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2021.06.20
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ 「 行くべき神の国 」



 祈 祷

 天の御父様、今日を祝福して下さることをお願い申し上げます。
 全日本の運命を背負っている若きあなたの子供達が、今回、今日を始めとして、この場において二週間神の恵みにより、集ゐたことを思いつつ集まりました。

 いっさいのすべては、あなたの深き御恵みを讃えることができまするように直接守り導いて下さいませ。

 我々はそのような心でもって親をう、そうして最後まで忠なる子供としての使命を果たし得る決意と勇気と誓いを持ち帰えることができますように祝福して下さることをお願い申し上げます。

 再びこういうふうにして会えましたこの場におきまして、我々の心はあなたに心から恋慕うその心に満たされるように、あなたは我々に対して、真実なる使命と新しい決意を求めることができますように。

 天と地が一体となり、神の未来のみ旨を果たし得る勝利の信仰、刺激、新しい基台となることができまするようにかためて下さることをお願い申し上げます。

 日本に残っている数多くの食口達は今回の地区長来轢のその間におきましても、日本の地に新しい神の使命が果たし得る強固なる基台と共に、全日本、全土を中心として新しい進撃の旗を盛り上げることができまするように心より祈っている数多くの食口達がいるということを思います時、我々一人は一人ではありません。個人ではありますが或いは県を代表して、或いは日本全土を代表して、神に仕え、神に近づく、或いは心情に一致化した、そうして愛される、なお、そういうような子供になる、こういう重大な時期となるように祝福して下さることをお願い申し上げます。

 今日より以後すべての時間は、あなたの御心のままに果たし、そうして勝利の基準まで我々は立つことができますように導いて下さい。



 キリスト教の使命

 皆んなお帰りなさい。(ただいま。)
 まあ、日本の食口も韓国の食口も統一教会の食口はもちろんであるけれども、今までそういう偉大な、或いはキリスト教、その他、宗教という名目の下に属しておる全部は、求めておる国を迎えた事はありません。最後にその求める所は、神の国だ!その理想の世界、その世界を神が人類と共にそれを求めだして今まで摂理をやってきた。その過程におきまして数多くの、或いは民族とか、文の背後関係はみんなちがうんだから、それに相応した宗教を立たして、それを集めて一つの世界の方向にまとめて来たというのは今まで宗教の使命である。その中におきましても、中心的使命はキリスト教である。何故かという問題は、あんた達がよく知っておるんですね。

 神様と人間の関係を結ぶには、ここにおいてはいろいろ真理の問題よりも人間的問題が重要である。人間的問題を中心として考えて見た場合には、心情的問題が一番重要な問題である。それは人間においても重要な問題であると共に神様においてもそれは重要視しなきゃ。そういうような喜びの対象基台というのは、あるいは環境において、それよりもあるいは自分なりの成功の基準においてそれよりも、心情的基準において喜びの基台が、これは永遠的に結ばれる。

 外的なものは移り変わるけども、情的心情基準は移り変わって行かない。一度それを心情的に結んだ場合には、それを離したくないというのが情的世界のいわゆるその情的内容の原動力となっている。一度結んだその因縁はできれば、情的にこれは離したくない、結んで行きたいというのがこれは心情的基準である。

 こういうふうに考えてみるというと人間の幸福もその神の求める幸福の世界も変わらない情的基準において結ばるる一点を求めてきたのは間違いない。こういう見地から見た場合に数多くの宗教があった。数多くのその教祖があったけれどもその中においてはキリストにおいてキリストに限っねて、いわゆるその真理の道も、その実体を中心として神と自分との間において、情的基準を、それは、持ち出して、語ったところが、それがキリスト教の今まで世界的にならざるを得ない。そういうふうになっている。

 イエス様の求めた家庭

 神様がもしもいるとすれば、神様は一体どういうものを願うか? それは最高のものを願う。最高のものを願うと共に情的においては、誰よりも深いその因縁のうちでそれを情的関係を結びたい、愛したい、或いは愛される、愛して愛されてそれを喜びたい。そういう境地を願う道、その境地はどういう所であろう。それはある権力あるその権威あるところではなくして幼な子の立場に立った親と子の関係それ以上にはないということ、だから神様として人間を本当に愛したい、人間と共に喜び合うその基台となるその終結点は何であろうかという場合には、それ愛の問題を中心として、子女関係、まあ、父子関係だね。

 そういう所を我々は思いながら、これをキリストを考えた場合、キリストはそういうところを適切にやる。われは独り子である。今までクリスチャン、数多くの聖人も生まれてきたんだけども、数多くの宗教の教祖もあったんだけれども、その内で、ちがう所は、自分は神の独り子だ!独り子だ!独り子というものは神のすべての愛を独占することできる。すべての愛を受ける。それは中心的存在である。それを中心として、我々信者に対しては、それは新郎である。新郎の相対は花嫁である。まあ、そういうように縦的内容においては新郎新婦と結びつくだろう。これはいわゆる心情問題を中心として、人間として最高の基準をこれを果たしておる。それが横的においてはイエス様は兄さんであり、我々は弟、兄弟である。こういう全般のいった内容をまとめてみた場合には、情的基準を中心として、これは神様とイエス様とその新婦合わせて最高の情的家庭基準を願ってきた。これはいかなる宗教にもそれはさがされない。それは独得の内容を持っておる。

 神様の願うところは、個人的心情基準を願うのはもちろんだけども、その家庭的心情基準の願いがもっと人間世界においてそれを願うにちがいない。なぜかというと、人間といえば男・女が共に愛しうるそれは三者が一点に接し得るそのところというのは、それはなんでそれを一つに結ばれるかというと、それは愛の問題でなければならない。その愛たるものは、男より出発するんじゃなくして、女より出発するんじゃなくして、その愛の母体は神からである。自分から生まれた子供、自分から生まれ出るそのあふれる愛の心情が、絶対なる自分を中心として動機になった愛の基準が結果的に相対関係を結んでそれは結ばれた。また一致したその点たるものは神が絶対であれば絶対基準だったとすれば、その三者たるものは一つである。一つの中心に結ばれなければいけない。

 こういうように考えて見た場合に、家庭を中心として神は絶対なる心情基台を作ろうと、そうして男・女に愛されるそれを男・女を愛した神様の立場を、人間自体がそれを体恤させるだけで、神様がいかに自分達を愛したかということを体恤させるためにそれを、父母を通して新しく子供を生ませる。子供を生むというのは、それは神様がアダム・エバを創った当時のその苦労の過程を体恤させるためにそれを、父母を通して新しく子供を生ませる。子供を生むというのは、それは神様がアダム・エバを創った当時のその苦労の過程を体恤させると共に、心情の基準を体恤させる為に、或いは、創造過程において神はいかに苦労し、苦労した結果においてその生まれたアダム・エバに対し、喜んだ心情の基準を神と相対的立場に立った人間として、共にそれを体恤させる為に我々に子女を与えてくれた。これが愛のいわゆるこの地的地上において最高のあるいは出発の情的基盤である。

 これを拡張すれば、そこには、旦那さんがおり、それから奥さんが、その子供がおる。その子供がまたそういうふうになっていった場合には、そこにはおじいさん、或いはおばあさんが生まれてくるというんですね。だから一つの家庭においては、おばあさん、それからおじいさん、その夫婦を中心として、それから孫を中心として夫婦という三大夫婦圏をもたらしたとすれば、神の世界は間違いなく地上に果たされたというんですね。神の願うその心情というものは男・女を創った以上は祖父母があれば、父母が、父母があれば自分なりの夫婦という問題。この問題までこれを結びつけて、そこにおいて心情基準が結ばれた場合には、三夫婦基台を中心として四方に親戚関係の因縁が結ばれたのであろう。それが、そういうふうになった場には、その三代を中心として結ばれる情的その基準は、神の心情的最高のあらわれの表徴として立つべきである。だから神は、過去を見ても現在をみても末来をみてもそ一家庭において祖父は現在を表徴し、末来は子女が表徴するという。過去・現在・末来圏の表徴体である。これを三夫婦圏の心情圏を一体化せしめた場合には、過去、現在、末来がそこにきておる。家庭的において結ばれた絶対的基盤には間違いない。

 神は、結局三夫婦を前にして愛される平面的な基準が神を中心として果たした場合には、これいかにすばらしい家庭であろうか。もしもそうなった場合には、それが神の絶対の愛を中心として結ばれたその家庭たるものは神の愛が、そこにおいて喜び喜ばれた場合には、喜んだその者は永遠に住みたいという愛の本然のそれは素質である。いつも喜んであとで寂しくなるようなそういうこともない。いつも喜んだ場合には、それは永遠に続かせる。

 愛は横的に見れば、おじいさん、或いは父母、自分に対して神様が愛したその愛の基準というものは、それは歴史が変わって行っても神の心情内にはそれは変わらない。年はとって行ってもその心情圏においてはそれは変わらない。だから、愛の心というものは年に支配されるのではなく、環境に支配されるのでもなくして、歴史的に支配されるんじゃない。だから過去も現在も末来もいつも同じ基準において愛されたというようなそういう実地に平面的にそれが四方を解放して、それが生まれたとするならば、神を中心として生まれたとするならば、その世界はいかにすばらしい世界であるというんだよ。それが主体を絶対なる神を主体として、まあ、こういうような基斗が我々の統一教会で求める四位基台に相当するというのである。神のそもそも人間を創造したその目的たるものは、アダム・エバを創るその理想ばかりか、アダム・エバを創って、そこにおいてその後孫がまた夫婦になり、その後孫が三代圏を中心として、夫婦を作るというようなその基準がなった場にに、蕩生、長成、完成基準をその家庭的に、縦的に立たせた場合には、これ中心的三代がつながる。それは神様を中心として立った場合には、横的に四位基台が作られる。こういうふうになった場合にはこれこそ絶対なる我々がその理想とすべき求める、或いは、人類が求めるべき絶対なる心情的基準にちがいない。

 こういう内容を、イエス様はそれの教えによるキリスト教の完教の本質の内容は、それを目指しておる。こういうふうに考えてみますというと、数多くの宗教があったんだけれど、その宗教を中心としてみた場合に心情基準においては、いかなる宗教もおよびつかない内容を持っているから、神は愛の神であった場合には、その教祖のうちでキリスト教、イエス様以上のその情的基準に結ばれるような立場に立つものはいないというんだね。だからキリスト教を中心として世界的な摂理を発展せざるを得ないというような結果になっちゃうんですよ。

 堕落をしなかった場合には、もともとそういう基準に自然的になっている。我々は復帰とか、何かその宗教とか祈祷とか或いは新しく願うというような別に求めるような要件をそれを求めて来ても、生まれながらにもう、そういうような環境に生まれておる。神の愛に結ばれてその定められる環境たるものは、いかなるものであっても神のそれは神の主管圏内にある、その環境でありますから、そこに生まれたすべての事においては、それは神が干渉せざるを得ない。神が干渉るす絶対なる主人として、我々に干渉してくれたら、それは間違いなく天国の起源にちがいない。

 堕落の悲しみ

 しかし、堕落したんだから反対になってしまった。神は、神はどうにも干渉することができなくなってしまった。まあ、我々は堕落論においてわかりましたように、神の願ってきたすべてのその要求のその心情基準というものは、堕落しなかった場合には、本質を中心としてそれは自然的環境において、それは横的世界を果たすべき基準であったにもかかわらず堕落した為にすべてがこれはくつがえしてしまった。すべてがひっくり返ってしまった。その堕落の為にどうなったかというと、天使長も失なってしまった。天使長世界も失なってしまった。それから、アダム・エバを創る前の万物世界も失なってしまった。それから、人だにみんなこれを失なってしまった。それから、人が願ってゆくべき天国人、神が果たそうとする天国の理想も、みんなくつがえしてしまった。

 理想たるものは人を中心とした、立たせた理想であって、神を中心として立たせた理想なんだから人を中心として願ってきたすべてが堕落によってくつがえしたんだから、それによってすべてがくつがえされてきた。こういうふうになってしまった結果の世界が、今我々がだ今我々が住んでいる世界である。こういうふうに見るというと、神の願う国、神の国、神が願うその国が、果たして地上に生まれてきたか?

