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「勝敗と現在」1971年12月5日ソウル本部教会 我々の周囲には悲しい人々が多い。また反面、そうでない人たちもいる。我々の、家庭、都市、また、国家もまたみながそうである。発展するものがあると思えば、そうでないものもある。笑う人があると思えば、泣いている人たちがある。 このように一様でない現在――ところが人間は、皆が悲しみを嫌う、と同時にまた孤独な場所を嫌う。そして、全体を願うのである。喜びと栄光、そして幸福を追求する。家庭と社会、そして国家もみな同じである。みなが悲しみを避け、栄光を迎えようとして、闘っているのである。世界もそうだ。 愛の最後の終着駅 もし、このような全体のものを支配するある存在がいるとするならば、その存在もまた同じではなかろうか! 天のお父様も、間違いなく我々人間と同じはずだ。 愛は、孤独なそして苦しいところで与えられるべきものではない。あくまでも自由な、そして栄光ある場所で与えられるべきものである。そういう環境のもとで最高の愛を思う存分に与えたい。それが神の心情なのだ。 今、この地上にそういうことができる人間がいるのだろうか? 我々はそういうことに対して考えてみなくてはならないのである。そのような最高の愛は、ある個人だけに与えられるべきものではない。家庭を越えて、さらにまた、世界を越えてより高き次元のものに与えられなければならない。これが愛の本質なのである。 一人よりは二人、二人よりは三人――そしてまた十人――このようにして拡大して、その対象を追求するのが愛の本質なのだ。それゆえに人類愛というのがこの地上にあり得るのである。自分の国家よりも世界を愛することができる力が、ここより発生するのである。愛の最後の終着駅、それは最大のものでなくてはならない。多くの子供たちを養った経験をもった親たちは、この深い心情をよく理解するだろう。で、そのような人たちは敵をもつことができない。そういう内容を分かるようになる。その理由は、すべての人はみな愛を受けなければならないという事実を知るようになるからである。 世界を除外して私たちだけが愛を受けたい――このような思考方式がここから破壊されるのである。 神の欲望はある個人にだけ限定されない。全体にわたるということを天は望む。「公」と「私」とが、ここから分別される。「公」というものは全体のためのものである。それゆえに、全体が望むもののために尽くすのが、「公的」であるということができるのだ。私、一人だけの喜びというものはあり得ない。それは全体的な喜びから結局追放されるのである。天の内容というものは、こういうものだと私は思う。それゆえに知恵のある人々は将来のために生きる。現在のためにのみ生きられるものではない。それで、そのようなところから信仰というのが必要になるのである。そこに希望というようなものがあり得るのだ。ゆえに勝利というのは個人的なものであってはならない。あくまでも全体的なものでなくてはならないのである。 君は君である。私は私である――そういうものではない。君は、私であり、私は君である。そういうところまでいかなければ駄目だ。個人の勝利においては、個人だけしか喜べない。二人が喜ぶということはできないし、また全体も喜ぶことができない。だが、個人的な勝利も、これを全体の前に捧げれば全体のためのものになることができるのである。 愛は犠牲の道 それで、犠牲ということが生ずる。犠牲によって、我々は公的な勝利を追求することができるからである。我々三〇〇〇万の全体の民族が笑ってのちに、(幸福になってから)私も笑うことができるのだという考えが生まれるようになる。それは範囲が広くなればなるほど、その価値が増大するからである。 ここで「道」ということが、初めて言われるようになるのである。 ここに世界の絶頂があり得る。そこで愛の道には必ず犠牲というものが同伴する。ところが手段や方法をもってしてはこのような道は歩けない。純粋でなければならない。そうでなければ人に笑われる。個人的な人とではお互いが喜べない。このような意味において、勝利というのはある個人のためのみにはあり得ないのである。それゆえに宗教においては、個人主義というのがあり得ない。もちろん、我々はあくまで個人として存在する。しかし、その個人というのはあくまでも国家のためにあるいは、全体のためにある個人であるという事実を我々は、はっきりと理解していなければいけない。そこで、我々個人というものは世界を象徴する存在でなければならないということになる。ゆえに個人は、より公的なもののために生きなくてはならない。 このように果てしなく拡大していくのが神の愛である。我々は、統一教会のためにのみ生きてはならない。国家のために生きてはならない。世界のために生きなければならないのである。たとえ、犠牲になることがあっても、我々は、この道を歩まなければならない。このようにして個人は生きられる。美しい黄{たと}昏{がれ}を見る時、自分一人だけ見たいと思う人がいるだろうか? そういう美しいものは、あらゆる人が眺めて喜んでほしいと思うのが人間の本情であろう。永遠なる天国というものは、ある個人の内にだけはあり得ない。永遠なる天国というものは全体においてのみあり得るのである。 それで宗教(特にキリスト教)は強い。誰もこの力を取り除くことはできない。言うまでもなく、このような宗教の道を歩むことは楽ではない。悲惨な姿をしなければならない。しかしながら、人類の歴史はそのような人たちを通して発展する。それゆえに我々は高次的な願いをもたなければならないのである。そういうところにおいて、個人は死んでもその道は発展していく。滅ぶ場合においてもそのような人々は望みを抱いて滅ぶことができる。そうでなければ、そののちに発展というのがあり得ない。 永遠に残る思想 世界のために尽くす統一教会――もしそうでなければ統一教会は滅んでしまう。我々は、このような立場で新しい文化世界、新しい文化的思想を打ち立てなければならない。我々は天と地を代表する思想を残さなくてはならない。それに成功すれば、たとえ天と地が崩れてしまうことがあってもその思想だけは永遠に残される。我々は国家のために受ける苦痛であるならば、それを誉れと考えなくてはならない。その当時は悲惨であるかもしれない。けれども、それは誰も取り消すことのできない愛なのである。 イエスは十字架の上で死んだ。しかしながら彼を十字架に据え付けた天の愛は、この地上から消えてしまったのであろうか? そうではなかった。最も深く愛するひとり子を殺してまでもその深い愛をこの地上に顕現させたのが、神の愛ではなかったか! それが、真の父母の愛であったかもしれない。それは我々が想像することができないほどの次元の高い愛であったのだ。それゆえに、他の方面において新しい復活が開門されたということを我々は、はっきりと知っていなくてはならない。三〇〇〇万の、我が民を救う時までは、我々は悲惨な環境を忍んで闘わなければならない。それが、たとえ死の道であっても我々は行かなければならない。そのような所で我々は、初めて真に生きることができる。 それゆえに統一教会が歩く道は一見して、死の道のように思われる。それは統一教会が、国のために生きるからである。我々は国が滅ぶのを、そのまま放っておくことができない。我々は全力を尽くして国のために働かなければならないのである。挙国的な活動の中心とならなくてはいけない。そうでなければ我々は滅びるほかはないだろう。 勝者と敗者の分岐点 今、我々は勝者となるか、敗者となるか、その運命が決定される分岐点の上に立っている。それが今から十年後に決定されるのではない。今のこの時点において決定されるのである。この現在の時点を乗り越えることができない人は、勝利者となることができないであろう。現在を克服できない人は、未来の勝利をもたらすことはできない。我々はこの難関をうまく越えて神を解放しなくてはならない。ゆえに我々は、現在を勝利しなくてはならないのである。 神の運命も我々にかかっているという事実、我々は、はっきりと認識していかなくてはいけない。他人も救わなくてはならない。世界も救わなければいけない。また、神も救わなければならないのが我々である。このような公的な勝利は、暖かい部屋の中では勝ち取ることはできない。喜びの日というのは、今の我々には、よほど縁が遠い。我々は、既成教会と闘ってはならない。我々は彼らが願っている天国を建設してあげるために、全力を傾けなければならない。それは我々の目的が、あくまでも天国を建設するところにあるからである。 では、今のところ天国が建設されているのだろうか? 今から我々は、天国を建設していかなくてはならないのである。我々は、中断することができない。挫{ざ}折{せつ}することができない。我々は、我々の家庭のためにだけ生きることができない。我々は、より偉大なるもののために出発しなくてはならないのだ。現在いるところに、そのままとどまっていることができない。我々は、我々がしなければならない全部のものを成し遂げなくてはならないのである。 我々自身は救われなくてもいい。国家と世界を救わなければならないのだ。そういう思想をもたなければいけない。我々は、いくら飢えても前進しなければならない。いくら難しくても、我々は我々がしなければならないことを成し遂げなければならない。歴史と共に歩きながら、新しい歴史創造に参与しなければならないのである。天の目的と天の悲しみと、天の権威のためにも我々はじっとしてはいられない。我々は、今、前進しているのである。我々は、今、眠っていることはできない。世界のために闘っている人々と共に、世界のために我々も闘わなければならないのだ。そうすれば、我々は自分一人だけが闘っていないという事実を発見するようになるであろう。霊界にいる聖徒たちと共に立体的に闘っている自分自身を発見するようになるのである。こういうことが、もちろん、たやすいことではない。難しいことである。我々は一歩も踏み誤ることができない。こういう道を歩く時には、ブルブル震える時が多い。深刻なところを我々は歩いているのである。共産主義と闘うために、サタンと闘うために、我々は国家を越えて前進しなくてはならないのである。 摂理の中心に立つ再臨主 この世の中で、ある一人が生きているということは、その一人のためにのみ生きるということを意味するのではない。その人は、ある家庭に属しているだろうし、また、ある民族、ある国家に属しているのである。最少限度、民主主義の世界においてはそうだ。このような数多くの単位に取り囲まれて我々、一個人は生きているのである。しかし、今のところいったいどの個人が天の摂理の中心となっているのか? どの家庭が、どの国家がその核心となっているか? それをいったい誰が知っているだろうか? この内容を本当に知っている人は誰もいない。人間はこのように何も知っていないのである。 それではいったい誰がそれを知っているか? 聖書を見れば天の父だけはそれを知っていることになっている。このように天の神だけが知っているその摂理の中心――その中心がキリスト教でいっているいわゆる再臨の主なのである。それゆえにあらゆる人たちはこの一人の個人とその家庭を中心として、一致的紐帯を結び、運命共同の生活をするようになっている。この一人を中心としてあらゆる人々が、何が善であり、何が悪であるかを知るようになっているのである。それゆえに我々は、その中心と一つとなって、悪を取り除くために全力を傾けなければならないし、またそのための訓練を受けなければならない。これができるかできないかによってあらゆる個人と、あらゆる国家、そして全体の人類が死ぬか生きるかという生死の問題が決まるわけである。 ゆえにすべての人間は悪の世界を捨てて、この善なる中心と一つとならなければならない。この再臨の主は神の国が滅びるかどうか、またサタンの国が滅びるかどうかをはっきりと知っているそういう人である。 その理由は、再臨の主が神の国とサタンの国に関するあらゆる秘密を知っているからだ。それゆえにその人は神の国とサタンの国が、あるいは興り、あるいは滅びるその間をくぐり抜けて、善の国を建設していくことのできる人であるのである。神の国を建てようとする人は、神もよく、またサタンもいいというような股がけの思想をもつことは許されない。そういう目的のために生きる人は徹頭徹尾、悪に勝利しなければならない。 勝利したヤコブになろう ヤコブは二十一年を闘い抜いて、そしてまた天使を勝ち抜いたあとでイスラエルという勝利の名を受けることができた。神の国を建てようとする人は、みんなこのような道を歩かなければならない。モーセもそういう目的のために、一二〇年の間一人で闘ったのである。 神が悪の勢力を打つ以前に、我々がその願望を成し遂げてあげなければならないのが本当である。もし、神がお一人で悪の世界を処理することができるとするならば、人間は何のために必要であろうか! それゆえに我々は、神の身代わりとなって悪を打ち砕き、勝利の一日を迎えなければならないのである。途中で倒れては何にもならない。 もし、ヤコブが天使と相撲をとる時、“あー、やりきれない。誰かが助けてくれないのかなあ!”というような弱い考えを抱いたならば、どうなったでありましょうか? 神は確かにしょうのないやつだ! と嘆いたに違いない。しかし、ヤコブは自分一人で闘い抜いてそれに勝ったのである。それでイスラエルという、勝利という意味の名前を受けることができたのだ。 このような勝利を得るためにヤコブは、腰の骨まで打ち砕かれたではないか! 我々は命を懸けて天使と闘ったヤコブの姿を想像してみる必要がある。彼は勝つまで決っして相撲の手を放さなかった。我々にもそのような、最後まで頑張る根強いところがなければならない。 天国に入るためには、サタンに打ち勝ったという証明がなければならない。その証明書がなければ天国に入ることができないのである。けれども我々がサタンに打ち勝とうとする時、サタンはそのままいるのではない。最後まで抵抗し反対するのである。このようにサタンがしつこく反撃するために、神はそこに関心をもたなければならないようになるのである。 神の道を歩く時には、ありとあらゆる困難にぶつかる。皆さんは女の人が子供を産む光景を見たことがあるか? 女は歯をくいしばり死を覚悟してある力全部を懸け子供を産むのである。今、我々統一教会の人たちはそのような立場のもとにいる。 我々は後退できない このような立場において、我々は後退することができない。今、アメリカ人はその軍隊をベトナムから、あるいは韓国から撤収するといっています。しかし、我々は後退することができない。反対に我々は敵のほうに向かって突進しようとしているのである。それでは敵のチョンマゲを握り取って何をしようとするのだろうか! そうすることによって神様を喜ばせたいその一念しかない。神を喜ばせるところに我々の目的がある。サタンをなくすために、六〇〇〇年も闘ってこられた神を喜ばせるために、我々はサタンに打ち勝たねばならないのである。 このようなことは一人ではできることではない。一人では到底不可能なことである。それゆえに国家と一つになって天のかたきに勝利しなければならない。我々はいかなることがあっても共産党を打ち砕かなければならない。それがすなわち統一思想なのである。誰が何と言っても仕方のないことである。我々は共産党に勝たなければならない。そうでなければ我々は目を閉じて死ねないのである。我々は共産党が滅亡するのを見なくては死ねない。これが統一思想である。 未来の栄光を遮るサタンを我々は打ち取らなければならない。この目的のために今我々は包囲作戦をしている。敵を包囲するためにはもちろん多くの犠牲を払わなければならない。しかし致し方がない。我々は熾{し}烈{れつ}な戦争をしなくてはならない。 皆さんは全部がそのような覚悟をしなければならない。我々は容易ならざる境遇において勝利しなければならないのである。悲惨な立場で勝利しなければならない。 将来、神のほうで勝利したときいったい、誰が一番喜ぶでありましょうか? 確かに統一教会の文先生が一番喜ぶでしょう。その理由は? 我々は今までそのことのために夜も眼られなかったからである。勝利した場合には一番苦しんだ人が一番喜ぶのは当然なことである。 我々は、敗者になってはいけない。絶対に敗者になってはいけないのである。それで私の祈りは全く真剣である。このような意味において皆様の祈りと私の祈りとはその質が違うはずだ。 今や、我々は世界の運命を前において、我々自身の立場を考えてみなくてはならない。 統一教会が滅んではいけない。三〇〇〇万の民族を生かすために、我々は敢然として闘わねばならない。このような闘いを敢行するところにおいて、ある個人的な事情のために中断することはできない。それは敗者を自らつくることになる。逃避者とならざるを得ない。神の責任を背負った人はそのようなことはできないのである。もちろん、悲惨な姿をする時があるだろう。絶望する時があるかもしれない。しかし、我々は後退するとか、中断することはできない。もし我々ができなければ、我々の子孫が受け継いでやる――このような覚悟を我々はもたなければならないのである。このような思想は最も恐ろしい。とにかく我々は、先頭に立たなくてはならない。我々は、一時に敵を攻撃することができる姿勢を整えなければならない。 死を覚悟して出発した先生 我々は死を覚悟しなければならない。この文先生は、この道を出発する時、既に死を覚悟した。ゆえに私の生涯において一番遺憾なことは、私が軍隊生活を経験しなかったということだろう。しかし、私はいつでも命を投げ出して善のために冒険を敢行する勇気をもっている男だと信じている。一線に出て、先頭に立つ覚悟をいつでももっている。 いったい、統一教会は誰によってつくられたか? この統一教会の運勢をいったい誰が動かしてきたか? 皆様が動かしてきたのだろうか? あるいは歴史が動かしてきたのだろうか? 皆様が動かしたのではありません。歴史が動いてきたのである。我々はこのような事実をはっきりと知っておく必要がある。我々の力で動いてきたのではないという事実を。 それは数千年間において、歴史的に血を流してきた先烈たちの功労が背景になっているから、我々が動くことができるという事実を明確に知っていなければなりません。それで我々は、歴史的な責任を背負わなければならないのである。我々は歴史に対する責任を負わなければならない。こういう道が現在統一教会が歩んでいる道なのである。 このような立場において、我々は歴史の主体となるか、そうでなければ象徴となってその難しい問題を解決しなくてはならないのである。我々はそういう目的のもとに、お互いが同労者となって闘わなければならない。部屋の中に座って、このようなことはできるものではない。部屋の中にいながら、そのような事実を知っているとしても何の役に立とうか? とにかく美しい歴史に傷をつけた人は永遠に外されてしまう。我々はダイヤモンドに傷をつけるような、そういう人になってはいけない。統一教会という存在を歴史的見地から見る時、それはかつてなかった、また将来にもあり得ない貴いものであるためである。 歴史が待ち望んだ「真の父母」 では、今までの人類の歴史が待ち望んでいたものはいったい何であったろうか? それは真の父母に会うということであった。真の父母がなかったために、今までの人類は悲惨な歴史の道を歩まなければならなかったのである。キリスト教でいうメシヤ思想というのは、この真の父母を迎えることを意味するものであった。いや、あらゆる宗教、あらゆる国家が探し求めなくてはならなかったものも、またこの真の父母だったのである。 今、北韓では金日成を「父」と呼んでいる。だが「父」が二人いるわけがない。統一教会で、この先生を「父」と呼んでいるから、サタンもそれをまねているのだ。大韓民国が貴いという理由も実はこういう内容があるからだ。ところが真の父母はいったい誰が選定するのだろうか? このことを子細に検討することは、人間がしなければならないのである。人間はどちらのほうが善なる父母か、そしてまたどちらのほうが悪なる父母であるかを分別しなければならないのである。真の父母が二つあるわけはない。一つしかあり得ない。一つしかない人類の真の父母は、歴史の起点であり、歴史の希望なのである。永遠なる生命であると同時に愛でもある。それゆえに皆様は真の父母の心情を詳細に知り、それに合わせなくてはならない。 それでは、父母のほうでは子女に対してどのような態度をとるようになるのだろうか? 悪の世界から選定された善なる子女であるゆえに、父母は無限なる神の愛をもって、彼らに対さなくてはならないのである。一般世間の父母とは、全然その子女に対する態度が違わなければならない。これと同じく、真の父母に侍る子女としての基本的な姿勢も、また、なくてはならないのである。万国から選ばれた、そして自分の国から選出された代表的な孝子として、孝誠を尽くすことのできるチャンピオンにならなくてはいけない。このようにしなければならないのがすなわち皆ようなのである。 もし、皆様がこのような立場から去るようなことがあるとすれば、それは億千万代にわたる悲しみとして残されるだろう。しかし前に言及したごとく真の父母に尽くす孝子たちが続出し、そのような人たちが一つに結束するならば、彼らはどのようなことがあっても滅びることがないだろう。このような焦点上に立っているのが今の皆様である。 そのような人たちは自分の欲することを全部行動し、また、話したいことを全部話しながら生活することはできない。今のところでは、そのような自由は与えられていないのである。統一教会に対する責任を担っているこの文先生も、言いたいことを全部言いながら暮らしているのでは決してない。祈りをする時も、「天の父よ……」と祈りを始め、その後はものを言うことができず、そのまま夜を明かしてしまうことがいくらでもある。気がふさがることがあまりにも多いので、天の父に対して面目がなく、祈りができないからである。天の父に対して申し訳がないからである。 本当の孝子とは ところが皆様方はあまりにもずうずうしい。自画自賛的な人がいるかと思えば、自己を宣伝するためにきゅうきゅうする人たちがいくらでもいる。困ったことだ。本当の孝子というものは何も語らず、黙々として自分の責任を全うし、そして父母の前では顔も上げられないという態度をとるものである。そうでなくては孝子となることはできない。もちろん、忠臣になれるものでもない。このようなことを真剣になって実行している統一教会を世間では異端といっている。 しかし、このように批判し続けていって、結局は、何も言われなくなってくる時が来るであろう。その時は統一教会がぐーっと浮かび上がるのだ。それゆえに皆様は、たとえ一日の生活にしても、いいかげんにしてはならない。一日の生活を貴重なるものと考えなくてはならないのである。一日、一日をまじめに生活しながら、一歩一歩を気高く踏んで進まなくてはならない。 孝を全うするためには、不具になってもかまわないのだ。そのような人は時が至れば、太陽のように輝くであろう。星のように明るい焦点となる時が来るであろう。このような栄光を得るためには何も言わずに、黙々として歩まなければならない。 弁明する人になってはいけない。登れと言えば登るし、下れと言われれば下らなくてはならないのだ。我々統一教会の人たちは弁明してはいけない。自己自身の基準がはっきりとしている人は弁明する必要がないのである。皆がそういうふうになれば、統一教会は絶対に滅ぶようなことはないだろう。 先生は「針」皆さんは「糸」 今の、我が国(韓国)の情勢は非常に緊迫している。キリスト教では、既に二〇〇〇年の前からこのような時が来ることを警告している。では、いったい誰がこの国に対する責任を負わなければならないのだろうか? それは統一教会の勇士たちがその責任を負わなければならないのだ。 我々は今、「破れた国」という着物を縫い繕わなければならない立場であると例えてみよう。すると、この私は針であり、皆様は糸のようなものである。糸は針にくっついていなければ着物を縫うことができない。針だけいくら通っても駄目だ。で、針も重要であるけれども、糸もまた重要であるという事実を皆様は、はっきりと認識していなければならない。皆様と私が一緒になって、針と糸との関係を結び、そして破れているこの国、あるいは世界という「着物」を修繕しなくてはならない。 もし、国家が滅んでしまえば、統一教会は行くべき所がない。そういう意味からしてでも、我々はこの国家を固守しなければならない。我々はいたずらに共産主義を恐れてはならない。我々は、我々が既に決意したところを勇敢に実践しなくてはならない。我々は何も持たない裸の立場である。しかし我々は共産主義に勝ることができる。我々統一教会の人たちが国家以上のことをするようになる時には、天が我々を保護するだろう。ここに勝敗の鍵があると私は思うのである。それで我々は勝利を眺めることのできる勇士とならなければならない。 我々は敗者としての悲しみを味わうようになってはならない。このような角度から我々は自我を分析し、批判しなければならないと思う。そして勝利のための苦難を克服する覚悟を決める時が今なのである。常に国を憂う人は悲しい人にならざるを得ない。もし皆様の中に本心から国家を憂い、世界を心配する人がいるとすれば、大韓民国を、この先生よりももっと愛し、世界をこの先生よりも、もっと愛さなければならない。そのような皆様は決して滅びることがないだろう。 我々は自分の責任を尽くせない人になってはいけない。ゆえに我々は、我々の責任を全うするために倍の努力を傾けなければならないのである。 我々は滅んではならない。滅ぶことができない。現在のあらゆる難関を克服しなければいけない。全体を投入して現実を救わなければならない。もちろん、金も必要だろう。その他の物質も必要な時があるだろう。判断に困る時があるかもしれない。 しかし我々は勇敢に前進しなくてはならない。この先生はどこへ行っても皆様のために祈るだろう。ゆえに皆様も現在を克服しなければならないのである。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.30
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お母さんだから 엄마니까 平和祝祭2021/06/27一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.29
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「祭物の完成時代」1971年9月18日そう見ると、物的移動の世界的代表的に恩を受けた国は日本である。それ以外の国は南北に分かれている。 エバ国家、日本の立場 何故こうなったか?天使長の主管圏に入ったのはエバを通して入った。だから神が、復帰の時代圏においてその物的条件をエバを通して果さなければならない。それが日本の立場である。 世界的サタン側の天使長国家があり、それに対応する天的の天使長国家がアメリカである。日本の国から見た場合にエバ国家としての使命が、経済的立場においては、世界に誇れる立場に立っているんだけれど、現在政治的状勢、国家的観点から見た場合に、これはどの様な方向に向っているか。今からそれが決る問題である。 それがまさしくエバの立場である。成長してから、お嫁に行かれる準備をなしてから行くべき道が決ると同じように、日本も全く同じ立場である。 日本は今、四位圏の中に包まれている。それは何か。ソビエトと中共とアメリカと再臨主。 そういう日本はどこへ行くだろう。共産主義を中心として行くか、それが問題である。 それを基準として、中共とソビエトが謀っている。日本を中心にして二つの国が三角形をなさなければならない。アジアの国とどこを結びつけるか?中共とソ連の三角形に対峙し得る三角を求めなければならない。 それを日本から見た場合に、相手にもならない台湾があり韓国がある。 こうなってくると、問題は日本がアジアにおいて問題の中心点に立っている。これは、エデンの園においてエバが生死の問題で参与したと同じように、日本はアジアにいてこと立場である。 ここにおいて解決の方法を眺めて見た場合には、それは再び天使長の方に引かれて行く日本になってしまうか。こうなると、日本が神の方から祝福した基台と相反する。相反した場合にはとんでもないことになるだろう。 そうなった場に、日本は共産圏に迫害されるようになるだろう。 ここに先生としては、このサタン圏を代表して共産圏の三角形圏を内容において日本と韓国と台湾の三角形圏をつくりたい。 それを果すべき中心の者たちが、ここに集まった者たちである。先生と君たちとは一体化されなければならない。共に運命を同じ歩調に合わせる、その運命圏に立っておる。 三国の一体化 ニクソンの発言によるというと、中共を迎えて、中国を出すという。こうやった場合は、世界的な孤児の立場に立つのが中国である。もしも中国に手を取る日本だった場合には孤児の立場に立つだろう。 ださら今、佐藤さんと岸さんと福田さんが、自民党において問題になっておる。 韓国において、統一教会がもし、そういうことを訴えた場合には、これは統一教会自体が国民から孤立してしまうだろう。こういう時に問題となるのは、日本と韓国と中国の統一教会が、結ばれ、精神的軍隊である一連隊がつくられて、そこに、一体となって、共に守りあっていくならば、もしも蒋介石が追われたならば、日本の統一教会がまもってやる。 あるいは、韓国で統一教会が追われたならば中国で守ってやるという様なが相通じあい、共に国と国が保護しあう絶対的基準が結ばれた場合には、神が働らかざるを得ない。これは今、我々のアジア状況を前にして立っておる世界復帰の総合的使命を背負っている統一教会の行くべき道である。 この立場から見た場合、問題はどこから分れていくか。 神の求めるところは第三イスラエル圏である。第三イスラエルを求めなければ、再臨の時代の蕩減の道の完成を満たすことは絶対にできない。 その中心的拠点は日本ではなく、韓国である。 今、先生として心配していることは、経済力が必要である。それだけあれば直ちに韓国を神の方に引きつけることができる。 キリスト教もそうである。今まで超教派運動など宗教的においてやってきたが、外的物的条件がない。ちょうどヤコブと同じようつ二十一年の苦労の全てを捧げ、エソウを屈伏させた。 政府は、統一教会は金持ちだ、という噂をしている。既成教会自体が関心持って頭を下げ出したならば、ヤコブは持っていってあげたんだけれど、むこうの方で統一教会に助けてくれと言ってきた場合に反対に復帰する。そこにおいてはじめてサタン圏を打つことができる。 そして、統一教会の熱意において、その信仰生活においていかなる宗教よりも国を愛するという様な基準が立たなければならない。神を愛し、国を愛するということにおいては、他のどの宗教にも追いつかない。その基準において、物的条件にそれ以上の基準を立てたとすればサタンが最高に誇るところのものを持っておる。人民を持ち、国土を持ち、主権を持って誇ってきた。しかし、これが一つの国に引きつけられる。物において誇ってみな。誇れない。人をもって誇ってみな。誇れない。心情において、神において誇ってみな。誇れない。そういう圏になった場合には、その時代より国家全体は神の方に立ち帰る道が始まる。 サタンより以上の物的基準を宗教団体として誇るその立場。そして信仰においてサタン世界の誰も追いつかない。国を愛するにおいては国民が追いつかない。神を愛するにおいてサタン圏の誰もが頭を下げなければならない、というその時より、国家圏は神の方に復帰の可能圏に入ることができる。 こう考えて見た場、統一教会自体から見た場合は、神様の心情を中心として愛するところは統一教会以上にない。 しかし、一つ足らないものがある。国家的に誇るところの形状的基盤とは何を代表するか。 教育機関である。直接その未来の国家の運命を決するところが教育機関である。国家的基準においてだけでなく、世界的基準においてのサタン圏に対応すべき教育機関が必要である。それを考えなければならない。 アジアにおいて日本の東大が一番大きかったならば、それ以上にならなければならない。韓国のサタン圏の教育機関があった場合には我々はそれ以上にならなければならない。 韓国のいかなる教会も我々の本部より大きくない。 まずもって、アジア圏に誇れるような基準につくらなければならない。それから何か? 兵隊訓練所をやる。 その国の運命を左右するものは一体何か?主権を保護するものは教育の如何によって、軍隊の思想如何によって左右される。それによって経済的分野をくつがえす。先生はそれを願っておる。そういう時代が来たのだから本部建設だ。 復帰の時代圏をった場合、こういう基台を中心にして行かなければならない。 だから大学に基地をつくらなければならない。それは何か。世界的兵士を訓練しなければならない。 こういうような考えでもって、一九七〇年から、それを世界的な環境基台を、祝福家庭を中心として結んでおいて、今一年になる。我々の計画したヨイドの本部基地は計画通り我々はなした。第一回の計画は完了した。 それから何か?教育機関をしなければならない。それが山の向うの山である。十万坪を買った。 そして清平は世界的兵士の訓練所である。アジアの類例のない大学をつくる。我々の類例のない本部を建てる。清平が世界の類例のない超民族の訓練所になったと言えば、国家的運命、世界的運命が左右される。アジア的運命が左右される。 迫害されて歴史的勇士になれ! 一国の勝利の基台を延長させて、世界的仕事を我々はやらなければならない。それをやるには、我々が余った金でやってはいけない。蕩減復帰だから、血と汗と涙を流さなければならない。 日本の地において、街頭において、ある者はやられる。頭を殴られ、けとばされる。汗を流し、涙を流し、血を流すようなことである。悲惨であればあるほど、それは循的勇士になる。やられるならなられ!時来たるその時を逃すな!摂理の時は一時しかない。二千年前のイスラエルを見よ。この時を迎えなかった民族そのものは歴史上に滅びてしまった。 復帰の道で韓国は追い払われ、多くの民族の馬のひずめの下にふみにじられ、多くの犠牲の道を歩み、民族全体が蕩減の道を数千年来ているじゃないか。 それと同じように、数千年目の世界的摂理圏を我々は迎えた。こういう惨めな我々としては、そういうイルラエル民族圏を再び通るのではなくして、今、現実において地獄を勝利し得るその道を果すため、現実に地上において天国を建設しうる道を行くことができる。 その伝統をいかに正すか。我々、現実のこのような目標を中心として、世界的祭物のその基準においていかなる真心を尽すか、ということが伝統問題を左右する。 それはまさしく、聖なる基盤に立って伝統を残さなければ、我々の行くべき今後の天国理想が成り立たない。神の摂理の直行する道を求めることができない。 こう考えてみた場合、先生はいろいろな摂理を急いでやらなければならない。あなた達にその詳細の内容を言っている。 地区長は最も誠意を果たさなければならない使命感にうたれつつ、責任を果たさなければならない。 現実の生活圏に勝利を持ち込んで、勝利の一日を警うようにしなければ、神の喜びのその一日を求めてなさなければならない地区長たち。こうしなければならない地区長たち。こうしなければならない地区長たちが、これ前進的方向によって動き出した場合にはとんでもないことになる。 ある地区長の中には、日本の忙しい時に韓国を主として働らかなければならない。その結果はどうであろうか、という者がある。 それはあんたたちの知るところじゃない。 我々はヨイドの問題を中心として、本当に真心を尽して、思いのたけの心情でもって神に帰し、神の御旨に果し得る基準をつくるという様な立場に立って我々自身を捧げるその道を求めて捧げた場合には神が愛するその子供の基準が立つならば、物的条件でかえしてもらったそれ以上の帰る道がなくして、感謝すべき闘いをやっていくのが地区長の立場だ。 それで食口たちは、待ちに待ったその時が来たのを知らなければならない摂理歴史的最後の瞬間を迎えたこの基準におきまして、我々は総動員して、総結集して、これを逃したならば日活民族全国民が手を上げて願っても求める時がもうなくなる。小数のものが、そして全体的価値を埋める時がもうなくなる。少数のものが、そして全体的価値を埋めこもうとする神の犠犠たるものは、何倍も、何十倍も、何百倍も犠牲を覚悟して立った立場であることを我々ははっきり知らなければならない。 国家完成基準 国を動かすには、こういう基準において、我々は残していくべきものは、これは主権を残して行かねばならない。伝統的基準を永遠に国家に維持させるその主権を持たなければならない。 それから教育というもの。あるいは兵士というもの。これなくしてサタン圏を退治しながら勝利圏を拡大していくことはできない。 こう考えて見た場合に、我々の摂理上から見た場合に、これは完成基台がいつの時代かという問題だ。それは国なくしては何もならない。一国あった場合にはこれはたいへんなことになる。これは日本の国を動かし、一つになって北を屈伏させた場合に、世界は我々の手の中に入る。 共産というものは世界的水準を持っている。それは民主主義圏においては非常なる恐しい相対として取扱ってきたそのものが、韓国において屈伏した場合には、それは世界的になる。三八線を突破してしまう。 彼らの宣伝によれば韓国は惨めなところだと思っている。まるっきり反対の教育が一気に崩れるには、それ以上の精神的内容を持たせてやらなければならない。 しかし、精神的支柱も韓国にないじゃないか。共産思想は防ぐことができないじゃないか。こうなった場合ひは何にもない。その内容精神的基台を中心として、共産党自体が恐れる。それが頭を下げざるを得ないという立場に立った場合にはいい。それでなければどんな教育をしたって偽りの教育だ。 国家的完成基準が立てば、世界的完成基準の出発点に立つ。国家基準に立てば完成圏に向って出発する。 個人が完成するには、霊的において勝利しなければならない。霊界は天使長圏だ。アダムとエザは天使長圏を主管するんだよ。それから自分の後孫である世界人類を主管しなければならない。それで、霊的統一圏をなして地上的統一主管圏まで行かなければならない。そう輸関勝利の基台を完全に自分において、サタンが讒訴しえないものを持たなければいけない。そうしないと、個人の蕩減完成という道ができない。だから、霊界と地界と分れているんだね。それを統一しなければ、個人の祭物完成基準に立たないんだね。だから霊界は文先生の指導下にある。 あなたたち、最初の段階は夢で見る。次の段階は祈りによって、その次は暗示。 先生が水を飲んでいると、それを見て何か悟らされる。あるいは鳥が飛んだ。そうすると何か悟らされる。 信仰生活はそういう観念が、そういう思いが敏感なところがある。六感の働きですぐ判ってしまう。 これがずっといくと、祈りながら、関係ができる。みんな誰を中心としてなすか、というと、先生を中心としてなす。 あなた達が、もい窮地に追われた場合、解決の方策が判らないといけない。三日間、体を清めて祈れば方策が判る。それが統一教会の世界的指導方法だ。教えてくれるようになっておる。ある基準に統一心情を中心として、真の父母を中心として、その子女ある徹した観念に立って祈れば教えるようになっている何故かと言えば、神の子供だから、それを主管するのがあたり前だ。 堕落するエバは、もしも神に尋ねて、「ああ、天使長がこういいますが、どうですか」と聞いた場合は親が答える。 それと同じように、問題があった場合には行動せずして、祈ってやれというんずだね。 暗示の次は啓示というものだ。啓示というのは前兆があるんだよ。疲れきってもいないのに眼気がする。寝るか寝ないか夢のようでない。その境目にパッと見えるんだね。そういう現象はどうしてあるの? 全ての復帰路程は、象徴復帰・実体復帰だよ。そういう段階に来ているから直接教えてくれる。 それに経験を積み重ねて、分析・総合して自分の信仰生活???起る事件とつき合わせてみる。経験は人によって違うだろう。自分なりに研究しておかなければならない。 そうして自分が自分に話をするんだね。霊界は我々みたいに話をするんじゃないよ。次元の高いところなんだから、例えてみれば、心が実体で、心の心が霊人体みたいだよ。だから心が話す。心で通じる、というんだね。そういう現象が起るよ。 だから、自分が自分の心の中で話を聞くんだよ。内的認識器官は違うんだよ。 時々、そういう風になったら自分の霊人体を見ることができる。 自分の将来の問題とか、統一教会の問題とか、自分の運命の問題とか、私の計画どうなるか、そういうのがずーと啓示で示されるんだよ。だから、祈りというものは尊いものだよ。今、先生はそうしないや。もし判った場合には蕩減してやらなければならない。 判った場合には、中心者は責任持たなければならない。 だから個人の完成というのは、必ず蕩減して、祭物の過程を通過しなければならない。 完成したとするならば、サタン圏に讒訴されない、絶対的給分になるんだよ。堕落しないアダムに帰ってきたより以上の立場を言うんだよ。 それがどこまで来ているか? イエス様が十字架につけられて死んだ以上の基準にならなければいけない。イエス様は何によって死んだか?それは国によって死んだし、教会によって死んだ。イスラエルとユダヤ教によって死んだ。それからローマという国によって死んだ。三角形になっているんだよ。サタンを中心に、ローマ帝国とユダヤ教が一つになってイエスを殺したね。 そうなると韓国自体も四位基台になるよ。南において、統一教会の行かれる道は、ユダヤ教と同じキリスト教、イスラエル民族と同じ韓国、そして主権が迫害してきたよ。サタン圏の三角形をなして反対してきたよ。 天使長とアダム・エバは一つになって、一人の神に反対した。だから再創造も同じだよ。 韓国において、キリスト教と韓国と主権の三角形を中心として、一方の統一教会を迫害した。 そこにおいて三角形の方をふさがなければならない。神を中心として見た場合には統一教会がある。神を中心として、霊的なキリスト教圏がそこにある。だから今までキリスト教圏が霊界で果してきたものを引きついてで、地上で解放し、立つことができる。 ここにおいてイエス様の復活が問題だよ。統一教会圏を持ったならば、そこから復活の基台を広げていくことができる。これは霊的だから、外的な国家に対して影響を与える。 イエス様は教会も持たず、イエス様を中心として一団の群もなく、ユダヤ教もない。四位基台すべてがなくなってしまった。だから殺されざるを得なかった。 しかし、統一教会においてはそうじゃなかった。 先生が死ななければならなくなった場合、あんたたち見物しているの?どうするの?(先に死にます)そういう時に、闘わなければ自分が死んでしまうよ。身代りになって天の法はそうなっている。親のため子供が死ぬんである。子供のために親が死ぬのじゃない。 本当にそう?(ハイ)本当にそうなの?(ハイ) 先生はもう死にかかっているんだよ。あんたたちはどうなの?生きかかっているの?死にかかっているの?死ぬ者はブツブツ言わないんだよ。 統一教会の来た道 だから、統一教会は韓国内で追われたんだけれどね、残っているんだよ。悲惨な道を歩いてきた。六千年の歴史の蕩減だよ。親から叩かれ、夫から叩かれ、いじめられて、全国・全家族・全教会が反対した。イエス様の頃、教会やピラトの法廷みんな総出して問題になったよ。 何故小さい国を求めたかというと、小さい方が復帰しやすいんだよ。ローマ帝国の属国のイスラエルにイエス様が来られたように韓国も同じだよ。 そういうふうにして、今は統一教会を中心として、昔のキリスト教会において復帰できなかったその恨みを解く。恨みはどこから解くかというと、イスラエル国家から解くんじゃない。教会を中心としては、イエス様の個人の恨み、家庭の恨み、氏族の恨み(ヨセフとザカリヤの)それから教会の恨み、それが一つになった場合ひは、イスラエル民族は自然と従うようになっている。 そういう関係から見た場合には、教会というものはアベル国家圏まで復帰する基台になっている。アベルとして国に対して影響を及ばして、そこに従ってくるならば、カインのイスラエル圏は復帰されるんだね。 そうすると、統一教会を中心として、氏族的基準を越えて民族的蕩減圏を迎えつつあるんだね。 それが反対したんだから国が二つに分れる。 南の国を元返しして、統一精神で武装した場合には、共産主義精神に武装した共産党と統一思想に武装した統一圏と対峙したった場合には戦わずして、こらえていても勝つんだね。 こういう風にして個人完成のイエス様を中心にして家庭完成しなければならないよ。家庭完成するためには、地上的基台を作るために四千年つくってきたユダヤの歴史過程において失敗した全てのことを蕩減しなければならない。 蕩減した勝利の実体として立ったのがマリアだよ。エバを代表した立場がマリアだ。マリアを中心として、三人の女の立場、父母・夫婦そして妹。これをエバを代表して分別する神様の三つの愛を一挙になくしてしまった結果において堕落したんだから、それを一ぺんに三つの愛を復帰する代表者を求めなければならない。 妹が大きくなり妻になり母になるべきだったんだが堕落した。復帰は反対にやっていくんだからね。一人が三存在を果すことができない。だから上の方からやっていく。家庭を持った婦人、その下が夫婦そして妹、下っていくんだよ。堕落しなかったならば下ってくるじゃないよ。 イエス様においては、お母様、相対者、その相対者が妹であり、相対者になる。三代愛を復帰しなければならない。そして結婚して子供を産んだ場合には、母として立ったのがマリアより優位に立つ。 だから、そういう風にして、復帰の道は行ったり来たりしながら来ているのが聖書に書かれている。それは系統的につなぐことができないんであって、そういう内容が直接につながっている。 先生を中心にして、個人より家庭、家庭勝利は庖的だよ。蘚生期、長成期、完成期。 蘚成期は既成家庭の立場であり、長成はイエス様の約婚時代圏だよ。だから新郎と新婦だ。それ以後は、結婚しない妹の圏に入る。 何故十八歳かというと、六数を中心としてサタン圏の三倍三段階の蕩減基準を乗り越える基準を立てるためだ。 エバは神様の娘であるんだね。それと共に相対であり、それと共に母であったね。 娘を愛するには、母を愛し、相対者を愛し娘を愛した、という減の過程を通過しなければならないよ。それを総まとめして、一つに結びつけなければ復帰完成基準が出てこない。 そういう風にして分別して立ったんだから、その基台においては、家庭的祭物完成圏が生まれる、というんだね。 家庭的圏とは、先祖の立場だ。先祖ばかりあったらいけない。先祖を中心として後孫というものがひっかかっておるから、堕落したアダムによって全ての後孫がひっかかった。勝利したアダム圏の先祖の立場に立ったのではなく、その先祖の間違いによってながっている後孫の失敗の動機が先祖によって結ばれておるんだから、それをみんな解いてやらなければならない。それがアダムの家庭的相対圏で三十六庭だ。 百二十とは世界的キリスト教の出発の基準において世界的末(すえ)の時代を、歴史的国家の代表である。だから、百二十国家になる時にはこれは完全に末の時期である。それが一九六七年だ。だから百二十四双をやった。 家庭があった場合には、黙っていても国は興ってくるもんだ。だから、統一教会の祝福家庭というものは、統一の氏族である。だから我々は国がないんだよ。氏族編成が多くなった場合には、民族編成になる。そして国家がなぱた場合には、世界各国にある我々の大使館で、その総合した基盤ができる。 人的移動がなされなければ新しい文化はつくられない。東西南北が共に極に向ってはね返り、そういう圏をつくったならどういうすばらしいことになるだろう。世界のどこへ行っても我々は喜んで住むことができる。 世界の統一教会が、サタン、あるいは天宙の一国を神に捧げる、そういう式をいつの日に挙げるや? 生きた地上の人間をして、最後に求めて、それをなして行かなければ、人類歴史において勝利できない。 こういう環境圏にあって尚一層熱心な活動をしてほしいとわかったの?(ハイッ) 祈 祷 天のお父様。昔、人類とために犠牲になった数多くの先祖たちが地上に連絡するには安心して来られる道がないということを知りました。 世界万民が本郷の地を求めて、全ての教会において歴史を元返しする苦労を続けております。我々統一教会を中心として、数々の摂理を満すそういう世界を思いつつ、今まで蕩減の道を歩みながら、勝利の道に主権を求めて来たその基準たるものは、こういう様な貧しい韓半島にある国家の基準に立っていることを思いまする時今、統一の勇士として難しい立場において我々は決意しなければならない今の時代だと思います。 歴史過程を通過して、捧げる者は死を選ばなければ悲惨な運命圏を乗りきることのできない立場におきまして、こういう神の願う国を迎えた我々は、そういう様な供物を、そのもの自体は神様に捧げる祭物であり、祭物たるものは、神に服従する場場にその捧げた関係を全うすることができる。 我々はこういう時代に向って、結束し団結し一体となって、神に向きあうまで、そういう統一圏をなしていくようにお願い申し上げます。 まずもって、ここに参席した日本を代表した地区長たちがまずもって一つになって、我々、不満の心は神の御旨と神の天国の理想のために許さない環境を固めなければならない重要な使命を思いつつ、その実体として示されるそういう結束圏を固めることができます様に。 そして、日本に帰ったならば、食口と共に一つになって、先頭に立ったものが、まず自ら血を流して、そういう様な基準において導いて下さるようにお願いいたします。 より高いき、より強き、より決意ある者として、神の心情圏に立って実体的に神祝福して下さるようお願い申し上げます。 今後、全てのことにおいて、神の御旨にかなわないことの一切ないよう、神が守って下さることをお願い申し上げます。 全ての祈りを真の父母の御名を通してお祈りいたします。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.29
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「行くべき道と祈り」1971年9月17日 行くべき道と祈り。我々の行くべき道という・・・ この世の中の万民はどこに行くかという事をはっきりしておりません。その内の一人一人は我々でありました。しかし我々としては神の創造目的の世界、あるいは本然の世界をその土産として帰って行かなければならない復帰の道を今、辿っております。この復帰の道を行くにはその目的、目的というものは神の創造の世界でありますけれども、その道に行くまでには我々自体が努力しなければならない。戦わなければならない。そういうような運命圏に立っておるのが人間としての人類のあるいは我々としての苦労の道である。この苦労の道をいかに勝利して行くかという問題が重大な問題である。その道は我々から直接世界まで行くようになっていない。それは個人を中心として行くべき道。あるいは家庭を中心として行くべき道。あるいは社会を中心として行くべき道。あるいは国を中心として、それから世界を中心として天宙としてこういうようなたくさんの道が、これがつなげなければ我々は行かれないようになっておるのが蕩減の道であり、復帰の道である。 こう考えて見るというと、これはなぜこういうふうにならなければならないかと。この問題はこれは神様の前にある怨讐というものが我々として行くべき道を、すべて塞がっておるから行かれないようにこれを邪魔しておるから、今まで我々は個人を中心として戦わなければならないし家庭、あるいは社会、国家、世界までそういう戦いの道が残っておる。こうなるというと我々が苦悶して行くすべての動機というものは神によってなったんじゃありません。あるいは社会によってなったんじゃない。あるいは家庭によって個人によってなったんじゃありません。その動機たるものはいわゆる堕落のその本源の主となっておるサタンのためにそうなった。そこが問題だ。結局我々の行く個人の道。あるいは家庭あるいは国家、世界まで行くべき道を行かれないように塞がっている、その主人たるものは今まで歴史過程に我々先祖が犯した罪もあるけれども、それよりも第一のその主体者は何かというと神の怨讐であるサタンである。このサタンが問題である。こうなるというと、サタンはいかなる存在か。これをはっきり知らなければならない。サタンがあるからこそ我々の毎日の生活において思われるその道を行く事ができない。サタンがあるからこそ我々家庭、あるいは国家、世界がその願われるところを行く事ができない。 こうなっておるからそのサタンたるものが我々が戦わなければならない正体者である。サタンたるものを我々はいかにしても屈伏させなければならない。これが何よりも問題である。サタンとそれからサタンに反対になっている神様。その神様とサタンの間、それからサタンと我々の間。この三角形を中心として今まで摂理路程におきまして悲惨なるあるいは祭物とか、それにおいていろいろのその目的を果たそうとしたその目的が果たされないためにイエス様も来られて十字架につけられ、その十字架につけられた基準においてすべてのキリスト教の歴史は悲惨な歴史になった。そのイエス様が亡くなられたすべての動機というものも、それはイスラエル民族であり、あるいはイスラエルのユダヤ教であろうけれども、それはどこまでもそれは主体的立場であってそれはサタンがその中心であった。まあこう見て見るというと、神様の子供を殺した たるものは結局サタンに帰する。このサタンが問題だ。 そうするというとサタンと神様と我々。こういう三角形から見た場合には一体サタンは何だ? こういうふうに一言でつきつめて尋ねて見た場合にはサタンたるものは神の怨讐である。神の怨讐になった。神様において怨讐になった動機は何かというふうに聞いた場合にはそれは金でもなければ人でもない。何かというと愛の問題である。神の怨讐であり人間の人類の怨讐であるその大元のサタンたるものは、その怨讐の根源となったその動機は何かというとそれは愛の問題である。愛の問題であった。こういうふうに思いますと神様の前にサタンはどういうものであるか。愛の怨讐である。愛の怨讐でる。それで我々人間はどういう立場にあるかというと、神様の子供である。怨讐だね。神様どういうような愛の怨讐かというと、もともと人間の先祖たるものは神様の実体であった。実体であった。結局アダムが完成すればどういうふうになるか。それは神様の生きた実体を持った神様になる。そうなるというと実体の相対者のエバはその相対者になる。それが夫婦になる。夫婦になるというのはそれは人間ばかりの夫婦でなくして、神様を中心としての愛を中心として愛を中心としてのその一致した一体化される立場においては、その実体の父母であるその基準を通して神様も内的においては父母になれる。 こういうような立場に立ったそのアダム・エバを堕落させた。堕落させた結果において神様は愛の相対者を失ってしまった。アダムもそうであり、それからエバも神様が願っておる相対基準をなくしてしまった。こういうふうに堕落させた動機のものはサタンである。そのサタンが神様の怨讐になった。それは愛の問題である。こうなるというとある父母がある夫婦がその下に子女が。こういうようなある家庭があるとして仮定して見れば神様の家庭であるというふうに考えて見た場合にサタンというものはどういう事をなしたか。今理想的に生活している夫婦の仲を、あるいは子女と共に平和に暮らしているその親子の関係。こういうような立場をサタンはそれを盗み取りだ。誰より主人はあるのだけれども主人をさておいてその奥さんを盗み取り始めたのがそれが問題だった。そうしてその結果によってその子供はそれは母のところに引っ張られて行った。そうしてその自分の本当のお父さんを迎える事のできない、そういうあるいはお母さんの相対者に立っているそういうそのものはお父さんの怨讐である。愛の怨讐である。そうして怨讐の立場にあっておるそのものが仮のお父さんだという。こういうような夫婦関係の下に我々がその子女が引かれて行って生活するような立場が、これがちょうど正しく堕落した人間の社会と同じである。 だからサタンは一体何を中心として怨讐になったか、愛を中心としてなった。したがってこれは神様の前に姦夫である。姦夫知っているだろう? 姦夫の立場であった。我々人間はこの怨讐。その親なる父の姦夫の立場に立っている怨讐に引摺られながら主管されながら、あるいは蹂躙されながら今まで我々人類歴史を辿って来たのが今までの人類歴史である。今までの摂理路程である。こういうふうに思います時に我々もしもこれをはっきり知ったならば、はっきり知ったならば我々はどういうような立場から考えなければならないかというと、父の立場を考えなければならない。それから母の立場を考えなければならない。それから自分たちの立場を考えなければならない。本当にそういうようなその悲しい環境に自分が接ながれておる。そういうような怨讐圏に主管されてるとはっきり知ったならば、お父様と一緒におった母が、それが引摺られて怨讐に引かれて引っ張られて行く時のその悲惨さ。それを離してはならないお父様の立場。 自分も堕落した人間はその動機は知らないんだけれど、結局そういうような母に引摺られて子供ばかり、その父ばかり父親ばかりを残して怨讐に引っ張られてその動機を知らないでその怨讐を自分の父と思い、その母をもともとの原則に立った母と思いながら育てられたその子供とするならば、その内容を知らない子供たるものはいかに悲惨であるか。いかに可愛想であるか。そういうような立場に立ったのが人類である。しかしその父母を迎えながら立たせられておる子女の立場から考えて見たならば何かもそこで間違ってる。その怨讐を中心として父母の関係を、その夫婦の父母の関係を作っておる親というものは何気なしにそこには過ちを感じるような本当に自分の父だから、その父たるものがそれまでにもそれを博愛し、それまでにも我々を苛めるような立場に立たないにもかかわらず、そういうような結果になったという事を思いますときに何が誤ったかというと、何が誤っておる。それを気付くような立場に立った子供としておったとするならば、その背後を知りたこはわかる道はどこにあるだろう。 サタンを通しては絶対その道はない。もしもその道を捜し出そうとするならばそれはサタンが生命がけでこれをやっつけ、これを捜す道というものは母を通す道。それから本当のお父様を通してそれを捜す道以外にない。また母というそのものを考えて見た場合には、もう偽りの親に怨讐圏の父に完全にこれは占領された。どうにもする事ができない。もしも自分が誤った場合には子供がやられる。この三角関係において、もしもそれを教えようとしたならばそれを先にわかるような、そういうふうになった場合には、もしもこれを教えた場合にはその母親自体が何よりも感謝しなければならない。自分の父親がやられるという立場に立った。その母の立場からしてそれを教える事ができるであろう。そういうような立場にそれがおい疲れた所が我々の立っている。それで何か誤っておるその動機に対しては人類は解決する方法がない。こういうふうな立場においてそれを悔い、あるいは みながら捜そうとして今まで人類は努力して来た。 もしもそれを努力するのを見て神様がそれを見た場合には、神様はどういうような立場に立つであろうか。あの子供たち、あの女。その女が神の命令よって従って行った立場でなくして神の命令を犯して堕落してしまった。しかし堕落はしたんだけれども怨讐がその女を蹂躙した。それを見るときに怨讐があればこそ、神様は再びこれを捜しもってそれを取り返さなければならない。怨讐を迎える道は他にない。それを取り返す以外にない。こう考えて見た場合には神様の命令をそれを犯して行ったそのエバを取り返そうする神の内苦痛はいかばかりか。そうしてそのエバと怨讐と関係を結んで生まれた子供である。当然捜してくるにはその子供を愛さなければならない神の立場はいかばかり苦労の立場であるか。しかしそれが苦痛に辛いと思った場合には怨讐は永遠にその子供、あるいはその女を永遠に主管してしまう。だから怨讐を迎える、怨讐を敵打ちするのは道がない。道がないというのです。 だから神様はこれをどういうような犠牲、どういうような辛い事があっても元返して敵打ちをしなければならない。そうするにはそのエバなる者がそのサタンと戦う事があったなら、反対なる事があった場合には反対する事があった場合には、それを条件として神様の同情を得られる条件として満たしてやろうと。あるいはその人たちがサタンに対して逆らう、そういう立場に立った場合には、逆らうというようなその立場が神自身から見た場合にサタンに対して逆らっておるそういう立場と一致しておるから、その一致した基準を中心としてこれを復帰。それを捜してあげようというような考えをせざるをえない。その以外の道にはそれは復帰の道、捜すという。元返してくるという道は全然ない。こう考えて見るというと、我々人間、我々人類、我々人生というものはそもそもこの歴史上に生まれておりながら、この歴史すべては神の主管圏内にあるんじゃなくしてサタンの主管圏内になった。そのサタンを中心としての家庭であり、サタンを中心としての氏族であり、あるいは民族、国家、世界になっておる。そうなった場合には、そういう立場に我々は落ちている。この立場においてサタンに対して逆らう。反対する。そういう基準を満たさないというと神はどうにも手をつける事ができない。 それで我々本心の願いにおいてはいつでもその環境に対して反対されるような、そういう思いを感ずる事ができる。何か知らないけれども心の奥底からは環境を喜ばない。何か他のところから何か人間として行くべき尊こがあるに違いない。こういうふうに生活しながら生活環境を乗り越えようとする。乗り越えようとする。ここ以外に逃げて行きたいというような思いをする。それ自体がサタンに対して逆らう様子だ。その基準から神の摂理の道は出発することができなかった。こう考えて見た時に今まで宗教圏内に立っているあらゆる人たちは、この人生路程において満足を得ながら、それは自分なりにその死んで行くべきそれは本郷の道。あるいは本当の道と思えるようなそういうものを中心としては復帰する事ができない。これを不満に感じ不安に感じ、何か新しいものを求めるところにおいて神の御手をさしのばす事ができるのであって、その以外の道はない。それはそうならざるをえない。なお怨讐圏にあるから。逆らう自分を発見するところに神の摂理圏において迎える道が生まれて来なければならない。行くべき道が生まれて来なければならない。道はそこから生まれてくる。 そうするとある一点は自分が愛着心を持ってそのすべてを逆らおうとしても、その一点が最後には自分の首を締める事になるから、結局その愛着心をつけた世の中の何ものをも残した場合には、いくら神に逆らうそのサタンに逆らう周囲すべてのものを逆らったとしてもその一点の愛着心をつけた場合には、これがすべてを切ってしまう結果となってしまう。それで神様はサタン圏にある我々人類に対してあるいは人間に対してすべてを拒否し、すべてを認めないような立場を神様は人間に対して要求したのに違いない。これが堕落した人間。人類を救おうとしておる神様の立場ではありませんか。それは最もである。そうすると我々人間から見た場合には物の愛着心がある。物を愛する愛着心がある。その愛着心というものは全然人間として神様から授けられた性質であった。あるいは人を愛するその愛するのにおいて一番近いところは父母を中心として兄弟を中心として自分の子女を中心として愛するようになった。人を愛する。人に対して愛着心が生まれた。それはもともと神から人間の尊いものとして授けられた作用である。 だから物を愛し人を愛する。それから家庭を愛するとか国を愛するとか、こういう問題に変わった。こうなるというと物を愛する愛着心。人を愛する愛着心というものは神を動機として出発した環境圏内においての愛着心でない。これはどこまでもサタンを中心として出発したその結果的立場に立った愛着心である。そうすると神はこの愛着心までにも反対する。逆らうような立場を求めなければならない。その基準が最後に神が求めているところである。すべてを打ち切ったとしてもこの一点がある時にはどうにもならない。どうにもならない。これまでも切ってしまわなければならないという。その願いでなければならない立場が神の立場でありませんか。だから我々すべてを持っているものを否定しなさい。そのものに対して愛着心を持つのじゃなくしてそれを怨讐として排して、それから人を愛する愛着心というものは父母それから兄弟関係において、これは強力に結ばれている。これをこのままにしておいては何にもならない。これを何とかしてみんな払い除けてしまわなければならない。それは当然神として願う当然のものである。 それからもう一つ罪でいった場合は我々の生命というものも神から生まれたのじゃない。生命というものもサタンから生まれたのである。この生命までも神は否定する。怨讐の血統を受け継いで生まれたこの実体は否定するのは神はこれは当然になる。それがなぜそうなるか。神様の前にあるそのサタンたるものは、その神の愛の怨讐がその愛によって我々生命は授けられた。その愛の動機によってすべてのものはサタン圏に主管されている。主管されているその物、主管されているその人すべては愛の荷負うべき怨讐の愛によってそれは結びつけられたその物の相対主である。だからその物を見た場合には神様はいかにそれを悔しく思うか。その人を見た場合にはいかに神様は悲哀を感じるだろうか。そもそもそのものたるものは自分の主管系のものになるべきものだ。それから人間も自分の子女となるべく生まれた。あるの家庭あるの国すべては自分のものとなるべく生まれた。それが怨讐それ自体が自分のものとして、とんでもないものが自分のものとしてそれを主管しておるという。あるいは世界を眺めて見た神様の心はいかばかりであろう。それは直観的に直ちにその思い出なかった場合にはこういう事を考えれば良い。 今まで何千年も平和に過ごした国があった。主権者があった。その主権者を中心としてそして敵が攻めて来て自分の愛する奥さんを引っ張って行った。自分の子供はもちろん、自分の国あるいは自分の国民、自分の国土をみんな占領してしまった。そういうふうに追われた者がそういうような主権者が最後には行くところなくして亡命者になって行く。そういうような立場に立ったその亡命者の立場から考えて見た場合にはその国を思う時、自分が率いていた時の主権、その時の忠誠を尽くしておった君臣、あるいは平和郷に立って愛しておった奥さん。家族。平和に暮らしておった国民。平安圏に包まれた国土。すべてを思って見た場合に、その立場に立っておるその主権者はどういう思いをするか。涙を流す事あった場合にはこれ以上の涙を流せる何ものもない。悲しい事あった場合にもこれ以上譬えるものはない。悲惨とか、これは孤独とか悲しいその立場を中心として立たれる、すべての言葉におよびつかない程の苦痛の立場に立っておるのに違いない。それが正しく神様の立場である。それが正しく神様である。その神様が正しく我々の親であった。我々の父であった。この父の怨讐を誰がそれを敵討ちしてくれるか。神様自体はできない。ここにその亡命者の立場に立っている君主はそれは発令できない。問題はどこからしなければならないか。国民からしなければ。国からその運動はなさなければならない。それはどういうふうになすか。 そういうふうにして自分の子供と自分の奥さんを中心としてそれを捜す動機をなさなければならない。もう主権者は亡命してこの国にない。その国を捜す動機となるものはその奥さん。あるいは子供。その国民きりない。こういうふうに考えて見た場合にはその奥さんたるものは前々の自分の旦那さんであるその主権者に対して、サタンより以上、今怨讐よりいた以上何十倍も愛の力でもって慕う心でなければ、これはその怨讐圏を抜け出るその力は抜け出る道は全然ない。その子供たるものがもしもあったとするならば、子供たるものがいかなる平和、いかなる方向、立場としてもその環境を見抜きながらその父の怨讐であるその敵に対して誰よりも憎み、それから自分の父親に対して誰よりも慕う心がなければその環境を抜き出る事ができない。それから国民の中でその王様、あるいは主権者に対して慕う心をこの怨讐圏の誰よりも誰よりも慕う心がなければそれは帰る道、あるいは主権者を迎える道は全然ないのです。こういう立場において、その奥さんを動員しても子供を動員しても不可能である。問題は全体を動員しなければならないというような立場がその主権者として望みを適える道である。 こういうふうになったとするならば、その大衆が結合するその土台をいかに尽くして作るかという問題になる。ここにおいてその問題たるものはもともと自分の奥さんであったその奥さんが自分でもこの主権者に対して慕う愛の心をもってぶつかる。その怨讐に対して戦ったその実績、絶対服従して血を流し、あるいは殺される立場にいっても誓いながら殺されたというのがその前には子供は団結する。その子供はそこにおいて一つになる。また一つになったその子供がそれは自分の親のところに父親のところに帰ろうとする。それを知っておる怨讐は一つになった子供たちをそのまま送るわけにはいかない。そこにはいろいろな迫害を加える。その迫害をいかに辛い迫害であってもそれを乗り切りながら前の主権者のところに帰りたい。自分のもともとの国を捜したいという。ありったけの犠牲を払ってもそ道以外にはたったその道以外にはない。自分の生命もなければ自分の環境もない。すべてを捨ててそれを求めている。そういうような結果において初めてその主権者の妻が現われ子供が現われたとするならばそこにおいて初めて大衆は結束をするのが亡命者をしてこの怨讐を怨讐圏を敵討ちする道以外にはないという。 こう考えて見た場合に神様は今までどういう事をなさなければならないか。自分の相対者の立場に立っておるそのエバが神を否定して行ったのだけれども、そこに逆らって出るのを待ち望んでおった。もしも反対し出した以上は生命をかけても元のところに帰りたいという。いかなる苦労の立場にあっても、それを誓いながら絶対あなたには服従しないという誓いの立場に立って、それに反するその怨讐たるものが反対すればするほど、神様は悲しい事ではなくして喜ばしい条件になる。これは悲しい立場どころでなくして神を信頼する強烈な娘の孫となってくるというんだね。怨讐は生命を賭けてこれを離さないでしょう。しかし生命がけで耐え忍ぶ。そういうふうにしてとうとうやられなくなってしまう。それが正しくその子供の母である。親がそういうふうになったんだから子供がそこにおいて団結する。今まで我々が思ったように間違いなくこの今の現状において父を親みたいな立場に立っておるのはこれは本当の親じゃない。それを探るたった一つの道は親が逆らってくれる。母親がそこで反対してくれる道以外にないという。それからその発祥が何かなっておる。はっきり知らないところにその子供たる者がその偽の父親に対して反対するその結果においてああ! 何か間違ったその問題はここだという。 これを発見する道はその子供たる者が反対する以外にない。反対するんだから反対される。怨讐によって反対される道以外にはない。それで子供の立場とその白書、国民の立場が同じ立場にあったとする時にそれを知った時にその子供たちは迫害を絶頂に追われて死んでしまった。生命がけで戦って最後にその目的を果たして死んでしまった。生命を捧げてしまった。そこより国民は団結しあう。まあこう考えて見た場合に神様もちょうど正しくこういうような立場に立った神様である。それで神様自身はどういうような作戦をしなければならないか。愛する者より犠牲にしよう。もっと愛するものをより犠牲をさせるのがこれが怨讐に逆らう。怨讐の表面的に それは神としてその以外の最高の作戦となる。愛されるその者は怨讐圏に引っ張られて愛される。偽の立場の愛。相対者の立場に立っておる。その偽愛に対して神様を慕い合いながら生命がけでぶつかるというところに神様の心情が再びもり帰る道がある。それ以外に道はない。考えてみなさい。愛によって堕落し、その堕落の愛によって生命が生まれ、その愛の結果によって国を編成し、その愛の結果によって編成されたその国民によってそれは国が直って行くという。 こういうふうに考えて見た場合にはその愛の怨讐である怨讐を敵討ちする道というものは神直接打つ事ができない。打つには打ってくれればいいか。昔の旦那さんを思いながら生命を賭けて自分は非原理の立場に引っ張られて来た。その偽の旦那さんに対して生命を賭けてぶっつかるところに神の心情が盛上がる事ができる。その子供もそういう立場において初めて、その百姓もそういう立場において初めて神の心情圏が盛り上げるのが当然の道だ。だから神様は復帰世界におきまして愛するものを生命を捧げるようにしたのは怨讐に向けて最高のその復讐の敵討ちの一方の法則としてもそれを打ち出してそういう摂理の路程を引摺って来なければならないというのがこれは神の最もな立場である。だから宗教を信ずる。本当に信ずる者たちは生命を掲げて死の道を辿りながら神を愛し合うのを誓いながらサタンを憎まないという事を誓わなければ神の心情の因縁を盛り上げる何の道もない。だから神は宗教人を中心として愛されるべき立場に立って、そして愛するようになるにはそういう過程を通過せざるをえないというのがこういう地上から見た最もな世界。 こういうふうに考えて見た場合に宗教中の宗教は一体どういう宗教やと聞かれた場合、それはキリスト教だ。なぜか。キリスト教は今、時代を通過しながらもいつでも主権者においてやられて来た。その主権者によってやられておる。やられておるところが神が憎むところじゃなくして、神が愛し始めるところである。宗教中の宗教はキリスト教である。こうなるというとキリスト教の精神的、あるいは中心的神髄の主流は何なんや。こういうふうに聞いた場合にはまずもって神の子供であると誓うところこれである。自分は神の子供である。自分は神と一体であると誓う。そうして神と一体となってサタンにぶつかる。そういう基準。復帰の道といえばそれが復帰する一番最後の道である。神の前に子供として迎える道。それが何よりも神が何よりも悔やしむその中心点である。そうでしょう! 神が何よりも を感じる中心点である。中心圏に飛び込む相対者というものはなんじゃという場合には、それは僕でもなければ養子でもない。自分の実子圏だというんです。この地上に実子の立場においてサタンに対決し合う、そういうような一人者! そういうような立場に立った一人子たる者がイエス様だ。 だからイエス様は「自分は神様の一人子である。一人子である。それが神と一体である」。と主張したね。それは狙うところは何かというとサタンから相対者を奪い取らなければならない。その相対者たるものは子女の家庭ばかりじゃなくして最後には実体の相対者までつながっているというんだね。なぜかというと女たる者は一人しかない。エデンの園に男たる者は一人しかない。その大元から見た場合には実子女の立場を乗り越えて、そうしてこれは成長して夫婦になる。夫婦となって神の愛を中心として一体となった場合に、そこにおいて父母の愛の立場に立つべきであった。その基準が原則であるから、まずもってその神の心情圏の姿を蹂躙したサタン自らを第一の子供としての資格を神様は何よりも時代を経ながら摂理路程を進めながら望みの窓にあったに違いない。イエス様は自分は一人子であり、神の子だ。神と一体であるという事だね。そうして目的は何か。エバを取って来る事である。エバを取ってくる。それで新しい神の立場においてサタンは神の子供としての地上において新しい宣言をなしえた。その一点がイエス様によって生まれた。それを迎えた神様は四〇〇〇年辛い忍び切った怨讐圏を一挙に切ってしまう望みの一点が生まれたその真只中にそれをやられてしまった。 これは神いかばかりか寂しい。いかばかり苦しんだであろう! そうして女たるものは子供たるものの立場においてサタン圏の女たるものとして、それはマリヤが立場にある。マリヤはそういう宣言をしなければいけない。君と我は同じ運命である。こういうサタン圏において迎えられないような、そういうもともとの因縁を持っているものである。そこには自分の相対者であったヨセフという者も今は関係ない。そこに引きづられて行くんじゃなくして反対の立場に立って打ってかかったとするならばどうなったんだろう! イエス様はその家庭内で育てられずして、その母親と子供が二人で家出をしたんじゃありませんね。もしもヨセフとそういう立場でそういう信念を持って神はこういう摂理の道を立たせて来るんだという内容自身を何か、わしに心において慕い思う心があったとするならばヨセフと一つになって子供を生むのが問題じゃない。イエス様を抱えるのがイスラエルのためであり、世界のためであるという事をもしも知ったとするならばイエス様を完全に愛さなければならない親の立場である。 そこにまた別の子供が生まれた場合には完全に愛せずして自分の子供を愛する立場に立っているが自分としてはこれは情け無いという。辛い立場であるという事を思ったとするならばヨセフとマリヤは当然別れるに違いない。そうなるというとマリヤとイエス様は若い時、生まれた途端に母に抱かれてどこかにそのヨセフと別れなければならなかった。そうして女ばかりの立場に立って子供を育てたとするならばイエス様はどうなったんだろう。反ってヨセフの家庭において未来を望みながらそういうふうに忍んで来てある一面を迎えるよりは、もしもこういうふうになったとするならば神様は三〇年間においていかなる事でも再びそれを援助して基台を作ったのに違いない。そうなったらならイエス様は死なずして御旨を果たして道が残ったじゃありませんか思いますね。もしもマリヤがこの世のすべてを反対して出たとするならば、それは神様の寂しくあるいは悲しくなるところじゃなくしてサタンの世界はそこにはいろいろな問題が起こるだろう。 それが問題じゃない。問題が起これば起こるほどそれは神様の方においては反って心情的その基準を爆発させる動機になる。こうみた場合にイエス様は自分の親を捨て、父親を捨て母親を捨て兄弟を捨てて、それを怨讐視した。ガリラヤのそのある結婚式にイエス様は辿りついた。家出をしているから自分の親戚の家である。ひもじい立場に立ったんだから何か食べものを求めて行ったのかも知れない。こういうところにおいて母とぶつかったね。それで宴会の末になって酒がなくなってしまったと事を言いだした。その時イエス様が言った事は「女よ、君とわしは何の関わりあるか!」そういう言葉が。これは神の心情圏から見た場合にイエス様として堂々たる言うべき神の子供として言うべき当然の言葉である。こういう心情圏から見た場合、当然言うべき言葉である。イエス様の前にイエス様の弟子たちが来て言うのには先生の母親と兄弟が来て、それをしておる。訪問に来ておる。その時にイエス様の言葉はこういう事を言ったね。「自分の母や兄弟は神の御旨のままに従う者が自分の母であり兄弟である」。みんな拒否してしまった。兄弟、あるいは親戚関係すべてを捨てて、すべてを捨ててイエス様が家出をするときの神様の心は、もちろん、一地方においてはユダヤ教、イスラエル民族を中心として準備したその基台が崩れると思った場合には神様は寂しくなる。 しかしそれが反対された場合にはそれに向かって未練を持って引摺られて行くようなイエス様じゃなくして、端然としてそれを打ち切った時のイエス様は頼もしい。神の信頼する立場。まあこういう事を我々ははっきりと知らなければならない。サタンという。これを口に慣れていうような言葉になっては絶対いけません。このサタンたるもの、このサタンたるものがこういうような動機によって我々の本当のお父様の愛の怨讐だったからだ。それに心情的に汚された母親の内心の痛みはいかばかりであっただろうか。我々の兄さん姉さんのその心の痛みはいかばかりであっただろうか。これを思う時に堪り切れない。この怨讐を自分が責任持って敵討ちしなければならない。そのものはどこに行っても我々は尋ねて行って我は退治しなければならない。結末をつけなければならない。そのものが国を持ったら我々は国を作って攻略する。世界を持った場合は世界を作ってこれを攻めてしまう。それをなすにしたがって我、本当の親の子供としてのなすべき使命ではないか。それが最もである。 こう思った時に我々が立っているこの地上というものは神様の心情圏に歴史過程を通過しながら涙ぐましい痛みを積み重ねた基台である。人類を眺めて見た場合にその人類たるものは神様の内心、心情内において悲哀の塊を積み重ねたものがこれ人類である。この主権たるものがそれをなして来た。それを解いてやる。それを解決してやって、そして怨讐を敵討ちしてしまうその道たるものはその主権よりもその国民の始祖、その主管しえるすべてのものは我々の思い通りに動き出す主権なり、国民私情であり、ものの行くべきところでなければならない。そをなさなければ生ける甲斐がない。こういうような信念を持って立つべき者として神が望んで来ながら宗教の道を神自体が開いて来た。神がそれを求めるために宗教の道を尋ねて来た。我々人類はそれをなすためにそれを迎え、その一点を迎えてそれを解決するために人類は宗教の道をしがみつきながら、あるいはやられ迫害され、あるいは生命を捧げながら今まで死に切ったその道である。神様の命令によってその子供として、その女としてサタンを神様の正面の前にこれを一遍に打ち、そうしてそれを屈伏させてしまう。屈伏どころではない。切ってしまうようなその現場を迎えなければ我々として生き、生命をもって生まれたその目的を果たされない。それが宗教人として行くべき道ではないか。 こういうふうに考えて見た場合にはこの世の中にはそういう考える者は一人もいない。一人もいない。今まで宗教とたるものはこの地上の基台をそのまま引き継いで、ここに幸福を願い、ここに平和を求めて来たようなそういう宗教思想をみんな持っている。それを眺めて見た神様の心情的辛さというものはもっと辛い事である。歴史過程を通過した苦労した結果があの結果にしかなっていないという場合にはそれは堕落圏だとして、それまあそういう???を断念してしまった立場じゃなくして希望の一端を求めて数千年の苦労をなして来た。その結果たるもそうなったとならば神様は堪りきれない程、苦痛を感ずるほかはない。こういう歴史的背後関係を持って見た場合に我々はわからないから知らないから、ああいう立場に立った。もしもわかった場合にどうなるか? もしもわかった場合においてあんたたち同志の愛に何か不満がある。感情的対立自体それが問題でない。一家一家の通じないそういうような平面的この世的な内容でもって区切られている。条件がそれが問題じゃない。一国同志の国境を中心として逆らうようなそれが問題でない。それよりももっと根本的問題が我々の生命の底に潜んでいる根本的問題がある。これが神様、怨讐圏を絶やしてしまう。それ以外にはない。 こういうような道を行かれる一人一人として、同じ立場に立って不満を感じ合い、不平を言い合い、そういう事を絶対に死んでも言われない。その横にいる者は自分の敵じゃない。同じ方向に進んでるその者を抱き合って何よりも強固に一つにならなければならない。怨讐たるものは世界圏をなしておる。これを掴み取り処分してしまわなければならないのは自分の使命であり、生まれながらの目的であると言う。それを果たさなければ死なれないと言うような決意に立った者とするならば、その横にいかなる者があってもそれを総合しながらそれを自分の方に引きつけなけりゃあならない。それを生命がけで環境を治めるような立場でなければ。世界的怨讐を全体が総合して生命がけでそれを敵討ちする道が生まれてこないということをはっきり知ったならば、あなたたちは環境にぶつぶつとそういうような現象は絶対に起こらない。いろいろな不満とか何か癪にさわるとか、そういうような話しは絶対に言うことはできない。それを言うよりも、もっと切迫なる内的怨讐を持っているんだ。 それは自分一人ではできない。君が必要である。この家庭が必要である。この国が必要である。。そういうふうにしてこれは浸透作戦、浸透的な先進教育をしなければならない。そこにおいて自分の話しを聞いてくれれば神様が六〇〇〇年の路程において求めて来た子供を求めるより以上の迎えるような、より以上の立場に立たなければ神様は現実より未来の大きな怨讐圏をそれを責任持ってたそれを処分してくれるような、そういう責任者として希望を持つ事ができないんじゃないか。今だに希望の見解の立場に立ったとしたならばそうい テープ切換え 少数の者しかない。これは悔しい事である。神は六〇〇〇年の苦労のそのまた苦労の結果の結実として求めるものはこの数じゃない。世界半分の数になるべき以上の数になるべきものを求めて来たにも関わらずこういうようになった。その自体は悲しい。何によってそうなったか。キリスト教によってそうなったか。それかといってそれをぶっこわすわけにはいかない。我々行かれるべき は再び失ったそのものを尋ねて求めて行かなければならなこだから、我々は心を忍び切って心の痛みを乗り越えて再びそれを求めながら再び迫害をされに行っているのが統一協会だ。そうかといってそれを切ってしまう訳にはいかない。それかといって後退するわけにはいかない。わからないからであってこれを再び幾つかの問題を教えたら簡単に解決する。その道というものは我々は他にはない。 神はエデンの園においてその個人個人を失ってしまった。これは愛されしイスラエルにおいて民族と宗教を失ってしまった。国家的基準において民族と民族的なユダヤ教宗教、国家的な宗教と国を失ってしまった。それを基台としてより大きい親の愛の心情でもってキリスト教を引摺りながら世界的基準において世界的国家、世界的キリスト教圏を作っておいた。それは何のためか。最後の怨讐圏を倒す。それを地上において整理するために整理させるために立たせたにも関わらずそれが果たせずしてこういう反対の道をまた迎えるようになった。神の立場というものは堪り切れない。苦しい立場にある。そういう立場をわからなければならない。神様を慰める時にならなければならない。そればかりでなく神様の未来の希望の実体者にならなければならない。そればかりでなく我々は現実においてサタンと戦って勝利の実績を神に帰せるような責任を持たなければならないのが我々統一協会の使命だ。こういうのがわかった場合にはそれこそ世界にない慎重な立場である。キリスト教を立たしてサタン世界を倒し、それを退けて旗上げしてそれを誓いあって一つになって全世界あてにサタン圏を攻略するような立場をそれを神様が願ったものかどうか。それはその方向にまだ一本指で引っ張られて行ったような神の前に逆らったとするならばこれはどうか。これは余りにもエデンの園においてのアダムとエバの堕落の心情は痛みの心情であったであろう。イエス様の亡くなられた心情も忘れられない苦痛の心情であったであろう。 しかし第三回目に求めて来た世界的基盤においてこれをまた追われ迫害される立場に立った神様の方からの悲惨たる内心の思いはいかばかりであろうか。それを思い返しながらそのすべての責任を負い、次の心情圏において神様を慰めサタン怨讐と戦い、天地を抜いて勝利圏を獲得しなければならないようなそういう世界的な天宙的な基台が統一協会だとするならば大変な事だ。神の願うのはここに負いてすべてを拒否する心情の絶頂に立つそういうものとならなければそれは サタンの足場は一番近い足場はどこだと聞いて見たら自分が住んでおるその部屋だ。誰でもがその食堂である食べるそのものである。それを喜んで食べる自分実体を思いまする時に、ここにあらず。 こういう悔しい見解をこういうためにこういうために神は苦労したにもかかわらず、その中にあるものを喜んでそのままむさぼり食べるか。その中にあるものを喜んでそのまま着やがるか。そのものをそのまま喜んで???これは一切を切る。一切を違う。一切に下げて戦う。一切を拒否し否認してしまう。そういう決意を固めてしかし捨てる事はできない。だから蕩減条件を我々立たして、その勝利の蕩減条件というものは自分が立たせる事はできない。父母として立たせなければならない。父母の心情と神の心情が公示されてその基準を満たして、それを神の愛の表示であり神の勝利の条件物として立たせるものを造らなければならない。 それが我々現在使っておる聖塩である。それが聖塩だ。この食べ物を食べる。全部か。違う。より分けて神の愛情圏を条件として因縁を結んで食べるんだ。着る物もそういうふうにして着るんだ。住むところもそういうふうにして。徹底したそういう神に立っておって環境に対して無慈悲なワシの事を聞けば生命を賭けて愛し合い反対するならば???である。だから反対した場合には切らなければならない。もう時間がない。この御旨は最後の御旨であるから、ここに切ってしまった場合に永遠に迎える道がない。切る事もできない。だから自分としてその内心によって起こりあるいはこれを打とう。そのものを呪った場合には救われる道がない。それは一方は切りながら言葉によってサタンがエバを誘因して行ったんたから言葉によってそれを克服する。その言葉たるものは偽りの言葉ではない。真実の言葉である。サタンの言葉。偽りの言葉によってそれをやってしまったんだけれど、我々は真実の言葉によってそれを打ち壊して再び再創造の価値を盛り上げて行く。 そういう場合には一人一人ものに対して神様がその理想の実体者を造るために愛を愛するかたわりや。みずを賭けてそれを見る。そういう立場を思って見た場合に神様より以上の真剣な心情でもって一人を再創造しなければならないという立場が自分の立場であり、百万責任持った立場において言葉が無く真実の実体の立場に立って ???そこには愛情心がこもっておる。その愛情心と言葉と実体者がそこにおいて生まれるという信念でもって語らなければならない。それが我々の統一協会の指導者として役割りを果たすべき立場である。自分によっていかなるものが創造されて来たか。それが一人なり家庭なり氏族なり民族なり、神は世界を復帰の基準まで上げて来るまで六千年苦労してきたんだから、我は六〇年を捧げてこの基準まで上げさせる事ができるかというと、各自誓って、自分はこの見解まで行く時より誓って出なければならなこがこれが統一協会の現実立っている我々の立場である。世の中を愛し、今までやってきた情的関係、生活質的な物的関係。そこに愛着心を持っておるという。神の心情圏においては神の怨讐を敵討ちしなければならない立場から見た場合は許さない。徹底した観念に立たなければならない。 それで我々統一協会は先生がやられたサタン世界にここでは切らなかったけれど向こうでやる。ここで攻めたんじゃなくして向こうで攻めて来た。ただ攻めて来たのは結局敵だという事がわかったね。統一協会の敵だ。既成協会が攻めて来た。それも敵だ。すべてを総合して攻めて来た。攻めて来る事によって神は一遍に統一協会の食口たちを吸収した。切らなければならない統一的な環境を作ってしまった。こう考えて見た場合、絶対な神の愛である。一歩これは踏み間違った場合には逆に打たれる道だから打たれるなら一人一人打つよりも一遍に打ってそれを蕩減したいのが神の心情である。それが我々統一協会である。だから前に言ったようにその盗まれて行った、取られて行ったその女からそれは子供から反対しなければならない。向こうから攻めて来たというのは、もうすでにここではそういう内容を知っておる子供たちだ。何も知らなかったらそんな事ない。すべてを知っておる。サタン圏は総動員して来た。もしも我々が残った時には大変な事になるから、それを防備するために今まで神は垣根をつくってその圏内になそうとしてキリスト教を中心として再臨主を残してきたんだけれど、それが旨くとりつかなかった場合にはとんでもない。それはそれた場合には針先があり、このようにね一点においてつくようになっている。 人口衛星のドッキングみたいにね。それは一つ?針の先???みたいのが一人一人がつくようになっている。その以外にはこういう格好で攻めて来た場合にはとんでもない事でそうするにはこれはぶつかった場合にはメチャクチャになるんだね。メチャクチャに。全部がやられてしまうんだね。誤った場合には共に戦いあっている場合には一遍に両方ともメチャクチャになってしまう。神はメチャクチャになったら大変だね。サタンはメチャクチャになってもいいよ。それから人類の誰も残らなくてもいいよ。そうすると最後には神様と天使長。そうなった場合には神様もどうにもならないよ。永遠と あるだろう。そうしたら再び他の方面において人間を造る道以外には神様考えざるをえないよ。ここまで考えるというんだね。天軍が降りてつかり合ってそうして迎える???一人でもって引っ張り出した場合には全部が生きてなくちゃ 。 それをされた場合にはこれはとんでもない事になる。とんでもない事になるんだから戦い合うような立場に立ってはいけない。それは向かい合いながら死力でかける。それ以上の清い反対の思いでもって防備しながら行く。こういう作戦をしながら今まで我々は神の歴史はそういうような戦法をやって来たんですよ。そうなるというとあんたたちサタンというものはサタンというものは第一の父母をやってしまったし、第二の人類の父母をやってしまったし、第三の父母として来られるすべてを攻め絶やした。降臨者第一のアダムよ。イエス様、再臨だ。再臨第三回も降臨した。それでもアダムなくすための攻略をやって来た。そういう怨讐が今にも残っている。観念的じゃありませんよ。観念的じゃありませんよ。実にそうだ。統一協会に対して反対しているだけじゃなくしてまだ残っている。協会まだ残っている。そうかといって鉄砲かついで戦うわけにはいかない。その戦法たるもの、より愛によって堕落したんだから、より神に帰る愛の力がなければならない。その神に帰る愛の力。より強い愛の力がなければ愛によって堕落したその根源をどうにもする事ができない。これはくっついていたものを引き裂く事できない。 だから愛の道を表示するその道は、その行くなりはどういう道なんだろう。それは犠牲になる。けんのう以上にある基準???まで押しつけられる。それで敗れなかった場合には反動でもって他においとくんだね。より以上に押し付けられた場合にはそれで敗れなかった場合には、それに比例して基準を越えたそれ以上の圧力で押しかけるという。こんなもので見た場合にね。ある基準以上に押し付けられた場合には、それに敗れなかった場合にはそれに比例して反動力。神はそういう作戦を作戦をやった。それを 神、破裂するときの方向を知って定めを蹴って破裂する。サタンの場はそこでやられてその基準において神の勝利圏として正しく求めて来たのが歴史的の摂理圏である。だからいつでもやられているんだね。いつでもやられている。一人犠牲にして三人。こういうような具合に発展??ああこういうように思いました時に我々はどうせ世界が統一協会を反対した時に、韓国が反対した。日本も反対した。アメリカも反対した。ドイツも反対して反対するのが我々においては一挙に一体となる。愛にむけて我々準備しなければならないから数が少なければそれでいかにして絶対的責任を持ったとするならば何一〇倍も努力して早いうちにその数を乗り越えなければならない。それを求めるのである。こういうような立場に立っておるのが絶対的心情圏を責任持ったとする統一協会の立場ではありませんか。 ここには我々は国とか何思想とか何ものもない。もともとその極限とは何か。真の親、真の父母以外にはない。真の父母を売って何買いいるものありや。すべてのものを売って真の父母を買うや。どっちだ。我々はすべてのものを売ってもすべてのものを犠牲にしても真の父母を求めなければならない。それを中心として神の永遠の望みであった。本源の心情を結びついた愛の基準によって新たに生まれて来た。自分のその本源の子女たるその基準を我々は八人で一〇人 その清い基準に立つにはこの汚れた我々の堕落圏に立ったそのものがその矛盾した今、神にそれ立っては苦しい立場に立つことでないか。もしも神が一〇 すれば一〇〇やって自分なりに神の前に立つ時恥かしさを感じない。その立場があった場合に、いかなる犠牲でも我々かまいません。一回死ぬどころじゃない。一〇〇〇回一〇〇〇〇万回もその汚されない神の本心の前に喜びの心にただ満たされて、その子供を愛する故に本然の子女の立場にいかにして帰るのであろう。 いかに考えてもそれをいかに空想的に考えても本質の堕落の愛によって生まれた自分としてはそこに追いつけない。絶対的、追いつけないという自分だけを発見した場合に、もしもここにおいて自分を子供として神の本然の子供として迎えてくれるような、そういう言葉というものがあったならば神の心情内に追いては、これは何か自分に対してまだ足らない分を知っておる者の代わりとしてそう願ったならば、これは神に対して心情的反逆ではないか。我としては死ぬところで尻を叩かれるところあったら叩かれ、あるいは迫害される。それっきりで神の本然の心情の基準を我、何一〇〇〇代何一〇〇代の後孫において迎えるとしたなら、それで自分は耐えるというような思いで一点でも足らないというその境地まで我々は体恤しなけばならない。それが我々のとこではないか。そういう思いついた場合には神様を前にして天のお父様という、子供が死んでも口を開ける事のできないようなその体験。もがみもがんでいつかはこの良心のそういうような思いを思い出されながら神様を余程、あるいは万年の規則を思いつつ、そうして神に迎える自分を発見するだろう。それは一点の何の陰もない。 喜びに始まり喜びに満たされる。喜びに終わるというようなその境地に立つべき子供は一体どういうようものか。それを願い願って自分の一切の存在 意識はもちろん。あるいは環境のすべてを忘れてその境地を慕い求めるような、そういうような道もあるべきである。それが人間として最後になすべき道である。それは我々の力してはとうてい果たす事がない。いかなる苦労を払ってもそこに取りつく事のできない自分たるものを発見した場合に、サタンの血統を受け継いだこの悲哀なる自分を、いかに慰める思慕の情。それにもみ合いながら苦悶する苦悶のその状態が神様が求めて神様がそれをとめされて、これ以上悲しく思わなくていいから慰めるようなその一点の立場はないだろうか。そういうところまで我々行くべき道は残っているんじゃないだろうか。悲しみ続けて を知らない。自分の過去より現在のその血統的汚れたその基準をいかに乗り越えるのか。その境地を神様眺めて、それが正しく自分の歴史課題において自分より反って悲惨だったとするならば、今までに実際にせきしょうに流せなかった最初の慰めの涙を流す、初めのその基準が生まれたであろう。 その基準に立つべきその子女の価値はどこまで行けばいいか。そこを求めて行くべき道がまだ我々の行くところに残っているんじゃないか。こう思いまする時に、今我々の天のお父様というその立場に立っておるとするならば、その基準から見た場合にどのくらい不安でそれを知らないで今まで呼び、訴えて来たという自分の罪の恥ずかしさを再び戻らない。これは顔を上げる事もできなければ自分なりに生きようとして箸を持ち上げて御飯を食べる事もできないような恥かしさを感じなければならない。実体を出さなければならない。それで行くべき目的を知っておりながら行くところのその場所を知りながら、これを行く事のできずして立って涙ながらにそれを眺めながら六〇〇〇年以上神様がその実子を求めて来ながらその苦しんだの、それより以上の苦しみをこの現場に立って対すそれを道を失った場合には、それを自分に授けてもらいたいのが神に最後の願いである。こういうような極致に立って祈りを上げるような境地まで我々の行くべき道があるという事を、我々はもう一回考えなければならない。 あんたたちがそういうような基準を思いながら祝福だ! 祝福の基準。祝福の基準。それが神の本心の願いの心情が湧きうる何の汚されない純然たる愛の本質の相対圏において結ばれる。神の創造本然の祝福基台がそれを思って見た場合に、昨日見る事もできない相対者に新たに向きあって愛する、その心情を持つ事もできない自分である。夫であり奥さんは旦那さんに対してそういう本然の心情を求める事のできない自分を発見しなければならない。会う度毎に涙をくみあいて神様を呼ぶような父母心情圏を持っていなければならない。本然の理想の基盤である家庭を求めている統一思想の行くべき道じゃない。そうして自分が愛すべきその子供、その子供を抱合うその。六〇〇〇年の苦労の果てに切った。その最後の勝利の一点を求めてすべてを忘れ合って抱合う親子心の結びつきは、果たして自分の生涯圏においてなされたなら永遠になされない。夢みたいな事である。しかしこれが可能ならばこれ以上の栄光は自分にはない。もしもそれが神が歴史上において摂理基準を通して、それを可能ならしめなかった場合には本然の世界は生まれてこないという事は基準であるから。 そこにおいて自分の美徳なる愛はその永久なる存在の立場として、そういうところからそうか、これが神の求めて来た本然の足場じゃないか。その天国を造るその最初の基盤ではありませんかというように、ただ行くようなそういう者には、なるにはこれは夢みたいな立場だ。相対共に見ながら涙を見ながら六〇〇〇年の神の心情の恨みの一点を払い下げて、そうしてそのすべてを一ちゃくにこれをみんな打ち破ってしまい、そうして自分なりに勝利を果たしえたというような歴史的勝利者にはなれないだろうかと考えて見た時に、全部不可能である。先祖たちはみんな生命を賭け、あるいは血を流して戦って来たその道は自分と別個の道だ。そうなったらそれを可能ならしめる事があった場合、苦労のどん底に落ちて何回まわっても何回踏みにじられてもそれは当然の事として迎え、自分に同情しえる神の立場に立ってはいけません。自分に近寄ってはいけません。神に対して心情的敬遠の心を思いながら自分を打って打って余りある、悲しい極のその極致を求めて行かなければならなのが我々復帰の路程に立っている人類ではありませんか。 こういうように思って見た場合に統一思想だ。統一協会だというその根拠地は一体どこや。今まで我々が作ったような統一協会の根拠の拠点じゃありません。神の心情圏においては祈り求めて祈り尽くして祈ってそれを清めなければならないその蕩減を残しておるその基準において統一協会を求めて来たから、それは悲しい陰がそこに潜んでいる。そうならばそれは最も神の願った理想世界にはなれない。悲しい神様を今も潜ませたその世界である。そういうように思って見た場合には、そういう絶対的な勝利圏を求め統一基準を願うという立場の責任者があったとすれば、それは悲惨極まるその立場である。望みうるものは天宙すべてのものだけれど自分に立ち返って考えて見た場合、何も持ちうる資格のないこの身を思いながらすべてをなくした悲しみ、すべてを不可能なるその境地に落ちいって悲しむようなその圏まで我々は祈り続けなければならない。到着しなければならない。その立場が正しく神のすべての他にある見地心情的に立った神と通ずる一点が結ばれるであろう。 もしも統一協会が心情的世界を統一圏を願っているとするならば神様を絶対としたならば絶対的結び合うその基準は一体どこだろう。踊り合うところじゃないよ。笑いこげているそういう関係じゃありません。涙と血と涙とすべての生命とすべての感覚は一体となって悲しみ悲しみ切って を忘れすべてを忘れてもうこれでもしも、むの生命の価値を認めて神が再創造する道があった場合はそれを最上の御旨がないとしても、よう、そういうような本質の堕落圏を逃れた本質のあるいは土なり水の一固まりになったものと認める。そこまで行かなければならないんじゃないか。統一協会は心情的の一致協会はその奥地から始まらなければそれは未完成ではありませんか。それで悲しくて泣けて泣けて泣けてその立場において神様がわしの慰める事があった場合、そのくらいやったらいいじゃありませんかという。手を上げても顔を上げても体を上げても上げる事のできない、そういう悔しかったら悔しいところ悲しかったら悲しいところ。 それが神様自体がそこに近付いて「君なら!」そういう言葉をかけたいけれど神は近寄って来る立場でありません。抱合って神が共に自分と同じより以上に悲しむ、悲しみの極致において共に慰め合いながら向かい合う事のできないその極致から、その極の極致から神は清められたい思いを持つに違いない。そこまで我々ははからなければならないのが本当の我々として行くべき道であり、それが不可能だったらそれを求めて行かなければならなこを残しておるから、それを希望として祈る道ではありませんか。こういうふうに考えて見た場合には、それは一代ばかりでなくして三代も続けて怨讐に攻められてそして悲哀を受けた神の心情においてその敵討ちをなんでその継承しなきゃ。こういうのを見た場合に我々統一協会というものは深刻な協会である。それ自体は死よりも深刻である。また強い事にはいかなる原爆よりも強い。慕い慕う心たるはものは何ものにも負けること出来ない。因縁の関係というものはどういうものか。それは ができない。神様自体もどうにもできない。 これが愛の問題じゃありませんか。愛というものは神様引っ張られて行った。神様どうにもできない。神様どうにもできない。神様が自由になれるものだったら理想を神様がやり神様の理想になれなければいけませんよ。自分の気ままにやるんだったら何の理想になるや。それに理想圏によって引っ張られる。満足のえられるようなそういう相対的な位置に立つからこそ、それが絶対的基準に立つのであって神様が絶対的基準に立つには愛の基準を先立って立たなければ立たれないという結果になる。こう思って見た場合に我々統一協会の歴史という問題を中心にして見た場合に、ある時に先生は迫害された。その迫害されたのは統一協会を結集する動機になっている。サタンの世界へ打って打たれて、それを引きられる真剣な者がそれは光を受ける。それが悲惨なものじゃない。それによって国民はその光の環境その状態は各国を結束する。迫害の群れの中に結束する原動力になっている。それが神を中心として果たした摂理の道だから我流す涙は世界を泣かせる。我迫害されたすべてのその痛みは世界の心の痛みのようだ。残された距離を越えて国を越えて感情を越えてそれを平面的可能ならしめなければ天宙復帰はできません。 あんたたちは先生を求めて先生という先生というそういう人は、どういう歴史を辿ってきたんだ。あんたたちの話しを聞いて見るというとそれは簡単な内容である。この内容が今まで神とサタンの間に横たわっていた秘密の言葉で秘密の希望である。それを行き来し解決し求めて来た。それをわかってそれを実行して、その溝を埋めるまでの神の苦労はいかばかりであっただろうか。先生はどうでもいい。先生は何でもない。それを埋めていった溝のその上を頼りにその基盤の上に統一教という足場を作った。要はサタン圏である。これは三八度線の非武装地帯と同じようなそこに我々は巣を作って夜は国家を昼は向こう両方向け合いながら作戦を練って、ここを広げて国を求めなければならないし世界を求めなければならない。悲惨な立場である。それを一点を眺めている神様の心情はいかばかりであったろうか。世界を一遍に主管してしまいたい心が湧き上がる心情を押しきりながら愛すべき一人の子供を望んで、その数の家族としてその名のっているその者たちのために再び我慢しなければならない神の立場は悲しみである。それが神の持つ統一協会圏である。 それを個人より全体的国家的環境に影響を及ぼし世界の一点までそれを子に覚えて心情圏を埋めるまでには統一協会の先生は無駄でありません。神様はいかばかり苦労したか。何回、何一〇〇回の慰めの一点を求めつつそれを引っ張りながら苦しみの只の中において苦しみの悲哀の声を上げずして、これは当然の重いべき道で当たり前の道であれば自分に対しては心配してはいけません。子を敬ってはいけません。何の寂しい心を持ってはいけませんというような文字付きの路程をこれを保って行かなければ神いかにして喜びの統一協会として迎えるか。それが現実的に我々立っている統一協会の歴史であり、その歴史過程の上に立っている現実の立場であるということを、少なくての日本の責任者としては立ってしまった。そして我々どうして運命が逃げられない。我々が共にあって共に喜び合い、そして交われば運命の限りでない。 その交わりの因縁を拡大して怨讐圏を占領するのが我々交わりのその目的である。動機は越えなくっちゃ。我々同志だったら神は今まで苦労しない。怨讐を 怨讐を処理してしまう。これが世界を眺めて見た場合たまり切れない。四方において武装されたサタン圏は二倍になって来るようになっている。弱い弱々しい体でもって何の武装を持たないそういうような孤児の立場である。正しくにゴリアテの前に立ったダビデの立場である。だから神を信ずる信念において制覇しなければならない。神を愛する愛情において制覇しなければならない。勝利の道はない。一切の世的愛着心を乗り切って父母において父母が反対だから父母を切る。それが問題じゃない。 である。切ってそういうような完全に否認したある一人の男が生まれて来なければ世界は神の世界は希望を持つ事はできない。そういう伝統的な基盤がなければならない。その基盤によって我々は武装し基盤を中心として結束したその実体者とならなければ。その勝利圏をその勝利基盤を世界化されない。そういう立場から見た場合にはあんたたち、神の怨讐圏はそう簡単なものではありませんよ。 だからあんたたちは日本に帰っても何だね。ゴムの紐でもって彼らを縛って、そうして先生は韓国だから、そうして引っ張ってなす引っ張りつける力がその環境 。ぶつかるすべてのものより強い。そうした場合にはその環境は攻めていって それは動機だ。動機なくして結果は生まれない。いかに強い心をもっていかにその慕い焦がれる力といううものは一億すべてが結束してもそれを引っ張られて行く、機関車みたいな引っ張られて行くそのこの紐は絶対切れません。そいつに 世界をくっつけるんです。これをあんたたちがはっきりにわかるように。行くべき道。結局我々の行くべき道はどこまでだろう。統一協会が言って出たその極致はどこであろう。それはあるだろうね。自分という現在の立場がどこにあるか。わかっていない場合、喜びも苦しみも喜びと思い。生酩けるのを喜びと思って神の怨讐圏をそれを自分が責任をもって神に認める自分を発見するまでに戦わなければならない。それで神は信頼される自分として立ってからこそ、神の世界に向かってそれは出発する事ができるじゃないか。何のその気になっていない者がそうになった場合、とんでもない事になる。 これを古い面との立場からこういうようなサタンというものをその同じ に ん。自分の父母。自分の兄弟もそこにくっついている。それを片っ端から切っていく。片っ端からやって夜も昼も休まない。サタンも休まない。神様も休まない。神の子供として休まれるや、もっともっと時間 我々の行くべき道であり、求めて求めてその極度に達する道を乗り越えなければならない祈りの道が残っているということを、はっきりと覚えなければなりませんよ。だからそういう嬉しい事があった場合には一端迎えたならば涙ながらに喜ぶ。そして喜びつつ神に返す。辛い時があった場合にはちょうど迎えかいして迎える。当然の事ではないか。我はこれを喜んで迎えなければ神はいかばかりなるだろう。悲しきっておった神様は蕩減は自分の前において悲しい顔をしなければならない神様だ。僕の辛さは我によってそれをおしきる。打ちきる。それは当然の親子の心でもって迎えるようなあるべき事があって尋ねて来たと同じように迎えるような堂々たる姿勢でもって向かって迎えて行くような決意をなして行きながら、神様はあんたたちが涙を流す前に涙を流して、あんたたちを援助し、あんたたちが頼らなくても神様ちゃんと周囲を守って戦って来られた。 こういう心境に立って行くならばあんたたちのなす事、行くところには勝利であり、なすすべては勝利の結果として期待される道はない。これをはっきり覚えて本部会員の 統一協会の伝統。伝統とは今と明日! その伝統は歴史を変えた。過去伝統もそうであり、現在の伝統もそうであり未来の伝統もそうである。歴史の神様を慰める。歴史的希望である自分をそれを復帰、完全復帰させる事である。こういうような立場で伝統を延長して行かなければ神の願われる国は生まれて来ないという事をはっきりわかってもらいたい。祈りましょう。<祈祷> 神様、統一協会を 統一という言葉は実に我々の慕う言葉であり、願い求めて来た言葉であるという事を今だにわかりました。その統一の基準が世界の果てにおいて、あるいは日本の全国においてなすのを我々願って来ました。それは最もな言葉であります。しかし、それをなす動機の基盤におきましてはいかばかり神様、苦悶しあい、惨めであり苦痛であり悲惨な立場をまぬがれえない歴史的続け様の責任を果たして来た天のお父様がいらっしゃるという事を我々は忘れる事が多うございました。今だに許して下さる事をお願い申し上げます。 我々として行くべき道。その道がどういう道であるという事を今、概略でありますけれども大体わかりました。この生き残っている怨讐世界を引きまくこの怨讐圏。我周囲をちょうど建てるこういう怨讐の環境。これを凝視しながら我々は毎日の生活圏において武装を練って行かなければなりません。その武装たるものは外的な武装でありません。心情的武装であります。それを見るために神様の苦労を思いつつ我々は涙ぐまざるをえない。こういうような心情的生活圏を相続して行かなければならないという事も今だに改めて体験体恤する事ができるように導いて下さいませ。最後に神が苦痛を続け様に注いで神が泣きながら自分を離れて行くような立場に立っては絶対いけません。泣き続けながら慰め、誰もいない。そういう神の思いに記憶される、そういう子供たちになれるように祝福して下さい。日本から韓国に来られるその期間において、前後左右、あるいは上下関係において何を求めて来ましたか。 何を自分と結び合う因縁を固めるために来ましたか。それは何もありません。親子関係の心情を固めるために来ました。親はいかなる親であるという事を我々はもう一度こういう悲哀な涙ぐましい歴史過程を思いつつ、神の心情で求めて来たその実体であるという事をもう再びつきつめて、それ示された時にみんな聞くところを忘れて今の時代を悔いつつ自分の足らなさを思いながら、限り無い涙と共に悲しみを続ける事ができるような自分となるようにならなければならないという事をはっきりわかりました。今だに自分たちというものは堕落圏におきまして、その生命のサタン圏の心情において受け継いだところであります。その生命の大元なる基準は神に逆らう怨讐。すなわち神の姦夫の愛の刺激を基準として生まれ来たという事を思いまするに、自分の存在すべてを否認したい自分を発見せざるをえません。この肉たるものをいかにして取ってしまい、この骨の中にある骨随までいかに我を沈めてしまうや。神の力あれば神の愛情あれば神の満たされる名の恵みの水があれば。血より何よりも生命よりも強いものでもってこれをみんな「はいはい」するのを願わなければならない。実体たる事をはっきり我々はわかりました。 今だにこのものは名に愛着をもって残したいというような実を取って食うような愚かな者にならないように違うこの違いになるように神励まして下さいませ。一回どころじゃなく、千遍万遍死んでもその価値を求めざる、そういう実体の根拠の基盤を無視しながら永遠の生の一滴でも永遠に残さなければならない価値を認めつつ、その境地に我心をきゃんぺんさせるために苦労も何も喜んで迎えるような、そういう行きなりを取って行かないというと次の子供におよびつかない事がはっきりわかる時に自分の現在持っているすべてのものは自分に対して怨讐圏であるという事を新たに発見する事ができました。我々は自分の環境あるいは家族、習慣の国、すべてのものに爪先 おく世界は現在の立場を中心として批判の基準を立たせやすいのが習慣的我々でございますから、それを惨めな基準に立っている国を眺めた場合にはそれが同情、それの兄弟を我々は慕って行かなければならない。惨めな生活をやっておる者があった場合には、その立場を我々は味方の立場としてそれを取り変えて行かなければ、反対の道を辿って行く復帰の路程の道に近付く道がない事を思います時に、心情まで神の心情内的心情まで遡るにはいかばかり苦労を重ねても行かなければならない運命の道であるという事をわかりました。 打って捨てて、無視してこれを踏みにじって行かなければならないこの世的なものと我々ははっきり見分け、残さなければならない神の心情的環境、同情的毎日の生活環境をそれを遅くしながら毎日において戦って行くような、そうして未来の怨讐を敵討ちするための自覚者として全体を代表した代表者として恥ずかしくない準備と訓練をなさして下さる事を願い求める者となるように祝福して下さい。今回を切っかけとして日本の地に塞がっておるこの怨讐圏は一挙に絶やしてしまい、日本全土を中心として神の勝利の旗を上げ喜びの子女と共に永遠の勝利の歌を歌い上げ満点の喜びを思いつつ、その環境すべてを抱きあって踊る事のできる勝利圏となるように。我々が動機となり神様が動機となって引っ張る共通のあいづちの動機となってこの全国を動かさなければならないという事を思いまする時に、その中心的立場に立っているのは我々統一の勇士であり、その中心の立場に立っている地区長であるという事を思います時に立っても立っておられない。寝てもいられないような立場に立っておるのが自分の現在の立場であるという事をはっきり見分ける事ができるように自覚するこの時間となるように祝福して下さいませ。 以後何日も残っておりませんけれども、この期間におきまして神の願える基準に適えるそういう勝利的な子女として日本に帰れるように、あるいは心情的あるいは外的環境に訓練をなさいまして、神すべての我らの因縁の下すべてをその捨てる事もできないし、それを因縁として神のものとして保管し、そうして勢力圏と成しうる事ができるようになさしてくれたならば、我々として今までのこれ以上のかつれる一点がない事が今、誓って自覚したものでございますからその現場に立つまで神はわしは動かない。死しても帰らないというような自覚の実体として神の前に堂々たる勇士となるように責任持つその実体となるように神守って下さる事をお願い申し上げます。今後のすべての時間毎に神のみ恵みの中において、これは率いられる事ができるように祝福して下さる事をお願いしつつ、すべての祈りを真の父母の名を通してお祈り申し上げます。アーメン一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.28
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「天宙主義の出現」「週刊宗教の意義」より1971年9月16日水沢里で 復帰の道は再創造の原則によって行くのが当然である。 物的分別、実体的分別、最後には心情的分別をなしながら、心情的分別に行く前に全てを蕩減してしまわなければならない。それが復帰の路程である。 心情的蕩減基準に行くまでは、堕落したその基準を全て勝利してしまわなければならない。それを我々は、実体的環境圏において、蕩減させるところがカイン・アベル問題である。カイン・アベルの問題が解決されないというと、いわゆる、父母の解放ができない。アダム・エバが堕落したのだから、それが悪の主体の立場に立っているし善の方の立場にも立っている。だから二つを分けることができない。それが分かれた、という条件をカイン・アベルに立たせて、分別させて、それが一つにならないというと、堕落した蕩減の要件をかなえられない。そうしないと父母の前に立つべき関係を結ぶことができない。 そういう風にして、アベルを中心として、アベルはカインを復帰すると共に父母を復帰するというんだね。これが摂理の中心になっている。 再臨の主というものは、アベルの世界の中心になる。世界的カインを復帰すると共に、世界的父母を復帰しなければならない。父母を復帰するには、結局、カイン・アベルを一つにした立場でなければ父母の席まで上っていかれない。それは堕落したアダムの家庭よりそういう原理になっていたからそういう基準において蕩減しなければならない。これが摂理的歴史観である。 アベルの立場というものは、まずもってカインを復帰しなければならない。そして、父母を解放しなければならない。父母を解放して、天使長を解放しなければならない。 アダムは、天使長世界解放・神の世界解放となっているんだね。 アベルからいえば、横的に見た場合に、カイン復帰・父母復帰だよ。天使長復帰と神の世界復帰というそういう立場なんだよ。それが最後の主体者として再臨主が来なければならない。 そうすると、カインは、蘇生的カイン・長成的カイン・完成的カイン。それは三人の天使格である。結局、三人の天使長世界復帰の基準を象徴しておる。結局、一人の天使長が堕落したのだから、三人の天使長の理念というものは、覆されてしまった。それを地上において、本当の主人である再臨主が来られることによって、平面的に蕩減する条件を立てなければならない。そうすると、天使長の復帰のために、今まで歴史過程に立てられてきたのは何か? それが宗教である。 宗教の中には、蘇生的宗教・長成的宗教・完成的宗教が世界に広がっている。各民族のその先祖の如何によって異なっている。 宗教はアジアから世界に回っている。そういう立場で宗教圏が地上に生まれてきている。それは歴史から見た場合に、仏教は昔、霊的世界を担当した使命なのが仏教である。神がいるか、いないか混同しておる。 それに相対したのが儒教である。キリスト教と回教は後の問題である。仏教がアベルであり、カインが儒教である。 儒教は、天はある、と言っているがぼやけている。具体的ではない。天に従うものは祝福されるし、従わないものは罰せられる、という。天ということを言っているから、その内容をはっきりさせて、我々と天と結ばれる中心的をはっきりさせねばならない。外的立場の宗教観念だね。 仏教思想は国を治める思想だ。 こういう風に考えてみた時には、その中間的宗教、いろいろな民族において、いろいろな宗教があるんだね。それも、昔の時代にはそれなりに善であった。低級であったんだけれどそれなりに真理である。それ以上の真理が出てきたんだから高級な真理に吸収されてその時代に相応したものになっていくし発展していく。 そういう風にして、横的関係、外的関係が発展していくんだね。こうしてみるというと世界の四大宜教がある。四大宗教の中で蘇生形が儒教で、長成形が仏教であり、完成形がキリスト教である。だから、仏教・儒教も、イエス様が来られる基台をアジア的版図に広げるためにあった。 それに対応してヘレニズム文明が対立しあっている。その東西文化圏の中間に生まれたのがキリスト教文化圏である。 新婦宗教のキリスト教 キリスト教はどういう宗教か、と見た場合には、これは女の宗教である。花婿を備えるための地上の新婦的宗教である。 こうみた場合に、今まで地上にあった宗教は天使長宗教だ。そういう形であらわれてこなければならないよ。 新婦宗教、それからアダム宗教、新郎宗教だね。その形を通じなければ地上は戻っていかない、というんだね。アダム家庭を中心としたカイン・アベルだ。アベルの理想相対圏は新婦を求める。アベルが大きくなったらお父さんになれる道をね。それを辿って行きながら、その母を求める道がキリスト教だよ。 だから、地上にあらわれている世界文化圏をなしているのはキリスト教圏であり、新婦宗教圏である。 こうみた場合に、全ての宗教は、アダム・エバの宗教、天使長宗教とこういう地上的関係になっているんだよ。 再臨の主を迎えてやるべきことは一体何か? エデンの園においてアダムのなすべきことは何だ。それは、エバを主管するとともに天使長も主管するのがアダムの使命である。だからその使命を果せなかったんだから、青年期においてアダムがなすべきことを再び世界的になす基準を求めなければ理想世界が来られない。 それは天使長世界復帰、エバ世界復帰、アダム世界復帰というんだね。 天使長にもそれぞれ世界的に、蘇生・長成・完成とある。いろいろな宗教は、その圏に立っているんだよ。それを別々の天使長圏を立たせてやったのでは大変だから、神様の摂理においては、天使長圏を近づけて、ユダヤの国とイスラエルの国と通ずるような宗教になっていかなければならない。ユダヤは、国からみた場合には、外的な蘇生・長成・完成基準を通過する内的準備をなさなければならない。国からみた場合には、ユダヤは内的立場に立つべき国だから、その国自体も蘇生・長成・完成圏だね。それを外的にみた場合に、天使長であり、内的にはアダム。 キリスト教はイエス様が来られて、行ってから生まれてきているんだよ。イエス様が来られないと新婦宗教は生まれてこないよ。 だから、アベルがアダム完成の目標である。 イエス様の時代まで、ユダヤ教を中心として望みの目標であった。だから、望みの実体が来る前までには、相対的に迎えるその基盤として立てたのがイスラエルの国であり、その立場はアダムに対して天使長の立場である。 イスラエルの国は天使長の立場であり、ユダヤの国はアベルの立場である。ユダヤの教会を通してアベルが育てられていくんだね。それが僕の僕のアベル圏から僕のアベル圏、養子のアベル圏が完成されてそうなった場合には実子のアベル、国家的・世界的中心アベルとして立たれるべきその方が、来られるメシヤである。その思想をユダヤ教・イスラエル民族が共に一つになる。考えてみれば、一人は養子であり、一人は天使長だね。一人は養子であり僕で、実子の立場にあるメシヤを求めてきたのがイスラエル民族であり、ユダヤ教である。それが一つになる。一つにならなければならない。一つになれば、僕の立場から養子圏に一致する。 国も教会もなった場合には、国自体がメシヤが来られる為に僕の立場に立っておるものが恵まれる圏が来るというんだね。そのために、メシヤを迎えるその時において、僕の立場に立ったイスラエルの国は、養子圏と一つになるんだから、養子圏に入るというんだね。養子圏に立っておるユダヤ教はそのメシヤが来るんだから一段上る。実子と結びつけるのが絶対である。全てを受け入れ、新しく生まれる。養子であるんだけれど、養子じゃないんだね。実子の全て、思想から、生活観から、世界観まで全てを受け取らなければならない。 そうすることによって結局どうなるかというと、僕と養子と実子が一つになる。これが蘇生・長成・完成になる。旧約時代・新約時代を兼ねている。それが延長され、成約時代を迎えるんだね。それが、養子と僕が一つになった場合には、そこに来られるのはメシヤである。メシヤと僕と養子が一つになった立場は、蘇生・長成・完成だ。旧約・新約・成約が一ペンに結ばれるんだよ。 それは何かというと、サタン世界で今まで堕落の動機を成してきたその世界が、完全にイエス様によって統合されて、一つのもとの基準に帰っていった立場である。堕落しないアダムと天使長圏に帰ってきた立場である。 ここで問題なのは、エバがない。エバというものはアダムによって作られた。そのエバはどこからもらってくるか。天使長がエバを取っていったのだから、養子圏と天使長圏から捧げられる。 捧げるには、メシヤに対してメシヤとして生まれるためにメシヤの母がいなければならない。それからメシヤの相対者がいなければならない。それからメシヤの妹がいなければならない。こういう問題になるんだよ。 なぜか? もともとは、エバは妹である。妹の立場から大きくなって、新婦になって、それからお母さんの立場に帰る。そこに帰るには、子を求めて来なければならない。 エバはアダムによって生まれる。そのアダムを復帰するには、メシヤが生まれるには母がなければならない。女が先である。マリヤはイエス様より先に生まれた。イエス様の相対者はイエス様が生まれてから、イエス様によって作られたものでなければ相対者になれない。しかし、母の立場は前に生まれておる。マリヤ自体からみて、マリヤが責任を果さなければならない問題は何かというと、イエス様の妹の立場に立つべきものを立たせてやらなければならない。求めてやらなければならない。 イエス様が十字架につけられた動機はそこにあるんだよ。だから、女をサタンの方でみんな取っていった結果によって神が必要とするところの女はどういうタイプかというと、母の立場に立つタイプである。中間的な立場で相対的立場、新婦の立場に立つ者が必要である。それから、女を全部連れてきた場合には、結婚している女、今に結婚しようとしている青年の女、そして少年の女だよ。 要するに、結婚した家庭と、愛の問題で約婚した様な女、それから結婚しないような立場。それが復帰歴史から見た場合に、イエス様が来られる前までの旧約時代までは、自分なりの結婚した家庭。イエス様は約婚式をあげて結婚しようという立場だ。それから少女。こういう三つのタイプが世界的に連なっているよ。復帰の道は下っていくんだよ。下っていくんだから、母、それから妻、それからそういう様な立場に立つんだよ。 日本の教会も、三人の女が一人の男と完全に一つにならなければ、摂理の基台が生まれてこない。それはこういう原理から生まれてくるんだよ。 イエス様がこの地上にきて、やられるべきことは一体何か。母、自分の求める相対者、相対者を愛する前に、その相対者を妹として愛した、という立場に立たなければエデンの園において堕落しない前に、アダムを自分の兄さんと思って完全の愛をなしえなかったのが堕落だから、地上において、再び復帰しなければならない。 だから、完全な愛を妹にしなければならない。親じゃないよ。母じゃないよ。自分の妻じゃないよ。立場がそうなっているんだよ。約婚した立場で、妻じゃなく妹を先に愛さなければならない。エデンの園において、アダムに妹として完成基準に立って兄さんから愛された基準が果たされなければいけないんだね。 そして、それが熟して、自分の相対として相対者の立場に上り、それが熟して母の立場に上るんだね。母というものはマリヤとは違うんだよ。イエス様を中心として、原則に立ったエバの立場においての母の立場に帰るんだね。そこにおいて、初めて堕落した基準が元返しになるわけなんだよ。 十二人の女たちがイエス様を中心として侍るようになればイエス様は直ちに自分の相対を決めると共に、十一人十二人弟子も、一ペンに祝福してやることもできるよ。 そういう関係をイエス様が来られる時に、一つの氏族から求めなければならない。 それを基準として、七十門徒とか、百二十門徒とか、家庭を作るのがイエス様の本来の願いであった。それが果たされずして、アダム完成の基準から、再びそれを勝利圏として、勝利圏を求める立場で再びイエス様は、洗礼ヨハネ、養子の立場だね。養子の立場に立って、そういう十二弟子がない。イスラエル民族の十二祭司長、十二支派長を迎えるべきメシヤの立場であるにもかかわらず、立たれなかったので、それを再び準備しなければならない。完全に一致した基準において侍らなければならないのが、それが一つになれずして三人弟子までもイエス様を不信するようになってしまった。 十二支派長のカインは、養子的基盤がなくなってしまったんだから、それを再び求めようとして、行かれるところがない。だから十字架につけられる道、サタンに引っぱられて行かなければならなかった。養子の勝利圏も達成することができなかったんだから、それかといって、天使長圏、僕の基準に降りていくことは、絶対にできないんだね。イエス様は養子圏まではいい。それは兄弟圏だよ。しかし、僕圏というのは血統が違うんだよ。だから行くところがない。結局、行くところがないんだから、サタンの願い通りに引っぱられて行かなければ、神が再びとってくる作戦を立てることができない。 イエス様が奪われたのは作戦だよ。それが今までのキリスト教の願いだよ。再臨の時を迎え、地上にエバの基準を立たせながらやってきた。だから結局、自分の神の実子を養子圏から再び取ってこなければならない。とってくるその時が再臨の時であるというんだね。 そうして、養子圏を再び作って、そこに子供をとってきたのが終末であり、再臨の主が来られる時であるというのだが、そうするとエバはどうなるか? キリスト教を中心として、子供を捜してくると共にエバを捜してくる。イエス様は、男というものは天の象徴であり、女というものは地の象徴である。だからイエス様は天に上ると共に、地上には聖霊が降りるんだよ。 だから霊的基準において、イエス様の成長基準に伴えるような地上的基盤を、キリスト教圏を中心にして、聖霊と共に新しく生み出すようなことをしながら発展してきたんだよ。これが、地上には女、天上には男だよ。 これが再び合わなければならない。それが再臨だね。それが地上圏に実体を中心として再び結んで、男と女が合うようにならなければならない。そうなるというと、キリスト教圏は必ずサタン圏を勝利した文化圏に立たなければならない。それが民主主義だ。 民主主義は、あらゆる方面において共産主義に勝たなければならない。しかし攻められながら歴史は発展してきたよ。攻められて勝利しながら、そういうような道を辿ってきたのが今までの歴史であり、善と悪の闘いにおいて、宗教界が一般社会国家の立場からやられながら、宗教界の理念でもって世界に版図を広めてきたのが今の文化圏である。 韓国において、ヨーロッパにおいて、南方において、今まで共産党が民主主義を打っているんだね。ここにおいて、地上の民主主義・エバ文化圏に立つキリスト教圏はどこに帰らなければならないか。 民主主義というものは民意によって主権者を選ぶ。民意たるものは、新婦世界の代表、宗教文化圏のキリスト教文化圏においては、民意というものは、再臨の主を慕うのが民意だよ。 民主主義というものは、結局、地上に再臨の主が来られた時に、主権の中心者に侍る、という準備の基台のためにつくられたのが民主主義だよ。 それが今まで何も知らないで、民主主義、民主主義といってきた。 だから、民主主義とはいっても、世のなかの主権者は武力で、共産主義もそうであり、民主主義も収拾する方法がない。今に世界は困ってしまう。そういう危険性がある。 ここにおいて問題なのは、ユダヤ教の身代りに立った立場がキリスト教とだ。イスラエル国家の代りに立ったのが世界的民主主義だよ。 このユダヤ教イスラエルが分けてしまわれた時に、世界的に滅びる道になる。 第一イスラエル民族を見た場合には、それは、分かれたのはどこから生まれてきたか。それは、ユダヤ教自体でもない。民主主義でもない。それはイエス様を殺したからである。 結局、ユダヤ教とイスラエル民族は離れざるを得ない。だから、国のない民族になってしまうんだよ。ユダヤ教もなくなってしまったし、イエス様もなくなったし、国もなくなってしまった。習慣的ユダヤ教は信じていても、その価値はなくなってしまった。 そういうふうに他のところ、キリスト教文化圏に移して、これを、教会を新たに、メシヤを新たに、イスラエルを新たにこういうふうな立場を再び世界的基盤を作ってきたのが民主主義の立場とキリスト教世界と再びこられる再臨主を待っている立場がまさしく昔の第一イスラエル圏と同じだよ。 こうなると、世界が滅びるか、生きるか、という問題は何によって決まるか、というんだね。 宗教によって決まるのでもなければ、民主主義自体によって決まるのではない。 誰によって? 再臨の主によって決まる。もし、再臨の主が来られた時にユダヤ教とイスラエルが一つになって侍れなかった場合にはこれまた行かれるところがない。しかし、昔は国があって、世界に向かって希望を持っていったのだから、今は世界的になっているよ。だから希望として行くところがない。世界的理想を持って、希望として行くところがない。 世界的理想を持って、世界を一つにつくろう。理想をもって、世界的基盤において一つの世界を願いつつ、やってきたところ、結局、これ尽きてしまった。そうなると何を望みとして発展していく道があるや、というんだね。 昔は国の立場だから、世界に向かって発展する余地があったのだけれど、今は世界的立場からこういうふうになった場合には、何に向かって進んで行く道があるや。死んでしまわなければ行く道がない。その時代が滅亡されなければ帰る道がない。帰るには、何を標準として帰るか。 ここに問題があるんだよ。こういう時に再臨の主が来られた場合にはね、世界が一ペンにまわってしまう。 統一教会の唱える天宙主義という言葉は素晴らしい言葉だ。統一思想によって、世界統一は問題ない。そういう結論になるよ。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.25
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天の父母様聖会平和祝祭'あなたは喜びです' プロモーションビデオ[FFWPU]세계평화통일가정연합チャンネル登録者数 1.15万人天の父母様聖会平和祝祭'あなたは喜びです'2021.06.27(天一国9年 天暦 5月 18日) 午前9時30分HJ天宙天寶修鍊苑 & tv.peacelink.live一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓ 2021/06/27 09:30に公開予定です(以下)。
2021.06.24
