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「開拓夫人会議のみことば」1975年9月18日ベルベディア アメリカ各州に開拓に出ていた祝福夫人たちは、九月十八日、六カ月ぶりでベルベディアに集まり、それぞれの報告をしたあと、先生から次の様な御言を受け、来年一月に再びニューヨークに帰ってくるまで、必死で闘うことを誓って、任地に出発しました。 三月十九日に出発して、今日は九月十八日だから、ちょうど六ヵ月目だね。 みんなも知っているように、昨年の今日はマジソンスクエアガーデン大会の日だった。あんた達はマジソン大会の活動要員として、昨年の記憶がまだ新しいと思うんだね。そして、今からはヤンキースタジアム大会を再び計画しなければならない現実の段階になった。 君達も知っているように、韓国においての希望の日フェスティバル、世界救国大会というのは、歴史的勝利圏を国家基準において全国民と共に一致し、神の前に蕩減条件として果たした大会である。世界を代表して、霊肉共に新しい世界的第三次七年路程を出発しえる勝利基台になった大会であったね。 四〇日の魚釣り 先生は大会を経てアメリカに来て、それから海に四〇日間ずうっと行っておった。それはマグロをとるという釣りが目的じゃない。マグロといえば魚のうちで釣りとして最高の王者の位置にあるんだね。まあ、それは来年のヤンキースタジアムを中心として、アメリカをマグロと思って、世界を釣るという、いわゆる救うという一つの条件を取り出してやった。その四〇日間を過ぎて考えれば、蕩減条件の路程を通過したことが切実に感じられるね。 君達も知っているように、カナダ東岸からずうっと下りてきて、大西洋の真ん中にケープ(岬)になっているケープコッドがある。ここはアメリカにおいても、マグロを釣る場所として第一の所だね。 先生は、四〇日間の最初の二〇日間は一尾もとれなかった。二十一日目に初めてマグロをとって、それが八月二十八日だったね。魚をとって、祈りをもって神に捧げた。 ケープコッドはピルグリムファーザーズ(清教徒)が初めて上陸した所なんだよ。歴史的に意義ある所で、アメリカ発展の基準がケープコッドを中心として、プリモスを中心として、ピルグリムファーザーズが精神基台を作って、建国精神がそこにつながっているんだね。先生が入っていたホテルがプロビデンスホテルといって、それはまさしくピルグリムファーザーズが三五〇年前、最初に上陸した基地だ。庭にその記念碑が立っている。 そういうケープコッドを中心として、ピルグリムファーザーズがアメリカに来て、神の御旨のために一つの理想的国家を作るというその思いが、今となってアメリカという国になっているんだけれど、それが自分達の願う理想的な国になっていない、という立場を見た場合に、彼等は霊界で相当苦しんでいるということを知ったね。 新しい解怨 それから海において、今まで漁業のために死んだ霊が沢山ある。そしてピルグリムファーザーズを中心として、移民の一行がインディアンを相当虐殺した。そういう虐殺された霊も解いてやらなければならない。霊的にみんな怨讐圏になっているから、アメリカにおいて霊的に結ばれていて讒訴条件になるというんだね。それで霊的に和合し、共に許してやって、善なる神の御旨の方向に進むその道を開いてあげなければならないという式をあげた。九月七日だ。土曜日(六日)に二尾とって合計四尾になった後、そういう式をあげた。それから三日後に毎日一尾ずつ合計七尾とって帰ってきた。そしてこちらに寄って三尾で合計十尾になった。 ニューホープの港を出発して帰ってくるまで四〇日。それはアメリカの今後の復帰において一つの霊的条件になった。 今まで陸地において死んだ霊は解放したけれども、海において死んだ霊は今年が初めてだ。それでマグロを取って捧げものとして神にささげる条件としてそういう式をあげてきたんだね。 今日が四〇日だ。今日、満四〇日目に六ヵ月目の君達にこういう様に会って、報告を受けて新しい決意を固め、出発しなければならない思いでもって君達をここに集めるようになった。 ヤンキースタジアムへ 君達も知っているように、この六ヵ月という期間は、アメリカにおいて準備期間であった。日本の女性達が配置されて、今までの組織は完全になくして、全要員を教育に投入した。全要員をベリータウンに固めて、第二陣の要員を養成するように努めてきたんだね。 それを思えば、アメリカ自体から見た場合蘇生期であった。そして、今後は長成期の要員を中心として活動しなければならない。それは摂理からである。それで今から再組織した要員を中心として、ヤンキースタジアムの勝利をいかに果たすか、ということが今後課せられた課題である。 韓国と日本に行っていたIOWCのメンバーも帰ってくる者があるし、韓国と日本で勝利した基準をアメリカでいかに延長して勝利させるか、というのが問題になる。韓国において二十一日間で一二〇万人を集めたというような歴史的実績を持っているIOWCであるから、ニューヨークに帰ってきて二〇万人ぐらいは問題ないという、そういう自信を持つようになるんだね。まあ、話は易いんだけれど、実際はどうなるかやってみないとわからない。(一同笑う) 何を残してきたか 今まで六ヵ月間、日本の女達が一人で地区をもってやってきた中でいろいろと経験してきたと思うんだね。これはアメリカにおいて第二次の長成期にあたる期間だから、神の摂理観から見た場合には新約時代だ。新約時代は、イエス様においての、いわゆる新婦としての使命を地上に果たすべき、その基台を作らなければならないという意味において、あんた達をずうっと配置したんだね。 そこにおいて日本の女達が、先生の命令によって来た、と誰よりも中心的な使命を果たすその心持ちをもって、その心持ちだけ持って今まで続いてきたんだと先生は思うんだね。各州においては、責任者たちがみんな修練に行ったんだから、主人がいない。そこに君達が行って主人になれ。そう見れば、アメリカにおいてエバとして、新婦として、模範的基準を示す期間じゃないか、と。韓国の先生と日本の女。アダム・エバ国家を代表した者たちがアメリカの中核的心情基準に立つ期間だというんだね。 霊界から見て、君達に同情するようなそういう雰囲気を作らなければならない期間で、アジアで築いた第二次七年路程の勝利的基盤をアメリカに霊的肉的に埋めこむ、そういう期間であった。この期間においては、アメリカのために働くという考えではなくして、世界のために働く、天のために働くという一念でもって通す期間だった。だから、君達が今まで五〇州で六ヵ月間努力したその結果がアメリカ人に何を残したか、それが問題である。この期間において、ベリータウンの修練所においては、周藤さんを中心にして日本人の責任者を中心として、アメリカの青年を猛訓練し、日本の女達が果たした精神基準と、日本人のもとで修練されたベリータウンの精神をそのまま受け継いで、韓国や日本食口に負けない様な精神の後継者としてアメリカ人が立たなければならなかった。 先生と日本の女とアメリカ食口が四位基台をなされるとすれば、それは原理原則の発展の基準になる。 生命がけの時 日本はアメリカを救わないと、日本自体は無いんだよ。共産党は今、大々的に活動している。アメリカを三年間のうちに、少なくとも五年以内には上下院に基台を作らなければアメリカが危ない。キッシンジャーの政策は中間政策であって、共産党はどうでもいい。イデオロギー問題にはタッチしないで、実地的問題を取り上げていこうという政策であって、これは共産主義の外交政策に巻かれてしまう。それでアメリカにおいては共産主義者達は本格的に活動しだしているよ。フォードやロックフェラーも共産主義に強くないという様な、そういう現状は共産主義にとって実にすばらしい現状だ。 だからこの何年か以内に反共路線を完全に作っておかなければ、先生が非常に焦っているのは、もし先生に今から三年の期間を持たせたら問題ないが、我々にはそういう期間が許されていないから、無理をしても何とかその基準を埋めていかなければならない。 だから、そう考えてみた場合に、あんた達が二〇代から三〇代、このままいって子供を産み、平安な理想世界を思いながらやっていく、そうはいきませんよ。 今まで三年間の国際情勢を見た場合、これは国連総会を中心としてみても、今から三年前は半分以上が民主主義国家に属していた。ところが今は三分の二以上が共産圏にまわっている。民主主義圏は崩れかかっている。 このまま過ぎた場合には、共産主義が世界をみんな荒してしまう。その時になってこれではいけない、というのはもう遅い。その前に我々が基盤を作っておけば、アメリカは完全に我々のものである。 だから、今からある者は共産党にやられる者もいる。我々みんなが血を流すようなことも考えているよ。先生がそう考えた場合、共産党は一番はじめに先生を狙うと、先生は考えている。 そうすると、これはやってもいい、やらなくてもいい、とそうはいきません。のるかそるか、死ぬか生きるかの生命がけで、世界問題をかかえて、神の前に立って、生きた祭物になるという自信を持って立たなければ、この緊急期を乗り越える道はありません。 伝統の確立 そう思ってみた場合、日本のあんた達、アメリカに来て何をやってきたか反省してみな。何人伝道したや。それをじっくり考えてみた場合に、本当にアメリカで自分がプラスさせたものは何だろうか、それを反省してみるべきだよ。 今度も各州に行って一・二ヵ月黙って見ていて環境を調べて、何ヵ月も過ごしたという報告を聞いて、先生はがっかりしたよ。そんな暇があるかというんだね。そんな事するんだったら毎日伝道やってね、毎月一人が一人伝道しても相当のメンバーを増やせるじゃないか。やる者には頭を下げる。御旨を犠牲的にやる者に自然と頭が下がる。 あんた達、太平洋を越えて何のためにアメリカにやってきたか。アメリカを助けるためにやってきて、何をなしたか。何をプラスしたか。自分自身を振り返った場合に、それは反省する問題が沢山あると思うんだよ。 こういうような緊急時をあんた達に任せて、先生は韓国でのいろいろな戦いを一人でやらなければならない。そういう責任を負いながら、あんた達に任せて、それを埋めてほしいという思いで送ったのにかかわらず、報告を受けて先生はがっかりした。 君達は伝統を作るために行ったんだから、休むどころじゃない。二四時間でも足らないような思いでもって、毎日街頭で伝道し、あるいは経済活動をアメリカ人と協力し指導していくと。そうすればみんな指導を受けるようになる。みんなが見てくれた場合には、それは自然とあんた達についてくるようになっている。そうして一つ一つ解決していけば、堂々たる伝統圏が作られるようになっている。 全てに先頭に立て。今まで子供も何も教育されていない。親もいない。父もいない。だから母という名目を持った以上は、寝ず、食べず、休まず、と。そこに血と涙を流していくような、血だらけになって活動しない以上は率いていくことができない。それが結論だ。 休む暇がない 先生が魚釣りに行っても、二〇日間、十五メートル二〇メートルしか離れていないまわりの船はとるんだけれど先生のは一つもとれない。これも小さな蕩減条件だね。二〇日目には周囲全部が二三尾とったのに、先生のはエサにかみもしないんだね。それは不思議なほどだ。しかし、それに落胆するんじゃない。それを無心に考えるんだね。 まだ誠意が足りない。蕩減条件の基準が立つ道ではない。だからもっと早く起きて、朝の二時半から待っている。そういうことをやってきた。病気になるような思いをしてやってきた。帰る時には一番遅く帰る。だからとれなくても、とれなければもっともっと熱心にやる。そういう道を通ることによって蕩減の道は自然に解決される。二〇日もとれないと周囲の船が同情しておる。ホテルの女性もね。(笑) しかし先生がとったのは八百四十ポンド(三百八十キロ)の今年最大記録のマグロだね。エサ屋がびっくりしていた。とんでもないものを取った、とね。最高のものをとったというような目つきだったね。(みんな拍手) だから、出来ないといってくだけるな。できないからもっとやる、というんだね。問題があるからこそ自分が必要であって、問題のないところに自分は必要ない。そう思う者は発展するんだよ。そう思う者には神様は希望を持つよ。 先生が緊急時期に、こうして訪れながら、こういうようにやるのは、先生なりに知っている道があるから、どうなるかという見通しがついているからだよ。先生も五〇以上になったしね。もっとゆっくりすればいいじゃないの。先生も疲れるしね。いつも先頭に立ってこういう様にやるには先生も辛いよ、とみた場合には、ゆっくりと、のうのうとアメリカ人みたいにやっていけばいいじゃないの-そうはいきませんよ。 この世界に引っかかっている問題は、我々の目前に摂理観と共につながっているから、それを解決しなければならない使命を持った本人は、昼に夜に休む暇がありません。 その基準を打開するまでは、最大の力を投入して、霊界から見て同情しえるような条件を早く満たしておかなければ、原理的延長期間を得ることはできません。 今、アメリカの各州は新兵ばかりだ。みんなベリータウンやベルベディアに行っているじゃないの。入って何ヵ月にしかならない者ばかりで発展するとは先生思っていません。 たった一つの希望 たった一つの希望は、あんた達だ。だから何とかやってくれ、この緊急期を何とか埋めてもらえんかと、そういう思いで送ったんだよ。だからこの期間にあんた達が励んだ実績、努力の結果はアメリカの食口達の脳裡に残る。そうして新しい責任者たちがそういう基準にそってやっていこうと考えれば、それは伝統基準を今から正していくことができるというんだ。 だから朝拝とか、日曜日の礼拝とか、色々それは基準になっていないから、その基準をあんた達がやり出して、みんなそういう条件基台が出来ておった場合には、新しい責任者たちが来ても、そのまま全国的な平面的基準において軌道に向かって前進すると、そう考えておったんだよ。 だから、今度各州に帰れば、最後の区切りをつけるような思いでもって先頭きってやれ。解ったね。(ハイ) アメリカ人がどうとか、そんなもの問題にするな。先生がアメリカにきて三年。最初にぶつぶつ言っていた者も、結局実力の前には頭が上がりませんよ。 神山も初めてアメリカにやってきた時には、ワシントン本部で、何の為に来たや、帰れ、と言われた。先生は神山に言ったことがある。努めてみな。今では帰れといったら大変な表情するアメリカ人の立場なんだけれど、その時は神山もう帰りたいという思いで何ヵ月も過ごしてきた(笑)。昨日みたいだね。今では三年近くなったんだから(神山――ハイ) 問題はアメリカ食口にあるんじゃない。君たちにあるんだ。君たち祝福家庭は御旨のために何年もやってきたんだから、アメリカ食口達に模範になれない、というのはウソだ。それはウソだよ。 模範になるべきなのが現状なのに、かえって問題になるというのはどうかなっているよ。そういう者だったらあてになりません。かえって死んだ方がいい。 これから行く時には、もう各州の座れる所立つ所、方向を知るようになったんだから、今度帰ればそうではありませんね。これからの三ヵ月間に今まで六ヵ月果たせなかったことを蕩減して、復帰してあまるような実績を残して一九七六年を迎えるように。わかりましたね。(ハイ) それを成せれば正月にはすぐあんた達をニューヨークに戻そうと思う。それからヤンキースタジアムの勝利を得た場合には、再びあんた達を送る。それから経済的問題を本格的に手をつけなければならない。三年間だけ苦労すれば、家も買ってやるし、みんな買ってやって、日本にいるエバさんたちが、ここに来ておるみんなを非常にうらやむかも知れない。そうして、旦那さんと一緒に立派な邸宅に住むようになるかも知れないよ。 そうなった場合には、それからみんな勉強だ。大学を卒業した者はベリータウン神学校に入るし、大学に行かなかった者は、我々が建設した大学に一年から入学して、三〇でもいいから、三五~四〇歳までは勉強する。先生はそういう考えを持っているんだよ。 アメリカに来て、働いて帰った場合、あんた達の友達がみんな大学を卒業して、ある者は博士、ある者は修士と、学位を持っていばっている者が沢山いるかも知れない。そういう前で、恥しくない為には、堂々と英語もしゃべれるし、西洋文明をみんなくぐって知るようになったしね。どこを探しても恥ずかしくないような、そういう訓練をして、日本の上流階級の、国会議員をさせても堂々たる者として立つような、そういう者として造って、帰そうと先生は思っているよ。 歴史に残るように 今まであんた達は各州、教会に配置されておるんだけれど、あんた達の何年間の期間を奉仕して立つ所には、西洋人が東洋人のあんた達の手を握って涙でぬらすような、そういう環境を残したいのが先生の思いだよ。アメリカは西洋文明の集結体だから、東洋人が精神的に指導して、こういう歴史が残っていると、この州には日本の誰々というエバさんが来て、こういうことをしていった、と。そういう歴史が沢山残っておったとするならば、日本人がやったことは東洋人がやったことになるし、アメリカを中心として東洋を再び救い戻す、ベトナムを共産圏から救い出す道も生まれてくるというんだね。そういう遠大なことを先生考えているんだよ。 あんた達一人のその犠牲になるとか、苦労せよ、と、涙ぐましい環境を忍びきっていけというのは、日本の食口として、先輩として、その偉大さがあるんじゃないか。 どうせ水としてたまる以上は、浅い水としてたまりたくない。風が吹いた場合に浅い水は皆んな苦水になってしまう。深い所にとどまった水は、それはいつまでもきれいな色を持っておるというんだね。 今まで伝統が立たなかったことをかえりみて、この三ヵ月は自分の最後の蕩減条件を投入する。先頭きって、何かを残してもらいたいんだよ。わかりましたね。(ハイ) そうすれば三ヵ月間はもう死にものぐるいで走る。そうして正月に入って、ヤンキースタジアムの作戦のために引きかえすんだ。 開拓者の自覚 アメリカは実に神様が準備した国だ。それは我々の最適の活動国家としてアメリカが準備されているんだね。 メイフラワー号が百三十二名を乗せて最初に上陸した時、何も食べるものがなく、乞食と同じだよ。韓国動乱の難民やベトナム難民とかわらない。むしろ彼等よりもっと惨めだ。家もなければ乳もないと。だから上陸してインディアンのところに行って泥棒している。みんな今の人は彼等を立派だと思っているけれど、そうはいきませんよ。(笑) とうもろこしなんか泥棒して食べたし、メイフラワー号といっても、言わば海賊だ。それなのに何故アメリカの精神の伝統的基準を讃えるようになったかというと、それは神様を中心としての理想を精神にはらんで、それが新しい神様の願う方向に進んできた。神様を中心としての将来性を精神的に統一された基準で生死のすべてを捧げた。大西洋を越えてきた、とね。 本当のアメリカの精神というのは、神の名前を中心として、全て神の目的のために捧げて、いかなる困難があっても行くというのが生きたアメリカの精神だよ。 そう見た場合、我々も国を捨てて、太平洋を越えてきた。その時の彼等とそっくりだね。そして我々は英国人を中心としたアメリカじゃない。世界万民を中心として、理想的な神の国を考えると、彼等は問題じゃないんだね。だからアメリカの主人たる者は統一教会のメンバー以外にはないという結論になる。神を愛する子女たる者がアメリカの主人になれる。 だからそう考えてみた場合、あんた達が行って重大な使命を持ってやっているということは素晴らしいことだよ。旦那さんも、両親も、兄弟も捨てて、先生を見つめてここまでやってきたんだからね。 歴史を引きつける苦労 考えてみれば、我々に反対するアメリカ人は、ピルグリムファーザーズに反対するインディアンと同じだ。プリマスロックに行ってみると、あそこで半分位死んでしまった。当時の建物を見ても悲惨なものだよ。そういう立場においての精神がアメリカの建国精神になるとは誰も思いません。そういう意味で、我々はあまりにも可能性が広いね。そう考えてみた場合に、あんた達、自分が新しい開拓の先祖になるという、そういう思いでやるんだよ。 皆んな何か希望を持って、先生が何かいいことやってくれるんじゃないかと思っていても、そんな事はありません。それはアメリカに来た者は仕方ない。旦那さんがいながらも、こういうことをすることによって、アメリカの未来に非常な影響を及ぼすことができるんだね。こういう辛い思いを忍びながらやった歴史の事実は材料としてちゃんと残る。 あんた達の日記とか、将来宝物になるよ。月を見て泣いたとか、川を眺めて泣いたとかね。それからアメリカの兄弟の理解できない反発の言葉を聞いて泣いたとかそれが将来のアメリカにおいて万民を泣かせることになる。 そうみた場合、あんた達五〇名位苦労させて、目玉だけ残るようにね。そういう苦労させてもかわいそうじゃないというんだね。スリーセブンの相対者を日本に残して、葬式をするようになったとして、アメリカに届くようにワンワン泣く様な場合にはそれが歴史を引きつけるんだよ。霊界では、あんたが死んだ日を記念するだろう。 そう見た場合、それはかわいそうではない。先生はそう思うよ。永遠の世界に向かって一生懸命やっているんじゃないの。 この三年間、何とかして日本から来た女の子達を、スカートもはかないで皆ボロを着て働かせたら、もうアメリカの歴史はすぐ動くよ。 今度州に帰ったら休まずにね。 整理、総蕩減して、目玉が飛び出すまで働くんだよ。黒い髪の毛が真っ白になるまで何年位やったか。何十年もやったような思いをする様にね。 先生は考えている アメリカをみた場合、君達がいるから安心できる、そういう心情的なぐさめの防波堤として、そういう使命を果たし得られるの? 何か決意せよ。手に傷をつけて、これが治るまで決意する。今度帰ればそうやるんだよ。我々の基台を作るために一生懸命三ヵ月間働いてニューヨークに集合する。 正月に対して希望を持って、幼いながら反対する者に対して十字架につけられながら祈っていた。先生になぐられながら、死の立場に行くとも、喜んで祈ってね。万民が自分の後についてくるよう祈って死んでいくそういう覚悟があればひっくり返るよ。 旦那さんに会いたいし、子供に乳を飲ませたいし、女の子は甘いことを考えている。三〇越えた者手をあげて。(ほとんど手をあげる) これは随分そんをしたね。先生はしまった事をしたね。旦那さんと結んだ場合には、子供を二三人持っただろうね。そのかわり先生には責任があるよね。あんた達、良くやった場合には先生は考えるよ。祝福家庭を各州に配置して、先生が行った場合には、あんたの家に泊まるんだよ。背中が丸くなって、おばあさんになった場合には、先生のこと話しながらもね、色々と語りあうね。その時、先生が何か見上げて思った場合には、それは一家の宝物として子孫代々ね。年が三〇越えても、人間の一生ははかないものだよ。いつ死ぬかわからない。明日死ぬかもわからないのに、そう考えればすぐ日本に飛んでいきたい様な思いをするだろうね。 ハツラツとして しかし、どうせやり出した事だからね。形をつけて帰らなければならない。三年間良くやればね。先生が内心憂いているのは、本当は三年でも難しい。難しい限界を越えているんだよ。しかしやらなくちゃ。力をつけてやれば何かの道が再び生まれてくるよ。 今、わからない者は安心してグーグー寝たりね。しかし、先生はそうはいきませんよ。一度目を開けた場合には、明日のこと、来年のこと、何年間の世界情勢を見た場合、誰が責任持つや。神様が責任持つには地上の基台が出来なければ何事もできない。既成教会は反対するし、統一教会の現実の基盤は手でつまむ様な基台だ。これではアメリカとか世界を料理するには追いつかないことになる。 先生は死んでまた生まれてくるような立場じゃない。何年かのうちに地上天国の典型的模型を何ヵ国かを中心として果たしていかなければとんでもないことになるというんだね。そうかんたんじゃないよ。わかりましたね。(ハイ) 今度先生が再び帰ってきて、皆を集める時には、日本にハツラツという言葉があるだろう。そういうハツラツとした態度でもって実績を持って先生を迎えてもらいたい。君たちやるんだよ。(ハイ)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.31
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「神と神の国」1975年8月11日テリータウン 世界が求める中心人物 世界中で、全ての世界は、中心人物を捜し求めております。私達は、その中心人物は不変で、永遠であれかしと願っています。そればかりではなく、中心人物は正しく、善であるべきだと思っています。 しかし、人間社会において、そのような中心人物を見い出すことはできませんし、私達が、そのような一人の中心人物をつくりだすということは不可能です。また私達は、中心人物は、私達が見習い、従っていくことができるような人間でなければならないことを知っています。しかし、私達は、そのような人物をつくりだすことができないのです。それでは、私達はどこからそのような人がくるのを待ったら良いのでしょうか。私達は、どんな人間でもそのような立場に(正しく、善で、不変で永遠なる)立つことができないことを知っています。私達はそのような人物を待たなくてはなりません。そのような人物は、私達の理想とすべき人物であり、目標とすべき人物です。私達の前に、そのようなゴールを待たなければ、私達は、神がたてられたゴールに向って、私達の道を進み行くことはできないのです。 神への自覚から 私達、人間は、心と体をもっております。人間の中に、そのように完全なものになることができる性質があるかどうか、自分自身を研究することによってみてみましょう。 心をみてみましょう。人々の心に対する見方でさえ、互いに異っているのです。心を表面的にみると、常に移り変わって、人間の心を支配する、何らかの中心的力も存在していないようにみえます。私達は心がどのようなものであるかを、真に知っているでしょうか。心は、何かより良いこと、より高い価値あることがあると、それに向っていこうとします。私達の心が、このように、より高い価値あるものを捜し求めている時、一方私達の肉的部分は、常に、心がそのような価値あるものに向かっていこうとするのを止めさせようとするとのです。 人間社会において、私達はどこに真の正義や幸福を見い出すことができるでしょうか。私達の心と体が、違った方向に行く限り、私達の心が、より価値あるものをめざしていこうとする、そのゴールに到達することはできません。私達が、その心と体を全くひとつにさせた時、私達は、その絶対的な「存在者」に近づき、神に私達自身が似た者となるのです。 家庭という立場で考えてみましょう。あなた方が、全家族を一致させ、調和させることができた時、その家庭は、幸福な家庭と呼ぶことができるでしょう。そして、家庭、氏族、民族、国家、世界と拡大して、私達が中心的役割を演じて、全てを一致させることができた時にのみ、完全な幸福を達成できるという結論をみいだすことができるでしょう。 移ろいいったり、変化することのない人間観、人生観がなければなりません。それは、心と体が一つにならない限り、そのような基準を見い出すことは、夢にもおよびません。そして私達は、心がより主体的な立場をとることにより、心と体の統一がなされるということを知っています。しかし、私達は、大抵、心が信じられません。そればかりでなく、私達は、心がどのようなものであるかについても知りません。無知がある限り、私達は真に何ものも信頼することができません。そして、信仰や信頼がないところでは、私達は、はっきりとした目標を見いだすことができません。 人間の心が何であるかは、究極的な疑問です。それはどこから出発しているのでしょうか。私達自身からでしょうか、あるいは他のどこからかでしょうか。もし、それはあなた自身の内から出発しているとしたら、あなたは、それを操作できなければなりません。しかし、あなたが自分の心を操作できないということを見い出した時、あなたはそれが他のところから出発していることを悟らなければなりません。そして、それは人間を越えた次元のものであります。より高い次元のそのものが、私達の心を操作し、そうして、心を通して体を操作していることがわかってくるにつれて、私達は、遂にゴールを見つけ、私達の方向を見い出すことができます。 自己の高揚 それでは、どのようにして私達は、そのゴールに達することができるでしょうか。人間社会においては、人類の堕落の故に、宗教を通してのみ私達は、そのようなゴールを見い出し、最終的あるいは究極的な実存体と親しくなれるのです。もし、あなたが確かちそのような何ものかを見い出したとすれば、あなたのうちに働いている肉的五感とは別な五感があることを感じるに違いありませんん。そうして、それは、個人的な経験となってゆくのです。このような感覚はあなたが肉的五感をつかって感びじ、見、行動するようより以上に強いものであり、それは自分自身で感じなければならないものなのです。 以前、あなた達は美味しい食物を食べたり、すばらしい絵をみたり、音楽などを聞いたりしたならば、それより以下のものを食べたり、見たり、聞いたりはしたくないものです。人間の良心においても同じことが言えます。あなた達は、いつものレベルよりも高い次元へと向かって、求めていこうとするでしょう。あなたが、今喜んでいるより少しでも高い目標を、獲得あるいは達成したら、求次の瞬間には、さらに高いレベルの目標を、たてたいと思うようになるでしょう。人間の良心においても同じことが言えます。あなた達は、いつも自分のレベルよりも高い次元へと向かって、求めていこうとするでしょう。あなたが、今喜んでいるより少しでも高い目標を、獲得あるいは達成したら、次の瞬間には、さらに高いレベルの目標を、たてたいと思うようになるでしょう。 すべての人間は、例外なくそのゴールに到着しようと努力します。それで、そのゴールに向い、もがき続けているうちに、霊的な面に注目をするようになります。その名前は、何であっても構わないのですが、その存在を神と呼ぶ時、私達の心は、いつもその存在と何らかの関係を持とうとします。しかし、私達の心のレベルと、究極的実体のレベルとは、はっきりとした隔たりがあることがわかります。私達の心と神との間には、どれだけ深く、広く、長い距離があることでしょうか。 私達は、そのギャップを埋める努力を、あるいは心を神に近づける努力をしなければなりません。つまり自分自身を教育し、訓練し、修練しなければなりません。全てのことは、心から出発しなければなりません。しかし私達は、自分達の心がどのようなものであるかを知っえいません。そして私達は、自分自身の心が信じられません。常に、それは移り変わるのです。自分自身の心が、絶対でないことがわかるのです。時には、移り変わり、変化するということは、より高い次元のゴールに向って進むことでありますが、しかし、私達は他の道にそれることなく、自分自身をそのゴールに向けていくよう調整しなければなりません。もし私達は、自分が、自己の良心基準より下がろうとするのを発見した時、自分自身を人間と呼ぶことさえできません。私達は、自分自身をそのゴールに向う道に立たせ、自分を高めるように努力しなければなりません。 私達が、良心以下の生活をするようになると、人間の社会的称序がなくなってきます。それで、人類が過去築いてきた全ての基準を滅ぼしてしまうことになります。そこには、何の価値も基準もなくなり、私達は動物の基準以下になります。そのような場合、全ての人類は、危険と絶望と暗闇の中におちこんでいくでしょう。 神の国建設は神に似た一人から 神の国の基準がなければなりません。実際に、神の国はどこで見い出せるでしょうか。私達の内で、心と体の二つのうち、どちらがその基準を定めたり、基準を見い出したりするのでしょうか。私達は既に、それが肉体からではなく、心から出発できるという結論に到達しました。神は決して変わらず、永遠なる究極的な実体であり、神の国もそのような性質のものであります。私達の体は、それに適合できるでしょうか。それは不変で永遠なるものではありません。 私達の心は、そのゴールを得ようという傾向を持っていますが、今のところその基準よりはるかに下です。しかし、神おひとりで、神の国を建てることができるでしょうか。できません。神は神と似た、あるいは神と一つになった人と一緒に、その仕事を成し遂げようとされます。神の国の建設は、そのような一人の人間から出発しなければなりませんが、このような人間を、どこで捜し出せるでしょうか。その人は、ただ道徳的な価値を持った人間であるだけでしょうか。道徳的価値を言う時、それは、心に根ざしていることを意味します。私達は、そのような人を道徳的な人々の間だけでなく、宗教的な人々の間だけでなく、宗教的な人々の間に捜さねばなりません。 もっとわかりやすく言うならば、宗教的な人々はそのゴールを個人的な事柄にでなく、より広く、家庭や国家や世界的なレベルに置くので、私達はそのような人を、宗教的な人々の中に見い出すことができるのです。そして、その人が個人的基準でなすことが、人類全体に対する、神の目標と隔合していなければなりません。 自分のために幸福になりたいと思う人々と、他の人のために犠牲になりたいと思う人々と、どちらがより良いですか。中心人物としての役割を果すことができるためには、私達は、他の人々とために働き、その目標のために、自己を犠牲にさえすることができる自分自身にならなければなりません。より良き中心人物は、全人類の幸福のために、自己を犠牲にできる人々の間に見い出せるでしょう。 神と人間は親子 どの宗教の中に、そのような人々を捜し出すことができるでしょうか。その宗教は世界的な基準のものでなければなりません。この世界には、四大宗教があることを知っています。キリスト教、仏教、そして儒教です。これら四つの宗教のどれが、神と人間との関係が最も近いでしょうか。あなたは、神と人間との関係であるというキリスト教だと答えるでしょう。 親と子の関係というその中には、愛と生命を中心とした永遠の関係があるのです。つまり私達の生命と関連しており、神の生命に基づいているため、その関係から引き離して自分自身を考えることができません。私達の生命の背後に、神の意志と愛があるためです。 東洋哲学では「夫婦は、互いに別れることができても、親から離れることができない」と考えます。親ととの関係には、私達の先祖からその子孫としての私達に至るまで、血統を通して流れる生命の流れがあります。もし、それを否定するならば、それは自分自身の生命を否定することになります。しかし、夫と妻との間の愛は、生命関係から生まれてきません。もちろん夫と妻が別れないで、永遠に一緒にいくことは好ましいことです。もし、この二つの関係のうち一方を、どうしても切り離さざるを得ないとすると、あなたはどうしますか。あなたは、どんなに努力しても、親との関係を切り離すことはできないでしょう。それは、絶対に切り離せないものです。子供が親を認めないことがあったとしても、親の愛は決して変わることがありません。 そうであればこそ、放蕩息子や娘でも、親の懐に帰ってくることができるのです。あなたが帰る時、親が決してあなたを拒絶しないことを確信しています。親は両腕を広げて、あなたを待っていたことを知るでしょう。 しかし、夫と妻との間に不一致と分裂があり、彼等の関係がたち切られたならば、彼らは互いに友好的ではなく、敵対関係になるでしょう。今まで愛していた人を見るのも嫌になるでしょう。そうしてそれは、お互いにそう感じていることでしょう。しかし子供と親おの間では、そうではありません。子供達はそう感じるかも知れませんが、しかし親の場合は決してそうではありません。 しかし、欧米では、あなた達は子供と両親との縦的な関係よりも、夫と妻との横的関係を、重要視しているように感じられます。これが、この社会で不一致や、分裂、不調和が一般化している理由です。 あなたが親を愛することができない限り、兄弟姉妹を愛することができませんし、また、もしあなたが兄弟姉妹を愛することができなければ、真の意味で、あなたの配偶者を愛することができないでしょう。また、親を愛すると同じように、兄弟姉妹を愛さねばなりませんし、同じように配偶者を愛さねばなりません。 そうしてのみ、社会の基本的単位である理想の家庭を創造し、築き上げることができます。もし家庭に理想を見い出せなければ、理想の社会や国家を見い出すことは、決してできません。あなたの家庭が全人類社会の根本単位なのですから、そのような家庭をつくりだすことができずして、どうして理想的な社会をつくり出すことができるでしょうか。 神の国建設のリーダーはキリスト教から 話を本筋に戻りましょう。キリスト教では、人間と神との関係が、翁と子という愛と生命の関係にあると語っています。キリスト教において、より強調される核心的事項は、生命と愛と犠牲であります。まさに、それがキリスト教たるものの核心です。 神様とイエス様は、私達に何をするようにと願っているのでしょうか。イエス様が、神様に対して息子の立場にあったとしたならば、イエス様は、神により教育を受けたことを私達は容易に想像することができます。イエス様は、神様が愛と生命の根源、または主体であることを知るようになりました。イエス様は、神様がイエス様のために存在し、イエス様のために、御自身を、犠牲にしておられることを知りました。 どのようなイデオロギーで、神様は他の人々を教育することでしょうか。イエス様はどのように他の人を教育することでしょうか。イエス様は、地上の全人類は、神様のもとに兄弟姉妹であることを知っていました。彼は人々を生み出し、人々を教育して、彼らが神を見い出し、神を愛し、神を彼らの生命、彼らの根源、人類のために、御自身を犠牲にしておられるお方として認められるようにと願っておられます。イエス様は、努力をして人々を教育しようと努め、人々は、彼の教育を受け入れず、彼を拒否した時、彼は御自身の生命のつきはてるまで、努力し続け、御自身の生命を犠牲にまでしたのです。 イエス様は、御自分が生命と愛と道の象徴であると言われました。人々がイエス様を退けた時、それは十字架の道となりました。ですから、この堕落した世界においては、真の愛と生命があるところには、常に他人の犠牲が伴いがちであります。 イエス様の人類に対する教えの中核は、人々を自分の親同様に愛し、他人を兄弟姉妹同様に愛すということです。そうした時にのみ、神の愛に基づいた真の家庭を建設することができます。私は、再び三種類の愛を学ばねばならないことを強調します。つまり親に対する愛、兄弟姉妹の愛、それから夫婦の愛です。これらの愛を一緒にして、私達は真の愛を味わうことができます。そうして良き家庭や、より良い社会を造ることができます。 キリスト教のみが、そのような愛の関係を教えている宗教であるため、神様が全人類を導くことができる人を捜す時、神様は、その人をキリスト教において見い出さねばならないのです。それが、キリスト教が宗教の中の宗教であり、全ての中で最も重要な宗教であるという理由です。 私達は、宗教界においてリーダーシップ、それも真のリーダーシップを求めなければなりません。宗教界では、キリスト教は全ての宗教の核心です。キリスト教が全宗教の中核であるというのは、キリスト教では、神との愛と生命の関係と、自己を他人のために犠牲にする道を教えているからです。だから、私は、キリスト教を選んだのです。それは、私の両親が私の生まれる以前からクリスチャンだったからではありません。それは、キリスト教の中に、そのような中心的な教えが存在していることを発見したからです。それ故、キリスト教を通してのみ、全世界を救済することができるという結論をだしたのです。 神の国は統一と調和と愛から では、神の国とはどのようなものでなければならないでしょうか。もし、神は神のような、あるいは神と似た個人を見い出せなかったら、神の家庭、次に神の氏族、民族、社会、世界を建てることはできません。だから問題の中心は神と神に似た個人であり、その人を中心とした家庭です。 神が、そのような基準の国家を願っている時に、例え、その国家が神を崇拝したとしても、それだけで、他の国々を愛する努力をしなければ、それを神は喜びとしません。神はその国家を喜びません。その国が他の国々を愛し、世界の全人類を教育することにより、その国を通して、またその国の中心的指導者を通して、神の国を建設できるようになることを願っておられるのです。この国家は、従って、国境を越えねばなりません。 このような観点からみてみると、アメリカはそのために用意されてきた土地であります。何故なら、アメリカという国は、あやゆる国の人々によりつくられたからです。それで、もし神のみ旨の中にあって、神の国を建設しようとする時、ここが最良の場所をなるでしょう。ここにおいてのみ、神の理想が実現されるでしょう。 神はアメリカを祝福されました。何故なら、ここには全世界を最終的な一致と調和と愛に導く可能性があるからです。キリスト教思想なくしては、分裂があったでしょうし、ここにも、また第二のヨーロッパを造り出していたかも知れません。旧世界と同じように不調和であったかも知れません。あなた達の先祖が、この大陸に来る前に、ヨーロッパには、不調和、分裂とクリスチャンに対する迫害がありました。それが、皆さんの先祖達がこの大陸に定着するために、自分達の国々から逃げててきた理由です。そして、彼らの生活様式は、神を自由に礼拝することでした。 世界救済は自己犠牲から もし、この新世界、アメリカにおいても、旧世界においてと同様、新キリスト教世界の腐敗があるとしたならば、それは第二の破滅または危機を意味することになるでしょう。もし、キリスト教世界さえをが、破滅と腐敗の最中にあるとするならば、ここに人間と神との間の生命関係と、愛の関係を貴重に考え、人類の救済のために、いつでも自己を犠牲にする用意のある人々の群が芽ばえてきます。それこそが、神がその器として用いることができる唯一の宗教であります。 今は神の指導力のものに、新しい群がアメリカや世界を変えるために、何とかしなければ、世界が良い方向に変わり、救われる希望がありません。アメリカでは、今強い思想をもったより強いクリスチャンの群が必要です。何故なら他のあらゆる道は失敗してしまったからです。もし、ひょっとして、黒人の人々が他の人々よりも、強い指導力をもって現われたとしたら、あなた達はその指導者に従っていくことができなければなりません。人種によらず、指導力には従っていかねばなりません。また共産主義世界やサタン的な世界では一般に、彼らの目的は、宗教を滅亡させることにあるという現実を悟らねばなりません。サタン的勢力が滅ぼそうとしている目標は、キリスト教であり、キリスト教内における彼らの最終的な目標は、神の愛の核心である家庭を滅ぼすことです。 キリスト教世界では、心や良心の面をより強調してまいりました。しかし、私達の心や良心を通して神が働き、私達に生命と愛の関係を与え、感動させ、私達に人類のために犠牲になるように鼓舞することがなければ集団でも神のみ旨を行うことができません。 従って、私達の教会で神の心情について語ることは、きわめて大切なことなのです。神の心情を理解し、感じ、体験する時、神との間に、生命と愛の関係を感じるということは自然であり、これは最もすばらしいことなのです。私達は、ここでそれを学んでおります。そして私達が、全人類の最後の一人にまで、手を差し伸べることを実現させる時、必ずや世界を救済できるのです。 神はこのようつ宗教を捜し求てまいりました。というのは、この教会において神を親として、人類の父なる神のもとに兄弟姉妹として愛さねばならないことを教えているからです。夫と妻の間の愛は、その次に強調されています。これらすべての愛を総合して、全人類を愛することになるでしょう。そして、それこそが、私達のグループを最もすばらしいものにしているものなのです。私達のグループ以外には、このような宗教はどこにも見い出されません。神様が、地上に神の国を築くために信頼できる群は、私達のグループ以外にありません。 神の国は私の手で それでは神の国は、どこから生まれるのでしょうか。それは神の思想から生まれるのです。私達は、良心と心を通してその理想を学び、実行に移そうと努力している群です。世界には、数多くの良心的な人々がおります。しかしながら、せいぜい家庭的な次元か、そうでなければ自分の国家の幸福を、望んでいるのです。しかし、私達の教会では、人類全体が幸福になった後に、自分達は幸福になりたいと思っているのです。 人類とは、あらゆる民族、あらゆる人種を意味しております。全ての人々は神の子女、私達の兄弟姉妹そして神を幸福にした後に、はじめて私達は幸福になることができるのです。これこそ最良の思想です。 神はここから、その理想的な世界が建てられるようにと、この国を準備されたのです。神は、この国の腐敗ぶりを建てられるようにと、この国の準備されたのです。神はこの国の腐敗ぶりをご覧になって、悲しんでおられます。しかしまたこの国を見捨ててはおりません。だからこそ私もアメリカにやってきて、ここで仕事を始めたのです。あなた達が今まで以上に強くなり、この国を滅亡から守り、最善を尽くしてより良き方向に導びき、アメリカ国民の心霊を復興させ、彼らが永遠の目標に向かっていくように導いて下さるように、私は切に願っています。 私達はこの国においてキリスト教の崩壊を止めなければなりません。家庭が崩壊するのを防止しなければなりません。個人個人がヒッピー族のように頽廃し、チリヂリになっていくのを防止しなければなりません。もし私達がそれをなすことができなければ、この国は地獄に行くことでしょう。 私達が今していることは、人格形成です。人格形成とは、個性の完成および家庭、氏族、国家、世界、の完成を意味します。私達は、それを成す唯一の団体です。そして、神様は、私達を通してのみ、愛と統一と生命と調和の世界を建設でき、そして、それこそが地上に神の国なのです。 何よりもまず、皆さんは心の働きを神の要求通りに、一致して働くようにできなければなりません。そして、神に対する愛の感覚は、兄弟姉妹間や夫婦間のものより以上に強いものでなければなりません。それをすることによって、私達は完全な個性をつくりあげ、それを基点として、範囲を拡大していって、地上の天国を建設できるのです。 全ては、私達から出発するのです。皆さんは自信を持たねばなりません。神の国は、私達自信の手で築かれるのです。神の国は、皆さんの心、皆さん自身、そして家庭、氏族、民族、国家、世界にあるのです。それは必ずやって来るのですでしょう。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.30
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「私自身」1975年7月13日ニューヨーク・ベルベディア 歴史の結実体としての「私」 今の私たち個々人の存在というものは、私たちの二十年、三十年の過去の結果だけというものではありません。人類始祖アダム、エバから、ずーっとつながっているのです。川で例えるならば、急流とか、広々とした川のゆるやかな、とうとうとした流れとか、滝とか、カーブとか様々の状態、様相があります。そのような流れの一場面に当たるのが、今の私たち一人一人の存在であるということができるでしょう。 君たちの先祖には、いい先祖、あるいは悪い先祖があるでしょう。とんでもない結婚とかいう因縁で、ゆるやかに、一方向に流れていた川の流れが、まあ強い奥さんをもらうことによって、横になってしまうということもある。またある時には、とんでもない因縁で、渦巻いてしまうという現象が起こる時もあるでしょう。そういうふうに考えてみた場合には、君たちは、その流れの一つの場面に現れた、一つの現象として考えることもできるでしょう。 個性真理体としての「私」 そこで、私たちの先祖をずーっと、眺めてみましょう。ここには、今、白色人種、あるいはニグロとか、黄色人種とかみんな集っていますね。今の時点から見た場合、あるいは白色人種であり、ニグロであり、あるいは黄色人種です。三色人種が集っていますが、ずーっとさかのぼってみれば、みんな一つの先祖から生まれているのです。これは、一つの先祖からずーっと分かれてきた、その結果なのです。人類は一つの先祖から歴史を通して分かれに分かれてきましたが、それが続いた場合には、一つになるのはいつなのでしょうか? それが問題です。 分かれに分かれてきたその結果を考えて見る場合、そこには、いろいろな歴史過程があったのです。戦争とか、あるいは文化の交流とか、そういう、いろいろな歴史的な事件があったのです。そのような中で、特に宗教は、分裂したものを一つにするようなことをなしてきたのです。宗教は歴史的に偉大なことをなしてきたと思います。いくら人種が違っても、あるいは環境の、生活の背後関係、あるいは風俗が違っても、宗教的儀式、あるいは目的が一つであるゆえに、それを克服することを、難なくできたということを知っているのです。宗教の中で、特にキリスト教を中心として、各宗派が数百派に分かれに分かれています。その各宗派は、神の国の建設を目的として進んできました。 ところがその背後関係は、いろいろと複雑な内容を抱いてきたのです。そういう中で、一つの統一という名前でもって、各キリスト教、宗派が一つになりましょう。あるいは人種的、白色人種とか、黄色人種あるいはニグロとか、そういう人種の差別圏を乗り越えて、一つになりましょう、というような運動を打ち立て得るのが統一教会であります。そういう立場から見た場合に、いったい、統一教会は、この世界の入り混った流れの中で、入り混った血統的背後関係、因縁を、ずーっと、総合的に考えて見た場合に、どういうようなことをなして、どういう方向に行ったものが統一教会か、ということ、それが問題なのです。 川を見てみましょう。川が大きければ、大きいほど、その流れが段々ゆるやかになり、海に入っていくのを、私たちは知っています。結局、大きければ、大きいほど、その流れが急激であったなら、いろいろな副作用が起こりやすいのです。その流れは、下流を通って海の中に入るのです。海を見てみましょう。海自体を見ても、流れているのです。大概の人は、海に入れば水はみんな一つになって、静かに止まってしまうと思っています。しかし川の流れよりもっと急激な流れをなしているのです。そのことを一般の人は、すぐには感じないんですね。 私たち、地上に住んでいる自分という存在を考えてみた場合、流れが海に入れば、それでおしまいというのが、一般の人間の考えであります。君たちの生涯を考えてみた場合にも、一つの川と例えた場合、川の流れが、ある海に着いた場合、海でストップするのではなく、海からまた新しい方向の流れに従うといように、私たちの肉身生活ばかりでなく、霊界があるということを、私たちは分かりました。 そういうふうに考えてみた場合、私たち個人というものは、あるいは天から落ちた一粒の水滴であると例えることができます。それが、相合わせて、だんだん大きくなって川になって、あるいは国になって、あるいは世界の流れとなって、大洋に向かっていくのです。このように、人間の一生は航路であると思う時、自分という存在が不思議なものである。川の流れが、どの沃地から流れてきたかということによって、水のいろいろな内的要素が変わってくる。そのいろいろな要素が入り混って、一つの川になって、そういう川が大洋になる。そしてたくさんの川が入り混ってその流れになる。 そのように考えてみた場合、いったい自分という存在は、大洋とか、大きな川から比べてみた場合、何でもないんだけれども、しかし、その何でもないような自分というものは、大洋を無視しても、その川の流れを無視しても、自分なりの個性をもちたいのが、私たち人間なのです。私たち人間は、自分という存在を正してみた場合、自分があるものに吸収されるよりは、あるものを吸収したい。あるものの比較の中心になりたい、比較されるそういう存在でなくして、比較の中心体となりたいというのが人間の考えであります。 純粋な人間とは 君たちは、ああ、あの人はいい、あの人は悪いという。あるいはこの場所はいいとか、あの場所は悪いとか、あの国がいいとか、あの国が悪いと判断するのは、結局、神を中心として判断するのではないのです。その国だったら、その国を中心として、あるいは友達を判断する時、自分を中心として、大体は判断することが多いというのです。 私たち個人を見た場合、我に国家があります。国家があり、そして二十四時間活動しておりますが、それは何のために活動しているかというと、自分を守るためです。結局、自分のためにすべてが動いているんですね。考えるのも、自分から考えを始めるんです。自分からね。そうした場合には、自分を主張したい、自分を中心的に立たせたい。その自分たる者は、いったい何者か。どういうものか、私たちははっきり、再びこれを反省し、究明しなければならない。 水で例えた場合、水は塩からい水が本当の水なの? 割合から考えたら、海は地球の四分の三になるでしょう。地球上の水の大部分が塩水じゃないの。君たちはどうなの? 塩からい水なの、純粋な水なの? それを考えてみた場合、純粋な水というのが問題である。川が流れている。その川から水をくんできてみた場合、それは純粋な水なの? 純粋なように見えるけれども、純粋な水ではありません。川からコップ一杯の水をくんできて、分析してみた場合、みんな違う。場所によってみんな違う。例えてみれば、ベリータウンのコップの水と、テリータウンのコップの水は同じではない。素人から見たら、それはベリータウンの水も、テリータウンの水も同じじゃないかと思うでしょう。しかし専門的に分析し、比較してみた場合、これはまるっきり違う。 そういうふうに考えてみた時に、私たち人間は、川の流れとか、海の流れの現象の一部分、一分子であるといえます。結局、コップにくんできた一杯の水と思った場合、そのコップが数千、数万みんな違うと同じように、私たち人間の個性もみんな違っている。そのように考えたなら、いったい自分というものは、どんなものやというなかなか難かしい問題に返るのであります。 そうして、あなた方に、自分が純粋な水と同じような人間として、自分は純粋な者だと主張し得る者があるかと聞いてみた場合、まあ今は黙っているであろう。いったい自分は正しい者であるか、純粋な者であるかと自分から考えてみた場合、普通から見ても、何も自分は間違っていない、自分は正しい者だと、このように考える。自分は間違いない、純粋な者だという人を、今から問題にしなければなりません。 いったい、純粋な者とは何であるか。何を中心としてこれを決めるか。それは、すべてのものは、それ以上変えるということができないという限界をもっているんだね。君たちも知っているように、水も純粋な水は□で、それは、いくらやってもそれしかなりません。いくらやってもね。春だからと、夏だからと、秋だからと、冬だからと違うんではありません。だから、それ以上分けることもできなければ、圧力をかけても、どんなにしても変えることができない。そういう基準を中心として、純粋ということを話してみたいと思います。 真のもの、真理なるものというのは、その基準において、初めて生まれてくるのであります。そうでなければ、それはある基準の比較の中心点になることはできません。君たちはそうした場合、水は□だからすぐ分かるが、人間は何で分かるか。いったい何じゃあ。何が純粋なものだー。これが問題だ。純粋な人間を探りだす。その原則は、何を中心として決めていかねばならないか。変わらないものでなければならない、という結論が出るのです。それは、私たち人間の場合はいったい何か。 例えば、金といえば、大変なものだ。みんな好みます。アメリカの歴史を見た場合、西部に向かって、金の鉱山に向かってみんな大移動をなしたように、金はみんな好みます。君たちも金を好むの? みんな好むでしょう。なぜ好むのか考えてみた場合、それには変わらないものがある。固さはもろいんだね。だが色において何千年、何万年たっても変わらない。色において絶対不変である。だから金は、そこにおいて価値がある。金の特性というのは、変わらない色をもっているということです。それで、金は私たちの宝物として扱われるのです。 それから君たちは、ダイヤモンドを好むね。ダイヤモンドね。特に女性はね。いったいダイヤモンドは、なぜ人間たちのあこがれの対象となっているのか。それは固さにおいて、誰もこれは侵害したり、侵入したりすることができない。侵すことができない。まあ、普通の岩も、鉄とかも風化作用によって変っていくんだけれども、ダイヤモンドは、そういう風化作用を受けない。ダイヤモンドが貴いというのは、宝としてあずかるのは、その固さにおいてである。 それから君たちは、真珠を好むんだね。真珠ね。その真珠は何で宝として、人間に好まれるのか。それは柔和な、何か、みんなに好かれるような柔和な色をもっている。そのように見た場合、その色は真珠であればこそ、何年たっても変わらない。そういうふうに見た場合、貴いとか、価値あるとか、貴重なものであればあるほど、第一の条件とすべきことは、変わらないということです。それは、誰かが外部から、どんなに力を加えても懐れない。変えることができない。侵害を受けないのです。 今説明したものは、私たちの生活の外的な環境のものです。また前にも、純粋な水は変わらない基準をもったものであるということを説明しましたが、これらと同じように私たち人間も、価値あるもの、あるいは正しい、あるいは絶対的な人間の基準を、変わらないということの中に満たすことができます。 その出発点は神から そのように考えてみた場合、君たちはどういう存在であるや。変わるものや、変わらない者や? 変わる自分であるということが今、分かりました。変わる自分を中心として、変わる自分を主体として考えることが、正しいことか、悪いことか。君たちは変わる者だ。じゃアメリカはどうか。アメリカ自体はどうか。アメリカは変わるものか、否か? あるいは人類自体は、あるいは人類の歴史はどうか。世界はどうか。 理想とか、永遠とかそういう分野は、どこに生まれてくるか。このアメリカの中から生まれてくるの? このアメリカの中に希望があるの? 君たちの中から、この目から、あるいは五官から、そういう国が生まれてくると思うの。君たちの少年時代から、青年時代からそして今のように統一教会の素晴らしいメンバーになった、このような過去、あるいは現在を批判検討し、あるいは未来はどうなるべきかと分析してみたらよい結果が出てくるでしょう。 では、分析してみて、変わるものはみんな取り除いて、変わらないものを残してみよう。まあ、そういうふうに考えてみた場合、私たち人間は、肉心と良心二つがあるというんだね。その二つの部分を、まず私たちが観察してみた場合、その中でも、変わらないもののほうに属するものは、どちらであるかと考えてみた場合、肉心よりも良心である。より内的問題に関するほうである。変わるものと、変わらないものをそういう内外的立場から見た場合、変わらないものは、より奥底にあるのです。内的な、内面的なということは、みなそういう意味なのです。 真なる人間の価値、正しい人間の価値、本来の歴史的中心になるべき人間、あるいは宇宙完成の中心的立場に立つべき人間が、どこから始まるのでしょう。外的に表れた、歴史の表面から、それは生まれてくるはずがありません。そうしたら、歴史を戻って、その基準はいったいどこか、探してみましょう。そう考えると、私たち人間の理想的存在圏が、未来に表れてくると考えるのは間違っている。 だから、本当に純粋な人間の本性、あるいは本来の人間を探していくには、現在の立場から前に進むということではなくて、逆に現在の立場からさかのぼっていくことです。それを認めるの? それで、ここで結論的にいうならば、人間が理想的な世界へ立ち帰るには、まずもって本来の基本的立場に帰れということです。本来の純粋な人間の価値なる存在を探してから、未来の世界にいくことを誰でも歓迎します。それを探さないで、未来にいくら大声で叫んだとしても、誰も歓迎しません。それで結論としては、理想的人間に向かって進むよりは、神に帰れという結論がここに下されるのであります。だから神に帰れ! というような、神に帰らなければ、人間は正しいことを生み出すことができない、という結論になるのであります。 いくら未来に向かって人類が進んでいったって、そこにおいては、純粋なる本来の価値ある人間を生み出すことはできません。だから世の中で、こういう観点から見た場合に、歴史過程において、この世の中において、神に帰れ、現在を否定して、回れ右せいというような信仰を訴え、そういうような内容で主張したのが、いわゆる宗教です。歴史はこの一点を中心として、神に帰る努力をしたのです。 蕩減復帰の道を歩む「私」 そうすると、神に帰るために、どういう段階を通って帰るかということが問題になってきます。(黒板で説明)こういうふうに上ればいいか、こういいふうに行けばいいか。こういうふうに行くのは、これは不可能である。しかしこういうふうに行くのは可能である。だから、この方向が良いと。ある人はこちらからこう行く、こう上ってみた。しかしふさがってしまった。それでこちらから戻ってみて……。こういうことを歴史過程において、人類は数多く繰り返してきた。宗教あるいは宗教の開祖が(テープ接続のため中断) みんな利口だから、早く行く道を選ぶだろう。このように、あるいは宗教観から見た場合、あるいは個人的、あるいは氏族的宗教観、あるいは国家的宗教観、あるいは世界的宗教観があるとしても、根本基準から考えてみた場合、この基準を主張して出る宗教でなければ、我々本来行くべき道を探し出すことはできないというのであります。今までの宗教は漠然として、神に帰る、みんな神に帰っていると言っていますが、そうはいきません。だから神に帰るには、一番基準とすべきところはどこかというと、人間は間違っている、純粋な人間になっていないということです。間違っていないその基準は、人間自体が生活する以前に満たす以外にない。ここにおいて数多くある宗教世界において、我々統一教会ばかりが変わっているというその基準は何かというと、本来堕落しなかったアダム、エバの立場に帰れ、とそれを主張しているのであります。純粋な基準はここにありそうです。 アダム、エバの堕落しない前に帰れという主張は、これは最も歴史的な発見として重要な点を指摘している。アダム、エバは堕落の先祖であった。罪を犯しているから純粋な先祖ではない。だから堕落性を越えていこう。統一教会が、世界中の数多くの宗教界で、初めてこういうことを指摘して勝利したのです。黒板に書いておきますか? (はい)。 そもそも、純粋なる人間とはいったいどういう者か。変わらない者であるけれども、自分一人でいるのではなくして、神と共にあって変わらない者である。この基準が変わらない本来の人間である。そこまで帰ってきた。 さて、君たちは変わる者だ。今まで、もう、始終変わってきた。統一教会を信じて、自分が統一教会の思想に一致して、自分がもうこれ以上の真理がない、自分はもうこの基準において、すべてが変わっても、自分は変わることがないという基準が問題になってきました。どうです? 変わるの、変わらないの? ああ、統一教会よりも共産主義のほうがいいんじゃないの? ああ、どこどこの民主主義のほうが、いかなる宗教よりもいいんじゃないの? 他の宗教ほうが、統一教会よりもいいかもしれない、と行ったり、来たりするような。それ鑑定してみましたか? まず、統一教会が世界を救う、あるいは神のもとに帰るような、その基準を満たすには、統一教会の真理が漂う我は、絶対変わりません。それは個人的環境から、生涯的基準において、変わらない決意を完全になせるようになったならば、その中から、その基準から希望、あるいは純粋な人間、純粋なる人生の道を見いだせる可能性があるのであって、それが見いだせない場合は、それは絶対不可能です。 君たちは、先生は昨年も一生懸命、国のために尽くせと言ったのに、今年はもっと、世界のために尽くせと、もうだんだん大きくなるばかりだ、と思うでしょう。本来の価値ある人間に帰るのに、一昼夜かかって帰ったほうがいいか、それとも三カ月かかって帰ったほうがいいか。速さでいえばどれだけ速いか。考えてみたら、数千年の歴史をかけたものを、一日で通るというとどれだけ速い? どちらを選ぶの? もっと速いほうを選ぶだろう。それは君たちの願いです。押す力が強くなると、それはもっと速くなるんだね。空気は何もないんだけど、速く行ったら邪魔になります。どうなるの? 君たち知っている? 人工衛星なんかは、無重力圏から重力圏に入る場合、摩擦によって光る。だから速く行くには、邪魔が多い。では統一教会は速く行く教会なの、遅く行く教会なの? それで速いと、音がないのだね。それから光る。君たちは融けてしまうような思いがするでしょう。こんなこともやれるか。こんなこともあるか。もうおしまいじゃないかと。しかし、くぐり抜けていかなければ、とんでもないことになる。それをまずもって考えねばならない。先生は復帰は速く、復帰は速くと考える。 だから、こうなぐられた場合、痛いと感じない。なぐれ、一度でおしまいだ。一度なぐられた場合と、三度続けてなぐられた場合、一遍のスピードだよ。それは、最も理想的だよ。そういうことはあるんだよ。どうせ蕩減の道行くのだから、速く行く、速く行くんだよ。それは一番神様も願うことであるし、先生も願うんだよ。君たちも願うだろう。君たちは願わないの。神が願うことは、先生も願うんだ。だから、歴史の中でそういうふうに蕩減していく。これを統一教会では蕩減復帰という。 天国建設に責任をもとう こういう現象を横的に展開していくと、(黒板で説明)横的に統一教会を……。それで、今までこういう歴史を、ずーっと考えてみると、個人から、家庭、氏族、民族、国家、世界と発展してできてきた我々は、歴史の始めから、逆にこういう現象をつくっていく。逆にする。だから、今の時代が一番うるさい時だ。そういうことを我々は目標として、できれば、この基準をだんだん下げていこう。そうすると、天国が地上に来るんだね。この点が、これが天国だ。天国が地上に来る。完全に地上天国だ。 そうするにはどうする。一人が世界のすべての罪、多くの世界が犯した罪、あるいは一国が犯した罪、あるいは氏族が犯した罪、全家族が犯した罪、全個人が犯した罪、すべてを自分が責任をもつんだ。こういう人間が必要だ。そういう考え方をする? (はい)。天国を地上に引き下げてしまう。そうすると、この中の蕩減は、私だけで、みんな一人で、引き受けてしまう。 そういう自信を君たちもっているの? (はい)。全員イエス? (イエス)。そうだったら、いくら迫害があっても、ドンと行くんだね。どんなふうにくるか。ぶつかってくるか。あるいは飛んでくるか。どんなふうに迫害がきても、私はビクともしない。みんなそうなっているの。 君たち空手やる? 空手をやる時には、ブロックなんかをサァーッと割っちゃうでしょう。あれは精神力だ。何かが飛んできても、カァーッと割れてしまうんだ。「ああ、恐ろしい」と敵に後ろを向けて逃げたら駄目だ。先生がアメリカまで来るまでには、戦いだった。個人から反対する者、家庭から反対する者、国も反対した。みんな反対する。ここまでいった。またアメリカが反対しているんだね。アメリカのマスコミが全部総動員して、レバレンド・ムーンを攻撃しても、反対してもビクともしない。もしアメリカの国が反対しても、ビクともしない。いくら牢屋に入っても、ビクともしない。そういう決意をもってやってきた。そういう決意が、アメリカを救う。君たちが、そういう決意をもっていなければ、アメリカは滅びてしまう。君たちそういうふうになっているの? (はい)。ちょっと不利だったら逃げていくんじゃない? (いいえ)。 君たちはアメリカ人である。先生は韓国人である。アメリカ人はアメリカを守れ。先生よりも強くなれ。それは正しい教えである。私より強くなれ! 先生は強い者をつくるんだ。そうなったら、アメリカは統一教会を中心として、アメリカが優秀な先導国となるのだ。もし日本人がアメリカ人より、もっと強くなったら、日本人に支配されるよ。力の世界の基準がそういうふうになっているよ。 今、統一教会は、アメリカにおいては、救うには何でもないような、微々たる力です。でもだんだん時がたつに従って、いかなる団体、いかなる多くの人々にも、できないようなことをやるであろう。さあどうだ。君たちそれを信じるの? (はい)。信じるどころではない。死ななきゃならない。死ななきゃ。これを絵で説明しよう。(黒板で説明) 神の国よ下がれ、下がれ。アメリカも切ってしまえ。ここにおれない者は逃げてしまえ。共産革命で逃げてしまえ。君たちがそういう決意をもっていたら、共産党とかサタンなんか、みんな逃げてしまうよ。そういう決意を君たちもっているの? (はい)。そうしたら、この基準を中心として、こちらがなくなってしまう。この基準だね。このようになるんだね。この国がなくなってしまう。この基準を下げて、ここまできた場合、こうなるんだ。永遠に、地上にサタン世界がないんだね。ここは何だ? 地上天国なんだよ。地上天国は、こうしてできる。誰の力によって? すべての価値決定は神から 話を元に戻して、私という純粋な者をどこで探るか、という問題を結論づけなければならない。まずもって、この統一教会の真理が、唯一の真理であるというその自信をもたねばならない。それから、変わらない、天然、霊界も、地界も、あるいは歴史を通しても、永遠に変わらない真理である。誰も、国も変えることができなければ、世界も変えることができない。神様も変えることができない。先生自体もね。この真理によって、従っていく道であるというんだね。だから変わらない。過去、現在、未来において変わらないという真理であるとするならば、この真理は、人間本来が願う、理想的な価値をもっているに違いない。 この真理によって、一つになった人々が、国を越えて、世界を越えて一つになる。ここにおいてはみな一つだ。みな兄弟だ。そこには白人もなければ、ニグロもなく、黄色人もない。考えてみると、ニグロと言ったって、顔だけ違うんであって、みんな同じです。骨も同じだし、肉も同じだし、血も同じだし、心も同じです。顔が少しだけ違うだけなんです。それは気候的に、地域的に変わっているんであって。それは仕方がない。気候とね。環境によって違ってくるだけです。 例を挙げればね。松の木を見てみよう。極寒地帯から、ずっと温帯圏にいけば、種類がだんだん違ってくる。松の木の生えている地域的変化によって、だんだんと、それが出発した基準と、歴史を通して種類が違ってくる。あるいは熊を見てみよう。北極の熊は白熊だ。白くなければならない。環境からね。保護色なんだから、白人種は何であるかというと、北極の白熊であり、黒人種は暑い所の、温帯地帯の熊である。それだけだ。 それが、黒熊と白熊がいた場合、ああ、君は白熊だ、ああ、君は黒熊だから、ここで一緒にできないと、そんなこと言えるの。もしも西洋人が、白色人種が、そのような思想をもっていた場合、黄色人種と黒色人種にやられてしまう。数からも。やられてしまう。その白色人種は、三分の一にもならないよ。共産主義なるものが、猛威をふるっているこの時代にあって、そういう考えをもっていると、それはめった打ちにされるよ。だから、そういう考えは、もう過ぎ去った考えである。そういう問題がある。 だから、こういう基準において一つになる。それで統一教会は、結婚式も国際的にやる。ああ、アメリカ人と東洋人が結婚する。ああレバレンド・ムーンは悪魔であると。それは悪魔じゃないよ。人種を越えて、愛し合う姿、それは歴史にない美しさだよ。それが、そうできないから問題なのであってね。それは最も美しい。 こういう主張は、先生が死んでも、死んだのち、今から十年、二十年、三十年後には必ず、こういう主張を訴える世界的思想がなければ、人類は滅びてしまう。神においては、神様においては、みんな兄弟である。神様の前には、一つになれないはずがない。アメリカの建国の精神は“One Nation Under God”これは素晴らしい精神だ。まさしく、そのようになってきている。そう考えてみた場合、我々統一面会は変わらない。結局変わらない。我々民族的調和をなしたその基準は、誰でも引き付ける。 いくら反対したって、ビクともしない。まあ、そういうように、変わらない。絶対変わらない統一教会は、世界復帰のために統一教会文鮮明先生がやってきたと同じように、そのあとを貫いていく者は、みんな同じ形でいく。それは変わらない。君たちそうなの? (はい)。 まあ、そうなった場合、ここに集った者は、世界的に違う者だね。君たちの一生涯を考えてみな。いつも変わる。朝に変わり、夜に変わり、若い時に変わり、老人になって変わる。行ったり、来たりするそういう人間であってはいけない。変わらない人間が集って、氏族、民族、国家ができる。 まさしく、君たちそういう気持ちになっているの? (はい)。もしも「イエス」となっているなら「ああ、わしを信ぜ」と言える。そして「自分を愛せ」と言える。信じることができる。愛することができる。そして共に生活したい。そういうふうにして、初めて幸福になる。君たちの願いは何か。信じてもらいたい。それから何か。愛してもらいたい。そして、自分と共に生きたい。そうしたら幸福になれる。これに間違いない。このことに間違いない。 万民と共に、国を越えて、そういうふうになるとともに、神様が自分を信じてくださり、神様が自分を愛し、神様が自分と共にいる、神様と共に生きるから幸福である。それ以外にないんだね。君たちはみんな幸福になりたいでしょう? (はい)。幸福になるには、まず信じてくれるパートナーが必要です。心情が、朝に変わり、夕に変わり、きのうは信じたが、きょうは変わる。若い時は信じたが、また変わる。永遠に変わらずに信じ合う。そういう信じられる人から、愛される。永遠に愛される。それは愛してから、離れて、逃げていくんじゃなくて、永遠に共に生きるんだね。この三つを備えて、生涯をかけていく者が、幸福な人間である。真の人間である。 だから女の子に尋ねてみると、どういうような夫が良いか。永遠に変わらず信じてくれる、そういう夫が良い。そうでしょう。それ以外にない。男はどうだ。男もそうです。神もそうである。神も、そういう人を願うから、その神の願う相対者として、信じられ、愛され、生きられるそういう者だったら、それ以上純粋な人間はありません。そういう男、女が共に神様を信じてくれるね。神様を信じてくれた時、神様が、ああ、まさしくありがとうと言うような人。また、人間同士、お互いに信じ合い、愛し合っている姿を見て、神様は、ああ、私の願ったような立場で、愛してくれる者だと見た場合、神様が共に生きたいと思う人。そういう立場に立った者こそ、責任ある人間になることができる。 幸福な個人は、信じてくれる、愛してくれる、共に生きる人。そして、そのような相対者同士、夫婦が共に信じ合い、愛し合い、共に生きたいと願う状態、神様と共にいる。氏族を中心としてみた場合、氏族が幸福になるには、氏族同士が信じ合い、愛し合い、共に生きたいと願うことです。民族も、国家も、世界も同じことである。 国の主権者においては、例えばアメリカの大統領であるならば、国家が信じる、国民が愛する、国民が共に生きたい、それが理想なんだね。世界中、神様を中心に考えた場合も同じですね。神様も、結局同じだ。世界中の人々が、神様を信じ、愛し、共に生きる。だから我々は、正しい人、純粋な人は、何によって決定するか。信じる、間違いなく信じる人、愛する人、共に生きたい人、それは何によってなされるか。それは結局、神によってなされる。 復帰は信じ愛すること 神が人間を創造した目的は何か、というと神が信じてやりたい、そういう変わらない人間だと、神が信じてやりたいと、人間がいくら変わっても、歴史を越えて、その基準を維持してこられたのが、神様である。さあ君たちは信じることのできない者でも、信じてやる。騙されても信じてやる。それが神様である。愛してやる、共に住みたがる。お父さんもそうだよ。父母がそうでしょう。信じられない者を信じてやる。その基準において、変わらない純粋な人間、そのような人にならないといけないということを我々は知っております。本当の人、真の人はその基準において、一致したところにおいて、満たすことができるのではないか。そういう人同士、信じ合う、愛し合う、共に生き合う、その世界が地上天国である。天国の世界である。君たちもそうでしょう。神様みたいな人を、旦那さんに、奥さんにと願うでしょう。それは同じである。 信じられない者を信じてやるし、愛されない者を愛してやるし、それは自分と共に住めないような者であっても、住みたがる。そのような思いが、変わらないでいくならば、必ずその人間は、そういうところを見合った場合は、感動して、再び帰る道があるから、神様は、今まで復帰の道をたどってきているというんです。イエス様が、聖人と言われるようになったのも、怨讐たちまでも祝福していった、愛していったということが、神様と世界中の人々を感動させたからです。共に住みたがる、共に信じたがる、そういう思いでいたのです。だから、イエス様は、歴史を動かしました。 聖書六十六巻、たくさんのことが書かれていますが、すべて総合すれば、信じることを、愛することを、共に生きなさい、とそれ以外にありません。では我々統一教会において、どちらがもっと純粋で、信ずべき人かと言うと、そうした場合、神様みたいに、それは信じられない立場にあっても、信じてやる、愛されないような立場であっても、愛してやる、共に住むことができないような立場であっても、住んでやるというようなことを、続ける人ならば、必ず、その環境において、その人は勝利する。 東洋と西洋を一つに 私はアメリカにおいて、いろいろと体験したことが多い。アメリカ人は、統一教会を信じていって、それからずーっと一生懸命働いた者たちが、それが去っていく時に挨拶もしないで、すーっと逃げて行く。少し変わっているね。そして東洋人と違うのは、出た者が再び教会に帰ってくるのが少ない。東洋人はそうじゃない。帰ってくる者が多いんだね。それは教育制度が、そうであったからということもあろうけれども、摂理路程が、非常に大きくなればなるほど、もっと厳しい訓練をしなければならないのが、アメリカ人ではないか。 みんな自分を中心として、自由主義、個人主義を主張している。みんながそれぞれ自分を主張しているから、めちゃめちゃだ。しかし、東洋思想はそうじゃないんだね。みんな中心を重んじるんだね。中心を重んじて、自分は相対的立場に立つんだね。アメリカのような教育の方式は開拓時代にはよいが、統一したら難しいのではないか。開拓した今は。今は世界開拓という時代は、過ぎ去っている。いかに一つになるかという問題、こういう時代に入ってきている。 まあ、そういう方面から見た場合、我々統一思想が西洋文明圏において、絶対必要なのではないかと思います。こういう組み合わせで、世界に向けて動き出している。あるいは国に向けて動きだしているということは、これは素晴らしいことである。 それは、神が公平だからだと思う。アメリカは物的、あるいは物質文明の外的基準において、神から祝福された。だからその外的基準から内的基準に急激に変わることは、難しい。東洋は、物質文明基準ではなく、精神的な方面を重んじるんです。統一教会に入るに、スムーズに入る。無理がないんです。西洋は、外的基準を祝福されたから、内的基準において欠けてくる。東洋は、内的に祝福されたから、外的基準において欠けてくる。結局、神は公平だ。公平である。 これは、三年ないし七年たてば、大概釣り合うんじゃないかと思っています。アメリカの青年も、相当変わりました? (はい)。座ることを覚えた。イスでなければ座れないのに、こんなこと夢にも思わなかったでしょう。だから、宗教という精神を中心とする時には、物的条件を跳ね返す。東洋は精神文明を中心として、みんな外的基準を跳ね返してしまった。それを西洋人が、かき集めた。アメリカとか西洋が、今のように幸福になったというのは、東洋の物質的条件をみんな援助されて、このように西洋文明を発展したのです。しかし、それは限界に達している。そして東洋の精神文明も限界に達している。だんだん、東洋は西洋文明、物質文明を要求するようになっている。西洋文明は東洋文明、精神文明を要求するようになって、これらが交替するような時点に立っています。授受作用です。 理想世界になったら、西洋人が東洋に行って住んでも、東洋人が西洋人に行って住んでも、これは無理がないように回らなければならない。そうするには生活基準、思想基準、目的基準が一致しなければならない。東洋の風潮を見れば、今まで、アメリカへ行って研究すればいいと考えていた。しかし今はそうじゃない。西洋へ行って研究すれば、人が悪くなる。何にもならない。頭だけあったって、何にもならない。君たちはみんなヒッピーの部類だ。その反面、アメリカ人は、外的なこと、食うこと、飲むこと、生きること、もうやるべきことを、みんなやってみて、その結果今は、すべての外的基準を捨てて、原始人間に帰ろう。それから何か精神的なものを求めてみようと、東洋に関心をもつようになってきた。 東洋人は素直なところがあって、純粋であって、変わらないところがあるのです。アメリカ人は、これは変わりっぽい。そういう方面で、東洋をアメリカの青年たちは奪うようになってきた。東洋人は、アメリカ人の女はもう日ごとに変わると、そういうふうに思っているよ。特に女性が、そうなんです。離婚率が高い。男より女がそうだという。男より女が多い。東洋はその反対だ。女より男が多い。だからこれを入れ替えたら理想的になるや。まるで反対だね。 東洋では、歩く時にこういうふうに歩けと教えるんだね。西洋ではそういうふうに教えないだろう。東洋では、こういうふうに、ずーっと高い所を見て歩けと教えるんだね。西洋は、それ物質的だよ。東洋人は寝るのを見たら、こういうふうに寝るよ。それから東洋は右手を主に使うんだね。左手は使わない。西洋は左手を使うね。はっきりと区別できる。西洋人は食べる時静かに、話をしない。東洋人は、みんなで話をしながら食べる。これは、まるっきり反対だ。そのように見ていけば、東洋と西洋を一つにする動きは、何としても統一教会以外にないんだね。何と考えても。東洋人と西洋人が一つになって、地球を持ち抱えたらどうなると思う。西洋人が物質面でいくらやっても世界を動かすことはできない。東洋人がいくら精神面で動かそうとしてもできない。 それを考えてみた場合に、東洋と西洋を結束させる。二つを合致させることのできる一つの精神的な宗教が必要である。 真なる世界を描く統一思想 国民を思想において結束しようという考えは、間違いである。なぜかというと、それは変わっていく。しかし変わる世界において、それでも変わらないのが宗教である。キリスト教は、二〇〇〇年の歴史をもっても滅びなかった。今の今までいくら打ったか。数多く人々、数多くの国が、キリスト教を打ったんだけれども滅びなかった。そう見れば回教もそうだね。イスラム教も、インド教もそうだ、儒教もそうだ。だから宗教圏を中心として文化が発展している。しかしこのように今までは、発展してきたが、今までの宗教は、変わりつつあるそれは純粋な宗教でなかったので、歴史をずーと過ぎてみると、風化作用を起こして、荒れかけたり、割れたり、破れたりする。 それで宗教界において、一大革命時期が到来した。それから東洋文明も西洋文明も、一大革命期に入ってきた。宗教を信じる人と、宗教を信じない人とどちらがいいか、分からなくなってしまった。それは永遠性がない。今のキリスト教、宗教圏の者たちを中心としては、変わらない理想世界をつくることができないということが、証明されてしまった。民主主義世界の末期において、あるいは共産主義自体を見ても、みんな、それも信じられなくなった。民主主義の指導国であるアメリカ自体を信じることができるかというんだね。それは信じられない。共産主義も信じることができない。だから宗教界において、世界の思想界において、一大革命が必要な時になってきた。それは必ずしなければならない。個人から家庭から、氏族から国家から世界へわたってしなければならない。 そういう革命を果たし得る内容、思想的内容、伝統的な理論体系がない。今、新しい宗教が生まれてきて、新しいアメリカ、民主主義の主体性をもって、指導してきたアメリカ国民を再び教育する、その宗教がない。共産主義の悪らつな、サタンの悪魔的な哲学に対して、ブレーキをかけ、それを克服し、解明した内容を提供した宗教がなかった。現実の宗教界すべてにも、新しい方向に導く内容を提示する何ものも、なかった。こういう世界の交流する、入り乱れたこの時点にあって、我々統一教会以外に、こういう内容を、こういう思想をもって、訴えるところがないと考えた時、我々の今の立場というものが、重大な位置にいるということを忘れてはなりません。 人間は、より尊いもの、価値あるものに近づきたいと思います。そのように考えてみた場合、神様以上に、より価値あるものはない。だから問題はどこにあるかというと、神様をはっきりと知らないところに、問題が起きてきました。共産主義も、神様がいるということを知らないところに、生まれてきました。民主主義政体も、神様の理想、神の国がどのようにいくべきか、知らないから、このような腐敗圏の末端期にくるようになった。宗教が腐敗しているのも、神様をはっきり知らないことにある。だから神様はいずこに現れるか。堕落しなかったアダム、エバに現れる。そこにおいて神様を発見した。そこで我々は堕落以前のアダム、エバ、罪なきアダム、エバに帰り、その中において、真なる父母を迎え、真なる氏族を迎え、真なる国家を迎え、真なる世界を築こうというのは、統一思想以外にない。 神を解放する「私」 ここまで到達するには、反対する逆の道を、突き抜いていかねばならない。だから蕩減の道は、堕落した者には原則として表れてくる。だから、これを克服しなければ、いかれないという教えなのである。それで自分を清算する。個人的問題から、家庭をいかに復帰するか、氏族、国家をいかにするか、世界をいかにするかという、はっきりした理論体系でもって……。 そうして我々は、人格的神様を信じるだけでなく、心情的神様を論じていくようになった。それは、今までの宗教には見いだせなかったことである。神様は悲しんでいるということが分かった。神様が、拘束されているということを、今まで知らなかった。個人のため解放されなければ、あるいは家庭のため、解放、氏族、民族のため、国家あるいは世界のために解放され、世界的解放がなされるには、我々はその目的に向かって、進まなければならない。 新しい宗教を提供した統一教会。その主体は神である。我々は客体である。主体が喜ばない以上、客体が喜んではなりません。だから神を世界的に解放してこそ、幸福の道ができてくるのです。神解放されてこそ、我々の幸福、家庭的幸福、氏族的幸福、国家、世界幸福が生まれてくる、これが統一史観である。だから神を解放しなければなりません。 それを今までの宗教は、やらなかった。神によって我が解放される、こういう宗教、神によってうちの家庭が解放されると、まるっきり反対だ。国家も、神はどうでもよい。我は国家的宗教を信じるだけだ。このような国が解放された? そうじゃないでしょう。間違っている。だから我々は正しいことをしているのだから、世界がいかに反対しても、堂々と主張し、堂々と行進しなければなりません。だから、我々統一教会はこういう信念でもって、我一身を捧げて、世界を救うというのはもちろんだが、神を解放して、世界を救うという信念でもって、四方八方、命を懸けて進むならば、神はいつまでも共にいます。だから、神様は自分の解放のために努力するんだから、我々を援助せざるを得ません。 では統一教会を信じるのは、何のためか。私が救われるためか。私よりは国、国よりは世界を救ってやる。それを救っておけば、自分の国は自然と救われる。こういう思想をもっていたとしたらキリスト教は、あんなに数百という宗派に分かれることがない。世界が救われていない。神が解放されていないのです。だから我々は分かれることができません。 だから西洋人と東洋人とニグロが、一つにならなければ神を解放することができない。だから先生は、神の解放という一点に、生涯をかけてきた。神のほうに心を向けて、神の国に帰る。今まで人間は、民主主義を中心として、人間の自由を主張してきた。人間解放を主張した。それと同じように、今は神の自由、神の解放を願って、天宙を主管し得る神につくり変えなければならない。神様は自由になっているの。人間解放、自由を主張する前に、神様の解放、自由を主張しなければならない。その問題を解決することによって、人間解放はもちろん、人間の自由主義は生まれてくるのだ。 きょうの題である私自身は、この私自身は、神を解放し、世界を解放してやるために、生まれてきたという自覚をもたねばならない。世界を占領、個人的、家庭的、氏族、民族、国家的、いくらでも、つらいつらい戦争を越えても、世界の果てに勝利を旗を見て、神を解放して、神の自由を主張して、神がそうだと返事して喜びながら我を迎えてくれる。そういうところまでいかねばならない。そうして神の解放とともに、神の自由世界の基準に立って、君も解放、君も自由だと、共に神と人間が歩調を合わせて、一つになったところに、世界的な解放と、世界的自由の本源があると主張する時が来なければならない。 不屈の精神 統一教会行くところ、今解放されているの。邪魔が多い。それから後退することができるの。できない。すべてを克服して、前進しなければならないのが統一教会の運命である。アメリカにおいて、解放した場合に、世界が解放される。君たちそう思うの。この国は、力をもっている。金をもっている。あるいは科学をもっている。あらゆる組織的なすべての関係、因縁を世界的基準で、神が祝福して準備した。神様は、この国が汚されて、その基準につながることを願わない。汚されないで、そのままその国に、つながることを願うであろう。 あなたたちの家庭、あるいは社会構造、共産主義の恐怖、あるいは人種問題、内的に腐敗しているそういう問題を、誰が解決してくれるや。アメリカ人自体においてはできない。自らが、自分の国を眺めて、落胆せざるを得ないような、そういうアメリカ人自体が神を解放することができるか。そういう教会が神を解放することができるか。できない。だから神様はアメリカに出てくることができない。期待することができない。この新しいアメリカの理想、新しいアメリカに、神のために立つ群れを願うに違いない。それがまさしく、我々である。CIAが調査しながら、中傷させているレバレンド・ムーンである。アメリカが無視し、反対しているレバレンド・ムーンである。 先生は、そういう者ではありません。それを誰が証するか。それは君たちであります。アメリカ人のために、あなた方がしなければなりません。命を懸けて、先生以上に命を懸けて、自分の国のためにやらなければなりません。そうして、神を解放し、神の自由のために立った、これは本来の神を保護し、神を守るべき正しい人間として、アメリカ、世界に旗揚げしている自分であるということを、はっきり知らなければならない。君たちそういう自覚をもっているの? 戦いの戦場に向かう時、激戦の場に行くか、やすい戦場を選ぶか、どちらを選ぶの。ベトナムから、カンボジアから生きて帰ってくるアメリカ兵士を見て、我々は興奮せざるを得ません。アメリカに神の祝福を残すために、いかなる激戦であっても、我々新しい統一思想は、世界共産主義の悪らつな戦場であっても、堂々と征伐するというそういう自覚をもたねばなりません。 我々は変わらない、正しい人間としての使命を果たすということは、神を解放して、神を自由なる立場において初めて、そのような資格をもつことができるのです。そういう自信あるの。統一教会に入ったけれども、何でもないことが好き。何でもないと思って入ったかもしれないが、分かってみれば恐ろしい、が素晴らしいところである。サタン世界においては、これは恐ろしい。神の世界においては、これは素晴らしい。 どんなに反対されても、先生の不屈の精神でもって、それを受け入れ、消化してしまう。アメリカも、君たちが先生と結束して、天にすがって、最後の戦いの戦場に立ったという自覚をもって、我、神の解放、神の自由のためにいかなる苦難の道、いかなる戦いでも、我先頭に立って行くという、この精神一本でいくならば、この巨大なアメリカも、遠くなく神のもとに帰る日が、近いと確信しております。だから、伝道して一人を解放させる一人自由にさせるということは、神を解放させる。神の解放の道を開拓していくという道である。こういう意味である。解放の火をつけるのである。家庭、民族、国家、世界へと。 神の子女になろう このようにして神を解放しましょう。先生自身は解放されているの? (いいえ)。そのような解放を誰がするの? 神様がするの? 神様はできません。君たちと先生以外にはできません。君たちと先生以外に人がいません。これは、アメリカ自体もできないし、他の数多くの国でもできません。だからすべてが滅んでも、我々は神様を残したい。 神自体が解放、神自体が自由になる。こういう考えをもった宗教、こういう考えをもった思想、こういう考えをもった人が、今までいなかった。まさしく今私たちは、こういう考えをもっているだけでなく、行動して、世界に向かって号令をかけている。こういう基準を、神様は望まざるを得ないよ。地上において、我々統一教会しかないじゃないの。我々が、アメリカで勝利すれば、その勝利的影響を、世界の各国に与えることができる。しかし、これはやさしいことではない。難しいことである。 なぜアメリカ人として、統一教会文先生の前に集ってきたのか、と憂うんじゃないよ。神を中心として、神の解放者としての先頭者であると自覚しなければならない。歴史的に悲惨な我々の様子であるが、これは歴史を通過した未来において、いかに幸福なことかと考える場合、感謝しなければならない。それで先生は、太平洋を越えて、アメリカまできた。異国の地に来た。君たちは西から東に、自分の国を飛んでいる。南から北に、自分の国を飛んでいる。それは最もあるべきことである。 男、女決意を固めて、こういう使命を果たすという自覚して、覚悟して、宣言して、誓って出た者が、いまだに故郷に帰ることができない。先生と共に、勝利の旗を揚げる運命を、天が授けているということを忘れてはならない。それを信じるの? (はい)。それを知ってるの? (はい)。君たち、そういう使命を果たせると思うの? (はい)。そうしたら君たちは間違いなく、正しい人になるでしょう。この地球上において誰よりも正しい、天下すべてのものにもまして、正しいに違いない。そういう立場において、自分自身、間違いなく神に誓って、神に代って戦い抜けるという覚悟を、今もつの? (はい)。そういう覚悟のある者、手を挙げて。 きょうは、七月十三日第二回目の聖日である。我々は、この巨大なアメリカに向かって、こういうような世界的な使命を抱いて、今四方八方で急いで活動しなければならない。こういう間際に立っているということを、はっきり分かりました。今、あなたたち自覚したその者には、落胆はあり得ません。躊躇はあり得ません。前進に前進。我々に敗北ということはあり得ません。勝利の結果をもたらし、神に栄光を帰さねばなりません。そういう貴い自分であるに違いないと思いつつ、この多大な目的を達成するために、忍んで、忍んで勝利し、天下自由、解放のために、我々は驀進しなければなりません。そうだったら君たちは、最高の神の勝利者として、神にたたえられるばかりではなく、神の永遠の愛を、全体的に、全部もらうでしょう。それで十分神の子女になり得る、そういう自分である。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.30
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「神の心情を知ろう」1975年4月20日ベルベディアにて 聖日礼拝 サタン圏完全封鎖が理想 神様の心情を知りましょう。人間は誰でも自己中心的に考えやすいものです。組織や団体においても、利益を中心に考えていく。一つの国にしても、その国を中心として考える。それは人間が堕落したから、その欲求が悪の方へ行くようになったからである。 人間が堕落しなかったならば、自分のこと考えるにしても、神の子としての自分自身を考えるし、神が人間に願うことを考える。また家族のこと考えるにも、神を中心として考える。国のことを考えるにしても神を中心とした国を考える。これが、堕落しなかった場合の神と人間の関係における原則である。そういうことを考えてみた場合に、我々は、堕落しなかった場合には、自分を中心として、自分の家族とか、自分の民族とか国家を中心として考える、これ最も原則、原理的であった。 しかし、今の我々人間というものを考えてみた場合に、神を中心としているのではなくして、堕落しているんだから、自分を中心としているんじゃなくして、悪とサタンを中心としていると言うことを、一般の人はわからない。 何故、自分だけ考えるのが、この堕落の世界ではいけないか。それはもう、サタンの側になっているから、ここに自分を強調し、自分の行動力とか自分の全てとか強調するというと、サタンと永遠に離れたくないような条件に、負けてしまうという、結果になってしまう。 縄で、あるいは紐で結んでおいたとするならば、結ばれているのは、それは離したくないという立場にたっている。 本心から見た場合、これが本来立つべきところじゃない。神を中心として立つべきなのに、これは間違っている。間違っているからこれを訂正するには、否定するのは、これ必然の原則だからね。君達今、自分の顔がきれいで美人であり、体格も素晴らしく、人のほしいことない。全てに叶った自分でありながら、これで満足だという者いるの。 それは、個人にしても、家庭にしても、民族にしても、みんなそうだ。もっと絶対的に、もっと豊かに、もっと善なるところを求めておる。よりよい、高いところに移っていくから。移っていくには、現在の自体を否定とかね、これを無視とかいう立場に立たなければ、移っていくことはできない。移っていくには、現在の位置を否定して、そこにより高い何かを投入しながら、何かを犠牲にしなければ上がっていかれない。 どうせ我々は、善のところ、神を中心とした理想的なところに帰らなければならない、ということを考えてみた場合に、自分一個人だけ帰ればいいか?。そうじゃない。自分一個人だけ帰って、家庭が帰っていないとして、一個人が帰った立場に立って、家庭に入ってしまうと、家庭環境に包囲されてしまった場合には、いくらその後、自分が個人的に解放されたとしても、それは無効になってしまう。 もし家庭が、善のところに立ったとしても、氏族のところに行って包囲されてしまえば、みんなダメになってしまう。 もし、民族的に神の国になったと言って、国家的基準に入って行って、国家に包囲されてしまえば、それはダメになってしまう。 国が神のところに一つになって、それから世界圏に入って、世界圏に包囲されてしまったとするなら、それ、また、ダメになってしまう。 神の心から考えてみた場合に、そういう結果になることがはっきりしたとするならば、神は、どういう処置を取らざるを得ないであろうか。 宗教の願いは終末 神が、人間をもしも教育し、愛して教育しようとするなら、どういう目標を、たたせるを得ないであろうか。それは、我々は考えなければならない。一ぺんで神の立場に立って、個人、家族、氏族、民族、国家、世界まで広がってくるの、理想的とせざるを得ない。だから、そういうような群を、この世的なサタン圏基準を、完全に封鎖して作る運動をするという結論になる。 ここにいて、世界を一ぺんに救う時まで、世界をみんな一ぺんに消化し得る時まで、この環境を大きくするのを中心として、待つように言わざるを得ません。結局、サタン圏に、完全に勝利し得る時になった場合には“いけ!”命令を出す。 神様は知恵の神様で、その内容をよく知っている神様だから、その中途には、こういうような世の末をつくらない。だから、中間には、その何段階とか二段階とか、個人的段階、家庭的段階、氏族的段階、民族的段階をいくら勝利したとしても、それは、またも無視されるような結果になり易いんだから、最後の段階の勝利圏を待たざるを得ない。 そういうことを考えてみた場合に、こういうふうな環境、即ち、勝利的世界圏の環境圏を作られたところ、それは何かと言うと、それは宗教圏である。 では、その宗教圏は一体、何を願うであろうか。それは、世界の末を願うようになっている、末世、終末を願うようになっている。世の中の覚醒。それは何を意味しているかと言うと、このサタンの世界の終りを告げる。これを終末と言うのは、神の摂理の終末ではなくて、サタンの悪の主管圏の終末を言うのである。 この世の中、終りになった場合は、神は、自分の愛する個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を指導しながら、神の愛の世界、神の理想世界を創ることがなかったことになる。だから、そういう神様になってはいけないから、必ず終末を終えて、蕩減の必要でない、新しく、完成された個人から家庭、氏族、民族、国家世界圏を率いて行きたいのが、神の心であります。 こういうことから考えてみた場合に、それだったら歴史上に、宗教が世界を動かし得る、最高の権限を持つ、そういう時代が生まれてこなければならない。その宗教は、何の宗教を中心として、そううことなされ得るかと言うと、中心的宗教を通して、そういうことがなされ得る。では、その中心的宗教は一体何か。それはキリスト教であらざるを得ない。 神の心から考えてみた場合に、そういう時が生まれてくるのを、今まで摂理を通して、願ってきた基準であらざるを得ない。それを知ると、歴史過程を通して、いつ、その時が来たか。来たか?過ぎていったか?、ということを、我々は、はっきり知らなければならない。 現在、共産主義と民主主義というように、二つに分かれている。しかし、神様から見た場合、これは激突して主体的主権を持つ、民主主義圏がなければならない。その圏を立した時が、いつあったか。 だから、民主主義の全盛時代はいつか。いつと思う?今から未来に来ると思うの?、もう過ぎ去ったと思う?。(パースト) 未来に来ると思うか、それとも過ぎ去ったと思うか。(ノー) 民主主義世界が共産主義に勝つと思う?(イエス)それなら民主主義を代表したアメリカが、共産主義に勝ったと思う?(イエス)では、サイゴンにおいて勝ったと思うの(ノー)そこは世界の防波堤になっている。そこで後退した場合、いつ勝つか。(ノー) それはいつ来る、未来に来ると思う?(ノー) アメリカの青年達が、アメリカは将来、共産主義と勝って、世界をリードするんだ。こういう自信ありますか。それとも、滅びるんだ、滅びるんだ。どっち? アメリカは滅びつつあるの?どういうふうになるの?(ビクライニング) そうしたら、結局は滅びてしまう。そうしたら、神のみ旨から見た場合に、それが叶った立場か?逆らった立場か?それをアメリカはわからない。 神の願いは統一の群れ 人々は、レバレンド・ムーンはニクソン支持者だ!と言うが、そうではない。神のみ旨を中心として、摂理史観から摂理を支持するものがあったと言うことを、こういう考えから、はっきりわかるであろう。 その神の心から見た場合に、この機会に、キリスト教を統合し、民主主義を統合し、世界を統合していく、そういう一つの強い群が、地上にあったとするならば、神は、頼もしいと思わざるを得ません。そういう者がいたら、神は歓迎すべきか?、それとも、なんだ!。君達みたいのはいらない。どう思うの?。 その基準になって、宗教が一つになる。共産主義に勝利して、人類は一つにならなければならない。これは、神のみ旨であるとすれば、それが最も神の願う結論と言うことは、言うまでもない。そうだと思うの?(イエス) 世界に、そういうグループは、一体どこにあるか。我々、統一の群しかない。君達しかいない!君達しかいない! そうみたら、君達を神が頼りとすべきか?頼りとすべきでないか。(イエス) 君達は、世界をかけて、全てを犠牲にしても、「おお、君だけを必要とするんだ」という、そういう自覚、そういう待機する自分達となっていたか?そうはなっていない?。 それで、統一教会は、個人を越えて、氏族、民族越えて、国家、世界を一ぺんにのりかえて、共産主義をみんな、去らせてしまう。そういう考え方に立っていますね?。そのために、みんな固まって、早く行かなければいけない。行くとするなら、それを引っ張って来ることをするんだけど、反対に、それを包囲されて、占領されるためには絶対行かない、という群が、我々、統一教会である。 だから、個人の闘い、毎日の闘いは世界的作戦を立て、防備する闘いであっても、くたびれないで、個人的基台から、氏族、民族、世界の勝利圏まで、堪えて行かなければならないと言うのが、統一教会の使命である。 共産主義に勝って、神が勝利する、勝利のレッテルをつけられるまでは、帰ることはできない!。その時までには、いかなる辛い闘いでも、止めることはできない。 君達、そうなの?(イエス) 日本のメンバー達、「ああ、アメリカに来て、もう三年になっても限りがないじぁないの。先生の話を聞いて、アメリカ復帰の作戦をどんどん広げて、もっとやらねばならない時代が目の前に待っているのに、どうしたらよいのだろう。喜んでやろうか、小さくなってしまうか」 ひっくり返っている立場にいるんじゃないの?(笑い)(ノー) アメリカメンバー達はどうなの?。(自由思想でやっていたのに、何でもやっていたのに-。統一教会入って、逃げることもできないや。進め!進め!進め!あ-嫌だ!」(笑)「やっているのに!。今までやって勝利したにも係わらず、誉ることは絶対わからないレバレンド・ムーンであって。ウー、また進め、また進め!あー」(笑い)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.30
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「アメリカ開拓の祝福夫人へ」1975年3月18日ベルベディアで 今から本格的にやるんだよ。君達が各州に散らばって、今から準備しなければならないのは、組織を新しく転換するということだね。 それは、何としてもアメリカにおいての新しい伝統、伝道のやり方とか今までの活動において伝統的基準がまだ成り立っていないんだね。心情の面、生活の面においても、教会の雰囲気の面からみても、なかなか伝統が立っていないんだよ。それで仕方なしに君達祝福家庭が出て、祝福家庭といえば、旦那さんもいるし、奥さんもいるし、それが祝福家庭だ。それから天国づくりは家庭から成り立つということを君達は知っているように、教会が家庭みたいな基準にならなくてはいけない。 多く祈る その次には指導者ばかりじゃなくして、やはりそこには母のような心情の基台が、基盤が何としても必要である。 しかし、今までのアメリカの青年たちは、今先頭に立たせてやってみた場合に、アメリカ的な事務的な教会組織は成り立っていくんだけれど、心情の基台は成り立っていかない。その問題は非常に先生が苦心したところだよ。それで仕方なしに、日本の祝福家庭の奥さん達を全面的に各州に一人づつ配置しなければならない、という結論になった。 そういうふうに配置されたメンバーは全てにおいて模範を示しながら行かなくてはならない。しかし、それは母の立場に立つんであって、お父さんとか男たちの立場に立たないでね。母の立場に立って、底の力、心情的力をいかに盛りこんでいくか、という方面に手配しなければならない。そうするには多く祈り、辛棒しなければならない。言いたいことも沢山あろうけど、それは責任者を通して直接話し合うのはいいんだけれど、横の人におろおろ教会の事情、資料とか、誰がどうだとか彼がこうだとか、横的には絶対言うな。聞くことは全体から聞くんだけれど、横的に言うことはいけない。 母になるにはね、子供たちから色々なことを聞いた場合には、誰がこう言ったとか、ああだとか言わないと同じように、そういうような心情的な、母みたいな存在が必要だ。 そして何事かあった場合には、みんな食口達が直接責任者には言われないんだけど、あんた達にはいつでも言って自分の心情をきれいに話しかける。そういうような心情的名代をつくるには、心情でもって話しかける基台がなければならない。そうするにはやはり母みたいな存在が必要じゃないか。 まあこういうふうにやっていくことで自然にあんた達を中心として食口達が固まる。食口達が固まると同時に、それに応じて責任者達も自然とあんた達を敬うようになるというんだね。それで半年、あるいは一年、こういうふうになっていくと、できればあんた達は人事異動をしない。とめておくんだから結局あんた達がそれこそ母の使命を果たすようになるんじゃないか、と。 だから子供というのは母の髪響を受けるように、君達がそういうふうに無口でやっていくと、何となくそこに心情的基台が作られていく。ああいうような祝福家庭の生活ぶりを自分たちもまねていかなくてはならない、という風潮がだんだん上昇してくると思うんだ。 だから今までそういう人が居なかったね。女は一人とか、男で一人とか言ってやったんだから、それで相対的基盤は作れない。それで食口達が原理を聞いて喜こんで入ってきたとしても、心情的につなぐ道がないんだね。男は責任者として毎日忙しい日々を送っているし、色々な方面に外的活動はするんだけれど、内的心情面はいろいろ問題がある。 それで入ってきた者が食口にならないで、中途でそのまま落ちて行ったという現状だ。それで仕方なしにこういう処置をしなければならないという結論に至った。 すばらしい体験 これからはただ一人でアメリカ人の中にとじこもって、それこそ神に祈る道以外にないよ。自然と柵の中に放りこまれなくちゃならない。そういう立場に自然的になると思うんだ。だからもう君達は寂しいから、孤独な立場に立つから、その心情をよく涙ながらに感じて、よく聞いてあげる。 実にいいじゃないか、と、そう思うんだよ。一言言う場合には第三者のことじゃなく、直接自分のことを言うと同じようにしてね。心情的に重荷を背負ってあげて育てていくんじゃないか、と。 多く祈り、多く忍び、心しながら環境をいかに消化していくか。祝福家庭として実にすばらしい体験だよ。何故かというと、今からあんたたち、家庭生活に入ればね、こういう生活は実にすばらしいよ。旦那さんが何かピーンと、それはもう何でもないところで声を出して突っこんできた場合はね、真青になって正面衝突をするようなことはこんなふうにこうしてなくなっちゃう。それはいい体験だと思うよ。家庭に入ば、そう簡単ではありませんよ。いろいろあるんだよ。それを消化していくには、やっぱり女が主体だ。男はね負けるのはこれは死んでも嫌いなんだ。だからまずもって、女はよく後退したり前進したりコントロールしながら環境を押えていく。やっぱり女の使命は大きいんだよ。 多く忍ぶ者 それに加えて、子供を産んだ場合には、子供が病気になったり、あるいはいろいろあるんだね。それは暴れまわったり、話を聞かなかったり。そういう場合には、ずーっと忍びきりながら教えていく。そういう訓練が今までにはなかった。 あんた達は今まで外ばかりで活動してきたんだから、男みたいな女になっているよ。顔だけみても、笑うのを見たって女らしくないよ。女なら皆、顔が下がるんだけどね。目までも上がるしね。それは仕方がないよ。そういうふうな外的活動をするから、みんな男なり、信じられない世の中の者たちを相手にしてやってきたんだから、それはそうならざるを得ないんだけれど。 だから今まであんた達が活動したこととまるっきり反対の方向に立つということを、まずもって教育しなければならない。 やっぱりそうだね。一人一人の家庭を率いていくには、誰が多く忍苦するか。忍ぶか。そういう者がその家庭においても主人になる。子供たちは、そういうようなお父さんお母さんだったら、その親に対して皆近寄ってくる。それは世の中の事実なんだよ。 心情基準 それと同じように、あなた達ができれば州の本部に行って、長い間忍びきって、環境をおさめるようになれば、完全に指揮下にまとまってくる。だから無口で黙々とやるんだ。そして指導する時には心情たっぷりにね。アメリカの青年は、親に対しても心情の世界がなっていないし、兄弟に対してもそうだしね。だから動物みたいに大きくなったらみんな自分なりに活動するような、そういうような生活環境で慣れてきた。そして自分を中心として全てを結論的に考えるような、そういう考えでやってきたんだ。だから心情的に飢えているんだね。人間の本当の人間らしい味を知らないんだよ。たった動物的な、その男女関係に限って人間が望むべき最高の目標と思うような、それっきりが全体と思うように生活訓練をしてきたんだからね。非常に飢えているんだ。 そういうような彼等に、あんた達がそれこそ兄さんに見られないような、お母さんに見られないような、蕩減的な心情路程から出発して、はじめて人間らしい、非常な革命的な差だね。そういうような心情基準でもって奉仕しあいながら、ずーっと導いていくというと、刺激的な生涯に、衝撃的な変化を来たすんじゃないかと、そう思うよ。 そう見た場合に、あんた達の使命は実にすばらしい。アメリカの新しい伝統的心情基台を望む以外に道がない。先生はそう思う。 今からまずもってアメリカの心情的基準をあんた達によって模範を示す、ということが君達の立つべき、確かな態度だね。だから口を開けるな。それかといって、むっつりしたみっともない格好するな。いつも語りたいような思いをしながら、見ただけでも目つきから、唇を見ても何な希望的な話しかけるような表情でもっていかに忍んでいくか。 みんな強い顔しているからね。見ただけで逃げるような強い顔をしているよ。態度はそうじゃないようにできるね。思いによってそうなるんだよ。それから、人間というのはね、怒るとか気持が悪いという環境に立つと非常に病気のようになるんだよ。怒りの気持とか、周囲が気持悪いようになった場合、これは細胞にも良くない沈澱物がたまる。それは医学的にもそんなんだ。だから憂うる者、苦悶したり悩む者は病気にかかる。自然的な計画だ。ひとつひとつつっかえていたものが大きくなって、それが遺伝して病気のようになる。 だからできれば人間は内心からほがらかに、皆なに向かい合わせる顔つきや態度のすべてがいい気持ちを持つようにね。それは人間生来の生活に出てくる実に重大な態度なんだね。そうやっていくと自分の顔も変わってくる。だから昔、日本の侍がひげなどはやしてね、そうすると表情が変わっていく。表情が変わっていくに従って自分の表情も変わっていく。だから宗教の必要さはそこにあるんだね。 そういう環境にあるんだけれど、変わらない目標に向って今日自分の環境の開拓をしていく。開拓して変化していく自分を発見しながら喜ぶところに宗教性がつくられていく。それはすばらしいんだね。だから人が何と言っても、人が抗議するような立場でも、自分が黙々としながら、未来の天国の理想を理実にいかし消化、浸透していくか、という生活の楽しみ、おもしろみを発見していくところに宗教生活の強いところがある。普通の人はそれができないんだよ。一言を聞いて気持悪く反発をするのは合理的な観点だから、そういうような生活環境では、希望とか満足とかを絶対得られません。 大きい人になる しかし、我々はそうじゃない。それは大きい目的を持っているから、その大きい目的を動かすには、大きい人でなくちゃならない。その大きい人になるには、大きい苦悶とか鍛練の道を通過してこそ、大きい目的を消化しえる。 それで統一教会に於ても、日本にしても、韓国にしてもそうだよ。人は沢山いなくても、その者たちがいかなる苦難にもそれを忍びきっていくか、勝利の基台を残し、苦難を克服して消化の基台をいかに残していくか、それを一般の人はみている。歴史もそれを狙っている。イエス様一人を考えてみてもその時代からみた場合は国難をひきおこすような人、国賊の一人みたいな立場におかれて、十字架の露として落ちていった。それをみた場合、実に一つの限られた狭い部屋に起ったそういう事件だ。それがいかに世界的になったか、という問題だね。問題はその死んだ者を見たときには、あれはあれでおしまいだと思ったんだけど、しかし、そうじゃない。その苦難のどん底に陥って全てがそれに反発、全てがそれを嫌う立場に立つべき人間であるにもかかわらず、イエス様はそうじゃなかった。そこが偉いんだね。皆に対して反発せず、全てを神と共に消化して行ったというところ、そこがあるからね。いわゆる、それは流れて行ったんじゃない、苦難とともにぶつかって、これに砕けて行ったんじゃない。苦難を乗り越えて、それを抱擁して行った人だったから、歴史の中で、ローマの兵士であっても、これに抗議に砕けたんじゃなくて抱擁してしまった。イスラエル民族にも、抗議されてそれに砕けるんじゃなくて、皆な消化しえる基台を残して行ったそれがすばらしいんだね。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.29