 それは生まれへいない。そういうような心情的基準において、自然的環境を世界化されるような、どこに行ってもそれは神様を愛する、神様が愛するその人、我は神様を愛すんだから愛する。人を愛ひなきゃならない。それは当然の事である。絶対の神様だから、五本の指があったらこれは親指は愛されやすい。一番指が愛することができないということは、それはいけない。一体化されたそういう心情圏に立ったとすれば、それは縦的には神様を愛する比例的な基準において、自分的な立場を中心として、横的にその愛の環境を実地的に作って行かなければいけないという。もしも神様がおったとすれば、神がそういうように我々を良心を中心に働きかけてくるにちがいない。そうなったら自然と人を愛するようになるにちがいない。しかし、そういう世界が、今我々が住んでいる世界じゃない。みんな共に相反する。一人のものがよくなった場合は、それをおしのけて自分が奪い取って、そのものを自分のものにしたいという、奪い合いの自分を中心として、戦いの戦争が歴史上に始まったのが堕落である。そのエデンの園において天使長を中心としてみた場合には、天使長は堕落という動機の主体の存在であるんだけども、その動機は何によってはじまったか。自分を考えることによって堕落は始まった。自分というものが問題。自分を重く見るという基準から堕落の動機が始まった。このような歴史上において奪い取ることのできないそういうような根強い根としてこれは始まった。だからこの根において縛られたそのすべての万民というものは歴史的に過去、現在、未来を通してすべてが自分を重んずるようなそういう考えの持ち主となる。自分はすべてを犠牲にしても自分を残したい。こういう考えをみんな持つようになっているんだね。それは堕落の動機によって、サタンによって植えつけられた。



 民主圏と共産圏

 そういうふうにして今の世界はもうきまっているや。民主主義あるいは共産圏に二つに別れる。それはそうならざるを得なかった。結局、人類は三十六億の人類が住んでおるんだけど、その人たるものはどういうものかというと、世界人類が地上に住んでいるんだけど、その数たるものは多数だというけれども、それは一人を三十六億倍したものだ。結局、一人によってそれは生まれている。繁殖してこういうふうになったものである。その一人の動機体の延長体であるというんだね。一人の動機、動機となったその一人が植えられたその通りの結実体として、これは横的に広められた数でありまして、それは本質から見た場合には、一人の男を表徴するんだね。それならば、その一人というものは自分を中心としてなりたった堕落の根底を中心として、これはつながれておる。こういうふうにして歴史はこれは結実期にきたっておる。

 こう考えているというと、一人を代表したものだった。こう見た場合、一人というものは自分にこれはつきちゃう。確実につきちゃう。これは我々に一人ということを考えて見た場合には、自分というものは、肉心と良心がある。肉心と良心がこれが一つになれない。これが問題だ。これを表徴して、これを広げてその結実体として表われたのは、今の唯物史観、物を中心としての世界、人生観を中心とした世界の問題である。良心を中心として、その心を中心として世界を思うそういうような微観。二つによる争そう結果にきたされる結実にならざるを得ない。それが共に問題がここにおいて共に心は心なりに、その体は、体なりに、戦ってきた。それが最後の戦いがこれが地上において歴史過程のうち代表的なそれを人類を包括したその一人を代表したもので表徴された場合には、それが肉と、肉心と良心が別れた世界的な人が二人生まれて戦う結果となっておる。こうなると、どうならなきゃならないのか。

 良心は肉心に負けてはいけない、肉心は良心に負けちゃいけない、ここにおいて争奪戦になっておる。

 この主体は誰か? という場合には、良心の主体は我々は神様だ! 肉心の主体はサタンとなっている。それサタンとそれ神様の本質の主体は、本来の主体は誰か? というそれをつきつめた場合には、本当の主体は神様、絶対なる神一人にそれは帰する。けれども二つになった場合には、とんでもないことになる。我々は理想というものを果たすことはできない。理想というものは二つをもって理想とするものは阿呆だ! 何か主体性を中心として、一つ一つの基準において結びつけなければ二人は一つになれない。二つの理想圏を中心とすると絶対これは理想という世界はおこらはい。こうなった場合には、神様は自然といない結果になってしまう。これは哲学的に今まで問題になってきた問題である。神がいるか! いないか! いなかったとすれば我々人間自体が一つの理想の世界を願うというそれ自体が矛盾である。それを歴史過程を通過しながら今まで望みきった、それはすべての個人の人間であると共に、或いは歴史的数多くの聖人、或いは賢人、義人の行った道であるというんだね。心あるもの、或いは世の中に崇拝されるそういうような聖人列にその属しているすべての人達は、それは歴史を救う、世界をよくするという。よくする二つの世界を見つめながらよくするという考え方を持ったものは一人もいない。こういうふうにして、人間の本質からの願いを考えてみた場合には、そういう一つの理想圏、一つの理想圏を求めて或いは生命をかけ、或いは死の境地をたどりながら、苦労の克服、この道をそれは忍び忍んで行ったそういうことを考えてみた場合には、自分なりに願うのは一つの世界を願う。

 そうすると世界を一つに作る、世界を神の国となすには二つのその相対関係において戦うようなそういう基準が絶対あったらいけない。一致したその基準を満たさなければならない。その一致されるそういう基準というのは、国々として結ばれるその基準じゃない。そこには多くの国民という問題である。世界万民という問題がある。共に囲まれておるその基準において、絶対的一致という事は、求められない。というんだね。それは大きい程それは理想的な圏のように思うんだけれども、絶対的一致点というものはそれは不可能である。そうすると絶対的一致点はそこにおいて結ぶんだ、といった場合問題を停止した場合には、それは自分において満たすその道しかない。そういうふうに帰結してしまうんですね。

 情的問題



 一致されなかった場合には、もしも善悪の主体者があった場合には、善悪主体者さえが完全に分別、完全に別かれることができない。それは完全に絶対的基準においてひきさがれない。こういうふうに考えて見た場合には、それをひきさげるその基台は、一体何だ! といった場合には肉心と或いは良心の基台もそうであるけれども、それよりは心情的問題である。心情的問題である。我々肉心も情的基準を願っているんだね。肉心であるけれども肉心的基準を願うようになるんだね。まあ、男であれば理想も何も持っていないそういう男であってもね、女に向ってはそれは情的願いを持つようになるんだね。良心も肉心も情的基準においてこれを願うんだね。良心も願う、それを如何にあんた達、如何にさがすんだよ。肉心も要求する所において、或いは良心の願う所において、それなりが反対されているその二者になっておる。こうなったそのものも何をもってこれを結びつけられる道があるであろう。或いは権力か、或いは何の手腕か、何の方策か。

 方法をそれを発見することができないというんだね。体を中心として絶対的にそれを一つにさせるか。良心を中心として絶対的に一つにさせるか。いくら良心が肉心を屈服させたとしても、肉心は肉心なりにそれは上がったり、下がったりするんだから。あんた達もそうでしょう? その上がったり、下がったりする中心線は一体なんだ! という場合には、それは生命が問題だ。その中心性をなすものは何んだ! その動機をふっと思って見た場合にはね、本当に落胆させる、本当に落胆からそれを突破、爆発的にそれを上昇させるという様な力の根拠は一体何んだ!

 情的基準だね。情的に打撃をうけた場合には、ああ! 生命を捧げてしまう。若者達が、まあ、この世的のその愛の問題を男女問題を中心として、それが果たされないという場合にはね、自分の生命でもすべてあげちまう。自分の背後も前後もなにもあったもんじゃない。すべてをほおりこしてしまってもその道を守る。こういうふうにして考えてみた場合に、一致化させるその根本の基盤は、自分において何をたたせて、何をめざして発展することができるであろう。これは重大な問題である。肉心の要求のその絶頂に達した場合に、良心がそりゃまるっきり反対する。良心の基準の絶頂に達した場合に、まるっきり反対する。こうみた場合に背後両方まとめて一致化させるその基台というものを我に何んの条件として満たせられるかということを考えて見た場合、深刻なもんですよ。

 それは情的の問題であるというんだね。情的の問題だよ。男として女を愛するには心はさておいて、体はさておいて別々に向いあうの? あんた達祝福された人達手を上げて! たいがい祝福されただろう。まあ、たいがいそうだろう。まあ、見たいという場合には、見たいという心はさておいて体だけ見たいというの? 心ばかりその願うんであって体はもう行かないというの?

 だから問題はどういうものがこれを、自分を命より以上に、以上の境地にそれを注ぎこませる。そういう力をもつ、そのものがなければ二つ共にね、それはなんであろうか。これは愛の道以外には考えてもいないんですよ。愛という問題は、これは一方的のようだけれども全体がひっかかる? 全体なんだよ。だからこういう考えをした場合に、「ははあん、神という御方は心情的道以外の道を求めてこなかった場合には、神はいない。」こう理論的にいないという結論である。そうじゃない、神の愛を人間歴史において、それを示すそういう基台があった場合には、そこにはまずもって神の愛を中心としてうちでたそういうような教え以外にない。そういうように行動の結果をその示したそういう基台がなけりゃならない。

 あんた達宗教をずーと考えてみた場合、宗教というものは力でおいては、どうにもできないけどもこれは中世か、ローマ帝国を中心として、まあ、実験済みの常識化された世界的常識された基準となっているんだよ。その根底となすその力の母体は何かという場合には、聖書でもない、聖書じゃないですよ、聖書の言葉がすばらしい、そうじゃない、その根底は何か。

 イエス様に対して慕うその恋慕うことだ。神様は実にすばらしい御方であるよ。すばらしい御方だ! なぜかというと慕う心の一番強く激しいそういうその心情基台というものは何んじゃ! という場合には、これは新郎新婦だね。それ以外にはない。だからキリスト教の強さはここにあるんだね。ここを生みだして神は摂理をなして来た。だからそこにおいては我々統一教会においてはね、新郎新婦というものは新婦というものは、一人に限るということね、それを中心的新婦を中心として決定の基盤を作るということをまあ、だいたいわかるんだけども、今までキリスト教はそうじゃないんだね。男も新郎であり、女も新郎である。そういうような考えでもって慕う心、みんなイエス様に心情的その関係をもつこと、そこにおいて涙を流さない、流さない立場においての慕う心は許されないというんだね。こう考えてみて神様は何をもって今までやってきたか。情的基準を中心として考えて来たんだけど人間はね、人間は、ああ、よりよい愛される道にひかれるという。これ自然的現象なんですよ。強い心には磁石がある。十の力のこれ半分位の磁石があったとそうした場合、この二つ、二倍の磁石があった場合には、ここに相対点を持って行けばピーンと引っ張るんだね。それと同じ現象である。自然現象である。だから愛はより力が強い。その愛の基準が弱い愛ね相対圏にこれはあらわれた場合には、その一方は引かれて行く。そうなってるでしょ?

