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Web説教「問題解決の道 ~神の二性性相~」【世界平和統一家庭連合】家庭連合WEB教会 礼拝説教チャンネル登録者数 6050人家庭連合Web教会 礼拝説教題目:「問題解決の道 ~神の二性性相~」 説教者:柴沼邦彦神様はすべての人たちの平和を願い、幸せを願っておられます。宗派の分裂や民族の闘争など、世界で起こっている困難は、結局、神様がどのようなかたであり、どのような願いを持っておられるかを知らなかったために解決の道がありませんでした。神様を知ることがすべての問題解決のカギです。今回は、神様とはどのようなおかたで、どのような願いを抱いておられるのかを見ていきたいと思います。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.31
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所望の天国を所望すべき者たち1956年12月16日(日) 本部教会 祈祷(Ⅰ) 愛のお父様、一週間、とるに足らない者たちを抱いて心配なさったお父様、一日の生活が私たちの勝手にならないよう導いて下さい。私たちが告げるすべてを主管して下さった恵みを思う時、お父様、本当に感謝しております。 今日、幼い姿がお父様の前へ訪ねてきました。私たちの体と心が、東方博士三人が捧げた、黄金と乳香と没薬のような祭物になるべきであることをわかっております。まず、私の心と体を捧げるよう許諾して下さい。聖壇の前で憎らしい姿にならないよう許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 私たちを呼ばれるため苦労をなさったお父様は、6千年の悲しい過程を経て来られたということがわかります。 私たち一人一人が、大きい使命を持って、人類の前に先立てられたとすると、私たちのすべてが天の全信仰を代身して、喜びを現わさなければならないと思います。 選ばれた善の目的が何であるかを、足りない者たちが立てられたということを思えば思うほど、私たちの足りなさをお父様の前に告げざるをえません。私たちのすべての意識や観念、主義主張を全部出しておいてお父様の前にひれ伏しましたので、お父様、導いて下さい。 死亡の波が時間を超越して動いていますけれど、この中で、子女たちを探すため苦労されてこられたお父様、お父様が私たちに恵みを与えて下さったのは、私たちが偉くてではないということを知っております。 お父様の悲しみは、キリストがこの地に再び来られる日まで消えないということも知っております。 お父様、すべてを主管して下さい。この集会が、ただ人間同志の集会にならないよう許諾して下さい。6千年の歴史を抱えて、お父様の悲しい心情を慰めることのできる姿になるように許諾して下さい。私たちが一つの祭物として、多くの聖徒たちと共に喜びの敬拝を捧げることができるように、三位神が私たちの体と心を主管して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、この3千万民族を哀れんで下さい。この民族を愛するため、長い歴史過程を通して苦労なさったことを知る者でございます。御旨のため私たちを選ばれる時には、人の知らない苦労があると思います。 祭壇を築いておいて、お父様と深い因縁を結びつつ、民族を代身して訴えるあなたの息子・娘があるということを知り、彼らに感謝せざるを得ません。彼らの前に、新しい摂理の歴史を、衝動の歴史を見せて下さい。韓民族を代身として、神様の前に責任を持った革命家として立たせて下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 民族の恨みが、人類の恨みが天に徹しているということを知っております。この天の悲しみを代身する、祭物になるものがないことに対して天が嘆いているということをわかりますので、今日ここに集まった子女たちがその恨みを解くためにお父様の前で祈る息子・娘になるよう許諾して下さい。サタンの前にお父様の代わりとして出て戦うことができる息子・娘になるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 心と体が、一つの御旨をおいて和動して、お父様の恩賜を讃えることができるように、解放の恩賜に感謝し敬拝を捧げることができるこの時間になるように許諾して下さることを、私のお父様、切にお願い申し上げます。 新しい御言の烽火をあげて各地方から戦っている息子・娘がありますので、彼らが泊まる所ごとに、お父様、共にして下さい。頼るものはこの地上に何もありません。ひたすら天から許された恩賜しかありません。多くの怨讐たちからからかわれながら戦うべき宇宙的な運命の路程に入っていますので、お父様、力をつけて下さい。 今日も同じ恩賜で、ここに集まった者たちの本心に、あふれる天の恩賜を与えて下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 御旨を代身して、寂しい立場に立って、お父様の前に憂いの祈りを捧げている息子・娘もいますので、お父様、彼らの心霊を守って下さい。 命令の御言と、許諾されるところの恩賜を与えて下さることを切にお願い致します。この時間、ここに臨在して下さい。主の御名によってお祈り致しました。アーメン。 祈祷(Ⅱ) 時代を、世紀を経て、終末の時まで苦労されつつ摂理の道を来られたお父様、そのお父様の摂理の御旨が、この地上に早く成されることを望む私たちですので、お父様のその苦労を地上で責任をもって出られる私たちになるよう許諾して下さい。 お父様の聖壇を中心として、天的な使命を受けついて、地上でイエス様の代わりにサタンと戦うことができる、雄々しい息子・娘になるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 今日に与えられた御言を奉読しました。イエスのために、歴史的な使命をもって地上にきた洗礼ヨハネが、イエスの前に証しの使命は果たしましたが、侍るべきだった天的な使命は全うできなかったことを知りました。 ひれ伏したあなたの息子・娘たち、自分自身が反省できるよう許諾して下さい。自分をお父様の前で明らかにすることができるよう許諾して下さい。自分を大衆の前に立たせて、世紀末的な神様の使命を代身して苦労する姿となるように、天が要求される天的な使命と呼ばれる御言に従順する忠臣になるように許諾して下さい。 御旨の時は限られているのに、人間たちははがゆくも無限に所望しており、今日の現時点で生死が判決されるということを知らない哀れな人たちが多いのです。お父様、初臨の当時、洗礼ヨハネが現われて証する時に残されたものを、今日ここに集まった子女たちは忘れないように許諾して下さい。 私たちの心を開いて、天の内的な祭壇を築くように導いて下さり、私たちの体をサタンに対する勝利的な祭物としてお父様の前に捧げることができる息子、娘と立てて下さい。天は自信のある勇ましい勇士を願われ、卑屈に怨讐の前で膝を屈する者は願われないということを知っておりますので、ここに集まったあなたの息子・娘たち、御旨のためなら生命も捨てることができる天の勇士になるよう許諾して下さい。そのような勇士が必要な時であることを知るものでございます。 天倫の御旨を知った洗礼ヨハネと、彼についてきた群れが、天の内的心情に燃え上がって、腐敗した全ユダヤ教に対抗して新しい事実を展開させたように、今日私たちを通して,この民族の前に哀れみの愛の光を現わして下さい。どうか、お父様の摂理の御手を引き取らないで下さい。 この民族のため築いている数多くの祭壇をお父様、祝福して下さい。立てられた教団と共に防腐剤のような祭物になるため、隠れの祭壇を築く息子、娘たちが所々に多くなるよう許諾して下さい。 多くの人の中から義の群れを呼んで下さったお父様、行かざるを得なくなって、ついてきたら、大変な道であることがわかってきました。開拓者の闘志で闘いの一路を開拓し、天の闘志として出て行くべきであることを知っておりますので、お父様、あなたの御前にひれ伏している幼い息子・娘たちを抱いて下さい。 彼らの行く道がお父様の御旨の道であるならば、それが茨の道であれ、険しい山であれ、体が引き裂かれ、傷ができても、ひたすら御旨だけを中心としてすべてを開拓していけるように導いて下さい。彼らの心にお父様の勧告と恩賜だけを現わして下さい。 今は多くの御言が必要な時ではなく、心を動かして天情に到達すべき時であり、心が動じてお父様の御旨を中心として全食口が和動すべき時でありますので、お父様、ここにひれ伏したあなたの子女たちを、自ら内外を備えてお父様の心情を代身した本然の人たちに立てて下さることを切にお願い申し上げます。 お父様、寂しこをついてくる哀れな群れを導いて下さい。民族の足りなさを許して下さり、お父様から担われた使命を果たしきれないことを許して下さい。特別に集まったお父様の息子・娘を励まして下さり、彼らを立てられましたので、どうか、戦いの一線で疲れ果てることがないように守って下さい。 お父様、彼らが御旨のため命をかけて戦いに戦って、勝利の一日をとるまで変わらない信仰を下さい。変わらない一つの中心を備えて、敵地に投げられた爆弾のように出て行って、お父様の御旨の勝利のため、怨讐たちの前で爆発できるお父様の息子・娘になるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 今、御言をもって立ち上がりましたので、お父様、共にして下さり、一つの心を中心として動かれるよう許諾して下さい。天の御旨を心配しつつ、自ら聖別されたものになって、お父様の前にすべてを出しておくことのできる私たちになるよう許諾して下さい。お父様を受け入れることのできない人性的な要素と人性的な主義・観念が、未だに生活の中で生きているとするならば、お父様、能力で役事して下さり、再創造の御手で役事して下さい。 お父様の前で自分を告げて、謙虚な祭物としてひれ伏すことができる喜びの時間になるよう許諾して下さることを切にお願いしつつ、すべてを委ねましたので、御意通りに主管して下さい。主の御名によってお祈り致しました。アーメン。 <御言> 今日の御言は「所望の天国を所望すべき者たち」です。 神様の創造理想からみると、神様は無形世界の天国も所望されましたが、あなたが臨在できる実体世界での具体的な天国を願われて万物を創造しました。これは皆さんもよくわかっているところです。 つまり神様は、天上天国と地上天国が、神様とアダム、エバを中心として成されることによって、霊的な天国と実体的な天国の栄光を見るため被造世界を創造されたわけです。 神様の創造理想と人間堕落の結果 ところが、人間の過ち、即ち人間の堕落によって、神様がそんなにも願われた天上天国と地上天国は全く消えてしまいました。このような天上天国や地上天国も神様御自身のために造ったわけではありません。人間のために造ったわけです。 アダムとエバを中心として地上に天国をつくって、地上で天国生活をした人間たちが永遠な天国世界に入って生きるよう、地上天国と天上天国を造ることが神様の天地創造の目的でした。ところが、アダムとエバの堕落によって、霊的な天国と実体的な地上天国はなくなってしまって、天上世界と地上世界はサタンが自由自在に神様に対して讒訴できる悲しみの世界になってしまいました。 堕落以後、地上は勿論であり、天上までサタンの活動範囲になりました。それゆえ、サタンは霊肉界の人間たちを讒訴してきました。サタンがこのような権限をもって動かしてきたということを、今日の信徒たちはよくわかっていないのです。 アダムとエバを中心として、神様の栄光の創造理想を歌いつつ喜ぶべき被造世界が、人間の過ちによってサタンにみんな引き渡されるようになったということは、創造されたお父様に悲しみを抱かせる結果になったということです。これを皆さんは骨に徹するほど感じなければなりません。 神様は、このように汚れた地を再び回復されようと、残った天使たちを通して人間と関係を結ぶ救援摂理をやっておられます。堕落することによって尊い神様を裏切った立場に立っている人間たち、万物にも比較できないほど落ちてしまった人間たちを、神様は再び会うために救援摂理をやってこられるわけです。サタンが支配し、サタンが讒訴する人間を神様が主管されるため、橋をかけて役事してこられたことが、旧約時代、新約時代を経て今まで続いています。 旧約時代の摂理 旧約時代は、主に神様御自身が歴史され、神様の栄光で人間に会うべき時代でした。ところが、その摂理が完遂し得なかったので、悲しみを抱え、第二次で天使たちを通して人間たちに会うことのできる道を開拓してきたのが旧約時代の摂理歴史であります。 旧約時代には、僕のような立場の使命者として立てられたノアとアバラハムを通して神様の御旨を伝えてきました。暗闇の地上の万民を、お父様が相対できる立場へ引き上げるため、アブラハム一族を選ばれイスラエル民族を立てました。それで、イスラエル民族を通して人間たちが次第に神様へ出ていける道を開拓してきたわけです。 そうして天は、天使たちを通して役事されることのできる一つの基準を立てました。それから、アダムとエバに対する神様の御旨を完成したという基準を備えることによって、お父様に直接会うことのできる勝利的な土台を造成するため、イエスが来るまで4千年間苦労されたわけです。皆さんはこれを忘れてはいけません。 僕が相対する立場に置かれている人間を、子が相対する立場に高めてくれるために立てられた方がイエス様であり、下さった福音が新約です。それゆえに、イエス以降の人間たちは、イエス様を通して神様に会うことのできる立場になったわけです。神様の愛を直接受けるべき人間が、堕落によって神様の愛を直接受けなかった故に、6千年の歴史を経ながら今までも私たちが所望しているのは、子の愛を受けた後、神様の愛を受けることができる立場になることです。 子の愛を受けて創造理想を成すことによって、愛を中心として喜ばれたかった神様と同苦同楽できる実体を備えた息子・娘にならないといけないわけです。霊的だけではなく、この体も神様が直接誇り得るところまでいくべきです。このような使命は、人間が堕落した故、私たちに残されたということを皆さんは忘れてはいけません。 イエスの使命と聖霊の役割 イエス様はこの地に来られて、人間たちを、神様の愛を受けることができる立場に立たせるべきでした。それも霊肉共に、イエスのような子の立場で愛を受けるようにしなければならなかったわけです。このような使命を持ってイエス様はこの地に来られたが、人間の不信によってその使命を完遂し得なかったのです。霊的にだけ、私たちが息子、娘であるといえる、そのようなところまで開拓されたわけです。 それでは、神様の復帰摂理の最後の目的は何か。この地上で霊肉を備えた実体として存在する人たちが、神様から愛されながら生きることのできる基準を完成することです。 この目的を完成するため、イエス以来2千年間役事されている方が聖霊です。聖霊が、イエス様が亡くなられてから今まで役事しておられますが、神様の創造理想の御旨を完遂する摂理的な土台を地上に立てて役事されることではなく、私たちが彼を通して天の前へ出ていけるよう橋の役割をする役事をされているわけです。皆さんはそれをよくわかるべきです。 それでは、地上で天国生活をしつつ生きることのできる人はいかなる人なのか? 無限な霊界、天上天国で暮らせる霊人体はいかなる霊人体なのか? 地上でイエスと聖霊の愛を受け、それを越えて直接お父様の愛を受けながら、お父様と共に暮しつつ愛の理想を中心として和動の勝利者になった人だけが住めるところが地上天国であり、永遠なる天上天国であるわけです。 天国民族の資格 神様の創造基準からみると、そのような所が所望の天国であるわけです。これを私たちが認めるなら、今日を生きている皆さん自体は、どの圏内で神様の創造目的であった所望の天国を眺めている姿であるかを考えてみるべきです。 黙示録14章1節に「小羊がシオンの山の上に立っていて、またそれと共に14万4千人がいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった」という御言があります。 今日世界にいるクリスチャンたちが所望する天の恩賜は何を標準としているかというと、新郎新婦の恩賜を標準としています。これだけが全部であるように思っています。しかしながら、「それと共に14万4千人がいて、その額には小羊の名と、その父の名とがしるしてあった」といったように、父の名が問題であります。 今日の皆さんは、新郎であるイエスを信じ新婦の資格を備えた後には、イエスの愛にだけ留めるわけではなく、そのイエスの愛を土台にして、6千年間直接愛することができなかった神様の愛を、直接愛されるその愛を受けるところまで出ていかねばなりません。 これが神様の摂理の全体目的であり、イエス・キリストを送って2千年間苦労されてきた目的であったのにもかかわらず、今日の聖徒たちはこれを知らないのです。 では、今日の私たちは、いつ新郎新婦の立場を越えて、勝利した永遠な実存体として、地上から天上まで、即ち、永生の天国に行ってまでお父様の愛を中心として和動できる実体になるのか。皆さんはこのような愛の因縁を持たないといけません。これがイエス・キリストの目的であり、神様が摂理される目的であります。 皆さんは今まで、新郎新婦の愛を所望し信じてきました。今は、イエス・キリストの手を握ってお父様の前に出て、「お父様、願われた6千年の御旨を、私たちが成し遂げたと言う立場になりたいのです。神様の創造目的がこれであるということを知っておりますので、お父様、愛して下さい!」と言える皆さんにならねばなりません。このような人間たちを霊界で探すのではなく、実体世界で探す時まで、神様の摂理は終わらないということを皆さんはわからないといけません。 イエス・キリストがこの地に来られて、霊的な息子・娘の愛の権限を獲得できる基台を造成されたので、地上の人間たちがイエス・キリストと関係を結んで一つになり、その愛の権限を受け継ぐとすると、霊界で讒訴していたサタンや、地上で人間の罪を条件として讒訴していたサタンが、讒訴できなくなるのです。 完全救援のための苦労 神様が造られたアダムとエバをサタンが奪ってしまったが、霊だけではなく肉までも奪われた故、天の側ではこの霊と肉を合わせたアダムとエバをサタンからとり戻してきて、神様が直接愛することのできる道を開拓するため、今日の私たち聖徒を立てられたということを、皆さんは忘れていけません。 イエス・キリストは、このような驚くべき宇宙の創造的な一つの中心を標準してこの地上に来られました。では、イエス・キリストは最後の戦いの標準をどこにおいていたか? それは、イエスに従った聖徒たちが、神様の霊的な愛だけを受けたので、彼らが霊肉共に神様の愛を受けるようになることでした。霊肉共に神様の受けることが所望であるので、霊的な救援摂理だけをなさったイエス様は、天にいって完全な栄光が享有できないのです。天にいっても地上の人間たちのため祈らねばならないということです。 このように、イエス・キリストの所望が今まで地上で完全に成されなかったので、イエスを中心として12使徒、楽園にいる数多い霊人たちが、この一つの所望を標準として総動員されています。 今日、終末におかれている私たちには、摂理路程で協助した天使たちの苦労の実績が残っています。その他、数多い使徒たちの苦労の実績も残っています。このような、歴史的な苦労の全実績と条件を、今日の私たちが責任を持たなければなりません。過去の神様の摂理の御旨を代身して、苦労し協助した千々万聖徒たちとイエス、霊界にいるすべての霊人たちの怨みも私たちが解いてあげなければなりません。 終末の私たちは、過去の歴史に代わって神様の前に出て行く時、イエス・キリストから、聖霊から認められなければなりません。そして、イエスと聖霊から認められた段階を経た後、皆さんが神様の前に出ていけるかどうかを三位神が決定するようになります。このような段階まで歴史しているのが新約摂理であるということを、皆さんはわからなければなりません。 認定段階、決定段階、判定段階 ここでの認定段階とは何かというと、結婚式前の婚約段階であると言えます。決定段階とは何かというと、私たちが新婦として聖礼式に出られる姿格を備える段階であると言えます。では、最後の段階は何か? これは、判定段階です。この段階は、神様が人間に対して、「これは私の愛する、私と永遠に同苦同楽できる、創造理想で所望した永遠不変の実体として神様から愛される存在」であると立たせて、神様自ら手を上げて万物の前に頒布する一日を持つようになる段階です。これが、つまり判定の段階です。 神様の6千年間の摂理の中でも、未だに宇宙的な判定の日はなかったわけです。その一日を標準して与えられるものが審判です。 皆さんは、このような判定の門を経ながら、神様がアダムに、「万物を主管せよ」と祝福された、その祝福を受け継ぐべきです。そうして、天の人らしく出て、「お父様、愛して下さい。キリストの所望の御旨を、聖霊と神様が願われる御旨を私が知りましたので、お父様、祝福して下さい」と言える皆さんにならねばなりません。このような人物が終末に現われないといけないわけです。 そのような人を立てて判定した後こそ、全被造万物も、私たちを神様の実子として仕えるべきであるということがわかるようになります。神様と実子の関係が結ばれるとサタンは屈伏します。 このような摂理歴史を前にしている皆さんは、皆さん自体を分別してどのような位置に立つべきであるかというのが問題です。まず、イエス様から認められた後、聖霊から認められる立場に立たなければなりません。これを摂理歴史から見ると、認定段階は旧約時代、決定段階は新約時代、判定段階は再臨時代です。 今日まで歴史は、いろんな過程を経て縦的に流れています。ところが、縦的に流れている歴史が横的に展開される時がきます。6千年間の認定的な摂理、決定的な摂理を経て、判定的な摂理を前にしている私たちは、縦的に流れてきた歴史と、世紀末的な横的歴史を経て行かなければなりません。 これは何の意味か。神様の歴史はサタンとの戦いの歴史でした。6千年間、そんなにサタンと戦ってきたが、今まで判決が出ていません。数多い先知先烈がきて苦労しましたが、地上で神様が要求される御旨をなすことができなかったわけです、このように、先知先烈たちが残した御旨を地上で「完遂した」と言える日を皆さんが迎えるべきです。終末である今日には、皆さんのわからない多くの変な現象が起こります。「私はエリヤだ」と言う人も出ます。そのような時がきます。「私はエリヤ、私はモーセ、私はパウロ」という人、あるいは、サムエルだという人も出るはずです。このような現象がなぜ起こるかというと、蕩減復帰の原理があるからです。即ち、彼らが残した使命を蕩減復帰しなければならないからです。 彼らが蕩減復帰の過程で、神様の摂理の御旨を中心としてサタンと戦ったが、勝利の基準を立てることができませんでした。それゆえ、彼らの使命が後代まで延長されてきているわけです。故に、彼らの使命を受けた人たちが現われるのだが、使命を代わりに受けたことを知らないで、「私がパウロだ、私がエリヤだ」と言うのです。 終末におかれている私たちがわかるべきことは、6千年間の認定的な摂理と決定的な摂理、そして判定的な摂理、これ全部を自分にかけておいて、霊肉が一つになった実体として通過しなければならないということです。そうできてこそ、歴史過程に徹したサタンの讒訴条件にからも免れることができます。そうしてこそ天の前に出られるわけです。 すべての復帰の段階を経るためには 終末の聖徒たちは心を大きくしなければなりません。天の無限な世界、私たちの理想として創造した永遠な天国の理想を、今日の地上の人間たちが探さないといけないわけです。霊界にいるイエス・キリストを通して探すのではなく、地上の人間を通して探すべきであるということをわからなければなりません。 イエスと聖霊は天上におられますが実体がないので、その天国理想を地上で成すことができないわけです。それゆえ、実体を持った神様の息子・娘たちが、この地上で永遠なる天国理念を成し遂げるべきです。6千年間の歴史過程を経てきながら、サタンから讒訴された、そのすべての条件からも免れなければなりません。 アブラハムが三つの祭物、鳩と羊と雌牛を捧げる時、羊と雌牛は二つに裂いたけれども、鳩だけは裂かなかったことによって、天がとることができなかったわけです。皆さんは、このようなことを繰り返してはいけません。 皆さんは、最後の聖別の門を通過しなければなりません。自分自身の罪、即ち、自犯罪、遺伝罪、血統罪、歴史的なあらゆる罪悪までも聖別でき、踏んで上がるべきです。このような人にならないと、「万物を主管せよ」と言われた神様の御旨を成就しえる息子・娘になれないわけです。 皆さんは蕩減復帰歴史をよく知っていると思います。今日の皆さんは個体的な存在ではありません。神様が皆さん各個人を愛されますが、その愛は皆さん一人のための愛ではありません。6千年間の復帰摂理の過程の中で苦労された先祖たちの結実として与える愛なのです。 この終末に皆さんが、神様が自分を愛するという声あるいは命令を受けた時、それが自分一人に留まる愛だと思ったら、それは大変な誤解です。皆さんがその愛を受けるまでは6千年がかかったわけです。ゆえに、その愛は歴史的な愛であり、6千年歴史の結実のための愛なのです。皆さんはそれをわからなければなりません。 人間の宇宙的な価値 それゆえ、その存在は神様の品性に似て、歴史的な摂理の御旨の前に残される愛の性品を持たなければなりません。このようなことを標準として神様は、闘争の摂理歴史を展開して来られたわけです。 イエス・キリストが、4千年復帰摂理歴史が過ぎた後、一つの愛の結実体として現われるようになった時、多くの宗教と種族を統合して結実させる一つの実体で、天が自分を立てたということがわかりました。それゆえ、イエス様は、ユダヤ人に福音を伝える時も、自分の主張を伝えませんでした。イエス様が主張した福音は、4千年歴史を経てきながら苦労した数多い先知先烈たちを代身して、実体として主張したものです。 そしてイエス様は、福音を瞬間的な立場で伝えませんでした。イエス様は、その当時の多くの人たちが神様から愛されることは勿論であり、永遠な未来の人たちも神様の愛を受けることができる福音を述べ伝えようとされたわけです。それゆえ、人間たちが永遠に神様の摂理の御旨を受け継いで行くとするならば、そのすべてはイエス・キリスト一人の方によって始まったわけです。 皆さんの動きは天地を代身した動きです。皆さんが神様の真の子になるのは、イエスと聖霊の所望であり、天上の千々万聖徒たちの所望です。彼らは、真の息子・娘が地上に出て、一つの勝利の基準を立ててくれることを願っています。さらに、そのような基準を立てた、神様の実子、真の実体が現われることを願っています。このようなことを私たちは悟って、自分自身を大事に思わなければなりません。そのような観点から皆さんは、イエス・キリストが、「すべてを得たとしても、あなたの生命を失うと、何の益があるか」と言われたことをわかるべきです。 信仰をしているというクリスチャンたち、信じているという皆さん、皆さんはどれほどこのような宇宙的な価値を感じてみましたか。皆さん自身が、変わらない神様の子であるということに対してどれほど認識しているかということです。こういう意味から、イエス・キリストが、「私は神の子である」と叫んだは、今日のクリスチャンが見習うべき一つの標語です。歴史の終末期である今日、自分を立てて「私は変わらない天の息子です」と言える存在、天の前でもサタンの前でも、どんな人の前でも、変わることのない神様の息子だと、娘だと言える、そのような存在をイエスは探しておられます。そのような存在をイエスは要求しておられるわけです。 「私は神様の子です!」 皆さんは今までの信仰生活の中で、生命の標準を信仰的に立てようとしました。ところが天は、歴史路程で宇宙的な使命に代わって戦える人、「神様の子です」と堂々と言える人を探しているわけです。自信をもって誓って神様の前に堂々と出られる息子・娘を要求しているわけです。 無分別なサタンの讒訴条件があっても卑屈にならず、天のいかなる天使が来て追い出そうとしても防ぐことができ、イエスと聖霊が来て押し出そうとしても十分に防ぐことができる人を探しています。 イエス・キリストは4千年歴史の代身として来て、十字架を背負って死ぬその寸前まで、「私は神の子である」という変わらない心を持ちました。死の前で、天が自分を否認する時も、イエス様は4千年の復帰歴史を切実に感じていたので、変わりませんでした。 神様がつくられた全被造物の中で、神様の子、霊肉を持った神様の子女はその時までなかったのです。 イエス様がこの世のいろんな試練を乗り越えることができた一つの基準は何であったかというと、自分は神様から愛される息子であるという認識でした。この認識を持ってイエス様は、いかなる苦難も乗り越えつつ堂々と戦ってきたわけです。 このような所望と抱負を持ってこの地に来られたイエス・キリストが、この所望と抱負を人間世界で実践すべきだったイエス・キリストがどうなりましたか? 思いもしなかった十字架は何でしたか? 皆さんがもし、イエス・キリストの心情に共鳴できる立場で、いくら地を叩き万物を呪っても、彼の悲しみは解けないと思います。 神様がイエスを捨てた理由と変わらなかったイエス 長い歴史を経てきながら、人間が神様の心情を蹂躙し裏切ったので、蕩減復帰によってイエスが人間の代わりとして神様から捨てられた立場におかれたわけです。 イエスが、「お父様、どうして私をお捨てになりますか?」と言われながら十字架で亡くなられたことは、私たちの先祖であるアダム、エバから4千年間、人間たちが神様を裏切って犯した罪の蕩減のためでした。人が神様を捨てたので、蕩減原則によって、神様がイエスを捨てるしかなかったわけです。 しかし、イエスは天を裏切りませんでした。神様の子は、サタン世界へ投げても、地獄へ行ったとしても神様の子です。このような中心をもって30年の生涯を捧げ苦難の道を歩んだイエス・キリストでした。 このようなイエス様を信じている皆さん、新郎であるイエスの前で新婦になるため信じてきた今日の皆さん、今や皆さんは6千年の歴史を代身した神様の子として立つべきです。神様の前でサタンを讒訴することができる人を天は探しているわけです。 今日までの数多い聖徒たちは、「どうしてイエス・キリストや聖霊までもサタンから試練されなければならないのか」ということに対して考えます。それは、霊肉をもって完遂をすべき使命が未だに完遂できてないからです。 それでは、今日まで2千年間、イエスと聖霊がサタンと行ってきた戦いはいつ終わるか。神様に対するサタンの讒訴はいつ終わるのか。これが終わるためには、イエス・キリストのように、4千年歴史を代身して罪とサタンに勝った神様の子であると堂々と言える中心を持った人が現われなければなりません。そうすると、6千年間神様に讒訴してきたサタンを退けることができ、イエスと聖霊がサタンと行ってきた戦いが終わります。これをクリスチャンたちはわからなければなりません。わかってみるというものです。 楽園にいるかわいそうなイエス・キリストは、今日までも罪人である人間たちを探さなければならない運命におかれています。皆さんが休む時間にもイエスは祈らなけらばならないわけです。聖霊も神様も休めません。このように、少しも休めない歴史を経て来ているのです。 今私たちは、神の子であるという意識を持って、「神様の体面、イエスの体面、聖霊の体面が私によって立てられます」と祈ることのできる祭物にならなければなりません。皆さんは神様の体面を立ててあげるべきです。イエスの体面を、聖霊の体面を立ててあげるべきです。 人類を愛すべき天倫の因縁を持っても、人類に愛されることができない、はがゆい立場におられる神様は、内的にはそのような条件にかかっていたわけです。 万一神様が、「天地を代身して誇ることができる資格を持った私の子」と言われる、そのような存在が現われるならば、その時はサタンは讒訴できません。その時はサタンは讒訴できなくなるわけです。 イエス・キリストが「私は神の子」であるという意識を持ったように、私たちもイエスと聖霊の苦労を受け継いで、6千年歴史の終末期である今日、全宇宙に対しても、「神様とイエスが願われる御旨がこれです。私は歴史を代身した神様の子です。私だけが神様の子です」と言える聖徒たちが、この韓国に多ければ、そのような聖徒が世界のどの国よりも韓国に多ければ、韓国は世界の中心国家になります。 今私たちは、息子・娘の意識を完結して、勝利の一日をお父様の前に立てて、サタンの前で誇れる存在、天がそのような存在を探しておられるということをわからなければなりません。 神様が探している人 今まで6千年の歴史が過ぎましたが、神様が、霊肉が完結された一つの存在をサタンの前に立てて、「お前が今まで反対した人間の中で、永遠に反対できない私の真の息子・真の娘を立てるので、お前はこの前に屈伏しなさい」と言える存在がなかったわけです。 天はそのような人を探しています。これを成すため再臨主が来られるわけです。このようなことを言ったら、私を気違いあつかいします。思うべきことを思わないで………。しかし、これは本当です。皆さんはこれをわからないといけません。 今日の私たちは、6千年の歴史的使命を決定し、判定できる神様の権限を受け継いで、神様の代身として審判できる権限をもって、主が審判される時、その主に協助できる人にならねばなりません。 イエスは自分が神様の子であることがわかりました。その次は、神様の御旨のため戦ったわけです。私は神の子である。今までわからなかった、誰も主張しなかった神の子である認識を持っていたわけです。神様の子になった私、神様の御旨を引き受けた私であると認識し、堂々と出ていくことができました。歴史過程の中で数多い先知先烈がいましたが、神様の子として、「神様のことはすべて私が引き受けます」という人は一人もいなかったわけです。イエス様だけでした。それゆえ、イエス様が救世主になったのです。 終末にいる私たちは、6千年歴史を摂理してこられたお父様の前へ、「6千年歴史を代身としたお父様の子ですので、お父様の御旨を私が引き受けます」と言いながら出ていくべきです。イエス様を見なさい。お父様の御旨をやる時は、滅ぶことも死ぬことも気にしませんでした。滅ぶか死ぬかを問題にしたらいけません。条件がないのです。イエス様を見なさい。サタンを屈伏させる道なら、体なんかどうなってもその道を行きました。これが神様の子である、神様の御旨を代身できる忠節の精神であるわけです。サタンを屈伏させる道があるなら、死もかまわず歩まれた………。 この終末に、神様を代身したイエス・キリストが残した偉業を私たちが受け継いだとすると、私たちは死を冒してでもサタンを屈伏させる道を行くべきです。サタンを屈伏させることのできる道を知り、その道へ一緒に行ける聖別された群れが現われるなら、この世は神様の世になるはずです。 神の息子として、神の御旨を代身した後、初めて神の愛を受けることができます。神の愛は争って得られるものではありません。 神様は、平和の愛の園を造るため被造万物を創造しました。喜びの中で万物と関係を結ぶため万物を造られ、喜びの中で人間と関係を結ぶため人間を造られました。人間が戦い、サタンが戦う天地になることを願われたわけではありません。それは天理法度の原則からはずれることです。それゆえ、人間を愛で引き上げるため、その愛の役割を聖霊がやっておられるわけです。そして人間が、イエスと聖霊を通して天を探してくれることができました。 「聖霊よ! イエスよ! 神様よ! 私に恵みを与えて下さい」と言いながら上がっていくだけなら、恵みは取られてしまいます。終末であるほど神様の恵みは降りてくる時なので、イエス様が再臨するのです。 今日の道理の世界は、上がっていく一路を開拓し、今は永遠に上がっていく道を探そうとする人たちだけがいます。ところが、上がっていくばかりではいけません。時を通して上がっていく段階を経て、再びその恩恵をもっておりてきて、なすことのできる人にならねばなりません。 私たちが特に越えるべき峠 今私たちが、天の恩賜を取り戻し、神様の子であるイエスを中心として神様の御旨を代行しようとするならば、イエスと聖霊に対してサタンが戦ってきたことが何であるかと言うことをわからねばなりません。そのサタンを屈伏させることのできる方便を知るべきです。 今私たちが、特別に越えるべき峠は何かというと、神様とイエスと聖霊に対して戦ってきたサタンを屈伏させることです。そうするためには、サタンが戦ってきた盾は何か、サタンがどういうふうに条件を立てて侵入してきたかということを知らねばなりません。これを知ると、サタンを自然屈伏させることができます。そうなってこそ、神様は皆さんに対して、「私の永遠なる息子」と言えるわけです。 それでは、サタンはどんな存在なのか。サタンはどうできたのか。ここにもサタンに似た人は多いみたいだけれど………。 私たちの前には、生きていけないと死んででもいくべき宇宙的な運命の道があります。何億千万年かかっても、私の霊が死なない以上、その霊によってでも行くべき道があります。永遠な生命の路程で、生きてこの道を経ていけないと、死んででも行かなければなりません。過去の先知先烈たちも、永遠な生のため一身上の問題から離れて、その道を歩みました。 イエス・キリストもサタンと戦うため荒野に立つ時、一日断食をやったら駄目だったので、2日をやり、10日を、20日を、40日をやったわけです。皆さんは、1回指した鉄砲玉のような運命、戻っていけない運命におかれています。イエスもこのようなことを意識して出た時、その道を行かざるをえなかったわけです。統一教会に入ってきた皆さん、皆さんも行かざるをえなこに入ったのです。これを忘れてはいけません。 イエス様も、死の障壁がさえぎられた時は悲惨でした。全民族が、ついてきた使徒たちが、すべての人が裏切った時、これ以上悲惨な場合があったでしょうか。しかし、人たちは後ろを向くことができましたが、死の道でも後ろを向くことのできないイエスの立場を、皆さんはわかるべきです。 今日の皆さんが、イエスを信じ、天の御旨を捧げていくことにおいても、そのような決心を持って、教会と民族を導き、世界のために訴えるなら、神様の息子・娘にならざるをえなくなります。このような覚悟で、皆さんは神様の御旨をを代身してやっていかねばなりません。 イエス様は、霊界へ行かれたとしても休んでおられるわけではありません。霊界でも、十字架と苦難とそれ以上の試練があるとしても、私たちを探すため、この地を探すためサタンと戦っておられます。このような、天宙的な試練と戦いが行なわれているこの時、皆さんは、「サタン、お前が来ても来なくても、私は変わりなく行く」という気迫を持って、試練を恐れてはいけません。そのような人が、つまり神様の民であり、神様の息子・娘です。 今私たちは、神様の子女としてお父様を中心として家庭をなし、民族をなし、お父様から愛される国家と世界をなし、さらには、お父様の願いに適う地上天国までなすべきです。これが、神様の永遠な御旨です。 このような歴史的なすべてのことを皆さんが知って、前後左右からサタンが讒訴できないように防いでサタンの侵入を退け、さらにはサタンを屈伏させる皆さんにならねばなりません。 創造理念から見ると、初めて実体をもって神様の愛を受ける子女になってから、主管されるべき人間を堂々と主管できる人はどこにいるか! このような人になる前は、天国には行けないのです。それゆえ、今まで天国に入った人がいません。 楽園とは、中間過程の霊界です。 このような、宇宙的な運命の生涯を乗り越えて行くためには、攻撃してくるサタンを完全に退けることができないといけません。このような人にならないと、神様の苦労は皆さんを通して解けないということです。それで神様は今日まで、サタンを完全に退けることができる人、あなたの苦労の心情をわかってくれる真の子女を探しておられるのです。 もし人間たちが、神様のその苦労を永遠にわからないならば、この地上に天国は成し遂げられません。霊界でも天国は成し遂げることができないということです。 天国を所有した人 それゆえに、今の皆さんは、地上でのサタンとの戦いから勝利の一路を開拓する開拓者として、先に立って旗を上げて出ていくべきです。このような覚悟と決心が皆さんに必要です。 皆さんにお父様の前に出たいという所望があるなら、自分一人で「億千万のサタンよ! 私に来なさい。私の行く道を24億人類が反対しても、天地が反対しても、私は行く」と言えるべきです。皆さんは、そのような覚悟でお父様の前に誓って出て行かねばなりません。 家庭の、民族の、国家の全人類の迫害があっても、24億人類が統一教会を滅ぼそうとしても、そこで負けてはいけないという覚悟をもって行かねばなりません。行くべきか、行かないべきかとためらってはいけません。出てきた道なので、行かざるを得ない立場にいる私たちであることを忘れてはいけません。 サタンと戦うため出て来たという皆さん、サタンに勝ち、4千年の歴史を代身して第二の勝利のアベルとして立てられることができたイエス・キリストが抱いた誓いと覚悟、神様の御旨を引き受けて戦うという責任感を、皆さんは見習うべきです。イエス様が、そのような覚悟と誓い、そのような責任感をもって戦ったので、サタンを屈伏させることができたわけです。 今は、霊肉を持った、実体を持った私たちがサタンを屈伏させるべきです。この地上にそのような生きた存在が現われてこそ、初めて6千年間摂理して来られた神様の苦労の心情も、イエス・キリストの苦労の心情も解けられます。 そして、神様が主管できる天も私たちのものに、神様が主管できる地も私たちのものになるわけです。これは神様の創造目的です。皆さんは、そのような神様の創造目的を成すため、地上で責任を持って戦って、勝利する人だけが天国を所有することができるということをわかるようにならねばなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.31
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天の父母様聖会 天苑宮天苑教会 聖日礼拝(21.01.31)2021年1月31日午前9時からライブ配信(公開予定)されます。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓ 今回の配信映像誠実礼拝の後の 1:33:00~ごろからは真のお母様とご一緒された「和動会」となっていました。
2021.01.31
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今回の文総裁のみ言は、2000年9月の挙行された興進様への「祝福権委譲式」そして、「三時代転換一体圏祝福式」の翌月のものです。『ファミリー』2001.1月号にその掲載があります。文中には先祖解怨・先祖祝福について、また、真の父母様による祝福式(血統転換)、特にはお母様と女性たち(レアとラケル)についてのみ言もありました。余談ですが、暗号文遊びの「ほふられた子羊さん」はこれを読まれてどうされますか?子羊さん曰く「私のブログ記事が、御言葉によって間違いであるなら今日にでも閉じる」(2020.09.01)16万女性修練会でも語られていた「ヤコブ家庭のレアとラケル」の話も出てきます。子羊さんの暗号文解読との食い違いが見受けられますが……。「以北出監五十周年記念および霊界解放式」における御言成約八年 2000年10月14日天宙清平修錬苑、天城旺臨宮殿 大聖殿 真のお父様が興南収容所から解放された一九五〇年十月十四日から数えて五十周年の記念日を迎え、天宙清平修錬苑で記念行事とともに霊界解放式が挙行され、式典で語られたものです。 祈祷してください。霊界で祝福を受けた人たちと、その相対となった人たちは、きょうから地上に来ることもでき、ここで祈祷すれば通じることができる、そのような時代に入っていくのです。一緒に暮らすことを許すのです。そのようにするためには、目的が同じであり、思想が同じでなければなりません。そして、祝福家庭を中心として、霊界と肉界を一つの体制にしなければなりません。 ここで、真のご父母様が地上で成したものを霊界に連結させ、霊界にいる先祖たちは天使長の立場なので……。 本来、堕落していなかったならば、天使長圏内にいる先祖の祝福というものはありません。しかし、祝福を受けた家庭は、地上にいる完成したアダムである真の父母を中心とした血族の因縁を中心として見れば、同じ血筋だという因縁を結んだことになるのです。そのようにして祝福を受けた(霊界の)家庭は、先に(霊界に)行ったので天使長の立場に立つのです。 それゆえに、今からこの統一式をすることによってどのようなことが起きるのかといえば、先祖たちが地上に来て祝福を受けた家庭を協助することができる時代に入っていくのです。 天使長が、アダム家庭を育てて天に迎えるようにする、そのことと同様に、先祖の祝福家庭、また霊界で祝福を受けた家庭が地上に来て、祝福家庭を保護することができるようになることによって、祝福家庭が個人や家庭、氏族、世界圏内にサタンの後孫たちが……。 今まで、天の前に背反する立場に立っていたルーシェルは屈伏しましたが、その手下の大勢の残党が世界じゅうに広がり、しがみついて手放すまいとしているのです。 偽りの父母が、偽りの愛を中心として偽りの生命圏、偽りの血統を残すことによって、このような結果になったのですが、真の父母が、霊界に行った先祖たちを祝福して家庭を成してあげることによって、天使長が持つことのできなかった家庭基盤を持つようになったのです。 天使長は、これに仕えるようになっているのであって、侵犯するようにはなっていません。その天使長家庭の立場に立ててくださったかたが、今十四代までの先祖を解放して祝福してあげました。二十一代まですればすべて終わるのです。 このようになれば、皆さんの家庭を中心として、残った十五代から二十一代までの先祖を解放してあげなければなりません。完成時代において、真の父母が、地上で自分の先祖と後孫を解放したのと同じように、皆さんが、残りの二十一代までを解放してあげるのです。 それから、だれがサタンの残党を追放するのかというと、天使長型の祝福家庭である、皆さんの先祖たちです。先祖たちが、地上の祝福家庭を保護すると同時に、祝福家庭となるべきところに侵犯していたサタン世界は、祝福家庭圏とは関係がないので、それを追い出すのです。分かりますか? (「はい。」) 霊界はもちろんのこと、地上でも、サタンの残党を追い出す責任は、祝福を受けた皆さんの先祖たちが地上に来て果たし、また、霊界と肉界を統一する義務を果たすのです。 もちろん次元が異なりますが、霊界と肉界が解放されるときに新しく法を定めて、これに順応していくサタンの残党たちも、天の前に帰っていくことのできる道を開いてあげるのです。そのように、天に従っていくことができる道を許すことによって、サタンの残党までも天の前に帰り、サタン世界を根絶することができるということを知らなければなりません。そのようにするためには、この統一式をしてあげなければならないのです。 今までの皆さんの先祖は霊界に行っていますが、地上にその相対がいるのです。地上に来て、ここにいる相対と一つになり、生活を統一させることによって、霊的世界と肉的世界を統一した、祝福家庭による一つの心情文化世界が地上から始まります。 天上世界まで解放圏を成して、地上世界がきれいに完全整備され、霊界もきれいに完全整備され、サタンまでも方向を変えて、天の国に帰っていくことができる立場に立たせるのです。そうすることによって、真の神様と真の父母、天地父母解放圏が成されるということを知らなければなりません。分かりますか? (「はい。」) ですから、今から皆さんは、一人で生活するのではありません。一人で暮らすのではなく、結婚して夫婦が一緒に暮らすように、(霊界の先祖が)皆さんの家庭に自由に訪ねてくることができる環境になるのです。 そして、皆さんが霊界のみ旨と一致すると同時に、地上の真の父母のみ旨と一致することによって、宗団長(教祖たち)ならば宗団長が訪ねてきて、一緒に生活するのです。 霊界には、四大聖人を中心として、それ以外の聖賢たちもいます。それらの聖賢たちを中心として、宗教圏を中心として、四大聖人を中心として、霊界にいる三分の一、例えば、百人がいれば三十三・三三人、そのような人たちを、六月十三日の南北頂上会談の前に統一することを許可しました。 そして、彼ら全員を祝福したので、今からこの式が終われば、その祝福を受けた人たちが地上に訪ねてきて、皆さんに侍って暮らすことができる環境が連結されるのです。分かりますか? そのようになることによって、地上でも一つの文化圏、天上世界でも全体を統一した、一つの組織が編成されるようになります。それと同時に、霊界が地上の統一を協助して、サタン世界の整備活動を行い、今まで統一教会に反対していた環境が消えてしまうというのです。それでも反対する人たちは、先祖がほうっておきません。 今からは、蕩減時代が過ぎていきます。蕩減時代ではなくなります。アダム一代で復帰できる方法があったかもしれませんが、アダムとエバが堕落したので蕩減時代が始まったのであって、神様の法にも、このような地獄現象が起きていない世界においても、蕩減法はありません。 そのように今、皆さんの家庭が入籍し、この(出監)五十周年解放記念を中心として祝賀してあげることによって、全体の解放的基盤を一元化させるのです。天上世界と地上世界が一元化されるということを知って、皆さんはそこに合わせて生活しなければなりません。 今から、父母である先生は必要ありません。父母である先生は、アダムとエバが失敗して、すべての血筋を汚すことによってつくられた地上地獄と天上地獄を、祝福によって解放してあげ、天上地獄撤廃、地上地獄撤廃をなしたのです。 そのような時が来たので、イエス様がいる楽園と中間霊界、そして地獄は完全撤廃されます。なくなるというのです。分かりますか? (「はい。」)そのようになって、真の父母と神様が一体となった家庭を中心として、天上、地上の父母の位置を中心として、先生の直系の子女の家庭と皆さんの直系の子女の家庭が一つになったその上で、天地が一つになったその上で……。 天と地は、カインとアベルです。その上に父母が立つことができるのです。これをするためには、エバが堕落したので、エバと自分の息子、娘を中心として、家庭において失ってしまったものを連結してこなければなりません。その家庭を中心とした国家的メシヤは、その国の民の母親の立場でアベルとカインを一つにして……。 世界に出て、自分の任地国を一つにし、世界の国々を一つに連結させることができる国家的メシヤたちが、南北統一のために韓国に入ってくるのですが、その任地国の人たちは母親であり、息子、娘です。 そうして、カインを愛することのできるアベルがカインと一つになり、母親が一つになって、父親に従ってどこに行くのかというと、祖国光復に向かうのです。 アダムとエバを中心として、アベルとカインのゆえに、世界の中心国家になることができる国を失ってしまったので、国家的メシヤが、その中心国家を取り戻すべき立場に立つことによって、夫人を中心として息子、娘が一つになることができるようにするのです。 そして、その任地国と中心国家である祖国とを連結するために、夫が韓国に移動すると同時に、夫人もそれに従って韓国に入ってきて、入籍するのです。 しかし、夫には入籍する資格がありません。まだ国が復帰されていないのです。分かりますか? このことをはっきりと知らなければなりません。 それゆえに、ここで今、入籍した人たちは、これから国家的メシヤ、あるいは氏族的メシヤとして国に行って、橋渡しをしてくるのですが、先生がすべて蕩減してあげたので、国家的メシヤは、条件だけ立てて、祖国光復のためにここに来ているのです。しかし、完成したアダムではありません。完成したアダムと、完成した家庭ではないのです。 国を失ってしまったのは、エバとカイン、アベルです。分かりますか? それを世界舞台で蕩減条件を立て、任命されたこの一線地帯に夫が来ていますが、ここで、だれの命令を守らなければならないのですか? アダム家庭で失ってしまった国を、イエス様の時代に復帰しなければならないのですが、イエス様の時代に復帰することができなかったので、再臨時代に復帰しなければならないのです。 旧約時代、新約時代において失敗したことを成約時代に完成するためには、教会の代表である第一イスラエルの夫、第二イスラエルのイエス様の夫、第三イスラエルの真の父母である再臨主の夫、この三時代の父母を連結させることのできる蕩減条件と血統的なレールが、霊界と肉界に合うようにしなければなりません。 ところが、皆さんの家庭においては、世界的メシヤ、世界的真の父母の前に、天を中心として、国家を中心として、まだ国家が分かれている基準なので、これを蕩減しなければなりません。これを蕩減するために、だれが先頭に立つのかというと、母親が先頭に立つのです。 母親が外国に行き、カイン圏を自分の息子と連結させる条件を立て、そして韓国において、母親を中心として一つになったカインとアベルがアベルの立場に立ち、カインの立場である韓民族を消化しなければなりません。だれが、なすのですか? 母親がするのです。 そのように、アベルとカインを一つにして、その上で夫を復帰して立てなければなりません。分かりますか? 夫をどこから追い出したのかというと、アダム家庭から追い出したのであり、国家から追い出したのです。それで家庭と国を失ってしまいました。 ですから、家庭的基準を連結する世界舞台において、本国を訪ねて国家基準を代表した女性たちが先頭に立ち、カイン的国家の国民とアベル、カインが一つになったアベル的な外国の基準とを連結して初めて、国家基準におけるカインとアベルが一つになります。そうして、そのことによって母親として、その後ろに立つことができるのです。分かりますか? そこには、他の考えがあってはいけません。だれだれの、朴パク氏の、金キム氏の夫人ではありません。それゆえに、女性たちが先頭に立ち、国家的メシヤとして、世界においてカイン的息子と自分が生んだ息子、娘を一つにした、その基盤の上で韓国に入ってきて、母親が解放されるのです。 真の父母が、国家的基準と世界的基準の道をすべて築いておいたので、それをすべて絶対的に信じて行動すれば、三、四年以内に完全に整備されるのです。それでできなければ、この国が間違ったことになるのであって、わたしたちが間違ったのではありません。分かりますか? ですから、絶対信仰、それから何ですか? (「絶対愛です。」)それから何ですか? (「絶対服従です。」)だれをですか? 神様が、この宇宙を創造されるとき、絶対信仰、絶対愛、絶対服従で創造されました。投入して忘れ、永遠に忘れて、そうしてこの大宇宙を創造されたように、皆さんもそれと同じ立場で、自分が持っているすべてのものを投入し、投入し、さらに投入しようとしなければなりません。 そのようにすれば、ここに真空状態がどんどん大きくなっていくので、自分が投入したすべての外的なものが種となって、世界にあるすべてのものがここに入ってきて、満たしてくれるのです。 そしてまた、満たされたものをすべて世界に連結させることによって、”私”と一体圏が成され、”私”は”私”、相対も”私”という立場に立つことができるので、解放圏が展開するというのです。はっきりと知らなければなりません。 このように、国と国民を完全に”統班撃破”しなければならないのです。このような内容を理解して、すべて ”統班撃破”しなければなりません。 本来は、今から十二年前にこれを成そうとしたのですが、全斗煥、盧泰愚、金キム泳三サムの三人の大統領が、二度もつくった”統班撃破”の組織をすべて壊してしまったのです。これを再び編成しなければなりません。一次、二次、三次目なので、どのようなことがあっても、編成しなければなりません。しなければ問題になるのです。 しなければ、皆さん自身も問題になりますが、大韓民国と北韓の地を、天の地として奉献することができないのです。どのようなことがあったとしても、皆さんが一体となり、先生の心と一つになれば、できます。 それでは、どのようにしてそれを成すのかといえば、国境撤廃をすることによって、また、怨讐を愛することによって、成すのです。 この国民は、先生を中心として四十年間、八代にわたって反対した怨讐です。しかし、彼らを愛しなさいというのです。愛するにおいても、自分の一族よりも、自分の子女よりも、自分の夫よりも愛することができる立場に立たなければなりません。 そのようにして愛する目的は、真の父母の峠を越えるためです。だれが峠を越えなければならないのかといえば、真の父母に従って、自分の妻が越えていかなければならず、息子が越えていかなければなりません。 母親と息子、娘が四年間働くことにおいて、その夫は、あらゆる精誠を尽くさなければならず、自分の骨を削り、骨髄までも絞る、それほどまでに犠牲になってでも、協助してあげるべき責任があるのです。 協助するにおいても、自分一人でしてはいけません。百八十五家庭ずつ祝福してあげたのです。一族を連結して、その一族の母となるかたが活動することのできる解放的権限を持つためには、金キム氏なら金氏全体が総動員されなければなりません。朴パク氏なら朴氏が総動員されなければならないのです。 父親が金氏で、母親が朴氏ならば、先に朴氏一族を解放することができるように、夫も後援しなければなりません。そして、夫が復帰されて入っていくとき、朴氏の解放された母親と息子、娘の基盤全体が、父親の一族の善男善女、十六歳以上の人たち全員が祝福を受けるようにしなければならないようになっているのです。分かりますか? どのようなことがあってもしなければなりません。 それは、「金氏には甥もいるし、孫もいる。親戚同士ではないか?」と言って、するのです。世の中の青少年問題や家庭破綻で滅んでいく人たちは、すべて天国に行くことはできないので、それを知っている以上、金氏の血族、朴氏の血族に対して、強く言ってでも祝福を受けるようにしなければなりません。 それをしなければ、どうするのでしょうか? エジプトで出エジプトする日を決めておいて、「この日に出ていきなさい」と通告したのに出ていかなければ、胸ぐらをつかんで逆さまにし、足を引っ張ってでも出ていかなければならないのです。 出動して十里でも出ていけば、エジプトで死んだことにはなりません。エジプトで死ねば、永遠に地獄です。しかし、境界線を越えたならば、死んだ遺体はイスラエル民族に属するということを知らなければなりません。そのような深刻な時なのです。 霊界のすべての聖人君子、神様までも聞いているこの場なのです。分かりますか? ですから、だれを愛するのですか? 自分の夫を愛するのではなく、自分を愛するのではありません。昔、エバが地獄に行ったので、男性の代表が真の父であり、真の父母なのです。 アダムが王になるのであり、祖父になるのであり、父になるのであり、夫になるのであり、それから何ですか? 兄になるのであり、そして息子になるのです。いくつですか? 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ。六つです。これをすべて否定しなければなりません。男性という種は、すべて否定しなければなりません。 今まで、皆さんが結婚した相対は、天使長を中心とした霊界の先祖と同じ立場だったのです。ですから、国を中心として、もう一度否定しなければなりません。分かりますか? (「はい。」) それゆえに、自分の夫を”自分の夫だ”と考えなければよいのです。それは、サタン世界の国を代表した天使長である、ということです。天使長ですが、サタンではありません。祝福を受けたので、霊界の協助を受けて、アダム地上完成国家を復帰すべき責任を、半分の体であるアダムが持っているのです。 だれが、これをすべて脱がせてあげなければならないのでしょうか? エバは、アダムの十六歳以降のサタンの体を中心として、人類を繁殖しました。そのことを蕩減してあげなければならないので、母親と息子、娘が一つになって国を取り戻し、その国を超えて、半分の体である父親と再び結合することによって公認され、解放的地上天国の家庭を完成して、天国に入っていくのです。 適当にはできません。公式によって解いていかなければなりません。数学を解いていくように解いていかなければならないのです。分かりますか? (「はい。」) そこに行くことができれば、自分の子供を思いどおりに……。自分の夫といっても、それは夫ではありません。これを行けないようにするのは、サタンの中のサタンです。家庭から脱落するのです。いくら入籍しても、逆さまに別世界に入っていきます。 皆さんの家庭において、祝福を受けて夫となる基準に該当する立場にはいますが、本然の天国に入っていくことができず、家庭的天国に入っていくことができず、それは家庭的楽園圏内に入っていくのです。 しかし、楽園を中心としては、自分の家庭、一族が連結されず、国家が連結されず、世界が連結されないのです。その位置において、楽園的家庭となり、楽園側で中間霊界を……。 今、聖賢たちは中間霊界にいます。その霊界に留まる環境と地獄……。獄があるのです。監獄ができるのです。監獄がありますが、サタン主管下の監獄ではなく、永遠に、永遠に地獄に落ちて固定されるのではなく、自分の父母や兄弟たちが涙を流し、後孫が協助してくれ、精誠を尽くしてくれれば、下や上から押しあげてくれることによって、解放される道が開かれるのです。自分がはまっていた位置を土でどんどんと埋めて、水平になるまで協助することによって、地獄に入った家庭が解放されるのです。 そのように、自分の先祖が霊界に行っているとしても、後孫が先祖を絶対信仰、絶対愛、絶対服従して侍る道を行ってこそ、天国の自由解放圏を迎えることができるのです。何のことか分かりますか? それで、第一次アベルの立場で、国家的メシヤが自分の息子、娘とカインを一つにして国家に入っていき、第二次のアベル的立場で母親が投入され、兄弟が投入され、カイン的な立場にいる大韓民国と一つにするのです。分かりますか? このようにして一つになったアベル圏は、南北を統一することのできるアベルの立場に立ち、南北とアジア、世界を蕩減することができる祭物の過程を経なければなりません。それで、蘇生、長成、完成の過程を経て初めて、母親が旧約時代解放、新約時代解放、成約時代の統一天下圏に進んでいくことができるのです。分かりますか? 国家時代を超えていくことができるというのです。 今まで、聖人たちは独身生活をしたのです。相対がいませんでした。それで、国家を超えることのできる基準を、先生が別に準備したのです。 ですから、先生には主権があります。天の国と地上の国の主権が行くべき道を知っています。そして、民がいます。祝福を受けた民がいるのです。数十億の人々が祝福圏内に入ってきたのです。ところが、土地がありません。 土地には、南北の土地が必要なのですが、それが一つにならないときには、南北にいる民をけ飛ばして切ってしまうのです。イスラエル民族を切って、第二イスラエルであるキリスト教文化圏を立てたように、韓民族が祖国光復に貢献すべき責任を果たせなければ……。 イエス様を釘で十字架にはりつけにしたように、主権と教会が一つになって先生を追い出しました。再び救ってあげようとしているのに、それにも従おうとしないので、その地を捨てて、第三イスラエル圏を中心として基地をつくるのです。その基地が、南北米の南側です。 南北米が一つになり、旧教と新教の統一圏ができることによって、これを中心として百二十万ヘクタールの土地を国連の土地として奉献するために……。これが設定されたという事実は、韓半島の南北が反対したとしても、イエス様が死んだ立場には立たないということです。 イエス様はイエス様で、国を中心として責任を完成して、天上まで大道を築いておいたので、その国が従って来なければ、しかたなく切ってしまって、大移動が起きるのです。分かりますか? 何のことか、分かりますね? これは、試験しなければなりません。 入籍した女性たちが、このことを知らないでいてはいけません。第一次として、自分の息子、娘と、愛をもって感動させたその国の人々を一つにし、第二次として、外国で一つになったアベルとカインをアベルとして立て、大韓民国の民を中心としてそこに連結しなければなりません。 そうして、これが一つになれば、それがさらに大きなアベルとなり、北韓を消化し、モンゴル、中国、アジア圏を消化しなければなりません。それは、自動的に消化できるようになっています。北韓を自然屈伏させれば、世界が国連を中心として連結される道が、音を立てて開かれるのです。 このような境界圏内の三角地帯に来たので、先生は大急ぎで国連に登場して、国境撤廃と統一天下の理念を宣布したのです。このようにして、そこでNGO……。 NGOとは「nongovernmental organization(非政府組織)」のことです。それをNGOというのです。国連にいる大使たちは、国を代表した大使です。国連は、国の代表が来て、自分勝手にほえながら、けんかをしている戦場です。それをそのままにしておくことはできません。 国家を代表した大使たちは、カイン的な立場に立っているのですが、ここに天を代表した上院制度をつくり、より世界のために生きる人たちが、頂上から、国家のために生きる人たちを、世界のために生きることができるように方向をきちんと定めてあげることによって、天のために生きることができる道を開いてあげるのです。 そうして、真の父母が登場して一つに定着することによって、神様と真の父母、地上、天上天国の祖国光復の基盤がつくられるのです。分かりますか? (「はい。」) そして、皆さんは、ジャルジンに行って四十日修練を受けなければなりません。今まで韓国を中心として世界に連結したのですが、もしこれが断ち切られれば、祝福家庭が全滅させられるのです。それゆえに、ジャルジン四十日修練を……。 それも四位基台復帰です。分かりますか? 父母と息子、娘を連れてくることによって、何千年、何万年、別れていた父母たちが、四十日で一度に出会うのです。 夫も妻も自分勝手に生き、息子、娘も自分勝手に生き、父母と息子、娘が自分勝手に生き、すべて散り散りに別れていたものが、ここにおいて初めて、統合整備された家庭形態を持つようになったのです。 そして、それに乗って真の父母に従い、北から南へと世界を一回りしながら成し遂げたものを、そこですべて連結し、反対なく韓国の地に入ってきて、それを連結するのです。そうして、統一天下、原則的な家庭を中心として、アダム時代、イエス時代に国家的基準を成し遂げられなかったことを蕩減しなければなりません。最後の蕩減を超える闘いをしているのです。分かりますか? 女性と、この国とこの民族と、女性を中心とした息子、娘と、また来られる真の父母が一つになり、ここに天が共にいるので、鉄や石のように硬く、真の父母と一つになれば、サタンがいくら何だかんだと言っても、追い出されるように天がすべて処理してくれるのです。分かりますか、分かりませんか? (「分かります。」) しっかりしなければなりません。この女性たちは、自分勝手に生きて、「わたしの息子、娘を大学に送って出世……」などと考えてはいけません。間違った大学に通った人たちは、今後、全員蕩減を受けなければならないということを知らなければなりません。 それを基準として、皆さんの位置が決定されるという歴史的な時代が待っているのです。そのことを知らなければなりません。それよりももっと厳格なことは、国に入籍できるかできないかということであり、そのような問題が、それにかかっているということです。 先生のみ言と一つになり、天上世界圏を相続することができる、国家基準の忠孝の道理をすべて果たしたのか果たしていないのか、ということを基準として、その基準を満たしたときに、それを越えることができるのであって、ただの見物人が越えていくのではありません。 聖書にも、そのようにあるではないですか? 祝宴の日に貴賓を招待したのですが、招待した人が一人も来ないので、道端にいるあらゆる人を呼び込んだという話が。 そうして、祝宴の餅をいくつかずつ分けてあげて、礼服を着ている人は行列に並ばせ、礼服を着ていない人は、そのまま帰らなければなりません。その礼服に当たるのが、蕩減法です。分かりますか、分かりませんか? はっきりと知らなければなりません。(「はい。」)詳しく話しているのです。 それでは、皆さんはどのようにするのですか? この前列に座っている女性たちは、どのような立場なのかというのです。この女性たちとお母様との関係は何かというと、お母様は本妻です。あなたたちは、復帰摂理上は妾と同じですが、妾だからといって先生が愛したのではありません。 先生はだれかというと、わたしが愛していなくても、皆さんにとっては正式な夫です。正式な夫ですが、その正式な夫がだれと結婚したのかというと、自分の姉と結婚したのです。その姉が、お母様です。皆さんは、妹の立場です。 お母様は、堕落したヤコブ家庭のレアの立場にいるのですが、レアは、妹のラケルの夫をそのまま奪ってしまいました。今回は反対です。お母様は姉の立場で天に侍り、真の父母に侍ることのできる母の立場に立って、妹の福を略奪するのではなく、天の国の福をすべて分け与えてあげるのです。ですから、お母様の分身だということです。分かりますか? それゆえに、女性は、お母様のことも愛するのですが、先生のことは、お母様よりももっと愛するようになっているというのです。だれよりもお父様のことを愛するのですが、その後は、お母様をお父様よりももっと愛してはなりませんか、もっと愛さなければなりませんか? (「もっと愛さなければなりません。」) なぜ、もっと愛さなければならないのですか? 赤ん坊が生まれてくるときには、その赤ん坊は父親の一つの細胞、生命の細胞である精子が母親のおなかの中に入っていき、母親の体を無条件に削って骨、肉、血を分配されたのです。そうして無条件に分けてあげて生まれたのが、妹です。真のご父母様の妹です。分かりますか? それゆえに、血筋が一つになっています。 レアとラケルは、血筋が一つになっていますか、なっていませんか? (「レアとラケルは血筋が一つです。」)ですから、サタンの血筋なので反発が起きるのです。しかし、これは天の血筋なので順応するというのです。姉の夫はだれですか? 先生なのです。分かりますか? (「はい。」) しかし、その先生はだれかというと、昔、自分と婚約した人なのです。その人が姉の夫になりました。それでは、ヤコブを中心として「この怨讐め。」