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「使命を持つ」1975年3月16日ベルベディアにて 使命圏の拡大 人は誰でも、任せられた何かの使命を持っていなければ、それはかわいそうな人間である。どこで、どういうような使命を我々は持っているかということを、人間である以上は考えなければなりません。 君達が、もし家族の一員であったとするならば、その家族においても、その使命が、その使命を任せるには、それに相応した訓練、準備というものが必要である。 家庭だとたら、家庭においての種々な作法とか、父母に対しての礼儀とか、兄弟に対しての礼儀。それから、自分なりに家庭から任せられた何かの分担を持っていなければ、それを任せられた何かの使命を持って、その家庭だったら家庭、家族だったら家族に、全員にどのような影響を及ぼすかというようなその結果において、その家庭におけるその人の位置が決まるのであります。 その家庭を中心として、そういう使命を果たすその者においては、家庭的その重要な使命を、誰よりも重要な使命を持った場合には、その家庭が、その使命を持ったその者に率いられていく。 それと同じように、我々社会において、人間というものは社会生活をやっているんだから、一個の家庭に限られていない。社会性を持っているから、社会において何かの使命を持たなければならない。 我々の勉強にしても、その学校にしても、いろいろな専門的分野というものは、将来の社会の位置を向けて準備するのであります。学校を卒業して、その専門分野についた場合には、その部署において、いかにその使命を果たすか。社会に、いかに影響を現わすかという問題が、その人なりの人格を決定するのであります。会社なら会社、官庁だったら官庁において、その任せられた分野を中心として、それは堂々たる実績、みんなから崇められるような実績を持った場合には、その一人の果たした使命圏というものが、限られた立場から拡大していくのを、我々は知っているのであります。 そうなると言うと、その結果を中心として平均的判断を決めて、その部署だったら部署において、いろいろな位置というものが、一等とか二等とか三等とか、そういうものが決定されていくのであります。 もしも、そういうような結果的使命を果たした結果的価値と効果が現われた場合には、それが現実的、平均的の現実基準において批判するのではなくして、過去とか現在とか未来、これがどういうような結果を来たしたかということを、我々は考えるのであります。 もしも一つの国を中心として考えてみた場合には、その国が発展する国家的復興期、あるいは国家の政策的、あるいは新しい復興を目標とする、そういう期間を設定して総動員した場合、その結果がどういうことになるかということは、各国においてなされているのを、我々は見るのであります。 あるいはこういうような目標にむかって、国民全体が、それを使命感にむけて、これを総進軍した結果どうなったか。どういうような発展に至ったか。 それを、我々はその結果を中心として、それは世界的に飛躍し、あるいは過去、未来に対して、比較して発展の度を高めていこうと言うのであります。 そういう結果的計画を果たし得るには、各人が、国民一人一人が、使命感を持って果たさなければ、その結果に到達することはできない。その結果的目標に到達、国家的計画に到達したか、し得なかったか、ということは重大な問題である。 あるいは、ある基準を設定した場合に、その基準に一パーセント足らなかったということと、一パーセント超過完成したということと、これは天地の差があるのであります。一パーセント足らないのは、これは、消えていく。消えていくようになるんだけど、一パーセント乗り越えたというものは、それは残されていく。 みんなよく知っているオリンピック大会とか、そういうような大会を考えてみた場合に、記録を破る、それが目標であるというんだね。その記録を破るというのは、記録一分だけ、一秒でも、それは記録になる。一秒先でも記録になる。本当は一秒の十分の一でも記録になるんだね。 それを考えれば、一歩先、一歩よけいに踏み出したという問題が全てを決定するというんだね。 そういうふうに考えてみた場合、もしも一秒足らなかった場合でも、それはもうあてにならない。だから基準を越えた時から問題になる。歴史に残る。我々は、こういうような立場から比較、対照して、その観念が正しいというような観念を、持つことができるんだね。 普通は九〇パーセント、あるいは九八パーセント、九九パーセントは誰でもいける。いけるんだね。そういうものはみんな、流れでできる。その基準を踏み越えた時に、踏み越えた所にその価値がある。そういう記録を破るということは、それは、なかなかむつかしい。並々ならぬ問題である。 絶対に必要な訓練 だから、どういう人間でもその目標を決めて、それにむけて訓練し、それに向けて準備するということは、これは発展世界に、発展を願う者においては、これは、絶対的要件である。 だから学生にとっては、試験というものは必要であるというんだね。一般の学生は「ああ、試験をして何にする。それだけなければいいのに-」と、そんな考えだ。しかし試験があるから、そこに向けて、合わせて準備する。だから良い生徒、よい学生を造るには、その学校で、試験をいかに沢山するかということが、良い学生になれるというような結論になってくる。わかるでしょう。(イエス) 「試験なんかいらない。学校には試験なんかいらない」、先生も「試験いらない。試験はどうやってもいい」というように。 それだったら、それはまちがい。 試験を中心として、一般の組織体においても検査とかネ、そういう監督、検査する者がいる。検査、検査ネ。 「ウワア、監督なんか何だ。我々は一所懸命働いているのに。監督なんか何必要だ」それはいけません。 しかし、よく監督し、いろいろ検査をよくやることによって、その基準、最高の基準に近くする方法として、方便としては、それは-そういう制度を作らざるを得ない。 まあ、こういうような、いわゆる、比較対照の結果から見た場合に、ある目標を決めた以上は、押し付ける者が、いるいはやかましく言う者がいなければならない論になる。 夜でも朝でも昼でも、いつでも、こうこうその通りにやれ、やれ。 それ必要と思うの。本当?本当に?(イエス) なぜ?なぜそれ必要? 四方八方から、これは押し付ければ、そこにゆく。いやいやながらも、押されていくようになる。(笑い) そういうような環境に追われて、もう仕方なしに走っていく。 「ハハン、それが嫌だからわしは行くんだ」それはそれでいいと言うんだね。 そういうふうになっている間に、それがい日、一月、一年、十年、三十年たった場合には、こりは厳格なる差異が生まれてきますよ。そうしたら間違いなく、こういうことを果たしていった場合には、必らずその結果が現われるようになっている。それは科学的である。 だから、ある学生がいたら、その学生に対して、いつもいつも「早く起きて勉強せい、勉強せい」と言うような親がいるとしましょう。それだったら、その親に対しても、一年間できても、もう少し早く起きても「早く起きよ、早く起きよ、早く起きよ!」。そうしたらもう、それはもうその親に対して反揆したい思いが、起こるに違いない。 反揆する者にかわって、わしはそれに従って、「ああお父さんお母さん、もう少し早く起きるように起こしてくれないか」という。こういうふうに望む者があったとするならば、二人のその差異というものは天地の差が生まれてくる。それが一年なり二年なり十年なり、二十年になるまでも、親がそう言っても感謝して、「そうともそうとも」と言ってやる者と、反揆してやった者と、どのくらい差があるか。 それで君達は、どのような方法とります?そのやかましくいう父母に対して感謝する方か、反対する方か。(サンクス) なぜ?自分が偉くなるから。自分がそう言われた親よりも偉くなるというんだね。勧めたその者よりも偉くなる。 結局、そういう小言を言うのは、結局はどういうような立場かと言うと、将来自分までも指導してくれ、と言うような、将来自分の責任を、全てを、より高く受け持って引っぱって引き受けてくれと言うんだね。全て引き受けてくれと言うんだね。それだから気持ちが悪くないね。 もし学校の先生から「勉強やれ、勉強やれ」、毎日つつくような先生が居ったとするならば、その学生に対してそれだけ関心を持っているからそうであると言うんだね。関心を持っているから、そういう因縁を残したいからそう言うんであって、勉強もできない者に対しては、そういうこと言ってやらないんだね。 共産主義に対する民主主義 そういう立場から見た場合に、いわゆる後進国家から中進国家、先進国家まで「さあ今から発展しよう」と言う国民があるとするならば、その国民を一握りに握って、そして全て自由を許さないで、これらを一方に追います。そういう指導者があったとするならば、その指導者の命令どおりに喜んでいって、やっていくと言うと、その国は発展するに違いないという結論が、必然的な結論だね。その国民が不平を言わないで、「さあ、行きましょう」と言って、上下共に「一つになって行こう」「行きましょう」と言うようになった場合には、これは素晴らしい。 それに反して、「さあ君達、行きたかったら行け!わしもそうだ」、指導者があるとするなら、国に大統領が居ったと考えてみなさい。その国は滅びる。 もしもアメリカ大統領が「あゝ国民は自由だ-。君達のゆうとおりにやろう」目標もなしに、「行きたかったら行き、行きたくなかっら行かなくてもいい」そういうようにして、どんどん発展するどころでなく、後退するような結果になったら、アメリカはどうする。(ノー)(笑い) 今世界共産主義は独裁政権である。その世界的政裁政権に対して、それに向きあっている我々民主主義、全世界の政権を指導するリーダーは、独裁政権より押し立て、強くその結果を果たすような、そういう基準を満たさない以上は、その民主世界は独裁政権に飲まれてしまう。負けてしまう。それは理論的であり科学的結論である。 それ勝つと思うの?(ノー) 君達の、アメリカの将来はみんなその独裁共産圏に、それはプロレタリア独裁という、そういうような独裁政権に飲まれてしまうのを願うか!願わないんだけれど、そういうふうにはしたくない。 そういうことありません。(ノー) 今のアメリカを見てみなさい。州の政治、州の法規が違うし、中央政府の法規が違う。これはつりあいが非常に難しいことだ。一つの州が強烈に反対したら、大統領はどうにもできない。三つの州が一つになって大統領を反対したらどうする。 将来は、共産党が必ずある州を中心として、州を握って中央政府に反対する時が来るだろう。それこそ中央政府は搾取機関である、搾取の機関である。そういうことを言うんだね。 さあ、州自体が独立しよう2そういう運動を必ずするんだね。 だからそれ自体が、それが、共産主義に食い込まれ、噛みつけられるような条件を今残している、そういうような、世界に類例のない国であると言うんだね。いろんな問題がある。今になってはアメリカの国民を一つに固め、「これ、やろう!」と主張する段階をもう越えてくる。 だが、そういう指導者がどこから生まれてくるか。そういう問題がある。だからアメリカの将来は、アメリカが今世界にむけて何も目標がない。何も目標がないのに、世界に何するか。 今の民主主義はなんだ。世界を救うには生命をかけて救うというような、主唱する民主主義でない。共産主義はその反対に、生命をかけ、国家が亡びても、この主義だけは残さなくてはならない。そういう主張を持っている。どっちが勝つ。 共産主義がもうすでに「自分達は世界を制覇してしまう」という決心に燃え上っているんだね。だから共産主義はみんなアメリカを踏みつぶして乗り越えていこう、それが目標だ。全部が全部が。北韓にしてもそうだし、中共にしてもそうだし、ソビエトにしても、東欧の衛星国家全てが、アメリカを踏み越していこうと、それが目標であるというんだね。 アメリカが唯一の目標である。君たちそれ、知っているの?その宣伝を聞いても解る。北韓の宣伝も“米帝国”ソビエトもみな同じ宣伝だ。“これを殺してしまおう”と言っている。それ知ってる?(イエス) 神の願いは世界の救い それわかりながらアメリカの若者達は何やっているか。(ノー) そういうこと見た場合に、我々はアメリカを中心として、自由陣営にあるキリスト教思想を中心とした、世界的なクリスチャンの前で、その目標を何に正すべきかという問題が、今緊急な問題になってきた。 この共産主義を乗り越え、これを踏み越えていく、そういう世界的目標を決めない以上は、共産主義にやられてしまう。そうでしょう?(イエス) どうする、どうする?そのまゝで良い?そのままやっていけばなんとか? そんなことあり得ません?(ノー) だから、誰かがこういう運動してくれれば、と思わなければならない。アメリカであり、民主主義国世界ではないか。 それを誰がやる。神様がもしもいたとするならば、そういうことをやってくれる者がいるのを願うか、いないのを願うだろうか?(イエス) 神の願う目的は何か。世界を救うことだ。世界を神の懐にみんな引っ張って来るのが、神の目的だ!というんだね。 もしも自由結婚やフリーセックスが邪魔になった場合には、きれいに整備する。自由思想が邪魔になった場合には、自由思想をそのままおいてやればもっとよいのだけれど、それはできない。自由思想だから、こうなっているんだからできるはずはない。 そのできないのを知っていながらそのまゝ残すか、というんだね。 それでも残しておきますか?(ノー) 先生は、ずーっとアメリカ全州を回りながら感じたことは、自由思想自体が、アメリカを滅ぼすという警鐘を鳴らしていることを発見しました。 アメリカの五〇州の中で、第二次世界大戦の時に、戦争に沢山引っぱられた州はどの州かと、先生はみつめてみました。 ほんとうだったら、ニューヨーク州が一等であり、ケンブリッジ州が一等でなければならないのにも関わらず、とんでもない、貧しい、一番北とか、文明圏の一番劣っている州から、沢山の兵士が徴兵されているんだね。 反対だ、反対だ。知っていますか?(ノー)不平等だ! 結局、アメリカを勝利に導いたのは、文明圏に先だって自由を主張する者ではない。市民達がやっている。 本当にアメリカの為に、アメリカの為に自由思想を主張するんだったら、その自由思想を反対する共産主義と闘うには、その先頭だった者がみんな鉄砲を担いで一戦に立たなきゃならないのに、反対をやっている。この国は将来遠くはありません。 統一教会の使命は サアー、そしたら神の目的は世界を救うことならば、各宗派としては、神の御旨の宗派的責任を持っているから、世界を救う、一部的使命を果たそうとする努力はしなければならないけれど、我々統一教会は、統一教会という目的を背負っていくという目的を持っているから、四方八方的、なんでも勝利しなくてはならない。一方だけでなく、東西南北、なんでもやらなければならない。アメリカを救うためには、統一教会のこのメンバーたちは全部が一線に、全部出動命令した場合には、ハーイと言って全部が出動されるかというんだね。 「ウー、それはいけません――。」 そんなことはしませんね?(ノー)それが今から二十年後ではない。二十年後にそういう時がくるとするならば、二十年前から準備するのがいいのか、二十年後になって、そういう準備するのがいいか。(ナウ) それでは統一教会の使命は、どういう使命か?素晴らしい使命を持っていること、君達考えているよ。そうでしょう(イエス) いかにすれば世界を救うか!神の恩讐である共産主義を、メチャクチャにする。(笑い)サタンも滅ぼし(笑い)それは神が世界を救うには、これ三つが問題だ。それが、統一教会は素晴らしく大きい使命を持っているというんですね。 反対するものに追われて逃げていく統一教会か、それとも前進する教会か?(ゴー) 統一教会の文先生は、反対されて負けてきた文先生や?反対するものに勝って消化してきた文先生や!(勝って…) マジソンスクエアガーデンでも、共産主義者も(笑い)旗持って反対し、既成教会も反対した。面白いところですよ。 結局、レバレントムーンに共産主義と既成教会は、一つになって反対した。 そうすると、神から見た場合に、共産主義者はみっともない存在だけど、既成教会の立場はみっともいい立場なの?(笑い)(ノー) では、神様は共産主義を打つと共に、既成教会を打つ、君達を残しても。そういうことできるの?それはやれないけれどね。 方向も知らないで、神の摂理も、神の目的も知らないで行動し、散らばってるそういう群がいくら多くあっても、それはあてにはなりません。 これ、君達が話を聞くのも、これ戦争だよ。戦争。これも戦争だよ。この時にサタンが喜こんでいるよ。“目をつぶれ”と。(笑い)今訓練を受けているんだよ。訓練場だよ。居眠りするのがよく訓練受けてるの?(ノー)横にそういう者あった場合、パンチやるよ。 君達も考えてみなさい。共産主義がなぜレバレント・ムーンを反対して、既成教会もなぜ反対するか。 我々は既成教会と共産主義に対して、直接何も言わない。彼等がこういう悪いことやるんだから、ブレーキかけるんであって。 なぜ、なぜ彼らはそうするのか?(恐れている) 恐れているからです。考えてごらんなさい。キリスト教はネ、これは数億のクリスチャンだ。昔は八億、六億以上を報告したキリスト教。共産圏は世界の三分の一を占領した。そういう大きな群が、レバレント・ムーンをなぜ恐ろしがる? 考えてみなさい。もしもハンマがあるとするならばネ、つよーい鋼鉄で造ったハンマ一つと、軟鉄で数千万のハンマでやった場合、どちらが負ける。(ストロング) それと同じ理屈だ。同じことだろう。ぶつけた場合には、ぶつける程、これはもう散然として、こっちはもうペチャンコになってしまう。そうなの?本当にそうなの?(イエス)君達もそう?(イエス)(イエス)それなら、アメリカに先生いなくても君達責任持ってやるんだね。(イエス)そうそう、それでいい。イエースでいいです。素晴らしいよ。先生ひとつも気持ち悪く思いません。 こう考えてみた場合に、統一教会は、計画すれば成すし、戦かえば勝たなければならない。それは、長い目から見てもそう成らざるをえないというのは、もうーそれは、答えが出る。君達そうなの?(イエス) さあ、それでは先生が、サァー目をそこ向けーっと。全部向くんだね。それ、アメリカ人、日本人、ヨーロッパ人、遠い世界でも同じだよ。向くのは直線か?曲るのを願うか?(ストレート)直線を願うのをわかるんですね。(笑い)それ答、答が出るよ、ストレートと。 我々の目標はどこですか?ストレート、直線的に引く、どこにいてもこう、むこう向けて。どこ?でも、こうまっすぐに行く。君達はどう、君達どう? では、行くのはまっすぐにいけるか?(イエス)太平洋もあるし、大西洋もあるし、ロッキー山脈もあるし、いろいろあるんだね。(イエス)そういう時には、外回って行ってもいいんだよ。(笑い) しかし、目玉だけは-目標だけは-変わらない。便所行っても目標はこういうふうに……(爆笑、拍手)。結婚式に行っても、目標はこういうふうにして、ウェーディングマーチしながらも……(爆笑) だから統一教会は、千八百双の結婚やっても、韓国様式でやっても、目標はこうやった。(笑い)それ何が悪いや、何が悪い!それいいか、悪いか(ノー)天から見て世界一ぴんだ、世界一ぴんだ。たとえ日本が反対してもやる。日本全国が、「あゝ、レバレント・ムーン追い出せ、絶対結婚できるか」。それでもやる。堂々とやる。 誰が勝ったの?彼らが勝ったの?先生が勝ったの?(ウイ) 先生は、みっともない格好を沢山見ました。昨日まで反対していた者達が、連れてきた婿さんや花嫁が素晴らしいからアハン (笑い、拍手)(ストレート)なぜ、なぜ? それ、目的完成する可能性があるから簡単だよ。それは、目的が完成する可能圏の道だからです。目的に行かない道がいくらあっても、イージイな道であっても、それは、いくら努力してもゼロだ、ゼロ。 先生から言うならば、なぜに二十四時間しかないの?なぜ二十四時間しかないの。三十時間ぐらいあったらいいのに。(笑い)五〇時間ぐらいあったらいいのに。二十四時間に八時間寝るのを誰が決めた!(笑い) 誰が決めたんだろう。考えてみな!わからない。わからない者が決めたんだ。 そういうようにやるの、そういうようにやるの――。そういうようにやったの――。そういうようにやるべきなの?((Going there)…(笑い) それじぁ今まで何もしなかったのかな(笑い)(ノー) みんながノーと言うの一人しかいない。みんな答えない。みんなの者は今までそうじぁなかったと言うことだ。(ウィ ハブ ビーン ゴーイング ナァウ)(笑い) そうしたら、ここ向くのは二十四時間向けて走るの?。もう、二時間走って休むの? それは悪魔の子が、悪い人間が決めたかも知れない。我々が一番嫌がる者が決めたのかも知らない。我々の一番嫌う者がね。(笑い) そういうふうに考えた場合に、八時間寝るとは気持ちが悪いよ。そういうふうに考えれば気持ちが悪いよ。四十八時間寝てもいいではないか。何が悪い!統一教会の食口たちは、先生が決めたとすれば、もうもう、実に喜ぶだから、今から、そういう決めてもいいんじぁないかとも思うんだね。(笑い)(イエス) 今年の目標は天国実現 サタンはそうである。サタン世界は二十四時間毎に八時間ずつ寝なさい、と言えば、我々は寝ないで君達の領土、寝る所を占領しに行くんだ。気持ちいいでしょう。それでもいいではないですか。目標に向かって、速く完成するの願うの、遅く完成するの願うの?(アーリァ) それから君達は、目玉もむこう、口もむこう、耳もむこう、足も手もむこう、全身全霊の方向を統一してはなれない。(イエス) 今までそういうふうになっていたの(ノー) では今からりましょうか?もうやらないでいいでしょうか。(ドゥイング) 君達願う?(イエス)願う者手をあげて――(ハイ) それなら今から、それ決めますよ。そしたら、決めたよ。今決めましたよ。 そしたら、そういうふうに決めたら、早く行くの願うの?遅く行くの願うの?。誰かが教えてくれるのがよいか、誰も文句言わないでいいの?どっちがいいの。 そんなに忙がなくてもいいじゃないか。それとも早く行け!早く行け!。どっちがいいの。 ここにそうやって、先生の話を聞きながら、こういうふうに眠っても、そのままにして黙って許しておくのがいいの、これ引っ張り出してパンチをつけるのがいいの?(笑い)(パンチ) 答えはそういうふうにしても、パンチをつける時、ここやるのいいの、こっちやるのいいの?どっちがいい? 目玉をやるか、こっちをやるか。(笑い)どっちがいい?どっちがいい?(笑い) 答えて、どっちがいい?どっちがいい?(笑い)そうなったらもう眠りなんな逃げて行く。つばをつけて、(笑い) 話として、そういう話になりますね。そういうふうにして監督して、押し付けるのがいい。もしも不平を言うとするならば、これはいかれません。 ここで問題をひとつ提起しましょう。君達を指導していく立場に立っているのが苦しいか、引っぱられていく者がもっと苦しいか?・(リーダー) それはまちがいない。君達はどこでも逃げて、疲れた時にはもぐりこんで休むことができるが。(笑い)そういうことみんなやっただろう?(笑い)(イエス) しかし、指導者は、そうするとみんなの目が見る。そうしたら全てがメチャクチャになる。 今年の目標は何か?ジェスイヤー?(ヤンキースタジアム) それは来年の方だよ。今年の目標は天国実現です。それ何か。天国はどこから始まるか。(ヒアー) そう、個人から。それから天国に入るにはその天と地が一つにならなければならない。それを象徴した良心と肉心が一つにならなければならない。そういう者が、そういうものになって、その者は、神の率いるままに、いつでも主管圏に引き入れられる。 じゃ、天国を創るには、その周辺にサタンがザンソし得るものを残したらいけない。君達そういうふうになっていますか。(ノー) だから、それが問題なんだよ。結局は、我々は、自分個人から見た場合に、不平とか不満はない。満足と希望、理想に満たされて、神の目的の方向に進んでいくところによって、個人的天国、家庭的天国、氏族、民族、世界的天国までも生まれてくる。その道にまちがいなく我々は、出発しなければならない。それを決めるのが今年です。天国を買う、天国を買う運動だね。 それなら君達はいくら、腹がへった-、疲れた-。こういう表情が天国の表情なの?(笑い)(ノー) 腹がへった時は、万民に代って自分が腹一食減らせることによって、万民が一食ずつ、霊的には稼ぐんだーと考えて御覧。そりぁ何十、四十億が稼いでいくと考えてみなさい。四十億の人間がネ、霊的にそれ一食分ずつ稼ぐという、それ考えるとね、不平を言って、「これ東洋式だ-」とか言えない。 不平を言うだけあれば、そういうことね。 やぁー、人間と生まれて、こういうような辛いことやるのも、これは生きがいがある。こういう統一教会に入ったら、こういう辛い、こういう辛い思いをすることによって、数千年落たんしてきた神様が、我を見て元気になる、すばらしい時間だと考えると、全てが決まるんだね。落胆してきた神を元気つける。我を見て元気つけて下さい。 それ考えてみれば、素晴らしいものだね。(イエス)だから人間の存在とは素晴らしいものである。考え方いかんによって、天国にも行くし地獄にも落ちてゆく。いつもそう、いつもそう考えて。いかに消化しえるか!いかに克服しえるか!考え方によりいくらでも出来る。「まちがいなく、わしはこの目的のためにゆく!」「生きる」それは「生きる」、そう決めた場合には、全てそこを行ってこそ、これを、こういうようなことが解決するのであって、その過程がいつまでも苦労が残っているということは、こは間違いない前提である。 それを各自やるより、総動員してジャンピングする道があったらいかばかりか。チリヂリ、こう行くより、ジャンピングして、こう行きたいの。 君達個人的に考えたら、みんなこうなんだ。 君達の故郷、お母さんはどこ?恋人は?。アー将来のことメチャクチャに考えてみなよ。 だから、そういう考えをやるに暇がない。みんな引っぱって、一ぺんにパーンとジャンピングする方法を考えざるを得ない。それが早かった場合には、二つのうち、どっちを我々は選抜するか。 各自が行くのがいいの?これ団体として、これ、はしごになってジャンピングするような、そういうこと考えるのがいいの?どっちが効果的と思う。 それ、わかってるんだね。 だから、そういうふうに比較対照してみた場合に、個人個人ないようであるが、総動員して、マジソン・スクェア・ガーデンさして、いい作戦なの?悪い作戦なの?それが多くジャンピングして、メチャクチャにやるのいいの? それから、これより大きくなるのが発展なの?これより小さくなるのが発展なの(グレート)イエース、(グレート) ハハハ……みんなハハハ……、誰でもそりゃ大きくなるのがいい、大きくなるのがいい。だからこの次は大きくなるんだから、ここは何作戦、何作戦?シーと高くジャンピングして、プーとここまで来てファー。 これ願うの?(イエス)それなら誰がやる、誰がやる。誰が先頭に立つの。誰が先頭に立つ?。ワシントンが先頭に立つの?ロサンゼルスが先頭に立つの?(ニューヨーク)「ニューヨーク」(笑い)君達はニューヨーク人だからニューヨーク、ロサンゼルス人ならロサンゼルス、ワシントン人ならワシントンと答えるんだ。(ニューヨーク) じぁ、誰が-。ニューヨーク?(ニューヨーク)先に立つと風が強いよ、風が強いよ。そんなことで風が強いんだよ。それでもいいの。(イエス)早ければ早いで、こっちは熱くなるよ、とけるよ。それでもいい?(イエス) それでもいいと言うならば、そういうふうにやりたいという話だね。それでもいいという答えは、そういうふうにやりたい、そういうふうにやりたいという答えは、そういうふうにやってくれ、という話かね。(イエス) 君達が願うんだったら、今からやりましょう。やりましょうか、やろうか、やりましょうか。やろうか、やりましょうか。誰が、誰から始めるんだ。(ニューヨークー) それから速い玉になるの?今から言いますから、今からやる。じゃ今から、さあ、今からやるように決める者は手をあげ!オー、オーライ(笑い)それ君達決める。だからもう先生はながーい棒でも持ってこうやる。 ニューヨーク教会に行った場合には、一人もいないから、長いもの振ってもいいという話だよ。 永遠の記録を そういうふうにして、こっちも第二の目的、我々第二の目的にむかって、今日の話の題目は“使命を持つ” ここにおいて、もしも百パーセント超過か、百パーセント未満か。 二十万人動員、二十万、二十万動員だよ。二十万。これを超えるか。マイナスかプラスか。一つの差は天地の差、天地の差。 ニューヨークの言論界が、そのマジソン・スクェア・ガーデンにおいて、レバレンド・ムーンが大成功したと言ったの、小成功したと言ったの(グレースヤクセス)大成功?(イエス) そうだったらここは何倍する何倍する?ヤンキースタジアム?ヤンキースタジアムの何倍する。それは回数が大きければ大きいほど、最初にウー、アー、倒れるよ。 君達空手を知ってるネ。日本にいる韓国人の大山という男、カワラ50枚をワッ、切っちゃうね。それどういうふうに切るか。精神が問題だ。水を打つようにパッと-。水を切るようにね。切れないと思えば切れないよ。切ろうとすれば切れる。 サァー各人が二十万問題ない。問題ないといえば問題い。問題あると思えばあると言うんだね。だから君達自信を持て!それで自信ある?(イエース) 自信あるの?(イエス)自信を持つんだ!持つんだよ。自信を持つよ「じぁ、それどういうふうにするか。それをなすにはわし一人でもニューヨークは一日一回、十回以上回るんだ。そう考えてみるんだ。もしも一回で足りなかったら、精神がそれ以上やる。足では一回で回れなくても、精神では十回でも回りたいような思い。 だから昨日より今日はもう少しやるんだ。明日より明後日はもう少しやるんだ。毎日記録やぶり、一人ずつ一人ずつ――って行く。一人ずつ。一人が二人、二人が三人…どんどん増していき、それだったら問題なく、これは回ってゆく。 マジソン・スクェア・ガーデンでアメリカで記録を破ったその人が、今歴史に現われて来るよ。それからヤンキースタジアムで、これ記録破った、何人つれてきた、という数が、ちゃんと歴史に残るであろう。 そうそう、ヤンキースタジアムのその写真を見るごとに、自分は記録を破った、とするならば、英雄になるよ。英雄。統一教会の英雄。天の神様がいかに、神様といっても、それを認めざるを得ない。 それからワシントン大会まで、先生の七年間のアメリカにおいて、これは本が編集されるだろう。 それなら君達の、記録を破った人はどうなるだろう。それから統一教会の伝統をたたせるのに、その人の名前を中心として、それは今後の教育の標準になると言うんだね。大きいもんだ。すばらしいもんだ。 さあ、経済活動した者は、その期間にどのくらい稼いだか、みんな統計がでるだろう。それは公けに世界に、これが拡がるという場合に、「オーこんなにもやったか。恐ろしい程の記録を持っている」。サタン世界は完全にもう「オーもうおしまいだ。この団体に対しては、もう競走もできない」という。 ペチャンコになるような記録をたたせたいか、誰でもできるような記録を残したいか。 先生の考えは、永遠にして、いかなる歴史にも、こういうことがあり得ないという決定的なレコードを残したいというのが先生の思いである。何故か。先生が直接率いる以上そうならなければ、我々は歴史的に面目が立たない。それ理解できます?(イエス)そういうような偉大な使命を、今ここに、今朝、君達に任命する。絶対、今までの記録は後に時間時間に、それはプラスさせることはあろうとも、それはマイナスにさせることは、自分には絶対にないというような覚悟を、今から確信持たなければならない。成功に向けて、ワシントンに向けて我々はジャンプする。 これが失敗したら次も、第二回も失敗するだろう。先生はアメリカ作戦をストップするかも知れない。そんなことが起こった場合には、アメリカの将来がない。 マッチとすれば、君達はそのイオウをつけたそれで、これは二つにつけあうことによって火がつくという、そういう立場である。火をつけるのにのろのろしてはいけない。そういう使命があると思いまして、日本に発つ時より以上の決意を固めなければならないこの瞬間です。もしもそういう者がいた場合には、一瞬に引っ張り出しておかない。それ約束しますか。(ハイ) 模範を示せ! マジソン・スクェア・ガーデン以後の、あなた方の気概が、これはもう昇天するような、その思いでもって、明日に希望の太陽が上がるような、見れば見るほど、思えば思うほどすばらしいようにならなければならないのに、それにもかかわらず、反対に、くたびれた、そういう重りをつけたようなことだったら何もならない。どうですか?日本のメンバー。それやれるかい。(やれます) アジアの恥だと思って! どうせ統一教会の発展はアジアから来たんだから、君達はここ、伝統をたて、素晴らしい天に功労を積みに来たんであって、世話になる為に来たんではありません。 そういう観点から考えてみた場合に、今アメリカにいる西洋の食口が、日本に行ってやるよりも何倍もやっても、あんた達はそれ以上面目をたたせるという、そういう自覚を持ってやらなければならない。やれるかい!(ハイ)やれる者手をあげ! 何故君達をニューヨークに連れてきたと思うの。なぜ?昨年の十一月からずっと集合するように命令したのは、こういう作戦の準備です。 もしも、そういうヤンキースタジアムに勝利しなかったら、今月の七月。短縮すればする程、それはマジソン・スクェア・ガーデンとそのヤンキースタジアムが、時間が近い程それは効果的であるんだね。だから日本のメンバーが、今からそういう覚悟でもって、今まで自分達の願うように天的な大目的を中心として、我々は任命された使命が、いかばかりか大きいかということを自覚しなければなりません。 神山はいないの?神山。あれはかわいそうよ、かわいそう。神山ね。先生に会うのに面目ない姿ね。四月まで三千人というような先生の厳命を受けたにもかかわらず、これなんだ。これなんだ。それで生きている、生きている。死を覚悟して、そういう使命を果たすのに、全力を捧げてもなさなければならないにもかかわらず、今の状態は何もならない。伝道は日本人が責任持っているだろう。そうでしょう。(ハイ) 経済活動はアメリカ人がやっているよ。今。君達を先に立たしてね。自分達よりも何倍もしてくれると思って、皆後でもって経済活動する経済を使いながら、今は遊び、食いの無実績な、そういう結果でもって、これ足りると思いますか。 だから、今から君達は命を捧げる覚悟をして、このニューヨーク市民全部が、君達に感動するような行動を果たす以外に道はない。早いうちに、君達の仕事を、それを受け継ぐような人達を早く伝道する以外に道はない。全ての責任は日本人が持つんだ。ニューヨークの今度のヤンキースタジアムの作戦に失敗したら、これは日本人のため。アメリカ人がいなくても。我々同志でやる。自信を持て! この期間において、アメリカに引っ張られるような者がいたら、もうアメリカにいても必要がない。さっさと帰れ、帰れ!わかったの?(ハイ) 先生の面目はつぶれた。なんだ、日本人を連れてきて、アメリカの先頭に立たして、こうやっている。 今では韓国の青年でも、政府が不平を言う段階に入ってきている。「今までの韓国、優秀なメンバーに切りかえて、アメリカ人と携えてやれ!」と言っている。 だから、そういうようなアジア的使命を日本自体がかかえているということを考えて、アジアの面目のために、白人のために、白人の世界で、破竹の勢いでしなくてはならない。 わかったの?(ハイ)わかった?(ハイ) 君達のこの間のワークショップ、それで足りると思うの?君達の責任だよ。そんなんだったらみんな直ちに帰してしまう。帰しても何もしらないアメリカ人を教育してやった方がましかも知れない。君達は数からして倍以上になっている。 日本の教会長も何人かいるじぁないの。それを聞いて、今度新しい体制を立て直して、整えていると聞いて、先生は衝撃を受けた。このような者達を信じて、何も出来ないではないか。 国際機動隊から見ても、一週間に三人以上連れてこなければならない。今、一人ずつ連れて来ることをやっているんだよ。一週間に一人食口つくる運動、そのためには、三人以上修練しないとできません。各自そういうような決意、一週間に三人は死力を尽くしても、ワークショップに送る。こういう決意を持たなければならない。 それはエバ国家の使命だ。エバ国家の使命。エバは天使長国家を救ってやらなければならない。君達解っているじぁないの。アダムとエバが一つになって、アメリカを救ってやるのが、それは原理原則の使命です。だから君達は、寝ても起きても、日本を代表している。一億民族を代表している。先生は韓国を代表している。 二人が一つになってアメリカを助ける。その使命を果たすために、いかなるアメリカ歴史においても、西洋人がなし得ないことを、先生は短い期間に果たさなければならない、というような覚悟で、生命をかけてやっている。記録をたてなければ。それなのに君達は……。 それで足りると思うの。女の子、日本の女手を挙げて。男、日本の男手を挙げ!!。女がたて。女が一所懸命やらなくてはいけません。特に女が、その女に負けないように働きかけなければならないのが、日本の男だよ。この期間において、この大会を通して短期間に、我々はアメリカにきて、アメリカの伝統を、生きた伝統を立たすことによって、世界を短期間に復帰させる、そういう原動力がここに植えつけられる。短期間に。 わかりましたね。(ハイ)わかったね。(ハイ)わかったね。(ハイ)日本人がやらねば、今日本の国内のどんな団体も、どんな日本人でも出来ないようなことを、ここで果たして帰らなければ、君達は面目ない。本当にない。 もしもこういうふうに、この三年間にヤンキースタジアムとか、マジソン大会とかを君達が中心になって勝利した場合、君達は世界的になるんです。世界的になる。世界が君達を待っている。日本が世界的になる。我々は、世界的に宣教を通して知れわたっているように、君達は、日本から最初にアメリカに活動したメンバーだとするならば、君達は、どこでも歓迎されますよ。 それなると思うの?(なります) もしも、ヤンキースタジアムとかワシントンスタジアムとかが成功した場合、写真でも撮ってやろうと考えてきました。それなのに、希望も何もメチャクチャになった。 もし、勝利したら、その写真一枚が、後孫、日本全国、世界に、万民に渡って、誇るべき賜物であるというんだね。その反面、何の実績もない者は、これは、とんでもないことになる。 こういうふうに、そんなに、君達を重要視しているという、その自信を忘れてはいけません。先生は君達の活動はみんな、ちゃんと知っている。しかし、今のところは同情できません。だから知りながら知らない振りし、見ながら見ない振りをしている。そして、つき出して、その勝利の目的におす以外はない。 そういうふうにして、言葉で言わなくても、アメリカ人がこの素晴らしい伝統を受けて、自動的に受け継いで、自分達も日本人に負けないようやるんだ、というような伝統を残していった場合には、アメリカは自動的に救われる。そして、アメリカから、世界は自動的に救われる。あなた達が帰る時には、着物だってみんな脱がして、先生は帰してしまう。そのかわり、先生は、先生の金でもって着物を買ってやる。アメリカの一切を使わないで、そのまま残して帰したいのが先生の思いです。何の話か解りますか?(ハイ) 先生自体も、アメリカで使う金は、アメリカから借金負債しない。先生の金でもって、先生が稼いだ金でもって使う。そういう考え持っている。 だから清い、清い伝統を残していかなければならないのが、我々の使命である。 今、そういうことやる者に、アメリカは、日本人に反対し、文先生に反対している。 しかし、歴史を通して解る時が来るであろう。そしたら、ひざまづいて来るだろう。 天的な基準を我々はたてていかなければならない。それはアメリカにとって貴重である。アメリカ歴史を変えても、これを残さなければならない貴重なものである、ということを知っているから、これだけ残した場合には、アメリカはそのまま神の方にひきつけられていく道をさぐるであろう。そう考えている。 わかりましたか?日本のメンバー。(ハイ) 今、日本では君達に負けないような働きをしている。 それを考えてみた場合に、君達、今までのような生やさしい考えはいけない。だから先生の主張は君達の主張である。先生の願いは君達の願いである。 恥ずかしい、面子とか体面とか、それはどうでもいい。そういうようなこと考えて、敗者、失敗した者に、負けた者になった場合はどこにも訴えるとこありません。 我々は、こぶしを握って決意を新たにしなければなりません。 わかったの?(ハイ)それに決めるか(ハイ)それやりますか?(ハイ) さあ、やろう!アメリカ人に模範示さなければならない。 どれ神山はどうしたか?今まで何やったか。気合いをかけるつもりだよ。 出来なかったら交代するよ。君達が出来なかったら、ドイツのメンバーに切りかえる。 できなかったら、サンフランシスコのドイツのメンバーにきり換える。 君達がもしも、それ果たせない、そういうふうにあっさり後退したら、ドイツのメンバーにきりかえる。 ドイツもそうだ、ドイツも。君達の相対的準備をやっている。 だから君達は失敗するかも知れない。先生は失敗してはいけない。そういうような考えまで、計画まで、先生はやって君達に注目している。それ、あなた達は忘れてはいけません。 わかりました?男達!ポール・ワーナー、神山をやっつけよ!“やれ、やれ!先生は激励するよ。やれ、やれ!と言う 彼らは、日本をやっつけるんだ。そしたら君達が――やらなかった場合には、それを率いていって、先生の目的を果たす。準備をしてるよ。 どうしますか?ニューヨークをロスアンゼルスと日本と交代したらいいの。 先生は今日、本当は昨日だね、韓国へ行こうと思っていたんだけど整備とか、いろいろな問題があるから、一度ブレーキをかけ、杭を打って行かなければならない。先生は遊びに行くんじゃない。韓国行って、総指揮して勝利基台を国家的に造るために大講演会を持たなければならない。その間、先生が帰っても帰らなくても、君達は決意した、その決意の目的のために前進することを覚悟してもらいたい。約束するの?(ハーイ)手をあげて!オーライ それなら先生は今から安心しよう。今、日本人は全国に散らばってるんだけど。今度はニューヨーク中心として、総合して、ニューヨークの合戦、ニューヨークの大戦にヤンキースタジアムの大会に総動員して伝統的精神をたて、基準をたて、尽くして行くという覚悟を、先生は信じてみよう、信じてみよう。 緊急な作戦を サアーそ思えば、日本人は自分達として、約束しただけ責任持つと言うんだから、アメリカ人として責任を持つ、そういう覚悟をしなければならない。そうだったら三倍は働くのが、自然的結論である。 そういう責任持つの?アメリカのメンバー(イエス)アメリカナンバー手をあげて、そういう決意する者は。おろして。 サアー日本の食口はそういう活動すれば、アメリカの食口はどうするの。日本人に追いついてゆくの。日本人に先立ってやるの?(ゴーヘッド) アメリカのメンバー達は、何倍苦労しても、それは感謝しなければいけない。不平どころじゃないよ。口を引きさいてしまう。不平する立場に立っていないよ。不平言われるの?(ノー) 黙々と働く日本人は小ーさい。日本人はかわいそうじゃないの。(イエス)外国からやってきて、いつも休まず、こうやっているの、かわいそうじゃないの。 今日の、我々の任された使命、もう任せられている。ヤンキースタジアムといこの期間にジャンピング作戦して、ワシントンまで一、二年以内に、二年以内にだよ、二年以内にこういう、もうすんでしまう。 任された使命を、これは果たし得なかった場合はどうする。(死にます) 日本式だだったら、切腹して死んでしまう。そういうこともしなければ威信たゝないよ。そういう覚悟でやらなければならない。こうナマナマしい、そういう作戦ではありません。昨日みたいに今日も、今日みたいに明日は、いけません。そういうような自覚を持って、これを、任せた使命を死んでもやらねばならない。共同運命を持っている。 それからーワシントンまで。この作戦で勝てば、ワシントンでは自動的に勝つ。それらは心配しなくても。全てに整える。先生は問題にしません。 いつも歴史は、二番目がむつかしい。だから、第一番目のマジソン・スクエア・ガーデンを勝利したから、二番目をいかに越えるかと言うこと、先生はここに、いつも心配している。 だから団結して、アメリカ人と日本人と、一つになって、一つの玉みたいに、撃つ大砲の玉みたいにして、それむけて、それむけて、爆発する。わかりましたね。(ハイ) なぜ、こういう作戦をするかということ、少し話して終わりましょう。 こういう作戦を緊急にしなければ、長びけば長びく程、我々が非常にマイナスになる。 既成教会は、統一教会文先生は、統一教会メンバーいくらもないということ、みんな知っている。リンカーンセンターから出発した時も、みんな信じなかったね。よくもよくも勝利したということ、みんな認めるんだね。 一ぺんに、アメリカニューヨーク、レバレンド・ムーン、有名になったね。あの団体はどうなるだろう。 サアーそれから、ヤンキースタジアムは十倍だ。十倍に近いことをやろう。これをやる!。十倍! 一般の人から考えてみると、それは不可能です。今度は、レバレンド・ムーンは失敗すると、みんな見ている。一般はそう。既成教会は、まあまあ、まあまあ、待ってみよう。待ってみよう。そうした場合、その上にまた、ワシントン大会という大ふろしき。もう一回待ってみよう。今度のワシントン大会では必ず負ける。必ず失敗する。 君達考えてみなさい。キリスト教をローマン・カトリックが、いかに人を殺したか、君達知っているだろう。新教の者を沢山殺したろう。今もそういうのがある。今、アイルランドには、旧教と新教と中世をかけて戦っている。 そういうような歴史を持ったその者たちが、統一教会が出てきたら黙っていると思うの。 各キカンには、既成教会のメンバーがズラリと並んでいる。これがみんな反対し出す。それを考えなければならない。それは大勢にとって攻撃し出した場合には、もう遅い。 各国に連絡して組み合わせる。その期間が必要だから、その期間内に、反対する前に、もうすんで、勝利して、そういう旗をもう得てしまった。 天宙的使命を自覚せよ そう考えてみる時、天の摂理が天の摂理の勝利が、この三年間に結集されるという。もしもそれが延び延びになって、アメリカ的反対、白人全部が反対することになった場合には、大変なことになるから、こういう緊急作戦を講ずるを得ないんだね。それは愛すれば愛する程、そういう結果を来たさないような作戦を組まなければならない。防衛作戦を組むのは当然だね。 それ理解できる?(ハイ)三年間だね。一九七五年から一九七六年七七年まで。この期間のまん中に、アメリカの二百年祭がはさまれている。これは素晴らしい転換、転換期だ。 アメリカは、今は何が心要か。強い、霊的、強い指導者の、英雄的指導者が必要だというんだね。英雄的な、アメリカは金もある。力もある。軍事力もある。全てをかなえているんだけど、精神的力がぬけてるから大変だ。それを誰かが注入してやる。緊急なる切迫時期入って、誰もそれは、政府、FBI、CIAも、それを認めるようになってきた。 アメリカは数多くの民族が結集してる国。誰も収拾できないよ。キリスト教があったから、こういう国が可能だったが、没落しつつ、今はどうにもならない。そういう所に、強烈な、結果するキリスト教の文化基台、精神的力を持った場合、再びこれを一つにすることできるから、それは必ず必要だ。それがなかったら民族的分裂、みんな分かれてしまう。絶対一つになりません。 今までは、キリスト教があったから一つになってきたんで、これがみんな分かれて、バラバラになってしまう。だから国自体も、これは神がなくても、キリストの名前でもって、神があるという競争しながら宣伝せざるを得ないような国です。アメリカは。 そういう基準から見た場合に、我々統一教会があまりにも素晴らしい。全てを全てを備えているんだね。そういうふうに考えませんか。あんた達。(イエス) だから緊急作戦は、これは最高の作戦だということを、これは理論的には、君達は認めなければならない。 成しとげるか!成しとげられないか!これは、我々は二つの結輸においてとりつける、ということは、我々の努力にある。じゃ、どうしましょう。 自信ある?(イエス)自信あった者は神に誓って、この時間を終わりにしましょう。 もし勝利した場合には、八十年代には、統一教会の行くところは、それは世界的勝利になります。第三次七年路程を終えれば、我々は伝道しなくてもいい。それが我々に任された、先生がはじめて、君達に任した天宙的な使命であるということを、我々は自覚しながら、先生の話を終わりにいたしましょう。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.29
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「対人関係」1975年3月9日ベルベディアにて 神の願う人間関係 我々、人間は、誰しも、好んでも好まなくても、人間世界の環境に、接していかなければならないのが、人生なのであります。 人間は、常に、自分を主体として考えていきます。例えば、二人の人間がいても、それぞれ、自分を中心にした考えを持ちます。そういう環境の中にあるので、我々は、一度に全体を把握することができません。 我々の心自体が、自己防衛の壁を築き、そこからだんだんだんだん、広がっていくのを知ることができます。男と男の間においても、女と少女の間においても、男と女、大人と子供、若者と老人……全の関係において、そうなっております。 人間関係というものは、実に、むずかしいものです。もし、神様がいたら、どういう関係で、人間関係を結び合わせるのでしょうか。これは、問題です。 関係を結ばない、というような関係で、人間関係を結ぼうとするか、全てをオープンして、人間関係を結ぼうとするか、どういう立場でしょう? 全てをオープンして?(イエス)何故? それは、神様が全知全能だから、全てを御存知で、知らないことはない。全能だから全てを防備することができる立場に立っているから、全く、不安を感じる立場ではないのです。 しかし、サタンに対して、神様はどういう心で接するでしょうか。人間に対しては?あるいは、万物に対しては?。これは、神様にとって重大なことです。 もしも、神様が、何ら信用できないこの人間のように、心を閉ざして、責任を持たない存在であったとするならば、サタンが、神様に対して、人間をザン訴することができると思いますか。どうです。ザン訴できると思う?それとも、どきないと思う? 今の摂理から考えてみても、もしも、人間が間違った場合、サタンは、いつでもザン訴することができます。サタンがザン訴する時、神様が、それを聞くと思いますか?。いつでも聞いてやらなければならないのです。全てを聞いているのです。そして、六千年の人類歴史を通して、サハンのザン訴する全てのことを聞いて、それを訂正し、なおす為に活動してきました。 ザン訴されつつきた神 そういう神様の立場を考えてみるとき、本来、讃美され、栄光を讃えられるべき神様でありながら、讃美されることもなく、ただ、ザン訴され、歴史を通してずーっと、サタンからザン訴され続けてきました。どんなに考えても、考えても……いかばかり、ザン訴されてきたことでしょう。 それは、サタンだけではありません。人間から考えてみても同様です。どれだけ、神を讃えたことがあるだろう。それどころか、不満だらけです。あなた方自身、そうでしょう。神様がいるのに、何故、こういう世界なのか。何故、こんなに不幸や、嫌なことが多いのか、神は助けてくれないのか…などと、いろいろな不幸が多いと思います。 ザン訴の極みの中に立って、ずーっと耐え忍びつつこられた神様です。あなた方も、また、そのザン訴圏の中にあるとするならば、一体、この人類歴史を通して、本当に、神の栄光を讃えた者が、一人でも、いたでしょうか。 そういう人が、一人もいないとするならば、神様は、サタンに会いたいと思うでしょうか。また、人間に会いたいと思うか、それとも、会うのは嫌だと思うようになるでしょうか。 もしも、人間に会うのを嫌がり、恐れるというようになったとするならば、神様は、我々人間が、神様に対して、栄光を讃えることには関心を持たれるが、依頼したり、要求したりすることに対しては、神様は、どう思われることでしょう。 ああー、我を助けてください、という、我々の言葉を聞いた時、神様は、どんな気持になるでしょう。 気持ちがいいでしょうね?(ノー) どんなに気持ちが悪いことでしょう。 もしも、君達が、そういう立場に立った場合、どうな態度を取るでしょうか。蹴っとばして、追っぱらってしまっても、「祝福してちょうだい。祝福してちょうだい」というふうにしてきたら、どうするでしょう。 神様だって、殺してしまいたい、という思いになる時もあるでしょう。毎日、毎日、そういうふうに続けて来られたら、大変です。そう考えてみた時、可愛想な神様か、それとも、既成教会で信じられているように、栄光の神、喜びの神様でしょうか。実に、可愛そうな神様だということを、知らなければなりません。 全てを自分の責任として そういう悲しい神様でありながら、この人類歴史上、人間との関係を続ける為に、誰が努力してきましたか?。せれは、言うまでもありません。人間ではありません。神御自身です。 神様が、人間関係を自分の方に高めつつ、将来の希望の一日を望みつつ、忍び忍んで、この道を続けてこられたから、善の世界、宗教圏を拡大することができたのです。これは、間違いありません。 神様は、自分が絶対者だから、絶対責任を持って果たさなければならない、ということになるわけです。人間に対して、もともと、親子関係を持つように、絶対者の神様が決めたんですから、それを絶対的基準として、完させるために、今まで、努力してこられました。 どんなに悲しくとも、苦しいことがあっても、これは一時のこととして、流してしまわなければならない立場です。そして、人間や、サタンに対して、不満を持つ以前に、自分の責任を果たそうとせざるを得ません。 人間も、サタンも、神様御自身が造ったものだから、造ったものがそのようになったのは、結局、そのものの責任とするより、造った自分の責任として、責任を持っていかなければならないのが、神様の立場であります。 サタンも、人間も、悪くなったものです。悪くなった者が良くなる道は、あなた方は持っていません。 将来、指導者になりたいと思う者がいたら、こういう話を全て、記憶しておきなさい。大衆を指導していくのに、必要な話ですから。今までこういうことを考える人は、いませんでした。あなた方、こういうことを考えたことがありますか? だから、全てに対して神様が責任を持つことになります。 ザン訴する人達は、自分が嬉しいから、ザン訴するのではありません。だいたい、ザン訴というものは、幸福な状態から出てくるものではなく、不幸な立場にあるから出てくるものであります。その不幸を、除こうとして出てくるものです。 あなた方も、時たま、不平を言うことがあるでしょう。その不平は、同僚に対する、ザン訴の一種です。また、縦的上下関係にある、お父さんなどに、不平を言うことも、ザン訴になるんです。それ自体が、不幸な立場であります。 希望は再創造 このように堕落してしまった、人間やサタンを御覧になる時、神様は、どういうようになさろうとされるだろうか、ということを、考えざるを得ませんでした。 それで、神様は、先ず、自分が責任を負わざるを得なかったたのです。もし、神様がサタンと同様に、人間をザン訴するようになったら、大変なことです。そうなったら、全智全能の神様が、そのままにしておくはずがありません。全て、殺して、滅ぼしてしまうことでしょう。そしたら、終まいです。 神様においても、皆んなを殺して、なくしてしまおうというふうに、考えたことがないだろうか、それともあるのだろうか。 例え、考えたことがあっても、その度に、これではいけない、と考えざるを得ませんよ。あんた方も、何かやる時、こうやったら、こうなり、ああやったら、ああなる、と考えませんか。神様も同様です。 法律において考えたことは、法的には、ひっかからないんですね。だから、神御自身も、考えざるを得ません。 もしも、人間とサタンを、滅ぼしてなくしてしまったら、どうなると思います?そうなったら、神様は、希望も何も、持つことができなくなってしまうでしょう。そうなったら、実に悲惨なことです。いるより、もっと悲惨なことです。 だから、しかたなしに、苦労しながらも、再び、再創造しようという思いを持つのが、その方が希望的ですね。それを成さざるを得ない神様の立場であると一度決めたら、それは、永遠です。 希望を成すには、何を為さなければならないか?再創造しなければなりません。再造するには、何十倍、何百倍、何千倍失敗しても、やる!と。 だから、一度決めた以上は、続けなければならないのが、神様の立場です。神様は、いく度も、そういう立場に追い込まれ、苦労されてきたに違いありません。 神様の希望を成すためには、先ずもって、あなた方を、ザン訴の立場から、解放してやらなければなりません。誰がやります?神様がね。人間がするんじゃありません。何故かと言うと、人間自体には、人間自体を救う力がありません。堕落しているから。 だから、神様は、全てに対して責任を持つのです。こうして、責任を持つといっても、悪い結果をもたらすような責任ではなくして、良い結果をもたらす方面において、責任を持とうと、決めざるを得ません。 悪い方面へ行った場合には、何千回と繰り返してでも、良い方向に進ませてやりたいということが、神の決めたことだから、そういうことを、歴史過程において、続けてこなければならなかったのが、神様の立場でありました。 そういう希望の立場に立って、救ってやりたいという神の思いがある所に、黙っている者よりは、自分を祝福して救ってください、と言う者があったならば、先ずもって、その者に、手を伸べざるを得ません。 同情から許しが 神様は、全ての責任は自分が持つ…というような基準は、この堕落した世界、宇宙に、また、堕落した人間、あるいはサタンに対して、神なりに考え出したタイトルであります。ああいう、悲惨な結果になってしまった責任が、全て、自分にある、と思うところから、初めて、同情というものが生まれてきます。救ってやるには、義務的に救ってやる、というのではなく、心から、救ってやりたい、という心情にならなければならない。それが、どこから出発するかといった場合、それを追求してみる時、責任を持っているという観点に立ってこそ、同情することができるようになります。 同情心が生まれてきて、そこに初めて、許すことができるようになります。それ、理解できますか。だから、先ずもって責任を持つこと。ああいうふうになってしまったのは、自分の為だ!。可愛想に、ああいう悲惨なものになったのは、自分に責任があるんだと、全てに同情する。同情心が生まれてきたら、許すことが可能になります。 親が子供に対して、全ての責任を持っているので、誤ちを犯した場合、それは、全ての親の責任だと思うところから、愛するようになって、許しの心が生まれてくるのです。 神様は、世の中の全てに、責任を持っておられるんだから、あなた方が、自分の責任を神に預けた場合、神は嫌と言えますか?全てを神に任した場合には、それができます。全てを任すだけではなく、愛してください、同情してくださいと言えば、ああー、それもやってやろう。また、罪があった場合には、許してください、い言った場合、それもやってやろう、という答が可能です。 神様、私の責任を持って、全てを許し、全ての怨讐を防いでください。と言えば、それも、やってやろう……と。 もしも、そういうお方がいる中にいたとすふならば、あなた方は、実に幸福者といえます。いくら罪人であっても、神に反逆し、ザン訴されるような、立場に立っている者であっても。神様が、宇宙に対して、内的決意を御自身から宣宣言した基準があるから、その全ての罪、全ての失敗があっても、神に許しを願うことができるということを思ってみた場合、人間というものは、実に幸福なものであります。 それによって、神様は、善なる主体になれるんです。何故かというと、この宇宙全ての、サタンであれ、神様を排斥しては、ザン訴することのできるものが、何もないからです。背負いきれないような責任を負いきれないような責任を負い、同情し得ないものを同情し、許すことのできないものを許す、そういう存在が。 だから、神様は神様なのです。わかりましたか。そして、今まで歴史を通して、相対圏に対して、こういう立場で、ずーっとやって来られたということを、我々は伺うことができます。 もしも、神様が怒って、復讐したとするならば、この宇宙に残るものは、何一つありません。しかし、自分の先祖だけは残るであろう、という自信のある者、手を挙げて?一人もいない一も。 親を愛する子供の道は こういうことにより、神様が、善なる位置を維持してきた根源であるというおとを、我々は、知ることができましたね。もしも、地上の人間でありながら、こういうような立場に立つならば、それは、間違いなく、神様の友達であります。そればかりでなく、神様に似ているから、間違いなく、神の子供になるでしょう。 そういうような点から、ずーっと、歴史の偉人、聖人を検討してみた場合、世の中に、こういうような思想を持って、生きていた者があるでしょうか?そういう人がいたであろうかと考えてみても、これにパスする人はいません。 アメリカ建国の中心である。ワシントンではどうですか?パス?藻第?(ノー)。リンカーン大統領は?(ノー)。釈迦は?(ノー)。孔子は?(ノー)。マホメットは?(ノー)。イエスは?(イエース) イエス様が、十字架の上にあぱて、なされたことをみた場合、そこには、全ての責任を自分が持つという観念が行われました。十字架の上に、自分に釘を打つローマの兵士は、怨讐中の怨讐である。それにもかかわらず、君達の為す罪も、全て、自分に責任があるのでという思いがあり、とりなしの祈りをなしました。 責任を持つという立場に立つと同時に、永遠の地獄に落ちていくであろうと思う、同情心があったから、許してやるという思いが、このようにして、出てきたのであります。 こうしてみた場合、歴史上、こういう思想を持った人間は、イエス様以外にいませんでした。だから、そのイエス様を、神様が最も愛し、また、最も神に似ているから、弟、あるいは、子供であるという思いを、持つようになったのです。 だから、神様は、イエス様を通して、世界に祝福を与えたいと思わざるを得ません。それ故、歴史過程を通して、キリスト教が発展せざるを得なかったのです。だから、また、そういう人であぱたとするならば、人間誰でもが、歓迎されざるを得ない立場であるということは、言うまでもありません。わかりましたか?あなた方も、神様の子供になりたいの? 神様が、堕落世界において、神様としての権限を持つようになったのは、堕落したものを、愛するからです。堕落したものの、全ての責任を持ち、許して愛するから、神様となっていることができるのです。 そう考えてみた場合、我々が、神様の全てを受け継いで、我々自体も、そういうものになれば、神の子供になることができます。簡単なことです。そういうふうになるなら、そういう結果に到達するのは原則です。 対人関係の教訓は、責任・同情・義務 こういうところから考えてみた場合、神様は、どういう人を探すかと言うならば、結局、全てに対して、自分が責任を持つんだ、という人を探すかと言うならば、結局、全てに対して、自分が責任を持つんだ、という人を探しているのです。――自分は、罪深い立場の者であるけれども、今から、責任を持つような人間になります――と言えば、神様は、いけないなどとは言いません。 あなた方はどうですか?今からでもいい。今からでもいい。どんなに過去の罪が多くてもね。今から、間違いなく、全世界の責任を自分が持つ、と言えば、神様は、ウン・やれそして、それを願っているのです、それを。 そういう責任を持つようになれば、、神様と同じように、全てが自分に責任があるんだから、悪い結果が出てきた場合、自分がやれなかったから、こういうことになったんだ、とね。 神様が、数年間の歴史に、再創造の力を投入したと同様に、責任を持って、投入したと同様に・神様が、ずーっと続けてやりながら、壊けることがなかったと同様に、私もあなたに対して、再創造の力を永遠に投入するんだ者が、ああなったのは、結局、自分が先に責任を持たなかったからだ。今まで、責任をもって、やってこなかったのだから、と思った時、可愛想に思われてきて、同情心を持つようになるんです。 全ての欠点を、全ての誤ちを、許してやれる。十分に、許してやれます。その反面、直ちに、率直に言った場合、全てを許されるが、我々の立場ではないでしょうか。そういう観点から、自分を批判してみなさい。自分を観察しながら、批判してみなさい。自分を観察しながら、批判してみなさい。みんな、そうなっていますか?(イエス) こういうように思うことは、実に偉大なことです。神様も、よくも、こういうふうに考えてくれたものだ、と思っているに違いありません。こういう考えが、神様の思想であると共に、これは、メシヤの思想でなければならないという、結論をくだしても、間違いありません。 この三つがあったら、世界が一つになります。それは、可能だと思います?(イエス)。だから、今朝の話の題目は、対人関係ですゝ 対人関係の、最高の教訓は何です対人関係の最高の教訓は何です!責任・同情・義務。 先生は、昔、こういうことを考えました。このようにやれば、世界は、私のところに集まるだろうという結論を、くだしたことがあります。そう思いたすか?(イエス)。文という人が、もしも、こういうふうに、生涯を終えていたら、歴史をさて置いてでも、こういう思想の主を、残すようになるのであしょう。 君達も、それと同じ立場にあります。もしも、こういう立場に立って、勝利したとするならば、全世界を自分のものにします。もしも、女として生まれていたならば、旦那さんが、そういう人であってほしいと、全てを犠牲にしてでも、そういう旦那さんを持ちたいでしょう。 幸福感を味わうことでしょう。そういう国民を持った王様がいたとするならば、一番、幸福な王様です。 もしも、統一教会のメンバーが、そういうものであったならば、宗教を代表しては、文先生が、最高の幸福者になります。もしも、宇宙の人々が、そういうふうになったならば、最高に幸福な神様であります。 悪いところに責任を持って それで、もしも、あなた方が、アフリカに行った場合、後進国家の全てをみて、ちょっと待ってくれ、私が救ってやるから、というふうになればね。 その国の悪いところは、自分が責任を持つんだ。良いところより、悪いところに責任を持つんですね。神様と同じように。神様は、今まで、良いところに責任をったことがありません。全て、悪いところを、自分の責任とされました。そういう伝統を重んじる自分として、悪いところを紹介させて、責任を持っていくのです。こういう悪いところは、いつかは、私の手で正してやるのだ、という責任を持っていくんですね。 統一教会の文先生は、あなた方のような若い者達を集めて、一件、何をなすのか、と言いますと、それは、全てのことに対して、責任を持つような人間にしたいという思いで、集めたんです。良いところに対して、責任を持つのではなく、悪いところの責任を、国を代表して、責任を世界を代表して、喜んでやるように。だから、あなた方のやっている事は、並々ならぬことなのです。 その道が、神様に帰る、一番早い道です。神様は、今まで、良いことに責任を持ったことがありません。絶対、ありません。だから、もしも、あなた達が、良いことに責任を持っていくようになりたいと思うなら、それは、神と反対の立場に立つことになります。一番悪い事に、自分が責任を持っていくなら、神様と同じ立場に立つことになり、早く、神様に帰ることのできる道であります。 イエス様が“生きんとする者は、それを失い、死なんとする者は生く”と言ったのも、全て、こういう原則からみた場合、当然なことであります。“自分の友のために、命を捧げる者は、これ以上に勝る愛なし”という言葉も、全て、こういうところから言えます。 倣慢になるのは、神様の敵である。自分を中心にして、高くなろうとするのは、敵になるというんです。謙遜になれ!、犠牲になれ!。神様の仕事に、同調することのできる者にさせたいから、神様は、そう言わざるを得ません。 こうきいうような立場に立った、個人とつき合っていった場合、その者は、完全に占領する。家庭において、そういう立場をとってきた場合、その家庭を全て占領する。国に対して、そういう立場を続けていった場合、その国が服従する。世界に対してそうした場合、世界が服従する。これは、原理原則として、神様がわかっているから、今まで、忍びに忍んで、受けてきたのです。 こういう思想を持っていたならば、不幸が言えますか?(ノー)。あなた方も、そういうふうになりたいの?なりたくないの?そういうふうになりたいと思う時、早く、そういうふうになりなさい、と励まし、注告してくれるとするならば、ありがとうございます、と言わざるを得ません。 ザン訴されて蕩減復帰 もしも、そういう決意を持ったとするならば、その決意が本ものかどうか、反対される度毎に、真剣になってきます。神様もそうです。結局、神様が、本当にそうなのか、それとも、そうでないのかと、サタンがテストするために、ザン訴してくるとのであるというふうに、神様は感じているのです。そっと知ったら、全てが解決します。ありがたいことです。 どんなにザン訴されても、果さなければならないという思いを持って、六千年の苦痛を、忍んできた神様の道は、涙なくしては、やっていけない道でした。そして、サタンが反対しても、神が、その反対に動かない場合、そこに蕩減復帰が、なりたぱていくのですゝ そういうふうにして、ザン訴があればある程、だんだんだんだんと、サタン世界から、取り返してくるのが、神様です。だから、先に、悪い心を持って、ザン訴、攻撃する者は、必ず後では支配されてしまうという、結果になります。 サタンが、ザン訴してきた場合、神様が、それに対して動じない時、逆に、サタンが神様に支配されてしまうようになります。 だから、友人同志にしても、一人が、相手に、何の罪もないのにザン訴された場合、それを忍び、乗りきった時には、ザン訴してきた場合は、支配されてしまいます。 統一教会に対して、みんなが、いろいろ反対していますがそれも、今、神のみ旨を果たすことにがなるか、それとも、サタンの方向に行くか、二つのうち一つを決めなければならない時だからです。 反対されても、それを乗り越えたきた場合、支配する立場に立っていくという原則から、我々、統一教会は、神のみ旨を果たす為に、その反対を、乗り越えていかねばなりません。 さあ、結論を出しましょう。対人関係において、こういう思想を持っていくならば、そういう思想を持った国、あるいは環境は、栄えていくのは、当然であります。 もし、そうなったならば、あなた方は、神様と、変わらないし、イエス様と変わらない者になるという結論になります。 そういう人になりたいの?(イエス) そういうふうにやると決意する人、手を挙げなさい。(イエス)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.29
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(MBT-002-日本語) 真の父母様と共に歌う孝情の歌一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.28
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2日目 天の父母様聖会 天寶家庭孝情証詞大祝祭2021/08/29 09:40に公開予定です。真のお母様のみ言(2021.08.29 韓国語)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.28
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「家庭生活の真の模範」1975年3月7日ベリータウン修練所にて 西洋の豊かさと、東洋の精神 この世界を眺めてみた時に、アメリア人やヨーロッパ人は、兄弟姉妹がいなくても、東洋の人が感じる程、淋しいとは思いません。東洋では、子供たちが学校に上がれば、親に、兄弟姉妹に、目上の人に忠実でなければならないと教えられます。しかし、この国では、そのような事は教えられておりません。あなた方が小学校で学ぶ時、孝行せよ、と教えられたことは少なかったと思います。親でさえも、子供を愛することに、非常に関心があるようには思われません。 親や兄弟姉妹を愛する妨げとなっていることに、生活の中での、物質的な豊かさがあげられると思います。食べるものは豊富で、日常生活には事欠かず、この国では、不足しているものは何もありません。だから親や兄弟のことを考えなくて済みます。 しかし、韓国や、他のアジア諸国では、飢えということの真の意味を人々は知っております。親は、食べ物がありさえすれば、自分が飢えていても、子供のために、それらをとっておかねばなりません。また、親孝行の子供は、おいしい食べ物があると、ただちに親のことを思い、自分で食べずに、それらを親のためにとっておきます。そのように彼らは、情的に結ばれているのです。 この国では、物質的豊さは当然のことと考えられております。食べ物は十分にあり、生活に事欠かないので、親や兄弟のことを思う必要がないということは理解できます。それは、親、兄弟のことをそれ程気にとめない理由の一つであると思います。 例えば、韓国では、着る物を買おうと思えば、お母さんは、他の家族のために働いたり、縫い物をしたりしながら、時には一ペニーずつ貯蓄をせねばなりません。それも一年に一度、あるいは二、三度衣類を買うために、貯蓄をせねばなりません。その衣類を身につける時、その背後には美しい物語があり、お母さんのことを思い出さずにはおれなくなります。兄弟姉妹の間にも、美しい情的な結びつきがあります。とくに、年上の兄姉は、妹や弟の世話をし、妹や弟のために貯金をします。 しかし、この国では、物質的な豊かさに恵まれているので、人々は、そのような情を親や兄弟に対して感じません。それを当然のこととして受け取っています。例えば、子供を育てることは、親の義務であり、責任である、というふうに受け取っています。あなた方の両親は、あなた方を小、中学校へ楽にあげることができるので、あなた方は教育されることの価値をよくわかりません。 しかし、韓国や他の貧しいアジア諸国では、親は子供を学校へあげるために非常な苦労をせねばなりません。だから子供達は、教育されることの価値を知っています。しかしながら、私が親に孝行することについて語っても、あなた方は、深く感動しているようには思われません。 東洋の家庭 ニューヨークのセントラル・パークで、私は時々、年老いた人々がベンチに座っているのをみかけます。彼らは、栄養も十分取っており、立派な衣類を身につけていますが、非常に淋しそうです。彼らのそばに、孫や子供がいるのを、ほとんどみかけたことはありません。彼らは一日中そうして座り続け、夕方になると自分のアパートに引き揚げるのです。彼らは、そこでも非常に淋しいに違いありません。たぶん、夜通しベッドの上で、寝返りをうっていることでしょう。彼らはそういう生活に慣れており、孫たちがそばにいることを、たぶん願わないのでしょう。多分彼らは孫たちはじゃま物だと考えているのでしょう。なぜ、彼らは、子供達から見捨てられているのでしょうか。 韓国では、おじいさんおばあさん、両親は、いつも子供達の家で歓迎されます。彼らは、子供の家を、いつでも訪問することができます。たとえ夜でも、前もってその訪問を知らせなくても、訪問することができます。この国では、子供の家を訪問するにも、電話をして知らせ、時には、子供の許可を得なければなりません。韓国では、親はいつでも子供の家を訪れることができ、もし子供が留守であれば、台所にいって何を食べようと自由です。また、タンスの中から、自分達に必要なものをさがして使うことも自由です。引き出しの中に、たまたまお金があれば、それを使うことも自由です。後で子供に「あなたの引き出しの中のお金をいくら使いました」と報告すればよいのです。それでも彼らは、お互いに気分を悪くすることはありません。このように、東洋の生活と西洋の生活には、大きな違いがみられます。 地上天国を建設するには、どちらがふさわしい方法だと思いますか。東洋でなされている愛を中心とした方法ですか。それとも西洋的なやり方ですか。我々は、親である神の愛の下に、巨大な人類一家族社会を創ろうとしております。誰しも、疑いなく、東洋の思考方法のみが地上天国を建設するために、適用されうると考えるでしょう。 もし、あなた方女性が、両親や祖父母と同居している男性と結婚したとすれば、親に対して義理の娘であり、親、祖父母に対して仕えていかねばならないという考え方を、あなた方は好みますか。それとも自分たちだけで生活する方を好みますか。はじめて、他の家に嫁いだ花嫁として、ただじっと立っていて、他の人を自分のそばに来させ、自分を愛させ、自分に仕えさせることができますか。あなたは、自分の義理の兄弟にむかって「来て、私に仕えなさい」とか、義理の両親にも同じように言えますか。そうすることができますか。あなたは、義理の父母、祖父母と一緒に暮すことを願いますか。それとも夫と二人きりで暮すことを願いますか。あなた方は、義理の父母や兄弟に対して、いつも仕えながら、その家庭に対し、まず僕として生活を始めなければなりません。あなた方は、義理の父母からテストを受け、彼らから承認されなければなりません。あなた方は、義理の姉妹、義理の兄弟、おじさん、おばさん、姪や甥からくるテストを通過せねばなりません。あなた方は、これらすべてのテストを通過し、彼らから歓迎されることができますか。 愛の家族の絆の中にあっては、教育を受けていないものと、教育を受けたものの区別はありません。たとえ、あなたが博士号をもっていたとしても、それは問題になりません。あなた方は「私は医者です。私はこれこれの学位をもっています。あなた方は私に仕え、私を尊重せねばなりません」と言って、自分を誇ることはできません。おそらく最初の六カ月間は、あなた方はベストを尽くし、すべての困難を克服し、その試験を通過せねばなりません。しかしそれ以後は、問題はもっとむつかしくなります。やがて自分の子供ができ、自分の子供をおぶって、その家庭のために、台所仕事をせねばなりません。その上、あなた方は、義理の家族の子供達を愛さなければなりません。自分の子供を愛する以上に、甥や姪を愛し、自分の子供以上に、彼らの面倒をみなければなりません。もし物資が欠乏し、食べ物があんまりないとすれば、そしてもし、あなたが甥や姪に与えようとしないで、自分の子供のために何かをかくしておくとすれば、どんな事になるでしょうか。 食事においても、食べ物が、ある一定量しかない時は、まず祖父母に与えなければなりません。次に両親、おじさん、おばさん、甥、姪、そして最後に自分と自分の子供に与えることができます。着る物についても、同様のことがいえます。あなた方は、そのような情況を、理解することさえもできないでしょう。 あなた方が互いに愛し、他の人に最初に食べさすこと、他の人に最初に着させることを喜んでやれば、愛の絆は、より早く固いものとなります。物資が不足していれば、そのようなことを一層強く感じるにちがいありません。この国では、そのようなことを感じないでしょう。しかし、食べ物がわずかしかなく、家族の一員がまだ帰らず、栄養のある食べ物を分かち合うために、その帰りを待たなければならないとすれば、そのようなことを感じるにちがいありません。 家族の一員が、家に帰るのが遅い時は、家族全員で夜通し、その帰りを待ちながら、床に座っておきているのです。そして遅く帰った人を暖かい場所に寝かせます。あなた方は、そういう情況を理解できないだろうと思います。 東洋と西洋を一つに もしあなたが親であり、父なる神の立場にあるとすれば、神はどちらのやり方を好むでしょうか。夫婦として生きることは、まわりに誰もいなければ、簡単であるにちがいありません。しかし、神はそれを、どのように受け入れることができるでしょうか。 もしあなたが、西洋の生活様式を主張するならば、あなたの両親は、あなたと一緒にすみ、あなたとそのように交際することができません。もし義理の娘が、義理の父母と、一緒に生活することを好まなければ、どうなるでしょうか。彼らは、別々に生活せざるをえません。そうすれば、神様はどうするでしょうか。これは、深刻な問題であります。東洋人の目から見て、西洋人は、無慈悲で思いやりがなく、情的ではありません。物事を義務的に果たしますが、それは、情的に心から愛をもってするのではありません。 私は、あなた方に同情します。何故なら、あなた方は、そのような生活に慣れているので、あなた方がそのようになってきたのは当然だからです。しかし、東洋式、西洋式の二つのうちのどちらが、神の生活様式に近いと思いますか?(東洋!)ということは、西洋人は神から遠いということですか?(はい) また、西洋人は物質的であります。西洋の物質的な人々は、神に近くなるために、東洋の生活様式に学ばねばなりません。それでは、霊的ということは、どういうことですか。あなたの霊性がより神に近ければ、あなたは他人のことを思いやることができます。情感を感じる場合でも、それだけ愛の源泉に近いということです。そのような状態を我々は、霊的、あるいは精神的といいます。 この世界をみると大きく分けて、人生に対する二つの態度があります。一つは精神的、霊的な生き方であり、他は物質的な生き方です。しかしながら、西洋の人々は、少しずつ物質的な生活に飽き飽きし、東洋ではこの反対に、少しずつ精神的な生活に飽きてきております。故に東洋の人々は、西洋的なものを求める傾向にあり、一方西洋人は、東洋的なものを求めています。その結果東洋では、人々は今まで、自分達がもっていたものを見失う危険に直面しており、西洋では、人々は物質的豊富さの価値や重要性を忘れがちです。もし我々が精神的なものと物質的なものをプラスさせるなら、それは、我々が人生の道を進む上において、我々の理想としてすばらしいものとなるでしょう。 愛の秩序 原理からみて、あなた方は、神をどのように定義しますか。神はどのようなお方ですか。あなた方は、物質を選びますか、それとも愛を選びますか。(愛!)あなた方は生命と愛と、どちらを選びますか(愛!)。生命がなければ、愛はどんな意味も、もちません。しかしまた、愛がなければ、生命は何の意味もありません。たとえもし、あなたが感覚をもって生きるとしても、ただ生きているだけで、愛を知らないで、存在しているだけだとすれば、それを生命と呼ぶことができますか(いいえ)。愛や喜びのない人生は、どんな意味もありません。喜びや幸福をあなた方は、望んでいますが、それらは、愛からしかきません。故にあなた方は、生命の価値より愛をもっと尊ばなければなりません。 堕落した世界で、我々は真の愛を見いだすことはできません。物質的には豊富で、あなた方は生命をもっています。しかし、愛がなければ不幸です。故に、愛は生命より重要です。 我々は秩序を明確にせねばなりません。それを知らなければ、社会の秩序は混乱としたものとなるでしょう。それを今ここで明確にしましょう。 神は最初に男性を創造しました。神が男性を創造した時、それは愛から創造しました。レディーファーストに慣れているアメリカの女性達は、愛は女性から来なければならない、女性は、神の次に愛の源泉でなければならないと主張することができますか。愛の源はもちろん神であり、神から男性へ、そして女性へと流れてきます。それが愛の秩序です。すると、あなた方のうち何人かは「どうして神が、男性を先に創造した、と知ることができますか。それは、男性によって創られたストーリーではありませんか」と反論するかもしれません。この点を詳細に説明しましょう。 人間は、全宇宙の表示体です。我々が人間という時は、そこには男性も女性も含まれています。男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。その証拠は何でしょうか。愛の秩序は、男性と女性が互いに愛し合う方法から明らかにされます。 一般に男性は女性を見おろし、女性は男性を見あげるでしょう。それが、神が人間を創造した順序です。すなわち、男が上であり、女は下です。天が上というのは、天は地よりも、もっと神に似ているからです。女性の皆さんにたずねてみましょう。あなた方は男の人から抱かれたいですか。それとも男の人を抱きたいですか。もし、私が間違っていなければ、女性は抱かれることを願っています。抱かれることによって、女性は持ち上げられ、だんだん高くなることができるのです。女性が男性の背中におぶさることを願う時、それは、男性がはしごの役割をし、女性は、はしごを一段一段上っていき、だんだん高くなることを意味します。それは、男が中心的な位置にあることを意味します。体の構造も、また、このことをはっきり物語っています。男性は肩が広く-即ち高い部分が広く、女性は低い部分がより広くなっています。男性が主体的な位置にあるので、いつも男性がいなくて淋しいと思うのは女性です。 愛の秩序、愛の歴史は、愛は神からきて男性を通じ女性にいくということです。愛の歴史は、創造、再創造の歴史です。愛から、神は人間を創造し、人間もまた、愛から創造したり、再創造します。人間は子供を生むことによって、神が人間を創造した如く、それをまねることができます。自分の子供を見ることによって、神が人間を本当に愛から創造した、ということを感じることができます。あなた方が、お互いに愛し合うことにより、神と似たものとなる時、そこにはたえず創造がなされております。アメリカでは、同性同志の愛が流行していますね。それは、最も不自然な愛です。創造された時、アダムに愛すべき対象となる男性がいたでしょうか。エバに愛すべき対象となる女性がいたでしょうか。女性は男性を、男性は女性を愛さなければならないというのが原理であります。異常な愛情関係は、不自然であり、神の創造の法則に反するものです。 愛と幸福の源泉は家庭 人間は、神に似たいという性質をもっています。そして、神に似れば神のように生きたいと願います。あなた方が、最初に男の子を願うか、女の子を願うかは、まだ確定的なものではありませんが、大概の人々は最初に男の子を願うでしょう。それは何故でしょうか。創造の時、神は男性を最初に創造したからであります。 私は、アメリカの女性を理解できません。彼女達は、女の子でも男の子でも気にとめません。私は、今日男の子を連れて、病院から帰ったばかりですが、病院には、女の子が生まれたのを見て、大変幸福そうにしている大勢のお父さん達がいました。これは、私が感じたことですが、アメリカでは息子が結婚することにより、親は多少とも、息子達から虐待されるので、老後は娘と一緒に住むことを願い、娘のところに行きがちになります。これは、創造の法則に反しております。創造の法則は、自分を保護してくれる息子のもとで死にたいと願うようになっています。 人はいったん結婚すれば、夫に従うのは当然です。ミス・キムがミスター・パクと結婚した場合に、ただちにミセス・パクとなります。それなのに何故、気分を害しないのでしょうか。それは何物をも失っていないからです。結婚することによって、人々は相手の家族の遺産を相続し、夫のもっているものは、妻のものとなります。夫の権威、力、すべては妻のものとなります。もしここに、一人の教育のない、みすぼらしい少女が、その国の大統領と結婚したとするならば、彼女はただちに大統領の妻となります。そういう意味で、気分を害するということはありません。 東洋では、親は例外なく最初の子供として、男の子を願っています。そのような見地からみても、東洋の思考方法はよりすばらしく神に近いといえましょう。何故ならそれは論理にかなっているからです。 人々は子供ができれば、親の位置にたつことになります。それは子供に対し、その神の子供の前に神の立場にたつことを意味します。故に人々は、子供を育てる時も、神がするように育てなければなりません。神がするように世話をし、愛さなければなりません。究極的な意味において、あなた方の息子、娘を神のように、神が完全であられるように完全なものとして、育てなければなりません。神に似た人というのはどういう人でしょうか。 神は、力や権威等の象徴であるばかりでなく何よりも、愛の源泉であります。故にあなた方も、自分の子供を他の人々への愛の源泉として育てなければなりません。もしあなた方の子供が、天の父が完全であられるように、完全になるとするならば、彼らは、何をすることを学ぶでしょうか。彼らは、その親の愛を自分の子供に伝えることでしょう。 父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、この三種類の愛があります。この他にはありません。中心的な位置にたつためには、あなた方は自分より上の親を愛することができ、水平的なレベルにある相対者を愛することができ、自分より下の子供を愛することができなければなりません。さらに人類を、自分の兄弟姉妹の如く愛さなければなりません。三種類の愛の源泉は、すべて神であるので、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛のうち、どれを通じてでも、神の愛に至ることができます。何故、この三つの愛が、一つに統一されねばならないのでしょうか。何故なら、我々は三段階を経ることによって、四位基台を完成できるようになるからです。我々は三種類の愛をもっていますが、これらを結びつけるためには、四位基台が必要です。 人々が、そのように連結された時に、絶えざる愛があふれてきます。そして、愛する人がそばにいなければ淋しくなります。愛の源泉は、あなた方の家庭です。あなた方が、家から離れている時、いつもなくて淋しいと思うのは何ですか。家庭ですか、国ですか、それとも世界ですか。(家庭です!)なぜ家庭なのでしょうか。なぜなら、家庭は全天宙の根本的な中心であり、単位だからです。そして、そこに神がいらっしゃるからです。だから、あなた方は家庭を失うと淋しいのです。 神の愛は、四位基台を通じ、家庭のメンバーに伝えられます。神からの愛は、まず親を通じて繁殖されます。もしあなた方が、親から別れるとするならば、それは神から自分自身を切りはなしていることを意味します。いったんあなた方が結婚すれば、あなた方はお互いに別れることができますか。それは東と西にわけることを意味し、神が一つとなるように創造されたにもかかわらず、男性と女性をわけることを意味します。あなた方は、電流の中のプラスとマイナスをわけることができますか。親として、あなた方は自分と子供をわけることができますか。 別れることにより、人々はサタン的となり、一つになることによって、人々は神性をもつようになります。これら三つの愛は、ともに存在せねばなりません。故に、もしあなた方が、自分の親や、相対者や子供と別れるとするならば、それはサタン的な行為です。悪の歴史は、アダムとエバが互いに別れたところから出発しました。悪とは何か、罪とは何か、何が人類の敵なのか。それは統一よりもむしろ分離したことです。統一とか調和は善であり、不和や決裂は悪であります。 創造の原則から、アメリカの社会をみた時、親は子供と別れて暮しがちです。神は、それを許すと思いますか。アメリカの家庭は、このようなやり方で、繁栄すると思いますか。このように原則からはずれているので、アメリカでは、親は不幸になり、家族のメンバーすらも不幸になっているのです。あなた方は、そのような考え方をいだきつづけてきたので、不幸になっても、当然といえるのです。あなた方は不幸になっても当然であり、悲惨な状態に陥ったとしても仕方ありません。 幸福の源泉は家庭であり、家庭は、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛と、この三つの愛をもたねばなりません。すべての子供たちは、親を愛することができなければならず、親は、夫婦間で互いに愛し合い、子供はまた自分の子供に対して愛していかねばなりません。 家庭は神の愛に至る唯一の道 この三つの段階が家庭に存在した時にのみ、真の幸福を得ることができます。それは原理的であり、愛の根本的な基台であるので、我々は家庭内でそのような愛を体恤することによってのみ、死後、天国に行く資格を与えられるのです。あなた方は、愛によって親の元に行く特権を与えられるのです。愛によって、親や祖父母の元に、遠慮なく行く資格を与えられるのです。そのことは、次には、あなた方は、神の元に、神の愛の元に至る資格が与えられているということを意味します。 あなた方は王のところに行く資格すら与えられております。何故なら、家庭においては、父母は王であり、女王の位置にあります。アダムは最初に、未来の全人類に対し、王の位置にあります。神は、全宇宙に対し、王の位置にあります。故に、父母の愛によりあなた方は自由に親の元に行けます。同様に、あなた方は、創造の時に賦与された神の愛により、自由に神の元に行くことができます。 神は原因であるが故に、我々の上にいます御方であり、その関係は縦的です。我々が三段階の愛に発展していく時、たやすく神に至ることができます。神の目から見て、その国の大統領に折衝する資格を一番有している人は、その国を最も愛している人です。 もし、我々が、自分の家族を愛するならば、我々は自由に、神に至ることができ、神の家庭を占領することができます。これは四位基台から説明できます。我々が、四位基台の説を発見することができたので、全世界のすべての問題を解決することができるようになりました。このことは、すべての説の中心です。もし、あなた方が「何のために生きているか」とたずねられたら、水平的なレベルで、兄弟、姉妹のために、縦的には、親のために生きている、と答えることができます。あなた方は、相対者のため、親のために生きているのです。これが、愛によって神に至る、唯一の道です。それはまた、人々の目的であります。 我々が家庭を愛することができないとすれば、我々は他のどんな人とも、愛することができません。我々は、自分の国すら愛することができません。家庭での愛を、より大きな範囲に拡大することが、国を愛し、人類を愛することです。もしあなた方が、他人を自分の兄弟姉妹を愛する如く、他人の両親を自分の両親の如く、他人の祖父母を自分の祖父母の如く、愛することができるなら、あなた方は、神を愛することができます。家庭生活とは、そのような愛を学ぶ場所です。天国とは、あなた方が自分の家族のメンバーを愛する如く、すべての人を愛することのできるような、愛のあふれる場所をいいます。 子供を失った時、人はなぜ泣くのか、親を失った時、なぜ泣くのか。兄弟姉妹を失った時、なぜ泣くのか。それは家庭基盤が神の愛の土台であるからです。そして、もし家庭の一人を失えば、その人を愛する機会を失ってしまいます。そして、失われた愛は、あなたを苦しめるでしょう。あなたは、完全な愛をもつことができません。あなたは、全面的に人々を愛する資格を失ってしまいます。そういう理由から、あなたは苦しめられるのです。それが、あなたを泣かせ、あなたを悲しませるのです。家族のすべてのメンバーは、あなたの細胞の一つにたとえられます。あなたが困った時、あなたは心が痛むでしょう。そして、泣きだしてしまうに違いありません。ではなぜ人々は、結婚することを願うのか。なぜ子供をもつことを願うのか。それは、あなたが試験にパスし、愛によって創造された人になることを願うからです。もしあなたが、愛の法則にパスすれば、あなたは地上天国、天上天国を所有することができます。そして、神を占領することさえできます。神様は、あなたのものとなるでしょう。 真の父母と真の子女 すべての人々が、結婚したいと願うのは当然です。もし、女性が自分の夫を、自分自身を愛する以上に愛したとするならば、彼女は、神を占領し、神の愛にあずかる資格を有しています。もし男性が自分の妻を、自分自身を愛する以上に愛するならば、その人は、神を愛し、占領し、神の愛にあずかる資格をもっています。 もし、あなたが兄弟姉妹や両親に同様にするならば、あなたは、神に所属し、神を占領する資格をもっています。このような理由から、イエス様は「もしあなた方が、自分自身を愛する以上に、兄弟姉妹を愛するならば、これよりも大いなる愛はない」とおっしゃいました。大いなる愛とは、神の愛です。もし、あなた方が、それが真理であるとわかっていながら、それを実行に移さないならば、あなた方は、神の愛から切り離されてしまうでしょう。宇宙の力は、あなたを追い払ってしまうでしょう。そうすれば、あなたは、もはや宇宙のものではなく、神の愛の範疇に留まることはできません。そういう理由から、あなた方は悲しくなるのです。もし、あなたがそのような愛の力と調和し、一つになれば、あなた方は幸福になり、笑いがたえずあふれるでしょう。 両親、祖父母、子供が別れていることは、望ましいことではありません。神の愛の法則に一致することによって、我々は神の国に入ることができます。 これで、皆さんはしっかりした四位基台をつくるということはどういうことなのか、はっきり頭に描くことができたと思います。四位基台は、神の愛の下に調和して、一つになることにより、愛が、より堅固なものとなることのできる土台です。創造理想とは何か。それは、神の愛による、四位基台をうちたてることです。 今日まで、あなた方の家庭には、真の父母のような方がいませんでした。また真の子女もいませんでした。これが神の真の神としての役割を果たすことを不可能にしてきたのです。神は悲しみの神であり、悲嘆の神です。あなた方は、神の重荷を負わせてきたのです。あなた方は、神の愛によって解放されてきませんでした。 人と人を、人種と人種をきり離す国境があり、家庭でさえ、不和や不一致があります。原理によって我々は、四位基台の上に家庭生活を統一し、神の愛により、神に到達することができねばなりません。そして、そこから、それを核にして、民族、国家、世界を編成するために、我々は再び出発せねばなりません。 我々の中に真の父母がいなければ、我々は真の子女を生むことができません。すべては、そこから出発します。神は真の父母として、人類にメシヤを送らねばなりません。それは、神が真の神となり、その力を発揮できるようになるために、人類が真の家庭を建設することを可能にするためであります。神は、いつ真の神となることができるでしょうか。それは、人間が社会の中に真の父母を迎え、真の父母を通じて、神の愛が宿ることのできる、真の社会が建設される時にのみ可能です。真の父母の直系の子供達に、我々堕落した子供達は接木され、全世界を建設していかなければなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.28
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「勝利の限界点」1975年2月23日ベルベディア 不屈の精神で 人というものは、いかなる環境の中にあっても、自分の所属する部内で、勝利の結果を収めたいというのは、当然であります。 一般生活は当然ですが、信仰者にとっての、霊的生活においても同様であります。成功するとか、勝利するとかいうことは、優性な立場に立って、劣性な立場を改めてしまうということです。もし対立して戦いに勝利するには、相手を征圧するだけの原動力が必要です。すなわち、力の関係において均等の立場を乗り越えることによって勝利し、はじめて、目的完成を早めることができるのです。 我々は、アメリカにおける三年間の、このような大作戦の計画を持っております。この巨大なアメリカに、我々の主張を訴えていくことは、容易なことではありません。 例えば、戦争などの場合、敵国の兵力を制圧すれば、勝利が決定しますが、しかし、そこへ行くまでには、微細たる全面的な作戦を組まなければ、勝利することができないのです。そう考えたら、 本当に大変な戦いであります。小さな組織が、それをしようと頑張っているのであります。そのためには、この広範な包囲圏の中にあって、我々一人ひとりが、全ての面において、拡張戦をなしていかなければなりません。それでなければ、今のこのような状態からみた場合、当然、百戦なせば百戦に負けるという結果になるでしょう。兵力、すなわち兄弟の数が多くない上に、実力においても不十分です。 我々は、これを運命づけられた道として、戦っていくより他ありません。数の少ない者として、互いに代理しあって、各人が決意して、与えられた自らの力に挑戦していく以外に道はありません。だから、今の統一教会は、全体の数からみても、あてにならない団体です。結局、各自が責任をもってやる以外にないのです。 そうした場合、そのゲリラ計画は、正常的な戦法を取るのではなくして、相手の弱点、欠点を狙っていくような戦法を取らざるを得ません。だから、ゲリラ戦法を取る者は、先ず、正常な道を行こうとすることはできません。飛躍した冒険的なことをやらなければならないのです。時には、二階から飛び降りてみたり、綱でよじ登ってみたり……普通のことではないのです。そのためには、誰一人できないことを狙ってやる技術を、身につけなければなりません。 そのようにするには、百人なら百人、千人なら千人、万人なら万人制圧する勇気、肝魂が必要なのです。一人でも、やり遂げるという決意が必要です。そのような勇気、肝魂を持たなければ、ゲリラ作戦をきりぬけることはできません。 そう考えますと、統一教会のメンバー達は、このようなゲリラ作戦をなすにあたって、その一員として、いかなる訓練にも耐え得ないことはないと思います。だから、不屈の精神で、いかなる冒険に出合っても、それを克服できるように、内外共に訓練をなさなければなりません。 だから、優秀な人材になるためには、方法、手段のいかんを問わず、全てにおいて、不平不満を持つことは許されません。また、嫌々やって、こんなこと出来ない!……これはいけません。どんなことがあってもやれる!自分ででなければならないという優秀な人材になるに違いありません。大きなことにぶつかっていくようにならはければなりません。 ニューヨークのメンバーから見た場に、これからのヤンキースタジアムの作戦とか、それと同時になしていかななければならない問題を考えてみた場合に、なかなか大変なことだと思われることでしょう。実際に、なかなかやれることではありません。普通の人だったら、みんな後退してしまいます。訓練され、全てを体験した勇士であればここ、問題が困難であればある程、やりがいがあるというものです。そのように考え、決心した者には、いかなる時にも、いかなる場合にも、克服していくことができます。いろいろな作戦をたてながら。 我々は、まだ、家庭的勝利圏の中に立っていないのですから、このような暴険をなす以外に道はないのであります。何故、そのもうなことをするのか。そんなことしなくてもいいではないか。統一教会は、なぜ、そのようなことをするのか、と思われるでしょう。考えてみなさい。今のアメリカを見てみた場合、共産党は、ソ連にしても、中共にしても、北韓にしても、すべてアメリカを狙っています。アメリカを何とかして崩壊してしまおうと。 狙われているアメリカ 共産党が狙っているのは、アメリカにおけるキリスト教崩壊の問題、家庭崩壊問題、また青年達を堕落させて、国あぐいは公的に混乱させようとする青年崩壊問題、この三大問題を目標としています。だから、もう、アメリカにおけるキリスト教は崩壊寸前で、もう再起できそうもない現状になってしまっています。キリスト教が崩壊してしまうということは、アメリカの伝統的精神が崩されてしまうということであります。いわゆる、縦的基盤がなくなってしまった。そして、家庭が崩壊してしまったのです。たとえばカルフォルニアなんかでは、結婚するよりも、離婚する率が高くなってきているというわけです。 このような問題は、いかなる国家的な力でも、いかなる宗教的力でも、その他のいかなる力でも、取り返すことはむずかしいのです。縦的国家的伝統基準のもとに、横的な社会的基盤になっているのが家庭です。その家庭が崩壊しているのです。 たとえ、中心が、あるいは縦的基準が崩れたとしても、その周囲が固まっていたらいいのです。青年達が、横的な周囲を固めて、中心をたたせ、縦的基準をたてていくならば、将来性を危ぶむこともないのですが、その青年達自体がみんな、麻薬にやられてしまっているという状態です。なんでも、ある政府の発表によると、中共の国会予算の六十パーセントにあたる収入金は、全て、阿片製造で補っているということでした。今度のベトナム戦争においても、相当の阿片が密輸入されています。アメリカに帰る兵士達に、阿片を持たせて帰るようにすれば、アメリカ市場において、十倍ないし二十倍以上の利益になるから、帰る時に全員が運び込むように作戦してきたこです。 昔、英国が、中国に対して阿片で、その国の青年達を堕落させ、廃退させるようなことをしてきましたが、今度は逆に、その復讐として、ヨーロッパの青年に対して、同じような作戦をなしてきています。そして、そういう作戦に、アメリカの青年達は、全部ひっかかってしまったのです。 阿片を喫煙すれば、その人はもう、脳を使えない人間になってしまいます。どんな天才的頭脳を持っていたとしても、これにひっかかってしまった場合には、屑のような人間になってしまうのです。 このようにして、アメリカの青年達が、麻薬問題に引っかかっている以上は、これから、想像もしないような種々な問題が、例えば白昼、堂々と強盗が出たり、そのほか、話にならないような盗難事件が、沢山起ってくるに違いありません。だから、ニューヨークなんかでは、夜は一人で歩けないような、恐ろしい状態になっています。それに比べて、韓国なんかは、かえぱて、天国みたいで、そんな心配はありません。 全西の大学は勿論のこと、高校、さらには、小学生に至るまで広が-っているということは、実に恐ろしいことです。あなた達知っているように、ドイツのナチスが、六百万のユダヤ人を虐殺するということがありましたが、これは、それよりも、もっと恐ろしいことです。全てに広がっていってしまうからです。そうしたら、それ以降の子供、後孫などは、全て低脳となってしまうのです。 その反面、アメリカで地下活動している共産党員たちは、それを喫うかというと、正統な精神に入っている者は、絶対に使っていません。結局、サタンも、一つの武器として手をつけず、戦法勝利の目的の為に活用しているのが、麻薬の問題であります。 このような状態では、今こそ世界の中心として威張っているが、十年後をみたらどうなるだろうか。私が、一九六五年にアメリカに来た時と、十年後のアメリカの現実とは、天地の差があります。キリスト教という立場からみても、その他、種々な方面からみても、今は、もう既に、潮水が引いて入るような時期になってきています。 もはや、アメリカが、世界に影響力を及ぼす時期ではなく、かえって、世界の影響力を受けなければならはいような立場になってきています。国連においても、今までアメリカが重要な立場に立ってきたが、今の現状は、共産系が支配するような立場になってきています。そんなことを思ってみても、アメリカの将来は長くありません。 それから、今後、問題になるのは、共産党が地下活動を拡大していくための、本拠の基台はどこにあるかと言いますと、それは、労働組合と、そしてユニオン・ショップという組織です。恐しいことになります。今まで、アメリカの為になったかも知れないけれども、これからは、アメリカを、短期間に亡ぼすことになるでしょう。その背後には、種々なる共産党の組織がはびこってきています。 アメリカを救うのは誰か このような全ての問題、世界的問題、今後のアメリカの将来の問題に対して、アメリカの政府において、果して責任を持って、生命をかけて働きかけるような国会議員が、いるであろうか。アメリカの政策を政策を司っている人達は、この悪の濁流を塞き止めていかなければならないのにもかかわらず、その流れに流されてしまっている。流されゝば流されるほど、宗教的見地がれてしまい、結局は、すべてを失なってしまいます。 そう考えてみた場合、これらの洪水を全て塞き止めて、責任をもって、アメリカの今後の問題に、対策を講じようとする国家的政治家がいないということを考えてみた場合、アメリカの将来は長くないという結論になるのは、当然のことなのです。私は、アメリカの有名な国会議員とか、いろいろな部署にある人達にあってみましたが、世界のこととか、将来を憂うるということより、自分がいかにして、国会議員として長くいられるか、ということを問題にしているのです。正しいこととはわかりながらも、誰もそういう方向に行かないから、自分もやらない…という考えでやらない。それでは、何も務まりません。 だから、今こそ志ある者は、アメリカにおいて、再び青年達を用いて、新しいアメリカの建設を、考えていかなければならない段階に入ってきています。神様がいらっしゃるならば、アメリカが、そういう方向へ行ってくれることを、願っておられるに違いありません。そう思った時、神様の願う新しい方向に、そして、この国を救う道を考えざるを得ません。 それでは、一体、誰を使ってそうなさるのだろうか。これまでのような、アメリカの青年達でもって、救わんとされるとは思われません。また、もしも、外国から援助隊が入ってくるとしても、その軍隊は、アメリカを占領する一群のその軍隊の利益のためになら、働く人もあろうけれども、アメリカ自体のために、自らを犠牲にして働く人は、一人もいないことでしょう。 それでは、この統一教会は、どういう集まりかと言いますと、アメリカそのものから救おう、アメリカを覆っている悪の濁流を塞き止めて、次第次第に、その流れの方向を転換させて救おう、という考えを持っているのは、宗教の中では、統一教会しかありません。各国の青年達を投入して、アメリカを救うとするのは、これが、神の御旨を果たす一つの方法と思うから、このようにやれるのです。 一人が一千万人の身代わりとなって とくに、アメリカの青年として、理解しなければならないことは、世界の統一教会の青年達を投入したからと言って、それらの国が栄えるのではなくして、自らは、弱いながらも、アメリカのためにやるのです。そう思った時に、アメリカの青年達は、それこそ、より一層の覚悟を決めて、これまで、各国の統一教会から援助された人々を、早く帰して、自分達自体の力でアメリカの全てに責任を持って果たしていかなければならはいという、決意を固める強い基準にならなければなりません。 一方、共産党にとっては、統一教会が各国から青年達を投入してアメリカの青年達を教育した場合には、将来、自分達の作戦に非常なさしつかえを期たすということを知っているから、あらゆる方面から防害してきます。そう思った時、アメリカの青年達は、手を握りあって、国内の全ての共産党を自分達の手でもって勝利してしまおうとする固い決意が必要です。そのためには、一人が千万人もの身代わりとなって戦うというように思わなければなりません。 また、アメリカの青年が知らなければならないことは何かと言いますと、共産党の内部では、統一教会のメンバーを追い出すという目的を自覚しあっているということを知らなければなりません。 統一教会のメンバー達を追い出したら、その次には何をしようとしているか、それは、文先生まで追い出そうと考えているのです。レバレント・ムーンがいる、統一教会の青年達を誘致して、いろいろな基盤をつくり、アメリカの青年達を教育して、強硬な基盤を固めていく。そうしたら、将来、自分達が困るとわかっているから、レバレント・ムーンを攻撃しようとするのは、当然のことなのです。青年は、我々のメンバーの一員として入ってくるということもあるのです。 もはや、言論界は、全て、左翼系に傾いてしまっています。だから、あなた達は、理論的に徹して、共産党以上の理念を身につけて、彼らを克服していかなければなりません。世界的な組織をもっている共産党に対して、我々のこの小さな団体が、これから世界的に発展していくには、種々な問題が起こることと思います。だから、実力を身につけなければなぎません。一人ひとりが、共産党を凌駕し、国を救っても余りあるような、そういう勝利的実体者であるという自信を持つことが必要です。今後は、難しい問題が、どんどん広がってくるでしょうから。 理想的な家庭を こういうような傾向を逆に取り戻すということは、これは、容易ならぬ問題であります。そのためには、一人ひとりが、ある部署を担当して、各方面の責任者に体当りをして、彼らを屈服させるような力を持つ者にならなければなりません。共産主義者以上の目的感に燃え、徹底した理論体系を持たなければなりません。そうして、共産主義者達が、思いつかないような理想的家庭を、早く形成しなければなりません。 いくら麻薬を飲んできたアメリカの青年であっても、責任を持って、全国を飲みつくしている風潮を、全て、取り去ろうという、徹底した青年とならなければなりません。だから、自分に任された地域を救うため、積極的役割を果たしていくような者に、なっていかなくてはなりません。問題は、我々自体です。青年から、家庭から、教会から、国から、これらを一線上に引き上げるようにしなければ、この国を救う道はありません。アメリカ全体が、悪に犯されてしまうことはあろうとも、自分が責任をもっているこの地帯は、一点の悪も許さないというような、強硬な者になった場合に、アメリカは、それによって救われるでしょう。 我々は、教会の拠点を拡大するということを中心として活動すると共に、今、祝福の家庭基盤も拡大しつつあります。その祝福家庭を中心として、教会を中心として、社会全体に国家に、理想とすべき基準を早く作らなければ、アメリカを救うことはできません。 勝利の限界点は今 アメリカの青年達、このように、麻薬に占領されつつある青年層を、そこから解放し、新しい、正しい方向に導いてあげることができるのは、自分達であったとわかったならば、早く、青年達を、自分達のような立場に立たせていくのが、アメリカを救う道であるということを、はっきり知っていただきたいものです。 自分一人が崩れた場合、アメリカの何十人、何百人の青年も崩れていってしまうという自覚を、自分なりに、持っていかなければなりません。そうしたら、何一つ不平も言えないし、くたびれた、などと言えないことでしょう。自分一人が不平を言ったり、倒れてしまったりしたら、周りの人達が、その影響を受けていくようになります。恐しいことです。神御自身も、そのようなことはお許しにならないし、また、みんなの批判の対象となっていっえしまうことでしょう。 あなた方自身種々な悪条件の環境を乗り越えて入ってきたのであるから、このアメリカの青年達を、いまだ腐敗の中にある巨大な青年層を引きつける原動力として、また、拡大する材料であると考えるべきでか。あなた方の生活態度や考え方が、そのままアメリカの興廃を決定してしまう一戦であるということを、考えなければなりません。そうすることによって、サタンを妨ぐことができます。 そうすると、今の風潮を塞き止め、消化し、屈膨させていくことによって、アメリカの青年が蘇ると共に、神の世界的勝利圏が生まれてくるのです。そのような重要な意義があることを考えた場合、あなたの成さんとすることは万象が歓声をあげて讃えるような立場にあるのです。 もしも、一人の人物が善化した場合には、その影響圏にある人達が、千名でも、数万名でも続くことができます。あなた方は、今まさに、そういう立場に立っているのであるという、確固たる自覚を持たなければなりません。釣りをする時、餌をつけて何本もたらしたのを、ワイド・ウィンチにつけてあるロープで引っぱるように、自分の道においても、ビクとも動かないような基台が立っているか、基台さえ確立していたら、どんな立場に立っても大丈夫です。どうですか。あなた達、そのようにウィンチを踏まえていますか。それでもって、四方八方を引っぱることができるように。そういう戦いをやっているのです。まさしくそうです。一人の手をつかんで、足でかかえて……(動作)(笑い)しうでしょう?。 そう考えてみますと、限界点は、勝利的限界点は、我々が目で見て、活動する現場であるということがわかります。あなた方もそうでしょう。ある時、ある人から話を聞いただけで、ボーとなってしまって、自分の意志がなくなってしまうという立場に立ったと思います。 問題は自分自身 これから、こうして活動していけば、現実に打たれることがでてくるでしょう。例えば、友達に出会った場合、ああー、昔、学校時代には、ライバルとして競いあったその人だ。あの人と比べてたら、自分はみすぼらしい姿をして……。 しかし、十年前後を見てみなさい。そう思いましょう。十年後に見てみなさいと。こういう緊張が、十年と続いたとしても、私は残る。あなた方は逃げても、私は勝利する。そういう自信を持っていくのです。私自体もそうですよ。いろんなことがありました。 今のこの状態が全てを決定するのではありません。十年後をを考えるのです。あるいは、二十年後を考えるのです。訓練されたから、わたしは、これ以上のいかなる困難な立場に立っても、人の為に祈ることのできる条件を身につけるということです。自分個人のため誇る道からは後退しても、人の為には後退できません。先生は、そのような体験を沢山持っています。今でも持っています。疲れた場合とか、あるいは、何か問題があった場合、すぐそういう思いを持ちます。神に誓った事実は、残っています。自分が決心したことは、最高の決意の絶頂点において誓ったことは、神様は信じていて下さいます。神が存在し、私自身の決意が変わらぬ以上は、わたしがやったならば、それだけ努力したならば、必らず成功するんだ、という思いを持っています。 例えば、腹が減った時、それ以上空いた立場を連想するのです。いろいろ体面とか、威信にかかわるような、面子にかかわるようなことが沢山ある時は、それ以上に癪にさわる、興奮せざるを得ないような時のことを考えるのです。そのようにして、一度決意したその決意を、十年、二十年変わらずに、それを果たすならば、いかなることもできます。そう信じるのです。そうしたら、倍の苦難の道を乗り越えられます。四分の一に短縮する場合にも、倍々の決意を固めればいいのです。だから、これから迎える全ての問題は、対象がいかに強かろうと、どんな悪\C47Fな人であろうと、それが問題ではありません。それ以上の決意とそれ以上の余裕ある希望を持つことが重大なのであります。 そうなったら、君達は若くても、いかなる環境にやられても動じないでしょう。家庭が問題になっても、国が問題になっても、わたしは行きますと。それに対してもしも家庭が絶対服従しない場合は切ってでも、また、国が全面的に服従しない場合、切ってでも行くことができます。しかし、注意することは、神様も、もうこれ以上できないというところまでやってから、来るのです。だから、問題はどこにあるかとい言うと、未来でもない。この現在が問題なのです。 さあ、今朝は六時だ!六時になったら集まれ!……ああー、時間が一時間も早くなった。早くなったから眠くて行けない!、というのでは、それは、もう失敗です。敗北です。 こっちに来ても、ああー……五時に起きるから眠い!(笑い)そのような人は、もしもこれ以上疲れた場合、生命をかけなければならない決戦に臨むような場合には、完全に失敗する。勝つということは、自分に勝つのであって、他人に勝つのではない。だから、自分により高い基準ばなければなりません。今が、その変動期なので、早く、早く起きてやるのです。 だから、今の我々のやっていることは、新しい出来事です。新しい世界が起きた時、自分が自分に勝っていたら、賞賛できるんであって、忍耐とか克服とか言うのは誰がするか。自分がやるのです。自分がやるのであって、他人がやってはくれません。これだけは、ハッキリ言っておきますが、何もしないで、祈りだけやっていればいいという、神様ではありません。百パーセント働きかけた立場において祈るならば、神様は働いて下さるのであって、九十パーセント、八十パーセントくらいやって、どんなに祈っても、長は働いてはくれません。だから、先生はそれを願っております。今度の千八百組の結婚式の問題にしても、短い時間に全てを果たすことは、大変なことです。並々ならぬ問題です。二十四時間でも、徹夜してでもやる!。もしも無理して病気になったとしても、それで本望だ!。頑張ろう!。そのうち、頭も冴えてくるし、目をつぶっていると、どんなことでも、ちゃんと見えてくるのです。無理が通じるのです。 家庭が防波堤 そのようにして考えてみた場合、あなた達は、本当に国の救いに責任を持つか?今後の世界に責任を持ちますか。(ハイ)そうなったら、国なんか問題になりません。 問題を提起しょう。よいことをやってです。先生は、どこへ行ってでも問題になります。アメリカでもやはりそうです。悪い意味ではありませんが。それで、問題は、勝利的限界点は、どこにあるのか? 今です。今なのです。今に砕けるものが、明日に転換の希望はあろません。では、今はどうです。あなた達、自信あります?(イエス) そういう若き青年達が、互いに組みあって家庭をつったなら、この家庭は、自分達だけの家庭ではありません。だから、今度結婚して帰ってきた人たちは、ああー、二人っきりでいたい、というわけにもいきません。(笑い)今度結婚したそのカップルを見ると、男は、そんなに喜ばないが、どちらかと言うと、女は、ああー、口を開けて騒いでいます。そうすることによって、かえって、男がむきになってしまいます。だから、いくら嬉しくても、心だけにしまっておいて、表面に現わさないものです。旦那さんのために嬉しくなった場合、旦那さんが嬉しくなるようにしてから、続いて自分が嬉しくなるようにしなければなりません。自分一人で喜こんでいるのではいけません。自分の相対者を、自分よりも嬉しくなるようにしてあげてこそ、嬉しくなるのが当然です。相対者のことは構まず、自分だけ嬉しがっているのは、まちが-ています。 結婚したからといって、食べたいものを食べ、着たいものを着、掛けたいものを全て掛けよう……(笑い)そうはいきません。それを願うならば、先ず相手に、そうやってあげてからやりなさい。心でも何も、そうしてあげてから。自分一人でやって、自分一人で喜こんでいるのは、それは不公平というものです。 今、この荒れ狂う世界の現状の中にいて、二人で、新しい家庭を作って、この腐敗するアメリカの家庭を全て、錨をつけて救ってやるのだと思った場合、二人が一つにならざるを得ません。後でも、横でも、四方八方どこについていても、一つにならざるを得いように、ならなければなりません。 理想的夫婦といっても、いいものを食べ、いい物を持って、皆に誉められて……、それが理想ではありません。悪いものを食べ、悪い所に住みながらも、理想的な夫婦、どこにも探せないような。それが理想的なのです。今度、祝福された家庭は、この腐敗するアメリカにおいて、我々夫婦は、標準的灯台のようになって、闇を照らし、方向を輝してやるような家庭をつくろう、という決意を持たなければなりません。 こういうふうに、個人が、アメリカの腐敗する青年達の防波堤とると共に、家庭が、防波堤とならなければなりません。家庭を中心として見た場合に、勝敗の限界点は、その家庭です。夫婦です。どこかにあるのではありません。家庭がメチャメチャになった場合には、全てがメチャメチャになってしまうからです。それから問題は教会です。我々の教会は。だから、教会のメンバーは、偉いものです。 親の心情と僕の体で 沢山の人が集まっている教会がすぐに一つになれるというように、た易く思う責任者は、どうかしています。顔がみんな違うように、問題もさまざまあります。特に、西洋人とか、東洋人とか、ニグローとかを合わせた場合は、もっと複雑です。みんなの差異が、もっと大きいのです。これを一つに収める秘訣は何だと思いますか。金?(ノー)、権力?(ノー)、何ですか?(ラブ)愛ね。愛というと、愛とは何ですか。じっとして、“おい、来い”と命令するのが愛ですか。何も語らなくても、感動させる何かが溢れるところに、愛が成立します。我々は、何の為にこのようにして集まっているのでしょう。お金持ちになるため、あるいは権力者になるため、また知識を得るためなのではありません。何かと言うと、神の御旨を中心として、一つの世界を作るため、愛の価値を認めるた為に集まったのです。その為には、親になることです。お父様と同じように、親になりなさい。 統一教会の目標は、親の心情でもって、僕の体でもって、地には汗し、人類には涙し、天には血を流し、そういう精神に徹していくことなんですね。それは、どういうことか。教会の人の為に犠牲になれ!。一言で言うなら、犠牲になれ!ということです。犠牲なるというのは、どういうことか。簡単です。三つに収めることができます。一つは、教会の誰よりも多く働くこと。それから、着る物、食べる物において、粗末なものを食べ、粗末なものを着ても、人には、自分よりもいいものを着せ、いいものを食べさせてあげたい、というようになることです。それが全てです。そういう立場に立てば、誰一人不平を言う者もありません。 そういうふうにして、一つになって、だんだん発展していった場合には、みんなが勝利することによって、自分が権威を持つ、勢力を持つようになるから、問題はありません。問題は、この統一教会が教会を中心としてあらゆる人種、あらゆる民族が、いかにして一つになるか、世界をいかにして一つにするか、また、いかにして社会に影響を及ぼすかということが問題になのです。だから、この統一教会自体が問題なのです。勝利の決戦というものは、教会を中心としてみれば、数多くの宗教会において、統一教会が、勝利的限界を達成するかどうかにかかっているのです。だから、この教会が問題です。この教会の責任者が一つになってこそ、はじめて、国や世界が一つになることができるのです。 個人的に、家庭的に、教会的に一つになって勝利した場合には、この統一教会が、世界的に一つになって、世界に影響を及ぼすようになれば、反対する者はいなくなります。それから、問題は、教会の中心的責任者になった場合には、社会的位置に立って、社会的に影響を及ぼすようになります。そこから、国家的な問題などが起こってくるのです。だから、個人と家庭と教会は、蘇生、長成、完成の立場です。それが一つにならなければ、何にもなりません。 天国は、三人が一つになって 今、一般の様子を見た場合、家庭における宗教は、みなバラバラです。ある者は天主教、ある者は監理教、ある者は統一教会などというように、種々です。それは間違っています。一つの宗教になければならない。家庭になら家庭において、総合的に相談して、よしと思うところにまとめなければなりません。 個人的な面からみても、宗教を持っている人、宗教を持てない人となっているが、宗教人から見た場合には、全ての人が、宗教を持つようになっていかなければならないと思う。そして、そうなった場合には、自然と統一圏が生まれてくるのです。だから、教会が問題になっています。そして、その問題が、教会から四方八方に広がっていきます。 今、アメリカから見た場合、統一教会が問題になっています。統一の家庭、統一の人が問題ではなく、統一教会が問題になってきます。こうして問題になっている環境を乗り越えるには、どこに重点をおかなければならないかと言うなら、一つになることです。いかにして一つになれるか。全ての問題が解決して一つになったならば、これまでの歴史にもないことであり、アメリカ人、世界の人々が関心を持ち、研究せざるを得ないでしょう。 そう思った場合、教会における、白人自体が問題であり、黒人自体が問題であり、黄黄色人自体が問題であります。自分が、白人を代表しているのだ、自分が黒人を代表しているのだ、自分が黄色人を代表しているのだ、と思わなければなりません。それらは、アダム家庭におある八人家族の三人兄弟に相民する。ノア家庭からみた場合に、黄色人種はセム、黒人はハム、白人はヤペテなのです。白人は三番目、三番目だから祝福されたのです。三番目が祝福されたるのは天的です。だから、これまで、白人が世界の中心となってやってきました。 しかし、三番目の子供が祝福されたのは、三番目だけのためではありません。長男、二番目を合わせた三人の子供のために祝福されたのであるということを忘れてしまったなら、白人自身の権威も失なってしまいます。三人兄弟が一つになることによって、父母様に出合った場合に、父母から褒められるのであって、もしも、けんかし合っている場合には、三人共やられてしまいます。 堕落は何かといいますと、父母に逆らい、兄弟に逆らうことによって、エデンの園において、アダム家庭からノア家庭へと堕落していった。それを逆に克服して、勝利的な基盤にたち返るには、堕落と反対の立場に立たなければなりませんから、兄弟同志愛しあって、子供と父母が一つになり、父母自体も、お父様とお母様が一つになるような基準にならなければ、元の、神の理想世界に帰ることはできません。 我々は兄弟です。統一教会とは兄弟といいますね。そうですね。(イエス)横的?縦的?……(黒板で説明) 統一教会は三人の兄弟を一つにして、世界的な家庭圏をつくることを願っているのなら、一人は黄色人種、一人はニグロー、一人は白人……この三人の兄弟が一つになった場合、理想的な兄弟となれるのです。もしも、三人が完全に一つとなって、ああー天のお父様、かつて歴史上に、子供達が一つになった例がありませんでしたが、それを今、全て蕩減いたしました。それで、どこから見ても、神様の子供であるに違いありません。と言うように、三人とも、神様を迎えるように、真の父母を迎えるようになった場合には、天国はそこから築かれることでしょう。 理解せよ!忍耐せよ! 神が、愛の神様であるとするなら、どういう家庭を願うであろうかと言うと、もしも、世界的に、先に述べたような伝統を持った家庭があったとするなら、ああーわたしが願っていた家庭だ、と公認なさるでしょう。 それで、先生は、アメリカを中心として、各国の人を全部創造して、一緒にしようと思っています。できると思います?それができなければ、統一教会の存在価値がありません。そういうものを作ることのできる宗教はどこにあるかと言うなら、それは、一番最後に生まれてくる、神が祝福された宗教であろうと思います。そうなった場合、人類の全ての問題は愛が問題だから、全てが解決されるのでしょう。人間である以上、それを願わない者はいません。人類の全歴史過程を通して、この基準を願ってきているということを考えてみた県合、理想と現実の差を持ちつつここに至り、これを一致させようとしている我々の立場は、考えてみれば、実に恐ろしい立場であります。多くの犠牲を通して願ってきた、歴史の問題が、今、我々の目前に展開して、解決されつつあると思ってみた場合、解決するべき責任分担者において、歴史上にもなかった、より難しいことになるだろうと言うとしたならば、それを成し遂げることはできない、と前もって知っておかなければなりません。それを克服するのに、最も大事なことは、先ず、理解すること。そして、二番目は忍耐すること。この二つです。どんなに悲惨な家庭でも、それを克服していったならば、そこに初めて、歴史にない新しい総合人種的な、理想的文化が始まることでしょう。アメリカにおいては、黒人問題と告発問題が中心になっているから、共産党は、そこを狙っています。彼らの弁証法的戦法にあてはまるような立場だから、これを利用して、一挙に襲ってくることでしょう。それを防備する一つの根本は、我々が一つになることです。彼らは、教会の責任者と教会員は、支配者と被支配者の立場であって、いつも争いになるという原理的論法を持っています。だが、我々は父母と子供の関係だから、父母がいくら拘束しても、子供のためにやっているということがわかっているから、全てを解決することができます。 だから、親がいくら支配者の立場に立っても、被支配者に対する搾取などということはありません。た{・}め{・}に{・}やっているのです。だから、共産党を防備するにも、結局、人類愛でもって、神様を親に迎える以外に道はないという結論になります。 我々は、黄色人種、黒人、白人である前に兄弟です。上下関係である前に、父子関係です。このようにして、問題を解決する基盤ができるならば、アメリカにおいて、我々統一教会を、今はわからないからだが、もう少したった場合には、研究せざるを得なくなるであろうし、また、ここに、法規の全ての基準を適用することを願わざるを得なくなってくるでしょう。 我々は、教会の限界点を拡大して、これまでのアメリカ、あるいは、世界的分野に接触して、最高の指導者と接しあって、納得させていくということが、国を救うということになるのです。だから、伝道隊長になって伝道するのも、喜びの万民のため、国のため、神様のためだから、あなた達が、自分の全身全霊を捧げてやっていくならば、神様は当然のことアメリカの将来が、天地共に、あなた達を証しせざるを得ないと思います。 統一の問題が全て 今朝の話の結論を出しましょう。個人的立場においてパスできるか。家庭においてパスできるか。それから、教会においてパスできるか。社会においてパスできたとするならば、国のためのみならず世界が必要とし、世界の中ばかりでなく、神様が必要とされます。そういう時が今にやってきます。だから、個人においても、家庭においても、教会においても、その勝敗の決定をなすべき基準は、自分自身であるというとを、はっきり知らなければなりません。 だから、個人として勝利することよりも家庭が勝利することが難しい。家庭より教会が難しい。教会より社会がもっと難しい。それを考えてみた場合、自分個人を中心として、自分の家庭を中心として、自分なりの伝統の教会を中心として、全てを反対されてしまうのはいけません。包容的力量を持たければなりません。 だから、サタンは個人的に試練をします。試験があるのです。家庭を中心として、教会と中心として、社会を中心としてあります。先生を見てみればわかるように、個人的に、家庭的に、みんな問題になってきました。あなた達の誰かが、何か間題になった場合、すぐ、統一教会のミスタームーン……と来ます。家庭問題にしても、個人的問題にしても、全てそうです。 それで、あなた方個人的に、アメリカを代表して、政界を代表して立つこができますか?(イエス)それから、家庭的には?(イエス)、そう簡単にイエスとは言えませんよ。自分ということを考えた場合、それはできません。だから、二倍の苦労をしなければならないということになります。それから、教会に対して自信ある?(イエス)簡単ではありませんよ。社会に対して、アメリカに対して自信ある?(イエス)教会に影響を及ぼす者になるのは、家庭において、一つにならなければなりません。家庭に影響を及ぼす者になるには、個人的に立派にならなければなりません。 そう考えてみた場合、我々の生きていく時間の全てが、その為に立っているのです。だから、戦争をやっているのだということを覚えておかなければなりません。個人も戦争のために、家庭も戦争のために、教会も戦争のために、アメリカも戦争のために。そういうために集まったのであると。 そして、戦争に勝つには、一つになるに限ります。統一という問題が全てです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.26