 だから問題は、サタンとか愛とかいうものを、これを処分してしまう。そういう方法を神は何んでもって求めたんだろう。真理でもって、苦労でもって、それは家庭において、蕩減の道をたどって行くにおいそうだけどもそうはいかない。愛情でもって分解してしまう。なぜかというと十の力より百の力の愛の心情でもって愛された場合には、来るなとしてものこのこやってくる。あんた達もそうだろう。男達は今まで結婚して、まあ、うちのその女房はこれ以上の美人はいないというすばらしいと思ったんだけど、さあーと見るというと、よりもこれは比較する能力があると、これは何より背からも便からもスタイルから何から見てもこれは今まで自分が惚れっぱなしになっていた。その女たるものは、これは、やあ、あてにならないもんだね。そういう場合には、男の心は浮き上がるんだね。むこうでモーションかけてきたらね、のこのこ動きだすよ。そうじゃないの?(笑い)そういうふうになりやすい男の心になっているだろう? そうじゃないの? それがそうじゃないとするならば復帰不可能だよ。(笑い)神の国帰れない。(笑い)それがその基準がね、基準が段階をへてね、ずーと上がってゆくようにして、それが強ければ強い所へだんだんと引っ張られて行くんだよ。

 だから今まで歴史も宗教というものは、そういう基準になっておる。僕の僕の宗教、それ僕の僕圏においての愛する愛の基準、次元がちがうよ。それが養子の愛の次元越える輸上がって行くんだね。僕の僕というのは主人がいないというんだね。昔は殺し合い、なにか力があればそれだけでよかったね。何も中心者がなかったんだね。その時代だ。ここからずーと上がってきて僕の僕、それから上がって来るんだよ。僕の段階、こういうふうにして次元が次元がちがうね、良心だよ、肉心だよ、良心だよ。

 次元がちがうんだけど、何がちがうか? 人がちがうんじゃないよ、うん? 人自体がちがうんだ。かえって摂理上においてね、かえって昔のアベルがその美男子かも知れない、うん? 外的基準から見た県合ノアがその美男子かも知れない、うん? 外的基準から見た場合ノアがもっと美男子か、そうではないよ、そうじゃないんだよ、うん? もっとすばらしいタイプの美男子か、アブラハムもっと美男子か、それモーセモーセもっと美男子だね。再臨主は或いはイエス様あー、みんな惚れてしまう(笑い)ばっかりの美男子か、そう、そうは行かないんだよ、では何によゃて美男子か? 心情的次元がちがうというんだね。だから情的次元がそれは高かった場合にはそこに行って引っ張られるんだ。それは間違いないでしょう。みんないろいろ質問したいんだけど、まあ、今日は行くべき神の国という、あそこまで行くまでこんなに走ったらもう何日かかるかしれない。(笑い)

 だから、情的問題が問題だというんだね。うーん、あんた達それをはっきり、まあ、それを頭に理論的にちゃんと治めなければならない。情的基準において価値観がね、価値がちがってくるんだね。

 それは価値はなぜ求めるか、価値がちがえば価値の多いものは中心に中心者になるからである。中心になった場にに主管されるというね、こうなっちゃうんですよ。そうなるというところの価値というものは情的その次元に従うその価値を求めれば、現状の立場の人間はより以上の次元の立場まで指っ張って行く。

 あんた達、兄弟においてもそうだろう。お母さん、お父さんがみんなの中で十人の子供があった場合にはね、兄弟があった場合には、誰をもっと愛するか。すぐみやげをわけてやる時にね、兄さんはいいものをやって、みんなだあーとわけてやって、自分は一番その悪いものを最後に貰うように貰うようになっていると、お母さん、父母がね、目をぱちぱちしながらね、ぱちぱちしながら愛の表情したら、それをかかえてがまんするよ。そうでしょう。だからこういうものを考えてみたら、情的問題は、これは大きな問題をその解決する基準が立ってるということね。それは無視できない。

 だから神の摂理はね、神の摂理は僕の僕時代においては、それを相応したサタン世界において、サタン世界の僕、僕なりに愛するより以上の愛でもって神は引いてしまうんだね。百ボルトの何列まいてあるコイルでもって引きつけるんじゃないよ。その十倍の主を愛する十倍の力で持って引きつける。そうすると神に感電したものは来るなといってもね、自然とまわってくるんだね。なぜ感電されてもそのにこういうふうにして、その僕の圏を僕からずーとこれをある圏をもうけて、そこから解放的なものをもう一段高い次元の基準に上げる。必ず蕩減を必要とする、サタンと対決する。

 蕩減の道を行く

 これは祭物というものは所有物決定の条件ですよ。これそうでしょう。君が強いか、わしが強いかやってみよう! だれに引っ張られていくか。こういうような戦いをやっているんだね。

 サタンか、神か、神は強い心情的基準においてね一段高い僕の僕から、僕の基準においた場合にはその忠洪を尽したその僕がね、神はそれを以上に上げるには、それ以上の僕圏においての情的基準を中心として、また、引きつけられたところに必ず蕩減があるんだよ。上げるには必ず蕩減がある。そう、そうでしょう。あんた達そう思う?

 フットボールでもいいや、国家的それ勝利者をそれまとめるにはね、今までそのずーと郡からそれから県から選び出してそして、何組がだんだん上がってね、上がるたびごとに同じことを繰り返しますか? しないですか?(する)同じことを繰り返します? ああ、一体俺は部落でやってそういうふうにけってやったんだから、くじびきやってそうやったらいいんじゃないか。全日本の選手権を持ったフットボールがそういう代表団を決めればいいか。やってそこで負けた場合には、負けた場合には、後退してしまうんだね。永遠にね。勝った場合には最後まで永遠に進展するよ。進んでいくんだよ。そういうことをやって、あんた達祭物はね、捧げものは個人においても捧げもの、家庭においても捧げもの、氏族においてもみんなやっておるんですよ。これを繰り返す、次元の高い基準に上がるには繰り返さなければならない。わかりました?

 だから個人蕩減、個人が勝利した蕩減をなしたその基台立ってより高い情的、横的基準を願う男あった場合には、家庭を中心として蕩減する。

 家庭からまた氏族方面に上がるには、一段上がるにはまた同じことを繰り返すよ。またやる。これはサタンがやればやりたいことである。それは民族基準においては、その基準において統一教会の原理がいいのは、条件蕩減だからいいんであって、まだやる時はあれこれそうはいかないよ。条件蕩減も次元の差異によって果たされる数は異なってきたね。それを一ぺんでやった場合には、いっぺんでそのおしきることができる。

 しかし世界的の条件を立たすにはまだまだであるというんだね。世界は国家基準がなけりゃ世界的条件立たされないよ。基台ないのになんでそこらに立つんだ、立っているんだ。そういう結果になるんだよ。そういいながらして行くんですよ。あんた達、それがそっくりそう考えてごらんなさい。フットボールみたいにね、全国の選手権をね、ねらってやると同じように高い次元を満たして行くには必ずそこに次元の差異、次元が変わる時には必ず蕩減がある。ここにぶつかかるんだ。こうなるんですよ。これ間違いないでしょう? だから神はこうでしょう。落ちてしまったりするものはあとば、原理を滅ぼしたら何、どうして、アダム・エバ、堕落したそのものを死なない前に復帰するようなこと何回も繰り返したらいいじゃないかと。それにも拘らず神様は今までずーと歴史路程を通過しながら、何回も親のいわゆる摂理路程だけ見た場合には、神が勝った時はないんだよ。全部、全部失敗して負けたようなかっこして、如何にして今までの歴史路程に引き続いて、これを摂理しておる、しておるや。それをあんた達疑ったことない? 我々も一回でそれをおしまいの心で神様は何回間違ってもこれは今まで摂理、摂理を発展させた条件において、これは引っ張って行くことができるや。こういう問題になるんですよ。

 愛の最高基準

 問題は愛の問題だ。サタンと神を中心としてみて、神はいかに復帰できるか、復帰できるや。ほかに愛の、愛のその本質から見た場合には、愛の問題で結んだものが主管するのが原則であるにもかかわらず、神が如何にまたこれを取って行こうとするか、この問題ひっかかるんですよ。そこにおいては、愛の基準において負債があった場合には、そのほかにはかからない。よりよい、より大きうそれを愛を果たすところはね、よりよい、より多いもっとすばらしい愛をやるというところには、それを反対するものはない。悪も反対することもできないよ。より少ない愛をやる、やるという、自分にとってしまってやるとするならばそこが問題なるんだよ。よりサタンあんたより大きい愛を捧げるから、それ以上あんたの愛より以上のものを願っているんじゃないか。だからそれいくら願う愛情の最高基準をわしはやることができる。じゃあ、愛の心情の競争だ。という場合ははね、まあ、そういう立場立ってるんですよ。だから、まあ、復帰の道を出発することもできるし、今サタン世界においてね、サタン世界でこれを僕の僕、その基準になったら、より愛されるものに引っぱられるという基準があるとするならば、それが創造原理とするとあるならば、より大きい愛の基準をもって向かえるところには、何回も神様に対して反対するにちがいないんだね。そうだろう? だから僕の僕の基準に即しておるそのサタン世界には、それより以上の愛をした場合には、神は創造できないんだよ。そこで引っ張られてもどうにもならないや。こうなっているんですよ。それで失敗した場合には、その基準においてその僕の僕の基準の愛をなしたその基準は神はいたらないんだね。それ以下の愛の心、心情でもってはそれは更にもっとできないんだね。だからそれ以上の心情の基準だったら、いくらでもやることができる。

 一回やって不満を感ずるようになっても、二回やっても泣くようになった場合には、それより以上のものを、それをやった場合には喜びになるよ。だからサタンは苦しませる主人であり、神様は喜ばせる主人であるというんだね。何を中心として、愛を中心として。なぜサタンは苦しませるその主人か。愛の心情圏の上にそれを蹂躙させるという主体者だからこういうふうになっているんですよ。

 だから宗教というものは強いんだね、強いんだよね、命がけで信ずるんだね。なんで、じゃ、自分なりに身心共にそれを心情的それを体恤するからね、霊的にね、それで僕の僕の基準から僕の愛を失敗したとしても、そのより次元の高い愛を持って行った場合には、おお、神様、失敗したじゃありませんか、もうよしてちょうだい。とは、いわない。より以上の愛でもってやるんだから反対したりしても、サタンとしてはどうにもならないんだよ。だから神は失敗しながら、どういうような情的作戦を成してきたか、というより高い次元の愛情でもって世の中の万民を愛してきたというんだね。それで僕の僕の愛より僕の愛、それから養子的愛、僕の基準で失敗したとしてもそれは養子的愛をもって、またそれから実子を迎えるようになった。

 サタン世界の復帰

 いろいろ蕩減の道はあるだろう、反対に行くんだな、それはそのまま行かない。いい物食って。そうじゃない反対に行く反対ね。そういう方法の反対方法を、それをなしてその情的道に分かれて行くことが出来るというんだね。国家がこうなっちゃう、世界がこういうふうになっている。今まで我々はどこに立っているかというと世界のこの真中にこういうに、先進国家はこの国の先頭に立っている。というんだね。先進国家であればある程サタン世界の一番先端に立っている。ここにおいて、こういうふうに復帰しょう。さあ、別れましょう。こう行きますか? だから問題は世界が反対だ。

 世界はだんだんせまくなるよ。だんだんせまくなって自分の所へ行ってどこにいるかというと、自分の良心圏内までに行く、良心を中心として行こう。そこにおいてそこから良心一人じゃ寂しいじゃないか。体を持って連れて行こう。連れて行くには、現状そのもののようなそういう因縁を持ったその体を連れて行ってしまったら大変なことになる。ここにおいて良心を中心として体が一つになった体を作って行く。強制的に、こういうふうになっているんですよ。そういうふうにして、こういう個人がポーンと表われた場合には、そこからこれがアダムが創られたという事で、しかしながら、アダム一人で創られないんだよ。天使長の援助とね、この世的の物的条件、環境が動員されて、アダムが創られたんだろう。霊界は今まであんた達を天使長の使命を果たす為に、地上のアダムを創造するようになしている。だからあんた達は、体がこれは無限に生きるんだよ。土のかたまりとか、そうして人間創る時その原料として以外には見えないんだよ。(笑い)そう、そう見ているよ。そうみてそういうふうに何を中心としてこれはまた見るか、というと良心を中心として再びこれを創造した。それ良心というものは、人格、人生観を持った良心を求めるその人生観というものは、今まで人間世界にはこれは生まれてこなかった。なぜかというと神を中心とした子供が生まれていないから、神を中心として理想的生活圏が生られていないから、その人生観というものは今までないというんだね。だから、かっこたる信念に燃え上がった神に一致した人生基準その価値に創造本然の基準に一致した価値に立ったそうした男が、あった場合には、その女は男によって創られたんだね? そうだろう? だからあばら骨を抜いてと聖書は創ったというが、そんなんじゃあないよ。そりゃあ、体は創った話であってね、じゃあ、こうなるんですよ。