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「指導者の責任」1971年9月14日水沢里で 朝の出発、夜の反省 一日の中に於いて、そこに前後あるいは上下、あるいは左右関係に於きまして、そこに自分がより価値のいい立場に立つ時もある。その反対の立場に立つ時もある。こう見た場合に自分の気持ちというものは責任者としての気持ちというものはその自分なりに願っている目的に向かって何をその基準を中心として喜びの心情か、あるいは目的に向かいつつある自分によってそれは淋しい、あるいは悲しい、しゃくにさわるとか、気持ちの悪い立場、こういう問題が問題だ。そうすると、総合してみた場合に一日の生活全部が気持ちのいい、嬉しい時間が、寂しい、気持ちの悪い時間より多かったという場合には、まあそこには自分の公的立場に立っている責任者としてその目的に近づく、一歩前進させる動機の一日になったと云えるだろう。 もしも、それを総合して見た場合に気持ち悪かったというような立場に立った場合には、それが多かった場合には、今立っておる現状の立場からその目的に向かう公的その指導者としてその使命を果たすその立場に於いて前進でなくして一歩後退した自分になったという実感できそれをみはかるそういうような立場を我々はいつも見いださなければならない。 朝、起きると共に全ての周囲の環境を見まわして新しい出発するのを我々はみられる。一日のその朝というものは新しい出発の時である。こう見た場合にいい太陽が上ってくる。今日の朝は気持ちがいい。天気がいい。それで環境もこれ清潔だ。その中で又、自分の気持ちがよかったというようなね。朝なりにそれを考えた場合にはその気持ちたるものを一日もったならばそれは環境に於いて自分なりの気持ちに環境を持ち続けることができる。こうなるというと環境のいい、その気持ちいいことを忘れてしまう。それにつり合わして環境がいいから自分の心がよくなるというような立場に立つんじゃあなくして、環境がよくても自分の個人の立場がそれは環境に反対の立場に立ったならば環境を忘れて反対の立場にとり囲まれるようなそういう自分を発見することがある。まあ、こう見た場合、自然の朝という朝は全てが出発するというんだね。全てが新しく出発する。昨日と今日とちがう。こう我々は一日を迎えるたび毎に我々の生活に於いて朝になった場合にはまずもって新しく出発するんだという区切りをつけて、いつも整理しておかなければならない。あるいは寝る時にはこれは全てを清算して今日こうだったあるいは色々なことがあったんだけれどそれはこういうことが自分の責任者としていいことであった。悪いことであった。それみんな総合してまとめて寝る時にはそのこと自体も解決して休まなければならない。そうして朝には、その必ず新しい気持ちでもって出るようなその環境的因縁に総合する自分の自分自体を発見するのが必要である。 自分は、さっぱりした気持ちでもって朝を迎えようとするのに環境も-気持ちが悪かった。とするとそれは環境からああ何も得るものがないというような立場に立った場合には自分より、この地点の方に何かいい影響を与えよう。そういう気持ち、そうすると環境自体が自分によって何を求めているんだというような、まさしくそういうように思わなくても自分なりの心的これ状況というものは実に素晴らしい。 まあ、こうなるというと環境に向かって慰めの言葉でも言いだす。あるいは歌でもって自然をこういうふうに抱擁しあい乍ら歌でそれをなだめてやるとか、そういうように独り言を言うような心情で、今日は自分が中心である。そういう心的な責任という事も考えられる。だから責任者というものは環境に於いてそれを全てを責任もたないものとなれば、それは本当の責任者になれないんではないか。こういう習慣観念を自身の一身にいつもつけておいて人に対して自分を中心とすればそれは相対者である。昨日も言った様に全体と環境圏を我々は、これを乗り越えることによりそれは、生涯を通して共にそれは調合し乍ら、つり合ってゆかなければならない立場、ある人が自分の前に現われてきた。その、あらわれて来た場合にはその人が昨日と今日、あの人が今日は気持ちのいい人だ。そうでなければ気持ちの悪い人か。という場合には、向こうの人が気持ちいいその立場に立っておる。そうなるというと自分から見た場合には自分も気持ちがいい。向こうの人が気持ち悪いという場合には責任者としてはこれは零だ。それは完全に分かれてしまう。それは何か一つあう動機をそこから求めることもできないし、こっちからも求めることもできないし、両方求めることのできない立場に立った場合にはそこから完全に分かれてしまう。だから環境の中心に立っておるその一人の人間に対して、我々は、昨日と今日較べた場合に昨日は良かった。今日は間違った。という場合にはその環境に影響されずして気持ちのよくなったらそれをもっとよい方向に如何に刺激してやるか。それを満たさなければならない。これは何よりも重要である。気持ちいいことを、それを如何にして成長させる刺激を与えてやるか。それが指導者として重要なことである。もしも気持ちが悪い立場に立っておる、そういう場合にはそれをそのままおいてしまった場合には、その人は後退してしまう。昨日は気持ち良かったんだけれど、わしは自分と会った場合に気持ちよい立場だったんだけれど、今日は気持ち悪い立場に於いてそれ会った場合には指導者に向かうその人にとって、指導者に向かう心を自分が、昨日みたいな心の延長を願って求めてきたにもかかわらず、そこにおいてそれを何の果たす、願うその要件を果たされなかった場合にはそれは二重の淋しい圏であると言うんだね。 兄弟が相談に来た時 ある希望をもって責任者を訪問したのは、ある自分の淋しい、あるいは悲しい、困ったその分を何とかして補って貰うというような望みの相対者として指導者を訪問したにもかかわらず、その人が気持ち悪いとして自分も気持ち悪いようになった場合には二重の嘆きを受く。なぜかというと、自分の持ってきた希望が切られてしまう。それに比例して悲しい自分にそれはそれに比例したる淋しさがそれがここに負わされる。その二重の悲しい立場に立つ。こうなった場合には、そこからはこれは遠くならざるを得ない。そういう時になった場合にはその人は再び自分の方に心を向けて来たくなくなる。それがもしもみ旨をして、あの責任者はまあ、ああいうタイプだけれどこの道を行かれる。あるいはその目標を指したるその目標が余りにも大きいからそれ一人責任者に対してのその減少感、そういうものを感じたけれどもその減少感のその基準に於ける基準を中心としては、この摂理の道を反対するそれに比例ならないからついてくる。もしもそれで今日はそうだったけれど、まだ続けてゆく。ゆくと前にまた再びその指導者に何か昔と変わったその基準に於いて自分の助けになるかということを又捜してみる。そういうふうにして向かい合った場合に、再びそういうふうになった時は向こうでは自分と会った後に於いて、向こうでは苦悶するようになる。それはその苦悶というものは自分だけの苦悶ではない。自分が自分を中心として環境に包まれた、その苦しみを感じて今迄おったんだけれど、ああいうような指導者がもしもこの道の責任者になった場合にはどういうふうになるだろう。その憂いの方向は、自分の心配の方向にプラスさせて、み旨に対しての憂うような立場になる。それを自分の責任はどうか。それからその責任者はそういう欠点があると、それは知ったとして人間はそういう欠点があるだろう。こういうふうにして、それを善にしてその場をのりこえるとしたらその以上の人はどうか。あるいは地区長がそういう立場に立った場合には地区長たる者は一体どうだ。それは今、自分にその打撃を与えて下さったそういう人とは違うだろう。と、こういうふうにして新しい方向を求めて今迄の自分の観点のその願いの基準を求め出した場合にその地区長が又、気持ち悪いような立場でもって迎えてやった場合にはその人はどうなるだろう。それは自分の地域長からそういうふうにその求められないところを見いだしそれから地区長によってそういうような願いの全てが求められないという場合にはそのみ旨に対しての責任を誰がもつかということを思えば思う程、それは非常な苦しみの立場に立たざるを得ない。まあ、地区長もあてにならない。そうだったらこれ日本の統一教会の運命を思う時に全般的批判をしだす。 神が指導者 今、自分の県なら県におる地区長にまあそういう欠点があるかも知れない。外の有名な統一教会として名のあるその地方の地区長はどうだろう。その地区長は何かちがうだろう。そういうふうにして何か、そこを中心としてまだ、こういうような観点で向かい合ったならばその地区長なりに又、そういうふうになったならばどうするか。この人の望みの残る望みとしてゆかれる道というものはたった一つしかない。 神様を中心として、神様は宇宙の指導者である。自分はそれの相対位置に立っておる。神様の命令があった。その命令に引かれゆく。まあこういう場合にその摂理を地上に於いて担当したある中心者がある。自分はこういうふうに行くんだというその使命を果たした場合には、その果たされた精神というものは使命というものは自分の生命の身がわりだ。全ての目的の勝利の基準である。生命あってその目的に向かう力あれば、あの基準を突破しなければ自分の生命の価値を認めることができないという確固たる信念に立った者でなければあるいは神が命令した命令に向かって進んでゆくことはできない。嬉しいことあれば、その基準を中心として嬉しく思う。悲しいことあればその基準を中心として悲しく思うというような信念に燃えておるものであったならばこれは地上においての環境は問題ではありません。一人一人の横的関係に於いての問題は問題ではありませんが、しかしその基準がはっきりしない時には、これはその基準が自分の全てを解決する中心にならずして、それを横的全ての問題が自分をひき合ってしまうような、そこに引かれ、あるいは引いてしまう結果になり易い立場に立たざるを得ない。 こう考えてみた場合にはあんた達はどういう人達か。歴史過程において神のその摂理のある一点にそれを結びつけてその分野に於て神から絶対的命令を受けた立場である。ある目標に向かって、その目標たるものはその試練された責任を負っているそのものというものはその目的完成が自分の生死の価値を左右する。それに近づけばそれは栄えるし、それに後退すればそれは滅びる。その目的完成如何によって、自分の満足、あるいは不満が左右される。こういうような立場に徹しておった場合にはそれは環境にも左右されません。そういう立場に立った場合にはこの人は公的の中心者として位置を守ることができる。そういうふうに立った基準にもしも自分がおったならばそれは個人の関係とか、環境のその、それに反する苦しいこと、淋しいこと、あるいは辛いこと、いかなる苦悶の事があってもそれは問題ではない。これが破れた場合にはそれは左右関係の環境というものが非常に問題になってくる。この摂理上に現われておるその我々の歴史的先祖達を考えてみた場合、たとえて言えば、ノア、ノアのおじいさんだね。 頼もしい男、ノア あの、ノアのおじいさんを考えてみた場合、我々個人と別に変わらない、一人の人間である。如何にして百二十年のその生活を、それを忍び切っていったんだろう。その動機なるものは何だ。毎日神様がああ祈る時間毎に、おお今日は、こうやったから明日はこうやれ。毎日命令するから行くんではない。 絶対なる神ならば、絶対なる相対者に言う約束は一回でおしまいである。人格者であれば言ったことを再び言いたくない。ちゃんと秘密の事でも約束した場合には、それに生命をかけて全てをそれに投入して動くところに絶対的人格の価値がある。人格としての支柱がそれにおいて左右される。こう考えてみた場合には、ノアのおじいさんは、神様が百二十年の後には必ず審きをなす。審判をしてしまう。この世の人を皆審判してしまって自分なり一家を中心として人類の先祖とするのに残しておく。それを何よりも強く信じたばかりである。それが知ったばかりである。知ったばかりでなく、感じたばかりである。感じたそれ全てのその感覚の全てが環境にこれ環境を威圧する。おさえるようなそういう決意の体験をもったような立場に立ったに違いない。ここに何かぶっかけてもそれは問題ない。この前にも先生言ったように、もしノアのおじいさんのおばあさんが反対した立場に立った場合に自分がこういうような道を行くというのにその奥さんに言った場合にそれは絶対いけません。それから誰から言ってもそれ信じられるような話じゃあない。百二十年の後に審判する審きというのは、自分のノアのおじいさんが百二十年生きるかどうかわからない。いつ死ぬかわからない。それも何の保障を立てて約束したのでもなければどうなるものでもない。自分の一代じゃあなくして、もしも何代も続けてやるかわからない。その摂理上から見た場合には、これは確固たる信念をもつには余りにも遠い話である。まあ、そういうような環境的立場から見た場合には、そのおばあさんというものがノアのおじいさんの話をきくということはこれは常識的になかなか難しい立場である。それが話すると、とたんに反対した場合には百二十年間の怨讐になる。反対した場合には遠くなることはあるんだけど近づくということはない。子供がもしも内心にぶつぶつ言ってお父さんに、お父さん、そういう百二十年箱舟を造るとか、何とか、それはもう、我々はもう審判の時死んでもいいというんだね。そういう、せいたその子供となった場合には、その時から、親とそのお父さんと近づくことは絶対にできない。それがそれを可能なるのは一つになるのはお父さんが止めるか、子供が頭を下げるかというような立場になればそれは一つになるかも知れないが、もうすでに反対した、それは反対したその内容とは堂々たる内容である。世の中全てがそれを保障される内容になっておるから、子供としてはそれはうちの、ノアのおじいさんの内容はわからない。そういう信念をもたない子供としてはノアのおじいさんに屈服するなんてそれはとうていできない。 そうかといってノアのおじいさん子供とかその奥さんに頭を下げては絶対にならない。だから永遠に別れるような立場が自然的に生まれてくるというんだね。そういう環境に包まれたノアのおじいさんが毎日、考えてみなよ。大工さんの総ての統合、準備しあう毎日が続くだろう。考えてみな。あるいはカンナ、あるいはノコ、あるいは全てを準備して、山に毎日これをかかえて上がると、そうなるというと、家庭全部がノアのおじいさんが家を出発すると、おお、家庭全部が、お母さんを中心として子供達は自分のお父さんをあざけるような立場に立たざるを得ない。そういう環境の続きの百二十年間を立てなければならない。そうなるというと食物はどういうものを食べさせたんだろうか。きづかいはある時まではその希望あるけれど、これは百二十年になってみないとわからないという立場に立った場合には、これはきづかいに対して望みをもったより以上のものとして度外視されざるをえないというんだね。こういう立場を何日きづかえたか。それは段々とあの家庭的な生活にはみじめになるんだね。着るものにしても、食べるものにしても、寝る所にしても、それがよくなるとあんた達思われるの。それは段々、時がたてばたつ程、もっとみじめだ。百二十年のその月日がせまるに従ってノアのその環境たるものは、これ悲惨そのものになるんじゃあないか。それなのに、あんた達もしも、ノアのおじいさんの立場に立った。ああ、われ、これこれいう統一教会の勇士として責任者として自分に何を言うとも、環境が何言うとも間違いなくそれは結果にきたすように決意したそのものを間違いないようになる。 そういう決意をもったものとして来たとしても、ノアのおじいさんに立った場合には、最後に百二十年のいや、すれすれになったそこの場合を考えてみた場合どうなったんだろう。ある時はもう、家族全部総動員してお父さんにデモをやったこともあるかも知れない。それは扇動者は誰か。自分の奥さんだ。しかし、そういう環境をのりこえ、ノア自体のその思いたるものは現実の生活圏にあったんじゃあない。思いはね。自分というものは現実の生活圏におるんだけれど、ノアの実体は百二十年前にもう過ぎたるという決意に燃えたものに違いない。 これを屈服するには百二十年以上先立つようなものでなければ屈服されないという。結局、百二十年をのりこえた心はそこに行っており、その実体はそういう立場に立ったもののようだから、百二十年が如何に反対してもそれは、ひっかからない確固たる信念の男であったにちがいない。だから、ここにぶつかる全てのものは、それはそういう決意に燃えたものに対して、反対する要件というものは、それに、マイナスの方になる所ではなくして、我、生きた神の心情、その信念をこの環境に完全としてこれは証明してやる。適格とした事実だとして歴史的にうえこんでやる。 環境にせまる全ての愛と全てのプラスとそれはその時の内心によっては時を近よせる、引っぱりつける、そういうような刺激をもつ、急げ急げ、早く早く、この世よ過ぎてゆけ。現実をその罷免し乍らその未来を何よりも強く望んだ立場に違いない。数多くの苦しみがあったとしてもその苦しみがかえってその時の勝利の立体的価値を認める条件になるに違いない。来たらば来たれ。それは、自分にマイナスになさず何ものもこの世にない。 こうなるというと、ノアの一人を中心として、地上に於て新しい希望の世界圏が生まれ出しておったということを思いまするにこのノアたる男というものは実に神から見た場合に失われた世界にいて、世界圏を創造なし得たそういう頼もしい男である。そういう所に立っておったからサタンもどうしようもない。この圏に立って神と合同作戦をなしたその結果の基準というものはサタンも侵入することができない。それは神ばかり主管あるいは干渉することができるんだから、ノアの審判圏を中心として三圏を払い下げる。だからまあ、ノアの家庭の失敗も、ノア自身がそういうような思いを百二十年間もって、それはあらゆる部分に注意し乍ら来た生活基準と審きの後のノアの心情基準、心の基準が下がっているんではないか。そういうところに於てまあ、失敗の動機が生まれてきたのではないか。こう思われますね。こう考えてみるというと、ノアのおじいさんたるその男は、それは百二十年のその前にあとに、その後の方に住んでいるんだというその信念自体は、あたり前でそこにぶつかる全てのものは問題じゃあない。こういうふうに行くものはこれは、神はいつでも共にいる。そういう人に立ったなら、これはいつでも公的な立場である。 サタンの前に立って その基準が立っていない場合には、これは環境的に何がこうやったとか、ああどうしようか、ああこうしようか。これは実に困った。問題起こるたびにああ困った、困った。それは三回位困ったということになるというと、ははあ、これ責任とか、何とかそれがなんじゃあ。困ったのがもっとこれは大きい。こういうふうになって、自分の立場も皆な放りっぱなして投げうってしまい易い立場に立つのである。そういう弊害が我々の指導者の中におりやすい。まあ、こう考えてみた場合に、地区長だったら地区長として燃えた信念、如何なる環境にも支配されない。まずもってその信念に徹する、目的観念に徹して現実をその目的に引きつける自分なりの実力、あるいは力をえなければならない。その力たるものは、環境をこえて一方を引きよせ、そういう確固たる信念のそういう実体者になるんではないか。 こういう新しい摂理に特に我々に見えないサタンが審く。あんた達いつもそういう風に自分一人で行くんじゃあないよ。その前が誰が前に直接立ったか。神が立っていないよ。自分の直接の前にはサタンが立っている。神はそのあとに立っている。サタンを屈服させたあとに神を迎えるようになったがこれは摂理を迎える我々の立場だ。自分の前に神がいないよ。だからサタンが立っている。神が我と会うには必ず蕩減条件を立たせないと、それを屈服させる蕩減条件でサタンを屈服させなければ神とつきあうことができない。だから、ノアのおじいさんの百二十年間をこれは神が主管したか。サタンが主管した。だから、あらゆる迫害がぶつかる。サタンのその打ち出す玉である。そこに倒れてはいけない。 だから、我々の前にはサタンが立っておる。だからそれを防備する為に我々はどういう作戦をしなければならないか問題だよ。それを防ぎゆく決意はもっているか。この地にあってもわしは歴史の生活である。その信念がこの環境をきり抜くより以上のその決意に立たなければならない。 第一の問題、それは、ただ何もならない。それはたった一つ神を援助することである。その次には、前にいるサタンを何によって屈服するか。自分ではとうてい屈服できない。 なぜかというと、六千年間神に讒訴して、神に誓ったその讒訴に引っかかって、苦労してきた全能なる神もどうにもできなかったそのサタン側へ前へふさがっているこういう基準といかに対決したか。だからその問題は自分一人だにできない。自分一人だにできると思うのはこれは大変な間違いである。 だから、ここに於て協助が必要だ。何の協助だ。原理的協助。我はみ旨に対しての主体者じゃない。待者である。だから、ここに於て主体者と一つにならなければならない。まずもって主体者と一つになる。環境に於ての主体者、それを持った場合にはその主体者が我々を指導する場合にそれを信じておればその指導者を信じた基盤に於ては、自分はその目的に向かう方向に於てはそれは心配しなくてもいいんだね。 横的立場に於て中心者が指導者、自分の前に立つ指導者があった場合にはね、自分の上のクラスの責任者があった場合には、その上に、その侍る責任者をもっているその人は、その指導者はその行くべき道に心配しない。だから横的に於て指導すべき中心者、高い指導者を迎えて行くならばその高い立場に立っておる中心者が間違っていなこを行くならばそのあとに追いついて行くものは心配しなくてよい。しかしそれかといって、いつも、あるいは原理に責任を持っている地区長さん達がいつも久保木会長なら久保木会長とついてゆく訳にはいかない。生活環境、舞台が違う。それなりにそれに適応するそういう圏内の自分の管轄圏内に総合したその圏内に於ては自分が責任者である。 もし、そういうふうに相談し乍らやって行くべき事があろうけれども方向の向きあいにはそれは可能だけれど、これはそれなりの責任者として立った環境から見た場合自分はその立場において中心である。中心者である。中心者を中心者として周期が違っておる。これは自分が合わせてゆかなければならない。 こういう場合には、その責任もったその分野に於て自分の立っておるその立場から向かう目的過程がある。あるいはサタン圏がある。これを自分なりに如何にして解決するか。もちろん平面的基準にはこう行かなければならないけれど方向は徹底的にしておいて、それに於ては疑われないんだけれどこれは自分の生活圏において、色々な問題をかかえ、それを如何に解決するか。 問題解決には祈りが必要 それ解決する方法は一つしかない。それは祈りの問題以外ないと言うんだね。わかりました? 祈り以外にない。あんた達はその祈りということを観念的に考えてはいけませんよ。たいがい、自分自分なりの何か実力者だというものになってしまうというと祈りということはもう関係なくなるんだね。頭の中で考え、ああ自分もやればできると、どの位やればできるかというんだね。その限界はどこだ。こう聞いた場合、限界はやってみないとわからない。それは自信もつべきその自分じゃあないんだよ。やってみなければわからない。こうなるとまずい。我々は、真実なその所に入って祈祷するのが一番いい。 だから歴史的有名な人、あるいは義人とか偉大な政治家というものは、あるいは歴史的学者でもそうだけれど世界的金持ちになった人でもそうだよ。それは真剣に考える。真剣に考える所にそれは何か。動機を見出すというのが常識になっているんだね。研究するものも真剣に考え、考える所に研究のそのはけ口が開かれる。真剣に考える。祈祷は何か。真剣に考えた所、一人で考えるんじゃあないよ。神様と共に考える。神様と共に相談しよう。こういう立場が絶対必要だというんだね。その立場に於て涙ぐんで相談し合った、あるいは祈り合ったというその感情を体恤した場合自分の感情は絶対ありませんよ。わかりました? 涙を流しえたというような立場に立った場合にはそれは自分、あるいは林とか田中とかそういうような一人の感情では絶対ありません。 その祈る時の決意したその決意たるものは、自分一人の決意ではありません。ということをあんた達は体恤することができるよ。こうやってみるというと、そういうふうに祈ってみると自分の内的衝撃あるいは実体的感化というものが、自分を中心としてあるべくの力、あるだけの影響を来たすような動機がないということをはっきりわかるようになる。そこに於て涙を流し、あるいは民族を愛し合いたい。あるいは全ての責任分担、全ての悔い改めをして過去を反省し乍ら、未来にその未来を望み得るような、そういう強い力が湧き上がる。これを体験した場合には、そういう体験は、自分から出たと思ってはいけない。そういう体験あればその体験の感ずるその境に立った場合にはこれ神様、全能なる神様が今、この時間に自分を抱いて働きかけて下さる。語りかけて下さる。 そういうような、あんた達観念をね、自分なりに発展させなければ発展して行かなければ、それは祈りの価値がわからんようになる。わかりました?(ハイ)あんた達、真剣に祈ったことがあった場合すぐわかっちゃうよ。それは内的刺激電波みたいね。最初には何もその整ったものではないだろう。うなるような、マイクのその故障になったものはウィピー、あるいはピー、ウーと音がでてくるね。そういう感化的な力が伝わって来るのがわかるよ。そうなると自分が小さいものでもふくれる感じもするし、浮き上がる感じもする。そういう感じが必ずあるというんだね。そういうものを感じないで今迄、祈ったというものは、これはサタン圏においてそのまま立ったと同じようなものだ。必ずある。神あった場合必ずある。あんた達そうだろう。ダイヤルを合わす時には、百から合わしはじめるの。零から合わしはじめるの。百からじゃない。なぜ零から、零から始めたら故障しないと言うんだね。百からやり始めたら、やるとたんにそれはとんでもないことになりやすいというんだね。 謙遜はサタンを滅ぼす だから、何かというと、祈りの時は謙遜になれというんだね。わかった? 零、自分とああ、わしは、だれだれ氏の子供だとか、ハアーだれだれ関係の権力だったとか、ハハア、自分なりにこういうものだとか、そういう風に思うな。ゼロになれ、なぜゼロになるか。ゼロは四方八方に於てそれを出発スタートしても無理がない。何も逆らうことはない。だから方向を取って出発するに一番易い基準がゼロの基準だよ。十の所から出発するのはそれは難しいんだよ。だから、一番易い、そのかわり、それ一番易い基準になった場合にはサタンもそこについてきて、前に待っていたらどうするんだ。サタンはゼロの基準には絶対降りてくることはできません。ゼロの基準だった場合、サタンの存在基台圏というものはゼロ以下の圏じゃあないよ。ゼロ以上圏に立とうとして、それを動機として出発した基準が堕落だから。サタンは下がってくることは絶対しません。サタンは謙遜のそういうような行動をサタン世界に許された場合にはサタン自体が破滅になる。だから、恐怖だ。恐迫だ。そこにある。わかる? 神様もそれよく知っているからその反対作戦をやる。謙遜になれ! 上って行くんじゃあなくして下りてこい。 反対だ。ゼロになれ、ゼロ。ゼロになれば神様が再創造なそうとするのが自分に対しての要求だ。そうすれば自由自在に、気ままに願いのものに対して再創造物としてとり扱うことが可能である。絶対的可能である。そういうふうにして、その新しい、そこにおいてせられる基準が新らしい一点を表していく。それが創造である。神は何もない所から新しい一点を見出して創造していくんだから、それと同じように創造原理的な立場に立って新しい一点は何か。その一点がサタン的じゃあいけませんよ。自分を中心として要求する一点じゃあいけません。そういう一面をいくらやってもできません。横的願いの一点を取り出して、これは神に向かって天のお父様。あなたの願うのはこれでありますか。 我に対して神様の願う一番深い我を中心として世界的に、あるいは万民を中心として世界的に願う基準はこれでありました。そうした場合、神様も本当にそのことを言った場合には、「そうだ」すぐわかった。 人間なりに自分の本当に願うものがあった場合にはこうだからと飛びかかってそれを願うような神の摂理、全般にわたっての解決する中核、そういう問題を持ち出して神のなすべき行かれる道をこの道を今から行かなければならなこありましょうか。しかし、我々から見た場合には祈りの礼儀があるんだね。 ああ全ての万民が多くてもあなたの愛する子供達がたくさんあっても、その中で私は一等でありまして、こういうことをやって行きたいと思いますから、それを渡して下さい。それは礼儀に合わないんだね。相続が自分たるものはこういうふうにみじめなもんだから、自分に自分の前に、りっぱな人がたくさんおると思いますから、もしもその人達がこういうような中核な中心的なその事を思いつかずして求めておるんだけれど思いつかずしておるのなら我を通してこれを向こうに伝えて上げたい心持ちをもっておりますから、わしはこう思うんですけれどそれがもしも神のみ意にかなう、そういう内容に間違いなかったら我を通してそれを働きかけて下さい。 こうなれば神様、人間と同じだよ。神様、人間のお父さんだから。そうでしょう。ちょうど本心に満たされた主人の立場が神様だから我々礼儀とか、法的に違反しないような謙遜な立場、それ謙遜な立場だろ。謙遜な立場、われに授けてやった。そのあとはどうなるか。もっとそれを出してやった場合にそれはみんな我が先に立つ。そのあとはどうなるか。最後に神さま、のけてしまいなさい。我神様だ。一つやってみましょう。そこ迄ゆきますよ。だから、そういうふうな祈り方いけませんよ。謙遜でなくちゃあ。礼儀にかなった、そういう祈り方をやってゆけば必ず神様それに相対してくれなければ神様自体が困るんだね。そうでしょう。そういう立場で祈りましょう。ゼロの立場で。 中心になる地区長は誰か? ある一点というものは公的の一点をとる。そうして日本全国の地区長から見まわして見た場合には、地区長のうち、日本の地区長の誰の地区長に追いついて行くか問題。だから自分で地区長同士の働きかけの結果をみてその調和をさせるんだ。それは全国の調整、活動の状況はどうだ。わかり乍らそれに先立ってゆかれる摂理の旋風はその地区長のある全般、一人の方向をあるいは頼りとして、こう行く時には、その一人を頼って千遍頼って生かし、ある時はそれ素質が迫いつかなかった場合にはそれを補うような素質のある地区長、そうしてそれを立たせるには、ここに行った地区長より以上強いものを神は求めるんだよ。強固の信念の男には皆なが威信を持っていたらそういう人がこう行った場合にはそういう素質のあるものを代表として立たしていってその素質に限界がきたという場合には、他のものと交互にゆく。こういうふうにしてやってきていくよ。だからそういうような発展の因縁を天からそれは誰よりも、それは先に結びつけるそういうものになりたがった場合にはそういう神秘的な静かな境地に入って祈るもの以外にはないというんだね。そうでしょ。だから国家の非常時、激動する国家の非常時にあった場合にはね、その国家の成り行きはそれは宣伝して行くんじゃあないですよ。秘密に内証話にその路程をたどっていく。それを宣伝した場合やられてしまう。それと同じ。復帰の道は誰よりも真心を尽くして神に仕えて、そして内証話をして誰よりも忠実なるその心持ちをもって、献身決意をもった献身的な態度、謙遜な態度のその者達を立たして方向は進んで行くというのはそれはもう理論的にそうならざるを得ないでしょう。そうでしょ。神様が仕事におるか。心情におるかという問題を考えてみた場合に、神様どこにいましたい。知っているじゃない。神はその心情からこういうような働きをなぜ神は命令したか。先生はこういう働きを何故しなければならないか。これ以上の辛い神の心情的苦しみはこういう事が今なされているのは悲惨な立場である。くやしい立場である。しかし、行く道はこの道しかないから我々はこの道を行かなければならない。行くには心身とも直接に燃え上がって行くのが神の心情を知っている男として行くべき道じゃない、と思ったならば辛ければ辛いほどその場に於て涙ぐみ乍らやって行ける基準が生まれて来なければならない。悲惨であればその悲惨な環境と自分を後退させる条件になるよりは前進の条件に必ずなりえる。あんた達もそうだろう。食口達はある時は花をもたせたり、とらせたりその場合は、涙ぐむような、心情があるや。こういう心情問題が、問題だよ。だから仕事に神様いますよりは、それは情的の中心を求めて神様いましたいのがそれは創造本質の根源である。それ間違いないでしょ。だから、地区長、全日本の地区長を中心として見た場合、この地区長その一番中心になる、秘かな所に於て神に通ずる神の援助を受けるものは誰であるか。挿すんだね。自分がそれをなした場合には、感謝の念でもってこつこつやって行くんだね。いかに考えてみても自分はそういう立場に立っていないと、ああ、全日本のどこの地区長を中心として一点があるのか。教えなかったとすれば神の摂理圏に立っていない日本であるということを証拠することになるんだから、もしも神の摂理圏に於て立っているならば我々地区長の中に一人必ずおる。この中だ。それを求めて、その方向に歩調を合わせる一人、二人、三人、四人、こういうふうになって行くに従ってそれ、そうなれば、その一人の為に、全部が神の摂理圏の方に恵まれることができるよ。うん、あの地区長、なんだ。負けないや。そういうよりは、よい所はいくらでも百%吸収して、悪い所を補う。そりゃあ、あんた達同士でわかるだろう。ああ、どういう地区長はどういう所が得点だ。特徴だ。その特徴は他のものでもなく自分のものだ。五十の地区長があった場合には五十の特徴をあるいは盗みとる。気持ち悪い話だけれどね。うん、盗みとる。もしもなかったら育ててこれを存在させる。再創造する。もしもそれが自分にできなかったら彼にすがってそれを補給してもらう。そういう、その自分を再創造して人格のその基準を広めることができれば、高めることもいくらでもできますというんだね。いけないものは切ってしまう。 自分の性格、性格時間表、ずーっとグラフにしながら書いてゆくんだよ。ああ今日は気持ちが悪かった。こういうふうにして測った場合にはグラフが何時間から何時間迄、ああ何時にはこうなったあー。書いてゆくんだよ。統計して、ああ一年間はどうだ。一日はどうだった。ああ自分は悪のものになっちゃった。この野郎でかいこと言うなと。片っぱしから診断してゆく。それが今必要だよ。それが責任者としての姿勢を今言っているんだよ。こりゃあ、問題が簡単な問題じゃあないよ。 サタンとの闘い 目的に徹したらその基準をこれを追いつくには、そこにサタン圏とぶつかってみないといけない。まず第一にその勝利するには自信をもって自分なりにゆくという、自分一人でゆく。やってゆく。六千年間神を苦しめた讒訴の王様がサタンである。讒訴の僕じゃあないよ。親がだ。 それはあんた達観念が入らないから、そういうふうに実感的に環境からそういうサタンを取り除いてゆけるそういう存在位置をはっきりしておかなければならないんだよ。よたものの世界的な王様だよ。これ見える王様じゃないんだよ。見えない王様だから目をつむっているのと同じだよ。目をあけて見えるの。見えない王様だから、結局目をつぶっておって向こうは目を開けていると同じだよ。そうだろう。目をつぶって勝つという男と目を開けて開けて闘うという、そういう男と同じだよ。そういうもんだから、これはだから神に内証で神によって、あいつはこうでるんだからこうやって、それが必要だというんだよ。行くのは行かなければならない。死んでも行かなければならない。だからそれを作戦するには一人ではやるな。共同作戦でやれ。親父と子供がそれが一つにならない所においてそれがサタンの王様になったんだからそうだろう。サタンは親と子供が一つになった場合には、サタンは立つ所がなくなる。おい、君も基台のその用件というのは親に反対にきたすようなその動機によって主人に反対きたすような動機によって出発したそれに反対した善主権はあんたの干渉する権利はないんじゃあないか。わしは親と子、こう言うんだね。原理的にそうなっている。来るな。来られないよ。 なぜ? 天のお父様はサタンも守る。神も守るだろう。神も原理という原則は神が立たしたその原則は神も守るの守らないの?(守る)サタンも守るんだから、あんたが主だというんだ。それ原理的にみんな整理しておかなければならないんだよ。あんたのあしたはというものは主人を否認してしまえ。親を否認させるような動機の親だから。それがサタンの立つ所である。基台圏である。その反対の主人に従い、親に従うという立場に立った場合には、あなたの基台とは違う。こうなるんだよ。それ理論的にそうだろう。 おい、サタンここへ来ることはできない。しかし、来ることはできないと言っても来ることは来るんだよ。どこに来るか。堕落圏に、我々は国を持っていない。アダムとエバというのは、神というのは国を統治するべき主の中心者である。その世界的の中心圏はそこから始めるべきである。国を持っていないんだから、個人の時はそういう決意をもっても、ノコノコ周囲にずーっとくぐりまわるんだけれども、もしか、なった場合には、ああなった場合には、うん、君のいうことはもっともだ。ああ、主人に絶対生命がけでそれは親に生命がけで従う。 堕落は生命がけで反対の方に従ってきたんだね。生命がけで親に従ってゆくという場合には、サタンはそれ自体をどうにも手のつけようもない。周囲にまわりながらもしも自分というものがやってきた場合にはやっつけてしまう。こういうような戦争を今やっているんですよ。それは話ばかりじゃあないです。もう話したいから、こういう話をするんじゃあないですよ。戦争はそういう風に出てきた。それは原則を中心として原則を誤った場合にはたちまちやられてしまう。いくら、いい顔したって、いくらすました顔したって、それはサタンの側と同じだ。ほかに何もないや。だから主人に従えというんだね。 サタン世界もそうだろう。おい、君達絶対従え。サタンのやり方はこの野郎、やらんか。自分の価値、自分の存在位置を否認し乍ら、そしてそれを従うようにさせる。神の方はね。存在位置を是認し乍らそれを自分の気ままに自分が主体になって行動する。それは違うよ。それだから先生、強制的にあんた達にやれと言うんだけれど、こう思った時、やるかやらないか。やらなかったら自分の損害になるとちゃーんとわかるような原理だから行くなと言っても行くようになるよ。これをはっきりしなきゃあならないよ。だから、サタンは何故後退するか。 これみんな、つきつめて聞いた場合には、ボヤーッと、ぼやける。何も解決の決め手があんた達ないだろう。そしたら何で行動するか。おー真の父母を侍っているか。 原則が何かというとサタンが立った所は主人を否認するし、親を否認さす。自分を中心とした基準より出発する。それがそのサタンの世界である。神の世界はその反対だよ。主人に生命をかけて従わなければならない。それも強制的じゃあないよ。心に従って、そして親に生命をかけて従う。強制的にじゃあないよ。 そういう道を行けば、天国と地獄は分かれてゆくというんだね。わかった? だから、あんた達はそうだろう。先生は何でもないんだけれど、先生に近づいていたいんだね。そうだろう。あんた達、先生の所に近くおりたい。そういう心持ちするの。珍しい運動が起こっているんだね。地上には。 先生、その時そういう心持ちをもたなければならない、ならない、と言ってまわるのがいいんじゃあないよ。何かしら、何かしらそうやらなければ不安になるんだね。 太陽と同じ、太陽が上ってきた場合には全ての草木の茎はね。みんな茎は太陽に挨拶するよ。動きがあるよ。それが宇宙の原則だね。それ自然的である。それが自由であり、それが、それは自分なりに何にもさしつかえがないというんだね。それがかえって心やさしいっていうんだね。やすらかになるっていう。だからその道が一番安息圏だね。だからそれを味わった場合には、これはそうならざるを得ない。どうだ。そうなるの。(ハイ) 困難な復帰の道 人間、哲学において、哲学の程度に於いて最高の征服者になれる。こう思われるよ。サタンの世界はそうじゃあないんだよ。逃げたいんだけれど、逃げてしまいたいんだけれど。これサタン世界だよ。だから統一教会を逃げたい者は逃げてゆけ。逃げてゆきな。行ってみたら、まわり右して来なければならない。まわり右して来る時には、昔は頭を上げていったんだけれど、こうあげていったんだけれど帰る時にはこう下げていく。 なぜ反対したや。自分でもわからないというんだね。これはサタンにそれ共同になる立場に入っている。その気になった場合には反対しないというような覚悟したいんだけれど、反対しないという思いで思ったんだけれど、反対した言葉をもう話すと言うんだね。だから、もう仕方ないんだね。そういうふうになった場合にはこれは入る。出る時は自由だったんだけれど、入る時は実に難しい。堕落する時には簡単に出てしまったんだけれど、帰る時の復帰は何千年かかったの。六千年どころじゃあないんだよ。六千年、何百万年かかったんだよ。聖書の歴史はそれは六千年と書いてあるけれど。 サタンのサタンがなぜ恐ろしや。侵入できない。それは原理の法則によって、神もそれを守ってゆくのだから悪の住んでいるサタンも守らなければならない。その境界線は何か。立場は違うよ。向こうは主人の親もまあサタンじゃあないか。何だろう。自分が大事じゃあないか。これが今の自由思想だよ。みなかきまわして切ってしまうんだね。そうなっておるだろう。神はまるっきり反対だ。反対であるんだけれど主人に生命をかけて、悪に生命をかけて、堕落していったんだから我々は生命をかけて、これはやって行かなければいけないんだよ。わかったの。(ハイ) そういう立場に立っている。これをのりこえていくには第一は信念、信念の決意、第二はそれはサタン圏があるから戦っていくに、自分一人の戦いは激戦である。歴史的な争奪戦である。そうするには、神と共に相談しなければならない。そういう境地をあんた達は願わないの。(願います)それをなされないものは孤児だ。だからそういう道は謙遜になれ。どの位謙遜か。子供がそういうふうにして腹減って何にしてて、まあお母さんのそのお乳をいっぱいのんでいい気持ちになって、まあ寝ている姿。こうみてもかわいいし、ああみてもかわいいし、逆さまからみてもかわいいような、そういうような子供みたいなようなそう考えるんだよ。それを直感的に如何にすればそういう感覚圏に誰が立ち入ることができるだろうか。それが問題だよ。その問題だよ。 あーわしは今大学を卒業したさる者であり、あー何県の地区長だ。久保木会長からこういう命令をやれ、何をやれ、こういう位置に立った自分だ。ああそういう場合ゼロになれ。 どういうふうにしたら直感的になるか。愛される子供はその一瞬全てに父母の手がついておる。お母さんの手が違った所がない。かわいいからこうなでる。手を上げてああそれやさわってみたい。一瞬全てが愛する親のその手の届かない所がない。全てのものだね。こう思うんだよ。そうすると言うと、わしの手はもしも自分が神の子供だとしたら、わしの手は神様の手先がさわりたいのだろうか。もしも神の子だったら神様の手がこの自分の手をさわりたいのだろうか。さわりたくないのだろうか。そういう直感というのを養ってゆくんだよ。ああ、天のお父様、そうなると子供は何もわからない年齢でもその感覚を触覚を感ずるような子供だったらああ手を握りたいような気持ちね。そうすると手を握るとしてお母さんがこの野郎、なぜ自分だけお母さんの手をさわるのか。こういうふうになってくると、神様手元にいく。そういうふうに行くと自分の手を憎むようになる。そういう境地が必要だよ。わかる。ああ、神様が自分の心に住んでああ、なぜに誘ってくれるんだという、ああ手を握りたい。たとえば自分の顔を打つようになる。そういう境地に迄ゆかなければならない。そういう心情境は、まるで子供の心情境と同じだね。足なんかをこう自分にさわり乍ら、神様にさわるような思いがするんだよ。自分でさわり乍ら、自分はこうさわり乍らそういう思いにこがれておってこういうふうにして自分がああ神様さわってくれるという、ああ神様手がないんでさわってみるというと自分が自分のかたにさわっておるという、その人はもう神様にはいつくっているようなそういう思いがするような自分一人でそれをやるような気持ち、全部子供の心だね。そういうふうにやったことある。それからお母様を親子の関係を非常にそれは実感できる。 あー、あるものは鏡をずーっと見てから自分の顔では一番素晴らしい所はどこだろう。ずーっとみつめるのだよ。鼻か。口か。目か。耳か。頭か。くびか。さあ、どっちだ。手か。足か。あるいは尾っぽか。五体か。ずーっと見て、鏡みて、横から見た場合には神様は我見てどう思うだろう。こう考えるんだよ思いつくんだよ。。そうして自分乍ら顔を見乍らああいう時はと、自分が自分を干渉しながらね。自分も初め、神様の立場に立って自分を見るような思い迄ゆくよ。こういう境地に行ってみるようになると実に神様そういう遠い方じゃあないんだね。我々の一番近いもんだ。もっとも我々に近いもんだ。我自身に何を一番神様かわいがるか。これは鼻も目も口もそうだ。心だね。清い心を持ったそれでその中に湧き上がる親を慕う愛情心をもっている子供を育てる。そうだろう。だからそれは実に一人でやり乍らも、やり乍らも一人で出来るのではない。神様相談したいんだね。私こうやりますよ。如何でございますか。そういうように働くような思いつきの境地。そういう瞬間的な境地によくやってあんた達が生活をやり出し、祈りをずーっと続けてみなよ。そういう環境がそれは理論的にみてもそうなんでしょ。授受作用すれば必ず繁殖する。 神様がそれをなでてやるようなね。思いするんだよ。それをなすのは、そうは言ってもそれをなすのは今迄の昔の自分とちがうよ。神の手に代わっていつもなしているような気持ちがする。そうすると気持ちいいだろう。感じが伝わってくるんだよ。うん、そういうあざやかな境地である。 心情の出発基準 情は情的出発基準は、大人から出発するんじゃあありませんよ。どこから、子供から。だから子供の境地に入って子供の心情基準を尋ねて行きなさい。神、親と子供と同じような関係において神と親と子供、親子の関係の境地に於いて自分がまじえてそういうようなこと言える立場に立って神と因縁を結びつける。そういうふうになるというと、神様見て、この野郎何のこじきつかいみたいなことするか。それが神から見た場合には何のこの野郎そういう気ちがいみたいなことするな。それは嬉しく思うか。ある男、女と恋しがって共に写真を見ながらキスする。喜ぶ。そうした場合にはその実体を後から見た場合に気持ち悪いの。(悪い)あんた達もそうなの。(ハイ)じゃあ神様みたいじゃあないか。こういう理論的に皆なこれを訓練させてそういう行動はいくらあってもいい。うん、そうすると神様はね。結局、そういうものは人間が喜ぶ。(喜ばない)あんた達映画を好きがるのは好きだからだよ。自分は生活し乍らも、同じゆき乍らも、自分の写真もって生活するように写してみたいのが人間の心情じゃあないか。それを何故強調するか。それは人間だって一緒じゃあないか。結論なんだよ。劇的な場面を人間は求めていっておるよ。人間はそういうような劇的な場面を願うようになるっていうんだね。 そういうふうにやったってそれは主体がその実体がそれをみておこるわけにはいかない。あんた達は時々先生の言葉のまねしたり、それを見てあー、非常に嬉しがってそう言わない。そりゃあ、そうなれば一番いい。神様も同じだ。考えてみれば神様も人間にくらべて大きいお方が神様だよ。そういうような感情的動機を自分なりに造ってそういう環境の生活圏にジャンピングして入るんだね。そういうふうになるというとどこに行く時、行って参ります。こういうふうに三日前に別れてゆき合った場合にもそれでもって、こういう神の願う毎日を送った場合には、基準になるのは、あるかないか分からないようなこういう道だから、自分にも知らないうちに足が動き出しておる。そういうような情的、まあ何というか発露というかね。先生、動きのね、自分なりにそれを整理してその環境を主管し乍ら完全なる環境には完全なる存在が存在せしめるのが創造界の実情だ。景色のいい所を神様も願わない?(願う)あんた達は?(願う)魚は?(願う)動物もそうなんだよ。名所の所に魚は集まる。動物もそうだよ。 あんた達はそういうようなこと考えたことあるの。ただ自分が体をこれ、かかえ乍ら神様とそういう嫁をもしも結婚したその男だったらね。自分の奥さんを抱き合うような心ね。神様抱き合うような心。それかと言って、ああ気持ち悪い、そう思うなよ。そりゃあ神様、そういうふうに造ってくれたものだから。神様と共に神様が造ってくれたその娘に向かってそんなにやると神様気持ち悪く思うの? どうだ。理論的にそれは神様自体はもっと喜ばなければならない。だから気持ち悪くないように、それは神様は、両性をもっているというんだね。そういうように、それは人間に授けてくれた尊い生命の関係というものは、神様によってなされた第二の実現場、試験所だよ。だから、あんた達子供をもった場合にはそれはまあ、実感できるものがあるよ。 子供を持った親の心情 子供をあんた達まあ愛するようになったら、寒い夜なんか起きて便所に行きたいから起きた場合には、そのまま寝るのにはちょっと何かその心細い。それで寝ておる所、子供の所へ懐中電燈なんかもっていって、こう照らしてみる。その時間というのは実に素晴らしい時間だよ。子供のないものにはわからないや。いくら説明したって。 それは自分と、神様との関係にそっくりや。あー、わしが寝ておる時、わしは子供達にしてやったと同じように、ああ神様は自分に対してこっそり寝ている所を見て、あー、こうさわるか、さわらないか、なでたい心持ちでみつめてずーっと守ってくれる。恋しくなるんだよ。そういう気持ち、そういう所は必ず神様います。それは先生の生活のそりゃあ、経験になっている。そういう所を犯すというと神様、そういう抱擁しているまあ、そこに誰か入ってくると気持ち悪くなってくる。皆な環境をくつがえしてしまう奴らだ。神様そう思う。誰も干渉しない静かな所にそういうような心の立場に立ちたいという神様の心持ちがよく知るようになる。 神の協助圏を結べ その時にはそういう境地には自然をながめる。自然をながめて何をするか。昔、自然をながめ乍らその瞑想した神の神秘的な霊境に接したその思いをそれをずーっと夕方の夕やけをながめ乍ら、あけぼのの空をながめ乍ら、太陽の昇る時のその空をながめ乍ら、あるいは水のせせらぎをながめ乍ら、あるいは風のふく所をながめ乍ら自分なりのそういう生活の過去があるからね。そうすると、その瞬間、過去の全てがずーっと思い出されてくるよ。そこに行って、自分なりの決意し、あるいは闘い、あるいはこういうような激動するその環境を自分一人でこういうふうに解決していくという闘いの真っ只中を自分の過去をずーっと闘うような映画をみるようなその思いするんだよ。 そうし乍ら自分はこうだと、今のこの場合に於てはこうやって行かなければならない。 それで神様どういうふうに願っておるのか。そういう心情的、新しい決意、刺激、刺激の立場がなければその環境を新しく収拾することもできなければ、新しい目的に向かって出発することもできないのが人間の肉体なんだよ。 そういう境地が必要である。だから信仰生活する者達が祈祷、祈りの時間をもたないというのはこりゃあ研究すべきものだ。祈祷しなくっても瞑想は必要だよ。瞑想の中にお父様を呼ぶっていうんだね。そういう心情的基台を育て乍らあんた達は、環境をのりこえる闘いに勝利する為に神と援助する、協助圏を結んでゆかなければならない、というのは絶対的要件だよ。わかったの。こうしないとうまくゆかないよ。 大衆を指導する力 だから、そういう時にあんた達はね、大きな声で祈るんだよ。それは何故か。それは指導者だから大衆に感化力をもたなければならない。自分の思いの波動が波みたいに向こうから打ちただよってそして動かされるようにそういう祈りをするんだよ。そういう祈りをして自分がその時には大きい講堂の真ん中で、すみの方に大きな音響がきこえる。 それは自分が直感的にあるいは実感的にそれ体験するんだよ。神様!その神様は何もない神様と違うんだよ。誰よりも近い神、何万年待って今まで待ってはじめて会う立場に立って慕い焦がれた、待ち焦がれたそういう立場にあって呼ぶ最初の言葉の「神さま」。そういう感情。そういうふうにしてずーっと神様の愛の宣言。神様、自分はこういう風にして神様を愛します。それは仕事に対して多くをやる。それは音響は反対に自分の方にきて、自分をよくほぐしてくれるような思いをするよ。それは雲みたいになってとんでもない境地に引き入れるんだよ。 自分も歌を歌いながら自分の声が実に素晴らしかったらその自分の声に自分が打たれるだろう。それと同じだよ。間接的自分の声によっていかなる反応きたらすかというと、自分のその反響の声を聞き乍ら自分なりに、何気なしに知らない涙を流すそういう境地になって結ぶ。大衆の前に立って大衆は一ぺんに占領される。神と自分とそういう関係をもって実験してみる。授受作用を完全になせば大半なことが成せるのは理論的である。実験はできるよ。 だから涙流さずして心情的基準に立った場合には大衆を動かすことはできない。情的基準が自分が神と共になければ愛の心にまき込まれて涙を流した場合にはその心境に一致した境地にあるいは壇上に立ってその基準を満たした場合には全部がまき込まれる。だから結局説教というのは自分の実験だね。だから説教の時間は恐ろしいと共に実に楽しい。そうなんだね。恐ろしいことは恐ろしい。いったん打たなかった場合には誰が打つかと言えばサタンが打つよ。自分の方に来るよ。誤った場合にはこれ蕩減の道である。だから真剣にやる。だからあんた達手紙書くとしてもいい文章を書くよりは、涙を流し乍ら、こつこつ書いたその手紙は相手を泣かす。虚の言葉はね、結果は表われないんだよ。まあ、真実な言葉は何百回聞いても味があるんだね。環境が違う所において味が違ってくるんだよ。 いいものは子に分けてやりたい親の心情 だから指導者というものは、いつも環境が問題だ。環境に引っぱられて行くような者になった場合には指導者になれない。ある主義とか、ある主張、ある思想、ある信用を得た場合に実体というのはそれは防波堤である。もしも神が援助して失敗したらサタンは讒訴する。おい、全知全能なる神の権威は何です。結局はわしの仕事になったんじゃあありませんか。そうなる。わかりましたね。そういう信念をもって行くんですよ。 それから、そういう信念をもったとしても今祈ってそういう決意をしたとしても、そればかりひと所に座っておったらいけないというんだね。先頭に立たなければいけない。 だからいい物を食った場合には、ああ今日は気持ちが良かったというよりは皆んなはどういう物食っておるんだろうか。自分がもしもいい物食った場合には心細い。何となく、言い表わせない心細い感じだ。そういうような立場に立った場合には、いい物あった場合には、これ全部食べる、そういう観念に立った場合、瞬間的生活圏に立っておるものとなれば、いい物あった場合には一人で食べちゃう。 必ずいい物あった場合には分け合う。そりゃあ親だよ。親がそれは子供もった親はいい物あった場合には自分は何を食べようと言って皆な食べてしまう親はいないんだね。皆な子供にやりたい。やれない立場だったら一番苦労しておる食口達を思い乍ら心痛く、心の中で痛みを感じ乍ら食べた場合にそれは通るんだね。それは讒訴されないんだね。神が当然の事じゃあないかと思う。 だからいいもの見た場合にはああ自分流儀に考えたらこれは中心者になれませんよ。皆なにやりたい。しかし、やれない立場に立っておる。それを心に痛みを感じ乍ら食べる。いいもの着てもそうだよ。いいもの着た場合には、自分の率いる食口達はどのようなもの着るか。自分なりに、いいもの着てすました顔してすましたスタイルしておる場合にはこれは神様の目から見た場合には恥ずかしいことだ。神様数千年の歴史過程を摂理を担当しつつ、群衆の戦いの真っ只中に立っておるその名に於てはいついいもの着たか? いまだにその失われた子供を求め、自分の一身を犠牲のその立場を忘れて、その求めてゆく所にいいもの思いつくだろうかって言うんだね。自分の身体とか自分の環境とかその目的の失われた子供が問題である。だから、そういうような立場に立っておる親を迎えて、それは安らかな立場を求めてやらなければならない自分、親がああいうようなボロの着物を着て自分を尋ねて捜して来るにもかかわらずそれをいいもの着せない者として、自分がいかにいいものを着るか。 心情的だよ。いいもの着るとしても、あー違うんだよ。先生はそんな生活やっていないよ。そんなね。いまだにそうだよ。洋服はいくらでもある。絶対いいもの着ない。そういう心情的負債をね、食口達から、本心から、本心のメガネからながめて見た場合に指導者は心情の負債を負っているというような立場に立った場合には食口達から見た場合にはそれ以上になりたいという同情心が自分の環境より以上のその基準を残しておくんだったらその食口達はついてくる。それを、思いがあって又続けてやりたいというような思いが続くんだよ。それ自分も考えてやろうとしても考えてやる前に皆なその次元になってやるから考えてやる必要がない。そういうことになっておる。だから心情的指導者の立場に立っておる。衣食住が問題だ。食べ物、それから着る物、住む所自分だけいいように、そういう人がいる。いい所に寝た場合にそれは最初に食口が貧しい生活しておるうちに、いい所に寝た場合、寝台とかそういう所に寝た場合それは涙を流すような、しかし食口達はこういう風に寝てるんだからやらざるを得ないし、やらねば他に天のお父様どうすればいいですか。こういう天的同情圏、食口的同情圏そこに於てそれ以上ながめるような同情圏、それ以上の同情というものを残した場合にはその人はいくらいい生活やったって食口達の上に何を残してやるか。もっともっとその環境を祝福してやるというふうにならざるを得ないと言うんだね。 そういう同情的心情境を残してその残した同情圏がみんなにそれは恵みの圏としてその環境に現われるような立場に立った指導者は食口に裏切られたり、食口に疑われたり、食口に嫌がられることは絶対ありませんよ。衣食住は問題だよ。だから簡単だよ。どうしたらいいか。 恵まれない環境に立て より悪いものを食べなさい。より悪いものを着なさい。より悪い所に住みなさい。こうしたらすぐに情的世界に於ては食口を率いる世界に於て中心者として必ずなれる。わかりました。(ハイ) あんた達はここ迄も経験してみなければならない。神様が自分に一番世の中で尊いものを授けたいのが神の心か。神様自分を本当に愛するのだったら自分に一番尊い物をやりたいものは何だろう。 男だったら一番素晴らしい女を授けたい。その次は子供。愛するものはそれを授ける順序から言った場合には一番愛するものに授けるものは反対から授けるんじゃあないよ。物をやってそれから子供をやって、それから相対者をやるんじゃあないよ。一番これは緊迫した立場に必要なのは相対者をやってそれから子供をやってそれから物をやってそういうふうになる。 だから、あんた達も摂理圏におきましては、食口達はどういうものがなければならないのか。自分の相対者より以上愛した子供。自分の奥さん、あんた達ここ、祝福された者手を上げて皆なだろう。あー、自分には祝福された奥さんがいるや。先生から、神様、先生から、天宙的のそれは祝福より無限の価値の実体圏をなしておるのが家庭じゃあないか。それを認めてくれ。困るよ。神はそういう作戦をしませんよ。自分の愛する子供を犠牲にしたとして、六千年間犠牲にし、今迄ずーっと犠牲になってきても宣伝しませんよ。それ、わかってくれと、説明してそれを教えて、それをわかってくれることを願いませんよ。ちゃーんと捜して大きくなった場合にはね、大人になった場合には、大人になった日に於て礼儀があるんだから、自分が経験してみた場合には、神様に対してそれをなすべきことをそれを成そうとこう待っておるというんだね。 それで我々子供を産んでみないというと親の有難さがわからないという話があるだろう。そういうふうになっておる。あの地区長、結婚しないより結婚してから問題である。子供を産まない時より子供を産んで問題であると言うんだね。こうなるよ。物を持たない時より物を持った時問題であって、貧しい時より金持ちになって、豊富に住む時が問題だ。こうなっておるんですよ。 だから責任者はそれに加わるべき力がいる。物ができたとする。それは自分のものだ。責任という者は、責任者があって全部があるの。責任者があって全部があるの。全部のためだよ。 中心者は貰おうとするものだったら、中心者になれませんよ。中心者という者はやる所だ。配給所だよ。わかりました? 中心者としてあー、貰いたい。食口達から愛されたいという思いをもつんだったらそれは間違いだよ。愛される前に愛せ。愛した場合には愛されるようになるよ。こうなるんですよ。 やった場合には、上げた場合には、向こうで持って来るなとしても返してきますよ。一人が全部に対して十分の一ずつ真心を尽くしてやった場合には向こうでは九倍ずつ真心を尽くして持ってきちゃうよ。それは何故か。 その受くべき道、中心者を通してゆけばこそ、より、価値がある圏に到達するということ、ちゃんとわかるようになっている。それだけ間違いなければ、それは中心者を絶対困らせる立場に立たない。 あんた達は、愛したいの、愛されたいの?(愛されたい)何故か。絶対なる中心者の神様がいるから。それはプラスの存在だから、マイナスに向けて動機となる。出発の起点だからそこから授けられる。だから我々は受ける立場だよ。完全に受けた場合には、こう盗んで逃げて行くの。愛されてそりゃあ、まあ、わしは愛された。これでまあ満点だ。それで逃げて行くの。この野郎、受けなかった場合には戦ってやる。その戦いに行くんだね。その喧嘩はいくらやっても滅びない。ああ、返そうとするのに向こうは貰わない。何故貰わないのか。頬っぺたをぶん殴ってしまった場合には向こうでどうだろう。ああ殴られた。あの野郎何故殴った。そう言うの? 打たれて感謝する心がある。打たれれば打たれる程、それは実に有難い。逆に打っておるのが不幸者とか悪いものだ。 だから我々は愛されたいんだね。(ハイ)だから神は愛したいんだよ。愛されたい者が愛されるには、したいその神様の相対要件をなせと言うんだね。え、向こうの男に惚れたいというそういう女が居ればその相対要件にかなえうるようなその立場に立て。立てば貰われたいと思わなくとも向こうでちゃあんと波打ってくるというんだね。 自分の存在観念を捨てよ だから問題は自分が問題である。あんた達は日本の中心者としてたくさんの人達があんた達を通り抜けてきた。そう思わないか。統一教会に頭を下げて、真心尽くして、頭を下げて謙遜な者が入ってきたにも拘らずその謙遜な者を完全に受けることができなかった。それは何故か。それは君達が責任を果たさなかったことによってそうなる。その動機は何か。 やって来た人は皆な殺してしまった。自分はそれ以上やらなければならない。そう捜して、探ねて来たより以上のものを中心者はやらなければならない。それやるに、それ以上真剣にならなかった結果に立ったんだから結局大きな人を失ってしまった。それ見て死んじまえ、その人がそこに訪ねてくる以上に真剣になれ。そう、真剣でないと向こうは反発する。そういうふうにしてもし落ちて行った場合には霊界に行ってあんた達は讒訴される。 先生はそういう国家を代表してある期間は国家を代表した期間だ。いかなるその国民たる代表者が来ても真を尽くしてそれはつき合ってやらなければならない期間だ。その期間は、夜通しでつき合った期間がありますよ。 ああ、だからそこには自分の父母より以上の真をもってつきあってやれ、あるいは夫婦、子女、環境の全てのもののより以上の真心を尽くしてやれ。それに文句あった者は、自分は責任を負いません、って言うんだね。 ああ、眠いから寝たい。お医者さんなんかは病気の死にかかった者は十二時でも、二時でも四時でもいつでもベルを鳴らした場合には動かないその医者という者は本当の医者ではありません。自分の絶対的公的立場にあった場合には自分の存在観念はないというんだね。捧げ者の立場だよ。 だからあんた達、過去をずーっとかえりみ乍ら地区長というものは、重大なその責任者としての位置に立って、いわゆるやって来た過去の心情、今迄、自分なりにやって来た自分という者は、こういうふうにして第三者の立場に来て分析、批判し乍ら悪が勝った所は切ってしまう。 心情圏の体恤ってことは、たいがいわかりましたね。責任者の位置というものは全てにやる立場だということをわかりましたね。やらなけりゃあならない。だから門を叩いて尋ねて来る者がおった場合にはあんた達、胸がドキドキするよ。恐ろしいよ。それは天からよこした代表者である。そうかも知れないよ。 今、自分の心境は、私的生活をやってるんじゃあないか。子供をかわいがったり、あるいは環境に住むような、家庭的生活圏である。それ以上公的な立場に於て、それは尋ねて来た場合には、如何なる立場において迎えてやるかということ。重大な問題だよ。 もしも神様が千の価値のものを天的非常時の問題を解決する為によこして、これを自分と関係もたす為によこしたという場合には自分なりに今迄やってきた習慣的のような、無責任な立場に於て、あ、おりませんと断って帰した場合どうするか。そういう基準に引っかからないようにちゃあんと注意して。 先生はもう韓国に於て果たしておるよ。ちゃあんとつけている。近よらないように、今はいくら切っても先生引っかからないよ。もう宣伝しておるから。来た場合には、先生に会って、帰って行って、あとで悪口言うような、そういうことをやってきたんだから統一教会の文先生はいいけれども、あの劉協会長は悪いと噂をした。 向こうが余程の基準、基準を踏んでくれた場合には引っかかるし。持ち上げて援助してあげた場合にはいつもそれをいい方に神の方にプラスさせる、そういう立場にいつも立つベきなのがこれが指導者の位置であるというんだね。わかりました? (ハイ) こういう情的基準がなくてはならない。親は何をやるか、全てのものをやる。全てのものをやって最後には自分の生命までやるんだね。 統一教会は総合病院 あんた達は統一教会の本質の主義、主張は何かというと、親の心を持って僕の体を、体でもって何か。汗は何、涙は何、血は何、献げると誓っただろう。そうだろう。あんた達はそう思った場合には、その統一教会というものはどういう所か。これは総合病院である。そうだろう。サタン世界に向けて統一教会は死にかかった世界を蘇らしてあげる総合病院であるというんだね。そうじゃあない。 (そうです)だからここに尋ねて来る者は何か苦しみがあるから来るの? 嬉しいから来るの? 宗教の窓を、これは門を叩いて入る者は苦しいことがあるから来るの? 苦しいことがあるから来るのが原則だ。さあ責任者は指導者は苦しいものをここで奪い取るのが助けになる? それは悲しい、その顔して来るものを奪いとるのが責任者、助けて上げる。だから入る者は全部そこで希望をもつ。 病気になって来たのは、きっと間違いないんだよ。それが肉体の病気でなくて内的病気となってきているよ。だから病気を治してやって報われる道が宗教の道だよ。 あなた達は、病気はどうでもいい。おいおい、向こうへ行って来れ。そりゃあ泥棒根性だよ。そりゃあ泥棒だよ。それは悪者じゃないか。そういう立場に立った場合には、その責任者の行く所には一人も落ち着かないんだよ。行く所には苦労が迎えてくれるよ。神様あった場合にはこれはけっ飛ばしたい。 さあ、ともにうち明けて話しましょうという場合にはね。どうだ。あんた達、こういう具合にやるんだよ。病気にかかって入って来た者達を正面からけ飛ばした? 抱き合って迎え入れた? どうだ。 二つのうち一つだね。どうだ。本当に迎えました? それとも、入るとたんにけ飛ばした。 それはいつも問題だ。そういうふうになった場合には神も、神様は消えて行くんだよ。神様が消えて行くとその環境全てのものは消えてゆく。その全てのものは消えて行ったんだから、その前に現われて来るものはサタンばっかり集まって来る。そうならざるを得ないんだよ。それは恐ろしい立場だ。 だから先生がやるのは、これは統一教会の最初が真剣だっていうんだね。生命がけでやる。寝ることも、しゃべることも、だから、先生はもう朝飯とは関係ない。天国に行く道に、御飯の一杯がどんぶりの一杯がなに問題や。御飯よりも、もっと真剣な道だから、寝るのはなに問題や。疲れたのがなに先生今日、あんた達に何の話しする責任もってないや。朝向こうから三時半に起きたよ。清平からこっち迄来るのに、顔を洗って、そりゃあ、もうお祈りもして、こうやると言うと向こうで五時十分前に立ったんだよ。それでやって来たんだけれどね。何のためにのこのこ来るや? あんた達、望んでいない所に。そうじゃないの。約束もしない所を、なんで又現れて来るんや。朝御飯あとにして、朝も間違いなく御飯を盗んでしまうだろう。しかし、御飯を食べさせなかったって反対する者は、反対する。謙遜に誤ります。(笑い)まあ、そうすると、御飯を食べなくっても御飯一杯よりいいことが起こってるの、悪いことが起こっているの?(いいこと)ああ、本当か。(ハイ)ああ、そりゃあ嬉しいことだ。(笑い) これは重大な問題だよ。だから、入る全てのものは病者だよ。こりゃあ考えなきゃあならないよ。だから日本の統一教会を必要とするんだから日本も病気にかかっておる。韓国も世界も必要とせざるを得ない。どうか尋ねてくれるに違いない。そうすると、どういうふうにするか。それを奪い取るか。どういうふうにするか。そこにプラスさせるか。プラスにつきるんだよ。マイナスさせた場合には、これは永遠に分かれちゃう。永遠に再び帰ってこないよ。 これはあんた達病気をみてもそうだろう。ああ、尋ねた場合にはもし亡くなった場合には、これは誰でも、もう紹介しないんだね。あんた達は統一教会の責任者として重大な責任あるよ。 今迄、統一教会の噂を起こしたのは先生じゃあありません。皆な食口達だ。その責任は、だから天から見た場合には先生が責任になる。何も恥ずかしいことない。だから天はそういうため立つように従って我を敬遠するのではなくして、我を同情するんだから、統一教会を迫害され乍ら発展する。原理的にちゃんとそうなっている。だから環境を恐れない。 神の同情する、同情される所を誰が侵害するか。侵害した者はやられる。それをこの世でちゃんと歴史的にもう実験をしておるからこうなる。 “病気”の診断方法 病者が初めてきた。お医者さんがおるというのに又、悪くなった場合にはこれを診断しなければならない。そうだろ。これ簡単じゃあない。簡単な方式を教えて上げましょうか。教えて貰いたい?(ハイ)本当か。それ、忘れないように。実に簡単だよ。そりゃあ病気の動機は簡単である。 だから病気の動機がわかった場合には診断の方法も難しい?簡単だ。教えてあげますからね。 人間が病気になるのは動機が何かというと物的条件、人的条件これ二つしかないんだよ。わかった? 簡単だろう。考えてみれば、そりゃあ病気にかかった動機は何だ。物的条件、人的条件それ以外ないというんだね。我々は一段高い実力あるから、それは治療することができるんであってね。そうだろう。神もそうだろう。神も、それから人的条件にはね、たとえて見た場合には子供がね。それから妻がね、それから主婦。これの因縁の関係に勝利すればそうだろう。そうじゃない? 考えてみな。延長圏に国も入るし、世界も入るだろう。氏族が入るし、民族、家庭全部が入る。 そうする動機は簡単だろう。病気になったのが方法で、道を開けてやれば治るものが原理だろう。ちゃんと分析して、ずーっと統計を出しておくんだね。すぐ話してみればこれ物的条件かすぐわかっちゃうよ。あー、それは何か。それに対して再び立ち上がるようなもの希望圏がね。絶対変化しない統一教会圏というのが世界にあったか。昔はそういうことで失敗したんだからそれ以上の素晴らしい男、女になる。失敗したらそれ以上の基準、それ以上の成功する。何故か。そこにそれなりの基準に於て話したという真心でそのくらいでまあ失敗したというその大きい基台で大きい援助圏でもってそれらの力を合わせた場合それ以上の成功圏が自然的に生まれてくる。 そうやるというとあー、新しい希望、新しいそれは病気になったより以上の、新しい希望それ以来信用もつようになったらその病気は治ってしまうんだよ。 それから旦那さんの為にやった場合にはね。心情的に於ていかなる男よりも、もしも奥さんだったら、奥さんに真心を尽くして、心情たる男としてより女房が思いもつかないような男の心情的な立場に於て指導するんだね。 アハー、あの旦那さんはこういう旦那さんだったね。だから、まるっきり反対の向こうは神経質だったら、ここではワンマンなね。ノロノロした男になっちゃうんだ。話しかけてもツーンとしておい、勝手に言うな。男だってことを自分は誇る。向こうを通って行くようにして反対の方策をとるんだね。そうなるというとずーっと何時間付き合った場合には、我帰る時には頼りとして帰るんだよ。それは理論的にそうなるんだよ。 そういうふうにして自分に近いお父さんもいないし、兄さんもいないし、そりゃあ子供にも一番近いお父さんの立場に身代わりとなる。あるいは兄さんの身代わりとなってくれる人だと信ずるようになればどこに来るなといっても来るんだよ。それから父母の為に心配してこうなった場合にはその父母は悪い。問題はそこなんだよ。それによって皆な病気にかかってくる。それがずーっとこの何カ月、尋ねてきた場合にはそれは話すようになっているんだ。それに相対者になってやらなければならない。責任者はそれを果たさなければ何の役にも立たない。 そうだろう。指導者はそれを治してそれより以上の価値の存在として希望をもったものとして救ってやる為に責任者が必要であって、指導者が必要であってそれをそういう立場できたものをもっと病気をぶっかけてやるのが指導者? そうはいかないんだね。わかりました? まあ、こういうような立場でずーっとやってくるんだね。そうするとあんた達はそういうような人を一人二人三人以上、これは何時間投入しなけりゃあならないか。計算しなきゃあならないよ。あーあの人は一週間だ。ああ一カ月だ。あるいは半年だ。計算時間の投入が必要だよ。そうだろう。 食事せず和動せよ 人を育てるには時間が必要だろう。時間どうして作り出すか。我々公的生活をしておるんだから仕方なしに御飯を食べる時間、自分としては公的時間というのは御飯だけ。私的の時間が先立つ以外ないのは、その時間というのは何かというと御飯を食べる時間、御飯を食べるのを忘れてやれ。そして寝る時間、寝る時間も忘れてやれ。そうして御飯の時間を一食抜き乍ら話をきけば向こうも感謝せざるを得ない。 自分は御飯を抜いて自分のお金を払ったとして、あんな男女どこにおるか。それ反対じゃあね。まるっきり正反対の結果が現われてくるんだよ。御飯の時間を忘れて自分の為に真剣になって自分の方に話しかけてやったというと、一回二回三回四回というふうになると必ずその時は勝手に来るなとしても向こうからついてくるんだよ。そうか、そうじゃあないかやってみなよ。いいもの買って来るなと言ってもちゃんと買ってきてハアー、召し上がって下さいと言うんだよ。そう言うんだよ。 そういうふうにして、ずーっと計画すれば計画通りに当たるんだよ。心理作戦だよ。その通りにする。そうやれば実に面白いや。おもしろい。これは、あしたは間違いなくこれ以上のことがあったなら来ないんだけど、これ以下のことがあったら必ずくる。来なければならないんだよ。そりゃあ来るように言う必要ない。だからそういうふうに、そうなったとすればマイナスになるか、そうでないか。自分のものやるか。自分の生命をやるか。そうだろう。自分の全てを真心尽くしてやったんだから向こうはそれを真を真心尽してやらなければ自分は達せられない。だから心は、ハー、やって上げるような、買って行くように、して上げるように、そういうように動くんだよ。 だから原理講師する。ああ素晴らしい講師になった。最初感動したという、ハアー、わしは頭いいから、素質あるからわしの人格の感動でこうなった。そう思う。それ実におろかなことである。感化された者は自分に賛成する。そうじゃあないよ。自分を迎える為に、ハアー、恵まれてありがとうございました。その目的とする所は自分じゃあないんだよ。自分をのりこえて、天迄続こうという、そういう観念でもって頭を下げて感謝する所だという。 それも知らないで、おい、お前ら反対の動機だったらパッ、首を切ってしまう。 全てを報告せよ だから、食口というものは食口が自分を心配するんだね。恐ろしいものである。自分の一番近いものが怨讐になるといっただろう。神様の前にも一番手近い天使長がそれから子女が怨讐になっておるんじゃあないか。復帰路程にあって我々は絶対圏じゃあないよ。絶対圏に於て迄も堕落というものがあった。皆なこれ堕落圏にある。如何に注意しなければならないか。ひょっとすれば天使長になるよ。わかりました? だから、全てを報告せよというんだね。あんた達地区長だったら本部に報告せよ。毎月、それは聞いていても、聞かなくても報告してやっていった場合にはそれは自分は引っかからないんだね。こういう結果になりましたから、公的はこうだし、私的でこれは現在の環境にはこれ以下のことはありえないと思う、と。 報告はするんだね。相談するんだね。そうして色々重大問題にかかった場合には自分だけでやるな。それを指示を受けてそれやった場合にはそれは失敗したとしてもその失敗は自分の責任とはそれは限らないんだよ。それは上の方で命令したんだから。自分は切られても自分は切られないよ。その人はもしも、その環境にまあ支障をきたすかも知れないんだけれど新しく行かれる道がサーッと開かれるよ。わかりました? 「地区長」の肩書と中身 先生は統一教会に於て大将だね。そうだろう。先生は、自分は統一教会に於て大将だとは思わないよ。親が自分の子供に対して大将だという思いするの。大将どころじゃあない。使いもの。使いもの。何かいいもの、何かいいように、それを寝ない乍らも、それを考える。自分の苦労をのりこえて考える。やりたがる。素晴らしいとこあるよ。 だから先生、気持ちの悪いことあるや。色々のことやっているや。統一教会は勝共連合とか、新聞社だとか、会社だとかそういう、どういう問題が問題かというと会社といえば部長があって課長とか、係長とか、まあ位があるんだね。そうなるというと課長させたものに係長させてやるだろう。気持ち悪い悪い顔するんだね。そうだろう。どうだ。そうじゃないの。皆なそうだ。 それじゃあ、天的世界を復帰できないよ。 プールにベルトがそれ回ると思え。その下だったら、下じゃあないんだよ。こういけば、回れば上がるんだね。ああ、又上になった場合にはそれとんでもないんだね。上の立場になった場合には、苦労している食口の立場に立ちたいなあ。そうすれば円満にまわる。早くまわる。そりゃあ原則だよ。そう思え。だから上のものが先進む。下のものは先に立てる。だから、部長は課長のために奉仕すりゃあいい。社長は部長のために、そりゃあ希望もってやれというんだね。だから一番下まで下がるといってそれは自分は滅びるんじゃあないというんだね。下がるのにうまくさがれ。世の中は上がるものはうまく上がろうとするが、下がるのはそれはない。だから一方の世界だ。 だから、我々天国を作るにはね。上がるのも願うんだけど下がるのも願う。 おい、苦労せよ。もっと願うんだから天国は先だ。もっと願わなかった場合には天国はあとになる。 先生は何だ。何の看板があるや。統一教会の先生は何の理事長や? うん、教会長や? 先生だ。先生。先生はいくらでもあるや。幼稚園の先生、小学校の先生、中学校の先生、高等学校の先生、大学校の先生、先生いっぱいある。何の先生や? 思ってみた場合には気持ち悪い先生だね。先生、雑貨屋まあ、そういう気持ち悪いことだ。その先生がこういうふうにやっているね。 何? 看板がいい? そういう思いでやられるかっていうんだ。地区長だったら地区長の名前をかかえて恥ずかしいことだ。 無名でもって、先生、今そうなっておる。そうかと言って先生の権利を失っておるかといったらそうじゃあない。もっていないようにしても皆な先生の所に来て相談してくる。その山の中の洞窟に入ってしまっても待つようになっている。 結局、問題は、問題はその人でなければならないその人になれというんだね。上にも下にも、左右にも前後にもその人が絶対必要だという人になった場合には、環境がどうでも自分一人だけおった場合には、その完全なるプラスがあった場合には完全なるマイナスは生まれてくる。それが原則だよ。嘘だったら統一教会の原理はない。 自分一人で山なんか行った場合には、先生山奥へ行ってもちっとも寂しくないよ。食口達一人でもいなくても寂しくないよ。そういう山奥へ行って洞窟の中で山野をながめ乍ら、山には最高の楽しみがあるんだよ。それ、猪が生きておるんだよ。虎が生きておるんだよ。そうだろう。そういうような動物が住んでおる。この高等動物は、それ以上頭もっているもの、なぜ死ぬや。なぜ食うものないか。そういえばそうだろう。頭使えばいくらでもある。誰もがいくらでもある。住む所作ればいいっていうんだね。 つばめが自分の家、巣を造るようにね。小さい小鳥が自分の住む巣を造るように、これ万物の霊長たる人間が自分の寝る所造らない? それ話にならないだろう。そういうふうに考えるんだよ。だから、ちっとも寂しくない。まあ、援助しなくっていいって言うんだよ。そういう自信をもっておるんだよ。それなりに又、勉強しておるよ。よく知っておるんだよ。そういうものを研究してみる。だから魚もまあ、韓国内の魚は先生がとってみなかった魚はないんだね。海の鯨は別だけど。こりゃあ川とか池のある湖、淡水池のある魚というのはとってみない魚はない。皆なよく知っておるよ。性質もよく知っておるよ。(笑い) だから先生、昔はね、山へ行った場合には、こっちの方のながめて向こうの側へ行って見なかった場合にはこれは癪にさわる。どんな事があってもそれは向こうの山に上がってみて、アハー、こういうふうになっているなあとして鑑賞しないというと気持ち悪い。前のもの見ただけ気持ち悪い。そういう性質をもっている。だから、これ原理の世界を発見したんだね。それをはっきりしないというと鑑賞して気持ち悪い。一方隠したそれは隠し、隠されて、そうして見るような、騙かされて見るような気持ちするんだから。 権威意識を捨て、素直になれ! それ、こういうふうに思った場合には、人事異動はどうやっても自分には引っかかりません。統一教会の文先生、今、統一教会の末端の食口の一人になっても絶対後悔をしなければそれかと言って自分の権威は落ちていってしまう、そういうようなことはない。 あんた達はどうだ。あんた達は権威意識が強いの? どうだ強いの、強くないの? 小ちゃい地区長としてハアー、権威なけりゃあならないからこういうふうにして、そりゃあもう威張り上がったそういう態度をもって、権威は立つと思うの? それより率直になれ、率直になれ。わからなかったらそれでいい。今から勉強するんだから率直になれ。率直は万事に通ずるんだよ。 だから自分の権威と言って、頭を下げたとして、権威が下がったんじゃあないよ。何か人事異動したって高くなるんじゃあないよ。わかりました? 先生の一番嫌がることはそうだ。それは原則上、その堕落した天使長はいつも残っておる。それは我々戦う。わかりました?(ハイ) だから、自分をもち出してブツブツ言うな。弁解はいりません。そういう弁解することは神に申し訳ありません。 我々はいい先祖になろう この時代に犠牲になれば、あとの時代に幸福になるよ。プラスになるよ。この時代にプラスになった場合にはあとの時代にプラスになる? マイナスになる。だから、我々はいい先祖になろうって言うんだね。マイナスになっても、あとの時代にプラスを残してゆくなれば我々後孫はあー、いい先祖と、これが先祖讒訴圏を蕩減する道である。あんた達は先祖を讒訴してきているんだろう。アダムとかノアとか歴史的とか讒訴をしてきている。先祖讒訴を我々一代に於てこれを果たし、払いとってしまうそういうような道を残さなければ、我々後孫はあー、素晴らしい先祖と讃えなければ、それは復帰の使命を全体的に責任もつ統一教会の祝福家庭として、それが果たさなければならない、まあ、こう思った場合には苦労が我々には世の中の何ものにも何にたとえることもできない。それは大きな、天宙的な恵みだ。その実体ではありませんよ。宝物を入れる箱みたいなものだね。そういうものだ。わかりました?(ハイ) 心情的基準と環境、それから責任者はやらなければならない。それから相手を考えなけりゃあならない。それが自分ばかりではない。中間的な立場であるというんだね。これはいつもそういう基準にあんた達が引っかからなかった場合にはどこに行っても反対される者はありませんよ。反対された者はそれは自分が後悔し乍ら、自分の前にひざまずくようになるっていうんだね。それは、そういう人達は、これは信じてやれば神様は援助するっていうんだね。そういうような圏をずーっと見分け乍らその相対圏に条件に引っかからないようなその神の前で指導者として立ったとすればこういう人の行かれる道は絶対的に発展しますよ。わかりました?(ハイ) 人のために涙を流せ! ここにかねてもう一つ言いたいことは、我々は、神様の心情をゆくんだよ。神様の心情。あんた達もう一つ言いたい事は何かというと、あんた達本当に人の為に涙を流して、一人の生命を自分の生命を捧げて真心尽くして、自分の立つ所を忘れて、そうしてその人の為に尽くした時があるか? どうだ。 あるいは、あんた達の生涯に忘れることのない男、あるいは老年と壮年とあるいは青年とあるいは青少年と、いつ頃の階級にそういう人をもっておるや。あるか。ないか。どうだ。それ問題だよ。 もしもそれが出来なかった場合には一般の人を愛することが出来なかった場合には、摂理上の我々の先祖に対して、自分は如何ばかりその同情し合い、その立場に立って涙を流しその立場で惜しんだ時があるや。もしも、アダムの家庭で考えて見た場合には、アダムの立場に立って堕落したその時の苦しさ、今、天宙が神の理想圏から落ちてとんでもない結果の世界になる。自分は顔を上げることもできなければこの身を隠すこともできない。そういう迫られた立場に立ったその境地に於て神様にそのアダムの為に祈ってあげるような、アダムに於て一番近い兄さん、あるいは弟の立場に立とうとした時があるや。そういうこと考えたことあるの? エバに対して、エバに対してそれを天的天宙的法則を乱してしまったような自分にかえって、自分にそれをわかった場合のその苦しみに立って神にそれは立つことのできない自分になってそれを身代わりとして、神様どうぞ自分を打って、自分を犠牲としても、あのエバを許して貰い度いというような涙する、そういうような歴史的先祖の身代わりとして、同情し合って神に祈ったというような立場に立ったことがあるや。あるの?ないの? もしあんた達、心情的歴史を受けつぐとするということが神の願いであり、先祖達の願いだったらそういうような心持ちをもった人おった場合には神様は如何ばかり喜んだか。もしもカインがアベルを殺した場合にその横に立ってカインの為に祈って上げるそういう人がおった場合に神はどういうような作戦をなしただろう。とんでもない結果の世界が生まれてくるよ。 ノアの立場に於てその働く百二十年の間に、誰にも近い立場に於て相談なく、話の動機がなかったそういう、あるいはお父さんの立場であり、あるいはお兄さんの立場で、あるいは弟の立場であり、あるいはお母さんの立場であり、奥さんであり、妹の立場で励まし合う、そういうような自分となってあの苦労を忍びきり乍らかまえていく、それを見ながら、涙して同情し合うそういう心情的体恤をしたことがあるや。いつ涙こみ上げ乍ら、摂理を支える為に努力したことあるや。その価値を、その実体を、あいつぐそれ以上の真剣な立場に涙ぐんで悲しんだことあるや。 もしもそういう時、それ以上の基準あった場合にはノアのおじいさんは全てを捧げても感謝するんだね。こういうふうに引きつけなければなりませんよ。 アブラハム、モーセに、イエス様に、洗礼ヨハネに於ても罰するのが手じゃあない、許すのだよ。内心は、神様の心情あふれている心情圏を、もち出して神に新しく相談する道を願い出るような、涙乍らにそういい出るような、そういう統一教会の食口は何人いるや。考えたことある。 もしもそういうふうに考えた者があった場合に、これは歴史の心情圏全てを相続するのにちっとも恥ずかしくありませんよ。 現在的に於て、過去に於てそうであり、現在、世の中に於て神様が迎えてあるこの現世より万民を神様の身代わりに立って願う心情の基準を現実に於て求めて涙する者があったら神様の心情直接、現実のあるいは生活圏に相続し得る柱である。 過去の心情圏、現実の神の心情圏、これを二つまとめた場合には、歴史的わしの心情圏によって包囲される。包囲、あるいは抱擁される。神の心情、過去の神の心情、現在の神の心情あるいは抱擁、包囲される。そういう所に神の歴史と共にその自分の後継者として残したいのが願う迄もありませんか。そうでしょう。 そういう立場に帰って、我々が未来的の心情と後孫のために神様心配する基準を今迄は、我々は抱き合って、現在にうち切らしてあとの世界に残されている道を行くんだから、未来の心情圏を抱いて現実に成せるようなそういう立場も我はあるというだね。それはそうなした心情というものは、歴史がこの心情によって発展するんだから自分と関係をもって発展するようになっておる。その基準が真の父母の心情圏じゃあないかとね。そうじゃない? そういうふうになっておるんですよ。 そういう心情圏を受け継いだその責任者として韓国行っても台湾に行っても日本に行っても世界にいずこの国に行ってもそういう心情をもってでたならば神様はそこにいまさざるをえない。神様はそれを願う。過去も、過去の先祖達もそれを願うだろう。現在の人間もそれを求めている。未来の後孫はそういう先祖になるのを求めて生まれてくる。もしもそれがそういう三点におかれて完成された基準が立った場合には歴史の中心点である。現世の中心点であり、未来の出発点であるというんだね。 自分一代において勝利の旗をあげたとそういう基準あった場合にそれは天下は新しい方向において治められるよ。それは理論的にそうなるんだよ。 指導者の責任 神様は天下全てをそれを再創造するという主人だったらその主人の望む所にしか永遠を残す足場はない。そういう立場を我々は生命がけでそれを死守、あるいはそれを持続させ乍ら横的、あるいは国家、世界に伝統をそれを授ける為の立場がそれが指導者として、統一教会の指導者としての責任ではないか。 だから、あんた達は親も苦しんで、お父さんも苦しんで、女は母の苦しみ。 先生だけそういうふうになっておるんであって我々は違う? それに於ては、とんでもないことになる。皆なぶつかって、皆なぶつかった場合にこれに比例したね。天的位置はこれに比例した枝が茂るんだね。枝が多い程いいの? 小さい程いいの? (多い程いい)自分を主張する者は幹だけの木になってしまう。幹というものがあった場合、これは自分のためにあるの。枝は何の為にあるの。枝は何の為。これは皆なあんた達わかるだろう。根は何の為にあるの。幹のためにある。又、全体のため。それから葉はたくさんあるのがいいの。少ないがいいの。一つの枝に一枚ある。自分ばかり好きな人が立っておる。 さあ、その枝に何、葉がたくさんつくのがいいの。葉ばかりついたらおばけになる。それから、枝がつくのは一番分かれた枝の、近い所につくのがいいの。遠い所につくのがいいの。近い所につけばつく程いい。それ何の話か。 あんた達はね、責任者として、ずーっと何かを言うと上の方があった場合に紹介したくない人がたくさんいるんだね。おお、自分、秘密に独立するの、上行きなさい。そういう場合にはそういうんだね。それは何かと言うと、それは枝が遠い所につく。幹と遠い所につくという話だよ。そうじゃないか。幹の所に近い所の枝なのに。あー、その中につくんだというのは、これいいじゃない。そこからも新しい枝が生まれてくるんだよ。葉は素晴らしい根から生まれてこなければならないんだよ。枝がいくら大きくても、幹から離れた場合には、一番近い所が一つになっていくんだよ。 そういう基盤が、先生それやったらたくさんでてくるよ。幹に近い方にたくさんでてくるんだよ。うん、そうだろう。 それは何かというと、自分の責任者としてひきいるその者は一つになって、一つの幹に、共につきたいという思いだね。自分の後継者を早く早く作りたいという思いね。そうしないと発展できないや。 なにか自分の食口達がそれで素晴らしいものがあった場合にはもう、とにかく切ってしまえ。まあ、地区長より原理講義がうまい。気持ち悪いや。これは親として子供がああ、あの家の子供は親より素晴らしいと言われて親は気持ち悪く思うの? 素晴らしい所が地区長の下におる食口達、そういう若者がりっぱだといって地区長に素晴らしいと言ったら気持ち悪く思うのか。それは親じゃあない。親じゃあないんだよ。それどうかと。それ天使長、天使長だ。サタンの血統だ。幹あれば幹より多く枝になりたがるものがあれば幹は大きくなるんだよ。そうだろう。 枝より大きい葉をもちたがるそういう枝は早く太くなるんだよ。そうじゃあないの。そういうふうになっておるんだよ。 木にたとえたら、あんた達責任となるや。だから、根になった場合には現れないんだね。現れるとまずいや。 みんな、おお、世の中で一番えらいものは誰や。えらいというのはね、これは木の葉の先につく花だね。花だ。そう見た場合には枝も気持ち悪いし、それから根から見た場合にとんでもない一番遠い所にあるやつが一番喜んでいるよ。そういう現象だよ。 いばる者は長くない あんた達の食口の人に偉そうに勝手なことやるものがあるんだね。それは入ったばかりで何カ月もならない。花というものが咲くのは何カ月もかからない。一番先に咲いた花みたいに香りをふっかけて、悪い香りも自分なりの香りもふっかけてそれをこの野郎と引き取ってしまった場合、花自体をそれを引き取ってしまう責任と同じ、咲いていた場合には、結果はわかっておるね。落ちないと言っても落ちるようになっているや。いばったものはすぐ終りだ。いばる者は長くないんだよ。すぐ終わりだ。 それは良いことだったらいくらでもいばれ。扇動し乍らやっていかなけりゃあ、そういうものもいるんだよ。あー、入っていばり出したんだけれどそれは素晴らしい。食口全体を動員してこれを育てていけというんだね。 まあ、一つの木にたとえて考えてみなよ。だからあんた達枝なの。花なの? 統一教会に於た場合には、幹は二つなの、一つなの? (一つです) だからあんた達何なの。枝です。枝でもその立場が違うんだよ。皆なね。枝だから周囲が皆な同じじゃあないの。一つの幹について皆なついておるよ。だから向かい合っておるよ。そのように誰が発展するや。責任者から、一層近い所に立ったものだよ。大きい木をもつんだよ。それから早こをもつものが大きくなるんだね。そうなるの。栄養素を誰よりも早く運んでしまうような力を持てばね。 それは何かというと根と関係を切った場合には何ですか。それは大きくならないというのは幹が決めるの。根が決めるの。どっちが決める。幹が決める? (根が決める) 根はこれは天を意味する。だから世の中万民は、これはいわゆる氏族あるだろう。その枝である。そこに幹なるものは何か。幹なるものはわからない。それは文化圏をね。 ヘレニズムの立場にしてみれば、そういう様な歴史の二大潮流があるんだね。だから二つの木が生えている。そうしたらそれには何か。人本主義か神本主義かこういう結果になる。神本主義だったら神様と一番近い立場にあってそして頻繁に授受作用する所が、そこよりまず神が捜し出すだろう。枝もそこより先に出る。枝も先にふえていく。葉もそういう所から先に出るんだよ。そうなれば花は、花は咲くだろう。それが実るのも先に実るじゃあないの。皆な先に実る。だから、そうなるというとこれ問題だ。 だから、世の中、今、人生航路に於てその根本は何じゃあー。世界皆なはもう知っておるんだよ。だから統一教会はこれを結びつけて、根はこうであり、幹はこうであり、葉はこうなけりゃあならないし、枝はこうなけりゃあならないし、花はこうなけりゃあならないし、実はこうなけりゃあならない。それをちゃんと系統的に教える所が統一教会だよ。 あんた達花になりたいの、葉になりたいの、枝になりたいの、幹になりたいの。幹になりたくないんだけれど幹の近くなりたいんだね。うん、根になりたいの。根に近くなりたいの。根になれないや。 自分の嬉しこというものは根に近くなる道。それから根と共に頻繁に往来する立場だから、統一教会に於ては地上の根はね、文先生だよ。各国の宣教師はその国の幹だよ。日本の幹は久保木だよ。久保木さんにあんた達くっついておれや。 地区長は木の枝 あんた達は枝だね。枝、枝が死にかかっているか、栄養不足か。それとも生か。生きたものは成長するし、生きないものは後退するんだね。生きた証拠は何か。だんだん増えていく。増えていって停止したものは今にマイナスだ。先の方はだんだん枯れていく。そりゃあ、そうなっているんだよ。なぜそう枯れるか、それは栄養不足だ。栄養不足だから根と幹の関係がうまくいってない。そうじゃあないの。そうなっておる。それがあんた達考えてみなよ。木を見る時そういうふうに考えてみなよ。だから、花はどういうふうに咲かせるや。自分より、枝より、葉より、葉の中に、葉の間に花は咲くもんであるというんだね。 花はどこから咲くかというと枝から咲くんだけど葉のその間に咲くんだ。葉がなければ花が咲くの。枝があっても葉がなければ花が咲かないよ。花が咲いたとすれば落ちてしまう。だから枝が伸びるには葉がたくさんなくちゃあ伸びないんだね。葉は何かというと食口だね。食口、食口がたくさんいるのが嫌なの。子供がたくさんいるのが嫌なの。(いいです)子供をたくさんもった親は楽な立場なの? 死ぬ暇もない。(笑い) 夜は夜、夜はそれは自分の夜じゃあないよ。子供の夜になっちゃう。昼は昼、自分の昼じゃあないよ。子供の昼になっちゃう。御飯食べるのは自分の為じゃあないよ。子供の為に食べる。こうなる。だからそういう親はたくさんの相対者をもつというんだね。そうだろう。 それは不幸な親でなくてたくさんの愛の相対者をもったんだからたくさんの刺激の満足圏を誰にも負けない立場で感じちゃうんですよ。そういう感じたその親というのは涙が多い親、情的な親になっちゃうね。情的人間になっちゃう。情的人間になった場合には、四方、八方に好かれる男になってお母さんとなる。だから、神に愛する結果になるというんだね。 だから子供が少ないよりは、子供が多い、子供をたくさん育てたその親は神の国の心情圏に早く帰ることができる。まあ、そういう時に於て、親が多いのが幸福だという結論になってくるんだね。 だから心情問題、心情問題だね。だから歴史的な心情時代に於てノアより以上の涙を流してみたいというんだね。アダムより以上の涙を神の為に流してみたい。 ノアが審判したあとに於て、八人の食口を率いて箱舟に入る時にそれを喜び得るような涙を流し乍ら、今迄神が守って下さったけど以後に於て神様もっと守ってくれるように、それ以上に忍び切り、それ以上に我は注意して、み旨を果たしていきますというようにして子供達に泣き乍ら、それは教訓となした場合には、今迄あんた達は服従しなかったんだけれど、いまだになって、どんなことがあってもたった一遍だけでも守って貰い度いのが、自分の願いだったというふうに、それは最高の願いで、その八人の食口にそういう教えをなした場合には、さあ、ハムという存在が、お父さん、裸になっている所を見たといって、それがそういうふうな行動なしたんだろうか。何か。それはなに。背後に何あるかも知れないとして、アダム、ノア時代が箱舟の中に八人の家族を連れて、そういうふうな教えをなした場合には、そういうとんでもないことにならないようにやるんだったに。なぜ、そうなったんだろう。それ、みんな自分の将来ゆくべき教えなんですよ。 わしが神の前に果たしえた、そういう立場で喜ぶよりは、ひざまずいて、涙乍らに感謝しつつ、以後にもっと昔は蕩減の世界に於いて、親孝行したんだけれど、それ以後の世界に於いて誰も負けない親孝行しえる、その意志で第一歩を踏み出せば今の行くべき道は過去の何十倍真剣な栄光の道である。責任を持たなければならなこである。 昔は、流してしまう道であったんだけれど、今は、これ永遠に残す道だから、これは真剣にしてやるというように思って、それは箱舟の中にあって食口達を教育した場合に、ノアの家庭はどうなったろう。 こういうふうにしてみれば、ハムという存在は、そうなった場合には、この世界は歴史は一ぺんに変わってしまっただろう。そういうことがね。まあ、歴史の代表者の背後、前後関係に於いて、いつもそれはくっついてまわる。 まあ、そういう立場から見た場合に、歴史的心情基準において、それより以上の立場において神を慰めるような自分になっていれば、この時代の心情圏において、誰にも負けない先頭に立って神に仕える未来の後孫の前に誰にもその讃えられるような先祖になりたい。そうするには、後孫の願う世界を後孫の為に、世界を建設する為に涙せる未来の世界を、苦しみを今にそれを実現させて、苦しみを自分でつくるという働きをしなければならない。 だから、こういう心情でもって行かれる人は三時代心情圏を勝利的基準にまとめて生活するものだから、過去を愛した神であった場合には、こういう人は現在に過去を身代わりとして、もっと愛しなければならない。それと心情的復活だよ。歴史的復活になるよ。 現在において、そういう心情でもって、神に仕えるようになればこの一人は、現在の世界的な心情的主体者になるよ。未来において、未来の後孫自体においても、誰も追いつけない心情の出発基準になっておるから、全人類はそれにつかえなければならない。神はだから、こういう者は三代の心情を重ねて、勝利の基台を果たしたという立場である。そこ迄行かなければなりませんよ。そういうふうにして、過去に対して、誰にも負けない、涙を流し、苦労の道を喜びの結果として来たすために、努力しなければならない。現世において、未来圏において、何はずかしくない、伝統的精神を残して行きたいという、こういうような立場で行った場合には、神様がもしもおるとすれば、歴史は、さておいてこの人を求めてきた。現世もさしおいても、この人を中心として未来を願ってもこの人から未来は生まれてくるようになっておるんだから、これ以上愛されるのは地上じゃないね。そこ迄行くんですよ。 こういう感情的、心情的立場をとる時には、国家とか、そういう氏族とか、それを乗り越え、それはまさしく自分のそういう可能なる実体になりえるや。それを実験してみるよ。 それは男として、ニグロの女、みっともないニグロの女の肌が自分にあいそうな顔付きでもって、こう近寄った場合には気持ちいいか。悪いか。うん、ずーっとテストやってみないといけない。どうだ。 そういうような、心情圏に立って、その日本を愛してみなね。まず日本を愛されないというと、世界を愛されないんだよ。まあ、そういうふうにやって、統一教会の伝統的歴史観に立って、恥ずかしくないような、先生の前に立つに恥ずかしくないような、神様の前に立つに恥ずかしくないような、そういう皆さんになりたいのを願って、先生は話をしたよ。わかりました? (ハイ) さあ、祈りましょう。 祈 り 天の御父様、責任者という立場がいかに重要な立場であるかということがはっきりわかりました。神様の心情圏に於いて、自分の主体としている立場に、それから、やらなければならない自分であり、やるには責任をわきまえてやらなけりゃならない立場であります。そういうふうにして、神が喜ぶその指導者に立った場合には、責任ばかりじゃなくして、神と直接結びつける最後の喜びの実体圏を求めなければならないことをわかりました。 こういう環境的心情圏ばかりではなくして、背後に神を求めている過去、現在、未来を通しての神の願いが、いつもいつもなされ、そうして神が同情しえる勝利の実体者にして、不足にならないそういうものに祝福して下さいませ。今回、日本から来られたその日本の地区長達をこの場に集めましたから、内心に於いて湧き上がる心情を体恤しうるように神導いて下さいませ。環境にその心情圏を植えつけることができる様に、そういう神様の求めきた立派なその種となるよう、働きかけて下さいますことをお願い申し上げます。 この指導者の責任という問題も、考えてみた場合に、愛の根拠地に立って全ての関係を結んで、皆なの為に立たなければならないことを思います時に、自分なりの過去が余りにも未熟でありました。余りにも不足でありました。わからなくってなした全てを神よ、許し給え。いまだに新しく決意するこの身となして、新しい信頼、新しい希望、新しいその望みをもちまして、あなたの願う理想世界へ我等と共に願いつつ、望みつつ、侍りたてまつることをお願い申し上げます。 誓った一瞬を神に捧げた以上は、これを引き下げるそういうような者に絶対なりません。決意したその者でありますから、その勝利圏迄、我々は犠牲を払ってもたどりゆかなければならない実体であるということを、今又、誓い決意を固めておりますから、今後ともに神は御期待なさいまして、勝利した子供として、サタン世界から見て恥ずかしくない、神の前に立たせられて、ほめられて、そればかりでなくして、無限の愛をもって神に愛させるに不足ない、そういう実体の者になるため、共に働き同情して下さることをお願い申し上げます。いまだに決意するこの現実に思い見て下さることを思いつつ、全ての祈りを真の父母の御名を通してお祈り申し上げます。(アーメン)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.24
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「統一の要因と方案」1971年9月13日水沢里の中央修練所 訪韓した日本のメンバーに対して語られた講話。 一つになる標準基準 一つになるには、標準がなければならない。二つを一つに合わせるならば、一つになる。そのためには、標準の基準が絶対必要である。 世界を一つにするには、「世界を代表した国」という標準がなければならない。国が一つになるには、民族的、国家的な標準の基準に一致された「主権」が成立しなければならない。 また、民族が標準の基準に立つには、その前に氏族の標準が必要である。氏族であれば、標準になる一つの家庭が問題になる。これを突き詰めると結局は、「家庭を代表した個人」が問題になってくる。 こう見てみると、我々人間が世界を一つにすることを願う、その立場自体を考えてみた場合に、その標準の基準を忘れて、今向かい合っているのが、世界における生活圏であり、情勢圏である。そして、今より先に進めば、何かの標準が生まれてくるだろうと思ってきたのが、今までの歴史である。言い換えれば、はっきりした標準基準を求めた上において出発してはいないし、その基準に立ってもいない。そしてその標準は、未来の世界において求めようというのが現状である。それが人類の実情であることを思うときに、それ自体が矛盾している。 ここにおいて、神様がいらっしゃったならば、神様はどのような方法で世界を一つにされるかを考えてみるときに、結局は、神様自体も、ある基準を決定しない以上は、「それが正しい」とかと決定ができないのは、当然のことである。絶対なる神としても、その基準を無視することはできない。 善を主体にして、それに一致すれば、それは善になり、神様の絶対的目的圏内において必要な要素として認めることができるが、そうでなければ、神様も必要なものと認めることができない。歴史過程において、聖人、賢人、義人がたくさん現れ、あるいは霊界と地上界をつなぐ預言者がいたが、彼らはすべて善を目標として進んでいき、歴史に貢献してきた。そうであれば、そういう人たちの願いも、世界のために絶対的標準の基準を得ること、またそのための努力であったに違いない。 我々個人から見ても、何よりも必要なのは、その「標準的義人」である。その標準は、時代に応じて、あるいは文化圏に応じて、また発展にしたがって変化していくような基準であれば、それは理想の基準になれない。絶対的神の認める基準になり得ない。 また、歴史の方向というものが、ある目的をかなえて進んでいくというならば、その標準が違った場合には、とんでもない結果になってしまう。歴史が変化しても、外的な姿は変わっていくとしても、その内的基準は変わってはならない。それが変わった場合には、理想も何も、善の基準も、我々の求める喜びの基準も、探すことができないという結論に到達する。であれば、その基準は、時代性、歴史性を超越した基準に立たなければならない。それで、人間の希望においても、多少の差はあるとしても、その希望をもち続け、それを相続し得る、そのような標準の基準にならなければならない。 例えて言えば、結晶体みたいに、形は小さくても、それを成す要素は、絶対変わりないという内容で整えなければ、それは標準になり得ない。 金も権力も標準にはならない こう見ると、世の中において標準となるべきものは何か? こう質問した場合、ある者は言うだろう。「この世的に考えてみた場合には、金である」と。金銭の問題だと、生涯をかけて、それを標準にして行っている人もあれば、そういう国家もある。 ある者は、「それは金ではない。権力だ。権力さえあれば、すべてが成し得る」と言う。しかし、その権力というものは、権力差の一単位が過ぎれば変化していくものである。それは本当の、人間が求めていく絶対的完成圏を成すべき標準になり得るかと聞かれた場合には、「そうではない」と答えざるを得ない。 最後に、一般の人の結論としては、「物でもなければ、知識でもなければ、権力でもない。それは、人間である」と言う。その「人間」を、再三思案しながら分析してみると、この人間たるものは、絶対的に信じられるものか。「普遍なる存在の基台に立ったものか。それが今、すべての標準の基準に立ったと確信している時代になっているか」と聞いた場合に、「これは困った」という立場に立っている。 自分なりに標準的内容を備えていると確信している者がいるかというと、一人もいない。自分を中心として、万人はこうでなければならない、家族はこうでなければならない、あるいは社会はこうでなければならない、自分が願うその標準として練り合わせて、もっと上層的な、あるいは上級的な国家、世界は、このように発展して、これを結びつけなければならないと確定したその個人の標準の基準をもつ者は、世の中にいるか? このように突き詰めて聞いた場合には、「いません」と言わざるを得ない。 なぜ、そう言わざるを得ないか。我々人間を考えてみた場合には、人間は変わりやすいものである。あなたたち自身を考えてみても、正月の元旦の日に、「自分はこういうふうに行く、公式的に決めておく」と決意をもって誓い、そして進んでいくときに、何日それを続けられるか。ある者は、一週間も行かずに、その決意がとんでもない結果になってしまうことをよく体験している。それが一日でなくして一年続けるのは、あまりにも難しいことであることは、あなたたちの生活圏内において、よくよく体験している事実である。 こうなると、大変な問題になってくる。その標準は「人間」と決めた以上において、その人間が絶対的標準の基台になり得ないという場合には、どうなるか。希望も何もあったものではない。 絶対の基準はなかった 信頼すべき絶対的基準というものを、このようにかき集めて批判して考えてみて、一人の人間も求めることができないという結論に立った場合には、「世の中に標準になり得るものがあるのか」と問わざるを得ない。とすれば、そこから自分はどうなるだろうかと考えてみた場合、それは悲惨なものにならざるを得ない。そこにおいては、希望の家庭を考えても、それは何のための家庭か、あるいは社会、国家、世界は、何のためか。自分も決定できない立場において、その相対の理想圏というものは、何の存在意味があるか。自分が立っている基盤は、あやふやなものである。そういうあやふやな立場において希望をもつとか、戦ったり、欲張ったりするのは、それはおかしい。そういう結論にまで到達する。 そうすると、あなたたち、決定的なその標準の基準を自分と結びつけ、その結びつけた確固たる標準基台において、自分の間違いない発展を願うとするならば、標準を求めること以上に深刻な問題はない。それを果たさない立場において、いくら国とか、世界とか、理想とかいっても、それは果たせるはずもなければ、望みの当てとするものでもない。 何を標準に求めるかという問題がもしも解決し、それが間違いなくそうであるとすれば、その基準はみんなが願ゐるものでなければならない。一方は願うし、一方は願わない、あるいは、ある民族には合い、ある民族は合わない、というものであってはならない。本性を共にもっている人間であるから、平等に、あるいは共同にそれを求めるべき基準にならなければならない。 我々は個人をずっと分析してみた場合には、個人というものが、統一の基盤である。しかし、果たして統一になり得るような実体になっているか? 統一という観念を探り出すことができないものになっている。統一の標準を満たさなければ、統一されたという結果も得ることはできない。このように考えてみた場合には、現実の我々自体は結果的なものである。この結果的なものが統一されているかというと、統一されていないのである。なぜかというと、我々人間には、良心と肉身、相反するものがある。肉身がこうしようとすると、良心のほうは反対に引っ張る。その中に、引き裂かれなければならない中間的な立場に立っているのが人間である。それを防備するのに苦労しているのが人間である。ある時はこういうふうに引かれ、ある時はこういうふうにと、行ったり来たりしている。ある方向に、直線的に行くということは、自分の生涯路程において、思われないような結果の自分であることを否認できない。 我々は普通、良心がその基準になっているという。厳密に言うと、良心も時には行ったり来たりする。直線的でない。その良心も環境によって変わりやすいものである。肉身は言うまでもない。そうすると、良心が人間の本当の標準基準になっているか? なっていない。肉身自体はもっと当てにならない。 こういうふうに、この世の中をずっと考えてみた場合には、標準たるものがないという結論が下される。こう結論を下した場合には、信頼とか人倫問題とか、道徳問題とか、これは何だ。これは人間が、仮想的な欲望の、ある目的を果たすための方針としてつくったものでしかない。それは、本来の我々の求めている標準にかなう方法、あるいは方策ではない。そうなると、これ自体が不信されるものになっている。こう考えてみた場合に、世の中は寂しい。世の中は実に砂漠みたいな、頼りにならない、こういう世の中になってしまう。 価値ある「自分」を残したい 我々、外的なものからずっと総合的に批判してみるときに、世の中で一番素晴らしいと思うのは何だろう。金は、人間と相対関係のものである。人間自体が問題になっているから、人間と相対関係のものはあまりあてにならない。学問とか権力とかも、人間と相対関係のものである。であれば、我々人間の生活圏において、その中でも残したいものとはいったい何だろう。 そう考えてみた場合、「自分」というものは何が何でも、全部残したい。「自分」が死ぬということを一番恐ろしがる。残すばかりでなく、「自分」を何よりも価値あるものにしたい。そういう思いをだれしももっている。その思いは、抜き去ることのできない観念になっている。 この「自分」とは、何を基準としてそのような考えをするのか。尊重したい、あるいは残したい、そして価値あるものとしてそれを残したいと思うのは、いったい何を動機として思うようになるのか。もしも、そういう動機がなくてそういうように思うと言うならば、人間自体が自分を尊重するという思想、自分より価値ある基準を願い求めているという思想は、これは空想である。 しかし、それは今我々自体ばかりではなくして、過去のあらゆる人間、今、世界に数十億住んでいるすべての人間、あるいは以後生まれてくる数十億の、あるいは数百億のあらゆる人間、すべてがその観念を乗り越えることはできない。その観念下において、生まれて生き、そして死んでいくに違いない。人間世界からこの観念を抜き去る力があるか? ない。 人間世界において、自分の優秀なる素性を、自分なりに一〇〇パーセントの価値を生み出すところにそれを総合すれば、一つの文化圏が生まれてくるのではないかというとき、「自分」を尊重するその思想を抜き去った場合には、文化も何も、発展の動機もなくなってしまう。 そうすると、自分を残したいという、あるいはより価値あるものにしたいというように、自分を押し出す、その動機とはいったい何か。それは生命力である。生きる以上は、むやみに生きるのではない。ある目的をなしていきながら、生きなければならない。 だから、存在と生活圏という問題が始まるのである。人間として、存在基台と生活圏を否認した場合には、自分なりの価値の基準をもつことはできない。結局、自分の存在と生活圏というのは、まとめてその内容を突き詰めていえば、生活圏というのは相対関係である。だから、自分と相対関係のために、自分を残したい。自分を残すのも、ただ残すのではなく、相対と関係を結ぶにおいての価値ある自分を残したい。 価値というのは、一つでは生まれてこない。相対関係が必要である。結局、すべてをまとめてみた場合、自分の存在と、相対の存在という問題になる。 絶対の「生命」と「愛」 我々は、理想圏においては絶対を願う。あるいは、唯一を願う。あるいは永遠を願う。その基準に立った相対、結果のそのもの、それを必要としない者は、だれもいない。だからここにおいて、自分の存在と絶対なる生命、これはだれもが願うことである。 絶対なる生命、その生命は一時だけのものを願わない。それから自分と同じものを願う者はいない。人間はだれでも、みな違う特質をもっている。だから、唯一なる存在を願う。唯一なる生命を願う。それから永遠なる生命を願う。 「絶対」とか「唯一」とか、「永遠」というその言葉で形容される単語があるとするならば、それは「生命」を中心として言えば、適応される。 生命はいつも変わっていくような相対性を願わない。だから、これは絶対なるものだから残らなければならない。それから、唯一の生命だから、これは残らなければならない。その生命が一時のものであれば、それは流れてしまうけれど、永遠の生命だから残さなければならない。 信仰とは何か? 絶対なる信仰、唯一の信仰、これはみな相対の立場に立っている。相対を求めるときの、その条件として、絶対的相対基準を願う。その中間的立場に立って、絶対なる信仰とか、絶対的信頼とかというのである。信仰、信頼自体が相対関係の中心ではない。相対関係の、橋渡しをするための言葉にすぎない。 結果の言葉は何か? 愛である。生命があれば存在をなす。愛が成立するには、相対圏が必要である。このように結論を出すと、唯一の、あるいは絶対の、永遠の生命、永遠の愛、絶対の愛、唯一の愛。それは文学の歴史を通して考えてみても、愛というものは絶対である。だれでもが、見つめ、鑑賞するような、そのような愛である。たった一人であっても、愛を願うのである。それから、愛があれば、きのうあった愛は、きょうはなくなってしまうのではない。きのう愛があった場合は、それを元として、きょうの愛を積み重ねて、より高い価値基準を見いだすような、永遠の愛を願っている。 存在と相対関係、これを他の言葉で言うと、自分と相対の関係になる。自分と相手ということになる。相手がなければ、希望も何も果たされない。もしも、「自分には相手、相対関係はいらない」と言って、男一人でいくら威張ったとしても、一世紀後にはなくなってしまう。だから結局、自分と相対関係である。相対関係において、標準の基台を求め出す以外に道はない。 そうすると、自分の標準の基準は何か、相対の標準の基準は何か、ということが問題になってくる。男、女を考えた場合、女の標準が男か? 男の標準が女か? それはかえって男を標準としたより気持ちが悪い。標準というものは、より価値ある基準を求めて立たさなければならない。より絶対性に近いものでなければ、標準にはなれない。それは二人の良き関係において、標準なるものを探さなければならない。これは真剣な問題だ。 この両者の間において標準になるものは何か。男と女の、その感情とか性質とか性格とかは、相反する。男に隙があると、女はとんでもなくなってしまう。かえって、自分の良心と肉身を中心とした自分一人を管理するより、男、女の管理はもっと難しい。そう思った場合、変わらないもので、唯一のもので、絶対的なものといえば、それは何か? これは愛である。愛というものは、男も女も、絶対必要である。愛というものは、一人で成立させることはできない。愛というものは、共同、一致した基準を願い求めて、その基準において果たす。それが残るものである。少しでも一致した基準が伴わなかった場合には、流れていくか、それから飛んでいくか、そういうふうになる。 その愛というものは、どこに成立するか。共に共通目的の一点に徹した場合に、そこにおいて、永遠の愛、不変の愛、唯一の愛、絶対の愛が成立する。愛なくしては、どうしても自分と相対関係を結び合わせる道がない。いくら考えてもない。同志においても、「ああ、うれしい」、あるいは、「善なる友達だ」と言い出し得るような基準を生み出すまでには、その背後において、共に愛し合うということがなければならない。愛の観念を基盤として、そのように言えるようになる。 国を愛するとか、万民を愛するとかという問題は、みんなそこを基準として言う。だからなぜ、世の中において「国民が国を愛さなければならない」、「社会を愛さなければならない」、「家庭を愛さなければならない」と言うのか。それなくしては、何にもならない。結びつける動機というものが成立しない。なぜか? 主体と相対関係は、違った質をもっている。違った質をもっているものが一つになるには、質を乗り越えるような、強烈な愛の基準を求めていかなければならない。それは本当に統一されるかと考えてみる。それが統一の要因になり、あるいは、人間の標準の基準になった場合には、素晴らしいことになる。 愛によって生まれた者がなぜ対立するのか 自分に立ち返って考えてみる。人間は、堕落したものである。我々統一教会は、堕落ということを知っているから、問題の解決の方法を研究する余地はあるのだけれど、一般の人は、堕落とか何とか、それは分からない。「堕落も何もあったものではない」、そういうふうに思う一般の人々は、肉身と良心が相反する。これを何で結合させるか。難しい問題である。 このように理論的にずーっと追求していく。何で結合させるか。もしも愛としよう。人間が何によって生まれたかというと、父母の愛によって生まれてきている。愛の結果物である。愛の結果物たるものが二つになっているという場合には、その愛が人間の絶対的統一の要因になるか。一つになる、そういう標準基準になれるか? それは自分から見た場合に、父母の愛によって生まれているのに、こういうように分かれて、相反するような者になっている。それを見ても、それは、あてはまらない基準である。 この愛たるものが、自分と相対というものを本当の意味において一致させ、まとめさせる理想的な愛の基準において生まれているならば、理想的に一致した結果が生まれなければならないにもかかわらず、そういう結果になっていない自分を見た場合に、我々は、その愛なるものを疑わざるを得ない。 父母の愛だけは異なる ここにおいて、おもしろいことを我々は発見することができる。 この世の中をずーっと考えて見た場合には、日本人としては、世界を愛するより日本の国を愛したい、日本の国を愛するより自分の氏族を愛したい、自分の氏族を愛するより家族をより愛したい、こうなる。家族の中において、自分の相対者を愛したい、自分の相対者よりも、自分を愛したい。(笑い)このようになっているのである。それが今までの歴史であった。それを歴史においてずーっとやってきた。 しかし、ここに変わった異質な愛があるというのである。それは何かというと、親が子供を愛する愛である。親が子供のために死ぬほど、命を懸けて愛する。それは自分を中心とした愛の相対を求めているのか? それはちょっと異質なものである。今まで見たときには、自分を中心としていたのだけれど、親の愛というものは異質なものだ。これは今まで、世界より日本の国、日本の国より氏族、氏族よりも家庭、家庭よりも自分というように愛するのが正統みたいに思ったその系列と、まるっきり反対の要因の基台の上に立った愛の現象が、たった一つある。それが、父母が子供に対する愛である。 あなたたち、子供をもってみると、そういうふうになるのである。そういうことを聞いているだろう。親が子供のために、命をささげ、自分のすべてを犠牲にすることを問題にもしないということがたくさん見られる。 本当の親の心を、親の愛の心をもったら、本当に子供を愛する親だったら、それは自分を犠牲にして、自分をほうり出して愛するというような道が、この世の中に一つあるというのである。これは根本問題を探っていく理論的な追求法である。多くの愛の中で、一般的な愛の階層があるとしても、その中において異質なものが一つある。これが問題である。 では、愛といえば、どちらの愛が本質か。愛なるものが標準になるという、その論法の結果から見た場合に、どちらがより本質になるか。 自分を中心として見た場合には、前者のほうがいい。しかし、親から見れば、犠牲になっても後者がいい。だからここにおいて、縦的愛とか横的愛を結合させれば、それが相反する方向に結合された結果になっているから、問題はそこに置こうではないか。人間が、そもそも相反するような愛の因縁でもって生まれた場合には、我々自体が二つになる。 また不思議なことには、親の愛によって生まれている。その親の愛というものは、男、女を愛した愛である。その愛の結果において子供が生まれたのにもかかわらず、その親の愛は、男女の夫婦の愛より強い。これがもしもそうだといえば、これは弁証法的発展であると言う。そうじゃないの? 親の子供に対しての愛と、夫婦の愛と、どっちが強いか?それは万民を集めて聞いてみても、「夫婦の愛が強い」と言う者は一人もいない。 いったいそれは、どういう結果か。強いのは、その背後関係において、どこからそれを補給してもらったから強くなったか、問題になる。 そうなると、こういうような親子の関係に結びつけられている愛というものは、夫婦の愛の体験を通ってきただけで生まれてきたという論法は成立しない。それ以上の力の加わった何かの起点が、第三点が、あるいは第一点がなければならないという結論に達する。こうなるとはっきりする。それは何か? それは夫婦においての愛によって結ばれた、そういうものではない。別個の縦的な、根底を別にした愛の基準から結びつけられたものとして、これは認めなければならない。そうなっている。 愛の第一原因は神様 愛の中心はだれか? 父母ではなくして、その夫婦の愛を結ぶ基準ではなくして、そのほかのところにある。 その愛の主体は神自身、その愛の根拠地、絶対なる愛の原動力、その第一の愛の原因がある。それを認めないというと、これを論法的に解決することはできない。 作用した場合において、その作用した結果が作用し始めたその力より大きくなる力は、世の中には絶対ありません。力学の法則において、出力は入力より小なるのが原則である。そこに大なる力が生まれてきた場合には、その大きさに比例した力が、第三の位置から補給される道を満たさないというと、その結果は生まれてこない。そう見た場合には、弁証法的に小なるものが自然に発展したというのは言葉の誤りに違いない。 自然はどこにあるか。それは加重させて、発展していったということは、それは正当な事実としてある。 縦的に何が本体か。親なるものは素晴らしい。素晴らしいものだから、子供たちにとっては絶対のものだ。生命の母体になるから、素晴らしい。愛があれば親の愛になるし、生命の基台があれば親になる。だから親というものは、存在の基台にも立っているし、相対的愛の基台にも立っている。二重性をもっている。 親からその生命を受けなければ、生命を育てられない。それから愛においては、子供は、自分や自分の兄弟を愛するのではなく、親を愛する。だから、子供を抱えた親は、二重的な要因の主体になっているのである。生命の母体になっているし、愛の動機体になっている。だから、そういう二者を共に抱えるような、そういう立場になっているから、親というものはすべてを主管し、すべての本質の愛の起点に立っている。 だからその愛も、そういう結果の愛として、自分を犠牲にさせるような行動をなし得る愛を現すことができるのではないか。そういうふうに考えるのである。だから、「統一思想」が父母の愛をもち出した理由は、ここにある。 父母の心情でもって、僕の体でもって何代にも公益する。これは「統一思想」の主流の思想であるが、その父母の愛を、そこから生み出していくのである。質の違う愛の方向があるからこそ、これを基台として神様は、それを増やすことによって、一つになり得ない実体の愛の結果となった外的な悪の世界を、取り戻す。その道がなければ、人間社会においては理想が果たせるかというのである。そこにおいて父母の愛を相続し、繁殖していかなければ、我という存在は、統一圏には絶対立つことができないという、その基準を初めて発見する。 絶対の主体があれば相対が立つ もしも、愛する立場に立った場合には、この世的な愛でもそうであるが、愛の本質は、統一の性質をもっている。 この世の中に愛があればこそ、家庭も成立する。その愛があればこそ、社会も成立する。それが欠けた場合には滅びるのである。それが固まれば固まるほど、強ければ強いほど、それが核心となって、相対の環境という相対圏が自然につくられるようになる。それは宇宙的存在圏の本質である。それを果たした場合には、完全なるプラスがあった場合には、完全なるマイナスは「現れてくるなと」だれが命令しても、それは自然と現れるようになるのである。陽電気が生まれた場合には、陰電気は自然と発生する。陰電気が発生した場合には、陽電気は自然と相対して発生してこなければならない。こうなっている。 完全なる主体が立った場合には、完全なる相対圏が立つ。神様は完全なる絶対的主体であるから、神様自体の創造圏というものは、完全なる主体が完全なる相対圏を結びつけるのである。たくさんのものを受け入れ、それを並べて、絶対なる相対圏をつくるようになっているので、その現象下にあるものは、より核心の立場に対しては、それ相応の相対存在は自然と伴うようになっている。 人間が、今世界に三十六億いれば、男、女に分けた場合には、十八億ずつになる。あなたたち、男として生まれるときに、日本には女がいないんじゃないかと心配して生まれた者はいないだろう。女が生まれてくるとき、男がいるかいないか心配して生まれる者はいない。人間が宇宙の主管主ならば、中心的存在実体をもって生まれるようになったならば、その相対圏は自然的に整うようになっている。そして、もしも人類をずーっと半分に分けて比較してみた場合には、ある時には何十万、何百万、何千万しか違わない。日本もそうだろう。比べてみた場合には、大差ない。差があるとしても、中間において、自然的な死ではなく、自動車事故とかでそういう結果になったのであって、本当は大概等しい。 だから絶対なる中心がある場合には、その相対者は自然発生するようになっている。だから聖書はそのことを、女は男によってつくられたといっている。完全なるプラスがあった場合には、それを中心として、マイナスは生まれる。それはちょうど一致するはずだ。 それがもしも、もう一つが現れてこなくて、授受作用をしない場合には、一時の存在は可能だけれども、永続はしない。それ自体もなくなる。こういうような論理の推理によって、絶対なる神様も万物がなくては、神様の価値もなければ、存在基準も絶対圏としてとることはできない。それでは理想がない。理想圏は立体的、質の違う刺激である。平面的立場の関係から立体的関係において、平面より以上の成果を立体的関係において受けることができる。 理想というものは、個人において感じる感覚よりも、相対関係において感じる感覚は強い。それはなぜ強いか。自分一人だけでは、一方しか動かない。一方しか与えることができない。向こうがなければ帰り道がない。結び合うのだから、全体が整理されるというのである。相対がなくて、全体を与えたなら死んでしまう。全体を与えた場合には、とんでもないことになってしまう。与えるとしても、半分以下しかやれない。そうでなければ、中心が飛んでしまう。だから完全に与えるのであれば、完全に返るというのである。 いったい、世の中において完全に与えるものがあれば、それは何か。肉身をもったこの個人を中心として完全に与えることができるか? 向こうにいっぱい充満させるものとは、何かというのである。金次第では、それはできない。話次第では、できない。何でもって完全に相手を充満させるか? それは愛によって充満させればさせるほど、不満か? そうではない。しかし、腹が減って食べて、いっぱいになった場合に、まだ食べたい? いっぱいになった場合には、どうなる? いっぱいになった場合には、それから上がるのではない。下がるのである。愛も同じである。愛も上がったり下がったりする。それも、永遠を目的としながら、それは一日生活圏の関係を貫いていく。 一番愛される者 神様から一番愛される者は、いったいだれか。絶対なる神様に対して絶対的犠牲心をもって、絶対死を覚悟して、勝利の苦労の先端に自分が絶対的に立つという者があった場合には、神様の絶対なる愛は他に行く所がないというのである。愛は二つか、一つか? 愛は一つである。その一つの愛を、それを占領する中心者たる者は、この地でいかなる者か? 神様が苦労するところがあったら、我は一遍に飛び込む。火あぶりにして殺すところあったら、我は先頭に飛び込む。手先から切って、そして殺すところあったら、我は先頭に、頭を切られる。そのような犠牲の場があった場合に、「我は行く」と言うものは、どういう者か? 神様から一番愛される者は、絶対なる犠牲を求めて、「その先頭は自分が占領したい」という覚悟で、生命を注ぎ合いながら走り込む者であるという結論がちゃんと出る。これは間違いない。 十人の子供がいれば、その子供たちの中において一番親の心情をつかめる者は、かたわの子供である。他の九人の子供は、もう世の中においては堂々たる子供である。権限もあるし、力もある。対面するのも好ましいような、そういう希望の者である。しかし、「それなりに、適当に親に対して孝行する」と言っている。しかし、かたわのその子供は、見るのも気持ち悪い者だけれど、朝、早く起きて行ってあいさつをする。「昨晩どうだったでしょうか。きょうの母さんの具合はどうですか」。そして、食べる物があれば、食べずして蓄えて、乏しいものでもいいから、朝晩、それをお母さんにささげたい。着る物は、「自分は病気でかたわだから、いいもの着たって似合わないので、兄弟に分けてあげます」。 だんだん親の心情は占領される。そして、その一家が滅びるという一大事が起こった場合には、その子はかたわであるが、自分から願って犠牲になって死んだという場合には、どうなるか? そのお母さんの心を全部占領してしまう。不具なる立場においてなしたことは、その相対基準に向かい合う価値は、不具の基準の結果としては現れない。反比例の結果として現れる。見たところはみすぼらしい結果になるように思われるけれども、心情的に見た場合は、何倍、何百倍、何千倍、その大きさによって父母は愛さざるを得ないということになる。 こういうふうに見たときに、平和なる統一世界をつくろうと願う場合には、どういうふうにすればいいか。先生が主体だから、先生の前にそのように犠牲になる者があった場合には、先生の両手を下げてしまうの? 上げます? 先生がそういうふうにして、そのような群れをつくってしまったとするならば、神様は手を下げてしまう?(上げます)。それもみな同じことだといえる。目的を立てるには、こういう基準に立たなければいけない。 だから、先生がこのような理論の基盤に立っていないというと、あなたたちに命令するとき、あなたたちから先生を見たら、気持ち悪いことをする。「これやれ。 これやれ」と言われて、今やりつつあるのだけれど、これをみな果たす前に、「あれやれ。 これやれ」。これをやろうとすると、「これやれ」。そんな時がある。そうなっても心配する必要はない。命をささげて、これに打ち込む。すべてに打ち込む。この本筋に合った自分自身をささげて、文句を言う必要はない。 それから、それを基準において、心情的に神の前に相対圏ももってきてささげているか。それは種を植えて、何年、何十年、待つのと同じことである。このように信仰を立てる。このような場合、一般の人から見た場合には、とんでもないことをやっているように見える。 だから、苦労のネジを締めようというのである。初めは日本的に締めよう。日本的に締めた場合には、日本しか復帰できない。日本的立場において、世界的に締めた場合には、日本によって世界が復帰される。理論は簡単だ。 さあ、日本の立場で、日本的に締めよう。天宙的に締めよう。天宙的より、神様的に締めよう。天宙的神様がどのように締めるか。 これを理論的に出して、今までその基準を願ってやってきた。これがもし滅びたら、神の存在圏も宇宙の理想存在基台は、地上にあり得ない。そういうものは、行く道がない。堕落した子においては、絶対なる神様の愛を受けるために、絶対的犠牲圏を一遍に乗り越えていった場合には、神様が困るほどに突き進んでいけば、神様も一応位置を譲ってやらなければならない。その譲った位置が、元の神様の位置であった場合、神様は驚いてしまう。 堕落の位置はどうだったか。突き進んで神様が後退するのであれば、神様が理想圏におられることを考えれば、「では突き進んでいこう」と、そう考えざるを得ない。こうした場合には、苦労征伐の大将である。世の中では、すべてがそれを避けていたにもかかわらず、それを自分一人で、みんな占領してしまえば、「いやー、力の強いやつだ」ということになる。