と言いながら、けんかをする立場ですが、そのようにはなりません。反対です。姉がだれよりも妹を愛し、天の祝福を一緒に受けて妹の立場に立ち、真の父母とともに真の父母の妹の立場に立って、天国に入っていくためのみ業に協助しているので、これ以上ありがたいかたは、いないというのです。 女性たちは、お母様が自分たちを、血肉を分配して生んで、育ててくれると同時に、自分の夫も、お父様の種がお母様のおなかの中でお母様の血肉を受けて生まれ、そしてお父様に接ぎ木することによって弟と同じ立場に立つのです。 その弟夫婦が、兄夫婦である真の父母の後に従い、その姉妹の立場を経て、息子、娘の立場、孫の立場で喜んで大騒ぎしながら、天国に自動的に入っていくようになっているのです。アーメン。 それゆえに、蘇生のカイン、アベル、大韓民国(長成)のカイン、アベル、それから、完成のカイン、アベルである南北統一は、世界統一と連結します。 無神論と有神論が一つになることによって、分かれていた歴史、分かれていた心と体、分かれていた夫婦、分かれていた兄弟、分かれていた親子関係、分かれていた一族、分かれていた国が一つになって、真の父母の統一的血統を中心として、一体圏心情世界文化が始まるのです。 それが、地上天上天国であり、天地父母の心情的文化世界であり、単一民族であり、単一文化であり、単一理想的体制であり、その家庭と氏族、民族、国家、世界の体制によって、地上と天上が統一されるのです。 根から始まった栄養素が、どこにでも思いどおりに行くのです。枝でも、芽でも、どこでも、毛先まで、そしてつま先までも、血が循環するのと同じように、統一的生命体、一体的生命体圏を成したものが、地上、天上天国の解放された自由の祖国光復なのです。アーメン。(「アーメン。」)分かりますか? (拍手) そして、父子関係は上下関係、夫婦関係は左右関係……。なぜ、夫婦関係は「左右関係」と言うのですか? 「右左関係」と言わなければならないでしょう? 父子関係は、「上下」というように、逆さまにはなっていません。なぜ、「左右」は夫婦関係なのですか? 堕落したので、女性が先になるのです。 それから、兄弟は何ですか? 「兄弟」と言うでしょう。子女も「子女」と言います。「子女」を逆さまにすれば「女子」ですね。 上下関係と子女関係は正常なのに、夫婦関係は逆さまになっているので、この逆さまになっているものを正しくするために、「三時代大転換四位基台入籍統一祝福式」があるのです。すべて含まれているというのです。その一言を理解することができれば、今、先生が語ったみ言のすべてを理解することができるのです。 上下、左右、前後が、上下、右左、前後を中心として統一された、血統の異なる神様の直系血統によって解放自由天地となり、地上、天上世界が、どこにも障害がなく、国境もない世界になることによって、初めて地上、天上天国の顕現が成されるのです。アーメン。(「アーメン。」)分かったでしょう? (「はい。」) この女性たち、全員行きましたか? お嫁に行った女性は、「夫が婿に来た。」と言いますか、「(お嫁に)行った。」と言いますか? 「お嫁に行った女性を訪ねてきた。」というのが、婿に来たということであり、「行った。」というのは、お嫁に行くということです。 それでは、今から女性たちは、どこに行かなければならないのでしょうか? 夫がいません。真のご父母様の前に再び来て、「ああ、お父様、お母様。私の相対がいなくて寡婦になったので、私を守ってくれる夫をつくってください」と言うのです。 それで、つくってくださるかたは、神様でもつくることができず、真のご父母様だけがつくることができるということを知らなければなりません。分かりますか? (「はい。」)ですから、この四年間は、どのようなことでもしなければなりません。 韓国の伝統では、喪に服したならば、三年以上、父母の墓を守ったものですが、それ以上の忠誠を尽くさなければなりません。分かりますね? (「はい。」)今回、四番目に修練を受ける人たちですか? これからは、どんどん先生に会うことができなくなります。きょうだから会うのであって、卒業しようと何だろうと自分たち同士……。 教えてあげた内容を守り、それを体恤することができるように、伝統として残してあげなければなりません。後代が何千代続いたとしても、本然の先祖が残した伝統を傷つけずに、そっくりそのまま相続して、神様が目をプリズムのようにして見詰められて、「伝統のとおりになっている。」という承認を受けてこそ、解放的アダム完成家庭の位置を相続することができるのです。最後に、国を取り戻し、世界統一……。 世界統一は、国連で自動的にするようになっているのです。祖国光復をすることができる主権と民がいるので、国連に土地を買ってあげ……。百二十万ヘクタールといえば、これはとてつもない広さです。済州島の十二倍です。大韓民国の民を食べさせ、七千万人に食べさせることも問題ではないというのです。 ここで、民が父の国を取り戻すことができずに、先生が父としてこれを取り戻したので、先生がしたことの相対的基準として、大韓民国が百二十万ヘクタールに責任を持たなければなりません。 それから、母の国であるエバ国家が百二十万ヘクタールに責任を持たなければなりません。それ以外の国家も、十二数に該当する土地を、祖国光復のための総生畜献納物として、ささげることが基準になっているのです。 そのようにすれば、一時に祖国光復の地球星になる時代に越えていくのです。解放を願って全体統一されるのです。アーメン。(「アーメン。」)言ってください。アーメン (「アーメン。」)アーメン (「アーメン。」)三回目は両手で、アーメン (「アーメン。」)立ってください。(「全員、その場で立ってくださるようお願いします。」) 皆さんが、うれしくて拍手するときは、このように上で拍手して、このように下で拍手してはいけません。運動しなければなりません。上で神様に侍り、降りてきて地上のアダム完成の道理に従っていかなければなりません。(「アーメン。」)分かりますか? (拍手) さあ、そのようにすれば、霊界にいる人も、神様も、「はあ、今、初めて真のご父母様の本当の心のうちが分かったなあ。」と言われるのです。今まで、よく分からなかったのです。なぜ、このようなことをするのか分からなかったというのです。 きょう、なぜこのような式をするのでしょうか? 今からは、「ああ、孔子様。いつでもお越しください。」と言って、門を開けておいて祈祷し、「神様、孔子様を送ってください。とん、とん、とんと三回合図をすれば、私が寝ていても、ばっと飛び起きて、いつでも、一年じゅう、生涯、永遠に侍ります。」とお願いしなさいというのです。孔子様と約束するのです。分かりますか? 張貞順さんは、今年も床に伏して暮らしています。イエス様が「張女史、働きなさい。」という声を聞きましたか? 働かせなさいというのです。それを知っているのですか、知らないのですか? ええ、尋ねているではないですか? 今からは、働かなければなりません。祈祷して働かなければなりません。先頭に立つのです。座り込んでいてはいけません。座り込んでいては、本当に死んでしまいます。分かりますね? 今からは、代身実体として地上に行って……。 孔子は、儒教の何ですか? 何という廟ですか? 教会堂があるではないですか? 宗廟と言うのですか、何と言うのですか? そこに行って、「わたしが孔子様の夫人ですが、あいさつしなさい。」と言って、うわさを立てるのです。「尋ねてみなさい。そうか、そうでないか。」というのです。来ないのですから、訪ねていって教育しなければならないでしょう? 先生も、反対を受けながら教育して、「お父様」という名称を受け、「真の父母」という名称を復帰したのです。世界が一つになって反対する立場で、それを崩して一つに統一してこそ、地上世界と天上世界が一つになることができます。 天は夫であり、地は夫人となり、それが一つになって天地調和をなすようになれば、愛の心で一つになった二人が行く道をふさぐ者はいないというのです。一人では行くことができません。姜賢實シルさん、そのことが分かりますか? 良いですね。(笑い)一度拍手してあげてください。幸せに暮らしてください。(拍手) さあ、ここに来た霊人たちと、神様と興進君を中心とした四大聖人、それから聖人、それから良心家、これから霊界にいるすべての人たちは、イエス様が真の父母として来て失敗しましたが、彼を兄として侍り、霊界に行った真の父母の息子、夫婦が霊界の中心となって、一つの体制をつくるのです。 今まで霊界でも、仏教、儒教、それぞれのやり方をしていましたが、これからはそれをやめて、原理を中心として成約時代の行列に従っていかなければなりません。 そのようにしてこそ、天上、地上天国に直行することのできる道ができるのであって、仏教圏のふろしきをかぶっていてはいけません。きれいに送別して一つの道に行かなければ、天国の門が開かれません。ふさがってしまうというのです。 明後日ですね。明後日、アメリカで……。きょうが十四日なので、明後日でしょう? イスラム教とキリスト教は怨讐でしたが、先生の下で国境撤廃運動として、「百万家族行進大会(ミリオン・ファミリーマーチ)」が始まるのです。分かりますか? わたしが手伝ってあげなければ、その大会はできません。兄の立場に立ち、父母の立場から、自分のことのように共に手伝ってあげ、今後、歴史的怨讐の宗教が……。 キリスト教とイスラム教は怨讐です。父母が来て、右側には統一教会、左側にはイスラム教を立て、これをぐるっと回し、アメリカの五十の州を中心として、五十か国のイスラム教の代表が集まって家庭的行進が始まるのです。 すべて焦点を合わせて行うのです。国連も家庭的祝福をすることができる時に入り、ロシアと中共とアメリカの若者が千六百人ずつ教育を受けて、真の父母を中心として心情的一体を成し、青少年の淪落を防ぎ、家庭破綻を防がなければならないという群れが一つの所に集まり、超国家的に……。 すべてが三代の怨讐です。三代の怨讐が反対したのです。イエス様を中心として、ペテロ、ヤコブ、すべてが一つになって四位基台をつくらなければならなかったのですが、それができませんでした。一つになることができずに、今、世界に三大怨讐圏をつくって闘っています。 十二歳から二十四歳、そこに相対する四十八歳の青年は、二十歳以上がカインであり、それ以下がアベルです。また、大学街を中心として、これがカインとすれば、中高等学校の学生はアベルです。中高等学校の学生をカインとすれば、小学生がアベルです。 このアベル・カインを中心として連結していき、青少年を中心として世界的な指導を行い、最高の名門家の教授たちと最高の天才的な子弟たちが、三か国を中心として百四十か国の総会をつくり、先生が指揮するとおりに、青年たちを国境を越えて結婚させることができる時を準備しているのです。分かりますか? 青少年の淪落問題と家庭破綻、そして平和に向かう直短距離を破綻させるのは、サタンの仕業であることは間違いないので、国連で発表したレバレンド・ムーンの国境撤廃の話は、極めて当然の話なのです。 それを撤廃するためには、国境を境にして怨讐同士だった者たちが、交差結婚をするのです。このようにしてはできません。(身ぶりをされる)これを離して平行線にしなければなりません。三十八度線はこのようになっています。これが平行線にならなければならないのです。 そして、そこで何かというと、どのようにして平和の内容を提示するのかということです。国境を境にした怨讐国家が交差結婚すれば、そこで地獄と天国が一つになって、闘争概念がなくなるのです。 いくら父の国と母の国が怨讐であったとしても、怨讐の国同士で交差結婚した父母の息子、娘に対しては、「自分たちよりも、りっぱに幸せに暮らしなさい。」と言うのです。ですから、それが地獄を避けて天国に入っていくことができるスタートラインであるということです。分かりますか? (「はい。」) 交差結婚を志願する世界です。怨讐と交差結婚するのです。それでは、神様が怨讐を愛される最終着点とは、どこなのでしょうか? それは、怨讐同士で結婚することができれば、そこが地上、天上天国に裏返されて、神様が自由に活動されることのできる解放地帯となるのです。 ですから、一九八八年に交差結婚をしたのです。日本と韓国が交差結婚しましたか、しませんか? (「しました。」)そのような伝統をつくってきたのです。今から、そのとおりにしなければなりません。 第四次アダム圏時代が来たので、アダムの七代の孫を中心として、自分たちで結婚することができる時になり、超民族的に、超国家的に、地上、天上天国にいる先祖までも合わせて結婚させてあげる時になりました。 そのことによって、怨讐をなくすための交差結婚をして、愛によって抱くことのできる世界となり、歴史を通して怨讐視していた宗教同士がお互いに愛することができる、神様の一方通行の世界になるのです。サタン世界はありません。そこから天国が始まるのです。二つの国が交差結婚するときには、その国が一晩のうちにさっと天国に入籍するのです。復帰が簡単です。分かりますか? 国連さえ公認すれば、交差結婚はわたしに任せなさい、というのです。三か月もかかりません。全員、説得して行うのです。そのような能力があると思いますか、ないと思いますか? (「あると思います。」)ええ、何ですか? (「あります。」)なければどうしますか? (「あります。」)ああ、それは、入籍したあなたたちがするのでしょう? メシヤは必要ありません。結婚して入籍し、神様がエデンの園で祝福したアダム家庭の代理家庭が、このように数万家庭、数十万家庭もいるのですから、心配することがありますか? 今、お父様がメシヤとしての責任を果たさなくても、完全なアダム家庭で願っていたアダム家庭の種が皆さんの家庭なのですから、それを砂利の畑に植えれば、砂利の畑に相当する実が、肥沃な畑に植えれば、肥沃な畑の百倍、千倍、いくらでも実を結ぶことができるのです。そのように結ばれた価値の基準に合わせて、倉庫に納められるのです。 そして、主人が納めた順番どおりに使い、売るものは売り、使うものは使い、還暦の祝宴、誕生日の祝宴、息子の祝宴にも使い、貴いものは、皇室の皇太子と王妃の祝宴に使う贈り物として天地の前に植えるのです。それが、王の基地をつくって、王族を植えることであるということを知らなければなりません。 ですから、これからの皆さんの努力いかんによって、自分たち夫婦が、どれくらい国民を吸収し、国土をたくさん拡大したのか、ということが決まるのです。 真のご父母様は、天地を代身して、そのようなことを成したのですが、あなたたちは、真のご父母様よりも劣っていなければなりませんか、優れていなければなりませんか? (「優れていなければなりません。」) 父母の愛を中心とした主体的な願いは、相対が自分よりも何万倍、何億万倍優れていることなのです。ですから、女性が結婚するときに、夫が自分よりも劣っていることを願う女性は一人もいません。いるとすれば、それは動物と同じです。 それゆえに、愛の相対は、垂直関係においては自分の相対であり、夫と妻です。夫と妻においては、縦的な基準において息子、娘なので、息子、娘が父母の何千万倍りっぱであることを願い、妻は夫が、夫は妻が自分よりも何千万倍りっぱであることを願うのです。 ですから、願いどおりになったのに、それでも不平を言う女性は”地獄行き”であり、そのような男性も”地獄行き”です。息子、娘を中心として、不平を言ってはいけません。いつでも抱きかかえ、息子、娘が地獄に行けば、”ついて行って、天国まで連れて行きたい”と思うのが、父母の心情であり、そのような縦的な心情的伝統こそが、父母の心情の中でも母親の心情なのです。 お母様を愛していますか? (「はい。」)ここにいるお母様は、だれの代身なのかというと、王妃の代身であり、おばあさんの代身であり、母の代身であり、自分の娘の代身であり、それから……。これはいくつですか? 王、おばあさん、母、夫人、娘、その次はありませんか? (「姉です。」)それで、全世界の女性が全員入るでしょう? ですから、統一教会に入ってきて先生に出会えば、王も嫌だと言い、おじいさんも嫌だと言い、父も嫌だと言い、夫も嫌だと言い、息子、娘も嫌だと言って、大騒ぎするのです。それで追い出されて、行く所がなくて、先生のおしりについてきた人が女性たちです。分かりますか? 「女性」という言葉は、自分の立場から”あなた、さあ受けてください”という意味で女性というのです。そのようにささげるのが女性です。ありったけのものをささげて、願うことは、愛だけです。本然の愛を引っ繰り返して打ち込んだエバの願いは、神様の愛に接ぎ木されることなので、”どうか、どうか、私の忠誠を尽くし、あらゆる精誠を尽くしますので、どうか愛だけは、私に残してください”というのが、エバの願いであり、新婦の願いなのです。 ですからキリスト教は、「主よ、新郎よ、早く来てください。」と言いながら、二千年間、それを願ってきたのです。ところが、新郎に正しく侍ることができずに失ってしまいました。 キリスト教は、道を間違えたでしょう? なぜですか? 驕慢だからです。神様は、地獄に行った人たちまで観察しながら、ご自分の愛する息子、娘を犠牲にして働いておられるのに、自分たちが天下で一番だと思いながら、「世界の人たちは地獄に行かなければならない。 仏教も怨讐であり、何々教も怨讐であり、統一教会はひどい怨讐だ。あの統一教会をたたきつぶせ。火をつけてしまえ」と言って、あらゆることをしたのです。 では、たたきつぶそうとして、先生がいなくなりましたか? たたきつぶそうとしても死ななければ、自分たちが死体になって、先生がそれを踏み越えていくのです。先生を打てば、皆、滅んだのです。分かるでしょう? (「はい。」) 霊界の神様を中心として、興進君以下の全体が、秩序整然と一つに統一された立場で、神様が願われる、復帰完成した真の父母の道理による心情一体圏世界を成し遂げるのです。(「アーメン。」)ここで、「アーメン」と言うのですか、言わないのですか? 「アーメン」ですか、「ノーメン」ですか? (「アーメン。」)大きく言ってください。後ろの方は黙っていて、ここにいる聖子のりっぱな女性たちが答えています。「アーメン」ですか、「ノーメン」ですか? (「アーメン。」) そして、今から精誠を尽くして祈祷しなければなりません。一人で暮らすことはできません。今からは、そこで教育することができる巡回班を中心として、母親が「来なさい。」と言って、「釈迦の歴史を解いてあげよう。」と言えば、霊界でその内容を答えなければなりません。 それで、きょう、ここに関係している教区長を中心として、アウグスティヌスを呼んで、姜賢實シルさんも十四の質問をし、教区長も質問し、「全員が質問することができる問答文をここに残しなさい。」と言ったのですが、宗団長たちが来ていませんね。分かりますか? 訓母様ですか? 訓母様は、ここに相対することができる教域長かだれかを代表として組ませ、聖アウグスティヌスが答えたと同じように、孔子なら孔子を呼んで尋ねてみて、霊界がどのようになっているかということを証しすることができるように、記録を残さなければなりません。 孔子を呼べば、孔子が見えるでしょう? 見えますか、見えませんか? (「見えます。」)見えるのなら、ひげが生えていますか、いませんか? (「孔子はひげを生やしています。」)ひげが生えています。顔が細長いですか、丸いですか? (「少し長めです。」)孔子が来たのですから、分かるでしょう? そして、本当に来たのか、孔子の妻も尋ねてみて、それから代表で管理する教区長が尋ねてみて、霊界で祝福を受けたことが……。 釈迦は何をする人で、孔子は何をする人で、イエス様は何をする人で……。すべて尋ねてみて、記録に残さなければなりません。今晩、それをするのです。わたしは、いなくてもかまいません。わたしは、すでにすべてを伝授してあげました。 今からは、真のご父母様の世話になるということは考えず、真のご父母様を呼んではなりません。国さえ取り戻せば、真のご父母様を愛するように、自分の夫を真のご父母様のように、真のご父母様以上に愛さなければなりません。 「カンナ(韓国語で女性のこと)」とは何ですか? 「シジプカンナ? (「嫁に行ったのか?」という意味)」ということです。氏族の家門から戸籍を抜いて他の所に行くので、父母の戸籍以上に輝く実を結ぶことを願うのが、父母の事情であり、一家、一族の事情なのです。 ですから、夫の家族を救ってあげるのは母親の責任です。新婦の責任であるということを知らなければなりません。七代の女王のふるまいをし、七代のおばあさんのふるまいをし、七代の母のふるまいをし、七代の妻のふるまいをし、七代の息子、娘の母にならなければならないのです。そのようにせずに、遊び歩こうという女性たち。最近の韓国の女性たちは、遊び歩き、浮気をし……。 「夫がそうしたので悔しくて……。夫が一度したのならば、わたしは四度しよう。」と看板をつけて、インターネットか何かで親しくなって、フリーセックスに走るような者たちがいます。そのようなことを拡大させているというのです。これをすべて抜いてしまわなければなりません。 母親たちが責任を果たせないので、そのようになるのです。夫が愛に酔って身動きできないようにして、五時前に、四時半になれば、飛んで帰ってくるようにしなければならないというのです。 そして、「なぜ、こんなに早く来たのか?」と言えば、「ああ。 あまりにも会いたくて目玉が下に落ちて、鼻がつまり、口がくっついてしまい、耳がふさがり、五感がすべてストップして死にそうで、地獄でもこれほどの地獄はないので帰ってきた。あなたの顔を見れば、太陽の光のように輝き、暗闇も逃げていくような喜びがあるので、こうして帰ってきた」と言えば、うれしいと思うでしょうか、喜ぶでしょうか? 喜んで、「神様、私の夫が時間を守らずに、申し訳ありません。お赦しください。その代わりに、時間を三十分守らなかったので、三十分間以上、積極的に夫や子女以上に愛します」と言って、母親の代身にもなるのです。そのようにして、夫の代身となり、おじいさんの代身にもなり、王の代身にもなろうとすることができるようにしなければならないのが、母親の責任です。女性の責任です。分かりますか? (「はい。」) この女性たち、先生の言うことをきちんと聞きましたか、聞いていませんか? (「聞きました。」)霊界もすべて聞いているのです。うそを言ってはいけません。きちんと聞きましたか、聞いていませんか? (「きちんと聞きました。」) 今までは、先生のために生きようとする時代でしたが、夫のために生き、自分の国のために生き、自分の子女のために生きることを、先生の言うことよりももっと重要視することのできる実利時代が来たのです。分かりますか? (「はい。」)実利時代です。 アメリカは、目に見える実益ばかりを追求してきたので、神様まで失ってしまい、肉体と物質を重要視しながら、個人主義を絶対思想とすることによって、悪魔が定着する停留所になっています。これでは、すべて地獄に行くのです。これを、すべて壊して復活させなければならないのが、女性です。女性が責任を果たすことができなかったので、そのようなことが起きたのです。 ハリウッドのよこしまな芸人たち、そのような、よこしまなものは、すべて……。 わたしの家庭の者を芸術家にしたのは、そのような者たちに手本を見せて、全員を教化するためです。興進の妻も、あさってには、またヨーロッパに行くのですか? 六か国で踊って帰ってくるのです。それを先生は、喜んで迎えてあげなければならないでしょうか、悲しんで迎えてあげなければならないでしょうか? 以前は、このような芸人たちは人並みに扱われませんでした。それを、わたしが解いてあげなければならないので、素質のある嫁や息子、娘が歌を歌い、毎日のように踊りを踊ることを許したのです。分かりますか? (「はい。」)分かりますか? (「はい。」) ですから、絶対愛の問題において愛を賛美するだけであって、愛を蹂躙する群れになってはいけません。薫淑スク、分かりましたね? 踊りを踊りながら、恋愛のようなことをしたら、すぐに首を切ってしまいます。分かりますか? 何のことか分かりますか? わたしの言うことが分かりますか? 舞踊家であるとか、舞踊をする人で、恋愛をするような者たちは首を切ってしまいなさい。分かりますか? そのような道理を立ててこそ、元に帰ることができるのであって、そのようにしなければ、道がふさがってしまいます。分かりますか? (「はい。」)自分たちも同じです。絶対純潔を守ることができる後輩をつくらなければなりません。宗教圏まで汚されてしまいました。それは、マフィアと同じです。 今、宗教が何をしているのか知っていますか? 世の中のマフィアたちは、隠れ住んで夜に歩き回るのですが、そのようなマフィアと組んでいることを、わたしは知っています。そのようなことがあってはならない、ということを知っているのです。よこしまな悪魔は、日陰の中からもなくすのです。 それゆえに、ここで言う「正午定着」という言葉は、”陰をつくらないように暮らしなさい”ということです。分かりますか? (「はい。」)夫をだまし、その国の主権者をだまし、天の国の王をだまし、自分の後孫をだまして覆い隠してはいけません。それが、あの世に行ってから白昼の下にあからさまになれば、恥の中の恥です。 さあ、ここに参加して、教育を受けて祝福された人たちは、”正午定着”です。正午になれば、陰がなくなるのです。 皆さん、東西南北の四方にも、前後左右にも陰がなく、”自分を思いきり持ち上げて、無限の世界に飛躍することのできる解放的な家庭をつくる”という信念を持って、今から新しく出発する、この時間とならなければなりません。 そのようにしなければ、霊界の先祖たちが先頭に立って、皆さんの家庭を好きなように蹂躙します。言うことを聞かなければすぐに連れて行かれます。病気を与え、薬を与える時が来るというのです。直結処分です。蕩減復帰はありません。 いくら先生が祈祷したとしても、すでにここから分家してお嫁に行ってしまい、戸籍が異なる立場に立っているというのです。 それゆえに、真のご父母様を訪ねる前に、自分の国を復帰すれば、その国によって夫を復帰し、子女を復帰して定着し、千年、万年、万々世の善なる先祖の出発を祈願するのです。それに支障がないようにするために、天上天下の数多くの国境を撤廃して解放し、きょう、五十年の峠を越えるのです。 五十の峠を越え、百年を中心とすれば半分を越える峠であり、過去を越えて、この国(韓半島)でできなければ、新しい天地の平穏な世界を中心として、南米で無限な地平線の国の地を中心として成すのです。 わたしたちは、そこに大移動していくことができるように、いつでも荷物をまとめておいて待っていなければなりません。そのように語ったことを皆、聞いたでしょう? 分かりますか? 分かりますか? (「はい。」) ここで一大勝負をして負ける日には、祖国光復の第一次イスラエルのように失われた人となるのです。そのようにならずに、イスラエルとともに、第二、第三イスラエル圏の基地として韓民族を立てるようになるのならば、韓国のすべての先祖たちも解放的な恵沢を受けて、天下の歴史世界の先祖たちの王となり、氏族の王となり、家庭の王となることができるのです。 これを失って、皆さんの後孫たちが皆さんの前に讒訴しかねない起源を残してはなりません。そのような決意を持って、断固として、「このことを、この期間に完遂して残そう」という心と体の決意とともに、家庭の決意が必要であるということを勧告します。分かりますか? (「はい。」) 完全に分かったという人は、手を空中に高く挙げて拍手。 (拍手)拍手をたくさんして、ぐるぐる回れば、これが踊りになるのです。 夫婦で愛し合ったあとは、布団をかぶって踊ってもかまいません。分かりますか? 妻が夫を裸にして肩に乗せて踊ってもかまわず、夫が重ければ妻が裸になり、馬乗りになって踊ってもかまいません。 それを神様がごらんになれば、直撃弾でめちゃくちゃに壊してしまわれるでしょうか、それとも、めちゃくちゃにするのとは反対に、その夫婦を持ち上げて、「天の国では見物できない装飾品ができた。」と言われて、天の玉座の横に立てておかれるでしょうか? どのようにされるか考えてみてください。 神様は、間違いなく、「ああ、わたしは初めて見たので、地上だけでするのではなく、もう一度、天上でもあなたが模範を見せて、天上の祝福家庭たちもそのようにすることができれば、わたしが万々世、喜びに満たされる。」と言われます。ノーメンですか、アーメンですか? (「アーメン。」) ほうっておくことがノーメンであり、アーメンとは、「ああ、良い」と引っぱることです。ノーメンですか、アーメンですか? (「アーメン。」)それは必要ないというのです。ノーメンも必要なく、アーメンも必要ありません。すべてのことが、それで万事オーケーだということです。 「オーケー」とは何ですか? 「オー」はオープンであり、「ケー」とは何ですか? キッチンです。食堂のおいしいものは、春夏秋冬、一年じゅう、いつでも食べたいと思い、おなかが張り裂けるほど食べたければ食べ、食べたくなければ食べず、願いどおりになるのが、自由解放の天国です。 天国はそうです。直感的に考えること、自分が願えば、すぐに現れるのです。直感を実際に現す能力の世界です。それは、どれほど自由で幸福でしょうか? そのような世界を自分が所有して、そのようにしたければ、先生が「してはいけない。」と言うことはせず、良いことをもっと良くすることができるものがあれば研究し、先生に悪口を言われても続けてどんどんする人は、貴重な立場に立つようになるのです。釈迦が額にダイヤモンドのようなものをつけていますが、天の国の先生の頭の上で、そのような存在になるかもしれません。 そのようにまでなったとしても、先生は、「早く、そのようになりなさい。」と勧告するのです。ですから、悪い先生ではなく、悪い父母ではありませんので、心配しなくてもよいです。良い父母、天上世界のすべてのものを相続させるために万全の準備をしているので、だれがそれを一等でもらっていくのかということを、先生は期待しているのです。 そのような先生であるということを理解して、先生を訪ねてはいけないというのです。分かりますか? 分かりましたね? (「はい。」) 今ではもう、救援摂理は終わりました。神様も訪ねてはいけないというのです。入籍したのに……。神様の代身として、救援摂理の救世主の代身として、千世万世、息子、娘を正しく育てて、天国に連れてきてください。天国に連れてくることができなければ、父母を追及します。 このように、み言を通して邪悪な世界から抜け出す道理をすべて教えてあげたのに、この父母が責任を果たせずに、自分たちの息子、娘が責任を果たせなければ、それは、父母に責任を追及することができるのです。 神様が創造した責任を負われ、アダムとエバの代わりに、責任を持って復帰の役事をしてこられたので、あなたたちが失敗すれば、永遠の後孫を中心として、「お父さん、お母さん、何ということですか? なぜ、このようになるようにしたのですか? ほかの人たちは、あのようになっているのに。真のご父母様が教えてくださったみ言を踏みつぶしておいて、どうして幸せに暮らせるというのですか? 何回か呼吸して終わってしまうような、短い瞬間の人生に何の未練があって、このようにしたのですか?」と讒訴するのです。 そのような後孫と顔を向かい合わせて暮らしながら、どのようにして、それを避けるのですか? この上なく悲惨であり、この上なく無念なことが起きるということを心配して、このような警告をするのです。 きょうの記念日に、霊界でもそのような決意をするので、その霊界よりも、もっと決意することができる祝福家庭となることを願い、主体的家庭の責任を完遂することを願って、み言を終わります。(「アーメン。」) さあ、そのように理解して、霊界が、ためらうことなく統一された行動をして地上にまで臨み、祝福を受けた家庭、後孫までも管理して脱線しないように防御してくれることを願います。 (終)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.30
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神様の摂理と超現実的な冒険性1956年12月2日(日) 本部教会 祈祷(Ⅰ) 天上に徹した恨みの垣を壊してあげなければならない使命を担った全人類のため、今日まで苦労の歴史を展開してこられたお父様! 今私たちは心から、天の恨みの垣を壊してあげるべきであることを知り、その恨みを地上で解くことによって天上と因縁が結ばれるということを、御言を通してよく知りました。 今日の私たちをお父様が呼んでおられるということを忘れないように導いて下さい。今日を生きていく私たちを、お父様を代身した存在として、全人類の前にお父様の息子・娘として立てて下さいましたので、私たちの体からお父様の栄光だけが現れるように許諾して下さい。私たちの動きからお父様の善と義だけが現われるよう許諾して下さい。 そうして、私たちが集まった所々ごとが、お父様の愛を中心として和動できるように、お父様に栄光をかえす勝利の歌が天地に満ちるように許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 天はこの時間も私たちを忘れないで呼んでおられるし、私たちに対して願われる御旨を命令しておられますので、それに応じてお父様の前に和動の祭物として出られる自体になっているかを思う時、まだそのようになっていない未熟で不完全なところにいるということを許して下さい。 私たちが心を開けて再び悔い改め、祭物になることによって、天上に徹した恨みが私たちによって解けられるよう許諾して下さり、そのような喜びの一日を迎えることができるあなたの息子・娘になるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 終末の最後の垣が私たちの前に遮られており、生死をかけて戦うべき路程が残っておりますので、この戦いの路程で天の恨みを抱えて倒れてしまう卑屈な者たちにならないよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 この身も心も、もう覚悟したところがあって祭物として捧げようとしますので受けとって下さい。捧げられた祭物としてすべてのことをお父様に委ね、お父様から命じられることを喜ぶ息子・娘になるよう許諾して下さい。 お父様、この時間は尊い時間でございます。この日は尊い日でございます。お父様、この年が尊い年になるよう許諾して下さり、この民族を代表して集まったあなたの子女たち、集う所々ごとに祝福して下さい。天に隠されていた聖霊の炎を燃して、終末に約束された聖霊の役事をみせて下さい。水を注ぐように注いで下さい。お父様、恨みの垣を壊すことのできる子女が多くなるよう許諾して下さい。そうして、集まる所々が、隠れた祭壇になると同時に、現われる祭壇になって、宇宙的な戦いから勝利できるよう導いて下さい。天の直接的な命令に従って、宇宙的な戦いから勝利し、その勝利の烽火をお父様の前まで捧げることのできる私たちになるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 お父様、ここに集まったあなたの息子・娘たちを主管して下さい。今まででも自己中心的な考え方を持っている者がいるならば、そのすべて を捨てきるよう許諾して下さい。お父様の前に生きた祭物として捧げられるこの時間になるよう許諾して下さい。喜びと和動の恵みを共にすることができるこの時間になるよう許諾して下さい。 戦いに疲れ果て、傷ついた子女たちがおります。お父様、彼らを勧告して下さって、この時間の恵みが彼らの生涯を主管するよう許諾して下さい。生涯路程の基準を忘れないように、生命の刺激的な力と衝動が生じるように、隠されていたお父様の愛を体恤できるように許諾して下さい。そうして、私たちが感謝し、地上の千々万聖徒たちを和動させ、彼らによって天の前に感謝を返す勝利の祭壇を築くことができるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 現わそうとされる御旨、願われる御旨が、とるに足らない私たちを通してでも成されるよう許諾して下さることを切にお願いしつつ、すべてを委ねますので、お父様、主管して下さい。主の御名によって申し上げました。アーメン。 祈祷(Ⅱ) 天に代わって立ちましたが、お父様、私たちはあまりにも足りないのです。何もない私たちが、お父様の前に残されることを願っておりますので、この民族のためにためらわずに出て叫ぶことができるように許諾して下さい。今日この時間まで、人の知らない神様の心情に似ていくため、人の否認する御旨の道に従うため、いろんな面から傷ついた私たちを、お父様、かわいそうに思って下さい。 こっそり涙ながら天を怨む時もありました。遠くない希望の一日を私たちに約束されまして、御旨の最後の実を私たちに許諾されましたけれど、今日の私たちが堪え得ることができるかが心配になり、恐れる心だけです。 お父様、ここに集まって来たあなたの息子・娘たちを主管して下さい。身にも心にもあなたの喜びが現われるよう許諾して下さい。お父様の顕限と運行によって、私たちが持っている正しくない考えと主義と観念を取り除いて下さい。そうして、天に徹している恨みすべてが清算できる、感動の役事が発せられるように、お父様、許諾して下さい。 悔い改めの役事が私たちの心から生じるよう導いて下さい。能力の役事で私たちの体を打って、悪の要素は除かれ、善の要素だけが、永遠に実存されるお父様の前に現われるよう許諾して下さい。そうして、私たちが本質、本性でお父様の善へ答えることができ、お父様の愛と和動することができて、このような美がお父様から楽しまれると同時に、天の聖徒たちまでも私たちと和動して、栄光の歌をお父様の前に返すことができるよう祝福して下さい。お父様、切にお願い申し上げます。 この時間も、罪悪の暗闇が私たちを侵犯しようとしますので、力と能力を許諾して下さい。集まった子女たちが多ければ多いほど、その中にカインとアベル的な存在がいるということがわかり、私たちがカイン的な立場にならないよう許諾して下さい。 アベル的な祭物になって、自ら実体祭物としての責任を果たすよう許諾して下さり、アベルを代身としてカイン的存在をお父様の前に屈伏させることができるよう許諾して下さい。お父様の能力と権能の役事が、この時間全体の前に現われるように許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 お父様、今日私たちに与えられた使命が、私一人の救援と解放のため与えられたものではないということを忘れないように許諾して下さい。今日の私たちにこの民族の運命がかけられているということがわかるよう許諾して下さい。今日の私たちによって、全世界24億人類が、天地へ訴えの条件を立てることができるよう許諾して下さい。 お父様、荘厳で深刻な生死の道に立っている私たちが、右手は天を握って左手はサタンを打って、勝利してホザナの栄光をお父様の前に返すことができる時まで、お父様、守って下さい。 ここに集まった子女たちを主管して下さい。この中に、まだ悪の根を抱えて悔い改めることをためらう者がないように許諾して下さい。能力として現われて、心に抱えているすべての罪悪の根を除き、爆発させて下さい。 この時間、サタンのものはサタンのものに、天のものは天のものに分別して、聖別された喜びの祭物としてお父様の前に捧げられるよう許諾して下さい。 寂しいあなたの子女たち、新しい福音の御言をもって地方に散らばっているあなたの子女たち、天の前に祭物の道を代身することが難しいということをわかっておりますので、お父様、共になさって下さい。 時ならぬ時に、時の御旨をやるあなたの寂しい子女たち、サタンとの戦いで疲れることのないように許諾して下さい。今まで守って下さったお父様、この時間以後も守って下さる恵みを願っておりますので、どこへいてもあなたの御旨を代身し、あなたの徹した恨みを解くことができるよう許諾して下さい。私たちみんなが、私たちの生命を祭物として捧げても、お父様の恨みの心情を抱えて、天の前に感謝できるように、お父様から喜ばれる美の自体になって一日でも早く天の御旨を成就することができるように許諾して下さることを、愛なるお父様、切にお願い申し上げます。 今日、民族の代身としてお父様の前に集まった祭壇が多いのですが、彼らが御旨を知らないで悪の祭壇を築くことがないように、お父様、共になさって下さい。一人一人の心を合わせ各教団を合わせて、世界的な一つの勝利の祭壇としてお父様の前に捧げられるように、天のお父様の感動の役事を許諾して下さい。 この時間、すべてを主管して下さい。喜びの御旨だけが運行できるように導いて下さい。喜びの御旨だけを現わして下さい。切にお願いしつつ、主の御名によってお祈り致しました。アーメン。 祈祷(Ⅲ) お父様、この御言は再創造の御言です。お父様がエデンの園で、「善であろう、善であろう」と言われた、善の御言実体が地上にはないので、それを嘆いておられるということを知るものでございます。失われた善の御言をとり戻すべき条件が残っている限り、善の実体も探すことができないということも知っております。 お父様、善の御言を現わして下さい。とり戻された善の御言で再命令なさって、善の実体をなしておくことのできる、特別な再創造の歴史が私たちの中で行なわれるように導いて下さることを、お父様、切にお願い申しあげます。 御言をもって立ちましたので、伝える者と受ける者が一つになるように許諾して下さい。相対基準をとって、誇られる姿になる時、全体は彼を通して造られることができるという原則を知っておりますので、お父様、ここに立てたあなたの息子、娘を尋ねてこられて、御言の中心を立て、条件の役事を行って、サタンの権限に勝つことができるように許諾して下さい。私の体と心がサタン圏内にとられているならば、御言を通して分別して、お父様の聖別の印をもらうことができるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 その時は、多くの御言が必要ではありません。今まで私たちは、多くの御言を聞いて知っておりますが、お父様、自分の心が生まれ変わることのできる力が必要でありますので、力で役事して下さり、権能で役事して下さい。 悪のすべての観念を取り除いて復活できる生命を御言を現わして下さり、再創造の復活の歴史をつくって下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 何よりも、体恤的な心、体恤的な感じ、体恤的な観念、体恤的な悔い改めを通して、この時間、一つの美の完成を見たがっておられるお父様の心がわかることのできる者になるように導いて下さい。一つの祭物として捧げられる時間になるように許諾して下さることを切にお願いしつつ、すべてのことを主の御名によってお祈り致しました。アーメン。 <御言> 今日の御言の中には、イエス様が最後の十字架を前において、大変冒険的な覚悟なさった御言があります。それで、今日皆さんと考えてみたい御言の題目は、「神様の摂理と超現実的な冒険性」です。 今日、信じている私たちは審判の日を前にして、絶えず戦いの路程を経ていきます。この路程は坦々たる路程ではありません。故に、皆さんが冒険的な中心を立てたおいて、残された宇宙の怨恨の審判を押し出すことのできる勝利的な中心を持てないと、皆さんは歴史路程の敗北者になり、生涯路程の敗北者になるのです。 最後の宇宙的な審判と自己認識 それゆえ、神様の摂理歴史は、冒険的に出発して冒険的な終結を予告する摂理歴史であるということを皆さんは忘れてはいけません。 今日、私たちが自由に信仰生活ができるいろんな条件と環境は、皆さん自身が成したものではありません。私がこのように自由な立場で神様を呼び、自由な立場で信仰生活をすることができるようになったのは、先祖たちが数多い冒険の峠を越えてきたからです。皆さんはそれを知らなければなりません。そして、皆さんが生活や信仰路程からこれを胸深く感じることができなければ、最後の宇宙的な審判の峠を越えられないということをわかるべきです。 それよりまず、皆さんは、天が今日の私を呼んで立てられたのは何のためかというのをわかるべきであり、6千年の歴史的な恨みの峠を越えている私自体はいかなる存在であるかを自ら解明することができなければなりません。 さらに、今日の私は、サタンによって遮られた宇宙的な怨恨の峠を越えることのできる自由の中心をつくっておいたか、未来に残された怨恨の審判台を充分に越えることのできる勝利的な中心を持っているか等の問題を考えてみるべきです。今日の皆さんの信仰はどの段階に留まっていますか? 皆さんは、歴史的な、現実的な、未来的な過程を通して、全体的な天の摂理が完結されるまでが、天と結ばれている私としての過去、現在、未来のいろんな問題を考えなければなりません。 天が私を立てて、終末の全体的な使命を与え、私を立てて勝利の栄光を現わそうとされる御旨があるならば、その御旨は6千年の摂理の御旨に代わった御旨であるでしょう。そして、天の私を通して立てようとされる基準は、最後の審判の峠を越えることです。即ち、新天地の新しい基準です。 それゆえ、万一皆さんが永遠に生きていける新天地の基準と、勝利的な自由の環境を備えることができないと、歴史過程を経えてこられた神様の摂理の前に、皆さんは勝利者として立つことができないということです。 過去を振り返ってみる時、今日天が私を立てられたのは、私一人だけを救うために立てられたわけではありません。歴史的な恨みを解くための結実体として立てられたわけです。これを皆さんは忘れないで、アダムからの堕落の怨みを解いてあげるべきです。また、ノアの冒険的な恨みの心情とその生涯も解いてあげるべきです。 それ以来、アブラハムからイサク、ヤコブ、モーセなどの先知先烈が歩んでいった冒険的な生涯、その方たちが残して偉業を皆さんが引き受けて、それを一つの土台として未来に残された審判台を充分に越えることのできる中心を備えるべきです。そうしないと、サタンとの歴史的な戦いから販れるようになるということを忘れてはいけません。 冒険の道を歩んだノア これから、過去の私たちの先祖をふり返ってみましょう。まず、ノアの一生をみれば、それは平坦な生活ではありませんでした。神様から「120年後、世を水で審判するので、アララテの山の頂に箱舟をつくりなさい」と命令された時のノアの心情はどうだったでしょうか。12日間でもなく、12年間でもなく、120年間だったのだから………。アララテ山の頂に箱舟をつくれという御言は、その当時の現実とは合わない御言でした。 神様からそう命令されて、それを実行していくノアは、当時の状況からみると、気違いみたいな人であり、その時代には到底合わない人でした。神様からべらぼうなことを命じられたノアは、心から堅い覚悟と決心をするようになりました。そして、一日でもない120年という期間を、ある一日に向かって生活したわけです。そのようなノアこそ、1600年の歴史路程になかった、1600年歴史に代わって天の前にたてられた冒険的な先頭者であったということを知らなければなりません。 そうして、堅い決心を抱いて、下された命令を変わらない約束の御旨として信じていくノアには、世の人たちから何と言われても、神様の主管がどうなっても、そのあらゆる条件は問題にならなかったのです。すでに、御旨のために出発した基準、死を覚悟して始めた彼の足取りの前では、そのすべてのことが何の問題でもなかったわけです。それでノアは、120年という長い期間の苦難の路程を黙々と歩んでいかれたのです。 そのようなノアには、家庭的な非難があったはずです。社会的な非難も大きかったと思います。しかし、人の知らなこ、人の行かなこ、1600年歴史過程の中で誰も行ってみないその道を、天の道を打開するため歩き出したノアだったので、誰もそれを止めることはできなかったわけです。ノアは、当時の社会環境や世の人たちから何といわれても、それに対して堂々と勝つことのできる冒険的な人であったということを皆さんは忘れてはいけません。 そうしてノアは、自分の前のいかなる苦難も必ず乗り越えて、120年後にはアダム家庭が失った復帰された一つの家庭を立てたわけです。ノアには、このような歴史的な事情がありました。 アブラハムもやはり同じです。神様からハランから離れるように命令されたアブラハムは、それが簡単な問題ではなかったのです。住みなれた故郷から離れることを命令された時、アブラハムの心情は実に複雑でした。人間的に思うと有りえないことだったのです。 しかし、神様から命令されたアブラハムはそのすべてを超越しました。家庭を超越して、今までの暮しすべてを放棄して命令に従いました。このようなアブラハムの歩みこそ、当時の現実では有りえないことでした。御旨を感じる人、御旨を知っている人があったとしても、誰がアブラハムの側になって、「正しいです。あなたがいく道は正しいから私を導いて下さい」と言えるでしょうか? アブラハムは、世の中からどう思われ、御旨に対する一片丹心で、永遠にハランを離れる心情で出発したわけです、そうして、天の導き通りにいく時、いかなる冒険が待っていたとしても、死の峠が遮っていたとしても、忍耐しつつそれらを乗り越えていきました。 アブラハムの超現実的な信仰 神様は偶像商であるテラから、その長子アブラハムを奪い出して、そのような立場に立たせたのです。そのように立てられたアブラハムは「これから私が行く道を、私の愛する父母が、友達が、兄弟が、その誰がひきとめても,私の中心は変わってはいけない」と確固な覚悟をしました。それだけではなく、アブラハムは祝福を成すため、100才にやっと得たイサクまで燔祭として捧げることを命ぜられた時にも服従しました。その命令は歴史上になかった、一つの冒険的な条件になる命令でした。それは、天と地に代わって、天上のことや地上のことなど、すべてを左右する条件であったが、これを知らなかったのにもかかわらず、アブラハムはイサクを祭物に捧げようとしたわけです。 愛する息子を祭物にして、刃をもって刺そうとしたアブラハムを、皆さん、考えてみなさい。これは実に、超現実的な意識でした。その当時の誰が、そのようなアブラハムの信仰を認めてくれることができたでしょうか。アブラハムが提示したこの冒険的な行動は、即ち、アブラハムとその家族が天のものであるので、アブラハムは勿論であり、彼の家族とすべての所有物までも神様の命令に従わないといけないということを現わす行動でした。このような事実をアブラハムは、一人しかいない息子を燔祭として捧げる過程から悟りました。 それでアブラハムは、「この息子は私が産んだんだけれど、あなたのものですので、あなたに捧げます」という心でイサクを燔祭し、現実的な環境を打開したわけです。このような先祖たちの信仰の中心を皆さんは悟るべきです。 ヤコブもやはりそうだったし、モーセも同じでした。神様は彼らを立てる時、平坦な道を歩むようにはしなかったわけです。 ヤコブは生まれた後、エソウから長子の嗣業を奪う争いをしなければならなかったし、モーセも生まれながら戦いの条件にかかっていました。 冒険と革命の道を歩んだモーセ モーセは、イスラエル民族が、エジプトで400年間の苦役を経ている時、天から立てられました。そして、パロの押政下で3カ月間は母の保護を受けた後、パロの娘に引きつれられ宮中に入り、40年を送りました。皆さんは、モーセのパロ宮中での生活が贅沢でいい環境であっただろうと思うかもしれません。 しかし、御旨を知るモーセは、エジプト宮中にいながらもエジプトの民族ではありませんでした。イスラエルを代表した、神様の選民であるということが、日に日に彼の胸に徹したのです。そうして、40年間をイスラエルの志操を抱いて暮らしたモーセが宮中から出た時、イスラエル人がエジプト人からやられるのを見て、どうしても我慢できない義憤心が爆発されてエジプト人を殺したわけです。 その後、パロ宮中から出て、残されたイスラエルの祝福の御旨を抱いて、ミデヤンで牧者生活を始めました。それは楽な生活ではなかったのです。その時のある一人も、それほど楽なパロ宮中を捨てて牧者生活をするモーセを理解してくれなかったのです。しかしモーセは失望しないで、天のための人知らない祭壇、イスラエルのための祭壇を築いてきました。このようなモーセだったので、80才になった年、神様は彼を選んで、民族の恨みを解くことのできる主人公として立てたわけです。 その後、モーセが歩んだ道はすべてが冒険的でした。現実を超越した神様の摂理の中心を抱いたが故、彼の生全体が超現実的だったし、望むことも、出て戦ったことも超現実的でした。 神様の命令を受けて、モーセがパロ宮中へ入る時、神様が命令した道を行くモーセを、祝福し守って下さるべきなのに、神様はかえって、モーセの行く道を遮って殺そうとされました。どうして神様は、御自身の命令を受けて行くモーセを遮って殺そうとされたのか? 現実的では有り得ないことでした。ここに、私たち人間が知るすべもない内容があるわけです。 現実的に思うと、とても越えられない峠でした。しかしモーセは、すでに覚悟したので、生死はどうであれ、ひたすら御旨だけがなされることを願う心情で、神様とサタンが妨げる試練の条件を越えたわけです。そうして、パロ宮中で超現実的な神様の実存を確信し、10回以上の奇跡を行なったモーセは、4千年歴史上になかった宇宙的な冒険の革命家であったということを、皆さんは知らねばなりません。このようにモーセは、どんな人の反対にも屈しないで、御旨に対する超現実的な信仰をもって60万イスラエル民族を導きました。これを見る時、モーセの全生涯は超現実的な冒険の行程であったということがわかります。 冒険の歴史を覚悟されたイエス 民族復帰の代表者であるモーセの後、世界復帰の使命者としてこられた方がイエス様です。イエス様は、過去4千年の歴史の中で、数多い先知先烈たちが神様の御旨をなすために、超現実的な生活をやってきたということをわかりました。そして、先知先烈たちが成し遂げられなかった御旨を完成すべき責任が自分にあるということを切実に感じました。 歴史をふり返ってみたイエス様は、多くの先知先烈たちの恨みが残されており、未だに復帰摂理が終結されていないということを悟って、その終結を覚悟したわけです。 家に、4千年の路程を開拓するための、超現実的な冒険の路程を歩む覚悟でした。多くの先知先烈たちの冒険的な歴史を総合したことよりも、もっと歩むことを覚悟したイエス様であったわけです。 イエス様は、宇宙的な冒険の歴史を清算すべき使命を担った故、彼は生まれながら冒険の道を歩まれました。彼の生活はやはり超現実的な冒険の生活でした。そして最後には、十字架にかかる死の道までも超現実的な冒険の道であったわけです。 それでは、イエスの生涯は何を根にした生涯だったのか。4千年歴史を総決算する生涯であって、その時まで天の恨みに徹した冒険的な路程を総決する生涯、新しい勝利の土台を成すための、地上にない超現実的な勝利の生涯でした。 マリヤとヨセフの従順心 皆さんがわかるべきことは、イエス様が処女マリヤの身から生まれたということです。冒険的な生涯をもって来られるイエス様の前に、聖母マリヤのような人がいなかったら、神様の御旨はどうなったかわかりません。聖母マリヤのような処女マリヤが、即ち、天の女性がなかったならばイエス・キリストは生まれることができなかったわけです。地上にマリヤのような冒険的な祭物の土台がなかったとすれば、冒険的な路程を経て、新しい生命をもって生まれるべきだったイエスの誕生はあり得なかったということです。 マリヤに天使が現われて、「あなたは身篭って男の子を産むであろう」と言った時、マリヤは、「私が男を知らないのに、どういうことでしょうか」と聞きました。天使は再び、「万能の神様があなたを選んだ」と言いました。その時マリヤは、「主よ、私は僕でありますので、御意通りにして下さい」と答えました。この一言が宇宙的な冒険を表わす言葉でした。 その当時、処女で妊娠すると、モーセを通して立てておいた律法によって、直ちに石を投げられ死ぬことになっていました。それを知りながらも、マリヤは現実の環境を越えて、「主よ、御意通りにして下さい。女僕であります。私は死んでものあなたのものであり、滅びてもあなたのものでありますので、御意通りにして下さい」と言ったわけです。天はこのように、地上に、生きた実体的な祭物のマリヤがあったからこそ、イエス様を誕生させたわけです。 それだけではありません。皆さんが今日信じていく信仰生活の中でも、皆さんが知らない冒険の道がたくさんあります。自分の婚約者が身重になったことを、夢を通して予告されたヨセフは、人間的ないろんな悩みのためマリヤと離縁しようとしました。自分と婚約した処女が身重になったという事実は、ヨセフにいろんな人間的な悩みを与えたわけです。しかしヨセフは、すべてのことを自分が責任をもって、マリヤを助けようとしました。それは、易しいことではありませんでした。超現実的なことだったのです。 それゆえ、今日の皆さんには、ヤコブが歩んだ道、ヨセフが歩んだ道に従うべき使命があります。イエス様が歩んだ道、マリヤが歩んだ道に従うべき使命が残っているのです。したがって、このような超現実的な場面が、超現実的にしか通じない冒険的な峠が皆さんの前に立ちふさがっているということを、私たちはわからなければなりません。 誕生から超現実的な冒険の道を歩まれたイエス 4千年歴史の悲しみを抱えて、死んでも生きても、専ら御旨のために祭物として捧げられることを覚悟して出たイエス様を、人たちは知りませんでした。彼が万民の救い主メシヤであることを知らなかったわけです。こんなことをみると、イエス様は誕生から超現実的であって、新しい理想的な冒険の生涯を送りました。今日これが、未完成のまま、再臨の時に要求される御旨として残されているということを、皆さんはわからねばなりません。 イエス様の生涯をみると、ヨセフとマリヤの家庭で育っていた時から、御旨に対する憂いと心配がありました。弟たちから非難も受けました。イエスの30年生活は、ヨセフがイエス様に対して持った、最初の心通りにならなかったのです。ヨセフが、イエス様より自分の実の息子をもっと愛したわけです。それゆえ、イエス様はやはり当時の社会形態に合う家庭環境ではなかったということをわかるべきです。 そうして、連れ子のように生き、十字架でなくなられるようになったイエス様のすべての生活は、超現実的な生活でした。そのような環境で、あらゆる家庭的な不和にぶつかりながらも、イエス様は黙々とそれを乗り越えました。ついには、御旨をもって現われて、万民のメシヤであることを証しするのもやはり、現実的ではありませんでした。 永い歴史を通して、ユダヤ教の信条として立てておいた律法の次元を越えて、新しい天の福音をもって現われたイエス様であったので、至る所々から歓迎されたことがなかったわけです。そうしてイエスは、家庭から、洗礼ヨハネから、ユダヤ教から否定され頼るところのない立場になりました。しかし、そのような立場でありながらも、御自身を慰めてくれるところを求めたイエス様ではありませんでした。 神様の御旨を知っているイエス様は、新しい新約の福音を宣布されました。初めて洗礼ヨハネがイエス様を証しした時は、ユダヤ教の祭司長たち、あるいは書記官たちから認められる環境だったのです。ところが、3年公生涯路程を経ながら、イエス様の位置はだんだん下がって、結局は漁夫や婦女者たちだけがついてくる立場に置かれたわけです。 神様の理念を立てるべきイエス様の前に、約束としては永遠な約束が、御旨としては永遠な御旨があるべきだったのに、現実からそれを、いくら探そうとしてもだめだったのです。荒野に5千名の群れを集めておいて、彼らのために天に向かって祝詞なさったイエス様の心情、ラザロの墓の前で切実に祈られたイエス様の心情は、地上の誰にも比べられない悲しい心情でありました。 4千年歴史上の数多い先知先烈たちが、神様の御旨のために冒険的な生活をし、悲壮な覚悟と内的な悲しみを抱いて戦ったが、イエス様の内的悲しみには比べることができません。イエス様は、4千年歴史のすべての恨みの心情を解いて、神様の内的悲しみの心情を慰めてあげるべきだったわけです。 イエス様に従った人たちは、ユダヤ人が歓迎する人たちではありませんでした。ユダヤ聖徒たちが認める人たちではなかったのです。 イエス様は、社会からも教会からも歓迎されなこを歩まれました。どこへ行っても、自由な環境ではない立場に置かれたイエス様だったわけです。 イエス様の悲痛な心情 モーセが、60万イスラエル民族をつれて出る時、彼の前には紅海が立ちふさがって、後にはパロの兵士が押し寄せてきました。モーセは、死を恐れる60万民族を代身して、そのような死の試練から充分に勝つことのできる一つの信条をもって戦いました。それは、60万民族を生かせる道であったわけです。 イエスが、5〇2〇で5千名の群れを腹一杯食べさせたのも同様です。日暮れ野に散らばっている群れを見ておられたイエス様の心情こそ、現実的では地上のどんな人からもみられない心情でした。イエス様は、このような心情をもって、お父様の前に訴えたので、冒険的な創造歴史をつくったわけです。 誕生から冒険的だったイエス様、生きながら冒険の道を歩んだイエス様、最後、十字架にかかるまでも冒険的な基準としてなくなられたイエス様であったことを、私たちは感じなければなりません。こんなことをみると、イエスの生活は、ただの微々たる生活ではなかったということがわかります。上品で格好いい、そのような生活ではなかったのです。 これから皆さんは、信じている自身を分析して、イエス様の生涯路程に合わせてみなければなりません。皆さんに、イエス・キリストの新婦になりたがる心があるならば、皆さんはイエス様の一生の冒険的な生活、ゴルゴダ山頂、蔑視と苦難の生活から十字架にかかるまでの運命の道、冒険的な死の道を行かれたその生涯をわからなければなりません。 実に、イエス様の生涯は冒険から出発して冒険で終わった生涯でした。新郎として来られましたが、寂しく死の道を行かれたイエス様、私のために亡くなられたイエス様、私を救うために亡くなられたイエス様の悲痛な心情を、常に私たちは心から感じなければなりません。 今日のこの終末に、皆さんがイエス様に捧げるものがあるとするならば、それは何であろうか。生涯を冒険的に送ったイエス・キリストのはがゆい心を胸に抱いて、全世界に対して、天地に対して、誰よりも立派な祭物、天地どこからも探すことのできない唯一の宇宙的な冒険の祭物になることです。 それゆえ、これから皆さんは、歴史過程を経てこられた神様の恨みの心情を悟って、僕のところから上がっていくべきです。楽なところから何かをしようとしてはいけません。御旨のため死ぬことができる心情をもって生活しなければなりません。考えてみなさい。地のために死んだイエス・キリストが、地に対して怨んだら、彼以上に怨むことができる人はいないわけです。 しかし、イエス様は御自身のために来られたわけではありませんでした。まずは、歴史のために来られ、イスラエル教団のため、イエスラエル民族ために来られました。従う弟子たちのために、民族と国家、世界、そして天宙のために来られたわけです。彼の一生は、民族と国家、世界、そして天宙のための一生であって、死までも自分のための死ではなかったのです。 ところが、このようなイエスの歩みを、誰も正しいと言わなかったのです。死にいたっては愛する弟子たちからも裏切られ、一人になってすべてに責任を持たざるを得なかったイエス様を考えてみなさい。万一人間に対して悲しんだり怨もうとしたら、地を叩きながら泣いても30年生涯の恨みが解けきれないし、受けた苦難を補償されるすべがないわけです。しかしイエス様は、当時の人類がサタンの主管の中で苦しむことを心配され、哀れみの心情で、十字架の死の立場からも、裏切った民族、裏切った弟子、裏切った全人類のために祈られた方でした。悲しみのイエス様だったゆえ、その方は、この地上の先祖たちが4千年歴史を訴えても、その当時の全人類をあげて訴えても、彼らの友になることができたし、反対した民族のため、怨讐たちのために祈られることができたわけです。これは4千年の人類歴史上になかったことでした。さらに、これは天上と地上に徹した罪悪の垣を壊すための、宇宙的な行事でした。 イエス様が万民の王であるならば、皆さんは、その王の王妃になるため、彼の約束を信じ、すべてを御旨の前に捧げて生活しなければなりません。 イエス様は、そのような道を歩みました。イエス様の生涯は、そのような生涯でした。イエス様の所望は、御旨のために生き、御旨のために死ぬことでした。 先祖たちとイエスを見習って、冒険の道を歩むべき私たち それでは、今日の私たちがすべきことは何で、私たちがわかるべきことは何であろうか。死の立場に立ってでも人類のために祈られ、恨みの心情ですべての悲しみを担っていかれたイエス様を知ることです。地上に一つの御旨を立てておいて、冒険の道をいかれたイエス様の心を、私たちの心にし、イエス様の死を悟った今日の私たちが、宇宙的な冒険の道を通してイエス様の恨みを解いてあげなければなりません。 イエス様を信ずる人の中には、「お父様、福を下さい」と祈る人が多いのです。ところが、福をくれと祈る前、イエス様の悲しみを悟らないといけません。それだけではなく、イエスの生涯と十字架の路程までがわからないとだめです。人間がわからない、イエス様と神様だけが知っている、冒険的な行程の悲しみがあったということを、イエス様が話しきれなかった内的悲しみの心情を悟るべきです。 そうして、「主よ、あなたの恨みと歴史的なすべての恨みを私たちが解いてあげます。私たちを励まして下さい。歴史的な民族を通して成就されたかったその御旨をなすことができるように役事して下さい。私たちが、宇宙的な歴史を代身し、数多い先知先烈たちが残した恨みを解いてあげる冒険的な祭物として立つことができるよう役事して下さい」と言えるようにならねばなりません。 今日、私たちが願うところは、イエス様が地上に残した御旨を成就することです。最低のところまで落ちたイエス様の御旨を成し遂げるべき運命が、私たちの運命であるわけです。歴史は、個体の冒険的な路程を経て、家庭、社会、国家、世界を通して流れてきました。それゆえ、クリスチャンが個人の御旨を成そうとする時は、その個人も行程に冒険的な路程が与えられました。家庭もやはりそうだったし、社会も、国家も、世界も同様でした。今日、このような冒険的な関門が皆さんの前に置かれているということを知らねばなりません。ゆえに、今日の皆さんは、冒険的な生死の岐路、宇宙的な審判台の前に立たされている自分一身の冒険、自分一身の生命や民族の生命、世界人類を代身して冒険的な祭物として捧げられなければなりません。 そして、先知先烈たちが歩んだ生涯路程とイエス様が歩んだ生涯路程を、今日の私たちが、どんな時代や環境からも見習って歩むことができなければなりません。さらに、いつ誰からいかなる条件を提示されても、超現実的な自分を立てて、宇宙万象の前に訴えることができ、天上の御旨を代身した者として出ることのできる覚悟と自信を持たなければなりません。 冒険的な祭物として捧げられるべき私たち 再臨の日が近い今日において、皆さんは6千年歴史の最後に残された、一つの宇宙的で冒険的な責任を遂行しなければなりません。その責任が宇宙的であるならば、皆さんも相対的に宇宙的な存在にならないといけません。ここで、冒険的な内的覚悟を持って出るときこそ、その責任が遂行できるというわけです。 神様の御旨が、私たちの信仰生活とは違うように成されるとしたら、どうなるでしょうか? 今まで、超現実的な冒険の路程を通して神様の歴史は進んできました。 このような、宇宙的な関門を経てこそ、最後に勝利の旗をあげて、お父様の前でホザナの凱歌を歌うことができ、宇宙的な新婦の立場を代身できる存在になるわけです。また、そうできれば、いかなる条件にもかからないで、いかなる迫害と非難があっても、超現実的な冒険の基準を立てる天の王子になることができます。 そのような王子になる覚悟を持った者こそ、神様の摂理の御旨に対して最終的に責任を持ち、その栄光を現わすことのできる、キリストの新婦になるということを皆さんはわからなければなりません。お祈り致しましょう。 祈祷 歴史の曙の時、私たちが悲嘆の中にいても、その一筋の光りは、私たちの心と体に照らされているので、生命の跡を持っている者、生命の力を持っている者に、お父様、共にして下さい。 残された宇宙的な冒険の道を、今日のクリスチャンたちが歩むことができるように、お父様の役事を一日でも早く現わして下さい。 お父様、私たちの今までの信仰生活は、自己中心のものでした。いつ私たちが、イエス様のために、天のために冒険的な生涯を送ることを覚悟したましたか? いつお父様の前で、「冒険的な祭物になります」と祈ったのでしょうか? 今日ここに集まったあなたの息子・娘の中に、そのような者がいなかったら、お父様、悔い改めることができるよう許諾して下さい。天の摂理の前で恐れることを知らない存在にならないように許諾して下さい。そうして、宇宙に代わって冒険の道を歩もうとするお父様の前で、切に祈ることのできる私たちになるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 お父様、ここに集まってきたあなたの子女たち、超現実的な生涯を求めてきました。彼らの生活は、正常的な生活ではありませんでした。狂的な生活であるとすれば、それ以上に狂的な生活はないはずです。しかし、過去と現在と未来を通して見れば、それは狂的な生活ではないということがわかります。 このような、宇宙的な苦痛の道、宇宙的な冒険の道で、お父様の裏切る者にならないように導いて下さい。お父様、能力の御手を伸ばして下さい。イエス様が歩んでいかれた生涯は、私たちが見習って行くべき路程であることを知って、復活と蘇生の歴史を経て、新しい生涯の中心を持つように許諾して下さい。新しい生活の基盤を築き、新しい力で一つになって、天地から認められる路程を歩むことができるよう許諾して下さい。お父様、切にお願い致します。 今日伝えた御言が、集まった子女たちに生命の御言になるよう許諾して下さり、永遠なる勝利の祭物として捧げられるよう導いて下さい。彼らが訴えの条件を備えて、天上の恨みを解くことができる息子・娘になるよう許諾して下さい。切にお願いしつつ、主の御名によってお祈り致しました。アーメン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.28