 復帰だよ、復帰。もとに帰ってこなけりゃならないというんだね。

 実子と養子

 じゃあ、もとに帰ってきて勝利した場には、これは勝利した自分が、勝利したという場合には、その勝利したというものが神様の実子であります。血統的ちがいのものだというんだね。いくら真を尽して、いくら神に愛されてきたとしてもね、そのものは神の実子じゃないよ。養子だよ。養子が必要とするのは、実子があるときか? いないときか?(いない時)いない時、自分の実子を持っているにもかかわらず養子を作ろうとすればそれは気違いだね。(笑い)養子を必要とするのは、実子がいないから。もしも養子をきめたにもかかわらず実子が生まれてきた場合には、その夫婦はどういうふうに思うの? 「おお、実子、養子を決めたんだからあんた実子も養子に従え。」そういうの? ぶつぶつと他の生活を始めるんだね。そうした場合には実子が生まれて来た場合には、ああ、この養子があの実子より以上自分を愛しなきゃならない場合には、親の心は「このやろう。」というような、というの? いわないの? いいます? いわないの? あんた達分からないかも知れないけど環境から見たところでどう思ってる? いうの? いわないの?(いいます。)

 それと同じだ、エデンの園において、天使長とね、実子と。「ふん、アダムというものは、今生まれたばかりのものが神の関心をもっとも持つし、きもちわるい。」

 そこなんだよ、堕落はそこなんだ、それは、あるべきものその本質からその、そうありそうな、それは思いですよ。考えですよ。だから、だから絶対的法、法律をそこにおいて、きめておかなきゃならない。

 それで神様は願い求めてきたその子供として願うのは実子を願ったんだろうか? 養子を願ったんだろうか? (実子)あんた達は養子を持ちたいの? 実子を生みたいの? (実子)養子と思うものは一人もいないんだよ。しかたなくそうなった場合、しかたないからそれを願うんであって、解決する自由な環境において願うというのは、それはいないや。ただ神様は実子がいないから養子をしかたがなしにつれて行くんであって、実子をもし持つようになった場合には、養子と実子が喧嘩するのを願うか?

 それとそっくりというんだね。じゃあ、どうすればよいのか。ははあ、親から見た場合には、いくら小さい若い年であっても、実子に対してその親が愛すると同じような立場に愛してもらえば、ははあ、最後にはね、最後には親がその養子を応援するよ。そういう道がある。それを説明するんだね。ははあ、君は何も知らないけれども、この養子さんがね、君にこういうような命がけの犠牲をし、或いはこういうような事をなして苦労をして親に対していかに援助したかわからない。かえって自分より多く苦労したものがこの養子であるというのである。そういった場合には、実子そのものも養子に対して感謝するの? しないの?(感謝する)感謝して、感謝して、おお、君来るなというその実子が恵まれれば、恵まれたものをわけてやりたい心持ちだろう。その思想が丁度イスラエル民族なんですよ。

 イスラエル民族とイエス様

 イスラエル民族、養子、養子圏を作って実子をきたした場合に、そこにおいて養子が実子をいかに苦労しながら実子のために奉仕にきたか。この四千年の歴史は実子を求めてきたんだから、それにおいて国はあるいは犠牲になり、民族は犠牲になり、数多くの家庭、数多くの個人がこれを犠牲にして、結局あなたのこられる道のために、そうしてあなたが苦労する道を防備するために、こういうイスラエル国家とユダヤ教を作る為に、養子圏が苦労しました。それに対して神が弁明し、神が応援する立場において、子供は「はあ、そうでございますが、そりゃ実にありがたい。わしに祝福されるものがあった場合には、それを分けてやりたい。」という心持ちを持つような環境に向かって、イスラエル民族はをメシヤにそれを返す約束をきたしたことは、それはユダヤ教の歴史なんですよ。そこに丁度、天使長と同じようにね、ええ? 国家的環境的教会的立場から見た場に、実子のすべての主管圏内に帰すべきそれは、養子圏の準備基台であったにもかかわらず「何なんだ、君が神の子供や。」とこういうんだね?

 それが問題だ。うん? ユダヤ教ね。パリサイ教の信徒達みんな「君が神の子供や!」それはイスラエルの歴史を結ぶ。現在こういうふうに苦労の結果にそれはなれ果てているユダヤの無視する圏、それは無視じゃないよ。公認すべきそれは決定的瞬間が実子があればこそ、自分なりの目的が果たされたにもかかわらず、それを反対したね。それは丁度天使長と同じだね。わかりました?

 だからユダヤ教を中心として「何んだ、神の子って何んじゃあ、イエス様が何んやら、考えて見た場合何んでもないじゃないか。小学校も出ていないや、何んだそれ大工か」

(※ こんにちの分派が、お母様「独生女」についても語っているみたいですね)

 それとも背後関係が来た場には、これ自然と悪いうわさを持っている男だ、みんな鼻で笑う、笑えるようなそういう歴史のものが「ああ、神の子なりや!」丁度国家全体、教室全体が第二天使長の立場に立ったか? 立たなかったのか? 立ったね。これが問題である。それでイエス様は死んだんだよ。だから神は、神は最後の愛を最高の愛を誰を中心として愛すべきか、というんだね?

誰なの? アダム・エバだろう、実子だ!実子! だからそれを向けて再創造の路程をたずねて行くんだから、愛の心情圏、サタン世界において愛情圏のその基台があるとすれば、一番最底の基台から、ずーと、より高めて養子圏まで来て実子を迎えた場には、その養子としてなった場には、それは永遠の僕とならなきゃないんだよ。養子というのは子供だよ。僕は? 僕と養子と同じなの? ちがうの?(ちがいます。)ちがうんだ。僕は決定的血統的因縁がなにもない、もってない。しかし、養子は自分の従兄の関係やその親威ね。同じ氏家において選らぶだろう。血統的因縁が結ばれておるよ。そりゃ、違うんだよ。養子と僕がいかにちがうかというと、僕は血統的因縁なし、養子は?(ある)直接はないんだど自分の先代の関係を中心としておやじとかね、そういう関係を中心としてね、こういう場に神は摂理から見た場合に、養子というものは原理にあったか?天使長しかなかったんじゃないか。それいかにして養子の圏に立たせるか。前代の前の因縁において、ええ? ぞうだろう? 自分のおじとか、それからまあ、おじいさんの関係とか、自分の前代の因縁を中心として結ばれるよ。

 アダムとイエス様

 こう見た場合アダムというものは一体誰だ!イエス様の前代、前のイエス様だというんだね。わかる? アダムというものはイエス様の前代、前の代だよ。だからそういう本質の因縁を持っておるから養子圏が作られているんだね。こうくわしく申したら時間がないや。

 これはあんた達はっきり見分けなければならないんだよ。この、その養子圏はイエス様を中心として一つにならなきゃいけない。ここに天使長みたいな、天使長とアダムにおいての心情的決裂、分別した自分の主体権をもしも、今まで歴史的伝統基準が、ユダヤ教基準を作っておった今までの自分の主体権がイエス様にして、何んじゃ、こう見た場合、世界も同じだよ。再臨の主が来られるその国という国が生まれる時にね、これは世界という国がアベル圏でも養子圏か或いは僕の圏か、僕の僕の圏か、そうなっているんだよ。蘇生、長成、完成圏につながっているというんだね。次元が違うんであって、しかし形は同じだよ、形は同じ国家体制をなしておる。それに対して再臨主は一人ぼっちきりである。その一人ぽっちきりだといってきたとして、そりゃ、一人じゃないよ。それあってそれにそういう家庭が生まれる。それあって理想的子女、それあって理想的国家、理想的世界が生まれるんだよ。その一点の価値というものは、養子圏世界圏に比べて、実子圏理想圏が生まれる。その主体者である。それを踏み越えなければ国家も理想圏に入れないよ。それを踏み越えれなければ世界も理想圏に入らないという立場だよ。そういう立場において、丁度ね日本の国に、日本の国はちゃんとあるにかかわらず「何んだ、養子圏の日本の国だとすれば、実子というその存在は日本の国は何んじゃあ!」という場合には「このやろう!」という場合には、これはどうなる? 復帰できる? できる? できない?(できない)

 宗教でいったら個人的天使長、家庭的天使長、宗教的天使長そろから国家的天使長、だからみんな個人を、個人が家庭、家庭それから氏族、国家となる。宗教は何を中心としてる?氏族を中心としてなっているよ。イエス様を中心として氏族、氏族を中心として国家を建てる。だから家庭、氏族、それから国家なるんだよ。それから、一つの氏族を中心としてみた場合には、統一氏族があった場合には、それから主権、国家的主権、国家、世界となるんだよ。だんだん上がって行くよ。天宙復帰はどこより? 家族より? 国家から、国家、世界、天宙となるんだよ。神様の復帰は国家じゃないんだよ。世界、天宙、神様になるよ、心情の復帰は神様の愛の復帰は、天宙、神様、愛になるんだよ。こうなっているんだよ。次元はだんだん高まって行くよ。わかったの? 復帰はそうなっているんだよ。だから時代的恵沢いかにして時代的恵沢が生まれてくるか。神が摂理は失敗したんだけれども、摂理の方向において、次元を高めて、愛して行くんだから過去には僕の時代なり、今には過去より悪いとしている? 今には養子圏を中心として、実子圏のその心情の次元を我々は迎えることができるから時代的恵沢圏に立つことになるんだよ。わかったの? わかった? だから心情が問題だよ。

 個人出る前に何が出なきゃならないか。天使長だ!天使長、三人の天使長だ、三人の天使長、わかりました? 三人の天使長を宇宙以来これ一人の目的は完全復帰を勝利として願ってるんですよ。それが一人が出たとするには、天運がもしもそれが戻るとするならばそれは三人の天使長のその侍る基台に立たなきゃならないんだね。わかる? それがそのものが生まれてくるこの物的環境が必要であるというんだね。こう見るんですよ。だから三人の天使長と物と世界だね。それから我々の再臨の主とこうなるんだよ。それらのものと、そのものとのエデンの園のその基準だというんだね。だから、結局は霊界と実体界だね。実体界が一つにならなけゃならない。そうなるというと一つになるには、誰を中心として。こういう場合には、歴史的に、愛されてきた歴史は、今日まで養子圏がなんで霊界が今までアダムをさがすまで情的何千万年だ!今まで六千年じゃないよ。何百万年も続けていたんだから、愛を受けた経歴から見た場には、断然と有利になすんだね。まあ、そういうような基準に立っておる。それどころに、それでももちろん男の子一人が再臨主が生まれたとすれば、それならばそれは養子圏の愛じゃないの? 実子圏の愛だよ歴史は、その場合にはその場合にそこより始まるんだね。実子を中心として神の心情の歴史というものは、そこより始まるんだね。わかったの?