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「地上天国の建設を」1975年2月16日 御聖誕祭ベルベディアにて 地上に神の国を 君達も知っているとおり、先生の生涯というものは自分一人に限った生涯の道を行かれない立場であるということは、君達よく知っておると思います。 先生が行くその道は、君達が追いかけて行かなければならない道だから、先生が行く道にこういうふうにカーブをつくった場合には万民共がそのカーブにならって行くことになる。だから、このカーブの為に数多くの後孫においての犠牲がなされるということを思った時に、それは恵まれない生涯であるということを君達は思うことでしょう。 神の摂理においての復帰路程というものは、時代的において、代表者、あるいは預言者とか特別に選定された預言者を中心として、その行かれた人、預言者が成し得たその個人的、家庭的、民族的、国家的、世界的段階の歩んでいった道を、後孫達はそれは愛して踏んでいかなければならないというのが、これは原理原則になっているのであります。 君達も知っているように、旧約時代におきましてはそのイスラエル民族いわゆるヤコブを中心として勝利したその基台によって生まれたイスラエル民族としては、そのヤコブが行った道を追いついて行かねばなりません。 それからヤコブは家庭の中心のイスラエルの勝利圏をつくったとするならば、それにつけ加えて民族的勝利圏を成し得たのがモーセであります。だからイスラエル民族が民族的編成を成し得た場合には、モーセの法律に従ってゆかなければならないことになっているのであります。 そういうふうにして旧約時代はイスラエル民族を編成して一つの国の基準を正して、その国の編成されたその中心に国の代表者であるメシヤが来た場合に、そのメシヤの伝統を受け継いで民族から世界へと発展するような基準になる訳であったのであります。だからその時代において、国を基台として世界に備える道が開かれたとするならば、イスラエル民族は今のように国をなくし世界のほうぼうに散らばって、数多くの民族に迫害されるような道は生まれるはずではなくして、そのイスラエル民族を中心としてローマ帝国をそれは収拾すると共に、世界を一つにつくった勝利的基準になるわけであったのであります。 そうであったとするならば、イエス様を中心として個人的摂理完成基準はもちろん、家庭的完成基準、国家的完成基準は皆成されるのであって、イエス様を信じる者は、イエス様を受け入れる者は、世界的勝利基台に立つような基準に立つべきであったのであります。だから過去における個人的基台、あるいは数多くの者が氏族の基台、あるいは民族の基台と、たくさんの人が復帰摂理において成した事を、イエス様一代において総まとめにしてイエス様がその勝利の結実体として生まれてきたのだから、その方の行かれた道は歴史的勝利の道として霊肉共の世界的な、いわゆるハイウエイとなるべきであった。 もしもそうなったとするならば、イエス様が再び来る必要はありません。だからイエスが死んだ為にどうなったかといえばイスラエルの民族的国家基準が崩れてしまい、それから全ての外的内的基準が完全に崩壊されて、霊的基準を中心として再び正さなければならないのがキリスト教の二千年の歴史であったのであります。即ち、霊的な世界的基盤がキリスト教である。そうすれば肉的世界基盤は誰がそれを成し得るかという事が問題となるのです。それは再臨の主が来られて、その霊的勝利基台を受け継いで、霊的キリスト教圏の勝利基台を勝利的に受け継いだ基盤を持ちえない以上は、肉的勝利基盤は生まれてくることができません。 そういう立場からみた場合に、イスラエル的旧約時代よりもかえってそれは基盤になっていないという話になります。旧約時代は、選民イスラエルを中心として国という、メシヤを国自体が侍る、むかえる、全体がメキヤを一つの国の中にむかえるというような固まった基台になった時があったけれども、今世界的になったこのキリスト教圏において、どこにそのメシヤが来るや、一つの国とかそういうのは無いのです。それ決まっていない。アメリカに来るとかそういうの無いんだね。キリスト教会の代表であるアメリカにしても、アメリカに再臨の主が来られるという決定的基準を成し得ていない。 ここにおいて旧約時代の四千年の歴史、これは霊肉共の個人に対する霊肉共の家庭、民族、国家という基準がなされてきた。ところがそれは霊肉共でなく霊的であって、決まっていない。だからキリスト教はいずこに再臨の主が来るかわからない。だからこれが霊的圏だから肉的圏を再びつくらなければならないのです。 こういうふうにして世界的な霊的勝利のキリスト教圏まで霊肉の結束を成さなければ神の摂理を世界的に発展させることができない、こういう問題が残っているのであります。 我々人間が願っている、その理想的国というのは、霊的天国を願うのではなくして、霊肉共に完成して神を中心に霊肉共に侍る愛のひきいられる世界を願っているのであります。再臨の主が来られるというのならば、それは元の最初の使命が完成されなかったのだから再び来るのであって、今までのクリスチャンが信じているように雲に乗って天使のラッパの音と共に現われて来られるとするならば、それは大変な事になるでしょう。それでイエス様は昇天する前に、ペテロに天国の鍵を与えながら、君が地上に解くすべては天国において解かれるし、君がつなげば天国につながれると言われました。問題は罪を犯したのは霊界でも天国でもなくして地上なのだから、地上において全てを解決しなければ完全なる完成圏は神自体から認めることができないという。これは最も理論的であります。だから問題はこの地上である。地上が問題であると。 再臨主は肉身をもって来る まあ、新しく来た人の為に一言、言っておきましょう。絶対なる神、神様は唯一、不変、永遠なる神である。だから神が定めた御旨というのは、普通の人間みたいに朝決めて夕べ変わるような、そういう御旨ではありません。一度決めたら永遠であり、絶対であり、唯一である。だから神の御旨を成すということは一体何であるかが問題である。神一人では御旨を成すことはできません。神はその御旨を果たす為にこの世界、万物を創造したのだからその御旨を成すにはアダム・エバを中心としてこれを成されるようになっている。結局神の御旨はアダムとエバと神と共に三人が組み合って果たされるというのが正当な結論であります。もし堕落しなかったとするならばどうなったであろうか。神の御旨が果たされたでありましょうか、果たされなかったでありましょうか。(ハイ)正にそれはまちがいなく、神の御旨は果たされた。結局、神の御旨はアダムっきり、アダムによって始まりアダムによって終るようになっている。第三者が介入することはできません。 アダムを中心として最初完成することになった場合には、後孫がその伝統を受け継いだならば御旨完成圏が広がるようになっている。だから堕落したというのは、御旨が成されなかったということである。誰がそれを成されないようにしたかというと、それはアダムだ。アダム。誰がこれを完成するようにしなければならないか。それもアダムです。アダムが堕落して成し得なかったから、堕落しないで成すべきアダムという使命が残っている。アダムが完成されなければならない使命が残っているというのが、これがその理論だね。だからこの堕落世界に神様が人をよこすとするならば、御旨を果たす為によこす。そうして御旨を果たす為によこすその人は一体どういう使命を持っているかといえば、言うまでもなくアダムの使命を持ってこなければならないというのが当然の結論である。 だから神様がいられる以上は、この堕落した人間を救うと言われるのだから、救いの中心的存在、あるいは救いによって御旨が完成する存在者とは、一体どういうような使命を持って来る者や。アダムが堕落したより以上の完成圏に立ったアダムの使命を受け継いで、それを完成して御旨を受け継がせる為に来られる者でなければならないと言うのはむりなのであります。だから世界を救う為に来られる者として結局誰が来なければならないかと言えが、堕落したアダムではなくして完成すべき使命を持ったアダムが来なければならないというのが、これは推理的結論としては正しいのです。 神がイスラエル民族からズーッと成して来たのは何かと言えば、小さい子供のアダム、小さい幼稚園のアダムから小学校のアダム、中学校のアダム、高等学校のアダム、大学のアダム、それから学位を持ったアダムというように育て上げなければならないことです。幼稚園から小学校、中学校、高等学校、大学。ズーッと大きな恰好をして一番偉い総長である者を神様は考えているのだから、その総長様は誰かと言うと、メシヤという者だ。(拍手) 神様から求める博士の学位、地上、天上、完成した学位をその特権とするんだね。それは一体何か。それが完成した“アダム”。神の心情、肉的、心的、愛的、全てによって神と一つになって御旨完成を果し得たという代表的存在であるべきアダムの完成者として来られるその者がメシヤである。そうなった場合は、イエスがメシヤとして来られたとするならば、そのイエスの価値的存在、その使命的存在はどういうものか。アダム完成した基準になって御旨を堕落させないで、御旨を完成して使命を果たすべきそのアダムの位置において来られた者がイエスであった。だからアダムを中心として完成されるように、そのメシヤという者は第二の完成アダムである。 しかし、イエス様は十字架につけられたのだから、アダムのアダムとして成すべき神の御旨は完成されずに延長されたのだから、再び成さなければならない。このメシヤとして成すべき神の御旨は完成されずに延長されたのだから、再び成さなければならない。このメシヤと称される主人が再び現れなければならないから、再臨という言葉を残さざるを得ません。だから完成されるべき使命を持って第三アダム完成基準を持って来られるその方は、再臨のメシヤである。だから聖書には、イエス様が第二アダムと、コリント人への手紙にはイエス様を第二アダムとして来られたという事を指摘していますね。だから再臨という場合には、雲に乗って来られることできますか?(いいえアダム、アダムを中心として御旨完成を成そうとするその御旨を変えることはできない。どこまでも何回繰り返してもアダムを中心として結末をつけなければならないという、神の権威に触れるべき、そういう使命があるのです。 だから再臨のメシヤは肉身をもって来られるというのが、最も理論的である。絶対なる唯一なる神がただ一つ定めたその御旨は、サタンの侵入によって犯されるべきではない。キリスト教は雲に乗って来ると言う、化け物みたいだよ。(笑い)もしもそういう事ができるのであれば、二千年前にもう既に六千年前の堕落直後に、復帰は全て成し得ている。今まで六千年の歴史を延長する、こういう事をやる必要はありません。それで再臨の主はイエスとアダムの身代りとして来られる。だから一代で完成すべき事を、千代を通過して完成しようとするのが神の摂理である。 統一教会のメンバー達はまちがいなく再臨の主は肉身で来られるという絶対的信仰をこの原則によってもつようになりました。この原則から見た場合に統一教会が偉大や、キリスト教会が偉大や?(統一教会)こう見た場合に世の中というのはおもしろいね。偽り者が誠の者を偽り者として迫害するという、謎みたいな世界が今の世界だよ。君達は誠の者?(ハイ)偽り者だよ。(誠の者です)いや偽り者だよ。(誠の者です)絶対に?(ハイ・拍手)だから神は絶対的に誠なる者を求めている。さあ、そういうところが分かりましたね。 霊肉共の完成圏 さあ、こういうような基準から見た場合に、キリスト教会は一体どういうものか。 霊的アダム圏である。霊的なアダム世界である。 神がそういう世界を造ろうとしたの?(いいえ)霊肉完成した世界を造ろうとしたのに霊的完成を求めているキリスト教は、それはもういらないや。それで今キリスト教はイエスを霊的王様としている。その霊的王様を中心とした霊界、天国が地上ではなくして霊界にある。それで神の御旨と神の理想の天国が生まれると思う? 絶対にそれは生まれません。これは堕落の結果によって生まれた過程的天国であって、完成した天国ではありません。それでイエス様の祈りなどもそういう内容を良く知っているから、再臨という事を思った時に、大変な歴史的な蕩減の道が残るという事を知っていたのだから、ああいう三回も祈祷をせざるを得なかったと言うのも、尤もな理由があったからです。 そうすると霊的な基準を誰が肉的に一致させる使命を果たすや、これが今からの問題であると言うんだね。君達が?(ハイ) 誰がやる、誰が。アダムが成し得ず霊的にのみ成したのだから、残された肉的基準は誰がしなければならないかと言えばアダムがしなければならない。イエス様が残したのだけれど、御旨から見た場合には再臨主が担当して来るのだから、それを完成して又来なければならないのは尤もな話である。 個人、家庭、氏族、国家、世界、そして天宙までこうして一本の道がある。霊的に肉的に誰かが合わさなければならない。それを誰がやるか。(メシヤです)再臨のメシヤが来てしなくてはならない。結局そのイエス様がメシヤの使命を受けついだのだから、これを完成した第三のメシヤがしなければならない。メシヤが来られると、肉的拡大を願う神だから、キリスト教の信者達は、再臨の主が来られれば「一つになれ」という一つの教育をなしてきた。「再臨の主、再臨の主」と言うようにして、一つになるように教えたのがキリスト教の二千年の教育だった。問題は何も分からないで、ただ雲に乗って来ることばかりを信じていた。だからそこが問題になった。昔の旧約時代もそう信じたのだから、イエス様の頃も信じた。だから今も、同じような歴史を蕩減反復する。それを彼等は知らないんだけど我々統一教会だけは知っているんだね。誰によって? 先生によって。だから先生が問題になって、この地上に登場するようになった。 君達も知っているように韓国のキリスト教、イスラエルのユダヤ教とイスラエルが一つになってメシヤが来られたとするならば、その時より一点に個人完成、霊肉共、家庭霊肉共完成、氏族霊肉共完成、民族霊肉共完成、国家霊肉共完成して世界的霊肉共の出発点を成すべきなのが、それがメシヤの使命でありました。しかし、それを信じなかった為に十字架につけられたと言うことは、同じように韓国自体におきましても、韓国と韓国のキリスト教が先生と一つになったとするならば、この摂理は七年間で全てが終りになる。そうなった場合には先生がアメリカに来て、こういう事する必要はありません。韓国がああいうふうに二つに別れて、悲惨な国になるはずはありません。そのイエス様が成し得なかった国家的基準を中心として、イエス様とユダヤ教が一つになり得なかったキリスト教統合基盤を中心として直ちに世界に出られたのであります。しかしアメリカも、その時は韓国自体はアメリカの保護圏にあったんだから、すぐ、その時はアメリカの軍事政権の統治下にあったんだから、すぐアメリカに及び、反対した故に二千年の歴史と同じようにそういう蕩減の道が、かくのごとく延長され、蕩減の道を再び民族共に先生共に行かなくてはならないようになりました。 先生はまずもって霊的世界を受け継がなければ御旨の接合点を見い出すことはできません。それを皆迫害するものだから、それが皆崩れて行ったんだから、再び霊的基準の基台を自分自身がつくらなければならない。それで韓国において、国家基準においてイエス様が失敗したのでその霊的基盤であるユダヤ教を中心として肉的基盤である新約聖書と一致させるような事を成すように、内的においてはキリスト教の身代りとして統一教会をつくったんだから、肉的基準において一致させるような事を個人、家庭、氏族圏等に拡張して来たのであります。わかります?(ハイ)これをはっきり分らなければ歴史がどういうふうに摂理路程を中心として発展してゆくかということを、現実性を帯びて引き出す事ができません。 イエス様の三十三歳から出発した。三十四歳から四十歳までは、これは国家的キリスト教の七年路程だね。家庭が出発できる七年路程である。そして先生はこの家庭基準から出発した。これが一九六〇年、だから一九六〇年は歴史的な転換期であるね。これからは二千年の蕩減であると言うんだね。これを分ければ、第一次七年路程、第二次七年路程、第三次七年路程となる。しかし第一次七年路程は旧約時代にあたり、第二次七年路程は新約時代にあたり、第三次七年路程は成約時代にあたる。それを見れば旧約時代の目的は何かと言うと家庭を中心にしてメシヤの家庭に向かってきたと言える。霊肉が分かれているから、その七年間において再び結束するようなことを成すことである。第二次七年路程は新約時代のイエス様を中心として、いわゆる弟子とそれから門徒達とが一つになり得なかったのを蕩減復帰する時代にある。それを成し得る期間が今までの統一教会の七年だったから、この七年路程においては、十二双あるいは三十六、七十二、百二十四、四百三十、七百七十七双の結婚式、こういうものが氏族編成の支柱をなしている。 こういうふうにして第三次七年路程をむかえる前に第二次七年路程はイエス様、新約時代完成圏にあるから、新約時代は霊肉共に分かれたらいけないんだね。だから新約時代におきまして霊肉共に分かれないような基準を韓国につくって、それは世界的霊的その基準を残しているから、それを繋ぐ為の先生のアメリカにおいての三年間の活動であると言うんだね。だからアメリカはキリスト教の王国だ。数多くのクリスチャンが集まって編成したものである。それが霊肉堕落して、これが永遠に神のような霊肉共の国とはちょっとも思わないんだね。それは霊的なキリスト教の王国だね。それは韓国において霊肉共に勝利基準をとどめておいて、先生自体がこれまでの世界的霊的基準を受け継いで、再び韓国に帰って霊肉世界的な出発点を引き出して霊的勝利基準に一致させる運動をしなくてはならない。それでアメリカにおいての三年間の期間は、イエス様を中心とした霊肉共の三年間を国家的基準から世界へ拡大しようとしたのを再び霊肉共に蕩減勝利し得るそういう一致圏を求める期間である。一九七二年からの三年間に霊的基準を蕩減復帰し、一九七五年から三年間は肉的蕩減の三年間として一致させて、世界的霊肉共の完成圏を成し得た場合には、それで統一教会の使命は一段落を終えるようになる。 三年間の再出発 だからアメリカにおいて三年間は先生、講演する。それでアメリカを攻撃して三年間で先生は大勝利をした。勝利したんだから韓国に帰るね。それで韓国に帰って何するか。肉的世界出発を成し得るようなとりつぎを国家的にしなくてはならない。それで今韓国に帰って何をやったかと言うと、国家的基準から世界的肉的基準が、天界より地界がとりついで、これを連携させるような条件を満たしてその基台をつくって帰ったのが今ここについたばかりであります。 君達は不思議に思うかも知れない。先生は韓国で公的立場に一回も立たないで、何故アメリカに来てこういう公的な大講演をするかと。 メシヤの行くべき道は国家基準から世界です。韓国からアメリカにむかってのその基準は霊的ではあるんだけれども、世界にむかって進む道だから先生が公的に立つことができる。霊的勝利基準をずーっと今韓国にもっていって、霊的世界的一国上を出発させるそういう立場、段階に立ったんだから、初めて韓国において公的な立場に立つことができる。 それで韓国で今年初めて大衆の前に立って、先生が講演をするようになったね。それが一月十六日のバンケットです。その時はもう、韓国の肉的最高クラス、国を動かせる最高クラスを招いて話しをした。それこそ歴史以来において文先生初めて、こういうように、逆さまにしてしまうような、そういう事が起こらなければならない事が正しく起こってしまった。大成功であった。天地がひっくりかえるような、そういう…(拍手)それが一日であったんだけど、その一日が遇然の一日ではなくして、霊肉共なる世界的な出発の因縁を結びつける歴史転換的基準であったという事を、誰も知らないのだけれど先生は知っていたね。 それで先生はいかなる先生か。今までいろんな噂に立つ。そういうような文先生が自分たちを知らなかった世界的英雄である文先生だ。そういう噂だね。(拍手)韓国人、韓国においては歴史的にそうだが、今も、未来にもこういうような事をやれるような方は生まれて来ないと言う、そういうような噂になっていたね。(拍手)それで初めて先生がどんな人であるやという事をね、最高クラスにおいて認める、そういう役割をしたのが一月十六日のバンケットの仕事であった。(拍手) それで統一教会の先生自体を証しし、それから統一教会の家庭の証しをする。 家庭がいかなる力があるのか、世界的に家庭の意義を、堂々たる姿を見せようとするのが、いわゆるその今度の合同結婚式であったと言うんだね。それは二十ヵ国の青年達が、文先生が韓国において「あー、皆来い」と言えば、もう各国がすぐに集まって来る。これは韓国人としては東洋人、誰でも夢見るよ。アメリカ人だってそれは信じられない。 結婚式で先生は歴史に無い記録を破ったよ。それは一日間に八九一双も組んでやった。(拍手)アメリカを出発して四三日間に世界的な事件を起こしてきたね。 それで今度三番目には四月には国際的な我々統一教会の青年が本国を攻めるんだね。(拍手)統一教会が無ければ韓国は救われない、それはもう事実そう認めているんだけれども、正しくそれは決定的に認めざるを得ないような基準になると思うんだね。 それは韓国ばかりではなくして日本が又問題だよ。今度日本に来た時に武道館に二万名の大集会を起こして、東京から日本全国に問題を起こしたね。(拍手)それで韓国と日本に爆弾が落っこちた。天的爆弾が。(笑い)それでアメリカに今上陸した。まさに上陸したばかりと言うんだね。(拍手) アメリカで今から何するの?我々はヤンキースタジアムにむけて再出発するようになりました。(拍手) だからアメリカにおいて蘇生クラスがマジソン・スクエア・ガーデン、長成クラスがヤンキースタジアム、完成スラスがワシントン大会とこうなるんだね。(拍手) もしもヤンキースタジアムを超満員にして、ワシントン大会まで短期間にやりぬく為に、アメリカの宗教界、政治界、経済界、全ての人々に呼びかける。君達はそれやる気になってるの?(ハイ)そうなったら先生もやる気になるよ。じゃ、そういうふうにして君達と先生と共にヤンキースタジアムを総攻撃してそれを成した場合には、今から問題が起こるよ。 今からが問題である。今アメリカに来たんだから、今朝は先生の生まれた日であるということを考えてみた場合に、今からは第三次七年路程を世界的に出発する、その間際になったんだね。それで今度アメリカに行かなきゃならないと急いで来たのは三次七年路程はこれら韓国と日本での勝利はアメリカで世界的な肉的な基盤を調整しなければならない摂理的使命があるから、三年間の再出発として、ここにアメリカにおいて誕生日をむかえなければならないと思って、先生は急いで帰って来ました。(拍手) それで肉的基準において、韓国からアメリカをいかに三年間で動かすということが、世界的勝利勝敗を決める一つの峠になるであろう。三年間で勝利した場合にはキリスト教会は統一教会に吸収されてしまう。そうすれば大きい問題になるよ。いろいろと僑胞とかアメリカのキリスト教会とかね。これはそのまま統一教会とつながる。そうでなければ荒野の第一イスラエル民族みたいに皆、死骸になってしまう。第二イスラエルが、彼等の後孫が我々統一教会と一つになるようになって、その地上イスラエル天国圏に入るようになる。そうしてみれば、あなた達そうだよ。皆、統一教会は若いメンバーだが、これは何かと言うとイスラエルの第二世にあたる者だから、統一教会は若い者が集まらなくてはならないと言うのは尤もの源理的結論である。皆、若い者ばかり集まっているや、親爺がいなくてね。だから既成教会から見た場合には、不思議でたまらない。 じゃ、この統一教会は西洋人は皆、東洋人の顔を持ったレバレント・ムーンが引きいるのに、アメリカでも有名な学者がいるのに、彼らの下にあっても一人も若い者が集まらないで、何故、この通訳をしている文さんに皆引っぱられて行くか。(笑い)昨年一年と二ヵ月、アメリカをグルーッとアメリカに問題を起こしたレバレント・ムーンと一体となって復帰問題を研究しなければならない問題になって来るよ。何がそういうふうにしたの。今から前の三年間にやった事と今から三年にやる事でこれだけのメンバーをね、燃え上がっている者をこれぐらい遣わせば、もうアメリカに肉的三年間の基準を立てるのはこれは完全に問題ないと思うんだね。ところが先生は七十二年に七十二名を基準とした。これはあまりに多いよね。 もし君達が一体となった場合には肉的三年間においてアメリカ全ての全国をこれ取り上げてしまおうとして取り上げてしまうような事も起こるであう。そういうような自信を持って成す事が勝敗を決める事になる。 それでこの三年間にアメリカ国家自体が、今からの内外的な連命を決しなければならない重大圏に立っているのであります。それは、キリスト教自体が永遠に谷底に落ちてしまうか、再び起き上がるかという、こういうアメリカの二百年の歴史を前後にして、三年前後を中心として勝敗の頂点になると言うのは摂理的にそうならざるを得ない期間だからそうなるのです。 だから今ここに集まっている統一教会全ては、それこそ一体になってあらゆる環境の副作用もあるだろうけれども、心身共に一つになって世界の全てのものにぶつかった場合には、我々は勝利し得ると言う決意のもとに出発しなければならない。この三年間と言うのは歴史的期間において神様を中心として見た場合には一番重大な期間であると共に、最後の前にも無き後にも無き、最後の二年間になるであろう。 それを考えてみた場合に、あなた達はイエス様が三年公的路程において弟子と共に歩んだのが歴史的希望の旅行になったと同じように、これは歴史以降におきまして万年の後世におきまして人間として最高の希望の期間に留まるというのはまちがいない。 もしも君達の先祖が善なる事を成して来たとするならば、その善なる結実をどの期間に結びたいかと聞いたとするならば、この歴史最後の三年間期間においてその結実を結びたいと答えるだろう。現実に世界人類にもしも聞いたとするならば、君達は最高の希望として働きたいその立場は、ここと言えば、この三年の期間が自分達の希望の働き場だと答えるであろう。今後、歴史的なその未来におきまして、我々の後孫として誉りとし、願いの勝利を讃える事があったとするならば、我々先祖としてこの三年間に働いたその歴史的条件をかかげてあるからこそ、そういう事になると思う。 先生を中心として考えてみた場合には、韓国のある僻地、田舎から生まれたその者が韓国を通してアメリカという世界の中心国家に来てこういう働きかけを成すようになったのは、それは文先生一人の要求によって成したのではない。神あればこそこういう事になったと言うことは、これは復帰摂理の歴史を通して認めざるを得ません。その間に、ここまで来る間にいろいろな迫害の道、いろいろな惨めな環境に触れて来たのだけれど、その全ては文と言う一人の男を滅ぼさせる為に、あるいはそれを無くす為にそういう事をしたのではなくして、あらゆる天と地の祝福を授ける条件を満たす為に神は苦労の道を授けて来たと、こう思って今になって感謝するのであります。 そういう観点から見た場合にこのアメリカにむけての最後の最後の三年間におきまして、天地共の全ての祝福を今だに神の方が結べるか、サタンの方に盗まれるかと言うようなその間際に立って、我々が苦労を覚悟しながら全てにそれを蕩減して、全てに犠牲を払って感謝して行くようにこれを蕩減して、四方八方に拡大して行くとするならば、そして全ての祝福を成す御恵みの条件を授ける為にと思って我々は感謝して戦いぬいたならば、全ての勝利は我々のものにならざるを得ません。 アメリカを救う兵士 この期間におきまして、先生を中心として日本人があるいはアメリカ人が三国一体となって、果してどの国がこの地において神に認められるか、誰が誠意を込めて投入するかと言う事は、今から神が重視する重大問題であります。 先生はこう思う。霊的三年間においては先生を中心として日本人が主体的使命を果たしたけれども、肉体基準においてはアメリカ人が日本人に優って活動しなければならない天的使命があると思う。(拍手) 君達の拍手はいい。だけれど、はたしてやれるか。(ハイ) だから我々は、今日先生の誕生日を祝賀する意味においてこの日を記念とするならば、今アメリカの為に自分の全てを精神肉身とも神に捧げて感謝し得るこの実体を満たす事によって、今日の誕生日の祝賀の意義があると思うのです。そういうふうにやれる自信あります?(ハイ)はい(ハイ)では皆さんを信じる事にしましょう。 じゃ今からベルベディアを発って明日のニューヨークに向け、ワシントンに向け、アメリカ各地に向けて我々は総進軍をなさなければらない。そういう意味においては我々は天の精鋭、兵士である事を考えなくてはならない。その進軍は百戦百勝するような決意を固めて行かなくてはならない。打ち出し弾みたいに、ぶつかるものは突き抜けて行くようなそういう決意で前進しなければならない。 サタンの世界、サタンが歩める数千年の歴史、人類を蹂躙しながら自分だけの独裁的なその幸福を貪って来たその基台をめちゃくちぴに平らげて、神の新しい天国建設の基台をつくる勇士として我々は堂々たる態度で揺るがないと言う信念を固めなければならないのがこの時間です。マジソン・スクエア・ガーデンではなくて、ヤンキースタジアムを一遍に勝利してしまう。(ハイ)もしもその勝利基台が成し得たとするならばワシントン大会は投げ飛ばされるであろう。それには数多くの経済的問題が控えている。それからその要員の不足というような問題にかかってくる。それでも我々は神様は死んでいないと信じる事だ。手には何も無いんだけれど、この手を動かした場合には金も作る人も引っぱって来る。 それでこの三年間に、いかなる歴史的な宗教、いかなる革命的隊列あるいは国家的基盤を持った革命軍としても果たし得なかったその事を、この三年間で成し遂げて、世界的市場に新しい灯台を造るような働きかけをしなくてはならない。(ハイ・拍手)それは今あなた達のハイという言葉が成すのではなくしてハイと言った実体が爆弾になる以外に無い。それによって成されると思う。 もしもこの三年間に勝利を成した場合には、先生は死んでも勝利、勝利、勝利として解決されるであろう。そうすれば神の全ての勝利となり、人類全てが新しい希望の世界を向かえると言う事になるこの事を思えば、我々は全てを犠牲にしてもこの期間に勝利という基盤を残なければならない。この使命をもう一度誓い、共に自覚を固めなければならないこの時間と思います。 一九八一年、先生の六十一歳、この期間において六千年の歴史を六十一歳で六十年で蕩減して勝利を決めて、世界の峠を越える事になるであろう。今は一九六〇年から十五年になるけれども、この二十一年間にいかに歴史が変化して来るか、それは我々と世界に対する神の摂理があるからである。見ていなさい、個人の没落、民族の没落、民主主義の没落、共産主義の没落、既成宗教の没落、全てが没落してゆく。何故かと言うと我々のそのまま立っている国々において我々は現われる。(ハイ)外的な世界は全て没落してゆくんだけれども我々において個人的完成、家庭的結束、氏族的結束、世界的結束、それは天に向って理想的結束として、一つの国の思想といかなる主義にも優るような天宙の主義に立つすばらしい基準があるから、神は安心して外的な世界を没落の方へ押しつけていくのです。我々は神に願って、一度にこの基準を果たしえることこそが我々の成す使命ではないかと思う。 この世界を眺めて見た場合に、民主主義も今問題となり、後は共産主義だけ包囲してしまえば、我々統一教会は世界を治めると言う事は、それは理論的原理から見ても全てにおいて備わっているという事は否定できない段階に来ている。もう勝利は明らかである。この段階において後退する者は世の中で一番愚かな者である。君達の年は若い、二十代、三十代より若い者がいる。それを見る場合に、先生は五十五歳。今日五十五歳の誕生日をむかえました。 今になって勝利の喜びをもつという事を考えてみる時に、先生は少し淋しい思いがするんだね。君達の年ぐらいの年齢でこういう勝利的な一日をむかえたら、どのぐらい喜べるであろう。それを考えてみた場合に、もしも君達が先生みたいな者として、この時代にいかなる貴重な使命を果たさなければならないかという使命感をもつような者とするならば、如何ばかりこれをふりきって働きかけるかわからない。君達は若い者だから、先生に原理の記憶からして負けないような、その青年達である。それから目的観念に先生より徹していたならば、さあ攻撃、進軍だと命令があった場合には、君達は走りかけて目標に向かって進むだろう。先生はもう当てにならない立場である。それで君達は先生を引っぱって行くか、それとも先生に引っぱられて行くか?(ハイ)ほんとうか?(ハイ)もしもそういうふうになったとするならば、アメリカは勝利するであろう。 先生はどこへ行っても問題を起こす。韓国にいれば問題、日本に行けば問題、アメリカに行けば問題。どこへ行っても問題、便所行っても問題になる(笑)その問題が悪い問題ではなくして最もすばらしい希望的な問題だったら、それは歴史的な事件になるんだね。さあ、アメリカに来てね、各国からたくさんの若者をつれて来て、レバレント・ムーンはアメリカの法規を守らない…(笑い)アメリカの国民は今、神様が戦争しているということを知らないんだ。神様が戦争をやっている。我々統一教会の若者達は神様が呼びかけてアメリカに抗議をした兵士であるという事を分からないでいる。アメリカ国においてアメリカを救う為の寄留兵であるんだね。それを国家が待偶せずして追い出すと言うのは、歴史的にもしも神の御旨によってそうなった場合には、アメリカ人はその時になったら裁かれるであろう。 アメリカ国家、アメリカ国民に言う。文誰それが、なにか自分の為に来たのではありません。金を儲ける為に来たのではありません。あるいは名誉を得る為に来たのではありません。アメリカが将来立っている神が認める権威を保護する為に来た者である。アメリカに背負われて何か助けを得ようとして来た者ではありません。私はアメリカに金が無くても、金を持っている。あるいは世界の若者の権力を持っている。誰も知らない原理的知識を持っている。こういうような惨めな立場に立ちたいから来たのではなくして、神の権威の為にやっているという事を、いつか歴史が分かった時はそのみ旨を妨げる青任者は、神の前に裁かれる条件が立つかも知れない。アメリカの政府はそれを自覚せねばならない。アメリカの為に来て働く青年の為に恩讐になる事をすれば、この国の将来は長くない。もしも統一教会がアメリカの政府によって追い出されたとするならば、この数十ヵ国のアメリカにいる統一教会のメンバーはアメリカの悪宣伝をする。 今度先生がシアトルに入った時、気持悪い事があった。アメリカにレバレント・ムーンが出入りするのは自分の金儲けの為に来るのではない。アメリカにマイナスになる為に来る者ではない。異様な目つきで、聞くのも気持悪い事があった。その内容は言わない。それを見た場合にアメリカの青年、統一教会の勇士は、我々は団結して将来のアメリカの為に、天的に許されないような傷痕を残さないように、新しい方向に団結して実蹟基盤をつくらなければならないと、先生は決意した。そう考えて見た場合にここに立っている若いアメリカのメンバーは、このアメリカの将来において滅びる条件がいくつも多い立場の環境に立つか、それを救う為の先生の立場に立つか、二つのうち一つを決定しなければならない。 そうしたら決意を固めなければいけない。そういうふうにした場合には我々は下るどころではない。旗揚げした以上は、敗者になってはいけない。勝者にならなければならない。これは先生は様々な事を言われているけれども、先生は内心に納めている信念を中心として、アメリカに影響を及ぼし、誰でも持てない実蹟を持たなければならない結論が出て来る以上、君達もそれに歩調を合わせていかなる犠牲を払っても、その実蹟の基盤を国家基準に早くつくらなければならない。これが、死しても果たさなければならない我々の使命である、という決意を持たなければならない。 ベルベディアから伸ばすこの手が、これを繋がせてアメリカ全土を被って余りあるような手とならなければならない。君達も知っているようにこのまま行けばアメリカは滅びる。青年は皆死にかけている。もう既に将来は無い事が実証された。将来は青年が受けもつにもかかわらず、この青年達は皆麻薬にかかっている。更には人権問題においてもう既に解決不可能になっている。それは家庭にしても同じである。彼等には国という事を考える人はいない。こういう巨大なアメリカが滅びるそのみすぼらしい姿は、アメリカ人が見たくなくても見なければならないという事態になってしまったという事を考えてみた場合に、ここに立ちたる青年ありて、天の御旨があったとするならば、彼らをそのような結果に帰たしてはならないとは誰でも思う事ではないか。持に共産党が滅ぶ一日を待ちに待っている。それが分かったとするならば、我々は包丁を持った外科の医者として立って悪いものは切ってしまわなければならない。そういう事を誰かしなければならない。 もしも君達に、アメリカ建国のピューリタン的精神をもって、腐敗した悪にして強かったという過去の伝統の思いをもつ者があったとするならば、今こそ青年は火蓋を切って、何かの問題を起こさなければならない。先生はこの国に来て有名な上院議員に皆会ってみた。数多くの事業家にも会ってみた。軍事の指令官にも会ってみた。何故?ほんとうに神の摂理に一致した思いでもって、自分を犠牲にして将来のアメリカの為にやっているかと先生は問いたい。彼等には自分の権威と自分の現在の位置を維持する以外には何も持っていません。今の世界の国々において、有名人になろうと思うけれども歴史的立場において有名人というふうに思う者は一人も見つからない。そういう観点から見た場合に、先生は神はこういうふうに考えていると考えました。神は現実ではなく、未来の勝利圏を願う神である事を思ってみた場合に、現在の彼等は相手するべきでないという事を、もう内心で決めました。それから、自分自身が全てだと決心した。 まずもって青年をこの手でもって教育する、訓練する。いかなる戦闘に戦っても戦いぬいてあまりある信念をもった者を養う。それで命令をなした場合は全てを越えるような若者を育てなければならない。 上院議員達なんかもそうだ。先生が今から何年後にはこういう事をしますと言えばまさかそういう事をやるとは思わなかったと言う。 今はそういう基準になったのだから、君達がもしもこういう決意の基台の上に神の国が摂理されるという自覚をもって立ったならば、今もしアメリカに向かって、世界に向かって生死の境でも乗り越えて行こうと言うならば、それに歩調を合わせて行ける自信があるかどうか、それを聞きたい。(ハイ)そういう自信のある者は両手を挙げて神の前に誓おう。ありがとう。 世界に向かって アメリカを見てアメリカ自体が如何に難しいかという事を思う時に、世界を治めなければならない統一教会の先生の使命は如何ばかり難しいか。君達考えた事がありますか。そればかりではなく、霊界まで解放して、神までも解放しなければならない使命をもっている事を思えば、我々は一瞬の暇も、空しく費すことはできない。それでアメリカの地の一端、このベルベディアの壇上に立っても叫ぶ声が、ベルベディアだけに響くのではなくして、アメリカを乗り越え、天宙を乗り越え神の懐まで響くように叫び、いつまでも叫び続けたいその思いをもたなければならない立場が、我々の立場である事を忘れてはなりません。速く世界の奥地まで我々統一の声を広げなければならない。アメリカばかりを中心としてウロウロする暇はありません。 我々は急がなければならない。我々は急がなければならない。何故かと言えば、もしも死亡率を百分の一と見た場合には一年に三千六百万という人が地獄に飛んで行く。それは皆地獄に行く。地獄に。一年速ければ三十六百万の命が助かる。それが十年になった場合には、三億六千万が滅びる。アメリカ全国民が地獄に行く結果になるという恐ろしい事が我々の前に来ている。 そういうふうに考えて見た場合には、神は如何ばかり急ぐであろうか。聞くか聞かないかは別問題として、この天来の新しい福音の消息は伝えておかなければ、我々使命を果たし得なかったそういう義人達が死力を尽してもその立場に立てないように、何かの処置をしなければならないのが我々現実の立場である。 それで今度先生が日本に寄った時に、百三十ヵ国に宣教師を送る事を決定して日本人、アメリカ人、ドイツ人を配置して、四月以内に全員出動するように命令して来ました。三年間に速くアメリカの基盤をつくらなくてはアメリカは滅びる。 何故か。アメリカをこういうふうに祝福したのはアメリカ人、君達が良い生活をする為ではない。世界を救う為の神の御旨があったからである。それにもかかわらずアメリカ人はそれを忘れている。アメリカが世界の為に世界の万民を救う為の働きかけをしないならば、どこかの宗教家がそれをやらなければ、神が辿ってきた目的に反するアメリカばかりになってしまう。その条件の基盤を残さなければならないと思えば、そういう宗教は無い。だから統一教会がこれを果たして行こうと言うのが今の立場である。神の御旨がそうであったと言う事をはっきり知ったのだから、その国々に行って涙ながらその国の為に朽ちてゆく日々を送りながら、アメリカ自体が名実共に世界に成し得たと言うような各国使命基準を残さなければならない。神自体がアメリカにおいて裁くという結論になるのだから、その日の為にやらなければならない使命を思うのであります。 我々このメンバーが三年間にその基台をつくって、社会において神が祝福したものを分けてやれるような事を成す事によって、の将来が神より裁かれるその道を防ぐ事になるのだから、これを近い将来に成さなければならないのがアメリカの食口達の果たすべき絶対的使命である。 アメリカには各国の民族が入っている。だからその民族を我々が伝道して連れて来た場合には、これこそ各国の民族のアベルの立場に立つ。そういうふうになった場合には、世界的な超民族的組織体制をアメリカが生み出し、皆吸収した場合には、新しい超民族性を持ったアメリカが生まへて来るだろう。 第二次大戦後において祝福されたドイツと日本、ヨーロョパにおいてはドイツがそういう使命をもち、アジアにおいては日本がその使命をもつ。世界の三大国がそういう使命を果たすようになれば、世界は新しい方向に向かって行く事を知りながら、そういう処置を、緊急対策をなして来たという事をあなた達は覚えてもらいたい。 こういうふうにして世界的統一拡大圏を成すというような次元に入りつつあるという事を見た場合にこの三年間において霊肉共の世界基準をつくった場合には、この世界百三十ヵ国の宣教団は我々が世界的に堂々と動かすに違いないと思うのであります。だから今年はもうUN作戦をしなければならないし、アメリカの国会、最高分野まで我々は手を伸ばしながら、それに伴って世界万民の頭脳を集めて、教育の大学を建てなくてはならない。非常に急がなければならない。それから新聞社もつくらなければならない。世界的経済圏をつくって世界的銀行をつくらなければならないと考えている。(拍手)それで政界をいかに動かすか、知識階級の大学をいかに動かすか、それから経済界をいかに動かすか。この三つを世界的に動かすその指導的な立場をつくった場合には、世界をコントロールする事ができる。 それで緊急にこの事を我々は世界的に拡大しなければならないから、この百三十ヵ所の宣教師はどういう使命をもつかといえば、まずもって新聞社の特派員の使命をもつ。それから大学教授、世界的な学者、世界的な知識階級の人達をいかに包摂するかという事がある。それでこのことを成すために、日本ではもう即に君達は世界日報という新聞を直ちに今年の一日から発行するようになりました。それから各国の宣教師に特派員の名目でもって送ると共に、それが軌道に乗った場合にはアメリカの青年達を半分ぐらいよこして、それから日本の青年メンバーを半分ぐらい合わせて連れて来てすぐニューヨークに新聞社をつくらなければならない。それで世界的新聞社の組織をつくる。だから各国の宣教師は各国の新聞記者、特派員の使命をもって行くのだからその国において宣教師たる我々のメンバーはそれを足場としてその国の情勢全ての詳細を集めて我々の本部に送るようになる。そうすれば、いかなる新聞社も材量を持たないような世界的情報を集める事のできる重要な機関になるであろう。それを集めたらUPI、APより以上の中心的な機関となる。そういうふうにして民主主義世界がここに新しい新聞社、新しい言論界の方向を導びきながら、共産党は皆吸い込まれてしまうようになる。それから世界的な大学をつくって各国に我々は世界的な教育機関をつくらなくてはならない。その準備として\D054 Unified scince \D055という名目でもって世界でも有名な頭脳を集める運動をやっている。 それから経済活動においては貿易を基軸として近いうちに世界的な経済基準をつくり、各国に銀行を造って世界的な経済の根拠にしなければならない。今は我々は何も持っていないけれども十年後にはこれを行なわなければならない。それを見てみた場合に、君達は若い者として統一教会に一身を捧げてこれをなし得た場合には、いかなるところで生涯をかけて活動したよりも、こちらが出世が早いであろう。もしも今、きついと言って落ちた者があるとすれば、あと十年後を見てみなさい。あー、しまった、ああいう統一教会は何でもないと思っていたものが、ああいうふうになったかと嘆くにちがいない。そういう時が必ず来る。 そういうふうになれるように先生がつくる。 問題は君達である。黄色い手と白い手、黒い手をつないで暴れまわって世界へ出ていかなければならない。どうなるか考えて見なさい。歴史上にそんな事をやった者は一人もいない。白い手ばかり、白人同志で今までやって来た。白い手、黄色い手、黒い手でやって行く。そういうふうになった場合には、どうなるか考えてみなさい。手をつなぐばかりではない。皆結婚でつなぐ。愛情でもって血統でつなぐ。(拍手)それがアメリカより大きくなった場合にはどうなるか。考えてみなさい。世界から皆アメリカに飛行機に乗って来いと先生が命令した場合に、皆アメリカに来るだろう。やりますか?(ハイ)それは可能であると言うんだね。 だからこれを見た場合にはこの団体はこのままで我々は世界を救って治める。だから若き者はそういう決意に燃えて明日の希望に進んで行く勇士となったとするならば、世界が我々に向かって全てが頭を下げるところとなる。それを考えてみた場合によくも統一教会に入って来ました。(ハイ) 今は幸福の出発であって、結実ではありません。だから我々はその幸福の結実の為に今から直行して進んでゆく。ほんとう?(ハイ・拍手) 神が皆さんを祝福しますよう。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.23
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文鮮明 天地人真の父母 天宙聖和9周年 天一国敬礼記念式2021/08/24 09:00に公開予定です。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.23
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「教会の確立を」1975年2月14日日本武道館にて メシヤに接木される 今日こういうふうにして集まったのは、今から新しい計画を成してゆくためにやらなければならない今、日本において歴史的な事を解決しなければならない摂理的な時期に立っているんだから今からそういう内容を話したい、又そのことをやりたいのが先生の思いであります。 我々は蕩減の道を乗り越えて神の理想世界へとたどって行くのが我々の統一教会の道である。統一教会の行く道であると共に万民の行くべき運命づけられた道である。もしもこの地上でその道を乗り越えられなかった場合は霊界に行って永遠をかけて蕩減を越えなければならない。地上の一生のうちの人生七十年あるいは百年のこの期間において、これを乗り越えたとするならば、永遠の世界、霊界において見たならば、この地上での一瞬はいかに尊いかということです。だからいかなる犠牲を払いましても霊界に行って蕩減するというような運命に立っては絶対にいけないということを我々統一教会のメンバーはよく知っているのであります。 だから地上にある時にこれを完成蕩減すべき道を見いだすのが、これは最高の堕落した人間としての希望である。もしもそういうような事が成し得るには、それは必ずある本質的な点を通過しなくてはならない。いわゆる神の摂理的な方向に位置してその家庭基準において神が六千年間成し得なかった失敗された全ての事を自分にまとめて、自分にそれを因縁づけ関係もたせて自分がみな蕩減していくような勝利的基盤を満たさない以上は霊界に行ってひっかかるのです。神はそういう難しい蕩減の道を知っておられる。それはこの一時代において、歴史を訪ねて縦的にこれを積み上げてゆくような、そういう段階を通っていかなければならない事をよく知っているのだから、神はそれを人間に一生を通してそれを果たすという事はなかなか難しいという事をよく知っていられて、メシヤを送られたのであります。そのメシヤは個人の代表であり、家庭の代表である。氏族、民族、国家、世界、それは宇宙の万民の全ての人類に対しての代表の標本である。そのメシヤのもっている思想を完全に受け継いで、その後、一致一体となった場合には我々も一度に蕩減される。だから末の時代におきましてメシヤを迎えるという事は最高の人間としての願いである。もしもその者を迎えた場合には、その者と一つになる。一つになった場合には個人的蕩減はもちろん家庭、氏族、民族、国家のそれを一度に、全人類歴史を勝利的に乗り越える事ができる。 それは如何にしてそういう事ができるかといえば、我々は渋柿みたいなものであります。そのメシヤは甘柿とすれば我々は渋柿である。そうすれば罪が許されるのであってそれを切ってしまって、そのメシヤの根とか枝をもってきて接木した場合にはそれがのびた時甘柿になるのと同じであると言うのです。だから、接木される。接木するには今まで渋柿であった全てを切ってしまう。切るには根本を切らねばならない。根本を切るということは全てを切ってしまうことである。そうすればすっきりして全てを受け入れる。まあこういうような関係を結んで新しい甘柿の価値を受けて生きることができると同じように、我々自体もそういうふうになってくるのです。 人間自体が蕩減復帰する メシヤが来られた場合にはメシヤを中心として接木される。その後の一生涯の全ては個人的完成、氏族・民族・国家・世界的完成の蕩減の内容を満たしてきたのだから、その使命はメシヤの使命ではない。それは自分の使命として平面的に受け入れなければならない。それからメシヤが成される全ての事はメシヤ一人きりにおいての使命ではありません。それは万民共通な使命として名自が成すべき仕事をメシヤが身代わりになってなしてきたという事である。そういうように全てがその希望、目的観において、一つの方向において強められるのであるけれども、この地上では心情問題においても全て一致しなければならない。だから神がメシヤを見た場合の心持ちも、そのメシヤに侍る信者達の心持ちを比較対照してみた場合に、その根本は違った基準からたどって来たんだけど、成して得られる仕事の結果をその枝に喩えればその枝はメシヤと同じようなものにならなければならない。決意することは何かというと同じ仕事、同じ事を成すような結果に立たなければなりません。 人間が蕩減復帰されたとしても、人間ばかり蕩減復帰されればよいかというとそうではありません。人間が堕落することによって万物自体が嘆きの立場に落ちている。嘆息圏におかれている。人間自体の解放と共に万物解放、万物解放と人間解放をする事によって霊界解放、天使世界解放がなされる。天使長が堕落し、人間が堕落し、万物が堕落した。その三つが一度に堕落することによって神と人間と宇宙が分かれてしまったんだから蕩減復帰原則によって、その責任は人間自体がとらねばならない。そもそも人間自体は主人であり、サタンは天使長であり神の僕であった。結局誰が責任をもつかというと僕が持つのではなくして主人としていた人間自体が損なったのだから、その責任は罪を犯した者が罪を贖わなくてはならない。それは親子関係から見てもいくら親が子供を愛するとしても子供が犯した罪を親が身代わりとして贖う道はありません。それと同じように罪を犯した張本人それ自体が蕩減しなくてはならないのが、もっともの原則である。そういうような立場に立つのが我々人間であった。 人間自体が神から創造した基準から見た場合には全てを主管する主人であった。その主人が主人として使命を果たせなかったその時も、いつかは完成させる、全て責任をもって損なった部分をなおしておかなければならない、もとかえしておかない以上は使命を果たした基準をもつことは絶対にできません。こういうような関係に我々人間が立っているのであります。だから蕩減復帰するのは人間がしなければいけない。人間を中心として万物、人間を中心として天使長、使命を果たしてその三つが一つになってこそ初めて神の前に立ちかえって元の基準に帰るという基準が認られる。それは原理原則である。こういう目的に向かって今まで数多くの宗教が必要だったのです。 完成圏の基準 そうみれば宗教界には神と関係を持とうとしていろいろな連絡をつける儀式があります。特に供え物とかね。祭物を捧げるにおいて、低い宗教では牛や羊等の万物を祭物にして捧げる儀式をやってきている。だからキリスト教をみても旧約時代は物品の祭物時代であった。それによってその万物と人が一つになる。共にその運命を伴ってゆくという立場に立ったのだから人間がある段階に上るにおいてその反面には蕩減の犠牲を払ってきた、それが祭物なのです。だから血を流すようなことを成してきたのです。旧約時代が終わると新約時代となる。新約時代には物の犠牲の段階ではなくして人の犠牲に入り、そこでイエス様自体が十字架につけられた。十字架につけられたイエス様の心底を信じられるキリスト教において、血を流しつつ歴史において蕩減の道をたどってきたというのはいかなる宗教にもありません。キリスト教にだけある、そういう路程を通ってきた。新約時代が拡大することによって個人的、家庭的、氏族的、民族的基準を越えて世界的蕩減基準を成すようになってから、キリスト教的世界文化圏が生まれ、それを中心として民主主義国家政体が生まれる。その時より、その国家基準が世界基準においてそういう犠牲は払わなくてもよいと、そういうふうに発展してきたのであります。 そして末の時期になれば再臨の主が来られるという予言は、これはキリスト教におきましては新郎新婦が共に一つになる。その新郎新婦圏になれば、夫婦共にこの蕩減の道の峠を越えて行かなければならない。これは我々原理から言えば完成圏である。完成圏の基準を責任をもって出発するのが成約時代である。成約時代の行くべき道はいかなる道かといえば、その完成されたアダムを中心としてエバをサタンより捜して勝利的基盤をつくった基台の上に新しい夫婦による新しい家庭編成をなして、それからその家庭を中心として横的に家庭的段階を世界的にひろげる、そういう使命を果たすのが成約時代である。だから成約時代においてまだサタン圏を乗り越えていない以上はその夫婦として父母としての十字架の道が残っている。そればかりではなくしてそれに子供があった場合には家庭的十字架の道、家庭的蕩減の道を行かなければならないそういう基準がある。堕落はどこから始まったかというと夫婦を中心として家庭基準から堕ちてきた。だからこれを中心として完成基準は家庭より上がって行くべき基準であるにもかかわらず堕落家庭によって長成期完成基準より下がってきたのが堕落だからそれをもとかえしするにはアダム、エバの身代わり者として来られる再臨の主と、いわゆる新郎と新婦が一つになる家庭をつくって、そこから直接その再臨の主を中心としての蕩減の完成圏を乗り越えるその期間があるのです。それが統一教会から言えば二十一年間である。ほんとうは七年間でこれを通るべきその期間であった。だけれども、それが韓国を中心としてそれを地上の相対的基準を神の方にゆずらなかった。それを七年の期間を三倍して蘇生、長成、完成期に来てこれを再びおさめていっているのが我々統一教会の第一次七年路程、それから第二次七年路程、第三次七年路程としてこういうふうにまとめてゆくのです。ほんとうは七年間でこれをやるのです。わかりましたね。(ハイ) それは家庭を中心として十字架の道を行く。家庭を中心として完成圏以下の原理結果主管圏、その九段階圏をまだまだ乗り越えていないから家庭自体がそれを乗り越えると共に、それが氏族を乗り越えながら氏族が民族を乗り越え、民族が国家を乗り越えてゆく。それはイエス様が夫婦を中心としてこの地上に神の国を求めて完成基準に国家をあげて、世界的なその統一原理を求めることを願ったその基準がなし得られなかった。そればかりではなく、イエス様が死んでいった。だからそのすべてを蕩減して解放圏を霊肉共につくらなければそれは完成圏の道を入ることができない。その基準を再び我々はとりかえして蕩減したものが、今現実の状態なのです。わかりました?(ハイ) 神の国の民族 だから先生が世界的先頭に立ってこういうことをやるのは、あるいはアメリカを中心として日本の地までこのようなことをやるのは何故かといえば、世界的開拓の先頭に立つためである。何故そういうことをするかといえば、先生一個人の一人の使命を果たすためじゃない。万民の使命の身代わりをその使命としてその基台をつくることによってその基台の上に君達、万民は恵沢を受けることになる。だからその真の父母を中心とする家庭が十字架を背負って蕩減の基台をつくったならば、君達の祝福された家庭はその家庭に接木されて家庭完成基準が生まれることになる。それをこういうふうにして氏族編成をなしていかなくてはならないのが我々統一教会の合同結婚式だね。統一教会の合同結婚式の結果によってどういう基盤がつくられるかというと統一氏族編成がある。それを拡大することによって統一民族の編成。今年中において二十カ国が加担したということは世界いずこのところにも五大州いかなるところにおいても統一教会の基盤をもつことができる。これは国が動員しても滅ぼすことができません。世界が動員して世界自体が滅んでいかない以上はもう統一教会は滅ぼすことができません。 こういうような横的の世界的超民族性を基盤として結ぶいわゆる新しい民族編成をなす事が、それは統一教会の合同結婚式によってなされる。わかりました?(ハイ) こういうふうに我々はやってきた。将来におきましてはそれは一人ずつそれは一つのところにおいて結婚式をなしてゆくんだけど、将来はテレビを装置して、もしも先生がアメリカにいるとすればアメリカのテレビ会社でスーッと大衆の壇上に立って日本と中継する。世界各国の若者達を一度でテレビでもって祝福するね。(拍手) 数万、数千双を、数千双はもうやったんだから数万、数十万、数百万双をいっぺんにやることになれば、それは統一教会は小さい民族どころじゃないよ、大きい民族編成を一度に可能ならしめる。もしも統一教会のメンバーが一億以上あったとするならばね、世界にあるとするならば、さあ一億以上の統一教会は大移動しよう。イスラエルの国に帰るんだ。イスラエル民族は必ずサタン世界から大移動をなさなければ本国いわゆる天国に帰れませんというのがそれは原理だからね。歴史の発展の基盤はいつの時代においてもそれは移動する動きにおいて革命的発展をなしてきたのが歴史的事実である。だからユダヤ人もエジプトの地からカナンの地に大移動をなしてきた。キリスト教もそうだ。アメリカという国もヨーロッパの宗教である旧教の反対に追われていった新教のピューリタン達が大移動して結集された国である。それからユダヤ人も世界に散らばったものが大移動してひとところに集まったのが新しいイスラエル国となって、そこがいつも世界の問題になってくるんだね。大移動するところに神は新しいことをなしてきた。 こう見た場合に今統一教会の今度の合同結婚式において結婚も大移動したね。大移動、それが個人的大移動を越えて民族的大移動圏をなし得たとするならば世界は一つの世界になる。だからもしも一億以上の統一教会のメンバーがあったとするならば先生が死んでしまえば問題は別だけどね、先生が生きていてボタンを押して命令するならば、世界各国に散らばっているその一億民族は日本に集結する。それは大移動して飛んで来る。来ます?(ハイ) 確実に飛んで来るようになる。 もしも落ちた場合には地獄に行く。エジプトの地におきましてイスラエル民族がカナンの地に帰る時、イスラエル民族を通してそれは生命をかけて自分の同胞に伝達しない者は滅びる、神に罰せられるという原則がある。祖国に帰るというような命令において、それは応じない者は罰せられる。永遠のいわゆるその後悔基準として残るということを各自が知っているから日本に一億以上の統一教会集結という場合には、一億はただちにそれは帰るだろう。そうしたら一億人を一億大結婚するといった場合には何日で伝道できると思う? それはもう一週間ぐらい。これはもうにぎったまま一週間離さない。君が死ぬか我が死ぬかという場合、それをやればそれは解決する。そういうことも考えるんだね。 だから個人的移動において家庭をもつと共に、我々は団体的民族的大移動をしてそうして合同結婚式をなしたとするならば、その者達は神の国の民族になるのだからそれは家庭共に増えてゆく。民族の復帰ということはそれはもう決まりきったことになるんだね。こういうふうにして超民族圏、一つの文化圏を拡大してゆく者達が統一教会の者達である。 理想的結婚式 だから統一教会に入る者はどういう者が入るか。イスラエル民族においては第二世がカナンの地に入ったと同じように、第一世であるキリスト教は反対した。神の御旨に従っていかなければそのキリスト教は荒野で倒れる第一民族と同じようになるであろう。第二世であるキリスト教の信者達の子供達は必ず統一教会に入る。(拍手) だから第二世が希望、二世に神は関与してるんだね。だから皆全ての者は年寄り時代じゃなくて青春時代、皆バリバリ二十代のそれはもう勇気咲き盛りのメンバー達が統一教会のメンバーとなる。これは天的原理原則にそうようになっておるからそれに相応した者として集まってくる。だから自然と若い者でなければならないことになるのは当然の話であるというんだね。だから皆若いだろう。 (ハイ) 皆若い。 今からもっともっと若い者がたくさん入って来ると思う。それで何をやるか。 今度の合同結婚式が日本においては非常に問題になったけど、問題になることは統一教会に対して宣伝してくれたと先生は思う。(拍手) なぜかというと合同結婚式は悪いと思われたけど、今度すぐそれは記録映画をつくるように命令しているよ。つくった場合にはもう皆結婚した者はそれは八百双以上あれば、八百本を各自買え。それは先生がつくってやればいいんだけどね。そうなったら皆独立性が無くなっちゃうから各自が買う。買ったら映画一本ずつかかえてどこ行くかというと、どこ行くの? 自分の故郷に帰って、お母ちゃん、お父ちゃん、親戚来い来い。(笑い) これはもうこういうこと言わなくても皆見たがるよ。それに関心を持っておるからもう集会みたいに皆集まれ。広告出してもそれは子供までも這って入って来る。(笑い) 幼稚園の子供もヨチヨチ歩きの子も連れてこい。お母さんのおっぱいを飲んでおる子供までも入る。だから大宣伝になるだろう。それ見た場合には、まして自分の子がスクリーンに出た場合にはこれはもう驚くどころじゃない。目玉が飛び出る。(笑い) そういう内容になっているんだよ。君達のその日本のテレビなんかを見たら、それは皆反対するものだからいい場面は皆ぬいて悪い場面だけ入っているから、それはそういうように荘厳ではなかったかもしれない。それは実にりっぱに映画つくってスクリーンに出した場合には、これは若い者として結婚するならば理想的結婚式は統一教会の合同結婚式とこう結論しなければならない。(拍手) この世の結婚式で一双の鳩みたいに二人でウェディングマーチ、音楽入れてヨチヨチ歩くその姿はこれはまあみすぼらしいよ。これはもう思っただけでも気持が悪いね。そう考えてみた場合これは将来合同結婚式しない者はこれはブチまけて話をすることもできなければ、それは子供を生んでも恥ずかしく思うようになるかもしれないよ。(拍手) そういう意味においてここに父母さん達が参席しているかもしれません。何も知らないで反対したその親達は今から何年後にこのような場に出て来るか。君達の子供を統一教会に入れたためにあんた達が反対父母の父母として合同結婚式に反対した、その親達の子もいる。皆周囲でもってこれはもう指でさしながらもう責める時が来るだろう。もしそうならなければ、先生がそうする。(拍手) それから将来そういう希望をもっている男、乙女達はね、童貞、乙女達はそういう気持になってこれはいいと言うんだね。そういうようなすばらしい時が、私の一生であるという夢をもってもよろしい。(拍手) 第三次七年路程をむかえて こういうふうにして、我々は神の前において理想的な立場において祝福される。そうして祝福されるその立場というのは完全な愛、完全な愛となる。これはすばらしいことである。歴史的そのうらみであった蕩減の路程、サタンの讒訴圏に追われ、つつまれてサタンのくさりにしばられた立場である。あらゆる人間が手、両足、あるいは一身全てその環境全てがサタン圏に包囲されたその基台を完全に崩壊してゆく。そればかりかこれは神の前においてはずかしかった自分が神の前に堂々と立ち得る。神の権能を受け維ぐような子女になり得る。そして神が讃える。ああ蕩減復帰の道がいかばかりむずかしかったかその基準をよくも逆に蕩減して上ってきたすばらしい男、女よ、と神は讃える。讃えるばかりでなくして神の子女としてそれは抱擁して愛される立場に立ちかえるということは、人間一生にしてこれ以上のその喜びはないんだね。その道をむかって行っているのが統一教会である。それが君達三年間だよ。三年間にできるんだね。その蕩減完成基準が三年間でできる。それは祝福されるまで三年間、三人の伝道とか御旨に公的三年間なしたとするならば祝福されるということを君達はもうそれを平気で語っているかもしれない。だけどその期間が期間として正されるのはその背後にいかばかりの蕩減の犠牲の量をはらっているか、それを我々は考えなければなりません。そこには旧約時代の犠牲、新約時代の犠牲、成約時代のすべての犠牲を総まとめにして勝利的一人の核心を身代わりとしてつながせたその勝利圏を成している。それがアダムの失敗をイエス様によって、イエス様の失敗を再臨の主によって三代アダムの失敗圏を勝利的基準に皆解放し得るそういう基盤に自分なりに参席することができるというのが祝福の道である。これは大変なことだよ。 こう考えてみた場合に今度日本から韓国に行って八百双にのぼる若者達が祝福されたが、これは一九七五年度の今からの第三次七年路程におきまして最初に誰よりもそれは祝福されたんだね。だから祝福された者はそれをもらったものは授けなければならない立場に立っているのはもちろんである。それで今度祝福された家庭達は祝福献金というものをしたでしょう。祝福献金ね、これは献金は自分の為にするのではない。一九七五年から今から三年期間におきましては韓国と日本とアメリカの三カ国が世界基準におきまして恥ずかしくない内外その基盤をつくらなければならない。それで先生は今から三年前から準備してきました。 韓国における今までの青波洞にある本部は、これはみすぼらしいものだね。崩れかかった昔の日本式家屋だ。皆は言う、統一教会の文という男は金をたくさん持っておるんだから、あー、いい家に泊まっておるだろう。それはいくら研究してもわからないんだね。 それは時がまだたっていなかった、時がたっていなかった、しかし三年前から準備したのはその基準は第二次七年路程を通過し第三次七年路程をむかえるその期間はまさしくイスラエル民族におきましてイエス様が三年路程の準備されるその期間と等しくその三年期間において勝利の基台をつくって国家基準を乗り越え得るかというような期間にあたるのだから、その期間に国家基準を乗り越え得たとするならば、そこからは神の国としてイエス様を中心として教会を建てる、新しい方向を提示することができる。だけど、まだまだ蕩減の期限を乗り越えていない立場においてはそれをなすことができませんでした。それでとうとう一九七二年度に韓国において国家国民において我々の及ぼした影響が霊肉共に全てが我々の方向に歩調をあわせて来なければならない。そういう環境をつくってこそはじめてユダヤ教、イスラエル民族を中心として見た場合にはユダヤ教が反対しない、あるいはイスラエル民族が反対しない立場でイエス様の方向にそれは従うようなそういう方向を提示した基準と同じようになれば、そこにおいて外的に天的威信を正すそういうようなことを成し得ることができる。それで内外共のそういう準備をせざるをえなかった。それで今は三年間の準備、それで我々は霊的精神的分野ばかりではなくして、あるいは内的分野までもそれを兼ねて準備しなければならない。イエス様を中心として見た場合には霊的キリスト教、実体的キリスト教理想を残しているということを考えてみた場合に我々は霊的期間の準備と共に外的肉的準備期間も完了しなければならない。霊的基盤の準備期間はそれはその以前までそれが肉的準備期間を三年間に共に終えて一つの基準に勝利基台としてこれを固めておかなければならないから霊肉共の勝利基台をつくる。その限界において全ての外的基準が完備されなければならない。それを先生は一九七二年まで統一教会では韓国におきましては金の事を考えるな、外的なものの一切を犠牲にする、内的な精神的基盤を強固に国家的基盤をつくらなければならない。こういうふうに命令してきたのです。 勝利的信念 しかし先生一人におきましては、外的基準を必ず必要とすることを知っているから、食口達には内的準備を強調しながら先生は外的な準備をなしてきました。先生は一段階先に立っていかなくてはならない。それに一九七二年になる時に、さあ今からこれが必要だと決めて今から四年前に再び出発し、四年間期間において統一教会は百万長者のレッテルがつくようになりました。(拍手) それで普通の団体、普通の人が一生かけて何百年を費やしてもできないようなことをたった四年でやってしまったのだね。(拍手) それで韓国におきましては統一教会は今まで苦労してきたのだけど、でも今は苦労しないで住めるような基盤をつくりました。 それで今度第二次七年路程が終わると共にただちに全国に教会を建設しよう。(拍手) それにふさわしいその金を投資しよう。四月までに韓国には新しい統一教会が建てられるだろう。今までには貸家においてた荷物を背おって、ほうぼうみすぼらしいかわいそうな姿で行ったり来たりした者が一躍、一日において、一二〇日間において堂々たる威勢堂々と威風をふるうような教会を持つということは、これはもうそれこそ統一教会の底力を認めざるを得ない。(拍手) そういう基準が韓国にも建てられるようになる。 今度は先生がいよいよ日本に手をつけなくてはならない。ずーっと三年前から先生が言ったように第二次七年路程が終わった場合にはその時は日本に手をつけるというような時がまさしく今になってきました。それが今年の四月以降です(拍手)。 それで四月以降において日本の国を内的に君達が苦労してきた信仰精神をもって全てを総括させる。後退する者ではなくして、その克服をし勝利的な信念をもってゆけ。いろいろ花売りをしたりカンパをしたり、ほうぼうでいろいろなうわさを残してきたそれはいい。人間というものはその実力をもたなければならない。その実力のみならず実績をもった者には天下に恐ろしいものはありません。我々もそれを願っている。それで我々は精神的持ち主で堂々たるいかなる悪の世界においても勝たなければならない。そういう精神的持ち主になりました。いかなる共産党が悪辣と言ってもその共産党一人ひとりに負けないそういうような精神的持ち主、人格者になりました。それから人々が外交におきまして交渉するように、人間関係におきましても誰にも負けないような訓練をしました。それからそれは経済問題において誰一人援助しなくても一人ぽっちでも自分が必要とする経済力は自分同志で解決するよう訓練してきました。その追いに追われながら活動した結果を見てみると、手にもったもの、着たもの、身体につけたものはみすぼらしいそれはやせたような体格をしておるけれども、誰も占領することのできない精神的持ち主となったし、それからこれまでの体験から見た場合に必ず社会においていかなる者に対してもつきあえるその能力をもつようになった。これは独自的に経済問題は自分で解決するようなそういう皆さんになったというのは、これは将来一軒をかかえて生活するにいかなる社会のまっただ中に押しこんでも、それは皆に引っぱられていくような支配されていくような者ではなくして、指導すべき、中心的資格を成し得るような者になったというのは、未来の統一教会の繁栄の基台になるというのは先生の思ったとおりである(拍手)。 統一教会の威信 こう考えてみた場合に我々日本にいる若い青年達、いろいろなことをやってきた。あるいは学者を招きあるいは事業家を招き政治家につきあい、あるいは労働者あるいは貧民窟まで我々は奔走しながら回ってきた。なぜこういうふうにしたか。日本を動かす為に、日本を救う為に、ここまでやってきた。その訓練されたすべてを総動員して、今ひとつに四方八方に散らばらせて活動するそういう方法をやめて、一方的に集中工作した場合にはこれは偉大な力を出せるにちがいない。そういうふうに考えるのであります。わかりました? 君達自体がそういうふうな立場に立っています。立っています? (ハイ) 立っています? (ハイ) だから頼もしい。日本全国から見た場合に統一教会のこの若者の族{やから}みたいな者をもった団体は我々以外にあると思いますか? あると思う? (ありません) 統一教会以外に無い。だから今から日本が混乱期に入れば入るほど、我々の権威と我々の威信が表われるようになってくる。地震が起こって皆崩れた場合には、鉄柱が立っているとすればそれだけ残るだろうね。地が皆ポロポロ落ちていった場合に、それに皆かかって組み打ちを始める。そういうことが起こると同じく、日本が混乱期になればなるほど統一教会は浮きあがってくるだろう。(拍手) その時になってこそはじめて「あー統一教会救ってちょうだい」、「救ってください」必ずそうなってくる。 韓国においてもそうだ。統一教会の文さんという、文先生という男は皆この世の中に迫害され、皆論争の対象となって、当てにならない男として沼地に落ちこんだもののように扱ってきたんだけど、今度バンケットに招いたというんだね。 一月十六日に、全ての者を皆集めて先生は四十五分話しました。その四十五分に皆参ってしまった。あー別れるんじゃなかった。(拍手) まさしくそういう者である。そういう先生とは、そういう御方であったとは知りませんでした。(拍手)世の中のいろんな事を言う者は実にこれは当てにならないのだね。昔はそういう人に先生が「一度会ってみましょう」と言えば轡{くつわ}をくくって逃げるような者達であったのが、先生自体が何もしないのに、今度はあー文先生会ってちょうだい。電話をしてきて、時間がありませんと言えば時間なければちょっとでいいから出してください。こういうような事を言う。世の中は変わってきますね(拍手)。 反対されれば、一発でもってそういう結果をもたらすというのはこれはすばらしい。君達もそういうふうに考えてやれよ。(ハイ) 反対する者よ、君の力あるだけ反対してもいい。しかしある時に一発打てば、こっぱみじんになるね。姿も影もなくなってしまう。そういうことがある。これは個人ばかりではない。ある団体にそういう働きをかける。団体ばかりでなく、その国にそういうように働きかけることができる。それで今度もそうだろう。大韓民国がニューヨークでUNその他において問題になった時、先生が手を挙げて大韓民国を救ってやったよ。今になってそれ夢にもわからなかった。その勝利の背後には文先生がいる。おもしろいもんだね。知らないうちにやってしまって、あとでわかる。 日本もそうだろう。統一教会の文さん、あの奴めとね。酒を飲みながら、あーおかしい宗教団体が生まれてきたってね。あれは合同結婚式とかなんとか世を騒がしている、そういう団体だ。それは文鮮明という人がやっている。……酒を飲みながらいい気になってそうブツブツ言う者がいるであろう。しかし彼等の口によってブツブツ言われて流れていくような文さんじゃありません。(拍手) そういうような結果になれば、かえって作戦上有利だというのだね。先生びくともしないよ。ありがたいもんだ。韓国では反対があるからいいんだ。今から打たれてそれから起きあがって認めるようになった場合には、その認めたその時には天が一度に平定する。しかしそう打たれないで認めたものが一度打たれたら一ぺんで倒れてしまうよ。今統一教会文先生が街頭で作戦行動したとするならば、そういうことはもう平気でやる。一日もそれ気にとめないよ、あまりにもいろいろと責められたんだから。かえって大きいことをなすに作戦上、それは必要だ。わかりました? (ハイ) いくら悪いことを言ってもそれ以上言うことがないという、そういうことを何十年も言われてきたんだから。打つ者は打つんだけど、打たるる者はそれを利用して逆に包囲してしまう作戦をなそうというのが統一教会の文先生の戦法だね。(拍手) だから韓国自体が先生を打ってその戦法にまかれた。日本自体もそうだ。日本自体も先生の戦法にまかれるのだろう。いい気な東京新聞とかなに朝日新聞、先生が打つときには木っ端微塵になる。(拍手) 東京新聞とかは相手になりません。もしも先生が命令した場合に今から百三十カ国から金が入る、考えてみな、日本内において堂々と言うであろう我々は、世界中に立って堂々と基盤をつくる。 やるんだったらやる。いつかやる。もしも先生が命令したら、統一教会の若者は何事でもできる。そうだろう。(ハイ) 悪い者で共産党の責任者みたいな行動はしないから安心であるが、もしもこれが暴力団の背後関係の内容があったとするならば大変な凄い団体だね。(笑い) もしも統一教会の先生が共産党みたいに主を慕う方法を講じないという立場に立ったとしたら、これは大変な者になるであろう。そういう面ではまあ安心していいですよ。(笑い・拍手) 神の為に生きる 今はまあ結婚もするようになったね。国を越えてそれは結婚式を挙げるようになったね。そうだろ。外国で結婚式に出る新郎新婦達がいいもの着たいの、悪いもの着たいの? (いいものです) 外だけいいもの着たいの? 中はどうでもいい? 中をもっときれいにいいもの着なければ困ることがあるね。外よりも中をきれいに中をいいものに、内外共に備えなければならない立場に立つのが、新郎新婦が式場に立ってそれは初夜の一晩をむかえる主人の立つ立場であるんだね。だから内外共にきれいなりっぱなものを着たいというのは誰でも同じだ。そうでしょう。そうでない者は殺してしまえ。(笑い) そういう者が一人もいないから殺す者が無いんだね。(笑い) それから結婚式を挙げたあとにはそのままそれを脱いでしまって統一教会はどこへ行くの? 戦場に行くことになるよ、皆戦場に。戦場に行って何するや。死んでしまうの。金儲けてくるの。我々は、他からの助けを願わない、我々独自のこのこぶしでもって勝つ。我々の基台は我々共にやる。二人一体となって共に基台をつくってゆく、そういう精神だね。 今から我々は善なる先祖になるんだ。善なる後孫に残すものを今から研究しなければならない。そういう子孫をもったらこれはえらい子孫だね。それは金を儲けるんだったら儲ける。金より精神訓練、精神訓練を成して外的な肉体訓練、精神肉体訓練を成してからその次に金が必要なのがこの宇宙の原則です。金に売られてゆくような、そういう肉身もったそういう精神もった者は統一教会には必要ではありません。 わかりました? (ハイ) 精神的再訓練。なぜかと言うと過去においては地方で一人で自由に往来できた。今においては相対者がうまれてきた。コブが一つついておる。だから昔と違うんだから昔の精神基準ではたらない。昔の肉体外的基準ではたらない。それ以上の二人共にかかわって内外共の精神武装を完成してりっぱな人格になってから共に一つになって子供を生んでそうして子供が幸福になる。そういうような善なる生活で新しく教育してこの世の為に尽くせるようなそういう子供を教育して育てる、そうするには準備が必要である。だから共に結婚式を挙げて家を買って幸福な夢みたいな生活をする? それに文句を言わないで、それが人間として当然行くべき道だと思うようになった者がそれは統一教会の若い者達である。先生がこれはもうからっぽで何もしないで、自分は遊びながら自分ばかりの利益を稼ぐ為にそうさせてやるんだったら、これはもう大反撃、大暴動が起こるね。デモが毎日続くはずだよ。統一教会の先生は君達よりもやってきたよ。この四、五日間、アジアでのこの期間においてたくさんのことをやったね。これはもう世界が驚くようなことをやったね。それ以上やってきた。共にそれやっているのは先生一人の為や自分の為じゃない。みんな皆の為にやっているということを良く知っている。 さあいよいよこう考えてみた場合には我々自体はね、訓練途上に立つんだけれども今まで内外的においてみすぼらしい姿だった統一教会はその姿勢を整えて堂々たる準備をなしたその実体者にならなければならない。こういう時期に入ってきました。だから我々は自分が家をもつ場合に神様と出会う家を造ろうというのが統一教会の精神だね。わかりました? (ハイ) 昔そうだろう、昔、アメリカがアメリカとして神の祝福を受けるようになった大本の原因は何かというと、神様を中心として信仰の為にアメリカ大陸に集ってきたピューリタン達は金を儲けても、あるいは裕福な基台がつくられても、自分の家を造ろうという思いをもった者はいなかったのです。最初にはね、金を一銭二銭集めては何するかといえば、神様と共に出会う教会を建てようという精神に先立ったのであります。それは国の為に国を憂うる立場に立った場合には、それを自分の憂いと共にアメリカと共に教会が滅びるということになったんだから、神の為に生きようとする国民性のアメリカ人が教会と神を尊重するということは、その国を守るということであり、信仰を第一主義にしてきたアメリカは名実共に世界的祝福を神から受けるようになったのです。 神様もそう言ったとするならばそういう者を祝福せざるをえません。それと同じように統一教会は大移動して何も持っていない群れである。その群れが日本列島にこれだけの数を越えた以上は我々は何を造るべきという場合には、まずもって自分の家を造る前に神様と出会い、万民の精神的教育の土壌である教会を造るべきだというのは尤もな話なのであります。わかります? (拍手) それで先生が松濤町の日本統一教会の本部にいつも泊まっているんだけどね、見た場合には天井のペンキがみな剥げて、さかさまになって今にも落ちるようになっている。(笑い) ああ、統一教会の運命よ、そう思うんだね。外郭にしても内にしても何のその、それはもう関心をもつべきものも何も無いようにみすぼらしくなってしまった。それを見て、あー、先生が責任ある、この家が倒れるまで愛してやる。このようにしてそこに泊まっているんだね。前はそういうような立場だったけど今から一九七五年、今年になってはこれは本部を主として全国地区、あるいは県庁所在地に堂々たる統一教会を建設しなくてはならない。それを先生は決意したのです。決定したのであります。(拍手) 信仰で決意を それから我々はもう統一精神をもっておるんだね。統一式はすばやく、完全に成す。伝統的精神をもっておる統一教会の犠牲精神だから、君達も先生も同じだね。先生がそうだから、もう年は若いんだけども君達は先生に似ておるんだから、君達もすばやく、それからりっぱなものを造る。だから短期間にりっぱな教会を造ること、そういうふうに決意しなければ我々世界統一教会の面子上、威信上これはあわないよね。それで一九七五年の一年間に日本の地区本部まで全てきれいに掃除してしまおう。(拍手) きれいに掃除して消えてしまうと言うんだね。 アメリカにおいて金儲けするのも先生がしたよ。日本もそうだよ。先生が手を貸してやらなければ君達は若い者だから金がまあまあポケットに入ったら一日で皆使ってしまうよ、一銭も残りません。(笑) 監督指導しなければなりません。それいいの悪いの? (いいです) 一年間にこういうことをやってしまわなきゃならないように幹部会議によって通告し先生自体は神に祈りましたから、これはいかなることがあっても一年間になしとげなければならないことになっている。 こう考えてみた場合に、我々は完成人だと思う場合にはそれは堕落しないアダム、エバの立場にかえり立つ。アダム、エバの前に立つというものはそれは結局どういう立場かと言うと、万物を主管し得るそういう者になるという話だね。だから全ての者はアダムによって名づけられるとおりになるという聖書のことばがあるんだね。それと同じように、先生がそう成したのは日本においてこれだけのことを主管し得る秩序があるから。それはまずもって信仰でもってである。それだけの経済的その基準をなそうとするなら必ずなされる! まずもって決意がいる。まずもって信念を、信念をもたないところにそれは生命がけでやることはできません。まずなるようになっている。なるようになっているのだけれど、ならないのはなさないからである。林子平の言ったように為せば成る為さねば成らぬ。成らぬは人の為さぬなりけり、とね。結局そういう信心でなせばなる。そういう信念が必要です。どうです。信念どうです。なせばなる? (ハイ) もしもならなかったらどうする。舌を取ってしまうの。そうですと言ったその舌をこのやろう君はうそついた、切ってしまう? 先生とむかいあって話したこの目玉をカーッとぬいて取ってしまう? 自信ある? あるかないか。(ハイ) それには自信ないようだね。顔や答えがはっきりしていない。あるの、ないの。(ハイ) そういう自信ある者は手をあげて誓う。(ハイ) 皆手をあげたの。もしもなさない者は両手を切ってしまえ。考えてみなよ、いかに真剣になるか、生命をかけてやる者には恐ろしいほどの神はそういう立場を喜ぶ。 ヘイヘイブンブンは神様は大好き? 嫌い? (嫌い) 大好き (嫌い) 大好きだよ (嫌い)…先生負けた。(拍手) 神を喜ばせる者 神様はそうだよ。創造の力をもっている者をね。神様は金が必要なの? いくらでもある。何も必要なものはない。たった一人の、誰よりも愛する決意もったその一人を求めている。わかりました? (ハイ) 神の愛に結ばれてその愛の為に全てを捧ぐるいかなる苦労の信念をもったその男、女一人を必要とする。我を必要とする。それが成せたとするならば金はいくらでもあるというんだね。金はいくらでもあるよ。万物全てが関係を結ぶ。だから奇蹟をおこすことができる。わかりました? (ハイ) 神はそういう信念を必要とする。指先までこれはもう信念が満ちるようにしてあふれるようになれば、これはもうつらい事あれども倒れずにね、そうなれば君達はりっぱな人格者になるでありましょう。サタン自体も統一教会の若者の姿は感心だと感動せざるをえません。 どっちがいい? 神様にまあまあ疑わせる、憂いを向けるようなそういう者になるの、神様を喜ばせるものになるの。(喜ばせるものです) 喜ばせる者になるんだね。(ハイ) ハイと言えば英語で言えばこれは高いということばだね。日本人が一番ハイハイ言うから高くなろう高くなろうと言う。背はちいさいんだけどね。それはなにもそういうように高くないんだけど、今統一教会においては世界で一番高いのは日本だね。そうだろう。(歓声) この為に日本人がよくもハイハイと準備してきたものだね。先生そう思うよ。(笑い) さあ、そうなった場合にはアメリカ人にピューリタンに負ける統一教会の群れになってはいけません。一銭一文を集めた場合にはそれは世界一のそのすばらしい教会堂建てて余ったものはそれを昼めしのお金とするんじゃなくして献金箱にすばやくすべてを捧げ、感謝の祈りをして何一銭ももたないでその教会の門を出る時のうれしさ。考えてみな。何も持ってないけど天下はすべて我々のもの、自分の足の下に入れるような立場があるよ。 さあ、そういうことやってみたいの? それがいいものだったらいいの、悪いものだったらいいの? (いいものです) どのくらいいいもの? 東京駅の丸ビル以上? 丸ビルはちっちゃいよね。ちっちゃいんだ。あまり大きいのをつくる? それ以上あまり大きくつくったら掃除するの大変だから。(笑い) 神様に許しを受けて小さいのでかんべんしてもらう。それはいいんだけどもともと御意{こころ}は丸ビルの何十倍でつくるというんだね。内的摂理は丸ビルにまさるような何倍にもまさるようなそういうりっぱなところをつくりたい、そういう思いをもって行かなければなりません。皆、そうです? (ハイ) 君達は帯をしめるんだったらゆるくしめ! それがいいだろ? (ちがいます) 帯をしめるんだったらなに? (強く) 走るんだったら小さく短く走るの? 大きく (拍手) はやくすばやく。献金するんだったら? 献金はちょっと待て。それは一番ちっちゃく、ちっちゃく? 大きく、大きく一線を引いたように大きく、丸くてまんまる球みたいに大きく、そういうようなものみたいにね。我々が今いる武道館、武道という名前は何だ? (日本古来の) 日本古来の何だ? 訓練をするところだね。その日本伝統の武道館においてそれにまさる天的武道精神を発揮して、勝利的献金をなす。今日はそういう思いで君達を集合するようにしました。それは先生は一銭も使いません。それは日本の為に。いつ統一教会が日本の為に献金してこの民族があがめられるような教会をもったことがあるや。ない。 日本を救う為に 我々は日本の為に廃品回収からいろいろなことをしてきたね。それ自分の威信もすててね。大学卒業して、東大卒業して学位をもった者達がね、花束をかかえてそれは街頭において花を売る。花売り男があるの? 花売り乙女だよね。花売り女という言葉はあるけど花売り男聞いたことある? (笑い) 聞いたことないだろう。しかしこれ聞いたことなくして見たことがあるんだ。それはどこにあった。自分達。総理大臣を夢見て東大を卒業した者がただの花売り女の身代りになるって? 内的はずかしさ。外的はずかしさ。日本的はずかしさ。しかし喜んでこういうことをしなければ日本が救われない。これは日本の将来がない。新しい国を祝して新しい民族をつくる場合でなければ日本の希望がないからこういうことになるんだという、そういう思いをかけて来たのが我々である。(拍手) 今までたくさんの金をもうけたくさん流してしまった。太平洋の横断して学生東大生百二十名招聘とかね。いろいろなことをやってる。もしもそれを統一教会員の為に使ったとするならば、それはもう教会はすでに準備してあまる金だ。あるいはアジアにおいて韓国、それは台湾、アジアの国々にいろんなことを我々は一つの団体で手が及ばないほどの出費をなしてきた。日本の為アジアの為誰かがしなければならない。神はそれを誰かに願っている。誰かの国がなすべきを願っているにもかかわらず、その国がないからその願っている我々はこれ出血の支出をしてもこれをやらなければならない御意とその期待を神に向けそういう使命感をもって今までやってきた。そして内外共に我々のやっているのはそういう頼もしいそういう認定を受けるようになってきた。我々の体はマア弱っておるしね、環境にかこまれてもうこれ以上行かれないような立場に立ったとしても、神を信じて我々は再び決意を固めて弱い体でももう一度決意を固めて一九七五年において外的その準備の為に総動員しなければならない。そういう選択の時期に接しているということを我々は身心共に体恤しながら活動を広めてゆきたいのが今からの日本の活動であります。 それでまず第一にそれは教会を確立しよう。わかります? (ハイ) 今日先生はどのくらいの献金を願うか先生はそれを検討してるよ。その検討額を言ってやろうかな。言ってやろうかな。(ハイ) 言わないほうがいいな。(言ったほうがいいです) それ献金が先生が内心で考えているその金額より以上になった場合にはああー日本によったら良かった。飛行機が羽田空港でおりてジャンボに乗ってずーっと日本を離れる。日本よ、よくやれよ。がんばれ、若い者達。こういう統一教会の若い群れがいるこの日本を、神よ彼らを守ってくださいと、お祈りして発つことができるんだけど、先生が予想したその金以下になったら、三分の一、五分の一になった場合には、これは若い者としてそれは頼りになりません。神に自分自身をそれは決意させるような立場に立つ者でなければならない。そういうことも考えているよ。 そういうふうに思って少なくとも東京本部のその建物を我々は今年に勝利しなければならない。(拍手) 心情紙幣 しかし我々は金があるかというと金は無い。無くても銀行より以上の金をつくり出すことができる。これは偽造紙幣をつくるんじゃありませんよ。それは心情紙幣をつくる。心情紙幣、わかりました? 心情紙幣を夜に昼にわしはこのことを成すというふうにして心情で何億万、何千万、心情紙幣でその行動を直線を引くようになせば必ず金は集まる。そうすることによってはじめて日本の地に統一教会の堂々たるその教会の姿をあらわし得る。又、先生がこういうふうな武道館で君達にこう言うことによって作られた教会は、それは歴史的の遺物になるであろう。 西洋人が日本によった場合には第一のその本部を讃えるであろう。その県に行った場合にはその県の本部を訪問するであろう。そう見た場合にこれはいいかげんにはできませんよね。だから十年、二十年、百年の将来を見た場合に、できれば我々は力あるかぎりできればもう一ついいのをつくってそれを準備しなくてはならないと考えざるをえません。そういう歴史的伝統をつくるということを思いました。そういう日本の民族を代表して統一教会に入ったのでしょう。過去の先祖の身代りになって自分の氏族を代表し、日本的な身代りになって将来善なる先祖の立場に立った我々において後孫に一つの伝統的模範を残すような、そういうものを目指して誠をつくさざるを得ないというのは当然の話であります。わかります? (ハイ) それで今度祝福された者達は、少なくとも自分達が日本の食口達は皆よしても自分達だけで統一教会の全ての責任をもってみよう。そういう決意をしたことあるでしょう。 そういうふうに考えまして、今から献金をします。どうしましょうか。やりましょうか。よしましょうか。(やります) やりましょう? ほんとうに願います? それなら自分が一生に使うそれ以上の金額を献金してひとつやってみましょう。 それくらい訓練されているからね。我々自体が金庫だ、金庫ね。そうすればもうこれは問題ないや。一年の三分の一、一年ぐらい努力すればもうそれは問題ないや。 じゃ歌でも歌いましょう。園の歌をね……。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.23
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「祝福の意味」1975年1月21日(1800双約婚時のみ言)八幡山ボウリングセンター 我々統一教会に於きましては結婚するのを祝福という言葉で使いましたネ。何故統一教会では結婚に対して祝福という言葉を使うかということに対してその意味を説明しましょう。 もともと結婚というのは、創造原理、創造理想から見た場合には完成基準においてなされる問題である。いわゆる、アダム、エバがもしも完成されたとするならば、それが二人共に神の前に立って、いわゆる結婚式を挙げなければならない。結婚式を挙げるその基準を我々は完成基準という。その完成されたものは、神に対して霊肉共に一体なるそういうような価値を持つようになる。霊肉共に一体になるには何によって一体になるかというと、愛によって一体となる。愛によって一体になるんだね。だから、その愛によって一体になるには、アダム、エバが成熟して、それから、神の前に立つ前に、二人共に、あれは自分の理想相対だということがわかるようになるんだネ。自然的にネ。そうなった場合には、アダム・エバの立場は何かというと、横的の愛の基準である。横的の愛の基準が初めてそれはアダム・エバ共にの慕うような基準から生まれるようになる。それが平面的な愛の基準が成立されることによって、垂直的な愛がつなぐことができるようになるんだネ。 一つに結ぶ愛 だから人間の完成というのは、相対基準に於いて、愛を基準として、平面化された基準をいうのである。それが平面になった場合には、神の愛は垂直に垂直線として、垂直の愛として、それを平面に接している。これは二人が一つになるに従って、神の二性性相の分相であるアダム、エバが一つになることは、神の本形状、あるいは本性相に於いて、プラスマイナスが一つになって、そして、これが一つは垂直の愛として平面の一階とした愛として初めて結着、一体となるようになるんだネ。 この神と、人間共に一体となるには何に於いてなし得るかというと、愛以外にはない。愛を中心として一つになるようになっている。そうするというと、その愛で一つになるというのは神中心としてみた場合には、直接の相対基準に立つことができる。第二の自分の存在圏として表われるようになるんだネ。だから一つになった場合には、神は内的基準に立つようになる。人間は外的基準に於いて立つようになって、それが内外一体の統一圏がなされるわけだネ。 だから、神は我々が堕落しなかったならば、内心に於いて、神は内在し、我々は、この実体が神の住いとして、一致されるような基準に立つわけだ。だからこういうふうになっておるのが、愛によって、結婚によって、神と共に一つになる。こういうふうに一つになったんだから結局は、主体である神のものは相対のものにつなぐんだし、相対のものは神のものとしてつなぐことができる。こういうふうな立場において、初めて理想ということが言われるんだネ。 祝福は相続 祝福は何かというと、神と共に一つになるというところに於いては全てをもらう。神の全てを、主体の全てをもらうというんだネ。それは神からみた場合には、神は永遠の生命を持っている。永遠の生命、それから普遍の愛を持っている。それから主体に於いて、理想の愛の世界観を持っている。この全てを相続を受けるところだ。相続を受ける。 だから祝福、結婚ということは、結局は全てをもらうという。まずもって神の愛をもらう。それから神の実体を、神自体の実体を我々は受けることができる。そればかりじゃなくして全てのものまでも神のものじゃなくして自分のものになるんだ。だから結婚というその問題は、全てを相続する。一番貴い愛を相続し、神自体を相続し、それから、全てを相続する。だからそういう意味に於いて、祝福という言葉を我々は使うんだネ。祝福というのは福を得る、福を受ける、ということである。そういうような基準に向かって我々は今から進んでいかなければならない。 ここで問題になるのは我々が堕落した後孫であるということだネ。堕落した後孫がそこまで上がっていくには、そのままでは上がっていかれない。必ず、蕩減の道を通じて復帰されていく。その段階は僕の僕の段階、それは何かというと、サタンの僕だ。サタンは天使長であったんだから、僕だ。僕の僕の段階。サタンの僕の立場に立ったものが、僕の段階に上っていかなければならない。僕の段階に上っていくには天使長より以上のものにならなければ、僕の立場に上っていくことはできません。 何故かというと堕落した、そのサタンというものは、天使長が堕落したんだからその堕落したその基準より以上の価値の基準に上っていかないというと、我々は本当の僕の立場に立つことはできない。そうするには、どうすればよいか。それは絶対服従というんだネ。それは何の議論がない。行けといえば行く。死ねといえば死ぬというような、その主人によって全てが使用される立場が僕の立場だ。 だから我々統一教会のメンバーとしては、堕落しない天使長の基準に上っていくのが、理想だから、その基準に上っていかないというと養子圏は絶対生まれてきません。養子という立場をいくら求めても、得ることはできません。だから堕落しないで完成基準に立つべく天使長の基準に上って行かなければ僕の立場にかえることができません。それで、その基準に向けて我々は蕩減の路程を通過しなければならない。だから絶対服従。それで我々は地方開拓伝道とか、そういうふうにして直接、堕落したサタンを、誰が神に忠孝を尽くすかという問題を、競争するわけだ。我々は信仰でもって本来の堕落した天使長より以上の基準に我々は行く。その基準に於いて、サタンさえが、ああ、あなたには負けましたという、そういう基準に立たないというと僕の位置に立ちかえることはできません。話ばかりじゃなく事実がそうなんですよ。 祝福の基準 そういうような基準だと言えば、本当に君たちが、ここに祝福される者というのは、もともと堕落しないで、神の愛の因縁によって生まれ、育てられて、そうして成熟された者たちが、神の命令を受けて集って、そうして祝福を受けるというのがもともとの理想の基準なんだよ。その基準からみた場合にはあんたたちは今、どういうような立場に立っているか、我々ははっきりわからなければならない。 今どの段階に立っているの。僕の段階を越えていると云う自信を持っているの。原理から言えばまさしくそうだネ。(みんな沈黙…)じゃみんな祝福される資格はないじゃないの。大変だよ、まずもって、そういうふうに、原理的基準から自分はどういう位置におったかということ、これを明らかにしておかなければならない。自分で今反省するんだよ。批判検討して、自分がどういう位置にいるかということをはっきり見わけないといけない。 その次は、僕の段階にとどまっては何もならない。天使長には、相対基準というものを今まで認めていないよ。天使長に相対基準の創造をなしたという聖書の内容がないんだネ。それと同じように天使長には、いわゆる僕には相対基準をまだ許されていない。だから結婚ということは絶対あり得る? 夢にも思うことはできない。そういうふうな立場から、我々はジャンピングして上っていかなければならない。もっと高い所の復帰の路程を通過して行って、より高く上がって行かなければならない。 上っていくには僕の段階の上は何かと言うと、養子の段階だ。養子という段階を越えなければならない。そうなれば養子というこの基準は、一体何を標準として決めるであろうか。これが問題だよ。それは、イエス様の基準を中心として決める。養子になるには、イエス様がなし得なかった基準を、なし得るという自覚を持った者でなければ、養子圏に立ちかえることはできない。 何故かというと、ユダヤ民族はイエス様を中心として完成した養子圏に立たせようとしたのが神の摂理であった。メシヤがおられた場合には完全なる養子として立った所において初めて実子の愛の相続の相続権を受けて、神の養子として祝福を受ける、相続圏に立ち得ることができるのである。それ以外に道はありません。 イエス様以上の立場 こういうふうに原理的観から見た場合に、君たちが本当にイエス様以上の基準に立った養子圏に立っているかということを聞いた場合に答えはどうです?立っていますか? (立っていません) 立っていなければ祝福も何もあったものじゃない。大変なことになるじゃないの。先生が来て、そして話を聞いた、それでおしまいだ。これをあんた達はっきり知らなければならないよ。 イエス様より以上の価値を持たなければならない。イエス様は十字架につけられたんだから今は霊的なメシヤとして立っているところはまさしく何かというと、天使長基準である。霊的天使長基準しか立ちようがない。だから再臨の一時をもうけて、その時に来て初めて祝福の一日を歴史を通して、数多くの、民族をこえて世界万民をこえて犠牲の蕩減条件を払いこんで、それで発展の道を広げて来たのがキリスト教の二千年の犠牲の歴史であった。 こういうふうに考えてみた場合に、君たちがイエス様より十字架から、復活されて神の前に出会う、私は責任を果たすというような者の立場に立ちかえらなければ、祝福という道は生まれて来ません。これは原理観だよ。 さあ、そうしたらあんた達養子圏に立っているかと聞けば立って(いません)。じゃどうします? 帰りましょう。(皆笑う)笑うんじゃない、本当だよ。帰りましょう。問題はイエス様より高い位置に立たなければいけない。もしもイエス様が氏族的基準、氏族を完全に復帰した場合には、氏族圏内に於いては家庭の安息圏が生まれて来る。民族圏内には氏族安息圏が生まれて来る。こういうふうになっているんだよ。国家圏内には、民族安息圏がつくられるんだネ。世界圏内には、結局、国家安息圏が生まれて来る。こういうふうに考えてみた場合に、ああ自分達は、このイエス様が持たないような氏族圏を持っているかしらと、どうだ持っている?(持っていません)それから民族圏を持っているのいないの? 国家圏、世界圏は? そうしたら、祝福も何もできないよ。 真の父母 しかし、ここに我々は一つ考えなければならないのは、イエス様自体が真の父母を持つことができたか、と質問した場合には? どうだった?真の父母様を持っていた?(持っていません) 真の父母を持っていたら、再臨なんか必要ないんだネ。しかし、我々統一教会は真の父母に侍るというような立場に立ったのは、これはすばらしい。真の父母において、真の父母に属している家族がおるし、親せきがおるし、氏族がおるんだネ。氏族は一体何かというと、結婚されて同じ血統圏をつくりあげている我々祝福家庭であるというんだネ。だから、統一氏族がいるのいないの?(います) こう見れば、我々は真の父母を持ち、それから氏族圏を持ち、それから民族圏を持つようになって来た。そればかりじゃなくして世界的に超民族的な世界基準を拡大されている。それが一つになっている。我々は心情を中心として人類を超越して結束し得る。それは間違いない。それが可能である。それは本当かな?(本当です) 今度の国際機動隊と、ことばは通じないだろう。言葉通じないんだけど、目をパチリパチリしながらにおいをかいでもわかるように、何か通じるんだネ。先生は日本にきてから何でもやった。ことば通じなくても何でもやっちゃう。こういうようなことばとかネ、今までサタン的な、歴史的文化の背後とかネ、日本文化、それが問題じゃない。それ自体は何かと言うと、それをこえて、神を中心として、新しい血統圏に於いて、新しい文化の方向性を持って、我々は今国を越えて、世界を越えて進んで行っている。こう見れば、蕩減的世界的、家庭的、各個的に於いて、それは家庭的基準をもつなげているんだネ。だから、蕩減的家庭基準が、世界的に広がっている。この基台があるから、昔ユダヤの国を中心としたイスラエル的民族性より、我々はもう少しすばらしい立場に立っている。そうだろう。 世界万民が、統一教会や、先生に対して、ああ韓民族。日本人もいるし、アメリカ人もいるし、ヨーロッパ各国、五三カ国の人がみんな、国を越えてもいこう、こうなっているんだネ。すばらしい民族を形成している。 その数が日本の数より以上になった場合には、さあ、日本に二億統一教会要員を動員というようになった場合には日本は完全に復帰される。何日で、(一日で)一日。(笑)それは可能だよ。二人が両手をかかえて、統一教会になるかならないか聞いた場合には、(笑)それが可能な基盤を我々はつくっている。そういうふうに我々は世界に大移動をなして世界を、イスラエルの荒野路程みたいに、こういうふうに作戦でもって、完全にかき回してしまうだろうと思うんだよ。そうして行く所、敵の陣中を乗り越えて堂々と行けるんじゃないかと、先生は今考えて、国際機動隊導入という作戦を今、ねっているんだよ。 こう見れば、今、君たちは、外的からみて、環境から見ても、イエス様に勝っていません?(勝っています) 人間というものはおもしろいものだよ。少し自分の方に優勢になった場合そしてまさしく先生もどうにもならない、君たちにまきこまれてしまうんだネ。(笑) こういうような結論になった場合には、ホッとするんだネ。一安心ネ。そうだろう。先生の論調で行った場合には、一人残らず追い出してしまうんじゃないかと(笑) ことばというものはすばらしいもの。原理というのはすばらしいものだよネ。そういうふうな結果を考えてみた場合には、この基準はただで得たものではありません。この一人というものはただの一人じゃない。 犠牲の歴史の目的 これは数千万年の、数十万年前の歴史過程を通過して、神の御苦労の蕩減の結実体として、いわゆる、復活されたものである。貴いものである。この一人の為に、神は堕落直後、ずうっと、歴史過程を続けて、今まで御苦労なさった。そればかりじゃなくして、あるいは歴史過程に於いて数多くの預言者、イスラエル選民、それからキリスト教の迫害の殉教の歴史、こういうような犠牲を払ってきたのが、誰の為か。結局自分の為。我々、個人をして、そのメシヤより以上の基準に引き上げる為に、こういうような歴史的な全体的な蕩減の価置を導入して来た。その導入した、全ての価値の総結実体として今表われた者が、君たちでなければならない。 再臨の主と結婚するの?君たちだよ。それはアダムの身代りの者だ。だからアダムの分身体だ、エバの身代りの者だ。統一教会の用語で言えば、アダムの分身体であり、それから、エバの分身体である。その分身体がサタンのざん訴にこもるような分身体ではない。それは神の方に立つべく分身体だ。それが可能な原理に我々は立っている。それは誰によって?真の父母によって。だからありがたいお方だネ。それを知っているの? 一身全てをささげても、恩に報いる道がない。自分の国を、あるいは地球をサタン世界を全てまとめて、そうして御恩に報いようとしても、それはその恩に及びません。それを考えると大変なことだ。 宇宙の中心 そういうような我々の価値、各自がそういうすばらしい立場に。だから全てが、あんたたち全てが、宇宙の中心だ。あんた達男一人だったら、我に於いて、男の世界はみんなつながっていると考えることができる。アダムというものは人類最高の先祖だネ。それにみんなつながっているんだネ。それと同じように我々男というものは三人の全てを総合した、自分を中心としての先祖であるというんだネ。そういう考え持たなければいけない。これはすばらしいことだよ。あんたたちそうなの? わしが笑えば、この歴史も笑うんだ。わしが踊れば、君たちもおどるんじゃ。わしが神に感謝すれば、君たちも感謝する。そういうような主体になったとすれば、これがまさしく天国だネ。 女もそうだネ。神から見た場合には弱々しい女はこの頃何もつかえないんだネ。しかし、こういう価値観から見た場合には、数多くの女があろうとしても、その全ての中核は私だ。中心は自分だ。わしが一歩行けば君たちもみんな歩調合わせて…。自分にみんなつながってくる。私という者は神の娘として堂々たる資格を持ってあまりある。そういう自覚をされた復活体だ。本当にそうだ。男たち、本当にそうです? だからそういう自覚を持たなければならない。 その自覚は誰によってさずかるや。自分によってさずけたのではありません。神様と真の父母によってさずけた。それはどういうわけで、聖書を読めばアダムが名付ければその名付けるままになるという御言がある。これは善なる神の子であると言えば、孫でございますと言えば、神は、ああそうか。そうと思うんだと言うんだネ。その基準において真の父母様が認めれば、神はただちに認めざるを得ない。気持ちが良くないなあ(笑)。君たちは気持ちが良いかも知れないが、先生は気持ちが良くないや。 しかし蕩減復帰という内外の全てを広めてサタンがざん訴できないような基準に立って個人的勝利、家庭的勝利、氏族的勝利、民族的勝利、あるいは国家的、世界的勝利圏を拡大して、それは霊的キリスト教圏、霊的な基準から拡大して、みんなマイナスの霊的基準にプラスの霊的基準を一体化させて、その一体化させた霊的の総合的な、そのものをプラスにつくって、それは、肉体的な基準に於いて、またマイナスにして、それを再び肉体的基準までつくっていかなければいけないということが、復帰の運勢だよ。これはややこしいよ。 復帰の道を行くには こういうようなことを考えてみた場合には、あんたたちが原理もわかるとしても、蕩減復帰の道は絶対行かれません。何もわからないから。これは何も天国どころではないよ。地獄に行くのに決まりきってあるべきなのにかかわらず、一躍ピーッと飛び上がった場合には天国にとびこむということが可能なる時代圏に立っているということはすばらしいことだ。 そういうような真の父母の真の子女としての権威を我々は持つことができるんだから、堂々とサタンのざん訴圏を天国になしかえなくてはいけない。その自覚を持たなくてはいけない。 真の父母の後孫というのは堕落圏内にはあり得ませんよ。エデンの園において堕落しなかったとするならば、真の父母が生まれるべきであって、その善なる父母の血統がそこになるのであって、血統圏というのがつくられるべきであった。それが今サタンの血統圏になったのを、蕩減復帰基準をしてこの時代に於いて、新しい神を中心とした真の父母を中心とした新しい後孫血統圏が今、創られつつある。それが統一教会だ。 こう思うと統一教会はすばらしい?(すばらしい)どの位すばらしい。今までの天国と地獄をやっても代えることができません。堕落しない時には地獄はないんだネ。今までの楽園とか地獄全てをやっても代えることができない。すばらしい所である。これは大いなることである。宇宙全てを導入しても、その価値はないということをあんたたち考えなければいけませんよ。 だから祝福される者は少なくとも天宙を統合し、我々の原理の用語から言えば、天宙の実体相だネ。それは男だったら男全てがプラスを総合した、宇宙を総合した価値を持っている。女はマイナスの全てを総合した、実体の価値を持っている。その違い。だから宇宙をやっても買えないようなそういう価値観を認識し得るような者じゃなければ神の子供になれません。そうなれる自信はあるの。(ハイ) その自信があるんだから祝福というのが可能圏になりました。そこにおいて全てをのり切らなければならない。 父母と地上天国 だから君達は何を考えなければならないか。最初に神の国、それから神の国と真の父母。それ以外にはない。エデンの園がそうだろう。まずもって、お母さん、お父様、それ以外には天国、地上天国それしかなかった。 だから復帰された我々に於いては地上天国と真の父母の自覚をエデンの園に於いて堕落しないそのアダム、エバより以上、堕落しなかった善の後孫より以上の自覚を持つまでは、ここに於いて全てがサタン圏をのり越える。その基準に立って真の父母から、こういうように君達は成熟してきたんだから、式を挙げよと言って、それがいわゆる結婚である。祝福である。そういう自覚を持たなければならない。目玉がぬけ出してもその自覚はちゃんと目玉の奥底に止めておかなければならない。鼻が飛んでもその鼻の奥底にはその思いを止めておかなければいけない。舌がぬけても、心がとんでもその奥底にはこれを止めておかなければいけない。全ての奥底にはこれを止めておかなければいけない。神の国と真の父母の認識が全て強くなければならない。 そういう自覚に立った者にサタンなんか問題できるの?(できない)そういう自覚を持ったとするなら、神様今からやります、ああそうかやってみな、ハイ、今から行動出発だ、神様もよーし、うなるよそれは。とんでもないことが可能である。 先生は大変である。しかし、今まで神様が復帰、祝福の理想ということを思ってみた時、イエス様をよこしてただ一双を願い求めて摂理したけど六千年、文化歴史が六千年、それを見た場合には我々は先生一代に於いて、何千双…。七百双も一遍に決めるということは神様の何倍か、七百倍。だからすばらしいんだ、だからサタンは神様の前におる者の歴史過程には恐ろしいことということは思わなかったんだけど、今、統一教会文先生が生まれて来ては恐ろしい。(笑)そういった影響に入っているんだよ。 だから我々の道は遠くありません。もう遠くありません。ここまで来たんだから今、日本がいくら昔の帝国主義をとなえて神社参拝をなしながらキリシタンの首を取っても、我々の根を取ってしまうことはできません。世界はちゃんと知っているよ、又、再び上がって来るよ。いくら日本中切っても足だけまだ。足から又…。その足が、統一教会の足になるんだ。全滅することにならない。 先生が世界路程から韓国まで帰って来ていよいよ霊的の国家的基準をつくるというような原理原則が、内外共に実施するようになって来たよ。急に文先生が韓国で有名になって来たよ。(拍手) それで、今度の結婚式も家庭攻撃のげんばくだ。これはサタンの世界はメチャクチャになるんだけど、我々の家庭はメチャクチャの反対になるんだよ。今から三年間、統一教会は間違いないよ。 それで今までの歴史というのは個人的蕩減をなして来たよ。統一教会には家庭的蕩減を導入しようという。家庭的蕩減を導入し始めたとするならば、日本民族の家庭導入、アメリカ家庭導入、そして世界導入、そういう条件になるんだネ。日本の祝福家庭を導入するということと、アメリカの祝福家庭を導入する。イギリス、あるいはドイツ、フランス、こういう各国の家庭を一家庭でも導入したら、これは世界的だよ。わかりました。(ハイ)こういう時代がもう来ているよ。 三年間は兄弟関係 だから我々は家庭的三年路程とかみんな聞いているだろう。あんた達も、結婚した場合は三年路程は兄弟関係でサタンを屈服して、安息圏をつくるというのが、今までの我々の残されている使命である。こういうことは世の中にないんだネ。 何故こういうことがあるようになって来た。統一教会の文先生が偉いからこういうことになって来たのじゃありません。蕩減条件が残っているからこういうことになって来た。あるようになって来た。それでいよいよこういう基準に来てみれば、神様と真の父母を中心として天国圏内に立つようになって来たんだから、ああ、年頃になって来たんだから祝福ということができるんであるという結論がまさしく正しい。それで今から君達も自信持ってショーに参席することができるんであります。(ありがとうございます) それで今からみ旨がこうであったとするならば、今まで歴史過程において僕であったとするならば、瞬時においても我はそれ以上の価値を生活において決めていく。イエス様以上の基準を決めていく。先生が世界的家庭に向かって今まで蕩減をなし得なかった基準を我々は国際機働動隊の要員として世界的蕩減が可能です。だから先生がなし得ないより以上を蕩減することができるという自覚を持ってやる。先生の家庭は導入しないんだよ、あんた達の家庭は導入してもネ。(ハイ)中心家庭が移動した場合には全部がペチャンコになってしまう。中心は移動できない。相対は移動してもいい。そういう立場だから、今から統一家庭は世界を救う為に導入していかなければならない。その働きは三年間であるというんだネ。 イエス様の家庭 イエス様が本当に神様の願いから見た場合には三年公的路程は一人でさびしい足ぶみをしながら歩む時じゃなかった。共に手をつないで、「あなた様」「あんた」こういうふうにして喜びながら神様を願いして、たたえつつ、はげましつつネ。苦しい時があった場合には共にむこうで苦しく思えば、ここでなぐさめ合って、「感謝しましょうよ」と言えば、「ああそうですネ、あなた様のことばの如くです。」「そうでしょう」といって「感謝します」と言って、全ての苦労を感謝の結実として消化し得るそういう立場は男の前に女がいなくてはならないし、女の前には男がいなくてはならない。 そういうふうになるとするならばそれはイエス様より以上のすばらしい立場になる。イエス様は十字架につけられたのちに、聖霊が降臨して、一つになって縦的に夫婦関係をつくったんだネ。我々は横的に夫婦関係をつくると共に縦的な夫婦関係を霊的だよ、我々は横的ながら、霊肉的であるか、もっと刺激的であり、もっと理想的である。それで女が必要だから男がこういうふうに集まって、男が必要だから女がこういうように集まって来た。こんなに密着してすわっているけれども、さむいようなさみしいような雰囲気ではありません。希望にみちた雰囲気です。(拍手) だいたい祝福という内容についてわかりましたか。復帰の蕩減をなし得て、そのおおもとの理想基準に立ちかえるには神様と真の父母と天国の基台をなし得てサタンのザン訴圏は関係ないという絶対的信念の自覚の基準において、祝福は可能である。だから今からそういうような自覚を持ったし、そうなるにちがいないという者手をあげ。(ハイ)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.23
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2021/08/22 10:00に公開予定です。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.22
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李基誠 苑長 天心苑 特別精誠祈祷天心苑一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.20
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神統一韓国平和フォーラム(2021.8.21)天一国9年 天暦7月14日(2021.8.21) 孝情文和苑 文和ホール & tv.peacelink.live2021/08/21 AM09:00 に公開予定です。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.20