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世の罪を担って行かれた神様の子羊を見なさい1956年11月25日(日)本部教会 祈祷Ⅰ 生命の復活を約束されたお父様、愛の恩賜を許諾されたお父様、永遠な生命を下さったお父様! 今日遠くにおられないで、私たちの心と体におられ、私たちの回りにおられるお父様! 私たちは、お父様の愛を慕う心を持っており、お父様の愛の中にいたい心を持っており、お父様の栄光を讃えたい心を持っております。 この時間、私たちに訪れて下さったお父様、お喜びになる栄光を現して下さい。そうして私たちも喜ぶことができる自体に化して、本心・本性で和動でき、万物とも和動できる栄光の雰囲気で、この時間各自の身と心を正しくさせて下さい。 約束のお父様! この時間働いて下さい。能力のお父様! この時間現して下さい。取るに足りない私たちでございますが、お父様の命令に従って出る時は、永遠な生命の路程を開拓することができる力が生ずることを知っております。愛のお父様! この時間ためらわないで、まず私たちの心を通して命令して下さり、私たちの体を通して命令して下さい。 造られた本来の形状を取り戻して下さい。そうして、その美しさをお父様が楽しまれることができ、天上天下の全被造物の前で堂々と誇られる息子・娘としてこの時間守って下さり、立てて下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 今日は聖なる日です。万民の命に対して責任を持つべき日であり、死亡圏の中の怨讐たちの手につかまれている多くの衆生たちの心と体を、お父様の前に導いてあげないといけない日でございます。 このことを責任持って役事される方がイエス様と聖霊でありまして、このことに協助してきた者たちが天上の千々万聖徒でありましたので、今日地上にいる私たちが武装して、その一つの御旨の為に協助しなければならない、残された使命をわかるように許諾して下さい。 お父様! 残された使命を担当できない立場にいるとしたら、永遠の前から約束された祝福の御旨を私たちが心に保つことができるよう許諾して下さり、私たちを天倫の前に立たせて下さい。 悲しみを刺激させる哀れな息子・娘にならないよう許諾して下さい。 お父様が立てられたすべての御旨を、心と体を通してあなたから言われる前に成すことができ、あなたから要求される前に行うことができ、あなたから願われる前に実践することができる、あなたの息子・娘になるよう許諾して下さい。 お父様、まずこの民族を祝福して下さい。民族を代身した教団を祝福して下さい。ここに集まっているあなたの息子・娘たちを祝福して下さい。 このことを世界の多くの生命に予告して下さり、新しい生命の祝福を許諾して下さい。万民にお父様の御旨を悟らせて下さり、万民の生命の基地を高めて下さって、そこに平和を現すことができるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 今ひれ伏している息子・娘たち、新しい心でお父様から愛され祝福されることができる子女たちになるように、彼らの体がお父様から祝福された栄光の美とその愛の美を適えることができるよう許諾して下さい。 お父様の前にかなわない、お父様を悲しませる罪悪の苦い根を抱いている息子・娘がいるでしょうか? お父様、この時間働いて下さり現して下さい。そうして、直接的な御手で再創造の歴史を起こして下さい。 この時間集まった息子・娘たちにお父様の大なる恩賜を現して下さい。各地方でも寂しい祭壇を積んでいる子女たち、あなたの御言を証する息子・娘にも等しい恩賜としてこの時間役事して下さることを、私のお父様、切にお願い申し上げます。 各個人の心の主人になって下さり、各個人の体の本来の主人になって下さい。私たちの体を聖別させて下さい。許諾された恩賜をこの時間私たちに満して下さり、全体の頭々に臨んで下さることを切にお願いしつつ、すべてを愛する主の御名によって申し上げました。ア-メン。 祈祷Ⅱ 私たちを集める為に苦労されたお父様、今日私たちは集まって来ました。ひれ伏した私たちの心身が一つになって、お父様の命令に代身することができるよう許諾して下さい。ひれ伏した私たちの体が聖なる場にならなければいけないと思います。 長い間を嘆きつつ捜し求めた所望の姿が私たちであることを悟るようになって、お父様がどれほど哀れな立場でおられるかがわかりました。今までの摂理歴史をなさって来られながら、あらゆる侮どりを受けられたお父様の心情もわかるようになりました。 あらゆる侮どりを受けられたお父様であり、あらゆる苦難の中でも所望の息子・娘を願われ、忍び耐えて来られたお父様であることを思う時、私たちは本当に取るに足らない者たちであるということがわかってきます。しかしながら、その御旨の前に申し訳ない心情で、お父様の恨みを解いて捧げる為に出て来ました。 それゆえに、昨日も今日も闘いの路程を歩まねばならない立場にいる私たちであり、私たちが歩もうとする路程がひたすらお父様の栄光だけを思った路程であることをお父様は御存じであると信じていますので、この時間訪ねて下さい。天のみを中心として行うように導いて下さい。 信ずることのできないこの地上でお父様だけを信じ、頼るところのない地上でお父様の命令に頼ってこの場まで来ました。お父様、今日の 摂理を明日の摂理を心配していますので、今日の感謝の心が永遠なる感謝として、今日お父様を求める声が永遠なる声になるよう導いて下さい。万物と共に栄光の歌を歌える時まで守って下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、時は遠くないのに天から催促されているあなたの息子・娘たち、時が忙しくて催促しておられるあなたの心情も歯がゆく思われますが、暗黒と不信の世に立てられて新しいことを開拓しなければならない新しい時代のあなたの息子・娘も可哀想です。 お父様、この時間は安心して下さい。天の念慮が極めて大きいということがわかり、その念慮を私たちが代わりに背負って、残された復帰の御旨のため、あらん限りの力を尽くして闘おうとしますので、お父様、民族の悲しみと教団の悲しみが私たちによって慰められるようになることを願っております。 お父様、喜ぶことのできる一筋の生命の光に向かっていくことができるように、所々に散らばっているあなたの息子・娘たちを早く一つに集められて、勝利の祭壇と栄光の祭壇を、そして義の祭壇を築くように許諾して下さい。民族を通して、この世の人類を通してお父様のその一つの願いを成すことができるように許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 ここにいる子女たちの中で、まだサタンから讒訴される条件を持っていたり、怨恨の心情を抱いている者がいるでしょうか。お父様、どうかその様な子女がいないように許諾して下さい。いるとすれば、この時間能力の役事として、力の役事として彼らの心に悔い改めることができる感動の恩賜、復活の恩賜を許諾して下さることを切にお願い申し上げます。 残された時間も委ねますので、悲しみを除かれ栄光として私たちを主管して下さい。あなたが主張することができ、誇ることができる喜びの恩賜だけが私たちの全身に満たされるように許諾して下さることを切にお願い申し上げます。すべてのことを委ねましたので、引き受けて下さい。主の御名によってお祈り致しました。ア-メン。 <祈祷Ⅲ> お父様、命じられた御言によって、万民の前には乗り越えるべき峠が残されていることがわかります。今日私たちは、お父様の完全性の前で私たちの不完全性を除くため闘わなければならない立場におり、不変の真理の原則基準を越えなければならない運命が残っております。 今は宇宙の前に私たち自身を立てなければならない時です。完全なるお父様の性相に似て被造万物を主管しなければならない歴史的な運命が私たち一人一人に残されていることを思う時、今日の私は永遠なるお父様の嘆きを代身すべき私であり、永遠なるお父様の愛を証し、お父様の御言を暗い世の中に伝えて復帰の使命を担当しなければならない私であることがわかってきます。 ところが、今日まで信じてきた私たちの信仰生活はお父様に申し訳ない生活でしたので、この時間自ら悔い改めると同時に、自ら覚醒できるように許諾して下さい。 私たちが持っているすべての観念と主張と主義を、尊いお父様の御旨の前に出しておき、自分という実存を全くなくして、永遠な実存体である本性の自分を回復して完全なるお父様の品性に似るように導いて下さい。お父様の栄光に浸られる自分を回復しなければならない闘いの路程が残っておりますので、今日この闘いの路程から退く者たちにならないよう許諾して下さい。 毎日の生活を通して、そして生涯を通して、お父様の楽しみの栄光になることができ、お父様が取るに相応しい息子・娘たちになるよう許諾して下さい。 今は復帰の時期を反映する時であり、イエス様当時のように歴史的な審判の基準を越えなければならない時であります。ユダヤ教の前に新しい御旨を提示しつつ、ヨルダン川での証しの役事や洗礼をあげた洗礼ヨハネの役事が世界的に行われている時であることを思う時、洗礼ヨハネの使命が後孫である私たちの使命として残されたということをわかります。 今の私たちは、天倫の安息の基地を各自が備えて、洗礼ヨハネの証しによってイエス・キリストが罪とサタンの審判のない中でお父様の前に栄光を帰すべきであったその一つの善の園、みんなが手に手をつないで、一つになって歌うことができる一つの安息の園を建設し なければならないと思います。 この様な責任のため私たちを呼んで下さって、選ばれた者になったので、その御旨の前に悲しみと恨みを残す息子・娘にならないよう許諾して下さい。 洗礼ヨハネの失敗によって、解けられない恨みが歴史の中であるということを知っている私たちが天から呼ばれ、選ばれたので、今日の私たちがお父様の前に立って、宇宙の全体的な摂理の御旨を成し遂げることのできる摂理の土台を造成できるよう導いて下さい。そうして、完全な基地に立って残された使命を全うすることができるよう許諾して下さい。 今日の私たちが、尊いお父様の性相の前で自由の心と体で敬拝を捧げる資格者になっていないとするならば、まだ復帰の恨みを持っている自分であることがわかるように導いて下さい。すべてをお父様の前に出しておいて、喜んであなたを「お父様」と呼ぶようになる時、お父様! 愛の御手で私たちを取って下さって、お父様の栄光の子女であるという名分をもらうことができるよう導いて下さい。そうして、喜びの園で栄光を歌うことができ、宇宙に対してホサンナの勝利の栄光を歌うことができるように、来られる主の前に栄光を帰すことができる息子・娘になるよう許諾して下さい。切にお願い申し上げます。 歴史の恨みを解くため来られたイエス・キリストを、この与えられた日に思い出すことができるよう許諾して下さい。イエス・キリストの行かれた道がイエスだけの道ではなく、最後の日に私たちが行くべき路程であったということがわかる時、私たちの心が重くなり、体が屈服させられるのを感じておりますので、貴重な御旨の前で自ら身悶えしてでもこの御旨を成す為のお父様の忠臣になるよう許諾して下さい。お父様に対する誠心を備えた忠臣たちになるよう許諾して下さることを切にお願い申し上げます。 すべてを委ねますので、伝える者の心と受ける者の心が一つになるよう導いて下さい。この時間も疑う者の心を通してサタンが 役事することを恐れていますので、まずその疑いをなくすよう許諾して下さい。 自分もわからないうちにサタンの力が作用して、主の命ずる御言通りにならないで自ら暗闇の中へ引かれていく者がいるならば、哀れみの恵みとして悔い改めることができるよう許諾して下さい。 そうして、お父様の愛の中で、永遠な生命の理想を持つように導いて下さい。この時間、御言とともにお父様の生命の役事、愛の役事、権能の役事が現れるよう許諾して下さることを切にお願いしつつ、主の御名によってお祈り致しました。ア-メン。 <御言> 「世の罪を担って行かれた神様の子羊を見なさい」という題目でお話致します。 神様の摂理の目的と人間の使命 堕落があってから、イエス様が来られるまでの4千年の歴史は、善の歴史ではなく罪悪の歴史でした。多くの先知者たちがこの地上に来て、4千年間摂理の御旨に従って罪と闘ったけれども、残された罪をすべて精算することはできませんでした。それゆえ、罪と闘いながら失敗し、また失敗して4千年まで摂理は延長されて来たわけです。 神様の摂理の目的は、この罪を完全に精算することです。したがって、この罪が完全に精算される日までは、闘いの歴史、復帰の歴史は終りません。ゆえに、神様は愛する子女たちを摂理の人物として送るしかないわけです。 それゆえ、神様は御旨を成すために、堕落したアダム家庭の代わりにノア家庭を立てました。ところがノア家庭も失敗したゆえ、アブラハムとイサク、ヤコブを立てて、そして民族に代わったモ-セを立てました。その後、サウル王、ダビデ王、ソロモン王を経て、4大預言者と12小預言者を経ながら洗礼ヨハネまで来ました。 今、天の前に人間として成すべき使命が残っていますが、その使命とは何か? 人間の堕落によって罪の根を持って来ましたから、人間は罪の根であるサタンを屈伏させて、神様の前に善と栄光を帰すことです。このような人間たちを捜して立てるため、神様は4千年間役事してこられました。 イエス・キリストの苦難の原因 洗礼ヨハネの不信 では、洗礼ヨハネがこの地上に来て成すべきだった使命は何であったか? イエスを証しし侍ることでした。 イエス・キリストは堕落しなかった完成したアダムの立場に立てられたので、生まれながら天の前に栄光を帰すことのできる方でした。さらに、御自身によって神様から喜ばれる方でした。神様は、全人類とサタンの前に誇るためイエス・キリストを送ったわけです。 それゆえ、イエス・キリストは、最初から苦難の道を歩んではいけない方でした。生まれる時から、人間に代わって神様に喜びを帰す栄光の仲保者になるべき方であり、愛の仲保者、善の仲保者になるべき方でした。ところが、この様なイエス・キリストを地上の人間たちが捧げてあげなかったのです。 罪とは何の関係も因縁もなく、ただ善と喜びだけの生活であるはずだったのに、洗礼ヨハネがイエス様の前に責任を果たさなかったゆえ、サタンがイエス様を侵犯したということを、皆さんは原理を通して良く知っています。 では、最後の日におかれている私たちにはどんな使命が残っているのか? 洗礼ヨハネの使命を完遂すべき使命が残っているのです。すなわち、4千年歴史を代身して来られたイエス様の前に、勝利した栄光の息子・娘としてイエス様と共に喜ぶことのできる善なる人になるべきです。これが私たちの使命であるということを皆さんは忘れてはいけないのです。 神様の悲しみは、イエス様をサタンがあっちこっち引きずりながら試験した ことです。そして、イエス様以降2千年間サタンと闘うようになったのは、その当時のユダヤ教徒たちの不信と、新しい使命を持ってきた洗礼ヨハネの誤ちの為であったということを皆さんは知っているでしょう。 サタンを屈服させて罪を精算すべき人間 世紀末的な時期が再び目前に来ているこの時、皆さんは罪と闘わなければなりません。4千年間神様と闘ってきたサタンに対抗して闘わなければならなかった洗礼ヨハネの立場に皆さんはおかれているわけです。6千年を代身して、洗礼ヨハネを代身して闘ってサタンを屈伏させなければなりません。そうして、皆さん自身にはサタンの跡がないようにすべきです。その様な責任が皆さんに残っているのです。その責任を果たす皆さんにならないと、来られる再臨主は皆さんに会えないわけです。 もともと、神様の創造理想の園はサタンの跡のない園でした。それゆえ、神様の創造理想をこの地上に成すためには、私たちがサタンを屈伏させて、堕落しない完成したアダム級へ上がるべきです。神様の栄光を代身し、サタンの前に誇ることのできる姿にならないと、イエス様のサタンに対する恨みを解いてあげることができないのです。 人間の堕落のゆえに、サタンが人間を蹂躙し、地上を支配しているが、これを戻らせる為には蕩減の原則によらなければなりません。人間がサタンから蹂躙されたがゆえに、イエス様が、聖霊が、神様が協助してくれなくても人間自らの力でサタンを屈伏させることができないといけません。人間は、サタンが提示する罪の条件を克服しなければならないということです。そうしてこそ勝利の息子・娘になるわけです。 宇宙的なサタンと、一人で闘って勝利できる息子・娘にならないと、皆さんはイエス様とは何の関係もなくなります。 この様な道は、私たちには行かざるを得ない運命の道です。 生きているうちに行けないと、死んででも行くべき運命の道です。 イエス様も、生きて成すべき御旨が成されなかったので、死んででもその御旨を成す為、2千年歴史が経た今日までも御自身の実体を代身できる栄光の息子・娘を待ち望んでおられます。 これを思う時、6千年の歴史は栄光の歴史ではなかったということがわかります。神様の前の栄光の歴史ではなかったということです。そして、イエスと聖霊がサタンと闘っている限り、イエスと聖霊の御旨に従う息子・娘がサタンから主管されている限り、神様の創造本然の理念がこの地上で成されたとは言えないということを皆さんはわからなければなりません。 それゆえ、地上の恨みは神様の恨みとして残され、地上の恨みを解く為の新しい歴史は、神様、イエス様、聖霊、今日の信徒たちの十字架として残されるようになったわけです。 今まで私たちは、聖霊、イエス様、神様から守られ命じられながら生きてきました。しかし、これからの私たちは、“聖霊を慰めることのできる私、イエス様を慰めることのできる私、神様を慰めることのできる私”にならなければなりません。 聖霊の御旨とイエス様の御旨、そして神様の御旨はある個人に対する御旨ではありません。この御旨は、個人から世界、天上までもつながっている御旨です。この様な御旨に代わって、宇宙的な天の心情を慰めることができる宇宙的な息子・娘は誰なのか? 天はこの様な息子・娘を捜すため摂理してきたということを皆さんはわからなければなりません。 私たちは、この様に歴史の中の罪悪を精算するため、今日も明日も闘わなければなりません。生命を捧げてでも、越えるべき罪悪の峠に向かって、新しい覚悟で出て行くべきです。 イエス様が、ユダヤ教の律法主義者や数多くのユダヤ人から反対されながらも、その中心は変わることなく、天を証しされ、新しい洗礼を下さったように、今日の私たちもそうしなければなりません。今の私たちは、最後の段階に立って教派を超越すべきです。また、教派を超越すると同時に、世界人類の 全思想を超越して、一人ででもサタンに対して闘うことができる自体にならなければなりません。 そうして、皆さんが全サタンとの闘いから勝利できれば、天の栄光と喜びが皆さんと共にあるでしょう。 洗礼ヨハネの使命を代身すべき私たち 今日この時間にも皆さんの前には罪悪の垣が遮られているが、その垣はいかなる罪の垣なのか? 4千年間神様を愛した先知先烈を死なせた罪、イエス・キリストを十字架にかけた罪、その罪の垣です。それゆえ、皆さん一代でその罪が精算できなければ、皆さんは罪のない天国とは関係がなくなります。その罪悪の垣を壊すことができないと天国に入れません。これを皆さんはわかるべきです。 今日の皆さんが、神様の御旨に従って宇宙的な洗礼ヨハネの立場に代わって立っているとするならば、宇宙的な罪が観察できなければなりません。そうして、神様、イエス様、聖霊の今までの苦労と恨みを皆さんが慰めてあげるべきです。安息の日をつくる一人の姿が皆さんの中から現れないと、地上に主が再び来られても何の意味もないのです。 私たちはこの終末に、洗礼ヨハネを代身して罪と闘わなければなりません。6千年歴史に代わって、宇宙的な洗礼ヨハネの使命を代身しなければならないということです。さらに、それに加えて、イエス様の闘いの路程も体験しなければなりません。 イエス様が行かれてから、残されたものは十字架の道理です。洗礼の道理を通して、十字架の死の道理を経て永遠な勝利の基準を立てようとしたが、霊的にしか立てませんでした。 今日の私たちには、霊肉を合わせて、洗礼ヨハネ的な、宇宙的な、天倫的な使命を代身すべき使命があります。皆さんは、この地上に来られたイエス様が人間から栄光とされなかった恨みの心情を体恤して、その恨み を解いてあげるべきです。この様な使命が人間にあるので、イエスと聖霊は2千年間人間に対して役事なさいました。ところが、今日の信徒たちはこのような事実を知らないのです。イエスと聖霊を、ただ人間の為の僕として思い、信じてきました。 それではサタンは誰なのか? 天使長です。エデンの園で万物を支配すべき人間が、その支配権を天使長にとられ、行うことができなくなったことが堕落です。それゆえに、私たちは復帰の路程においてサタンまで支配する立場を経なければなりません。 では、その様な道を歩もうとする時、私たちはどうすべきであるか? 洗礼ヨハネが証した生涯、イエス・キリストの生涯を見習って歩めるようになるべきです。 罪悪の垣を壊す為イエスが歩まれた道 イエス様はこの罪悪の垣を壊す為どんな道を歩まれたか……。終末の皆さんは、自分の生涯路程において、イエス様が歩まれた道を再び越えていかなければなりません。 イエス様はサタンと闘う時、宇宙的な罪を取り除く為、その罪を攻撃する立場に立ちませんでした。イエス様は罪を除くため罪に対して攻撃する立場に立たなかったということです。罪を除くため、罪を屈伏させるため、その罪を引き受ける立場に立ちました。これがイエス・キリストの精神です。 罪は悪なるものです。創造の本性として持っている心があるのに、これに反する作用をするのが罪です。イエス様がこの罪を精算するため引き受けました。それだけではなく、イエス様が罪を引き受けたということは、個人から家庭、社会、国家、世界、人類、天上にいる霊人たちの罪までも引き受けたということです。創世以降4千年、歴史上の数多い霊人たちの罪まで引き受けたイエス・キリストだったのです。 はなはなだしくは、地獄にいる霊人たちの罪まで引き受けなければなりませんでした。なぜなら、 イエス様は完成したアダムの立場で来られたからです。アダムの堕落によって、その恨みが天上にまで及ぶようになったので、イエス様は、堕落によって発せられたすべてを引き下ろして埋蔵しなければならなかったわけです。 それゆえ、イエス様が新しい路程を開拓していくその生活は、サタン世界の生活とは反対でした。サタン世界の要素と本質には希望がないということをわかって、それに反して温柔と謙虚の道理を教えました。したがって、キリスト教の真理は、世の中を離脱する真理でした。キリスト教の真理は世に対して反発するものになっているということです。 イエス様は、前から来る罪を後ろ向きに立って引き受けなければならなかった事情があったゆえ、苦難の生涯を送ったわけです。イエス様は、宇宙的なすべての罪を担って、勝利するその時間まで十字架の苦難を受けたかわいそうな方だったのです。今日もあの国におられますが、休むことができません。地上のある一人が、そのすべての罪を担ってくれることを願っておられるのです。 あらゆる侮蔑と苦難を経験されたイエス 人間の罪のため来られたイエス・キリストの一生を思う時、地上に来られて亡くなられるまでの約30年間、人間が経験するすべての苦難を経られたことがわかります。哀れな人の罪を担うため哀れな立場になってみたり、飢える人の罪を担うため、寂しい人の罪を担うためその立場になってみたわけです。 そうして、イエス様は個人の罪を担うことのできる立場に立った後、家庭的な罪を担おうとしました。それで、家庭的な罪を担うため家庭の前に現れましたが、その家庭がイエス様に反対しました。愛する父母が反対し兄弟たちまで反対したわけです。 さらに、イエス様はユダヤ教団からも排斥されました。これは、家庭的な罪を担うと同時に、教団的な罪も担わなければならなかったからです。また、ピラトとヘロデ王までイエス様を排斥しました。彼らは、イエス様の御旨が自分 たちの所望と違うからだといって、イエス様を十字架へ追い出しました。しかしながらイエス様は、亡くなられる日までその様な怨讐たちを恨まないで、かえって彼らのため祈って下さったわけです。この様なイエス様の姿を今日の皆さんは忘れてはいけません。 イエス様は馬屋で生まれました。イエス様は最後のところから出発して、最高のところである神様の子の立場まで行きました。イエス様はこの地上の人間のため、神様を信じている人たちのため来られたのです。 ところで、イエス様の友になった人は誰だったのか。ゲッセマネの園で祈る時、愛する3人の弟子までが打とうとしました。十字架に向かって行く時、一つの心にならねばならない立場だったのに、3人の弟子はその様な事情とは関係のない立場をとったわけです。 イエス様は、宇宙のすべての罪を担うべき使命を持った御自身であることを悟って、誰から打たれても感謝し、避難されても感謝しました。 皆さんは、イエス様が罪を精算するため、その罪を取り除いてしまわないで、サタンと関係のあるすべての宇宙的な罪を御自身が引き受けようとしたことをわからなければなりません。 ところが、今まで罪が完全に精算されなかったので、イエス・キリストはその罪を精算する役事をなさっておられるのです。 迫害されたり、捨てられても不変の信仰を保って この様なイエス様を主として待っている皆さんであるならば、皆さん自身が侍っている主の前で、“私はどの位まで罪を担ったか”、“どの位罪を担おうとしたか”ということを考えてみるべきです。そして、イエス様が生きた環境と同じ環境において見ることができなければなりません。 皆さんが、個人の罪と家庭の罪を担うべき世紀末的な運命におかれているとするなら、いつかは個人的に迫害される時が来るはずです。 さらに、家庭的にも迫害される時が来ます。イエス様が、個人的に、家庭的に、教団的に反対されたように、終末におかれている今日のクリスチャンたちも、そのように反対されると思います。それだけではなく、社会的に反対され、国家的に、世界的に反対される一つの宗教が現れます。 そして、人間の罪を精算するためのイエス・キリストの闘いがまだ完全に終らなかったので、イエス・キリストに代わって地上で宇宙的なすべての罪悪を引き受ける為、個人から家庭、社会、国家、世界、さらには霊界の霊人たちからも避難される信仰者が現れます。それだけではなく、彼は聖父、聖子、聖霊からも避難されるはずです。この様な一つの峠に向かって歴史は動いているのです。これを皆さんはわかるべきです。 旧約を信じてきた人たちが、イエス様の前では怨讐になったように、今日のクリスチャンたちが新しい神様の摂理の前で怨讐の立場になりやすいということです。 イエス様が十字架の上で、“わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか(マタイ27:46)”と言われましたが、これは最後の判決があるその場で、神様がイエス様を知らないと否認したからでした。 これと同じに、今日の皆さんが今までのすべての罪悪歴史に対して責任を持って、自分を捧げようとする時、神様は皆さんを否認すると思います。それでも皆さんは、イエス様が十字架の上でも変わらなかったように、変わらない信仰を持たなければなりません。皆さんが一つだけである体を、御旨の為に捧げたと思うなら、もう皆さんは死んだ者であると思うべきです。この様な革命的な信仰を提示するのがクリスチャンの使命です。 今日皆さんを反対する人がいますか? 皆さんは彼らに感謝しなければなりません。また皆さんを反対する家庭や教団がありますか? その家庭と教団に感謝しなければなりません。国家と世界が反対しても感謝すべきで あるということです。霊界と肉界が反対し、天が皆さんを否認しても、永遠不変の心情を持たなければなりません。変らないという信仰を持つべきです。 アダムとエバを堕落させたサタンが反対し、イエス様と聖霊、神様までが否認しても、それでも変わらない信仰を持つ者が現れなければなりません。これが最後に残った使命であるが、今日の24億人類、イエス様を信じているクリスチャンたちがこれをはっきり知らないということです。それで、そのような信仰を持った個人になったとしても終りではありません。その様な家庭と社会と国家と世界を造らなければなりません。皆さんがこの様な信仰を持った聖徒にならないと、皆さんは神様の御旨とは何の関係もなくなります。イエス様が皆さんの前に新郎として訪ねて来られるその道が遮られるのです。 愛で迫害を消化し勝利しなさい イエス様の愛は神様の愛を代身したものです。そして神様の愛は、宇宙のいかなる存在物が反対しても負けられない愛です。皆さんは、この神様の愛を受けなければなりません。そうなるためには、皆さんにこの世のすべての罪を担わせても、サタンが皆さんを動かせても、それらに対して勝利できる息子・娘にならないといけません。そうできなければ、この宇宙の力の中心、実存の中心として役事なさる神様の愛とは関係がなくなります。 それゆえ、イエス・キリストが地上の人間たちによって悔しい立場になりましたが、かえって彼らのため涙を流したことと同じに、終末にそうできる聖徒が、信ずる聖徒の中でたくさん出なければなりません。その様な聖徒たちが多くなると、教団の分離ということはなくなります。そして、殉教されなくても、良心の作用、真理の作用、天理の力の作用が大きいので、天地がその様な聖徒たちに従って動かざるをえなくなるわけです。 この様な立場に立って、初めて勝利の旗を立てることができ、勝利の家庭、勝利の祭壇、勝利の世界を建設することができ、勝利を天まで連結することができます。その様な責任が皆さんにあるということを忘れてはいけません。 今日皆さんを中心として起こっている闘い、皆さん個人を中心として行われているすべてのことは、皆さん個人に限られたことではありません。ゆえに皆さんは気を付けなければなりません。万一皆さん個人が間違えると、それが全体に影響を及ぼします。 皆さんは神様の御旨を妨害する者になってはいけません。全体の為に犠牲となる道を行くべきです。 そして善なる人がいると、彼を捧げなければなりません。悪なる人がいても、その人以上に心配し、はがゆく思うようにならないとだめです。その様な個人になって、その様な家庭と社会と世界を作るため、十字架の苦難まで担っていくべきです。イエス・キリストの心情を代身し、神様の御旨を成すため忍耐し勝利する者にならなければなりません。 (終)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.27
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North Hill Channelチャンネル登録者数 968人Blue Sheep です。2021.1.24、「岩手県復興への祈り 希望前進大会」のオープニングアクトとして「スイセンが咲く丘」を演奏しました。今回は3人によるアコースティック編成です。オンライン配信も同時に行なわれました。姫神ホール。★North Hill Choir オフィシャルブログ https://northhill2012.wixsite.com/mysite★ゆるキャラ・ランちゃん Instagram → https://www.instagram.com/ranchan2020/一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.27
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イエス様は宇宙的な革命の主人公1956年11月11日(日),本部教会 祈祷 愛するお父様、お父様が生命の園をお眺めになるのが創造の目的であって、お父様の栄光を讃える真理の園が理想的な園であって、永遠不変の愛を中心としてあなたの御前で全体が和動して、お父様の内的性相や外的形状を現しながら、それに酔って生きるべき所が本然の園であったことを知るものでございます。 愛するお父様、今日私たちが願う希望の園を、この時間感じることができるように許諾して下さい。本然の園を体恤して心から欽慕すると同時に体を動かして敬拝できるように許諾して下さり、心からお父様の御旨を高めると同時に、体が供え物として捧げられるよう許諾して下さい。 お父様が私たちを捜すためなさったすべての苦労は、もう私たちに任せてお父様は栄光を受けられるよう切にお願い申し上げます。 お父様、ここに集まったあなたの子女たち、一人の生命もお捨てにならないで、まず彼らの心がお父様の永遠な生命につながれ燃えるように許諾して下さい。そうして、お父様の愛の心と一つになるよう許諾して下さい。お父様の生命に私たちの体と心が一つになり、全体が一つになって供え物として捧げられるこの時間になるように許諾して下さい。そうして、お父様が喜んで受け取って下さる、不足のない供え物になるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 お父様、私たちを守って下さい。分別の歴史に対して責任を持って下さい。サタンが侵入する時間にならないよう許諾して下さい。ひたすらお父様の御旨に従い、命じられる御旨を中心として和答(和酬)できるよう許諾して下さり、心と体で従順できるこの時間になるよう許諾して下さい。 そうして、自分のすべての足りなさと正しくない要素をお父様の前で率直に告白し、悔い改めることができると同時に、お父様から愛されるこの時間になるよう許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、今日は聖なる日、福を下さると約束なさった日ですので、この民族の代身として集まる数多くの祭壇を祝福して下さい。お父様の御旨を代身して寂しい祭壇で闘っている子女たちも多いので、彼らにも同じ恩賜を与えて下さい。 予告されたり、見せて下さったり、証拠されたりしたことが、最後の日に彼らによって現れるよう許諾して下さい。この民族が暗闇の中に取られているので、これを悟らせられるお父様の直接的な役事を現して下さり、お父様が動かされる各教会を通して、あなたの娘・息子たちを通してこの時間現れるようなさって下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 約束された最後の日が近づき、許諾される恩賜の時が来ましたけれど、私たちはまだ不完全で未熟ですので、私たちを導いて下さい。支えて差し上げるべきお父様の御旨を、支えることのできない者たちにならないよう許諾して下さい。 不備な自分たちを嘆息しつつ、お父様の前にひれ伏すことのできる者たちになるようになさって下さい。そうして、真なるお父様の御旨を支える忠節の子女たちがこの民族を代身した様々な教団の中に多くなるよう許諾して下さい。 そうして、三分五裂された教団を一つに結ぶことができるよう許諾して下さり、お父様の全体的な恩賜を代身することができるよう導いて下さい。この民族に、天の隠された御旨を現して下さり、24億人類の前に、お父様から喜ばれる ことができ、その御旨を誇ることができる祝福の日が早く臨まれるよう許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、今日集まってきた多くの子女たちを哀れんで下さい。彼らはお父様から呼ばれて来た者たちであり、お父様によって寂しこへと追い出されて集った子女たちですので、前後、左右、上下から主管して下さい。 今からは心と体にただお父様が願っておられることだけが存在するように許諾して下さり、サタンの痕跡がないように、罪悪の根が残されていないようにして下さい。 聖別に聖別を加えて完全無欠の善を中心として、その心と体がお父様の本性の前で高ぶらない謙遜な群れとして、温柔な姿としてひれ伏すことのできるこの時間になるよう許諾して下さることを切にお願い申し上げます。 お父様、各地で御言を持って闘っている子女たちがお父様の御前にひれ伏していることを知っておりますが、彼らを守って下さり、この時間等しい恩賜を与えて下さい。 お父様、この民族の為に私たちを立てて勧告して下さり、私たちと共に御協力しましたので、私たちが生きておられるお父様の息子・娘であることを誇ることができるよう許諾して下さり、生命の中心に立っている息子・娘であることが証しできるよう許諾して下さい。 お父様、あなたの御手につかまれたことを証しされ、この民族を悟らせて、サタンからこの民族を救い出すことができるよう許諾して下さることを切にお願い申し上げます。 そうして、民族的な恩賜を許諾しようとされるお父様の全体の御旨での前で、この民族が恥がないように私たちを立てて、お父様の御前へと出ていくように許諾して下さることを切にお願い申し上げます。 最初から最後まで、お父様と聖霊が喜ばれる御旨に私たちの心と体が動ずるよう許諾して下さり、この全体の集まりを栄光の供え物として受け取って下さることを、切にお願い申し上げます。 初めから終りまですべてを主管して下さい。主の御名によってお祈り致しました。ア-メン。 祈祷Ⅱ お父様! シオンの一つの中心を探して立てようと数多くの先祖たちが血を流しつつ、お父様に御心配をかけ負債を負っていることを蕩減するため今まで闘ってきました。 お父様、この時間私たちの心と体にシオンの栄光が臨むように許諾して下さり、永遠にお父様が望まれることのできるシオンの喜びが私たちの心に満ちあふれるようにして下さい。 私たちがお父様から主管される栄光の息子・娘になるとすれば、私たちにはそれ以上の願いも所望もないということを知っているものでございます。 しかしながら、永遠なるお父様の愛の御手につかまれないと、この地上に私たちのような寂しくかわいそうな者たちが、惨めな者たちがないと思います。 お父様、闘いと迫害に疲れ、酷しい環境に苦しめられてきたあなたの息子・娘たちを、この時間生命と愛で守って下さり、導いて下さい。 この時間、傷ついた体と心をしてお父様の前に出ましたので、お父様、可哀そうに思って下さり、この時間だけでも闘いからできた私たちの傷が治療できるように、お父様の心に隠されている愛を味わうことができるように許諾して下さい。そうして、天の心に似て、天の栄光を中心として全体が歌うことができ、天の御旨の為に全体が頭を下げることができる時間になるよう許諾して下さい。私のお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、寂しい私たちをあっちこっちから追い詰められる道へ追い出したのもお父様であり,惨めな所で人知らず天に向かって訴えるようにしたのもお父様でありましたので、この時間彼らが慰められるよう許諾して下さい。今日この場にひれ伏したあなたの息子・娘たちが歩んできた苦労の路程には、未だに血の滲んだ足跡が残っており、悲しみの涙が彼らの祈祷と共にしています。お父様、彼らを哀れんで下さい。 今日からの所望と恨み、そして感じられるお父様の愛を持って、明日からの闘い の峠が越えられるようにして下さり、生涯路程を歩むことにおいて多くの怨讐たちの呪いを乗り越えることができるよう許諾して下さい。そうして平和の心だけが私たちの心の中心になるよう許諾して下さい。勝利に向った切なる心情だけが私たちの生命の中心になって、この民族の代身として闘いの旗を持って出るのに不足のないように許諾して下さい。 天から許諾された勝利の御言を盾として出て行くのに不足のないように、今日も明日も古い悲しみを持っている者たちにならないように導いて下さい。お父様の永遠なる愛につながれて、讒訴してくるサタンに勝つことのできる息子・娘になるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 寂しいこの壇上をお導きになるお父様、あなたの後をついていく息子・娘たちも寂しく哀れな立場に立っています。今日もお父様が、彼らの生命と善と所望のすべてになられて彼らを慰めて下さい。導いて下さり、愛して下さい。 今は終末になって、人の言葉が要らなく、人を通した御言や人を中心とした御旨が必要でない時であることを知っております。ただ永遠な生命の脈を通して動いて出るお父様の愛の御言だけが必要であることを私たちは知っております。ですから、今日集まったあなたの息子・娘たちが愛を体恤することのできない不安定な立場におかれていたとしても、お父様、役事して下さい。火花のような目で観察して下さり、私たちの心に隠された喜悦の核心が現れるようにして下さい。あらゆる恐れにとられた私たち、お父様の前に出て悔い改める子女たちになるよう許諾して下さい。 お父様の御手につかまれて、お父様の恩賜に感謝することをわかる者がいるならば、いつまでもその様な心を保つことができるよう許諾して下さい。尊きお父様の前で、愛の息子・娘であると認められる者たちになるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い致します。 今日もこの民族のため集まる多くの祭壇を祝福して下さい。御旨がわからなくて、悲しみながら天に訴える聖徒たちの声が天に染み通っていると知っております。彼らの恨みを解いて下さり、彼らの心を受け 取って下さって、彼らが終末にお父様が願われる御旨に従い、成し遂げることができるよう導いて下さい。 また、御旨の為に人の知らない寂しこを開拓しながら、暗闇と闘っている隠れた兄弟がこの民族の中に多くいますので、この民族の前にその暗闇が去っていく時が早く来るようにして下さい。 生命の動きも一つでありまして、恩賜の動きも、栄光の顕現も一つでありましたので、お父様、彼らを通して証しなさり、散らばった祭壇を間垣としてお父様の御旨を中心に追い立てて一日でも早くこの民族が一つになれる喜びの祭壇をなして下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 今日も寂しい息子・娘たちが各地方で御言を持って闘っていますので、あそこにも共にして下さい。彼らは、6千年歴史の最後の怨讐たちと闘って勝利しなければならないという精神で勝利の祭壇を建てて、お父様と息子・娘が一緒に楽しめるその時のため、お父様の命令に従って闘っております。お父様、彼らが留まる所々ごとにお父様の直接的な役事を現して下さい。その様な環境を通して全体にまで及ぶことができるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 この時間、ひたすらお父様の喜びの恩賜を与えて下さり、私たちを受け入れて下さることを切にお願いしつつ、すべてを愛する主の御名によってお祈り致しました。ア-メン。 <御言> 今日は“イエス様は宇宙的な革命の主人公”という題目を持ってしばらくお話します。 人間が新しさの実体として完成されることを願われた神様 新しいものが創造される過程を見ると、それは一つの革命的な過程であると見られます。6日の間に造られたすべてのもの、すなわち、虫類から人間に至るまでのすべての被造物を見ると、神様はより新しく良い存在を創造され、最後に人間まで創造されたのです。人間を創造されることによって、神様はより高い御自身の内的な性相と外的な形状を完結され、それが神様が永遠に誇ることのできる新しくて変わらない実体を備えてくれることを願われたのが創造主の理想であったことを皆さんは良く知っていると思います。 このように人間は、神様が楽しめる永遠な新しさの実体として、万物万象に代わって、いかなる被造物と比較してみても、“なるほど、これは実に美しくていいな”と言える一つの姿として造ったのです。このように造られたのが、万物を主管できるアダムとエバであったということを皆さんは知っています。 神様の本然の善と内的な栄光を、実際の生活を通して楽しむべきアダムとエバでした。ところがアダムとエバは堕落したことによってその意を知らなかったのです。神様が創造されたすべてのものに代わって新しさの栄光を現すことのできない立場に止まるようになったのが、堕落した人間です。しかしながら、人間が堕落したとしても神様の御旨は不変の御旨として、必ず完結できなければ、神様は創造主としての威信を守ることができないし、権限を現すことができません。ゆえに、これを再び立てていくことが復帰の歴史であり救援の歴史であるということを皆さんは原理を通して良く知っているところです。 では、天がこの様な立場から宇宙の万物万象を見る時、天上と地上からも見られないし、被造物の中でも見られない一つの尊き存在、神様の奥に隠されている全体の性相を新しく現すことのできるより次元の高い新しさの実体が主人公として現れて、神様の御旨が成就させられる日はいつであろうか? この様な感激的で衝撃的な一日を迎えるため、今日まで神様はこの一つの目的を立てておいて復帰摂理を経てこられながら絶えず役事しておられるのです。 創世以後神様は、すべての被造物の中でこの被造物を全部あげても変えられないし、今までなかった喜びを味わせる新しい宇宙的な存在を探すことのできるその一日を待ちに待っておられるのです。 神様は、神様御自身と人間と万物が共に楽しみ、喜びつつ和動で きる創造理想世界をもう全部設計され、理想的な生活面までももう構想しておきました。そうして、内的な象徴としてなされた天と、外的な象徴としてなされた地が、共に楽しむことができる一つの主人公を中心として楽しむようになる時、天と地が共に喜ぶことができるのです。この様な一つの基準を探すため天が苦労しておられるということも皆さんは良く知っているでしょう。 では、お父様が要求される御旨は何か。 天上天上のすべてのものを壊してしまっても手放せないただ一つの御旨があるとすれば、それは完成人間です。人間が完成されるまでは、原理的な創造の法度を経て真理の実体にならなければいけないのに、堕落によって非原理的な実体になりました。ですから、人間は人間の形態を備えているが、その内的な性禀と外的な形が神様の永遠な実体に代わった分身体として現れることができなかったのです。 その様なゆえんで、堕落した人間は人間の形は備えているが、創造理想の形を失ってしまいました。神様はこの人間に創造理想の形を再び注入させておられます。新しい一つの実証体を探すため苦労される天の役事を皆さんも良く知っているでしょう。 神様の創造理想を成すため来られたイエス では、この一つの中心になる本体、所望の存在として来られた方がどなたかというと、イエス・キリストでした。イエス・キリストを送るまで、神様は4千年間苦労されました。 創世以後、初めて和動できる一つの新しい存在として、万物万象の前に見せてあげられる存在としてイエス様を送られましたが、人間はイエス様を神様の所願の存在であることを知らないで、反対する堕落の歴史を再び行いました。 失った善の基準を探すため苦労された神様は、4千年の歴史を経て来られながら、サタンの讒訴圏にいる人たちを呼び集めて民族的な基盤を造って来られました。ですから、この民族的な基盤は神様と万物を代身し、天上天下のすべての存在を代身することのできる一つの主人公として立てられたイエス様のための基盤にならねばならなかったにもかかわらず、イエス様と民族は別々に行ってしまったのです。ここから私たちの使命と神様の使命が決定されました。 神様を中心として宇宙を新しい世界に再び造るため、全体の代わりの存在として送られたイエス様でした。しかし、ユダヤ人たちの不信によって、全体の主人公になった使命を持つイエス様はイエス様通りに、民は民通りになくなってしまい、これによって神様の悲しさはさらに大きくなったということを皆さんは知らなければなりません。 イエス様自身がその当時ユダヤ人に対して言われた御言と彼が現したすべてのことは自分一身の御旨ではありませんでした。誰の御旨だったかというと、天の御旨だったのです。イエス様は神様の摂理の御旨を代身したのです。しかしながら、イエス様を通して神様の御旨を知らねばならない堕落圏内の民とイエス様の間に相衝的な論争が行われました。 堕落したこの世に神様の御言が現れる時、その御言が民族の前に現れると民族を革命する御言になり、個人に現れると個人を、世界の中に現れると世界を、また天地を新しく革命することができる御言として現れるということをその時のユダヤ人は知りませんでした。 イスラエルの民は4千年間ずっとモ-セを通して下さった律法とヤコブに言われた約束が自分たちの理想を成してくれることができ、全体を代身することができると知っていました。しかし神様は、一番下級から漸進的に引きあげる役事をなさいました。蘇生的な旧約歴史を経てきた後は、長成的な新約時代を経て完成級まで進んで行く天地創造の原則的な順路を再び経て行く歴史をなさっているということを知らないイスラエル民族でした。ゆえに、イエス様の御言はその時代の人たちが受け入れることのできない命の御言でした。旧約の律法よりもっと高い新しい御言であり、従来のものよりさらに高い価値と因縁を結ぶ為の御言であったということを当時の民たちは知りませんでした。 イエス様が願われたことが何であったかというと、神様の全体的な創造理想を成して差し上げることです。それゆえに、天地に代わって宇宙的な使命を完遂しようと絶えず革命的な過程を経て探してこられたのです。ゆえに、イエス様がこの地上に現れた宇宙的な御旨の道を歩むようになる時は、堕落人間を本然の位置に引き上げる過程であって、その過程には限りない闘いと革命的な過程があったということを、今日終末に処している皆さんは知らなければなりません。 イエス様の所望とユダヤ民族の不信 では、この革命的なイエス・キリストの所望はどの程度の所望であるか? 今日皆さんが住んでいるこの地上で持つような所望ではありません。世界を越え、無限な神の国までつながれる所望です。 この所望はイエスの所望であると同時に、一つになった神様の所望でもあります。それゆえに神様は、イエスに所望をかけて神様の御旨をイエスを通して現そうとなさったということを人間たちは知らなければなりません。 では、イエス様がユダヤ民族の前に現れて言われた御言と、神様の全体的な御旨を代表した実証体として現れたそのお姿はどうだったのか? 今まで歴史上になかった新しい真理の主人公として現れました。数多くの人たちが真理を叫んだが、それは個人次元の真理に過ぎなかったのです。彼らはそれを、民族と民族そしてすべての国家を代身することができる真理であると主張したかも知れませんが、実際その様な真理になれませんでした。それで、天と地を再び照らしてあげられる真理を持って現れた方がイエス・キリストでした。ゆえに、イエス・キリストが言われたその御言はその時代、その世界において最高の価値あるものであり、新しく革命的なものでした。 革命的なこの真理の御言を、神様の御旨を待ち焦がれていたユダヤ民族が知った ならば、それまでの自分たちの生活を捨ててこの真理を持つことを願ったはずです。 この様な立場に立つべきユダヤ民族が、成し遂げるべき一日をだめにしてしまったので、私たちがこれを乗り越えなければならないのです。こびり付いているものを解いてあげなければならない使命が私たちにあります。イエス・キリストの真理を受け入れないことによって犠牲が行われるのです。 神様は一つの民族を立てておいて、その民族の中で一つの中心を立ててその中心によって、宇宙的な真理の御言で神様の内的な心情を現そうとされました。しかしながら、イスラエル民族はこの様な事実を知らなかったのです。 イエス様は約30年間に渡って永遠なる真理の御言を現すべきだったのに、彼らの不信によってイエス様は捨てられたのです。そうだったので、世界人類は御言の実体を取り戻せるその瞬間まで、イエス・キリストが神様の御旨と心情に代わってこの地上に伝播しようとされた宇宙的な新しい真理を していかねばならないのです。 今日の聖徒たちはイエス・キリストの所望を成して差し上げるべきです。 イエス様から証された御言は、イエス様当時に民族的な御言として、さらには世界的な御言として現れるべきだったのです。ところが、世界的な御言として現れなかったのでキリスト教は苦難の宗教になりました。 もしも、イエス・キリストが言われた御言がその当時この地上を救うことのできる中心の御言として現れたならば、神様の権能を現すことができたはずです。一人の個人であるイエスに従う個人があり、民族があり、世界があったならば、神様の御旨を担ったイエス様はこの地上でその御旨を成就させたはずです。ところが、イエスの前にはその様な個人と民族と世界がありませんでした。 そして、イエス様の御言を中心としてイエス様を代身すべき愛する弟子たち、愛する家庭、愛する教団、愛する国家がイエス様と一つになって神様の心情を体恤し、神様の御旨を受け入れるべきだったのです。しかしながら、自分たちの教団的次元で自分たちが知っている真理を持ってイエス様を見る立場であったので、イエス様の御言は御言通りに、彼らは彼ら通りに別れるよう になったのです。 では、イエス様が終末の聖徒である皆さんに要求されることは何か。恥しい私たちに宇宙的な存在になることを望まれ、宇宙的な真理を宣布されました。 イエス様はこの地上に個人として来られましたが、彼は平凡な個人ではなく天下万象の被造物を代身した方でした。被造世界の創造原理的な全体の真理に代わった方だったのです。 イエス様が私たちに要求されること この様な価値的な存在として来られましたが、価値の主人公、宇宙の主人公になれなかったのです。それゆえに、皆さんがこの様な宇宙的な価値の目的を達成しなければなりません。それで、私たちがイエス様を信ずるようになると、私たち自身はイエス様の心霊を通して個人的に真理と会えます。この様に皆さんが神霊役事を経る時、無限な恵みが与えられると、それをただ個人的な恵みとして受け入れたらだめです。それは時間が過ぎて環境的な恵み、教団的な恵みを経て世界的な恵みと広げていかなければなりません。そうしてこそ私たちは再び帰って来ることができるわけです。 私たちに恵みが与えられると個人的な考えで自分だけの恵みであると思ってはいけないのです。皆さんが個人的な立場で恵みを受け、個人的な立場でイエス・キリストを通して真理を得たならば、それを良く理解して自分のものにすると同時に、この真理を責任を持って世界まで伝播させて行くようにならねばなりません。このように世界と共に進んで行くと、それは自分の恵みになると同時に、天と地上の恵みになるのです。しかしながら、もし皆さんの信仰観念が皆さん一人を救おうとすることであれば、皆さんは個人的な救援観念に止まってそこで終わってしまいます。 皆さんの心に溢れる恩賜が個人的なものにのみ止まっているならば、昔ユダヤ民族がイエス・キリストを十字架につけた誤ちを再び犯すようになります。 自分の得たところの真理が自分一人の命を救う為の宗教に止まっているとしたら、イエス・キリストの所望を成すことができないのです。個人を通して、家庭、社会、世界を通して天の摂理に及べる所望の中心を持って言われるイエス・キリストの御言が、皆さんの個人的な恩賜を通して復活と衆生の役事をなすようにするわけです。個人的で民族的、国家的、世界的な救援を、皆さんを通してなさねばならないのです。 皆さんは、個人的な救援と民族的、世界的、宇宙的な救援が残っているということをはっきり知らねばなりません。 皆さんがお父様の前に感謝する時も、個人的な感謝だけではなく家庭的、社会的、国家的、世界的な次元で感謝できるようにならねばなりません。さらに、皆さんが悔い改めるとしたら、個人的な悔い改めから家庭的な悔い改め、国家的な悔い改め、世界的な悔い改め、天と地をおいて悔い改める皆さんにならねばなりません。 今は個人的な救援観念を越え、家庭的、社会、国家、世界的な救援観念を越えなければならない時です。そうなってこそ皆さんによって世界的な蕩減が始まるのです。 ユダヤ民族が民族的な救いの観念を持って世界的な救いの観念まで持ったならば、イエス様はこのユダヤ民族を通して世界人類を救って下さったはずです。 イエス様の御言は宇宙的な革命の御言 歴史過程を経て実られたイエス・キリストの福音の御言は真理の御言です。それは先祖たちが経てきた全歴史と生活を超越して皆さんを救われる御言でした。このように、イエスの御言こそ宇宙的な革命の御言であったことを皆さんは悟らなければなりません。 イエス・キリストがこの地上に来られて、あの時まで信じてきたすべての律法主の前に反旗をあげました。“私によってすべての律法は完成されるべきだ”と宣布なさったわけです。このような、イエス様の宇宙的な信仰観が入っている御言、宇宙的な価値の御言の意をイスラエル民族が知らなかったのでイエス様を殺したわけです。 その御言は当時には宇宙的な御言でした。愛の面においてもイエス様は宇宙的な革命の御言を話しました。 イエス様は“誰よりも私を愛せない者は私に似合わない。また、誰よりも私を愛せないと私の弟子になれない”と言われました。これを見ると、神様が創造理想として願われた宇宙的な一つの完成体をなす時まで真理を求めていくのには宇宙的な路程を経なければならないということがわかります。 人間と人間同志の関係、そして人間と神様との関係を結ぶにおいて重要なことは宇宙的な愛です。ところで、人間が宇宙的な愛で神様と関係を結ぶことができなかったので天使長と愛の関係を結ぶようになったのです。それで人間は、神様との理想的な愛を中心として愛の門を貫いていく力を失ってしまいました。再びこの愛の門を貫く為には力が必要です。 イエス様が、“私を誰よりももっと愛しなさい”と言われた目的が何であるかというと、イエス様御自身が愛される為ではありません。人間たちがその御言を信じてイエスを愛すれば、イエスがサタン圏内につかまれている力よりももっと強い力でつかんで下さることによって、人間たちを神様と本然の愛をかわすところまで引き上げる為でした。そうするため、“私を誰よりももっと愛しなさい”と言われたのです。この御言は預言的な革命の御言でした。 このようにイエス様は真理の革命を起こし、さらに十字架の死によって天的な愛の革命を起こしたわけです。これは個人と個人の愛はもちろんで、家庭的、社会的、国家的、世界的な真理を代身した愛でした。宇宙を代身した愛の革命でした。 ところが、今日の世の愛は自己中心の愛です。あるいは国家中心の愛です。今までは自分の国を愛するとか自分の家庭を愛するぐらいでした。国家以上、国家圏を越えることのできる愛はありませんでした。 ところが、神様とイエス様の所望はある民族、ある国ではありません。神様を中心として天上と地上が一つになれる理想的な世界を造ることです。それゆえに、イエス様が提示された愛はこの世的な愛、 自己中心の民族や国家的な次元の愛ではなく世界を越えて天と地までつながれる愛なのです。 真理の革命、愛の革命 では、イエス様が福音の御言を通して立てた真の道は何だったのか。今日皆さんはどの程度の愛をしていますか? イエス・キリストは個人の前に立たなかったのです。家庭や国家の前にも立ちませんでした。こうしたら、宇宙的な愛の主人公であり新郎であるイエス様は家庭的な迫害と国家的な迫害を受けました。 天地の森羅万象、今まで神様の愛を感じられなかったすべての被造物がイエスを起源にして初めて愛の因縁を結ぶようになっていました。この様な因縁が結ばれるようにやってあげる責任がイエス様にあったわけです。 では、イエス様が開拓して立てた愛はどんな愛であるか。この世的な愛とは全く反対の愛です。人間の愛はせいぜいして国のための愛であるが、イエス・キリストの愛は宇宙的な愛です。すなわち、個人を越え、民族、国家、世界を越えて天までも届く愛であるわけです。 では、神様の愛はどんな愛であるか。両面を備えた愛です。自分だけ愛することではなく怨讐までも愛することです。したがって、私たちは神様を愛すると同時に怨讐まで愛せる個体にならねばなりません。 イエス・キリストの愛はどんな愛であるかというと、サタンまでも愛する愛です。サタンまでも愛することが神様の愛であることをわかったので、イエス・キリストは、“怨讐までも愛しなさい(マタイ5:44)”と言われたのです。ですから、私たちはこの様な宇宙的な愛の基準をこの地上に立てなければなりません。私たちが死ぬ時までも完遂できなければ、私たちの子孫を通してでもこの基準を立てるべきであるという心を持たねばなりません。 そして、皆さんは感謝する生活をすべきです。キリストの恩 賜と愛によって私が生きており、天の恩賜と愛によって私が生きていると思って、キリストと天の前に感謝する生活をしなければなりません。私が救われたことも感謝であるが、イエス・キリストの宇宙的な使命を代身することも感謝なことであり、イエス・キリストの愛を完遂するために生きることも感謝なことです。 家庭や家族を代身し、民族を抱いて十字架で亡くなりながらも、怨讐を許し愛したイエスのその宇宙的な愛を皆さんはわからなければなりません。 悲しみに勝ち、愛の心情で怨讐を眺めたイエス様であったのです。 イエス・キリストは十字架で亡くなりながら、“すべてが終わった(ヨハネ19:30)”と言われました。ところが、そう言われる時までは御自身の悲しみと悔しさも全部忘れて天の御旨の為に苦労なさったことを皆さんは知らねばなりません。自分一身を通して宇宙的な生命を取り戻すことができるので、イエス様は自分の痛みも悔しさも忘れてあらゆる苦難に耐えることができたのです。したがって、イエス・キリストの生涯は自分だけが生きようとする生涯ではなく、民族と国はもちろんであり、神様の国を成す為の生涯だったのです。 覚醒すべき終末の聖徒たち 今日皆さんはイエス・キリストの生命を探す為の運動をしており、民主主義世界ではイエス・キリストの名を復活させる為の運動をしています。大きな恩賜を受けて大きな責任を持っている民族も、そうじゃない民族も同様です。この地上にはイエス・キリストの福音が残っており、地上になかった新しい宇宙的な真理と愛と命が残っています。その様な宇宙的な真理と宇宙的な愛と宇宙的な命は皆さんのものになれるというわけです。 この地上の人類を救うため苦労された方として、イエス様よりかわいそうな人はいません。イエス様の御言は世界に代わった御言でした。地上に播かれているべき真理の言葉であり、地上に受け入れて いるべき天の言葉でした。そして、地上に植えられているべき宇宙的な生命の言葉であったのに、地上から受け入れられないで来られたイエス様は否定されました。イエス様の御言を当時の人たちが信じなかったのでイエス様一人残されるようになったわけです。 6千年間苦労してこられた神様の力になれる生命の主人公、真理の主人公がこの地上に来られるならば、地上のすべての良心的な人たちは彼に従うはずです。地上に真理の道を求めていく人たちがいるならば、生命の道を求めていく人がいるならば、きっと彼と共にいくでしょう。このようなことが天が望む基準であるにもかかわらず、今日の人間たちは個人的な愛の基準、個人主義を持って生きています。昔のユダヤ教徒たちのこの様な心を持って生きたので、イエス・キリストを十字架にかけたのです。この様なことがイエス以後にも続かれているという事実を良く知らねばなりません。 今私たちには、天地を代身することのできる新しい御言と新しい生命、新しい愛が必要です。ところが、理念的な御言だけではなく実体化できる御言が必要です。 ですから、終末である今日、皆さんは覚醒しなければなりません。皆さんは新しい真理と生命と愛を持って、民族を救い世界を救って、天地の6千年の恨みを解かねばならないのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.26