天下に一人しかいないという場合には、神様もそう言わざるを得ない。素晴らしい結果になるというのである。これは原理に合った話か? 非原理の話か?(原理の話です)。原理に合った話であれば、あなたたちに苦労させなければ、罰せられるのは先生だ。それを知りながら、なさないという場合には、だれが罰せられるか?(先生です)。先生が罰せられた場合には、あなたたちうれしいの?(悲しいです)。とんでもないことになる。 復帰の心情、復帰の歴史を中心として行く現状はどうかということを考えたのである。 命懸けの親孝行 そうすると、父母が命令してから行動するより、命令する前に、その内容をなした場合には、どっちがより孝行であるか? だから、命令を受けて行動するより、今から十年以後にこういう命令をするということを分かって、その内容を今においてしたという場合には、十年の歴史は自分によって保護された、ということになる。ただし、これには条件が伴う。命を懸けなければならない。 この目前の足場において結ばれる実践上において、命を懸け、そして滅んだ場合には、統一教会の文先生はもう滅んでしまったことになっているはずである。しかし、先生は、まだまだ滅びるという思いはしたことがない。いくら滅びるという境地にあっても、その滅びの境地は、踏み台を踏み越えて、より大きく跳躍するためにあるのである。大きい物を投げるには、一度後ろに持っていって、反動で投げる。反動力は、こういう作用をなす。それはかえってプラスの条件になる。 だれも占領できないこういう人材が、伝統基盤になる。そこにおいて統一基盤が備えられる。それ以上の強さでもってこれにぶつかった場合には、それは破られる。だから命を懸けて、それから愛をもって、絶対なる命を愛でもって打ち込む。その犠牲の道を行く目的は何か。神の愛の世界をつくるためである。自分が愛を受けて、分けてやるために、である。 観念だけ刺激しておけば、世界観はこれによってみな結論が出る。善悪は、これによって決定される。このとおりに行ってみた場合には、悪になる方式は絶対に発見できない。「地獄に行こう」と言っても行けない。「天国に行こう」と思わなくても行くようになる。だから、先生が締めなくてもいいことになったね。(はい)。だから、命令を受けるその体制をいつでも整える思想である。たった一人で生涯を打ち込んでも、それだけ世界を両手に抱えて死ぬような勝利者の立場に、神と共に行くことができる。一人で行くのではない。神はそういう男を、そういう所にやって、復帰の基台をつくらなければ、地上に神の国をつくれない。 そうすると、二つが一つになる統一の要因とは、力ではない。何によってなるかというと、天的愛である。天的愛を迎える道においてである。愛はどういうところに成立するかといえば、相対関係に起こる。生きるために貴いものを受けるのであるから、それだけ謙遜にならなければならない。水平以下の立場になればなるほど、マイナスにならない。そうなれば、「神は愛してくれない」と言っても、自然と愛される立場に立つというのである。 それを自分一個人に適用してみよう。良心と肉身が闘っている。なぜ闘うか。共に主体性をねらっているからである。それが永遠に続いた場合には、永遠に相反する。それを一遍でもいいから、相対関係につくってしまった場合には、どうなるか? 一つになる。 反発作用は保護作用 プラスとプラスがあれば、どうなるか?(反発します)。マイナスとマイナスは?(反発します)。今、良心が中心となりプラスになっている。電気の原理からいった場合、プラスとプラスは相反する。しかし雷は、大気中の雲の中に、たくさんのプラスの集まり、たくさんのマイナスの集まりで、相対関係をつくって向かい合い、それらが衝突する。それが雷であり、稲光である。プラスとプラスが集まって大きなプラスになり、マイナスとマイナスが集まって大きなマイナスになる。原則から見れば、反発するはずである。 宇宙は、相互関係と反発作用をもっている。共産党もそれは原則だと知っている。弁証法を持ち出している。相互作用と反発作用がある。プラス同士は反発する。プラス・マイナスは相互する。もしも反発作用のほうが強かった場合には、天宙創造は可能か、不可能か。相互作用が強い。強ければ、どのくらい強いか。 もしも反発作用が強いとなったとすれば、その相互作用を基準として、変わる過程を通過しなければならない。では反発するものが世の中にあるというのは、なぜか。それは相互作用を邪魔するものではない。 なぜ、神はそういうものを創造したか。反発作用は、何のためにあるか。これは問題である。これは相互作用をマイナスにさせるためにあるか、プラスにさせるためにあるか。それは相互作用に絶対必要だからである。こういうすべての原則を見つめなければならない。自然の状況を通して、ちゃんと整理した立場に立たなければ、あなたたちはいつもふらつく。 プラス同士が反発するという原則から見た場合には、雲の中の大きいプラスは生まれてこない。プラスとプラスが一つとなって、大きくなる。ここにおいて一つの問題が出た。プラス・マイナスというものは、相対関係を結んで授受作用をなした場合には、宇宙的存在圏において合格品である。そういうものがあった場合、宇宙が絶対保護する。そういう法則になっている。相対授受作用、相対理想圏だけを支持する宇宙圏内の宇宙の力になっているから、それを果たした場合には、絶対保護する作用をする。 だから、プラス電気と、マイナス電気が授受作用をなした場合には、絶対圏に達する。永遠存在圏をなす。合格品である。存在と相対圏という、それは原則的に一つになっているから、理想圏である。 だから結局、天から見れば、愛の道になっている。愛によって一つになる。 このように相対関係になった場合に、そこにプラスがのこのこやって来た場合、これは侵害者になる。そのような場合、向こうへ出ていけと、けっ飛ばしてしまう。それ、実感が伴う。男の子は結婚しない場合には、女の子とよくつきあう。神経質な女の子も、結婚する前には、自分なりに男の子とつきあう。しかし、結婚した場合には、愛する女のところにのこのこ他の男が来た場合には、これは反発するの、相互するの?(反発します)。なぜか? それは男女が一つになって宇宙原理、創造理想的な合格品としてちゃんと立っているのに、「あなたは私を侵害する邪魔者じゃないか。おい来るな」と、自然に反発する。それは何作用か?(反発作用です)。相互作用は相対的に反発作用する。 であれば、なぜ反発作用をするかというと、「あなたは宇宙の侵害者になる。罪を犯すぞ」ということである。だから自然と罪を犯さないように、神は保護力をもたせなければならない。それが反発作用だ。反発作用があればこそ、抜け出ることができない。だから永遠に存在することができるのである。そう思った場合には、相互作用を保護するための反発作用、そういう結果になる。 問題はここにある。こういう原則であれば、世の中において、サタン的愛でありながら、一つの相対関係を結んでいるのをいかに復帰するか。より強い愛をもってきた場合には、ふっ飛んでしまう。だから、いくらこれがプラス・マイナスになったとしても、それが十と十とすれば、ここに百のプラスとマイナスがあった場合には、これはくっつく。さかさまにくっつく。原理的になっている。くっつくことはくっつくのだけれど、主体的な立場ではくっつかないで、相対的な立場に立ってこそくっつくことができる。だから、復帰の道はそうなっている。 サタンと神は、プラスとプラスになっている。ここにおいて、神を中心としてマイナスをつくった場合には、相対はみなここにくっつく。だからアベルを通してくっついてこい。それは原理的、自然原則的な理論である。アベルにくっついてこい。マイナスになって、その本質をなくしてしまっている。マイナスとして来て、くっついてしまえばいい。それで一つになれる。 だから、もっと強い愛をもっていけば、その環境において自然とくっつくのは、弱いものがくっついてくる。神の愛の強い者の愛というのは、みんな喜んで、闘ってこのように合わせる。あとにずーっとついてくる。強制ではない。それはより強い愛でもってする。サタン的、プラス的愛圏を無視することはできない。それで神様は実に原則的な神だから、カイン・アベルの原則は、実に素晴らしい。 こういうことを整理して、ずーっと適用してみよう。そうなるかどうか。 訓練というものは、願わなくても、だれもがやらなければならない。本当に訓練を願う者はいない。訓練はきついことをやらせる。それは平常ではない。異常な立場から鍛える。しかし、それをやってマイナスにならない。こう見た場合には、理論的に、すべてが、世界が解決されるじゃないか。 これを信仰的に、イエス様の路程から見た場合には、実にこれと一致する。ずーっと原理を考えてみると、みんなそうなっている。我々統一教会の活動も、実にそうなっている。 犠牲の道を行こう だから、できれば最高の奉仕をする。今までいかなる相対者に侍った以上に、すべてを担っていく存在として侍った場合には、その者は、「来るな」としても来るようになる。より強い愛情でもって犠牲になろうとした場合は、天宙、神様が動くのに、人は動かない、そういう原則があるか? 人は間違いなく、引っかかる。早い者は、三日で引っかかってしまう。だから我々は、黙々とそういうことをなしていけば、家庭を主管し、氏族を主管し、民族を主管するのである。ある特定の民族圏以上の数があり、民族圏より増えた場合には、それはその民族が後ろを振り返って見た場合には、自分一人だと思ったのに、どうなるの? 全部あとについてきている。そのように行ってみると、これは一番下に下がると思っていたのに、そこに行ってみれば、日本の最高の主権者まで願わずしてついてきてしまう。 地球は太陽の回りを回る。こうして運行する。運行してみるというと、それは春も来るし、秋も来るし、冬も来る。だから、これから我は春に向かって行くんだとして、行くんじゃない。 それと同じように、我々は公式的に運行する。だから統一教会に春があったの? 冬があった。それから秋になった場合は困る。反対になったら困るだろう。冬があった場合には、正式に運行の行路を通っていけば、何に向かうか? 春だ。歴史的な冬の時代は堕落圏である。それをもう少し譲って、秋の時代が来る。秋は夏から。夏の時代が堕落圏である。 歴史的文化圏をずーっと見た場合には、古代文化圏は熱帯圏文明時代だ。今は温帯圏文明圏である。この温帯圏というものは、春の温帯ではない。秋の温帯である。だから冬の時代が来るから、共産主義シベリア文明圏である。共産主義、冬圏である。冬圏の文明圏が侵入している。ここにおいて神様は、別の出発点をつくった。内的春、内的夏、内的秋を迎えて準備して、新しい生命の実体をこの中に植え込もう。そして、のみほそう。この温帯文明圏において、のみ込めるような生命の実体だったら、もう春を迎えない。これをぶつからす。こういうようになっている。そののみ込める、そういうような実体文化圏を生み出さないというと、神の願う春の国、理想的春の国とはならない。 愛の法則と体験の重要性 愛は、二人の目的が、共に釣り合った基準において成立する。これは愛の原則だ。そうしたら、甲のものも乙のものも引っ張っていくことができる。だから愛は二人とも主管することができる。もしも、その立場にいる者を切ってしまおうとしても、絶対に切ることはできない。だから、こういう愛が永遠に維持される、その故郷がどこかになければ大変なことになってしまう。だから霊界はどういうふうになっているか。この愛を絶対維持させ、愛の存在を維持させるための、相互作用と反発作用がある。それが霊界だ。 堕落世界には、そうならないようにするためのいろいろな反対がある。覆すそういう要件があるが、霊界はそういうふうになっていない。すぐ相互作用と反発作用、完全な相対的愛、本質の愛を中心にした場合、それは永遠に保つ。そういう力になっている。それは自然から違う。自然、その内容は、存在構造の法則作用よりは次元の高い愛の力を中心として、保護する作用と反対する作用がある。 だから、地獄というものが生まれてくる。それは、反対圏のものを反対圏のものとして処置するために出てきたものであって、最後には、地獄という存在を見ることによって、霊界に行っている者は刺激される。かえって感謝する。強いその感謝を感じるようになるというのである。 このように見れば、個人というものは、良心と肉身が闘う。良心と肉身が闘うこういう者が、いかに一つとなるか。その愛の基点は、どこから始まるか。自分自体からは始まらない。だから、絶対なる何者かを探し出さなければならない。ここにおいて、宗教とか神様とか、こういう問題になる。これは神様である。それから、一番高いものを願うという問題においても、神様を願う。ここにおいて、信仰問題が生まれてくる。愛の勝利体験を自分と直接関係結ぶには、体験の重要性、そこにおいては共通する要素源を、自分の相対圏に整えなければならない。それに違反するものを片づけて、相応すべき環境圏をなしていこうというのが、信仰の生活である。ここにおいて信仰が必要である。 だから信仰生活というものは、その標準的主体の思想である。だから、神様であれば神様の思想、あるいは宗教の教祖であれば教祖の思想を標準として、そこに近づくのである。そこに近づいて何をするか。その教祖は自分に対して内的の存在の立場に立ち、自分は外的な立場に立って、それが一つになった場合、初めてその教祖が願った愛を現実において体恤する。それは主体と客体関係である。完全な教祖があった場合には、教祖を理想としたそれと一致した基準に、生活一致、すべてに一致する。そして教祖をプラスとし、自分をマイナスとして授受作用をするというと、その教祖が願っていた本質の神の愛を体恤することができる。それを体恤して一つになったその時において、相対圏というものは、宗教なら自分の宗教において、それがお釈迦様ならお釈迦様の身代わりとして全般を愛するようになる。そうなった実体者が責任者になった場合、お釈迦様と同じ心情でもって結びつこうという平面的な実体圏が、生まれてくる。 このようにずーっと下に降りてくる。だから大きい苦しみ、それから小さい苦しみ。統一教会においては先生が中心となっているから、先生を中心として先生のすべての生活観と、相対関係のすべてを一致化することによって、先生が体恤した神の心情圏を体恤する。これを平面的に、その中にいかに早く見て感じ、共に接触し合ってなしていくことによって、その神の心情圏は自分のほうにつながるようになる。 神様は素晴らしいお方だ。愛なる世界、その愛の根拠は神に下ろさなければ、完全統一ということはできない。完全統一の主体である神様は、絶対である。だから、聖書は「心を尽くし、精神を尽くし」とあるだろう。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、それから力を尽くし、何をどうするんだって? 神を愛せ。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛す」、これだけは必要だ。これ以上に必要な法則はない。何のためにささげるか? 愛のためである。愛の道に命をささげてみなさい。肉身も心も、一致する点が果たせるのであるから、どうせささげるのであれば愛をかけて一遍にささげる。だから心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛するのは、その基準に立っている。 統一の要因は愛 統一教会で与えられた基準を越えて生活する者には、残す何ものもない。しかし、それ以下において一生涯を果たした場合には、それによって配給されたその恩恵で、永遠に報われる。こういう道だ。だからイスラエル民族が世界において、今まで滅びずに残っているのである。それはなぜかというと、昔、旧約時代にそういうように神様に奉仕した道があるから、回ってくるのである。 愛は素晴らしいということが分かった。この世におけるサタン世界の愛も、一つに統合する力がある。一つにする作用がある。そのサタン世界の愛以上の力でもってなさなければ、神の国は立たない。より強い愛でもって相対環境に向かい合うところに、発展の原動力は出発する。発展の要因はそこに発生する。それが統一の要因である。 そのように主体が願い、自分が願う、そういう愛の心情をもつには、まずもって神と一体とならなければならない。神の愛を多く受ける者、すなわちアベルにならなければならないという話である。ここにおいても愛の神が絶対なるプラスだったら、絶対なるプラスの前にマイナスになってしまう。愛される立場である。そうなった場合には、四方八方を包容していくと、プラス、マイナスが反対の境地に立つ。自然的現象である。四方八方を通じて回る。 カインは、プラス、マイナスが反対になっている。それでプラス、プラスで反発するので、アベルがずーっと奉仕して下がって回っていくと、結局マイナス、プラスになって、強い方向に引っ張られて上がっていくのである。上がっていく場合には、完全に反発するプラス、プラスの基準がなくなるのである。 心情的に侍って愛される者は、アベルの立場に立っている。旧約時代がなければ新約時代も生まれてこない。新約時代がなければ成約時代は生まれてこない。だから、この情的神の心情はどこから伝わってくるか。問題である。もちろん先生を中心として、神を中心としてつながるものを教えている。では、先生はどういう路程によってつながっているか。それは、先生を中心として考えてみた場合には、その愛を相続する系統がある。それはどこからか? 旧約時代から新約時代を通して成約圏まで勝利を果たしたから、これは横的な勝利的心情圏を現すことができるのである。もしもこの縦的関係を相続してこなかった場合には、横的環境の勝利の中心圏は果たされない。先生はその情的基準を尋ねてきた。旧約時代から尋ねてきた。それから新約時代、それから成約時代を勝利してきた。だから、旧約時代と新約時代圏の過ちを取り返す。 だからアダム家庭に入る。その根本的問題に入る。アダムの家庭を中心として、神はどういう方法をとってきたのか、これをよく考えてみる。悪がだれに入ったかというと、天使長、それからエバに入った。そして、アダムより、神にやってきた。やられた動機は、いったい何だ。愛の問題である。どういう愛の問題か。自分を中心としての愛の問題である。自分を中心としての愛の問題においては、堕落の経路を下りていくのは、当然のことだというのである。 自分を中心としたところから出発したその愛の道は、結局は堕落性の路程になってしまった。天使長は、自分を中心として、神もアダムもエバもあったものではないと考えた。自分を絶対と見ていて、相対のすべてを無視してしまった。それはサタンのなすべき根拠地であるというのである。だから宗教は、そういうものをなくすために、高慢な道を避ける。「自分というものは敵である」こう簡単に言っているのである。これを復帰するにはどうするか。 エバが天使長をアダムより以上愛した場合に、堕落したのである。だから我々統一教会は、その堕落圏を乗り越えるには、自分を愛するのではない。より以上アダム・エバを愛するその道を探っていかなければ、元の道に帰ることはできない。自分を犠牲にして、相対圏のために行こうというのが復帰の伝統的精神である。 歴史は今まで、戦争の歴史であった。戦争したのは、相手を成功させるためではなく、相手を犠牲にして自分が成功するためにしたのである。相手を犠牲にして自分の成功のために、これが今までの歴史の方向である。この点を、あなたたちは、はっきり知らなければならない。「統一思想」が、いかにして世界を統一するかという問題である。 見てごらん。創造の時にそれを蒔いたのだから、それを蒔いたあと秋になって、世界的にそれを収穫する、今がそういう時期である。それを植えるのに、だれを中心として植えたかというと、自分を中心として植えた。その自分というものは、肉的なものと、良心的なものがあるのである。民主主義も民主主義を中心として考えている。共産主義も共産主義を中心として考えている。二つの心が世界化されてずーっと結実したものが、それが民主主義と共産主義であるというのである。それは、物的世界と心的世界である。 共産主義の力はどこにあるかというと、パンである。共産主義の組織化運動は、何によって果たせるかというと、配給制である。パンの分配、これの操縦によって共産世界を組織化、強化する原動となっているのである。 民主主義とは、どういう思想か。キリスト教思想である。博愛思想である。愛を中心として、配り合いながら配給制度みたいに、より愛を配給してもらえるような道が見つかった場合には、大変なことになることが起こるのである。それはぶつからずして、当然たる博愛の圏に立った、それが今までの民主主義圏である。博愛と言うのであるが、全体の犠牲になれとか、具体的なことはよく分からない。 統一教会の行く道 我々統一教会は、具体的にやる。主体的に。自分が幸福になり、自分が成功する、自分が立派になる道は、より大きい愛を自分より以上他に配れば、やったその範囲が広ければ広いほど、その道においては、立派になる。今の世界にはそれはない。共産主義は共産主義自体を乗り越えることはできない。民主主義は民主主義自体を乗り越えることはできない。この両方を乗り越える主義が出た場合には、この地上に統一の世界が生まれる可能性を見いだすことができる。このようになる。 そこで、共産主義というその主義は、今まで人間が求めてきたのは、自分たちを中心とした考えだから、これはいかに行くとしても、それは世界的に立ったのではない。国家を乗り越えることができない。なぜか。サタンは国家以上のことを結ぶことはできない。それは国家的、国家基準である。国家基準以上は乗り越えることはできない。これが共産主義も民主主義も、人間から生まれた最高の中心体とすれば、その国家において、国家を乗り越えることはできない。これはもう実験済みである。共産主義もイスラエル民族も、そこにおいては出発することは許されない。こういった場合、二つに分かれる。民主主義は世界より自分の国が大事だという場合には戦ってしまう。 そういう、人間を中心として動いたものは、そういう人間のタイプ、自分を中心としたタイプも世界的になっている。それを何で引き上げるかというと、原則に立った天使長の主権ではなくして、世界圏を愛する神よりなった、その創造主をもうけて出発すべく、アダムは出発しなければならない。アダム圏というものは、神の愛をつくるものである。神の愛を復帰するという立場に立っている。自分を犠牲にしても相対の基準を立たせるような思想である。この思想があればこそ、初めて一つになる。それは原理原則に一致する。こういう観点から見た場合には、我々に民族観念というものは、サタン圏の結実の最高の基台であった。この基台圏を我々はいかに一時に滅ぼすか、こうなるのである。 だから、神の子供になるには、サタン、天使長主管圏以上に立ったその資格をもたなければならない。だから、国家以上の思想的観点に立った者でなければならない。 だから我々は、世界のために民族を犠牲にする。世界のために日本の国も韓国も、韓国の民族も犠牲にしよう。それだけの民族を犠牲にする。その時、サタン側もそれを打ち出してきた場合、神は非常に困る。そういう時が来るから、神はあらかじめ、それを覆す原動力として「統一思想」でもって、結果ならしめる。そういう圏を広めていかないと、天国をこの地上に建設することはできない。種を植えて、芽が枯れた場合には、その死にかかった体は肥料として摘み取って、そこから新しく芽が発生して大きくなる。大きくなるには肥料によって種になる立場を超越していくのである。 「統一思想」は何によって成立するか。サタンは愛によって成立した。「統一思想」は何によって成立するか。これも結局、愛によって成立する。その愛の発現の出発点が、サタンと神とではまるで違う。神の愛は、自分を犠牲にしてみんなを生かす。だから神は、神の心情を承知している一人が犠牲になった場合には、必ず三者、四位基台だから三者は必ず動く。犠牲になった場合には、三者は必ず祝福を受ける。 こういう戦法でもって、宗教は打たれれば発展していく。迫害されればされるほど、滅びるのではなくして、宗教は栄える。なぜそうか。こういう天的原則があるからそうなる。だから、迫害が悪いか、いいか。迫害なしに発展の道をきたすことはできない。だからキリスト教は数千年間、迫害されない日がないのである。 もしも日本が、島原の乱の前に、今から三百年以上も前に、豊臣秀吉の時代に、キリスト教を完全に受け入れた場合に、日本はエバ国家となる。その時代に、素晴らしい文明になっている。今までの、四百年間の現代文明である。正しぴ洋文化の形じゃない。韓国よりは先じゃない。豊臣が反対したんだから、とんでもないことになってしまった。 イエス様が殺される結果を決定づけたのは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネである。だからキリスト教の発展段階も、信仰の時代、それから愛の時代、希望の時代となっている。それは、旧教の時代は信仰の時代である。ローマのカトリックを中心とした中世時代に、ローマにおいて迫害されたら命を懸けて信仰していったのである。次には、聖書を中心として、イエス様と同じような立場に立ち、イエスの人格に触れ、愛の実践者になるのである。昔は横的教義時代。それから新教は人格的愛を中心とした教義時代。こうなってきている。それから新教が終わり、最後に来る終わりのものとは、これは統一教会である。蘇生、長成、完成の三段階目、これは希望の表象である。 だから、イエス様の三人の弟子は、信仰と愛と希望である。ペテロは信仰者であり、ヨハネは愛の代表者であり、それからヤコブは希望の代表者である。だからヨハネは死んではいけないというのである。信仰、愛、希望、三つあるけれども、最後に残るものは愛をおいてほかにない。だから最後に残らなければならない、そういう愛の表象体であるイエスの弟子が中間に置かれた場合には、この世の中に残らなければならない。聖書にあるように、非常に愛されたのである。それから希望である。再臨の表象を希望にするのである。希望をもって、こういうふうに侍ってこられたのである。 統一の方案は犠牲 世界をこう見ると、これは統一の要因を迎えたということである。要因は愛であり、方案は犠牲である。これが一つに重ならなければ天国は絶対来ない。これは、どこにおいてもできる。家庭においても、平和な家庭、天国的な平和な家庭になるには、理想の要因は愛である。 自分なりに穴をあけた場合には、どうなる? そこから崩れてしまう。しかし、共に頭を下げ合い、犠牲にし合うという環境が成立した場合には、愛は絶対滅びない。愛があった場合には、すべての完成基準をなした基準だから、そこには神様は降臨せざるを得ない。だから、神様を中心としての愛の相対圏をもっているところは、いずこも天国である。 もしも、一氏族がそういう環境になった場合、すなわち一つの家庭が氏族のために犠牲になった場合には、その環境が救われる道がある。環境がよみがえる道がある。一つの家庭が親戚や同族に対して犠牲になって、すべてがそれに頭を下げるようになった場合には、一つになる。一つになりだすと、愛の目的は成立する。そして新しい大きい主体になるのである。そうして、それは氏族圏を中心としてプラスになった、それより大きい民族という相対関係に向かって突進する。それが創造の発展形態である。 個人が家庭の犠牲になるのは、より大きいプラス圏を求めるためである。その犠牲の上の人たちが、どこかに逃げては絶対いけないというのである。そういうようにして、自分たちの中心者に侍るのである。中心者に立たせるばかりじゃなく、最後に自分を主管してもらいたい。主管してほしいのである。それはなぜかというと、そういうふうな人たちの環境を統一させて、より大きい主管圏、プラス圏を形成するということである。 だから家庭のために犠牲になった者は、最後には家庭を主管する代表者になる。親父があっても、お兄さんがあっても、その親父やお兄さんが、家庭のために犠牲ならないというのであれば、親父やお兄さんをさておいて、一人家庭のために犠牲になったなら、みんなが寄り集まった場合には、反発することはできない。うなずきながら、その場にいるということになるのである。だから悪の世界も、願わない者も、願う者も、一方のほうに寄ってくる力は、このほうにあるのだから、これは統一される要因だというのです。だから、家族を中心として、氏族、血族、みんな出るのである。 家族が氏族のために犠牲になった場合には、氏族全部を主管するようになる。新しくプラスになった場合、プラスのないところを境において、サタン界において、その民族の全体を代表して、この氏族がプラス圏においてマイナスを相対関係で結びつけて一つになった場合には、今度は新しい主体になる。その主体の立場に立った場合、その圏を歴史的にサタンに譲らせて、勝利圏を歴史的、伝統的に残して立たせたのが、イスラエル民族圏である。国家圏である。それをそのままサタンに殺されずして立った場合には、イエス様が来られた、その時に、新しい国家的主体的圏をつくって、ローマから世界をマイナスにして一つにまとめて、より大きい世界的中心に立たせる。それが今日まで、ずーっと公式になっている。それが再臨の時において、世界次元のキリスト教文化圏とキリストが一つになった場合、これはちょうどイスラエル圏とユダヤ教と同じことである。 しかし、地上の勝利的絶対的民族とか国家とか主管圏はないのである。これは浮いている。だから霊的だ。地上に歴史的伝統、国家基準をもっていないのである。移動する国家基準、霊的な国家基準をもち続けてきたのがキリスト教文化圏である。それが地上に、ある一定の基準を結びつけなければならない。地上天国はその一点を見いださないというと、全体的中心の核心を求めることができないのであるから、その一点を求める。それは第三イスラエルというのである。韓国を中心としてのキリスト教、民族圏、国家圏。韓国では解放記念日、日本では敗戦した日であるが、解放した時に主権がないのである。それは再臨の主を中心として三年がたち、そして一九四八年において神様の国が初めて韓国になされたというのである。しかし、それが反対されて遠いところに行き、遠回りの道を今までやってきて、再び会わざるを得ない境地に向かいつつ勝利してきた。 神様の犠牲の愛 そのような勝利圏をどういうようにして立てたか。その思想の根底、勝利の根底は、たった一つである。 神の愛が地上に立つには、サタン圏の心情圏において反対の、すなわち、自分を中心として全部を犠牲にする、そういう者があったとしたら神が主管するようになる。こういうふうにして今までずーっと我々は上がってきている。 この方式を適用しよう。それが氏族圏を中心としてなすとき、これは一つの国を探すまでの戦いである。ここが旧約時代、新約時代だというのである。イエス様がそれを目指してきた。イエス様の目的を果たそうとしても、そういう限界基準が一国内、同民族を中心として主権をその指揮下に置く時までが、イエス様の求めてきた基準である。それが新約時代の終わりである。それが基準になった場合、そこから成約時代であるというのである。 あなたたち、成約時代というのは来ているの、来ていないの? 国がなければならないという話である。 こういうふうにしてあるアダム国家を求めた場合には、どういうふうにしてエバ国家を求めていくか。それも同じ法則である。その思想でもって犠牲しながら、影響しながら、これを一つにする方法を、同じくなしていく。 心情基準を蕩減する勝利基台を包んでいかなければ、蕩減の道を見いだすことはできない。より高い信仰で勝利するのである。愛の実体を使って、より以上の愛でなければならない。そういう問題が、統一教会の伝統の進路において果たすべき道である。それをなすなら、命を懸けて守ってもらいたいのはアベルの立場である。そのアベルの立場が個人的、家庭的、全国的になって、それが国家、世界へ拡大していこうというのが統一教会の戦闘手段である。ちょうど日本は五十県だから、その県領域のアベル圏の主体者があなたたちである。先生と一緒だから、先生が命令したんだから、その基準に歩調を合わせるようになると、日本は滅びずして、相対的価値圏に達することができる。それは原則どおりだ。栄えるための原則になっている。 旧約時代は物の時代である。だから物の祭物時代。新約時代は子供の祭物時代である。成約時代は完成期、父母の時代である。ここにおいて、本当は父母というものがサタンに讒訴される原則があるか、ないか? 讒訴圏、堕落したアダムの圏というものは長成期完成圏であって、完成圏ではなかった。七年間の期間を残した長成期完成圏に立っているから、それは七年間というサタン圏の蘇生、長成、完成圏になって、ここに三年間の期間を蕩減できていなければ勝利しない。だから家庭を連れて、サタンに勝ったという勝利圏を満たさなければ、家庭を連れて、堕落圏を蕩減した基準に立てない。それにはサタンに勝利しなければならない。 歴史的勝利者になれ それを自分にまた適用した場合には、自分というものは歴史的勝利者にならなければならない。あなたたちは、「我々は六千年の結実体である」そう祈祷するだろう。何が六千年の結実体であるか。一人ぼっちで立っている。何が罪の結実体であるか。それは旧約時代を代表した者であり、新約時代を代表した者であり、成約時代の中心を受け継いだその者であるという話である。祝福された場合には、そういう立場に立つのである。子供をもった場合には、子供を集めて、物があった場合には物を集める。創造というものを反対にしてきたのだから、物より、子供より、神様、そうだろう。 創造理想はそういうふうに最高の理想になっているから、私にも物があり、私にも子供があり、私もこうなっている。創造過程のすべてを、神と一致された基準をちゃんと備えてもっている。だから、物は旧約時代の祭物であり、子供は新約時代である。自分は再臨の主に会うというのであるが、それをもしも讒訴された場合には、祭物をささげてそれを復帰しなければならない。 裂かないといけないようなものは、創造の神様が主管すべきものではない。それは罪である。裂いたり、血を流したり、そういう結果を主管する神様ではない。だから、そういうふうにした圏をもつにしたがって、我々は祭物として裂いてささげるものではない。そのもの自体において、その子供がサタンに讒訴されて、祝福されずに讒訴されて、イエス様の祝福のように、相対者をもらうのに歴史的蕩減をかざしていくような、そういう者ではない。 だから、その中に生きていても、すべての子供は、自分自体もそういうものを越えなければ蕩減がまだ重い堕落圏につながった、そういう圏に立っている。だからそういうふうにして、感謝して暮らすのである。 だから自分の旧約時代はあった。旧約時代でも、祭物を裂いてささげる旧約時代ではない。環境すべてが勝利した旧約時代圏を我はもっている。これをもっているから、祭物をささげながら失敗した旧約時代は我と関係ない。祭物を裂いてささげるところにこれまで失敗して、今までやってきた。そのものは祭物の勝利、全体そのものを勝利した基準に立つような、そういう条件をもっていないというのである。だから旧約時代完成圏を完成したそのものの実体圏である。 物自体をそのまま神にささげることができるから、旧約時代の祭物、その目的を完成した圏をもっているというのである。イエス様は、自体を裂いて十字架につけられたのである。だからここにはサタンが讒訴している。しかし我々は、そうではない。我々の子供は新約時代の勝利者とした子供をもっているから、その子供をそのまま神のほうにささげてもサタンが讒訴し得ない実体圏をもっているのである。だから新約時代完成圏を我々はもっている。自分の父母として立っている。祝福されたという場合には、祝福されたその時において、あなたたちは、立たされているの、立たされていないの? その時代において迫害されたその道ではない。そのような迫害を受けずして勝利の基台に立った、すべての父母圏をもっているというのである。それがまさしく、堕落しないで完成圏を迎えたアダム・エバの立場である。こういうふうになっている。 父母があり、子供があり、物があり、そのものすべてがだれのもの? 各個人において成されるのだから、あなたたちは神の上に立つことができるのである。 しかし我々には、神の家庭、神の氏族圏があるのだけれど、まだまだ国がないのである。国がない。主権がなければかわいそうである。旧約時代、新約時代、成約時代、韓国がこういうような環境をつくりつつあるというと、日本もこれに接触させないといけない。どういうふうにして接触させるか? 物の接触である。 勝利は近い 統一世界はもう勝利するようになっている。つくられるようになっている。だから先生は伝統を今まで叫んできたのである。伝統が問題である。九億以上のアジア人民があるとすれば、それをうならせるだけの伝統が必要である。その伝統たるものは、何をもってするか。それを実証すべき材料が問題である。材料は密度が問題である。 こういう思想でもって、日本人として日本の国が濁っている時代においてこういうことを成してきたと知って、感謝する時が来る。だから、それは原理だ。我々は歴史をつくっているというのである。そればかりでなく伝統を、これは永遠のものとして、その基準を残していく。死しても悔やむような道ではないというのである。栄える道である。こう思って今まで戦ってきている。 そして日本は今でも忙しい。昼も夜もない。夜の十二時近くまで起きていて、もう四時前には起きている。寝るどころではない。我々の現状の忙しさより以上、天の心情圏は本当に忙しいというのである。 我々において世界観は、もうちゃんと決まっている。運命というものは現実の生活面に決定的勝利圏をなせる基準だという。こうなった場合には、そこより新しい世界は生まれてくる。それ間違いないと思うだろう。だからこの道を行く者は、愛を中心として、人間の愛ではなく神の愛を中心として行く。現実に我々が歴史的勝利の実体者となるには、歴史的心情圏を受け継がなければならない。それをずーっと考えてみた場合には、神が六千年の歴史世界を苦労したのは、自分のためである。先生が苦労したのも、そうだ。すべてが自分一人を完成させるために、今まで苦労してこられたということがはっきり分かるようになるのである。それを返さずして、顔を上げること、食べること、笑うことができるかというのである。借金したものであるというのである。それをすべて蕩減して、神がもう同情されて、「おお、お前それでいいから」というような命令を受けたならば分からないけれど、それ以下においては犠牲を続けても、我々は報いる道がない。そういう恩恵を受けているというのである。 こう考えてみた場合は、そこにおいて心情的報いを成し得なければならないというような各自の決意をもって、世界的舞台に働きかけるようになると、世界はどうなるか。戦わずして、一つになる。 だから愛の心情、神の心情圏の愛を受けるためには、旧約時代、新約時代、これは供え物の血を流しながら、流さずしては蕩減の道を上っていくことのできない、そういう摂理路程にもかかわらず、我々は何の犠牲も果たしていないではないか。分かれば分かるほど、果たさなければならないものが、もっと大きい立体的なものが前に待っているということを見つけるのだから、それが分かれば後退はできない。それを受け持って、だれよりも先頭切って汗を流しながら、これを戦い抜いていく。そういう人がもしも倒れたとすれば、その倒れた墓場には花が咲く。冬にそうなった場合には、そこは春になってしまう。だから、過去の聖人たちはみな、神を慕って、神の愛を慕って今までずっとやってきた。そういう歴史ではないか。それ以上の心情圏を我々は神の生活圏と一致させてそういう者になっていけば、永遠の国のために神が涙を流しながら我々を援助するようになれば、これは世界的な勝利者になる。こう考えてみた場合には、これ以上素晴らしこはないというのである。だから統一の要因は愛の問題であり、その方案は、犠牲、それがない場合には、絶対神とつながらない。 これを頭に入れて日本に帰っていった場合には、日本的な犠牲も尊いのだけれど、アジア的な三国に向けて犠牲にする国民運動を、我々いかに展開するかということが問題である。先生は今それをやっているのである。統一教会を中心として、まず統一教会自体、韓国の統一教会ばかりでなく日本と台湾と、そういう問題に応じて、アジア情勢に非常に頭を使っているのである。そういうふうにやって、苦労より、より犠牲にする。そういう道あればこそ、神を中心として行けばこそ、それは絶対、歴史は滅んでも統一教会は滅びないということをもちまして、日本に帰りましたら、より一層そういう精神で働きをしてもらいたいのが、先生の願いである。 日本を愛する前に統一氏族を愛せ。統一氏族を愛する前に統一祝福家庭を愛せ。家庭を愛する前に統一の個人個人、食口を愛せというのである。それが神が求めている標準の基準と一致した場合には、それは世界が求める標準の基準と一致する。その基準が心情である。それをなした場合には、個人を持ち出してそれを基準として家庭、家庭を基準として氏族、氏族を基準として民族、民族を基準として国家、国家を基準として世界基準が立つ。こういうふうに立たした場合には、これが統一の要因であるというのである。基準は愛のこのような原理的発展の心情圏を生み出すことによって、尊い基準となして世界を復帰する、統一することができる。そこにおいて可能だということを、結論として言っておきます。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.23
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2021.06.20
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「 行くべき神の国 」 祈 祷 天の御父様、今日を祝福して下さることをお願い申し上げます。 全日本の運命を背負っている若きあなたの子供達が、今回、今日を始めとして、この場において二週間神の恵みにより、集ゐたことを思いつつ集まりました。 いっさいのすべては、あなたの深き御恵みを讃えることができまするように直接守り導いて下さいませ。 我々はそのような心でもって親をう、そうして最後まで忠なる子供としての使命を果たし得る決意と勇気と誓いを持ち帰えることができますように祝福して下さることをお願い申し上げます。 再びこういうふうにして会えましたこの場におきまして、我々の心はあなたに心から恋慕うその心に満たされるように、あなたは我々に対して、真実なる使命と新しい決意を求めることができますように。 天と地が一体となり、神の未来のみ旨を果たし得る勝利の信仰、刺激、新しい基台となることができまするようにかためて下さることをお願い申し上げます。 日本に残っている数多くの食口達は今回の地区長来轢のその間におきましても、日本の地に新しい神の使命が果たし得る強固なる基台と共に、全日本、全土を中心として新しい進撃の旗を盛り上げることができまするように心より祈っている数多くの食口達がいるということを思います時、我々一人は一人ではありません。個人ではありますが或いは県を代表して、或いは日本全土を代表して、神に仕え、神に近づく、或いは心情に一致化した、そうして愛される、なお、そういうような子供になる、こういう重大な時期となるように祝福して下さることをお願い申し上げます。 今日より以後すべての時間は、あなたの御心のままに果たし、そうして勝利の基準まで我々は立つことができますように導いて下さい。 始めの時間よりすべて喜びにおいて果たされることができるように祝福をお願いつつ、すべての祈りを真の父母の御名を通してあなたの御前に御捧げ申し上げます。アーメン キリスト教の使命 皆んなお帰りなさい。(ただいま。) まあ、日本の食口も韓国の食口も統一教会の食口はもちろんであるけれども、今までそういう偉大な、或いはキリスト教、その他、宗教という名目の下に属しておる全部は、求めておる国を迎えた事はありません。最後にその求める所は、神の国だ!その理想の世界、その世界を神が人類と共にそれを求めだして今まで摂理をやってきた。その過程におきまして数多くの、或いは民族とか、文の背後関係はみんなちがうんだから、それに相応した宗教を立たして、それを集めて一つの世界の方向にまとめて来たというのは今まで宗教の使命である。その中におきましても、中心的使命はキリスト教である。何故かという問題は、あんた達がよく知っておるんですね。 神様と人間の関係を結ぶには、ここにおいてはいろいろ真理の問題よりも人間的問題が重要である。人間的問題を中心として考えて見た場合には、心情的問題が一番重要な問題である。それは人間においても重要な問題であると共に神様においてもそれは重要視しなきゃ。そういうような喜びの対象基台というのは、あるいは環境において、それよりもあるいは自分なりの成功の基準においてそれよりも、心情的基準において喜びの基台が、これは永遠的に結ばれる。 外的なものは移り変わるけども、情的心情基準は移り変わって行かない。一度それを心情的に結んだ場合には、それを離したくないというのが情的世界のいわゆるその情的内容の原動力となっている。一度結んだその因縁はできれば、情的にこれは離したくない、結んで行きたいというのがこれは心情的基準である。 こういうふうに考えてみるというと人間の幸福もその神の求める幸福の世界も変わらない情的基準において結ばるる一点を求めてきたのは間違いない。こういう見地から見た場合に数多くの宗教があった。数多くのその教祖があったけれどもその中においてはキリストにおいてキリストに限っねて、いわゆるその真理の道も、その実体を中心として神と自分との間において、情的基準を、それは、持ち出して、語ったところが、それがキリスト教の今まで世界的にならざるを得ない。そういうふうになっている。 イエス様の求めた家庭 神様がもしもいるとすれば、神様は一体どういうものを願うか? それは最高のものを願う。最高のものを願うと共に情的においては、誰よりも深いその因縁のうちでそれを情的関係を結びたい、愛したい、或いは愛される、愛して愛されてそれを喜びたい。そういう境地を願う道、その境地はどういう所であろう。それはある権力あるその権威あるところではなくして幼な子の立場に立った親と子の関係それ以上にはないということ、だから神様として人間を本当に愛したい、人間と共に喜び合うその基台となるその終結点は何であろうかという場合には、それ愛の問題を中心として、子女関係、まあ、父子関係だね。 そういう所を我々は思いながら、これをキリストを考えた場合、キリストはそういうところを適切にやる。われは独り子である。今までクリスチャン、数多くの聖人も生まれてきたんだけども、数多くの宗教の教祖もあったんだけれども、その内で、ちがう所は、自分は神の独り子だ!独り子だ!独り子というものは神のすべての愛を独占することできる。すべての愛を受ける。それは中心的存在である。それを中心として、我々信者に対しては、それは新郎である。新郎の相対は花嫁である。まあ、そういうように縦的内容においては新郎新婦と結びつくだろう。これはいわゆる心情問題を中心として、人間として最高の基準をこれを果たしておる。それが横的においてはイエス様は兄さんであり、我々は弟、兄弟である。こういう全般のいった内容をまとめてみた場合には、情的基準を中心として、これは神様とイエス様とその新婦合わせて最高の情的家庭基準を願ってきた。これはいかなる宗教にもそれはさがされない。それは独得の内容を持っておる。 神様の願うところは、個人的心情基準を願うのはもちろんだけども、その家庭的心情基準の願いがもっと人間世界においてそれを願うにちがいない。なぜかというと、人間といえば男・女が共に愛しうるそれは三者が一点に接し得るそのところというのは、それはなんでそれを一つに結ばれるかというと、それは愛の問題でなければならない。その愛たるものは、男より出発するんじゃなくして、女より出発するんじゃなくして、その愛の母体は神からである。自分から生まれた子供、自分から生まれ出るそのあふれる愛の心情が、絶対なる自分を中心として動機になった愛の基準が結果的に相対関係を結んでそれは結ばれた。また一致したその点たるものは神が絶対であれば絶対基準だったとすれば、その三者たるものは一つである。一つの中心に結ばれなければいけない。 こういうように考えて見た場合に、家庭を中心として神は絶対なる心情基台を作ろうと、そうして男・女に愛されるそれを男・女を愛した神様の立場を、人間自体がそれを体恤させるだけで、神様がいかに自分達を愛したかということを体恤させるためにそれを、父母を通して新しく子供を生ませる。子供を生むというのは、それは神様がアダム・エバを創った当時のその苦労の過程を体恤させるためにそれを、父母を通して新しく子供を生ませる。子供を生むというのは、それは神様がアダム・エバを創った当時のその苦労の過程を体恤させると共に、心情の基準を体恤させる為に、或いは、創造過程において神はいかに苦労し、苦労した結果においてその生まれたアダム・エバに対し、喜んだ心情の基準を神と相対的立場に立った人間として、共にそれを体恤させる為に我々に子女を与えてくれた。これが愛のいわゆるこの地的地上において最高のあるいは出発の情的基盤である。 これを拡張すれば、そこには、旦那さんがおり、それから奥さんが、その子供がおる。その子供がまたそういうふうになっていった場合には、そこにはおじいさん、或いはおばあさんが生まれてくるというんですね。だから一つの家庭においては、おばあさん、それからおじいさん、その夫婦を中心として、それから孫を中心として夫婦という三大夫婦圏をもたらしたとすれば、神の世界は間違いなく地上に果たされたというんですね。神の願うその心情というものは男・女を創った以上は祖父母があれば、父母が、父母があれば自分なりの夫婦という問題。この問題までこれを結びつけて、そこにおいて心情基準が結ばれた場合には、三夫婦基台を中心として四方に親戚関係の因縁が結ばれたのであろう。それが、そういうふうになった場には、その三代を中心として結ばれる情的その基準は、神の心情的最高のあらわれの表徴として立つべきである。だから神は、過去を見ても現在をみても末来をみてもそ一家庭において祖父は現在を表徴し、末来は子女が表徴するという。過去・現在・末来圏の表徴体である。これを三夫婦圏の心情圏を一体化せしめた場合には、過去、現在、末来がそこにきておる。家庭的において結ばれた絶対的基盤には間違いない。 神は、結局三夫婦を前にして愛される平面的な基準が神を中心として果たした場合には、これいかにすばらしい家庭であろうか。もしもそうなった場合には、それが神の絶対の愛を中心として結ばれたその家庭たるものは神の愛が、そこにおいて喜び喜ばれた場合には、喜んだその者は永遠に住みたいという愛の本然のそれは素質である。いつも喜んであとで寂しくなるようなそういうこともない。いつも喜んだ場合には、それは永遠に続かせる。 愛は横的に見れば、おじいさん、或いは父母、自分に対して神様が愛したその愛の基準というものは、それは歴史が変わって行っても神の心情内にはそれは変わらない。年はとって行ってもその心情圏においてはそれは変わらない。だから、愛の心というものは年に支配されるのではなく、環境に支配されるのでもなくして、歴史的に支配されるんじゃない。だから過去も現在も末来もいつも同じ基準において愛されたというようなそういう実地に平面的にそれが四方を解放して、それが生まれたとするならば、神を中心として生まれたとするならば、その世界はいかにすばらしい世界であるというんだよ。それが主体を絶対なる神を主体として、まあ、こういうような基斗が我々の統一教会で求める四位基台に相当するというのである。神のそもそも人間を創造したその目的たるものは、アダム・エバを創るその理想ばかりか、アダム・エバを創って、そこにおいてその後孫がまた夫婦になり、その後孫が三代圏を中心として、夫婦を作るというようなその基準がなった場にに、蕩生、長成、完成基準をその家庭的に、縦的に立たせた場合には、これ中心的三代がつながる。それは神様を中心として立った場合には、横的に四位基台が作られる。こういうふうになった場合にはこれこそ絶対なる我々がその理想とすべき求める、或いは、人類が求めるべき絶対なる心情的基準にちがいない。 こういう内容を、イエス様はそれの教えによるキリスト教の完教の本質の内容は、それを目指しておる。こういうふうに考えてみますというと、数多くの宗教があったんだけれど、その宗教を中心としてみた場合に心情基準においては、いかなる宗教もおよびつかない内容を持っているから、神は愛の神であった場合には、その教祖のうちでキリスト教、イエス様以上のその情的基準に結ばれるような立場に立つものはいないというんだね。だからキリスト教を中心として世界的な摂理を発展せざるを得ないというような結果になっちゃうんですよ。 堕落をしなかった場合には、もともとそういう基準に自然的になっている。我々は復帰とか、何かその宗教とか祈祷とか或いは新しく願うというような別に求めるような要件をそれを求めて来ても、生まれながらにもう、そういうような環境に生まれておる。神の愛に結ばれてその定められる環境たるものは、いかなるものであっても神のそれは神の主管圏内にある、その環境でありますから、そこに生まれたすべての事においては、それは神が干渉せざるを得ない。神が干渉るす絶対なる主人として、我々に干渉してくれたら、それは間違いなく天国の起源にちがいない。 堕落の悲しみ しかし、堕落したんだから反対になってしまった。神は、神はどうにも干渉することができなくなってしまった。まあ、我々は堕落論においてわかりましたように、神の願ってきたすべてのその要求のその心情基準というものは、堕落しなかった場合には、本質を中心としてそれは自然的環境において、それは横的世界を果たすべき基準であったにもかかわらず堕落した為にすべてがこれはくつがえしてしまった。すべてがひっくり返ってしまった。その堕落の為にどうなったかというと、天使長も失なってしまった。天使長世界も失なってしまった。それから、アダム・エバを創る前の万物世界も失なってしまった。それから、人だにみんなこれを失なってしまった。それから、人が願ってゆくべき天国人、神が果たそうとする天国の理想も、みんなくつがえしてしまった。 理想たるものは人を中心とした、立たせた理想であって、神を中心として立たせた理想なんだから人を中心として願ってきたすべてが堕落によってくつがえしたんだから、それによってすべてがくつがえされてきた。こういうふうになってしまった結果の世界が、今我々がだ今我々が住んでいる世界である。こういうふうに見るというと、神の願う国、神の国、神が願うその国が、果たして地上に生まれてきたか? それは生まれへいない。そういうような心情的基準において、自然的環境を世界化されるような、どこに行ってもそれは神様を愛する、神様が愛するその人、我は神様を愛すんだから愛する。人を愛ひなきゃならない。それは当然の事である。絶対の神様だから、五本の指があったらこれは親指は愛されやすい。一番指が愛することができないということは、それはいけない。一体化されたそういう心情圏に立ったとすれば、それは縦的には神様を愛する比例的な基準において、自分的な立場を中心として、横的にその愛の環境を実地的に作って行かなければいけないという。もしも神様がおったとすれば、神がそういうように我々を良心を中心に働きかけてくるにちがいない。そうなったら自然と人を愛するようになるにちがいない。しかし、そういう世界が、今我々が住んでいる世界じゃない。みんな共に相反する。一人のものがよくなった場合は、それをおしのけて自分が奪い取って、そのものを自分のものにしたいという、奪い合いの自分を中心として、戦いの戦争が歴史上に始まったのが堕落である。そのエデンの園において天使長を中心としてみた場合には、天使長は堕落という動機の主体の存在であるんだけども、その動機は何によってはじまったか。自分を考えることによって堕落は始まった。自分というものが問題。自分を重く見るという基準から堕落の動機が始まった。このような歴史上において奪い取ることのできないそういうような根強い根としてこれは始まった。だからこの根において縛られたそのすべての万民というものは歴史的に過去、現在、未来を通してすべてが自分を重んずるようなそういう考えの持ち主となる。自分はすべてを犠牲にしても自分を残したい。こういう考えをみんな持つようになっているんだね。それは堕落の動機によって、サタンによって植えつけられた。 だから歴史は今まで悲惨な戦争の歴史を続けてきたんだけど、その戦争は何の為にあったのか? 結局、相対者を愛する為に起こった戦争の立場ではない。今まで歴史上にあらわれておる戦争というものは、自分をを犠牲にして向こうを良くする為に、自分が犠牲になっても向こうがそれを成功する、させる為にそういうような立場で戦争したその歴史がない。みんな自分を中心として、三者を犠牲にしながら働きかけてそれが家庭を、個人は個人なりに、男は男なりに、女は女なりに、家庭において夫婦は夫婦なりに、或いは子供は子供なりに、みんなそういうような社会になっておる。或いは家庭は家庭なりに、氏族は氏族なりに、或いは民族は民族なりに、ある主権国家があるならば国家はその国家なりに、世界は世それなりになってくる。そしてそういうふうに今まで歴史は発展してきている。 民主圏と共産圏 そういうふうにして今の世界はもうきまっているや。民主主義あるいは共産圏に二つに別れる。それはそうならざるを得なかった。結局、人類は三十六億の人類が住んでおるんだけど、その人たるものはどういうものかというと、世界人類が地上に住んでいるんだけど、その数たるものは多数だというけれども、それは一人を三十六億倍したものだ。結局、一人によってそれは生まれている。繁殖してこういうふうになったものである。その一人の動機体の延長体であるというんだね。一人の動機、動機となったその一人が植えられたその通りの結実体として、これは横的に広められた数でありまして、それは本質から見た場合には、一人の男を表徴するんだね。それならば、その一人というものは自分を中心としてなりたった堕落の根底を中心として、これはつながれておる。こういうふうにして歴史はこれは結実期にきたっておる。 こう考えているというと、一人を代表したものだった。こう見た場合、一人というものは自分にこれはつきちゃう。確実につきちゃう。これは我々に一人ということを考えて見た場合には、自分というものは、肉心と良心がある。肉心と良心がこれが一つになれない。これが問題だ。これを表徴して、これを広げてその結実体として表われたのは、今の唯物史観、物を中心としての世界、人生観を中心とした世界の問題である。良心を中心として、その心を中心として世界を思うそういうような微観。二つによる争そう結果にきたされる結実にならざるを得ない。それが共に問題がここにおいて共に心は心なりに、その体は、体なりに、戦ってきた。それが最後の戦いがこれが地上において歴史過程のうち代表的なそれを人類を包括したその一人を代表したもので表徴された場合には、それが肉と、肉心と良心が別れた世界的な人が二人生まれて戦う結果となっておる。こうなると、どうならなきゃならないのか。 良心は肉心に負けてはいけない、肉心は良心に負けちゃいけない、ここにおいて争奪戦になっておる。 この主体は誰か? という場合には、良心の主体は我々は神様だ! 肉心の主体はサタンとなっている。それサタンとそれ神様の本質の主体は、本来の主体は誰か? というそれをつきつめた場合には、本当の主体は神様、絶対なる神一人にそれは帰する。けれども二つになった場合には、とんでもないことになる。我々は理想というものを果たすことはできない。理想というものは二つをもって理想とするものは阿呆だ! 何か主体性を中心として、一つ一つの基準において結びつけなければ二人は一つになれない。二つの理想圏を中心とすると絶対これは理想という世界はおこらはい。こうなった場合には、神様は自然といない結果になってしまう。これは哲学的に今まで問題になってきた問題である。神がいるか! いないか! いなかったとすれば我々人間自体が一つの理想の世界を願うというそれ自体が矛盾である。それを歴史過程を通過しながら今まで望みきった、それはすべての個人の人間であると共に、或いは歴史的数多くの聖人、或いは賢人、義人の行った道であるというんだね。心あるもの、或いは世の中に崇拝されるそういうような聖人列にその属しているすべての人達は、それは歴史を救う、世界をよくするという。よくする二つの世界を見つめながらよくするという考え方を持ったものは一人もいない。こういうふうにして、人間の本質からの願いを考えてみた場合には、そういう一つの理想圏、一つの理想圏を求めて或いは生命をかけ、或いは死の境地をたどりながら、苦労の克服、この道をそれは忍び忍んで行ったそういうことを考えてみた場合には、自分なりに願うのは一つの世界を願う。 そうすると世界を一つに作る、世界を神の国となすには二つのその相対関係において戦うようなそういう基準が絶対あったらいけない。一致したその基準を満たさなければならない。その一致されるそういう基準というのは、国々として結ばれるその基準じゃない。そこには多くの国民という問題である。世界万民という問題がある。共に囲まれておるその基準において、絶対的一致という事は、求められない。というんだね。それは大きい程それは理想的な圏のように思うんだけれども、絶対的一致点というものはそれは不可能である。そうすると絶対的一致点はそこにおいて結ぶんだ、といった場合問題を停止した場合には、それは自分において満たすその道しかない。そういうふうに帰結してしまうんですね。 情的問題 そうした我々には、良心と肉心がある。身心共に今まで歴史過程を数千年の歴史をたどってきながら、その中において悲哀の運命を乗りこえて、或いは苦悶しながらも、苦悶したその結果は何かというと、いかにして善なる人となるか、というそういうふうな歴史路程を慕い求めてきたんだけども、それを絶対的一致した自分を発見した、一人も生まれていない。 一致されなかった場合には、もしも善悪の主体者があった場合には、善悪主体者さえが完全に分別、完全に別かれることができない。それは完全に絶対的基準においてひきさがれない。こういうふうに考えて見た場合には、それをひきさげるその基台は、一体何だ! といった場合には肉心と或いは良心の基台もそうであるけれども、それよりは心情的問題である。心情的問題である。我々肉心も情的基準を願っているんだね。肉心であるけれども肉心的基準を願うようになるんだね。まあ、男であれば理想も何も持っていないそういう男であってもね、女に向ってはそれは情的願いを持つようになるんだね。良心も肉心も情的基準においてこれを願うんだね。良心も願う、それを如何にあんた達、如何にさがすんだよ。肉心も要求する所において、或いは良心の願う所において、それなりが反対されているその二者になっておる。こうなったそのものも何をもってこれを結びつけられる道があるであろう。或いは権力か、或いは何の手腕か、何の方策か。 方法をそれを発見することができないというんだね。体を中心として絶対的にそれを一つにさせるか。良心を中心として絶対的に一つにさせるか。いくら良心が肉心を屈服させたとしても、肉心は肉心なりにそれは上がったり、下がったりするんだから。あんた達もそうでしょう? その上がったり、下がったりする中心線は一体なんだ! という場合には、それは生命が問題だ。その中心性をなすものは何んだ! その動機をふっと思って見た場合にはね、本当に落胆させる、本当に落胆からそれを突破、爆発的にそれを上昇させるという様な力の根拠は一体何んだ! 情的基準だね。情的に打撃をうけた場合には、ああ! 生命を捧げてしまう。若者達が、まあ、この世的のその愛の問題を男女問題を中心として、それが果たされないという場合にはね、自分の生命でもすべてあげちまう。自分の背後も前後もなにもあったもんじゃない。すべてをほおりこしてしまってもその道を守る。こういうふうにして考えてみた場合に、一致化させるその根本の基盤は、自分において何をたたせて、何をめざして発展することができるであろう。これは重大な問題である。肉心の要求のその絶頂に達した場合に、良心がそりゃまるっきり反対する。良心の基準の絶頂に達した場合に、まるっきり反対する。こうみた場合に背後両方まとめて一致化させるその基台というものを我に何んの条件として満たせられるかということを考えて見た場合、深刻なもんですよ。 それは情的の問題であるというんだね。情的の問題だよ。男として女を愛するには心はさておいて、体はさておいて別々に向いあうの? あんた達祝福された人達手を上げて! たいがい祝福されただろう。まあ、たいがいそうだろう。まあ、見たいという場合には、見たいという心はさておいて体だけ見たいというの? 心ばかりその願うんであって体はもう行かないというの? だから問題はどういうものがこれを、自分を命より以上に、以上の境地にそれを注ぎこませる。そういう力をもつ、そのものがなければ二つ共にね、それはなんであろうか。これは愛の道以外には考えてもいないんですよ。愛という問題は、これは一方的のようだけれども全体がひっかかる? 全体なんだよ。だからこういう考えをした場合に、「ははあん、神という御方は心情的道以外の道を求めてこなかった場合には、神はいない。」こう理論的にいないという結論である。そうじゃない、神の愛を人間歴史において、それを示すそういう基台があった場合には、そこにはまずもって神の愛を中心としてうちでたそういうような教え以外にない。そういうように行動の結果をその示したそういう基台がなけりゃならない。 あんた達宗教をずーと考えてみた場合、宗教というものは力でおいては、どうにもできないけどもこれは中世か、ローマ帝国を中心として、まあ、実験済みの常識化された世界的常識された基準となっているんだよ。その根底となすその力の母体は何かという場合には、聖書でもない、聖書じゃないですよ、聖書の言葉がすばらしい、そうじゃない、その根底は何か。 イエス様に対して慕うその恋慕うことだ。神様は実にすばらしい御方であるよ。すばらしい御方だ! なぜかというと慕う心の一番強く激しいそういうその心情基台というものは何んじゃ! という場合には、これは新郎新婦だね。それ以外にはない。だからキリスト教の強さはここにあるんだね。ここを生みだして神は摂理をなして来た。だからそこにおいては我々統一教会においてはね、新郎新婦というものは新婦というものは、一人に限るということね、それを中心的新婦を中心として決定の基盤を作るということをまあ、だいたいわかるんだけども、今までキリスト教はそうじゃないんだね。男も新郎であり、女も新郎である。そういうような考えでもって慕う心、みんなイエス様に心情的その関係をもつこと、そこにおいて涙を流さない、流さない立場においての慕う心は許されないというんだね。こう考えてみて神様は何をもって今までやってきたか。情的基準を中心として考えて来たんだけど人間はね、人間は、ああ、よりよい愛される道にひかれるという。これ自然的現象なんですよ。強い心には磁石がある。十の力のこれ半分位の磁石があったとそうした場合、この二つ、二倍の磁石があった場合には、ここに相対点を持って行けばピーンと引っ張るんだね。それと同じ現象である。自然現象である。だから愛はより力が強い。その愛の基準が弱い愛ね相対圏にこれはあらわれた場合には、その一方は引かれて行く。そうなってるでしょ? だから問題は、サタンとか愛とかいうものを、これを処分してしまう。そういう方法を神は何んでもって求めたんだろう。真理でもって、苦労でもって、それは家庭において、蕩減の道をたどって行くにおいそうだけどもそうはいかない。愛情でもって分解してしまう。なぜかというと十の力より百の力の愛の心情でもって愛された場合には、来るなとしてものこのこやってくる。あんた達もそうだろう。男達は今まで結婚して、まあ、うちのその女房はこれ以上の美人はいないというすばらしいと思ったんだけど、さあーと見るというと、よりもこれは比較する能力があると、これは何より背からも便からもスタイルから何から見てもこれは今まで自分が惚れっぱなしになっていた。その女たるものは、これは、やあ、あてにならないもんだね。そういう場合には、男の心は浮き上がるんだね。むこうでモーションかけてきたらね、のこのこ動きだすよ。そうじゃないの?(笑い)そういうふうになりやすい男の心になっているだろう? そうじゃないの? それがそうじゃないとするならば復帰不可能だよ。(笑い)神の国帰れない。(笑い)それがその基準がね、基準が段階をへてね、ずーと上がってゆくようにして、それが強ければ強い所へだんだんと引っ張られて行くんだよ。 だから今まで歴史も宗教というものは、そういう基準になっておる。僕の僕の宗教、それ僕の僕圏においての愛する愛の基準、次元がちがうよ。それが養子の愛の次元越える輸上がって行くんだね。僕の僕というのは主人がいないというんだね。昔は殺し合い、なにか力があればそれだけでよかったね。何も中心者がなかったんだね。その時代だ。ここからずーと上がってきて僕の僕、それから上がって来るんだよ。僕の段階、こういうふうにして次元が次元がちがうね、良心だよ、肉心だよ、良心だよ。 次元がちがうんだけど、何がちがうか? 人がちがうんじゃないよ、うん? 人自体がちがうんだ。かえって摂理上においてね、かえって昔のアベルがその美男子かも知れない、うん? 外的基準から見た県合ノアがその美男子かも知れない、うん? 外的基準から見た場合ノアがもっと美男子か、そうではないよ、そうじゃないんだよ、うん? もっとすばらしいタイプの美男子か、アブラハムもっと美男子か、それモーセモーセもっと美男子だね。再臨主は或いはイエス様あー、みんな惚れてしまう(笑い)ばっかりの美男子か、そう、そうは行かないんだよ、では何によゃて美男子か? 心情的次元がちがうというんだね。だから情的次元がそれは高かった場合にはそこに行って引っ張られるんだ。それは間違いないでしょう。みんないろいろ質問したいんだけど、まあ、今日は行くべき神の国という、あそこまで行くまでこんなに走ったらもう何日かかるかしれない。(笑い) だから、情的問題が問題だというんだね。うーん、あんた達それをはっきり、まあ、それを頭に理論的にちゃんと治めなければならない。情的基準において価値観がね、価値がちがってくるんだね。 それは価値はなぜ求めるか、価値がちがえば価値の多いものは中心に中心者になるからである。中心になった場にに主管されるというね、こうなっちゃうんですよ。そうなるというところの価値というものは情的その次元に従うその価値を求めれば、現状の立場の人間はより以上の次元の立場まで指っ張って行く。 あんた達、兄弟においてもそうだろう。お母さん、お父さんがみんなの中で十人の子供があった場合にはね、兄弟があった場合には、誰をもっと愛するか。すぐみやげをわけてやる時にね、兄さんはいいものをやって、みんなだあーとわけてやって、自分は一番その悪いものを最後に貰うように貰うようになっていると、お母さん、父母がね、目をぱちぱちしながらね、ぱちぱちしながら愛の表情したら、それをかかえてがまんするよ。そうでしょう。だからこういうものを考えてみたら、情的問題は、これは大きな問題をその解決する基準が立ってるということね。それは無視できない。 だから神の摂理はね、神の摂理は僕の僕時代においては、それを相応したサタン世界において、サタン世界の僕、僕なりに愛するより以上の愛でもって神は引いてしまうんだね。百ボルトの何列まいてあるコイルでもって引きつけるんじゃないよ。その十倍の主を愛する十倍の力で持って引きつける。そうすると神に感電したものは来るなといってもね、自然とまわってくるんだね。なぜ感電されてもそのにこういうふうにして、その僕の圏を僕からずーとこれをある圏をもうけて、そこから解放的なものをもう一段高い次元の基準に上げる。必ず蕩減を必要とする、サタンと対決する。 蕩減の道を行く これは祭物というものは所有物決定の条件ですよ。これそうでしょう。君が強いか、わしが強いかやってみよう! だれに引っ張られていくか。こういうような戦いをやっているんだね。 サタンか、神か、神は強い心情的基準においてね一段高い僕の僕から、僕の基準においた場合にはその忠洪を尽したその僕がね、神はそれを以上に上げるには、それ以上の僕圏においての情的基準を中心として、また、引きつけられたところに必ず蕩減があるんだよ。上げるには必ず蕩減がある。そう、そうでしょう。あんた達そう思う? フットボールでもいいや、国家的それ勝利者をそれまとめるにはね、今までそのずーと郡からそれから県から選び出してそして、何組がだんだん上がってね、上がるたびごとに同じことを繰り返しますか? しないですか?(する)同じことを繰り返します? ああ、一体俺は部落でやってそういうふうにけってやったんだから、くじびきやってそうやったらいいんじゃないか。全日本の選手権を持ったフットボールがそういう代表団を決めればいいか。やってそこで負けた場合には、負けた場合には、後退してしまうんだね。永遠にね。勝った場合には最後まで永遠に進展するよ。進んでいくんだよ。そういうことをやって、あんた達祭物はね、捧げものは個人においても捧げもの、家庭においても捧げもの、氏族においてもみんなやっておるんですよ。これを繰り返す、次元の高い基準に上がるには繰り返さなければならない。わかりました? だから個人蕩減、個人が勝利した蕩減をなしたその基台立ってより高い情的、横的基準を願う男あった場合には、家庭を中心として蕩減する。 家庭からまた氏族方面に上がるには、一段上がるにはまた同じことを繰り返すよ。またやる。これはサタンがやればやりたいことである。それは民族基準においては、その基準において統一教会の原理がいいのは、条件蕩減だからいいんであって、まだやる時はあれこれそうはいかないよ。条件蕩減も次元の差異によって果たされる数は異なってきたね。それを一ぺんでやった場合には、いっぺんでそのおしきることができる。 しかし世界的の条件を立たすにはまだまだであるというんだね。世界は国家基準がなけりゃ世界的条件立たされないよ。基台ないのになんでそこらに立つんだ、立っているんだ。そういう結果になるんだよ。そういいながらして行くんですよ。あんた達、それがそっくりそう考えてごらんなさい。フットボールみたいにね、全国の選手権をね、ねらってやると同じように高い次元を満たして行くには必ずそこに次元の差異、次元が変わる時には必ず蕩減がある。ここにぶつかかるんだ。こうなるんですよ。これ間違いないでしょう? だから神はこうでしょう。落ちてしまったりするものはあとば、原理を滅ぼしたら何、どうして、アダム・エバ、堕落したそのものを死なない前に復帰するようなこと何回も繰り返したらいいじゃないかと。それにも拘らず神様は今までずーと歴史路程を通過しながら、何回も親のいわゆる摂理路程だけ見た場合には、神が勝った時はないんだよ。全部、全部失敗して負けたようなかっこして、如何にして今までの歴史路程に引き続いて、これを摂理しておる、しておるや。それをあんた達疑ったことない? 我々も一回でそれをおしまいの心で神様は何回間違ってもこれは今まで摂理、摂理を発展させた条件において、これは引っ張って行くことができるや。こういう問題になるんですよ。 愛の最高基準 問題は愛の問題だ。サタンと神を中心としてみて、神はいかに復帰できるか、復帰できるや。ほかに愛の、愛のその本質から見た場合には、愛の問題で結んだものが主管するのが原則であるにもかかわらず、神が如何にまたこれを取って行こうとするか、この問題ひっかかるんですよ。そこにおいては、愛の基準において負債があった場合には、そのほかにはかからない。よりよい、より大きうそれを愛を果たすところはね、よりよい、より多いもっとすばらしい愛をやるというところには、それを反対するものはない。悪も反対することもできないよ。より少ない愛をやる、やるという、自分にとってしまってやるとするならばそこが問題なるんだよ。よりサタンあんたより大きい愛を捧げるから、それ以上あんたの愛より以上のものを願っているんじゃないか。だからそれいくら願う愛情の最高基準をわしはやることができる。じゃあ、愛の心情の競争だ。という場合ははね、まあ、そういう立場立ってるんですよ。だから、まあ、復帰の道を出発することもできるし、今サタン世界においてね、サタン世界でこれを僕の僕、その基準になったら、より愛されるものに引っぱられるという基準があるとするならば、それが創造原理とするとあるならば、より大きい愛の基準をもって向かえるところには、何回も神様に対して反対するにちがいないんだね。そうだろう? だから僕の僕の基準に即しておるそのサタン世界には、それより以上の愛をした場合には、神は創造できないんだよ。そこで引っ張られてもどうにもならないや。こうなっているんですよ。それで失敗した場合には、その基準においてその僕の僕の基準の愛をなしたその基準は神はいたらないんだね。それ以下の愛の心、心情でもってはそれは更にもっとできないんだね。だからそれ以上の心情の基準だったら、いくらでもやることができる。 一回やって不満を感ずるようになっても、二回やっても泣くようになった場合には、それより以上のものを、それをやった場合には喜びになるよ。だからサタンは苦しませる主人であり、神様は喜ばせる主人であるというんだね。何を中心として、愛を中心として。なぜサタンは苦しませるその主人か。愛の心情圏の上にそれを蹂躙させるという主体者だからこういうふうになっているんですよ。 だから宗教というものは強いんだね、強いんだよね、命がけで信ずるんだね。なんで、じゃ、自分なりに身心共にそれを心情的それを体恤するからね、霊的にね、それで僕の僕の基準から僕の愛を失敗したとしても、そのより次元の高い愛を持って行った場合には、おお、神様、失敗したじゃありませんか、もうよしてちょうだい。とは、いわない。より以上の愛でもってやるんだから反対したりしても、サタンとしてはどうにもならないんだよ。だから神は失敗しながら、どういうような情的作戦を成してきたか、というより高い次元の愛情でもって世の中の万民を愛してきたというんだね。それで僕の僕の愛より僕の愛、それから養子的愛、僕の基準で失敗したとしてもそれは養子的愛をもって、またそれから実子を迎えるようになった。 サタン世界の復帰 いろいろ蕩減の道はあるだろう、反対に行くんだな、それはそのまま行かない。いい物食って。そうじゃない反対に行く反対ね。そういう方法の反対方法を、それをなしてその情的道に分かれて行くことが出来るというんだね。国家がこうなっちゃう、世界がこういうふうになっている。今まで我々はどこに立っているかというと世界のこの真中にこういうに、先進国家はこの国の先頭に立っている。というんだね。先進国家であればある程サタン世界の一番先端に立っている。ここにおいて、こういうふうに復帰しょう。さあ、別れましょう。こう行きますか? だから問題は世界が反対だ。 世界はだんだんせまくなるよ。だんだんせまくなって自分の所へ行ってどこにいるかというと、自分の良心圏内までに行く、良心を中心として行こう。そこにおいてそこから良心一人じゃ寂しいじゃないか。体を持って連れて行こう。連れて行くには、現状そのもののようなそういう因縁を持ったその体を連れて行ってしまったら大変なことになる。ここにおいて良心を中心として体が一つになった体を作って行く。強制的に、こういうふうになっているんですよ。そういうふうにして、こういう個人がポーンと表われた場合には、そこからこれがアダムが創られたという事で、しかしながら、アダム一人で創られないんだよ。天使長の援助とね、この世的の物的条件、環境が動員されて、アダムが創られたんだろう。霊界は今まであんた達を天使長の使命を果たす為に、地上のアダムを創造するようになしている。だからあんた達は、体がこれは無限に生きるんだよ。土のかたまりとか、そうして人間創る時その原料として以外には見えないんだよ。(笑い)そう、そう見ているよ。そうみてそういうふうに何を中心としてこれはまた見るか、というと良心を中心として再びこれを創造した。それ良心というものは、人格、人生観を持った良心を求めるその人生観というものは、今まで人間世界にはこれは生まれてこなかった。なぜかというと神を中心とした子供が生まれていないから、神を中心として理想的生活圏が生られていないから、その人生観というものは今までないというんだね。だから、かっこたる信念に燃え上がった神に一致した人生基準その価値に創造本然の基準に一致した価値に立ったそうした男が、あった場合には、その女は男によって創られたんだね? そうだろう? だからあばら骨を抜いてと聖書は創ったというが、そんなんじゃあないよ。そりゃあ、体は創った話であってね、じゃあ、こうなるんですよ。 復帰だよ、復帰。もとに帰ってこなけりゃならないというんだね。 実子と養子 じゃあ、もとに帰ってきて勝利した場には、これは勝利した自分が、勝利したという場合には、その勝利したというものが神様の実子であります。血統的ちがいのものだというんだね。いくら真を尽して、いくら神に愛されてきたとしてもね、そのものは神の実子じゃないよ。養子だよ。養子が必要とするのは、実子があるときか? いないときか?(いない時)いない時、自分の実子を持っているにもかかわらず養子を作ろうとすればそれは気違いだね。(笑い)養子を必要とするのは、実子がいないから。もしも養子をきめたにもかかわらず実子が生まれてきた場合には、その夫婦はどういうふうに思うの? 「おお、実子、養子を決めたんだからあんた実子も養子に従え。」そういうの? ぶつぶつと他の生活を始めるんだね。そうした場合には実子が生まれて来た場合には、ああ、この養子があの実子より以上自分を愛しなきゃならない場合には、親の心は「このやろう。」というような、というの? いわないの? いいます? いわないの? あんた達分からないかも知れないけど環境から見たところでどう思ってる? いうの? いわないの?(いいます。) それと同じだ、エデンの園において、天使長とね、実子と。「ふん、アダムというものは、今生まれたばかりのものが神の関心をもっとも持つし、きもちわるい。」 そこなんだよ、堕落はそこなんだ、それは、あるべきものその本質からその、そうありそうな、それは思いですよ。考えですよ。だから、だから絶対的法、法律をそこにおいて、きめておかなきゃならない。 それで神様は願い求めてきたその子供として願うのは実子を願ったんだろうか? 養子を願ったんだろうか?(実子)あんた達は養子を持ちたいの? 実子を生みたいの? (実子)養子と思うものは一人もいないんだよ。しかたなくそうなった場合、しかたないからそれを願うんであって、解決する自由な環境において願うというのは、それはいないや。ただ神様は実子がいないから養子をしかたがなしにつれて行くんであって、実子をもし持つようになった場合には、養子と実子が喧嘩するのを願うか? それとそっくりというんだね。じゃあ、どうすればよいのか。ははあ、親から見た場合には、いくら小さい若い年であっても、実子に対してその親が愛すると同じような立場に愛してもらえば、ははあ、最後にはね、最後には親がその養子を応援するよ。そういう道がある。それを説明するんだね。ははあ、君は何も知らないけれども、この養子さんがね、君にこういうような命がけの犠牲をし、或いはこういうような事をなして苦労をして親に対していかに援助したかわからない。かえって自分より多く苦労したものがこの養子であるというのである。そういった場合には、実子そのものも養子に対して感謝するの? しないの?(感謝する)感謝して、感謝して、おお、君来るなというその実子が恵まれれば、恵まれたものをわけてやりたい心持ちだろう。その思想が丁度イスラエル民族なんですよ。 イスラエル民族とイエス様 イスラエル民族、養子、養子圏を作って実子をきたした場合に、そこにおいて養子が実子をいかに苦労しながら実子のために奉仕にきたか。この四千年の歴史は実子を求めてきたんだから、それにおいて国はあるいは犠牲になり、民族は犠牲になり、数多くの家庭、数多くの個人がこれを犠牲にして、結局あなたのこられる道のために、そうしてあなたが苦労する道を防備するために、こういうイスラエル国家とユダヤ教を作る為に、養子圏が苦労しました。それに対して神が弁明し、神が応援する立場において、子供は「はあ、そうでございますが、そりゃ実にありがたい。わしに祝福されるものがあった場合には、それを分けてやりたい。」という心持ちを持つような環境に向かって、イスラエル民族はをメシヤにそれを返す約束をきたしたことは、それはユダヤ教の歴史なんですよ。そこに丁度、天使長と同じようにね、ええ? 国家的環境的教会的立場から見た場に、実子のすべての主管圏内に帰すべきそれは、養子圏の準備基台であったにもかかわらず「何なんだ、君が神の子供や。」とこういうんだね? それが問題だ。うん? ユダヤ教ね。パリサイ教の信徒達みんな「君が神の子供や!」それはイスラエルの歴史を結ぶ。現在こういうふうに苦労の結果にそれはなれ果てているユダヤの無視する圏、それは無視じゃないよ。公認すべきそれは決定的瞬間が実子があればこそ、自分なりの目的が果たされたにもかかわらず、それを反対したね。それは丁度天使長と同じだね。わかりました? だからユダヤ教を中心として「何んだ、神の子って何んじゃあ、イエス様が何んやら、考えて見た場合何んでもないじゃないか。小学校も出ていないや、何んだそれ大工か」(※ こんにちの分派が、お母様「独生女」についても語っているみたいですね) それとも背後関係が来た場には、これ自然と悪いうわさを持っている男だ、みんな鼻で笑う、笑えるようなそういう歴史のものが「ああ、神の子なりや!」丁度国家全体、教室全体が第二天使長の立場に立ったか? 立たなかったのか? 立ったね。これが問題である。それでイエス様は死んだんだよ。だから神は、神は最後の愛を最高の愛を誰を中心として愛すべきか、というんだね? 誰なの? アダム・エバだろう、実子だ!実子!だからそれを向けて再創造の路程をたずねて行くんだから、愛の心情圏、サタン世界において愛情圏のその基台があるとすれば、一番最底の基台から、ずーと、より高めて養子圏まで来て実子を迎えた場には、その養子としてなった場には、それは永遠の僕とならなきゃないんだよ。養子というのは子供だよ。僕は? 僕と養子と同じなの? ちがうの?(ちがいます。)ちがうんだ。僕は決定的血統的因縁がなにもない、もってない。しかし、養子は自分の従兄の関係やその親威ね。同じ氏家において選らぶだろう。血統的因縁が結ばれておるよ。そりゃ、違うんだよ。養子と僕がいかにちがうかというと、僕は血統的因縁なし、養子は?(ある)直接はないんだど自分の先代の関係を中心としておやじとかね、そういう関係を中心としてね、こういう場に神は摂理から見た場合に、養子というものは原理にあったか?天使長しかなかったんじゃないか。それいかにして養子の圏に立たせるか。前代の前の因縁において、ええ? ぞうだろう? 自分のおじとか、それからまあ、おじいさんの関係とか、自分の前代の因縁を中心として結ばれるよ。 アダムとイエス様 こう見た場合アダムというものは一体誰だ!イエス様の前代、前のイエス様だというんだね。わかる? アダムというものはイエス様の前代、前の代だよ。だからそういう本質の因縁を持っておるから養子圏が作られているんだね。こうくわしく申したら時間がないや。 これはあんた達はっきり見分けなければならないんだよ。この、その養子圏はイエス様を中心として一つにならなきゃいけない。ここに天使長みたいな、天使長とアダムにおいての心情的決裂、分別した自分の主体権をもしも、今まで歴史的伝統基準が、ユダヤ教基準を作っておった今までの自分の主体権がイエス様にして、何んじゃ、こう見た場合、世界も同じだよ。再臨の主が来られるその国という国が生まれる時にね、これは世界という国がアベル圏でも養子圏か或いは僕の圏か、僕の僕の圏か、そうなっているんだよ。蘇生、長成、完成圏につながっているというんだね。次元が違うんであって、しかし形は同じだよ、形は同じ国家体制をなしておる。それに対して再臨主は一人ぼっちきりである。その一人ぽっちきりだといってきたとして、そりゃ、一人じゃないよ。それあってそれにそういう家庭が生まれる。それあって理想的子女、それあって理想的国家、理想的世界が生まれるんだよ。その一点の価値というものは、養子圏世界圏に比べて、実子圏理想圏が生まれる。その主体者である。それを踏み越えなければ国家も理想圏に入れないよ。それを踏み越えれなければ世界も理想圏に入らないという立場だよ。そういう立場において、丁度ね日本の国に、日本の国はちゃんとあるにかかわらず「何んだ、養子圏の日本の国だとすれば、実子というその存在は日本の国は何んじゃあ!」という場合には「このやろう!」という場合には、これはどうなる? 復帰できる? できる? できない?(できない) 宗教でいったら個人的天使長、家庭的天使長、宗教的天使長そろから国家的天使長、だからみんな個人を、個人が家庭、家庭それから氏族、国家となる。宗教は何を中心としてる?氏族を中心としてなっているよ。イエス様を中心として氏族、氏族を中心として国家を建てる。だから家庭、氏族、それから国家なるんだよ。それから、一つの氏族を中心としてみた場合には、統一氏族があった場合には、それから主権、国家的主権、国家、世界となるんだよ。だんだん上がって行くよ。天宙復帰はどこより? 家族より? 国家から、国家、世界、天宙となるんだよ。神様の復帰は国家じゃないんだよ。世界、天宙、神様になるよ、心情の復帰は神様の愛の復帰は、天宙、神様、愛になるんだよ。こうなっているんだよ。次元はだんだん高まって行くよ。わかったの? 復帰はそうなっているんだよ。だから時代的恵沢いかにして時代的恵沢が生まれてくるか。神が摂理は失敗したんだけれども、摂理の方向において、次元を高めて、愛して行くんだから過去には僕の時代なり、今には過去より悪いとしている? 今には養子圏を中心として、実子圏のその心情の次元を我々は迎えることができるから時代的恵沢圏に立つことになるんだよ。わかったの? わかった? だから心情が問題だよ。 個人出る前に何が出なきゃならないか。天使長だ!天使長、三人の天使長だ、三人の天使長、わかりました? 三人の天使長を宇宙以来これ一人の目的は完全復帰を勝利として願ってるんですよ。それが一人が出たとするには、天運がもしもそれが戻るとするならばそれは三人の天使長のその侍る基台に立たなきゃならないんだね。わかる? それがそのものが生まれてくるこの物的環境が必要であるというんだね。こう見るんですよ。だから三人の天使長と物と世界だね。それから我々の再臨の主とこうなるんだよ。それらのものと、そのものとのエデンの園のその基準だというんだね。だから、結局は霊界と実体界だね。実体界が一つにならなけゃならない。そうなるというと一つになるには、誰を中心として。こういう場合には、歴史的に、愛されてきた歴史は、今日まで養子圏がなんで霊界が今までアダムをさがすまで情的何千万年だ!今まで六千年じゃないよ。何百万年も続けていたんだから、愛を受けた経歴から見た場には、断然と有利になすんだね。まあ、そういうような基準に立っておる。それどころに、それでももちろん男の子一人が再臨主が生まれたとすれば、それならばそれは養子圏の愛じゃないの? 実子圏の愛だよ歴史は、その場合にはその場合にそこより始まるんだね。実子を中心として神の心情の歴史というものは、そこより始まるんだね。わかったの? ここにおいて霊界と実体界がこれは一つは天使長的であり、一つはアダム的であり。これはこの期間において蕩減しなきゃならない。霊界全体と実体全体を合わせてひっくるめて蕩減、これは霊界的養子圏と実体圏的養子圏。それに応じて宗教圏である。今まで霊界と、宗教圏を中心として関係もったものは、地上に関係もち宗教圏と関係ないものはいくら霊界へ行っても関係もつことができないよ。そういうものは地獄へ行くんだね。そうなっているんだよ。わかったの? 復帰路程においてはそうなるよ。再臨主のこられるこの二千年以後を見た場合には、ここには養子圏と僕圏とずーとつながってずーと霊界がつながってくるよ。霊界がね、ずーとたたいたらこうなってる、なってるよ。こういうふうに霊界もそうなっているよ。それを比例基準において相対関係によって延長するんだね。だから霊界は実体界のために今、働き、働きかけている。実体界は霊界の、霊界の目的を果たすためにそれを行なう。ただ、それが目的をなしうるまで霊界は援助し、目的を果たすその実体の生まれるまで宗教は続くというんだね。それが生まれたとすれば、それで宗教界の目的が果たされたんだね。そうしてカイン的養子圏的宗教圏、養子圏的宗教圏とした霊界圏が一つになるんだね。一つになって、それがたった一人、一人の世界的養子圏という。代表的養子だから宗教から見た場合には、三人の天使長圏の宗教圏、こうなるんだよ。だからキリスト教を中心とした場合にはキリスト教にはこれは別れることが蘇生、長成、完成三段階に旧約時代、あのローマのカソリック、それから新教、統一教会、三段階だよ。キリスト教を中心としてこれが完成級になったら、そこに仏教とかね、それから儒教いろいろその民族的なこういうふうになっているんですよ。それが成就して、だからそれが三人の天使長的な結び合いを、覆うすべての霊界、すべての人類を動員して今まで果たしつつある、あるというんだね。 イエス様と洗礼ヨハネ そうすると養子というような世界的代表者である。世界的ね、世界的存在である。それがイエス様時代において誰であるか。それが洗礼ヨハネである。霊界を統合したこの地上の養子圏をすべて代表して立ったととするならばそれ一人がね、ルーシェルが反対したアダムの立場を蕩減するような立場に立って、一人がイエス様に完全に昔自分に対して神様が愛してきたその愛の心情をアダム創造する基盤に行くように減少感を感ずるような立場だから時代的に、完全に奉仕し、それこそ喜ばしい理想の実体であるように思われる。そういう計画的、準備的なことをしなければならないから、ユダヤ教を中心としたメシヤ! メシヤ! メシヤ! すべてにメシヤを中心として協助してきた。教会あるのはメシヤ!国あるのは!すべての存在はメシヤ!自分の主張の動機で生まれた場合には、大変な事になる。だからその国が自分を主張する。教会は自分を所有する。教会を代表する。それは洗礼ヨハネがエリザベツの胎児だったんでしょう? だから、そうとう名門の家だった。その家庭においてそれは人知らぬ個人において、人知れぬ洗礼ヨハネがずーと三十余年の生活というものは惨めな生活ですよ。それを考えてみなさい、聖書をみれば「ああ、偉い御方だ。」うん? それは着るものは、らくだの着物を着たしね、食べるものはいなごとそれからみつ、自然みつを食べて修道の道を行ったんだから、いかにすばらしいだろう。そういうふうに思うんだから考えて見なさい。 それ親戚達が歓迎したと思う? うん? あんた達何才今? 三十になったもの手を上げて。まあそうとういるんだね。あんた達の年令までね、今のうちでも自分の父母が農業したりして、援助せずして、とんでもない山の洞穴に洞窟の中に住んでいる。何かメシヤが来ると準備するという自分なりの思い、それ、その時代に行った場合には、あれは気違いになったというに、これはもう部落これは大騒ぎになる、洗礼ヨハネの立場だったんですね。洞穴に寝たり起きたりして、食べるもの持たずに、いなごなんか食べたり。 まあ、そういうようないわゆるその、みんなこの世的に犠牲をしながら、たった一つの希望というのはメシヤを迎えるというたった一つのことだね。それ以外のことを考えたら大変になっちゃうんだ。サタンになってしまうんだね。自分を考えた場合、サタンになっちゃうんだね。そうでしょう?自分が考え、自分が考えた場合には堕落しない、しない前の天使長、堕落動機なった自分を中心として重んずるような思いを持つようになった場合には、それはとんでもないことになるんだ。その基準を蕩減するようなそういうような代表的立場に立たせるには、その環境的において、何希望一つできない。ユダヤ教に対しても希望持つことができない。自分の国に対しても希望もつことができない。 何よりもメシヤ だから、国をすててもメシヤ!ユダヤ教をすててもメシヤ!自分の家族をすててもメシヤ! 自分の生涯をすててもメシヤ、メシヤ以外一切の望みを持たないように神はちゃんときました。それはなぜかというと、こういう中で自分の教会を宗教をかつぐなよ。自分の家庭をかつぐなよ。自分の一個人の栄光をかつぐなよ。ださらすべてをすてても、たったそれより貴重なのは、国をなくしてもメシヤ!教会を犠牲にしてもメシヤ!家庭を犠牲にしてもメシヤとなるんだよ。自分の生涯を犠牲にしてもメシヤ! こういうふうにして、すべてをそれにこれは一致させる。それに喜びの心でもってわれは行くというような創造的心情基準を神は求めて、そういうような環境に洗礼ヨハネを立たせたということをあんた達は考えなきゃならないよ。そうしたなら、あんた達原理的にあわないんどしょう? もしも、本当考えれば自分の従兄関係なんだよ。自分の六ケ月自分より下に生まれているんだからね、従兄、従兄関係なんだよ、弟だよ。「やい、このやろう」というんだよ。うん? まさしくそれはカインの立場だ。アベルの立場に立ったようなそういうものは、それは昔うわさしたところによればね、とんでもないうわさをみんな聞いておる。うん? それは私生児として生まれてきたからそれは親近の親、親近のわくの人から、みんなうわさになって「それは自分の弟じゃない。」というふうに思っているんだね。まあ、この世的に考えてみた場合には、弟の立場であり、自分として侍るにそのかなえる可能なる何の価値も持っていない。しかし、神様の命令であった場には、それは絶対に服従すべきであるという立場が間違いでないにもかかわらず、いったりきたりしたり、先生みたらそうなっているんでしょう? 行ったり来たり、まあ、ここに立つそういうふうになった場合には、養子圏霊界、養子圏実体界には一つになって、これが内外一つになるんだよ。養子圏において霊界がないとすれば実体界が養子圏のそのものとして、一つになるんだよ。それから、それを中心として横的にはね、イスラエル国家が外的になってユダヤ教が内的、内外一致しなければ復帰はできないんだよ。そうでしょう? 内外一致した、なぜ、どうして、どこから人が二つに別れておる、良心と肉心が別れておる。それを統一させる根本的思想の基盤を求めて行くのが、摂理の路程であった。それを解決するには内外のそういう関係をこわす。それを一体化したそういう基準を結びつけなければ理想世界はここにこない。だからユダヤ教とそれからイスラエル国家が、宗教が内の方でその外の方は国だね。だからイスラエル国のメシヤ、宗教のメシヤ、これを見た場合には我々は原理から見れば肉身にもね、肉体にもね肉心があって、肉体があるんだね。それと同じようにそういう心で見た場合には、良心を中心として、それは外的の内的立場がユダヤ教で、外的の立場がイスラエル民族でこれが一つになって宗全に一つになる。そこに行く統一神がそれを結びつけるには、一体何を中心として結びつけるか? 心情問題、愛しなければならない、従わなければならない。だからイスラエル民族の歴史はメシヤを慕うように神は、ずーと教えて来たんだね。ユダヤ教もメシヤの為にそれがその実子を中心として、組み合せ家庭的出発の基台を果たそうとしてヨセフの家庭とザカリヤの家庭を見出して行ったにもかかわらず、それが二つの氏族だよ。それ一人一人が国を愛し家庭が国を愛した場合には、そのものになるよ。氏族が国を愛するんだよ。だからそれが個人的カイン蕩減はもちろん、家庭的カイン蕩減はもちろんそうなるんだよ。それが、氏族的カイン・アベルの蕩減は一つになるんだろう? そして氏族的一つにつる。そうなって行った場合には、それから氏族強一つになった場合には、洗礼ヨハネ家庭とイエス様の家庭が一つになった場合にはね、そのままその中ですべて十二十二弟子もその中にいるんだよ。七十門徒もその中にいるんだよ。一二〇門徒もその中にいるんだよ。そうでしょう? 親戚を集めて、それは救うことが出来るというんだね。そうしたら、イエス様は結婚してね、だから個人のアベル圏、個人の養子圏を中心として、個人の家庭、家庭的養子圏、氏族的養子圏こうなっているよ。それが洗礼ヨハネを基準としたその時代はその洗礼ヨハネはその予言者としてね、そりゃ、それを言われたのが信仰の深い、そうだったんだろう。そりゃ、ただ個人の背後には家庭があり、氏族があり、それから教会があり、ユダヤ教があり、それから国を作る。そういうふうにつなぐようになっておる。うん? そういうふうにつなぐようにして組まれた場合には、イエス様は死なないんだよ。だからイエス様家庭を中心として、ヨセフの氏族を結ばれた。ヨセフの氏族とその洗礼ヨハネのその氏族ね。 国家的勝利圏 ユダヤ教とイスラエル国家が一つになったとするならば、それから国家的勝利圏が生まれてくるんだね。それから世界的カインの国家的象徴がローマである。その基準において、一つになったとすればその環境のすべてのその国たるものはそのアブラハムのね、その十二氏派の圏が中近東とアラブ圏だよ。その時ローマ帝政時代は政治力は相当麻痺してしまった。その時期だよ。聖書を読めばピラトがね、群集を非常におそれたのを見ても、いかにその力がおよびつかないというような立場に立ったということを我々は見計る事ができる。そういう風にして、もしも国と教会が一つになった場合には、それはすべてが結束される。そのアブラハムの子孫である十二支派を中心として、ヤコブの子孫である十二支派を中心として、アラブ圏すべてを統合することなんだよ。そうしたら、ローマに向けてこの中近東一体が一つになったって、そりゃ、まあ、反対したってローマに向けて新しい思想のその歴史がね満たすことができるというんだね。そうやってローマを屈服させた場合には、それは世界的復帰はそこにおいて果たせるというんだね。だからまずもって、国が問題だ。 だからイエス様を中心として、イエス様はアダムの立場にもかかわらず、それは、きっすいの実体として生まれたイエス様の前に準備した養子圏、それは霊界或いは実体界において、イスラエル選民を中心として、内的の中心の立場に立つのがユダヤ教であり、それが外的の国の立場に立つのがイスラエル国家であった。それが一つになってメシヤとおうになった場合には、国家主権を中心として復帰の時代は完成されるというんだね。国家が成り立った場合には、その基準を中心としてローマ! これは退治して神の方向に進んで行けばローマは、それは自然然と衰えてしまって計いく結果になる。これは中近東の膨大なるそのイエス様の理想圏が生まれた場合には、ローマは救出されるものが四百年の歴史過程蕩減の道を通してそれが復帰したね、そういう結果になっちゃうよ。わかりました? (はい)そういうような歴史の過程を来た。 行くべき神の国 こういうふうに考えてみるというと、行くべき神の国、行くべき神の国はどういう風にしていかれるか。養子圏をそれを相続しない場合はね、養子圏を実子が相続しなければならない。そうでしょう? 相続するにはこれはなかなかむつかしい。歴史過程が今までやってきたその歴史性というものは、自分を中心として考えるようなサタン的基準に成り果ててるんだね。それで文化圏を持っておったならば、文化圏すべてを犠牲にして、だあれも持っていないイエス様に、よう背後のその人格の基準とか、この世的見た場合には、イエス様は誰が信じることができるのか。今、イエス様偉い聖人であるというように、歴史的から数多くのその蕩減の価値をね、犠牲にしてしまって、それによって高まった基準があるから、それをあがめることができるのであって、イエス様自体にあんた達待ることができるや、考えてみなよ。それはなかなかむつかしいというんだね。 すべてを持っておるその文化圏の最頂の最絶頂の立場に立ったその養子圏の世界は、何んにも持ちない、その男一人、一人ぼっちにするの? 国もなければ何にもないんだよ。エデンの園には、アダムは二人ではないんだよ。そうだろう?こられるその御方というのは二人じゃない、一人! たった一人! 一人ぼっちで来るその御方を、それをすべてに復帰すべきその基台を今までその歴史的キリスト教はね、準備してね。同じこと、ユダヤ教と同じような思想の過程を再びこれは繰り返してやってくるんだね。いざというそういう時になって行く時には、必らず蕩減の世界となるだろう。二つに切られる。祭物は二つに分かれる。それに世界は、分かれる。血を流すようになる。その血を流すのはどこか? 祭壇の上であるというんだね。そういうところが生まれてる。それはまさしく韓国のような立場である。そこには四十年というような、その民族は四百年あるいは四千年の歴史的悲哀をサタン世界においてそれは、拘束されて苦労した道があるから、四十年の過去四十数に該当するその迫害の経験をつんでこなきゃならない。まあ、こういうふうになるんですよ。日本を中心としてアダムはエバに主管されたその基準を蕩減するにはね、エバに主管されるその基準がある。それを主管された立場において勝利なさないというと主管される。されてきたエバによって、今まで堕落の経過を積んできた歴史的勝利の基準を条件として立たせることができないというんだね。それを乗り越えなければアダムとして、それは通れるこの世的なサタン世界をぬけ出るその道を逆に作ることができないというんだね。そういう歴史的内容を持ちまして、ずーとやってきておるというんだね。そのすべての一切の思想はキリスト教たるものは、洗礼ヨハネにユダヤ教、イスラエル民族の思想が集結されたと同じように、すべては再臨の主に集結しているのである。そうなってくるよ。ほれが今までキリスト教の歴史だよ。 十字架を勝利してローマの迫害四百年時代におきまして、あるいはライオンで、あるいは油の中で、蒸される時代、あるいは殺される、あるいはのこぎりで切って、それを血を流して犠牲になる。如何なる迫害の中におきましても勝利の起点は何か。きたるべき再臨の主あなたの為に、あなたの願うその来られるその一日を待つその思いでもって、忍びきってキリスト教を世界的発展させてきたのがキリスト教だよ。いっぺんにして来たんだよ。それは過去のその民族的イエス様を中心としほ、メシヤ的民族、国家基準を勝利を求めてきたその基準で、我々はキリスト教を中心として世界を未来図として、その集中点を求め、キリスト教圏を中心として、その慕う濃度たるものは、国家的基準以上より上でなければならない。こうなるんだよ。それがイエス様を慕って行った弟子達、十二弟子、聖書にあらわれてる十二弟子、それらはイエス様が、その世代の当時におきまして、イエス様の行くべき道を知らなかった。自分なりの成功を自分なり欲望をそれをかかえて働いてついてきた。そういうものを結果においては、イエス様を最後には、恨んでしまった。そうだろう? 自分の考える世界においては必らずイエス様の前には、怨讐の立場をそれはなされる。そうなっちゃうんですよ。だからイエス様の三年の路程において非常に内心的に苦労された。そうなんだ。我々はそれをあがめるためにきたんじゃない。 謙遜になれ! 額の上に鉢巻きをして、そうして、たらいでもって弟子達の足を洗うの? 洗らわないの、洗いながら、わしの行くべき道はこうである。共に犠牲に精神を持ってみんなその侍るような精神を植えこもうとして残したもんだから、これ、みんなサタン圏において、相反発するような立場に自然立つのはそれは当然である。いろいろな、そのほうぼう回りながらあるいは、その御飯をかりてだね、あるいはいろいろな環境にぶつかり合う環境において、それは弟子達自分達なりに情的結び合いを多く、或いは強くするための因縁とあるいは思い出の条件として、これは試練できない強固たる力の母体として、その三年の路程間に残したのがイエス様の路程であったというのである。それでイエス様の行かれる所は命かけても、死んでも自分は先に死ぬ、死ぬことがあろうけれでも、先生にはそういう絶対そういうことはあってはいけないんだね。命をとり返えても自分は何ぺんとり返えてもそのイエス様みたいに捧げるというような覚悟を持つようなその立場に決心する立場に立たせるためには、まあ、ひっぱり回わった三年の路程である。それは、とうとう十字架につけられるような、その運命に落ち合うというような、みんな自分なりの願いを求めて、ああ、自分達が求めてきたすべてがこれは叶えない。みんな反対して回ってしまうようなそういう結果になって、宗教はこういうような一方的進む道を残すようにきたというんだよ。それ、まちがい? 事実でしょう? それが今も歴史的にこの時代まで再臨の時代までこれは、延長されてその通りのその再臨が生まれてくるというんだね。その通りの関係が生まれてこなければ蕩減出来ない。わかりました?(ハイ) 統一教会の使命 だから、こういうふうに考えて見た場合に、我々、統一教会というものは世界的使命を果たす。そういう教会とすれば統一教会の文先生といえば、それはもしも世界的使命を果たすとするならば、この環境を如何にこれ収拾して行くかという重大問題、サタンを収拾するものばかりではない。君等と先生の関係を如何に原理的基準において確固たるその基台のうえに作って行くかということが、これが何よりも重大な問題だ。こうなるというと養子圏、統一教会において養子圏は一体どこだ! 養子圏はキリスト教? キリスト教は反対してるんじゃないの? 既成教会は反対してるんじゃないの? それは遠い所じゃないよ。一番近いよ。聖書はいっている、怨讐は自分の家族の中に、そういったんだろう? その怨讐が立つ所は何か、立つ所は自分を主張して出る。それが怨讐の基盤だ。反対はそこから生まれてきますよ。自分を主張して出る所に、何が? 何が? 怨讐基台が生まれる。今我々は歴史的な、歴史的な運命を代表して、こういうような個人的養子圏、家庭的養子圏、氏族的養子圏、あるいは宗教的養子圏、国家的養子圏、あるいは世界的養子圏を代表した主体性に立っておる。我々、統一教会は、そうなった場合には、その養子圏の先頭に立つものは一体誰か? 伝統的精神を受け継がなきゃならない。その養子的立場はどういう立場だろう。これはまずもって重要な問題だよ。 日本においてメシヤ観の確立ということを今までずーと唱えてきたんだろう。中心者に対してのメシヤ観の確立をどういうふうにするか。 こ一なっちゃうんですよ。だから、そこを見た場合に共産主義とアメリカの代表だったらニクソン、それは世界を代表してこの二人が結ぶね。頭下げた場合には、 どうなる? 世界は一つになる。こういうふうになるね。かんたんになる。もう理論から簡単なんだよ。(笑い) その再臨の主は親の立場である。それが内外に分かれ戦うそれが、外的な共産主義であり、内的な民主主義である。二つが戦う所には帰られる? 帰られないの? それが一つにならなければ親の所へ帰ることができない。親を救うことができない。親を救うこともできなければ、親の所に帰ることもできない。こういう世界的運命圏になっている。だから世界復帰というその表題において、それは家庭の、個人の復帰基準を代表して、その家庭あるいは、その個人を代表した復帰の条件というのは、家庭も氏族も民族も国家も世界も、みんな同じ方式につながっている。だから、蕩減は祭物させるのは同じことであって、あんた達は、カイン・アベルの事をよく知っている。それが一つにならなかった場合には、堕落したアダム・エバを救うことができる? 救うことができなかった場合には、自分の父母として侍ることができる? それが原則である。 だから、今こういう我々の世界を知るべきである。これ原則の観点から見た場合、ここでただすべきことは何んじゃ! こうなるんだよ。カイン・アベルを一つにさせるんだよ。子女が一つになれなかった場合には親を世界的に救うことができない。親を救えなかった場合には、親に孝行する道ある? ないというんだ。最高の願いは何かと、再臨の主たるものはアダム。エデンの園において、たった一人を中心として天使長圏すべてがその率いる主管圏内に従うべきなのが理想であった。その基準を再びもと返して、それを世界的に適応させるために来られる御方が再臨の主だ。それでは、それが一ぺんに世界的になれないから、、民主主義圏に半分の世界においてね。それをそういうような準備がある。伝統的な訓練をして、世界的に果たして作られた世界というものは、ソビエト共産主義より強く、より理想的であったとするならば、より大きい心情圏が世界万民を愛する基準が立ったとすれば、共産主義者達もかわる。まあ、こう考えて見た場合、我々、今\D03815\D05E13の真心を、真を尽くす。それは真の子女であるという立場に立った場合には、この世は自分のものである! 霊界の養子圏、実体界の養子圏に栄える我々の前に屈服させなければならない。反発するようなものであってはならない。 どうです。皆さん、個人的に反発する、家庭的に反発する、に反発する、こういうの基台として、やれ勝ったとすれば、これみんな勝利したアダム・エバとなる。強靱なる忍耐性を持たなければならない。あるいは千年かかっても、我々は万年女生き残ってこれを果たし、果たしてしまおう。 こう考えて見た場合には、■の文先生とあんた達は、これは重大な問題だよ。重大な問題である。 そうなるというとユダヤ教みたいに、ユダヤ教のその外的な立場は国であったんだね。国とユダヤ教が一つになればいいんだね。そうでしょう? ユダヤ教の願う目的は■を願うと同じような国を愛さなければ一つになれないんだね。誰がなすべきかというと国がなすんじゃないの? これ国というものは外的の立場で蕩生であって、それから教会というものは長成だね。そうだろう? それでイエス様は完成だね。蘇生というものは天使長だよ天使長、長成はエバの位置だ。だから情的基準を中心として。いつでも二番目が問題だよ。情的の基準を汚した者は誰だった。二番目だよ。だから復帰帰路程においていつも二番目だよ。二番目を愛して、だからエジプトにおいて長子はみんな殺したんだ。次男は残したね。愛する、その愛された目的が今では殺したりする。■の基準において、より以上の愛の心情を残して行かなければ神の摂理の基台が残らない。 我々のイスラエル国家 こう思った場合には、我々統一教会にはイスラエル国家あるの? ありますか? ないですか? この国家を果たすには、我々が血と涙と汗を流してそれを築かなければならない。それを果たさなきゃならない。それは思想的この世以上に愛国心を持って、己の国家を思想的に侍り、共に忠誠を尽くすような実体であるということね、覚悟しなきゃならない。こういうふうになっちゃうんですよ。この国たるものは世界全てを超越したその国であるか、民主主義でも共産主義でもおいつけないという絶対なる唯一の国であるという思想観念に燃えあがって、そこに熱意を打ちこんでいまに忠誠を尽くして行くような現実の教会基準を持っていないというと発展できないよ。だから、霊界は天使長的だといったんでしょう? 国家基準においてそういうような無形の国、天使長的な霊界は天使長を愛するような、天使長が一体となったように地上の基準に結びつけるようなそういう信念を持たなきゃならない、それは誰がするんだと。それはユダヤ教がイスラエル民族を一体化する責任を持ったと同じように統一教会自体がするにはそれは仮想的な国より、実相的な国より以上愛するごとくに果たさなければ我々理想世界は作られない。わかりました?(ハイ) これがユダヤ人においては、イスラエル国家に向って忠孝を果たす道であった。忠はメシヤにおいて、孝はメシヤに対して、忠は国に対して果たす道であったけれどもキリスト教には、そういう基台、基盤がない。どうしてこれは霊的基準を中心としてやってきたんだろうか? 国という時代圏は独特な民族基盤を築いた基盤に立った、そういうイスラエル圏の国はない。それは仮想的国家間を中心として世界はすべての国家を愛するより以上の愛情心をこめて、愛されるような理想的そういう国を愛しながら実体的教団を、これを国家基準より、以上に発展して行かなければ神の願う国は求めることができる?(できません) 現実のところがその基準に我々はぶつかっていない。我々行くべき国、行くべき神の国というものは、こういうような運命圏に立っておる。それは神の理想圏、理想的な神の国とそれを動かすその統一教会というものは、絶対的一つにならなきゃならない。だから、あんた達は国を中心として、一つになるような実体になっているか? そういうように一つになってこそはじめてメシヤを迎えるようになった場合には、メシヤはここにあったかというね。わかりました?(ハイ)それ原理的である。我々、統一教会の食口というものは、ユダヤ教の立場と同じであるにもかかわらず、そこにイスラエルという国家は実体的にない。いくらそのキリスト教国家があったとしてもそれは仮想的である。それに歴史的伝統によって神の摂理の基台において、そういうように運命ずけられた国はない。 だから、我々は仮想的国家的基準を中心として、いかなる世界の国家基準より以上の強い理想の国家として、主体の国家として、侍り得られる。一体化しする。そこにおいてこれは二つに別れていないというような信念に燃え上がったそういうユダヤ教圏がこの地上にあらわれてこなけりゃならない。それはなんだ! 統一教会だ。だからあんた達の後には国がつながっておるんだね。その国はどこの国だ? 韓国でもなければ日本の国でもないというんだね。歴史的関係においては韓国において基台を作ってきたんだけど韓国の上に今までのその民主主義国家、キリスト教国家反対したんださら、反対したその今度再び上陸してやっておる。 勝利圏は広がる 我々は、その国を追われた王子であり、お姫さまである。何回死んでも、その国を回復しなければならない運命である。 だから世界において、我一人でサタン世界を革命すために、責任を持って天命を受けて、地上に降りるんだ。だから一日も、自分の気ままに生活することができないんだね。全てが集中してやる。讒訴の環境をぬって、活動基盤を広めて行かなければならない。こういう立場に立っている。 統一教会が現世において、ユダヤ教的使命を果たす。それは国があったとするならば、そこからもしも、再臨の主を迎えるようになったとすれば、世界的国は生まれてくる。 統一教会の願いというものは、国を求めて主に帰るその国を求めている。我々、統一教会という名前が、悲しい名前であるというんだね。国を自分の教会より以上、その国が全てである。 祭物を分けあって、闘いの間をくぐってきた再臨時代圏において、歴史的終点が統一教会と国家という基準になる。それが完全に一つになった場合には、願ってきた神の摂理から見た場合には、そのメシヤは家庭的メシヤじゃないよ。統一教会的メシヤじゃないよ。国家的メシヤである。 メシヤは親である。国家的立場に立つ親が復帰されるんだね。親を迎えることができるし、親に帰ることができる。それ以外には絶対に帰れない。 イエス様が十字架につけられたのだから、ユダヤ教が果たれなかったその道を、再びもり上げる為に、その基準まで引き上げるのに二千年の犠牲を払ってきた。払ってくるには誰が先頭に立つか。神様と共に、僕の僕の道からやってきた。だから、クリスチャンは地下からやってきた。ローマの地下にあるカタコンベを見れば、当時はいかに悲惨だったかが判る。墓地になっているんだね。 死体の中をくぐりながら、腐った水の中を踏みながら、闘って闘った悲惨な基準が今も見受けられる。だから、サタン的世界の僕の僕の悲惨な立場から血の代価を払って勝利の基台を作ってきた。 それは何を目的としてきたか、といえば、再臨の一時期、歴史の選民国家であるイスラエル民族、選民国家を指導するユダヤ教、それは真なる神の実子を迎える完全の基準を神が先頭に立って準備をしてきた全てが損われた、それを再び神の子と神が、昔は天使長とか僕とか養子圏を立たせてやってきたが、実子の立場に陥入って、養子圏において果すべき天使長の使命を実子が果すのを見た神様の心はいかに悲惨であったか。 神の子供として、実子として実体として、そういう歴史過程をふみあいながら、迫害され、あるいは殺されながら、それをしのんで行くのが当然である。と、神が四千年のユダヤ教に費した心情的悩みの道を、二千年の歴史を通してキリスト教を中心として、イエス様は神様の御旨を受け継いで地上において天使長圏的犠牲の道を今まで果してきたということを思う時に、これはいかばかり悲惨なことであろうか。 それが今だに我々統一教会と韓国を中心として、こういう様なアジア状勢から見た場合に、非常に悲惨な運命の立場に立って、新しい世界に向けて、これを持ち上げて、基台を作っていくということは、それは簡単じゃない。 これ乗り越えるには、第一イスラエルにおいて、第二イスラエル圏において犠牲者が出た内外的な心情的強固たる精神の結合の基盤を残して来なければ、今までその基準というものはあるいは、個人的勝利基盤、氏族的、民族的、国家、世界の勝利基盤になれない。 そういうわけで、先生は今ざに統一教会の先頭に立って闘っている。それがどこまで行くか。国までいく。ユダヤ教において殺され、イスラエル民族において殺されたその国まで行く。 だから統一教会は既成教会を救おう。韓国を救おう。 昔は槍をむけあって胸を刺すようなそういう立場に立つべきキリスト教が、我々に対し正面的衡突は、今度の会議でもそうだったね。韓国の五大教団の総会において統一教会が問題になっている。女の食口達が先頭に立って朝晩休まず攻撃作戦やっているから、これが全国的に問題になっている。それでキリスト教連合があるんだね。そこでの会議の結果はおもしろいや。統一教会との正面衝突は避けろ、というんだね。 こう考えてみた場合には、イエス様に反対するローマ圏と、祭司長カヤパという反対の立場に追われていたイエス様の運命とは、まるっきり反対になってきた。 それかといって先生の覚悟は迎えられる立場じゃない。反対されて、死なずしてここまで上がってきた。そこにはあんたたちが知らないような歴史的悲哀の内容が横たわっている。 こういうふうにしてが平和圏に立って、何の邪魔ものなしに世界的行くべき道にあった韓国の解放の基準が、こういうふうにして再び春を迎えるような圏に立っている。そうなるというと、世界は全てが平和圏に立って、何の邪魔もなしに世界的行くべき道にあった韓国の解放の基準が、こういう様な再び帰ってきた基準に立って、世界全てが打ち開けて行かなければならない恩讐圏に囲まれてしまった。 それはまさしく、イスラエル民族が国を捜してきた時のように、アラブ圏に包囲されてこれを闘いぬかなければならない運命と同じである。それは先生が助けてやらなければ、つらぬける道がない。 こうして摂理的勝利の基台を組み合わせて、原理原則の一致点を決意して、命を掲げて覚悟するものがあれば、それを組み合わせて、サタン世界に乗り出す。 日本を神に捧げる そうなると、統一教会の現在に立っているあんたたち、日本の食口でも幹部でも同じだ。 我々は国家圏を無視して、あんたたちは日本語を使っている。それは遠い先祖が本当の摂理上において神に愛されるべき善なる先祖が日本にどういう様な因縁で流されて、日本列島に上陸して産んだと同じような立場である。本来の日本人じゃない。今、反対する様な日本人とそれは違う。筋が違う。出発が違う。血統が違う。もし反対したならば、これを切るような考えを持たなければ世界を救うことはできない。恩讐は自分の家庭にある。神は反対された環境にあった場合には、自分の愛するものを切って捧げたね。そういう思想を持たなければ日本を救うことはできません。 日本国民を捧げ祭物にするような祭司長になるべきそういう覚悟を持たなければ、祭物は祭司長が殺すんですよ。神が愛するものを犠牲にして、世の中を救うためにやってきたんだから、一番神に忠誠を尽す僕、あるいは自分のために生命をかけておる子供を犠牲にしてこの世を救うためにやってきたんだから。 日本という名を聞いた時には忘れられない。この外的な日本が忘れられない。先生から言えばそうだよ。 この韓国ということが忘れられない。嬉しい因縁を持たせてやったんだから忘れられない。辛い十字架の道を今まで残して来たんだから忘れられない。思えば思うほど憤概せざるを得ない。そうかといって腹を立てれば、天運が飛んでしまう。そういうこともできない。だから、苦しみをかかえあって、なだめながら未来の地の計画を求めるような、そういう行動をなしていかなければならない。 日本においては、国が反対すると共に、共産党がおる。 先生が統一教会の出発当時に、北韓に入って誰よりも正面に衝突して闘った。先生の体にムチを打ったそれは世界的恩讐である。 先生は今だに平壌の地に帰って、昔のそのものを屈伏させる一日を待っている。名前も忘れていない。姿も忘れていない。 こういう恩讐圏に立って、大和精神から言えば仇は大きいという。 日本において我々の数が問題である。 いかなる強固な兵士がいても、その兵士は我々にくらべるならば、いくら金日成の人民軍がいかなる精神武装して訓練されたとしても、統一思想に立った我々には相手にならない。向うは恐怖で訓練されている。我々はそうじゃない。心情を中心として自分なりにその決意を固めている。まるっきりその動機が違うというんだね。 国というものは恐しいもんだね。先生もそういう国のために非常にやられておる。やられて、一人ぼっちで反対したってとんでもないことになってしまう。だから、こういう混乱期が、我々こういうようなアジア的混乱期にあるということが非常に絶好な時だ。 日本国家自体にとっては困った環境であるけれども、我々この時代において組織化し、結合の基台を完成して、日本を救う足場をつくらなければ時間がない。 こういう時代に我々は結束しなければならない。 自分の家庭を守ってくれる三つの養子的家庭を持たなければならない。それが信仰の子供である。信仰の子供は、霊界の三時代を代表した天使長を象徴する。縦的歴史過程で三人の天使長が結局、カインがアベルに屈伏しなかったのが問題である、というんだね。アダムにおいて、再臨の主においてそういう様な道を来たんだから、三人の子供というのは、縦的蘇生、長成、完成時代において失敗した、そは霊界において三天使を復帰すると共に、その地上的において実体的三時代性、三主権、三教団、全て分別する。それ全てを象徴した三人の子供。 これはアダムの家庭において三人の子供、それが祝福されて八人家庭になるんだね。しかし、そうなったからといって、讒訴圏を残しておるノアの家庭だから、サタンの讒訴を乗りこえて神に愛せれる血統的基準は残っていないんだね。だからメシヤを望んできておる。 我々メシヤが必要じゃないんだね。ノア圏の食口を組んだ基準において、メシヤ的立場に立つのがあんたたちの実子だよ。 その祝福された子供を二〇才まで真心を尽して、信仰の子供が育ててやる必要がある。 もしも、その子供が被害を受ける立場に立ったならば、自分の命を捧げて守るような伝統的精神を、伝統的基準を作っておかなければ、この世と祝福家庭の基準を結ぶ基準がなくなってしまう。 二つの家庭が一つになって、共に親を兄弟で侍る時にサタン世界で初めて地上天国圏の家庭基盤が決定される。先生もその問題にひっかかっておるよ。まずもって霊界に勝利しなければならない。天使長の立場が霊界だから。だからそこにおいて数多くの教祖と闘い、これを屈服させなければならない。最後には神まで反対する。何故か。アダムが神に反対したんだから、それを勝利するには、神が反対した基準に立って、それを乗り込えて、絶対的アダム圏・勝利圏を獲得することができる。そこにおいてサタンは屈服されるというんだね。 だから、神の命令を聞かないばかりでなく反対するところまで乗り越えて来なければ、この世の堕落したアダムの後孫を復帰するこ資格がないよ。 そうして霊的養子圏・実体的養子圏、これは既成教会が、キリスト教が霊肉共に合わせて一人の代表を中心として国家を代表して、三人の代表者が一つになって出発した場合には、もう民主主義とか共産主義はないよ。ソビエトも第二次大戦後、すぐなくなってしまうよ。先生の計画においてはね。 その時、ソビエトは原子爆弾を作っていないし。 その時、韓国においては主権がなかった。 一九四八年に初めて主権が作られたのだからね。こういう風にして、霊的・地上養子圏を果して、既成教会は非常に反対した。 イエス様が弟子達を集めて、第二イスラエル圏を受けつぐユダヤ教の立場に立ったのがキリスト教である。 そうすると、先生と統一教会と国。国は蘇生であり、教会は長成であり、先生は完成である。それは、どんな権力でも切ることができないという場合には天国じゃない。永遠の世界じゃないよ。全てを向けても助ることができない、こういうところが、我々統一教会の立っているところである。 この道は強固な自覚を持って立たなければ神はあんたたちの行くべきところに援助することができないんだね。 今度あんたたちが来て、まずもってこの決意を、台湾と三位基台になるんだね。神を中心として、平面的基台を結ぶそれにおいて、台湾が蘇生とすれば、日本は長成である。エバ国家である。堕落した経路から見れば、それは天使長から始まっている。復帰はアダムから始まる。先生と日本が今、台湾に影響を与えている。今度の七日間の断食で、台湾は完全に一つになったんだね。それにおいて、台湾があんたたちを十二名招待したのは、復帰路程において、天使長が十二支派に侍る、という条件になった。あんたたち、何も判らないんだけれど、こういうようにして摂理は進んでおる。 万物は誰が先に失ったの。エバが動機である。復帰の道においてはエバから動機になる。万物の復帰の動機になる。そればアダムの主管圏内に入ったならば、復帰の運勢圏になるというんだね。 共産主義問題 ソビエトは蘇生、中共は長成、金日成は完成だね。中共といえば、共産党を中心として、長成圏、エバだよ。エバを通して向いあう。 だから、日本が中共と一つになる。何に向って、人はどうでもいい、物をだ。サタン圏に頭を下げるのは堕落じゃないか。しかし、アメリカには頭を下げた方がいい、というんだね。アメリカなは天的天使長だよ。それは、完成するまで、アダム・エバを保護すべき使命があるから。 中共に行くにしても、天使長的アメリカを先に立たせて行く。そうしたらアメリカによって、中共はやられる、というんだね。 アメリカを先に立たせて、日本は急がなくていいんだよ。アメリカが中共と貿易の取り合いをする。天使長はエバのところに戻って来なければならないんだよ。 何故か。アメリカと中共が貿易をすれば、アメリカは太平洋をり越え、地球の半分も離れておる。運賃が問題だよ。アメリカはまた賃金が高い。中共の日用品なんか作ったら大変だ。今だに、中小企業製品はアメリカは日本に頼っている。だから、契約はアメリカがやっても、物は日本から作っていかなければならない。日本はまるもうけである。 今、日本がアメリカをさて置いて、中共と交渉しても、かえって安くなってしまう。エサにかかっていることを良く知っているからね。アメリカはそうじない。堂々たるものだ。やりたかったらやるし、やりたくなかったらやらない。 先生は、中共の今から七年先を見ておる。何んとかして基幹産業を発展させなければならない。工業部門を発展させなければならない。もし、アメリカが貿易するようになったら日本は今まで以上の膨大な経済援助を得ることができるよ。 インドとソビエトが不可侵条を結んだね。これは、日本にとって考えられない。中共は南侵政策をやって、インドを手に入れれだ、東洋は自分のものになる。アジアは自分の気ままにやれる。シンガポールで切ってしまえば、日本は行く所がないんだよ。インド洋がふさがれたら、日本は二週間以内にやられてしまう。 この中共の南侵政策を防ぐために、ソビエトはインドを狙った。こういう風にして、アジアにソビエトが援助したら、日本はどうなるか。日本は行く所がない。 こういう色々な問題を中心として見た場合には、我々統一教会の今後行くべき問題、アジア的立場を考えてみた場合、勝共連合というものは、アジア的発展の基盤をつくるいい運勢圏に入りつつある。 韓国と日本と中国の統一教会が一つになれ。なって、神と一体化したより以上に強くなれ。問題はそこである。 祝福の基台 「行くべき神の国」の結論を出しましょう。 我らの行くべき道は、四位基台圏を中心としてなしていく。先生を中心として行くんだよ。 一九六〇年の成婚式まで前もっぱ先生は三人の信仰基台に立つべき、イエス様の三人の弟子の相対者を決めてやらなければならない。お母さまと内的な因縁を結ぶと共に、相対関係を結んでやって、結婚式は先生が先にやるんだよ。 ノア家庭の八人の家族を乗り越えながら、全国が反対する中でやってきたんだね。 それから十二双を中心として三十六双。そういう風にして、第一イスラエル民族圏の基準に立つべき内的基台を作り出している。 イスラエル民族において神が果してきた路程において失敗しなかったという勝利の条件の基台を作ってあげなければ蕩減の道も生まれてこない。 こういう風にして、三十六双、七十二双ね。 三十六双は私達の先祖なんですよ。この世の中を見れば、既成家庭がある。それに、イエス様が新郎、新婦を慕ってきておると同じような愛の相対関係で目的を果されなかったものが沢山いるんだよ。それから少年・少女だね。それが平面的地上の群なんだよ。 これが三段階になっている。それが三十六家庭だ。こうして、神の国において、自由自在にそういう様な窓が開かれておるから、蕩減の勝利圏を作っておるから、誰でも祝福されるような平面的時代圏に入っておるよ。ここまで来るのに六千年かかったよ。 三十六双が結ばれたことによって三時代が一つになった。そして、その家庭に、カイン・アベルが反対して復帰できなかったんだから延長されてきた。それを蕩減するのが七十二双だ。こうなるというと家庭を中心として、カイン・アベルの果されなかった立場を蕩減した準備になるから、これはメシヤが来るまでの失なわれた家庭基準だね。 百二十家庭は、イエス様の百二十門徒が五句節において果したその基準だね。それは、世界の主権を象徴するんだね。 こういうふうにして、一九六九年を中心として、こういうような世界基盤を作って復帰のを辿ってゆくんだよ。四三〇双は何か。四三〇双はね。これは、全国の全体数を象徴するんだね。四三というのは、韓国においては、四三〇〇年を意味するんだよ。そうなるというと、丁度韓国紀元年数からみた場合に四三〇〇年の歴史だよ。四三〇〇年の年数以後、四三年の後それは、イスラエル民族が四三〇年を中心として、新しいイスラエルの国の為に出発したんだね。そうだろう。 それをするには、サタン世界に於いて氏族圏だね。かくいう時代圏に属しているものを集めてこなければならない。それは家庭的四三〇双だね。それは全国イスラエル圏は圏を象徴する国民的全てだね。蕩減の道を開いてやっても、全てがどこからでも、それは復帰の道が開かれるという、まあ、条件の立場で四三〇双を祝福したね。それで、国家基準にそれを成したんだから、世界基準を相対的にそろえなければ、世界が入らないというんだね。だから、十ケ国が入る。国家は十ケ国あったら、十ケ国あるいは十二ケ国が問題だよ。十二ケ国は十に等しいという。そうなっておるだろう。だから十ケ国を中心として四三双、こういうふうに組んだんだから国家的基準は、世界的に結ばれるというんだね。それを、だから昨年十月二十一日に世界的、世界的万民ね、万民が神の国に入れる。それを家庭的基準を作ってやらなきゃあならない。それで十ケ国を中心として七七七双、これを完全にしたよ。家庭的世界基準を立たした基準になるというんだね。 壮婦を大切にせよ 何やっておるんだ。そりゃあ、もうわるい見本ばかりしかない。何にも持っていないね。こう見た場合、あてにならない。のいうんだね。わかったの?あんた達、壮婦など危介ものだというんじゃあないよ。そうだろう。今迄、金のいる時にはあの壮婦は必要だけれど、そりゃあ、金だけ出出した場合には色々干渉したがるから、しゃくに障る。これ支障をきたすというふうに思ってきたんじゃないの? 今迄はそういうふうに思ってきたよ、そうだろう(ちがいます) 卒直にいえ、ちがいますといえるか。いえないやつが多いんだろう。壮婦達は先生の所へ来た時、あんた達、先生に言いたいことみんな言え、といったら「あー、五〇いくつになって、青年にあんなこと言われて、それはもう顔がたたない。死んだ方がましだ。」と言うんだ。まあ、あんた達の前では言わないんだけど、卒直に今後先生の所へ来て皆んなぶつぶついうよ。あんた達、李先生に聞いてみな、こっそりね。先生が嘘言っておるか。そうだよ。あーん、ぶつぶつ言っておるんだよ。あんた達、信仰の子供と言えばね、信仰の子供というのは、三代基準をなさなければそれ問題だよ。復帰は年寄りから復帰するんだよ。堕落したんだから復帰の道は、サタンの方は若者を皆な連れて行くんだよ。しかし、一番びりこになったものはどこだ。死にかかったおじいさんではないの? おじいさんは死にかかっているんだよ。さきの方へ行ってもうたおれて死んでいる。おばあさんは死んでいる。アベル側にね。それを早く、早つかまえながら、ちゃんとおばあさんが、おばあさん、死にかかったおばあさんから摂理の心情基準は、それは取り継がなければならない。そういうこと考えてた? よっぽど幸福だよ。そういうようになっておるんだよ。おばあさんから心情復帰の時代はね。おばあさんの信仰の基準を受けついで、おじいさんが立つんだよ。 