 ここにおいて霊界と実体界がこれは一つは天使長的であり、一つはアダム的であり。これはこの期間において蕩減しなきゃならない。霊界全体と実体全体を合わせてひっくるめて蕩減、これは霊界的養子圏と実体圏的養子圏。それに応じて宗教圏である。今まで霊界と、宗教圏を中心として関係もったものは、地上に関係もち宗教圏と関係ないものはいくら霊界へ行っても関係もつことができないよ。そういうものは地獄へ行くんだね。そうなっているんだよ。わかったの? 復帰路程においてはそうなるよ。再臨主のこられるこの二千年以後を見た場合には、ここには養子圏と僕圏とずーとつながってずーと霊界がつながってくるよ。霊界がね、ずーとたたいたらこうなってる、なってるよ。こういうふうに霊界もそうなっているよ。それを比例基準において相対関係によって延長するんだね。だから霊界は実体界のために今、働き、働きかけている。実体界は霊界の、霊界の目的を果たすためにそれを行なう。ただ、それが目的をなしうるまで霊界は援助し、目的を果たすその実体の生まれるまで宗教は続くというんだね。それが生まれたとすれば、それで宗教界の目的が果たされたんだね。そうしてカイン的養子圏的宗教圏、養子圏的宗教圏とした霊界圏が一つになるんだね。一つになって、それがたった一人、一人の世界的養子圏という。代表的養子だから宗教から見た場合には、三人の天使長圏の宗教圏、こうなるんだよ。だからキリスト教を中心とした場合にはキリスト教にはこれは別れることが蘇生、長成、完成三段階に旧約時代、あのローマのカソリック、それから新教、統一教会、三段階だよ。キリスト教を中心としてこれが完成級になったら、そこに仏教とかね、それから儒教いろいろその民族的なこういうふうになっているんですよ。それが成就して、だからそれが三人の天使長的な結び合いを、覆うすべての霊界、すべての人類を動員して今まで果たしつつある、あるというんだね。

 イエス様と洗礼ヨハネ

 そうすると養子というような世界的代表者である。世界的ね、世界的存在である。それがイエス様時代において誰であるか。それが洗礼ヨハネである。霊界を統合したこの地上の養子圏をすべて代表して立ったととするならばそれ一人がね、ルーシェルが反対したアダムの立場を蕩減するような立場に立って、一人がイエス様に完全に昔自分に対して神様が愛してきたその愛の心情をアダム創造する基盤に行くように減少感を感ずるような立場だから時代的に、完全に奉仕し、それこそ喜ばしい理想の実体であるように思われる。そういう計画的、準備的なことをしなければならないから、ユダヤ教を中心としたメシヤ! メシヤ! メシヤ! すべてにメシヤを中心として協助してきた。教会あるのはメシヤ!国あるのは!すべての存在はメシヤ!自分の主張の動機で生まれた場合には、大変な事になる。だからその国が自分を主張する。教会は自分を所有する。教会を代表する。それは洗礼ヨハネがエリザベツの胎児だったんでしょう? だから、そうとう名門の家だった。その家庭においてそれは人知らぬ個人において、人知れぬ洗礼ヨハネがずーと三十余年の生活というものは惨めな生活ですよ。それを考えてみなさい、聖書をみれば「ああ、偉い御方だ。」うん? それは着るものは、らくだの着物を着たしね、食べるものはいなごとそれからみつ、自然みつを食べて修道の道を行ったんだから、いかにすばらしいだろう。そういうふうに思うんだから考えて見なさい。

 それ親戚達が歓迎したと思う? うん? あんた達何才今? 三十になったもの手を上げて。まあそうとういるんだね。あんた達の年令までね、今のうちでも自分の父母が農業したりして、援助せずして、とんでもない山の洞穴に洞窟の中に住んでいる。何かメシヤが来ると準備するという自分なりの思い、それ、その時代に行った場合には、あれは気違いになったというに、これはもう部落これは大騒ぎになる、洗礼ヨハネの立場だったんですね。洞穴に寝たり起きたりして、食べるもの持たずに、いなごなんか食べたり。

 まあ、そういうようないわゆるその、みんなこの世的に犠牲をしながら、たった一つの希望というのはメシヤを迎えるというたった一つのことだね。それ以外のことを考えたら大変になっちゃうんだ。サタンになってしまうんだね。自分を考えた場合、サタンになっちゃうんだね。そうでしょう?

自分が考え、自分が考えた場合には堕落しない、しない前の天使長、堕落動機なった自分を中心として重んずるような思いを持つようになった場合には、それはとんでもないことになるんだ。その基準を蕩減するようなそういうような代表的立場に立たせるには、その環境的において、何希望一つできない。ユダヤ教に対しても希望持つことができない。自分の国に対しても希望もつことができない。

 何よりもメシヤ

 だから、国をすててもメシヤ!ユダヤ教をすててもメシヤ!自分の家族をすててもメシヤ! 自分の生涯をすててもメシヤ、メシヤ以外一切の望みを持たないように神はちゃんときました。それはなぜかというと、こういう中で自分の教会を宗教をかつぐなよ。自分の家庭をかつぐなよ。自分の一個人の栄光をかつぐなよ。ださらすべてをすてても、たったそれより貴重なのは、国をなくしてもメシヤ!教会を犠牲にしてもメシヤ!家庭を犠牲にしてもメシヤとなるんだよ。 自分の生涯を犠牲にしてもメシヤ! こういうふうにして、すべてをそれにこれは一致させる。それに喜びの心でもってわれは行くというような創造的心情基準を神は求めて、そういうような環境に洗礼ヨハネを立たせたということをあんた達は考えなきゃならないよ。そうしたなら、あんた達原理的にあわないんどしょう? もしも、本当考えれば自分の従兄関係なんだよ。自分の六ケ月自分より下に生まれているんだからね、従兄、従兄関係なんだよ、弟だよ。「やい、このやろう」というんだよ。うん? まさしくそれはカインの立場だ。アベルの立場に立ったようなそういうものは、それは昔うわさしたところによればね、とんでもないうわさをみんな聞いておる。うん? それは私生児として生まれてきたからそれは親近の親、親近のわくの人から、みんなうわさになって「それは自分の弟じゃない。」というふうに思っているんだね。まあ、この世的に考えてみた場合には、弟の立場であり、自分として侍るにそのかなえる可能なる何の価値も持っていない。 しかし、神様の命令であった場には、それは絶対に服従すべきであるという立場が間違いでないにもかかわらず、いったりきたりしたり、先生みたらそうなっているんでしょう? 行ったり来たり、まあ、ここに立つそういうふうになった場合には、養子圏霊界、養子圏実体界には一つになって、これが内外一つになるんだよ。養子圏において霊界がないとすれば実体界が養子圏のそのものとして、一つになるんだよ。それから、それを中心として横的にはね、イスラエル国家が外的になってユダヤ教が内的、内外一致しなければ復帰はできないんだよ。そうでしょう? 内外一致した、なぜ、どうして、どこから人が二つに別れておる、良心と肉心が別れておる。それを統一させる根本的思想の基盤を求めて行くのが、摂理の路程であった。それを解決するには内外のそういう関係をこわす。それを一体化したそういう基準を結びつけなければ理想世界はここにこない。だからユダヤ教とそれからイスラエル国家が、宗教が内の方でその外の方は国だね。だからイスラエル国のメシヤ、宗教のメシヤ、これを見た場合には我々は原理から見れば肉身にもね、肉体にもね肉心があって、肉体があるんだね。それと同じようにそういう心で見た場合には、良心を中心として、それは外的の内的立場がユダヤ教で、外的の立場がイスラエル民族でこれが一つになって宗全に一つになる。そこに行く統一神がそれを結びつけるには、一体何を中心として結びつけるか? 心情問題、愛しなければならない、従わなければならない。だからイスラエル民族の歴史はメシヤを慕うように神は、ずーと教えて来たんだね。ユダヤ教もメシヤの為にそれがその実子を中心として、組み合せ家庭的出発の基台を果たそうとしてヨセフの家庭とザカリヤの家庭を見出して行ったにもかかわらず、それが二つの氏族だよ。それ一人一人が国を愛し家庭が国を愛した場合には、そのものになるよ。氏族が国を愛するんだよ。だからそれが個人的カイン蕩減はもちろん、家庭的カイン蕩減はもちろんそうなるんだよ。それが、氏族的カイン・アベルの蕩減は一つになるんだろう? そして氏族的一つにつる。そうなって行った場合には、それから氏族強一つになった場合には、洗礼ヨハネ家庭とイエス様の家庭が一つになった場合にはね、そのままその中ですべて十二十二弟子もその中にいるんだよ。七十門徒もその中にいるんだよ。一二〇門徒もその中にいるんだよ。そうでしょう? 親戚を集めて、それは救うことが出来るというんだね。そうしたら、イエス様は結婚してね、だから個人のアベル圏、個人の養子圏を中心として、個人の家庭、家庭的養子圏、氏族的養子圏こうなっているよ。それが洗礼ヨハネを基準としたその時代はその洗礼ヨハネはその予言者としてね、そりゃ、それを言われたのが信仰の深い、そうだったんだろう。そりゃ、ただ個人の背後には家庭があり、氏族があり、それから教会があり、ユダヤ教があり、それから国を作る。そういうふうにつなぐようになっておる。うん? そういうふうにつなぐようにして組まれた場合には、イエス様は死なないんだよ。だからイエス様家庭を中心として、ヨセフの氏族を結ばれた。ヨセフの氏族とその洗礼ヨハネのその氏族ね。

 国家的勝利圏

 ユダヤ教とイスラエル国家が一つになったとするならば、それから国家的勝利圏が生まれてくるんだね。それから世界的カインの国家的象徴がローマである。その基準において、一つになったとすればその環境のすべてのその国たるものはそのアブラハムのね、その十二氏派の圏が中近東とアラブ圏だよ。その時ローマ帝政時代は政治力は相当麻痺してしまった。その時期だよ。聖書を読めばピラトがね、群集を非常におそれたのを見ても、いかにその力がおよびつかないというような立場に立ったということを我々は見計る事ができる。そういう風にして、もしも国と教会が一つになった場合には、それはすべてが結束される。そのアブラハムの子孫である十二支派を中心として、ヤコブの子孫である十二支派を中心として、アラブ圏すべてを統合することなんだよ。そうしたら、ローマに向けてこの中近東一体が一つになったって、そりゃ、まあ、反対したってローマに向けて新しい思想のその歴史がね満たすことができるというんだね。そうやってローマを屈服させた場合には、それは世界的復帰はそこにおいて果たせるというんだね。だからまずもって、国が問題だ。

 だからイエス様を中心として、イエス様はアダムの立場にもかかわらず、それは、きっすいの実体として生まれたイエス様の前に準備した養子圏、それは霊界或いは実体界において、イスラエル選民を中心として、内的の中心の立場に立つのがユダヤ教であり、それが外的の国の立場に立つのがイスラエル国家であった。それが一つになってメシヤとおうになった場合には、国家主権を中心として復帰の時代は完成されるというんだね。国家が成り立った場合には、その基準を中心としてローマ! これは退治して神の方向に進んで行けばローマは、それは自然然と衰えてしまって計いく結果になる。これは中近東の膨大なるそのイエス様の理想圏が生まれた場合には、ローマは救出されるものが四百年の歴史過程蕩減の道を通してそれが復帰したね、そういう結果になっちゃうよ。わかりました? (はい)そういうような歴史の過程を来た。

 行くべき神の国

 こういうふうに考えてみるというと、行くべき神の国、行くべき神の国はどういう風にしていかれるか。養子圏をそれを相続しない場合はね、養子圏を実子が相続しなければならない。そうでしょう? 相続するにはこれはなかなかむつかしい。歴史過程が今までやってきたその歴史性というものは、自分を中心として考えるようなサタン的基準に成り果ててるんだね。それで文化圏を持っておったならば、文化圏すべてを犠牲にして、だあれも持っていないイエス様に、よう背後のその人格の基準とか、この世的見た場合には、イエス様は誰が信じることができるのか。今、イエス様偉い聖人であるというように、歴史的から数多くのその蕩減の価値をね、犠牲にしてしまって、それによって高まった基準があるから、それをあがめることができるのであって、イエス様自体にあんた達待ることができるや、考えてみなよ。それはなかなかむつかしいというんだね。

