図」。発掘調査で検出された掘立柱建物址などの各種遺構群における規模・方向・重複関係などの構成要素を検討すると、少なくとも3時期に区分することができます。第1期は築城から天正年間半ば頃で、まだ三郭は存在せず三日月堀による馬出があり、各郭は土橋によって連結していました。二郭と般若郭の建物は通路に平行して大小のセットで建てられ、柱間の長さは約8尺が多いです。第2期は天正年間後半部分で、大きく改築補強が行われています。・・・中略・・・第3期は天正年間以後で、近世以降も屋敷が存在しました。土塁や柵はわかりませんが、郭間の堀切は土橋が版築されています。建物は小型化し、柱間は6尺前後です。城址全体の保存のため、地下遺構は埋め戻されて見ることができません。主な整備内容は、名胡桃城の第2期を中心に、二郭堀切と本郭堀切の木橋復元、二郭の防御構造がわかるように土塁や南北両虎口の復元的な整備、三郭と馬出は平面的に表示を行いましたが、門や建物は復元していません。また、ささ郭・本郭・般若郭(仮設駐車場)では、防災管理を重点に階段通路や安全柵の整備等を行いました。右上から、「名胡桃城址変遷図 第1期」「同 第2期」「同 第3期」。発掘調査概要図左上の写真「名胡桃城址全景空撮1」「名胡桃城址全景空撮2」左下の写真「出土した陶磁器と鉄砲玉」右側の写真「自然、人為的な植生」「名胡桃城址の花々」名胡桃城址全景空撮1手前は国道17号で北東方向を望む。国道17号沿いの名胡桃城址入口に「歴史を変えた 名胡桃城」の幟が多く立つ。国道の左側は「外郭」。国道沿いに建っている「群馬県指定 名胡桃城址」。西方向の馬出堀建物は、名胡桃城址案内所、その奥に般若郭。馬出(うまだし)馬出とは、城の出入口の外側に堀や土塁で造った防御・攻撃施設で、発達し大型化すると出丸とも呼ばれ、特に大坂城に真田信繁が築いた「真田丸」が有名です。名胡桃城では、三郭虎口の外側に径20m程の円形の馬出堀(三日月堀、現在は埋まっています)を深さ約1.2mの平底に掘り、その内側に半円形の小高台を残し馬出としています。馬出と外郭の間は、馬出の西側に橋受溝を掘り外郭側に基壇を設け、長さ約8mの木橋を架け渡して、直線的に進入できないようにしています。また、三郭と馬出をつないでいた土橋の一部を掘り切って、長さ約5mの橋に架け替え補強されたこともわかりました。馬出の西から南側縁辺にはひな段のような段差が廻っています。西側の堀切は般若郭との間の殿坂を通って崖下へ、南側は外郭と湯舟沢の間にある水の手につながっています。右側写真は「馬出調査全景空撮」「馬出全景」、中央「馬出復元想像図」。丸馬出と角馬出馬出は城内から出撃する際に、防御・攻撃をより強固にするための施設で、虎口から直に出入りできないように堀と土塁で造り付けられています。おおまかには、三日月堀による丸馬出とコの字堀による角馬出に分けられ、これらが発達するとそれぞれ出丸と馬出郭とよばれています。丸馬出は山梨県の躑躅ヶ崎館(武田神社)を主とする武田氏の城館に多く、角馬出は小田原城主を主とする北条氏が好んで造ったとされます。さらに、いろいろな虎口構造や櫓と組み合わさって複雑なものとみられます。三郭(さんのくるわ)前方は、二郭堀切木橋。三郭(さんのくるわ)三郭の規模は約64×26mで、東西に長い郭です。外郭との間の堀切は幅約12m深さ5~7mあり、西側の堀底は般若郭との間の殿坂と合流し北へ延びています。二郭堀切の土橋外側で幅約3m深さ約1.5m薬研形の三日月堀が検出されたことから、築城当初ここは三郭でなく、馬出があったことがわかりました。その後、三日月堀を埋めて郭や堀切などを新設する大改造を行っていますが、ここは大きな馬出郭であったとも考えられます。郭の西側と南側には石列が残り、基底幅5~6mの土塁がありました。新たな馬出とつながる土橋は掘り切られていて、再び後世に盛り土されています。追手としての虎口には門、郭内には時期の異なる3棟の掘立柱建物がそれぞれ建てられ、そのうち建物1棟と浅いL字溝を組み合わせた施設が、三日月堀を埋め立てた後に造られています。右側写真は「三郭調査全景空撮」「三郭掘立柱建物址」中央写真は「三郭復元想像図」 「二郭三日月堀址」。三郭の南東部にあった墓地。三郭堀切から西側を望む。建物は、名胡桃城址案内所。9:25二郭堀切に架かる木橋。木橋を渡ると「南虎口」。両側に復元された土塁。二郭南虎口(にのくるわみなみこぐち)虎口とは防御施設としての出入口のことで、小口や戸口に虎の字をあてて勇猛さ危険さを意味しています。この二郭南虎口は、二郭の中が直接見透かされないよう、郭内の建物敷地より一段高い位置に造られています。二郭堀切は幅11~13m深さ5.5~7mで、堀切法面の傾斜は三郭側が45度、二郭側が55度と角度を変えて掘られています。また、二郭堀切は直線的に設計せず、堀幅半分ずらして掘られています。堀切・土塁・門により左右に曲がりながら進入する敵を、正面や横方向から攻撃できるこの防御構造を喰い違虎口と呼びます。虎口周辺の土塁基底部内側には、2~5段の川原石の乱石積みが残っています。二郭堀切の土橋は薬研形に掘り切られ、4本の脚柱による木橋を架けていました。土塁に挟まれた4本の掘立柱による門址は、北虎口の礎石門と同じ規模です。右側写真は「二郭堀切土橋と木橋柱穴」「二郭南虎口門址」中央写真は「二郭南虎口復元想像図」。 ー 続く ー
2023.01.17
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引き続き沼田城跡 (沼田公園) を散策し紅葉を楽しむ。11月16日(水) 8:00沼田公園 配置図春の桜をはじめとして様々な花木の美しさが楽しめる公園。沼田城址に整備された沼田市を代表する公園で日本の歴史公園100選に選定されています。この後、赤丸内の東エリアを廻る。利根英霊殿この場所には、かつて沼田城の天守閣があった場所と推定されている。社殿の左前に「利根英霊殿」の石柱。狛犬「右側」狛犬「左側」利根英霊殿社殿この英霊殿には、利根沼田地区の日清、日露戦争の戦没者が祀られている。上野国沼田城絵図(部分)この絵図は、江戸幕府3代将軍家光が正保年間 (1644~1647) に、全国の大名に城の防備体制を絵図に描かせて提出させた。いわゆる正保城絵図の一つで、真田氏4代城主信政の時代の沼田城と城下町の様子が分かる非常に貴重な資料です。原図は国立公文書館内閣文庫に所蔵され、大きさは1.76m×2.34mもあります。絵図には、城を中心として石垣の高さ、堀や土塁の規模、堀中の流水の有無や城下町の道程等兵法上の秘密となるべき事柄が克明に記されています。真田氏が改易になる天和元年 (1681)まで存在していた天守や櫓及び城門等の形態を知ることができます。沼田城天守沼田城の天守は、真田氏初代城主となった信之(幸)が慶長年間 (1596~1614) に建造したと伝えられ、城絵図や古文書から規模は柱間で9間×10間 (推定18m四方) の5層であったとされています。天守は、この右奥に位置していたと考えられますが、幕府に提出したこの絵図によると、天守東の石垣は堀の底から8間もの高さがあり、屋根には千鳥破風 (三角形の屋根) が多く見られ、最上階には高欄が巡っていた様子が分かります。関東における5層の天守は江戸城以外は沼田城だけであったことや、天守付近から金箔瓦 (金箔を張った瓦) も見つかっていることから、関東において沼田城は特別な城であったと考えられます。この名城も、残念ながら5代伊賀守が天和元年 (1681) に改易となった後に、幕府によって全て破却されて、以後、天守や櫓は再建されることはありませんでした。沼田城の別称(倉内城、鞍打城、霞城)正保城絵図4代真田信政の時代に幕府から提出を求められたもので、1644年ごろに提出した。利根英霊殿前から南西方向に鐘楼。本丸御殿跡に建つ「真田信之像・小松姫像」。真田氏初代城主・信之とその正室・小松姫の石像。夫婦円満のパワースポットで写真を撮れば、2人のような夫婦になれるかもと。沼田の歴史物語 沼田城の金箔瓦昭和60年に行われた公園内の改修工事の際、多量の瓦が出土した。これらの中から金箔が塗られた瓦が発見された。金箔瓦は、豊臣秀吉が築いた大坂城で多用されたが、豊臣一門やそれに準じる大名の居城、また秀吉子飼いの大名の居城でも出土している。沼田城周辺では、上田城、小諸城、松本城からも発見されている。 沼田市観光協会広場のカエデが紅葉していた。土塁の上に石碑、「帰國記念植樹 一九六○年三月 朝鮮・日本 友好親善萬歳 朝鮮民主々義人民共和国帰国者一同 在日本朝鮮人総連合会沼田支部」と。真田信之像・小松姫像の後方から。国指定重要文化財 旧生方家住宅、生方記念資料館国指定重要文化財 旧生方家住宅 指定年月日 昭和四十五年六月十七日 所 在 地 沼田市西倉内町五九四番地 沼田公園内 構 造 形 式 桁行 一八・九四○m、梁間 一一・三六四m 切妻造、妻入、板葺石置屋根生方家は沼田藩の薬種御用達を勤めた商家で、沼田市上之町一九九番地に所在し城下町の本格的町家として東日本における稀にみる古い遺構であることから国の重要文化財に指定された。建物の年代は専門家の意見によれば構造手法からみておよそ十七世紀末期頃に建てられたものと思われる。その後、元治、明治、大正、昭和と数次にわたり改修を受けながら使用されてきた。沼田市はこの建物を譲り受け沼田公園内に移築保存することとなり、昭和四十八年六月、国・県の補助を受け復元工事を完了した。建物は間口六間、奥行十間、南面に土庇、東面に下屋を設ける。切妻造り、妻入りで屋根は板葺石置である。平面は主屋南面に「上みせ」「下みせ」「通り庭」を配し東側の「上みせ」奥に四室をならべ、家のほぼ中央には二十畳の広い板の間を設け西の通り庭から北面にかけて土間を設けている。これは町家としての典型的な間取りであり、各部屋の境に壁が多く、柱の密度も高いがこれが古い建物の特色である。小屋組は貫を成りちがいに通した和小屋で、仕上げは大部分手斧はつりで古式を残している。 平成二十二年三月 沼田市教育委員会旧生方家住宅は、妻入・板葺の町家でその様式・技法から見て17世紀末頃に建築されたものと考えられ、東日本で最も古い町家造りの建築物であることから昭和45年に国の重要文化財に指定された。当初沼田市の繁華街の中心にあったが、沼田市が生方家より譲り受けて沼田公園に移築する際に、文化庁の指導のもと初期の建築形態の復原につとめ、昭和48年に移築工事が完成した。受 付開館時間 午前9時から午後4時 ※ 最終入館時間午後3時30分休 館 日 水曜日(水曜日が祝日の場合は木曜日) 祝日法による休日の翌日 年末年始(12月29日から1月3日)入 館 料 大人 110円生憎この日は水曜日で休館日であった。南側の公園入口を望む。土塁上の見事な紅葉。沼田城本丸堀跡沼田城二の丸 (野球場) から本丸 (現在の花壇) の間に設けられた堀は、幕府に提出した絵図 (正保城絵図) によると、本丸側に唯一石垣が積まれた沼田城で最も規模が大きな堀でした。絵図には堀幅12間 (約24m) で本丸に入る櫓門付近の石垣高は3間 (約6m) と記されています。奥に見える池がこの堀の名残で、右側の石垣は天守があった真田氏の頃の石垣の一部と考えられています。平成9年に、この植え込みの中を発掘調査したところ、池の石垣に連なる石垣の一部と堀の中に崩された石や多くの瓦が出土しました。おそらく地中にはさらに北側数十mに渡り石垣の下部が現存し、城が破却された際に埋め立てられたおびただしい瓦や石が埋没していると考えられます。出土した軒丸瓦は三巴紋で、その周囲を巡る珠点は16個を数え、信州の上田城出土瓦などとの類似性が認められています。沼田城跡本丸堀発掘調査平成27年8月から9月にかけて沼田公園長期整備構想に基づく発掘調査を行いました (図1)。調査個所は正保城絵図に当てはめてみますと、大門の付近となります。なお、正保城絵図は4代真田信政の時代に幕府から提出を求められたもので、1644年頃に提出したと考えられています。調査の結果、石垣は堀底から約1m50cmの高さまで残存し、約3mの高さまで裏込めを確認しました。また正保城絵図に記された石垣の高さは3間 (約6m) ということを考慮しますと石垣は1/4ほどが残存し、そこから上は破却されたと考えられます (図2)。今回の調査では瓦が大量に出土しました (写真1)。これらは塀に葺かれていたものと思われ、城破却時に投げ捨てられたと考えられます。調査箇所に該当する部分の正保城絵図には堀、石垣そして塀が描かれています (図3)。この他、調査により本丸堀の深さが何段階か変遷している様子がうかがえました。 沼田市教育委員会沼田城跡本丸堀辺りの紅葉。南側にはテニスコート。沼田の歴史物語 小松姫(稲姫)其之弐関ヶ原の戦いの際、西軍についた昌幸・幸村が「孫の顔が見たい」と小松姫が留守を守る沼田城に立ち寄ったが、小松姫は緋縅の鎧に身を固め、「敵味方となった以上、義父といえども城に入れるわけにはいかない」と昌幸の申し出を断った。あきらめて昌幸が正覚寺で休息をしていると、小松姫は子供たちを連れて現れ、昌幸の所望をかなえた。これにはさすがの昌幸、幸村父子も感心したといわれている。 沼田市観光協会生方たつゑ歌碑台座に「冬やまの 瘦せたる襞に おきわたす 根雪の光り きびしこの国 たつゑ」二の丸土塁上にあった「寿楽園碑」石碑の字は風化して判読できなかった。石碑には「寿楽園」と。テニスコート、右奥に本丸堀跡。正面の建物は、沼田市観光案内所。二の丸跡にある野球場。上州真田武将隊商い処 松之屋所在地:群馬県沼田市西倉内町618"六文銭の家紋で知られる上州真田家を通して沼田市の魅力を発信している、上州真田武将隊のオフィシャルショップである。店先に戦国無双。沼田城址 (沼田公園) 入口に建つ。裏側には漢字・カタカナで沼田城の歴史が刻まれていた。本丸御殿跡の北側に「利根英霊殿」の鳥居。御殿跡は現在は花壇になっている。本丸跡の石柱久米民之助氏の胸像沼田公園を寄贈した久米民之助氏。後方ではネコちゃんが休憩。紅葉の中に「久米先生遺徳顕彰碑」。久米先生名は民之助 沼田藩士久米権十郎の長男として文久元年八月沼田に生る 幼にして両親を喪う 十五歳の春志を抱いて上京 工部大学に学び卒業後教官となる 宮内省御用掛を拝命皇居二重橋の造営にあたるつとに先生は将来日本の発展は土木建築にありと洞察 官を辞し欧米を視察 帰りて建設業を始め専ら鉄道新設工事にあたり その業績は東北より台湾におよぶ日清日露の戦後 日本の進路は東洋開拓にありと台湾に製氷会社 満州に煙草公司 マレイにゴムの各事業を興し 金剛山電気鉄道による朝鮮の開発に精魂を傾く明治三十一年衆議院議員となり四回当選 其の間特に上越線敷設の重要性を力説す大正八年工学博士となり 業界に重きをなす 他面仏教に帰依し孝慈の徳を積み 能楽に通じ書を能くし多趣多芸の人たり此処は風光天下に鳴る沼田城址 この公園こそ先生が郷土のために財を投じ 造園寄附されたるもの・・・・・中略・・・・・茲に明治百年を記念し市民及び有志の協力を得て之を建つ 昭和四十三年十一月三日 久米民之助先生遺徳顕彰会旅友が沼田市観光案内所に所要があるとのことで開店の8時半まで紅葉を追う。朝日を浴びるカエデ。落ち葉も黄葉のカエデ真田氏家紋の六文銭の幟沼田市のマンホール蓋沼田市観光案内所でいただいたマンホールカード。8:37公園内にあった少々汚れたおすいマンホール蓋。市内の町割りと、沼田市の木である桜がデザインされているマンホール蓋。8時半前に沼田市観光案内所の担当者の方が来られ旅友が尋ねたが目的のものはなく。この後、沼田城跡の近くにある「名胡桃城址」へ行くことに。 ー 続く ー
2023.01.16
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早朝の沼田城跡 (沼田公園) の散策を続ける。現在の沼田城跡(公園)は、本丸・捨曲輪と二の丸・三の丸跡の一部が沼田公園となっています。本丸跡に西櫓台と石垣、本丸堀の一部がみられ、わずかに城の名残を留めています。市の木である「桜」や「つつじ」、また、四季折々の花が咲き誇り、訪れる人々を楽しませています。本丸跡には鐘楼が再建され、真田信吉が鋳造させた城鐘(レプリカ)が吊り下げられ、朝夕六時に時を告げている。11月16日(水) 7:45鐘楼廻りの満開の桜(パンフレットから)。桜の時期も見てみたいものだが。鐘楼の横に立っていた「金子刀水の句碑」。苔むした句碑には「嶽の雪照りくもりする花に佇つ」と。金子刀水は明治26年(1993) 沼田中町に生まれ、その後村上鬼城に師事した。句碑は昭和27年3月に建之された。昭和34年 67歳で永眠した。残念ながら句碑の傍には説明板もなく判読できなかった。鐘 楼明治31年頃旧沼田町役場の裏手に建てられ、時を告げていましたが、昭和58年に公園に再建されました。城鐘は2代藩主真田信吉が鋳造し、時を告げていましたが、現在はレプリカを用いており、実物(県重文)は沼田市歴史資料館(テラス沼田2階)に展示されている。鐘 楼真田氏が沼田城主時代は城内に建てられていたが、廃城により取りこわされた。明治二十年ころ沼田町役場 (藩役所 現市役所) 東北隅に楼を建て、柳町歓楽院の梵鐘を借りて時の鐘にした。十年後に楼を修復した際その鐘を返し平等寺で保存の城鐘を懸け替えた。以来鐘楼は鐘撞堂と呼ばれ、戦時下にも供出をまぬがれたその鐘の音は、永く市民に親しまれてきた。昭和三十九年市役所庁舎建設に際し撤去されたが、市民の熱望により城の本丸跡のここに移して復元新築された。 昭和五十八年三月 沼田市教育委員会群馬県指定文化財 城鐘 総高 一一四センチメートル、口径 六七・五センチメートル朝夕六時に時を告げているとのことであったが。手前にはフジバカマが咲いていた。フジバカマにはアサギマダラ!アサギマダラの飛来を期待しているのであろうか、それとも既に飛来しているのか。真田氏時代 沼田蔵内城 北村明道 作当時は本丸に五層の天守閣が聳えていたが真田氏の滅亡とともに破却された。沼田城関係年表天文元年 (1532年) 城主 沼田顕泰 (あきやす)天正六年 (1578年) 城主 北条氏城代 ・ ・慶応四年 (1868年) 城主 十二代藩主土岐頼知、翌年に版籍奉還、沼田藩知事就任。沼田城跡西櫓台の石垣・石段平成27年度(2015)の発掘調査で、地中に埋まっていたのが発見された。正面奥に、御殿桜があったのだが花が咲いていないのでその存在感がうすかった。沼田城御殿桜(樹齢推定 400余年)沼田城の天守閣が、5層の雄姿を誇っていたところに植えられ、今に残っている沼田城形見の名木である。沼田城は初め蔵内城と称した。沼田氏12代の沼田万鬼斎顕泰が、3ヶ年かかって天文元年 (1532年) 4月完成させ、柳町の幕岩城から引移った。顕泰は三男朝憲に13代城主を譲り、川場村天神城に隠居したが、後妻の子4男平八郎景義を城主にせんと企て、永禄12年 (1569年)正月、朝憲を謀殺、ために沼田氏は築城後37年間にて亡びた。以来沼田城は上杉謙信、北条氏政、武田勝頼、織田信長、真田昌幸、北条氏直の支配時代を経て、天正18年 (1590年) 真田信幸が城主となった。信幸の夫人は徳川家康の曽孫=養女=小松姫である。信幸は関ヶ原戦に徳川方につき、戦功により父昌幸の所領上田城主を兼ねたが、慶長9年 (1604年) この御殿桜の処に3階建ての隅櫓 (水の手曲輪門) を築造。ついで慶長12年 (1607年) 今の利根英霊殿の処に5層の天守閣を築造 (間口10間奥行9間) 本丸の外郭に土塀を築くなど、名城を完成させた。それから77年後の元和元年 (1681年) 11月、5代城主信直が徳川幕府に沼田領3万石を没収され、城郭は跡形もなく取壊された。名城は姿を消したが、この御殿桜は400年の風雪に耐え、根は古塁の石垣をしっかり抱き、春ごとに寂寥の色をたたえた花を開き、興亡の歴史を語りつづけている。沼田城跡西櫓台の石垣・石段には立入禁止に。沼田城跡西櫓台の石垣・石段天文元年 (1532) 頃に沼田顕泰によって築かれた沼田 (倉内) 城は、上杉・武田 (真田) ・北条氏などの有力大名の狭間にあり、その属城として幾多の変遷をたどってきたが、天正18年 (1590) の北条氏滅亡以降は正式に真田氏の所有する城となった。真田昌幸の嫡男信幸は、初代城主として城郭の大改修を手がけ、慶長年間 (1591~1614) には五重の天守をはじめ各種櫓や門などを建造して近世城郭として整備を行った。しかし、元和元年 (1681) に真田氏が改易になると城は壊された。その後、本多・黒田・土岐氏と城主は代わり明治を迎えたが、城の本格的な復興はなされなかった。発掘調査により発見されたこの石垣や石段は、西櫓台 (前方の小高い部分) に伴うものであり、出土した瓦などから真田氏時代の遺構と考えられる。5代城主信利 (信澄) の改易により、翌年城は跡形もなく破却されたと云われていたが、壊されずに地中に埋められていた部分が、300年以上を経て再び往時の姿を現わしたものである。発掘部分石垣 石段 (全長27.5m 石垣の高さ0.8~2.0m 石段の幅2.4m) 沼田市・沼田市教育委員会沼田城跡 (沼田公園) の案内図西櫓台石垣への案内発掘調査で発見された真田氏が築いた西櫓台の石垣。沼田城跡に残る貴重な遺構である。石垣の上に御殿桜の根元。その御殿桜を見上げる。西櫓台の石垣上に大きく枝を張る桜の木が、エドヒガンザクラである。「御殿桜」という愛称で沼田市民のシンボルとなっている。城跡内に「沼田 五大尊講」と刻まれた石碑。土岐沼田藩の初代藩主、土岐頼稔が城内に不動院という寺を建てたが、維新変革により廃寺となったことから、沼田五大尊講として祀られた。石碑の台座に、「御肖像尊傳八十八周年記念」と。傳日ク御不動尊ノ肖像ハ旧沼田城主土岐頼稔候京都 大内ヨリ賜フ所ナリト案スルニ候ハ寛保二年京都所司代ヨリ東都ニ入テ客老トナリ臣三浦外記景充ヲシテ新采邑沼田ニ到リ城代タラシメ後城中ニ不動院ナル一寺ヲ建テ之ヲ尊傳セシカ維新変革ニ遇フテ廃寺トナリ其レヨリ沼田五大尊講中ニ於テ之ヲ尊傳致シ今日ニ到ル 昭和二十八年十月建之沼田公園 配置図春の桜をはじめとして様々な花木の美しさが楽しめる公園。沼田城址に整備された沼田市を代表する公園で日本の歴史公園100選に選定されています。沼田公園の西側エリアA、B辺りはビューポイントである。沼田城 捨曲輪跡に建っていた、村上鬼城句碑村上鬼城は慶応元年 (1865)、因幡鳥取藩士の長男として江戸藩邸に生まれる。8歳の時、高崎に移住。「ホトトギス」同人となる。昭和13年 (1938)、没。句碑には「越後路へをれまかる道や秋の風」。平八郎(沼田平八郎首石)木柵に囲まれた大石が「沼田平八郎首石」真田昌幸が沼田平八郎景義の首を載せたと伝わる石である。平八石の由来沼田平八郎景義の首級を載せた石。平八郎は沼田城 (蔵内城) を築いた沼田氏12代顕泰の側室の子で、摩利支天の再来とまでいわれた勇将。顕泰は城を嫡子朝憲に譲り、平八郎を連れ川場村天神城へ隠居したが、側室とその兄金子美濃守らにそそのかされて、永禄12年(1569)正月、朝憲を呼びよせて謀殺。そのため顕泰、平八郎は沼田勢に追われ会津へ逃げた。平八郎は12年の後、沼田城奪還の兵を挙げて沼田に迫った。真田昌幸は戦っては平八郎に勝てないと知り城中に居た金子美濃守をだました。貧欲な美濃守は、己が栄進したいため平八郎に会い武装を解き、こっそり城内に入れて「お前が必ず城主になれるようにしてやる。」と偽り、城内へ誘い入れて殺害した。風雲児の最後また哀れだった。時に天正9年(1581)3月14日(一説は15日)42歳。平八郎の首級は昌幸が実検の後、この石の上に置いた。亡骸は町田町の小沢城址に葬り、沼田大明神として祀ったが首級は此処から亡骸を埋めたところまで飛んで行ったという。 (岸 大洞 文撰)沼田城跡の北西奥にあるビューポイント「沼田八景 雪の上越連峯」。正面右側に「三峰山」、木の左奥に谷川岳が見えるのだが。写真の左奥にはこの後訪れる続日本100名城の「名胡桃城」がある。カメラを右(東)に振り、戸神山 (地元の人はその形から「三角山」と呼んでいると)。戸神山の後方に、雪化粧の日本百名山 上州武尊山。武尊山の山名は、日本武尊の東征に由来しているとされている。右に「高王山」、正面に「三峰山」。三峰山をズームアップ。その右奥後方には雪化粧の山並み。沼田八景のビューポイント (城跡の北西エリア) から北西を望む。この後訪れる「名胡桃城」がある。ズームアップすると右奥に上越新幹線の高架。手前には利根川に架かる国道17号の月夜野大橋。捨曲輪跡に建つ「天狗堂」。一段高い所に建つ小さな天狗堂。天狗堂の扁額「天狗堂」天狗面の由来このお堂にある天狗面は、昭和34年11月に迦葉山の大天狗面の分身として沼田市観光協会が製作した。顔の長さ3メートル、顔の幅2メートル、鼻の高さ1.4メートル、重さ1トンで木彫りの天狗面としては日本一の大きさを誇る (彫刻者:吉沢俊三郎氏)。同年、市内の祭りに初めて天狗踊りの行列が登場し、全国でも稀な行事として賑わいを見せた。天狗面は迦葉山弥勒寺の鎮守である中峰尊者の化身だといわれる。弥勒寺は嘉祥元年 (848) に創建され、康正2年 (1456) に天巽慶順禅師によって曹洞宗に改宗した。禅師に随行した弟子の中峰尊者は数十年間に渡り布教と伽藍の造営に尽くした。禅師が大盛禅師に住職の座を譲ると、「吾迦葉佛の化身にて己に権化化行は終わった。よって今後は永くこの山に霊し末世の衆生を抜苦与薬せん」と誓願して案山峰から昇天し、後に天狗の面が残されたといわれる。それを中峯尊と称して祭り信仰を進めている。現在、弥勒寺には地元商工会の有志が奉納した顔の長さ6.5メートル、鼻の高さ2.8メートルの日本一の大天狗面が安置されている。覗窓からのぞき撮影。沼田市観光協会が製作した顔の長さ3メートル、顔の幅2メートル、鼻の高さ1.4メートル、重さ1トンで木彫りの天狗面としては日本一の大きさを誇る。捨曲輪跡から一段高い南方向へ。紅葉が進んでいた。しばし紅葉の撮影に・・・。青空をバックに見上げる。丘の上から見おろす。ズームアップ紅葉と黄葉のコラボ。8:00落葉も進んでいた。 ー 続く ー
2023.01.15
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栃木・群馬の旅二日目の主目的は、No.115 名胡桃城、No.117 岩櫃城のスタンプ捺印。11月16日(水) 6:27ホテルの部屋からの日の出。6:43日の出方向をズームアップ。出発準備をして1階食堂へ。5階エレベーターホール。部屋への案内は「モーリンの眼」。エレベーター内に貼られていたポスター「ベラヴィータ・マルシェ」右側:2022 期間限定特別企画には、 ・模擬挙式&厳選食材フルコース試食 ・特別プラン 50名 135万円プラン 通常価格 227万1476円左側:3,000 ~ 1,500円のメニュー街なか天狗プラザ所在地:群馬県沼田市上之町朝食時間が7時からでまだ時間があったので昨夜気になったホテル廻りの散策に。天狗面の由来沼田市と天狗面の関係は、市街地の北方向約16キロの深山幽谷の地にある迦葉山龍華院弥勒寺にあります。弥勒寺は848年に比叡山三租円仁慈覚大師により、国家繁栄、民生安泰の鎮守護国寺として開創され、その後、天巽禅師により改宗開山がなされました。この禅師の高弟に中峰尊という僧がおり、伽藍造営の大事業から布教伝道まで大いに努め、また、山門の岩屋や険しい岩山など到底人力では登れない処まで修行者を導くなど神通力を持っており、十年一日のごとく禅師に師事して、その童顔は少しも変わらなかったといわれています。禅師が二世大盛禅師に住職の座を譲るや、中峰尊は、「吾れ迦葉仏の化身にて已に権化化業は終わった。よって今後は永くこの山に霊し、末世の衆生の抜苦与薬せん」と誓願して案山峰より昇天され、その後に天狗の面が残されていたといわれています。以来、その功徳をたよりその御利益を信じ、天狗面を奉納する習わしとなり、近郷近在からはもとより全国的に参拝の善男善女はその数を増し、天狗のお山として賑わっています。沼田市において作成された大天狗面各地の主なイベントに参加大天狗面は毎年8月3日~5日に開催される「沼田まつり」では、女性奉仕者だけが担ぐ”天狗みこし”として市内を練り歩きます。なお、「天狗みこし」は各地のイベントに参加するほど有名になっています。※ 大天狗面は、上野駅上越新幹線開通記念、新東京国際空港国際線ロビー、東京三越、 大阪三越、梅田駅などにも展示されました。沼田市街地の中心に位置する天狗プラザ内には、沼田まつりで担がれる大天狗面が安置されている。また、同じ敷地内には農産物直売所が併設されており、大型バスも停められる駐車場も整備されている。宿泊ホテルの西側に建っている「街なか天狗プラザ」。この辺りの国道は「電線共同溝 (電線類地中化) 工事を実施しています。」事業効果 ・防災に寄与します ・安全で快適な歩行者空間を確保します ・景観が向上します昨夜は雨が降ったのか路面が濡れていた。ガラス張りの小屋の中に大きな天狗のお面と下駄が飾られている。建物の梁があり全体が写せなかったのが残念である。宿泊ホテルに飾られた像。7:00ホテルへ戻り朝食。コロナ禍のためバイキングではなく膳でだされた。沖縄の旅では朝食がついていなかったので久しぶりのホテル朝食である。7:32沼田公園所在地:群馬県沼田市西倉内町594今日の天気は昨日と違い青空が広がり快晴。ホテルから5分程で沼田公園入口に建つ冠木門。沼田市観光案内所前の駐車場に車を停め城内の散策に。公園内のイチョウの黄葉沼田公園入口に建つ冠木門には「天空の城下町 真田の里 沼田」と。冠木門前にある「三の丸」。沼田城「三の丸」について城 (城の敷地全体) には本丸・二の丸・三の丸といったその場所ごとの命名がされており、この場所は江戸時代の「三の丸」にあたります。「三の丸」は、東西約380m、最大幅約120mあり本丸・二の丸の南側に位置し、当時「侍屋敷」が在ったと考えられています。森林文化都市沼田城の歴史天文元年(1532年)沼田氏12代の沼田顕泰が築城し柳町の幕岩城から移る。【上杉氏の支配】 永禄9年(1566年)顕泰は子の朝憲に城主を譲り、側室とその子平八郎を連れて川 場村天神城へ隠居したが、平八郎を城主にしたいため、同12年正月朝憲を呼び寄 せて殺した。顕泰・平八郎は沼田勢に追われて会津へ逃走。上杉謙信が柴田右衛 門尉を城代にした。【北条氏 ~ 真田氏支配】 天正6年(1578年)謙信死去。代って小田原の北条氏政・氏直父子が支配。天正8年 (1580年)6月真田昌幸が入城。翌9年3月平八郎は沼田城奪還のため来攻したが、 昌幸の策に乗った金子美濃守に城内で謀殺され、沼田氏滅亡。【滝川氏城代】 天正10年織田信長が滝川儀太夫を城代にしたが、六月信長が本能寺で討たれ、滝 川は去り、真田の一族矢沢頼綱城代となる。【真田氏城主】 天正17年(1589年)真田氏北条氏と和し、北条氏の有となったが翌年北条氏が、真 田の所領名胡桃城を掠奪したため豊臣秀吉は怒って小田原の北条氏を撃滅し、沼田 を真田昌幸に与え、昌幸の長子信幸が初代沼田城主となる。 元和2年子の信吉。寛永12年信吉の長子熊之助。同16年信吉の弟信政を経て明暦3 年(1657年)信吉の庶子伊賀守信直五代城主となる。【沼田真田氏滅亡】 元和元年(1681年)11月、幕府は悪政を理由に伊賀守を追放、3万石の領地を没収、 五層の威容を誇った沼田城は破却された。【代官時代】 以来5人の代官が在任。【本多氏】 元禄16年(1703年)本多正永が城を再建、2代正武、3代正矩が城主。 享保15年後藤庄左衛門が代官となる。【黒田氏】 享保17年(1732年)から11年間、黒田直邦、直純が城主。【土岐氏 ~ 明治】 寛保元年(1742年)土岐丹後守頼稔(寺社奉行、大阪城代、京都所司代、老中を歴任) が駿河国田中から移封されて沼田城主となり、以来12代土岐隼人正頼知が、明治 2年(1869年)藩籍を奉還するまで、127年間城主であった。 沼田市・沼田市観光協会日本の歴史公園百選 沼田公園 平成十九年二月十六日選定朝日に燃えるイチョウの木。木柱には「沼田市指定史跡 沼田城跡」沼田城跡 沼田市指定史跡指 定 昭和五十一年三月三十日所在地 沼田市西倉内町管理者 沼田市沼田城は、天文元年(1532)に三浦系沼田氏十二代万鬼斎顕泰が約三ヶ年の歳月を費やして築いた。当時蔵内(倉内)城と称し、沼田市街地発祥のかなめで、当市の歴史の起点でもある。築城して四八年後の天正八年(1580)武田勝頼の武将真田昌幸が入城し、城の規模を広げた。天正一八年(1590)昌幸の長子信幸が沼田領二万七千石の領主となり、慶長年間に五層の天守閣を建造した。元和元年(1681)に真田氏五代城主伊賀守が徳川幕府に領地を没収され、翌二年一月に沼田城は幕府の命により破壊された。その後、本多氏が旧沼田領177ヶ村のうち46ケ村・飛地領合わせ四万石の藩主として入封し、幕府の交付金で城を再興し三の丸に屋形を建てた。次いで、黒田氏二代、土岐氏十二代の居館となったが、明治になって版籍奉還し屋形も取り壊された。時を経て本丸・二の丸跡が、現在の沼田公園に変貌した。 平成十二年三月 沼田市教育委員会パンフレットから、真田信幸、沼田城主へ関ヶ原の合戦以後、信幸から信之へ改名。真田信利時代の城下町(天和年間)沼田城址の大きな看板沼田公園(沼田城跡)配置図春の桜をはじめとして様々な花木の美しさが楽しめる公園。沼田城跡 (本丸・二の丸・三の丸の一部) に整備された沼田市を代表する公園で日本の歴史公園100選に選定されています。パンフレットよりの拡大沼田公園入口に戦国無双沼田の歴史物語 真田信幸(信之)其之壱父の昌幸が沼田領を巡る家康からの要求を拒絶し、徳川軍と戦った第一次上田合戦 (神川合戦)では、信幸はわずかな兵を率いて徳川軍の主力部隊を巧みに奥地に誘き寄せ、勝利に貢献するなど、幸村に勝るとも劣らぬ戦 (いくさ) 上手ぶりであった。そして、乱世における真田家の運命を託せる人物として徳川家康を選び、父昌幸、弟信繁 (幸村) と敵味方に分かれた。関ヶ原の戦いでは東軍につき、名も信幸から信之に改めた。 沼田市観光協会公園内に立つ案内標識公園入口に建つ「久米民之助氏」の胸像。沼田公園寄贈者 久米 民之助《1861ー1931年》旧沼田藩士の子息久米民之助翁は、1861年に現在の東倉内町で生まれ15歳となった明治9年6月に上京し工部大学校(現東京大学)に入学し、卒業後宮内省に入り二重橋の造営などにあたった。その後数々の事業を興して成功を収め、衆議院議員も務めた人物です。現在の沼田公園は久米民之助翁が自分を育んだ故郷に恩返しをしたいと考え、私財を投じて荒れ果てた城址を購入し、大正5年9月から、現在の公園の西半分を中心に2ヶ年に亘り造営工事を行い、大正15年に沼田町に寄贈されました。さらに、東側の工事が進められている中、昭和6年に亡くなられました。翁の意志は現代に引継がれ、市民や観光客など多くの人に憩いの場として親しまれています。 (平成元年11月沼田市名誉市民となる)公園の一角に見事に紅葉したカエデ。一本のカエデの木であったが朝日を浴びて綺麗であった。沼田の歴史物語 小松姫(稲姫)其之壱小松姫は幼名を稲姫。徳川四天王のひとり本多忠勝の長女として生まれた。小松姫の嫁入りについてこんな逸話がある。婿探しのために、大名の子息たちが浜松城に集められた。小松姫は一人一人、髷をつかんで顔を覗き込む。皆が家康の威光を恐れ、されるがままになっているとき「無礼ではござらぬか!」と怒ったのが真田信之であった。これを見て、小松姫は真田信之の元に嫁ぐことを決意したといわれている。 沼田市観光協会鐘楼と「沼田の歌歌碑」作詞者の西沢爽(そう)氏から、著作権が沼田市に寄贈されたことを記念し、歌詞のゆかりの地である沼田公園に歌碑が昭和56年(1981)3月に建立された。沼田の歌 西沢爽沼田の歌は昭和31年(1956)、NHKラジオで「ふるさとの町 沼田市を訪ねて」という放送のために作詞西沢爽、作曲平井康三郎によってつくられレコード化もされた。沼田城址の西側のビューポイント「沼田八景 公園の展望」。利根川が流れる窪地には、JR上越線、国道17号が走る。中央は利根川に架かる沼田大橋。ここからは沼田市街地が見下ろせる撮影ポイントである。7:45子持山をズームアップ。子持山は、群馬県の中部にある火山。標高1296メートル。「ぐんま百名山」の一つに選ばれている。 典型的な成層火山で、浸食が著しく進行した結果、火山の内部構造である火山岩頸や放射状岩脈が地表に露出しており、地質学の観察に適した山として知られる。 ー 続く ー
2023.01.14
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桐生市から今日の最終目的地、続日本100名城の「沼田城址」へ向かう。スタンプ受付時間が17時のため、時間がないので高速道路を利用することに。11月15日(水) 15:25県道342号線(川内堤線)を南下県道3号線へ。目的地までのカーナビの案内は、73km、到着予定時間は16:42と。県道344号線を進み岩宿駅前交差点を右方向へ。この先の阿佐美岩宿交差点を左折して県道78号線へ進む。カーナビの案内県道78号線(太田大間々線)の岩宿交差点を通り抜ける。県道68号線(桐生伊勢崎線)を進む。ここ大原上西交差点を左折して県道315号線へ。15:55北関東自動車道(群馬栃木区間)太田薮塚インタここまでカーナビの案内で来たが、高速道路利用は遠回りであったか。北関東自動車道(群馬栃木区間)を高崎JCT方向へ進む。関越道 東京 123km、関越道 新潟 235km。16:04北関東自動車道からの夕陽を楽しみながらハンドルを握る。高崎JCTまで、2kmと。関越道 新潟方面へ。明日の天気が良いことを祈る。16:08高崎JCT、右方向の関越道 高崎 新潟方面へ進む。前方は榛名山の山並みであろう。ズームアップ。16:12前橋インタ出口16:2312-1 赤城出口赤城山にはここを出て右方向へ進む。車窓から赤城山を探すが雲に覆われわからなかった。16:27長井坂トンネル (長さ343m)トンネルの真上に「長井坂城跡」があるようだ。北は永井の沢の急崖、西は利根川の断崖に望む断崖城で、南北260m、東西約180mほどの囲郭式の山城です。西端の断崖上に高さ2.5mの土塁で三方を囲まれた本郭があります。「加沢記」に、永禄3年(1560)上杉謙信が関東に出馬し、沼田城を直攻せずここに陣を張り、降伏した沼田顕泰(あきやす)(万鬼斎)を引見したとあることや、城郭構造からみて永禄期以降の築城と考えられます。天正の初めに北条氏の持ち城となり、近隣の地侍集団が城番を勤めました。天正6年(1578)真田氏が沼田城を略取すると、長井坂城が鉢形城を核とした北条方の北方最前線の要となって、北条・真田両軍激突の攻防が繰り返されましたが、天正18年の小田原城の落城とともに廃城となりましたと。16:30日の入りも近くなる。16:3213 沼田 尾瀬インタ出口(老神・日光)16:32沼田料金所沼田インタを出て、沼田城のスタンプがある「沼田市観光案内所」へ向かう。16:34カーナビの案内で国道120号(日光ロマンチック街道)を進み上原交差点。どうにか17時前にはトウチャコ。目的地までは、1.8km、到着予定16:41と。16:45沼田市観光案内所所在地:群馬県沼田市西倉内町2889-3沼田市内の観光案内のほかに、真田の関連するグッズやお土産、特産品などの販売コーナー、沼田にまつわる歴史的エピソードがわかる資料が設置されている。閉館まじかの館内で早速スタンプを頂く。No.116 沼田城館内には沼田城のジオラマ、いろんなパネル等で沼田城を紹介していた。沼田城のジオラマ続日本百名城の「認定証」が掲げられていた。天守閣の模型、幟には「天空の城下町 真田の里 上州沼田」、鎧兜も展示。左下には「おすいマンホール蓋」、流石沼田市の観光案内所である。パネルも壁面に所狭しと飾られていたが。真田昌幸像(上田市立博物館蔵)小川城、猿ヶ京城、田胡桃城などを調略した真田昌幸は、武田勝頼本隊の協力を得て上野と武蔵の国境を押さえた。その後、沼田城下を焼き払い沼田城を完全に包囲した。昌幸からこの報告を受けた勝頼は、天正8(1580)年8月、諸将に上野出陣を命じた。昌幸は、沼田城の無血開城を実現するために、沼田城代の用土新左衛門尉への調略を行った。用土新左衛門尉は、武蔵国衆藤田泰邦の分家である用土業国の子であった。用土氏は、北条氏康の関東侵攻時に北条氏に帰属させられ、その上当主の座は氏康の子である氏邦に奪い取られた。さらに藤田氏の実務は富永助盛(後の猪俣邦憲)が執り行っていた。これらのことに用土新左衛門尉は不満を感じていた。こうした事情に注目した昌幸は、国峯城主小幡信真を介して用土新左衛門尉の説得を行った。用土新左衛門尉はこの説得を受け入れ協力を約束した。用土新左衛門尉は約束通り、武田軍の攻撃と同時に沼田城内で反乱を起こし北条方を降伏させた。この沼田開城は8月下旬頃であった。勝頼は、用土新左衛門尉に武田家の通字の「信」を与えて信吉と名乗らせた。さらに藤田への改姓を許して、能登守の受領を与えた。また、信吉は引き続いての沼田在城を希望し、勝頼はこれを許した。沼田城攻略後、昌幸は矢沢頼綱を沼田城に配置して守りを固めた。そして昌幸は、岩櫃・沼田・白井の三城を統括し、勝頼を補佐する役目を命じられた。沼田氏の内紛イラストは「北条氏康」北条氏康の沼田城攻略は、沼田家中で起こった内紛が発端となったようである。沼田一族や家臣が二派に分かれ骨肉の争いを繰りひろげた内紛は、次のような事件であった。天文元年(1532)、関東管領山内上杉氏の重臣であった沼田万鬼斎顕泰は、沼田城(倉内城)を築き、幕岩城から移った。沼田城主顕泰には、嫡子左衛門三郎(憲泰)、次男弥七郎(朝憲)、三男平八郎(景義)の三人の息子がいた。永禄初年頃、顕泰は、憲泰と対立してこれを廃嫡し、後に殺害した。対立の原因は、顕泰が上杉憲政方につき、一方憲泰が北条氏康方についたためという。その後、顕泰は朝憲に家督を譲り、景義を連れて川場に隠居した。ところが、朝憲は北条方についたため、顕泰は朝憲も殺害してしまった。しかし、朝憲の妻が、厩橋(まやばし)長野賢忠の息女であったことから、沼田城は北条方に与する厩橋長野氏の攻撃を受けた。この戦いに敗れた顕泰は、景義とともに越後に逃亡し、この内紛は終結したという。永禄2(1559)年8月頃、北条氏康は沼田城に沼田孫次郎康元を城代として配置した。康元は北条氏一族の玉縄北条網成の次男である。康元は、北条氏の沼田城攻略時の軍功により沼田氏の名跡継承を許され、城代として沼田入部を果たしたのであろう。著名人の色紙は大切に額縁の中に入っていた。鶴瓶の家族に乾杯で「2016.7.7 笑福亭鶴瓶」ダメな男じゃダメですか? 落合カツヨ 役「2022.1.7 宮崎美子」16:56スタンプを頂き外にでると日が沈み、イチョウの木も黄葉。沼田城跡入口城内の散策は暗くなったので明朝にすることに。17:10ホテル ベラヴィータ所在地:群馬県沼田市材木町178-1旅ともに予約願った今夜の宿泊ホテル、朝食込みのくつげるホテルで、ホテル内には北関東最大級のバージンロードがあると。今日の走行距離は298kmであった。ホテル入口には地元出身の「埼玉西武ライオンズ 高橋光成(こうな)投手」。ホテル内のホール、フロント。部屋はツインルームを予約。用意した部屋に問題があり和室付きの部屋に変えましたと。もちろんプラス料金は無し。18:00居酒屋「呑み食い処 磯の」所在地:群馬県沼田市上之町辺りホテルのフロントで近場の食事処を聴き訪れた居酒屋。カウンターにはいろんなお酒があった。まいたけのてんぷら焼鳥もオーダーしたが食べ終わって残り一本で撮影。久しぶりに韓国料理の「チヂミ」。19:15食事も兼ねて飲み、ほろ酔い気分でホテルへ。ホテル内はクリスマス前でサンタの飾り付け。20:15ツインルームの和室でくつろぐ。この後、ドライブの疲れと酔いから熟睡した。 1日目ーEND
2023.01.13