すみませんっていうんで、ほねがおれ、頭がわるい。うん、足がわるい。こういうふうにして、男でこれ以上悪い男がないようにあらわれる。そういう境地に立ったそのおじいさんを中心として、復帰の心情圏は成り立つんだよ。なぜ打つか。打たなければならないんだよ。サタン圏だ、サタンだよ。サタン。堕落したサタンと復帰したエバとそれを打つよ。打つよ。死ぬ迄打つよ。もう一ぺん、にくくて、にくくて仕方ないというような復帰の過程を通過した基準に於いて復帰の基台を進めているよ。そういう歴史がたくさんでてくるよ。おばあさんから、おじいさんから、それから壮年層から、それからそれをとりついでそれが青少年、青年時代を通って青少年迄くるんだよ。 我々、統一教会は二〇前後のものがたくさんいるんだよ。そうなっておるんだよ。青春期、何か、そういう年令の青少年圏を主管すべき教会、統一教会だよ。この中にあって、年寄りのおばあさん、おじいさん、壮年、壮婦、青年、少年一つ足りなくたって四位基台にならないよ。四位基台、老年、壮年、青年、青少年、四位基台にならないや、原理的にそうなるだろう。六億をむたって、あー、そのようなそれで四方圏に立った国はないの? だから、老年にみとめられ、壮年にみとめられ、青年にみとめられ、青少年にみとめられ、こういう中間中心に立っておるものでなければ地区長の資格はありません。そういうふうになっておる。青少年、老年全部反対したら、先生が第一あんた達に反対しなければならない。それでなくとも先生が何、末だにその、統一教会の幹部達も先生が教えてやってきておるんだね。未だに。おじいさん、半身不随になって、先生、援助している。今、まあ、養老院に行っておるよ。そうするとそりゃあ、まあ、どこへ行ってるかと思えば、皆な統一教会の食口はそう信じられないんだけど先生だけはね。 こう思うんだよ。うん、先生だってそうだよ。そうすると死ぬんだから。東西南北だよ、春夏秋冬だよ。あんた達、冬は、冬は必要じゃあないの? 冬?「必要です。」冬は何かというと老人の死にかかった者だよ。うん? 秋は必要じゃあないの? こりゃあ、壮年だよ。青年は必要じゃあないの? それは夏は、青年で必要である。春は青少、それを無視した場合には、全部を無視するものである。四方を東西南北を無視したものである。全部無視して東西南北を無視してどこに立つや。立つとこあるや。 だから、善なる者は老人に認められないと善なる者になりませんよ。青年、それから、青少年、皆な一ぺんであって、そういう人達が手を上げて少くとも、三、四十人、三、四だね。そういう東西南北を中心として、えー、東にも三つ、西にも三つ、南にも三つ、北にも三つ、四、十二だよ。だから、十二ケ月あるんだよ。四位基台だね。そうだろう。その寒い前には、十二ケ月を中心として春の一番いやな寒はの期間というものがあるんだよ。それが皆な中心的な存在向かい合って一つにしたような立場にたたないというと神の立つべき中心点が生まれてこないよ。 地区長というのは、神の立っておる所だよ。それで、その天運のその方向に一致させる為に、イエス様の弟子は十二弟子だよ。東の方に三人、西の方に三人、南の方に三人、北の方に三人、それからイスカリオテのユダというのは北の方に入るよ。うん、だから春を迎える。世界は春を迎える。世界的な春を迎えるには、世界的の春から夏、秋、冬を越えなければ生まれてこないよ。このように蕩減して、蕩減するように蕩減して、一つの地で愛したという基準を立てなければ神の国の相対基準が生まれてこない。それがないために神様がその四方の中心の立場に臨在することができないんだね。それでイエス様、三年間の苦労は何したか。十二人の為に仕えるのがイエス様の三年間の時代だよ。十二人をいかにして、東西南北、東西南北十二ケ所で、こちら一年の運勢圏を自由に何のひっかかりなしにこえないというと、一年はそりゃあ、まあ、すぎて行かないね。第二の春を迎えるようになるように現在のこ世界に国家的基準に中心として、十二人をそれを喜びの一体となさなければ世界的な十二人の基準は迎えるこができないや。わかったの? だから、ペテロなんかは青年なの? 壮年なの? 年寄りなの? それ考えてみた?ペテロは六〇代こえなければならないというんだよ。気持ちはどうだ。あんた達は、六〇代のおばあさんと結婚するという思いをもたなければならない。六〇代から、四〇代、四〇代から二〇代、二〇代から一〇代圏に入るじゃあないか。そういう基台復帰、六〇以上ならないというと昔の堕落したアダム、六千年以上のエバおばあさんの心情をとり継ぐことができる? できないの?(できない) だから、イエス様の弟子においては止全ての層のそれを代表した老年から、壮年から、青年ありとね。どうだ。まあ、あんた達気持知ったの。それは、ちょっと考えればいい。ちょっと考えればね。昼にはね、青少年、青年を相手にせいというんだね。夜にはね、壮年、壮婦とい老年を相手にせいというんだね。わかる? ひまあれば、あんた達、遊ぶし、寝るし、昼寝するだろう。そういうふうにやればね、昼も夜も来ても、夜には寝ないふりするんだよ。そりゃあ、さびしいよ。金を出す時には、先頭に立つんだよ。金だけ出してやって駅あんた達はもう、かえってめんどうになるや、、めんどうになるのがいいんだよ。めんどうになるのがね。あんた達、奥さんは男に対してめんどうなの? めんどうじゃないの? 子供がめんどうなの? めんどうじゃないの? めんどうなればそれは悪いんだけれど、めんどうなればなる程、自分は偉くなるということを証明するんだねよ。 だから、中心者はたくさんの人にめんどうをみておる者が中心者、そうじゃあないの? それを自分なりに働いたら、これ泥棒だよ。泥棒だ。自分なり良かったわい。泥棒だよ。皆な利用していい、そういう者は永遠に行かないよ。そりゃあ、必らず争いがある、わかれてしまう。分かれてしまう。じゃあ、わかったの。まあ、これ結論終わったしね。 成し遂げよう! 神の国 復帰路程におきましては、神の国はどこから求めて行くかという場合にはね。神の国というのは遠い所から求めてくるんじゃあないよ。行くべき神の国だ。神の国は求めてゆかんじゃあないよ。それは成してゆかなければならない。そこから生まれてくるんだよ。だれよりも、それは相対者がおるんじゃあないよ。自分より、天国の法律によって、天国の理想によって、天国の人格基準において、わしは成して行く所に天国は生まれるんであって、それを追いかけて、追ってゆく所に、慕って行く所に天国はまだまだあんた達は、盗んでおらないよ。成して行く所に神の国は成立するんだよ。だから神の国というのは、戦いを残した所じゃないというんだね。 一つになった所、一つになるには何を中心として、それはまいたのは、愛情だよ。何の愛情、人間的愛情じゃあないよ。人間的愛情はね、一時だけに終るんだね。あんた達の世の中の父母というのは一時的だね。うん、何回か反対し、親不孝した場合には親も知らんふりする。川らんふりするだろう。 神様は何年、何百年、何千年それは反対したら、反対すればするほど、どうなったの? より高い愛情でもって、抱いてきたんだ。だから、この世的な愛というものは、一時的の基準に尽きるんだって、それをそれを自分を中心に愛する人だから、もしも、犠牲になるというと、それはくずれてしまうんだよ。 神の愛は、そうじゃありません。一時因縁を結んだ場合には、絶対因縁に向かってそれは働きかける。神自体は、自分はいやしい約束して、不利そうなそういう立場に絶対立つ場がない。立たない。立たない。ここは、ちゃあーんと神は使命を果しておるんだけれど、そういう因縁をかかえて待ちにまった、そうしてゆくんだけれど人間がすててしまう。いくら、そういう時でも知らんふりして、一回、二回、三回以上やってみて直さなかった場合には、仕方なしに神はその人間をすてなければならない。それ以上、引っ張ってゆくには神がいない。神の復帰の資格がない。そうなっておるんですよ。 蘇生、長成、完成以上通過した場合には、天国も無視してしまわなければならない。そういうような男になっておるんだよ。仕方なしにすててしまう。あんた達、その食口に対して、天国人を作るあんた達の使命、神の身代りの立場に立ったら、そういうような心情をもたなければならない。利用しようと、一時的にあの人は、あの人の金があるから、今、金が欲しいから伝道するんだ。そんな伝道、そりゃあ、泥棒伝道だよ。情的基準、目的基準は全然成り立たない。こうなるんだよ。目的は何か。金なの? その目的が心情的じゃないというんだね。心情といったら、一時的なそういう動くものを相対基準を相手として立つ所に神の国が生まれるんであって、一時的のその要求の基準においては神の国は生まれませんよ。 金あるもの捜して伝道する。目的はどこだ。知識だね。愛のともる所どこにある。金にある。知識にある。それなの。そうじゃない。その人を愛する。人を愛するのだから、みじめだったら、もっと愛さなければならない、というんだね。可愛想だったらもっと愛しなければならない。これは情的世界の進む道だっていうんだね。だから、人をより分けながらの伝道の仕方はその人は長くないよ。それはある一方面に行ってつきてしまう。だから、老人を見た場合には、老人を老人と見るなっていうんだね。その老年の前に自分は若いものだったら、その老年時代を行くには、青年時代を過ごし、壮年時代を過ごして老年になったんだから、わしというものは若いんだけれども、青少年の年令であるけれども、わしは青年時代のその老人の友達になってやりたい。その時から、何やって、もしも友達になったらいかばかり。いいだろう。それから、壮年時代に友達だった場合には、そういうふうにくるのに迎えて、そうして因縁を深く結んだ情的因縁をもっておったならば、このおじいさん、おばあさんをどういう目であったんだろう。そう考えるんだよ。 だから、四位基台の情的関係があるから、過去、現在、未来を通して、愛した条件になるし、神を中心として三時代だから、四位基台になっておるよ。全てを愛される。 世の中で一番年とったその人格者は誰か。みた場合には誰だろう。天宙的、一番年寄りは誰だ。神様だ。神だね。神様の髪が白くなっただろう。一番白くなったおじいさんである。苦労した。どの位苦労しているだろう。一番年寄りの苦労しておる。この苦労したその老人達をも、無視するというのは、神様圏に側すべき近い者達を無視したことになる。そうじゃないの。そういうふうに考えてみた場合には、その部落に行った場合にはね、まずもって、原理的に考えるんだね。だから、摂理的時代において、老年時代がある。青年時代がある。青少年時代があるんだよ。老年時代には、旧約時代、青年というの? ノアは青年というの? ノア壮年? ノアおじいさんというの? どっちがその何だ。ノアおじいさん。アブラハムおじいさん。 だから、過去、現在、未来、すべてを愛するような人格的基準に立たなければ、全体的復帰の歴史を神の方に引っ張っていくことができないというんだね。 すべてに四位基台 だから、四位基台圏だ。男を中心として四位基台、女を中心として四位基台圏を作れば、それを合わせ八人基台圏になるだろう。 理想というものは、相対関係なくして理想が生まれてこない。だから、四位基台の相対関係は八人になるんだね。だから、八数より出発するんだね。 統一教会の行くべき道には四位基台が必要である。個人の四位基台なくして相対理想をさずけることができるや? できないんだよ。 イエス様の求めてきた人間も三人である、というんだね。だから死ぬ所にも三人を迎えなければならない。それは誰かというと、右の強盗と左の強盗だ。右翼というのは民主主義だよ。左翼というのがどこから出てきたかといえば、左の強盗がイエス様に讒訴した。右はイエス様に対し弁解したね。 統一教会は、個人的において四位基台圏を組ませて、家庭的において四位基台圏を組ませ、教会圏においてそういう基台を作らなきゃならない。そして国家的圏においてそういうことをなさなきゃならない。 これだけすれば、最後の目的は何か。 国だよ。世界じゃないよ。 サタンを代表した国たるものとして、それは共産圏というんだね。だから神の国を作る代表したその国は、ありとあらゆる立場において共産圏を乗り越えなければ、神の国として果たすことができない、というんだね。神の権威と神の意志に神の面子にならないというんだね。 共産党は物的条件でもってやるんだね。共産圏が今まで発展したのは配給制度があったからだよ。サタンは外的条件でもって屈伏させるんだね。それは神様の方は心情的だね。世食統一の原動力となるものは、物的条件じゃなくて、心情的条件になるんだ。この条件は、むやみにそれを連絡させるのではなくて、四位基台圏をかかわりあいつつやっていくんだね。 だから供物を捧げたのも四位基台だよ。神を中心として、みんなそういうふうにつながっているよ。 だから、自分を中心として四位基台を作るとしたらどういうふうになるの? これはサタンになるよ。サタンを中心として四位基台を作るなら、それは神の国くつがえした動機だろう。だから、自分を中心として四位基台を作ろうというものは、これは神の方から見た場合には、これは恩讐だというんだね。 だから今からの世界をいかに救うという問題だ。愛情を中心として救うのはもちろんである。愛情の心を持ったそういう者はどういう方向に行かなければならないか、というんだね。それは、自分を中心として相対関係をそれを屈伏させる立場においての愛情というものは成り立たないんだよ。 誰よりも悲惨な道を行け 愛というものは犠牲になる所により深く、より強く、より普遍の立場において立ちうる。例えて言えば、親が自分の子供に対して、より多く犠牲になった場合には、子供はより多い心情でもって親に向えるんだね。いいかげんに自分の利益のために子供を愛したりしたような場合には、子供は反発する。だから心情は相対基準を中心として、犠牲になるその場が多ければ多い程強くなる。それは歴史的伝統になる。それが悲惨であれば悲惨なるほどそれは世界的伝統になるんだね。 例えば、日本の国においては、愛国者があるとすれば、金を持っておるし、すばらしい環境において果される愛国者の立場から見た場合には、同じ立場で見た場、同じ立場でありながら惨めな、すべてにおいて反対されながら、それを克服し、乗り越えて、同じ基準に立ったとすれば、その国から見た場合には、どちらを伝統の基準として立たせるや? それはより悲惨な立場だよ。それは悲惨な立場において、命を捧げたその愛が一つになった場合には、同じ者だったらどっち活その伝統の第一者の立場に立つか。命を捧げても銃殺されるよりは、手を切られ、足を切られ、そうやって死んだとすれば、この二人がいたら、どの人をその愛国者としての伝統の基準に立たせるや? より悲惨なものであればこそ最後の伝統基準として残す。こういうふうに思ってみれば世界を愛するそういう立場において世界に追われながら、世界万民のその反対する道で命を捧げ、その悲惨な運命の道を行ったとすれば、それは世界の聖人、世界的聖人になるよ。 宗教から見たら、イエス様はそういう立場に立ったというんだね。悲惨な、苦労して行ったそういうものは歴史的心情の中心者になっておるというんだね。 だから、自分を立たせる時にはね、自分を立たせて、環境を犠牲にさせて、自分は生き残るというのは、それでおしまいだ。 しかし、人のために犠牲になった場合には、それはその歴史、その国家は消えて行くまでその精神を残して行くんだよ。だから、真なる心情は永遠を中心として結ばれる、という結論になるよ。 だから、共産主義はどうか。サタン世界はどこまで続くや? 自分から出発し、堕落の父母で出発したから、世界にそれは自分をうち出して、闘いあって、三者を犠牲にしながら、自分を中心として戦いあい、最後の二人までやるんだね。そういうところまで行く。 だから、世界を救う主義はどういう主義か。 自分を中心として、三者を犠牲にさせ歴史過程を通過してきたその結果が共産主義の世界である。こういうふうになって、自分も行くところがない。 ソビエト共産主義は世の中から消えていくんだね。共産主義自体が世界的になれない。民主主義も世界的になれない。 スラブ民族を中心にしてソビエトは世界制覇を夢みている。それでは世界は救われない。ソビエトより以上国を越えて、民族をこえて、それより以上民族を愛する、そういう人があった場合には、共産主義はそういう方向に愛の道を辿っていく。 愛される道がなかった場には、民主主義もアメリカもそうだ。アメリカが先頭に立ってきたら、世界のためにアメリカは勝ったんだだけれど、今、歴史的伝統を見た場合には、第三国を助けて、自分が残った国は発見することができないんだね。しかし、それは歴史上にないだけであって、やらなければいけない。 こういう立場から見た場合には、アメリカの民主主義は個人主義だよ。個人を尊重し、それによって国を失ない、世界を失ない、結局自分たちのためにやってきたのに。 こういう世界において、ただ一つの道がある。それは何か。国家を超越し、民族を超越し、世界を愛するためには民族を犠牲にしても、これは行かなければならない。 自分があった場合には、民族を乗り越えなかったら、アメリカやソビエトはもう世界の先頭に立って、世界を指導することはできない。 自分がそういうような公的路程において、愛情を持って神の為に生きたとした場合には、そういうような個人、そういうような環境家庭そういうような環境的氏族、民族、国家がこれを成した場合には、そこで始めて神が捜してきた、求めてきた国だ。 あんた達はそれまでにして一挙にその国を中心として愛し、一挙に世界を愛し、一挙にその家庭を愛するべき基準を持っているか! 家庭を愛したとしても蕩減の道を通さなければ氏族を愛することができない。その路程を行く時には、こういう内容をよく知っているんだけれども、その環境が成り立っていない。反対した以上はそれは個人の復帰路程において家庭の上にも四位基台、氏族の上にも四位基台、国家の上にも四位基台という基準を、これを広めて自分で上がらなきゃならない。だから宗教を中心とする四位基台、国家的四位基台を求めてきたんだね。わかったの?(ハイ)日本とか韓国とか台斜とか、神の国。それで結ばれるその情的熱意がこの世界すべてのその過去、現在、未来のサタン世界においてなき、それ以上の情的基準が民族を越えて世界の為の神の国を慕って成し得た場合に、その基準において世界をまわすことができる。わかりました? 犠牲が神の国を築く この七十五人の誓い、日本のあんた達が一体となった場合には、あんた達、県を中心としてそれを祈った場合に、自分の家庭においてもそれが一番情的作りやすい所は自分の親戚だよ。だからあんた達、祝福された家庭を中心として、みんな氏族のメシヤになるというのは、それはイエス様が十字架につけられたその動機となったその基準を乗りこえた人達を許して、神様の目から許された立場なんですよ。 あんた達どうだ! その家庭を愛するのがその社会を愛したことになるし、その家庭を愛したことが国を愛したことになる。 そうなっていないだろう。家庭を愛しても社会という環境を愛するような環境に我々は恵まれていない。そうだろう。だからどうする? 国が問題だよ。サタンの国家を中心として世界、神の讒訴した国を乗り越える以上の心情的一致した個人より家庭、氏族、民族、国家という基準に結びつけるような、そういう勝利圏を果たした場合には、その圏内で個人が愛するその家庭夫婦が国家を代表して、愛した神の鍋いの夫婦として立つことができるよ。 そういう基盤がなって、その基稲を我々は生命をかけて乗り越えなければ我々行くべき神の国は迎えることができないよ。 それを成した場合には、それは横的な問題だ! 問題ないというんだね。だから最後には何んによって主管されるかというと、アダム・エバにおいて三つの天使長だよ。そうだろう? 堕落しなかったその基準において見た場合には、アダムとエバの前に三つの天使長が一つにならなきゃいけないんだね。国家から見た場合にはアダム・エバの国家に三つの天使長、一人はそれはどこかというとそれは中国だよ。蒋介石、だから蒋介石というのは、介石というのは石をいうんだよ。うん? 介の字は何の字だ。それ、仲介の介だよ。仲だちの石をいうんだよ。蒋というのは何をいうの、介の象徴するその蒋、そういうんだよ。だから、蒋介石の名前は実にすばらしいんだよ。それから蒋介石のその一家を見ればね、蒋石介と蒋経国とそれから蒋緯国は三国家を立たせているんだよ。韓国は日本の方から生まれたよ。経国はソビエト系だよ。それから蒋介石は中国系だよ。みんなちがうんだ。三つの圏がちがうものが集まっているよ。それは三つの三人の天使長だから。 日本はどうか、佐藤とそれから岸、兄弟が日本の現在まで首相になっているよ。それは、カイン・アベルと同じだよ。それが一つになる。だから中国が蘇生天使長、それからアメリカ、が長成天使長。本当はいって見てアメリカがね、第二大戦後にアメリカが、アメリカを中心として英国が既成教会、キリスト教がね、統一教会という国を持った場合にはね、英国がエバ国家になるんだよ。日本と同じ島国だよ。それが反対したんだから、反対の方に追われて行ったんだから、行ってサタン世界を奪ってこなくちゃ、捜してこなくちゃならない。そういう立場に立ったんだから、日本という問題が、サタン圏だったらその国が恵まれるようになっちゃうんだね。まわれ右をするんだね。まわれ右をするんだから結局一番のびりこのものが先頭になるというんだね。だから、日本はエバの国、日本がそういう圏内に立っておるんだから、神に恵まれるんだね。だから天使長国家アメリカが援助するだろう。ドイツもそうだよ。 天使長では、これはサタンの悪なる天使長、そのために天使長としては、それは悪の天使長を屈服させなきゃいけない。勝利圏の天使長圏を復帰できないだろう。そうならざるを得ないよ。みんな原理的になっているんだよ。だから1蘇生天使長、長成天使長、完全天使長ね。ドイツ最後のドイツはこれは問題だ、中共も二つに別れているんだよ。そうだろう?中共も二つに分れている。それからアメリカとこれ民主主義と共産主義二つに分かれておるんだよ。それが一つにならなきゃならないよ。天使長の位置に立たない。これドイツだよ。蘇生的にわかれてるよ。これが統一しなきゃならない。そうなっておるよ。それで韓国が分かれておる。韓国はアダム国家である。これ自由世界の共産圏を中心として分かれてるよ。だからこれが三つの問題だよ。韓国と台湾と西ドイツ、おもしろい。西ドイツと東ドイツはそれは、まあ、それは成功するようになっているんだね。共に帰ることができる。こういうような立場に立った時、問題は、家庭でその忠実な生活した者が国の為に忠実な生活をした。代表して忠実な生活をしておる。そういうような民族の我々の国権を持っていない。国を持っていないんだね。だから、いくら家庭的天的立場に立ってもその民族的環境をそれを四方で歓迎されないんだね。そうだろう? 国家の保護の元で歓迎されない。だから、いくら、いくら氏族的立場でやっても、民族は歓迎されない。民族歓迎しても主権をもたなければならない。こういうことを思います時、我々の行くべき神の国という国は、一つの国を持たなきゃならない。わかったの? だから、これを求めるためには我々を祝福した家庭の基準、統一教会のこれは一つ氏族だったら氏族も犠牲にして、この氏族すべてのものを犠牲にして、一つの主権復帰のために相当な準備をして、これを解決してしまわなければ我々の安息圏というものは、平面的世界的に通ずるそういう基準が生まれてこないよ。 だから、一国だけ果たして神の国がサタン一国家圏より以上これは愛する。それは精神的基盤において、強い誰もおかすことができないというような立場に立った一国を中心として結束した場合には、そこより世界はもう下り坂になっちゃうんだよ。わかったの? それが今、可能なる圏に波打たれるようなそういう時世圏に立っておるんだね。 それで外的世界はそうなっているから、我々内的基準においては日本の統一教会、それから台湾の統一教会、韓国の統一教会、まあ、偶然にもね、福田さんもきておるんだよ。日本にはエバ国家だから男を行かしたよ。中国はね、韓国人が行かなきゃいけない。日本において関係もった福田さんが行ったというのは、これは摂理的にすばらしいんだね。韓国人だから、こういうようにして才台を作るとなったというのは、それは天使長だから女を通して、アメリカも天使長だったから女を通して、こういうような考えから見た時にね、実にすばらしい。それは統一教会はそうだね。韓国の歓迎の立場をずーと問いつめてるんだよ。 最後には、心情が問題だ。心情が問題、体と良心を組み合わせる心情が問題だね。それは変わらな心情問題。それは人間的心情というのは自分を中心としての考え方であり、神の心情は自分を中心としてじゃないよ。子供を中心として考える思想だよ。そういう思想でもって国まで乗り越えて行かなければ我々の勝利のその地上天国は生まれてこないことをはっきり覚えておかなければなりませんよ。わかりました?(ハイ) さあ、祈りましょう。 祈 り 天の御父様、今まで歴史過程の人たち、宗教人達が犠牲になってきました。それは悪主権の最高の者達が踏まれ、あるいは殺されてきたということを思いまする時、国家というものは本当に重大性を持っていることがはっきりわかりました。我々、統一教会の行かれる道というのは、国を作らなければならません。その国たるものは本然の神の愛情に立つべき永遠の因縁を永遠に残すべき、あるいは伝統において、歴史において残ざるを得ないというような不変の心情的歴史観が作られるべきであったはずだったけど、それをそこなわせる、そしてそれを失ない、また再び求めて行くには蕩減の祭物を通過しなければならない、というみじめなことがわかりました。 しかし、我々は寺利の基準を求めて立った神の心情の国でありますから、如何なることがありましても自分を犠牲にして国のために犠牲にし、国求めるなら世界のものを犠牲にし、世界が求めるなら神のため、神は心情を中心として犠牲になりつつあるということをはっきりわかりました。自分なりの勝利青は相対的勝利圏を果たすのであり、自分なりの国家の勝利の基準は相対圏の立場に相対者のその勝利の国家をなすためであるというようなすばらしい思想を、今この歴史の方向にたどりて、その方向を果たさないというと、この世界を救う一つの道が生まれてこないということがはっきりわかりました。神は今までそういう歴史的心情の内容を持って果たしてきたんだけど、地上においてその相対者の立場を守り、そういう縦的因縁を持ってこなかったんだから、神の摂理は延長してきました。 今ここに集まった日本の若者達は、こういう心情的伝統の内容をはっきりとわかりました。今、神を中心として結ばれた心情を気よりも尊い、何よりも貴重と思いまして自分の一生をその犠牲にさしても、この心情的基準を残して戦って行くような神の愛すべき子供となるように祝福して下さることをお願申し上げます。今回こういう来韓の期間におきまして、神の最も願われる国のために立つ勇士となり、国を守るための忠心忠誠を尽す、その神の最も愛すべき子供となるように祝福し、あるいは混うことができるような新しい覚悟をもって日本の地に帰り、神の兵士となるように守って下さることをお願いしつつ、すべての祈りを神のその真の父母の御名を通してお祈り申し上げます。 アーメン一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.20
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天の父母様聖会 世界平和統一家庭連合本部教会天苑宮天苑教会 聖日礼拝2021.06.20 AM09:30~2021/06/20 AM09:30に公開予定一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.20
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「我が家庭の行く道」(その2)<1からの続き> この世とは反対の道を行きなさい 皆さんはいつ、一度でもそのようにしたことがありますか。統一教会の文先生はどのようにしたと思いますか。そのようなことがしばしばありました。つかめば離しますか、離しませんか。離さなければならないですか? (「離してはいけません。」) 神様も文先生に会って大変な目に合ったでしょう。(笑い)ヤコブが天使に勝って、イスラエルになったでしょう? 神様に勝てなくて天国がなるでしょうか。サタンに勝ったことをもって、それでもってなると考えるとすれば、とんでもないということです。神様に勝たなくてはならないのです。このような話をすれば不敬ですが、事実はそうなのです。神様に勝たなくては、天国は成されないのです。 イスラエルは養子であります。息子として祝福しようとすれば……。父母は息子に負けますか、負けないですか? (「負けます。」)いつも負けます。「ああ、どうか私の話を聞いてくれ」と言うでしょう? 同じです。息子がお父さんに勝つことのできる道が、そういうところにあるというのです。何をもって? 愛の道、心情の道だけを行けば、お父さんも僕にさせることができるのです。お父さんが僕の生活をするでしょう? それを泣きながらしますか。(「笑いながらします。」) 笑いながらするのです。そのような何かがあるというのです。 故に、神様に勝たなければ、イエス様を息子としてつくることができません。それができなければ、人類の祖先が出て来ないというのです。このような話を既成教会の人々に話せば、仰天して倒れてしまいます。倒れる人が悪いのであって、私がこのように話したことが悪いのではありません。私は堂々とした話をしているのです。看板を付けて、天の公認を受けて、これを始めたのです。 皆さん、考えてみてください。この統一教会の文先生の道は見くびれないのです。いつも神の福を得るのです。御旨といえば、許しがないのです。父母も妻も、子供達にも許しがないのです。 何故そうなのですか。一つの世界と離別して、一つの世界を迎えなければならないからです。女性であれば、嫁に行って住んでいた女性が再び嫁に行くようなことと同じです。復帰の道は、サタンと暮らしていた一人の女性が、神様のところに、再び嫁に行くようなものです。それなのに、後に置いてきた昔の夫のことを考えれば、今の夫は喜ぶでしょうか。自分の奥さんが昔の夫のことを考えれば、再び娶る男は喜ぶでしょうか。喜ぶ男がいるかといえば、一人もいないのです。そのような人は手を挙げてみなさい。喜びますか、喜びませんか。(「喜びません。」) それと全く同じです。その人は夢にも現れるなというのです。それで、昔のことは夢にも思い出さない、そのような立場にまで引っ張って行こうとするのです。 この世で家庭を導いていくならば、他の世界が現れますか。この世では見えない他の道……。このように行くならば、塞がってしまうのです。その道は、世界まで越えることのできる道ではないのです。従って、ここで抜け出そうとすれば、仕方なく、この世とは反対の道へ進むのです。この世が好む道とは反対の道を行かなければなりません。一歩も許しがないのです。境界線はどこにあるでしょうか。神とサタンの三十八度線はどこでしょうか。私自身です。ここから出る欲を中心として世界を導いていこうとするので、六千年かかってできた歴史的な基準を超越することはできません。しかし、私がすべて否定して回れば、直ちに再び娶る夫に出会うというようなことと極めて似ています。 下りて行くことはいいことですか、悪いことですか? (「いいことです。」) 皆様に何か付いているときに、どのように、その付いているものを取りますか。それを下ろして取りますか、上げて取りますか。「さあ、早く上がりなさい、上がりなさい」と言いますか、「こいつ、離れなさい」と言うでしょう。そして、どのようにしますか。足で、崖に蹴ってしまうのです。 神様と通じる一番の早道 神様が愛するには、こんなものを切ってしまうのにも、精誠を尽くしてするように、ゆっくりなだめてするならどれほどいいでしょうか。しかし、ばっさり切って崖の下に投げ込むのです。サタンがまた入ってくることのできない深い谷間に押し込むのです。そうして、サタンがいなくなった後に、神が訪ねて来て治療をしてくれるのです。足が折れていれば、足を治療してくれるし、体がよく動かなければ、神様が担いで上がっていくのです。このような所で、神様と通じることができます。 神様と通じることのできる最も早こが、どのような道なのか。二つの道があります。この世を捨てて入山し、修道する道と、この世に入って行って犠牲になる道、その中でどの道が早いでしょうか。入山修道する道よりも三倍早こが、この世に出て行って正しく生きる道です。それで、統一教会は精誠を尽くすことよりも、出て行って伝道しなさいというのです。私がしてみると、それが三倍も早かったのです。 祈祷する目的は何か。実践するためです。実践をすれば、祈祷しなくても、それ以上の位置を探し求めることができます。いくら考えてみても、その道が一番早こです。私は精誠を尽くして神様に出会う時まで、数多くの試練を受けてきました。しかし、皆さんが御旨のために一線に出てくるようになれば、一度に先生に会うことができるのです。 御旨を中心として苦労してみてください。何かがあれば、すべて直接会うことのできる圏内に入って行くのです。数日もしないで、みんなそのようになるのです。故に、その場が福のある位置であるというのです。先生が訪ねて行って、主人の役をするようになれば、サタンが退いて行くべきですか? (「退いて行かなければなりません。」) それに接する立場がどこですか。皆さんが、先生が神様の指針を受けて、約束を受けた境地まで行けば、そこで、今までしなかった、新しい教訓を与えてあげたいというのが神様の心です。 悲惨な道を歩まずしては父子の因縁を結べない 皆さんは上がりますか、下がりますか? (「下がります。」)「生活が難しいので、楽な道を捜し求めなければなりません」と言えば、こいつ、殴り殺してしまえというのです。「妻子に食べさせることができないので、胸がひりひりして死にそうなのです。私はこの道を行けません」と言うと、サタンはそこに調子を合わせて踊りを踊り、神様は荷物をまとめるのです。先生はそのような道を行かなかったと思いますか。皆さんは南の地なので、行って会うこともできますが、先生は荷物をまとめて三十八度線の北に行ったのです。何か準備をして、挨拶をしてから発って行ったのではありません。皆さんは挨拶をして発たないのか、というのです。先生はその時、■■でお米を買っておいたのです。解放された後には、ソウルでお米を買うことができませんでした。それで、そのお米をトラックに積んで来ようと思って行く途中、その車の中で、「三十八度線を越えなさい」という天命を受けたのです。どうしようもなかったのです。「ああ、妻と子供に連絡しなければならない」と言うことができなかったのです。 その時、家にはお米が一升もなく、隣の家に住んでいる友達の家に行って、「明日の朝までに返しますので、米一升だけ貸してください」と言って、持って来ておいたのです。すべてをなめて、食い潰してしまって、お金が一銭もなかったのです。そのような状態で三十八度線を越えて行ったのです。こういうことができるかというのです。その時、聖進が四月二日に生まれたので、一か月半、約五十日ぐらいになっていました。一九四五年五月二十七日に命令を受けて出発して、六月六日に平壌に到着しました。血だらけの者を置いて……。 当時の聖進のお母さんの年齢はいくつかといえば、二十二歳でした。親戚も誰もいませんでした。艱難の中で皆別れてしまいました。そのような人に、行くとか、来るとかという挨拶も無く去って行きました。行ってからも手紙も出しませんでした。どうせ覚悟した道なので、挨拶をして立てば不浄のためにたたると思ってそうしました。子供のために涙を流せば、不浄のためにたたるし、妻のために祭物を捧げる体は、不浄にたたるというのが先生の考えでした。 すべてのものをそのままに置いて出陣する兵士の心情で、「私は死地に向かって、監獄に行く迫害の道が横たわっているのである。この手が裂かれるのか。この足が折れるのか。いつどこで銃弾が飛んで来て、私の脇腹を貫通するか、後ろから貫通するのか、前から貫通するのか」。そのように深刻だったのです。死ぬ覚悟をして、北を訪ねて渡ったのです。 これから私が手記を書けばいいのですが、そういうものは書こうとは思いません。何日に、どういうことがあったということをみな知っています。しかし、私は手紙を一枚も出せませんでした。天の前に任せた後には干渉をしてはいけないのです。「ああですか、こうですか」と、聞いてもいけないというのです。私は両親と離別して分かれた後に、北韓で、神様の前に「私のお父さんとお母さんは元気でしょうか」という祈祷を一度もしなかったのです。「私のお母さん、お父さんにを幸福にしてください」という祈祷を一言もしなかったのです。私が祈祷すれば、死んだのか、生きたのか、ということがすぐに分かりますが、今まで知ろうとしなかったのです。しかし、誰々が一遍に死んでしまったということを霊的に知っているのです。今まで、そのような賭けをしてきたのです。 自己犠牲の道からサタンが分立 その後、私が南に戻って来た時、聖進と聖進のお母さんがどのような生活をしていたかということを、みんな知っていました。どこに行けば必ず会うことができるということも知っていましたが、行きませんでした。私が修道の道において、御旨の道で出会った人々を解決しなければなりませんでした。私がこの道を出発したことは、聖進のお母さんに会うためではありません。 カインを復帰して帰って行くために、この世の人々のために、この道を出発したのです。因縁を結んだこの世の人々を最後まで皆探し求めたのですが、その人々が相手にならず、相対的な立場に立たない時に、私は責任を果たした後に私の家を捜し求めて行ってこそ、引っ掛からないのです。私が家を出てから三年六か月経っていました。手紙一枚だけ出せば、すぐにでも会うことができたのですが、手紙を出しませんでした。私が会わなければならない人、神の前に誓い、約束した数名の人々に出会うことができなかったので、彼等に会うまで待たなければならないのです。その人々に会うや否や連絡したのです。連絡するとすぐに来ました。 この世的に見た場合、私は夫という立場であるにもかかわらず、子供が七歳になって初めて会ったのです。その時には、食口達と一緒に過ごしていた時でした。お婆さんたちをひき連れていた時でした。ところが、「私の息子が来た」と言って、私が喜んで迎えると引っ掛かってしまいます。 アベルは誰を通じてですか? カインを通じて紹介を受けて、愛さなければなりません。カインが、「あなたが聖進様ですか。先生、聖進様が帰って来ました」と言って抱いて、愛の表示として一つになって迎えなければなりません。これが原理の法度です。 聖進と聖進のお母さんが私のところに来た時、先生が「この子が聖進か?」と言ってしまいました。それが、聖進のお母さんには一生の間、恨めしいと思っていることなのです。世の中に、熊や虎も自分の子供を保護するのに、この人は一体何者かというのです。死地においてあらゆる苦労をして、初めて父子が出会うのに、「お前が聖進か」と、手も一度も握らないで、ぼんやりと門前で立っていても、「入って来い」という話もしなかったのです。そういう話は食口がしなければならないのです。私は原理的に生きようと、今までも、ありとあらゆる悲惨な境地を経たのです。 いったん神の前に預ければ、神はすべて責任を持ってくださいます。御旨からみれば、父母が神の前に孝の道理を果たせば、その子供は父母の前に孝の道理を果たさなければならないというのです。そのようにして出会った息子が、お父さんに何の情が行くでしょうか。それにもかかわらず、聖進は、自分のお母さんが反対する中で、七歳の時に母親を置いて、お父さんを訪ねてきました。お母さんが金だ玉だと言って愛しながら、七歳になるまでおんぶして育てたのに、そのようにお母さんを捨てて、自分のために何もしてくれなかったお父さんを捜して来たのです。誰かが誘って来たのではありません。自分の足で歩いて来たのです。そして、お母さんが迫害しようとすれば、事前に来て、すべてを教えてくれるのです。これは本当に、不思議なことでしょう。そういう子に、一度も教育をしたことがないことを申し訳なく思います。原理がこのようになっているという教育を、一度もしてあげられませんでした。父親としての責任を果たせなかったのです。この世的に見た場合、父親としては0点だったというのです。 六〇年代になるまでは、私は聖進を他人の家で生活させました。何故でしょうか。復帰原則を歩んで行かなければならないからです。カインがアベルと一つにならなければならないからです。それで、疎かにされながら学んだ人になりました。迫害を受けてはいけない環境にいなければならないにもかかわらず、このようなことがあるために、他人の家で生活させたのです。 聖進が小学校に行っている時にも、私は鉛筆一本も買ってあげませんでした。中学校に行く時も、鉛筆一本も買ってあげませんでした。六〇年代に聖婚式をして初めて顔を……。喜進もそのような賭けをしました。譽進も、生んでから復帰して入って来たのです。そうしないと原理が間違ってしまうのです。そして、寺に行って、寺で生活させ、他人の家での生活を経て、外地で生まれ、外地で死んだのです。 このような天的な歴史を知っている立場に立つ主人が、そのようにすることができるでしょうか。天罰を受けるというのです。先生が心情で育てておいた道です。この原理原則は天地の分かれ目になっているし、復帰される天国の憲法の基準になるものであるのに、皆さんがそうしなくては、伝統的思想を引き継ぐ父子の因縁が成り立つかというのです。とんでもないことです。誰かが言う前に、自ら、そのような道を行かなければならないのです。 先生が皆さんより劣るから苦労したのでしょうか。神様が先生の家庭をただで苦労させたのでしょうか。何のためにそうしたのでしょうか。皆さんの家庭のためにです。先生の家庭と皆さんの家庭が一つにならなければなりません。それには、どこで一つにならなければなりませんか。サタンが付いて来る所で一つになれますか。サタンと別れた立場で、一つにならなければなりません。他人のために犠牲になるという立場で、サタンが別れるです。 従って、皆さんの家庭の婦人達は全部、この国、この民族のために犠牲にさせるというのです。先生が氏族復帰をするために北に訪ねて行ったように、皆さんもその賭けをするのです。全部別れ別れにならなければなりません。別れて合わされなくては、天の国に入籍されないのです。悲痛な大韓民国の歴史において、南北の統一がなされるその時まで、この役事をしなければならないのです。 そして、統一の運勢を備え、一つの国家の勝利圏を備えて、エバ圏国家に相対することのできる姿勢を備えなければ、統一の運命の受難の道の前に、皆さん自身は全部悲惨に、犠牲になってしまうのです。キリスト教が悲惨な目にあったと同じように、皆さんの前途には言うことのできない悲惨が待ち受けているのです。 相続権は希望のない、低いところから引き継がれる イスラエル民族が、イエス様一人を悲惨な立場に置くことによって、歴史的に悲惨になったでしょう? 自分の祖国を回復するために再び訪ねて来たけれども、怨讐が銃剣で狙いながら、「神様を中心とするお前達は、まだ民族的基準において、私達に屈伏していった世界的基準までは至らなかったので、世界の基準を越えて行かなければならない」と言って脅かしているのです。昔は同族であり、友達であった十二支派が全部アラブ国家になって怨讐となり、銃剣で狙っています。どうしてですか。先祖の間違いを蕩減復帰しなければならないからです。銃剣で裂いて置いたので、銃剣で狙っているでしょう? イスラエルの生命は私が手を出さなければなりません。他の秘法はないのです。 それで、皆さんは下りて行きますか、下りて行きませんか。(「下りて行きます。」)泣きながら下りて行きますか、笑いながら下りて行きますか。(「笑いながら下りて行きます。」)相続権はどこで継承されますか。希望のないところで継承されますか。希望のあるところで継承されるでしょう? (「はい。」)「最後まで忍耐して、辛抱する者が救われる」と言われているでしょう? それで、イエス様は霊界に行って、地獄の底に行って、三日間、受難の道を克服しなければならなかったのです。イエス様はノア以後の、霊界を中心として、彼等の所願を成就してあげることができなかったのです。霊肉を中心として、勝利の起点を持たなければなりませんでした。それで、彼等を中心として道を開いておかなければ、讒訴を受ける立場に入って行くのです。道を作らなければならないのです。それ故に、イエス様は霊界の地獄に行って開拓し、道を開いておいたのです。そこに行って、そのようなことをしなければなりません。 監獄の中から蕩減復帰の道を開拓 先生もそうでした。先生は北に行って何をしたのでしょうか。このような原則を知っていたので、監獄に入って行ったのです。イエス様は監獄で滅んだのでしょう? それで、先生も怨讐に追われた道を元返して行く時には、監獄を探し求めて行ったのです。私は平壌の刑務所で、手錠をかけられ、刑罰を受けている間にも、誰々に会うという約束を受けたのです。「向こうに行けば、イエス様の三大弟子のような人に会うだろう」という約束を受けたのです。復帰の運勢圏内においてそうしなければ、道が合わないのです。従って、手錠をつけて監獄に入る道も、最高の希望の道であったということです。その時、そこで出会った人々が今日、皆さんの前に出て証をする人々です。 こういう人に会うであろうというその希望を持って、監獄を探し求めて入って行ったのです。希望の中で探して行って、絶望の中で探して行ったのではありません。私がそこに入って行ったので、そこで道を作って、その苦労の功績を通じて、その門が自動的に開くようにしなければならないのです。そうしようとすれば、完全に蕩減しなければならないのです。 その監獄生活をし、その監獄で祭物にならなければならないのです。それで、その獄に入ってから、最も難しいことを私がみんな引き受けてなしたのです。体ですることの中で最も難しいことを私が全部引き受けてしたのです。最も難しいことを一歩も譲歩しなかったのです。それで共産党員から毎年、模範労働者の表彰を受けました。それを私が願って受けたのではありません。全部彼等がくれたのです。共産世界の監獄に入って、模範労働者として一等になったので、世界のどこに行っても問題はありません。そうしなければ蕩減復帰ができないからです。 監獄で私はマラリアに罹って数か月苦しみました。そのような中でも一日も休まなかったのです。他人はそれを理由に上げて、休むことができないと大騒ぎでしたが、私の責任量は死ぬまで……。私が責任の量を果たせなかったことはなかったのです。それで、監獄に入った人間として、所長からまでも特別待遇を受けました。言葉には出さなかったのですが、全部、私を尊敬していました。言葉には出さないで別の国をつくっていったのです。全体のために私の組を経て行った人の前で……。そこでは毎日朝、その組の編成を行いました。千名に近い人々がいたために、数多くの人々が私がいる組を経ていったのです。私がいる組を経ていった人々は、みんな私が好きでした。監獄生活の中の監獄生活をしたのです。この文という人の後ろに、犬が多かったのです。皆さん、犬というのは何か分かりますか。しかし、そのような条件に掛かる男ではなかったのです。 私が言うことであれば、命を懸けて脱獄もすることのできる人がいたのです。死地においてイエス様の十二弟子が逃げて行ったのを復帰しなければならないのです。自動的に復帰しなければならないというのです。 私が口を開けなければ、霊界が動員されて伝道してくれたのです。先生の囚人番号は五九六番です。どのように考えてみても耐え難い番号です。ある人には夢で先祖が現れて、「何号室の五九六番、こうこうこういう方がいるので、あなたの受けたそのミスカル(注・蒸した餅米を炒って、挽いて、粉にしたもの。みじん粉)を持っていって、少しも手をつけないで、その方に捧げなさい」と命令したのです。それでも「このような、雲をつかむような夢みたいなことが何だ」と、一度言っても聞かなかったのです。それで、二回、三回言って、最後には、首を締めながら、「この野郎! するのか、しないのか」と言うと、「はい、いたします」と、このようになっていました。 監獄でミスカルといえば、命よりも貴重なものでした。それで、その人がみじん粉の袋を逆に持って、私の所に来て、「ここに五九六番いますか? 誰ですか」と言うのでした。「誰かって、誰さ。ここにいらっしゃる、この男の方ですよ。皆さんの先生となられる男の方ですよ」と言って、霊界で動員されて、みんな食べさせてくれたのです。その後、私が何の話もしないで、平壌から避難するときに、四人の人が付いて来ました。四位基台の復帰です。分かりますか? 教会を中心として、四人の人を連れて出て来たのです。このように、歴史は復帰の原則を離れることができないというのです。 終わりの日に現れる四つの形態の国 それでは、何故四人を連れてきたのでしょうか。私達の心と体が分かれているでしょう? 内的な心も性相的なものと形状的なものがあるでしょう? 外的な体にも、性相的なものと形状的なものがあるでしょう? それで四つです。完全統一は内的に霊的サタンを屈伏させなければならないし、外的には肉的サタンを屈伏させなければなりません。私達の体は、神様の外的な面を代身し、心は神様の内的な面を代身しています。これら四つが一つにならなければなりません。この四つが一つになっていなければ、世界の統一もなされないのです。ヤコブが何故妾を置いたか分かりますか。 従って、終わりの日にはどのようになるのか。終わりの日には四つの国の形態になっているのです。民主世界も二つのグループ。共産世界も二つのグループ。このような世界になるのです。全世界が四つに分かれるのです。イエスの国、右側の強盗の国、左側の強盗の国、次にバラバの国が生じるのです。バラバの国が何かといえば、回教国家です。強制だということです。「コーランを受けるのか、あるいは刀を受けるのか」という宗教です。キリスト教とは反対でしょう? それがバラバの国です。イエス様のために恵沢を受けたけれども、その功徳を知らない群れ、自分の連中だけのために尽くし、恩徳を返すことを知らないバラバ型の宗教が出てくるのです。それが回教です。そのようになっているのです。 左翼、右翼というのはイエス様の時代から生じたものです。イエスがイエス様の国を中心として来る時になれば、この四つの国が出会い、頂上的な道を見分けて行かなければならないのです。そこから歴史が分かれたために、そこから歴史が収拾されて、新しこが模索されなければならないのです。今、世界が右翼と左翼に分かれていたでしょう? その次に回教圏があったでしょう? そして、キリスト教圏があったでしょう? キリスト教圏は、来られる主を中心として、新しい天国文化圏を中心として生まれたものです。この四つの出合の時代が来るのです。今がその時です。 それでは、共産党はどのようになりますか。共産党はアラブ圏と手を組むようになるのです。これは先生が、既に話したことです。一九六五年にアメリカのアイゼンハワー元大統領と会った時、話をしたのです。共産世界が滅びる時には、必ずアラブ圏を通じて民主世界に再び反旗を揚げてくると言いました。今、そうなのです。 このような時代的流れの中で、ソビエトとアラブ圏のナセルとが手を握って、ナセルを連れて行ったのです。彼を滅ぼさなければなりません。これが粉々になって分かれなければなりません。その時が来れば、私達の時が来ることを知らせるのです。見てください。民主世界で、アメリカが孤立しているでしょう? 分かれているでしょう? 完全に孤立しているのです。そして、共産世界でソ連が完全に孤立しているのです。今、孤立しているでしょう? また、中国もそうです。世界が全部孤立しているのです。ナセルを中心として、アラブ世界も今、孤立しています。ナセルが死んだためにみんな孤立するようになっているのです。キリスト教も同じです。キリスト教自体もやはり孤立しています。 キリスト教が行く道がありますか。民主世界が行く道がありますか。共産世界が行く道がありますか。回教が行く道がありますか。ないのです。みんな方案がないので、ここで新しく来られる再臨主が、再臨思想を中心として、新しい方案を持って、「このようにしなければならない」という、旗を立てて出て来るようになるのです。歴史を見ても、今が終わりの日です。 苦難と犠牲はサタンの讒訴を避ける神の戦法 個人を統一させるためには、どうしなければならないでしょうか。自分を犠牲にしなければなりません。自分を犠牲にすることは、上がることではなく、(自分自身を)下に閉じ込めることです。その閉じ込めることは、良いことでしょうか、悪いことでしょうか? (「良いことです。」)歴史時代の人物の中で、閉じ込めなかった人がいるでしょうか。アベルを閉じ込めましたか(犠牲にしたという意味)、閉じ込めませんでしたか? ノアを閉じ込めたでしょうか、閉じ込めなかったでしょうか? アブラハムを閉じ込めましたか、閉じ込めなかったでしょうか? ヤコブを閉じ込めたでしょうか、閉じ込めなかったでしょうか? 数え切れないほど閉じ込められたでしょう? (「はい。」)またモーセを閉じ込めましたか、閉じ込めなかったでしょうか? 洗礼ヨハネを閉じ込めましたか、閉じ込めなかったでしょうか? イエスを閉じ込めましたか、閉じ込めなかったでしょうか? (「閉じ込めました。」)閉じ込めましたね? (「はい。」) それでは統一教会の文先生を閉じ込めましたか、迫害しなかったでしょうか? 返事をしなさい。(「迫害しました。」)閉じ込めましたね? (「はい。」)それでは、それを継承する統一教会の人達は迫害されるべきでしょうか、迫害されるべきでないでしょうか? (「迫害されなければなりません。」)生きる道を見上げると滅びてしまいます。神様がその道を防いで、犠牲にさせたのではなく、先生が犠牲にさせたのです。この道を避けては、生きる道がないのです。犠牲になりますか、なりませんか? (「犠牲にします。」)犠牲になることが正しいと思っている人は手を挙げてみてください。下ろしなさい。 見てごらんなさい。神様が先生に対してどんなに無慈悲なのか知りません。谷間にちょうど行って知らん振りをされるのです。世の中に、そのような主人をおいた人が、どこにいるでしょうか。私が世の中の人だったら、神様であれ、誰であれ、じっとしていなかったのです。あきれて物も言えないのです。あれこれ優しい言葉で誘い、興味をそそるようにして、首を上げさせておいてからは閉じ込めるのです。挨拶をしないのです。(笑い)それが良いことでしょうか、悪いことでしょうか? (「良いことです。」)それを知っていますか。何故そうしなければならのか。皆さんはこれを知らなければなりません。それはサタンの讒訴を避けるためです。 例えば、村で二人の子供が喧嘩をしているとしましょう。私の子供と村の子供が喧嘩をしているとしましょう。そころで、このような子供の喧嘩が大人の喧嘩になる場合があります。子供が喧嘩をしているところに、その村の人が、私の子供を散々殴ったとしましょう。このようになったとき、私が現れて、その人に「あなたの息子が悪いのです」と言うと、そこで大人の喧嘩になるでしょうか、ならないでしょうか? そのような時には、その村の子供のお父さん、お母さんが見ている所で、自分の子供に「こいつめ!」と言いながら私は自分の子供を三発たたくのです。するとその人が申し訳なくなって、「あなた、あなたそれ止めてください」と言うでしょうか、言わないでしょうか。(「そのように言います。」) そうなると、サタンが来て讒訴するでしょうか、しないでしょうか? 顔も挙げずに背を向けるのです。馬鹿らしく屈伏させようとしてはいけないというのです。一瞬にして影もないようにしなければなりません。祝福してくれて、公認してくれなければ、帰ることもできないようにしなければなりません。証明書をもらっておかなければなりません。勝ったという証明書をサタンからもらっておかなければなりません。「お前、私の子供をどうするつもりか」と言って、「私はどうしようもできません。あなたが処理しなさい」という公認書をもらっておかなければなりません。 そのような約定書を残すために、作戦をするのです。それは良いでしょうか、悪いでしょうか。証人がいなければなりません。父と子供が一つになって秘かに企てると、これは誰が信じてくれるでしょうか。天地の前で、サタンが証すことができるようにしなければなりません。方法はそうなのです。 時が近付くほど、私は、地域長とか地区長が、自分の息子にあげるご飯を、自分も知らないうちに奪って食べたという話を聞くことを願っているのです。何の話か分かりますか。その時を願っているのです。息子にご飯を食べさせていたが、そうすることすら忘れて、そのご飯を自分が食べたといえるほど悲惨な立場にまで行くようにおくのです。その立場まで行くように責め立てるのです。先生はそのように厳しい人なのです。こんな人に従いますか、逃げますか? (「従います。」)本当に従いますか? (「はい。」)この道を行くために皆さんを責め立てるのです。それで、この前もお話ししたように、難しいと思う人は、自分の家に帰れというのです。耐えられない人は帰れということですね。 今回も私はすべて知っているのです。「さあ、荷物をまとめて帰ろう」と思っている人もたくさん来ていますね。一度見たら、「今回、修練会にでも一度出て考えよう」とか、「これから工場にでも勤めよう。人並外れてやることはないさ」というように考えている人もいるということです。 統一思想の主流思想は真の父母の思想 皆さんはこれを知らなければなりません。統一教会の先生が出る前の六千年の歴史は、すべて燃やして捨てなければなりません。歴史は先生の時代からだということを考えてみましたか。今まで数千年も続けてきた文化史というのは悲惨な歴史でした。今までの歴史は、サタンが神様を裏切った歴史なのです。けれども、神様が残すことのできる歴史の記録を先生一代から始めるのです。 先生が今まで、五十余年間にわたって歩んできた生涯の歴史が統一思想なのです。その歴史と共に、皆さんが残るようになった事実は、皆さんが歴史的な英雄となることを意味するのです。現在に歩調を合わせて、宇宙の歴史の基盤を備えることにおいて、一歩前進するか、後退するかによって勝敗が決まる厳粛な瞬間です。この時は、先生の一生で外にはないのです。先生があの世に行く前に、ただ一度しかない時なのです。これから皆さんの歴史は、この歴史を中心として戻って行くというのです。先生が成し遂げようとするその世界、先生を中心としてなされているその伝統の歴史を、皆さんが余すところなく受け継いで、そっくりそのまま未来に残しておかなければなりません。 その内容は何でしょうか。先生を中心としてなっているものが、世界をすべて統一させるのです。その母体は何でしょうか。真の父母の思想なのです。真の父母の伝統がなければ、真なる息子の歴史は現れることができません。文化の出発は父母から起こるのです。その短い期間が、宇宙の歴史の尺度となるのです。皆さんはそのことを考えてみたことがありますか。それ故に先生は深刻なのです。 それで、先生は今まで「統一思想の伝統的基盤を成立させよ」と願うのです。今まで願ったのはそれなのです。これを整えておいた基盤の下で、家庭が成立しなければならないし、国家が成立しなければならないのです。その主流思想というものは何でしょうか。それは自己を中心とした思想ではなく、全体を中心とした思想なのです。そうしながら自己を全体のために犠牲にする道を歩まなければなりません。それが統一思想の主流思想なのです。 迫害の真っ只中で挙行した聖婚式 私達の体制において教会もあり、会社もあり、すべてありますが、それは傍系的なものなのです。皆さんが、千辛万苦を重ねて、世界的な抽選を経て残ってこそ、荷担することができる栄光の恵沢圏に入っているということを考えてみましたか。 イエス様はサタンに「人はパンのみで生きるのではなく、神様の口から出る一つ一つの御言によって生きる」と言ったでしょう? 本当はそうなのです。先生は今まで労働しながら生きましたか、お金で生きましたか? (「いいえ。」)神様は御言をもって生きるのです。そうしても滅びないのです。 統一することのできる絶対的な方法は、神様と共に一線を越えることです。神様と共に、最後の最後の線まで越えようというのです。その線がどこでしょうか。熾烈な闘いの場であり、包囲網を貫いて行かなければならない、生死の交差路に接している接境地帯ではないでしょうか。 それでは、神様と共に越えなければならないその第一線はどこでしょうか。栄光の立場でしょうか、お酒を飲む、そのような立場でしょうか。涙と鼻水を流しながら、人類愛を中心として苦しむ立場なのです。サタンが残酷で凶悪な武器を持って、これを一瞬にして撃破しようと準備する落とし穴に入れということです。その落とし穴の中に入って、それを撃破して、その落とし穴を平にしなければなりません。皆さん、その落とし穴に入りますか、入りませんか? 虎を捕らえるためには、虎の穴に入らなければならないでしょう? (「はい。」)それと同じく、サタンを捕らえるためには、サタンの穴に入らなければならないのです。神様をつかむためには神様のいらっしゃる第一線に行かなければなりません。 神様とサタンの出会いは天上世界でしたし、そこから今まで闘ってきましたが、いつ分かれるのでしょうか。分かれる所はどこでしょうか? これを私達が考えなければなりません。 今までサタンが讒訴してきたでしょう? 神様とサタンが分かれなかったのです。神様とサタンが分かれる所はどこでしょうか? その場はサタンが耐えることのできない立場なのです。それ故に、歴史上の一番悲惨な立場に行かなければなりません。牢獄に行くようになると、その牢獄の主人となり、労働するところに行くと、労働の主人にならなければならないし、飢えなければならないから、誰よりも飢えなければなりません。先生は三十歳になるまでおなかの空かなかった日はないのです。 このようにしながら、六〇年度まできたのです。六〇年度まできて、大韓民国が反対する時、聖婚式をしたのです。闘いをして、奪ってきたのです。サタン世界が奪っていったでしょう? 私が入って行って奪ってくるのではなく、自分自らが飛び越えて来なければなりません。塀を越えて飛び越えて来なければなりません。そのような闘いをするのです。 誰を奪い取ってこなければならないのでしょうか。エバを奪い取ってこなければなりません。このエバの奪い合いの闘いの悲惨なる副産物として統一教会が悪口を言われたのです。大韓民国の検察庁まですべて動員されたのです。六〇年度に、聖婚式が行われるその前日まで、私は検察庁に行って来たのです。皆さんはすべてを知らないのです。 そのことに投書した人達が十二名でした。イエスを売り払ったその時と同じく、その人達はすべて統一教会に近かった人達なのです。不思議なことに、ちょうどぴったり十二人でした。彼等は署名をして闘ったのです。聖婚式を中心として作戦を立てる時は、滅びるか、栄えるかという最高の冒険をしたのです。個人的受難の峠を越えて、家庭が出発すれば、家庭的受難の道を行くのです。個人に対して陥れたことは、すべて流されてしまうのです。先生が家庭を中心として来たために、個人的衝突はすべて崩れてしまったのです。その次に残るのは家庭的十字架の道でした。それが第一次七年路程でした。先生が家庭的十字架の道を行ったのが第一次七年路程でした。 「三十六家庭」祝福の意義 家庭的第一次七年路程を越えて、次に子女達が行かなければならない七年路程があるようになるのです。それで皆さんが七年路程を行くのです。わが聖進がこの時に定着することができなければ、大変なことになるのです。感謝すべきことに、日本にいて御旨をなしたということです。これがすべて蕩減復帰なのです。そのような内容を中心として、聖進が、今はかなり定着したというのです。今、日本の幹部達が付いて回っています。それ故に、皆さんの家庭も聖進を中心として見た場合に、皆さんが蘇生級であれば、聖進は長成級にいるのです。カイン、アベル格なのです。このように見ているのです。そのような立場が成立するのです。この二つが一つにならなければなりません。復帰の道は簡単ではありません。 家庭は先生を通して成立するのです。家庭の行く道は、女性達の恨みの道を蕩減復帰する道なのです。聖書の歴史には女性を中心とした内容はないのです。今までの縦的な歴史は主体を探し求めた歴史でした。六千年の間アダム一人を捜し求めてきたのです。アダムを捜し求めて、女性を探し求めなければならいでしょう? この男性世界に女性がいなければなりません。悲惨なことも、女性と共にすべてやったのです。氏族の歴史を横的に蕩減すると言ったでしょう? 横的な基準を中心としてみると、今までの歴史は七千年の歴史だというのです。この七千年の歴史を横的な基準に立てて蕩減復帰してくる期間が、第一次七年路程の期間なのです。 先生が個人的な勝利の基盤の上で第一次七年路程を宣言したのは、女性を中心として、横的な家庭的蕩減の基準を備えてあげなければならないためでした。このような家庭的基盤をつくろうとしたので、三十六家庭を祝福したのです。ノア家庭から勝利の基盤をつくったでしょう? 伝統的家庭の基準を立てたのがノア家庭なのです。 ノア家庭はアダム家庭から連結して、因縁に従って来た家庭なのです。ノア家庭が勝利したために、未来の望みを中心としてヤコブ家庭が現れることができました。アダム家庭を中心として霊界と肉界が分かれたのを連結させるために、堕落した世界で自分勝手な結婚をした既成家庭を祝福したのです。これは、アダムの血統を受けて出た後孫なのです。 更に、ノア家庭は、所願の御旨を成すことができなかったイエス型に匹敵する型なのです。いつも二番目が打たれるのです。イエスも二番目だったので死んだのです。アベル、ハム、すべてが二番目だったでしょう? ノア家庭全体を、神の摂理においてアベル型として見てみますと、イエス型家庭と同じなのです。この家庭は、御旨をなすことができなかった家庭なのです。ノア家庭型に入った人達は、みんなそのような人達なのです。この地上において男性であれば、男性として生まれたけれど、自分の初恋をなしとげることができなかった人達が、第二家庭にいる人達なのです。復帰歴史はこのように複雑なのです。 その次はヤコブ家庭です。第三家庭とは何でしょうか。これは純粋な処女と独身の男性なのです。ここから地上の基盤はすべて蕩減復帰して、完全なものを立てなければなりません。そのようになるのです。そして初めて、ヤコブ家庭型の十二家庭を中心として、横的な東西南北が立てられるようになるのです。三十六家庭を中心として全体を代表した立場から基盤を整えるようになるのですが、これが十二支派を中心とした三時代の十二型なのです。ヤコブを中心としてみれば、蘇生、長成、完成の三時代なのです。これが全部一つにならなければなりません。 「七十二家庭」祝福の意義 今まで先祖達が責任を果たすことができなかったために、崩れてしまったでしょうか。そうではありません。先祖達も過ちを犯したけれども、兄弟達が過ちを犯すことによって、そのようになったのです。それで三十六家庭の兄弟のような立場で、カイン・アベル、二つの型を立てたのが七十二家庭なのです。 ヤコブの代まで、地上に横的な基盤を整えるまで、家庭を中心として、家庭のカイン・アベル二つの型の復帰された基準に立てておいたのが、七十二家庭です。それによって、今までの直系の先祖達の家庭がすべて復活された形態の家庭として地上に現れたというのです。これによって、重要な中心が決定されたのです。十二家庭を中心として、イスラエル支派型の出発がなされたのです。 それでは、ヤコブの目的は誰の時代に実現しなければならないのでしょうか。イエスの時代なのです。イエスはイスラエルの基盤を中心として、民族を経て、国家を経て、世界まで行かなければなりませんでした。イエスにおいては何の使命があったでしょうか。ユダヤ教は氏族を代表したものであり、ユダヤの国は民族を代表したものです。そのようになるのです。イエスを中心として、ユダヤ教まで連結すれば、イエス様が復帰された氏族の家庭を持ち、その家庭を中心として、十二支派を編成しなければならないのです。これをすることができなければ、十二支派にかかっていたユダヤ教団は責任を果たすことができないのです。イエス様はその御旨をなすことができませんでした。自分の親戚を中心として、従兄弟、また従兄弟を中心としてしなければならないのに、他の地に行ってしようとしたので、不信されて、追い込まれながら死んだのです。兄弟達同士でやったならば、打ち殺されることはなかったでしょう。そうではありませんか。 何故イエスは死ななければならなかったのでしょうか。マリアとヨセフが過ったからです。ヨセフが夜も昼も、「これは誰の息子なのか」、と言いながらマリアと喧嘩をしたために、その噂は広がったことでしょう。イエスが私生児として追い込まれた動機は、ヨセフとマリアが過ちを犯したためです。ヨセフが秘密を守って、村でも「この子は私の息子だ」と言って、目をつぶって暮らしていたならば、イエスは村の中でもお兄さんとして、弟として愛されたことでしょう。けれども、そうすることができなかったために、私生児として追い込まれるようになったのです。氏族の中でもイエスを受け入れることができない立場に立ったために、悲惨な運命の道に立って、外地に出て定着して、外から再蕩減をして、氏族を復帰し、民族を復帰しなければならなかったことが、イエスが十字架で亡くなった動機となったのです。 他の人の血を受けて生まれた私生児と、誰が一つになろうとするでしょうか。万が一、ヨセフとマリアが良くしたならば身内、親戚と姻戚の八寸までも、七〇人門徒、一二〇人門徒を立てることができたでしょう。そのようになれば、一族はすべて神側に立てられたために、イエスは何もしないで静かにいて家庭をなして子供さえ生めばいいのです。母子協助をしたので、父女協助をすることのできる基盤さえできれば、御旨は自然になされるのです。 今日、私達が七十二家庭を立てたために、先祖達を中心とした基盤が、この地上に立てられたのです。 「一二〇家庭」祝福の意義 イエスがユダヤ教的な基準を成し遂げることができなかった恨みがあるために、それを代身した一二〇家庭が、イエスの恨みを晴らしてあげる祝福家庭であるというのです。それ故に、一二〇家庭は先頭に立って犠牲にならなければなりません。 この前、出動教育を受けた地域長達は、すべてが一二〇家庭だと思います。一二〇家庭は犠牲にならなければならないのです。一二〇家庭はイエス時代の一二〇人の門徒の立場であり、世界的な支派編成をなすための世界百二十国家を代表した国家的な基台なのです。国家的な基台が十二支派とすれば、その国家的基準を中心として、世界に出て行くことのできる、世界的な出発基準になるのが一二〇人門徒であるというのです。 一二〇人門徒が死んでいった原因は何でしょうか。一二〇人門徒のような一二〇名の女性がいなかったためです。それで御旨をなすことができませんでした。イエスを中心として一二〇名の女性が一つになって、生死を共にすることができたならば、イエスが砂漠に入ったとしても、御旨が成し遂げられるのです。 このような伝統的な歴史を中心として、わが統一時代においては、一二〇人門徒を代身することのできる基準を、内外を中心として、世界的に分けて、立てておかなければならないということです。それ故に、世界が百二十か国以上になって、その百二十か国を代表して、世界的四十か国を中心とした聖地を定めたのです。 今、第二次七年路程を行く統一教会、第二次七年路程を行く皆さんの時代に来て、千二百名の婦人を動員したのは、イエスの時代よりも一段階上がって、一二〇の十倍として、世界的基盤を整えるためなのです。一二〇〇門徒が現れる前に、一二〇〇人のエバが現れて、皆さんがそのエバを中心として絶対的に一つになった立場を編成して、民族の運勢と世界の運勢を越えて行こうとするのです。今、大韓民国の運勢と世界の運勢を越えるか、越えられないかという立場に来ているのです。 それで、これが、一九七二年までいくでしょう? 何故かといえば、世界的なイエスの恨みを蕩減して晴らし、それと共に、先生は世界的な新しい出発の布陣を整えておく時が、一九七二年度までなのです。 そうすることによって、この家庭は先生と直接に内的因縁を結ぶことができるために、ここから入籍問題が起こるのです。すべて原理的なのです。大まかな計算ではありません。このようにすることによって、今の時代に女性の歴史が蕩減することができるのです。女性達はいつ蕩減しましたか。お母さんが七年間役事したことは何かといえば、そのようなことをしたのです。女性として難しいことはすべてやるのです。夫から不信されるような立場まで入っても絶対に信じろ、と言ったのです。 今は家庭的開拓時代 アダムとエバは怨讐です。互いの命を死亡に置き換えた怨讐なのです。そのような怨讐の立場にいても、恩人として迎える立場に立てるために、七年間闘いをしながら蕩減路程を歩んできたのです。皆さんが、その基準を中心として、横的に勝利の基盤を受け継ぐためには、皆さんの家庭も女性を中心として勝利的な基盤をつくらなければなりません。皆さんが先生と関係を結んで、勝利の基盤をつくることによって、先生と皆さんの妻達が一致すれば、皆さんも自動的に勝利することのできる立場に入るのです。このようにして、歴史的な蕩減を成し遂げるのです。カイン・アベルの蕩減をすべて成し遂げ、アダム、エバ、天使長の蕩減もすべて終わるのです。 カイン・アベルの蕩減をすべて終わったにもかかわらず、皆さんの息子・娘が反対するでしょうか。お父さん、お母さんが反対するでしょうか。お父さん、お母さんが御旨を受け入れるようになるのです。そして、皆さんが天使長であれば、先生はアダムです。それ故に、先生の許可なしにエバの側に行くな、ということです。しかたがないでしょう? そうしても仕方がないのです。 六〇年代には女性を立てて開拓をしました。今は家庭的開拓の時代なのです。そうしながら、民族を中心として、これから大韓民国の家庭の女性達が、「この国、この民族を復帰しよう」と言いながら三十八度線を無くすために出て行くようになる日には、北は崩れるようになるのです。 皆さんが下がって行くのは横的な基盤をつくるためなのです。一つになることのできる統一的な基盤を立てて、勝利的な基盤を選んで、勝利的な基盤をつくった男が出るようになれば、女性は、その男性を絶対的に信じなければなりません。それ故に、何も知らない人がお母様としては最高なのです。先生が相対をもらうようになる時に、「私が先生の相対者になろう」と、霊界を通して……。そのような時に、霊的に支配されて生きてはならないのです。先生の相対者になれる人は二十歳以前の人でなければなりません。アダム・エバが堕落した年がそうだったからです。先生が四十一歳で、何も知らない十八歳の処女を迎えました。世界問題を前において考えてみたら、あきれてものも言えないことなのです。新婦になる人がいなかったでしょうか。大学を出て、素晴らしいという女性達がたくさんいたのです。 お母さんを選ぶにおいて、どのようにしなければならないでしょうか。完全な家庭から選んではいけないのです。お母さんのお母さんが、ここに来て、お手伝いさんの生活をしたでしょう? 一番下から忠誠を尽くさなければなりません。そのお母さんは牢獄の生活をするような身の上でしたが、それがすべて福だというのです。統一教会は牢獄の生活をして、苦労しながらも不平不満を言わないで、すべて自分が過ちを犯したこととして、神の前にもっと忠誠を尽くそうとするのです。そのような面から見れば、すべて復帰原則によって見分けてきたのです。そして、お母さんになる人は血統的にどのような過程を通らなければならないでしょうか。それは簡単なことではありません。 私が文氏の先祖をよく調べて、文氏家門の族譜(家系)を尋ねてみると、新羅時代の王の夢の中で、この国に特別な子供が生まれたから子供を探せ、という命令を受けて、南平にある文岩峰という峰の岩で泣いている子供を探して、そこから出発したというのです。また、摂理的に見たとき、花郎道の思想の発祥がどこかというと、文氏なのです。今はそれを知らないでいます。そういう複雑な事柄が絡み合っていきました。 それでは、男性のみが蕩減すれば済むでしょうか。女性が勝利したという立場に立たなければ、お産をすることができません。出発することができないのです。それ故に、第二次七年路程の期間にあっては、私にとって教会が問題ではありませんでした。一九六四年度からは、私は壇上に立って説教をしなかったのです。すべて劉協会長に任せて、家庭的な道を歩んだのです。個人的な十字架を背負った後には、家庭的な十字架を背負わなければなりません。皆さんには十字架がありません。先生は個人的な十字架と家庭的な十字架を世界的に背負わなければなりません。サタンと対決しなければならないのです。 蕩減復帰原則から見た現在の世界情勢 その次には、民族的な十字架を世界的に背負わなければなりません。それで、今世界的な情勢を見分けながら、世界的な運命を判決しなければならない時に入っているのです。今ここに一人で座っていて、中国と日本との間に橋を架けているのです。今、先生が一言いえば、どうなるか分かりますか。 台湾政府の蒋介石総統も、先生の版図圏内に引っ掛かっているというのです。今回、日本の食口が「日本が中国に反対し、台湾の蒋介石総統を裏切ってはいけない」と言って、一週間の断食闘争をしたために、久保木は、台湾に対しては日本政府よりももっと近くなったのです。今回、久保木会長がローマ法王庁とか世界を巡回する時も、日本の食口達が全員断食闘争をする写真を持って、中国の蒋介石総統の紹介によって、中国大使館の大使達の歓迎を受けたのです。天使長は、エバの国家である日本の教会長に侍らなければならないというのです。復帰しなければならないのです。蒋介石総統がどうやって歴史的なアジアの人物になったかというのです。石を(蒋介石の石という字を意味する)復帰するための歴史であるため、そうなのです。そうではありませんか。石を復帰するための歴史なのです。中国は天使長国家なのです。 日本はエバ国家であるために、男性国家である二つの国が引っ掛かっているのです。ちょっと過ちを犯すと、韓国も滅びてしまうのです。中国も滅びるのです。二つの男性国家がちょうど引っ掛かっているのです。今そうではありませんか。それで、日本がエバ国家というのです。それは、先生が日本をエバ国家として選んだために、そのようになるのです。日本は二十年内に世界にない美人として化粧したのです。お嫁に行く時に、刃物を持って行くのではありません。お金を持って行かなければなりません。それ故に、日本は今まで無防備状態でいた国家でした。これから私が命令すれば、準備しなければなりません。今そのようなことをやっているのです。それを見ると、時が満ちたでしょう? 中国、ソ連を中心としてみると、サタン世界も蘇生、長成、完成として出て来るのです。蘇生級の国はどの国かといえば、ソ連であり、長成級の国は中国であり、完成級の国は北韓の金日成です。長成級は何かといえば、エバの立場です。また金日成はアダムの立場であり、天使長の立場はソ連です。ソ連とアメリカは同じような天使長格であるため一緒に手を繋ぐのです。 復帰の時が近付いてくると、世界が滅びてはいけないため、天運が漂って、互いに怨讐であったアメリカとソ連が手を繋ぐようになります。世界的第一包囲網の塀は手を繋ぐようになっているのです。いくら中国がその中でざわめいてみても食われてしまうのです。 民主世界において、アメリカが天使長国家であり、日本がエバ国とすれば、韓国がアダム国家です。その三つの国がしっかり手を繋ぐのです。それで今、エバ、即ち、日本と中国が相撲を取って、アダムとアダム、つまり大韓民国と北韓が相撲を取り、天使長と天使長、つまりアメリカとソ連が相撲を取っているのです。ここでソ連はアメリカに引っ張られて行くのです。引っ張られて行くようになっているのです。すると、これから天運はどうなるでしょうか。神側のエバ国家の運勢を中心として左右される時が来るということです。 ところで、中国と日本を中心としてみた時に、日本が中国に引っ張られて行くというのです。そうなっては、滅びるのです。それ故に、ここから、このように回って入ってこなければなりません。ですから、神様はここから出発させるのです。それは面白く越えて来るのです。このようになることによって、アジアで中国と日本を中心として、すべて集まるというのです。アメリカ、ソ連、すべてがここに集まっているのです。集まって、ぶつかり合ってどうなるかというと、すべてが崩れてしまうのです。中国によってソ連も崩れていったし、中国故に北韓も崩れてしまいました。また、日本故に、アメリカも崩れていって、韓国も崩れていくようになっているのです。ですから、統一教会の文先生が作用せざるをえないのです。このようになれば、韓国は絶対に崩れていかないのです。 それでは、アジア圏において、復帰基台の面から、復帰の環境を中心として見るとき、誰が天使長でしょうか。アジア圏の天使長は蒋介石総統です。天使長は蘇生型です。何故蘇生型として起こるかといえば、先生を中心として三次にわたって成してくるためです。その次に、長成的な天使長は誰かというと、アメリカです。完成的な天使長は誰かというと、西ドイツです。それでは、サタン側のアダムと、世界的な天使長が一つになっているでしょうか。二つ共分かれています。アメリカも左翼と右翼に分かれている立場です。すべてが分かれているのです。それを知らなければなりません。四位基台になっていれば、(板書される。)こういう四位基台の形にちょうどなっています。韓国と最後とが分かれています。一つの国がちょうど二つに分かれなければならないのです。すべて左翼と右翼に、アメリカとソ連に、そして韓国も一つの国が二つに、西ドイツも一つの国が二つの国に……。この二つの国が問題を決めれば、世界は平和の天国時代に入るというのです。韓国の統一、ドイツの統一、東西が統一される日には、共産党は完全に……。 このように見るとき、皆さんが知るべきことは、祝福家庭が出るまでは、個人が蕩減しなければならないということです。皆さんが家庭をなすようになったのは、先生が血の滲んだ闘いの功績を通してきたからです。第一次目に個人を復帰するのには、六千年かかりました。第二次に家庭復帰をするためには、今まで七年路程を経てきたのです。これから三次目に、子女復帰のための十字架が残っています。 統一教会とキリスト教が一体化すれば世界は回る 私は喜進が行ったことに対して感謝しています。彼の性格は、何か問題が起こると、その性格がねじれ易いのです。そうなると、サタンがすべてを引っ掛けてくるのです。彼の性格からみると、喜進はとても活発な子供だったのです。勘がとてもよく利くし、また男性的でした。そのような立場で相当心配したのです。 先生の家庭を見ても、二番目は分かれるのです。そのようになりやすくなっているのです。それが復帰の原則であるからです。そのようなことを見ると、一面には、ああ、その子が行ってしまったことは、とてもかわいそうなことですが、地においては損にならなかったと考えているのです。これからは、聖進がよくやって、伝統さえ立てておけば、弟達はそのままついていくようになっているのです。 こういうことをみんな知らなければなりません。型から見たら聖進はアダム復帰型であり、喜進はイエス復帰型なのです。イエスは犠牲になったでしょう? その次に、孝進の時代は再臨主の時代なのです。このようになると三時代です。縦的な立場から、蘇生・長成・完成です。それ故に聖進が何をなすべきか? そのような使命を果たしえなければなりません。それで日本にいるのです。 先生が今心配していることは何か。日本はエバ国家ですから、一つちょっと間違えば、女性達に巻き込まれるようになるのです。外国でサタンの役事と共に、巻き込まれていくようになるというのです。そこで貞操を守って帰って来いというのです。先生の過去と同じようなものです。私が今考えているのは、海外宣教師を、日本の食口ではなくて、韓国の食口の中で誰かを送らなければならないと思っているのです。今はそれができません。遠からず、将来にすぐ実行しようと思っています。そのようなすべてが、皆さんが考えないうちに復帰路程の公式的な過程を通して、現在の基盤まで上がって来たということを知らなければなりません。 そのような基盤の上で、このような複雑多難な数千年の歴史的な解怨成事の基盤の上に、皆さんが何の功労もなしに立てられたというのです。六千年の間、宗教を中心として探し求めてきたことは何かといえば、天使長なのです。今まで宗教は天使長を探し求めてきたのです。 堕落した人間はメシアのための基台を立ててきましたが、宗教を信じているのは養子の立場に立つためであり、養子はカイン型であるために、天使長の立場にあるのです。ですから、今まで信じてきた宗教の目的は、世界的な一つの天使長をつくることによって、来られるメシアの前に、忠僕にさせるためであるということなのです。それを、世界的中心宗教であるキリスト教に立てようとするのです。 そのような忠僕が一人から三人くらいいればよいのです。その三人を代表した一人さえいればいいのですが、必ず三人になるようになっているのです。何かの会議をしても会長がいれば、必ず二人の副会長がいて、これらの人達が合意し、決定の下に動くようになっています。統一教会を中心としてキリスト教が一つになれば、世界は回っていくのです。そうすれば韓国は復興するのです。共産主義はすべてなくなるのです。 そのような基盤の上に民主世界を代表して、国家を代表して、キリスト教を代表して、宗派を代表した、一人の人がいて、そのような人だけ屈伏すれば一度に個人復帰、家庭復帰、氏族復帰、国家復帰、世界復帰がなされるようになるのです。一瞬に家庭的勝利の基盤、国家的勝利の基盤、民族的勝利の基盤、世界的勝利の基盤が整えられるようになるのです。ですからここでは、個人復帰完成、家庭復帰完成、氏族復帰完成、民族復帰完成、世界復帰完成が一度に皆なされるようになるのです。 ところが、これができなかったために、再び個人的闘いの蕩減路程を経て個人復帰をしなければならないし、氏族的闘争の蕩減路程を経て氏族復帰をしなければなりません。このような血の滲んだ闘いの再蕩減路程が、先生の一代で行っているということをはっきり知らなければなりません。 一人の人がしなければならないことを、私が今まで生涯をかけて再蕩減してきたのです。それで国家基準を越えて、イエスを中心として失敗したキリスト教の恨みの根源を解決することのできる時になりました。そのようにして、初めて正常な姿勢を備えて、世界的権威を持った息子として現れる時が近付いてきたのです。 四位基台を中心とした神側の版図拡大が急務 そのような基盤をつくって縦的な歴史的な恨みを晴らし、横的な世界的な恨みを晴らすことによって、そのような勝利した家庭の基盤の上に、皆さんには何の功績もないとしても、そのまま立てられるようになっているというのです。そのようになれば、皆さんはどのような存在になるでしょうか。世界的な天使長の使命を成した立場、言い換えれば洗礼ヨハネの使命を完結した立場に立った存在となるのです。そのような立場にいきなり立てられたというのです。 皆さんがその恩返しをするためには、先生が苦労したことの三倍以上、七倍まで苦労しなければならないというのです。何の話か分かりますか? 死ぬ立場があれば、自分が先に行って死ななければなりません。苦労する所があれば、自分が先に行って苦労しなければなりません。先生を苦労させようとする人達は、そういう立場に立つことができません。皆さん、先生を苦労させようと思いますか、苦労させまいと思っていますか。(「苦労させたくありません。」) 見てごらんなさい。地方教会にいる人は、地方教会に難しいことがあれば、「本部から先生が助けてくれなくては」と言うけれども、「絶対に助けてあげるな」、と言いました。今回、各教会を少しずつ助けてあげたのは、既成教会のためです。既成教会の牧師達が今考えてみて、(統一教会に)入ろうとするのに恥をかきそうだから、そういう恥をかかないために、風呂敷でも被らせておかなければならないから汝矣島の土地も買ったのです。 統一教会がお金がないと思ったけれども、「三か月以内に支払うことができる」。こうなると、ソウル市庁の市長、局長、課長達も、統一教会の言うことをみんな聞くようになったのです。ソウル大橋を渡ってみると、汝矣島鳥瞰図の中で一番高い建物が描かれた所が、統一教会の位置であるというのです。 韓国が象徴的に準備しなければなりません。建てると言えば、百二十階だけ建てるのでしょうか。千二百階も建てることができるのです。それが倒れてしまったら、大韓民国が滅びるかもしれないので、百二十階だけ建てるのです。(笑い)そのように考えているのです。 皆さんが形なく一間の部屋で、ぼろを着て住んでいるけれども、お金がありながらそのようにしているから、国家的な暗行御史のように思うことができるのです。皆さんを勝手に扱ったら、大変なことが起こります。今まで私が何をしてきたか分かりますか。貧官汚吏(注・貪欲で品行の悪い官吏)達は、私の手の中にみんな入っています。ぼろを着ているからと言って嘲笑するなというのです。そのように見ましたか。お金がないけれども、誰も「お金がない」と言っていません。 それで、最近は最も困難だというのです。先生は皆さんを同情してあげません。世間では何か悪だくみがあるから、そのようにすると思うかもしれません。物乞いをして食べても、おろそかにもてなすことはないのです。ですから、今や死の境地の峠の道に至っていると思うのです。地方では、「統一教会はお金がある」と言っていますか、「ない」と言っていますか。(「ある」と言っています。) それでは、皆さんは何故そのように貧しい生活をしていると言いますか。何故そのように住んでいると言いますか。そのような話を聞いたら気持ちがよいでしょうか。皆さんは、「私達の先生がこれから四十日間に千個の教会を建てます」と宣伝しなさい。そうすれば、誰からも、「どうなっているのですか」、と聞かれることでしょう。すると、「一千個の教会を建てる土地を買っておいたのですが、これが、こうなって二十億の財産になりました」、と言って大砲を射つのです。鉄砲も、曲射砲を射つのです。 今回、全国で部屋を借りてあげましたが、それは対外的な威信のためなのです。皆さんを助けてあげるのは原則ではありません。皆さんの背中の皮を剥いで売ってでも基盤を作って、既成教会の礼拝堂よりも大きく建てるようになっているのであって、先生が皆さんを助けるようになっていません。正しい思想を持ちなさい。自分の家は自分で建ててこそ精誠となるのであって、誰かに建ててもらうのはいいことですか。そのような人に国を任せたら、その国を売り払ってしまうというのです。私があげたくてあげるのは大丈夫なのです。しかし、皆さんがもらいたいので、「ください」と言うからといって、私があげるのはいけないことです。 「お父さん、お母さん、私が相続を受けます」と言う人で、正しい人がいますか。放蕩息子の比喩があるでしょう? 自分の欲望通りにもらって、食べて、どこへ行きましたか。身を潰すところに行ってしまったでしょう? 父母があげたいと望んでいる時に、あげなければならないのです。孝子であれば、父母からもらうのではなくて、父母の前に捧げなければならないでしょう。皆さんは春夏秋冬、四季が変わるたびに、服一着でも準備して、先生の前に捧げなければなりません。それくらいの苦労をしなければならないのです。三年の間に少なくとも十二着の洋服は捧げなければなりません。魚も東の海の魚、西の海の魚で、一番大きいものを季節ごとに一匹ずつ買って捧げなければなりません。 ご飯を食べても、一人で食べるのではないのです。皆さんは一人でいるとしても三人家族なのです。神様まで入れて、四人家族なのです。このように考えるのでしょう? 八人家族にならなければ復帰することができません。皆さんの内外に八人食口になってこそ復帰されるのです。皆さんの家族が八人家族であれば十二人になるのです。先生を中心として四位基台でしょう? 皆さんを中心として四位基台になるでしょう? 皆さんの直系の代を受け継いだ子女達も四位基台をなすようになっています。ですから十二人になりますね。これが神側の版図なのです。四位基台を中心として十二数をつくらなければなりません。 公的な基盤の上で輝くことのできる栄光のチャンス 今や個人を知りましたね。(「はい。」)しかし、個人だけで立ってはいけないのです。女性は蕩減路程を解決しなければなりません。これを誰が解決すべきでしょうか。女性が解決することではなく、男性が解決してあげなければなりません。エバはアダムによってつくられたのです。アダムが主管性を失ったことによって、エバが堕落したために、これを復帰するためには、女性が失敗したことまでも、七千年の恨みの歴史を、七年路程を通して男性が蕩減してあげなければなりません。これが統一教会の家庭的七年路程なのです。その次に、子女の時代に入りますが、これが民族的七年路程になるのです。 第二次七年路程が一九七四年度に終わるでしょう? そうして、三次七年路程は一九八一年度に終わりますね。九×九は八十一になるでしょう。掛け算が終わる八十一年ということですね。それ故に、一九八〇年度に入ってみなさい。統一教会は世界へ音もなく飛んで行くことができるでしょう。気持ちいいですか。私が電話さえすれば、飛行機の切符はいつでも手に入れることができるのです。私が電話すれば、ホテルはどこでもあるのです。誰が予約していたとしてもすべて取り消して、私が泊まることができる、そのような世界的版図になるのです。その頃になると、先生は六十代になるでしょう。今まで七数を越えて来ることができませんでした。先生一生において、その安息期間を経て世界へ再出発する時代が、我等の目の前に現れる時が来るのではないでしょうか。それが可能であるか、可能ではないかということを占ってみなさい。可能でしょうか。(「はい。」) 先生の一代は悲惨な一代です。二十一年間に世界の歴史を料理しなければなりません。そして、内的な二十一年間に天と地を料理しなければなりません。それで、一九六〇年度から一九八一年度まで外的な二十一年間と、その前四十歳になるまでの内的二十一年間を合わせて満四十年間に、世界を料理しなければなりません。それをすることができない時には、統一教会の運命は悲惨になるのです。 神様は今まで先に準備をされなかった時がないために、ここにも調子を合わせておいて、前もって前進して行かれながら、私達に相続してくださる万端の準備をしておられるのです。このように急変することを誰が知っていたでしょうか。こういうことを見ると、この統一教会が何もないように見えるけれども、この統一教会の先生が打つ太鼓に合わせて、世界が行ったり来たりするのです。 これは本当ですか、嘘ですか? (「本当です。」)これが本当であるならば、気を付けなさい。歴史は短いのです。峠の道の頂上にこのように立っていれば、二つの国の人になるのです。三十八度線に立って、一足進めば勝利するのです。今、そのような時に置かれているのです。その足を進めるにも、皆さん、一人で進むのではありません。命令と共に進むことのできる時になっているのです。そのようになった時、最初の復活に同参した人になるのです。そこに参加できれば良いでしょう? (「はい。」)これは歴史に残ることなのです。ですから、七年の間は祝福をしてあげないつもりなのです。 今も、お爺さん、お婆さん達が大騒ぎしているけれども、そういうことは先生の眼中には無いのです。今の時はそのような時ではありません。先生が祝福してあげると、前線に飛び出して行くという人でなければ、祝福してあげないのです。前線に出て行くために祝福を受けますか。出て行くために祝福を受けようとすればやってあげますが、「一人では孤独で淋しいからしてください」と言えば、してあげないのが原則なのです。 このような観点から見ると、皆さんがそのような公的な基盤の上で、輝くことのできる栄光のチャンスを、先祖から今までの皆さんの氏族を代表してこの世の中で迎えたということは、億千万金をあげても替えることのできないことなのです。その価値を考えてみれば、この韓国の地に勝るダイヤモンドをあげるとしても、替えることができないのです。皆さんは先祖達を一堂に串焼にして祭物として捧げたとしてもできることではありません。たまたま巡り合ったから、このように出会ったのです。ちょうど良かったと思うかもしれませんけれども、良くなることもできるし、良くならないこともあり得るのです。もしここで追い出されるときには、すべて倒れてしまうのです。 相続権は家庭を中心として行われる 罪を犯して監獄に入っている人が思うことは何かというと、皆自分が犯した罪のことを思います。「アイゴ、あそこで一歩間違えさえしなかったら、そうはならなかったのに…」と思います。このような思いは監獄暮らしが終わるまで続きます。それを切り離すことができないのです。監獄へ入ってみなさい。それと同じく、皆さんの生涯でこのような伝統を残したという事実が、天地にその価値が高く現れ、万国が仰ぎ称えることのできる起点になることが分かる時、大韓民国は生きるのです。そのような立場にいる私達が間違ったら、先祖の恨みになり、現在の氏族、後孫の恨みになります。 もし間違ったら、後孫が私達のお墓に来て敬拝をすると思いますか? 「この先祖め!」と呪います。呪われたアダムとエバの立場と同じになるのです。それが分かりますか? そのようなうんざりした、恐ろしくて、恥ずかしい世界的な事実を残さないために、先生は、飛び石の橋を渡るときも、一本橋でも渡っている心情で真剣にやってきています。そのような伝統的思想を受け継がなければならない者達が、ご飯のために、子供のために、妻のために…。それで子供と妻をあらかじめみんな処断したでしょう? だから格好よく歩みなさいということです。それなのに、どうして妻達のためにうるさく言いますか? ここにはそんな人はいないでしょう。彼等より少し食べて、良くない所で寝て、もっと苦労するのに、誰が何と言いますか。簡単なことです。 統一教会の先生もそうなのです。良いものを食べたがる人ではありません。作って持って来るから食べるのです。そんな時はいつも、私が監獄に入っていた時、十二月十四日から二十日までの出来事を思い出します。監獄生活をする時のことを思うのです。「ああ、きょうはこういう人達がこんな食べ物を作ってくれたが、私がこの膳に向かっていることを呪っている人はいないだろうか」ということを思います。だから、良いおかずを出されると、私は食べないで、必ず誰かに分けてあげます。私から頼まれてやるのですか、食口達がやってくれるのですか。やってくれなければいけないのです。皆さんは、先生が良いものを食べると悔しいですか。(「いいえ。」) 孝行者になるためには、貧乏暮らしであっても、父母には良いものを食べさせなければなりません。自分の妻の着るものを売ってでも…。子供には食べさせないことがあっても、父母にはやってあげなければならないのです。それが孝の道理です。先生はそれを全部やってきました。そのような点においては落第者ではありません。それが皆にも回っていくべきではありませんか。ギヤー(歯車)が噛まれて回っていくように…。ギヤーが回る時、噛まれた歯車が外されて、その次の歯車が噛まれていくでしょう? そうやって回っていくのと同じなのです。 先生がそうだったから、皆さんがそれを受け継いでやらなければなりません。誰かがこれを地上でやってこそ、ギヤーが噛み合って回っていくように、地上を中心として天国が回っていくのです。ギヤーも歯が三つ以上で噛み合わなければ回りません。それと同じように皆さんがそれをやらなければなりません。三位基台を作らなければならないのです。先生を中心としてそれをすべきです。三位基台の家庭がそれをやるのです。先生から言われるとおりにしながら一つになっていくべきです。そうしてこそ、この地上に、その伝統が残されて教育の教材になるのではありませんか。それが歴史の復活実体になり、未来に実証できる動機の基点になるのです。 皆さんは神様のためにどれほど飢えてみましたか。その目でどれほど人を懐かしんでみましたか。これが全部問題になるのです。それが先生が千辛万苦の果てにつくっておいた基盤です。ところで、皆さんのやっていることを見ると、私は気持ちが悪くなります。私がそのようなことをまたしなければならないというのです。素足でまた走らなければならないのです。イエスがタオルを腰に結んで弟子達の足を洗ってあげたようなことを、またしなければならないのです。 皆さんは、その位置に一人では立てません。先生の版図に足を踏んで立つことはできますが、一人では立つことができません。家庭を中心として相続権が展開していくのです。一人だけでは相続を受けることができません。イエス様一人だけでは相続を受けられないのです。アダムとエバ二人が堕落したので、世界を相続するためには、家庭を中心として蕩減すべき内容を提示しなければなりません。そうしなければ相続されないのです。 皆さんが相続することのできる、このような驚くべき位置に立っているのは誰のお蔭ですか。皆さんが見たくもない奥さん達のお蔭です。皆さん、妻が気に入りますか、気に入りませんか? 好きですか、嫌いですか? 皆さんが偉くてこの位置に立っているのではありません。この位置に立つようになったのは女性のお蔭です。また、女性は自分が偉いためではなく、男性のお蔭で立っているのです。この場に出会ったのは相手のためだということです。相手がなければならないのです。横的基盤をつくることはできません。相対的基盤がなければなりません。家庭というのは男と女を中心としてつくられたもので、男と女が出会って完全に一つにならなければなりません。 その男と女が出会うときは、誰を中心として出会わなければなりませんか。父母を中心として出会って分かれたので、ここでは子供を生んで、その子供を通じて一つにならなければなりません。これが、神様が願われる所願の基準であり、父母が願われる所願の基準です。それ故に、神様の霊気を受け継いで、神様の愛を中心として正しい所に植えておかなければならないのが、家庭を持った皆様の使命です。これが、「我が家庭の行く道」です。 善の先祖となり、天国の基盤をつくるべき家庭「我が家庭の行く道」とは何でしょうか。天の家庭の伝統を植えて、輝く善の真なる先祖になり、サタンは関係することができず、天のみが関わることのできる、福なる天国の基盤にならなければなりません。これが家庭の行くべき道です。分かりますか? (「はい。」)ここで、真の父母の名前が、天の勝利が出てくるのです。ここで、サタンとの別れがあり、ここで真の子女を迎えます。そして真の万物との出会いが行われるのです。それで、皆さんは父母の日、万物の日、子女の日と共に、神の日まで迎えることができます。どこで迎えますか。家庭においてですね。(「はい。」) ですから、家庭は神の日を迎える場であり、真の父母の日を迎える場であり、子女の日、万物の日を迎える場です。即ち四大名節が一致され、統合できる貴い基地が夫婦の間で作られることを思うとき、皆さんの立場は恐れ多い位置なのです。妻の目がどうであれ、片輪であれ、問題にならないのです。 この法度を中心として生きながら引っ掛かる日には、無慈悲なのです。引っ掛かる日には誰から讒訴されるかというと、サタンが「この奴」と言いながら讒訴するのです。サタンが皆さんをサタン扱いします。「私は長成期完成級で、神様から許されざる心情の誘発によって堕落したけれど、お前は完成期完成級が見えるところで、神様の心情を知りながら堕落した」と言いながら讒訴するのです。「この者め、離れて自分勝手にする奴等は見てみろ」と言うのです。後でどうなるか。何人が引っ掛かるか。それは先生が決めるのです。何千代までも引っ張ることができます。一族を根っこのまま…。大変な、想像もできないことが私達の前に展開されるでしょう。 これをどうやって、私が他の法をつくって生かしてあげられるでしょうか。それをやるべきですか。すると、私達の後孫の前には大きな癌ができるのです。この癌をどうやって取り除いてあげるか。先生の一代で血を流してでも行こうとするのです。先生は今そんな問題で心配しているのではありません。これは嘘でも脅迫でもありません。 私が地上で、これができないまま霊界へ行くと、霊界へ行っても、この法に引っ掛かるのです。だから自分が一度会ったその女性は、六千年間求めてきた恋人が訪ねてきて出会った相対です。神様が見ておられ、父母の紹介で出会った相対だということです。愛は天から、父母から自分へと繋がっていますね。泥棒になってはいけないというのです。だから、我々の家庭は素晴らしいですか、素晴らしくないですか? (「素晴らしいです。」) ですから、統一思想の言う救援の道理は、個人の救援ではありません。家庭が救援できないときは全部が駄目になるのです。夫婦救援であり、子女救援です。子女を救援できなかったときは、霊界に行って待たなければなりません。それで、霊界でも教育法が出来たのです。霊界には皆、一列に並んで行くのです。霊界には教育法があって、地上でできなかったことを霊界に行って教育をして一緒に越えて行くのです。私達は家庭救援のために信じるのです。 私が信じているのは妻のためであり、妻が信じているのは夫のためです。子供が信じているのは父母のためであり、父母が信じているのは子供のためです。四位基台、即ち三対象目的のために信じるのが統一教会です。分かりますか? (「はい。」)一人だけでは救われません。絶対に救われません。それで、先生もお母様に対して関心が大きいのです。好きで関心を持つというよりは、原理的立場から、お母様より、私のほうがもっと愛そうと思っています。お互いがそうしなければなりません。 統一家庭の教育法 このような観点から見るとき、皆さんもそのような価値ある家庭をつくらなければなりません。そしてその家庭で三大愛を…。神様の愛は何かというと三大愛を総合した愛です。その愛を実現する家庭が、天国家庭です。ですから、独身時代に神様の前で愛されなければなりません。その次は、新郎の時に愛されなければなりません。その次は、親の時に愛されなければなりません。その愛は別々に分離した愛ではなく、一つの神の愛であり、独身の時にも、新郎の時にも、親の時にも、「良い」と言えるものでなければなりません。 女性も、娘時代に神様の愛を受け、新婦の時にも、母の時にも愛を受けなければなりません。そうしてこそ、神様の愛の基準を中心とした代表的な父母の位置に立つことができるのです。自分が神の愛を中心として息子・娘の愛を体験し、新郎新婦の愛を体験し、父母の愛を体験すると、神様の三大愛を横的主体である父母の位置で受け継ぎ、横的に世界に向かって発展することができるのです。 だから皆さんは自分の妻を、「ああ、この娘は神様の三大愛を受けるにおいて、世界に二人といない娘として愛される人であり、世界に二人といない妻として愛される人であり、これから母として、世界の誰よりも愛される人である」と考えなければなりません。ですから皆さんは子女の教育をどうしなければならないかというと、子供達が、「私の両親は世界一だ。神様を除いては、私の両親よりも他に偉い人はいない」と言って誇ることのできる教育をしなければなりません。これが統一家庭の教育法です。この教育法は、神様がうなずくことができ、皆さんの後孫がうなずくことができれば、公認されるのです。 うちの子供達を見ても、「神様の次は、うちのお父さんだ」と言います。皆さんもそのような思想をもって、子女達に教育してあげなければなりません。先生は皆さんの家庭においてはお祖父さんですね? 皆さんは子女達に「私はお祖父さんから愛されたから、私もお祖父さんと同じだ」と教育していますか。皆さんの息子・娘にはそのように教育していますか。子供に「先生は、神の愛を受けてあのようになったので、その神の愛を受けた先生があなたのお祖父さんだ。このお父さんはそのお祖父さんから誰よりも愛され、お祖父さんと一つになったので、世界の誰にも負けない一番のお父さんだ。だから、このお父さんが、あなたを愛するにおいては世界一だ」と教育していますか? 自分の子供を愛するのは第一ですね。そのような思想を入れてあげなければなりません。これが千年万年継続されなければなりません。その血統が汚されることなく千年万年継承されると、あの世の先祖も、この地の後孫も千倍万倍福を受けることでしょう。家庭の行くべき道が分かりますか? 祝福家庭の者達、分かりますか? (「はい。」)この男達、泥棒の目をして、とんでもないことを考えています。奥さんが好きですか? (「はい、好きです。」)その後ろの者、奥さんが好きですか? (「はい。」)仕方なしに好きな人は手を挙げてみなさい。そんな人はこれから鞭で打たれます。 家庭の行く道は、世界のために犠牲になること もう、我が家庭が歩むべき道が何か、殆ど分かりますか? (「はい。」)先祖から伝統を受け継ぎなさい。その伝統を自分の後孫に正しく繋げてあげなさい。そうして、御旨に反対する世界的サタンを屈伏させるためには、正常な行路を家庭的に全部切り抜けなければなりません。 家庭的に切り抜けなければなりません。先生もいまだに家庭的には切り抜けてはいません。切り抜けている途中です。私達は家庭的に切り抜けなければなりません。一人だけで歩んではなりません。一つの鼻にぶら下がっているここで、共同で運命を解決しなければならない立場にいます。皆さんがそれを一気に越えたという条件を立ててあげるため、今皆さんの奥さん達が呼び出されたのです。これを越える日には、皆さんも一緒に越えられるのです。みんなが越えられるのです。 ですから、皆さんはこのような時であるということを知って、大韓民国やアジアの問題、世界の問題に責任を持つことを、自ら決心しなければなりません。先生は一目見たら、そのようなことが感じられます。世の中がいくら広いといって、その行動は天地を握るという信念を持たなければなりません。故に、統一教会は滅びても、世界を生かすんだという信念を持たなければなりません。統一教会の人達は苦労させても、国のための仕事をしなければなりません。そうでしょう? 統一教会が良くなろうとすると統一教会は滅んでしまいます。そうしたら統一教会は今まで発展できませんでした。私達には背後にある思想だけが残っています。この民族三千万を頭から尻尾まで一か所に集めて、回っていくその場が私達が行く方向を経て回る時まで、私達はこの道を経て行かなければなりません。これを知らなければなりません。解く時は全部巻いてから解かなければなりません。そうしてこそ、最後を通して切り抜ける道を捜すことができます。復帰の道がそうなっているのです。 三大愛を復帰しようとすれば 皆さんの中で、妻を殴ったことがある人は手を挙げてみなさい。私が許してあげますから率直に手を挙げなさい。この者達! 殴ることがあったら、まず涙を流すのです。サタンが覗いているところで…。またそうしますか、しませんか? (「しません。」)三大愛を復帰しようとすれば、母の愛を感じなければなりません。その次は妻の愛を、その次は妹の愛を…。 アダムとエバの堕落によって、母の愛を失い、妹の愛を失ってしまいました。三大愛を失いました。女性の立場から見ると、父の愛を、夫の愛を、兄の愛を失ってしまったのです。サタン世界でもお父さん無しに生きるのは偽物です。原則に不合格です。サタン世界の誰よりも幸せに生きることができなければ不合格です。世の中の自分の妹を愛する以上、もっと妻を愛せなければ不合格です。 皆さんの妻は、三時代の女性像を代表した一つの実りとして、今日自分の眼前に現れた貴い存在なので、神様の前に感謝できなければなりません。先生は反対です。娘として育て、妻として育て、母として教育させて、「オモニ」という名を捜して立てたのです。反対でしょう? 先生が育てました。先生の年齢から見ると、お母様は娘のような年ですね。お母様は娘のようなので、妻や母のように思うのは難しいことです。考えてみなさい。年齢がある程度だったら無条件に「オモニ」と言えますが…。私がオモニに使う言葉は「オンマ」です。「オンマ」と呼びます。それが一番難しい問題です。外から帰って来て、妻を捜す時、「誰々のオンマ」と言って捜しますね。先生は「オンマ」と言います。 ある時は、外から帰って来ると、子供のようにお母様に全部話します。私は昔、外から帰って来ると、夜を徹しながら母に報告しました。その心以上にならなければと思いながら報告をするのです。これがすべて復帰につながるのです。みんな蕩減復帰しなければなりません。 女(妻)が男(夫)に対して疑おうとしても疑うことができないような男にならなければなりません。だから、どんなことでも相談をしてから行うのです。「御旨はこうだから、私達の行く道はこうだから、これはしたほうがいいか、しないほうがいいか」と、原理を説いてあげるのです。「これに異議があるか、ないか」と聞いても、「異議がありません」。このようにならなければなりません。男性の行く道は、女性が間違ったことをすべて取り除いてあげる道です。 「あなたが行くべき道はこんな道だけど、この道をあなたが行くと倒れます。十回のうち九回は倒れます。だから、私が先頭に立ちます。私は闘ってきた経歴もあるので、この道を行くので協助してくれませんか」と言うと、協助せざるを得ないようになるのです。そのようなことをやっていくのです。だから、私達の家庭が一つになります。誰よりも近いのです。オモニの代わりとして妻を愛さなければなりません。オモニと妻と妹が、家の中にいると思えばいいのです。何か難しいことがあったら、妻をオモニのように思って「こうです」と言うと、妻はオモニのような立場で涙を流します。涙を流した後は、遠くなるのではありません。 世の中では、涙を流した後は遠くなりますが、私達は涙を流してから更に近くなります。二人がすすり泣いてからは、互いに済まなくて話もできなく、挨拶もないまま出てきますが、遠くなるのではありません。もっと近くなるのです。手と手を握って一つになって、互いに信じることのできる夫と妻になれば、これこそ幸福な夫婦ではありませんか。 神様が見て、「この者達、私を愛するよりももっと好きになっているなあ」と言って罰を与えるでしょうか? このようにならなければなりません。このように生きてきた人は手を挙げてみなさい。皆やってみなさい。皆さんがそのようになる時、皆さん以上の後孫が生まれるのです。本当に有り難いことには、うちの子供達は霊界と通じる人達が見ると、とても興味深いと言っています。 四位基台の愛を中心として精誠を尽くしていこう 皆さんに息子・娘が生まれると、その息子・娘は統一教会の運勢と、先生の運勢を受け継いで生まれます。皆さんが頑固で意地っ張りなら、そのような皆さんの子供が生まれます。良い子供を生みたいですか。そうしたければ、先生が選んだその人を、先生のように愛さなければなりません。夫や妻を先生のように愛し、父母のように愛しなさい。そうすると、その運勢を受け継いで、皆さんとは全然違う子供が生まれます。 今私は黙って見ています。ある人には不具者と結婚させてあげました。そんな夫婦は心情的にどうやっていくだろうか、そこに関心があります。我々は現在のために生きるのではありません。歴史のために生まれたと思いなさい。歴史時代の先祖達の間違いが自分の代に来て蕩減される形で現れ、自分が不具者になったけれど、先祖の全てが悪いのではありません。歴史自体が外れたのではありません。ですから、不満に思ってはならないというのです。その場で不幸になるのではなく、心情的世界では、逆にそこから福を受ける因縁が結ばれるということを考えなさい。 このような家庭に神様が来られますか、来られませんか? 三代の愛の因縁を全部なすと四位基台がなされます。四位基台がつくられた所には必ず神様が来られます。この場が四位基台ではありませんか。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、これが四位基台の愛です。四位基台の愛のあるところには、神様が臨在されます。そこで、神様と千年万年共に生きなければなりません。その場が天国の基盤になるのです。 そのようになれば、神様の愛を受けることができ、神様の代を継ぐことができ、神様が持っておられる全てのものを愛することになるのです。そのような素晴らしい位置が、神様から祝福された家庭の位置です。家庭を守ろう。統一教会で家庭を守ることができない時は…。 統一教会を信じるのは、妻のために信じるのではありません。国家のために信じるのです。韓国を復帰するために信じるのです。自分の家庭と妻と子供を、世界のために出してあげなければなりません。この愛は神様と共に一致するのです。でたらめな馬鹿げた心を持って生きては駄目です。このような心は、宇宙の何も悟らせることができません。悟らせようとする者は潰されてしまいます。皆さんがこれからそのようにやっていけば、どんな所であろうとサタン世界は崩れると思います。 先生はお母様とこのようにやってくる中で、先生が計画したことを神様が全部前もって教えてくださるのを見ると本当に不思議です。こちらで一言「クゥン」と言うと、あちらで「チュン」と言って滅びます。 今や、新しい時代が私達の前に近付いてきました。輝く歴史時代、この時を失うと、皆さんの所願は成し遂げられません。皆さんの所願は明日にあるのではありません。真の父母のための精誠と、真の父母の因縁を中心として結ばれる四位基台、億千万年が過ぎても皆さんの後孫がこれを受け継ぐために…。 今まで堕落した世界は、未来を、明日を眺めて来ましたが、これからは後ろを向きます。ここは歴史の決定点であり、天地の全勝利の解決点であり、全希望の核心点です。この点を拡大させた物以外はサタン世界の物なので、天は全部処断してしまうのです。 きょう皆さんが座っている場、家庭という因縁による先生を中心としているこの場は、皆さんの千秋万代の先祖達が願っていた場です。歴史時代にもこれを願い、霊界でも今、この場を願いつつ、皆精誠を尽くしています。きょう私自身も、これを中心として精誠を尽くしています。 この場は、目的と動機が一致する場所です。ですから、ここに住む人は三時代を全部勝利した人になるのです。そのような驚くべき立場が祝福家庭だということを、よく知らなければなりません。 祈 祷 お父様。アベルよりもノアがもっと良くなれと願われたお父様の心に、悲しみの一日が発生し、ノアよりももっと良くなれと願われて選んだアブラハムの家庭に、再び悲しいことが迫ってきたことを知っております。ヤコブを中心として、もっと優れた子孫をお待ちになりながら、戦いの行脚を経て、勝利の基盤をつくってこられたことも知っております。 このような基盤の上に、民族的指導の責任を持ったモーセは、ヤコブよりもっと徹頭徹尾しなければならなかったことを我々は知っております。だから彼は、エジプトを離れ、ミディアンの荒野と、ハランの荒野で八十年間生活したことを知っております。モーセよりももっと熱心に、もっと精誠を尽くすべき人物が洗礼ヨハネであるということを知っています。その洗礼ヨハネが、世界的使命を果たせなかったことによって、イスラエル民族が千秋に恨みを残す民族になったことを、私達は感じ、今日私達の目を通して直視するようになります。 お父様。イスラエル民族よりももっと精誠を尽くさなければならないのがキリスト教であり、キリスト教よりももっと精誠を尽くさなければならないのが、今日第三イスラエル因縁を持って御旨を立てようとする統一教団であることを思うとき、ここに立っている息子は、歴史時代の誰よりももっと精誠を尽くさなければならないことをよく知っております。 行けば行くほど、使命をもって天と接すれば接するほど、足りない自分であることを感じ、完全無欠を願うお父様の摂理の前に、あまりにも欠点の多い自分であることを思うたび、どうしたら良いか分からない現在のこの息子の立場であることを、あなたは知っておられます。 誰か分かってほしいと思う私でも、誰か認めてくれることを願っている私でもありませんが、あなたは私の前に先立って行かれながら、私に同情しておられるということをあまりにもよく知っています。この地の誰よりもかわいそうな者はなにがしと、一人だけではなく霊通した多くの人、出会う多くの人達が証ししますが、私はかわいそうな男ではありません。私をそのような男だと感じられるお父様が、もっとかわいそうであることを知っています。私よりももっとかわいそうな方がお父様であることを知らなかった不孝息子であったことを悟りたいと思う私の心を、あなたは知っておられます。 行く道が平坦であることを願っているのではなく、勝利の栄光を探して行く道です。その勝利の栄光は、自分の勝利の栄光ではなく、あなたの前に返したい栄光であることを、あなたは知っておられます。 今日まで統一教団が残されてきたのは、誰かの功績や徳のためではありません。あなたが表に現れることなく、根っこのような役割をされながら、全てのことを取り除く原動力になってくださったので、統一教団が今日この場に残されたことを知っております。 あまりにも足りなかった過去を顧みながら、微々たる価値の結果を誓った愚かな自我を捨て、厳粛な神様の教えを誓って行く、この期間になるようにしてください。 自分が怨讐であることが今、分かりました。自分に勝つところに、あなた自らに勝ってこられたことを私達は知らなければなりません。全知全能のあなたが、その全てを踏んで立ち上がるまでには、どれほどの忍耐と、どれほどの悲しみがあったかということを思うときに、よく分かるような気がいたします。それに及ぶことのできないところで嘆いている私達の事情を哀れんでください。 お父様。今回この清平にあなたの幼い子女達が集まったのは、何かを探すためではありません。お父様の深い心情に再び浸って、あなたの心情を再び体恤できる場を探して来たのです。私達の苦難は問題ではありません。あなたとの因縁が永遠に消えないで、永遠に解けない場で結ばれる、その場を探すため来たのが私達の所願なのです。 私達は世の中に勝たなければならないことが分かりました。サタンに勝たなければならないことが分かりました。これを見ると、悲惨に悲惨を克服する路程が統一教団の行く運命の道であることが分かりました。民族が苦難の道にあるのに、民族に代わって先頭に立つことのできない哀れみを、あなたは良く知っておられます。世界の苦難を見ても、世界の先頭に立つことのできないあなたの悲しさが分かったので、その悲しい場に付いて行く私達の悲しい事情をあなたはよく知っておられます。 こんな時が来る前に、私達の行く道をあらかじめ用意するため、多くの受難の道を耐えてこられたお父様がいらっしゃることを、私達は自慢しなければなりません。自分の何かを自慢する前に、お父様を自慢すべきです。自分の何かを讃える前に、お父様を讃えるべきです。自分の全ての価値を認められたいと思う前に、お父様が認められないままにいらっしゃることを悔しく思わなければなりません。そのようなお父様に侍ることのできる子女達が、あなたの悲惨な位置を見て、「どうしてお父様がこのような道を歩まれなければならないか。この者達によって、いつ解放の日が来るのか」と言いながら、お父様がかわいそうで泣き叫ぶ時、あなたがその位置から切り抜けるということを、私の体験を通して知っています。 ここに集まったあなたの子女達、自分の子供のために涙を流さないようにしてください。自分の子供が悲惨だったら、お父様が悲惨だということを悟って祈るようにしてください。「どうか、お父様はこのような立場に立たないでください」と言いながら涙する、その場を眺められるお父様の胸は何千倍痛いことかと思って、その場でお父様を慰め、自分の子供には、「お前は現在寂しい立場、哀れな立場にいるが、お前の後孫は滅びないだろうし、お前の将来は悪くならないということを私が立証する。食べさせることができず、着せることができなかったことを恨むな」と祈られる親は、貴い親であることが分かるようにしてください。 妻にも他の人々のように着させることもできず、食べさせることもできず、時には病気で呻吟する妻を見る時、事情と環境が良くないと苦心するよりは、こんなところで天の道を行く子女達を眺めておられるお父様の心はどれ程悲惨であるかを思い、自分の妻が倒れ、自分が倒れても、お父様の心が悲惨にならないように祈りながら涙するときに、そんなところから逃れ、また逃れたことがあったことを、私は知っております。お父様を愛して、御旨を心配して、狂う自分になれば、絶対に滅びないということが分かるように許諾してくださることを切にお願い申し上げます。 今は、胸から赤い心情の動脈の血として吹き出る血栓は、天と連結されなければなりません。そうして、お父様の胸から、動脈から出て来るその血と同じくなれるところまで行かなければなりません。そこへ行くには、私は死ななければいけないし、お父様は生きておられなければならないことが分かります。その道を快く行くようにしてくださることをお父様、切にお願いします。 清平。ここはあなたが愛してこのようにしつらえてくださった所です。あなたが聖別した地です。ここに精誠の涙が交わり、全ての物語があなたと近くなる因縁になって、万国の国民達がここに訪ねて来て、涙でお父様を探し、貴いお父様として思う伝統が植えられる今回の集いになるように許諾してください。 裸の立場であり、孤児の立場であり、追われる者の立場になっても、お父様と共に行く所は哀れな所でなく、幸せな所であり、そこは未来の天国が蘇る所、そこは未来の幸せなる巣が作られる所であることを思いながら、私達は行かなければなりません。疲れた体を整えて再び行かなければなりません。気力のない目に正気をかき立てて、遠くの山を眺めながらまた行かなければなりません。残されたお父様の足跡について行くのではなく、踏んで行かなければならない茨の道を、自分が先立って行くと、身悶えする息子・娘になるようにしてくださることを切にお願い申し上げます。 復帰したいと思っておられる、貴いお父様の哀れな心情を、私達は未だ知りませんでした。血まみれた心情を持って耐えてこられた悔しいその内心に、「息子よ、克服と勝利の息子であれ」という、恨み深い願いが秘められていることを私達は知りませんでした。 このように悲惨な中で生きている失望と落胆の子女達になりましたが、この中に天の光が近付き、闇の中でこの光が別れ道となって、ここに新しい天国の門が開き、天の輝かしい栄光が始まるということを、はっきり分かるようにしてください。 明日の力強い歩みを、この時間から誓うように許諾してください。このような自分になったならばこのように生きたい、このような妻を迎えたならばこのように生きたい、このような子供が生まれたならばこのように生きたいと既に決めておいて、それが実行できる息子達になり、その息子達が御旨の道を歩むため、一、二度出て行く時は、あなたの新しい福地の日を安息の場へ移しておくということが分かるようにしてくださることを切にお願い申し上げます。 私達がどうせ越えなければならない峠を喜んで越えられるよう許諾してくださり、どう迎えなければならない運命の決定的な途上で、度量の狭い男にならないように許諾してください。強く勇ましくしてくださり、万民の前に訴えて天が紹介できる勝利の勇士になれるよう許諾してくださることをお願い申し上げます。 この初日から始める全てのことが、あなたの栄光の懐に抱かれる結果として終わるようにしてくださり、幸福なきょうを許諾してくださることを切にお願い致します。八月が過ぎ去ろうとする今、統一教会の新しい出発と共に、希望にあふれる天運の結束がなされるよう許諾してくださることをお願い申し上げます。 知る者と知らない者、無知なる者と知覚した者で、天地の差が生じるということを考えなければなりません。ここに集まった全ての子女は、知恵ある者になって、あなたの祝福の御前に現れるように守ってくださり、悟らせてくださり、指導してくださるよう再びお願いしながら、全てのことを真の父母様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.19