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神様の永遠なる理想をとり戻して捧げよう1956年10月7日(日)前本部教会 祈祷 愛するお父様、天上の恨みとして残っている戦いの歴史を締めくくる人がいないのがあなたの嘆息であることをわかりました。人間たちによって植えられた堕落の根本の根を、人間たちが除いてしまうべきなのに、長い歴史が経たにもかかわらず、未だにその罪の根を持っていますので、お父様、それを除くことができるよう許諾して下さい。 この時間集まった者たち皆が、お父様の心情に徹して一つになるよう許諾して下さることを、切にお願い申し上げます。 お父様の切ない心に似るように許諾して下さり、お父様が所望されるところを我々が新しく持つように許諾して下さい。残された恨みの歴史を負って億万怨讐サタンと戦うことのできる、天と地を代表して現れる勇者になるように許諾して下さい。 残された戦場で、永遠なお父様の愛の心情をお互いに交すことのできる喜びの園が造られるまで、各自お父様の御旨を責任を持って出られるよう許諾して下さい。一人一人がお父様のすべての御旨の代わりとして、サタンと戦うことのできるお父様の勇猛な息子・娘になるよう許諾して下さい。愛するお父様、切にお願い申し上げます。 我々の心が天のいかなる標的に向かっており、我々の体は宇宙のいかなる標的に向かっているかを、この時間悟ることができるように、お父様の恨みを解くことのできる喜びの子女たちになるように許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 我々の体と心は未だにお父様の懐に抱かれていません。お父様、勧告して下さり、能力で役事して下さって我々の心の方向を正しく示して下さい。我々が天性に向かうように心の方向を正しく示して下さり、お父様が願われる所望の道を我々が行けるように許諾して下さい。 お父様の喜びの恩寵を我々が体恤するよう許諾して下さり、我々を中心として再創造の歴史を起こして下さい。そうして、罪悪の根と戦って勝つことによって、お父様の愛を体恤し、お父様の前に栄光を返すことのできる子女たちになるよう許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、この時間集まった子女たち、億万サタンの讒訴を受けることがないように、お父様の祭壇に栄光の祭物として捧げられるように許諾して下さい。 お父様の前にひれ伏した我々、お父様の尊き性相に向かって自分の不足さをわかり、自ら告げることができるように許諾して下さい。温柔謙遜な祭物として、お父様の贖罪と恩賜の前に屈伏する子女たちになり、お父様を訪ねた蕩子のような姿で現われるよう許諾して下さい。 すでに来た群れが嘆息の涙を流さないように、サタンから嘲られる道を歩まないように許諾して下さい。心と体がお父様の前に捕えられたことになるよう、この時間だけでも共にいて下さい。そうして、永遠な生命の恩賜、復活の恩賜、愛の恩賜に出会って、お父様から喜ばれる一つの理想的な祭物として捧げられるこの時間になるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 お父様、今日は尊き日、万民の前に恵みを与えるための約束の日でした。24億人類の代わりとして集まった聖殿ごとに喜びの恩賜を共にするよう許諾して下さい。今、最後の日を迎えましたので、聖霊の炎を水を注ぐように注いで下さい。そうして、あなたが選んだ子女たちが一つになって、この暗い世の中と対決して戦えるよう役事して下さり、6千年の恨みの心情に代わってすべての悪を打ち破るあなたの子女になるよう許諾して下さい。 まず、3千万民族に代わった3千あまりの祭壇を祝福して下さい。そして3千あまりの祭壇に代わって、お父様にあらん限りの精誠と心と忠節を尽くして生きようとするあなたの子女たちが、永遠なるお父様の祭物になるよう許諾して下さい。 今は残された戦場でお父様に負債を負う者たちにならないように、永遠な勝利の恩賜を受けることができるように許諾して下さい。お父様の祝福されるその心情を地上に現すことのできる理想の園が建設できるまで、百折不屈の勇士の心情をもってお父様の御旨を立てていけるように許諾して下さい。 この夜、この場に共にいることのできなかった多くの子女たちがいますので、どこにいてもお父様が一様に役事して下さい。そして、最後の日に成就されたいあなたの御旨を全世界に宣布して、天と地が和動できる喜びの祭壇を設けるよう許諾して下さい。 あらん限りの心と精力を尽くして、ひたすらお父様の御旨を成就するあなたの子女になるよう許諾して下さることを、切にお願いしつつ、すべてのことを主の御名によってお祈りいたしました。アーメン。 <御言> この時間は「神様の永遠なる理想をとり戻して捧げよう」という題目でしばらく話します。 神様の創造理想 暗やみのこの地上で神様自らが創造歴史を始められながら立てた一つの標準は、御自身の内的心情に残された理想的な形状を永遠な一つの実体に立てることでした。そうしてこの一つの実体を立てておいて、その永遠な喜びを感じながら、二つでない一つの相対的な理想を備えて 生きようと創造歴史を始められたということを皆さんはよく知っています。 神様は、創造の苦労を経て造った被造物の中で、人間一つをすべての理想の中心として立てられました。ところが、その一つの人間が、神様が本来要求された希望とは反対の立場に立つようになってしまったので、それ以後今まで、長い歴史が流れましたが、神様が願われた理想とは関係がない人間たちになってしまいました。 その一つの理想を成すため、人間を再び探して出る歴史路程が摂理の路程であり、救援の路程であり、開拓の路程でした。 神様の内的心情として所望された一つの理想は、すべての被造万物にまで及ばれる理想であったが、人間一人が誤ったことによってその理想は、被造物の中で探してみるすべがなくなりました。 それゆえに、神様が今まで開拓の歴史と救援の歴史を通して摂理の御旨を成そうとされる一つの中心なる御旨は何なのか。人を立てて神様の内的心情で望んだ理想を実現して、神様御自身が楽しむのは勿論であり、その楽しさの理想を人間の永遠な理想として、栄光の条件として返されるのを願われるのです。このために神様は役事されます。 ゆえに、今我々は天上におられる神様が我々一人一人を呼んでおられるということを知らねばなりません。天上におられる神様は、皆さん自体が御自身の理想を実現させる一つの中心体になることを願われて今まで苦労しておられるのです。 ところが、神様が願われるその理想は、我々が不完全な圏内にある限り、我々が神様の御意と人間の意、そしてサタンの意を分別できない限りは実現されないのです。 左右上下どちらから見ても、いかにしても成就すべきことは神様の理想です。それで、左にいる群れも、右にいる群れも、また地上のすべての存在、天上の千々万聖徒までもその一つの理想を慕っているということを、皆さんは原理を通してよく知っています。 「この暗やみの世の中に、神様の新しい光明の理想が現れるべきその日は いつなのか、そのひと時はどんな時であろうか、その時期はどんな時期であろうか」と言いつつ、数多い聖賢賢哲たちは自分もわからずに、その未知の道を今日まで開拓しています。 ゆえに、今日皆さんは神様の光明の理想の心情を通過した後、彼らに対して「あなたが心から描いた所望がこれで、あなたが指向した理想がこれです」と言える、不変の永遠な理想の要素を持つ必要があります。そうして、皆さんの心を通して、体を通して、環境を通して実現される一つの喜びの基地を成すべきです。そのような喜びの基地を皆さんが造ることができなければ、神様の理想は被造世界では成就できないのです。 神様の理想実現と人間の責任 それでは、ここにおいて一番重要な問題はどこにあるのか? それは、造られた万物にあるのでもなく、霊界にあるのでもないのです。また、天上の天使にあるのでもなく、全体の中心であり、一つの標準であり、一つの核心であり、万物の主人公である皆さん自体にあるのです。したがって、皆さん自体が神様の理想を左右する中心であり、標準であることを皆さんは知らねばなりません。 死亡に押えられているこの天地に、その一つの標準点、その一つの中心点が現れる一日の喜びが、今日歴史路程を歩んでいく我々の所望であり、数多くの悪霊たちと戦っている神様の摂理の御旨であることを我々は忘れてはいけません。 ゆえに、私が神様の理想を慕う心を持つためには、まず神様の内的心情と同感同化できる自我を立てなければなりません。そうして、自然が法則通りに動くのと同様に、我々自身の心が天心を中心として動かねばなりません。そして、これを天の宇宙的な終末点まで繋ぐことができる心の中心を立てない限り、神様の永遠な理想は被造世界と永遠な関係を結ぶことができないということを知らねばなりません。 それでは、今我々自身の心と体を察してみると、我々の心と天の間に立ち塞がっている垣がありますか。私の心と体の間に立ち塞がっている垣がありますか。私の体と万物の間に立ち塞がっている垣がありますか。そのような垣がある限り、永遠なる神様の理想は皆さんとすでに関係を切っているのです。 今我々は心の門を開けて、体のあらゆる罪悪を取り除いて、和動できる一つの基準を立てなければなりません。そうして、天上の性品を感じざるを得なくなり、行わざるを得なくなる自然的な恩賜を受けて、神様に会い、その理想を成していくべきです。 ところが、堕落した人間はその一つの基準と遠い所に処している故、その基準まで引き上げるための苦労の歴史が必要になりますが、それが、即ち復帰歴史なのです。その御旨を成すための摂理歴史が、今日まで先志先烈たちを送って成してきた歴史であることを、我々は決して忘れてはいけないのです。 皆さんはひたすらに進んでいかねばなりません。そうするためには、まず万物の象徴として造られた体の価値、天品に代わって、体の中心として造られた心の価値を所有しなければなりません。そうして、すべての被造万物の中心としておられる神様の内的心性、すべての中心の心からにじみ出る神様の内的心性が、我々の心と体を経て、生活舞台を経て万物万象まで一つの動きとして現れなければなりません。このようなすべてのことを、自分自身の中で成しておかねばなりません。 神様と人間の関係とサタンの活動目標 神様は、堕落によって神様の主管圏から離れた人間を、本然の位置に引き上げるため6千年間を経てきましたが、その歴史がどうでしたか? 神様は創造原理によって、象徴的な実体対象として万物を創造し、形象的な実体対象として人間を創造しました。それゆえに、そのような一つの実存体が、我々の心の理想的な標準になっている限り、我々は神様と離れようとしても離れることのできない、二つでない一つの連関性を持つようになるのです。 人間が持っている神様との連関性を遮り、連結の道を中断させておいて役事する存在が誰かというと、皆さんの怨讐であるサタンです。皆さんが彼と戦って自然屈伏させなければならないサタンなのです。ところが今日も明日も,神様の理想の園が造られない限り、神様が願われる所望の理想が私の体と心を通して天宙宇宙間に成されない限り、そのサタンは除かれないのです。 しかし、神様は我々の心と体に対しての理想があり、万物に対しての理想があります。ところで、サタンはこれに反対して戦っています。ゆえに、そのサタンを世界的に責任をもって屈伏させることのできる所望の一日が現れなければなりません。 その一つのサタンによってできた条件がある故、それを除く前は神様の理想は我々と関係がないのです。それで、神様が御自身の理想を成すためサタンと対立して勝利できる一つの主人を立てましたが、その方がイエス・キリストです。 ところが、今日万物から体へ、体から心へ、心から天上へと連がる間が塞がっています。この要求する心と体、要求する相対の塞がった間を開けて連絡させて下さる役事をして来られた方がイエスと聖霊です。 それでは、イエスがこの地上に来られた不変な目的は何であったか。それは、どうにかしてでも神様の理想を成すことでした。まず、人間の心を復帰し、体を復帰し、その次には、万物世界まで復帰することでした。イエスはこのような全体的な理念と理想をもって来られましたが、信ずるように選んだイスラエル民族が信じなかったが故、神様の心の性相に代わった心的な理想だけを立てて行かれたのです。それゆえに、今日我々はその心的な理想、即ち霊的な理想を立てられる時までの、イエスの生涯と歴史を知らねばなりません。 イエスは、神様が願われるその理想を実現するため心的な勝利の道、即ちサタンに対して勝利できる道を我々に見せて下さいました。それゆえに、我々がイエスに頼って理想を探していくことは、ある時間圏内の理想でなく、神様の永遠な理想を探していくことなのです。 イエスの人格、イエスの持って来られた所望、イエスの信じた理念、イエスが持っていた生命と愛、このすべてのことを成すための使命であり、さらにそれは、一時的な使命ではなく、永遠に代わった使命でした。そのような使命を全うするため戦われたイエスであったということを皆さんは知らねばなりません。 それでは今、神様の理想を訪ねてその理想を成そうとする我々は、今日何を持つべきなのか。神様の永遠な要素を持つべきです。なぜなら、時と場所は変わっても、神様の永遠なる実体は変わらないからです。 したがって、神様が持った理想も永遠な理想であることを皆さんが知らねばなりません。ゆえに、今日人間たちが探していくべき最後に残された理想は、神様が願われる永遠な理想です。皆さんは、神様が願われるその永遠な理想を自分のものにする日まで、今日も明日も戦うべきであり、生涯をかけて戦わなければならないのです。 イエス様が立てた信仰と所望と愛と生命 イエスはこの地上に来られて、神様の永遠なる理想を探していくにおいて、信じないイスラエル民族に代わって永遠な信仰を立てるため戦った方です。歴史路程の数多い人たちが神様を信じてきました。ところが、彼らが信ずるその所望と信仰の限界は、自分個人に留まることでした。しかし、イエス様一人だけは、信仰と所望を自分自身だけのこととして立てなかったのです。彼は、それが神様の永遠なる理 想として立てられている限り、その理想の要素を備えることのできる信仰、即ち永遠な信仰を立てるため一生を捧げました。 イエスが30年生涯を通して願われた一つの中心は何であったか。その時までの4千年の歴史過程において、数多い先志先烈たちが信仰の基準を立てましたが、彼らの信仰は民族的な限界を、世界的な限界を越えることができなかったのです。それでイエスは、そのような基準を越えて神様の永遠なる理想を成すこと、永遠な信仰を立てることが彼の一生の中心でした。 それゆえに、イエスの信仰は自分一身の救いを目的にしたのではありません。自己救援が目的でもないし、この地上だけを救援することが目的でもないのです。歴史の起源からその過程と未来のある終点まで、すべてを摂理して来られる神様の心情をわかって、そのすべてを復帰されようとなさいました。 またイエスは、神様の永遠なる理想を探して立てるため、まず歴史上に過去にも未来にもない永遠な基準、永遠に変わらない一つの基準を立てるためサタンと戦いました。そのようなイエスでしたので、永遠な理想を探しておられる神様の前に、永遠な信仰の条件を立てることができたということを皆さんは知らねばなりません。 それゆえに、皆さんがイエスをつかもうとすれば、まず一人のイエスには歴史的な全人類の御旨が介在されているのを知る必要があります。彼は4千年歴史過程の数多い信仰者たち、さらにその当時の全人類の信仰を統合できる唯一の方でした。それだけではなく、千秋万代の未来歴史の代わりとして全人類の信仰を統合できる一つの基準、永遠不変の一つの中心を持って来られた方でした。 それゆえに、我々はイエスの信仰を見習うべきです。そして、個人、社会、国家、世界、天宙を越えて、永遠なる神様の所望の基準、永遠不変の確個たる一つの信仰の土台を立てるため、この地上で30年生涯を送ったイエスであったことを知らねばなりません。我々がイエスを信じながらも、過去にも未来にもない永遠な信仰の基準を立てた、そのようなイエスに似るように努力しなければなりません。 その次には、イエスの所望を相続しなければなりません。イエスの所望は彼一身の所望ではありませんでした。数多くの先祖たちが長い間願ってきた、そのすべての所望を吸い込んだ所望でした。さらに、天上と地上に徹している永遠なる神様の所望に代わった所望を持ったのです。そうしてイエスは、歴史以来だれも持てなかった神様の永遠な理想を成すことのできる所望の中心を立てたので、我々の所望に代わることができたということを知らねばなりません。 それだけではありません。イエスは天に対する信仰を立てて所望を備え、生命の因縁と愛の因縁を備えました。そうして彼は、自分の所望を永遠の所望として、生命も永遠の生命として立てるため30年生涯の戦いの路程を歩みました。 ところで、イエスが自分の生涯過程において生の価値を感じたのは、すべての被造世界に代わって永遠実存され、生命の中心としておられる神様の永遠な生命の要素を受けつぐようになったからです。イエスは、このような永遠の生命の所有者だった故、いかなるサタンの力も及ぶことができなかったのです。さらに、イエスが立てた愛は、今日人間たちが持っているような、自己中心的な愛ではありませんでした。永遠なる神様の理想を成すためには死ぬこともできる不変の愛でした。それゆえに、その当時、天上におられる神様を愛するイエスの心は万民に代わることができたのです。天上天下に初めて、神様の心的な永遠な理想に代わって、全宇宙人間に代わって変わらない愛の心をイエスは持っておられたということを皆さんは知らねばなりません。 イエス様に対する正しい信仰 イエスがそのような信仰で、所望で、生命で、愛で立てた摂理の御旨を、今日我々は受けついでいます。このように、苦難の路程を経て立てておいた救援の御旨を我々はわからねばなりません。さらに、十字架の盾として自分一身を燃やして、贖罪の基準を立てたその路程を我々は見習わねばなりません。 さらに、今日限界圏内にいる我々は、無限大の神様の信仰から、無限大の神様の所望、無限大の神様の生命、無限大の神様の愛まで慕いつつ、悲しみだったイエスの生涯を考えてみなければなりません。宇宙の主人公であり、万民の救い主であり、地上の主人であるイエスが、所望と信仰、生命、愛のすべてに神様の永遠なる理想を成し遂げる条件を立てるため生涯をかけて戦った事実を皆さんは知らねばなりません。 そして皆さんは、そのようなイエスの心情で万物を見るべきであり、イエスが感じた感情を共に体恤すべきです。さらに、そのような抱負と所望、そのような理想を慕いつつ戦ってこられたイエスであったのを知らねばなりません。ただ漠然と2千年前に来られて去った歴史的な人物として考えてはいけません。今日皆さんの心にあり、皆さんの体の中で同行しているイエスとして感じるべきです。永遠なる神様の理想を成すことのできる生命的な要素を、皆さんは再び認識する必要があります。そうして、皆さんの信仰がイエスの信仰と比べることができ、皆さんの所望と生命と愛も、やはりイエスのそれらと比べることができなければなりません。 神様のすべての理想的な要素に代わったイエスの中心を、皆さんは見習うべきです。イエスが信仰で、所望で、生命で、愛で、それらすべてを立てるため戦ってこられたその中心の心を、今日皆さんが遺業として受けて成すべきです。その御旨を成して捧げる人がなければ、イエスが十字架で亡くなられた故、この地上に来られて果たせなかったその御旨は成就できないのです。イエスが歩みきれなかった路程が残っている故、摂理の御旨は今日我々の一身に留まっています。 それゆえに、我々は体を通してイエスの性相を感じようとし、万物を通してイエスの性相を感じようとすべきなのです。そうして、イエスの性相と我々の性相が一つになって、全宇宙に代わる永遠な神様の理想と一つにならねばなりません。 皆さんは、イエスの十字架の死が何を予告したことかを知らねばなりません。その十字架の峠は永遠な信仰を成就した十字架であり、永遠な神様の所望を体恤させ、勧告した十字架であり、神様の永遠なる生命と愛を我々も持つように勧告した十字架です。そして、十字架によって拘束の歴史を経て残された救援の道理は、イエスの永遠なる信仰と所望と生命と愛を我々に渡せる一つの条件となるということを皆さんは知らねばなりません。 ところが、宇宙の人間全体の代わりとして来られたイエスの信仰が全体に現れなかったので、即ち、全人類に代わって所望したことが世界的に成されなかったので、イエスは十字架で恨みを持って訴えたのです。生命と愛もやはり同じでした。万が一、当時にイエスが願われた信仰、所望、生命、愛が現れたならば、十字架の恨みの訴えはなかったはずです。 十字架を通して備えるべきもの したがって、今我々が十字架を通して備えるべきものは何であるか。イエス・キリストが抱いていた永遠なる信仰、イエス・キリストが持っていた永遠なる所望、イエス・キリストが生きた永遠なる生命、イエス・キリストが慕った永遠なる愛を所有すべきです。今日我々は、十字架の前に立てられた永遠な信仰、永遠な所望、永遠な生命、永遠な愛をただイエスのものにだけ返してはいけないのです。 我々は彼の十字架を担って、彼の永遠な信仰を私の信仰に、彼の永遠な所望を私の所望に、彼の永遠な生命と愛を私の生命と愛に所有すべきです。さらに、イエスが人類のために十字架を担ってまで渡してくれた神様の理想の要素を持たねばなりません。その次には、イエスに永遠な信仰と所望と生命と愛を渡してあげる秀(愛)弟子があったように、我々もそのような人を持つべきなのです。イエスから受け継いだ信仰と所望と生命と愛を、皆さんのために成すことができなかったという条件が残れば、それらが最後の日に皆さんに対して審判の条件として現れるはずです。 最後の日に神様は皆さんに訪ねてこられ、イエス・キリストが残した永遠な信仰の負債を返したかと聞かれるはずです。イエス・キリストが残した所望と生命と愛の負債を返したかと聞かれるはずです。そのような立場に立たれる時、イエス・キリストが十字架で「すべてを成した」と言われたように、皆さんもそのようになるべきなのです。今日我々はイエスの前で、あなたが残してくれた永遠な神様の遺業を私が「すべてを成し遂げました」と言えなければなりません。そのような一人の人間がこの地上に現れない限り、神様の終末的な摂理の御旨は全うされないということを皆さんは知らねばなりません。 4千年歴史路程において、永遠なる神様の理想の中心要素をイエスが立てました。霊的で内的な救援の条件を拡大して世界的な基準にまで引き上げるため、今日までイエスと聖霊が役事してきました。したがって、今日我々が、永遠なる神様の内的な理想の要素を外的に成就できる、永遠な信仰と所望と生命と愛を立てることができなければ、イエスの2千年の摂理の御旨は水泡に帰してしまいます。皆さんはこれを知らねばなりません。 今皆さんは、イエスを見習って神様の心まで感じようとする信仰の路程に入っています。ところで皆さんは、自分自身がどの程度まで信じているかを自ら反省してみる必要があります。もしかしたら皆さんは、自分の観念で立てられた自分の主張圏内で信じているのではありませんか。宇宙全体に代わったイエスの信仰と比べて差があれば、その差は最後の日に審判の条件になるのです。 今日皆さんが持っている所望はどんなことですか。皆さんが観念的に持っているその所望は、自分自身のための所望なのです。皆さんは、イエスの所望を皆さんの所望として証ししなければなりません。そうして、自分自身を越えて、神様の永遠なる理想に代わったイエス・キ リストの所望を持つべきなのです。ところが万が一、皆さんの所望がイエスの所望と差があれば、その分だけ最後の日の審判の条件になるということを知らねばなりません。 生命もやはり同じです。今日我々がイエスを信じて生命を得たならば、その生命は自分一人が生きるためにある生命ではありません。その生命は、この民族を復帰し千々万聖徒たちまで和動させなければならない生命なのです。十字架を前において、サタンの攻撃の前で神様の永遠であることを表したイエスの泰然自若とした心情に代わることのできる生命です。 イエスは、十字架で自分の生命がなくなる立場におかれていながらも、怨讐たちの反撃に対して一切呪わなかったのです。 イエスは彼らがよく知っている、そのような方ではありませんでした。4千年間、神様が人間のために怨讐と戦った、その心情を察しながら神様の永遠なる愛を感じようとされた方です。皆さんがイエスのその無限なる心情を慕うようになる時、それが自分の信仰の基地になるのが感じられるはずです。 それゆえに、イエスは自分が感じた天の愛に対する地上のいかなる非難と苦難も越えることができました。それで、永遠なる神様の理想に代わることができたのです。そのような立場に立ったイエスでしたので、怨讐たちの過ちのため死の道を行かねばならないことも忘れて、人類のために祈ったということを皆さんは知らねばなりません。 十字架の愛 今日皆さんがイエスを信じて、無限なる神様の愛を受け、無限なる生命をもらった自分であるが、その生命がどの圏内に処しているか反省してみる必要があります。 イエスは神様の愛、即ち、天地を造られてそれを抱くため苦労される、永遠で理想的な神様の愛をわかったのです。ゆえに、この地上で自分自身を愛することよりも、自分の家族を、自分の民族を、世界を愛することよりも、神様をもっと愛したの です。 そうしてイエスは、すべての愛の中心になる神様の愛を抱いて、歴史路程にいた数多い先志先烈に代わって、彼らが果たせなかった摂理の御旨を成就しようと、どんな難しいことがあってもそれを忘れて、人類を愛し、神様を愛せる心情を残してくれたことが「十字架の愛」であるということを、皆さんは考えてみるべきです。 最後の日の審判があるとすれば、神様から流れてきてイエスによって現れた神様の愛が皆さんに与えられる時、皆さんはその愛を受けて永遠に所有できる心の土台がなければなりません。万が一、皆さんにそのような心の土台がなければ、皆さんは最後の日の審判の時、神様の前に堂々と出ることができないのです。 ゆえに、今我々の前にはキリストの大きくて高い所望と理想があるということを知らねばなりません。その大きくて高き理想がイエス・キリストによって、初めて地上に現れたのです。 それで今日我々は、イエスを信じ、彼を見習おうとするのです。 イエスは、霊界に行かれても内的な世界に代わってサタンと戦っておられます。永遠なる神様の理想を成就されるため、聖霊とそして天にある千々万天軍天使と共に我々に代わってサタンと戦っておられるのです。 我々に残された信仰、我々に所望した所望、我々に要求した生命、我々に願った愛を、今我々は自分の愛だけで、自分の生命だけで、自分の所望だけで、自分の信仰だけで持ってはいけません。万が一、それを自分のものだけで持っていたとすれば、永遠なる神様の理想は自分とは何の関係もないということを皆さんは知らねばなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.24
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天の父母様聖会 天苑宮天苑教会 聖日礼拝(21.01.24)2021年1月24日午前9時からライブ配信(公開予定)されます。
2021.01.23
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今日の仕事中のことですが、指を挟んでケガをしてしまいました。薬指の爪の根元がはがれかかって出血も少しありました。病院へ行きましたが、木曜午後はほとんどの病院がお休みなのでとりあえずの応急処置で指1本が包帯で膨れた状態です。今書いているこれも片手打ちです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.22
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神様がわかって下さる栄光に参与しよう1956年7月19日(水)前本部教会 祈祷(Ⅰ) 愛するお父様! ここに集まったあなたの子女たちを主管して下さい。我々が持った生命が、真に我々が持つべき生命であることをわかる者になるように許諾して下さい。許諾された大いなる恩賜を受けたのに、民族の前にそれを残していくことを知らない者にならないように許諾して下さい。 愛するお父様! 今日寂しこを歩んでいた小数の群れが、この場を訪ねてきてお父様の前にひれ伏しましたので、この者たちがあなたの愛で一つになるよう許諾して下さり、人間を探す為のあなたの愛の御手が、6千年の歴史に代わったこの場で、我々と繋がるように許諾して下さい。そうして、心に心を、体に体を繋いで、我々全部が一つになるように許諾して下さい。 許諾の恩賜が我々だけの恩賜ではなく、全体の恩賜であるので、この恩賜が民族を経て24億の全人類にまで及ぶことのできる恩賜になるよう許諾して下さい。お父様! 我々の生命の中心になり、我々の愛の中心になり、我々の所望の中心になって下さって、あなたの大いなる恩賜の御手をこの時間から我々の頭上に、永遠に共にいて下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、多くの人たちがあなたに向かって敬拝していますので、集まる所々ごとにお父様の愛の御手が共にいて下さい。 集まった姿が彼らの集まり全体に代わって、お父様の深い心情の前にひれ伏すように許諾して下さい。 お父様の隠された愛を彼らの前に伝えて下さり、現して下さい。そうして、最後の日の摂理全体の代わりとして、全世界人類の前に現れるのに不足のない群れになるよう許諾して下さい。お父様の権能の恩賜をこの時間許諾して下さることを、私のお父様、切にお願い申し上げます。 今日我々の心情そのままをお父様の祭壇の前に捧げますので、適当でないすべての要素を取り除いて、完全にお父様の貴さを讃えることができ、感謝する心のみで満ちるように許諾して下さい。私のお父様、切にお願い申し上げます。 そうして、集まったあなたの愛する子女の中で、一人だにお父様の前に相応しくない者がないようにして下さい。自分を中心とした罪の跡が残っている息子・娘がいるなら、お父様、炎のような聖霊の役事を現して、罪の跡を持った者たちが自ら悔い改めることのできるこの時間になるよう許諾して下さい。そうして四海民族に代わって、完全なるお父様の前に柔和謙遜な祭物として捧げられる我々に再び造り変えられるように許諾して下さい。愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、今日参席できなかった食口たちもいますので、どんな所にいても同じ恩賜の内に役事して下さり、所々で集まって民族に代わって、摂理に代わって叫んでいる寂しい教団を祝福して下さい。お父様、彼らの貴き手を通して烽 のろ 火 し の炎がこの民族の前に現れるよう許諾して下さり、あなたの貴き御旨がお父様を慕う者たちを通して全世界の前に喜ばしい御旨として現れるよう許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 この時間全体を委ねましたので、聖三位神が主管して下さい。切にお願い申し上げながら、主の御名によってお祈り致しました。 祈祷(Ⅱ) 地上に対する審判の行事を早く成して下さい。 今日ここに集まった愛する兄弟たち、お父様だけが守って下さり、お父様だけが主管して下さい。この一時間だけでも、自分を中心とすることが一つもないように許諾して下さい。 私の生命も私のものではなく、私の知識も私のすべての観念も私のものではないということがわかるこの時間になるよう許諾して下さい。ひたすらあなたの前に委ねられた者として、天が動けば私も動き、天が静かであれば私も静かになるよう許諾して下さい。 お父様、傷が残っており、渇望の心に徹している兄弟がいますので、彼らの立場と事情をわかっておられるお父様、彼らの体と心に天から降りる永遠な生命の炎がともされるように許諾して下さい。お父様の前に蘇生の歓喜を返すことのできる時間になるよう許諾して下さい。 世の中のどんな観念が偉大であるかと言っても、天倫には比べられないということがわかるように許諾して下さり、世の中の無知がこの地上に浸透したことを悟らせて、その罪悪の影が全世界と関係を結んでいることがわかるように許諾して下さい。 そうして、自分の不足さを知って、天倫の動きに感動しすべてに対して恐縮な心を持つことのできるこの時間になるよう許諾して下さい。愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、ここに集まっていますので我々に言い付けて下さい。我々に勧告し願われるところの御言を与えて下さい。復活の権能を現して、塞がっている暗闇の垣を押して出ることのできる力と能力が爆発するように許諾して下さい。切にお願い申し上げます。 心では願っていても、肉身が弱いので、この弱い肉身を打ち破ることのできる力を現して下さり、権能の御手をもって運行され、再創造の恩賜を与えて下さるお父様の前で、真に造り変えられる土になれるように許諾して下さい。栄光の形状で作られる柔和謙遜な者になるように許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 今日取るに足らない我々をお父様が呼んで下さったので、あなたの所望を 成して上げられるように許諾して下さい。死んでいくこの民族、塗炭の中にいるこの民族、哀れなこの民族の生きる道を探すため生きた祭壇を現すように許諾して下さい。今日自分一身をお父様の前に立てて一問一答することのできる所に立つように許諾して下さり、私自体、天倫が要求する使命を受けて成すことができるように許諾して下さい。 すべての悪と戦って分別できるように、善悪を分別して善のところに立つように許諾して下さい。善は残され、サタンの悪は清算されることを信じて、正しこへと入ってあなたの栄光の中に捕えられて生きる者になるよう許諾して下さい。お父様、切にお願い申し上げます。 お父様! 3千万民族を哀れに思って下さい。この民族のため涙を流す神様の息子と娘の涙が、天地に浸透するように許諾して下さり、この民族が悔い改められる天の感動の役事を現して下さい。悔い改めることのできる復活の役事がこの民族全体を通して現れるよう許諾して下さい。そうして、願われる新しい御旨を新しい心で受け入れることのできる民族になるように許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 ここに集まったあなたの愛する子女たち一人一人を呼んで、個体個体を聖別して下さい。お父様、まず心と体を、そして生活を永遠の理想として干渉して下さい。この時間だけでも全体の御旨の前に、お父様が願われる目的の前にすべてを献げ、お父様だけに取っていただく祭物として敬拝する時間になるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 すべてを主管して下さい。主の御名によってお祈り致しました。アーメン。 <祈 祷(Ⅲ)> 愛なるお父様、哀れな民族に対して天の心情を伝えようとしますが、この地上で生きる人間たちはその心情が何かをまだわかっていません。彼らは、天の内的心情が地上とは何の関係もないと思っております。この哀れな人間たちの無知をこの時間許して下さい。 お父様、ここに集まった小数の群れは、天が自分たちを立てて大きな使命を要求しているということを知って、その責任を果たすことのできる 心を持つように許諾して下さい。御旨の前に立てて下さり、この者たちの行動を明白にして下さい。 御旨の前で祭物になるのを願う子女たちが、何人になるでしょうか? 愛するお父様! 言わなくてもお父様の心情を理解できる者が何人になるでしょうか?呼ばなくてもその御意を察して動く者が何人になるでしょうか? お父様! 彼らが天から得ようとするところも大きいが、天が我々に対して期待するところも大きいということを知っております。お父様! この時間からでも小数の食口たちが、お父様の御旨を支える為、不足な者ですが、お父様の祭壇の前に出ていこうと願っていますので、受けとって下さい。足りないところも愛を持って受け止めて下さい。 あなたが愛する我々になってこそ、サタンの讒訴から逃れるということを知っております。お父様! すべてを許して下さり、天の隠した生命のマナをかわすことのできるお父様の恩賜をこの時間許諾して下さい。 ここに集まった群れたちをみる時、力が加えられなければならないということを知るものです。お父様! 溢れる力を加えて下さって彼らが自分の不足さを忘れるように、罪悪の意識をすべて忘れてしまうように許諾して下さり、彼らの前にただ生命だけが現れるこの時間として役事して下さい。 お父様! 今日集まった群れたちが、受ける者の空いた器の心を持って、お父様の前にひれ伏すよう許諾して下さい。生命の水を注がれて空いた器を満たして下さり、本心を起こして下さい。天上に向かってお父様の前に体を上げて、手を上げてすべてを出すことのできるこの時間になるよう許諾して下さい。愛するお父様、切にお願い申し上げます。 この時間、彼らの前に立ちましたが、伝える御言が一生一代になければならない、歴史過程になければならないキリストの重大な御言であることがわかるようにして下さい。重い罪の荷を背負った自分たちが、御言の基地の上で復活の能力として勝利の実績を備えるということを知っております。 今日我々も、イエスの前にすべてを委ねて、十字架によって復活の条件を立てたその土台の上で、天から再び造り変えられるよう許諾して下さい。愛するお父様、切にお願い申し上げます。 この時間、すべてを主管して下さい。主の御名によってお祈り致しました。アーメン。 <御言> 今日差し上げる御言は、「神様がわかって下さる栄光に参与しよう」です。こういう題目でお話ししてみましょう。 私をわかってくれるということ 天倫の御旨を証拠すべき洗礼ヨハネが、多くの世界の前で彼の使命を果たせなかった故、イエスはサタンと戦わなければならない難しい関門に立たれました。イエスの事情をわかってくれるべきイスラエル民族がイエスの事情をわかってくれないので、サタンがイエスの前におかれた苦難の道を催促する立場に立ちました。天上天下の如何なる存在でもイエスをわかってくれるべきだったにもかかわらず、誰もわかってくれない立場に一人で立って、天上の御旨を知らない民族にイエスはその御旨を伝えようとしました。 自分が内的に知っていることを、無知な民族に伝えなければならない使命を感じたイエスは、自分一身を万民の前に立てておいて、神様のみがわかって下さるという一つの心に頼って、新しい覚悟と、希望と、決心を民族の前に宣布する為に出ていったのです。今日の御言はこのような内容で、重要な御言です。 人の幸せはどこから来るかというと、自分をわかってくれる人を持つ時来るのです。自分の過去を、現実を、さらには自分の未来までわかってくれる友達や同志、または恩師を持っていれば、彼は幸せな者です。そして、人の安息の場はそのような方々の懐を中心として作られるのであり、またそのような方々がおられる環境を通して喜びと幸せを感じることができます。 イエスは、天上におられる神様が歴史を通して、30生涯を通して、永遠な摂理の御旨を通して自分を わかって下さっているということを知りました。 イエス様は、神様が自分をわかって下さったように、人間世界において全人類を歴史や彼らの生活を通してわかってあげなければならなかったし、未来を通してもわかってあげる立場に立たねばならなかったのです。これをわかったイエスは、人間たちに神様を知らせる中心的な存在が自分であるということが感じられれば感じられるほど、どんな形態ででも民族の前に神様を証ししなければなりませんでした。 神様がわかって下さるのを民族に証ししなければならなかったイエス様 まずイエスが証ししたかったことは、自分は神様の御旨の前に4千年間経て来た摂理路程と、切ろうとしても切れない関係の因縁を代表した存在であるということでした。4千年摂理を通して神様がイエスをわかって下さったように、全イスラエル民族を神様に領導せねばならない責任を感じたイエスは、自分の生涯路程で神様がわかって下さることを民族の前に現そうとしたのです。 また彼の30年生涯以後の摂理路程で、全人類が自分の未来の理想と一つにならないといけないということがわかっていたため、イエスは自分をわかってくれる理想世界に至るまで、彼の一身を通して人類の前にそれを知らせてあげねばならない責任を感じました。 過去から現在へと、現在から未来へと成されるべき復帰摂理は、無限なる時期を経てイエスへと至っているが永遠な天上世界と地上世界において未だに残されている。故にこの摂理を天の前に知らせることが、また千々万聖徒の前に知らせることが、イエスだけの使命ではなかったし、歴史的な先祖たちの前に知らせることもイエスだけの使命ではありませんでした。 全体の代わりとして御旨の前に立ったイエスは、神様が自分をわかって下さったのと同じく、神様に代わって民族をわかってあげねばならなかったし、イエスが神様に代わっているように、民族がイエスの代わりにならねばならないことを民族に知らせなければなりませんでした。イエスが神様をわかってあげるように、民族がイエスをわかってくれねばならぬ関係を結ばないと、イエスは一生、「神様をわかっていること」の幸せを感じることができないということです。イエス様は、 天上に向かっては神様と共に喜べるが、地上に対しては人たちがわかってくれないので、喜べない立場に立つしかなかったのを皆さんは知らねばなりません。 イエス様が語った御言は、天のみをわかってくれという御言ではありませんでした。彼が伝えた福音は天のみの為の福音ではなかったのです。彼の御言、苦労、すべての難しい戦いは歴史的な民族の為であって、歴史を導いていく未来の民族の為でした。ところがこのような事実をイエス当時の人たちは知らなかったのです。イエスが神様をわかるように、地上の人たちがイエスをわかってあげたら、イエスの生涯がそれほど悲しくはなかったはずです。 神様とイエス様がお互いにわかって下さった程度 それでは、神様がイエスをわかって下さったというが、どこまでわかってくださったのか。神様はイエスをどういうふうにわかって下さったのか。創造歴史の起源から人類歴史の過程を通して、歴史の因縁を通して、その当時の現実社会全体まで、さらにはイエスの未来の理想までわかって下さったのです。 無知な民族の前に現れたイエスは、天から言い付けられて自分一身を立てて苦労しました。そして、歴史路程で限りなく苦労された神様の哀切の心情に徹して戦いました。さらに、歴史過程で苦労された先祖たちを慰め歴史過程を惨 いた んでいる悲しみを解こうとされたのです。神様はイエスをこのような存在として立てられたのです。 イエスには天の為の心があって、その心を人間の前に伝えたい哀切の心情がありました。このような哀切の心がイエスに残っている限り、イエスに対する神様の心も哀切であるしかないのです。人間が責任を果たさなかった故、神様が悲しみの中に、そして哀れみの中におられるということを我々は知らねばなりません。 それでは、神様はイエスをどの位までおわかりになったのか。アダム家庭を中心とした新郎新婦の理念を通して、子女の栄光を全世界に現すことのできるイエスとして神様は知っておられました。 それでは、イエスは神様をどの位わかっていたのか。自分を歴史に代わった存在としてわかって下さるということを知ると同時に、神様がマリアを中心とした家庭生活から現実生涯路程にまで、新郎新婦の信仰を自分によって地上に現し、善の栄光まで地上に現すのを願っておれらるということをイエスはわかりました。それゆえに、彼の御言は歴史の恨みを解いてくれる御言でした。 イエス様は、マリヤの服従について、神様がわかっておられるということを知りました。マリヤの事情を神様がわかるということも知りました。誰よりも低いところから出発の基地を作らねばならない新郎新婦の信仰を神様が願っておられるということを知っていたのです。さらに、万民の中で善の期待を願われる事実も知っていました。このように、イエスが神様を知っているのを人間たちがわかってあげてこそ、イエスが持った愛の御旨と人間たちが関係を結ぶことができたのに、当時の人間たちはそれを知らなかったのです。 ゆえにイエスは、神様とは論議することができたが、人間とはできなくなってしまったのです。イエスの怨恨の心情と地上での救いの摂理を知らせてあげる人がなかったので、イエスの悲しみが天地を失った悲しみよりももっと大きかったということを皆さんは知らねばなりません。 愛は三代を経て完成 愛は一代で完成できなければ三代を経ていきます。最初は天倫の愛を経て、父母の愛を経て、夫婦の愛を経ていきます。我々はこのように、堕落と人間たちが繰り返す過ちのため復帰摂理を歩んでいるのです。 それゆえに、一生の中で成人になるまでは父母の愛を受ける時期です。その時期が過ぎた後、自分を中心とした愛の時期が新郎新婦の時期です。その次は、子女に対する愛の時期が来るのです。 それでは、神様が6千年歴史を摂理して来られる上で、イエスが来るまではどのような愛の時期であったか。イエスを立てて、神様自らが父母として愛を与える時期でした。その後、イエスが父母の愛圏から離れ て自分の家庭生活を設けることが新郎新婦の時期です。 では、来たるべき時期はいかなる時期なのか。新郎新婦の理念を地上で終結する時期です。そうして地上でイエスが、内的な神様の御旨を中心として家庭的な基台を展開しなければならないのです。そうなる為にはまず、霊的新郎新婦の生活を地上に展開すべきです。霊的な天の家庭生活を地上に展開して、地上で歴史を代表した家庭型を造らなければならないということです。 イエス以後2千年の歴史を経た今日は、天上と地上が一緒になって、内的な型と外的な型が結び付けられて一つの実体を成すことによって、彼と関係を結ぶべきです。皆さん自体を中心として新しい父母の子女にならねばなりません。父母の時期には新しい子女を育てることができなければなりません。そうして、その新しい子女によって、新しい新郎新婦の理念を地上に立てるべきです。このような理想の歴史路程が残っているのです。 イエス様が来られた目的 それでは、イエスが来られた目的は何か。それは内的な家庭型と外的な新郎新婦の理念と子女の生活を総決算することでした。外的な基盤だけではなく、内外が繋がって相対的な基準を終結することによって、天倫の運勢は内的なことから一つの基準を立て、歴史的な家庭形態の復帰路程を経ていけるのです。誰かを通してでも、現実と歴史的な事実だけではなく決定的な事実として、皆さんは神様がイエスを立てる時までの家庭的な生活型を立てなければいけません。 イエスが新約を中心として2千年間摂理した路程の新郎新婦の実証的な内容を皆さん自体が持たないと、新郎新婦の基準を堂々と探して出ていくことができないのです。 皆さんが永存でき実存できる一つの実体的な善の子女を地上において、それは恥かしい子女ではなく罪悪の歴史から完全に離れた、 どんな怨讐でも讒訴できない子女を立てます。そしてその後には隠れた天上の心情の秘密を知り、実体型である私を立てて天の愛を受け、天と対話し、授け受けするような天との因縁を結ぶことができます。 皆さんが今日、信仰生活を通して信じているイエス、神様がわかって下さったそのイエスの目的は何だったのか? 皆さんはイエスをどの位知っていますか? 皆さんは、新郎新婦の姿をイエスと聖霊にだけ知ってはいけません。 皆さんが一生で、家庭の実体的な愛を通し内的な愛を経て、永遠なる生の基台、永遠なる救いを成す勝利の基台を残すことのできる人にならなければ、天の理想と天の所望は皆さんと関係がなくなります。さらにそれは、神様のことや、イエスと聖霊のことにはなるが、私のことにはならないのです。 それゆえに、皆さんはイエスそれ自体だけを知ってはいけません。故に、イエスを中心として和合できる人がいるならば、彼はイエスをわかって下さった神様の息子としてイエスと等しくなれる人です。彼は地上で、歴史に代わって現世に代わって未来に代わって堂々と出ていけるようになります。そのような一つの存在がこの地上に現れるならば、それ自体は歴史を知る者であり、イエスの摂理を知る者であり、イエスが所望する世界を代表できる者に違いありません。 そのような存在になるためには、如何なる条件を提示しても神様の前に感謝できる人、如何なる環境でも希望を失わない人にならねばなりません。イエスは、私が如何なるものを愛することよりも、もっと強い神様の希望と愛が生じなければならないことを感じられたのです。 それゆえに、環境が変わり歴史が変わり天地が混沌とした時にも、最後の瞬間にまでもイエスが考えたのが何であったかというと、人間であったのです。人間のために切ることのできない永遠な関係を結んで、永遠な生命と中心の心情を代身しようとしたのです。ゆえに、「十字架も来なさい、死も早く来なさい」と言うことができたのです。 今日皆さんたちが生活を通して、生涯を通してそのようなことを感じることができなければ、皆さんはイエスを知ったとしても知らないのと 同じです。 ですから皆さんは、摂理路程の全般的な歴史形態を代表し、全体歴史を代表し、永遠な歴史を代表して、永遠な神様の動的な心情と情的な心情にまで通じられる関係を結ばねばなりません。そうして、歴史に疼 うず く恨みを解いて万民の前に現れるべきです。そのような人として現れることができなければ、イエスが探し、要求している、即ち天が知ってくれる子女であると言えないのです。ところで、もしもそのような人がいれば、彼は自分が食べるひと匙 さじ の御飯をおいても神様に感謝を返すに違いないし、息をするその一息からも神様の愛を感じることができるのです。 天が知って下さる子女 天地の運勢が回っていくように私の心も新しく無限に回っていくことを願っているが、なぜそうならないのか。天地の力と愛が繋がって、天倫の原則の基準が繋がっているということを我々は忘却しているからです。 それゆえに、今日我々は、イエスが神様を知ったように、我々の生活の中でイエスを知らねばなりません。そして、イエスが神様の恨みを知って、イエス一身の栄光が天の前に返ったように私を通して私の栄光をイエスに返すことができるようにイエスに付いていこうという心を持たねばなりません。イエスが神様に従い神様の愛の心情をわかっているのに、我々がイエスをわからなければ、イエスの宿命的な所願はどこへ行って解くのか。今日皆さんはそれを考えねばなりません。 今日皆さんは、イエスの為に一瞬一瞬生きていると言うかも知れません。皆さんは多くの国と多くの民族の為に存在すべきです。歴史の終末時代まで、その流れと天倫の心情を永遠に感じながら、万物の主人公として天の栄光を讃え、天に栄光を返すことのできる群れになるべきなのです。 それがイエスの所望であるとすれば、私自体がイエスの代わりとして天の前 に栄光を返さねばなりません。ですから皆さんは、夢のような事実を夢ではない現実で実践できなければなりません。神様の所願はそのような御旨を終結することです。神様とイエスの心情に徹していたその要求とその所望が皆さんを通して現れています。もし、そのようなイエスの心情を通して、神様の内的心情に従ってお父様の代身になりイエスの代身になれる、地上で真にイエスを信ずる人がいるならば、イエスをわかって下さったように神様がわかって下さり、イエスと聖霊もわかって下さるはずです。さらに、イエスと聖霊がわかって下さると同時に、イエスと聖霊に繋がっている千軍天使たちがわかって下さるに違いありません。ところが今日の人間たちはこのような栄光の恩賜を恩賜として知らないのです。 勝利の栄光を返すには イエスは神様だけがわかって下さったが、我々は神様もわかって下さり、イエスと聖霊、天にいる千々万聖徒たちがわかって下さるはずです。それゆえに、地上で私が天上の神様を知ることができれば、天からイエスと聖霊を通して霊界へまで認められることができます。ゆえに、私自体がこのような認定圏の中に立って、イエスを通して2千年間摂理された神様の心を知ってあげることのできる私にならねばなりません。 神様の摂理の理念は皆さんたちを通して現れるべきです。これを考えると、我々は恵まれた群れです。イエスが十字架に出ていく時よりさらに恵まれた立場にいるということを知らねばなりません。 イエスは神様の為に一人で死にました。しかし我々は、神様の為にもイエスと聖霊の為にも死ぬことができなければなりません。そうして、千々万聖徒たちが我々の出ていく道を守り、我々を歓迎できる自分たちにならねばなりません。「私が悟りましたので、お父様、その私に運行されて千々万聖徒たちが、今日私によって慰められることができるように導いて下さい」と言える皆さんになるべきです。そうなる時皆さんは、天のすべての摂理を代表して勝利の栄光を現すことができるということを知らねばなりません。 祈祷 お父様! 信じていると言っている者たちがお父様の前で悪臭のみを臭わしながら、まだ自分がわかっていないのです。お父様、天上の心情を通じて私自体がわかるように許諾して下さい。地上の摂理の御旨を通して私自体がわかるように許諾して下さい。 天上と地上が結ばれる栄光の御旨を私自身がわかるように許諾して下さい。お父様、ここに集まった子女たちを愛して下さって、語りたいお父様の切ない心までも察することができるように許諾して下さい。お父様を中心として天を知ることのできる心情を許諾して下さり、永遠なるお父様の生涯路程を我々が知って、天を知り、天の栄光を慕う子女たちになるように許諾して下さい。切にお願い申し上げます。 今日集まった全子女たちが、お父様から流れてくる愛の力を受けて、お父様が「動」であれば我々も「動」であり、お父様が「静」であれば我々も「静」であるように、相対的な祝福を許諾して下さい。我々がお父様のあらゆる心配を減らしてあげることができ、歴史的な摂理の全部を代身できるように許諾して下さい。 そうして、天上天下を左右できるお父様の永遠なる国を建設することによって、神様が知り、イエスと聖父と聖子と千々万聖徒たちが知り、地上にいるすべての聖徒たちまでが知るように許諾して下さい。 お父様の「知」(知っていること)の栄光を勝利の条件にしてサタンの権勢を破って、勝利の版図を成し遂げるように許諾して下さい。主の御名によってお祈り致しました。アーメン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.19
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真の家庭世界化前進大会、1.25まで、韓国の8つの都市01.17 ソウル北部圏オリンピック重量挙げ競技場01.18 光州・全北・全南・済州圏光州数珠体育館01.19 大田・忠清北道・チュンナムグォン忠州室内体育館01.20 京畿南部・江原圏水原室内体育館01.21 釜山・慶尚南道圏釜山九德室内体育館01.23 大邱・慶尚南道圏大邱室内体育館01.24 仁川・京畿北部圏富川室内体育館01.25 ソウル南部圏オリンピック重量挙げ競技場1999年1月17日、「真の家庭のグローバル化の前進大会」が、ソウルオリンピック公園重量挙げ競技場で開催された。(写真)前進大会は1月25日まで、全国8都市で行われ延べ8万人が参加して大盛況を成した。真の父母様のテーマ講演を通じて「真の愛が創造の起源であり、真の愛を中心とした真の家庭をなす者」を強調した。<み言>天一国経典・平和経 第3編-16人間の行くべき生涯路程日付:一九九九年一月十七日場所:韓国、ソウル、オリンピック公園重量挙げ競技場行事:真の家庭世界化前進大会高名な紳士淑女の皆様。きょう「人間の行くべき生涯路程」という主題で進められるこの大会に、真冬の寒さとあらゆる現実の困難をものともせずに、満場の盛況を呈してくださいましたことに、心より感謝申し上げます。 今、全世界は大混乱の中で呻吟しています。個人では心身の紛争、家庭では青少年の淪落と家庭破綻、国家と世界においては不信と戦争が絶え間なく続いています。この諸般の問題の解決は、神人愛一体理想を体恤することによって克服することができます。 神様が人間を創造された目的人間はなぜ生まれたのかという問題は、人類が歴史的に追究してきた根本問題です。ある人たちは自分の国のために、あるいは自分の父母のために、または自分自身のために生まれたと考え、信仰者たちは神様のために生まれたとも考えます。しかし、神様が宇宙を創造された目的は人間だけのためであるとか、神様御自身だけのためであるという論理は成立し難いのです。人間が造られる過程に連結された様々な目的、すなわち神様が人間を創造された目的や天使が人間の創造に協助した目的、あるいは万物が人間に投入された目的と人間が生まれたこと自体の目的などが、互いに違ってはならないのです。全体が喜ばなければなりません。人間の創造に関連した神様も喜び、天使も喜び、万物も喜び、そして人間自体も喜べる、そのような共通の内容でなければなりません。 それは、もてばもつほどうれしくて喜ばしく、一度もてば永遠に手放したくないと思う、そのような何かなのです。それは外的な内容ではなく、極めて内的なものであり、目に見えないものなのです。知識やお金や権力のようなものは、人間が生きていくのに必要な付帯条件にすぎません。それはみな人間のためにあるものなので、人間には当然そのようなものを所有する権限があるのであって、そのようなものを所有するために生まれたとは考えられません。それはみな流れていくものです。それは自分と一時的な相対関係を結べるかもしれませんが、永遠の相対関係は結べないのです。 さらに神様は、お金が必要なのではありません。全能であられる方なので、お金はいくらでもつくることができます。神様は万物を造るとき、原理原則を通して造ったので、知識の根本でもあられます。そして、神様御自身は創造主として権力の主体であられるので、権力が必要なのでもありません。そして、それは、人間の努力だけで追求できるものではありません。人間の努力では生命の根源を支配することはできません。自分の生命の動機や過程、そしてその生命の終末まで動かす、そのような何かでなければならないのです。 このように見るとき、それは、真の愛であると言わざるを得ないのです。人間は愛で生まれ、愛の道を行かなければなりません。そして、死ぬときも愛のために死ななければならないのです。ですから、私たちの人生を見るとき、生命より愛がもっと貴いだけでなく、愛が生命よりも先なのです。ですから、愛のためには生命まで喜んで捧げるのです。愛は永遠です。小説や詩のような文学作品を見ても、「不変の愛」や「私の永遠のあなた」という表現が多く存在するのを見ることができます。このようなものを見ると、私たちが瞬間的な愛、一時的な愛を願うのではなく、永遠の愛を願うことが分かります。 愛は神様も身動きさせない権威をもっています。神様も愛には弱いというのです。全能であられる神様も人間の愛の香りを嗅ぐならば、満面に笑みを浮かべられるのです。神様も愛の話がお好きなのです。話だけでも好きなのに、実際に愛すれば、どれほど喜ばれるでしょうか。私たちの人体の様々な器官も、愛という一つの目的を中心に生まれました。目は見るために生まれましたが、どのようなものを見るためかというと、共同のテーマである愛を探すために生まれたのです。鼻も臭いを嗅ぐために生まれましたが、臭いの中でも愛の香りを嗅ぐために、耳も愛の声を聞くために生まれました。私たちが聞く言葉の中でいくら聞いても嫌気がせず、好きな言葉は「愛している」という言葉です。これは若者も老人も同じなのです。 ですから、あらゆる存在が互いにみな喜ぶことのできるテーマは、愛以外にはないのです。その愛とは、大宇宙が歓迎できる真の愛です。神様も、天使世界も、万物も、そしてすべての人が公認できる愛なのです。愛というふろしきを持ってきてかぶせておけば、その中から抜け出そうとはしません。このような点から見るとき、宇宙創造の起源や生命の発祥地とは、正に真の愛だというのです。 真の愛は宇宙創造の起源人間が宇宙を愛する境地に入れば、宇宙のすべての門が開くことを経験できます。また、自分が今、ここの空間に、ただ極めて小さなものとして存在しているとしても、愛を中心とすれば、極めて大きな存在と共同で共通な、そして同等かつ対等な相対的権限をもつようになります。その極めて大きな存在が絶対的な神様ならば、私は愛の権威によって、その絶対的な神様の相対的な立場に上がることができるのです。神様の属性が愛だからです。 ですから、神様の愛の公約を立てておいて、その公約の中に存在するようになれば、宇宙のどこに行こうと自由なのです。神様の愛に酔えば、一つの砂粒を千年見つめても飽きません。自分の手を見つめれば、自分の手から光が出ることが分かります。夜に一人で横たわっていると、暗い夜にもかかわらず、自分が黄金の板に横たわって黄金の光を発して寝ている自らを感じるようになります。夢のような話です。そのようになれば、丘に上がっても万物が喚声をもって歓迎するのを感じることができます。皆様もそのような経験をしたことがありますか。 私たち自身が愛の宇宙の中に生まれたと考えれば、無限に幸福に感じられるだけでなく、世の中に「私を見なさい」と誇るに値する自分です。神様が実験室で研究している途中に、最も理想的で、驚異的な発見があったとすれば、それは正に自分だったというのです。このような観点から、神様の愛の相対的立場に立てられた自分自身を破綻させることは、罪の中の罪であり、これを愛して保護することは善の中の善であるという結論が出てくるのです。ですから、自殺することは最も大きな罪になります。宇宙を破綻させる行動です。 監獄に入って、拷問で血を吐くことになったとしても、神様が抱いてくださる愛のみ手を感じれば、それがかえって神様が骨髄にしみる愛で抱くことのできる一つの条件になるのです。このように考えるとき、死ぬような環境も、幸福な場だと考えて歩むことができるのです。このようなことを考えるとき、男性も女性も、愛の力の中にいる人は、強い人なのです。国や世界を与えても変化させることができません。そのような人の前には、サタンも屈服せざるを得ない驚くべき結果が現れます。 ですから、神様がこの宇宙的愛を中心とした人間を代表して呼ばれるとするなら、その方は正にメシヤです。イエス様がその代表者だというのです。メシヤを通さなければ、宇宙愛を見いだすことはできません。ですから、万民はそのあとについていかなければならないという論理が成立するのです。イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・六)と言われましたが、ここに愛という言葉を一つ加えなければなりません。「わたしは道であり、真理であり、命であり、愛である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と言ってこそ、論理がより明確になるのです。私たち人間は、父母の愛の中で生まれました。その父母の愛の一番中心の、主人として生まれたのです。ですから、父母は、私一人をつくり出すために愛し合ったという結論が出てきます。 ですから、父母に対して同等な立場で権利を主張することができます。「お父さんとお母さんは私がいなければ不幸です。私がいてこそ幸福でしょう」と言うとき、父母は「そうだ」と言うのです。そして、自分も父母がいなければ不幸だというのです。なぜなら、父母が原因で、私は結果だからです。父母と自分は愛を中心として一つです。原因と結果が一つになって愛の実体圏を形成するのです。これが宇宙の道理です。 統一教会の原理では、主体と対象が一つになるところから力が出てくると言います。ですから、原因である父母が自分と一つになれば、主体と対象が一つになって一体となったので、新しい対象となって、より大きな主体と一つになることができます。神様がその主体ならば、その神様と一つになるのです。すなわち、神様の理想的な愛を中心として神様と完全な主体と対象の関係を形成すれば、神様と人間は完全に父子関係になって、一つになるのです。神様と人間の愛の圏が形成されれば、宇宙にはいつも明るい太陽のような愛の光が発せられるのです。 自分は、父と母の二つの生命が一つに結合した生命の連結体であるというだけでなく、父母の愛の同参者として父母の愛と一体です。さらには、自分は父母の理想とも一体です。理想には幸福や平和というものがすべて入ります。父母にとって、自分が世の中で成功したときの喜びがいくら大きくても、失った子女に出会ったときの喜びとは比較になりません。子女は父母の最高の理想と一体だというのです。 自分には父と母の生命の綱、愛の綱、そして理想の綱が連結されていますが、この綱は誰も切ることはできません。神様も切ることができず、宇宙も切ることはできません。むしろ、宇宙のすべての力がそれを擁護しようとするのです。ですから、私がどこに行っても、父と母がついてくるようになります。あの霊界にまでも、父と母はいつも共にいようとするのです。ですから、父と母が同行するのを嫌うのは、大きな罪です。この宇宙を破綻させる破壊行為だというのです。父母を連れていくことを嫌うのは、既にその人が宇宙の原則から離れていくことを意味します。 ですから、父母を自分の体のように思って愛し、父母に孝行することが、人間において最高に価値あることです。「和睦する家庭に福が来る」という言葉も、そこから来るのです。反面、父母が離婚することは、刀で子女を半分に切ることと同じです。それは宇宙の公法が許しません。これに逆らう父母はどこに行っても災いを受け、不幸がついて回るのであって、幸福になることはできないのです。 物質世界、父母、神様は三大父母自分は三大父母を通して生まれました。第一の父母は物質世界です。物質の世界からあらゆる要素を取り出して、物質の中心として、物質の複合的な存在として自分は造られました。このような観点から、その物質の元素自体が自分を生んでくれた先祖でもあり、また自分の延長が物質世界でもあります。この物質は愛の理想の立場においてのみ安着するように、宇宙はできています。愛の理想の立場において、すべての細胞が平安に生きられるようになっています。もし腹を立てたりすれば、すべてがこじれてしまうのです。 次に、自分の体を生んでくれた父母が第二の父母です。自分を生んでくれた父母が、自分をして一つの形態を備えて生まれてくることができるようにしました。しかし、この父母はどんなに頑張っても愛の主人になることはできません。自分の生命の主人にはなれますが、愛の主人にはなれないのです。 愛の主人は神様です。愛を宇宙化させて、愛を永遠化させるために神様がいらっしゃるのです。神様は愛の主体であられるので、愛を中心として父母になっています。ですから、神様が私たちの第三の父母です。このように私たちは三大父母をもっているのです。 私たち人間の一生は、腹中時代の十カ月、肉身時代の百年、そして霊界時代の千年、万年を永遠に生きていきます。私たちの顔を見れば、口、鼻、目の三段階になっていますが、これは人間が生きてゆく三時代の姿を見せてくれているのです。口は物質世界である腹中時代を象徴し、鼻は人の世界である地上時代を、目は霊界の天上時代を表します。 胎児が育つ母のおなかの羊水の中は、胎児には正に自由天地です。母のおなかの中では、いつも背中を曲げていなければならず、鼻も口もみな塞がっているのですが、胎児には自由天地だというのです。胎児に必要なすべてを供給するパイプがへそについていて、へその緒だけで生きなければなりませんが、そのような世界が胎児には自由天地なのです。胎児がおなかの中から生まれるとき、「私は世の中に出て、口で蜂蜜も食べ、餅も食べ、御飯も食べる」と考えて生まれますか。むしろ、そのおなかの中から外に出る時になって「ああ、ここがいい」と思うのです。しかし「出たくない」と思っても、時が来れば出るようになるのです。羊水が流れ出れば、それに従って外に出るようになりますが、このようにして生まれることを安産といいます。 赤ん坊は生まれるやいなや、泣くと同時に鼻の穴で息をするようになり、第二世界、すなわち空気世界に連結されます。おなかの中から空気世界に連結されて出てくるときには、腹中世界で暮らしたへその緒と羊水の袋をみな壊して出てこなければなりません。それらの死(破壊)と同時に、地球星の母の所に生まれるのです。生まれてからは、口で食べて鼻で息をするのです。ところが、地上で食べる食べ物は肉身が生きるのに必要な栄養分であって、本質的な生命要素ではありません。生命要素は、正に愛です。ですから、この世の中でも愛という空気を吸わなければなりません。母と父からの愛の空気を吸わなければならないのです。 赤ん坊が生まれると、母の愛の電波に沿って自動的に乳首を探しにいきます。美女であるかどうかは関係なく、愛ある母であればいいのです。これこそ創造の妙味、かつ神聖な姿なのです。人は愛で生まれ、愛を受けながら成長します。 このような立場で見るとき、「私」というものは、父母の愛の実です。父と母の愛がどのようなものなのかを実際の実として見せたのが自分なのです。愛の実であるがゆえに、父母は「私」を愛さなければなりません。その実を通して無限な愛がまた実を結ぶのです。個人的愛、家庭的愛、氏族的愛、民族的愛、国家的愛、世界的愛、宇宙的愛、そして本質的な神様の愛にまで連結できる道がここにあるというのです。私は父母の愛の実出生したのち、肉身時代には、生んであげた父母が子育てを受け持って正しい人に育てるのです。世界と国と家庭を代表し、父母がすべてを教えて供給してくれます。私たちが父母から物質を供給され、教育され、個体として完成すれば、愛を中心とした横的な基盤に連結させなければなりません。それが結婚です。父母は結婚するときまで責任をもつようになります。結婚して、父と母が互いに愛し合っていたその愛を引き継ぐのです。父母が自分を生んでどれほど愛したかを、自分が結婚して子女を生み育ててみることによって知るようになり、その愛を引き継ぐのです。そうすることによって、自分は愛を完全に受けることができ、与えることができる人になります。そうして、完全な一人の男性、女性として成熟するのです。 父母の縦的な愛で生まれ、成熟し、横的に愛するようになって、初めて総合的な愛の圏を見いだすことができます。天地は球形世界なので、縦横と上下、左右、前後の愛が連結されてこそ、それを与え合いながら回り、すべてがまとまって一つの調和のセンターとして現れるのです。ですから、天地の縦的愛が内外に軸としてしっかりと立てば、その次に横的な愛が必要なので、思春期というものがあるのです。 思春期には、ただ秋風に吹かれて落ち葉がころころ転がるのを見るだけでも笑うのです。乞食が訪ねてきて物乞いの歌を歌っても、思春期には「ああ! また来た。またやっているな」と言って歓迎します。そのように四方に拡大されるのです。ですから、おとなしくしていた女性たちも、髪の手入れや化粧をし、しきりに体に何かを塗るようになります。欲も強くなるのです。それが愛の横的な現象です。ですから、人生行路は旅のような道ですが、ここで備えるべきことは、縦横の愛を体恤していかなければならないということです。真の父母の愛、真の夫婦の愛、真の兄弟の愛、真の息子、娘の愛を中心とした家庭を築いたのち、これを横的に拡大し、東西南北に多くの家庭を広げておかなければなりません。そうして、彼らが縦横を連結できる真の家庭を形成し、氏族圏、民族圏、国家圏、世界圏で神様と真の愛で連結されるとき、その世界を天国というのです。 夫婦が愛し合うということは、神様を迎えることです。本来、父母は本然の神様の立場を代表し、ここで夫と妻は互いに他の一方の神様になります。そして、息子、娘はまた一つの小さな神様です。神様は真の愛の本体なので、真の愛と連結されれば、みな同じ体になります。父母は神様の代身として生きている神様であり、夫婦も神様の代身であり、子女も神様の代身です。このように三代が真の愛を中心として神様の立場を身代わりするのです。 ですから、父母も、夫婦も、そして子女も真の愛を必要とするのです。このように真の愛を中心に形成された家庭組織が天国の基盤です。そのような基盤を形成しなければ、天国が実現しません。これが公式です。家庭とは、すべての宇宙の現実世界の中心です。今日、人々は自分の家庭が、国と世界と宇宙を代表した家庭であることを知らずにいます。中心としての家庭だということを、知らずにいるというのです。ですから、家庭を破綻させることは、国と世界と宇宙に対する反抗になります。家庭の完成は宇宙完成の基礎になるので、家庭で愛するように宇宙を愛すれば、どこでも無事通過です。この場合、神様は宇宙全体の父母として、愛の複合的な中心の立場にいらっしゃいます。 真の愛を中心とした家庭が行くべき道真の愛を中心として男性と女性が一つになり、理想的な夫婦となって家庭を築けば、彼らは神様を身代わりする立場に立つようになり、宇宙のすべてに連結されます。そのようになるとき、神様のすべてが自分のものになるのです。どれほど幸福な立場でしょうか。ですから、私たちは万物を征服したい気持ちになるのです。男性と女性が合わさって家庭と社会と国家、そして世界を築くがゆえに、男性と女性が中心になって築いた家庭は氏族のモデルにならなければならず、氏族は国家のモデルにならなければならないのです。私たちの家庭が行くべき道とは、理想的な家庭と氏族と国を復帰していくことです。ですから、理想的な国が出てくるためには理想的な家庭がなければなりません。 尊敬する市民の皆様。真の愛が偉大な理由は、真の愛で私自身が神様の対象になることができ、神様も私自身になることができるからです。聖書にも「父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」(ヨハネ一〇・三八)とあります。父が息子の中に、孫が祖父の中に、祖父が孫の中にあるという言葉は、ここから生じた言葉だと考えます。 祖母と祖父は、孫を中心として情を結ばなければなりません。それでこそ、愛の垂直線が始まるのです。また、孫は、祖母、祖父と一つにならなければなりません。祖父と祖母は神様と同じ立場なので、神様のように侍らなければなりません。そうでなければ、縦的な愛の軸を見いだすことができません。これを立てたのちに、横が生じるのです。横的なものは四方に連結されますが、縦的なものはただ一つの方向です。横的なものは東西南北、三六〇度に動くことができ、縦的なものは一つの点で動くことはできますが、分離することはできないのです。 ですから、愛を中心として、まず体と心を一つにしなければなりません。そして、神様を中心とした縦的な世界である霊界を愛することができなければなりません。そして、未来に中心国家が現れれば、その国を中心として全世界の人類を愛さなければなりません。ですから、真の愛を中心として、犠牲、奉仕、献身の道を通じ、霊界と全世界の人類を愛する生活を送れば、人間は自動的に中心的存在になって、二つの世界を主管して一つの世界をつくることができます。そうすれば、神様もそこに臨在されるようになるのです。 全霊界と全宇宙が合わさったものを天宙と言いますが、すべての霊界と宇宙は、真の愛を中心として、この天宙が一つに統一されることを願います。天宙を統一できるのも、全体の家庭を理想化させて一つにできるのも真の愛です。それで今日、人間が地上で暮らしても、永遠の生活をする霊界に入っても、絶対に必要なものは真の愛しかないという結論が出てきます。 真の愛は、人間や霊界だけでなく、すべてが好みます。ですから、真の愛をもった人は、動物や植物たちからも好まれ、彼を主人として迎えようとし、どのような存在でも真の愛を中心とした人と一つになろうとするのです。被造世界のあらゆる存在は、真の愛をもって生きる男性と女性の前に近づこうとし、彼と共に生き、彼により主管されることを理想とします。ですから、この世の中で一番貴いものとは、真の愛をもった男性と女性、すなわち真の人だという結論が出てくるのです。 人間には翼がないので、どんな昆虫や鳥よりももっと遠くに飛び、どんな飛行機よりももっと速く地球星を回るには、実体の肉身ではできません。どんなに走っても、いくらも行けないのです。人は万物の霊長として神様と対等な相対的立場にあります。ですから、一秒間に三十万キロメートルを走る光よりもっと速い作用ができなければなりません。それを可能にするものが霊人体です。今、私がソウルにいても、霊人体はさっとニューヨークに行ってくることができるのです。稲妻よりも速いというのです。このように、思いとともに歩調を合わせて作用できるのが霊人体です。しかし、世の中で一番速い作用とは、愛の作用です。世の中で一番速度が速いのは光や電波ではありません。世の中で一番速く、高く飛べる力をもったものが愛です。この地の果てとあの地の果てにいる人間同士で互いに愛し合うようになれば、その地の果てを越えて引っ張り合うのです。愛はそのような力をもっています。 真の愛を体験した人は、神様の本来の理想的な世界では、神様が願うあらゆることを即座に所有できる能力と権限をもちます。そして、そのような資格は地上でもたなければなりません。霊人体を中心として肉身が一つになる過程で、神様の愛の接続点が真の家庭において形成されてこそ、そのような立場に進むことができるからです。 神様の真の愛は、同胞を愛しても、世界の人を愛しても、万物を愛しても、感じることができます。どの国の人でも、五色人種を愛する心をもたなければならないのです。人だけではなく、微々たるものまで愛することができる心をもたなければなりません。自動的にそれが湧き出てこなければならないというのです。花が咲けば、その美しい色や香りは自然に出るのです。同様に、愛の花が咲かなければならず、愛の香りが自動的に宿らなければならないというのです。 そうするには、その愛の花を咲かせ得る栄養素を受けなければなりません。