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宝徳寺の床もみじを楽しんだ後は、境内の石庭を巡った。11月15日(水) 14:45本堂を出ると正面にあったのが鐘楼。鐘楼の廻りのもみじも紅葉が進んでいた。以下二枚の写真はパンフレットから、臨済宗 宝徳寺は「四季を感じる禅寺」床に映る別世界28畳の床に紅葉が映る、関東では大変貴重な「床もみじ」のリフレクション。鐘楼の廻りに地蔵。石庭の中に地蔵鎌倉の長谷寺で見かける地蔵であるが。マフラーを巻いた「よろこび地蔵」。もみじに石灯籠、足元には小さな地蔵が立ち並ぶ。地蔵の撮影に夢中な旅友?これも枯山水であろうか。足もとにはライトアップ用の電灯が並ぶ。白塀越しに本堂。本堂内には床もみじの鑑賞に多くの観光客。宝徳寺のお地蔵さま境内にある地蔵の小道で、多くのお地蔵さまが、皆さんを優しくお迎えします。ペアのお地蔵さんも頭巾をかぶり開運 アンブレラスカイアンブレラ (傘) が厄を除け開運をもたらします。丸く敷かれた石の上を歩いてみましょう!丸く敷かれた石の上を歩いてみましょう!とあったが。見上げると傘がぶら下がっていた。カラフルにいろんな傘があったが。足もとには合掌スタイルの地蔵。地蔵のこみち境内には「地蔵のこみち」があり多くのお地蔵さまがおります。なで地蔵、ほほえみ地蔵、よろこび地蔵、しあわせ地蔵他が、皆さんを優しくお迎えします。それぞれのお地蔵さまに手をお合わせてくださいと。洒落たマフラーの地蔵さんも。本堂裏から見おろす。境内にははたして何体の地蔵さんがあるのか。本堂を見下ろすと本堂には「床もみじ」の見学者がひっきりなしに訪れていた。こちらの大きな地蔵は「なで地蔵」と。鐘楼から山門への小路の両側に鉢植えの菊。拝観料受付へ振り返ると右側は本堂への順路。広場には土産物店が出店していた。売店では「千支の守り本尊 各800円」を販売。また、宝徳寺はユニークな御朱印を描いてくれるのも魅力的である。旅友がご朱印をいただきに。観光バスも来るようで観光化されているお寺である。出口方向には土産物店のテントが立つ。本堂側には菊の鉢が並ぶ。天台烏薬 (てんだいうやく)塊根を烏薬と呼び、漢方では芳香健胃薬、鎮○薬などに用います。紀伊半島の熊野では、不老長寿の霊薬として健康茶に用いるとのことです。常緑低木で枝葉が密に茂り、端正な樹形にまとまることから、庭園樹や生垣などにも用いられます(立札後の緑の木)。手入れの行き届いた庭。本堂への道。境内で焼き芋のいい香りがしていた。焼き芋の表面も紅葉の如く赤く染まっていた。小石の上にありまさに石焼き芋。徳島県産 なると金時、千葉県産 シルクスイート 100g → \150一本150円と思ったが、グラム売りであった。境内の土産物店のベンチに座り、各自一本購入して食したが美味しかった、370円/個。宝徳寺は四季を感じる禅寺。夏の風物詩「宝徳寺 風鈴まつり」は、たくさんの風鈴が飾られ、風が吹くと風鈴の音色が一斉に響きわたります。風鈴のトンネルを歩き、涼を感じる、風流なひと時を満喫できます。この期間には夏の床もみじの特別公開も行われますと。帰路の道路脇にも地蔵が並び「バイバイ」と。また他の季節に来てみたいと思わせる。床のもみじに感動したひと時であった!県道338号線(駒形大間々線)沿いにある第一駐車場。道路脇で農家直販の野菜類を販売していた。宝徳寺入口に立つ寺号標石。15:10宝徳寺の参拝を終え臨時駐車場へ戻る。次の目的地は沼田市にある続日本100名城の「沼田城址」。 ー 続く ー
2023.01.12
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桐生川ダムから宝徳寺へ到着。臨時駐車場(無料)に車を停め散策。Googleマップで「群馬県下の紅葉のお寺」で検索すると「宝徳寺」と。11月15日(火) 14:20駐車場から県道338号線(駒形大間々線)を進み、右手方向にも臨時駐車場。シャトルバスが出ているようだ。道路沿いに数基の庚申塔が立っていた。県道沿いにある宝徳寺第一駐車場。第二駐車場は100m先にもある。クラブツーリズム等の観光バスが駐車。県道338号線(駒形大間々線)の宝徳寺入口に立つ寺号標石には「桐生半僧坊大権現」と。山門まではここから百メートルほど緩い坂を上る。寺号標石傍に立っていた多くの庚申塔。臨済宗 宝徳寺所在地:群馬県桐生市川内町5-1608ここが近年注目されているのは、もみじ・新緑など季節の自然美が床に映り込む幻想的な「床もみじ」の特別公開 (期間限定) が行われているためです。床もみじは全国のお寺でも数カ所しかなく、なかでも自由に撮影してSNSなどにアップできるのは、宝徳寺だけと言われています。宝徳寺は臨済宗大本山建長寺第73世仏印大光禅師を開山として、桐生地域の領主であった、桐生佐野正綱公の開基により室町時代の宝徳年間 (1450年頃) に創建された禅寺です。当山の場所は桐生城 (柄杓山城) の裏側に位置し、名久木の砦の入口を見渡す所にあります。これは城の裏口を護るための要害としてこの場所を選び建てられました。天正元年に桐生佐野家が 太田の由良家に滅ぼされると、当山は保護者を失い荒廃してしまいました。しかし地域の人々の力により、再び隆盛となり江戸中期には当山17世の天渓和尚が大本山建長寺186代管長を務めました。また明治初年には大間々第一分校(旧川内北小学校)が当山において開校されました。こちらの寺号標石には「大光山寶徳寺」。宝徳寺は「参拝された方々の思い出に残るように」と、とてもユニークな月替わり御朱印を描いてくれるのも魅力的である。また、境内には、なで地蔵・ほほえみ地蔵・よろこび地蔵などがあり見どころが満載であると。山門への階段には鉢植えの菊が満開。山門は新しく「臨済宗建長寺派 宝徳寺」反対側には「特別拝観 床もみじ」の看板。秋の床もみじ 特別公開10/20 (木) ~ 11/30 (水)拝観料 1,200円 高校生以下無料拝観時間 9:00 ~ 15:45 閉門時間 16:00後期高齢者の割引はなかった。特別公開 秋の床もみじ入山拝観料 1,200円 014224 人目床もみじは、四季折々の景色が床に映り込む幻想的な現象のこと。宝徳寺では春は新緑やぼたんの花、夏は深緑、冬は白く雪化粧をした樹々が、床のなかに鮮やかに浮かび上がります。季節ごとに異なる景色が楽しめますが、なかでも優雅な気分を味わえるのが秋。11月中旬頃、境内のもみじ100本以上が紅葉し、周辺の山々とともに、赤や黄の「紅葉浄土」の世界を床に映しますと。10月下旬 ~ 11月下旬には期間限定ライトアップありと(要予約)。山門を入り拝観料を払うと右側の境内にも鉢植えの菊の花。お守り、おみくじ、御朱印の販売・受付。左には「瑞應閣」の入口、永代供養の受付?。本堂への通路の両サイドにも鉢植えの菊、もみじが紅葉。左側の通路入口には六地蔵。比較的新しい六地蔵である。左側の通路を塀に沿って進む。突き当りを右に廻り本堂へ。こちら側は本堂からの出口であった。右側には「枯山水庭園 碧層々之庭」と。出口の扁額「○○」。原爆の火「自分の幸せを 家族の幸せを 人々の幸せを祈りましょう」原爆の残り火「平和の火」この火は、一九四五年広島に投下された原爆の残り火です。福岡県八女郡星野村 (現八女市) の山本達雄さんが、原爆投下後の広島から故郷に持ち帰り、「恨みの火」「復讐の火」として火鉢やこたつにひそかに保存していました。「復讐では永久に平和は来ない」と考えを改め、二十三年後の一九六八年星野村役場に提供し、以来同村は「平和の火」として保存しています。一九八八年ニューヨークで開催された第三回国連軍縮特別総会にも運ばれ平和のシンボルとして灯されました。戦後七十周年を迎えるにあたり、戦争の悲惨さと平和の尊さを後世に伝えていく為に二〇一五年八月六日 (広島原爆忌) に八女市より分火してもらいました。 二〇一五年八月十五日順路に従い本堂入口へ。本堂入口に掲げられていた扁額「透関」。入口で各々履物をビニール袋に入れ本堂へ。通路の裏に枯山水の庭。本堂に入ると多くの観光客が各々カメラを持ち撮影。本堂内へはマスク装着が条件に。本堂の目の前には見事な「床もみじ」が広がっていた。このような光景は他の方の写真でよく見たが我が目で見るのははじめてでドッキリ!脇侍と本尊の「釈迦牟尼如来」右側に「宗祖 臨済義元禅師」。左側には「開山 佛印大光禅師」。床もみじの特別公開が行われるのは宝徳寺の本堂で、関東では貴重な床もみじである。本堂の造りは禅宗方丈様式。これは、室町時代に京都の臨済宗などで盛んに取り入れられた様式で、関東ではなかなか見ることができません。両脇に描かれた迫力ある襖絵「双龍」や、正面に広がる美しい「枯山水庭園」にもぜひご注目くださいと。係の女性がスマホでの撮影の仕方をレクチャー。カメラを床面に置き撮影。本堂正面には多くの観光客が次から次と座り撮影。カメラを左に振り。ズームアップ。観光客は各々履物をビニール袋に入れ撮影。襖絵の「双龍」をズームアップ。最近はスマホでの撮影の方が多い。枯山水について「枯山水庭園」は省略できるもの全てを省略し、水を使わずに、石と砂だけで、自然の美を表現した庭園です。その作意は、禅定三昧による禅の教理であり、観る側がどのように、解釈するかは個人の自由です。禅宗では方丈 (本堂) は仏の世界ではなく、自己を見つめる修行道場であると考えます。したがって、華美な荘厳は致しません。しかし自然そのものが仏の世界であり山川草木花鳥風月全てがそのまま清浄なる仏の姿であり、ご説法であると考えます。この前庭は朝には太陽、夜は月さえも庭園の一部に取り入れてしまい、宇宙の森羅万象を写して観ることができます。心静かに仏の姿を看、仏の聲をお聴き下さい。本堂から「石庭・碧層々(へきそうそう)の庭」を見下ろす。この石庭は山々を借景とした、不老長寿と吉祥を願う鶴亀蓬莱の庭になっています。神の山である蓬莱山を模した築山や長寿のシンボルである鶴や亀を表した石組み等が配されています。心静かに鑑賞ください。本堂内を振り返る。入れ替わり修学旅行生?が。禅の庭 碧層々の庭 (へきそうそうのにわ)石庭は水を使わずに、石と砂などで自然を表現した庭園をいいます。この庭は山々を借景とした、不老長寿と吉祥を願う鶴亀蓬莱の庭になっています。神の山である蓬莱山を模した築山や長寿のシンボルである鶴や亀を表した石組み等が配されています。心静かに鑑賞ください。禅の庭 碧層々の庭本堂には「寶徳寺」と。本堂の出口窓から石庭を望む。14:45本堂の出口にある「原爆の火」。この火は広島原爆の火が残る福岡県八女市より分火していただいたもので、群馬県では初、全国では15カ所目であると。 ー 続く ー
2023.01.11
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樺崎八幡宮から桐生川ダムへ。11月15日(火) 13:30桐生川ダム所在地:群馬県桐生市梅田町4丁目1781桐生川ダム管理事務所の手前の駐車場に車を停め散策開始。いのちをはぐくむ水 桐生川ダム管理事務所右下に介護付き住宅の「(徳養) 梅の郷」があったがこんな山の中にあるのかと。駐車場脇の木が黄葉。その木の下に石碑があり説明板。桐生川ダムこのダムは、桐生川総合開発計画の一環として、利根川水系渡良瀬川支流桐生川の、ここ群馬県桐生市梅田町四丁目地先に建設された多目的ダムである。本事業は、群馬県において、昭和43年度より予備調査が行なわれ、昭和47年度から実施計画調査に入り、昭和49年度より建設事業に着手昭和57年度に竣工したものである。事業の目的:洪水調節、かんがい用水、水道用水、発電ダムの規模 型 式:重力式コンクリートダム 総貯 水量 :12,200,000m3 堤 頂 長 : 264.0m 有効貯水量:11,300,000m3 堤 高: 60.5m 集水 面積 : 42k㎡ 堤頂標高: 海抜 262.0m 湛水 面積 : 0.62k㎡ 堤 体 積 : 293,000m3 常時満水位:海抜 253.7m 竣工 昭和58年3月 群馬県 施工 鹿島建設・大成建設・佐田建設 桐生川ダム建設共同企業体桐生川ダム管理事務所門柱の左側のフェンスに群馬県下のダムの写真が貼られていた。管理事務所入口「ダムカード配布中 ひとり一枚」と。桐生川ダム桐生川ダムのダム湖は「梅田湖」昭和60年(1985)に一般公募し、梅田湖に決定。ダムは桐生市梅田町にある。 周囲に自然が残り、自然景観を保全しながら、広場や遊歩道、公園などの整備が進められている。大仁田ダム所在地:群馬県甘楽郡南牧村大仁田 大仁田 ダム群馬県にある重力式ダムです。ダムは洪水調節と給水に使用されます。ダムの流域面積は 4.4km² です。ダムは、満水時には約3ヘクタールの土地を貯水し、437,000立方メートルの水を貯めることができます。ダムの建設は 2001 年に完了した。 霧積ダム所在地:群馬県安中市松井田町坂本安中市松井田町大字坂本地先に、県施工第一号のダムとして建設され、昭和50年度に完成した。高さ59メートル、総貯水量2,500,000立方メートルの重力式コンクリートダムで、碓氷川の洪水調節と碓氷川流域に依存している既得用水の安定化などを目的とした治水ダムです。秘湯霧積温泉に向かう途中にあり、深い自然に囲まれていますと。ダム湖の名は「霧積糊」。坂本ダム所在地:群馬県安中市松井田町坂本坂本ダムは、当初、建設省(現:国土交通省)の砂防ダムとして昭和32年(1957)度に竣工し、その後補強のため3.0mの嵩上げが行われました。もともと下流の既得用水を補給するための容量を持つことから、昭和56年に河川管理施設に移管され、昭和60年度より堰堤改良事業でダム本体の補強、放流施設、管理設備を整備しました。平成3年度には、建設省から「シビックデザインダム」に指定され、地元松井田町(現:安中市)と協力して碓氷峠の歴史的な鉄道施設をモチーフにした周辺設備を行い、環境と調和のとれた美しい碓氷湖としてよみがえりました。塩沢ダム所在地:群馬県多野郡神流町塩沢1196群馬県にある重力式ダムです。ダムは洪水調節と給水に使用されます。ダムの流域面積は 7.8km² です。このダムは、満水時には約 3ヘクタールの土地を貯水し、30万3000立方メートルの水を貯めることができます。ダムの建設は 昭和59年(1984)に開始され、平成7年(1995)に完了した。ダム湖の名は「蛇神糊」。四万川ダム(しまがわ)所在地:群馬県吾妻郡中之条町四万4400-28利根川水系四万川に建設された重力式コンクリートダムである。堤高の 89.5メートルは群馬県が運営するダムとしては最も高い。国土交通省の地域に開かれたダムに指定されており、西洋の城を想起させるデザインが施されている。ダム湖の名は「奥四万糊」。道平川ダム所在地:群馬県甘楽郡下仁田町南野牧7914ダム本体の他に3基の取水ダムを3本の導水トンネルで接続して、鏑川上流の治水利水を担っています。またRCD (Roller Compacted Dam-concrete method) 工法といって、コンクリートを薄く層状に敷き均し、振動ローラーで転圧するという新工法を関東地方で初めて採用し、施工の合理化を図った。ダム湖の名は「荒船糊」。桐生川ダムの概要ダムの概要 桐生川は、その水源を群馬・栃木両県の県境にある根本山(標高1199m)に発し、両県境に 沿って西南に流れ、桐生市天神町付近から東南に流れを変え、広沢町で渡良瀬川に合流す る延長約39.6km(内直轄区間9.6km)、流域面積109.6k㎡の河川です。 桐生川沿岸の桐生市は過去において、昭和22年9月のカスリーン台風をはじめとし、昭和 23年9月のアイオン台風、昭和24年8月のキテイー台風と連続災害に見舞われ、近くでは 昭和49年の災害等大きな被害を蒙りました。 桐生川ダムはこのような水害による被害の防止と将来の水需要に対処するため、群馬県桐 生市梅田町内に建設した重力式コンクリートダムです。ダムの効用 洪水調節 桐生川ダム地点において、毎秒560m3の計画洪水量のうち、毎秒410m3をダムに貯 留し、残りの毎秒150m3を下流へ放流します。このような洪水調節を実施することに より、下流2市で約600haの地域の洪水被害を防止できます。 流水の正常な機能の維持 桐生川ダム下流の桐生市沿岸の既得用水及び桐生川の河川維持用水の補給を行います。 上水道用水 桐生市の上水道水源は、そのほとんどを渡良瀬川、及び桐生川に依存して来ましたが、 生活水準の向上に伴う水需要の増大により供給能力が限界に達し、用水が不足してき ました。このため桐生川ダムより新たに1日最大34,500m3を供給します。 発 電 群馬県企業局は、桐生川ダム建設にともない、ダムエネルギーの有効利用をはかるた め、ダムより最大毎秒1.8m3を取水し、最大有効落差39.0mを利用して、ダム直下流 の桐生発電所で最大出力470KW、年間発生電力量1,784MWHの従属発電を行います。桐生川ダムの設備の概要ダ ム 貯水池 河川名 利根川水系桐生川 集水面積 42.0k㎡位 置 群馬県桐生市梅田町4丁目 湛水面積 0.62k㎡型 式 重力式コンクリートダム 総貯水容量 12,200,000m3堤 高 60.5m 有効貯水容量 11,300,000m3 堤頂長 264.0m 常時満水位 EL 253.7m堤体積 293,000m3 サーチャージ水位 EL 258.7m堤頂標高 EL 262.0m 設計洪水位 EL 260.5m 堆砂量 900,000m3桐生川ダムの断面図桐生川ダムの概要桐生川ダムは、桐生川の水を適切な量に調節して下流に流したり、飲み水の確保や発電などの多くの目的のために造られた<多目的ダム>です。また、ダムに貯めた水の重さや、地震のようなダムにかかる大きな力に対し、ダム自身の重さで抵抗して安定するように設計された<重力式コンクリートダム>でもあります。桐生川ダム近郊のイラスト。ダムの堤に「桐生川ダム」。ダム湖の名称は昭和60年(1985)に一般公募し、梅田湖に決定した。梅田湖の湖面に網場 (あば) 。梅田湖に架かる梅田大橋をズームアップ。ダムの堤に建つ「表面取水設備」。堤上は車の進入は禁止になっている。表面取水設備ダムの目的の一つに「いつも河川に一定の水を流す」ということがあります。それは、水道水の確保や、農業用水の確保などが必要だからです。雨の多いときに水を溜めておき、雨が少ないときに水を流します。そのおかげで、川にはいつも水が流れているのです。貯水池は深さが数十mもあるため、水面に近い水は日光であたためられ、底の方に冷たい水がたまります。農作物や、川の生き物の生育のためには、水面に近いあたたかい部分の水を流す必要があります。この設備は、水面が上下しても、いつも表面の水を流せるようになっています。この上にゲートを吊り上げる設備があります。桐生川ダムの流出側。左側に「群馬県のマーク」が植栽されていた。群馬県のマークをズームアップ。ダム下にある発電所の建物をズームアップ。発電した送電ケーブルがなかったが。発電所ここから下に見える建物は発電所です。発電所では、ダムから流れ出す水の力で水車を回して電気を起こします。これは、水力発電と呼ばれ、古くから水の豊富な日本で行われてきた発電方法です。堤中央部より梅田湖、梅田大橋を望む。網場 (あば) をズームアップ。網場 (あば)ダム湖の水面に、オレンジ色の浮きのようなものがあります。これはダム湖に流れ込んできた木などが、ダムの放流施設に入り込まないようにしているものです。木などがダムの放流施設に入り込むと、それを壊してしまう恐れがあるからです。防塵スクリーン、あるいは網場と呼ばれていて、水に浮くようになっています。ズームアップ。ステージがあり何か設備があるようだが。ステージ上に草が芽吹き。13:50駐車場へ戻り、次の目的地を、「宝徳寺」にセット。宝徳寺までは、約17km、所要時間は約30分と。桐生川ダムから県道66号線 (桐生田沼線) へ出て桐生市内へ進む。県道66号線を南下、桐生市街地へ進む。道路脇に「坂口安吾 千日往還の碑」を見つける。所在地:群馬県桐生市本町2丁目1-15「堕落論」「白痴」で戦後文学の旗手となった坂口安吾は、1952年2月うるう日、旧友南川潤の世話でここ書上邸に居を構えた。「夜長姫と耳男」を生み、人の子の親となり、「新日本風土記」を執筆の最中、取材旅行から戻った直後に急逝。55年2月17日早朝、48歳4ヶ月だった。通夜には小林秀雄、尾崎士郎、石川淳、檀一雄らも駆けつけたと。県道66号線(本町通り)を進む。カーナビの案内はこの先の本町五丁目交差点を右折して県道3号線へ。本町五丁目交差点を右折して県道3号線県道3号線(前橋大間々桐生線)を進む。JR両毛線桐生駅ロータリー上毛電鉄の高架橋堤町3丁目交差点を右折して県道342号線(川内堤線)を北上。河内町五丁目交差点。この交差点から県道338号線(駒形大間々線)に。14:20県道338号線(駒形大間々線)を進み、誘導員の指示で駐車場へ入る。臨時駐車場(無料)であった。右側は学校らしき建物であったが、現在は廃校? ー 続く ー
2023.01.10
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雨上がりの樺崎八幡宮の散策を続ける。11月15日(火) 12:30足利氏御廟跡から復原された樺崎寺浄土庭園を見下ろす。史跡 樺崎寺跡 (かばさきでらあと)現在地は左下の赤丸。樺崎寺の発掘調査史跡樺崎寺跡の 遺構配置図こちらにも観光案内板奥の院街道 三十四町鑁阿寺から樺崎八幡宮までの街道案内 北郷観光協会北の郷物語 その六話「樺崎八幡宮」国道二九三号線沿いにある樺崎工業団地北側の山麓に鑁阿寺の奥の院である樺崎八幡宮があります。鎌倉時代に鑁阿寺開基の源姓足利氏二代義兼が、奥州藤原氏○○の戦勝祈願のため・・・・・。写真がピンボケの為。足利氏御廟跡から南へ進むと石碑が立っていた。石面には字が刻まれていたが苔むして読めなかった。石碑には「○○三橋蹟〇〇碑」。南側の、樺崎八幡宮入口。関東ふれあいの道⇐ 足利駅 7.6km 樺崎八幡宮 0.1km ⇒樺崎寺浄土庭園へ向かう。樺崎寺浄土庭園の由来足利義兼(よしかね)によって創建。鎌倉時代初期の浄土庭園をもつ寺院として貴重なことより平成13年に国史跡に指定。昭和59年より発掘調査が行われ、2005年より室町時代の姿へ向けた復元工事が着手された。池泉庭園で庭園面積は4,000坪。平成30年(2018)には池岸の復元が完了。引き続き復元作業が行われている。イチョウの木の辺りに樺崎八幡宮本殿。左上には、多宝塔跡、供養塔覆屋跡、足利氏御廟跡がある。樺崎寺の廃寺後は水田になっていたが、復元工事により池を取り戻したと。広場にはクローバーが雨に濡れ。樺崎寺浄土庭園から八幡山方向を望む、幟の廻りは樺崎八幡宮への階段。左の階段を登ると多宝塔跡へ。樺崎八幡宮をズームアップ。石の上に無造作に石祠が置かれていたが。樺崎八幡宮の東側へ廻る。樺崎川に架かる石橋の辻橋。正面に樺崎八幡宮一の鳥居から八幡宮へと参道が進む。参道の右側に広い駐車場がある。参道北側の広い駐車場を望む。社号標石の「郷社 八幡宮」参道から、樺崎寺浄土庭園を望む。足利義兼が平泉の中尊寺や毛越寺の華麗な浄土庭園を模して造られた庭園であり、池の中央にある中島は江戸時代に造成された姿に復元されている。参道にあるこの橋は「神橋」であろうか。参道脇に掲示されていた雑誌のページ。東日本旅客鉄道(株)が発行している「大人の休日俱楽部」の2021年12月号に記載された。源氏の名門 足利一族の選択 鎌倉幕府から室町幕府への軌跡名門! 源氏の系譜かつては中学の歴史教科書で、鎌倉幕府成立の年号を「いい国(1192)作ろう」という語呂合わせで覚えたものだろう。だが、これは源頼朝が征夷大将軍に就いた年で、現在では、実質的に幕府が成立した1185 (文治元) 年が有力だ。それから150年ほど下って、足利尊氏による室町幕府が開かれる。この二つの幕府が、400年近くにわたる、中世日本の武家社会を形づくっていく。その中心人物となった頼朝と尊氏。二人のルーツをたどっていくと、一人の「源氏の棟梁」に行き着く。「八幡太郎」の通称で知られる、源義家である。・・・中略・・・義家によって名声を高めた源氏は、東国で着実に版図を広げていく。義家の次男・義親の系統は鎌倉幕府へとつながり、その弟・義国の方は室町幕府を生むことになる。・・・後略。2代義兼、源頼朝と義兄弟になる。足利2代義兼は、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』にその名がたびたび登場している。つまり幕府にとって義兼は有力な存在だったことがうかがえる。治承4 (1180) 年に源頼朝が平氏打倒に決起すると、義兼はすぐにその許へと駆け付けた。以後、側近として合戦に従い、頼朝から絶大な信頼を得て、幕府内でも一目置かれる存在となる。その背景には「血縁」の絆があった。義兼の母は、頼朝の母の姪に当たる。また妻は鎌倉幕府の初代執権・北条時政の娘・時子で、その姉・政子は頼朝の妻となっている。つまり、頼朝と義兼は義兄弟なのだ。一説には、時子との結婚は、義兼との関係をより強固にしたいと考えた頼朝が仲立ちしたともいわれている。・・・・・後略昨年放送されたNHK大河「鎌倉殿の13人」には名がなかったが。3代義氏、北条氏の信頼を勝ち取る。頼朝の死後に、北条時政・義時親子が頼朝以来の有力御家人を粛清していく中で、義氏は幕府内で高位の官職を歴任し、存在感を強めていく。その理由の一つは戦場での勇猛果敢な働きにもあったが、出自の良さを見逃すことはできない。・・・後略承久の乱で活躍 幕府のナンバー2に。北条方の信頼を得た義氏は、3代執権北条泰時の娘を妻に迎えた。そして承久3 (1221) 年、かねて反幕府的な後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒すために挙兵する。世にいう「承久の乱」である。このとき義氏は、大将・北条泰時の次将として幕府の大軍を率いて都に進撃し、筏を組んで宇治川を渡り、武功を立てている。・・・後略時代の覇者、8代尊氏。そして一族の行方。8代尊氏は征夷大将軍となり、室町幕府を開く。義昭までの15代、約240年に及ぶ時代は公家と武家、僧侶らの文化が融合した独自の室町文化が花開く。尊氏は儀礼などを通じて将軍家の貴種性を高め、「足利一門は別格」との認識が確立。江戸時代にも引き継がれ、その例が「5000石の大名」として明治維新を迎えた喜連川足利氏だ。樺崎八幡宮の北側に廻り、小高い所に「菅原道真公碑」があった。鳥居の先に石碑が二つ。健康学問祈願駆け出し百人一首 (11)「東風ふかばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ 菅原道真」訳:わが家の梅の花よ。 東風が吹いたら、私のいる大宰府まで匂いを届けておくれ。 主人がいないからと言って、春を忘れてはならないよ。石碑には「菅○○」。奥の院街道 三十七町鑁阿寺から樺崎八幡宮までの街道案内 北郷観光協会北の郷物語 その百二十話「樺崎官公廟と飛梅」菅公こと菅原道真は、荒魂の雷神格の一方、和魂の文神格も勧請されました。明治十四年 (1881) に地元有志が第十四区樺崎小学校に天神講の祀廟、菅公廟を建立、合併で北郷第三尋常小学校に移り、変遷を経て昭和三十八年、足利市立大月小学校に改称、移転した際、裏山に放置されました。平成十八年 (2006)、住民の尽力で天神信仰を重んじた源氏の氏神社の樺崎八幡宮境内に遷座し、菅公を慕い京から大宰府に飛来した梅花の飛梅伝説に因み献梅されました。 (中島太郎 著)。黄葉が始まったイチョウ。12:45樺崎八幡宮下の駐車場に戻り次の目的地「桐生川ダム」へ行くことに。Googleマップで、桐生川ダムまで23.4km、所要時間31分と。12:55ここを右折して県道208号線 (飛駒足利線) へ進む。正面は北関東自動車道(群馬栃木区間)で右側に足利インタ。13:00この先を右折し、県道208号線 (飛駒足利線) へ進む。交差点脇に「足利カントリークラブ 10km」の案内、足利インタからの案内であろう。県道208号線は県道66号線 (桐生田沼線 佐野市下彦間) と合流。田舎道で道路も空いており順調に山間部へと進む。県道208号線・県道66号線を進み、カーナビの案内でここを左折。ここは飛駒町辺りでここから県道66号線 (桐生田沼線) へ。13:22県道66号線 (桐生田沼線) を進み梅田湖に架かる梅田大橋の手前を右折。道路脇に石碑が2個あり停車。碑をズームアップ。左側には「県境変更桐生市合併記念碑」右側には「この合併記念碑は水没のため旧入飛駒小学校から移設する 昭和五十八年七月 桐生市長 小山利雄」こちらにも石碑梅田湖第二駐車場に車を停め、梅田湖に架かる梅田大橋を望む。梅田大橋をズームアップ、後方に桐生川ダム。対岸にある「梅田台緑地公園」梅田台緑地公園は、市民のレクリエーションや憩いの広場となるよう、整備されました。梅田湖の右岸に位置し、園路を散策すれば四季折々に豊かな表情を見せる景色を楽しめます。例年、2月にはロウバイ祭り、5月には清流コンサートが開催されていると。13:30梅田大橋を渡り、ここを左折して県道66号線へと進む。13:30桐生川ダム所在地:群馬県桐生市梅田町4丁目1781ダムの堤高 60.5m、堤頂長 264mの重力式コンクリートダム。ダム湖(梅田湖)周辺は野外センターやふるさとセンターがあり、釣り人やボート遊びの人達で賑わっている。 ー 続く ー
2023.01.09
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磯山公園を後にし、6.5km先にある樺崎八幡宮を目指す、所要時間は約10分間。11月15日(火) 12:10磯山公園から国道293号の出流原歩道橋交差点。この交差点を右折して国道293号を南西方向へ進む。国道293号(樺崎バイパス)の並木道。この辺りの国道293号は改修され樺崎バイパスとなっている。この並木道は、磯山辨財天本殿のステージから見えた。左側からの道がかつての国道293号であろうか。国道を走ると右方向に目的地の「樺崎八幡宮」の案内板。樺崎八幡宮(かばさきはちまんぐう)所在地:栃木県足利市樺崎町1723鑁阿寺 (ばんなじ) の開基足利義兼が一族の菩提のために創建した樺崎寺。3代目義氏が境内にお堂を建て、八幡神を勧請し、足利義兼公を合祀したことが八幡宮のはじまりと言われている。足利義兼の生入定の地として、本殿の床下には「足利義兼公御廟」と書いた墓標が立っており、中世の寺院跡として国指定史跡となっている。駐車場脇に立つ看板には「ようこそ源氏の里 歓迎 樺崎八幡宮 国史跡 樺崎寺跡」。国道を右折し500~600mで樺崎八幡宮の駐車場へ到着。鳥居の前には、 「家族安泰祈願 悪病除払」鳥居の奉納は「明治二十六年稔五月吉日」。鳥居に茅の輪 「大祓 茅の輪神事 左・右・左と回って罪穢をお祓い下さい」と。鳥居の扁額「八幡宮」。階段下に手水舎社殿下から見上げる。手摺に紅白の幕、必勝祈願・健康祈願と。幟には、赤い足利家の家紋「丸に二つ引」が描かれている。樺崎八幡宮・史蹟樺崎寺跡足利義兼は、文治5年 (1189年)、奥州合戦の戦勝祈願のため、理真上人を開山として、この地に樺崎寺を創建しました。樺崎八幡宮は、正治元年 (1199年) に当地で入寂した義兼を、子の義氏が八幡神とともに合祀したことに由来します。以降、樺崎寺は足利氏の氏寺である鑁阿寺の奥の院、そして一族の廟所として崇敬を集めますが、明治初めの神仏分離令により廃寺となります。樺崎八幡宮も含めたこの遺跡は、足利氏ゆかりの遺産として大変貴重です。樺崎八幡宮本殿並びに弊殿拝殿修理経過樺崎八幡宮本殿は、昭和六十一年九月二十四日に有形文化財 (建造物) として足利市重要文化財に指定された。長い年月と雨漏りにより腐朽し、軒先の垂下り屋根葺材の変更等修理の急を要してきたので栃木県補助金五百万円・足利市補助金三千三百万円・足利市民文化財団一千万円・地元負担金一千二百万円の予算にて、昭和六十三年度・平成元年度の二ヶ年の継続事業として昭和六十三年六月四日工事着手した。同時に、地元負担で弊殿及び拝殿を新築 (一千七百万円) することにした。樺崎八幡宮本殿保存修理及び幣殿・拝殿を新築することについては、樺崎八幡宮社殿改築建設委員会を設置し検討を重ね、足利市教育委員会文化財保護課が担当し工事の実施に当った。工期は一年十ヶ月とした。関係者、工事業者、工事等費用 本 殿 六千万円 弊殿・拝殿 一千七百万円 そ の 他 三百十五万円特別奉納者特別寄付者 等々の名前が書かれている。階段下から振り帰る。鳥居の先に観光バスが停めれる広い駐車場がある。階段下の右側に廻り込む。樺崎八幡宮 歴史と文化の町 足利 うずらの鳴かぬ里 赤丸の中に「繁村周」本人のサインがあった。あしかがの歴史と文化 再発見! ー 鎌倉殿の義弟 足利義兼の祈り 大日如来坐像 ー 足利市立美術館建造物 樺崎八幡宮本殿桁行二間、梁間二間、両側面は高欄付縁張、銅板葺、江戸時代樺崎八幡宮は、正治元年 (1199) 足利義兼の生入定 (いきにゅうじょう) の地に八幡神を勧請し、義兼の霊を合祀したことに由来する。本殿は天和年間 (1681~1684) の再建といわれ、昭和六十三年度・平成元年度の保存修理で、本来の造りであった隅木入春日造 (軒唐破風) に復元した。この建物は、意匠上においても種々の面で卓抜したものがあり、歴史的由来とあわせて価値の高い建造物である。 (昭和六十一年九月二十四日 足利市指定)※ 足利義兼は、奥州藤原氏征伐の後、建久年間 (1190~1199)、この地に下御堂 (法界寺) を 創建した。義兼は正治元年、当地にて入寂、その子義氏は、法界寺の諸堂宇を整備するとと もに八幡神を勧請した。足利将軍家の衰退とともに法界寺もその庇護するところを失い、現 在では樺崎八幡宮を残すのみである。 平成二年三月 財団法人 足利市民文化財団 足利市教育委員会樺崎八幡宮について(祭 神) 誉田別命 源義兼(祭 日) 4月19日(春祭) 10月19日(例祭) 1月1日(才旦祭) 12月31日(大祓)(由緒沿革) 鎌倉時代の建久年間 (1190~1198) に足利義兼が鑁阿寺を創建し、理真上人に、この地 を寄進して、法界寺 (下御堂) を建立した。義兼自身も晩年はここに住み、正治元年 (11 99) に死去した。その子義氏は、ここに鑁阿寺の奥の院として赤御堂を建てた。これは 義兼公の廟墓で、御影堂でもある。さらに八幡神をも祭った。 八幡宮社殿は八幡山の中腹にあり、本殿床下には「足利義兼公御廟」の墓標が立てられ ている。(文化財) 樺崎八幡宮のスギ (市指定天然記念物) 太さ目通り5m、高さ30m、樹令600年ぐらい。 八幡宮の御神木。階段を上がり本殿へ。樺崎八幡宮本殿文化財指定碑「建造物 樺崎八幡宮本殿」樺崎八幡宮 御祭神 八幡宮大神 足利義兼公 御本殿 足利市重要文化財 足利源氏義兼公入定碑本殿の扁額「八幡宮」樺崎八幡宮三大神徳 一、健康と繁栄の神 一、恵みと守りの神 一、望みと学びの神樺崎八幡宮樺崎八幡宮は、源姓足利氏二代目足利義兼と、その子義氏にゆかりのある神社です。義兼は、この地にあった法界寺で没し、義氏は、父義兼の霊をなぐさめるために、鑁阿寺の奥の院として赤御堂を建てました。併せて八幡宮をも祀りました。現在の御堂は、天和年間 (1681~1684) の再建といわれ平成元年に修復されました。左の地図は、「足利氏ゆかりの社寺めぐり」。本殿の左側に聳える御神木のスギ。高さ30mの御神木を見上げる。天然記念物 樺崎八幡宮のスギ御神木 樹齢約五百年大杉長い年月風雨寒暖の日々を耐え、又、二回に渡る落雷に合いました。大杉に見守られ村々の繁栄を今に伝えております。境内の右奥に建つ「神楽殿」平成三年 (1991) に一新した神楽殿。神楽殿の横に立つ石碑無形文化財 樺崎八幡宮太々神楽石碑には「足利市重要無形文化財指定記念 樺崎八幡宮大々神楽 昭和五十八年五月二十三日樺崎八幡宮大々神楽保存会」小さい碑には「奉納 オリムピック開発株式会社」新しい観光案内板奥の院街道 三十五町鑁阿寺から樺崎八幡宮までの街道案内 北郷観光協会北の郷物語 その六十話「樺崎八幡宮と大々神楽」樺崎八幡宮は、康平六年 (1063)、源義家の勧請と伝えられ、樺崎寺で生入定した源姓足利氏二代義兼が合祀されて以来同氏歴代の廟所となり、鑁阿寺の奥の院に位置付けられました。明治時代の神仏分離で樺崎八幡宮として存続が図られ、その後神社政策により合祀した赤坂宮内の示現神社の神楽殿を移築して伊勢からもたらされたと言う大々神楽十六座を氏子が奉納しました。昭和五十六年 (1981)、神楽保存会が発足、平成三年(1991) に神楽殿を一新しています。大々神楽十六座 ①泰平の舞 ②導きの舞 ③児屋根の舞 ④岩戸の舞 ⑤八幡の舞 ⑥恵比須の舞・火男の舞 ⑦大国の舞 ⑧鹿島の舞 ⑨住吉の舞 ⑩金山の舞 ⑪稲荷の舞・白○の舞 ⑫水神の舞 ⑬山神の舞 ⑭織姫の舞 ⑮榊○の舞 ⑯大蛇退治の舞 (中島太郎 著)右側からの樺崎八幡宮本殿を見る。本殿廻りの塀の外に立札。足利義兼公入定の地義兼公は晩年樺崎寺で念仏三昧の日々を送り、正治元(1199)年三月八日に、当地で生入定したと伝えられます。樺崎八幡宮はその入定地に子の義氏が八幡神を勧請し、義兼の霊を合祀したことに由来します。江戸時代に建てられた現在の本殿の床下には、入定地を示す墓標が立ち、八幡神とともに今もなお厚い信仰を寄せられています。中を覗くと「足利義兼公御廟 西山側」。御神木のスギ太さ目通り5m、高さ30m、樹齢600年ぐらい。赤御堂跡の石段発掘調査では樺崎八幡宮本殿のすぐ北側で、義兼がまつられた赤御堂へ上がるための石段が発見されました。当時は石段の正面にお堂が建てられていたことが推定されます。義兼は赤御堂のかたわらで生入定したとされ、本殿床下には義兼の墓標が立てられています。日本語以外に3か国語でも説明されている。本殿前のカエデの紅葉。本殿の左側 (南側) から。平成元年 (1989) に完成した本殿。本殿をズームアップ。本殿から左側 (南側) へ進む。多宝塔跡の礎石多宝塔跡発掘調査では5.7×5.7mの大きさの礎石建物跡が確認され、14世紀には瓦葺きの建物に改修されていることがわかりました。樺崎寺の多宝塔は、1226年に4代住持になった熱田弁僧都重弘により、その父の供養のため建立されたとされています。供養塔覆屋跡(くようとうおおいやあと)石祠が置かれていたが。山の斜面下に礎石が並ぶ。供養塔覆屋跡山の斜面の岩盤を削りだし、平らにしたところに 3×3 の大きさの礎石建物が建てられていました。お堂の中には義兼の子、義氏の供養塔である五輪塔が置かれていたと伝えられています。絵図の下に、樺崎八幡宮絵図には五輪塔10基が並ぶ足利氏御廟の右手に義氏の五輪塔が描かれています。足利氏御廟跡(あしかがしごびょうあと)足利氏御廟跡発掘調査では南北 20.4m、東西 6.5mの大きさの基壇が確認されました。この基壇の上に五輪塔10基が並べられ、瓦葺の覆屋が建られていたことがわかっています。10基の五輪塔は足利氏歴代の供養塔で、明治の神仏分離令により菅田町の光得寺に移され現在まで大切に守られています。周辺から出土した瓦には「応永二十年」(1413)と書かれたものがあり、鎌倉公方・足利持氏によって先祖の廟所が整備されたと考えられます。下の写真は「御廟に葺かれていた瓦」。礎石建物跡御廟跡北端の下層から出土した建物跡は3×3mの大きさで、周囲は1mの幅で縁が回り、建物の中央奥には石積基壇があります。周辺からは13世紀の瓦が出土しています。足利氏の一族等を供養するための、御廟の前身となる建物跡です。12:30足利氏御廟跡を南側から見る。 ー 続く ー
2023.01.08
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磯山辨財天の参拝を続ける。11月15日(火) 11:10本殿前のステージからのどかな街並みを見下ろす。赤見温泉フィッシングフラワーパークをズームアップ。下山してから訪れたが車では行けなかった。本殿裏にあった「風穴洞」風穴洞からは四季を通して冷風が感じられますと。天気の良い日にじっくりと撮影したいビューポイントであるが下山することに。本殿から下り振り返る。拝殿からの階段は三百~五百段あったか、年配の方も手摺を持ち登ってこられた。下る途中、鐘楼堂を見下ろす。更に下り、拝殿。磯山公園、右側に涌釜神社入口、鳥居。涌釜神社 (わっかまじんじゃ)所在地:栃木県佐野市出流原町2123涌釜神社の鳥居鳥居を潜ると先に神橋がある。この神橋の両脇、そして神社境内に日本名水百選の1つである出流原弁天池がある。鳥居手前の右側には「出流原弁天池」の石柱。鳥居の扁額「涌釜神社」。鳥居の左横に立つ「文部省指定 天然記念物出流原辨天池」の石柱。鳥居左手前に立つ石碑。日本名水百選 出流原弁天池湧水 昭和60年7月22日 環境庁認定 昭和60年12月15日 佐野市長早川吉三建之裏面に、日本の水百選出流原弁天池湧水栃木県指定天然記念物出流原弁天池は昔からその名の通り神の池とも言われ地元住民の命の池とも敬れ、豊富なその水量は、農地の灌漑は勿論、水車の動力源となって貢献し、年間を通して摂氏十六度の水温を保守し、清水となって湧出し、磯山を背景として、山紫水明の仙境となっている。芭蕉の作にちなむ「このあたり目に見ゆるもの皆涼し」とある様に避暑地として、また憩の場として親しまれて来たもので、地下に洞窟の存在する事を暗示している。中国済南の趵突泉と同じく規模は小さいが我が国では唯一のものとされている。昭和十三年に文部省の特別記念物に指定された。・・・・・(後略)神橋からの右方向。出流原辨天池の二番池にもコイが泳いでいた。正面に涌釜神社階段下の広場に石碑が立ち並んでいた。左の石碑には、「辨天池テレビ放映記念碑」と、昭和六十三年六月二十二日午後一時二十五分より・・・・・の時間帯の於てテーマ水風土と題し辨天池・・・磯山公園一帯の風物が広く関東甲信越地区に照会放映された・・・記念すると共に新たに辨天池が我々の生命の源であ・・・・・・(後略)石祠もふたつ。こちらの石碑には、芭蕉翁の句。「このあたり目に見ゆるもの皆涼し」であろうか。涌釜神社社殿への階段。いつもは階段に花が飾られているようだが。涌釜神社拝殿大正2年に旧地より現在地に造営遷宮し、名水百選にも指定されている「弁天池」の辺りに鎮座している。水の神ならびに子守りの神として子連れの参拝者が多い。拝殿の扁額「涌釜神社」。涌釜神社右側にあった石祠。湧釜神社の階段下左側にある境内社「西宮神社」。商売繁盛の神様である恵比須さんが祀られています。西宮神社の左側に石碑がふたつ。右側には「軍事大神」、左側は水垢で確認できなかった。このようになったものを高圧水で洗浄することは・・・・・。石碑が雨に濡れ確認できなかった。磯山公園池の周辺にはベンチもたくさんあるので、ゆっくり眺めていると時間を忘れて癒されること間違いなしだと。だが、我々の旅は先を急ぐので。関東ふれあいの道「関東ふれあいの道」は関東地方の1都6県をめぐる160コース、総延長約1,800kmの長距離自然歩道です。マンサクの花咲くみちこのコースは出流原(いずるはら)弁天池からJR足利駅まで14.0kmあります。北西に進むと、熊野神社を経て雑木林の茂る山道になります。塩坂峠には塩の井戸と称する素掘りの小さな井戸があり、峠道を下ると早春にはマンサクの花が楽しめます。さらに樺崎八幡宮、鑁阿寺(ばんなじ)、足利学校をめぐります。出流原弁天池(いずるはらべんてんいけ)出流原弁天池(県指定天然記念物)は、地下水が古生層石灰岩の亀裂から湧き出してできたもので、国の名水百選に選ばれています。周囲138mの丸い池で、地底は地下洞窟の存在を思わせる地形・地質となっています。また、出流原 (磯山) 弁財天は、藤原秀郷が創建したといわれており、三層楼の舞台造りの弁天堂に祭られています。本殿からは佐野市街を一望できる、風穴洞からは、四季を通じて冷風が感じられます。出流原弁財池の一番池周囲138mの丸い池で、地底は地下洞窟の存在を思わせる地形・地質となっている。カメラを左に振り。左側に小島がある。樹木に覆われた池に湧き出す水は、日量約2,400t、水温は四季を通して16度。池にはコイが泳ぎ、池水は底が見えるほど清澄である。出流原弁財池の小島と古木のサルスベリ。釣り場やボート場にも水がひかれ、憩いの場となっている。一帯は秩父古生層と呼ばれる石灰岩質の地層が発達しており、そこを通る水は、カルシウムを豊かに含むミネラルウォーター。池の廻りの紅葉が進んでおり池とのコラボが良かった。池の小島には石祠が建っていた。もう少し紅葉が進むと青い湖面と赤のカエデとのコラボが最高。右側からの古木のサルスベリも開花時には湖面に映え最高ではと。まちの駅 名水「弁天池」の駅(福寿荘売店)所在地:栃木県佐野市出流原町1264弁天池のほとりにある福寿荘売店はまちの駅にもなっており、池を見ながら食べることが出来るフードメニューや飲み物、お土産などを販売している。店先にあった「磯山弁才天・出流原弁天池」の案内図店内に入ると昭和を感じる品物が所狭しと並べられていた。壁面には訪れた著名人のサイン入りの色紙が飾られていた。その中に「三宅裕司 いもフライ美味しかった! 2022.5.13」と。BS日テレで放送している「ふるさと探訪」で訪れたのか。こちらには、元横綱白鵬関も何度も訪れているようだ。他にも笑福亭鶴瓶、唐沢寿明、篠山輝信も旅番組で訪れたのでは。各種いもフライ、当店はコチラです!と。佐野に行ったら「いもフライ」一本100円とリーズナブルな価格。昼前でオーダーし頂きました。いもフライは、ジャガイモにころもをつけ揚げたもので味噌味で美味しかった!!!味噌おでんもありました。店先には幟が立ち並び。ホテル一乃館所在地:栃木県佐野市出流原町1262ホテルの玄関横に湧水用の蛇口がありペットボトルへ入れることができる。日本名水百選に選ばれている弁天池に隣接した大正9年創業の老舗旅館。アンティークなインテリアや小物が館内各所に展示され、大正ロマンの空間を彩る。三千坪の庭園と栃木名物料理をご堪能くださいと。次へ移動するため駐車場へ戻ることに。道路脇に水車。出流原弁天池一番池から二番池に架かる神橋。三番池からホテル一乃館。出流原辨天池の三番池の前方中腹に磯山辨財天の本殿。磯山辨財天の本殿をズームアップ。赤見温泉フィッシングフラワーパーク所在地:栃木県佐野市出流原町1125日本名水百選として有名な「出流原弁天池」からの湧水を利用した釣り池です。透明度の高い釣り池にはたくさんの虹鱒たちが泳いでいます。子供からご年配の方々まで気軽に釣りが楽しめます。フイッシングフラワーパーク内は、屋根があり雨の日でもご利用いただけます。 営業時間:AM9:00 ~ PM6:00 定 休 日 :火曜日(但し、祝日・春休み・夏休み・冬休み期間中は営業) 料 金 表 :竿代1本 (餌付き) 400円 マス持ち帰り (1匹) 加工代込み 300円この日は火曜日で定休日、どうりで駐車場には車が止まっていなかった。駐車場の壁に紅葉のツタ。駐車場の片隅に大きな石燈籠と観音像ここフィッシングフラワーパークはホテル一乃館が経営しているようだ。右の塔には、「本日は御来館下さいまして有難度う御座居ました。益々の御繫栄とお客様方の 御道中の御安全をお祈り申し上げます。 一乃館 」と。 12:05赤見温泉フィッシングフラワーパーク周辺の田園風景。次の目的地を「樺崎八幡宮」にして、磯山公園を後にした。 ー 続く ー