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「天国実現」(一九七五年度標語)1975年1月1日ソウル教会本部にて 今のこの時間は一九七四年を送り七五年度を迎える瞬間の15秒前であります。我々みんなで祈祷しましょう。 『愛するお父さま! 歴史的な一九七四年も既に過ぎ去りました。一九七五年度は我々統一教会に於いて第三次七年路程を迎える新しい出発であると同時に八度目に迎える「神の日」となるため、光輝き燦爛としたあなたの願われる御旨が今日より永遠無窮なものとして成就なさしめてください! お父さま! 此の韓国の地をあなたの胸に抱いてください。日本とアメリカを抱いてください。一二〇カ国を連結させる希望的な基盤をより一層光らしめ願望の一国家を建ててください。そして世界万民があなたの子女としての名に依って永遠に誇り得る本然の人間たらしめることを許してくださいますよう切に願って止みません。このような偉大なる御旨を成さしめるため、こんにちの統一教会の面々に負わされている責任が如何に重大であるかということを知っておりますが故に、お父さま! 力を倍加せしめてください。 復帰の再創造歴史において輝かしい完成の基準に向かって越え行くことのできる基点が今から始まりますので第三次七年路程に向かって甲斐ある戦の地に進軍する天の勇士となることをお許しくださいますよう切実におねがい申しあげます。アメリカで成し遂げた霊的なキリスト教の基盤を父が御前に連結なさり、肉的な基盤が国家的基準と連結され新しい世界的な肉的復帰の世界に向かって出発しなければならない新年を迎えましたが故に、お父さまが共に働いてください。 全世界に広がっているあなたの子女達がこの韓国に向かって頭を下げ、この日の祝福をねがっているものと思います。今日この日を記念するために韓国と日本とアメリカとヨーロッパの代表達がここに集っておりますのであなたが直々にご照覧ください! 復帰路程において天使長から又エバからアダム時代から復帰するというこのような意味の過程をアメリカから日本から最後には韓国にまで連結して参りましたので、お父さま! この偉大なる御旨をお受けください。勝利の一時を定めあなたの栄光を讃美しうる全万民の宗教となり、あなたが直接主管することのできる愛の園として顕現することをお許しくださいますよう切実にねがって止みません。 お父さま! 今一九七五年を迎えました。私達は心を一つにしてお父さまの御前に感謝申しあげます。 恨み多き二次七年路程は再臨のイエス様のサタン分別の路程となって、生死の道を区分して来た国家的問題を越えました。世界に向かうことのできる新しい三次路程に入りましたのでお父さま! 私達の行く道の前に又あなたの御前に反対されていた全てのものを歴史通じて除去なさり、あなたの権限を以って永久に主導的であり、主管的な行事をすることが出来ますようお許しくださいますことを切にお願い申しあげます。 個人を通じてそうでありますよう家庭、氏族、民族、国家、世界を通じてもあなたの勝利を讃美しうる、より明日への世界的な歴史が展開できますようお許しくださいますことをおねがい申しあげます。旧約時代を代表したのは霊界であり、新約時代を代表したのは今の外的現象であり成約時代を代表したのは現統一教会の者達であるため、この三つがひとつとなってお父さまの御前に親孝行の道理と忠誠の道理を尽くすことができますようお許しくださいますことを切におねがい申しあげます。 霊界のあらゆる悲しみの中においても戦い通し、目的完成のためのあらゆる困難にも耐え抜いてきました。故にそれら全ての困難をお父さまが解決なされて、地上にいる後孫を通じて一つのあなたの完成世界へ進展することのできる蘇生、長成、完成基準を霊界と地上に連結させて、天に帰ることができるようお許しくださいますことを切におねがい申しあげます。 今ここに集ったあなたの子女達をご覧になってください。韓国の不足な点を予想におかれこの三次七年路程においては新しい希望をもって所望の前に額つき過去を悔い改め、天の御前に愛される民族として立たせてくださいますようお許しください。 お父様! 「イースト・ガーデン」にいる幼い子女達をも此の時間を共に分かち与え祝福してください。韓国と「イースト・ガーデン」が連結し、アメリカにある「ベリータウン」と「テリータウン」が連結して、全宇宙と世界が連結しアメリカと韓国と日本が完全にお父さまの御前に一致してあなたの新しい三次七年路程において完成世界へ乗り越える日とならしめてくださいますよう切におねがい申しあげます。お父さまの固有なる全体的基盤としての行事を行わしめ、天の公義と生命権を知らしめて万人をあなたの掌中に入れ自ら主導なさり、天国への道程に直行できますよう切にお願い申しあげます。これから実体三年路程を闘って行く韓国から日本とアメリカを連結させ世界を連結して行かねばならないこの戦いの場に再び実体的完結をなさしめてください。 今は天国建国の実現を完結させねばならない重大な点に置かれておりますのでお父様の導きと祝福が与えられますことをお願い申す次第です。 輝かしい一九七五年度とここに三次七年路程、第八回神の日を迎えるこの日において今あなたの御名とともに全世界に三次七年路程を宣布いたしました。あなたの御名と共に生命の因縁が直接あらわにされてあなたが直接主導なさる世界への道をお話し申しあげましたのでどうかお受けとりくださいますよう切におねがい申しあげ、許されたその日が今日から光輝きますように勝利の旗を掲げて行く前に百戦百勝出来ますようお許しを願いながら総てのみ言葉を真のご父母様の御名に依って御願い申しあげます。アーメン アメリカで勝利の凱歌 皆様も知っているように、一九七二年度から我々の標語は「統一戦線守護」という標題であって、第二次七年路程をいかに勝利的結果として乗り越えさせるかというのが最も大きな問題でありました。そのため今まで、蘇生、長成、完成時代を犯したサタンに対して一つの分岐点を決定させようと熾烈な闘争路程を歩んできました。天国の御旨を中心として、完成時代はサタンを分別させ侵入を防ぐその時代であったことをよく知っています。故にその間、先生はアメリカを主とした三年路程と、韓国と皆さん達の責任その他家庭を中心とした責任への再蕩減の民族的路程を結びあわせる基準を中心として、民主世界を代表とする実践的キリスト教国家を中心に攻撃戦を提示しながら基盤を固め、アメリカでの勝利の凱歌をもって此の度韓国に戻ってまいりました。 韓国に来て為すべき仕事は何であるかといえば、韓国は霊的基準で世界と連結されていないがために、実体的基準を連結させるための仕事をしなければなりません。 その基準を連結させる為には、西欧社会のイギリス・ドイツが動員されることです。復帰路程を見れば、ドイツはサタン側に近いヨーロッパにおける天使長でありイギリスはヨーロッパにおけるエバであり、これが廻り回って天使長復帰時代に入ったために、エバを中心して神側の天使長形態を経て、神側のアダム国家を連結させる実体的基準を完結させなければならない御旨があるために、今般ドイツにいる食口達をロンドンに行かせて祝福基盤を作ってあげました。又、アメリカに帰ってからはユダヤ人と我が韓国人とを結婚させ、日本においては、それこそ民族的な神の御旨を中心にした実体的な祝福をなして来たのです。 このように世界的に拡大化されたのは何であるかと言えば、今は天国を実現しなければならないという大きな課題があるがためであります。この事を疎かに考えてはならないのです。そして天国が実現するに当たっては、本来我々の想像を超えた基準が設定されるのではなくて、神の創造の原則を中心として設定されるのであります。 天国実現の基準 堕落した世界は地獄となったが、堕落しないその世界は天国であったという事を我々は良く知っております。神は絶対的であるために、そのお方がたてられた御旨は変わることがありません。人間が堕落したといえどもその御旨は唯一無二なる御旨として残されるために、この御旨をたてて全知全能なる神としての威信と権威を守り、これを完成させなければならないのです。それが今まで復帰過程を通じて、僕の僕の時代から僕の時代、養子の時代、子女の時代、父母の時代へと逆にのぼっていく歴史であることを我々はみんなが知っています。 このような観点から見るならば、天国実現においては何が動員されなければならないかといえば、神様が動員されなければならないというのです。ではその創造目的を実現される基準は何であろうか。万物を創造し天使世界を創造し、その次には人間を創造なされて、その人間が神を中心として善なる伝統を打ち立ててこそ、その世界が天国実現となるのであります。そうであるために、アダム、エバが堕落しなければ、兄妹としてこの地球上に神の愛を中心にして罪なき善の伝統を立てることが出来たのであります。故に天国実現とは、兄妹としての伝統を立てなければならない時代に入ったということを知らなければなりません。次にそのような伝統を立てると同時に、兄妹が完成すれば夫婦の立場に進むために、神の愛を中心にして夫婦としての伝統を新しく残さなければなりません。そのような夫婦によって生まれる子女は神の愛を受けて生まれたがために、罪なき夫婦の血肉を通じて生まれるために、罪のない息子、娘となるのであります。 罪が何であるかという事に対して、我々原理ではサタンが讒訴することの出来る条件を提示した時、罪が成立するものと覚えております。これを知っている為に、サタンが讒訴することの出来る条件を完全に除去した家庭的基準を持って、はじめて新しい天国基盤が出現するのであります。 家庭を倍加することができたとき家庭を越えて氏族となり、又これを横的に展開させることが出来たとき民族が形成されるのであり、その民族が全体を通して拡大することが出来たとき世界となるということを知らねばなりません。世界がいかに大きいといっても神の愛の中に主導される世界であり、国家、家庭、個人全部は、同じく神が主権者であらせられ、その語られる御言葉に幸福をうたい永遠なる不死の子女となった栄光を賞め讃えるそのような人々となってこそ、天国に住める国民であり、天国の家庭であり、神の愛を受ける子女の立場に立つのです。そのような立場に立ってこそ、天国に入れるのです。 我々は言葉だけではいけません。天国実現は言葉だけでは駄目なのです。 今日の復帰途上から見てみると、何時のときにも蘇生、長成の段階までは問題とされておりました。アダム家庭を見ても二度目にあたるカインとアベルを中心として分別の争いがなされ、ノア家庭はアダム家庭の代わりに立ったためこの二番目の家庭を中心に“審判”という名で以って分別がなされて来たのです。次のアブラハムの時代に入っても、祭物献祭に鳩を引き裂かなかったために歴史は延長され、再度これを分別すべき摂理はアブラハムが担当するのではなくイサクによって献祭されるなど、いつも二番目が問題とされて来たということなのです。このような全体的歴史の観点から見るならば、六千年の歴史は旧約時代、新約時代という立場で展開して来たがために、新約時代は名実共に世界の分別時代へと入って行くのであります。そうであるが為に民族、国家はカインとアベルに分別され、今日の時代には間違いなく民主主義と共産主義という分別された国家形態が現われ、一つは神があるといい他方はないという立場に立って対比される働きを歴史上に展開するのであります。 用意されている新しい摂理 しかしこのような分別時代において、それはただ分別で終わるのではなくして、必ずある公式的な路程を通して統一された形態を持って前進するというのが復帰原理の公式であるということを皆さんはよく知っていると思います。 今までに我々は蘇生期を経て長成期へと発展して来ましたが、これが第一次七年路程であり第二次七年路程なのでありました。 第二次七年路程を中心としては何をなすべきか。これはイエス時代と匹敵するために、国家を中心として国家的イスラエルとして完成段階へと越えて行かなければなりません。ところがそれが未だ出来ていないのです。十字架につかれて敗れたがために、国家的基準を越えなければならないのです。 キリスト教は名実共に国家的基準以上で出発しなければなりません。何故ならばイエスという御方がメシヤとして来られて、その御方の行くべきところは長成級を越えて民族を収拾し、全世界に突入して完成基準へと向かって行くべきであったからであります。完成基準を越える時は、全世界を支配下に置き唯一の中心となって、その下に万人の存在が主管される立場へと戻って行かなければならないのです。 キリスト教がこのような観点から霊肉を中心とした世界的イスラエルとして発展しなければならないのに、十字架の道を行き世界的な発展を見ずして死んでしまって、ただ霊的基準を中心として世界的発展の時代への出発がなされたためにキリスト教は出発と同時に世界的宣布時代へ入って行くのであります。だから今日のキリスト教は、中心のない歴史的発展をしてきたということを皆さんはよく知っておかなければなりません。 そうであるため、全世界にキリスト教国家は多いけれど中心がなく、且つ又地上に基盤を築いて霊肉を中心とした世界を処理できる今一つの地上国があるべきであるのに、未だ以ってそれが無いということを知らなくてはなりません。だから、地上を基盤にして築くことが出来る中心点を完全に喪失したまま、霊的基盤を中心としてイエスを信じ霊的家庭、霊的氏族、霊的民族、霊的世界と漠然とした状態でイエス様を中心として来たのであります。 こう見る時に、今日のアメリカという国家はどうなっているのでしょうか。世界的キリスト教国家としての形態は完成時代に入ってきたとみることが出来ます。即ち、完成圏内に、世界的な時代へと入って来ました。しかし完成圏に入って来たものの、実体中心がないのです。アメリカがキリスト教国家でありながらも、アメリカ自体が世界の中心となってキリスト教を処理することの出来る国家予算を編成することが出来ないため、キリスト教国家として立つことが出来ないのです。アメリカはこのような立場にあるため、本来十字架の死がなかったならば霊肉を中心とした宗教的目的において神は偉大なる政治的行事をなすでありましょう。しかし未だ終末でありますから、神はその方向に引っ張って行っているだけであって直接的な関連時代ではないのであります。だから変遷するこの世で、良心を標準とし又は宗教に向かって民族を越えて移動することのできる自由世界へと発展した、これが民主世界です。 アメリカのような国、超民族的国家としての新しい国家形態を神はキリスト教を中心に造りあげてきたが、ここでもしその国に新たな指導者がいたとするならば、その指導者を中心として、従来の一つの中軸を区分けして行くことが出来るようになっている。これは何を意味しているかといえば、これから主が来られたとするならばその政権交替が容易であるようにとなすための過程的手段方法として、必然的に生じてきているのです。これが民主主義なのであります。 しかし民主主義は一方通行ではありえないのです。果たして神を、推薦しあるいは候補者を立てて取り返すことが出来ますか? 接木は接木する使命は果たせても根と同じ働きをすることは出来ないのです。民主主義は根の働きではなく、過程的な働きにすぎないのです。もし万一堕落していなかったならば、その世界は民主世界ではなく、全て超越した立場であり、今はその世界に帰結させることの出来る一つの形態を模索しているのであります。今日民主世界に行くべき方向を提示することは出来ません。又、目的を提示することも出来ません。皆さんも知っているように「ウォーター・ゲート事件」によって、そのような事件を収拾することが出来なかったということは民主主義の末路なのであります。 今般、U・N総会を中心にして韓国におけるU・N軍解体の問題は、即民主主義の終焉なのであります。これを防御するために先生が「ウォーター・ゲート宣言」に手を付けたのであり、U・N総会に手を付けたのでありました。それはややもすればサタン側に落とされていく危険性があったために、危険を覚悟して「ウォーター・ゲート宣言」に手を付けたのであります。 U・N総会での韓国問題は、外的な没落としての民主世界の最後なのであります。アメリカがいかに優れた智恵を持ち、行き届いた統治をしたにせよ、新しい方向に民族を糾合させることの出来る思想的な観念がなくてはなりません。民族に今一度発展の道を与え、腐敗したキリスト教思想を収拾し今まで混乱を続けてきた社会を再収拾するその方法がないということは、天運がそうであるからであります。共産世界も同じです。一九七四年度までを見るとき、共産主義においては後三年を過ぎれば解体期に入って行くことになります。 見ていなさい。霊界で金日成を呼び出しさえすれば、彼は今日夜にでも行かなければならないのです。共産世界によって問題となった人々が三次に亘ってそのような形で交替するであろうというのが天の観点であります。従って、世界の中心として或る最大の基準を備えた一国家がなくてはなりません。それがアメリカです。だから共産党も攻撃目標をどこにおくかといえば、大韓民国ではなくアメリカなのです。金日成もソ連も、同じくアメリカに攻撃を向けているということを知らなくてはなりません。 歴史的に見れば悪が善に対して攻勢をかけても、善が悪に対して攻勢をかけた例はないのです。先に攻撃した者が必ず亡びることになっているということを知っておくべきです。それは先に攻撃する者がアダム側に立つのではなくサタン側にいるために、既に思想的に攻撃したことになるのです。ところが今の立場を見れば、民主社会を代表した大韓民国が責任を果たせなかったが為にアメリカが落ちて行くのです。大韓民国を中心とした神の御旨というのは、大韓民国の宗教が団結して御旨の道を歩まなければならないのに、それができなかったのです。その主導的な役割をしなくてはならないキリスト教が大韓民国に反対する者となったために、亡びることになるのです。 国が亡び、国をなくした日は何事も成すことが出来ません。今日の既成教会が反対と悪口を叩いていますが、金日成が現われて最初に誰の首を切り落とすかといえば大韓民国に反対した既成教会の責任者から始まるのです。今日、民族がこのような混乱を経て興亡の岐路を彷徨する立場に置かれるのは、結局新しい時代における我が国が責任を果たさなかったからであります。韓国が責任を果たし健全であるならば、サタンは折れて落ちて行くのであります。教会はアベルであり、政府はカインであり、そのアベル・カインが一つとなる日には韓国は発展するようになっているのです。 お父さんとお母さんが一つになった日にはその家庭は発展するものであり、子供と父母が一つになった日にはより次元の高い家庭へと発展することを知らなくてはなりません。それでは家庭と親戚が一つになるときにはどうなるか。そこには新しい民族精神が湧き上がるでしょう。それがより高次元に向かってなされるならば環境的に全てが結束され、国家基準まで忠臣の血族として残ることが出来るということを忘れてはなりません。 一つになれなかった場合は、必ず亡びるようになっているのです。今日の世界は最大の混乱期に来ています。地獄の中の最高の地獄であり、天国ということは考えることも出来ない段階に入ってきているのです。しかし神は、一方ではサタン世界を打つと同時に、必ず収拾の働きをなしてこられていることを知らなくてはなりません。さあ! 愛国者達はどのような時に数多く現われるのでしょうか。その国の復興時代に現われるのではなく、混乱の時代に現われるのです。それは何を意味するのでしょうか。外的には落ちていったがそこには内的には新しいものが生じてくるからです。亡びゆく渦中にもその反対側に目的をおいて行くならば再興する可能性があるのです。 今日のアメリカのような腐敗した現世を見る時、我が統一教会はサタンの風潮を善なる神側に立って打って行かなければなりません。統一教会の信者達はそうするようになっていますよ。だから啓蒙をなすに当たっても積極的に宣伝に当たり、歴史に無いような宣伝をしなければなりません。これが統一教会の先生の指導方法なのです。何としてもサタンに負けてはならないのです。我々が復興会の宣伝をするにしても、いかなる時代のいかなる宣伝方法よりも勝っていかなければなりません。混乱している環境の中で、色の違った人種を収拾しそこにブームを起こして大衆を包摂し、新しい次元へ導こうとするものであります。これが神の使命であります。 個人が亡ぶからといって絶望してしまえば、ついには全体が解体されてしまうのです。新しい急変化が起こっても、自体の自覚と行動的な舞台を開発することによって新しい道へ抜け出すことが出来るのです。それは宗教でも同じであり、この世も同じであり、発展的原則は等しく同じであるといわなければなりません。だから、新しい所に向かって進むものは何時もアベルです。民族の背景が異なり、その歩んで来た道が異なり位置と異なるのを見れば混乱が生じているように見えますが、新しい方向に整えられ、二段階、三段階と経て一つの体系を備えた形態として出現する時が来るであろうと見るのが、神の摂理していらっしゃる歴史的事実なのです。そのような過程を経由して天国を作りあげるのです。 歴史時代の祭物の道 天国を実現させるのに、一番の問題は何か。まず神と共にいなければなりません。それは堕落する以前の段階にいる状態であります。アダムが堕落したのは神と共にいたのではなくて自分一人で行動したがためです。全て困難なことがあったならば神の御前に出て相談し、嬉しいことがあればその喜びを天の喜びとして帰することの出来る行動をしなくてはならないのです。常に天と共に行動するならば、失敗はないのです。だから神と共にいるためには絶対に不変なる自分とならなければならないということを忘れないでほしいのです。 堕落とは何ですか。不変なる神のみ言を信じなければならないものを、我々は可変するみことばとして受け入れてしまったのです。信仰生活においても永遠性がなくてはなりません。今変わって明日また変わるとするならば何にもなりません。神の御旨の中にいるなら、その御旨に対している統一教会であるならば、こちらへ来たりあちらへ行ったりすることは出来ません。それはすでに偽者でしかないのです。信仰の中にいるならば、絶対的なものとならなければならないということを記憶して下さい。堕落は肉身が行ったものですから、常に行動に心しなければなりません。行動の変化をなくしなければなりません。我等にとって最も重要な問題は、公義の法則に従って神と共に行動できる人とならなければなりません。 皆さん、最高の理想は何ですか。男は女がいて幸福であり女は男がいて幸福であります。もしある人に向かって、あなたは奥さんが亡くなられたので幸せでしょうと尋ねたなら、それは最もいみ嫌われる言葉とされるでしょう。なぜそうなのか。愛というものは共同所有であることを皆さんは知っています。愛の主人は夫でもなく、神が本来の主人であるために、神と我等の間に生じたその対象というものが存在しなければ愛は現われることが出来ません。 男が一人座っていくら愛を探して見てもその人は気違いとしか扱われません。神が愛を必要となさる場合は、愛の対象は人間以外にないため人間によって喜び絶対的に幸福になるのです。既成教会の信仰のように、神はただただ偉大な御方であるために今日の被造物は不必要だといってはなりません。神が愛だからといって、一人で愛をなさしめることが出来ますか。人間がいなければ、神の愛も役立たないのです。神は六千年の歴史を通して人間救済の問題を捨て切れずに来たのです。 このような観点からして、天国実現は変わらない信仰者としての自己にならなければなりません。神と共にいることが出来る暁には、サタンを追い出すことが出来るのです。サタンは何であるかといえば、変質的な要素を持っている悪です。天の本然の原則を中心として、その形態を変えていったのが堕落であるという結論が出てきます。皆さんが知っておくべきことは、天国の民が守らなくてはならない道理の基準、即ち神の創造本然の基準を中心として歩まねばならないということです。その基準はどこにおいて作られるかといえば、神と人間が完全に一つになり永遠に信じるのみでなく、体と心を永遠に神のみことばと共に同じく行動することが出来その基盤の上に生活するところにあります。そうなることによって、神の愛を中心にして万物の主管性が広がっていくということを知らなくてはなりません。このような圏が、神の理想となれた天国なのであります。 歴史は縦的なものを横的に蕩減し、旧約時代、新約時代へと進みます。旧約時代は物を祭物として供える時代であり、新約時代、成約時代は心を祭物として差しあげる時代なのです。 何故にこのようにしてこられたのでしょうか。天地創造の法則に背いて堕落した人間は土より劣るために、これは“油を注いで水を塗る”という至難な再創造の歴史がつづいているためである。 人間一人を造るために全ての万物を造り、その万物創造の後に人間肉身を造り神の心情を吹き入れて、結局人間は宇宙の総合体となったのです。人間は小宇宙として神の性相的実体であり形象的実体なのであります。それ故に我等が蕩減復帰するためには神の品物として取り扱ってもらわなければなりません。人間が神の品物として存在しなければならないのにサタンの品物となったため、また造り替えされなければなりません。造られるときは御言で創造なされたがために、それは理想的な構想を意味しているのです。原理原則を中心にして御言を実現させるために創造されたために、そのような復帰の道があるということを知らなければなりません。 だから、旧約時代は御言をもって信じる時であり、その次には御言を実践する時代であり、その次には御言を中心とした生活時代に入って行くのであり、ために天国は心と全てのものが一致されなければなりません。そういう時代へと漸次発展してきているのです。即ち物質は体であり、肉身は心でもって、心は霊によって発展します。これが蘇生(体)、長成(心)、完成(霊)として展開されたということを知らなければなりません。 歴史時代において七日間で出来ることが七千年歴史を展開して三段階に分けて発展させて来たために、旧約時代においては神のもとに帰るための蕩減条件として血を流さなくてはなりませんでした。サタンの血を受けたためにサタンのものを取り出さなければなりません。それで祭物は必ず血を流すことが起こるのです。その次新約時代においては、イエスを中心とした息子の祭物の時代となり、成約時代においては、即ち統一教会時代に入って来てからは心的な祭物時代として心情祭物時代となったのであります。 統一教会に入って来た皆さん、苦労が多いでしょう? 蕩減復帰する為には心で以って多くの苦労をしなければなりません。この時代に、横的に一度に全部が統一されなければなりません。今迄失敗して来たのですから、この時代に在っては、一度に勝利して、神と共に喜びを分かち合わなくてはなりません。今日、平面的立場に於いての三時代基準を一時に蕩減しようとするならば、皆さんが知って置くべき事は沢山あります。物質的蘇生は長成の為にあり、長成は完成の為にある。しかし、皆さんは物質の如き物が何であるか分かりますか。本来、アダムとエバが堕落しなければ万物を主管する事が出来たのに、今は万物を誰が主管していますか。天宙の主管位置に立つべき人間が堕落した為に、木の葉と同じ如く、サタンの物になってしまいました。神の物になる以前に、サタンの所有になったという事です。サタンの物となったと云う内容は即ち、馬賊団の首魁の息子、娘に成ったのと同じ事なのです。 皆さん、息子、娘とは何でしょうか。 サタンが自分の息子、娘の如くに愛せば、全部が神の許に帰ってしまう為に、強盗の子の様に取り扱われて来たのが、人類の悲惨さであると見られるのです。ではここで何すれば良いのか? 物質自体が神側に帰らなければならないのに、堕落する時息子が持ったままおちた為、これを戻す事の出来る、即ち引き上げる事の出来る人が来なければなりません。 歴史時代に宗教人達が祭物過程を経由するのも、一度に引き上げる事が出来ない為に、一つのものと自分が一致したという基準を造る為なのです。ですから、祭物は人間よりも先に出たのであるからカインであり、人間はアベルなのです。このように見る時、カイン、アベルの原則を中心として、祭物と人間は一つにならなくてはなりません。そうでなくては、神が受け取る事が出来ないのです。それでは、祭物が神と一つになる為には、人間はどうしなければならないかと言えば、それは、サタン圏内で主管する以上に主管しなければならない。それは、愛を中心として主管しなければならないのです。サタンよりも足りない愛を持ってしては、神の御前に行く事が出来ませんから、自己の所有一切のどれよりも愛する事の出来る誠を尽くさなければならないと言う事を記憶して下さい。 サタン世界のものには、息子、娘、父母、全てが含まれる為に、神の前にはその全てを超越してこそ捧げる事の出来るものなのです。そうでなくては、祭物の意味がありません。 堕落というのは、神の反対である処のサタン側の愛の圏内に落ちたのです。だから、神の前に出る為には、より一層のサタン側の物を愛し、一つになる道を模索して行かなくてはなりません。それが原理の行く道であると言う事を確実に知らなくてはなりません。 祭物と一つになる 天国実現は空中から何もしないで造られるものと信じるならば、大きな過ちであります。今日私達の足場の上で食事をする瞬間から、あらゆる感謝と行動が一致する原則が立てられなければなりません。 全ての宗教問題は国家問題も、この様な原則に一致したならば天に行くのであり、一致しないならば、サタンと化するのであります。それでは、祭物は捧げなくてはならないのに、旧約時代から今日に至るその間を人間は馬乗りになって、天に向かって飛び越えて行ってるのです。何の話であるかわかりますか。数多い先知者達を通して僕から養子へそして、息子から父母に、その次には天の父母に帰るのですから、メシヤはこのような全ての使命を背負って来られるお方であり、メシヤ以前の人はカインに該当するのです。メシヤはアベルである為に、カイン的な地上の人に最善を尽くして愛さなければなりません。イエス様は、自分の怨讐達でさえも最善を尽くして愛されたのです。ですから、愛の道理を立てたその基準の前には、良心的な人達は屈服して一つにならなければならない原則がある為に、ここで統一的な一つの版図が繰り広げられ、キリスト教の発展時代に入って来たのです。万が一、一つになったのにもかかわらず打たれた日にはサタンに対して三倍も七倍以上も打つ事が出来るという事になります。このようにして見る時、宗教と言うのは迫害されればされる程、より一層発展して来た事は事実です。何故ならば、“損害賠償法”がある為に、打たれても奪い取って来る作戦をするからです。 歴史は、そのような原則から動いて来ている為に、統一教会も今迄は打たれて来たけれども、サタンから奪い取って来ているのです。一度思い切って打たれた時は、三倍七倍迄損害賠償をして貰える事が出来るのです。商売の中にもそんな商売はありません。ですから統一教会が亡びると考えたかも知れないが、今はもはや疑う者が無いのです。お金はいくらでも使えるし、又先生が何処に行ったにせよ、何処もかしこも思いが通うようになっている。これ以上、便利な人がいますか。何故そうなったか分かりますか。世界が必ず、良心的本性の前には頭を下げる事が出来るように基盤を造っておいたからです。その御方と一つに成らない時には、本然の世界に帰る事が出来ないのです。 皆さん! 先生に会いたいと言って付きまとって歩いてみてパンが出るでしょうか。御飯が出るでしょうか。それでいて何となく先生の傍にいると嬉しいし、先生の話を聞くと自分も知らない内に元気がわき上がるのです。 それでは天国は何処で造りあげるかというならば、今日のキリスト教が信じて来た如く空中ではないのです。それは原理原則を知らない盲計算と同じ考えです。先生は数多くの非難を受けましたが、非難を受ける事によって発展したのです。真なる宗教は、打たれ乍ら認められて行くのです。歴史時代の諸聖賢達を見ても、その時代時代には歓迎されなかったのです。何故歓迎されなかったかというと、当時の世界が神に反対した為に、本性の人間が現われると、その比例に該当する怨讐達が首を切り落とそうとし、極端な反対をして埋葬していったのです。その損害賠償法というのは、時代が過ぎた後に聖賢と呼ばれる事なです。 最近、統一教会の先生がアメリカに行っていた三年間の間に噂の人となって知り尽くされているのを見て、多くの人が我が国の誇りであるとか、代表者である等と言っております。昨日、一昨日迄、何だかんだと言っていたのに、本当に奸{かん}詐{さ}な人間達です。そういうのを見ると、世間の人々が言っている様に、人の運は時間待ちという事を思い出しますが、こういう言葉によっても先生は慰められるのです。 天国は現実の中から造りあげなくてはならないという事を今一度記憶して下さる事を御願いします。 我々は、サタンの物になる以前に神のものでなければなりません。では皆さん! 統一教会は誰のものですか。それは先生のものですか。これは先生のものではなくて神のものである為、それを自分のだと言う人は泥棒です。神のものになった後、アダムの物となるのです。だから皆さんは全ての物を神に返さなければなりません。昔、イエスにパリサイの人々が献金した金を持って来て、これが誰のものであるかを聞いた時に、税金を支払わなければならないが、カイザルのものはカイザルに返し、神のものは神に返しなさいと言った言葉があります。 さて、皆さん達が持っているものは誰のものですか。サタンの所有物であるが為に、神のものとならしめる為に、物と人が一つとなり、人間の愛を受けるものとなって初めて神が主管するのです。何を言っているか分かりますか。本来の堕落しなかった世界で完成したアダムが、神の愛を代身する主人となって愛するものとなった時、神のものとなるのです。 皆さん方が知らなくてはならない事ですが、神が愛する事の出来る祭物になる為には、蕩減条件を立てなくてはなりません。ですから、神のものとして造る為には、最善を尽くして愛さなくてはならないのです。このようにして見る時、イスラエルは全世界を代表する選民として育てられたのです。神が選民を備えた如く、皆さんは贈物を用意しなければならないのです。そのような言葉を初めて聞くでしょう。その贈物は即ち、供え物を以って全ての万物を代表するものです。 皆さんに家庭があるならば、家庭の全ての物を代表した立場で我家のものは神のものである事を考えなくてはなりません。 最善を尽くしてこそ堕落しないアダムの主管圏内にいる万物と人間が一つになって、主人に従い乍ら主人の前で死ぬというのが原則です。それで、その神の物となるのであって、おお! 主人が私の首を切ろうとしている、と言って足で蹴るような事があれば、それは供え物とはならないのです。ですから供え物はおとなしい小羊のように、主人が首を切ればメェーと言ってそのまま死ぬのです。何事も言わず死ぬような事があっても、その主人の膝に来て死ぬと言ってこそ神のものになると言う事を忘れないで下さい。 死なんとする者は生きる この様な原理原則においてみる時、イエス様も神の前に一つとなれば主体であり、最高の愛を受ける者となるのです。神がアベルであるならば、イエス様は何ですか。カインでしょう。 それで愛を受ける自分であるという事を知った為に、神側のものとなって死にたくなるのです。イエスは神側のものとなって死なせることの出来る方が神であるという事を知ったのです。だからこそ、独り子と言ったのであり、神の息子であると言ったのです。そういう訳で、その息子は父の御前に死を以ってしても一つとなって死ぬというのです。 イスラエルのモリヤ山上にてアブラハムがイサクを祭物として供える時、彼が反抗したのだったら絶対に祭物とはなり得なかったのです。死んでも主人の前で血を流し乍ら一つとなり感謝しつつ死ななければなりません。これは原則である為にイエス様はその事を「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」と言ったのです。 統一教会を見るならば、信ずるものはアベルであり、信じない人はカインです。それでは、アベルはどのようにしなければならないのか。ここにいる世間知らずの教会長達は、先生が任命したから絶対私に服従しなければならないとさげすんだ言葉を使っているそうですが、誰がそのように教えたのですか。そういう問題は生命にも関係する事です。アベルとなるには、カインを救ってあげて一つになり得る立場からはじまるのです。無条件に命令する事は自慢にならないという事を記憶して下さい。人が死ぬ場にあったとしても、感謝して死ぬ事の出来るように愛を以ってアベルの位置まで引き上げなければなりません。愛する以前には祭物を供えられないのと同じくこのような原則をはっきりと知って行動しなければならないのです。これがまかり間違った場合は全部が地獄に引かれて行くのです。 その為に、反対するカイン型を代表したローマの兵士達に、十字架にはりつけられた瞬間にも、怨讐に対して誠を尽くして愛さなければならないため、祝福を与え乍ら死んで行ったイエス様は、今日のこの世界で聖人となられたのです。怨讐者達迄をも愛したからアベルであり、生命迄をも捧げたアベルなのです。これが即ち、神の復帰摂理の公式であることを、我々は今一度知らなければなりません。 皆さんは、話す時にも、自分の利益を中心として弁明してはなりません。このような責任者達は全部せものです。食口達がコソコソ話し合えば、腹にすえかねて自己の利益にならないとし、自分勝手に人事措置して追い出すという事を三人にしたとするならば、その人の首は自動的に切り捨てられるようになっています。これは厳然とした天法です。 皆さんが地方に行った時、皆さんを出迎えてくれる食口達がいます。その食口達に対して、母親となっている人は、本当の父母の心情を以って、乳が無ければ山羊の乳でも買って飲ませてあげなければならないのに、これはもう却って血を吸い取っております。食口達よりももっと苦労しなければなりません。そうしなければ亡びます。鞭に打たれるならば、一振り多く打たれ、御飯を食べるのは、より控えめに食べる態度とならなくてはなりません。 父母の心情は、自分の子供達に対して他人に比べて十分でない時、心の縮む思いをするものであり、食事を与えることが出来ない時はその代わりに見えない霊人達の前に訴えながら祈るのです。この公式を通じれば、どのようになるか。サタンが屈服するのです。サタンの分別が出来なければ天に帰ることが出来ないという事を皆さんは知らなくてはなりません。 天国は何処から建設されるか。サタンを屈服させるところからです。地獄は何処から始まるかと言えば、サタンが残っていて侵入するところから始まるのです。為に、皆さんはサタンを屈服させる事の出来る自分達とならなければなりません。サタンはごう慢の主である為に、ごう慢なる者は天国には絶対に行けません。行ったにしても何時の間にか自然と知らない内に出戻るようになるのです。 ですから独裁者とは自分の為に尽くす者であり、善君とは国民の為に尽くす者であります。そこから善悪が別れてくるのです。皆さんが天国に行くのか行けないのかは、その場で知る事が出来るのです。皆さん! アベルをどれだけ愛してみましたか? ああ、彼は神の復帰摂理の原則によって祭物として原理原則に一致している為に、神側に帰る人であるというサインをサタンから受けなければなりません。このサインを受けなければ天国に行けないという復帰摂理の原則が、今日の我等の永生を望む復帰の途上にあり、宗教路程の上に必ずこのような公式が適用され、天国と地獄が分別される事を知らなければなりません。 何を見るにしても不義なる欲を充たす為に見るとサタンの目となるのであり、又聞くにしても自分の利益の為に聞いて人を騙したとすればサタンとなるのです。全てがひっかかる場合は、余す事なくサタンに引かれていくのです。その為、天国実現の秘訣は何であるかといえば、原理原則通りに進んでいかなければならないという事なのです。 今日統一教会においては、カインとアベルの原則を通じて全てを押し進めて行くようになっており、このようにして縦的な歴史を横的に一時に蕩減しなければなりません。為に、これを全体の時として見るならば、旧約時代、新約時代、成約時代であり、神が存在する立場から見るならば、蘇生、長成、完成となるのです。ここで神を中心として自分の心と一致した基準を立て万物と一つにならなければならないのです。こうなると、ここで一つの中心点が広がり拡大されて全ての存在が神の主管圏内に入ってこそ天国がなされるのです。 現代は心情を祭物として さあ! 皆さんはカインとアベルが一つにならなければならないということを知りましたね。何故か? カインとアベルが一つになってこそ、主を迎える事が出来るからです。皆さんが祝福される事を願われるのは父母の立場を代身している為にでしょう。それなら、カインとアベルが一つになる原則が必要となるのです。三時代を延長して来たカイン的基盤を持った主は、アベルの立場で蕩減復帰しなければならない為に、四位基台の形態を造らなければなりません。 このような点で見る時、統一教会で祝福を受けようとするならば、三人を伝道しなければなりません。理解出来ますか? イエス様も同じくオリーブ山上に登る時、三弟子と共にいたのでありますが、その弟子達が完全に一つとならなかった為に、イエス様も「私は侍られる為に来たのではなくして、侍る為に来たのである」と言われたのです。イエス様を考える事無くして、自分達のみを考えたため失敗となったのです。ですから皆さんの品物は神のものです。体も心も同じです。このようにして万物、肉身、心、自己、全部が神の物となるならば、サタンが自分の物であるという事を主張しないのです。 そうであるために、神の物であったのが私の物として受けて立つ時は、神の代わりにサタンを審判する事が出来るのです。皆さんは私の物となる前、心、体、全生命までをも神に差し上げなくてはならないのですが、直接的に捧げる事が出来ないからサタンを分別する為の蕩減復帰過程を経て、カイン、アベル形態を以って戦って行かなければならないのです。 このように、個人的な基準から皆さんの体と心が完全に一つとなってこそ神に帰れるのであって、物と完全に一つになってこそ環境の中に神が働くのです。そしてまた、家庭を中心としてその親戚が一つになり得る環境圏が展開されて、そこに神が主人となる為にその氏族圏内に天国実現が可能であるという事を知らなければなりません。 大韓民国を中心としてみても、キリスト教と完全に一体となるならば、神が共にいらして下さるのであり、争う日には両方共に滅びるのです。我が統一教会においては可能な限り和解させようとしていますが、金が三億程度必要であります。しかし和解させなければ滅びます。大韓民国は南北に分かれていますが、それが一つになる仕事をしなくてはなりません。我が統一教会で勝共連合を組織した理由は、金日成と怨讐になる為ではなく、金日成が知っている以上より多く教えて、全部回復させようという事です。 このような公式法則を通してサタンを分立させる事によって、全てを可能にさせるのであり、又皆さんの体と心は違い合ってはいけないのです。そうする事の出来ない人が教会にいるとするならば、その教会に被害を与える事となり、この宇宙の中にいるならば宇宙に被害を与える為に、神にまで被害を及ぼす事になるのです。 先生はアメリカに行って活動する事によりそこで金儲けして韓国を助けようなどという考えはしないのです。大韓民国がさびしい思いをするかも知れませんが、韓国の統一教会の信者達を苦労させてでもアメリカを救ってあげようと思っているのです。我々統一教会の行く道は、世界の為に韓国を犠牲にさせなければならないということを良く知っている為に、自分の国よりも外国を愛さなければならないのです。 このような意味があるために、先生はアメリカに行って沢山のお金を使いました。韓国にはお金がないために、世界の人のお金を利用したのです。だから世界の国民が驚いたのです。自分の国を犠牲にさせながら、世界を救おうとするその民族は何時の時も公認を受けるものであり、主体となる事が出来るのです。そのような公式があるために、原則を立たせて提示した場合は、金の包みを全部持って来るようにといえば、そうなってくるのです。 これから統一教会がどれ程の大金持ちになるか分かりますか。先に言った公式からすれば、自分が持ったものは自分のものとなる以前に神のものとならなければなりません。このような原則は真理とされる事に間違いありません。これが歴史実証によって発展し適用される日には、世界の全ての万物が真の父母様の手を通して神に帰って行くのです。アダムとエバが父母のものを失った為に、それを探し求めて返して行くのが蕩減復帰の原則なのです。万一大韓民国で統一教会にこの真理を持って万人の教育に努め、生命をもって突進するというならば、世界の全ての万物は統一教会を通して神のものとして帰って行くのです。神はそれらをもって何をなさるのですか。万物は息子、娘のために造られたのであるから、それは再び彼らに分け与えられて、大韓民国は自動的に豊かな生活を得ることになるのです。 このように統一教会が驚くべき事実を持っていながらも、なお反対する人々がいるために不当に寒心に耐えないのです。今アメリカにおいては黒人がみるからに地主のようであっても、「お前の家を売って神の御前に捧げなさい」と言えば、その場で持って来るのです。それは先生が喜ぶのではなく、より大きな目的のために神の前に捧げて使われるのですから原理原則に適用されるのです。 もし先生が中国の家に行って中国料理を食べたいと思っても、一人だけ行って食べられますか。それでお腹を空かしている食口がいるときは、私が思う存分食べさせてあげなくては、と考えます。食べながら楽しい思いをすれば私も蕩減復帰できるわけなのです。良い座席があれば自分よりも人に譲歩する心の姿勢が必要です。謙遜なる人の前に顔を下げる時は気分から良くなるのです。それは理論的に適応させ歴史路程又は社会の中に神の復帰摂理の現実性に適応させられなかっただけであって、その内容形態においては似たような道を歩んだのです。 お腹が空いた時誰かが食事をくれたならば、一度考えてから食べる習慣を持たねばなりませんよ。お腹の空いている人が多い時は、公義の仕事をして疲れて帰って来た人に食事を与えたならば引っかからないのですが、仕事もせずに遊んでいた人々には与える必要がないのです。 まず個人の天国実現から さて皆さん! 天国はどこから作られますか。天国が実現されるためには個人復帰完成、家庭復帰完成、氏族復帰完成、国家復帰完成の四段階をもって成っているために、その全てを経由してこそ天国実現が可能なのです。 統一教会の信者達が世界的な天国を作りあげようとしている時、でたらめにしてそれが成されると思いますか。国家的な天国形成をなしてそれがアベルの立場を再創造してゆくのです。自分を全投入する何かの作用があってこそ可能なのであって、そうでなくては不可能です。このような過程を通さずして天国実現の過程的原則は一致することは出来ません。まず何から始めるべきかといえば、個々人の一人一人からこそが最も重要であるということを知らなくてはなりません。神の摂理において総終結点は一人の人間を探すことであるが、それはアダム一人を完成するということです。アダムが完成されれば、家庭的にも完成されるのであり、夫、兄、父、その次には氏族の主人になることは勿論であり、民族的な中心となり、世界の主権となり、全ての面でのモデルとなるのです。さあ、気分が良いでしょう。一個人をよく天に合わせておいてその通りについて行きさえすれば、それが即ち天国実現なのです。 皆さん、全員分かりますか。 国家の存在は、歴史再蕩減をなす為に縦的歴史を横的に万物復帰、実体復帰して、全部を一つにしなければなりません。先生が北の方に行きなさいと命令したならば、何時でも行くことが出来なければなりません。今充実した仕事を成し遂げていると思っている人に、江原道の北部地方に送ると言えば、行けないと言えますか。それは自分の活動舞台にブレーキを駆けるような結果となるのです。或る人は、統一教会の文先生は良いけれども他の人が嫌いだといっておりますが、これから三年もすぎれば先生と思うように会えなくなる、ということを記憶して下さることをお願いします。先生に会うためには、全部系統を通さなければなりません。木の枝でいるのが嫌いだからといって根本になろうとしても、それは出来ることですか。統一教会の信者達が知っておくべきことは、好んで人に会うように努力することです。悪い人に対しても、素知らぬ振りをして皆善しとして見る習慣を持つならば、自分も知らず知らずの内に善なる人となって行くのです。自分自らの天国を造るようになるのです。 このような事を知って、皆さんは個人の天国実現をなす為に、サタンが好むことは絶対してはなりません。知らないでやったということ等は通用しません。このような事は皆さんは理論的に知っているのですから、反省が実現し得るならば天国実現は可能なのであります。 分かりましたか。 もう天国実現がどのように成されるかを知りましたね。ここで一つ結論を出しましょう。 蕩減復帰歴史が今日の死亡圏を越えようとするならば、個人だけでは出来ないのです。家庭のみを作ってしても不可能であり、従属国家が必要であるので神はそれを知り給い選民を育てられ、又キリスト教国家を作られたということを記憶して下さい。 さあ、このようにしてみると、全世界的に統一教会の信者達が必要であり、又統一教会の家々が必要となります。何故かといえば、全部一塊となるためです。一つの中心である先生から皆絡みあっているのです。ただ異なる点は各自が立っている位置が違うのみであり、同じ運勢であるが為に皆さんは先生と歩調を合わせなければならないし食口達に歩調を合わせなければなりません。 東側にある木が西側にある木は死んだ木の枝に向かって、来るなと言えるでしょうか。来てはいけないという木と同じです。教会も誰でも来るようにという教会は栄えるようになっているのです。来るなという教会は滅びるようになっているのです。世界の人々に、さあ! みんな本部に行きましょうと誘った時、行こうよと言えば、栄えるのであり、うわあ! □だと言われる時は滅びるのです。 本部に行こうと言ってはいるが、そこに行けば何か利益でもあるのかと思う人は滅びるのです。 敵を愛せよ この世界にはカインが必要でしょう。蕩減復帰しようとするには、共産党が必要でしょう。神様も共産党を自然屈服させなくてはならないのです。強制屈服させようとしたなら、既に六千年堕落したその翌日全てを片付けることが出来るけれども、自然屈服させる為に今日まで延長されて来られた事を我々は知るべきです。自然屈服の原則と、本来の原理の軌道に従って順応の道理を立てたために、その原理に従って行くのが天使長の使命です。サタンが反対したとしても神までは反対しないだろうという気持で六千年間相談し合って来ているのと同じく、皆さんも共産党に対して死ぬ事を望むのではなく相談し合って行かねばなりません。 統一教会の文先生の前に怨讐がどれ程多いのか知りません。私を投獄し殺そうとした人が大勢いたけれども、呪ったりなどしませんでした。その人々が死ぬように祈った日には、私にわざわいが来るようになります。神が殺さないで残しておいたのに、何故に死なせられますか。それは神の御旨の前に反逆となるために、私たちは正しい道のみを選びながら悪いことを防御しなければなりません。限界線で自然屈服させなければなりません。 統一教会がアベルであり、既成教会がカインとしたなら、誠意をもって既成教会を愛したでしょうか。しなかったとしたら、それは偽者としか言えません。だから先生は一生を通じて、怨讐に対し殺して下さいという祈祷は一度も出来なかったのです。既成教会を救って下さいという祈祷は多くしましたが、亡ぼして下さいという祈祷はしませんでした。真心が深い程、屈服させる日が早く来るためにサタンは早く亡びるのです。サタンはどうにも仕様がなくなれば、屈服するより他に道がないのです。ですから蕩減の原則によって天の御前に戻すことが出来るとしたら、それによってサタンは屈服するようになっているのです。これは容易なことではないのですが、今はそれがだんだんと成されつつあるのです。 統一教会の信者達の中には、私は先生のために仕事をなし、神のために仕事をするという度胸のいい人が大勢いますね。しかし、そうではありません。統一教会の文先生は、皆さんのお世話にはなりもしません。統一教会自体も皆さんの世話になろうとはしない事を良く記憶して下さい。一人の為に神が動員され、皆さん一人の為にイエス様が動員され、それ以外の数多くの宗教のみならずサタン圏内の人類が動員され、統一教会の文先生と統一教会が動員されているという事を知らなければなりません。このようなことを知れば、今度は借金を返す事にしなければなりません。自分の生命を捧げて沢山の借金を返そうとするならば、どんなに借金が多いといっても死ねば蕩減されるのです。億千万の負債があったとしても、その人が死んでしまえば、どこで貰うのですか。息子、娘もないのに共同墓地に行って貰えるのですか。世の中に死んだ人を訪ねて金を返して貰うと言えばその人は気違い扱いにされるのです。自分は神のために死ねなかったためにサタンとなってしまったのだから、神のために死んだ人こそ自分を指導することが出来るのです。また、より優れた人は、神が支配することが蕩減復帰の秘訣であるために、イエス様は「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」と言ったのです。死なんとする者は早く天国を作り上げ、生きんとする者は地獄でそのまま年を取っていくのです。 生命をかけて公義の法則に従う人は天国の平野を広げることが出来るのですが、自分のために生きようと跪く人は天国を狭め地獄を広めていくのです。この事を知って、一九七五年度からはどうすればよいか。第二次七年路程まではイエス時代である為に霊肉共に往復出来てよかったが、第三次七年路程は直行しなければなりません。曲がりくねっていては損しかありません。 第三次七年路程からは堕落圏内ではなくして本然の完成圏内である為に、原理結果主管圏内に該当します。ここで絶対的に必要なものがあるとするならば、信仰の実体と心情を中心として一体と成っていくことによって、完成段階に上がっていくことです。永遠なる実績の基盤を糾合し、天に帰結させることの出来る仕事を成すに際して、そこに自分が必ず参加しているという事を知って、一時に一場所めがけて突入し得る心でもって歩まなくてはならないということを記憶して下さることを願います。 皆さん達は負債を負っていますが、その負債はどこからして返すべきでしょうか。それは僕の僕から返して行かねばなりません。 皆さん!! 自分の息子、娘の僕になってみようと思ってみましたか。教会の僕となり万人の僕となって、僕の伝統史に自分が通じないことは無いというほどでなくてはなりません。 その次には養子の伝統史において世界性を背負った自分に成らなければならないという事です。世界的な養子の軌道に通じることにかけては負ける者となってはいけません。 個人から家庭に、氏族から民族、国家、世界にまで連結させる心を実体的に横的に展開し、世界の人に対してもそのような共同的な心を実現できる時、その人が行く所はどこも天国実現が可能であるのです。それを知って、一九七五年度も平易に過ごすのではなく、私はあなたの為に生きて働くのだという心を互いに持ち合う姿勢が必要であることを、今一度知って下さい。 世界と神が私の為に動員され、共産党と全体が私を動員している事に、その場において恥ずかしくない自分と成らなければなりません。 アベルよりも中心存在になろうとする程の考えを持って、夜も昼も前進する自分自身を確認しながら不平を言わずに歩めば、天国は必ず個人から世界の舞台まで拡張されて行くのです。 個人は家庭の中心であり、家庭は氏族の中心であり、氏族は民族の中心であり、民族は国家、国家は世界の中心であるが為に、その全ての中心の焦点が個人であるということを知って前進して下さることをお願いします。 自分が中心となっている為に、全世界のメシヤ的思想を自体に帰結させ、全ての責任の原因となって相対的世界に拡大することが出来る主体的存在を持つところに、初めて天国は本当に実現されるでしょう。 皆さんが実際にこのようになる時は、それこそ飛躍的な発展をなすでしょう。一九七五年度からは「天国実現」という標語の前に進まなければなりません。皆さんは先生と一体となり、御旨に従って行って下さることをお願いします。 七五年からは、家庭を中心として氏族と民族を糾合させることが完成的な基準であるために、自分の氏族と平面的な基準でもって接することが出来、これからはあらゆる道が容易に開かれるものと思います。そして、文氏の宗主会というような言葉は、御旨に対していかにも似合った用語です。 皆さんの、いずれの版図に値する天国実現を可能とさせるかという問題が、果たして天国に入ることが出来るか否かの決定権となることを知って、実践的な価値基準を中心として前進して行かれることをお願いします。 七五年からは天が賦与することの出来る時となった為に、常に主体的な立場に立って天国を成していくことを願い、そうしてこそ天国実現は可能であることを知っていただきたいのです。 全ての面で、足場となり、財産となる皆さんであることを願いながら、神の愛と祝福もあわせて受けて下さい。 そういう意味で、今年の標語を「天国実現」としたのでありますから、その基準の前に三百六十五日を確かめながら行きましょう。 祈祷 愛する天のお父様! 私達には本当に天国が必要です。天国は妄想的なものでもなく、空想的なものでなくして、私達の生活圏内に於いて、実際を通じ一歩一歩段階的に積み重ねて行かねばならない事を知りましたので、今日一月一日、今年に於ける標語を以って、天国建設の主体的な存在へと実体路程にサタンを屈服させ、その版図を拡げて行く息子、娘となる事をお許し下さいます事を切にお願い申し上げます。 お父様! 此々に集った一人びとりは勿論の事、大韓民国全域に広がっている統一の者達と、日本と、アメリカを統擡した全世界の数多い統一の群れが、天国実現の為の明日の一日を前にして、戦って行く事の出来る此の道の前に天の加護と愛と勧告が一生の間共に働いてくださる事を切に願って止みません。 お父様! 今第三次七年路程をお父さまの名に従って天国実現という標題のもとに、何処に行っても休む事なく、目的達成のために突走しようと思いますので、内外共々の指導を仰ぎ勧告あらしめて下さる事を切にお願い申し上げます。万々事の恩賜と愛が、とこしえに統一の者達の上に、今年一年間親しく共にいて下さる事を切にお願い申し上げ乍ら、今年の計画する万事が亨通されますようお許し下さる事を願いながら、霊界の実践的な後援と併せて、地上に相対的な顕現が一致され、統一的な動きが現われますようお許しくださることをお願い申し乍ら、此の全ての御言葉を真の父母様の名に依って切に申し上げました。アーメン 一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ 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2021.08.19
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「現実的蕩減と我々の使命」1974年12月26日日劇にて ただ今、帰りました。(おかえりなさい。拍手) 我々統一教会の食口達は、一般の人達と違った道を行っているということを、各自がよく知っているのであります。我々の行く道は蕩減の道、蕩減の道とは堕落してきた反対の道を、さかさまに戻ってゆく道をゆかなければなやないのです。 その道においては、何の内容もなしに逆に行けばいいというのではなくて、そこには必ず蕩減条件というようなその内容を静視してその条件を乗り越えて、初めてぬくようになるのです。また我々人間の方から見て自分なりに決めていくのでなくして、天地創造の本然の基準に一致したその道を、逆の方向に条件を通して行くということが、統一教会でいう蕩減復帰路程です。我々、蕩減復帰路程という基準から見た場合に、これは現実の問題なのであります。 そこで今日、皆さんと共に話したい内容は「現実の蕩減と我々の使命」という題目でお話ししたいのであります。 本来のアダムの位置に返る為には そもそも宇宙には、神様以外に何もないそのところより全てのものが創造されました。万物を創造なさり、その前に天使界を造り万物創造の後に人間を造るようになりました。これが神の主管圏にあるべき全ての被造物が、堕落の結果におきましてサタン圏の主管結果になって来たのです。蕩減復帰は反対の方向を踏んでゆくのでありますから、創造の世界において堕落したのだから、創造の世界の基準をまずもって復帰しなければなりません。 神様が万物を創造したその創造物が神様と一つになったその神の主管圏にいられないようになったのは人間の責任においてそうなったのだから、それさえ返すそういう立場を取らなければなりません。いわゆる人間を中心として再びものを造り上げるという、再び人間がものを復帰して来なけれだならない、これが信仰基台というものであります。信仰基台というものは、ものを再び自分の力を投入してそれを神と一つになるべき位置に返すということであります。この地上において堕落したんだから、この地上において天使長的な基準と人間的な基準を再び創造するような過程を取ってゆかなければ、それは元の創造基準に立ち返る事が出来ない。そこで天使長的基準に立ったのがカインの立場であり、アベル的な立場に立っているのがアダムの立場である。アダムの責任の未完成の為に天使長という存在が堕落するようになってしまった。それを再創造しなければならないのが我々人間の位置であるから、我々復帰路程を越えてゆくという場合には、必ず天使長的なその存在を再創造しえたというそういう勝利的な、相対圏を主管しうるその位置を元返ししなければ、堕落しない本来のアダムの位置に立ち返ることは出来ません。 アダムとして立つべき基準 それで実体基台というものは一体何かと言えば、天使という基準を再創造して、アダム的な基準にその天使長が完全に一体化ならやしめる基準をいうのです。 その基準を成し得たとするならば、その次にはアダムを中心としてエバという存在が問題になる。創造原理という立場から見た場合は、アダムを造ってからエバを造ったのと同じように、アダム自体を完成しなければエバの基準を復帰することが出来ないから、これまでの神の摂理というものはアダム再創造に向けて堕落と反対の方向に展開してきたものが、六千年の人類歴史であるのです。それは物を深し、それから僕のの僕の段階から僕の段階、僕の段階から養子の段階、養子の段階から実子の段階へと摂理は展開して来た。 兄弟は、こういうような基準において、堕落したのだから、今はサタン圏に立っている。カインはサタン圏の方に、アダムは神側の方に立っているから、これを再び蕩減する為にカイン.アベルの問題を立たせて、ここに完全にアベルを中心として統一させようとする。それが成されるならば、そこにもとのアダムを基準として天使長を主管しえた立場において、夫婦基準を授けられる。アダムを復帰した後は次はエバを復帰しなければなやない。それがキリスト教を中心としてみた場合、新郎新婦の理想として今まで二千年の歴史を拡大して来たのであります。神の歴史の六千年の摂理路程を代表的に分折してみれば、旧約時代はもとの人間と一つになる時代。新約時代は本当の子供と霊的な子供が一つになる時代である。だから、このキリスト教自体は実子、本当の子供、霊肉共に実感した子供の基準が一つになる代ではなくして、霊的養子と僕が一つになる時代である。それが実子の時代において再臨の理想を完成して、この霊的養子的基準、実子的基準に勝利圏を立たせることができる。再臨の主が来られる基準ならば、霊的基準において実子の使命を世界的に養子圏の霊的勝利基準を受けついで、実体的勝利基盤を霊的勝利の基準に合わせて、共に一体となった基準において完成されたアダムの位置に立ち返る。そこにおいて、エバに対しての蕩減の使命を果す様になるのである。アダムの基準が生まれた場合にはエバ再創造の過程を踏んでゆくというのが、メシヤを中心としての新婦の使命である。アダムを中心としてそういう路程が残っているから、長い歴史を通してキリスト教を中心として新郎を迎えるエバの基準を世界的に拡大して、霊的基盤と共に肉的基盤を完成されたアダムの前に立たせて蕩減復帰する完全にエバがアダムに一つとなることによって、その本然の姿を復帰しようとするのが復帰摂理の内容であります。 必要な三段階の実体蕩減 こう考えてみると、蕩減復帰というものは我々の観念的な問題ではなくして、現実的な問題となっている。 蕩減復帰とは何であるかといえば、サタンをいかに分別するか。それはものにおいて、実体において、それから愛を中心としてのその堕落によって、肉身と霊が分れるようになったのだから、心情によって分れたその霊肉の期間を神の心情を中心としてこれを結び合わせなければなやない。堕落と反対に、今度は神の愛によって一つに結ばれなければならない。キリスト教は、だから神の愛を中心として、これを個人から家庭、家庭から氏族、民族、国家、世界へと拡大してきたのです。これを分裂したままの神の愛ではなくて、莫然とした位置でまとめるのではなくして、アダムとエバが堕落したのはこの地上なのだから、地上においてこれを完全に蕩減しなければならない。そして結局、蕩減の目的はサタン分別である。ものよりサタンを分別し、実体よりサタンを分別し、心情を中心として良心的霊的基準においてこれを分別してサタンの讒訴条件を完全に乗り越え、神の前にもともとの人間の基準に立ち帰るということであります。 我々統一教会においては、縦的の歴史を横的に蕩減する。この縦的な歴史は一体何を目的として来たかと言えば、それはアダムを完成させてサタンを完全に分別する一体何を目的として来たかと言えば、それはアダムを完成させてサタンを完全に分別するのが目的であります。 アダムが完全な立場に立つには、まずもって信仰基台において、ものと完全に分別させ実体と完全に分別させ、良心圏において完全に分別させることによって勝利の基準が立つ。この勝利の基準が立つことによって、堕落した未完成のアダムが完成される。それは結局六千年の歴史はアダム完成を再創造する為に費した歴史である。再臨主というお方は、結局サタンに讒訴されない、神だけに主管され得るそういうお方として現われるということなのです。 こうして考えてみた場合には、我々は各個人において旧約、新約、成約各時代過程の歴史的蕩減の因縁を残している。君達は年若いとしても、歴史過程において罪の蕩減につまれた罪の因縁の根底につながって生まれてきたのだから、摂理歴史を通してアダム完成を目標にしてきたそのものを横的において我一生涯の圏内におきまして三つの段階を横的に勝利すて、自分の立っている横的環境圏にサタンが侵害できないというような神の方向に立たなければ、神の子として立ち返ることが出来ない。 だから我々統一教会は、莫然としたサタンではなくして実際の自分が実体的なサタンを対象として戦わなければ、分別しなければなりません。実体のサタンを迎えて勝利する道をゆくのが蕩減の道である。この道には物において蕩減、実体において蕩減し、心においても蕩減をなさなければなやない。その中心は何かといえば、神を愛する、神を愛すということである。 堕落とはサタン的愛を中心として分別されたのだから、蕩減復帰においては神の絶対的に愛するというその基準に立つ以外には復帰の道は生まれません。神を愛する。愛するにはサタンによって堕落せられたアダムよりすべてが神の愛の立場においてまさるという実質の現実的蕩減圏の勝利の基盤を持たなければならない。だから再創造の過程を、堕落した反対の方向に向けて、現実の我々の障害圏におして再び蕩減をなしていくのが復帰の路程である。 再び万物を愛する基準を求めて それでは旧約時代とは一体何なのか。神が万物を創造する時には、例えばねん土の固まりそのままではものを造ることが出来なうい。水をかけて、その粘土に混ざったものがある場合には、砂は全部より分けて、果して自分の力によって自分の気の向くままに物を作ってもいいという相対的になった粘土でなければ、何の器も作ることが出来ない。まさしく、我々もそれと同じように再創造の力に相対しうる条件を投入して、目的にかなえる相対的なものを造らねばならない。しかし、堕落した血統の人間を中心としてみた場合アダム自体はその万物を愛することが出来ない。主管することが出来なかった。自由にこれを自分のものとして感じ、指導できなかったその基準を再創造しなければならない。そうするには物と自分が一つになったという条件を結びつけなけげばならない。そこで祭物というものは、結局アダムによって再び造り元返されたものとして神に捧げられなければならない。それは主人の全ての良心と実体と希望とが一つになった基準において愛されたものでなければなやない。 だからその祭物というものは、結局、自分の身代りのものである。そこでものを完全に造って自分と一つになることによって、神の愛を中心として、アダムが万物を主管しえる人になりえたという。これが統一教会でいう基台である。 物自体からみた場合は、この宇宙に数多くのものがあるとしても、自分にとって一番大切なものはたった一つしかない。神の愛を受けたアダムである。アダムが祭物を捧げる張本人である。自分が死んでも主人のところに行って死にたい。もし主人が殺してもそれは最高の喜びであるとむかえる相対的根底が結ばれなければ、祭物として捧げることが出来ない。一つにならなければならない。 いくら動物といっても、自分の子供以上に自分の妻以上に真心をこめて一つになるような再創造をなしえたという心情的な相対基準で愛さなければ、神が完全に受け入れる祭物はありません。我々がその基準に立って万物を主管しえたとするならば、その祭物に相当するそういうような価値基準にあつかわれることが出来る。それが統一教会でいう信仰基台だ。イエス様が来られるまで、そういう歴史を中心として祭物を前にして一つになって神に帰ってきたのが旧約時代である。 天使長的立場のカイン ものが創造された基台の上においてアダムと天使長が分かれたのだから、それを復帰する為に祭物の基台の上においてはじめて実体基台を立たされる。それがカイン・アベルの問題だね。アベルはアダムの立場に立ったし、カインは天使長の立場に立った。アダムは中心的立場であり、責任をもつべき立場であったから、彼は天使長再創造の道を行かなければなやない。その為には神の愛の心情基準に立って、堕落した天使長的立場にあるカインに向けて再創造の為の力を投入しなければならない。カインはそもそも神と恩讐圏に立っている。アダムの身代りに立つアベルとサタンの身代りに立つカインの間においては、サタンは、その愛が神と同じような原理基準を迎えるような基準になるまではサタンは反対するんだね。結局カインを復帰するためにはアベルしかない。自分の命をかけて投入しないかぎり復帰はありえないということになる。 それはイエス様の時代を代表してみれば、イエス様自体はアダムの身代り、ユダヤ人というものはカインの相対圏に立っている。死ぬ境地になったイエス様はなぜ恩讐に対して愛のみ言を残してゆかねばならないか。それは堕落の原理の基準を死んでも乗り越えなければなやない。天的摂理、蕩減復帰の路程を知っているからこそ、サタンに命を奪われながらもカインを愛せた。堕落しなかったアダムの心情圏を、死んで永遠に神に向けて愛しうる基準をイエス様は再び立たせることが出来た。 反面サタンにおいては、神に一致したイエス様を主管しえる何ものもない。サタンを勝利したる子供の位置において死んだ者を、子供として残して勝利圏に立たせることはこれ神の任務である。復活させて、祝福して世界的な霊的子供の勝利圏を拡大してきた。これがキリスト教だ。だから、キリスト教は子供だから養子圏だ。霊的だから実体性を持っていない。養子的な勝利圏を、その霊的基準を再び実体基準にあわせてはじめてだ霊肉共にサタンに対して勝利圏をもり返さなければなやない。これが、再臨の主が地上にこられて蕩減しなければならない道として残されているのである。 この様な位置を統一教会は完成圏にて乗り越えるには、まずこれらの蕩減をしなければならない。 この成約時代とは、霊的勝利の養子圏を受けついで、霊的な勝利の実体者として来られる再臨の主と一つになって、あらゆる迫害、あらゆる反対、蕩減の道があっても完全に一つになりえるその道のことである。そうなれば、サタンは我々個人より完全に退きません。 我々の本体は未だサタンのもの 神はアベルの立場であり、サタンはカインの立場であり、サタンは六千年の間反対してその内容といえば、サタンはものを代表として反対してきた。そして次は実体を代表して反対してきた。イエス様の肉体を奪い取っていったのだから、実体条件としてでは神様に反対するんだね。旧約時代はものの勝利、新約時代は実体勝利、成約時代は霊的勝利と共に実体勝利を合わせたその勝利だね。それを勝利しなければ完成勝利は出来ません。完成勝利圏にゆかければならないのが統一教会の行くべき道である。統一教会が実体勝利、いわゆる完成勝利圏を得るには、長成圏の勝利を持たなければなりません。長成勝利圏を得るには、蘇生勝利圏の上でないと得られません。結局、完成圏に立つことが出来ないというのが原理です。成約時代の我々としては自分が立てたとするならば、それは自分が自分でないのです。自分というものはサタンのものである。神と何らかかわりのない。良心もそうであり、肉心もそうである。自分の持っているものはどうか。これも自分のものではありません。サタンのものである。あなた達の着物、本当はサタンのものであ。自分の体というものは自分のものとなる前にサタンのものとなっている。だからその上に立ってある一切すべてのもの、愛とか全てのものは、神様と全然関係を持つような内容のものは一切ありません。それが現実でにおいての我々の存在である。だから、この存在を空間において蕩減し、現実において勝利しえたという実証を持たなければ神に立ち返る事が出来ないのです。 歴史の標準圏を今日の我々に一致させる だから、サタンの子となるか神の子となるか、二つのうち一つしか道はない。ここに公的とか私的問題が起ってくる。天地創造そのものの原則から見た場合、神自体が公的存在である。自分の為に自分が存在しているというのでは、公的な立場は生まれません。自分は全体の為に、自分のものを否定し、同時にサタンのものまでも否定し、それはアダムのものであり、神のものであるという立場に立つか否かが問題である。現実的において、ものにおいて勝利し、実体的に勝利し、良心的に勝利し、そういう基準を実証される勝利圏を持たなければ、神が主管しえる主管圏内は生まれません。ここに集っている統一教会のメンバーは実体的に問題となる。アダム完成を各自がなさなければならない。旧約時代とか新約時代、イエス様とか再臨の主が来られたとしても、再臨の主の完成それ一人の為のものではない。それは万人の救いの公式路程を標準化する為に代表的に来たる存在である。それ以前、旧約時代、新約時代においては聖人義人たちはその時代圏においてアベルの立場の使命を果してエバ完成の一部分の歴史的にとりついで果していったものに違いない。そうすると、歴史を代表したその標準圏に我々を一致さる以外にないから、旧約時代のアブラハムは信仰の代表として、新約時代はイエス様を中心として、実体的勝利基準、再臨の時代には良心的勝利基準、そういう基準をなす事によって心情的問題が復帰される。神の心情という問題を解決する。だからこれは現実的問題である。 縦的な歴史を横的に、我々一代の一定の期間内に、短期間内の条件、蕩減条件をなし、現実的に勝利し得た全体的な基準を満たない限りは、歴史を乗り越えて本来の姿にもと返す事は出来ません。いいですか?これははっきりしないと統一教会で、蕩減復帰は一体何かわからない。これはアブラハムの昔に必要であって、イエス様の昔に必要であって、我々とは何の関係がない? そうではありません。昔やったことはみんな失敗しているのであってこれは延長されている。我々は旧約の実体の祭物だ。新約の実体の祭物だ。我々は成約時代の□の良心が肉心が自由自在に主管し、その主管するようになるべきであった。結局、自分一人から見た場合、旧的時代も自分の為にやってきたというんだね。旧約時代でなかったら、実体的なその信仰基台というものは自分の現実の歴史の延長圏につながる道はないくなってしまう。新約時代の現実の問題としてそれは延長することができる代表的基準がそのまま延長されて現実につながっているというんだね。それが最後において清を全世界的に一気になす。だから一時において、現実の生涯において、この全てを清算しなければならない。清算の過程を統一教会でいうのは、信仰基台、それから実体基台、それから心情基台ともいうし神様の良心を中心とした基盤だね。神の心情に一致したそういう本然の良心。それが一つになって、一つになるということは、神をキリスト教以上にさなければなないということだよ。アダム以上に愛したというのは何によって認められるか。それは、ものをサタンより分割して愛した、実体よりサタンより分割して愛した、そして堕落した良心罪の立場に一致した者と違って良心的な方向性をもって神の心情の方向に相対させる立場に立ち返ることだよ。それによって、蕩減条件が現実的にたたなければならない。 カイン・アベルの関係の本質 神がアダムを愛する前に堕落したのだから、我々は神を絶対的に愛する。神を愛するのは天に向けて愛するんじゃないよ。地において清算しないと、愛する道が生まれて来ない。だから今、サタンと問題となっているのはものと実体と良心だよ。ここにおいて歴史的な勝利を立ててこそ、神を愛する〆そうするには、君達はこれを一度に蕩減する道は一体何だ。それが問題だよ。いかに一度でもって蕩減をはらすことが出来る。本当は、一切を蕩減しなければそれを神はとることが出来ないんだね。 一切を捧げるには、自分が今まで持っているものを「神様、お持ちなさい」言って捧げたとしても、神料様はそれを取ることが出来ません。それはサタンに愛された、サタンの主管の跡がある。それを清算した者でなければ、神は祭物以外には受け取れない。その祭物のアダムの心情より以上の心情を持って、どのような反対があっても祭物を捧げるという。命を捧げる様なことがあってもね。その祭物をかかえて死ぬ。死ぬことがあっても分かれることが出来ないそれ以上の愛情の心情を残したとするならば、その時には神様がその達体、その犠牲になるそのものと一つになったと認めざるを得ない。 今、統一教会で誤解しているのは、先生が地区長に任命した場合に、ああ自分はアベルだ。君達はカインだ。ただちに服従せよ!とう。これはアベルになれという命令をしたんだけれど、まだまだアベルになっていません。その命令は今からアベルになるんだという任命であって、アベルになったという任命ではない。ここに統一教会の非常な問題点がある。そのために発展も出来ない。そのために多くの者たちが落ちていく。この壁や現実界において清算する原理的なはっきりとした解釈を各自が知らなければ重大な問題となる。 神様は万物のために犠牲になってきた。それは堕落した実体を持ったその者の為にも犠牲になってきた。それからキリスト教、堕落圏を乗り越えたといっているキリスト教の為にも牲犠になってきた。今、統一教会の為に神様は犠牲になって、います?いません?、どうです?歴史的過程の教会においては、神様は犠牲になってきたのだけれど、統一教会には犠牲になっていません。そう?同じである。歴史的摂理の立場において、真剣さを向けて我々が立っているという、そういうような体恤の立場に立たなければならないのが我々の立場である。 だから旧約時代はもの、新約時代は実体、成約時代は良心を通じて心情圏まで、この三段階を横的に、一度に再臨の主を中心としてあんた達を神の供物にしようとね。イエス様の時代から見れば、イスラエル国はものだね。イスラエル民族は実体だね。イエス様自体は良心と肉心が一つになった神の心情圏一つになったそのものだね。それが完全に神様を中心に一つになったところにいて本然の姿が復帰されるのであって、完全に一つにならやらない場合にはサタン圏だというんだね。だから、イエス様に反対する場合には国でもユダヤ教でもそれは皆サタンだ。これをはっきり知らなければなやない。 だから我々は、の路程に立った終末の信者としては、もう絶対服従、文句ありません。。祭物に文句あるの。 だから動物を祭物に選ぶのに、従順な動物を祭物に選んでいるんだね。ヤギなんかは、主人が来て自分に合わなかったら駆け出してしまうんだね。羊はそうではない。いくら主人が包丁を刺して命を狙っても、メエェーとそのまま死んでいく。反対しない。 蕩減復帰路程における祭物の基準 その代表的存在がイサクだ。もしもモリヤ山上おいてアブラハムがイサクを祭物に捧げるとき、「お父さん、何故自分にそういうことをするのか」と反対したとするならば、イサクは祭物として立つことは出来ません。何も言わないでお父さんのやるままに従って一つになれるその道を辿ろうとするところにおいて、サタンを分別する事が出来た。その道を我々は現実世界に元返さなければなりません。蕩減復帰の道を行くには一番近い所、神様の立っているところで蕩減復帰が出来るの?そしてその物は自分の物ではない神のものである。神のものになるには堕落しない完成したアダムの心情に主管されている、愛されているそのものになったという様な結論に立たなければならない。だからそのものは死んでも、どこに行っても死ぬと所がない。アダムの主管圏内に死ぬ。だからアダムは反対しても死ぬ所がない。わかりました?逃げても行く所が出来ない。アダムが殺して取って食べると知っても感謝します。文句ありません。羊を捧げ物にするには、羊を夜にも昼にも自分の子供より以上に愛して、寝る時でも、主人と同じく寝たい、よそに行く時にも主人と同じく行きたいという、いつも一つになったものでなくては本物の祭物として捧げる資格はありません。わかりました? だから神に捧げるものは我々自分が気ままに捧げることは出来ません。自分の良心、肉身或は神の心情を体恤したすべてに主管される相対物の価値をすべて神に捧げる時には、そのものを神は間違いなく受けられる。何故!その基準はサタンが主管することが出来ないから。 これを見た場合には我々現実的蕩減をしなければならない。これをずっと見るならば、僕の僕の段階それから実子の段階、実子圏でこれが再臨を迎えることだよ。メシヤの為の実体基台だね。それが成ってこそ初めて祝福がある。堕落する時は反対の方に落ちたんだから帰る時も反の道をたどって帰る。僕の僕から僕の圏、それから養子圏にもと返して、養子から実子に完全に一つになって捧げえて実子の基準を受けるんだから、実子が神の父母に返す祭物が生まれて来る。完成されたアダム・エバが一つになってその祭物を神に返してこそ、始めて神に帰る道がある。それから実体。新約聖書にイエス様が十字架につく時ゲッセマネ園の祈祷において自分の心のままにせずして、神の御こころとままにして成し給えという最後の祈りがありましたね。神の御旨の為に自分は生きても死んでもよい。そこには一片の疑いもない。たとえサタンが誘うと言ってもその道を曲げることは出来ない。自分の寄るべき父母と兄弟、そしてあらゆる国王が反対しても曲げることができる?どうです?出来ません。神さえも曲げることが出来ない。実体復帰を狙いとするなら、最後の最後に養子の実体となってサタンより一段高い反対をなしても、私は天の為に死ぬ、讃えるという心情の者でなければ、復帰の道は生れてこない。原理聞いてもそうなっているんだよ。だからそういう観点からイエス様を見た場合に命を捧げて死にたがる者が生き、生きたがるものは死ぬ。こういう観点を知っているイエス様は全世界のキリスト教信者に対して、第一の宣言は何かというと、死ね!死ぬ覚悟をしなければ神に帰れない!命だけ捧げれば、もうものなんかいらないや。一度にサタン屈服するには、蕩減原則によって全てを一度にまとめて神に捧げる。その道は必ず命を捧げる道であるというのだから、イエス様はそういう言葉を言ったというのは復帰の歴史からすれば最も意義のあることである。わかりました? 統一教会のメンバー各自にはある者がいるからみっともなくて…と、そういうものはわしは原理はいいんだけれども、統一教会にはあの者がいるからみっともなくて…と、そういう者が沢山いるんだね。それは絶対いけません。人間がみっともないと憎む様な何ものの要件も、堕落した以上には道がないということをはっきり知らなければなりません。だから現実界において蕩減をしてサタンを分別しなければらない。 蕩減復帰の為の七年路程 それでこの分別期間、神様の六日創造完成と共に安息日を加えての七数、そして八日の再出発の公的路程を満そうとして創造なされたから、それを総計的に六千年の歴史に一千年の歴史を加えて七千年間の蕩減を成す。聖書では歴史は七千年になっているけれども、人間の歴史は八十万年も百万年もなっているといっているんだね。長いその期間において、アダム一人の再創造の為に神が費したその苦労というものはもう我々考えられない苦労である。 統一教会は暦史的蕩減をなすには、誰でもが七年路程を行かなければならないというのが結論です。それは歴史を代表した全体的蕩減を満たす条件を立たせん為の期間である。この七年間の公的路程を行く時に蕩減復帰目的にかなう自分になりたいというのにそこにびつびつ言うことが出来るの?言えません。不平ということは成り立ちません。復帰路程に不平う者は誰だ!サタンだ!神の復帰路程にに反対するものは、不平不満するものはサタンだ。 だから聖書の教えに最後まで耐え忍ぶ者は救われるとあるね。その最後になってその瞬間だけ忍ぶ者じゃないよ。続けざまに忍んで乗り越えた者が救われるという話だよ。その時、ああこわいから?そんなことであったら先生は生涯かけてこんなことはしません。誰が反対されたい者がいるや。しかたないからやるんであってね、嬉しいからじゃないよ。蕩減の道はそうなっているんだから、それを乗り越えるには、しかたない。堕落人間の運命のすべての経路を甘んじて、さかさまに行かなければならない。わかりました?だから神に誓って、「私は今から七年路程を歴史路程の七千年の歴史のすべてを蕩減する道を行きます!」とね。これに不平をいう者はいくら神学大学の博士といえども間違いなく地獄に行ってしまうんだよ。金もなければ、知識もないトンチンカンのおやじであってもね、絶対死しても行くというものはちゃんと間違いなく霊界では天国に行くんだよ。だから知恵ある者が天国に行く道が多くありません。目玉が大きくなってね、四方八方見張って比較対照する能力があるから比較する。だから本当の信仰者はね、従順なるものです。何も知らない。神に対してもわからない、そういう者が一番早く行ける。(笑)わかりましたね。 それが分ったら大変なことだ。では我々、自ら僕になれる者や?僕は誰が決めるの僕が決めるの?それは自分が決める。堕落したアダムが決めたんだから、自分が決めなければならない。神様、自分は今から蕩減の道を行きますから、復帰路程において僕の僕の段階から行きますから、この世界の万民の僕として如何に扱われても使命を果します! 反対は大きく受けよ いかなる時代でも宗教は迫害を受けるところに発展してきたというを否認することは出来ません。その迫害に追われて行ったところに発展したんじゃない、それを乗り越えてそれを克服したところに発展を成すのであって、けんかしたところに発展したんじゃありません。 統一教会の原理とはこれ一体何じゃ。これは物理学の原理じゃありません。科学の原理じゃありません。堕落した人間万民に共通して行かなければならない鉄則だ。人間としてはね、万民共通の運命の公式である。それは大統領であるからといって認められるの? サタンが大目に見てやる? そんな事はありません。分りましたね! そういう道、僕の僕の段階から、僕の段階から、養子の段階かや、実子の段階から、父母の段階から、それを皆通過して神に帰る。大変だね! だから自分のものになる前に僕のものにならなければならないものだった。自分のものになる前に養子のものになるべきものであったというんだね。自分のものになる前に実子のイエス様のものになるべきであった。それがカイン・アベルを蕩減して新郎新婦圏によって夫婦が持つべきものであった。それは夫婦ばかりじゃなくしてね、真の父母のものとなるできだった。その過程で自分のものになるのではなくして最後に神様のものになってからこそ、自分に再び帰る道が生まれて来る。分かりました? これが復帰の原則である。この鉄則に一致しないものは神の前に絶対に到らない。オーバー、これはサタンのものそのままだよ。自分のものになりません。だからイエス様の時代においてアナニヤの例があったね。もの皆売ってから半分位隠してイエス様にすべて捧げますと言ったんだね。着物を着てから復帰するの、裸になって復帰するの? 自分が裸になってそれは七千べん打たれても不平言えないものである。大きく反対は受けなきゃならない。それで統一教会は蕩減捧ってあるんだよ。分かる? この体にはサタンのようなのが入っている。蕩減捧というの皆知っているんだね(笑)。清算しないと愛の実体に立つことが出来ない。はっきりした基準わかったね。それが分かれば結論は早いんだよ。 君達は現実的にサタンを分別しなければならない。この三時代、我々に相応したすべてを蕩減する七年間において一度蕩減するすべての旧約時代に該当するものは、神のものなのである。新約時代に該当するよのはイエス様の実体だね。この体を捧げてもこわがりません。十字架につけられても神にそむく様な、イエスに反対する様な弟子の立場であるりません。死んでもイエス様が通っていたような血を流し得るような立場に立っても不平を言ってはならない。そうしなければ一度に蕩減復帰は出来ません。現実的蕩減完成を見い出す道はありません。 生命をかける三弟子を持て 統一教会のメンバーとして結論を言うならば、すべてを一度に犠牲にさせても感謝する者である。或は地区長がアベルの立場に立った場合には、わしが死しても地区長を永遠に捨てることは出来ない、それはイエス様が死ぬ時に三人の弟子が皆逃げていったね。これは旧約時代にものを犠牲にしたその伝統的捧げ物の基準に一致しなかった。その三人の弟子をイエス様が祭物と捧げて、イエス様が身代りに救われる道があった。はやくわしを十字架につけてくれ!と進んで出るようになったならば、イエス様は死ななかったかもしれない。それが反対の方向に皆逃げてしまった。蕩減復帰できない者は神も取ることが出来ない、神に帰るには、蕩減条件を清算しなければならないから、肉身を通してそれは霊と一つになる様な環境を縦的な立場において結んでゆかなければならない。そういう立場に追われ十字架に死んで、霊的基準だけ残して横的基準はなくしたんだからこれを再び取り返す為に再臨の主は来たんだね。肉身で来なければならない。わかりましたね?(ハイ)。この基準を世界万民が分ったとするならば、大きな問題となる。この地上に真の父母が生まれて来たとなれば、これはしめた! 一度に蕩減復帰しなければならない。そして、ものも実体も心も、真の父母の前にあって一つになる。 もし地区長たちが、自分にたまりきれないように迫害するならば、これから蕩減復帰をなしにゆくんだあ、とね(笑)。今こそ自分の時間だとね。一回、二回、三回とその場で地区長を愛しながら打たれた場合には、それは神様が勝負を決定する。四回打った場合には、地区長が打たれる。という原理があるんだね。そうかといって覆讐のためにそうするのは、いけません(笑)。その原理を知っている統一教会の文先生は既成教会に今まで三十年迫害されてきた。三十年、追いかけられてもビクともしないよ。反対してもどんどん上ってきた。普通だったら喧嘩でもしたいのに喧嘩しない。三十年間黙っている(拍手)。だから原理基準を違反してそれ以上打たれた場合には、それは文句なしに神の方にアベルの方にずっと回ってくる。だから統一教会は打たれながら発展していく。その戦法だね。サタンのその世界は打ちながら失ってゆく。神の方は打たれながら得ていく、復帰していく、その道はまるっきり反対である。 我々自分の行くべき道が忙しいんだね。死ぬ前にこの蕩減の道を清算していかなければ神の帰ることが出来ません。それでものを一つにし、実体を一つにする。信仰基台を勝利し、それから実体基台を勝利しなければからない。実体基台はサタンに自然屈服させなければ勝利できません。神が旧約時代、新約時代、成約時代の三時代を通じて得ようとしたアダムの実体を現実界において成し得たという基準を得るには、命がけで、自分が迫害された三倍以上の迫害されても逃げていかないような三人の弟子を持たなくてはなりやせん。そののちはじめて、祝福という問題が生まれて来ます。わかりました。(ハイ) 旧約時代は六十代以上の、新約時代は六十から四十代だね。成約時代は二十代から四十代だよ。だから統一教会は年令が若い成約時代に立っている。神様がアダム・エバを祝福させるにはね三時代圏においてアダムが打たれて、イエス様が打たれ、再臨の主が打たれたね。子女を打たれるのは神が打たれることである。その三人の為にいくら苦労された神様でも不平いわず迎えようとするのと同じように、いくら三人の子女の為に悲しい事があってもそれを乗り越えてそれを愛する、そういうふうにしてサタン的三人が完全に復帰なし得たその基準において、歴史的三時代反対したサタンが自然屈服する様になっている。その屈服した基台の上においてははじめてイエス様は死ななかったけど、新郎新婦を迎えて蕩減復帰の道だね。その道をゆかなければならない。 地上にいかなる心情を残すのか 現実の蕩減復場は、実におそろしい。イエス様の十字架よりゲッセマネの山上より恐ろしい。そういうような運命の文叉点が一瞬に迫っている現実であるということを知りながら、勢いよく、いかに乗り越えることが出来るか。わかりました?(ハイ)だからすべてを捨てることが出来る。自分の命までを神の為に捨てるそういう立場に立って一切が復帰できるよ。 自分は世界の為に、天宙の為に一生すべて捧げても文句ありません。サタンがしても神がしても私は間違いありませんというものになってね。神様がした場合には長いんだ。サタンがした場合には短いんだね。誰によって試験されたいん?サタンに。だから統一教会は蕩減の速度を早めるために、おのれをサタンの一戦に立たせる。個人的、家庭的、氏族的、民族的、国家的、その基準を乗り越えなければなやないのだから、私は天宙の為に立ったアメリカを代表し、日本自体はね、一番恩讐圏の国家を代表させて愛したとすれば一番早いんだね。だからイエス様が恩讐に対して愛の祈りをしていたね。 先生も今度アメリカに行って三年の戦いは、その心情をいかにこの地上にこの地上に残してきたかということです。その場合には、先生は思いもよらない勝利者になるだろう。まさしくそういうことを成して来ました。(拍手)それと同じ様に、日本の皆様も現実的蕩減と我々の使命という観念をいかに自分の立っている立場で神の栄光を受ける堂々たる子女になれるか、そうなる様に先島は心から祈るものでございます。わかりましたね。(ハイ)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.18
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夫と完全に通じる人は妻しかいない真のお父様のみ言(祝福家庭と理想天国1)祝福家庭と理想天国1:真のお父様のみ言イエスと聖霊を通した重生の役事聖霊とは何でしょうか。母なる神様です。アダムとエバが堕落した後、初めて理想的実体のアダム型としてイエス様が生まれましたが、理想的実体のエバ型の基準がないので、理想的母型の基準を形態のない霊として送ったのです。それで聖霊を受けるというのは何かと言えば、母なる聖霊の腹中にもう一度入っていくことをいうのです。もう一度生まれるには、母なる神様である聖霊だけではいけません。聖霊を受けることによって自分が母の分身になり、また母なる神様である聖霊はイエス様の前にあって新婦なる神様なので、新郎イエスを思慕して完全に一つとなることのできる基準に入って初めて、霊的に再び生まれることができるのです。そうして初めて、「私」は霊的に救われることができるのです。それゆえ、皆さんはイエス様を新郎のように思い、聖霊を母のように思う、その理想の立場に進んでいかなくては、復活する道がないという理論がここに成立するのです。イエス様が亡くなられて後、五旬節に屋上の間で、百二十名の聖徒たちが集まり祈祷した時、聖霊が降臨しましたが、この聖霊が誰かといえば母なる神様です。イエス様を父とするならば、聖霊は母なる神様なのです。夫を最もよく知っている人は、その夫の奥さんであり、夫と完全に通ずることのできる人は、奥さんしかいません。聖霊は完成した女性神です。聖霊の役割とは、アダムの内にもとかえっていくのを助けることです。それでクリスチャンはすべて、イエス様の体の内にある子女の種と同じ立場に帰らなければなりません。キリスト教では、聖父(父なる神様)は神様、聖子(御子)はイエスと言います。それでは、聖霊は何ですか。聖霊は母なる神様です。母なる神様である聖霊を受けなければ重生することはできません。母なる神様である聖霊が産んでくれなければならないのです。この聖霊はイエス様を慕うのです。どれほど慕わしいか、目の玉が飛び出るほど会いたいというのです。皆さんはそのような体験ができなかったでしょう。母なる神様である聖霊が、新郎たる夫の神様を思慕するその心が、人の体に現れなければなりません。そのような心をもって、もう一度生まれなければなりません。父母の愛を通さずに人が生まれる道理はありません。これが天理です。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.15
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[21.08.15] 世界平和統一家庭連合 世界本部教会 平和ヌリ2021/08/15 10:00に公開予定です。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.15
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「世界的峠の国連総会」1974年10月20日ベリータウンで 歴史は、そのもとの基準を求めて、そこにおいて蕩減されていく、というのが原理の教えである。これはもとの原理、原因の基準を我々は原理から追求して上がっていったとするならば、アダム家庭まで上がっていくのであります。 我々堕落した人間は、世界を求める前に自分を救うと共に本来のアダム家庭の救いの基準が生まれてこなければならない、というのが原理の教えである。それは何故かというと、個人完成は堕落しなかったアダム家庭のその基準が作り上げられなければ、世界完成もすべてが完成されないから、堕落しないアダム基準の家庭を我々は求めてきているのであります。だから、堕落した万人も、我々すべても、あるいは神様も、これは本来のアダム家庭の再現を願ってきたのであります。 それで聖書には、新郎・新婦と教えたのが結局、それは何を意味するかというと、堕落しないで完成された、完全なるお父様・お母さまの権限を言うのであります。そして、神を中心として再祝福されるその一日を言うのであります。 世界は中心を求める それで、今のこの世界においては中心者を願っている。国がないから、世界がないからそういう中心的指導者を願うのではない。すべて個人もあるし、家庭もあるし、あるいは社会も国家もあるんだけれども、すべてをのりこえて中心的指導者を願っているような世界になってきました。 アメリカといえば、世界を指導する第一の国として誇っている。ここで君達は家庭において父母を持っている。兄弟を持っている。社会を、国を持って、大統領を持っておりながら、君達の国を指導して世界へ残される、そういう国を作りあげるというような、そういう中心的存在がいる、と誇る立場ではありません。そういうものを願わなければならない立場にきているということを知っていなければならない。 アメリカがそうだから、世界はいうまでもありません。完全なる理想的個人完成、家庭完成、氏族・社会・国家・世界完成の指導者があるならば、その中心者が何かというならば、それがメシヤである。復帰路程において、僕から養子、実子段階を経て父母復帰の道を逆に復帰していくのである。 それで世界は、今までの世界はどういう立場かというと、民主主義と共産主義が戦うそういう時期にきている。これは、カイン・アベルの延長の戦いでありました。ここにおいて問題は、兄弟どうしの戦いをこれを治めるには、兄弟同士ではできません。父母が来なければこれを治める道がないというのは、これは当然の話である。どちらがいい、どちらが悪いと、これを分けて教えてやらなければならない。 その兄弟の間で、カインもそうだ、アベルもそうだ、と納得するにふさわしい理論の、その過去・現在・未来に通ずるそういう内容でもって明らさまにこれを説明してやってこそ初めて和解の道が生まれる。 わかりましたね。そうすると、その父母を中心として、その兄弟を中心として、我々統一教会は一つになったという、このタイトルを持ち出して世界歴史に初めてそれを主張し生まれたものとして、それを讃えながら出発したのが統一の群れである。 サタン屈服の責任 この統一の群として生まれた者達の行くべき道、果たすべき使命は何か。我々は遊ぶために集まってきた者ではありません。恋愛とか、そういうことをするために集まってきた者ではありません。我々行くところに平和を建設するために、我々は団結して、サタンを退けなければ平和は永遠にこないから、サタンを退けてこそ平和を建設しよう、というのが我々のモットーである。 世界から見た場合には、サタンの第一先頭、第二先頭の順番を我々ははっきりとわきまえて、最高の第一先頭者を屈服させる責任を、統一教会は人類の前に、神の前に、歴史の前に果たさなければならない使命を持っている。だから、いつでもサタンと戦う。君たち各人においていつでも戦う。家庭において、統一教会において、あるいは全世界の統一食口において、個人の戦いから世界的戦いを展開してサタンと戦う。 神の摂理の防波堤みたいな基準が宗教である。宗教を侵蝕して、根本的に破壊するそのものがサタンの最高の活動の基盤となるものである。共産主義はサタンの最も強力な実体である。共産主義の侵略を防備する責任を、いかなる宗教家が責任をもって果たすか、という基準が世界史上に生まれてこなければ、共産主義にやられる、という結論になってしまう。 統一教会は民族を超越して、世界万民が一つになってこれに向かいあって戦わなければならない。その内外には、第一線においては、サタンと戦う、共産主義と戦うと共に、第二線は、民主主義国家において宗教を再武装させてかためなければならない使命を持っているのであります。 先生がアメリカにおいて活動するのも、こういう講演会を七二年より三年間、キリスト教をかためて、外的共産圏を迎える力をつくるためである。それで共産主義はそれを知っているから、大会をするごとに共産主義者が旗上げして、大々的にデモをやっているのが、先生のはじめからの道である。マジソンもそうだったし、ワシントンでも大々的にやってきた。もしも、共産主義に世界が侵害された場合には統一教会のメンバーが最初に犠牲になるというのは、これはもっともな話である。 思想を指導すればすべてを指導する。その思想によって精神を握ったならば、その精神によって人間は支配されるのである。サタンはそれを知っている。サタンは、神がその精神を主管しなければならないのにかかわらず、全人類の精神をサタンが支配しようとする。最後において支配しようとするのが、これが物質を中心とした共産主義文明圏である。 だから、思想を中心として、精神的基台を中心として世界人類を結んでいく、その共産主義より以上の精神的内容を持っていかないというと、世界共産主義を逆に打つことができない、というのは当然の話である。そういう観点から見た場合に、統一教会は共産主義より強くなければならぬ。すべてにおいて共産主義に負けない。だから教育の制度も、あるいは訓練活動も、その基準以上の基準をいつもねらいあいながら先生は君達を指導していく。君達はその目的に向かって進んで行かなければならない。 生命をかけるにも共産主義に負けない。一日二十四時間寝ないで働くことにおいても、共産主義に負けてはいけない。しかし、我々の活動の目標はいくら二十四時間活動しても、自分の為ではない。世界万人のためにやっておる。過去・未来までも考えてやっている。神に向かって、神の為にやる、というんだね。共産主義は過去もいらない、未来もいらない。自分のためにやっている。だからどちらが善の基準に立つかを聞いた場合、それはまさしく統一教会以外にない、という結論が正当な結論だ。 世界的一体化 こういう風に勝利をするには一人ではできません。世界的な組織をもった悪魔の共産主義に対して一人いかに偉い、いかに大胆なその決意をなしたとしてもできません。それは国をこえて世界まで、世界をあげて一つになる運動の母体を強固にして、作っておくことによって共産主義に向かいあい、戦い合って勝利する道が生まれてくる。それが実力である。 サタン世界、共産主義者達が世界的に一つになるよりも、我々統一教会において一つになるのがもっと強くなければならない。君達そうなっているの。我々は国民的に一つになる、統一教会が一つになる、そういう基準が世界性を持ったとするならば、そして共産党よりも強く堂々と戦いぬける実力があったとするならば、神は我々以外に頼るところはありません。こういうような統一教会のメンバーは、そういう立場において自信を持たなければならない。 何故かというと、我々は神によって讃えることは出来るんだけれども、サタンによって安息することは一切許さない。こういう信念を持つことによって誇りとしなければならない。サタンよりまさらなければならないように、断食をやるというような決意をしてからふにゃふにゃになったならば、サタンは「神よあの子供を見てみなさい。統一教会の先生の前で、ああ誓ったのにあのようになってしまいました。統一教会も終わりまでのえさにならざるをえません」とざん訴する。 蕩減の最後の段階で全世界的に歴史を通して屈服しなければならないサタンの前においてこれは恥ずかしいそういうような立場に立つということは、神の子供において、許されないことである。このサタンは歴史をじゅうりんしている。我々全ての国家、全ての家庭、自分の先祖を通して自分の親や、自分の兄弟をいまでもじゅうりんしているこのサタンに死んでもそういう条件は絶対に許さない。 サタンに勝て 我々は一つにならなければならない。サタンがいるから、かえって一つになれない立場において一つになる。我々はサタン世界に苦しめられたその苦しみの限界を越えるために、我々は愛さなくてはならない。だから我々においては、一つになれない、という原則はありません。自分自身を神の為、万民の為、世界の為に捧げるということは、もう既に誓ったものであるから、その者が一つになれない、その者が何かできない。その者がくたびれる。その者が不平、行かれない、という話はない。我々にもしそういうことがあったとすれば自分に向かって不平を言わなければならない。自分に対して打たなければならないということを発見していくならば、神の道に背かないような道を行かれるであろう。 結論は、いかなることがあってもサタンに勝たなくてはならない。神が願うのは、いかなることがあってもサタンに勝たなくてはならない。それが神の目的である。わしが救われる、これが問題ではない。わしが救われなくてもサタンを屈服してしまえば自然的に救われる。 北極にサタンがいた場合は北極までいってこれを追い出す。南極にいた場合は南極までいってこれを追い出す。サタンが世界にいったら飛んでいって我は死の覚悟をして横になって死ぬ、この戦法は世界的に勝利を治めるだろう。 サタンが狙うアメリカ サタンが一番うごめいているところはどこかというと今アメリカ、アメリカである。そういうように思わないの、あんた達。それはもうのんだり、フリーセックスになったり、家庭問題、全てが問題になっている。 何故アメリカにサタンが全集中したかと言えば、そういうことを神が絶対喜びませんし、サタンだけが喜ぶことばかりだから、世界的代表的サタンが集中している。神はヒッピーを喜ぶの。神はドラッグをのむような姿を見て喜ぶの。家庭において散々と分かれてしまうのを神は喜ぶの。教会はこういう風に自由思想になってめちゃくちゃになったら神は喜ぶの。アメリカ自体を考えてみな、今、共産主義に政策的に全てに負けている、全てに負けているよ。そういうのを考えた事あるの、いつもまけてるや、だまされている。それでいいの。 このアメリカは、アメリカ一国自体どんなになってもいいんだけれど、世界を代表させた神のみ旨から見た場合に、世界がめちゃめちゃになる。UN総会においてもアメリカはだん孤立になって来た。 何によってそうなったか。共産主義政策によって追いに追われているということを否認出来ません。ここにおいて問題になるのは、神のみ旨に再び一つになれる、世界的基盤をいかにしてつくるかということがアメリカの使命である。 そういう風な使命を果たしえる宗教が、いかに捜しても統一教会以外にないから、統一教会はアメリカにおいて、そういう使命を果たす為の火をつけるのが我々の目的である。 そういう世界的な一つの峠を決定しなければならないというような時代圏に立っているのが、今、一九七四年のUN総会である。 じゃあ、世界が一つの目的を成し得るそういう基準が一つの家庭を中心として、一つの民族、一つの国家を中心として治めなければ世界が治められないというのが原理である。だから問題は一つの国において神の蕩減基準の使命いかに果たすかということが、世界に影響される基準になっている。 君達、聖書にならっている。アルファだというんだね。そのアルファの個人、アルファの家庭の基準、アルファのその国家の基準、それを成しえなければ、オメガの家庭基準、オメガの国家基準、オメガの世界基準は出来ません。 そうみた場合には、我々統一教会は、アルファからオメガに通じるような、ここに変更がない絶対的歴史性を残さなければならないということになる。 それから統一教会が一つになったそのものは、いかなるものが、分けようとしても分けることが出来ないそういうものになるのである。サタンの国の力でもできなければ、サタンの世界の力でも打ち破ることが出来ない。そればかりか神様自体もこれを打ち破ることが出来ない。そういうような統一教会になっている。その基準に立ち帰らなければ、堕落しなかったアダムとエバの基準、あるいはカイン、アベル基準とそれからサタン世界と神の世界に結びつけることは出来ません。 だから君達、統一教会のメンバーは神の主張以外には全ての主張は持つまい、そういう風になる。「神のみ旨はそうだけど、わしの考えはこうだ」それは通用しない。何故か。神の前にサタンを中心としてエバが自分を中心として考え出したというのが堕落の根源であるということを思った時に、それ以上の基準を凌駕していかなければ我々の蕩減の道をわかった我々としてはそれ以上の立場に立って神以外の意見一切が許されないというのは当然の結論である。 そういう点から見た場合には、自由的思想を持ったアメリカ青年においては、このみ旨の道をゆくのに非常にむつかしいのではないかと思う。おお我の主張は百人なら百人に主張する堂々たる主張を持っている。それを根本から根をぬき出す。こういう個人主義の世界の代表的アメリカになったんだから、サタンの最後の獲物になるというのが当然の結論である。 だからここにおいて新しい覚醒をしなければならない。アメリカ自身が飢えるアフリカの為にアメリカ青年が生命をかけ、飢える世界の為にアメリカの国が責任を持っていくというような、そういう運動を起こす道が見いだせない現状において、我々はそれをぬきん出て新しいそういう方面を迎えることによって、新しいアメリカが生まれてくる。もしもアメリカが一体となって、統一教会の食口みたいに世界の為に一週間断食して世界万人を救おうとするならば、数十ヵ国を一回で、完全に蕩減復帰して、国を上げて救うことができるだろう。そうなった場合、アメリカは絶対に滅びませんよ。 アメリカを攻撃する国は一つもなくなる。UN総会でもって、共産主義国と共に弱小国はアメリカをこきおろすために総動員している。それは神の審きであるということを、これを悟って、全国民が神に帰り、悔い改めなければならないと先生は思う。 こうみた場合に、神の方には、我は子もなければ、教会もなければ、全てがなくなってしまったような立場に立った、そういう基準において我々以外にないということを思ってみた場合に、それこそ我々はゴリアテに向かうダビデと同じような立場によって、生命と断食でもって抗議する以外に道がないというのが当然の道である。そしてゴリアテに向かってダビデが投げた石はひたいを割ったと同じように、我々は一心同体となってUN総会を打とう、という決意を七四年においてこれは世界的問題が、かかっていてやらざるを得ないからこういうことを決めたのであります。 何故、世界的問題が今度のUN総会にひっかかっているかというと、今から順番に話しましょう。 アダム家庭に帰る 堕落しなかったら、そもそも神とアダムの家庭が一つになるべきだ。そうした場合、子供達である、カインとアベルの分裂という悲惨な運命が生まれて来ません。 それを誰が分裂さしたか、サタンがした。サタンがしたのである。こういう風にして、全ての神のものをサタンが盗んで来た。神の人間をサタンが盗んで来た。 さあ、原理から見た場合に、神自体が創造した子供であったものを、再びとりかえして来なければならない。 だから二番目に生まれた子供を中心として長男を、完全に屈服させて、父母と一体とならなければ帰る道が生まれて来ません。 だから家族、父母と兄弟と神さまが一つにならなければ天国に帰れません。 だからこういう分裂の戦争を、個人から、家庭、氏族、民族、国家、世界までこういう風にして、それはカインの世界を植えたし、アベルの世界を植えた。その結実圏の実として生まれて来たのが、共産主義であり、民主主義であるということを我々は学びました。 何故共産主義は神を否定したかと言うと、サタン圏の世界はサタンが今まで、神さまがおるという基準において全人類にあがめられて来たのにかかわらず、遠からず神に全人類が帰るということになっているのだから、神自体を霊を否定することによって、神を侍ることが出来なければ、自分を侍らなくてもよいという立場において、サタンは共産主義という思想を持ち出さざるを得なかった。 そうすることによって、神によっても、サタンがこの人類の世界に通用出来ないというような立場をそのまま影響さしている。それがサタンから生まれた共産主義である。 何故かというとサタン圏にあるから、堕落したそれ自体がサタンの世界である。サタンがとどまることが出来るというんだね。 神はいかなることがあってもこれを追い出さなければならない。人類から分裂させて追い出さなくてはならない。それを追い出す世界的運動を成さなければならないというのが、神の摂理だ。 それは何によって追い出されるか。 堕落したより以上の家庭基準を見いだすことによってサタンは追い出されるというのは原理原則である。 そういう家庭が生まれて、それがだんだん横的になって、氏族になり、民族になって国家になったとするならば、その民族国家においてはサタンは後退しなければならないという原理原則は厳然としておる。 何によって分別するかというと、これはアダム家庭によって分別せざるを得ないという結論は、これは当然の結論である。 それが堕落したのだからカイン、アベルが生まれた。 神は今どう思っているか、より強いアベル、より強いアベルの個人、より強いアベルの家庭、より強いアベルの子女、より強いアベルの民族、より強いアベルの国家が欲しい。 それを準備しなければならない。それが何かというと、メシヤを願っている唯一の国としてのイスラエル民族であった。 それは神と一つになって、より強いアベル的世界を代表した全てのカインの世界において、唯一の神を中心としたアベル国家であったということを、我々ははっきり知らなければならない。 このアベル圏の家庭、氏族、国家が生まれて来るのが、サタンは一番、いやなことである。 メシヤを迎える日 しかし、アベルの立場は弟の立場である。カインは兄さんである。神が、誰がカインかアベルかうち出したかと言うと、サタンがうち出した。うち出した歴史である。そうして神をくった。そういうような歴史の危険を植えた人類を神が、それを捜していくには、うたれる立場に立たなければ捜してゆく道はありません。だからうたれる時に神と共にアベルが一つになったかと言うことは、この原理にはっきりわからなければならない。その原則からして宗教という存在は、迫害をうけるときにこそ発展する。 イスラエルの歴史をみても打たれ迫害される時こそ、神が援助してやったという歴史を否定することが出来ません。その時、最も重要なのは神と一つになりたいというようなのは、死んでもなりたいというような決意をかためた場合は、神は援助する。堕落する時に生命を殺さないで死んだ立場に立ったからその死より以上の覚悟をしたところにおいて、復活が生まれるというのは、蕩減の原則から当然の結論である。これが歴史的に世界的に、原則的活用を宗教と、それは主権と戦って来た。結局はカインとアベルの戦いだね。宗教はサタンの主権にやられて来たと言うのだ。まあこういう風にして、アベル的歴史は発展して来た。いつかこの民族が中心的にもとがえるこの堕落しない基準のある中心者を立てていかなくてはならない。それがイエス様である。 それがイスラエル民族の国家をあげて民族をあげて望みのメシヤを迎える日であった。こういう風にしてメシヤと一つになったとするならば、サタン圏はこういう風に交叉して反対になるんだね。だから長男の立場はアベルの方が長男の立場にきて、カインの方が次男の立場になる。だから主管するというのは、それは伝統的基準より、そういう創造原理からみた場合には、弟を主管することは兄さんが出来るのであって、弟が兄さんを主管することが出来ない、それは長男を主管するものは、お父さんお母さんが主管することが出来るのであって弟がすることは出来ません。順序は、父母より長男を最初に主管し、そして父母と一つになった長男は、それは弟を主管するのが原則である。父母がなければ何も出来ない。しかしサタン世界、カインの世界においてはカインの父母と、カインが一つになったんだから弟を主管する。君が天に帰っていないサタン圏であるから、完全に天の子供になっていないから親と一つになったそういうサタン世界のカインは、サタン世界のアベルを指導する。そういう原則において宗教は多くの犠牲を払ってきました。 それで神はサタンに、アベルの立場に立っている宗教が打たれても、遠慮せざるを得なかった。何故神はサタン世界を打ちサタン世界を主管出来ないか? この疑問が解決したんだね。それは原理原則を立たせないで再び復帰しなければならない神の立場をそれを無視した場合には、復帰の世界をもとがえすことが出来ないから、神は知りながらも、いくら全能なるとしてもこれをしかたなしにみていなければならない。 いかなる犠牲があっても、殺されても神に死んでも神と共に死にたいと言うならば、死ぬ覚悟を成し得たその基準以上から神が主管しえるというのが原則なんだね。こういう自覚が必要である。我々、もと生まれたのは神から生まれ、神と共に生き、神と共に死ぬべきものだから、サタンがいくら何といってもサタンの力は関係ありませんと主張するそのものがなければならないという結論である。だから聖書には、「死なんとほっする者は生き、生きんとする者は死ぬ」というのは、そういう死の基準を覚悟した以上の基準を満たさないところには、神にたち帰れない原則があるからイエス様はそういったのである。 そういう風にしてイスラエル民族を中心としてここに準備されたアベル圏が、アベル国家圏がサタン圏より強くならなければならないというのが神の願いである。あそこまでくるのに四〇年かかって、数多くの犠牲を蕩減してあそこまで来たのであります。 メシヤが来られる しかし、メシヤはこの国の親であり、家庭の中心者であり、これは氏族の中心者であり、民族の中心者であり、国家の中心者として来た。 だからメシヤとつながることによって、神の方の家庭が残るのであって、メシヤとつながれることによって神の教会が残るんであって、メシヤとつながることによって神の国が残るんであって、つながない以上は全てなくなる。 それで神は個人を中心としてメシヤ、家庭を中心としてメシヤ、教会を中心としてメシヤ、国を中心としてメシヤとして育ててきたのが、イスラエルの国であった。そういうような中心的な使命を持って来られるメシヤだから、メシヤと一つにならないで、反逆してしまえばこれは全部サタンのものになるということになる。だからイスラエル民族から、自由世界にサタンが皆な散らばっている。 もしここであんた達が切りかえして家庭伝統、氏族伝統、民族伝統、国家的伝統を中心として、そのような外的世界圏を、各々を屈服することによって一つの世界をつくることが可能である。そうすることによってメシヤが一つの父母を中心として、兄弟を中心とした、カインアベルの兄弟圏、カインアベルの民族圏、カインアベルの国家圏を統合したことによって、それが世界的な中心として、中近東を中心として世界的な国をまとめて、カインアベルの基準をまとめて世界を統一するのは原理原則である。こういうような基準がイエス様の生前中に成すべきことが、イエス様が死んで四〇〇年の歴史を通してそういうことが始まった。 それで何故クリスチャンは、ローマに入らなければならなかったか、目的はローマを屈服させなければ国家的基準を統一することが出来ないその基準がイスラエル民族の使命であり、メシヤが来てやるべき基台であったのだから、それはローマを基点として最後の戦いをせざるを得ませんでした。 それが延長して、歴史以来初めて神様を中心とした法王庁を中心として、世界に指導したのが、初めて歴史にまできたんだね。 結局カイン世界を中心として、アベル世界の基準が始まったんだね。そうしてローマ法王庁が責任を果たして、世界を救うための神の摂理圏に一致して、今まで世界を救うために命を犠牲にしてやって来たならば絶対にこれは、分かれることはありません。 アメリカの誕生 そうしたら共産主義というものは絶対生まれて来ません。これはキリスト教が使命を果たさないで、十六世紀に入りながら、文芸復興と言う、ルネッサンスというヒューマニズム、人本主義という、神本主義世界キリスト教圏から、人本主義と思想を打ち出したのが、この時代から分かれたのだね。 そういう風にして、二つに分かれている。ここにおいて第一次宗教改革、第二次宗教改革それはウェスレー兄弟あるいはその、スウェーデンボルグとか、そういう教会を整備するんだね。腐敗した教会を整備して第三革命圏になって来なければならないこれが民主主義だね。 アメリカは、それは、キリスト教に反対されたまま、新しい革命のキリスト教を中心としてはじめてうまれたのがアメリカの国という民主主義の代表国家であるんだよ。 それでこの反面には、仏革命とそれから啓蒙思想という思想を中心として、新しい体制としてサタン圏に求めた共産主義であった。 なぜこういうふうになったかというと、これを二つに分かれない時、ここにひとつになって、よりささえ、そのキリスト教を中心として、霊的でありながらメシヤを中心として教会を中心として、氏族、民族を中心として一つとなって、これを完全に万民のためのキリスト教になっておったならば、ああいうふうに叫ぶ、サタンが侵入して分けることができなかったはずなのにかかわらず、その使命をなしえなかった立場において、サタン再侵入によって再びこういうふうに分かれてしまった。 これは世界的においてアベル圏であり、世界的においてカイン圏である。 メシヤを迎える国 それが今や、再びここにおいて整備しなくてはいけないという立場にたったわけであるから、こういうことが整備という、そういう道を通じないで、そのまま、再臨主を迎えれば、そのまま、世界は、地上天国に入るのにもかかわらず、ここにおいてこういう使命をはたさなかったがゆえに、再び切換しなければならない運命におちいったのであります。 こういうような、運命圏の歴史を残してきたのであるから、結局、メシヤがこられる国があるとするならば、その国において、その国が二つに分裂するということは、当然の原則だね。 だから、その国が世界的にうまれてこなくてはいけない。 そういうところからみた場合に、メシヤがこられる前には、イスラエル民族は再び、この地上に生まれてきて、メシヤを迎えたいという主張する時期はもう失ってしまいました。 それがキリスト教を受けついだ世界的な基台である。 だからここにおいて肉的なイスラエル圏の基準を準備する、あるひとときの長い歴史をもった国がうまれてこなくてはいけない。 じゃあ、ここにおいて問題になるのは、そのキリスト教はイエスを中心として出発したならば、どこの国へいったかというならば、ヨーロッパの方、西洋にいった。 なぜそういうふうになったか、なぜヨーロッパの方に行かなければならなかったか。 イエス様はどういう血統からうまれてきたかというと、これはアダムの家庭において、アベルとカインとそしてセツのその三番目の子供の歴史を通してうまれてきた。 それから、それが、再び分立して、カインアベルに分かれることによって、ノアの時代において、一つ統合するようなそういうようなことをなそうとしたのが、これが洪水であったのにもかかわらず、ここにハムの過ちのために、ヤペテが祝福された。 三番目の子供の伝統をうけついだそういう歴史が、イスラエルの歴史であった。 これを、世界的人類学から見た場合は、いったい西洋人は、どういうような氏族、先祖からうまれてきたかというとヤペテの氏族である。 それから、これがアラブ民族はというとハムで、アジア民族はというとセムだね。だから、アジア人が長男であり、アラブ人が次男で、西洋人が三男坊というんだね。 しかし堕落世界において、セムというのは長男の立場にあるから、その基準を中心として、摂理することができないから、ヤペテを中心として摂理の方向をむすぶために、イエス様は西洋文化圏において、神の摂理がすすまなければならなかったということを、歴史を通じて我々は知らなければならない。 そういうふうにして、西洋文明は、キリスト文化圏とともにどこにいくかというと、兄弟さがしにまわっていかなければならないというんだね。 しかしハムは、ハムによってのろわれたのであるから、ハムの所にかえることができないから、西洋文化圏はそれがのろわれない、長男文化圏にゆかなければなりません。 だから西洋文明は、東洋文明にむかっていかなければならないんだね。 しかしここに問題があるのは、西洋キリスト教は、イスラエル民族の基準と通じるキリスト教であって、霊肉とも完成した基準ではありません。それがサタンによって、キリスト教が侵害されたのであるから、こういうふうに使命完成できなかったんだから、我々は再び世界的にカイン・アベルをつくった責任を負わなければならないから、キリスト教を中心として失敗したことを、これを宣告したことになる。 再びサタン侵入したことになるから、これはキリスト教を中心として完成の理想をうけつぐことができない。 だから、ヤペテ民族を中心として、神の摂理完成は、のぞめないから、他の民族を、うち入れなければならない結論に達するんだね。どういうような民族をたてていくのか。それはノアの家庭、アダムの家庭と同じだから、長男のセム族にむかってたずねていく以外にゆく道はない。だから今の世界においてはそういう西洋が問題でなく、東洋が問題なんだね。 だからしかたなしに神はそれを東洋を中心として摂理圏を延長して新たに出発しえる時代圏が来ているということを、こういう歴史的な摂理の進展から我々はみはかることができる。 そうすると、西洋文明と、東洋文明がどうせ一つにつながれなければならないのにかかわらず、これをつなげ得る国は一体どういう国か、を我々はこういう見地からさがさなければならない。 韓国の国の立場 まさしくこの基準は、世界の再臨主が来た場合は、第二ローマ帝国と同じような基準を世界的に建設するような基準だから、ローマみたいな地がなければならない。半島基準を中心として神の摂理基準を願って来たんだから、アジアの半島基準を願うのも、原理的基準からそう願わざるを得ない。 そういうところは、韓国しかない。半島というものは大陸と大陸と海をつなげるそういうような文明圏であるというんだね。 西洋文明の起源は、何文明かというと、大陸文明でなくて(海洋文明)である。 島国の島から始まった。英国から始まった。たいがいアメリカの西洋人は海賊から始まった。 西洋人、これは海賊から始まった。英国を占領して、そこから世界を制覇する。それが今に於いて太平洋時代、また海を中心としてこれは世界一周をする。一周をして太平洋、アジアという国々、日本とぶつかったね。日本という国は何か。一周していくには、アジアに行くには、日本とぶつかった。西洋文明が、アメリカが。太平洋を中間として。だから日本とアメリカがぶつかったんだから、西洋文明と、アジアを代表して日本とは一つになる。 アメリカと自然的に一つに完全になり得るようなそういう国にならなければならないんだから、その立場が、いわゆる国なき立場に、半島にある韓国だったんだ。アメリカによってUN軍に於いてあるいは世界の保護によって、独立されたんだから、完全に一つになり得るアジアの一点の国を作ったのが、それが韓国であった。だから一つになり得る。完全に一つになる国だというんだネ。西洋文明と、アジア文明がつなぐのに、一つになれるような、その自動、自由的な環境、国家的基準に於いて一つになるような国が韓国しかないというんだね。だから、韓国から世界的摂理を動かす何者かが生まれるというのが、歴史からみて結論にならざるを得ない。 それから韓国の特有なその民族性というのは、四千三百年以上の歴史観を持ちながら、単一民族として小さい国として、今まで国家を残して来たというのは、それは偉大な国であるというんだネ。そこがちがう。どこをも侵略したことは一つもありません。今まで、そういうような立場によって、韓国民族はそういう方面に於いては、宗教的である。宗教、神様による敬天思想で、これはかためられている国だ。韓国を中心として、強大な中共、強大なソビエト、強大な日本と、それからアメリカが、そういう四ヵ国が、これをみんな引っかかっておる。引っかかっておる。韓国問題解決は、世界問題解決にかかっているんだネ。 アメリカがもしも韓国から手を引いた場合には、アメリカは滅ぶ。滅ぶ。だから今、朴政権をアメリカ国民が反対するような気持ちよく思わないながらも、これは韓国を援助しなければならないのは、アメリカの考えではありません。神の摂理からしてそういう風にせざるを得ません。この国の主人を、主人がなるには、誰が主人になるや。この国を解決するのは誰がやるや。問題だ。だから韓国だよ。韓国だ。世界的問題になっている。だから国境をソ連と中共、それからこれは、もう完全に、共産圏に、日本から反対になった。この国はどうなるかと、今後どうなるかということは、これは問題だね。 それから、韓国はそういうようにして小さいんだけれども、二つに、民主主義の先頭と共産主義の先頭に立っておる。境界線になっておる。だから北の方は共産主義であり、南の方は民主主義である。どうせ東洋の一角に於いて、西洋文明がアジアに於いて、打ち合うところに、こういう一つの国という国が、出なければならないのに、その国が、まさしく韓国である。そうするというと韓国に於いては、民主主義に於いて一番強い国でなければならない。共産主義に対決するには一番強い国でなければならない。こういうような世界的な接触点というサタンと神様がぶつけ合う、それから奪い合う、境界線となったのが、それが世界の一線として残ったのが、それが、三十八度線であり、板門店というところが、サタンと神様のザン訴点である。霊的な世界に於いて神とそれからサタンが、ザン訴し得る基準が、実体世界的基準に於いて、ザン訴し得るただ一つの所が、板門店である。 アメリカとイギリス 復帰路程に於いて、アダムという存在はどこから生まれるかというと女から生まれなければならない。だからキリスト教文化圏を代表した英国からアメリカが生まれたのは、イギリスはそれは島国でありこれは女を代表し、アダムというアメリカは、アメリカは、これは男を代表する。大陸は男を表徴するし、島は女を表徴する。何故アメリカがこれは、世界的キリスト教文化圏を指導し得るようになったかというと、アダムの表徴である男として生まれて来たから、そういう世界的文化圏を、キリスト教文化圏を受けつぐようになった。これが、アメリカとイギリスが一つになって、来られるメシヤを迎えなければならない。 メシヤの国 そうするとメシヤはどこから来るかというと、ヤペテに、キリスト教圏から生まれて来るのではなく、セムから来るということを、あんた達はわかりました。だから、東洋から生まれて来なければならない。それから見た場合には、アダムエバ国家から見れば、メシヤが来る国は世界万民の祖国である。それは誰より生まれなければならないか、誰が救ってやらなければならないかというと、キリスト教圏のエバとアダムの使命に立っておるキリスト教文化圏のアメリカとイギリスがその国を救ってやらなければならない。それは当然の話だ。何故かというとメシヤの国だ。 この韓国は誰によって主管されたかというと、日本によって主管された。日本はエバ国家である。イギリスとアメリカはキリスト教の文化圏である。それから、そこに於いて、新たに生まれた統一教会はアダム国家の希望を持って神の摂理を完成させる為に生まれたとするならば、そのアダム国家の摂理に対して、イギリスとアメリカが援助する、そういう立場に立たなければならない。そういう立場に立つというのはキリスト教が、新しく生まれているメシヤ的宗教に対して援助しなければならないことになっている。 これは何を意味するかというとキリスト教は世界を代表しておるキリスト教だから、韓国内のキリスト教が統一教会を受け入れなければならないことになっておる。ここに受けられず反対した場合には西洋文明圏キリスト教全てが、これを死守する。今、西洋文明の東洋内におるキリスト教はめちゃくちゃになってしまいました。何故か、何故そうなったか。何でもない東洋の一角の統一教会を反対したことは神の摂理全体を反対したことになる。 だから、韓国を助けて来たアメリカだに、後退せざるを得ないような運命に置かれてしまった。それで、一体、これアダム国家として生まれた、そういうような韓国だったとするならば、その韓国は、エバ国家はどこで定めるか。本当はキリスト教が一つになったとするならば、イギリスが、英国がエバ国家になるよ。 アメリカは天使長国家になるんだネ。世界的な天使国家になって世界を一つの国を神の摂理の国をつくる、そういう中心、重要な国になるはずであった。何故かというと、韓国はアダム国家とするんだから、そういう風につなぐんだね。だからアメリカは何故、こういう二百年のうちに、二百年のうちに全ての祝福をアメリカにやったかというと天使長使命をこれは、その倉庫の門番をする為に神は祝福をやった。何故アメリカが天使長国家になったかというと、何故なれる素質があるか、そうなっておるという。 アメリカは誰をたたえるかというと、それは男よりは女を高く見るんだネ。何故かというと、メシヤは新郎として来られるんだから、女はみんなメシヤに行くように道をひらいた。だから、堕落した男というものは、女を先に立たせなければ、メシヤに行く道がないから、アメリカはそういう伝統になったのもまちがいない。だからアメリカの女が男を主管しているというんだね。たいがいネ。世界にこういう国はない。世界に。 これはメシヤを先に迎える女だから、これは女だから、アダムというのは天使長の立場だから女に支配されなければならない立場だからそういうふうになる。さあここに於いておもしろいことは、何故アメリカはフリーセックスを強調するような立場に追われたか。それは堕落したエバと堕落したアダムと、その場になった。再びサタンに主管されるようなその基準に落ちたことを意味する。これをひっくり返さなければアメリカは滅びる。 金日成の出現 キリスト教が反対したんだから世界的エバ国家はどこにいるや、世界的天使長は家はどこにいるやということを問題にした場合に、そのエバ国家がそれは日本として、神が再び祝福される立場に立たざるを得ないで立たしたのが、日本の国である。だから第二次大戦後に於いて二十年間に世界的経済圏をみんなにぎるようになった。日本は如何にしてそうなったかと、日本がそう、天が祝福される。何故かというと、エバとして立たしたんだから、二十年たったら花嫁になれる年になれるんだからその世界的な花嫁は化粧をつけなければならない。 良い着物をつくらなければならない。お嫁に行く準備をしなければならないんだから、世界的なその経済を復帰する、祝福されている神がいますんだから、日本が、こういう風な発達をなしたというのは当然なことだ。だから日本は裸になった女だ。女だ。みんな狙うよネ。中共も日本を狙う。韓国と日本を狙う。ソビエトも韓国と日本を狙う。サタン世界もそうだろう。 民主世界の代表は誰――キリスト教を中心としてメシヤ史を中心として、サタンを中心として、共産主義を中心として、それがぶつからなければならない。これは、最後の決着をつけなければならない。そうするというとサタン圏のアダムの立場が誰かというと金日成だ。金日成という名前は何か、金でもって日の丸を成す、というのだね。金の日の丸をなしたというそういう意味だね。 だからサタン的に於いて、南の方にもしもメシヤがいた場合には、メシヤが来られる前にサタンが、メシヤ思想を中心として、世界をかきまわすという代表者が生まれて来なければならないというんだね。それで金日成は親という名をとなえたのも、この意味に於いてなさざるを得ません。それはまさしくこの人類の為に、救い主として来られるメシヤの表徴を、サタン世界で名のって出たのが、世界的代表者で、金日成である。そうすると、統一教会に於いても、「父」「真の父母」と言う名前をつかっているんだネ。だから、お父様が二つ出て来た(笑)。それはぶつかる。一つにならなければならない。 今から、そういう立場であったから、この二、三年内に韓国は世界的な問題になるだろう。摂理的、ひょっとすれば世界が滅ぶし、ひょっとすれば世界をよみがえらせる重大時期に入っておるということを先生は知っておる。みんな原理的になっておる、原理的に。で、韓国から見た場合に、日本はエバ国家であるから、日本のエバ達を救ってやらなければならない。 君たちも知っているように、六千名に近い、韓国の僑胞と結婚した、日本の女たちは、みんなだまされて北韓の地に行ったんだから、金日成のだまかしにつれて行かれたんだから、それを、もと返すのが統一教会の使命である。そうすることによって、アダムの、アダムの使命を果たさなければならない統一教会が、日本のエバを北韓から救い出すということは世界的共産圏から、一つの門を開けることになる。こういうことをすることによって、韓国に対しての使命、それからアメリカに対しての使命をこういうことを動員することによって、それをもしも日本人妻を引き出したとするならば、共産世界の今まで偽って、だまし、世界をだまかして来た全てが、赤裸々に世界に表われてくる。 先生と金日成とどこで接触してぶつかるか。UN総会を中心にしてぶつかるようになりました。歴史来初めて、女の引き合いで、女の引き合いだ。偽りの金日成と、真の統一教会と、アダムと、これは女の引き合いだ。そうして女を解放することによってサタン圏は後退する。共産主義は今まで数千年間、世界をだまかしてきた、全てが世界的に救われる。それこそ世界万民は共産主義をきらうようになる。こういうような、それを知った統一教会の文先生は全てを、これを抜き出して、このことを着手せざるを得ません。この問題がUN総会を中心にして問題になってくるのである。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.13