 すべてを持っておるその文化圏の最頂の最絶頂の立場に立ったその養子圏の世界は、何んにも持ちない、その男一人、一人ぼっちにするの? 国もなければ何にもないんだよ。エデンの園には、アダムは二人ではないんだよ。そうだろう?こられるその御方というのは二人じゃない、一人! たった一人! 一人ぼっちで来るその御方を、それをすべてに復帰すべきその基台を今までその歴史的キリスト教はね、準備してね。同じこと、ユダヤ教と同じような思想の過程を再びこれは繰り返してやってくるんだね。いざというそういう時になって行く時には、必らず蕩減の世界となるだろう。二つに切られる。祭物は二つに分かれる。それに世界は、分かれる。血を流すようになる。その血を流すのはどこか? 祭壇の上であるというんだね。そういうところが生まれてる。それはまさしく韓国のような立場である。そこには四十年というような、その民族は四百年あるいは四千年の歴史的悲哀をサタン世界においてそれは、拘束されて苦労した道があるから、四十年の過去四十数に該当するその迫害の経験をつんでこなきゃならない。まあ、こういうふうになるんですよ。日本を中心としてアダムはエバに主管されたその基準を蕩減するにはね、エバに主管されるその基準がある。それを主管された立場において勝利なさないというと主管される。されてきたエバによって、今まで堕落の経過を積んできた歴史的勝利の基準を条件として立たせることができないというんだね。それを乗り越えなければアダムとして、それは通れるこの世的なサタン世界をぬけ出るその道を逆に作ることができないというんだね。そういう歴史的内容を持ちまして、ずーとやってきておるというんだね。そのすべての一切の思想はキリスト教たるものは、洗礼ヨハネにユダヤ教、イスラエル民族の思想が集結されたと同じように、すべては再臨の主に集結しているのである。そうなってくるよ。ほれが今までキリスト教の歴史だよ。

 十字架を勝利してローマの迫害四百年時代におきまして、あるいはライオンで、あるいは油の中で、蒸される時代、あるいは殺される、あるいはのこぎりで切って、それを血を流して犠牲になる。如何なる迫害の中におきましても勝利の起点は何か。きたるべき再臨の主あなたの為に、あなたの願うその来られるその一日を待つその思いでもって、忍びきってキリスト教を世界的発展させてきたのがキリスト教だよ。いっぺんにして来たんだよ。それは過去のその民族的イエス様を中心としほ、メシヤ的民族、国家基準を勝利を求めてきたその基準で、我々はキリスト教を中心として世界を未来図として、その集中点を求め、キリスト教圏を中心として、その慕う濃度たるものは、国家的基準以上より上でなければならない。こうなるんだよ。それがイエス様を慕って行った弟子達、十二弟子、聖書にあらわれてる十二弟子、それらはイエス様が、その世代の当時におきまして、イエス様の行くべき道を知らなかった。自分なりの成功を自分なり欲望をそれをかかえて働いてついてきた。そういうものを結果においては、イエス様を最後には、恨んでしまった。そうだろう? 自分の考える世界においては必らずイエス様の前には、怨讐の立場をそれはなされる。そうなっちゃうんですよ。だからイエス様の三年の路程において非常に内心的に苦労された。そうなんだ。我々はそれをあがめるためにきたんじゃない。

 謙遜になれ! 額の上に鉢巻きをして、そうして、たらいでもって弟子達の足を洗うの? 洗らわないの、洗いながら、わしの行くべき道はこうである。共に犠牲に精神を持ってみんなその侍るような精神を植えこもうとして残したもんだから、これ、みんなサタン圏において、相反発するような立場に自然立つのはそれは当然である。いろいろな、そのほうぼう回りながらあるいは、その御飯をかりてだね、あるいはいろいろな環境にぶつかり合う環境において、それは弟子達自分達なりに情的結び合いを多く、或いは強くするための因縁とあるいは思い出の条件として、これは試練できない強固たる力の母体として、その三年の路程間に残したのがイエス様の路程であったというのである。それでイエス様の行かれる所は命かけても、死んでも自分は先に死ぬ、死ぬことがあろうけれでも、先生にはそういう絶対そういうことはあってはいけないんだね。命をとり返えても自分は何ぺんとり返えてもそのイエス様みたいに捧げるというような覚悟を持つようなその立場に決心する立場に立たせるためには、まあ、ひっぱり回わった三年の路程である。それは、とうとう十字架につけられるような、その運命に落ち合うというような、みんな自分なりの願いを求めて、ああ、自分達が求めてきたすべてがこれは叶えない。みんな反対して回ってしまうようなそういう結果になって、宗教はこういうような一方的進む道を残すようにきたというんだよ。それ、まちがい? 事実でしょう? それが今も歴史的にこの時代まで再臨の時代までこれは、延長されてその通りのその再臨が生まれてくるというんだね。その通りの関係が生まれてこなければ蕩減出来ない。わかりました?(ハイ)

 統一教会の使命

 だから、こういうふうに考えて見た場合に、我々、統一教会というものは世界的使命を果たす。そういう教会とすれば統一教会の文先生といえば、それはもしも世界的使命を果たすとするならば、この環境を如何にこれ収拾して行くかという重大問題、サタンを収拾するものばかりではない。君等と先生の関係を如何に原理的基準において確固たるその基台のうえに作って行くかということが、これが何よりも重大な問題だ。こうなるというと養子圏、統一教会において養子圏は一体どこだ!

 養子圏はキリスト教? キリスト教は反対してるんじゃないの? 既成教会は反対してるんじゃないの? それは遠い所じゃないよ。一番近いよ。聖書はいっている、怨讐は自分の家族の中に、そういったんだろう? その怨讐が立つ所は何か、立つ所は自分を主張して出る。それが怨讐の基盤だ。反対はそこから生まれてきますよ。自分を主張して出る所に、何が? 何が? 怨讐基台が生まれる。今我々は歴史的な、歴史的な運命を代表して、こういうような個人的養子圏、家庭的養子圏、氏族的養子圏、あるいは宗教的養子圏、国家的養子圏、あるいは世界的養子圏を代表した主体性に立っておる。我々、統一教会は、そうなった場合には、その養子圏の先頭に立つものは一体誰か? 伝統的精神を受け継がなきゃならない。その養子的立場はどういう立場だろう。これはまずもって重要な問題だよ。

 日本においてメシヤ観の確立ということを今までずーと唱えてきたんだろう。中心者に対してのメシヤ観の確立をどういうふうにするか。

 こ一なっちゃうんですよ。だから、そこを見た場合に共産主義とアメリカの代表だったらニクソン、それは世界を代表してこの二人が結ぶね。頭下げた場合には、 どうなる? 世界は一つになる。こういうふうになるね。かんたんになる。もう理論から簡単なんだよ。(笑い)

 その再臨の主は親の立場である。それが内外に分かれ戦うそれが、外的な共産主義であり、内的な民主主義である。二つが戦う所には帰られる? 帰られないの? それが一つにならなければ親の所へ帰ることができない。親を救うことができない。親を救うこともできなければ、親の所に帰ることもできない。こういう世界的運命圏になっている。だから世界復帰というその表題において、それは家庭の、個人の復帰基準を代表して、その家庭あるいは、その個人を代表した復帰の条件というのは、家庭も氏族も民族も国家も世界も、みんな同じ方式につながっている。だから、蕩減は祭物させるのは同じことであって、あんた達は、カイン・アベルの事をよく知っている。それが一つにならなかった場合には、堕落したアダム・エバを救うことができる? 救うことができなかった場合には、自分の父母として侍ることができる? それが原則である。

 だから、今こういう我々の世界を知るべきである。これ原則の観点から見た場合、ここでただすべきことは何んじゃ! こうなるんだよ。カイン・アベルを一つにさせるんだよ。子女が一つになれなかった場合には親を世界的に救うことができない。親を救えなかった場合には、親に孝行する道ある? ないというんだ。最高の願いは何かと、再臨の主たるものはアダム。エデンの園において、たった一人を中心として天使長圏すべてがその率いる主管圏内に従うべきなのが理想であった。その基準を再びもと返して、それを世界的に適応させるために来られる御方が再臨の主だ。それでは、それが一ぺんに世界的になれないから、、民主主義圏に半分の世界においてね。それをそういうような準備がある。伝統的な訓練をして、世界的に果たして作られた世界というものは、ソビエト共産主義より強く、より理想的であったとするならば、より大きい心情圏が世界万民を愛する基準が立ったとすれば、共産主義者達もかわる。まあ、こう考えて見た場合、我々、今\D03815\D05E13の真心を、真を尽くす。それは真の子女であるという立場に立った場合には、この世は自分のものである! 霊界の養子圏、実体界の養子圏に栄える我々の前に屈服させなければならない。反発するようなものであってはならない。

 どうです。皆さん、個人的に反発する、家庭的に反発する、に反発する、こういうの基台として、やれ勝ったとすれば、これみんな勝利したアダム・エバとなる。強靱なる忍耐性を持たなければならない。あるいは千年かかっても、我々は万年女生き残ってこれを果たし、果たしてしまおう。

 こう考えて見た場合には、■の文先生とあんた達は、これは重大な問題だよ。重大な問題である。

 そうなるというとユダヤ教みたいに、ユダヤ教のその外的な立場は国であったんだね。国とユダヤ教が一つになればいいんだね。そうでしょう? ユダヤ教の願う目的は■を願うと同じような国を愛さなければ一つになれないんだね。誰がなすべきかというと国がなすんじゃないの? これ国というものは外的の立場で蕩生であって、それから教会というものは長成だね。そうだろう? それでイエス様は完成だね。蘇生というものは天使長だよ天使長、長成はエバの位置だ。だから情的基準を中心として。いつでも二番目が問題だよ。情的の基準を汚した者は誰だった。二番目だよ。だから復帰帰路程においていつも二番目だよ。二番目を愛して、だからエジプトにおいて長子はみんな殺したんだ。次男は残したね。愛する、その愛された目的が今では殺したりする。■の基準において、より以上の愛の心情を残して行かなければ神の摂理の基台が残らない。

 我々のイスラエル国家

 こう思った場合には、我々統一教会にはイスラエル国家あるの? ありますか? ないですか?

 この国家を果たすには、我々が血と涙と汗を流してそれを築かなければならない。それを果たさなきゃならない。それは思想的この世以上に愛国心を持って、己の国家を思想的に侍り、共に忠誠を尽くすような実体であるということね、覚悟しなきゃならない。こういうふうになっちゃうんですよ。この国たるものは世界全てを超越したその国であるか、民主主義でも共産主義でもおいつけないという絶対なる唯一の国であるという思想観念に燃えあがって、そこに熱意を打ちこんでいまに忠誠を尽くして行くような現実の教会基準を持っていないというと発展できないよ。だから、霊界は天使長的だといったんでしょう? 国家基準においてそういうような無形の国、天使長的な霊界は天使長を愛するような、天使長が一体となったように地上の基準に結びつけるようなそういう信念を持たなきゃならない、それは誰がするんだと。それはユダヤ教がイスラエル民族を一体化する責任を持ったと同じように統一教会自体がするにはそれは仮想的な国より、実相的な国より以上愛するごとくに果たさなければ我々理想世界は作られない。わかりました?(ハイ)

 これがユダヤ人においては、イスラエル国家に向って忠孝を果たす道であった。忠はメシヤにおいて、孝はメシヤに対して、忠は国に対して果たす道であったけれどもキリスト教には、そういう基台、基盤がない。どうしてこれは霊的基準を中心としてやってきたんだろうか?

 国という時代圏は独特な民族基盤を築いた基盤に立った、そういうイスラエル圏の国はない。それは仮想的国家間を中心として世界はすべての国家を愛するより以上の愛情心をこめて、愛されるような理想的そういう国を愛しながら実体的教団を、これを国家基準より、以上に発展して行かなければ神の願う国は求めることができる?(できません)

 現実のところがその基準に我々はぶつかっていない。我々行くべき国、行くべき神の国というものは、こういうような運命圏に立っておる。それは神の理想圏、理想的な神の国とそれを動かすその統一教会というものは、絶対的一つにならなきゃならない。だから、あんた達は国を中心として、一つになるような実体になっているか? そういうように一つになってこそはじめてメシヤを迎えるようになった場合には、メシヤはここにあったかというね。わかりました?(ハイ)それ原理的である。我々、統一教会の食口というものは、ユダヤ教の立場と同じであるにもかかわらず、そこにイスラエルという国家は実体的にない。いくらそのキリスト教国家があったとしてもそれは仮想的である。それに歴史的伝統によって神の摂理の基台において、そういうように運命ずけられた国はない。

 だから、我々は仮想的国家的基準を中心として、いかなる世界の国家基準より以上の強い理想の国家として、主体の国家として、侍り得られる。一体化しする。そこにおいてこれは二つに別れていないというような信念に燃え上がったそういうユダヤ教圏がこの地上にあらわれてこなけりゃならない。それはなんだ!