2023.01.07
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唐沢山城跡の散策後下山し、次の目的地「磯山弁財天」へ向かうことに。カーナビでは距離は7.5km、約15分と。11月15日(火) 10:20唐沢山レストハウス下山する前に近くにある「鏡岩」へ立ち寄ることに。上って来た県道141号線 (唐沢山公園線) を戻り「鏡岩」へ。県道から滑らないように上り「鏡岩」へ。ズームアップ。鏡 岩上杉謙信が唐沢山城をせめたとき西日が反射してせめることが困難であったという物語から名付けられた。 栃木県佐野市 唐沢山鏡岩からの見下ろす。鏡岩を振り返る。かつて上杉謙信が立った場所であろうか。10:32レストハウスから県道115号線 (田沼唐沢山公園線) を下り「唐澤山神社 石鳥居」。唐澤山神社 石鳥居の近くに駐車場があり車を停める。「唐沢山周辺案内図」ハイキングコースの松風の道(首都圏自然歩道)、遊歩道がある。大きな石燈籠と石碑。石碑をズームアップ。碑には「ただれよし天慶の世に・・・・・」。駐車場脇の紅葉。雨上がりのカエデ。県道115号線と国道293号が交差する田沼上町交差点を左折。国道293号を進む、この辺りは佐野市石塚町。10:50磯山公園所在地:栃木県佐野市出流原町1117磯山公園は、JR両毛線・東武佐野線佐野駅の北西約6キロメートルに位置し、園内の出流原弁天池は、県の天然記念物に指定され、また、環境庁の日本名水百選にも選ばれています。古生層石灰岩の割れ目から湧き出す豊かな清水が池を造っており、澄んだ水中を鯉が悠々と泳いでおります。また、磯山の巨岩・奇岩、弁財天や周囲には民間観光施設もあり、四季を通じて大勢の観光客で賑わっています。なお、磯山公園は国有地の無償貸与を受けています。右上の中腹に朱色の社が見えた。出流原辨天池の三番池。イチョウの黄葉も進んでおり水鏡を狙ったが。山の中腹に「磯山辨財天」。湧水池からの川にクレソンが生い茂っていた。クレソンが成長するのは水が綺麗である証拠であると。湧水の三番池に映える紅葉したカエデ。近くに豆腐工場があり幟は「生ゆば」。磯山辨財天入口天上からぶら下がる風車。1⃣ 赤見温泉『磯山弁財天』の古絵図発見、復刻版発行 興味津々「赤見の話題」2⃣ 知らなかった ~ !!『赤見軽便鉄道』 百年前、富田駅(両毛線)から赤見温泉まで鉄道が走っていたなんて!下野國安蘇郡出流原磯山辨財天眞景全図 磯山辨財天観光協会かつての田園風景と神社周辺の絵が描かれている。文字も右側から左へと。赤見温泉フォトコンテスト2021 入賞作品【テーマ】「行きたくなる赤見温泉旅 ~ 秘密にしたい場所を教えてください ~ 」グランプリ (写真左側)準グランプリ (写真右側)弁財天 ヨーグルトアイスクリーム 税込300円 販売元 ホテル一乃館弁財天 名水コーヒー・アイスクリーム 税込350円 販売元 ホテル一乃館手頃でおいしそうだったが。山峰神社の拝殿拝殿越しの後方に磯山辨財天の本殿。拝殿の左側に、磯山地蔵尊山の斜面に大蛇?大蛇の口から水が落ちる。この水は飲料水ではありません。石碑には「○蛇○○」。地蔵の左側に「元禄十三・・・・・」。拝殿をくぐると、左側に佐野七福神の「辨財天」と「風穴洞」があった。風穴洞裂け目に手をかざすが・・・・・。磯山辨財天下の斜面に奉納された石灯籠、塔が建つ。台座に「磯山の大蛇」この大蛇は信者の皆様が辨財天に御祈願なされる度に、辨天様より御指示を受けて皆様の大願成就達成のために活躍する幸福を招く日本一の大蛇です。階段を上り拝殿を見下ろす。階段を上ると右手に「鐘楼堂」があらわれた。鐘楼堂の傍に石碑。満洲事変支那事変 戦没者慰霊碑大東亜戦争 佐野市長 早川吉三書鐘楼堂から更に階段を上り正面に湧水。こちらの水は飲めるようで柄杓が置いてあった。こちらの蛇口も怖い大蛇。石柱には「磯山三峰神社登山道」と。右側の板には「御参拝の皆様へ」と磯山辨財天観光協会から。湧水の右側に「銭あらい弁天」。「銭あらい弁天」のいわれこの銭あらい弁天は北海道蛇文石として、巳己の年に見つけられ二匹の大蛇に抱かれた。タマリ石として作りあげられました。どなた様も鉢の清水で、財布の中の銭を洗い清め同額を浄財として、残りをフトコロに託したへしたならキット思いが叶えられると信じます。 平成元年四月吉日 磯山弁財天本開帳祭典委員会建之 御神体奉納公園荘主尾花英雄殿 建設協賛 永島石灰礦業㈱殿 仝 ㈲ 三矢重機 殿 庭木奉納 奉納者の名前が刻まれていた洞穴の中にタマリ石。湧水前で左側へ折れ階段を上ると本殿がある。階段を上ると磯山弁財天の本殿。この本殿は「釘を使わない工法」が用いられていると。磯山辨財天は、藤原秀郷が創建したといわれており、三層楼の舞台作りの弁天堂に祭られています。本殿からは佐野市街を一望できる。御参拝の皆様へ当磯山辨財天は八本の手を有し頭上に白蛇に巻かれた宇賀神像を拝し、地球上のあらゆる物を司る菩薩様方が十六人の童子になぞられてそれぞれのお支度で一団となり辨財天の御指示をお待ちするかの様なお姿で御厨子に安置されて居り、あらゆるお願い事が可能とされ、特に五穀豊穣、家内安全、商売繁盛の神様として灼(あらた)かです。当地域におきましては蛇は辨天様のお使とされ、昔から大切に保護されてまいりました。良く長い蛇の夢を見ると幸先が良く縁起が良いとされて居り野山に行き突然蛇に出合うと、一瞬怖さを感じますが後で明るい希望や期待に胸さわぎをおぼえたもので御座居ました。辨天様を信仰される皆様、辨天様と共にやさしく皆様をお守りしている白蛇に感謝と労りのお気持でお希望の所を何回かさすって上げて下さい。益々幸運に巡り合れます事と信じます。 合掌 磯山辨財天観光協会本殿に入るとすぐ、白い大蛇が!白蛇に感謝と労りの気持ちを込めて何度かさすれば、幸運に近づけるといわれているそうだが。蛇嫌いの私にとっては。弁財天の由来音楽・弁才・福智・延寿・除災・得勝を司る天。妙音天・美音天・大弁才・功徳天とも称する。もと河川を神格化したもので、我国にては七福神の一。 平成二十五年癸巳四月 磯山弁財天壁には極彩色の木彫りの彫刻の奉納品この磯山弁財天も昔は弁天池の中の小島に祀ってあったものを、現在地に奉安したといわれ、山腹に安置されている弁天様は日本でもここが唯一であると。本殿前のステージ。本殿の扁額は「磯山宮」。佐野の田園風景を見下ろす。天気が良ければよりよかったのだが。11:10本殿ステージから見た、のどかな街並みである。 ー 続く ー
2023.01.06
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唐澤山神社 (本丸跡) から北城方向へ向かった。11月15日(火) 9:50社務所横から下り、東方向へ進む。本丸の東側下にある車井戸。山城にとっては生命線である貴重な水の手である。本丸の東側城壁直下41.8m低いところにあり、東西9.1m・南北23.6mの中に、深さ23.3m・口径1.51mの井戸で、山城での水源確保の執念を思わせる。明治20年3月、地元民による井戸さらいが行われ、全容がわかったが、井戸途中に人の入れる穴があり、土砂汲み出しのときの中継をしたものと思われ、底には北に向かって横穴が掘られ、松坂で覆われていた。その板をはずしたところ、こんこんと清水が湧き出したとのこと。松板は廃城時の仕業と思われる。清冽な清水は奥台所・引局の内厨(台所)御茶の水として使われ、車井戸から樋を渡して引き込んだと思われる。がんがん井戸ともいわれ、龍宮までつづくとも云われていた。井戸の滑車説明板には「車井戸 (くるまいど)」深さ25m余ともいわれ、本丸下に位置していることからも、城内の重要な水源であった。別名「がんがん井戸」ともいう。社務所から車井戸まで下り、再度坂を上る。本丸から東エリアの山頂縄張図この道は本丸の北側から二の丸への道。長門丸・引曲輪の間の虎口本丸の搦め手にあたる東側の・・・・・二の丸への道、左上は本丸。長門丸弓削長門が直番したとされますが、お花畑ともいいます。南面を除き土塁が巡り、東側に堀切が認められます。正面に弓道の練習場があった。ズームアップ。← お花畑 東・北・西には土塁をめぐらしてあり、東側には堀、西側には井戸に通ずる堀底道と思わ れるものがあります。城に於て使用される薬草等を作った事からお花畑と呼ばれています。金の丸 → 宝蔵のあった所から金の丸と呼ばれています。東・西南には堀、東側には土塁が現在も残 っています。東側堀は、昭和38年青年の家建設の際埋められました。 環境省・栃木県 長門丸の東側階段の上に「金の丸」。平城ともいい、お宝蔵があったとされます。現在、金の丸ロッジとして利用されていますが、土塁等も残ります。長門丸から坂を下り左上に「金の丸」。小雨の中「北城」方向へ進む。杉曲輪から見た平城杉曲輪は本丸の東側に連なる曲輪の一つで、かつては御仏殿があったとされる。曲輪の東側には土塁や虎口 (出入口) が残り、また、東隣の平とや丸 (北の丸) や西隣の平城 (宝蔵曲輪) とはそれぞれ堀切で区切られている。杉曲輪 (すぎくるわ)北側に一部で開口する土塁が残っている。道路脇に道案内「関東ふれあいの道 京路戸峠 (きょうろどとうげ)」。二重 (にじゅう) の堀切関東ふれあいの道 京路戸峠 2.6km 唐沢山神社 0.3km二重の堀切東へ続く尾根には堀切で断ち切った曲輪が連なり、途中には二重堀切もあるが、この部分は堀切部分が破壊され竪堀になった部分しか残っていない。二重の堀切平とや丸 (北の丸) の北東側に連続して備えられた二重の堀切で、北や南の急斜面にまで延びて竪堀状に落ちている。本丸を中心とする城郭の主郭部と、北東に位置する鳩の峰方面を大きく分断している。南方向の堀切。ここ二重の堀切から社務所方向へ引返すことに。来た道の上に上がり、北城?。何か施設があったのかベンチが並んでいた。社務所へ向かい振り返る。天気が良ければ綺麗であっただろう。谷底に連なる堀切。杉曲輪以前ここにあった唐沢青年自然の家は平成19年3月に閉館し、現在は整地されている。杉曲輪の出口金の丸(平城或いは甲城)東西21.8m、南北30.9m、長門丸より1.8m低い。南東側金の窪といい、堀切がありその下捨郭三段。ここは御宝蔵があったところとされている。石垣の高さ1.8m、現在は金の丸ロッジが建っている。杉曲輪との間堀切9.1m、深さ5.5mの堀切があったが埋められた。現在は金の丸ロッジとして「唐沢子供会」の教育の場となっている。直進すると本丸の北側から二の丸へとつづく道。ここを左斜め方向へ進み坂を下る。坂を下ると「車井戸」。10:00小雨の降る中急ぎ足で唐沢山城跡の東側を散策し、唐澤山神社下の手水舎へ戻る。本丸から西エリアの山頂縄張図社務所前から大手道の階段を下る。大手道の参道には、奉納の幟が立ち並んでいた。その中に歌手の「舟木一夫」の名が。何故このような所にあるのかと・・・。大手道の参道脇に「唐澤山神社由緒」。唐澤山神社由緒祭神 藤原秀郷公 (田原藤太秀郷) 神階 贈正二位 元別格官弊社秀郷公は天児屋根命二十二・・・・・以降字が判読できず。さくらの馬場四っ目堀から山の中腹を一つ目堀間でぬける1.8m幅の山道で、馬の調教に使ったとされている。今の神社参拝のメインロードである。途中三つ目堀切には橋が架かり、馬場橋と呼ばれ、二つ目堀には曳橋が架けられていた。この道は一つ目堀に繋がって、堀底から大きく迂回して車井戸のある奥御台所への通路になっていた。さくらの馬場昔 武士が馬を訓練した所で、さくらが多いところからこの名がある。 唐澤山神社大手道に立ち並ぶ「奉納 幟」。こちらにも舟木一夫の幟。大手道 (おおてみち)くい違い虎口(出入口)から続く神社の参道が、かつての大手道にあたると考えられる。この道筋は、手前の三つ目堀を過ぎて、奥の二つ目堀の直前で左手へ鋭角に折れて急な坂道となり、二の丸の虎口に至る。桜の馬場には芭蕉の句碑が立っていた。大手道を振り返る。大手道を下り神橋。神橋を渡り右折して「避来矢廟」へ向かう。避来矢(ひらいし)山北側を除き概ね3段の平坦地が連なり、頂上に避来矢山霊廟があります。周辺に武具土蔵があったとされます。避来矢山(権現山丸・元天徳山)頂上の東西25.5m、南北32.8mの削平地に、始め露垂根大明神、盛綱築城後避来矢権現を祀る。この山は二段の腰曲輪が周囲を取り巻いて、そこに武具庫・米蔵(兵糧倉)・組屋敷などがあった。越後勢の攻撃で焼け落ち、焦げ米が出土した。社の前にはテントが張られこの日は何か祭典があったのか。避来矢山霊廟唐澤山神社の創建以来、功績のあった方々をお祀りしています。秀郷公が百足を退治した時に、龍神様より贈られた鎧 (避来矢の鎧) の銘に由来している。避来矢山テントの下に太鼓避来矢山から下り、大炊の井10:15駐車場のあるレストハウス(蔵屋敷)レストハウス周辺は蔵屋敷と呼ばれています。旧来は南側に向かってなだらかに傾斜していたようです。中でのんびりしたかったが先を急ぐので早々に車に乗り下山することに。次の目的地は近くにある「磯山弁財天」へ向かうことに。 ー 続く ー
2023.01.05
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雨上がりの唐沢山城跡を散策。11月15日(火) 9:25神橋が架かる「四つ目堀 (よつめぼり)」西城域と帯曲輪以東とを大きく分断する堀切。かつては曳橋で、いざという時には、橋を引き払って通行を遮断することができた。神橋を渡ると左上にある「和合稲荷神社」鳥居には「令和 稲荷神社」石祠をズームアップ。和合稲荷神社穀物・食物の神様ここを左上に登り「帯曲輪 (三の丸)」へ。唐澤山神社創建壱百年敬神婦人会創立二十周年 記念 昭和五十八年十月二十五日 唐澤山神社敬神婦人会三の丸への途中にあった堀切。三の丸の広場にあった休憩所、展望台。天気が良ければ眺望が良かったのであろうが。三の丸の広場の隅にモニュメント。モニュメントの台座には「佐野人形協会」と。この人形供養塔は、昭和六十一年より佐野節句品製作組合の事業として9年間実施された「佐野人形まつり」において皆様より供養のご芳志としていただいた浄財にて建立いたしました。阪神淡路大震災に寄せて一度は、中止といたしました人形供養事業ですが、平成十六年よりこの唐沢山神社の地で佐野人形協会主催の「佐野人形感謝祭」と名称を変更し実施しております。かねてよりの懸案でありました供養塔建立につきまして、唐沢山神社様のご厚意により、お許しをいただきましたので、佐野在住の陶芸家和田真紀氏に制作を依頼、ここに除幕式を迎えました。 平成二十年九月二十七日 佐野人形協会三の丸から進み二の丸の高石垣二の丸へは「全面通行止」の看板。お知らせ11月14日から11月30日まで史跡唐沢山城跡石垣積直し工事の為、二之丸での作業となります。この先、全面通行止となりますので皆様のご協力の程、よろしくお願いします。二の丸へ行けないので仕方がなく高石垣の下を社務所へ進む。右下に神橋からの参道(大手道)がある。高石垣の下に石碑があり文字が刻まれていたが判読できず。句碑であろうか。振り返り右側は、本丸、二の丸の高石垣。関東地方の城では珍しく高さ8mを超える高石垣である。唐澤山神社社務所続日本100名城のスタンプはここ社務所で頂ける。受付時間は、9:00 ~ 17:00 であるので時間内に社務所へ。唐澤山神社のご朱印も頂ける。今回の旅の目的でもあるのでまずスタンプを頂く。No.114 唐沢山城お城のシンボルである高石垣がデザインに採用されているようだ。日本100名城から数えて、145番目の捺印である。社務所の南にある「南城館」。本丸南の外城にあたる「南城曲輪」に南城館が建つ。明治二十七年に当時皇太子であった大正天皇が行啓されたとのこと。ここからの眺望もいいのだがこの日はあいにく雲の中。南城館の右側から廻り込む。南城跡に置かれた石庭。木柱には万葉集万葉集 東歌(下野二首の一首)下毛野美可母(みかも)の山の小楢のす ま妙(ぐは)し児ろは誰(た)が笥(け)か持たむ南城跡について本丸より南方向にある所から南城と呼ばれる。城はいくつかの曲輪(一定の地域を限り、その周囲と区別する為に設けた囲い)により構成されています。その呼び名には一般的に人名、方向等によって呼ばれることが多い。この南城跡は南北18メートル東西36メートルあり、周囲は石垣をめぐらし東側には堀を設けてあります。天気のよい時には、ここから東京の高層ビルが眺められます。 環境省・栃木県南城館前から唐澤山神社への階段を見る。右前方に社務所。唐澤山神社への階段右側に建つ「南城館碑」。階段下に手水舎。右側は高石垣下の道。唐澤山神社当神社は御祭神藤原秀郷公の流れをくむ佐野氏により戦国時代初期に築城された本丸跡に建てられています。公は「むかで退治」の伝説や「天慶の乱」の鎮定等から武勇に優れていたことが知られています。また、この乱の鎮定の功により鎮守府将軍に任ぜられました。その後700年の間、多少の変遷はありましたが、江戸時代初期に廃城となりました。明治16(1883)年、佐野氏の一族旧臣等が公の遺徳を偲び唐澤山神社を建てました。唐澤山神社、本丸への階段。階段を上ると大きな獣燈台座には「東京綿糸商」と。苔むした古い石碑があったが。南局跡(みなみつぼねあと)古地図によっては「二ノ丸」とも記されている場所で、かつては奥女中の詰所であったともいう。更に階段を上る。紅葉には少し早かったようだ。階段下右側に立つ立札明治十六年御鎮座御祭神贈正仁位 藤原秀郷公元別格官幣社 唐澤山神社 例祭 春 四月二十五日 秋 十月二十五日階段の上に山門山門の扁額「唐澤山神社」山門を潜ると正面に拝殿拝殿前の狛犬(右側)左側の狛犬拝殿越しに本殿を望む。本丸跡現在は藤原秀郷公を祀る唐澤山神社の社殿が所在するこの場所には、かつては奥御殿が建ち、西側が大手虎口であった。本丸の高石垣を修復中。大手となる出入口は西側で、搦め手口は北東になります。周囲に石塁のような石垣が巡ります。本丸の南西下に高さ8mを超える見事な高石垣がただずみます。社殿左側にあるこの建物は。二の丸への石鳥居。この先は通行止めになっている。二の丸にある神楽殿を見下ろす。周囲には石塁のような石垣が巡り、奥御殿直番の詰所があったとされている。現在本丸への通路は直線的なアプローチになっているが、かつては鉤の手に折れていたようだ。拝殿の右側から廻り込む。本殿をズームアップ。色づき始めたカエデをズームアップ。社殿前から山門を見る。南の南城跡方向を見下ろす。9:45社務所前には傘をさした多くの人が参拝していた。 ー 続く ー
2023.01.02
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露垂根神社から県道141号線(唐沢山公園線)の山道を登る。11月15日(火) 9:05唐沢山レストハウス所在地:栃木県佐野市富士町1409雨も小雨になりどうにか傘なしで動く。秋には松茸料理が食べれるとの書き込みがあったが。駐車場脇にトイレ唐沢山レストハウスの裏側に下り、赤い幟が立ち朱の鳥居。幟には「奉納 足尾山神社」と。小高い所に社右手前には浄財のBOX足と腰の神様 足尾山神社御祭神 猿田毘古神 於母陀流神 国常主命駐車場に戻り、駐車場脇に立っていた案内板。立札には「くい違い虎口」、丸い銅板?には「ふるさと佐野100選」。ふるさと佐野100選「唐沢山」藤原秀郷一千年の昔の山城跡で、全山赤松におおわれている。山頂には唐沢山神社があり、春は桜・つつじ・新緑、夏には納涼・ぶどう狩り、秋は松茸狩り、冬は雪景色といつきても自然と味覚が楽しめる展望が良く、晴れた日は副都心新宿の高層ビル群が眺望できる。くい違い虎口北の避来矢権現山と南の天狗岩に挟まれた虎口(出入口)で、城郭主要部への大手口にあたる。石垣をくい違いにして城門を築き、敵軍が直線的に進入できないような工夫がされている。史蹟「唐沢山城」沿革唐沢山城は、佐野市の北、高さ二四〇メートルの山全体をいい、往時の広さ五五〇町歩と云われ、周囲を急崖にかこまれ、眺望は、関東平野を一望に、遠く北より日光連山、西に群馬連山、秩父、南アルプス、秀峰冨士、東に筑波と、まことに自然の要塞である。当社御祭神 秀郷公により一千年前の延長年間築城とされ、公はこの城を中心に、天慶の乱を鎮定し大功をたてられ、その功により鎮守府将軍として、関東はもとより奥州方面にまで威勢を張られた。その後七〇〇年間多少の変遷はあったが、公の子孫佐野家代々の居城として十六世紀中ごろに現在の形を整えたとされている。関東七名城の一つに数えられ、中世山城の典型としての旧態をよく今に残し、代々の変遷の跡も見られ近世初期にまで下る整備の跡もうかがわれる。江戸初期、山城禁止令により、佐野市の城山公園の地に城換となって、唐沢山城の歴史が終わるが、明治になり唐沢山神社が建てられると全山境内地となり、県立自然公園にも指定され、四季おりおりの風景の中に、秀郷公以来の歴史が偲ばれる。一日 一日祭三日 文化の日祭十五日 避来矢山霊廟大祭二十三日 新穀感謝祭二十五日 月次祭 唐沢山神社駐車場の横に立つ二つの石碑。「唐沢山県立自然公園」「国指定史跡 唐沢山城跡」石垣造りの「くい違い虎口」奥に「唐沢山城・唐澤山神社・社務所 入口」の案内板。くい違い虎口を振り返る。くい違い虎口敵が直進できないように、鍵の手に折れて「くい違い」に造られている。さらに内側は「ます形」となる。くい違い虎口を入ると右奥に「天狗岩」。天狗岩「大検山(だいけんざん)」とも例えられる岩山で、頂上からの良好な眺望を活かし、広く周囲を見張る役割を果たしていたと考えられる。天狗岩へ上るが残念ながら雨上がりで霧が立ち込める。左側:南 富士山、南アルプス、右側:西 浅間山、赤城山 が眺望できる。南方向も霧の中。天狗岩に石祠。石祠の台座に文字が刻まれていたが判読できず。参道に下り、旅友は案内板の撮影に夢中。この辺りは「武者詰 (升形)」。唐沢山案内図上空からの精密な3次元測量によって出来上がった唐沢山城跡中央部の「地形起伏図」です。これを見ると、拠点としての堅固な城を築くため、山の広範囲にわたって尾根筋を削平し、堀や土塁(土手)などを設けていたことがわかります。本丸周辺には、安土桃山時代の貴重な高石垣が今日まで残り、唐沢山城跡のシンボル的存在といえますが、194haにも及ぶ広大な史跡の中には、いたる所に敵からの攻撃を防いだ城造りの跡が残っています。この図には、城跡のおもだったところに説明を加えてありますが、それ以外のところもよく見てみると、曲輪などの平坦面や堀跡、古い道筋などを各所に見つけることができると思います。ぜひ、新たな発見を楽しんでください。なお、山内は危険な場所があります。貴重な植生にも悪影響を及ぼしますので、参道や遊歩道からはずれないで下さい。MAPをネットから。各所をQRコードから見れると。参道入口に「奉賛箱」御来山の皆様へお願い本日は参拝に又唐沢山城跡見学にお越しを頂きありがとうございます。唐沢山神社ではお越しいただいた皆様に、心地よくお過ごしいただけるよう日々山内の清掃や美化に心がけておりますが多大な経費を要します。つきましては皆様にご支援を頂きたくおひとり様 二〇〇円以上のご奉賛を賜りますれば幸いです。皆様のご協力により更なる整備を進めたくよろしくお願い申し上げます。 唐澤山神社唐澤山神社への参道に鳥居。鳥居手前左側の紅葉。紅葉には少し早かったようだが。大炊の井築城のさい厳島大明神に祈請をしその霊夢により掘ると水がこんこんと湧き出たとの事である深さ九米、直径八米あり今日まで水がかれたことがない。 唐澤山神社貼り紙には「種々の器具が入っていますが 水質浄化 実験中です」大炊の井を見下ろす。芭蕉の句碑。「城跡や古井の清水先問む」青々とした井戸説明板では「大炊の井」と「大井」。また、大きさも「深さ九米、直径八米」と「直径9m、深さ8m」とあったが。大井 (おおい)直径9m、深さ8m以上の大きな井戸で、現在まで涸れずに豊かな水をたたえている。明治期の井戸浚いの際に、底部に八角形の松材の木枠が3段積まれていることや、中央がさらに掘り込まれていることが確認されている。井戸の奥に「龍神宮」の鳥居。鳥居の奥には真新しい社八大龍王神縁起唐澤山御祭神であらせられます藤原秀郷公が、京に架かる瀬田の大橋を渡る時、橋の中央に息も絶え絶えの大蛇が横たわり、都の人々は恐れ慄き只遠巻きに見ているだけでしたが、公は何事もないように大蛇を跨ぎ橋を渡り終えました。それを見ていた従者が此の人こそ真の勇者と公を呼び止め助けを乞いました。大蛇は百足の毒にやられた龍神様の化身でした。ぜひ敵を討って欲しいと公を龍宮城へと招きました。夜になると黒き山が動き多くの松明をかざしてこちらに向かってくるのが見え、よく見ると大きな邪悪な目がらんらんと輝き、龍宮城へと襲いかかって来たのは大百足の化け物でした。公は弓矢の名手でしたので三本の鏑矢をとり、一の矢を番え敵の眉間の中央に的を絞り放ちましたが、矢はカチンと跳ね帰りました。急いで二の矢を撃ちましたが同じように跳ね返されてしまいました。公は最後の三本目の矢を「神よ、御照覧あれ」と矢じりにつばきを塗り全く同じ場所を狙い放ったところ、矢は眉間より奥深く射貫きムカデはどうと崩れ落ち息絶えました。これ以降龍神様は公の傍らに仕え数々の瑞象を表し今日に至り唐澤山に鎮座まします。龍神様は家族で行動する処から、家族思いであり、家族愛に溢れ、敬愛と恋人同士の深い愛の成就の神です。また登竜門と言われるように入学・入社はもとより出世をかなえます。秀郷公の弓矢の名人の誉れから狙った的は外さないことから本命の恋人の心を射たり、将来の夢と希望を當的出来る神様であります。ここ龍神様と秀郷公の鎮座される本殿にお参りされ、二柱の神様のお力を得て素晴らしい日々をお過ごしください。参道を進む。神 橋あさみどり 澄みわたりたる 大空の 広きをおのが 心ともがな 明治天皇御製」立札に「神橋」かつては曳橋であったとされ、いざという時に橋を引き払い通行を遮断したと伝えられています。大正十五年皇太子殿下(昭和天皇)ご成婚記念として地元の高齢者より寄与されました。下には右に行くと「癒しの音色 水琴窟」。西城天徳寺丸ともいい、涼やかな音色の水琴窟を楽しめる。植込みに「水琴窟 天慶夢 すがすがしい音色をお楽しみ下さい 唐澤山神社」と。雨に濡れたツワブキ旅友が竹の筒に耳をつけ音色を聴いていたが。水は小石の上に流してください。柄杓で水を流すとしばらくすると竹の筒から「コロンコロン」と響き渡った。引き橋がかかる四つ目堀城の山頂部を東西に大きく分断する四ツ目堀は重要な防衛地点であり、かつては曳橋(ひきばし)がかけられていたとされる。いざという時には橋を引き払い、城の中心部への敵の侵入を防いだと考えられる。南方に堀切が続く。唐沢山城跡案内図石垣保存工事の為二の丸は12月まで立入禁止になります9:25ピンボケのネコちゃん ー 続く ー
2023.01.01
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沖縄シリーズ等のアップで発表が遅れました。沖縄旅行の後、紅葉の時期になり旅友と1泊2日の栃木、群馬県下の続日本100名城巡りを計画した。併せて、両県下の寺社史跡巡りを行ったブログです。11月15日(火) 7:30雨が降る中、旅ともに我が家へ来ていただき、いつものように6時半に出発。圏央道を走り鶴ヶ島JCTを東北道方面へ進む。カーナビの案内は、圏央道、東北道を走り所要時間は2時間17分、157kmと。7:50雨の圏央道を走り埼玉県白岡市へ入る。道路標識は、宇都宮まで70分、佐野藤岡まで35分と。愛車のジュークも12年前に購入しており、カーナビはこの辺りの高速道路は空中線。今では、圏央道も、東北自動車道、常磐自動車道、東関東自動車道とつながっている。久喜白岡JCTで、東北自動車道へ進む。8:15東北自動車道羽生パーキングエリア小雨が降る中1時間半走りトイレ休憩で立ち寄る。利根川に架かる利根川橋を渡る。天気予報では徐々に良くなるとのことであったが。カーナビが案内するのは、佐野サービスエリアのスマート出口。佐野SAまで4km。山には雲がたちこめる。佐野SAまで2km、ETC出口の案内。8:40佐野SAまで2km、ETC出口。圏央道の車の量が多く茅ヶ崎西ICから約150kmを2時間で到着。佐野SAから県道67号線を西へ向かう。この先の交差点を右折の案内。佐野市伊勢山歩道橋伊勢山町交差点を右折、県道75、270号線(栃木佐野)を北上。JR両毛線の跨線橋を越え更に北上。突き当りを左折して、県道141号線を佐野市街、唐沢山方面へ。道路標識に「唐沢山県立自然公園」の案内。この先を右折。県道270、141号線に「例幣使街道」の標示。例幣使街道(れいへいしかいどう)京都から日光東照宮へ幣帛(へいはく)を奉納する勅使が通った道。元和3年(1617)、徳川家康の霊柩が日光山に改葬されたが、その後正保3年(1646)からは、毎年京都の朝廷から日光東照宮への幣帛を奉納する勅使(例幣使という)がつかわされた。その勅使が通る道を例幣使街道と呼んだ。 例幣使は京都から中山道を下り、倉賀野(現高崎市)から太田、佐野、富田、栃木、合戦場(かっせんば)、金崎を通り日光西街道と合わさる楡木(にれぎ)を経て日光に至ったと。車は、犬伏町交差点を右折して県道141号線(唐沢山公園線)を北上。県道141号線(唐沢山公園線)を進み、突き当り正面に鳥居が見えた。8:45露垂根神社 (つゆしねじんじゃ)所在地:栃木県佐野市富士町1007唐沢山の登山口に鎮座している神社で、藤原秀郷が厳島神社を勧請して、この社を建立したと伝えられている。入口に石鳥居が二つ建ち、左側に唐沢山登山口の石鳥居。唐沢山登山口の石鳥居を潜ると左側にポケットパーク(駐車場・トイレ)があり車を停めて参拝。唐沢山県立自然公園唐沢山県立自然公園は、唐沢山を中心とした自然公園です。断崖と深い谷に囲まれた唐沢山は、関東の七名城の一つとして有名な藤原秀郷の居城跡で、今も当時の面影を残す遺跡や伝説が数多く残されています。また、周囲が平地であるため眺望が良く、サクラやツツジの名所でもあります。公園を利用するときは自然環境を壊さないように注意しましょう。環境を変える行為をする場合は、栃木市または佐野市の許可や届出が必要です。直進「県道 唐沢山」と、左は「ハイキングコース」の案内。唐沢山登山口の石鳥居。正面奥に「上富士町公民館」。鳥居下の石碑には「○○○○ 唐沢山神社」と。県道の右側に、露垂根神社入口。右側に廻り込み。富士町の鎮守様であると。鳥居の前に立つ社号標石には「露垂根神社」と。石鳥居の扁額「露垂根神社」。鳥居の左前に立つ石碑には「石鳥居○○○」と刻まれていた。鳥居を潜り参道を登る。参道の両側に杉の並木。石段を上り玉垣前の右側に狛犬左側の狛犬台座には奉納者の名前が刻まれていた。眼を大きく見開き双方阿の古い狛犬であると。右側に、手水舎、奥に神楽殿。瓦葺屋根の拝殿拝殿の彩色付き彫刻。本殿にもあったようだが。露垂根神社由緒 (明神様)主祭神 市杵島姫命配 神 天照大神・素戔嗚尊例 祭 四月第三日曜日旧社格 村 社【由緒沿革】 天慶五年(942)藤原秀郷唐沢山城築城に際し大炊の井の守り神として、安芸国厳島大明神を 唐沢山上に勧請。 以後代々城主が崇敬し数度再建修復がされた。大永年間に笠松山中腹に奉移し、数度の修復 再建を経て慶長元年(1596)城主佐野信吉の時現在の地に遷座した。唐沢山城破却後も多く の尊崇を集め、寛永十二年(1635)徳川家光の折この地方を収めた井伊直孝が再建立した。 寛保三年(1743)氏子一同で拝殿を建立し露垂根大明神として崇拝した。 明治の神仏分離令により明治五年露垂根神社と改称し村社に加えられた。明治四十一年氏子 一同で茅葺屋根の拝殿を瓦葺に改修し、大正八年指定村社に列せられる。平成元年四月御大 典記念として上富士町・下富士町氏子一同の奉賛により整備事業を行う。本殿の東・北・西 の三壁に大変珍しい「竹林の七賢」の彫り物がある。【竹林の七賢について】 中国晋の時代に、洛陽の竹林に集まった七人の隠者。名前は、阮籍(げんせき)・嵆康(けい こう)・山濤(さんとう)・向秀(こうしゅう)・劉伶(りゅうれい)・阮咸(げんかん)・王戎(お おじゅう)の七賢人で彼等は俗世間を離れ、心の赴くままに酒を飲み、詩を作り、老子・荘 子の思想に浸って清談するという日々を送ったといわれる。彼らの俗性から超越した言動 は、悪意と偽善に満ちた社会に対する慷慨(憤り)と、その意図の韜晦(人々の目をくらます 事)であり、当時の知識人の精一杯で命がけの批判表明と賞される。 露垂根神社満開のサザンカも散り始めていた。拝殿前から、神楽殿、手水舎。神楽殿では、春の例祭に五穀豊穣を祈念して、能舞「羽衣」が奉納されると。社殿の左側に石祠が並ぶ。地元の氏子さんたちの手で整備されていた。銅板葺きの末社。白壁のこの建物は施錠されていたが?苔むした石垣の上には石祠、石碑が並ぶ。軒下には「藤原家の家紋」。中央の石碑には「明治三十七 八年戦没紀念碑 元帥公爵大山巌書」前には小さな石碑が二つ、片方には「記念碑」と刻まれていた。摂社の「四十九膳神社」。駐車場がある境内の左側から。露垂根神社 (つゆしねじんじゃ)天慶五(942)年、藤原秀郷公が安芸国厳島大明神を唐沢山に勧請。大永時に笠松山の中腹に奉移し、慶長時に現在の所に遷座された。明治五年、露垂根大明神を露垂根神社と改称し、村社に加えられた。大正八年、神饌幣帛料指定村社となった。本殿の東・北・西の三壁に「竹林の七賢」の彫刻がある。主祭神 市杵島姫命配 神 天照皇大神 素戔嗚尊 富士町会 石碑には「露垂根神社玉垣等建設御寄付者」金二十五万円から 平成〇〇年十月境内から下りると右側に「上富士町公民館」。雨が小雨になりどうにか参拝を終了、駐車場から露垂根神社を見上げる。8:55唐沢山登山口にたつ「唐沢山県立自然公園ハイキングコース案内」山頂まで 1.5km。いろいろとコースがあるようだ。 ー 続く ー
2022.12.31
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具志川グスクの悲惨な集団自決の地を訪れた後は「浜千鳥の歌碑」へ。 9月28日(水) 11:10具志川グスクから県道37号線を戻り、県道8号線と合流する金武湾港入口交差点手前を右折。道路標識に従って具志川ビーチを進むが迷いながらどうにか到着。浜千鳥の歌碑所在地:沖縄県うるま市赤野58途中ガタガタ道を走り駐車場は砂利のあるスペースに3台ほど停めれる。トイレや水場の設備もないので、用は済ませておくといいでしょうとネットから。奥に見えるのが「赤野漁港」。浜千鳥の歌碑は、首里王府で汚職事件に巻き込まれた役人の伊波里主が、都を追われて具志川赤野の浜に身を隠し、首里に残した親を偲びながら詠んだ歌だと云われている。岩に刻まれた歌碑には、「旅や浜宿り 草の葉と枕 寝ても忘らゝぬ 我親のおそは」と【旅に出て浜辺に宿り、草の葉を枕にして仮寝をしていると、思い出されるのは父母と一緒に 暮らした故郷のことである。】と。伊波里主が詠んだ琉歌に、民衆が歌詞とメロディを付け加え「浜千鳥節」として歌い継がれてきたといいます。1887年(明治20年)に琉球舞踊家の玉城盛重が、村芝居の演目として女性四人組の踊りに創作して演じ、評判をとったことで、琉球舞踊の定番に「浜千鳥」があり、歌詞の一番目に、この琉歌が謡われているそうです。引き潮で岩も現れ絶好の釣りポイントでは。浜千鳥の歌碑に関連する説明板はなく数分の滞在で後にする。次の目的地は今日の第一目標地「続日本100名城 勝連城」。勝連城は浜千鳥の石碑から南に約6キロ先に位置しており、平成27年(2015) 依頼7年振りの登城である。11:18県道16号線(勝連城跡ロード)を南下、前方の丘陵地に勝連城の城壁が現れる。城は勝連半島の南の付け根部にある標高60mから100mの丘陵に位置している。県道16号線(勝連城跡ロード)を南下。11:30県道16号線(勝連城跡ロード)の左側に、勝連城跡 あまわりパーク所在地:沖縄県うるま市勝連南風原3807-2前回登城した時(2015年)にはこの建物はなかったので新設されたようだ。 あまわりパークの駐車場へ車を停める。続日本100名城のスタンプをもらいに勝連城休憩所へ。観光案内所内にあった、うるま市特産品の店「うるま~る」を訪ねた。続日本100名城のスタンプはここで頂く。スタンプ捺印時間は、9:00 ~ 18:00続日本100名城のスタンプ「200 勝連城」、これでようやく44城目である。観光案内所の中に貼られていた「うるま市観光マップ」。勝連城跡 あまわりパーク 施設案内※ 勝連城跡及び常設展の入場には、料金がかかります。チケットは、歴史・文化施設 でお求めいただけます。観光案内所で7年ぶりに合ったおばあ。早速再会を喜び記念写真。おばあは7年前と風貌は変わらないが。うるま市のおばあ 東江(あがりえ)ツルさんうるま市伊計島で開催された「イチハナリアート」で生まれた おばあ です!!おばあも大事なスタッフなのでたたいたり、ゆらしたりしないで下さいね!!!いじわるしたら、夢に出てくるかもしれませんよ。 実は、ツルおばあ、3人いるんです。どこかで会えるかも!!実在するモデルはいません。横顔を、7年前のおばあはマスクをつけていなかった!売店の二代目おばあ?しばしおばあと会話をしここでお土産を購入した。おばあに推奨され辛いが美味しいと言われた「島ネロ」を土産に購入。また、今夜の夕食用に2個も購入した。昼時でアイスも欲しかったが、「うるまのクグロフ ヌチマース(塩)ミニ」を食した。歴史・文化施設勝連城跡 あまわりパークの案内図勝連城跡配置東の曲輪を発掘調査中だと。勝連城跡(常設展示室を含む)料金表2021年10月より世界遺産と関連施設の維持管理の為、入場を有料化したとのこと。《営業時間》9:00 ~ 18:00 ※入館は閉館30分前まで《休 業 日 》年中無休《料 金》大人(高校生以上)個人600円 団体(20人以上)480円 小人(中学生以下)個人400円 団体(20人以上)320円 ※ 勝連城跡・常設展含む ※ 6歳未満無料 ※ うるま市内の小中学生は全額免除となります。① 勝連城跡 15世紀、海外貿易により勝連に繁栄をもたらした阿麻和利が居城したとして有名 な勝連グスク。 2000年にユネスコの世界遺産に登録されました。 頂上に登ると太平洋の輝く青い海が一望できる沖縄有数の景勝地です。② 歴史・文化施設 勝連城跡を中心とする、うるま市の歴史や文化について、楽しみながら学び、体 験することができる展示施設です。 勝連城跡からの出土品などの展示や、演者が躍動しながら解説するパフォーマン スガイドで勝連城跡を知ることができます。③ 観光案内所 うるま市の観光スポットやグルメ、観光体験メニューなど、沢山のうるま市の魅 力を紹介しています。 雄大な自然とともに、歴史や伝統文化を堪能できるうるま市を楽しんで下さい。④ 城入口 ⑤ ユビタ池 ⑥ 飲食・物販エリア ⑦ 公園エリア勝連城跡 あまわりパーク勝連城跡は、沖縄本島中部の勝連半島の根元に位置する標高約98mの小高い琉球石灰岩丘陵上に築かれたグスク(城)です。12世紀から13世紀にかけて築城されたと考えられ、琉球石灰岩の切石で築かれた城壁には、琉球のグスク特有の曲線の美しさを見ることができます。城壁で区切られた空間は曲輪(くるわ)と呼ばれ、勝連グスクは五つの曲輪からなり、最も高い一の曲輪から階段状に低くなり再び東の曲輪で高くなる姿を、昔の人々は巨大な進貢船に例えました。海外との貿易により栄えたと伝わり、第10代目城主であった阿麻和利(あまわり)は、琉球国王をも脅かす勢力を持っていたといわれています。ーの曲輪からは、北は遙か金武湾を囲む北部の山々や太平洋に浮かぶ離島が見え、南は知念半島や中城湾を臨み、湾を隔てた先には阿麻和利の政敵であった護佐丸の居城、中城グスクを見ることができます。1458年、王府に反旗を翻した阿麻和利は首里へと攻め入りましたが敗北してしまい、勝連グスクは阿麻和利とともに歴史の幕を降ろしました。EVカー乗り場 <実証実験中>行先:勝連城跡四ノ曲輪まで顔出しパネル阿麻和利(Lord Amawari)と百度踏揚(Queen Momoto Fumiagari)。阿麻和利は、15世紀の琉球王国において、勝連半島を勢力下に置いていた按司である。北谷間切屋良村出身。幼名は加那。勝連城主。百度踏揚は勝連城主・阿麻和利の妻。ちょうどEVカーが来る、将来はこれも有料乗車になる予定とのこと。スタンプをもらい次の目的地へ移動、県道16号線(勝連城跡ロード)の勝連城跡案内。折角来たので道路脇に車を停め、勝連城の入口へ。あまわりパークの駐車場がある県道16号線(勝連城跡ロード)の北方向を振り返る。勝連城入口この先は今年から有料になったと。三の曲輪の高石垣をズームアップ。「世界遺産 勝連城跡」碑。この後のスケージュールがあるので城内散策はスルーした。よって、ここからの写真は、平成27年(2015) 6月19日(金)に訪れた時の勝連城。勝連城は南城(ヘーグシク)、中間の内、北城(ニシグシク)で構成されている。北城は石垣で仕切られた一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪を備える(曲輪は郭とも言う)。一から三までの曲輪が階段状に連なり、一の曲輪(右側)が最も高い。正面に「三の曲輪」の石垣を見上げる。デッキを上る。三の曲輪の下の広場に「史跡 勝連城跡 昭和四十九年三月三十一日 建立」の石碑が建つ。三の曲輪への階段。左側に廻り込み。勝連城跡は沖縄の世界遺産で最古のグスク。世界遺産に登録された勝連城跡は、風光明媚な景勝地として県内でも有数の観光スポットとなっています。自然の断崖を利用した難攻不落の城と言われる勝連城ですが、優雅な曲線を描く城壁は、芸術的な美しさを感じさせます。先端部をズームアップ。標高約98mの琉球石灰岩丘陵上に築かれたグスクは、美しく湾曲しながら上昇していく城壁が見事です。散策しながら楽しく頂上を目指しましょうと。三、二の曲輪へ登るとコバルトブルーに輝く太平洋が一望できる沖縄有数の景勝地である。平安座島、遠く宮城島を望む。頂上の「一の曲輪」に設けられていた案内板。赤矢印が現在地一の曲輪から、東方向の左側に平安座島、右側に浜比嘉島。海中道路を見下ろす。一番高い一の曲輪からは360度の絶景パノラマが楽しめる。朝日に赤く燃える城壁も素晴らしい。遠くに沖縄電力具志川火力発電所の煙突が見える(中央の白い建物)。最後の城主 阿麻和利(あまわり)北谷間切屋良(ちゃたんまぎりやら:嘉手納町)で生まれた阿麻和利は、すぐれた才能の持ち主で、勝連按司(あじ)に仕えました。領民の信望を得た阿麻和利は、9代城主・茂知附(もちづき)にかわって城主となると、本土をはじめとする対外貿易を活発に行い、この勝連を大いに繫栄させたと伝承されています。その様子を沖縄の古謡『おもろさうし』に、次のように謡われています。 一 かつれんわ なおにきや たとゑる やまとの かまくらに たとゑる 又 きむたかは なおにきや (勝連は、なんにたとえようか、京都や鎌倉にたとえる 又 気高き勝連は、なんにたとえよう) 一 かつれんの あまわり とひやくさ ちよわり 又 きむたかの あまわり 又 かつれんと にせて 又 きむたかと にせて (勝連の阿麻和利、千年もこの国を治めよ、 又 気高き按司阿麻和利よ 又 勝連にふさわしく 又 きむたかの名にふさわしく) 若くして勝連の按司となった阿麻和利は、1458年、宿敵護佐丸を討ち、天下の統一を夢 見たが王府軍に攻められて落城し、廃城になったといわれています。 (護佐丸・阿麻和利の乱)7年経った現在はこれ以上に整備されているのであろう。石灰岩の通路の上には木製の階段が設けられていた。ここまでの写真は7年前のものです。勝連城入口の向い側に以前の観光案内所があり、現在は2026年オープン予定の「公園エリア」を整備工事中であった。この左側には2024年オープン予定の「飲食・物販エリア」が建設される。12:10世界遺産 勝連城跡駐車場は移転しました。あまわりパーク駐車場へ ⇐ 150M先 右側この後、目的地を「平安座島」にして県道16号線(勝連城跡ロード)を南下。 ー 続く ー