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大韓民国首都の神京仁国の平和祭り礼拝「あなたは喜びです」 2021년 8월 15일 오전 10시 천복궁교회, 신경인국 각 교회 및 가정 & 온라인 생중계 tv.peacelink.live2021/08/15 に公開予定です。日本語翻訳はありません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.12
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神慶尚国平和修練「今日はありがとうございましたした日です」2021年8月15日日曜日の午前10時大邱教会とオンラインピースリンク2021/08/15 に公開予定です。日本語翻訳はありません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.12
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「我々は如何なる時点に立つか」1974年9月22日ベルベディア聖日礼拝 大切な、自己の位置を知ること 今朝は現時点と題して、暫くの間お話申しあげます。皆さんは自分が現在どのような位置にあるか、ということを知ることは最も重要なことであります。私達個人を中心に立ててみるならば、今自分が東に、西に、南に向いているのか、その方向を知らないとすれば、自己の位置を知ったとしても、それは所用のないものです。皆さんが今、大西洋の真中に出るとすれば、山も見えないし如何なる対象物も見えない。風が吹くと、船が南に行ったのか北に行ったのか、方向を知らないとすれば、手の手のほどこしようがないほど不安なことと思います。そのような立場で船の中に羅針盤というものがなければ、その船は如何に良く如何に立派であり、如何に行くことができたとしても、それは所用のないものと何時も感じるのです。現在の立場が確定され方向が確定されてこそ、距離がどれほど遠いかということが分かるのであって、万一その位置と方向が設定されなければ、遠さも、距離もこれは私達と関係のないものであります。 皆さんが復帰摂理を見るならば、復帰摂理は必ず方向を立てて進行すゝものであります。旧約時代が神の全体の摂理の距離の中でどの部分に該当し、新約時代がどのような位置に該当するかということを知ることは、その目的を成し遂げるために最も重要な問題であります。それならば、成約時代も同じであります。成約時代をおいて見る時、この成約時代も物事を始める時があり、その次には事を成して行く時があり、物事を終結しなければならない時もある筈ではないか。このような観点から見る時、現在いる我々の位置がどのような時点にあるか、ということを知ることは、今後の全ての方向を整備し距離を測定して、我々が新しく出発する態勢を備えるにあたって、最も重要なことなのです。 完成時代を向えるにあたって さて、我々は蘇生段階、長成段階、完成段階へと歴史は発展して行くということを原理を通して学びました。全体摂理から見ると、今の時は我々が長成時代を通りす過ぎて完成時代に越えて行かなければならない、というのが堕落した人間の願望であるということを我々は知っています。我々、統一教会の中心的な使命は何であるかというと、完成的な使命を担っています。完成するためには、蘇生時代の勝利基盤と長成時代の勝利基盤を持たなければ、完成時代を迎えることが出来ないということを知っています。であるために、この二つ、蘇生、長成の勝利の基盤を連結させた後において、完成的な出発が展開されるのです。 それでは我が統一教会における蘇生時代、旧約時代のような蕩減時代は、どの期間に該当するのでしょうか。それを一九六〇年以前として捕らえます。では、それ以後はどのような時でしょうか。これは新約時代は、その本来の原則的な出発というものは、イエス様がこの地に来られて新しい家庭形成をなすことによって出発されたのであります。十字架に亡くなられないで、霊肉を中心にして、この地上に家庭的出発をされたという事は間違いないことである。そうなっていたならば、この地上に霊肉を中心にして天国理想、地上天国の出発がなされたであろう。しかし、十字架に亡くなられたことは、肉的基盤が未完成に終り、霊的基準の出発を受けつぐ事を意味することになった。その霊的基準の出発をもって二千年の間、個人的、家庭的、世界的な形成基盤を築き上げたのがキリスト教である。そうであるために霊的基準を中心にして、聖霊は霊的母の役割をなし、イエスと聖霊が一つとなり、霊的子女を繁殖して、霊的世界的基盤を築いてきたのであった。霊的救援摂理の世界的基盤を代表したのがキリスト教基盤を中心としては、本来の神のみ旨を、霊肉を中心とした理想を実現することができない。そこで再臨しなければならないということは、必然的な理論である。それには、肉的世界基盤が未完成に止まっているために、この肉的世界基盤をこの霊的キリスト教世界基盤までもって行って連結させなければ、霊肉を中心とした神の新しい世界的暦史として越えていくことはできません。 キリスト教の反対による再蕩減の道 我々は一九六〇年に、新しい家庭を中心として出発することができました。我々がもっている基盤というのは、個人基盤から家庭基盤、氏族基盤、民族基盤へと発展してきたのです。そのような観点から見るならば、もし個人的な一つの基準を立てておき、全キリスト教がその個人的な一つになっていたなやば、全キリスト教の勝利基盤は築かれていたのです。家庭的基準を中心として一つとなるならば、家庭的基盤、或いは氏族的基準でもって一つになり得るならば、氏族的基盤、そして民族的基盤、国家的基盤と、これらは一度に一つになるのです。 統一教会が歩んで来た道は、統一教会自体のみによって歩んで来た道ではなく、キリスト教を代表し、神の摂理全体のみ旨を代表して歩んで来た道であるために、この道を往き来し、動く全ての結果が天が全体の摂理に影響を与えるということは二言を要しません。統一教会に反対したり、統一教会で当面する事実は、統一教会それ自体に止まるのでなくして、全体摂理のみ旨の前に影響することも二言を要しない。本来は我が統一教会のためにキリスト教が形成され、統一教会はキリスト教基盤上ぬ連結されなければならない。言い換えれば、長成的位置にあるキリスト教の上に、完成的出発を見なければならないのが原則です。 そういう観点から見れば、先生は韓国で生まれたために韓国を中心として摂理の起点が出発してきたけれど、韓国におけるキリスト教は韓国内のキリスト教ではなく、摂理の全体世界を代表したキリスト教の位置にあるということも二言を要しないのです。その時からキリスト教が統一教会の先生と一つになっていたならば、今日の世界はこのうな悲惨な世界になっていなかったのです。一つになゞなかったために、即ち天のみ旨の前に反対したために、反対したことに対する蕩減を受けなければならない圏内に世界が止まることになったため、この世界はこのように悲惨な方向へと落ちて行かざるを得なかったのです。反対する基盤上にみ旨の基盤は立てられません。又、キ韓国から反対を受けた統一教会は、再び、これを再蕩減して行かねばならない。それで、問題がどこにあるかというと、韓国キリスト教と韓国の国家が何よりも第一となる問題です。昔、皆んながユダヤ教を中心としてユダヤの国と一つになって、イエスに反対したのと同様なの現象が展開されるべき結果となるのです。そのために、全キリスト教が国を動かして攻勢を取り最大の絶頂に到達することのできる時が一九六〇年でした。そういう立場でのキリスト教と国が反対するということは、全世界が引っかかることになるのです。 問題は唯、先生一人をどのようにしてへし折るかという問題なのです。複雑な過程を通過して、或いはイエスが十字架で亡くなられたと同じように、最後にサタン側に引張られていく歩みまで展開されるために、七・四事件などが代表的な事件でありました。そして、全ての国から問題視していた点に万一引っかかったとするならば、問題が大きくなったかもしれません。しかし、十月四日を中計にして無罪となり、釈放されたがために、ここから新しい出発を、霊肉の基盤を失わずに出発することができたのです。ここから新しい出発を、霊肉の基盤を築いたために、霊的基盤を代身することのできる、このような基盤を先生が作らなければならない。そして、又これを再編成するのが統一教会の使命なのです。この統一教会を中心にして国家に影響を及ぼし、国家とキリスト教が一つになって反対していた基準を、国家と如何にして一つになるかという問題がこれを蕩減することのできる基準を立てることのできる条件となるのです。その基準を成す為に、霊的基準を一段階前進させる立場で築いて来たと同時に、肉的基準を作り出して来なければならない。それは、再臨が後から来るのと同じく霊的基準の上に再臨するのが、実体の基盤を築いて来た歴史と同じものを一致させねばならない。そうするには、この統一教会の数が少なくとも、国家と教会が一致して、これを完全に押し出さなければならない。完全に持ちこたえて、これを要望しなければはやない。 氏族基盤形成のための蕩減条件 皆さんが個人の安息基盤、個人の勝利基盤ができたならば、家庭的基盤が要請される摂理があるんだよ。家庭的摂理は氏族圏において動揺しない基盤がなくてはならないというのです。そうしようと思えば、必ずその一つの中心がある。相対的基準によって一つとなって、この外的なサタン世界より強く一体化しなければ、摂理を発展させることができない。 そして、一九六〇年を中心として三年間に何をしなければならないかというと、言い換えれば旧約時代の全ての失った祖先達を、新約時代を中心にして、イエス様の霊肉を中心にして出発した、そのような限界迄、全ての内外の事を蕩減しなければならない。そして、反対を受ける中で、霊肉を中心として氏族的基盤を形成しなければならない。それには、霊界、旧約時代の未完成のもの、新約時代の未完成のものを決定的に基盤を築かなければならない。イエス様の十二弟子とか、七十門徒とか、一二〇門徒というのは歴史時代の旧約型、全ての未完成なものを実体で蕩減したものであった。イエス様を中心にし、三弟子を中心にして一二〇門徒迄、これが世界的代表型を越して行ったために、それを今度は霊的のみではなく、霊肉を中心にして実体圏を成さしめなければはやない。つまり、天のみ旨を中心にして個人から家庭、氏族的基盤を成して、世界的代表家庭を編成することであった。そのために、三家庭祝福から十二家庭祝福、三十六家庭、次には七十二家庭を、一二〇家庭を一九六三年迄の三年間に編成したのです。 何故、十二家庭とか、三十六家庭を中心にして、十二家庭基盤の上に旧約時代、新約時代を縦的基盤を連結しようとするのか。これが完成基準のみではなく、これが歴史的過去の蘇生、長成段階の連結が成されなかったために、これは旧約時代、新約時代を代表した数として、全ての縦的基盤を連結させる不可避な数なのです。このようつ基盤を築くことによって、統一教会においてイエスを中心として、氏族的蕩減条件を立てる国家時代に向って前進することができるのです。これで、統一教会は今一つの氏族基盤を中心として、全国的な活動を展開しなければならない時に突入して行くのです。 先生の御家庭の勝利 それでは、我々統一教会自体は何であるかというと、統一教会自体にも、皆さんはキリスト教世界の立場はあるし、先生は再臨時代の立場であるために、ここで問題となるのは国家的基盤を皆さんが築くに当り、解決しなければならない問題は、内的核心基盤サタン世界いから越え、決定的基盤を築いておかなくてはならないということだよ。そうするには、先生の家庭においての復帰原理にあって、長成段階から完成段階へ越えて行かなければ、家庭的勝利を築けないというのが原理だ。この最後に残った峠を、家庭を中心にして決定的に勝利の基盤を築くのが、第一次七年に該当するものである。 もし、統一教会が国家的な勝利の基盤を越えられない時、それを蕩減するためには、電波の切れたテレビを直すように、内面から統一教会自体が国家的基盤を中心にして、基盤を築くことのできる中心的家庭、即ち先生の家庭が中心的な立場で、これを蕩減する道を成し遂げて行かねばならない。言い換えれば、この七年路程というのは韓国では先生が一人行くのではなく、先生の氏族と民族を代表した型の基準を連結させて、その峠を越えて行かなければならないのです。そうであるために、七年路程は誰が先に行くべきか。堕落しないアダム、エバが行くでき道であったということである。父母が行くべき道であった。この期間はサタンが如何に讒訴したとしても、無事に突破せねばならない。そのような家庭代表の道を拓いて行くのが、第一次のめ年路程であった。 それで、この七年間にお母様と先生を中心にして、歴史時代のあらゆるからまりあいを解かなくてはならないんだよ。そのため、エバがアダムを主管したから、これを反対に完全にアダムの権限を立て、エバを教育しなけれだならない。女の話を聞き入れると、問題が起きるんだよ。女というものを間違って知ると、大変なことになる。何時もみ旨を中心にして、エバを再教育し、自分の基準の前に絶対に順応することができるように、どんなことにも服従して、自己の生命を犠牲にしてでも順応することができるよという、その基準を立てて来なければならない。それが、この第一次七年路程なのです。 これでは、このお母さん格になる人はみ旨を全部知って来ると思いますか。何も知りません。知らない人を育てなけれだなりません。或は、それはサタン世界から奪って来なければならない。そのままでは連れて来たとしても、天の基準に立たせることは出来ません。そのために、サタン世界から一歩一歩 、この場迄蕩減して来なければならない。それでは、エバはどのような道を行くべきあろうか。蘇生時代エバ勝利圏、長成時代エバ勝利圏、完成時代エバ勝利圏をもたらさなくてはなならない。そして、サタン世界より求めて内的世界に迄全部入って来て、同じ座に立つことのできる基準まで、言い換えれば、母親的なこの全ての失敗したものを再蕩減して、失敗条件を越した一つのお母様になれるというものを作っておかなければ、これはできないということなのです。そして、お母様は先生と結婚しましたが、他人の家に行って住むんですよ。こうして三年間を経て、通り越して入って来る。この第一次七年路程は何であるかというと、先生の家庭基盤を築く期間であるということを知らなければなりません。一九六七年を越えて、六八年の一月一日、神の日を宣布することによって、初めて第一次七年路程が終りを告げる。 祝福家庭を中心として世界圏に連結 神の日を決定したということは何なのか。元来、堕落しない人間にとっては、まず、神の日、そして父母の日、子女の日、万物の日となるのです。今迄、復帰路程では万物を復帰し、両子女を復帰して、父母を復帰して来ました。それは父母が十字架を背負って、霊的にイエス様と聖霊が今までそのような圧迫を受けて来た時であるために、それは歴史を逆に上って行くんだね。我々の時代は、そこれを逆に立てて来なければならない。それで、父母の日を決定するということは、、父母の日の十字架を越えて行くことをいい、子女の日も同じく越えることをいい、万物の日もそうである。こういうのをみんな決めておいて、神の日を越えることになる。 本来、父母がいて子女がいて万物を主管するる、そのように作っておいたのが父母の日、子女の日、万物の日で。これが一つになって初めて連結され、神の日が七年間迄に立つ。七年の峠を越えなければならない。そうきて、みんな神を中心にしてキリスト教基盤を作り、神の直接主管圏内に入る。だから、六七年を終らせながら、六八年の一月一日を中心として神の日を決定したということは、エデンにおいての家庭的基盤を中心として、父母は子女、万物を中心として神と一つになることによって、本来の主管圏内に移って行くという基準を備えるのです。 このような基盤を築いたことになるために、国家的基準を中心にして影響を及ぼすことになるが、神の主管圏内にあるために先生を中心として、祝福家庭、統一教会、これが三段階になる。先生の家庭と、祝福家庭と、統一教会、これが蘇生、長成、完成、段階になるのと同じなのです。それはなにを象徴するかというと、再臨主家庭とキリスト教世界と、全世界の象徴的な中心となるのである。それは全世界が蘇生であり、キリスト教世界が長成であり、再臨主家庭が完成と同じことになるのです。 この七年路程において、統一教会の運動を国家的基準にまで押し進めて来た。そしてこれを世界的基準とどのように連結させるかという問題となるために、第二次七年路程に入りながら、ここで祝福家庭を中心として世界に連結させる。一九六五年を中心として、五年から先生が世界を巡回して、第二次の時からこれを世界的に連結させるために、七七七家庭迄、第二次七年路程期間において、この仕事をして来たんだね。六五年に聖地を決定し、六九年には十カ国からの四十三双を祝福しておいて、七〇年までに七七七家庭にズーッと連結させて来たんだよ。そして全世界の基盤まで、十カ国がここに家庭基盤を中心として世界に行く道を築くことになった。このような基盤を世界に築いておいたために、この基盤の上で先生は世界的な、家庭的連結運動をすることのできる時代に入って行くというんだよ。そして七〇年から三年目の、七二年に入り、世界的活動を始めて、霊的キリスト教世界圏内に実体統一教会基盤と連結することのできる運動を展開しなくてはならない。これが第二次七年路程の最後に該当する三年路程となるのである。七二年から三年間を中心とした七二年、七三年、七四年で我々統一教会を世界的な霊的基盤に連結させることのできる運動をしなければならない。 世界基盤形成に、全世界食口が参加 先生は自信がありました。韓国を立つ時、霊的基準においては、もうすでに、韓国を越えたということです。韓国は統一教会の方向に従わずにはいられない、そのような基準を霊的基準において、既に、設定しておいたことになる。現政府とかキリスト教自身も、我々統一教会の行く道を標傍せざるを得ない段階に入って来たということなのです。そのようつ基準が国家基準において形成されたために、霊的基準にあっては国家を越え、現キリスト教の権威を越えることのできる蕩減条件を立てることができた。そして、七二年、七三年、七四年の三年路程において、韓国を立ち、民主世界の中心たる米国において、全世界に連結させる働きをしたのです。キリスト教民主世界においては、アダム国家型の米国と、エバ国家型の英国と、天使長国家型のドイツ、の三カ国を霊的面において連結させる運動をしなくてはなりません。即ち、イエス様当時、ユダヤ教を中心としてローマ迄連結させることのできる、その相対的国家を中心ににして新しい福音宣布の攻撃戦となるのである。 米国では七ヵ都市、英国とドイツにおいては、それぞれ一度づつ講演を行った。何故、米国は七ヵ都市なのか。この米国は世界的民主主義の指導国家であるために、ここで影響を与える多くのことをすることによって、英国とかドイツの一つの基準となって来るために、そういった作戦をせざるを得なかったということだよ。これはあくまでも霊的であるんだよ。霊的基準を連結させようとするならば、このようなことをして韓国の前にシッカリと連結しなくてはならない。そして、そのような基盤を中心として、一九七二年に入って来てから、ここに先生を中心として日本の得口は勿論のこと、まず米国の食口が動員され、英国の食口が動員され、そしてドイツの食口が動員され、日本の食口が主導的に国家的動員をすることになる。こうして今、米国を中心として活動を展開しているんだね。第一次において、先生が築いた霊的基盤の上に皆さんを連れて行って、七二年からすることだよ。先生が基盤を築いた上に、霊的なこの世界の食口達がこれに参加して、霊的世界食口基盤を築くことである。先生だけが霊的基盤を築いても仕方がない。ここに相対的な食口達が霊的基盤を作って、一つとならなければならない。 霊肉、世界への道が開かれる さあ、神がキリスト教を陥れなければならない。キリスト教は言うに証われぬサタンの立場である。国家がサタンの立場にある。これ全部サタンだよ。そこにおいて、我が統一教会は全てのものが復活できる。全てのものが!希望的なこの恵みを持って、全人類に復活のパワーを起こすのである。それが一九七二年から七三年の大復興会というものである。大復興会!皆さんが何も知らずに、先生に連いて来る中で、暦史的摂理時代はジャンプして参りました。 それでは、今日のマジソン・スクェア・ガーデン作戦がどのようなものに相当するでしょうう。そういうところでの復興会というのは、ビリー・グラハムがやる規模のものである。ビリー・グラハムは、洗礼ヨハネと同じく英雄的、世界的な基盤を築いて来ている。しかし、彼が基盤を作った以上の基準を凌駕して、彼を屈服させなければならないというのが摂理なのである。それによって、霊的民主世界の信仰運動における、如何なるものに対しても負けない統一教会の気勢をあげなければならないんだよ。ビリー・グラハムが活動することには、全キリスト教は喜んでいたが、統一教会が来たとなると全然違うんだね。その絶頂が今度のマジソン・スクェア・ガーデンであったよ。 イエス様当時にすると、先生はイスラエルの国と同じく、ローマの支配下にいたのと同じであり、今日の米国という民主世界を指導する立場で、その国の一国家をおいて見るならば、ローマとユダヤの立場は、今日の米国と韓国との立場と同じになるということである。イエス様当時、イエスを打つのにローマとイスラエルが一つになった様に、この時において韓国人と米国人とが、一つになって、先生を打たなければならないんだよ。打たなくちゃ!それが蕩減復帰である。そうであるから、韓国の牧師が入って来て、やっきになって叫んだのだね。あれがみんな蕩減する人達だなあ、と思ったんだよ。韓国人は米国人と手を握った。米国の牧師を訪ねて、統一教会に反対するよう勧めた。しかし、米国は民主主義の国であるために、ローマとは違う。何を言っても、これを捕えて殺すような基盤ではなく、このキリスト教を解放することのできる民主々義の国である。又、そこに共産党が旗を掲げて入って来て、先生に反対していたんだね。世界的反対なんだよ。韓国のキリスト教、米国のキリスト教も反対し、米国人も反対し、売産党も反対した。世界的な全てが反対した条件となる。しし、いくら反対しても、統一教会の文先生を訪ねて来た人達の気勢に皆、圧倒されてしまったんだね。その時が即ち、一九七四年、九月十八日のマジソン・スクェア・ガーデン大会であったというんだよ。 これは民主世界における統一教会と、統一教会が正面衝突し勝利的立場を越えて備く瞬間である。それは先生と皆さんが一諸になって、初めて世界的な峠を越えたということである。ユダヤ教がイエスを殺し、ローマがイエスを殺した。しかし、統一教会の先生を殺すことができなかった。亡びずして、勝利した。これが歴史的な起源が始まる瞬間であるということを、皆さんは知らなければならない。これは霊的基準である。それを肉的基準にどのように連結させるのか。それには、韓国の国家が我々と一つになることのできる、世界的な基準の条件を米国において世界に進出することのできる道が開かれることになる。その時が、このマジソン・スクェア・ガーデンを中心とした一九七四年、九月十二日から十八日までの一週間に当たり、この期間全てが帰結される。この期間は、韓国と日本と米国において、大きな混乱期を迎えることになる。この時、危機に入る。アジア情勢は、まさに危機一髪!全世界はこのような設定で通過する瞬間だね。 世界的な蕩減をのり越えて 韓国と日本が怨讐となったことを意味する。米国と韓国とが決裂することは、天使長とアダムが決裂することをいうのである。先生が米国に来てからニクソン大統領を援助したのは、アダムが天使を協助しなければならないという立場からである。それに対して、先生を中心として彼は韓国を考えることのできる立場にあったということだよ。ニクソンが倒れて行くことによって、フォード大統領は朴政権に対して相当良くないことを言った。このようなチャンスを知って韓国に対して実に強烈な反対をする、この相剋的な立場に立った日本が、米国の大統領を中心として働きかける。このような運動が展開せざるを得ないのである。 ここにおいて、極東情勢が危機状態に陥ってから、結局は米国が背後にあって日本が韓国と折衝する運動を始めた。そのような刹那に、韓国は先生を絶対必要とするようになったんだよ。何故かといえば、日本との国交を断絶してしまえば、日本に対する基盤が一つもなくなってしまう。そこで統一教会と国際勝共連合とが必要とならざるを得ない。そのような渦中で韓国と先生とは内的な基盤で先生を中心として一つとなることのできる起源がなされた。日本が反対したにもかかわらず、日本自体が朴大統領の通告した条件を中心として動かなければならなかった。陸女史事件は日本を中心として起源がなされているために、これが問題となったんだよ。そして、朴大統領は国交断絶をして米国までをも切ってしまうと主張して出てきている。 さあ、このようになることによって、このアジアの危機的情勢は韓国を中心にして、その峠を越えることになった。米国が協助して日韓が一つとなり次には日本の首相が二十日ここに来て帰って行き、今度はフォード大統領が日本を経由して韓国まで連結されるんだよ。実に原理がそうなっている。韓国の大統領は先生と一つになることができ、韓国政府に対して怨讐であった日本が一つになり、その次に米国が一つになったというのだよ。このようにして内外に新しい歴史的な転換期の因縁が直ちに展開される日であったということである。万一朴大統領から、この九月十二日に先生に連結することのできる、このような条件的働きがなされなかったならば、今度のこの情勢はたいへんな危機に入り、世界に爆発化し得る危機一髪の時点であった。 そのような観点から、マジソン・スクェア・ガーデンを中心にして、この国家的な問題とか世界的な情勢が摂理圏内に戻らなければならない。この問題を中心にしてワシントンデモとか、このような問題で韓国大使館を中心として米国政府までもこの攻勢を取ることのできる働きまでも計画したということは、皆さん知っていることと思います。それが三十分前に中止された。 このような事実を見るならば、韓国と先生が霊的基準から霊肉に分かれていたのが、初めて霊肉として合し得る国家的基盤が連結されて、マジソン・スクェア・ガーデンが世界的なキリスト教圏内と同じ立場で越えることができたという事実は歴史的な新しい起源である。それを理解できますか?その時が他ならない今度の我々の大会であった。 一九七四年を越えて また、七ケ都市はマジソン・スクェア・ガーデンでの勝利した写真のみを回しても大衆を動かすことができる。これは全国の勝私の起源となるんだよ。そして、八ケ都市を参与させたというのは、八数で世界に出発できる起源にもなるんだよ。そして、七十ケ都市を越える日には世界的に越えることが出来ると、このように解釈しなければならない。 さあ、今はこの七ヶ都市は人一人集まらなくとも、米国人が座らなくともよい。マジソン・スクェア・ガーデンで勝利したということが問題なのである。この十二月だけを、一九七四年を越えて行くならば、一九七五年からは、霊肉を中心として世界舞台に前進することのできる時に入っていることを皆さんは知らなければならない。そのような仕事をする時がこの時である。イエスの死により、成されなかった事を成すことだということを皆さんは知らなければならないよ。 次に、キリスト教の全ての預言者達を解放することのできる一つの起源ともなり得るのだ。メシヤを死に至らしめた怨恨を解くことのできるその一瞬間にもなるのである。 それによってサタン圏内から世界に行けなかった人間達が、世界へ行ける、門外に出る瞬間となるのである。今迄、共産党の全面的な攻撃を受けていたが、今ここでキリスト教と一つになれる基盤のみを築いておくならば、共産世界にまでも我々は進撃することのできる門が開らかれるであろう。正にその瞬間である。これまでの歴史にない、全霊界も肉界も、この世界情勢も万民が息苦しい峠を越えるか越えられないかというこの瞬間を、我々によって越えられたという瞬間となるのです。もはや、先生は世界基準を越えて行く条件が備えられたことになる。 実体でゆくべき期間 今、一九七五年から第三次七年路程に入って行くわけですが、第三次七年路程においては、先生が来た道を皆さんが今また、実体で行くべき期間であるということを知らねばならない。そして、皆さんも世界に行くことのできる、このような主導できる運動を起さなければなやない。このような主体的な一つの団体を作らなければなやない。それが、これからの七五年を中心とする国際機動隊の出発である。 さあ、これが今から全世界を風靡して行く計画である。そしてこの時から、二千年間我々を迎えてくれる世界の百二十ヶ国家に、この国家代表の百二十ヶ国家に該当するそのような我が宣教部を設置すべきである。何故そうであるかというと、イエス様時代において百二十門徒というのは世界的代表国家であったためだね。だから、その数に該当する宣教部を作らなければならない。今迄は外国に行く時、一人づつ出たが、これから行く場合は三人一組にして送り出す。先生を中心にして。日本人その次は米国人、ドイツ人、それに先生が参与すれば四人!四人!我々は超民族的な新しい国家的民族なんだよ。何故そのように、三人づつ送り出さねばならないかというと、既に世界的時代を越えたが為に我々は国家的基準の前においてのアダム国家、エバ国家、天使長国家を持つことのできる圏内に立っているためだね。世界が共同的な出発をすることのできる時が来たということである。 さあ、三人づつ、ずっと百二十ヶ所に広がって行くのだよ。百二十ヶ所にこの人達が立つとすれば、国家機動隊を動員して三千名にしよう。こんど千名日本を経て、韓国を経て、台湾を回っていく。これが全部、復帰歴史であるんだよ。日本はエバ、米国は天使長国家である。ここから出発し日本に行って主導的摂理をしてから、その次に韓国に行って、韓国に行くとすれば韓国と日本とアジアの天使長国家・中国であり、その次にあのヨーロッパにこいて英国であり、その次には相対的な天使長のようなドイツに行って、ピタッと復帰予定を七ヶ国の基盤をどのように連結させるかという問題を今考えているのです。 ニューヨークの食口の使命 この基準だけを今通過するとすれば、次には全て国家的な関係において世界的にどの国でも往来することに道が開かれるということである。 アメリカが本来この地に移民することになったときは、信仰、キリスト教、旧教徒が反対したため、新約の人達が押しよせてきた。 キリスト教がなければ絶対にこの国を確定させることができないということだ。この国は、すべてヨーロッパの延長である。だが、この国は旧教よりも優れなくてはならない。新教であれば、民族的な統一をなすことができる。そして団結して、ヨーロッパに負けじと闘い始めたからこそ、米国がこの二百年をもって世界的な発展をしたというのです。 米国は二百年かかったが、我が統一教会は今から二十年たてば、世界に雄しい文化圏を形成する。それが一九八〇年度から西暦二千年の時まで、統一教会を中心とした世界的な文明圏内における段階の中で、発展する文化の世界を創造するであろう。これが摂理である。 さあ、我々は何であるかというと、新しい二千年の旗手となり新しい世界の天国を建国することにおける天の国の移民達である。米国大陸に来た移民達と同じである。 今、祝福を受ける米国が責任を果すか果せないかの問題が多くあるということを皆さんは知るべきである。見ていると、この国は今亡びつつあり、この国の教会もまた衰亡を始めている。それは実に短期間のうちに落ちていく。それが一九七七年、七八年まで、危機であるということを皆さんは知らなければなりません。 それでは、それまでの三年間、誰がなすべきか。いまや米国の国と社会は正常でなくなっている。それを誰が正常にしなければならないのかといえば、この御旨を知っている我々がしなけれだはやない。 それでは、米国においての統一教会から見ても最も主導的な場所であり、主導的な教会であり、主導的な仕事をしなければならない、その群がどこかというと、ここにおけるニューヨークの食口だということを皆さんは知らなければならない。 それでは、ここから全国に影響を及ぼすことの出来る新しい運動を、いつから出発させるべきか。この三年間に、我々はビリー・グラハムが立てた以上の基準を立てなければならない。今までは、先生がみんなしたんだよ。今は、皆さんがやらねばならない。それをやる自信あるかね?先生がいなくとも?そうであるために今こそ、今日!米国全体が動いて、或は全世界キリスト教が動いて、ビリー・グラハムを世界に立てて一つとなった以上のものをこの三年内にしなければなやないのが、天の願う一つの基準であることを知らねばはやない。 その時先生はこのように考えている。私が出るのではなくして、我々統一教会がビリー・グラハムが集会した以上集めて、そこでビリー・グラハムを立て、彼に講演させればいいと考えた。そうすれば、キリスト教とは完全に一つになるんだよ。彼が要請に応じなかったならば私がする。 これが現時点であるということを知ったから、今、我々は行動する以外ない。 私が英語を話せば韓国を忘れてしまうために韓国語で言わざるをえない。また、御旨的に見ても、韓国を私達が思うことによって、韓国との基盤造りが全世界に連結されるんだよ。だから何時も通訳を立てて話すかもしれない。そうであるために、君達も韓国語を知らなければならない。 最後の判決の期間 今日、一九七二年、これが四日目、十九日、二十日、二十一日、二十二日、この四日間になる日なのだが、これから準備して、このニューヨークから世界的な運動を敢行することのできる、このような新しい動きがニューヨーク教会が旗手となってやらなければならない。 さあ、この三年間、これを見てごらん。私がこの一九七二年度に来てこういうんだとね。ならば当時の言葉が成されなかったのか。(成されました) そのような時、マディソン・スクウェア・ガーデンをするという話とこれからの三年路程に全米国を動かすのと、どちらがやさしいかといえば、これから米国を動かすというのが常識的である。常識的ということは、既にゆらゆらと動かしておいた段階になるということである。ニューヨークが揺れ動けば、世界が揺れ動き、蘇生、長成、完成全部が揺れ動くことになる。 さあ、それでは、そのようなスタートを誰が責任持つか(私達です) そういう君達は、先生よりももっと偉であるということになる。そうであるから、今日から満三年間は如何なることがあったとしても不平を言ってはならない。このようにすれば世界が回るんだよ。 今、ニューヨークでは、レヴァラント・ムーンに対し、相当関心を持っている。 キリスト教徒は完全に頭をうなだれるのである。 今まで反対してきたようなキリスト教徒だけれども、今後は、我々もレヴァラント・ムーンの言うことと同じであると答えなければならない。それ以外に道はない。 この三年間は、歴史上にない最後の判決の時間であるだけに我々にとっては、歴史上にない深刻かつ、最大の競争をしなければなやはい。 この三年間が立てば、共産党は、反対できなくなる。共産党をそれを知っている為にサタンもそれを知っている為にレヴァラント・ムーンに対して反対するのである。それを知って我々は一九七四年九月二十日、朝八時を期して出発し、新しく総動員することにする。 これに参与する人、両手をあげて宣誓しましょう。 間違いなく手をあげたんだよ。 出発は今からだ! さあ、今から前進する以外はない。今まで君達をそっとしておいたが、今は放っておかないよ。なぐるかも知れないよ。それでも不平言わないね。 それではこの期間中は、悲しい涙を流すのではなく、希望の涙を流すことだ。 如何に苦しくともどこへ行ってもだ。! 今こそ、我々が働いたことは我々のものになるのである。今までは蕩減である。蕩減! 今、皆さんが行く所には、皆さんの先祖が動員され、皆さんの国の愛国者が動員され、世界のキリスト教について行った人々も動員されて総霊界が、善なる霊界が皆さんの後で動員することのできる時が迎えられたことを知らなければならない。世界的な霊界が皆さん側について立つようになる。そして、霊界が動員されて私と一つになった為にその次に肉界が皆さんの動く影響に従って、肉界は自動的に一つとなる動きをみることができるであろう。 そして、世界的な宣教部を大設置するんだよ。 さあ、我々が全機動隊を千名つくったとするならば、それ、三十名づつしたにしても三千名を三十名づつだけにしても何ヶ所だ?百チームができるんだよ。そうすると、千名だけを動員するとなると一つの国に三十名づつだけ行って三ヶ月でもってでも、これは、五十名、百名を伝道することは問題でないということである。そのようになるならば、全世界に五十名づつ送り、全世界に一度に一年間には何百名の基盤を作ることができる。その次には、千名を三千名をみな動員する。やろうと思えば三百名を中心にしてでもその仕事をやっていくことができる。それでは一年だったら三ヶ月づつして、四十ヶ国を回ることができる。そして三百名以上の五百名単位の基準で各国に対し、その次には、千名機動隊が一度に出発したとしてもそれを消化させて各民族に影響を及ぼすことができるのである。 こほ三年間に基盤を造り、その我々の動きによって決定することを考える時、この時間我々が天の前に宣誓することは、如何に歴史的な次元の高い瞬間で現時点であるかということを忘却してはいけません。 我々の立場がいくら悲惨であっても勝利するならば、自然、短時日内に大きくなることができるか。万一、大きくなって失敗したなら、そこを取り離さなければならない。怨讐が取っていくんだよ。 だから今からは、出発するんだよ。そしてヤンキー・スタジアムよりもっと大きいものを計画しよう。どれ程大きいかと言うと、五倍以上にならなければならない。五倍以上。次にそれが終われば、五十万から七十万までの大会を一度してみるのが先生の計画だ。それをどこでやるようになるかというとワシントンである。 この二年間は、七十名伝道しなければならない。二年間に伝道できるんだよ。そうしてワシントンにブルドーザーの如く押していくんだ。 神と共に勝利の道を歩もう さあ、それでは今言ったことの結論をだそう。 今日、このような重要な時点に二年間はどんなことをしても七十名以上獲得しよう。自信ある!そういう人手をあげてみよう。こうなるんだね。先生は実に忙しい仕事がもち上った事になる。ニューヨークなこれから今年末まで、三千名を突破しなければなやないという先生の考えがある。 我が統一教会は、マークを旗をかかげて、路上に全員して飛びだそう。休憩所のような所に行って「ヤーッ」全員飛びまわるんだ。「ここで何か起ったんですか」と聞かれたら「ほんとうに聞きたいのか」とね。全部話せば良いのだ。今までは、レヴァラント・ムーン、マディソン・スクウェア・ガーデン復興会のために相当ニューヨークが騒がしかったというが、これからは我々、数は少なくとももっと騒がせることになるだろう。 「我々は今、ニューヨークを全部救わなければなやない、と決意されたためにあなた達が騒々しくとも我々に同情心があるならば、早く信じなさい2と言うのです。 これからは、そうであることを知って、ニューヨークが我々の手中に入るのだと、そう考えなさい。 三千名になれば、ニューヨークは私が一年内に全部、我々のものとなると考えるのである。そして、何時から何時までは、エンパイヤー・ステート・ビルを全部掃除!外国人達の米国に対する印象が良くなるのではないいと思った為に、きれいにするんだというのだ。全部が掃除を止めさせる。そしてこれは将来我々の家になるために大事に愛せざるを得ないのだとね。 神の歴史的摂理がこのように越えていっているにもかかわらず、このようなことを知らないとするならば、いつの間にあ先生のポケットにあのエンパイヤ・ステート・ビルが入ってしまっている。知らない間にそのようになるんだよ。 そうなれば、みんな知らない間に死ぬほどの苦労をするようになる。それでいいんだろう(ハイ) このような歴史的時点にいるということは我々の氏族の命題も国家の命題もひいては、先祖の命題も我々にかかっている。 皆さんは国家を代表した洗礼ヨハネと同じ存在であるといえる。だから、そのような責任ある先生を中心にして仕事を全部するのである。 問題は闘って勝たねばなやない。勝利のみが全てを保障するのである。 みなさんがその目的のために勝利した暁には、その目的のために苦労したすべての内容は、世界と全体を屈服させ、感動させることのできる中心となるのである。 それには悲惨である程良い。勝利の道を歩むということは、悲惨である程、栄光となるのである。 以後三年間は、勝利の基準を中心にして、どのような犠牲と困難があったとしても行かねばならない。 その日のために祈り、その日の為に動き、その日のために闘って、その日の勝利を保障することのできる毎日の生活をもたなければ、その日の勝利をむかえることはできない。六千年の最後に残された一歩をもって勝敗をかけた、そのような最后の生活をするという心をもって、すべてに注意し、神と共に闘って欲しい。神と共に、御旨と共に仕事をし、神のために力強く歩んでくれることを願いながら、終ることにします。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.12
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「アメリカを動かそう マディソン大会の勝利を祝して語られたみ言」1974年9月18日ベルベディアにて 先生の神様への誓い皆んな来ていますか。全十団長、全チームいますね!一九七二年に始めて「希望の日」講演旅行をリンカーン・センターではじめました。そこはむしろ、小さな会場でありましたね。その翌年、すなわち昨年の一九七三年になるのですが、ニューヨークのカーネギーホールでもまた、講演旅行を出発しました。そして今年一九七四年、マディソンスクェア・ガーデンべの講演会を終えたのであります。 三年間、アメリカの民に語ることを誓って「希望の日」講演旅行を初めました時、先生はその際に、この三年間に全アメリカ人に伝えるという先島自身の責任をはっきりと自覚していたのでありました。もし、その責任を十分に遂行出来なければ、天が打たれる、神の国が打たれるということを知っていたので、いかに神にその誓いをなしてゆくかというのは、先生の苦悶するところでありました。 最初の問題は、我々の食口の数でした。すでに一九七二年に、先生はマディソン・スクウェアー・ガーデンをゴールと考えていました。その時、自分にこう聞いてみたのであります。「いったいどうやって、この少ない者達でなして行くか」そして一九七二年十一月、最初に講演旅行にやって来た時、一歩一歩着実にやってゆこうということになったのでした。皆んなも知っているように、一九七二年にはアメリカ七都市、ヨーロッパ二都市の講演を完了し、そして一九七三年は活動地域での講演を完了し、そしてその年の後半から一九七四年前半にかけて一九七四年「希望の日」講演として、全米五十一州を回っりました。 一つの成功を目指して それは全く激戦で、あらゆる方面からの大きな強制とか圧力とかがかかって、それをなすのは生易しいことではありませんでした。 そして多くの人が、気違いじみた行動だと言いましたね。というのは、この団体が五十州の講演をする程のお金などあるはずがない、と考えていたからでした。しかし、私達がそのためのキャンペーンをはり、見事に成功させてみると、全マスコミ、世論は、一体どこからそのお金を諸けたのかと、不思議に思ったのであります。 我々は、“千万長者教会”というあだ名が付けられ、ムーン牧師は大変な金持ちであると、知られたのであります。しかし、これは私達の努力の故であります。アメリカの情報局とか調査局などは、先生はその当時アメリカに来て一年足らずであったのだから、どうやってそんなすばらしい運動が展開できるのか、まさしく疑いの眠で見、先生がアメリカに財産を持っている程とは考えられず、経済は世界中にある組織から来ていると、結論を出していました。 また先生のウォーターゲート声明文は、多くの人の注目を集め、議論を湧かせました。一ケ月程のキャピタルヒルでの断食祈祷は全米に考えられない程のショックを与えました。。というのは、アメリカではこれまでにそんなことは見たことも聞いたこともなかったからです。 こうした全ての行動、戦略戦術は、一つの成功を目指していたのであります。マディソン・スクェア・ガーデンであります。それらは、そのための準備、神の偉大なる自由の日という一日のための準備でありました。 イエス様がローマで語られる如く 実際、たくさんのグループがマディソン・スクェア・ガーデンに集うことが出来ました。しかし、我々の集会は違うものです。それは歴史的な意味を持っているのですね。摂理的な意味を持っているのですが、昨晩の我々の大集会は、ユニークなものでした。 ここアメリカでの先生の三年間の伝道は、イエス・キリストが十字架にかかる前の三年の伝道期間に匹敵するのです。もしキリストが、あの十字架にかからなかったら、イエス様はローマで我々が昨晩行ったような大講演会をなしたことでしょう。 もし、ローマ人がイエス様を歓迎し、ローマ帝国が彼を信じ、ローマと神の息子が一つになることができていたら、本当に歴史は変り、神の国はその時から出来ていたのであります。その当時は、アジアの国々は弱少国家であり、いわばローマ帝国の支配下にある如くローマの影響を受けていました。 今日、歴史はくり返しています。韓国は今、その当時のイスラエルの立場にあります。そして、大国アメリカの影響圏におかれています。それは論理的にそうなっているし、あんた達も非常に簡単に理由付け出来ると思います。アメリカは二千年のローマに担当するのです。ニューヨークはアメリカの中心であり、マディソン・スクェア・ガーデンはニューヨークの中心にあります。ですから、マディソン・スクェア・ガーデン講演は神の摂理歴史でもっとも重要であるのです。 二千年前、イエス・キリストが使命を全う出来なかった理由の一つは、ユダヤ教の習慣です。ところが、ローマ帝国には、そうした因習的な宗教はありませんでした。彼等は、自分達の信仰を持っておりました。言うならば、ローマ教があったのです。 しかし、イエス・キリストの使命には、考えられない程の因縁がともなったのです。神は二千年をかけて、より良い環境を用意されたのです。即ち、今日、アメリカと韓国を一つの宗教・キリスト教の下に置かれたのであります。さらに来るべきメシヤの使命成就のための環境の備えとして、アメリカは窮地に追い込まれたのであります。そして様々な問題で悩むようになり、どこから助けを求めなくてはならないようになったのです。これは、今日神の造りあげた環境であります。 アメリカは人種の“るつぼ”として知られてきました。この国の背景は、キリスト教精神なくしては、このような密着、まざり合いは起こらなかったでしょう。ですからキリスト者力を失えば、アメリカは少なくとも廃れてしまうのです。なぜなら、くっつけているニカワが取れてしまうからです。 そこで統一教会は、アメリカの諸問題のはっきりとした解決策を持って、アメリカに上陸したのです。それは、第一にキリスト教精神の復興であり、そして、新しい倫理、神の方程式であり、それは弱体化したキリスト教会を一つにするばかりでなく、アメリカの家庭、個人の心情、アメリカの病んでいる若者の心を建て直すのです。 これらの全て、アメリカの内的な問題でしたが、更に外的な問題もあるのです。それはとどまるところを知らない、神を恐れない共産主義の問題でありました。統一教会は内的な問題解決策ばかりでなく、外的な問題の解決策をもって、アメリカに上陸したのです。すなわち、私達は共産主義思想に勝る思想を持った団体であり、真に共産主義を遠く感ずることの出来る団体であります。 我々がなすべきは、我々の運動を全アメリカ人の注目するところとなるまで、大きくしていくことです。その時彼らは、我々が今日のアメリカの病いをいやす解決の灯火を持ってすることを、はっきりと悟るのであります。あなた方は、この偉大なる十字軍運動の最初の開拓者して集まったのであります。 ニューヨークの不思議 あんた達は、普通のアメリカの青年と違っているんですよ。 まず第一に何が違っているか。あんた達には、自分達しかこの世を救うことができないという、絶対的な確信、献身、そして自信がある。(拍手) ありがとう。 この数週間というもの、皆んな何十万人ものニューヨークの人に接触しました。彼等はみんなの躍動する心、献身的な行動を肌で感じ取ったのです。あんた達の力を感じたのです。 実際ここ数週間、みなさんは“ニューヨークの不思議”でした。中でも大きく注目を引いたのは、ポスターでした。これは話題になり、まさにこれは大事件であったのです。 それ自体は、一つの戦争でありました。勝利した戦争であります。ポスターを貼りはじめると、共産主義者や左翼の者達はその上からポスターを貼りましたね。それで我々もまたやる。又、彼等もやる、といった具合でした。それで、ついに、我々はニューヨークでポスター貼りの記録を作りました。我々は左翼や共産主義者を非難してはいけませんよ。彼等は、我々が記録を作るのを協力したのですから。(歓声と拍手) こうしたポスター貼りによって、マスコミ関係者は他の忙しいことをそっちのけにして、こちらに目を向けてきたんだね。先生、とてもうまくやったと思うんだけど、インタビュー・レポーターなど、一切応じなかったんだね。だから、先生はずーと譲ね人であました。それで彼等は、先生についてあらゆる想像を働かさなければならなくなったのですよ。しかし、皆んながこの運動の力であり、前戦の兵隊であるから、彼らは皆んなを通して、この運動が一夜限りのものでなく、この運動が残るかぎり、真に世の歩調を変えているということを知ったのであります。 先週、マディソン・スクウェア・ガーデンの約十日程前のことだったか、あらゆる方向から様々の圧力がかかって、言わば我々の運動も最も緊急事態になりましたね。そして我々すべてばかりでなく、ニューヨーク市民までが感じとったことですが、二千人の外国の若者が集まってニューヨークが揺り動かされているのを感じるのです。 彼等は質問を始めました。 「一体どうしてこのように世界中の若者がニューヨークに集まりなどしたのだろうか」「何故、東洋の国、韓国から来た一人の男・文鮮明などに従っているのだろうか」「彼は、一体何者であろうか。彼の目的は何だろうか」 彼等は勝手に質問して、答を出していましたが、求むに本当の答えは解っていないと思いますよ。(爆笑) そうしてあらゆる噂さ、真実を退けるあらゆるデマが流され、非難がありました。しかしながら、彼等は一つの本当のことを確信しなかったのです。このようつ問題を起した文鮮明師は一体何者であろうか、その本当のところを、会って知りたかったのであります。(拍手) みんな知っているように、我々には八十万枚以上のチケットを全ニューヨークとその効外に配りました。そして驚いたことには、その約五〇%の人々がチケットを受け取ったばかりでなく、名前や住所をかいてくれましたね。そしてその内の十三万人が「必ず行く」と約束したのであります。そしてその内の三分の一は、実際に来ると思っていましたが、先生の計算では四万人以上の人が、マディソン・スクェア・ガーデンに姿を現わしたと思います。 しかし、マディソン・スクェア・ガーデンの数日前のニューヨーク・タイムスは我々が、会場を一杯にすることなど到底出来ない、と予測しました。だから、これはニューヨークでの勝利でもあるけれど、ニューヨーク・タイムスへの勝利でもありました。 ニューヨークを動かす マディソン・スクェア・ガーデンを一杯にするには、ビリー・グラハムのような伝道師さえ一年も前から準備を始めるのであります。そして彼らは非常に組織的に動くのであります。又、彼等は莫大な費用をそれにつぎ込みます。 しかし我々は、全教会は我々の敵となったのでした。言ってみれば、反対したのです。我々の敵となったのでした。更に、多くの人達が既成教会の影響を受け、我々に対して非同情的でありました。そうであるからこそ、そのような中で勝利を収めるために、我々はすざまじい力を見せなくてはならなかったのであります。 先生は、ポスターを貼ったり、統一教会は決してマディソン・マディソン・スクェア・を一杯にすることは出来ないと予測した玄人の人達を非難したりしませんよ。私達はマディソン・スクェア・ガーデンを一杯にするばかりでなく、何万人もの人を入れなくて返しましたね。これは奇蹟であります。我々はアメリカで奇蹟を起したのであります。(歓声) では奇蹟は誰が起したのでしょう?誰が起したか分りますか?そう、あんな達だね。この名もない、知られてもいない、気どりもしないグループの、小さな若者の群、そう、みんながやったんだね。 事実、ここに集った者達は、小さな高等学校の全校生徒にも満たないものであります。そして、この小さな高等学校、「神の国」高等学校はニューヨークを押しやって、ニューヨークの主人になってしまったのであります。(爆笑) 本当に皆んな、その重大さを知れば知る程、誰も昨日の夜は眼れなかったと思いますよ。いくら先生が、寝よ!朝まで休め!と言っても眼れるものではない。興奮や喜びがそんなに大きいんだからね。そこで先生は、むしろ働かせることにした。ポスターを剥がせ!とね。(歓声) きのうまでは、市民会とか法律委員会とか、ニューヨークの沢山の団体、市当局か警察までもがポスターに苦情を言って来ました。そしてポスター一枚につき二十ドルの罰金を払わせろ、とか言いました。しかし今は、市内を歩き廻ってみても、今度は一枚も見当りません。(大歓声)ニューヨークの人達が朝起きて出かけてみると、さてそこには、いつも若者の姿は見当らず、ポスターも見当らず、彼等はまるでゴーストタウンに居るような錯角を受けるだろう。我々はやったばかりでなく、それに責任をもって完了した。そしてもっと意義あることは、この世では大勝利を治めた後は、大概、夜通し飲み、歌い、踊って、四、五日は寝てしまうのであります。(笑い)しかし我々は、祝いをする前に、すべてのニューヨークを片付け終ってきたのですね。これは本当にあんた達、よく知らなくてはいけませんよ。これはアメリカの歴史に深く刻み込まれた、新しい歴史の一項であります。(歓声)もしこれを今日とか明日とか同じことを二、日後にやったとするならば、その効果は二〇%です。八〇%は消えてしまうのです。だから皆んなは、昨夜は寝ずにやったのでありました。それで本当にすばらしい結果、発展を神の国のためにもたらしたんですね。一生懸命やりましたね?先生の言う通りにやったということを、先生に認めてほしい?(全員、はい)みんな笑っているね。うれしいんだろう。 だが、ポスターを剥がしたのが、今いる同じメンバーとは限らないよ。それに不平のあるものは、すぐ悔い改めなければいけないよ。 次はヤンキー・スタジアム 摂理歴史におきましては、今や我々は第二次七年路程から、第三次七年路程に入っております。世界はもっと危機的な状態になるだろう。特に韓国、日本、アメリカの関係において。 今、キリスト教は霊的な神の国に過ぎません。それは、この二千年間に得た現実であります。それでこれら重要な三つの国、韓国、日本、アメリカは霊的にのみ結ばれておりましたが、しかし過去一週間の間に、我々の運動によって、三国は実体にも結ばれるようになったのであります。 先生が言うのは、いかに韓国、日本、アメリカがこれら政治的に国と国とが、又、国民と国民が離れさせられたり、憎しみ合ったり対立しても、この三国は決して離ればなれになったままにはならないだろうということです。何故なら、統一教会の食口達が、がっちりとそのたずなを握っているからです。地上天国の第一章を開き始めたのであります。そして、その第一章はマディソン・スクェア・ガーデンでありました。今や蘇生期が終りました。我々はこれからの三年間をアメリカを中心とするのです。我々は地上天国実現のため長成、完成級の実体的条件を立てなければならないのです。我々は記録を打ち立てなければなりません。ビリー・グラハムでさえ立ち打ちできたい記録を作らねばなりません。(拍手)そうです。ビリー・グラハムは一生のうちに一度でもいいから前代見聞の伝道集会を韓国においてやろうと決意し、ソウルに五十万人を集めました。しかし、文先生は韓国からアメリカへやって来たのです。先生はアメリカで先生の話を聞かせに、五十万人を集めようと思います。(拍手)なぜなら、神の威言があるからです。神こそ、威言に値するものでなけゞばはやないのです。さらに、我々の大集会は若者の集りであるでしょう。そして、あんた達、先生といっしょに自信を持とうね。マディソン・スクェア・ガーデンの後は、来年はヤンキー・スタジアムが目標です。(歓声、拍手)そして、その次はワシントン・D・Cのキャピトル・ヒルのグランドに五十万人以上集めるのです。(拍手)一年十ケ月前に先生が最初にアメリカに来た時は、マディソン・スクェア・ガーデンも遠い存在でした。月への旅行のようでした。しかし、我々は昨晩それを成し遂げました。これからワシントンでの五十万人大集会までは、今まで我々がやり逐げたものと比べたら、ずっと近い存在だろうと思います。(拍手) まず第一に、我々は信仰、確信を持たなくてはなりません。それは簡単です。皆んな、私達が必要なのは一万人です。みなさんのような若者一万人であります。そして、一人が大型バス一台に人を乗せて全米からワシントン・D・Cに連れて来るのです。簡単です。(拍手)それはあんた達には手の届くことだよ。近い将来、我々の力が一万人になるのは可能であるよ。やりたくないか?(やります!)本当か?(はい!) 時限爆弾はもう点火されている それではやりましょう。それでは、今から皆んなのとるべき行動は何だろう?一万人の食口を得るためには、三万人以上の力がアメリカになければなりませんよ。だから今からは、我々は力を倍にして人数を二倍にしなければなりませんよ。それが我々の一貫した目標であります。先生はこの言葉を皆んなに信じてもらいたいと思います。真になすべきはこの三年です。三年間の苦労の後は、もう出かけなくても良いのです。なぜなら、その時が来たら、あまり沢山の人がいて、その人達の面倒を見ることさえ出来ぬ程です。アメリカ人、とくに若者はゆきづまっています。彼等にはもう行く所がない。あんた達の所以外はね。(歓声)先生はそれがアメリカの家庭、アメリカの国に復活をもたらす方法であることを皆んなに知ってもらいたい!その復活復興、新しい生活を通して、我々はこの世が神と共に居る方法を見つけるのです。 そこで、我々は一つの事を守らねばなりません。それは神に対してひたむきな、馬鹿にならなければなりません。我々は冷撤にそのゴールに向って前進しなければなりません。それは本当にとてつもない課題であり、責任であり、歴史的な作業であります。我々はアメリカの希望のため、世界の希望のため、それを成す。今は、上院議員達は我々に目もくれないかもしれない。しかし、見ていなさい。我々のやることに注目せざるを得なくなる。もし、注目しないならどうなるか。我々に注目する最初の上院議員達を作るのです。(歓声)それは空言ではありません。先生が言うからには先生は必ずやる!まもなく、各州の教会が五百人に増えるだろう。考えてみなさい。君達のような人が一州に五百人ずつ、州当局は注目せざるを得ない。実際、今先生は未来の上院議員と奥さんのことを話している。これは冗談ではありません。 先生は真剣に話しています。先生はこれをはっきりとした目標として言っています。神のみ旨がこれにかかっているから、我々に出来ないことはありません。しかし、時が非常に迫っている。アメリカにどれくらい時が残されているか。時限爆弾がもう点火されているのです。我々は時限爆弾が爆発する前に、全ての仕事を終っていなくてはなりません。神は我々に決められた時間内に決められた仕事をするわずかの時間を与えられたのであります。先生には大きな計画があり。その目標に到達しなくてはなりません。先生が先に行くから、ついて来るか?(はい!)本当か?(はい!)どんなに辛くとも、文句を言うか言わないか?(いいません)。わかった。アメリカの兄弟を信じよう。今まで韓国や日本の兄弟達を信じてやってきた。今度はアメリカの番だ。アメリカの食口を信じよう。(はい!) 最初の三年が全七年を決定する 第三次七年路程が始まっています。最初の三年が全七年を決定するのです。最初の三年が残りの年を引っぱってゆくのです。そして、この七年で我々は本当に神を解放するのであります。この期間に、我々はサタンの犠牲になっている善なる先祖を守らなくてはなりません。我々は二つの世界、すなわち霊と肉の世界をつなげなければなりません。橋を渡さなくてはなりませんんまた、この時はサタンが荷物をまとめて逃げて行く時でなくてはなりません。(歓声)そして、この時はまた世界の三十億の人間が先生と皆んなを迎え入れる時であります。君達は天宙的十字軍のこのもっとも危機的な時に開拓者として参加しているのです。君達は天宙的十字軍のこのもっとも危機的な時に、開拓として、神の闘士として参加しているのです。この広場に集まったグループは神と価値を州に示そうとするグループになるでありましょう。君達は神のハンドルにならなくてはなりませんん。それで神がハンドルを握って世界全体を操作するのです。そして、この時は天の下、誰も生きている神の存在を否定することのできない時となるのであります。(歓声) 今や、我々は最後の闘いに来ているのであります。これからの三年間に、そこを突破しなくてはなりません。私達は摂理歴史における丘の頂上につづく道を行っているのであります。昨晩、神様は私達に最も大きな贈り物、マディソン・スクェア・ガーデンの大勝利を与えてくれました。(拍手)ありがとう。神が下されたこの勝利・贈物はあんた達がこれからフィラデルフィア、ワシントンD・C、その他のアメリカでのキャンペーンの武器道具となるだろう。あんた達はニューヨークでの勝利を考えては、いけません。アメリカの勝利が問題です。この勝利は残る七大都市の講演旅行に美しい基盤を作ったのです。ニューヨーク・タイムズは我々が昨晩やったことを認めています。彼等は少なくとも、ある程度の真実を書かなくてはならなかったのです。彼等はそうしました。世界の人々はニューヨーク・タイムズを通して我々のやったことを知るようになるのです。そうです。残りの七大都市講演も、神と神の国にとって、同じような熱のある胸が踊るような勝利的運動を展開しなければなりません。(歓声)それで、今度の大都市講演旅行の勝利のために、我々は確固たる大きな基台をもたらし、その基台からアメリカに於けるこれから三年間の大勝利をめざして飛び立つのであります。 神の国へ美しい競争をしよう 先生はこう希望します。今、我々は止まることは出来ません。新しい勝利のために、全七大都市の完全なる勝利までは、前進しなければならないのです。これは勝利の日であります。みんな感激し、嬉しく、興奮しています。しかし、今日からまた明日のための新しい勝利を得ていかなくてはなりません。昨日の勝利は、明日への勝利への跳び板になるのです。さあ、一つになりましょう。共に大きな路程に向って、頑張って行きましょう。そして、私達の忠誠、権利、運命、才能を、神の国勝利の誓いのため我々ももてるもの全てを捧げましょう。その勝利のために身を捧げ、努力しようと思う者は両手を挙げなさい。ありがとう。 先生の仕事も、それほど簡単ではありません。先生自身、夜も昼も働らかなければならないんだよ。あんた達が勝利しやすいようにしてやらなければならないんだからね。あんた達は若い。先生はもう五十を過ぎている。あんた達は先生の活力、力を越える立場にいるんだよ。しかし、如何に先生が君達より齢をとっていても君達と競争しよう、と思う。負けないよ。(歓声)先生が本当に願うのは、君達が先生を負かすことだ。先生に勝たなくてはいけない。先生は最善を尽して、君達に勝とうと思う。この美しい競争をしているうちに、神の国・アメリカがやって来るのだよ。先生は神の国の右手、あんた達は左手だ。両方が互いに握り、結ばなければなりません。そうしたら、我々は新しい世界を来たらしめることが出来るよ。さあ、今からやらなければなりません。こんなこと、言わせてもらえますね?(はい)では、我々の使命と責任のために、最も効果的な道を行きましょう。さあ、やりますね。本当に、やりますね。(はい)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.11
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「キリスト教の新しい未来 人類の最後の希望メシヤ」1974年9月18日マディソン・スクェア・ガーデン 紳士・淑女の皆様、私は今夜この場に立ちました皆様に心から感謝申し上げたいと思います。私達はこうして今夜、このマディソン・スクェア・ガーデンの印象深い情景の中に、神の名の下にひとつに集わしめられたのであります。 今晩、私は「キリスト教の新しい将来」と題して語りたいと思います。しかし、その本論に入る前にひとつの前置きしておきたいと思います。私は皆様がすでに知っておられるようなことをくり返し言うためにこの場にやって来たのではありません。私はある新しいことを明らかに示すためにやって来ました。私は、神からの新しい啓示を皆様に分かちたいのであります。 神は唯一であり、キリストは唯一であり、聖書は唯一であります。しかしながら、今日、キリスト教界ひとつとってみても、そこには、四〇〇種以上の異った宗派があり、それらはすべて同じひとつの聖書を、非常に違った観点から、様々な解釈をもって見ているのであります。そせて、今日の我々の関心事は、もはや、聖書に対する人間の解釈ではなく、神のどのように聖間を説かれ、何が本当の神のみこころであるか、ということになってきています。この問題に対する解答は神から啓示というかたちでもならされなければなりません。その啓示を、私は今夜、皆様に分かちたいのであります。このメッセージは、神から来たものであり、神の観点より示されたものでありますから、その内容は、人間の理解してきたものとは、違ったものであって、当然と言えましょう。故に、それは皆様にとって、きわめて新しいものであると思います。しかし、我々が必要としているのは、新しい思想――神の思想――なのですあります。なぜなら、人間は、すでに、自らが創りあげた思想のすべては、研究し尽してしまったからであります。私が今夜、皆様にお話するために、この場にやって来ました理由は、ここにあるのです。故に、私は、神の霊が直接、皆様に語りかけることが出来ますよう、皆様ひとりひとりが、思いをひらき、心をひらいて下さるようお願いするものであります。 神の目的 歴史を通して、世界のクリスチャン達は、ひとつの重大な絶頂の日、すなわち、聖書に預言されているところの主の再臨の日を待ち望んで来ました。これは、神の約束でありますから、キリストの再臨は、必ず成就されるのであります。 では、何故主は、再び来られるのでしょうか?彼は、神の目的を成就するために来られるのであります。では、神の目的とは何でしょうか?神は、永遠であり、不変であり、唯一であります。そして神は一つの目的を持たれ、その目的も又、永遠、不変、唯一なのです。神ははじめに、すなわち、全天宙を創造される前に、ひとつの明確な目的を持っておられました。そして、その目的が、創造の根拠であったのであります。神は、その目的を成就するために、宇宙と人間の創造を始められたのであります。 聖書によると、はじめの男と女-すなわち、アダムとエバが創造された後、神は、彼らにひとつの戒めを与えられました。その戒めとは、「善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」(創世記二章十七節)というものでありました。神は、彼らに、御自身の与えられた戒めに従うよう求められました。神は、アダムとエバのこの戒めに対する従順が、神御自身のの目的成就につながるということは、暗示としてしか示されなかったのでありますが、戒めに対する不従順の及ぼす結果については、非常に明確に示しておられました。神は、「それを取って食べるときっと死ぬであろう」と言われたのであります。不従順の結果として示されていたものは死でありました。 しかるに、アダムとエバは、神に対すて不従順を犯してしまいました。その結果が、人間の堕落であります。霊的死が人間に訪れ、神の目的は実現されなかったのです。彼等は、誤った選択をなし、その結果として生じたものは、神が、はじめに意図されたものとは、全く逆のものでありました。彼等が不従順を犯した後、神は、この男と女をエデンの園から追放する以外、仕方がなかったのでした。エデンの園は、地上の神の国の象徴的表現であります。アダムとエバは、もはや、神の国の住民としての資格を喪失してしまったために、自ら創り出した邪悪なる王国、すなわち、生き地獄に投げ入れられてしまったのであります。 地上天国 もし、アダムとエバが、神に従順に従ったならば、彼らは、地上に天国をもならしたでありましょう。その天国とは、どのようなところなのでしょうか。アダムとエバは、完成されるべきものとして創造されました。そして創造されました。そして彼等は神の戒めに従うことにより、成長し、完成するようになっていたのです。彼等が、完成された男性と、完成された女性になるまでの成長期間に於いては、彼等の関係は、兄妹の関係でなければなりませんでした。彼等は、兄弟関係というものの真の伝統を立てるべく期待されていたのです。 神はひとりの男とひとりの女を創造されました。何故でしょうか? 神は、彼等が完成の基準に達した時に、天的婚姻という祝福によって、彼等を天的夫婦としてひとつにすることを願っておられたのです。神は、神の国を、このアダムとエバを最初の夫婦として立てて、出発しようと計画しておられたのでした。もし、それが実現されていれば、神の“生めよ、ふえよ”という祝福は、成就されたはずであります。神は、彼らに、神の子を生みふやす力を与えられたはずであります。そしてそれらの子供達は、罪なき完全なものであったはずであり、それ以外の何ものにもなり得なかったはずであります。罪は決して、人類の中に入りこむことはなかったはずなのであります。子供を生むことによって、アダムとエバは、神を中心とした父と母、すなわち、人類の真の父母となったはずであります。 もしアダムとエバが、この最初の、神を中心とした家庭を形成していたならば、、そこから、神を中心とした民族、神を中心とした国家が生れ、さらには、神のみが、支配する神を中心とした世界がいち立てられるはずでありました。そして、はじめから、永遠にわたって、完全なる世界となったはずなのであまます。 もし、このようなことが、そのはじめのときに成就されていたならば、我々は、今日、このような、多くの異った言語をもつことはなかったでありましょう。我々はすべてアダムの立てたひとつの伝統の下に、アダム族というひとつの民族に属していたでありましょう。そして、アダムのひとつの言語が、我々すべての言語となっていたでありましょう。そして、実に、全世界が、神の下にひとつの国であったはずであります。 このように、神の御計画に於ては、すべての人々が、地上の神の国に生まれるべく定められていたのです。我々は、地上に於いて、天国生活を楽しむべき存在なのです。そして、地上で肉身の寿命が切れたときに、霊界にある神の国に上り、そこに於て永遠に生きることになっているのです。これが神の、はじめ青写真でありました。その世界には、サタンも悪も、存在し得ないはずなのであります。神は御自身の子供のために、地獄を創造されるようなことは決してなさいませんでした。善良な父親が、自分の子供が、生れるやいなや、その子供の為にろう獄を建てるなどということはあり得ないのです。ましてや、神が、御自身の子供のためにどうして、地獄などを必要とするでありましょうか。天国のみが、神の本然の目的であったのです。しかしながら、罪の故に、人間はその本然の価値を失い、塵のような存在になってしまったのです。地獄は、その塵のような存在を入れておく神の監のようなものです。しかし、それは、人間堕落の後にはじめて必要となったものなのであります。 地上地獄-失楽園 それでは、堕落した人間と、堕落した世界の状態を、さらに調べてみましょう。ヨハネによる福音書八章四四節に於いて、イエスは、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきたものであっってて、…」と言っています。堕落により、人間は、サタンという偽りの父の下に、ひき連れていかれてしまったのです。人間は、その父親をとりかえてしまったのです。我々は、真の父、偽りの父、すなわちサタンとひとつになってしまったのです。このようにして、はじめの男と女とは、サタンの子となってしまったのでありました。サタンという偽父の下に、アダムとエバは、神の祝福も、ゆるしもなしに、不法にも、夫婦として一体になってしまったのです。そして、彼等が子供をふやしていくときに、その子供達もまたすべて同じ偽父の下に生れることになったわけであります。彼等はすべて、神の子としてではなく、罪の子として生まれてきたのです。このようにして、アダム以後、時代から時代へと、罪の子を生み殖やし続けて、この堕落した罪悪世界が、もたらされて来たのでありました。 我々が、神を中心としないが故に、罪の世界、不信の世界、犯罪の世界、憎しみと争いの世界が生れてきたのです。そして、この世界に住む我々も、我々の国家も社会も互いに、破壊し合いながら、何の苦痛も感ずることがないのであります。これが、まさしく、地上の地獄であります。実にこの世界の主人は、神ではなく、サタンなのであります。ヨハネの福音書十二章三一節に、サタンがこの世の支配者であることが示されているのは、そのためなのです。我々は、この宇宙が神によって創られたということを知っています。我々は、神が人間を創られたということを知っています。しかし、今、神は人間の主人ではないのです。何故なら、人間が、自ら、その主人を替えたからであります。人間は神を裏切り、偽りの主人サタンと結んでしまったのです。そして、このサタンが、ずっと、今に至るまで、人類の父となってきたのであります。 救いとは復帰である 全能なる神は、愛の神であり、あわれみの神であります。神の心は、御自身の子の生きながらの死に、深く病まれ、悲しまれました。神は、いかなる人であっても、自らの力で罪のなわめを断ち切り、罪を取り除くことはできないということを知っておられます。神は、人間を救いに導くことの出来るただひとつの力は、神御自身であることを知っておられるのです。そして神は、あわれみによって、この世界を救う決意をされたのでありました。 救いとは、何でありましょうか?救いとは、すなわち、復帰であります。医者は、患者を救うために何をするでしょうか?彼は、患者を正常な健康状態へと復帰していくのであります。それが、治療であります。あなたは、溺れかかっている人を救うときに、どうしますか?彼を水からひきあげて、乾いた陸地に帰すでしょう。それが救助であります。 これと同様に、神の人間に対する救いとは、人間を異常な逸脱した状態から、本然の善なる状態かへと復帰すること以外の何ものでもありません。故に、救いとは、復帰なのであります。神は、地獄を天国へと復帰しようとされているのです。神は、御自の決意を聖書に於て明確に示されています。「わたしはこの事を語ったぬえ、必ずこさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う」(イダヤ書四六章十一節)神は、行うかもしれないと言われたのではなく、必ず行うと言われ、人間とその世界を本然の姿に復帰するという御自身の絶対的決意を示しておられるのです。では、どのようにして、それをなそうとされているのでしょうか?メシヤによってであります。人類を救うために、神はそのひとり子イエス・キリストを、救い主として、メシヤとして、この地につかわされたのでありました。 二千年前、イエス・キリストは生命の創造主として、この世界に来られました。彼は、すべて罪人達を、キリストの如き人に造り変えるために来られたのであります。彼は、地上に天国を復帰するための来られたのです。それゆえにイエス・キリストは、その第一の福音として「悔い改めよ、天国は近づいた」と宣言されたのであります。イエス・キリストの降臨よって、人々は、事実、そのとき、天国の入口まで来ていたのであります。 メシヤを迎える準備 しかしながら、神は、世界を復帰するべく、そのひとり子をつかわす前にそのメシヤをことの出来る信仰の基台を立てるために、個人からはじめて、国家へと拡大して、その道を一歩一歩整えて、準備しなければならなかったのであります。 結局のところこの世界は、今日まで、ずっとサタンの世界でありました。もし、メシヤが、この地上に準備された基台もなく来られるならば、サタンは彼を殺してしまうにちがいないのです。故に神は、ひとつの国家、すなわち、御自身が支配することの出来るひとつの主権をうち立てるために、こつこつと、注意深く働いてこられたのであります。イスラエル選民は、そのメシヤを迎えるための準備の結果として生まれたのでありました。神は、イスラエルの国を、メシヤの“着陸地”として準備されたのです。イスラエルの信仰の基台の上に神の最後の勝利者-メシヤを送ることが出来たのできたのでありました。 イエスは死ぬために来られたのではない 今だかって解かれたことのない、ひとつの歴史的謎があります。イエス・キリストの降臨の四千年前に、神は、前に述べたように、メシヤのためにイスラエル選民を準備しておられました。預言者を通して、神は選民に対してメシヤのために備えるよう、あらかじめ知らせておかれました。神は人々の間にそういう期待を築き上げるよう働かれ、事実イスラエルには、メシヤを待望する非常な熱意が見られたのであります。そして、その定められた時に、神は御自身の約束を成就されたのでありました。神のひとり子イエス・キリストは時至って、御自身の民の上に降臨されたのであります。 そして、そこで何が起ったでありましょうか。歴史は事実を証すものであります。人々は彼を知りませんでした。彼等は彼を否定し、彼に反対し、最後には彼を十字架に釘づけてしまったのであります。何故なのでしょうか。キリスト教の教会は「その問に対する答は、神がイエス・キリストを十字架上で亡くなるべくつかわされたからと言うことが出来るでしょう。十字架ははじめから予定された神のみ旨だったのです」と言うのです。 では、そう言うクリスチャンに「イエス・キリストが今日、あなたのもとに再び来られたら、あなたはどうしますか」を尋ねてみましょう。すべてのクリスチャンは、間違いたく「私達は彼を受けいれるでしょう。彼を迎え、彼とひとつになり、彼に従って行くでしょう」と答えるにちがいありません。さらに、「キリストが現われたら、あなたは彼を十字架につけますか」を尋ねてみましょう。あなたの答えは「ノー」と言うに決まっています もしそうであるならば、二千年前のイスラエル選民達はどうだったのでしょうか。もし彼等がイエスを受けいれたならばーーあなたが今日受けいれるようにーー彼等はそれでも、彼を十字架につけなければならなかったのでしょうか。いいえ、それは誤りだったのです。彼等はその無知ゆえにイエス・キリストを殺してしまったのです。 神の選民がメシヤを受けいれることが、神のみこころでありました。しかし、彼等は受けいれるどころか彼を十字架につけてしまったのです。そしてクリスチャン達は、それは神のみこころであったと言って責任逃れをしてきたのでした。何というばかげたことでありましょうか。これは我々の論理に合わないことであります。何かが恐ろしく間違ってきたにちがいありません。それは何だったのでしょうか。 無知がイエスを殺した 人々はナザレのイエスがどういう方であるかを知らなかったのであります。彼等は、彼が神のひとり子であることを知らなかったのであります。もし、彼等が、イエスが神のひとり子、メシヤであることを明確に知っていたならば、彼等は彼を十字架につけはしなかったでありましょう。「彼は自分のところに来たのに、自分の民は彼を受けいれなかった」(ヨハネ 福音書一章十一節) また、聖パウロの証言に耳を傾けて下さい。「この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう」(コリント人への第一の手紙二章八節) もし彼等が、彼が誰であるかを知ってさえいたならば、彼等は栄光の主を十字架につけはしなかったでありましょう。それは誤りだったのであります。イエス・キリストを殺したのは人々の無知と盲目であったのであったのです。 世界のクリスチャンはイエスの時に実際起ったことが何であったかという事の真相に目ざめていないのです。もし、神のひとり子をつかわす唯一の目的が彼の十字架に釘づけにすることであったとするならば、なぜ神は、まずはじめに、イスラエルの選民を備えるために時を費やされたのでしょうか?神にとってはそのひとり子を不信者やあるいは野蛮人達の中に送った方がずっと簡単であったでありましょう。かれらはもっとすみやかに殺し、救いはもっとすみやかにもたらされたでしょう。メシヤを殺すためならば、選民もイスラエルも何も必要ではなかったはずであります。旧約聖書に於て、神はくりかえしイスラエルが神の子の降臨によって栄光を受けるであろうことを約束しています。しかし、メシヤが来られた後、その選民の上に何が起ったのでありましょうか?かれらは罰せられ信じ難いまでの苦しみを受けたのであります。彼らの国は滅ぼされ、その民は世界中に散らされたのです。しかしそれはただ彼らが神のみこころにかなって生きなかったからなのであります。彼らは、メシヤを受け入れることが神のみこころであったときに、彼を拒否してしまったのです。 旧約聖書の文字の奴隷 さて、そこで問題はイスラエル民族がイエスがどういう方であるかということをなぜ知らなかったのか、ということであります。信じていただけないかもしれませんが、神の選民がイエスをメシヤであることを認めなかった第一の理由は旧約聖書の故なのです。こう言えば皆様は驚かれるかも知れません。しかし、イスラエル選民は旧約聖書を文字通りに解釈していました。彼らは聖書がひとつの暗号であることを知らなかったのです。彼らは聖書を文字通り、一言一言、一字一字解釈していました。言葉を換えて言うならば、彼らは旧約聖書の文字の奴隷になっていたのであります。 それに対する証拠をあげてみましょう。旧約聖書のマラキ書は、新約聖書の黙示録と類似した意味をもっています。それは、メシヤがどのようにしていつ来られるかというプログラムと終りの時の様子たがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」という言葉があります。ではエリヤはどういう人だったのでしょうか。彼はイエス・キリストより九百年ほど前に生まれた人であります。そのため人々は、エリヤが旧約聖書の文字通り、青い空から火の戦車に乗って再びやって来て、神の子の到来を告げるであろうと信じていたのであります。このようなことを人々は期待していたのです。 しかし、エリヤは来ましたか。問題は、エリヤが彼らが期待していたような形ではやって来なかったということなのであります。イスラエル選民は、エリヤのその奇跡的な再臨の知らせも何も聞いていませんでした。しかるに、ある日、彼らは、ひとつの並はずれた宣言を耳にしたのです。ナザレから来たイエスという名のひとりの若い青年が、神の子メシヤでするとして、世に向って宣言されていたのです。それは実に信じがたい宣言でありました。 そして、それに対する人々の即座の反応はどうだったでしょうか。“そんなことはありえない!”と彼らは彼らは言ったのです。“どうしてナザレのイエスが神の子であるはずがあろうか。我々はエリヤについて何も聞いていないではないか。“エリヤが来なければメシヤは来ないというのであります。エリヤが再臨するというマラキの預言は、実にイエスの使命遂行の障害になったのであります。イエスの弟子達が、イスラエルの町々で福音を述べ伝え、イエスを神の子として証して行ったときに、人々は「もし、あなたの先生が神の子であるなら、エリヤはどこにいますか。聖書に、エリヤが先ず来なければならないと書いてあります」と言って、彼らの言葉を拒否したのです。 バプテスマのヨハネがエリヤ イエスの弟子たちは、この質問に答えるだけの十分な備えがありませんでした。事実、彼らは旧約聖書の知識をもっていなかったのです。すなわち、彼らはガリラヤの身分の卑しい漁師であり、取税人であり、売春婦でした。そこで、困った弟子たちはある日、このことについてイエスに教えを乞うために彼のもとに行くことに決めました。マタイによる福音書十七章十~十二節にはこう書かれています。 「弟子たちはイエスにお尋ねして言った、『いったい律法学者たちはなぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか』。答えて言われた、『確かに、エリヤがきて、万事と元どうりに改めるであろう。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでに来たのだ』」 これは弟子たちにとって本当にショックでした。そしてその時彼らはイエスが、バプテスマのヨハネのことを言われていることを理解しました。弟子たちは、「バプテスマのヨハネがエリヤなのですか」と聞いた。するとイエスは「そうです」と言われました。しかしイスラエル選民は決して納得しませんでした。彼らは「そんなはずがない」と言ったのです。こうした事柄現代に置きかえて考えてみましょう。二千年前のバプテスマのヨハネは非常に影響力のある人で、偉大な預言者、神の人としてイスラエル全土に大いなる信望をもった人でした。それはちょうど現在の、偉大なキリスト教の指導者であるビリーグラハムのような人です。 ところが、ある名もない青年が突如として現われ、世に対して自分こそ神の子であると宣布しだしたとしましょう。あなたが聖書を学んでいる人であればきっとこう尋ねるでしょう。「もし、あなたが神の子ならば、聖書に、キリストより先に来ると記してあるエリヤはどこにいますか」。もしこの青年が「ビリーグラハムがだということを知らないのですか」と答えたなら、あなたは、どんな反応を示すでしょう。 あなたは、間違いなくこういうでしょう。「そんなことはありえません。どうしてビリーグラハムがエリヤであると言えましょうか。彼は青空から降りて来なかったではないですか。彼はノースカロライナの生まれであることは我々皆が知っています」あなたはこうしたことを認めることはありえないでしょう。 まさに、これと同様の不信仰が我らの主イエス・キリストに対すてなされたのです。人々は、バプテスマのヨハネがただ、天から降ってこなかったという理由だけで、彼が、エリヤであることを認めることができなかったのです。二千年前の選民たちは、エリヤの再臨の預言が、聖書の文字通り実現されなければならず、したがって天より降臨しなければならないという信仰にかたくなに固執しました。彼らは旧約聖書の文字の奴隷だったのです。 失敗者、バプテスマのヨハネ それでもなお、イエス・キリストは嘲笑する大衆のば声を受けながらも力と権威をもってイスラエル全土で伝道を続けました。人々はそういう人間をそのままにしないわけにもいきませんでした。彼らは、自分が正しいという確信を欲しました。そこで彼らはバプテスマのヨハネのところに行って尋ね、彼らがいろいろな疑問に最終的な決着をつけようと決心しました。そして、ヨハネ福音書の一章十九-二十一節にあるように彼らはそのごとくに行ったのです。彼らはヨハネを尋ねました。「『あなたはどなたなのですか』彼は告白して否まず『わたしはキリストではない』と告白した。そこで彼らは(さらに)問うた。『それではどなたなのですか。あなたはエリヤですか』。彼は『いやそうではない』と言った。『では預言者ですか』。彼は『いいえ』と答えた。」 このようにバプテスマのヨハネはすべてを否定しました。彼は「私はエリヤではない」と言いました。彼は預言者としての立場さえも否定したのです。誰もが彼は神の預言者であることを知りかつそう認めていました。しかし彼は「私は預言者などではない」と否定しました。何故でしょうか。 彼は当時の状況を判断しイエス・キリストが彼の属する社会からのけ者として扱われているのを知っていました。イエスは負け犬のように見えました。そこでヨハネはイエスの側に立つまいと決心したのです。彼はすべてを否定する立場の方がずっと得策であると考えたのです。そうすることによってバプテスマのヨハネはイエスを隅の方に追いやり、彼を誰からも擁護されない大イカサマ師に仕立ててしまったのです。ヨハネに否定されたイエスは、このことに関してヨハネ以上に頼みとする人はいませんでした。 それでは、何故イエスは十字架につけられたのでしょう。第一には彼は、聖書の文字通りの解釈の犠牲者となったのです。第二にバプテスマのヨハネが使命成就を矢敗することによって捨てられ、ついには十字架につけられたのです。 我々はマタイ十一章一から三節、牢獄で首をはねられるのを待っていたヨハネが彼自身の弟子のなかの二人をイエスのもとに遣わして次のような質問をさせたのを知ることができます。 「『来たるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきなのでしょうか」(マタイによる福音書十一章三節)。これはイエスが神の子であるという信仰をもった人の質問でしょうか。バプテスマのヨハネは以前にヨルダン川でイエスを(神の子としての)証をしたことがあったのです。 わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである〉(ヨハネ一章三十四節) ところが、その同じ人間がその同じ口で今度は「あなたは本当にメシヤなのですか、それとも誰か他の人を捜すべきでしょうか」とイエスに迫ったのです。この質問はイエスにとって失望をもたらしたことでしょうヨハネは、何と信仰の薄い人間だったのでしょう。 ヨハネの使命成就を願っていたイエス バプテスマのヨハネの使命は、メシヤの使命を成就するために非常に重要なものでした。神は「主の道を直くし、備えられた民を整えるため」に特別にマタイを送ったのです。それが、キリストに先立つ者としてのヨハネの使命でした。イエスはバプテスマのヨハネが使命を成就することを心から頼みとしていました。ですからバプテスマのヨハネその人が、イエスのもとに来て「あなたは本当にメシヤなのですか」と言った時、それは、彼がイエスをナイフで刺したより以上の苦痛をイエスに与えたのです。 イエスがどんな心情であったか、あなたは想像できますか。彼の心は打ちのめれたのです。怒りに震えたに違いありません。イエスはこのあまりに心外な質問に対して「イエス」とも「ノー」とも答えられませんでした。そのかわりにこう言ったのです。「私につまづかないものは幸である」(マタイ十一章六節) これは、彼の惨めな失敗を知ったイエスのヨハネに対する慰めのことばでした。イエスは本当はこう言いたかったのです。「あわれなヨハネ、失敗した男よ。あなたはもはや私に対する信仰を失ってしまった。あなたは神の子につまづいてしまったのだ。かわいそうなヨハネよ」 したがって、イエスはマタイ十一章十一節でこう言われたのです。「よくよくあなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし天国では最も小さいものも、彼よりは大きい。」 ヨハネは、天国では最も小さいものも彼よりは大きいといわれるところまで落ちてしまったのです。イエスのこのことばの意味は今まで定かではありませんでした。クリスチャンは、バプテスマのヨハネが、その使命を失敗した人間であることに気づかなかったのでこのことばの真意を理解できませんでした。今夜我々はその真意を知ることができるのです。 バプテスマのヨハネは神の子を直接に証しするがゆえに、女の産んだ者の中で最も大きいものでした。それまでのすべての預言者達も同じような使命を与えられてきました。しかし、ヨハネより前に来た預言者は彼らと主の間に時間的隔たりをもってメシヤを証ししてきました。 ヨハネはイエス・キリストと同時代の人として生まれたのです。ゆえに、キリストが姿を現わした時に“生けるキリスト”を証しする特権をもっていました。彼の使命に関する限り、バプテスマのヨハネはすべての人のうち最も偉大な、栄えある人物でした。かくして、イエスは彼を、女の産んだ者の中で最も大きい人物であると言われたのです。 しかし、彼の使命の成就という点では、ヨハネは最も小さい者であり、すべての人のうちで最も惨めな敗北者でした。彼より前に存在したすべての預言者たちは、霊界で天国にいました。彼らはイエス・キリストが誰であるか知っていました。しかし、ヨハネは知りませんでした。彼は疑ったのです。彼は懐疑的になり、とうとうイエスの身分がわからなくなってしまいました。遂には、神の子であると自ら証したことさえ確信できなくなったのです。彼は失敗者となり、従って天国にいるすべての者のうちで最も小さい者となってしまいました。 バプテスマのヨハネは首をはねられるという最期を逐げました。もし、彼が天命を行い、世人に対してイエス・キリストこそ神の子であると証しをし、宣布していたがために首をはねられたとしたなら、彼は栄えある最初の殉教者となりえたでしょう。しかし、ヘロデ王の個人的な愛情問題のスキャンダルに関わったという理由のみで彼は首をはねられたのです。 そういうことはヨハネの為すべきこととは全く関係がなかったのです。神の子に仕えることが、彼の唯一の使命でした。しかし、ヨハネはこの聖なる使命から離れて、無意味な破廉恥とさえいえる死に方をしたのです。この真実は、それがたとえいかに心苦しいことであっても言明されなければならません。 もし、バプテスマのヨハネが偉大な信仰者であったなら、その結果はどうであったでしょうか。彼は実際、神の子イエス・キリストの第一弟子となっていたでしょう。もし、イエスが王であったなら、バプテスマのヨハネは首相になっていたでしょう。それこそ、神がヨハネに予定した地位でした。その場合には、イエスが選んだ十二使徒、七十人門徒、百二十人の弟子達はすべて、ヨハネ自身の弟子の中から選ばれたでしょう。ヨハネはイスラエルの選民と神の子の間に、統一の隔和をもたらす仲立ちとしての役割を果したでしょう。そうなれば、その情況のもとで、誰が敢えてイエスを十字架につけたでしょう。誰もいません。十字架による刑は決して起らなかったでしょう。 あなたはこういうかも知れません。「文先生、あなたは何の権威によって話されているのですか。何故あなたはそんなに確信をもっておられるのですか」と。 私はまさにこれらのことを言う権威をもっています。神が私にこの真理を示されたのです。私はイエスに会いました。イエス自身が私にこの真理を示されました。そして私はバプテスマのヨハネにも霊界で会いました。彼自身、この証しの真実性を証言してくれました。このような特別な霊的体験をした後、私が現実の世界に戻った時には、私はそれまで読んでいた同じその聖書が今度は、全く新しい意味をもつようになりました。たとえ、あなたが今、私が話したこれらのことを真理と認めることができなくても、少なくとも是否の判断を保留すべきだと思います。いつの日か、我々すべてが真理を知るようになるでしょう。最終的には我々は全て死んでゆくのです。誰もが霊界に行きつきた時、そこでは真理が太陽の如く輝いています。そこでは唯一人、真理から免かれることはできません。その日こそ我々は全き真理をまのあたりに知るでしょう。しかしながら、この地上に生きてうる人間に、真理を受けいれるほど謙虚さを持ちうる人は幸いです。真理と神に対するこの地上の知識があなたの永遠の生命を決定するのです。 イエスは天の雲に乗って来ると思われていた イエスがメシヤとして受けいれられなかったもう一つの決定的な、三つ目の理由があります。それは、二十年前選民イスラエルはダニエルの預言に従って、神の子が天の雲に乗ってくると思っていたからです。 「わたしはまたしはまた夜の幻のうちに見ていると、人の子のような者が天の雲に乗ってきて…」(ダニエル書七章十三節) しかし、イエス・キリストは天の雲に乗って奇跡的に現われては来ませんでした。彼は、ヨセフの妻であるマリアから生まれました。人々は言いました。「どうしてこのイエスが神の子などといえようか。彼は私とかあなたと全く同じ人間に過ぎないではないか」。これこそ選民がイエスを見捨てたもう一つの動かしがたい理由でした。 ダニエルの預言はイエスの伝道に非常な困難をもたらしました。我々はヨハネの第二の手紙の七節にこのことを見ることができます。そこで使徒ヨハネはこうして驚告しています。 「なぜなら、エバイエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである」 これは、キリストが肉体をとって来られたということだけで彼を見捨てた、イエス・キリストを信じない人々に対して、二千年前にヨハネが述べていることばです。彼らは、誰かこの世のものでない者が天に乗って現われることだけを待っていたのです。ゆえにイエスを受けいれませんでした。ヨハネはこれらの人々のことを「そういう者は反キリストだ」と言って厳しく糾弾したのです。このような歴史的事実がキリスト教の世界から隠されてきました。現在、初めて、このイエスの伝道にまつわる、これらの全ての情況が白日の下に明らかにされたのです。 では何故、この時に、こういう真実があからさまにされたのでしょうか。それはキリストの再臨が近いからです。そして神はイスラエルが犯したのと同じあやまちをクリスチャンにさせたくないからです。天の父からの明々白々なる真理の啓示によってのみ、全てのキリスト教会は一つになることができるのです。そうです。真理が我々を一つにするのです。もし、我々が真理を知るなら、その真理が我々を誤った不一致から自由にするでしょう。そして神の明白なる真理が今、明らかにされているのです。 十字架、それはイエスの二次的使命 十字架の死は全く神の子の本来的使命ではなく、予定された路程の変更されたものでした。それは二次的使命だったのです。それは変貌山上で決定されました。このことに関する記述がルカ福音書九章三〇、三十一節にみられます。 「すると見よ。ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、栄光の中に現われて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。」 イエスの第一弟子のペテロが、イエスから彼がエルサレムで苦しみを受け、十字架につけられるであろうということを知らされた時ペテロは、マタイ福音書十六章二十二節にみられるように、激しく反対しました。 「主よ、とんでもないことです。そんなことはあるはずはございません」 するとイエスは彼に強く迫ってこう言われたのです。 「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」マタイ十六章二十三節) クリスチャンはイエスが十字架上で死ぬために来られた証拠として、この件をよく引用します。多くの人がこう言います。「イエスの言われたことを聞きなさい。彼は死ぬために来られたと言われた。だから、彼はペテロをとがめ、彼をサタンと呼んだのだ。なぜなら、ペテロはイエスが十字架につくのに反対したからです」 しかし、現在その解釈は一つの核心的な点を見落しています。イエスは神がその御計画を変更され、イエスの使命を変えられたことを知った後に、ペテロをとがめたのです。イスラエルがイエスを拒んだので、神は地上天国実現というイエスの本来的使命を成すには、民の協力が必要である以上もはやイエスがそれを続けることができない、ということを知っておられたのです。 それで、イエスの伝道の終りの時点になって、神は彼に霊的救いという限られた目標のみを達成するように願いました。イエスは従ってこの二次的目標達成のための準備をしていました。しかし、あわれなペテロは、イエス・キリストの使命がこのように変更されたことについて何も知らなかったのです。 イエスは、ペテロの慰めときこえる言葉が、その時にはすでに神のみこころと何の関係もなくむしろ妨げとなったので彼を「サタン」と呼んだのです。ペテロは無知蒙味から語ったのです。しかし、イエスは、この二次的使命を失敗することは決してできませんでした。というのは、そうなれば、彼が来たことが全く無に帰してしまう イエスを受け入れれば神の国は実現していた もしイエスが、イスラエルの民によって受け入れられていたなら実際には何が起ったか、ということを考えてみましょう。そうなれば、イスラエルの王として、彼は彼の弟子達と、ヤコブの十二の部族と、全てアラブの部族とを含むアブラハムの全ての子孫とを統合したことでしょう。彼らの全ては、神の子を中心とした一家族となったはずであります。 イエス・キリストは、イスラエルの選ばれた民族を中心として神の主権をうちたてたでしょう。神の国の憲法が、イエスの時代に発布されたでしょう。神の主権が現実化された無敵の国家が建てられたことでしょう。神のもとにある一つの国家、それは、人類始祖・アダムがうち建てるべきであったのですが、それは後のアダム、イエス・キリストを王として実現したことでしょう。ローマ帝国でさえ、神の王国の前にはひざまづいたでしょう。これが、イザヤ書九章七節の預言なのです。 「そのまつりごとと平和とは増し加わって限りなくダビデの位に座して、その国を治め今より後とこしえに公平と正義とをもってこれに立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをされるのである」 イエスが死んだのちでさえ、彼の弟子達は、何も持たず苦しみをうけ血を流しつつ、ローマに向って進軍しました。しかし四〇〇年以内に、ローマ帝国はこの何も持たない軍隊の前に崩壊しました。もし、イエス・キリストが十字架につけられず、生きてこの聖なる軍隊の指令官であったなら、その時には全ローマ帝国はイエス自身が生きている間に神の下に入ったことでしょう。 当時、偉大なるローマ帝国は世界の中心でした。神の救いの御計画は全世界を復帰することでした。一旦、神の王国がローマにできたならそれが全世界に容易にもたらされるように神はローマを全ての国々の中心として備えられました。もし、イエスが、ローマ帝国に彼の王国の建設することができたなら、その時、ローマの力の影響によって、イエスが地上に生きている間に、世界の隅々までイエス・キリストの福音が宣べ伝えられたでしょう。イスラエルの国は、神の王国の栄えある中心となったのです。今日、キリスト教は最早存在しなかったでしょう。ローマンカトリックも、長老派教会もメソディスト教会も、キリスト教も存在しないでしょう。これらのうちのどれも必要ではなかったでしょう。あなたが既についていればそのめの車は必要ないからです。 我々は既に、神の王国の市民となっていたでしょう。キリスト教の歴史には流血とか、殉教者はなかったでしょう。そして、教会の尖塔には十字架はなかったはずです。そうなれば、キリストの再臨の理由もなかったのです。なぜならばメシヤの使命は既に完成されているだろうからです。 しかし、悲しいかな、現実はイエス・キリストは反逆に会いました。アダムとアダムの従順なくして神はエデンの園にその御理想を実現することはできませんでした。そして、イエス・キリストも選民の協力なくして、地上天国を建設することはできなかったのです。 十字架は霊的救いのみをもたらした それでイエスは、彼の第二番目の使命であった霊的救いに移ったのです。選民であるイスラエル民族の無知もうまいのために、イエス様の犠牲が必要になり、仕方なく神はそうされることを許されたのです。そこが十字架の重要なところなのです。神はサタンに払う身代金として、イエスが十字架でなくなられることを許されたのです。それと引き換えに、イエスの復活の時に、神は身体の贖いは出来なくとも、魂は要求することが出来たのです。ですから、神の勝利は十字架にあったのではなく、復活にあったのです。これがキリスト教の救いなのです。 イエスの十字架と共に、キリスト教も十字架にかかりました。主が苦境におられる時誰も彼に信仰をたてなかったのです。誰もがイエス様を裏切ったのです。あのペテロでさえ、イエスを否定したのです。しかし、イエス様の復活と共にキリスト教も息をふき返したのでそれから四十日間というもの、イエスはちりぢりになったキリスト教の残骸を集められ一つにまとめられました。それが今日のキリスト教の始まりであったのです。我々の救いは勝利された復活からきているのです。これは、サタンの力の及ばないキリスト教の勝利なのです。しかしイエス・キリストの身体は牲牲として、またつぐないとして取り去られてしまいました。御自身の肉体をとられた故、人間の身体についても同様にあきらめざるを得なかったのです。ですから我々の救いは魂のあがないのみをもたらし、限界があるのです。この理由は、二千年前に肉身のあがないが成されなかったからであります。この世はいまだにサタンにじゅうりんされています。この世界ではいまだに罪は私達の身体を通して荒れ狂い、私達を支配しているのです。聖パウロは、ローマ人への手紙七章二十四、二十五節で苦悩のうちに次のように叫んでいます。 「わたしはなんとみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだからわたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにしてわたし自身は、心では神の律法を仕えているが、肉では罪の律法に仕えて 聖パウロは主の恵みの中に生きた人です。しかし、彼のような人でさえ、心では神につかえることができても、身体は罪の律法につかえていると告白しているのです。彼の肉体は救われていなかったのです。依然として、罪の中で苦悩していたのです。それは私達にとっても同じです。キリストを受け入れることによって我々は霊的救いを受けました。しかし、私達の肉体はキリストが再び来られて、我々を罪の束縛から解放されるまで、サタンの支配する罪の法則につかえているのです。 再臨の主は全き救い、すなわち霊的な救いと肉的救いの、その両方を与えることの出来るたった一人の御方であります。今日のキリスト教は霊的救いを与える力しか持たないのです。その当時のイスラエルと違って、キリスト教は実体的な国の基盤を持っておりません。ですから、キリスト教における神の支配圏は霊的な国のみであります。従って人間のもっとも大きな希望はメシヤの再臨なのです。これはアメリカの希望であり、世界の希望でもあります。アメリカ-このユニークなキリスト教国は今、目覚め、メシヤの到来の日に備えなくてはならないのです。 アメリカのキリスト教国は今日、二千年前のクリスチャンと同じ霊的な立場に立っております。アメリカははメシヤが二十世紀に足をおろす場所に定められているのです。神は世界に救いの手をさしのべたいのです。しかし、そうするためには、神はまずアメリカから着手していかなければならないのです。アメリカの役割は二千年前のローマ帝国のそれと同じです。ローマがその当時の世界の中心であったように、アメリカは現代の世界の中心です。イエス様はローマに目をつけられました。ですから、キリストが来られる時、彼はアメリカに目を注がれるのです。 再臨は如何になされるか 今日、我々は論理なくして何事も信ずることが出来ません。真理は論理的であります。無知には完全というものがあるはずがありません。キリスト教の祈りだけでは、ニール・アームストロングをして月を踏ませることは出来なかったのです。科学的真理が必要だったのです。私自身は、かつて科学部の学生でありましたし、神が科学の神であるということを知っています。このように神の言われることは二十世紀の人間にとって、科学的であり、論理的であり、説得力のあるものでなければなりません。 さて、キリストの再臨がいかになされるかを語ることによって今夜の話の頂点に移りたいと思います。聖書のマタイによる福音書二十四章三十節を読んでみますと、 「そして力と大いなる栄光をもって、人の子が天の雲に乗ってくるのを、人々は見るであろう」とあります。 また、黙示録一章七節には「見よ、彼は、雲に乗って来られる」とあります。 ところが、テサロニケ人への手紙五章二節には、「主の日は盗人が夜くるように来る」となっています。ある預言書には、主は天の雲とともに来ると言っており、また別の預言は少しく矛盾しています。もし彼が盗人のごとく来るなら、同時に雲の中に現われることなど出来ません。では一つとって別の預言を捨ててしまいましょうか。 二千年のイスラエルの選民は神のお告げが象徴で表わされていることがわかりませんでした。彼等のお告げを文字通り解釈したのです。それは重大な誤りでした。我々、クリスチャンが新約聖書を読む時には、同じあやまちを犯してはなりません。我々は神の側に立って聖書を読むべきであり、比喩や象徴の真なる意味を知るべきであります。二千年前、すべての人々が、エリヤが青空から現われることを期待していました。しかし、彼はそのようには来ませんでした。また、彼等はメシヤが天の雲と共に来ることを期待しましたが、そのようには来られませんでした。今日、クリスチャン達は再臨の主が雲に乗って来ることを期待しています。しかし、あなたにはこの時代にそのような期待が裏切られないという保障がありますか。 主はいかに来られるか では、天の雲に乗ってくるというのと盗人のごとく夜来るという、二つの可能性を謙遜に、そして心を開いて受けいれてみることにしましょう。もし、あなた方が、主が雲に乗って来られるのみと考えているならば、肉体をもった人の子として到来というのはあなた方の期待にそわないでしょう。あなた方はきっと二千年前ユダヤ教信徒達が犯したのと同じ罪を犯すようになるでしょう。けれども、もしあなたが謙遜であって、肉体を持った人の子としての主を敢えて受けいれるならばーーそれは主が盗人の如く来ることの出来る唯一の方法なのですがーーあなたは見失うことはありません。どのような方法で来られようとも、主にお会いすることを確信するでしょう。もし、あなたが主を全く見失うということがあるなら、それは彼が盗人のごとく来られた時のみでしょう。もし、彼が雲に乗って来るなら心配するには及びません。誰でもその時、彼を見るからです。テレビ放送がこれを確めてくれるでしょう。 しかし、私は皆さんに、神は彼の息子を文字通り雲と共に送りはしないだろうということを言わなければならないのです。 主の再臨を待ち望んで空を見上げていても失望するばかりです。彼はもう一度、肉身を持った人として来るからです。これは神の啓示であります。聖書の要な預言を読むことによってそれを証明させて下さい。ルカ福音書十七章二十節には、「神の国はいつ来るかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、『神の国は、見られるかたちで来るものではない』」とあります。誰もが天の雲を見るでしょう。しかし、イエス様は「我々は御国の到来は見ないだろう」と言われました。ユダヤ教信徒達はメシヤの到来を見たでしょうか。いいえ、見ませんでした。なぜなら、彼は肉体を持った人の子として来るからです。 次にイエス・キリストのもっとも驚くべき発言を見てみましょう。たいていの人は「聖書はそう言っていますか」と聞きます。ルカの十七章二十五節を見ますとイエス様はこう言っておられます。「しかし、彼(再臨の主)はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」主がもし、誰が敢えてその方を拒絶したり、苦しませたりするでしょうか。あなたでしたらそうしますか。これはイエス様の語られた言葉です。その方の苦しみ拒絶されるのです。なぜなら、その方は肉体を持った人の子として来られるからです。最初はその人をキリストとして認めることはむずかしいでしょう。全キリスト教会、そして全キリスト教会献身者達は天の雲に乗って主が来られることを待ち望んでいます。彼等は空を見あげ、そのお方の現われるのを待ってするのです。しかしもし、その期待がはずれ、丁度イエス様がこの世に初めて来られた時のように、人の子として突然現われたら、どうでしょうか。 まず初めに、人々は彼を拒絶し苦しみを与えるでしょう。最初はキリストを受けいれはしないでしょう。多くのクリスチャンは石をとって彼にむかって投げるでしょう。また多くのクリスチャンは、その方を不敬な者とか異端者と呼び、また悪魔にとりつかれていると言って非難するでしょう。これらは二千年前、イエス様に対してなしたと同じ罪であります。 しかしながら、イエス様は十字架にかかるために再び来られるのではありません。彼は栄光の主として来られるのです。この世を審判し、善と悪を分け、神の国を創るために来られるのです。神の義が地上に広がるようにされるのです。ルカ十七章二十六節・二十七節を読んでみますと、「そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした」。 これが人の子の時のあらましです。そして、これは主が肉身をもって人の子として来られる時おこるのです。 一人の人間として、来臨されるイエス様は天国を唱えるでしょう。しかし、誰も耳を傾けはしないでしょう。きっと彼を笑いあざけり、あらゆる悪いことをやるでしょう。そうして主が審判の座にひきあげられるまで、この世は、その常のごとく肉欲的なもの――食い、飲み、めとりなどを続けるのです。世が彼を審き主としてみとめる時はもう遅すぎるのです。箱舟は閉まり、審きがまさに始まらんとしているでしょう。 さあ、イエス様が言われているこの一節を聞いて下さい。「あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいて下さるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカ十八章八節) イエス様は、キリストがもどられた時地上に信仰があるかどうか問われました。何故でしょうか? 歴史は繰り返すかも知れません。二千年前、十字架イスラエルには、すさまじい程の信仰がありました。彼らは朝に昼に夜にユダヤ教会で祈りをささげました。彼等は絶えず経典を読み、えりにそれをしるし毎日暗唱していたのです。又、彼等は十戒を守り、あらゆる律法に従いました。農作物の十分の一をささげ、断食に断食を重ねました。それでも、神の子が現われた時彼をみとめることができず、十字架につけてしまったのです。イエス様は信仰を見たでしょうか?イエス・キリストの目には、地上に全く信仰が見られなかったのです。 ですから、彼が再び肉身をもった人の子として現われる時、地上に信仰が見られないかもしれません。何百万ものクリスチャンや何千万もの教会は、人の子の到来を決して見ないかもしれません。なぜなら主が肉身を持ってこられるからです。 では、最後にマタイ七章二十二節、二十三節を読んでみましょう。「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い事し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」 これはどういうことでしょうか。何故これらの主の名を尋ねる献身的なクリスチャンが悪を行なうとして非難されるべきなのでしょうか。どんな悪事を犯したというのでさょうか。歴史を通して、多くの重大な罪が神の名のもとに犯されてきました。それは生命の創造主を殺そうとたくらんだ祭司であり、長老でありました。彼等はそれを神の名においてやったのです。 キリストがもう一度肉身を伴った人の子として来られる時、まず第一に、彼は二千年前来られた時と同じようにあつかわれるでしょう。しかし彼は十字架をくり返すために来られるのではありません。この時は、神の力が明らかに現われるでしょう。再臨の主は本当に審きの場につかれ、審き主として審判されるでしょう。 彼がその座にひきあげられる時誰もが彼を見るでしょう。彼が誰であるか、、誰でも間違いなく、はっきり知るでしょう。そしてすでにそのお方を非難したり、拒絶したりした人達はそのお方になした悪事のために泣き叫び、深く悲しむようになるでしょう。しかし、その時はもう遅いのです。主は彼らにこう言われるでしょう。「あなた方を全く知らない。不法を働く者どもよ行ってしまえ」 主は来られます。そして主は、人として来られるのです。そのうえ神の力と栄光を持って来られるのです。そしてこの世を審判されるのです。柔和な者達だけが祝福されるでしょう。ごう慢な者達は消すことのできない火を見ることでしょう。 神の目的は成就される 第一のアダムとエバ:御存知のように神は創造の初めから、地上の天国を最初のアダムとアダムと共に造る計画でした。彼等がもし神に対して本当に従順であったなら、彼等は完成し、また神は彼等に天的な結婚をもたらし、神の意志のごとく地上に最初の家庭を造られたでしょう。この家庭は地上天国の基いとなり、アダムとエバは人類の真の父、真の母となられたでしょう。エデンの園というのは、そういう国の象徴的表現であります。そして、この世は神の喜びの世界になったでありましょう。 このとどまりは、子羊の婚宴の話として、黙示録に預言されています。再臨の主はその子羊であり、その完全なるであり、その完全なるアダムであります。主は完全なるアダムとして来られるのです。そして彼は完全なエバを復帰されるのです。それから彼らはひきあげられ、人類の真の父母となられるのです。そしてついに、神の喜びは完壁なるものとなるのです。 第二のアダムとエバ:しかし第一のアダムとエバは失敗してしまいました。しかし神の理想は変わりませんでした。神は初めに計画されたように神の国を実現し、喜びの世界を創ろうと決心されました。そして、聖書の歴史で四千年後に、神はもう一人の完全なアダムを通じて地上の神の国を復帰しようと計画されたのです。イエス・キリストがその完全なアダムであります。聖書のコリント人第一の手紙十五章四〇五節には、イエスは「最後のアダム」、すなわち第二のアダムであるとあります。彼は失敗した最後のアダムのかわりに二千年前に、完全なアダムとして来られたのです。アダムだけの復帰では、神の国は出来ません。花嫁であり、母親である第二のエバがいなくてはなりません。ですから神は、この第二の完全なるアダムであるイエス・キリストに彼の嫁となる人、完全なるエバを復帰する予定でありました。これがエデンの園失われた第一の家庭の復帰でありました。 第三のアダムとエバ:しかしながらイスラエル選民の反逆のために、これは達成できませんでした。それにもかかわらず神は御自身の意志を成就することを決心されたです。そうしてキリストの再来を約束されたのです。 イエス様がなくなられてから、約二千年が経ちました。そして、今、神はもう一度第三のアダムの立場で神の息子を送られたのです。歴史を通して、神は常に三度目でその目的を果して来られました。教字の(3)が完成の数であるというのは本当です。この時、神は完全なるアダムとエバに天的な結婚をあげさせて、神の長い間の理想を確実に成就され、地上の天国の基いを敷かれるのです。 十字架にかけられる少し前、イエス様はペテロにこう言われました。「わたしはあなたに天国の鍵を授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは、天でも解かれるであろう」(マタイ十六章十九節) この地上で失敗したのです。罪はこの地上で犯されたのです。ですからそれは、この地上で償われ、根絶やしにされなければならません。イエス様は私達にこう祈るよう言われました。「み国が来ますように。みこころが天に行われ通り、地にも行われますように」 地上に天国実現 地上が問題なのです。それが何故キリストが地上に帰って来られなければならないかの理由であります。 世の終りが来る時、神はすべてを破壊され、日は暗くなり、星は落ち、わずかひと握りのクリスチャン達が空中に引き上げられ、キリストと共に至福千年を迎えるということを多くのクリスチャンは信じております。 しかし、もし神がそうされるなら神は失敗の神になってしまいます。というのは神の本来のみこころが、この地上において決してなされないからであります。サタンのためにこの地上を見捨てることになるからであります。それではサタンは事実上の勝利者となってしまって神は敗者になってしまうからです。そのようなことは決して起らないでしょう。神の国はそう計られた故、成るのです。このニユーヨークもまた神の国となりましょう。もしあなた方がメシヤのおとずれを見るなら、あなた方は神の国の住民となれるでしょう。彼はあなたの希望であり私の希望であり、アメリカそしてこの世界の唯一の希望なのであります。 しかし、もし私達が彼を見ることが出来なかったら、その時キリスト教にはもはや希望がなくなるでしょう。キリスト教は衰えるでしょう。その神霊の火は消えてしまうでしぺう。教会は古い遺物の墓と化してしまうでしょう。その時には、この世は暗い運命を持つようになるのです。 皆様、今夜私は神の命令によって、ここマディソン・スクェア・ガーデンに来ました。聖書の使徒行伝二章十七節にはこうあります。「神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたの息子娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう」 私達は、新しい時代の誕生というとてつもない時代に今生きているのです。天国は非常に近づいております。そしてもしあなた方が熱心に神に求めるなら神はあなた方に答えてくれるでしょう。ただちに神にたずねなければなりません。「文師が、真実を語っているかどうか、どうしたらわかるでしょうか?」どうか私や誰か他の人にその答を聞かずに、神が直接あなたに答えるようにして下さい。心静かに、そして神に熱心に、心を込めてたずねて下さい。祈りの中で神と対決して下さい。神は答えられるはずです。 人類にとって新しい希望は、メシヤであります。主の大いなる、かつ恐しい日はすぐそこに近づいているのです。その日が素晴らしい日か恐しい日かは、あなた方次第です。もしあなた方が救い主に会うなら、あなた方にとってその日は素晴らしい日となるでしょう。しかしもし、救い主に会うなら、あなた方にとってその日は本当に恐るべき日となりましょう。 神の祝福がありますように。御静聴ありがとうございました。 カンサハムニダ!ありがとう。そしてよき晩でありますように。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.11