植物が地と太陽から栄養素を受けるのと同様に、私たちも肉身と霊人体を通して栄養素を受けるのです。それで、肉身を通して生力要素を受け、その次には霊人体を通して生霊要素を受けます。そうすることによって、自分は愛を完備した実体となり、どこでも飛んでいくことができます。そのようになれば、太陽系をはじめとする大宇宙は、すべて自分の活動舞台になるのです。 霊界は愛を中心とした世界人間が肉身生活を終えたのちには、第二の出生をします。これが死です。第二の出生をする所、死んで行く世界が正に霊界です。その世界に入って、第三の父母である神様から宇宙全体を代表した愛が供給されるのです。理想的な愛が供給されるというのです。ですから、霊界では統一されざるを得ません。 死ぬ瞬間からは第二の空中世界を振り切って、新しい第三の愛の呼吸器官に連結されなければなりません。父母の愛、兄弟の愛を振り切って霊界に入り、結局は大宇宙の神様の本体と和合する愛の世界に入ります。種が本体から出てきたので、結果を結んで、また本体に戻らなければならないのです。霊界は愛の空気でできている世界です。愛の空気で満ちています。ですから、私たちはこの地上世界で、愛の息をすることができるもう一つのパイプ装置を準備しなければなりません。ですから、霊界を体験し、霊的な愛を感じて呼吸できる人になってこそ、霊界で死なないのです。 霊界は愛を呼吸し、愛を中心として暮らす世界です。ですから、完全な愛の人格をつくれなければ、行ったり来たりする道が制限され、四方に通じません。門を通ったとしても一つの門だけを通らなければならないのと同じです。春夏秋冬、いつでもどこでも合わせて暮らせる資格を備えようとすれば、完全な愛の人格を具備しなければなりません。ですから、三時代を経るように人間を造ったのです。 とんぼも、幼虫が水の中で泳ぎ回り、地上に上がってきてしばらく這い回ります。その次にはひらひらと飛び回り、食べるとは思いもしなかった虫を捕まえて食べます。天下を自分の舞台として飛び回るのです。このように昆虫類の中には、羽があって三段階の世界を経るものが多いのです。昆虫もこのように水と陸地での生を経て空中で暮らすのですから、万物の霊長である私たち人間は、もっと次元の高い翼をもっているのです。 私たちは神様に代わって愛で生まれ、愛で生きながら息子、娘を生み、愛の目的地に到達して、永遠に神様と共に生きるために神様の所に帰るのです。すなわち、私たちの一生とは、愛で始まり、愛で熟し、愛の実として刈り取られるのです。人が死ぬということは、愛の実を収穫することです。 私たちは、父母の愛を受け、夫婦の愛を交わし、子女を愛したので、内的な愛の世界に蒔かれた神様の愛のすべてを、一生をかけて実を結んで収穫し、あの世に逝くのです。ですから、私たちが完全に愛で一つになれば、神様に似るようになります。夫婦が合わさってこのような三段階の愛を完全に完成して霊界に行くようになれば、永遠の主体である神様のみ前に、永遠に「相対としての神様」になるのです。真の愛を中心として夫婦が死ねば、そのようになります。ですから、神様で始まって神様で締めくくるのです。 人間が死ななければならない理由は、体をもっていては制限された愛でしか愛することができないからです。無限大の神様の真の愛の対象的実権をもって現れようとするなら、制限された肉身だけではできないのです。ですから、無形の霊にならざるを得ません。さらに、真の愛の理想を全天地とともに同一化するためです。死は苦痛の道ではなく、宇宙的な真の愛を所有できる幸福の門を開門する時間です。死ぬということは、這って歩き回る陸地の世界から、ひらひらと飛び回って暮らせる世界に移ることです。全宇宙を自分の舞台にして、真の愛で旅行を楽しめる資格をもった人になり、そのような世界に入門するために死の道を行くのです。ですから、死ぬことは正に新しく生まれることです。 私たちは初めに母の胎内にいました。その胎が私たちを育てたふろしきです。そのふろしきの中から出てくるとき、すべてを振り切って生まれるのと同様に、私たちの霊人体に対して肉身はふろしきのようなものなので、これを振り切って飛んでいくのです。ですから、人間は結局、水の世界、陸地の世界、空中の光の世界を経て、永遠な真の愛の世界で暮らすようになるのです。 霊界では生命の要素が愛なので、愛を通した命令には不可能がなく、即座に実現されます。そこでは億万人が一度に夕食を食べるとしても、そこに合う食べ物を準備して、あっという間に宴会をすることができます。そのとき、列席する貴賓たちが、みな王女、王子になりたいというときは、すべて本物の王女、王子になります。それが可能なのです。 皆様、そのようなことを理解するなら、この地上で暮らしたいですか。あの世に行きたいですか。腹中にいるときは「腹中が一番いい」と言いながら、腹中でただ足をばたつかせながら暮らします。途中で引き出そうとすれば「嫌だ」と言うでしょう。そして、母のおなかの中から外に出るときは、一度死んでから目覚めます。地上での死というものも、一度死んでから目覚めるのと同じ作用なのです。ですから、肉身の死とは、正に第二のお産です。 神様と人類は父子関係満場の市民の皆様。きょう一時を生きていく人生の道というものは、平坦な道ではありません。それは人間が堕落したからです。人間は堕落の因縁をもって生まれたがゆえに、その堕落によって生じた怨恨の過程を、いずれ乗り越えなければならない運命をもって生まれ、数千、数万年の歴史過程を経てもそれを越えなければ、その恨の道は私たちの前に永遠に残るようになるのです。 エデンの園でアダムとエバが堕落したその瞬間から、人間は不幸の要件をもって出発しました。ですから、人類が幸福の世界に帰るためには、必ず不幸の世界を跳ね返して進まなければなりません。そうでなければ、誰も幸福な世界に帰ることはできません。 人類始祖が堕落したことによって人間だけが不幸になったのではなく、神様までも共に不幸になりました。人間が生涯を捧げて生きていく一つの目的は、理想世界の実現だけではありません。それよりまず、生命の根源であられる神様に積もりに積もった悲しみと悲痛さをどのように打開するかということが、私たちの生涯の目的です。ですから、人類が幸福な所を訪ねるとき、神様も幸福になるのです。神様と人類は父子関係だからです。このように神様や人間は同じ立場に立って、一つの目的を指向し、歴史過程を経ながら今まで歩んできました。神様はアダムとエバを失うことによって、険しい道の中でも険しい道、世の中の誰も願わず、また行きたがらなこを歩んでこられたのです。人間もやはり堕落で残された、この避けることのできない運命の道を、救いの一日を願ってやって来ました。 神様に対して人間は、その方の息子、娘になることが最高の願いです。なぜなら、父母と最も近い立場は父子関係だからです。「私」という人間は、父母の愛と生命が合わさって、父母の理想を実現するために生まれました。愛や理想という言葉は、一人について語る言葉ではありません。生命も一人で独断的に出てくるものではなく、連結された立場で出てくるのです。ですから、神様が人をお造りになるとき、神様の真の愛と真の生命と理想の対象として造られたのです。これは驚くべき偉大なことです。自分がいなければ、父母の愛は現れることができません。父母の愛と生命と理想は、自分と共に関係しているのです。自分は父母の愛と生命と理想の結実体です。ですから、息子の立場は最高に価値のある立場です。神様と人類は父子の関係だからです。 父母と自分が一つのところから共に出発したという事実は、驚くべきことです。父母の愛は自分の愛であり、父母の生命は自分の生命であり、父母の理想は自分の理想として決定することができるのです。ですから、父母は子女を見つめるとき、これは自分の愛する息子、娘だと言います。子女とは、自分の愛と自分の生命と自分の理想の実体だということを、父母は感じて悟り、知っています。愛する息子、娘は、一日だけ会わなくても、会いたいと思い、今見ても、またすぐ見たいと思うのです。それはどんなに離そうとしても離すことができない、骨の中の骨であり、肉の中の肉です。いなければ死ぬほどつらいと思うのであり、そこにはすべての理想がかかっているのです。 今日、堕落によって真の愛と真の生命と真の理想をもつことができない人間世界に生まれた父母でも、そのように子女を愛そうとするのですから、そのような父母の主体であられる神様は、それよりもっと愛するというのです。 救援摂理の完成本来、堕落していないアダムとエバは、神様の直系の息子、娘として神様の血統を引く存在です。アダムとエバは、天上天国と地上天国を受け継げる王子、王女だったのです。王子、王女であると同時に、無形の神様であり、主体であられる神様のみ前に対象として造られた存在であるがゆえに、神様から愛を受けられる実体なのであり、無形の神様が実体として顕現したものです。 神様の息子の特権とは、その方は自分のものであり、その方がもっているすべてのものも自分のものだというのです。神様の愛までも、生命までも、理想までも自分のものです。このように驚くべき偉大な本然の価値を、人間は再び回復しなければなりません。ですから、神様が主体的真の愛であり、永生するのなら、その真の愛の相対も永生しなければなりません。神様の真の愛と一つになれば、神様が自分のものになるのです。 堕落していないアダムとエバの体は、神様が住むことのできる家です。アダムとエバが神様を心の中心として、真の愛で永遠に統一された愛の体、生命の体、血統の体になっていたならば、今日、私たちの心と体は闘わないでしょう。堕落とは、悪魔の愛を中心として、悪魔の生命体と血統を受け継いだことです。偽りの父母から生まれたのです。ですから、この血統を改造しなければなりません。野生のオリーブの木を真のオリーブの木に改造しなければならないというのです。そうするためには、接ぎ木をして三代以上経て、そこで結ばれる実が真のオリーブの木になって、本然の基準を取り戻すようになるとき、初めて堕落した人間が本然の人間に復帰されます。そのとき、救いの摂理が完成するのです。 このように神様と一致した愛を中心として、善なる父母の息子、娘にするために、神様がこの地上に救世主として真の父母を送るのです。救世主は人類の血統を清め、本然の創造理想を実現するために来られるお方です。 私たち人間は、誰でも最高になりたいと思い、神様の息子、娘になって、神様の王子、王女として王権を受け継ぐ相続者になりたいという本然の欲望がありますが、他の血統を受け継いだがゆえに、生まれても嘆かわしく、生きても嘆かわしく、死んでも嘆かわしいのです。人生は苦海だという言葉が、ここから出てきました。ですから、自分の体と心の闘いをどのように中止させ、一つに統一させるかという問題が重要です。自分の体と心を一つにできなければ、南北統一も、世界統一も、そして霊界統一も、自分とは何の関係もなくなります。 主体と対象は、対応的な関係を結んだのちには、より大きなものを中心として一つにならなければなりません。男性と女性が対応して一つになったあと、より大きなプラスやマイナスになって、国の前に忠臣にならなければなりません。そして、これが再びプラスやマイナスとして世界的次元で聖人の道理に接ぎ木されなければならず、聖人の道理が再びプラスやマイナスになって、天宙的次元で聖子の道理に接ぎ木されなければなりません。そのように聖子の道理を備えたのちにこそ、神様に接ぎ木することができるのです。 ところが、私たちは発展を願い、大きなものを願い、高いものを願う、このような原則において、自分が行くべき道が運命的に横たわっているにもかかわらず、その道を知らずにいます。本然的な天道の動きに対する対応的な反射として、自分の心の欲望は作用していますが、その成就の道を知らずにいるために、人生は塗炭の苦しみの中で呻吟しているのです。これを見いだすことができないために、世の終わりの日になれば、その道を見いだすために多くの努力をしても不可能なので、自殺がだんだんと増えていくのです。私たちは何としてもこれを克服する道を探さなければなりません。 人類は世界の舞台で一番になることを願う前に、まず本然的アダムとエバの家庭で一番になることができなければなりません。アダムとエバが神様のみ前に直系の王子と王女の立場を備えるようになれば、彼らは男性として最高であり、女性として最高になるのです。しかし、彼らが堕落したことによって、彼らが占有すべき長子権の王子、長子権の王女の立場を失ったのです。これが人類歴史に恨として残りました。ですから、人類は神様の真の愛を再び探そうと、最初の息子と最初の娘の立場を求めていく人生の道を歩んできたのです。 そのような真の愛を受けるためには、自分自身を中心に生きるのではなく、神様を主にして、兄弟である人類を主にして生きなければなりません。父母に代わって兄弟のために最も多く血と汗を流しながら、長く耐えて克服した真の人であるほど、深く、広く、高い愛を受けるのです。そのような息子になり、娘になってこそ、父と母の全体を相続することができるのです。この道は男性も女性もみな行かなければなりません。ですから、十回でも百回でも死の峠を経て、また死んだとしても絶えず神様の真の愛を求めていかなければならないのが、人生において行くべき最高の道なのです。 統一教会の原理は、人間が神様の真の愛の圏内から脱したことが堕落であり、神様の愛の圏内に再び入ることが復帰だと教えています。そのような真の愛の圏内に入れば、自分の手一つを見ても、千回、万回激しく称賛するようになります。その世界では、自分の体も神様の真の愛を受ける体になるので、その喜びは言葉で表現できないのです。そのように素晴らしい世界が天国です。 宗教の使命私たち人間の心が神様の真の愛を占領する日には、千年、万年歌い、踊ることができるのです。神様の真の愛に酔うようになれば、酒や麻薬のようなものに酔うこととは比較にもなりません。天下に存在するものすべてを呼べば、そこに応えないものはありません。流れる水だけを見ても、千年間歌を歌うことができます。そこにおけるささやきの甘味は、無窮無尽だというのです。その時は世の中のすべてを成し遂げたことになるので、金銀財宝も他の何も、みな必要ありません。世の中でそれより貴いものがないというのです。 このようなことを見るとき、人間の価値は、愛を通して、真の愛の感覚を通して宇宙と和合できる主人格だというのです。これを成し遂げることが人生の行くべき道です。霊界は今まで未知の世界でした。その世界は神様の存在原則である、ために生きた人だけが行く所です。そのような内容で形成された世界が理想天国です。そこが、私たち人間が求めていくべき本郷なのです。 今日、私たちは堕落した人生によって本郷から追放された人間となったがゆえに、本郷の地に向かって帰るべき運命にあります。しかし、そこは人間自体だけでは帰ることができません。それで、神様は人間が帰ることのできる道として、その民族の文化背景、風習あるいは伝統に従って数多くの宗教を立て、歴史的に収拾してこられたのです。宗教は本郷の地に帰る資格をもつ人に鍛える訓練の場です。神様は東西南北、四方の文化背景によって、高い所に前進できる一つの統一された宗教世界に導いてこられたのです。 そのような本郷の地に導く宗教なので、宗教は「ために生きなさい」と教えてあげざるを得ません。それで、高等な宗教であるほど、ために生きなければならないという原則を強調し、温柔、謙遜であれと教えるのです。無数の人々を高め、彼らのために生きる立場に立って、犠牲になり、奉仕しなさいと教えるのです。 今や、私たちの前に到来する二〇〇〇年以降は、世界の全人類が神様を中心とした真の本然の人間の価値を取り戻し、天地父母と一体となった祝福を受けた真の家庭を成し遂げ、神様と真の父母様を中心として、永遠にために生きる、真の愛の道理を実践する、真の平和と真の理想の天国時代を迎えなければならないのです。新年に皆様の家庭と国家に、神様の愛と祝福が一層満ちあふれることをお祈りいたします。ありがとうございました。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.17
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イエスは何故世の中の罪を背負った仔羊になったか1956年7月11日(水), 本部教会 祈祷(Ⅰ) 愛する私のお父様! あなたの愛を慕い求めて御前に出てひれ伏しました。我々の心を主管して下さって、我々の心にはあなたの貴き性相を慕うことだけが残されるように許諾して下さり、我々の体はお父様の形相の美を備えて、無言の中で感動の恩恵に浸ることができるように許諾して下さい。お父様、切にお願い申し上げます。 この地が暗闇に落ちています。この暗闇に落ちている地上に責任を持たねばならない使命も、今日足りない我々に与えられており、そして未だ残されているということを知っております。 愛なるお父様! 哀れみのお父様! 我々だけでは、我々の力だけでは絶対善と悪を分別して、善を高めることができないのです。どうか、天に隠しておいた善の能力と愛の能力を現わして、復活の能力として役事して下さり、不足な所で善の能力を現わし、そこを満たすことができるように許諾して下さい。復活の栄光を備えてお父様に敬拝を捧げることができ、心と体を尽くして栄光を現わすことができるこの時間を許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申しあげます。 ここにひれ伏している多くの子女の心を、お父様、聖別して下さい。各自の心霊ごとに聖別の御手で役事して下さって、お父様、一人一人の心と体を聖別して下さい。 そうして、正しくないすべての要素を除かないといけないので、お父様、御自身が分別の主人公になって下さり、心情の主人公にもなって下さい。 善悪を分別して、悪は退けて善のみ持った生けにえとして、一つの中心を通してお父様の御前に現われることができるように許諾して下さることを、私のお父様、切にお願い申し上げます。 お父様! 今集まりましたので、顕現されるお父様の形相の前で、不足な自己を認識することができる時間になるよう許諾して下さい。過去の罪悪の力を受けて死亡圏に入っている自己を発見して、お父様の前に、そして善の栄光の祭壇の前に自分を現わすことができる時間として主管して下さり、過去の良くない習性、お父様を信じられない観念を除いて下さい。新しい善の刺激を受けてお父様の性相の新しい価値を感じ、心と体で衝撃が感じられるこの時間になるようにして下さり、悔い改めと感動の役事を現わして下さることを、切にお願い申しあげます。 お父様、少数の群れが集まりましたので、主管して下さい。ここに集まった子女たちの中の一人もサタンに主管されることがないように許諾して下さり、お父様の再創造の苦労の歴史と全能の歴史を経た後、今日の惰性を捨てることができるこの時間になるよう許諾して下さることを、お父様、切にお願い申しあげます。 すべての罪悪の要素を除いて下さい。お父様から干渉され主管される栄光の要素のみが集まった全体に役事され、そして主管して下さることを、愛するお父様、切にお願い申しあげます。 お父様、この夜は寂しい群れたちが所々で民族の代わりに天の前に敬拝する時間ですので、お父様、寂しい群れを友人として役事されるお父様、彼らと対話なさりながら役事される私のお父様、彼らが処した如何なる環境や立場でも、お父様、彼らの天に向かった忠誠と忠節だけは変わらないように許諾して下さい。 嘲弄に徹したサタンが太山のように我々の前に立ち塞っても、これを越えて行ける天の勇将として立てて下さって、最後の日に与えられた使命を成就することができるように導いて下さり、戦っていける変わらない天の力が共にあるよう導いて下さることを、私のお父様、切にお願い申し上げます。 この夜、この民族に代わって集まる数多い祭壇の上にも、人類に代わって集まる数多い祭壇の上にも、聖三位神が同じ役事を持って臨在して下さい。最後の日に成される所の全体の使命を彼らの前に予告して下さり、探さなければならないお父様の本然の御旨を24億全人類の前に、またこの地球上に現わすことができるように許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 初めから終りまで、ひたすら与えられたところの祭物として、お父様から喜ばれる祭壇を成して喜びの聖体を証しすることができる役事と能力と栄光だけが現われるように許諾して下さい。主の御名によってお祈り致しました。アーメン。 祈祷(Ⅱ) 愛するお父様! 我々を統率され天倫の御旨に代わって現われたキリストの形相を見て、ヨルダン川に立って天に向かって叫んだヨハネの前に立てられたイスラエル民族の立場に代わることができる環境を造成して下さい。 我々の心は歴史において傍観者的であったとしても、天倫を中心として切ない心情で叫んだ洗礼ヨハネの声を我々が再び聞ける感動の恩恵を許諾して下さい。「見なさい。世の罪を取り除く神様の仔羊である」と言われた御言は、驚くほど恐ろしい、荘厳な御言でした。 この地上に数多くの人が、数多くの聖賢たちが来て去って行ったが、誰一人として堂々たる立場で万民の罪を代わりとして叫んだ者はなかった。その中でイエスを立てて証しした洗礼ヨハネの御言が歴史的な新しい再創造の基準を立てたということを我々は知っております。全万民がいやがる罪を背負うことができる一つの存在を探し立てた洗礼ヨハネの心を我々が知り、我々のすべての罪をイエス・キリストに委ねて天に向かって敬拝できる喜びの恩恵を許諾して下さい。 今日我々の環境を、解放の恩恵を受けたイスラエル民族の環境に変えて下さい。彼らの心情を我々の環境に現わして下さい。自分のすべての罪を委ねることができる一つの主人公を探した者があるならば、それ以上恵まれた者がないということを我々が自覚するように許諾して下さい。 私の生命と私のすべてを委ねて自由な環境で自ら感謝できるように、天を所望した者の喜びを我々が感じるように許諾して下さり、イエスがこの地上に来て我々の罪を背負われたと言うことを、今日我々が再び認識するように許諾して下さい。 今日この時間に集まった者たちのすべての罪を引き受けて下さり、善のみが残されて、善のみが満ちるように許諾して下さい。すべての罪の要素はイエス・キリストの前に委ねて、お父様の前に栄光を返すことができ、キリストの悲しみを慰めることができる刺激的な衝動が我々から生じられるよう許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申しあげます。 今日集まった多くの子女たちを守って下さい。伝える者の心や受ける者の心が二つにならないように許諾して下さい。我々を再び生かしうる復活の能力を許諾して下さり、我々を回生させることができる御言で役事して下さい。我々の心と体が罪悪の鎖を切って再創造の御言に従って本然の姿へと回復しうる喜びの恩恵を許諾して下さい。 すべてのことを委ねましたので、許諾されるところの御意通りに許諾して下さい。愛する主の御名によってお祈り致しました。 <御言> 今晩お話しする題目は「イエスは何故世の中の罪を背負った仔羊になったか」です。 イエス様が降臨された背景 神様は御自身の内的な理想を実体的に感じることができる一つの中心存在として人間を造りました。そうして、隠された天の美と愛と栄光を人間であるアダムとエバの生活を通して、生涯を通して、永生の路程を通して成し、いつでも隔たりのない喜びの世界を造ろうとされました。 人間の堕落によって、神様が願われたそのような本然の御旨は根本的に切られてしまって、人間たちは願わなかったサタンを神様の代わりに立ててしまい、そのサタンの主管圏内に置かれるようになりました。神様の栄光と喜びをお返ししつつ、神様に仕える生活をせねばならぬ人間が、神様の代わりにサタンを中心として、彼に仕えて従う侮蔑の歴史を重ねてきているということです。これは皆さんが良く知っているところです。 そして、神様は人を中心として取り戻すべき栄光が残っており、人を中心として愛すべき御旨が残っており、人を中心として勧告すべきことが残っていて今まで摂理をなさっておられますが、サタンは反対に、神様の栄光を破壊する為の戦い、神様の愛を破壊する為の戦い、天の生命を破壊する為の戦い、今日人間たちを自分の側に掴んでおいて、神側へと引き渡さないようにする戦いをずっとやっているという事実も皆さんは良く知っています。 それゆえに、今神様は人を立てて、サタンを恨むことができる一つの条件と、神様に返すべき栄光を中心としてサタンに抗議できる条件、神様の代わりに人間から愛されているサタンに対して抗議できる条件を立てなければなりません。また、神様に代わってサタンが全生命の権限を持っているので、神様はこれに対しても抗議できる人を立てておかねばならないのです。このような責任が神様に残っています。 神様が探そうとされる創造本然の人間、サタンに対して攻撃できる一人の主人公が出なければ、再び神様に栄光を返す道が、愛を返す道が、生命を返す道がないのです。 この一つの中心存在を立てられるため、神様は4000年間苦労しつつ摂理をされました。それで初めて神様が万民の前に、一つの信仰の中心、人間の代表的な中心、神様の栄光を証しし、神様の愛を証しし、神様の生命を証しする為立てられた方がイエス・キリストです。 イエスの責任 イエス・キリストがこの地上に来られてなすべき責任が何であったかというと、神様の栄光を回復し、愛を回復し、生命を回復することでした。ところが、ここには罪というものが立ち塞がっていました。 罪悪は万民が神様の前に栄光を返すことができないように、神様の愛を愛として感じられないように、天の生命を生命として感じられないようにして、永生の中心を立てることができないようにしました。それは何故か? それは、堕落によって血統的な罪と自犯的な罪が人間を中心として全被造万物にまで浸透しているからです。 それゆえに、キリストが地上に来られて遂行すべき責任は何であったかというと、神様の栄光を回復する前に、神様の愛を回復する前に、神様の生命を回復する前に、まず万民と全被造万物の中に浸透している罪悪の根を取り除く戦いをしなければなりませんでした。 ゆえにキリストは、この地上に来られて罪を取り除く為、万民の罪を御自身が代わりに背負われました。 それでは、イエス様はいかなる理由があって罪を背負わなければならなかったのか。それは、人間たちに罪があったからです。さらに人間たちは真理を知っていなかったからでした。 イエス・キリストはこの地上に、神様の栄光と愛と永遠なる生命をもって万民を救うため来られたが、彼の道を邪魔する一つの条件がありました。それが何であったかと言うと、人と人、団体と団体、社会と社会、国と国の間に一つの鉄鋼のように編み絡っている罪というものでした。 この罪を自ら清算するまでは、この地上で神様の栄光も、神様の愛も、神様の生命も見ることができないのです。 神様は、人間たちがこの罪を清算するようになさってこられました。人間たちがこの罪を清算すると、それによって彼に神様の栄光を、神様を愛を、神様の生命を与えることができるのです。人間の立場からみると、神様が人間によってこの罪を清算するようにされたのは、人間自らが今まで知らなかった主人公を知らせる目的の為でした。 それで我々が、その主人公を天の栄光に代わって、天の愛に代わって、天の生命に代わって仕えることができれば、そのような我々になれば、天を中心として立てられたイエス・キリストと我々の間を切ることのできる力はありません。 ところが、堕落した故にこの世界が終末になるまでは、私とイエス様と聖霊の間には取り除かねばならない罪が残っています。この罪は、個人を中心とした家庭と社会と国家と世界、天地に残っておりますので、この世のすべての罪を背負うことのできる一つの存在が来られるということが、何よりも喜びであり、救いと勝利の福音であるのです。 それでは、今日、我々自体がイエス・キリストの前に罪を委ねましたか? また、我々家族が、我々が生きているこの世の中がイエス・キリストの前に罪を委ねましたか? まだ罪悪の未解脱圏内に残っている聖徒がこの地上に何人であろうかということが問題です。 日常の信仰生活を通して皆さんがなすべきこと 皆さんが日常の信仰生活においてなすべきことが何かというと、皆さんの罪すべてをイエス様に委ねることです。皆さんは自分の罪を全部イエス様に引き渡しましたか? 自ら反問してみなければなりません。実際に、「お父様、私に残っている罪は自分自らではどうにもならないのです。私の罪をお父様に委ねます」と言える存在がこの地上に出なければなりません。そうでないとイエス・キリストの理想は成就できないのです。 私にはまだ罪が残っており、私の家庭に、我が社会、我が国、我が世界、天地に未だに罪による嘆息の要素が残っているとするなら、イエス・キリストの十字架の苦難は延長されるのです。 皆さんはこの時間でもイエス・キリストの十字架の苦難を延長させているという事実を知らねばなりません。 今日我々はイエス様に、「私のすべての罪を引き取って下さい」と言わねばなりません。 私の心と体と合わせ、イエスの心と体を合わして、イエスの与えられた罪の荷を背負って、イエスの手を経て私の手を経て、罪のどん底まで貫いて出てくるという革命的路程を経なければ、聖霊に対して、イエス・キリストに対して罪を完全に清算した人であると言えないのです。 それでは、イエスがこの地上に来られ罪を背負うとされる御意は何なのか。我々の堕落によって生命の主人である神様を失い、真の父母を失い、私を守り愛してくれる一つの中心を失ってしまいましたが、この中心存在として来られた方がイエス様でした。イエス・キリストがこの世のすべての罪を引き取った後は、天と地とサタンがイエス様一人をおいて判定を下すようになる時が来るでしょう。 皆さんが自分の罪を全部イエス様に、神様に委ねなければ、イエス・キリストが皆さんの主人公として干渉してあげたくても干渉できなくなるのです。皆さんはこれを知らねばなりません。 人間的にみるとイエス様は不幸者の中の不幸者 我々はイエス様の心情を知らねばなりません。この世を訪ねて来られたイエスの心情を知るべきです。そのイエスの心情は全宇宙の罪を背負いたい心情であったのです。人間的にみると、イエス様はかわいそうな方であったということを皆さんは知らねばなりません。イエス様がこの地上に来られた時、イエスのような不幸せな人がなかったということを皆さんは知るべきなのです。失ったものを取り戻すため、また恩恵を与えるため来れたのが、誰一人イエスの所願がわかって、「イエス様は私の永遠なる理想であり、,不変の主人です」と言いながら仕える人がなかったのです。 民族の為に、国家の為に、世界の為に、天地の為に来られましたが、人類の前に立てられたイエス・キリストは、不幸者の中の不幸者であったということを皆さんは知らねばなりません。この地上に来られて語った御言と、なさった行動を見て「あ、歓迎致します」と言いながら信じた人が一人もいなかったのです。この上、人間的にみると、イエス様個人が処した環境は非常に不安な環境でした。 やはりイエス様も、一人の人間として感じる感性は皆さんと同じに違いありません。しかし、自分一身の罪を解決することのできない人類の罪を背負って、全人類の過去と未来の罪に責任を持たれたイエス様は、苦労も忘れて寂しい所で、自分の罪を恨む個人個人を慰めてあげる立場に立たれたのを皆さんは知らねばなりません。そして、人類の罪を引き取る為に来られたイエス・キリストの内的な苦労と苦痛、悲しみを我々が慰めてあげなければなりません。 勿論我々は、我々の罪に対して悲しむべきです。どんな理由で悲しむべきかと言うと、この悲しみが直接天に達するようになってはいけないからです。この悲しみを慰めて下さる為に来られた方が聖霊です。 我々はイエスと聖霊の協助を受けて、我々の罪を脱がなければなりません。そうしなければ、我々の為に罪を背負ったイエス・キリストの悩みは、この地上でも天上でも解けないのです。 それでは、今皆さんが知らなければならないのは何か。聖霊は我々の罪を天の前に詫びることを担当しておられます。これは、人間が天上におられる神様やイエス様と直接的な関係を結ぶことができていないからです。故に、地上で役事される聖霊の協助を受けなければならないのです。 そして、我々が知るべきことは、イエス・キリストの十字架によって贖罪の道は開けましたが、実際我々の罪を背負って苦労される方は聖霊です。聖霊は我々の為に、罪人のように哀れな私に代わって、中間の立場で苦労しておられるのを皆さんは知らねばなりません。 聖霊の苦労はどんな苦労なのか。十字架で亡くなられたイエス様の苦労は、我々の罪を背負った苦労であって、聖霊の苦労は、皆さんが泣けば共に泣かれ、皆さんが十字架にかかれば共に十字架にかかるという苦労であります。そして、十字架の峠を越える苦労の役事を、今日も皆さんの為に成して下さっているのです。これを皆さんは良く知らなければなりません。 そうして、イエスの苦労と聖霊の苦労が私を中間において一つになって、天が要求するその苦労の基準を越えるようになると、地上で我々が犯した罪がすべて贖罪されるのです。 聖霊の苦労に対する人間の責任 我々は今まで、イエス・キリストを迎える為に自分だけが苦労して来たと思っていたが、私の背後で私以上に苦労をされた聖霊がおられるということを知らねばなりません。 イエスが願われることは、人間たちの苦労よりも聖霊の苦労が大きいので、その聖霊を立ててイエス・キリストの栄光に代わり、人間たちを糾合しようとされるのです。そのような一日が来なければ、イエスがこの地上に再び来られて万民の主人公として立たれることができないのです。 それゆえに、我々が悪の前に立つ時、我々が犯した罪の為、聖霊が地上で苦労され、イエスが十字架にかけられるようになったということを知らねばなりません。さらに、天地どこへ行っても、我々は天の恨みから逃れる術のない罪人であるのを知るべきです。 この罪を悟って、我々の身も心も捧げなければなりません。そうして、先ずは聖霊の苦労に頼ってイエス・キリストの苦労を満たすことによって、その苦労の荷を脱がせてあげるべきです。このように、私によって聖霊の苦労が、イエス様の苦労が、神様の苦労が終わる時こそ、我々の為に罪を背負って苦労された天の復帰摂理の御旨が終結される時なのです。この時初めて、我々自体は一つの主人公に会えるようになります。これを皆さんが知らねばなりません。 イエス様は人間としてこの地上に来られました。体を持った一つの人間として来られました。皆さんが霊界を通じてみれば、イエス様は我々と一問一答することのできる体を持っておられるので、皆さんの霊眼が開けると我々の為に亡くなられたイエス様を慰めることができ感謝できます。ところが、聖霊に対してはそれができないのです。何故なら、聖霊は体をもっていないからです。 イエス様は実体の天の主人公として、被造世界の中心としてこの地上に来られました。ところが、聖霊は未だに体を持てなかったので、聖霊の苦労に対して直接慰めてあげられないのです。このような恨みを解いてあげる為、2000年の苦労の歴史を経ながら新郎新婦の理念を立ててきたのに、これを今日のクリスチャンたちは知らないのです。 それでは、新郎なる天上のイエスの前に、新婦になれる地上の実体聖霊は、いつこの地上に現われるのであろうか。 我々が犯した罪は、イエスだけを死の峠を越えるように向かわせたのではなく、聖霊までもそのような苦労の峠を越えるようにさせたのです。ところが、私自体を通してその苦労の恨みが解かれると、その喜びと栄光をイエスには返すことができるが、聖霊にはできないのです。 我々が罪を委ねると、先ずは聖霊が我々の罪を引き取ります。その後にイエス・キリストが引き取り、その後に神様から清算されますが、今日我々はこれを良く知らないのです。これを、このような使命がわかる聖徒たちが出れば、聖霊の感動の役事は彼らを通して全人類に現われるようになります。 それでは、イエス・キリストがこの地上に来られましたが、我々は今どうすべきなのか。我々は、イエスのような立場の新郎格主人公と、聖霊のような立場の新婦格主人公を探さなければなりません。そうして、贖罪の恩恵を受けなければなりません。聖霊とイエスを掴んで、「聖霊と聖子、そして神様、祝福して下さいませ」と言えるべきです。そのような皆さんにならないと、イエス・キリストの2000年の苦労と聖霊の2000年の苦労はこの地上で完結されないのです。 イエスは何故世の罪を担当されたのか? それは我々の為に、我々が自由を所有することができるようにするためでした。そして、主人を探すようにさせたのは、人間に本然の姿を備えさせてサタンの支配を受けた立場から、サタンを支配できる立場へと移してあげるためでした。ですから皆さんは、この路程を全部歩んだ後に自由の子女にならねばなりません。 サタンを撃滅して罪から自由になるためには 我々の自由を束縛するのは罪です。しかし罪それ自体が我々を束縛するのではありません。我々が犯した罪を条件にしてサタンが束縛しているのです。 主人を探すことは我々の成すべき使命であり、罪を脱ぐにおいても体と心を中心として戦わねばならないので、自由を探すにはサタンと戦わざるを得ません。 サタンと戦う時、自分一身だけではサタンを撃滅することはできません。聖霊だけでも、イエスだけでも、神様だけでも駄目です。このように言うと語弊があると言われるかも知れません。しかし、神様自体だけでサタンが撃滅できるとすれば、何故この地上でイエス・キリストの苦難の30年生涯と十字架の犠牲が必要だったでしょうか? 今我々はサタンとの戦いを展開しなければなりません。そして、戦いを展開するにおいては、誰の為に戦うかということを良く知らねばなりません。まず、聖父、聖子、聖霊のために、その次自分の為に戦うということを知るべきです。我々クリスチャンたちは天の為に戦うということは知っておりますが、私の為に戦うという事実を忘れています。では、天の為に戦うことは何のためであるか。サタンの攻撃と侵略を防ぐ為です。 皆さんは、皆さん自体が永遠なる恵みの道を探せるようにするため、天が動員されているということを知らねばなりません。地上にも動員されているのです。即ち、天上には神様が、イエスが、聖霊が動員されており、地上には皆さんの知らない多くの先覚者たちが皆さんの為に動員されているのです。皆さんはこれを知らねばなりません。 ですから皆さんは、このように数多い方々が天上と地上で動員されて、皆さんに自由を与える為に戦っているという事実を知って、それに応える皆さんにならねばなりません。 今日この時間も、皆さんの心と体を真理のところへと導く為多くの方々が苦労しておられます。天上では長い間神様が苦労しておられ、イエスと聖霊が苦労しておられるのです。それだけではなく、千々万聖徒と天者天使たちが苦労しています。皆さんはそれを忘れてはいけません。また、人間たちが束縛されている暗い環境を収拾する為、死を覚悟して責任を遂行する聖徒たちがいるということを忘れてもいけません。 地上で天倫の使命を行いながら成す苦労が天国では栄光になるということを我々が知っています。ですから天の前に面目を施すことができなければなりません。 審判の日が近づくと、皆さんを自由にさせる為のイエスの苦労と同じ苦労を皆さんに要求します。聖霊の苦労のような苦労を要求します。そして、神様の苦労のような苦労を要求します。それだけではなく、皆さんを解放させる為、数多くの先志聖賢が苦労したのと同じ苦労を要求します。 皆さんは自分一人が楽だといって、それで満足する信仰生活をしてはいけません。皆さんがそのような生活をすると、自分一身の苦難は逃れるかも知れませんが、苦難の歴史を歩んで来られた聖霊とイエスと神様、そして千々万聖徒たちが要求する事柄からは逃れる術がないのです。 それでは、今日我々が自由を得て、自由の身になって。「お父様、感謝致します」と言おうとするならば、イエスを中心として感謝しなければなりません。天上で聖霊と千々万聖徒たちは自分たちの苦労の報を、皆さんを通して神様の前に返すことを望んでいるのです。皆さんはそれを知らねばなりません。 イエスの恨みは地上の万民が解いてあげなければならないし、イエスの目的は地上の万民が成してあげなければなりません。そしてその目的を地上で完結すると同時に、天上でも完結しなければならない使命が人間たちにあるのです。 人間の解放の為苦労された方々への報い イエスを通して贖罪され自由と解放を得たとすれば、イエスが願われることを成してあげなければなりません。それができる人を探すことが天の所望であるということを皆さんは知らねばなりません。 地上が罪悪に落ちていたとしても、神様の心情を通し、天倫の心情を通し、先志聖賢の心情を通して、人類に代わってサタンの前に堂々と出るようにならねばなりません。それでサタンに対して、「お前たちがいくら乱暴で、強力であっても、お前たちには負けない」と言いながら、堂々と攻勢できなければなりません。このような自由の心情を備えて、万物の前に自慢できる人が出なければなりません。このような一つの主人公が出なければ、天の栄光と愛と生命が我々に連結されないのです。 今日我々は、自由の環境を造れなかったので、神様の理念とイエスの理念と聖霊の理念が我々と繋がっていないのです。この理念が繋がらないと、天上で働かれる神様の生命、神様の愛、神様の栄光は我々と何の関係もなくなります。 それでは、今日クリスチャンたちは自由に信仰をしながら、解放の恩恵を受けたところに立っていると言いながらも、なぜ永遠に向かって進んで行けないのか。栄光の主を通して喜びと自由の環境に処したとしても、それが全部ではないからです。永遠なる生命を受けなければなりません。今日皆さんは、時間ごとに移り変わり、何年をも過しえない自分を見て嘆息したり恨む立場に立っていますか? そのような立場から逃れられなければ、神様の善の生命と皆さんとは遠い関係におかれるようになるということを知らねばなりません。 皆さん自体も尊いけれど、自分の尊い価値を考える前に、先ず神様の尊い価値を認めて神様を解放してあげ、天の自由の主人公を立てるその事を、地上で責任を持たなければなりません。そのような一つの主人公が出れば、彼はイエスの前で新婦にならざるを得なくなります。 今皆さんは、時と場所を超越して戦って神様の内的な愛の基準を探して立てなければなりません。そして、他人に何かをあげたいという愛の心を永遠を中心として感じられるべきです。さらに、その真の主人公に対する場合でも一時的なものになってはいけないのです。 今日我々のまわりには、一時の自由と一時の喜びの為に生きる人たちが多いが、皆さんは永遠に変わらない喜びと自由の基準を、その心の基にはっきり持たなければなりません。その基準を立ててこそ、永生に参与できるのです。このような永生の基準と、一方的な環境ではなく四方的な環境を成してこそ、聖霊の愛が、聖子の愛が、聖父の愛が及ぶのです。 イエス様が世の罪を担当された理由 イエスが我々自身の罪を引き取って、世の罪を背負った理由は何かというと、第一は、神様の栄光の為です。その次は、神様の生命と神様の愛の為です。そして、人類の主人公として、自由の主人公として、生命の主人公として、愛の主人公として、和動の仲保者として、皆さんと共に永遠を中心として同苦同楽する為です。 ですから、我々がイエスを信じ従うと、地上に留まる時でも神様の栄光を受け、神様の創造理念を成就することができます。そして、皆さんによって創造理念が成就されると、神様自らが「サタンに勝った永遠な勝利者」として祝福され愛されるはずです。 祈祷 愛するお父様! 天がこれほど切ない心情を宣布される時、我々が経なければならない関門がこんなにも多いとは知りませんでした。今日ここに集まった愛するあなたの子女たち、心の門を開けてイエス様を受け入れることができるようにして下さり、天上で恥じない者になるように許諾して下さい。 地上でサタンの前に出ていく群れにならないように許諾して下さい。そうして、永遠なる生命を中心として、愛を中心として、栄光を中心として、私が仕えることのできる私の主人であり、私が愛せる私の主人であり、私が讃えることのできる私の主人であると言える、喜びの栄光をこの地上で受けられるように許諾して下さることを切にお願い申し上げます。 ここに集まった愛する子女たちの心を察して下さり、彼らに力を下さい。彼らの体を打って下さい。 彼らがお父様に力を願う時には力を下さり、無限な生命を願う時には無限な生命を下さい。彼らが無限な戦いの道を歩んで、天が歩んで来た苦難の道が彼らの一身で終結されるようにして下さい。 残されたあなたの子女たちを立てられて、天の精兵の列に立てて下さり、天の戦場でサタンとの戦いを担当できる子女として立てて下さり、不足のない子女として立てて下さることを切にお願い申し上げます。 お父様、すべてがおわかりになっているので、求めないすべてのことも成して下さい。心から心で繋がって、天上の因縁が彼らの体にまで繋がるように許諾して下さることを切にお願いしつつ、主の御名によってお祈り致しました。アーメン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.17
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天の父母様聖会天苑宮 天苑教会 聖日礼拝日時 : 天一國 8年 12月 5日(2021年1月17日)午前 9時場所 : 神韓国オンライン非対面1月17日(日)午前9時から映像が配信される予定です。天苑教会の聖日礼拝映像を視聴される方は、37分ごろからご覧ください。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.17
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成し遂げるべき新しい約束1956年7月8日(日)前本部教会 祈祷(1) 愛なるお父様! 哀れみの愛を施して下さい。頼るところを知らなかった群れがお父様のみを頼る為、すべてを忘れて出ています。我々の心がお父様の性相を描くように許諾して下さり、我々の体がお父様の形状を喜び慕うように許諾して下さい。そうして、天上に隠れていたお父様の愛と我々が和合して、探そうとされる天の栄光を現すことができるように許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、ここに集まった群れを導いて下さい。彼らの体と心をあなたが主管して彼らが持っている観念にあなたが運行でき、御旨がわかる観念に変えて下さい。そうして最後の日に、お父様が全人類に対して要求される全体的な観念が、彼らの心深きところで根を下ろすように許諾して下さい。そして、この観念を終末時代の新しい理念として立てて下さることを、私のお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、集まった子女たちをこの時間全部主管して下さり、死後、恥になる要素があるならば、お父様! 聖霊の力で、三位神の力で除いて下さい。炎のような目で洞察されて貴きお父様の御前にすべてを告げることができる、この時間になるよう許諾して下さい。お父様の御前で、贖罪から解放された者になり、自由の祝福を受けた者になって、万民万象の前に出て一人でおられるお父様を誇ることができるように許諾して下さい。そうして、真のお父様を仕えることができるように許諾して下さり、そのお父様の前で栄光を返すことができる子女たちとして立てて下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 この時間に集まったすべての群れを主管して下さり、民族を代表した数多い祭壇の上に、世界人類を代表した全祭壇の上に、お父様! 等しき役事を現して、その祭壇が最後の日に摂理の中心の御旨を現せるように許諾して下さい。愛するお父様、切にお願い申し上げました。 我々の体と心をお父様の祭壇の前に捧げておりますので、カインとアベルの立場を分別して下さい。そうして、カイン的な祭物にならないで、アベル的な聖別の祭物になるように許諾して下さい。お父様が摂理が終わるまで万民の前で訴えられるように、この時間設けて捧げる祭壇を、全世界に対するあなたの御旨が成し遂げられるまで、天上に対して訴えることができる代表的な祭壇として立てて下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 今日のすべての恩賜を主管されるお父様、御意の通りに現れて下さい。許諾されるべき恩賜を許諾され、避けるべきところを避けるように許諾して下さい。そうして、あなたの永遠なる御旨を与えられるに不足のない子女になるよう役事して下さることを、お父様! 切にお願い致します。すべてのことを主の御名によってお祈り捧げ申し上げました。ア-メン。 祈祷(2) お父様! 命令されて御言を受けようとする者に、許諾されるところの御旨を現して下さり、決定されたところの摂理の御旨を支えてお父様の願いを成して捧げることができるように役事して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 今日下さる御言は、今日現れた御言ではなく、長い歴史を経てきた御言であるということを知っております。またこの御言には、イエス様と彼の愛する弟子たちの間に行なわれた忘れがたい悲しい事実があったので、歴史的な我々の先祖たちもそれを考えて、死の道もかまわず行ったという事実を知っております。 残された新しい約束に従う為、イエス様の使徒たちとそれ以降今までの2千年間イエス様を信じてきた聖徒たちは、血と涙の道もかまわず残されて約束の御旨、切実な所願の御旨を地上に成し遂げる為闘ってきたということも、我々は良く知っております。 お父様、我々を哀れに思って下さい。心を開いて、2千年前にイエス・キリストに対した使徒たちの心を代身することができるように許諾して下さい。我々の足取りを、昔の使徒たちが処した苦難の事情と通じることができるように立てて下さって、終りの日に残された全体摂理の目的を成して捧げられるようにして下さることを、切にお願い申し上げます。 以後のすべてを主管して下さり、成すべきすべての御旨を成されて、喜びの一日を迎える栄光を享有されることを、お父様、切にお願い申し上げます。主の御名によってお祈りお捧げ申し上げました。ア-メン。 <御言> 今日お話ししようとする題目は、「成し遂げるべき新しい約束」です。このような題目でしばらくの間お話ししてみましょう。 イエス様が分けて下さったパンと葡萄酒の意味 4千年間の復活の摂理を通して救いの役事をされてこられた神様は、イエス様を復活させる摂理のみでは、天上の御旨と地上の御旨を合わせて完結させることができないので、新しい約束を立てておいて、これを持って天上と地上の御旨を合わせ、約束された本然の園を探す摂理をなさってこられたのを皆さんは良く知っているでしょう。 これを見ると、イエス様が下さった杯とパンが即ち、新しい約束であると言いました。イエス様が去られて以後、我々はそのイエス様の血と肉をいただいたが、これは即ち、なすべき全生命を代身したと同時に、すべての真理に代わったものであることを皆さんは知らなければなりません。 イエス様の血と肉をいただいたことは何を象徴するのか。それは、イエス個人の血と肉ということではありません。大きく言えば、天と地の意味であり、小さく言えば、中心と個体を意味します。また、肉は真理を象徴し、血は神霊を象徴します。 このすべてのものは、イエス様が我々に無条件的に下さいました。そのように下さったイエス様の一身は、それ自体に限った問題は勿論のこと、彼を中心として繋がっている天上天下のいかなる問題も、すべて彼の問題に帰着することを皆さんは知らなければなりません。 神様と人間との間に遮られているのは何か。天の御意が地上に現れ、地上のすべての状況が天の御意へ帰結されて、一つの目的として動くべきなのに、これが遮られました。そうして、愛の主人公であったイエス様は、勝利的な天の栄光の代わりとして現れるその一つの御旨の象徴として、今まで苦労してこられたのです。 神様が4千年間苦労されてイエス様一人を立てられたということは、天のすべてと地のすべてを所有できるということを象徴しております。それゆえに、イエス様を信ずる人は、天のすべてを所有でき、地のすべてを所有できるのです。ところで、そのように所有したものを自分のものにのみ帰結するのではなく、所有したのち再び天の前にお返しすべき全体的な摂理の御旨を我々は与えられています。 イエス様が新しい約束を立てて行かれたので、彼が亡くなられた後に、霊的な世界と肉的な世界が人間を中心として、即ちイエス様に従う使徒たちを中心として繋げられなければならない条件が残されました。イエス様が亡くなられなかったら、イエス様を中心として天と地が連結されるはずだったが、亡くなられたので、イエス様は天の条件の代わりに、聖霊は地の条件の代わりになったのです。 イエスと聖霊の御旨を代身する人 それでは、天と地の中間の立場に立って、イエス様の御旨を代身することができる人、聖霊の御旨を代身することができる人は誰であろうか。それは今まで、地上で新しい約束の御言を信じている使徒たち、または我々であるということを皆さんは忘れてはいけません。 イエス様の所願はどこにあるのか。その所願は天上ではありません。人間の所願はどこにあるのか。それまた地上ではありません。イエス様の所願は地上の御旨と繋ぎ、地上にいる人間たちの所願は天上の御旨と繋がなければなりません。したがって皆さんは、天を中心としてイエス様が下さったその血と肉を代身した聖体として、天と地の代わりとしての一つの祭物になるべきです。そうしなければ、イエス様と聖霊は永遠に一つになれません。聖霊は聖霊なりに地上で役事を続けるはずであり、イエス様はイエス様なりに天上で役事を続けるしかないのです。 イエス様が弟子たちに、「あなたたちは私の血を飲み、私の肉を食べよ」と言われたその御言は何なのか。そこには、「私は去っても天の摂理圏内に入ったすべてをあなたたちが持って、私の所願を成就してくれ」というイエス様の切実な心情が内包されていることを皆さんは忘れてはいけません。 弟子たちがイエス様からもらった血は、イエス様の霊的な面を象徴し、肉は肉的な面を象徴したもので、即ち聖霊を表します。そうしてイエス様と聖霊は、その血と肉によって一つの聖体を備えて、一つの目的に向かって進んでいける中心存在として立ってくれることを望まれました。そして、そのイエス様の血と肉は、血は天を象徴し、肉は地を象徴しました。したがって皆さんは、そこにイエス様の大なる希望と抱負が現れていたということを知らなければなりません。 今日皆さんは、聖霊を通して尊き体になった後に、心がイエスの聖体と繋がるべきです。これは、復帰歴史の過程を象徴します。アダムとエバを創造する時にも、体を造ってから霊魂を造りました。肉を造ってから、鼻に生命を吹き入れてアダムとエバを創造したのです。このように、二つの条件の原則を合わせて一人の人間を造ったのと同じく、復帰摂理の路程でも、イエスを中心とした聖霊が新しい約束を立てた故に、それ以降今まで天上と地上が一つになったイエス様と聖霊の役事が連結されているのです。 これを考えると、今日の我々にどれほど重要なる責任が与えられているかを皆さんは知らなければなりません。 足りない使徒たち、足りない我々の働きによって天が左右されるということを知るべきです。使徒たちの代わりの皆さん! イエス様の聖体を与えられて生まれた皆さんには、神様の代わりであるイエス様の生命力が現れなければなりません。天の代わりである聖霊の感動の役事が現れるべきです。そうして、全被造世界を復帰するためのイエス様の御旨の前で、皆さんが一つになって歩んでいくならば、皆さんが左に向かうと天も左に向かい、皆さんが右に向かうと天も右に向かうようになります。皆さんが動く通りに天も動くのです。 天が人間を通して働ける基準を皆さんが立てて完結しなければ、イエス様と聖霊は皆さんに訴えるはずです。イエス様が残した宇宙的な使命が皆さんを讒訴するということです。今日これを考えると、何の価値もない我々を通してイエス様は、天上を左右することができ、地上を左右することができる大宇宙的な御旨を成しとげようとするということを感じなければなりません。 イエス様には人間なしに決定することができる権限がありません。聖霊にも決定の権限はありません。決定の権限は、我々人間だけにあるのです。 イエス様からいただいた血と肉に対する報い 今までの新約歴史は、「神様、あなたがなさって下さい」という歴史でした。 自分の願望を要求してきたという限界ある歴史でした。ある限界から逃れられず、そこに留まっていたのが新約歴史でした。我々は、その新約の御言を越えられなければなりません。その限界圏内の歴史を越えて、天の恩賜を受けるべきです。自分一身で天上天下のすべてを所有しようとしたイエス様の全価値性を持って進んで、その新約の限界を越えて、「お父様! 私に新しい約束を下さい」と言える人にならねばなりません。 イエス様の血の訴えと十字架で肉を裂かれながら訴えられた訴えを、今日皆さんが生活の中で現さなければなりません。我々が天上へ行くにも、完結せねばならない人間の責任がイエス様によって約束されています。ところが、それがただ約束に終わってはいけません。今まですべての恩賜とすべての所望とすべての生命を私一人が所有して、私一人の生命の理想を持ってその限界を越え、信じて与えることができる基準を我々が地上に立てて完結することができなければなりません。そうしなければイエス様の怨恨は溶けるすべがないということを知らねばなりません。 我々は今は、所望成就の過程に留まっています。ある目的を見つめて、その所望を成していく過程の中にいるのです。この過程で動いたとすると、皆さんは、立てた信仰の約束を完結すべきです。その様な限界を越えた皆さんは最後のひと時に、主からいただいた血と肉に対する報いの存在であるということを皆さんは知らねばなりません。 この様な意味で,私はどういうふうにすべきなのか。あえてイエス様の前後、左右、上下、また聖霊と神様の前後、左右、上下に代わることができなければなりません。天上の御旨であると同時に地上の御旨を持っている人間を通して帰結できる日を地上に立てることができなければ、イエス様の御旨も神様の御旨も成就されないということを知るべきです。そして、その様な御旨を考えると、今日何ものでもない我々の価値はあまりにも大きいということを知らねばなりません。 イエス様が弟子たちに血と肉を与えて要求したものは何か? 「そして杯を取り、感謝して言われた、『これを取って、互いに分けて飲め』(ルカ 22:17)」とおっしゃった御言です。皆さんはこれを忘れてはいけません。我々はイエス様の血肉をいただいたので、イエス様の使命に代わって、天の問題も我々が責任持って出ていかなければなりません。そうすれば神様の御旨は成就されるでしょう。これが天上の所望です。 今日我々には、イエス様の血と肉をもらったという条件で、我々お互いに関係を結んで勝利の祭壇を探していかねばならない最後の日の責任があります。この様な我々の責任を皆さんは切実に感じなければなりません。 「お互いに愛しなさい」と願われた主の御意 上から下りてくる原則は変わりません。では、この変わらない上下原則、そして左右へと連結せねばならない関係は誰が探すべきか、皆さんが探さなければなりません。イエス様と聖霊は歴史が変わり、時代が変わっても、変わらない中心として一つの方向のみを指向してきました。イエス様と聖霊が授け受けしたのと同じく、我々自体もその様な関係を結ばなければなりません。もし、その様な関係を結ぶことができなければ、神様が運行される祭壇は地上に現れることができないということを皆さんは知らねばなりません。 自分の血と肉を分けて下さった、そのイエス様の心情をわかりますか? 何ともいえない程悲痛の心情でした。今日世の中でも、御旨を知る人、御旨をなそうとする人は、悲痛で悲惨なところで骨に染み込まれる試練を一人で乗り越えながら御旨を現そうとします。したがって、これを感じられなかった人たち、この様な御旨を知らない人たちを見るイエス様の心情がどうであるかを皆さんは知らねばなりません。 この様な歴史的事情が理解できなければ、皆さん同志の横的な聖晩餐も成り立ちません。それゆえに、今日我々にはイエス様が神様と連結できる時、またイエス様が聖霊と連結できる時交わしたその愛の心を、我々がお互いに交せる、即ち聖体の愛を現す生活が必要です。 個人個人を繋いで、教団と教団を繋いで、さらに教団を越えていかなる形態ででも天の愛を中心とした一つの圏内に入って行くようにする為、「お互いに愛の心を交わしなさい」と言われたイエス様の御意を知らねばなりません。 今日皆さんの中で、自分自体を授け相手から彼自体を受け取るというような同志を持っていない人、その人はかわいそうな人であることを知らねばなりません。そしてイエス様は、人は変わってもイエス様の前での聖霊は変わらないので、その聖霊と授け受けしてこられたのです。したがって皆さんは、彼と共に授け受けできる基準で、霊的な世界の歴史に代わって闘わなければなりません。 もはや、イエス様が残された最後の一つの所望を我々が完結する時がきました。この一つの所望を皆さんが左右へと連結しようとすれば、どうすべきなのか。まず地上で仕えることができる人になるべきです。地上で闘って殉教する人、地上で義人に仕える人にならねばなりません。 今日皆さんは、イエス様が言われたことを忘れてはいけません。「仕える人は仕えられる人になる」と言われ、「自ら高くなろうとする人は低くなる」と言われました。これは何かと言うと、今日我々が横的な面から感ずる一つの生活の中心です。ですから我々は、誰にでも仕えることができ、誰の友だちにもなることができ、さらに彼らを守ってあげることもできるようにならねばなりません。 新しい約束を成すには 今新しい新約の御言が約束されてきましたので、我々はイエス様の命令されたその内的心情を感じねばなりません。そして、彼の心を察すると同時に、彼の理想と実践的な方面まで察するようになるべきです。そうして、イエス様と聖霊の御旨を我々が成していかなければならないのです。その様な御旨が我々からなされないとすれば、最後の日にはイエス様と聖霊の役事が終わってしまいます。 イエス様と聖霊の役事が終わるとすれば、終わるその日に一人で立ってイエス様の所望と聖霊の所望を知り、イエス様が行かれた実践的な路程を歩むことができる私に、そしてイエス様と聖霊の代わりとして新しい理想を持って、それを守りつつ進める、その様な立場の私にならねばなりません。 我々は、イエス様の新しい約束の血肉を受けた者たちです。この様な我々に残された使命は何か。新しい約束を成すことです。そうする為には、私一人でも最後の日に、三位神の協助なしにサタンに対して充分に勝利できるようにならねばなりません。それでは、サタンに対して勝利できるその中心は何か。サタンができないことができるということです。サタンができないことができなければなりません。 サタンの本質は傲慢です。サタンの本質は妬みです。サタンの本質は自分のみを思うことです。それゆえに、イエス様と聖霊の教訓は、「柔和謙遜でありなさい。犠牲になりなさい。祭物になりなさい」ということです。これらはすべてサタンができないことです。サタンが柔和にしようとすれば、神様の前ですべての罪を悔い改めなければなりません。サタンにもし妬む心がなければ、今日の世界のすべては天の前に帰ってきたことでしょう。 ですから、皆さんはサタンと反対の要素を自分自体に備えるべきです。さらに、皆さんがその限界圏内に留まらないで、その限界を越えて新しい約束圏内に入らねばなりません。そうして,皆さんが変わらない一つの中心を立てるようになる時、イエス様の血肉を受けた者として新しい約束の御旨を成すことができるのです。 神様がイエスと議論できなかったことを、イエス様が聖霊と議論できなかったことを、皆さんによって再び議論できるという所に皆さんが立たなければ、即ち皆さんが天地のすべての基準に代わった中心存在として立たなければ、イエス様の約束の御旨は成されません。同時に、神様が願われる新しい約束の御旨も成就されないということを皆さんははっきり知らねばなりません。 今日我々は、世の中のものを持てなかったとしても、イエス様の体と心だけは完全に持たねばなりません。天の地に代わった一つの中心価値を天から認められなければなりません。そうして、その認められた我々の価値が、ある限界圏内に留まっていてはいけないのです。天上のいかなる存在も我々を歓迎せざるを得ない、その様な価値的存在になるべきです。 イエス様の血と肉は地上でのみ通じることではありません。地上でのみ適用されることではありません。信仰路程が天上でも適用されるのと同じく、それらは天でも適用されます。ですから、我々がイエス様の血と肉を完全に受けたとするならば、私の所願が天上でも地上でも完成されるようになります。そして、完成されたそれが,天上ではイエス様の所願に地上では聖霊の所願に代わるのです。 そうして、二つが一つになって、イエス様と聖霊が成したことを受け継いで、イエス様と聖霊を休ませ、神様と再び約束できるその基準まで行かねばなりません。そうしてこそ初めて、新しい神様の歴史、全体的な天の摂理歴史が皆さんを通して勝利の基準として立ち、進行されるようになるということを皆さんは忘れてはいけません。 祈祷 お父様! 地上では真理の戦いが行なわれており、天上では愛の競争が行なわれているということを我々は知っております。 地上での真理の戦いはイエスの体における戦いを象徴し、それを帰結するための一つの目的があることを我々は知っており、我々が天上に向かって願うこと、愛を慕うことはイエスの肉の御旨を完結するためのものであるということも知っております。 愛と真理が交差できる一つの基準は、イエス様が臨在できる基準であり、聖霊が臨在できる基準であり、神様が運行されることができる勝利的な基準であるということを我々は知りましたので、お父様の勝利の基準がイエス様を中心としてではなく、聖霊を中心としてでもなく、地上にいる私を通して、我々を通して立てられるよう許諾して下さい。 そうして、その基準が永遠に変わらない一つの帰結の終点、または円形を描きながら回転する、ある一点に向かって歩むべき我々の使命が残っているのを知っております。 お父様、ここに集まったあなたの愛する子女たち、お父様の前に、イエス様の前に、聖霊の前に立って、「あ、お父様! 主よ! 聖霊よ!」と叫べるように許諾して下さい。また、その声に天上が動かされるよう許諾して下さい。地上が動かされるよう許諾して下さい。心から願うことを許諾して下さって、「お父様」という声が天を通して地上の万物にまで至るように許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 今日我々によって、イエス様が我々に血肉を下さった目的が完結されるよう許諾して下さり、イエス様の人格に代わった永遠なる勝利の園で、お父様に仕えながら生きることのできる子女の名分を立てるように許諾して下さい。お父様、切にお願い致します。 今、私の心にイエスの血が滲み込むように、私の心がイエスの肉に凝るように許諾して下さり、私の所望と私の意志が天上の所望と天上の御意に代わることができるよう許諾して下さい。 我々はイエスを殺した血統的な罪の因縁から逃れられなかった故に、今日サタンの本質的な要素を精算することができないので、お父様、このすべての罪悪の要素を蕩減して下さって、生命の恩賜のみがあふれるように許諾して下さい。 このすべてを主管し、超越して、生命に代わったイエス様の血の価値を我々が現すように、体に代わったイエス様の勝利的な栄光の園を現すことができるように、お父様、切にお願い申し上げます。 すべてを主管して下さった恩賜に感謝しつつ、主の御名によってお祈り致しました。ア-メン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.17
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Web説教「侍る生活を貫いた人生」 ―怨讐を愛する【世界平和統一家庭連合】家庭連合WEB教会 礼拝説教チャンネル登録者数 5940人家庭連合Web教会 礼拝説教題目:「侍る生活を貫いた人生」 ―怨讐を愛する説教者:柴沼邦彦一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.16