2022.11.11
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時間も午後4時前になり今日の目的でもある「続日本100名城」のスタンプ捺印のためカーナビを「座喜味城」にセットしてハンドルを握る。9月27日(火) 15:50古宇利島を時計回りに一周(周囲7.9km)、途中サトウキビ畑を抜け県道247号線へ。これから渡る古宇利大橋の上空が怪しくなる。カーナビの目的地の座喜味城までは約60キロメートル、約1時間と。スタンプを捺印する「ユンタンザミュージアム」は18時で閉館するためそれまでに到着。曇り空になったので古宇利大橋の両側の海は色あせ。16:00古宇利大橋を渡り坂を上り左折して県道110号線を走り屋我地島を通り抜け屋我地大橋へ。この屋我地大橋を渡ると奥武島(おうじま)へ。屋我地(やがじ)大橋沖縄県名護市真喜屋の奥武島と同市屋我地島とを結ぶ全長約300メートルの県道110号線の橋。屋我地大橋は、羽地内海の屋我地島と奥武島に架かる橋で、平成22年12月にワルミ大橋が完成するまでは、長年にわたり本島と屋我地島を結ぶ唯一の橋であった。橋のたもとに「屋我地大橋の歴史」石碑がある(写真はネットから)。昭和28年に完成したが、昭和35年のチリ地震の津波により崩壊。同38年に2代目が完成した。ただ道幅がせまく、平成5年3代目が完成し現在に至る。羽地奥武橋を渡ると250mで国道58号へ。この辺りは名護市真喜屋。国道58号の真喜屋交差点を右折那覇方面へ。那覇までは国道58号を走り72km。国道58号の前方は仲尾次(北)交差点。左折すると国道505号で「今帰仁城、備瀬、沖縄美ら」方面へと至る。16:20名護東バイパス(国道58号)を走り抜け有料道路の沖縄道方面へ。名護湾に出、許田I.Cへ。16:22時間制限があるので有料道路を利用、沖縄道の許田I.Cへ入る。うるま市那覇市、沖縄市に次いで沖縄県で3番目に人口が多い都市である。2005年(平成17年)4月1日に具志川市、石川市、中頭郡勝連町・与那城町の2市2町が新設合併し誕生した。うるま市の完全失業率は18.2%で全国で5番目に高く、市としては最も高い。沖縄本島の中部、金武湾の南岸に位置し東部は勝連半島があり、先端部には在日米軍の港湾施設ホワイト・ビーチと海上自衛隊沖縄基地がある。うるま市は沖縄4日目の明日散策予定である。16:40約20分弱で沖縄道「石川I.C」を出る。石川I.Cを出て直ぐに右方向の県道73号線(石川仲泊線)へ進み、西海岸の国道58号へ。前の車もレンタカーナンバーの「れ」であったが良い車をレンタルしているようだ。16:55国道58号と合流、恩納南バイパスを南下。案内板は「道の駅 喜名番所」。案内板「残波岬 8km、座喜味城跡公園 2km」と目的が出てきた。道の駅喜名番所手前の喜名交差点を右折して県道12号線へ、座喜味城跡公園も近くなる。16:58道路脇に「座喜味城通り」の標示。17:02座喜味城跡駐車場へ到着世界遺産座喜味城跡ユンタンザミュージアム所在地:沖縄県中頭郡読谷村座喜味708-62018年6月23日にリニューアルオープンしたユンタンザミュージアム。その前身の読谷村立歴史民俗資料館の開館は、1975年(昭和50年)でした。リニューアルしたミュージアムは、1F展示室に世界遺産・座喜味城跡や読谷で育まれた自然・文化遺産を展示しております。また、2F展示室は、考古・民俗・自然・沖縄戦について展示を行っており、その中でガマや亀甲墓等のジオラマを通して詳しく学ぶことができます と。案内板の「世界遺産座喜味城跡 ユンタンザミュージアム」開館時間:午前9時 ~ 午後6時(入館は午後5時30分まで)休 館 日 :水曜日、年末年始(12月28日 ~ 翌年の1月4日) 展示替え及び燻蒸などの臨時休館日 祝祭日が水曜日に重なったときには翌日が休館利用料金:65歳以上 村外 400円世界遺産 琉球王国のグスク及び関連遺産群「座喜味城跡」築城家として名高い護佐丸が築いた先進的な建築技術と、見事な曲線が美しい「続日本100名城」に選ばれた世界遺産「座喜味城跡」。ユンタンザミュージアムの窓口に、「続日本100名城のスタンプはこちらです」と。続日本100名城のスタンプ「199 座喜味城」を頂きました。これでようやく43城目である。17:07座喜味城跡には既に登城しているので今回はスタンプのみで日の入りも近くなり、この後ガソリンを満タン「残波岬」へ急いだ。ここからの写真は、平成27年(2015) 6月19日(金)に訪れた時の座喜味城跡。座喜味城跡公園案内■ 世界遺産 ■ 琉球王国のグスク及び関連遺産群 座喜味城跡座喜味城は2000年(平成12年) 12月2日に、中城、今帰仁城、勝連城、首里城などとともに、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された(登録名称は座喜味城跡)。城内で演劇が行われるなど、広く利用されている。城跡の高台から西側を望むと残波岬や、晴れた日には慶良間諸島も眺めることができる。また、2017年(平成29年)には、続日本100名城(199番)に選定された。沖縄本島の「遺産群分布図」 ① 今帰仁城跡、 ② 座喜味城跡、 ③ 勝連城跡、 ④ 中城城跡、 ⑤ 首里城跡、 ⑥ 園比屋式御嶽石門、 ⑦ 玉 陵、 ⑧ 識名園、 ⑨ 斎場御嶽座喜味城は、戦乱の世だった「三山時代」に活躍し、琉球王国統一後の国の安定に尽力した名将護佐丸(ごさまる)によって築かれた城です。国王に対抗する勢力を監視する目的でつくられ、1420年頃に完成しています。座喜味城の航空写真(ネットから)。座喜味城は、規模は小さいが、城壁や城門の石積みの精巧さや美しさは沖縄の城の中で随一といわれ、当時の石造建築技術の高さを示す貴重な史跡となっている。蘇鉄の雄蘇鉄は重要なタンパク源であった、また染料の原料にも使用されエイル淡いクリーム色になる。蘇鉄の雌座喜味城は国頭マージと呼ばれる粘土質の赤土の上に築かれています。屏風にもたとえられる城壁の曲線と幅の厚みは、戦のためだけでなく、弱い地質を補って崩れにくい構造にするための工夫でもありました。城門は沖縄に現存する最古のアーチ門で門の強度を高めるために中央部にはクサビが打ち込まれています。このつくりは他の城には見られない座喜味城独自のもので、護佐丸の築城技術の高さを象徴しています と。左正面の「石造アーチ門」を入ると「二の郭」。石垣をズームアップ。石垣は石をかみ合わせて積み上げた「相方(あいかた)積み」と、日本の築城様式にも見られる「布積み」で築かれています。石積は「相方(あいかた)積み」と、日本の築城様式にも見られる「布積み」で築かれている。石造アーチ門から城壁内を見下ろす。城壁に上ったが柵がないので危険であった!続日本100名城に認定されてからは危険防止で柵が設けられているのか?城壁は厚みがあり「いっちぇーならんどー 進入禁止」と注意書き。座喜味城は、標高125メートル程の高さに位置し、晴れた日には遠く首里城のある那覇のまちが見渡せます。大人が5、6人並んで立てるほど、城壁の幅に厚みがあるのが特徴で城壁の上に登れるのはここと中城城だけです(一部立入禁止区域あり)また、入場料がかからないので、いつでも好きな時に見学できます。夕方を狙って城壁の上に立つと、東シナ海に落ちる美しい夕日を望めます。曲線美がある城壁。二の郭内を見下ろす。城門をズームアップ。7年前に訪れた時は、城内は続日本100名城に認定される前で綺麗に整備されていた。前回訪れた(2015年6月19日)のタクシーに「日本一人口の多い村 読谷村」とあったが。現在は、読谷村(よみたんそん)は、沖縄県の沖縄本島中部、中頭郡に属する村。日本の村としては最も人口が多く、人口密度は同郡の北中城村、中城村に次いで3番目に高い。2015年の国勢調査では村として人口増加数は2位 (1位は同郡の中城村)。2022年9月1日の推計人口は、41,510人 ー 続く ー
2022.11.04
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角牟礼城の登城も終え今回の旅の全ての予定を完了し、熊本空港へ向かう。11月18日(木) 16:13旧森藩城下町から国道387号を走り熊本空港へ向かう。目的地の、ニッポンレンタカー熊本空港までの距離、到着予定は、77km、18:49と。カーナビは、2.4km先を左折し国道210号を案内。大分自動車道下を通り抜け、左手の山の上に像、「童話の里 くす」。ここ新長野交差点を左折、「別府・大分」方面へ国道210号(国道387号)を進む。16:22国道210号(国道387号)の恵良入口交差点。この先から玖珠郡九重町に。玖珠郡九重(ここのえ)町九重町は、大分県の西部に位置し、東は由布市、竹田市、北西は玖珠町、南西は熊本県阿蘇郡に接しており東西18.7km、南北23.4km、総面積271.37kmに及ぶ広大な面積を有しています。地形的には、町の中心部を筑後川の源流の玖珠川が東西に流れ、西側に田畑、山林等が開けている。また久住山、大船山、三俣山などの九州の屋根と呼ばれる九重山群の北麓に位置しており町の約半分が「阿蘇くじゅう国立公園」、「日田耶馬英彦山国定公園」に含まれています。耕地は、標高350mから1000mの間に階段状に散在しており、大部分は山林・原野に覆われ、気候は、寒暖の差が大きく、東北から九州までを内包した気候条件といえます。人口、8916人(令和3/12/31)。国道210号(国道387号)を南下、前方にくじゅう連山の一部?。国道387号(日田街道)を南下。国道387号を進み「宝泉寺大橋」を渡る。国道387号の道標、「阿蘇 49km、小国 19km」。国道387号脇に、「北里柴三郎記念館」の案内板があった。所在地:熊本県阿蘇郡小国町北里3199小国町出身である故北里柴三郎博士の生家や、博士から小国町に寄贈された北里文庫(図書館)を改修し、偉業をたたえているのが北里柴三郎記念館です。この施設は生前、博士が大正5年に建てた貴賓館、北里文庫があった敷地に、昭和62年、博士の学問を受け継ぐ北里研究所、北里学園が中心になって博士の生家の復元修復を行うとともに、北里文庫の建物を利用して博士に関する遺品などを陳列し、小国町に寄贈されたものです。その後、平成24年より北里研究所の寄付により北里柴三郎記念館の全体改修工事がはじまり、平成26年工事が完了しグランドオープンを迎えました。16:53国道387号の左側に、「道の駅 小国」所在地:熊本県阿蘇郡小国町宮原1760-3小国町は熊本県北東部にある町で、阿蘇郡に属する。 山形県西置賜郡小国町などと区別するために肥後小国とも称する。人口、6730人(令和4/1/1)。写真がぼけましたが、道の駅の先を右折。道の駅の先を右折すると直ぐに、国道387号と国道212号の交差点。道路脇に「迂回路の案内」。「特殊大型車両通行止」通行止めで一瞬焦ったが、特殊車両限定とのことで一安心。16:54交差点を直進して国道387号へ、ここを左折して国道212号へ。この後の移動は、北側のAポイントから南下、ミルクロードを走り、C のニッポンレンタカー熊本空港営業所へ。17:15ミルクロード入口であったか ?ミルクロードは、熊本県道339号線北外輪山大津線で、熊本県阿蘇市から菊池郡大津町に至る 一般県道である。通称「ミルクロード」と呼ばれている。阿蘇市をグルリと取り囲んだ北外輪山の天辺には『ミルクロード』と『阿蘇スカイライン』と呼ばれる県道が延びる。この外輪山道路沿いには、素晴らしいビューポイント備えた休憩所や展望台がいくつもあるうえに、道路のいたる所から広大なカルデラ平野部と阿蘇五岳を眺めることができるのだが飛行機へ乗るので先を急ぐ。17:20陽は既に沈んでいたが県道339号線(ミルクロード)からの夕焼け。ズームアップ路肩に車を止め撮影。日の入が撮影できず残念であったが。思いもよらない光景で満足。北外輪山のミルクロードだがこの辺りでは市街地は見えず車の量も少ない。17:24北外輪山の県道339号線(ミルクロード)を南下、前方の山からの噴煙を確認。阿蘇山からの噴煙を確認。17:28ミルクロードは空いており快適なドライブ。目的地への到着は、18:21で、残距離は25km。熊本空港、20:20発のため余裕があるようだ。17:31展望台がなく、阿蘇山の噴煙がよく見える所を探し路肩へ駐車して撮影。阿蘇山にはもう半世紀前の中学の修学旅行で訪れたが、その時は火口近くまで登山したが。阿蘇山は、日本の九州中央部、熊本県阿蘇地方に位置する火山。カルデラを伴う大型の複成火山であり、活火山である。 阿蘇火山は、カルデラと中央火口丘で構成され、高岳、中岳、根子岳、烏帽子岳、杵島岳が阿蘇五岳と呼ばれている。 最高点は高岳の標高1592m。同場所からミルクロード(県道339号線)の上には月がのぼる。満月に近い17:39ミルクロード(県道339号線)を下る、カーナビの目的地への到着は、18:16で、残距離は18km。18:25途中、ガソリンを満タンにしてニッポンレンタカー熊本空港営業所へ到着。到着後、車体のキズ等をチェック、今回の走行距離は、1,102kmであった。出発時のメーターは、4,242kmであったので新車であったようだ。スピード違反等もなく、車体のキズも無く無事返車できた。出発時に見た、店内の「注意書き」。事故 多発中熊本空港営業所を出発されたお客様の事故が増加しています。 ☆ 事故原因 TOP3 1位、駐車場での後退・・・・・コインパーキング・ホテル内駐車場など 2位、脇見運転・・・・・・・・カーナビ凝視・不慣れな道の走行 3位、スピード出し過ぎ・・・・過信した走行・車間距離● キズやヘコミの大小 相手の有無にかかわらず事故扱いです。 必ずその場より警察の届け出が必要です。 所定の手続きがとられていない場合は 、保険・補償の適用除外となります。また、お土産に困ったらコレに 1、辛子蓮根 再度あげ直してマヨネーズをかけて食べるとおいしいです。 おつまみにどうぞ ♡ 2、馬 刺 我が家ではおぼん、正月しか食べれません。馬刺を食べる時に特別デス。 特別な熊本の旅のお土産にいかがですか? 3、松ノ屋本店いきなり団子 ここは、ホントにおいしいです。3種類の味があります。ノーマル、よもぎ、 むらさきいも、全部オススメです!! 4、芦北デコポンンゼリー 私には高くて買えません・・・、でも食べたいんです。デコポンゼリー大好 きデス。お土産にぜひどうぞ ♪ 5、御飯の友 熊本人ならだれでも知ってるふりかけです。ごはん3杯いけます!! さすが ごはんの友 ニッポンレンタカー熊本空港営業所からマイクロバスで熊本空港へ送迎してもらう。ジェットスターカウンターでチェックイン。出発便は、GK616 20:20発。19:55までに搭乗ゲートへと。19:02まだ約1時間あり、朝食、昼食をとっていなかっので、レストランへ。熊本空港は工事中で仮設のレストランへ。テーブルには密を避け、アクリル板が。長崎ちゃんぽんを食したが美味しかった。また、ライスはサービスで空いたお腹にはこれも美味しかった。土産コーナーに、辛子れんこん、熊本名物 馬刺し。ニッポンレンタカーの案内を参考に、土産として「辛子れんこん」、「熊本名物 馬刺し」を購入。19:35出発ロビー仮設ターミナルのため成田の第3ターミナル並のスペック。21:47定刻に機内へ入る。帰る便も機内は満席状態。22:00定刻に熊本空港を離陸、成田空港第3ターミナルへ到着。到着後荷物を受け取った後、車を預けているUSAパーキングへ電話第2ターミナルへバス移動。待つこと数分でマイクロバスが到着。22:30USAパーキングを出発して帰路に、出発前に眠気覚ましで缶コーヒーを購入。おかげで眠気も来ず、空いている道路を順調に帰る。11月19日(金) 0時16途中旅友宅へ立ち寄り、我が家に到着した。今回の旅で、続日本100名城の熊本県、鹿児島県、宮崎県、大分県の10城を征服し累計42城となった。九州・沖縄地区にはまだ10城ありさていつ行くか!今回の四泊五日の九州の旅は精算すると土産込みで、78,000円と安かった!この旅のブログを長期間アップしましたが、お付き合い願いありがとうございました! END
2022.02.05
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山城の角牟礼(つのむれ)城の散策を続ける。11月18日(木) 15:38本丸跡から北側の豊前側を望む。遠く耶馬渓方向であろう。玖珠地方の山々・・・メーサ・ビュート玖珠の盆地は、平らなテーブル型の山々に囲まれています。こうした地形の大型のものを地形学上メーサ、小型のものをビュートといいます。玖珠地方では、万年山を中心として大岩扇山、小岩扇山、宝山、青野山、伐株山、角埋山、高波山などの山々が眺められます。これだけの地形を一つの町から望めることができるのは、日本広しといえどもここだけの異感でしょう。本丸の北側は高石垣になっている豊前側。急斜面で崩壊した状態になっている。本丸跡は角埋山頂上にあり、広い曲輪になっている。本丸のある角埋山はビュートと呼ばれる地形で、傾斜がゆるい南側以外は三方を切り立った崖が囲んでいる。本丸跡を後にし下ることに。発掘調査、修復工事のために仮設道路に。南側はゆるい傾斜になっているので足元を注意しながら下る。ところどころに石垣が現れる。南側の斜面にも崖と石垣。下を見ると櫓跡の石垣。二の丸西曲輪の石垣。二の丸西曲輪から大手門跡へ。二の丸西曲輪の石垣を振り返る。ゆるい傾斜になっているので歩きずらい。下は、大手門跡。旅友は既に前方の石垣の上に、角牟礼城跡最大の石垣がある。遊歩道脇に地蔵。岩場の下に「井戸曲輪跡(伝)」井戸曲輪跡(伝)に地蔵岩をくり抜いて造った井戸には今も水をたたえている。湧水があるのかパイプで遊水、コップが置かれていたが今でも飲めるのか。井戸曲輪跡(伝)から南側の玖珠町市街地を望む。下は、大手門跡。紅葉に囲まれた南側の斜面。モミジの紅葉を追う。未だ最盛期前の紅葉であろう。城郭の石垣と紅葉も絵になるが。15:55三の丸駐車場へ戻る。南の方向の山から煙が上がる(黄色の丸印内)。ズームアップ角牟礼城の散策を終え、今回の旅の目的地は全て達成。この後は、熊本空港近くのニッポンレンタカーへ向かうが、途中角牟礼城跡の下にある「旧森藩城下町」へ。「続日本100名城」スタンプラリー 角牟礼城案内図。16:05牟礼城跡から下り、旧森藩城下町の本町通りに入ると石像があり駐車して散策。所在地:大分県玖珠郡玖珠町森辺り金太郎像この像は、久留島候森藩に縁故のある瀬戸内村上水軍の本拠地、愛媛県宮窪町で産出される日本一の大島石を使用して彫られました。彫刻を、宮窪町の宮内宏先生に依頼して建立した平成五年の秋に、瀬戸内の能島村上水軍ふる里会と玖珠町の久留島三島水軍会が、四百年ぶりに再会した年でした。この縁で両町が、今後末長い交流が続くことを願っています。 平成六年 ひまわり会浦島太郎像この像は、村上水軍の本拠地瀬戸内海能島(宮窪町)水軍ふる里会の会長矢野久志氏に、平成七年三月に製作依頼し、ひまわり会が設置したものです。能島は村上水軍を先祖とする森藩久留島候ゆかりの地です。童話の久留島武彦先生は久留島候の子孫です。像は能島の大島石を使用し地元勝羅石材 矢野勝羅氏より寄贈を受けました。 平成七年三月 ひまわり会愛嬌のある「鬼」旧森藩城下町の本町通りの南側にある広場。広場にはトイレはあったが駐車場があったか?、道路脇に駐車。旧森藩城下町の本町通りの北方向。広場には、久留島武彦の像が立つ。後方に、大岩扇山(おおがんせんざん)。日本のアンデルセン 久留島武彦 1874~1960久留島先生が残した言葉「継続は力なり」、「身動かざれば心働かず」私はいつもこの、「継続は力なり」を旅友から言われているのだ!台座には、童話の父故久留島武彦先生は明治7年森藩の藩侯邸で出生。生涯を口演童話一筋に語り部として子供のいる処なら場所を問わず出かけ、全国の子供達へ夢と希望を与え続け、人々から日本のアンデルセンと慕われ童話の父と讃えられた人です。「継続は力なり」は座右の銘です 平成30年8月一寸法師像童話の里 一寸法師像昔一寸法師は、おわんの舟で一人荒波をこえ、京の都にのぼりました。京では、娘をうばおうとする悪い鬼をたいじし、鬼から得た打出のこづちの力で、背たけを伸ばし、りっぱな男子となりました。 平成八年一月 ひまわり会 九州電力玖珠営業所 製作協力 愛媛県宮窪町「水軍ふる里会」 補 助 平成七年度地域振興事業調整費鬼ケ城 童話の里この玖珠町を象徴する、「久留島武彦先生」、「大岩扇山」。 ー 続く ー
2022.02.04
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豊後森藩資料館で続日本100名城のスタンプ受領時に、管理人の方から角牟礼城跡への登城を推奨されたので三の丸まで車で行くことに。11月18日(木) 15:13説明された道順に従って進み、「国指定 史跡 角牟礼城跡 ⇒ 」。ここから狭い山道を約1.5キロほど登る。15:19三の丸にある、玖珠町文化財案内板。三の丸林道により一部が壊されているが、三方を石垣で囲まれた曲輪。石垣の角には櫓台の遺構が残る。平成24年(2012)度の石垣解体修復工事で、積直しの跡と石垣内部からコンニャク印判の椀が見つかった。角牟礼城跡角牟礼城跡は標高577メートルで、古くから石垣のある山城として知られている。天然の要害と呼ぶにふさわしく、三方を切り立った険しい岩壁で囲まれている。角牟礼城跡の名が史料に初めて登場するのは、文明七年(1475)の志賀親家文書である。その後、天文二年(1532)や翌三年には「角牟礼新掘之事」や「角牟礼勤番在城」と出てくるように、角牟礼城跡は古くから、豊前側からの侵入を防ぐ豊後の境目の城として、玖珠郡衆により守られていた城である。天正十四、十五年(1585、86)の島津氏と大友氏の豊薩戦では、唯一落城しなかった要害堅固の城として有名でもある。文禄二年(1593)豊臣秀吉が、文禄の役で失態をおかした大友義統(おおともよしむね)を徐国し、翌年に日田郡に宮木長次、玖珠郡に毛利高政を入部させた。慶長元年(1596)からは毛利高政が日田・玖珠郡二万石を支配したことが、秀吉の「朱印状」や「黒田家譜」からも知られる。今回発掘調査で発見された門跡や現存する石垣は、この時期に築かれたものと考えられている。従って、この城跡は文禄三年頃、豊後の要の城から、領国支配のために近世城郭へと生まれ変わる時期のものだとみられる。そして、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い後、毛利高政は佐伯城主に転封され、一時黒田孝高の預かり地となるが、代わって伊予より来島康親が入部する。しかし、来島は一万四千石の小大名であり城を持つことは許されず、現在の三島公園に陣地を築き、山城は「正保の絵図」(1644) に古城と書かれているように、そのまま放置され、長い歴史の幕を閉じることになる。平成五年から町教委により発掘調査が行われ、本丸に階段状の虎口(出入口)、大手門と搦手門に同じ規模の門跡、また二の丸には礎石建物が発見されている。二つの門には瓦が葺かれていたと考えられている。 玖珠町教育委員会 玖珠町文化財調査員会三の丸駐車場。駐車場としての整備はまだだが10台は駐車できるか。トイレは工事用のトイレがあったが。麓の末廣神社からの登山道があるが車で三の丸の駐車場へ。駐車場には、何か工事をしているのか工事用の車が数台駐車していた。末廣神社からは歩いて30分?角牟礼城跡の見どころ角牟礼城跡は近世初頭に石垣を持つ城郭に改修されましたが、その改修範囲は部分的で、中世的要素と近世的要素を同時に見ることができる山城となっています。角埋山はビュートと呼ばれる地形で、傾斜がゆるい南側以外は三方を切り立った崖が囲んでいます。中世段階では、この地形を利用して、南側から南西側に畝状群をまわし、山頂から南に向かって曲輪群をつくっています。近世初頭の改修では山頂の本丸北側に高石垣をつくり、三方の崖を天然の石垣として取り込みながら二の丸・三の丸の南側を石垣で固めています。三の丸から東方向に大岩扇山(おおがんせんざん)。三の丸の南側は石垣で固めている。南方向の玖珠市街地を望む。東方向に大岩扇山、その南側に小岩扇山、宝山と連なる。三の丸の駐車場から本丸へ登ることに。左側に道案内、つのむれ会、「本丸跡方面へ 約8分です」と。南側への斜面に「竪堀」の看板。竪堀(たてぼり)中世段階で、南側から南西側に畝状群をまわしているようだが、長い年月で埋もれているので当時の規模はわからない。南側の斜面には樹々が生え紅葉のビューポイントに。左下に道標、「二の丸、三の丸、末廣神社」。この辺りは「鳥獣保護区」にもなっているようで野鳥も飛び回っているのではないか。本丸への道に「角牟礼城跡」の幟が立つ。前方に大きな二の丸の石垣。石垣に説明板、「穴太積石垣」。難攻不落の角牟礼城略年表 (つのむれ会) 所在地 大分県玖珠郡玖珠町大字森(角埋山・標高五七六m)1122 保安三年 11月19日の「清原氏所領配分状」(大友文書)に「角牟礼鐘突堂」とあり、 これ以前に山岳宗教の堂宇がここにあったと思われる。1155 久寿二年 このころ源為朝が築城したと伝えられる。1278 弘安年間 このころ森三郎朝通が、ここに居城したという。~ 12871534 天文三年 大友義鑑は、古後中務小輔以下八名の玖珠郡衆あてに、新堀築造の感状 を出す。(菊池氏、大内氏に対する備えとして)1586 天正十四 12月、大友氏攻略の島津軍約六千人が玖珠郡に攻め入る。1587 天正十五 1月~3月、角牟礼城攻撃。籠城の森五郎左衛門をはじめ古後、太田氏等 約一千人、島津軍数度の猛攻に屈せず、これを撃退する。1593 文禄二年 豊臣秀吉は大友吉統を罰し、徐国。豊後国は秀吉の直轄地となる。森氏 等も城を棄てる。1594 文禄三年 毛利高政は、秀吉の命を受けて日田・玖珠郡に入部。以後六年の間に本 格的な築城を目指し、穴太積みの石垣や櫓門も造られたのではないかと いわれている。1600 慶長五年 9月、関ヶ原の戦いで西軍敗北。城は黒田如水により開城。1601 慶長六年 徳川家康、元伊予の水軍大将来島康親を森に封ずる。康親は館を角埋山 の麓(童話碑のところ)に構える。角牟礼城は廃城となる。(毛利高政は、 佐伯城へ移る。)1615 元和元年 幕府、一国一城令を公布。二代藩主久留嶋通春は、城の建物・石垣の一部 を破却。 藩政時代 その後森藩では、有事に備えて山一帯を管理し、通常は一般の入場を禁じ ていた。1993 平成五年 玖珠町教育委員会により、城跡の発掘調査が始まる。(櫓門跡などの礎石・ 瓦片・磁器などが出土。)二の丸南側と西側に外枡形の虎口があり、同規模の櫓門を思われる礎石が見つかった。特に南側虎口は全長100mの石垣があり、穴太積みと呼ばれる初期野面積みがよく残る。二の丸下の石垣を進む。本丸への道は発掘調査をしたためか車が走れる道幅になっている。右側は、畝状竪堀群。道路脇は養生用の砂袋が並べられている。ゴミ袋が積まれているのか、道標には、「三島公園、わらべの館」。ここから左方向へ登り、本丸へ。この先には、角牟礼城跡最大の石垣があるようだったが。道路脇に「大手門跡」の看板。大手門跡を振り返る。二の丸西曲輪の石垣。熊本地震により石垣が崩れ修復された。二の丸へと登る。坂を上り、二の丸西曲輪の石垣を見る。二の丸西曲輪二の丸西曲輪西門跡の南側にある曲輪。南端に礎石建物跡が見つかり、西側縁辺部に土塁が確認できる。曲輪周囲に石垣があるが崩落が進んでいる。南側虎口石垣の石よりも小さな石材が使われている。発掘調査で、二の丸西曲輪の南端に礎石建物跡が見つかった。二の丸西曲輪から見おろす。この辺りのモミジの紅葉はこれから。二の丸西曲輪の北側に「西門跡」大手門跡と同規模の櫓門と考えられる礎石と「かんぬき金具」が見つかる。周囲からは瓦片が見つかる。門から外に向かう通路の一部には石垣の石材と思われる石が散乱している。二の丸の南側の斜面は「切崖」。二の丸を進み「本丸跡・左折」作業道保護のため、本丸跡へは○○○を経由する遊歩道をお通りください。角に地蔵が無造作に置かれ、また工事用の砂袋が多数置かれていた。本丸への虎口平成五年から玖珠町教育委員会により発掘調査が行われ、本丸への傾斜に階段状の虎口(出入口)があったことがわかったと。本丸の南側にある虎口(出入口)階段ではなく、砂利道になっていたので登りずらかった。15:34角埋山の山頂に位置する本丸。本丸の北側にクレーン車。本丸跡角埋山頂上部に位置し、標高は577mで周囲には土塁を巡らせている。北側には石垣が築かれ、石垣上面の東隅に櫓建物が検出されている。南側からは階段状の虎口が検出されている。 玖珠町教育委員会角埋山(五七六米) 本丸跡(標高576m)。本丸跡の北側へ廻る。作業中の監督の方に聞くと、「本丸の北側の石垣が崩壊し修復中」と。急斜面での作業で二次災害に注意!急斜面になっている豊前側。 ー 続く ー
2022.02.03
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一目八景展望台から深耶馬渓公共駐車場へ。11月18日(木) 14:15県道28号線(森耶馬渓線)を北方向へ進む。一目八景展望台からの道路沿いには蕎麦屋や旅館、温泉施設などが建ち並ぶ。店先では、あゆ塩焼き 500円。土産物店があったが先を進む旅友を追う。九州の紅葉スポットとして筆頭にあがる大分県の耶馬溪だが、コロナの感染で皆さん外出を控えているのか道路の渋滞はない。紅葉には少々早かったのか。深耶馬渓には、温泉民宿もある。3つ星ホテル「えぼしや」所在地:大分県中津市耶馬渓町大字深耶馬3155-16温泉民宿「えぼしや」深耶馬溪の商店街の一画にあり、絶景とまろやかな泉質が自慢の展望温泉と、地元の味が満喫できる田舎料理が当館の自慢です。温泉は沸かしても薄めてもいない完全天然のお湯で、多くのお客さんよりお褒めを頂いていますと。料金は一泊二食 7,000 ~ 。えぼしやの名前の由来は「一目八景」のひとつ「烏帽子岩」が当館の守り神であることから。その、烏帽子岩を見上げる。他の店先では、「山芋 一本800円」。公共駐車場へ戻るが平日にもかかわらず満車状態。駐車場の廻りの紅葉を追う。今回の九州の旅の目的は「続日本100名城巡り」であったが、時期的に紅葉狩りもしたいと。ちょうど動線の中に「日本新三景の耶馬渓」があり、九州を代表する耶馬渓の一部を楽しめた。訪れた当時(11/18)はコロナ感染も落ち着いていたが。今年に入り新型オミクロン株の感染が広がり各地に「まん延防止等重点措置等」の要請。各人が感染予防を徹底して早く落ち着くことを祈願!!!九州の紅葉スポットとして筆頭にあがる大分県の耶馬溪は、本耶馬渓(本耶馬渓町)、裏耶馬溪・深耶馬溪(ともに耶馬溪町)、奥耶馬溪(山国町)にわかれているが、今回本耶馬渓を楽しめた。14:26公共駐車場から県道28号線(森耶馬渓線)。この後、今回最後に訪れる続日本100名城の「角牟礼城」へ向かう。カーナビは深耶馬渓から角牟礼城への距離数・所要時間は、10.4km・23分。県道28号線(森耶馬渓線)沿いには、温泉民宿が建ち並ぶ。愛知県香嵐渓の紅葉狩りは道路の渋滞がひどいがここではスムーズに。対向車も無く。14:42県道28号線(森耶馬渓線)を進み国道387号と合流、ここを右折。交差点角には、「ようこそ 童話の里 くす町」の看板。玖珠町は、大分県の中西部、大分市の西側約60kmの場所に位置しており、南部はわずかに熊本県と接している。町域は九州山地に含まれており、多数のメサが盆地を取り囲む特徴的な景観を呈している。人口は、1.411万人(2021/12/1)。14:46豊後森藩資料館の公共駐車場へ到着。角牟礼城跡遊歩道案内図久留島庭園周辺案内図三島公園昭和四九年に玖珠町都市公園として認可され、野外ステージ・遊具・休憩施設等を整備し、現在にいたっている。公園には、清水御門・栖鳳楼(せいぼうろう)・鞘堂(さやどう)づくりの御神殿・お城仕立ての末廣神社・久留島庭園・御長坂等の名所・旧跡が数多く点在している。又、童話碑・クロちゃんとしてこどもたちに親しまれている蒸気機関車や、一角には、図書室や郷土玩具を展示している清田コレクション等、こどもたちの憩いの広場としてのわらべの館もあり、こどもたちから、お年寄りまで楽しめる。角埋城跡とお城仕立ての末廣神社標高五七六メートルの角埋山は天然の要害で中世の山城として、天正年間の豊薩戦では、豊後不落城の一つであった。山頂には角牟礼城跡があり、戦国時代の武将「織田信長」が安土城を築城する際用いた石組の工法、いわゆる穴太積による石垣や縄張りが、今でも築城当時のまま残され、照葉樹の多い自然林があり、保健保安林になっている。源為朝を祀ったという巨大な木造の不動尊立像が安置されている角埋神社もあり、展望が素晴らしい。瀬戸内海の水軍であった久留島氏は、角埋山の麓に館を構えたが、幕府の掟で城を持たれぬ小大名であった。森藩では、角埋山は ”大切之御山” としていたが、第八代藩主 通嘉のときに、氏神である三島宮(末廣神社)の改築を思い立ち、境内をお城仕立てにつくりあげた。通嘉公の豪快さと雅趣を兼ね備えた気質のよく表われた普請は、一藩の主としてお城をもちたいという願いが込められていたに違いない。ー やばけい遊覧(中津市・玖珠町) ー耶馬渓とは、山国川が溶岩台地を深く浸食してつくりだした奇岩の渓谷で、中津・玖珠の二つの城下町に挟まれています。南北32km東西36kmの敷地に、断崖、岩窟、渓流が大パノラマをつくり、その深く神秘な地形は伝説と祈りの場所となりました。人々が時をかけ岩を削り想いを描き、一本の絵巻のようにまとめあげた「耶馬渓」の遊覧の旅に出かけましょう。 天下無二耶馬全景交通絵図(吉田初三郎・1926)山国川の下流、中津、青の洞門。廃線となっている、大分交通耶馬渓線(中津 ⇔ 山国)が描かれている。深耶馬、一目八景、大谷渓谷。阿蘇山、八代、遠く上海。この碑は、碑の台座には、建設委員の名が。公共駐車場の隅に聳えるイチョウ。駐車場の東方向にある、大岩扇山(おおがんせんざん)。伐株山などと並ぶ代表的なメーサの溶岩台地で、この山をみた田山花袋は「巖石の王国」と表現した。南側の頂上付近に見られる柱状節理の絶壁が美しく、南に小岩扇山、宝山とメーサの山が続く景観は、旧久留島氏庭園の眺望として随所に取り入れられています。また、標高691.1mの山で、1935年6月7日に国の天然記念物に指定されている。玖珠地方の山々・・・メーサ・ビュート玖珠の盆地は、平らなテーブル型の山々に囲まれています。こうした地形の大型のものを地形学上メーサ、小型のものをビュートといいます。玖珠地方では、万年山を中心として大岩扇山、小岩扇山、宝山、青野山、伐株山、角埋山、高波山などの山々が眺められます。これだけの地形を一つの町から望めることができるのは、日本広しといえどもここだけの異感でしょう。続日本100名城のスタンプをもらいに豊後森藩資料館へ。豊後森藩資料館・清田コレクション所在地:大分県玖珠郡玖珠町森868-2開館時間:9:00 ~ 17:00休 館 日 :月曜日続日本100名城のスタンプはここに置かれている。アルコール消毒をして館内へ入り2階へ。清田コレクションの展示スペースは無料だが、豊後森藩資料館は有料。豊後森藩資料館内は撮影禁止。角牟礼城跡/大分県玖珠郡玖珠町森大分県西部にある玖珠盆地の中央には、九州を横断する筑後川の源流である玖珠川が西流している。角牟礼城はその支流である森川西側の、標高577mの角埋山頂に立地する。中世から戦国時代の玖珠地方には、玖珠郡衆とよばれる屈強な在地領主によって、数多くの山城が築かれた。角牟礼城もそのような山城のひとつで、森氏の詰城であった。天正14年(1586)の豊薩戦では、玖珠群衆と共同で守備し、唯一落城しなかった要害堅固な山城として有名である。豊臣秀吉は、文禄2年(1593)の文禄の役で失態をおかした大友義統を除国し、豊後を諸将に分与する。このことにより、文禄3年毛利高政が玖珠郡に入部し、角牟礼城は土づくりの中世山城から石垣を使った近世城郭へと生まれ変わった。関ヶ原の戦い(慶長5年・1600)後、高政は、佐伯城主に転封する。代わって伊予より来島康親(二代から久留島)が入部するが、城持ち大名ではなく、山頂の角牟礼城はその機能を失い、長い歴史の幕を閉じた。デザインが石垣のスタンプを頂く。認定証 角牟礼城入り口に置かれていた、角牟礼城のジオラマ。管理人の方から角牟礼城について説明を受ける。また、三の丸まで車で登れるので是非行ってみてくださいと。日本の城郭考古学者の千田嘉博先生も石垣を見て絶賛したと。15:05豊後森藩資料館から出、グランドの西側に、旧久留島氏庭園。森の中は末廣神社。時間がなくスルーしたが、旧久留島氏庭園、末廣神社がある。久留島武彦記念館玖珠町出身の童話作家・口演童話家・教育者の久留島武彦に関する資料を展示している。「日本のアンデルセン」と呼ばれた久留島武彦は、明治・大正・昭和の三代にわたって、人が人として共に生きていく上で、必要な教えを楽しいお話にのせて子どもたちに語り聞かせた教育者です。また、日本にボーイスカウトを紹介し、日本ボーイスカウトの基盤作りに尽力、日本の近代児童文化の基盤を築き上げたパイオニアといえます。後方の山は、角牟礼城が築かれた角埋山。切り立った標高577メートルの岩山の要害。駐車場に聳えるイチョウの木を見上げる。15:08大岩扇山、南側(右)に小岩扇山。この後、管理人の方から勧められたので角牟礼城へ登ることに。 ー 続く ー
2022.02.02
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この後、続日本100名城の角牟礼城へ向かうが、途中、深耶馬渓があるので立ち寄ることに。11月18日(木) 13:36青の洞門から、国道500号を南下、深耶馬渓、角牟礼城へ向かう。この後南下、A 青の洞門、B 深耶馬渓、C 角牟礼城距離数、所要時間は、A ⇒ B 18.4km 40分 、B ⇒ C 10.4km 23分。国道500号の本耶馬渓ICから、自動車専用道路の中津日田道路へ入る。山移川に架かる橋。道路は空いておりスムーズにここまで走るがスピード違反には注意。 中津日田道路の耶馬渓山移ICを出る。13:41中津日田道路の耶馬渓山移ICを出、この先を右折して県道28号線を、深耶馬・玖珠方面へ。山移川に沿って渓谷を南下、紅葉が広がる。県道28号線の紅葉のトンネルを抜ける。中津市耶馬渓地域は、その大部分が「史蹟名勝天然記念物保存法」により、大正12年3月に『名勝耶馬渓』として指定を受けている。また、昭和25年7月には『耶馬日田英彦国定公園』にも指定されており、「一目八景」など垂直に切り立つ石柱群、清流の流れる一枚岩状の渓谷など、光と風と水が創造した景観が、まるで自然の名画のようです。春は ”若葉もみじ” 、秋は ”錦もみじ” と称されるほど、春夏秋冬さまざまな表情で訪れる人々を癒してくれます。耶馬渓山移ICから県道28号線(森耶馬渓線)を南下。13:55深耶馬渓観光案内所所在地:大分県中津市耶馬渓町大字深耶馬広い無料の駐車場があり観光案内所、土産物店、トイレがある。駐車場には、新型コロナも落ち着き多くの観光バス、家族等の車が駐車していた。九州の紅葉スポットとして筆頭にあがる大分県の耶馬溪は、本耶馬渓(本耶馬渓町)、裏耶馬溪・深耶馬溪(ともに耶馬溪町)、奥耶馬溪(山国町)にわかれている。この近辺の観光地。中津市、日田市、玖珠町、宇佐市の観光地。一目八景(ひとめはっけい)一目で八景を一望できることから名づけられた深耶馬溪の代表的な景勝地である。猿飛千壺峡(さるとびせんつぼきょう)深耶馬渓から少し離れているが、山国川の清流、河床一帯に広がる変朽安山岩(へんきゅうあんざんがん)、そして小さな石ころの三位一体で生まれた自然の造形物が、「猿飛千壺峡」です。深耶馬渓(しんやばけい)一目八景展望台まで 約500m 徒歩約5分公共駐車場から渓谷を見上げる。山の上に岩峰群が広がる。頂上をズームアップ。平成28(2016)年の地震被害で、鳶ノ巣山山腹の石柱岩が崩落したと。駐車場脇の紅葉。九州を代表するだけに駐車場には、広島、山口、福岡等の県内外のナンバープレートが多かった。駐車場脇のもみじの紅葉。この後、山移川に架かる橋を渡り対岸の遊歩道へ。山移川に沿って遊歩道を進む。遊歩道に案内板が立つ。仙人ヶ岩(せんにんけいわ)仙人が数人居るように見える。親切に目の視線の方向が示されている。遠くに、仙人ヶ岩。仙人ヶ岩をズームアップ。岩の上には松も生えているが、今にも崩れ落ちそうだ。烏帽子岩(えぼしいわ)神職の装束である烏帽子(帽子)に形が似ている岩。 贈、中津商工会議所。山肌に、烏帽子岩。ズームアップ、風化していずれは。見晴らし台への案内この散策道及び、群猿山見晴台へのルート整備は「深耶馬商店会」「大分大学田舎で輝き隊!」「中津耶馬渓観光協会」「中津市」が共同で行いました。足下には十分に気をつけて散策をお楽しみください。⇐ 一目八景展望台 この先、橋を渡って道路を右です岩場のトンネルを抜ける。岩が倒れて寄り添い木が生える自然の力。山移川沿いの遊歩道を進む。山移川に架かるもみじ橋の上から下流側、川岸には土産物店が建ち並ぶ。上を見れば、仙人ヶ岩。仙人ヶ岩をズームアップ。もみじ橋を渡り、県道28号線(森耶馬渓線)へ。多くの観光客が訪れていた。左側の鳶ノ巣山と右の群猿山の間に夫婦岩がある。県道28号線沿いにある、一目八景展望台には多くの観光客。ツアーの旗を持ったガイドさんの後ろから多くの高齢者団体、我々もそうだが。一目八景展望台の後方に、鳶ノ巣山の岩肌。土産物店の奥に、夫婦岩(ふうふいわ)左の鳶ノ巣山と右の群猿山の間に夫婦岩がある絶景ポイント。ズームアップ一目八景展望台の上は、皆さんマスクをつけ三密状態に。群猿山、鳶ノ巣山、嘯猿山、夫婦岩、雄鹿長尾の峰、烏帽子岩、仙人岩、海望嶺などの周囲の岩峰群が、一目で八景を一望できることから名づけられた深耶馬溪の代表的な景勝地である。北方向に見える、仙人ヶ岩。鳶巣山(とびのすやま)左の岩が、鳶の幼鳥が餌をもらおうとくちばしを天に向け、その岩の廻りの樹木が巣のように見えることから鳶巣山と呼ばれています。 事業実施 平成22年8月 ~ 平成22年10月こちらも修景前後の写真があるが具体的に何をやったのか?、岩場の樹木を伐採?夫婦岩(ふうふいわ)二つの岩が寄り添うように立つ姿から夫婦岩と呼ばれています。このたびの修景により、群猿山~夫婦岩~鳶巣山の大パノラマが広がりました。 事業実施 平成24年8月 ~ 平成24年11月修景前後の写真があるが具体的に何をやったのか?、岩場の樹木を伐採?一目八景展望台の上から、右側の群猿山と夫婦岩。南方向にあり逆光で撮影。一目八景展望台の上から北方向を見れば、仙人ヶ岩の岩肌。仙人ヶ岩をズームアップ。一目八景展望台の上から、県道28号線(森耶馬渓線)を見下ろす。耶馬渓名物「自家製椎茸のからし漬」、元祖 山芋ねり「つぶあん入り そばまんじゅう」。多くの観光客が列を14:14山移川には養殖の「巨大ニジマス」がいる。 ー 続く ー