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「青年の希望」1974年7月29日ニューヨーク・ベリータウン 一九七四年七月十五日~八月二十三日、米国・ニューヨーク・ベリータウンにおいて、欧米の教授や学生との共同生活、講義、討論などを通し文化の違いを越えた出会いをなし、また、今後の世界的指導原理の在り方を探ろうとする「国際指導者セミナー」が開催された。そこに各国から参加した大学生たちに対して語られた、文鮮明師の講話(七月二十九日)。 希望を抱かない青年はいません。 では、その希望、あるいは野心とは何でしょうか。「専攻する分野で成功することが私の野心です」と言う人もいるでしょう。しかし、そう答える人に「それが本当にあなたの野心なのですか」と真剣に問うてみる時、それを本当に確信している人はそれほど多くはいないことが分かります。そして、その野心を達成した時に、再び新しい野心に向かって出発しなければならなくなるのです。こういうことはよくあることです。例えば教授として成功し、教壇に毎日立っていても、突然、これは自分がずっと求めてきた野心ではない、ということに思い至ることもあるでしょう。 たとえ自分の野心を達成したとしても、「私はそれを成し遂げ、本当に幸福であり満足している」と感じることのできる人はほとんどいません。いったんある段階に達したならば、それを乗り越えていきたいと思うようになるものです。言い換えれば、人は現実にとどまることなく、それを乗り越えていきたいと思うです。それではいったい、究極の青年の希望、あるいは野心とは何でしょうか。 たとえ、どんなに一生懸命やったとしても、その野心を達成した時「私は幸せです。野心を成し遂げたからです」と言うことも、またそれを聞くこともありません。どんな世界的人物になろうと、さらに高い目標を目指さなければならなくなるからです。 それでは、若者はいったい何を望んでいるのでしょうか。それは、永遠に代わることのない世界の中心存在となること、これが青年の野心ではないでしょうか。しかし、たとえその野心を成し遂げることができたとしても、もしその人が人格的に完成されていなければ、彼は人間として不幸だといえるでしょう。 希望は私自身の中から出発する 私たちは、どれほどの幸福感を感じれば、満足することができるのでしょうか。このことは、私たちが考えるべき重大なテーマの一つです。あなたが今まで知り合ったどんな若者でも、「国を越えて世界的になろう」という野心はもっています。しかし、たとえ形だけその基準が立ったとしても、それは真の理想にはなりません。真の理想とは、自分自身から出発してこそ、存在可能となるものです。結論を言えば、青年の基本的希望と野心とは、私自身の内の一つの中心点から出発し、世界に向かっていくものでなければならないということです。 次に、私たちが「完成する」とはどういうことをいい、また、私たちの希望の中心とは何でしょうか。世界の中心となれる、その確かな「中心性」をもった人がいるとすれば、その人は過去において幸福だったでしょうし、現在および未来においても幸福であるでしょう。世界中の人々がそのような人を見つめるならば、その人を最も頼もしく、素晴らしい人だと思うでしょう。すべての人が、そのような人に自分自身を委ねたいと願うことでしょう。そのような理想的人物は歴史を通じて、終始一貫して認められてきたに違いありません。それでは、そのような人物は、どのように存在可能となるのでしょうか。 理想的な青年像は、すべての国を包容できる力をもち、世界を、また、過去、現在、未来を代表し得るような青年像であるべきです。もしそのような一人の青年が地上にいるとするならば、彼は世界の宝となるでしょう。皆さんもよく知っているように、貴重な宝はすぐにはなくなりません。それらは必ず、不滅の性質をもっています。また、そのような青年は全体を反映します。私たちはすべて、そのような青年像を追求しなければなりません。 そこで、私たちはまず、「人間」それ自体について考えなければなりません。一人の人を見るとき、私たちは、その人の内的なものと、外的なものとの二面を見ます。またその一人の人間の中に、「理想を成さなければならない人」と、「肉的存在としての人」との二面を見ることができます。それでは、理想とは何でしょうか。理想とは、すべての人にあてはまり、だれも除外することのできないものです。理想はすぐには現れませんが、しかし永遠のものです。 中国の理想の概念「理想」の「理」という漢字は、左側の「王」、右側の「里」から成り立っています。つまり、「王の里」すなわち「王の村」を表します。片方が全体を象徴し、もう一方が中心を代表するのです。全体が一つの中心に焦点を合わせる時、その時が理想なのです。それは一人では決して成し遂げられず、中心点を取り巻く全体があって、初めて理想は存在するのです。 一つ一つの漢字は、それぞれの思想を表すとともに、組み合わさってより深いを意味を表します。「理想」のもう一つの要素「想」は、左側に「木」があり、右側に「目」があります。つまり、向こうにある木を対象として見ることを表します。すなわち、ある対象に対することを意味し、それは全体を表します。そして下に「心」が置かれています。これらが一緒になった時、一つの概念となるのです。人々がこれらの文字を使い始めた時、理想という概念の中に、幸福と理想のすべての要素が知らずに含まれていたということは、容易に理解できます。この理解の上に立って、一つの目的のために、私たちを取り巻く環境を発展させていった時、理想が存在可能となるのです。 簡単に言うならば、理想は、一人では決して成し遂げることはできません。私たちが働き、働かせることのできる完全な一つの目的がある時にだけ、理想は存在できるのです。たった一人だけでは、理想というものはありません。相互関係が確立される時、そこに理想が芽生え始めるのです。 それでは、理想的青年とはどういう青年でしょうか。彼は、決して自分自身の中に閉じこもることなく、全体と中心の両面を備えていなければなりません。それでこそ、初めて彼は、すべてを代表することができるのです。 すべての個人は、他の人と異なっています。より外的なことに特別の視点を置く人もいれば、より内的なことに特別の視点を置く人もいます。とても弱い人もいれば、とても強い人もいます。傲慢な人もいれば、謙虚な人もいます。理想的な人とは、両端までも包容でき、中心に立つことのできる人です。 理想的青年とは、すべてを包み込み、中心として雄々しく立つ人です。彼は自分自身だけでなく、彼の村や家庭、国家をも心配する人です。また、現在だけでなく、過去に、未来に、そして世界に関心をもっています。 人間は神を中心としなければならない 私たちは個人と人類についてだけ語っているのではありません。ある人が神との関係を完成しようとする時、初めて彼は理想的青年となることでしょう。もし神がおられるなら、神はどんなお方でしょうか。皆さんは、既に神は全体の中心におられる方であると、漠然と考えていたかもしれません。神の中にあって、私たちは過去、現在、そして未来を表すことができるのです。東西南北、どの方向からであろうと、私たちは神を中心としなければなりません。神は全宇宙の中心となるべき本質でなければなりません。 それでは神と人間とは、いかなる関係にあるべきでしょうか。人間は生まれながら、神に似ているのです。いわば人間は、神に、あるいは神のようになりたいのです。しかし、もし人間自身が神の実体となるならば、人間にはもはや、主体と対象の関係はありません。理想的であるためには、私たちは縦的(時間的)関係とともに、横的(空間的)関係をもたなければなりません。 そこで私たちは、外的にも内的にも完全な関係をもつために、二つの特性をもっています。ある人は肉体を中心として生きたいと思い、また逆に、心と魂を中心として生きたいと思う人もいます。私たちが外的なことを中心とするとき、それらは過ぎ去り、消滅していきます。また私たちの内的弱さゆえに、安易に強い悪の力に侵入されるということを、体験や過去の経験から学んでよく知っています。ですから人間にとって絶対的に必要なものとは、内的な強さであり、これは欠くことのできないものです。 心と体の間の一致と調和を見いだして、初めて私たちは、理想のようなものを見るようになるのです。正にこの一点において、神と出会うのです。当然私たちは、神を中心として心と体が一体化した生活を願っています。これが一個人の内に成される時、そのような完全に調和した個人は、神と一体化したいと願うのです。それが人間の欲望なのです。 既に知っているように、皆さんは、強い心をもつ時、強い人間になります。ここから一つの必然的な結論が導き出されます。それは、私たち自身、心と体において完全に一体化する時、また私たちの心が主体的立場に立ち、肉身が相対的位置において主管される時、私たちは神御自身のように強くなるということです。 結論をごく簡単にいえば、心と体が完全に一体となる時、人間は理想的になり、理想というものが分かってくるのです。 天国とは統一された世界 皆さんが一人ぼっちの時、「これは素晴らしい」と言うことはできません。例えば「善」とは、皆さんの好むもののことです。その漢字は簡単に言えば、男と女を意味しています。例えば、男と女が完全に一つとなる時のように、主体と対象が完全に一つとなる時、それが善となるのです。これは東洋の理想というだけでなく、西洋の世界にも示されている理想なのです。 聖書に、「神は男を造り給うたけれど、どうも十分ではない、そこで神は女を造ったところ、はなはだ善かった」と書かれています。理想となり、善となることは、相対的位置を取ることであるということを否定することはできません。いわば、真の男と女が一体となる時にのみ理想が成立するのです。それが理想です。善となる以前に、個人においては心と体の完全な調和がなければなりません。それらが真に一つとなった時、未来における幸福の要素となるのです。これは論理的にも十分納得のいくことです。 それでは、天国とはどのようなものでしょうか。天国とは、二つの分裂したものを一つのものにしたにすぎないのです。それが天国なのです。漢字で「天」は「二人の人」と書きます。それがなくて天国の文字はありません。それはまさしく啓示ですね。なぜ人間は昔、そのような文字を使い始めたのでしょうか。なぜなら、もともと人間の理想は、「理想」そのものに直結しているからです。理想とは、二つのものが一つとなって、初めて成し遂げられるのです。それで、この過程は、既に一つの文字で表現されているのです。私たちはどんな文化圏においても、二つのものが理想を成し遂げるということを否定できません。 私たちは、生まれつき貴重な存在であると思います。どうして人間がそれほど貴重な存在なのでしょうか。理想のために、備えられた欲望を成し遂げていく長い道のりがあるので、そのように感じるのです。私たちの理想達成への目標は、「私たちの心、あるいは良心と体の一体化を成し遂げることである」と言うことができます。理想的人間とは、心が一つの方向に進み、体は別の方向へ進むような人ではなく、心と体が一つの方向に向かって、永遠に進んでいく人です。それこそ理想像なのです。 例えば、私たちの体はいつも自分自身のことを中心に考えています。そして心はいつも全体的な視野の中で考えています。これらが一つになる時、完全な理想的人間となり、その人は心と体の両方を主管することでしょう。 私たち自身を見てみましょう。私たちの体と心は完全に一つとなっていますか。もし私たちの体を平面だとするならば、私たちの精神はより高い次元にあると考えられます。それらの確かな交差点は、どこにあるのでしょうか。そこが、私たちの理想を見いだすことのできる点なのです。その一点にすべてが一つとなった人は、すべての方面に通じることができるのです。それが神です。そこで私たちは神の似姿となるのです。また、肉体には時間的制約がありますが、私たちの精神には時間的制約はありません。限りある部分と限りなき部分が一つになる時、そこに理想が存在するのです。 人類がまだそのようになっていないので、「神はいない」と簡単に言う人もいます。しかし、もし神がいるならば、私たちの心と体は、神のように作用しなければなりません。そうでなければ、神は二つの相反した方向性をもたなければなりません。私が言おうとしていることは、私たちには、神は二つの方向性をもつようなお方であると思われるけれども、神はそうではないということです。 そこにおいて、私たちは人間の堕落を認めなければならないのです。私たち自身の、そして人類の、教育の必要性がそこにあるのです。私たちは「神は間違っている」と言うことはできません。神は正しい方に違いありません。すると私たちが間違っているということになります。人類歴史においてこの偉大な改革をなし、人類歴史を完成することは、宗教の仕事です。 心が先にあった それでは、より価値あるものとは何でしょうか。より貴重で価値あるものとは、「私」あるいは「ある物」が存在する以前に、存在したものです。私たちの心と体を考えてみましょう。どちらが先に存在するようになったのでしょうか。存在の動機が人間自身の中にはなかったということは否定できません。人間は何か他の動機によって生まれたのです。「原因と結果のどちらが先でしょうか」と問われれば、私たちは「原因が先である」と言わざるを得ません。それでは人間は、どのように原因に通じることができるのでしょうか。唯一の道は、良心による道です。良心以外には、何もないのです。 どんな人でも、心の奥底から、心を込めて愛してくれる人を、より大切にしたいと思うのは、皆さんもよく知っています。二人の人が同時に皆さんを愛する時、皆さんは、大抵肉身に対してよりも、心を愛してくれる人を選ぶでしょう。 皆さんはなぜ、肉身よりも良心を大切にされたいと思うのでしょうか。それは良心がより先に存在したからです。世界で一番初めに存在したものは何ですか。それは神です。ゆえに、神には絶対的価値があるのです。私たちは、神によって造られた一個人の重要性を認めることができます。人間は第一の立場では決してありません。なぜなら第一の立場には既に神がおられるからです。 それでは原因(神)と結果(人間)は、どのように関係しているのでしょうか。この二つの要素は絶対不滅であって、全世界を代表すべきものです。私たち自身にあるその要素とは、良心です。私たちを神につなぐのは、まず心です。それゆえ、良心家と呼ばれる人は、物質主義者よりはいつも愛されてきました。なぜなら、良心は肉身より先に存在したからです。 なぜ肉体が勝つのか 人間は、このような二つの異なった立場に分離され、宗教はそれらを一つにしようとしてきました。すべての宗教の第一の目標は、良心を中心として神と一つになることです。さらに第二の要求は、神と一体となったあと、良心を中心として皆さんの体を主管することです。皆さんは良心が命ずるままに行動しなさい。肉身が命ずるままに行動してはいけません。これこそが、すべての宗教のいわんとすることなのです。 宗教は皆さんに、肉身的なすべてのことを否定せよと要求します。なぜでしょうか。それは元来、精神を中心として一つになるように創造された人間が、それを否定し、悪魔(サタン)が私たちの体を占領するようになったからです。人間は、自分の肉身を通じて、すべてを成したいと欲しています。私たちの肉身は、このことだけを考えています。このような生き方に、理想はありません。この種の人間は理想に反し、理想を破壊し、決して理想にくみすることはできません。ここに私たちは、肉体の完全な否定による、完全な宗教を見いだすのです。それゆえ、神はいつも人間に「肉体をささげよ」と要求します。 神は、逆説ですべてのことを教えています。例えば、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイ二三・一二)という聖句があります。私たちはこのことを理解して初めて、次の聖句が理解できるのです。「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七・三三)。 したがって宗教の発展は、肉体の完全否定がなされる時にのみあり得るのです。宗派が中心となって、独自の道を守り発展させようとする宗派は、世界の宗教の中心とは決してなれません。なぜなら、これは神の意志と神性に反するからです。しかし、たとえどんなに小さくても、自分の宗派を乗り越えて神が願うものを願う宗教は、必然的に神と共に栄えるに違いありません。そのような宗教は繁栄し、全世界の隅々まで覆い尽くすことでしょう。 すべての文化の基礎と背景になっているのは、宗教です。そして神は、ずっと宗教を通じて人を個人として完成させようとしてきました。私たちは神が私たちのために、これまでずーっと成し遂げてこられたすべてのことを見て、神がおられるという事実を認めなければなりません。 神と人間が分かち合う幸福 私たちが良心に主管される時、何が起こるでしょうか。永遠の価値と、自分自身の価値に対して、称賛することのできる人となるでしょう。原因と結果の両方が調和的統一体となる時、私たちはそのような価値を実感するのです。そういう時、私たちは体が壮快になるのを感じるでしょう。考えてみてください。そのように完成された時、私たちはどんなにか素晴らしい幸福を味わうことができることでしょうか。さらに五感を超えて、壮快さと幸福を実感することでしょう。それは全く別の次元のものです。今まで、そのような壮快さと幸福を体験した人は一人もいないと言っていいでしょう。 大抵の人は、神が存在するか否か、ましてや彼らの良心の源が何であるかも知りません。皆さんに良心のようなものがあるということを知る時、さらにそれが価値ある敬虔なものであるということを知る時、皆さんはその価値を実感するでしょう。皆さんの良心の基準を神の基準にまで引き上げたと分かる時、皆さんは今まで味わったことのない素晴らしさを実感することでしょう。 皆さんが簡単に想像でき、身近に得ることのできる、ある幸福の領域があることを考えてみてください。もし神がおられるならば、神と人間とが共に幸福と壮快さを感ずることのできる、ある基準があるに違いありません。もし人間が、一たびそのような基準のあることが分かるならば、その目的のためにすべてを犠牲にすることでしょう。皆さんはそれを望みませんか。皆さんがもしその基準を得たならば、世界のどんなものとも、あるいは世界のすべてのものとも、決して交換しないでしょう。 そこで皆さんは、神は平面的な方でなく、皆さんと共にいつもいまし給うてくださる方であることが分かるでしょう。皆さんは、神の偉大さをただ賛美するのです。そして神の生命が皆さんの生命となるでしょう。神の全知全能が皆さんのものとなるでしょう。ここにおいてこそ、私たちは神の全き愛を、真に感じることができるのです。 神は一人で愛と幸福を実現できない もし私たちが、その位置において完全に神の愛を感じることができるならば、どれほど幸せでしょうか。もし堕落していなかったならば、私たちの肉身は、神の相対的立場に立っていたことでしょう。もし幸福が、あるべき姿として成就していたならば、幸福は永遠であったことでしょう。その幸福は、不滅であり、永続したことでしょう。私たちの一瞬の生命のようにではなく、神が幸福な時、そのような神の相対的立場に立てば、永遠に幸福を感じることができるのです。 神は、一人で幸福になることはできません。神は、愛をもっておられるにもかかわらず、一人では全く愛することはできません。神は、理想をもっておられるにもかかわらず、一人ではその理想を感じることも、成就することもできません。神がもっておられる、限りない理想、限りない幸福、そして限りないあらゆることも、人間なくしては決して成就されません。それが神によって創造された人間の、重大な、永遠な価値であると知るならば、私たちはどんなに幸福を感じることでしょう。もしそのような幸福な一日を体験でき、完全に神と一つになれるならば、人は、たとえ肉身を中心とした一千年の生活であっても、それと交換することはないでしょう。皆さん、そう思いませんか。 長い歴史を通して、神はずーっと、この完全な究極の理想を探し求めてこられました。神は何千年もの間、それを切望してこられたにもかかわらず、一度たりとも、私たちの内にその完全な基準を見いだすことがなかったことを学ばなければなりません。私たちは最初において、完全に調和されて一つになるべきでした。私たちはそれを成さなかったために、分裂し、もがき、悩み、苦しんできました。それが人類歴史です。 私たちが今、その理想の立場にいないということを、だれが否定できるでしょうか。いったんこれが真実であることを見いだすならば、「理想などいらない」とは、だれも言わないことでしょう。むしろ、だれもが求めていくことでしょう。そしてそのあとは、いかにすれば、その理想が実現できるのかということを考えるようになります。 宗教こそ重要なもの 人間の頭脳、心、あるいは能力などを、思うままに使うことによって、神の理想にたどりつくことができるでしょうか。いいえ、それはできません。私たち自身を神のやり方、神の思考法に徐々に近づけるために訓練すること、それ以外に方法はありません。そこで、宗教は人類に必要であると、結論づけられるでしょう。どれほど必要でしょうか。最も必要なものです。 この方向に進路を置くとき、それに反対してくるものがあったとしても、私たちはそれを否定していかなければなりません。たとえ両親が反対したとしても、それによって動じてはいけないことを宗教は教えてきました。反対されても、勝利しなければなりません。たとえ家族中が、あるいは国中が私たちに反対しようとも――。それで皆さんが最も貴重な存在として、大切にするすべてのものを、否定しなくてはなりません。あえて、それを越えていかなければならないのです。 神は、歴史を通じて、これらすべてを成してきました。神の愛によってこそ、それを成すことができるのです。神は、歴史上考えられなかったようなものを、皆さんに与えようとしています。皆さんが成したすべての犠牲とは無関係に――。 神の理想、神が果てしなく与えてくださるもの、そして神の配慮を見いだすとき、それこそが、私たちの理想への出発点といえるでしょう。私たちは、神の生命、神の愛、神の理想を受けることができます。これらすべてを受けられるのです。これが青年の希望です。 青年は最高の理想を切望する それゆえ、青年は理想を探し求めます。それは低い理想ですか、高い理想ですか。高い理想でしょう。どのくらいの高さでしょうか。どこまでも神を愛し、いかに高価なものでも踏み越えていけるほどに高い理想をもたなければなりません。それゆえ、人類歴史を通じて、ずーっと高い理想を求めてきました。今も、死に物狂いでそれに立ち向かっています。 そこで、理想は高くなければなりません。天国を貫くほどに、すべてを解放できるものでなければなりません。人類だけでなく、神をも解放するものでなければならないのです。理想というものは、高過ぎるということがあるでしょうか。もし神が、人類にその理想が達成されたのを見なければ、神御自身も解放されないのです。神が束縛されている理由が、正にここにあるのです。 だれかが良心に反した悪いことをするのを見るとき、私たちは行ってその人に対し「あなたは良心をもっているのですか」と問いただします。彼はその時、「永遠なるものの原理」がここにあることを実感するでしょう。それは、神と共になさなければなりません。 良心には、その原因となるものがあります。それが、神です。その願うところは、永遠不変なる理想の実現なのです。私たちの良心はその一点に向かって進んでいます。 完全なる花があるとき、すべての人はそれを自分のものにしたいと願います。すべての人は、比較能力をもっています。人間は自分を何に例えたいと願うでしょう。それは自分以外の人間ではありません。なぜなら、私たちは変化するものを欲しないからです。無限なる、永遠なるものを欲し、決して変わることのないものを欲するのです。理想とは、そういうものでしょう。 最高の理想に立って、皆さんが神を迎えにいく時、神はすぐに現れてくださることでしょう。考えてみてください。私たちの精神が最高の理想基準に立つ時、肉身は自動的に制御されます。私たちの良心が笑う時、私たちの肉身もまた一緒に笑うのです。皆さんはかつて、そのような人に会ったことがありますか。 イエス様は、「わたしは父におり、父はわたしにおられる」(ヨハネ一四・一〇)と言っています。生まれつき私たちは、神と関係をもつことのできる、あらゆる要素をもっています。宗教によってのみ、皆さんの肉体を否定することができ、精神が要求する次元に、確信をもって進むことができるのです。 神と世界のために生きる 私たち人間は、四千年間、ライオンのえじきとなり、責め苦しめられたキリスト教徒を目撃してきましたが、なおも彼らは幸福そうに、この一つの理想を抱いていました。ローマへ通ずる道よりも確かな、幸福への道を、彼らは信じていました。それはあり得ることです。これを絶え間なく経験したならば、皆さんは目的に向かって突き進むために、これ以外は何も望まなくなるでしょう。この一点において、人間は果てしない、無限の価値をもっているのです。 青年は、最高の理想と野心をもっています。数多くの人々は、自分自身の個々の幸福を追い求めています。しかし考えてみてください。どんなに熱心に試みても、皆さんは、自分自身を解放することができるでしょうか。いいえ、それはできません。それは、大変悲惨な状態です。 ある人は、自分の家族のために生きています。「それは自分一人のために生きているより、いいではないか」、そう言うかもしれません。またある人は、自分の氏族の解放のために生きるでしょう。ある人は、国のために自分の生活をささげます。普通の青年は、自分の国のために犠牲となるところまで成長できるでしょう。これを越えて、世界の自由のために生きた人は、賢人、聖人と呼ばれてきました。でも考えてください。世界が解放されたとしても、もし神が解放されないならば、私たちはそのような世界を「理想世界」と呼ぶことはできません。 人間には二つのタイプがあります。物質的に生きる人と、良心に従って生きる人です。私たちは、これら二つの典型として、唯物論と唯心論を見ることができます。民主主義世界は良い世界であると思われていますが、しかし何が良心を構成しているのか、特に良心はどこに向かっているのかということは分からないのです。一方、唯物論、共産主義は決して精神を解放することはできないでしょう。それゆえ共産主義は、ある程度までは繁栄するでしょうが、それ以上は越えていくことはできないでしょう。 それではこの観点に立つとき、どちらがより価値があるでしょうか。共産主義ですか、それとも神を中心とした理念でしょうか。それは神を中心とした理念です。良心は物質以前に存在したに違いありません。そこで私たちは、共産主義でさえも、ある日、神を認めなければならないであろうという論理的結論に達するのです。 共産世界と自由世界は、そのままでは一つになることは決してできません。なぜなら、それらは結果の世界だからです。私たちの良心が絶え間なく肉体と闘っているように、共産世界と自由世界もまた、最後まで闘うのです。それらが闘い続ける限り、理想はありません。たとえ人間が、地上においてその解決策を見つけようとしても、できないでしょう。人間は病気にかかっています。皆さんがその病気を治そうとする時、その原因を突き止めなければ、それは永続する治癒とはなりません。その原因を突き止め解決する時、その痛みを取り去ることができます。 まず私たちが理想の人に 世界の問題に対する解答は、個人の問題に対する解答でもあります。一人の人間によって、人間が悪化し、そして復帰するのを見いだす時、世界をも復帰することができるのです。私たちはこの点を強調しなければなりません。私たちは、世界ではなく、まず私たち自身とかかわりをもたなければなりません。それが完全なものの始まりです。世界がどんなに平和に、幸福になろうとも、人間が幸福になることができないならば、その世界は人間と何の関係もありません。不完全な人間が、完全なものをつくることは不可能です。 他のだれかが理想の人となるのを望む前に、まず私たちが理想の人とならなければなりません。理想の人間は、過去と現在を代表して語るべきです。彼はまた、未来のための何かをもっていなければなりません。もし、これらすべてを成せる人がいるならば、その人こそ最初の理想の人間と呼ばれるでしょう。この一人の人が認めない何かがあるならば、それは理想とは言えません。このような方向を真剣に探し求める、そのような現代の文化や運動でなければなりません。 過去の人類文化がどんなに親愛な、貴重な、価値あるものであったとしても、それは来たるべき未来のものとは比較になりません。いったん「過去」を投げ捨ててしまいなさい。そうすれば皆さんは新しいものを見いだすでしょう。この観点に立てば、神が備えてくださった永遠なる道を、私たちは進むことでしょう。もしそれを望むならば、どんな青年でも、神はすぐに知ってくださるでしょう。目標を目指して進もうとする青年を、神は守るでしょう。それが最も重要な理想であり、青年が抱くことのできる最高の理想です。 もし、このような人生を生きる天性と決意があるならば、その時彼は、過去の歴史の宝となるでしょう。そして現代の宝となり、来たる永遠の未来の宝となるでしょう。 聖なる結婚 一たび皆さんが理想の自分になったとすれば、その次の、第二の欲望、あるいは野望とは何でしょうか。それは言うまでもなく、良い配偶者を見つけることです。人間には、男と女がいます。それを「人間」と呼ぶのです。私たちの第二の欲望は、真の男と女とが一つになることです。皆さん自身のことよりも、もっと貴重なことは、皆さんの配偶者となるだれかを見つけることです。人がどのように完全であっても、一人では完全にはなれません。その人の内に自分の完全性を発見できるようなだれかを見つけた時にのみ、完全になることができます。 どんなにみすぼらしい女性であっても、自分の配偶者は自分よりもはるかに素晴らしい人であってほしいと願うものです。同じことが男にもいえます。男は、自分自身も完全になりたいと願うのですが、自分の配偶者に対しては、より完全であってほしいと思うのです。そして彼女と共に幸福になり、幸福感を感じたいのです。 ですから理想とは、愛のうちに生活し、愛に酔い、高遠な諸理想を成就し、それらを周りに広めていくことです。 しかしここで、「そのような男と女が存在するのか」という疑問が生じます。もし私たちが世界中を見回して、まれにさえもそのような理想の青年を見いだせないとすれば、どのように感じるでしょうか。神もまた深く悲しまれ、過去と未来の、すべての人類も悲しむことでしょう。 個人がどのように完成を成し遂げたとしても、それが理想の終着点ではありません。むしろそれは、彼と彼の配偶者が一つになる理想への出発点なのです。そこに理想が始まるのです。私たちは、これをすべての人類が欲しており、あらゆる人が欲しているということを、決して否定できません。 これは、私たちが天地に向かって発した宣言です。私たちはすべての歴史を代表して、これを宣言しました。この宣言は、未来への伝統を準備するためになされました。将来どのような荒波に出遭おうとも、私たちはそれを突き抜け、克服しなければなりません。これは人類のすべてが願うことであり、神さえも私たちに願っていることなのです。 今まで神は、一つの目的をもち続けてこられました。それは、一人の完全な男と一人の完全な女、そして一人の青年を造ることです。堕落した人間においてはこれが成し遂げられないので、だれかが、神から直接に遣わされなければなりません。これがすべての宗教における、「メシヤ」の概念です。そのメシヤは、一人の青年です。 聖書の最後にある黙示録の中で、神の理想の目的は、この完全な男と完全な女であるということが明確に示されています。聖なる結婚によって抱擁しながら喜ぶ時、これは全宇宙にも替え難いものになるのです。 いったん神が、この高い理想を一つの基準として成就したならば、より多くのそのような個人や家庭が生まれるようになるでしょう。これが神の最も深い願いであり、また人類の最も深い願いなのです。 変わらぬ愛 私たちは、私たちの配偶者となる人が、永遠の変わらない愛にふさわしい者であることを願います。なぜでしょうか。なぜならば、真の愛は永遠であるからです。皆さんはただ一人の完全な配偶者を願うと思います。なぜなら、そのような愛は絶対であり、ただ一つしかないからです。そこで彼または彼女は、自分の配偶者に絶対の権威をもってほしいと思います。なぜなら、愛は全能だからです。私たちは神から生まれた者ですから、神に似て、このようなとても高い理想をもつようになったのです。 では、皆さんは、どのようになりたいのですか。皆さんは、神に愛される子供になりたいのですか。そしてそれ以上に、私たちは自らを成熟させて、神を幸せにできるようになりたいのでしょうか。これは私たちの願い、野望であるのみならず、神の願いに違いありません。 完全な家庭は、完全な個人を中心としてのみ存在できます。ところで皆さんはすぐに、「世界で一番美しい女性を配偶者にすれば幸せになれる」と思うかもしれません。しかし、それは違います。それでは、だれが世界で一番美しい男、または女なのでしょうか。世界で一番美しい男、または女は、自分の善なる目をもって善なる世界を見たいと思う人です。最高に美しい男、あるいは女は、何よりも自分の耳を通して何か善なるものを、そして善のみを聴きたいという人です。そして最高に美しい男、あるいは女は、自分の鼻で化粧品や何かのにおいをかぐだけではなく、世界の善なるもののにおいをかぎたいというような人です。最高に素晴らしい口をもった人はだれでしょうか。それは、自分の口を通して自分自身について語るのではなく、世界について語るような人です。世の中に対して敢然と立ち、歴史と人類のために神の立場から話そうとし、その上いつでもそうする準備のある人――そのような人こそ最も素晴らしい口をもった人であり、最も素晴らしい人です。 いかに均整のとれた体つきをしているとしても、もし多くの人から嫌われているとすれば、良い人ではありません。その人の人格ゆえに、だれもが好きになるような人こそ、善なる良い男であり、美しい女だといえるのです。皆さん、それが分かりますか。 反対物の統一 実際に、さらに理想的なのは、百歳になって霊界に行こうとしている老人が、小さな赤ん坊と一緒に、幸せに遊ぶことです。そのような世界こそ、理想の世界です。 それは、次のような結論になります。最も美しい男、または女が、最も醜い男、または女と一つになり、いかなることがあっても互いに離れないとすれば、そのような組み合わせこそ最も理想的なものだといえます。そしてそのような人たちこそ、最高に理想的な人たちなのです。 私は、大西洋によく魚釣りに行きます。一週間ほど前、嵐だったのですが、私はあえてその中に乗り入れました。波は非常に高く揺れていましたが、その時私はこう思いました。「風は一方向から吹いているのに、どうしてそれは一つの大きな波を起こさないのだろうか」と。なぜなら、それはすべてのものが対称になっているという宇宙の原理に従っているからです。高く低く、高く低く、速く遅く……これらすべての変化から理想が生まれるのです。 高い山に対しては、深い淵がなければなりません。そして、最も深い谷には、高い所から来るすべてのものが蓄えられます。最も高い所にはそれ以上のものはありませんが、そこで人はより低い所を見下ろして、何かをつくり出すことができます。それが理想なのです。それゆえ、授受作用も宇宙の至る所にあります。最高は最低と釣り合うのです。そしてそれが対称の在り方です。これがすべて意識せずに成し遂げられたとするなら、あらゆることが自動的に成し遂げられたなら、理想は自動的に実現します。 もしある人がたくさんお金を持っていて、もう一人の人があまりお金を持っていない時、たくさんのお金を持っている人がそれをすべて自分一人のものにしておくならば、彼は自分自身不幸でしょうし、もう一人の人も不幸でしょう。もしその人がそのすべてのお金を、持っていない人に上げるならば、その人はそのお金を持つにふさわしい人です。 地球の内部へと深く入っていくと、だんだん熱くなります。そして、溶解現象が起こります。物質を過熱すると、蒸発して上昇します。ですからここでは、高いものが低いものを補うようになります。皆さんが知っているように、水は高い所から流れて、最も低い所に行きます。しかし、それは再び蒸気として空中に上がっていきます。ですから私たちは、最低のものが、例えば雲となって高い山を主管するように、最高のものを主管する何らかの方法があるということを容易に発見することができます。 この世界には、先進国もあれば発展途上国もあります。富んだ国もあれば、それほど富んでいない国もあります。西洋があれば東洋があります。そして、これら反対物、あるいは対称物が完全な調和をつくるなら、理想が実現するのです。 すべての音楽は、リズムによってできています。それは風が吹く時も同じです。風はただ一吹きに吹くのではありません。このように風の動きをよく見ると、波のように吹いているのが分かります。風が一方向から吹く時でも、木の枝は、右へ左へと揺れます。また私たちが呼吸する時も、吸ってから吐きます。時々、私たちはまばたきをします。それが変化なのです。調和ある変化はどこにあるのでしょうか。それが問題です。「私は数学的な考え方をするのでそんなことは認められない」と主張できる人は、どこにもいません。いかに人が哲学的であり、数学的であったとしても、すべてはこのリズムによって運行しているということを否定できません。 西洋と東洋の調和 西洋人はおなかを下にして寝ます。多くの人がこういう寝方をします。彼らは知らずに、地上を見下ろしている立場を象徴しているのです。ほとんどの東洋人は、背中を下にして寝ます。これは天を見上げていることを意味し、精神文明を象徴します。特に時代の終末においては、人々の行動は象徴的意味をもちます。西洋人は少しばかり寂しく感じるかもしれませんが、それは仕方がありません。事実なのです。どうやって事実を変えることができるでしょうか。西洋文明は、物質を通して物質によって世界に奉仕します。しかし、それがすべてではありません。東洋は、その精神面において世界の指導的立場にあります。 東洋は西洋に寄与します。神は一つの高い理想をもっています。二つの要素が幸福を形成するので、神は精神的性質と肉体的性質を人間に与えたのです。これらを調和させることによって、神は幸福を期待されたのです。アメリカ人が人を呼ぶ時、手のひらを上にして呼ぶのは、とてもおもしろいことです。実際にそれは、「天よ、こっちに来い。私のほうに来い」ということを象徴しているのです。そして東洋人が人を呼ぶ時には、手のひらを下にして動作をします。それは天の立場に立って、「地よ来い」と呼んでいることを意味します。それは、とても象徴的です。 西洋文明はすべてのものを最小部分まで分析します。しかし東洋的思考は、問題を、要点または核心をねらって全体を把握しようとします。 西洋人は、幸福な時には体いっぱいにそれを表現します。彼らはそれを完全に表し、何ものも隠しません。しかし東洋人には、「あいまいさ」というものがあります。彼は幸福な時、ある時は幸福そうに、ある時は不幸そうに見えます。 歴史を通じて、すべての物質的なものを捨てて、霊的に完全となろうとしたのが東洋的美徳でした。 東洋人は貧乏です。彼らは悪なるがゆえに貧しいのではなく、神によってそう運命づけられているのです。そのため神は西洋文明を、東洋文明のために相互的に準備されたのです。 私たちは一つのことを明確にしておかなくてはなりません。それは、単なる物質文明の行き着く先は、悲惨でしかないということです。ところが、精神文明の行き着く先には希望が姿を見せます。希望こそ、貧しさの末に、私たちが得るものです。「西洋人よ、どこに行くのですか」と聞かれたなら、西洋人は「私たちは東洋に学びに行くところです」と答えるに違いありません。そのように定められているからです。そして、東洋人は「どこに行きたいのですか」と尋ねられたなら、「西洋へ行きたい」と言うのです。そこで彼らは、今までかつて経験したことのないものを経験するでしょう。 私たちは、物質文明が、その終わりに差しかかろうとしているということを確実に予想できるし、だれもがそれを容易に理解できます。そのことから、私たちはとても劇的なことを期待できます。 西洋人たちが生き残れる唯一の道は、東洋的思考がとても価値あるものだと思えるような、ある道を見つけようと努力することです。言葉を換えて言えば、西洋人は自分自身を東洋思想に服従させ、その中に入って、そこから学ばなければなりません。なぜならば、人は自ら謙虚になってこそ初めて学ぶことができるからです。 理想の拡大 それでは、自分自身を完成させ、完全な配偶者に出会ったあとの、青年の理想とは何でしょうか。そのような男と女、そしてその家庭は、世界中のすべての人を友達にしたいと思うようになることでしょう。世界は、全世界の兄弟姉妹を見ているだけで幸福な人々の群れとなることでしょう。彼らが友達になればそれは麗しい光景となるでしょう。 それは自分の国よりももっと神を愛するという信条を立てた群れです。そのような人たちこそ、世界中のいかなる者よりも、神を中心とした兄弟姉妹を愛することができるのです。それこそが、青年が目標とし得る、最高の理想ではないでしょうか。自分の配偶者を通じて、かつそれを乗り越えて、全世界の兄弟姉妹に愛を広げることのできる人は、成功した人です。唯一の成功した人です。その人は、神を中心にしているに違いありません。なぜならば、神なくして私たちは存在し得ないからです。 もし人間を種子にまで凝縮するとすれば、その種子は何でしょうか。子供が生まれる前に両親がいます。だから両親が自分の根源、あるいは種子だというかもしれません。確かに両親は根源だといえます。なぜなら、種子は根源であり、根源から皆さんは生まれたからです。親、親、親、親……。そしてそれは究極の原因、つまり神にまでさかのぼっていくのです。 すべての生き物の生の唯一の希望と目的は、それ自身の原因に似ることです。種子を調べてみましょう。一つの種子は必ず二つに分かれていながら、一つの袋に収まっています。そしてその小さな部分を取って見ると、それもまた違った袋に入っていて、かつまた二つに分かれています。どんなに小さな種子を例にとってみても、すべてがそのように分かれています。では、だれがそうしたのでしょうか。それは究極原因に相似しているのです。究極原因とは何でしょうか。神です。ですから神は、二性の内容、あるいは二性の性相を一つの不可欠な性質としてもたれているのです。そのほかのものも、すべてそうです。なぜなら、その原理を見習うからです。 もう一つの例を挙げるならば、個人でさえ二つの要素をもっています。――体と心です。もしそれらが互いに対立するならば、滅びます。種子の例において、種子の内部の二つの要素は、互いに相闘うでしょうか。決して闘いません。もし闘ったなら植物にはなりません。万物の霊長である人間はどうでしょうか。個人として、皆さんは一つになっていますか。皆さんは完成されていますか。もしそうでないなら、皆さんは生命を帯びていません。つまり、まだ種子になり切っていないということです。完成された男も女も、一つになっていなければなりません。男と女とが一つになるならば、彼らは幸福になります。どうして男と女は一緒になると幸福なのでしょう。なぜならば、そのようにして彼らは神に似、神に近づくからです。ですから彼らは幸福なのです。 すべての個人は、根をもたなければなりません。そして幹をもたなければならず、それから葉をもたなければなりません。この三つが木を完成するのです。だれが皆さんの根ですか。皆さんの両親です。皆さんは、自分自身を完璧な幹にしなければなりません。 すべての種子は、植物のすべての要素を含んでいます。ですから、種子を植えると根が出ます。根は何ものかから出てくるのですが、その何ものかが種子の中に入っていたからです。幹が出てくるのは、既に幹がその中にあったからで、そして幹から葉が出ます。葉が芽生えてくるのは、既に葉があったからなのです。 木を見ると、それは閉じた円に似ています。なぜ? 神がそうだからです。神が丸いので、木も丸くなるのです。根元は丸く、幹も丸く、枝も丸いのです。丸いものは速く回転できるのです。どこへ行くのにも、たやすく走っていけます。それは、蹴ればどこへでもたやすく飛んでいくボールのようなものです。そのため皆さんは、自分の性格において何か丸い完全なものが必要なのです。 あらゆるものは、三段階になっています。指でさえ、三つの段階、あるいは関節をもっています。そして腕は、手首と腕の上半分と下半分とから成っています。それはみんな三つです。また、頭・胴・足……なぜなら、それが神の原理だからです。ですから私たちは、根・幹・葉という三つの段階を発見するのです。皆さんが、これらの三段階と調和して生きるならば、世界は皆さんのものであり、神も反対しません。 極端な個人主義は避けなさい 現在の私たちの生き方で、個人主義の極端な形は、「私はだれも必要としない。私は自分だけで満足だ。私は親など必要ない」というものです。個人主義は間違っています。それは存在の原理に合いません。つまり、それは種子に似ていないということなのです。ですから、個人主義は正されなければなりません。もし「家庭が一つの単位だ」と言うならば、その家庭の根は両親です。アメリカ人は、「私にはだれも必要ない。自分が必要だ」と感じます。「私は妻を必要としない」と言う人さえいます。あるいは、もし彼らが妻を欲すれば、どこででもお金で片づけることができます。それが神に通用すると思いますか。通用しません。 青年は木の根に似ています。それが青年期です。その期間に、青年は力をつけ大きく成長します。幹が完全な幹として育つには、あらゆる栄養分を吸収する、完全な根をもっていなければなりません。私たちは今、過去のために存在しているし、これからは未来のために存在するのだということを確かめておかなければなりません。それこそが、私たちが今存在している目的なのです。ですから、いつもふらふらしている人や、他人を落胆させる人は、決して実を結ぶことはありません。 青年期こそ、もちろん男性の人生の中で最も輝かしい時間です。一生懸命働き、最高の野心を抱き、世界で最高のものを期待し、そして力の限り仕事をします。完全なる男と完全なる女が成熟した時、その時、いつの日か花が開くことでしょう。花が咲けば、ありとあらゆる良い香りと、かぐわしさと、蜜とが満ちるでしょう。それが愛の始まりであり、それが青年期なのです。 男と女とが一つになれば、彼らはその実を得、それから彼らに似た、何ものかが現れます。それが子供です。これらもまた、同じく三段階です。両親、私たち自身、そして子供。世界中どこであろうと、幹から出て、葉と枝は繁茂するのです。ならば、皆さんは葉が必要ではありませんか。木には葉が必要ではないでしょうか。必要です。そのため、皆さんにとって子供は絶対に必要なのです。 皆さんが自分の内に三つの要素を備えた時、初めて皆さんは男だということができます。ですから、いかなる男であっても、これら三つをもっていなければなりません。利己的な人は、これら三つを自分のために保っています。もし皆さんが、「私は両親を喜ばせるために、これらすべてをやっているのです」と告白するならば、その時、神はうれしいでしょうし、皆さんもうれしいでしょう。だれでもこのような男を見れば、うれしくなるでしょう。だれでもその人に感謝するでしょう。だれでも自分自身のためには何もせず、むしろ自分の配偶者のためにしたいのです。西洋でも東洋でも、黒人も白人も、黄色人もみんなそろって、「そうだ」と言っています。 もし親がただ子供のためにのみ、できる限りのすべてのことをなし、とても一生懸命働いているなら、あらゆる人は彼を見て「素晴らしい」と言うでしょう。私たちは、これが良き実を結ぶための道、あるいは過程であるということを覚えておかなければなりません。幹は、根と葉のためにあります。葉は、ただ幹と根のためにのみあります。そこに理想が存在します。 皆さんは、自分の両親のために、何か良いことをしたことがありますか。皆さんは、自分の両親は自分より以前に存在していたので、皆さんよりももっと貴重だということを考えてみたことがありますか。自分よりも、自分の根を大切だと思う人は「良き人だ」と言うべきでしょう。私たちは、自分よりも、自分の子供を愛する人を「良い人だ」と言います。私たちは、これが最も深い、永遠の善に関する真理だということを悟らなければなりません。 変わらぬ者になりなさい いったん、一つの成熟した自分になったならば、皆さんは簡単に変わる人間になりたいと思いますか。それとも永久に変わらない人間になりたいですか。根と幹と葉、これら三つのうちで根が一番変わりにくいのです。つまり、葉は幹よりも変わりやすく、幹は根よりも変わりやすく、根は一番変わりにくいのです。 皆さんが木として育つときに、まっすぐ上に伸びたいでしょうか、それとも曲がって育ちたいでしょうか。(まっすぐです)。高く伸びたいでしょうか。それとも低くでしょうか。(高くです)。つまり皆さんは、理想と野望と希望とを求めているのです。皆さんは大きくなりたいでしょうか。小さくでしょうか。(大きくです)。皆さんは、現実が個人的なものであってほしいでしょうか。それとも世界的なものであってほしいでしょうか。(世界的です)。皆さんも木と異なるものではありません。木も同じなのです。これらの輝かしく成長した木は、すべての植物、動物、被造物の中心となるでしょう。時が来れば、花が咲き、実が実るのです。 皆さんは、配偶者のために結婚しますか、それとも子供のためにしますか。(子供です)。しかし、現在ではだれもが自分のために結婚します。 自分の子供にすべてを与える唯一の理由は、そのようにしてこそ皆さんの実が成熟するためです。理想の現実化が成し遂げられるのは、これらの喜びが現実のものとなり、これらすべての原理が一致した時です。 私たちは、私たちが生きているのは将来のためであり、将来において現在よりも良い人生を送るためであるということにまだ気づいていないのです。私たちは、このことが分かりませんでした。歴史を通じて私たちは、結婚したいという思いをもってきましたが、なぜそうなのかは知りませんでした。私たちは、結婚して子供をもちたいと思ったのですが、なぜ子供が欲しかったのか知りませんでした。今私たちは、知りました。それは、いつでも神のため、神に似るためでした。神は、木の例えのように、人類が生きることのできる、完全な世界を見たいと思っておられるのです。 中心との一体化 何が、最も価値あるものでしょうか。最も価値あるものは、中心と似ているものです。ですから私たちは、中心者と似ようとするのです。東に伸びる枝と、西に伸びる枝は、二つの異なる正反対の方向性をもっています。しかし、たとえ方向が正反対だったとしても、一つの幹と一つの中心線があるので、これらはみんな調和しているのです。 私たちは、あらゆる方向とあらゆる形のものをもっています。ですから、今神が必要なのは、一つの中心です。そうすれば、神は価値を判断することができます。神はその基準をつくろうとされているのです。家庭でもそれは同じで、より大きなグループでも同じです。神は、他の者の価値を比較し判断することのできる、何らかの基準が必要なのです。 なぜ神が皆さんに「世界一完全な個人となれ、世界一完全な家庭と国家になれ」と要求するかといえば、皆さんが一つの幹、一つの中心線になるためなのです。一たびその価値、基準が確立されたならば、神はそれとの比較において、諸々の価値を判断できます。 さてこれらのことから、私たちは現在の家庭に対する、新しい理想を得ることができました。それでは、家庭の理想は、どれくらい遠くまで拡大されるのでしょうか。(世界までです)。ならば私たちは、世界を代表する国の中心とならなければなりません。それからその中心の周りに、異なるものが異なる方向に向かうことのできる基準を打ち立てなければなりません。天は、私たちを訓練して、この目的にかなう国の一員にしようと努力されていることを忘れてはなりません。 もう一度結論を繰り返しましょう。私たちは、いかなる歴史的偉業にも決して劣らない、私たちの完成を成し遂げなければなりません。私たちは、歴史上かつて現れたことのない男と女とになるのです。私たちは、世界と人類がもちたいと思うような子供を生み育てます。これが、神のもとに理想の社会と、理想の世界を創造し、獲得することの目的です。 最も大きな理想 神は世界のために、一日二十四時間働きます。私たちは神に似なければなりません。私たちは、神と神の努力に倣わなければなりません。ですから私たちは、いつも一日二十四時間、世界のことを考えていなければなりません。私たちが自らを神のこの理想の上に確立させるならば、その理想は私たちのものとなります。そしてそれは、青年がもつことのできる、最も美しい理想なのです。 さて私たちは、私たちの人生の道程と目的とが、三段階の説明によるごとく、良き子供を育てる神に似ることだと知りました。私たちは、方向性において誤りを犯すことはありません。私たちは、絶えずこの一つの方向に向かいます。ですから私たちのメンバーは、何よりも兄弟姉妹を愛し、何よりも両親を愛するのです。それが私たちの姿勢です。 ですから私たちは他のために生きなければなりません。これが、私たちの後輩にまねさせるために、私たちが確立しなければならない唯一の伝統です。 あまりにもたくさんの一見重大な事柄がありますが、これよりも重大なことはありません。本当です。これが最も根本なのです。 私は、皆さんが神に倣い、すべてを神のためになし、神を理解することを願っています。皆さんの、これからのすべての幸せと安全と、神へのすべての親密さとを祈っています。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.10
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それで、神様は何を願っているかというと、この末世時代において、神様の姿を現さなければならないという。それは、完全に心情的、縦的に復帰された、完成された男、すなわち、メシヤとして再び現そうとしているのである。完成されたアダムの身代わりとして行くんだ。完成されたエバの身代わりを中心として、その成約時代には、神様自体が真の父母の姿をもって、万民の前に現れる。だから、統一教会は、権力、あるいはいかなる政治によるてすべての力を投入しても、主管できない偉大な力をもっているのである。生きる神様を、生きられる神様を、我々は直接この目で見、この感覚で体恤し得る圏内において、体験を重ねながら行くのが我々統一教会の道である。分かりました?(『御旨と世界』--「伝統の旗手」P.364)「伝統の旗手」1974年5月10日東京・小金井公会堂 神の切なる願い きょうは「伝統の旗手」という内容で話しましょう。 一つの家庭を中心として見れば、その家庭の伝統を受け継ぐ者は、年寄りでなくして若者である。一つの国家も、その国の伝統を受け継ぐ者は、やはり、その青年である。それは、過去もそうであったけれど、今もそうである。だから、伝統を受け継ぐのは、いわゆる青年である。 例えば日本の国についていえば、日本の国の伝統を受け継ぐ者、またそれを全体に引率させる者が、正当な伝統を引き継がなかった場合には、この日本の将来というものはとんでもないことになる。その伝統と違ったところに行くということは当然のことである。世界を背負う者、あるいは理想世界を建設する者、あるいはすべての責任をもつべき者は、いったいどういう者だろう。やっぱり、その世界を背負う者、世界の新しい伝統を立たせる者、そういう者は青年であって、神の摂理から見てもやはり、神に至る伝統を青年たちによって立たせてもらいたいというのが、神の切なる願いである。 旧約時代を振り返るというと、旧約時代はみんなおじいさんが伝統を立たせてきたのですね。ノアのおじいさんとか、アブラハムのおじいさんとか。それからヤコブは例外だね。しかし、これも年を取ったもんだ。それからモーセにしても、みんな年寄りだね。その年寄りの旧約時代より、新約時代に移ってくると、洗礼ヨハネを見ても、イエス様を見ても、これは青年だね。いわゆる二十代と三十代の期間において、すべての天の伝統を受け継いで、その伝統を現実の世界に、結ぼうとしたその中心的存在が、イエス様あるいは洗礼ヨハネだった。そのイエス様に、洗礼ヨハネを中心として神の国の理想的な現実的伝統を築いたとするならば、その伝統はイエス様を中心として、後世に世界的伝統基準として定立したに違いないだろう。青年というものは、それはまだまだ社会に接していない、一方に向かっている時期である。自分の熱い心の中で決めたものには、直ちに行動する。だから、先生によって教えられたその内容を、直ちに実行して、自分を築こうと願うのが、これが青年あるいは学生である。 神様も何としても、年寄りよりも青年を願うことになるというのがその思いに違いない。だから成約時代は、青年を中心として出発するのが原理的だ。 堕落前 アダムとエバを眺めた神 伝統はどういう目的に向かっていくのであろうか。これを我々は、はっきりと知らなければならない。まずもって個人完成を目標としなければならない。国を救う前に氏族を救わなければならない。自分の家族を救う前に自分自身を救わなければならない。我々統一教会の成約時代におきまして、神様の願うところは、老年でもなければ壮年でもない。これはまさしく青年を願うに違いない。君たちの年齢は、まさしく成約時代のすべてを背負う神の希望の中心として召され、中核の使命を果たし、そればかりでなく、中心的な基準を立たせるにふさわしい存在であるということを結論的に言っても、それは間違いないと思う。それは日本ばかりではない。海外の統一教会メンバーは、みな青年である。アメリカでは、平均年齢をとってみれば、二十三から二十五歳というような年齢であることを思えば、この若き者たち全部が、目的に向かって行動するのに、命を捧げ、すべてを捧げて、自分たちはこういうふうに行くんだというような、その決意において毎日の生活をしていくならば、その生活の背後には新しい伝統が築かれるに違いない。 このような青年があればこそ、未来の日本は、新しい希望を抱くことができる。ここにおいて、日本の祝福を受けるような目標をもつことはもちろんであるが、あすをつくり、世界をつくるというような、その決意に燃えて、国を越えて、アジアの青年と手をつなぎ合って、交流しながら超国家的な心情を一つにして、超国家的な行動を、実践的になしていくならば、そのなしていく基台が長ければ長いほど、この動きはそれは滅びるのではなくして、大きくアジア的になり、それを伸ばしていけば世界的な一つの中心なる道として、現れていくのは当然のことである。君たちは、そういうふうな伝統を受け継ぐ使命をもっているとともに、受け継いだ伝統を、また築き上げなければならない。 今、我々統一教会としては、この観点から見た時に、世界的青年の教育と理念を、正しく一つの方向に、超民族的に固める教育制度が必要になってきたのであります。ここに集まった者たちはみな青年である。まだ汚れていない。この世的に汚れていない素直な心をもっている。その新しい心に新しい決意をもつ。新しい決意をもったその決意の自信をもって、心身が一つになり、神に完全に愛される完成された男女となったとするならば、これをいかに神様が喜ぶだろう。エデンの園においてアダムを造り、エバを造った神様から見た場合に、神様の最高最大の願いは何だったかといえば、神に永遠に愛されるにふさわしい、神の創造目的にかなった完成された男、完成された女、いわゆる息子、娘を求めてきた。神様はそういうふうにして、ありったけのすべての希望を自分の息子、娘にかけて、そうして未来の発展を夢見たに違いない。そうしたすべてが堕落によって崩されてきてしまった。そののちに救済摂理を通して、これをもとがえし、老年時代から壮年時代、青年時代へというような歴史を通過して、今の時代においてついに青年層を迎えるようになった神様においては、堕落したアダムとエバを堕落する前に眺めていた神はどれだけ希望をもって眺めていたことか。そう思う時に、こういう立場が今の成約時代の我々青年ではないか。 愛す愛されるという伝統神が君たちを愛すると同じように、君たちも神を愛するのは当然だね。それは原理原則である。だから、神を縦的な中心と慕いまつるならば、父なる神の子として、神の娘としての関係において愛される時、そういう愛する伝統が始まらなければならない。それを果たさなければ、個人完成の出発点は満たすことはできない。家庭というものは個人ではない。相対圏を満たしていくのだから、まずもって、個々において神に愛される。しかしそればかりではなく、愛される神を我は親として迎えるとともに、神から受けた愛を神にお返しする。親孝行をする。縦的な立場において、親子たる心情が結ばれた基準に立ち返らなければ、個人完成の出発点は生まれてきません。 君たちの平常言うような、個人完成というものは、いったい何か。(それは)縦的に親子関係の信仰を結んでいくことにある。そうして神が自分を愛したと同じように、子供も神を愛し、愛は相対関係間に成立するものであるから、神と子供は離すことはできない。 自分が泣くのは、自分のために泣くのではない。神のために泣く。主体、相対関係を円満に統一圏をなすために、それをなす。自分のすべての活動の範囲を広げるのも、その主体相対関係を固めるために、それを広めていく。そうすることによって、神の主管圏が次の主管圏に拡大されていく。 それが家庭を中心として、その主管圏を広める相手と相対したら、それは夫婦である。男に対して女、女に対して男、その男女は自分なりにおいて結ばれる男女の関係ではない。それは神を中心として、横的立体的に強く結ばれる中心的な心情圏として立たせたのが家庭の基準である。その夫婦は、神より愛される自分の夫を、神と同じように愛することができる。神が愛する奥さんを、自分も同じく愛することができる。神を中心として、男と女の授受作用のそういう関係、愛されたら愛するという関係を、共に自分のものと同じような立場に迎えるところに、この二つが共に入り交って一つになり、共に愛するその結果となる。 アダム、エバ二人が愛するのを見て、神様が寂しいものではないんだね。ああ、自分の内心にあったその愛の素質というものがあれだけ強いものだったのか。アダムとエバが絶対的に一つになって愛し合うその関係は、自分の内心の相手が実体に現れたんだから、それを見るたびに反発するんじゃなくて、それはプラス、マイナス関係になっている。 本当の幸福の伝統がない こういうような家庭を中心として、本当の幸福の伝統がこの地上界を中心として始まらなかったというのは、これは、人類の最初の先祖が堕落したからだということは我々のよく知っていることである。我々は堕落の後孫として生まれたに違いない。それは否定できない。だから、こういうふうに考えると、自分の父母も善なる父母とはいえない。そうなれば、それを拡大すれば、その民族も善なる民族の基準を受け継いできたものではない。だから堕落の後孫である以上、神によって出発したのではなくして、サタンによって出発した圏内に我々はいるのである。こういう圏を正してもらいたいのが、堕落圏内、死亡圏内の願いに違いない。 こう考えてみた場合に、我々は自分なりには解決できない。いくら解放を願っても、サタンに主管されているから、天使長以上の知恵をもっていない。サタン以上の力をもっていない我々としては、これを克服するということは絶対不可能である。永遠の死亡圏に、人類は滅亡していくというのは当然の結論である。だから、もし、救ってやれるお方があるとするならば、サタンの怨讐圏に立っている善なる神自体以外にない。神は哀れな人類に救いのみ手を差し伸べて、数多くのその聖人たちは神から遣わされたのだから、神の遣わした聖人の基台が拡大されるというと、サタン世界の家庭が破壊されるんだね。サタン世界の社会が破壊されるし、サタン世界の国が破壊されるから、サタンは命を懸けて神から遺わされた聖人、義人、預言者たちの首を切って殺してしまうのは当然のことである。だから善なる預言者、聖人、義人たちはこの世界に来て迫害され、あるいは殺されていった歴史を我々はよく知っている。そこには死亡の基台があり、そこから新しい個人圏、家庭圏、氏族圏、民族圏、世界圏の方向に広げて、神は摂理していったんだよ。そうしてそれをなすために数多くの宗教を立てた。 キリスト教は神の足場 近世に入ってきて、すべての宗教圏が世界的文化圏を抱くようになったから、神はこれを一つにまとめなければならない。その新しい宗教文化圏の世界を、総まとめにして、一つの神の理想とする善なる世界へもとがえししていこうというような運動をなす神の摂理がある。この計画を完成させるために遣わされるお方が救世主、いわゆるメシヤ思想である。 このメシヤが来たとするならば、一人ぼっちで来ても何にもならない。メシヤが来るんだから、メシヤの思想に相応する、それなりの超民族的な足場をつくらなければならない。そういう文化圏を世界へ発展させた特定なる宗教が、いわゆるキリスト教である。なぜキリスト教が世界的な宗教になれるか、他の宗教でもよいではないか。しかし理論的に見た場合に、最も神のみ旨に合う、最も神が願われるその内的心情を代表した宗教であればこそ、世界的になる。そう見た場合に、キリスト教はまさしくその核心を突いて、今までその内容を抱いてきた。だから、このキリスト教は神が好きなんだから、神が世界的な神だから、世界へ世界へと発展するのは当然の話である。それでは神が主張する内容は何か。愛を主張する。それを、イエス様が言うには、天、地、人に対して神は裁きの主ではないんだね。「愛のお父様」と言うように、こういうふうに位置づけた宗教はほかにはありません。 誰が神を動かせる 「ああ、神よ。全知全能なる、永遠に唯一絶対なる、無限なる神におけるひとり子である」。ひとり子(という)、そのことを言った一言で、これは万民のメシヤになれる資格がある。「ああ、自分は神のひとり子だ」と言う者はいったいどういう立場に立つ者であるのか。神が愛の心をもったとするならば、その愛を初めて得たものがひとり子だよね。愛を占領する者もひとり子だよね。そうだろう? そのお父様の心中に潜んでいる愛の核、そのものを溶かして、動かすことができる。それを動かすことができる者が何? (ひとり子)。そういう観点に立ってみた場合に、ああ、イエス様は神様の心情の中において、その心情を完全に占領し得る資格をもってきた代表者である。神様の心情を万民が願うならば、そういう内的な心情を占領し得る、そういう経験をもったものでなければ神の愛の世界を指導することはできない。だから、それはメシヤの資格に当たる。 まずもって神の愛を体恤 イエス様は神のひとり子である。とともに、我々も救われた時には、また立場は違うけれども、我々も神の子となる。だから君たちに甘柿を接ぎ木した時には、完全に甘柿になるんだよ。イエス様に救われてからは、イエス様が救い主かといえば、そういうものではなく、兄弟となる。そして、イエス様は新郎であり、君たちは新婦になる。イエス様からのこういう伝統は、兄弟の愛によって始まった。これは天宙的な宣言だね。今までのような堕落圏内に示された兄弟の伝統ではなく、新しい伝統を築くのである。それが君たちであるというんだね。 だからここにおいて天が願う新しい兄弟の伝統を植え付ける、新しい兄弟の伝統を築くとともに、新しい夫婦の伝統を受け継ぐものでなければならない。それは理論としての話ばかりでない。歴史的にそれを押し進めていく。そうすれば、兄弟の伝統が生まれ、新郎新婦の伝統が生まれ、神による愛の伝統を受け継いだとするならば、そこにおいての夫婦により生まれる子供は、神によって愛される子供になる。堕落した圏内において生まれるのではなくして、堕落しない神の愛される圏内において生まれるのだから、サタンに引かれる立場ではない。だから罪はないよ。だから罪なき子供が生まれて、親子関係の伝統がキリスト教を中心として、決まるようになっている。 そういうふうに約束した時が、新約だね。旧約の約束が成されなかったんだから、新しい約束が新約聖書だね。真の兄弟になるんだから、愛を相続して、真の神の子供になるんだと、それを約束してくれた。そして再臨の時には絶対に成る約束だよ。その時代が統一教会のいう何時代だって (成約の時代)。 約束ばかりする神様ではないよ。素晴らしい約束を成さなければならないから、成約時代に入ってくる。だから、イエス様みたいな子供がたくさん生まれなければならない。イエス様みたいな新郎新婦がたくさん生まれなければならない。イエス様のような理想的相対をして、子供を抱くような家庭がたくさん生まれなければならない。この理想的世界はここから始まるのです。それは、誰から始まる? (個人)。個人から始まる。 完成しない前に心情的に罪を犯して堕落したんだから、アダム、エバの堕落は心情的に未熟の時に、神の命令、神の指示なきところにおいて、心情的行動の第一歩を踏み出したのが動機となっている。そういう環境が、成約青年におきましては、環境がいくら四方八方に偏っても、それは無関係、無関心なのである。無関係で無関心ではなければ、サタンは最後の蹂{じゆう}躙{りん}された愛の倫理を受け継いだ親玉だから、来世においては、全人類の心情を蹂躙しようとして、サタンは最後の知恵を働かせる。 共産党は、遊べ! 踊れ! 歌って踊って恋をしろ! では、どうなるか、それは破壊である。サタンはそういうような環境をつくって、破壊しようとするんだね。 だから、共産党が一番嫌がる団体は統一教会である。彼らは、歌って踊って恋をして、自分の宣伝に乗り気になるように誘う。しかし、いくら言っても、気にしないのが統一教会の青年である。分かりましたね? (はい)。君たちは神の前に立って、まずもって縦的に神の愛を体恤しなければならないんだよ。 直接この目で神を見る 神様は二性性相のお方であるから、「なぜ人間を造りましたか」と言えば、(それは)一人でいれば刺激がないからですね。喜びというのは、相対関係によって生まれるものだから、刺激が必要である。一人では刺激が得られない。相対圏の刺激を愛するんだね。最高の神様の相対的愛に立って初めて愛を受けられる。そうすれば、神の内性がそのまま実体化されたものとなる。神様が悲しくなれば人間も悲しくならなければならない。だから人間と神様は別れることができないんだね。いくら研究しても疑問を抱くことはない。もう既に別れられないようになっている。だから、個人完成は縦的な神と自分の関係をもつものである。 縦的な神は見えない。その見えない神が、その実体相をもつためにアダム、エバを造った。アダム、エバの心の中に神がいまして、アダム、エバが完成されて神の愛を受けるようになって、神は内的な父であり、アダムは外的な父となるんだね。そうした場合に、外的姿は内的姿と同じである。神様は人間の姿をよく見つめている。そうすれば神様は人類のお父様として、アダムの姿をとって、それからエバが人類のお母様としてや宇宙の姿をもった、実体の姿をもったものとなって、この人間、万物世界において、親として万民に似せられたものとなる。神様自体をそのアダム、エバの姿を通して、いつも神様がいるということを歴史を通して知りながら、似せさせることができる。そうなったとするならば、神に対して疑う必要がないね。いつも見えるようになっている。堕落しなかったならば、呼べばすぐ現れるようになっている。そういうような基準になったら、「神様がいない」と言って説明できるの? (できません)、誠を尽くせば返ってくる。宇宙の原則だよ。それで自分の親ということを証明できる人いるの? 横に座っている親に対して、この親が自分の親である以上、何十年説明したって、これ説明することできるの? 君が一億万民が総動員しても、誰が自分の親じゃないと説明できるの? 世界万民が総動員したとしてもこれは説明できないんだね。 それで、神様は何を願っているかというと、この末世時代において、神様の姿を現さなければならないという。それは、完全に心情的、縦的に復帰された、完成された男、すなわち、メシヤとして再び現そうとしているのである。完成されたアダムの身代わりとして行くんだ。完成されたエバの身代わりを中心として、その成約時代には、神様自体が真の父母の姿をもって、万民の前に現れる。だから、統一教会は、権力、あるいはいかなる政治によるてすべての力を投入しても、主管できない偉大な力をもっているのである。生きる神様を、生きられる神様を、我々は直接この目で見、この感覚で体恤し得る圏内において、体験を重ねながら行くのが我々統一教会の道である。分かりました? 過去にイエス様を信仰しながら、イエス様を信じながらイエス様に会った人は、何人いるか? (一パーセントもいない)。少なくとも二十年、四十年間信仰を保たなければ、十字架につけられたイエス様に会うことはできない。統一教会では一週間だけ原理を聴いて誠を尽くすとお会いする。それが違うんだよ。ああ、偉大なること、天宙的革命の道は一つ開かれた。数千年の歴史を通しても、どうしても、会える一点を見いだすことができなかったのが、統一原理によって、我々は一週間以内にその触覚をして、通じる道を発見するとは、本当に偉大な奇跡の統一教会の道である。その背後には六〇〇〇年がたっている。この人類文化には、六〇〇〇年かかって人類の生活圏にもたらしてきた神が、六〇〇〇年の蕩減のすべてを築いてきて、ここに蕩減の犠牲がすべて集結されている。勝利的な結実体として結びつけたのが、親子の愛の関係である。 神と同じ悲しみで世界を眺めよ 「ああ、神様に会いたい」。「ああ、先生に夢でも会いたい」。それで、真心を尽くす。それしかないね。万民のために血を流す。神様と同じような……。血を流す。朝早くから足を引きずり回して、そうして神様の一番近いところに行く。ああ、先生に会いたくてたまらない。寝るのも忘れて、先生と泣くような心情圏でなければならない。一番近い道だからすぐに行く。すべてを総合し得る力をもったものが人間である。神様が造ったものが人間であるからね。そんなに素晴らしいものが人間であるよ。 神様も一人だけでは生きられません。だから、統一教会の教えは神のため、人のため、だからもっと大きいもののため、まず神様は主管圏、天宙復帰の目的を完成させるお方だから、より大きい基準を復帰することによって、より大きいところの救いの手を伸ばすができるのだから、より大きいものを中心にし、より小さいものは吸い込まれ、犠牲になれ、とね。それが宇宙の原則だよ。だから個人は家庭、家庭は氏族、氏族は民族、民族は国家、国家は世界、世界は天宙、天宙は神、神、神。そして、そういう基準を成し得た場合に、神様の天宙的立場に立ったという勝利を目指して闘う者でなければ、神様の子供になれません。神のために、天宙のために働くような自信をもたない者は、神の子供になれません。統一教会において真の父母に従うというのは、原理原則にかなった結論である。分かりましたね? (はい)。いいかげんな問題じゃない。こういうような縦的体恤を各自がすることによって、こういうような者となる」。「お父様、天のお父様」と呼ばれるようなその悲しみを、天のお父様が願う国が満たされていない時の立場で言ったならば、神様が悲しいと同じように、神様がその世界を眺めて、それ果たさなければならない使命を抱いて、決意するのと同じような悲しみを抱きつつ、日本を眺め、世界を眺めるというならば、その人は、一人でいても神の子である。 "神の欲望が自分の一心にみなぎっている”と思うんだよ。“神に決意し、絶対にこれを果たしたい”と思うようにならなければならない。何年、何十年、何百年にも延長されていくとするならば、神の内心の苦痛はいかばかりか分からない。その一瞬を勝利していかなければならない。これを犠牲にしても自分は喜んで生きるというような、和気あいあいの自分の思いをすべて尽くす子になったとするならば、そういうものをもった者が、日本を救う。将来、日本の霊界を支配する基準になる。現世においては目立たなくても、未来の霊界に行きましては、数多くの超民族的世界万民を、神の代身として、支配しようとする者となる。神はそういうような、我々統一教会の青年を願っている。未来への伝統を立たさなければならない。こういう現実において、我々にそういうような実体者を願っている。そういう者が、いわゆる統一教会の青年でなければならない。 十字架を堂々と歩んだイエス様 旧約、新約時代の歴史を顧みて、神の心情を迎えるために涙ぐんで、十字架の道を堂々と行きつつ、神様の心情を慰めて死んで行くようになる子供となければならない。神様の歴史において、現実的世界のその道を開く伝統を立てたのは誰か? イエス様である。ゲッセマネの祈りにおいて、血潮を流すような痛みを感じながら祈ったのも、それは神の伝統をもたらすためである。神の伝統を、正統にこの地上に残すために、もがくように祈祷をなさざるを得なかったイエス様である。そういうことをして、この地上に初めて、人間世界の開拓の道の第一人者としての伝統を立てたのがイエス様である。そのイエス様の伝統を、正統に受け継いで、それを公的世界に発展させていくのが宗教である。善なる伝統を受け継いで、後孫へ後孫へ与えていって、キリスト教となった。 キリスト教の教える心情圏は一つである。目的に向かう希望と心情圏は一つである。それを一つにするためには、神に立ち帰らなければならない。まずもって、統一教会は神に立ち帰る。神様の心情圏に立ち帰らなければイエス様の心情圏は分からない。イエス・キリストもキリスト教の伝統も分からない。未来のその希望の伝統も分からない。神に立ち帰って、再びこの地上圏の生活圏内に、あるいは教会圏内に宣べ伝えていこうというのが統一教会の今までやってきた道である。分かりましたね? (はい)。まずもって、縦的関係の心情を体恤しなければならない。神に指導を受け、理想的人間にならなければならない。分かりました?(はい)。 失っている三つの心情 堕落した人間においては、一遍に三数を失ってしまった。アダムは神の子供である。エバは神の娘だね。子供としての心情、子女としての心情を失った。それから、兄弟同士の神の愛を中心として愛すべき、それを失ってしまった。エバはアダムを殺してしまったね。アダムはその兄さん(である)にもかかわらず、エバに引かれて、エバを主管できなかったね。善なる兄妹でなく、悪の人間となり、だから善なる夫婦が堕落して悪なる夫婦になった。神の愛の心情圏を一遍に失ってしまった。一遍に失った心情をいかに復帰するや。だから、復帰のそういう立場に立った場合には、男の子は兄さんと同じような思いがわくよ。心情の世界に入ればね。 そうなったとすると、先生に対して自分は心情圏においては子供だね。兄弟の心情、親の心情、子供の心情、三心情を一遍に失ったのが堕落であるから、これをどうにかして、心情的に体恤し、復活圏を盛り返さないというと、完全復帰はできません。分かりました? (はい)。 聖徒こそ神のために涙ぐむ 心情復帰、神の心情、横的蕩減復帰、これらの蕩減復帰が始まるんだよ。一斉に心情圏が始まる。神のために、そういうことになった基、統一教会がこうなったもとを、いくら研究しても分からない。なぜ統一教会に気違いみたいに先生が命令しているか、心情一致して動くのか分らない。君たちは先生と心情一致して動くの? (はい)。信じられません。男は天使長だよ。天使長、だから、統一教会の勇士におきましては、男としても、先生を見たくて涙を流すようでなければ、統一教会の聖徒ではありませんよ。先生を見たくて涙ぐむ者でなければ統一教会の聖徒ではない! 涙ぐむそういう子供になるんだね。それが先生のためではなく神様のためである。 先生は神の愛を中心に君たちを愛し、君たちは先生を愛し、神を愛し、君たち同士愛するんだね。それだけ愛すれば世界万民を愛せるんだね。君たちが先生を愛すると同じように食口を愛する。先生の願いは、先生が愛する以上に愛せ! それをすれば兄弟同士、自分の親以上に愛するようになるというんだよ。こういう伝統が日本全国に広がった場合には、日本は神様が、いくら滅ぼそうとしても滅びません。君たちは理論的に勝利する者ばかりではなくて、理論に先立って心情でなすそういう者となれ! 兄弟みたいに、兄さんみたいに、弟みたいに、妹みたいに、親みたいに愛するそういう群れとなれ! そうなった場合には、その食口の友達に「来るな」と言っても、もう見たくて見たくて来るんだよ。先生はそうだよ。同級生の親友はみんな先生のところに来る! それは何しに来るや? 誰にも相談する者ないんだよ。神の心情圏を相続する、それを実践するところに、そういう理論があって、神と一つになるようになる。そういう伝統を立たせるんだね。 そういう覚悟でもっていま一度目的に向かってやりたい者、手を挙げて。(はーい)。そういうふうにやりましょうね。その次、神の伝統を万民に促す。よみがえらせる。そういう統一勇士、そういうふうになりたい者手を挙げて。(は-い)。それを先生は信じています。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.09
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天の父母様聖会 第31回七・一節 及び 第25回七・八節記念礼拝式2021/08/08 07:00に公開予定です。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.07
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「希望の日」晩餐会のメッセージ1974年5月8日帝国ホテル孔雀の間で 神より貴い人間の価値 敬愛する諸先生の皆様。待ちに待ったこの場におきましてお会いすることができましたことを心より感謝申し上げます。 人間は、食べることと、見ることによって喜びを感ずるのであります。今日、こういう風に、食べたり、いろいろな環境を見ているのですが、私たちのために音楽や歌、ピアノを聞かせて下さった人達にも感謝の拍手をお送り下さることをお願い申し上げます。(拍手) 諸先生方におきましては、統一教会の創立者としての、文鮮明という人物に対して、いろいろな疑惑を持っておった方がおられると思います。今日、このようにして諸先生をお迎えしましたこの本人が、いわゆる文鮮明という人物でありますから、皆さん、よくよく御判断をお願い申し上げます。(笑) 私は、敬愛なる諸先生方を心より愛するものであります。 人類歴史におきまして、あるいは古い、あるいは長いといいましても、神様の永遠不変なる存在の前には新しいものであり、「瞬時」の期間なのであります。こういう観点から見ました時に、日本の国あるいは日本の国民が願う前に、神様が、この日本列島を誰よりも愛して来られたと、思うのであります。 この日本列島のこの地に、日本の国とその国民を立たせて今まで守って来られた、特に、第二次大戦後において、世界史上にかつてない祝福を恵まれた国があるとするならば、それは、日本以外には無いということを、諸先生方もよく知っていらっしゃることと思うのであります。それは、日本の国民の努力もあろうが、その反面、まさしく、神の保護と祝福と愛が多かったことは言うまでもありません。 このような完全の地において、この東京というのは日本の国の中心部であり、日本を愛して来られた神においては、この首都である東京と都民を愛さざるを得ません。この都民増ら最も愛される方々が、ここに集った人達、従順であられる諸先生であります。そのことを思います時、神様が皆さんを愛していることは、いうまでもありません。このような諸先生近が今晩、このように集いまして、足らないこの私を観迎したということ、無上の栄光に思うのであります。それに、大韓民国の代表者、あるいは中華民国の代表者の諸先生が、このバンケット(晩贅会)に参加して下さいましたことを、心から超謝するものであります。 日本と韓国と中華民国はアジアの地から見た場場に、共に兄弟であると思うものであります。この「弟が一つになって、日本が今まで神に愛されてきた、それ以上の愛を、神の高次元な愛を、日本の国を越えてアジアあるいは世界に、授けさせるような努力がなされ、共に手をつなぎ合い、兄弟の格でもってそういう方向に進む、その契機となる今晩であるならば、これ以上の喜びはないと存じます。 諸先生の家庭におきまして、あるいは会社に、生涯におきまして篤い神の守りが共にあることを願きながら、今から本人の所感を述べたいと思うのであります。如何でしょうか。 人間歴史におきまして、如何なる時代においても、人々は、永遠普遍の真なる愛と、幸福と平和と理想を求めてきたのであります。現代におきましては、この問題を持っていても、求めておっても、それが果せる望みというものが欠けた見地に立っているということを、我々はよく知っているのであります。それで、人々が落胆して、この世界はもうだめだ止これ以上に行かれない。という限界まで人類がつき当り、窒息圏にたっているということを、我々省よく知るものであります。 こういうような変化してゆく人類世界におきましてはそれを果せないとしても、もしもこの人間を越えて、絶対なる神様がいるとするならば、その神様においてはまことの愛、まことの平和、まことの幸福、まことの理場想を成就されるに違いない、とする以外、我々は求める道がないのでございます。 こういう風に考えて見た場合、神様自体におきましてもは、愛の儒様であり、あるいは平和、幸福の王様であり、中心者であるに違いない。そして人間が求めてきていき詰ってしまった限界を、神によって打開する以外にはないと思うのです。その愛とか、あるいは幸福とか平和とか理想という、その言葉自体を考えてみた時に、その言葉は、一人だけという言葉ではございません。 愛にしても、幸福にしても、平和にしても、理想にしても、相対関係がなければこれが果されないのです。そう思います時に、神様におきましても、神様ははたして愛、はたして幸福、平和、理想を成されますか?こうつきつめて聞いた場合に、神様自体におきましても、これは出来ない、ということになるのあります。それが相対関係の理想を果たすには、この宇宙世界に、誰かがその相対の立場に立つものがなければならないというのであります。そう考えてみると、その宇宙間に、神様がもし主体とするならば、その相対的立場に立つというものは我々人間以外にはありません。そう思う時に、神様の愛の完成は神様によってなされるのではなくして、神様の平和、幸福、理想も神様自体によって成されるのではなくして、我々人間なくして果たされないということを思うのです。(拍手) 今まで全ての人類、あるいは全ての個人々々において、ここまで考えた人々がそう居ないということを感じるのでございます。 こういう風に結論を出すというと、我々この一人一人が止こんなにも偉大な価値の相対者であるという価値を、我々は、再び、元返ししなければなりません。また再び、これを探し求めなければならない。この執念が、ここに、滞っているということを、我々はよく感じるものであります。 だから、こういうような相対関係の理想を果たすには、この宇宙世界の誰かが、つまり、そ相対の立場に立つものが、なければならないことになるのであります。 もし、神様が永遠不変であり、唯一、絶対であるとするならば、その理想を全てを成し得るその相対者におきましても、永遠不変を求めるのは勿論であります。唯一、絶対という基準を真なる理想を求めたのは、結局その主体たる神を迎えるための準備であったということを結論づけるのであります。もしも、我々人間がその立場に立ったとするならば、つまり神が永遠の生命の実体者であるとするならば、我々も永生する相対的実体者であるに違いないという事は、最も理論的なことでございます。 こう考えてみた時、我々人間の価値をここまで求めていかなければならないと思うのであります。 それでは、諸先生方に、一つ質問を致しましょう。 皆様におきまして、過去において、年令において先輩の諸先生方も多くいらっしゃるようでありますが、若き日に、自分の相対者として嫁を貰うときには、自分よりも優った者を貰うか、それとも劣った者を貰うか、と聞けば、誰れでも優った者を願うのが当然でございます。 こういうような本性が、一体どこから到来したのか? 人間は何処までも、宇宙の原因の存在ではありません。結果の存在であるということを絶対に否定できません。こういう観点からみた場合、ある原因の存在に由来したその絶対的な結果の存在である。だからこその絶対に否定することはできません。こういう観点からみた場合はある原因の存在に由来しその絶対的な結果の存在である。だからこそ、そういう願いを限つとするならば、その原因の本体あるいは原因の主体も、そのような願いを持たざるを得たざるを得ないという風に思うのであります。 そう考えてみた時に、我々は、質問を神に向けて、「神様、もしもあなたも、あなたとその相対者が自分より優った者を願いますか?あるいは劣った者を願いますか?」そういう質問するならば、神様の答は、この地球上に住んでいる人々の答えと同じ結論を出すに違いない。 神様自体も、その相対者を自分より優った者と見る、そのようなものでなければ神様は永遠の愛の木対者として、あるいは希望、あるいは幸福、あるいは理想の相対者として永遠に愛されることは出来ない。 こう考えてみた時、神よりも優る相対圏に立っているものは、人間の価値であるということを、ここに結論を出すことが出来るのです。 人間は神の貴い子女 もう一つ質問するならば、ここに美男子と美しい娘が立派な夫婦になった。いよいよ最初の子供が産まれた。その子供を抱えるお母さんを見た時に、それは実に素晴らしい美人である。そういう子供を見つめてみた時に、お母さんあるいはお父さんに比べて見た時に、それはじゃがいもみたいな、自分の気ままに出来たようなタイプをしている。それを見つめながら、その親に言うには、「この子供は実に素晴らしい。お父さんの顔よりもお母さんの顔よりも、実に素晴らしい顔をしている。」そういう風に言うとそのお母さんの口がゆるむようになるのです。 それに反して、「絶対そうじゃない。そんな事はあり得ない。自分の方が子供もよりもっと素晴しい」こういう事を言う親は一人もいないと思うのであります。如何でしょうか?(拍手)間違いなくそうである。そうだとするならば我々自分自体はそもそも、神の子供として造られた、神の愛すべき真なる子供、真なる娘として生まれてきた。その子供がこういうような悲惨なものになる。惨めなものとして、このような堕落圏、あるいは聊息の世界にいるのを神様は喜ばれるはずがない。 最高の理想の存在として、和気あいあいとして立っておるにかかわらず、何故こういうような結果になったかという事は、それは宗教の立場からは、堕落したからというのです。なにか誤ってしまったという結果になる。いわゆる陥ちてしまった、何か、原因から離れてしまった。その事によって、こういうような悲惨な人類になったというのであります。こういう悲惨な人類は、悲惨なるその状態におってとどまるのではなくして、これを乗り越えて、歴史を乗り越えつつ、生涯を乗り越えつつ、人間はその本郷の地に向って、今までそれを探し求めて来ている。生涯そういう過程にあるのです。まだその結果が果されていない。こういう風に考えてみると、この人間自体が、神より尊きものにならなければならない。そういう存在であるということを、皆様がここにおいで下さって、「文さんという人からこういう七うな話を聞いた」と一生涯忘れれない印象となれば良いと思うのであります。 「ために存在する」神さま こういうような結果を見た時、主対なる神、相対的立場に立つべき理想的人間という、二つの問題に帰結するのであります。 そうすると神様は、知恵の王者であり、すべてを知っていらっしゃる全能なるお方でありますから、人間、人類世界において真なる愛と、真なる幸福、真なる平和、真なる理想を主体と相対関係において、主体を中心とした方向においてその起源を定めるか、あるいは客体を中心とした立場おいて、その起源を定めかという、神はその永遠の理想世界をながめながらそれを決めざるをえないというのであります。 もし神を中心として主体ばかりにそれを尽せということになったとするならば、そういうような伝統的基準を人間が築いたとするならば、すべてが自分を中心としてすべてをつかえさせるというようなことになったとするならば、これは大な事になるというのであります。一つとか、統一という問題、あるいは融合とか、あるいは発展という原則を満たす事はできません。 それで神様におきましては、そういう主体を中心として客体が待るのではなくして、神自体におきまして客体を中心として神自体がために存在するという立場を決めざるをえなかったというのを我々はわかるのであります。 ここにおきましてすべてが一つになる、すべてが発展の原則を満たすから、全能なる。全知なる神は、この愛、幸福、理想愛、本然の基準を、神に存在すると定めざるをえなかったというのであります。こう考えてみた時に、理想とか、愛と平和、幸福は、自分を主体として主管する、あるいはつかえさせるのではなくして、あるいはために生きる、ためにすべてを得るという立場におきまして、真なる愛、真なる幸福、真なる平和、真なる理想が始まるというように、宇宙創造の理想の原則を、ここにおあたのであります。 こう考えてみた時に、ここにいらっしゃる諸先生におきましては、東京、日本の地におきまして、自分は自分なりに、自分を中心として自由自在に主管的な立場に立ってゆかれる、何も自分に欠けるところがない、そういうえらいお方がおられると思いますが、この男である諸先生を中心として考えてみた時に、この男のいかにして生まれてきたかということを、つきつめて聞いてみますと、その男は、男自体を中心として生まれてきたのではなくして、そと生まれてきた存在の動機は、女によって存在されてきたということを忘れてはなりません。(拍手) しかしだそういうことを言うと、それはそうだが、文さん、これは男として気持が悪いじゃありませんか。今までそういうようなことを思ってこなかったから気持が丙いかも知れない。しあし、そういう風に気持が悪いと思わないで下さい。 今からずっと語りますが、もし、今までの男としては、自分は自分のために生まれてきた、その観念が宇宙の原則に違反する。女にしてみれば、女は自分を中心として生まれてきたとという、その観念が問題である。女が生まれてきたのは、女を中心として生まれときたのではなくして、男を中心としてきた。だから、存在の起源はために存在しているのだということを、我々はここに新しい認めて、それを中心としてために生きる、ために生涯を終えるというようなそういう男、そういうような女として、夫婦となったとするならば、その父母こそ真の父母である。(拍手)の父母こそ真の平和、真の幸福、真の理想の父母である。 その反面に、子供に言わせれば自体において、生まれたのも、親のために生まれたのであり、生きるのも親の為に生き、死するのも親のために死するというような立場に立ったとするならば、この子供におきましてはこれこそ真の孝行者。真の愛を受けが真の幸福、真の平和や、真の理想の子供としてならざるをえないでしょう。 また、国を中心として、為に存在するという原則を適用すれば、その国で一番愛国者は、一体誰かと聞かれたならば、すぐ答えがでる。 聖人中の聖人・イエスさま たとえて言えば、日本の歴史におきまして、一番日本が讃えるべき愛国者は、一体誰でありましょう、という時にこれは、近世においては、乃木大将をあげることができるでしょう。自分の明治天皇に対して生命を捧げる、あるいは日本の一大機危の為にすべてを捧げる。生命はもちろん、すべての生涯を日本のために尽したのだから、その方が言うまでもなく愛国者であります。これを拡大して人類歴に適応してみれば、一体この歴史上に真ななる聖人はいかなる者や、と聞かれたならば、為に存在するという創造理想の原則を適応すれば、すぐキャッチできます。それは駅、イエス・キリストという人は、最大の聖人として我々はうち立てざるをえないというこであります。なぜかと申しますならば、それは人類のために来られ、人類の為に生き、人類の為にすべてをつくすというその立場におきながらも、怨讐に対して祝福していた、そういう立場に立っていたということを考えてみた時に、善人はもちろん、悪に対しても存在そのものの為に、存在しきっていくという精神の為に死んで行かれたそなたは、イエス様以外にはない。そう考えてみた時に、聖人の中の聖人と言わざるをえない。 その立場に立ったキリスト教こそは、神に保護され、愛されて、神に守られて世界に文化を指導する現実の立場に立ってきたというのは、もちろんだと思うのであります。 こうきうふうに、為に存在するという原則を各個人におきまして、国家におきまして、世界にそういうふうな原則を中心として、もしも、人類が共に生きるとするならば、その国こそは地上天国にならざるを得ません。 ここに集っておられる皆様において、神のみ恵みに召されてその霊界は、諸先生方は、その霊界をよく知らないと思いますけれど、その霊界ののすべてのことを体験した事がありますがその世界をずっと分析してみれば、あの世界の構造組織体系は、何によって成されるかというと、この原則によってなされているということを発見することができました。 だから、ために存在する者達、ために生涯を過した者達が、行かれる所が天国であるということを諸先生方は信じてもらいたいのであります。 それで、数多くの宗教の教典におきまして、この為に存在するという原則を中心として、神は教え来たのであります。 神の国につなぎ、神の国を求める者におきましては、その本郷の国に帰る基準からみました時に、それに即応する内容でもって教育せざるを得ないから、高尚なる宗教であればある程その宗教におきましては、奉仕せよ、犠牲そよというような教えは、この原則からみた場合に、当然の結果と言わざるを得ません。 ために存在するということをひとことで適応すれば、聖書の教典が六十六巻あるとするならば、このひとことに帰する。ひとことに限る。 イエス様の言う聖書の内容を読んでみれば、現在の若き者には、思いもよらない内容をもっている。すべて反対のことを言っている。低かろうとする者は高くなるし、高かろうとする者は低かろうとするし、生命を捨てようとする者は、生命を救われると言うし、生命を救われようとする者は生命を捨てよと言う。すべて反対になっている。イエス様は救い主として来られたんだが、自分は侍られる為に来たのではなくして、仕える為に来た。すべてが反対だ。こういうような教えをなさったのは、イエスこそは、奥深い神の原則の基準を体瞼しておられるから、よくよく体験しているから、こういう教えをなさたと思うのです。 こう考えてみると、ここにいらっしゃる諸先生方におきまして、悪の人、善の人は、どういう法則によってそれを選び出そうか、それは簡単であります。人の為に存在し生きて行く人はそれは間違いなく善なる人であり、その反対に自分を中心として存在せんとする立場の者は、神の理想の世界と反対だから、悪魔に通ずるということを我々はここで見分けなければなりません。 俳書の内容からみた時に、堕落というのは一体何ものか、それは、自分の自覚を始めた、主体である神の為に存在するのではなくして、自分を主体として考え出した、自分の自覚を初めて考え出した所に、堕落の原因があるということをよく知っているのであります。 サタンというものは、侍るべき為に存在する立場におるにもかかわらず、自分を中心として存在するという立場を乗り切ったところにおいて、堕落、起源が生じてきたのであります。 聖書で言えば、エバは自分を中心としてアダムを堕落させた。女は男を堕落させた。誰を中心として――自分を保護する為に、為に存在するという原則を放棄して、自分を中心としてすべてを成させるというような立場におきまして、堕落してきたのであります。それが悪の世界の始まりです。そういう悪より先祖が、そういう結果に立って存在してきた我々後孫として、生まれてきたんだから、人類は自分を中心としてすべてを考えるようになった。自分をはじめに考える。これが堕落の結果のたまものである。 こういうような世界を神はそのままなす事ができないから、もと返さなければならない。どの世界に、反対の方向の世界に蛍さなければならないという運動を、歴史を通してなさなければならないというのが、宗教なのであります。(拍手)それが真理であるとするならば、歴史内にこういうような実績の期待を残しておるようなことを我々は見つめることが出来る時に、神は歴史を動かしておる。神は必ず在るという結論は、正当な結論である。 「ために存在する」者が天国へ行く そうするというと、なぜ神様は、ために存在するというような原則を立たせるようになったか。そういうような原則を立たせなくても良いのではないか。こういうように思う人がいるかもしれない。一つ質問をしましょう。我々本心をずうーっと分析してみた場合に、本心は善の立場に立っているという事を誰でも知っておられるのであります。 もし、自分の為に生命をかけて、あるいは、百パーセント犠牲の愛の心でもって、自分に幸運をこうもたらすその人があるとしたならば、我々はそれを問題視しようとする時に、その百パーセントの基準から、五十パーセント位を取って、ポケットに入れて、五十パーセント位を返そうとする、そういう本性を持った人がいるでしょうか?そう聞いた場場合に、誰でも、「そうじゃありません」と答えるに違いありません。 この心が、この心がすばらしい心である。その本性があるからこそ、百パーセントの愛でもって、報いられた場合には、それ以上返したいという思があるから、我々人間自体が、堕落したものが、もとの世界に帰る希望を持つことができるというのであります。何故ならば、もしも私が、Bの人に百の恩をこうむらせた場合に、そのBの人、私に対して以上返す。その百以上は真心をもって返す。とした場合に私自体は、それはまた返してやるという立場に立ったというならば、それ以上百二十%のものとしてかえす。まことに又Bに返してやったからそこにおいて百二十以上が戻ってくるというような結論になるのであります。 こういうふうに主体と相対が授受作用することによって、まわることによって永遠の観念がここにおいて成立するのであります。だから神様は、ために存在するということにおいて、永遠性をつめるために、ために存在するという原則を立たざるを得ないという結論になのであります。(拍手)そこにおいて、又発展がある。繁殖がある。繁殖をきたす事ができる。だから、一般の父母様が子供を教育する時、いいことをやれ、いいことになるか、人の為に尽くせ、犠牲になって皆の為、そうなれば、恵まれるんだ、良くなるんだ。内容にはっきり知らないけれど、結論においてそうういう事を言うとは、宇宙の原則がそうなっているということを認めたから、うなっているんだという事を我々は信じいといけないのであります。又、神様は、ために存在るという原則を立たざるを得ななかった。もしも、その基準を立たさなかったとするならば、中心を立てることはできない。為に存在するという為に、命をかける者はそれは、月日がたてば立つ程、どういうふうになるかと言うならば、間違いなく中心者になるのであります。 例をあげれば、もしも家族に十人の家族がいるならば、父母がおり、兄さん、姉さんがおり、一番下の弟がその家族のためにすべてを尽したとするならば、自然とその親も、小さいその子供を中心に立たせるようになる。その兄さん、姉さんもまちがいなく中心に立たせるようになるという事は、それは言うまでもありません。 だから、ために存在する者におきましては、中心者になるという鉄則を、我々はここに認める事ができるのであります。その中心者が決定になればなる程、その者におきましては、すべての家庭、十人だったら十人が自動的に主管してもらいたい。誰が願わなくても自動的に、我々の家の中心者として我々をひきたいいて下さるというように、申し出る結果になるのであります。 こう考えてみた場場に、まあ、人間社会におきましても、主管されるということは恥しいと思うんだね、本当に自分の為に尽すその者において主管される。それより幸福であるという事は、世にないということを我々は、認めざるを得ません。 もし、神様が宇宙の中心者であるというその神様は、宇宙の為に存在することによって主管されとするならば、その幸福感はたとえようもない幸福感に打たれるということはもちろんであります。だら、神の存在という基準をみたさなければないということは、中心者決定と共に自動的理想圏を満す事ができいから神様は、ために存在するという原則をたたざるをえなかったとううのであります。 それからもう一つ、三番目は何かというと、愛や理想を得たいの、我々の欲望であります。その愛なるもの、その理想たるものは、今まで人間におきましては神様によって果たされるという考えを持って来ました。 それは、絶対そうじゃありません。愛は神自分のものではありません。理想は自分のものではありません。自分によって成されるのではなくして、その愛たるものは、相対者によって授けられるという鉄則がある。その理想たるものは、自分によって成されるのではなくして相対者によって得られるのだから、生命よりも尊きその愛を理想を迎えるには侍る為に存在しるということになるのであります。 こういうような理原則を考えてみた場合に、ために存在するというところにおきましても、真なる愛を満たすことができる。ここにおいて、真なる幸福、真なる理想を満たすことは、諸先生方の生涯において、あらゆる社会、世界いずれにおいてもその基準に一致する原則が成り立つのです。 神あらば世界統一できる ここに立っている文さんという人は、世界統一教会とか、世界統一教会神霊教会とか、でっかい名前をつけまし。一体、統一は可能や、それはもうそうに違いない。それは可能なるものや、キリスト教にしても、四百以上の教派でもって、歴史的に闘ってきたということは、歴史の真実でみんな知っていることだと思う。 こういうような結果において、キリスト教自体なりにもうすでに崩壊の限界に立っておる。こういう限界に立って、統一教会、みなさんから言わした場合には、ミスター・文という男ちょっと頭がどうかなっているのではないかと考える人がいるかも知れなません。私としてそう難しいとは思わない、この鉄則でもって、ために存在すると言うある教派だったら、その教派に対して、その教派以上に尽くせ、そうだったらそこにおいては、一つになる。あるいは、異教の信徒に対して、その宗教が思想するその精神以上のつくし方を成さるならば、その宗教まで一つとすることができる。 この文という男は出来ないけれども、神様がそういうお方であるから、主体なる神様がそういう御方であるから、そういうお方の相対的位置を保つようになれば、それは、自然に神様のところによって、一つになるということは、理想であります。だから、一つになるのは難しくありません。 こういう原則に立って統一教会は始まったのであります。日本におきましてもは、今までいろんな問題を引き起こし、今ここにおられる諸先生方におきましても、自分に疑問をいだいて、どうやらあの団体、あの教会、なんとかかんとかいろいろ批判しているけれども、統一教会は、一回も弁明したことはございません。まことは人によって宣伝の結果によって認めるのではなくして、実質の結果によって認める。ここに立ってお者は、数十年間韓国において迫害されてきました。ありとあらゆる分野におきまして、個人から家庭から、あるいは、数多くの宗教から、あるいは、主冷の国家から、排斥されてきた。 しかし、一度も弁解したことはございません。ななぜ、神様がそうだかでありますから、自分のすべてのちかきものを犠牲にきながらも、弁解、その報いを願わない神を知っておったんだから、神に存在する理想のお方の、その後をついてゆかれるような人となるには、々と行く道が急がしいんであって周囲のさわがしい環境をふさぐのが忙しくない。そういう思いで今まで続けて来たんであります。しかしは、これはそういうふうにたたかう、そううふうにふみにじらなくなるのが原則でありましょう。その間において我々は、世界的基盤をアメリカにおきましてそうであります。 個人主義は滅びると私は警告しました。アメリカ大陸がいくら世界を指導する大陸と言いましても、研アメリカのその国をアメリカ国民より以上に愛する、そういうような若き運動、あるいは、そういうような宗教団体が、起ったとするならばその宗教によって、アメリカは支配されふ。なぜか、神がそういうお方であるから、そういうものを愛するものに真なるものに全ては主管されるようになるのである。そういうことである。 日本の皆様におきましてもそうである。日本の主人は一体誰がなるや、日本民族を誰よりも愛し、日本の国を誰よりも愛するその方のものになる。これは鉄則であるんであります。だから宇宙はその誰れのものになるや、宇宙を誰よりも愛するその者になる。神様を占領することへの道が一つあるとするならば、歴史以来現世全ての人間において果されるそれ以上神のために存在するという男が生まれてきた場合にに、その者によって世界は、神の世界は、それは本質の道を行くのでありましょう。そういうことを成すために来られる方が、メシヤだと我々は思うのであります。(拍手) こういうふうに考えてみた時に、我が統一教会は日本におきましても相当の問題を引き起して申し訳ないんでありますけれどね。若き者達が集りまして、彼等の言葉に言うのは、日本を救い世界を救う日本がこのアジアのために、大東亜戦争がおこしとするならば、そうう結果にもうならないはずなんであひますがね、もしそうなったとするならば、この日本は今どうなるでしょう。アジアの名主になる.しょう。 だから、この宇宙の原則を我々は思いまして、今日こういうような集いにおきまして、文さんとうう男と会った以後より諸先生方は、ああ神に存在することは、個人個人におきまして、いは、友達どうし、あるいはそれは会社の、それは社長或ちは、その職人におきまして、この原則を適用する所には、繁栄するようになっている。それは無限に続く、繁する。そういう者は自然的に中心者となると共に、その者に永遠に自然的にそれとも主管してもらいたがる、そういう会社、そういう国、そういう国民になるに違いなそうするならだ、共に気に合ってこそ、愛の国を守る。気に合ってこそ愛の国民をかかえる事ができる。こういうような国民になったとするならば、その国こそ、理想の国じゃありませんか。 今の歴史におきまして、或いは歴史家で独裁者とか、個人主義とか、それは利己主義とか、こういう者を中心として歴史は、それは、けがされてきたというんです。そうなれば、それその反対の歴史を守り、歴史を清めさせる、そういうような運動を誰かがどこかで成さなければならないというのが当然である。神あったとするならば、それを願うに違いない。そいいう観点から見て、我々統一教会は、この運動を誰が認めなくてもいいだろうというようにして、今活動しておるんであります。 それで日本の若き者はアメリカに行って今活動しておるんであります。日本の地も今忙しいんでありにもかかわらず、共産党と対決してゆく日本の運命を、新しい方向にこれは転回させ、まてめて行かなければならないの今日、現実におきまして、日本を後にして、なぜ世界の途上にアメリカのなぜそれをのり越えてアメリカで活動するや、日本に帰ってから、活動すればよい。そうではありません。アメリカは今名実共に、その民主主義を指導する。指導国家である。この国が滅びたとするならば、これは世界が問題になるのであります。 共産主義によって、それを防衛するその国は、アメリカ以外にない。日本自体、今これはできない、ということは、今皆様、諸先生方がよく知っておるのであります。裸になった女みたいに中共も申し込む、ソビエトもこれは結婚を申し込む、これは今までアメリカのその神士と共に手を組んでしまったにもかかわらず、それははなかえってしまって、手を離してしまった立場であって、そういう立場におきまして、日本は世界を指導するということができないというのはいうまでもありません。そういう観点から見た場合に、日本の現実もこれは、緊迫する状態でありのも、もちろんであるけれども、世界を救うにはアメリカを立たせなけりゃならない。それはアメリカを立たせるためにおいて一番問題の、それはむずかしいことを、責任もって、生命を捧げて、責任持つのが誰や、私は長い間、待ちに待っていました。数多くの宗教、宗教家をうかがってみました。数多くの地方議員、有名な人、みんな会ってきました。国会議員全にあってきました。それからその国の名士達全てにあってみました。逢ってみたんだけれども、彼等の胸には、そのアメリカ、世界を救うという想いはもつものは一会も見つかりませんでした。 このウォーターゲートの事件におきましてもこのアメリカ、もしもすべりこんだ場合には、とんでもないどん底に落ちてしまう。数多くの宗教の指導者、或いは世界で有名なビリーグラハム、そういう人達が国の先頭に立って国民運動をなして、これを防備する立場に立つに違いないというにもかかわらず、夢にも思わない。 だから、東洋の一角のここに立っている文という男が責任持つ。(拍)それには、そりゃいいかげんにはできません。命がけで神と判断して神の願う所はどこか求めた。ここに立つ私は政治家じゃありません。しかし、神の声に従って。国を守り、世界を守る方向を誰かがこれを方向を打ち立てる者がなければならない。知ったんだから、、冒険を覚悟して、統一教会の運命は全世界の今まで血を流し、汗しながら正したその時代をみんなたてて、最後の決断を下したのであります。 だから、全て正しい立場にあって国民の先頭に立って、或いは自分が誤った場合には、それを悔い改め、国民の国家の危機におきまして、これは勇気をもった乗り越えなければ、これはアメリカ救われません。そういうような事を言う人が、一人もいなかったらしいんですね。こういうふうに、アメリカの一番むずかしい所を我々が責任をもつ。これのためには人がいない。人数がいない。アメリカはもう統一教会のメンバーもう何千人いない。そのメンバーでこれはアメリカを動かすことができない。それが各国から一ケ国から若い青年達を千名近く緊急それで動員したんであります。それが今になって非常に問題になってきている。これはもう今から宣伝になってイミグレーションで問題になってきておる。統一教会にやっているのはすばらしい。その青年は日本ばかりではなくアメリカで頼しい。しかし、法的な目から見た場場には、これは旅行ビザをもって来てそれは献金活動とか商売とかそれはできないのようになっていおる。しかし、これは法的にひっかかっても、アメリカの為に、アメリカの国民以上に先頭に立ってとするならば、神の法にひっからない。 怨讐を越える日米独の兄弟 冒険をる、こういうような活動をして、非常な問題を起してきたのも、結局は全てをアメリカの為に存在、あるいは生きる、全てを捧げ全てをかけるという観点か今、世界の若き者たちが活動するんであります。それは日本の若い青者達が日本の人間としてみた場場には、これは、アメリカは第二次日本大戦の時の怨讐である。それがドイツ人を沢山導入している。日本人とドイツ人を主に多数導入してた。なぜかと、日本人とドイツ人、これが怨讐の国家であるアメリカにおきまして、日本国民より、日本国より以上愛する。ドイツの国家、ドイツの国以上に愛するとするならば、そこにおいて世界超民的な新しい国が生まれてくる。 こういうような目標でって、世界のために、だかが、こりゃなさなきゃならない。こういう事を日本の若き者は日本を乗り越え、アメリカにこういうことをやっていらっしゃるということを思います時に、これは日本の誇りである。これは日本歴史の現在までに置きましては、アメリカとそれは日本関係は複雑であるけれども、これが、もしも歴史に残った場場にに、将来の日本駅とアメリカを、これは結びつける動機になるという目標で日本の若き者達が、今先頭に立ってこういう為に存在する世界建設の為に、働いていらっしゃることをこれは日本、ここにいらっしゃる諸先生方、日本としては誇りとしせざるを得ないと思うんであります(拍手) これで日本人と韓国人とそれから中華民国と三ケ国をアメリカで結ぼう、結んで結ぶ東洋に立った場合、そこから日本を救われる道があるかも知れない。いは中華華民国がそういう立場に立った場合には、大韓民国の共産圏に緊急追われてきっているその現況をみた場に、その道を模索する以外には、アジアの再び生き返す道をみい出す事ができない。そういう覚悟でもって、現実の問題じゃなくして、将来のアジアの為に、この日本の若き者が闘っているということを思いまする時に、この事を諸先生方に伝えたいんであります。 どうか皆様、アジアの為に世界の為に、皆さんがこういうふうに動き出している者達を援助する国民、国は栄えるでありましょう。そういうような国、そういうようなアジア圏が、もしも成り立ったとするならば、そのイジイにおきまして、新ししい理想圏を中心として、世界を指導する中心のアジア圏になるでしょう。これは、世界の混沌たるこういう暗闇の世界に向って全ての犠牲、冒険を覚悟して先頭きって為に存在するというような覚悟でもって超民族的に、動くような群があったとするるならば、神自体がそれれを求める群に違いありません。どうか諸先生方も、ここに立っておる文という男は、こういうような思想のもとで今動き出していることを思いましてて、今後の将来あとの生涯をこういう鉄則に順じて生涯をおくってもらいたいものが私の願いでございます。 「ために存在する」者は栄える ここにこうして一つの結論論として、提供したいのは、個人は家庭の為に犠牲せい。これは宇宙の鉄則の命坐である。そうなれば、その者によって家庭は救われる。家庭は氏族の為にその氏族の為に犠牲する家庭があったとするならば、その家庭の為に氏族が救われる。その氏族は民族のために犠牲せい、奉仕せい、ために存在せいというよな、そういう民族があったとするなば、それは民族を救う。 民族は国の為に全てを捧げてゆけ、奉仕せい、犠牲せい、その国は永遠に滅びない。その国を中心としてその国ばかりを中心心としてとどまるんじゃなくてして、国を越えて神様は一国の神様じゃありません。万国の神様である。世界を一つの家庭として、一つの国として、求めたいのが神様であるから、その国を犠牲にしても世界を救うという思想が生まれてこなければならませんにする道はないと思うのであります。だから、超民族的に立たなけりゃ、共産主義に言せれば、スラブ民族を中心として世界制覇、そういう考えを持っているから中共と決裂なされた動機(拍手)アメリカ自全もにおきましてもアメリカは民主主義を中心として世界のリーダーとして立っておったんであるけれども、アメリカを第一として世界制覇、そうう立場に立ってはいけません。 アメリカを犠牲にしても世界の為に犠牲にする。そういう国民になった場場にに、国土がなく、その国民がなくなっても、そういういい事を成したとそういう文化圏を残したならば、文化圏によって世界を制覇される。これが何よりを重大であります。我々、今現実のアジアにおきまして、共産主義というような世界組織体を迎えておるこういう限界におきまして我々がアジアのために自分の国を犠牲にしても組み合うという運動がなされたとするならば、このアジアは絶対滅びない。世界の為にそううようなそりゃ大陸を越え六大州が組みあったとするならば、世界は滅びないと思います。 だか、個人は家庭に、家庭は氏族、氏族は民族、民族は国家のために国家は世界、世界は世界を一つにするという世界のために生きるという、そういうような男・女にならなければ、宇宙の主体である神様の子女にはなれません。国を愛ふる者は、それは神様の子女になれません。それは、世界を指導しうる世界のために生きるというだから聖人を中心として神様は、世の中の歴史を治めてゆくんであります。だから宗教を中心として文化圏を成立したのも、そういう原則からそういうならざるを得ないというんであります。(拍手) こういうような原則をひとこと、「ために存在する」というよ原則が宇宙本源の原則であります。理想の根底の基盤であるということを思いまする時に、そこに立ってこそ全ての幸福、全ての平和、全ての理想、全ての愛がこれは理想的に求められるということが最もであるということをお分りになりまして子供に対して教育も簡単である。「ために存在する」。そうすればその親自体はそうやれる。先生とするならば、全てために追いかけて行くようなそういう先生じゃいけません。その生徒のために生命を{で}捧げて行くような存在、この運動を世界的に果すことによって理想世界、いわゆるここにかかげた「希望の日」、「新しい希望の日」がこの地球上の歴史過程にこれが生み出されると思うのであります。(拍手) どうか今後日本共に日本におきまして統一教会の久保木会長もいるんでありますけれども、この若い者達が成すことにいろいろ欠点もありましょう。年寄の先生方では、いろいろな方面で指導なさいまして美しい日本、これは希望をもつ日本、世界が頼りとする日本、アジア全ての弱小国家が崇拝する日本となるためにはこの「ために存在する」ところの鉄則を個人より社会、国家全ての民族を越えて世界にその影響を世ぼす日本となるとするならば、まちがいなく日本の国かが、世界を指導するでありましょう。もしも、アジアのいかなる小さなる国がこういう原則を先立っていたとするならば、その国によって世界は指導されると思うのであります。だからこういうような立場からみたためにそれは結果してジアの為、世界のために総動員してこういうような理想郷を今から開拓するそういう道を得るように各自が努力するという決意を固めたとするならば、わたくしの話によってこれ以上の栄光ないと思うながら皆様の将来の健康とともに家庭あるいは社会のその成功を祈りながらその神の御好なる愛が共に成することで思いつつわたくしの話を終りたいと思います。(拍手)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.07