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「我が家庭の行く道 }(その1) 歴史的な所願成就の起点は私自身 人間の心と体は、主体と対象の関係にあります。この体と心が一体となり、一つの起点を整えているかということが、我々において、最も深刻な問題なのです。 体が心の要求のごとくに従わなかったために、心が願うままに体が応じることのできる立場を、今まで人類は模索してきました。また、この体と心の闘いを停止させて、ここに平定の起源を立てるために、数多くの人々が修道の道とか、あるいは、教育を通じつつ、あらゆる苦労をしてきましたが、いかなる人も、いかなる所でも、その平定の起点を整え、決定的な勝利を成したという事実が、歴史上にはありませんでした。 この闘いは過去から今日まで継続しており、今も皆さん自体の中で継続しているのです。この闘いを、いつかその限界点を立て、清算することが人類の願いであり、人類を導かれる神様の願いとなってきました。このように、上では神様の所願であり、下ではこの地上に生きている人間の所願となっているこの所願が成就される土台は、何でなければならないのでしょうか。世界でなされる前に国家でなされなければならず、国家でなされる前に民族でなされなければならず、民族でなされる前に家庭でなされなければならず、家庭でなされる前に私自体で、なされなければならないのです。 結局、その成就の起点は、対外的な、ある世界で準備されることを願うことよりも、対内的な私自体で準備されなければならないのです。私自体内で、決定的な勝利の起点を準備しない限り、我々が願い、神様が願われる地上天国は成されないのです。分立された私自身、二つの分かれ道で闘っている私自身を、どのようにして一つにするのかという問題が、人類が解決しなければならない課題であり、人類を通じて勝利の起点を捜し求めてこられた神様の歴史的な所願なのです。 このような観点から見て、歴史的な所願の標準となるその帰着点がどこかというと、これは世界でもなく、ある国家でもなく、ある家庭でもありません。それ以前に、私自身でこの帰着点を解決し、勝利の出発を見るまでは、家庭から世界に行く道がないのです。このように、解決点を探しえない立場にある個人を中心として家庭がなされており、そのような家庭を中心として社会がなされており、そのような社会を中心として国家と世界が広がっているというのが、人類が生きている現在の世界の実情です。先生はこのように見ます。 歴史過程を見るとき、このような立場で、歴史を通じて、闘いが継続されてきました。それでは、この闘いの本拠地はどこでしょうか。ある国がこの闘いの動機になっているのではありません。もしくは、ある氏族がこの闘いの動機になっているのでもありません。この闘いの本拠地は、どこまでも個人の心と体です。これが、この闘いの起源地であることを皆さんは知らなければなりません。これが平定されない限り、この闘いは止みません。これが永遠に平定され、永遠に一体となりうる基準が開かれるようになれば、ここから、私を中心として、神様が願われる権限が顕現されるでしょうし、完成基準が成立することでしょう。 このように見るとき、神様の権限が現れる土台となりうるところは国家ではなく、「私」であるというのです。もしくは、神様が願われる完成の尺度となりうるところも、国家ではなく、「私」なのです。すべての勝敗が「私」という個体から始まるために、個体が完全に実体として現れ、まとまるようになるとき、そこで全体像を見ることができるのであり、その全体像の中に、初めて一つの形態を整えた、我々の理念的な世界が現れるのです。従って、すべての起源は相対的な世界にあるのではなく、私自体にあるという事実を、我々は否定することができません。 体と心が分立した個人を植えたために、そのように植えられた個人が家庭へと広がり、氏族へ、民族へ、国家へ、世界へと広がってしまったのが現在の世界です。そのために、この世界に心的な人間の形が植えられ、体的な人間の型が植えられてしまったのです。それで、その結実として、二つの世界の形態が整えられたというのは、極めて自然な現象です。 体を中心として引かれてきた今日までの歴史 世の中を見ると、今我々が見ているこの世界はどのような道を辿ってきたかといえば、体の歴史と心の歴史を辿ってきました。そして、それが物質的な世界と心的な世界として現れ、対照的な思想体系を整えたのです。 それでは、この世界を開拓してくるときに、いつも先頭に立ってきたのは何でしょうか。それは、心ではなく体であったというのです。すべての主体的な内容を整える起源が、心にならなければならないにもかかわらず、この世界歴史の発展において、体が主導的な役割をしてきたのです。 それは、我々個人を見ても、如実に証明できるのです。皆さん個人を見ても、心に決めたとおりにしたくても、心に決めたとおりにはならないのです。正月一日になれば、誰もが新年を迎え、新しい心の姿勢を持って、一年を意義あるように、一生に忘れることのできない意義ある一年を残すためにと計画し、心を引き締めて、今年は体を導いてこのようにすると決心しますが、その計画と決心のとおりにする人がどれほどいるのかと考えてみても、その決心どおりにする人はごく僅かなのです。 千に一つもないという事実を見るとき、我々は心を主として歴史的な動機を整えたのではなく、体を主として我々の生活環境と社会環境と生涯を引っ張っているという事実を否定することができません。 それでは、どうして心が主体となったのでしょうか。どうして心が歴史過程で、主体的な立場に立って、体を導かなければならない闘いの道に立っているのでしょうか。このような場でいじめられ、苦しい立場に立つのが心であったということを、我々は考えなければなりません。 これは、皆さん個人を見ると、確実に知ることができます。心はこうしようとするのに、体はあのようにしようとします。心がしようとするとおりになるのではなく、体がしようとするとおりになってしまうのが、我々の日常生活であり、短い生涯でも、それが今まで皆さんが生きてきた生涯の路程に違いないのです。このような問題を我々が確実に点検してみると、心が主体的な立場に立てず、体がいつも主体的な立場で、心を引っ張ってきた生涯を生きてきたのです。 体を中心として、心が引っ張られていくときは、必ず外的な世界、神様がおられない所に帰結するのであり、心を中心として体が引かれていくときは、必ず神様がおられる所に帰結するのです。それでは、今日、この世界が唯物主義思想で蔓延している事実をみると、これは体を基準として引っ張られた、結果的な世界であると考えざるをえません。 世界の問題より個人の問題の解決が急務 外的な世界を平定する前に、私自身がまず解決しなければならない問題は何でしょうか。それは心を中心として体を平定させうる絶対的な権限を持つことです。そのような権限を持つことのできる心となれば、その心でも体を屈伏させることができ、その屈伏させた勝利の土台が万民に適用できる内容となれば、そこで新しい思想が生まれ、新しい世界を形成できる道が開かれるのではないかと、このように見るのです。 ところで、人々は一番問題となる要因をどこに置いているのでしょうか。世界に置いてはいません。私に置いているのです。今日、人類を見ると、第一の問題点は、世界が闘う所にあるのではなく、その根本原因を皆さん各自に追求してみると、全部私に置いているという事実です。それで、皆さん自身を見ると、世界が高く、大きくなることを願うより、私自身が高く、大きくなることを願っているのです。「世界が幸福である前に、私自身が幸福でなければならない」と、皆このように願っています。私自身が幸福でなければ、家庭がいくら幸福だと言っても、本当に幸福だと言うことができず、世界がいくら幸福だと言っても、本当に幸福だと言うことができないのです。 一般的に、希望を未来に置いているのですが、その起点は世界を中心として考えるのではなく、皆私を中心として考えているという事実を、我々は否定することができません。成功するのも、私がしなければならない。一等になるのも、私がならなければならないというのです。良いことも、私が良くなければならないのです。これは、人間が持つ、否定することのできない要求です。それにもかかわらず、今日、人間世界ではこれを否定するようなことをしています。否定する歴史の流れに従ってきているのです。このような闘いが入り混じっているということを、我々は考えなければなりません。 世界を捜し求めることのできる動機的存在 では、私自体の幸福の基準をどこで探すのでしょうか。これが問題なのです。神様がおられるとすれば、神様が人間に対して救援摂理をされるとき、歴史的な内容を通じて犠牲を払ってこられたのは、神様自身が幸福になるためなのでしょうか。そうではありません。神様の幸福のためになされたのではありません。 神様は絶対的であり、全知全能の方であるために、その方には限界とか、何か時限的とかということはありえません。すべてのことを超越しておられます。それゆえ、ある事情の限界圏内に束縛されて、それを打開できない立場におられる方ではないのです。そのような方が今まで捜し求めて来られた所願があるとすれば、その所願はその方自身のための所願ではありません。我々人間に対して、子女を捜し求めようとする所願を持って来られたのです。それで、その所願は神様自体で帰結されるのではなく、人間において解決され、神様に帰って行くようになっているのです。このように見ると、何よりも各個人が問題となるのです。 今まで、このような個人をつくるために、神様が動員され、歴史が動員されました。復帰摂理の伝統的な思想を見るとき、人間始祖アダム・エバが失敗することによって、カイン・アベルを通じて、新しい摂理の御旨を立てたその日から今まで、捜し求めて来られたことは何でしょうか。それは世界です。その世界を捜し求めることのできる動機的な存在は何でしょうか。それは一人の真の人なのです。そのような人がこの地上にいないために、その一人の人が来なければなりません。そのような使命を背負って来られる方がメシアなのです。 メシアのための基台を立てる目的 我々の原理では、信仰基台を立てた土台の上で、実体基台を立てなければならないと言っています。そして、実体基台を立てるようになれば、メシアのための基台が立てられるようになるのです。 それでは、メシアのための基台を立てるのは何故でしょうか。私が初めて真なる位置を探し求めるためであり、体と心が一つになりうる起源を迎えるためであり、分かれてしまった天地が統一されうる起源を探し求めるためです。ここで、すべてのことが決定されるのです。私個人が完成できなかった歴史的な恨みを解き所願成就するために、神様がなしえなかった摂理の御旨を成就させるために、失われた歴史を探すために闘っている現代で、勝利を固く誓うために、暗澹たる未来を希望の未来に変えさせるために必要なのです。このようなことは全部、メシアを中心として、新しい出発をすることができるのです。その出発の基点に置くことのできるものは、一人の人によって決定されるのです。我々は一人の人によって始まる、そこに、一つとなることのできる道を探し求めなければなりません。 そこで一つとなるためには、どうしなければならないのでしょうか。ここに、メシアという方がいます。(板書されながらお話しされる。) その方の体があり、その方の心があります。また、私の体があり、私の心があります。ここから見れば、メシアは神様と一つとなっています。その方はより強いプラスの立場に立った主体です。そのような主体の因縁によって、心と体があります。 その心は強い心です。どれほど強いのでしょうか。世界人類の心を全部合わせたものよりも強いのです。その心がどれほど強いのでしょうか。この世界のすべての悪なる勢力が統合して攻撃しても、後退しないくらい強いのです。この世のどのような力を持って占領しようとしても、占領できないほど強いのです。メシアの心は、そのようなプラス的な内容を持っているのです。 それでは、その心を中心として、体はどのようになっているのでしょうか。相反する立場にあるのではなく、一つとなりうる立場にあるのです。いつでも一つとなっています。心と体が完全に一つとなることによって、新しい私が成立するのです。そうなれば、皆さんは初めて「私」という人格が造成されるのです。心と体、この二つが一つになったとき、新しい「私」が形成されるのです。すべての事物は、このような内容を中心として発展するのです。 より大きなものが生じるためには、小さなプラスとマイナスが兼ね合い、その二つが一つの価値をなし、プラス的形態を整えなければなりません。そのようになるとき、また他の相対的マイナス的形態と一つとなって大きく発展していくのです。このように見るとき、目的を否定しては発展がありえないのです。ここから、弁証法的唯物論が壊れていくのです。 このように見るとき、メシアの体と心は一つになっています。ところが、我々人間を見ると、元来、人間の体と心が一つとならなければならないのに、どのようになっているのかといえば、これがメシアとは違って、逆さまになったのです。堕落した人間なので、体がプラスとなったのです。心が体に負けてしまったのです。「それは違う。私の心はいつも体に勝つ」と言う人がいれば、手を挙げてみなさい。ここに問題点があるのです。今まで、この体が主体となって心を引っ張ってきました。そのために戦争があり、闘争があるのです。 本来は心がプラスであるにもかかわらず、体がまたほかのプラスのような主体的な立場で、今まで心を引っ張ってきたのです。このようなところには、戦争が止むことがないのです。プラスとプラスは相反するのです。和合をすることのできる道がないのです。それ故に、問題となるのです。復帰しようというのは、心に強いプラス的な主体性を与えようということです。そうして、体がマイナスとなるときは正常な人間になるのです。 宗教の作戦 ですから、これを替えなければなりません。あなたは私となり、私はあなたとならなければなりません。心と体が一つとならなければなりません。体が動機となってはなりません。心を中心として、私があなたになり、あなたが私にならなければなりません。ところが、今までは、そのようになりえませんでした。 それでは、心と体を一つにするためには、どのようにしなければならないのでしょうか。体を弱化させなければなりません。それで、宗教はこのような教理を主張しているのです。宗教は心を強くし、体を弱くする作戦をするのです。この二つの作戦をするのです。万一、摂理過程にこのような歴史路程がなければ、神様はおられると言うことができません。堕落した人間を神様が救済しようとされる歴史的な証拠としての実体が宗教なのです。 宗教の教えは、「心を中心として体を打て」と言います。それでは、体を打って何をするのでしょうか。心を主体に立てるのです。心が主体にならなければならないのです。それでその主体を中心として体が一つとなっても、これがプラスとなるのではありません。来られる主と一つとならなければなりません。そうして、主がプラスとなり、人間がマイナスとなって接するのです。これが皆さんが言う、「メシアのための基台」なのです。「メシアのための基台」は、そのようにして成されるようになっています。 そのプラスの作用が神様から始まって、アダム・エバの心を通じて体まで連結されなければなりません。このように、神様を中心として作用をしなければならないのに、心が立たなければならない位置に、体が立っているというのです。神様が主体なのに、体がまた他の主体の立場に立っているために、人類歴史が相剋的な立場を取ってきたのです。心がマイナス的な立場で引っ張られてきているために、これをひっくり返さなければなりません。そのためには逆にしなければなりません。これが宗教の道であり、修道の道です。 心と体が一つになることのできる起源は神様 このように見るときに、問題はどこにあるのでしょうか。皆さん自身にあります。世界をひっくり返す前に、自分をひっくり返さなければなりません。そのために、先生も一番問題となったのが、自分自身でした。これが大きな問題でした。 それでは、自分を中心として問題視する、そのような要件はいくつあるのでしょうか。復帰はそのままするのではなく、堕落した経路と逆の経路に従って、創造原則によってするのです。神様はアダムがエバの主体となって、エバが天使を主管するように作られたのです。ところが、堕落はその逆の過程を経てなされてしまいました。そのために、アダムを中心としてエバが指導を受け、アダムとエバによって天使長が指導されなければなりません。 アダムはその指導の原則をどこから受け継がなければならないかといえば、神様から受け継がなければなりません。神様から完全な指導を受け、神様と一つとなる立場に立たなければ、完全な指導体制は出てこないし、本来の原理原則に一致しうる指導形態は成立しないのです。 アダムは神様の前に完全な指導を受けることができ、個人的な感情から生活環境と生涯の路程を通じて、神様と完全に一つになることのできる起源を探し求めたでしょうか。探し求めることができませんでした。また、アダムは神様と共に喜ぶことのできる動機を持ったでしょうか。持つことができませんでした。堕落によって悲しむべき動機を持ったのです。神様と内的に一致し、干渉を受け、指導を受けられる立場に立ったのではなく、干渉を受けることができず、指導を受けることができなかったために、神様は追放しなければならなかったのです。すべてのことが相反する立場に立ったのです。神様とアダムが一つとなり、アダムとエバが一つとなるのが正常なのです。こうして、天使長を愛さなければなりません。 皆さん自体を見るとき、皆さんはどのようになっているでしょうか。皆さんの心は神様と一つとなりうる内縁を持っています。しかし、皆さんの体と環境は、それと反対の立場にあります。即ち、堕落圏に属しているのです。 堕落の起源はどこから来ているのでしょうか。もちろんアダムから堕落しましたが、それは、どこまでも対象的存在である天使長から始まったのです。天使長は人間の前に対象的存在です。アダム・エバを見るとき、アダムが主体ならば、エバはその対象として一つとなるとき、天使長はその外の存在です。(板書されながら) 横的に見れば天使長がいて、エバがいてアダムがいて、神様がいます。これを縦的に見れば、一番下に天使長がいて、その上にエバがいて、アダムがいて、神様がおられます。 皆さん自身は、一つとなりうる起源をどこから探さなければならないでしょうか。心から探すのではないのです。それを知らなければなりません。心から探すのではありません。本来、心は一つとなろうとしています。羅針盤が南北を示しているのと同じです。ところが、南北を示さなければならないのに、これが反対に北南を示しているというのです。それだから皆さんの心は、しきりに戻ろうとします。そのような作用をしているのです。それで、体と心が闘っているのです。 それでは、神様と一つとなりうる土台が心にあるのか、体にあるのかというと、心にあるのです。心は神様の側にあるために、自然に一つになりうる環境になっていますが、体はサタンの寓居地となり、悪の出発地となっているというのです。故に、サタンの出発の起源、動機がどこかというと、心ではありません。体です。それで、体は心が行こうとする道と反対の道を行こうとするのです。体が好むところからは、神様の前に行く道を捜し求めることができません。体が嫌がる道からのみ、神様の前に行く道を探し求めることができるのです。 祭物を捧げる目的はメシアを迎えること 復帰摂理の歴史において、縦的な蕩減条件を横的に蕩減復帰しなければならないと言われています。それでは、私を見るときに、「私」という存在はどのような存在でしょうか。神様の身代わりとなる心があり、その身代わりとしての私があり、私を中心として相対があり、相対を中心として子女がいます。四位基台の形態以外に、何があるでしょうか。万物があります。私を中心として家庭があれば、家庭の他には何があるでしょうか。万物があるのです。 では、再創造歴史とは何でしょうか。再創造歴史とは逆さまにすることです。堕落したために落ちてしまったので、これを再び引き上げるのです。そうするには、外から逆さまに入って来るのです。出て行くのではないのです。堕落しなかったならば出て行ったのですが、反対になる業をするのです。逆さまに捜し求めて入って来るのです。それ故に、旧約時代は祭物時代です。祭物時代は万物を打つ時です。家庭を中心として見るとき、父母がいれば息子がおり、万物があります。即ち所有があるのです。 縦的な歴史を見るとき、旧約時代はどのような時代だったのでしょうか。(板書されながらお話しされる。) 物質を打つ時代でした。新約時代は子女を打つ時代であり、成約時代は父母が十字架を負う時代です。これを縦的に蕩減するので、捜し求めて入って来るのです。これを横的に展開すれば、これは物質に該当するのであり、これは息子に該当するのであり、これは自身に該当するのです。個人はこのような立場に立つことができる存在となることができません。 そのような環境を、個人は持つことができません。家庭を持って初めてできるのです。家庭でなくては、このような内容を満たすことのできる土台を持つことができないのです。万物があり、息子があり、父母があれば、家庭がなくなりますか。 復帰歴史では、このような縦的歴史を横的に蕩減しなければならないので、そのような内容を決定するためには、家庭を持たなければならないのです。 今まで、神様を訪ねて行く時、旧約時代は神様の前に祭物(万物)を打って捧げた時であり、新約時代はそれより一段階上がってきたのです。蕩減復帰なので、外的に攻め込んでくるのです。神様が打っても、そのまま打たれる人々は天の物であり、そのまま打たれない人々はサタンの物です。ここで不平を言い、反抗する人々はサタンの物になるのであり、絶対に服従し、順応する人は誰の物になります? (「神様の物です。」) これを決定して出て行くのです。 祭物とは何でしょうか。命を懸けて犠牲になりながら、じっとしている人を誰が打ちますか。祭物は誰がつかみますか。他の人はつかみません。祭司長がつかむのです。祭司長は神様の代身でしょう? それで神様が打つのです。その時、「アイゴー。私は死にたくありません」と言えば、サタンの物をそのまま受け継ぐのです。しかし、「喜んで死にます」と言って、感謝して受け入れれば、そこで復活が起きます。体は死んでも、神様の前に再び新しい者として受け入れられ、存在認識圏が成立するのです。こういう業をしてくるのです。それ故に、物を打って神様が受け入れられる基準を立てるのです。そのような時代が過ぎた後には、物を打って犠牲にさせ、それによって息子一人を探し求めるのです。それで、旧約時代の所願は何かといえば、真のオリーブの木として、又命の木として来られるメシアを迎えるということです。 メシアの所願 それでは、メシアの所願とは何でしょうか。自分が犠牲になっても父母の立場へ進むことです。そのためには、代わりに蕩減しなければなりません。必ずアダムとエバを中心として、蕩減法が展開されるのです。その責任は誰にあるのかと言えばアダムにあるのです。それ故に、アダムはエバを探すために、相対を探すために来るのです。相対を誤って探した時は、犠牲になるのです。それで、イエス様は家庭を探し求めようとしたのです。 家庭を探す前に誰を探さなければならないかといえば、天使長を探さなければなりません。天使長を屈伏させなければなりません。神様が万物を創造されるときに、協助した天使長がいたように、万物を支配することのできる息子が現れたならば、そこには勝利した天使長がいなければならないのです。イエス様の時に、この地上で勝利した天使長型の代表者は洗礼ヨハネでした。 イエス様の使命 洗礼ヨハネは、霊界で失われた天使長の代身者として、地上で復帰された存在でした。天使長型洗礼ヨハネとアダム型イエス様が一つになって、万物を支配しなければなりませんでした。そうするために、イエス様は万物を支配することのできる勝利の祭壇を相続しなければなりませんでした。その祭壇がユダヤ教でした。ユダヤ教は旧約聖書を信じ、祭壇を守ってきた宗教でした。祭壇を守りながら万物を犠牲にし、祭物を捧げたその基台を、イエス様がすべて引き受けなければなりませんでした。洗礼ヨハネは、イエス様がそれを引き受けられるような手続きを踏まなければなりませんでした。ところが、洗礼ヨハネが失敗することによって、全体の内容が乱れ、イエス様がその使命を代理として担わなければならない立場に立つようになったのです。イエス様はその使命を果たす第二次路程で死んだのです。 イエス様はどんな使命を果たすために、サタンと闘ったのでしょうか。洗礼ヨハネ的使命を再び行う路程で十字架につけられ、亡くなりました。それで、息子の使命を果たすことができたでしょうか。できませんでした。イエス様は亡くなった後、どういうことをしたかといえば、天使長を捜し求めました。その次に、息子が行くことができるようにしなければなりません。従って、僕として行かなければならなこと養子が行かなければならなこを探し求めるのです。イエス様は直系の息子になることができませんでした。直系の息子の使命を果たすことができなかったのです。天使長の道、僕の道と養子の道を行くようになったのです。 それ故に、イエスを信じても、せいぜい養子にしかなれないのです。血統を連結させない因縁は天使長級の立場です。それは、血統の違う立場にいるカインと同じような存在です。今までの摂理歴史は、その血統を連結させるための闘いを行ってきているのです。 イエス様は十字架で、息子として亡くなったのではありません。イエス様は霊と肉が一つになった息子の立場で、神様の前で、勝利の基台として捧げる立場で祭物になったとすれば、再臨する必要がありません。完全に捧げることができなかったのです。半分しか捧げることができませんでした。体は失い、霊だけが捧げられました。これは霊界の天使世界に相当するものなのです。 ですから、キリスト教を信じて行った人達は、どのような級に留まるのかといえば、天国に入ることができず、楽園級以下の霊界に行って待機するのです。即ち、天使長が支配する霊界、天使長圏に該当するのです。それ故に、霊界での勝利の保護圏として、地上で勝利の保護圏をつくっておかなければなりません。それを継承させることが神様の御旨であり、イエス様が来られて行った御旨であるため、キリスト教は霊界の勝利圏と地上の勝利圏を一遍に捜し求めて立てて、天使長圏を継承しなければなりません。これがキリスト教の使命です。キリスト教では、実体的完成はありえません。霊的完成のみがあるのです。従って、キリスト教は霊界を中心として出て来たのです。 再臨主の使命 それでは、再び来られる主はどのようにしなければならないでしょうか。霊界の天使長圏を屈伏させる権限を持たなければなりません。それを持たずして、地上での出発をすることができません。再び来られる主は、この地に来られる時、霊界で勝利したイエス様以上の全体の霊的世界を継承する立場で来なければなりません。言い換えれば、イエス様が洗礼ヨハネから継承したと同じようにです。洗礼ヨハネがイエス様から霊を中心として継承しましたが、その約束どおり果たすことができず、分れてしまいました。それで、これを再び行うために、キリスト教を立ててきたのです。 これと同じように、再び来られる主も、アダムの立場として来られるため、天使長圏の世界であるイエス様を中心としたキリスト教圏、数多くの宗教圏はその主の前に属さなければなりません。そして、キリスト教を始めとしたすべての宗教が、来られる主の前に、霊的に相続しなければならないのです。このような相続を受けないで、地上で再臨主として君臨することができません。故に、主は霊的世界を統一したその統一方案をもって、地上世界を統一するために来られなければなりません。 統一するためには、霊的世界で引き継いだものを肉的世界のキリスト教に引き継いであげなければなりません。そうしなければならないのに、地上のキリスト教は霊界を中心とし、地上世界を中心としていません。ところが、来られる主は霊界を中心として来られるのではなく、地上世界を中心として来られるのです。ここで衝突が起こるのです。一つは霊界を眺め、もう一つは地上を眺めている立場にいます。それで、一歩間違えば、ここから分かれ易くなるのです。それがキリスト教の運命であり、来られる主の運命です。そして、これが一つになったといえる基準ができなければ、息子として完成したといえる立場を、地上では探すことができないのです。 では、地上で完成しなけばならない基準はどういうものでしょうか。それを知るために、まず、イエス様が何故死んだのか、ということを知らなければなりません。第一に、家庭を持つことができなかったからです。二番目に、国を持つことができなかったからであり、三番目に世界が一つになって、イエス様に侍ることができなかったからです。悪が支配している世界のために亡くなったのです。悪は国だけを支配しません。世界を支配します。この三つのため、イエス様は十字架につけられ、亡くなったのです。これが、闘っていかなければならない三段階です。 再び来られる主がしなければならないことは何でしょうか。主はこの地に来られて、まず、霊界と肉界を統一しなければなりません。その統一方案を模索しなければなりません。必ず霊的世界の勝利の起源を備えて、肉的世界の勝利の起点を準備しなければなりません。それを準備するのに、個人からしなければなりません。それで、霊的なものを代表する心の基準と、肉的なものを代表する体の基準が一つになることができるか、これが問題なのです。一つになることができないとすれば、その内容は何でしょうか。これが問題です。 本性的基準となる心の土台 来られる主の苦衷は何でしょうか。霊界と肉界をどこから繋げなければならないかというと、それは世界からするのではなく、逆に個人からしていかなければなりません。それでは、来られる主も体と心を持って来られるのに、その方の体と心は絶対的に一つになっているのかというのです。そのようになっていれば、堕落圏に属していない立場で、神様の主管圏にいるかもしれませんが、その方も、サタン世界の血肉を通して出て来られるので、すべてがそうではないということです。 その作用は皆様と同じように、起こるのです。心を中心として、体を屈伏させる業をしなければならないのです。そのようにして、どの基準まで上らなければならないかというと、堕落前のアダム・エバよりも低い基準ではいけません。その基準を越えなければならないのです。神様に尽くすためには、体と心が一体とならなければなりません。アダムとエバ以上の立場を発見しなければ、霊肉を中心としてアダムの失敗した世界を復帰できる新しい出発の基点を探すことはできないのです。 それでは、一つになるのに、最も難しい内容は何ですか。それは堕落性本性です。神様と同じ立場に立つことができないのです。心は神様と同じ立場に立とうとしますが、体は神様と同じ立場に立てないのです。従って、私の体は神様が望むとおりに感じ、望むことができるかというのです。体の欲するままにすべきではなく、神様がなされようとするとおりに、体が行わなければならないのです。今まで、この闘いをしてきました。そうしなければ、復帰ができません。 神様がなされようとするとおりするには、どのようにしなければならないのでしょうか。神様は心よりも高い位置にいますか、心より低い位置にいますか? (「高い位置におられます。」) 高い位置にいるので、心がしようとするとおりに、体は神様と関係を結ぶことができますか。とても難しいのです。心が動機になって堕落した基準を中心としてみれば、これは完成ですか。長成期完成級の基準から心が出発しました。だから、これは天使長の心の基準を引き継いだ立場です。 しかし、本性的基準となる心の土台は、神様と一致点を持っているので、神様を中心として考えることのできる因縁を持っています。その心が作用する基準は長成期完成級であるので、天使長と一体となる基準を離れては作用することができません。作用は必ず相対基準を通してなされるからです。体は心の相対となっていますが、その体が堕落した天使長の最初の土台になっているのです。言い換えれば、長成期完成級以上の立場を越えることのできない相対であるため、その相対の位置以上は、心が作用することができないのです。 もしアダムが心を中心として完成したならば、その権限は天使長も主管し、体も自由に引っ張って行くことができたのですが、完成できなかったので、天使長に支配される立場に立ちました。それ故に、心はどうすることもできず、体に引っ張られる立場に陥ったのです。これが問題です。 来られる主も、やはりこのような闘いを経て、心が神様と一つになる起源を強固にしなければなりません。霊界では天使世界と神様が一つになっています。そのような因縁を決定付けるまでは、神様と一つになることができないのです。 世界的、天宙史的闘争の母体は個人の心と体 私達は、天使長級の心の基準と相対基準を結んでいます。それ故に、上がろうとしても上がることができません。けれども、私達は心の別の主体を持っているので、心がそれ以上に上がろうとして闘っているのです。 心の別の主体は神様です。心は、高い位置にある神様の相対的立場で一つになれるので、人間は天使長級の相対基準で作用していた心の立場を離れ、より高い次元に上がることができるのです。ですから、心の作用がより強くなければなりません。そのようになって主体的作用ができるときに、再創造の役事が展開されるようになるのです。 完全な主体が生じれば、完全な対象が生じるのは天地の道理です。完全な主体形である心の基準が決定すれば、不完全なものは除去されるようになります。完全なものが入ってくれば、不完全なものは退いていくのです。光が入ってくれば、暗闇は退くようなものです。 皆さんが聖霊を受けたり、神様の恵みを受けると、体についていた悪が、「退け」と言わなくても退くのです。このような作用をするようになります。体の本能は長成期完成級に相対的基準を置いているので、それより高く強い心の主体を作って、その基準が今までより高くなれば、再創造の能力が発生して、体の本能を無視してしまい、心の位置に入って行きます。従って、サタンが去って行くのです。恵みを受ければ、サタンが去って行くのです。 今までその闘いをしてきたのです。そのような世界的闘い、天宙史的闘いが起こっている母体がどこであり、根拠地がどこかといえば、世界ではないのです。体です。体と心であります。それは本当に科学的なのです。強く絶対的で、完全な主体である神様の前に、私の心の方向を神と同じようなコースにし、正面にその位置を置けば、世界が全部自分の心の中に入ってくるようになっているのです。皆さんは恵みの立場に入ってみてください。 それが何故きゅっと入ってくるのでしょうか。世界も神様の心の中に入っているために、神様と一つになるので、世界が全部自分の手の中に入ってくるのです。そのようになることができます。それで、恵みを受ければ、世界は私のものになるのです。心が強い主体として完全に立ち、完全なプラスになれば、完全なマイナスを作り出すのです。創造の能力が発生するようになるのです。ですから、反対の立場にある存在は追放されるようになります。 ところが、いつも神様と一つになっていればよいのですが、これが上がったり下がったりするのです。心霊が上がったり、下がったりしますか、しないでしょうか。(「します。」) 心霊が高い時は神と一つになって、心霊がある線以下に低くなれば、神様が離れて行くのです。この時、サタンが主管するのです。そのようなことをしているのです。サタンの線、堕落の線、長成期完成級の線以上で上がったり下がったりすれば、無事に通過することができるのです。皆さんがこのような立場に入ると、直ちにサタンから打たれます。このような闘いをしているのです。 結局、天と地が波動を起こしている立場が、今日、皆さんが立っている立場です。見れば見るほど危険であり、スリルに満ちたことが、我々が見ている現在、この世界で起こっていますが、世界で最も危険で激烈な場面は、私の心と体が左右になって、衝突が起こっている場面であります。 従って、原子爆弾が落ちて、世界がいっぺんに全滅するとか、潰れてしまうことよりも、自分の生命の脅威を受けるときに、世界にはない恐怖を感じるようになります。皆さんは、そのようなことを感じたことがありますか。今、そのような闘いをしているのです。上がったり下がったりしているのです。いつも神様と一つになっていればいいのですが、一つになれず、この堕落線の下に落ちて行く時に、神が離れていくのです。これが天地の道理です。くだらないことをしては、発展できません。走るときも、ただこのように走ろうとして、走っていますか。このように走って行かなければなりません。(動作で示される) 皆さんはいつもこのような基準を中心として闘っていかなければなりません。今までの歴史は、反復される闘いの歴史を経てきました。このような心的作用の波長のような形態が、歴史発展上に、横的に世界形態へと展開したのが、世界の悲惨な戦争史です。上がったものが、そのまま下がっていくときには悲惨になり、砕けてしまうのです。 神様と一つになる方法 それでは、来られる主はどのようにしなければならないのでしょうか。心を中心として、神様と一つにならなければならないのです。神様と一つになる方法は何ですか。第一に信じることです。心が誤っているのではありません。人間の祖先が堕落したときに、知っていて堕落したのではありません。知らないで堕落したのです。このようになることを知らなかったのです。従って、一つになることにおいて、第一の方法は何ですか。それは信じることです。 家庭の話までしようとすれば、時間が相当かかると思います。しかし、仕方がありません。題目は「我が家庭の行く道」です。今まで個人の話をしていると言われるかもしれませんが、今、その家庭に向かって行く途上にあるのです。 神様と一つになる方法の第一は何ですか。(「信じることです。」) 二番目は何ですか。犠牲になることです。犠牲になるには、何を犠牲にしなければなりませんか。心を犠牲にさせることではありません。信じることとは、心がみんな信じることです。信じるということは良いことです。信じることはみんな信じなければなりません。信じるからといって、皆天国に入るのではありません。それは、間違っていない事実でしょう? (「はい。」) 皆さんは統一教会を信じていますが、統一教会の信徒が皆天国には行けないのです。信じるには、皆信じます。皆さんも皆信じるでしょう? (「信じています。」) 間違いなく信じていますか? (「はい。」) それでは、皆さん、信じることは間違いないですか。満点ですか、満点ではありませんか? (「満点です。」) そうであれば、神様が信じることを願う基準と完全に一致しているわけですね。信じるには、誰が信じますか。信じようとするでしょう。何を信じるのですか……。それでは、信じますか、信じようとしますか? (「信じようとします。」) 何、一分前には「信じる」と言ったのに、ああだ、こうだと言ってひっくり返しましたね。(笑い) ですから、問題が大きいというのです。信じるというふうに考えないでください。 それでは、「堂々と信じる」と言うことができる時はいつなのでしょうか。「私の体は、いつでも私の信仰と共に生きて行くのが原則です。それを幸福として考えます」と言うときに、信じる基準が合格基準に上がることができるのです。このように見ています。従って、信じながら死のうとする者は何ですか。死なんとする者は死に、生きんとするものは生きる。そうですか? (「違います。」) 死なんとする者は(「生き」)、生きんとする者は(「死ぬ」)。信じることは死ぬことであり、死のうとして信じることは生きることなのです。これを知らなければなりません。これは心とは違います。これを知らなければなりません。 死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ 体が死のうとすることは永遠に生きることであり、体が死なないようにしようとするのは、永遠に死ぬことであります。心は死のうとします。誰でも、心は犠牲になろうとします。この世の人々にみんな良くしてあげたいのですか、してあげたくないですか。皆さんの心はどうですか。(「よくしてあげたいです。」) 自分が一年苦労しても、世界の人々が皆良く、豊かに生きることができれば、それは問題がないのです。 ですから、心は犠牲になろうとするのです。反対に体は尻尾を振るのです。このように相反する二つの存在の形態があるということを、はっきりと知らなければなりません。従って、体だけ殺そうとする者が、心まで殺すようになれば、信じることがなくなってしまいます。それは選り分けなければなりません。心を中心として、それを選り分けなければなりません。心が神様を完全に信じれば信じるほど、信じる心と反対のものがあるので、反対するものを殺すべきです。心まで殺してしまえば、何が生きるといえるでしょうか。相対的基準がなくては、肉界は存在しないようになっています。 死のうとするのに何を殺さなければなりませんか。体を殺さなければなりません。言い換えれば、体を殺す人は生きるということです。従って、信仰の限界点、神様を標準にしているその基準は何でしょうか。死んだ人が生き返るのではなく、死ぬようになった人が生き返るのです。それ以上の立場に上がって行かなければなりません。「死なんとする者は生き、生きんとするものは死ぬ」という言葉は、そのような意味で言った言葉です。 私の体は何を基準として、神様の公認を受ける内容になるのでしょうか。信仰故に自らの首を締めることのできる人に間違いないという基準に立てば一点の位置になるのです。一点の位置から出発するのです。そこから作動が始まるのです。 第一に信じる条件、その次には犠牲です。犠牲になるといっても、内容が違います。「私が救いを受けるために犠牲になります」、と言うときには上がって行って下りて来るのです。犠牲になるにも二種類あります。「私のために、私が救いを受けるために犠牲になる」と言うときには、神様も利用してしまうのです。そのような人は、神様も利用してしまう人になり、神様の御旨の基盤も私のものにするという人です。 天国は神様の基盤であり、そこの主体は神であるのに、そのような思考方式は、神様を利用してしまうということであり、神様の基盤を利用するということになります。そのように犠牲になることは正しいことですか、間違っていることですか? (「間違っていることです。」) イエス様は、そこで引っ掛かったのです。「父よ、父よ、私の願いどおりではなく、父の御旨のとおりにしてください」と言いました。犠牲になるのに、顔色を伺って死んでいったのです。しかし、こうしても、ああしても、とにかく死ぬようになっていました。他に方法があったでしょうか。既に、成り行きは皆傾いていたのです。既に死ぬようになっていました。ところが、イエス様は死ぬのに、私というものが出てきました。私というものが出る日には滅んでしまうのであり、神様が現れる日には生きるのです。 従って、私が天国に行くためにイエス様を信じるというのは滅びることなのです。その宗教は滅びるのです。そのような宗教は、終わりの日になれば、荒廃したものになってしまうのです。そうして、骸骨の魂だけが残って、ごろごろ転び回るようになってしまいます。このような原則からみて、そうなっているからです。 統一の方案は絶対的信仰 堕落は、どのようにして生じたのでしょうか。神様を信じないことが、堕落の起源になったのです。次に、神様の前に体を捧げることができないのが堕落なのです。体は神様の前に捧げなければなりません。従って、犠牲にならなければならないのです。次に、誰を主体にしなければならないかといえば、神様を主体にしなければなりません。このように見る時、現在の宗教思想は審判を受けなければならない運命圏にあるのです。この手錠に、すべてが引っ掛かっているのです。この手錠を切り抜けなければなりません。 それでは、イエス様はこのような基準を中心として、その生涯を標本的に神様のためにサタンと闘いましたが、その方はどこに行かれましたか。神様を信じましたか、信じなかったですか? イエス様は神様を信じることにおいて、氏族や、自分の家よりもっと信じましたか、あるいは、それ以下信じましたか? お母さん、お父さんよりももっと信じましたか、あるいは、それ以下信じましたか? (「もっと信じました。」) 神様を絶対的に信じたのです。皆さんはこれをはっきりと知らなければならないのです。 次にイエス様は、「私の信仰は世界と替えることができない。誰も占領することができない。絶対的である」ということを公認させるために、体、心、すべてを差し出したのです。皆差し出したから、サタンが触れることができるのは体しかないのです。それが自分の舞台だからです。サタンがイエス様をつかんで殺す時、イエス様は生きている立場で死んだのです。ご自身のために死んだのではありません。私の思いのままにしないで誰の思いのままにですか? (「父の御旨のままに。」) このようなことを考えた時、イエス様もこのようなことを知っていたのです。私というものを立てる日には滅びるのです。統一教会の文先生が御旨を成していく時、統一教会の文先生を立てた日には発展しますか、滅びますか? (「滅びます。」) 滅びるのです。そうすれば、統一教会の文先生には神様が現れないのです。神様だけが前におられれば、もう私の心がすべて溶けてしまいます。私がそのような道を行っているのです。 私がさっと壇上に立って祈ってみれば、ここに神様が喜ぶことのできる人が何名いるのか分かるのです。ここに三名いるとすれば、体が風船のようにふわふわ浮いているような気になります。しかし、一人いるという場合、骨が千斤万斤に押される気がします。これが蕩減なのです。責任者は生きた祭司長の責任と、生きた祭物の責任を果たさなければならないのです。皆さんはそれを知らなければなりません。骨がとても重くなってしまう時に、「アイゴー、ああ、これは本当に大変だ」と言いながら、逃げてしまえば大変なことが起こります。ここで闘って、押しておかなければなりません。そして正常な解放圏を備えて、さっと壇上に立たなければならないのです。今、この闘いをしているのです。この闘いは、まず皆さん個人の闘いです。皆さんの心霊生活や…。個人が全部この闘いをしていくのです。従って、最初の内容は何ですか? (「信仰です。」) これが何のための内容ですか? (「一つになるためのものです。」) 統一することのできる基台、土台はどこですか? (「体です。」) この体を一つにする方案は何ですか。絶対的信仰です。信じることにおいて、原則を離れてはいけません。 統一方案とは、絶対に信じることです。皆さんは信じる立場にいますか、信じようとする立場にいますか? (「信じようとする立場にいます。」) 気分が良いですか、気分が悪いですか? (「悪いです。」) 皆さんは信じる立場にあると思っていたでしょう。先生もそうです。信じる立場にいるのではなく、信じようとする立場にいます。世界を中心をして、まだ信じようとするのです。従って、いつも注意しなければなりません。深刻にならなければなりません。 信仰の目的は神と世界のため 皆さんは今もそうでしょうか。六〇年代に初めて教会に入ってきた時には、良かったと言います。「初めは本当に良かったのです」と言っています。そのような人は全部落第です。入学する時はいいのです。落第した後に入学した時のことを考えてみると、その時は良かったのですか、悪かったのですか? 皆さんが入学した時の考えを持つことは、良いことですか、悪いことですか。落第すると、入学した時の気分が思い出されるでしょう? まず、それを知らなければなりません。皆さんは落第ですか、合格ですか? 皆一緒に答えてみてください。(「落第です。」) まず、そのことを知らなければなりません。従って、絶対的に信じなければならないのです。 その次に、犠牲にならなければなりません。殉教しなければなりません。殉教するのに、自分を中心としてするのではありません。ローマ帝国時代の四〇〇年間に、犠牲になった人はどれほどいたでしょうか。「このようにすれば天国に行く」と言った人々は、霊界に行ってみれば、皆引っ掛かっているのです。もう一度十字架を担っているのです。十字架に付けられる練習をしなければなりません。私が行って、それをコーチしなければなりません。 ですから、「私は千回万回死んでも、十字架の死の道に従って行くこの栄光を感謝します」と考えながら行かなければなりません。それが分からなければ、この瞬間に、楽園であれ、何であれ、何もかも皆踏みにじられるのです。それを知らなければなりません。 皆さんは統一教会を何故信じますか? 皆さんが福を受けるために信じるのですか、神様を解放するために信じるのですか? (「神様を解放するために信じます。」) その次は何ですか。(「世界を解放するためです。」) それは本当に素晴らしいことです。神様が解放されれば、私は福を受けても余りある、そういう道があるのです。世界が解放されれば、私は最高の栄光の位置に上がって、花になり、香りになることができるのです。 皆さん、御旨とは最初に神様であり、二番目に世界なのです。これはいつでも頭の中にすぐに浮かばなければなりません。誰のために御旨の道を行くのですか。(「神様のためです。」) これが御旨のためということです。イエス様も「父の御旨のままにしてください」と祈りました。父の御旨とは何ですか。世界を救うことです。従って、世界を統一するための道であれば、百回死んでも行かなければなりません。 一つになるために、最初に何ですか。(「信じなければなりません。」) その次は何ですか。(「犠牲にならなければなりません。」) その次は何ですか。(「神様を主体としなけばなりません。」) 神様を主体にしないで、自分を主体にすれば、滅んでしまうのです。自分を主体にすれば、どのようになりますか。長成期完成級以上を上がることができますか。考えてみてください。サタンの血統を受けたこと以上、上がることができないのです。それでは、それ以上上がることのできる秘訣は何ですか。自分を主体にすると、上がることはできないのです。神様を主体にしなければなりません。きょう、このような思想的観点を皆さんは知らなければなりません。皆さんはもう統一することのできる方案が分かったでしょう? (「はい。」) 神様に近付くことのできる位置 皆さんは、朝ご飯をさっと食べてから、気分が良くて「ああ、誰なの?」と、息子・娘を呼ぶ時は、世界を代表した子供として呼び、子供を抱いて愛する時は、世界を代表した子供を捜し求める心を持って愛さなければなりません。そのような考え方を持ちなさい。 今も先生はそうです。どこかへ行って来たら、できればずっと回り歩きながら子供達にキスをしてあげるのです。それが私の生活の習慣になっています。また、私の子供達は、お父さんに挨拶をする時も、お父さんとキスをします。どこに行く時も、お父さんの前でお話をして行くし、良いことがあればお父さんのところに来ます。そのような思想を育てなければならないのです。そうすれば、神様が嬉しそうに眺められるのです。神様のため、世界のために育ててあげなければなりません。自分の息子も、その道を行かなければならないのです。 子供を生むのは私のためですか? (「神様のためです。」) 神様のためです。子供を育てることは? (「世界のためです。」) 世界のためです。そして、統一教会を信じることは、みんな何のためですか。神様のためです。その次に、統一教会を信じることは、統一教会のためですか。(「世界のため…。」)世界のためです。 世界が私よりもっと良い立場に立たないうちは、私は休むことができません。安息することができません。神様が私よりももっと良くならないうちは、私は休むことができません。神様は、私よりももっと良い立場におられるのでしょうか。神様の立場が良くならないうちに私が安息すれば、それは不孝者です。そのような人は逆賊です。神様は今、この世界のために闘っておられるからです。先生は目が覚めると、ある時は申し訳なく思います。それはあたかも、処女が眠りから目が覚めて裸になっている上に、独身の男性達が目を皿のようにして見ている時の気分と同じです。どうしてなのでしょうか。神様は二十四時間休まれず、私のため、世界のため、血みどろの闘いをしておられるのに、その場で私は休んだことが、それほど恥ずかしいからです。そんなことを感じる時がありますか。 皆さん、今、一つになる方法が分かりましたね。信じなければなりません。絶対的に信じなければなりません。その次は? (「犠牲にならなければなりません。」) 心を殺せというのではなく、体を絶対的に殺さなければならないのです。体を殺したということは、どのようにすることでしょうか。「この世で一番辛いことも私がします」。これです。 永遠の統一的な場の出発点 遠回りするようになれば、どのようになりますか。進みながら、このように退いて上がって行くようになれば、発展していくのです。ところで、このように進みながら、「やあ、疲れてもう行けない。行くことができないから退いて、ここまで行きましょう」と言えば、行くことができません。もう一度行っても、また行くことができないのです。(黒板に絵を描きながら説明される) 進みながら、もう一度背を向ける時には、絶対行くことができないのです。これを知らなければなりません。進みながら一度背を向ける時には、行くことができますか、できませんか? (「できません。」) 皆さんはそれを知らなければなりません。 ですから、先生は粘り強くやってきたのです。一度進んで退く時には、それ以上の困難な道を行くことができないのです。それ以上の困難な峠を越えることができず、神様が御旨をなすことができなければ、その御旨と関係のない落伍者になるのではないかというのです。そのようになるくらいであれば、自分の命を捧げて神様のために殉教するほうが、どれくらい有り難い立場でしょうか。これが深刻な場だというのです。 世界的な賞与を受け、世界的な決定権を相続する立場を探し求めていく私において、神様と完全に一致し、永遠に離れることのできない、結合され、結集された場であり、永遠に消えることのない統一的な場を、神はどこに準備してほしいと思われるでしょうか。誰かが見ている場に準備したいと思われるでしょうか。本当に愛する人を、他の人達がからかって見物する場で愛したいと思いますか、誰もいない場で愛したいと思いますか? どの場で因縁を結びたいですか? (「誰もいない場所です。」) 誰かが見ているのは嫌でしょう? 愛する妻を、通り過ぎて行く独身の男性がそうっと盗み見しても気分が悪いのです。それは誰でもみんなそうだというのです。 呼吸したとしても拍子が合わなければなりません。そのような立場を経て上がって行かなければならないのです。「君と僕は同じものだ」というのです。その立場が何の立場かといえば、授け受ける場です。新しい一体を中心として呼吸するのと同じことです。それは心臓が鼓動するのと同じです。一体の世界が、そこから出発するのです。そのような厳粛な場だというのです。 それならば、どこで一つになろうとしますか。私は、もう既にお話しました。調子を合わせて踊り、歌を歌う、そんな場所で一つになることではないというのです。そのような所で一つになっては、神様とは何の関係もないのです。サタンと闘って勝利するためには、サタンが一番嫌がることをしなければなりません。 高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる サタンが一番好むことは、足を合わせて踊り、男性なのか女性なのか分からない、同じような格好をして大騒ぎをする、そのようなことです。そのような者達と歩調を合わせてはいけないというのです。その反対の場が開かれなければならないのです。その場は死ぬか、生きるかという場です。そのサタンが好む場から、背を向ける道があるといって上がってきました。しかし、そこからは自分一人では上がることができません。神様の力が加わらない限り、上がることができないのです。 皆さんは下がって行く場でも、「上がって行く」ということを考えてみたことがありますか? だから、復帰路程は……。(黒板に図を描かれる)。これが上がれば、これは下がって、これらは二つの起点です。三点を探し求めて行くのです。ここから出発して、ここを経て行くのです。このように回って行くようになっているのです。これが回るようになっているのです。同じもの三つが一つにならなければならないのです。そうしてこそ、永遠に継続していくことができるのです。 これをじっと見ると、八段階になっているのです。(以下、絵を書かれ、説明される)。皆さんは、この八段階を通過しなければなりません。これを中心として、堕落した世界が上がって来たでしょう? 我々の宗教は上がって行くのではなく、下がって行くのです。下がって行くと言っても、突然下がって行くのではないのです。こっそり下りて、また上がって行くのです。ここまで上がって、ここから復帰して行くのです。これが復活です。 三段階は蘇生、長成、完成です。私という個体を中心としてみれば、個人復帰、家庭復帰、国家復帰の三段階です。その次に家庭を中心としてみるとき、家庭復帰、国家復帰、世界復帰の三段階です。一段階先立つのです。このように発展していくのです。だから、この峠を越えて行ってこそ、頂上に上がって行くのです。 そうであれば、下がって行くのが良いことですか、悪いことですか? (「良いことです。」)下がっていくこともなく、上がって行く道を求めることができますか? 「いやー、私は下がって行くのが嫌いだ。こちらに上がって行く」と言って行けば、どこに行きますか? 逆に上がって行ったら、サタン世界に行くというのです。サタン世界は上に上に上がって行くのです。上がって行けば、受難の世界です。自分を主張して福を受ける世界です。それは、愛の世界ではありません。愛の世界は、人の為に生きる世界です。 皆さんは、妻を娶ろうとすれば、どんな人を娶りたいですか。自分のために与えてくれる人を得たいですか、それとも、私がその人のために与えてあげる人を得たいですか? 私のために与えてくれる人を得たいでしょう? (「はい。」) では、私のために与えてくれる人が悪なる人ですか、善なる人ですか? (「善なる人です。」) 善なる人です。自分が動機になって相手の人の為になれば善なる人になるけれど、相手の人が動機になって私のためになれば、私は馬鹿者になるのです。僕がそうです。僕は愛の相対にはならないのです。 イエス様は「生きようとする者は上がって行きなさい」という話をしましたか。「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われました。全部反対です。それは、下がって行こうとする者は上がって行き、上がって行こうとする者は下がって行くという意味です。故に、我々は下がって行く道を捜し求めなければならないのです。 大韓民国も下がって行かなければなりません。刑務所以下の位置まで行かなければなりません。追われ追われて、捕えられて刑務所に行けば、そこは解放圏ではありません。何故かといえば、他者の意志によって閉じ込められたからです。それは僕の立場です。引っ張られる立場であるために、主体になることはできないのです。神様が主体として現れなければなりません。それ故に、私自らが進んで下がって行かなければなりません。自ら進んで下がって行ってこそ、主体が生じます。犠牲になれば中心存在になるのです。矛盾も衝突もなく主体圏を奪うことのできる道は、下がって行って犠牲になる道です。ここから初めて、神様が願われる天国圏が備えられるようになるのです。 興亡と勝敗の境界線は私にある 皆さんは、朝友達にさっと会って、「おい、お前の財布にある物をみんな出していけ」と言って、友達の財布をいじってみなさい。三回でもそうしてみなさい。そうしながら、その友達に「私の所に来なさい」と言えば、来ますか。会いたくなくなって荷物をまとめ、逃げてしまいます。しかし毎朝、友達に会って、「お前は本当にいい友達である」と言えば、その人が皆さんをいい友達であると言いますか、悪い友達であると言いますか。(「良い友達であると言います。」)私を中心として友達を利用しようとすれば、私は悪い人になり、私が友達に利用されようとすれば、私は良い人になります。これが原則です。善はどこから出発するかというと、ここから出発するのです。真の位置から出発するのです。善悪の基準を知らなければなりません。 十名の友達がいて、逃げてしまえば、その人はどうなりますか。いなくなるので、結局、滅んでしまうのです。悪になれば滅んでしまうのが法度です。一方、善になれば興るのは、何故法度なのか。善なる人は十人に、「こいつ、ここに来るな」と言っても、「あー、今年だけでも付いかせてくれ」と言うのです。「今どこに行っても、そのような人に会うことができない」と言って、気張って付いて歩き回るのです。十人が離れてしまうのではなく、繁殖していくのです。言う人ごとに、「あ、そう、私も行きます」と言うのです。それで、人々がより多くなるのですか、少なくなるのですか? (「多くなります。」) 多くなるので、滅びますか、発展しますか? (「発展します。」) 皆さん、滅びたい人は一人もいないでしょう? (「はい。」)見ると、目はしっかりついているのですね。みんな発展したいのですね。(「はい。」)発展する道を教えてくれる先生は正しい先生ですか、間違っている先生ですか? (「正しい先生です。」) 滅びることを教える先生は? (「間違っている先生です。」) (笑い) 滅びることだけを教える先生が真の先生になれますか。「もうすることがないので思いどおりにしなさい」と言ったり、「青春は一度しかないので、酒も飲み、煙草も吸ってみなければならない」と教えればいいでしょうか。この世では、子供達に飲酒を教える父母もあるというのです。統一教会は絶対そうしてはいけません。反対になっているのであります。そうしながら、「行きなさい」と言う道は何の道かといえば、良こではなくて、全部、苦労する道です。その道は滅びる道ですか、発展する道ですか。(「発展する道です。」) それでは、最も発展する鍵を握ることのできる立場はどのような立場ですか。神とサタンが闘うところで、勝敗を決定する境界線はどこなのか、それを探してみましたか。どこにそのような三十八度線がありますか。私にあります。それで、この体を散々踏んで、粉々にしようとするのです。それが境界線というものなのです。それは世界のために粉々にしなければなりません。 それを天の国で宣伝するのです。天の国で、霊界で宣伝して、神様がご存じになり、天使世界が知って、霊界全体が知るようになる日には、歴史が知るようになるのです。そうなれば、先祖もみんな知るようになるのではないでしょうか。先祖達も、「そう、この者め、私より立派だ」と言うのです。先祖達が「私よりも劣っている」と言うでしょうか。立派だと言うでしょうか? (「立派だと言います。」)「ひどい奴だが素晴らしい」と言うのです。 高い因縁を踏んで上がって行った時、何千里も上の高い所に上がった時、そこから落ちれば死ぬしかありません。少しでも間違った日には、粉々になってしまいます。そこで、すべての勝敗が決定されるのです。 サタンを屈伏する秘訣 それでは、ここで下りて行くようになる時、どのようにしなければなりませんか。つかんで伸びなければなりません。それではゴムの紐を伸ばして引っ張って、一番下に行って、パッと放せばどうなりますか。それは限界線まで上がって行くのです。そのようになっているのです。 そういうことを考えた男がいるとすれば、神様は逃げられるでしょうか。目をはっきり開けて眺められるでしょうか。考えてみてください。神様に神経があるとすればそこにすべて集まりますか、集まりませんか? 心臓があるとすれば、心臓がどきどきしますか、しないですか? 神様が得意になることならば、得意になると言わないでしょうか。神様がいいといって眺められないでしょうか。「それ、もう一度してみなさい」と言わないでしょうか。この場にいれば、サタンがどれほど好むでしょうか。サタンは「下がって行け」と言うけれども、神様は希望を持って見られるというのです。そういう何かがあるというのです。 宇宙の心情を相続して、天国の所有権を備えた一つの波動が天地の間に起こらなければなりません。大きな音を出そうとしたら、振幅が大きくなければならないというのです。そうしてこそ、長い間続くのです。そのようになれば、幅広く行きなさいというのです。神様が、世界で幅が一番広い方ではないでしょうか。神様が好きなものを好きだと言うことも一等です。 私が千回万回死ぬ、そのような峠の道においても、死なないで立ち上がるときには、神様はどれほど喜ぶかということを考えてみましたか。従って、イエス様も「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」と言われたのです。それでは、そのような立場がどこにあるのか。それは話すことがでなかったのです。そのようにして、神様のために下がるようになれば、それほど、より高い所におられる神様が放っておかれるでしょうか。それを今はっきりと知らなければなりません。 ここで終わりましょうか、続けましょうか? (「続けてください。」) 家庭の話までしようとすれば、何時間かかるかしれません。しかし、これは必要なことです。先生が心霊世界で闘ってきた公式路程を教えてあげるのです。適当に話すのではありません。このようになっているのです。今に見てください。(図を描かれる。以下、図をご覧になりながら説明される。) このように下りて行って、回らなければなりません。ただ単に、その場に立っていていいでしょうか。(「回らなければなりません。」) ただその場にいれば、どれほどいいでしょうか。このように下りていって、かえって希望を持って、もう一度上がって行くのです。これが復帰です。 そうするには、どのようにしなければなりませんか。サタンよりも優れた者にならなければなりません。サタンよりも劣っていては復帰できないのです。サタンの本質は何かといえば、自分を高めることです。これを屈伏させる本質は何ですか。(「低くなることです。」) 自分を低くすることです。従って、自分を犠牲にすることが原理です。 このようにして下りて来れば、神様と私との距離はどのようになるでしょうか。神様と人間との距離(A)は固定されています。人間の良心の清さの基準と、神様がその人間に接することのできる基準は、人により違うのですが、固定されているのです。従って、私がこのようにして上がれば上がるほど、神様はより権勢の神様として現れるのであり、より有り難い神様として現れるのです。 もし、私が下って行くようになれば、このくらいの距離(B)があるにもかかわず、その場から再び上がっていくようになれば、この圏内には国も入って行き、世界も入って行くのです。何十年ではなく、何百年がそれによって蕩減されるのです。そのようになれば、世界がそれによって恵沢を受けるというのです。 それでは、神がどこまで下がって来られるのか。この基準(A)を中心として見れば、私が、ここ(D)まで下がって行けば、神はここ(C)まで下がって来られるのです。ですから、この悪なるサタン世界までも、神の上にあるようになるというのです。この圏内にあるものは全部、神の側に干渉できないようになるのです。預言者のような人達は、こういう仕事をして行きました。この位置(D)まで下がってきて、このように帰って行くのです。このような一方的な役事をするというのです。神はここで、こういう業をさせて、この圏内を中心として関係しているのですが、この位置がこのように上がるようになれば、この圏内は全部崩れるのです。 このように見る時、世界を占領することのできる秘訣、サタン世界を打ち壊すことのできる秘訣はどこにありますか。下がって行くところにあります。ここ(D)まで下がって行けば、神はこの位置(C)に下がって来られるのです。神はここに下がって来られるのです。ここで、さっと回るようになれば、また違った形態の円となるのです。このようになれば、神は高い所におられるために、このような円を中心として役事されるのです。ですから、この下に下がっていくようになれば、この基準が(板書されながらお話される)このように開かれるのです。ここ(D)で、私がこのように帰って行けば、私によって、このような位置にある環境が復帰されて入って来るのです。そうして、出て行くようになるときには、その環境が自動的に集まってくるというのです。 そういう人はさっと見ると、心がずっと引っ張られて行くのです。神が作戦されるためであるというのです。その一人が中心となって神の輪のようなものが作用するため、その人がいれば、その人の話し声を聞いただけでも、もうサタン圏内に位置が定められるのです。天国圏が作用するというのです。この圏内から、この圏内へ入って行くというのです。恵みある人々が、恵みの役事をし、その過程で天と共に役事していた環境は、サタン圏を全部除去させるのです。同じです。それ故に、下がって行けば行くほど、私の所有権を拡大させ、私の勝利圏を拡大させるのです。 最後まで忍耐しなさい 神様に侍って下りて行くところにおいては、いつも自分の個体が問題になります。個体が勝利しなければなりません。そのためにも、やはり個体から世界まで勝利できる条件を立てなければなりません。即ち、サタンを屈伏させなければならないということです。サタンから勝利しなければならないということです。 それは何の意味かといえば、天使長級にあったものがサタンになってしまったために、今日、人間がサタンを屈伏させることによって、アダム級へと復帰されるというのです。そうするためには、皆さんは、サタンを屈伏させる深い谷間までも下りて行かなければならないのです。そこはどこかといえば、サタンが最も嫌がる所です。サタンは上がることを好みます。従って、反対にその線を中心として、それ以下に下りて行くのです。これが作用することのできる圏内まで下りて行くのです。その最後はどこですか。宇宙の頂上まで上がって行けば、そこで終わりですか。(「下りて行かなければなりません。」) 歴史がこのように下りてきたでしょう? (黒板に書かれる。)このようにして、個人、家庭、氏族、国家、世界へと広まってきたではないのですか。このように大きくなってきたのです。これがその世界というものです。今まで忍耐してきた道です。 アダムは忍耐しましたか、忍耐できなかったですか? 死にながら、「天のお父様、私は死にます」と言いましたか。それは聖書には出ていません。その次に、ノアは忍耐しましたか、できませんでしたか? (「忍耐しました。」) アブラハムは忍耐しましたか、できませんでしたか? モーセは忍耐しましたか、できませんでしたか? 次に洗礼ヨハネは忍耐しましたか、できなかったですか? (「忍耐できなかったのです。」) 三十歳まで忍耐したではないですか。若い人がいなごを食べて、野蜜を食べて、ラクダの毛衣を着たりしたので、むちゃくちゃではないですか。一度やってみてください。どれほど哀れなことでしょうか。 荒野では良いレンガの家がありましたか。食べ物が多くて……。野蜜がただ単に石ころのようについていましたか。退屈になれば、いつでも行って食べることのできるようになっていたでしょうか。いなごといっても、飛び回るのであって、いつも目の前に飛んで来て、「取って食べなさい」、と言うふうになっていたでしょうか。それを取って食べるためには、どれほど大変だったかを考えてみてください。いなごの巣があって、それを一遍に取って食べたのでしょうか。一匹だけを取って食べたのでしょうか。(笑い) また、岩の隙間にあるその野蜜一つだけでも何日間か食べれば、みんな無くなってしまいます。それで、食べ物を捜し求めるために、版図をどれほど広げたでしょうか。十里ですか。数百里ではなく、数個の村を越えて歩いて行ったことでしょう。その数地域をさまよったのです。ですから、彼は忍耐したでしょうか、できなかったでしょうか。(「忍耐しました。」) お父さんお母さんが訪ねて来て、「息子よ、どうかそうしないで。私達がいるのに何故そうするのですか」と言ったでしょうか、言わなかったでしょうか? それで、忍耐したでしょうか、しなかったでしょうか? (「忍耐しました。」) イエス様も忍耐しました。イエス様の心情をみた場合、イエス様が死んでからペテロ、ヤコブ、ヨハネを訪ねて来た時に、「この野郎、これから私は復讐しなければならない」と言って、その首を切ってしまったでしょうか。イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネのために死んだでしょう。だから忍耐しましたか、忍耐できなかったですか? 自分を殺した怨讐達に対しても、それを越えて行ったのです。「父よ、彼等を許してください。彼等は何をしているか分からずにいるのです」と言って、越えようとしましたか、こちらに立とうとしましたか? 越えようとしたでしょう。歴史の前に立ったというのです。そうしなければ、新しい歴史を出発させる人になれないというのです。それでは、忍耐していく歴史の中で、「私はびりになります」と言う人がいたら、手を挙げてみてください。いないですね。みんな一等になりたいでしょう? そうしてこそ気分が良く、興味が湧いてくるのです。 復帰摂理のチャンピオンになること 一等になることは簡単ですか。マラソン選手として、一等になることは易しくないでしょう? (「はい。」) いわんや神様の復帰摂理において、チャンピオンになろうとすることは、どれほど難しいことでしょうか。アブラハムの前に言って、「文某、あなたはそのようにしてはできない。このときはこうで、このようにするのである」と、このように教育を受けてできるでしょうか。ノア爺さんやモーセ、洗礼ヨハネ、イエスのところに行って教育を受けてできるでしょうか。 従って、神様と談判しなければならなかったのです。「私は誰からも教育を受けません。神様が直接教育してくださるのであれば、最高の方法があるでしょう」という思考公式を持っていました。「神様が、間違いなく『最高の方法を教えてあげよう』と約束だけしてくだされば、私は千回万回死んでも忍耐して残る自信があります。一度してみてください」。このような覚悟ができていました。「神様、あなたが教えてくださるとすれば最高の道があるでしょうに……。あなたを信じえないので、今まで、これ以上の道を行使することができませんでしたので、これからあなたを信じ、恨みを解いてあげます。あなたの恨みを解く人に出会うことができなかったとすれば、私がそれを解いて差しあげます。その代わりに、誰も解決できなかったものを、失敗しないで勝利できる最も適切な秘訣を教えてくださいませんか」と言う度胸を持っているということです。 それでアブラハムをつかんで行こうとしたのでしょうか、イエス様をつかんで行こうとしたのでしょうか。(「神様…。」) 神様をつかんでいこうとするのです。そういう何かがあったのです。それで、神様が怒らなければ良かったでしょう。そういうふうにやったのではないでしょうか。まず最初に、「この世で生まれた人の中で、ああいう奴には初めて出会った」と言われながら、尻込みをしたりされるでしょう。しかし、私にはそのようなものがあるということを知って、一度つかめば離さなかったのです。へばり付いて離れない蛭のようでした。世界一の接着剤の中の接着剤であるというのです。(笑い) 知らないから離すのであって、知りながら離すことができるでしょうか。間違いなく、そのようになるということを知って、離すことができるでしょうか。手が離れるからといって離すでしょうか。手が折れれば口で、口が駄目ならば足で、足が外れれば腰でもって。腰が駄目ならお尻で、手首でもつかんで離さないのです。一度会うのがどんなに難しいのに、億千万年に一度会うかどうか分からない、そういう方を離すでしょうか。勝ち気であるというのです。そのような意味で、私はヤコブが好きです。 アダムというのは、堕落したために、「塀が生じた」ということであり、エバは復帰して、もう一度帰って来なければならない立場であるので、「エバ」と言うのです。(注・アダムのダムと韓国語の■=塀の発音は同じである。エバは韓国語で■■であり、「やって来い」という意味にもなる。) 次に、アベルは何かといえば、アベルは、アダムの上に座って星を取りなさいとして、「アベル」と言うのです。ノアは自由奔放に放してやったというのであります。(笑い)「あなたの思いどおりにしてみなさい。一二〇年間はあなたの自由にしてみなさい」と言うのです。その間、神様は干渉されないのです。その次に、アブラハムは不合格になったら駄目です。(笑い) モーセはすべて細密に集めなければならない人であるので、「モーセ」です。イスラエルの民族の中で一人も放してはいけないのです。 その次に、洗礼ヨハネは失敗すれば恨みが生じる。気をつけなさい。(笑い) また、イエス様は「あー、どれほど受けたのか、ここにある」と言って「あげる」という意味です。神様の復帰歴史がそのようになってきたと思っているのです。先生が椅子に座りながら、ありとあらゆる考えをしてみたというのです。(笑い) それで、どれほど頭が複雑になっていたでしょうか。 そのようにして、大騒ぎになって神様に会ったのに、離すことができるでしょうか。ヤコブが天使長をつかんだ時、離しましたか。ヤコブという名前を復帰しなければならないのです。準備しなければならないということです。ヤー'(■=ヤ、■=倍)倍にしてこなければ、エサウを復帰できない。ヤー! あなたはその倍でしなければならない、それでヤコブというのです。天使をどれほどしっかりつかんで離さなかったことでしょうか。腰の骨が折れれば折れたで、手は絶対に離さない。肋骨が折れてしまっても、背骨が折れても、手は離さなかったのです。 天使はどれほど焦っていたでしょうか。ヤコブの腰の骨を打ちましたが、ヤコブは「そんな腰の骨があってもなくてもいいのだ。それで私は離さない」と言うので、最後までつかんで離さなかったのです。考えてみてください。ヤコブが笑いながらそうしたでしょうか。どうだったか考えてみてください。この世で最も深刻な立場で、その決戦を狙う彼の表情は断固としていたのではないでしょうか。<2に続く>一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.19
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PeaceLinkホームページから6月20日AM09:30から真の父母様主管の「天の父母様聖会 神統一世界安着のための神日本第三地区希望前進礼拝」のオンライン生中継の案内がありました。より多くの方々が関心を持って視聴いただければと思います。https://player.vimeo.com/video/564386285https://player.vimeo.com/video/564386737一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.19
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「善悪の根拠地」1971年8月21日水沢里にて 悪の根拠地 世の中に住んでいる全ての人をつかまえて尋ねてみた場合に、その世の中が善の世界か、悪の世の中かと聞いたとすれば、誰でもそれは、善の世の中でなくして、悪の世の中だ!それが自分が住んでおるこの社会というものも同じであり、自分が住んでおる家庭も同じである。世界が悪の世界であったなら、自分が住んでおる社会も家庭も悪の世界に所属しておる。 今我々は、この世の中というものは、善なるものを探しても求めたというような勝利的個人、あるいは家庭、あるいは善なる社会、善なる国、善なる世界は、いずこに行って求めるかということが、あらゆる人間の今まで求めきたその願いである。 人間ばかりでなく、もしも神がおったとすれだ、神もそれを願うであろう。それは、過去もそうであったし、現在もそうである。又未来もそういうような運命圏を超越して行くならば、こう思った時に善なるもの、悪なるもののその根拠地、善・悪の根拠地は、一体いずこより発達したか。それが今までこれは、人生問題を中心として、もがき合ってきた哲学の解決すべき問題であり、宗教の解決すべき問題である。本当の善というものをもしも体恤した場合には、その圏に立って、生活して、した者が、おったとすれば、どればかり嬉しいことであろう。それをある基準が立って、悪がどういうようなその環境の背後関係でもって我を包んでおり、要はその悪と如何に対処してそれを解決していかなければからないという問題もはっきりしてくる。 宗教の教える道としては、悪の道を教える宗教は無い 今この人類歴史を通しての今までの教育の全ての問題を中心としても、悪を中心にして教えられていたのだから、まあ、そういうふうに誰でもその本心からそれを願い求め、あるいは、それに対して努力していくというような人は一人もいないのにもかかわらず、もう悪という世界は、なっている。こういうふうに考えてみた場合、これは真剣な問題である。悪は、努力しないような立場に立ったんだけれども、いつの間にか、世界を占領してしまって、いつの間にか我々の社会、我々の生活圏内を全ておびやかしてしまっておる。そういうような権力、権力のある悪人になっている。 良心の全てをその考えてみた時でも、善なる一方を願っているにもかかわらず、悪にも占領されてしまったような環境圏になってしまう。そう思うというと、悪なるその力というものは、えいものである。こういうふうに思った時に、自分一人だにこの悪の世界に対して闘っていこうという思いと言うのは、なかなかのものじゃあない。本当に善なる人が、本当に善なる神がおるか!善なる人がおり、善なる神がいて、その神というものが、絶対なる神であったとすれば、これいつかも既に解決すべき基準なる善の根拠地があるべきにもかかわらず、ないということを思う時に、神がいるか!そういう結論を下さざるを得ない。我々は、そういう圏に立っておる。誰それもが、そういうような立場に立って、苦悶する立場である。 まあー、こう考えてみた場合に悪の根拠地は一体いずこにあるだろうか。これは、問題である。もしもそれを発見したとすれば、この全ての世界をのり越えていくようなその力、強大な力が自分に、もしも自分にあったとすれば、これは、任されるか!これは重大な問題ですね。 自分の中の「悪」 過去とか現在とか全ての世界はせておいて、自分一身に確かめてみた場合に、自分一身においても、善のそと結果よりも悪の結果にいつも引きつけられていっておる。これを思います時にこれは、重大な問題である。 それを考える時に、この悪の在存がもっておるその内容、悪がもっておるその根本的力の根底は、何を基準として、今存在の場を世界的に広めたのか。それが問題である!悪は何を基準として、こういうような発展の度をましていくことができるのだろうか。これが問題である。この問題を解決すれば、悪も滅ぼすことができる。そう思われる。 こういうふうに考えてみた場合に人間ということを、人間自体を、あるいは、自分自身を分折し、開いているとするならば、だれそれも自分を尊重するその心を大切にもっておる。自分というそのものを尊ぼうとする思いを大切にもっておるんだね。 しかし、自分の家庭であったら家庭、あるいは、社会でも自分に自分の為の社会みたいになったとすれば、個人もそうである。世界もそうである。自分がつき合っている友達に対してもそうである。家庭に入って、父母に対してもそうである。夫婦関係全てそうである。自分というものが、これを世界的に誰よりも強い堅盤をもってこれを連結させようとしておる次第である。 これがいいものか悪いものか、もしもこれがいいものだったら、社会は、自分というものを中心として一つにならなければならない。しかし自分という自分を主としてみた場合に、世界的な環境をもちいることができるかというと、そうでもない。人間において、自分というものがある。もしもサタンの要求するその本質の要求するそのものが、自分を尊重するとなったとすれば、これはすぐ世界的になるだろう。こう思われるんだね。それは、個人より家庭あるいは、国家あるいは、世界をのりこえて、そういうような思想の基盤、そういうような国家的思想基盤あるいは、こういうような世界的な思想の基盤、そういうような国家的思想基盤あるいは、そういうような思想基盤があるとするならば、サタンは忽ちに世界を自分の懐の中にこれをだき入れることができる。まあーこう思った時にこうして世界がそうなっておるということは、恐ろしいことである。悪の世界がなっておるということは、恐ろしいことである。 まあーこう思います時、もしも神がおったとすれば、神は何故人間を中心として、人間の社会を中心として、善なる世界を果たせなかったのだろう。 こう思いますと、自分より以上に強い人間に関係をもつようなものがあったとすれば、それは、もう忽ちに、世界を善の世界にしただろう。こういうふうに思われますよ。まあ、そうしてずーっと自分を中心として、比較対照してみた場合には、自分を立たしたいという思いでもっていった場合には、こ、とんでもない結果になってしまう。これ自分というものを、あるいは、個人というふうにみてしまった場合には、大変なことになる。家庭を中心として、それをみてしまったら何になるだろう。あるいは、国を中心としてみたしまった場合には、何になるだろう。あるいは、世界を中心としてみてしまった場合には、何の世界になるだろう。 自分を犠牲にする道 こう思った場合には、自分が自分としての存在を無視する、あるいは、犠牲にする。そういう世界になった場合には、そこから善が生まれてくるというのが、歴史的罪の過程を通して考えてみた場合に、あるいは、天情を中心として考えてみた場合、自分を犠牲にするところには、よほどのものがあるんだね。そこには、自分ばかりでなくして、続く続かれるものがある。 一人を中心として、考えてみた場合、十人の中で一人がもしも十人の中の犠牲になったとすれば、その犠牲になったその結果の起点に立って、立った場合には、十人というその人は、その一人を又犠牲にしたい心もちは、もたないんだね。その人の前にその十人の前に立たせたいという現象、それは事実である。 いい友達というのは、自分の為に犠牲になる友達がいい友達である。自分を犠牲にする友達は、それは二人でも悪い友達という。簡単な位置から、善・悪の基準を発見することができるんだね。自分を中心として、自分の気ままに、自分の願い通りに、第三者を犠牲にしようとするところには、それは、誰でもそれを好かない。 しかし、自分を犠牲にして、第三者の為に立つ時には、誰でも歓迎する。それはみんな喜びの対象として、それは、残したいんだね。そういうものは一人ばかりではなくして、多くあればいい。それは、誰でも願うものである。 こう思いますと、自分というものと、自分を中心として、全てを要求するものと、自分を犠牲としながら、あるところへ行くもの、犠牲するところには、何も要求するようなものがないように思うんだね。自分だけでなく、全体が、その圏内に善びえる環境が残っておるんだね。 自分を犠牲をする時には、結果がないような結果にもかかわらず残っておる。しかし自分をうち出してみた場合には、これは全てが残るように思われるんだけれど、過ぎ去ってしまう。から自分を主張して、自分を中心として立つということ思想圏に包まれた、そういう家族なりの氏族は、あるいは社会は、あるいは国家、世界は、それは善の世界か、悪の世界か、みんなが讃える、喜ばれる世界かと思った場合には、それは、誰もが歓迎せざる、そういう社会であり、世界にならざるを得ない。そうなると善の世界から全てが、その喜んで迎えるこういう世界になるには、もしも個人あって犠牲、犠牲にしたら家庭あって犠牲にしたら、あるいは、国家あって、世界の国々の為に犠牲するとなれば、国家のおる存在と思う。世界あって、現在の世界の為に、未来の世界の為に犠牲になるというような精神に包まれた、そういう思想に包まれた、そういうような世界だから、それは、誰でもがそこに行って、信頼するという国、世界にならざるを得ない。 善悪の出発は「自分」 よーく考えてみると、善と悪というものは、それは、世界的に相対的にあるのみでなくして、その基準というものは、自分より出発しているものであるということを、まずもって知らなければならない。悪の世界になってしまったんじゃなくして、悪の世界がその前になるようになったのは、悪のその動機となる自分という存在圏が、これは、引き続いて残っておるからそういう結果の世界になるんだよ。この悪の世界を、これを消してしまうには、処理して善の世界を作り出すには、その反対の方法を、悪の反対は善であるから、その悪が根拠地となすべきそういうようなその内容のその要件を切り取ってしまうところに、その反対の方向に行くに従って、善なる道は、その生まれてくるであろう、可能性を生み出す。可能性を生み出して、成てみた場合には、成した結果に立って場合には、みんなが反対する。みんながはらいのけてしまうところじゃなくして、それにみんな一つになろう。それをみんなを迎えようというような結果になった場合には、これは、すばらしい基準になる。なるだろう。 こう思います時に、我々が立っておる現在の自分というものが、これが問題の根拠地である。過去を省りみて思う世界だというその支配圏に先だって、自分が善なるものに勝つように、それが問題だ。現在を批判する前に、自分自身が善なるものになっておるかというと、問題である。未来をみるならば、悪の未来となるであろう。それを悩む前に先だって、自分が未来の善なるものになるであろうかという問題。 問題は、世界の問題でなくして、自分が問題である。こういうような自分の基準を中心として表われている。そういうふうに考えてみたら、そもそも堕落とというものがあるか否か判らない。堕落とは何か!悪と共にあってその逆の道に行った。堕落の結果に於いて、堕落の世界が悪の世界圏内というような、それはそうだから間違いなく、堕落した結果に於いて、悪の世界になるのだから、現世は間違いなく悪の世界だ。そうだから、悪の世界を出発なしえたその基準が堕落の基準である。その基準たるものは、世界でなくして、国でなくして、氏族でなくして、最頂点にある。一人は、一人の女、一人の男にかえってしまう。いわゆる先祖のところにかえってしまう。先祖を中心としてみた場所には、誰が始めたかと考えてみた場合には、女が始めか男が始めか、一人の出発の起点に戻るのではないか! その堕落の動機は、人間を中心として、堕落に足を踏み入れたのは、女である。第二には男だ。その中で人間ばかりを中心として、堕落の出発のその動機を考えてみた場合、もしも神様がおった場には、神様は、何故それを踏み出さないようにできなかったのであろうか。こう考えてみた場合に、神様は、善なる神様は、そういうような堕落の道を止めることができなかったのではないか。 ここに於いて、いろいろな複雑な問題が起こってくるんだね。じゃあ、何故それを踏み出したのか。絶対なる神が造って、絶対なる愛と絶対なる真理をうけておる。 それは、何者によってそういうふうになったんだろう。そこに於いて、今我々は、サタンという存在を知っているんだね。まあー、こういうふうに、動機はいろいろと、堕落の原理に於いての深い内容の自分は、どうなったか、知っておるんだけれど、その根拠地たるものは、ある命令に従わずして、そういうふうになったとすれば、その命令より以上のことを実行すれば、その命令より以上のことを実行すれば、のりこえることができるのだから、出発の、悪の出発の動機となったそれ以上のことを実行すれば、のりこえることができるのだから、入発の、悪の出発の動機となったそれ以上のものの出発の行動を成せる者が、可能なものにもかかわらず、それは、可能なる立場を発見できない理由は何処にあるか。 それは、何か相対的にその行動的なものでなくして、愛の問題にかかってくる。血統的問題にひっかかってくるから難しい。そういうような内容になっておるから難しいんだ。 愛によって勿論結びつけられた場合には、その愛の基準によって、その発生せられたその後孫とすれば、愛の存在を無視するその起点を求めて、経かなければ、その善なる世界は成すことができない。愛より以上の力、愛によってその生まれてきた人間の生命より以上の存在、それを満たさない前には、悪の世界をのりこえることができない。 堕落というのは、我々は、その堕落の原理を知っておるんだから、こういう方向にして、その血統的汚れた血統を基準として生まれた、神に逆らう、反対の立場に立っておるから、それは悪の母体としてその基盤の上に生まれざるを得ない。それは悪の愛という。神様、非常にいやがる道なんだね。そうだろ!神様はひじょーにいやがる。それが人間の立場です。善と悪があれば、悪が喜ぶ人間になっておるんじゃー。 統一思想の出発 それで我々統一思想というものは、何処から出発するか、思います時に、善・悪の基準を生み出したその基準をぬいてしまった基台より以上の立場から、統一思想は、それの根本をおろしておる。 それは何故かというと、悪の愛によって生まれた人間達にすれば、それ以上の愛、それ以上の生命がこれを生みださないところには、善の個人も生みださないし、善の愛の家庭も、善の愛の氏族、民族、国家も生みだされることはない。それは当然のことである。 そう思いますと、自分に於いては、そういうような道を行かれるには、これをどういうふうにするか、こういうような道を立てていかなければならない。ここで自分を殺して行くような道を、自分を犠牲!犠牲!犠牲にしてしまうような道をとっていかないというと、悪は残ってしまうよ。 万一死んでしまったとしたら、自分の存在基準を完全にしめつけてしまう。 悪なる自分のものは、世界的にない。それを生みださないところには、悪と永遠に別れることはできない。 これは、悲しむばかりでなく、我々自身の気持として、実感として、それを体恤する。そういうような場合に於いて我々は、善なるところに向けることができる。善の方向に向けるには生きている自分が自分を殺してしまう、なくしてしまったという、その過程を通過せざるしては、善の出発の根拠地は、生まれてこないというのが、これはずーと話の通りだね。 神の来た悲惨な道 それで、もしも神様がいたとすれば、神様が尋ねてくる道は、実に悲惨なる道であった、と結論が生まれてくるよ。個人があったら個人を、生まれておる個人を皆な殺してしまう。そういうような方向性を持ちつづけてきた御方が神様に違いない。そうなんでしょ。だから、神様は、この地に生まれた人間を翌日殺してしまうような、それを見ながら、希望とし、それを実行しながら自分の仕事として、なしてこなければ、善なる神の基準の立場に立つ一人の人を求めることは、できない。それを求めざる以上は、善なる家庭も、あるいは国家、世界も求めることはできない。 だから、人を殺す、人を殺す、堕落した人間を殺してしまうというような、殺してしまうような立場に立つべき、そういう神の立場である。 善というのは、許してやる。そういうところに善なる神様がある。許しのない、哀れみのもたないような、そういうような神様は、何の神様か!そうでしょ、そうなんでしょ。 神様の仕事は、善なる世界を願うとすれば、これは、血統的問題、どうにもならない。犠牲にしてしまう。そういうようなところを、それをうちださないというと、善の世界は復帰できない。あるいは、求められないという。それを思った場合には、神様は慈悲の心をもっていない。無慈悲な内容しかない。神様であればある程、哀れみの心をもたない。 そうだろう、我々が考えてみればね。善だから全てを待ちこがれながら、それを許しつつ、ある一日を待っていくような、そういう立場に立たなければならない、神様の負うべきところなのである。しかし、神は悪は全て処理してしまう。切ってしまう。殺してしまう。それでなければ神様になれないんだね。それで、そういう立場に立っているこの人類を、神様は許してやりたい、哀れみの心を持ちたい、我々の知っている神様は、そうならなければならないというような神様の立場にたちかえりたいという思いを持たざるを得ないというんだね。それでそういうふうにするには、第三者を犠牲にするより、自分を犠牲にする道しかないというんだね。 だからサタンが、世界を犠牲にしようと引っ張っていくのが、それが悪のひきいる道であったならば、神はそれを選ぶ!そういう方向性を生みだすところに、神様の人間の前に善なる神として立ちえる立場を残すことができる。自分を犠牲にする願う道はない!こうなっておるんだよ。自分自体は、善なる神様とすれば、人心或いは、哀れみの心、同情心をもって、それで犠牲のそれは、相対圏に願うのではなくして、自分なりに犠牲になる道以外はないという結論の立場に立つんだね。だから神は、善なる神となるには、その悪の世界を打って、中に立つものではなくして、その悪の世界の為に犠牲なる基台をそれを満たすところに於いて、善の相対圏が、そのものが得られるというのが事実である。 それで宗教は神様を中心として出発した。神様と関係あるもの、神様と一番近いものを勝ちとって、神様は、自分の身代りとして、犠牲になしてきた、歴史の背後関係を善・悪の分岐点を残してきていること、、思い出されるんだね。事実そういうふうになっておる。だから宗教は、宗教は歴史過程に神は犠牲の道を行かしておる。 一番愛すれば、愛するそのものをまずもって犠牲の先頭に立たせる。こういう歴史である。そういう歴史でなければ、悪の世界を取り返す道はない。 我々もそうでしょ。もしも子供がいる場合には、ね。悪い子供が罪を犯した。罪を犯した場合、代りのそれを要求されるような立場に立った場合、親がその子供の身代わりとして、打たれた場合には、両方共に打つことはできないんだね。許される条件が満たされるよ。 それと同じように、自分を犠牲にして立つところに愛があるんだね。父母の愛はそこにあるね。父母の善なる、いい、偉い、優れたところ、みんなが讃えるところは、子供の為に犠牲になる親のその立ちどころにあるというんだね。 それと同じように、神様も同じくこの人類が罪を犯して、善の方に立たれないそのものを救ってやるには、神自体が打たれなければならないような環境に立たなければならないと言うんだね。それで、神の方に近いものをいつも犠牲にしてきて来たった道が、神様の摂理の道である。もしも神様のものがあった場合には、そのものがこの罪悪の世界、あるいは人類の為に犠牲にして、神様のことを思っている子供があったとすれば、あるいはその僕があったとすれば、まずもって僕を犠牲にして、それがそれでもって、勝利の基点を求められない場合には、それは、子供を犠牲にする。子供を犠牲にして、それがその世界的善の基準を満たさない場合には、悪を屈服されるようなそういう基準を満たさない場場には、悪の世界の発展の反面に犠牲的な神の摂理の歴史が、悪の勢力が大きくなるに比例した価値の内容でもって、犠牲の基台を広めてきたという事が事実である。 犠牲の思想 そういうような伝統的宗教を宗教的基盤をもっておるならば、その宗教内には、必ず神がいますことになる。だから如何なる宗教でも、犠牲になるように教えているんだよ。だから、摂理の路程というものを思います時に、神は自分という権威を永遠の勝利の基準に正して、永遠と永遠につづりえながら、それを維持しなければならない、神様、自分と権威とか自分という存在の価値圏とか、立つところの基盤というものは、全然無視して来ておると思います時に、摂理の道は犠牲の道であり、悲惨な道にならざるを得ないことは、我々ははっきり判らない。整理して頭につめておく。おかなければならない。 悪の道は、悪の道はね、悪の道は、犠牲の道じゃない!自分を殺して犠牲の道に入る。神の道は犠牲になる。ここにおいて、神様のところまで帰っていって、それをこういうように探り出してみた場合に、はあーん、善として残るべきところは、神と共につながる道にならざるを得ない。だから善なる方向に行こうとする者は、神と同じような立場の方向性をとらなければ立つことができないから、犠牲というような価値で、立つというところで、犠牲にするというようなところに立つに従って、神とつながることができるのだから、この世の中には、そういうような道をみんな迎えるようになるんだね。迎えるようになる。 だからあんた達が犠牲になった場合には、それは、わしが犠牲になったとすれば!犠牲になったとすれば、それはなくなるか!犠牲になったら、もうなくなってしまうんだね。そうだろう。 全体の為に自分が、もしも善の目的の為にその目的を残そうとして、全体の為に犠牲になったとすれば、絶対にこういうふうに、なくなって小さくなっていくんじゃないの。それでなぬなってしまうんじゃないよ。逆の法則が成立するんだね。逆の法則の法則が成立する。反対に!反対に!それは、そうか考えてみれば、そうじゃないか! 我々の伝統的精神 もしも一人の友だちが、みんなの為に真心を尽くしたその子供が、悪にやられた場合には、悪に責められてやられた場合には、その友達は、我慢して、黙ってそれを眺めておるわけですか。その本人より以上一体となってぶつかるんだね。だから一人が犠牲になるに従って、悪に立つものが、十人なら十人に全てがそうなる。そういうふうにして、悪!悪!悪とぶつかって、そうして悪のところへ行くんじゃないよ。それを処理してしまって何を置きぼりにするかというと、この犠牲になった伝統精神、これが伝統的精神となり、一つの種、種となるんだ!新しい種となる。その種がそれは生えない種ではない。それが生えた場合には、それより大きくなる種となって、そうでしょ、それもまちがいなく、我々の現実の世界においてもそういう方向性が残っておるんだね。あんた達の本心がそういうところに、勝ち進み動き出すんだね。 だから我々の本心は、何の意味で新しい方向性につき消されるかというと、犠牲というそういう焦点を見つけたところから、そういう時に於いて初めて爆発する。立つんだね。そうか、そうでなきゃ、ずーと今までの歴史過程を考えてみても、歴史はそうなっているんだよ。本心は、いつ全体的の方向に向って、立つかというと、犠牲するところ、犠牲、自分の為に堕落して人の為に真を尽くしたそのものが、やられた場合には、そこに於いて爆発する。大きい力。それは新しぱ機として、出発の起点として、そういうそよ思想を中心として、進んで行くんだね。後退するんじゃないよー。 これが正しい思想の中心基準として、それが世界の果てまで続く思想だから、その思想は、これは永遠に残るだろう。その思想が善なるそういう思想だとすれば、これが犠牲の基台に立ったその思想とは、一時期、途中で消えるのでなくして、その思想の目的を果たすところまで、永遠に続かなければ、善の道じゃない。これを我々は、はっきりしなきゃならない。これはまちがいなくそうだろう。(ハイ) 善の道は反対される道 我々の現実の社会の中で、こういうような現象がね、起こってくるんだね。しかしなかなかそれが難しい。やれば、確かにまちがいなくやれる道なのに、やるには、なかなか難しい。やるには、邪魔する者がおる。国が邪魔する。父母も邪魔するんだよ。兄弟も邪魔する。それは何故かというと悪の世界だから、悪の運勢に包まれているその力によって、それは、反発される立場に立つのは、当然だから、何故か!それは、生まれてきたのが善の世界じゃないから。悪はひじょーに恐れて、それをそういうような自分が生まれるのを恐れて、反対するんだ! だから善の行く道は反対される道だ!そうだろう。もしもだね、もしも十人の友達、その内の一人が犠牲に内の一人が犠牲になったとするならば彼がそれが、主導権を持つようになるかと言うと、犠牲になった者が、自然と十人の中心になってしまうんだよ。 その願いのところまで行こう!そうなんだよ。結局は何かというと、そこから、そこから犠牲になった人は、これ別れてしまうんじゃなくして、十人をまとめてその中心の立場にちっーんと立つんだね。だから犠牲にすれば、結果は、中心者になれる結論になっちゃうんだよ。そうだろう。まちがいなくそうだろう。それは。そうかーそうじゃないか!(そうです)全部そうだろう(ハイ)まちがいないだろう(ハイ)中心者になれることなんだよ。 いやー偉いことだ!中心者になれるその中心者になったとしてみんな好きになるやろ、みんなが、十人全てが喜んで侍るんだね。喜んで侍る。そうして中心者だけでなくして、それから我々を指導してくれ!そういうような立場に立つんだよ。だから中心思想と共にこの目的にまで自分達がひかれていく。いやでも、それは、主管されていかざるを得ないと言うんだね。だから、中心者になるというのは、最後には主管してもらいたい。主管しえる内容が、ここから決まってくるんだね。主管者と中心性とそれから中心性とそれから主管性が生まれてくる。 堕落とは何か!中心性をなくしたことであり、主管性をなくしたことである。そうだろう。わかったの(ハイ)堕落とはそうであったかあ。中心性を失なったのが、万物の中心の立場に立つべき人間が、これはとんでもないところまで、相対的立場にななってしまった。絶対的中心の決定的ところを維持しなかったのが堕落だ!それを中心の立場におって絶対的主管圏を維持される。維持されなかったのが堕落だ!その堕落した全体的の内容を現実の世界圏内に発見せざる以上は、それ以上の世界を我々は、いくら求めても求めることは、できない。そうだそう(ハイ) 愛する前の犠牲 こういう風になっておるから、神様は結局そういうような道を立てて、行かざるを得ない結論になるんだよ。だから愛する前に犠牲になる!愛する前に犠牲にさせる!犠牲にさせるのは、サタンの愛をとり消す為の作戦である。それをとり消した場合には、愛する。それが本来の立場である。これをはっきりしらなければならないよ。そうだろう!(ハイ) サタンのその実体からサタンのその愛の因縁とかそれを犠牲にするまで、戻してしまうことによってとり消す。そうすれば、それをとり消すには、どういうような立場に立つ? 犠牲というものは、堕落の愛の基盤により生まれた人間をとり消してしまって、とり消してしまったんだから、神様を愛せざるを得ない。だから犠牲ある犠牲になった後に愛するのが、神の犠牲の道だ。犠牲にさせるのは、堕落の世界から生まれてきたんだから、そうならざるを得ないということだ。これは現実問題だよ。これはっきりわからない。うーんまあ、そうだね。まあー個人の為に犠牲になった場合には個人をそれを天が中心者になって主管しえる。だからアベルの道は、それだよ。アベルの道は一体どういう道か。犠牲になる道である。犠牲になって死んでしまう、なくなってしまうんじゃなくして、中心者になって主管しえる環境を広めるその動機と要因となっておるから、その道において、神は、悪の世界に基盤を造り得られない。悪の世界に神の基盤を造りだすことができない。それ以外の道は、絶対に無い!考えてみなよ!その時代には、絶対ないから絶対なる神は、これをこの道を選ぶ。もう判ったの(ハイ)善なる道は、そういうふうにして生まれてこなければならないんだよ。 イエス様の道 イエス様は、そのようになったんだよ。 人類歴史上に於いて、善なる位置をそれをイエス様は、一人肩に背負って来られたんだよ。わしは、万人の為に犠牲になる。過去、現在、未来は勿論、天宙全ての存在の為に、わしは犠牲になる。神がそういうような犠牲の道を行っているのであるから、神の実子としての独り子であったならば、それは全ての情的十字架をあえて相続してもらいたいのは、神の子供として最も思うべき立場である。それは当然なことである。そういうような心でもって、神の前に立ったその独り子イエス様であった。十字架につけられ、自分の為につけられたんじゃないよ!まちがって。彼らに。親の為に、神の為に、それから?人類、世界の為に。 聞いて知らない人は、かわいそうな人(笑う)。そうだろう。これは、子供の教育すべき問題だよ。いずれ、犠牲になるその道に立っていかなければ、世界は、不幸の道をのり越えることはできない。いずれ、犠牲になるその道に立っていかなければ、世界は、不幸の道をのり越えることはできない。必ず一つになるんだよ。だから一つになることが問題だよ。各国の子供を犠牲にして、一つに従うような道を選ばなければ、とんでもないことになるんだよ。 イエス様は十字架を背負う時、あー自分の欲望の為に死ぬんだ!その為に死んだんじゃない。これは立つ瀬がないよ。全てを自分のものじゃない!自分の為じゃない。まずもって、上は、神様の為に、それから下は、世界の為に。こう思った場合には、それは、自分を考えるこの基盤に立つ愛であってはいけない。神様は、自分じゃないんだよ。世界は、自分じゃないんだよ。それが四位基台、四位基台の立場が結局そういうような思想の立場をとらなければならない。四位基台は、親が親を中心としてやれば、これが回らないんだね。親ばっかり中心としたら回らないんだよ。上ばっかり中心として考えたら回らないんだよ。共にそれを考えて、自分を犠牲にしてこうしてやる!そうして自分がひかれていくところに、速く回るという原理があるんだよ。自分を押していく。押されていく。押していく。押してやる。自分が吸収される。そういうところに速く動き出した場合には、永遠に迎えるその基台となるんだよ。 神の勝利圏 自分を中心としてみた場合には、サタンがジーと飛んで来る。自分を犠牲にしてみた場合には、神様がポーとしている。 発展してきた発展というのは、前に進行しておる。それを神様は許すんだよ。そういうふうにして、そういうふうに考えてみた場合には、神様は、よりサタンより高い御方である。サタンは、十の力をそれを働きかければ、神様は十一の力を働きかけるんだから、サタンより高い御方なんだから。結局は、神様の方に負けるんだね。最高の力を勝ちとっても、神様の下だから、神様の目的の方向に勝ちぬくには、近よっていくに違いないというんだよ。悪に負けるんだったら、その神様は復帰が出来ないんだよ。まあ、それみた場合には、これを一ペンに、勝利圏を残して、それを永遠と連ながらせる道というものは、犠牲のあったところにあるという事がはっきり判りましたね。(ハイ) 見ることも自分の為に見るんじゃないよ。鼻で嗅ぐことも自分の為に嗅ぐんじゃないよ。聞くことも、食べることも、歩くことも、呼吸することも、全部誰の為?(神の為)え?神の為のプラス(人の為) 神の御旨。神の働きかける国家というのは、人の為にやっているか?世界の為にやっているか? 世界の為にやっていることは、神のことに徹する。だから国家のサタン圏に立っている国家としても、その国で人の為に犠牲になったものは、サタン圏内国としても、その圏内にあって、その国の為に犠牲になった者は、善のところに立ちかえる救いの道であるんだね。 だから、もしも日本が第二次大戦に於いて、日本のサタン圏に於いて戦った兵隊達はどうなるか。こうみた場合には、自分の為に戦ったのではない。日本の国とか、そういうふうに戦って、喜んで犠牲になったというようなものはね、それは、神の国が造られた場合に、後に救われる道がある。早いもんだね。あんた達も先祖が善という話もね。先祖がいいからこっちに入ってきた、いいところあるか、日本国は、世界中に立った時、全部悪い。何がいいことあるか、結論だけ質間したら答えられいんだけど、こういうような内容があるから、あはーん、今まで犠牲になってきたのは、善の先祖にまちがいないというんだね。 そういう歴史圏は、世界中につながって個人より、社会に今動いているんだよ。それがそれは結ばっていないんだよ。まあ、こう考えてみた場合には、個人がそういうふうに働きかけて、それが犠牲になったとしても絶対に滅びないんだね。個人が十人の前に犠牲になっても、十人をこれを復活させる、自分が十倍の力で働きかける基台ができる。 キリストもそうだよ。十人の決意が、死んだ後になってこれ燃え上がって、世界の為に世界を燃やすんだね。そうだろう。こういうような思想体系の基台の上に、個人より家庭、家庭より氏族、氏族より民族、民族より国家、国家より世界につづく、そういうような基台が地上に生まれた場合には、世界はどんなになるだろう。考えてみた? そういう意味で、今まで世界的思想として体系的内容を整えて、歴史的、現在、そうして勝利的基準だとして正して、思想圏が生まれたことがあるか。 統一思想と共産主義 今の宗教は、個人復帰だね。自分が救われる為に。宗教心的だね。我が統一思想は、そうじゃないよ。自分は救われなくてもいいというんだね。だからちがうというんだね。自分は救われなくてもいい。自分は犠牲にすると世界の為に。そうなるというと死んでしまった場合に何も、何も残っていないようだけど、それを認めなければ、神の摂理は、これは嘘である。統一原理は今も、これはとんでもない。 あんた達も世界の為に死んだとすれば、どこへ行くの、世界へ行くの?日本の国に残るの?(世界の為)それは世界の為。イエス様も自分の為に死んでおらず、世界の為に死んでいる。世界と共に死んでおったね。イエス様がそのキリスト教文化圏は、民主主義国家を完全に占領してしまった基準に立ったんだね。そうだろう。まさしくそうなっておる。まあ、共産主義によるとね、あなたのものは自分のもの。自分のものは自分のものである(笑う)素晴しい思想だね(笑う)実感的ですよ、直感的で実感的だよ。誰でも喜ぶ思想だね。まあ、そうなってこれは、結局は永遠にかかった永遠の喜びは、何の共産主義国家を造るかと言うんだね。それによると見物人になっておるんだね。 しかし、神の方はね、神の方は、共産主義は、自分のものは自分のもの、あなたのものも自分のものであると言うんだけれど、神の思想は何かというと、自分のものはあなたのものであり、あなたのものは自分のものじゃないよ。あなたのものは神のものであり、神のものは自分のものである。(笑う)もう既に四位基台だよ。四位基台になっておると。あなたのものはわしのものであり、わしのものはわしのものではないよ。わしのものはあなたのものである。あなたのものは神のものである。神のものは? こうなるというと、一つ。二つ。男、女、考えてみたみた場合に四位基台になっちゃうんだね。そうだろう。四位基台になったんだよ。これが統一思想の伝統的思想だ。わかったの(ハイ) 統一思想は一体何だ!統一思想は何かというと判りませんか、このような背後関係を言ってね。結論として統一思想はこういうふうにして立っているんだ。 何故そんなに嘆くか!神は親父だから。神は親父だからね。こういう風にしないと親父になれないんだね。そうだろう。親父になれる道があろうか!考えてみたら堕落したサタンの子供になってしまったものは、こういうふうな方法をとらずしては、絶対子供になれる道は、絶対ない。だから人の為に犠牲になる。そうなった場場合には、あれは、世界的になっておるから、一つになって世界を動かす主人の立場に立っておるから神様の権威でもって我動かすことができる。人の為にやる。それに不安あるの。不安はあるか!本当に不安あるの。あるか、ないか!本当にない?(ハイ)それが神の為か!神は不安の実体じゃないんだよ。こうしないと帰り道ないんだよ。判ったの(ハイ) 天国と地獄は自分から 自分の為にやったら悪になっちゃう。追い出される。摘み出される。世界から。そうだろう。これはもうあなた達、今から実行する生活圏を通過していかなければならない。それをはっきりしなければいけないよ。はっきり! 天国、地獄はいずこより生まれるやー。信仰の国から生まれるんじゃないよ。自分を中心として、地獄は自分より。天国は、天国も自分より。だから自分には、二つの行くべき道がちゃーんと準備してあるんだね。自分を中心としていった場合には、天国行き?まちがいなく何の道だ!(地獄)気持が悪い。心細くさせる道だよ。自分ということを今まで愛着心でもって、これを横着した考えは、今後一ぺんで抜いてしまわなければいけない。みんな、心細い、寂しい、そう思いはしないの(する)するだろう。それをはっきり判った場合には、明日から、自由自在にできないんだよ。そうじゃないの(ハイ) それ寂しがったら、もう死んでしまうよ。もう予め死んでしまった方がいいや。苦しい時罪を犯さない。一生涯これは罪を犯して死ぬよりも、かえって苦しい時に死んだ方が、霊界に行ったら天国に近い霊界に行かれるというんだね。そういうふうに考えれば、青年達は自殺するとか、そういうふうにすれば、ある方面に於いては、いい考え方かもしれないよ(笑う)まあ、悪の世界に於いてはね。それがいいかもしれないよ。 悪の根拠地は、世界じゃなくて(自分) 自分だ!自分に於いてみんな出たんだ。目玉を中心としても悪の目玉、善の目玉になるんだよ。これが自分を中心としてみた場合には、悪の目玉になるし、これら人の為にみた場合には(善)善なる。それは、全部そうだよ。寝るのもそうだし、行くのもそうだし、着物もそうだし、一切一身にかかっている一切は、そういう境界点に、境界点上に立っておることを忘れてはならない。 その決意が湧湧き上がらなければ、善の世界へ行く道は生まれてこない。そういう自覚、そういう固い確信をもう既にもっておるべきなんだよ。君達、そうだろう。もっておったの、もっておったの、おらなかったのか!はっきり言え! 今、先生の話聞いていたのでしょう。今から持つの、持たないの(もつ!)持たなくてもいいよ(笑う)正しく正しく教えてやるんだよ。今からそういうような考え方、持たなくてもいい、そうしてやれば、そうだろう。 死んでも、闘ってもやりますという覚悟をもたなければならない。そうなの(ハイ)もたなくてもいいよ(もちます!)もたなくてもいいと。如何なる大きな事言っても、それは、けっ飛ばしても自信ある?(ハイ)そうなったら、みんな明日は天国行きだ(笑う) 神の犠牲の道 こういう思想に立った場合には、統一世界は一遍に生まれつつ出発する。統一世界はこれで始まるんだよ。考えれば簡単なもんだろう。こういうことを、こうだとしっかりした考え方を持った人は誰もいなかった。だから、先生が考え出して、先生が商売でやれる機会が残っていた。考えれば簡単だ。世界がどうこう問題でなく、自分に問題があったのだね。悪とか善とか自分の中にそれを処理して解決する方法がはっきり判った場合には、今から可能なる自分を発見するだろう。 神の摂理の道は犠牲の道である。犠牲になって、我々は自分の為に犠牲になったということが判った場合には、頭下がるの、上がるの?(下がる)どれ位下がるの? 犠牲になる比例が大きければ大きい程、それはもう、それ以上である。それ以上の現象が起こってくるんだよ。 それは、涙を流し、鼻を流し、よだれを流して、その御恩を何とかしても報いたい方法が始まるんだよ。だから感謝の念で涙を流す。苦しこではなくて感謝の道になってしまうんだよ。いやー、素晴らしいことになるんだね。 もしも自分の兄さんが、自分の弟のやっていることを兄さんのようにしたら判るだろう、そうだろう、それ以上に兄さんの願いの道に立ったならば、犠牲になっても、かえってそれが犠牲の道のその報いである。それ以上の犠牲になるのが、犠牲の世界に於いての報いである。そうなるというと、あんた達は、全体より以上の犠牲になりたいの、なりたくないの。(なりたい)それが報いる道である。先生は神より以上犠牲になりたい。 十年、百年の蕩減の道が残った場合には、一生涯に渡っても蕩減する。しかし死んではいけない、いけない。我は不具者になってもいいから、生命を残して蕩減の道を歩んでいく。それが子供の考えだ! それが報いる道だということがわかる。そう考えるよ。親もそういう子供を迎えた場合には、骨肉が分離して滲み出るような涙を流すんだよ。だから、神様も流しているに違いない。そういう子供ができるんだね。先生を泣かせ、神様を泣かせる場合には、泣いたより以上の悲惨な悲哀な反対の立場に立つというと、永遠に別れようとしても別れることはできないという結論になっちゃうんだよ。 親孝行は、親を何べんも泣かすことだよ。そうだろう。なんでそんなにも、こういうような親に対して忠誠を尽くすかと思った時に、感謝の思いで親も泣くんだよ。親を泣かせる、それ以上の孝行者はいない。親を泣かせて初めて、日本的、世界的孝行者に立つことができるんだよ。判ったの(ハイ) そういう思想は、これは永遠に強くなる思想だ。全体を一遍に屈服させる思想だ。なおもすると、個人的立場から考えてみた場合、人が判ってくれるのは、かえって恥ずかしい。純粋なる親が判ってくれる前に人が判ってくれれば恥ずかしい。 日本の地に於いて、あんた達はまだ、誰誰を好きだから、自分は何とか、だからあの人には見向きもしない。それは、先生、気持ちが悪い。みんなの為に今は面倒をみて、自分は残されてもいいというんだよ。 自ら行く犠牲の道 面倒をみてくれればいいなあ、そういう心は、まだまだ徹していないよ。その基準をのり越えていない。しかし、わしは面倒みてくれなくてもいい、というのは、勝利基準がもう既に、もうとっくに決まっている立場なんだよ。そうだろう。こういうふうに考えてみた場合には、そういう人達には指導者が必要じゃない。主管者が必要じゃない。彼に干渉しなくてもいいよ、一人の為に最高の権威の立場を、もう占領しておるというんだね。そういうのは、あんた達、気付かなければならないよ。 自分を如何に主管するか。わしに関係し、我は行くべき道を開拓していくその道自体が、もう忙しい。時間がない。他に考える道がない。そういうふうに自分の行くべき犠牲の道を全うするように。だから友達の為に涙を流し、どういう涙を流してみたか! 本当に愛したという犠牲になる、サタン世界の親子以上の愛自身でもって、この道に犠牲になるんだよ。自分の社会、自分の属している社会に対しても、如何に自分を犠牲にしたか、愛の心でもって試してやる。みんなの為にそういうことをしたか! ある会社をつくるとしたら、十年でもいいから黙々と朝夕にして犠牲になるか。会社を社長以上に愛するようになれば、結局は、十年以上には、社長の後継ぎがなければ、社長の後継者になるんだよ。そうなるよ。 日本中に於いて、統一の群れが今から犠牲になって、日本のいずれの者より、天のなかよりも、国民を愛し、代償として犠牲になって、それが十年、二十年……、そうした場合は、日本はみんな主管してもらいたいんだよ。それを、こういう統一教会は、統一教会がどこから来てもいい。それは中心にもたらすんじゃないか。成す者は、その環境にとらわれている。そうだろう。それ自体が真実である。こういう場合には、これを中心に対して指導してもらいたい、というようにならざるを得ないんだよ。そこまで持ち続ける底力を持っているかということが問題だよ。 生命をもう既に捨ててしまったという考え、もう捨ててしまうべきものを、神は残してくれたのも、これはあまりにも申し訳ないんだ。 牢屋から出発しても 一番難しいところは、我等が責任を持つ。統一教会だよ。日本の行く所、世界の所まで、我々は責任を持つ。こういう思想だよ。そういう所を求めていくところに、神が、世界が、価値がある。だから先生も行く。人生生活。どん底の全てのこと、ずーっと探り、ずーっと通って来たんだよ。 復帰の道を、どこで基盤を造るかと思った時に、復帰のその心情回復、これ、乞食の立場に於いて、復帰の出発の基準を神はなせるように願うんだったら、それでも構いません。万民の歓迎するような、そういうようなその教団の中でなくても、牢屋でも、わしは構いません。かえって、今日牢屋の中で復帰の基盤を造ろうとするのは、もっと素晴らしいことになるだろう。こう思うんだよ。恐ろしい思想だよ。 そうなればなる程、それは牢屋の中で出発したと聞けば、出発した基準が悪いか。そうじゃない! それに後世の信者は、後についてくる者達は、それは最高の勝利感に打たれて、この怨讐圏をのみこもうという大きな力の原動力となって、湧き上がる。そうしてみた場合には、ああ、苦労の生涯は、簡単な生涯はない。神に感謝する生涯だよ。そうだろう。そういうふうになるんだよ。そういう思想が統一の思想だよ。考えてみれば、この思想があったならば世界を呑み込めるだろうか、呑み込めないだろうか。呑み込めるよ。こう簡単に結論を出しておけ。 では、あんた達同志は兄弟愛を持っているの?(ハイ) 兄弟愛を本当に持っておる?(ハイ) みんな、兄弟愛を持っていたいんだから、全体の為の愛をもって行動したいんだから、全体の勝利のことを考えるよ。 親は、子供に着物を作ってやって、それを親に感謝して、責めるんじゃないよ。やって、やって、又やってやりたい。それ以上喜ぶ姿をみた場合には、それ以上のものをやってやりたい。着物だけじゃなくても。初めて子供を見る場合だから喜ぶんじゃないよ。親から考えてみた場合、とんでもないことに喜ぶところを見た場合、恥ずかしく思うんだね。より以上のことをやってあげたい心、やって、やって涙を流すような立場が、親の心だよ。 涙を流しながらやりたい心があったら、そういうところには必ず神が働きかける。その場には必ず神がいます。これは鉄則であり、原理である。 こういうふうに考えてみた場合、あんた達は今まで復帰の道に於いて、どういう所に立っていたか、はっきり判るだろう。自分という奴は、はあーん、こんな者だ! このやろう! 殺してしまえ! こんなもの。そういう考えで決意しなければいけないよ。大抵、判るだろう。自分の過去がどういうものであるかということを、はっきり判るようになっただろう(ハイ)先生の話、これは親密の話だよ。この通りに天の摂理は進行して行くんだよ。こういう精神に、徹してこそ、今日の先生の位置が残せるんだよ。それが間違っていたならば、先生はとんでもないことになっちゃう。もう死んでしまっただろう。こういうような神の御旨に歴史的御苦労なさった神のお父さん! 親父の、自分の苦労たるものは、まあ、一かけらの小さな立場でよかったかね。恥ずかしい。そうだろう。とんでもないその勝利圏でもって、とんでもない祝福をしてやりたい。その親の心を洞察しておる立場に立った場合には、恥ずかしい。 地上天国 秋になれば稲の穂が実って、その稲がだんだんと頭を下げると同じように、だんだん熟していけばいく程、誇るのじゃなくして、姿を隠したい、そういう思いに打たれるんだよ。そういう人間ばかりの世界はどういう世界か、そういう世界が地上天国の世界だよ。あんた達、そういう観念の心でもって、地上から出ていったとすれば、霊界はそういうところだ。 父母の愛と兄弟の愛と夫婦の愛とが三つ入り混じって、一つの方向を正していくのが、神を中心として相対的に立っていかれる。行くのが霊界だよ。おそらく、空気みたいになっちゃう。それが、そういうような愛の心情を持った者だったら、呼吸するには馬鹿馬鹿しい。注げば永遠に注ぎ込んだら、永遠にだ! そういうような境地に立つ。それが欠けた場合には、殺せだ! それ以上の地獄はないんだよ。十分の一しか空気を吸うことができないといえば、それを考えてみたら、それはかえって死んだ方がましかもしれないよ。それと同じような世界だろう。 それに、神の今までの摂理路程に於いて成してくるその道を、自分の道として続いていかなければ、その国に入った場合には、とんでもないことになるよ。神と反対になるだろう。神がそうだから、神の世界に入った場合には、神が安らかに親の立場になった場合には、自分もそうならざるを得ない。自由なるその立場にいくんだね。 こう考えてみると、世の中に三十六億という人類世界をずーっとながめてみたら、こういうような思想を持っておる者は何人位おるか! 今まで先生一人しかいなかったね。あんた達、こういうことを聞くんだから、今からそれをやるんだよ。去りたい者は一人もいないだろう。こうなった場合に、あはーん、日本に今から追いつかれるよ。世界は、今から追いつかれるよ。この思想は、聞けばまさしくそうだ! 善の根拠地を残す こういうようにこれを判って何するか。これが善・悪の根拠地。善の根拠地を残して、悪の根拠地をつぶしてしまう。悪を占領してしまうんだ。悪を切ってしまうんだ。だから、我々いかれる善の道を、それを進ませるには、その反面に悪をも愛するのだ。君達は敵対してしまう。一つの事が決まれば、それ以外の悪の事は、心配しなくても自然と、行くなと言っても、自然と姿を消してしまうというんだね。そういうものには、悪は、悪の本質というものは、自分を中心として立っておるだろう。悪の本質とは、自分を中心として立っているんだね。心細いとか、寂しいとかいうものは、そういうふうに立っているだろう。立っているから、そういうような思想は、ここに立ちどころができない。それは自然に変わってしまうんだね。我々として、自分を迫害する、反対する世の中で、世界を占領するよりも非常に難しいんだよ。それの勝つ方法として考えてみた場合に、一番、易いんだね。犠牲の道を出発したとすれば、自分は、もう自分を勝利した道である。これを自分を勝利する為に、今まで数千年闘っても勝利出来なかったんだね。自分が如何に勝利するかが、天宙復帰にとって重大問題だ。復帰の道の重大問題である。勝利し始め、勝利したという結論の最初の基準を上げた時、第三の為に犠牲になる。犠牲にしておるという。もう既に勝利した天に立った自分を認める。神も認める。これ判ったの(ハイ) 国の為に犠牲になったとすれば、個人の価値、家庭の価値、氏族の価値、民族の価値に立った基準に立つんだね。そうだろう。 国の為に犠牲になったというのは、個人に勝ち、家庭に勝利しうる、氏族を勝利しうる、民族も勝利しうる。それは本当か! だから自分の家庭も、民族全ての民族も、氏族全ての氏族も全て個人をあがめるだろう。敬うのだから。そうだろう。全てを勝利した基準になれるよ。だから国の為に犠牲になった場合には、それ以下は、全てに勝利した基準に立つんだよ。世界の為に犠牲になった場合には、個人を勝利したんだから、統一思想は個人の為に、世界の為に犠牲になれ。何故か。一生近い生涯、いつそれをみんな勝利して、我を抜け出ることができるか、一遍に一遍の犠牲に於いて、これを抜け出る道はなかろうか、と考えた場合、この道があった。世界の為に、世界よりも神様を中心として、世界の為に続く道が、それを一遍に勝利圏に立ちかえる道であり、一遍に抜け出るその道である。サタンの世界を勝利せずしては、神の国に入ることはできないんだよ。あんた達、過去を一人一人抜いていってやれるか。三十六億みんなを倒しても、倒しても、まだ立つものがあるよ。霊界はどうするの。我々の最後の時代は、全部にうたれるような、こういうような地的基盤に立って、そういう行動をした霊人体は、一人もいない。しかし、我々はこういうような確固たる基盤の上に立って行動を成した我々以上のものはないから、我々を頼りとして呼んでおるから、呼んでおる道をいかれる。 世界の為の犠牲者は、天地全ての存在が敬わなければならないよ。世界に勝ちたいだろう。勝つ為には、それは簡単な道じゃなく、それは世界の為に犠牲になる道だ。これを成した場合には、間違いなく、恥ずかしくなるところではなく、堂々と神の前に、神は感ずる。何故か! 神は、世界の為に犠牲になって、犠牲になってきたんだから、それに真剣になる。それをたやすく取り扱わないんだよ。こうなっているんだよ。判りましたか? 自分というものは、これは素晴らしい事である。だから、今に立っている自分というものは、善・悪の根拠地となっているんだよ。それを一つ取ってしまえ! 善の方に如何にして跳躍することができるかという事が、あんた達のそういう願いだろう(ハイ) 世界的人間になりたいだろう(ハイ) 世界的人間になる方法は、闘っては絶対にいけません。闘って、闘ってみた場合には、まだおつりが残るんだよ。それは犠牲の道だ。 唯一の犠牲の道 神はちゃんと見、わきまえられて、そういうような方向、日本には行くべきそういうような勝利の基台、そういうような天国は、生まれるという事を、よくよく神様は知っていらっしゃるから、最高の御方である、絶対なる神様は、それは絶対に一つしかなこを選んでおる。その道が、絶対に神様が行かれる一つの道が何かというと、全体として犠牲になる道だよ。そこによって全てが勝利することができるんだよ。 世界の為に犠牲になった者は、先生なんだよ。あれを世界の為となる。生涯を世界の為に。それは、日本だけじゃないよ、民族、国家を越超して。だから世界は、聖人達の思想をより集めて、それを中心として法律を決めておる。そうだろう。法律はそこから。教育の資材もそこからとっているんだよ。まあ、こういうように考える時に、我々は不幸なものじゃないんだよ。不幸なもの?(ちがいます) どんなに商売やっても違うんだよ。違うんだよ。金儲けで自分の子供の為にやっているんじゃないよ。世界の為にやっているんだよ。それは、ぼろを着てやる方がもっとかわいそうだけれども、ぼろを着ながらも、こういうような尊この為に、世界の為に、我はこういうように一銭一銭も惜しみ、惜しんで、それで世界の為にこういうようになったとしても、ちっとも恥ずかしくない。それを無視した場合には、国家がひっかかっちゃうよ。国を無視した場合には、国がひっかかってしまう。国どころじゃないよ。そういう事を考えてみた場合には、十字架につけられたイエス様をちっとも恥ずかしくない! 先生はどうか。いくら立派な家へ行っても、ちっとも恥ずかしくない。それが民族を復活する花盛りの種をまく真剣なる天使である。勝利の釘を打ち、打つ。真剣なる立場である。そうじゃないの。三年も行かないよ。三年も続いた場合には恐ろしいもんだというんだよ。恐ろしいもの。何時でも何処に於いても堂々とやっていくと、日本全国は恐ろしいもんだったね。まあ、統一教会は日本に。日本の国に来ておる統一思想を恐れているんだよ。まあ、統一思想に対して、分析しようとして、血気しておるんだよ。恐ろしい問題だ、これは。個人もなく、国も捨ててしまう思想だ。しかし、国を捨ててしまって世界を拾う思想だ。そうだろう。世界の為にやっておる。まあ、こういうように、我々は世の中の人が持っていない尊いその宝を持っているんだね。 遠くなくして、世界はこの思想に脅かされる! 歴史はもう既に証明しておる。今の自分を正して、第三者を犠牲になしてきた歴史の末は、もう尽きちゃう。再び新しい方向を研究しておかないというと、行かれる道は完全に滅びの道の現実である。ああ、我だってそうである。共産主義だってそうである。ここに於いて、統一教会は民主主義と共産主義を統圧する節になる。節になる。この思想以外には行かれる道は絶対ない。 まあ、この思想の基準に於いて、自分の世界が開かれる。万民は一つになれる。兄弟より氏族より民族、国家より世界を一つに全てを好意的立場で愛される愛の因縁が結ばれる! それはそうでしょう。天国だ、我々の道は。そういう道が、今我々によって開かれる。 先生の命令に従え! やれ! やるか、やらないか(やる!) 先生がいなくても第三者を立ててやらせてもこんなにやるのに、先生が直接やったら目玉から火が飛び出るよ。(笑う)まあ、自分の足は車より速いというんだね。そういうふうにわかるよ。待てよ、車なら休んで寝る時あるよ。我々は二十四時間だ。だから車より速いというんだよ。そうだろう。だから、うちの工場では夜中でも、何十人でやるところを、やれ! やれ! 数人位でやってしまう。だから速いことになっちゃう。 だから二十年の世界、科学世界の文化基準は終着、終着点は結実するや。先生の計画圏内にちゃんとイカリをおろしてそこに結実するんだ。そう考えているんだよ。そうなり、そうなす可能性があるの、ないの?(ある) あると思えば、真剣になれ。ないと思えば、みんなそのまま帰ってしまえ。帰りたくないの? 絶対?(ハイ) 本当か(ハイ) 女の子! 一涯捧げても、よろしゅう(ハイ) ございます。(笑う) ございません、と調子を合わせないといけないんだよ。一生捧げてもよろしゅうございます。(笑う) まあ、それだけではなく、一生結婚しなくて、この髪の毛が白くなるまで犠牲になってもよろしゅうございます(ハイ) 男をみんな殺してしまってもよろしゅうございます(ハイ) 世界の女が皆そうなるとね、男は一世紀のうちに倒されてしまうよ。(笑う) 自然滅亡法則によって、簡単なもんだよ。そうなったら大変だもの。まあそれだけは、もしも女ばかりを世界からずーっと一カ所に集めてみた場合には、世界は、自然と統一されるんだよ。そうだろう。女の欲しい男はみんな頭を下げないという法則は、絶対にあり得ないんだよ。先生は、それは可能なる力あるよ。聞いてみろ。そうか、そうじゃないか(そうです) 先生の話だったら、一生涯、まあ髪の毛が白くなるまでお嫁に行かないという決意ある?(ハイ) あんた達日本の女ばかりじゃないよ。黄色も黒も茶色も白も青も、みんなそういう結実になったら、男達は自然と協力、予め手を上げて、それでも来るんだよ。聞かなかった場合には、女みんな一方に集まれ!(笑う) それは可能だ。何でこんなになったのか。これは研究やっても判らないんだよ(笑う) なった事実をいくら研究しても判らないんだ。アメリカの女だってそうだよ。韓国の女は言うまでもない。なら、男でもそうだろう。先生が親だったら、みんなここに集まれと言ったら、みんなそうなるの?(ハイ) みんな同じだよ。そうした場合には、これ等も統一する方法は、いくらでもあるというんだね。 まあ、こういうふうに思います時に、我々は天下どこに行っても、敗者でなくして、もう既に勝利者になっておる。この犠牲の道を喜んでいくような者になった時には、天下にかなう者はいない。どこでも喜んで行く。みんながそれに勝利するよ。 ローマはキリスト教に征服されたんだね。カイン族のその思想であるから、キリスト教に屈服される。そういうふうにみた場合には、世界はもう既に我々の生活圏内に全部巻き込まれておるんだよ。そういう思想なんだよ。我々は世界の為に犠牲になる。だから一銭も持っていないんだよ。先生は、何も欲しいものないんだよ。 だから、善・悪の根拠地は何処にある?(自分にある) 自分にある。それをみんな処分してしまう方法というものは実に簡単だ。簡単である。死んでから自分より以上の価値があった場合には、死ねないと言う者は阿呆であるというんだね。 一千万円持っているその全てを、おれは商売がてらに金儲けするんだ。これを投げうってしまって、三千万円儲けるという場合には、それを投げうってしまったという場合、これは喧嘩が起こるか、起こらないか?(起こりません) 喜んで投げうってしまうんだね。それで四千万円儲かるんだったら、それをみんなやってしまう。現実にその金を持っておるのはいやだ。捨ててしまって、何も持たないという法則を通らないというと、儲かる道はないんだよ。自分一身が犠牲になって、百千万円が、それより以上の価値に立ちかえるということがはっきり判った場合には、それを投げうつのを惜しむか、惜しまないか?(惜しみません) これが判らなければならない。 自分が善悪の根拠地 善・悪の根拠地は、はっきり判ったね。誰を恨むかというんだね。その前に自分を恨め。世界の人々は自分を教える為の先生である。そう思え。わしを一挙に勝利させる基台として捧げ物として生まれてきたのが三十六億全人類である。こう思う。それがなければ、天宙の勝利圏に立てることはできないだろう。世界的に立てることができないだろう。 世界的時代圏に入っているんだから、実にやらなければ、複雑な世界だけど、この基盤に立っているんだから、我は世界に向けて働きかける。そういう時代にそれは可能なる時限、三十分圏内に入ったということは、世界的になった場合、一挙に世界を我等の懐に抱くような、そういう時代圏に入っておるから、社会的に、世界的にそれを適用させる。そういうような実に素晴らしい時になってきたんだ。 嬉しい世界として眺めておるよ。悲しい世界ではないよ。いくら悪としても、現にあんた達は悪だけど、我々は善の道だとちゃんと勝利の基準を持っておるとして、喜んで眺めておるんだよ。そうだろう。希望をもって眺めているんだ。だから神様もそうだ。神様もこういうような、頂上のそういうところに行ったんだから、いまだに願い求めて来たそういう者達が、この地上にもう生まれつつある。広がりつつある。如何に神様、喜ぶであろう。霊界の先祖達は如何に喜ぶであろう。まして二十四時間見詰めながら応援しているんだよ。ヤレ! ヤレ! 統一ヤレ、というんだね。 こういうことを考えますと、世界は我々の為に残された祭壇になる。テーブルみたいなものになっておるというんだね。もしも自分の国になかった場合には、日本の国になかった場合には、国を勝利したという条件を何処でもつ、そうだろ(ハイ) それだから、今の現実に住む家庭というものは、我の勝利の名札となり、勝利の名札をつけさせる為にあるんだと思う。ぶつかる全てのものを、我を滅ぼす為でなくして、我を世界的な権威ある勝利者として作る為にああいうものがあるというんだね。それを勝利してこそ初めて、みんなから認められるというんだね。だから、全てが我々の為にある。そういう思想になっておるんだよ。そういう考えでもって、今から日本に帰ってやらなければならない。どうだ、自信あるの(ハイ) まあ、今までみたいな考えでいたら絶対にいけませんよ(ハイ) もう自分は既に勝っておる。こういう思想をもって出発するのが、統一の思想である。だから韓国に於いても、聞くなといっても、みんな涙ぐむようにして、頭を下げるようになるんだね。それは恐ろしいものである。それは出来上がる。それは何故か。それは上のものもないというんだね。敵もなければ上のものもない。だから最高の勝利となって、敵がないんだから、その圏は天国にならざるを得ない。だから、そういうふうにいった者は、もう既にこの地上に住みながらも神様の勝利の世界に住む立場に入る結果になってしまうというんだね。こういう考えでもって、我々統一教会は、外的に活動しないんだね。とんでもないことをやらせる。宣伝をしないんだ。一方をずーっとやっていく。やっていくと、みんなはいつの間にか通りぬけてしまうんだね。だから実績の前には頭が上がらないんだね。その実績たるものの方法、手段をかまえてやった実績じゃないよ。涙と血を一つになって、誰でも涙ぐましい実績を抱いたその心の動きが、誰もが無視できないんだね。今度日本に帰りましたら、うんと働いてもらいたいというのが、先生の考えだよ。 どうせ後になるんだったら、日本に於いて犠牲になるよりは、アメリカに行って犠牲になるよりは、ソビエトに行く、こうなるんだよ。そうじゃないの(ハイ) だから、そういうような準備をしなければならない。だからそれの準備を何処でするか。アメリカへ行ってするの? ソビエトへ行ってするの? 日本である。だから、今は準備の段階である。実行の段階ではないという考えでもっておらなければならないんだよ。そういう覚悟だよ。ここで鍛えたという精神の勝利圏を勝ちよせ、アメリカの財閥を動かし、ソビエトの財力を動かす。財閥をぬぎ取ってしまう。それを通り抜けながら、共産圏より以上強くならなければならない。こうなるんだよ。共産主義に負けてはいけない。民主主義の国民思想に負けてはいけない。そうなんだろう。だからそれに向かって進もうとする我々としては、それは相手の行く前に準備しておかなければならない。その準備の場が日本にある。その準備するところによって結実する者は、そういうところに行かれる前に死んでしまうんだよ。そういうところは夢の所である。全然そういう場を実行の場として迎えることは絶対できないんだよ。わかるか(ハイ) 日本に於いていくら苦労あったとしても、アメリカへ行っての苦労は比べられない。何故かというと、日本に於いては感情が通ずる環境をもっている。自由自在に話せば理解され得る、そういう環境である。日本は狭いんだから、みんな親戚関係になっておる。だからみんな理解してくれる。それから助けてくれるんだよ。アメリカの場合は全然そうじゃない孤立一本だという場合には、その環境でなす。如何に孤独か。孤独の立場でそれをのりきれるか。如何に苦労な道が続くだろう。それを今から迎えていこうとする自分であっては、これを準備しておけばたやすいもんだ。これ以上の事があるに違いない。これ以上の道を見いだして、そこに耐え、訓練し、訓練された体験しておくという考えでもって、我々はこれを走り回らなければならない。努力しなければならない。そうなっているんだよ。今までそれ考えたの? 訓練の場だ。実践のうちじゃない。世界的な実践じゃないよ。もっと世界的になるには、アメリカがもっと世界的になり、アメリカを通してソビエトへ行った場合、世界的になる。 そういうふうに思った場合には、この日本の地に於いてもっと何かをやらせたいという者、これは、とんでもない奴等だよ。そういう者あった場合には、自分の悩みあった場合は、これは自分を、自分の環境を擁護する。それはもうサタンのものと思っても間違いないというんだね。そういうものには、絶対慕い求めて話もするなというんだ。これは生きたサタンだ。実体のその肉身を被った、生きた何か?(サタン) それあるよ。アメリカもそうだ。 アメリカの如何なる地に於いて勝利した基準を世界からの地に於いて勝利した三回、そこを通過しないと世界的にならないんだよ。原理がそうなっておるよ。四位基台だから。そういうふうに思って、日本の地に於いて満足する者ならずして、アメリカとかソビエトに行く。日本はそうだろう。アメリカに行かれるだろう。中共に行かれるだろう。ソビエトにも行かれるだろう。(ハイ) だから日本を遣わせて、一遍に統一教会がそういうことを成したという勝利的な世界的基盤を先生は握りたいんだよ。日本人を正した場合には、アメリカや、それから中共も生かすことができるや。ソ連の共産圏も。もうそうなったら、日本は不幸か幸か(幸福です) その思想は恐ろしいというんだね。もっと犠牲を多くするのが勝利していくことだ。判っただろう。 永遠に残る道 この思想は、一遍で世界を呑み込んでしまうんだね。呑み込んでしまった。これは方法手段じゃないよ。それは事実の方策であり、これが道だというんだね。これは本当の道だというんだね。主管の道じゃないよ。そうだろう。だからこれは永遠に残る。永遠に残る。だから、ここに於いて成したその功績というものは永遠に残る。自分を中心として残したその功績は永遠に残らないよ。これは覆してしまうんだよ。崩れてしまうんだけど、これは第三者の為に犠牲になって残した功績は、永遠に残る。永遠にね。死ぬ時でもそれを神の前に供えて、わしは人の為にこうこういうことやりましたから、そういうことは弁解の条件なり、弁護士のその弁護すべきその条件となるんだよ。自分の為にやったのでは、それは弁解の余地はないよ。わかったの(ハイ) この世の中には、自分を占領する者あるとすれば、それ以上の思想をもって来ないというと占領する道はない。これ以上の道はどこにあるや。これ最後だね。これ以上の道はないよ。あるか考えてみな。 これはみんなが好かれる道なの、みんなに嫌われる道なの?(好かれる道) あんた達、聞けば、それは好かれる道だろう。一般から聞いた場合には(嫌がる道) 死んでも考えたくもなこなんだよ。しかし、そういう者達は、後でこういうように話をすれば、一遍に参ってしまうんだよ。だから、これは素晴らしいんだね。新しい決意して日本の地に訓練の場として恥ずかしくない、そういう実力者になるように、今度帰れば、うーんと走り回って、犠牲になってもらいたいんだよ(ハイ) 先生は命令して、アメリカによこそうか。ソビエトによこそうか。準備しておく者が勝利者になるんだよ。わかったの(ハイ) そういうふうにするに従って、我々は世界的悪を手をつけずして自然に滅ぼすことができるというんだね。これ以上素晴らしこはない。統一の原理はここにあるというんだね。 祈りましょう。祈 り 天のお父様。今まで我々は、いろいろの思想の道を辿り、人生の行くべき道は何処にあるや。或いはもがき合いながら努力しましたけれど、その道を求めざるして、今まで苦悶したものでございますけれども、今朝、こういうふうにして話を聞いてみると、その正なる道は自分の中にあり、自分の一身に全てをかかえておることをはっきり知ることができました。それを切に感謝申し上げます。 善悪の根拠地であるこの主体の自分を如何に占領しえるかという方策もはっきり知ることが出来ました。もう判りましたから、神に心配かけるような愚かな者になりません。堂々たる主の勝利者道を今から行きますから、自分より家庭をぬけ、家庭をぬいて、それから氏族、民族、国家、世界まで行かれるその決意をもう知っております。そうならなければならないこと絶対的に判りましたから、神は、自分に対して御安心なさるように、神を慰める子女となるように、なった場合には、神はもう既に我々は、我々に対して、世界の勝利者としての資格を与えてくれるという事を思います時に、実に感謝すべきこの時間でございます。 どうか日本の地に帰りまして、我々は、この韓国に来られる前より以上の新しい人間にならなければならないことをはっきり判りました。自分の言った一言が世界を滅ぼす動機になり、自分の一身が神を喜ばせ、神の国を解放することができるように、そういう素晴らしいその中心者であるということがはっきり判りました。その価値を無限に延ばした、永遠に残るその価値が如何なる方向によって生まれてくることがわかりましたから、神、御安心なさいまして、我々がそれに愚かな、それは怠けるそういう立場に立った場合には、鞭打ちましても、今我々の犠牲なるべきその一方の方に全てを捧げていくように、更に励まして下さる事を切にお願い申し上げます。 今までいろいろ不平を言いました。兄弟はああであり、と不平を言いました。しかし、不平を言う自信も持たない自分であるということが判りました。神の血統が堕落してサタンの血統に来た者が神の摂理圏内に立って、不平の思いを抱くそれ自体が恥ずかしいことではないか。大きい恥ずかしいこと、悟ること十分に成しましたから、今後そういうような思いを持たずして、感謝に伝えるような、それを仰ぎみるような、それ自分として神のその国の為に、神の世界の為に奉仕して、その生涯を終えるという尊い思想と共に行ける実体となるように、今の時間、覚悟して決意を成しましたから、神認めて、信じて、今後より命令を新しく知ることが出来るように祝福して下さることをお願い申し上げます。 今朝、こういうようにして、新しい我々の立つところを示して下さった神に対して、それは天に対して感謝すると共に、今後の生涯は間違いなく神に犠牲しえる勝利の基準を神にかえすことが出来ますから、心配せず、信じて、神我々を信頼してもらいたいのが、今の心境であります。全ての神の好意に一致する生涯を残すように、我々の願いと思いを神の求めるその一致基準が決まることができましたこと感謝すると共に、全ての祈りを真の父母様の御名を通してお祈り申し上げます。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.16