2022.02.01
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中津城から国道212号(日田往還)を南下、途中から山国川沿いを走る。11月18日(木) 13:10山国川に架かる洞門橋の手前にある、青の洞門北口交差点。ここを左折して「青の洞門」へ。← 青の洞門 0.2km、羅漢寺 3.2km、青の洞門公共駐車場 0.8km→ 耶馬渓橋 0.1km青の洞門北口交差点を左折して青の洞門へ。青の洞門所在地:大分県中津市本耶馬渓町曽木駐車場は無料の公共駐車場があったが、この先の広場へ駐車して散策した。洞門入口に聳えるイチョウの黄葉。青の洞門は、禅海和尚の手彫りのトンネル江戸時代、荒瀬井堰が造られたことによって山国川の水がせき止められ、樋田・青地区では川の水位が上がりました。そのため通行人は競秀峰の高い岩壁に作られ鉄の鎖を命綱にした大変危険な道を通っていました。諸国巡礼の旅の途中に耶馬渓へ立ち寄った禅海和尚は、この危険な道で人馬が命を落とすのを見て心を痛め、享保20年(1735年)から自力で岩壁を掘り始めました。禅海和尚は托鉢勧進によって資金を集め、雇った石工たちとともにノミと鎚だけで掘り続け、30年余り経った明和元年(1764)、全長342m(うちトンネル部分は144m)の洞門を完成させました。寛延3年(1750)には第1期工事落成記念の大供養が行われ、以降は「人は4文、牛馬は8文」の通行料を徴収して工事の費用に充てており、日本初の有料道路とも言われています。現在の道路は道幅が広いので、耶馬トピア竣工時に掘られたのであろう。13:15青の洞門公共駐車場まで500メートルあるので道路脇に駐車。坂を上った先に駐車場があるようだ。道路脇に狭い歩道があり、山国川沿いに下る。山国川は、中津城へと流れる。国道212号沿いに、毛蕨(けわらび)神社の一の鳥居が建つ。禅海和尚がノミと鎚だけで掘り続け、30年余り経った明和元年(1764)に全長342m(うちトンネル部分は144m)の洞門を完成させた。このトンネルは耶馬トピア竣工時に掘られたものか、道幅が広いので普通車が対向して走れる。トンネル(隧道)は5~6個あった。山国川の上流側を望む。写真はネットから。競秀峰(きょうしゅうほう)の高い岩壁。山国川沿いの岩壁を掘って全長342m(うちトンネル部分は144m)の洞門を完成させた。競秀峰は耶馬渓を代表する名勝で、数々の巨峰や奇岩群が約1キロに渡り連なっている。山国川と右側の岩肌とは7~8メートル。トンネル間の明かり窓北側の青の洞門入口北側から一番目のトンネル入り口。トンネルとトンネルの間から上流側を望む、右側は「青の洞門対岸のネモフィラ」。シーズンには青い花が咲く。のんびりしたい空間だが、今夜は熊本空港を離陸するので。車が走るトンネルから山国川に下りた隧道。地蔵菩薩が祀られていた。地蔵菩薩像の台座に、1993年7月耶馬トピア竣工に伴い、かってこの地に僧禅海が建立していた地蔵菩薩像を同風物館に移転安置した。このためここに新しく地蔵菩薩像を建立し禅海の意志を永く伝えるとともに人々の安全を祈願する。 1994年(平成6年)2月 本耶馬溪町長 井上次男今でも残るノミ跡青の洞門は、明治39年から翌40年にかけて行われた大改修で、完成当初の原型はかなり失われてしまいました。現在の青の洞門には、トンネル内の一部や明かり採り窓などに、当時の面影を残す手掘り部分が残っています。あの角のついてゐる所が堀ちがひをした所であります。最初に明けられたあかり窓。この窓が最初に明けたあかり窓である。前方は国道212号の青の洞門北口交差点。青の洞門入口に聳える黄葉のイチョウ。銀杏は落ちていなかったようだ。黄葉したイチョウを見上げる。ズームアップするが銀杏は?トンネルの北側入口に建つ石碑。県指定史跡「青の洞門」。案内板「禅海和尚の手掘り跡」、「青の洞門の明かり窓」。北側から隧道に入り、バリアフリー対応の通路も整備されている。地蔵菩薩像階段を上がり、道路へ。青の洞門対岸のネモフィラエリア。三つのトンネルが連なる。耶馬トピア竣工時に掘られたのであろうが現在の施工の、シールドマシンで何日で完成?江戸時代に施工した禅海和尚は手掘りで30年を費やして完成。新日本三景に溶結凝灰岩により演出される奇岩怪峰の典型競秀峰と、それをくりぬき、菊池寛の『恩讐の彼方に』の舞台 ともなっている青の洞門。揃いの帽子を被った団体が。耶馬渓は日本新三景と言われている、耶馬渓の名付け親は頼山陽であることはよく知られている。1818(文政元)年、九州を歴訪した彼は、日田から中津への途次、山国川流域をたどった。岩と水、それに絡まる緑の風景に目を見張った彼は、山国谷を中国風に耶馬渓と記し、『耶馬渓図巻記』を描き、「耶馬渓山天下無」とたたえたのである。山陽が歩いたのは本耶馬渓そのもの。山国川の岸辺に競い立つ秀峰と、そこにうがたれた洞門は、彼をして驚嘆せざるを得ぬ景色であったに違いない。岩肌にはりつく蔦も紅葉。13:28わずか10数分の散策であったが日本新三景を堪能した。この辺りが、公共駐車場であろう、次の「角牟礼城」へ向かう。 ー 続く ー
2022.01.31
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中津城天守から下り、公園内にある神社に参拝。11月18日(木) 12:33中津城公園(公園地)ご案内 ① 中津城(奥平家歴史資料館) ② 黒田官兵衛資料館 ③ 独立自尊碑 ④ 城井神社(きいじんじゃ) ⑤ 扇城神社(せんじょうじんじゃ)中津城公園にはたくさんの神社がある。西南の役 中津隊 百年祭記念碑歌碑説明壮士悲秋歌並反歌 増田 太郎壮士と名に負ふ吾も 正心夫と於もへる吾もひさ形の空に向いて 野千玉の月を悲しみ白露の身にしむ夜半に 秋風の彳(たたず)み居つつ荒砂の袖しぼるべき時は来にけり反 歌照る月の影をゆゝしみ剣太刀とりてぞしぬぶ 秋の夜な夜な 楳谷安良 明治十年八月二十二日 日向国三四〇二千幾年か於も比こめにし真心を 都つしの国に今盡す南利裏面の碑文に曰く今年三月三十日、中津隊決起百年祭を仕へまつりその献詠の中に 雄々しくも健き思ひや やさしくもまた香細(かぐ)はしき 大丈夫の君が詠み歌 眼交につね顕(た)ち給ふ 大丈夫の君が面影輪と追慕景仰の思を籠め参りしが に秋季百年大祭を仕へまつるに当り、隊長増田宗太郎、副隊長梅谷安良両先生の国風を夫々自筆のまま拡大して石に刻し、挙げてわが中津隊一統の真精神を永く後毘に傳へんと志し之を建つ 昭和五十二年九月吉日 西南之役中津隊百年記念顕彰会昭和五十二年(1977) 九月吉日に建立された石碑。石碑には、隊長増田宗太郎、副隊長梅谷安良両先生が書かれた字が夫々自筆のまま拡大して石に刻まれている。以下二枚の写真は、鹿児島市の南洲墓地にあった墓碑。今回の旅で11月16日(火)に訪れた南洲墓地の左隅に、中津隊士之墓があった。中津隊士(大分県)増田宋太郎 明治10年9月4日 米倉の戦い(現鹿児島市役所附近) 28歳。増田の率いる中津隊は、薩軍の戦況不利な明治10年3月末大分県中津で挙兵し、薩軍に投じた。中津隊員は80余名が参戦、戦死者は22名にのぼった。城井神社(きいじんじゃ)扇城神社(せんじょうじんじゃ) の道案内。城井神社(きいじんじゃ)中津城で黒田官兵衛に誘殺された宇都宮鎮房は、この地に埋葬されました。宝永2年(1705年)に中津藩主・小笠原長円が「城井大権現」として祀るようになりました。石柱には、「治國安民」、「敬神尊皇」と。城井神社の扁額、「城井神社」。城井神社(きいじんじゃ)御祭神 宇都宮鎮房(しげふさ)城井谷城主宇都宮家は、信房より鎮房に至る十八代およそ四百年の間豊前国守として徳政を強いた。天正十五年(1587)七月豊臣秀吉は九州平定にあたり豊前六郡を黒田孝高に、二郡を毛利勝信に与え、鎮房には四国今治(十二万石)移封の御証判を与えたという。鎮房は累代の墳墓の地に安堵を願い、このご朱印状を返上したため、宇都宮一族は黒田孝高、長政と豊前の地で死闘を繰り返すこととなり、黒岩山合戦(峯合戦)では長政を敗退させた。そこで秀吉は孝高と謀り所領安堵を条件として長政と鎮房の息女千代姫(鶴姫)との婚を約し和睦した。天正十六年(1588)四月二十日鎮房は中津城に招かれ酒宴の席で謀殺された。宝永二年(1705)小笠原長円は小社を建て城井大権現として崇め、その後幾度かの変遷の後城井神社として改められた。 中津市城井神社の右側に鎮座する「扇城神社」。中津城で黒田官兵衛に誘殺された宇都宮鎮房の従臣が祀られています。宝永2年(1705年)に中津藩主・小笠原長円が宇都宮鎮房を「城井大権現」として祀るとともに、従臣を稲荷大明神として祀ったことがはじまりです。末社扇城神社扇城神社(せんじょうじんじゃ) 宇都宮鎮房公従臣四十五柱天正十六年(1588年) 宇都宮鎮房公従臣は、庶子空誉上人(鎮房公と静の方の間に生まれた)の、合元寺に止め置かれ、鎮房公は小姓松田小吉を伴い中津城内の館で謀殺された。異変を知った家臣軍は次々に城中に駆け入り、龍が荒れるように戦った。小姓松田小吉は十九人に手傷を負わせ京町筋で討死、野田新助・吉岡八太夫は手傷を追い広津広運寺まで切り抜け追腹、その他二士は合元寺門前に遁れ戦い遂に庫裏にて討死、その他はことごとく討死した。家老渡辺右京進は七、八人を薙ぎ伏せたという。松田小吉は小吉稲荷として京町に、野田新助・吉岡八太夫は広運寺にそれぞれ埋葬され、その他の従臣の遺体は寄せられ城内乾の上段、この地に埋葬された。宝永二年(1705) 小笠原長円公は広運寺追腹の二士を小吉稲荷大明神とともに祀った。その後変遷。城井神社再興後、大正九年(1920年)四月二十日、鎮房公従臣四十五柱を境内末社として祀ったのである。 中津市 中津の郷土史を語る会 扇城神社 御祭神四十五柱 奉納 豊前市中川底 高城 鈴恵 平成二十五年十二月吉日中津城公園の西側を流れる中津川河川敷に大きな石燈籠が建つ。一段高いところに「金刀比羅宮」。社殿内には、「金刀比羅宮 海上安全 大漁満足」 社殿内に扁額、「金刀比羅宮」が掲示されていた。また大きなタイ?の山車。芭蕉句碑右奥に、城井神社が鎮座。石碑には「蛙飛込 古池や 水の音」。芭蕉句碑貞享三年(1686) 春に深川芭蕉庵で詠まれた句宝暦三年(1753) 池大雅が自性寺を訪ねた時に揮毫したといわれる『諸国翁墳記』に、「古池塚 豊前中津ニアリ 門人等建」とある。手水舎があったがコロナ感染で閉鎖中。黒田官兵衛資料館、天守閣、大鞁櫓(だいひやぐら)、が並ぶ。大久保麑山先生記念碑大久保麑山(げいざん)先生の碑。中津藩士大久保麑山は中津藩で陣道具奉行、三百間砲台守隊長、藩校進修館助教を歴任し、廃藩置県後は片端中学校の教師となっています。晩年、文部省よりその功績が認められ、特別功労者として六国史及び硯石を賜りました。奥平神社、天守閣、大鞁櫓(だいひやぐら)、黒田官兵衛資料館が並ぶ。中津城第一駐車場の南側に建つ石造りの鳥居。中津神社中津大神宮の南西に隣接し、中津城本丸下段の松の御殿跡にご鎮座しております。 明治16年、六所神社・丸山神社(義氏社)・稲荷神社・蛭子神社・八幡大江神社のご分霊を合祀し、中津神社と称し、鎮祭された。中津神社で7月に斎行される例祭は、中津祇園と称し大分県指定無形民俗文化財となっている。御神輿と祇園車と呼ばれる漆塗りの華麗な山車7台が町々をまわり、辻々では祇園車の上で踊り等が披露され、夜は境内で勇壮な「練り込み」が行われます。中津市を代表する祭りのひとつとして氏子はもとより、市内外より多くの参拝者で賑わう。流造りの本殿、拝殿、神輿庫等がある。御祭神 素盞鳴尊 応神天皇 仁徳天皇 ほか十三柱独立自尊碑他人に頼ることなく、自らの力で事を行い、自己の人格・尊厳を保つという福沢諭吉の言で、福澤家の意志に沿って建立されたもの。慶應義塾の基本精神。独立自尊碑の下に、ネコ。 石垣の上に像が立つ。小幡英之助先生銅像小幡英之助先生は、日本歯科医師第一号。小幡英之助先生銅像小幡英之助は嘉永3年(1850)8月10日、奥平藩士小幡孫兵衛の長男として中津殿町(現:新中津市学校)に生まれました。中津市小幡記念図書館に名を残す小幡篤次郎は叔父にあたります。篤次郎は福沢諭吉を終始補佐した人物で、明治2年、英之助は篤次郎について慶応義塾に入塾しました。その後篤次郎の勧めで中津出身の医師、佐野諒元に医術を学び、明治5年、横浜の医師、近藤良薫に外科医術を学びました。英之助は技工に秀でていたため、西洋歯科医術を勧められ横浜のアメリカ歯科医師エリオットに入門を許され、明治7年には、エリオットに同行して上海に渡りました。明治8年、帰国した英之助は東京医学校(現:東大医学部)に口中科ではなく、「歯科」の試験を自ら出願し、我が国初の「歯科」での医術開業試験が行われました。日本で歯科医師免許取得者第一号となったのです。東京京橋区で開業し、多くの門下生を育て、明治42年に病没。大分県歯科医師会は日本歯科医師先覚者の業績と遺徳を継承するため、小幡門下並びに、広く全国の有志の後援を得て昭和12年この地に胸像を建立しましたが、戦時下の金属拠出に会い、現在の銅像は昭和41年に再建されたものです。 中津市教育委員会三斎池(さんさいいけ)細川忠興の号 ” 三斎 ” の名を冠して「三斎池」と名付けられた池。三斎池(さんさいいけ)慶長五年(1600)関ヶ原の戦などの功によって黒田長政は筑前五十二万石となり、如水とともに中津を去った。黒田氏の後には、細川忠興が豊前一国と豊後の国東・速見の二郡の領主として入部した。忠興は最初中津城を居城とし、弟の興元を小倉城に置いた。慶長七年忠興は、居城を小倉城に変更した。元和六年(1620)家督を忠利に譲り、忠興は三斎と号し隠居した。翌七年三斎は中津城に移り、中津城や城下町の整備を、黒田氏の後を引き継いで行った。この時、城内の用水不足を補うため、城内への水道工事を行った。工事は、山国川の大井出堰(三口)から水道を城内まで導く大工事であった。その水をたたえたのがこの池であり、鑑賞や防火用水としても使用された。忠興の号 ” 三斎 ” の名を冠して「三斎池」という。現在は、中津上水道を引いている。 中津市教育委員会 中津の郷土史を語る会 12:45豊前・豊後 周遊MAP中津城の散策を約1時間行い、次の「角牟礼城(つのむれじょう)」へ向かうことに。カーナビをセットし、国道212号を南西方向へ進む。12:53角牟礼城の途中にある「青の洞門」へ立ち寄ることに。 ー 続く ー
2022.01.30
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中津城の天守閣へ登る。現在の天守閣は、昭和39年(1964)旧藩主奥平家が中心となり、中津市民からの寄付も合わせて天守閣を建造。奥平家の歴史資料館として中津市民に愛され続けている。11月18日(木) 12:15一階のスタンプ捺印場には他の方が訪れていた。徳川家康公 没後400年 特別記念展示品左側:大水牛脇立熊毛植黒糸威具足、右側:紺糸威金溜塗仏胴具足。大水牛脇立熊毛植黒糸威具足徳川家康公着用写(レプリカ)天文11年(1542年) — 元和2年(1616年)徳川家康公が着用した具足の写(レプリカ)です。兜は水牛の角をかたどり、具足全体に熊の毛を植え付け、黒い糸で威(おど)しています。全身真黒の中に、真紅の面頬がいかにも鮮やかで、こういった奇抜な意匠は、戦国時代以降に流行した当世具足の特徴をよく示しています。神君家康公の遺品として、御三家の尾張徳川家で大切にされ、江戸時代には名古屋城小天守内に特別の場所を設けて安置してありました。 徳川美術館蔵紺糸威金溜塗仏胴具足松平元康(徳川家康)公着用写天文11年(1542年) — 元和2年(1616年)奥平忠昌公(おっくん)の曾祖父である徳川家康公(ひーじじ)が、永禄3年(1560年)、まだ19歳の若武者で「松平元康」と名乗り、今川方の傘下として織田家と刃を交えた際(桶狭間の戦いの前哨戦)に、着用したとされる甲冑のレプリカです。当時は敵の織田信長公も賞賛した、その鮮やかな戦いぶりから縁起が良いとされ、徳川家の家宝として代々伝わるものです。紺糸威金溜塗仏胴具足(こんいとおどしきんためぬりほとけどうぐそく)、通称、大高城兵糧入具足と言います。中津城歴代城主一覧。写真は「館長伯爵奥平昌恭氏」NHK 朝ドラ「花子とアン」と奥平家仲間由紀恵さん演じる葉山蓮子のモデルである柳原白蓮と伊藤右衛門(ドラマ/嘉納伝助)の離婚の仲介役をし、記者発表を行ったのは、写真の奥平家十六代当主の奥平昌恭伯爵(最後の藩主奥平昌邁公の長男)である。白蓮の兄、柳原義光伯爵(ドラマ/葉山晶貴伯爵)とは従兄弟の関係であり、二人は伊達宗城公の孫にあたる。また共に貴族院議員を務め、年齢も1歳違い。そんな関係から仲介役となったのでしょう。奥平旧伯爵家の椅子長篠合戦図六幅掛軸長篠合戦時に使用された、「火縄銃」、「自鳴の法螺貝」奥平信昌公率いる500名の将兵が長篠城に籠城中、なんと不思議な事にこの法螺貝が勝手に鳴り出したのであった。そのため兵たちが吉兆の印だとして喜び、その士気は多いに高まったと伝わる。今も長篠の戦いの時期(武田軍が長篠城を包囲した ・・・・・後略)。天守二階から東側にある「中津市民プール」。⑩ 福澤諭吉『蘭学事始』を復刻 復刻版によって明らかになった良沢の功績 福澤諭吉(1835~1901) 諭吉は、辞書も無い時代に良沢が江戸中津藩中屋敷にて大変な苦労をして翻訳 したことを踏まえ、1858年、オランダ語塾を江戸中津藩中屋敷跡に設立。 1868年、移転の際、当時の元号が慶応だったことから慶応義塾(後の慶應義塾) と改称する。 『蘭学事始』を2度復刻版に 慶応義塾設立から十数年経った後、『蘭学事始』を偶然発見したことから、復 刻・再販を行った。 1869年『蘭学事始』として復刻 玄白が耕牛に序文を依頼したと思われる文章が『蘭学事始』に記載されていた。 これにより、良沢が翻訳の盟主として携わっていたことが明らかとなった。 1890年 再復刻された『蘭学事始』 福澤諭吉は、友人の医務局長・長与専斎の依頼で、更に1890年に再復刻。 その際『蘭学事始 第二版』の序文を書いた。 福澤諭吉の序文 「我々は、之を読む毎に先人の苦心を察し、其剛勇に驚き其誠意誠心に感じ 感極まりて泣かざるはなし」⑪ 前野良沢の人柄 前野良沢の趣味『一節截(ひとよぎり)』 一節截は鎌倉時代頃から始まった竹の笛(縦笛)で、尺八の原形とも言われてい る。良沢は大森宗勲流の名人と言われ、中津の親戚の築次正に伝授。 次正は更に中津の医師達にも教えて当時の中津にも広まった。 一切截は、飛鳥、奈良、平安時代と続く尺八を原形として、鎌倉から江戸の 元禄あたりまで、様々な階層の人達によって盛んに吹き伝えられ、”中世の竹 笛” と呼んでもよい、優れた日本の民俗楽器の一つである。 前野良沢の自然思想 人間が自然界の一部を 支配したりする事ができると 非常に傲慢になって 自分 の独力でしたように思う 自分の力は 自然の力の一部という 謙譲の心が重要である 福永光司 京都大学 人文科学研究所 元所長 訳注⑫ 奥平昌高 良沢から蘭学を学ぶ 奥平昌高(1781~1855) 中津藩主4代目・昌男は、1786年24歳で天折し、後継ぎの男児がいなかったため、薩摩藩・ 島津重豪の次男、富之進(後の5代藩主・奥平昌高) 6歳を12歳と称して跡目を継がせ奥平藩 はお家断絶を免れた。薩摩藩25代藩主・島津重豪(昌高の実父)の政治教育姿勢を学び中津に 藩校「進脩館」を創立し蘭学への情熱を継承。 昌高は父親の蘭学を学ぶ姿勢からも大きな影響を受け、中津藩に着任してからも前野良沢 に蘭学を学んだ。昌高はオランダ商館長(カビタン)ヘンドリック・ドゥーフから ”フレデリ ック・ヘンドリップ” のオランダ名を貰うほどオランダ学問に熱心であった。⑬ シーボルトと昌高の交流 フィリップ・シーボルト(1796~1866) ドイツのヴュルツブルグ生まれの医師。1823年、オランダ商館付医官として出島に赴任。 1824年、鳴滝塾を設立。 美馬順三、高野長英、小関三英らの門人に医学、博物学を講義。『日本博物誌』『日本』 『日本植物誌』を出版し、日本の植物、文化、動物を世界に紹介した。 1826年、江戸参府中に中津藩主・奥平昌高と頻繁に交流。 1826年2月15日、長崎出島を出発し江戸参府後、7月7日に出島に帰着するまでの日記。 江戸では頻繁に奥平昌高と交流、日記に記された人名の内、昌高の名前が最多数の26回 登場する。医師では高良斎、二宮敬作が同行。画家は川原慶賀。 植物、動物、文化情報を収集した。 ⇒ 昌高とシーボルトの親交の深さが伺える 1828年、シーボルト事件勃発。翌年、国外追放となる。 1828年、積荷の中に日本地図などの禁制品が発見されシーボルト事件が起こった関係者 50人が逮捕処罰され、1829年、国外追放となった。⑭ シーボルトの弟子と娘 二宮敬作がシーボルトの娘・イネを養育。 二宮敬作(1804~1862) 1804年 宇和島藩磯津に出生。 1819年 吉雄塾にて蘭学を学び後にシーボルトの高弟となる。 1826年 シーボルトの江戸参府に同行、富士山を測量 1828年 シーボルト事件に連座、入獄3年。宇和島藩卯之町で開業し、シーボルトの娘・ イネを養育、高野長英を匿った。 1859年 シーボルトと30年ぶりに再会。シーボルトとイネも再会、感涙したと言われている 1862年 長崎にて死去 イネ、日本最初の産科女医となる。 産科女医となったイネを福澤諭吉が宮内省産科医に推薦。 明治天皇の第1男児を取り上げた。(シーボルト資料館蔵)。南方向の、大鞁櫓(だいひやぐら)を見下ろす。たにし祭の写真を展示長篠の戦い 武田軍 対 奥平・織田・徳川連合軍 「たにし祭」 毎年5月第3土曜日開催 お堀の田螺を食べ飢えに耐え奥平の勝利12:23天守閣の最上階に登る。いろんな眺望写真が掲示されていた。南方向の山々の絵図。南西方向の中津川、山国川を望む。下の瓦屋根は中津大神宮。後方は県道108号線の山国川に架かる山国橋。この辺りで山国川は中津川と分岐。手前の橋は中洲「小祝(こいわい)島」への「小祝橋」。南方向の、大鞁櫓、奥平神社境内と後方に駐車場。車を駐車している中津城第一駐車場、右側に、中津神社の杜。北西方向を望む、下は中津川、後方の堰堤は山国川。山国川の先の煙突は、田辺三菱製薬・吉富工場。北方向の中津川下流、海は周防灘。中津川に架かる「龍王橋」。東方向中津市民プール、中津法務総合庁舎。南東方向露出をかえてズームアップ。上記写真の方向だが最上階から4階を見下ろす。歴代藩主の甲冑が多く展示されている。手前は、第十一代昌高公、十二代昌猷(まさみち)公の甲冑。天守前から奥平神社社殿を見下ろす。北側の駐車場から、模擬天守。昭和39年(1964)、旧藩主の子孫奥平昌信氏が中心となり本丸北東隅に模擬五重天守、その南側に復興二重櫓を建てた。奥平神社奥平神社の扁額「奥平神社」。奉〇 仙千代君 明治十一年十一月 福澤諭吉 莫由生戦死酬恩。 総髻首埋黒屋村 誰識当年濺袖血。 滴余今尚潤家門生きて戦うに由莫(よしな)く、死して恩に酬(むく)ゆ。総髻(そうげい)の首は埋む黒屋邨(むら)誰か識らむ当年袖に濺(そそ)ぎし血の、滴余(てきよ)今尚を家門潤さむとは。三社宮 奥平神社御祭神 貞能霊神 智勇の神 信昌霊神 開運の神 家昌霊神 天徳除災の神 仙丸君霊神 護国の神略 記 御祭神は人皇第六十二代村上天皇の皇子具平親王(村上源氏)の後裔なり、享保二年中津城主 奥平昌成公、五穀豊穣、世の泰平を祈念し豊前一円の守護神として奉祀す。大正五年内務省 は大分縣々社に列す。御神徳 学問、開運、交通安全、無病息災、家内安全 祭典日 元旦祭 一月一日 祈年祭(春祭) 三月二十日 例大祭 五月二十日・二十一日 新嘗祭(秋祭) 十一月二十八日 除夜祭 十二月三十一日武運と戦勝 奥平神社御由来ご神体は、奥平家中興の祖 奥平貞能・信昌・家昌公三柱の御祭神をお祀り申し上げております。のちに宇都宮城(栃木)を経て宮津城(京都)から入城した七代目 奥平昌成公は中津城入城の翌年享保三年正月(1718)、城内二の丸にあった観音院を祈祷所と改称し、十一代目昌高公が天明七年(1788)、祈願所を長福寺と改名いたしました。現在の中津裁判所がその旧敷地であります。ご祭神の貞能・信昌・家昌公三公は永禄三年(1561)より元亀・天正・文禄を経て慶長十九年(1619)に至る五八年間、幾多の戦功をたてられて徳川氏に忠節を尽くしてきました。特に奥平家二代目の信昌公は関ヶ原の合戦後、初代京都所司代として綱紀を振るい凶賊から庶民を護りました。後世武士(もののふ)の鑑(かがみ)として徳川三百年の礎を築き、人々から義勇と武功を称えられました。境内の紅葉が進んでいた。12:33中津大神宮 豊前の国のお伊勢様中津大神宮由緒記 御祭神 天照皇大神・豊受大神ほか二柱明治十四年九月伊勢ノ神宮御分霊を奉迎鎮祭し、神宮豊前教会として御鎮座。明治三十二年神宮教解散、神宮奉斎会設立により、神宮奉斎会中津支部と改称、神宮大麻と神宮暦領布業務を担当、豊前の国(企救・田川・京都・仲津・築城・上毛・下毛・宇佐)総しづめの社として、また、豊前の国の「お伊勢様」としてあまねく人々の崇拝をあつめ、その後、幾多の変遷を経て昭和二十一年四月中津大神宮として今日に至る。また、奉拝殿の格天井には創建当時の崇敬者の手による天井絵216枚が奉納されている。 中津市 中津の郷土史を語る会中津大神宮の扁額「天照皇大神」。御祭神 天照大御神当神宮には天照大御神がお祀りされています。「古事記」によると、伊邪那岐命という神さまが、黄泉(よみ)の国での穢れを祓うために禊ぎをした時、多くの神々を生み、最後に天照大御神・月讀命・須佐之男命という神さまが生まれました。伊邪那岐命は「最後にとても尊い神々を生んだ」と大変喜ばれ、天照大御神に神々の国である高天原を治めるようにとおっしゃいました。これにより、天照大御神は神々の世界を治める神さまとなるのです。 ・・・・・中略・・・・・当神宮は、皇室の祖先神であり日本の最高神の天照大御神をお祀りしていることから、広く人々より慕われ、厚く崇敬されています。 中津大神宮 — 続く ー
2022.01.29
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今日最初の主目的地「NO.191 中津城」へ登城。中津城は、豊前国中津にあった日本の城。黒田孝高が築城し、細川忠興が完成させた。 大分県指定史跡。享保2年(1717)からは、奥平家が居城としていた。11月18日(木) 12:00中津城第一駐車場所在地:大分県中津市二ノ丁1273-1中津神社の前にある普通車・大型バス対応の広い駐車場で無料、トイレも併設。中津城公園(公園地)のご案内 ① 中津城(奥平家歴史資料館) ② 黒田官兵衛資料館 ③ 独立自尊碑 ④ 城井神社(きいじんじゃ) ⑤ 扇城神社(せんじょうじんじゃ) 黒田時代の典型的な穴太積みの石垣が見れます ◎ 細川・黒田の石垣中津城公園のご案内(配置図)散策コースとして、「石垣コース 徒歩 15分 900m」 「お堀コース 徒歩 7分 400m」中津城旧地図 中津城の歴史中津城旧地図城内の神社、門跡等の配置図、下は4家の家紋。中津城の歴史黒田時代 天正十五年(1587) 黒田孝高が豊前六郡(123千石)の領主となる 天正十七年(1589) 孝高隠居して如水とと号す。長政(甲斐守)が封を継ぐ。 ・・・・・ 慶長五年 (1600) 11月黒田氏、筑前52万石に封じられ福岡へ移る。細川時代 慶長五年 (1600) 12月細川忠興が豊前一国、豊後二郡32万石の領主として 中津に入る。 ・・・・・ 元和七年 (1621) 忠興は家督を忠利に譲り中津隠居城に(6万石)に移る。 寛永九年 (1632) 10月細川氏、肥後54万石に封じられ熊本に移る。小笠原時代 寛永九年 (1632) 12月小笠原長次が中津8万石の藩主として中津に入る。 ・・・・・ 正徳三年 (1713) 長邕が封を継ぐ。 正徳六年 (1716) 長邕没す(7才)後嗣なく幕府へ領地(4万石)返還。 長興(5才長邕の弟) 1万石で播州安志へ移る。奥平時代 享保二年 (1717) 奥平昌成が10万石の藩主として中津城へ入る。 ・・・・・ 天保五年 (1834) 福沢諭吉、大阪堂島の中津藩蔵屋敷で生まれる。 ・・・・・ 慶応四年 (1868) 昌邁(まさゆき)が跡を継ぐ。奥平神社、中津大神宮の鳥居が建つ。七五三のお詣り駐車場の東側に立つ「独立自尊碑」。福澤諭吉の偉業を称え、明治37年(1904) 福澤家のご遺志に沿って、中津城公園に記念碑を建立しました。当時は公園地中央にありましたが、昭和7年(1932)に現在の位置に移設された。独立自尊碑の右側に、黒御門跡の石垣。中津市指定文化財 歴史資料「独立自尊碑」 福沢諭吉が唱えた言葉 日下部鳴鶴(東作)の書中津城天守閣(奥平家歴史資料館)・黒田官兵衛資料館 →← 中津市歴史博物館大手御門跡に建つ鳥居。黒御門跡扇形の石垣本丸南東隅に位置する小さな鳥居がある入口は、「椎木門跡」です。絵図①をみると、入って西側正面は塀でふさがれ、北側に折れて門をくぐるという「枡形虎口」の構造だったことがわかります。正面をふさぐ塀は細かい線が多数書き込まれていることから、平瓦と練土を交互に積み上げた練塀だったのではないかと考えられます。また絵図①では、椎木門をくぐると扇形に弧を描く石垣が描かれていますが、これは他の絵図にも見られます。幕末の絵図②では、扇形の石垣内に2つの入口が描かれています。赤で囲んだ部分がこの説明板の正面の入口です。足元や石垣の側面に扉が取り付けられていた痕跡を⑤に見ることができます。細川時代に中津城は大改修が行われ、1620年頃に8つの門と22の櫓が完成しました。扇形の石垣は小笠原時代の1663年の絵図にも描かれており、1620~1663年の間には築かれていたと考えられます。その後さらに改修の手が加えられました。この周辺の石垣には、川沿いの黒田時代の石垣にみられる7世紀の山城の石(直方形)が使用されています。また石の中には文字が刻まれたものがいくつかあります。「田」「井」「△」などで、同様のものは他の場所でも見ることができます。いずれも改修工事が行われた部分で、同じ字体であることから、石垣改修年代の手がかりになるかもしれません。これらの文字は石工たちが記した記号と思われますが、その目的は不明です。黒御門跡から天守閣へ進む。三斎池(さんさいいけ)三斎池(さんさいいけ)慶長五年(1600)関ヶ原の戦などの功によって黒田長政は筑前五十二万石となり、如水とともに中津を去った。黒田氏の後には、細川忠興が豊前一国と豊後の国東・速見の二郡の領主として入部した。忠興は最初中津城を居城とし、弟の興元を小倉城に置いた。慶長七年忠興は、居城を小倉城に変更した。元和六年(1620)家督を忠利に譲り、忠興は三斎と号し隠居した。翌七年三斎は中津城に移り、中津城や城下町の整備を、黒田氏の後を引き継いで行った。この時、城内の用水不足を補うため、城内への水道工事を行った。工事は、山国川の大井出堰(三口)から水道を城内まで導く大工事であった。その水をたたえたのがこの池であり、鑑賞や防火用水としても使用された。忠興の号 ” 三斎 ” の名を冠して「三斎池」という。現在は、中津上水道を引いている。 中津市教育委員会 中津の郷土史を語る会 三斎池の東側にある庭園の石燈籠。見上げると紅葉。地蔵菩薩左側の社の貼り紙「大変申し訳ございません。故障の為、使用出来ません」と。高輪地蔵の由来徳川家四代将軍家綱の頃(明暦二年 1656)奥平家は東京高輪南町に下屋敷を賜った。その頃も現在と変わらず隣との地境争いは頻繁であり、奥平家下屋敷も隣藩との境界争いとなっていた。しかし裁き所で証人として出た隣藩の名も知れぬ家臣は正直に「ここまでは我が藩の屋敷だが、そこからは奥平家の土地である。」と堂々と証言したと伝えられている。これに腹を立てた上司達は即刻彼を死罪にし、奥平の屋敷内に亡骸を投げ入れたという。中津藩主四代忠昌公はこれにとても心を痛め懇ろに供養し、この家臣を地蔵菩薩として地蔵堂に納め終生お参りをした。大地の神、地蔵菩薩は屋敷神として古より尊ばれ受け継がれ、このたび新たな使命に燃えてここ中津城本丸に移る。地蔵菩薩のご利益大地を司る財宝神・慈悲の菩薩・子授け・子供の健やかな成長祈願いかなる災害をも除き延命を助ける。あらゆる分野で人々の切なる願いを満たしてくれる無上の存在です。 地蔵の縁日 七月二十四日 御日は毎月 二十四日 唱えことば 唵訶訶訶尾娑麼曳娑嚩賀(オンカカカビーサンマーエイソツカ) 平成九年四月 日本石佛協会 会長 大護八郎 イチョウの黄葉とカエデの紅葉。銀杏は落ちていなかった。正面に奥平神社、天守閣奥平神社の前に石灯籠が多数並ぶ。旧中津藩主 奥平家奥平家が歴史の表舞台に登場したのは、奥平家初代貞能と貞昌(後の信昌)父子の頃からで、天正三年五月(1575)の史上名高い「長篠の戦い」において貞能・貞昌父子が活躍しました。武田勝頼軍一万五千人によって長篠城が包囲され、長篠城主貞昌は僅か五百人で籠城、激しい攻撃に耐え続けました。落城寸前に織田信長・徳川家康連合の援軍が到着、長篠城の西方約三キロの設楽原で、織田・徳川連合軍と武田軍が激突、武田軍は織田・徳川軍が築いた馬防柵や大量の鉄砲の前に大敗北しました。この長篠城籠城の功で貞昌には新たな領地が与えられたほか、信長からは「信」の一字が偏諱され名を信昌と改め、家康の長女亀姫を正室として迎えました。信昌と亀姫の間には家康にとって孫となる四男一女が生まれ、長男家昌は奥平家を継ぎ、二男から四男は松平の姓を賜りました。四男の松平忠明は大坂城や姫路城の城主を務めています。奥平家は長篠の戦いの後、新城城(愛知県)、加納城(岐阜県)、宇都宮城(栃木県)、宮津城(京都府)などを経て享保二年(1717)奥平家第七代昌成が中津十万石の領主として中津城に入りました。第十五代昌邁(まさゆき)までの155年にわたり中津を治め、明治維新・廃藩置県を迎えました。その間、第九代昌鹿、第十一代昌高などは、蘭学史上特筆すべき功績をあげています。当地の奥平神社では、長篠城籠城中に食料がなくなり「たにし」などを食べて戦い続けたことにちなみ、毎年五月二十一日頃に「たにし祭」を行っています。現在、中津城天守閣内に資料館として「長篠合戦図」、家康から贈られた「白鳥鞘の鑓」や「歴代藩主の甲冑」など、重宝が展示・公開されています。 中 津 市 観 光 課 中津市歴史民俗資料館 中津の郷土史を語る会武運と戦勝 奥平神社御由来ご神体は、奥平家中興の祖 奥平貞能・信昌・家昌公三柱の御祭神をお祀り申し上げております。のちに宇都宮城(栃木)を経て宮津城(京都)から入城した七代目 奥平昌成公は中津城入城の翌年享保三年正月(1718)、城内二の丸にあった観音院を祈祷所と改称し、十一代目昌高公が天明七年(1788)、祈願所を長福寺と改名いたしました。現在の中津裁判所がその旧敷地であります。ご祭神の貞能・信昌・家昌公三公は永禄三年(1561)より元亀・天正・文禄を経て慶長十九年(1619)に至る五八年間、幾多の戦功をたてられて徳川氏に忠節を尽くしてきました。特に奥平家二代目の信昌公は関ヶ原の合戦後、初代京都所司代として綱紀を振るい凶賊から庶民を護りました。後世武士(もののふ)の鑑(かがみ)として徳川三百年の礎を築き、人々から義勇と武功を称えられました。天守閣、右に「大鞁櫓(だいひやぐら)」大鞁櫓(だいひやぐら)城主の馬具等を格納するところ。現在の天守閣は、昭和39年(1964)旧藩主奥平家が中心となり、中津市民からの寄付も合わせて天守閣を建造。奥平家の歴史資料館として中津市民に愛され続けている。昭和39年に旧藩主の子孫奥平昌信氏が中心になり再建した模擬五重天守。中津城(奥平家歴史資料館)水城 奥平 続日本100名城 中津城日本三水城(日本名城大図鑑)■ 中津城(大分県中津市) 中津川河口周防灘に臨む 築城者:黒田 孝高 築城年:天正16年(1588)■ 高松城(香川県高松市) 瀬戸内海に臨む 縄張 黒田孝高 築城者:生駒 親正 築城年:天正18年(1590)■ 今治城(愛媛県今治市) 海浜平城来島海峡に臨む 築城者:藤堂 高虎 築城年:慶長7年(1602) 大鞁櫓前から天守閣(奥平家歴史資料館)入口。開館時間:9:00~17:00 (入館は16:40まで)休 館 日 :年中無休入 城 料 :大人 400円、中津市民は50円引き、シルバー割引:77歳以上は無料。登城券 350円を支払ったが、中津市民と間違えられたか。1717年(享保2年)、第八代将軍徳川吉宗公から西国の抑えを期待され、徳川御連技奥平家第七代奥平昌成公が豊前中津に入府。丹後宮津から1万石加増の10万石での栄転であった。以後、1871年(明治4年)に奥平家十五代昌邁公が廃藩置県を迎えるまで、154年間に渡り中津奥平藩主居城として城下町中津の繁栄を見守り続けた。廃藩置県の際、藩士福澤諭吉の進言により城内のほとんどの建造物が破却され、御殿だけが小倉県中津市長舎として存続。しかし、1877年(明治10年)の西南戦争の際、その御殿も焼失してしまった。天守内に入りまずスタンプを。スタンプを頂きました。認定証「中津城殿」歴代藩主の甲冑戦場での扇等の展示。中津城の北側にある駐車場、左は中津川。歴代藩主の甲冑が多く展示されていた。手前は、第十一代昌高公、十二代昌猷(まさみち)公12:15第35代横綱双葉山 定次の展示コーナー。双葉山が大関時代の化粧回し。化粧回伯爵奥平昌恭公が、双葉山(中津出身)の大関時代に贈った化粧回しで、双葉山は横砂昇進後昭和十三年奥平神社に奉納。双葉山の手形に合わせる旅友のゴツイ手だが。写真は、心技とも全盛期の双葉山。露払いは羽黒山、太刀持ちは名寄岩。横砂双葉山関と父祖の地中津天下の名横砂・双葉山(本名・吉穐定次)は、明治四十五年(1912)二月、隣村の宇佐市下庄(布津部)で生まれ、生まれ育った家は、現在、双葉公民館として利用されています。双葉山の先祖は、もと中津藩の武家・内田氏で、代々刀匠・刀鍛冶を務め、苗字帯刀を許され、内田小三治淡路守と名のっていました。定次は、小学校を終えた十三歳のとき、伯父を頼って下正路の汐湯で手伝いをしていました。体格はずばぬけて大きく、力も強いうえ、誠実で実力があることから、毎日汐湯に入浴するお年寄りたちに評判の少年でした。そのうち、お年寄りの有志や角力(すもう)びいきの県の役人、警察部長、安藤氏、中野氏、横松氏などの肝いりで蔵前の東京角力に入門し、みんなの期待通りぐんぐんと成長し角界未曽有の六十九連勝(横砂二十六連勝)の大制覇をしたことは不滅の輝きです。五十余年前、少年双葉山が風呂の火をたいたり、父と共に回漕の船をこいだ所は護岸工事でなくなりましたが、横砂の化粧まわしや写真、筆をふるった扁額などが市内各地で大切に保存されています。また、国鉄、天津駅には「横砂双葉山生誕之地」の大記念塔が建てられています。中央の字は、「双葉山自筆の額」。 ー 続く ー
2022.01.28
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豊後高田昭和の町の散策を続ける。昭和を代表する女優の一人「浪花千栄子」。朝ドラ『おちょやん』のモデルにもなった浪花千栄子。11月18日(木) 10:53新町通り商店街にある、「ウエガキ薬局」所在地:大分県豊後高田市新町954懐かしい「浪花千栄子」の看板。昭和のお母さんと言えば浪花千栄子では。49 壺焼き芋 ふくいも所在地:大分県豊後高田市新町949-1「ふくいも」 人気メニュー 第一位 焼き芋シェイク \ 300 第二位 冷やし焼き芋 \ 300 第三位 焼き芋アイス \ 300 いずれも税込み価格10:55新町通り商店街と駅通りの角にある、「中野鮮魚店」。味付けされたものがありこのまま食べれる様であった。店先で見ているとおばさんが現れ、勧められたのでたので旅友が、手前の、「甲イカ塩焼 700円」を購入。他にも乾物類も販売。塩炒りピーナツ 500円/1袋、カエリイリコ(食べるイリコ) 500円/1袋。 豊後高田 昭和の町 ご案内豊後高田市の商店街は、江戸時代から明治・大正・昭和30年代にかけ国東半島一の賑やかな町として栄えていました。しかし高度経済成長を境に徐々に元気を失い、現在を迎えています。豊後高田「昭和の町」は、そんな商店街に再び賑わいと元気をよみがえらせようと、平成13年9月に始まったまちづくりです。懐かしさが、ここにはまだ大切に残っています。貧しく不便でも生きる手ごたえがあったあの時代に一瞬でも思いを馳せていただければ、これに過ぎる喜びはありません。 町内商工案内図11:05昭和ロマン蔵大分県きっての大金持ちといわれた ”野村財閥” が昭和10年前後に米蔵として建てた旧高田農業倉庫を改修して作った施設「昭和ロマン蔵」。昭和ロマン蔵には、「昭和の夢町三丁目館」、「駄菓子屋の夢博物館」、「チームラボギャラリー昭和の町」の3つのミュージアムが入っています。昭和ロマン蔵北蔵、東蔵、南蔵に3つのミュージアムがある。● 駄菓子屋の夢博物館・チームラボギャラリー昭和の町・昭和の夢町三丁目館 営業時間 9:00 ~ 17:00 休 館 日 12月30・31日● レストラン 旬彩「南蔵」 営業時間 11:00 ~ 16:00 定 休 日 不定休 駄菓子屋の夢博物館駄菓子屋のおもちゃ 約六万点を展示した懐かしさあふれる博物館。館長 小宮裕宜(こみやひろのぶ)氏 昭和23年福岡県生まれ。” 昭和の町づくり ” メンバーの強い要望を受け、平成14年より 豊後高田へ移り込み「駄菓子屋の夢博物館」を開館。” 懐かし屋 ” の店長も兼任。駄菓子屋のおもちゃの所蔵では日本一の館長、小宮裕宜氏の30万点を超える収蔵品の中から、選りすぐりの6万点を展示した懐かしさあふれる博物館。チームラボギャラリー昭和の町 自分で描いた絵がスクリーンのなかで踊りだす。昭和の夢町三丁目館 昭和を体感! 目と耳と体で感じる 昭和の暮らし。● 昭和の商店ゾーン 懐かしの商店を眺めて、実際のお買い物もお楽しみください。 【懐かし屋】駄菓子屋、買い物できます 【昭和の町のおみやげ屋】豊後高田のおみやげを集めました 【夢町射的場】懐かしい射的が楽しめます● 昭和の教室ゾーン 昭和の頃の木製の机・椅子・黒板などを再現しました。 ● 教室レンタル料:3,100円/時間● 昭和の民家ゾーン(有料) 昭和30年代の民家を再現。朝・昼・夕・夜と入れ替わる空の景色を眺めながら、懐か しいあのころへタイムスリップしてください。旬彩 南蔵(しゅんさい みなみぐち) くにさき半島の旬の食材を味わえる和食レストラン。 ● 営業時間:11:00 ~ 16:00 ● 全 120席(テーブル) ● 喫茶のみの御休憩や特別な席にも是非ご利用ください。昭和ロマン蔵 入館料のご案内 営業時間 9:00 ~ 17:00 入 館 料 全館共通券 850円 駄菓子屋の夢博物館+夢町三丁目民家ゾーン 640円 チームラボギャラリー『昭和の町』 420円 いずれも大人料金行き先表示は、「ボンネットバス 日野BA14」、日野はいすゞでは?ナンバープレートは「福山230 さ・9 23」福山といえば広島県福山市だが。後方から、行き先表示には、「尾行歓迎 追突注意」福山自動車時計博物館現存最古の日野ボンネットバスBA14(昭和33年製)。北蔵の軒下に勢ぞろいしたクラッシックカー。左側は充電中の、EV車、ナンバーの付いたクラッシックカーも。昭和の町の顔になっているのが、昭和32年式のボンネットバス「昭和ロマン号」。レトロなデザインのバスに乗って「昭和の町ミニ周遊コース」でつかの間の時間旅行を、車掌さんのガイド付きで楽しむことができます。乗るだけでもワクワクする「昭和ロマン号」はなんと無料で乗車できます!。週末の土・日に15分程度運行している。昭和ロマン号はこうして出来上がりました。部品の一つひとつが手作りです。信じられますか?35年以上眠っていたボンネットバス。穴と傷だらけのボディが痛々しいですね。■ いすゞボンネットバス 型 式 BX141 年 代 1957年式(昭和32年) 全 長 8.310m 全 幅 2.430m 全 高 2.960m 再 生 福山自動車時計博物館(2009年)■ いすゞ BX141 の来歴 昭和32年 いすゞ自動車株式会社において車台が製造される 車台番号「57ーBX140ー411617」 株式会社北村製作所(新潟市)において車体が製造される 羽後交通株式会社(秋田県横手市)が購入、登録番号「秋2あ0155」 昭和44年 抹消登録 平成18年まで 秋田県大仙市内に保存 平成19年 福山自動車時計博物館が譲り受ける 平成21年 7月18日 昭和の町に復活復活!! 昭和32年式ボンネットバス 昭和ロマン号 職人のこだわりで完成した『いすゞ BX141 』型 いろんな部品を手作りで再生している。懐かしい、ダイハツのミゼットミゼット(Midget)は、ダイハツ工業が昭和32年(1957)から昭和47年(1972)まで生産・販売していた軽自動車規格の三輪自動車である。Midgetは英語で「超小型のもの」という意味の単語で、小型な車という想いを込めて名付けられた。私が小学校頃に始めてみた時はドアーがなくハンドルもバーハンドルであったような。綺麗に整備されているので運行しているのか?北 蔵北蔵の「昭和の夢町三丁目館」入口。館内では、大分県豊後高田特産品 地域の味自慢・技自慢 山・里・海の特産品販売南蔵にあるレストラン旬彩。昼時であったが、先を急ぐので今回もスルー。 11:15昭和の町は見るべきところは多々あったが、後の工程を考え45分程度の散策で後にした。この日の平日で観光客は少なかったが昼頃には多くなるのか。次の目的地をセット、中津城までは、26km、所要時間44分で、到着予定12時と。県道23号線(中津高田線)を北西方面へ進む。県道23号線(中津高田線)を進み、国東半島から宇佐市内へ。宇佐市は、大分県の北部、国東半島の付け根に位置する市。 全国4万社余りの八幡宮の総本宮・宇佐神宮があり、正月には全国からの参拝客でにぎわう。また本願寺別院も規模が大きく門前町を形成している。市内には他にも観光名所があり、県内有数の観光都市となっている。また、第35代横綱双葉山 定次は、宇佐郡天津村布津部出身である。人口は、 5.553万 (2017年3月1日)。11:40ダイハツ九州(株)所在地:大分県中津市昭和新田1番地ネットで調べるとモラハラが絶えないとの書き込みが多いが。中津日田道路 1⃣ 定留インタ入口。車中で先程旅友が購入した、「甲イカ塩焼」を食したが塩が効いていて美味しかった!ありがとうございました。更に県道23号線(中津高田線)を進むが、この辺りの海岸線(右側)には新しい工場群。11:48左側に道路標識、この先を斜め左方向へ進む。「福沢諭吉旧居 ← 3.7km」、「中津城 ← 3.8km」。中津市は、大分県の北西端に位置する市で、人口 8.47万 (2017年3月31日)。 ー 続く ー