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[21.08.08] 世界平和統一家庭連合 世界本部教会 平和ヌリ2021/08/0/08 09:30に公開予定です。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.07
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「勝恨日のみことば」1974年5月1日ソウル本部教会 今日までの復帰歴史は、過去の失敗を再現させて、勝利の道を整え、その実績を世界的に発展させ、神の復帰の御業が勝利を打ちたてて進んできたことを我々は知っています。 イスラエル民族を中心としてみると、養子の立場からこれを振り分けて、真なる国家を代表した立場になる、というのが摂理的国家観であります。 この摂理は結局、サタンが主管するサタン世界から、堕落した後孫であり神の前に嗣業を継ぐことのできない立場にあるアダムの息子を分立させ、忠誠と孝誠を尽しうる道理を教えて打ち立てたのが、養子圏イスラエルであることを我々は良く知っています。 この養子は神の前に立てられたのですが、養子が養子としての天的な恵沢を受けるためには、神は原則的な神であられるために、真の息子を愛することのできる養子になってはじめて真の父を愛することができるというのが復帰の道であります。このような観点から原理によって、メシヤはアベル的世界代表者であり、イスラエル民放はカイン的な世界的代表者でありました。 蕩減の道 今までの復帰歴史は、堕落した人間を救い、本然の位置にまで引き上げるために、本然の世界に帰ることができるだけの力の投入が必要でした。それ故、安易な立場においては救えないので、救わねばならないアベル的な立場の宗教人は必然的に蕩減を受けなければならなかったのです。 蕩減とは何か? それは順序が逆になって落ちてしまったので、救うために本然の位置にまで力を投入しなければならない。 蕩減を誰がなしてきたか? それは神側のアベルがなしてきたことを我々は原理を通して良く知っています。 もし、イエス様を中心として一つになっていたならばがカイン・アベルの世界史的基準はイスラエル選民を世界的代表として立てたので、個人的なカイン・アベルの復帰は完成されたであろうし、国家的カイン・アベル基準が完成されイスラエル国家圏においては蕩減の条件を国家的に越えた基準となるので、国家イスラエルという世界的代表によって蕩減の条件を越え、勝利の条件をもたらし、ローマであればローマに向かって悪なる天使長を屈服させる、言いかえれば、蕩減の条件を越えた国家的基準があるために、善なる国家が行くところは悪なる国家が退かざるを得ないという立場になるのです。 もしそれに反逆すれば誰を打つようになるか? それはイスラエル民族を打つよではなく、反対する群を打つのが本来の原則であったということを我々は知らなければなりません。 このような国家基準を中心として、カイン・アベルの恨みの復帰の基準を一変させ、新しい次元を高めたカインを中心として蕩減させるべき歴史的転換は、イエス様が死ぬことによって、個人的一致圏・家庭的一致圏・民族的一致圏・国家的一致圏を失ってしまったと同時に、世界的一致圏まですべて失ってしまったのです。故に、イエス様は霊肉を中心とした一致的勝利を放棄して、霊的勝利の基盤を築き上げてきたというのです。 キリスト教の来た道 それでは、旧約時代と新約時代の違いは何か? それは旧約時代は養子の立場から出発しましたが、新約時代は霊的子女の立場で、一段階越えることのできる基準でした。そうするためには、旧約時代のイスラエル人が歴史路程において忠誠を尽したより以上の立場にならなければ、神の御旨に対して、新約時代においての個人的な復帰・家庭的な復帰・世界的な復帰をなすことができないのです。イスラエルの忠誠の歴史基準が残されていれば、それ以上なされねばなりません。イスラエル国家をうち立てるまで、この地上に送られた沢山の人々が血涙の道を歩んだので、それ以上の道を行こうとすると、基督教人達を死の道に追いこむ以外なかったということを皆さんは知らなければなりません。 その基督教人達は、悲惨な運命の道を開拓しながら、個人的犠牲を覚悟し、家庭的犠牲を覚悟し、氏族的・教会的犠牲を覚悟し、全世界の基督教的犠牲を覚悟することのできるような立場から神の御旨をうち立ててきたならば、教派分裂はありえないし、神が直接ひ指導して、一つの道を模索する筈でありました。しかし、個人的に神の御旨を中心として一つになりえず、家庭的に一つになりえず、社会的にも国家的にも一つになりえなかった歴史的基準にしたがって個々人が進んできたのです。ある人は出発しては滅んだりしながら今日までの基督教が継承されてきたのです。この世の基督教は、メシヤに侍り得る霊肉を中心としたイスラエル国家基準による基台がないのです。霊的基準を中心としてのみメシヤに侍ることができるのです。 韓国を中心にした摂理 このような基督教が世界的に飛躍することができる一つの起源を神はどのように作られたのでしょう? それは第二次大戦を中心として、サタンと対決し防衛するのに、対決と防衛はもちろん、基督教諸国家を糾合する民主世界体制を結束させるという業をなしたのです。 一方では攻勢をとりながら、一方においては新しい国家間の一致点を模索し、基督教と異国家間の一致点を模索し、基督教の一致点を模索することのできる時代へと導いてきまのですぐ基督教自体は国もなく、神の御旨を支えられる完全な土台がありません。ある教派ならその教派自体が、昔のイスラエル国家と同様に、国家に代わることのできる立場に立っていないというのです。流れていく、信ずることのできない基督教であるというのです。 このような中から、第二次大戦の勝利によって、神の御旨は新しい歴史的転換期を迎え、はじめて韓国の地を中心とした摂理の出発がはじまるのです。 イスラエル国家と基督教が霊肉を中心としてサタン圏から支配を受けながら闘争してきたと同様に、韓国も四〇年間、肉的な面において怨讐に支配され、霊的な面からこの国のために生命を捨てることを覚悟する群を中心として独立運動をなしてきた精神によって、神は摂理の一面をうちたててきたのです。この国を結束させていくには、基督教を信じた人々が中心になって国を建てるようになったのです。 霊的な面から、四〇年の弾圧の中で国家もなく死の境地を選び、国家を愛する忠節の道理を立てた基督教信徒達が使命を果たしたというのは、摂理的に重大な意義があります。そのような基盤から、李承晩博士を中心として韓国に主権が設定され始めたのです。 出発した先生 その時、先生は二十五六五の青年で、高位の人々と手を握って出発しました。今日名を言えば皆さんも知っている人々を中心として出発しようとした基盤が倒壊されてしまったのです。その時は、まさに最高の基準において出発し、世界的な舞台へと進出しようとしていたのです。即ち、当時の最高位の人が三人だけでも結束していたなら、必然的に民主世界の中心であるアメリカがこの国と共に結束しし、動いてある基準になれば、アメリカを中心として世界的な舞台へと進出すべきであったにもかかわらず、反対が始まることによって、統一教会は高い立場から、反対の立場である地に落ちざるを得なくなったのです。 このようにして、迫害の矢が全体に拡大され、仕方なく分立歴史において、北韓に行き、天に反対する怨讐の国に行って、南で失った忠臣の道理を果たしうる幾人かの天の側の人々をたずねていかねばなりませんでした。 イエス様が追われて、十字架に亡くなり、獄中生活から歩んでこられたために、復帰路程においても獄中から出発しなければなりません。 十字架に亡くなられたイエス様、その十字架を捨て、栄光の立場から出発しようとしたすべての道が、反対に十字架の路程の上で展開されたので、獄中生活から統一教会の歴史は新しい次元へと前進したのですぐ 監獄の先生 それ故、先生が監獄に入るようになった時、イエス様が十二弟子を失ったことを実体的に復帰すべき歴史的使命があるので、神は私が口を閉じていても、監獄にいる罪人を通失った数の基準を探し立てるのに、霊界が全体動員したという事実を我々は知っています。 朴正萃や金元徳など二十四名のメンバーが獄中から天命に従って結束し、出発して、獄から事る時、三人が私の後についてきたことは、四位基台原則に一致される歴史的条件を天が立てておいたのであるということを私は知りました。その後、平壌に到着し、昔の失った食口達を再び探し求めて出発したのが現在の統一教会なのであります。 しかし、南におりて来てどこから出発したかというと、それは最高の立場から出発したのではなく、最低の立場から出発したのであります。これが復帰の道なのであります。イエス様がイスラエル民族の前に、追われつつ基督教をしてローマに入っていくようになる時には、死を覚悟し、最低の地下に入っていったと同じように、今日の統一教会も最も悲惨な立場からよりわけて歩んで来なければなりませんでした。それ故に、先生は埠頭で働きながら出発し、今日に至るまでそほような路程を経て個人的な十字架の峠を、国家が反対する次元から再び越えなければなりません。 国家の迫害 皆さんが知っているように、一九五五年以降は国家的な反対に出会いました。誰一人同情する人もないというのです。(先生の)父母は北韓におられたので知らず妻子でさえも同情せず、全体が反対するその反対を受けなければならなかったのです。それがたとえ個人が反対するのであろうとも、世界的な個人を代表する反対なのであり、家庭であれば家庭、教会や民族は全世界を代表するそのような立場から一人で闘って個人的な勝利の標識を立てずしては行く道がなくなってしまうのであります。 イエス様が、洗礼ヨハネの失敗に起因する三年路程を民族全体が反対したとしても、その国の教権者と主権者たちがエス様を迎え入れる時まで最もひどい反発を受けながら闘争しなければ、再び家庭的勝利圏を見い出すことができないのがイエス様の道なのであります。そして、氏族的・民族的・国家基準を見い出すことができるのを、個人的十字架に追われ、亡くなったのがイエス様の行かれた道だったのです。 イエス様が追われたと同じように、歴史的サタンが全基督教人を集中させ、我々に反対するようになったのです。それが一九五五年以降の梨花女子大事件を中心とした三年間で、国家が反対し、いくら私が手錠をかけられ、死の道を行こうとも、毅然として生命をかけて闘わなければならない期間が一九六〇年までありました。最高の受難期 皆さんは知らないかも知れませんが、一九五九年下半期から一九六〇年四月以前までの七ヶ月間は最高の受難期でありました。この期間に、統一教会を信じていた人々が離れていき、十二弟子が反対したのと同じような数が結束して反対したのです。今までのそれらを見ると、先生は原理的におそろししほどに打たれてきたのです。 内的な問題においては内的はサタンが、外的サタンと合図して対抗してくる戦をしながら、複雑な渦中にあった一九六〇年に聖婚式を行ったのであります。本来は三月十六日ですが、四月十六日を選んで聖婚式をしたのですが、四月十六日を選んで聖婚式をしたのは、最高頂の立場からそのようにしたのです。どんなに十字架の迫害が大きくとも、私個人は鉄石のような信念を持って、反対する環境を踏みこえて迎えたのが一九六〇年の聖婚式でありました。そこではじめて一つの峠を越えたのであります。 十字架の道 個人的な十字架の峠において、勝利的な起源を迎えて、家庭的な十字架の道に入って行くのが第一次七年路程であります。個人的な十字架の道は越えたのでありますが、家庭的十字架の道を越えなければならない立場にいるため、この七年期間は家庭が一つのなる期間なのであります。複雑な道を収拾して、自己の生命を犠牲にしてでも感謝することのできる立場から、神願う勝利圏を立てなければなりません。これが第一次七年路程でありました。 第一次七年路程中に「神の日」を設定することができたのは、家庭が内外共に一つになったという条件を立てて、宣布するようになったのであります。その「神の日」は原理によれば完成級ではありません。まだ完成期完成級が残されており、歴史的な舞台を前にして宣布し、第二次七年路程と第三次七年路程に向かうようになるのであります。 第一次七年路程に家庭的勝利圏をなしたなら、次には国家的に勝利しなければなりません。それ故、第二次七年路程は国家的勝利圏を誓う期間であるので、祝福家庭が三年間出動して伝道する業が始まったのです。家庭が責任を果たし、国のために死の道も甘受していったという条件を立てて、皆さんのそれを基盤にしほ、先生は新しい次元に入っていくことができるのであります。第三次七年路程が来た後では準備することができないのです。 世界的舞台へ 国家的基準においては、統一教会をどれほど既成教会が反対してもなくすことができないし、国家が反対してもなくすことのできない段階に入ってきました。宗教と言えば統一教会。外的にみれば反共で、勝共連合が中心なのです。内的な面でも、その主体的基盤を立てることの基盤が築かれ、それを中心として、先生が世界的舞台に出ることができるのであります。 それ故、先生が公式的に舞台に出られるのは一九七二年度からでありました。何故かと言えば、霊的な基督教の世界舞台の中心国家がアメリカであるために、この国家基準において霊的な勝利の基準でも立てずしては、アメリカで活動することはできません。 先生の命令は国家基準から出発しなければなりません。それは、イエス様がなさなければならなかったものと同様に、国家基準に向って出発しなければなりません。 そのため、この道に反対する群があったなら追われていくのであります。それが霊的であるので感謝なのです。 もし肉的であれば道がふさがってしまい、それで終りとなってしまうのです。しかし、イエス様が十字架に亡くなり、今日、先生が行くにおいて霊的な基準を築き上げておいたために、霊的基準において勝利すれば、肉的基準は自然に歓迎する時が来るのが原理原則である故、支配することのできる起源が生ずるのであります。完成した主体があれば、対象はそれにつづいて完成するという原則に一致されなければなりません。 アメリカの摂理 そのような観点から、三年期間を中心として、アメリカにおいて七都市講演は一ヵ所に三日間、二十一数に合わせてなし、続いて英国とドイツにまで九都市でなしたのあります。そして、一九七三年に二十一都市、七四年には全米州を中心に四十都市を今年夏期まで計画しておいたのです。そのようにして、ハワイから五十都市をこの三年期間に全部終えるのであります。何としてもこの期間に、米国民が好むと好まざるに関わらず知らせようというのは大したことであります。 それはイエス様がそうであったし、先生が今までそうであったので、良い評判であろうが、それが問題ではなく、国民がどのように知るか? それは評判になれば神が選んで、その国家・民族を代表してすでに立てていた人々は霊的に連結され、雲の如く集うのであります。霊界に通じる人々は今度の大会に訪ねてきたり、証しする人もいるのを見る時に、関心を持つ神が既に滅ぶべき国家だとしても、そこに七千余の群はいつでも残すことのできるのが原則であります。 これが原則であるために、アメリカにおいて、新しい天の摂理を見つめつつ、また新しい世界が展開されることを願う人々は、統一教会の動きに方向を共にせざるを得なくなるのです。このようなことを知ったため、そのような運動をして五十州講演をなし、四月二十二日、日本を経て、韓国に四月二十五日に帰ってきたのです。 日本に帰ってきてみると、面白いことには、我々が願いもしなかったのに、政府が我々を我々を中心としてこれから世界に行くことのできる道を開いてくれる、というのです。それで特別な措置を取り、今度日本に十五名が行き、活動するようになるのです。これを一つの起点として、全世界に行くことのできる道が大々的に開かれるとみています。 これは偶然の一致ではありません。霊的な基準を中心として勝利的条件を立てて、先生が国家に帰るようになる時に、彼らが自から願い、我々にそのような約束をしたということは、御旨の中で滅びることのない一つの条件が成立したとみるのです。 この三日間に名簿を提出し、政府に手続を取り、我々が前に出ることのできる段階に入ってきたことは決して偶然ではありません。 氏族解放の儀式 先生が七三年八月にやって来て、文氏の氏族を解放する式をしました。まず文氏の氏族を解放しなければなりません。イエス様はヨハネとヨセフ氏族を解放しなければイエスの行く道がありません。そのために氏族を解放しなければなりません。 イエス様が恨みに思ったのは何かと言えば、洗礼ヨハネのザカリヤ家庭とヨセフ家庭が一つになって氏族的責任を果たせないために、オアス様はひっかかったのでありたす。それを復帰時代において、ある氏族が高の前に解放してあげなければ、イエス様の行く道はないのであります。 それ故に、第二次二十一都市講演を終え、七四年二月に帰ってきて、イエス様が二番目の息子であり、第二次的な立場であるために、その連結された道主解放運道、イエス様を中心とした基督教であるので準備していた聖賢達を、イエス解放と共に解放してあげるのです。このあいだ来て式をなして行ったのが道主解放式であります。 道主を解放したので、その次には霊的な基準において父母の解放と子女の解放が成されるのであります。それには世界史的な蕩減条件が必要であります。 このような観点から見ると、アメリカにおいて三十都市を中心として反対を受けながらなしてきたことは、アメリカの運勢を全部追いこんできたのです。万一、反対するようになれば、それはちょうど基督教の運勢を先生の前に全部追いこんでくれるのと同じであります。アメリカ国民が信じれば共に行くけれども、信じなければ、アメリカを中心として今まで神が祝福したその全ての運勢を集め入れるのであります。かき集めて帰ってくるのであります。 勝恨式 それをかき集めて帰ってきて、こので父母を中心としてカイン・アベル蕩減復帰の新しい起源を設定しなければならないのがこの勝恨式であります。このような名称で協会本部において記録しなければならない日なのであります。 このような日がなければ、いつでも摂理歴史にカイン・アベルの蕩減法が継続されるというのであります。これはカインだとか、アベルが背負うことができませ。今までカイン・アベルを通じて父母が成長期完成級の基準を立てることのできる立場に立ったが、今度は父母としての基準を中心として霊的基準から完成基準の基盤を築き上げて、解放運動をしなければなりません。その交叉する式が今日のこの式であります。 今までは、全部アベルを通してカインが救援を受けるために、アベルが犠牲にならなければカインを救援することのできないのが復帰歴史でありました。 その原則が残されているために、先生自体までも、我々の家庭までも引っかけてくるのであります。今まで我々の家庭に多くのことが生ずるのはそのような理由からであります。霊的に見れば、恵沢を受けるために、子供達に協助しないで子供達を苦しめるのです。 そのためにこれを解消する決意を誰かがしなければなりません。これを知らなかったのです。今までの歴史において誰も知ることができなかったのです。 先生がこのような原理的原則によって今日、この一日を迎えるようになったことは歴史的事件であります。 面白いことに、韓国に来る時まで五月一日が協会創立日であることを夢にも思いませんでした。五月一日は私がこのようにしようと思ってやってきましたが、知ってみると、その日は協会が創立してから二七周年であるというのです。二十年期間内にこのような日がなされるということは驚くべきことであります。これほど原理的であります。 アメリカに行って基督教の運勢を追いこんで、この日を持つことができ、この日が協会創立の満二十年であり、二十一年になる境界線からこのことを設定したのは本当に原理的であります。神は計画的でいらっしゃることをこの時間も十分に感じるようになります。日本に行く我々の食口達も、最高の頂上にいる二人の特令によって行くようになることも驚くべき事実であります。 第二次七年路程を歩みながら、我々が願いつつ、今日このような平場において迎えるようになったことは偶然の一致ではなく、条件的な基準において第二次七年路程を、堂々と越えることのできる勝利の条件を持ったということを思うとき、これは世界的な起源となるのであります。 そのような立場に置かれているのが今日であり、その式をなしたのが今日のこの時間であります。 それ故に、これからは皆さんがそういう祈りをしなければなりません。「父よ、勝恨式を通じてカイン・アベルの蕩減復帰歴史は逆になりました」 今では共産党が何でも先頭に立ちました。これからは善が先に立たなければなりません。悪がなしてきた主導的役割を、これからは善がしていかなければなりません。 反対する者は打たれる 今まで、統一教会が迫害を受けてきた中にあって、神は死んだようでありましたが、これからは生きた神として統一教会を擁護し、統一教会に反対する人々を除去させるでしょう。 それ故に皆さんが知らなければならないことは、もし、今、我々を助けず蕩減を受けようとせず、我々にかえって反対する人を、全部霊的先祖達が来て屈伏させることにより、三倍以上の恵沢を与える、このような条件で私が祈ったのであります。 だからそのような方向にこれからは祈祷しなさいというのです。 これからは統一教会に反対していた人々が多く霊界に行くようになり、しばらくすれば共産党の首脳たちをたびたび連れていくことが生じるでありましょう。 そのように見るために、皆様がそう信じ、原理から見てもある一時にそのような勝恨式がなければなりません。だから地において結べば天においても結ばれ、地において解けば天においても解かれるのです。地において先生が父母の特権を中心として、このような原理原則にしたがってこのように解いておくことによって、ここにカイン・アベルの恨みが解かれる「勝恨日」の一日を持ったということは、統一教会の栄光の日であります。 それ故、私が四月二十五日まで七日目であります。皆さんが祈る時もこの条件を中心として祈り、恵沢を受けることを願っていた先祖達が、我々の御旨を協助することによって、より我々を通して蕩減を受けるよりも三倍蕩減をさせることができるのであります。 三倍の福を何故かといえば、それは、蘇生時代・長成時代・完成時代を経てきたために、我々のため彼等の三倍を蕩減させて協助することのできる道が、広がるのであろうことを原理的に知らなければなりません。 このように、回っていた歴史が天の側に引き返す日なのであります。その時間がちょうど、この時間なのですぐ 有難いことには、聖進君がどこかに行っていて帰ってきました。このような式に参席するようになったことは偶然なことではありません。自分は淋しく思うかも知れませんが、あの人が行く道はそれほど悪くはないでしょう。 だから皆さんがそのような面から祈祷し、これからは皆さんが努力すればするほど皆さんの財産になるでありましょう。これから収穫期に入っていくと思うのであります。国家がこうしてきたのをみると、韓国も今は収穫期に入ってきたのです。 大韓民国がこの基準で広がれば、アメリカも自動的にそのような影響を受けて、同じようになるとみています。 農業をする時、種をまいて肥料を与えるのはみな消耗であります。その時よりも感謝する心で神の前に収穫をなさなければならないのがこの七四年のこの期間であります。三年をみています。七四・七五・七六・七七年、この期間が危機なのです。収穫できない日には全部こわれてしまうのです。 それを知って、これから三年間に我々家庭はだいたい基盤を築き得るだろうとみています。我々の機関を見ると、内外共にこの三年期間に大韓民国のどの団体にも負けないようになっていますね。今は完全に基礎と基盤を築き上げました。だから内的にもそうであり、外的にもこのように転換するこの日が皆さんの誇りであることを知って、毎年この日を記念し、この日は我々協会に残ることでありましょう。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.06
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「誰が神を解放するか」1974年4月23日松濤本部で 神の理想が世界に立つ 我々、現実の世界に住んである人達は、みんな堕落した先祖より、堕落の後孫として生まれたものである。だからこの人間は神の国、神の理想とするもともと堕落しない善なる世界には関係を結んでいない。だから神自体も如何にこの関係を結んで、もともと堕落しない基準に如何にもとかえすか神自体も考えざるをえない。それにともなって我々人間も、その理想の郷を求めて今まで歴史を歩んできた。しかし、これがはっきり人間の最後の行くべき道だという決定的なその道を、今だに満たしていない。これが堕落した人類の最高の間題である。あるいは歴史の最高の解決すべき間題である。今後とも永遠に向けて解決しなければならない人類共同の使命となっている。 この堕落した我々自体としては、神のその堕落しない大もとのところに帰るには全然不可能である。サタンが主管している。サタンの世界にとりこになっている。このもの自体としては行かれる道は満たそうとしても満たされない。もしも救うあるいは満たされる道があるとすれば神以外には満たされる道がない。それで神がもともと人間を自分の子女としてつくった以上、その責任をもって再びとりかえそうとする。神は人類歴史を通して数多くの宗教をその時代の文化圏にあうような立場の宗教として、歴史の発展と共に善なる世界の方向にこれを高めてきたのである。これが世界的な版図を広めるようになった現世におきましては、最後の決算を解決する誰かがこの地上に生まれなければならない。その誰かが、宗教がになっておるメシア思想であるというんだね。その方が来ることによって個人完成はこうこうでなければならない、個人完成を基点にして夫婦はこうでなければならない。原則を始めて打ち出すことができる。そうして夫婦はこうでなければならないし、そして善なる子女で結ばれた家庭を編成しなければならない。こういう家庭を中心としてそれを基台として横的に広げてみた場合、それが氏族編成、その氏族を広げて民族を編成して世界的発展させていこうとするのが神の摂理である。そうであるというと、神からこの世の中を見た場合、神は如何ばかり苦労したであろうということを考えねばならない。我々、個人の一生を過ごすにおいてもいろいろな苦悶の生涯を抱きながら進んでいくんだね。そこにおいては自分なり内的苦悶とかあるいは外的な闘いとか、社会の不安状況と闘って、自分の主体的人格の基準を待ちつづけなければ生き残って人間としての価値の何者も残すことができない。こう見た場合に、正しく善なる者として生きるには如何にむずかしいことが我々、信仰生活あるいは道徳生活においてよくよく知っておるんだね。人類歴史を復帰する神から見た場合に神様は如何ばかりの苦労をしたのであろう。これを我々は考えなければならない。 数多くのイスラエルの歴史を通してみても、それは選民イスラエル、ヤコブを中心としてイスラエルがさずけるその一日をさずけた。その日より六千年が立っておるんだけれども果して神が理想とした個人完成の基準を求めたか。求めていない。あるいは家庭完成、氏族、民族、国家完成、世界、理想世界まで完成されておるかというと全然なされていない。これは堕落した人間圏において、ありふれた環境状況内には求められない。だから特別の神の計画のもとに、摂理的勝利基台のすべてを集中させてその理想的実体者としてそれをただ一人世の中にいつかこの世界の中に立たせなければならない。その基準が神が求めた基準であり、人類すべてがこの基準の目標に一致する立場に立ち帰らなければならないのが、堕落人間として善なる世界にもと帰るカギとなっている。 神の摂理の完成者 だからメシアは観念的メシアではない。直接生活内に必要なメシアを求めなければならないようになっている。こういうふうにえてみた場合に一般の宗教はそのようなことを夢にも思わない。キリスト教にしても。ああ再臨の主は来られると、聖書にはそう書いてあるんだけれども、はっきりとはわからない。それがいけないというんだね。現実問題として、現実の問題の中核、中心者としてのそのメシアたる必要性を我々は、あるいは宗教人達は忘れているというんだね。 その事において神の両手に求め来たった善なる個人完成の道が開かれる。そればかりでなくて、家族完成、それから民族完成、世界完成をこういうふうに展開していくんだということを、今まで思ったものがいなかったというんだね。こういうような現実の世界的宗教界において、我々統一教会の群れだけがこの問題にたずさわるようになった。それは単なる個人が統一教会に接触した問題ばかりではない。これは歴史的問題である。 現実の通りすぎのありふれた習慣あるいは認識として、自分の前に起った一事件として見のがすような問題ではありません。これは歴史的な瞬間である。神の摂理の勝利の一点が地上にしかれる重要な基準になっている。これがあって神の摂理が終わる。神の摂理の完成が成される。こう考えてみた場合に標準的すべての代表者として地上に来られると言うんだね。 だからその心情の深いところを探っていけば、神の心情の深さをさとることができる。この生涯の道をたどっていけば神の歴史的摂理のすべての反応あるいは反響を見ることができる。だからそれは原理から言えば蘇生、長成、完成、三時代の完成的な勝利的実体者である。 旧約時代において数多くの先祖達が失敗したすべてを勝利的にまとめて、勝利の中心者として、旧約時代を代表した勝利基準をもっておる。あるいは新約時代のすべての総括した勝利基準をもっておる。そればかりか、今後の世界において人類はこういうふうにいかなければならないという標準的内容をもったお方が再臨の主でなければならない。その人が立つことによって家庭の完全救済、あるいは民族の完全救済の基準が開かれる。そうなるというとメシア自体から見た場合には、メシア自体も個人から家庭を持たなければならない。家庭から氏族をもたなければならない。氏族から民族、民族から国家、国家から世界、こういうような関係でもって拡大はするんだけれどもそういうような発展の本質を備えていかなければならない。 キリスト教を越えて こう考えてみた場合に、この世の中がそういうような環境基準に立ちうる、そういう現実の環境になっているかといえば、なっていないのである。すべてが反対になっている。この反対になっておるからこういう世界においては神の摂理の完成を求めることが出来ないから、それを歴史を通して予言者をよこして準備をなして来た。旧約時代においてはイスラエル教、ユダヤ教であり、新約時代においてはキリスト教であった。あるいはこれを本質の宗教関係から見た場合、キリスト教を中心として摂理を拡大してきたのだけれども、それは周囲の世界的関係から見た場合、いろいろの宗教、仏教とかね、回教とかいろいろな宗教がそれなりの民族性、文化的背景あるいは習慣性に共なうような撃がりをなすような宗教関係をもって世界圏を今、神は摂理してきた。それを総まとめにするには、歴史的対応的なそういう中心として、メシヤを中心として実地的な勝利の基台が万民に知られるような標準をつくらねばならない。個人がそういうふうに家庭がそういう風に、氏族がそういうふうに民族がそういうふうに国家がそういうふうに、世界がそういうふうにつくらねばならない。それを一挙にたやすく世界的に準備の基台としてなしてきたのがキリスト教である。 だから再臨の主、それは、すべてのキリスト教各派は超民族的感情によって一体化しなければならない。再臨主が来られた場合には全世界のクリスチャンはこうしなければならない。もう、それは絶対に文句がない。反対がない。一挙に左から右へ、右からまわれと命令すればまわるようなそういうような世界的環境圏をつくる。これがキリスト教である。ここに神の摂理のいろいろなむずかしさがあるんだね。こういう環境をつくったんだけれどもサタン世界に神の摂理をそのまますすめるわけにはいかないから、サタン世界に作戦をする。恩讐圏だから神の摂理をそのまま文字どうりに内容どうりに説明しながら摂理を展開させていくことは今まで不可能であった。なぜかというと、神にさからうサタンの世界である。宗教を信じた場合には国家主管者達はクビになってしまう。虐殺するのが歴史にある類例である。そういう立場から次第次第において神の摂理の発展のためによこした予言者達は、その通り教えることができなくして、暗号でもってさしずしてきた。それを記録してきたのが聖書である。だから聖書を文字どうり解釈した場合にはこれはとんでもない世界的誤解を残す。そういうおそろしい内容をもっている。それを解釈するにはそれを明示した神ひとり以外に解くものはいない。それなのに数百宗派が分かれて今、争っている。自分なりを絶対視して、自分でなければならないのに、他人を認めない立場においても、聖書観から見た見通しのつくような立場に立ったとするならば、聖書がこうだから自分達の宗派が社会的中心であるというようなことになる。これが問題になっておるんだね。だから聖書を解くにおいて天来の啓示の内容をさぐって、これを解かなければならない。そして解いた内容が一時代に含まれるのではなくして、超歴史的な基準に立った唯一のそういう権威をもつ内容を満たしておかなければ、神の摂理を一つにまとめるということはむずかしいということになっている。 こういうように思って見た場合、聖書に書いてあるように雲にのって降臨してくるのならば問題がいいんだけれども、もし人として生まれた場合にはこれを迎える宗派あるいは信者がいく人ばかりいるであろう。これは重大な問題である。こういうような現実のキリスト教世界圏において我々みたいな群れは他にない。教会の信者として、こうこうでなければならないというようなそういう内的あるいは外的のその立場に立って訴えるものならば我々以外にない。みんなクリスチャンは天使長のラッパをふっかけながら雲の上にのって地上に降臨すると信じている人だね。 それは原理の論理にあわない。理屈にあわない。何故かというと地上においてアダムとエバは霊肉ともに心身を備えたそのもの達である。男ひとりとむすめひとりが堕落する時もそれは我々と同じように実体をもったというのであって、それが神のみ旨に従わずして堕落したんだから破れてしまった。それを復帰するには、雲にのっかってきてどうするんだ。(笑)それより以上の善なる男、これより以上の神と絶対的に一体化できるような一人としてのあたりまえの一人としての堂々としてのサタンを屈服しえる勝利的、理想的な男が生まれてこなくてはならない。それが再臨思想である。だから再臨主は女くるのではない!------------?現実の通りすぎのありふれた習慣あるいは認識として、自分の前に起った一事件として見のがすような問題ではありません。これは歴史的な瞬間である。神の摂理の勝利の一点が地上にしかれる重要な基準になっている。これがあって歴史が終える。これがあって神の摂理が終わる。神の摂理の完成がなされる。こう考えてみた場合に標準的すべての代表者として地上に来られるというんだね。 だからその心情の深さをさとることができる。この生涯の道をたどっていけば神の歴史的摂理のすべての反応あるいは反響を見ることができる。だからそれは原理から言えば蘇生、長成、完成、三時代の完成的な勝利的実体者である。 旧約時代において数多くの先祖達が失敗したすべてを勝利的にまとめて、勝利の中心者として、旧約時代を代表した勝利基準をもっておる。あるいは新約時代すべての総括した勝利基準をもっておる。そればかりか、今後の世界において人類はこういうふうにいかなければならないという標準的内容をもったお方が再臨の主でなければならない。その人が立つことによって個人が救われる。完全に救われることになる。その人が立つことによって家庭の完全救済、あるいは民族の完全救済の基準が開かれる。そうなるというとメシア自体から見た場合には、メシヤ自体も個人から家庭を持たなければならない。家庭から氏族を持たなければならない。氏族から民族、民族から国家、国家から世界、こういうような関係でもって拡大はするんだけれどもそういうような発展の本を備えていかなければならない。-----------? それは、あんた達知っているように、再創造圏を再びよこすには万物創造の原則にともなってさからわないような平行圏を満たすその基準をみんなわきまえて来なければならないのが再臨の主である。このお方は歴史的中心者である。心情的にしても神様に一番近い。旧約の如何なる聖人、義人が多かろうけれども、あるいは、歴史過程にいくら賢者が多あろうけれども、それが問題ではない。彼等は目的観念というものは決定していない。何から出発して何かに帰るるようなものをもっていない。出発は神からして堕落したんだけれどもぼう然とした現実から出発点からぼう然とした目的基準にみんな陥いって消えてしまうような人生観を求めている。はっきりした神から出発し、神に帰るというような確定的なそういう内容を歴史以来はじめてそれをもって来られるお方が我々願っている再臨の主である。わかりましたね。(ハイ) 地上に立つ真の伝統 そういうふうに考えてみた場合、神はこの再臨の主を送るまでの苦労は、いかばかりであったろう。旧約時代からイスラエル民族をこういうように備えて、これがもう早く早く国家編成は勿論、世界に広がるような力強い国家になるように神様は励まして来たのである。人間は神の摂理目的を知らない。イスラエル民族を神が召して立たせたのは、ただ自分達が神に帰る、救われる道だというように考えて来たね。世界解放ということを考えなかった。ユダヤ国は世界を制覇する中心的な国になれる。そこには万国すべてを自分の気ままにふみにじりながら、そういう栄光の立場にあって、永遠に続くというような思いをするんだね。ユダヤ人を中心として、これを犠牲にしても世界万民を救うという神の願いがあるとは、思うものは一人もいない。キリスト教がそうであるああイエス様、イエス様といって、乱れ切った罪の世界をさておいて、ああ、栄光の雲、その空中にあがってもよおしをするとかそういうような夢みたいなことを考えておる。神様は夢みたいな神様ではない。現実の神様である。これは真実の神様である。理論、理論に先き立った神様でなければならない。そういう戦法をやってきた。そういう者達を如何にまとめるかということは大変な問題だね。 こういうような神のみ旨に立って、それをまとめてみてくれる人達が一体この中にありや。まとめるにしても出発基準がぼやけている。中途半端なところにいってしまって、右にいかなければならないのに左にいって、神がせっかく歴史的代表者として立たしたんだけれど中途半端でくずれるのが今までの歴史の実状でった。そういう歴史の過程を考えてみた場合、神は如何に苦労したか、神は理想的に標準タイプを善なるみ旨の中にちゃんと、あるんだね。堕落しなかった場合、人間完成した場合はこういう男になるんだ。こういう女になるんだ。そうして善なる兄弟が地上にこういう伝統を残すんだ。その伝統を受けついだ場合には、万民共に善なる兄弟が地上に続々と生まれてくる。そういうような善なる兄弟が成熟した場合には結婚させる。真接召されて祝福さされる。そうした場合には、理想的夫婦はこうだという伝統が立つ。それはそういう風にして、子供を生んだ場合には、理想約善なる親はこういうもんだ、という伝統が地上に残る。罪なき子供を善なる神が相手に立った。その父母となっておるから善なる子女を生んだ親になり子供になるのはあたりまえである。そうなるという神を中心とした理想的家庭が地上に礎をおいて、出発すべきであるのが神の理想である。 神を中心としての関係がつながり、それから目的基準に神と共に立つようになるのだから、これから人間、一生を安定の出発点から、家庭から目的の結果まで行くようになっている。そういうような理想的家庭は、こほ地上にまだ生まれていない。その家庭が生まれたとすれば、それを基本とした、それを横的に広げた場合には、氏族になり、その国家が世界的に広がったんだから、ひとつの民族を中心とした国家になるべきである。その中心者は誰かというと、いつまでも神様だね。神が主管する王様とならば、神が主管する天国である。 神様の苦労の道 そのような理想的目標を思いつつ、人類を引っぱってこられる過程において未だにその基準にあう女、男がいたであろうか。歴史過程にそういうことを考えて、自分にこういう標準にかなわせる、一致させる自分になるんだという決意をもって生涯かけて走り、生涯を費した人はいるかいないか。神に召されたその時には、誓って立ったんだけれど、自分に不利になったり、命にかかわるそのような時には、\D02Aを狭いてしまうのが通常のこととして起ってくるんだね。信頼したその者が神にさからって、反対の道にサタンの方にいって、サタンを中心として神の今までの因縁を逆らって神をうつようなことをいくらでもやる。そういうような立場に立てる神様の苦労はいかばかりであったであろうか。あんた達、考えてみな。自分の親しい友達ひとりが反ばくしても、それは、くやしくても一生歯をくいしばっていかなければならない、そういうような心をもつことを考えてみな。絶対、永遠、不変の誓いの道に立っていくべき神の使命に召されたそのもの、何年か行く途中に横にそれてしまう。こういうことが歴史以来、すべてがそうなっている。だから神がなすすべては完成基準を今だに満たすことができない。失敗をくり返しながらも、その一点の基台をボロ布をつきぬいて、そうしてひとつのしき物をつくるような因縁の歴史を残してくる神様の苦労が、神様のさびしさ、神様の孤独がいかばかりであったかということを我々は、まずもって考えねばならない。ひとり求めるそういう苦労の道を来たしたとするならば、その家庭を求めるそういう基準を果しえる神の責任があったとするならば、いかばかり何十倍の苦労を重ねているだろう。それを拡大して民族に拡大し、あるいは国家、世界にまで拡大してなさなければならない神の摂理の中心の目的観から見た場合には、責任は自分自体がもたなければならない。誰ひとりまかすことができないという立場に立ってみた場合にいかばかり神様はかわいそうでしょう。 神様のみ旨のために、一身すべてをささげて生涯はじめからおわりまで、かわらず一心不乱その道をまっとうしていくものが今まで歴史過程にほんとうにおったか。聖書を読んでも、みんな失敗した。アダム家庭、それは復帰においてカイン・アベルで失敗、それからノア家庭、百二十年間の箱舟を建設して積みあげてきたその功労の実積をむなしく失敗してしまった。アブラハムにしてもそう、ヤコブにしてもそう、ヨーセにしてもそう、洗礼ヨハネにしてもそう、イエス自体がそういうような歴史の因縁をたずさえて再びこれをもとかえすそういう戦闘のまっただ中に迫られて、十字架につけられていった。だから神の子だに失敗の道をすぎていったということを考えてみた場合に神はいかばかり苦労の立場であったであろう。 人間が神様を解放する 今、日本の一国一億団結しても、日本の現実の情勢を解決できない。この日本の国を誰が責任もってくれるや。34億人類は地上に共同して一体となっても大変むつかしい世界を誰が責任もってくれるや。誰もいないや。世界を指導しておる指導者が責任もってくれるや。それはアメリカにしても共産圏にしてもいない。たったあるとするならば神様以外にない。神様が自由にやれる環境圏であるならばやるんだけれども、自由にやれないというような条件にひっかかっておる。 それを考えてみた場合に、我々統一教会の群れだけがこの地上に神の摂理歴史観をもつようになった。神の行くべき方向性を満たすようになった。神のこういう歴史過程において悲惨な神であった。いつ神を解放し人類解放する前に神を解放しなければならない。こういうような訴えを可能ならしめる、それは実地的にはできないんだけれども心で可能ならしめる希望をもつようになったところは統一教会において他にない。神が人間を解放するのではなくて人間が神を解放する。まるっきり反対になっておる。神の変わることのできない絶対的み旨、そのところに帰ることができない。神は善能なる神だから、そのみ旨はふたつにあるべきでない。ただ永遠にはじめからひとつであり、過程もひとつであり、それは永遠におわりもひとつである。生まれるのもそこから生まれ、生きるのもそこから生き、死ぬのもそこから死ぬようになっている神のみ旨だよ。日本の神武天皇もその神のみ旨から生まれなければならない。神のみ旨によって生活しなければならない。そうなっているか。一体そうなったものは日本歴史に誰ひとりあったと思うの?考えてみな、今だにかつてひとりにむけて完成したものがない。完成された男が生まれてこなかったんだから、完成された女性は生まれてこない。女、男ふたりが生まれてこなければ、それは理想的夫婦という存在を夢にも迎えることができない。キリスト教は新郎、新婦をこの基準にまとめて、そうして、今日、そういうような子供でもって結論しておるんだね。 こう考えて見た場合に、あ{あ}我々はかわいそうな人間だ。あ{あ}人類、万民おお悲惨でありああかわいそうな人類であると思う前に、ああ人類を滅亡させずして今まで抱き合ってきた神のこころを考えなければならない。いかばかり苦労であったか。日本の列島であるけれども、先祖たちが数千年の間に一億の人民が住むようになった過程には、神の多くの苦しみのそのなみだが入っていることを我々は思わなかったね。いつか時が来た時には、この民族をかためて世界に立たせようとして、神が夜、昼、休まずこういうことを重視しながら、侍ってきたということを思わないんだ。どの国をそういう国民として立たせるや。まあそれを求めつつ定めてきた。それがユダヤ教であり、キリスト教である。さあそうなるというと、現実のユダヤ教はもう二千年のイエス様を殺してしまったそういう民族として、もう神に捨てられた民族である。 今、残っているキリスト教。キリスト教信者として世界的な使命を果されるために来られるメシヤを迎えようという、そういう思いを持っている信者がいるか。 どん底から天国を建国する 悪き地上を捨ててしまって、縁を切って解放圏に入る。こういうような現実の宗教界において、我々サタンのどん底に入って天国を建設する。これは偉大な革命である。神に頼らず、我々がこの腕と、この力と汗と涙を流して肉体をねじり合っても天国を作るんだ。そのひと言を神においてもいかばかり願ったであろうか。そういう群れが末の時期において生まれるのを望み望んで、宗教を立ててきたにもかかわらず、すべての宗教は今だにみんなどん底に向って、すたれにすたれている。これをさかのぼって、滝を上る鯉みたいにぶちこめ。滝の水があろうともそれにさからってさかのぼる。こういう群は、この乱れた世界の末期の、統一の群れ以外にないというすばらしさをまずもって我々は誇りとしなければならない。わかりましたね。(ハイ) それの為に我々は召されたのではない。自分を乗り越えて世界の為に、世界は天宙の為に、最後は神様解放の旗揚げをする為に誓いあったものである。早く世界の果てをのり越え、早く日本の果てをのり越えて、早く家庭の果てをのり越えて、そうするには家庭を救い、日本を救い、世界を救ってやらなければならなう。それに追いせまられて一日も休んでおられず、苦労の真っただ中に迫害される者はかわいそうなものであるけれども、それで勝利を向えるとするならば、歴史的宝ものである。万民をさておいて、栄光の貴重のものとして神が立たせるばかりでなく、永遠の愛を相続するに足る者である。神自体たたえる、すべての宇宙を相続しうる勝利者になるものである。ああ、すばらしい者だね。あんた達はそういうような自身になっておるか、そういう観念にとらわれて自分自身の生活を、そういう観念にひきずられながら、自分の今生きておるというような、そういう勝利的実証者になっておるか。…いるかいないか、いるやいなや、お-みんな立っている若者達よ、自信なき者をこういう歴史を代表する千万人の期待に立ちうべく、そういうような勝利者にならなければならない要求がこの一身にむけておるということを思って見た場合に、我々、いかばかり真剣にならなければならないか。そういうような立場を迎えながら、実際的自分を完成しなければならない。そういう歯をくいしばって誓ったひとときがあるや。なかった場合には、神様も、この現世にこういう時代圏を準備なさってきた神様にさかろうひとりとなってしまうとうう。これはありえられない。わかりましたね。(ハイ) やることとすればあまりにでかい。すばらしい。この口が裂けてもいい。この■がとんでもいい。この耳が切れてもいい。この首が飛んでしまってもいいんだと思って神のみ旨の前に、善なる勝利の実体者になる為に、飛ぶ烏を一ぺんに飲みこんでもいいような、そういう考えをもったことがある?こう考えてみた場合にこういうような歴史的一瞬に、こういうすばらしい使命をかかえて立ったる自分であるそのすばらしさを思ってみた場合に、考えてみてもそうだけれども事実をみた場合にはもっとすばらしいや。こういうすばらしい時代に召されてきたこの目で世界を見るのではなくして、見る前にこの口で世界をつくろう。だから見物する人間がすばらしいの、つくる人間がすばらしいの、個人完成がいかにむずかしいか。サタンもザン訴しない、歴史の先祖達にもたたえられなければならない。現実の万民が中心者として、仰ぎ立てて慕うような者にならなければならない。 統一教会に入った場合に最初はすばらしい。最後はしまった?(笑)何故しまった?これはもう、一生青春が一時しかないこの尊き18歳から24歳のこの七年間をすごしてしまった場合、人生の花盛りの時をのがしまうというのに、統一教会に入ればみんなすたれている。七年間苦労したのにいつ終わるや、七年で終わると思ったらいいんだけれど七十年になるかもしれない。こういう者達を、永遠不変の理想をもった神様が信じなければ何年になるかもしれない。こうい何事もなされない。信じてやるその相対基準を認めてやらなければ、一歩も前進することができないようになっている。それを認めて信じてやらなければならない神の内的心情のつらさは如何ばかりであったろうか。考えてみな。信じられない者を信じて、そうして仕えてきたにもかかわらず、それに反逆したら、もう一から百まで殺してしまうよね。こう考えてみた場合には、すばらしい立場に立って我々が希望する神の心情に、我自体はさからう自分になっていることを悟らなければならない。 神の世界へ総撃戦 こういう風にして、神は歴史的神様にならなければならない。この歴史的神様は失敗した歴史的神様ではない。これを勝利しえた、歴史的神様でなければならない。誰が勝利した歴史的神様になさせるや。神様自体は永遠に出来ない。そうだろう。もう失敗したんだから、失敗しなかった場合に立つことはできない。誰がそれを勝利した歴史的神様に復帰させるや。誰が!男・女がしなければならない。ああいう悲惨などん底に落し入れるようにした動機は何か。男・女がエデンの園において、我々の先祖がなしたんだから、誰かがそういう立場に誓いを立って、すべてを打ち切って責任をもって解決してやる。そういう者が生まれてこなければ、神の解放は、歴史過程において勝利的神様は生まれてきません。わかりましたね。(ハイ) これをなさる為に来られるのが何かといえば、神がよこし、そしてその使命をいだいてこられるのが再臨の主である。これは、歴史的神様の勝利の権能をもとがえすと共に現実において追いに追われるキリスト教、あるいは宗教者達がみんなどん底で絶望するようになる時点において、これをせきとめて、おう、まわれ右しなければならない。神の現実の失敗実証をひとりだに責任をうけて、それを勝利の基台に盛り上げて、勝利の旗を世界的にかかげる使命をもった者が再臨の主である。 地上に生まれる者のために来る。天国建設のために栄光の基台の上に来るのではなくして、天国をつくるために来る。天国をつくって何をするや、神様の過去歴史的苦しみをみんな、洗ってしまうんだね。現実の苦悩のザン訴圏をみんな整理してしまう。最大の歴史的戦いの先頭に立って、神の世界へ総げき戦を集中的に、一瞬でもってなし、世界を固めるために来られるのがメシヤである。そうすて現実的に勝利の神様を天宙のまん中に迎る為に、解放させてあげる為に来られるのが誰だって?メシヤ!メシヤ!中心的存在である者がメシヤである。わかりましたね。(ハイ) 歴史的解放!現実的解放、誰を?神様を!今まですべての罪は神様おうけなさいまして、我を万民の解放の勝利者にして下さい。これが今までのキリスト教の信仰である。とんでもないことをやっておるや。現実だけ解放すればいい。自分だけよければ神様泣いてもいいではないかと。そうではありません。そういう使命に召された者が誰ですって?目メシヤ)統一をいやがるがいるか。統一現象を通過しなければ、、理想的何ものも生まれてきません。宗教にした場合には統一教を通過せよ。我々はそういう天宙的な使命を抱いて誓って立った勇士である。我々は神の解放のために召されてきた。まずもって神を解放させてあげるのが、我々全体の使命である。わかりましたね。(ハイ) 統一勇士以外にたよる道なし 慕う子供を思って如何ばかり涙を流す神様であろうか。その子供が地上に生まれた場合には、如何なる王者にまさるその栄光の一日を抱きあいつつ、そうして望みきたにもかかわらず、それを果しうる環境をつくったイスラエル民族、あるいはキリスト教が今、末なき滅亡のどん底にころがり落る現実を見て神様は喜ぶはずがない。いくら統一教会に反対しても、彼等に未練がある神様である。如何なる方法をもってしても蘇える一日を待つにちがいないと思うときに、我々に反対する敵たちを、我々神様に先立って慰め責任をもってこの事を成しますから、神様我々を信じて、我々を頼りとして信じてちょうだい。とこういう祈りをしなければならないのが統一教会の責任である。 善悪をわきまえた場合には、行動的決断をするのが先生である。それを何十年もそういう悪なることとわかりながら、知っていても知らないふりをしてこらえきらなければならないそのつらさを思ってみた場合、神様如何にかわいそうであるか。でも忍んでいかなければならない道はまだ残されている。誰かがいかなければならない。日本の現実を見た場合には、日本の将来を誰が責任をもって行くべきや。今の宗教団体たよりにできない。しかし、みすぼらしいこの身この足でも統一勇士以外にたよる方法がないということを思ったとき、一億人民の中で少数の人間がここに残って、このもの達を頼りとしなければならない。一億を背負うべき我々を一億以上信じなければならない神様の苦悩は如何ばかりであろう。もしも神様が実体をもってこの地上に降臨なさいまして働くというようになった場合には、24時間なしてもまだ行かなければなやない。寝るにしても立って寝るよ。方向にむけて行かなければならない。寝言をいいながら休むにちがいない。そういうことを思ってみた場合には、我々の今までの歩みは足らない。足らなければそういう過去を悔い改めなければならない。ああ、これだけや-たらいいじゃないか、人にまさるようなそういう行動はできないじゃないの。自分自身が完成されるのもそれは今、我々の緊急の要求ではあろうけれども、自分を通して神を如何に解放するか、万民解放を先き立てる前に、神解放をなさなければ万民解放の道は永遠にありません。今まで歴史的に人類はこれがわからなかったね。その主人が不満を抱いておるその表情でもって毎日ひきいられる家族達が、幸福な環境におられるか。おられないよ。その運動をしよう。わかりましたね。(ハイ) 神の解放をなすには何をしなければならないか、自分に対して神自体が憂うることのないように、我ひとりに対しては神を安心させなさい。わかりましたね。(ハイ)原理の神から願っておる我々の行く道はこうだということがわかった場合には、それ以上のことはできるんだけれどそれ以下のことはできない。完全に心配するな。家庭をかかえて神様、この家庭に対して自分にまかせて下さい。神様解放の運動だよ、わかりましたね。(ハイ)日本民族に対しては、夜となく昼となく心配される神様を思ってみた場合には、日本自体救うのは我にまかせ。日本民族に対して今、現実の神様の苦労を解放してあげる。わかりました?(ハイ)メシヤはそういう使命を世界的範囲において、神よ、世界すべてを我にまかせ!その使命で来られる。だからあんた達はメシヤのそういうような全体的中心者にならないんだけれどね、相対的枝とか、葉っぱみたいな個人的な相対者にはならなければはやないんだね。 現実の一歩から始まる 神の解放の道はわかりました。歴史的神がいたそれが苦労であったということは、歴史的神校様をこの現実において解放する方法はなにか。すべての神様に逆らうものに対して我が責任を持って立つ。そう?(ハイ)言葉は簡単だよ、そのことがなされるか?問題はそこから始まる。第一に現実の第一歩から始まるその一歩は誰からふみ出すか。自分だけではない。神の解放だ。共産主義は人民解放、労働者解放。しかし、それが問題ではない。親孝行になれば神校の心情の解放の王者になれる。そういうそういう課題が現実に我々に神様は要求されるておる。我、日本に立っておるんだけれど、この足は現実のかけられた環境に世界をくぐぱて立つ。一家をひきいてそれを救うために戦うのは、世界万民の家庭を代表した立場である。嵐でもいいからふきかけ!大波でもふきかけ!それを乗り切り押し切って進む自分になれ!どうだ、そういう決意をしたことがあります?我々は何の為に召された?(神様解放)それはほんと?あんた達ほんとなの?(ハイ)どこまでやれる道がある。 統一教会のいちばん-ん喜ぶ言葉は何言葉だ?え-っ何の言葉だ、今まで話したじゃないの、神様解放する以上の言葉はありません。愛も解放されなければ成り立ちません。統一教会の最高の理想的宿念の言葉は何か、(神様の解放)我々は旧約時代の復活体だ。新約時代の洗礼ヨハネの失敗した第二次の勝利的責任者だ。イエス様の十字架に追うに追われ、行かれる道なくして十字架につかれて行った、そういうようなイエス様の身変り者ではなくして、それ上の神の王者として生まれたそういう自信を持て!(ハイ) さあ、そうするというと、個人完成はどういうような立場で立てばいいか。神を解放するという立場に立った神の代わりのすべてに責任をもつ。そこにおいて個人完成の基準が満たせるというんだね。そして環境の■さに出あった場合には、その■い環境を整理して歩む。サタンは語る言葉の中に、見つめる視線の中に、聞く声の中に、さわる触覚の中にサタンの毒薬はひそんでいる。如何におかされてつぐなえるようなバイキンが侵入できないような、肢体が強固な健康なものになった場合、いくらバイキンが入ってもそのものは内外共に健康なものになる。そういう者にならなければならない。 神に対して苦労であれば、これはきちがいになってしまう。寝ることを忘れる。食べることを忘れる。天下いいなる者逆っても我々は堂々たる者だ。すべてにおいて我々は責任をもたなければならない。わかりましたね。(ハイ) 自分の為に汗を流すな 生命をかける。普通びゃない立場において生命をそそいでぶっかけた場合には、サタンも通ることができない。何故?何故?親孝行娘になれば神の心情世界を解放する。24時間、神の心情世界を解放する覚悟がにければならない。世界相対すべてを相手にして我、勝利の喜びでもって一日をすごす。朝あがってくる太陽を見つめながら、夜明けになって沈んでゆゆくおはようございます。。さようなら。今日は、よかった私のなしえたことを覚えて下さい。堂々たといえるような歴史を見つめてきた太陽さん、歴史的な善なる神のみ旨のためにつくしてきた私を記憶するだろう。すぐ太陽が笑うのが見える。すべての周囲の環境がたたえる。そういうような世界があるから、アメリカが反対せよ我は行く。くやしいのが大きいか忙しいことが大きいか。くやしいことよりも忙しいことが大きいんだから、我は行く。 神様を解放しよう。神の苦労を体恤しながら神になぐさめをさずける、永遠のうらみを解放してあげるそういう親孝行者になりましょう。もしも神の命令によって行けと言えば行くんだね。(ハイ)男は死んでも天の象徴とすて死ななければならない。天の屈服するものではない。屈服させる。時はいつまでもない。限られた期間がある。だから絶頂を越える瞬間というものは、それは直ちに越えるんだね。それは何日もではない。一秒である。夜と昼との境は一日なの、時間がない!一瞬の基準が天下のわかれ。善の世界と悪の世界がいつ交差するかわからない。だから時を願って、最後の時だと思った場合には真を尽して生命をかけてやる。先生は先頭に立ってやる。三年間で有名にならなければならない。悪い方のうわさであってもいい。現実を責任もつそういうような城壁となる。ここにいる若者達が女に負けたらどうする!(負けません)負けたらどうすると聞いているんだ!(死ぬ)腹切るんだ。(笑)みんな切ってしまったら女の子は大変だろう。(笑)だから共同作戦しようね。女は左の足、男は右の足。神解放できる現実的な基台ができれば日本解放はすぐできる。女は左の足、男は右の足。あんた達の家庭解放はすぐできるようになるよ。自分の個人完成はすぐできるようになるよ。 やってみな。それに一心不乱。全力を尽して一生懸命やれば神解放はもちろん、すべての環境が相対的に解放されていくようになるんだ。わかりましたね。(ハイ)自分の為に流す汗のあとを流すな。自分のために血を流すそういうようなみすぼらしい者となるな。神のために汗のあとを残し、神のために涙のあとを残し、神の為に血のあとを残した場合には、万民そのあとは歴史を動かすその花として咲く。 そこにおいては新しい天国の歴史が展開する。天国民族ははなばなしく復活の実体圏が広がっていく。その基台を神を中心として為してもらいたいのが、かわいそうであった神様の実に願う要求であるということをあんた達に記憶してもらいたい。わかりましたね。(ハイ) こういうふうに育った場合には、日本民族はあしたの希望になるというもうにして生命がけの瞬間を拡大していかなければならないのが現実にむけられた神の使命である。先生も先頭に立って今も戦っている。先生の性質は弱い男ではない。天下の男である。神の身代り者としての嵐がふきかける中にあっても神様安心して下さい。我、後退する姿を残してかえれません。前進の決意の勝利の実体として倒れません。今まで押しつけてきたんだよ。これは人類の主流の思想である。わかりましたね。(ハイ)日本人が今、ここに集った若者達が誓って立ったとするならば火花が飛ぶ。これをくだけば四方八方に散るようになる。打たれて勝利するような頼しい、そういうような信頼できる者となれ!そういう道を行っているという自信を持たなければはやない。わかりましたね。(ハイ) イエス様を継ぐ統一食口 新しいアジアの世界が開かれる。新しい決意によってそういう道が開かれる。若き青年時代からありったけのそういう決意をそこに向けて歩むことが人間最高の道である。先生はそういうことをよく知っているんだ。生涯先生はそういう道を戦ってきた。そうだろう。(ハイ)先生が行く道を相いついでいく者が統一教会の食口達である。誰ひとりでも日本を守るような決意に立った場合には、自分のメンツはどうでもいい。サタンが何ぺんも神にさからってくる中を我々は、善なる道のためにサタンにさからって蘇えって打ち立つようなそういう覚悟をもつべき者が統一教会の食口である。心情の世界は歴史を超越する。切迫したアジア情勢から日本の行くべき道は世界が見つめておる。 結束せよ。火をつけなければならない。爆発しなければならない。日本の言葉に玉砕という言葉がある。神の為に玉砕すれば復活の世界が生まれて来る。イエス様はそのガリラヤの園においてひとりみすぼらしい姿から、神の心情圏をかかえて訴えながら、そうして十字架に追いやられて血を流して血を流していった。イエス校が二千年の近代文化をつくりあげた民主主義国家の中心点となるとは誰が思ったであろう。それに比べた場合、我・縄お教会の食口達はあまりにもすばらしいよね。そうだよね。 百二十人の大統領を伝道すれば さあ結論しようね歴史過程においてかわいそうな苦労の神様の心情世界を我々は観察できるような立場に立ってきた。神の願い求めてきたったのは何かというと、メシヤを通じて神自体の解放、家庭、氏族、民族、国家、世界的解放圏を拡大する為にメシヤをよこすようになった。そのメシヤはそういう立場に立ったとするならばメシヤの御理想は現実世界においてなされる。なされる結果において、神は歴史的解放者になり時代の勝利的解放者になれる。そればかりでなく世界がすべて解放になる。それが我々が願う地上天国である。わかりましたね。(ハイ) そうなったとするならば、ある国があったとするならば、そう理想モデル、個人的モデル、家庭的モデル、氏族的モデル、メシヤをつくるんだね。国家的モデルをつくった場合には一ペんに国家、氏族、家庭、個人、一挙に復帰できる。 その基準が成立した場合には、世界復帰はこれ百二十回くりかえされた場合には一ぺんになる。その標準タイプをね。必ずある。理想的個人的カナン、家庭的カナン、氏族的カナン、民族的カナン、国家的カナンとか標本としてこうなるべきだ、そういう憲法基準において決めてそれをすべて移してうえつければその国は一挙に復帰される。そうすればむずかしくないだろう。一二〇人の大統領を伝道すれば世界は?世界は?世界は?解放される!! 世界的標準点としてのメシヤが新婦を迎え家庭、氏族、民族、国家、世界をつくるためにはキリスト教とユダヤ教、ローマ帝国を完全に吸収した場合には世界は一挙に復帰された。今の世界においてアメリカを復帰すれば世界は一挙に復帰される。神の理想の天国を個人的次元、家庭的次元、氏族的次元、民族的次元、国家的次元、世界的次元と展開されることを思いまして、一心不乱にその基準にむかって努力してもらいたいのが先生の希望だ。わかりましたね。(ハイ)さあ、それをやると誓う者、両手をあげて誓おう。(ハーイ)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.05
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※ webに挙げられていたみ言です。未校正で読みづらいものです。パスして構いません。「祈祷と環境的刺激」1974年2月7日松涛本部で 我々が信仰生活を歩む時、くたびれた場合に前で引っぱってやったり、後ろから押してやったりする。そういうような環境を間違いなく保ってゆくならば、その目的に向ってゆくのにそう難しくはないんだね。自分一人でその目的をなしてゆくというのは、これは人間というのは朝夕に心が違ってくるんだから、考え方によっては違ってくるし過去、現在、未来あるいは青年の時、壮年の時、その時によって違ってくるんだね。だから信仰生活という、生涯をかけてすべてをのり越えるというようなそういう道を行かなければ、自分の正しい生来の目的地に達することは出来ないのが信仰生活の中心点だから、それをのり超えるには自分一人ではできないんだね。 それからある目的、目的といってもはっきりして、科学的にあるいは実証的にわれわれが感づくような相対圏じゃないんだね。だからある時はあるようであるけれどないようでもある。そういうような観念的な目的基準にむかって行くには、ひじょうに難しい道であるというんだね。 だからこういう道を間違いなく行くには自分一人では行けない。そのためには、信仰の友だとか、そういう友人が必要である。自分の事情をいつも連絡して、こういうような立場の現状を、いかに打破して行くかいうことを相談しうる、あるいは先生とかね。そういう関係を保てればそれは正しく行ける。また先輩があって、こういう時にはこういうふうに解決できる、というふうに直接関係をもって教えてくれればね。ひとつひとつそれはのり越えることはできるんだけど、そういう環境をもたなければ非常に難しいんだね。だから神を信じるというのは、神は存在するんだけれど実感的にはこなんだね。これをいかにして体恤するかということは非常に問題なんだね。 どこから刺激を得るか 一体神と関係をもつ基準はどこかという。どこでももちえるや。あるいは聖書を読めば聖書の中で関係を持ちうるか、というとそうでもない。だから聖書の中で神と因縁を満たせられなかったらどうするかというと結局、祈祷という問題になる。真心をつくして、自分のすべての忠誠をつくしてある目的とともに、それをつながせる神の存在をいかに体恤させるかというと、祈り、祈りしかないのです。祈りが非常に重要な問題になってくるよ。 特に統一教会においては、歴史的全てが…そこにおいてあんたたちの先輩があるんじゃなくしてね、環境によって指導し得る歴史的勝利基準を持っている者もいない。みんな…これから開発してゆくというんだね。そういう立場からみた場合に、自分の毎日の信仰生活の刺激をどこで補給するか。人間がご飯を食べてエネルギーを補給するのと同様に、霊的エネルギー、霊的刺激をどこで補給するか。考えてみた場合に原理の本を研究するところも一部にはあろうね。真理の基準はその目的観念に徹し得るその理解の基準を、開拓してゆくとなると、心情の基準は通じないところがあるんだね。そうするにはその基準を両面で心情基準にまでつながらせるには、やっぱり深い祈りが問題。だから霊的体験が必要だという問題になってくるんだね。 だから自分がいま一年の計画を立てた場合、これがどうなるかという予想がつく。それが直接霊界からの啓示でなくても直感的にでも、それを見抜き得られるというような信仰生活の本郷というか、その境地に立ってみると信仰の生活をするものは自信を持つことができない。そういう結論になるんだね。信仰生活するものは、未来においてはっきりした公式的な基準を組んで一年の計画と同じように、そういうふうにして漸次進んでゆくような物的条件基台がないというんだね。その度ごとにおいて神によって得られ、刺激されるような道であるから、絶対的に自信をもつということはなかなか難しい。それは自分一人でなく責任者という立場になると自分についているたくさんの者がいる。たくさんの者をこのままにしておくわけにはいかない。面倒をみてやらなければならない。面倒をみるということはあらゆる方面で、エネルギーを消耗するということである。それは婦人もおれば、壮年もおれば、若者も人間すべての属の各クラスの者たちが、みな自分とつき合って生命のカベをある目的に行く刺激をたのんでゆくんだね。それを指導していってみると、遠くなくして自分が果されないという思いにぶつかるのがもう自然現象なんだよ。 毎日消もうばかりしている。まあまあ根がないというような立場に立っているということを、自分がつくづく感じるということがたくさんある。それが信仰生活する者のむなしさといおうか、そういうのがあるんだよ。そういう時であればこそ祈りが必要になってくる。だからイエス様にしてもいつも祈ったのだろうね。静かなのころへ行って全ての自分の行くべき目的にむかって、あるいは毎日の出来事に関して霊界からの指示、どういう方向に進んだならば、どういう結果になるという予感的な基台に立ってこそはじめて強いんだよ。だから目的は信仰者の立っている基準からみた場合、どこから力を得られるかというと原理とか教えね。指導する関係から刺激を受けるとともに、それ以外には祈りの他はない。あんたたち祈りというものわからんわけだろう。だから祈りの生活に入ってこそはじめて信仰生活の味を知る。祈りの世界の背後には神秘的な立体世界がつづいている。平面的な自分の感覚を超越した、立体的な感覚の世界が存在するということをつくづく感じるんだね。だからそれを自分たちが育てていかなければならない。 君たち原理を知っているんだから、摂理の路程、摂理の方向を知っている。今どういう動向へ進んでいるか外的な情勢と原理の基準からみた場合、今の世界の神の摂理からみた場合にどういう時勢なのか。だったら神からわれわれにどういう点を要求するのだろうか。この外郭をみつめることができるのである。これは何よりも恵みだね。今までの信仰者は何もわからない。外的な世界の基準もわからなければ、内的な世界も何も基準がない。だから同じことをくり返してゆくのが信仰生活であった。それこそつらいがこの信仰生活である。だから信仰生活というのはなみなみならぬつらい道なんだね。それを何も知らないで信じているから見通しもつかない。出発の基準もはっきりしていない。過程もわからない。どこへ行っているのかわからない立場で信仰生活するのは、これはいわゆる天をしたいながらの地獄の生活にふさわしいものである。だからかわいそうなのは真実なる宗教の生活をする者である。神山牧師も中村牧師も人を指導する立場に、立ってきたんだけれど心の本随を追求してみると、自分なりに大きいことを言うとしても、自分からそれを確固した体恤の上で言うんじゃないんだね。体恤き信仰生活とうものは、実にかわいそうな立場である。 責任者は心、食口は体 しかしわれわれ統一教会としては神の摂理観を知っている。ああこういうふうにやってゆくんだ、いまどこにきているから未来はこういうふうになっているにちがいない。こうしたことを予想したということは偉大なことである。これを克服してからあそこへ行けるというふうに未来を予想できるから動揺しないんだね。自然的な環境によって自分に刺激される圏に立っているんだね。いまどういう段階にすすんでいるのかわかること、これは統一教会へ来て何よりほこりとするべきだよ。今までは何も知らない。先生があって歴史の段階がどういう段階にきているかということが、ずっと今の復帰歴史において話してある。それを聞いてみれば歴史はそういうふうに動いてゆくんだね。それは恐ろしいことだよ。先生が一人で言ったことが漸次世界的にその結果があらわれてくる。 あんたたちはそういう立場において、今の時を摂理的立場からみて今の時勢の環境をはかりうる。先生があって見はかれるのじゃなくて、その基準をはっきり体恤圏として自分が身にしみるような事実のこととして、全てを体恤させるというのが何よりも尊いというんだね。じゃあ先生がいてこういう関係を持って指導される立場は問題ないんだけれど、先生の話を聞いて燃やされて帰ってゆくと、一週間くらいでまたダラーとなってしまう。それをくり返している。それはいいとね。あんたたちもやしと同じだね。水をかけずにやればみんな流れてしまうけれど、水をかけてやれば成長する。これと同じだよ。みんな自分の生命力としてためて、根となり幹となり枝となる。そういうふうになるように思えば、百%いいんだけれどみんな流れてゆくんだね。流れてゆくのころに新しい発展の自分の基準がみいだされる。水が流れていっても、それをのりきる時ごとに成長してゆくんだね。こういうようなくりかえしの人生の生活が必要だよ。だからあんたたちは指導者として、いつも考えなければならないのは周囲の関係だよ。関係が必要だよ。 人間は、心情的に欠けた場合はさびしいんだよ。これをどこで補給すかというと食口たちを通してだよ。だからあんたがたに食口たちは絶対に必要だよ。自分たちに力なき場合には、食口たちがこうやって信仰生活をやっているのをみれば、ある時には霊界から教られる。そして自分でたずねて来て報告する。心に燃えて霊的に燃えて報告する。その報告は君たちの何人よりも尊い時間だよ。その時はいくら責任者としても、その報告をしてくれるものは、日々の生活をしてゆくうえでのメシヤと思え。その報告はその一人のために神が授けてくれたんじゃなくて、自分を刺激するために授けてやったわけある。だからその報告をその者の報告と思ったら大まちがいだ。それは自分の身代りの詞しをしていおる。そういう関係が必要だよ。だからそういう関係を結んでこれば、食口たちが恋しくなってくるよ。したうのである。早くこないか。自分ながら下の食口たちにしたがう心をもつようになる。自分が心霊状態が落ちた場合にはすぐやってくる。正しくない場合には必ず助けがやってくる。それは宇宙の原則だよ。原理の観なんだよ。そうやれば自分たちが誠をつくして食口たちを指導してゆく。 自分が心の場合だと思えば食口たちは体の立場である。これがひとつにならなければならない。主体、客体が完全に一つにならなければ発展できない。増殖作用はできないというのが原理の教え、自分は内的な中心であり、外的な食口たちとひとつとる。特に授受作用しなければならない。自分がやれるものがければ、むこうからもらわなければならない。だから神が歩くというのに右足が、私は歩かないといぱてもそうはいかない。左足を出せば歩くようになっている。同じようにその環境でもって作用をともなわせながら、発展してゆくのが自然現象だら、あんたたちは責任者だから命令ばっかりするのであって、下の話など聞くのではないというのはまちがっている。 子供みたいにお母さんみたいに、自分の姉さん、兄さんみたいに食口たちをしたうようになるんだよ。あんたたちそういう体験をしないだろう。だから食口たちが来た場合、立って帰るのがいちばん悲しい。そういう体験をあなたたちはしなければならないよ。もう少しおればよいのだがなあ、帰る姿をみた時にはたまり切れない。何かもう少し話をしたらよいのに、というような思いにあんたたちはいつも燃えあがっていなければならない。そうすれば帰っていってからだよ、じっとしてはおれないよ。のこのこやってくるなといってもやってきますよ。こういう心情的原理法を適用する。生活圏を保ちながら主体的立場に立つべきなのが指導者の立場だ。 兄弟愛は神への道 だからあんたがたはどこで力を得られるかというと、自分で得られる道がなければ、誰かによって得られなければならない。誰かというと食口である。兄弟しかないんだ。食口たちしかいないんだから、食口たちによって自分の生命の因ねんのつながりをここにおいて、結ばす以外には自分の発展する道が得られない。だからその立場と“神”。それ以外の本源には食口しかいない。地区長たちや地方で責任者になっているものたちは、命令ばかりはするんだけれどね。自分は命令ばかりするんだから、一日に命令する分も何週間も命令していると。もう命命するものがなくなってしまう。人は話が会うところによろこびが生じてくるんだね。授受作用をするところによろこびが生じてくる。ひとりで話しながらひとりで笑っていたら気ちがいである。返す作用の相対的な作用をするんだから、ここにいろいろなよろこびが生じていろいろ首をまわすしね。活動という結果も結果が必要となってくるんだよ。自分一人でえらそうなことをやっていたって何もならない。遠からず、狐独になってしまうよ。狐独でなったのを自分でよく知っているよ。みた目はからっぽで大きいことを言うということ、良心的には反作用によって苛責をおぼえる。これはいつわり者にとし、こうなってしまったら指導者は絶対できないというんだね。そういう原点に立つのが責任者なんだよ。、からその道は二つしかない。神による道によって伸展される道と、食口によって指示される道。 しかしここであんたたちの場合、わからなくてはならない。神は見えないんだけれど、食口たちは見える。ここにおいて神を愛するより人間を愛すれば、神を愛したことに通じるということを、あんたたちは知らなければならない。なぜかというと神は親の立場である。全人類は神の子供の立場である。本当に兄弟愛でもって親より愛する兄さんがあったとすれば、その親は兄弟を愛するその兄さんに対して孝行息子、自分ばかりに孝行息子になるそのものよりもたのもしく思う。だから結局、食口を愛し、食口たちのために生きる者は、神のために生きるものである。そういうふうに生きる者は発展せざるを得ない。それは原理観からみて、完全に授受作用するところは神はその中にいます。結果において繁殖するという、原理で教える四位基台作用法則だよ。 人間を研究しよう 原理適用の生活、環境をあんたたちは活用できない結果に立っている、狐独になってしまう。ある新しい女の子がやってきた。それを研究する。あの目玉はああいうようになっている。鼻はああいうふうになっている。口びるは太めになっている。人相なんかは女の子にあっては、言葉はむっつりした言葉の言い方をするだろう。ああいうタイプだから、ムラなタイプだから、こういう時は必ず来る。さあっと待っていると、まさしく「あっ」まさしくムラの時で自分で報告するよ。人間に対しての研究が実におもしろい。みんなちがうんだよ。だから性格というものは、生まれながらのたまものであるというんだね。それをみて、コントロールしてゆく。あるものは霊的なタイプにちがいない。こういう感動を受けた場合は、それをオーバーする。それを病気になった者を、お医者さんが投薬して、ちゃーんと快方的に発展してゆく結果をみながら、よろこびと同じように、夜通しながら投薬して研究してよろこぶんだね。お医者さんと同じだよ。 だからあれが入る時にはああいうふうなとんでもないしかただったのが、いまでは円満なタイプになりつつある。自分の科学的実験の結果そうなっている。そういう楽しみなければやっていかれないよ。だから食口たちの指導方法もまごころの戦いとなる。いくら自分が誠意をつくしてやったからといって、その結果はそれをだますことはできない。その通りの結果にあらわれてくる。自分が見たい、自分が恋しかったという思いのウラで、生命を愛する心情基準に立った場合には自分に対して、全てをささげて生命をかけて従うようになるよ。動機なき結果は宇宙の原則にない。だから指導者というものは動機を正しくたたせる者だ。生命を指導する。食口たちを指導することは一番むずかしい。生命の動機をいかにしてこれを応援してやるか。 三倍投入 それは原理のことばであるが、原理のことばは原理と自分とが一つにならなければならない。あんたがたは自分は別として原理があわない。原理が一致していないや。それは繁殖する環境がなっていない。主体と客体が完全に授受作用してひとつになるところによって、中心点が決しているところで神が臨在し、神が臨在するところで三倍基台を中心として、四位基台結果が生まれてくる。宇宙の創造原理なんだからね。だから人間はまことでなければまことの結果はうまれてきません。だからそのまことをどこに立たせるのかどこに求めるか、自分自体に求めることができなかった場合に、相対圏に求めた自分には、相対者を中心として自分にみとめることによって、自分の基準を正せることができるよ。そうだろう。逆もまた真なり、と同じように、自分がいまどういう者になっているや、環境からいやがられて、自分だけがいくらえらそうな顔つきをしていてもついてこない。だから先生は考えるんだよ。自分は食口たちと神、これがなければ通じない。あんたたち祈祷生活やらなかった場合には、食口たちのために自分なりの今までの経験でもずーっと証しをする。その証しをする時にその証しをするのでも自分が聞いた証しではしかたがない。体験した証しをした場合には、証しする時にその証しを聞いて燃えあがった場合には再び燃えあがる。 だから生涯において、そういうプログラムをつくるんだよ。自分の生涯、み恵になった、そういうものは必ず操行に出てくるんだね。そして食口たちの指導する方法に適応される。自分の経験しないことを人に経験させることはできない。だから問題は環境をいかに結びつけるかということは問題だよ。それをもしも出来なかった場合には、まずもって神とひとつになった場合、授受作用した場合には繁殖。それは何によって(聞きとり不明)せるか、心情だ。神が恋しくて恋しくてたまらない夜どおししながら、祈りの深さによって神秘的な神さまの心情世界にうたれることが何よりも尊い。そういう宝の世界一の基準を早くみんなに分かちてあげたいと、そういう思いにこがれて話しかけると、すぐ自分の体恤した基準の相対結果物として立つ。神の心情基準をなしえたその基準は、距離をはなれてもその結果が生まれてくるよ。だから信仰生活には体恤の基台がなければならないということになるんだよ。 だから祷することと環境的刺激、あんたたちは指導者がいて、友だちがいて刺激してうれればいいんだけれど、そうじゃない。ひとりぼっちだよ。みんな倉庫とすれば、サギを開けて配給するばかりであってもらえないんだろう。上からはやぱても方法がなければならない。だから食口たちからもらう、絶対にもらう観念をもたなければならない。今までそういう思いをしたもの手をあげてみな。たいがいそうは思わないんだね。 まあ、アベルとカインとして、アベルにカインは絶対服従、カインのいないところにアベルがあるの、同等な位置だよ。アベルはやることであり、カインはもらってそれを返す立場である。だからまことにやるんだからまことに返してくる。サタン屈服させる方法なんだよ。神は自分をやってそんをして、サタンの悪の基準を消もうする蕩減条件を導入して、誰が導入するか、アベルが導入する。いままでの日本の考えでまちがっているところがある。カインはアベルに屈服する?そうじゃないよ。やって蕩減させてやる。蕩減させてやることによって善なる結果が帰ってくるんだよ。蕩減させないところには、善なる結果は帰って来ないよ。善なる基準というのは悪なる基準にとどまらない。悪なる基準を善に返すのは、それ相当の善が蕩減される基準に犠牲にならなければ、悪なる世界において善なる基準は絶対に生まれてきません。だからアベルというものは、カインに善を授けてやらなければならない。蕩減の条件を授けてやらなければならない。 今まで日本の責任者たちの観念は反対である。絶対服従すればよい。それは通じませんよ。カインがアベルの方に絶対服従するという原則がなりたつか。サタンだよ。シチンぎ絶対服屈伏するか絶対反発だよ。そういう指導方針はまるきりまちがっている。神の世界とサタンの世界はカイン・アベルにかかわらず、アベルにカインは服従という立場は、そういう原則は反発原則であって、服従はありません。だからそれを服従させるには自分の投入結果が三倍あったらひとつ返ってくる。それは原理原則なんですよ。なぜかといえば蘇生、長成はサタンが持っている。完成基準が神の基準として復帰の基台となっている。だから三倍投入して一つが帰ってくるのが復帰路程の原則である。 何故日本の統一教会が発展しないか、君たの信仰姿勢がなっていない。地区長たちの観念的自分の意識観が、天的基準に通じる基準に立っていないことになっている。地区長は命令ばかりするじゃない。寝る時も、みんな寝かして親の立場に立たなければならない。いままで世の中にうまれて自分たちのためにやった親以上に、できないものは天的指導者としては零である。ものがあった場合、いいものは自分。これじゃサタンより悪いじゃないか。いいものがあったら自分が食う。いいものがあったら自分が着るし、そうはいけない。これは原則に違反する。だからいくら真心をつくしてやってみたか、なみだながらにやってみたか。手をにぎりながら自分が責任をもってこれを生かしてやらなければ、ならないというような心情圏に立ったものがいくらあるか、反省しなければならないよ。 だから原理的指導方法をいつも考えなければならない。カイン・アベルのことばの方法をなしえたって結果はとんでもない結果になる。原則的方法を適用することによって、原則的発展をみなすのが原理であって基準を立てずしては原理的結果は生まれてこないが自然だよ。問題はそこなんだよ。だから食口たちは必要だ。絶対必要だ。朝御飯より必要なのが食口だよ。 恐ろしい責任者の立場 なにもないところで自分一人でボヤーとしていて昼寝ばかりしているような者は罰せられるよ。将来の末はよくありません。だから、君たちは地方において食口たちがカンパをして全ての自分個人を犠牲にして、踏みにじって御旨のためにたって、自分の面子も何も思わずして、天ばかりしたいつつ、もうけた金を地区長さんたちが心の痛みに思わず、それを使うとううこと神はぜしません。先生はそんなことはしません。先生は喫茶店も入らない。絶一人では入らない。いちばん恐しい。恐しい金だよ。金を持っていた場合、あっよかった、そうはいかないよ。恐しいものだよ。その金はどういうまごころをつくして入ってきた金かというと、自分の主体的な立場の基準を保ってやらないと引っかかるよ。 だからあなたがたは涙ながら見送らなければならない。 身代りとして奉仕するその素直さ。それは善なり。思いをきよくする。そのくらしを自分が感謝しないようなものではこれは人ではありません。今まであんたたち、たいがいの責任者たちはそういうことをしてきている。先生が霊的にみた場合にはね。 だから食口は絶対必要だよ。独、ひとりぼっちに自分が来ているところにこの自分をたよりとして、生命がけでとりとしてかけよゃてくるってことは考えてみな。その真剣さに対して、あんたたちいつわり者である。それ以上真剣でなかったらいつわり者になるじゃないか。善はそうじゃない。そうだろう。生命かけてやってきている、そのものを自分たちはとんでもない待ぐうをしてやった場合はその人の道は、いくら神様が助ようとしても助けられない。助けようとしたらサタンがざん訴するよ。だから直接に訪ねてくる食口たちに王様を迎えるような思いで、それ以上しなければならない。この子供が天の王様の子供になるんだから水だから堕落した自分たちからみて、神が本当に愛するそういう人をつかわしておったとするならば、王様を迎えるような心情を持って食口を迎えなければならない。 そういう基準からあんたたち自分を反対してみな。自分がどんな責者だったか。まことの指導者だったらいつわりの指導者だったか。そういう根本的基準から正しておかなければならなかったと思う。食口なければ呼吸もできない。息を出した場合は吸わなければならない。自分がやったにもかかわらず、よろこぶ。自分たちから得られるの、相対的から得られる。だから食口たちを教えてみて原理はすばらしい。いやこの話しは生命が復活されるんだね。それわかるんだよ。だからまごころで伝え、いつわりなくまごころで伝え、慎重にいかに徹しているかと、それが恐しい。先生だってそうだよ。全米二十一ヵ所の講演やった時、毎日、口を開ければレコードみたいに言葉がでるようになっている。しかしそうかとってていつもその基準だったらまちがい。出発する十月一日のカーネギー・ホールに立つその時の心情以上の基準をいかに体恤するか行けが行くほどむずかしい。やればやるほど恐しい。だから壇上に出るその瞬間は、犯罪人が公判場、裁きの場に立って最後の審判のちょうど宣告のことばを受ける瞬間である。なぜかというと自分があやまった場合には、天来いままでまごころをつくした数多くの生命が切れる。自分の発した言葉には責任を持たなければならない。無責任の立場でその人を殺した場合はだれに追求するかといえば、殺したその者に追求する。だから責任がある。だから統一教会の指導者としてずっと多年間やったものは、こういう原則を忘れてはならない。 自分を中心としてった指導者の後がない。必ずその子供は不良になり、後孫がきれる。 天の原則はそうなっている。だからおそろしい。そういうこと感じたことあるの、原理は一回聞いたらいいや、二度、何回聞いたらそれでいい。それでいいんじゃないよ。自分の拾姿勢いかんでは、永遠に深く入る基準心情世界だよ。毎日同じことを講義するといって、それを通りすがりの道において友達と語り合うようなそういう講義はしません。だから環境と通じ霊界と通じる仲介役だね。これを自分がなさなければならない。そうするには愛の心を仲介しなければならないのだから、愛するしたう心をもって、愛しなければならない。自分の責任でもって(不明)ないと愛されるものは生まれてきませんよ。先生だに今までそうやっているのにあんたたち考えてみな。(不明)やっていままでやったのだろう。そうだろう。何の結果もない自分の中心的何ももっていない立場で、いままでふりかけていた。それは棒をもちながらふりかけていたという立場だろう。それでは行けば行くほどむなしくなる結果しか生まれてきません。天がいないようになる。統一教会自体は既成教会と何ら変わるや済同じだ。 食口から刺激を得る だから刺激はあんたたちとしては食口以外にないしね。食口、それから神様。だから自信をもっている者が指導者じゃありませんよ。神を正して自信を持て、神の命令あっては神より強くなければならない。神、自分とともになすというところには、悪魔も審かなければならない正義に立って切らなければならない。強いものだね。だから神と自分がひとつにならなければ強い者になれないぞ。神と自分が一つになってこそこれは統一教会の心情的中心が立たれるのであって自分一人で心情的基準活立たれるの。 考えてみな、原理的に分析してみな。原理は人に教えるために勉強するのではありませんよ。自分が原理を中心として生活するために勉強するんだよ。講義をよくやるものが指導者じゃありません。だからこんど商売もやれ、伝道もやれ。先生たちの姿を知らなかっ小相対圏の責任を持つことは出来ないから。商売やっている食口たちのつらさを考えたことがあるか。街頭に立って涙ながら、あいは電信柱をかかて要求しながら天に祈ったそういう立場もある。一本、一本涙を流しながら神に祈りつつかかえつつ販売したものをそれを思いもせず、どろぼうみたいに自分たちでで横どりしてかってに使いやがってそうはいきません。そういう者はサタン世界にも通じません。だから涙を流せ。それは物を愛る神さまを愛するように。物質を愛する神さまを発見せよ。 日本では何もしないで入った年令で入ってきたから、とんでもない、とうったんだよ。次は人を愛する神さまを発見する。伝道せよ。「伝道するのは君たちの使命でわしは話す使命である。」これはだめだよ。親になるには子供の過程を通過して親の過程までかねてこそ親になるんだよ。先生はそういう訓練をやってきたよ。だから先生がいちばんたまり切れないことは人をむやみに使うもの、人のものをむやみに消もうするものである。いくら古い者としても、金をムダに使うものは、先生自体が一瞬を今おしんでいるよ。だからお母さんにいつもいわれているよ。中きいことをやる人なんだけど入ってみるというと一瞬もゆうずうがないね。何かみやげなんかもってきたら、ちゃーんとためておくよ。そういうような原則を知っているからね。それに違反した場合には自分がはねられるよ。だからそういう立場をみた場合に、いつももらいたい、いつもやりたいという思いだよ。いつもやらなければならない。神の前にはいつももらわなければならない。もらうものは百%もらうけんそんにならなくてはならない。また、やるには百%忠実にやらなければならない。そうみれば自分は何もないじゃないか。もらって百%やったら、永遠の水が同じく流れてくるんだね。それは真理だよ。 今、先生にしても韓国に相当もっているんだけれど、まごころつくして昼夜休まず工場が発展するためにだれよりも努力したんだけれどね。信じてあんたたに任せる。もしこれを空しく使った場合には、その手を通して、体を通してその一銭がつたわる。今まで自分がつくしたその金はぬすんでゆく者がありません。もっていった場合には、弁償、利子だけ加えてさがす。そう考えている。神が反対する。そういう信仰の姿勢が重大だよ。 そういった場合、本当に人を愛するか、本当に親子以上にやってみた。やりながらも恥しい。やりながらも悲しい。真の親の心はやりながらも天下すべてのものをやっても、足らない原理だよ。このものをやるには、わしは待ってちょうだい。やりながら足らなさを感じる親心、君にはいつかやったんだろう。それを返してちょうだい。親はこれをやって忘れてしまう。そういう心情が本来の心情圏だろう。そういう心情圏はだれもが願うよ。そういう指導者はだれでもひとつになる。指揮下に入って休みたいし入って寝たいし、ついて回りたいし、とよに行きたい。だからそういった心情圏に立ってみな、夜をあかしてもむこうは立つことができない。 これを立つにひれふして何べんもおわびして立つような思いになるんだよ。だから食口たちがなければならない。千億万円あっても食口たちを求めて回らなければならな立場が地区長である。責任者だよ。それを得た時には金が問題ではない。生命の尊とさにはほれてしまう。の成長ぶりをみて、天下何ものにもたとえられないようなよろこびを感じる。それは神さまの創造の姿じゃないか、その創造のあとを体恤することができる。だから神はそういうことを人間を通して経験した人だから、神さまが人間をつくゆときの心情がどうであるかということが直感的にわかるよ。そういう経験があればばむこうではっと話をすれば、あっ何のために話しているかすぐわかるんだよ。あの人はああいう知らずにやっている結局、口を開けて話せばばこういうふうになるんだだろう。ちゃんとそうなってくるんだよ。そういう予感圏がひろがってくるんだよ。それは神の心情圏ををともなわなければその予感圏が発展して来ないんだね。そういう方面の教育は、将来立った時には、先生は本格的に教育しようと思っている。本心的教育ね。それをあん達原理を中心として原理の生活をやれ。 食口は必要だよ。神さまの身代りとなって再創造するのが責任者だよ再創造するにはいずこからももってこなくてはならない。全ての鉱物が入っているから、みんな運んでやって、その原素をとって合わせなければならない。それと同じだよ。だから部落一体を山から、話原か全部愛して回るんだだよ。君たちは自分の県の全てのところ自分の足でふまなれていないところばない。君も成長したろう。ここに来ているぼくも一年間こうなったよ。生きているものは成長するんだから、枝のない自分に三人、四人枝になってきたよ。。友なり語りあうよろこびを感じるように。ものを愛し、人を愛する道が神につづうてゆく道であるとわかりましたね。 投入 自分を愛するところには何ものも存在することは出来ない。善の基準は何かというと、神様が創造する前は自分を考えるときだったね。そして創造というのは相対者をつくる立場をいう。絶対なる神が相対者として必要とするのは絶対的相対者である。だから神が百の力あったとするならば百の力以上のものを投入したいのが神の思いである。われわれ人間が結婚、相対者を求めるとき、自分より増したものを願うのが人情だよ。神様に似てい引からそうなるんだよ。自分より立派な自分者をもらいたいものだよ。なぜかというと、完全にそれと一体となれば自分が立派なものになるからだよ。もしも自分が六十%で、百%の相手とひとつになった場合には、それが善なる目的だったら四十%のものが加わるんだね。だから、小さいものから大きいものへと発展してゆくようになっ点ている。それは宇宙の原則だよ済いい相対者を求めるのは宇宙の原則だ。 こういう原則の論法を神に適用するならば、神は主体であるから水神の相対者としてそれを立たせるためには神より以上のものを立たせたいんだから、相対創造には無限の全能なる力を百%より以上里入したい思いは神の相対者をより大きいものとして愛したい思いからみて事実を有の立場に立っては完全の相対圏は生まれてきません。千の主体であるものが、千そのまま残して千の相対者として生まれてきません。千そのものを相対の位置に完全に移動しておくところにおいて千なる相対基準はうまれてくる。そうなると主体はどうなるかというとマイナス、完全になくなる。 だから百%投入したところに百の結果が生まれてくる。もし善なる百%自神様活法決'投入すれば、法決%の相対者しかうまれてこない済それをみて神はよろこばない。百%より以上のものを投入したい思いにかなって、その結果があらわれてきた場合に神様よろこぶのであって止だから相対基準を求める立場に立つその時には、自分というような存在観念は無視しないところには完全なる相対は生まれてきません。 理想存在は自分のために存在しようという観念にはありません。相対のために存在する。理想圏はそこからはじまる。だから女の理想は何か水女水自分を中心としての理想じゃないよ。男が女の理想だよ。男の理想は何か。男の理想は男じゃないよ。男の理想は女だよ。結局、男は何のために生まれてきたかというと自分のために生まれたのじゃなくして、女のために生まれている。それを自分のために生まれたと思うのが堕落圏だよ。それを転換すれば理想世界だよ。簡単なんだよ。だから、ために生きる道によってまことの善、まことの理想、まことの愛が生まれるのであって、自分を中心にして生きるところにまことの理想と永遠の愛は生まれてきません。 だから自分は自分のために存在するというところに理想はありません。真の愛のために生まれて存在したという立場をみたすところに真の愛がうまれてくる。この原則を宇宙の理想的原則として神は摂理の大憲法として宇宙のそれではかっている。だから善の道を行きたいのは人のためにやれ。 神がそういうふうにために生きるところにそうしたら、神自体は何もなくなってしまうじゃないか。そうじゃありませんよ。天宙宙全てのその中心の力の本源である。主管の原動力となっているその愛は自分から生まれてくるのではありません。相対者から生まれてくるのであるから、いくら全能なる神でも相対者である人間をみたさない以上は、神の愛を発見することは出来ません。 だから愛の完全のために創造を成したということは、既成教会の牧にはわからないよ。先生はこの公式を中心にして今までやってきた。この公式でもってやってゆけば栄える。完全なる善の基準にあった場合にはその相対者は善にとよなってひとつになれる。それは理想的だよ。原則的だよ。だから個人は家庭のために完全投入せよ。それは投入は神様が創造すると完全に家庭に投入した場合にはその家庭が自分にかよって創造されてくるよ。結局、そういった場合は完全投入有しきった全部がまちがいなく、完全に受けたというころにはひとつとなって誰を主体とするかというと完全投入した神と同じ立場だ。身代りの者となっているからそこを中心として中心者になるよ。それで神と同じように中心者になった場合には、より大きい目的観についてゆくには人をたてていかなければならない。 だから、完全投入してみな、完全投入しない者は完全なる喜びを得ることができない。だから堕落は何かというと自分の存在意識を認識しはじめたのが堕落の本源だよ。サタンは何か、自分の存在意識を主張しだした。堕落エバは何だ、自分を中心として存在意識を持ちたいと、ああいうふうにして自分がよろこびたいということだったんだよ。 すばらしい天的心情圏 だから人を愛するには完全に物をその人に犠牲にしなければその人を愛することは出来ない。物を愛し、人も愛し、その人自体を完全に神のために犠牲にするという立場になければ神を愛することは出来ない。それを適応してゆけばどこへ行っても刺激を得るよ。責任者は環境によって刺激をされなければならないよ。 雪なんか降る晩は先生は寝ないよ。刺激がすばらしい。やってみな。夜を通してずっと雪の中を歩く刺激はすばらしい。天下を求めてゆく一人男のすばらしさよ。だれもみれないんだけど、天とともにささやきながら、ある目的にむかって進むすばらしさよ。英雄みたいな思い。なんで雪が降るや。今晩、祝賀のために雪が降るんだ。こう思うんだよ。そういう生活が必要だよ。夜を通して歩いたり、山をぶらついたり、松林なんか、いっぱいしげっているまっくらなところで止あるところへ行った場合にはポカッと穴をあけて三ヵ月が、さーっと照りそそぐそういう立場の神秘さは刺激的である。だから先生は自然をとても愛する。清平に行って来た。朝また早く行く、三、四時間しかいない。なんで行くや。それこそわからない。朝の気持と夜の気持はちがう。自然をなぜ愛するか。自分の象像的性相の相対者である。そうじゃないの。それを愛しなければならないや。人間は自分の実体的相対者、神は主体的相対者である。 三相対者を持つ自分は幸福である。 だから刺激が必要だよ。より高い刺激を得るには物を愛し、人を愛せ、それができなければ神を愛せ。神と因ねんを持て、祈祷せよ。 韓国においては、先生は最初のときにね、それこそ純粋なまごころでもってやった。百%の心情でやる。そういう時にはみんな問題になってくるよ。一度会ったものは帰れない。帰らない。青坂洞の本部にいった場合には、足が動かないんだね。死ぬならこの周辺で死にたい。なぜそういうことになるか、それはまことの基準に立ったとするならば、その相対圏に立つのが理想だから、それは死にものぐるいだ。生命なんか問題ないよ。だから先生がみたくてみたくてしょうがないよ。ねむりながらも「先生!」と呼びかける。そういうところまで入るんだよ。これはもう感覚もすべてがかたまってしまう。だからそうみれば天的な心情圏はすばらしい境地だよ。そういうすばらしい境地にむかってゆくときなのに、あんたたちなんだ。通りすがりの酒場で安い酒でも飲んでたわむれるようなやり方じゃまずいよ。だから食口を愛せ。食口のため自分の一身を昼も夜も、自分が寝られなくてもやれ。百%やってみな。結果はどうなるか。統一教会の原理の実相はどうか実行してみな。実行して反応がなければウソだよ。ウソ。思想統一、世界統一といっても空ら言葉にすぎない。そうやれば、その実相圏は、神がいますその環境をこの目でみることができる。よろこぶ姿をこの目でみることができる。 あんたたちは統一教会のすばらしさがわからないんだよ。先生はいつもホールに立って話すああいう先生だと思うんだけど、そういう簡単な、存在ではありません。深いものを持っているんだよ。何かある。何かあるんだよ。先生が真剣になったとするならば、その環境は真剣になるよ。これが宇宙の原則になっている。 自分をやり直せ そういうすばらしい統一教会へ入って何だ一年、二年たっても伝道できない?何人伝道やったや。統一教会へ入って何人伝道やったや。いったい自分が統一教会へ入って、先生があんなにいつも復帰の道をゆかねばならないということを教えたのに、三人と十二人百二十人まで伝道しなければイエス様の相対圏を成し得なかったならば、それは神のうらみとイエスさまのひとり子のうらみとイスラエル国家圏のうらみを蕩減することはできないということを教えているにもかかわらず、それを本気におしかけて、百%投入する。創造する神の立場に立って、自分を投入したことあるや。原理から聞いた場合、あるや?なきや?それを投入せずして相対者がうまれてくることはドロボーだよ。そんな神ではありませんよ。 完全なる投入をしてから完全なる相対圏を求めるというのが神の再創造の原則である。われわれは神によってゆかねばならない立場にあるにもかかわらず、それを原則は無視して、自分なりの方法にしたがって、神様は自分のしもべになるの?そうはいきませんよ。だからあんたたち何かがまちがっているんだね。何がまちがっておるよ(大声)いままでやったこと何かまちがっておるよ。だから自分をやり直せ。それは理論的だよ理論的に。盲目的にじゃないよ。イエス様は人のために生命をささげるものが愛といったんだけど、なぜの原則は教えていないよ。われわれは理論的にちゃんと知っているじゃないの。完全投入して、もし完全相対者が生まれて来なかった場合には、統一思想、統一原理はうそである。文先生も神さまもあったものじゃないね。先生は実験してまちがいないとして統一教会の責任者に立つ。全ての迫害の道を堂々と行けるという、そういう実証をみてからこういうみちをふみ出しているんだよ。 いまでもそうだ、アメリカの講演会の時は一人でもいい。人はたくさんこなくても、神とわしの二人だけでもいい。それで四位基台がつくられるからね。そう思っているんだよ。だからそういう立場に立っていまから帰ってやって。完全投入をやってみな。完全投入をやってみな。完全投入すれば自分の相対者はかならずうまれてくる。うまれてこなかったら、宇宙全体の神の復帰路程と神の復帰摂理は絶対可能ではありません。 だから神は完全投入するから歴史は、動揺しても完全の相対者は一人でもよいから歴史過程に残されてこれを因ねんとして、次のときまで延長させることができる。それでもって神は発展の末が近づくのをみながらしのびきっている。末の世界にむけて摂理をめてきた。さあ、それでは自分はいままで完全投入してみた。考えてみな、いかに複雑か。 復帰の道を行くにはわしが全てをささげて感謝すべき三人の子女が必要だ。十二人の子女が天に通\ゆく原則的だよ。だからそういうふうに再創造していって、自分を完全投入、三人、十二人、七十二人、百二十人が限界だよ。イエスさまの身代りに、ペンテコステのとき、百二十名が立たされた。これは世界的だよね。しかしそれは霊的であって実体的ではない。実体的基準を立たせるには、統一教会の自分はいままでそれをやってきているんだよ。 だから統一の氏族は自分に絶対服従しなければならない。服従しないものは、ぶつぶつということはいわれません。自分が世界的先頭に立っているにもかかわらず、自分は家庭的基準においてぶつぶつ言われるか。そういう原則なんだよ。原則的生活をしないものは将来さばかれる。一族がさばかれた場合には先祖だに引っかかってしまう。三時代が引っかかるよ。アダム家庭、ノア家庭、それからヤコブ家庭の三時代が引っかかゃちゃうんだよ。過去、現在、未来の後孫まで引っかかっちゃう。こういう重大な問題をかかえて天地に布告して勝利的基準として立たすのが祝福家庭なんだよ。おそろしいよ。だからいい気になって自分から祝福されて自分の気ままに、とんでもないよ。自分はそういう無力な男じゃありませんよ。 だからイエスさまひとりによって過去が解放され、現在が解放され、未来が解放される。三時代が解放される。一人が引かかった場場は三時代が引っかかる。だから自分の夫が問題じゃないよ。自分の妻が問題じゃないよ。 大移動で摂理は発展 その時は大移動のときがやってくるよ。摂理の発展は大移動によって発展してくるんだね。だから神様はノアもアララテ山にひき出して神とひとつになって投入して親族を引っぱり出す。アブラハムを引っぱり出して神とひとつになって、親族をロトと住むんだね。ヤコブも引き出して訓練して、ひとつになって、自分の兄弟エソウをすくうよ。イスラエル民族を引き出してカナンの民族をすくおうとするのが応じなかったから滅ぶんだね。原則はそうだよ。だからキリスト教中心の大移動したのがアメリカだ。アメリカを引き出して訓練して神とひとつにしてヨーロッパをすくわなければならない。ヨーロッパをすくった場場にはキリスト教をすくわなければならない。キリスト教をすくった場合にはユダヤ教をすくってやらなければならない。それをすくってから宗教をすくってやらなければならない。 復帰段階は兄弟をすくうのだよ。兄さんをすくう道になっているよ。だから統一教会は大移動をする。だからあんたたちも移動するだろう。統一教会信じたものは東京のものが大移動する。全国へ行け!ハイ、ハイ。北海道へ行く。鹿児島へ行く。定着民ではありません。世界的移動人事でやっているだろう。日本からアメリカ来い。それからアメリカからヨーロッパへ行け!授受作用することによってひとつになる。 だからあんたがたの父母は親泣かせの原研、なぜ?大移動するから。呼び出して訓練して、完全に神とひとつになって、絶対信じるようになったんだから今は帰って家庭を復帰するようになっている。公式的にはそういうふうになっているんだよ。みんな原理通りじゃないか。先生は無鉄砲にやるんじゃありませんよ。あんたがたは氏族復帰しなければならない。これはイエスさまの身代りね。イエスさまは氏族復帰圏は得られなかったから死んだんだから、イエスさま以上の基準を復帰できなければ神の子供になれません。本当は氏族復帰基台のうえに祝福されるんだよ。今まであんたたちは何もないうえに祝福されるのは、自分が統一氏族圏みたいな基準をつくってやったんだから、自分が直接責任持っているんだから祝福やるんであって、ぜったいできません。 だから今まで、統一教会が有名になれば、一家、一族は一ぺんにあんたたちの話を聞くような時が来るんだよ。だから善なるうわさを全国につたわるようにして、一家がいっきょに生命をかけるようにして止誓って神に帰るようにならなれば氏族復帰ができるよ。そういうときがだんだん近近よってくるんだよ。 だからわれわれは人数が少なくても全国的活動をする。少ない者が全国的活動をするためには倍以上の何十倍の働きをしながらやっていかなければならない。四十年の荒野予イスラエル民族の大移動のときだよ。いったりきたりしているんだろう我だから自分、四十年間だよ。四十年間。自分四十年から八十年まで。自分が八十一才になった場場合には、世界は限界までゆかなければならない。三次七年路程は自分が満六十才までだよ。二十年間〆それで国家基準を十二として、蕩減的世界を中心点を復帰しなければならない基準だから、それが韓国と日本とアメリカ、これは三位基台をみているんだよ。それが日本が果せなかった場合は、民主々義日本がもしも、今年までだよ。日本が問題なく共産圏にまき込まれなかった場場には延長されるよ。共産圏にまき込まれた場場には、統一教会の日本摂理は撤収だよ。その時は、先生が統一教会へ行ったんだから、それが可能であるよ。アメリカへ行って、日本と先生とヨーロッパの食口、全世界の食口をかためてアメリカに集中させるんだから、再び世界的拡大することができるよ。 日本が失敗した場合にはイギリスが再び、エバ国家として登場する。そうなっているんだよ。だから先生がアメリカを中心としてアメリカがアダムの立場であるとするならば、イギリスはエバになって、ドイツが天使長の立場になる。ソ連と本格的に戦わなければならなくなる。結局は共産党と戦わなければならない。だから日本において生命がけでやらなければならないときだというんだね。みんながやらなければ久保木会長が先頭に立って宣伝せよ。救国の予言とか、みんな国を救うためには彼らはやった、もしも全国的に動かなくても、みんながそう認める方向に行かなければならない。日本の神の摂理の祝福条件をみんなかき集めることだよ。 それで先生はもうアメリカへ家族移動したんだよ。だから韓国の情勢は動揺する。こんど帰ってきたのもね天的な条件でも残してゆこうとして帰ってきたんだよ。こんどいって式でもあげて祈祷をあげて、君たちはわからないだろうが、先頭に立って先生は自分のゆくべき道を堂々と歩いているんだよ。君たちが滅んでも先生は滅びません。日本一国が滅びても日本が問題じゃない。日本を捨てていっても、世界を保ってやったほうが、日本を世界が保ってやる道があるから、結局、それが全体のためになるんだから、先生がとじ込もってこうなった場合には、先生が引っぱかかったらどうなるや。それで韓国へ行って先頭を行って韓国のキリスト教を歴史にないことをやる。 韓国へ行って先生はいちばん祈祷したのは韓国の人よりアメリカ人を愛し得るか。先生は韓国人だよ。韓国の食口たちがいろいろ内的においてブツブツいうものが生まれてきた。それは神の作戦上そうやっと思うよ。そういう者がいなかったとすれば、韓国立つのに先生は非常にさびしかったんだから、前もってちゃんと、こころをこれじゃいけないと、前もって移動するよう基準を正して。こうやったのもね、神の摂理をなすために、一時は動揺しても神が内的にそういうことを引きおこしてやったんだと思うよ。それにみんなくうち切ぱて立った場場は、完全に切り変えて、まごころを尽し得るかということは非常に心配だった。しかし、さあっと行くというと神が切りかえさせる。それが韓国に対してはもう一日も忘れなかった先生がね。韓国に対する思いは完全になくしなければならない。そうだろう。まごころというのはふたつない。 責任者は自信無いのが原則 自信をもつのは本当の責任者ではありません。自信がないのが原則だ。堕落した人間にとって絶対なる神の前に自信を持って立つものが現われ!そういうのが世の中にいるの。いると思う?しれはいないよ。だから自信持つな。み恵みをしたうまごそろ以外になにもいりません。いま神が自分に何をそそいでくださるというようなしたわしい思いにうたれる境地が必要だというんだね。お父さ!静かな部屋の中で呼びかけると、お父さまの声が部屋いっぱいになってしまう。そういう思いにうたれる境地が必要だよ。 「お父さま」と呼びかけると、空気全てがお父さまの肌みたいに感じられる。そういう体験するの。小さい窓を開けて出発するときはお父さまこの子供は今日一日また行きます。神の権威と神のメンツと威信を立たしめるために今日は出ますからど一ぞそこなわない道に……。それが幼な子子の心だよ。どうぞお願い申しあげます。どういう道を行きましょうか。別れ道はだね。別れ道はどういうふうに行きましょうか、心のままに従がって行った場、とんでもないことになるんだね。そういう生活の基準をやってゆくべきものに自信持つことができるや。すがるこころだよ。すがる心以外にない。だから自信持たないのが正式だということがわかりましたね。 だから神を中心として立った場場には心配するな。あんたたちもそいう境地に入れば同じようなことが沢山おこるよ。これは果さなければならない。そういう自分の立場において、準備をしていないし、話しをしなければならないし、これを生命をたすけてやらなければならないし、そうした場合には、腹の底から悲しみがおきあがってくる。そういう立場に立って神さまお願いします。ラッパみたいにふくれあがったよ。神様が話す。ういうのを体恤するんだよ。そうなってみな、いくら悪魔のようなものでも、そういうような復帰の道もあるということを体験したことのある人は何の心配あるや。だから愛すき神様以外にない。そういう心情が大切だよ。 いっぱいにあふれて、いまだにだれかが「ポン」と涙をこぼせば、いっぱいにあふれてぼらると同じ。一点こぼれた場合にはザーッとでる口からはみんな涙が流れる。そういう心情にうたれてみな。これがいちばん尊いよ。 だからあんたがた伝道にいった場場には、みちばたを歩くには、自分もたまらなくで電柱をかかえて涙ぐむような路程が一日に何回もなければならないよ。そうなった場場にに伝道は天が先祖たちが応援してくれるよ、それは霊界動員して夢にみて、みちばたで会って「はっ」ととんでもない人が引っかかってくる。「あなたさま」「なんだい」「実はね、昨晩あなたさまと夢の中でお会いになりました」そういう一言で生命がけで従う。そういう一日を送るんだねよ。そういう現象をおこさないようになったものさ責任の不足である。責任者の足らないところからそうなるよ、 いっぱいになってあふれる水みたいに親をしたう心に信じられないこの世界において、たった一人のお方だけ、全てをささげても価値が残る。全てをささげてもそれにむくいられるようなお方を待べられる自分、それを見出したときの感謝、それを表現もできないや。草をみて、ああ、ぼくを知っていた、話しかけたい、そうすれば通じるよ。そういう心情が問題なんだね。 説教が問題じゃありません。もいも説教的な心情にあふれて「あなたさま」一言で雄弁より以上の説教を身代りとしてすることができるよ。表情でもってね。実力は天下最高の実力者じゃないの。そこにコードだけつけておけば電流は深れるそういう心情が心要だ。そういう基準から批判してみな。自分がどんなものかね。泥棒だよ、泥棒。許されない泥棒だ。これが今日まで残ったのが奇跡である。 自信ないと失敗するんだね。自信あるお方に侍れ、そうなるよ。それから食口たちがなければならない。先生はそういうときがあるよ。自分の家庭とかを潟ててね。天が寄こす食口を待つ時間というのは今でも忘れない。ずっと祈れば大衆の声が聞えるようになる。「先生!」大衆の声が聞こえる。これを神につなぎひきぬばそれば全てが通じるにもかかわらず、神の一まいが残ったんだね。そうだろう。むこうは生丙の起路に立って救いを求めている。それを手がとどかない。行かれない。こういうような苦しみ、これは神の心情である。 日本は体質転換せよ いかにそれをのり越えることができるか。どこかに穴があるんだね。行かれなくとも通じる穴はどこかにひとつはあるんだね。神は摂理のみ手をこの地上に、悪の世界に働きかけるんだから、その穴はある。そこをみかけたとするならば通じる道がある。それをいかにみかけるや。夜、昼にそれをみかけるために、苦労するその瞬間は真剣なものだよ。そうしてそれをみかけて、通じて話しかける。そのささやく声というのは声というとのは天下いずれのことをやっめを求められない神秘的な境がある。 そういうふうにして朝ずっと待って一日中待ってもそれは忘れられない。一日中二十四時間待ってね。ああ来る来る来る。来るんだね。まだこれはつづかない。来ておる。それは実感するんだから、それはいつ会うや。あう瞬間来るんだろう。そういうふうな境地で人がよこされてきたと思うには、その人を愛する子供たちを地獄におとして、その電報や手紙つのより以上、深刻なものだね。人が先生の立場にあった場場にに、一生忘れてとびかけるようなた思ちになるんだよ。慕いこがれるそういう思いというものは尊いものだよ。そういうつうにすれば必ず人がよこしてくるよ。寝るどころじゃないよ。食うどころじゃないよ。すわっているのが立つのもいやになる。暗くなるのもいやだ、。先生の心情を打ちかける二人の間のその世界は天宙すべてが注目する観にうたれるね。そういう立場で話しかけてみな。その人はどうなるか。けっとばしても帰りません。 そういう因ねんの続きをね、拡大して日本列島生みなおさなければならないのがあんたたちの使命なんだよ。先生が金教会長にはじめて会って出発したとき、ひとつの場所にすわって二十一時間すごした。そういう体験があるんだから、いくら国が反対しても通じません。首を切っても通じません。いまでもそうだよ。先生は深刻になればそういう境地に入るよ。そういう因ねんのつながりが結ばれたならば、生死の境が問題じゃあないんだな。そういうような人たちが、これぐらいになったとするならば駅そういう人たちの主体性の心情圏を持ちかかえたメンバーがこれ地区長クラスになったら、日本は数百万になっているだろう。これは体質変換だね。体質を変換しなければならないのが日本の現状だ。 だから百日修練会もその準備の第一段階の出発だよ。第一段階、第二段階から第七段階までゆかなければならない。天国に入れる、神さまが永遠に愛せる子供はそういう無価値なものではありません。東大は入るにも、何年間も頭にハチマキしめて勉強しなければならないんだろう。東大へ入るより、神直系の氏族になることの方がたやすいものじゃないよ。だからあんたたちのまごころをつくす基準がまだ及んでいないことを自分なにさとらなければなりません。 だから人を愛せ、自分よりね、相対者として創造する完全投入、自分が無になって、向うが百、千になるような立場をみとめた場合にに、完全に胞和状態になった場場合、完全に愛をかけておる。完全に成立した場合は愛というものは新しい周波だね。空中波みたいなの飛び出して自分に帰ってくる。立体的に刺激される。それによって霊界がひとつになるんだよ。だから愛は成熟されたのち第二の原理みたいな力としてやってくる。それは宇宙の立体世界、霊界につながるそういうようなや電気からいえば、周波からみれば、直通波があるんだよ。地上波と中間波があるんだけれど、それと似たようなものが愛であらわれる。愛の関係によって神様のよろこびがはじめてはじめられるんだね。だから神は愛なり、人間な愛を求めなければならない。人を愛するものは神を愛したことになるよ。。君たちがおいしいものがあった場場にに、ああ自分が食わなければならない。食口たちがいた場場には自分が腹へっても、それをためておいて食口を待っているこの美。先生はその境地をいくらでも体験しているよ。 だから、その責任が及ばなかった場合は、祈祷せよ。だかからひとところなんか、涙でもって廊下なんかかわいたらいけません。先生だにそういうときが何年もあったんだよ。まごころをつくせ。だから今のときは簡単だよ。本当に創造原理がそうなった場合は自分はいかにして百%投入して水希望の実体者として残り得るやというんだね。それ神様の位椿だよ。百%投入して希望の主体としていかに残る得るや。それ神のいますところである。 祈祷するんだね。祈祷は神と通じる道であり、食口たちは原理を通じるみちである。だから、原理をわからなくてはならない。そういう立場で今度帰れば新しい方向に転換してやってみるんだね。わかりましたね。いままでやってきたものは、みんな先生からみたら不合格である。先生がずっとそれなりに強くいったそのことが日本において果せられないのはなぜか。これは姿勢がなっていない。先生が教育しなければならないと思う。頭よりも現実的に訓練しなくてはならない。百日修練会はそうだよ。百日修練が六ヵ月修練会まで、三年修練会まで延びた場合には学校になるんだね。 全国民に伝えよ 今はどういう時かというと、イスラエル民族がエジプトでカナンに出発する出エジプトの時なんだよ。聞いても聞かなくても、国民みんなにれがウワサされるようにならなくては少省少当。イスラエル民族がエジプトにおいて知っているものを伝えなかった場合は出発しても神からさばかれる。晶族同志が互いに責任を持ち合っているようになっている済だから全国にだれでもそれは出るときには知らなければならない。だから先生はアメリカでも三年間はそのことだよ。久保木会長がやっているのもそのことだよ。日本民族に訴えよ。信じる信じない式われわれの責任ではありません。統一教会のうわさを知らないもの省ないように訴える。 まあ韓国はみんな知っているんだから、みんな反対したんだから止滅びを願っているんだから、だからわれ韓国にわれわれは完全に責任分担を果したよ。先生がアメリカへ行くとき既成教会の最高クラスの迫害した代表に会いましょうと、一回連絡し、二回連絡し、三回連絡した。天的な立場に立った先生として、あんたに会う前には既成教会をさばかなかった。反対した代表的なものを今まではさばかなかったんだから、今から先生はうちたかったら、うっても先生は引っかからない。完全に地獄に落ち込んでもさばかない。 そうだったという事を知るようになると、彼らが自分をあらためて考えるようになる。最高クラスの人に会うようにして、連絡して会わせろ、自分の使命を果した。神は愛だということを知っているんだよ。そういう切迫なる最高の宣言をなすべき立場において反対するものが先生に会ってくれなかったら既成教会は全滅だ。しかしその中で一人、二人はかならず神は残しておくんだね。それはそういうふうに卒直に言う。卒直に告白する。自分は統一教会に反対してきたんだけれど自分自体が神に対して自信なくしてきた。現代の神様に対して信仰する自信をなくしてしまった。自分の話二時間ほど聞いて、どういうことがあっても、今後、助けになるんだったら応じますという約束したんだから、既成教会も生き残る道が残った。 だから先生をみてなんでもないと思うかも知れないけれど、恐しい表だよ。先生がうちかけた場合、それをふさぐものがない。だからいまから韓国において反対したものは滅び出す。そうして枯ちかけなければならない運勢圏に入るだろう。みてみな、今から、文先生アメリカから帰ってきてちょうだいというウワサが生まれてくるんだね。だから時が長くないから、君たちは今から一体となって今年、第二次七年路程だよ。あんたの国に対して統一教会の使命感を中心にして、天的使命を果す、そういう最後の一年をいかにすごし得るかということが問題なんだよ。だから本当に愛して、あるだけの力を尽してやってみな。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.05