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「興亡盛衰」1971年3月21日水沢里の中央修練所 訪韓した百余名の日本のメンバーに対して語られた講話。 世の中に住んでいる我々人間として、だれもが願うのは、滅びることを願わずに、栄えることを願う。それは、人間の情である。人間ばかりでなく、生きているものはどんなものでも、下等な昆虫においても、滅びることを願わない。存在するすべてのものは、栄えることを願うのである。 我々個人から考えてみても、「成功し、世界的な有名人になりたい。そしてその中心の人物となって、世界を自分の願いどおりにしたい」という心は、だれでももっている。日がたち、自分の将来の時間がなくなるにしたがって、発展の度数が高まることを、だれもが願っている。 しかし、我々人間の生活圏内においては、その願っている「栄える」という立場に立つことは、なかなか難しい。逆に、栄える反対のほうに、ふっとすれば落ちやすい。それに引かれやすいのが、我々が生活している現世の環境である。こう考えると、栄えるには、それに相応した、ある準備がなければならない。 理想を実現するための準備期間 十の目的を願って、それ以上の準備をしている者であれば、その十の目的はもちろん成し得るだろう。それ以上の準備をしていた場合には、その目的を成し得て余りがある。もしもその準備が、十にかなわないようなものであったならば、その十の目的は果たすことはできない。果たそうとしても、八あるいは五までで、それは中途半端に終わってしまう。そうなると、その目的は、自分に必要なるものとして立ち返るかというと、そうではない。なさなかったほうが、その目的を望みとしなかったほうが、かえって良かったというような結果になることが、我々人間生活圏内においてたびたび見られる。それは、個人的にも体験することである。こう考えると、我々人間としては、準備をしなければならない。 まず、その準備は、いかなる目的に向かって準備するかということが、重大な問題である。国を中心として、国のために自分は必要なる人間になり、自分自身はだれにも負けない愛国者になると、そのような心をもっている者ならば、まずその国たるものは、いったいいかなる国か。現在の国ではなくして、将来の国、あるいは現在より以上の国を願う。そういう目標を、はっきり決めなければならない。 次には、その目標は、他人の目標ではなく、自分自身の目標であることを、はっきり認識しなければならない。その目標たるものは命よりも尊いものであるということを、いかに自分自身が体恤し、感ずるか、ということである。自分ながらに望むその理想世界は、観念的なものではなくして、事実、実体としての自分と、いかなる関係を生活圏内にもち得るものであり、またその目的か、ということである。それは、だれかに助けてもらう目的ではなく、自分が果たすべき目的である。この目的のために自分は生まれたし、この目的のために生を営んでいる。それが自分の運命ならば、絶対的運命と思うような、そういう観念に徹して、いよいよその目的に生きたいという人がいるとすれば、それに相応して準備期間が必要である。 十を準備する者もいるだろう。百を、あるいは百以上の準備を願う者もいるだろう。それが世界的になれば、三十六億以上の人の願いが、そのままその目的になる。そのような思想圏になるならば、その思想を果たすにふさわしい準備をしなければならない。そして、歴史上にない強靭な忍耐力と共に、環境におけるつらい多くの場面を甘んじて受けきれることのできる準備をするには、それに相応する期間が必要である。 人間の一生は、六十年か七十年、百年未満である。長くて八十年と見て、八十年以内において、世界的にそれをいかになすかという問題である。そのために、何年で準備しようか。十年間で可能であるか。あるいは二十年間で可能か。それとも四十年か。それを冷静に考えてみた場合には、自分という一人の男であれば男、女であれば女としての、その目的成就の可能なる圏に立つという自信を、人間がもつということは不可能に近い。そうであれば、いかに大きい理想への目的観念をもったとしても、それを果たし得るための、それに相応する準備期間は、十年、あるいは二十年、三十年、四十年以上になる。その準備期間に基盤をつくったとしても、その基盤の上に勝利圏を果たし得るかを考えると、それは準備よりも、行動に移して実行するのが、もっと難しい。 人間だけでは理想世界は成し得ない そうすると、その理想への目的は、自分が果たすべき目的として迎えていいか、悪いかということが問題になる。これを、そういう立場から考えてみた場合に、人間がいかに大言を言うとしても、世界的目的を一人で完成するということは難しい。決まりきったことである。それは、一つの民族をもってしても、不可能なことである。それは歴史が証明している。「主権者を中心として、国家を中心として世界を一つにしよう。新しい世界に発展させて、希望の世界をつくってみよう」、それを考えた民族、それを営んだ政治家もたくさんいる。しかし、一国家を動員してもなし得なかった。それが歴史の事実であることを考えるときに、果たしてこれはなし得るか、ということである。 それは歴史と共に、多くの人々が考えてきた。しかしそれは、人間を中心として考えたことである。だから、人間を中心として願ったその目的の世界は、人間を中心として、また覆すことができる。甲の人が、理想の世界をつくったとして、もし、それ以上のことを考える人がいた場合には、それは覆される。それを転換させることができる。我々人間の願うその最高の理想世界は、絶対的理想の世界であり得るか。人間を中心として考えてみた場合、相対的理想世界は考えるかもしれない。しかし、絶対的理想世界は考えることができない。だから、人間なりの、人間として願う希望というものは、生まれた環境が違えば違うほど、それは変わっていく。その理想世界は変わっていくに違いない。 自分の命を懸けて、万年の歴史の価値をたたえながら接して、鑑賞すべきその世界たるものは、いったいいかなる世界だろう。こう思うときに、人間同士、頭を使って組み合わせた理想世界は、絶対に、絶対的な立場においての理想世界にはなり得ない。このような結論に帰することを考えるときに、人間以上の絶対なる動機とか、あるいは因縁を結び得る何ものかがあった場合には、それと関係を結んで、全人類が願う目的の世界としてそれを果たし得たとするならば、それは人間同士が組み合わせた理想世界よりは、長く続くであろう。 それがもしも、絶対的で、全能なる神で、一度聖なるものを決めた以上、神自体変えることができないという見地に立つ神であるとしよう。今その神を中心として、果たすべき目的観念が、「絶対的にならざるを得ない」という神の声によって組み合わせたならば、それは人間同士で組み合わせた理想よりは長く続く。それは変わることができない。それ以上の絶対なる人間が生まれない以上は、変えることはできない。 このように、人間のみにおいて考えるときには、絶望に帰する。いつまでも革命が続くという、歴史の悲哀を感じなければならない。その歴史過程には興亡の歴史、盛衰の歴史は繰り返すであろう。そう思うときに、我々人間だけでは、理想というものをもったとしても、それを成すすべがないという結論になる。 その理想というものは、万人に尋ねてみても、万人の心情に問うてみても、そこに逆らう要件をはらんでいる。思えば思うほど希望の要因になり、眺めれば眺めるほど発展の原動力になり得るという理想世界たるものは、人間を中心として果たすということは絶対的に不可能である。だから、人間だけを考えた場合には、悲哀なる歴史観になる。それは、衰亡の極に尽きてしまうような、ある限界内の歴史観にすぎない。そのような希望にすぎないということになる。 宗教による文化圏 そこで人間は、人間以上の力で、人間以上の生命力によって、環境に引かれるのではなくして、環境を引っ張っていく、主体的立場に立ち得る理想世界を願わなければならない。その理想世界は、そうするには、人間ばかりではなくして、絶対なる神がいるとするならば、神自体もそれを必要とせざるを得ないものである。その神を、観念的な、ある空想的な実体としてでなく、生活圏内の神として、歴史圏内の神として、現世あるいは国家圏内を動き得る神として、世界の文化とか、世界のあらゆる制度を動かし得る、そういう神として、いかに迎えるかという問題が、その絶対なる理想世界をなし得るかという問題とつながっている。そのような立場において、人間世界においては、宗教というものがある。 人間が高い、あるいは高尚なる理想を願う心をもっていればこそ、制限や、ある限界を乗り越える絶対者なるものを慕わざるを得ない。それを媒介として、我々は理想世界を誘導してこなければならないという立場を思わざるを得ない。そのような立場から思ったときに、人類の歴史は未来へ未来へと発展してきているが、その原動力となり得る力は、どこから来るか。人間だけの力ではなくして、神に慕い寄る、その思いの因縁から、歴史は発展してきた。そのような摂理になっている。すべて歴史はそうなっている。 我々の歴史に現れているすべての文化というものは、人間が意識してつくった文化ではなくして、宗教を起源としての文化であるということは事実である。そういう内因があるからこそ、そうならざるを得ない。皆さん一人一人も、「我は世界的人物になる」、またその世界より以上の理想世界があった場合には、「その理想世界の中心者になりたい」と、そう思う。その自分のもっている思いの力というものは、ある圏内で望む人においては、その圏内に支配されたくはない。いつもそれを乗り越えたいと思う。それ以上の何かを求めている。それを見れば、その思いがあればこそ、未来の発展の要因になり得る。何かを考え、その思いによって我は引きつけられ、そのような動機があればこそ、現実生活圏内を達観し得る、あるいは忍耐し得る力となる。 自分ながらの良心の望みから考えてみても、そのような考えをもつその時においては、人間は絶対堕落しない。絶対滅びない。何か背負い、暗中模索している、そういう境地に立っている者においては、発展の跡を残すことができる。後退するとか、滅びるとかという結果は残さない。それは我々生活圏内に、皆さんが毎日体験することである。一人の人間の生活を中心として考えてみても、そのような働きをして生きている。 すべての歴史の中心において、その歴史が滅びるか滅びないかという問題も、結局は歴史以上の思想を思いながら、民族であれば民族、国家であれば国家がそれを思いながら、それはみんなの望みであるけれども、自分の望みであると思って、その方向に全国民が進んでいくならば、その国は絶対に滅びない。努力を続ければ続けるほど、それに比例した発展の跡は残る。そのような思いもなくして、体の願うまま、生活圏内に覆われた場合には、滅びる。より以上の目標を思わず、自分ながらの一日の生活圏内に限って、食べれば喜ぶ、遊べば喜ぶというような生活を営む者は、後退せざるを得ない。そのような民族は、滅びざるを得ない。 こう思うとき、それが栄える、発展する、善の結果に近づくという、その根底になる動機とは何か。それは良心であり、その良心を中心として世界とつながる考えをもつ、人格による。そのような考えによって、発展の要因をなし得る。それを慕い合い、そして組み合うところには必ず、ある実体を残していく。それは歴史の事実である。そうすると、数千年間民族から取り去ることのできない思想をもつ民族があるとすれば、世界においてどうなるか。その思想を中心として、いかなる迫害が加わっても、迫害を取り除いて黙々と進んでいくという民族があるか。そういう文化の歴史において、残った文化圏があるか。あれば、それは素晴らしいものになるだろう。 素晴らしいイスラエル民族 皆さんが知っているように、イスラエル民族に対して、「これは素晴らしい民族だ」と、今になってもたたえる。今から二千年前に国を失い、民族はばらばらになり、放浪の民になってしまった。国を追われ、部落を追われ、世界に散らばったイスラエル民族が、数千年の間それを我慢し、乗り越えた。その原動力とは何か。それは、憎しみを中心とした考えによって乗り越えたのではない。唯一神による、その信仰である。「我々は選民である。選民の行く道は世界を救うため、こういうような苦労の道が妥当な道である」、このように思う民族ならば、それは素晴らしい民族になるであろう。 しかし、イスラエル民族においては世界に追われた。そして苦労しながら、選民思想に徹した考えを全部がもって世界路程を通過したのではないとしても、その中に核心となる、中心となる幾人かがそういう思想をもったならば、その思想は再び春に向かって芽生えてくる。そう思うとき、イスラエル民族史は、一九四八年以前までは、悲惨な歴史である。だれもその歴史を慕う者はいない。彼らと接する環境とか因縁をもちたいと望むものは、一人もいない。ナチスによる虐殺の歴史をもっている。 そのような境地に立っても、方向を変えなかった唯一神を中心としての選民思想たるものは、これは難問である。彼らは、数において負けている。外的においては包囲されている。もう今すぐにも消えてしまいそうなものである。しかし、消えることはできない。消えてしまうような形をして、何千年も続く。何千年ばかりでなく、何万年も続くとするならば、それは時が来た場合には、必ず世界を制覇する素晴らしい民族になる。 このように思うときに、イスラエル民族の、肉体をもった国民が偉いのではない。その国民に付いている思想が偉い。しかし、神はこういうイスラエル民族を、再び建国の主人として立たせることができなかった。イスラエル民族史がそうなっていない。かつての民族史以上の歴史をつくり得る聖人たちがいない。 しかし、そこにおいて個人の迫害はもちろん克服した。家族同士の迫害も克服した。民族間のその迫害も乗り越えた。一国でなく、ヨーロッパ全体、世界全体の主義を主張する、そういう世界圏国家群を迎えても、それを乗り越えた。何をもってしても、死、死、死でもって対抗しながら、後退せずに乗り越え、結局は敗者のようであるけれども、勝利の一日を迎えたのは、ナチスではなくして、イスラエル民族ではなかったか。 新しい思想「統一思想」 このように思うとき、世界をつくる動機たるものは、外的条件ではない。外的条件に近くなればなるほど、それは滅亡の道に近い。だからあらゆる文化圏というものは、ある頂点に達した場合には、必ず滅びる。なぜ滅びたのか。それ以上の目標に向かって進んでいくという、精神的な原動力がなかったからである。このような結論を出すと、歴史上に現れたその文化圏が滅びずして、数千年の文化と共に、歴史と共に残った場合には、いかに素晴らしい文化的世界になったことであろうか。 驚くばかりの文化が、なぜ滅びたか。なぜそこで尽きてしまったのか。その背後を思うとき、それ以上押しつける精神的背後の原動力がなかった。そこには、国という観念が少ない。民族における民族愛が欠けてくる。家族なら家族の、母を中心としての関係が薄らいでくる。自分なりの生活観念も真剣でない。これを見ると、世界の文化も、世界の民主主義国家における先進国家も、本当に幸福かというと、そうではない。外的基準の文化が、永遠に続くことは絶対にできない。今までつくり上げた文化基準以上の精神的母体がなければ、世界にたたえられるような文化圏として、あとの歴史に残すことはできない。 この観点から見れば、日本の現状はどうか。これは敗戦の悲哀を感じて、もう生きる道はない。命をささげて、もう一回奮発しなければならない。奮発するには、まずもって何を考えなければならないか。昔、戦争する時より以上の新しい決意を立たせなければならない。その決意を何によって立たし得たか。いろいろ環境もあるだろう。アメリカの援助とか韓国動乱の恵沢を受けてとか、そういうことも復興の契機になったのであるけれども、日本における昔以上の、心身共に一致し得る基準が満たされたところにおいて、復興の道をたどったに違いない。このようにして、戦前より以上の経済的文化圏を果たすことができた。では、今から日本はどのようになっていくだろう。これ以上発達し得るか。 日本自体を思ってみた場合には、日本は加工産業国家である。原料がない。これは、ある次元の限られた圏内においての発展は許されるが、もしも、周囲の国家圏における資源を補給している国々が先進国家圏になった場合には、日本は自然と絞められる。そうならざるを得ない。自分自体で自給自足し得る、文化の原因となり原動力となり得る、外的の経済的資源をもっていない。それは他国に依存しなければならない。これは絶頂に達した場合には、どうならなければならないか。それは下がる。必ず下がっていく。依存しながら、よその国を助ける国は絶対ない。それは今までの国としての鉄則である。日本をもうけさせてやって、自分の国がマイナスになりたいという国はない。だから日本において、物的発展の基準をたたえる、そしてそれを中心として満足し得る立場でもって、日本自体が永遠に続くかというと、そうではない。絶対そうではない。それが続けば続くほど、それは腐敗する。 国民はみな分解されていく。自分なりの国家という観念を失い、氏族観念をもつようになる。そして、氏族観念を失い、自分の家族を中心に考える段階になる。家族みんなが自由な環境圏に立つようになると、結局二人、夫婦、男女関係に尽きてしまう。その男女関係に尽きた場合には、人間として落胆してしまう。その実証の実体として現れたのが、ヒッピー族である。「権力とか国家とか、何か社会制度とか、それはみんな主権をもっている何人かの主張を満足させるための体制であって、万民すべてを幸福にさせるものではない。国家はいらない。アメリカ民族もいらない。自分の家族もいらない。自分は父母によって生まれたのであって、他の人と何のかかわりあるか」。このように、みんな分散してしまう。 これを大雑把に見た場合、新しい思想として残る道は何であろう。人間以上の内容をもつところによって、それは求めなければならない。そのような結論になってくる。歴史圏内に今まであったそういうものではなくして、今まで思いもよらなかった新しい宗教観念である。絶対なる神の存在を、感覚圏において感ずる、体恤し得るようなもの。神の認識圏を我々万民に、普遍的に、可能なる認識圏を与える新しい信仰観、それが必要である。そう思うときに、宗教世界においては再臨思想が残っている。その思想たるものは、落胆の、堕落の絶頂にいる万民に対して、一つの願いの、望みの神として会ってみたいという、要望の要因としてある。その立場から見た場合には、「統一思想」というものは、この現世でなくして、未来に続く新しい世界において、大なる貢献をするのではないか。そうしなければ、世界は滅びるであろう。 この文化圏に包まれて、この文化と共に定着してしまうような宗教ではいけない。毎日の信仰生活圏内において刺激され、破竹の勢いでもって打ってかかり、打破してしまうような、新しい何ものかを残し得るという、実績を求められるものでなければならない。それを果たし得るか、それが今後の問題である。 主体性をもつ 我々の活動というのは、一日生活圏内において働くけれども、その内容は、歴史を代表している。生きた歴史の実体として花ざかりの青春を懸けるとき、現世において、この何人かの結団こそは世界的であり、いかなる文化圏でも果たし得ることのできない、そのような結びつきである。世界はそこから生まれてくる。 今このように思うときに、皆さんは「統一思想」の勇士である。いまだ日本歴史になかった思想圏に立って、あるいは宗教圏に立って、両方のすべてを総合し得た新しい主体性をもたなければならない。そして、世界的な日本のまっただ中に立っているというような信念に、いかに徹するか。これが間違いなく、万民の願う理想圏に立ち得べく、後継者となり得るか。事実そうか。そこに徹し、そこに決意せよ。誓いの的とともに、誓いの実体となり得るよう、そういう自覚の本源とみなし得るような感覚圏に、あるいは体恤圏に自分が立っているか、それが問題である。 それができていなかったならば、理想がいくら偉大であったとしても、それは皆さんには関係がない。それをもしも体恤したならば、ユダヤ民族が数千年の歴史を通過したとしたなら、我々は数万年の歴史をも徹して生き得る。歴史を顧みながら悲哀した場合には、それ以上の人であるならば、内心がそこに潜んでおり、原動力がそこに潜んでいるという肢体を認め、確信し、自覚し得る肢体になっているかどうかということが問題になる。そうなっているならば、一億がいても、問題ではない。固いものがあった場合、そこにぶつかると、柔らかいものはみな割れてしまう。何千、何万、何億あっても、問題ではない。強靭で、強固で、確固たるもので、だれもそれを変えることができなければ、「絶対的に強し」と言う。それ自体を発見した一人があった場合には、その一人によって、歴史は変わる。 皆さん青年は、今からこの日本の歴史を受け継がなければならない。将来の日本は、皆さんの勝利圏に、だれもが集うであろう。いかに日本自体が、自己の路線をもって勝利圏に立ったとしても、その主権が日本を担うのではない。担ったとしても、それは日本を有するための準備の過程の、そういう主権圏であった。それを最後において愛するような主体的な思想の核を、日本のあなたたちの中になしているという自覚心をもって、それに向かって環境が変わっても、それに影響を受けずに徹した路程を行くならば、必ず、あなたたちは日本の中心になる。だれが何と言ってもそうなる。それがアメリカだったら、アメリカに何人もそのような人がいるならば、アメリカの歴史を変える。もしそういう人が一人でもいたならば、その一人によって民族は変わる。いくら数十億の人類が世界中に生きていても、そういう人が地上に一人でもいた場合には、地球は回る。人類は回る。結局はそうなる。それは決まりきった結論である。 そうすると、あなたたちが、こういう自覚に徹した場合は、日本や世界は、自分の手の中につかみ得る。つかむばかりでなく、自由自在に動かし得る自信をもって、それに何倍かの迫害が加わってきても耐え忍び破れないというようでなければ、何十年、何百年を続けて治めることはできない。それは何年間にそうなるかといえば、長くて三十年だ。四十年もいかない。 目的観念に徹せよ あなたたちのある者は、「自分は何大学を卒業して、社会へ出た場合には、自分なりに幸福なその若者になったはずなのに、これなんだ」と、そう言う者がいるかもしれない。 不平を抱く者には、希望がない。不平をばらまく者には、希望がない。絶対的に滅びる。それをはっきり知らなければならない。迫害の中にあっても、不平を言わない。ガンとして走る。未来に向かって、死んでも落胆せず、喜びを抱いて死ぬならば、その人は歴史に残る。この思想は歴史を建設する。それがイエス様の思想である。不平を言いながら死んでいった者に、愛国者たるものは一人もいない。 親孝行する者は、親のために死んでいくのであれば当然である。正々堂々と、男として行くべき当然の道であるというように、これは親孝行なる者が行く道である。 ある者は普通の生活圏において、その道を行く。ある者は幸福な圏内において、そういう道を行った。ある者は一番貧乏の中で、その道を行ったとする。その中において、だれが親孝行の第一人者になるか。貧乏中の貧乏の中でそういう道を行った者が、親孝行の伝統の先祖になるのである。 歴史の主人にはだれがなるか。歴史の中で、宗教において、貞節を守るためにいかなる迫害の道でも甘んじて死に、乗り越えていったものは、キリスト教である。現世に生きているキリスト教文化圏である。しかし、もうそれは花ざかりを過ぎて、においは過ぎ去っている。そうすると、「統一思想」は世界を統一する。世界万民の、半分の半分くらいが「統一思想」になる。その思想のゆえに「殺してしまえ」と言われても、一遍で死んでしまうような思想、これは一遍で世界を占領してしまう。 だからあなたたちは、どういう道を行かなければならないか。滅びる道、衰える道、そういう道には行きたくない。栄える道、発展し得る道を行きたい。行きたいという目的観念に徹せ。それは人間ばかりの目的観念ではない。「統一思想」においては、神の心情をもちたいという。これは偉大な発見である。 天倫と人倫を一つにする 人間には人倫がある。人倫の母体は何か。国を愛し、家族を愛す。忠孝というのは、何につながっているか。法則につながっているのではない。情につながっているというのである。情の基盤を無視した理想観念は滅びる。希望とか、安息とか、喜びの観念は、情的基盤の上に立っている。人倫道徳を主張する者は、人情の基盤を無視した観念に立っている。それは無味乾燥である。人倫に対し、天倫がある。天倫があるということは知っているんだけれど、天の法則、天の原則、天の情を言った者は、一人もいない。 天情と人情が、いつも反発した場合はどうなるか。天情があれば人情を通じなければならない。天倫があれば、人倫を通じなければならない。こうなるのである。だから、良心の法則というものは、憲法第何条と言わなくても、良心のほうでは永遠に正視した立場に立っている。教えなくても、教わらなくても、それは分かるようになっている。悪いことか良いことか、みんな分かる。良心が喜ぶような情的内容は、なぜ分からないか。良心による情的内容を教わらなくても、分かるようになっているのであるけれど、その内容が分からない人がいるので、我々が善と悪を分かるようになって、それを救ってやらねばならない。そういう人間がまだまだ残っている。そこには理論的根拠がある。 そういう立場で見た場合、神が喜ぶ主義とはどういうものか。もしも神が喜ぶ理想世界、理想圏があるならば、その理想圏、神の理想とはどういうものか。我々においては、それは推し量る理想である。しかし、「こうだ、ああだ」と人間が言うような内容でもってつくることはできない。そういう理想であれば、その理想は我々には必要ではない。創造が問題である。創造を人間が否定してしまうことは絶対にできない。否定した場合には、崩壊とか、破滅になってしまう。そう考えてみた場合、「統一思想」は、神が喜ぶ思想であるとともに、人も喜ぶ思想である。神ばかり喜ぶ思想であったなら、神は孤独の神である。 いくら偉い神としても、一人では何もできない。もし、あなたたちが日本一の学者になったとする。そして一人ぼっちで図書館で座って、「ああうれしい」と、何もないけれど大声で笑っている。こういうのは、どうなったというの。「頭が回ってしまった。気違いになってしまった」と言う。神はいかに絶対なる神でも、いくらささいな被造物を中心として喜びを得たとしても、神の権威は落ちないというのである。相対者がいなければ、神は滅亡である。希望がない。発展の要因も、満足もない。すべてがない。男がいくら理想をもったとしても、女なくして何もない。男がいくら世界を救う自信があるといっても、女なくしては、おしまいである。その理想を、女と替えるか。「替える」と言う。それは何を意味するか。実体の相対者は、何より貴い。そうしたら女の価値が上がる。女が、歴史上たたえて余りある美人であるとして、男なくしては大変になる。その顔もいらないという。貴いものすべてをやっても、替えるという。相対者なきところには、希望も何もない。 絶対という言葉は、相対を認定しての言葉である。否認しての言葉ではない。絶対というのは、もう既に相対関係を言ってしまった結果の言葉である。相対があるから絶対がある。神様の希望というのは、神様ばかりの希望ではない。それではかわいそうな神様である。人間ばかりの、世界を中心としての希望をもっても、神は世界一の、天宙を主管する神様であるから、その人間自体の理想には、神様はびくともしない。そうであれば人間は、最後には落胆してしまう。「あなたと共同作戦し、世界的に共同して、つくり上げる理想はないでしょうか」、そう聞くようになる。神があるとすれば、そうならざるを得ない。 結局、人間だけの結果の世界を願うのではなくして、神と共同して協議してつくる世界を、自然と願う。そういう方面から見ると、「統一思想」たるものは、善人を乗り越えて、天上と地上、天倫と人倫が一つとなり、男、女を中心として一つとなるものである。偉大な発見といえば、偉大だ。それを妨げる者はいずこにいるか。「統一思想」によって祝福された家庭を否認する家庭は、それ以上の理論と、それ以上の理想の基盤をもった者でなければ、それは信じられない。 このように考えた場合、一人の男は「天地」の天を象徴し、女は地を象徴する。それらがすべての象徴の実体となる。実体ばかりではない。これらが完全に一体となれば、宇宙と完全に一体となるというのである。人間だけが一体となるのではない。神も喜びで一体となる。その原理の根底をもった先生が素晴らしいから、素晴らしいのではない。内容が素晴らしいから、素晴らしいのである。 必要な再臨思想 聖書を研究した場合、「統一原理」にはとても勝てない。八百年から百二十年かけて書かれた聖書である。そこに一貫した思想の内容がつながっているということを発見した。聖書をそのように書くということは、人にはできないことである。その思想が六〇〇〇年の今の末の時期において、世界に現れてきた。この内容は、だれも見いだし得ない。それは旧約聖書を中心として新約聖書を解明し、新約聖書ばかりでなくして、現世の世界発展の現状と一致する結論を出しているということは、これは素晴らしいものである。 あなたたちは知らないけれど、蕩減の道というのは世界に進行している。これを見た場合、もう遠くない。我々の自由な思想圏が、もう目の前にころがり込んでいる。我々に向かって突進してきている。それを料理し、人々を指導し得る人材としての日本の若者として、要は、どういう決意をもっているかである。問題は、自分である。我々が問題である。自分を中心としての強固なる信念、これを貫いた場合には、我々は自分の生命はもちろん、先祖たちの生命も復帰し得るという話を知っている。 自分一人の生命を抜いてしまった場合には、霊界の先祖たちの生命もつながっているから、それも引っ張られていく。自分を引っ張っていくということは、後孫たちが引っ張られ、歴史が引っ張られてくる。それを自覚し得るか。だから我々は、三時代を代表している。歴史を代表し、現世を代表し、未来を代表している。過去の世界においては、希望たるものは未来に向かって、突き進んできた。未来に向かっての希望である。未来、未来、未来というふうに、希望はあすにあると思った。なぜ、あすにあるか。きのうあって、昔あったなら、どうなるのか。希望を過去の中に振り返りながら、喜びながら見るのはどうか。何もないところに苦労しながら、希望を探すようなつらい歴史ではなくして、なぜ希望が昔になかったか。そういうこと考えたことある?。将来の歴史は、そうではない。今、我々が正そうとする歴史は、未来に残る歴史、未来に向かって進む歴史ではない。未来を動かす。現世圏内にいて、未来の価値より以上にたたえる歴史観である。未来における歴史は、過去を宝としながら、それにつながって発展する。 そうするには、理論的な体系ばかりではない。法則、制約、規約ばかりではない。そこには心情的問題が、歴史より以上の問題として根を下ろしている。これが神の父母の心情、真の父母の心情である。この思想は、永遠に残るであろう。真の父母を中心としての生活圏は、真の生活圏にならざるを得ない。真の父母が地上で生活していったその生活は、万民共に真の父母と認める以上は、それを生命の糧として、自分の将来の基台として、これを侍らざるを得ない。だから歴史を否認していくのではなくして、歴史をたたえていく。現世の実体と、その価値を比較対照し得る主体が待たれている。 だから自分が幸福なるものか、不幸なるものか、すぐ分かるようになる。今はそれが分からない。今の歴史はそれが分からない。自分が不幸なる者か、分からない。それは宇宙的な基準がなければ、自分はどういう方向に立っているか、東の方か、西の方か、南の方か、北の方か、分からない。今からの歴史は、そうではない。ちゃんと分かるようになっている。だからより以上の希望に向かって、未来に向かって、希望を抱くような、望むような世界ではなくして、過去を慕いながら、現世を生きる、こういう歴史になる。反対の歴史になる。堕落しなかったら、そういうふうになったんだろう。 あなたたちの使う言葉は、万民共に使う言葉である。そういう文化の環境は、世界的文化圏になったであろう。いくら歴史が発展しても、その基準を外れては現世が成り立たない。滅びるものは現世の歴史圏において流されてしまうものである。滅びてしまう。尽きてしまう。それ以上の基準でもって、あすの未来に再出発しよう。そうすれば、この堕落世界が過ぎ去っても、我々の愛する理想世界は、神によって残るであろう。 今までは、人間だけの世界であった。人間だけの歴史であった。神を中心とする歴史は、世界的になっていない。それは宗教的にはなっているのだけれど、世界文化的にはなっていない。だからそういう時代を中心として、再臨思想というのは、現世においてこれは、望まないようにしても、望まなければならないような立場に、自然と立つ環境にあるのである。 みんな尽きている。西洋人は、もう自分の西洋思想にはついていけない。東洋思想を訪ねてくるようになっている。それは人だけでは、尽きてしまう。神を中心としての思想というものは、これは当然、結論として押し出さなければならない。ことに「統一思想」は、これは願っても願わなくても、神自身、これを万民のものとして、絶対的理想として願わなければならない。そういう理想に立っているとするならば、あなたたち自身が、そういう理想観念に立ち主体性をもった者になっているかどうか、問題はそこにあるのである。 自分の生命を、何のために費やしていくか。「自分のために、子供のために」。自分は何のために生まれたか。「この理想を迎えるために」と考える。これ、ずーっと来たった歴史過程に、今日たった一時で迎えるべき、その一日、絶頂圏に達して旗揚げするために生まれてきた。これは素晴らしいことである。自分の歴代の先祖たちは、何のために今まで生まれてきたのか。「自分一人を残すために、今まで生きたり、死んだりしてきた」、そう思うのである。先祖たちは、そう思ってくれると、喜ぶ。あなたたち、先祖の立場に立ってみなさい。喜ぶか、悲しむか。まずもって先祖たちは、喜ぶ。先祖たちは希望をもつ。「後孫に自分より偉大な者が生まれてきた。何代目の先祖さん、自分は何代後孫のだれだれだ」と言う。十代、二十代は遠い。近いほど価値がある。彼は私の孫だ。孫よりも、私は子供だった。おじいさんより、お父さんが偉い。先祖を集めて、会合をやろう。いろいろ集まる。「だれそれさん、ありがとうございます」。向こうであいさつするようになる。そうなる。向こうは希望を果たし得られない。そういう希望圏外で死んでいった。その希望をなし得る勝利圏に立つその者は、偉い者になる。 歴史上の先祖たちの復活体としての「自分」という確信は、なければならない。その先祖たちに、「第一にこうやり、第二にこうやり、第三にはこうやらなければなりませんよ」と教える。先祖たちは、「は、は、はーい」と言うのである。絶対的にそういう立場に立つという自覚をもったことがあるか。それを考えたことがあるか?。ないか?。あるとするならば、それは偉いものである。「統一思想」によって、そう考えるようになったとすれば、偉いものである。 先祖を中心として決意する。それは恥ずかしくない決意でありたい。現世において日本に一億の民があるとしても、我一人と替えることはできない。それを考えたことあるか? 一億の何倍、何億倍の価値がある。数で考えた場合、一億分の一でしかないだろう。価値からすれば、一億、何億倍になる。そういう自信、価値観を体恤したことあるかというのである。日本内にいる君たちだ。絶対日本が我々を必要とするというような、影響し得る動機の主体にならなければならない。影響される者になっている。それでは、生命はない。そういう自覚をもったことがあるか。たった一人であるけれど、日本人を率ゐる日本人、それ以上の日本人、それは気持ちいいんだけれど、日本内の日本人、それは気持ちが悪い。 氏族のメシヤ思想 あなたたち、勉強好むの?。好まないの?。勉強をしたいという者、手を挙げて。(はーい)。手を下げて。勉強したいというのは、勉強すれば希望があるし、成功するということを知っているからであって、もしもそれを知らなかったら、勉強はしたくない。勉強、だれがするの。なぜするか。これに比例して、何か自分に受け入れるものがあるからという希望をもっているからであって、それがないとすれば、勉強はしたくない。本当は勉強はつらいものである。本当は、春の陽気の花盛りを眺められる、においかぐわしい環境になった場合、「ああ勉強したいなあ」と言う者がいるの?。仕方ないから、勉強をする。渋い顔して、歯を食いしばってやるのである。なぜ。今喜ぶ春より、何十倍より以上の喜びの春を迎えるためである。 壇上で大きいことを言う先生であるが、今まで何をしたか。何もしていない。有名になったのは、悪いうわさだけである。良くないうわさで世界的に有名になった。そのうわさを考えると、胸を悪くするような思いをするのだけれど、それがなければこういう道は行かれない。有り難いものだ。それがあればこそ、だれもできない統一教会の文さんになる。先生になれる。分かる? みんな、歓迎する。みんな一から百まで、生まれたばかりの子供まで、「はい、はい」と言うような具合である。それは、だれもがそう言う。だれでも、競って歓迎する。しかし、願わない世界を開拓すれば、願わないうわさも起こる。願わない開拓の基準が、願うより以上の基準に立ってみれば、世界は一遍に、あーっと転がってしまう。そういうことを、ちゃあんと秤で計って、間違わない計算、それから実証の価値の内容を見つめているからこそ、こんなことができる。それはつらいことである、本当は。 腹は減る。腹が減るのを喜ぶ者は、死んでしまう。真実中の最高の真実は、腹が減ること。御飯がおいしい、欲しいというのは、最高の真実である。それよりもっと高い、最高の真実は、愛したい。そうなる。眠りたくても、こういうふうにして、これより以上の何かを収穫する、収めることがあるからこそできるのである。なければ、これは無能なことである。 そこであなたたちは、歴史始まって以来、林家なら林家において、我は王様だ。これは、氏族のメシヤ思想である。それを、日本のすべての氏族圏内にあっても、そうやる。一年過ぎても、十年過ぎても、思えば思うほど、懐かしく考えれば考えるほど、おもしろい。そういう思いで満たされるような立場、そう考えたことがある?。神はこれを愛して、我が氏族のうちに自分というものを選んでくださる。何々家、林家とか、氏族を中心に、たくさんの姓がある。だから再臨の時は、キリストと共に、王様になる。天の氏族になるのである。再臨の主は、世界的中心の先祖だけれど、あなたたちは氏族の中心として、同じ先祖である。だから、現世を総括しての中心者には間違いないという確信をもたなければならない。 現世、我なくしては成り立たない。反対する歴史は後退すべし、そういう確信をもて。自分の行くところには、すべてが続く。神も願うような決心をもたなければ、その氏族なら氏族を代表して、復帰の手を伸ばすことはできない。何にも負かされない、そういう自覚をもったことあるの?。あるいは、そういう自覚もちたいの?。(もちたいです)。もちたいのだから、もったことないということではないか。そういう観念、自覚をもたなければ、動機が生まれてこないというのである。動機なくして、結果が生まれる原則はない。そういう信念でもって立ち上がり、やろう。 何日くらいやるか。一時間やろうか。やろうとする時間が長ければ長いほど、勝利の圏は広くなる。十年間やろう。それは短い。何十年やるか。原理的に見た場合、何十年、少なくても四十年。四十年は二十年と二十年を合わせて四十年にしよう。二十年は三掛ける七で二十一。寝るのも、食べるのも、行くのも、そのためである。それ以外、一切許されない。当たるものは、みんなこっぱみじん。 そうすると、その道には、立ちふさがる障害物が出てくる。自分の決心が大きければ大きいほど、「事実そうか」と言って立つ者がいる。そのような体験をする。これこそ自分の敵だという場合、日本において一騎打ちというのがある。これこそ万年の怨讐との最後の一騎打ちだ。日本刀をひゃーと抜いて、そういう気持ちだ。さあ、君の実力を果たせ。 日本一はだれか。私は少なくとも七等、あるいは三等以内には必ず入る。その人が十二時間働くならば、私は十六時間やる。それ以上、二十時間やる。そう決めてかかる。やる。厳格に。日本的にならずして、世界的になる。 先生は、帝政時代にいろいろ拷問を受けた。打て。 角棒で何人かがする。打て。 打たれて、自分の決意を捨ててしまうような男ではない。そんな生易しい男ではない。死んでも復活して、何回も戦わなければならない。自分はどういうものであるかを示す立場にある。生死の境、死という問題は易いものである。そういうような訓練を思う。二つとない訓練の場だ。いずれの場所でも、それはやる。敵が向かってきた場合には、後退するな。真っ向から戦え。戦うには、何年ではない。何十年、一生涯、一代でできなければ二代、三代……五十代、百代続く。結局は、それは勝利する。 そういう自覚を、あなたたち、今からもつだろう。どうだ。(はい)。日本内の日本人としての統一教会、それは資格がない。やろう。 第一作戦、第二作戦、第何十作戦、第何百作戦。夜も昼も、食べずしてやっていく。四年間で、すべての戦いをやり尽くす。しかし、その反面、勉強はびりにならない。優等生になる。 そうすると、一番必要になるのは時間である。時間の問題が先立つ。それにはどうするか。寝る時間を切ってしまう。食事の時間は、一時間は長い。たった三分あれば済む。日本の立ちうどんは、食べるのに三分かからない。先生は、もりそばをよく食べたものだ。汁に浸したら、一口で入る。そのようにする。 韓国では反対され、たった一人である。家もなければ、何もない。むなしい詩があるだろう。「金もなければ死にたくもなし」。だれもいないよ。金もなければ服もない。何もない。みんな、ない。環境もなければ、国もない。自分の兄弟もない。たった一人。同情し得る、感傷し得る、その価値を求めていく。そういう男の行く道は悲惨なものだが、それは価値ある生涯だ。過ぎてみると、結局は自分は敗者ではない。そういう観念だということを、あなたたち、自覚をもつか。 三十代までは準備期間 今から興亡盛衰の結論を出す。一生涯というのは短い。一生涯を区分する。何年から何年までには何をする。何年から何年までには何をする。一生涯のプログラムを作る。そういうプログラムを作ったことがあるの?。(はい)。自分は世界的な道を行くということを、はっきり分かった場合に、それは可能である。自分の道があいまいだったら、それを立てることはできないが、私はあそこに行くと確定したならば、可能である。それは正に間違いなこにおいて決定した。そして行ったならば、その人は素晴らしい成功をする。 だから人は、大概十七から二十三歳まで、その期間において、「自分は何になる」と決定する。高校二、三年から、大学四年までの期間である。これが精神的思春期になるだろう。そこにおいて、希望も理想もかなえられるような気になる。自分なりの本性、本心、青年として、自分としての肉身、良心も、完全に一つになって希望に浸される期間が思春期である。その時において、女とすれば、世界のお姫様に自分がなったような気になる。そういう心情になる。素晴らしいマラソン選手を見た場合には、自分の希望は、「マラソン選手になること」、立派な牧師を見た場合には、「自分も牧師になりたい」と思う。みんな世界において有名な者には、自分がなりたい。そういうように思う時は、みんな思春期である。そこにおいて、「自分はこういうものになる」「そこにエネルギーを消耗する」と、それを確定しなければならない。 それから三十歳代まで、この七年間は、そのような目的を中心として準備期間として費やせ。イエス様もそうだろう。イエス様の出発は、三十歳からである。三十まで日本的になるには、日本的なことをする。いろいろ体験する。大衆を指導していくには、大衆との内的結合圏を完成しておかなければ、それはできない。そのためには、何でもやってみる。一心をもって、何でもやろう。一番最短距離の幸福を収めようとするか、あるいは、解放的な分野において、自分なりに、自分の力の及ぶ限りにおいてそれを求めるか。まず第一には、アダムを中心にやることにおいて、自分のそういう活動をやってみたい。 やっぱり大きいことをするには体力が問題である。外的基準、そして情的問題において、自分はどういうものになっているか。女に弱い男がいるだろう。眠っているような、女に好かれるような、いつもそういう顔つきをした男がいるだろう。それは、男として生涯の道を汚すか、それを曲げるかする。それは情的問題である。これは、行くべき道において処理しておかなければならない重大な問題である。 君はどういうような立場に立っているか。それに自信があるか。それにはテストをやってみる。日本的な美人がいるとする。その美人が自分に完全にほれた。命懸けて自分に身をささげていきたいという、何でも従うという女がいた場合、それを完全に否定することができるか。初めから否定するような腹でかかるのではない。同じ情的立場に立った立場から考えて、み旨を思うとき、何の未練もなく切って、それを退けることができるか。そういう訓練をやる。将来いろいろ、そういうようなことが起こってくる。それと対決し乗り越え得る、自分自体の準備をする。この期間においては、そういう見解を言わずして、テストをやってみなければならない。 自分は重労働に、どれくらい耐え得るか。先生は、そういう重労働を学生時代にやった。いろんなことをやる。もしも「統一思想」を主張した文先生が、貧乏になったとする。貧乏に追われ、悲惨な境地に立った場合には、「統一思想」を捨てるかどうか。そういう境地でどうか。「これ以上になっても、どうなっても、私は行きます」という決意を決めていくか。そういう防波堤をずっとつくる。君の気持ちはどうか。それが銃殺か、木にかけられて死ぬか、大衆によって石打ちされて死ぬか、いろいろなことを考える。その時には、頭が割れて血が出るかもしれない。どこからひどいけがが始まるか、足か、手か、頭か、それは胸か。その時に何を思い浮かべるか。君たちとしては、こういうことを考えなければならない。ちゃーんと公式的に条件をつけて、テストする。 そういう死を覚悟した道において、先生はまだ死んでいない。だから、まだまだ行かなければならなこが残っている。一度その死を迎えられる、その時がいつであろうか。もしも、これが地上で果たし得られなかった場合、霊界に行って神にいかなる感謝をしなければならないか。そういうことまで真剣に考える。君、こういう環境において後退するか。そのように、完全な準備を整える。 あななたち、父母が反対するって?。先生が反対するって?。何だ。 国が反対するって?。何だ。 世界が反対しても我は行く。最後まで、天のお父様が反対しても、我は行く。そこまで行く。先生が歩んでいる時、四十日以上、神が直接反対したこともある。やる。 霊界を総動員して来る。これは神の国の国賊である。許されない。天地共に一遍に崩壊させてしまうような、そういうような怨讐の中の怨讐である。 我たどってきた道は、正当な道に違いない。それを保証しる実証はいくらでもある。きのうの善なる神は、きょうの悪なる神になるはずはあり得ない。「実証を失い、今こうなった神はもう神として立っていた善なる神でなくして、偽りの神でなければならない。これは何か。事実はこうだ」と言えば、「分かった」と言うのである。 そういう戦いをやって、「統一思想」は地上に生まれるようになった。これは現れなければならない。机の上で考えて、ああだろう、こうだろうと適当にやった基盤でもって生まれきては絶対にいない。そういうような軽い価値の、ちっぽけな価値の統一教会ではない。それを試してみる力がなければ、信じなければならない。信じてそれを試されるような位置を待って、力を尽くして働いていかなければならないのが、あなたたちの行く道である。 三十代までには、準備しておかなければならない。日本において、先生はみんなに変なことをやらせるかもしれない。三十代までは準備期間である。ありとあらゆるものにぶつかっても、すべて自分の材料としてこれを貯蔵しておけ。 世の中は複雑である。つながっている、ありとあらゆるものを消化する。消化する王様にならなければならない。主体的存在になるためには、すべてに神がいる内的基盤を準備しておかなければ、それはいつか思わざる時において、引っかかって倒れてしまう。準備しておけ。自分なりにみ旨のために、その解答の立場に堂々と立て。命懸けで立て。若き胸が鼓動する、その鼓動より以上の強い決意でもって向かう。その姿は、真実の姿である。その目つきは、何を貫通し得るか。凝視し得るか。自信をもって、そのことに向かった場合には、ぶつかる。 反対するものは、いい材料だ。いまだ生涯になき環境が我々に与えられた。その環境が将来、自分の日記に残る。新聞記者が記事を書くような材料である。あるいは、山に登って体力もつける。時には、山で生活するようなことも覚悟しなければならない。山に行く場合には、食べること、着ることを研究しておく。雪に覆われて、食べ物がない場合もある。洞窟に入って、何日も過ごさなければならないこともある。だから断食もする。寒はに、肌着一枚で生活をしてみる。これ以上のことがあったらどうする。準備しておかなければならない。 そういう観点からすれば、若者たちは、朝も、晩も、昼も、夜も、休まず訓練させる。室内訓練ではなく、実地訓練である。険しい山があれば、我々はトンネルを掘る。日本の若者、大学の卒業生たち、やれ。そうしたら、みんな逃げてしまうだろう。(いいえ)。一番み旨に徹した者は、いったいどういう者だろう。それを考えている。何千人いたとすると、一番はだれだろう。こう考えた場合には、だれもいない。第一は先生だ。どうだ。やる気のある者?(はい)。人間が必要である。若者が必要である。訓練してやるんだから、それは、自分のものになるということである。 生涯において、いかなることが起こるか分からない。それに対して、余りある準備をしていくのは知者のやり方である。それを少なくとも三十代までは、ありとあらゆる分野において体験しておけ。だから、夜も、昼も、休む暇がない。遊びに行く暇がない。先生は、富士山にも学生時代には行けなかった。先生は、四方八方、よく見回る性質をもっている。しかし、友達が切符を買ってきて「これで行こう」と言うのだけれど、学生時代は暇がなかった。だから、三十までは準備しておく。準備は何かというと、実践のためである。 三十代以後は実践期間 三十代以後は、実践である。実践自体である。それは旺盛なる、生気はつらつたるそういう期間である。それは四十五歳までの十五年間、大概十五年間である。十五年は実践である。一瞬の暇も惜しんで、準備の目的にかなゐる、心身を通しての実践である。四十五歳から六十歳までは、成就段階である。こういう方向に戦法を練って、復帰の公式を解いていくといい。 先生の七十歳までには、統一世界になる。七十歳代には、統一運勢が世界に漂う。そういう時勢に巻き込まれる。それは「二十一年」を知っているからである。だから統一運勢にならなければならない。だから先生が満六十歳代になった場合には、世界はどういうようになるだろうか。おもしろくなる。できなかったら、倍以上の真心を尽くす。夜も昼も、休みはない。不可能な場合には、それに倍以上の真心を尽くす。作戦を練っていく。 第一作戦、適応しなかったなら第二作戦、第三作戦をやっていこう。あなたたちそういう計画をしたことあるの。一生は一回しかない。だれかが生きてくれる生涯はない。そういうような青春期を、いかに費やすか。自分なりに命を懸けている、そういう生涯は貴いものである。その貴い生涯の道を、歴史と共に、主体と共にあれば、それはその渦巻きに巻き込まれてしまう者にはならない。新しい方向を提示して、自分なりの結果を、世界的に、あるいは歴史的に出す。そのために祈る。そういう計画をしたの?。していないの?していたなら、それは幸福なものである。 そこには、体面とか、面子とかが問題ではない。世の中が、「気違いだ」とか何とか言っても、それが問題ではない。成すべき実体が問題である。その環境が問題ではない。成すべきことはせずして、「自分にそういう結果が表れない」と言うのは、これは詐欺である。動機と過程を通過せずして、その結果を望むのは、どろぼうである。 いかに真剣になったかが問題である。生命というものは真剣なものである。あなたたちが今生きているというのは、死と戦って勝利の上に立っているから、今生きている。あなたたちの知らない無慈悲な戦いを済ませて、その勝利の上に立っているのを証明していることを分かっていない。記憶していない。活動しながら忘れているのだろう。これと同じである。あなたたちが生きているという背後には、その死という恐ろしいそのものと戦ったということを忘れている。 実行期間を計画しなければならぬ。青年としての実行期間、実践期間が必要だ。人には生涯において、自分のもち得る力一〇〇パーセントを、それ以上の力を尽くしたい。その限界を越えるという事実を見た場合、死んでもいいと思う。天のために尽くした、そういう事実は天界に行く。尽くさなければ、地獄に行く。 だれが何と言おうと、我には何も不平を言うことはない。真心を尽くしてやった、それ自体は事実である。天上、天宙すべての万象界において、堂々と唱える実体者となれ。滅ぶ、嘆く、何ものもない。その実体を、神によって造られたすべての万象は保護する。それに反対するものは一つもない。いくら考えても、これ以上果たし得ない、善の力として、これ以上やれないという限界を乗り越えている。それにならなかった場合は、失望してしまうという基準でやる。すべてが結果に表れなくても、世界から必ず目をつけられる。そのようになっている。 実行期を命と共に戦う。そこにおいて、自分の目的を果たす道に嘆けば、苦労のどん底に後退しなければならない。不安を感じたりするのは、自分の目的に対して完全な決心をしていないからである。そういう結論になってしまう。その目的を成就するには、それに向かうすべての基盤の道を消化し得る決意が必要である。そういう基準でやる。我々は、世界的人物になろうと決意するならば、霊界全体の、その第一の怨讐となることは当然である。それを避けて行こうというのは、その目的を延長させる方策でしかない。これをこらえる。実行期間が必要であるということである。実行期を通過しなければ、完成期間、勝利期間は来ない。 関心をもたざるところには、成功の動機は潜んでいない。何か悪いことでも、関心をもたなければ、それは日本的にならない。いいことでも、日本的に関心をもたなければ、日本的善人にならない。そういうことをずーっと思うと、おもしろい。自分なりに決心して、「我が生涯において、この期間は必ずやると神の前に誓った準備期間であります」。そういう期間があったの、なかったの?。なかったらかわいそうである。惨めなものだ。そういう期間があってこそ、実行期間を願う。 今あなたたちは、実行期間に入っているか。入っていないとすれば、それは日本をだれを頼りとして、神の摂理の道を展開していくだろうか。先生がもしいなかったならば、あなたたちは四方八方に散る。イエス様が十字架につけられる時、十二弟子が散ったと同じような、そういう結果になる。先生がいなくても、この思想を、日本のいかなる部落にも植えつけて、あとまでやると自分なりの証明をし得る実績をもつということになっているか。 準備をこれだけ命を懸けてやったんだから、これだけ真心を尽くしてやったんだから、くたびれることができない。いくらいいことがあって、人が誘って自分を引きつけようとしても、引きつけられない。今までやったその事実は、あまりにも真実である。あまりにも真心を込めて誠を尽くしたのだから、それを否定する何ものも見つけることができない。そういう立場に立ってこそ、善なる立場に立ってこそ、絶対的神の信頼を受けることができるのである。神はそういう者を探して、一時は計画の一点として使う。 しかし、生涯かけての勝利の基準としては、その前に氏族なら氏族を中心として勝利者にならなければ、神の歴史的な摂理の基盤をつくることはできない。ある団体の指導者も、そういうような見地から人を探す。それは当然のことである。人間もそうであるということは、神はそれ以上でなければならない。そう思うとき、日本のあなたたちが、責任をもって自分の将来の道を、準備の路程を、今まで考えなかったというのは、それは摂理の観点からすれば、非常に耐えられないことである。 完成期は収穫期間 それから、完成期においては、出した結果のとおりに収穫される。自分が真心を尽くして植えた、そのとおりに収穫する。真心を尽くしたならば、真心の結実は収まる。だから実行期においては真心を尽くせ。一日過ごすには、流す涙があれば、心情を込めて、涙を尽くせ。涙を流さない日が一日でもあるなら、我は許さないというように、真心を尽くせ。真心を尽くしてきたのだから、その結果は、真心の結果として迎えるのは自然の原則である。 あなたたちは若い青年である。今から日本の運命は、あなたたちの双肩にかかっている。日本の今後の行き方に、アジアの数十カ国、アジア全体の、全民族の運命はかかっている。こういうことを思うとき、あなたたちの責任は、重大である。八億近い中共が問題ではない。中共は跳ね返る。「統一思想」を武装したならば、そういう実行力をもつ実体にいかになるかが問題である。そう思うときに、あなたたちが、そういう決意でもって総進軍するならば、新しい日本は生まれてくる。新しいアジアにおいての、日本人として貢献する新しい希望の摂理の基準は、そこにおいて開かれるであろう。そういうふうに、真心を尽くして真の準備、真の結実を迎える立場に立ったとすれば、それは絶対に問題ない。そうでなければならぬ。そうでなければ滅びる。 人を適当に準備して、やろうとする者がいたとする。もしそのようにして、利用するその基準が過ぎ去ってしまったならば、自分はどうなる。何になる。利用する相対者がなくなってしまった場合には、自分はどうなる。何にもならない。だから、そこには結実がない。いちじくみたいだ。 自分なりに確実にその種となっている、どこへ行っても、それは根を下ろして成長する、そういう者だったら、そのような個人になっているならば、これは日本が問題ではない。あなたたちが、そういう決意でもって燃え上がって、今からどういうふうにしようか。 高い所へ行って、父に祈る。その山頂において、このような心情をもって祈る者は、歴史上、我が初めてである。その者の前に、展開される万象を眺めるとき、神が、天宙を創造した最後の祝賀式をやったならば、どのような思いをするか。第一声は、何をどうしたかである。それで先生が神の道について、こういうものを発表したのであるから、祈る時に、そういう気持ちをずーっと祈る。実に素晴らしい気持ちである。山水草木は、喜び、たたえるような気持ちに巻き込まれる。ここに逆らうものがあったならば、我許さない。すべてを包囲してしまう。悪の霊だったならば、みんな切って滅ぶべし。悪は、すべて日干しになる。そういう祈りである。 そうか、そうでないか、霊界に試してみれば、そうなっている。それは素晴らしいものである。一人の叫ぶ祈りの原動力、その力は、ここまでこういう霊界まで果たしきるというような、素晴らしい内容を語っている。それを語っている者は、だれか。自分である。それは自分なりに恐ろしさを感じるようになるのである。だから自分は恐ろしい。いい加減にできない。そうなるのである。そういうことは、通常のことである。奇跡でも異常でも何でもない。 今からあなたたちは、いろんな責任者になるだろう。その時、まずもって、天の権威、その伝統的思想を、絶対汚してはならない。我々は神の権威をもって立っているという場合には、交渉とか、会話するときには、ずーっと刺激して、したがって向こうでは、汚すようなことを言う口は、開かなくなる。そういうような実地的な生活の感情とともに、あなたたちがそれを体験しなければ、生きた神様に侍るという、生活圏内にいます神様という存在を認められるかというときに、これを認めることができない。それを認められない者は、敗者である。だから、いくら社会に出て、会社に勤めても、良心的価値基準は、そういうものではない。一つの鉱石を見ても、これはいい加減に取り扱われない。それなりの存在価値、目的観念に徹した、その価値の内容は、十分に見いだし得る。それを無視する者は、創造目的に逆らう者である。神の国に逆らう者である。 人にいかに忠実になるか。そういうことになる。それから天にいかに忠実になるか。だから、物的世界において、人的世界において、神的世界においてそうである。そういう真心を尽くして、いかに基台をつくり得る自分になるか。そして時間を乗り越えなければならない。 公的道・仕える道 興亡盛衰、この言葉において成功を収める一番の道は、公的な道である。み旨が絶対的なものであれば、それは絶対的に仕える道である。そこに、絶対的なる相対者としての自分が、絶対的な真心を投入すれば、絶対的に成功し得る。その内容を決定する動機になるという。これがすなわち、世界において栄えるための起点になる。それに反するものは、みな滅びて、消え去ってしまう。歴史と共に流れていく者になる。 歴史に逆らって、それを新しい世界に引き上げるような者になるには、今言ったように、絶対的神のみ旨の前に立って、自分が絶対的基準で、絶対的真心を尽くす。そういう行動期間を迎えて、成し得た者がいれば、それは天国から逃げていこうとしても、逃げていった所が天国になる。天国が追いかけてきて、それを抱擁してしまう。だから「神様」と呼ばなくても、神の子供になることを願わなくても、もう既になっている。もう晴れて、住んでいたという自分を発見するようになる。それがいわゆる再臨の道だ。それ以外の道は、滅びの道である。 先生は、今から何万年後、何十万年後において成就すべき、そういう目標を決めて祈る。目的がある。真心を尽くした場合には、その目的を果たすために、神はいまし給う。神と真実の子供との誓約である。その約束は、完全に成る。成るまでに、世界、万民が救われてしまう。それを成就させるには、世界を救ってやらなければならないからである。そういう祈りを、今しておくことである。歴史のために、祈っておくのである。 あなたたちは、そうではないだろう。きょうお祈りして、いいことがあれば、「神様ありがとうございます」。ちょっとつらいことがあると、「いるかどうか分からない」。いるか、いないか分からない期間が長いのが、一番いいというのである。あるかないか分からないながらも、真心を尽くした場合、それは一時に天下を治める勝利の見地が立つのである。善のために尽くしたこと自体を否認して嘆くということは、真なる善が分からないからである。善なる神様がいるのを知らないからである。神様がいるということを分かった場合には、そういう心配はいらない。新しく決意して、そういう方向に引っかからないように努力してもらいたいのが、先生の頼みである。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.14
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특별집회 특별보고 -윤영호 본부장 202106136月13日、真の父母様をお迎えして行われた特別集会でのユン・ヨンホ世界本部長の報告(言語:韓国語)です。リトルエンジェルス祝賀公演一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.13
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「復帰の恨み」1971年3月19日ソウル西大門地区にて 復帰という言葉は、失われたものが本然の状態に再び戻っていくことを言うのであります。 「アダム」と「エバ」は天が予定された「エデン」の園で創られ、全ての祝福の恵みの圏内で関係を結ぶことの出来る立場を占めておかなければならなかったのでありました。このようになれば、万物が喜び得る勝利の立場となることが出来るのであります。このように我々人間祖先がそれを相続し、又生きなければならなかったにもかかわらず、堕落によって、許された祝福を全て喪失するようになってしまったのであります。 我々人間祖先が堕落しなかったならば、天と一問一答しながら天の愛を代表することが出来ました。一方において又、存在する全ての万物と万象は、天が愛していらっしゃるその息子と共に関係を結ぶことが出来たのでありました。それにも拘らず、人間が堕落した後には全ては彼らと関係を結ぼうとしても結べない、このような悲惨なる境地に陥ってしまったことを我々は知っています。 どれほど悲惨になったか?すでに許して下さった万宇宙の存在全体を失った立場に立ったと同時に、天と関係を結ぼうとしても結べない立場に陥ってしまったのであります。そのために、主管しなければならない被造物を失って、自己自体の全面的な全ての生命の根源でいらっしゃる、天の愛だとか、天と関係を結ぶことの出来る一切を失ったのであります。 天は堕落人間を捨てられない しかし、天が堕落によって失われた人間を捨てることが出来ないのが父子の間における因縁で、創造なさった神の事情なのであることを知らなければなりません。いいかえれば、父母が子女をもっていて、その子女がいくら脱線して父母との因縁を絶ち切った立場に陥ってしまったとしても、その父母の心は子女に対して情を持ったら、その初めの情とその因縁を忘れようとしても忘れることが出来ないと同じように、父母よりも貴い愛の心をもった神の前においては、人類祖先アダム・エバが堕落したとしても、堕落したアダム・エバを忘れようとしても忘れることが出来なく、切ろうとしても切ることが出来ないのが神なのであります。 彼が悲惨であればあるほど、又その前に許すことの出来た栄光の貴い価値の基準が高ければ高いほど、それに相反する悲しみが残らざるを得ないことを、我々は考えることが出来るのであります。 彼が天の前に戻って来ることの出来ない、永遠にそれてしまったそのような結果に陥って「アダム」「エバ」をながめていらっしゃる天は、永久に会うことの出来ないためいきの中で、それでもある会うことの出来る一つの道を作って、再び迎えて許して下さりたいことを、父母の心情を察することによって知ることが出来ます。そのために、永久に関係を結ぶことの出来ない立場に陥った「アダム」と「エバ」ではあるが、ある条件を立てて、昔の堕落しなかった本来の天が愛したかった自由で幸福なるその基準を中心として、感じるその感情は、天の心の中で忘れようとしても忘れることが出来ないのであります。 その心がただの恨めしい堕落の結果によって作られたその「アダム」と「エバ」をながめていらっしゃるようになる時、これを取り消してしまって、全く忘却することの出来る立場に立ったならどうであったか? しかし、愛の道というものはそのようなものではありません。 今日この地上で堕落した人間の間においても、互いの因縁が結ばれた立場をもって進む時、それが距離が遠ければ遠いほど、ここに互いが懐しむ我々の情の世界をみる時、かえって天の愛の心情は切ろうとしても切ることのできないのが天の立場であり、心情なのであります。 このように見る時、天がそのような心でアダムとエバを考えるとしても、その思いを全面的に受け入れるような立場に立てないというのであります。 神の恨みは深く 思って下さるのがかえって悲しみとなり、思ってやろうとする行動はかえって反対の結果をもたらす時、そこに内的にぶつかってくるその恨みが、いかほど大きかったかを我々は考えなければなりません。堕落した人間が悲惨であり、可哀そうな立場に陥ったが、本来のあの子女達がその可哀そうな立場にいてはならないし、祝福を受けた栄光の中で、万民の中心となって万宇宙の根源とならなければならない、そのような立場であることを知っていらっしゃる神は放棄しようとしても放棄し得ないのであります。 このような立場からながめていらっしゃる天の内的苦痛はいかに大きかったかという問題を考えずにはいられないのであります。 堕落は天が動機となったのではなく、人間「アダム」「エバ」が責任を成せずして、そういう結果になったのでありますが、天が人間に全面的な責任を委ねるとすれば、人間は永久に帰って来ることの出来ない破壊自体として残されることでしょう。 そのために、天はこのような人間の堕落も私が責任を成せなかった故にああなったという心を神の内心で呼び起こして、その堕落の責任を人間にまかせるのではなく、天自身が引き受けてみようという心を持つようになるまで、いいかえれば、狂ってしまった全ての心情を収拾して再び許しの心をもつまでの心情は、我々人間としては測ることの出来ないものなのであります。 いいかえれば、この世で年老いて得た愛する一人息子、娘がいるとした時、その息子、娘を大切に大切に育てるにおいて、もしこの息子、娘が堕落して父母を裏切る立場に立ったとすれば、その父母の苦痛は如何に大きいだろうか? 父母としては、一から十まで責めるような、そのような立場ではあるが、それでも、ある条件を立てて再び復帰する道、再び帰って来る願える一点があればと願う、父母の堕落した息子に対するなげきとして残るのを見る時、堕落した父母さえもそうであるなら、天の立場はいかほどでありましょうか、ということを皆さんは知らなければなりません。 親としての天の苦痛 堕落した人間自体としては、再び蘇生することの出来る道であるということは、考えることさえ出来ないため、それを復帰させることの出来る責任も私が受け、君は天の側にある小さい条件でも提示してほしいと願う、即ち、私が悪かったとか、そこに屈従するとか、私が真に父の前に帰っていきますという、変った一つの条件を要求せざるを得ない天が、父母の立場で如何に苦痛であったかを皆さんは知らなければなりません。 人間が堕落した愛を中心として生まれた故、その全ての生命と願いの全ての動機というのは、理想的な天の愛を通じて成されたのではなく、反対する立場において、反抗する立場と排斥する立場で出発するのであり、絶対的な真なる天の愛と天の願いと天の生命力とは関係のない立場にいる人間であるため、これを如何にして天の愛の圏に切り換えるかというのが、極めて難しい問題として残されるのであります。 互いに相和して天の前に帰って行くことの出来るある基があって、一つが動けば二つが動くことの出来るそのような内的な動機をもっているなら、これは可能な接続線が結ばれるにも拘らず、そうでないというのであります。 例えば、天が(+)だとしたら(-)として表われることによって、相対的関係として和合することの出来る基盤を広めて行くことが出来るにも拘らず、善なる天が指導するようになる時、善なる主体(+)の前に悪なる主体(+)として表われるというのです。(+)と(-)は和合することが出来ず、かえって反対的な(+)形態として表われる時、天の悲しみはどれほど大きいでしょう! そのような立場にいる人間達を集め入れ、これを再び(+)の前に吸収させることの出来る、そのような要素とそのような条件を提示する天は如何にせつないだろうか! それを提示する為、如何に悲惨な努力をしたことでしょうか。 これは正常的でなく、考えられないことである。 それでは、人間自体が考えられない立場で天と相応することが出来、和合することの出来るそのような行動自体を成すことが出来るか、これであります。 その為に、十であれば九つまで天が調整して、条件を立て得る道を教えてあげなければならないというのです。しかし、教えるにおいて、天自身が直接表われて人間に教えることは出来ないのであります。堕落した人間以外にはほかのものにも教えることが出来ないのであります。天使も堕落したし、第三の他の存在もないためであります。 復帰への唯一の道 それでは、堕落した立場からどのように引き上げるか、それが良い立場で自分が願う通り全てが順序良くなって行って、それで終り、流れてしまうのであります。そのため、このような人々を再び復帰させようとする天は、彼らの行く道をふさぐのであります。そして、一つだけしか道がないようになった時、そちらに出て行くようにするのであります。それで、人生は苦しい、どのくらい苦しいか、死ぬことが出来ずして生きている。そうでなければ、復帰されることは出来ないのであります。そのために、行く道をふさいで谷に押し入れて、わきから出ずることが出来ないようにつくって、上から押して、人間を押し込む、そのような摂理を天は成していらっしゃったのであります。 皆さん、放蕩者がやるままにその父母がそのまま放っておけば、どこへ行くか知っていますか? 十であれば十、全部流れてしまうでしょう。“愛する息子はなぐり、憎む息子は御飯をたくさん与えなさい”という言葉もあるように、良いとして、そのまま放っておいては大変なことになるのであります。 それだったら、嫌がるところに押し出しなさい。誰が、嫌がるところへ押し出すかというと、悪魔ではなく、押し出すのは反対に神であります。 食べたいと言ったら食べさせないし、行きたいと言ったら行かせないように。全てを反対に押し出さなければならないのが天であることを知らなければなりません。皆さんが、立派な家の出で育った子女達は話さなくても注意深いし、行動も慎重だし、礼儀も正しいのであります。この頃の若者はそのように制約を受けたがらないでしょう。育っていく人達には嫌なのであります。このように、我々人間の世界で我々自体が自分勝手に生きようとするままに放っておけば、亡びる道しかない為に、必ず「ブレーキ」をかけるのであります。 何故そうするかといえば、堕落したという名詞をもっているためであります。そのために、百%人間が行く道を妨げるというのであります。人間が神と本質的に相衝の立場に立っているために、そのような人間を救うのにおいては、人間自体を肯定してはならないのであります。 善と悪 悪い人間が善なる人を引っ張って悪くするのは悪となりますが、善なる人が悪い人を拉致して、どんなことをしても、善なる人にすれば善なることであります。いくら彼に深い苦しみを加えたとしても、最後には立派な人となったならば、復讐をするという人はいないのであります。かえって感謝するのです。方法は同じであるとしても、その目的が善であるか悪であるかということが問題であるために、その目的が善である時にはその過程も善になるのであります。 天は絶対的な善であるために、ぶんなぐったとしても、その結果は善として残るのであります。サタンが善なるのを拉致して、悪くするので引っ張っていくのも悪であり、それを増やすのも悪であるが、しかし天は悪なるものを引っ張って行って善なるものにするため、苦難の道へと押し出したのです。もし、そうしなくても他に方法があるなら、どんなに良いでしょうか。 そのために、そのような人達を善に導こうとするので、悪い人に押されるようになるのであります。かってに憎くさせるのであります。憎むので一緒に住むことが出来ない。そのため、孤独、単身になってしまうのであります。 いくら信じようとしても信じる人がいないし、信じられる国もなく、死のうとしても死ぬことも出来ず、生きようにも生きることが出来ず、どうすれば良いか。このようになってこの世の人間こそ、ある絶対者を求めるようになる時、初めて信仰心が芽生えるのです。 孤独単身の道が不幸ではなく、孤独な立場で自らの過去を反省し、人間の根本が何であるかを考えるようになり、従って、自然万物だとか宇宙をながめる時、ある絶対者がいて、神がいたなら、その神と共に一つになる道はないものだろうかを追求するようになるのであります。 生と死の交叉 輝かしい光をながめる時希望として見えるのではなく、絶望としてその日その日を送り、夜を徹しながら死ぬか生きるかの極限点においてうなりながら、主よ! 私の行く道を導いて下さい、という姿は、結局この世の人達からは落伍者として落ちてしまうのであります。何故そうなのでしょうか? そうしなくては、救う道がないためであります。 堕落した人間が行く道は生の道ではなく、死亡の道であるために、その行く道をふさいでおくことによって、絶望の中で、私は死ぬという、生と死の交叉がなされるのであります。 我々がこの世でみても、一年中、春夏秋冬のようなものがあり、我々の心の世界にもあります。人間においてみると、春の季節に当たるのが少年時代であり、夏の季節に当たるのが青年期であり、老年の時代は秋に当たり、死んでいく時が冬なのであります。一日を見ても、朝が春に当たり、昼が夏、夕方が秋、夜は冬に当たるのであります。天地法度が全部このように運行していくのであります。 春が来れば花が咲き、全ての万物が蘇生するのと同じように、人間にも周期的に本郷が懐しくなる。何故かは知らないが、天が父でいらっしゃるならば、父を懐しむことの出来る心の波動がこみあがって来るのであります。言いかえれば、心にも門があってこの心の門が天と共に一致しないが、三年、七年、ある時はぴったり合う時があります。この時に初めてこの世で落伍された立場で、絶対者を切に慕う人間の心の門と神の門が一致されて、その道に従って行けば、新しい人生の春を迎える時なのであります。そのような境地へ入れば、喜悦に満ち溢れ、強い力が出て、私の心の中で激しい闘いが始まるのであります。肉体にしつこくくっついている悪を打開してしまって、勝利の基盤を築き上げて、初めて解放された喜びを味わうことが出来るのであります。 しかし、時に合わせることが易しくないのであります。一度合わせ二度合わせれば、天の方向性を知るようになります。即ち、太陽が登る前には東がどちらであるかわからないが、太陽が登れば知るようになるのであります。 天が心のように動くのかがわかるようになれば、その心の時は従っていくのであります。しかし、心の門が開くのにも、黙っていればさっと過ぎ去ってしまうのであります。そのために、このそっと通り過ぎて行くことの出来る動機の因縁、生の因縁、感情の因縁、その瞬間の因縁をつかまえて従って行く時、回るようになるのであります。そのような感情からそのような体験の契機をよくつかんで、その因縁と共に天と一つになって、その感覚と一つとなる為に精誠を尽すのであります。 言いかえれば、「ラジオ」のダイアルを合わせて初めて音が出るのと同じく、心の門のダイアルを合わせるのであります。その味を味わったなら、少しだけやりたい気持ではなく、老いて死んでしまうまでやりたくなるのであります。 このように見る時、人生の落伍者が可哀そうなのではなく、新しい出発の契機となるのであります。そのようにして、真なる道というのは、堕落人間において百%反対の道に行かなければなりません。生命に至る道は狭いのであります。 宗教の時代 世界的に豊かな生活をする人が幸福なる人であるか、貧しい人が幸福であるか。豊かな人は天がブレーキをかけるのであります。時がかわれば、高くいた人達が低くなり、低くいた者達が高くなるのであります。 昔には、たいがらの良い人が出世をしました。次の時代に、グレンタイ即ち力が人間を支配し、その次には手足が支配する時、即ち労働者農民が支配する時が訪れたといいます。それでは次は何が支配する時であるかと申しますと、ばかにされている宗教人達なのであります。今宗教圏内に二十億以上の人達が入っています。 共産党は労働農民達を動員せよと言ったが、これからは世界の良心的な有志を動員せよという、宗教の標本運動が世界中に始まる日には、頭を使った人達も力を使っていた人達も、手と足を使って支配していた人達の時も、みんな過ぎ去っていくのであります。これからは誰が主人になるかといいますと、神がならなければなりません。そうして、このような時が来る為に統一教会は宗教統一を目標として来たのであります。 今日、知恵をもっている人、力が強い人、このような人を分析してみると、世界人類を救うのに協助することの出来る内容はないのであります。それで先生は、そのような全てを分析してみて、今、我々が生きる道は良心的な有志達を動員する、そのような運動を世界的に広げているのであります。 苦労の道を行く 統一する立場はどのような立場にならなければならないかというと、人間達が好む立場で統一されればしてもしなくても良いのであります。 人間祖先達が好む立場で堕落したが故に、そのような後孫として生まれた人間達が好むままにしては統一したとしても、又再びこわれてしまうのであります。これを反対に打って悪をなくして、統一しなければならない為に、ゆるぎなく行かなければなりません。そのために先生は苦労の道へと押し出すのであります。いくら立派だという人も、このような苦労の道を行かずしては、統一の道では必要のない人であります。 統一教会のみ言は良いが苦労はいやだという人と、苦労も好んでやるという人と、神はどちらの人を愛するでしょうか。苦労をしますという人を好むのであります。数多くの愛国者の中で二人だけが残ったとした時、一人は背も小さくみすぼらしい人であり、又一人は背も高くすばらしい時、このような人が愛国者になることを願うでありましょう。しかし、すばらしい人は何ケ月間だけやって、背の小さいみすぼらしい人は一生を通して苦労しながら功績をつんだ時、誰がより愛国者でありましょうか。これは言うまでもなく、背の小さい人であります。本当の愛国者は、死の道を選びながら生をかけて、最後まで愛国した人でなければなりません。 しかし、大韓民国での愛国者は、世界を愛した聖賢に比べれば、これは又何でもないのであります。そのために、天の前に愛国者と称号を受けようとすれば、韓国的であれば良いか、世界的であれば良いか、時代的であれば良いか、歴史的であれば良いかという時、これは世界的でありながら歴史的であれば、天は安心して彼を信じて国を任せることが出来るのであります。 それでは、世界のためにどのくらい忠誠を尽し精誠を尽さなければならないか? 百ぺん死ぬことがあっても屈する心を持たず、それでも変りなくて、身もだえながら行かなければなりません。 何人もの子供を育てている父母が、その息子がお金が必要だと言って与えたが、何度もそういうことをするので親がしかる時、いじになってしまわないで親を説得させて謙遜になる時、親が与える道があるが、その立場で不平を言っては、その時から違ってくるのであります。 又、愛する娘がいるが、その娘に父が何かをやらせても、このことをやらせる父の苦しい事情を思い、私は若いからと言って喜んで受け入れる娘がいるとすれば、その父母は息子よりもその娘と共に住みたいと願うし、遺産があれば、その娘に相続させたくなるのであります。 父母のために心を尽し精誠を尽し苦労をして、よりよいもののため涙を流し、父母と共に住む人はその父母の愛を受け、父母の相続を受けることが出来るのは、我々人間世界においてもみることが出来ます。 最後の試験 天がなさる仕事に百ぺん死んで良いと従って神のみ旨のために生きようとする人がいる時、一番最後の峠に行っては必ず試験をされるのであります。この試験はここで九九%がなされたとしても、天のみ旨の前に完全におれてしまうのであります。 そのために信仰の道においては、私がこのようなことは信じ、あのようなことは行わないというある境界線をもって信仰生活する人は、信仰の道を最後まで貫くことは出来ません。そのために信仰の道には従順屈服して行くのであります。 今まで天は誰をつかまえて事情を話せるだろうか、誰を訪ねて教えてあげようか。私が偉いと、自分が正しいとする既成教会の牧師達ではないというのであります。 統一教会は今まで異端だといわれて来たが、今まで新聞広告を出して反駁したことがないのであります。黙々と、反対を受けながらも世界的基盤を築いて来たのであります。 統一教会は良く食べて良い暮しをしながら行こうとするのではなく、良く食べないでぜいたくをしないで行こうとするのであります。そのために天のみ旨のため死の道も介意せず、受難の道を自分の運命として知って、百年でも千年でも行こうとする、そのような主義を植えればキリスト教は全部吸収されるようになるでしょう。 自己犠牲の道 先生が北韓で避難して来る時、後では中共軍がついて来るし、つれて来ていた人は足を折ってしまったし、捨てて行くことも出来ず、行こうとしても道はふさがれているし、死のうとしても死ぬことも出来ない立場でありました。しかし、死ぬまで行けというのです。避難民の中で一番苦労する避難民になれというのです。このような心でもって無情に押し出さねばなりません。どんなことをやっても連れて行くのが愛であります。 悪い人達を救うため神は人間をそのままおいては救うことが出来ないために、境地に押し出すのであります,その為に天を信じるキリスト教信者が多く殉教されたのであります。 自分を信じて、自分を愛して自分のために死のうとする人達に福を与えて良く生かそうとするのではなく、自分の側にいる人達をつかまえて死ぬ道に押し出すのが、天の今までの摂理であります。即ち、私の息子を殺して敵の息子を生かそうとするのが天の作戦なのであります。ここにおいてのみ平和の基が築きあげられるのであります。 このような自己犠牲のみが悪なる世界を横切って、新しい人類の復帰園に花を咲かせることが出来るのであります。 死んでしまえばなくなってしまうのではなく、死をもって勝利の線が決定されるのであります。それで、キリスト教は今まで多くの犠牲の代価を払って、天の愛を中心としてキリスト教圏を作って、天の側に全部奪って来る作戦をするのであります。天がその作戦でなくして人間を生かす方法がないために、このような道を行かせるのであります。このような道においては、垣根の外にいる感じではいけないのであります。決闘をするため試合場に出る深刻なる心で、厳粛に足を踏み出さなければなりません。 皆さんがこのような立場をもってみたかという時、もったことがないとしたら、全うするような信仰生活をして来たのではないでしょうか。 今日、キリスト教人達が、あの何とかいう牧師、説教がうまいだろう、あそこへ行こう。そのような考えをもって統一教会へ入って来てはいけないのであります。何故かといいますと、天の作戦が現実に生きている我々には反対の立場であるためであります。 天がそのような作戦をさせることの出来る人を敵の世界へ派遣しようとなさるのが天のみ旨であるために、その境界線をこえて死ぬか生きるかという問題をかかげて歩まなければならなこが、皆様が行かねばならない信仰の路程だということを知らねばなりません。今日統一教会がこのぐらい発展するためには、先生が死の境地を一度二度越えたのではありません。 復帰の恨み! 人間をこのように押し出す天の心は安らかであるはずがありません。 全知全能で、天地を創造された神が、何故このような方法でなければ人間を救う道がないのでありましょうか。切ってしまって新しく造り直したら良いのではないでしょうか? 真なるものは二つありません。一つであります。神が絶対者だとしたら、その絶対者の前に相対的な絶対者の権限をもって表われることの出来る、そのような立場に立ったアダム・エバであるため、アダム・エバの堕落はこの絶対的真の立場に立つことの出来ない、くやしい事実がひそんでいるのであります。 絶対的な真なる男子と真なる女子が表われることが出来ずして、真の家庭と社会、国家、世界が表われることは出来ないのであります。 そのため人類は真なる父母を持たなかったため、私が真の息子となることが出来ず、真なる友達と真なる兄弟を持つことが出来なかったし、真なる生活方法を持つことが出来なかったのです。その根源が偽りでなっているため、そこで生まれた如何なるものも真なるものになることが出来ないのであります。そのため、真なるものは完全なる否定から始まるのであります。それで、イエス様は、死なんとするものは生き、生きんとするものは死ぬと言われ、これはあるそのままに生きようとしては亡びてしまうというのであります。 今日、我々人類が真なる父母を持ったことがあるか、真なる愛を受けたことがあるか。その育てと生活を私の伝統として受け入れ、そのような生活をしてみたことがあるか、善なる兄弟と友達を持ったことがあるか。いくら私達が情熱を尽しても、真なる国をつくることの出来ない悪なる圏内で自嘆している立場であることを否定することは出来ないのです。 今日、一人の人間を探すため、神は如何に苦労なさったことか。 今までの復帰摂理は女子を探す摂理でなく、アダムを探す摂理歴史なのであります。堕落は天使長が先に堕落し、次に人間が堕落したので、これを復帰するためには、創造原理に従って、天使長型である男子を先ず復帰しなければなりません。 この天使長世界圏を経て、エバが得勢する最後の日が来る。これが第二次大戦後七〇年運勢圏内に入っていくのであります。 堕落の経路はエバが先ず先頭に堕落したためです。新婦が新郎を迎える時なのであります。 今日、歴史時代に終りが来るのはいつか? お父さん、お母さんにかまわず、兄弟にかまわず、自分の好きなのが一番だ。それが乙女と若者の思春期なのであります。今日、アダム・エバが堕落した時と同じく、新しい思春期時代が来たのであります。それで十代の青少年「ティーン・エイジャー」達が、親にかくして愛をして一生を滅ぼしてしまうのです。このような青少年達とは反対に、絶対にそうすることは出来ない群れが出なければなりません。そのために統一教会では、自由結婚が許されないのであります。 アダム・エバが堕落しなかったら、誰を中心として結婚式をやったであろうか。神を中心として、神が主礼をなさったというのです。アダム・エバは兄と妹の関係であると思っていたのに、時が来たら異性を感じるというのです。これは心が体に命令するのと同じように、天が我々の心の中にいらっしゃって、その心で因縁を結ぶようにする起因となるのと同じように、神が因縁を結んで下さるのです。 夫婦互いに愛するというこの愛は自分のものではなく、愛の主は神なのであります。堕落というのは、この愛の中心の根が切れてしまったことです。それで、神の愛を中心として、天が愛することの出来る息子、天が愛することの出来る天使長を探さなければなりません。それを探そうとすれば、個人的に探し、家庭的に、民族、国家、世界的に探さなければなりません。これを探せなかったのが復帰の恨みであり、これを探してくる歴史が復帰摂理なのであります。 それでは皆さんは、どのようにしてこの恨みをはらせてあげることが出来ようか。 良いものを奪って悪いものを与えるのは悪であり、悪いものを奪って良いものを与えるのは善なのであります。今日、祝福を受けた家庭達を千二百名動員しているが、このように苦労することによって、より悪いものを受けるなら、統一教会の先生は追い出されるのであります。 皆さんの生命を救うためには、生命を奪う所に入らせなければなりません。神もイエス様に対してはそうでありました。イエス様を死の道へと押し出して生命を奪って、その一人の生命が犠牲されることによって、今日キリスト教が世界的に残り伝えられて来たのであります。 今日、統一教人達が先生の前では不平を言えないのは、皆さんの苦労を全部背負って、良いものを与えているという事実を皆さんが知っているためであります。 いくら不良だとしても、その親の前では小さくなるのは、このような愛の絆で結ばれているためであります。真なる意味において死ぬなら、善として残るのであり、この善の前には頭が下がるのであります。善は悪に対し堂々たるものではありますが、悪は善に対して頭が下がるのであります。 復帰の恨みの峠を越えるためには、どのようにすれば良いか。世の悪いものは自分が受け、良いものを与えようとする環境においてのみ、皆さん自体の生活圏内での恨みははれるというのです。 私の息子が悪くても、神様よ良いものを持って下さい。私の息子は悟りがにぶいものです。しかしあなたが願い探したいその国においては、一番難しい重荷を負うことが出来るよう、神の保護と愛が共にして下さいませ! と言えなければなりません。先生が北韓の監獄の中にいる時、その誰よりも愛する息子を訪ねていらっしゃった母に対し、会わなかったのであります。 いくら敵が拷問を加えても、国を愛する忠誠は捨てることが出来ようか。神の愛するその忠節は捨てられようか。力一杯、輝かしく戦って、死ぬとしても、行かなければならないと心にきざんだのであります。 今日、皆さんを父母より愛したというのです。蒔いた通りに収めるのであります。統一教会の先生が好きだからついてくるのですか? 天をなつかしがり、人類に対し涙したためであります。与えれば必ず返ってくるのであります。 良いものを奪って悪いものを与える者を好む者はいないために、その人からは一人、二人減って最後においては、亡びるなと言っても亡びてしまうのであります。しかし、悪いものを奪って良いものを与える人には、人々が喜ぶばかりでなく、一人、二人集まって栄えるのであります。そのために、他人のために犠牲になるのは亡びるのだと思っていたが、栄える道がそこにあったというのであります。天はそのような作戦を成して、今日世界を動かし得るキリスト教圏を作っておかれたのであります。 さあ! 我々は悪いものを全部受けて、良いものを全部与えなければなりません。 共産党の方法は、君のものは私のものであり、私のものは私のものである。これは当然亡びるのであります。しかし、天の方法は、君のものは君のものであり、私のものは国のものであり、国のものは世界のものであり、世界のものは神のものである。神のものは再び子女達のものである。 だから、私と君のものは誰のものか。世界のもの、進んでは神のものであります。そのために私のものは君のものであり、君のものは神のものである。それでは、私と君のもの二つとも父のものであるので、父のものは私のものである。それだから二つとも私のものである。 忠誠を尽したものを勝手にもらうなというのであります。私が忠誠を尽さずに、忠誠を尽したものをもらっては、その忠誠におされてしまって讒訴条件にひっかかるのであります。このように生きる人は亡びないというのであります。 それで人間同志、恨みをはらす道はどこにあるか。与えることの出来る立場、負債をおわせる立場である。父母は子供の苦しみを代って受けようとするから、親は有難いというのです。 復帰の恨みは誰にあるか、先ずは神にあるのであります。今日まで人類を堕落させておいて救わなければならない父母の立場でもがいているその心情はいかほどであろうか。そのためにどんな受難と苦しみが押し寄せて来ても、天を慰めなければならない罪を背負った人間達であることを知って、我々が互いに慰め合いながら生きる人達は、人間の苦しみを解きほぐすことが出来、天の恨みを解くことが出来るのであります。 天の悲しみの立場に代りに立つことの出来る立場に立たねばなりません。このようにするためには、苦労の道を行かなければなりません。ここでのみ復帰の恨みがはれるのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.13
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「天の父母様聖会 第59回真の万物の日 & 世界平和統一家庭連合創立67周年記念特別集会」が6月13日(日曜日)午前9時30分からtv.peacelink.liveで配信される予定です。PeaceLinkホームページ(Peacelink | 홈)にて確認ください。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.12
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[家庭連合]平和と祝福の祭典の結果?エライことのなっているのを知って下さい。ヤバイですよ〜これは!!!Luke Higuchiチャンネル登録者数 7800人再放送はコチラ⬇︎https://peacestartswithme.com/先週の「Peace Starts With Me」の生中継を見逃された方は、再放送が今度の日曜日朝に予定されているとのことです。視られた方も、もう一度の感動を呼び覚ましてみてはいかがでしょうか。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.11
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「命がけの伝道」一九七一年三月十四日 救わなければなりません。おいておけば地獄に行くのです。間違いなく行くのです。サタンが引っ張って行くのです。そのためにこれをふさいでその人を救うために真心を尽くすと同時にその人に会いたいのです。ごはんを食べる時も、いつもそのような心が責任者自身の心でなければなりません。 命がけの伝道 昔は統一教会の先生に対して色々とうわさがあった。統一教会に行けば、ほれてしまうか、あるいは暗示にかかるかするうわさがある。そのうわさが出るのは、人間の造作でできるものではない。責任をもったものがその生命のため生命をかけて尽くさねばならない。待ちに待つと門の前にたずねてくる足おとのように、紙一枚の音でもきこえてくるのです。この世で男女が愛する異性の愛が問題ではないほどのそのような心がめばえなければならない。そして夜を徹して祈れば来るなといっても来るようになる。そのために、市場に行こうとしたおばさんとか学校に行こうとした男達も、そのカバンをもって学校に行くとか市場に行くとかいいながら、自分も知らずに教会に来るのです。そのようなことが行われるのです。そのように皆様が生命をかけて談判祈祷をし、生命をかけて生命を救うために闘ってみるか、計画をたてて、一カ月の内にその人がこれを感じなければならない。 さあ! 天が私と共にするのだ。生活圏の中において天が私と共にすることを感じるのである。又、その人と会えばせつない思いがうかぶので、話すことばは心配をしなくても話が自然に出る。その人に対し何の話をしなくても良い、会うだけで十分である。 その人が来ても早く帰ってほしい、もう時間になっているのに早く帰ってほしいというような思いをもっている人は、伝道をしてもそれは何にもならない。帰りはしないかと五分でもまもっていてほしい。私達の世界では、男、女、皆な遊んでいきなさいといって、男なら上着を引っ張りたいし、女ならスカートを引っ張りたい。そして帰るとなれば、なつかしい悲しいそういう心情を味わわなければならない。それはお父様の心がそうであるから。今この人が何時間たてば完全にまわってくるのにそうならないその時、神はどれほど悲しく哀れだろうか。そのような心情を味わう場において伝道をしなければならない。そのようにして計画をたてるのであります。あの人は私は一年間で伝道をするといって談判祈祷をするのである。すでにわかるのである。必ずその人の背後には霊達が接しているので、接している霊を中心として全部整理しておけば、その人一人によってその村が動くのである。全部この雰囲気をつくっておけば豊かになる。そして皆様がその行動においてその人が私を待っているのかどうかすぐにわかる。そのような体恤的信仰生活しなければ天が私と同じ生活圏内で共にすることを知ることができないのであって、いつもやっている中においては味わうことが出来ないのである。動機がないのに結果があるはずはない。先生を慕うということがあるが、それはただそうするのではない。思慕することの出来る動機の実体がある。植えることをしないで収穫を得ることが出来ましょうか。主体と対象は必ず相応ずるようになっているのに、その動機が完全であればその結果は完全なものである。そして生命をかけて生命の動機をもたねばならない。 伝道対象を選ばない 皆様が伝道をする時には、若い人だけを伝道しよう、出来るだけ大学を出た人だけを伝道しようと思うかも知れないが、そうであってはならない。人を区別してはならない。ただ私がその人に真心を尽くさねばなる真心を尽くせるかということが恐ろしいのである。人に対して伝道する時、口で伝道する時、よくきけばそれは天でありよくきかなければ裁きである。恐ろしいのである。責任をもって伝道をして、医者が注射をすることによってその人を生かすことが出来るかというような深刻な問題である。生命をあつかうのは簡単ではない。あの人がああいう立場の人で私達教会のために利益になるから伝道する、そういう考えをしてはならない。教会の利益を天はたずねるのではなく個人の生命を天はたずねるのである。一人一人たずねて教会をなすのであります。それで老若男女をとわず人間は人間としての価値を認めなければならない。その人がいくら年をとって今にも死にそうなおじいさんでも、その祖先が善であるならばそのおじいさんと関係されることによってその人がそのおじいさんが功をたてないとしてもそのおじいさんのために真心を尽くした人が代わりに功を引き受けて天の使命を受けることが出来る。何の話かと申しますと、そのおじいさんは老いて力がなくて仕事が出来ない、しかしその祖先は極めて善である、その後孫を通してきている民族的なあるいは国家的な先祖の功績があるので、その後孫を通じなければならないのに、そのおじいさんは老いているが故に出来ない、という時にはそのおじいさんの為に真を尽くした人がその先祖の功を引き受けて代わりに立つことが出来る。 真をつくして 人をあつかうのに車をあつかうようにしてはならない。優れていようが、おろかでいようが、顔が良いか、そんなのによってはならない。どんな人であろうとも、私が尽くすか問題はそれである。今私は直接的にそんなことをしてはおりませんが、昔、特に祈祷をする人、山の中で祈祷する人達が、あるいは千日祈祷あるいは十年祈祷した者達が訪ねて来る。私はその人達を全部知っている。あの人はどんな人であるか全部知っている。知っているといって、そのまま対するのではない。その人が歩んで来た時からずっと知ってあげなければならない。大学の教授であるならば、その大学の学生を中心として小学校中学校を経て来た学生としてみなしてあげなければならない。それと同じようにそれは全部知ってあげて、その人が百点位功をつんだならば、その百点位知ってあげなければならない。全ての存在の世界には位置がある。人がやったことは理解してあげなければならない。苦労したのに対してはほめ、それに対しては全部を天に対することをやったその代わりに、これからより高めることの出来る次元のことをやれと命令する。その命令は喜ばしい命令ではない。漠然たる命令であり、以前よりもっと苦労するものである。これがより次元の高い出発である。これに負けてしまえば入るとき沢山もって入ったとしても出て行くときは何ももたずに出てしまうようになる。 そのようなゲームが始まるのである。そのために人を真に誠意をもって対したかどうかが問題なのである。もし間違ったら、対人関係というのは全部審判の過程が始まるのです。その人が良いことを言えば良いことを言うことによって私が善となりうる結果となり、一言間違えばその生命の侵入をうければ私が天の前に公判されるのである。深刻な問題である。 そのために明日何時に行くといったらその時間に行く。人間同志も約束を守るではないか。プログラムを定める、皆さん伝道する人が、一週間分、二週間分、三週間分、プログラムを定める。だいたい人は三人のうち一人立つ。それは原理がそうであるためである。天と四位基台をなす天地創造が三数となっているのであり、天を中心として三段階になっているのは創造の法則である。必ず一人を選んで立たせるためには、似た三人、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、三人でしょう。全部そうである。それと同じく必ず伝道して立てようとしたら三人を中心としてみると三×三=九、十数をとるのであり、三十六名、その中でさがさなければならない。 反対する人には 反対する人も捨ててはならない。積極的に反対していた人達も第一次において、牧師であれば牧師、長老だとしたら、初めは訪ねて行っても追い出されたとしても、又訪ねて行き、その時は一歩遊んで入っていく、そうしたら怒り出す。わざとそのように怒らすのである。作戦をするのである。伝道に行くのではなく作戦をたてるのである。血気に満ちて牧師は追い出す。 次も、前よりもっと一歩を進んで入って行く。こうなると牧師はいくにいかれなくなってしまう。血気も飽和状態になってしまう。その次は「イエス様の愛でもって伝道しなさい」といった牧師がこうであってはならない。祈祷しようと思うときこう悔い改めなければならないという思いがする。そうなるのである。そうなると、天の父よ、統一教会のおよめさん方が来たのに私は門前払いをして天が喜ばれることでしょうか? 敵を愛するのがイエスの教えである、その後血気になりきった時飽和状態に入ればこれを続けるのでしょうか? それともくだっていくのでしょうか? 続けられれば良いが、続けて行くよりもくだっていくのが多い。その時になれば私があまりひどすぎたその時はぐっとついて行って、牧師様お元気ですか、と訪ねると、その時はひっかかるようになる。うしろに一歩さがれば追ってくるのである。それは間違いのないことである。そのため三十一日以上自分があまりひどすぎたということを感じるようになれば必ず頭を下げ、まず言葉でもって蕩減するのである。だから反対する人はより早い。こうでもなく、ああでもない、そういう人はどうしようもない。甘かったら甘い、からかったらからい、どちらかにならなければならない。そのために一回、二回行くだけではならない。十回、百回、行かなければならない。にこにこ笑いながら伝道に行くのではなく、牧師様、長老様の人格テストに行くのである。天が共にすることが出来る。私は反対する人の家に行って、一年間ごはん食べながらねばった歴史をもっている。一年六カ月、そうなれば刃でうち殺したい気持ちにもなるでしょう。しかし私が誓った目的のために私の道きれてしまうことがあっても、やることはやらなければならない。ごはんを乞いながら、食べてもやらなければならない。それは私のためでない。その人のためである。おなかがすいたのが問題ではない。私のために苦心するのではなく、私でも楽でない。私も苦しくて死にそうだが、相手はもっとそうである。私のためにその家庭が大変である。はたんがおこるのである。結局はそれは天から恵みを受けるようになるのである。私が天の前において、サタンの前において堂々たるものであるためである。私がごはんを食べられなくてそうするならば罰をうけるであろう。私が何かを求めてやるのではなく、その人を救うがためである。そのために体面をのりこえるのである。こぶしがとんで来ても、たえていかなければならない。そうして、そのような人達をずーっと屈服させるのである。あの人は何度であり、あの人は何度であるというように計画をたててやる。 私は人のためにこのように誠意をつくした。私の一生のうち一番誠意を尽くした人はその人の全部を知るのであります。皆さん、それをもっていますか。夜を徹しながら涙を流しながら、自分の妻が死んだよりも悲しみ、自分の子供達が死んだというのは問題ではない。天が必要とする人を探し出すためには、私の子女達に使命をすることを願わざるをえないことをみれば、涙と生命を惜しんではならない。そうしてみましたか。そうでないと、あの世に行ってもびりですよ。びりだから、そのような訓練をしなければならない。そうだとすれば行く道が迫害を受ける道が喜びの道である。おなかがすいたのが問題はでない。いくら千万人全部が後退したとしても、自分一人堂々と生きた神を証しうる、子孫とその機会をつくることが出来る。 天に同情されるように 自分を中心として、自分がお金をもらえば喜ぶ。そうである。損害を与える人を好む人がいるか。利益を与えなければならない。先生の生活は今もそうである。自分が今、夕方帰って来るとき、疲れて目が痛くなる時、そうであればあるほど苦痛である。その時、今日私は何のためにこんなに疲れたのならばそれは考える必要はない。公的路程に立っているため、天の前に私が損害を与えてはならない。天の前に利益を与える道を行けば、天は私を思わないで下さい、といっても天は思わざるを得ないのである。そのためにいつも必要なことを皆さんは知らなければならない。いつも天の前に同情をうける者にならなければならない。皆さんが行く路程において、皆様が歩む路程において、孝子の路程がそうであり忠孝の道がそうである。例えば、一生懸命に勉強している息子にその母さんが、もうそのぐらいにしなさい、その時親の言うことをきかなくても孝子となるのである。公的道はそれと同じである。父母のいうことをきかなくても孝子となるのである。国のいうことをきかなくても孝子となる。国の法を守らなくても孝子となる。憲法を無視しても堂々と善なる生活が出来るのである。キリスト教信仰の基準は世界のために死ぬ。貴いもののために死ぬのである。このためにその国の主権国家の法治国家の法を守らなければ、個人的にその法を中心として首を切られそうなことでも堂々とその世の法の処置をうけず残って、後代の勝利圏をもって報われることが出来る。それは自分の利益を探し求めていく群れではない。この世においての友達の間においてもそうでないでしょうか。損害をうける友達を好きなはずがない。一回、二回、三回になると、さっと変わってしまうのである。父子間もそうではないか。自分のみを中心として愛を欲求する人は必ず切れてしまう。一方的なものではダメである。それが自分のみのためではなく、これからより尊い家庭のためであり、二人が利益となる共同目標のために愛を追求しなければならないのに、共同目標なんかどうでもいいから私を愛してくれなければならないと。 真を尽くしてごらんなさい。そうして全部土台にしなさい。真冬でも寒い部屋で祈祷すれば、手足が感触がなくなってしまっても、汗でびっしょりになるようにやってみなさい。その村がほめるであろう。そうなって初めて天が共にするのを知るのである。そのために皆様が計画をたてて天の前に談判祈祷して、私がこうやります、そのような訓練をして実践的生活圏内において最後をおさめさせることによって信仰が人格となり、初めて天の人となるのである。本当にあんた達はなってない。今でもどこへ行っても、先生の生活はそうでない。一人ですわって心で祈祷する。そのために今日までも統一教会がこのぐらい残っている。それが土台となっている。そういうなまける群れは真を尽くさなければならない。人に会いたくてどのぐらい夜、涙を流したか。この世は愛が必要である。その生命を救うため会うために、夜を徹して祈ったことがあるか。皆さん、どんな気分かというと、特攻隊が敵陣に入って、自分の味方が牢屋に入った時、ヘリコプターをもって急速に起こすような気持ちである。時間との闘いの中に人をのせるようなものである。一人の生命を救うためには、そのような時間の戦いの過程を通らなければならない。 統一教会の伝統 今、統一教会に残っている群れは、私が真を尽くした人達が残っているのである。その他は皆商売人である。それでは、その時先生が自分達に教えたその伝統はどうなっているか。ねてもさめてもその通りやらなければならない。あなた達が今やることをやらないで寝られるのか。蕩減条件がいくらでも残っているのに、それをそのままにしていびきをかきながら寝ることが出来るのか。とんでもないことである。そのようなものであるなら私は苦労しませんよ。迫害を受ける必要もない。牢には何故入るか。原則はどんなことがあっても原則通りである。そのために皆さんが人をどれほど愛したか。私が大韓民国の国のために青春時代から、このソウルの都市のために涙を流したのである。何故韓国はこうでなければならないか。何故統一教会はこうでなければならないか、と。そして排斥される中において、これが押し出して出て来たのである。 生きた神様が皆様と共に動いていることを生活圏内において体恤しなさい。それが必要である。これがあって疲れ果てることがないのである。皆、伝道に行って一年もたたないうちに、何日もたたないうちに、ああ! おなかがすいてたまりません、寒くてたまりません、それが問題でない。お母さんが死ぬし子供達が死んでいくのに、寒いと感じるのか。そのような心情を持たなければならない。国のために火花をちらすこの瞬間に、血と涙の出る歴史的な恨みをはらすこのチャンスをのがしてはならない。ごはんが問題でない。それが出来なければ時を失うのである。その意味で、この路程に従って行かなければならない。 今この家に約五千万ウォン入っているが、それを私が全部火をつけてしまったとしても、ちっとも惜しくない。そうした時、地域長達、「私達は麦御飯を食べているのは、あれは何のざまだ。ああいうお金で私達に給料をくれて助けてくれればいいのに」と思う地域長はおばけのようなものである。そういうのは流れて行ってしまう。何が最も大事であるかを探し求めていくのが指導者達の行く道である。知らない者達がいろいろと言うのである。私を倒そうとしても倒れる私ではない。そのためにますます交叉がはげしくなるのである。家庭を中心として、婦人達も、祝福を与えながらいっかは仲良く生活するように、と言いながら、これは何だ。出来ないことは出来ない。なすべき責任があるから全部出させたのである。あなた達は自分達の婦人達を送っておいて、その子供達が母を慕うより以上に私は思っているのである。皆さん、責任者というのは人をだましてはいけない。それは後退するのである。来て損害を受ければ残るものはない。この原則をもって、皆さんは伝道をしなければならない。与える時は真を与えなさい、真なるものを与えなさい。原則というのは誰かの食べ残しではない。自分の兄弟達に与えずに何になるか。一番貴重なものを与えたために、それに報いなくてはならない。死も覚悟して行かなければならないのが統一教会の道である。 伝道の楽しみ 皆さんがこれをして人のために伝道してごらんなさい。天が共にある道を知るのに一番早こはそれしかない。皆さんは子供を愛するという言葉を知っていますか。今、とってもみにくい、愛らしい所は一つもない大木のようなおばさんでも、子供など生めそうにもないおばさんでもその子供を生んだら、そのおばさんからも鼻歌が流れて来るようになる。子供を生んでみれば、その大木のようなおばさんでも、自分の子供は愛することを知っている。子供を生んでみなければならない。それと同じである。天の愛があるかどうかわからない。天の人格的価値が私にあるかどうかわからないという者は、生命を生んで育ててごらんなさい。愛が湧き出ずるものである。伝道するために誠意を尽くし、そのために私はお腹がすいてぐうぐう鳴っても、その人がごはんを食べれば、私が食べた以上におなかが一杯になって喜んで、忘れられるところがあるんです。そのようなものをながめる時、元気が出るのである。伝道以上、私が昔み言をもって食口達を育てる時のおもしろさ。私が三十分だけ話をすれば変わってしまう。夜通しずっと話をする。そうするとクライマックスになって一度に変わってしまうのである。今夜十二時になって、一時、二時、二時四十分、三時、四時の時報がなって、ああ、もう眠れなくなるのに、そのようにして時間をみて計算するようであってよいものだろうか。一秒だけでも、四時五時になっても、眠れなくっても、その生命を救う。その死んでいく生命を生かすその偉大な快いことは、一晩眠れないのが問題でなく、何日食べなくってもそれは問題ではない。そのおもしろさを味わいなさい。それを感じる者でなくては、天の役軍となることは出来ない。そうするためには、誠意を尽くさねばならない。真心を尽くしてやりなさい。計画を立てて、皆さんが自分の一生のうち何年間、一つの生命を中心としてやっているか談判祈祷しなさい。してみなければならない。この道を行くなと言われるのが一番こわいのである。それを為すなと言われるのが一番こわいのである。 責任者は自分の思い通りに生きられない。統一教会の文先生は、自分の思い通りに生活しているようにみえるでしょう。皆さんの前では思い通りに生活しているようにみえるが、先生は絶対に自分の思い通りに生活していない。そのために皆さんはこれを知らなければなりません。先生が一番初めにこの道の開拓に出る時の目標、「宇宙主管を願う自我主管」、それが第一の標語である。人は宇宙主管を立てる。そして自我主管を立てるのである。一番おなかがすいた時、私の生の交叉路には、ごはんのため死ぬのであるか、国のため死ぬのか。天であれば天のみ旨を中心として死ぬのか、それが問題である。逆らう者となるか忠者となるのか、ここで分かれるのである。おなかのすいた時、あなたは何と生命を交換することが出来るのか。 先生はいつも空腹だった おなかがすいているのか、この奴め。先生は三十の壮年の時、おなかのすいていない時はなかった。しかし、この道をととのえて来た。先生は青年時代に他の人と同じように、よいものを着て食べたとしたら、天国があるでしょうか。悪い服を着て、良いものをつけている人達を救い出しなさい。そのために私が三十歳前には新しい服をつくれなかった。私の統一教会の歴史と伝統はそのように流れ来たのである。 寝てしまう時がある。○○いるか! 南に来る時八十里の道を歩く時、荷物を背負って居眠りしながら歩いた。それは如何なる時であるかを知らないからである。眠りがなんだ。行く道がふさがれば国の運命が左右され、世界の運命が左右される。そんなところにおいても眠りが来るのか。自分一人で死ぬのなら問題にならない。皆さん、これを考えなければならない。天下太平であるんだな。先生はそのような深刻な日を過ごしながら、皆さんが今このように説教を聞き、今まで問題を起こしながらも歩んで来て、それでも皆さんが大事に思え、そのように大事に思えるのは誰のためかというと、かわいそうなのは統一教会の文先生でいらっしゃる。先生がかわいそうで、かわいそうでと痛哭するだろう。そうか否かみてみなさい。それは何故そうなのか。皆さんは知らない。絶対に負債おわないことです。みなさんは統一教会に来ていくら伝道したか。私の一生の問題をかけて、生命をかけて、イエス様もそうであるように、ゲッセマネの祈りの時、いかになったのか。父よ、この十字架を出来ることなら私から取り去らせて下さい、しかし父よ、あなたのみ旨通りなさしめて下さい、と三度も血と汗と涙を流しながら談判祈祷をなさったのである。そのそばでは居眠りをしていたのである。それは知らないからである。皆さんが息子娘を愛していき自慢する時、そのような時も時間を惜しまず伝道しなければならない。 家庭を中心として夫達は、妻達が伝道に出ているのに、夜眠れるか。同じ立場で内外共に真をつくさねばならない。皆さん、神学的に言えば、イエス聖霊を送って働く時、イエス様は昇天なさって聖霊を送ったでしょう。それと同じ時である。新郎が部屋の中に入っていられようか。妻達が働くのに対し激励してあげるし、なぐさめてあげるし、手紙を書いて今日の教会のこと、我家においてはこのようなことがあったとか、その手紙を見て温かい情を感じることが出来る。夫がわかってくれているし、別れて生活してみると素晴らしい。手紙はたくさん書いてくれるし、子供達に話をしてあげたり、そのようになれば何と楽しくおもしろくなるでしょう。しかし、このような道は歴史をかえ、後孫達がその先祖の功績を讃えることの出来る尊い土台を築くのである。何と素晴らしいことか。 皆さん、死んだ後に皆さんの墓の前で三日以上泣いてくれるような信仰の子女がなかったら、それは大変なことである。まあ、私が死んだら涙を流す人がいるかどうかわからないが、踊りを踊る者もいるかも知れない。韓国の人がやらなかったら日本の人がやるのである。そのような自分達になろうとするのですか。だから皆さん、これを知らなければなりません。 善は全ての人々を利用するのであり、永遠に人類を利用するのである。利用されるのは何故か。それは亡びるのではない。その伝統を受けついで、如何なる時に我が祖先が人類のために死んだので、我は祖先の如くしたい。善のために助けるので、天の前に利益となる。天の前に利益を与えたので、天はその後孫に福を与えざるを得ないのである。天もよく、人間もよい世界がおとずれて初めて天国が来るのである。天は悲しみ、人が喜ぶのは、これは地獄である。両方が喜びあえるこの道を通じなければならない。善を立てるために全ての犠牲の代価を払うのも、この世界を動かすことの出来る善の内容となるのである。統一教会の者は三十代の時は苦労をさせる。殺したい気持ちになるかも知れないが、天は作戦を知っていらっしゃるため良くやった。今も天が私の前に現れて、文誰々よ、あなた自分を愛し休みなさい、そのぐらいやったら家も建てるし、良いくらしをしても良い、と教えた。 先生の伝道方法 皆さん、誠意を尽くさねばならない。皆さん、死ぬ前に財産をつくらねばならない。国のため、み旨のため、皆さん、それがあの世にいって財産となるのです。そのような功績が皆さんの伝道路程において、その生命を救うことの出来る一つの土台となることを知らなければなりません。わかりましたか?(はい) そうだったら、そうやってみなさい。 先生が学生時代には昌○園のような所ではたくさん伝道したことがある。火をたいてそれを囲んで、高校時代の学生の時には他の人とほとんど話さないで、先生の友達にした。今もそれを思い出す。帽子を手にもって三年間伝道した。その間も友達が来て、あの人は誰だろう、自分の友達だ、そんなはずがないのに、しかし学校に行っては何のこともなかったようにする。人が出来ないこともやってみなければならない。御飯もよくもらって食べたよ。乞食のこともやってみた。貧民窟でも生活したことがある。炭坑地に行って石炭を掘ったこともある。全部やってみなければならない。塩田に行って塩かますをかついだこともある。今も、手ぶらで労働者の中へ飛び込んで三十分だけ働いても、全部私の友達になれる。昼食になると座ってみる。この野郎どもはこのようなことをやるのか、私は観相もよくみる。貪欲が多いな、根性が悪そうだ、整っているな。統一教の先生になったな、その時のあの人が統一教会の文先生になったとは夢にも考えられない。研究してみてもわからない。座ってずっと話をするし、すっと一つの映画の主演俳優として座らせておいて喜劇俳優となるのである。労働者の笑いはまた奇妙である。つばをながしながら、その時はまたそのようにふるまうのである。このようにして三日たてば私の友達は多くなる。自分の家に来て下さいと、朝から来て願った。そしてその人について行ったならば、ますで作った家で、門がない家で、その時は二月で寒い時であったが、布一枚かぶって子供一人もって生活している、かわいそうな労働者であった。妻を見たら話にならないほどである。その家に行って、その家が私の住居である、いびきをかきながらぐっすり眠らなければならない。ああ、神の威信がどうなるか、私の威信がどうなるか、体面がどうなるか、威信なんかそのような時はちょっと待って下さい。そのようになれば、その家の居室のおじさんとして行く。三日間いればそのおばさん(主人の妻)が、私、もう帰ります、と言ったら、まあ、いらっしゃらなくてもいいです。こんなにお客に対して冷遇する所があるか、と言ったら、まあ、すいません。もっといさせたかったらパーティを開きなさい、と言ったら、そのようにもする。そのようにも生活出来る。 だから若者は三十歳以前は万事において苦労させる。それは私が築いた修練であり、私が築いた生活哲学である。学ぶことが多い。大学に行って学術的な理論の探求よりも、もっと深い内容のあるものである。それで実感がともなうものである。どこへ行っても友達が多いのである。学生時代には酒場にも行った。昔は桜町といった所に非常に大きい酒場があった。その時は学生の帽子はポケットに入れて、ジャンパーを着て、行って何故来たのか、酒を持って来た女の人に酒は飲まないがいろいろと聞いてみると、悲惨な事情の人が多い。それは社会の責任である。それを全部知らなければならない。酒を飲みに行ったのではない。全部知らなければならない。酒場の女の人を痛哭させたことを、今も思い出す。そのような女の人の顔を見て、悲惨な感じとして実感が感じられることもあった。そのような全部を知って、このような悪なる世の中でこれを集めて、一つの主体的な権限をまとめて、処理方法をどのようにするか。あなたがこのような立場にいた時どのようにするか、問題は深刻になる。とにかく酒場に行って酒場の女の人と一緒に座っているとして、神が、この野郎め、と言って地獄に落とし入れると思うか。他の人は指をさしてうわさをたてても堂々たるものである。私の良心に呵責がない限り、堂々たるものである。統一教会がたくさんうわさされても、それは偉い人が赴任する際、となり村の犬どもがほえるのと同じである。初めて迎え入れる為、小さな犬でも出て来てほえているのがあなた方である。そのように考えれば良い。なんでも終わりまでみればわかることである。李ぼっちゃんは堂々たる姿であったでしょう。(李ぼっちゃんは、韓国の「春香伝」に出て来る、悪い国政をする官吏達を治める地位についた人) 悪い官吏の前でも落ち着いて最後に自分の身分を表したときは素晴らしいでしょう。乞食の姿で現れたとしても、李ぼっちゃんは堂々たる者でしょう。同じく何事も一時が訪れるものである。今日赤い旗をふりかざしたとしても自慢するな。それは万民が引き下げ、火で燃してしまうだろう。 統一教会の文何かという人の所には、長老だとか牧師がよく集っているよ。この野郎め! そのようにして来るだろうか。たくさんの皮肉の中で生きて来た男ではあるが、必ずいつかは受けた恥と屈辱に対し屈服させていこう。百日過ぎたら私の所に来て説教を聞かざるを得なくなる。そうなのである。私が特別に外に出て伝道するのでもない。人が信念を中心として正義で対する、信念を持っていれば集まるし、苦しみがあっても貫いていくのである。そのために今まで激しい嵐に吹かれても、堂々と今迄生き残って来たのである。これが統一の道である。ある一時においては統一教会は良い、どの位良いのか。世界的だと聞いているが、処刑するような場において、君統一教会を信じるか、信じてないか。このような試みをしてみたい。これによって皆さんの信仰がわかる。私が今迄直面した信仰的な試練路程を思い出す。一度このような試練をして信じることが出来るのである。そして私が知っている最後の多くを教えたいのであって、そうでなかったら教えたくない。 さあ、みんな、そう思って伝道しなさい。真心を尽くし、誠意をもってやりなさい。この世の父母でも、その息子が悪こに入ろうとしたら現れて悟すのに、まして神を父母としているのに成されないことがあろうか。そう信じて伝道をやってみなさい。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.11