2022.01.27
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熊野磨崖仏から今日の目的地の一つ「続日本100名城 中津城」の途中にある、かねてから行きたかった豊後高田にある、「昭和の町」をカーナビにセット。11月18日(木) 10:00熊野磨崖仏から県道655号線(新城山香線)を北上。国東半島は安山岩と凝灰岩が採れる石材の場所だけに浸食で奇抜な岩肌が。10:03熊野磨崖仏からしばらく県道655号線(新城山香線)を北上すると、左側にお出迎えの人の列!思わず車を止め停車。「ようこそ田染の郷へ 真木大堂へようこそ」と表示された多数のカカシが飾ってある。誰かおられるのかと思い探すが、どのカカシとも目が合わず。仕方がなく私が入り記念写真。傍では天高く花もお迎え。皇帝ダリアの大輪とつぼみ。奥に小さな社殿。県道655号線脇の標高:118.3m にある「隨願寺(ずいがんじ)」。隨願寺所在地:大分県豊後高田市田染真木境内の建物は地蔵堂1宇のみである。安置されている地蔵菩薩像はかなりの古仏とみられるとのことだが閉ざされ中は見えず。地蔵堂前にも石塔・石仏などがみられる 。隨願寺 縁起六郷満山分末寺の一なり。 養老年間(717-724)、馬城山傳乗寺三十六坊の一坊として創始。一時寺観壮麗を極めたりと言うも、今は唯九尺四面の堂宇を存ずるのみ。 断礎塔碑累々として往時の盛観を偲ばしむ。 ものふりたる堂内には、厨子に下御門本尊地蔵仏を安置す。「隨願寺」と墨書した扁額、その裏に残る墨筆。六郷満山峰入行者祈祷墨書柱・二柱(文化十四年(1817)・天保八年(1837)) 格子戸に墨書・彫刻された欄間・長押に唐草模様を遺す。老朽化にともない平成十五年二月 小畑通治の遺志をつぎ妻京子これを再建す。 落慶にあたり之の碑を建立し後世に遺す。 小畑光則。隨願寺前から県道655号線(新城山香線)沿いに立つカカシ。皇帝ダリアと・・・が咲く。広場があり地元の方々が植えられた花壇。10:09後でよく見るとこの先数百メートルのところに「真木大堂」があったのだが。カーナビも「真木大堂」を示す。目的地までは、12km、到着予定 10:34 と、目的地だけを考えていたので残念。走りだすと前方に「真木大堂 P → 」の標識が目に入ったが。真木大堂は直ぐ左側にあったようだ。真木大堂(馬城山伝乗寺)(まきさんでんじょうじ)所在地:大分県豊後高田市田染真木1796真木大堂は、かつて隆盛しながらも火災で焼失した「幻の大寺」とされる馬城山伝乗寺の堂宇の一つと伝えられています。国指定の重要文化財である仏像9体を有しており、特に日本一の大きさを誇る水牛にまたがった木造大威徳明王像や藤原時代の作である阿弥陀如来座像など、仏像ファン必見の名所です。この地域散在していた石塔・石仏を損壊や紛失から守るために、これらを一堂に集めた古代公園が大堂裏手に整備されました。この公園内には、かって伝乗寺が田染盆地に36坊もの伽藍を擁して隆盛を誇っていた頃の名残が、随所にあり散策を楽しむことができますと。10:12この先の交差点を左折、県道34号線(豊後高田安岐線)を西方向へ。真中交差点に建つ、田染郵便局。直進すると「国宝・富貴寺(ふきじ)大堂」へ。10:20この先を右折して、豊後高田市街へ。10:26豊後高田昭和の町手前の並木道も紅葉。10:27豊後高田昭和の町、「新町通り商店街」へ入り、駐車場を探す。10:30豊後高田商工会議所横の「昭和の町駐車場」。所在地:大分県豊後高田市新町96430分までは無料の有料駐車場、この日は平日で空いていたが休祭日は混んでいると。ここへ駐車して「昭和の町」を散策に。昭和の町 散策ご案内昭和の町とは、総延長550mの通りは普通に歩けば15分もかかりませんが、その通り沿いに点々と立ち並ぶ ” 昭和の店 ” の一軒一軒を訪ねてみましょう。昭和の思い出をさがして、昭和の建物に足をとめ、一店一宝に目をとめ、一店一品を手にとり、そして笑顔でお客様と語らう昭和の商人に心をとめていただければ、いつの間にかやさしく懐かしい昭和の時期が流れ過ぎているかもしれません。駐車場横に、「ようこそ昭和の町へ、ここ ⇐ 近道」の看板があり進む。前方に「おみやげ、ギャラリー、お食事処」。豊後高田市のマンホール蓋。出会いの里右側に「ベルハウス」。昔ながらの手押し井戸ポンプ、石祠。出会いの里の中に水路があり、「木工作品」を販売。黒毛和牛 メンチカツここを訪れた多くの芸能人の写真が掲示されていた。10:35新町通り商店街の東方向を望む。豊後高田市の中心商店街は、江戸時代から明治、大正、昭和30年代にかけて、国東半島でもっとも栄えた町でした。江戸時代から海上運輸で栄え、昭和初期にも京阪神に行き来した運搬船が多数停泊していました。五本の幹線が集まり、半島奥地や海岸部・宇佐方面への要衝になっていたのです。しかし、だんだんと時代の波に取り残され、多くの商店街と同じく寂しい町になっていました商店街が元気だった最後の時代、あの昭和30年代の活気を蘇らせようと平成13年(2001)に立ち上げたのが「昭和の町」の取組みである。当初7店舗からスタートした昭和の町認定店は現在53店舗に増え、いまでは、年間約40万人の来訪者を迎える商店街になりましたと。商店街には懐かしい照明灯も。旧共同野村銀行社屋無料で見学できるようであったがスルー。旧共同野村銀行社屋その昔、当地は優れた仏教文化の宝庫として知られていた。その後、江戸時代から、肥後の国・島原藩の飛地として独自の発展を遂げた。地理的には交通の要衝であり、桂川は天然の良港で国東半島の産物の集積地として栄え、農業・塩田・製竹・養蚕・和蝋等の産業により、明治に入っても大いに繁栄していた。日清戦争(明治27~28年)の後、経済界は空前の好景気となり、当地にも富豪「野村財閥」が生まれた。この野村財閥の開祖、野村礼次郎氏は明治45年(1912年)に共同野村銀行を設立した。昭和8年(1933年)に本社事務所を建設。これが現在の建物である。共同野村銀行は第2次世界大戦(昭和16~20年)による戦時金融統制の一環として、大分合同銀行(現在の大分銀行)に合併された。戦後昭和23年(1948年)2月、西日本無尽㈱(その後、西日本銀行から西日本シティー銀行へ)が当建物を買収し、同社高田支店となった。平成5年(1993年)西日本銀行が移転し、大分市の投資家が購入したが、利用されず廃墟同然の姿となっていた。平成16年(2004年)10月、大分石油㈱・ホテル清照がこれを買収し、補修の上、保存・活用する事となった。店舗の内部は、一階の道路に面した部屋は吹き抜けで自然の光あふれる大きな空間になっており、キャットウオークを巡らし優雅さを表現し、外部は、正面壁のタイル張り、中央に銅製模様欄間付きの出入口、その上壁に3本の装飾円柱、高い軒蛇腹には上部の唐草模様と彫刻装飾を施してあり、古典主義的な様式をデザインした優れた姿形を持っている。 大分石油㈱・ホテル清照登録有形文化財 第44-0165号この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁商店街には、チキンカレー、ハンバーガーの幟が立つ。また、商店街には紅白の垂れ幕が下がるが今日は平日で観光客も少ない。古い建物の壁面に「コーヒーハウス ブラジル 伯刺西爾珈琲舎」。マスターが優しく、カレーはもちろん美味しいコーヒーソフトクリームがオススメ!と。街角の座る「カエル」。カエルには古来より 金カエル 福カエル 無事カエルなどの語呂合わせから お金が還ってくる 幸運が還ってくる 人が帰ってくるというように非常に縁起がいい生き物として愛されてきました。また、 迎えるとの意味もあり、市外県外より多くのお客様を迎えられるようにという願いも込められます。そしてカエルは前にしか飛ばないため、仕事運が向上する象徴にもなっています。さらには、 変えるという意味もあり、様々な状況を良い方向へ変えてくれると言われています。 60周年記念品 豊後高田商工会議所青年部10:38出会いの里お食事処もあり昼時には多くに来客があるのか。和牛肉 金岡店先に、「14 肉のかなおか」 パンフレットに「14」。 創業:昭和26年 建築:昭和26年一店一宝 初代手回しの肉切り機お店での人気商品は初代おかみが家族のおかずに作っていたコロッケ。懐かしいコロッケの味はB級グルメと呼ぶにはあまりにももったいなく、安くて美味しい極上のテイクアウト商品。お店自慢のあつあつコロッケを頬張りながら商店街を散策ください。 店内に入り、ケースの中にいろんなミンチ、コロッケを陳列。朝食をとっていなかったので、コロッケを食べることに。店内の隅に置かれていた、 一店一宝 初代手回しの肉切り機店の前に道を挟んでテント小屋。コロッケを2個オーダーするが、「これから揚げるので前のテントで」と。テントの前に「コロッケの食べ歩きもまた楽しいですよ」 昭和の町のお肉屋さん 肉のかなおかいろんなコロッケ10:51待つこと5~10分で、今日の朝食+昼食?のコロッケ2個、丁寧に袋にコロッケの名が書かれていた。揚げたてで熱かったが、空いたお腹には最高であった。 ー 続く ー
2022.01.26
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昔、鬼が築いたと伝えられている、鳥居から熊野磨崖仏まで続く100段もの石段を登る。11月18日(木) 9:25ここでは、無線LANを活用したシステムで、手元のスマートフォンやタブレット等でwi-fiに接続することで、無料で各施設を紹介した音声を聴くことができます。4か国語の多言語(日本語・英語・中国語・韓国語)対応している。熊野磨崖仏(くまのまがいぶつ)一、所 在 地 豊後高田市大字平野字登尺一、国史跡指定 昭和三十年二月十五日一、国重要文化財指定 昭和三十九年五月二十六日一、解 説 大岩に刻まれた仏は向かって右が大日如来、左が不動明王で、熊野磨崖仏と呼ばれている。 大日如来は、6.8米、如来にふさわしい端正な顔形で、頭部上方には三面の種子曼茶羅が 刻まれている。 不動明王は、8米、憤怒相でなく柔和な慈悲相であるのは他の石仏にみられない珍しい例 である。 六郷満山諸勤行注進目録や華頂要略などに、より磨崖仏は藤原時代末期(約900年前)の 作と推定されている。 厚肉彫りの雄大、荘厳な磨崖仏であるため国指定史跡でありながら美術工芸品としての 価値が高いものとして国の重要文化財指定を併せ受けたものである。 伝説では、磨崖仏は養老2年(718年)仁聞菩薩が設立したと伝えられ、近くの山中には、 「御所帯場」とよばれる作業時の宿泊跡がある。また参道の自然石の乱積石段は鬼が一夜 で築いたと伝えられる。 熊野磨崖仏管理委員会 宗教法人熊野社熊野磨崖仏は、平安時代末期の作と言われおり左側に「不動明王(約8m)」、右側に「大日如来(約6.7m)」があり国指定の重要文化財となっており、国内最古にして最大級の磨崖仏。1000年近く風雨にさらされて佇む磨崖仏。左側の高さ約8mの不動明王像。また、約10年に一度行われる六郷満山の伝統行事である峰入りの荒行は、この不動明王の前を出発点とし、護摩をたいて行程150km、約10日間の行に入ります。眼球が飛び出し、牙をむき出しにして唇をかんでいるが、怒った顔が一般的な不動明王と比べてどことなく微笑むような優しい顔立ちの、人間味を感じさせる表情をしている。不動明王の頭上の岩肌は養生されているのであろう。右側が大日如来像で、約6.8mの高さがあります。こちらの仏様は不動明王よりも精巧に掘られていることがうかがえます。一説によると大日如来は磨崖仏を掘る技術を持った僧とその弟子たちが掘ったともいわれています。穏やかな表情の「大日如来」。頭部上方には三面の種子曼荼羅が刻まれています。伝説では、磨崖仏は養老2年(718年)仁聞菩薩が造立したと伝えられ、近くの山中には「御所帯場」と呼ばれる作業時の宿泊所跡があります。もともとどれだけ凹凸がありメリハリの石仏だったのかわからないが、横から見ると長年風雨にさらされかなり平坦になっているのでは。横顔をズームアップ不動明王と大日如来の間にも磨崖仏が彫られているが、風化が激しく確認が難しい。熊野磨崖仏からおよそ50メートルの険しい石段を登ると、奥之院の熊野神社がある。9:30薄暗い中に、熊野神社が佇む。熊野権現を祀る、瓦葺きの入母屋造り。まさに神仏習合を物語る神社であると。急な石段を登りしんどい思いをしたが、境内は綺麗な紅葉。拝殿の扁額、「熊野神社」。本殿は岩肌ギリギリに組み込まれている。本殿は銅板葺で、一間社流造り。崖崩れの恐れがあり立入禁止に!岩肌を切り込んで小さな石祠、石灯籠。下には、古代古墳のような小石の山が数基。古びて趣のある木造本堂の裏手には小さな石仏が安置され、不思議な雰囲気が漂っている。宇佐神宮の八幡神の化身が磨崖仏を作ったと伝わるように、国東半島が神と仏の共存する神仏習合が発展した地だということを改めて感じる場所である。拝殿横から紅葉を見上げる。静かな佇まいで心が洗われるが早々に・・・・・。紅葉を振り返る。拝殿は瓦葺。9:35熊野神社に別れを告げ手摺を持ち石段を下りることに。右側に、磨崖仏前の広場。石段で転ぶと下まで下ることに。手摺をしっかりと持ち下る。9:41下りは楽に下ったが、安全に注意。「熊野社境内を通過する皆様にご案内」拝観料大人一人 300円納めてくださいと!緩い坂を下り振り返る。熊野磨崖仏案内所、200M。この看板には、国東一のパワースポット ここが不思議の寺 胎蔵寺です。開運、金運(宝くじ)、良縁、子宝、健康、長寿、合格運幸福の道に続くうわさの胎蔵寺 右です 👉貴方に何かが起きる!運命の別れ道です七福神や不動明王に金のシールを貼って下さい! お願いシール熊野磨崖仏案内所、100M。胎蔵寺の屋根。9:47熊野磨崖仏から下り、胎蔵寺(たいぞうじ)。右側に石碑には、「今熊野山祈願所 胎蔵寺」幟には、「六郷満山開山1300年」 大分県 国東半島・宇佐地域胎蔵寺は馬城山伝乗寺の末寺として開かれ、巨大な磨崖仏で有名な「熊野磨崖仏」の入り口に構えるお寺です。天台宗現行峯入りの出発点で、昔は明王院の徒八坊があり、熊野権現を管理していた。神仏分離で分かれ、熊野権現のご正体は寺内に祀られている。胎蔵寺の門前に苔むした石仏、仁王像が建つ。苔むした仁王様。この日は何故か境内へは入れず、門前から。正面に「護摩堂」お参りの方々へ1200余年の歴史を持った胎蔵寺にようお参り下さいました。初めて来られた方はさぞやびっくりされたと思います。 近年、宝くじが当たると評判になりました。このキンピカ様が国東(半島)が誇る「貼り七福神様」「貼り不動様」です。お願いシールを貼って御利益をお貼り下さい。 第65世 住職「胎蔵寺」の名前に“胎”の字がある様に、このお寺は子授けにもご利益があり、境内中央にある「熊野羊水」の龍を撫でると子宝に恵まれるといわれています。この金ぴかのもとになっているのが「おねがいシール」。おみくじに5枚付いており、このシールを境内にある像に願い事を託してペタペタ貼っていくのです。このお願いシールを貼ることでなんと宝くじの高額当選が続出すると密かなブームを呼んでいる、お寺でもあるのです。宝くじ以外にも、病気治癒、幸運、受験などにもご利益があるのでお願いシールを貼って祈願しましょう。胎蔵寺前から、熊野磨崖仏案内所、無料休憩所を見下ろす。土産物店もようやく開店こんな所で「宝くじ」の販売、1億円当選の看板はなかったが!石垣にイワマツ。熊野磨崖仏案内所の駐車場から胎蔵寺を見上げる。紅葉のモミジ。9:51駐車場に小型車のキャンピングカー駐車。車のナンバーは「相模 ○○○○」であった。これで全国行脚したいものです。9:54次の「昭和の町」をカーナビにセットして熊野磨崖仏を後にし出発。9:56道路脇に小さな石仏。 ー 続く ー
2022.01.25
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杵築城は時間が早すぎ開門前で天守へは入れず、仕方がなく東側の八坂川の河口へ。11月18日(木) 8:24八坂川の河口の守江湾から西方向に聳える杵築城を見上げる。台山の天守台跡には昭和45年(1970)に資料館と展望所を兼ねた3層の模擬天守が建てられた。杵築(木付)城は、北は高山川、南を八坂川にはさまれた河口付近にあり、最大標高 30m弱の独立丘陵である台山部分と、台山北麓の藩主御殿部分の2つに大きく分けることができる。8:28今回は台山北麓の藩主御殿部分の散策はしなかった。この後、中津城への途中にある「熊野磨崖仏」をカーナビにセット。カーナビの案内は杵築城から熊野磨崖仏へは、20km、所要時間29分と。右下から西へ進み、国道10号を北上。杵築城から県道644号線を進み、前方に大分空港道路(無料区間)の高架橋。大分空港は右方向へ約16kmに位置する。カーナビは県道644号線と国道10号がこの先の赤松交差点で合流右折、中津方面へと案内。8:40赤松交差点に建つ、赤松山願成就寺の山門。赤松山 願成就寺(がんじょうじゅじ)所在地:大分県速見郡日出町藤原6599-1願成就寺(日出妙見尊)は、養老年間(717~724)、六郷満山の創建者・仁聞(にんもん)が建立したと伝えられる由緒ある寺で、天徳4年(960)空也上人が建立したともいわれています。速見郡に多くの寺院建立の願をたて、最後にこの寺を建立し、願いが成就したことから願成就寺と呼ばれたといわれています。地元の人々からは「赤松の妙見様」と呼ばれ親しまれています。山門に続く石段の途中には、県の有形文化財に指定されている高さ3メートルを超える石造宝塔(国東塔)がそびえ立ち、応長元年(1311)の銘が刻まれています。また、本堂にある木造薬師三尊像(薬師如来座像、脇侍日光菩薩立像、月光菩薩立像)は鎌倉時代後期の作で、町有形文化財に指定されています。毎年2月10日・11日に開催される春の大祭では「火渡り」なども行われ、多くの参拝客でにぎわいます。カーナビは、到着予想 9:05、残距離 12km、国道10号を進み7.7km先を右折。8:46日豊本線に沿って国道10号を北上、大井手橋北交差点を直進。カーナビの案内で下市北交差点を右折して県道655号線(新城山香線)へ。8:55県道655号線(新城山香線)を進み前方に道路標識、「ここは豊後高田市熊野です」と。富貴寺 12km、真木大堂 3km、右折すると、熊野磨崖仏 0.5km。8:57右折するべきところを直進し右側にあった鳥居下へ停車、苔むした古い石鳥居の扁額は、「熊野社」。ここからは歩道で、磨崖仏の駐車場は県道を戻るとの案内標示。鳥居脇にあった、庚申塔。鳥居脇にあった道案内。鳥居から戻りここを左折、国指定史跡重要文化財「熊野磨崖仏」入口。直進すると、別府温泉、宇佐神宮。9:03大型バス専用の駐車場へ停車。千年ロマン 豊後高田市 観光案内。豊後高田市は、大分県北部に位置する市で人口 2.306万 (2017年3月31日)。国東半島の西側に位置し、昭和時代までは海運の要衝として商業が発達していた。当時の町並・遺産昭和の町を活用した商店街活性化政策が著名。 また、移住者に対する細やかな施策から、移住の町として知られ、新宝島社の住みたい田舎ベストランキングの上位常連である。① 国宝・富貴寺(ふきじ)大堂 天台宗の古刹で大堂は日本三阿弥陀堂の一つ。現存する木造建築物として九州最古で国宝に 指定。本尊の阿弥陀如来坐像は重要文化財。③ 熊野磨崖仏(くまのまがいぶつ) 古来より山岳信仰の地として栄えた国東半島。 国東半島は安山岩と凝灰岩が採れる石材の宝庫で、そのためビックリするほどたくさんの 石造物が残されています。石仏をはじめ、国東塔、五輪塔などなど。 その中で特に有名なのが熊野磨崖仏である。海岸線もよさそうだが、「恋叶ロード」。 ⑧ 豊後高田 昭和の町、⑨ 真玉海岸の夕陽、⑩ 花の岬 長崎鼻。大分県観光MAP主要地点間の距離を表示。国東半島にはいろんな見どころがあるようだが。赤鬼のきずいた九十九の石段の話 10むかしむかしのお話です。この田染(たしぶ)の里に毛むくじゃらの赤鬼がやってきて、人間を食べるというのです。それを聞いた熊野の権現さまは、何かよい方法はないかと考えました。そして、いち夜のうちに百の石段をこしらえたら許してやろうと約束したのです。権現さまは、とうていできるはずはないと思っていたのですが、なんと赤鬼は、ひょいひょいと石を担いで、あっという間に五十段こしらえました。その早いこと早いこと、みるみるうちに九十九段築いたのです。おどろいた権現さまは、百段目の石を担いだ赤鬼の足が山かげに見えたとき、「コケコッコー」とにわとりの鳴き声をまねしたのです。赤鬼は、「負けたあ」と最後の石を担いだまま逃げ出していったそうです。熊野山たいぞう寺から、磨崖仏を通って熊野権現さままで続いている石段は、この赤鬼が築いた石段だといわれ、今でも多くの人々に親しまれています。石を担いで石段を築く赤鬼。大型バス専用の駐車場から再度車に乗り、熊野磨窟仏入口へ。9:07熊野磨窟仏案内所所 在 地 :大分県豊後高田市田染平野2546-3拝 観 料 : 一般・高校生300円/小・中学生150円。営業時間:5月 ~ 10月 8:30 ~ 17:30 11月 ~ 4月 8:30 ~ 17:00受付横に杖が置かれており、無料で貸し出してくれる。大人拝観券 300円受付横の駐車場の紅葉。熊野磨崖仏入口、熊野権現の道。入口に土産物店があったが時間が早く開店前であった。熊野磨崖仏入口から振り返ると、胎蔵寺(たいぞうじ)がある。熊野磨崖仏への入口は、豊後高田市田染の田原山の山麓にあります。ここから磨崖仏に会いに行くには、緩やかな坂道から始まってスタート地点から磨崖仏まではおよそ20分かかる。旅友も杖を持ち。沢の対岸に、国東唯一の尼寺 くまの地蔵尊献穀田跡同級生だという高齢の男女とすれ違い、「杖は二本の方がよいよ」と言われ二本使用する旅友。道路標識には、 「熊野磨崖仏 200M 熊野磨崖仏管理委員会 宗教法人 熊野社」日本全国の磨崖仏のうち、約7割は大分県に現存すると言われている。約90カ所に点在し400体もの磨崖仏が大分県で見られると。地図を見るとこの辺りにも多くの磨崖仏がある。ここまでは緩い坂道であったが、この先からは急な石段に。登ってきた山道を振り返る。周りは杉林。右側の石碑には、「よう来たと 汗をねぎらう 磨崖佛 凡柳」 熊野磨崖仏 100M石碑には「信心を 石段で見る 磨崖仏 凡柳」 内藤凡柳(本名 喬木) 別府市不老町出身 十五才大阪井上剣花坊に師事 大正八年頃大阪で岸本水府のもとで川村誌番○○○○ 大正十三年帰郷大分に本格川柳を普及平成元年没 八十八才ここから急勾配に、鳥居の前に立つ旅友。杖の威力を発揮するのが、出発地点から300mほど進んだこの場所からで、鳥居の奥に見える石段は自然石を乱積みにしただけの急勾配になっている。鳥居の扁額は破損しており「三社大権現」と。鳥居手前の石碑には、 一金五萬円也 豊田利鴻 大太鼓壱張 北野嘉雄 昭和三十三年一月一日 一金貮萬五千圓 豊田亀吉 立石町 豊田要右エ門長男 昭和丗一年四月 同 マツ鳥居の右側に、岸原清行の句碑、「磨崖仏 千年が過ぎ 蝶が過ぐ」。私も記念写真。この先は両側に手摺があるので、杖を鳥居横に置いて登ることに。鬼が築いたという石段は自然の石を組み上げ百の石段で作られている。一気に登り、登り口を見下ろす。乱積みされた石段を登るが、手摺がないと滑りやすいので要注意だ!下る時は杖より手摺の方が安全ではと思うが。ご夫婦はゆっくりと下っておられた。乱積みされた石段。乱積みの石段を半分ほど上ると左側に開けた場所があり、そこに現れるのが岩肌に掘られた大日如来と不動明王です。平安時代の末期(1100年代)の作といわれています。また養老2年(718年)宇佐神宮の祭神「八幡神」の化身である仁聞菩薩が造立したという伝説も残り、いずれにしても国内最古にして最大級の磨崖仏であると。9:24熊野磨崖仏ここでは、無線LANを活用したシステムで、手元のスマートフォンやタブレット等でwi-fiに接続することで、無料で各施設を紹介した音声を聴くことができ、4か国語の多言語(日本語・英語・中国語・韓国語)対応している。ベンチの親父さんも操作して聴取していた。国東半島峯道ロングトレイル Tー1 11.5km 熊野磨崖仏 → 高山寺。 ー 続く ー
2022.01.24
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四泊五日の九州旅行も今日が最終日の五日目。今日の行程は続日本100名城の、中津城と角牟礼城(つのむれじょう)へ登城後、熊本空港へ。その他移動中の史跡を訪れることに。11月18日(木) 6:40部屋から大分市内を見下ろす。6:42ホテル日航大分オアシスタワー所在地:大分県大分市高砂町2丁目48朝食はついていないので、キーをカウンターに置いて退室。二階から一階ロビーを見下ろす。朝食は有料で、2階のレストランだがスルー。朝食代金は1,000円であったか?。国道の上に架かる通路を東に向い、ガレリア竹町。ホテル日航大分オアシスタワーを振り返る。大分市のマンホール蓋。平成8年度に行われたデザイ ン蓋の一般公募作品の優秀賞作品を元に作成したものです。水辺の生き物たちが生き生きと活動しています。メダカ・ウナギ・カニ・フナ、そし て、岩かげにはもっと小さなヤゴとかの小動物が隠れているに違いありません。市の花サザンカが6個描かれている汚水管マンホール蓋。6:48ホテル紹介の駐車場「NPC」。駐車料金は、500円。中津城への途中、杵築市にある「杵築城(きつきじょう)」へ立ち寄ることに。カーナビの案内で、一般道走行を走り、35km、所要時間50分と。7:05国道10号を別府方面へ走り、東生石交差点。7:09国道10号は大分市街地から海岸線へ、右に別府湾、左に日豊本線が走る。この辺りは毎年、別府大分毎日マラソン大会(通称、別大マラソン)が開催されるコースで、毎年2月の第1日曜日に開催される。今年も2月6日(日)に第70回大会が開催される。日豊本線を二両編成の列車。7:13大分マリーンパレス水族館「うみたまご」から「高崎山自然動物園」への歩道橋。歩道橋に、11月20日は高崎山無料の日。別大マラソンは、大分県大分市の大分マリーンパレス水族館「うみたまご」をスタート、大分市営陸上競技場をゴール、別府市の亀川バイパスを折り返し地点として42.195kmを走破するフルマラソン大会である。7:15右前方に別府の市街地が広がる、よく見ると温泉の湯けむりがのぼる。7:17別府市内に入り車の量が多くなる。7:18この先の北浜交差点を左折すると別府駅。国道10号の前方に「別府タワー」所在地:大分県別府市北浜3丁目10-2高さ:90m(展望台は55m)、建設当初は100m。開業:1957年5月10日。別府タワーは観光塔で、旧名、観光センターテレビ塔。名古屋テレビ塔、通天閣に次ぎ、日本で3番目に建てられた高層タワーで、別府観光のシンボルとして親しまれる。登録有形文化財。運営は開世通商株式会社、管理はカイセイ・プロパティーズ株式会社。7:22国道10号新境川橋北交差点。7:31この辺りは、公設市場前交差点辺り。国道10号 門司まで120km。カーナビは「公設市場前交差点」杵築城の到着予定は、8:07、残り距離17km。カーナビの案内は6.5km先の国道10号堀交差点を右方向へと。堀交差点近くに「日出(ひじ)城跡」があり、火野正平も「トウチャコ」で立ち寄っていた。7:48国道10号堀交差点から国道213号を走り、会下(えが)交差点を右方向へ。左方向は、大分空港道路(無料区間)。8:04杵築城(きつきじょう)所在地:大分県杵築市杵築16-1杵築城は、城跡のうち麓の藩主御殿跡は大分県の史跡に指定されている。また、城郭があった台山地区と藩主御殿地区は、国の史跡に指定されている。杵築城は、室町時代初期に木付氏によって八坂川の河口にある台山(だいやま)の上に築かれた。台山は、北は高山川、東は守江湾に囲まれた天然の要害である。連郭式の平山城で、台山を空堀により4区画に区切られていた。戦国時代には大友氏と島津氏の戦いの舞台となり、江戸時代には杵築藩の藩庁が置かれた。杵築城跡のうち台山上の部分は公園として整備され、天守台跡に資料館と展望所を兼ねた3層の模擬天守が昭和45年(1970)に建てられている。八坂川に架かる杵築大橋。天守閣からは守江湾の美しい景色が広がると。八坂川の上流側を望む。八坂川(やさかがわ)は、大分県杵築市を流れ、伊予灘の守江湾に注ぐ二級水系の本流。杵築市は、大分県の北東部に位置する市で、人口 2.966万 (2017年3月1日)。駐車場は、台山の上にあり無料、野鳥が飛来していた。国指定史跡 杵築城跡 指定日:令和二年三月十日指定理由豊臣政権から江戸幕府の成立、安定へと向かう社会・政治情勢の変化に応じて、その構造を大きく変えることが確認された城跡。「一国一城令」による破却以前の城の建物構成や構造が分かるなど、江戸時代初期の城郭の実態を知る上でも重要。(守江湾に面する丘陵に位置し、その変遷は戦国から江戸時代の社会・政治情勢の変化によく対応している。)杵築城の概要杵築(木付)城の成立は、応永元年(1394)に、木付頼直(豊後国守護大友氏一族)が、この場所から北西へ2km程の内陸の竹ノ尾城より、この場所周辺に本拠を移したのがはじまりです。文禄二年(1593)の大友氏豊後(今の大分県の大半)没収に伴ない、豊後(約41万8,000石)には、豊臣秀吉の腹心・縁者等の家臣が1~12万石で配され、豊後国は細切れに領有されることになります。慶長五年(1600)九月の関ヶ原の戦いを経て、豊前小倉~豊後木付にかけての39万9,000石は細川忠興が領有することになり、同六年に木付城代には家臣中でも別格の松井康之を2万5,000石で配置することになります。配置の年、台山に三層の天守が造られますが、慶長十三年(1608)の落雷により天守が焼失します。その後再建されますが、元和元年(1615)の一国一城令により台山の城郭は壊され、その後、杵築城の中心は台山北麓に移動します(後の藩主御殿)。寛永七年(1630)までには、その移動が完了すると思われます。その後、寛永九年(1632)に、細川氏の肥後(熊本県)への領地替えに伴い、小笠原忠知が4万石で城主となります。正保二年(1645)には、忠知の三河吉田(愛知県豊橋市)への領地替えに伴い、甥の松平英親が、豊後高田より 3万7,000石で配されます。以後、途中 5,000石を分地し、3万2,000石になるものの、幕末まで能見松平氏が杵築藩主として続きます。最大東西約 650m×最大南北 約290m杵築城の立地と構造杵築(木付)城は、北は高山川、南を八坂川にはさまれた河口付近、最大標高 30m弱の独立丘陵である台山部分と、台山北麓の藩主御殿部分の2つに大きく分けることができます。前者は、木付氏時代に中世城館として築かれ大友氏の豊後没収後、豊臣系の領主らにより石垣をもつ近世城郭に改修されました。元和元年(1615)に一国一城令で壊されるまで、城の中心部でした。後者は、台山北麓に築かれた中世居館を経て、一国一城令後に御殿(藩主御殿跡)などが建てられました。前者が壊された後、城の中心機能を担いました。この両者を含めた範囲が杵築城の中心部です。城を含めた城下町全体には大きく起伏があり、その自然地形を巧みに利用して、堀や土塁と同様の防御の役目を持たせています。杵築城の歴史と杵築城(台山部分)の調査成果。駐車場から城内へ。城内の木々も紅葉が始まる、建物はトイレ。城下町きつき歴史の散歩道。杵築城跡のうち台山上の部分は公園として整備されており、石碑等が建っていた。紅葉の木に囲まれて大きな「日露戦争の忠魂碑」。本丸への城門。営業時間:10:00 ~ 17:00登城料金:一般 400円 休館日は年末を除いて営業時間が早く開門前で、隙間を探すが見つからず諦める。城門に「営業時間 10:00~17:00」と。天守廻りの白塀。善隣友好日中平和友好條約締結記念 1978年10月23日 大分県日中友好協会杵築支部「善隣」とはいい言葉だが、いつまでもこうであってほしいが!八坂善一郎翁之像 明治28年(1895) ~ 昭和55年(1980)杵築野田に生れ、38歳の若さで別杵自動車社長に就任し、青年実業家となる。昭和14年(1939)に県議会議員、昭和21年(1946)には衆議院議員に当選。昭和30年(1955)、合併による杵築市誕生で初代市長となり、5期20年にわたり全国的にも稀な特色のある市政の推進・産業の発展に尽力した。杵築市名誉市民。法政大学創立者顕彰碑伊藤 修(いとう おさむ)、1855年(安政2年)ー1920年(大正9年)東京法学社(現・法政大学)の創立者の一人では日本の弁護士。1855年(安政2年)、豊後国杵築藩士の子として生まれ、1877年(明治10年)に代言人試験に合格し、法学塾の「法律学舎」を開いていた元田直の下で、訴訟業務に従事する。1879年(明治12年)に金丸鉄、薩埵正邦らとともに東京法学社を設立する。1920年(大正9年)に死去。墓は大分県杵築市の養徳寺にある。金丸 鉄(かなまる まがね)、1852年(嘉永5年)ー1910年(明治43年)は、日本の法学者。フランス法の流れを汲む法律家で、法政大学創立者の一人。豊後国杵築藩出身。法政大学の前身である東京法学社を設立した。金丸のほかに、同じ豊後国出身の伊藤修や薩埵正邦も設立に尽力した。19歳の時に上京。東京法学社設立以前には、独力で出版社「時習社」を設立し、1877年8月11日、時習社の社長兼編集長として日本最初の法律専門雑誌『法律雑誌』を創刊した。この頃、郷里の先輩で浅草に法律学舎を開いていた元田直と親交を結び、薩埵正邦とも知り合った。元田の助力を得て、元田のもとにいた代言人である伊藤修らとともに東京法学社を設立することになる。その後、大阪府で弁護士を開業、1886年(明治19年)に大阪府会議員に当選し、府会に『箕面公園新設の議』を提出し、箕面公園開設に尽力する。また、平民主義を持論とし、華族廃止論を唱道していた。法政大学創立者顕彰碑 杵築藩士 金丸 鐵 平成五年四月十日建立こちらの面にも、法政大学創立者顕彰碑 杵築藩士 伊藤 修元杵築藩士金丸鐵・同伊藤修両先生によって、明治十三年(1880)四月、フランス法学系の東京法学社が神田駿河台に創立された。これが、わが国近代法学の普及と発展に大きく寄与した法政大学の淵源である。金丸先生二十八歳、伊藤先生二十三歳のことであった。この功績を讃え、学恩を謝してここに銘記する。 法政大学台山の東にある守江湾。8:17時間が早くて天守へ登れず残念であったが、次の中津城へ向かうことに。 ー 続く ー
2022.01.23