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「世界の中心点と我々の新しい希望」1974年2月6日松涛本部で 「世界は入り乱れて、主人なき世界に進展していくに違いない。こういう時代性に立って、万民が求めるものは何かというと、世界を指導する人格の中心者はいずこにありや、ということである」 我々人間世界において、もし中心者、あるいは中心的基盤が無かった場合には、とんでもないことになる。ということは、個人において社会において国家においても同じことである。 もし、個人において言えば、良心を中心として、ある目的観に立った、自分の中心基準をはっきりと持っておるならば、その環境がいかに辛くても、外的にいかに難しいとしても、それを治めていく道はいくらでもある。しかし、中心的基準が立っいないと、いくら外的に立派な人であっても、ある目的を成し得る人格者にならることはできない。 家庭を中心としても同じである。立派な家庭と言えば、必ず中心者を中心として、いかなる立場でも動揺しない、あるいはいかなる難しいことがあっても、それを打破していけるような中心的家庭の主人があったとするならば、家庭は必ず環境を乗り越えて生き残ることができる。 それと同じように、ある社会の団体、業千でも、その中心者いかんによって、それが発展するか否かが決るのでる。 だから中心者如何によって全てが左右される。それを拡大して、日本の国と言えば、一億一千万の心をまとめる中心的基準がもし立ったとするならば、難しいことがあろうとも、に刺激しあって行くならば、その外的な難しい環境を打破していく道は、いくらでもある。 これを拡大して、世界を中心として見た場合に、世界にもしも中心的基準が立ったとするならば、民族を越超し、国家を越超し、歴史を越超してその基準を立たし得た内容を持っていれば、今後の世界は問題あろません。 世界に中心点がない 問題は何かと言えば、世界人類が、あるいは各国が、共に求めあう中心的基準が立っていないから問題である。世界万民が慕い求めていくような中核的中心点がもし得られたとするならば、そこより全ての新しい方向は成し得るのは当然のことである。 こう見た場合に、世界全ての国を見ても、この世界には中心点がない。過去、現在、未来を通しての不変なる中心点を持っているかというと持っていません。これが問題である。外的にいかに悪いことがあろうとも、それが問題ではなくして、中核たる中心の基準が世界を押えて立ち得るその基盤が無いのが問題である。 民主主義を中心として見ても、今のアメリカが民主主義の指導国家としてやってきたのだけれど、アメリカ自体が今になって何の中心も持っていない。アメリカの相当ハイレベルの人々に会って、打診してみたけれど、彼等の内心において、世界を指導できる中心的何ものも持っていない。ただ、一個人の出世にかけ、あるいは一政党の保守のためにそれをいかに延長させるかと窮々している。全ての勢力、全ての生涯の基準をそこにまとめていることを見た時に、その政党なるものは世界的中核には立ち得ない。むしろ、歴史の流れと共に流されてしまうに違いないとするならば、いかに努力して、いかに労をなし得たとしても、無用になってしまう。それは当然の結果である。 アメリカ自体がそういうような立場に立っておるのを見た場合に、世界各国は言うに足りません。 共産主義の世界にこれを拡大して、果して中心点なる思想的基準が確立されているがか、と見た場合に、だまだなっていない。中心点なるものは、民族国家環境歴史を越超して誰もが公認せざるを得ないものでなければならない。そういう不変なる中核として立つにふさわしい基準でなければならない。 共産主義を中心とする指導理念果してそういう立場に立っておるかというと、これは立っていません。今君達が知っているように、中共とソ連は犬猿の仲でる。いかなる力でも一つになり得ない、恩讐の恩讐に立っているという事実を見た場合に、それを二つ合わせることはできないできない以上は、共産主義を中心として世界的指導理念を満たすことができない。 こう考えて見た場合に、共産主義世界においても実験済みのことになっている。 中心者の条件 いう見た場合、世界は入り乱れて、主人なき世界に進展していくに違いない。こういう時代性に立って、万民が求めるのは何かというと、世界を指導する人格の中心者はいずこにありや、ということである。しかし、それを果し得るには歴史を赴超する力はもとより、あるいは未来を透視しうる目を持っていなければならない。現実の全てを破壊し、新しく建設する力を持っいな現実の人類を思ってみた場合に、これは果たさなければならない重大な問題である。しかし、人間として果たすには、もう尽されている。そうなというと、誰が果すか、ということが問題である。 こういうような人類を前にして、神以外にはこれを打開する方はいないであろう。神はどういう方法で打開されようとするだろうか。 神は、中心点を決めなければならない。神が願う個の人格は世界万民が求めてきた、そういう中心にならなければならない。それは神から見る基準でなければならない。人間の変動する見方でなくして、不変なる。絶対なる、永遠なる神からの基準が本心から得られる人間の中心的基準である。 個人的中心というとが実に問題になってきている。これが果し得たとすれば、次は家庭的中心はこうでなければならない。それが今まで歴史を通して、提示した家庭があったかというと、未だない。あるいは氏族として、万民が公認し得る何ものか、なればならない。これが発展して、国家的、世界観、天宙観を確立しなければならない。それは、時代の変動に応じて増対的な変更の道を通っていくものではなくして、歴史はいかに変っても、その主体的立場で環境あるいは相対圏を変えていくような主体的中心点が必要大なる。 神が定める中心 こう考えてみた場合に、人間を通してこれを満たすのは不可能である。これは歴史を通して実験済みである。哲学がそうであったし、宗教ばそうであった。あらゆる思想家がとらえてきた全てが無になってしまった。 こういう結果に立った我々人類としては、今しく求めなければならないのは、人本主義なる、人間第一主義を主張するそういう観では世界を救えない。人間以上の越超者の意識観・歴史観・世界観を満たす以外に道はない。 もしも、神がいないとするならば、仮想的神存在の基準を立たせて、万民が協定を結んで、ある中核の中心基準を立たせなければならないまでの歴史的終末期に今、立っている。 こういうように結論をおさめて、我々はどうすればよいか。どう行けばいいかと尋ねた場合に、今から始めようとするならば、こはいつ解決するかわからない。数百年かかるかわからない。 まずもって、現在の緊急なる世界情勢を治め得る中心点はいずこにありや、というと、神から見通されたこういう基準がもしあったとするならば、それは万民が求めた中心になるに違いない。 今、世界万民こぞって新しい宗教観念を求め出さなければならな時に入りつつある。 日本にも過去多くの宗教があった。その多くの宗教は、今、日本において中心的使命を果し得る力を持っているか。-持っていません。 歴史的宗教、キリスト教なり仏教りが現世において新しい世界的中心点をなし得る使命と内容を持っているか。もう実験済みである。 宗教にしてもそうである。哲学にしてもそうである。全てがもう過ぎ去ってしまった。みんな歴史の波によって岸に打ち寄せられている。その波を乗り越えて、目的に向って進み得るような個人なり世界の新い潮流があるというと、ない。それでは世界は滅亡である。世界はましく終末である。手を上げて叫んでも助けに来る者がいない。横を向いて頼んでも頼りにならない。 統一教会の使命 こういう現世の世界において、我々統一教会の存在が今から問題になる。 これは、歴史性を通して、時代性を通して、未来性を通してそういう中核の基準がなければならないというのは、いかなる個人から、いかなる氏族・民族・国家・いかなる思想が成し得るかというと、まだまだ実験済みでないところが一つある。 宗教にしても今からである。思想にしても今からである。個人の人格にしても今からである。家庭の思の理想的完成においても、今からである。 今から、個人・家庭から国家まで堂々と進み得る新しい群があったとするならば、これは世界いずこにもない。だから、我々統一教会は引き継ぐに可能なる、希望を持ち得る群として立たざるを得ない。世界いずこにに我々ような団体があるか。 天宙復帰ばかりではない。神を解放しよとするのが統一教会の群である。 風が吹いても、根が深ければ問題ありません。周囲の者がいくら動揺しても、我はガンとして行くという決意を生涯かけて決めた。季節は変わろうけれども、この男の決意した本心の覚悟は変わらない。今、手には何一つ持っていないけれども、自分の決意をいかなる環境に押しつけられても後退しない実体そのものに十年以上の価値を満たした場合には、どうだろう。 盤石にぶつけた場合には、石が割れるのであって、自分は割れません。六大州五大洋を乗り込えてアメリカ大陸にぶっかけた場合は、絶対破れません。世界どこに行っても残るものは自分なり、という結論を持ったとするならばそういう者が持った思想たるものは世界万民が願っておる中心的思想だったとするならばその一人によって世界が救われることが可能である。 世界的中心点となるには世界的歴史を通して勝利し得た権威の絶対基準に立つそういうものでなければ、万民が讃えることができない。 世界中を眺めてみても、我々に似たものがないとするならば、この者たちはどの位価値があるかと神様がおった場合サタンがおぱた場合、試験してみたいと思うだろう。 最後の団体 これは最後の団体である。歴史以来初めて生れた団体である。個人観・家庭観・世界観・宇宙観にしても、それは歴史から流れてきたものではない。人間的ではなく平面的人倫関係を通して生まれてきたものではありません。これは立体的な、ある中心の一点から原因をなしている。まず出発点が違う。 民主主義にしても、共産主義にしても、宗教にしてもお手上げになってしまっている。人間の考えというものは永遠を伴っていくようになっていません。それは歴史圏内の存在にしかならない。自分が死んでもつながって、因緑を延長させていくのが歴史であるから、平面的歴史性を持った人間を通してのものは歴史内のものであって歴史外に脱出することはできません。 そう考えてみた場合に、平面的思想観念では不可能である。人間に及ばない絶対なる基準においては、歴史がその内容に含まれる。何千年、何万年を経ても歴史はその圏内に包容されてしまう。人間が最も重要視する愛とうものはそこより始まるようになっていくに違いない。 人間を通し、いかに修飾し、形容しても、それは通じません。中心点というものは立つ場所が絶対に一つしかない。中心的位置というものは濯も占領できない。そういう中心的基準が家庭と一致し、氏族と一致し、国家と一致し、世界と一致し、神様と一致し、人間の歴史を通しての希望と一致しうるそういう希望の中核の実体、そういう中心が生まれたとするならば、いかばかりすばらしいだろうか。 メシヤの出現 そこで中心的存在を立たせるには、世界から立たせるか、個人から立たせるか、という問題に到達した。神様も一人から始めなければならない。 絶対なる神が立たせた中心者は権威を持たねばならない。時代の変化に応じて歩調を合わせるような、そういう男ではいけません。そういう男に歴史の中心的因緑を譲ってやることはできません。生命を何度なくしても、いくら犠牲になっても、その信念に立ち帰って、我、万人に代って行くというようなそういう者でなければならない。もしも神がおったとするならば、その信念に賛同せざるを得ないというような信念の持主でなければならない。 神は、まずそういうものを世界から選ぼうゝそういう強靱なる男、目的観念に徹して走るような男。まずもってそういうような素晴らしい男。 日本人は「一生懸命」という言葉を良くつかうんだね?(ハイ)良く知っておるんだね?(ハイ)良く果しておるんだね(……)(笑い) 悪なる世界に向って、「君達のやっていることは虚しいことである」と言い、「今は、君達は自分より外的基準においても勝るかも知れないけれど、千万年後には自分の足下のゴミにもならない」というような男があったとするならば神様はそういう男を選ぶだろう。 神は永遠の支柱として、地上にその相対位置として立てるそういう男一人がどこにいるや。それを数千年捜し求めてきた。 その男を立たせ、決定したその式をあげようとううのが神様のメシヤ思想観である。 間違いなく、宇宙において、その存在圏が必要になってきた。民主世界を信じることができない。共産世界を信じることばできない。みんな一挙に断崖から落ちてしまうような、断末魔の時代性になっている。 それをどうすればよいか。神の支える一点と、地上に支える一点をひもで結んだとすれば、世界三十八億がこれにたかる。それをウインチで巻きこむようなことをしなければならない。 そうするには、ただではできない。世界一の兵隊を作るには、世界一の訓練をしなければならない。 我々の責任 今、統一教会は世界的に有名になっている。共産党も我々を恐れている。各宗教界も、統一教会に勝ることができないと結論づけている。日本自体でも、統一教会の青年でなければ日本を救えないと結論づけている。 間違いなくそういう世界が一ぺんにっているこういう次元にむいて、我々は硬いキリになって反対するものがあればつきぬけるようものにならなければならない。こういう世界的時代圏が目前に迫っているこの現実におきましては、我々はそうしなければ中核の希望の実体として立つことができません。全てを任すことができません。 軌道に乗る。という言葉があるんだね。軌道に乗る前にはレールを敷設しなければならない。機関車を造らなければならない。レールが中途半端に切ってしまうものであってはならない。 日本において統一教会の軌道を敷設したか。我々統一教会は今が問題である。こういう世界的困難期において問題視しなければなやないのは何かというと、中心的中核の基準をいかに正しく立たせるか、とうことである。 今、ここに若き者が千二百集っている。千二百よりも、まず百二〇が必要である。百二〇よりも十二名が必要である。十二名よりも三名が必要である。問題はここにある。 人が考えないような険しい道を、永遠に正しい道に向って設計し、青写真を作らなければならない。 日本の国で一番難しいことを統一教会は責任持て! 動揺する日本において、動揺しない希望を持ち得る基準を今敷設しなければ、その時になってはもう時が遅い。 「利口な者は準備して待つ」という。歴史を考え、未来を考える者は準備する者である。準備しい者を信頼することができなません。 日本の国で歴史以来、一番難しいことに我々は素任持とう。日の中核的位置に立つには、誰もできないことをなさなければならない。訓練は、なせばなすほど良い。 民族的国家基盤を目指して神が導いてきたのが選民イスラエルである。数千年来、国のない民族として世界に散って、新しい国を建設する為、中近東いかなる迫害の道があっても堂々と勝利し得る実力を持ったとするならば、イスラエルは中近東のイスラエルではなく、世界のイスラエルになぐだろう。 なせばなる! 統一教会の食口においても、何事も、できないということを考えるな。やらないからでできない。三倍やってできない場合には、六倍やればできるようになる。そういう決意がを中心として結果を満たせるに不信仰を持つような者であっては、神様が信じることができません。 そういう基準からあなた達は再び反省し、新しい基準を確立しなければならない。新しい伝統を作らなければ日本復帰はできません。 今、何が必要かというと、世界が個人的中心者を必要とする時が来た。その個人的中心者として決定され、万民に公認され、それが家庭的中心者として必要な時が来た。それが民族的から世界的にまで拡大し得たとするならば、万民に大きな網を張ったことになる。 今は、跳躍の時である。現実の世界を超越しなければ生き残ることができない。世界の運勢はそうなっていおる。 今になって、もう世界は我々の目前に迫っている。この世界の行き先を思えば、我々は無責任に流れることができない。こういうチャンスはもう待っていません。歴史というのは無慈悲なものである。それが過ぎ去った場合には、いつまたそれが来るか判らない。だから、時々来る前にいかに準備して、それに合わせるか、が問題である。我々は万民を解放しなければならない。 日本には「なせばなる。なさねばならぬ何事もなせぬ人のなさぬなりけり」とう歌があるね。だから我々にもできないことがない。できないのはなさないからであって、なせばるようになっている。 さあ、今から我々が世界の中心者としてなすには、ソビエトもアメリカもなし得ない問題解決の道を旗上げさなければならない。というのが先生の観である。さあ、これに歩調をを合わせる日本のメンバーは何人いるや? これから何十倍もの数をいかに集めるか。個人伝道も必要だけれど、団体伝道を目標として進まなければならない。今の緊急時にいかにキリスト教を動かすか。団体を動かさなければ、日本将来は待ってくれない。 そうするには、あなた達が世界的中核になる信念において勝る基盤を確しておかなければならない。 新しい希望 先生は生涯を通して、個人・家庭・氏族・民族から世界的基準にまで、霊的であるがどうやら上ってきた。これは神様がいるからである。ヨーロッパを一九六九年にまわってみて、遠からずヨーロッパは共産圏に巻きこまれる。三年以内を見てみな。その通りになってきた。幹部達はアメリカに行っ緊急対策を立てければならないようになってきた。 日本も同じである。重要な今年である。 そういう中核的・中心的活動を固めることによって、希望き日本に新しい希望が生まれる。 こうして日本に作られた新しい希望圏は、アメリカにおいて世界につながる希望圏として、先生を中心として世界的に影響を及ぼすことができる。 我々は金もない。我々は権力もない。しかし我々は決意を持っている。我々の動脈には神の心情が踊っている。目は目的を凝視しなければならない。 真でないものは、例え社千あったとしても真に打ち砕かれてしまう。 我々は今、内外共に固めなければらない緊急事態を迎えている。いつどうなるか判らい。今から先生は、日本の若者者たちをあてにして大きい計画をなす。 一心不乱に目的に向って、二十四時間を投入して、中心的人物の基準に一致させよう。 すばらしい時代 結論にしましょう。 世界の中心を統一教会から立たせるには、統一教会のどこから立たせるや?日本を中心として伝統的基準をいかに築くや。日本おいて、世界的中心点を誰が作るや。日本の若き有を立たせて世界的中心的伝統基準を立たせるのが先生の思いである。そこに我々は新しい希望の一点があることを知った。新しい希望をなし得るには、それに比例する代価を支払わなければならない。 血と汗と涙を投入することができるか。どうです?(できます!) 今、もし結婚したい女があったとすれば、結婚して三日以内に夫が死んでしまうかも知れない。それより、結婚しないで理想相対を待つ方がもっと勝る。報婚してそういうふうになやない。という決定的証明書を持っていないだろう。何故こういうかというと、七十四年すぎたら間違いなく祝福があるとみんな思っている。それでは世界復帰はできません。十年間は一心不乱・一生懸命に世界中心的な我々の群として実績の基準を高めるに尽すとしたならば、日本は世界的になる。君達の後孫は君達の写真をあがめて待るようになるだろう。 我々はすばらしい時代に立ている。我々によって世界が追いかけられる時代に入っている。今から我々は活動を開始して、実績が上ったとするならば、万民が讃える。新しい希望となるには実績がなければなやない。 今まで先生は実績でもって闘ってきた。 実績が必要である。その実績は普通の犠牲じゃない。二十四時間、生涯かけてそうなった場合には間違いなく日本の希望になる。わかりましたね。 やればできる。先生がやってきた実績を伝統として受け継いで、それを果たし、日本とアジアと世界のためにやらなければならない。 一心不乱に前進以外ありません。そういう覚悟をしましょう。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.03
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「年頭のみことば・統一戦守護」1974年1月1日ベルベディアで 一九七四年一月一日、先生は「統一戦守護」の年頭標語を決定し、次のような新年のメッージを発表された。(※年頭標語「統一線守護」は1972年から1974年まで同じ標語でした。) 新年おめでとう。 今朝は我々のみがここにいるが、他のすべての食口も霊的においてここにいるのである。一九七二、七三、七四年は神の摂理に於いて最も重大な、最も歴史的な年である。一九七二、七三にかけて動員された数は少数であったが、神の摂理のために多くのことを成してきた。 摂理において、アメリカはアメリカのみのために存在するのではないことを我々は知っている。この国を中心として我々は我々の努力によって神の摂理を展開しようとしており神もその目的のためにこの国を準備してきたのである。しかし今、この国は終末的な状況となっている。この国のみではなく、全世界がその様な状況になっている。このまま放っておいては終りだと誰もが思っている。しかし、他の誰もこの状態を打開することができない。 外的基準においては、この国は世界で最も豊かであるが、内的基準においては、他の国に勝るものは何もない。この国において宗教団体のみがこの状況をつき破ることを期待できる。全ての宗教の中でキリスト教がこれを成すことを期待されているが、それは頼りにならない。この十年間、キリスト教会は堕落衰退に頻してきた。故にこの状況を打開できるものは誰もいない、と言わざるを得ない。この国を救い、世界を救おうというものはどこにもいない。我々しかいないのである。 我々はこの国を救い、霊界をも救い、サタンの束縛から解放することを宣言した。歴史を通して、我々の様な団体は過去にも現在にも将来にもない。神は我々に世界を救う使命を与えた。 神は我々しか頼れない 一九七二、七三年の標語である「統一戦守護」は、個人から家庭・国家・世界までサタンの侵入から守ることを意味する。神は我々しか頼ることができない。神は歴史を通してキリスト教を備えてきたが、クリスチャンに頼ることができないため、世界救済の使命を達成するために我々に頼るのである。我々は世界の全人類に対して責任を持っている立場である。 神は皆さんに現在の時点で立ち止まってほしいとは願っていない。「統一戦守護」とは現在の時点に立ち止まることではない。我々は前進することによってのみ目的を達成することができる。我々は神の希望の出発点に立っている。成切するか否かは我々にかかっている。我々は神が喜び「良くやった」と言えるような状態をつくらなければならない。我々は世界を救う責任を持たねばならない。 世界の全人類の中で我々は神の摂理の中心である。皆さんがこのことを知って、目的に向って前進するならば、神の希望は我々の上にあり、我々は自ら神の理想を実現できるのである。神は過去現在未来の神である。我々は神の観点からみて善き存在でなければならない。神が存在し、我々が神の願いの中心であるとすれば、我々の使命はいかに大きいことか。神の期待はいかに大きいであろうか。神は我々が神に代って何でもやってほしいと願っておられる。 神はアメリカに注目しておられる。もしこの国に我々の団体がなかったら、神はこの国に失望されるであろう。我々はこの国を聖く偉大な国にしなければならない。もし我々がこの国において使命を完遂するならば、全てのメンバーは他の国においても使命を遂行することができ、神は全世界の救済に関して我々を頼ることができるのである。 もし、神が我々をして我々の手によって世界の国々を復帰し、他の人々を休息させることを許したとすればどうであろうか。もしこれが本当だとしたら、皆さんは立ち止っていることができるであろうか。皆さんは他の人々が仕事しているのをただ傍観していることができるであろうか。もし皆さんがこの立場にいるとしたら、皆さんの態度はいかなるものでなければならないであろうか。皆さんはどこを向いているべきか。自分の望む方向だけを向いているのか。 「統一戦」は神との一体化 もし神が既に我々の前に目標を設定したとすれば、我々は回り道をしていくことはできない。まっすぐに前進しなければならない。再び言うが、世界中、我々のような団体はどこを探してもいないのであり、これを皆さんははっきりと認識していなければならない。 我々は他の宗教団体のように、神の摂理を進めることなく、自己の救いのみを求めていくわけにはいかない。神の目的に向ってまっしぐらに前進しなければならない。 我々は神に負債を負っているだかりではなく、逆に神が負債を感じる様なければならない。この国を救い、更に全世界を救おうという責任ある立場であることを思って前進するならば、何も不可能なことはない。日夜、寝てもさめても、どこに行っても、何をしても、我々はこの国の救いに責任があることを常に思わなければならない。他の多くの国の中でアメリカは中心的な役割を果しているのであり、皆さんはアメリカの摂理を進めるために動員されたのであるから他のいかなる国よりも先頭を切って行かなければならない。 統一戦を守護するために皆さんは何をするつもりか。皆さんはアメリカが皆さんのために存在していると考えてはならず、アメリカを救うために存在していると考えなければならない。皆さんはこの国を守ってもらうことを期待してはならず、皆さんがこの国を守るために存在しているのである。 我々は心と体を持っている。我々の心は神と結びついていなければならないのに、現実は分離している。我々は我々の心を神と一つにしなければならない。これができなければ我々は統一戦を守護する資格がない。もう一度言うが、我々の心は神と一つにならなければならない。我々の心は神のみ旨と一つでなければならない。神のみ旨はアメリカと全世界を救うことである。神の心は神の御旨である。神の御旨は世を救うことであるから、我々の意志も世界を救うことでなければならない。 神は目的に向ってまっしぐらに前進しておられる。それ故、我々は神に近づいてまっすぐ前進するため忙しくなければならない。我々の心と神の心が一つでなければならず、神の御旨と我々の意志が一つでなければならない。我々の心が神の心と一つに統一されており、我々の体は心と一つでなければならない。 我々の心は、体に対してプラスである。故に神と一体化した心がプラスの立場において、マイナスの立場にある体を引きつけなければならない。我々の体は五官を持っているが、この五官は神の心に一致して機能しなければならない。我々の体は神の目的となって動かねばならない。この時、神は我々の体を通して働くことができる。 しかし、もし我々の心が神から離れており、更に体が心から離れていると、目的に向って二つのギャップがあることになり、これを埋めることは因難でる。このときサタンが侵入する。 従って我々はこの点において自らを救い、また神を救わなければならない。統一戦とは我々の心が神と一体化するということを意味する。神と心と体、この三者の一体化が最も重要である。この三つが一体化し、調和されている時、相互の授受作用によって四位基台が造成される。この点から、統一戦を守護するとは我々の心と体が神と一体化しているこであるといえるのである。 皆さんはこの基盤を造成しているだろうか。この三つの要素があなた自身の中で一体化されているか。もし、まだ一体化されていないとしたら、神は失望し、悲しみ、我々を励ましてこの一体化をさせようとなさるのである。皆さんはまだ神と一体化しているとは言えない。神が皆さんを神と一体化させんとして一生懸命努力しておられるのである。 それで我々が統一戦を守護しているのではなく、神が我々のために統一戦を守護せんとして努力しておられるという結論になる。こういうことを考える時、我々はぐずぐずしてはいられない。我々は神の御旨のために全ての力を使わねばならない。自分を分析し、批判してみれば自分が御旨のためにどの位資格があるかわかるだろう。皆さんは安心して休んでいられない筈である。 神は犠牲を要求している 神はアエス様のような人を通して体と心との一体化を実現せんと務めてこられた。しかし現在、皆さんがまだこの様な一体化をなしていないとしたならば、皆さんは神を悲しませていることを知らねばならない。神はこれまで何千年間も失望してこられたが、現在我々において体と心が神と一体化し、世界を救うことを期待しておられるのである。 では皆さんはこの仕事を果す資格があるか。この仕事をする自信がある。(Yes) そう答えるのは簡単である。目・鼻・口、全てが神のために機能しているか。 神の御旨は我々に犠牲を要求している。故に皆さんは、目も口も鼻も手も、全てをこと目的のために使わなければならない。このことを考える時、皆さんは常に足りない存在であることを自覚して、もっともっと努力しなければならない。もし、自分中心の考えで進もうとすると、神は皆さんを創造することができない。だからイエス様は「生命を得んとする者はこれを失い、失なわんとする者はこれを得る」と言ったのである。 世界で最も恐しいものは自分自身である。なぜなら、皆さんはサタンの血統を持っているからである。神は我々のために一生懸命になってきた。故に我々は神に多くの負債を負っている存在であることを知らなければならない。 ここに一人の男がいるとして、その心が神と一体化しており、その心と体が一体化していれば対象としての女が一体化できる。。祝福家庭はどうか。そのように完全に一体化しているか。もしこれが実現されていないとしたら、皆さんは統一戦を守護していることにはならない。 指導者(アベル)と一つになれ! もし先生が神と既に一つになっているとしたら、皆さんは先生と一つにならなければならない。 我々個人は三段階を通過しなければならない。全ては三段階になっている。完成は三数に従って成される。全ての被造物は三数に基づいている。 我々の心においては神が住む部分、すなわち生心があり、これと一つにならなければならない。神は常に指導者と一つにならなければならない。それ故、指導者は神と一つになっていなければならない。地区長と神とのこの一体化がはされている州は発展する。神と心が一体化していれば肉体よりも強い。心と体の一体化があれば神と等しくなる。心と体が一体化するように三年間努力すれば神が働いていることがわかるであろう。それ故、原理は心と体が一体化すれば神と等しくなり、神が働くと教えている。 聖書には“平和をつくり出す者は幸なり”とある。平和をつくり出す者とは、人々を一つにつなぐ者のことである。ここに統一戦守護の原理がある。個人に於ては、心と体の一体化であり、家庭に於ては、夫と妻の一体化である。 偽りをすると神との一体化ができない。御旨がわからなくなる。神の前には全てが裸である。 統一教会のメンバーは、その指導者と一つになり、指導者は、神と一つになるように努めなければならない。もし指導者の悪口を言ったりしていたのでは、プラスが二つ出来ることになり、一体化できない。+に対しては-でなければならない。非原理の世界に於いても上役と一体化し、上役を喜ばせるものが早く昇進する。指導者が無能であったとしても、皆さんがその指導者のために忍耐して、七年間尽してやれば、その無能なる指導者は皆さんに地位をゆずらざるを得ないであろう。 先生の話すことは、全て経験の中から話しているのである。他の人に負債をかけるものは、他人から嫌われる。指導者に対して、不平をってはならない。従うことによって皆さんは、自分の道を直くするのであり、将来の指導者として、経験を深めることができる。囲りの人間が不平を言っていても不平を言うな。イスラエル選民は、メシヤと一体化しなかった為に滅びの運命を行った。もし、キリスト教が神・イエス様とその指導者の一体化がなければ衰退する。 統一教会に於いて、発展するか否かは、先生と一体化するか否かにかかぱている。もし先生が神と一体化していなくて、そでも皆さんが先生に完全に従っているとしたら、神は先生を罰するのであろう。だから先生は、常に真険である。新しい計画を考える前は、真険に祈る。自分がしようとしていることに対して、常に神の承認を得るようにしている。 アメリカを救おう! 我々は、神の御旨にかなった国を持っているだろうか。我々は神の前に一国を備えなければならない。どの国を選ぶか。簡単だからと言って、アフリカの一国を選ぶか。アメリカを選ぶか。神を愛する多くのキリスト教徒がいるから、神はアメリカを選んだ。 アメリカは人類のるつぼである。この国に於いて、全ていろな民族が一つになり得る例を残して、このアメリカ人に影響を与える時に、先生はかくも多くの食口達をアメリカに集めたのである。アメリカを救うため、世界中から食口を呼んだ。英語をうまく話せない者は、アメリカ人よりも三倍、四倍も苦労をすれば、神はそれだけ恵みを与えることができる。そして復帰はそれだけ早くなる。従って、もし外国から来たメンバーが、一生懸命働き、アメリカのメンバーから喜んで、受け入れられなくても、恵みは自分の国に与えられる。 過去に於いて、多くの人が霊界から導かれて、先生のところにやってきた。ある者は、十年以上も山にこもって祈ってから先生のところにやってきた。先生がしたように先生に対して成せ。 先生はこの原則を既成教会にも適用してきた。しかし、既成教会からの多くの迫害をうけた。どんなに人気のある有能な牧師でも、もし先生に反対する立場に立ったならば、霊界に於いては、何の価値もない。彼等は滅びざるをえない。そして次の世代が我々統一教会の食口となる。今や、我らなくしては、誰も自分の国も、世界も救うことができない時になっている。 もし皆さんが、一見実行可能にみえることを一つづつやってゆくのでは、世界を復帰するに、何千年かかるだろう。先生が普通では、とても不可能に見えるとを命じなければならないのは、この為である。 先生は、三年以内で先生と我々の運動をアメリカで有名にすると言ってきた。講演路程やウォーターゲート宣言の計画がなかったらそれは不可能である。アメリカは巨大な国であるが、先生のすることは、アメリカ中に影響を与えることができる。我々の運動に於いて、今まで夢のように思われてきたことが実現されている。 重大な三年の期間のうち、あと一年、一九七四年が残っているだけである。アメリカ全体をみてみると、不統一、不調和、堕落頽廃に満ち満ちている。従って我々は、この国をひっくり返そうと決意している。これをするに際して、我々は、神に助けてもらうことを望むのではなく、神がアメリカ国民をして、我々を受け入れる心を備えるよう助けてもらうように願わなければならない。すなわち、我々が人々のところに行く前に神が霊界を動員して、アメリカ国民が我々を受け入れるように祈らなければならない。神は生きている神でることを知らなければならない。神は我々と共に働いているおられることを知らねばならない。我々が神としっかり一つになっていれば、何も恐いことはない。信仰をもってあの人をいやして下さいと真険に祈るならばその人は、いやされるであろう。そして皆さんに反対し、迫害する者は、目の前で亡びるようになるであろう。問題は皆さん自身にある。 皆さんの前に何百人もの人がいるとして、その人々の救いを如何にして成すかを日夜考えるならば、神は皆さんを通して働き、皆さんの計画は、成功に導れるであろう。だから、神から助けを得ようと一生懸命にるのでなく、神に対して、どうか人々があなた方を受け入れる様に導いて下さいと祈りを求めなさい。そして、もあなた方が強く神一つになって、前進するならば、使命を行することは簡単であり、全州の人々があなたのところにひきつけられてくるようになるであろう。我々は、原理を通して、完全なる+のあるところに完全なる-がつけられることを学んだ。 先生は、牢屋にいる時は、一言も話をしなくても多くの人々を伝道することができた。迫害の中で、全霊界が動員されて、先生を守り、証しをし、多くの人々を先生のもとに導いてきた。先生に対して、かくも助けて下さった神は、同じようにあなた方をも助けて下さる方である。しかし、信仰がなければ、神は皆さんを証し、働くことが出来ない。 結論するならば、統一戦線守護とは、あなた方が神に対して、神があなた方を越えて、人々のところに手をのばし、それらの人々の心をあなた方を受け入れるように導いて下さいと願うことである。そして、あなた方が神と一体化する、イニシアチブをとるところである。我々が神と一体化するイニシアチブをとることである。話をする時は、神と共に話し、食べる時も寝る時も常に神と共にどこにいても神と共にいること。このようになるならば、皆さんは、神の臨在と神の心情を感じることができるようになるのであろう。即ち、あなた方の心情が神の心情と同じようになることができる。 完全な+のあるところに完全なる-が創造さる。伝道して街にゆけば、ひとりでに、神を求める人々に出合うことができる。このような経験を多くもてば、神を否定することが出来ないであろう。統一教会の食口達は、このような経験を多く持たなければならない。もし、あなた方が一生懸命祈って、導きを受け入れる備えが出来ているならば、神は、あなた方の中に、臨在し、あなた方を通して働くであろう。これが故に我々の団体は、恐るべきものとなるのである。 夢の中で先生みたことある者、手をあげて。百%全員がこの経験をもっていなければならない。先生に報告に来る前に先生は、それが良い報告か否かがわかる。例外なく、先生の思った通りであることがわかる。従って報告をする時は、正直で素直でなければならない。 統一戦線を守護することが出来るためにはあなた方は、神や他人に負債を残してはならず、むしろ、神が我々に負債を感じるようにならなければならないということをはっきり知らなければならない。そして、もし、神に対して、何か願うとしても、神にけを直接自分にして下さいと求めるのではなく、あなたを越て、人々の心をあなた方の心を受け入れるように備えて下さいと願うべきである。 神を引っぱって行こう 一九六五年、第一次世界路程の時、世界百二十ヵ所の聖地のうち、アメリカで五十五ヵ所を決定したが、その時、既に近い将来、アメリカに来て、世界を救うために、努力を集中することになることを知っていた。アメリカで摂理を展開する前から、もし我々が一つのことに努力するならば、三年間でアメリカ全ての人々が、我々を受け入れる様になるであろうと確信していた。 先生は、今も確信している。一九七七年、七八年に何が起るかを先生は、はっきり教わっている。唯、まだ話さないだけである。もし、先生が、皆さんのように、アメリカ人として生まれのであれば、先生は、時間をしっかりつかんで離さないであろう。今こそ皆さんが、自分の才能を神の為に用いることのできる唯一の時である。三年後には、先生は、もうアメリカにはいなくなるであろう。この三年間以内に皆さんは、自分自身の基盤をつくってしまわなければならない。 先生は、ヨーロッパの国々を放っておくわけにはゆかない。ヨーロッパを救う為に、それぞれの国の政府がなすべきことをしないで先生が首をつっこまねばならない。その時、アメリカの食口が他の国々を助ける為に動員されることになる。皆さん方は、その用意があるか。それは簡単なことではない。今年中に皆さは、一生懸命に働いて、最善を尽さねばならない。 先生は、今年何をするか、はっきり描いている。だから命令が出たら、それに従って実行しなければならない。あなた方は、全力を傾けて、仕事に全身と全霊を集中せよ。仕事をする時は、先生に頼るな。神に頼るな。神から助けを求めようとするな。かえって神をひっぱってゆかねばならない。あなた方から決して神に負債を負わせてはならず、かえって神に負債を感じさせるものとならなければならない。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.02
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「キリスト教の将来」1973年10月28日ルイジアナ・ニューオーリンズ市芸術公演劇場 皆さん、今夜はお越しくださってありがとうございます。今夜の私の話題は、「キリスト教の将来」というものです。 今夜、私はすべてのクリスチャンが知らねばならない、神から示された新しい天啓について話そうと思います。私はまた、選民イスラエルについてもたびたび言及するつもりです。聴衆の皆さんの中には、きっとたくさんのクリスチャンやユダヤ人の方々がいらっしゃることだろうと思います。私はすべてのクリスチャンの兄弟姉妹を心から愛していますし、ユダヤ民族を高く評価しています。私がこれから話すことには、決して私の個人的な感情は入っていないということを、最初に御理解願いたいと思います。私はただ真理の証をしているだけなのです。 時として真理を証言することは苦しいことです。それでもそれは、私が成し遂げなければならない使命であり、私の義務なのです。今夜私が話すことは、皆さんがこれまでもっていた知識と食い違うかもしれません。ある事柄は皆さんにとって、とても耳新しいことかもしれません。どうか皆さんが、聞いたことについて真剣に考えてくださるようにお願いします。 私が何か新しい秘密を公開するのでなければ、皆さん方の前でわざわざ話したりはいたしません。もし皆さんが既に御存じの事柄を繰り返すのならば、なぜ私が来なければならないでしょう。今夜は、神の霊が直接我々の魂に語りかけることができるように、私も皆さんも共に心を開いてこの一時を過ごそうではありませんか。イエス様も山上の垂訓でこのように教えておられます。 「こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。柔和な人たちは、さいわいである。彼らは地を受けつぐであろう。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう」(マタイ五・三、五、六)。 どうか今夜は、心の貧しい人になってくださるようにお願いします。柔和であってください。そして義に飢え渇く人になってください。そうすれば我々は共に神の国を見るでしょう。そして満ち足りるでしょう。それでは始めましょう。 クリスチャンとキリスト教自体が、最後に越えなければならない峠があります。聖書の預言によるとクリスチャンは、世の終わりを通過し、大いなる恐るべき主の日に火の審判を受けなければなりません。聖書によると、終わりが近づくにつれて、天にも地にもたくさんの異変が起こるといいます。 イエス様が再臨を約束された時、非常な危機感をお伝えになりました。イエス・キリストが天に昇った日より、クリスチャンは彼が地上に再び帰る日を待ってきました。過去二〇〇〇年間の歴史の中で、キリストの再臨を見ることがすべてのクリチスャンの希望でした。しかし、この劇的な出来事は決して起こりませんでした。多くの人々は待つことに疲れてしまいました。ある人々はついにこの再臨は文字どおりには起こらないのだと決めてしまいました。彼らの考えは、「これは神様が我々の注意を換起する方策なのだ」というのです。 今晩、我々は聖書が預言するところの終末の意味を明確にしなければなりません。我々はまた、時が満ちて主が来られる時に、いかに再臨されるかということも知らねばなりません。 まず第一に知らねばならないのは、神は破滅させるために世界を創造されたのではないということです。神は常に善なる世界が永遠に続くことを望まれました。もし永遠なる世界を創造されなかったとしたら、神は全知全能ではないことになります。しかしながら現在の世界は、終わりを迎えねばなりません。なぜならば、我々は神が望まれた善なる世界を完成することができなかったからです。善なる子女になる代わりに我々は、現実には悪なる被造物になってしまいました。 アダムとエバはエデンの園で堕落しました。彼らは当時、まだ神の意志をはっきりと知る位置にはおりませんでした。彼らは混乱状態に陥り、誤った選択をしました。彼らは、善なる世界をもたらしたであろう神への忠誠と、実際に堕落をもたらしてしまったサタンへの忠誠の、どちらを取るかを迫られました。二つのはっきりした選択のうちで、アダムとエバは誤ったほうを選んでしまいました。彼らは悪をこの世にもたらしました。神の本来の願いは理想の世界――神が永遠に保とうとした善なる繁栄の世界を創造することでした。しかし人間が堕落し、神の善なる世界は突然終わりを告げ、人類の歴史は間違った方向に向かって出発したのでした。 それゆえに、人類の歴史は悪の歴史です。神は善の種を蒔き、そして善の実を刈り取るつもりでした。しかしサタンが、それがまだ熟する前に盗んで、悪の実を刈り取りました。人類の歴史は雑草の実なのです。 それでは終末とは何を意味するのでしょうか。いったい何が終わるのでしょうか。悪が終わるのです。神が悪に終止符を打つのです。神が用意された新出発から人間に対する新しい機会が訪れます。そして神が最初に望まれた理想である善の世界が実現されるのです。 エデンの園で人間は、善を発展させる代わりに悪に陥ってしまいました。人間はサタンに征服され、罪の子になりました。ゆえに聖書では、「あなたがたは、自分の父、悪魔から出たものである」といっています。もし人間が堕落していなかったとすれば、本当の支配者は神だったはずです。しかし神は今日この宇宙の王様ではありません。なぜならば、サタンが神の王座に座っているからです。神が本当に世界を治めるためには、その前に、人間の堕落から生じたすべての結果を取り除かねばなりません。 それでは皆さんに、終末のはっきりした定義を申し上げましょう。終末とは神が悪を終わらせ、新しい神の時代が出発すべき歴史上の時点なのです。それは古い悪の歴史と新しい善の歴史とが、交叉転換する時なのです。この定義から考えて、なぜ聖書は、天変地異が終末の印だと預言するのでしょうか。預言にあることが実際に起こるのでしょうか。聖書では次のように書いてあります。 「しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう」(マタイ二四・二九)。これは何を意味するのでしょう。何を我々は予期すべきなのでしょうか。 まず第一に、これらのことは文字どおりに起こることはありませんから御安心ください。神は宇宙の中で何ものをも破壊されたりしません。神はたびたび、その真理を比喩や象徴で表されます。それゆえに、これらの聖句も象徴的に成就されるのです。第二に、神は宇宙を破壊する何らの理由ももっておられません。罪を犯したのは人間であって宇宙ではありません。人間だけが、本来の神の創造の理想からそれてしまったのです。なぜ神が、神の願いのごとくに創造の目的を達成した動物や植物や他の被造物を破壊しなければならないのでしょうか。神はそれら無実のものを破壊されたりはしません。 それゆえに聖書は、「世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない」(伝道の書一・四)といっています。しかし黙示録によると、「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった」(黙示録二一・一)とあります。この新しい天と新しい地というのは、神による歴史の到来、新主権の時を意味します。皆さんが家を買ったなら、家族と家財道具をもって引っ越すでしょう。そして、私は新しい家をもったと言い、また、その家の新しい主人になったと言うでしょう。それと同じように、神の子たちがこの宇宙を支配すれば、それは新しい天と新しい地とになるのです。 冬が終われば春が来ることを、我々は知っています。しかし正確にどの時点から春が始まるか、言えるでしょうか。いったい誰が移り変わりの正確な一瞬を指摘できるでしょうか。できません。なぜなら、一つの季節から次の季節への移り変わりは静かに、また気づかぬうちに起こるからです。冬の終わりは春の始めと似ていますから、はっきりと変化を識別できる瞬間は存在しません。 いったいいつ前の日が終わり、新しい日が始まるのでしょうか。変化は暗闇の中で起こりますが、ある日から次の日に移ることは疑えません。変化は最初は分かりませんが、それはまた必ず起こるものであり、取り消すことはできません。三十億の人々が地球上に生活していても、そのうち誰一人として、どの瞬間に前の日が終わりを告げ、新しい日が始まるのかということを指摘することができません。だから人間の側から見る限り、物事が起こる正確な瞬間をいつも知ることができるとは限らないということが分かります。しかし神はいつ冬が過ぎ春が始まるのか知っていますし、いつ夜が明け昼が始まるのか知っています。だから、神は新しい時代への変化を指し示すことができるのです。 我々が新しい歴史に一歩を踏み出すことは、真っ暗な夜の中から明るい夜明けが出てくるようなものです。善と悪の交叉点ははっきりとしていません。それが交叉した時にも気がつかないでしょう。しかし、太陽があす昇ってくるのと同じくそれは確実に起こるのです。 それでは我々はいかにして、いつ終末が来るかということを知ることができるでしょうか。神はこの瞬間を人間に秘密にはしません。神は警告もなしに、急に地上に裁きをもたらしはしません。神は大いなる恐るべき日の到来を、預言者を通して宣言されます。アモス書三章七節には、「主なる神は、そのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない」と記されています。神は御自分の代身者を選び、その人を通して御計画を宣言されます。聖書の歴史の中で神はいつもそうされてきました。 預言者として神に選ばれる人は、この悪の世界に生きている人間の一人でなければなりません。しかし、彼は神に使われる価値があることを示すことができる信仰者でなくてはなりません。彼は絶対的信仰を示さねばなりません。これをなすためにはこの世のすべての成功を捨て、完全に自分自身を邪悪な世界から切り離さねばなりません。彼は自分に関するすべての邪悪な関係を断ち切って、自分を清くしなければなりません。彼はこの邪悪な世界ではもてはやされないでしょう。神は絶対善であるがゆえに悪の全くの正反対に当たります。だからこそ、いつも悪の側は神より遣わされた者を迫害するのです。 ノアはそのように、神によって選ばれ、悪なる世界でさげすまれた人でした。神はノアに舟を造るように命じました。神は、川岸や海辺に連れていく代わりに、ノアを高い山に連れていきました。神の命令は悪の世界の目から見ればあまりにもばかばかしいものだったので、多くの人々がノアを笑い者にしました。彼がばかにされたのは、人々が彼を特別に変わり者だと思ったからではなく、ノアが神の命令に忠実に従ったからでした。世間の目からは、神のやり方は理解できなかったのでした。このように、とても本当とは思えない命令を与えてこそ神は、御自身の闘士として選ばれた人間の信仰を試すことができたのです。これがノアの時代に起こった物語です。 そしてアブラハムの時も全く同じでした。神は偶像商の息子であるアブラハムを召命し、「すぐに故郷を離れなさい」と命じました。神はいかなる妥協をも許されません。神は悪が完全に否定される立場をとられます。それ以外のどんな方法でも善は出発できません。 神は悪の一かけらも残らない新しい歴史を始めると言われました。神は人間から完全な応答を求められます。神の命令に従う者はまず、悪の世を完全に否定するところから始めなければなりません。このゆえにイエス・キリストは、「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう」(マタイ一〇・三九)と教えられたのです。イエス様はまた、「そして家の者が、その人の敵となるであろう」(マタイ一〇・三六)と言われました。 皆さんは、これはどういう意味だろう、と思われるかもしれません。これが、神が御自身のための人間を選ばれ、その人々を、悪によって完全に拒まれる位置に立たせられる方法なのです。さもなければ、神の闘士は神のために何もできないことになります。そうすると、神の立場から見ると、現在のクリスチャンたちはとても安楽に過ごしていることになります。これはとてもおかしなことです。なぜなら、キリスト教の教えの中では、安楽な道はないからです。いったいどれだけのクリスチャンが、本当に神の道を歩もうと真剣になっているのか、私には不思議に思えます。神の要求は絶対です。それは中途半端を決して許しません。 それでは、いかにして我々は、神願う道を知ることができるでしょうか。神の摂理の歴史を調べてみましょう。今日我々は、終末を予期しています。神は以前にも終末をもたらそうとされたことがありました。例えば、ノアの時です。この時は神が悪の終わりを告げ、善の世界を始めようとされた歴史の交叉点です。ノアは神の摂理の中で中心人物として選ばれました。ノアの使命と終末の意味をよりよく理解するためには、我々はいかにして悪の世界が始まったかということを、よりよく知らねばなりません。 エデンの園で神はアダムとエバに戒めを与えられました。その戒めは神の言葉でした。そして、サタンが彼らに近づき、うそでもって彼らを誘惑しました。そしてそのうそは、悪の言葉でした。アダムとエバはその二つの言葉から選択しなければいけない立場にありました。真理が一方にあり、偽りが他方にありました。彼らは偽りのほうを選びました。 これが人間堕落の経路だったのです。世の末には、神は人類に真理を与えられます。神の言葉はその預言者を通して与えられます。もし人間が神の言葉を受け入れたなら、その人は死から生命に移ります。真理は生命をもたらすからです。人間は偽りによって死に、真理によって生き返るのです。 それゆえに裁きは言葉によってきます。これらの神の裁きの言葉は、神によって選ばれた預言者によって明らかにされるでしょう。これが終末の経路です。新しい真理の言葉に耳を傾け、これに従う者は生命を得るでしょう。この言葉を否定する者は、死の中で生き続けるでしょう。 神はその言葉を宣言するためにノアを選びました。ノアの宣言は、「洪水が来るぞ! 箱舟に乗れ!」でした。人々はノアの言葉に従っていれば助かることができました。しかし、人々はノアを気違いのように扱い、自分たちが滅びました。なぜなら、彼らは神の言葉に逆らったからです。聖書によると、ノアの直接の家族である八人だけが箱舟に乗ったのです。この八人だけが信じ、この八人だけが助かったのです。 これより先に、神はノアに、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう」(創世記六・一三)と言われました。このとおり実際に起こったでしょうか。確かに悪い人々は滅びましたが、それと一緒に物質世界がなくなったでしょうか。この聖句は文字どおりに成就したのではなく、神は地球を滅ぼされませんでした。神はノアの家族の善なる人々のみを残して他の人々を根絶し、悪主権を打ち壊しました。これが、ノアを通して、本来の善なる世界の復帰を始めようとされた神の御計画でした。 もし神がこの時に復帰を完成していたなら、我々は終末についてあげつらうこともなかったでしょう。いったん善の完全な世界が実現されたなら、もう終末は必要ありません。そうなれば何ものも、神の完全な王国の永遠の統治を妨げることはできません。 しかし、我々が今日終末を予期しているという事実こそが、神がノアの時に成功を収めなかったという証拠です。洪水のあとで何がノアに起こったかは、一部始終お話ししなければなりませんが、私は今夜はそのことについてあまり時間を割けません。簡単に申しますと、またもやノアの息子ハムを通して、ノアの家庭に罪が入り込んだのです。これによって神の洪水審判は無に帰し、邪悪な人類歴史はイエス・キリストの時まで続いたのです。 キリストの降臨によって、神はもう一度終末をもたらそうとされました。イエス様は、天の新しい王国を地上に建設するために来られました。だからイエス様が最初に言われた言葉は、「悔い改めよ、天国は近づいた」でした。確かに、イエス・キリストの到来の時は終末でした。大いなる恐るべき日の到来は、イエス様が生まれる約四〇〇年前に預言者マラキによって預言されました。 「見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない」(マラキ書四・一)。 イエス・キリストの裁きは文字どおり火によって行われたでしょうか。イエス様の時に、その日は、すべてのものを文字どおり灰にしてしまうという形で訪れたでしょうか。違います。我々はそうではないことを知っています。これらの預言が当時そのごとく起こらなかったので、ある人々は、それらのことは再臨の時のことを指しているのだといいます。しかし、そんなことはあり得ません。 洗礼ヨハネは、最後の預言者としてこの世に来ました。イエス様は言いました。「すべての預言者と律法とが預言したのはヨハネの時までである」(マタイ一一・一三)。洗礼ヨハネの到来によって、すべての預言とモーセの律法は終わりを告げるべきだったのです。これがイエス様の言われたことなのです。イエス様以前のすべての預言の目的は、イエス様を迎える準備をすることであり、そして、イエス様の到来によって何が成就されるかを知らせることでした。これらの預言はキリストの再臨の時のためではありません。神は完全な救いを成し遂げるために、その子イエスをこの世に送られたのてす。最初の降臨によって救いが成就されなくなって、初めて再臨が必要となったのです。 それではなぜ、イエス様の時が終末だというのでしょうか。我々はもう答えを知っています。イエス様は悪主権の終わりを告げ、地上に神の主権をもたらすためにやって来られたからです。これは旧約時代の終わりであり、新約時代の始めでした。イエス様は新しい真理の言葉をもってこられたのです。 イエス様がもたらした福音を、人々はどのように受けとめたでしょうか。ユダヤ教徒たちは彼を訴え、十字架につけました。彼らは旧約聖書の文字に捕らわれていて、新しい真理の中に、神の霊が宿っているのを感じることができませんでした。彼らはイエス様を神の子として証言すべきであった。その預言のゆえに犠牲となられたということは皮肉なことです。モーセの律法の文字によって、彼は罪人にされたのです。盲目な人々は彼を、十字架にくぎで打ちつけました。 イエス様の時代には、多くの有識者、多くの教会指導者、そして律法と預言書によく通じた多くの著名人たちはメシヤを待っていました。もしメシヤが来て、旧約聖書をそっくりそのまま一言一句まで正確に繰り返したとしたら、彼らはどれだけ喜んだでしょうか。しかしイエス・キリストは、モーセの律法をそのまま繰り返すために来られたのではありません。彼は新しい神の律法を宣言するために来られたのです。人々は全く見当外れだったのです。そしてイエス様は訴えられました。イスラエルの人々は彼に言いました。「あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としている」(ヨハネ一〇・三三)。 聖書にはこう書いてあります。「そこで彼らは彼をののしって言った、『おまえはあれの弟子だが、わたしたちはモーセの弟子だ。モーセに神が語られたということは知っている。だが、あの人がどこからきた者か、わたしたちは知らぬ』」(ヨハネ九・二八、二九)彼らはイエス様をこのように見ていたのです。モーセの律法に従順に従った者たちはイエス様に背いたのです。ユダヤ教の最も信仰深い人々が最初に、イエス様によって裁かれ、永遠の火の中に投げ込まれたのです。 それでは、ここで「火の裁き」の意味を明確にしたいと思います。新約聖書によると「天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう」(ペテロⅡ三・一二)と書いてあります。この途方もない預言はいかに実現するのでしょうか。文字どおり、そのごとく起こるのでしょうか。そうではありません。この表現には象徴的な意味があります。神は、地上に理想を実現せずして、創造した地球や星やすべての被造物を滅ぼすはずがありません。もしそんなことをすれば、神は敗北者になってしまいます。すると誰が征服者になるでしょうか。サタンです。神がこんな目に遭われるはずがありません。 我々人間の間でさえ、いったん何かをやると心に決めたら、それが成就するまでやり遂げます。全知全能の神がその意志を成就されようとするなら、もっともっとそうであるに違いありません。聖書の中で、火の裁きについて神がいわれていることは、炎によって裁きをもたらすということではありません。この重要な部分の意味は象徴的なものなのです。 それでは、火について書いてある聖書の他の句を考察してみましょう。イエス様はこう慨嘆されました。「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ、火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」(ルカ一二・四九)。イエス様は実際に燃え盛る火を投げられたでしょうか。もちろん違います。 聖書の中の火は象徴です。それは神の言葉を意味しているのです。だからヤコブ書三章六節では「舌は火である」と記されているのです。舌は言葉をしゃべり、そして言葉は神から来ます。イエス様御自身も「わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネ一二・四八)と言われています。 現代の社会では、裁判所の言葉が審判を下します。その言葉が法律です。この宇宙の中では、神が裁判官の立場にいるのです。イエス様は弁護士として、人間を訴えるサタンに対抗する権威をもって来られました。サタンは彼の言葉で人間を讒訴しますが、これらは偽りの訴えです。イエス様は、信仰者たちの主張を擁護します。彼の基準は真理の言葉です。神が判決を下されます。神の愛が基準となり、そして愛はその言葉のことです。地上の法廷も天の法廷も何ら変わりがありません。共に言葉によって裁判を行います。火ではありません。ですから審判が下される時に、世界は火で焼かれてしまうのではありません。聖書はいいます、「この者(邪悪な者)を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう」(テサロニケⅡ二・八)。神の言葉は彼の口の息です。イエス様は神の言葉によって邪悪な者たちを殺すために来られたのであり、そして「その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す」(イザヤ書一一・四)のです。それでは「口のむち」とは、何でしょうか。これは彼が神の言葉を語るべき舌を象徴していると見ます。 この点を完全に解明しましょう。イエス様が人々にこう教えている所を見てください。「よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」(ヨハネ五・二四)人は真理の言葉によって死から命に移るのです。神は皆さんを燃やしてしまうためにメシヤを送るのではありません。神は皆さんの家に火をつけたり、社会を滅ぼすためにメシヤを送るのではありません。しかし、もし我々が主によって語られる神の言葉を拒否すれば、我々は裁きによって罪に定められるほかはありません。その理由はこうです。 初めに神は人間と宇宙とその言葉――ロゴスによって創造されました。人間は神の言葉を否定し、そして堕落しました。霊的な死が、それ以来支配してきました。救いのみ業を通して、神は人間を再創造されてきました。人間は神の言葉に対する不従順によって堕落し、同じく神の言葉に従順になることで再創造されるのです。神のみ言は、主によって与えられます。み言を受け入れることは、死から生に移ることです。そのような死とは、我々が今住んでいる地獄のことです。このように、神のみ言は裁きであり、そしてそれは皆さんに、真っ赤な炎よりも、ずっと深い影響をもたらすでしょう。 それではここで、もう一つの重要なことについて調べてみましょう。もしイスラエルの民が、真心からイエス・キリストを受け入れていたとすれば、どうなっていたでしょうか。イスラエルの国がイエス様と一つになることを想像してみてください。それは何を意味したでしょうか。第一に、イエス様は殺されなかったでしょう。人々はイエス様を、生きている主としてたたえたでしょう。それから彼らは、生ける主を司令官としてローマに進軍していたでしょう。そしてローマは神の子の前に、彼が生きているうちに降服したでしょう。しかし、歴史の悲しい現実の中では、イエスの弟子の群れがローマを征服するのに四世紀もかかったのです。イエス様は一度もイスラエル選民に受け入れられず、彼が必要としていた彼らの支持を得ることができませんでした。彼は神の国を地上に建設するために来ながら、実際は弟子たちに自分が誰であるかを秘密にするように注意されたのでした。なぜなら、人々は彼のメシヤとしての正統性を受け入れず、それゆえに、彼は王の王となれる力が得られなかったのです。 今日、我々は多くのことを学ばねばなりませんし、また盲目的に信じてはなりません。我々は、聖書の背後にある隠された真理を知らねばなりません。イエス様が十字架についたのは御自身の意志によるのではなく、他の人々の意志によってでした。イスラエル選民の不信仰がイエス・キリストを殺したのです。 今、私は大胆な宣言を行っています。イエス様は死ぬために来られたのではありません。イエス・キリストは殺害されたのです。繰り返しましょう。イエス・キリストは殺害されたのであり、彼の同族が彼を殺したのです。ローマ総督のピラトでさえ、イエス様を許したかったのです。彼らはイエス様のとがを見つけることができませんでした。しかし、キリストと同族の人々が彼を排斥し、ピラトに迫ってバラバを代わりに釈放させたのです。何と残念なことでしょう。何という悲劇でしょう。 このことは皆さんにとってショッキングな、非常にびっくりするニュースかもしれません。しかし皆さんが単に驚くだけなら、私の目的が分かっていただけてはおりません。私は真理の証言者となるという私の義務のためにこれらのことを明らかにしているのです。 ピラトの法廷で、「彼を十字架につけろ!」と叫んだのはイスラエル選民であり、祭司長たちであり、長老たちであり、律法学者であり、そして信仰深い人々だったのです。パウロは言いました。「この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう」(コリントⅠ二・八)。 イエス・キリストの時代に生きていた人々は恐ろしい間違いを犯しました。しかし、彼らは今日の我々と比べて、そんなにも無知であり、盲目だったでしょうか。全くそうではありません。彼らは旧約聖書を一字一句学び、モーセの律法を暗記していました。彼らの理解に基づけば、イエス様はメシヤとしての資格に合わなかったのです。 ユダヤ人たちはとても難しい立場にいました。もし律法の預言を信じようとすれば、彼らは自分たちが学んだモーセの律法を捨てなければなりませんでした。四〇〇〇年間の伝統が旧約聖書に基づいているのです。人々がある朝、目を覚まして、すぐ律法を捨ててイエス・キリストを神の子として完全に受け入れるということは、とてもとても難しいことでした。人々の目が旧約聖書の文字に縛りつけられていたので、律法の精神はただ頭の上を飛び越えていったのです。 旧約聖書を開いてマラキの預言を調べてみましょう。「主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」(マラキ書四・五、六)。イスラエルの人々は神の約束をはっきりと知っていました。彼らは暗唱していました。ですから、彼らはメシヤが現れる前にエリヤの来ることを予期していました。メシヤが来た時に彼らは当然、「エリヤはどこですか」と尋ねました。 エリヤはイエス様より約九〇〇年前に奇跡的な業を行った預言者でした。そして彼が火の車に乗って天に昇ったということが書かれていました。エリヤが天に昇ったのですから、彼は天から下ってくるものだと思われていました。そのような奇跡がイエス様が現れる前に起こったでしょうか。人々はエリヤの到来について何かニュースを聞いたでしょうか。いいえ聞きませんでした。しかし彼らが実際に聞いたのはある日、「私は神の子である。神のひとり子である」と宣言しているイエス様の声でした。そしてイエス様は、弱々しくではなく、権威と力をもって語りました。そんな人間は無視することはできません。これはイスラエルの人々に大変なジレンマをもたらしました。彼らは直ちに、「もしイエスがメシヤなら誰がエリヤだ」と聞きました。彼らは当時、メシヤを待ち焦がれていたので、エリヤをも待っていたのです。彼らはエリヤは空の上の天国からまっすぐ下ってくるものだと信じ、メシヤもそのすぐあとで同じようにして降臨するものだと思っていました。 ですから、イエス様が神の子として宣言された時、ユダヤ人たちは困惑しました。もしエリヤが来ていないのなら、メシヤが来るはずはありません。そしてエリヤが来たということは誰も聞いていません。イエスの弟子たちもまた、混乱しました。彼らが福音を宣べ伝えに出かけていった時、人々は、イエスの弟子たちがエリヤの到来を証明できなかったので、イエスがメシヤであることを執拗に否定しました。彼らはどこへ行ってもこの問題に直面しました。 イエスの弟子たちは旧約聖書については知識がありませんでした。彼らが宣教に出かけていくと、多くの知識人たちは、「君たちは旧約聖書を知らないのですか。君たちはモーセの律法を知らないのですか」と質問して彼らを言い負かしてしまいました。弟子たちは律法や預言者の文を通して攻撃されると、困惑しました。ある日、彼らはイエスのもとに帰ってきて質問をしました。 『いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか』。答えて言われた、『確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。しかし、あなたがたに言っておく、エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう』。そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った」(マタイ一七・一〇~一三)。イエスによると洗礼ヨハネがエリヤだったのです。 これは本当です。我々はイエス・キリストの言葉に従って真理を決定してきました。しかしイエスの弟子たちはこのことを、長老や祭司長や律法学者たちに納得させることができませんでした。彼らにとってこの話はただばからしいものでした。そのような考えを支持する唯一の権威は、ナザレのイエスだけでした。だからこそ、洗礼ヨハネ自身の証言がとても重要だったのです。でもどうでしょう、ヨハネ自身も質問を受けた時に、自分はエリヤではないと否定したのです。彼の否認によってイエスは偽り人のよう見えました。 聖書によると、「さて、ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司たちやレビ人たちをヨハネのもとにつかわして、『あなたはどなたですか』と問わせたが、その時ヨハネがたてたあかしは、こうであった。すなわち、彼は告白して否まず、『わたしはキリストではない』と告白した。そこで、彼らは問うた、『それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか』。彼は『いや、そうではない』と言った。『ではあの預言者ですか』。彼は『いいえ』と答えた」(ヨハネ一・一九~二一)。ヨハネは自分で「私はエリヤではない」と言いました。しかし、イエスはその前に「彼はエリヤである」と言ったのです。 ヨハネの答えで、人々がエリヤが来たことを知ることはほとんど不可能になりました。しかし、イエスはとにかく真理を宣言したのです。彼は、「もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人(バプテスマのヨハネ)こそは、きたるべきエリヤなのである」(マタイ一一・一四)と言ったのです。イエスは大部分の人々は真実を受け入れることができないことを知っていました。その代わりに彼らはイエスの動機づけを質問しました。イエスがメシヤらしくあるためにエリヤがまず最初に来ていなければなりません。そこで人々は、イエスが自分を偉く見せるためにうそをついていると思ったのでした。 これはそれほど深刻な状況でした。あの当時、洗礼ヨハネの影響力はイスラエルの隅々にまで及んでいました。しかしイエス・キリストは、彼の社会の中では、世に知られない目立たない人物でした。誰もイエスの言葉を真理として受け取る立場をとれませんでした。このヨハネの失敗がイエスの十字架の主要な原因となったのです。 洗礼ヨハネは既にヨルダン河で神の霊がイエスの頭の上に下っているのを見ていました。その時に彼はこう証言しました。 「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。わたしはそれをみたので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」(ヨハネ一・三二~三四)。 なるほど、洗礼ヨハネは証を立て、その時神が彼に望んだ使命を果たしました。しかし、あとになって彼は疑うようになり、ついにはイエスを取り囲む多くのうわさに負けてしまいました。あるうわさは、イエスは父なし子、私生児だと言いました。洗礼ヨハネはもちろんそのうわさを耳にし、そんな人間がどうして神の子であるはずがあろうかと疑いました。彼はイエスの証をしましたけれども、ヨハネはのちに疑うようになり、彼を裏切りました。もし洗礼ヨハネがイエス・キリストと真に協力していたとすれば、彼は人々をして、イエスをメシヤとして受れ入れさせたでしょう。というのは、当時洗礼ヨハネがもっていた力と影響力はとても偉大だったからです。 私は皆さんに、尋常ならざることを話していますから、皆さんは私が何の権威によって話しているのかと聞かれるでしょう。それは聖書の権威と啓示の権威です。さあ、一緒に聖書を一語一語読みながら、洗礼ヨハネがいかに振る舞ったか見てみましょう。 「さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、イエスに言わせた、『“きたるべきかた”はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか』」(マタイ一一・二、三)。 これは彼がイエスを神の子として証してからずっとあとのことです。どうして彼は、「あなたが神の子として来たるべきかたですか」などと、神霊の証を受けたあとで聞くことができるのでしょうか。イエス様は本当に悲しかったのです。彼は怒りを感じられました。イエス様は洗礼ヨハネに対して、「はい」とか「いいえ」という明解な答えを与えることを拒否しました。その代わりに答えて言いました。私につまずかないものは幸いである」。イエス様が言われたことを言い換えてみましょう。「ヨハネよ、私はあなたがわたしにつまずいたことを残念に思う。一度はあなたは私を認めた、しかし今は私を疑っている。あなたの信仰がそんなに弱かったのを見て、とても残念だ」。 この出来事のあとで、イエス様は御自分の弟子たちにヨハネのことについて話されました。彼は弟子たちに修辞的な疑問を発したのです。 「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる。では、なんのために出てきたのか。預言者をみるためか。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。『見よ、わたしは使いをあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである」(マタイ一一・七、一〇)。 ここでイエス様が言おうとしていることはこういうことです。「ヨハネよ、あなたは、荒野に預言者以上のもの、神の子メシヤを見に行ったのだ。あなたは多くのものを見たが、あなたの使命の中核である重要なところを見逃してしまった。あなたは、本当に、私を認めることができず、神の期待に沿うことができなかった。あなたに『備えられた民を主のために準備する』ことを期待したのは神なのだ。あなたは失敗してしまった」。 イエス様はこのように結びます。「あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起こらなかった。しかし、天国で最も小さい者も彼よりは大きい」(マタイ一一・一一)。従来のキリスト教の解釈では、決してこの矛盾する一節を完全に説明することはできませんでした。 歴史の流れの中で、預言者の使命はメシヤのために備えかつ証をすることでした。預言者はいつもずっと先のことを証してきました。洗礼ヨハネは預言者の中でもっとも偉大な人でした。なぜなら、メシヤと同時代の預言者というだけでなく、自ら生けるメシヤに証言できた預言者だったからです。霊界にいるどんな小さな預言者でさえも、イエスが神の子であることを知っていました。だから、最も偉大な使命を与えられたヨハネが失敗した時、最も小さい者よりも小さい者になったのです。 イエス様は言いました。「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」(マタイ一一・一二)。洗礼ヨハネは神によって選ばれた器でしたが、イエス様の第一弟子になることを拒んだのです。彼は自らの責任を果たすことができず、シモン・ペテロが、彼の信仰の力で自らの長所のゆえに、中心の位置を獲得したのでした。洗礼ヨハネよりも信仰の面でより強く、がむしゃらな他の人々が、イエス様と共に、地上における神の国の実現をかけて、ひたすらに闘ったのです。洗礼ヨハネに忠実に従った篤信な人々は、本来なるべきであったキリストの十二使徒や、七十人門徒になれませんでした。もし洗礼ヨハネがイエス様の第一弟子になっていたとすれば、この二人は協力してイスラエル全土を統一していたでしょう。しかし現実には洗礼ヨハネは、神の子に従わなかったのです。 ある日、ヨハネの弟子たちがヨハネのところに来て尋ねました。「先生ごらん下さい。ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、そして、あなたがあかしをしておられたあのかたが、バプテスマを授けており、皆の者が、そのかたのところへ出かけています」(ヨハネ三・二六)。彼らは質問の中でこう心配しているのです。「イエスのところへ行っているたくさんの人々を見てください。あなたは行かないのですか」。洗礼ヨハネの答えは「彼は必ず栄え、わたしは衰える」でした。 通常クリスチャンはこの句を、ヨハネの謙遜な人格の表れと解釈しています。これは彼の言葉の意味を間違って理解しています。もしイエスとヨハネが一致協力していたなら、彼らの運命の盛衰は同じはずでした。そうすれば、ヨハネの地位が下がっていくならば、イエス様は御自身の評価を高めることはできません。自分の勢力の減少こそが、ヨハネが恐れたことなのです。ヨハネはかつて、メシヤは「そのくつを(私が)ぬがせてあげる値うちもない」(マタイ三・一一)方であると言いました。そうでありながら、イエスが神の子であると知ってからも、イエスのあとに従うことができなかったのです。洗礼ヨハネにはどんな言い訳もできません。彼はイエスに従うべきだったのです。 神はヨハネをメシヤの先駆者として送ったのでした。彼の使命は次のごとくはっきりと定義されていました。「整えられた民を主に備える」(ルカ一・一七)と。しかしヨハネの裏切りによって、イエス・キリストには彼の宣教を始めるべき何らの基盤もありませんでした。人々はイエスを迎えるべく整えられてはいませんでした。それゆえに彼は故郷から出て、人々が彼を信ずることができる基盤をつくろうとして、たった一人で働かれたのです。洗礼ヨハネが失敗したことについては疑いの余地がありません。彼はイエスの十字架について直接責任があります。 皆さんは、新たに「何の権威によってこれらのことを言うのか」と問われるかもしれません。私は霊界でイエス・キリストと話をしました。そして洗礼ヨハネとも話をしました。これが私の権威です。もし皆さんがこの場で、私の言葉が真理かどうか決めかねるとしても、いつか必ず分かる時が来るでしょう。これらは皆さんに、新しい天啓として示された隠された真理です。皆さんは私が聖書によって話すのを聞きました。もし皆さんが聖書を信ずるなら、私の話をも信じなければなりません。 それゆえに、我々はこの厳粛な結論に到達しなければなりません。イエスの十字架はユダヤ人の不信仰の結果生じたのです。彼らの不信仰の主な原因は洗礼ヨハネの裏切りです。このように我々は、イエス様は十字架上で死ぬために来られたのでないということを学びました。もし彼が死ぬために来たのだとすれば、ゲッセマネの園において、あのような悲劇的な、苦痛に満ちた祈りは捧げなかったでしょう。 「『私は悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい』。そして少し進んでいき、うつぶしになり、祈って言われた、『わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたくしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい』」(マタイ二六・三八、三九)。 イエス様はこのように一度のみならず、三度祈ったのです。もし十字架による死が神の目的の成就ならば、イエス様は代わりにきっとこう祈ったことでしょう。「父よ、私はあなたのみ意によって十字架上で死ぬことを光栄に思います」。 しかし、イエス様はこの杯を自分から過ぎ去らせてくださいと祈ったのです。もしこの祈りが死に対する恐怖から来たとするなら、そのような弱さは、神の子としての資格を失わせるでしょう。我々はキリスト教の歴史を通して、多くの殉教者たちの勇敢な死を見てきました。そしてどこにおいても、人々は死の恐怖を克服したのみならず、彼らの最後の犠牲を勝利的なものにしたのです。そんなにも多くの殉教の中で、特にイエス様の十字架が神の願いを成就する栄光の瞬間だとするならば、なぜイエス様だけが恐怖と弱さを見せなければならなかったのでしょうか。イエス様は弱さのゆえにこのように祈ったのではありません。そのように信ずることはイエス・キリストを侮辱することです。 ゲッセマネの園におけるイエス様の祈りは、死や苦しみに対する恐怖から出たものではありませんでした。もし神のみ意を成就することができるならば、イエス様は喜んで千回でも死なれたでしょう。彼が死の直前まで苦しまれ、神に最後の訴えをされたのは、御自分の死が単に神の摂理を遅らせることになることを知っておられたからです。 イエス様は生きてその使命を果たしたかったのでした。イエス様が人間的な心の弱さから、もう少しの間の地上での生命を乞うたと信ずることは、悲劇的な誤解です。アメリカ独立戦争において、青年ナタン・ヘイルは、自分の処刑の際にこう言い得ているのです。「私は国のためにたった一つの命しか捧げられないことが残念だ」。皆さんはイエス・キリストはナタン・ヘイルよりも、小さな魂の持ち主だというのでしょうか。違います。ナタン・ヘイルは偉大な愛国者でした。しかしイエス・キリストは神の子だったのです。 このことを考えてみてください。もしイエス様が十字架で死ぬために来られたとすれば、彼を引き渡す人間を必要としなかったでしょうか。皆さんはイスカリオテのユダが、イエスを裏切った弟子だと知っています。もしイエス様が十字架で死ぬことで、神の意志を成就したとすれば、ユダは、十字架を可能にしたことのゆえに、たたえられねばなりません。ユダは神の摂理を助けていたことになります。しかし、イエス様はユダについて言われました。「たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」(マタイ二六・二四)。ユダは自殺しました。 それに付け加えると、もし神がその子を十字架につけようとされたなら、選民を整えた四〇〇〇年間は必要ではなかったでしょう。神はイエスを野蛮人の一部族に送り込んで、もつと早く殺させることができたでしょう。そうすれば神の意志はもっと早く実現したことでしょう。 みなさんにもう一度申し上げましょう。人々がイエス様を受け入れることが、神の意志だったのです。だからこそ神はメシヤという天の種を蒔くために希望をもち、苦労しながら、豊かな土壌を用意しようとされたのでした。これが神の選民イスラエルを立てられた理由なのです。このゆえに神はイスラエル自身を主に備えるために、次から次へと預言者を送られたのです。 神は彼らに警告し、また、懲らしめました。説得し、叱りました。無理やりに押し出したり、罰を与えたりしました。なぜなら、神は神の民が神の子を受け入れることを望んだからです。ある日弟子たちがイエスに質問しました。「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。イエスは彼らに答えて言われました。「神がつかわされた者を信じることが神のわざである」(ヨハネ六・二八、二九)。イスラエル選民は神が防ごうと骨折られた、正にそのことをしたのです。彼らは神が送った人を拒否したのです。 イエス様は三年間の公生涯を通して、一つの目的をもっていました。受け入れられることです。そうしなければ彼は自分の使命を全うできませんでした。第一日目から、イエス様は、人々が真理を聞いて自分を神の子として、受け入れてくれるために、あいまいな言葉を使うことなく、福音を説教されました。神の言葉によって彼らはイエスを受け入れるべきだったのです。しかしながら、イエス様は人々が神のみ言だけでは、自分を受け入れそうもないことを知って、奇跡を行われたのです。イエスは人々が奇跡を通して自分を認めてくれることを望んだのでした。 「イエスは、この書にかかれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」(ヨハネ二〇・三〇、三一)。 イエス様はめくらの目を開け、癩病患者をきれいにされました。彼はびっこを治し、つんぼの耳を聞こえるようにされました。イエス様は死人をよみがえらせました。彼は人々に受け入れられるために、すべてこれらのことを行われたのです。それでも人々は彼についてこう言いました。「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」(マタイ一二・三四)。何と悲しい状況でしょうか。イエス様はまもなく、人々に受け入れられることは、望みがないことを知りました。怒りと絶望の中から彼は叱りました。お前たち、「まむしの子らよ」(マタイ一二・三四)。彼は憤怒を隠すこともなく、怒りの中で爆発させました。「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう」(マタイ一一・二一)。そしてイエスはエルサレムに近づいてきた時に泣いて言われました。 「ああエルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとはしなかった」(マタイ二三・三七)。 誰がかつてこの胸が張り裂けんばかりのイエス様を理解したでしょうか。彼は言われました。「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている」(ルカ一九・四二)。この時までに、イエス様は、死を免れるどんな希望もないことを知っておられました。それでも、イエス様はゲッセマネで神にすがり、十字架上でも神に訴えられたのです。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七・四六)。 このようにイエス様は御自分の意志でもない、人々の意志によって十字架上で亡くなられました。その瞬間からキリストが再び来ることは決まっていたのです。キリストは自分の地上における使命を全うするために再び来られます。人類は世界の完全な救いのために彼の再臨を待たねばなりません。 ここで多くの方々はこう聞かれるでしょう。「イエスの十字架の死に関する旧約聖書の預言はどうなんだ」。私もイザヤ書五三章にあるそのような預言を知っています。我々は聖書の預言には、二つの側面があることを知らねばなりません。一方はイエスの受難と死を預言しています。もう一方は、例えばイザヤ書九章、一一章、六〇章のように、人々がイエスを神の子として、王の王として受け入れた場合の栄光の統治を預言しています。例えば、 「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる義士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである」(イザヤ書九・六、七)。 これが王の王として、君の君としてのイエスが栄光の主であるという預言です。もう一方にはこう書いてあります。 「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ書五三・四、五)。 これが苦難のイエスの預言です。これは全く、十字架の預言です。それではいったい、なぜ、神は聖書の中で二つの側面をもった預言をされたのでしょうか。その訳は、神はその摂理の中で人間、すなわち堕落した人間を相手にしなければならなかったからです。そして堕落人間は、邪悪で信用できず、裏切る可能性があります。 ある意味では、人間の裏切る才能のゆえに神もサタンも人間を恐れています。神は絶対善でありますから立場を変えることはありません。サタンは絶対悪ですから、彼もまた、立場を変えることはありません。この点において神とサタンは類似しています。しかし、人間は善と悪の混じったものです。人間は神とサタンの間に立って、転換できる才能を備えています。それゆえに人間は予測できないのです。ある日、ある人が神に対する変わらない信仰を告白し、神に仕えることを誓ったとしても、次の日にはその同じ人が神を呪い、サタンと組んでサタンの奴隷になるかもしれません。 神は人間がメシヤを送る摂理にどのように反応するか分からなかったので、仕方なく相反する二つの結果を預言せざるを得ませんでした。二つの預言は人間の行為によってどちらともなり得たのでした。このように人間の信仰が、この二つの預言のどちらを成就させるかを決定する要素でした。 イエス様の場合にはイスラエル選民が信仰を示し、彼と一つになっていれば彼は受け入れられたでしょう。その結果、栄光の主の預言が完全に実現したでしょう。 ところが反対に、もし人々が不信仰でメシヤが来た時に拒んだとすれば、不可避的に受難のイエスの第二の預言が成就されたのです。そして歴史は、選民たちが後者の道をとったことを示しています。それゆえに、栄光の主の預言ではなく苦難の主の預言が実現したのでした。このようにして十字架とキリストの受難が歴史に現れたのでした。 イエスの時代に苦難のキリストの預言が実現したので、栄光の主の預言は全うされないまま残されました。そしてこれは、再臨の主の時に成就されるのです。 私は、聖書にはイエス様の公生涯以前の生活の記録が御生誕と少年時代の少しの説明を除いては、あまりないということを申し上げたいと思います。皆さんはどうしてか、お考えになったことがおありでしょうか。 三十年間というものイエス様は大変な迫害と辱めの中で生きてこられたのです。イエス様を悲しませ、苦しませる多くの出来事や環境があったのです。彼は本当に、社会の中でも、家庭の中でも誤解ばかりされてきました。誰も、ただの一人さえも彼を神の子として取り扱った人はいませんでした。彼は誰にでも与えられる通常の敬意さえ、与えられませんでした。彼の社会は彼をばかにしました。神のみ意はイエス様の生涯によって深く悲しめられました。皆さんに目立たないナザレの男であったイエス様の、青年時代の痛ましい、悲しい状況の一端をお話しすれば、皆さんはびっくりして肝をつぶすだけではなく、悲しみのために泣きだされるでしょう。 神はこのイエス・キリストの痛ましい、辱めの悲劇の現実を人間に知らせたくはありませんでした。イエスの死は彼の意図でもなく彼の失敗のゆえでもありませんでした。イエスの死は殺害であり、彼の肉体はサタンによってとられたのです。キリスト教の救いは十字架から来るのではなく、復活から来るのです。復活がなかったとすれば、キリスト教は何らの力もなかったでしょう。十字架そのものは、不信仰による犯罪なのです。しかしながら、復活のイエスは、新しい希望、新しい贖い、そして救いの新しい力をもたらしました。ですから、我々が復活のキリストを信じ、これと一つになれば我々に救いが来るのです。 どうか皆さんの祈りの中で真剣に、これらの事柄についての最終的な答えを求めてみてください。イエス・キリストか、神御自身に尋ねてみてください。もしイエス様が、生きて神の国を実現するという本来の目的を成就されていたなら、キリスト教は決して、今日のようなものであるはずがありません。イエス降臨の目的は世界の救済のためでした。ユダヤ民族は神の道具だったのです。しかし、救いは神の選民のみに与えられるものではなかったのです。イエスは、地上のすべての人々のための救い主だったのです。彼は全人類の救い主です。イエス様はその使命を完成されなかったので、再臨の約束をされたのです。 それでは、いつ終末が来るのか考えてみましょう。これは私たちにとって、とても重要なことです。聖書には、終わりの日には神は、羊とやぎとを分けると書いてあります。この二つの動物の違いは何でしょうか。羊は彼らの主人、羊飼いを見分けますが、やぎは飼い主に従いません。今日、我々の世界は二つの対立する陣営に分かれています。一方は民主世界であり、他方は共産世界です。我々の自由世界は「神はいる」と言います。我々は飼い主を受け入れています。共産世界は「神は存在しない」と言います。彼には自らの主人を否定しています。このように自由世界は羊によって象徴され、共産世界はやぎに象徴されます。これら二つの対立するイデオロギーの世界が形成されていく時に、我々は、世の終わりが来たことが分かります。 再臨主はどのように来られるのでしょうか。クリスチャンとしての我々の立場は、イエスの時代の長老や律法学者や祭司たちと全く同じです。当時の人々はエリヤとメシヤが天の雲に乗って来るのを待っていました。どうして人々はこう考えたのでしょうか。なぜ、彼らはこのような信仰をもったのでしょうか。 彼らは単に、ダニエル書七章一三節に記されている預言に従っていただけなのです。「わたしはまた夜の幻のうちにみていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた」。偉大なる預言者ダニエルのゆえにメシヤが天の雲に乗って来るということを期待するのは、イスラエルの人々にとって、もっともなことでした。クリスチャンたちは今日同じように再臨の主が天の雲に乗って来るのを待っています。 ヨハネは言いました「なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世に入ってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである」(ヨハネⅡ七節)。聖句によると、多くの人々がイエス・キリストが肉体で現れたのではないと言っていたそうです。それで、ヨハネは彼らを反キリストだと宣告したのです。しかし、旧約聖書の預言にある、天の雲に乗って来る神の子の来臨のことを忘れてはなりません。我々は、真理の全体を知らない限り、イエスの時の人々と同じように聖書の言葉の犠牲者となります。 それでは皆さんにお尋ねしますが、もし主が雲に乗ってではなく、肉体をもった人間として地上に来られたらどうなさいますか。さあ、どうでしょう。私は皆さんに再臨主は人間の子供として肉と骨をもって事実現れるということを言っているのです。皆さんはまず「文先生、あなたは異端者なのですか」とお尋ねしたいでしょう。 重要なのは、どちらの側に神がついているかということであり、神はいかにして、神の計画を成就されるのかということです。ある人間やその考えが異端と受け取られているかどうかということは、重要なことではありません。私が世界をどのように見ようが、皆さんが世界をどのように見ようが関係ありません。神がどのように世界を見られるのかということだけが問題となるのです。そして、神の目から見ると再臨の主に関して、またもや聖書の中に二つの側面のある預言を見つけることができます。黙示録一章七節は明確に雲に乗った再臨主の到来を預言しています。しかしながら、テサロニケ前書五章二節では「あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る」と書いてあります。それでは相反する二つの預言があることになります。我々はどうすればいいのでしょうか。皆さんは単に自分の都合の良いほうの預言を選ぶのでしょうか。 たぶん、主は天の雲に乗って大きな音をとどろかせながら現れるでしょう。そう預言は書いてありますから。しかし、一方では主は夜の盗人のように現れるかもしれません。もし主が雲に乗って来られるとすれば、盗人のように隠れてこの世に、入り込むことはもちろんできません。ものすごく大勢の人が雲による来臨の壮観に注目するでしょう。そのようなものがどうして我々の目から隠され得るのか私には分かりません。 それではいったい、何が真理なのでしょうか。我々は目の前に困難な問題を抱えています。何が真理なのか。終末の様相を見たなら、暗い室に入って祈れ、と聖書は教えています。誰が終末の時を知らせることができるのでしょうか。天使たちはその日を知りません。イエス様は、人の子でさえいつその日が到来するか分からないと言われました。ただ神のみが終末の時を知っていらっしゃるのです。ですから、私たちは神から答えを得るのです。私は皆さんが私の言うことを信じなければならない、などと言っているのではありません。私は私自身が真理であることを知っている事柄を公表しているにすぎません。しかし皆さんは、この真理が本物かどうか神に聞いて確かめなければなりません。 終わりの時には誰も信じてはいけないと聖書は言っています。私を信じてはいけません。そして皆さんの教会の長老をも信じてはいけません。牧師も有名な大衆伝道者をも信じてはいけません。天がとても近くなって、聖霊によって、高く持ち上げられれば、そしてもし、非常に熱心に祈れば神と語り合えるし、直接神から答えを得ることができます。 ニューオーリンズには、たくさんの牧師や英国教会牧師や多くの教会の長老たちがおります。彼らのうちのどれだけが真実に神の声に耳を傾けていることでしょうか。 我々が霊的な耳と霊的な目をもたなければ、我々のこの耳もあまり意味がなく、この目もあまり有用な目的に使えません。イエス様は言われました、「耳のある者は聞くがよい」(マタイ一一・一五)。そして弟子たちには「しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである」(マタイ一三・一六)と言われました。彼は肉体的感覚器官を指して言われたのではありません。 皆さんが霊的五官を通して、神のみ言に耳を傾けるとき、神の指令と導きを見いだすでしょう。しかし、天国の住民となることは、なまやさしいことではありません。外国人にとってアメリカ合衆国の国籍を得ることだけでも、とても難しいことです。我々がこの世の生活から天国の世界へ我々自身を移籍させることは、どんなにか難しいことでしょうか。しかし、我々はこのことを成し遂げることができます。 私たちは、アダムとエバがエデンの園で堕落したのちでも、彼らはまだ神と直接通じ合うことができたことを知っています。旧約と新約の時代のあとで神が何らかの理由で、つんぼとおしになったのでしょうか。いいえ、神は生きて働かれ、今日我々は、神と直接話すことができます。神は皆さんに話しかけることができますし、そうすれば皆さんは神と直接対面することができます。 使徒行伝では、終わりの日には「あなたがたのむすこ娘は予言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう」(使徒行伝二・一七)。我々は真理を知らなければなりません。我々はいかにして天国の市民権を得るかを知らなければなりません。我々は、いつ主が来られるのか、そしてどのようにして来臨されるのかを知らねばなりません。 我々の生活の中で、はっきりした導きがある場合でさえ、ゴールに到達できずに失敗する可能性があります。しかし、今日我々には何の導きもありません。そして、確信して従うことのできる何の命令もありません。 聖書を見て、いかに再臨の主が来られるかを明らかにしましょう。ルカ福音書一七章二〇、二一節でイエス様はパリサイ人に、天国はどのようにして来るのか尋ねられました。彼は答えて言われました。「神の国は見られるかたちで来るものではない……神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。それから弟子たちに言われました。「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時がくるであろう」。しかし、もし主が雲に乗って来られるのであれば、我々はどうしてそれを見ることができないのでしょうか。黙示録一章七節では「すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう」とあります。 これは何を意味するのでしょうか。なぜ皆さんは彼を見ることができないのですか。我々がその日を見逃すことがあるとすれば、主がある方角から来ると思って待ち望んでいて、ちょうどイエスの時のエリヤがそうであったように、違った方角から全く予期しなかったふうに現れるという場合のみです。これが皆さんが再臨の時に主を見ることができないかもしれないという理由です。 もう一つ不可能な預言がイエス・キリスト御自身によって与えられました。彼は再臨の主について宣言されました。「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」(ルカ一七・二五)。もしキリストが再臨の時に、天の雲の栄光の内に現れるなら、だれがいったい彼を否定するでしょうか。誰も彼に苦難と痛みを与えたりしないでしょう。 この預言が成就する唯一の場合は、人々が彼が雲に乗って来ることを期待していて、主が突然に肉体をもった貧しい人間として現れた時です。今日のキリスト教の指導者たちがイエスの時の祭司や律法学者や、長老たちと同じ誤りを犯すとは思いませんか。そうです。彼らはたぶん主を否み、拒むでしょう。なぜなら、彼の現れ方はキリスト教指導者たちにとって、とても受け入れ難いものだからです。このようにして、聖書は成就されるでしょう。彼はまず、苦しみを受け、この世代によって捨てられるでしょう。 イエス様はかつて、もっとも大切な疑問を述べられました。「人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカ一八・八)。キリスト教の教えが、地球上をあまねく覆っている今日、この疑問は我々とどんなかかわりがあるでしょうか。なるほど、我々は信仰をもっていますが、それは主が天の雲に乗って来るという期待をもった誤った信仰だからかもしれません。もし、人の子が肉体をもって現れても、彼を迎えることのできる信仰をもった人は地上にはほとんどおりません。もし、このとおりでないとすれば、聖書は成就されません。イエス様は、信仰者が見られないと言ったのではなく、信仰が見られないと言われたことに注目してください。 イエス様は、またこのようにも言われました。 「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』(マタイ七・二二、二三)。この預言は、もし彼の再臨が天の雲に乗って来るのであれば実現されるはずはありません。 再臨の時に人々は「主よ、主よ」と叫ぶことでしょう。それと同時に、再臨の主が自分たちの期待とは違ったふうに現れたなら、その再臨の主自身を十字架につけようとしているかもしれません。そうすれば、彼らは誰よりも悪者になります。 これが聖書です。本当に目をもっている人々は見るでしょう。本当に耳をもっている人々は聞くでしょう。歴史を通して神は、成就される前に預言者を送っています。彼は御自身の計画について人々に警告を与えます。どれだけ今日のキリスト教信仰が篤く、何億人の人々がキリスト教会に属していようと、いったん再臨の主を――彼がどんな格好をしていようと――受け入れることができなければ、彼らの世界は没落の運命にあります。これが、イスラエルの人々が他の面では信義に篤いのにもかかわらず、イエス・キリストを否んだがゆえに味わった悲劇です。 ですから我々もまた、新しい言葉を受け入れる用意が必要です。イエス・キリストはモーセの律法を繰り返すために来られたのではありませんでした。ちょうど、イエス様が新しい真理で御自身を証されたように、再臨の主も今日における新しい真理によって証されるでしょう。その真理は、ただ単に新約聖書を繰り返すことではありません。 主は天の雲の中に奇跡的に現れるのではありません。なぜでしょう。それは、神はその子を、一度失われたものを復帰するために送られるからです。人類始祖は地上の神の国を失いました。サタンが世界を侵略し、エバを横取りし、そしてエバはアダムを堕落させ、神をたった一人、人間から離れた状態にしました。それゆえに、すべての人類は、悪の拘束のもとに苦しみました。神は、新しい歴史を始めるために新たな人類始祖を送らねばなりません。 神のみ業は復帰であり、いつも最初に失った経路と反対の経路に進みます。つまり、神は最初に、神を裏切る代わりに、神と一体となり得る完成したアダムを見つける必要があるのです。そしてアダムはエバの立場に当たる相対者を復帰しなければなりません。完成したアダムと、完成したエバが一体となればサタンを打ち負かし、これを世界から追放することができるでしょう。このようにして、最初の正当な人類の祖先が新しい歴史を始めるのです。 神の最初はアルファでした。これが悪に侵入されたので、神はオメガにおいて世界を復帰するのです。イエス様はコリント前書一五章四五節で第二のアダムについて言及されています。神はアダムとエバが完成した時に、祝福して結婚させてやりたかったのです。天の夫婦として、彼らは神の子供を生むことができたはずです。この生活はエデンの園では実現されませんでした。だからこそ、イエス様がアダムの位置に来られたのです。神は真の花嫁を見つけてイエスと結婚させたかったのです。人類の真の父母は、イエスの時代に出発しているべきでした。そして世界の悪の歴史を克服し、これを転換させることができたはずでした。この希望がイエスによって全うされなかったので、彼が部分的にのみ果たした使命を完全に果たすために、二〇〇〇年を経て地上に再び来られるのです。その時には、地上に天国が築かれるでしょう。 善の新しい歴史はこのようにして始まります。神の真理と人類の真の父母をもってして、神の歴史の新たなアルファが始まり、永遠に続くのです。神の理想は最初の神中心の家庭を地上に復帰することです。このひな型を中心にして、他のすべての人類はこの家庭につながることができます。我々はそのごとくになるでしょうし、最初の天の家庭は広がって繁殖し、氏族的、国家的、そして世界的な神の王国が地上に出来上がるのです。 神の国が文字どおり、目に見える形で出来上がるのです。イエス様はペテロに天国へ入る鍵を預けて言われました。「あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」(マタイ一六・一九)。ですから、地上における完成が天国での成就よりも先に来なければなりません。天国はまず地上で完成されるのです。 現在では霊界においては、媒介地点となる所だけが開かれています。そこは「パラダイス」と呼ばれています。イエス様と弟子たちはパラダイスにいますが、彼らでさえ、天国が地上に完成されるまでは、天国に入ることは実際にはできないのです。その理由の一つは、天国は個々人のために備準されているのではなく、父と母と神の子供たちによる神の家庭のために備準されているのです。 皆さん、私の言わんとするところはとても明確で、簡単であると私は思います。神はアダムから善の歴史を始めようとされました。しかし、アダムは堕落しました。神は歴史を復帰しようとされ、イエス・キリストより再出発しようとされました。しかし、当時の人々は信仰が足りず、イエス様に機会を与えませんでした。ですから、再臨の主に関する約束は成就されるでしょう。彼は肉体をもって人間の子供として、地上に必ず来ます。彼は第三のアダムとして来られます。彼は花嫁をめとり、黙示録に「小羊の婚宴」として書かれている天の結婚式という最も喜ばしい日をもたらすでしょう。彼は真の父母としての役目を成就するでしょう。神の本当の血統が打ち立てられ、そうして地上天国がそのごとくに完成され得るのです。 今日のキリスト教が明らかな危機にあることは疑う余地がありません。これは、確立した宗教団体が、神の子を退けたあのイエスの時代と類似した危機です。我々の時代のこの危機を我々は認識しています。しかしそれと同時に、もやを通して、新しい希望に輝く一日をかいま見ることができます。 終末は単にクリスチャンだけではなく、世界中の人々に差し迫っています。神の新たな歴史は、主の到来とともに始まります。彼を見、かつ受け入れる人は幸いな人です。再臨の主を認め、迎え、そして受け入れることがキリスト教の希望です。機会は我々すべての前にあります。すべての人間の人生の中で最も偉大な機会が、我々の戸をたたいています。どうか謙虚になって、偉大なる新しい希望に対して自分自身を開きましょう。現代はかつてなかったような霊的な覚醒の時です。皆さんは、自分の目と耳を開き真理を悟ってほしいと思います。私の希望はこれです。つまり皆さんとこの福音を分かち合うことによって、再臨の主の栄光に備えて我々が一つになることです。歴史の神を見ましょう。摂理の神を理解しましょう。そして我々の生涯の中で、生きている神を抱き締めましょう。 きょうはこの市での私の最後の日です。皆さんがこれらの事柄を徹底的に調べられることを望みます。ニューオーリンズの私たちの教会に来て学ぶ機会や、修練会に出て統一原理の真理を探究してみる機会もあります。私は皆さんに何か新しいことを言うために用意してきたのでなければ、ここに来なかったでしょう。私は新しい真理を明らかにしています。このことだけを取ってみても、この話を深く掘り下げて研究することを要求するだけの理由となります。 今夜、最初に申し上げたとおり、皆さんも共にこれらの考えを真剣に考え、かつ神に祈ってください。神は答えてくださるでしょう。どうもありがとうございました。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.08.02
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