 統一教会だ。だからあんた達の後には国がつながっておるんだね。その国はどこの国だ? 韓国でもなければ日本の国でもないというんだね。歴史的関係においては韓国において基台を作ってきたんだけど韓国の上に今までのその民主主義国家、キリスト教国家反対したんださら、反対したその今度再び上陸してやっておる。

 勝利圏は広がる

 我々は、その国を追われた王子であり、お姫さまである。何回死んでも、その国を回復しなければならない運命である。

 だから世界において、我一人でサタン世界を革命すために、責任を持って天命を受けて、地上に降りるんだ。だから一日も、自分の気ままに生活することができないんだね。全てが集中してやる。讒訴の環境をぬって、活動基盤を広めて行かなければならない。こういう立場に立っている。

 統一教会が現世において、ユダヤ教的使命を果たす。それは国があったとするならば、そこからもしも、再臨の主を迎えるようになったとすれば、世界的国は生まれてくる。

 統一教会の願いというものは、国を求めて主に帰るその国を求めている。我々、統一教会という名前が、悲しい名前であるというんだね。国を自分の教会より以上、その国が全てである。

 祭物を分けあって、闘いの間をくぐってきた再臨時代圏において、歴史的終点が統一教会と国家という基準になる。それが完全に一つになった場合には、願ってきた神の摂理から見た場合には、そのメシヤは家庭的メシヤじゃないよ。統一教会的メシヤじゃないよ。国家的メシヤである。

 メシヤは親である。国家的立場に立つ親が復帰されるんだね。親を迎えることができるし、親に帰ることができる。それ以外には絶対に帰れない。

 イエス様が十字架につけられたのだから、ユダヤ教が果たれなかったその道を、再びもり上げる為に、その基準まで引き上げるのに二千年の犠牲を払ってきた。払ってくるには誰が先頭に立つか。神様と共に、僕の僕の道からやってきた。だから、クリスチャンは地下からやってきた。ローマの地下にあるカタコンベを見れば、当時はいかに悲惨だったかが判る。墓地になっているんだね。

 死体の中をくぐりながら、腐った水の中を踏みながら、闘って闘った悲惨な基準が今も見受けられる。だから、サタン的世界の僕の僕の悲惨な立場から血の代価を払って勝利の基台を作ってきた。

 それは何を目的としてきたか、といえば、再臨の一時期、歴史の選民国家であるイスラエル民族、選民国家を指導するユダヤ教、それは真なる神の実子を迎える完全の基準を神が先頭に立って準備をしてきた全てが損われた、それを再び神の子と神が、昔は天使長とか僕とか養子圏を立たせてやってきたが、実子の立場に陥入って、養子圏において果すべき天使長の使命を実子が果すのを見た神様の心はいかに悲惨であったか。

 神の子供として、実子として実体として、そういう歴史過程をふみあいながら、迫害され、あるいは殺されながら、それをしのんで行くのが当然である。と、神が四千年のユダヤ教に費した心情的悩みの道を、二千年の歴史を通してキリスト教を中心として、イエス様は神様の御旨を受け継いで地上において天使長圏的犠牲の道を今まで果してきたということを思う時に、これはいかばかり悲惨なことであろうか。

 それが今だに我々統一教会と韓国を中心として、こういう様なアジア状勢から見た場合に、非常に悲惨な運命の立場に立って、新しい世界に向けて、これを持ち上げて、基台を作っていくということは、それは簡単じゃない。

 これ乗り越えるには、第一イスラエルにおいて、第二イスラエル圏において犠牲者が出た内外的な心情的強固たる精神の結合の基盤を残して来なければ、今までその基準というものはあるいは、個人的勝利基盤、氏族的、民族的、国家、世界の勝利基盤になれない。

 そういうわけで、先生は今ざに統一教会の先頭に立って闘っている。それがどこまで行くか。国までいく。ユダヤ教において殺され、イスラエル民族において殺されたその国まで行く。

 だから統一教会は既成教会を救おう。韓国を救おう。

 昔は槍をむけあって胸を刺すようなそういう立場に立つべきキリスト教が、我々に対し正面的衡突は、今度の会議でもそうだったね。韓国の五大教団の総会において統一教会が問題になっている。女の食口達が先頭に立って朝晩休まず攻撃作戦やっているから、これが全国的に問題になっている。それでキリスト教連合があるんだね。そこでの会議の結果はおもしろいや。統一教会との正面衝突は避けろ、というんだね。

 こう考えてみた場合には、イエス様に反対するローマ圏と、祭司長カヤパという反対の立場に追われていたイエス様の運命とは、まるっきり反対になってきた。

 それかといって先生の覚悟は迎えられる立場じゃない。反対されて、死なずしてここまで上がってきた。そこにはあんたたちが知らないような歴史的悲哀の内容が横たわっている。

 こういうふうにしてが平和圏に立って、何の邪魔ものなしに世界的行くべき道にあった韓国の解放の基準が、こういうふうにして再び春を迎えるような圏に立っている。そうなるというと、世界は全てが平和圏に立って、何の邪魔もなしに世界的行くべき道にあった韓国の解放の基準が、こういう様な再び帰ってきた基準に立って、世界全てが打ち開けて行かなければならない恩讐圏に囲まれてしまった。

 それはまさしく、イスラエル民族が国を捜してきた時のように、アラブ圏に包囲されてこれを闘いぬかなければならない運命と同じである。それは先生が助けてやらなければ、つらぬける道がない。
 こうして摂理的勝利の基台を組み合わせて、原理原則の一致点を決意して、命を掲げて覚悟するものがあれば、それを組み合わせて、サタン世界に乗り出す。

 日本を神に捧げる

 そうなると、統一教会の現在に立っているあんたたち、日本の食口でも幹部でも同じだ。

 我々は国家圏を無視して、あんたたちは日本語を使っている。それは遠い先祖が本当の摂理上において神に愛されるべき善なる先祖が日本にどういう様な因縁で流されて、日本列島に上陸して産んだと同じような立場である。本来の日本人じゃない。今、反対する様な日本人とそれは違う。筋が違う。出発が違う。血統が違う。もし反対したならば、これを切るような考えを持たなければ世界を救うことはできない。恩讐は自分の家庭にある。神は反対された環境にあった場合には、自分の愛するものを切って捧げたね。そういう思想を持たなければ日本を救うことはできません。

 日本国民を捧げ祭物にするような祭司長になるべきそういう覚悟を持たなければ、祭物は祭司長が殺すんですよ。神が愛するものを犠牲にして、世の中を救うためにやってきたんだから、一番神に忠誠を尽す僕、あるいは自分のために生命をかけておる子供を犠牲にしてこの世を救うためにやってきたんだから。

 日本という名を聞いた時には忘れられない。この外的な日本が忘れられない。先生から言えばそうだよ。

 この韓国ということが忘れられない。嬉しい因縁を持たせてやったんだから忘れられない。辛い十字架の道を今まで残して来たんだから忘れられない。思えば思うほど憤概せざるを得ない。そうかといって腹を立てれば、天運が飛んでしまう。そういうこともできない。だから、苦しみをかかえあって、なだめながら未来の地の計画を求めるような、そういう行動をなしていかなければならない。

 日本においては、国が反対すると共に、共産党がおる。

 先生が統一教会の出発当時に、北韓に入って誰よりも正面に衝突して闘った。先生の体にムチを打ったそれは世界的恩讐である。

 先生は今だに平壌の地に帰って、昔のそのものを屈伏させる一日を待っている。名前も忘れていない。姿も忘れていない。

 こういう恩讐圏に立って、大和精神から言えば仇は大きいという。

 日本において我々の数が問題である。

 いかなる強固な兵士がいても、その兵士は我々にくらべるならば、いくら金日成の人民軍がいかなる精神武装して訓練されたとしても、統一思想に立った我々には相手にならない。向うは恐怖で訓練されている。我々はそうじゃない。心情を中心として自分なりにその決意を固めている。まるっきりその動機が違うというんだね。

 国というものは恐しいもんだね。先生もそういう国のために非常にやられておる。やられて、一人ぼっちで反対したってとんでもないことになってしまう。だから、こういう混乱期が、我々こういうようなアジア的混乱期にあるということが非常に絶好な時だ。

 日本国家自体にとっては困った環境であるけれども、我々この時代において組織化し、結合の基台を完成して、日本を救う足場をつくらなければ時間がない。

 こういう時代に我々は結束しなければならない。

 自分の家庭を守ってくれる三つの養子的家庭を持たなければならない。それが信仰の子供である。信仰の子供は、霊界の三時代を代表した天使長を象徴する。縦的歴史過程で三人の天使長が結局、カインがアベルに屈伏しなかったのが問題である、というんだね。アダムにおいて、再臨の主においてそういう様な道を来たんだから、三人の子供というのは、縦的蘇生、長成、完成時代において失敗した、そは霊界において三天使を復帰すると共に、その地上的において実体的三時代性、三主権、三教団、全て分別する。それ全てを象徴した三人の子供。
 これはアダムの家庭において三人の子供、それが祝福されて八人家庭になるんだね。しかし、そうなったからといって、讒訴圏を残しておるノアの家庭だから、サタンの讒訴を乗りこえて神に愛せれる血統的基準は残っていないんだね。だからメシヤを望んできておる。

 我々メシヤが必要じゃないんだね。ノア圏の食口を組んだ基準において、メシヤ的立場に立つのがあんたたちの実子だよ。

 その祝福された子供を二〇才まで真心を尽して、信仰の子供が育ててやる必要がある。

 もしも、その子供が被害を受ける立場に立ったならば、自分の命を捧げて守るような伝統的精神を、伝統的基準を作っておかなければ、この世と祝福家庭の基準を結ぶ基準がなくなってしまう。

 二つの家庭が一つになって、共に親を兄弟で侍る時にサタン世界で初めて地上天国圏の家庭基盤が決定される。先生もその問題にひっかかっておるよ。まずもって霊界に勝利しなければならない。天使長の立場が霊界だから。だからそこにおいて数多くの教祖と闘い、これを屈服させなければならない。最後には神まで反対する。何故か。アダムが神に反対したんだから、それを勝利するには、神が反対した基準に立って、それを乗り込えて、絶対的アダム圏・勝利圏を獲得することができる。そこにおいてサタンは屈服されるというんだね。

 だから、神の命令を聞かないばかりでなく反対するところまで乗り越えて来なければ、この世の堕落したアダムの後孫を復帰するこ資格がないよ。

 そうして霊的養子圏・実体的養子圏、これは既成教会が、キリスト教が霊肉共に合わせて一人の代表を中心として国家を代表して、三人の代表者が一つになって出発した場合には、もう民主主義とか共産主義はないよ。ソビエトも第二次大戦後、すぐなくなってしまうよ。先生の計画においてはね。

 その時、ソビエトは原子爆弾を作っていないし。

 その時、韓国においては主権がなかった。

 一九四八年に初めて主権が作られたのだからね。こういう風にして、霊的・地上養子圏を果して、既成教会は非常に反対した。
 イエス様が弟子達を集めて、第二イスラエル圏を受けつぐユダヤ教の立場に立ったのがキリスト教である。
 そうすると、先生と統一教会と国。国は蘇生であり、教会は長成であり、先生は完成である。それは、どんな権力でも切ることができないという場合には天国じゃない。永遠の世界じゃないよ。全てを向けても助ることができない、こういうところが、我々統一教会の立っているところである。
 この道は強固な自覚を持って立たなければ神はあんたたちの行くべきところに援助することができないんだね。