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九州の旅四日目も陽が沈む。臼杵公園内には、文学碑・顕彰碑・歌碑・句碑等が多く建っていた。11月17日(水) 16:59二の丸居館庭園跡臼杵護国神社境内は、延宝3年(1675)に城主居館が移された場所です。 現在、地上遺構は全く見当たりませんが、わずかにその庭園の一部が、残されています。臼杵護国神社御祭神は稲葉良通ならびに歴代藩主と國家公共につくした人の神霊をお祀りしています。明治10年西南の役で戦死した臼杵藩士43名の御霊をお祀りするため、明治11年6月に招魂社が創建されました。後に事変や戦争で亡くなった御柱が祭神として祀られています。稲葉神社は稲葉家の祖、稲葉良通公(一鉄)を祭神として明治12年11月に創建された以後、歴代の15藩主も祀られています。昭和35年4月には、稲葉神社と招魂社を合併して社名を臼杵護国神社と改称され、御祭神は2000柱になります。臼杵護国神社は区切りがなくどこまでが境内なのか、よくわからない。右手前に、海軍中將軍医総監 河村豊州が奉納した砲弾がある。砲 弾 記 念 明治二十八年九月十七日 敬献 海軍中將軍医総監 河村豊州臼杵藩士として代々医業を業とする。河村三達(太順)と白須豊子の二男として、嘉永二年(1849)一月二十六日生まる。荘田氏及び白須両氏更に日田咸宜園等の塾にて漢籍を学ぶ。明治初年藩命により鹿児島にて同藩の学校に入り洋学を修め次で医学校に移り、英人教師ウィリス氏に就き医学を研究した。 明治八年 海軍中軍医となる 明治十年 西南戦役に功あり、海軍大軍医となり勲五等を受く 明治十五年 朝鮮事変に旗艦「金剛」に乗り同地に派遣さる 明治二十七年 軍医長として旗艦「松島」に乗り黄海海戦にて名誉の重傷を受く 明治二十八年 功四級金鵄勲章を賜わり九月十七日招魂社に砲弾と台座を奉納する (現在の砲弾は実物大レプリカ) 明治三十五年 従四位一等に叙せられ、予備役となる 退役後 貴族院議員 宮内省の要職を断り 北海道開拓に尽力する 昭和八年(1933) 十一月八日 八十五歳にて永眠 青山墓園に眠る 河村 豊 献納 神楽殿に掲げられていた扁額「稲葉神社」。左側には、陸軍歩兵中尉 平井富蔵が奉納した模造品の砲弾。顕彰 砲弾記念碑 明治二十九年四月奉納 陸軍歩兵中尉 平井富蔵 清國威海衛戦利品 威海衛の要塞砲 口径 二十三・四糎 弾の長さ 八十四糎 黄海海戦 明治二十七年九月十七日 威海衛占領 明治二十八年二月十二日 講和条約(下関条約) 明治二十八年四月 砲弾は昭和二十年終戦後地下に埋没されたが現在その場所不明 現砲弾は模造品 岡部鉄夫稲葉神社神楽殿臼杵市指定有形文化財 臼杵護国神社神楽殿 右を臼杵市指定有形文化財に指定する 平成二十年六月三十日 臼杵市教育委員会 明治四十二年十月 稲葉神社神楽殿及び神門を増築する臼杵護国神社の西方向だが、区切りがなくどこまでが境内なのか?。奉納された石灯籠が建ち並ぶ。大東亜戦争全般作戦図臼杵護国神社には、稲葉氏のほか後に事変や戦争で亡くなった御柱が祭神として祀られているので境内には、大東亜戦争関係の戦死者の名前も。大東亜戦争(第二次世界大戦) 硫黄島の玉砕 臼杵の人で死亡場所硫黄島と確認された人昭和二十年三月十七日、栗林中将は大本営に決別電を発した後みずから先頭に立っての攻撃にあたり、次の訓示を述べた。「いま日本は戦いに敗れたといえども、日本の国民は諸君の忠君愛国の精神に燃え諸君の霊に対し涙し黙祷を捧げる日がいつか来るであろう。安じて諸君は国に殉ずべし」硫黄島にて戦死せられた二万一千の英霊に対し後世の日本人が涙して感謝の誠を捧げることを固く信じていたのである。大本営に決別電 国の為重き勤めを果たし得て矢弾尽き果て散るぞ悲しき 仇討たで野辺には朽ちじ吾は又七度生まれて矛を執らむぞ 醜草(しろくさ)の島に蔓るその時の皇国の行く手を一途に思ふ平成六年二月初めて硫黄島の土を踏んだ天皇はこう詠った 精魂込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき 「散るぞ悲しき」梯久美子より大東亜戦争(第二次世界大戦)馬締安正命馬締安正命は、大正十五年一月十九日馬締兵市、チョの三男として臼杵市大字戸室に出生。市浜尋常小学校臼杵高等小学校を卒えて昭和十七年四月東京陸軍航空学校に入学。引続き熊谷陸軍飛行学校第十四期少年飛行兵として修学、昭和十九年七月同校卒業。台湾第八飛行師団所属誠百十四飛行隊特別攻撃隊員として訓練を受く。昭和二十年四月二日沖縄慶良間列島西側海域において未艦船群に体当り攻撃敢行戦死を遂げる。同日陸軍少尉に昇進正八位勲六等功四級を賜る。 遺 書実父 馬締兵市様 皇国危難の時新任務が下りました。報国の秋来る嬉しく任務に服す国のため何か惜しからん。 死して甲斐ある命なりせば家の内ご一同様増産にお励み下さい。 ご健康をお祈りします。実兄 馬締中尉殿 弟も栄ある任務が下りました。報国の秋来る嬉しく任務に服す。兄上弟はお先に失礼いたし ます。兄上には初志を貫徹して下さい。初志貫徹せば満足に感じます。先に弟は亡母のとこ ろに行きます。 臼杵市久保馬締家にある「石碑文」より武功抜群木梨鷹一(たかいち)海軍少将の戦死鷹一は、明治35年3月7日 臼杵町野田753番地で生誕した。大正9年臼杵中学から、当時受験競争率最高30倍に達したと言われる海軍兵学校に進学(海兵51期生)、大正12年卒業。昭和5年航海学校航海学生(大尉)となり同6年に卒業後、潜水艦航海長になったが、同12年11月海軍少佐となり、同15年3月潜水学校甲種学生を命ぜられた。卒業時には、成績優秀により恩賜の銀時計(各種学校首席卒業者に天皇が与える銀製の時計)を拝受している。太平洋戦争勃発するや、潜水艦長として各海洋に進出し転戦偉功を奏す。伊号19潜水艦長として、昭和17年9月15日ソロモン海峡で敵機動部隊を捕捉し、魚雷6本を発射うち5本命中で敵空母ワスプを撃沈、戦艦ノースカロライナ、駆逐艦オブライエンを大破させた。昭和18年11月には、重大な使命を負いドイツへ向かった。インド洋上で補給船から補給を受け、昭和19年3月11日フランスのロリアンに入港。そこで、新兵器操作技術の習得のほか、ジェット機の設計図等新世代兵器設計資料を受取った。その時の軍服には、ヒトラーから贈られた二級鉄十字勲章が輝いていた。87日を経て、7月12日シンガポールに入港。空輸可能な設計資料は、巌谷技術中佐が取りまとめ空路帰国。7月26日にバシー海峡で米潜水艦と遭遇、鷹一の乗った艦は魚雷を受けて沈没した。この旨が上聞に達し、生前の殊勲を嘉せられ二階級特進海軍少将に任ぜられた。行年43歳。 「近代臼杵人物辞典」より木梨鷹一さんは、戦記の中にもよく出てくる、有名な潜水艦長である。会所櫓跡の石垣会所櫓跡会所櫓跡から陽の沈んだ西の山を望む。海添(かいぞえ)地区会所櫓跡から東側にある、臼杵護国神社を振り返る。東の空を見上げると、満月前の月がのぼる。大門櫓を出て正面に畳櫓二の丸西側下に、時鐘櫓跡(ときかねやぐらあと)があり、鐘楼が建つ。時鐘櫓跡稲葉氏入城後に造られた時報施設です。元禄14年(1701)に時鐘櫓が二王座に移されるまで鐘が置かれ、臼杵城下に鐘で時を報せていました。この櫓を造る直前の整地層からは、十字架を刻む軒瓦が出土しています。この時報櫓の鐘は「原山時鐘(はらやまときかね)」といいます。鐘に刻まれた銘によると、元禄十三年(1700)に鋳造されたとあります。その後、寛政二年(1790)に改鋳され、江戸末期までは原山時鐘堂(二王座)で時を告げていたものと記録に残っています。明治六年(1873年頃)の臼杵城廃城後、この「原山時鐘」が臼杵城跡畳櫓横へ移され、その後も昭和末期まで、鐘の音を聞くことができました。しかし、いつの頃からか鐘の撞き手がなくなり、「鐘の音」は途絶えたままとなっていました。平成二十年(2008)臼杵城跡西ノ丸鐙坂の土塀復元に際し、この鐘は畳櫓横から約百四十年ぶりに、ここ時鐘櫓跡に置かれたが、鐘の音が復活することはありませんでした。そこで、平成二十二年(2010)六月、臼杵ロータリークラブは、創立五〇周年記念事業として、鐘の音を復活するため、「時報楼」の整備を行いました。遠い元禄の昔から、うすき市民の思い出に刻まれつづけた鐘の音を感じていただければ幸いです。時鐘櫓跡から、南側にある「畳櫓」を望む。陽が沈み点灯された、臼杵市観光交流プラザを見下ろす。夕闇生えるピンクの花。明日の天気もよさそうだ。鐙坂を下り、壁面には穴跡があり石で塞いでいたが、防空壕跡か?古橋から内堀、カモの巣箱。内堀にカモが泳ぎまわる。うすき市のおすいマンホール蓋西暦1600年に臼杵湾に漂着したオランダ船リーフデ号と市の木 カボスのデザイン。下縁右に「うすい3」の文字が入っており、汚水用も含め「1」~「3」の数字や「B」等の文字が用途を示す文字の後に付加されている。臼杵城跡の西側にある、大手門公園。17:16大手門公園前の交差点から畳櫓、大門櫓を見上げる。畳櫓、大門櫓をズームアップ。臼杵市観光協会前の交差点。吉丸一昌像大手門公園に立つこの像は、「早春賦」を作詞した吉丸一昌。畳櫓、大門櫓をバックに吉丸一昌は明治六年(1873年) 大分県北海部郡海添村(臼杵市海添)の下級士族の家に生まれた。小学校尋常科から小学校高等科卒業までの成績は非常に優秀で、1889年大分中学(現大分県立大分上野丘高等学校)に入学、1894年に卒業した。臼杵学校、大分中学校(上野丘高校)を卒業後、第五高等学校(熊本大学)へ進学。ここで教授夏目漱石と出会う。その後、東京帝国大学(東京大学)国文科へ進む。修養塾、下谷中等夜学校(東京都台東区)を開設し、貧しい青少年の生活支援と教育活動を終生行う。卒業後、東京府立第三中学校(両国高校)の教諭を務め、芥川龍之介を教える。明治41年東京音楽学校(現京芸大)教授に招かれ、文部省から唱歌の編さん委員に任命される。 明治45年新作唱歌全10集を発表。この中に吉丸の作詞した「早春賦」(作曲 中田章)「故郷を離るゝ歌」が収録されている。1916年(大正5年)42歳の若さで他界した。 没後100年を記念して 2016年記。夫人の実家に吉丸一昌記念館があり、当時の遺品や楽譜などゆかりの品々が展示されている。吉丸一昌先生の生いたち 出生 明治六年九月十五日 臼杵市海添(現在) 学業 臼杵尋常高等小学校 ~ 大分中学校 ~ 第五高等学校 ~ 東京帝国大学国文科 明治三十四年七月卒業 職歴 東京府立第三中学校教諭 東京音楽学校(現東京芸大)教授 大正五年三月七日逝去(四十二才)先生は、性質極めて磊落、常に故郷を愛し、苦しい生活の中にも向学の志を抱いた苦学生の為に、修養塾を作り修学の便を与えられ、又「成功の華は墓前に咲く」を信条とし、日常の訓戒とされていた。文部省唱歌の編集委員でもあったが、自らも編集し、新作唱歌十冊を刊行した。我が国音楽教育に大いなる貢献をされ、童謡運動の暁鐘を鳴らされた。 「早春賦」は春を待ちわびる心であり「故郷を離るる歌」と双璧をなす傑作で、広く愛唱されている歌である。先生が、こよなく故郷を愛されたように、我々もとこしえに先生の功績を称え、郷土の限りない誇りとして顕彰するものである。 昭和五十五年四月二十日 臼杵ロータリークラブ。早春賦 吉丸一昌 作詞 中田章 作曲 春は名のみの 風の寒さや 谷のうぐいす 歌は思えど 時にあらずと 声も立てず 時にあらずと 声も立てずこの歌は、倍賞千恵子、由紀さおり姉妹、三輪明宏、芹洋子、さだまさしをはじめ、最近の若手では三山ひろし等多くの歌手が唄っている。17:26畳櫓の上に月が載る。カメラの設定を変更して撮影。17:30臼杵城を後にし、カーナビを今夜の宿泊ホテル「ホテル日航大分オアシスタワー」にセット。18:11カーナビはホテルの到着予定は、18:33、残り距離 11kmと。18:18道路は退社時間帯で渋滞。18:44途中ホテルの到着予定は、18:33 であったが渋滞が激しく遅れる。19:50ホテルへ到着後、ホテル紹介の駐車場を探すが一方通行が多く時間を要した。ホテル日航大分オアシスタワー所在地:大分県大分市高砂町2丁目48受付では検温、消毒とコロナ感染対策を徹底していた。大分県と言えば別府だが・・・・・。部屋はツインルーム温泉もなく部屋の風呂に入り、宴会も部屋食で。途中ローソンでつまみを追加で購入、旧友からいただいた昨夜の残りの鶏をつまみに最後の夜を楽しんだ。今日は、宮崎から大分まで一般道を走り北上したが走行距離は 216kmであった。歩行数は延岡城、佐伯城、臼杵城と歩きまわったので 17,000歩。 4日目END ー 5日目へ続く ー
2022.01.22
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臼杵城跡(臼杵公園)の黄色(丸部分)の散策を続ける。城跡は現在臼杵公園として整備されており、春には約1,000本の桜が咲き誇る県南有数の花見スポットとなっています。11月17日(水) 16:38二の丸跡の東側にある、「大友宗麟公碑」大友宗麟のレリーフ大友宗麟公大友宗麟(義鎮)(1530~1587)は、九州六ヶ国の守護職から九州探題職となり九州随一の覇者として、内外にその名を高め1562年には丹生島に城を築き臼杵から天下に号令を下しました。このときから臼杵は、名実ともに政治経済の重要地として注目をあつめました。また宗麟は、キリスト教を信じポルトガル、イスパニアなどとの交易を開き、当時臼杵は往来する外国船や城下町につどう外国人などでにぎわい、異色の国際都市として発展しました。その宗麟の偉業を偲んで、1937年郷土出身の彫刻家日名子實三氏によりブロンズのレリーフが製作され、城跡に建設されておりましたが、第二次世界大戦(1944)での軍事資材として政府に献納され、その雄大な人物像も姿を消しておりましたものを、1982年京都嵯峨美術短期大学の辻浩氏の手によってここに復元製作されたものであります。 昭和五十七年十二月 建立 臼 杵 市稲葉良通(一鉄)公一鉄の祖父・稲葉塩塵(通貞)は伊予国の名族越智河野氏の一族で、美濃に流れ国主土岐成瀬に仕えて土豪になったとされている。永正12年(1515)、一鉄は稲葉通則の六男彦六(良通)として、美濃国に生まれる。幼少時に僧侶となり学んでいたが、大永5年(1525)に父と五人の兄たちが全て牧田の戦いで浅井亮政と戦って戦死したため、還俗して家督と曽根城を継いだ。はじめ土岐成瀬の子土岐頼芸に、次にそれを追い出し継承した斎藤利政(道三)に仕え、西美濃三人衆の一人として活躍する。永禄10年(1567)に三人衆は道三の娘婿でもある織田信長へ内応し、道三の孫龍典が稲葉山城の戦いで美濃からの敗走を決定的にした以後、信長に従う。・・・・・中略・・・・・天正16年(1588)11月19日、美濃清水城にて死去。享年74。後を子の稲葉貞通が継いだ。一鉄は敬神崇祖の心も厚く伊勢神宮への寄進や寺の建立保護に努めた。又歌道や茶道のみならず、医道においても造詣が深く、覚書きを伝えている。頑固な一面がありそのことから号の「一鉄」にかけられて、「頑固一徹」の言葉が生まれたとされている。文武両道、智勇兼備の名将と言われる由縁である。臼杵では廃藩にあっても、なお一鉄の威徳を仰ぎ稲葉神社を設立した。稲葉歴代藩主とその時代村瀬庄兵衛政績碑村瀬庄兵衛政績碑この石碑は、天保二年(1831)臼杵藩の藩政改革の総元締に抜てきされ、藩財政の建直しを成功させた村瀬庄兵衛の功績を永く讃えるために建てられたものです。この碑には、藩が多額の借金を抱え、赤字財政で困窮し、その建直しを迫られていた時、担当責任者として抜てきされた庄兵衛が、「量人制出」の制度を採り入れ、無駄を省き、殖産にも力を注ぎ財政再建に努めたこと。さらに学古館及び講武場を設け、学問や武技を習わせ、人材育成に努めたことなどが記されています。臼杵公園内にはいろんな像、句碑等があった。「廃墟」の像ズームアップ。「廃墟」の像臼杵市出身の彫刻家・日名子実三(ひなごじつぞう)(1893~1945)の手によるこの「廃墟」は、実三自身が大正九(1920)年発行の「美術写真画報第一巻第十号」で述べているように俊寛という平安時代の僧侶がモデルです。俊寛(しゅんかん)は同士とともに平家打倒を目指していましたが、安元三年(1177)この密議(鹿ケ谷の陰謀)が平家に見つかり、俊寛は同士とともに薩摩国(鹿児島県)喜界島(硫黄島)に流され、そこで不運の生涯を送りました。実三は俊寛への思いと、自らの中にある頽廃的な気分をこの彫刻で表しました。実三は旧制臼杵中学校(現・臼杵高等学校)から東京美術学校彫刻科(現・東京芸術大学)に進み、朝倉文夫に師事するなどして次々と作品を発表しますが、創作活動の後期においては、スポーツに関心を強く持ちはつらつとした健康的な作品も製作しています。 臼杵市教育委員会二の丸跡から東方向に進み、空 堀(南側)本丸と二の丸を隔てる空堀で、大友時代からの北側堀と、17世紀初頭に造られた南側堀があります。南側堀は稲葉氏入城まで、大手門から本丸に至る登城路としても使われていました。空堀(北側)に石垣が残る。本丸跡に植えられたサクラ。本 丸(ほんまる)江戸時代、空堀から東側の一帯を「本丸」と呼んでいました。この一帯が大友氏時代にどのような姿だったのかはっきりしていません。ただ、江戸時代の二之丸よりも標高が低いところにあるため、大友氏の時代には、こちらが二之丸だった可能性があります。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、稲葉氏が城主となりましたが、初代藩主・稲葉貞通と典通(のちの2代目藩主)は本丸防衛のため、空堀を整備し、二之丸方面から本丸の入口に渡る土橋を設けました。土橋を渡るとすぐのところに鉄門という櫓門をもうけ、本丸の出入口を固めました。空堀は、天守櫓から見おろす位置とし、二之丸からの進入に備えたのです。明治維新後、公園として整備され、今のような姿となりました。 臼杵市教育委員会本丸の建物江戸時代に入り平和が続くと、藩主が政務を執行する空間(「表」)と、藩主の生活空間(「奥」)としての機能を持つ「本丸御殿」が中心的な役割を担いました。「表」も「奥」も「書院造り」を基本としていました。現在残されている絵図(指図)によると、「表」(茶色部分)には「御広間」「大書院」等、政務遂行や儀礼に使われた部屋が見られます。「御広間」等からは「御舞台」が見える構造になっています。舞台は主に能に使われていたと考えられます。一方、「奥」(青色部分)には、「御座間」と呼ばれる藩主の部屋があります。本丸北側の崖ぎわには「御湯殿」が設けられ、現在で言う展望風呂のような状態になっています。本丸御殿は、城下町や三之丸(現在の祇園洲地区など)から離れ、不便だったこともあり、延宝4年(1676)、主な機能を二之丸(西の丸)御殿に移転しました。臼杵城の石垣 ー 鉄門枡形石垣(くろがねもんますがたいしがき) 大分県史跡 臼杵城跡 臼杵市大字臼杵九三番地一正面に見える石垣は、臼杵城本丸の入り口にあたる鉄門の枡形石垣で、枡形北側部分の石垣は大正時代に撤去されました。城の心臓部に当たり、防衛的にも格式的にも高さが求められたこの石垣は、臼杵城のほかの石垣より大きな築石(石垣を構成する石材)が用いられています。ひときわ大きな「鏡石」を中央に置くという技法は、角石が長さの長短を規則的にそろえる算木積みの技法とあわせ、十七世紀初頭から主流になった積み方で、稲葉氏が城主となった直後の改修で築かれた石垣とみられます。 臼杵市教育委員会鉄門枡形石垣(くろがねもんますがたいしがき)算木積み角の部分に長方形に加工された石が長短交互に積まれています。鏡石石の表面が鏡のように平らなことからつけられたようです。卯寅(うとの)稲荷神社大友宗麟公が築城の際、卯寅口に建立した。石柱に「これより北 卯寅口」と。卯寅稲荷神社の由来永禄五年(1562)大友宗麟公は丹生島に築城、卯寅口は城中の鬼門にあたるため外郭崖上に・・・字が消えていて残念ながら判読できず。 大祭日 四月・十一月 昭和六十年十一月吉日 卯寅稲荷神社奉賛会卯寅稲荷神社拝殿、狛犬。朱色の鳥居が並ぶ、遠く、臼杵湾に津久見島が浮かぶ。卯寅稲荷神社の東側下に、卯寅口門脇櫓が建つ。津久見島は臼杵湾の沖合い約7kmにぽっかりと浮かぶ島。「おにぎり島」と呼ぶ人もいるほど市民に愛されている島である。古くは、臼杵七島の一つ「竹生島、竹島」と呼ばれていた。卯寅口門脇櫓(うとのくちもんわきやぐら)寛永年間に再築された櫓で、鉄砲薬櫓とも呼ばれ、火薬庫としても使われていたようです。1階と2階の床面積が同じ「重箱造り」という古式の構造で半地下式となっています。天守櫓跡天守櫓(てんしゅやぐら)この場所にはかつて、3層4重(外観3層、内部4階)の天守櫓がありました。細菌の発掘調査によって、はじめて天守櫓が造られたのが豊臣秀吉配下の福原直高が臼杵城主であった、文禄3年~慶長2年(1594~1597)ごろである可能性が高くなっています。その後、稲葉氏により天守櫓が何度か修理された記録があります。このうち明暦元年(1655)の修理は大規模なものであったようで、天守櫓本体だけでなく、本丸の北西隅部の付櫓(天守櫓に付属するやや小規模な櫓)がそれぞれ独立的に建てられていたものを、すべて櫓でつなぐように改築されたことが江戸時代の臼杵城絵図と発掘調査の成果から判明しました。天守櫓がどのような形状であったかは、正確な図面が残っていないためわかりませんが1階の平面が6間四方(約11.7m)、土台部分から最上階(4階)までの高さが6間1尺(約12.0m)であったことが記録されています。ここでは発掘調査で判明した天守櫓と付櫓の位置を、一段高くして表示しています。臼杵城絵図 天守部拡大(幕末頃) 本丸指図の天守櫓・付櫓部分=延宝4年(1676)頃天守台石垣天守台石垣の角石(石垣の角部の石)、築石(角石以外の石)は、その表面を特に加工せず、ほぼ石山で割った状態のまま積み上げる、野面積みと呼ばれる工法をとっています。一見、乱雑な積み方にも見えますが、この築石の奥行き(胴長)は表面の長さの1.5倍以上もあり、表面から見えないこの奥の部分で石どうしがしっかりとかみ合っているため、非常に頑丈な造りとなっています。これに対して臼杵城内に現在も残る石垣の大半は、天守台が造られたあとの江戸時代に積まれたものですが、これらのほとんどが天守台石垣の積み方と違い、築石の表面だけでかみ合わせる積み方になっています。見た目は整っていますが、天守台石垣ほど強度がないと考えられています。 臼杵市教育委員会本丸跡の南側から、卯寅口門脇櫓を見下ろす。卯寅口門脇櫓の下にある、「井戸丸」本丸跡の石垣、亀首櫓(かめくびやぐら)方向の東側。本丸跡から階段を下り「井戸丸」。井戸丸の奥に、地蔵と祠。井戸丸この井戸は、寛永年間に掘られた井戸で、深さが10メートル以上あり、昭和25年頃までは大きな木製の滑車をつけて水を汲んでいたが、今は使われていません。またこの井戸は、水量も豊富で海が近いにもかかわらず真水がでていました。井戸前から卯寅口門脇櫓を見上げる。卯寅口(うとのぐち)いわゆる「搦手口」と呼ばれる城の裏門にあたるところで、井戸が設けられていたことから「井戸丸」とも呼ばれていました。本丸・二之丸があった場所は、かつて「丹生島(にうじま)」と呼ばれ、周囲を海に囲まれていました。卯寅口には海へ通じる「卯寅口門」や階段が設けられていました。緊急時はここから船を出して、海へ脱出することを考えていたようです。「卯寅口」の名前の由来は、大友宗麟が築城時に「卯寅」の方角(ほぼ東北東)に向けて門を造ったからであると記録には書かれていますが、なぜ「うとのぐち」という読み方なのかは定かではありません。なお、港町側から現在の卯寅口明神への参道は、明治以降に新たに開削された道です。卯寅口門脇櫓(うとのぐちもんわきやぐら)卯寅口門脇櫓の外観は二層、内部は三重、外壁は漆喰下見坂張り、屋根は切妻屋根の櫓です。現在の櫓は、棟札から嘉永7年(1854)に建てられたことがわかりましたが、17世紀前半の城絵図には既にその姿が描かれていることから、江戸時代の間に何度か建て替えられたと考えられます。延宝4年(1676)ごろの本丸御殿指図(当時の平面図)を見ると、「御鉄炮薬櫓」と記されており、その機能も時期によって変わっていったようです。 臼杵市教育委員会未公開の、卯寅口門脇櫓臼杵城の石垣 ー 武具櫓台石垣(ぶぐやぐらだいいしがき) 大分県史跡 臼杵城跡 臼杵市大字臼杵九三番地一この石垣は、臼杵城本丸の西南隅に築かれた、武具櫓の櫓台石垣です。西面は空堀底から立ち上がるおよそ七メートルの高さを持ちます。現在はこの櫓台石垣の南面が壊されて道路となっていますが、江戸時代は絵図のように堀の東面を仕切るような形状をしていました。しかし、壊されているおかげで、当時の石垣がどのように積まれているのか、断面を観察することができます。稲葉氏の臼杵城改修期である1600年代初頭に、空堀が造られたのに伴って築かれ、その後に何度か修理されているようです。 臼杵市教育委員会空堀の南側から北方向を見る16:54夕日が沈む。本丸跡から二の丸跡へと進みその北側にいろんな文学碑・顕彰碑・歌碑・句碑等々が建っていた。野上弥生子文学碑。左の石碑には彼女の作品「迷路の」一節が刻まれている。野上 弥生子は、日本の小説家。大分県臼杵市生まれ。夏目漱石の紹介で『縁』を発表して以来、写実主義に根差す作風と、理知的リアリズムとで市民的良識を描き続け、明治から昭和末期まで80年余の作家活動を行った。芸術院会員。文化勲章受章。河崎義教先生剣道記念壽表 明治三十五年八月有志建之河崎先生は剣道の先生であったようだが。文学碑・顕彰碑・歌碑・句碑等々が建ち並ぶ。勤皇臼杵隊之碑碑の台座に、明治十年六月一日薩軍三千臼杵ニ迫ル 舊臼杵藩士八百之ヲ撃退シテ利アラス 死スル者四十三當時薩将西郷ノ勢望天下ヲ壓シ 人皆歸趣ニ迷フノ時 臼杵藩士ハ克ク順逆ヲ誤ラズ 必死ヲ期シテ寡以テ衆ニ敵ス 其ノ勤皇ノ精神ト悲壮ノ決意トハ 灼乎鬼神ヲ哭カシム 郷黨ノ有志時勢ニ鑑ル所アリ 茲ニ碑ヲ建テ以テ其ノ忠烈ヲ後昆ニ貽サントス 昭和十七年六月 臼杵隊義戦顕彰會 戦死者 片切八三郎 遺 腹 中根貞彦撰竝書 個々の説明板が建っていた、勤皇臼杵隊之碑この碑は、明治十年(1877)に起きた西南戦争において、順逆を誤らず大義のために郷土を守り、東上してきた薩軍と戦い、その進撃をはばみ敗走させたものの、この臼杵における戦いにおいて、尊い命を落した臼杵隊隊士四十三名の功績を永く伝えるために建てられたものです。当時、臼杵に侵攻してきた薩軍の数は約三千人、これを迎え撃った臼杵隊は七百八十五人、来援の警視隊百人と薩軍の三分の一にも満たない人数であったと記されています。16:56中根貞彦歌碑歌碑には、「父のみの父は吾をみず ははそばの母はわが知らず 恋しき父母」。説明看板の字は薄くなり、中根貞彦歌碑この碑には、次のような歌が刻まれています。 父のみの父は吾をみず ははそばの母はわが知らず 恋しき父母中根貞彦氏は明治11年(1878)二王座の片切家に生まれました。早く父母を亡くしたため、父母の顔を知らずに育ち、十五歳で佐伯の中根家の養子に入り、昭和八年(1933)には三和銀行の初代頭取に就任しました。また、アララギ派の歌人としても知られ、早くして亡くした父母に対する深い○○の〇を歌に詠んでいます。佐伯城の佐伯文化会館の前庭にも、中根貞彦の歌碑が建っていた。16:56この碑は、松尾芭蕉の句碑であろう、「稲妻や 闇の方行く 五位の聲」。この説明板も字が薄くなり判読できず、松尾芭蕉の歌集から、「五位」は五位鷺(ごいさぎ)のこと。夜行性があり、夕方、不気味な声を出して飛ぶ。稲妻が発している方角は黒雲が立ち上り、そこが無気味に光っている。その反対側の空は闇の暗さだ。その中を飛んでいるのであろう五位鷺が不気味な声を張り上げなら渡っていく。この五位鷺の姿は見えないと。夕日が沈み旅友は急いで丘へと急ぐ。16:58露出をかえて撮影。 ー 続く ー
2022.01.21
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臼杵城のスタンプを頂き城内散策へ。臼杵城はキリシタン大名大友宗麟により、臼杵湾に浮かぶ丹生島に永禄5年(1562年)に築かれ、江戸時代は稲葉家が治める臼杵藩五万石の城として幾多の歴史を積み重ねてきました。当時は海に囲まれた城でしたが、現在は埋立により陸続きになっています。その城跡は現在臼杵公園として整備されており、春には約1,000の桜が咲き誇る県南有数の花見スポットとなっています。11月17日(水) 16:20臼杵市観光交流プラザ前から、臼杵城を見上げる。中央に復原された「大門櫓(だいもんやぐら)」、右に現存する「畳櫓(たたみやぐら)」。臼杵城正面(空撮)手前の橋は現存する石橋の古橋。古橋口から白い土塀が続く。鐙坂を登って右端奥の畳櫓(現存)の前を通って左に曲がり、中央奥の大門をくぐると二の丸へ出る。観光交流プラザ前に立つ像、臼杵っ子の足元にフグ。台座に、「臼杵っ子と 福呼ぶ一番魚(ふぐ)」。臼杵城散策マップ左下の黄色の矢印から城内へ登城。古橋口から、大門櫓、畳櫓を見上げる。内堀に架かる、古橋(ふるはし)。古橋口と鐙坂(あぶみさか)大友時代から登城路として使われていた道で、外敵を防ぐため岩を掘り切って造った狭い道です。馬の鐙に似ていることから、「鐙坂」と呼ばれました。太田氏時代には内堀をまたぐ橋が掛けられ、稲葉氏時代に「古橋」と呼ばれていました。古橋口から北側。古橋口に立つ石灯籠。左側に、「臼杵護国神社境内地」、鳥居には、「奉納 平成十年十月吉日」。大分県指定史跡 臼杵城跡臼杵城は弘治2年(1556)、大友義鎮(宗麟)によって建てられた城です。臼杵城が築かれた丹生島は、文字通り元々は臼杵湾に浮かぶ島でした。守りの堅いその地の利を生かして、この地を城郭にしたと考えられます。大友氏改易後は、福原直高、太田一吉と城主が替わり、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、稲葉氏が臼杵藩5万石余の主として、臼杵城に入ります。以後、明治維新まで臼杵藩は稲葉氏によって支配されました。その後、明治新政府の廃城決定により、卯寅口(うとのくち)門脇櫓、畳櫓以外の建物はすべて破壊され、公園化されました。現在は臼杵の歴史のシンボルとして、皆さんに親しまれています。 臼杵市教育委員会臼杵城下絵図 寛永13年 ~ 万治3年頃(1636 ~ 1660) 上が北側臼杵城下絵図(幕末)当初は海に囲まれた城でったが、三之丸の東側が埋立てされたようだ。明治初期の臼杵城大手口現在の臼杵市街地地図 築城当時は海に囲まれた城であったが、現在は埋め立てられて陸続きになっている。 古橋口から鳥居をくぐると、二の丸へはここから左に折れ狭い坂へと。卯寅(うとの)稲荷神社の案内。鐙 坂外敵を防ぐため岩を掘り切って造った狭い道で、馬の鐙に似ていることから「鐙坂」と呼ばれた。坂道の幅は1メートルそこそこであったか。岩を掘り切って造った狭い坂道を振り返る。波打つ白塀と畳櫓。岩を掘り切って造った狭い道を抜けると広い道に。鳥居が建っている場所は「中門櫓跡」、建物は現存する「畳櫓」。左には「中門跡」の石柱、中門の礎石。畳櫓(たたみやぐら)天保年間に再建された櫓で、1階と2階の床面積が同じ「重箱造り」という古式の構造をしています。解体修理の際に、下見坂で隠された銃眼「隠し狭間」のあることがわかりました。畳櫓の左側の石垣は、井楼櫓台石垣(せいろうやぐらだいいしがき)。左側:井楼櫓台石垣、正面:畳櫓井楼櫓台石垣の西面の高さは約四メートルと高い。臼杵城の石垣 ー 井楼櫓台石垣 大分県史跡 臼杵城跡 臼杵市大字臼杵九三番地一正面に見える石垣は、臼杵城二の丸西南端に築かれた、他の櫓に比べかなり規模が大きかった井楼櫓の櫓台石垣です。西面石垣の高さは約四メートル、東面石垣の高さは約二メートルです。この石垣の西南隅は鞘石垣(さやいしがき)という、二重の角を持つもので、臼杵城ではここだけにみられる特徴です。この石垣の角に積まれた角石は、本丸の天守台石垣と同じように、大きさや積み方が不揃いで、第二十二代当主 大友義統(宗麟の長男)が改易された後に入城した、福原直高か太田一吉の頃である、1590年代に築造されたと考えられます。ここは臼杵城下を一望できる絶好の位置なので、奥まった位置にある天守の代わりとして比較的早い時期に櫓が置かれたと思われます。 臼杵市教育委員会稲葉氏の城郭改修帯曲輪(おびぐるわ)大友氏時代から太田時代(1556~1600)にかけて、臼杵城二之丸、本丸に入るには、城下町に面した入口から鐙坂を通り現在の弓道場の横を抜けて城の東部にある空堀にたどりつき、そこから上がるという大変遠回りをするコースをたどっていました。稲葉氏の入城直後、町場に近い位置に登城口があるのは防衛上不安があったためか、新たに三之丸のやや奥まった部分に登城口を設け二之丸へと上がる間に中之門、上之門と呼ばれる門と枡形を造るという守りの堅い城内通路が整備されました。これによって旧来の道は上之門を境に2つに分断され、畳櫓から上之門に至る空間は帯のように細長いものであることから帯曲輪と呼ばれるようになりました。また、この新しい登城口を今橋口、それ以前の鐙坂の登城口は古橋口と呼ぶようになったのもこの頃からです。 畳櫓(たたみやぐら)畳櫓は、桁行4間(7.92m)、梁行3間(4.44m)の2階建て、入母屋造りの屋根を持つ櫓です。この櫓は正保年間(1644~1648)頃に建てられたのが始まりのようです。宝暦13年(1763)の大火で焼失しましたが、その再建は明和年間(1764~1772)頃ではないかと推定されます。「畳櫓」という名称については、祇園社(現在の八坂神社)から見た方角(たつみ)が由来とする説や、中に畳が敷かれていたからという説等がありますが、はっきりした由来は不明です。 臼杵市教育委員会 臼杵城絵図(延宝4年=1676年)。大門櫓(だいもんやぐら)17世紀初頭に城内通行の利便を高めるために造られたと思われる櫓門で、17世紀後半に二の丸居館ができると玄関口のような存在になりました。平成12年に模擬復原建物が整備されました。両脇の石垣は18世紀後半とみられる「亀甲積(きっこうづみ)」です。石段下から大門櫓を見上げる。両脇の石垣は18世紀後半とみられる「亀甲積(きっこうづみ)」です。亀甲積とは、石材を六角形に加工して積み上げる切込み接ぎの石垣の一種である。亀の甲羅の模様に見えるためこう呼ばれる。力が均等に分散するため、崩れにくいが、江戸後期に低い石垣に用いられた例のみである。沖縄のグスクでは、相方積みともいわれる。大門櫓前から振り返る。県指定史跡臼杵城跡 大門櫓大門櫓は、稲葉氏入城直後の十七世紀初頭に建てられたもので、宝暦十三年(1763)の大火で焼失した後、明和五年(1768)に再建され、明治初年の廃城に際して取り壊されるまで、その威容を誇っていました。復元にあたっては、現存する二基の櫓、宝暦大火以降の古絵図、明治初年の写真、発掘調査の写真などを参考にし、櫓門形式、二枚開、開戸、・・・・・中略・・・・・この大門櫓復元を契機に、ここを訪れる方々が往時の臼杵城の雄姿をしのびつつ、この城郭史跡の保護と城下町景観の保全についてなお一層の理解と関心を寄せていただくことを願ってやみません。 臼杵市教育委員会二の丸跡に建つ鳥居の扁額は、「臼杵護国神社」。二の丸跡の南西隅にある、「井楼櫓跡(せいろうやぐらあと)」こちら側の東面石垣の高さは約二メートルだが、登り口の西面の高さは約四メートルと高い。井楼櫓跡にある、城下町(西方向)の眺望写真左から、海添(かいぞえ)地区、二王座地区、平清水地区、町八町地区、祇園洲地区。井楼櫓跡の上から北方向にある「大門櫓」。同場所から、車を駐車している西側下の「臼杵市観光交流プラザ」を見下ろす。南方向の山の中腹を走る東九州自動車道。臼杵城の歴史(室町時代、安土・桃山時代、江戸時代)弘治2年(1556) この頃までに大友義鎮(よししげ)が丹生島に城を築く。永禄6年(1563) 大友義鎮が出家し宗麟と名乗る。天正6年(1578) 日向に出兵するが高城川の戦いで大敗。宗麟、キリスト教の洗礼を受ける。天正8年(1580) この頃、イエズス会修練院・聖堂が臼杵城下に建立される。天正10年(1582) 宗麟、キリシタン大名大村純忠、有馬晴信らと共に少年遣欧使節をローマに 派遣する。天正14年(1586) 島津軍が臼杵に侵入。宗麟は、臼杵住民を臼杵城に避難させる。天正15年(1587) 宗麟、津久見で没する(58歳)。天正16年(1588) 臼杵城及び城下が全焼する。宗麟死後、臼杵城は府内城(長男義統が城主)の 支城となる。文禄3年(1594) 福原直高、臼杵城主となる。はじめて天守櫓建てられる。慶長2年(1597) 太田一吉、臼杵城主となる。また、城郭の大改修を行う。この時期に祇園洲 「三の丸」となる。慶長5年(1600) 稲葉貞通(さだみち)、美濃国郡上八幡城主から臼杵城主となる。臼杵城の歴史(江戸時代)慶長8年(1603) 稲葉典通(のりみち)、二代臼杵城主となる。寛永4年(1627) 一通(かずみち)、三代臼杵城主となる。寛永18年(1641) 信通(のぶみち)、四代臼杵城主となる。延宝元年(1673) 景通(かげみち)、五代臼杵城主となる。元禄7年(1694) 知通(ともみち)、六代臼杵城主となる。宝永3年(1706) 恒通(つねみち)、七代臼杵城主となる。享保5年(1720) 董通(まさみち)、八代臼杵城主となる。元文2年(1737) 泰通(やすみち)、九代臼杵城主となる。臼杵城の歴史(江戸時代末期から明治時代)明和5年(1768) 弘通(ひろみち)、 十代臼杵城主となる。寛政12年(1800) 雍通(てるみち)、十一代臼杵城主となる。文政3年(1820) 尊通(たかみち)、十二代臼杵城主となる。 文政4年(1821) 幾通(ちかみち)、十三代臼杵城主となる。弘化元年(1844) 観通(あきみち)、十四代臼杵城主となる。文久2年(1862) 久通(ひさみち)、十五代臼杵城主となる。明治2年(1869) 各藩、版籍奉還を行う。明治4年(1871) 廃藩置県により、臼杵藩が臼杵県となる。夕日に映えるピンクのこの花は?。二之丸(にのまる)江戸時代、空堀から西側一帯を「二之丸」あるいは西の丸と呼んでいました。臼杵城は、大友宗麟によって建設されましたが、その当時の「二之丸」の姿は明らかではありません。しかし、近年の発掘調査では、弘治3年(1557)、天正16年(1588)の火災で焼けた土層が確認されましたが、天正の火災層からは瓦が一点も出土していないことから、瓦葺きではなかったこと、壁土に漆喰を用いていたこと等が判明しました。また、その層からは景徳鎮(中国)製の青花磁器や赤絵金襴手椀など、多くの高級陶磁器出土していることから、大友時代の城主居館が存在していたことが伺えます。大友氏改易後、豊後国は豊臣政権恩顧の大名である福原直高、太田一吉が相次いで入城します。これ以降臼杵城は「織豊系城郭」と呼ばれる、石垣や天守櫓等の豪壮な造りを重んじるスタイルへと変化していったと考えられます。その後、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦直後、美濃国郡上八幡から転封してきた稲葉氏によって、さらなる改修が実施されます。大門櫓(復元)、帯曲輪や今橋口などもこの時に整備されました。その後、延宝4年(1676)、当時の藩主・稲葉景通(5代目)が本丸から二之丸に御殿を移してからは、こちらが城の中心的機能を担い、明治維新まで使用されました。 臼杵市教育委員会二之丸御殿「指図」(西暦1750年頃)二之丸御殿は、「書院造」を基本とした棟をつなげた構造をしていたことが、残されている絵図から分かります。そして、その空間は「表」と「奥」に分けられていました。表空間は「大書院」「小書院」「御居間」等の大部屋が見えます。これらは政務遂行や年中行事などの儀礼に使われた空間と考えられます。「御居間」に近づくほど、より限られた身分の者しか出入りできなかったと考えられます。奥空間には「御内所」と呼ばれる藩主らの部屋があります。藩主とその家族の日常生活の場です。「湯殿(風呂)」、「御仏間」等、藩主のプライベートな部屋も見えます。御殿の奥には、池と築山、石の輪橋などを配した庭がありました。また、北側には「凌雲亭」と呼ばれる茶室が造られた時期もありました。二の丸跡の南面から東方向にある臼杵造船所。16:36佛狼機砲碑(ふらんきほうひ)大友氏がポルトガルから入手した。島津軍撃退に威力を示したといわれ(複製)。佛狼機砲(国崩)(くにくずし)天正四年(1576) ポルトガル副王より大友宗麟公に大砲が贈られました。これは日本人がはじめて手に入れた大砲といわれています。宗麟公はその大砲を「国崩」と名付けてそれをもとにした大砲を量産し、臼杵城に備えつけていました。この大砲は複製品であり、原型は16世紀に大友氏が所有したのち薩摩藩主島津氏の手にわたり、明治維新後に靖国神社に献納されたと伝えられています。 1986(昭和61)年9月 大分県臼杵市 — 続く ー
2022.01.20
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佐伯城の標高 144mの城山(八幡山)から下り、スタンプを取得。11月17日(水) 15:04城山への登り口に建つ、「城山還元之碑」。石碑に「城山還元之碑」。城山は明治2年(1869)版籍奉還により、明治政府の国有林となる。その後、佐伯県執事係、山中盛太郎氏の陳情により、明治34年、毛利家に還元され、明治44年、記念碑が建立された。城山還元之碑から下り、「毛利神社の鳥居」。旧佐伯文化会館の駐車場から、三の丸櫓門。右奥に「野村先生像」が建つ。野村先生像野村先生像昭和三十五年一月再建。野村越三(1884.6~1925.4.29) 佐伯市山際出身佐伯小学校の教師だった野村越三は、大変優秀で人柄も素晴らしいのみならず、スポーツの重要性を認識し、スポーツ教育指導にも力を注ぎ、スポーツ振興にも力を注いだ方です。当時、佐伯小学校は優秀校として文部省から表彰されるほどの実績をあげています。文武両道、人間性も素晴らしい野村先生は、生徒にも父兄にも教師にも尊敬されていました。すばらしい先生、師との出会いは、人生をも大きく変えてくれます。佐伯市の方々に今でも尊敬し続けられている野村先生は、本当に素晴らしい方だったのだと思います。そして、その恩義を忘れず、語り続けている佐伯市の方も素敵です。珍しい横書きの説明。野村越三先生は1884年6月佐伯町山際(当時)に生れ、幼いときから秀才の誉が高く、その人柄は○○誠実で聖者の風格をそなえ、すべての人にしたわれるまれにみる立派な人であった。若くして佐伯小学校の教師となったが、そのすぐれたひとがらは生徒の心をつよくとらえわずかのあいだに全校生徒の尊敬の中心となった。当時わが国の体育、スポーツは翠明期であり、当地方ではまだほとんど行われていなかったが、先生はいちはやくその重要性をみとめ身心鍛錬の手段としてこれを奨励した、かずすくない先覚者であった。・・・・・後略 1970年4月29日 教え子有志三の丸櫓門寛永14年(1637)三代藩主・毛利高尚は、三の丸御殿を創建し、藩政の場を山頂から麓の三の丸に移して櫓門を設けた。藩政時代に2度建て直しされ、現在の櫓門は天保3年(1832)に建てられたものである(県指定有形文化財)。県指定有形文化財 佐伯城三ノ丸櫓門 指定年月日 昭和五十一年三月三十日 所 在 地 佐伯市鶴谷七九番地一この櫓門は、三代藩主毛利高尚の時に、藩主の居館を山頂から三の丸に移した寛永十四年(1637)に藩庁の正門として創建された。佐伯城の城郭建築物として唯一現存する遺構として城下町佐伯の面影を伝えている。 佐伯市教育委員会三の丸櫓門の下に、三の丸跡の標柱。「平成塔」とは?。城下町さいき散歩マップ。いろんな史跡があり散策すると時間を要するので今回はスルーしたが機会があれば・・・・・。城山(佐伯城・鶴屋城)の想像図。毛利二万石の城下町。〇 初代毛利高政 慶長六年(1601)日田より佐伯へ移された高政は、番匠川の河口・塩屋村のは八幡山に新城 を築き、塩屋の浜を埋立て城下町を建設しました。〇 三代高直(たかなお)とあるが、高尚では! 寛永十四年(1637)三の丸御殿を創建して藩政の場を山頂から三の丸へ移し、櫓門を設けた。〇 六代高慶(たかやす) 宝永四年(1707)の津波被害を受けて、中村外に大土手を、城下の外周に長堤を築きました。 宝永六年(1709)より鶴屋城の修築にかかり天守を除いて創建当時の姿を再現、大手門・搦手 門を整備しました。 元文元年(1736)の大火を受けて町割を再編し士民の居住区を設定。〇 七代高丘 家中及び町家に瓦屋根を奨励しました。〇 八代高標(たかすえ) 安永八年(1779) 藩校「四教堂(しこうどう)」を創立、天明元年(1781) 城中に「佐伯文庫( 蔵書八万巻)」をつくる。 このころ飢饉が続き、御典医・今泉元甫は藩に米150石を献上し、城山の麓に三つの井戸を 掘って窮民を救った。〇 十二代高謙(たかあき) 文久三年(1863)三の丸下に南御殿(天祐館)を造営、明治四年(1871)七月廃藩置県によって 佐伯県が発足したが同年十一月には大分県に統合された。〇 明治のマルチ人間・矢野龍渓 藩校「四教堂」で学んだ龍渓(文雄)は、明治6年に福沢諭吉の慶応義塾を卒業しました。 教 職:慶応義塾教師、錦城中学校長 小説家:「経国美談(けいごくびだん)」「浮城物語」 政党人:立憲改進党、太政官書記、宮内省式部官、駐清特命全権大使 新聞人:郵便報知新聞社長、大阪毎日新聞副社長〇 明治の文豪・国木田独歩 「佐伯の春まづ城山に来たり・・・・・」 明治26年、英語の教師としてやって来た独歩は、城山の下の坂本家に下宿して、わずか 一年たらずのあいだに、城山をはじめ佐伯の山野を歩きまわり、後に佐伯を舞台にした 「春の鳥」「鹿狩」「源おぢ」などの作品を残しました。三ノ丸櫓門の後方には、閉館された「旧佐伯文化会館」。旧佐伯文化会館前にはいろんな石碑があり、課外教育か中学生がガイドの方から説明受け。石碑をズームアップ、中根貞彦の歌碑。中根貞彦は臼杵の片切家に産まれたが15歳で佐伯の中根家の養子となった。歌碑は、「ふるさとの移ろう もうしふる里の かはらふも宇し はしき布る里」佐伯文化会館の駐車場へ戻り、続百名城のスタンプが置かれている佐伯市歴史資料館へ移動。15:14佐伯市歴史資料館所在地:大分県佐伯市大手町1丁目2-25開館時間:午前9時 〜 午後5時(入館は午後4時30分まで)休 館 日 :月曜日(月曜が国民の休日の場合は翌日)・年末年始(12月29日〜1月3日)観 覧 料 :個人 一般300円 小・中・高校生100円旧佐伯文化会館の下にある広い駐車場へ車を止めスタンプを頂きに。佐伯市歴史資料館は「城と城下町のフィールドミュージアム」をコンセプトに、周辺の城山や「歴史と文学のみち」を含む「歴史体験ゾーン」の中心施設として、訪れる人が楽しみ、学べるミュージアムです。館内では、現在の佐伯市の礎を築いた江戸時代を中心に、平安時代末期から明治時代初頭にかけての歴史を中心に展示・解説を行っています。江戸時代、佐伯藩主であった毛利家からの寄託資料のほか、市がこれまで収蔵してきた藩政史料や、貴重な中国書のコレクション『佐伯文庫』などの資料を常設展示しています。また、屋外には、明治期に建てられた毛利邸の一部である「毛利家御居間」、江戸時代に設置された「三府御門(薬医門)」、旧日本海軍の将校クラブ「水交社」の防空壕などを展示している。佐伯市歴史資料館に隣接して、毛利邸の一部である「毛利家御居間」。昭和時代初期、歴史資料館の敷地には料亭があり、佐伯海軍航空隊の士官の社交場として利用されました。左側のこの防空壕は士官たちのために太平洋戦争末期に築かれたと考えられる。佐伯市歴史資料館に入り。続日本100名城スタンプ「NO.194 佐伯城」。認定証も展示されていた。一枚 三百円 の御朱印。毛利家御居間(もうりけおいま) 明治時代中期に建てられた毛利家の屋敷の一部で、のちに料亭としても利用された。佐伯の歴史を伝える貴重な建築物で、佐伯市指定有形文化財に指定されている。毛利家御居間 佐伯市指定有形文化財佐伯城内であったこの場所は、江戸時代後期には佐伯藩の役所が置かれ、明治時代に入ると旧藩主毛利家の屋敷地となりました。毛利家御居間は、13代当主・毛利高範子爵の一家が、明治26年(1893)から明治40年(1907)まで暮らした屋敷の一部で、発見された棟札から明治23年(1890)に建築されたと考えられています。建物は昭和初期から料亭として利用され、しばらくは明治時代の姿を留めていましたが、昭和50年(1975)に御居間と次の間のみを残して建て替えられました。佐伯市は、歴史資料館を整備するにあたり、建物を保存・公開するため修理を行い、当初の姿に復原しました。修理は、建物の柱や梁などを残して一旦解体し、可能な限り古い部材を残しつつ、傷んだ部材は補強・交換して組み直すという方法で行いました。各部屋は、次の間(6帖)・御居間(8帖)・御化粧の間(6帖)の順に配置されています。御化粧の間は、現代の改修によって失われていましたが、今回の修理で復原しました。この地、基礎工事の前に行った発掘調査で、建物の北西にのびる石列(地福石)、風呂桶の土台と思われる半円形の叩き土及び便所跡のような丸い穴が見つかりました。古写真をみると同じ位置に小規模な建物が写っており、ここが風呂や便所であったことが推測されます。佐伯市歴史資料館の駐車場から城山本丸、二の丸を見上げる。左側の二の丸から本丸をズームアップ。この佐伯文化会館は1971年に開館され2020年10月31日をもって、49年間堂々たる歴史の閉幕となった。積年の使用による老朽化が主な理由。佐伯藩主だった毛利家の家紋の一つ「鶴丸」が外壁に描かれ、無形民俗文化財の「堅田踊り」を舞う女性の姿が描かれていることが特徴的であり、由緒ある歴史を感じさせてくれます。15:20佐伯市歴史資料館の駐車場から次の目的地「臼杵市観光交流プラザ」にセットして出発。目的地まで所要時間は44分、距離数は29km。15:28大手前交差点から、国道217号を進む。15:37一般道優先で東九州自動車道佐伯インター入口を北上、県道36号線(佐伯津久見線)を臼杵・津久見に向けて進む。左折すると国道10号だが直進して、臼杵・津久見へ。15:41右上を東九州自動車道が走る。15:52山間部を走り県道36号線(佐伯津久見線)を津久見市街地へと進む。津久見市は、大分県の東海岸に位置する市である。大分県の市の中では、最も人口が少ないが、人口密度は、大分市、別府市に次いで3番目に高い。人口は、1.834万人(2017年3月31日)。15:55津久見市街地に入り県道36号線(佐伯津久見線)の右側に、赤八幡社(あかはちまんしゃ)所在地:大分県津久見市宮本町21-11参道入口と一の鳥居、鳥居の扁額は「赤八幡宮」。奥に二の鳥居、神門。赤八幡社は建久元(1190)年に石清水八幡宮の分霊を勧請されたと伝えられる。キリシタンとなった大友宗麟に焼かれたが、慶長6(1601)年に佐伯藩主毛利高政が再建し、赤・青両郷の総鎮守に定めたとされる。15:56カーナビは県道36号線(佐伯津久見線)の、津久見第二中学校入口交差点。目的地到着予定は、16:13、残距離は 8.4km。16:00東九州自動車道 津久見インタ入口。臼杵市内(空撮)16:10臼杵市は、大分県の東海岸に位置する市。国宝の臼杵石仏や醤油の製造で有名。近年では城下町の町並みでも知られるようになった。人口は、4.101万人(2012年1月1日)。前方の家並みの上に臼杵城の現存する畳櫓。16:11続日本100名城のスタンプが置かれている「臼杵市観光交流プラザ」へ。所在地:大分県臼杵市臼杵100-2「臼杵を訪れる観光客が最初に立ち寄る場、市民も集い交流できる中心市街地のにぎわいの場」を基本コンセプトに定め、中心市街地整備の集大成として整備を進めてきた「臼杵市観光交流プラザ」が完成した。スタンプを受領後、ここの駐車場に車を止めて城内を散策。臼杵市観光交流プラザ開館時間:9:00~18:00休 館 日 :なし館内では、いろんなグッズを販売。観光用で無料自転車もあると、9時 ~ 18時。NO.193 臼杵城スタンプ。臼杵城跡 秋限定御城印も4種類。臼杵城跡戦国大名大友宗麟が築城した臼杵城は、文禄二年(1593)以降、福原直高、太田一吉が相次いで城主を務めたのち、慶長五年(1600)からは、美濃から入封した稲葉氏が廃藩置県まで十五代にわたってこの城を居城とし、臼杵藩の支配にあたってきました。この城は丹生島に築城されたこと、また、島の形が亀の姿に似ていたところから別名、丹生島城とも亀城とも呼ばれていました。廃藩置県後、明治六年(1873)明治政府は臼杵城の廃城を決定し、取り壊され公園地に指定され、現在は臼杵公園として市民の憩いの場となっているとともに、春は桜の名所として市内をはじめ県の内外から訪れる花見客でたいへんな賑わいを見せます。臼杵城下まちあるきマップ① 臼杵城跡 ② 稲葉家下屋敷 ③ 旧平井家住宅 ④ 久家の大蔵⑤ サーラ・デ・うすき ⑥ ニ王座歴史の道 ⑦ 旧真光寺 ⑧ 三重塔(龍原寺)。④ 臼杵石仏(うすきせきぶつ) 「国宝」 見学時間:6:00 ~ 18:00(4月 ~ 9月 19:00まで) 臼杵市観光交流プラザからの距離:約6km (国宝指定 4群61体) 磨崖仏では全国で唯一指定されている国宝。切り立った岩肌に刻まれている4群60余体か らなり、平安時代後期から鎌倉時代にかけて刻まれたといわれ、その規模と数量、彫刻の 質の高さにおいて、日本を代表する石仏群です。臼杵石仏は50年前に一度訪れているが、その時は頭部部分は胴体から離れていたが現在は修復。① 黒 島 慶長5年(1600年)春、一隻のオランダ船が、臼杵市佐志生の黒島に漂着した。 船の名前は「リーフデ号」、航海長はイギリス人「ウイリアム・アダムス(日本名・三浦 按針)」、水先案内人はオランダ人の「ヤン・ヨーステン」でした。2人はその後、大砲 などの武器を操作する技術や西洋の新しい技術を買われ、徳川家康の外交顧問として活躍 した。リーフデ号の漂着は、日本の大きな転機となった事件のひとつでした。 島内の公園には三浦按針上陸記念碑が昭和41年に建立されている。 ④ 臼杵石仏稲葉氏の統治 15代270年最後の臼杵藩主 廃藩置県のため、臼杵城は廃城となり、代々臼杵を統治してきた稲葉氏は東京に住むことに なりました。その15代藩主稲葉久通の長男・順通の里帰りの屋敷として建てられたのが「稲 葉家下屋敷」です。大友宗麟の築城 大友宗麟の築城により幕を開け、稲葉氏によって広がり、発展した城下町臼杵。情緒あふ れる町並みは今も守り継がれています。理想郷を夢見た宗麟 キリシタンとして洗礼を受けた宗麟は、キリシタンの楽園を夢見た理想郷「ムジカ」(現: 宮崎県延岡市)の建国に着手します。ところが薩摩の島津氏と衝突し、この戦いに敗れ、衰 退の一途を辿っていきます。その後、島津軍の侵攻に対し、臼杵城に籠城する際、宗麟は キリシタンにかかわらず数千の領民を避難させ食糧を分け与えたといわれています。『天然の要塞』 宗麟が築城したのは四方を海に囲まれた丹生嶋でした。日本国内で初めて大砲を使用したのは宗麟といわれています。 ー 続く ー