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「根本復帰」(2)1971年1月10日江原道・江陵教会(聖日礼拝)<(1)からの続き> 統一家の女性として伝統を立てるべき三年期間 先生は中心です。中心は真中にいるのです。しかし、東西南北の四方を整えるのは皆さんです。四方は皆さんが成さなければなりません。ここにおいて、皆さんが中心と一つになろうとすれば、中心と接ぎ木することのできる内容を持たなければなりません。それ故、先生はそのような道を行きましたし、皆さんも行かざるを得ないのです。 皆さんの子女三代さえ経るその日には、世界を我々の意のままにすることがてきるようになります。原理を知ってみれば、そのような内容を知ることができます。何故、世界がこのように急変していくのか分かりますか。今見ると、共産世界が崩れ落ちており、民主世界が崩れつつあるのです。何故そうなのでしょうか。この統一家故なのです。先生の故にそうなるのです。先生一人を出世させるために、そのようなことが起こるのです。 今年からは有名人が多く他界するでしょう。天が高いことを知らず、世界が高いことを知らず、威張っていた人々は皆倒されてしまうのです。そのようなことが起きるのです。世界の政界を意のままにしようとするものであればあるほど、皆行かなければなりません。霊界から呼び出しの命令が下るようになれば、金日成も行かなければなりません。 ところが、金日成はもう少しおいておかなければなりません。金日成を今連れて行けば統一教会が発展できません。現政府においては、もっと金日成がいなければなりません。金日成がスパイを時々送ってこそ、統一教会の勝共の風が吹くようになり、そうすることによって大韓民国政府が統一教会を立てるようになります。そのようになれば、統一教会はどんどん大きく結束されていくのです。サタンを知って、神の御旨を成すようにするのです。 歴史において前にも後にも唯一度しかないこの時代を、皆さんが行くようになるとは、夢にも思わなかったでしょう。皆さん自身、そのような人であることを知っていましたか。国の密令を通告する人が不具者、やぶにらみ、白痴であるということを誰が知っていましたか。知らないが、その人達によって国が行ったり来たりするのです。 同じように、皆さん達が何か分かりますか、分かりませ同か? しかし、指令を遣わす張本人は知っているのです。そのために、このように説明してあげているのです。サタン世界の怨讐も、このようなことを聞いて感嘆することのできる世の中になったので、今我々の御旨が成就されるようになったのです。 今は、世界が銃剣を持ち出して我々を迫害しません。それ故に、今は御旨が成される時です。ローマ時代にキリスト教の人々は皆、地下に隠れて暮らしました。それなのに、皆さんは何が心配でしょうか。 皆さんは、この三年路程において、イエスを追放していった女性の失敗を洗い流し、イエスの家庭を迎え入れ、歓迎することのできる新婦の道をつくらなければなりません。それ故に、三年期間の間、全精誠を込めなければなりません。それが統一家の女性達が立てなければならない伝統です。分かりましたか? (「はい。」)今、皆さんは他の考えをすれば大変な事が起こります。夫に会いたいという考えをしてはなりません。子供に会いたいと思ってもなりません。女性はまず天の父を愛し、それから夫を迎えるようになっています。天の父母と生命の因縁を結んでから、堕落しなかったアダムを迎えなければなりません。(※ ここでもお父様み言から「天の父母様」と語られていました。) 皆さんも同じです。戻って行くのに、エバが引っ張って行かなければなりません。天の父母を迎えて、愛して、その後に神の息子を愛そうとする心を持ってこそ、自分の子女を訪ねて行くことができます。世界の人類は神の子女であるから、世界の人類を愛そうとし、身悶えし、彼を愛したという条件を立てた時、初めて天の愛を受けられる身となるのです。そうすることによって、神の愛を受ける息子を生んで、神の愛の中で育てることができます。 そうしなくては、自分の息子・娘を愛することができません。今まで、偽りの子女達が生まれたために、母がそのような条件を立てなければなりませんでした。天の父母の前に、天の国民の前に、そういう条件を立てなければなりません。それ故に、愛する心を持ち、天の父母の前に、その次に天の民の前に捧げなければなりません。 またその国に王がいるとすれば、その王の心はどのようでなければなりませんか。天道に従って天命を受けなければならないし、天の愛があるならば、その愛を民の前に施し、天命によって彼等を指導しなければなりません。これが主人の責任なのです。皆さんが同じ思想を持つならば天国の王子となり、王女となるのです。 何故そうなのですか。王と同じような心で愛し、愛を受けたために王女となることができ、王子となることができます。何の話か分かりますか、分かりませんか? 何も知らない統一教会の人達は空っぽです。それだから威張るなと言うのです。“これ”と言えば“はい”と言いながら、絶対服従しなければなりません。皆さんが分からなくても、絶対服従していけば、皆越えていくのです。 このような重要な一時を迎え、このようにすることのできるのは、女性として生まれた皆さんの恵みです。苦労と言っても三年程度です。三年くらいの苦労はできませんか。かえってそれを素晴らしく思わなければなりません。おなかが空いて泣いたり、寒いと言って泣いたり、そうしてはなりません。 夫達は婦人を応援しなさい 先生は三年前から女性達を全員動員するということを言ってきました。それで、積い出したでしょうか、追い出さなかったでしょうか。追い出したでしょう? 普通追い出されたら滅びることがありますが、皆さんは追い出されたとしても、恵みを受けるのです。このような内容を知らず、皆さんは追い出されながら、「先生はいつぞや祝福をしてくれて、『良く生活しなさい』と言っていたのに、今はこれが良い暮らしなのか」と言ったでしょう。しかし、これが良く暮らす道ですか、滅びる道ですか。良く生きる道なのです。 エバが天使長の話を聞いて堕落することによって、天道を離れたために、今日夫は、妻であるエバの話をよく聞かなければなりません。ただ昼夜エバの為にやってあげなければなりません。堕落はアダムと天使長によるものです。男性は賢くなくて堕落したのです。それで、先生は合同作戦をするのです。先生がアダムの立場であれば、今の夫は天使長の立場です。女性を滅ぼしたのはアダムが誤り、天使長が誤ったためです。天使長はエバに侍ることができず、アダムはエバを治めることができなかったために女性を滅ぼしたのです。 それで、共同作戦をしなければならないために、先生が今度苦労する女性にお金を与えるのです。男性も協助しなければなりません。両面からの協助です。男性達、協助しなければならないでしょうか、しなくても良いでしょうか。(「しなければなりません。」)男性の中で意地悪な人は、お金を先生が皆手助けしてくれたらいいと言うかもしれませんが、そのようになれば、自分は妻と何の関係もなくなります。 今度三×七=二十一、満二十日を基準として命令を下しました。もしできない人がいるとすれば、できないからといって落胆するなと言うのです。班長を初めとして、班員達全員が力を集めて共にやるのです。皆さんが上と下の着物を間違えて着たとしても、追い出してはならないのです。 一つとなって共同で活動しなさい 皆さんは今、真の父母のおなかの中に双子として入っているのと同じです。一人の父母の血と肉を一度に吸いながら育っているのです。従って、皆さんが食べたり、着たりするものは、皆共同でしなければなりません。それで、皆さんは今や、公的な所有観念を中心として生活しなければならないし、私的な所有観念は、全部捨てなければなりません。 服よりも、ご飯よりも、人が貴いのです。そして、眠ることよりも人が貴いのです。それ故に、人を無視すれば滅びるのです。 皆さんは一つにならなければなりません。もし、皆さん同士が闘うようになれば大変なのです。皆さん同士闘えば、皆さんの子女が病気になったり、問題が起こります。夫の行くべき道に引き込まれて入って行って、子供達の道が引き込まれて行きます。即刻、そのようなことが現れるようになるでしょう。 今までは統一教会が全部蕩減をしました。しかし、これからは統一教会が蕩減をしないで、統一教会に反対する者が、自分自身を通して蕩減するようになるのです。荷物が取り替えられる時が来るのです。今までは神が愛する人を犠牲にして奪って来ましたが、これからは悪なる人達を犠牲にして奪って来るのです。そのために、これからは我々が直接闘わずして、代わりを立てておいて闘う時が来るのです。いい時です。今は最後の峠を越えて行く時です。 ここ(注・江陵)は韓半島の東ですか、西ですか。大関嶺の背骨の一番端ですね。それで、韓国で日の出を一番先に見るでしょう。運よく日曜日に江陵に来たことを考えてみると、神が守ってくださって、東から日が昇る日曜日の聖日の朝、一番最初に日を迎えるようにしたことが分かりました。それで私が話をしてあげるのも良いことだと思って来たのです。 今、女性達も出世する(注・世に出る、出現すること)時が来ました。誰のためですか。(「先生のためです。」)先生がいなかったならば、めちゃくちゃになっていたことでしょう。今や統一教会の女性が勢いを得るようになるのです。何か事があれば先生に手紙を出して、「うちの夫がこうだから、教育してください」と言いなさい。男性達はそうすることができないのですね。そこで先生はその夫を連れて来て、「何故、妻にこのように良くしてあげられなかったのか」と言ってあげます。自分達同士では和解できなくても、先生が干渉すればできますね。それで、女性達には先生が絶対に必要です。 カイン・アベルの統一方案 復帰路程において、個人を見ると心と体が闘っています。それ故に、アベルである心の前に、カインである体を屈伏させて一つにならなくては、神の前に愛を受けることのできる個人となることが絶対にできません。 それでは一つになろうとすれば、どうすれば良いでしょうか。カインはサタン側であるために、本来神側と怨讐です。神はプラス的存在です。サタンも神の代身の立場にいますからプラス的存在です。ところが、一つをつくろうとすればマイナス的存在がなければなりませんが、その役割を誰がしますか。アベルがしなければなりません。アベルがマイナス的に適用されます。それでアベルは、「私の物はあなたの物であり、あなたの物は世界の物であり、世界の物は神の物です」と言うのです。アベルがマイナスとなって、プラス的な神と一つになれば、ここではマイナスがあるようになるから、プラスであるサタンも来てくっ付くようになります。 それで、神のために犠牲になりながら侍るように、カインに侍りなさいと言うのです。そのようになれば、カインは屈伏して入って来るのです。このような原則を中心として行けば、武器と強制的な方法を使わなくても、自動的に統一されるのです。これが先生の統一方案です。それ故、先生が常に神を愛するように、カイン、つまり世界を愛せよというのです。世界を愛する個人と家庭と氏族と国家は世界を支配するのです。これが統一思想です。これがなければ統一できません。統一方案はこれです。 神を愛するように世界を愛さなければなりません。皆さんはマイナスとなって、神様と絶対的に一つにならなければなりません。そうするためには、従順に従って行かなければなりません。従って行けば成るのです。一つとなって共に行かなければ統一になりません。それ故に、アベルはプラスを救ってあげることのできる立場に立つのです。皆さんはそのような立場に立っているのです。 個人においても同じです。心は体をかわいそうに思わなければなりません。統一教会の心は体を見れば、「体よ、あなたはかわいそうです」、このように考えなければなりません。「ああ手よ、あなたがかわいそうです。口よ、あなたがかわいそうです。ああ顔よ、かわいそうだ」。このようにしてみましたか。見ることも悲しいことだけ見、食べることも悲しいことだけ食べて、眠る時も悲しい所で寝るからかわいそうですか、かわいそうではないですか。皆さんはそのように心を持たなければなりません。 体がかわいそうだという気がすれば、何故そのようになったかを考えなければなりません。世界がこのように惨めで、かわいそうであるために、私がかわいそうになったのだということを知るようになれば、自分がかわいそうであることを考えながら、世界のために泣いてあげることができるのです。涙を流しても、そのように流すのです。 遠い所においては刺激が来ないのです。直接ひねってみて、「痛い」と言うのです。あまり痛ければ涙が出るでしょう? 同じことです。そのように感じるのです。私の体は世界の体であるのに、かわいそうです。それでも、家にいる時はよく食べてよく休みましたが、これが何なのか。しかし世界のために、と考えれば涙が出るのです。 そのようにすれば、自分のための悲しみが、即人類の悲しみと連結され、自分の苦しみが人類の苦しみを代表するようになるために、それが祭物の立場になります。そのような立場は、この立場しかないのです。 よく食べ、よく聞き、よく生きることができないことを、悔しいと思うなと言うのです。涙をこらえ、世界と一つになろうとし、命を捧げながら人類と共に一つになろうとする祭物の立場に出ようとするから、仕方なしにそうするしかないのです。ここで、一つとなっていくのです。皆さんはそのようにしてみましたか。疲れた顔を見る時、「ああ、かわいそうだ。しかし、世界の人達が私よりももっとかわいそうだ」と言いながら、自分を考え、世界の人達を考える、そこから全てのものが広がっていくのです。 皆さんの心は体を愛してみましたか。このようなことは初めて聞くでしょう? 麦ご飯を食べれば、心が体に「ああ、あなたは米のご飯が食べたいし、もっと良い所で生活したくないのか。しかし少しだけ我慢しなさい。私よりも兄弟達がもっとかわいそうだから、どうすることもできません。少しだけ我慢しなさい」と言わなければなりません。このようにしながら生きるのです。これが統一教会員が行く道なのです。 このようにして行くのに、滅びるでしょうか、栄えるでしょうか。考えてみなさい。そういう人は「滅びなさい」と言って、祭祀(さいし)をしたとしても絶対に滅びません。そういう人は周囲の人から協助を受け、神が協助してくださるのです。神も頭を下げて、「ああ、私があなたを保護してあげる」と言うのです。天上世界の全ての霊人も保護してくれるようになります。それで、全神経が宇宙に繋がっていって動くのと同じような気分を持って生きるのです。これが統一教会員の信仰生活です。どれ程素晴らしい生活でしょうか。 氏族的なメシヤの使命を完成しなさい 個人を捜した後には家庭を捜すのです。個人が勝利した後には、家庭アベルとして入っていくのです。夫であれば夫、妻であれば妻、皆さんは家庭において神が送ってくださったアベルであるために、ここから氏族的なメシヤとなるのです。これは家庭を持った人達がしなければならないために、先生が四三〇家庭を中心としてそれを編成したのです。四三〇家庭が氏族的メシヤであると言うのは何の話ですか。これは理法を通して不可避的にするのです。御言は公式的なものです。 それ故に、個人の勝利をした後には、家庭アベルを置かなければなりません。それで何をしようとするのですか。妻が分からないから、妻をカインのように接してあげて、教育しなければなりません。天運を迎えることのできる家庭になるためには、夫が御旨を知れば、夫が個人的なアベルとなり、妻が御旨を知れば妻が個人的なアベルとなって、カインの為に犠牲になり、奉仕するのです。夫とか妻がアベルとなって、妻は夫の為に犠牲になり、奉仕をして屈伏させ、また夫は言葉なく妻に犠牲奉仕して、互いが「私の妻が第一である」、「私の夫が第一である」と言うことができなければなりません。 朝になれば必ず日が昇るように、顔には笑みが浮かび、希望に満ちており、夫にとって尊敬の対象となり、力の源泉となる女性であるとすれば、その夫は逃げろと言っても逃げないでしょう。こうなれば、お互いが家庭において男性を助けてあげ、妻を助けてあげるメシヤの使命をするようになるのです。このような家庭には、闘いやけんかが起こりません。夫に「他の所に行け」と言われても、行きません。 このように勝利した家庭は氏族に入って、氏族の中心家庭となるのです。こうして村を中心として家庭に入って行くのです。祝福を受けた家庭は一致団結して国を愛し、世界を愛する立場に立って、村中親戚と共に生きるのです。金氏の一族であれば、金氏の一族に嫁として入って行って、精誠をこめて家庭の見本を立てて、夫を引っ張って、一族の代身としてメシヤ的使命、アベル的使命をなすのです。 こうして皆さんが黙々とするようになれば、門中の全体が「誰それの家庭を見習おう」と言うようになるのです。お祖父さん達は、「誰それの家庭の息子を見習え」と言うし、お祖母さんは、「誰それの妻を見習え」と言うようになるのです。そのようにして誰それの家庭の門中の兄弟として登場するのです。そうして、門中から皆さんの思想と生活を、自分達の思想と生活の方便として受け入れたいと言う時が来れば、その門中が救われるようになるのです。 このように、氏族的に一つとなって勝利した後に、神の愛を受けるようになれば、民族の前にアベル的立場に立つようになります。今まで、神はこのような氏族的土台を整えたアベルを持ちえませんでした。そのような個人もなく、そのような家庭も持つことはできませんでした。しかし、統一教会を中心として、そのような個人を持ち、そのような家庭も持ち、そのような氏族の土台を持つことができる立場に置かれました。その氏族が誰かと言えば統一家なのです。 皆さんは誰のために今までこのように苦労してきましたか。皆さんのためでしょうか。民族のためでしょうか。統一教会の男性達は何のためにこのように苦労していますか。国のためです。 統一教会は今、神の愛を受ける氏族圏となって、アベル的立場に立って民族を救う仕事をしているのです。それが自分の欲のままにしては成りますか。では、誰の御旨通りに生きなければなりませんか。(「神の御旨通りに生きなければなりません。」)民族が喜ぶことのできる道、民族が恵みを受けることができる道を開いて、残してあげなければなりません。 多くの人々の関心の的としての統一原理 統一教会が愛国愛族の教会であることは、誰でも皆知っています。青瓦台から国民まで皆知っています。一元化されているのです。統一思想は恐ろしい思想ですが、国を売るような思想ではなく、国を救うことのできる思想であることをよく知っております。それ故に、大韓民国三千里半島にいる全ての人達の、統一教会員に対する関心度が段々高まっているのです。 昔は統一教会に反対して来ましたが、今は村のお爺さん、お婆さん達も、「ああ、あの人達のように行動しなさい」と教育するのです。お爺さんお婆さん達も、皆さんが動いているのを通り過ぎる女性として見ず、“うちの息子、うちの娘も、うちの嫁も、うちの孫も、うちの妻も、あのような息子・娘、あのような嫁、あのような孫、あのような妻にしたい”という心を持つようになります。このように、第三者の口を通して教育が始まるのです。一元化される時となるのです。 このように家庭的に一つになれば、その次にはアベル的民族がなければなりません。そしてカイン的な民族がなければなりません。それ故に、主はどのような国に来られるのかといえば、分断された国に来られるのです。分断されていない国には、主が来ることができません。これが原則です。 では、分断された国はいくつありますか。四つの国しかありません。即ち、韓国、ドイツ、中国、ベトナムです。この四つの国が各々一つになる日には、共産党は完全に滅びるようになります。これを一つにしようとするのが、先生の作戦です。 イエス様が死ぬ時も、イエス様を中心として四人の人が皆そこに引っ掛かりました。それ故に、民主世界も二つに分かれ、共産世界も二つに分かれ、結局四つになるのです。四位基台となるのです。それ故、その時が最後の時であることを知りなさい。統一教会の原理を適用すれば、世界中、解けないものがないのです。 今度、原理研究会の修練会の時、高麗大学の政経大学長が統一教会の原理を研究して、「これは総合的な科学です。全ての宗教を統一することは問題ではない」と言いました。その人は仏教の専門家です。ところが、統一教会の原理は仏教の内容を包含しており、理想的な全ての内容を整えていると言いました。儒教であれば、儒教の真理も入っているし、仏教であれば仏教、キリスト教であればキリスト教の内容も皆入っていると言うのです。それで、宗教の統一は問題ないと言うのです。「これは宗教統一のための聖書であるというよりも、宗教を統一することのできる科学的な学問である」と言いました。それ故、これから学者達がこの原理を知らなくてはならないのです。韓国における政治学の権威者が原理をこのように見ているのです。 では、統一教会の教理が高次元的なものでしょうか、低次元的なものでしょうか。(「高次元的なものです。」)哲学とか、全ての内容が皆解かれていくのです。歴史がこのように的中して解かれていく法がどこにありますか。それで、皆さんは幸福な人達です。「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」という言葉があります。原理がそうすることのできる内容であると言う人達もいるということを見る時、皆さんはこのように貴いものを学んでいるから幸福である、と言わざるを得ません。 父が貴いということを息子達は知りません。大統領の息子が、大統領が立派であると思いますか。統一教会の人々は、統一教会の文先生が立派であると思っていますか。皆さんは大学の教授程にしか先生のことを知りません。その大学の教授は私に会おうと数回連絡してきましたが、会ってあげません。「もう少し待ちなさい。仕事をもっとやって来なさい」と言うのです。私が今まで一生を捧げてなし得た基盤があるのに、功労もなく会おうとすることができるかと言うのです。 きょう十時になれば、彼等が集まります。高麗大学で最も有名な教授達十五名が行くと、ソウル大学や延世大学においても刺激を受けるようになり、ソウルの大学街に風が吹くようになりました。 やがて、地域長の皆さんは大学を一年で卒業する時が来るでしょう。一年勉強しても私が卒業証をあげます。その代わり、一年間に全体の勉強をしておかなければなりません。先生が一年間追いやれば大学の学位コースを終えるのです。 統一思想は世界統一の方案 主が来られる国は分かれていなければなりません。そのために、大韓民国は南北に分かれました。北韓はカインの国であり、南韓はアベルの国なのです。民主世界は唯心圏であり、共産世界は唯物圏です。民主主義は内的であり、神側であり、共産主義は外的であり、サタン側です。唯物と唯心は一つです。二つが一つであることを知らずして分かれて闘っているのです。 高い頂上から見れば、あなたも人であり、私も人であるというのです。統一思想がそれです。頂上では闘うことができません。両手があって完全な人です。片方の手だけ持っていてはなりません。目は二つなければならないし、鼻の穴も二つなければなりません。鼻の穴を一つふさいでも良いでしょうか。目も二つ、腕も二つ、足も二つ全部そうです。片足や片腕となってみなさい。それがいいですか。道を歩く時見れば、手や足が交互に動いていますが、それが正式です。交互になっているのが正式であるというのです。 ところが何かを取る時には、共にします。反対だとして悪いことではありません。反対となることも良いものであり、一つとなることも良いものです。反対だと言って皆悪いものではありません。二つ皆いいものです。それで、統一思想が偉大なのです。 統一思想が何か分かりますか。「統一」という言葉は二つがなくてはあり得ません。二つが必要だから共産圏も必要なのです。それで、共産党がどんどん上がろうとすれば、弟の立場でよく育ててあげなければなりません。韓国の国にカインの国がなければ、神の祝福を受ける国にならないのです。それで、三十八度線を境界として北と南に分かれたでしょう? 大韓民国の愛国者達が聞けば、「よくも、三十八度線でぴったりよく分かれたと言ったな!」と言いますが、その分かれたものを一つにする能力があればいいのです。分かれたものを一つにする能力があるために、「よく分かれた」と言うのであって、それを知らずして、そういう言葉を言っているのではありません。私達は統一方案を知っているために、能力を持っているのです。 統一方案は、統一思想の中にあるという結論がでてきます。それ故に、先生の世話にならなければなりません。日本も世話にならなければなりません。日本は今、先生の作戦圏内に巻き込まれていっているのです。今、日本の共産党が喘ぎだしているのです。 今、世界はアベル世界である民主世界とカイン世界である共産世界に分かれています。今や最後の日が来たのです。今は分かれる時です。全部が二つのグループに分かれる時なのです。父と母が分かれる時であり、父子の間も分かれる時です。終末が来たのです。全部このように世界的に分かれた後には、どのようになるのでしょうか。一つのところで統一して行くようになるのです。統一方案さえ成立していれば成るのです。統一教会では、既にこの全てを統一できる新しい手段で束ねました。 息子が父母を殺したという噂が聞こえ、父母が息子を殺したという噂が聞こえます。はなはだしくは、息子と母親が一緒に生活するという噂まで聞こえます。最後です。今そういう時が来たのです。これを「性の解放」と言っているのです。共産世界においては人間を動物と同じように扱うために、このようなことは問題とならないのです。最後の時なのです。いとこ、おじ、母みんな動物と同じように扱うのです。獣がいとこ、おじ、母を区分けしますか。犬は、子犬が母犬と交尾してまた子供を生みます。人間の世界に、このような時が来れば最後になるのです。 今がそのような時であるために、性の秩序が乱れ、混乱を起こしているのです。そのようになれば、全てが壊れてしまうのです。父と母が壊れて行き、父子の間が壊れて行き、兄弟の間が壊れて行くのです。何が壊れるかと言えば、性や愛の問題でみんな壊れていくのです。愛の問題が世界を壊すようになる、その日、その時が今であるというのです。 エデンの園において、アダムとエバが木陰で堕落したでしょう? どのような時に堕落したかと言えば、ティーンエイジに自分勝手な愛をしたのです。それで今日、処女や独身者達が、どれ程木陰で大騒ぎをしていることでしょうか。そのように植えたので、そのように収めるのです。 しかし、その中に掛け替えのない一つの代表がいるのです。これが統一主義なのです。それで、皆さん達に、父母でない父母を愛し、侍ることのできる力が生じ、兄弟でない兄弟も、自分の兄弟よりももっと強い因縁で結んで生きることのできる、このようなことが始まるのです。食口でない食口が、食口以上に強い心情で束ねられているために、誰もこれを壊すことはできません。世間がみんな壊れていったとしても、我々が現れるようになるのです。それ故に、我々の使命が大きいのです。 では、今からどのような段階に入っていくのでしょうか。思想的な面において、共産党が統一思想から脅威を受けているのか、でなければ我々が共産党から脅威を受けているのかというのです。我々が大韓民国と一つにさえなれば、共産党は統一思想の脅威を本格的に受けるのです。共産党五十四年の歴史において、野党がありません。独裁党である共産党だけです。これはどこに行っても同じでした。ところが、今は野党ができたというのです。与党である共産党が、野党である統一教会に勢力を使えないのです。取り替えることを今なしているのです。世界が今こういう段階に入って来ているのです。 国民が我々に希望を託している 世界が今どのように回っているのか知らないとしても、その中において、統一教会がどれほど素晴らしいことをしているかを皆さんは知らなければなりません。統一教会に入って来て、「ああ、このようにして歳月がみんな失われてしまうのではないか」と、つまらない考えをする人、魂が抜けた人が多いというのです。皆さんは気をしっかりと持たなければなりません。 では、誰がこのように分かてしまったのでしょうか。神がどれ程苦労をしているのか、皆さんは知ってみなさい。今は、イエスが十字架に架かった時、右側の強盗と左側の強盗がいたのと同じです。民主主義は右側の強盗と同じであり、共産主義は左側の強盗なのです。そのために、「左翼」という言葉も、ここから来たのです。誰が左翼と付けたのでしょうか。最後の日には、罪人は絶対者の前にあって、天の公法の前にあって、自分の全ての罪を告白せざるを得ません。隠す所がないのです。それ故に、左翼という言葉は誤ったものなのです。 白い色は安全であることを象徴しますが、赤色は危険であることを象徴します。それで、共産主義を「赤」と言うのです。共産党を何故赤と言うのかといえば、危険が伴っているためです。しかし、右翼は正しいことを言うのです。それ自体が、そのような内容を象徴しているのです。それは、人々がつくったものではありません。 イエスが十字架に架かった時、左側の強盗がイエスに、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、我々も救いなさい」(ルカ二十三章三十九節)と、非難しました。しかし、右側の強盗はイエスを擁護したのです。右側の強盗は、神様からキリスト教を象徴し、民主世界を象徴したものです。それで誰が救われたのでしょうか。左側の強盗が救われたのでしょうか。いいえ違います。イエスは右側の強盗に「あなたはきょう、私と一緒に楽園に入るだろう」(同、四十三節)と言いました。従って、民主世界は天上世界を代表する、地上楽園でない、地上天国へ入って行く時代圏を迎えているのです。それ故に、民主世界で統一思想さえ受け入れるようになれば、民主世界は一気に天国化するのです。今はキリスト教社会に皆なっているのです。十億というキリスト教の信者がいるので、門を開けさえすれば一日で皆回って行くようになるのです。そのようになれば、人の雪崩が起きてくるようになっているのです。それで彼等が自然に十字架を切り捨ててしまう運動が始まらなければなりません。このような時代に入って来たことを知らなければなりません。 我々は今、何をしているのかと言えば、国のために闘っているのです。我々が国のために闘っているために、既成教会と我々の闘いが当り前のようになってしまったでしょう? しかし大韓民国では、統一教会に対しては希望を持っていますが、キリスト教に対しては希望を持っていません。自分達自身も五年足らずして滅びると言っています。また、大韓民国の政府の要人達や学界の教授達も、「あなた達に期待を持っています。大学内においても、原理研究会にしか期待ができません。統一教会にしか期待する所がありません」と言うのです。 それで、勝共連合の理事長とか、統一産業の社長に治安局や、政府の各部署を巡回させたのです。その部署の長官に会えば、彼等はひとえに「勝共連合、よく頑張ってください。あなた達のような人でなければ、この国が生き残ることができません」と挨拶をするのです。その人達が我々にそれほど期待を持つということは、我々がそれ程重要な立場を取ったということを認めることです。実際に、勝共問題においては、我々か完全に制覇しているのです。 教会問題においても同じです。内的な宗教問題においても、統一教会を除いては数えるものがないというのです。外的な勝共問題、即ち共産党を打ち壊す問題においても、統一教会を除いては数える所がないと言うのです。このように、内外共に私達に数えられているのです。 今、花は散り、実は結びはじめましたが、期間が過ぎて実が熟れる時までが問題なのです。実は結ばれたのです。今も水沢里の修練所を中心として、修練を受けたいと争っているのです。続けざまに押し寄せて来て、共和党の大幹部達までも依頼を申し込んできています。それで私が操縦しているのです。一軍司令部からは、「一軍司令部参謀部の教育を勝共連合でどうかやってください」と言うので、我々が、「今は忙しいのです。少し待ってください」と言いました。一軍司令部といえば、三十六万という兵力を持った大軍として、中部武力の主力です。不穏な将来に備えて、ここにいる全ての兵士達の教育を、統一思想でさせたいのでしょう。統一思想でなければならないという段階に入って来ているのです。我々の講義を聞いて、皆惚れてしまうのです。 大統領が師範訓練を参観する日、軍の最高の将軍が大統領に従って、軍隊の指揮問題、思想教育問題を論議したことがあります。特別な方案がなくて頭を痛めていた中で、一人の幹部が大統領に、勝共連合に預けようと、いちいち報告することのできる段階に私達が入って来ているのです。 六十万の韓国軍を統一思想で武装しておけば、赤の共産党が恐ろしく思うでしょうか、どうでしょうか。その次は国民思想運動をしなければなりません。韓国国民二百五十万名に思想武装させておけば、三千万名中、一千万名はどんな時でも動員することができます。統一教会の思想さえ聞けば、夜でも昼でも夏でも冬でも、春夏秋冬どのような時でも動員することができます。どこにいても、一千万名は動員することのできる能力があります。日本は問題ないのです。中国もソ連も問題ありません。このような希望の松明(たいます)が、今日統一教会を照らしていることを誰も知らないのです。今は我々がそれ程大きくなっているというのです。 今は我々の力が、国家と民族の中に及ぶことのできる所まで来たのです。それを内外から感ずることができます。今日、この二十代の地域長達に、郡の警察署長がジープに乗って来て、頼むと言いながら挨拶をします。これを見る時、皆さんが三十代の歳で既に勇士となってしまったのです。地域長達は「諮問委員をするようになれば、自分を除くことはできない」と言えるようになったのです。地域長は小さいが、上から下を見ながら、誰それと言うことのできる腹を持つようになったのです。そういう腹があるだけではなく、事実がそうです。 死なずに生き残りなさい 今、彼等は私達に諮問を要求する時です。共和党から諮問を求めるような時、どのようにしますか。共和党の腐敗と大韓民国の腐敗を、我々が一年以内にきれいに処理することができます。与党と共和党の腐敗を一年以内に皆きれいに整理しておくことができるというのです。皆さんも、先生がそのようになればいいでしょう。希望を持てというのです。あの頂上から崩れることは間違いないのです。この腐敗した彼等を思想武装させるのは統一教会の皆さんでなければなりません。 今数箇所、我々の食口達が入っています。よく見ると間違いないのです。他の人達であれば、金をだますこともありますが、我々食口は正確に納金をします。そういう人達は世の中にいないのです。そういう人達は統一政会の食口しかいません。それで、今は統一教会の人達の種子を受けなければならないと言います。私達は今、そのような段階に入っているのです。 私達がこのように成長した今こそ、ベルトを締めてしなければならないのです。今や中盤戦を越えました。マラソン大会において、最後までついてくるかと思って後も見ないで行ってみると、一人で走っていたのです。今、統一教会一人で走っているでしょう? 一人で走っていると、マラソン大会が中止になったのかと心配だというのです。数十里先にいるということを知らなければなりません。数十年先にいるのです。それ故に、誰も私達の側に来て和合することができないのです。それで寂しいのです。持っているものがなく、愚かで寂しいのではありません。このように考えれば気持ちがいいでしょう。今になって生きる味が出てきましたね。 私も同じです。数十年、数百年先に行っているのです。それで友達がいません。私には先生もいません。私以外には先生があり得ません。私が先生になったのも、私自身が研究してなったのです。誰かから学んでなったのではありません。これらの全てを神が教えてくださってすることができたならば、既に六千年前に全部成したというのです。今日、統一教会の文先生を立てる必要がなかったのです。私が皆掘り起こして、このようにしたのです。それ故に、神も答えざるを得なかったのです。事実がそうです。そのために、神の暮らし向きも私が整えてあげるのです。 それで神は霊通する人に、「この世において文先生が一番かわいそうな方です。あなたも、文先生のために命懸けで、忠孝で仕えなさい」と教えてくれるのです。神がそのようになされたいのは、そのような内容があるからです。先生を知ってみると、二十世紀の謎の人物です。 皆さんはいくら研究しても分かりません。先生が語る以前には分かりません。先生がそのような何かを持っているということは、皆さんは知っていますか、知りませんか。(「知っています。」)知っているとは何を知っていますか。すべてのことがおぼろで分からないのです。意気消沈するのです。それで、初めから光らずに、このように過ごしているのです。 そのような全てを先生が知らせてあげる時が近い将来に訪れるのです。だから、皆さんは落後者にならず、疲れず、死なず、残らなければなりません。最後まで付いて来なさいと言うのです。世話をしてあげたり、恵みをあげることができないとしても、恨まずに、ただ見物してでも、一生懸命付いて来なさい。今や、自由な我々の世界が訪れて来るのです。 我々にはお金が無いのですが、四か月の間五億元というお金を投入しているのです。一カ月に一億二千五百元を支払わなければならないことをやっているのです。手には一銭も持っていませんが、このことを問題なく成し遂げていくのです。私がここ江原道に家を買ってあげようと思えば、直ちに買ってあげることができます。しかし買ってあげれば良くないために、買ってあげないのです。人に頼ろうとする人になってはいけません。人を助けながら生きなければなりません。江陵といえば、関東地方(注・江原道の東海岸一帯を指す。)では一番最初に名を挙げられる所なのに、人に世話になって良いものでしょうか。いくら江原道の人達が人に世話になるのを喜ぶと言われているとしてもです。そうではないでしょうか? 先生が助けてあげたとしても、皆さんが半分以上一銭でも多く出して、先生が一銭でも少なく出す立場から手助けするのです。たとえ株式会社をつくったとしても、半分以上一銭でも多く出した人が社長になることができるのと同じです。そのような立場において、先生が後援してあげるのです。この家が二百万元だとすれば、皆さんが百万元にいくらか足して、私が九十九万九千いくらを出せばなるという、そのような形で助けるのです。では、皆さんこの家を買いたいでしょうか。そうすることができるならば、直ちに買えると言うのです。もし、この家の地価が三百万元であれば、百五十万元以上支払えと言うのです。そのようにすれば、先生が支援してあげるのです。 神様の恨み、イエス様の恨み、人類の恨み 本論に戻って結論をつけましょう。我々統一教会員を「食口」と言うでしょう?食口とは何を中心として言うのかと言えば、イエス様を中心として言う言葉です。天国がどのようになされるか、気懸かりでしょう? 皆さんはこれをはっきり知らなければなりません。天国はカイン・アベルの蕩減法を適用して成されるところです。その次にはイエスの解怨、イスラエル民族の解怨が成されなくては天国は成されません。 それは何故でしょうか。神は四千年間イスラエル民族を準備し、そのイスラエル民族を信じてイエスを送り、また四千年間ユダヤ教を準備し、そのユダヤ教を信じてイエスを送ったからです。ヨセフの家庭も、歴史的結実として神が選んで立てたのです。では、何のためにヨセフの家庭が立てられ、ユダヤ教が誕生し、イスラエルの国が建国されたのですか。イスラエルの民族のためですか。ヨセフの家庭のためですか。イエス様のためです。間違いないのです。では、神は誰のために四千年間受難を受けてきたのでしょうか。神様自身のためでしょうか。息子のためです。その息子は誰かと言えば、イエス様です。 イエスの死によって神は恨みが積もりました。またイエス自身も、御旨を成し得なかった恨みが積もったのです。そればかりでなく、イスラエル民族もイエスに侍ることができなかった恨みが積もったのです。このように、三代の恨みが積もったのです。第一は神の恨み、第二はイエスの恨み、第三はイスラエル民族の恨み、すなわち人類の恨みなのです。それでこの三大恨みを解いてあげなければなりません。 では、神の恨みは何でしょうか。神の恨みを解いてあげようとすれば、神の恨みが何であるかを知らなければなりません。イスラエルの国の人達が皆イエスに侍らなくてもいいのです。侍る人が一人でもよく、十人でもかまわなかったのです。代表者一人でもイエスに侍っていたならば、イスラエルの国はイエスに侍ったことでしょう。ユダヤ教の代表者一人でもイエスに侍っていたならば、ユダヤ教がイエスに侍ったことでしょう。その後には、ヨセフの家庭の一族の中で一人でもイエスを本当に迎えていたならば、その一族はイエスを迎え入れたでしょう。その一人がマリアだとしてもいいし、ヨセフだと言ってもいいのです。マリアよりもヨセフがそのようにしたならば、マリアは問題なく喜びながらヨセフに従ったことでしょう。ところが一人もいなかったのです。 国を代表する一人がいなかったし、教会を代表する一人がいなかったし、家庭を代表する一人がいなかったのです。これが、四千年間苦労して来られた神の恨みでした。もし、国を代表する一人が現れ、教会を代表する一人が現れ、家庭を代表する一人が現れて、この三人がイエスに侍っていたならば、イエスは死ななかったのではないでしょうか。そうして、その三人が和合して家に行き、教会に行き、国に行き、御旨の中で一つとなっていたならば統一されたことでしょう。 今日、統一教会を中心としてみても同じです。昔、解放直後、李博士とキリスト教の総会長一人と、その後、統一教会を中心として先生に絶対的に侍る家庭の代表者がいたならば、大韓民国は統一されたことでしょう。その時は解放直後であり、政府もない時であったために、人為によっていくらでも新しい国を建てることができた時でした。 神の恨みを解くための三人の人が登場していたならば、天地が……。それで、三位基台が必要なのです。これが問題なのです。神が四千年間イスラエル民族を準備してきたのはイエスを愛するためでした。ユダヤ教もそうでしょう? しかし、彼等はそうすることができませんでした。それ故に、神が愛すべき民族と教会と家庭を愛することができなかったのが、神の恨みなのです。他のことは皆やってみましたが、愛が神の恨みなのです。今や神の恨みが何であるか、分かりましたね。 恨みを解いてこそ、天国を成すことができる では、イエスの恨みは何でしょうか。イエスは神の恨みを解くことのできる立場を迎えて、神が愛するように準備した民族を、神が四千年間愛された以上に愛さなければならないのです。また、ユダヤ教を神が四千年間愛された以上に、愛さなければなりません。数千年間、中心氏族を残すために神がヨセフの氏族を愛された以上に、イエスがヨセフの家庭を愛さなければなりません。ところが、それを成しえなかったことがイエスの恨みとなったのです。そのように愛してこそ、息子の体面を立てることができたのですが、それができなかったことが恨みとなったのです。 その次には、人類の恨み、即ちイスラエル民族の恨みは何でしょうか。イエスを愛せなかったことです。イスラエル民族はイエスを愛することができなかったことにより、主人を失いました。夫を失った家と同じです。主人がいなくて過ごせば泥棒が乱暴するのです。寡婦になればそうするのです。お金持ちの家で夫が死に、妻だけいるようになれば、通り過ぎて行った乞食の群れとか、やくざの群れが入って行って、乱暴し、その金を巻き上げようとするのです。そうなれば、その家は醜くなっていくのです。 これと同じように、イスラエル民族は主人であるイエスを追い出した後には、国がなく、放浪する立場になってしまいました。放浪の群れとなったばかりでなく、追われる民族として、二千年間、国のない民族として残ってきたのです。それでも、その民族は立派な民族です。二千年間節操を守って来たのです。骨のある祖先であり、特別の種子であるために、二千年間流浪の民族となりながらも、神を離さずに単一民族として選民圏を離さず、今まで来たのです。 イスラエルは一九四八年五月に独立しました。独立したということは、再び春の時期が戻って来たことを意味します。春の時期が戻って来る前には、イスラエル民族に蕩減が始まるのです。完全に清算しなければならないからです。清算が完全に成されていないために、第二次大戦当時、六百万人のユダヤ人がヒトラーに虐殺されたのです。そのように蕩減条件を超えて、解放を迎えるようになったのです。イスラエル民族はそうした全てのことを清算して、二千年ぶりに初めて国を捜すことになったのです。しかし、十二弟子を始めとした周囲すべてにイエス様が裏切られ、迫害を受けたと同様に、イスラエル民族も四方から銃剣の前に立たされ、迫害される立場に立つようになったのです。 では、どのようにしてこれを統一しなければなりませんか。その統一方案は私が教えてあげなければなりません。これを全部平和的に統一しなくては、イスラエルの歴史が悲惨になって行くのです。今は、追われたり、殺されたりしていた立場が変わって、国家的に首を切ることのできる立場に上がって来たのです。発展してきたというのです。では、国家的に首が切れる立場から、イスラエル国家がどのように解放を迎えたのでしょうか。来られる主を迎えなければなりません。これから来られる主を迎えなければ、世界が首を切られる時が来るのです。アラブ圏と共産圏が首を切るようになりました。これをどのようにしなければならないのかという問題が、重要な思想問題として台頭するのです。 人類の恨みは、イスラエルの国とイスラエルの十二氏族を失ったことであり、イエス様の血族を失ったことです。一度来られたその方の妻はどこに行かれ、その方の子女達はどこに行かれたのでしょうか。それが恨みなのです。人類がその方の血族に侍れなかったことが、人類の恨みなのです。 イエス様は、独身のままではいけなかったのです。イエス様が夫になったという話を聞いたことがありますか。聞いたことがないのが人類の恨みです。イエス様が妻を迎えることができなかったことが恨みです。イエス様の叔父さん、叔母さんがこの地上に生きているのを見ましたか。その方達がこの地上に生きているのを見ることのできなかったことが、人類の恨みなのです。イエス様のお祖父さんを見ましたか。イエス様の孫がいましたか。(「いませんでした。」)イエス様もお祖父さんとなり、お父さんとなり、夫となって妻を迎えて子孫を生んで孫を見て、人類と共に幸福の土台をつくらなければなりませんでした。そのようなことを全部捨てたので、人類の願いと祈りは完全に埋没されてしまったのです。それ故に、自分達同士家を作って住んでいるのです。 この三代の恨みを晴らせずしては、天国を成すことができません。天国はこのような恨みが積もっているために成すことができないのです。それ故、天国を成そうとすれば、この恨みを解かなければなりません。 それにはどうすればいいでしょうか。六千年間準備してきた霊的イスラエル圏を引き受けなければなりません。霊的イスラエル圏を指導する思想的な中心がキリスト教です。キリスト教は霊的です。イエス様は死ぬことによって、霊的にしかできなかったのです。このような土台の上に先生が来ようとすれば、それを引き受けなければなりません。霊界に行って全部引き受けなければならないのです。そして、統一方案を模索して、その霊的統一方案をもって地上統一方案を成就しなければなりません。 統一教会に連結する摂理の過程 今、この地上には霊的キリスト教、イスラエル圏である民主世界圏は成されておりますが、実体的キリスト教のイスラエル圏は成されておりません。それ故、そのようなイスラエル圏内、キリスト圏内に神が選んだ家庭がなければなりません。そうすることによって、イエス様当時に霊的にしか成すことができなかったことを、世界的な基盤の上で解怨することができるのです。そうするためには、霊的な全てのものを決定づけて持ってこなければなりません。来る時には地上のために来るので、地上にある国を訪ねなければなりません。そのためには、霊的な国の代わりに、地上に一つの国がなければなりません。すなわち第一イスラエルのような国がなければなりません。 第一イスラエルは南北に、北朝イスラエルと南朝ユダに分かれました。このような立場にあるのが、今の韓国なのです。韓国は、霊的イスラエル世界圏の実体である第一イスラエル圏を失った立場を、復帰した国の形を作らなければなりません。そうしなければ蕩減にならないのです。 このような国さえつくっておけば、霊的世界は一度に解決されて越えてくるのです。何故かと言えば、イエス様は民族圏である第一イスラエルの故に死にましたが、神は二千年間世界的な土台をつくってきました。民族的な基準ではなく、世界的基準へと発展してきたのです。イエス様は死んだのですが、神の御旨は世界的に成されてきたのです。このような内的形を整えてきているために、神は神の権威を立てるようになったのです。 では、韓国では何をしなければなりませんか。韓国では霊的イスラエル圏を収拾しなければなりません。一つは天使世界に該当し、もう一つはアダム世界に該当するのです。ところが、アダム世界が収拾されれば霊界は全体が収拾されます。天使世界はアダムに屈伏しなければならないために、一時に通ずるようになるのです。我々、韓国においてこのような使命をなさなければならない所が統一教会です。 統一教会の文先生が解放直後、既成教会と手を取って出発しようとした時、手を握らなければなりませんでした。ところが牧師達が反対し、それが曲がってしまったのです。それが怨讐です。その次には、大韓民国が手を握らなければなりませんでした。李承晩政権台頭の時、主要なメンバーの中の一人が先生でした。先生と彼等は、上へ下へとお互いに鼓舞しながら、創設作業をしていたのです。 また、先生のお祖父さんは李博士と無二の親友でした。独立宣言をつくった時も共に相談し合った、そのような学者でした。牧師の経験もある方でした。それで、内外共に整うことができるようになっていたのでしたが、それが曲がるようになってしまったのです。イスラエルの国とユダヤ教がイエス様を迎えなければならなかったのと同じように、大韓民国とキリスト教と家庭が迎え入れなければならなかった立場であったにもかかわらず、反対の立場に立つことによって、教会と国が分裂していったのです。そのためにイエス様が追われ、キリスト教が異邦の宗教となってしまったのです。それを、蕩減復帰しなければなりません。 それで、キリスト教がサタン世界を経て発展してきたのと同じように、先生も、世界的サタン圏である共産主義国家圏に入っていくようになったのです。そこから再度復帰してくるために、個人的蕩減が必要であり、家庭的蕩減が必要であり、氏族的蕩減が必要なのです。それで今まで苦労してきたのです。一度に成されることを、何度もくり返しながらやってきたのです。 それで、今は統一教会を中心としてユダヤ教を代身するのです。イエス様が福音を伝えてユダヤ教を代身しようとして殺されたのを蕩減するために、先生はユダヤ教を代身して統一教会をつくったのです。ユダヤ教の代身としてキリスト教をつくったのですが、そのキリスト教が責任を果たすことができなくなったので、その責任を果たすことのできる基盤をつくったのが統一教団なのです。「あなたでなくても、大韓民国を生かすことができます。あなた達よりも我々がもっと大韓民国を愛します」と言う立場に立って、今、大韓民国にイスラエル圏を接ぎ木させてきたのです。 それ程までに反対していた国、反対していた教会、反対していた家庭がなくなっても、私達同士が御旨を成すことのできる家庭と氏族と教会と国を持つことができる立場に立ったのです。それ故に、国を愛する道理を整え、大韓民国を更に更に愛するのです。そうすれば大韓民国も引き上げることができるのです。そのような圏をつくって、それを成すことができる段階に入ってきているのです。 では、今まで私達に反対していた一世達、私達を反対していたキリスト教信者達と大韓民国の三千万をどのようにすればいいでしょうか。全部首を切ってしまって、滅させるべきでしょうか。そういう一世を私達が救ってあげなければなりません。そのようにすれば、彼等の二世はどのようになりますか。統一教会の側に立つのです。我々に反対していた大韓民国の父母達が皆死に、既成教会の牧師・長老達が皆死んでしまえば、彼等の二世達は統一教会に従わざるを得なくなります。その時になれば、私が命令して、我々に反対していた自分達の父母の墓を掘り起こすこともできます。そのような時が来るのです。 世の人に接する正しい姿勢 しかし、我々に反対していた彼等も、我々が皆救ってあげなければなりません。カイン・アベルの蕩減復帰原則から見る時、アベルにはカインを救ってあげなければならない責任があるのです。そのために既成教会を、アベルとなった我々が救ってあげなければなりません。 アベルになろうとすれば、第一は神の生命と一体化しなければならないし、第二は神から愛を受けられる息子にならなければなりません。それ故、神が愛することのできる統一教会となり、神の命の因縁を束ねることのできる統一教会になっていればアベルになったのです。アベルは一人で行くことはできないのです。国を連れて行き、教会を連れて行かなければなりません。それで、我々は既成教会を連れて行かなければなりません。 イエス様が死ぬようになったのは、家庭にもその原因がありますが、教会にもその原因がありません。それで女性達を先に立てて、その解怨をするのです。それがこの三年期間です。この三年期間、既成教会を救ってあげようとするのです。それだから皆さんが伝道する時には、既成教会のおばさん達とか、そのおばさん達の娘達、そしてお婆さん達、即ち女性を伝道せよと言うのです。女性さえ伝道すれば男性は自動的に付いて来るようになっています。統一教会においても男性達が女性達に付いて来るのと同じように、サタン世界においても女性さえ救ってあげれば、男性は付いて来るようになっているのです。 それ故に、これから統一教会の皆さんは、既成教会の女性達を伝道しなさい。娘に通ずるとか、あのおばさんに通ずるとかして、お婆さんに通ずるとか仲良くして伝道しなさい。おばさんの所に行っては胸に抱かれてあげ、娘の中の娘の役割をし、お婆さんの所に行っては嫁の中の嫁の役割をしなさい。そうすれば復帰されるのです。お婆さん復帰は簡単なのです。そして、嫁を伝道しようとすれば、即ち若い女性を伝道するためには弟の役割をしてあげるし、姉の役割をよくしてあげなさい。服があれば着せてあげるし、食べるものがあれば持って行って食べさせながら、妹を育てるように育てるのです。簡単なのです。そのようにすれば、完全に復帰されるのです。そういうことをするために、皆さんが出て来たのです。皆さんは、イエス様の妻を捜すことができなかった女性達の、その失敗を許してあげるために出て来たともがらであるというのです。 先生が統一教団をつくったので、統一教会の人達は愛国者の中の愛国者になりなさい。それが統一教会の思想です。統一教会員の中で愛国者となり得る人が一人でもいたとすれば、彼は代表者となるのです。既成教会に通っていて、統一教学に入って来た人が一人でもいたならば、彼は代表者となるのです。その次には、家庭を代身してヨセフの家庭の代表者となれる一人がいなければなりません。それは男性でなければなりません。ヨセフは天使長格でしょう? ヨセフは出来の悪い人のように、ひたすらマリアの話をよく聞いていたのと同じように、統一教会の男性もそういう道を行けと言うのです。 既成教会において精誠を込めていた人も、統一教会の文先生の話をよく聞くようになるのです。また、大韓民国の人は、朴大統領の言葉よりも統一教会の文先生の話をよく聞くようになれば、皆復帰されるのです。それは私達が皆なすことができます。皆蕩減することができるのです。 それ故に、この団体は国を代身した団体であり、教会を代身した団体であり、家庭を代身した団体です。それで先生が御言を通して皆さんの家を自由にし、この教会を自由にして、この国を自由に動かすことができるようになれば、イエス様の全ての恨みを皆解く立場に立つというのです。そのような立場で、皆さんは先生を愛国者として、教会の代表として、家庭の代表として愛しなさいと言うのです。 イスラエル民族がイエス様を愛せなかった恨みを解かなければなりません。皆さんが先生を愛することが、六千年間イスラエルを通して神に積もっていた恨みを溶かしてあげる道なのです。イスラエル民族がイエス様を死ぬようにした恨みを、統一教会の人々が先生を愛するという条件を立てることによって蕩減することができ、その恨みを解くことができるのです。そのために、統一教会の人々は先生を愛さざるを得ません。 どのくらい先生を愛さなければなりませんか。愛する人にはどのようにしなければなりませんか。命を懸けて愛さなければなりません。では、ペテロ・ヤコブ・ヨハネがイエス様を愛しましたか。その三人を代表として立てたのですが、愛しましたか。愛しませんでしたね。皆さんは命を懸けて先生を愛しますか。(「はい。」)そのようにすれば、三弟子がイエス様を愛せなかったことを蕩減することになります。それで、皆さんに三位基台をつくるようにしてあげたのです。三位基台を結んで侍りなさいというのです。 全ての人をイエス様と考えて愛しなさい そのようにして国が愛し、教会が愛し、家庭が愛することによって、神の恨みが解怨されるのです。恨みがなくなるのです。また、そうすることができる人々を、先生は国の代わりに愛するのです。一人の人に対して、国の代わりに愛し、キリスト教全体を代表して愛し、家庭全体の代わりに愛する立場に立つ時に、国と教会そして家庭を愛せなかった恨みは皆、解かれるのです。それでこの三人をもって、解くことができるというのです。 その次に、イスラエルの恨みは何ですか。イエス様の息子・娘に侍ることができなかった恨みです。このような恨みを解いていくのが真の父母思想です。イエス様に、自分の叔父さん叔母さんがいたという話を聞いたことがありますか。先生も叔父さんとなることができず、お祖父さんとなることができなければ滅びるのです。 今は、先生が兄になることもでき、お祖父さんになることもできる環境を持ったので、人類の恨みはどのようになるでしょうか。(「解かれていきます。」)それ故、国と教会と家庭で愛せなかった三代の恨みを解くことができるところがあるのです。本来、何を中心として恨みが積もり始めたのでしょうか。家庭を中心として積もり始めました。家庭の延長が教会であり、教会の延長が国です。結局、恨みの出発地点はどこなのか。家庭です。イエス様も三家庭を代表したペテロ・ヤコブ・ヨハネのこの三人を捜していましたが、彼等が一つになることができず、御旨を成すことができませんでした。彼等三人は何を意味するかというと、人類全体を代表し、教会を代表し、家庭を代表するのです。また三人の子女達を代表します。全部代表したものです。ところが彼等が一つになることができず、恨みが積もったために、彼等が一つになってこそ、恨みを解くことができるのです。 この恨みを解くためには、イエス様が愛を受けることができなかったことを、愛を受けられるようにしなければならないし、愛せなかったことを愛さなければなりません。ところで先生はそうしたとしても、皆さん同士はどのようにすればよいでしょうか。これが問題です。 イエス様を中心としてお祖父さんや叔父さん、兄や姉、そして弟もいなければなりません。その場面を再現させなければなりません。これが食口であり、氏族です。それ故に、これが民族の縮小であり、教会の縮小であり、氏族の縮小であり、家庭の縮小なのです。全部皆、成されるのです。 年を取ったお祖父さん達は、イエス様の本当のお祖父さんとならなければなりません。お祖父さんとなって、イエス様を愛せよと言うのです。そのようにして、お祖父さんの立場からイエス様を愛してあげなかった恨みが解かれていくのです。それ故に、イエス様を愛さなければなりません。従って、年長のお祖父さんになった人達は、統一教会の少年達に対する時、少年イエス様と思って接しなさいというのです。その少年を、イエス様のように思って愛することによって、イエス様を愛せなかったお祖父さんの恨みを解いてあげなければなりません。 叔父さん程度の年齢になった人達も同じです。いつイエス様の親戚の中で、叔父さんになる人がイエス様を愛しましたか。イエス様を愛することができなくては、天国に入ることができません。「私は道であり、真理であり、命である。誰でも私によらなくては、父のみもとに行くことができない」(ヨハネ十四章六節)と言われたように、イエス様を愛せずしては、天国に行くことができません。イエス様の時代に、イエス様の親戚の叔父さんがイエス様を愛することができなかったために、今日その状況を統一教会の中で再現し、叔父さんと同じような立場にいる人が、少年をイエス様のように愛することによって、イエス様を愛し得なかった叔父さんの恨みを解かなければなりません。 お婆さんやおばさんも同じです。そのようにしなければなりません。また、姉、兄の年齢にある人も、自分の弟のような人がここ統一教会員の中にいるとすれば、彼を自分の弟ではなく、イエス様のように思えというのです。そのような考えを持ったとすれば、どれ程幼いとしても、「私の言うことを聞け」と言うことができるでしょうか。弟のような人の前に、年齢的に兄、姉となった立場に立ったならば、その少年に接する際に、イエス様を大切にする兄、姉とならなければなりません。そうすることによって、兄、姉として、イエス様を愛してあげなかった恨みを解かなければなりません。 イエス様には幼い弟達もいましたが、彼等がイエス様を兄として愛せなかったために、それを蕩減復帰しなければなりません。そのことをここでしなさいというのです。そのようなことをするために生まれたのが食口です。誰を中心としてですか。(「イエス様です。」)皆さんは、そのような方法で愛さなければ天国に入ることができません。 それ故に、統一教会の信者達は、相手からイエス様の代わりの愛を受けるのです。イエス様のかわりの愛を受けなさいというのです。年老いたお爺さんも同じです。前からそのように愛し、また愛を受けなさいと言うのです。婦人達もイエス様の妻としての立場をとることのできる心情基準を持って、愛し、受けなさいというのです。そのようにする所が天国です。 天国建設は愛を通して 堕落は何でしょうか。神の愛の圏から追放されたことです。では、天国は何でしょうか。神の愛の圏が成就された世界です。では、神の願いは何でしょうか。民族と教会と家庭がイエス様を愛することです。イエス様の願いは、そのように愛を受け、神に近く侍りながら、お祖父さんを愛し、叔父さん叔母さんを愛し、兄弟を愛することです。それ故に、我々の全家庭はイエス様の懐に抱かれるようにならなければなりません。その中で、イエス様の息子・娘が生まれたならば、我が家に大きな恵みであると祝福してあげることができなければなりません。このように愛することによって、三代の恨みを解くことができなければなりません。その恨みを解くことができる特権的基盤が、統一教会で言う家庭です。その家庭から、全てのことを始めようとし、統一教会の信徒達を「食口」と呼ぶようになったのです。そのように、皆さんは食口として、お互いに愛するように集まったともがらなのです。 それ故に、統一教会の人々は、兄弟でない兄弟として、兄弟以上に好きにならなければならないし、父母でない父母を中心として、父母以上に近付かなければなりません。それを始めることができなければ、荷作りをして皆そういうところを訪ねて行かなければなりません。そういう関係を結ぶことができるならば、ここから天国が成就されて行くのです。 このような心情で国境を越え、人種を超越し、どこに行っても、これを適用して実現させることができるならば、そこはどこであっても天国です。そのために、我々はアメリカ人でも日本人も皆、「食口」と呼んでいます。このように、お互いを親戚のように愛し、喜ぶことができるために、国際結婚が問題ではありません。我が娘達、独身者達は黒人のところにもお嫁に行き、また結婚をしなければなりません。顔は黒いけれども、彼等は皆さんの姉であり、妹なのです。 犬を見ると黒い犬、黄色い犬、まだらな犬など、色々な種類がありますが、お互い子供は同じように生みます。黒は黒同士生きなければならないという原則がありますか。全て神が想像されたのです。皮膚の色が黒いからと言って、嫌がったり、差別をして良いでしょうか。世界の人類が国境を越え、人種を越えて、世界至るところにおいて、一元化の関係の中でお互い愛することのできる主義が展開され、天国の王子を愛し、愛を受けることのできる立場に立ったら、それが正に天国です。天国は、そのような所から成就されるのです。 それ故、皆さんは食口を愛する訓練をして、大韓民国の三千万民族を愛し、人類を愛さなければなりません。そのようにして民族から愛を受けなければならないし、世界の人類の前に、愛を受けなければなりません。そうすることによって、御旨が成就されていきます。それ故、皆さんは愛を受けることができるようにしなさいというのです。そうするためには恵みを分け与えなければなりません。愛を受けて愛してあげたならば、そこが天国に化するのです。 我々は武器を持って世界を征服するのではありません。愛を持って統一世界を成すのです。世界を征服することのできる最後の戦法は、愛しかありません。愛を持って世界を抱いていく時、天国が成されますか、成されないでしょうか? このように、我々はイエス様の使命を代わって成していかなければなりません。それで、イエス様が解くことができなかった恨みと、神が解くことができなかった恨みを解いてあげると同時に、人類が解くことができなかった恨みを解かなければなりません。そのように、恨みを解いてあげる人に対しては、神も「有り難い」と言われるでしょう。神がイエス様に対して、「私の恨みを晴らしてくれて有り難う」と言うことができませんでした。従って、我々が歴史的に積もっているこの恨みを解きながら、それによってイエス様の使命を受け継ぎ、代わりに成就するようになるのです。そのようになれば、イエス様より優れるのであり、権限を持つのです。そして、街々と恥ずかしくない神の国へ行くのです。 お互いに愛し合いなさい イエス様を見る時、信仰の三人の息子、即ち三弟子がイエス様を追い出しました。そのようにして結果的には十二弟子がイエス様を追い出し、七十二人の信徒がイエス様を追い出し、百二十人の信徒が追い出したことになります。それで、統一教会においては三人の息子と十二人の子女を捜し、七十二人の信徒を立て、百二十人の信徒まで捜し出してきたのです。先生が三家庭と、十二家庭を代表して三十六家庭を立て、七十二家庭、百二十家庭、四百三十家庭、七百七十七家庭を立ててきたのです。 それ故に、皆さんは何人伝道しなければならないでしょうか。少なくとも百二十名は伝道して、結婚させてあげなければなりません。先生がそのようにしたので、皆さんもそのようにしなければなりません。 天国がどのように成されるのか、今分かりましたか? 天国はどのように成されるのでしょうか。カイン・アベルの法則を適用し、天使長を分立した後、一つの兄弟、一つの父母の子女となった後に、父母から愛を受ける人とならなければなりません。そうするためには、イエス様と同じように、互いが愛さなければなりません。そうすることによって天国が成されていくのです。これは天国を成す骨子なのです。また、兄弟を愛するように、民族を愛せよというのです。 そのようにしなければ、皆さんが救われるでしょうか、救われないでしょうか。(「救われません。」)それ故、統一教会の食口達同士、お互い愛し合わなければなりません。伝道に出て行った人がご飯もまともに食べられないでいるのに、残っている人達がまともにご飯を食べてはなりません。伝道に出て行った人達が、やっと麦ご飯を食べているのに、一般の食口達が米のご飯を食べると引っ掛かるのです。これは命令です。地区長もその内容を知らなければなりません。皆さんがそのようにするならば、雷が下るでしょう。自分は厚い布団をかぶって寝ながら、伝道に出て行った人が冷たい部屋で寝ようになれば大変なことです。そうなれば、統一教会の行く道が塞がれてしまうのです。 先生がこのようにイエス様の恨みを解き、神の恨みを解きながら、人類の恨みを解いて、地上の目的、神の目的、人類の目的を成就してきた過程を皆さんも成して、新しい氏族を捜し立てて、新しい民族世界を整えて行かなければなりません。そうすることによって、イエス様よりもっと優れた、神の子女となることができるのです。このような目的のために、皆さんがあらゆる精誠を込めて努力してくれることを願います。 祈祷 愛するお父様。私達は、あなたが残された復帰の道を決心し、行くことを誓った者達です。今日もそうであり、この年もそうであり、一生そのようにしようと誓った者達です。私達は既にあなたの前に捧げられた身であり、あなたの御旨の前に、喜ぶことのできる所で私達を利用し、あなたの名分と、あなたの面目が立つところで利用して、あなたの深い御旨を成すようにしてください。 これが、あなたの息子となり、娘となった私達の使命であり、生き甲斐でありと感じておりますから、どうかあなたが愛し、あなたが命令してくださることを切にお願い致します。 この東海岸一帯を私達が責任を持たなければなりません。関東地区一帯に責任を持って、祭司長の責任を担当する使命が、私達の両肩にかけられているという事実を、自ら自覚しながら、明日の開拓者として、今日の闘いを担当する勇士として、お父様が信ずることができ、お父様が誇るのに不足ない子女として残るようにしてくださることを、切にお願い申し上げます。 会いたがっていた時間を、私達に与えてくださったことを本当に感謝申し上げます。今度の期間を通して、彼等が深いお父様の内情を知って、精誠を込めて闘って行く天の役軍となるようにしてくださり、私達の闘ってきたことが、人類歴史上に二つとない新しい伝統になるようにしてください。万民がこれによって復活の土台をつくることができるようにし、万民が解放を迎えることができる起源となるようにしてください。これら全てが、足らない私達の涙と血と汗の土台の上で成されることを考える時に、これら全てはお父様が下さった恵みであり、私達が報いることがてきない大きな恩賜であることを知るようになりました。私達はこれを申し訳なく思わざるを得ません。 このように価値のある御旨が私達と共にあるようにしてくださったことを思う時、この御旨がかえって私達によって汚されることを心配し、不足な自分を静かにお父様の前に、一歩近付けて、貴く捧げるようにしますから、許してくださって、御旨の前に用いてくださることを、切にお願い申し上げます。 今度の期間を通して、お父様の深い恵みが彼等の生活圏内に入り込み、明日の開拓路程に新しい勝利の結果が確かめられるように、恵を与えてくださることを切にお願い申し上げます。 この教会と、この地区の全体の上に、あなたの愛のみ手が共に働いてくださることを、再三お願い申し上げます。霊界と肉界の万民が私達を呼んでおり、私達に会うことを期待していることを知っておりますから、その道を塞ぐことなく、遅らせることのないように、一日でも早く、一時でも早く走って行って会うことができるように、私達があらゆる努力を尽くしていけるようにしてくださることを、切にお願い申し上げます。全ての御言を真の父母の御名を通してお祈り申し上げます。アーメン一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓ (2)
2021.06.11
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「根本復帰」1971年1月10日江原道・江陵教会(聖日礼拝) マリアは聞かれた言葉に対して従順に、「この子供は誰の子供である」と答えることができない立場でした。「神の能力で、聖霊によって身ごもりました」と言わざるを得なかったのです。マリアがそういう話をしたとしても、どこの男性が、聖霊によって身ごもったということを信じたでしょうか。ヨセフにとっては、自分が命をかけて救ってあげたにもかかわらず、命の恩人である自分に対しても、その正体を隠して弁明し、偽っていると思ったでしょう。このような事情から、内的立場においてマリアとヨセフの間には、言うに言えないトラブルがあったことでしょう。 イエス様の誕生を巡る内外の事情 また、ヨセフが婚約の宴会もしないで、誰にも知られないようにマリアをそっと連れて来たという事実が、親戚や村人達の注目の的にならざるを得なかったのです。そういう状況だったので、村の子供達や友達にしても、不思議な目で見るより外はなかったのでした。 そのような中で日にちが経つにつれて、ヨセフとマリアの二人の間には、お互いの理解を越えた内的トラブルがあったでしょうし、そのような事実は自然に噂になるようになったのです。 そんな不思議な噂が聞こえるようになると、ヨセフの親戚や兄弟達は、ヨセフにその噂について尋ねざるを得なかったのです。また父、母や叔父も尋ねざるを得なかったのでした。その度毎にヨセフは静かに自分自らを弁明して、マリアを弁明してあげる立場には立たなかったために、はっきりしたことは言えませんでした。ヨセフの優柔不断な態度は一層、不自然さを増すようになりました。そのようにしては、噂は村中に、更には近隣の村にまでも広がっていったのです。 そういう立場で一か月二か月と時が過ぎるにつれて、イエスを身ごもったマリアのおなかは大きくなってゆき、マリアは恥ずかしくて外に出ることができず、環境から追われざるを得なかったことを、皆さんは知らなければなりません。その時、マリアはそのような環境に留まるよりは、むしろどこかへ飛んで行くことができるなら、飛んで行きたかったのであり、土の中に消えることができるならば、消えたかったのです。しかし、そうすることもできない日々を、十か月の期間過ごしたのでした。 その期間、マリアは神の前に祈祷もしたことでしょう。人気がない殺伐とした砂漠とか、誰も知らない所に行って子供を産む道があるならば、その道を行くことが彼女の願いであったでしょう。 もしもマリアがそんな環境の村で子供を産むようになれば、どれほど噂が広まったことでしょうか。ヨセフの両親やヨセフの親戚がどのように見たでしょうか。またお祖父さんお祖母さんがいたならば、彼等はどのように見たことでしょうか。マリアが子供を産むとき、喜びでもって讃美しなければならないにもかかわらず、かえって疑わしい思いで見るようになるというのは問題でした。 マリアとヨセフはこのように複雑多端にして皮肉な環境の中で、臨月がだんだん近付いてきたのでした。このような時に、ちょうどローマの皇帝からユダヤのすべての民は戸籍登録をするようにという命令が下ったのです。そこで、マリアはダビデの城に向かって行く途中の、ベツレヘムで臨月を迎えるようになりました。これがイエスの誕生をめぐる内外の事情でした。 どんな男性であっても、自分の婚約した女性が身ごもれば、その経緯を尋ねないでしょうか。身ごもった問題に対して、問題を提示しないだろうかというのです。もちろん、ヨセフは天使が現れて教えられていたので、内心では理解はしようとしましたが、その理由を知りたかったのです。そのような中において、イエスは地上に生まれました。そのイエスにヨセフは、常に喜びの心で接しなければならなかったにもかかわらず、そうすることができませんでした。実の子でない息子に接しなければならない父の心情は、そんな子供を持ったことのない人には、分からないかもしれません。 イエス様の悲惨な幼少期 ヨセフは実父でない立場で、婚約していたマリアの体を借りて生まれたイエス。十か月前から心配の種になっていたし、それ以後もマリアとの間に内心の苦痛を惹き起こしてきた、問題のイエスの誕生というのは決して喜ばしいはずがありませんでした。神が教えてくれたことを考え、喜びで接しなければならないことも知っておりましたが、それよりも生理的な感情が先に立ったために、イエスに接するたびごとに喜びでもって接することができず、歓喜する立場で接することができなかったのです。それが、実父でないヨセフの立場でした。 イエスはそのような複雑多端な三角関係の中で育つしかなかったのでした。ベツレヘムで誕生したイエスが、エジプトに避難して育たなければならなかったのは、もちろんヘロデ王がイエスを殺そうとしたこともありますが、このような事情もあったために、ここ(ベツレヘム)に戻ることのできないイエスの事情があったことを、あまりにもよく知っておられた神の恵みの故であったと見ることができます。 それで、エジプトで三年余りの歳月を過ごし、帰って来る時も、自分の故郷に帰ることができませんでした。ガリラヤの海辺のナザレに行って育つようになったのです。自我に目覚めたイエスが、父母であるマリアとヨセフの間が何だか知らないが、自分故に問題が生じ、家庭が良くない雰囲気に包まれていることを察したのでした。このように、心地良くない環境でしか生きることができないイエスの事情ではなかったかということは、当然考えられることです。 そのために、たとえイエスが母親の膝の上に抱かれたとしても、必ず実父でないヨセフの気配を見なければならないし、マリアも喜びの顔でイエスに乳を飲ませることができませんでした。ヨセフがいる場合には、更に恥ずかしい心で乳を飲ませなければならない立場でした。このような三角関係の中で育ったイエスであることを、皆さんは知らなければなりません。 聖書にはないのですが、皆様が知らなければならないことが他にもあります。祝祭日になれば、村の子供達は皆きれいな服を着て、おいしい食べ物を食べるのですが、イエスはそのたびごとに、誰よりも孤独な立場に立って、悲しみを感じざるを得ない生活をしたのでした。マリアは、イエスを他の息子・娘よりも、もっと良く食べさせてあげることができず、もっと良くしてあげることのできない立場でありました。そのようなことをヨセフの気配を見ながらしなければならない、寂しい立場から寂しい試練を経てきたということを、皆さんは知らなければなりません。イエスはこのような生活の中で目覚め、育っていったのです。 聖書には、ヨセフとマリアが十二歳のイエスを連れてエルサレムの神殿に上って行った記事があります。その記事を見ると、父母であるヨセフとマリアがイエスをエルサレムの神殿に残してしまい、三日後にイエスを尋ねて会ったと書かれています。世の中に、どんな父母が、十二歳になった自分の息子を一人残して帰って来るでしょうか。常識的に見たとき、世の中でもこういうことはあり得ないことです。 では、何故そのようになったのか。ヨセフはイエスに対してそうすまいと思っても、どうすることもできず、他人の息子として扱ってしまったというのです。常に、イエス故に問題となったのでした。 マリアはエルサレムに上って帰って来る時に、イエスをその場に残してきたことを知っていました。しかし、ヨセフの気持ちを察せずにはいられなかったのです。ヨセフがいい顔をしていない状況の中で、マリアがイエスを連れて帰ろうと話をするならば、ここには反発が起こり、問題が生ずるようになったために、マリアは知っていながらも、ヨセフの気配を見ながら、そのまま付いて行ったのです。そのようにして一旦家に着いてから、三日後に再び出掛けてイエスに会うようになりました。ヨセフも静かに考えてみると、幼いイエスを一人残して来たことは、人間として、なすべからざることであるので、イエスを連れて行かざるを得なかったのです。 その時、イエスは神殿で学者達と聖書の討論をしておりました。それを見てマリアは、「あなたは、どうしてこんな事をしてくれたのですか」(ルカ二章四十八節)と尋ねました。そうすると、イエスは「どうして私をお捜しになったのですか。私が自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのでしょうか」(ルカ二章四十九節)と言ったのです。その言葉はどのような意味から言ったのでしょうか。明らかに、父母に対する反駁からでした。父母の立場で、息子を三日も置いてどこに行く、今更帰って来て何を言うのかとい意味です。 マリアの立場 また聖書を見ると、弟子達がイエスに、「あなたの母上と兄弟達がお会いしたいと、外に立っておられます」と言うと、イエスは「神の御言を聞いて行う者こそ、私の母、私の兄弟なのである」(ルカ八章二十一節)と言っています。この言葉は、イエスの父母が神の御旨通りになした、という意味でしょうか、なさなかった、という意味でしょうか? こういう言葉を考えてみる時、ヨセフの家庭でのマリアは、イエスを中心として神の御旨に侍ることができなかったということを、皆さんは知らなければなりません。 マリアはイエスが家出をした後、ガリラヤ地方のカナで行われた婚姻の席でイエスに初めて会いました。イエスは親戚の家で宴会をしていることを知って行ったのですが、そこでマリアと会ったのです。そこで、マリアがイエスに「(宴会場の家に)ぶどう酒がなくなりました」と告げると、母親であるマリアに対して、イエスは「女よ、私と何の関わりがありますか」(ヨハネ二章四節)と反駁しました。この言葉の中には、イエスが誰にも言うことのできなかった隠れた内的な事情が絡み合っていたということを知らなければなりません。 イエスにも母親がおり、お祖母さんがおり、その隣の村には姉や妹がおり、その他にも男女の親戚がいたにもかかわらず、三十歳に近くなっても結婚すらすることができなかったのです。そうではなかったでしょうか。三十歳になった独身者を大工の助手だけをさせながら、結婚の心配をしなかったということは、マリアが母親としての責任を果たしていなかったということです。どんな困難があったとしても、マリアはイエスの行く道を整えてあげ、これから天の御旨を抱えて行くべきイエスである故、内心心配しながらイエスの未来に対して深く相談しなければならなかったのです。「あなたはいかなる道を、どのように行かなければならないのか」と言いながら、母と息子の間に互いに深い関係で密かに工作をしながらも、御旨をなすことができる道を開拓しなければならなかったのです。しかし、このように、マリアはイエスの行くべき道を分別してあげる責任を果たすことができなかったのです。 皆さんがここで一つ知らなければならないことは何でしょうか。今日、堕落したこの地上に、神の愛を受けることのできる息子が現れなくては、神の愛を受けることのできる娘は出てくることができないのです。創造原理がそうです。神はアダム、即ち男性を先に創造されました。そして男性を見本として女性をつくられたのです。そのために先ず、この地上には神が愛することのできる息子が生まれなければなりません。 ところが、そのような息子がこの地上にいましたか。いなかったのです。従って神は愛する息子を持たなければならないのですが、この地上にそのような息子を誕生させるためには、女性の体を借りなければなりません。 では、マリアという人は、どのような立場に立った人でしょうか。神の前に端女(はしため)です。マリアは神の側に立ちましたが、元来天使長の血統を通して生まれた女性です。天使長がサタンになったのです。マリアは堕落した女性の中において、天の方に帰って来るための歴史上の最初の女性でした。 天使ガブリエルがマリアに現れて、「あなたは身ごもって男の子を産むであろう」(ルカ一章三十一節)と告げた時、マリアは「私はまだ男を知りませんのに、どうしてそのようなことがありえましょうか」(ルカ一章三十四節)と答えました。この時天使が「神にはできないことは何一つありません」(ルカ一章三十七節)と言うと、マリアは「私の主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ一章三十八節)と言いながら、神の御旨をなすべき道があるならば、既に命を懸けて全てを覚悟して出て立った身であるから、何でも担当することを誓いました。それでマリアは、今まで神を裏切ってきた歴史において、神の為に死を覚悟して立った最初の女性となったのです。 マリアがこのような立場に立ちえたのは、体面とか威信とか生死の問題を越えていたためです。そのような決意をせずしては、到底それを受け入れることができなかったのです。既に自分には婚約した男性があり、運命が決定されていた状況であるにもかかわらず、こんなことがあるということは、家系を辱しめることであり、自分の威信を地に落とすことです。しかし、その道が神の御旨であることを知って、全てを捧げて生死を覚悟しながらそれを受け入れたのです。そのようにしてマリアは、歴史上最初に神の御旨に接することのできる女性として登場したのです。 マリアは、天使長側に立っている僕、天使長の娘でした。神はこの地上に必ず神の息子を送らなければなりませんが、女性なくしては産むことができないので、神の貴い皇太子を送るのに、仕方なしにサタン側の女性の体を借りたのです。神がそのようにしたのは、喜んでしたことではなく、女性がいなくては、この世界を祝福できる子供を産むことができないが故に、仕方なく、僕の体を借りて、イエスを誕生させたのです。 マリアは僕です。マリアはイエスの母ではありません。イエスの母の立場に立ってはいましたが、マリアは神がイエスを生むために仕方なく借りた女性なのです。今日、マリアを崇拝しておりますが、それは良いこととは言えません。マリアの体を通さなくては神の息子を誕生させることができなかったために、そのようにしただけの話です。 神側の息子を立てるための蕩減復帰摂理 では、イエスとは誰なのでしょうか。アダムの身代わりです。失ったアダムの代わりです。アダムが堕落したために、神の愛の圏内から再び取り戻すために探し出されたアダムです。それ故、このように生まれたイエスは皆さんとは違います。では、イエスは皆さんとどのように違うのか、そして何故メシヤとなるのか、また何故神の息子となるのかというのが問題です。マリアもサタンの血統を受けた堕落した後孫です。マリアが神の御旨に従って来たといいますが、サタンの血統を通して汚れた女性の体であるために、そういう女性の体を通して生まれたイエスも、汚れた体になるのです。それで、サタンが讒訴することができるのです。 それ故に、神はそれを蕩減するために歴史的な闘いをしてこられたのです。アダム家庭においては、カインとアベルが闘いました。この兄弟は大きくなって闘いました。その闘いは何かといえば、兄弟の立場を切り換えるための闘いでした。結局、弟の前に兄が屈伏しなければなりません。それを詳細に話せば時間が多くかかりますが、その話をしばらくしてみたいと思います。 愛の結実体として息子・娘は、一人、二人、三人、四人、このように順番に生まれてきます。それで、父母の前に縦的に立つようになります。一組の父母の愛の実は、一つの立場から一列に立つようになります。兄がいれば弟は順次に立つようになります。ところが、アダムが堕落することによって、カイン、アベルは横的な立場に立つようになりました。カインとアベルはお互いに横的な立場、即ち横に並ぶようになりました。愛の実が二つになったのです。 本来、創造原理によれば愛の実が二つになりえるでしょうか。原則は一つの実とならなければならないのに、二つになったために、一つの実の立場に立ったという条件を立てなければなりません。それには、どのようにすればいいのでしょうか。この地上に神の愛の結実として生まれるには、サタンを中心として生まれるようになっておりません。誰を中心として生まれなければなりませんか。先に神を中心として生まれなければなりません。ところが、先にサタンを中心として生まれたのです。サタンを中心として先に生まれたカインが兄となりました。逆になったのです。 本来の息子・娘は神を中心として、神の愛によって生まれなければなりません。全部神の息子・娘にならなければならないのに、最初に生まれたカインはサタンの息子でした。全ての神の息子・娘の立場に立たずしては、神が人間を治めることができず、人間も神と共に幸福な生活をすることができないのです。ところが、二つに分かれたので、サタン側にいる兄は、仕方なく神側の弟に屈伏しなければなりません。 何故そうしなければなりませんか。原理的に見る時、エデンの園でアダムと天使長が堕落しなかったならば、神を中心としてアダムと天使長が一つになったことでしょう。三人が一つになったのです。まず神とアダムが一つにならなければならないのに、一つになることができませんでした。これが堕落です。 アダムが神と一つになることができず、神の息子になれなかったために、神も完全な生命の要因を持つことができず、完全な愛を持つことができませんでした。アダムが神と生命を連結して愛することができず、サタンと命の関係を結んでサタンと共に愛を知ったのです。これが問題です。 アダムが神の愛を中心として神の生命に連結され、完成したアダムになっていならば問題は全て解決されていたでしょう。そのようになっていたならば、アダムは神の愛を受けていたはずですが、堕落することによって神の子女としての立場を失うようになりました。そうしてアダムはサタンの命を受け、サタンの愛を受けました。 そのために復帰路程において、まずしなければならない事は何かと言えば、アダムは神と一体となることです。一体とならなければなりません。一体とならずしては命が連結されません。その後にはアダムと天使長、神と天使長が一つにならなければなりません。これが原則です。命の順序が神からアダム、アダムから天使長へと連結されなければなりません。従って、神もアダムを愛し、天使長も愛さなければならないのに、堕落によって、その反対になったのです。 それ故に、これを復帰しようとすれば、愛する立場に立たなければならないので、屈伏しなければなりません。兄の立場にいる人は弟の位置にいる人に屈伏しなければならないので、弟と兄の立場を切り替える歴史が、今までの復帰摂理歴史だったのです。 怨讐を愛さなければならない理由 皆さんが一つ知らなければならないことは、サタンが今まで罪悪史の源泉となってきたのですが、イエス様が何故「怨讐を愛せよ」と言わなければならなかったのかということです。 本来、サタンは天使長でした。ところが、その天使長が「神は全知全能の絶対者ですから、ご自身が立てた法度を中心として解決しなければならないでしょう。私は法を犯してサタンとなったのですが、神は全知全能の絶対者ですから、ご自身が設定した法に基づいて実践しなければならないでしょう」と言うのです。 その法はどのようになっているのでしょうか。神は創造当時から完成した立場で、天使長を愛する立場に立たなければならないという法を立てたのです。それで、完成した後も天使長を愛さなければならないのです。 ところが、長成期完成級で堕落してしまいました。完成段階から、人間と天使長が堕落してしまったのです。しかし、神は完成段階で天使長を愛するように天地の法度がなっているために、天使長自身は堕落したけれども、神はその法度の通り、完成した立場で自分を一度愛さなければなりません。それ以前には、完成した神として登場することがてきないと言うのです。結局、サタンは、「ご自身が完成した立場で、私を一度愛したという条件を立てずしては、あなたの御旨はなされない」と言いながら、食い付いてくるのです。 その後には、人間に対して食い付いてくるのです。神は全知全能であられるから、神の息子が完成していたならば、御旨は成されるのです。それ故、サタンは「人間が完成した立場、完成した息子になったとするなら、あなたの息子であり、あなたの偉業を相続する者であるために、その完成した立場に立つ息子も完成した立場から、僕である天使長を愛するようになっているのではないですか。ところが、いつ完成した息子として、私を愛したことがあるでしょうか」と言うのです。そのために、六千年間かかったのです。 神が完成した日を迎えるその日は、人間が完成する日です。人間の完成と共に、神が完成した立場に立たれるのです。それ故に、アダムの代身として送られたイエスが完成した立場に立って、この全体を相続することができたならば、神の完成が始まるのです。これが即ち、神の完成であると同時に、人間の完成となるのです。 それ故、神が完成した人間である息子の心の中に入って、その息子を通して天使長を愛したという条件を立てなければ、天使長を追い出すことができません。そのような事情を知っていたイエスは、神が四千年間、恨みとして受難の道を歩んで来られたのは、この一つの完成基準を解決しなかったためであるということを知り、自分が十字架の死の道を行くことがあったとしても、この恨みを晴らしてあげなければならないという、かわいそうな事情をもつ立場に立っていたのです。 それ故に、イエスは怨讐に対して、「父よ、彼等をお許しください。彼等は何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二十三章三十四節)と、恵みを願って行ったのです。自分を殺そうとする怨讐に対しても、自分の命を奪っていくその立場においても、イエスは怨讐を愛さざるを得ない心をもって、祈ってあげたのです。愛したという条件を立てたのです。 それで、神がサタンに、「私の息子は死ぬような立場においても、あなたを愛した。命を捧げる立場においても愛したので、愛の中の最高の愛をなしたではないか。あなたは天使長の立場から堕落してサタンとなったが、本来天使長の立場にいるあなたに対して、主人としてやるべきことを成したので、神の息子の権威を持って完成の愛をなして余りあるではないか」と言うことができるし、その時サタンは「はい」と答えざるをえないのです。 それで、「本来人間は完成した息子であるから、サタンであるあなたは、彼を愛すると共に、彼に絶対屈伏しなければならないし、絶対的に彼をあなたの体のように愛さなければならないではないか。あなたも愛しなさい」と言えるのです。完全に屈伏しなければならないのです。ここにおいて、サタンは後退するのです。それ故、サタンより神を愛するイエスを、サタンより以上愛するようになった時、サタンは手を付けることができないのです。それ故、ここからサタンは神の国、即ち天国と別れていくのです。 このような事情があるために、今日キリスト教の信者達は怨讐を愛さなくては、神の国に帰って行くことはできません。それ故、怨讐を愛する心をもって戻って行かなければなりません。これをカイン・アベルの立場から見る時、アベルは誰を愛さなければなりませんか。カインを愛さなければなりませんか。カインを救ってあげなければなりません。カインが天使長の立場であるからです。天使長を解放せずしては帰って行くことができないために、統一教会の原理の中で、カイン・アベルの問題が登場したのです。 心はアベル、体はカイン カイン・アベルは個人から分かれました。個人的なカイン・アベル、家庭的なカイン・アベル、氏族的なカイン・アベル、民族的なカイン・アベル、国家的なカイン・アベル、世界的なカイン・アベル、このように皆分かれてきたのです。 では、個人においてカイン・アベルとは何でしょうか。心と体がカイン・アベルとなるのです。それで、心と体がお互いに闘うのです。体はカインの側であり、心はアベル側です。カインがアベルを打ったのと同じように、常に体が打ってきたのです。この闘いをはっきりと知らなければなりません。この体をアベルたる心の前に屈伏させ、心と体が一つにならずしては神の前に戻って行くことができません。体は僕であり、心は主人です。心と体は主従関係です。それ故に、心に引っ張られていく体にならなくては、神の御旨をなしていくことはできません。皆さん自体には、個人的なアベルがあり、家庭的アベルがあります。全てにアベルがあるのです。また、全てにカインもいます。復帰路程にいる皆さんは、これをはっきり知らなければなりません。 では、皆さんはまず誰と闘わなければなりませんか。サタンが問題ではありません。皆さん自身と闘わなければなりません。何故ならば、皆さんの心の一線には神がおられ、皆さんの体にはサタンがいるのです。 本来人間は愛で主管されるように造られています。愛の因縁さえ結べば、逆らうこともできず、主管されるようになっています。良い家系の娘であっても、下男と愛の関係を持てば、引っ張られて行きますか、引っ張られて行きませんか? (「引っ張られて行きます。」)良い家系も、どうすることもできません。愛の関係さえ結べば、どんな大きなことを言っても、その関係は断つことができません。そのようになっているのです。 このように、愛の関係を結べば主管されるようになります。愛でもって一つになれば、別れることができません。愛で一つになっているものを分けることは無理であるために、愛の関係さえ結べば、上下を構わず関係を結ぶようになっているのです。アダム・エバにおいて、まず天使長とエバが愛の関係を結び、次にアダムとエバが愛の関係を結んだのです。愛の関係は、サタンが最初に持ちました。 神を内的とすればサタンは外的です。従って、神は主体であり、サタンは対象です。主従関係です。人間を見る時、誰とまず愛の関係を結びましたか。外的なサタンと、まず関係を結びました。内的な神とは、愛の関係を結べませんでした。このように、人間は愛の怨讐となってサタンに引っ張られていく状況になったために、神は常に人間に対しサタンよりも先手を打つことができません。神は人に関わっていって、干渉することはできますが、引き連れて歩くことはできないのです。これが問題です。それ故、皆さんの心が強制的に体を引っ張って行こうとしても、引っ張って行くことができないのです。そのために六千年かかったというのです。 皆さんは心と体が闘っています。ところが、この闘いの主導権を誰が握っているかと言えば、サタンが持っています。神は主導権を握っておりません。縦的に逆さになったのです。主従が転倒されたのです。主人格にはサタンがなり、僕格には神がなったのです。その僕を打ち切って、主人の位置に戻って来るまでは工作をすることができません。それで、六千年もかかったのです。 ヤコブとエサウを中心とした血統復帰摂理 神はこれを入れ替わらせる摂理をしてこられました。入れ替わろうとすれば、どこまで入れ替わらなければなりませんか。兄弟同士が成長した後に入れ替わったとするならば、それ以前が問題となります。四十歳で入れ替わったとすれば、四十歳以前までは入れ替わることができなかった結果となります。それで、四十歳以後の人は救援を受けるかもしれませんが、四十歳以前の人は救援できず、サタンが食い付いてくるのです。これは大変なことです。 そのために、神は仕方なくまた摂理をされるのです。アベルが死んだ後、セツを立てて、セツ族を中心としてどこを訪ねて行くかといえば、女性の胎内を訪ねて行くのです。堕落は胎内から起きたためです。愛の種は胎内を通して生まれました。そのために胎内を訪ねて行って、入れ替わりをさせるのです。これは、どれほど大変なことでしょうか。おなかの中で入れ替わらなくては、生まれる命自体を神側に送ることができないというのです。それ故に、人を逆に入れ替わらせるためには仕方がなく父母の胎中にまで入って行って、分別する闘いをしなければならないのです。故に、キリスト教は神の御旨を代表した、歴史上になかった宗教であるということがいえます。これをカイン・アベル兄弟から入れ替わらせようとしましたが、そのようにできませんでした。それで、兄弟の間を狭めて行くのです。兄と弟が入れ替わることのできる交差点まで訪ねて行くのです。そのようにして、カイン・アベルの使命をセツが継ぎ、その御旨を受けてヤコブとエサウの時代が訪れるようになります。 一段階近い立場に入ろうとすると、双子を立てて摂理せざるを得なかったのです。どれほど近くなりましたか。兄弟は兄弟ですが双子の兄弟です。ここでまた闘わなければならない故に、ヤコブとエサウが闘うようになったのです。イサクは誰を祝福しようとしましたか。兄エサウを祝福しようとしたでしょう? しかし、神はアブラハムの神、イサクの神と、このように受け継がれてくるのです。このエサウを祝福するようになれば、大変なことになります。それで母リベカが後押ししてヤコブを助けるようになったので、ここから、母子協助が出てくるのです。女性が先に堕落したために、神の息子・娘を解放するために、生まれてくる際にも、女性が協助をしなければなりません。そのようにして、女性がサタンに引っ張られないで、神の前に行くようになるのです。 イサクは天使長の立場ですが、リベカは自分の夫であるイサクをだまして工作して、ヤコブが全ての祝福を受けるようになります。ところで、聖書を文字通りに見れば、兄をだました詐欺同然であるヤコブが、どうして神様の祝福を受けることができるかという疑問を持つようになります。それは、奪われて行った者を再び奪い返さなければならないために、そうしなければならなかったのです。天使長に奪われていった者を、再び取り戻すためです。 イエス時代における天使長の実体はヨセフでした。ヨセフとマリアは怨讐の間です。エバはアダムに対し、「私は堕落したけれど、あなたが主体にならなければならないにもかかわらず、どうして私の話を聞いたのですか」と言うのです。またアダムはエバに、「あなたが私を堕落させたのだ」と言って恨むのです。そういう面から、ヨセフとマリアはお互い怨讐です。 エサウとヤコブの路程において、母と息子が共同工作して誰をだましましたか。父親、イサクをだましました。この三人はアダム・エバ、天使長と同じような立場です。イサクは天使長と同じであり、息子ヤコブは誰と同じかと言えば、これから生まれてくるであろうアダムと同じです。従って、待ち望まれた息子として生まれることのできる立場です。そして母は誰と同じかと言えば、エバと同じです。堕落したエバは神の息子を身ごもることができなかった恨みがあるために、待ち望んだ息子を産むことが望みなのです。 それで、母リベカは神側の息子であるヤコブと一つとなって、自分の夫であるイサクを天使長の立場に立てたのです。そのようにして、天使長の長男となるカイン格であるエサウが受けるべき祝福を奪って、神側に返したのです。その時、兄エサウはヤコブを殺そうとしました。故に、ヤコブはハランへ逃げて二十一年間過ごすようになりました。 その後、ヤコブは兄エサウとよく交渉して、命を保つようになります。自分の僕達と共に、二十一年間かけて得た財物を兄に与えると、結局はエサウがヤコブを殺さず、迎え入れるようになったのです。エサウは、殺人を犯したカインと同じような立場にあったにもかかわらず、殺さない立場に立ったために、結局ヤコブはエサウを屈伏させたという条件を立てたことになりました。そのようにして初めてイスラエル、即ち勝利した民族圏を持つようになったのです。 ヤコブはヤボク川で天使と相撲をして勝利しました。それは、アダムが霊的天使に引かれて失敗したことを蕩減し、切り返して、人が天使を屈伏させる条件を立てたことになります。それによって、天使長の実体と同じような立場にいるエサウがヤコブに屈伏することのできる内的基準をヤコブが既に作ったために、外的なエサウも屈伏する結果をもたらしたのです。聖書を見れば、全部否定することのできない事実です。これは、先生が作った話ではありません。 今から数千年前にあったことです。聖書は約八五〇年の間、数多くの人々の手によって記録されたものですが、このようなことが、このような体系に基づいて記録されたということは、一つの思想をもった主人がいて、預言者を通して記録されたものでなければあり得ません。それ故に、「神はいない」という言葉は成り立たないのです。 双子のエサウとヤコブが闘って誰が勝ちましたか。ヤコブが勝ちましたね。(「はい。」)それで入れ替わりましたか。入れ替わりませんでしたか? (「入れ替わりました。」)何歳頃に入れ替わりましたか。四十歳頃です。四十歳頃になって双子として生まれた兄弟が入れ替わることができましたが、生まれる以前、胎内においては未だ入れ替われなかったのです。それで、サタンがそれを食い付いて来たのです。 タマルを通した胎内復帰摂理 アブラハム、イサク、ヤコブ、三代目のヤコブに、ユダという息子がいるでしょう。ユダ支派を形成したユダはヤコブの四番目の息子です。四番目というのは東西南北、春夏秋冬というように、四方の基準が現れ、春の季節を迎えるようになるのです。それで、四番目の息子が祝福を受けるのです。 そのため、ユダの支派を通してイエス様が誕生されたのです。イエス様の先祖の中でユダがどうなのか見てみましょう。ユダに嫁がいましたか。誰か知っていますか。タマルがユダの長男のところにお嫁に行きましたが、その長男に子供ができず死んでしまいました。 昔のユダヤの国においては、祝福を受けた血統は絶えてはなりませんでした。それで、女性がその後孫を残さずに死ぬことは、女性としての道理ではありませんでした。そうなれば、祝福を喪失してしまう女性となるのです。それでユダ族の国においては、国の法には兄が子供を産むことができず死んだ場合、その兄嫁を引き受けるようになっていたというのです。それが悪ではないのです。祝福を受けた女性を捨ててはならないようになっていました。外に出してもいけないのでした。そのはずでしょう? サタン側に追い出すことはできないのです。 それで、弟が兄嫁と共に暮らしていましたが、その弟も死にました。それ故に、タマルは自分の一代に祝福を受けた血統を繋ぐことのできないことに対して、命を失うよりも、もっと苦悩するようになりました。自分は死んだとしても、どういうことがあっても祝福を受けた血族を残さなければいけないという使命感、神の祝福を残すことのできるその道を追求する心がタマルは、誰よりも強かったのです。 これを成就する道があるとすれば、体面などかまわず、生死もかまわず、命を懸けようとする立場でした。これはマリアと同じです。そのために、どのようにしたかと言えば、自分の舅を相手にする計画を立てました。それで、タマルは舅が畑の仕事から帰ってくる道を知って、遊女のように仮装し、道端で舅を誘惑したのです。それで、舅と一つになって子供を宿すようになりました。 この世の中にそういうことがあり得ますか。これが聖書にある内容です。何故そうしたのでしょうか。そうしなければならなかったためです。堕落した結果がそのようなものであったために、そうしなければ天道が開かれなかったのです。 タマルがそのような因縁を結んだとき、ユダは自分の印鑑を与えて別れました。舅ユダは道端でそういう関係を結びましたが、その相手がまさか自分の嫁であることは知りませんでした。そしてタマルに対して噂が広まりました。寡婦が子供をはらんだので、「殺せ」と言って騒ぎました。このようになれば、タマルは死ななければならない立場でした。その時、ユダは族長でした。其の噂はユダにまで届くようになりました。それでユダの命令に従って殺そうとすると、タマルは、「私は不法に行ったことではなく、この子供の主人はこのような人です」と事情を話しました。 そのようにして、タマルは子供を産むようになりました。その子供は双子でした。 エサウとヤコブが胎内で闘うので、リベカが神にお祈りをすると、神様が「二つの民があなたの胎内から別れるであろう。一つの民は他の民族よりも強くなり、兄は弟に仕えるであろう」(創二十五章二十三節)と答えられました。同じように、タマルの胎内で闘いが起こったのです。子供を産んだ以後には切り換えられないので、胎内で切り換えたのです。創世記三十八章にこのような内容があります。 ユダの子供が産まれましたが、最初がペレヅであり、次がゼラです。彼等は生まれる時、兄が先に出るために手を出しました。それで、その手に赤い糸を結びました。これは終末期に共産党が出て来ることを予告したものです。主が来られる時には、神を否定する共産党が出て来るのです。ところが、弟ペレヅが兄を押しのけて、先に出て来たのです。これは胎内の闘いです。 胎内で兄を押しのけ、弟のペレヅが兄として生まれることによって、兄と弟を切り換えようとする神の摂理が勝利の結果をもたらしたのです。これは即ち、人を逆に胎内に入れて、胎内で闘って兄弟で切り換えた結果をつくったのです。このような役事は聖書以外にはありません。そのために、これを神の摂理だと言わざるを得ないのです。 胎内で勝ったために、この胎中を通して、勝利したその基盤を通して、節操を持って、命を捧げることを覚悟しながらその思想を受けて出てきた女性を通して、神の御旨を立てることができたのでした。そのような女性が身ごもれば、サタンは讒訴することができないのです。 胎内復帰の基盤の上で、神の子として生まれたイエス マリアは、タマルと同じように非法な道を行きました。タマルが非法の道において勝利したことを継承するためには、同じ道を行って、自分の夫でない他の男性を通して身ごもらなければならなかったのです。マリアは、タマルと同じように自分の命を捧げることを覚悟していたのです。体面とか威信とか、生死は問題ではありませんでした。神の祝福を受け継ぐためには、自分は石打ちにされてもいいと思ったのです。死んだとしても、子供を生んだ後に死ねばいいという確信をもって立ったマリアの立場はタマルと同じでした。 千九百年前に立てられたヤコブの家庭と、ユダの家庭で整えられた勝利の基盤が、歴史を経ながら継承されてきました。その上で、マリアを通して神様がご計画された息子を抱くのですが、その息子は双子ではなく、イエス一人だったのです。イエスは、勝利の胎中から生まれた息子であるために、サタンが「自分の息子である」と言って讒訴することができないのです。それで、イエスは初めて天上の御旨を立てることのできる神のひとり子として、地上に降臨するようになりました。イエス様はどのような教祖とも比較することのできない教祖であり、神の息子にならざるを得ません。聖書は、それほどまでに理論的にぴったり合っているのです。これは、文先生が作り出した話ではありません。そのようになっていますね。(「はい。」) イエスは神の息子です。サタンが血統的に人類に侵入できる基盤を固めてきたのですが、それを胎内において切り換える基盤を持ってマリアがイエスを胎内に宿した後からは、サタンは神に対して、胎内に自分の子供が入っているという条件を立てることができないようになったのです。胎内にいる子供は、主人たる神の最初の実として、神様が「私の息子である」と言って、堂々と権威を持って誕生させることのできる子供でした。そういうイエスが、僕の体を借りて生まれたのです。 イエスはアダムの代わりですね。(「はい。」)アダムにかたどって創造したのがエバであるので、イエスにかたどったエバを創造しなければなりません。イエスが生まれたならば、エバも創造原理通りに復帰し、再創造しなければなりません。過ちを正して、本来の姿につくらなければなりません。 イエス様に残されたこと 先生が江原道に来て、このように詳細に話をしてあげると、気分が悪いですね。止めましょうか。(「いいえ。」)こうした全てを知れば、原理講義をしながら誰から聞かれても答えることができるのです。そうすることによって、既成教会の牧師達が両手を挙げるようになるでしょう。 今、このような秘密はどこに行っても、億千万金に替えても学ぶことのできないものです。先生がいるからこういうことを皆学ぶことができるのです。では、継続しましょうか、止めましょうか。(「継続してください。」)こういう話に関心のない人には話したくありません。関心がある人にも話そうとしないのに、関心がない江陵の者達に何の話をしますか。止めましょうか、継続しましょうか。(「継続してください。」) 朝から話したので今は喉がかれました。きょうは仁川に行くように一昨日約束をしましたが、聖日ですからそのまま通り過ぎるのが惜しくて、きょう皆さんの前に立ったのです。朝、御言を語っているにもかかわらず、眠っている者達がいますね。止めてしまいましょうか。(「続けてください。」)では、よく聞いていなさい。 投資をする人達が財産を皆捧げるように、先生もこのような内容を捜すために、生命を懸けて闘争しました。皆さんは座って聞いているだけですが、それほど簡単に捜せるものだと思いますか。考えてみなさい。そのように座って、簡単に神が教えてくださって知ることのできる内容であるなら、何千年も前に皆教えてくださったことでしょう。このような内容を探し求めるためには、生命を懸けなければなりませんでした。 それ故に、統一教会の原理は、先生の命が復活して連続することと同じです。先生が生命を懸けて闘って探し求めたものなのです。そのような問題の一つ一つが解決される度ごとに、先生の生命が復活してできた、生きた歴史なのです。それ故、皆さんが原理に接する時は、眠ってはならないのです。皆さんは原理を生命よりも重要視し、侍っていかなければなりません。 イエスが誕生する時までサタンは人々に、「あなたの体には私の血統が入っている」と言いながら讒訴しました。立派な人であっても、愚かな人であっても、皆そのような讒訴を受けたのです。釈迦や孔子を信ずる人々にはすみませんが、釈迦や孔子もそうでした。堕落した後孫であるために、神の立場から見るときはそうだと言うのです。しかし、イエスはどうでしょうか。イエスはそうではありませんでした。 イエスは先程言ったような過程を経て生まれてきたのです。では、そのように生まれた女性がいましたか、いませんでしたか? (「いませんでした。」)それで、そのように生まれた男性であるイエスは、昔エデンの園において失われたエバを再創造しなければならなかったのです。 エバはアダムをかたどって創造したのです。人々は、エバはアダムのあばら骨を取り出して作られたために、男性にはあばら骨が一つないと言っています。しかし、あばら骨を取り出したのではありません。この言葉は、「かたどって作った」という意味なのです。皆さんは、本の要点を整理することを、「骨組みを取り出す」、「骨子を取り出す」というように言います。それと同じです。あばら骨を取り出して作ったということは即ち、それを見習って作ったということです。 エバは誰によって作られたのでしょうか。誰をかたどったのでしょうか。(「アダムです。」)それで、女性は男性よりも小さいのです。男性よりも大きい女性を見ましたか。女性が大きければそれは手本を誤ったのです。それでは、手本がいいでしょうか、副本がいいでしょうか? (「手本がいいです。」)女性は副本です。それ故に、完全という面からみると少し劣った点があるというのです。女性は男性のように髭がありません。はやそうとしてもはやすことができないでしょう? そのような差があるのです。イエスに残されたことはエバを捜すことでした。 聖婚できなかったイエス様 では、マリアはどのようにしなければなりませんでしたか。端女たるマリアは堕落したエバの立場で、自分の継代(けいたい・跡継ぎ、あととりのこと)を通して堕落しないエバをつくるために、あらゆる精誠を込めなければなりませんでした。イエスの結婚に関心を持たなければならなかったのです。ところが、マリアはガリラヤのカナの宴会の席に参席し、そこに来たイエスに「ぶどう酒がなくなりました」という話をしました。すると、イエスは、「婦人よ、あなたは、私と何の関係がありますか」と言いました。「あなたと私は何の関係があるのか」と言うのです。他人の家の宴会が何の関係があるか、私の宴会はどのようになっているかというのです。 先生がこのような族譜(ぞくふ・イエスの系譜を示す。)を掘りお起こして、悪口を言う必要はありません。しかし歴史を正し、伝統を正さなければならないため、不可避なのです。そうではないでしょうか。イエスが死ぬようになったのは、結婚することができなかったためです。結婚していたならば、どうして死ぬことがあったでしょうか。 マリアは全身全霊を込めて女性を再創造しなければなりませんでした。マリアは女性です。マリアは僕としての女性の中で代表的立場であるために、僕圏内にいる女性を全部動員しなければなりませんでした。三人以上動員しなければなりませんでした。三位基台を立てなければなりません。そのように動員して、お互いが協助しなければなりません。 イエスの親戚の中で娘がいるか捜してみて、娘がいれば彼女達を集めて基台を作らなければならなかったのに、それができなかったのです。イエスの親戚の中で誰がいましたか。洗礼ヨハネの妹がいたならば、どれ程良かったでしょうか。洗礼ヨハネの母は、マリアがイエスを宿した後、世話をしてくれました。イエスが胎内にいる時から歓迎しました。それ故、洗礼ヨハネの妹や親戚関係の八親等内に娘がいたならば、洗礼ヨハネの母とマリア、そして姉がいたならば、その姉と三人が一つとなって、イエスより年が若いその親戚の娘と因縁を結ばなければなりませんでした。イエスと共に一人の女性を再創造しなければならなかったのです。 もし洗礼ヨハネの妹がいたならば、幼い時から、イエスが東に行けば東に付いて行きたいし、西に行けば西に付いて行きたい。付いて行けなければ、「私は死ぬ」と言う程にイエスを思うようにしておかなければなりませんでした。イエスが結婚する前に、そのようにしておかなければなりませんでした。そうであれば、誰が来てもどうにもならないのです。そのような女性は、今まで信じることのできないような、歴史的な全ての内容を話すことのできる特別な氏族の中から出て来なければなりませんでした。それは、どのような氏族でしょうか。洗礼ヨハネの家庭とヨセフの家庭です。ヨセフの家庭には、ヨセフの従姉妹(いとこ)もいたでしょう。 神は、イスラエルの国ではユダヤ教が中心であり、ユダヤ教の中でもヨセフの家庭(氏族)が中心であり、ヨセフの家庭(氏族)の中でも、洗礼ヨハネの家庭が中心であることを知っておられました。それ故に、その家庭は最も重要な血族でした。祖先の中の種がいいというのです。神は、イエスを見込みのある家門から見ても、名門である家門を通して生まれるようにされました。また、洗礼ヨハネの家庭を見ても、洗礼ヨハネをエリサベツが身ごもった時、祭司長をしているザカリヤが唖になったのをみると、族譜、即ち家門がいい家だということが分かります。それ故に、それ程良い従姉妹圏内からイエスの相対者を得たならば、神は嫌がったでしょうか、喜ばれたでしょうか? イエスの相対は他のところから取ることができません。自分の直系の従兄弟の妹、従兄弟の姉妹からしかありません。血統が異なっていてはいけないのです。このように従姉妹を通して事が良く運んでいたならば、どのようになっていたでしょうか。イエスに惚れて、「イエスでなければ自決したい。イエス以外の人の嫁には行きません」と言う、そのような妹がいたならば、どのようになっていたでしょうか。イエスが死ぬ時に「私も共に死のう」と言って付いて来る女性がいたならば、どのようになったでしょうか。そういうことを考えてみたことがありますか。 ペテロ、ヤコブ、ヨハネのような主弟子も皆逃げてしまったのですが、一方的に慕う一人の女性が出て、「彼が死ぬのならば、私も共に死にたい」と言う妹がいたならば、どのようになっていたでしょうか。そうであったならば、イエスは昇天することもなかったのです。イエスが昇天しなかったならば、キリスト教徒は虐殺されなかったのです。そういう事実を見ると、非常に重大なのです。 この地上に神の王者が来られたのに、男性達は天使長の立場であるために逃げたのですが、彼の相対者として残るべきエバの群れ、夫が行くべき道を貞操を持って守ることのできる一人の女性、片思いでもすることのできるそのような女性がいたならば、どのようになったでしょうか。皆さんはこれを考えてみましたか。 イエスは死んだとしても、神の前に栄光を返すことができました。また、死の場においても、「あなたはこの地上で愛することのできる一人の人を捜したのではないでしょうか。私に味方し、私を愛して死んでいった、か弱い女性をかわいそうに思ってください」と言って、恵みを乞うこともできるのです。万民を代表して恵みを施してあげることもできるのです。 イエスは死の道、黄泉の道においても寂しくなかったのです。地獄に行ったとしてもペアで行ったでしょうし、楽園に行ったとしてもペアで行ったでしょう。だから寂しかったでしょうか、寂しくなかったでしょうか? そのようになっていたならば、聖霊は何のために送りますか。聖霊を送る必要がありません。そのように成すことがてきない運命であったので、聖霊を送ったのです。父の神であるイエスは天に行ってしまい、母の神である聖霊は地上に降りて来ました。離別が始まったのです。そのような女性がいたならば、昇天は必要なかったのです。地は子女を直接保護するために、そのように死ぬことはないというのです。 責任を果たし得なかったマリアと親戚 このような恨みが積もっているのです。もっと詳細に話をしてあげたいのですが、時間がありません。「原理」にはそういう内容がないですね。「原理」はイエス様まで説明しているために、イエス以後、先生に関することを皆さんは知りません。それ故に、皆さんはこれから本当の勉強が残っているのです。まだ私が教えてあげていないのです。試験を受けて落ちる人は落ちてしまい、本当に残るべき人達が残るようになれば、私が神の国へ連れて行くことのできる家庭をつくっておいて、教えてあげるのです。そのような家庭をつくるためにも今、このような苦労をさせているのです。女性を皆押し出して苦労させ、今は男性達も息子達までも苦労させようとしています。 貴く受けることができるようになって、初めて貴いことを与えます。そうでしょう? それで、女性達に家庭を捨てて開拓の道を行くようにしたのです。ここに同参しない人は、これからどのように悲惨になるかを見てみなさい。そこにおいては、先生と何ら関係がありません。そういう法を皆さんは知りませんか。どのような法を取ろうとするのか知らないでしょう。それについて少し話をしてみましょうか。 話す事がたくさんあるので、一週間かかっても皆話しきれません。しかし、今これぐらい話せば、皆さんは間違いないということを知るようになったでしょう。これが本当の覗き眼鏡の中の世界であり、本当にややこしい事実であるというのです。これ位知れば生命を懸けるに値するでしょう。イエスもこれぐらい分かって生命を懸けたのですが、皆さんはイエスよりももっとたくさん知っているのではないでしょうか。イエスとかマリアはこのような内容を知りませんでした。髪をボサボサした独身者となって、ただ神が教えてくれればうなずき、「しなさい」と言われた通りにしかなさなかったので、そのような準備は一つもなしませんでした。 もし知っていたならば、親戚の妹に接近し、御旨を教えてあげたのではなかったでしょうか。事実、当時の事情で、イエス自身がそうすることのできる立場でもなかったのです。腹違いの息子として生まれたという噂の故に、そうすることのできない立場でした。それを、母であるマリアと洗礼ヨハネの母、そしてその姉かあるいは従姉妹等の、三人の女性がしなければならなかったのです。そのように、三人の女性が一つになっていたならば、間違いなく成すことができたのに、これができませんでした。 皆さんの中においても、いつ御旨が成されるであろうかと思う人がいるかも知れません。神の特権的恵沢、天地が引っ繰り返るほどの恵みが訪ねて来ても、皆さんはそれを知っていますか、知りませんか。「受けなさい」と言っても、目をパチパチしていますね。歴史はそのように成されていくのです。 イエスがかわいそうですか、かわいそうではないですか? (「かわいそうです。」)このように、イエスを結婚させられなかった女性達になってしまったので、滅びるようになりました。イエスが結婚できなかったので、父と母に侍ることができず、親戚をつくることができず、教会を持つことができず、国を成すことができなかったのです。 エバ復帰路程 統一教会の女性達が何故三年路程を歩まなければならないか、その理由が分かりますか。六〇年代は、女性を個人的に送りました。そのために、先生は三年間の開拓において、女性達を先頭に立てました。そうだったでしょう? その三年が過ぎれば男性が多くなると言いましたが、そのようになりましたか、ならなかったですか? この頃は男性が多いでしょう? 女性が神の息子を追い出しました。個人的に追い出し、家庭的に追い出し、民族的に追い出しました。そうでしょう? 女性が一つになっていたならば、状況はそのようにならなかったのです。宗教は女性のものです。女性が一つの群れとなって、イエスを救わなければなりません。イエスを殺そうと反対する群れの三倍の女性達が集まって、「私を殺せ」と言って騒いだならば、イエスを殺したでしょうか。殺すことができませんでした。それは大変なことなのです。 それで、個人的女性の蕩減時代が来たので、今家庭的女性の蕩減時代へと上がって行くのです。このような蕩減時代がなければならないでしょうか、なくてもいいでしょうか。個人的アベルの蕩減がなければならないし、家庭的アベルの蕩減がなければなりません。蕩減をしなくては、上がっていくことができません。それで、各段階ごとに、このような蕩減があります。女性が個人的に蕩減したならば、一段階上がって行かなければならないでしょう。一段階上がって行くのに、そのまま上がって行くことができますか。そのままでは絶対に上がって行くことはできません。蕩減をしなければ上がって行けません。 それ故に先生も苦労するのです。もしキリスト教が先生に侍っていたならば、キリスト教は二千年間、個人と家庭を蕩減してきたために、一度に全てが解決されるのです。しかし、キリスト教が反対したために、再蕩減の路程が残されたのです。それで先生は北韓の共産世界、怨讐世界の果てに行ったのです。そこで南韓を捜し、取り戻し、奪い返してきたのです。奪い返してくる時には、打たれたとしても取り戻さなければ足を付けるところがないのです。このようにして個人、家庭、氏族まで上がって来ました。たくさん上がってきたでしょう? そのたびごとに迫害を受け、追われながら来たのです。 先生は個人の復帰路程を経て、六〇年代から聖婚式を中心として家庭復帰の土台をつくってきました。イエスが家庭、即ちエバを育てなければならないのと同じように、先生もお母様を育てなければなりません。先生が何故若いお母様を選んだか分かりますか。先生が育てなければならなかったためです。二十代を越えればお母様になれないのです。アダム・エバが十代圏において、即ちエバが十六歳頃に堕落したために、何も知らない十代圏にいる女性を選んで、天の法度を教えて、誰も知らないうちに育てなければならなかったのです。何も分からない十代から、夫が行く道の前に、絶対的に命を捧げて従順であることを誓い、天を通して公約を立ててこそ、母親の立場に上がって行くのです。皆知っていてはならないのです。何も知らない状態から上がって行かなければなりません。 お母様は何を分かっていたでしょうか。先生の年が四十代で、十八歳になった婦人を迎えたのでどれほど大変だったでしょうか。ご飯を食べることと、神しか分からないお母様でした。しかし、そのお母様とその背後に神の摂理の御旨があったために、何も知らないお母様を連れて来て育てたのです。その期間が第一次七年路程の期間でした。 神は女性を六日目に造られました。七日の期間を越えなければならなかったのですが、そのような安息の期間を越えることができませんでした。そのために、男性としての先生は勝利の基盤を整えましたが、女性としてのお母様はまだ勝利の基盤をつくり得ませんでした。それで、女性としての勝利の基盤を越えるようにし、家庭の基盤をつくるその期間が第一次七年路程なのです。 それ故に、お母様は泣きながらでも従順でなければなりませんでした。泣いたとしても、タマルのような心情、マリアと同じような心情を持たなければなりません。自分の一身は滅びたとしてもかまわない、肥料になろうという考えをもって、国の為に、世界の為に、御旨の為に、祝福を受けた血族を残すために、どんな冒険でも成しうるという決意をする立場に立たずしては、「お母様」の名を備えることはできないのです。先生がその教育をしてきたのが第一次七年路程でした。 そして第二次七年路程は何かと言えば、女性として行く道をつくる期間です。祝福を受けた男性達は何かと言えば、全部が天使長型なのです。お母様が第一次として行かれたので、祝福を受けた女性達は二次として行かなければなりません。即ち、二次七年路程は子女の立場にいる家庭が位置を立てる期間なのです。 その後に、三次からはどのような期間に該当しますか。その時は、祝福を受けた皆さんの子女達が十四、十五、十六歳を越えるようになります。そうでしょう? 第三林七年路程さえ越えるようになれば、祝福を受けた人達の中で、アダム・エバが堕落して行った、その時の年齢を越える子供達が現れるようになります。それ故に、その時から統一教会が世界的に伸びていくようになります。原理的に見るとき、そのようになっているでしょうか、なっていないでしょうか? (「なっています。」)遠くありません。七年だけ過ぎてみなさいと言うのです。 今は女性が責任を果たす時 「一次七年路程に参加した人は恵みがある」と言ったでしょう? それで今回七七七双を祝福した際、一次七年路程に参加した人は一人も残さず、全部無条件に祝福してあげたのです。殆どがそこに入ったでしょう。それで、一次七年路程に参加した人は恵みを受けると言ったのです。 このように詳細に教えてあげれば限りがありません。詳細に教えてあげれば誰でも入ることができるでしょうか、できないでしょうか。ご飯をつくってあげればそれでいいのであって、食べさせてまであげなければならないでしょうか。食べることは自分達がしなければなりません。 今は家庭的に女性がカイン圏に勝つ時です。女性一人、即ちエバが堕落することによって、どのようになったかといえば神を追放しました。その次には、真の父母を追放したでしょう? その次には、真の夫婦、真の子女を追放したでしょう? どれほど多くを追放したか見てみなさい。女性がどれほど罪深いか見てみなさい。その後には、真の人、真の家庭はもちろん、真の氏族、真の民族、真の国家、真の世界、天国、霊界までも皆追放しました。何段階ですか。十二段階でしょうか。これらを皆追放しました。 女性にはこのように罪が多いのです。女性が歴史において誉められるようになっていますか。死ぬほど苦労をするようになっていますか。女性として生まれたのは、罪が多いからです。これを埋め合わせなければならないのです。それ故に、今まで女性達は数多くの男性から蹂躙されてきました。 男性は天使長です。何故そのように蹂躙しましたか。自分の妻ではないためです。天使長に妻がありましたか。それ故に、女性は自分の妻ではないのです。本当に大変な話ですよ。自分の妻でない女性は怨讐の妻です。それだからかわいいのでしょうか、憎たらしいのでしょうか。憎いために、共に生活しながら足でけったり騒ぐのです。今までそういうことをしてきたのです。ですから、どれほどかわいそうなことでしょうか。それ故に、女性達は本然の夫、即ち新郎となる師を捜し求めてきたのです。そこから、本来の夫を迎えるようになるのです。 それで統一教会においては、一度結婚をすれば永遠を懸けて行くのです。先生が来たために、このようなことが始まるのです。それ故に、男性は、今までサタンの前で軽蔑され、苦労してきた自分の妻を、初めて捜し出して、男性として愛してあげて誇らなければなりません。 男性は考えてみなさい。女性を憎むことができないのです。「引き裂かれ、言うことのできないほどの苦労をし、怨讐に捕まって死ぬところまで行って喘いでいたのは、私がいなかったためである。しかし、今私と会ったので、過去の全てのとがを忘れ、本来の夫として愛してあげなければならない」と言わなければなりません。そのようにする責任が統一教会の男性達にはあります。そのような考えをもって妻を愛さなければなりません。分かりましたか。女性がかわいそうでしょう? これから皆さんの妻は母の代身です。歴史的な女性です。また姉の代身であり、妹の代身です。それ故、総合的な愛の心情をもって、女性に接してあげなければなりません。妻が母の代身であり、私が父の代身の立場で、それ以上愛する心を持たなければならないし、その次には、妻を愛する夫の心をもって愛してあげなければなりません。このように三つの愛を中心として妻に接しなければなりません。このように三位基台を束ねて妻を中心とすれば、四位基台になるでしょう? このような四位基台が、一人の女性を代表として、心情を超越した立場で束ねてこそ、初めて善なる父母の因縁が出発するのです。 男性達、そうですか? 裏心を持った男性達は雷に遭います。霊界に行けば引っ掛かってしまいます。 この三千里半島の上に生きる女性達は、民族と国の運命を懸けて、蕩減の祭物路程を行かなければならない時が来ます。分かりましたか。サタン世界に軍隊を作ったことは誰の過ちのためでしょうか。女性が誤ったためです。それ故に、韓国にいる女性が挙国的に団結し、サタン世界の男性の軍隊を全部掃討しなければなりません。そうしなくては、韓国の解放は訪れません。それは大変な話です。北韓で女性が強力な正規軍の訓練を受けているという話を聞く時、胸がつまる思いがします。 何をしようとしてサタン世界の彼等が、そのようにしたのでしょうか。それは大韓民国が誤り、既成教会が誤ったために、このような形になったのです。しかし、今や我々の行く道は公式的に出てきているのです。 その道を行こうとすれば、家庭の主婦の皆さんがこれから民族の新しい基準を立てなければなりません。それには統一思想をもって征服しなければなりません。女性の軍とならなければなりません。今までは男性達だけが出征しましたか、女性が出征しましたか。女性は国を滅ぼし、世界を滅ぼしましたが、いつ女性が国の解放のために出征したというのですか。男性はサタン世界において解放軍でありましたが、女性が国を捜すための先頭に立ったことはありませんでした。 ところが、今日先生のおかげで女性が国を取り戻す騎手となる特権的恵沢を受けることができました。このことを有り難く思わなければなりません。こうすることのできる時は一時しかありません。この時期が過ぎれば、そうすることができない時が来ます。だから、皆さんはここに出て来て良かったですか、悪かったですか? 他の考えはするな、と言うのです。 女性解放運動の伝統を立てるべき女性達 今、皆さんは、女性が失敗したことを蕩減した女性として、挙国的、民族的女性解放の伝統をつくらなければなりません。個人伝統をつくることができますか、できませんか。家庭を中心として民族が形成されたために、家庭の伝統を立てなければなりません。では、誰が家庭の伝統と家庭主婦の伝統を立てますか。統一教会においては、神の前に祝福を受けた家庭が先頭に立たなければなりません。祝福家庭がこれから、新しい国の国民の伝統を立てなければならないために、やむを得ず祝福家庭の皆さんを一斉に追い出さざるを得ないのです。これが神様の事情です。 それ故に、皆さんはあらゆる精誠を込めなければなりません。夜ならば、夜を徹しながら聖地で、この民族のために涙を流す祈祷をしなければなりません。自分の子供に会いたくなれば、任地の村を訪ねて行って、会いたい心から出てくる涙を禁じ、「三千万民族を私の子供の代わりに愛し、私の夫の代わりに愛することができるようにしてください」と、神に祈祷しながら伝道しなければなりません、そのような思想を残さなければなりません。これが新しい国、家庭において、主婦達の伝統となるのです。 皆さんがそうすることによって、夫達の行く道を教育するのです。分かりましたか? エバは男性に対する教育を誤ったために、滅びるようになったのです。エバは、愛の道理と愛の因縁を中心とした生活舞台をサタンに売ってしまったのです。今日、皆さんは男性が行くべき正義の道理を立てなければなりません。女性が立てなければなりません。その次に、子女を教育することにおいて、正義の教育資料を女性が作らなければなりません。そのために男性は子供を抱き、子守歌を歌うことができなければなりません。「子供よ、子供よ、あなたの母は世界の中で最も立派なお母さんである。天国の天女よりも立派である。わが国の大統領夫人よりも、アメリカの大統領夫人よりも、英国の女王よりも、もっと神様が愛する立派な王妃である」と言いながら讃美しなければなりません。そして、「そういう母に侍り、そのような母を迎えることが父の願いです。あなた達も、そういうお母さんを見ることを願うでしょう」と言いながら教育しなければなりません。 「あなたの母は、国の為に、天と地の為に祭物となった立場で苦労しています。お父さんも、そのお母さんの為にこうして朝に夕に祈祷しているので、あなた達はお母さんを懐かしく思わなければなりません」と言って、涙しながら指導しなければなりません。天下に二人といない貴い母親であると教育しなければならないのです。ここにおいて、初めて正しい教育が成されるのです。正しい夫も、ここから出て来るのです。 それ故に、地域長達や地区長達は、自分の地区に来ているお婆さん達によく食べさせなかったり、飢えるようなことになったら大変なことです。そのお婆さん達によく接してあげてこそ、自分の妻が恵みを受けることができます。 皆さん、愛の関係、即ち夫婦の関係を悲劇的な立場において結ぶことによって、全てのものが皆別れてしまったのでしょう。それで神が皆追い出したのでしょう? それを、いつ再び皆集めるのでしょうか。誰が集めなければなりませんか。男性が出て来て集めますか。天の道理に従って、法的な立場から、夫婦の因縁をつくる道を行くことによって、これを一気に捜してくることができるのです。 我々は同じ姓を持った天国の民 今、皆さんは神の御旨の中に集まって、神の仕事をしているのです。神の御旨に従って、か弱い女性が一線に立って闘う立場にいるのに、神が知らない顔をされるでしょうか。神が追い出したが故に、神が再び訪ねて来られるのです。どれ程の感謝でしょうか。それだから収拾されるのです。では、真の父母は一線に追い出したので、訪ねていらっしゃるのでしょうか、来ないでしょうか。先生がそうしたので、先生も同じです。それで、先生が皆さんを訪ねて来たのです。 その後には、皆さんの夫が、皆さんのいる所に心を置くでしょうか、置かないでしょうか? 心を置きます。その後には皆さんの子女が置くでしょうか、置かないでしょうか。心を置きます。そして皆さんの氏族はどうでしょうか。我々統一教会の信者達、全教会員は同じ氏族です。その氏族の心も、皆さんに向かって行くというのです。 皆さんの姓は何ですか。何家ですか。我々は統一家です。これからは、私が氏族を選出して、一つの家と、氏族をつくれば、一つの後孫となるのです。今は金某とか言うようにまだらで色々です。今はまだ入籍をしていないのです。 アメリカや日本においては、女性が結婚すれば男性の名字に従います。僕は名前もないのです。そのために、女性は新郎として来る主様の名字に従って行くのです。夫達は僕の立場であるために名前がないので、仕方なく妻の名前に従わなければなりません。そのようにして名字が一つになるのです。 日帝時代、サタンはまず創氏改名する運動をして、我が民族を教育しました。ですから、今名字を変えることが、それ程難しいでしょうか。日帝時代にも変わったのです。私は名字を変えるために来た人です。族譜(家系図)を掘り起こそうとして来た人です。気持ちが悪いですか、いいですか? (「いいです。」)僕の家系図を皆掘り起こして、王宮の王女王子の家系に入籍させようとするのに、嫌がる人がいますか。嫌だったら止めなさい。そういう人は滅びなければなりません。それ故に、喜ばざるを得ないのです。 その後には氏族が訪ねて来るようになり、民族が訪ねて来るのです。皆さんを撃つ大韓民国の民族は悪口を言いますが、心の中では頭を下げるでしょう。「私の妻より、私の嫁より、私の娘より、誰よりも優れています」と言うでしょう。韓国一の妻・娘、自分の妻・娘よりも優れているというのです。このように民族が関心を持つのです。そのようになれば、大韓民国が関心を持たざるを得ません。今は持たないとしても、未来には関心を持つようになります。 その後には世界が関心を持つようになり、霊界が関心を持つようになります。また被造万物が関心を持つようになり、天使世界が関心を持つようになります。誤った夫婦の因縁によって掘り起こされた全部を、正しい夫婦の因縁で越えて行かなければなりません。それで、今度の期間に、このような事が起こるのです。それ故に、第二次七年路程が最も重要なのです。<(2)に続く>一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.09