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20年前の2001年1月13日は、真の父母様によって「神様王権即位式」が挙行されました。以下は、『天一国経典・真の父母経』の概略文です。真の父母経 - 第13篇 - 第1章 - 第1節 神様王権即位式第一章--第一節 神様王権即位式神様の王権回復のための摂理歴史二〇〇一年一月十三日、天宙清平修錬苑で神様王権即位式が挙行された。真の父母様 は、神様が失ってしまった真の家庭を探し出された基盤の上で、長子権、父母権を復帰して、神様に王権を奉献してさしあげたのである。これをもって、神様が 人間の先祖の堕落によって失ってしまった王権を回復することにより、地上と天上に天一国を宣布できる基盤が整った。真の父母様が、神様を地上に迎えて神様王権即位式を開催することによって、初めて神様は地上と天上の二つの世界で王権を手にしていかれたのである。-----神様王権即位式と神様の解放神様王権即位式は、人間始祖の堕落によって失ってしまったすべてのものを還元してさしあげるための儀式である。すなわち、サタンに占領されていた天宙を復帰し、神様が王権を回復したことを意味する儀式である。人間の堕落によってサタンの 手中にあった地上と天上世界を取り戻すことにより、神様の恨が解け、解放される瞬間である。神様の解放と人類の解放のために、一生涯、全力投球された真の父母様の勝利の結果である。神様王権即位式によって、神様の創造理想が実現される天一国基元節に向けた路程が始まったのである。この日、純潔な血統の保存 と人権蹂躙の禁止、公金略取の禁止、真の家庭の模範を打ち立てることなど、天法の四項目が宣布された。これは、創造本然の理想世界である天一国を完成する 新しい時代の民が備えるべき基本徳目である。また、過去記事「韓鶴子総裁御言選集 4 - 第6部 最終一体宣言と天一国時代 - 1. 神様王権即位式と天正宮博物館入宮戴冠式」(2020.08.05)にても、真のお父様の「神様王権即位式」に関してのみ言が多く引用されていますのでご参照ください。ところで、2001年1月13日の「神様王権即位式」でのお父様の祈祷からも、神様を「天の父母様」と呼ばれていました。これまでのキリスト教では、神様を「天の父(お父様)」として奉じていましたが、家庭連合では神様を「天の父母様」との呼称で敬拝を捧げています。「天の父母様」への祈祷(2001年1月13日、神様王権即位式にて)(2020.03.07) 《祈祷Ⅰ》 新千年を迎えて十三日目を迎えるきょう、真の天上父母の王権即位式を挙行しようと思います。全天宙の万象とすべての存在が、そしてまた、祝福を受けた天上の先祖たちと地上の後孫たちが一心一体となって、歴史的な恨の蕩減期間を越えることにより、第四次アダム圏心情時代を迎え、新しい天上世界において、地上と天上が連結された天国を開門することができる時代を迎えるようになりました。《祈祷Ⅲ》 愛する天の真の御父母様の前に、地上にいる人類が一つになり、地上の真の父母と天上と地上の祝福を受けたすべての家庭が一心一体となって、二〇〇一年を中心として三〇〇〇年に向かって出発する年頭に語ったみ言の内容と同様に、きょうの栄光の日を宣布いたしました。 「解放された天地父母と解放された子女が一心一体となって、真の愛の主体性である絶対、唯一、不変、永遠のみ旨が完成されますように」という年頭の標語とともに、神様と地上の真の父母が一体の心情を備えて新千年すべての人類の前に宣布した言葉として、万有の存在が標語を受け入れ、今から地上において神様が即位することができ、根となる時代を迎えましたので、今日の祝福を受けた家庭は、天地の王権に侍る直系のアダム完成の立場に立つようになり、万国万象を代表した立場で天の前に報告するときにも、「祝福の中心家庭誰々の名によって懇切に報告します」と言う新しい歴史時代を迎えました。 振り返ってみれば、旧約時代においては、物質を両分してサタンと神様が分けなければならなかったという恨めしい事実があり、新約時代にイエス・キリストを中心として心と体が分かれ、心に当たる霊界の整備と体に当たる肉界の整備を残したという事実がありました。その霊肉が一つになることができる時が第二次大戦後でしたが、霊肉を統一してすべてを蕩減復帰し、この地上に本然の理想世界を完成して、地上の真の父母の名をもって天上の真の父母を解放する立場で神様王権即位式をすることができなかったという事実が残ったのです。…… 最後尾にお立ちになった神様が、真の父母によって、最後尾ではなく先頭に立つことができる即位式を挙行いたしましたので、あなたが願われるみ言の内容はすべて宣布され、天の国の構成において、個人の統一問題、家庭の統一問題、氏族、民族、国家、世界、天宙の統一問題、すべての問題を知っておりますので、今からは実践躬行(注:自分で実際に行動すること)してその実体圏を地上に成し、真の父母の名と天の真の父母の名を奉り、最後の勝利的権限をすべて備えた祝福家庭、中心家庭としてすべてを終結させることができる天宙の永遠な解放の時代に前進することを許諾してくださいますように。 そのようにすることによって、天の真の父母と地の真の父母の主権国家を中心として、万万世の太平盛大な王権を勝利し、あなたが理想とされる、万民皇族圏と神様に侍る天上直系の子女たち、すべての地上と天上の祝福家庭たちの上に一律的な恩賜を分け与えてくださることを、真の御父母様はこの日を期して願いますので、特権をもたれた王権王座にいらっしゃる神様の権限として、このすべてのことを約束とともに実践してくださることを懇切に、懇切に、お願い申し上げます。 今、この一年から、あすから出発するすべてのことは、統一家のすべての祝福が勝利の覇権的旗を掲げ、万国を治めることができる天の国の大使と天の国の総督の名をもち、一方通行、勝利、勝利、万世に前進することができる解放者となることを許諾してくださることを懇切にお願い申し上げ、天の真の父母と地上の真の父母が共に一体となるこの場を通して懇切に報告、報告、報告、宣布、宣布、宣布いたします。アーメン! アーメン! アーメン! 感謝いたします。神様王権即位式における神様の玉座(天の父母様--「天のお父様」「天のお母様」)は以下です。参考までに、2003.02.06における「天宙・天地真の父母様平和統一祝福家庭王即位式」(韓国・天城旺宮殿)での神様の玉座も次のようになっていました。「天宙・天地真の父母様平和統一祝福家庭王即位式」における神様の玉座一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.13
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復帰の価値を現わそう1956年7月3日(水),本部教会 祈祷(Ⅰ) 愛なるお父様、3日間をお父様の愛の懐で守られて、この夜再びあなたの御前に多くの子女たちが集まりましたので、この者たちの頭上にあなたの栄光が共にあるよう導いて下さい。耐えつつ摂理されるお父様の愛のみ手が共に現われて、この者たちによって万民が敬拝せざるを得なくなる心の感動が起こるように許諾して下さり、それによって柔和謙遜にお父様にひれ伏して敬拝できるこのひと時になるよう許諾して下さい。 お父様、3日間お父様の懐の中で生かして下さった御意に対して、我々の心と体がそれにふさわしくなかった時が多かったと思います。足りなくて天と地の前に、あるいはサタンの前に讒訴される条件があるならば、この時間お父様の愛の力でその条件を防いで下さり、力ある御手でそれを除いて下さることを、お父様、切にお願い申しあげます。 渇望する心と体になるように、天上に閉ざされていた愛を慕うことができるように許諾して下さり、天が喜べる一つの祭物として捧げられるこの時間にならしめて下さることを、愛するお父様、切にお願い申しあげます。 この場に集まった子女たちの心と体が、お父様が喜ばれる祭壇の祭物になるよう主管して下さい。お父様が取るにふさわしい子女たちになるように導いて下さい。そうして、お父様のすべての忠告の御言と命令の御言を残らず受けることのできるこの時間になるよう許諾して下さい。 お父様の勧告と愛の恩恵をやむを得ず受ける者たちがないように主管して下さり、全体が一つの心と一つの喜びでお父様の心に代って一つになれる貴き時間として導いて下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 お父様、あなたの御前に出て彼らの中で、自分を中心としたある事情があるならば、お父様が炎のような目で洞察して下さって、それに勝てるようにして下さり、彼らが平和と感謝の心でお父様の実存を悟るように導いて下さい。そうして、自分の足りなさを事実どおり告げて悔い改められる感動の歴史が現われるよう許諾して下さい。 お父様、その感動に我々の心と体が動かされるように、全体が動かされるようにして下さい、我々自体がお父様に感謝の祭物、栄光の祭物として捧げられるこの時間になるよう許諾して下さい。 我々一人一人にお父様の御言の恩恵を下さり、我々各自の心と体に罪悪の要素があるならば、これらすべてをお父様の前で精算できるこの時間になるように主管して下さり、この時だけでもお父様の愛の懐に抱かれて、お父様の柔和な本性に似るように許諾して下さい。 お父様の平和なる本性に似るように、涙こぼるる感動感化の心でお父様の栄光を称え、お父様の貴さの前に讃え捧げられるこの時間になるよう導いて下さい。 お父様、今日は民族に代って数多い教団が我々と共に敬拝を捧げる日ですが、集まる所々ごとに哀れみの愛を許諾して下さい。そうして、無知な民族が心の門を開けて天倫が要求する一つの生き方で、天が立たしめようとする切ない愛の心情を察することができるように悟らせて下さり、そのような子女たちが所々から多く現われ愛の炎を起こすよう役事して下さい。そのような生命の炎が全世界に現れるよう許諾して下さい。 お父様! 救いの能力をこの民族に与えて、民族を代表したアベル祭壇が勝利の条件を備えて、すべてを復帰できる勝利のアベル祭壇として捧げられるように許諾して下さい。天が要求される祭壇を設けることができるよう導いて下さい。 孤独な道に立って、この時間天に向かって心と体と誠心を尽して敬拝を捧げる小数の群れの上にお父様、共にいて下さい。彼らは、最後の日に与えられたところの使命が大きいということを知って敬拝を捧げる群れですので、お父様、一人でもサタンの誘惑に負けないように導いて下さい。その集まるすべての群れは、お父様の愛の摂理から選ばれた者たちですので、一人でも捨てないで下さい。そしてサタンに、やられてお父様を悲しませる子女たちにならないよう守って下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 きょうも天に向かってやるせない心情で、隠れた祭壇で万民に代って人知れず續罪の祭壇を設ける子女たちが多いと思います。また、洞窟であるいは山や荒野でお父様の心情に代って叫ぶ哀切の子女たちが多いので、お父様、彼らの前に最後の日に約束されたところの御旨を現わしめて下さい。 許諾されたところの恩恵を与えて下さり、この民族が天の前に栄光の祭壇を設けるよう、この民族が喜びと勝利を歌えるように、この民族のすべての祭壇に代った一つの祭壇を造成して、天上天下に永遠な真理の烽火をもって出られるように導いて下さい。 お父様! この事を準備するためには隠れた祭壇を守らねばならないので、早く多くの群れが集まるように、早くこの民族がお父様に仕えるように許諾して下さい。あふれる喜びでお父様の栄光を表わすよう導いて下さい。 最初から最後まで主管して下さり、一人の生命でもサタンの祭物にならないように導いて下さることを切にお願い申しあげます。 主の御名によってお祈り致しました。アーメン 祈祷(Ⅱ) 一つの御旨を成就するための路程が、万民たちの知らない孤独な路程であったことがわかる時、ヤコブが歩んだ21年の生涯が我々の信仰の行路として残されていることを考える時、苦難の足跡ごとに涙と溜め息が疼いているのがわかります。 お父様、今日集まった者たちも、ハラン荒野を前にしてラバンの家に向かっていったヤコブの路程を模範として、御旨の道を歩むため出発した群れですので、彼らを同情し、彼らの友になって下さい。彼らの歩む道を守って下さい。 彼らの行く道の前に多くのサタンが立ち塞がっています。黒暗の権勢が立ち塞がっていますので、愛するお父様、ヤコブの歩んだ路程を模範として歩もうとする子女たちの心に変らない一つの中心だけが残るように許諾して下さい。一片丹心を捧げて天倫の御旨だけを心に抱いて、肉身のすべての条件を忘れて、走り抜くことのできる子女たちになるよう許諾して下さい。 そうして、最後の凱歌をお父様の前にお返しする時までは、耐えながら戦って行かねばならないが残っておりますので、天よ、力を許諾して下さり、能力を許諾して下さい。ヤコブの孤独な心情を受けつぐ、地上から天の果てまでつるした弟子を天使たちが上り降りするその栄光を眺める恩賜をこの場に許諾して下さい。 最後まで協助して下さる天が共におられることを彼らがわかるように許諾して下さり、お父様の忍びの心情をわかるように許諾して下さい。そうしてお父様の永遠の御旨が成就されるその日まで、戦いの勇者として、耐え忍ぶ勇者として最後まで戦って勝利できるよう許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申しあげます。 今すべてのことを委ねました。我々がお父様に申しあげたい切ない心を、このすべてを中心として受け取って下さり、体と心が一つに化した祭物として捧げられることを願っておりますので、すべてを祭物として捧げられる恩賜として許諾して下さい。 お父様! この時間が許諾された恩恵に感謝できる時間になるよう導いて下さり、私的なすべての主張を防いで下さい。サタンの讒訴条件をもっている嘆息の群れにならないように、勝利の栄光を高く上げ柔和謙遜の祭物を体と心を尽くして、勝利の祭物として捧げられるこの時間になるよう許諾して下さい。 心と体を完全にお父様の前に捧げましたので、すべてを勝利の栄光として主管して下さい。喜びの恩恵がこの時間共にあるように許諾して下さることを切にお願い申しつつ、主の御名によって申し上げました。アーメン。 祈祷(Ⅲ) お父様、一人の心が天の前で中心を失えば、全体に及ぶ影響が大きいということを各自がわかるよう許諾して下さい。私一人が足りなくてサタンにやられてしまうと、準備した祭壇全体がお父様の前に捧げられなくなるということがわかるように許諾して下さい。 もし、天の役事が表われて分別の役事を起こすならば、中心が取れなかった者はカインの道へ、中心が取った者はアベルの道へ立ち入ることを知っておりますので、この場にはアベル的な存在が多くあるように、そしてカイン的な立場に入らないように許諾して下さい。 お父様! この時間、分別の役事を起こされて、我々の心を自らが明白にすることができるよう、我々の心に中心を立たしめて天の右の立場に立つことができるよう導いて下さい。 左に立って右を盗み見する者の心を持たないように、天が喜ばれる所に向かって柔和謙遜となって、知らないうちにお父様の前に屈伏できる者になるよう導いて下さい。天上の中心と和動するためあらん限りの精力を尽くすよう許諾して下さい。 この夜あなたの愛する子女たちが生命の御言が受け入れることができるよう、心と体に天が新しい炎の御言を伝えしめて、我々が各自どんな立場にいるかを悟ることができるよう許諾して下さい。 そうして、天から喜ばれるその一日の心を探すよう導いて下さり、お父様の祭壇の前にふさわしい体を立てて喜びの存在として立つことができるよう許諾して下さい。 この夜、幼い子女たちを前にして許諾されるところの御言を伝えようとしますので、お父様、ふさわしい御言を現わして下さい、願われることと望まれるところがこの時間に成されるよう許諾して下さい。 我々にあるすべての邪悪な心を取り除いて下さって、善の心の基地で喜べる栄光の生霊を奉ることができるよう許諾して下さい。 この時間、御言を伝える者の心と受ける者の心がお父様の形相に似て、一つの形を揃えて、授受できる時間になるよう許諾して下さい。そうして、天上が我々によって和動ができる貴い時間になるよう許諾して下さい。 聖霊の炎ですべてを主管して下さることを切にお願いしつつ、愛深き主の御名によってお祈り致しました。アーメン。 世界復帰の使命をもって来られたイエス 神様が堕落した人間を救おうとされる目的は、皆さんがよく知っているように、人間たちをして創造本然の状態に回復することにあります。神様の御旨を悟った数多い先志聖賢たちはその時代時代を経ながら、そのような復帰の目的に責任もち、その御旨を成就するため、その一つの目標に向かって苦労してきたのです。即ち、イエス前の4千年の歴史も、イエスがこの地上に来られ30年生涯戦った路程もその目的を成し遂げるための路程であったし、亡くなられた以後2千年間聖霊と共に戦いの歴史を展開されたのも、やはりこの一つの目的を成すための路程だったのです。 イエスがこの地上に来られた目的は歴史の復帰のためであって、さらには、御自身の復帰と世界復帰の使命をもって来られたのです。それで、イエスがこの地上に来られて語られたその福音の御言は、過去のイスラエルの歴史を回復するための御言であって、30年生涯の自分を復帰するための、さらには、世界人類を復帰するための御言だったのです。 それゆえに、今日まで人間たちはイエスが残して下さったその御言を通して復帰摂理を分担しつつ歴史過程を経てきているのです。 今日皆さんは、2千年前にイエスが語られた新約の御言を中心として、過去6千年歴史を蕩減し今後の永遠の生涯を代身できる忠臣の姿を備えて、自分一身を回復すると同時に、歴史を回復し未来を回復できる勝利的な価値を探さねばなりません。そうできなければ、イエス・キリストがこの地上に来られて4千年歴史に代り、御自身の30年生涯に代った福音の御言と、万民を回復するため生命の御言として残されたその福音の御言は何の実も結ぶことができないのです。 今日皆さんは、4千年歴史に代ったイエスの恨みを解いてあげる子女たちになるべきであり、30年生涯を通して万民の前に新しい復帰の理念を立てて天の勝利的な基盤を成そうとしたイエス自身の復帰の使命、また、聖霊と共に2千年間苦労されたその使命を全うする子女たちにならねばなりません。 そうして皆さんは、歴史の代りとしての立場で勝利的な復帰の栄光をお父様の前にお返しし、勝利的生涯を経たイエス一代の価値以上の価値として、お父様の前に栄光をお返ししなければなりません。 そして、イエスが新しい福音の御言を宣布なさり、2千年の救援摂理をなして来られたのと同じく、今日皆さんは再び天から新しい御言を引きついで、すべての復帰の偉業を全うし、それを千々万代に永遠に残してあげなければなりません。このような使命が今日の皆さんに残っているということを、皆さんは一時も忘れてはいけません。 イエス自身は神様の復帰歴史を成就するため人間の前にはすべてを現わしながら役事してきたかというと、そうではありません。今までイエスは、復帰摂理の具体的な内容を現わせないで復帰歴史を歩んできたという事実を我々は原理を通してよく知っております。 イエスの歴史は自身を隠しておいて、象徴的な許しの御言を通して天の御旨をこの地上に成し遂げるための復帰歴史でした。さらに天の栄光を人間の前にすべて現わすことのできなかった復帰歴史でした。ゆえに我々は、摂理の具体的な内容をはっきり表わさないまま復帰歴史を推進して来なければならなかったイエスの内的心情を知らねばなりません。 イエス様が内心を現わすことができなかった理由 それでは、今日皆さんが復帰の栄光を備えるためには何を知らねばならないのか? 皆さんは先ず生活を通して、イエスが現わせなかった隠された復帰の価値を知るべきであり、次には、心を通してイエスが現わせなかった隠された復帰の価値を知らねばなりません。その次には、永遠なる生命の価値を現わせなかったイエスの隠された復帰の内容を知らねばならないのです。 そして、神様が天倫に代って復帰の栄光を全うしようとされる時、我々は何を知らねばならないのか。 イエスが生涯の生活過程で、心の奥深く隠しておいて万民の前に語り切れず、明らかにできなかった内容が何であるかを知るべきです。 もし、そのような内容を皆さんが知らなければ、皆さんによって天上天下に代ったすべての復帰の価値を地上から天上にまで表わすことができないのです。 今日我々が、イエスの福音の御言を考察してみると、その中にはイエスの具体的な生活内容が全く出ていません。イエスは、奉仕の生活として自分の隠された生活の一面を暗示していたのです。即ち、自分が高くなれる栄光の息子でしたが、その自分の一身を低くして多くの罪人の足下に入って奉仕する生活をすることによって隠されたところの一面を現わしたのです。さらにイエスは、だれにも言えない心の中に隠された一面を無言の生活として現わしたのです。 イエスは自分に付いていた弟子たちにも自分の内心を発表できませんでした。 では、なぜイエスがそのような秘密を発表することができなかったのか。天上の秘密を心の中に持っていたとしても、その秘密をわかってくれる人がいない時それを発表すると、サタンにやられてしまうことをイエスはわかっていたので発表できなかったのです。即ち、イエスはお父様から知らされた事実を一人でしまっておいて、人間の前に伝えてあげねばならぬという哀切のやるせない心がありましたが、自分のそのような心を察して訪ねてきて聞いてくれる人がいなかったので、天上の秘密を人間の前に発表できず、隠された心の一面を人間たちの前に現すことができなかったのです。 こうしてイエスは十字架の絶頂にまで出され、教師たちとピラトの前で“自称ユダヤ人の王”という罪目で審問されるようになりました。その時、イエスは沈黙で一貫したが、ピラトから“あなたがユダヤ人の王なのか”と聞かれた時、初めて自分を証ししました。 善なる天の側の人たちが、イエスを自分たちの王として仕えることを生涯の栄光と思って礼拝を捧げるべきだったのに、イエスはピラトの前で罪人の名として審問されるようになりました。このように避けられない立場でサタンの審問を受けて、神様の悲しみに代った立場で沈黙を守っていた口を開けて、事実を事実通り言わざるを得なかったのです。 これを見る時、いくら天の歴史でもサタンが天の側に対して事実を明らかにして反問すると、天の側でも隠された心を現わすしかなく、またサタンの側でも神側にいる聖徒たちがサタンの隠れた秘密を暴き出すと、それを現わして言わざるを得なくなるということを我々はわかるようになります。 イエスは自分の中に、だれにも言えない復帰の内容をもって生活する中で、無言の奉仕を通して天倫の摂理を推進し、さらに、その実践的な面においてもだれよりも先頭の立場に立って、残された復帰の内容を現わしたのです。ですから皆さんは、このような復帰の理念を代身できるイエスの心に分け入り、“あなたの心はこうでしょう?”と反問できる人にならねばなりません。 聖霊の協助を受けて隠された摂理の秘密を知らなければ もし、そのような人が現われなければ、歴史がいくら経過しても、イエスの心の中に隠された摂理の秘密はこの地上に現われることはできないということを、皆さんははっきり知らなければなりません。 そして皆さんは、イエスが生活を通して現わした復帰の秘密と心の中にある復帰の内容を知らねばなりません。 そうなってこそ皆さんは、神様の前に堂々と立つことができ、サタンの前にも自信をもって出られる者、即ち一つの勝利的な生命を復帰完成した者になるのです。 イエスは30年生涯を通して4千年歴史を蕩減して、天上天下のすべてに代って復帰の中心を全うしました。ところが、今日までこのようなイエスの完結した価値、即ちイエスが抱いていた心の中の秘密と、知られていないイエスの生活の価値を引きつげる者がなかったのです。 それで、そのようなイエスの内的秘密と生活的な秘密をだれが代りにもって現われたかと言えば、聖霊だったのです。 今日皆さんは、イエスの福音の御言を信じているが、その御言自体だけ信じては復帰できません。そこに必要なのは、聖霊が私の生活を協助し、私と共にいなければならないということです。 ゆえに、イエスが犠牲奉仕の路程を歩んだように、皆さんもそのような路程をへて十字架の絶頂にまで出てこそ、イエスの隠された生活的な秘密がイエスと聖霊を通して、初めて現われるようになります。また、心の内に持っていた内的な秘密もそのようにして現われるのです。 それゆえに、今日我々は聖霊が協助する生活を通して聖霊の心と一つになって、心と生活が一つになり、イエスと聖霊が一つになった因縁を私一人を中心として結ばなければ、真の生命は存在できないということを知らねばなりません。 このように今日我々は、聖霊の協助を受けて、イエスが生活的な面で隠してきた秘密に包まれた復帰の内容と、心に隠された復帰の内容を成していく重要な過程にいるのです。したがって、そのような過程にいる我々は、イエスと聖霊が一つなったのと同じく、聖霊と私が一つになって、イエスを中心とした三位一体の型の基準を持つようになる。そしてその時こそこの地上で神様の勝利的な基盤が造成できる平面的な基台が成されるのです。 そして皆さんは、秘蔵されている真の生命の内容を探していく上で、イエスと聖霊の協助を受ける生活をしているとしても、その生活は全生命を復帰する上でも一部分に過ぎないのです。なぜなら、全生命の復帰の秘密は末だに天上の秘密として残されているからです。それゆえに、イエスと聖霊を通して生命的な価値の内容をある程度までは全うしたとしても、それだけでは終結されません。まだ神様がイエスと聖霊を通して現わさなかった生命の隠された部分があるのです。 我々に必要なもの 今日、復帰の価値を全うしなければならない我々は、イエス生涯の“秘密の価値”を多くの人たちに見せてあげねばなりません。また同時に、イエスが持たれた秘密の価値に代り、イエスと聖霊の宇宙的な生命の価値を神様から再び認めてもらわないといけないのです。 それでは、今日皆さんはどのような状態にいるのか? 皆さんは、イエスを愛したい心はありますが、まともに愛していないということです。ゆえに、イエスと聖霊が合力によって、人間たちが神様を愛するため奉 仕の生活をずっとやってきたことと、イエスが万物万象に代って苦労したその価値ほど、神様がイエスを愛することができなかったその愛の内容を皆さんは学ばねばなりません。 皆さんがそのような愛の内容を知って成して行かなければ、天の恨みを解くことも神様の残された復帰の歴史のこの地上で完結することもできないのです。 それでは、イエスの3年公生涯路程と十字架路程、亡くなられて2千年間聖霊と共に苦労してこられた協助の路程の上で、生命復帰と長成復帰摂理の目的に向かって進んでいる我々に必要なものは何か? それは、神様がイエスと聖霊を愛し、6千年間全人類を抱いて愛した、その善の基準の心を見習って、我々の心とイエスと聖霊の心が一つになって働ける愛の中心を立てなければならないということです。万が一、そのような皆さんにならなければ、生活的な復帰、心的な復帰、生命的な復帰を完遂して、すべての生命と栄光の価値を成就することのできる、神様の愛と関係を結ぶことができません。 神様と愛の関係を結ぶためには それでは、今日我々がそのような神様と関係を結ぶためには、どうすべきであるか。我々は、イエスが歩んだ全生涯の中心の内容と、今まで2千年間人類のために苦労したその心を経なければなりません。 即ち、歴史過程で万民に対して悲しんだイエスの内的心情、イエスが亡くなられた後今まで役事してきた聖霊の内的心情、創造以降6千年間摂理され、さらに来たるべき理想世界を成すため苦労される神様の哀切の内的心情を体恤しなければならないということです。そのような皆さんにならなければ、皆さんは永遠に残される生命の栄光を代身できる神様の愛を中心として、すべての復帰の価値を完結することができないのです。皆さんはそれを忘れてはいけません。 ゆえに、皆さんはイエスが歩んでいたのと同じく、聖霊がなしたのと同じ人の道を歩まねばなりません。さらに、使徒たちが歩んだ路程、即ち、自分自身の存在感までも忘れて、ひたすら神様とイエスと聖霊のため生きたその使徒たちの生活を見習わねばなりません。 そのような路程を歩むようになる時、初めて私の心と生活を主管することができ、私の生命が神様の愛と因縁を結ぶことができるようになります。さらに、イエスの愛が私によって現われ、聖霊の愛が私の生活まで臨在されるようになるのです。皆さんはそれをはっきり知らねばなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.10
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根になった者たちの責任1956年7月1日(日) 本部教会 祈祷(Ⅰ) 愛するお父様! ここに集まった子女たちの心情をあなたは知っておられますが、この者たちの体の細胞一つ一つまでも哀れみのお父様に向かっていくように許諾して下さい。 彼らの体と心が、あなたが運行される愛の御手に捕えられるよう許諾して下さい。彼らを全体の和動の要素として現わして、あなたの御言を証しするために命をかけて駆けぬけることができる天の勇士として、この時間聖別して下さい。 お父様、集まった多くの子女たちを哀れに見て下さい。あなたが許諾される生命の御言に頼って、一段階上がらなければならない運命の復帰路程が残っていることがわかっております。愛のお父様! 愛の御手を差し延べて不足な我々の手を取って導いて下さい。我々が体と心を合わせてひれ伏しましたので、お父様、導いて下さって我々の心を天の心に変えることができるよう許諾して下さることを切にお願い申し上げます。 今日、ここに参席した数多くの群れを祝福して下さり、神様の生命の役事と感動の役事と復活の役事が現われるように許諾して下さい。今我々が持っているあらゆる現世の観念をお父様の御前に全部現わして、柔和謙遜な子供の心情を持って出ていますので、お父様、恩恵の御手で再創造の役事を起こして下さい。聖霊の炎を現わして下さい。隠した愛を現わして、最後の日に彼らが閉じた死亡圏の門を開けてお父様の勝利の栄光を現わすことができるように許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 もう多くの御言が必要でないことを知っております。集まった子女たちが多くの御言を受けなかったとしても、許諾されたところの恩恵を受けて充分に耐えうるようにして下さい。天のお父様、許諾されたところの約束の御旨を成し遂げようと、天に向かってこの時間約束し、決意しましたので、空いた器があるならば満たして下さい。お父様の溢れる恩恵に酔って感謝でき、お父様に栄光をお返しできる生きた子女たちとして立てて下さい。お父様から愛される子女たちとして立てられる恩恵をこの時許諾して下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 伝える者の心と受ける者の心を一つに結んで下さり、天の感動に我々の心が感動し、天の動きに我々の体も動かされて、お父様の形状に心身共に見習って似ていくように許諾して下さい。切にお願い申し上げます。 残りの時間も哀れみの命令の御言として役事して下さることをお願いしつつ、愛なる主の御名によってお祈りしました。ア-メン。 祈祷(Ⅱ) 許諾されたこの日、お父様の御前に敬拝しようとひれ伏しましたので、ここに集まった個人個人への心霊を洞察されて傷のない心を起こして下さい。この時間に捧げる敬拝がお父様の哀切な心情を慰めることができる敬拝になるように許諾して下さい。あなたが経綸される御旨を我々に命じて任せることができる時間になるように許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様! 子女たちを呼び集めたのもあなたであり、彼らを呼び集め生命圏の中で働くようになさったのもあなたの役事であることを知っております。あなたが約束された聖霊の炎を許諾して、各自の体と心が和動して全体の楽しみとして現われるに不足ないように導いて下さり、お父様が要求された神聖のすべてがこの時間現われるように許諾して下さることを、 愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、ここに集まった子女たちの上に哀れみの愛を注いで下さり、天の栄光に向かって全体の心が傾くように聖霊の役事を働かして下さい。そうして、我々皆が民族の代身として、人類の代身として、天上天下の全被造万物の代身として、至聖所の門を開けてお父様の御前に尋ねていって、勝利の祭物を捧げることができる敬拝の時間として受けて下さることを切にお願い申し上げます。 我々の敬拝によって、この民族がお父様の御前に立つことができるように許諾して下さり、さらには、全人類が罪悪圏から逃れて、お父様が主管される善主権の世界へと移ってくることができる機会を持つように許諾して下さることを、切にお願い申し上げます。 この時間も、民族の代身として天の前に精誠を尽くしている祭壇が所々に散らばっているのを知っております。いかなる所で天に向かって敬拝するとしても、等しい恩恵が与えられるよう祝福して下さい。最後の日に予告されるはずの全体の役事を予告して下さり、お父様がこの民族を通して立てるべき全体の御旨を立て、この民族が、証しする使命を果たすことによって天が喜ばれる基として立てて下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。 この時間、全体の身も心もお父様に向かって、敬拝できる心とひれ伏して従順なる心をお父様の御前に捧げましたので、約束なさって成し遂げるべきすべての御旨を彼らに命じて下さることを、切にお願い申し上げます。 聖三位神の役事が全体の頭の上に充満するように導いて下さることをお願いしつつ、主の御名によってお祈り捧げ申し上げました。ア-メン。 神様の摂理の中心 それゆえに、今日まで経綸してこられた神様の摂理の中心点は、エデンの園で人間の幸せの根にも、理想の根にも、生命の根にも、愛の根にもなることができたその根本の根、即ち、アダムとエバを通して立てようとされた根本の根を再び探して立てるということでした。 ですから、摂理の路程を歩んできた数多くの先志先烈たちも、天倫の事情は良く知らなかったとしても、彼らが御旨の中で苦労してきたことは、摂理の目的としてなして捧げるべきその失われた根を不変の実体として迎える為の土台を築いてきたことになったのです。 そうして、摂理の歴史を始めてから4千年が経る中で、エデンの園で失われた根を再び取り戻す為立てられた方が誰だったかというと、皆さんが信じているイエス・キリストでした。 故に、この地に来られたイエス・キリストの使命は永遠に残る根として、神様がこの根を根拠にして自由に経営されることができる一つのぶどう園のような形態を堕落した地上に再び立てることでした。これが即ち、この地上にイエス・キリストを送られた神様の目的でした。 天の摂理が出発して以来4千年が経てイエス様が現われるまでは、数多くの先志先烈たちの天の御意を中心とした血と涙の苦労の道があったということを皆さんは知らねばなりません。 即ち、家族を代表した摂理の御旨もあったし、民族と国家、世界、歴史の代身としての摂理もあったが、その摂理に代わったある地域なら地域、環境なら環境を 経てくるまでは、根の要素になれる数多くの先志先烈たちの苦労の基地があったということを皆さんは忘れてはいけないのです。 そして、個人として、民族として、さらには世界として立てられる根まで完結させられた実体として送られた方がイエス様でした。 今日、イエス様を信じている我々が知るべきものは、イエスの生涯の苦労と、イエスが亡くなられた以降今までの2千年歴史のあらゆる苦労が、世界を代表しての苦労だったということです。そして、イエス様が完成された一つの根として神様の前に立てられるまで、その背後に隠れた根として、歴史の試練の折々を代行して怨讐と闘ってきた先志先烈の苦労を皆さんは知らねばなりません。 隠れた苦労の生涯を歩んだアブラハム イエスがこのように完成された存在として立てられるようになったのは、アブラハムという歴史的な背後の存在があったからです。 アブラハムは人がわかってくれない環境の中で、即ちサタン圏である怨讐の国に捕えられて、天倫の御意を裏切ることができたような立場でも天を裏切らなかった隠れた人格の所有者だったのです。このように、隠された根のようなアブラハムは時代が、歴史が、環境が混乱したとしても、その様なすべてから逃げようとしないで克服してきた上に、かえって没落していくソドムとゴモラに向かってやるせない思いで訴えたのです。 たとえ、悪人でも自分が何かを持ったとすればそれを自慢しようとするのが人間の俗性である。しかし、アブラハムは長い期間を通して神様の御意を受け入れる為、心に約束された大きな摂理の御旨を持っていながらもこれを現わさないで希望の中で、ひたすら立てられた一つの根として、いかなる人から邪魔されてもびくともしなかった。そして確固たる基準を立てる為あらゆる迫害と侮辱の中でも耐えて克服してきた隠れた苦労の生涯を歩んでいった方でした。 このようにアブラハムは、元の前に自己一身の不変の基台を立てたのは 勿論、自己一身の犠牲的な生活が蒔かれた種になって、地上万民の為、また、悪の民族までも天の前に帰ることができる、一つの不変の基台を立てるようになった。そしてその日にはこの基準を持って変わらないという切ない心情を持っていた人でした。 ソドムとゴモラの街は神様から審判の刑罰を受けるべき所であって、アブラハムがいる所とは何の関係もない地域でした。しかしアブラハムは、ソドムとゴモラの街が天の御旨に対して無知であっても、その民族がどうなっても何の関係もない人であったが、彼は天の前における摂理的な使命感だけではなく、耐え得なければならないという責任を感じたので、昼も夜もソドムとゴモラの街に対してやるせない思いをし心配したのです。その様なアブラハムの内的心情が現われているのがここに書かれた御言です。6千年歴史の終結時期を迎えた今日、皆さんが楽に寝ることができ、いい服を着て、ごちそうが食べれるのは、自分が偉くてではありません。そう思ったら大変なことになります。 今日、世の中がどうにか持ち耐えていけるのは、皆さんの知らない人たちが背後で隠れた根になって、血と涙の祭壇を設けているからです。皆さんはこの様な事実をすべての人たちに知らせてあげるべき使命があります。 もし、ソドムとゴモラの街の中に、アブラハムの切なる祈祷が天上に染み入って、神様と一問一答しているという事実を知る群れがあったなら、またその群れの中でアブラハムに気づいた義人何人かがあったなら、アブラハムはソドムとゴモラの街がいくら悪であっても、そこには義人がいるということを条件にして、神様に「公義で判断され審判されるお父様、義人と悪人を共に火で審判することはお父様の御意ではないでしょう?」と訴えることができたはずです。 しかし、自分自身だけが、自分一人だけがソドムとゴモラを代表して祈るようになったのが感じられた時、アブラハムの悲しみは何とも言えない程大きくなったというのを 皆さんは知らねばなりません。 では、皆さんはアブラムがアブラハムになった原因がどこにあるか知っていますか? アブラハムには自己一身の幸福、自己一身の安楽よりも、家族の為に命をかけて訴えた隠れた基準があったという事実を皆さんは忘れてはいけません。 アブラハムが信仰の先祖になった理由 イエス様が信仰の実として現われるようになったことも、アブラハムのような方が天の摂理の前に立てられて、地上に現われなかった隠れた根の役割を果たしたからです。つまり、摂理歴史過程で他のすべての者が曲げられたとしても、天上に対して永遠に変わらない不変の信仰を実証できるアブラハムのような方がいて、信仰の根の役割をすることによって、その基台の上でイエス・キリストが誕生することができたということを知らなければなりません。 皆さんは個人の立場のアブラム(訳すれば「大なる父」)から、信仰の先祖になることを決定されたアブラハム(訳すれば「諸国の父」)になったそれ自体よりも、彼が人の知らない大変な苦労の道を歩んだことから、我々は今日の歴史を眺めながら、私とアブラハムを1対1の立場において比較し自分自身を反省して見るべきなのです。そして、アブラハムの立場を体恤しなければなりません。 アブラハムがソドムとゴモラの街に対して隠れた根の祭壇を設けたことと同じく、自分が住んでいる所とそこの住民たちに向かって切に訴えて祈ったアブラハムの熱い心情を、皆さん自身も持つべきです。アブラハムの苦労の路程で立てられた信仰の基台、隠れた根のような基準を皆さん自身が相続せねばならぬということを決して忘れてはいけません。 信仰の先祖アブラハムの家庭が、恵みの機関として約束されましたが、これがイサクとヤコブを経てモーセを通して民族的な形態をなし、イエスを通して 世界的な範囲に拡大されたのです。アブラハムの天の前に染みわたる忠誠心と信仰がなかったら、この地上には天と接続させることができる一つの因縁ができなかったということです。 今日、人間は自分に良いものがあれば表面に現わそうとします。現わして自慢しようとします。しかし、このように現わして人に知らせようとする人は、一つの枝のような責任は果たすかもしれませんが、一つの根としての責任は果たせないということです。 アブラハムが信仰の先祖になることができた隠れた秘訣が何だったかわかりますか? ひたすら天を慕う心と地を愛する心だけだったので、天のお父様との広くて深い因縁のもとが与えられたし、信仰の先祖になることができたのです。 民族の指導者になったモーセ モ-セもやはり同じです。モ-セ自身が民族の前に立たせられるまでは、一つの隠れた根として過ごしたパロ宮中での40年間の苦労の期間があったのです。モ-セはパロ宮中に留まる間、権力や富貴に溺れたり、歓喜に溢れる生活をしませんでした。彼はいつも、食べたり着たり寝たりする生活のある一瞬間においても、イスラエル民族を心配しなかった時がありませんでした。 エジプトにいるイスラエル民族の中でモ-セ一人だけが、その民族が知るも知らずも、天に向かった忠誠心が変わらなかったのです。 怨讐の懐の中にいながらも、不変の核心体として、いかなる環境が自分を押しつけ、天倫の御旨に向かった自分の心を遮る何かがあったとしても、絶対変わりはしないと誓いに誓ったモ-セでした。モ-セにこのような天に対する不変の心情と精誠を捧げる40年期間があったがゆえに、のち民族に対する愛の力を爆発させることができたのです。 皆さんにはモ-セが血気盛んな人に見えるかもしれませんが、実はそうではありません。エジプト人とイスラエル人が争うのを見て、エジプト人を殺したモ-セの義憤感は、その瞬間の衝撃から生じたことではなかったのです。その光景を見て、モ-セは40年間天に向かって切ない心で民族の為訴えた内的悲しみの心情が爆発したのです。つまり、イスラエル選民が悔しくもやられるのを見て、抑制できない義憤感が生じてエジプト人を殺したということです。このように、イスラエル民族に対する愛とエジプトに対する義憤感が、その様なモ-セの行動の内的原因であったのです。そして、その様なモ-セの行動には摂理的な御意が内在されていたということです。 モ-セが欝憤を耐えられなくなってエジプト人を殺したのは、イスラエル民族の運命を心配し責任を持った立場から殺したことであって、それはエジプト人がイスラエル民族を迫害した罪に比べればわずかのことでした。それで神様は誰よりも民族の為心配するモ-セを民族の指導者として立てられたのです。しかし、イスラエル民族はモ-セを誤解し、エジプト人を殺したのを暴露することを通して、モ-セは自分の行動がばれたのを知り、仕方なしにミデアンの荒野へと身を逃れるようになったのです。 ミデアン荒野で生活したモ-セは、パロ宮中での派手だった暮しを恥かしく思い、パロ王の娘が自分のためにすべてのことをしてくれる自由な環境で過ごした過去の富貴栄華を全部忘れました。そして、羊飼いの服を着て羊の群れを追い歩く身の上となったが、その羊の群れを眺めながら、昔の先祖アブラハムに約束されたカナンの地を懐しがりました。 今は羊の群れを追い歩いていても、いずれの日に羊の群れを追い歩くように、民族を導いてカナンの地に入ろうという切ない心で天の前に訴えたモ-セでした。モ-セは寝ても覚めても、心を痛め思い焦がれてそのすべての精誠を尽くして、アブラハムがソドムとゴモラ人の知らないうちに彼らの為祈ったのと同じく、この民族の為心配し祈りました。 モ-セはエジプト人の迫害と塗炭の中で苦しんでいるイスラエル民族を見ると、骨が溶けるような悲しみを感じ、天に向かって、「エホバよ! 私を見てこの民族を哀れに思って下さい」と訴えたのです。それで神様は、このように精誠を尽くしたモ-セをエジプトの地から60万民衆を導き出す指導者として立てたのです。そして人の目には何もない ような、ミデアン荒野で羊飼いの生活をしていたモ-セを、先祖たちからの隠れた根を受け継ぐことができるようにして民族の代表者としてたてたのです。そして、イスラエル民族がこの様なモ-セと一つになってカナンの地へと入れるようにされたのです。 モ-セの隠れた精誠の基台を知らなかったユダヤ民族 モ-セが天から許諾されたところの約束を受けてエジプトへ入るようになった時、彼は喜びに溢れました。しかしモ-セは、決してその喜びだけに満足していなかったのです。彼は自分の民族をカナンの地へ導く為生涯を捧げたいと天の前に訴えた、その意が成就して民族が生きる道を開拓するようになったが、その様な喜びのみに満足しないで、これから第二の責任を忠実になそうという使命感と責任感を持つようになりました。 その時からモ-セは、自己中心的に行動しないで、小さなことでも大きなことでも神様と因縁を結ぶことなしに遂行したことは一つもありませんでした。 こうして,モ-セが暴悪なパロ宮中に入って、彼らの神の前で10回以上の奇蹟と災禍を行って、イスラエル民族を荒野へと導きだすようになりました。ここでイスラエル民族はモ-セと一つになるべきでした。即ち、荒野であるが、自由な環境へと脱出してきたイスラエル民族が、カナンの地に向かって行くのにはモ-セの心が、即ち自分たちの心であるべきだったのです。自分たちをパロ宮中から救い出してくれたモ-セと心が異なってはならなかったのです。ところで彼らは、モ-セと一つになれず天倫に外れる道を行くことによって滅びるようになりました。では、彼らがこのように滅びた原因はどこにあったのか? 彼らはモ-セが民族の指導者になる過程の中で、天の前に訴えた隠れた精誠の基台を知らなかったのです。そして彼らは、モ-セが自分たちを導いてエジプトを脱出したその日から、モ-セが様々な苦難の中でも自分たちの為に尽くしたにもかかわらず、この様なモ-セの苦労を知ってあげることができませんでした。それで彼らとモ-セは荒野で別れて、結局彼らは荒野で滅びて しまいました。 この様に、イスラエル民族がモ-セを不信した歴史的な事実が、今日最後の日の聖徒たちにも再び現われています。 覚醒すべき最後の日の聖徒たち イエス・キリストがこの地に来られ30年余りの生涯を人類の為苦労し、亡くなられて以降2千年間人間たちを尋ねて下さり、愛と恩恵で役事して下さったにもかかわらず、人間たちはその様なイエス様に、生活の中で真に仕えていません。 そして、イスラエル民族がモ-セを不信したことによって、モ-セがイスラエル民族をカナンの地へ導こうとする神様の御意を完全に成し遂げることができなかったような、恐ろしいことが最後の日の聖徒たちにも現われるかもしれません。イスラエル民族と自分が一つになれない事実に直面した時、モ-セは不信する民族を責める前、自分自身の不足を天の前に訴えました。即ち、彼はシナイ山に登って40日間断食祈祷をしながら、「お父様、この民族は許諾された地を目の前にしながらも、なぜそこに入れないですか。 その責任は誰にありますか。その責任は私にあります。私が責任を果たせなかったからです。ですから、私を祭物にして民族の滅亡を防いで下さい」と訴えたのです。この様なモ-セの隠れた精誠の期間があったということを皆さんは知らねばなりません。 もしイスラエル民族が、モ-セが人知れず哀切の心を持って断食するのが、モ-セ自身の為ではなく彼らの為であることを知ったなら、彼らはモ-セの40日断食期間に金の牛を作って崇拝する不信の遊びはしなかったはずです。また彼らが、民族の祝福の代わりのモ-セが一つの隠れた祭物として天の前に捧げられるようになった時、モ-セの心を同情し彼の苦労を心配して、シナイ山にいるモ-セと共に涙を流しながら天の前に訴えることができたならば、彼らは神様の懐から離れていかなかったはずです。 この様に、モ-セが一人で民族の代表として寂しこを歩んだように、イエス様もその様な道を歩まれました。即ち、アブラハムの歴史的な犠牲とモ-セの民族を 代表した祭物の路程を通して、世界の中心として立てられたイエス・キリストは、アブラハムが家庭を代表してサタンの讒訴条件を防いで、モ-セが民族を代表してサタンの讒訴条件を防いだのと同じく、世界人類の代わりとして一人でサタンのすべての讒訴条件を防がねばならなかったのです。そして勝利的な蕩減の基台を築かなければなりませんでした。 イエス様は勝利の中心であり、万民の救世主 皆さんはイエス様にこの様な責任があったということを知らなければなりません。故に、世界的に勝利して不変の基地を整える時まで、イエス様の一身は御自身の一身として終わってはいけないということです。それゆえにイエス様は、4千年歴史過程の中で天の前に忠誠を尽くしたいかなる信仰の中心人物よりももっと忠誠を尽くしたし、全体の為に自分の一身を犠牲にしたのです。 この様にイエス様は、30年余りの生涯を通して自分の使命分野で、歴史上誰も備えることができなかった全体の代身としての中心形態を成したのです。もしその様な中心人物になれなかったら、イエス様は世界的な摂理の責任を持った先頭者になれなかったということを皆さんは知らねばなりません。 今日イエスを信じる聖徒たちは、イエス様を一代の十字架を背負った方として信じているが、皆さんはその様なイエス様だけを信じてはいけません。イエス様の十字架の死があるまでには、アブラハムが築いた苦労の祭壇があったし、モ-セが苦労した祭物の路程もありました。そしてイエス様は、苦難と塗炭の中にいる民族と世界人類の苦しみを感じられ、「彼らの苦痛の荷を私に背負わせて下さい。彼らには自分たちが要求する永遠な理想を許諾して下さい」と天の前に訴えただけではなく、実際彼らの苦痛に対して責任を持つため、一日も楽な生活をすることができませんでした。 この様にイエス様は、怨讐の懐にいる人たちまでも心配され、御自身の喜びよりも全体の御旨に責任を持った立場で生活したので、サタン世界との戦いで勝利した中心存在として、万民の救世主として立てられたのです。 では、最後の日に処した我々、イエスを信ずる聖徒たちが悟るべきことは何なのか? 我々は今まで、悪人の為に涙を流しながら心配し、祈ってあげる生活ができなかったということを反省しなければなりません。最後の日に審判を受けるべき人が多ければ多いほど、我々はより彼らの為に祈らざるを得ないのです。そして、我々の為に心配し祈って下さるイエス様がおられるということを忘れてはいけません。我々がその様なイエス様を忘れて不信すれば、我々は最後の日の審判から逃れることができなくなります。 根の使命を果たすべき最後の日の聖徒たち もし昔のソドムとゴモラの人たちが、アブラハムとロトを通して予告して下さった神様の審判に対する警告を受け入れて、自分たちの悪行を反省し悔い改めたなら、彼らは審判から逃れることもできたはずです。歴史的な事実は、これから成されることを実証的に教えてくれることなので、最後の日に処した今日の我々も、過去の自分の生活を反省し悔い改めなければなりません。ですから我々は、モ-セがシナイ山に登って、不信するユダヤ民族の為に祈ったように、イエス様が今この時間にも霊的シナイ山上で我々の為に祈っておられるという事実をはっきり知らなければなりません。 イエス様が2千年間天の王座におられながら、人間の為に祈るその心は、モ-セがシナイ山に登って不信するユダヤ民族の為に祈って哀切の心、それ以上でした。ですから、地上にいる皆さんはこれを知って、イエス様の御意の通りに生きるべきです。昔アブラハムが、義人10人がいれば彼らを見て、ソドムとゴモラが審判から逃れるよう神様に祈ったが、そのソドムとゴモラには義人10人がいなかったので神様の審判を受けたのです。 ですから皆さんは、イエス様が十字架で亡くなられた以降今日まで、天上におられながら人間たちの為祈っておられるように、またモ-セがシナイ山頂で祈られたように、その切なる心情を体恤してこの時代の中でイエス様の代わりに心配し祈らねばなりません。そして皆さんは、イエス様の世界的な御旨を代身できるし、歴史上の先志先烈たちの代身として天が立てられた者がどこにいるかと、目覚めて祈祷し精誠を尽くしながら探すことを忘れてはいけません。最後の日にこのように根として残される者がただ一人でもいなければ、イスラエル民族が荒野で倒れたのと同じく、我々が住んでいるこの地も世界的な終末期を迎えると、恐ろしい審判から逃れられなくなります。 では、今日我々はいかにすべきなのか? 皆さんは隠れた房のような存在なので、キリストの精神を持って歴史路程を歩みながら、一つの中心の根を待ちに待ってきた先祖たちの望みに応ずる存在にならねばなりません。そして、2千年間変わらず再臨の一日を待ちながら苦労してきたイエス・キリストの心情を痛感することができる皆さんになるべきです。これが問題です。ですから皆さんは、皆さん自身を歴史的中心人物たちの相対的な立場に立てておいて、検討し分析してみなければなりません。即ち、皆さん自身をアブラハムとモ-セとイエスの相対の立場に立てておいて、彼らの心が皆さんの心であり、彼らの所願が皆さんの所願であり、彼らの怨恨が皆さんの怨恨であると言える自分になっているかということを分析してみるべきであるということです。 今我々は、赤手空拳で天の前に出て談判して訴える祭壇を高く築けるようになるべきです。アブラハムがソドムとゴモラのため天の前に訴えた心情を知らねばなりません。アブラハムがソドムとゴモラのために祈ったのは自分の息子、娘やいとこロトのためではなかったのです。しかし、アブラハムがすべてを忘れて隠れた精誠の祭壇を築いたが故に、アブラハムと関係があったロトは審判から逃れることができたのです。 今日信ずるという人たちは「私の願いを成して下さい」と祈ります。我々はその様な祈祷はすべきではありません。かえって、「私の願いより神様の願いが成されるように………」と祈らねばなりません。天の願いが成し遂げられる時、私の願いは成し遂げられます。ですから、「私の願いを成して下さい」という祈祷はいけません。我々はあらん限りの精誠を尽くして「お父様、私をたてて下さったので、私を呼んで下さったので、私を通してお父様の願いを成して下さい」と言うべきです。 では、今皆さんが知らねばならないことが何かというと、皆さんが受け継いだ遺業は、皆さん一代だけの遺業ではなく、アブラハムからモ-セとイエスを経てきた遺業であるということです。 この時代に生きている皆さんは、イエス様が必要とされるような人になって、天が要求する御旨を成就すべきです。そうして,この地上は悪であっても、暗くても、滅びていっても、皆さんは天が立てられた隠れた根にならねばならないということを知らなければなりません。 天がこの時代に我々に要求されること 天は今日、個人的な信仰をもとにして我々に宗教の使命を成就することを要求しています。では、この要求は何か? それは、アブラハムが成したような責任を果たしたかということであり、その次は、モ-セがイスラエル民族の為哀切の心情を持って苦労したように、皆さんが韓国3千万民族が塗炭の中にいた時、モ-セのように皆さんのすべてを尽くしたかということです。そして、イエス様が創世以降から今まで、万民を救う為苦労されたように、皆さんも同じ意と心情を持って万民の為イエス様の代わりとして苦労したかと天はお聞きになるはずです。 では、このようにアブラハム、モ-セ、イエスのような生き方であったかと聞かれる時、「そうです。あなたが我々を良く知っておられるでしょう。隠された根は我々にだけあるのではなく神様の中にもあります」と言える人にならねばなりません。 その様な皆さんになる時、アブラハムが自分一身を通して信仰の節操を立てた意が皆さんによって実るようになります。さらに、モ-セが民族を通して哀願した御旨も、イエスが世界に対して抱いたあらゆる悲しみの要素も皆さんによって解かれることでしょう。 もし、その様な人がこの地上にいるとすれば、アブラハムが一代で悲しんだ心、モ-セが一代で悲しんだ心、イエス様が今まで悲しんだ心が解かれます。ですから、その様な人がいるならば、皆さんは彼に 精誠を尽くして仕えるべきです。その様な人がいなければ、皆さんがその様な人になるべきであり、その様な人がいれば、その人をアブラハムの代わりに、モ-セの代わりに、イエス様の代わりに侍り仕えなければなりません。そうして、「民族の為祈って下さい。活動して下さい」と言うべきであり、さらに、皆さんが天の前に捧げられる祭物にはなれなくても、祭壇でも設ける人になるべきです。 それゆえに、今日皆さんは神様に対して「お父様」と呼ばなければなりません。そうして、天地創造以来今までの歴史過程で、主人として行動できなかったそのお父様を実感することができなければ、皆さんは一代において解くことができません。したがって、皆さんはそのすべての代わりとして、アブラハムが祈ったのと同じく、モ-セとイエス様が祈ったのと同じく祈祷の祭壇を築かなければなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.10
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2021年天一国指導者総会と新年祝賀会が開催されました。天一国8年天暦11月23日~25日(陽2021.1.6~8)は、HJ天宙天苑修連合会で「2021年天一国指導者総会」を開催し、2027年の出発年を新年度に開始しました。 一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.09
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神様の主管世界を取り戻して差し上げよう1856年6月27日 本部教会祈祷(Ⅰ) 愛するお父様、哀れなこの群れたち、あなたの懐が恋しくて訪ねてきました。私たちの体と心を主管して下さい。私たちの全体を主管して下さい。私たちの心と体がお父様の喜ばれる心と体であることがわかるように導いて下さい。お父様の栄光と義を讃えることができる、恩恵に満たされるこの時間になるように許諾して下さい。 愛するお父様! お父様が恋しくて集まった子女たちを哀れみの愛で見つめて下さい。彼らにお父様がおられないとすればどれほど哀れな者たちであり、どれほど淋しい者たちであるでしょうか。お父様! 彼ら全部を主管して下さい。彼らの希望故、自ら満足できる主人公としてこの時間役事して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 この一時、散り散りになった心を一つにして、あなたの貴き御前に供え物を捧げる為ひれ伏しました。最初から最後まで、あなたから許されることができないすべての要素を取り去って下さり、和動できる要素だけを残して下さい。全体の雰囲気を主管なさって、我々の心を動かして下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 今日、恵みを祈る為集まる群れが多いでしょう。集まる所々に聖三位神のような恵みとして役事して下さい。最後の日に与えられた全体的な使命を成し得る為、集まる所々に、あなたの栄光を讃える人々に、同じ恵みを受けることができるその時が、この民族の前に早く訪れるように許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申しあげます。 今日、淋しい食口たちが所々に集まって、人の知らない祭壇の前で敬礼を捧げていますので、全体の生命の主人として、全体の復活の霊として現れて下さい。彼らの生命の役事、復活の役事が地上で留まらないように許諾して下さり、天の数千万聖徒たちと全被造万物まで和動して、その喜びを天の前にお返しすることができる栄光だけがこの場に満ちるように許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 最初から最後まで、サタンの侵入できない時間として勝利のお父様が導いて下さることを切にお願いしつつ、愛する主の御名を通してお祈り捧げ申し上げました。アーメン。 祈祷(Ⅱ) 愛するお父様! 何もない兄弟たちがお父様の前に出ました。彼らが感ずることが、自分自身を中心として感じることがないように導いて下さい。 天の為、お父様の為ではなく、自己を中心としては、何ものも持たないように分別して下さい。神様の摂理の為に全体が祭物として捧げられるように許諾して下さい。 我々は心も体も暗闇の中にいる哀れな者たちでございます。お父様、何の力もない手を天に向かって広げていますので、お父様、恵みの御手で取って下さい。サタンの前に引っ張られていった者たちが、天に向かって両手を開いて叫んでおりますから、お父様、彼らを抱きしめて下さい。 サタンの主管する険しい地上で生きていても、神様の永遠なる心情を持った天の盾として、戦いの勇士として、天の誇りになる子女として立てて下さい。愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、ただ今あなたの愛する子女たちが集まりました。集まった子女たちの心性はそれぞれ違うかもしれませんが、お父様の心性に 似ようとする切なる心を持っている者ですので、一つの心として受け入れて下さい。そうして、御命令に順応し、天の心情が証しできるように導いて下さい。 この時間、お父様が呼んで下さった子女たちが集まりましたので、全世界に広がっている怨讐サタンと闘うことができ、押し入ってくる苦難を勝利の盾で防ぐのに不足することなく導いて下さい。奪う者の立場よりは与える者の立場に立てるように、自分一人の価値を現してお父様の栄光の姿になれるように許諾して下さい。お父様、切にお願い申し上げます。 お父様、苦しみと患難の中におかれているあなたの愛する子女たち、今あなたが導いて下さらなければ、彼らより哀れな者はおりません。彼らの動き出す一つ一つの足取りに、彼らの処している環境ごとに、試練と患難と悲嘆がありますので、彼らを守って下さい。そして導いて下さい。 今日まで、お父様が共に苦労し心配して下さった故闘うことができました。彼らはお父様の苦難を受けており、お父様の涙を流しておりますので、お父様、永遠に守って下さい。最後に勝利の園で、勝利の喜びを持って全万物万象に代わってハレルヤ、ホサナの栄光をお父様の御前にお返しでき、感謝の敬拝を捧げることができるその日まで守って下さい。 この時間、許諾された御言を、お父様の代わりに伝えようとしますので、間違っている意識と観念を除いて下さい。またお父様の命ずる全体的な再創造の感動の役事が現れるように、和動の役事が現れるように許諾して下さい。 そうして、身も心もお父様の愛に浸って、感動せざるを得ない、敬拝を捧げざるを得ない、克服せざるを得ない、悔い改めざるを得なくなるこの時間になるように許諾して下さい。天の心情をそのまま受け入れることができるこの時間になるように許諾して下さい。切にお願いしつつ、愛なる主の御名を通してお祈りお捧げ申し上げました。ア-メン。 御言 拝読した聖書の本文を中心に 「神様の主管世界を取り戻して差し上げよう」という内容で話します。 主管主である神様を探すこと 神様が6日間で造られたすべての万物は、未だに神様を主管主として侍ることができないまま、悲しく苦しい立場に留まっています。これは我々が復帰路程で必ず解決すべき運命として残っています。したがって、我々一人一人が天の前に誓って、勝利できる祭物として立つことを願っているならば、神様が願っておられる主管性復帰を完結して捧げなければなりません。そのようにできなければ到底勝利の祭物として立つことができません。人間にこのような過程があるようになった理由は、堕落以降誰も願っていない、サタンの主管世界が現れたからです。 アダムとエバを通して喜びを得たくて被造万物を造られた神様は、アダムとエバの堕落によって、造られたすべてを失ってしまいました。アダムとエバも失い、万物も失ってしまいました。それゆえに、思ってもいなかったサタンが、創造主である神様の立場の代わりに万物を主管するようになったのです。これは神様の悲しみであり、今までの復帰歴史路程で神様の心情に似る為、天に向かって祈願してきた良心的な人々と聖徒たちの悲しみとして残っています。 もし、ある被造物に、彼の所願が何かを聞いたら、その被造物は何と答えるか。それは、いかなる存在物も「主管主である神様を探すこと」だと答えるはずです。このように、万物万象が探しているものが、真の主管主である神様であることを神様御自身も良く知っておられますが、神様は万物を直接主管しようとしても主管できない立場におられます。これが天の悲しみであることを皆さんはわからなければなりません。 では、主管主である神様を失った、被造物の中の一つである我々が、今日心身から願う所望は何であるか? 全被造万物が願って望んだ通り主管して下さった創造主神様、その神様が再び直接 主管して下さることでしょう。 今日我々には、この様な所望と御旨を成す使命があり、そのことを完遂するための召命を受けています。それゆえに、我々は神様の主管性を復帰し、また万物の主人としての主管性も復帰しなければなりません。そして、神様が主管して下さる恵みに対し、感謝の栄光をお返しすべきです。この様な責任が万物にあるのでもなく、天の天軍天使にあるのでもなく、今日何もないような我々にあるということを知らなければなりません。 それゆえに、我々が一度責任を果たさないと、天の全体の主管性を失うことになり、本然の天の姿が失われると万物の所望全部を失うことになります。それゆえに、我々が生活を通して、生命を通して、その歴史的な運命に代わった責任を果たすことができなければ、神様の前に出られないということであり、また万物の前に万物の霊長として現れることができないということです。 そして皆さんは、全被造世界の中心であり神様の創造性を持った、内的な世界の中心として創造された一人です。その私が歩んでいく路程は今日私個人のこととして終わることではないということを知らなければなりません。 皆さんが、天倫の為に生きる生活において、自分だけの為に生きる生活をするならば、神様の創造的な主管性は失われるようになります。皆さんが万物を主管できることを願われるその所望も切れるということを、皆さんはわからなければなりません。 それゆえに、皆さん自体が、天が全体を主管する立場に代わり、万物の主管主に代わるその価値を現わさなければなりません。そうして、自ら「あなたが探そうとする一つの存在、全体に代わる本来の主管主自体として、立てられた御旨を全部成し遂げましたので、お父様、命令して下さい」と言えるようにならなければなりません。この様な立場に立つことができる、その一つの存在が6千年間の摂理の中で、神様が探し求めておられる存在であるのです。したがって、神様の6千年の摂理歴史の中で、苦難と闘い、逆境と闘って、怨讐サタンを退けて人間を復帰させることが我々の全体的な義務なのです。 この様に、全体に代わった我々一人一人が取り戻すべき主管性の権限を思ってみる時、今日我々が具体的に何を探さなければならないのでしょうか。 人間は堕落によって、全体を主管する神様を失ってしまいました。全体を主管し、全体の根源になる神様を失ってしまったということです。したがって、今日我々が取り戻すべきものが何かといえば、天地万物を創造なさった神様だということです。それゆえに、皆さんは神様の主管物を自分のものに所有する人にならなければなりません。 神様を失ってしまった結果 では、今日の我々の悲しみは何か、我々の痛ましさは何で、嘆息は何か。今までの6千年間の復帰歴史の過程に隠れている懇切な所願は何だったのか。それは私と、万民と、全宇宙と、天と地が失ってしまった神様を取り戻すことでした。神様は我々が取り戻さなければならない所望の本体であると同時に、全体の価値を代表する栄光の本体であります。それゆえに、今日皆さんが、神様の全体の主管性を復帰する為には、皆さん自体が神様を所有できなければなりません。神様を迎えることができる人にならなければならないということです。 では、その神様はいかなる方であるか。万民を造られた神様であり、万物の全体主管の役事をなさる為に復帰の苦労をしておられる神様であることを、皆さんはわからなければなりません。したがって、皆さんが神様を所有できれば、その神様は皆さんの神様であるので、彼が永遠であれば皆さんも永遠になり、彼が全被造世界に対して主管性を持つようになれば、皆さん自体も実体の神様的な立場に立って、万物を主管できるようになるということです。この様になれる皆さん自体を立てることができなければ、皆さんは神様を所有したとは言えないでしょう。 今日、この地上に悲哀と死亡があるようになったすべての原因は、神様を失ったところにあります。そして、神様を失ったことによって、サタンが主人のごとく振舞うようになりました。人間は元来、創造原則を中心としてみると、 神様を一つの主人とすべき被造物だったが、堕落したことによって、神様の代わりにサタンを主人にするようになったのです。 今皆さんには、愛の神様を再び所有しなければならない運命的な責任が残っていますが、その道を遮っているものは誰なのか。造られたこの被造世界で、神様を一つの主人公とすべきその御意に反対している者は誰なのか。それは今日皆さんに罪悪を抱かせているサタンだということです。 それゆえに、今は皆さんが、自分の心に染み込んでいる罪悪の根を取り除き、万民に代わって、今日まで6千年間、天を裏切って闘ってきたサタンを屈伏させて、神の世界を成すことができなければ、この地上で神様の主管的な役事をすることができないということです。 では、皆さんは心から自由を求めているが、どんな自由を求めているのか。皆さんが神様を求めないとサタンの僕になるわけです。したがって、皆さんが神様を所有できなくなってサタンを所有するようになったら、皆さんは天理原則を敵にする逆族になるのです。皆さんはこれをわからなければなりません。 神様を所有しようとすれば では、神様が天倫の法道を教えて下さった理由はどこにあるのか? 神様を探すことができる方法、神様を知ることができる方法を教えて下さる為でした。そして、その方法を教えて下さる為の摂理路程が6千年歴史路程でした。 今日皆さんは、もっている信仰で、神様の実存と神様の本性が全被造万物の中心の性禀として現れているということを、誰も良く知っています。ところが、知っているその神様が皆さんのものにならなければいけないということです。皆さんが神様と永遠に、切ろうとしても切れない関係を結ぶべきだということです。 そうなったら、皆さんが東西南北のどっちに向かって走っても、またいかなる過程にいても、神様が変わらない以上、皆さんが 持っている神様に対する所有権は変更されません。皆さんがその様な立場に立つことができなければ、皆さんに対する神様の要求と所望はそのまま未完成の状態に止まり、不備の立場に処するようになるわけです。こうなれば、私によってサタンが讒訴できる条件が残り、神様の悲しみが残るということを皆さんは知らなければなりません。 この様な立場にいる我々人間が、今日成すべきことは何か。まず、サタンの讒訴から逃れることです。そうして、「本当にあなたは神様の子であり、神様を所有できる資格があり、神様と一体的な関係をなした神様の子」だと、イエス様のように証される一日を迎えなければなりません。そのような一日が復帰できなければ、すべての被造万物を主管する神様の前に、皆さんは万物の主人公として出られないということを知らなければなりません。 人間の堕落によって神様を失ったと同時に、また何を失ったかというと、創造本然の心性を失ってしまいました。そして自分自体を分析してみたら、神様を失ったと同時に本然の心を失ってしまいました。皆さんが頼るべきものは自分の心です。