2022.01.19
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標高 144mの山城の佐伯城を散策。11月17日(水) 14:41西の丸跡(西出丸)、城山(八幡山)の標高は144m。登城口から急峻なつづら折りを13分で一気に登ったので辛かった。西の丸跡(西出丸)にはベンチがあり多くの人が散策。城山(八幡山)144m の表示。西の丸跡(西出丸)から南東方向の佐伯市街地を見下ろす。番匠川に架かる新佐伯大橋。手前の川は中江川。西の丸跡(西出丸)に残る礎石。西の丸跡の石碑西の丸からの眺望写真山並みの名前が書かれていた。灘山、元越山、色利山新佐伯大橋、番匠体育館。佐伯大橋、番匠川左:新佐伯大橋、右:佐伯大橋佐伯城跡山頂測量図西の丸跡(西出丸)の、城山(八幡山)の標高は144m。西出丸から狭い尾根を北側へ進み二の丸へ。右側が登城の道からの登り口。西の丸跡(西出丸)を振り返る。既に別の方がベンチに座り佐伯市街地を見下ろしていた。二の丸虎口(渡櫓跡)の礎石。二の丸虎口(渡櫓跡)の礎石が残る。虎口とは城郭における出入り口のことで、二の丸では敵の侵入を阻むために通路を屈曲させ、幅を狭めている。当時は渡櫓と門があり、現在も門の礎石をみることができる。通路を屈曲させ、幅を狭めている二の丸虎口(渡櫓跡)を振り返る。礎石の上には歴史を感じさせる木が生い茂る。二の丸跡の石碑。二の丸跡から、西方向の番匠川、市街地を見下ろす。番匠川の上流に、手前から稲垣橋、東九州自動車道、日豊本線が走る。山々の名前も記載されている。二の丸跡に「独歩文学碑」。裏面に、佐伯 国木田独歩文豪国木田独歩は、矢野竜渓、徳富蘇峰の推挙で毛利高範旧藩主が創建した鶴谷学館の教師として赴任した。佐伯在任はわずか1年足らずであったが、彼ほど佐伯の山野を深く愛し、遍く歩き、広く天下に紹介した作家は他にない。源おぢ、春の鳥、鹿狩、小春、忘れ得ぬ人々、豊後の国佐伯、欺かざる記などの名作は湖畔詩人ワーズワースの詩境と佐伯の自然とを結んだからこそ生まれた独歩独特の文学作品である。傑作春の鳥ゆかりの城山に此の碑を建てて独歩文学発祥の記念とする。 佐伯史談会 佐伯独歩会設計主旨私にとって、作家独歩は、「自然」への求道者と銘している。求道の意は、自然への愛着や没入が、自己表現に於て、自然への憎悪や拒否と相克し ― 限りなく矛盾的自己同一的に昇華した、この作家の生きざまを看る故である。その故に作家独歩のイメージが、形態として焦点を結像するのは、楕円 ― 決して一つではなく、二つの点を結んで軌跡の合理する楕円形である。私は、その終焉の日まで、■れむことなく続けられたあの相克を ― 独歩の世界の全てを、その軌跡の中に封じこんでいると考える。 清田文永 基金協力者 安藤 賢 外265名 撰文■書 東階狩■熊義 刻石 (株)大洋石材 ■川 洋 昭和57年8月二の丸から本丸へ、本丸石垣が残る。高さ6メートルの石垣である。本丸外曲輪から本丸へ登る大階段は、毛利神社創建後のもので、両側の曲線を描く石垣もこの時積み直された。絵図によると、本来は隅(すみ)があったと考えられる。本丸への入口に廊下橋。本来、本丸に入るには二の丸を通って廊下橋を渡り、幅の狭い階段を登らなくてはならなかった。有事の際には廊下橋を落として敵の侵入を防ぐといわれ、堅固で実践的と評される佐伯城を象徴する施設である。廊下橋を渡り、幅の狭い階段を登り本丸へ。本丸廻りの石垣が残る。二の丸方向を振り返る、下は廊下橋。天守台の祠と鳥居。毛利神社の社殿跡?毛利神社の社殿は太平洋戦争中の昭和20年4月26日の空襲で破壊されたとあったが。こちらの祠は?北出丸方向、紅葉シーズンにはもっと絶景になるのであろう。本丸跡の木標本丸・天守台跡佐伯城には三重三階で南向きの天守があったと伝わっている。しかし、築城後程なく失われ、再建されることもなかったため詳細は不明。現在は古文書の中に伝承として記されるのみである。本丸から本丸外曲輪側(東方向)の紅葉が進む。本丸外曲輪への階段紅葉を見上げる。本丸跡から本丸外曲輪へ下り、佐伯市街を見下ろす。左側の看板は・・・・・。映画 釣りバカ日誌19 ロケ地 佐伯市 佐伯市 城山 佐伯市街地と佐伯湾を望むシーン 以下三枚はネットから。 「ようこそ! 鈴木建設御一行様」ロケ地解説大分空港に到着した鈴木建設御一行様、大分ホーバークラフトに乗って市内へ向かう。別府地獄巡りを楽しむ社員たちを置いて、酔っぱらったハマちゃんはバスに残る。そして国立公園高崎山自然動物園でサルたちと戯れる。翌日、ハマちゃんは波子の故郷佐伯市で釣り三昧。鈴木建設一行は飯田高原長者原でバーベキューを楽しむ。ラスト、ハマちゃんとスーさんが釣りをするのは、佐伯市公設水産市場前。大分の名所が全編に渡って登場する。第21作 2008年10月25日釣りバカ日誌19 ようこそ! 鈴木建設御一行様ゲスト出演の、常盤貴子、山本太郎(現・衆議院議員、れいわ新選組代表)本丸跡の石垣を見上げる。独歩碑明治26年(1893年)、鶴谷学館に教師として招かれた国木田独歩は僅か10ヶ月の滞在であったが、後年、佐伯を舞台とした作品を多く残した。独歩碑この独歩碑は、「春の鳥」「源おぢ」の舞台である城山山頂に、佐伯独歩会によって昭和31年によって建立された。本丸石垣の下から北出丸方向への道。豊後佐伯城址の木標毛利神社創建時に本丸へ登る階段が改修され大階段に。本丸外曲輪下から石垣を見上げる。14:53佐伯市街地、佐伯湾を望むクレーンは佐伯重工業㈱ 佐伯造船所。城山から下ることに、下りは独歩碑の道を下る。独歩碑の道の紅葉。登りの「登城の道」より道幅も広く坂も緩やかで歩きやすい。いつも先行の旅友である。15:04独歩碑の道入口へ約10分で下り立つ。独歩碑の道入口にある「善意の杖」これは市民の方から善意で寄贈された杖です。お持ち帰りはくれぐれもご遠慮ください。石柱に「頂上まで 810メートル」と。 ー 続く ー
2022.01.18
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大分県に入り今日二番目の目的地、佐伯城へ向かう。11月17日(水) 13:35左折すると「宇目振興局」、国道10号を進み大分・臼杵へ。佐伯市の読みは「さいきし」で、「さえきし」ではないと。佐伯藩の城下町として栄えた江戸時代から「佐伯の殿様、浦でもつ」と言われており、豊富な海の幸と山の幸に恵まれ、「世界一、佐伯寿司」をキャッチフレーズとして、観光客の誘致にも力を入れている。2005年3月3日に佐伯市と南海部郡5町3村が合併して新たに佐伯市となり、九州の市町村の中で最大の面積を持つことになった。人口、7.355万人(2017年3月31日)。国道沿いのイチョウの黄葉が綺麗だ!右側を日豊本線が走り、直川駅の手前国道10号を北上、走る車は高齢者が運転する農作業用軽トラックの専用道路?。こちらも高齢者だが。道路脇の看板は、「かぶとむしの湯」。13:45国道10号の赤木交差点に建つ、カブト虫モニュメント。所在地:大分県佐伯市直川大字赤木ここを右折すると、「かぶとむしの湯 4km」。昆虫の里「憩の森公園キャンプ場」。キャンプ場内には「かぶとむしふれあい館」「農業歴史資料館」「昆虫館」などの付帯施設、「ローラーすべり台」「河川プール」などの遊具がある。13:57この先の番匠交差点を直進して国道217号を佐伯市街へ。13:59国道217号と日豊本線が交差。14:00ローソン佐伯鶴岡町一丁目店所在地:大分県佐伯市鶴岡町1丁目1903-4いつものように昼食をとっていなかったのでおにぎりを購入車内で。佐伯市街地(空撮)佐伯城は中央の山の上にあり、山城である。右上の赤丸が日豊本線の佐伯駅。14:13旧佐伯文化会館の駐車場へ到着。所在地:大分県佐伯市大手町1丁目1-1佐伯文化会館は2020年10月31日をもって閉館しており、49年の堂々たる歴史の閉幕となった。積年の使用による老朽化が主な理由のようで、当館の開館は1971年。佐伯城三の丸御殿跡地に開館した市営施設で、佐伯藩主だった毛利家の家紋の一つ「鶴丸」が外壁に描かれ、無形民俗文化財の「堅田踊り」を舞う女性の姿が描かれていることが特徴的であり、由緒ある歴史を感じさせてくれますと。佐伯文化会館があっただけに、会館の前の広場にはいろんな像、石碑が立つ。三の丸公園内には元自由民主党衆議院議員村上勇像と佐伯小学校の教師だった野村越三の銅像と矢野龍渓顕彰碑がある。村上勇先生の像村上勇(むらかみいさむ)1902.4.7~1991.1.28 佐伯市出身(旧・南海部郡大入島村)。元自由民主党衆議院議員、第三次鳩山内閣で郵政大臣、第二次岸内閣改造内閣で建設大臣、三木内閣でも郵政大臣を務めました。初期の村上派には、稲村左近四郎(石川県羽咋市出身)、大野明(岐阜県出身・出生地は東京都)、神田博(新潟県東蒲原郡阿賀町)、佐藤文生(大分県別府市出身)、田村元(三重県松阪市出身)、徳安実蔵(鳥取県出身)、原田憲(大阪市出身)、福田篤泰(東京都出身)、三原朝雄(福岡県遠賀郡遠賀町)がいました。1983年に引退し、衛藤征士郎(大分県玖珠郡玖珠町出身)が地盤を引き継いだ。句碑、歌碑には、「母ようどんそなへてわたくしもいただきます 種田山頭火」「いま一度この世に生きよと同じ名を おのが娘につけにけるかも 工藤好美」種田山頭火句碑工藤好美歌碑放浪の俳人山頭火は親友工藤好美の故郷佐伯を生涯で二度訪れている。それはいずれも好美の妹千代の菩提を弔う旅であった。山頭火の佐伯訪問についてはこれまで謎とされてきたが、平成二十一年古川敬氏が著した「山頭火の恋」によってその全貌が明らかとなった。山頭火の人生は東京で大正九年から好美、千代と過ごした時期が最も穏やかであったと言われている。その小春日和の如き日々は千代の死で終止符を打たれるが、山頭火と工藤好美との友情は千代の死を経てより深いものとなった。それは、山頭火の母への思い、好美の妹千代への思いを投影した絆ともいえる。ここに、山頭火の句と工藤好美の歌を石に刻みその心情を後世に伝える。 母ようどんそなへてわたくしもいただきます 種田山頭火 いま一度この世に生きよと同じ名を おのが娘につけにけるかも 工藤好美平成二十六年十一月一日 全国山頭火フォーラム in 佐伯 会長(佐伯市長) 西嶋 康義 石碑設計 山城紀久夫 石碑材協力 山部五月生 石碑製作 梶川 仁英種田山頭火、工藤好美、工藤千代矢野龍渓顕彰碑龍渓 矢野文雄について(1850年~1931年)嘉永3年山手区に生まれる。佐伯藩校四教堂に学び、常に成績抜群であった。上京して慶応義塾に入学、福澤諭吉の薫陶を受け、大隈重信の知遇を得て国会開設に力を注いだ。郵便報知新聞を主宰し、藤田茂吉(佐伯市出身)、箕浦勝人、犬養毅、尾崎行雄など三田派の気鋭を集め政府系新聞 東京日日に対し自由民権の論陣を張った病中口述した政治小説「経国美談」は当時の政治的自由を求める全国の青年に愛読され多大の影響を与えた他に浮城物語、新社会等の著書がある。後年大阪毎日新聞副社長となり社の発展に尽力した。鶴谷中学への国木田独歩招聘は龍渓の依頼を受けた徳富蘇峰の人選によるものである。碑文の詩は佐伯中学開校に帰郷の際、佐伯湾を望み尺間彦岳を仰いで佐伯の風土を歌ったものである。 結成十五周年記念事業 佐伯ライオンズクラブ 昭和五十年十月二十六日御下櫓(お手洗) 平成二年三月建立汚水マンホール蓋旧佐伯市、亀甲地模様、旧佐伯市章の下に「汚水」の文字。城山登山道案内図佐伯城は、慶長6年(1601) 日田から佐伯へ入部した佐伯藩初代藩主・毛利高政が新たな居城の建設を考え、番匠川沿いの水上交通に便利で、守り易く攻め難い地形を良しとした周囲約3km、高さ約140mの八幡山に4年の歳月をかけて築いた山城。山頂城郭は本丸を中心に、西南に二の丸・西出丸、東北に北出丸と、鶴が翼を広げた姿を連想させ「鶴屋城」とも呼ばれた。今も残る石垣は、当時の威容を偲ぶことが出来る。城山登山道コース城山登山道コース独歩碑の道緩やかで登りやすい、散策に適したコース。山頂付近には捨曲輪(すてぐるわ)の一つが見られる。登城の道藩政時代より続く、当時に実際使用されたままの勾配のあるコース。中腹からは昔ながらの景観を見られる。翠明の道かなりの急勾配で階段の段差もあるため、足元に十分気を付け休憩しながら散策を。尾根の上には、藩主の涼み場と伝わる翠明台の跡がある。若宮の道若宮八幡宮へと続く雄池・雌池のある裏手のコース。雄池への道は非常に細いため注意して通行を。山頂までの所要時間は各コースおおむね20~30分程度。落ち葉等で滑りやすい箇所もあるため、運動靴・動きやすい服装での登山を推奨します。山頂拡大図14:21城山麓の鳥居。毛利神社の社殿は、太平洋戦争中の昭和20年4月26日の空襲で破壊されたが鳥居は現存する。モミジの紅葉には少し早かった。史跡 豊後佐伯城址城山山頂の城址は海抜140メートル、遠く近く南豊の山々をめぐらし、番匠川はまがりくねって佐伯湾にそそぎ、はるかに豊後水道をへだてて四国の島山が霞んで見える。眼下には、県南の政治・経済・産業・文教の中心都市、人口五万の佐伯市街がひろがり、展望絶佳、歩いて十五分で登れる景勝の地である。慶長六年(1601)四月、日田より入封の初代毛利高政は、この地を相して佐伯荘二万石の本拠地と定め、まず山頂に築城の工を起こし、城下町の建設にかかった。三層の天守閣をもつ本丸を中心に、二の丸・西の丸を西南にのばし、北の丸を東北にひろげ、あたかも舞鶴の翼を張った姿に自と鶴屋城と名付けられ、また鶴城と呼ばれた。城は四年後の慶長十一年に完成したが、程なく失火により本丸・二の丸を失い、その復興をあえて行なわず寛永十四年(1637)山麓に三の丸を開き、大いに殿館を営んで以来二百数十年、佐伯藩政は専らここで執られた。それは山城の不便さを避けてのことである。そして明治初年の版籍奉還、廃藩置県によって廃城となった。今は城郭の遺構としては僅かに三の丸櫓門を残すだけであるが、なお城跡を示す石垣は殆んど完全に残り、城址公園として市民に親しまれている。 慶長 六年(1601) 毛利高政 日田より佐伯荘に入封する。 慶長 七年(1602) 近江の人 市田祐定に命じて築城を始める。 慶長十一年(1606) 築城完工 鶴屋城と呼ぶ。 元和 元年(1615) 高政 大坂夏の陣に参加する。 元和 三年(1617) 鶴屋城二の丸より出火、本丸天守閣焼失する。 寛永十四年(1637) 山ろくに三の丸をつくり藩政を執る。 宝永 四年(1707) 地震津波のため四八六戸倒壊する。 享保十四年(1729) 鶴屋城修復する。但し天守閣を設けず。 安永 六年(1777) 八代藩主高標 藩校「四教堂」をつくる。 天明 元年(1781) 高標城中に佐伯文庫(蔵書八万巻)をつくる。 文化 九年(1812) 直川ほか七ヶ村の農民が一揆を起こす。 明治 二年(1869) 十二代藩主高謙 版籍を奉還する。 明治 四年(1871) 廃藩置県 七月佐伯県、のち大分県となる。 佐伯市教育委員会城山還元之碑城山は明治2年(1869)版籍奉還により、明治政府の国有林となる。その後、佐伯県執事係、山中盛太郎氏の陳情により、明治34年、毛利家に還元され、明治44年、記念碑が建立された。正面に、「← 翠明の道 登り口」城山還元之碑の左側に、石碑。城山佐伯の春先の城山に来たり 夏先づ城山に来たり 秋また早く城山に来たり 冬はうと寒き風の音を先づ城山の林にきくなり城山寂たる時佐伯寂たり城山鳴る時 佐伯鳴る佐伯は城山のものなればなり 「○○○○○○」より城山還元之碑を後方から。登山コースの案内、「登城の道 登り ↑」、右側に「独歩碑の道 登り →」独歩碑の道の登り口に「善意の杖」14:26直進して ”登城の道” を登ることに。藩政時代のままの登城の道を振り返る。林の中を登るが結構辛い。この日は天気が良く足元がよかったが雨天時は大変であろう。尾根を見上げる。つづら折りの登城の道を上る。この辺りは石垣はないが、登城の道は石畳。前方に大きな石垣が見えてくる。石垣の間に木が生える。紅葉の木を見上げるが、最盛期の紅葉は最高であろう!14:37登城の道も緩やかになり、西の丸跡(西出丸)も近い。西の丸跡(西出丸)下から佐伯市街地を見下ろす。辛い思いをして登ってきたが素晴らしい眺望で満足!番匠川に架かる新佐伯大橋。手前の川は中江川。番匠川は、大分県南部を流れる一級河川番匠川水系の本流。九州屈指の清流として知られる。紅葉の合間からの佐伯市街地。西の丸跡(西出丸)の石垣。14:41西の丸跡(西出丸)へ登りきる。ここ城山(八幡山)の標高は144m。登城口から急峻なつづら折りを13分で登るが一気に登ったので辛かった。 ー 続く ー
2022.01.17
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延岡城の天守台から三ノ丸経由駐車場へ、この後国道10号を北上大分県へ向かう。11月17日(水) 12:25天守台から南方向の延岡市街地。大瀬川の南側にある旭化成のベンベルグ工場煙突。遠く鞍掛鼻であろうか。天守台の西側に聳える木片隅に記念碑が建つが天守台から下ることにこの後、天守台から三階櫓へと進む通路には夜の照明灯三階櫓跡地延岡城の天守とみなされた本城を代表する建築物で、城内で一番大きな建物だった。三階櫓は、関東周辺の譜代大名を中心に造られた「天守代用三階櫓」と同様、延岡城の天守とみなされた本城を代表する建築物で、城内で一番大きな建物でした。櫓の一階部分は、東西5間(約10m)、南北6間(約12m)の広さで、高さは、土台下から7間5尺9寸(約15.6m)ありました。明暦元年(1655)有馬康純公の修築により完成しましたが、天和3年(1683)(一説に天和2年)に武家屋敷からの出火で焼失し、以後再建されることはなく、現在は、櫓台の石垣が当時の姿のまま残っています。三階櫓跡に建つ、「後藤勇吉之碑」この後藤勇吉之碑は1934(昭和9)年に建立されたもので、太平洋に輝く太陽と、勇吉が果たすことのできなかった太平洋横断無着陸飛行の姿を彫刻したレリーフがはめ込まれている。碑は1934(昭和9)年に建立されたもので古い。また漢字とカタカナで鋳だされているので解りずらいためネットから抜粋。後藤勇吉は、明治29年11月12日延岡市南町に生まれ、延岡中学校を卒業後上京、飛行士として修練を重ねた。大正9年(25歳)競技飛行大会に参加、高等競技で1位、同年空中文明博にも参加、郵便宣伝飛行を行った。この年、郷土訪問飛行を実施、県民に驚異の感銘を与えた。以来、航空会の寵児(ちょうじ)となり日本一周飛行、郵便飛行、輸送飛行など多くの輝かしい足跡を残した。昭和2年太平洋横断飛行が企画されるやその責任者に選ばれ猛訓練が開始された。翌3年2月29日午前8時大村海軍航空隊を出発、霞ヶ浦に向かう途中 佐賀県・・・(岳)上空で墜落、死亡した。33歳の壮年であった。旅友は昨夜の宴会中に旧友へ電話、その時通じず相手から電話があり ”ながら電話”。紅葉には少し早かったようだ。後方の石垣は、三階櫓跡。吹上坂(ふきあげざか) Fukiageーzaka Slope吹上坂は、三ノ丸から本丸へと続くつづら折れの通路で、有馬氏時代に描かれた「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」(明治大学博物館所蔵)に、この吹上坂は描かれています。以降、三浦氏、牧野氏、内藤氏時代に描かれた絵図でも吹上坂は確認することができます。この場所は、延岡城の天守とみなされた三階櫓跡の西側直下にあたり、三階櫓跡の岩盤掘削面と石垣面とを上手く組み合わせて通路の壁面を構成しています。石垣は、見栄えを重視したと考えられ、一定の大きさに揃えた割石を用い、横目地の通る「布積み」で積まれています。また石面は、ノミによる「ハツリ」が施され平面的に整えられています。吹上坂の石垣は、城内の他の石垣とは違った美しさが見られ、有馬家により大改修されたと考えられます。つづら折りの吹上坂を三ノ丸へ下る。吹上坂を下り、三ノ丸跡三ノ丸に庭園があったのか。三ノ丸跡地明治大学所蔵の内藤家文書「元禄絵図・・・・・よると、この位置が三の丸となっている。三ノ丸跡地を振り返る、旅友は珍しく私の後から。紅葉はじめの木を見上げる旅友。園路脇に「牧水歌碑」と。石垣の間に大きな樹の切断跡廻りに、黄色いツワブキが咲く。歌碑前広場歌碑前広場に建つ歌碑。中央が牧水の歌碑歌碑には、「なつかしき 城山の鐘鳴りいでぬ をさなかりし日 聞きしごとくに」 牧水。若山牧水(1885 ~ 1928)若山牧水(本名 繁)は、明治十八年八月二十四日、現在の宮崎県日向市東郷町坪谷に生まれました。尋常小学校を終えると、延岡市の高等小学校に入り、新設された県立延岡中学校(現・県立延岡高等学校)を卒業して、早稲田大学英文科に進みました。延岡での八年間の青春は、山紫水明の自然と良き師友に恵まれ、歌人としての素養を培いました。そして、若山繫が雅号を「牧水」としたまちが延岡です。この歌は、昭和二年七月二十四日、台雲寺(北小路)で詠んだもので、昭和十年春、全国三番目の牧水歌碑として建てられました。毎年、三月春分の日に歌碑まつりが行われます。 延岡市観光戦略課牧水の歌碑は、現在は全国で300基を超えているものと思われ、その数は他の歌人を圧倒、断然トップを誇り、そのうち3分の1は宮崎県に集中している。右隣に立つ古くから門下だった谷自路(次郎)の歌碑「石の面に 樹々に冬日の 照り沁みて 凪ぎはてし庭に 山茶花の散る」 昭和27年(1952年)3月17日、建立。左隣に立つ古くから門下だった越智渓水(通規)の歌碑。「家にゐて ものおもふことの 愚かさよ やまに来たれば 良き日なりけり」 昭和43年(1968年)7月21日、建立。広場の隅にツワブキが咲く。内藤家墓地を塀の上から覗き見る。延岡市のおすいマンホール蓋。市章の両脇に宮崎県伝統工芸品である江戸時代から続く郷土玩具の「のぼり猿」が描かれている。のぼり猿は、延岡藩の武士の妻たちが手内職として作り始めたとされ、 ハナショウブを描いた幟が風を受けると張り子の猿が上り下りする仕組みで、5月の節句に子どもの健やかな成長と五穀豊穣を願って、 鯉のぼりと一緒に庭先に立てるそうです。12:50北城山街区公園の北駐車場へ下り立つ。約1時間の延岡城散策であった。次の目的地はいよいよ今回最後の大分県下の城制覇だ。この後今日明日で、佐伯城、臼杵城、中津城、角牟礼(つのむれ)城の四城。駐車料金は、「駐車券無料処理機」で受付をしたので無料!12:55城山公園から、五ヶ瀬川を渡り国道218号(神話街道)を東へ進む。カーナビは一般道優先で走る。国道10号と合流するこの昭和町交差点を左折して北上。道路標識は大分まで 112km、宮崎まで 87km。この後は、延岡駅前を通り一路国道10号を北上して佐伯市へ。国道10号は北川、日豊本線に沿って山間部へと北上、日向越隧道。左は日豊本線、国道10号の交通量は少なく、制限速度50km+15kmで北上。前方に赤い看板「延岡学園高等学校」。13:06前方の道路標識は「道の駅 北川はゆま 1km」、国道10号、326号。道の駅 北川はゆまは、東九州自動車道北川インタ出口にある。所在地:宮崎県延岡市北川町長井5751-113:09北川に架かる「川〇大橋」橋の親柱に、天狗?。13:24国道10号は山間部へと進み、前方に日豊本線の陸橋。もう50年前に大分へ長期出張時に、この日豊本線を利用して日南へ旅をしたことを思い出す。その頃はまだ未電化で蒸気機関車であった。13:24国道10号を独り舞台で走り、いよいよ今回最後の訪問地大分県へ入る。ようこそ 大分へ Welcom to OITA ♨写真は「佐伯市 鶴御崎灯台」。対向車もなく、後方からも無く、一人旅。このブログ作成時にわかったが、この辺りの東九州自動車道は無料区間になっている。13:25国道10号と併行して日豊本線が走る、以前は重連の蒸気機関車が牽引。この辺りの日豊本線は、大分県側の重岡駅から宗太郎駅を経て宮崎県側の市棚駅までの区間が、一般に「宗太郎越え」と呼ばれる。急峻な山地の中を1000分の20の急勾配の鉄路が、合計37のトンネルを抜けて続いている。13:27カーナビは佐伯城への到着予定は、14:29、残り 31kmと。残り31kmで所要時間1時間と予測。道路が空いているのでまだ早く着くであろうと思いながら。13:30宗太郎隧道坂道の上り下りとカーブが続く厳しい山越えの道路である。標高266 m。近年、西側を走る国道326号が整備されて、実質的に国道10号のバイパスとして機能しているため、この区間の交通量は少なくなっている。また、東九州自動車道のこの区間は、ずっと東側の海沿いに建設されており、宗太郎峠付近は経由しない。宗太郎隧道を抜けてからは下り坂に。国道10号に入ってから対向車もなくスピード違反に注意しながら運転。昨年10月末に一時停止を怠り税金を納めているので追徴金もしたくなく、また3カ月無違反だと減点2が1になるので。13:33国道10号と日豊本線が交差カメラをもった高齢者が撮影に訪れていたが。 ー 続く ー
2022.01.16
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今日の目的地の一番目、続日本100名城の延岡城へ登城。11月17日(水) 12:00平成4年度(1992)に復元された「北大手門」。右側の門は、内藤家墓所。 北大手門北大手門は、延岡城本城に入る登城口の1つで、城の表門にあたります。北大手門の周辺は、石垣だけが残る状態でしたが、昭和63年(1988)に都市景観形成モデル都市に指定されたことを受け公園整備がスタートし北大手門の復元整備を行うため、平成4年(1992)に発掘調査を行いました。調査の結果、多くの絵図に描かれているとおり、門礎石を置く根固め基礎や、番所跡が確認されました。また、絵図にはありませんが平瓦を敷いた排水溝が確認されました。北大手門は、発掘調査で確認された門礎石を置く根固め基礎から四脚門と判断しました。門の袖塀は、東側の石垣に残るホゾ穴や、屋根型の彫り込みが確認されたことから位置を決めています。また、文化13年(1816)の「日向国延岡御本城要害絵図」、明治維新前後(1868年前後)の「延岡藩士族屋敷図」等の絵図も参考に復元しています。北大手門を挟み南北に走る排水溝や、本城内へ上る階段も発掘調査を基に同じ位置に復元しています。事業年度 平成4年度事 業 費 1億6千万円(北大手門、石段等)門 形 式 木造平屋建いぶし瓦本葺き、四脚門建築面積 30.01㎡門 幅 5.4m門 高 7.2m材 質 ヒノキ(一部スギ)基 礎 自然石北大手門前に、「延岡城 続日本100名城 平成29年4月6日」城内配置図内藤家墓碑及び供養塔 平成十二年四月二十八日 延岡市文化財指定ここは、旧藩主内藤家の墓所です。以前は三福寺にありましたが、五ヶ瀬川の河川改修に伴い、明治四十二年九月にこの地に移されました。内藤家は三河国(愛知県)出身で、代々徳川家に仕えた三河以来の譜代で、元和八(1622)年、四代政長が磐城平藩(福島県いわき市)七万石の領主となり、延享四(1747)年、九代政樹のときに日向国延岡藩に転封となりました。墓所内には藩主の墓碑五基、一族の墓碑十九基、供養塔二十一基があります。藩主の墓碑は、磐城平藩初代であった四代政長、六代義泰、八代義稠と延岡藩の十一代政脩、十二代政韶のもので、十四代政順の妻で優れた道中記を残した充真院の墓碑もあります。墓碑の形式は、宝篋印塔七基、五輪塔五基、笠塔婆十一基、角碑一基となっています。このうち宝篋印塔は神奈川県鎌倉市・光明寺の内藤家墓所(昭和三十七年文化財指定)にも見られ、江戸時代の大名家の墓碑を特徴付ける貴重な文化財です。 平成十二年 延岡市教育委員会鎌倉の内藤家墓地に比べきれいに整備されているが、鎌倉市・光明寺の内藤家墓所にも延岡藩の末代までの墓碑があり定期的に清掃していると。「鎌倉の内藤家墓所」👈 をクリック願います。北大手門東側石垣本城の玄関口である大手門の東面石垣は、大小不揃いの割石を用い、横目地が通らない「乱積み」で積まれています。出角は、長辺と短辺が交互になるよう積み上げ、角石と角脇石からなる「算木積み」で積まれており、上部は緩やかな反りをもっています。また、この石面には、400個以上の「刻印」が残っています。これらは有馬家が携わった、元和6年(1620)から寛永5年(1628)の徳川大坂城天下普請の有馬家普請丁場周辺でみられる刻印に類似品が多く、大坂城築城に関わった技術者が延岡城の北大手門周辺石垣の構築を行った可能性が考えられます。この時期は有馬家が延岡城の大改修を行ったとされる時期(承応2年(1653)から明暦元年(1655))よりも古く、有馬家が延岡へ入封したすぐ後に、北大手門周辺を改修したことが想像されます。石に「文字のような刻印」がある黄色丸の中に見られる北大手門から石段を登ると正面に「千人殺しの石垣」千人殺しこの石垣は千人殺しと呼ばれ、敵が攻め入った時に石垣の一部をはずすと崩れ落ち、一度に千人を殺すと言い伝えられています。北大手門を見下ろす市指定史跡 延岡城跡 別 名 県(あがた)城・亀井城 指定年月日 平成十年三月三十日延岡城跡は、県(延岡)藩主・高橋元種によって慶長六~八(1601~1603)年にかけて築かれました。元種は、松尾城(市内松山町)を拠点としていましたが、鉄砲の普及による戦法の変化に対応するため、五ヶ瀬川と大瀬川に囲まれた丘陵に県内最大の近世城郭を築きました。当時は県城と呼ばれ、二つの河川を外堀とし、城内に内堀がつくられました。城は、天守台、本丸、二ノ丸、三ノ丸からなる本城(城山公園)と、藩主の居宅である西ノ丸(内藤記念館・亀井神社)の二郭で構成され、門・櫓などが整備されました。なかでも、二ノ丸にそびえる高さ約十九メートル・総延長約七十メートルの石垣は「千人殺し」と呼ばれ、本城郭を代表する石垣となっています。慶長十八(1613)年、元種は改易され、肥前国日之江(長崎県南島原市)の有馬直純が五万三千石で入封しました。・・・・・後略延岡城の藩主の変遷高橋時代 1587 ~ 1613年 <石高> 5万3千石(外様大名)有馬時代 1614 ~ 1691年 <石高> 5万3千石 → 5万石(外様大名)三浦時代 1692 ~ 1712年 <石高> 2万3千石(譜代大名)牧野時代 1712 ~ 1747年 <石高> 8万石(譜代大名)内藤時代 1747 ~ 1871年 <石高> 7万石(譜代大名)延岡城の年表慶長 6年(1601) 高橋元種が縣(あがた)城(後の延岡城)の築城に着手慶長 8年(1603) 高橋元種が松尾城から縣城に移る慶長19年(1614) 高橋元種が改易され、有馬家が縣(延岡)に入封明暦元年 (1655) 城郭の補修・整備が終わり、二階櫓・三階櫓が完成明暦 2年(1656) 有馬康純が梵鐘(後の初代城山の鐘 ※)を今山八幡宮に寄進天和 2年(1682) 家臣宅より出火、城域にも延焼し、三階櫓などが焼失(天和3年説もあり)明治 4年(1871) 延岡城が廃城明治10年(1877) 西南戦争により城山の太鼓櫓が焼失明治11年(1878) 太鼓櫓跡に今山八幡宮の梵鐘を移設昭和 9年(1934) 内藤家より公園用地として延岡市に城山が寄贈される昭和10年(1935) 昭和天皇行幸 城山公園視察平成 5年(1993) 北大手門を復元 平成10年(1998) 延岡城跡が市史跡に指定される ※ 梵鐘には、「日州延岡城主 有馬左衛門佐」の銘が刻まれており、これが現在確認でき る「延岡」の文字の初見史料となります。北大手門を上り、西側にある二の丸広場の奥に管理事務所。二の丸広場から北側を見下ろす、奥にある左から、「十一代政脩」「四代政長」「六代義泰」「六代義泰後室」の墓碑。内藤家墓所配置図下側が入り口で、北大手門前。中央にある「位牌堂」は、平成15年、東京天徳寺に移設と。墓地の全景、右方向が北大手門二の丸広場にある管理事務所。続日本100名城のスタンプはここに置かれており、終日捺印ができる。入口に「駐車券無料処理機」の大きな看板。スタンプ台延岡城 御城符 配布案内続日本100名城のスタンプを捺印後、内藤記念館へお越し下さい。御城符をお渡しします。内藤記念館(現 延岡市役所南別館内) 開館時間:9:00 ~ 17:00 休 館 日 :毎週月曜日スタンプを頂きました。デザインはやはり「千人殺しの石垣」。管理事務所前から、「千人殺しの石垣」。千人殺しの石垣この石垣は、一番下の根石を外すと石垣全体が一度に崩れ、「千人の敵兵を殲滅する」と言われ、通称「千人殺しの石垣」と呼ばれています。石垣は法長約22m、高さ約19mあり、熊本城宇土櫓台、小倉城天守台に次ぐ九州屈指の規模を誇り、宮崎県唯一の高石垣です。石垣の積み方は、自然の石をそのまま使用する「野面積み」を主体とし、隅角部は細長い長方体の石を長辺・短辺が互い違いになるよう積み上げ強度を高める「算木積み」、石垣上部は、当時の最先端技術である石垣に勾配をつける「反り」の技法が用いられています。石垣に用いられている築石には、矢穴や刻印がありますので、じっくりと観察してください。隅角部にあるコンクリートは、昭和10年の昭和天皇行幸の際に補強されたものです。城山ヤブツバキ群についてここ城山公園には数多くのヤブツバキが育っています。花は毎年十二月から三月にかけて咲きます。ヤブツバキといえば、紅色の花がふつうですが、ここでは白色から桃色、濃紅色までの色の変化があるだけでなく、白地に紅の斑入り、絞りあるいは覆輪などの複色の花もたくさん見られます。花の大きさも形もいろいろで叉、一本の樹に枝によって違う色の花をつける咲き分けもあり、なおかつ園芸価値の高い素晴らしい花もあります。どの樹もそれぞれ異った特徴をもち、同じものがみられないことから、この『城山ヤブツバキ群』は自生であろうと考えられ、自生でこんなに多彩な変異をみるにつけ今後も新しい変異の発現が期待されます。この『城山ヤブツバキ群』のように、せまい範囲に集中して多彩な変異が発現している例は、他に島根県松江城の椿谷と千葉県大原町伊能滝があるくらいで、日本三大ヤブツバキ群の自生地の一つとして『城山ヤブツバキ群』は全国に誇り得る貴重な存在であります。 平成元年十一月作成 寄贈 延岡ロータリークラブ城山のヤブツバキ(写真はパンフレットから)竹柵の中は「井戸跡」内藤家文書の「日向国延岡御本城御要害絵図」によると、ここに二ヶ所の井戸が描かれており、発掘調査によって絵図資料と合致して確認された。ここは、元来丘陵の谷筋にあたることから湧水を想定したと思われる。さらに、斜面裾から井戸の間を通って北大手門階段方向に延びる暗渠(排水路)も確認されており、井戸を確保しつつ地盤強化を図るなど、当時の技術水準の高さが窺える。二ノ丸と本丸の間に築かれた石垣は高さ約19メートルを誇る。前方に、二階門櫓跡地園路面にある四角い石は二階門櫓の根石跡の場所二階門(櫓門)跡二階門(櫓門)は、千人殺し石垣西側の長坂門から本丸までの経路を護る「内枡形門」で、二階部分が櫓、下部が開閉式の門になっていました。門の大きさは、南北3間(約6m)、東西8間半(約17m)あり、城内では三階櫓に次ぐ規模の建物でした。突入して来る敵兵をここで迎え討つために設けられ、背後の本丸を守護する堅固な防御施設でした。1998年(平成10年)に発掘調査を行った結果、櫓門の柱を載せる根石跡が検出されました。現在、園路面にある四角い石は、その根石跡の場所になります。右側に、二階門櫓門の根石跡本丸へ上り二階門櫓を見下ろす本丸跡地本丸跡に立つ、内藤政挙公像、殉国慰霊塔。城山公園には、昭和55年(1980)に延岡市と姉妹都市を締結したアメリカ合衆国マサチューセッツ州メドフォード市より寄贈された桜をはじめ約250本の桜(ソメイヨシノ)が植えられている。3月下旬から4月中旬にかけては夜桜電飾が行われる。殉国慰霊塔内藤政挙公像延岡藩最後の藩主・内藤政挙(まさたか)公は、幕末から昭和にかけて教育や産業を振興し、延岡の近代化に貢献しました。特に教育に力を入れ、亮天社や女児教舎を設立して、延岡の文化と教育の発展に尽力しました。また、内藤家が所有する日平銅山(北方町)の余剰電気を安い料金で町民に供給するなど、「延岡の父」と呼ばれています。像の台座に「内藤政挙公」天守台跡延岡城は宮崎県を代表する近世城郭で、高橋元種により、慶長6年(1601)から慶長8年(1603)にかけて築城されました。天然の要害を利用し、本市の中心部を流れる五ヶ瀬川、大瀬川を南北の外堀とし、その中洲に所在する標高約53メートルの独立丘陵に本城を築いています。本城(城山公園)は、本丸、二ノ丸、三ノ丸の三区画で構成されている。天守台跡に立つ、内藤家文書の「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」によると、○○○○○あるが天守閣はみられない。これは、天守閣がない南九州の○○○○○色にもなっている。また、明治初年頃の絵図には鐘つき堂の前身○○○鼓櫓があったとされるが、同十年の西南の役で焼失した。天守台に建つこの建物は?。毎日定刻に鐘を撞く鐘守の方の住宅か?天守台ここは有馬氏時代に製作された「有馬家中延岡城下屋敷付絵図」(明治大学博物館所蔵)では、「天主台」と記されていますが、天守閣は描かれていません。しかし、慶長年間の「日向国絵図」(臼杵市教育委員会所蔵)には、望楼型の三重天守が描かれています。このことから天守閣が存在したという可能性も否定できませんが、平成6・7(1994・1995)年に発掘調査を行った結果では、天守閣の存在を示す資料は得られませんでした。明治初年頃の絵図には鐘撞堂の前身となる太鼓櫓があったとされますが、同10(1877)年に西南の役で焼失。翌11(1878)年、有馬氏時代に今山八幡宮に寄進された梵鐘が天守台に移設され、以後、現在も鐘守の手によって時を告げる鐘の音が鳴り続けています。なお、現在の鐘は二代目にあたり、昭和38(1963)年の市制施行30周年記念事業で鋳造・設置されたものです。初代の鐘は、教育委員会に保存されています。鐘楼堂城山の鐘は明治11年(1878)から昭和38年(1963)まで時報鐘として市民に親しまれてきた初代・城山の鐘は、江戸時代の明暦2年(1656)に当時の延岡藩主・有馬康純が今山八幡宮に寄進したもので、現在は内藤記念館で展示されています。昭和38年に造られた2代目となる現在の鐘は、今でも1日6回(6時・8時・10時・12時・15時・17時)、鐘守の手によって市民に時を知らせています。延岡城にはちょうど12時に着いたが鐘の音がしたのか?このため無断で鐘を撞かないで下さいと!石柱には「延岡城 続日本100名城 平成29年4月6日認定」と郷土の生んだ歌人若山牧水の歌 共に全国に知られている城山の鐘は延岡地方に○○○古の有銘鐘でその銘文に・・・・・・(判読できず) 昭和三十八年二月十一日 市政三十周年記念日 延岡城山の鐘をつくる會天守台跡から東方面の延岡市街地。㈱NTT西日本ー九州越しに「五ヶ瀬川」、「大瀬川」、遠く日向灘方面を見る。大瀬川、遠く日向灘。手前に延岡市クリーンセンターの煙突。紅白の煙突は旭化成のベンベルグ工場。延岡と言えば旭化成が全国的に名を知らせている企業城下町である。宗兄弟のマラソン、駅伝と陸上で名を売っている。北方向にある延岡市役所12:25北方向の山を切り崩しているようだが — 続く ー
2022.01.15
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