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「御旨の行くべき道」1971年年1月9日江原道の江陵教会(全国の地区巡回師達に語られたもの) 統一教会の力 このような事実を根拠として見る時、アメリカは今や全ての面において後退することでしょう。それは誰のためでしょうか。統一教会のためです。これから、立派だと言われている人々は、皆挫折していくことでしょう。韓国に援助をしてくれなければ、滅びます。「何故、そのように話を飛躍するのですか」と言うかもしれません。飛躍した話ではありますが、意味が含まれている話です。私は時間がなくて、もっと詳しい話はできませんが、我々統一教会の人々は皆知っていることです。 昔、ケネディ大統領が韓国の経済援助に対する予算を削減した時、「見ていなさい。必ず挫けていくだろう」と私は宣布しました。韓国の人々は、アメリカ人の物を持って来て食べていますね。そうでしょう? 韓国の人々の中で、アメリカの物資の世話にならなかった人が、どこにいるでしょうか。現時点では、韓国の人はそれを食べなければなりません。アメリカの人達は全部倉庫の倉庫番なのです。韓国の人達は主人の子女なのです。ところが、倉庫番は主人の子女達に食べさせて、手助けしてあげるようになっているので、それを面倒臭く思うのです。そうなれば、その人達は全部滅ぶしかないのです。 それで、私がそれを処理しようとしているのですが、大韓民国政府が反対し、キリスト教が反対するので、二十五年という歳月が巡って来たのです。 今はアメリカを中心とした作戦が必要です。統一教会はホワイトハウスにも道があります。私の計画圏の中に、アメリカの下院議員百二十名が連結されており、上院議員は四十九名も連結されています。何の話か、皆さん分かりますか。 我々統一教会の子供舞踊団は、ホワイトハウスと三日以内に交渉をして、ホワイトハウスの部屋の中に入って踊りを踊ることができます。そこに入るためには、大韓民国の大統領であっても一年も前から交渉しなければなりません。世の人々は、統一教会の文先生が死んで、亡くなってしまった者と考えていますが、先生はそのように案山子ではないのです。そのような空っぽな者ではありません。今も先生が何をしているのか、皆さんは全く知らないでしょう? 明日は、韓国の著名な教授五十名以上がアカデミーハウスで統一教会の原理を聞くことでしょう。それが良いことですか、悪いことですか。(「良いことです。」)その次の二十一日、二十二日、二十三日には既成教会の立派な牧師達千二百名程が統一教会の原理を聞くことでしょう。我々の教会に反対したのですが、このように繋がって来たのです。気持ちがいいですか、悪いですか。(「いいです。」)このようなことは、静かに座っていてすることができる仕事でしょうか。統一教会の文先生はそのような仕事をしているのです。 北韓の金日成も、今私を一番怖がっています。日本の共産党が一九七〇年度の年頭に第一目標として掲げたことが何かと言えば、「国際勝共連合を日本国内から打倒しよう」ということです。それは、恐ろしいからそうするのですか、好きだからそうするのですか。(「恐ろしくてそうするのです。」)共産党の機関紙「赤旗」が、毎日のように反復して打っております。彼等が恐ろしくてそうするのですか、恐ろしくなくてそうするのですか。恐ろしいと思うのです。じっとしていては、道理がなく、やられるしかないのです。 それで、この頃の若い人達は、精神を真っ直ぐにしなければなりません。ここに、大学を出た人達がいますか。大学を出たからと言って偉そうにする人がいるとすれば、統一教会から追い出さなければなりません。本筋を行かない者達はもっともっと悪いのです。そういう人達は、かえって高校を出た人よりも低いというのです。大学に通っているからと言って、偉そうにする人達は私の手中にかかれば、とんでもないことになります。そういう考えを持っている人達がいれば、追い掛けて行って、叱ってあげなければなりません。全部清掃しなければなりません。 ここに、「地区長が小さい」と言って、馬鹿にする人がいますか。(「いません。」)皆さんはいくら小さくても、辛い唐辛子にならなければなりません。 このような私達が集まった統一教会には、世界に恐ろしいものがありません。大韓民国の国軍と郷土予備軍を全部動員しても、統一教会を没落させることはできません。完全に踏みにじることができないのです。 このような統一教会にあって、もし私が統一教会と韓国を捨てて行く日には、韓国が淋しくなります。それ故に、皆さんは矜持と自負心を持たなければなりません。それで、未来に向かって力強い一歩を踏み出さなければなりません。分かりましたか。(「はい。」) では、聖人中の聖人は誰であると言いましたか。(「イエス様です。」)イエス様ですが、その方が成し得なかったことを私が皆成してあげようとするのです。実際に、真の父母になろうとすれば、霊界に行っている全ての聖賢達も先生の指導を受け、従順にならなければなりません。彼等はみんな霊界で常に会っていますが、私が尋ねることに答えることができないでいます。 世界を統一しようとすれば、まず霊界を先に動員しなければなりません。そうしなければ、世界を統一することができません。それ故、世界を統一する以前に、霊界を動員しなければなりません。それで、道の世界を正して、教祖達をつかまえておかなければなりません。 霊界と一つになってこの世界を開拓して行かなければ しばらく、私の宣伝をしてみたいと思います。統一教会の文先生には、仏教界のお坊さん達の中にも弟子がいます。これは誰も知りません。ただ、霊界に通じた人だけが知っています。そのお坊さん達は、「釈迦牟尼が私に『先生を訪ねてみなさい』と言いました」と言うのです。「行く時にはただで行かないで、お土産を持って行きなさい」と教えたのです。それで、先生を訪ねて来た人がいます。そこには女性のお坊さんも混じっています。皆有名なお坊さん達です。間違いなく、お釈迦様が先生についてみんなに教えてくださったために、彼等は先生を訪ねて来たのです。 彼等がたとえ木魚はたたいていても、統一教会を宣伝しています。(笑い)儒教を信じている人達の中にも、たとえ儒教を信じているとしても統一教会を宣伝する人もいます。そればかりでなく、観相を見る人達とか、占い師の中において、統一教会を宣伝する人もおります。彼等は、先生がどのような人であるかを直ちに知っています。どのように知ることができますか。霊界の法は統一されているために、アンテナを高くすれば直ちに知るようになっています。しかし、この世の貧しい人達は、知らないというのです。 皆さんは、統一教会の文先生を知っていますか。知る者と言えば、目が鋭く、誰の話も聞かないような格好をしている、というようにしか知らないでしょう? 今、我々統一教会が伝道する方法は簡単です。霊界を通せば直ちに伝道することができます。先生の名前を持って行って、原理の本だけ持って行けば、誰でも直ちに知るのです。素晴らしいでしょう? そのような体制と基盤が、今やみんな成されているのです。 我々統一教会の信者達は、このような事実をよく知っています。ここにいる統一教会の信者達も、今このようにみすぼらしく見えますが、皆知っているのです。私が統一教会で何かをしようとする時に最も困難なことは、人知れず計画を立てるのですが、韓半島全土において、いつもアンテナを高くしている統一教会の食口達は、今先生がどこで何をしているのか、みんな知って座っているという事実です。 先生は人を一度見れば、この人が何をする人か、みんな分かる素質を持っています。そういうことをしないだけですが、みんな知ることができます。それで、私が日本の人達に祝福をしてあげる時、二三〇双を十時間の間に全部マッチングしてあげました。ところが、その中に摩擦があって、「合う」とか、「合わない」と言って、よく私に尋ねる人達がいました。そういう人々に、「あなたはこのような歴史を持っているでしょう? そうですか、そうじゃないですか」と尋ねれば、「そうです」と答えます。「だから、あなたはこの女性が合うし、あなたはこの男性が合うのです」と言うと、その時になって、「悪かったです」と言うのです。(笑い) 先生は人を見る専門家です。今までこのことのために一生を捧げてきたので、一目見れば分かります。それでも、知ったか振りをしません。ただ、知らん振りをしているのです。そのようにして後ろを向いても香りだけかいでも、みんな分かるというのです。ここにいる地区長が精誠を込めてきたか、込めなかったかみんな分かります。私が地区長のために祈祷を少しすれば、みんな分かります。それ故に、統一教会はただものではないというのです。 我々統一教会は霊界と関係を結んでいて、未知の世界を開拓する先駆者の立場に立つことができます。我々統一教会の人達が原理をよく分かれば、道人達に会ったとしても、彼等を一挙に主管することができます。そうでしょう? 我々統一教会の信者達は聖人として変化しようとする人々です。 心を中心として体を主管しなさい では、原点に再び帰って、聖人中の大聖人は誰だと言いましたか。(「イエス様です。」)ここのおじさん達、分かりましたか。イエス様が聖人中の大聖人であることが分かりましたか。(「全然分かりません。」)今まで聞いても分かりませんか。何故こんな男がいますか! (笑い) 人間は心と体に分かれています。心と体がお互いに闘っているので、これをそのままにしておいてはいけません。恐らく、そのままにしておきたい人はいないでしょう。それで一つにするためには、一方を無くすことです。宗教はこれを強調しています。 では、どちらの方を殺すべきでしょうか。言い替えれば、あるものを中心として、あるものを捨てなければならないのです。心を中心として体を捨てなければなりません。間違いないと言うのです。何を中心としますか。(「心です。」)心を中心とするということを、絶対に忘れてはなりません。 皆さんは、人生の道を真っ直ぐに行かなければなりません。一般的に良心を言う時、「曲っている」と言うでしょうか、「良心は真っ直ぐだ」と言いますか。(「真っ直ぐだと言います。」)良心は真っ直ぐであるために、真っ直ぐな道を行かなければなりません。悪なる人は、体が願う道、善なる人は、心が願う道を行くのです。 我々は悔い改めなければなりません。今、既成教会に通っている人を見ると、教会に行っては「神様、許してください」と言いながら、涙を流し、悔い改めて感謝していると聞いています。このような仕方で信仰します。そうする間に、自分の知らないうちに春夏秋冬が移り変わり、歳月が変わる間に信仰心が育つのです。春夏秋冬の季節が変化しながら育つというのです。 信仰する人達がこういう生活を繰り返せば、発展が大してないようですが、春夏秋冬の季節が変わるごとに万物がすくすく育つように、信仰的な人格も育つようになります。育つことによって、心の側に体が移動するのです。そのように移動すれば、その後には体が既に知るようになるというのです。そうなれば、本当に死を覚悟しなければなりません。 心がどこかへ行こうとする時、「気分が悪い」と言いながら、闘わなければならないのです。そうなれば行くことができないというのです。善なる人は良心に従わなければなりません。 では、体をどのようにすればいいでしょうか。こちらを砕けというのです。それで、宗教においては体を主管するために、断食を行ったりします。「断食をしなさい。柔和謙遜であれ。犠牲奉仕しなさい。人の為に死ね」と言うのです。統一教会の文先生の指導方法もそのようにするのです。国の為に死ねというのです。国の為に死のうとする人は自動的に国家的な人格として生きていくのです。それ故に、統一教会を知る人達は、統一教会を怖がります。命を懸けて愛国愛族する団体であると、今は天下がみんなそのように思っています。 私は統一教会の信者達に会いさえすれば、「苦労をしなさい」と言います。私達の会員達、今この頃どういうご飯を食べていますか。ころころ転がる麦だらけのご飯でも食べていますか。そういうご飯を食べていても、気持ちがいいでしょうか。しかし、静かに考えてみれば、息が詰まりそうなことです。夫もなく、子女達も皆遠くに居て、こういう所に出て来て、麦だらけのご飯を食べているということを考えてみると、身を滅ぼしたという思いがします。そこに冷たい部屋に一人いるからです。そういうように生きても大丈夫ですか。それでもいいですか。(「はい。」)正しいです。そのような心持ちを持たなければなりません。 どんな事でもできる人になりなさい ここで話をしている人(先生)もそうでした。私は平壌で共産党に捕まって、手錠をはめられ、監獄に連れて行かれたことがあります。昔は日本の警察に連れられ、監獄に入ったこともありました。そういう人ですよ。監獄に行ってみると、中には国の為に戦って、入って来た人もいました。 しかし、私はそういう人達とは違います。異なります。私は希望に膨らんだ心を持って監獄に入りました。何故ならば、監獄に行けば、誰かと出会うであろうという約束がされているからです。霊界から誰かと出会うように、既に約束が皆できているのでした。その人と会うために、喜びの心で行ったのです。[そこに行けばこういう人に会うことができる]と思えば、それがまさに希望の出発となるのでした。 大韓民国においても一九五五年度に西大門刑務所に入ったことがありました。その時、統一教会の文先生がどうであり、こうでありと、噂が一杯ありました。私が手錠をはめられて入って行くと、拘置課長という男が私を呼んで気合を入れようとするではありませんか。私は心の中で「こいつ、見ていろ。お前は、私に一か月以内に屈伏するか、しないか見てみよう」と言いました。 最初入って行った時には、何か動物園の猿でも見物するがごとく、猿扱いをしようとするのでした。それで先生は、「お前達の言うとおりにやってみなさい! 私はお前達のようにつまらぬ男ではない!」と言いました。このようにして、一週間以内に、そこにいる看守達を皆主管するようになりました。拳を振るってそうしたのではありません。その人の正面に向かって、「こいつ、誰に向かってこういうことをするのか。この悪党!」と言うと、彼等はびっくりするのでした。 このようにして、私は宣伝されました。監獄でも、「先生」という言葉を聞きました。私が出て来る時、所長までも来て、「文先生だ」と言いました。それで私は、「それはそうだろう。お前達が監獄に入れたのだから、私が望む時には、林檎、瓜、そして西瓜のような物を持って来なさい。私はお前達の言うなりになるような男ではない」と言いました。素晴らしいでしょう? そういう何かがあるというのです。 今もどこかに行ってご飯を貰い食いする競争をすれば、私は一番になるでしょう。(笑い)そういう素質がありますよ。世界的な革命をするためには、あらゆることをみんなできなければなりませんよ。そしてリヤカーを引っ張ること、あるいは木材を運搬することも問題ではありません。人間が人間を知らなければ、人間を治めることができないために、あらゆる仕事をしてみました。それで、荷物を背負って行く仕事もしてみました。畑を耕すこともやってみました。道具を扱うこともできます。何でもできます。そのために、休む間がありません。そういうことをしたのは、私が今こういうことをするようになることを知っていたからであります。それで、今もこの時間も忙しいのです。 運動も、してみなかった運動はありません。私が運動の試合に出れば、出て三等以内に入賞しなかったことはないのです。ボクシングもしてみました。してみない運動というのは、殆どありません。どれほど大きな人に向かっても、一発殴れば倒れてしまいます。しかし私がぶたれる時は、私は目をパチパチしているのです。私が相手するほどの相手にはならないためです。ここにいる若い人達、運動しなければなりません。 先生の身体が丈夫に見えますか。(「はい。」)今、私の体重がどれくらいかといえば、九十六キロですよ。更に四キロ程増やすことは、一週間だけ神経を使えば間違いなく可能になります。そのようになれば、巨人協会に加入することもできるでしょう。 皆さんは運動して身体を健康にしなければなりません。今も、先生は常に運動をしています。私が研究した運動法は、他の人が三時間以上運動をして効果を得ることのできることを、三分以内で効果を上げることができます。このような運動法を持っています。皆学びたくないでしょうか。学んだらいいと思うでしょう? このように高価なことを、皆さんにただで教えてあげることはできません。また私が皆試してみて、幸福に生きる人に教えてあげるし、良い所で素晴らしく生きる時、教えてあげるでしょう。その他にもたくさんありますよ。 精誠を込めた塔がすぐに崩れようか 統一教会の文先生は、神を売って、原理を売って生きている人ではありません。理論と言えば、誰にも負けない程の理論を持っております。皆さんは先生に出会って良かったでしょうか、良くなかったでしょうか。(「良かったです。」) 宗教人は苦行をしなければなりません。よく食べたくてもよく食べてはなりません。また、肉のおかずを食べてはならないから、菜食をしなければなりません。菜食も、一日三食をすれば身体が重くなるので、二食あるいは一食だけせよ、というのです。 そして、お祈りをしなければなりません。先生が昔祈祷する時には、膝にたこができるほどでした。今もたこが残っており、それが取れません。 最近先生は、そのように祈祷する必要がありません。祈祷したとしても、簡単にします。私が祈祷する時は三分以内に短縮してします。今は完全に専門家となったのです。昔のような不自然な、あるいは複雑にする必要を感じないのです。 しかし、皆さんはまだ、祈祷を複雑に、長くしなければなりません。皆さん、そのように祈祷しますか。そのように祈祷しない統一教会の人達はでたらめです。祈祷もしないで何をしようとするのですか。祈祷を熱心にしなければなりません。祈祷する時には、十二時間は標準として設定しておいてやります。普通、七時間以上は精誠を込めなければなりません。世界の問題をおいて祈祷する時とか、国の問題をおいて祈祷する時には、数分だけして終えてはなりません。少なくとも七時間は祈祷しなければなりません。 こういう話は初めて聞くでしょう? 何故、不思議に思いますか。精誠を尽くした塔は決して倒れないというのです。そういう精誠がないならば、今日の統一教会の文先生が、文先生となることは決してできませんでした。統一教会の文先生がなすことは、誰でもできる、そういうような平凡なことではありません。 ここにいる誰でも、「統一教会の先生をしてみなさい」と言えば、恐らく誰も絶対にできないでしょう。たった一時間もできないでしょう。私でなくては絶対に、誰でもできることではありません。正しいですか。(「はい。」)私がやることは複雑ですよ。統一教会の人達は一番言うことを聞きません。こういう人達が最も素晴らしいのです。しかし、私の言葉を聞くようになっていますよ。 肉身を主管する方法が何かと言えば、まさに苦行です。それで、イエス様は『死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ』と言いました。これは、身体が願うことを全部切ってしまわなければならない、ということです。学生達、「劇場に行くな」と言えば、行くべきでしょうか、行かなくていいでしょうか。(「行ってはなりません。」)悪い村があるとすれば、その村に行って生活したらいいでしょうか、生活しなくてもよいでしょうか。生活してはならないでしょう? そういう所には、行くこともしないで、見ることもするなと、いうのです。でたらめな所には、行くなというのです。このように、身体が願うことを全部取り除かなければなりません。 では、恋愛をしてもいいでしょうか、してはならないでしょうか。(「してはいけません。」)男性がどれ程愚かであるからと言って、女性に「私の命にかけてあなたを愛します」と言うのでしょうか。そういうのが男性ですか。天地の男性たる男性が、天下を主管すべき男性が、どこに女性がいないからといって、そういうことを言うのでしょうか。 エデンの園で、男性が女性の後ろに付いて歩いていって堕落したでしょう? それだから、堕落の継承点が女性の後ろだと言うのです。 神の愛の真の味を知らなければ 統一教会では、女性達が「文先生に惚れました」と言います。しかし、女性が私に惚れたのかどうか、どうなっているのか、私はよく分かりません。それは、女性達に尋ねて聞いてみなければなりません。私は今まで、誰かに付いて歩きながら、愛したことがないからです。男性がでたらめで、「あなた故に、私は死にたい」と言ったらいいのでしょうか。そのような男性がいれば、何ができますか。逆さになって死んでしまわなければなりません。 私には今まで女性達が先に立つ役事が沢山ありました。ベルトをつかまえて泣き出す女性がいたり、とにかく、あらゆる女性を皆見ました。私は女性がどれ程怖いかということを、よく知っています。「大人しい犬が先に台所の上に上がって行く」という話がありますね。あらゆる姿を見ながら、今まで来ましたよ。そのような女性が、死ぬ程付いて来たことはありますが、私がそのようにしたことはありません。皆さんの中に、私がそのようなことをするのを見た人がいますか。 女性達、先生が好きですか、嫌いですか。(「好きです。」)何故好きですか。世の人達のように悪い意味で好きであってはなりません。真心で先生を愛するということは、即ち神を愛するというのと、相通ずるのです。 先生を愛さなければならない立場に立てたのは、神を愛することのできる方法を教えるための一つの方法なのです。先生は、皆さんに世界の人間を愛せる方法を教えてあげるための一つの教材であります。このような教材として使うために、「先生を愛せよ」と言うのです。 先生を愛する程に神を愛し、先生を愛する程に人類を愛さなければなりません。そのために、「先生を愛せよ」と言うのです。言い換えれば、「神を愛し、世界人類を愛せよ」と言うのです。その後に、先生のために死にたければ死ねばいいし、死にたくなければ死ななくてもいいのです。 人間がまずしなくてはならないことは、神を愛さなければなりません。その後には、人類を愛さなければなりません。それを教えてあげるために、この地上の代表者として先生を立てたのです。それ故に、女性でも男性でも、「先生を愛せよ」と言うのです。 男性達は先生を愛しますか。男性達も、先生に会いたくて涙を流さなければなりません。ここ江陵に、そういう人がいますか。先生に会いたくて涙を流してみた人がいますか。流したことがない人は統一教会の本物の食口ではありません。偽物です。 不思議なことに、先生も男性ですが、男性が男性に会いたくて泣き出すのです。身の毛が立つ程会いたくて、泣く時があります。いくら激しい風が吹いたとしても、会いたくて尋ねて行くのです。皆さんはそういう体験をしてみましたか。 先生は男性でしょう? (「はい。」)神も男性格主体としておられるでしょう? (「はい。」)会いたい時にはそういう気持ちになるのです。本当に気が狂いそうな気持ちです。神様から漂うその味を、何で表現することができるでしょう。その味を皆さんが分からないことは、まだ幸いなことであって、もしその味を知るようになれば、世界のことをまともにできなくなりません。その味を味わったとすれば、続けてその味に酔って生きたいと願うのです。 それは阿片が問題ではありません。考えてみなさい。絶対者からの理想的な愛が、感覚的な阿片を味わうより劣るでしょうか。考えてみなさい。劣るでしょうか。劣るというならば、こういうことは全部投げ出してしまわなければなりません。私がそのようなことを知っているために、世間から追われたとしても、どのように回されたとしても、天下が何を言ったとしても、堂々と生涯をかけてこの道を今まで来ました。 男性達も先生を愛しますか。(「はい。」)どのように愛しますか。(「神を愛するように愛します。」)私も神を愛しました。蒔いたものを、そのまま収めるのです。神が懐かしくて、一週間に一睡もできないで夜を明かしたことが普通でした。ある時には、泣いて目が腫れて、光を見ることができないこともありました。このようなことを基準として見る時、統一教会の信者達がどれほど偽物であるかを知らなければなりません。 先生は神とそのような因縁を結んだ人であるために、神の為にやりがいのある道を行こうとします。それ故、精誠を尽くさなければなりません。ご飯をたきながらも、神に感謝しなければなりません。先生はソウルで豊かに暮らしています。だからと言って、「先生は豊かに生活しながら、私はこのように麦だらけのご飯を食べているのだ。その先生の奴、罰を受けよ」、こういう考えを絶対にしてはいけません。何故かというと、そういう道を、私が先に整えて来たからです。 皆さんには友達もおり、同志もおりますが、先生は友達もなく、同志もいません。生涯を歩みながら幾十星霜の風雪を皆経ながらも、友達がいません。教会長など多くの人々は、友達がいますが、ここにいる先生には友達がいません。皆さんは寂しい時、母、兄、姉などを訪ねて行って相談することができるでしょう? (「はい。」)そのように考えてみる時、皆さんは私よりも遙かに幸せなのです。 こういうことを知っている先生の心は、神と通ずるものであり、天倫と通ずるものです。したがって、皆さんは自分の舌を噛んで死ぬようなことがあったとしても、先生に対して「先生はご飯を食べて、私は飢えて死んでいきます。だから私は悔しいです」と言うようなことがあってはなりません。そういう意味において、先生はそれ以上の道を既に経てきたのです。 若い時には何でもできる人になりなさい 先生は誰かを踏みにじって、上がろうとすれば、その手段と方法を持ち、手腕と頭もあり、知力も持っていますが、そういうことを一度もやったことがありません。かえって、私が踏みにじられてきたのです。今も私は公の席に出ようとしません。数多くの群集の前に立って、話もよくできます。しかし、そこには弟子達を皆立たせます。何故そうするかと言えば、私は根と同じであるからです。根が現れるようになれば死んでしまいます。 神は全知全能な方であられるし、人類の全ての存在に対して、力と命の根源となられる方ですから、あまりにもた易くでしゃばってはならないのです。神はいるかいないか、千年万年苦労しながらも現れないでいるのです。それで、統一教会の信者達を苦労させるのです。皆さんは苦労しながらも何と言えばいいでしょうか。恨みますか、感謝しますか。(「感謝します。」) 私が誰かを羨ましがったことは、一度もありません。大韓民国において趙重勲さんが最もよい生活をしていますが、私は羨ましがりません。彼は歳月が過ぎれば流れてしまう一人の人にしかなりません。その人が、金があるといって、どれくらいありますか。私も金があります。私は金がないと思いますか。ないようですが、ありますよ。 江陵地区の本部は、家がなくて借りて使っていると言いますね。しかし、買ってあげません。何故でしょうか。その金があれば大韓民国のために使うことでしょう。江陵にある統一教会のために使うのではなく、未来の大韓民国のために使わなければなりません。それで水澤里修練所のようなものが何千万元であっても、小切手を切って直ちに造るのです。しかし、我々の本部教会に行けばみすぼらしいでしょう? それを見て笑う人達がいます。 日本にある一人の老人が住んでいます。その老人は、韓国の一年の予算に近いお金を扱っている人です。その老人のビルディングに行けば、素晴らしいものです。 その老人と私は知り合いです。その老人の勧誘によって、そのビルディングに入ったりしたことがありますが、一度はその老人に、「我が家に来なさい」と言って招待したことがありました。私が住んでいる家は私達の教会の二階です。戸を開けて、私のベッドから何から全部見せてあげました。「日本では私が第一人者である」と自称している彼に、私がどのように生活しているか見せてあげたのです。後でどんな話しをするのか見てみようと思って何も言わず、昼食まで共にしました。世の中の人達は、豊かによく暮らす人にはへつらったりしながら生きています。しかし、先生は少しも卑屈になることはなく、「私はこのように生きている」と言いながら、全てを見せてあげました。 それで態度が変わるようだったら私はやっつけようと思いましたが、この老人も考えがある老人でした。日本に帰って「統一教会の文先生は非常に怖い」と言ったのです。その老人は我が家に来て、屈伏して行ったのです。 私は今も変装して街に出れば、ご飯も乏うて食べることができます。私は女装して、ソウルの街を歩いたこともあります。 統一教会の人達は、統一教会の文先生をよく知らなければなりません。若い人達は、三十歳になるまでには多くの苦労をしなければなりません。この中の三十代の若者達は、地方に行くようになれば、全員が、郡守とか警察署長と肩を並べなければなりません。郡守がジープに乗って行きながら、私達教会の信者達を案内することができるよう、私が準備しておきました。 基盤が整えられた統一教会 それで、以前ある人が私に、「人材は皆統一教会にいます」と言ったことがあります。皆さんが人材ですか。この江陵で名が通っていますか。郡で名が通っていますか。恐らく、他のことは知らなくても、よく話すことでは噂になっているでしょう? (笑い)とにかく、対社会的活動において既に歴史が輝いているのです。それで気持ちがいいのです。 我々は四年前に国民を対象として五百万名以上、勝共教育をしました。五百万名あれば大韓民国国民全体の六分の一でしょう? 今年にも、約二百万名の教育をすることでしょう。 このような事実を国民、議員達が知って、「韓国の反共体制を整えることにおいて、文先生が功労者になった」と、お互いが騒いでいます。青瓦台において功労勲章を与えるのに、国会議員達が大統領や国務総理に、「統一教会の文先生には何も賞を与えないのか」と言って抗議しています。「賞を与えようとすれば、統一教会の文先生に与えなさい」と言うのです。大韓民国は今まで詐欺師のような人達に賞を与えてきたのでした。私はじっとしているのに、彼等が私の味方になって、「統一教会の文先生に国家の第一である功労賞を授けなさい」と、宣伝するのです。そういう人が多く現れました。これは良い現象でしょうか、悪い現象でしょうか。(「良い現象です。」) 皆さんはそういう賞がいいのでしょうが、私はそういうことを願いません。少し経てば功労賞を与えずにはいられません。その時統一教会の文先生に賞を与えようとしても、私は受け取りません。しかし、「神様の息子、文先生に」と言えば受け取るでしょう。また、賞を受けたとしても、誰かを行かせて取ってくるようにするのであって、私が直接受け取りません。そのようになっているのです。 そういう人が、話にもならない者達の親分となって、この大韓民国の滅びる群れに追われ、悪口を言われ、中傷を受けて、あらゆる濡れ衣をかぶったことを考えてみれば、話にもなりません。しかし、そういう全てのことがかえって私に恵みとなったのです。私は骨無しではありません。[いつかは見てみよ。実力で対決しよう]と、私はしているのです。 大統領も、「統一教会の文先生が私に会おうとするのか。一度見てみよう」と言うでしょう。会おうとすればいくらでもできるのです。しかし、私は徒に、低姿勢の立場で会うようなことは決してしません。 今や、再び春の時期が訪れました。同じような段階に入ってきたのです。それで、若い人達にかなり強力な訓練をさせているのです。身体を維持することのできない程の訓練をさせる計画です。そして、その要員達を北に送ろうと思うのです。それでもいいですか。(「はい。」)あの北にいる怨讐達は、そのことをためらわずやっていますが、何故、私達大韓民国の若者達にはできないのかと言うのです。私はそれを成すことができるように訓練させます。 それで、私が今は香港に興信所を造ろうとして計画しております。興信所を造って何に使うのかといえば、統一教会が先頭に立って、韓民族の高貴な民族性を世界に誇ろうとするのです。それを皆さんも願いますか、願いませんか。(「願います。」)先生が今そういうことをしようとしているのです。 心の願う通りに身体を動かそうとすれば その次に、肉身が願うことを切り捨てる方法の中で、宗教で教えている苦行があります。肉身の欲望を無理にでも切ってしまわなければなりません。そうしなければ、心と体が似ているために闘うのです。即ち、お互いが一度は勝った、一度は負けたというような、似たような版図であるが故に闘うのです。 ところで、身体が願うことを抑制するために、どのようにすればいいでしょうか。心を強くしなければなりません。心にポンプの仕事をさせて、心と体に対する力の均衡を五対一位にすれば、この身体が心に挑戦するでしょうか、しないでしょうか。(「しません。」)レスリングのチャンピオンと小学校の生徒に闘いをさせておけばどうなりますか。勝敗は決まっています。声だけ張り上げても、倒れてしまうでしょう。それと同じように、心と体もそのような基準が必要です。心に体よりも五倍以上の力を投入しなければなりません。 そうしようとすれば、どうすればいいでしょうか。精誠を込めなければなりません。皆さん、「精誠を尽くせば天に通ずる」という言葉があるでしょう? 至誠であれば感天です。即ち、精誠を込めなさいというのです。至誠の限界点はどこですか。命までも惜しまず出しなさいというのです。皆さんは精誠を込めるのにおいて、命を懸けて至誠、誠を捧げなさいというのです。 我々統一教会の人達は生命を懸けて精誠を込めなければなりません。皆さんは生命を懸けましたか。(「はい。懸けました。」)皆さんの生命は使こもないのに、そのように出しましたか。(「はい。」)皆さんの思いがそうであれば、皆さんのお父さんお母さんは最も嫌がるでしょう。皆さんの父母には皆さんが最も貴い生命ですから。しかし、統一教会においては、そのように貴い生命も貴くないと言うことができるのです。それでも、生命を懸けますか。(「はい。」)真心を尽くせば天に通ずると言いました。精誠を込めれば、どのような変化が起こるかというと、心に力が生じるのです。飛べば空中に飛ぶような気持ちになるのであり、地をたたけば天地が沈んでしまうような気持ちになる、そういう偉大な力が生ずるのです。 そういう力が心に生ずれば、この肉身は相手にもなりません。宗教は、この二つの方法で肉身の欲望を阻止し、治める方法を教えてくれます。この方法を知るためには、精誠を込めながら祈祷しなければなりません。涙、鼻水、あるいは汗を流しながら精誠を込めなければなりません。 どのような祈祷をすべきか 祈祷する時にも、皆さんは、そうしなければなりません。祈祷する時には、自分のために絶対に祈祷するなと言うのです。「私の父母をこのようにしてください。私の子女達をこのようにしてください」と、そういう祈祷をしてはなりません。私には北に父と母、そして八人の兄弟がいます。私の兄は、弟である私を誰よりも愛しました。その方は、我が国が解放される以前に、解放されることを既に知っていましたし、霊界を通じて韓国の運命を判断することのできる人でした。弟の為には自分の生命を失うことがあったとしても、成そうとしたのです。自分の弟である私が、どのような使命を持って生まれてきたかは知りませんでしたが、世界にたった一人しかない弟であるという事実を知っておりました。私にはそういう兄でした。ところが、彼がどのようになったのか、誰も知りません。 私の父母と兄弟達が北韓でどのようになったか、よく知らないというのです。私が祈祷する時、一度でも神様に、父母が霊界に行ったのか、行かなかったのかと尋ねてみたことはありません。またそのようにしてはなりません。何の話か、皆さんは分かりますか。父母と兄弟に対して、「神様、私の兄弟達はどのようになりましたか」と、未だに特別な関心を持って、一度も祈祷を捧げることができませんでした。それだから親不孝でしょう? 不幸なのです。 また、七年間、妻子と別れて暮らしましたが、「私の息子、そして私の妻を、神よ、保護してください」と、一度も祈祷しませんでした。しかし、私の父母を失い、兄弟を失ったとしても、世界の為に、民族の為に、また私に従う皆さんの為には、血と汗をながしながら、精誠を込めました。分かりましたか。(「はい。」) それは最も貴い物を与えて、皆さんを買ったのと同じことです。そうしたからと言って、彼等が悪くなることは決してありません。かえって、神は彼等を保護してくださるのです。皆さんはそれを知らなければなりません。 私が監獄に入って拷問を受けて、血を吐くような立場に立ったとしても、「神様、この立場から私を避けるようにしてください」という祈祷は一度もしたことがありません。その時にはかえって、「父よ、このミスター・ムーンという人は昔の誰々とは違います」と言いました。血を吐きながら気を失うことがあったとしても、決して死にませんでした。その血はいくらでもまた再び補充することができます。「私がそのような立場に立ったとしても、少しも寂しく思わないで、かえって私を愛するより、もっと力強く伸びていくことのできる信念を与えてください。民族の為に、世界の為に、死を覚悟している立場ですから、この場から逃避する、そういう、仕がない者にならないようにして、義なる者として、血を流しながらお父様を慰めながら、堂々と倒れていく男となるようにしてください」と祈祷しました。自分のために祈祷をする必要がなかったのです。 国が私によって恵みを受けたならば、国が私を立てなければならないのです。世界が私故に恵みを受けたとすれば、世界は私の為にしなければならないのです。それ故、統一教会の信者達が私によって福を受けたならば、「私の為にするな」と言っても、自然に為にするようになっています。これがまさに本物だと言うのです。 私が皆さんに、「私の為になってください」と言ったことがありますか。「私を思慕しながら付き従ってください」と言ったことがありますか。「私に会いたがるようにしてください」と宣伝しましたか。(「宣伝しませんでした。」)「そのようにしなさい」と言わなかったにもかかわらず、そのようにしなければならないようになっています。これが、私と他の人と違うところです。 勉強している若い学生達。昔先生が勉強する時には、一頁を読んで涙を流しました。この一頁一頁ごとに、民族の運命を左右する秘密が含まれているのではないかと言いながら勉強したのでした。祈祷もそのような方法でしなさいと言うのです。 強い信念を持って行く人になりなさい 先生は皆さんと同じような年に、日本に行きました。釜山から船に乗って日本に行きましたが、その時、釜山から連絡船に乗って行こうとして、限りなく涙を流したことが昨日のごとく回想されます。その時は日帝時代でした。かわいそうなこの民族を誰が束縛から救ってくれるのでしょうか。私が夜通し星を見ながら精誠を込め、涙を流しながら、「この民族のために、神の前に「今出発して再び帰って来る時まで、神よ守ってください」と祈祷しました。 涙を流しながら、恨を残していった時が昨日のようでした。漢江の鉄橋から涙を流していた時が昨日のようでした。それが皆この民族の為の道であるので、そのような祈祷をしたのです。 孤児のようなこの民族を置いて出発する時、コートをかぶってソウルから釜山まで痛哭しながら行きました。日本人のお婆さんが汽車の中で泣いている私を見て、「青年よ、お父さんかお母さんか亡くなりましたか。そのような悲しみは、人であれば誰も受けることではないでしょうか」と言いました。しかし、私の悲しみはただ国を愛する心で一杯に埋め尽くされていたのでした。 釜山の埠頭において、日本に向かって旅立ったのが一九四〇年三月三十一日でした。今から何年前でしょうか。三十年前ですね。朝二時四十分に発ちましたが、その時の心情を未だに私は忘れることができません。私は日本にいて、地下活動をしました。国を愛せない人は神を愛することができないのです。 その時、我々同志達は、上海臨時政府を中心として金九先生(注・一八七六~一九四九年、韓国の独立運動家、政治家)と共に運動するために、関釜連絡船に乗りました。釜山から新義州まで通いながら、抗日運動をしました。先生も、命を懸けてそういうことをした歴史を持っております。 そのために先生は統一教会の信者である皆さんを、そのままおいておかないのであります。分かりましたか。(「はい。」)しっかりと信じなさい。それが嫌ならばここに来るな、約十年後に来なさい、と言うのです。 男らしく生きたかったならば、でたらめな考えを持っていては妨害になるから、みんな落ちてしまえというのです。このことを自分の為にするのではありません。私は涙を流しても、私の為の涙は流しませんでした。それ故に、民族と国家に対して、誰にも一点の恥ずかしい思いも持っておりません。今も同じです。 先生は共産党に対しても、あまりによく知っております。共産党は理念と思想的な体系で世界の制覇を夢見ているために、これからアジアにおいて戦争を挑発する可能性が大きいと言うのです。それで、十年前の一九六〇年代から、治安局を通して大田刑務所に入獄中のスパイ達に、全部思想を転向させ、北韓へ再浸透できる計画をし、政府に交渉したことがあります。 その時、計画通りになっていたならば、日本は既に容共圏内から逃れていたことでしょう。日本が容共圏内に入っていくことを防止できなければ、大韓民国はいくらよくやってみても、川の中の鼠であるというのです。それで、私が十年前から大韓民国のために借金をしながら、宣教師を日本に送ったのです。その時は自由党の時でした。 大韓民国が法治国家であるために、そのことが法に反したということをよく知っておりました。しかし、国の将来のために借金をしながらこのことをしました。それで、前線にいる若い人達を追い出したのです。忠清道の兵卒の裏庭から、「あなたは日本に行って、こういう使命を果たしなさい」と厳令を下しました。 このようにして送ったのですが、三回も捕まって舞い戻って来ました。その時、「死ぬことはあっても、再び行くことができません」と言ったのです。それで、頬を殴りながら、「このやろう。男が一度決心したならば実践しなければならない。死ぬとしても、日本に行って死ね」と言って、声をあげて再び追い出しました。このようにして開拓したことが、現在の日本の統一教会になったのです。 現在の統一教会は、難破した立場にいる大韓民国政府にとっての救命艇と同じような使命をしております。日本においても同じです。最近になっては、「統一教会の文先生、助けてください」と言われる立場になりました。皆さんはそのような事実を知らなければなりません。 善が行く道 皆さんはこのことに対して、現在の利益と目的のために進軍しなければなりません。この十年位過ごしてみなさいと言うのです。これから、どのようになるかということを先生は予想しているために、こういうことを言うのです。現在の皆さんは知りませんが、その時のために言っているという事実をはっきりと知って、特に女性の食口の皆さんは力強く闘わなければなりません。分かりましたか? (「はい。」)その代わり、男性の食口達は女性の食口達に負けてはなりません。眠ってばかりいてはなりません。それで、今年に入って新しい指示を下しました。 我々が御旨を行こうとすれば、心をより強くしなければなりません。皆さんは統一教会を信じて何をしようとするのですか。滅びようとするのですか、栄えようとするのですか。(「栄えようとするのです。」)滅びるのは嫌ですか。(「はい。」)私も滅びることは嫌いです。 では、栄えることのできる方法は何ですか。共産党の方法は、「あなたの物は私の物であり、私の物も私の物である」という方式です。それは滅びるのです。孤独、単身となるのです。共産党は常に生命を脅かしており、恐喝したり、脅迫しています。しかし、それが曲ってしまう日には逆になって、一気に引っ繰り返っていくのです。北韓において、そのような現象が起きていると、以前新聞に報道されましたね。そのようになるのです。 神の方法はどのようなものであるかと言えば、「私の物はあなたの物であり、あなたの物は世界の物であり、世界の物は神様の物である」と言うのです。これが正に善が志向していく道であり、これが正に善に向かって行く公式なのです。しかし、悪は、「私の物は私の物であり、あなたの物も私の物であり、国の物も私の物であり、世界の物も私の物である」という方法です。「神はいない」と言うのです。善が行く道と反対なのです。 この統一教会を文先生が全部作って来ましたが、だからといって、統一教会が文先生の物ではありません。この統一教会は皆さんの物です。また汝矣島に一万坪を買って、清平にも多くのお金を投入して、約六十万坪以上の土地を買い、水澤里に大学用の土地を買っておりますが、それだからといって、それが私の物ではありません。これらすべてが皆さんの物です。これらすべてが私の物のようでありますが、皆さんの物であり、皆さんの物ですが、大韓民国の物であり、また大きくは世界の物です。 世界の物として関係を結ぶことができてこそ、高貴な価値として残ることができるのです。だからと言って、遊んで食べていてはいけません。涙と血と汗を流さなければなりません。最も重要な事は歴史に残りうることです。それは世界の物であり、世界の物は神の物になります。これが善が行く道であります。 それ故に、個人は家庭の為に犠牲にならなければならないし、家庭は氏族の為に犠牲にならなければならないし、氏族は民族の為に犠牲になり、民族は国家の為に犠牲になり、国家は世界の為に犠牲にならなければなりません。また世界は天と地の為に、天と地は神の為に犠牲にならなければなりません。これが御旨が志向する道であり、善を追求する、為に行く公式的な路程なのです。 大韓民国にあって腐敗したことがあるとすれば、それは何でしょうか。ある個人が、国の財産を勝手に取って、国に傷を付けることです。自分だけの為にしたならば、国が滅びるしかないのです。栄えるようにする方法があるとすれば、精誠を込めて、血と汗を流さなければなりません。涙と血と汗の消耗がなければ、「精誠を込めました」と言うことができません。 このような立場から、我々統一教会は闘わなければなりません。統一教会の発展のために闘うのではなく、統一教会がなくなったとしても、この民族の将来のために闘わなければなりません。理想的な国家のために闘わなければなりません。 我々は今まで統一教会の発展の為に闘ってきたのではなかったのです。国の運命を脅かすことを防止するために、あるいは近付く未来のために闘って来ました。それ故に、韓国、日本、中国この三か国を中心として背水の陣を敷くために、今まで統一教会の文先生は血みどろの闘いを繰り広げてきたのです。 日本統一教会の活動 皆さんはよく知っておりますが、我々統一教会の基盤は固いのです。子供舞踊団が日本の佐藤首相に会ったことを、新聞を通して見たでしょう? それは、何もしなくてそのようになったのではありません。 皆さん、日本で岸首相と言えば、日本では第一人者です。彼等兄弟同士、首相を四選もし、十年以上は任期を務めました。 これから、韓国の運命の為に、この兄弟とどのように交渉するかということで、私が七年前から手を打ってきたのです。その過程は血みどろの闘争の連続でした。日本のお嬢さんに、「日本の政治家の幹部のところに行って、下女のような役割をしなさい。それができなければ痛哭しなさい」と指示しました。そういう命令を受けた統一教会の食口は彼等の秘書達によって門前払いをされたり、追い出され、あるいは「韓国の文某の犬め! 誰を滅ぼそうとして、門前に来て立っているのか」と言われたりして、あらゆる悪口を受けたのです。文某の弟子が犬の子扱いにされたのです。 そういう批判を受けながら、今まで維持してきました。そうしながら今は、岸首相が今度の合同結婚式に祝辞までしましたね。今回韓国に来た時、私の家を訪問しようとしましたが、事情があって、できませんでした。 今はそれ程、近付いて来ているのです。彼が活動している背後には、私が影響を及ぼしていることを世間は知らないでしょう。今回、日本と中国の経済人協会の会議の際、「周四原則」に反対して立ちましたが、それも私のコーチで成されたのです。 ワクル大会も、私が全部コーチしました。日本全域にいる共産党に反対しようとして、挙国的世界大会を開きました。この大会の時二億七千万円の予算が編成されましたが、経費を節約して一億七千万円の大会費を払いながら、私達が闘争したのです。金は一銭も無かったのですが、私が方法を教えてあげて、このことを成したのです。 これを見て、世界の数多くの国家の人達が、「ああ、大韓民国のあの人か」と言って感嘆したのです。それで、三か月間、日本の国際勝共連合の会長を、一躍世界的な人物に作り上げました。そういうことがただでできることでしょうか。 統一教会の文先生の命を受けた我々要員は、例えば、蒋介石の部屋に入って彼と相談することができる程にならなければなりません。昨日は、日本の皇太子と岸首相をはじめとした官僚達三百名が、子供舞踊団の公演を見ました。そういうことがただで起こりますか。そういうことをするのは、唯、国を生かそうとする一念からしていることなのですが、韓国は未だに真夜中です。それでは話にもなりません。 初めて来た方は、ここに来る時、[統一教会の文先生という人が来たが、怪獣が来たのか]と思ったのかもしれません。しかし、それは誤った判断です。 一月の末頃には、將介石の息子が先生を訪問することでしょう。日本で開催されたワクル大会に、政界の有名な方達が多く出席したのですが、それは誰によってでしょうか。それは、極東の一角で流れて行く韓国の風潮の唯中で、姓名も知らない彗星のように現れた一人の男の手によって、そのことが成されたのです。 統一教会の信仰と思想 皆さんが大学を出て出世しようとして、御旨を捨てて飛んでみなさいというのです。十年後に見てみなさいというのです。そのように行ったとすれば、高等学校を出てきた統一教会の信者の僕にしかなりません。我々が動くのは、統一教会のために動くのではありません。皆さんは、統一教会のために進む人ではありません。統一教会は滅んでもいいのです。しかし、世界が滅びてはいけません。私が願って、神が願っている世界が滅びてはなりません。統一教会の文先生だけを愛する人を、私は願いません。私を愛する以上に神を愛し、世界人類を愛さなければなりません。そして、私を愛せよと言うのです。これが、統一教会の先生が教える精神であり、思想です。それ故に、統一教会の信者達は一般の人とは違うのです。 大韓民国が世界を感化することのできる民族となり、国家となるためには、世界の為に最も貴重なものを世界に与えなければなりません。そうしなくては、世界が大韓民国の為にしません。そうでしょう? (「はい。」)与えずしては、ならないのです。 与えても、与えた後において、誇ってはなりません。神は父母の立場で与えます。父母は子供のために与えますが、与えた後、「私が与えました」と宣伝しません。与える時も、ただ与えるのではなく、もっと良いものを与えなければならないのに、そうでないことに対しても、切ない心を持って与えるのです。 それ故に、統一教会の信者は、誰に会ったとしても、一度行って排斥されれば、二度行って泣き、それでも排斥されれば僕となり、僕となって追い出されたら、その息子・娘を捉えて切に願えというのです。誰のためですか? 「自分の為にしなさい」というのではありません。「民族を愛する為に、そうしなさい」というのです。その一人に会う時は、三千万人を代表して愛し、その一人を三十億人類を代表して愛さなければなりません。 そうしようとすれば、手段と方法を心配してはなりません。進まなければなりません。こういう姿勢で進む時、必ず神が共にしてくださるのです。それ故に、我々統一教会の信者達がそういう道を行こうとすれば、既に誰かが夢示を通して見て、道端で待っていて、侍ってくる人もいます。そのようにしてでも彼に侍るようにしてくれます。それで、先生はただでご飯を沢山貰って食べたことがありました。ある時は、私がとてもおなかが空いて、ある家を訪ねて行きましたが、その家のおばさんが言うのに、「夜、先祖が現れて、『貴いお客さんが訪ねて来るから、餅と御飯を作って晩餐を作って迎えなければならない』と教えたそうです」。そういうことが今も起こっているのです。そのようにして、私は生きております。 皆さん、統一教会の歴史はどれほど素晴らしいか、知っていますか。統一教会の御旨が行く道がどんな道であるかといえば、個人を犠牲にしても家庭を救おうとするのであり、家庭を犠牲にしても氏族を救おうとするのであり、氏族を犠牲にしても民族を救おうとするのであり、民族を犠牲にしても国家を救おうとするのであり、国家を犠牲にしても世界を救おうとするのです。これが、正に統一教会が成そうとする御旨なのです。 それ故に、神は今まで自分に最も近い人を犠牲にして、怨讐を獲得してくるようなことをされたのです。それで、神は愛の神であります。愛する息子を犠牲にして、怨讐の子供を救おうとされました。愛する家庭を犠牲にして、怨讐の家庭を救おうとしました。そして、自分の愛する氏族を犠牲にして、怨讐の氏族を救おうとし、自分が愛する民族を犠牲にして、怨讐の民族を救おうとされました。 自分が最も愛するイスラエルの国を犠牲にしながら、数多くの異邦国家を救おうと努力されたのです。イスラエルの国家とユダヤ教の主人となられるイエス様、即ち、愛するひとり子であるイエス様までも犠牲にして、怨讐世界の息子・娘を救おうとされたのです。それ故にこそ、この貴く崇高な思想が、今日、救援摂理途上にある神の御旨が行く道に潜んでいることを、私達ははっきり知らなければなりません。 我々は、このような歴史的な伝統の前に、神を代身する代身者の一人として、一つの時代的な先駆者の責任を厳粛に断行しなければなりません。これを決心していけば、誰が見ても見ていなくても、誰が褒めても褒めなくても、根を下ろすことができる時まで、あらゆる精誠を込めて、涙と血と汗がにじんだ精誠を込めておこうとするのです。これこそ、統一教会の信条であり、統一教会の信仰であり、統一教会の思想であることを、皆さんは知らなければなりません。 統一教会員が行くべき道 今日世界に広がっている統一教会員は、今や国を挙げて団結する時です。団結しよう。内外が一致団結しよう。一つの心で一つになろう。一つが黒ければ、全部黒くなければならないし、一つが赤ければ全部赤くならなければならないし、一つが白ければ、全部白くならなければなりません。そのようになってこそ、世界を愛することができるのです。 では、我々が愛さなければならない標準は何ですか。アメリカにおいては、白黒の人種差別の論議が政策的に問題視されています。この問題は世界的にも重要な問題となります。この問題をどのように解決するかといえば、白人が黒人の家に行って、僕の生活をしなければなりません。白人の学者出身が、あるいは博士・学位を持った人が、黒人の労働者の家に行って僕の仕事をしなければなりません。そういう運動が可能になる時には、アメリカの黒人問題が一時に消えてしまうのです。 そして、白人の名門の家の子女と、黒人のみずぼらしい家の子女と結婚しなければなりません。そういう問題を誰が解決するのかといえば、統一教会の文先生でなくてはできません。我々の統一思想でなければならないというのです。 今度、合同結婚式がありました。この結婚式に同参した各国の人達は、御旨が行くべき道がどのような道であるかを知っていました。彼等は、自分の国を代表して怨讐の国を愛することのできる条件を立てる道を先に行こうとします。それが自分達が行くべき道であることを知っているために、それを自分達の義務として思っているのです。 イギリスとドイツはお互いに怨讐でしょう? それ故に、イギリスの男性はドイツの女性を新婦として迎えなければなりません。ところが、ここにおいて、お互いに対話が通ずれば問題となりませんが、お互いが言葉も知らないながらも、「先生が結んでくだされば、一生を共に生活する伴侶としましょう」と言うのです。そこに従うことは、苦痛がどれほど大きいでしょうか。他の人達は、意志が通じ、全ての感情が通ずる立場においても、うまく生きることができず、破綻して行く状況にあって、彼等はどれほど誇らしく思っていることでしょうか。 彼等は意志疎通の障壁が千里、万里、横たわっていたとしても、愛が通ずることのできる方法があれば、お互いが努力しながら生きて行こうとするのです。天倫の法度に従って行こうと、彼等は志願して、「結婚させてください」と言って先生の前にお願いするのを見る時、私は本当に有り難く思いました。統一思想がこのように恐ろしいものであることを、私自身も驚きました。皆さんがどのように行くのかということを、先生は続けて見守ることでしょう。 日本の女性達は韓国語を知らないながらも、皆、「韓国の男性と結婚したい」と言い、日本の青年達も皆、「韓国のお嫁さんをもらいたい」と言うのです。これが成ることでしょうか、できないことですか。また、韓国において最も貧しい家庭の女性と、日本において最も豊かな家庭の男性と組み合わせてあげれば、その組が滅びるでしょうか、栄えるでしょうか? (「栄えます。」)それで、韓国の最も貧しい男性、あるいは女性と、日本において最も立派な男性あるいは女性とマッチングしてあげながらも、「うまくやっていけますか」と尋ねてみる必要もないというのです。だからと言って、統一家庭が最も良く生きるということでもありません。 神の御旨を中心とした国家と世界をつくろう 今や、共産党の手先をしていた民団を、たじろぐことのないようにしなければなりません。この者達、その民団の手を束ねておかねばなりません。御旨が行く道が正にそれであります。 では、そういうことをして、統一教会の文先生が何をしようとしているのでしょうか。ある人々は、「統一教会がどんどん大きくなれば、…」と言いながら、恐れを感じています。我々統一教会が宗教界に手を付けないところがありません。言論界においても、昔は我々を打っていた人達が、今は、皆自分達が先頭に立とうとして、宣伝をして出るほどです。このようになると、一般の人々は「統一教会があのように発展している。もし看板さえ取り替えれば、政党になるのであり、文先生が大統領になろうとして基盤を整えているのではないか」という話をしています。私が大統領をしますか? 私が大統領を立ててあげることがあっても、大統領にはなりません。ここにいる我々の弟子達に大統領をさせるかもしれません。しかし、私はしません。彼等が勝手に恐れを感じて、そのように言っております。 今度の二月に、我々の水澤里修練所に一万名を修練させることでしょう。以前、洞の班長から、郷軍小隊長以上、そして部落の有志達、あるいは賢い青年達を連れて来て、修練をさせました。共和党幹部に我が国の勝共思想を講義すると、修練会が終わるや否や、自分達の権力を全部捨てて出そうとする現象が起こります。その人々は、「我々が何故共和党の話を聞きますか。国際勝共連合の話を聞かなければなりません」と言うのでした。「そうするな」と言っても、そうするのです。 そのようになれば、共和党内部において問題となり、閣議においても問題となります。一体統一思想とは何か、ということで、大学界においても問題が起こってきます。その時、その人達に我々の冠をかぶせてあげるのです。ここにも大学がありますか。(「関東大学があります。」)これからは、我々の統一原理を知らなければ、大変な事になります。 これから、先生は国会を中心とした作戦をすることでしょう。統一思想を大韓民国の主体思想とするために、国会議員を立てて、国会に通過するように作るのです。そうすれば、つまらない与党や野党がある国とはならないのです。そうでしょう? そうできる可能性は充分あるのです。 大学の有名な教授達もこの思想を聞いていますが、彼等が作成した感想文を見れば、素晴らしいものです。これを全部出版して、約百巻ほど造ろうと思っています。そうすれば目が引っ繰り返って、お互いが買おうと言って喧嘩をするようになることでしょう。これを知っている人達が先に買おうと言って、争うでしょう。それでもできなければ、原理研究会を訪ねて来て、へつらいながら、会員に付いて回りながら交渉して、一冊貰おうとするのです。そのようにして何をしようとするのでしょうか。統一教会を発展させようとするのではありません。統一教会は、滅びてもいいと言うのです。先生の主義は、大韓民国がない、といっても落胆しません。国土がない民族となっても後悔するなというのです。二十世紀を越えて二十一世紀の時代においては、この民族が持っている思想でなければ、世界を救う道がありません。「その時のために行きなさい」と言うのです。その時には、世界が私達の手助けを受けることでしょう。心配するなと言うのです。 私がアメリカに足を踏み出した時、「私はアメリカを誰よりも愛する」と言いました。アメリカを、アメリカの誰よりも愛したのです。アングロ・サクソン民族によって約二百年の歴史を持っているアメリカを、誰よりも先生が最も愛したのです。 何故そうするかと言えば、コロンブスがアメリカを発見する以前から、神がアメリカを愛したからです。アメリカの人がいる以前から、アメリカの主人は神様でありました。アメリカを誰よりも愛されたのは神ではないでしょうか。私は神の息子であります。堂々たる息子であります。神の息子であるが故に、誰よりもアメリカを愛します。このような伝統を受け継いだのです。 今のアメリカになる前には、彼等の先祖達がインディアンを撃ち殺した歴史があったというのです。アメリカは、神が一つの使役者を立てるのに必要な道具として用いるために立てた所です。そういうアメリカは、これから統一教会の先生の話を聞かなければなりません。だからと言って、統一教会を中心としたアメリカを造ろうとしているのでは絶対ありません。また統一教会を中心とした大韓民国を造ろうとすることでも絶対ありません。 神は、誰もが皆喜びますから、神の御旨を中心とする国として作ろうとするのです。文先生を嫌がっても、神を喜ぶのです。そうではないでしょうか? 文先生に対して批判する人はいるかもしれませんが、神に対して批判する人はいません。先生が行うことは、神の御旨を成就するための行いであります。即ち、神の御旨を中心とした国家と世界を作ろうとするものです。 こういうことを全て成しておけば、神はどのようにされるでしょうか。神の全てのことを子女達に均等に分け与えてくださるのです。同じ事だというのです。これで、このようにしても大丈夫だし、あのようにしても良いと言うのです。それを、皆さんは知らなければなりません。 栄える方法 御旨が行く道は犠牲になる道です。我々統一教会の人達は皆犠牲になりなさいと言うのです。夜であっても昼であっても、眠らずに御旨を行かなければなりません。今は私は少しは眠りますが、以前は平均睡眠時間が一日三時間にもなりませんでした。 それを知って、皆さんは今や、一九七一年度に、地区長を中心として一つに団結しなければなりません。分かりましたか。(「はい。」)団結して何をしようとするのでしょうか。江陵地方の為に、無条件で奉仕しなければなりません。そうするのに、涙と血と汗を流す覚悟をして立たなければなりません。 明日の国の為に、愛国、愛族することのできる思想に染まって、村々、谷々を訪ねて奉仕せよと言うのです。人が見るには、穴を掘るみすぼらしい農夫の姿ですが、その胸の底には、諸々の国の為に生きることのできる中心の種子が植えられているのです。このように、ありったけの力を尽くしたにもかかわらず、滅びるようになったとすれば、先生の首を切れと言うのです。 そのように苦労するようになれば、その場所の中心人物になるようになるのです。そうでしょう? そのようになれば、滅びるのではなく、栄えるのです。そのようにして強制的に彼等を屈伏させるのではなく、彼等自身が屈伏するのです。こういう事実を皆さんは知らなければなりません。 このような神の作戦は何かと言えば、打たれて奪って来る作戦です。忘れて、数十倍を再び取り戻してくる作戦です。世界の為に愛する息子・娘を殺し、怨讐の国家から何億千万倍の収穫を収めたという事実を、私達は知らなければなりません。忘れて、取り戻して来る作戦、打たれて奪ってくる作戦です。 真は、打たれれば打たれるほど無くなるのではなく、かえって、広がって行くのです。真の為に失ったならば、それを完全に失うのではなく、かえって自身が引っ張られて、どんどん上がって行くようになります。同じように、私が相手の為になっていたならば、相手は結局、私を引っ張って行こうとします。言い換えれば、私の物が世界の物であれば、世界が私を引っ張って行こうとするのです。そういう世界の物が神の物であるとすれば、神が私を引っ張って行こうとするのです。結局は一つの条件をかけて、全体の中心と結託できるたった一つの勝利の秘訣が、これです。団結できる唯一の方法がこれしかないのです。そのように生活しないで、他の人が握っている拳銃で復帰しようとすれば、歴史上の誰も、この戦いに勝つことができません。 人の為になすことは、天国を建設するための勝利の土台であり、勝利の土台を広めるための善の土台であり、善の原則であることを、皆さんははっきりと知らなければなりません。皆さんが常にこれを念頭に置き、これを中心として生きるならば、間違いなく勝利することでしょう。人の為にやることは栄えることであり、自分だけの為にやることは滅びることです。 結論を言えば、人の為にやることは、公的なことであり、自分だけの為にやることは、私的であると言うことができます。それ故、公的なものの為に生きる人は栄える人です。栄えざるを得なくなって行くのです。私的なものを中心として生きる人は、滅びるのです。滅びまいとしても、滅びざるを得ないようになっていくのです。そういう人は悪なる人です。 何かを分ける時、多く持ったら、それは決して誇りではありません。そこで恥ずかしさを感じなければなりません。多く持てば誇りを感じるはずなのに、恥ずかしさを感じるというのは何故でしょうか。私的であるからです。私的である時には、自ら縮こまってくるのです。しかし、泥棒は私的な立場を絶対的に立てようとします。他人の物も、自分の物だと主張するのです。泥棒は何かを盗もうとする時、堂々と騒ぎながら行きません。這って行きます。それは、地に下りて行く姿です。天命のために、直行しなければなりません。 しかし、良心的なことをする時には、堂々たるものでしょう? それで大きくなるのであり、やりがいと楽しみが出てくるのです。そのようになれば、全てが平安です。皆さんは、これをはっきりと知らなければなりません。それ故に、公的な路程を通してのみ、天倫と人倫とが接触することができるのであり、私的な路程を通せば天倫と人倫とが破綻するようになるのです。 繁栄する伝統的な思想を残すために戦って行こう 皆さんは、こういうことをよく知らなければなりません。私の言葉が公的なものであるのか、私的な言葉であるのか。私が見るものが公的なものであるのか、私的なものであるのか。また、私のなす事が国の為のものであるか、世界の為のものであるか、天の為のものであるか。あるいは、聞くことも、行くことも、公的であるか、私的であるかを皆さん自らが分析しなければなりません。 朝、一歩を踏み出す時でも、公的な歩みであるか、私的な歩みであるかを反省しなければなりません。そして一日の仕事を終えて床に横たわる時、公的な一日を過ごしたか、私的な一日を過ごしたか、反省しなければなりません。あるいは、一年を中心として公的な生活をしたか、私的な生活をしたか、一生を中心として、公的であったか、私的であったかを、反省しなければなりません。 このようなことを中心として、皆さんの生死を分別することのできる秤が上がったり、下がったりすることを皆さんは、はっきりしなければなりません。このような原則を皆さんが知ってさえいれば、公的な路程から御旨が行くべき道が決定されるのです。 公的な土台に立ってこそ、横的な恵沢圏を広めて行くことができます。即ち、私は縦的に立っているのですが、私によって横的に拡散され、全体が私と同じような恵沢圏内に入って行くということを、皆さんは知らなければなりません。このように動くようになれば、影で生きたとしても、その影で生きれば生きる程、間違いなく、根が無限に広がって行くというのです。そこから再び芽が出て広まるようになる時には、根に比べることのできないほどの無限なる発展がなされていくという話です。統一教会がそのようになるというのです。統一教会はそのように発展しています。 そして、私が皆さんを指導していますが、この一つのことだけは知らなければなりません。皆さんには絶対に負債を負いません。私は皆さんの血を吸い、皆さんを利用する人では、絶対にありません。今まで、皆さんが私の世話になったでしょう? (「そうです。」)この世話は、死んだとしても返すことのできないものです。皆さんに世話にはならないということが、先生の鉄則です。絶対に、皆さんの世話にはなりません。それ故に、皆さんは公的な立場に立たなければなりません。 西洋の食口達も、先生に会いたがっていますし、懐かしがっているのです。何故そうするかと言えば、彼等も先生に負債を負っていますし、その負債を返さなければならないためです。それで、アメリカの食口も自分の家を売ろうとすれば、先生のサインを受けなければなりません。 先生が韓国におりますが、この地において命令だけすれば、あの地の果てまでもそういうことが起こるのです。何故そうしなければなりませんか。そうしなければ、霊界から黙っていないのです。そういうことが起きていますよ。私がそれを願う以前に、霊界で黙っていないのです。そういうことが統一教会で起こっているのです。私がお金がなくてあえぐ時、霊界を通して立体的にアメリカにも命令が行き、日本にも命令が行くのです。分かりましたか。そのようにして、今まで生きているのです。 それ故に、統一教会の食口達は[神がいない]とは、誰もいえません。今日、統一教会の文先生は、今まで自分自身だけの為に生きてきたのではありません。先生は五十星霜を全部、人の為に捧げました。そういう私の末路が、どのようになるのでしょうか。私が何もなく、あるいは客死したとしても、墓だけ残ったとしても、その墓には花が咲くことでしょう。何故ですか? こうして生きてきたために、そうなのです。先生はそういうことを知っております。 皆さんが今行く道、この道は滅びる道ではなく、栄える道であることを知って、皆さんの後孫に恵みを伝え、彼等が皆さんを永遠に追慕することのできるようにしなければなりません。そのような伝統的な思想を守って行くことによって、万民の前に、目覚ましい恵みを受けることができることを願いながら、お話を申し上げました。 祈 祷 愛するお父様。きょう、大関峰を越えながら、今から十年前のことを考えました。過ぎ去った歴史の流れは、時には悲しく、時には喜びでありました。 人が理解できない心の中に、神の悲しみが潜んでいることを考えるたびごとに、お父様に対して私は常に不足であることを悟るようになりました。 お父様。きょうの夜には、江陵にいるあなたの子女達と共にあなたの御言を分かち合いました。我々が会うようになったこの因縁は、私達の能力によって会ったことではなく、お父様を中心として数千万代の先祖が橋を作って、その土台を広めた功績によってであります。きょう、このように会うことができる一時を持つことができるようにしてくださった全ての恵みを、私達は感謝して、感ずるようにしてくださるようにお祈り申し上げます。 人間同士であれば出会って別れる立場においては、批判が加わるのであり、分裂が起こるのを見るのですが、天を中心として出会うところには、申し訳なさと、感謝と、涙だけが残ることを私達は知るようになりました。 この度、このように集まったあなたの子女達は、深い心の中で神を更に同情し、我々のお父様であられる神を愛さなければならないということを、はっきり悟るようにしてください。気が狂うほどあなたを愛するために、自分の心と体のすべてを捧げて、全てを犠牲にしても感謝することができ、神様が見て喜ぶことのできる息子・娘となることができるようにしてください。 喜ぶばかりでなく、一つしかないあなたの愛を全て分け与えながら、万民の前に誇りたい息子を、どれほど懐かしがりながら、捜されたことでしょうか。また、そういう娘を、あなたはどれほど懐かしく思われたことでしょうか。 今や、私達の焦る姿があなたの性相に向かって一歩一歩前進しておりますから、あなたが「早く来なさい」と呼ばれる時を待つ、そのような私達の姿とならなければなりません。苦難が来ることを避けたり、また苦難が来ることを心配する、そういう息子・娘には、絶対ならないようにしてください。 この江陵地域に統一教会の地区が設定された時から、受難の歴史があったとすれば、そこには、間違いなく人間同士の過ちがあったことを私達は知っております。お父様は背後に在ってよくなさりましたけれども、人間が過った時、神は悲しみ、寂しがらざるを得ない立場に立たれることを、我々ははっきりと悟らなければなりません。人間が互いに協助し、互いが誓ったにも拘らず、誤まったことによって、神が訪ねようとされる全体の恵みをくつがえすことがあっては、絶対になりません。このような事実を知って、自ら誓うことのできる息子・娘となるようにしてくださることを切にお願い申し上げます。 御旨行くべき道、御旨が願う道がどのような道であるかを知りました。私達は公的な生命を持って生まれ、公的な愛をもって生きています。そして公的な思いで公的な人生の航路を行っております。そのために、我々は神の為に、地の為に、人類の為に、何を残していくことができるのか。何が私達が行かなければならない使命であるかを、はっきりと悟らなければなりません。自分の為に狂い、自分の為に戦い、自分の為に犠牲になる人に、絶対になってはなりません。 そのような人くらい、無価値な人間はいないということを、はっきりと悟るようにしてください。統一の子女の幼い心の中に、新しい望みと、公的な人格と、公的な国と、公的な世界と、天を愛することのできる公的な心が芽生えるようにしてください。 あなたの心情と一体化できる子女になるようにしてください。そして、勝利の結果を自分を通して家庭に分け与え、その家庭を通して、氏族と民族と世界の前に受け継ぐことのできる自分達になれるように、許してください。そして、貴い善なる祖先となれるように祝福してくださることを、お父様、切にお願い申しあげます。 きょうの出会いを感謝しながら、今残った時間をお父様が主管してくださいませ。明日も、忙しい歩みを催促しなければなりません。未来の行路においても、あなたの祝福圏内、あなたの広大な愛の圏内において保護してくださり、養育してくださることを、再三お願い申し上げます。 そのような明日を願う子女達の上にも、自ら共にいてくださることを、切にお願い申しあげながら、今回の巡回のコースを通して、あなたが喜び得ることのできる御旨が、食口の生活圏内に現れることができるように、恵みを施してくださることを再三お願い申し上げながら、全体を真の父母の御名を通してお祈り申し上げます。アーメン。 一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.08
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https://news.v.daum.net/v/20210606192912533韓鶴子総裁「真の家庭運動こそ米国を生かし、世界を生かす道」世界平和統一家庭連合「平和は私から始まる」開催毎年2回、2027年までイベントを奨励コロナ防疫次元オンラインで行わた韓鶴子総裁「人類ウイルスと戦争天の祝福を受けた米国が責任果たし天の父母様を祀ることで問題解決再生復活祝福結婚を通して重生」トーマスブジュギョ"韓総裁の祝福に栄光」ジョーンズ司教「私たちを助ける総裁送信」世界平和統一家庭連合韓鶴子総裁が5日(現地時間)、米国ラスベガスで開催された「平和は私から始まる:平和と祝福」バーチャル祝賀で演説している。家庭連合提供世界平和統一家庭連合韓鶴子総裁が5日(現地時間)、米国ラスベガスで「平和は私から始まる(Peace Starts with Me):平和と祝福」バーチャル祝賀イベントを開催した。今年から毎年6月と12月に二回2027年までに計14回続く祝福フェスティバルを知らせ参加を促すことを目的だ。コロナ19防疫次元でオンラインで行われた今回の行事は、YouTube、フェイスブックなどを通じて生中継された。この日の午後6時のイベント開始と同時に、なんと3万人を超える参加者が登録した。韓総裁は基調講演で祝福結婚を通して、天の父母様の息子、娘になる真の家庭運動こそ米国を生かし、世界を生かす道だと力説した。韓総裁は「創造主の神を離れるしかなかった人類は今日、戦争と葛藤で綴られた歴史を引き継いできた予期せぬウイルスとの戦争をしている」とし「数千年を降りながら、人類は平和で自由な世界を夢見たがなされなかった」と暗示した。続いて「2000年前の天はあなたの創造理想を実現することができる勝利した息子を選びましたが、彼らは、イエス・キリストを調べてみることができなかった」と「イエスは、地上での責任することができるすべてのものを奪ってしまった、最終的に十字架に架かり「再臨」する」と付け加えた。また、韓総裁は「創造主の神は人間と一緒に地上で天の父母様に一緒に暮らしたいと思っています」とし「つまり人間と一緒に地上天国を作ろうとされましたが、人間の祖先は、その旨を成し遂げられなかった」と指摘した。それとともに「クリスチャンの歴史2000年をつづりながら、天は必ずあなたの創造原理を立てることができる目的を達成する必要がありました」とし「クリスチャン環境権は「再臨」したイエス・キリストの前に相手になることができる独生女を見つける必要がありました」と説明した。韓総裁は「分裂した国を統合することができる新しい国を建てるうえで許可をたし、それが今日の米国」と「第2次大戦後、米国の実情は、家庭破綻、青年乱れ、薬物問題のために、青少年が深刻な状態に置かれていた」とした。また、「その時、真の父母なので天が米国を立てて、世界人類を抱いうとされることを知っていた時期に、1971年に米国に渡り、米国をおこし、復活させた」と回想した。「私は今日、米国に対して警告する」と力強く言った韓総裁は「天の祝福を受けた米国としての責任をしなければならない。これ以上二度と天を裏切る立場に立たなということだ」と呼びかけた。続いて「天の父母様を祀ることだけがすべての問題を解決することができる」とし「真の父母の再生復活祝福結婚を通して再び生まれ変わる天の父母様の息子、娘に出ることができるが、真の家庭運動こそ米国を生かし、世界を生かす道であるが私は強く宣言する」と述べた。韓総裁は、米国経済・文化の中心、ニューヨークのニューヨーカーホテルを改装して、平和宮殿にし、米国の首都ワシントンの中心部にワシントン・タイムズビルを立て、世界のすべての指導者のための教育の場所として活用する案も提示した。용정식天の父母様聖会神北米家庭連合北米大陸会長は、「祝福結婚は数百万人の生活、人間関係、そして家族まで変化させた」とし「祝福結婚であなたの人生を変え、関係を変え、世界を変えなさい」と言葉で賛同を訴えた。ロントーマスブジュギョ夫婦は韓総裁が直接祝福をしてくださり、あまりにも光栄でしたと紹介した後、「私たちは、結婚をして31年になりますが、この動きは、本当に肯定的な影響を及ぼした」と振り返った。ノエル・ジョーンズ司教は「神は(人間の誤りを)正すために大災害を呼んでいる。ウイルスの大流行は、激変であり、今は正す時である」と「神が重要な時期に、私たちを助けることができる一人の女性の方を送っ韓総裁の役割を強調した。祝福フェスティバルについて家庭連合は「人生と愛の血統の意味を見つける唯一の方法」と「ほぼ100年の間に、異なる文化や宗教と国籍を持つ夫婦が超宗教、超文化な祝福の儀式で一つになって跳躍する姿は驚くべきことだ」と説明した。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.06
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「子女の日の決意」1970年10月30日韓国でのみ言 この日を迎えるまでの苦難の道 皆様がご存じの通りこの「子女の日」が設定されるまでは、天がいか程の苦難の道を経てきたかということについて、深く考えなければなりません。 我々の人間始祖の堕落がもしなかったとすれば、人間の完成と共に「神の日」「子女の日」そして「万物の日」が設定され、天地創造のあらゆる理想が成就された訳でありました。 もともと天と人間と万物とは離そうとしても引き離すことのできない一体の関係をもって歓喜の日を迎え得た筈であったのです。 然し堕落の結果天も、人間の真の父母も、真の子女そして又真の万物が喜びの日を失ってしまったという事実を我々は知らなくてはなりません。 それ故にこの日を回復するため天は苦難の道を歩まれ、又歴史路程に於いて数多くの予言者・義人達が血を流すという代価を支払って来たのであります。 そのような土台の上で、天は善の勝利の基礎をつくるために外的環境に於いては選民圏を拡大して来られたのであります。故にアダムよりヤコブに至るまでの苦難の歴史は本然の心情に立脚した生命の起源まで再生させるための歴史であったのです。 然し、ヤコブが勝利することに依り外的なイスラエル圏は準備されたのでありますけれども、内的な勝利のイスラエル圏を出発することができなかった為に、ヤコブとタマルとユダの三代形態の内容を整えた上、ユダの血統を通してペレヅとゼラの闘いが展開されたのであります。 ここにおいてペレヅが腹中の中から勝利の位置を占めることにより、次男から長男の位置を獲得する歴史を蕩減することができたのです。このような歴史過程を経てマリヤは自己の威信と体面と生命の危険をおかしてまで天の祝福を受けた血統圏を実現させようとした、神の心情を慕うそういう立場に於いてイエス様を産んだのであります。 このようにして初めて、血統的に勝利の分別点を立て、新しい神の子を中心とした愛の起源をつくり得たのでありました。このような復帰の大きな御旨を抱いて、勝利的なメシヤがこの地上に来られたのであります。 悲惨なイエス様の生涯 ところが、その時に至るまでの四千年間の歴史的準備を整えていたイスラエルは、勝利的立場に於いてそれを相続することができず、不信に陥ってしまったのであります。それ故にイエス様の生涯は悲惨なものになったのです。 他人の知らない御旨を抱いて、独り淋しい生活をしたイエス様、……彼には勿論お母さんがいました。然し、お母様として彼を愛することができなかった母であります。彼には又お父さんがいましたけれども、それは義父だったのであります。兄弟がいました。けれどもそれは又腹違いの兄弟であったのです。親戚もいました。けれどもイエス様は彼等とは何の関係もないそういう立場に於いて生活したのであります。 イエス様は兄弟と親戚と民族と世界を愛したかった人でありました。けれどもそれができなかったのであります。むしろ、彼の前でイスラエルの選民は反旗を振ったのであります。彼と天の前で愛の心情を蹂躙し、反逆したその罪を彼等は負わなければならなかったのです。そして、イスラエルの民族は歴史的な蕩減の路程を歩まなければならなかったのであります。 イスラエル民族は数千年の間、『国のない』人民として、多くの民族の前で犠牲にされてきたのであります。又、無数の敵に踏みにじられてきたという事実を我々は歴史を通じてよく知っています。 このように蕩減の道に於ては容赦がありません。 民族が失敗したならば民族を通して解決しなくてはなりません。そして民族がこれを解決できない場合に於いては、世界がこれを解決しなくてはならないのであります。 統一教会の行く道 このような歴史的な蕩減路程を前にして、今日に於ける統一教会が歩いて来た道を回顧するとき、我々は、我々が歩まなければならない前途に国家が残されているし、又、世界の蕩減路程が我々を取り囲んでいるということを知ることができるのであります。 精神的分野に於いて、ユダヤ教がイスラエルの民族を指導した如く、又、今日のキリスト教が世界の民主主義を指導しているように、我々は、私達の統一教会を中心として今日に於ける思想と精神的全般問題を指導し得るような立場に立たなければなりません。 それでは一体、この責任を誰が背負わなければならないでしょうか? この責任を受け持つべき者達は、今まで天のみ旨を開拓するために疲れ切ってはいるけれど、その我々であるという事実を皆様は知らなければなりません。我々は再びこの責任を背負うために立ち上がらなければならないのです。そして、民族的な、また国家的な責任を果たさなければなりません。この事を皆様がはっきり知ってほしいのであります。 そして、又、ここに於て祝福を受けた家庭はいかなる立場に立っているかという点も皆様がはっきりと認識しなければならないのであります。 祝福家庭の責任 統一教会の祝福家庭はその昔、イスラエルを中心としユダヤ教を通してメシヤを待ち望んでいたそういう位置におかれているのではなく、メシヤを現実的に迎えて氏族の編成をなし、また一段階前に進んだそういう立場に置かれているのであります。このような立場に置かれている祝福の家庭は個人的範囲に置かれているのではありません。民族と世界を代表しなければならないのです。 天と地を代表する家庭にならなければならないということを皆様は明確に認知しなければいけません。もともと国家的な宗教を主管するところに於てはイエス様自身がこれを直接主管するようにはなっていません。 イエス様は連結できる家庭を中心として、その国のあらゆる至聖所を護ることができる祭司長にならなければならなかったのであります。そして、イエス様は民族的な中心となり、祭司長の責任を家庭的な責任として完結することができる形態をつくらなければならなかったのであります。 故に皆様は天の望みがかけられた、その天倫を相続できる家庭がいかに貴重なものであるかという事実を、皆様は再確認しなければなりません。 このような歴史的な価値を中心としてみるとき、皆様は、祝福を受けた家庭として、ただ喜んでいるというところに止まっていることはできない筈であります。千秋万代を通して天が望んでおられたその願いを間違いなく相続できうる家庭的な伝統を如何にして残すことができるか? これが今からの問題になるのであります。 今迄の六〇年代は、個人の勝利を固める時でありました。 然し、七〇年代は、家庭の十字架を背負い、家庭的勝利の基礎をつくる時であります。民族も家庭を通して構成されるのであるし、国家も又、家庭的勝利の基盤を通してつくられるのであるとするならば、家庭は民族を復帰するためのものであるということを考えなくてはなりません。そして民族は世界を復帰するためのものであるということも忘れてはなりません。 このような段階的な発展を通して善が発展して行くという事実を知る時に於ては、今から皆様は家庭を率いて、氏族の方に向かわなければならないのであります。皆様は氏族を動かして、新しい始祖としての伝統を立てなければなりません。このような時代が、我々の眼の前に近づいて来たわけでありますから、今から我々は家庭的な苦難の道をたどらなければならないのであります。 峠を越す年、一九七二年 然し、今年(一九七〇年)に入って十カ国を中心とし結婚式をあげましたので、心情的基盤をもって、一つの中心の前で世界性を連結させ、平面的な対象圏が決定されたために、統一教会も運勢の一時を迎えたのであると見ることができるのであります。 これが七〇年度から七二年まで続くものとみています。 そしてこの時期は、世界としても一つの分水嶺を越える時であります。そして又、外部の情勢から見ても七二年度が一つの峠をなすものと見ています。それは天の摂理と一致化し、一つの問題として解決されなくてはならない復帰の運命をかたづける時期でありますので、我々もこのような期間に於て是が非でも民族を中心として、七二年度までは、世界的な出発を準備しなくてはならないのであります。そうしなければ、統一教会の将来に苦難の道が残されるということを、この先生は余りにも良く知っているために、全体が総動員するように命令を発したわけであります。 ここに於ては、いかなる弁明も条件もあり得ません。天が与えた厳粛な命令を受けて進撃しなければならないのであります。我々の前途に苦難の十字架があるとするならば我々はそれを背負って、天の御旨のために、義のために、そして又、その愛を実践するためにいかなる死の道もこれを恐れず、感謝しながら行かなければならないのが我々の道であります。 今から三年の間、総動員しましょう。 三十八度線を越えて、生きるべき道を探し求めて来た北韓の避難民の如く、我々も善の定着地をめざして勇敢に走ろうではありませんか! 先生の決意 この先生が○○を出発する時、「私はこの本郷の地に戻り、基盤をこしらえる時まではあらゆる苦難の道を歩こう」という覚悟を決めて出発したのでありました。本郷の地に戻り、祭壇をつくって「天のお父様! 今日のこの一日をもってこの国が解放されました!!」と喜びの祈りを捧げることができ、そこに於いて祝賀会を催さなければならないということを既に知っていたわけであります。 このような内外の情勢をおいて観察する時、七〇年代に突入してからは我々が準備しなければならない事が余りにも多いということを痛感するのであります。私は七〇年から七二年度にかけて、我々がこの民族の前に基盤をつくらなければならないということを余りにも詳しく知っているためであります。 このような時点に於て、皆様は「私は死んでも、御旨のための遺志は残さなければならない。又、家庭と共に苦難の道を歩くといえども、天の御旨と共に行くのであるから」という固い決心を抱かなければなりません。天の御旨と共に行く途中に於て、たとえ家庭が亡ぶことがあるとしても我々は亡ぶという事を考えてはいけません。 家庭に大きな難関がぶつかって来るといって、我々が「あわれな者」となったと考えてはなりません。 『二つがともにいい』ということは、難しいことであります。 山が高ければ、谷底も深いのであります。高い山に登るためには、深い谷底におりなければならないということが、自然の理ではありませんか! それに依って、家庭的な伝統を立てなければなりません。 家庭勝利の基盤を造ろう 六〇年度に於ける苦難の道において、倒れることなく、たとえ勝利の個人的伝統を打ち立てることができたといえども、今からは家庭として倒れることがなく、又、亡ぶことのない伝統を世界的に立てなければなりません。そうすることに依って、我々は今後統一家族としてこの地球上に、ある地盤を保つことができるのであります。 今までは、外的な分野を中心として、「なげき」の壁をぶちこわすために、我々は苦難の道を歩いてきました。血をぬいて売りました。つける着物もなく、又我々は飢えながらも、非難されながらもこの道を歩いてきました。というのは、我々は天のあらゆる与件を中心として我々だけが主張し得る内容をもっているために、消耗戦を敢行して来たのであります。 歴史時代を越え、何千年ぶりに訪れて来る一時を迎えて、我々は打たれるときは思い切って打たれなければなりません。そして勝利的家庭をつくらなければならないのであります。 家庭的に打ち寄せてくる十字架を喜びをもって背負い、各々の家庭が世界に向かって力強く広がって行くようになるとき、これが天の祝福を受けた家庭として成し遂げなければならない責任であるということを今一度皆様が深く心にとめなければなりません。 『家庭の時』を迎えることができなかったヨセフ家庭の恨みが千秋万代に於けるイスラエルの悲しみとして残され、又世界の悲しみとして取り残されたという事実を考える時、我々も我々の家庭を訪れてきた『一時』を逃がさず、勝利的な供物として残れるように全力を尽くさなければならないのであります。 そうしてこそ、その家庭が千年も万年も生き残るだろうと思うのであります。 今日の『子女の日』を迎えながら、自分の個人だけでなく、家庭という問題を中心として新しく再出発するという決意を固めなければならないと思うのであります。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.06
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天の父母様聖会 世界平和統一家庭連合本部教会天苑宮天苑教会 聖日礼拝2021.06.06 AM09:30~2021/06/06 に公開予定一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.05
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Web説教「託されたみ旨~天寶家庭~」【世界平和統一家庭連合】家庭連合WEB教会 礼拝説教チャンネル登録者数 6430人家庭連合Web教会 礼拝説教題目:「託されたみ旨~天寶家庭~」説教者:柴沼邦彦神様は、すべての万物の最後に人間を創造されて、三大祝福を与えてくださいました。それを実現するために、「取って食べてはならない」というみ言を人間に与えられました。人間が、自身に与えられた責任分担を果たすことで、喜びにあふれる世界をつくろうとされたのが神様の願いでした。神様が最初から最後まで決められるのではなく、最後の決定権は人間が持つようにされたのです。今回は、神様から託されたみ旨、願いについて共に考えていきたいと思います。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.03
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聖婚61周年記念行事まとめ映像世界平和統一家庭連合公式チャンネルチャンネル登録者数 2.46万人2021年4月から5月にかけて行われた、天地人真の父母様聖婚61周年記念行事をまとめた映像です。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.03
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「七七七双祝福時に語られた御言」1970年10月21日 十二人伝道 三位基台を組みました。それは自分を中心としてではなく、先生を中心としての三位基台です。本当は、自分の信仰の子女の三位基台をつくるといいのです。内的には先生を中心として父子関係になります。そういう意味で三位基台をつくりました。 三年間は働かなければなりません。そして、その間に十二名以上伝道するのです。イエス様には十二弟子がいました。十二人はイスラエルのヤコブ圏を復帰するものです。さらに、ヤコブを中心とするイスラエル民族に七十人長老がいました。それは民族的イスラエルを代表するものです。本当は七十二人です。七十二人は十二人の六倍です。それを加えると七段階に入ります。ですから、七十二人を復帰しないと氏族的復帰ができません。 周囲に責められない家族の、永遠の安息の基盤を決定するには、十二の家庭数を復帰しなければなりません。三位基台は、天国に入る東方の三つの門を通過する資格と同じです。ですから天国に入るには、十二人に奉仕して彼らを屈伏させた勝利圏を得なければなりません。 そのために、イエス様は三年間かかったのです。十二弟子を集めて、それから心情一致させるのに三年間かかったのですが、失敗してしまったのです。自分の生命よりも信仰の子女を尊重する立場に立たないと、復帰はできません。統一教会はそういう条件を立たせて、今復帰しています。 ですから、最小限度十二人は伝道しなければなりません。三人を中心とした、とはどういうことかというと、中心があると東西南北と四方が決定されますが、その四方のうち東方の一方しか出入りができないということです。太陽は東から昇ります。ですから東方は霊界では春を意味します。春の季節を得たような立場です。それで再び春が訪れるのに、夏と秋と冬を通ってくるというのが原則です。ですから、永遠にサタンに讒訴されない立場に立つには、十二数完成基準が必要です。 このように考えていくと、冬の立場に立つべき三か月間が問題です。その三か月間とは、結局イエス様が十字架にかかった三日間に該当します。春から夏・秋・冬、そして新しい春にと、くるくる回って螺旋形に発展してきました。 ですから、この三年間に最低十二人は伝道しなければなりません。この期間は奥さんどころではありません。だんなさんどころではありません。年齢が問題ではありません。この三年間は全段階を象徴します。この期間は、失った家庭を新たに聖別する時です。 ですから、イエス様は三年間は公的路程として、何をしようとしたのでしょうか。イエス様は相対者を決め結婚すると同時に、十二弟子の相対者を決めて、その基盤の上にイスラエルの中心に立とうとしたのです。そうして氏族を結合させて、民族・国家と発展させていきたかったのです。 一月に一人伝道することは問題ではありません。十二人伝道すれば、あなたがたを中心としてイスラエルの勝利的展開が現れてきます。家庭を中心として氏族復帰ができます。ですから、完全に十二人の霊の子女と一つになった家庭となれば、だれでもあなたたちを歓待することでしょう。血縁関係もないのに、あれだけ親しくなり、一つになっている家族圏を見たら、日本中のすべての家族、氏族が集まってきます。そのような家族をつくってみなさい。 先生においても同じです。先生を中心として一つになれば、世界の人々が集まってきます。ですから、今回国際合同結婚式を挙げました。そのように一つになれば、それは人々が願う希望の世界です。何の関係もない人々が集まって、父母、兄弟以上の心情の絆を結ぶことができる所が世界を救うのです。ですから先生はそうするのです。 家庭教会 日本人は日本人同士とか、アメリカ人はアメリカ人同士とか、私たちは先進国家だが東洋は後進国で教育を受けていないからしかたがないとか、あるいはニグロはしかたがないというようにやっているので、人種問題が起こるのです。 神の心情を中心として考えた場合、こういうことは問題ではありません。教育を受けていなくても、貧乏であっても、父母であり兄弟であれば授受するのが心情的原則ではありませんか。それを批判するのはサタンです。 自分の兄弟に身障者がいた場合、横にいる人がぶつぶつ言ったらしゃくにさわって、命懸けで戦うのが兄弟間の愛ではないでしょうか。そのように考えていく時に、私たちが兄弟姉妹の欠点を、自分なりに言う人がいるとすれば、その人は家族ではありません。それは第三者の立場です。そうしないと世界は救えません。自分より以上の人と接することはだれでも喜びます。善は悪より一つ多く持っているのです。だから自分の下の者を愛するのです。この精神に徹しないと世界は救われません。 地区長は率先して三年間に十二人伝道しなさい。原則基準に立たないと、母としてあるいは、父として恥ずかしいことです。生まれてきた子女が、天の願うような安息圏で愛されません。それは父母に責任があるのです。それは不幸なことです。このことがはっきり分かれば、伝道するなと言っても伝道せざるを得ません。三年間、公的路程を中心として命懸けでやりなさい。今、決意しましょう。このような原理原則をはっきりと覚えておきましょう。十二人伝道したくなければ、しなくてもいいです。それができなければ六年間延長です。 先生は自分の愛する父母に対して、原理という言葉も言えませんでした。イエス様は外に出て、国家的基盤を立たせようと新しく計画したのですが、失敗して失ったのだから、外的基準に立って復帰した条件を持って帰らなければ、自分の親戚を伝道できないのです。それが先生です。その基準を今なしているのです。 先生が成せなかったことを、あなたがたを通して復帰しようという立場もあるのです。そう考えると、あなたがたは幸福です。今は、両親に堂々と原理のことを言うことができます。一人ではなく、夫婦そろって行くのですから。姑 が反対すれば、自分の夫がなだめてやるし、舅 がそうであれば、花嫁さんがなだめることができます。ですから作戦上、実に素晴らしいというのです。復帰は問題ありません。 また、自分の家族を中心に働けるということも、素晴らしいことです。今まであなたがたは、ホームを中心として活動してきました。男を中心として、男同士では何となく寂しいのです。男ばかり集っているのですから、心情的に寂しさを感じるのです。女性は男性よりも少しいいのですが、女性が五人、十人と責任者を中心として固まれば、また気持ちが悪いのです。そういう関係になっていますから、それをいかに補充するかということが今からの課題です。 それで先生が願うのは、二三五双が日本に決められたのですから、それぞれが一つのホームになって活動してほしいということです。そうすれば素晴らしく発展します。奥さんは夫の心情的寂しさを慰めてあげ、だんなさんは妻の寂しさを父母のように慰めてあげるのです。それぞれが父母の使命を果たすのです。 心情的な欠乏を感じるのは、昔、自分の家にいた時は両親がいて兄弟姉妹がいて、慰めてあげたのですが、そのような環境がなっていないから寂しく思うのです。その量が多くなると、発展できません。寂しくなく、楽しい家をつくればつくるほど発展します。そうするには、祝福家庭を中心としたホーム制が最も良いのです。そうなれば十二人はすぐに伝道できます。 相対者がかわいい、早く家庭を持ちたいという思いがあれば、それこそ熱心に伝道しなさい。原則基準を早く乗り越えるのです。決意してやれば、一年以内にみんな完成してしまいます。それは容易なことです。先生とは違います。 先生は今まで自分の家庭、氏族に対して伝道する権限がありませんでした。イエス様は家から追われ、家庭を失ってしまったのですから、外に出てその基準を捜そうとしたのです。しかし失敗してしまったので、それを復帰しないと家庭に帰れないのです。先生の今までの路程はそうでした。先生の家族が基台になるのです。 ですから男女合わせて二十四人です。二十四人ぐらいのホームをつくるのです。これがイエス様の求めてきた、十二弟子を中心としてつくらなければならない家庭の基準です。あなたたちは日本全国から集まってきたのですから、モデル的な家庭基準をつくれば、どうしてあのように血縁関係のない者同士が一つになれるのかと、問題になります。そのホームを見て、あの夫婦は何て素晴らしいのでしょう、自分もあのような家庭の奥さんになりたい、主人になりたいとみんなが慕びれます。そうするには、十二数を復帰する蕩減の道を行かなければなりません。 消耗戦 各自が祝福を基盤として戦っていくのです。これが発展の原理原則です。そういう家庭を日本に二百三十五もつくれば、これは二重になるので、すぐに数千になるでしょう。十倍だったら、二千三百五十です。その倍は五千です。各自がそのように伝統的活動をすれば、いかに発展することでしょう。発展させるには伝道しなければなりません。 伝道するのに、あなたがたは今まで、心情的欠乏を感じながら消耗戦をやってきたのです。内部で欠けているものがあるにもかかわらず、外に出て、そこでもまた欠けているのです。両方とも欠けて、死んでしまうよりしかたがありません。原理で見た場合、死ぬわけにはいかないので、しかたなく生き抜いてきたのです。そして追いついてきたのです。それは主体的ではありません。このような消耗戦はもうやめましょう。 大学出身の人でも、原理を聞くのに三か月間はかかります。噂もあるし、しかし講義を聞いてみると、この点は自分の考えてきたことと同じであるが、あの点は異なるなどと、最低三か月はかかります。それからさらに決心するまで、社会的成功とかいろいろ考えて悩みます。少なくとも六か月以上は決心するまでかかります。当然のことですが、このようにして消耗される期間があります。この期間をいかに撤廃するかが課題です。それは、家庭教会で夫婦が一体となって、二十四名の兄姉と良き愛の世界を築くことです。そして、二十四名の兄姉を中心として両親と心情関係を持つのです。 外に出て消耗戦をするのではなく、自分の家庭、両親、兄弟、親戚を中心として伝道の基盤をつくるのです。統一教会は、今まで何かと社会で問題になり噂になり、悪いと思ってつきあってきたのだけれども、また気持ちの悪い表情で接してきたけれど、実際につきあってみるとそうではなく、素晴らしいとなり、家族、親戚に宣伝するようになります。ほかの兄弟よりも良いと、親は自然に褒めるようになります。そうなるとお兄さん、お姉さんの今までの悪い印象が一度に消えて、両親の信じる基準まで自然に上がってきます。 お兄さん、お姉さん、あるいは妹の家に、夫または妻を連れていくのです。そしてつきあっていけば、原理を話さなくても自然に伝道ができます。自然に心情的一体基準になってきます。そうなると自分の弟は実に素晴らしい、となります。そこでは消耗する期間はありません。一週間以内に入信するようになります。このような作戦をしなければなりません。 その基準が今まで日本に立っていないから、外的に求めてきたのです。あなたたちも一人に両親、兄弟、親戚が数十人はいるでしょう。氏族復帰は一度にできてしまいます。 父母の心情 今、前線で活動している者も、内面にはいつかは伝道ということを考えなければなりません。それを通して伝道をしなさい。目的は一つです。総動員して伝道をしないと、教会として全体的に発展できません。教会は最前線で活動する者を無視してはいけません。教会の者以上に、伝道する人がいるかもしれません。絶対無視してはいけません。教会の人々はそのような一人ひとりを大切に、かわいがってあげなければなりません。そうしないと一つになれません。 ですから女性はお母さんになり、男性はお父さんになるのです。そうしてこの二十四人の家族を治めるのです。朝も平和、昼も平和、夜も平和という環境をつくるのです。あなたがたはお金を復帰しなさい。そのお金で私は食べて、奥さんの着物を買ってやるということをするのではありません。子供のために犠牲になるのが父母の心情です。 統一教会の欠点は何かと言うと、地区長になると天的完成基準に立ったと思い、侍ることと敬意を表すことを要求します。しかしそれは大間違いです。今、日本も韓国もそういう風潮になっています。侍られるより、侍ってやる、ためになるのが父母の立場です。兄弟の立場から見ればアベルですが、父母の立場から見れば父子関係です。それを自分はアベルだから、カインは侍るべきだと思うのは大間違いです。そのために発展する多くの人々を殺してきたのです。 何のためのアベルかというと、父母の立場を復帰するためのアベルです。ですから、アベルは父母の心情を先に持たないと、アベルになれません。それが原則です。兄弟同士のアベルと思い、親としての立場を忘れてしまっている者が多いのです。その欠陥を早く一掃しなければなりません。改めなければなりません。 各自が、二十四人のために愛するという精神的基盤が必要です。そして夫婦が一体になって、どこにもないほどの慕わしい夫婦関係になれば、氏族は引き付けられてきます。そのような基盤をつくりなさい。これをいつも念頭において働かなければなりません。 七年路程 日本に帰ったら、心情的家庭を各地につくるのです。十二人以上の伝道、分かりましたか。氏族を救うという条件を立たせるためには、その六倍以上です。 ヤコブ家庭においても、七十二人を中心としてエジプトに行きました。民族的出発点です。復帰がそのようになっているから、しかたがありません。先生もそのようにやってきました。今から三年間の聖別期間の内容が分かりましたか。 本当は七年間、完成基準が残っています。三年間では、自分の家庭基準を復帰しなければなりません。あなたがたを中心に「父母の日」をつくりなさい。「子女の日」、「万物の日」、「神の日」はありますか。あなたがたを中心として「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」、「神の日」を七年間でつくるのです。全体的、世界的サタンの攻撃を受けて先生が七年間で行った道を、あなたがたは条件的に行けばよいのです。昔のように、迫害されながら伝道するのではなく、歓迎されながら伝道するのですから、苦しこではありません。 あなたたちを中心とする「父母の日」をつくるには、十二数を合わせないといけません。十二数を超えないといけません。それを全うせずに子供を生んで「先生、名前をつけてください」というのは困ります。 堕落の原因は愛の減少感です。ですから、神様はサタンを愛して、天使長を完全に愛してやったという条件が立たないと、復帰ができません。ですから、すべてを打ち込んで愛さなければなりません。怨讐を愛するということは、そこから生じるのです。あなたがたが善なる氏族の先祖になるには、このような条件を積んでいかなければなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.03
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6月6日7時からのオンライン生中継は終了しました(以下URL)。Luke Higuchiチャンネル登録者数 7650人Peace Starts with Me ⬇️下のリンクをクリックして登録してください。https://peacestartswithme.com/Zip Code 33440 invited by Luke Higuchiと記入してください。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.02
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「祝福の歴史とその摂理的意義」1970年10月19日水澤里中央修練院 (10月18日)七七七双のうち日本人二三五双を対象に聖酒式が行われました。以下の内容は、翌十九日、同じ場所で日本人カップルに向けて日本語で語られた御言です。 歴史の希望の結実としての真の父母 外的な摂理を展開させるに従って、内的な中心の位置にある宗教の主流を正さなければなりません。それがユダヤ教とキリスト教であるというのです。 その最後の結末を、キリスト教と我々統一教会を中心としてつけなければなりません。今までの未解決のすべてを解決して、キリスト教と原理を中心として、いかにそれらを結束させるかということが問題です。 すべてを復帰するには、中心基準を決定しなければ復帰はできません。それを決定するために今まで神が残してきた最後の基準が、真の父母です。すべては父母に帰結するというのです。この真の父母は歴史的希望の中心です。それから時代の願いの中心であり、現世の中心です。さらには、未来の出発の起源点となります。 結局は、すべてはこの真の父母に皆帰結しなければなりません。だから、今まで摂理を立ててきたすべての歴史の過程というものは、一言でいえば真の父母をこの地上に侍る、その日を迎えるためだったのです。それが歴史の希望です。これは歴史の結実です。 それから時代の中心になります。未来の起源的宗教ばかりではなくて、生活圏内に神様をいかに引き入れて、生きた神の存在を体恤し得るか、実在する神様をいかに生活圏内に立たせるかということは、これが神自体が望んできた問題です。我々宗教すべてが求めてきた中心です。その日を、その時を、その世界を願って神様は今まで摂理を進めてきました。そのキリスト教という主流の教会から見ても、蘇生、長成、完成という段階的な過程を今、通過しています。 それを我々は原理的に見れば、旧約時代、新約時代、成約時代というように、分けて働くのです。そうして、堕落した後孫がこの地上において(不明)になるのです。それが真の父母の立つべきところです。過去、現在、未来がこの一点において結集されなければなりません。それは内的にも外的にも、結集させなければなりません。 こういう見地から見た場合、今まで未来と現在と過去がみんな連絡を取れなかったのです。みんな切れています。過去は過去同士、現在は現齟士、未来は未来として残るようになっていたのです。その過去と現在と未来を結束させ、一つにまとめる、そういう時を、今まで歴史を通し、数多くの宗教が求めてきました。それが世界と万民の願いの中心になります。善なる先祖、善なる子孫がその中心から生まれなければなりません。 愛の絶対基準としての真の父母 ところで、真の父母に侍るということは、歴史的勝利を象徴します。時代的、現世的勝利を象徴します。未来的勝利の出発点となります。だから今までの歴史は、過去において未来を目標として進んできたのです。来る未来を迎えようと努力してきました。今も、現在においても未来へ向かって進んでいます。また、今日以後の時代においても、未来に向けて進まなければならない運命の歴史を持ってきました。 しかし、真の父母が歴史のすべての中心になるというような基準が決定された場合には、その時からは未来にその望みがあるのではありません。これがすべての希望の中心点に立つ。この中心により、すべてが始まります。だから過去は未来の世界を目指してたどってきたとしても、今、真の父母に侍るようになったその時代においては、未来を望まなくてもいいのです。その時代が未来の結実であり、現在の中心であり、過去の中心であるから、それ一つを侍るということは、人間として、すべての望みの的を結集させて侍ることになるのです。 だから、これを迎えるということは、過去、現在、未来を通じて永遠の歴史を通して、すべての歴史過程における中心の基準を迎えたことになるのです。だから今、真の親に侍る現在が数千年の歴史の的になり、望みになるのです。それが違うというのです。いわゆる創造本然の目的完成という基準が世界の基準であり、世界の中心です。その中心というものは、神様の心情のとどまる中心です。我々人間が神様の愛と結合される最初の永遠なる基台になるのです。それがすべての希望の中心になり、幸福の中心になり、願いの中心になるのです。その決定された地上の基準が、永遠の天上の基準となるのです。 だから我々には、これ以上の願いも望みもありません。いかに世界を自分の一手に握ったとしても、それで完成ではないというのです。これこそ、すべての希望の結実であり、希望の的であり、希望の中心なのです。 それと完全に一致するのは、すべての天宙と一致することです。ここにつながるすべての存在は、天が主管されざるを得ないというのです。この基準を中心として、過去の歴史は進んできました。現代の世界は広まっている、この歴史の望みは、この中心をいかに立たせるかというような問題で、今、苦悶しているのです。未来は、そういうような中心を迎える一日を待っているのです。そのすべての解決はその一点からです。これをはっきり知らなければなりません。 我々の希望は、天宙復帰といっても、未来の世界にあるのではありません。その天宙復帰の大元の原因は、真の親と一つになることによって、可能です。真の父母と、その父母の子女になることによって、これが可能になるのであって、それが一つにならなければ全く不可能です。いかに天宙復帰の世界が真ん中にあっても、何の関係もありません。 だから、真の父母と一体となることによって、初めて天宙復帰が可能です。これがいかに強固に結合するかによって、永遠の活動、永遠の発展の動機ともなれるのです。一つとなる強度は何かといえば、それは神に対しての愛、人類に対しての愛、それを家庭に即していうならば、神様の身代わりとして、父母に対して親孝行することです。 結局、家庭において父母に孝行し、兄弟共に愛し合う者が中心的心情を兼ねてなしたとすれば、それは世界的な神様に対して愛することであり、万民に対して愛することと一致します。 だからその基準は世界のいずこにもありません。それは自分の家庭にあるのです。あなたたちはこれを忘れています。今、このようにして結ばれた家庭は、歴史伝来の風習に引きずられてきた、そういう家庭ではありません。天宙すべての骨髄というか、脊髄をみんな縮小したようなすべての価値を身代わりとして、我々が侍ることができるのは、真の父母以外にはありません。 これがあってこそすべての歴史、時代の完成、未来の希望の出発がなし得るのであって、これなくしては、神の理想も、人間の理想も、社会の理想も、世界の理想も絶対現れません。この原点に我々は即していると思う時に、それ以上の幸福な道はないのです。だから、すべての霊界もこれを見上げようとして今までずーっと援助してきました。その援助の一番の結実とは何かといえば、真の父母の権限が現れることです。縦的基準を横的に蕩減するのです。 天使長世界の使命 このように考えてみると、その中心点の基準はどこでしょうか。世界でもなければ、国でもなければ、数多くの家庭でもありません。ただ、真の父母を中心としたその家庭、それ以外にはありません。世界的な男、世界的な女、そうして世界的な夫婦を中心とした世界的な中心としての家庭、それ以外にはないというのです。 だからこの基準が結局、真の父母です。その基準があるから、困難な世界が一つの世界に収拾される可能圏に入ることができるし、分裂した世界が統一圏に縮められるのです。さらには言語の問題とか国境問題とか、民族の問題とか、風習問題等、数多くの難しい問題がこれによって調整されるようになるのです。それ以外にはありません。歴史上にない、いかなる力の強い人がそれを引き抜こうとしても、引き抜くことができない、深い深い根元を下ろしているのです。 そういうような、左右すべてを引っ張り得るその中心的な位置、重りみたいな立場が真の父母です。神様もこれを動かすことができません。サタンもできません。人間も動かすことができません。いかなる強い力があっても動かすことができません。だから神もこれを保護し、過去、現在、未来も保護してきたのです。永遠の位置として、それはすべての希望の原動力であり、生命の原動力をなし、理想の原動力をなす、そういうような基準が立ってこそ、初めて幸福な世界が可能になるというのです。 そういうような基準を、あなたたちが幾分かは知っていたために、国境を超え、環境を超え、男性を通じながら結婚をしたがるというのです。宇宙にない奇跡であり、今までの歴史にないような奇跡が起こっているのです。その奇跡を目の前で見ながら、この目的のために組み合うという、素晴らしいその一週間でした。あなたたちはそれを忘れてはいけません。だからこれを拡張すれば(図示される)天宙すべてがその中に入るというのです。これを完成した希望の中心とすれば、これを拡張してしまおうというと、すべてが入って喜ぶというのです。だから霊界も近くなるのです。 問題は、人類を愛し、神様を愛する、その中心はどこに結集するかということです。真の父母を中心として結集するのです。だから、どこへ行っても忘れることのできない本郷の地の中心において、あなたたちが因縁を結びたいのは、人間として当たり前のことです。人間である以上は、カラー(人種)を超越して、氏族を超越していくのは当然のことです。そればかりでなく、霊界もすべてがここに関係を持とうとして今、一生懸命、休まずに続けているのです。 霊界と地上界を分けてみれば、霊界は天使長の世界であり、地上界はアダムの世界です。それゆえに、霊界はアダムの世界を援助しなければなりません。天使長は、アダム完成復帰のために援助しなければならないという原理的背後があるために、霊界は地上を援助しなければなりません。だから、霊界に行っているすべての者がこの地上を援助したがるのです。 しかし、援助をいくらしたくても、それと相対基準を結んで迎える者がいなければ、それは活動できません。そういう活動の基盤を、直ちに地上に立ててきたのが宗教です。熱心な宗教家たちこそアンテナが高いので、霊界に接しやすいのです。そういう人たちを中心として、預言とか、いろいろ未来のことを預言させ、世界を指導するその基盤をだんだん広げてきたのが神の摂理です。 三組の合同結婚式の意義 地上における縦的摂理において、アダムの家庭とノアの家庭とアブラハムの家庭において、特にノアの家庭を中心として堕落しないで、勝利してずーっと血統的に受け継いだ場合には、ヤコブまでの二千年間の歴史というものは、勝利の歴史としてつながるのです。ノアを中心として見れば、ノア以後が未来です。 だから、摂理を通して神がノアを求めてきたのは、未来の失敗を元返ししようとしてなされたことです。それがまた失敗したために延長してきたのです。そのようにして今まで再び摂理を進めているというのは、まだそれが完全につながっていない立場にいるということを証明しているのです。だから霊界のものであれ、地上において、こういう内容を総合して勝利し得たという基準を立たせたならば、これがみんな 蘇 るのです。 我々、統一教会を中心として見た場合、神の摂理はノアを中心としてきましたが、失敗したのです。ノアを中心として摂理したのは、アダムの家庭のアベルを中心とした摂理が延長されたからです。そうすると、第一のアダムの家庭から三代目に完成基準を決定しなければならないというのが、ヤコブを中心とした摂理であるということを皆さんは原理で習ったはずです。 ここにおいて問題は、世の中を中心として、世界的に分別審判をなしたところはどこかといえば、それはノアの家庭です。ノアがなぜそういう審判をなし得たかというと、それは二番目だからです。第二番目が中心点となるからです。すべての存在は中心を決め、中心の家庭的な勝利を決めなければ相対基準を結び、勝利の圏を立てることができないのです。 過去、現在、未来と、歴史を立体的に見た場合には、ノアの家庭は中心の位置に立っているのです。だから二番目がいつも問題になります。アダム家庭において、カインとアベル、セツがアベルを中心として、判決が決まるその的となっているのはなぜかといえば、二番目だからです。二番目は中心を代表します。 アブラハムから縦的に見た場合には、中心はノアです。世界的に、このように六千年間の期間を通過しながら、ノアとイエス様、再臨主と、三代圏になっているのです。だからイエス様は世界的、歴史的基準から見た場合、二番目だったから、イエス様を中心とした親は、その最後の判断を決めなければなりません。そこにおいて、世界的サタンと世界的神様とが分別の戦いをしなければなりません。いつでも第二番目が問題です。統一教会においても、この基準をいかにして立たせるかが問題です。 そのような観点から見た場合に、アダムよりもノア家庭を中心に定めて摂理しなければなりません。世界的な基準において、家庭的勝利基盤はノア家庭を中心に定めてなされたために、統一教会もノア家庭と同じような路程を通過しなければなりません。 それで、一九六〇年に先生が聖婚式を挙げた直後に、三組の結婚式を挙げたのです。あなたたちの合同結婚式の沿革の中で、第一に何が入るかというと、三組の合同結婚式が入るのです。その三組の結婚式はいかなる家庭の三組かというと、ノアを中心とするセムとハムとヤペテに当たるのです。その基準を中心としてしなければなりません。 そうするには、今までの歴史過程で失敗したすべてのサタンの残した蕩減条件を、再びここに展開させて、勝利したという条件を立てなければなりません。それは個人的ではありません。個人、家庭、氏族、民族レベルにおける民主主義世界と、共産主義の対立する国家を中心として、そのようなことをする必要があったのです。それが韓国の摂理です。 父母様の勝利の基準において、そのことをなし得ることができたのです。そして、三人のノア家庭の子供の祝賀をなすことによって、父母様を合わせて八人の、天を中心とした家庭が復帰されたことになるのです。ノアの三人の息子たちが完全に一つになれなかったがゆえに、いわゆるノア家庭の失敗を来したのです。 そういうような立場には絶対に立たずして、いかなることがあっても完全に一体になるというような条件を天の前に誓って、外的ながらも三組の祝福家庭が生まれてきたということは天宙的内容です。それが生まれたために、結局、ノア家庭の復活基準ができてしまったのです。そうすることによって、結局は、一六〇〇年の間十代を通過しながら、今まで神とサタンの間に進行してきた摂理の中にあった神の方の失敗を、全部元返したという条件が満たされるのです。 三十六双・七十二双の意義 ゆえに、ノア家庭は十代の結実であり、過去の結実であるというのです。だから、現世の中心となり、未来の動機と出発点になるのです。この基準が立つことによって、ノア家庭を中心とした摂理の圏を立たせて、それを勝利圏に立たせたという結果に立つのです。その基準が立ったということは、先祖の失敗したすべてを蕩減して、勝利圏をなし得た条件になるために、結局はこれまでの歴史の完全復活の結実であるというのです。 アダムの家庭から、カイン・アベルのアダムを合わせて十二代の失敗を元返しすることによって、十二代を中心としてアダムの十二家庭を復帰することができるのです。それによって、アダムからノアまでの今までの先祖たちが、地上と連絡を自由に取れなかったすべての条件が立ち、平面的地上を中心として、完全に取れる中心が決定されたことになります。 そうなれば、ふさがれていた霊界が完全に開かれるのです。そのために、霊界にいるすべての善なる霊人たちは地上に再臨して、因縁ある子女と結びつくことができるのです。アダム、ノアの失敗はヤコブまで延長して立てたのでしょう?。だからこっちの勝利は私の勝利です。だから未来の出発点となる。この未来は、善なる勝利圏時代の出発として立たせることができる。その勝利を基盤として、ノア家庭を中心として十二双の結婚式を挙行したのです。 縦的立場において二十四代圏を通過して、横的復帰によって十二数を求めてきたのがヤコブの十二兄弟です。ここまで来た縦的基準は、横的に出発点を元に立たせないというと、世界的になりません。ヤコブの十二家庭は縦的ではなく、横的十二方向を示しているのです。それは、春夏秋冬の十二か月を象徴しています。だから、そこからすべての平面的世界へとつながっていくのです。三十六双とは一体何かといえば、歴史的な神の摂理に、備えておかれたすべてを復帰して、縦的完成はもとより、横的完成をなし得る出発点の核心の位置を決定することができるのです。世界的核心の位置に立つのです。 だから、三十六双は神の歴史的摂理観から見ると、縦的蕩減と横的蕩減を勝利し得る絶対基準です。我々、世界万民から見た場合には、これは失敗したすべての先祖たちの復活体です。それゆえに、皆さんは三十六双を貴重に思わなければなりません。「何だ、三十六双。見た目も自分たちと変わりがないではないか。目もパチパチするし、飯も多く食べるし、顔も悪い顔だし、話も悪いし、実績においても自分に負ける」。 しかし、だれも知らないその親から生まれた子供なのです。いくら大統領でも、知らない親に対しては、それを無視したら不孝者になるのです。だから、三十六双が地上に現れてきたということは、歴史的勝利の結実体をなしてきたというのです。もちろんその核心の立場上、真の父母が立つのだけれど、父母として世界的な縦横基準を完全に勝利的に立たせることができたのは、六〇年から六三年の間にその家庭を祝福したからです。三十六双が支えになるのです。 三十六双というものは、我々の縦横的な先祖です。しかし、その先祖たちの家庭から見た場合には、いつも問題は一代目にはできないのです。神を中心として三代を通過しなければならない。神を中心として個人を見た場合には、一代にしかなりません。横的基準から先生が見た場合には二代しかなりません。そこにおいて、三代目の相対基準を立たせて、勝利し得たというような基準を立たせなければなりません。それが三十六の二倍を中心として七十二双です。 七十二双はカインとアベルのことを言うのです。この三十六家庭には、必ずその父母を中心として戦うよりも、カイン・アベルの戦い方があるのです。だから子供を中心として、復帰できなかった今までの分裂した歴史過程において、失敗したすべての家庭が家庭完全復帰されて、サタンのカインという立場の讒訴条件を完全に防備し得たというような結末をつけなければ、これは問題になります。その立場に立たせたのが七十二双の祝福です。 一二四双と四三〇双の祝福の意義 一二〇家庭とは一体何か。これ(七十二家庭)は、いわゆるカイン・アベルの基準まで、完全に歴史を代表する先祖の勝利基準を立てました。しかし、それは世界的になっていません。それは家庭と民族を中心としての解放です。 ヤコブの十二兄弟は家庭を中心として兄弟であるけれど、神の横的因縁を結ぶというと国家的代表でしょう。十二支派の代表です。それは、家庭と民族的立場に立つとしても、世界的には立つことができません。イスラエル選民は、その民族的基準、国家的基準を準備してきたけれども、世界的基準はまだ準備されていません。 それで、イエス様が一二〇人の門徒を求めたのは、国家的基準ばかりではなく、イスラエルの代表的存在の、世界的勝利基準を決定しようとしたからです。五旬節に際して一二〇門徒が集まって祈る時に、そこに世界的勝利基盤の条件がなされたために、聖霊が降臨することができたというのです。 結局は、世界的各国家を代表した、そのような代表者をサタン圏内につくり得る基準を求めてきたのが、イエス様の福音宣布でした。それを果たすのです。もしも、イエス様の家庭において世界的な国家を代表した勝利の条件を立たせたならば、キリスト教は一瞬に世界的になります。そのような、世界的基準を代表した一二〇の家庭基準を立たせなければなりません。それは一二〇国家を代表するのです。そのようにして立たせたのが一二〇双です。 一二〇双にプラスしたその四双は何かというと、既成家庭だったのです。既成家庭が世界的に広まっていて、すでに結婚しているすべての家庭の行くべき道がありません。それを救ってあげるために、東西南北を代表した四家庭の既婚者たちに蕩減条件を立たせて、四方八方からその復帰される門を開けるような条件をつくるために、一二四双の結婚式を挙行したのです。 これが、人間を世界的蕩減の代表者として、神が求め摂理してきたすべてを蕩減復帰して、蕩減の位置に立たせた結果になるというのです。それは個人ではなく、家庭だというのです。だから人間を通して摂理してきたすべてを、神が捜し求めてきたものを勝利的に得たということになります。 それが終わったために、その次は万物を復帰しなければなりません。この基盤をつくるために、いわゆる聖地決定というものが生まれてくるのです。だから一九六五年、先生が世界を巡回しながらなしたことは、四十か国に一二〇か所の聖地を決定することでした。あなたたちに会うのが使命ではありません。万物復帰をしたのです。我々が世界につながるその相対、世界的基地。我々の接触するその所が神の所有圏になるというのです。 アダム・エバによって失敗したものを勝利へ、元返ししなければなりません。自然と万物は、人間と神様との圏内に属するものだから、自然に復帰されるのです。そういう基準に立つのだから、世界すべてに適用することはできません。やはり一点から始めなければなりません。 そこでアブラハムから四千年の、四十数を中心として世界各国の代表的四十国家を代表して、一二〇の聖地を決定したのです。その一二〇は、世界的代表国家を中心とした象徴的条件として立たせたものです。このようにして、人を捜し、それから万物を捜すことのできる基盤ができたといえます。 四三〇双という、その数を見た場合、四+三=七、あるいは四×三=十二で、それは七数にも通じ、十二数にも通じるのです。これはすべての世界を象徴する代表的な数字であり、世界中から選び出した、各国から選ばれた、世界人類を代表した家庭の表示であるというのです。さらに、これは、四三〇〇年の韓国の歴史と一致しています。 このようにしたのだから、その国においても、その国内にある相対すべき家庭があったという結果になるのです。それゆえに、世界的天運が、我ら統一教会に向けて入ってこなければならないというのです。それはちょうど、一二三から一二四という世界的国連加入国家とぴったり一致しなければなりません。それが一九六七年にぴったり一致したのです。このようにして、内外ともに国家基準に一致した基準を認めて、そこから新しい歴史点に立ち帰るようになるために、一九六八年に「神の日」が決定されたのです。それは世界的だったのです。 第一次七年路程は、先生を中心として、世界的勝利の蕩減圏を内外ともに完全に成し得た条件を立てたために、結局、「神の日」を決定して上がってきました。それは、先生を中心としては勝利したけれども、先生は父母の立場ですから、子女を中心として勝利の圏を立てなければなりません。それが第二次七年路程です。 七年路程と七七七双の意義 先生が、家庭を中心として十字架を背負って闘ってきたと同様に、我々食口たちも、祝福された家庭も、第二次七年路程において、国家的に、あるいは世界的に闘わなければなりません。先生は家庭的闘いをしながらも、あなたたちは、今まで個人的闘いをしてきました。先生は常に一段階前に、一歩先を歩みながら、国のため、世界のために来ました。 今は、先生はその反面に、個人の安息の位置をつくるには、先生自体が家庭的勝利基準をつくらないというと、家庭の安息基盤をつくることができません。これをつくることができたという結果に立ったために、「神の日」が決定されたのです。もともと、堕落しなかった場合には、アダムとエバが祝福される日がすなわち「父母の日」であり、「神の日」であり、「子女の日」であり、子女の愛が始まる日だったのです。さらに「万物の日」であり、このすべてが一点において、真の父母を中心としてなされるべきであったのです。 人間が堕落したために、歴史過程において七年という期間を通して、すべて復帰過程を通過しなければならないようになっているのです。完成基準の家庭において、残された一段階を完成段階を通して、堕落した父母が責任を持つべき立場にあるというのです。いかに再臨主、真の父母の基準といってもここに立つことはできません。「七年」がいつも残っているのです。これを聖書では「七年の大艱難」と言っています。それが三回続けば三×七=二十一となります。そうなれば蕩減を越えるでしょう? それで、今は第七年の三年目です。三年目まで蕩減を越えるのが問題です。重要な過程の決着をつけるのは三年目と言われているのです。一九六〇年の時と同じように、人を復帰する重要な時代圏に立っているために、第二次七年路程においては、少なくとも国家基準を中心として相対基準において、世界的連結基準を我々がつくらなければなりません。それゆえに、この三年目にあって、あなたたち日本の食口と、十か国の世界的国家を韓国に平面的に連れてきて、家庭的世界基準を結ぶところが、今回の七七七双の結婚式です。 ゆえに、今からは、世界的迫害の時代は我々にかかっています。今から、我々世界的国民が一体となって、世界的家族が世界的十字架を背負って進まなければならないという、共同宣言をなすために集まってきた者が、今回の七七七双の結婚式に参加する者たちです。横的・世界的完成の象徴としての祝福 ここに国境がありますか。国境を我々は超越する。国境はありません。民族がありますか。民族はありません。みんな、真の父母の子孫だというのです。これは、過去、現在、未来の結集であり、結実であり、中心であり、あるいは出発の基点に立つ者だから、それを代表した者は歴史すべてを包容して余る者である。だからその実体には、すべての世界中が入っているのと同じ圏に立つ。 それで、今からは本格的に家庭を中心として世界的宣教をしなければなりません。今までは、個人を中心として世界的宣教をしたのでしょう?。まだまだ、我々が行かなければならない十字架の道があります。個人によっての十字架は乗り越えるかもしれないけれど、家庭を中心として世界的基盤を乗り越えなければなりません。 今からは、家庭を中心として、我々は宣教基盤を世界的に準備しなければならないという使命があります。どうせこの道を背負ってきたのだから、これは世界あてに背負わなければ国あてに背負う。国あてに背負わなければ民族あてに、自分より大きい段階に向かって十字架を背負うのです。家族は氏族を救うための十字架がみんな残っています。全段階を連結させなければなりません。 だから、家庭から蘇生、長成、完成基準。それは何かというと、家庭を中心とする氏族、民族になるのです。民族は一つの国の象徴を意味します。やはり、民族の中心は一つの国家になります。だから、どうしてもその国を中心としての十字架は各自が背負わなければなりません。それは、だれかが背負ってするのではありません。その国の十字架を背負うその立場より、「世界の十字架を背負って立とう」というのが、宣教師の使命です。ゆえに、宣教する者は天からいつも祝福されるのです。 本来は、堕落した人間としては三か国を通過しなければなりません。三段階を通過するのはもとより、三か国を通過しなければ、自分の主体国を復帰できません。三か国を通過して、初めて四番目に自分のところに帰ってくる。 春を中心としてみれば、夏があり、秋になり、冬があって、それから再び春に戻るように、こうして初めて、四番目に、平面的には帰ってきます。ゆえに、我々統一勇士としては、自分の国以外の三か国を通過して帰ってこなければ、世界的指導者にはなれません。 だから、縦的にも蘇生、長成、完成となるのです。国においては家庭、氏族、国家です。家庭、氏族、民族、三段階を通過する。だから、韓民族であれば韓国を復帰する。日本民族だったら日本を復帰する。それを復帰することによって三段階を越えた場合には、四番目です。だから、四位基台は横的にも縦的にも、成就される基盤です。 このようにして、三十六双、七十二双、一二四双、四三〇双、そして七七七双の祝福がなされたのです。なぜ七七七双かというと、これは完成を象徴するのです。我々の求めてきた完成の象徴であるというのです。世界的、横的完成です。 そのような歴史的意味をもって、このような結婚式を催しました。だから、世界的中心に立つ韓国でするのは当然です。だから、ここに参席しない国は、霊界において先祖たちが非常に悲しい、渋い顔をしています。日本の民族が、「おお、我らの子孫はあんなにたくさん、韓国のソウルで相まみえた!」と言って喜ぶでしょう? 四三〇双の数理的意義 (質問 「四三〇双は七数に当たり、完成という意味をもっているというのですが、もう一回ご説明していただけますか」) 四三〇双は、イスラエル民族がエジプトに入ってから出エジプトするまでの四三〇年間に該当し、それは代表数に当たる。七数は人間の完成を意味する完成数でしょう。人間が立っているというのは、七数の勝利圏に立っているのです。平面からは立たないでしょう?。平面は四方を意味するのです。人間が立つとき、蘇生、長成、完成を意味する。立っているということ自体が七数を意味するのです。 それから、地と天が一致すれば十二数になるのです。掛ければ立体性を伴うというのです。このように勝利するためには、十二数圏を統轄しなければ主体者にならないというのです。春夏秋冬を中心として、年に三か月を中心とすると十二数になるでしょう?。それはすべてを管轄し、主管し得る圏です。だから、十二数と十二か月を統轄し得ない人格は宇宙を動かすことができません。 それから、国があっても、国の中にある相対基準がなければ復帰できないでしょう?。一二〇は三と四の倍数です。だから、四三〇は何かというと、四+三=七で七数に当たり、結局、内外共に一致した条件になる。七数が一体化した条件になります。世界的表示として、韓国において世界的四十三双を立たせたのも、民族を超越しての相対基準を立たせたのです。 だから、国において相対基準も立ち、世界において四十三の相対基準が入っているのです。そのようにして四十三双を結婚させました。このように組んでおいたために、今は世界から引っ張ってきてもサタンの讒訴圏を乗り越えることができるし、いかに日本でぶつぶつ言う者がいたとしても、結局は、我々の宣伝に帰すというのです。 だから、今度こそ初めて、世界万民が共に肌を触れ合いながら、共に韓国に来て、それから先生から相当な話を聞いて、初めて根本と直接通ずるような実感的立場に、世界中の国々の代表者が感ずるようになったというのです。それを、家庭を中心としてやっていくのです。家庭を中心として、世界的平面圏をつくるのです。高次元的な立場に立って世界を引き上げるのです。それで、今から我々は伝道するのです。 祈祷 天のお父様。 我々の生涯は、永遠なる歴史の運命とともに、世に先駆けて内的に決意したものであります。あなたの願うとおり決意を整えさせて、そうして使命に立ち得る中心者となることができますよう励まし、導いてくださいますよう、切にお願い申し上げます。 明後日に、重大な歴史的結婚式を私たちは執り行いますから、その場所を、我々の心のいっさいを神の主管圏内に納めまして、直接守ってくださいますよう、もう一度お願い申し上げます。 すべての結婚は、神の勝利圏に帰する栄光であるということを、もう信じて、分かっておりますから、万一我々の間違いによって神の全体的勝利圏を汚すような、そういう者がないように神よ、各自を守り、導いてください。 こういうようなすべての者たちを集めまして、深き摂理の一端を語らせて、そして聞くことができますことを、感謝するとともに、未来の世界に向かって、我々が背負っている家庭的十字架を世界に残すべき、勝利の圏を我々を通して残すようにいっそう努力するこの時間を我々に下さるよう、あなたの導きをお願い申し上げます。 すべてのことを、真の父母の御名を通してお祈り申し上げます。アーメン。(アーメン)。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.06.01
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