皆さんが自分自身の心を主管できなければ、皆さんは神様を所有できず、神様も皆さんとの関係を結ぶことができません。 皆さんの心が、神様と永遠な相対基準を造成する時、皆さんは神様を所有でき、神様は皆さんの心を自由に主管なさるようになります。それゆえに、神様とイエス様の心が一つになるように、今日皆さんは、イエス様の心と一つになった立場に入り、神様の心と一体的な関係をなした立場に立たなければなりません。もし、その様な立場に立つことができなければ、皆さんの心にはサタンの讒訴条件が残るのです。 もともと人間は、神様の要求される御旨の中で、自分の心が願う目的通りに生きて、神様の全体的な理念を代理にすることによって、第二の神様の立場に立つべきでした。しかし人間は、そうできる本性の心を堕落によって失った故、今日の人間は、悲しみつつこの本性の心を取り戻さなければならない条件、痛ましい運命の路程を歩む条件を 担うようになりました。 それゆえ、我々はイエス・キリストを通して自分の心を明らかにしなければなりません。そうして悲しみに捕われている心であっても、天倫に接する時、新しい心を持って暗闇を払いのけていける本性の心を立てなければならないということです。そうすることによって天上におられる神様の心情と通じ、死亡圏に包まれた人間の心とまでも関係を結んで、立ち起こすことができる心の形態を探すべきなのです。その様な皆さんになれないとすれば、皆さんは、神様を永遠に所有できる心を持っていないということをわかって、悔い改めをすべきなのです。 我々が、神様に代わって誠心を尽くすにおいては、ある特定な時期だけ精誠を尽くす生活になってはいけません。神様が変わらない以上、皆さん自身の生涯路程において、天に対して不変の心情を持たなければならないということ、即ち、サタンのいかなる条件も侵犯できない心の土台を立てなければなりません。それが今後には、不変の体系で立てられるべきであり、天倫の道に向かっていく根本的な原則にならなければなりません。 皆さんが、神様の誇ることができる心を持っていなかったとすれば、神様が皆さんを哀れに思われる立場に立てないということを知らなければなりません。 神様を所有されたイエス 人間が本心を取り戻すことによって、全体の主管圏が復帰される時は、万物の中のいかなる存在物に対してでも、その心の作用を通して命令できる権限が立てられるようになるが、今まで誰も、その様な心の主管性を完遂できなかったのです。 また未だに、神様の願われる通りに、人間が神様の代わりの体系的な権限を立てて行動できない悲しい立場に留まっています。そうだとすれば、人間が留まっている分だけサタンが楽しめる舞台を残す結果になります。ゆえに、神様が悲しみに処するようになる条件が残って しまいます。これを皆さんは知らなければなりません。 天地の法則は、二つが一緒にならない限り、一つになる原則を、または一つの新しいものを産み出すことはできません。 では、神様が4千年間準備され送られたイエス・キリストを通して成されようとした願いは何だったのか。4千年の歴史路程を経て、誰一人として、失った神様を所有した人がなかった故、人間がイエス様を通して、失った神様を所有できるように願われたのです。 それ故に、神様を所有した、完結されたものとして立てられた方が、即ちイエス様でした。また、人間世界において、人間の心に代わって、神様の心情の外的部分に代わった形態を備えた存在、霊界の無形世界と実体的な有形世界において、万物を主管できる存在として送られた方がイエス様だったのです。 イエス様が来られてから2千年がたちましたが、いかなる民族であろうが、種族、個人であろうが、彼らが栄光の条件として持つべきものは何か。それは神様を所有することです。その様な人が現れるのがイエス様の願われる要求であり、イエス様を送られた神様の要求であることを皆さんは知らなければなりません。 イエス様は地上に来られて神様を所有し、さらに彼の心が人間と相対基準を造成することによって、彼の体は神様の体を代理したということです。 神様の心を所有し、万物を所有できる基準を立てて現れたイエス様は、その体が原則的な所有権を持って現れた故、彼が現れた日は天倫に代わった神の日だったのです。 では、今日の聖徒たちがイエス様を信じ、神様がわかって、神様の全体的な所有権、不変な所有権を持っていたとすれば、どうすべきなのか。その所有権を中心とした価値的な基準と、皆さんの心が結合して、イエス・キリストが地上に残していかれた肉身を中心とした全体的な所有権の価値を全天上天下に現すべきです。そうできる一日が来るのを願うことが再臨思想だということを皆さんは知らなければなりません。 では、この地上に再臨主が来られ、成すべき使命は何か。終末のクリスチャンたちが成すべき最後の目的は何か。クリスチャンたちがいくら心から神様を所有し、皆さんが皆さん自身の心を所有したとしても、一つの条件が残っているが、それは体を自分のものとして所有できなかったことです。それゆえに、今の皆さんが体の所有権を全うして、神様の愛の実体、神様の本性を実証できる化身体として現れなければなりません。その様な存在がいつ現れるでしょうか。その様な存在を探す為に、イエス・キリストが来られたということを皆さんはわからなければなりません。 体の復帰と全体的な主管権復帰 そのために、イエス様が行かれた以降、この地上に聖霊を送られました。ゆえに皆さんは、イエス様が持たれた心の主管性と、神様の全体主管性と一つになり、自分の所有圏と神様の所有圏が一つになって現れることによって、自分の体が聖霊的な価値を現すべきです。ところが、霊の分離によって肉的な価値は現すことができなかったが、イエスの心的な部分と神様と一つになった聖霊が現れたということを皆さんは知らなければなりません。 それゆえに、4千年の歴史が何だったかというと、人間が持てる心の所有圏を、因習的な圏内から自然的な所有圏に転換させる為の歴史でした。このことはそんなに難しくありません。しかし、その認識を通し体で完結させて、その認識の価値を相対的な価値に現そうとすることが摂理路程にあっての難しさだということを知らなければなりません。 このためにイエス様自身は、33年の生涯を通して、神様を所有し、その心を所有したけれど、2千年歴史の中で、未だにサタンの讒訴圏から逃れていないのです。まだサタンの試験のない完全な立場に立っていないということです。いくらイエス様、聖霊だといっても、イエス様は霊界で、聖霊は肉界でサタンから讒訴されているのです。 これは、人間が肉的な圏で創造の三段階基準を越えられなかった過程が残っているからです。それでサタンが今日までイエス様と闘うことができる条件を持っているのであり、神様と聖霊との闘いの条件を提示することができるということを、皆さんはわかるべきです。さらに皆さんは、イエス様が30年余りの生涯を通して、心的な面においては神様を所有しましたが、肉的な面では所有できなかった故、今までも我々の体を神様が主管できないということもわからなければなりません。 今日の人間たちは、信仰路程において自分の体を打たねばならない立場におかれています。では、体を打つのは何のためなのか? 体を打つのはサタンを取り除こうということです。体を打つことによって、その体は聖霊に占領されるようになります。故に、我々が体を打つことは、結果的にはサタンを撃つことになるから、自分の体を撃つことによってサタンを打ち、サタンを打つことによってサタンに占領された体を聖霊が占領するようにしなければならないのです。それ故に、神様を所有することができ、本然の良心と体を所有することができるのです。そうなる時、そこから初めて、天上天下のすべての万物に代った、永遠不変の一つの所有圏を完結したといえる価値を取り戻すようになるのです。 したがって、その様な境地を探すことができなければ、皆さんは自分の体を打ったといえません。それを探してこそ、皆さんは情的面において全体的な基準を立てて、神様に代って栄光を受けることができるのです。この様な御意があったので、イエス様は亡くなられてから今までも役事しておられるし、聖霊も役事もあるのです。故に、霊肉を持ったすべての人であっても、サタン圏の中にいる人であっても、聖霊が占領できる日を望みつつ来られたのが、イエス以降の神様の悲しい2千年摂理歴史だったのです。 今はこの様な内容を持って、我々の過去を振り返ってみなければなりません。皆さんに神様を所有すべき権限が残っている限り、自分に残された所有権がある限り、主管主としておられるお父様の悲しみが残っています。したがって、 神様と被造世界が抱えているその悲しみは、皆さんが与えたものだということを考えると、今日皆さんは、自分の罪を悔い改めなければなりません。 自分が犯した罪を悔い改めることは、自分の心的な価値を探す為です。全体の主管主である神様を所有したといえる、その様な内容の悔い改めが必要です。 自分の罪を悔い改めなければならない理由 そして、今までの信徒たちは自分の体を打つ生活をしてきましたが、永遠にそうしてはいけないということを皆さんはわかるべきです。体を打つ目的は、その体が聖霊から占領されるようになって、神様の愛を受けようとするところにあります。こうせねばならぬ責任があるということを、今日のクリスチャンたちは忘却しています。2千年間にこれを忘却しています。肉の愛が度外視された中で、霊の愛が完全であるはずがないのです。 なぜなら、神様と心が一つになり、心と体が一つになれば、体は自然に動かされ、心と体が神様を中心にして完全に授受するところから発展するのが天理原則であるからです。相対的な基準を立てて、お互いに一つになり、良く授け良く受ける授受作用が成されるところでは、実証的な一つの実体が創造されるのが創造の法度であり、そうしてこそ完全なものです。 神様が万物を創造された原因が何かというと、神様御自身が喜ぶ為でした。人間の心と神様の心が一つになる、その関係性を果たす為の実践を成す時は、神様と一つになり、さらに地上の人間と一つになる基準が持たれた時なので、地上に天の摂理が新しく展開されるのです。したがって、今日皆さん一身においても、心と体が一つになって聖霊と因縁が結ばれた時、神様の勝利的な全体主管性を復帰しうるということを知るべきです。 今になってみると、神様の御旨に向かっていくには一つの方向だけではありませんでした。それは前後左右にあります。ところが、今日の人間にはサタンに向かった方向だけが残されています。故に、皆さんが 心と体を探そうとしても、心と体が縦的な面を備え、横的な面を備えようとしても、サタンが前後左右上下の6方向で暗闇の幕を張り巡らしているのです。ですから、今や皆さんはサタンの幕を壊して自分一身を立てて、「神様は永遠の私の所有である。私の心は神様の所有であり、私の体も神様の所有である。彼であり私、私であり彼」であるという価値を万物の前に現しうるようにならねばなりません。天上と地上で三位神が合同に探し求めている一つの実体が早く出なければならないのです。 この様な一つの価値的存在、聖霊と、イエス様と、神様が臨まれる一つの価値的存在が、この被造世界のどこにあるのか。この一つの存在が、神様が6千年間切なく所望された実体であり、探そうとされた復帰の理想の実体であることを皆さんは知るべきです。 神様が6千年間切なく探し求めこられた実体 それゆえに、その様な価値が地上に現れるなら、神様は彼に対していかなる条件の不備も許されません。サタンまでも神様までも、彼を引止めて慰めの涙を流すはずです。したがって、今日我々は、私という固体がいかなる環境におかれているかを知らねばなりません。皆さんは、全体的な責任圏内に立てられた自分自身を無視してはいけないし、その様な大きな責任を痛感すべきです。 皆さんが心から神様を所有したといえる時、永遠な中心として立てられる皆さん自体の心を所有するようになったのです。さらに、皆さんの体を、永遠な生命をなすことができる実体として完結して所有したとするならば、皆さんが東西南北どこへ行っても、その方向は問題ではありません。皆さん自体が留まるところがどこであれ、そこでは勝利のホサナの凱歌が上げられるでしょう。すべての被造万物が、「なるほど、あなたは栄光の神の子である」と言いながら、自然屈伏できる状況になるということです。これを皆さんは知るべきです。 しかし、今日その様なことが一部だけではなく、全体に現れなければなりません。ところが、まだ全体の主管権に代った人間として、原則的な所有の問題を全部終結して、その価値の栄光を備えて万物万象の前に現れた存在がなかったので、そのような一つの存在になることが、皆さんの所望として残っているのです。 この様な立場におかれた人間に対して、私も、あなたも、神様も悲しむのです。 今日我々が、その様な価値を持った立場で、万物万象、全体の代りになって、天の栄光を備えて、神様の御前にホサナの凱歌を返さねばなりません。そうする時初めて、天上にいる天君天使と千々万聖徒が、喜びのひととき、楽しみのひとときを迎えるようになり、さらに我々は、神様の御前に栄光をお返しするようになるのです。この様なことが完結されないと、このための道を人間たちは億兆万年にかけてでも行かねばならないのです。 今までそれを完結していません。では、それは誰の為にそうなったのか。勿論、私が不完全で、私自身が悪い為でもありますが、私よりも天に対して讒訴するサタンがあってその様になったということを知らねばなりません。 全体の主人、全体の主管主である一人がおられたとして、その方によって宇宙万象を主管することができたなら、彼が全体の復帰を完成できなかったとしてもかまわないのです。全体的な力を利用して集中的に新しいことをしうるということです。このように神様は、全体の歴史が一つの方向へと進むようにされました。しかしサタンがあったので完結できなかったのです。 それで、神様はサタンを無条件屈伏させる為、また完成せず霊界に行った天上の全霊人が完成のところまで行ける恵みを与える為、一人の方を送って下さることを約束しました。その方がイエス様なのです。 では、皆さんが神様の栄光を追及すべき立場に立っているのがわかった時、今自分が持つべきものは何なのか。元来、人間に対する天の 理想は天の所有権、心の所有権、体の所有権を持つことでした。故に、皆さんがそのような理想圏に入れなかったとすれば、皆さんは悪の所有権と善の所有権が区別できる目を持つ必要があることになります。さらに、そのような目を持ったとすれば、次は善の所有権と悪の所有権を分別して聞くことのできる耳を持つべきです。その様な五官を全部持つべきです。 皆さんの生活において、サタンの讒訴を防ぐことができる自分にならないと、皆さんは再臨主が来られてもわからなくなります。 分別できる信仰 皆さんたちは「再臨主」と言えば、すぐいい気になって喜びますが、いったい何がいいのですか? イエス様をイスラエル民族、即ちパリサイ人、祭司長たちは真の意味では見られませんでした。ローマ兵士が彼を見られなかったし、反対した人たちは彼を見ようとしても見られなかったのです。自分の心性で、心と体を通じて、全体に代った価値の基準が立てられた人だけがイエスを見たのです。見たり聞いたりするのは人間自身の心性による面があるのです。 それゆえに、皆さんは全人間の前に良き善の価値を持つべきです。ところで、体がそれを反対します。これがサタンの本質です。 では、隠れて現れない中で、人の知らない中で神様を所有した人、人の知らない中で本然の心を所有した人、この様な人がどこにいるのか。この様な人を探す人は永遠なる神様が共にいるでしょう。 それゆえに、今日我々がその様なところまで行けなかったとすれば、悪の主管圏と善の主管圏でも分別できるべきです。それらが心と体で分別できるべきであり、深く考えなくても分別できねばなりません。皆さんが神様の価値がわからないとすればイエス様とは何の関係もありません。だから、サタンのすべてが分別できねばならないのです。天上天下に残された悪のすべての主管的な要素が分別できる人でなければ、神様の御前で勝利的な完結条件を立てる ことができないのです。 もし皆さんがその様な条件を立てることができるならば、皆さんはこの地上で苦痛なしに生きられます。神様を所有した人として心はキリストに、体は聖霊に捕えられるようになるからです。 今までは心の世界に対する摂理過程であった故、体の苦痛が並存しました。体が苦しみを覚えました。心と体が分裂されたのです。 ところが、今はそれが一緒になって、霊界は肉界に、肉界は霊界に行って互いに合同して役事しています。さらに、聖父、聖母、聖霊が共に役事しています。ですから皆さんはこの様な時、イエスと聖霊の前だけではなく、神様の前で敬拝できる自分にならねばなりません。 さらに、皆さんが生涯を通して体恤的な信仰をするにおいて,分別的な原則の路程を歩み、万物万象の前で永遠を代身した不変の勝利者であると誇ることができる基準を立てるべきです。その様な基準を皆さんが立てないと、この地上に悲しみの条件が残ります。この悲しみの条件が残っている限り、天上に行っても神様の内的心情を探すのが難しくなります。故に、皆さんが心的なイエス、肉的な聖霊を通した生命体として、神様の栄光の実体として現れねばなりません。そうなる時初めて皆さんは信仰の実体になります。 ですから、皆さんが三位神の協助なしに栄光の自我を復帰したならば、この天地が運行する法度と同じく、喜びの心が皆さんのすべてを主管するようになります。その様な生活は瞬間的ではなく永遠のものにすべきです。そうして、「お父様が私のもの、主が私のもの、聖霊が私のもの、私も私のもの」と言いながら、万物の前に堂々と主管者として出なければなりません。天に対しても「ああ、お父様! 感謝します」と言えるべきです。 天地運勢の法度において相争う存在はありません。人間は創造主の全体理念を代身し、創造主の主管性が代身できる存在として立てられた故、心と体がある限り、この二つの関係からはずれては存在できません。それゆえに、皆さんがこの地上で,天上天下のすべての ものと関係を持つことができる主管世界をなす時こそ、主の栄光を現すことができるということを忘れてはいけません。 祈祷 愛するお父様、我々に残された運命の道がこんなに重畳山中、泰山峻嶺であるのに、今日我々が信じている範囲が余りにも小さかったということを知るものでございます。余りにも狭く、消極的に、不備なまま御旨の道を歩んできた我々であったことを、お父様の御前に告げざるを得ません。 お父様、今日この時間から、天倫の全摂理を担っていかれるお父様から主管されるように許諾して下さい。お父様の形状が見られるように、お父様、哀れみを許諾して下さり、イエスよ、聖霊よ、立てて下さい。地上の万物を代身するのに不足のない姿として、自然的に善悪が分別できる本然の実体として作って下さることを、私のお父様、切にお願い申し上げます。 今日夜集まったあなたの子女たち、お父様、もう自己という観念を忘れるように許諾して下さり、我々の体からサタンの所有権を除くように許諾して下さい。そうして、我々の心が神様だけを所有し、神様だけを呼び、神様だけを誇ることができる、万物に対する不変の個性体として復帰されるように導いて下さい。 そうして、我々がお父様に栄光をお返しするようになると、万物も和動し、天の千々万聖徒も和動して、一つの泣き声、一つの叫び、感謝、ハレルヤが天地に一律的に現れます。その時、サタンが自然屈伏したことを知るようになりますが、そのようにお父様、導いて下さい。 お父様の全体の主管性を我々の体で終結するように許諾して下さり、全体の代身として立てられた我々が、勝利のホサナの凱歌をお父様の御前で奏することができるように許諾して下さい。万物万象が和動する中で、天に代わった勝利の子女、許しの主人公たちになるように許諾して下さることを、お父様、切にお願いしつつ、すべてのことを主の御名を通して申し上げました。アーメン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.09
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1956年、1960年の文鮮明総裁・韓鶴子総裁の「聖婚式」を前にしての文総裁のみ言ですが、以下の中にはすでに「真の父母様」という概念があり、イエス様も本来は「真の父母」として来られたお方であったことが記されていました。あいにく使命途上で十字架に架かられましたが、その「真の父母」となることが出来なかった負債を返すために再臨を約束されていたものでした。私たち人類もそのイエス様を正しくお迎えすることが出来なかった負債を負ったものでした。背負った負債を返す者となろう1956年6月10日(日) 本部教会 祈祷 創造のお父様! あなたの美がすべての万物万象に現れており、あなたの御手が加わったものの上には奥妙なる美が満ち溢れています。 人間に対する創造の目的である美を、今日も休むことなく探しておられるお父様の切なく悲しい心を、私たちが心と体で体恤する事ができて、あなたの愛の御前に美を持ってお応えする事ができるように導いて下さい。 私たちの心が創造時の本然の心として現せるように導いて下さい。私たちの体を罪に染まることのない創造の直後の体として、その美を現せるようにせしめて下さり、私たちの心と体が神様の愛と心情の代わりとして、神様が動じるならば私たちも動じ、神様が静ずるならば私たちも静じることができる完全無欠な本然の姿として立てることができるよう導いて下さい。 これはお父様が今まで復帰摂理歴史を経ながら求めてこられた一つの標準であった事を知るようになります。 今私たちが探さなければならないのは私の心であり、成し遂げなければならないのは私の体でありますので、それを探して成すことのできるようにして下さい。そうしてお父様の本性の美に代わって敬拝を捧げることのできる一自体として立たせて下さい。お父様の御前に感謝と栄光の歌を捧げる事ができるように導いて下さり、これが苦労されるお父様の目的である事を私たちが身体の隅々まで感じる事ができるように導いて下さることを、お父様、切にお願い致します。 私たちは堕落の血統を引き継いだ故に、自分も知らない間に天を離れて自分を中心とする生活をするようになりましたし、天倫を離れ自分を中心として動く者となりましたので、これを直し、天倫に相対することのできる本然の心の叫びに導かれるように導いて下さり、本心の動きが私の体を刺激させて天が捕えることのできる、自分のものとできる本然の自我を探すように導いて下さい。そうして億兆蒼生の人間に対する嘆きを私たちが解いて、天地のすべての嘆きを解いて、お父様の御前に謙遜にひれ伏して敬拝を捧げる事ができる子女として立たしめて下さる事を、愛するお父様、切にお願い致します。 ここに集いしすべての子女たちを一人一人受けもって下さい。一週間の間この世と闘おうとした傷跡が残っていると思います。これらの心と体はお父様の御旨をすべて信じようとしていますが、サタンの罠によってサタンの供え物となった者たちがいるとすれば、お許し下さい。 そうしてこれらが受けた傷を癒す事ができるように導いて下さり、哀れみの愛で抱いて下さい。愛の油を注いで下さい。完全になるように導いて下さい。お父様、切にお願い致します。 この時間あなたの御前に捧げるべき(何の)供え物も持ち得なかったとしても、柔和謙遜な心だけでもあなた様の御前に捧げ、身体と心にはびこっているすべての罪を出して悔い改める事のできるこの時間となるように導いて下さい。あなたの御前にありのまま告白することのできるこの時間となるようにお許し下さい。尊厳なるお父様の愛が運行される力により自然に吸収されて、あなたと一つとなる和動の役事を心と体に感じることができるこの一時となるように導いて下さい。お父様、切にお願い致します。 今日ここに集いし数少ない群れを育てるために苦労されたお父様……今まで私たちが険しこを行くとき共に歩んで下さったし、頼る所なく心寂しい時友となって下さったし、闘う時に盾となって下さったのですが、それは私たちが優れているからなのではなく、お父様の隠れた愛の大きな光、大きな慰労が共にあったからであった事を知っておりますので、今日この生命をお受け下さい。 お父様! 願われることをこの時間愛として現して下さり、あなたが主張される願いを私たちが代わって敬拝して讃美を捧げることのできる恵みを与えて下さい。私のお父様、子供たちが四方に散らばり、ひれ伏しこの一所に向かって敬拝の祭壇を築いて天の御前に祈祷しておりますので、等しく恵みを与えて下さい。そして終りの日まで残ってしまったその任せられた使命を、与えられた場所で完遂することができるように導いて下さり、全体が和動の中心を慕うことのできるように導いて下さい。 3千万民衆の前に新しい一つの御旨を現わすことのできるように導いて下さり、刺激的な新しい衝動を起こして下さり、悪なる道へ行く時、善なる道へ導いて下さい。お父様の愛の御手を差し延べて下さり、愛の能力の役事を現して下さい。私のお父様、切にお願い致します。 集いし子女たちを一人も見捨てることなく、あなたの愛の懐に抱いて導かれた全体の主導的な役事を、彼らが同じ恵みとして感じることができるように役事をして下さい。愛するお父様、切にお願い致します。残った時間をお任せしますので主管して下さい。主の御名によって祈祷致しました。ア―メン。 罪の負債と苦労の負債を背負っている人間 本来神様は天地万物を創造される時には、負債を負えという原則を立てていません。お互いに与えて受けることができて、あなたの物であり、同時に私の物である、二つの姿となっているが、一つの実証体として人間と一体の関係を結ぼうとされたことが神様の創造目的でした。 このような目的で創造されたアダム・エバが神様の御旨を果たせないで、堕落することによって、それ以後今日までの人類は天の御前に無限な負債を背負った者となりました。堕落によって余地なく離れた人間をして再び負債を返すことのできる道を立てて下さるために、代表的な一人の存在として送られて来た御方が誰かと言えば、即ちイエス・キリストなのです。それで私たちはイエス・キリストを通した歴史的過程を経ながら、負債を返す生活をしています。またこのような生涯を通して私たちは永生を願い進んでいるのです。 皆さん一人が全宇宙の前に立てられる事ができる資格があると思っていますが、皆さんの一身には、皆さんが知らない間に数千年歴史を通して堕落の血統を受けた罪の負債が残っているのを知らなければなりません。 また私たちにはその罪の負債の他に、神様が私たち人間に対して摂理された苦労の負債が残っており、その他に数多くの預言者・聖者たち、あるいは天使天軍たちが復帰摂理を歩んできた苦労の負債が残っていることを知らなければなりません。 このようなことを考える時、今日私自身には天倫の御前に背負った負債を返そうとしても返すことができず、体面を立てようとしても立てることのできない人間であることがわかるようになります。それでこのような人間の体面を立てて天倫の前に立てるために、私たちを代表して立てられた御方が即ちイエス・キリストであります。 永生の負債、生涯の負債、愛の負債、因縁の負債 私たちは生まれた時から神様を中心として永遠なる生命を持たなければならない人間でした。父母を通して生まれた時から神様の愛を代身しなければならない存在でありました。また夫婦を中心として父母を代身した愛を持つべき存在でありました。万物とも愛の因縁を結ばなければならない人間でありました。 ところがそのような人間になれないために人間は神様に対しては永生の負債を背負うようになったし、父母に対しては生涯の負債を背負うようになったし、夫婦にあっては愛の負債を背負うようになったし、万物に対しては因縁の負債を背負うようになったことを皆さんは知らなければならないのです。 神様が天地万物を造られた後、その万物の主人公としてアダム・エバを立てた目的はどこにあったかと言えば、人に永遠なる責任を与えるためであったのでした。だから私たちには永遠に愛さなければならない責任が与えられていました。即ち、アダム・エバが神様の御旨に従えなくてサタンの懐に引っ張られることによって、永遠なる神様の愛を中心とする生命の負債が、今日私たち各自に止どまるようになりました。 また父母を中心として生まれた後、父母様が生涯を通して愛して下さり、心配して下さる負債を背負っています。夫婦を中心として生活的に成し遂げなければならない神様の愛に対する負債も背負っています。万物に対する自然が与えてくれた愛の負債も背負っています。 これを考えれば、神様には永遠なる愛の負債を、父母には生涯の負債を、夫婦にあっては生涯を中心とする愛の負債を、万物に対しては時間の生活での背負った愛の因縁の負債を背負った者たちが、即ち今日私たち一人一人であるという事を知らなければならないのです。 皆さんは万物の主人公として天の御前に体面を守る事ができる者とならなければならないのです。人間は天への永遠なる負債、父母に対する生涯の負債、夫婦に対する愛の負債、万物に対する生活の負債等を持っているのですが、万物は人間がこのすべての負債を返すことを沈黙の中で要求している事を皆さんは悟らなければならないのです。 人間の負債に代わって返しに来られたイエス様 ところが人間の能力ではその負債を返そうとしても返す事ができないし、清算しようとしても清算できないのです。それでそのような立場にいる人間たちをして永遠なる天の御前に立つことができるように、即ち永遠なる父母を代身して天の御前に立つことができ、永遠なる夫婦を代身して天の御前に立つことができ、永遠なる万物の愛を代身して天の御前に立つことのできる一つの中心存在として立てられた方が誰かと言えば、イエス・キリストでありました。 イエス・キリストが来られることを通して永遠なる神様の愛が現れるようになったのでした。天が人間たちに願われた愛の実績が現れるようになりました。永遠なる父母を代身する愛の実体として現れた方がイエス様でした。また永遠なる夫婦を代身した愛の実体として現れた方もイエス様でした。万物の愛と永遠なる因縁を結んで来た存在も即ちイエス様でした。そのためにイエス様の一身には4千年という長い長い歴史が続いており、更に永遠なる未来まで続いていたというのです。 人間が堕落によって永遠なる神様の御前に背負うようになった負債と、永遠なる真の父母様の御前に背負うようになった負債と、悪から侵犯されていない善なる万物の前に背負うようになった因縁の負債を返すためにイエス様が来られましたが、すべて返すことができずに行かれました。それで今私たちはイエス様が残して行かれたその負債をすべて清算しなければならないのです。 イエス様を中心にして万物との因縁から、夫婦の因縁と父母の因縁と永遠なる神様との因縁を結ばなければならないのです。そのようにできなければ、私たちのために来られたイエス・キリストの降臨目的は、また再び未完成の段階に止どまるということを皆さんは知らなければならないのです。 歴史過程を一つ一つ見る時、イエス様が来られるまでは時代的に万物崇拝時代でありました。万物を神様の代わりに信じて、万物を神様の代わりにした時代でした。その次には人間がすべての物よりも自分たちの息子・娘に全力を注ぎ傾けました。 このように万物崇拝時代を経て、子女を崇拝する時代を経た後に、新郎・新婦を崇拝する時代に入ったのですが、今は新郎・新婦を崇拝する時代も過ぎ行きつつあります。 それでは今残る時代が何かと言うならば、父母を崇拝する時代です。父母をより一層に崇拝することのできる時代が必ず現れなければならないというのです。だから今私たちは私たちの体と神様との関係を結ばなければならないのです。私一人がイエス様と一つとなる立場に入って行き、今日のこの微妙なすべての自然現象を眺めて、神様の生命の因縁から外れない、直感的な生活をしなければならないのです。 照り付ける太陽とか吹いてくる風などすべて万物たちと私たちは、神様の永遠なる生命の脈搏にとって代わる関係を結ばなければならないのです。 今までなんとも感じないような私たちでしたが、イエス様を中心として生活していけば、新しい物を感じることができ、万物と新しい心情の因縁を結ぶことができるのです。また神様の所有原則を中心とした因縁を結ぶことができるのです。 その後には万物と喜びを授受することができると同時に、神様の愛の圏内に引っ張られていくことができ、またその愛が私の心に引っ張られて来ることができる生活をするようになります。皆さんがこのような深い恵みの立場に入って、天の御前に立つようになる時には、どのような万物とも囁くことができるのです。 風の音やその他の存在するすべての万物中、どのような存在も人間との因縁を結んでいないものはないのです。そのために人間のために創造されたすべての万物は、人間と結ばれた因縁の価値を人間の前に現して、人間の前に認められるための存在であると見ることができるのです。 万物に対する負債を返そうとするならば ところが今日私たちは堕落圏内にあるために、この万物の価値を認めてあげられない立場にいます。それ故今日皆さんが神様から来る新しい愛を感じるようになる時、万物も新しい生命を感じることができることを皆さんが悟って、どのような万物を掴まえても最高の生命の基準を立てることのできる生活をしなければならないのです。皆さん一人(だけ)でも天の無限なる愛を歌うことができるようにならなければならないのです。この様な人になれば、私たちは拘束を受けない(自由な)気持ちに成るでしょう。 そのようになるならば、万物が私たちによって活動することができるので、私一人がどこにいても平和でありえるのです。これはどのような力もせき止めることはできません。神様はこの一つの基準を創造の目的として立てられて、その目的を成し遂げる代身者として人間を立てられたし、人間をして万物を主管させるようにしたのですが、今日人間はその万物の前に体面を立てられない悲しい立場に立っています。 そのためにロマ書八章にある御言と同様に、万物が私たちに対して望むところは、神様の息子たちが現れることです。なぜかと言えば本来の神様の愛を代身する人間を仲保として神様と通じるようにならなければならない万物が、人間が腐敗して堕落することを通してその万物の理想体がなくなってしまったためです。それ故イエス様が行かれた後、2千年歴史が経過する今日にあっても、万物はそれらに対する一つの目的が私たち人間たちによって成し遂げられるのを待ち焦がれているということを知らなければならないのです。 これを考える時、私たちは自分も知らない内に万物の前に負債を負っている事実を知ることができます。万物が要求する希望の負債を負っているのです。 今私自身がこの希望の負債を清算しなければならないのです。万物と一つとなることができる資格者となると同時に、万物が愛することのできる、万物が尽くして上げることのできる神様の息子・娘とならなければならないのです。更に神様の息子・娘となって神様の愛を受けなければならない私たちであるのです。 愛の負債を返す事ができる資格者 イエス様と聖霊は今日皆さんを新しく産み出す役事をしています。そうして人間はイエス様と聖霊の要素を受け、どこを標準にして歩んでいるかと言うならば、子女の立場を経て、新郎・新婦の立場を標準にして歩んでいます。私たちは今日イエス様を信じて恵みを受けて聖霊の感動を受けてその力によって歩んでいます。 ところで今日私自身にあって成し遂げるべき事は何なのか。イエス様の恵みがなくても、聖霊の感動がなくても私自身がイエス様の恵みを受けた代わりに、聖霊の感動を受けた代わりに、一つの新婦体として完成しなければならないのです。 これは今日キリスト教で実現できないでいます。今日私たちまでも聖霊が働く時だけ新婦としての愛を感じています。私たちは今聖霊の働きを通して子女として成長したので、聖霊の役事を受けなくてもイエス様を新郎として慕う心を持ち、実際できなければならないのです。万一聖霊の協助を受け続けなければならないならば、皆さんが地上で夫婦の愛に対して負債を返す道理が無くなるのです。 そのために私一人を通して、聖霊の感動を受けられなくてもイエス様を新郎として迎え侍る事ができる新婦の位置まで上がって行ってこそ、私たちが天倫の前に本然の位置として立たされた夫婦、その夫婦の愛の負債を返すことのできる資格者となることができることを、皆さんは知らなければなりません。 堕落して落ちた人間が復帰摂理を通して万物から子女の立場を経て、新郎・新婦の立場まで復帰された後には何をすべきなのか? その次には私たちの生涯を責任持って愛して下さった真の父母様の愛と因縁を結べなかったために、神様が創造の意味で立てられたその真の父母の愛の負債を私たちが蕩減しなければならないのです。神様が立てられた真の父母が私の一生を心配して下さる、そのような天倫的な愛の負債を皆さんが霊と肉を合わせて返せなければならないのです。 言いかえれば、私たちがイエス・キリストを通して万物から子女の立場を経て、新郎・新婦に復帰した後には何を求めなければならなのか? 真の父母を求めなければならないのです。ところが今日全世界人類はそれをわからないでいます。堕落した父母であるので、この真の父母が何時現れるのかをわからないでいます。真の父母は再臨時期に現れます。 真の父母に対する負債を返さなければならない時 キリスト教では新郎・新婦の理念を通して子羊の祝宴をすると言います。それではこの子羊の祝宴の中心存在である新郎・新婦はどのような人たちなのか? 地上で真の父母の愛と因縁を結んだ人たちであります。 それでは私は真の父母を迎え侍り、真の父母の愛を受けるために何を知らなければならないのか? 今までイエス・キリストの2千年摂理歴史を知らなければならないのです。 イエス・キリストは全宇宙と全人類に代わってこの地上に来られて、人類が背負った負債を蕩減するための役事を今までして来られました。そのために皆さんが万物の位置を経て、新郎・新婦の位置まで経た後、イエス様を中心にして真の父母に迎え侍ることのできる一時を迎えなければならないのです。そうして真の父母に侍る使命を完結してこそ、永遠なる神様を代身する真の父母の愛を地上に現わすことができ、またその時にイエス様の使命が初めて終わるというのです。イエス様は霊的な世界で復帰摂理の目的がこの地上の万物の中で実体的に成されることを願われたのです。そのために今日復活されたイエス様を信じる聖徒たちがイエス様が返さなければならない新郎・新婦の負債を返すと同時に、地上でイエス様が達成しなければならなかったその真の父母の目的を達成して、神様の御前に万民に代わって復帰の祈祷を捧げることができるその一日をこの地で迎えることができなければ、私たちは神様の永遠なる愛の負債を返す道理がないのです。 そのためにイエス様も2千年の間負債者の立場にありました。真の父母の御旨をすべて完遂できないことによって、背負ったこの負債を全万民に代わって返さなければならない責任が残っていたためでした。ところがその責任は霊的責任で終わるものではありません。霊肉を合わせた堕落しない本然のアダムとエバの位置を復帰して、神様の永遠なる生命を中心にして万物万象の中で永遠なる神様の愛を歌い、敬拝を捧げることができる真の父母に代わる家庭を成し遂げてこそ、イエス・キリストの2千年歴史路程の目的が終結するのです。 この一つの目的を成し遂げることを願って、イエス様は2千年間神様の御前に切なる心情を持って望んで来られました。そうして天地万物を創造された神様の本然の世界を探すことのできる第一基準を完結しようとしました。 堕落しなかったならば、真の父母の愛を原点として、夫婦そして子女と万物にまで因縁を結ぶことができました。ところが人間が堕落したために反対方向に逆に上がって行く摂理をされるのです。そうすることによって万物と子女と夫婦が因縁を結び、真の父母として現れるイエス様を中心として新郎・新婦の基準を中心として、万民すべてが真の父母の御言に応じて神様の御前に現れる事ができるその世界がキリスト教でいう無窮世です。 今や再臨歴史時期にいる私たちは、イエス様の2千年苦労のすべてを受けなければなりません。2千年間イエス様が苦労なさったその歴史の全部を私が代身できるという決意を持たなければならないのです。この様な決意を持ってこそ、初めて真の父母の前に背負った愛の負債を返した子女の位置に立つことができます。そして神様に代わって万物を主管する一つの中心存在となる事ができます。そうなれば、皆さんによってエデンの園でアダムとエバを造った後、祝福された天の御旨が完結し終えるのです。 また皆さんは神様の愛を中心として真の父母から背負った負債を返して、真の夫婦の負債を返して、真の万物の負債を返した後、神様に対する時、皆さんの心と体が神様の御前に出て行かざるを得ない自分たちとなるようになります。神様に対して感謝の敬拝を捧げないではいられないという私とならなければならないのです。考える前に行なう事のできる私となって、要求する前に目的を現すことのできる私とならなければならないのです。 神様に対する負債を返そうとするならば そのためにはどのようにしなければならないのか? 天地の運勢は天から父母、父母から夫婦、夫婦から万物まで回っています。したがって皆さんはこのすべての段階と因縁を結んで出て行ける存在とならなければならないのです。このような存在となってこそ、神様の御前に立つことができ、「お父様!」と呼べる存在となれるのです。そのような立場に立っているのが直接主管圏の世界であります。そのような立場に現れて、神様に相対できる位置まで私たちは上がって行かなければならないのです。 そのためには2千年間イエス様が霊界で戦って、聖霊が地で戦ったことを、今日私たちが受け継いで今まで背負った負債を返すことをもって、真の父母の代わりの立場で万物に対することができ、この地にいるサタンに対して戦い打ち負かすことができるようになるのです。 このような私となる時、永遠なる神様が堕落した人類に対して復帰摂理をしながら、心配され嘆かれたその心を解怨できると同時に、私自身が初めてサタンによって、「これは神様の愛を受けることができる者です」と言われる立場に立つようになるというのです。このような創造的存在が現れることによって永遠なる神様の愛が共にあるということを皆さんは知らなければならないのです。 それ故私たちは重大な使命があります。今日信仰生活を通して皆さんは私に関係あった、すべての環境の中で負債を返さなければならないのです。したがって生活の中で私がそれに相応しい負債を返す生活をしているのかを自ら検討しなければならないのです。 今日皆さんが信仰生活をするのにも、永遠なる神様の負債と父母の負債と夫婦の負債、そして万物の負債と関係を結んでいます。皆さんはこのすべての負債を蕩減する時代と因縁あるため、皆さんがどのような心を持たなければならないかを考えなければならないのです。 私たちが堕落した直後には、神様の御前に立とうとしても立つことができない、神様に相対しようとしても相対することのできない人間でありました。神様が人間に対して恨もうとすれば、限りなく恨むことができましたし、嘆き憎もうとすれば限り無く嘆き憎むことができました。このように私たちは堕落の負債もありますが、歴史過程のすべての怨恨の負債も背負っているのです。 私たちが忍ばなければならない原因がどこにあるのか? 今日私たちが耐えて忍ばなければならない原因がどこにあるのか? 私たちが耐えないならば、私たちが背負った負債を返すことができず、天が抱いて忍んできた恨みを解くことができないためです。 天地の運勢は神様の摂理と一緒に回るために、皆さんは神様が歌う時共に歌うことができ、神様の欝憤と憤慨に対して応援するなら、サタン世界は審判を受けるというのです。今日信仰路程を行く私たちに対して天が柔和謙遜で怒ることなく、耐えて堪えなさいというこのようなすべての教えが、皆そのような理由のためです。 したがって私たちがそこに同じ歩調を合わせられずに、神様の摂理との間に隙間が生ずるようになるなら、サタンが入るのです。そのために今日私たち信仰者は無条件に犠牲となり、無条件に従順となり、愛の内的な部分だけに従って進まなければならないのです。 私たち人間は神様の宇宙的な天倫法度を破綻させた破綻者として、また負債者として万物の前に恥ずかしい生活をして来ましたし、天の御前に心配を掛ける生活をして来ました。そのために信仰生活をする夫婦は主を代身することができる夫婦とならなければならないのです。そして尚一層神様とイエス様を代身して、地を代身して私の一生に父母を迎え、お世話する関係を結ばなければならないのです。 このような関係を結んで天を代身して真の父母、真の夫婦、真の万物に対することのできる関係を、私たちが平面的にでも立体的にでも成さなければならないのです。この様になって神様の御前に、「私は遂に勝利しました。アバ、父よ! 私は私の生涯を捧げ、人類が今まで6千年間サタンを神様の代わりとして従い、サタンから言うに言えない試みを受けて来たこのすべての関係をすべて退けました。そして私は全宇宙の負債をすべて返して、サタンを完全に克服させて完成した子女である」と言える存在とならなければならないのです。 このようになってこそ、私たちに止どまっている天倫の負債を返した者として、天と全宇宙の前に面目を立てることができることを皆さんは知らなければなりません。 祈祷 お父様! 私たちは堕落した世界で生きながら万物に対し負債者の生活をしており、家庭の夫婦同志であっても、互いに互いが負債者であることを私たちは知りませんでした。父母にも負債者の立場にいることを知らなかったし、永遠なる神様の御前にも言葉にならない大きな負債を持っている私たちであることを知りませんでした。 堕落世界から見て死んで当然の負債を負った私たちであったし、万物にも負債を負っており、新郎・新婦の理念を立てたイエス・キリストにも負債をおっている私たちでありました。永遠なる神様の愛に代わって負債を返さなければならない私たちであるのですが、背負った負債を返すことを知らず、私一人を中心として、心配して嘆き、地を呪い、万物を呪い、天を呪った私たちでありました。どの一部分も許すことのできない私たちでありました。 この様な人間を再び立てるために、イエス様は死の道も顧みるず戦われ、十字架に掛かられたのでした。天倫に絡んだ負債を返すため2千年の戦いがそれによって今まで終結されないまま、「審判」という名詞が残るようになりました。 お父様! 審判の峠を私たちが越えることができるように、今までの複雑な歴史過程で背負った負債をすべて清算することのできる者となれるように導いて下さい。負債をみな返しても残ることができる者となってこそ、永遠なる父の御前に立つことができるということを知らしめて下さい。 真の父母の負債を返し、真の夫婦の負債を返し、真の万物の負債を返す者としてサタンの条件をまぬがれ、お父様の愛への負債、お父様が願われる生命への負債を返すことができる生活に一日も早く導いて下さい。お父様、切にお願い致します。 イエス様もこの一つの道のために今まで苦労されたことを、お父様、悟れるようになさしめて下さい。イエス様と聖霊は霊界で万民のために絶え間なく祈っておられますが、これは私たちが未だ天倫の前に背負った負債を蕩減できないためであり、またはこれは私たちがあまりにも不備で、不完全であるためであるのを忘れないようになさしめ下さい。 イエス様と聖霊がお父様が喜び得る栄光の席に立とうとすれば、私たちがイエス様の責任を代身しなければならないのを、お父様、私たちがこの時間知りましたので、天からの役事が地上で成され、天でのサタンとの戦いが地上の私たちを通して勝利へ導かれるようになさしめて下さい。そうして永遠なる父の愛を喜びと栄光に感じるあなたの永遠の子女となるように導いて下さることを切にお願い致します。 そうしてお父様の前にも、イエス様と聖霊の前にも、数多くの預言者・聖者たちの前にも、地上の人類の前にも万物の前においても恥かしくないお父様の愛する子女として、万物を堂々と主管できるお父様の真の息子・娘として立てて下さることを、愛するお父様切にお願い申し上げます。 この者たちによって負債を返すことができるように、お父様、主管して下さるように切にお願いしながら、すべての言葉を主の御名によってお祈り致しました。ア―メン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.09
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1999年1月8日、「ジャルジン第七宣言ー真の祝福天宙化とサタン血統根絶完成解放宣布」を宣布されました。具体的には、2000年9月に霊界の文興進様に「祝福権委譲」がされて以降、霊界の霊人たちの祝福の門が開かれるようになりました。天一国経典・真の父母経 - 第10篇 - 第3章 - 第2節 サンバウロ宣言とジャルジン(Jardim)宣言ジャルジン第七宣言ー真の祝福天宙化とサタン血統根絶完成解放宣布真の父母様は、一九九九年一月八日、ウルグアイのブン夕・デル・エステにおいて、「真の祝福天宙化とサタン血統根絶完成解放宣布式」を挙行され、「この宣布は、天宙的四・四節である」と語られた。また、この宣布をジャルジン第七宣言であると語られた。「ジャルジン第七宣言」の要旨地上天国を建設しようとすれば、天上に恨をもった霊が一人もいてはいけない。特に未婚の霊たち、結婚できなかった人々、あまりにも幼くして死んだ 人々も祝福してあげなければならない。その霊人たちもみな、成長するための教育を受けるようになる。幼い時に死んだとしても、成長したあとに教育を受け て、未婚の青年男女として祝福を受けられる恵沢を受け、その次に、地獄の殺人鬼までも、聖人たちと共に祝福が受けられる門を開いてあげたのである。(※「天一国摂理史--ジャルジン第六宣言ー総霊界霊人解放式(1998.10.05)」参照)22 一九九九年一月八日、午前七時半を越え、八時に向かう四・四数の立場で、「四・四節」とともに家庭と国と全世界が天国に入ることのできる解放的起源を備え、真の祝福天宙化とサタン血統根絶完成解放宣布式をすることによって、全天宙がこれを認識し、それによって地獄や善なる霊人たちの前を塞いでいた塀を崩し、完全に解放いたしました。ですから、光明の天国を眺める地上の蕩減路程を早く解消し、本然の基準において真の父母がこの地上にいる間、地上に来て共に侍って暮らしたという条件を残すことによって、完全解放圏を備え、すべてが天国行きの祝福を受ける家庭の群れになれるようにお許しくださることを切にお願 い申し上げます。この時間、この式典を、(天の)お父様、喜んでお受けくださることを切に願い、望みながら、このことに同行し、成就して、宣布してくださるようにお願い申し上げます。アーヂュ、アーヂュ、アーヂュ!23 霊界にいるすべての先祖たちを解放してあげなければなりません。サタンも解放してあげなければなりません。皆さんが祝福してあげた百六十家庭が、カイン圏の一族になるので、彼らを自分の一族と連結させて、献納式をしなければならないのです。総生畜献納式をすれば、その基盤の上で百二十代の先祖(現在は430代の先祖)を祝福してあ げることができます。そして、百二十代の先祖と共に、百二十代の王と大統領たちを祝福することによって、その国民と息子と王が主流に対して横的に傍系の皇 族圏になるのです。彼ら全体を祝福することができるよう、解放してあげなければなりません。百二十家庭は、イエス様がイスラエル圏の国を中心として解放してあげようと したものですが、霊界でそれをすべて解放してあげなければなりません。キリスト教圏をすべて解放してあげなければならないのです。真の父母の時代なので、 百二十代さえするようになれば、自動的に統一天下圏に越えていきます。百二十代をすれば、天国に入るのです。これを、真の父母と神様が許諾します。24 神様は、「地獄の門を開いて、殺人鬼まで祝福してあげなさい」と言うことはできません。神様もそれをしないのです。ところがお父様は、大胆にも地獄の門を開き、「天国に早く来なさい」と言うのです。死んだ人々の中で、統一教会に反対していた人々に対しても霊肉結婚(霊肉界祝福結婚)をさせ、地上で三日式 (三日行事)までさせました。霊肉祝福一体圏を形成して三日式までするようになったので、地上で結婚もできずに霊界に行っている哀魂(哀しみをもった霊人)たちと、年齢が十六歳以上のすべての人たちまで解放してあげるのです。その人々まで祝福してあげます。ですから、地獄の門を開き、霊界に行ったすべての人々を祝福してあげることによって、神様の血族的権限を認定するのです。それゆえ、サタンは完全に 後退せざるを得ません。これは革命です。堕落によって死んだすべての霊人たちが天国に行ける環境をつくっておいたのです。すべての先祖たちが祝福を受けた 圏内で霊界に入ることのできる環境をつくり、天国に行ける高速道路を造っておいたのです。そのような基盤をすべて蕩減復帰したということです。神様が造られた霊界には、堕落した人間が住むようにはなっていません。その霊界では、完成した祝福家庭たちだけが暮らすことができるのです。アダムが完成したのちに生活する天国のような環境です。ですから、神様が全権をもって、世の中のすべての小さな所から大きな所まで、思いどおりにできるのです。 祝福を受ければ、「真の祝福天宙化とサタン血統根絶」が成就します。打ち砕くのです。あらゆる地上の一族が天国に向かう、出エジプトのような地上世界の出 発が始まります。モーセが八十歳で出エジプトしたのと同じように、これからは真の父母、家庭王として、世界、地球星の出発をするのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.08
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統一家の分裂に関しての新着動画(2021.01.08付)です。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.08
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第 5-2講. 聖婚式と真の父母様の顕現 II動画の下にある字幕ボタンを押すと、字幕を見ることができます。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.07
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2021.01.06
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2021.01.05
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統一しようとする神様の愛の御旨をなそう1956年6月6日(水) 本部教会 預言者たちを立て摂理される神様の希望 アダムの堕落によって神様の御旨が成せなかったため、今日まで歴史路程を経ながら復帰摂理は反復されています。 神様と人間が一つの御旨を中心として、一つの愛に和合して住み、全天地が神様の愛を喜びながら、その愛を実際の生命の中心として立てた中で、全部が一つになって生きることが神様の創造本然の御旨でありました。ところがアダムとエバが堕落することによって神様の愛は神様の愛だけに止どまるようになってしまいました。即ち、人間と関係を結ばなければならない神様の愛は、人間と関係を結べず、人間から去るようになり、全被造世界から去るようになりました。 それで神様は御自身が立たせようとするその愛を中心にして全万物を糾合して、神様と万物が共に喜ぶことのできるその一日を求めながら、今まで6千年歴史を経て来られました。しかし未だ神様の愛を中心にして全被造万象が一つに統一できないまま、その神様の理念は理念のまま残っており、求めなければならない希望の愛もそのまま残っているのであります。それで神様のその御旨を必ず成し遂げるために今まで摂理して来られているのです。 このように神様は人間堕落以後、今までどの時代をおいても神様の希望を成して、人間に対して信じることができる心と、愛することができる一つの心を訪ねるために、長い間摂理して来られたのですが、未だそれらを成せないで、探せないで来られたのであります。 私たち天の摂理歴史を回顧して見るならば、神様はアブラハム一人を立てて、人間に対する希望と、人間に対する理想と、人間に対する愛の変わらない基準を立てようとされたのを知ることができます。このような神様の御旨が成し遂げられる日が来てこそ、そういう愛の中心が立つ日が来てこそ、神様と人間と関係が結ばれるようになるし、その結ばれた関係の土台によって神様は新しい理想の喜びを享受できるので、アブラハムを選び立てたのであります。ところがアブラハムが愛の中心を立てられないことによって、神様はそれ以後イエス様の時代に至るまで、天の愛の御旨を立てるための足場を築いて来られたのです。 そのためにイエス様までの4千年歴史は、全体摂理の御旨の前にあって、神様の希望と信仰と愛を成した一つの実証的な存在を立てなければならない期間でありました。そういう存在を立てられないならば、神様の希望と信仰と愛は、各自各々分離してどの一時期にも統一を見ることができない歴史として綴られたので、神様はまず希望の基盤を築かれました。そうしてその希望の上に信仰の希望を築き、その信仰の基盤の上に愛の基盤を築かれようとしたのです。そうして後にはこのすべてのものを結実した一つの化身体、即ち全体の希望の実証的自体、全体の信仰の実証的自体、全体の愛の実証的自体を天地の前に押し立てることができる日を迎えようとされたのです。ところが万一そういう日を迎えられないとしたら、神様の愛を中心に統一の理念はこの地上に成就できなくなるのです。 その日を立てるために神様は、アブラハムから始めてモーゼを経て、洗礼ヨハネに至るまで4千年摂理歴史を三段階に分けて、希望の基盤を築きながら苦労して来られたのです。そういう希望の基盤の上に一つの実体として現れた方が誰だったかと言えば、即ちイエス・キリストでありました。イエス・キリストは神様が4千年の間希望された一つの実体として現れた存在だったために、神様が4千年間希望を目指して摂理して来られた総合実体でした。 それならばイエス様がそのような結実体としてこの地上に来られて蒔かれたものが何かと言えば、それは信義の時代で立てられた新約の福音、即ち信仰の福音でありました。その後この信仰の福音を中心にして今日まで2千年の歴史が経過しました。 それならばその信仰の福音が結実した基盤の上に天地を代身して、全体の愛の実体として現れる一つの存在が誰かと言えば、それが即ち来たるべき再臨主ということを皆さんは知らなければいけないのです。それでは神様は再臨時代に何をしようとされるのか? 来られる再臨主を中心に今まで築かれて来た信仰の基盤の上に、一つの生命の種を蒔いて結実するようにすることが神様の6千年摂理歴史の目的であることを、皆さんは知られなければならないのです。 成約時代の中心要素 今日私たちは神様を自分たちの希望の主人公として見つめており、信仰の主人公として見つめています。また私たちの愛の主人公として見つめています。この希望と信仰と愛の主人公であられた神様は、人間をして歴史の過程で希望を代身する旧約時代、信仰を代身する新約時代を経るようにされたので、これからは愛を中心とする成約時代を経なければならないのです。 それでは今そういう成約時代即ち再臨時代にあって、永遠不変の一つの中心要素として残れるものは何なのか? それは神様の愛であります。それは全体の中心要素であると同時に、全体の理想の要素にもなる のです。 そのために今まで人間たちはこの愛のため、希望の摂理路程と信仰の摂理路程を経て来ました。しかし今愛の摂理路程を皆さん一人一人が歩かないならば、神様がこの地上に愛を中心として成さなければならない統一の基盤は崩壊してしまう事実を皆さんが知らなければならないのです。 希望の基盤の上に信仰の中心として現れたイエス・キリストは、この地上に信仰を立てるための御言を語られました。万一こういうイエス・キリストをその当時の人間たちが信仰の実体として受け入れたならば、即ちイエス様を神様の4千年摂理歴史の希望の結実体、永遠無窮なる信仰路程にあっての信仰の中心存在、また永遠なる神様の愛を証しして統合させることのできる一つの実体として侍るならば、その当時の人間たちはイエス様一人によって永遠無窮なる神様の希望を持つことができたであろうし、永遠無窮なる神様の信仰を持つことができたであろうし、永遠無窮なる本然の愛を体恤することができたのであります。 ところがユダヤ民族の不信でイエス・キリストが亡くなられることによって、今日私たちは信仰路程で霊的な希望の実体だけを完成するようになり、霊的な信仰の実体を完成するようになり、霊的な愛の実体だけを完成するようになったのであります。 それでは神様の愛の勝利の基準は何であるか? 天上天下のどんな存在物でも神様の愛を中心として動いています。ところがその神様の愛の化身として来られたイエス・キリストが亡くなられることによって、そのすべての願いが崩れてしまったのです。 イエス様は神様が4千年間苦労を伴う希望の存在であり、万物の主人公として来られ、神様と一体となるのを願ったものがアダムとエバの堕落によって壊れました。それでイエス・キリストを中心にして神様の理念と一つとなり、霊肉合わせた信仰の実体として現れなければならなかったのに、霊的な面だけ完結してしまいました。 そのために今日私たちは、今イエス様が残して行かれた遺業を 継承して成就しなければならないのです。イエス様の一身の霊肉を備えた一つの希望の実体となることと同様に、私がそういう人となって彼を代身することができなければならないし、またイエス様が信仰の実体だったのと同様に、私がそういう人となって彼を代身することができなければならないのです。また愛を中心とした一つの実体であったのと同様に、私がそういう人とならなければならないのです。そうして神様の御前に立ってイエス様の希望と信仰と愛を代身して出て、聖霊の希望の実体として、聖霊の信仰の実体として、聖霊の愛の実体としてその使命を代身しなければならないのです。 これがイエス様が来られ行かれた以後、今日この地上の人間たちがお父様の御前に成さなければならない使命だというのです。したがって私たちがその使命を完遂しようとする時、イエス様の希望の終結を、聖霊の希望の終結を見ることができます。更にイエス様の信仰と聖霊の信仰、イエス様の愛と聖霊の愛の終結を見ることができます。そうして皆さんがそのすべてのことを終結することのできるその日を成し遂げてこそ、この地上に再臨主が現れることができるというのです。 神様の信仰・希望・愛の実体とならなければならない人間 神様の希望は神様自体のものではなく、人間のための希望でありました。神様の信仰も神様のものではなく、人間のための信仰でした。また神様の愛も神様自身のための愛ではなく、人間のための愛だったのであります。そのために人間がそういう神様の希望を代身して、信仰を代身して、愛を代身できなければならないのです。その時にそういう人間自身を全体の希望、全体の信仰、全体の愛を代身する存在として神様が万物万象の前に誇ることができるのです。言いかえれば、彼自身をこのすべての万物が願う希望の中心体だと誇ることができるのです。また全被造万物即ち、天地にあるどんな存在物でも信じて生きることができる主人公として誇ることができるのです。のみならずすべての存在が愛することのできる一つの敬慕の中心体として誇ることができるのです。イエス・キリストが神様の愛を代身する仲保的な化身として現れたのと同様に、今日私たちはイエス・キリストの希望と信仰と愛を受け、この地上にどんな悪い人の前にも一つの希望の実証体、信仰の実証体、愛の実証体として現れなければならないのです。 そういう存在とならないならば、そのどこへ行ってもイエス・キリストの希望の基準、信仰の基準、愛の基準を蕩減する条件を成立させることができないのです。そのために今日私たちは、このサタン世界の前に神様の希望、神様の信仰、神様の愛の実体として現れたイエス・キリストに応えなければならないのです。 ところでイエス・キリストの部分的な希望に対して応えるのではなくして、イエス・キリストの部分的な信仰に対して応えるのではなくして、イエス・キリストの部分的な愛に対して応えるのではなくして、全体に対して応えなければならないのです。人間たちは今までその一つの基準をこの地上に探し出してそれに応えようとしましたが、全体に対して応えて差し上げることができませんでした。しかしイエス様は3弟子を通じてそういう家庭形を現そうとされたことを皆さんは知らなければならないのです。 それでは信仰の結実体として現れた人は誰だったのだろうか? これはペテロでした。また希望の結実体として現れた人は誰だったのだろうか? これはヤコブでした。そして愛の結実体として現れた人は誰だったのだろうか? これはヨハネでした。 この3人がキリストの福音の一部分一部分を責任持って一つになって進むことによって、今日私が希望の結実を譲り受けることができ、信仰の結実を譲り受けることができ、愛の結実を譲り受けることができるようになって、また摂理歴史はそのようになるのを願いながら流れて来たのです。そのために3人が一つになって一つの完成体として完結し終えることが最後の道であります。これが、キリストがこの地上に残された最後の教えだったのです。 だから今日皆さんが最後の完成者として現れるためには、キリストの代身体とならなければならないのです。ところが万一皆さんがキリストの3弟子を根とした一つの不変の実体として立てないならば、三弟子を立てて行かれた新郎になられるイエス様の御前に、出ることができないようになります。これを考える時、今日私たちはペテロを立てようとされたその信仰の希望を私自身で成し遂げて差し上げなくてはならないのです。ヤコブを立てようとされた希望の実りを私自身で成し遂げなければならないのです。ヨハネを立てようとされた愛の実りを私自身で刈り取らなければならないのです。 このような皆さん自身となるならば、即ち皆さんが終りの日のイエス様の御前に立つことのできる一人の新婦となるならば、皆さんは神様が6千年間悲しまれた希望の願いが自分自身で結実された喜びを感じるようになって、お父様の御前に感謝をお返しできるようになるでしょう。 更に皆さんは神様が今まで6千年間願って来られたその信仰の希望が、イエス様の愛を中心として成し遂げられたという、すべての万象を代身して成し遂げられたというその喜びの事実を現さなければなりません。そして神様が喜び愛する中でその愛の喜びを感じて、お父様の御前に感謝することのできる皆さんとならなければならないのです。このことが今日皆さんに歴史的な責任として残っていることを知らなければなりません。 摂理が要求するもの それでは皆さん自身が「アバ父よ」と呼びながら、希望の結実を持たなければならない、信仰の結実を持たなければならない時、愛の結実を持たなければならない時となったのですが、今皆さんに要求することは何か? 神様が6千年間希望を抱いて切なく思われたその切なさを感じとれなければなりません。または6千年間信仰を立てるために苦労されたその苦労を感じとれなければならないし、6千年の間神様が愛を成すために犠牲の路程を繰り返して来られたその事実を感じとれなければならないのです。 イエス様一身において、神様の4千年の希望の結実を代身する実践的な路程を立てたものが信仰の摂理であって、その信仰を代身する実践的な路程に立てられたものが何かと言えば、神霊の歴史でした。またその次には愛を代身する実践的な路程が見せてくれたものが何かと言えば、統一の歴史でありました。このようにイエス様は希望を持って摂理の道を立てたし、神霊を持ってここに種を蒔いて繁殖させたし、その繁殖したことなどを一つにまとめようとされた のです。 したがって今皆さんは神様の愛、イエス様の愛、聖霊の愛を実現しなければならないのです。そしてイエス様の希望が神様の希望として変化する時が再臨時代であり、イエス様の信仰が神様の信仰として変化する時代が再臨時代であり、イエス様の愛が神様の愛として蒔かれる時が再臨時代であることを皆さんは知らなければならないのです。 イエス様の希望の結実、イエス様の信仰の結実、イエス様の愛の結実が皆さん自身の中で結ばれていなかったということであれば、皆さんはまた再び神様の新しい希望の中心を探し立てなければならないし、神様の新しい信仰の中心を探さなければならないし、神様の新しい愛の中心を探さなければならないのです。これが皆さんに与えられた課題であります。 それではそれらを探すために皆さんはどのようにしなければならないのか? 皆さん自身がイエス様の希望を成して、聖霊の希望を引き継いで、イエス様と聖霊の信仰を引き継いで、イエス様と聖霊の愛を引き継がなければならないのです。そうして、「お父様、聖霊の苦労がわかりました。聖霊の希望がわかりました。聖霊の信じて来られた歴史(役事)がわかりました。イエス・キリストの希望がわかりました。イエス・キリストの信仰がわかりました。イエス・キリストの愛がわかりました」と言えるようにならなければなりません。このように言いながら、お父様の御前に出て行くことができるその一つの存在が、今日この地上に現れなければならないということを皆さんは知らなければならないのです。 それならばその一つの存在はどういう存在なのか? その一つの存在が持っている希望はキリストの希望であり、信仰はキリストの信仰であり、愛はキリストの愛であります。ところでその一つの存在がこれらを神様的な希望と神様的な信仰と神様的な愛で終結される時に、初めて神様はイエス・キリストの希望として残されたその目的を終結し終えて御旨を立てることができます。したがってその一つの存在は神様のイエス・キリストが祈られた歴史、イエス・キリストが今まで私たちのために神様の右側で立って祈られたそういう歴史を越えなければならないし、更に霊肉を持つ完成体として天の御前に立て得るようにならなくてはならないのです。またそういう存在が私と天の喜びをキリストを通して体恤するようになる時、初めて神様と人間が 一つになれるのです。そんな位置まで上がって行かなければならないことを私たちは知らなければならないのです。 そのために今日私たちは、神様が4千年間苦労して立てられたキリストの心情、またキリスト以後2千年間苦労して立てようとされた再臨主の心情まで体恤しなければならないのです。そして今日私たちにはイエス・キリストが霊的な完成の立場を越えて、肉的に完結しなければならない希望の実体を完結できず、信仰の実体を完結できず、また愛の実体を完結できないために、その実体を完結しなければならない責任があるというのです。 再臨主は信仰・希望・愛の代表者 イエス・キリストの愛を中心として来られるところの再臨主を立てて、神様と繋がることのできる関係を結ばなければならないのです。 それでは、今日私たちはこのためにどのようにしなければならないのか? 実証的な希望の実体として現れなければならないし、信仰の実体として現れなければならないし、愛の実体として現れなければならないのです。そんな皆さんの基盤の上に再臨主が来られたならば、神様がイエス・キリストを立てられて願われたその希望が皆さん自身を通して決定するのです。そのためにその再臨主は私全体の希望として現れて、私全体の信仰として現れて、私全体の愛として現れるというのです。 ところで再臨主がそのような愛として、希望として、信仰として現れるようになる時、皆さんは皆さん一人で喜ぶだけではいけないのです。その喜び、希望の喜びがその方によってなのですから、その方に感謝しなければならないのです。私が信仰の実体に立ったその事実に対して感謝しなければならないのです。そうする時、全天地が皆さんに和合して、皆さんを愛の実体として対することのできるようになるのです。このように全天地が動く感じを皆さんは持たなければならないのです。 そういう感じの中で皆さんは、神様がイエス・キリストに対して希望されたことを、希望を代身する実践の路程を通して開拓しなければならないのです。 また信仰を代身する心霊的な歴史(役事)を開拓しなければならないのです。更に愛を代身した侍る生活を実践して、統一の歴史(役事)を成して、すべての万民が栄光に侍って差し上げることができる人々とならなくてはならないのです。 そのために最後の神様の愛を成し遂げるには実践的な希望、心霊的な信仰、心霊的な愛をすべて備えなければならないのです。その時私たちは主に侍り、永遠に生きることができ、神様に侍って永遠に生きることができるのです。 そして今日の私自身は天の喜びに満ち溢れて、地上の万物の前に喜びに満ち溢れ、地上の人間の前に喜びに満ち溢れていなければならないのです。そうしてその一つの喜びを全世界が統一するように感じながら、永遠に生きることができる時代を皆さんが建設しなければならないのです。 そうして皆さんがいる所隅々まで、そこは神様の希望の実践的な場となって、信仰的な場となって、愛の化身的な場とならなければならないでしょう。そうして神様が希望した御旨を地上で成し遂げて、神様がイエス様を通じて成し遂げようとした希望が、私たちから成し遂げられるようになって地上の万物に結ばれなければならないのです。また神様の喜びが人間を通して万物にまで結ばれる時、初めて神様が願った統一の歴史が成立されるのです。 そのために今日皆さんは、自分が神様の御前に希望の存在として立つためには、まず天上天下のすべての万物を代身して希望の結実体として喜んでいたかを自問自答してみなければなりません。また皆さんは、今まで地上の多くの人間が天を信じてきたその信仰の全体を代身して喜ぶことができる存在となったか? 更に神様から愛を受け、愛するその愛の感じを感じることができる存在となったか反問してみなければならないのです。 ところがそのすべての完結体として来られる一人の存在が誰かと言えば、即ち再臨主なのです。即ち、その再臨主は全体の希望、全体の信仰、全体の愛を代表して現れる方だというのです。ところでその方が現れるようになる時、皆さんは彼を迎える準備ができていてこそ、彼の希望と彼の心霊的な信仰と彼の愛を所有することができるのです。またその時皆さんは、 神様の御旨を成すために行くまいとしても行かずにはおられないし、行わないでおこうとしても行わざるを得ないのです。そのために皆さんは今日この地の堕落圏内で生きている人間たちの感情を超越した希望の化身として、信仰の実体として、愛の実体として現れなければならないのです。万一このような存在がこの地にいるならば、再臨主はそのような存在を訪ねて来られるのです。 それならばそういう存在を求めて来られる目的は何であるか? イエス・キリストが残した使命、肉的に完結しなければならない使命のために尋ねて来られるのであります。6千年前から神様が希望される霊肉を中心としたその御旨を成し遂げようと尋ねて来られるのです。 したがってそういう御旨を条件として手本となれる隠れた存在がこの地上に現れるようになる時、どんな存在であっても彼を希望の存在として、信仰の存在として、愛の存在として侍ることができなければなりません。愛を中心としてこそ統一の理念が成された一つの世界は希望を越え、信仰も越えた世界なのです。だから今皆様には、愛を中心とした自分の生活に天上天下が和合できる日を成し遂げなければならない重大な責任があるのです。 再臨主の実践的な基盤 たとえ再臨主がこの地上に来られると言っても、人間の実践的な基盤がなければなりません。たとえ永遠なる神様の愛を代身した存在だと言っても、人間即ち皆さんの基盤がなくてはならないのです。このような重大な責任が皆さんにあるのです。したがって今日皆さん一人は24億人類に代わって、今まで天上にいる億兆の先祖たちを代身していることを知らなければなりません。更に私一自身は天地のすべての存在物が希望する存在であり、全天地は私一自身が信仰の個体、愛の実証的な個体となることを願っているのです。 だから今皆さんはそんな心を感じ取って、食べても飢えても生きても死んでも、その日常生活にあって全体の中心を証して保護して差し上げなければならないのです。そうして自然万物を通して神様の御前に栄光を帰し得る、このような歴史(役事)まで皆さんがやらなければならないのです。このような重大な責任を 今日皆さんは背負っているのです。 それでは皆さんたちの過去の信仰生活を振り返って見る時、希望を成したと言って証しできる自分となっているか? 信仰を成したと言って証しできる自分となっているか? 愛を成したと言って証しできる自分となっているかということが問題です。 そんな皆さんになる時、イエス・キリストの希望が、イエス・キリストの信仰が、イエス・キリストの愛が皆さんに神様の希望として、信仰として、愛として体恤されるようになるのです。したがって今皆さんはイエス・キリストを通じて残された神様の希望を、残された信仰を、残された愛を感じることができなければならないのです。 そのような感じを感じる人がいるとすれば、彼は神様の直接的な恵みを受けている人です。またその様な人は、神様の希望を現すまいと思っても現さないではおられない、神様の信仰を現わすまいと思っても現さないではおられない、神様の愛を現すまいと思っても現さないではいられないのです。万一皆さんがそういう存在となるならば、皆さんがどこへ行っても神様の希望を分け与えることができ、どこへ行っても神様の信仰を分け与えることができて、どこへ行っても神様の愛を分け与えることができるのです。 また皆さんがそのようにしてこそ、来られる再臨主を地上で神様の代身としてお迎えできることを、皆さんは肝に銘じなければならないでしょう。 祈祷 愛するお父様、天倫の隠された御旨の世界が成らなかったことがすべて神様に責任あると思ってましたが、人間の堕落によって私たちにもあることを知りました。 神様の永遠なる希望が残っている限り、今日私たちにも永遠なる希望が残っており、神様の永遠なる信仰の願いが残っている限り、今日私たちにも永遠なる信仰の願いが残っており、神様の永遠なる愛の実践が成し遂げられない限り、今日私にも永遠なる愛の実体を成さなければならない責任が残っていることを知りました。 この一日に蕩減的な歴史を継承するために、私たちは4千年希望を継承して6千年の希望として、4千年の信仰を継承して6千年の信仰として、 4千年の愛を継承して6千年の愛として現さなければならないのです。神様の御前に立って6千年の希望を永遠なる希望として、6千年の信仰を永遠なる信仰として、6千年の愛を永遠なる愛として立てるべき責任が私たちに残されていますから、この日の私たちの至らなさと不足さをお許し下さい。この日の私たちの不忠さと不孝さを許し、私自身を高く立てていたことをお許し下さい。 今万民の希望を結実しなければならない時になりましたし、万民の信仰を結実しなければならない時になりましたし、万民の愛を一つの実体として現さなければならない時になりましたが、その一つの実体がいずこに結実されておりますか? 取るに足りない私たちでありますが、新しい新婦として正装しなければならない自分たちであることがわかるように悟らしめて下さい。 その時内的な面で完結を成し遂げられたイエス・キリストの苦労の歴史が、外的な私たちを通して結実されることができるのであり、再臨理想が実践されることができるのであり、外的な歴史を展開できることを知っております。 今日天地の中心的な役割を担当すべき人が誰かといえば、終末の再臨歴史を前においている聖徒たちだということを知っています。お父様はそのような人々に永遠なるお父様の希望を任せようと願っておられますが、彼らがその希望を受け持つ者となっているか、永遠なるお父様の信仰を任せようとされていますが、その信仰を受け持てる者となったか、永遠なる神様の愛を任せようとしましたが、その愛を受け持つ者となったのか、それが心配なのです。 そのすべてのものを主の代わりに受け持って、お父様の御前に永遠に変わらない姿でお父様の愛に属した人になる事を通じて、今は永遠なる希望の種族となった者として立たなければならないのです。永遠なる信仰の種族となった者として立たなければならないし、永遠なる愛の種族となった者として立たなければならないのです。このような責任が私たちに分担されている事をわかるようになさしめて下さい。 選ばれたイスラエルの一つの勝利的な中心実体としておられるイエス・キリストの目的を、今日私たち一人一人で成して、即ち全体を代身する希望の実体を備えて、信仰の実体を備えて、愛の実体を備えなければならないのです。今再臨歴史以後には、キリストがこの地上に来られて行なわれたそのすべてのものを代身する、即ちイエス・キリストの希望の実体として立たなければ ならないのであり、信仰の後継者たちとならなければならないのですから、これをはっきりわかるようになさしめて下さい。 今堕落の峠を越えなければならない復帰過程にある私たちが、「お父様の希望に責任持ちます。お父様の信仰に責任持ちます。お父様の愛に責任持ちます」ということができなければならないし、その希望、信仰、愛を、お父様の御前にお返しできなければならないし、更に万民の前に不変の愛を中心として立たなければならないのです。そうしてお父様の御前に愛される事のできる勝利的な存在となってこそ、終末に最後の栄光を代身する事のできる資格者であることを知っておりますので、今日ここに集まった子女たち、どうぞお父様が、「お前は私の希望の存在であり、私の信じる事のできる者であり、私が愛するできる者」という事のできる姿となるように導いて下さい。 更に天上天下すべての万物の前に宣布して、判定の恵みを受けて和動の一つの条件を立てる事ができる勝利の子女たちとなるように導いて下さることを、お父様、切にお願い致します。 そのためにお父様の喜びがこの地の喜びとして置きかえられ、お父様の愛がこの地の愛として置き換えられて、お父様の希望と信仰がこの地の希望と信仰として置き換えられなければならないのです。再臨理想を迎え受けながら、平面的な喜びをお父様の御前に置き換える事ができるように導いて下さり、お父様の願いが地を中心とする私たちによって成就されることのできる栄光を、全被造世界に現すことのできるように導いて下さい。 私たちの生活を通して生涯を通して、モーゼの栄光を称えることができなければならないし、モーゼの愛によって私たちすべてが一つとなれるよう導いて下さい。そうして24億人類を全部すべて合わせて霊界にいる千々万聖徒たちまで合わせてこそ、一つ誇りを誇ることは神様の御旨を成就することであることを知っていますので、その成し遂げたすべての希望、成し遂げたすべての信仰、成し遂げたすべての愛を永遠に誇ることのできる条件として、天地の中心の中で立てる事のできるようお導き下さることを切にお願いしながら、すべての御言を主の御名によってお捧げ致します。アーメン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.04
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「天一国摂理史--成約時代の出発宣布(1993.01.03) 」続き。天一国経典・真の父母経 - 第12篇 - 第3章 - 第1節 成約時代の宣布と氏族メシヤ活動の強化「真の父母と成約時代」宣布の背景 真の父母様は、一九九三年一月三日、ソウルの青坡洞二街の前本部教会で、「摂理史的 回顧と成約時代」というみ言を通し、新約時代の完成と成約時代の出発を宣布された。そして、一月十日、アメリカのベルベディア修練所でも、第二次世界大戦 直後の七年期間の失敗によって再び出発した、一九五二年から一九九二年までの四十年間の再蕩減路程を勝利した基盤の上に、初めて成約時代が出発したと宣言 された。続いて、一九九三年四月十日を期して、世界百六十ヵ国に「真の父母と成約時代」というテーマのみ言を一斉に宣布することを指示された。1 旧約時代は希望を見つめながら実践してきた時代であり、新約時代は信仰を求めて実践してきた時代です。したがって、これから訪れる成約時代は、愛を求めて 実践していく時代です。希望を探し出すための摂理時代だった旧約時代には、割礼を通して選民の条件を立ててきたのであり、新約時代には、水の洗礼と火(聖霊)の洗礼を通して神様のみ前に信仰を立ててきました。その次の成約時代には、神様の愛の印を押してもらうことによって、神様と愛の縁を結んでいくことが できるというのです。2 旧約時代は僕の時代であり、新約時代は養子の時代です。統一教会が主張するのは、成約時代です。新約時代には、養子となって息子の位置に上がっていってこそ、父母に出会うことができます。しかし、成約時代には、養子ではなく直系の子女になるのです。養子は血統が違います。父母と(血縁的)関係はありません。ただ、一つの目的をもって、すなわち養父母としての父と、養子としての息子になるという目的をもって、父子関係を結ぶのです。したがって、息子がいな いために養子を迎えるようになるとき、養子としての息子が入ってきても、養父の願っている目的と一致しなければ、養子として選ぶことができません。しかし、直系の子女になれば、そのような目的も必要ありません。直系の子女は、生まれながらにして、父はこちらに行き、息子はあちらに行ったとしても、分かれることは全くないというのです。どの道を行っても、その道が悪いと感じれば、二人で一緒に良い所を求めていけばよいのです。そのようになってい ます。それが養子と違うのです。養子はある一時を中心として会うのであり、直系の子女は父子の関係の中で、永遠を中心として会うのです。ですから、養子は 血統的関係においても、血統が違います。血統は、歴史の起源から歴史の果てまでつながっていくのです。数千万代が流れても、数千万代前の血統をすべてもっているのです。3 復帰摂理を見るとき、成約時代は新約時代を完成しなければならず、新約時代は旧約時代を完成しなければなりません。旧約時代にみ旨を完成できなかったこと によって、そのみ旨が新約時代に移ってきたのであり、新約時代にみ旨を完成できなかったことによって、そのみ旨が成約時代に移ってきました。このような点 で、成約時代は歴史的なすべての使命を果たさなければならない時代なのです。4 旧約時代までは物質の時代、新約時代は息子の時代、成約時代は父母の時代です。家庭には父母が入り、息子も入り、万物も入ります。このように見るとき、蘇生は物質、長成は子女、完成は父母です。家庭を中心として、父母と息子、娘と万物があります。神様がアダムとエバのために、エデンの園に天地万物を造って くださいました。これを取り戻すために、六千年間、僕や養子というものを立てて摂理してきたのです。旧約時代までは僕の僕、僕の時代です。僕の僕は万物よりも劣るものとして扱うのです。新約時代は養子の時代です。息子を立てて役事していたのがイエ ス様の時代です。成約時代は、父母が苦労する時代です。ですから、祭物を捧げるに当たって、旧約時代までは物質をもって祭物を捧げ、新約時代は息子を祭物として捧げ、成約時代には父母を祭物として捧げるのです。成約時代は、父母が蕩減しなければなりません。5 旧約時代までは、万物を復帰するための世界的な条件を立てておく時代であり、新約時代は、世界の万民を復帰するための基盤を世界的に築く時代であり、成約時代は、世界を一つの主権で統一するための時代です。このように、使命分担があるというのです。主権を復帰しようとすれば、その国土を思いどおりにできるようにしなければならず、民を思いどおりにできるようにしなければなりません。その次に、 民と一つになる位置で、神様に代わって立たなければなりません。それが主権復帰です。国土と民、言い換えれば万物と人が、神様に代わる一組の父母を中心と して、完全に一つになったその場が、天の国を代表する地上の主権だというのです。神様が求めていく主権とは何でしょうか。その主権は、この世の中の主権ではありません。旧約時代までは万物を復帰する時代、新約時代は子女を復帰する時代、成約時代は父母を復帰する時代です。国家と世界を見てみると、旧約時代までは万 物である地、すなわち国土復帰時代に該当します。新約時代は国民復帰時代に該当します。成約時代は主権復帰時代に該当するのです。6 お母様が「真の父母と成約時代」というみ言を発表したのですが、成約時代とはどのような時でしょうか。神様が生活を始めるということです。愛の生活を始めるというのです。神様の創造の役事は、まだ終わっていません。創造理想とは、愛の理想を完成することです。つまり、四位基台の完成、人間の責任分担の完成を意味するのですが、神様と人間の愛を中心として生活できなかったので、それをこれから歴史時代に新しく始めるというのです。神様を中心として生活を始めるというのは、神様の家庭が出発するということです。それで、人間と神様が愛を中心として一つになり、家庭が出発するの ですが、私たちの家庭だけが出発するのではありません。天の国の家庭出発とともに、並行していかなければなりません。その世界は、神様の全権時代です。で すから、このような真の父母の理念を宣布し、成約時代を宣布することによって、サタン世界はその下に入るようになります。7 神様は、私(お母様)の夫を選ばれて、韓国のキリスト教徒に新しい真理のみ言を伝えるようにされました。しかし、キリスト教界の指導者たちは、当時、一介のみすぼらしい青年にすぎなかった私の夫が、そのような新しい真理を伝えるように選ばれたかもしれない、という可能性を黙殺してしまいました。新約時代は旧約時代の延長なので、当時のユダヤ人たちがイエス様の顕現を不信したように、韓国のキリスト教の指導者たちも、再臨主が人の姿で地上に 生まれたという事実を信じることができなかったのです。もしその当時、キリスト教が夫と一つになっていたならば、地上世界はもちろん、天上世界においてま でも天国ができあがったはずです。一九四五年から五二年までの七年間に、神様の摂理に従って全世界が一つに統一されていたでしょう。しかし、その当時、宗教指導者たちは、夫に盲目的に反対しました。神様は、キリスト教を育てて発展させ、再臨主のための道を整えさせるために、アメ リカのようなキリスト教絶対権の国家を育成しました。彼らがたとえ悟れなかったとしても、その当時、韓国の牧師たちは、全世界のキリスト教を代表する位置 に立っていました。しかし、第二次世界大戦後、アメリカと世界のキリスト教が夫と一つになれなかったので、アメリカとキリスト教はその時から下り坂に差し掛かり始め、道徳的権威も失墜し始めたのです。第二次世界大戦後、アメリカとキリスト教は、カインとアベルが一つになった勝利的な基台の上に立ち、再臨主を迎える機が熟していました。しかし、彼 らは再臨主を迎えることに失敗し、それに同調して、世界が夫の活動に反対しました。それで、夫は荒野へと追い出され、どん底まで追い落とされましたが、再 び上がってきたのです。(真のお母様 1993.10.04、韓国ソウル)8 キリスト教文化を根として立てられたアメリカを新約時代に例えれば、(それまでの)韓国は旧約時代に例えることができます。ですから、最初の二十年間、夫 は韓国において、イスラエル国家の立場と同じ韓国と、ユダヤ教の立場と同じ統一教会を中心として、旧約時代を蕩減する路程を歩みました。この基台の上で、 私たちは一九六〇年に、国家的な次元で真の父母の聖婚式を成し遂げました。その後、一九七一年に、私(お母様)は夫と共にアメリカに渡りました。そうして、過去二十年間、私たちは、アメリカで新約時代を完成し、成約時代を 出発するための蕩減路程を歩みました。その結果、神様を中心とした真の愛、真の生命、真の血統の根源となる真の父母の家庭を探して立てることができたので す。(真のお母様 1993.10.04、韓国ソウル)9 今日、復帰摂理歴史の転換点において、真の母の位置にいる女性は、真の父を迎えることのできる基盤を造成しなければなりません。キリスト教が新郎を迎えることができなかったあと、神様の摂理は四十年延長し、一九九二年まで来ました。この期間、私(お母様)は失った世界的新約時代を探し立てるために、韓国、 イギリス、アメリカ、フランス、日本、ドイツ、イタリアを一つにしようと祈りながら、努力してきました。そうして、一九九二年四月、夫と「世界平和女性連合」を創設し、世界的に女性時代の到来を宣布しました。その基盤の上に、一九九二年の一年間、私は 真の母の心情で、先に列拳した七ヵ国はもちろん、ロシアと中国、オセアニアまで訪ねていき、そこの女性たちを動員して「世界平和女性連合」の支部を創設し ました。このようなことを中心として、第二次世界大戦の時から、カインとアベルの関係で分かれていた国々が真の母を迎え、戦後に失っていた新婦の基台を復帰し、真の父を迎えることのできる基盤ができました。このように、勝利した世界的な基盤の上で、真の父母になったことを初めて宣布したのです。(真のお母様 1993.10.04、韓国ソウル)10 新約時代は、再臨主を迎えることによって終わります。新約時代に再臨主が顕現され、家庭、氏族、民族、国家を七年間で収拾すれば、その時から成約時代で す。再臨主が来て、地において、世界的な版図圏の基盤の上で、失ったアダム家庭型を清算し、定着して出発する時が、約束を成就する成約時代だというのです。荒野に追い出されてこれを失ってしまったのに、その成約時代がどうしてやって来るのでしょうか。ですから、仕方なく旧約時代と新約時代にイスラエルが準備した新婦圏を、アメリカが代表するようになったのです。したがって、アメリカがこれを逃してしまえば、旧約時代と新約時代を放棄しなければなりません。そのようにすれば成約時代の基盤が崩れてしまいます。旧約時代、新約時代の基盤を中心に、そ れを条件として残さなければ、蕩減できる基盤がなくなるからです。ですから、アメリカをアベルの位置に再び立てたのです。11 成約時代は、霊肉を中心とした時代なので、霊を中心とした新約時代それ自体では、成約時代に越えていくことができません。この時代に来られる方が再臨主で す。この時、キリスト教が世界的にあらゆる蕩減をして再臨主と一つになれば、成約時代にそのまま越えていくのですが、一つになることができなければ、再蕩 減が展開されるのです。言い換えれば、基盤が崩れれば、崩れたこの基盤を代わりに築かなければ、定着して立ち上がることができないというのです。それでは、メシヤがメシヤとして登場しようとすれば、第一に何をしなければならないのでしょうか。新約時代の霊的な事実を完全に引き継がなければなりません。洗礼ヨハネからイエス様が洗礼を受けたのと同様に、霊的世界であるキリスト教が今日の世界的な舞台まで備えているので、それを霊的にイエス様か ら引き継がなければならないというのです。再臨主が霊的な引き継ぎをするとき、そのまま受けるのではありません。その方は、すべてに勝たなければなりませ ん。サタンに勝たなければならず、霊界にいる大勢の霊人たちがすべて自然屈伏する基盤を築かなければならないのです。そのような最高の勝利基盤の上に立ってこそ、引き継ぐことができます。第二に、霊的に引き継いだものを、地上で実体として完成しなければなりません。旧約時代に完成されなければならない摂理が新約時代まで延長されてき て、いまだに霊肉ともの完成が成し遂げられていないので、成約時代を出発するためには、これをすべて霊的に蕩減復帰しなければなりません。そのようにしな ければ、成約時代に越えていくことはできないのです。言い換えれば、イエス様が霊肉共に成し遂げようとしたすべてのことを、再臨主が再び蕩減してあげなけ れば、成約時代の出発をすることができないという結論が出るのです。12 メシヤは真の父母です。偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統、偽りの良心の基準で出発した歴史を清算するためには、真の父母が出てきて本然の完成したアダ ム、すなわち神様と一致できる理想的な男性を中心として、失った母と息子、娘を連結させなければなりません。第二次世界大戦終結直後、エバ、母の代表国家のイギリスとアベルの代表国家のアメリカ、そして、カインの代表国家のフランスを中心として、キリスト 教文化圏が統一天下を成就したのですが、その時にお父様と一つにならなければなりませんでした。お父様と一つになっていれば、共産圏は出てきません。これ を四十年で蕩減復帰するのです。新婦圏を失ったので、お母様を中心としてアベル国家のアメリカを収拾しなければなりません。お父様の妻は、世界を代表した真の母にならなければなりません。そのためには、失ったイギリスを取り戻さなければならず、失ったアメリカを取り戻さ なければならず、失ったフランスを取り戻さなければならないのです。失った連合国の基盤、統一世界の新婦圏の基盤を取り戻さなければなりません。それで、 世界と闘って平定し、世界的勝利の基盤を築いて、その上にお母様を立て、「真の父母と成約時代」を発表したのです。偽りの父母が、「成約」ではなく約束の失敗、約束を成し遂げられない「破約」時代に導いたので、そこから神様と真の父母を中心として、初めて破約ではなく、成約時代に入っていくのです。「真の父母と成約時代」です。創造理想の約束の上に、世界的版図でこれを宣布したのです。13 真の父母が定着することによって、女性解放とともに、「真の父母と成約時代の到来」を宣布しました。キリスト教文化圏が新婦として立つことができなかった ので、お母様が再び女性を束ねて、一九九二年にお母様の大宣布運動を展開したのです。それが女性解放運動です。お母様が解放を宣布し、「真の父母と成約時代」を発表したので、もはやサタン世界は終わるのです。家庭を収拾し、国を収拾できる所は、統一教会しかありません。真の父母様の家庭の伝統を新たに編成することによって、真の氏族、真の民族、真の国家、真の世界、真の天地、真の天の国が成し遂げられるというのです。このように、公式的な発展をしていくのです。14 統一教会で言う「真の父母と成約時代」とは、転換期を意味します。それで理想的家庭編成、理想的氏族編成をしようとするので、家庭連合が出てこなければな りません。統一教会の祝福は、長成期完成級で天の側の天使長(の立場の者)が結婚することです。このようにして完成圏を越えてこそ、直接主管圏であるアダ ム家庭に入っていくのです。それで、お父様も一九六〇年を中心として、長成期完成級を通って完成期に越えていく過程で、世界的迫害時代を迎えたのです。その迫害時代を越えて定 着しなければなりません。本来、一九五二年には定着しなければならないのですが、延長して一九九二年に、お母様を中心とした女性時代を発表し、女性解放と ともに、新たに父母様が同じ位置で天のみ前に立てるようになりました。女性解放をしなければ、アダム解放圏を備えることができません。アダムとエバの愛を中心として、失ってしまったアダム家庭の夫婦の基準を立てるまでは、すべてが兄弟です。神様の子女の位置を備えた基盤を通して、新たに理想的家庭を編成して越えていかなければなりません。15 お父様は、すべてを実践してから教えてあげます。今ではもうすべて成し遂げたので、第二次世界大戦直後の統一的な世界と失った新婦圏を再び収拾するために お母様を立て、一九九二年の「世界平和女性連合」の創設とともに、一年間活動してきました。お父様が一生の間に蕩減した内容を、一年間ですべて伝授してあ げ、お母様を同じ位置に立てて、キリスト教文化圏の相続というものを蕩減復帰するのです。このように、解放された本然の位置に立つことによって、神様も解放され、父母様も解放され、万民も解放され、新約時代全体が完成するようになったので、これから成約時代を出発することができるのです。16 再臨の時までは再臨主一人で来ましたが、再臨主がこの地に定着することによって、数万人の氏族メシヤを横的に配置しました。したがって、これを取り除ける 悪魔の勢力はありません。既に完成した立場で、長成期完成級を超越した完成期完成級ですべて配置したので、これから統一天下が現れるようになっています。 これをどこに行って定着させなければならないのでしょうか。家庭に帰って定着させなければなりません。これが重要な内容なので、「統班撃破」という言葉を 中心として、家庭教会活動を教示してきたのです。女性たちを立てて、これを再び整備しています。公式的な基準、最後のプログラムを各家庭に適用させ、家庭で失ったエバとカインとアベルを取り戻し、 種として植えるのです。そうすることによって、本然的な故郷で善なる支派の族長になり、先祖になります。その世界は、サタンと関係のない世界であり、そこ から地上天国が顕現するのです。成約時代における氏族メシヤの責任 真の父母様は、成約時代の宣布とともに、全世界的に救援歴史を締めくくるため、氏族 メシヤ活動を本格化することを指示された。氏族メシヤは、家庭を復帰し、さらには氏族と民族、そして、国家を復帰すべき使命を帯びた人々であると明かさ れ、先頭に立って真の父母様を世の中に知らせることを強調されたのである。17 これから世界的に、すべて還故郷しなければなりません。氏族メシヤを配置したというのは、父母が地上に着陸したということです。新約時代に来られる主は一 人です。この一人の主が再び来て、縦的に真の父母となり、この地上に着陸することによって、息子、娘を生んで横的に数万双の氏族を配置したのです。これが 成約時代の出発です。一九九三年からは、世界に向かう南北統一の運勢なので、これからは本格的な成約時代に出発するのです。歴史始まって以来、アダム・エバ、カイン・ア ベルが定着できないことによって成し遂げられなかった世界的な版図を、一九九二年四月十日、「世界平和女性連合」創設大会および世界既成家庭祝福結婚式を 中心として、右翼と左翼とバラバ圏を統一しました。その時、イスラーム圏の八ヵ国の指導者たちを呼んで祝福してあげたのです。今までは蕩減の道が多かったのですが、今や万民解放とともに、サタン世界で反対していた父母、功のない人たちも、無条件に祝福してあげ、完成したアダムの位置、父母の位置に立ててあげたのです18 今までの歴史には、宗教の志のために、世界を捨て、国を捨て、先祖を捨て、郷里を捨て、父母や妻子まで捨てて出家しなさいという言葉がありましたが、今や 蕩減復帰時代がすべて過ぎ去ったので、世界を抱き、国を抱き、民族を抱き、氏族を訪ねていかなければなりません。イエス様を中心として見れば、蘇生、長成、完成ですが、これをひっくり返せば、真の父母が先祖になるのです。蕩減復帰は、このように逆さまになりま す。旧約時代と新約時代を経てきましたが、成約時代が完成すれば、成約時代が先祖になるのです。新約時代である二代目は、イエス様の時代に該当します。そ の次に、三代目が成約時代に該当するので、氏族メシヤを中心として、家庭を収拾しなければなりません。ヨハネの黙示録を見れば、「キリストと共に千年の間、支配する」(黙示録二〇・六)とあります。今、支配しているのです。万王の王として来るキリス トと共に支配するというのは、父母の位置に上がっていくということです。そのような氏族的責任の中心者を、統一教会では「氏族メシヤ」と言うのです。この 時代は、成約時代の門が開かれる時だというのです。19 お父様は闘って基盤を築きましたが、皆さんは闘わずに上がることができます。お父様は故郷に背を向け、世界に背を向けて、追い出されて再び取り戻してきましたが、皆さんはお父様が勝利した世界、国、民族まで(の勝利圏を)相続できるので、ここに氏族さえ連結させれば、その氏族たちが民族と国家と世界の福を 受けるようになります。皆さんが氏族たちに、それ以上に与えることができる福はありません。ですから、氏族メシヤは、王の権威を備えた先祖の位置に立つの です。これは誰もがやらなければなりません。例外はありません。イスラエル民族がカナンの福地に入っていくとき、一人でも残していけば、それを知っている人が責任をもたなければなりません。もうカナンの福地に入ったので、建国理念を求めなければならないのです。統一教会も同じです。国を求めなければなりま せん。南北を統一しなければならないのです。20 氏族メシヤになろうとすれば、家庭的メシヤを探し出さなければなりません。氏族メシヤの活動をしなければ、霊界にいる先祖たちが降りてきて打つというので す。霊界の先祖たちは、天使長の位置です。完成したアダムの位置ですべて生かしてあげなければならないのに、これを妨げているので、霊界の先祖たちが打つというのです。旧約時代までのように万物にすべて蕩減させ、その次に、新約時代のように息子に蕩減させます。成約時代には、父母が蕩減するのです。自分の実体が激しく打たれます。そのような恐怖の世界が霊界から不意に襲撃してきます。これが起きる前に、早くやって入籍しなければなりません。そ のため、イエス様の時代に、イエス様が氏族メシヤと家庭的メシヤを率いて国に入籍しようとしたのですが、できなかったので、再臨時代に世界的版図圏内で入 籍して国をつくらなければなりません。氏族メシヤになれず、家庭的メシヤになれなければ入籍できません。氏族メシヤになろうとすれば、家庭的メシヤを完成しなければならないのです。家庭的メシヤも、なぜメシヤというのかといえば、サタンと関係がないからです。21 今まで宗教は、出家を命令し、(聖職者に対して)結婚を否定しました。しかし、統一教会は、「還故郷をしなさい」と言います。「世界統一国開天日」を宣布 し、「真の父母と成約時代」を発表したので、家庭を求めていかなければなりません。そして還国です。国を求めていかなければならないのです。アダム家庭では世界を統一できません。アダム家庭の基準と同じ英米仏が、世界的国家を代表し、カインとアベルが新婦国家と一つになって、来られる新郎の再臨主、真の父に侍り、神様と一つにならなければなりません。そうすることによって、平面的に、再臨主の完成圏が氏族メシヤの完成圏に延長されるので す。第一次先祖のアダムが堕落によって失敗したことを、第二次先祖のイエス様が復帰しようとしたのですが、再び失敗したので、第三次先祖が来てイエス様の失敗を復帰してこそ、成し遂げられます。祝福家庭は、家庭的メシヤであるアダム家庭を復帰しなければなりません。このようにして、平面途上で同等な価値 を認めるのです22 今日の統一教会は、荒野四十年路程を終え、カナンに上陸しました。これから真の父母を宣布し、国を復帰しなければなりません。還国とサタン圏整備です。国に帰らなければなりません。ですから、建国思想をどのように立てるかが問題です。今は、イスラエル民族がカナン復帰したその時と同じなのですが、世界版図、それ自体がサタン側と天の側に分別されます。国家ではなく世界です。国家の限界線を越えた世界的版図で、同じ位置に立っているのです。23 成約時代の開幕とともに、全世界的に救援歴史を完成するメシヤの分身となる氏族メシヤの時が来ました。皆さんの家庭を復帰し、さらには皆さんの氏族と民族、そして、国家を復帰しなければなりません。このような使命を帯びた人々を「氏族メシヤ」と呼ぶのです。既に私たちは、数万組の氏族メシヤ宣教師を全世界に派遣しました。遠からず、世界的な次元で理想的な家庭が立てられるでしょう。成約時代には、母の役割が大変重要です。堕落した時とは正反対に、母が子女たちと一つになり、(皆さんの)夫を復帰し、真の父母様の祝福を受け、神様のみ前に戻っていかなければなりません。(真のお母様 1993.10.04、韓国ソウル)24 皆さんの家庭を中心として誇るべきものは、真の父母しかありません。皆さんが神様の息子、娘になり、真の父母の息子、娘になったという事実は、歴史時代に おいて勝利者の中の勝利者であり、救援摂理の中でサタンを退治した大将の中の大将だということです。世界的に真の父母を宣布したのと同じように、父母様の 伝統を誇り、宣布しなければなりません。村に入って「真の父母の息子、娘になった」と言い、皆さん自身を村の人々に誇らなければならず、皆さんの家庭を彼 らに誇らなければならず、氏族に誇らなければならず、国家に誇らなければならず、世界に誇らなければなりません。そのようにすることによって、村のどこでも真の父母を誇らなければ、皆さんの行く道が塞がるのです。真の父母を誇り宣布する人たちは、行く道が万事亨通(すべてが思いどおりにいくこと)に開かれるというのです。ですから、「私」が家庭から氏族、民族、国家、世界を巡りながら真の父母を宣伝することに よって、解放された勝利者になれるということを知らなければなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓ 、
2021.01.04
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成約時代の出発宣布出来事 : 1993-01-03 成約時代出発宣言(1993.01.03、前本部教会)真の父母様1993年1月3日、ソウル青坡洞2の前本部教会で「摂理史回顧と成約時代」という言葉を使用して、新約時代の完成と成約時代の出発を宣言された。そして1月10日、米国ベルベディア修練所でも、第二次世界大戦直後の7年の期間の失敗に再び出発した1952年から1992年までの40年間の焼き直し感路程を獲得した基盤の上に初めて成約時代が出発したと宣言した。続いて1993年5月13日、米ニューヨークを皮切りに、世界160カ国を巡回おら「真の父母と成約時代」というテーマの講演を介して世界中に宣言された。真のお母様が12月22日、台湾・台北、国会議事堂で講演されることを最後に、世界巡回を終えた。真の父母様成約時代宣布の勝利を祝って23日から24日まで「真の父母様成約時代大勝利」祝勝会をされた。(写真)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.04
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今年の運勢は?一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓ 気多大社ホームページはこちらからです。「入らずの森」は特に「気」が高いところとして知られています。その聖域を守る為の社が「気多大社」です。能登の守護畠山氏の社領の寄進、社殿の造営などが見られる。今も遺る摂社若宮神社(国指定重要文化財)は畠山氏の再建で、石川県の中世建造物として重視される。近世は、前田利家をはじめ歴代の藩主が崇敬し、社領三百五十石を寄進したほか、祈願、祈祷はもとよりしばしば社殿の造営をした。本殿(大己貴命)、拝殿、神門、摂社若宮神社(事代主命)、摂社白山神社(以上国指定重要文化財)、神庫、随身門(ともに県指定文化財)がそれである。 加賀藩の保護した社叢(国の天然記念物)には奥宮が鎮座し、「入らずの森」と呼ばれる聖域となっている。昭和五十八年五月二十二日、全国植樹祭に御来県の昭和天皇が本社に行幸され、入らずの森に踏み入られ「斧入らぬ みやしろの森 めずらかに からたちばなの 生ふるを見たり」と御製を詠まれました。昭和天皇は、決してみだりに採取などなさらず、それぞれの植物が平穏に存続をつづけ、その場所の植物相がいつまでも変わらないようにとお祈りになっておられるからである。「斧入らぬみやしろの森」は、そのおよろこびなのである。明治四年(一八七一)に国幣中社、大正四年(一九一五)には国幣大社となり、現在も北陸道屈指の大社として知られる。今年は期間限定でそこに入っての祈願が出来るようです。PR映像:以下の水色部分が「入らずの森」です。
2021.01.03
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天の父母様聖会 世界平和統一家庭連合「神統一韓国 勝利のための2021年 新年礼拝」(2021.01.03 AM10:00~)は、オンラインで天苑宮・天苑教会からの映像です。3日はユン・ヨンホ世界本部長をお迎えするなかで「連合礼拝」となります。オンライン参加可能な方は精誠の時間として視聴されたらいかがでしょうか。天の父母様聖会 世界平和統一家庭連合「神統一韓国 勝利のための2021年 新年礼拝」が2021年1月3日、午前10時から天苑宮天苑教会大聖天苑教会, 神韓国オンライン非対面形式で配信されます。聖日でもありますので、精誠の時間として活用していていただければ幸いです。時間になりましたら、PeaceLinkホームページからご視聴(言語選択で)いただけます。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓ 前回の礼拝映像(【日本語】2020.12.27 天苑宮 天苑教会 聖日礼拝)は以下です。
2021.01.02
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文鮮明先生御言選集 19560527 - イエスのように復活の栄光を神様に帰そう1956年5月27日(日) 本部教会祈祷 愛するお父様、イエス様を信じないイスラエル民族に対して、パリサイ人やユダヤ人たちに対して、悔い改めることを幾たび願われたことでしょうか? 追われ追い込まれて安息の眠りに就けなかったイエス様の路程が、私たちの心身に宿り、イエス様の心情を感じないようにしようとしても感じずにはおれない、その心情に似るまいと思っても似ずにはおられないこの時となるように許諾して下さい。またそういう心が私たちの中に現れなければならないことが、お父様が要求される御旨であり、または私たちが望む所の願いではないでしょうか? 今イエス・キリストが歩まれたその路程を、イエス・キリストが残して行かれたその福音の御言を代わりに背負って、億兆万サタンと戦い、勝利の栄光をお父様の御前にお返ししなければならない責任が私たちにあることを、この時間心の中に感じとれるよう許諾して下さい。そうしてイエス様が天に対して懇切な心を持たれたように、今日私たちも天に向かう懇切な心を持てるように許諾して下さい。 天を信じて集まった全体の群れに対して、堂々と出ていったイエス様の凛々しい態度と同じように、私たちもお父様の生命の御言、真理の御言を信じて堂々と出ることのできる態度を持った子女となれるように許諾して下さい。 今日私自身をイエス様の御前に誇れるように許諾して下さり、今日の私の事情をお父様の前に誇らないように許諾して下さい。この時間お父様の御前にひれ伏した者が多いのですが、恥かしい者とならないように許諾して下さい。イエス様と同じ位置を獲得することができ、お父様の心に代わることのできるように導いて下さり、イエス・キリストの願いを代身して万民の前にいつ如何なる時にも躊躇することなく現れることを願っておられるのがお父様の希望であろうと思いますから、お父様、ここにひれ伏した子女たちを記憶して下さい。一つ一つ尋ねて下さり、一つ一つ命令して下さい。 お父様の御旨を成すためにイエス・キリストの代わりとして戦うことができ、お父様の御旨の前に共に動ずる聖徒となるよう導いて下さい。私のお父様、懇切にお願い致します。 お父様、イエス様は反対を受ける時にも天のために弁明されて、お父様の御旨一つを携え、念慮しながらその御旨を立たせるために戦って来ましたが、今日私たち一自体はイエス様の御旨、お父様の御旨のために出て行くにあっていつ如何なる時にもお父様のために賛成したことばかりだったでしょうか? お父様の御旨に対して恨むことの多い私たちでした。 お父様、このような私たちを許して下さい。今私たちはお父様の御旨を万民の前に堂々と訴えますから、お父様、この夕方集まった群れを天の勇士として立たせ、お父様の子女として立たせて下さい。仰せつけて下さり、御指導して下さり、尋ねてきて自慢できる立場に立たせて下さい。愛して下さり、導いて下さることを、お父様、懇切にお願い致します。 この時間初めから終りまでお父様の能力の導きが共にあって下さい。私たちが柔和謙遜で幼な子のような心を持てるように許諾して下さい。尊厳なるお父様の御前に、生きた祭物として捧げることのできる子女になって、本然の自己に再創造できるこの時間となるよう許諾して下さいますよう、お父様、懇切にお願い申し上げます。 この時間多くの御言が必要ではありませんが、生命の感動の役事(導き)が、心と体全体に染み通るように許諾して下さい。お父様の喜びを歌うことができ、お父様の栄光を証することができるように、御言で私たちの心と体を覚醒して下さいますよう懇切にお願いしながら、主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。 <御言> この時間皆さんと共に考えようとする御言の題は、「イエスのように復活の栄光を神様に帰そう」です。「イエス様のように復活の栄光を神様に帰そう」という題で暫くの間お話してみます。 創造理想とイエス様の降臨の目的 エデンの園は、永遠に神様が栄光を享受して、全被造万物が神様に歓喜の敬拝を捧げ喜びながら住む園でした。このような園を造ることが神様の創造目的でした。また人間は神様が願う希望の栄光を地上に現さなければなりませんでした。このように神様の栄光を実体として現さなければならないのが私たちの先祖アダム・エバの責任でしたが、彼らが堕落することによってその御旨が成し遂げられませんでした。 神様が創造理想を成し遂げることをもって喜ぼうされた本然のその園は、人間が堕落することによって成し遂げられませんでした。それで今まで全人類は、復活の栄光を願いながら暗闇の勢力と対決して戦いの道を経て来ているのです。これが6千年歴史の路程でありました。 神様は今まで歴史を経過しながら、全体的な復活の栄光と全体的な復活の遺業を成して、この地上の億兆蒼生(万民)と霊界の千々万・天軍天使、そして被造万物までも神様の栄光を歌い、感謝の敬拝を捧げられる一日を迎えようとしました。その一日を迎えるために神様は多くの預言者たちをこの地上に送られ、4千年歴史が経過した後に神様御自身の内的心情を外的実体をもって栄光の実体として送って下さったその御方が、間違いなく独り子イエス・キリストでした。 このように神様の栄光の存在が現れたので、多くの民は喜びと感謝を捧げるべきでありましたが、即ち、選び立てたイスラエル民族と摂理を成就するために立てたユダヤ教団がイエス様の栄光に代わって現すべきでしたが、そうなりませんでした。そうしてイエス様は悲しみの嘆息と、成し遂げられない思いの嘆息を残さなければならなかったのを皆さんは良く知っています。 イエス様が残した御言を今日私たちが見てみる時、彼の御言は信じない民だけに訴える御言ではありませんでした。万民に対して語られ たのです。イエス様は神様のために死を覚悟しました。残された道がなく、行かないでおこうとしても行かざるを得ない運命の道であることを知っておられたし、堕落した人間がどの一時、どの一歴史過程でも神様に対して心を尽くして性品を尽くして思い尽くせなかったので、これを知られたイエス様は堂々と人前に出て叫ばれたのでした。「汝の心を尽くし、性品(精神)を尽くし、思いを尽くし、主なる汝の神様を愛せよ」と堂々と語られたのでした。皆さんはこの一節の御言が皆さん一人にだけ該当する御言として理解してはいけないのです。 イエス様が下さった御言 それならばこの一節の御言は何を現わす御言なのか? イエス様は4千年歴史過程に隠れた神様の切ない内的心情を切々と感じました。そうして自分が神様に仕えなければならない責任を感じて、いつ・どの時間でも自分が今まで4千年歴史過程に未だなかった心をすべて尽くす代表者とならなければならないし、生命を掛ける代表者とならなければならないし、思いを尽くす代表者とならなければいけないことを、ここで再度明らかにされたのです。 天の栄光がイエス様の栄光として現われて、イエス様の栄光が万民の栄光として現れて、万民の栄光が被造万物のいずれにも及ばなければならなかったのです。しかるにイエス様と万民が断絶されることによってイエス様お一人で成し遂げた復活の栄光、感謝の栄光は今日人類の願いとして残ったことを皆さんは知らなければなりません。 イエス様は神様の栄光の化身として現れました。神様のために自分の心を尽くし、性品を尽くして思いを尽された一存在、歴史過程になかった勝利の化身が即ちイエス様だったのです。そのためにイエス様お一人に神様の心情が積み重ねられたことを知らなければなりません。 更に皆さんは、イエス様が心を尽くす前に、まず神様が心を尽くされたことを知らなければなりません。イエス様が思いを尽くす前に、まず神様が思いを尽くされたのを知らなければなりません。そしてイエス様が性品を尽くす前に、まず神様が性品を尽くされたことを知らなければなりません。このように福音の化身として仲保的存在として現れた方がイエス様だったのです。 そのためにイエス様のこの真理の御言は、単に絹(安楽)のもとで感じられる御言ではなく、創造理念に通ずる御言であり、全体の価値を高めることができる栄光の理念として立てられた御言であり、お父様の隠された心を現した御言でした。これを皆さんは知らなければいけないのです。 今日皆さんは、神様が語った願いが私だけを愛して語ったと考えてはいけません。そしてイエス様がそういう御言を語られたのは、神様が自分を立てるために苦労されたその御旨を、自分が今実体的に成し遂げなければならないことと考えたのでした。神様がイエス様に対して尽くしたことと同じように、人間が神様に対して尽くすべき責任があると証しした、その御言を成就でき得ないまま今に至っているのです。 心と意思と性品を尽くし尋ねてこられる神様 したがって今私たちは、心を尽くして思いを尽くして性品を尽くして神様を敬わなければならないし、神様御自身まず心を尽くし、思いを尽くし、性品を尽くして私たちを求めて来られたことを知らなければなりません。 神様は4千年間に対してどんな心を持ってこられたのか? 自分のために尽くそうという心を持って来たのではありません。今すぐに死んで当然な人間であり、苦痛を味わっても当然の人間でありますが、神様は人間に対して心を尽くす立場で忍耐の4千年歴史路程を歩んで来られ、また思いを尽くして4千年の間サタンを分別する戦いの路程を歩んで来られたことを皆さんは知らなければなりません。 このように不変の愛の心を持って4千年の間忍耐し戦って来られ、愛して来られた神様の性品を知らなければなりません。 こういう神様の御前に現れたイエス様は、イスラエル民族を中心にした神の国を建てるために、自分お一人の心を尽くしました。そのためにイエス様の30余生涯の路程は、心を尽くす犠牲の期間だったのです。30余生涯の路程にあって民族の前に自分を現さず、黙々と4千年の間忍耐して来られた天の心情を体恤しようとされたのでした。 そうしてイエス様は4千年歴史過程にあってサタンと関係した曲折の事実を感じて、それを霊界で内的に証し受けて明らかにされたのです。更に4千年歴史の中で隠された天倫の秘密を明らかにして、神様の内的な忍耐の実体基台を成し遂げられ、外的な実体基台を30余生涯に立てなければならない責任を背負ったイエス様だったことを皆さんは知らなければなりません。 そのためにイエス様は難しい立場にぶつかればぶつかるほど、自我を求める立場にあったのでありますが、求めるという考えを試みてみることができませんでした。イエス様は神様が4千年歴史を経過しながらイエス様自身を尋ねるために忍耐して来られた神様の心、人間一人一人を尋ねるために忍耐されたその神様の心を感じて、その心を解怨するための実体として現れるための30余年準備の生活をされたことを、皆さんは知らなければなりません。 神様はこの時間まで誰に対しても御自分の立場を弁明されませんでした。万民に対して弁明されることもできなかったし、怨讐サタンにも弁明しませんでした。神様のこういう全体の心情を体恤しようとするイエス様だったために、寂しい立場になったとしても、どの誰にも弁明されず忍耐されたのでした。こういうイエス様の忍耐の生活を皆さんは模範としなければいけないのです。 神様はイエス様のために耐え忍ばれ、イエス様は自分のために忍耐されたのではなくて、神様のために忍耐されたのであります。即ち、イエス様は神様が自分を捜し求めるために苦労の路程を歩まれたことを感じ、自分のために耐えられたのではなく、神様のために耐えられたのです。 このようにイエス様が30余生涯自分を捨て、神様のため忍耐されたのでサタンの忍耐を凌駕しました。サタンは今まで神様が4千年の間忍耐して来られた道、その道を破壊するために奮闘して来たのです。しかしサタンが堪えた以上のお父様の忍耐であったということを知っておられたイエス様は、そのお父様を信じて、お父様と共に忍耐するために忍耐の化身となったのです。 このようにイエス様自ら、神様が4千年間求めて来られた心情の基台の上に立って、それを勝利の足台としてその上に立ってサタンと戦うことにあって忍耐心を持って戦い勝たれたのですが、実体的勝利の基盤を持つことができなければ、神様が4千年の間忍耐して来られた心情は破壊されるようになることを皆さんは知らなければなりません。 忍耐の心情でサタンを打ち負かしたイエス様 イエス様が30余生涯を通じて、御自身が耐えられない環境に置かれたとしても神様の御旨をして堪えたため、またサタンが耐えられない立場で耐えて神様の御旨を行ったため、また忍耐する者のシンボルとして立てられために、イエス様はサタンに対して戦うことのできる主人公となったのでした。 神様はイエス様お一人を求めるために4千年歴史の血の滲む路程を歩まれました。また人間は自分の欲望を成し遂げるために喘いでいるような中にあっても、神様は人間のために戦いの歴史路程を歩んで来られました。このように神様は4千年の間サタンと戦って来ましたが、神様は自分を中心として戦かわれることはしませんでした。 ところがサタンが今日まで戦ってきながら願って来たことは、自分の栄光だったのです。また今まで自分を中心として神様と戦って来たのであります。しかし神様は自分のために戦うことはされませんでした。神様が戦われる目的は、サタンの懐にいる哀れな人類のためであったのであり、選ばれた民族を通じてイエス様お一人を立てられるための戦いだったのであります。 それではイエス様はどういう存在として現れたのか? 神様が4千年間サタンと戦い打ち負かす勝利の代身実体、化身として現れたのでありました。イエス様はこのように神様に代わる戦いの主人公としてこの地に来られたのです。それでイエス様が内的に勝利の基準を立られた神様の御旨を相続して、外的に勝利の基準を地上に立てなければならない責任を背負って実践された路程が、即ち3年公生涯でした。 この3年の公生涯期間にあってサタンは自分一人の勝利のためにイエス様と戦いましたが、敗北するので再び民族を動員してイエス様と戦うようになったのでした。 しかし、イエス様は3年公生涯期間にどのような難しい戦いの立場でも、決して自分を中心として戦うことはありませんでした。イエス様は 父が行ったことを見て行なうとおっしゃいました。神様に代わって戦いの化身として、神様の内的な心情を現す神様の代身実体として3年公生涯を歩まれたのでした。イエス様は自分を弁明する戦いをされませんでした。 神様が自分のため弁明できないのと同様に、イエス様御自身も万民の前でサタンと戦う立場で自分を弁明することはありませんでした。神様が4千年間自分のために摂理して来られたその苦労に対して、変わることのない心を持って神様を敬われたイエス様でありました。 神様の御旨が摂理の闘争の路程に現れたこの一つの事実を悟ったイエス様は、神様が内的に立てられたこの全体の御旨を外的に成就するための戦いを展開されたのでした。それでイエス様とサタンの戦いにあって、サタンは自分のために戦ったのですが、イエス様は天のために戦ったのであります。ここに勝利の基準が立ったのです。 ではサタンが敗北した原因は何だったのか? 自分のために戦ったためです。サタンの戦いの目的は自分にありました。しかし、イエス様は戦いの目的は天に置きました。そしてイエス様は神様が変わらない以上、最後まで変わらないという心を持って思いを尽くして戦われために、勝利の基準を立てたのであります。また神様が心を尽くし、意思を尽くし、性品を尽くしたのと同様に、イエス様も人類の前にそういう姿勢を見せて下さったのです。 イエス様は神様の代身実体 そうしてイエス様は神様の内的な性品を代身してすべての苦難と悲しみを堪えながら、愛された神様の心情を継承できたのでした。それでイエス様は自分がどの立場、どの所にいたとしても、ただ神様の御旨、神様の愛を代身する実体としてサタンと戦ったのでした。 イエス様はサタンと戦う過程に、サタンが自分のための目的を中心に攻撃する時に、その影響はイエス様御自身のみならず、神様にまで及んだことを知りました。そのためにイエス様はどのような受 難に会われたとしても、神様が自分(イエス)のために忍ばれたように、また万民のために耐え忍ばれたように、そして当時までの摂理路程でサタンに対して神様が戦われたのと同様に、30余年生涯をただ一人耐え忍びながらサタンに対して戦われたのでした。このように十字架上で亡くなるその絶頂の瞬間までのイエス様の生涯は、神様の実体としてずっと神様の愛を自ら実践して現す生涯でした。ところが彼の生涯路程、即ち神様の愛を実践した路程は、サタンと戦いながら歩んだ試練過程だったのです。 それではどうして神様はイエス様をサタンの前に渡して十字架で殺したのか? それは神様がイエス様を愛していなかったからではありません。神様はイエス様を愛したけれども、どの程度まで愛されたのか皆さんは知っていますか? 神様の最高の愛は、事実上死を越える立場で受けるということを皆さんは知らなければなりません。それ故に皆さんは神様に代わりに来られたイエス様の愛を受けるためには、死の峠をも越えることができるという切々たる心情を持たなければなりません。そういう時にサタンが屈伏するようになるからです。 4千年間、神様お一人全体の世界を眺めながら悲しまれ、心配され、苦労されましたが、イエス様お一人が地上に立てられることによって、彼を中心にするサタンとの新しい戦いが展開したのです。そうしてイエス様は自分のすべてのことを忘れて神様のために戦ったのみならず、死の場にあっても自分のための欲望を持たなかったために、復活の能力を現すことができたのでした。今日私たちもイエス様のようなそういう勝利の過程を歩まなければならないのです。 イエス様は神様の永遠の生命を所有して、神様の栄光を現すために自分のすべてのものを捧げ尽くしました。そして罪悪に満ちた人間たちのために自分一人を祭物に捧げました。私たちは、サタンが反対しているということまでも忘れる程に、人類のために手を上げて祈祷されたイエス様の愛を知らなければなりません。 サタン世界では現すことのできない愛をイエス様は現したために、サタンは彼の愛の前に屈伏するまいと思っても屈伏せずにはおられませんでした。サタンは自分個人として求めることが(別に)ありましたが、イエス様を通して恥ずかしさを感じる ようになったのでした。そうして十字架によって4千年間摂理して来られた神様が悲しみ始めたのみならず、人間も悲しみ始めて、またサタンも悲しみ始めたのであります。これを皆さんは知らなくてはなりません。 イエス様が亡くなったことに対して、神様と人間だけが悲しんだのではありませんでした。イエス様の愛と死についてサタンも悲しむようになったのです。それでサタンの悲しみが大きくなればなる程、イエス様の愛の結実はより多く結ばれたのでした。 イエス様は自分の愛を実証する十字架の勝利によって、4千年の間摂理して来られた神様と不変の因縁を結んだし、不変の勝利、不変の愛の実体となりました。イエス様は天と地、人間を代身して神様と一つとなったために、神様が変わらない以上イエス・キリストもまた変わることができなかったのであります。 神様は4千年の間栄光を現そうとされましたが、その願いを成し遂げられなかったので、イエス様お一人を立てて初めてその願いを成し遂げようとしたのでした。それでイエス様は人間を通じてその願いをこの地上に現そうとしたのでした。そういう神様の4千年摂理の証拠的な実体として現さなければならないのに、十字架によってその願いがサタンに蹂躙されることになったのです。しかし、イエス様は神様の栄光の実体として4千年間摂理してこられた神様の栄光を見せてくれましたが、それが何かと言うならば、復活の栄光だったということです。これを皆さんは知らなければなりません。 復活の栄光を現されたイエス様 その復活は4千年歴史において初めて天の栄光を代身したものであり、4千年間サタンとの戦いを勝利した栄光を代身したのでありました。イエス様がこのように勝利的な基準を霊的にとか実体的に見せて下さったために、神様は死んだイエス様を再び起こし、新しい摂理を展開されるようになったのでした。イエス様が十字架に掛かることによって4千年摂理歴史の責任を引き受けて、祖先たちの責任を引き受け持って、天の栄光を代身して あの世に行かれたことが復活・昇天だったのです。 このようにイエス様は内的な神様の栄光をこの地上に実体的に成し遂げるために、即ち神様の完全な栄光を現すために来られた御方です。なぜかと言えば、完全な栄光は内的な栄光と外的な栄光が合わされてこそ成し遂げられるからです。イエス様は間違いなくこの使命を成すために来られたのです。 神様の栄光が完全に成し遂げられるには、神様の内的な栄光の実体として来られた独り子・イエス様とユダヤ民族が、離れずに一つになることによって、イエス様の手にある神様の内的な栄光が地上の栄光とならなければならなかったのです。しかし神様の4千年摂理歴史を受け持って神様の栄光を実現しなければならないイエス様が、ユダヤ人の不信によって十字架で亡くなることによって、天の内的な栄光は霊的な栄光になったのです。そのためにイエス様は未完の栄光を成して昇天されたのでした。 イエス様が昇天した後に霊界で、神様が4千年間サタンに対して行った天の戦いと、人間を復帰するために行った真の戦いと、御旨を成し遂げるための摂理の戦いと、聖霊を代身とする愛の戦いをしておられるのです。即ち、イエス様は霊界に行かれて、神様がして来られた戦いを継承して神様の代わりとして戦っておられるのです。 それでは4千年の間摂理して来られた神様の前に、人間を代身して、万物を代身して、天の愛を代身したイエス・キリストが真実に勝利しなければならない場所はどこにあるのか? 他でもないこの地だと言うことです。 地上の戦いを責任持つ聖霊 それでは地上に残っているこの戦いの路程を誰が責任持たなければならないのか、これが問題です。イエス様が霊界で神様の内的な戦いを継承して戦っておられるのですが、聖霊と私たちは地上で力を合わせ、内的な戦いと内的な摂理を実体的に完結するための愛の戦いに勝利するために、全部が協助しなければなりません。この戦いは霊的にのみ戦う戦いではありません。霊肉共に戦わなければならないのです。そしてその戦いで勝たなければならない運命が、私たち人間に残されているのを皆さんは知るべきです。即ちイエス様が霊界で神様の内的な戦いを引き継いで今まで戦って来られたことと、この地で30余生涯を犠牲にして人類救援のために戦って来られたことを、私たちが引き継いで勝たなければならないのが私たちの運命だと言うのです。 そのために今皆さんたちは、「お父様! イエス様! 聖霊よ、私に力を下さい」と祈祷して叫びながら、地上で天の歴史的な希望を成し遂げるために全力を尽くさなければならないのです。 イエス様はこの地上に神様の4千年苦労の結実体として来られたし、最初の完成体として来られた御方です。しかしイエス・キリストは30余生涯に成し遂げられない路程が残ってました。そして3年公生涯期間の戦いの路程にも神様の栄光を完全にすべて成し遂げられないという恨みが残っており、また十字架の血にじむ愛の心情が地上に残っているのです。 それ故に、今日私たちはイエス様が地上で成せない使命を引き継ぎ、霊肉同時に成し遂げなければならないのであります。そして私たちは私たちの生涯路程をみな捧げて、イエス・キリストの行かれた道を継承して行かなければならないのです。 それならば今日私一個人をお父様の御前に立てて批判しようとする時、どのようにしなければならないのか? イエス様は神様の御旨を成し遂げるためにサタンと戦い、イエス様が行かれて以後2千年の間も聖霊と共に苦労して来られました。そういうイエス様に皆さんは似なければならないのです。そしてイエス様はお父様の御前に自分一人を立てて勝利の戦いを展開したことが、どの一日だけではなくて、30余生涯の期間であったことを知らなければならないのです。6千年間摂理されたお父様の心、御旨を成し遂げるために心配し、苦労されたイエス様の心、聖霊の心を知らなければなりません。 そうして今日皆さんが耐えなければならない路程にあって心を尽くして耐えることができないならば、皆さん一人によって6千年の間心配され苦労された神様の御旨、イエス様が生涯苦労された御旨、イエス様が亡くなられた後聖霊が2千年の間苦労した御旨がすべて挫折してしまうというのです。これを皆さんは確実に知らなければならないの です。 それ故、今皆さんはこの御旨のための戦いを展開しなければならないのです。 私たちの使命 イエス様は怨讐の反対を沢山受けました。この城から追われればあの城へ行かれ、こちらで迫害されればあちらへと逃れて行かれたのです。そのような中でもイエス様は自分の一身を弁明することを知りませんでした。天の全体生命を持って来られたのに、そういう価値を現すことができませんでした。そうして無言の戦いの路程を経て来たイエス様、更に十字架の山上でも自分を忘れて神様の御旨と愛を中心として証しするためにサタンと戦われたイエス様でした。 それ故、今皆さんがイエス様自体を尋ね立てようとするある愛の心がある訳ですが、それがイエス様を悲しくさせるのではなく、喜びを差し上げることなのです。皆さんはこういう事実を考えて、今日皆さんがイエス様の苦労多い30余生涯を代身しなければならず、今日まで耐えて来られた神様の心情を代身しなければならないのです。 4千年の間、神様の御旨を成し遂げるために祭壇を立て、民族を通して摂理された預言者たちの心を代身しなければならず、イエス様が人間を愛されたその心を模範にしなければならないのです。そうして今日皆さんは、イエス様が自分を立てないで、自分を愛さない心で勝利の基準を立ててサタンを嘆かせたのと同じ、そのような事をしなければならないのです。6千年間のすべての戦いを終結させなければならないのです。 皆さんは忍耐のすべての闘争路程に勝利しなければなりません。また天の御旨を証しする戦いで勝利しなければなりません。皆さん一人一人がイエス・キリストを代身しなければなりません。4千年の間神様が忍んでこられた御旨、忍んでこられた栄光、忍んでこられた愛の勝利の心情を抱かなければなりません。イエス様が自分自身を忘れて、ただ天の御旨を成し遂げるためだけに苦労されたように、皆さんも自分自身を忘れて、神様が願われる全体の栄光を結実して差し上げなければならないのです。心で、体で勝利の実を結ばなければならないのです。 そのために心ではイエス様の栄光を歌うことができ、体では聖霊の栄光を歌うことができるのです。そして私たちが、心ではイエス様の復活の栄光を代身して、体では聖霊を通じて復活の栄光を代身できないならば、聖霊は復活の栄光の立場に出られないという事です。イエス様は復活昇天できる栄光を整えましたが、聖霊は未だ復活昇天できる栄光を持っておりません。 今日まで6千年間摂理して来られた神様の栄光に代わって霊肉を持った一つの実体が出て来なかったのです。今日はイエス様の愛によって勝利の栄光を代身する人が出なければならないし、聖霊によって復活の栄光の立場に立つことのできる人が出なければならないのです。皆さんが、イエス様が神様の4千年摂理の御旨を成し遂げるため心と体で戦うことができたように、そういう一つの実体として現れないならば、6千年の間摂理して来られた神様の御旨は栄光として現れないということを知らなければならないのです。 それならばこれ以後に私たちはどのようにしなければならないのか? すべてを尽くす意思とすべてを尽くす心とすべてを尽くす性品を備えた聖霊がこの地に来られたという事を知らなければならないのです。そのために天の御旨を代身したイエス・キリストの代身実体、聖霊の代身実体がこの地に現れないならば、神様の御旨が成し遂げられないのです。皆さんはこれを知らなければならないのです。今日皆さんは生命を下さったお父様の御前に感謝しなければなりません。そして皆さんはこの地上で聖霊まで解放して差し上げなければならない責任を担っていることを知らなければならないのです。 それで終末である今日このことが成し遂げられないなら、神様の6千年摂理の目的が成し遂げられないのです。そのために今日皆さんは、神様とイエス様、聖霊が願う御旨を成し遂げるためにすべての戦いの路程に勝利しなければならないのです。三位神の復活の栄光を現すために、その戦いの路程、忍耐の路程を越えなければならないのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.01.02
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2021.01.01
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