 今度あんたたちが来て、まずもってこの決意を、台湾と三位基台になるんだね。神を中心として、平面的基台を結ぶそれにおいて、台湾が蘇生とすれば、日本は長成である。エバ国家である。堕落した経路から見れば、それは天使長から始まっている。復帰はアダムから始まる。先生と日本が今、台湾に影響を与えている。今度の七日間の断食で、台湾は完全に一つになったんだね。それにおいて、台湾があんたたちを十二名招待したのは、復帰路程において、天使長が十二支派に侍る、という条件になった。あんたたち、何も判らないんだけれど、こういうようにして摂理は進んでおる。

 万物は誰が先に失ったの。エバが動機である。復帰の道においてはエバから動機になる。万物の復帰の動機になる。そればアダムの主管圏内に入ったならば、復帰の運勢圏になるというんだね。

 共産主義問題

 ソビエトは蘇生、中共は長成、金日成は完成だね。中共といえば、共産党を中心として、長成圏、エバだよ。エバを通して向いあう。

 だから、日本が中共と一つになる。何に向って、人はどうでもいい、物をだ。サタン圏に頭を下げるのは堕落じゃないか。しかし、アメリカには頭を下げた方がいい、というんだね。アメリカなは天的天使長だよ。それは、完成するまで、アダム・エバを保護すべき使命があるから。

 中共に行くにしても、天使長的アメリカを先に立たせて行く。そうしたらアメリカによって、中共はやられる、というんだね。

 アメリカを先に立たせて、日本は急がなくていいんだよ。アメリカが中共と貿易の取り合いをする。天使長はエバのところに戻って来なければならないんだよ。

 何故か。アメリカと中共が貿易をすれば、アメリカは太平洋をり越え、地球の半分も離れておる。運賃が問題だよ。アメリカはまた賃金が高い。中共の日用品なんか作ったら大変だ。今だに、中小企業製品はアメリカは日本に頼っている。だから、契約はアメリカがやっても、物は日本から作っていかなければならない。日本はまるもうけである。

 今、日本がアメリカをさて置いて、中共と交渉しても、かえって安くなってしまう。エサにかかっていることを良く知っているからね。アメリカはそうじない。堂々たるものだ。やりたかったらやるし、やりたくなかったらやらない。

 先生は、中共の今から七年先を見ておる。何んとかして基幹産業を発展させなければならない。工業部門を発展させなければならない。もし、アメリカが貿易するようになったら日本は今まで以上の膨大な経済援助を得ることができるよ。

 インドとソビエトが不可侵条を結んだね。これは、日本にとって考えられない。中共は南侵政策をやって、インドを手に入れれだ、東洋は自分のものになる。アジアは自分の気ままにやれる。シンガポールで切ってしまえば、日本は行く所がないんだよ。インド洋がふさがれたら、日本は二週間以内にやられてしまう。
 この中共の南侵政策を防ぐために、ソビエトはインドを狙った。こういう風にして、アジアにソビエトが援助したら、日本はどうなるか。日本は行く所がない。

 こういう色々な問題を中心として見た場合には、我々統一教会の今後行くべき問題、アジア的立場を考えてみた場合、勝共連合というものは、アジア的発展の基盤をつくるいい運勢圏に入りつつある。
 韓国と日本と中国の統一教会が一つになれ。なって、神と一体化したより以上に強くなれ。問題はそこである。

 祝福の基台

 「行くべき神の国」の結論を出しましょう。

 我らの行くべき道は、四位基台圏を中心としてなしていく。先生を中心として行くんだよ。

 一九六〇年の成婚式まで前もっぱ先生は三人の信仰基台に立つべき、イエス様の三人の弟子の相対者を決めてやらなければならない。お母さまと内的な因縁を結ぶと共に、相対関係を結んでやって、結婚式は先生が先にやるんだよ。

 ノア家庭の八人の家族を乗り越えながら、全国が反対する中でやってきたんだね。

 それから十二双を中心として三十六双。そういう風にして、第一イスラエル民族圏の基準に立つべき内的基台を作り出している。

 イスラエル民族において神が果してきた路程において失敗しなかったという勝利の条件の基台を作ってあげなければ蕩減の道も生まれてこない。

 こういう風にして、三十六双、七十二双ね。

 三十六双は私達の先祖なんですよ。この世の中を見れば、既成家庭がある。それに、イエス様が新郎、新婦を慕ってきておると同じような愛の相対関係で目的を果されなかったものが沢山いるんだよ。それから少年・少女だね。それが平面的地上の群なんだよ。

 これが三段階になっている。それが三十六家庭だ。こうして、神の国において、自由自在にそういう様な窓が開かれておるから、蕩減の勝利圏を作っておるから、誰でも祝福されるような平面的時代圏に入っておるよ。ここまで来るのに六千年かかったよ。

 三十六双が結ばれたことによって三時代が一つになった。そして、その家庭に、カイン・アベルが反対して復帰できなかったんだから延長されてきた。それを蕩減するのが七十二双だ。こうなるというと家庭を中心として、カイン・アベルの果されなかった立場を蕩減した準備になるから、これはメシヤが来るまでの失なわれた家庭基準だね。

 百二十家庭は、イエス様の百二十門徒が五句節において果したその基準だね。それは、世界の主権を象徴するんだね。

 こういうふうにして、一九六九年を中心として、こういうような世界基盤を作って復帰のを辿ってゆくんだよ。四三〇双は何か。四三〇双はね。これは、全国の全体数を象徴するんだね。四三というのは、韓国においては、四三〇〇年を意味するんだよ。そうなるというと、丁度韓国紀元年数からみた場合に四三〇〇年の歴史だよ。四三〇〇年の年数以後、四三年の後それは、イスラエル民族が四三〇年を中心として、新しいイスラエルの国の為に出発したんだね。そうだろう。

 それをするには、サタン世界に於いて氏族圏だね。かくいう時代圏に属しているものを集めてこなければならない。それは家庭的四三〇双だね。それは全国イスラエル圏は圏を象徴する国民的全てだね。蕩減の道を開いてやっても、全てがどこからでも、それは復帰の道が開かれるという、まあ、条件の立場で四三〇双を祝福したね。それで、国家基準にそれを成したんだから、世界基準を相対的にそろえなければ、世界が入らないというんだね。だから、十ケ国が入る。国家は十ケ国あったら、十ケ国あるいは十二ケ国が問題だよ。十二ケ国は十に等しいという。そうなっておるだろう。だから十ケ国を中心として四三双、こういうふうに組んだんだから国家的基準は、世界的に結ばれるというんだね。それを、だから昨年十月二十一日に世界的、世界的万民ね、万民が神の国に入れる。それを家庭的基準を作ってやらなきゃあならない。それで十ケ国を中心として七七七双、これを完全にしたよ。家庭的世界基準を立たした基準になるというんだね。

 壮婦を大切にせよ

 何やっておるんだ。そりゃあ、もうわるい見本ばかりしかない。何にも持っていないね。こう見た場合、あてにならない。のいうんだね。わかったの?あんた達、壮婦など危介ものだというんじゃあないよ。そうだろう。今迄、金のいる時にはあの壮婦は必要だけれど、そりゃあ、金だけ出出した場合には色々干渉したがるから、しゃくに障る。これ支障をきたすというふうに思ってきたんじゃないの? 今迄はそういうふうに思ってきたよ、そうだろう(ちがいます)

 卒直にいえ、ちがいますといえるか。いえないやつが多いんだろう。壮婦達は先生の所へ来た時、あんた達、先生に言いたいことみんな言え、といったら「あー、五〇いくつになって、青年にあんなこと言われて、それはもう顔がたたない。死んだ方がましだ。」と言うんだ。まあ、あんた達の前では言わないんだけど、卒直に今後先生の所へ来て皆んなぶつぶついうよ。あんた達、李先生に聞いてみな、こっそりね。先生が嘘言っておるか。そうだよ。あーん、ぶつぶつ言っておるんだよ。あんた達、信仰の子供と言えばね、信仰の子供というのは、三代基準をなさなければそれ問題だよ。復帰は年寄りから復帰するんだよ。堕落したんだから復帰の道は、サタンの方は若者を皆な連れて行くんだよ。しかし、一番びりこになったものはどこだ。死にかかったおじいさんではないの? おじいさんは死にかかっているんだよ。さきの方へ行ってもうたおれて死んでいる。おばあさんは死んでいる。アベル側にね。それを早く、早つかまえながら、ちゃんとおばあさんが、おばあさん、死にかかったおばあさんから摂理の心情基準は、それは取り継がなければならない。そういうこと考えてた? よっぽど幸福だよ。そういうようになっておるんだよ。おばあさんから心情復帰の時代はね。おばあさんの信仰の基準を受けついで、おじいさんが立つんだよ。

 すみませんっていうんで、ほねがおれ、頭がわるい。うん、足がわるい。こういうふうにして、男でこれ以上悪い男がないようにあらわれる。そういう境地に立ったそのおじいさんを中心として、復帰の心情圏は成り立つんだよ。なぜ打つか。打たなければならないんだよ。サタン圏だ、サタンだよ。サタン。堕落したサタンと復帰したエバとそれを打つよ。打つよ。死ぬ迄打つよ。もう一ぺん、にくくて、にくくて仕方ないというような復帰の過程を通過した基準に於いて復帰の基台を進めているよ。そういう歴史がたくさんでてくるよ。おばあさんから、おじいさんから、それから壮年層から、それからそれをとりついでそれが青少年、青年時代を通って青少年迄くるんだよ。

 我々、統一教会は二〇前後のものがたくさんいるんだよ。そうなっておるんだよ。青春期、何か、そういう年令の青少年圏を主管すべき教会、統一教会だよ。この中にあって、年寄りのおばあさん、おじいさん、壮年、壮婦、青年、少年一つ足りなくたって四位基台にならないよ。四位基台、老年、壮年、青年、青少年、四位基台にならないや、原理的にそうなるだろう。六億をむたって、あー、そのようなそれで四方圏に立った国はないの?

 だから、老年にみとめられ、壮年にみとめられ、青年にみとめられ、青少年にみとめられ、こういう中間中心に立っておるものでなければ地区長の資格はありません。そういうふうになっておる。青少年、老年全部反対したら、先生が第一あんた達に反対しなければならない。それでなくとも先生が何、末だにその、統一教会の幹部達も先生が教えてやってきておるんだね。未だに。おじいさん、半身不随になって、先生、援助している。今、まあ、養老院に行っておるよ。そうするとそりゃあ、まあ、どこへ行ってるかと思えば、皆な統一教会の食口はそう信じられないんだけど先生だけはね。

 こう思うんだよ。うん、先生だってそうだよ。そうすると死ぬんだから。東西南北だよ、春夏秋冬だよ。あんた達、冬は、冬は必要じゃあないの? 冬?「必要です。」冬は何かというと老人の死にかかった者だよ。うん? 秋は必要じゃあないの? こりゃあ、壮年だよ。青年は必要じゃあないの? それは夏は、青年で必要である。春は青少、それを無視した場合には、全部を無視するものである。四方を東西南北を無視したものである。全部無視して東西南北を無視してどこに立つや。立つとこあるや。

 だから、善なる者は老人に認められないと善なる者になりませんよ。青年、それから、青少年、皆な一ぺんであって、そういう人達が手を上げて少くとも、三、四十人、三、四だね。そういう東西南北を中心として、えー、東にも三つ、西にも三つ、南にも三つ、北にも三つ、四、十二だよ。だから、十二ケ月あるんだよ。四位基台だね。そうだろう。その寒い前には、十二ケ月を中心として春の一番いやな寒はの期間というものがあるんだよ。それが皆な中心的な存在向かい合って一つにしたような立場にたたないというと神の立つべき中心点が生まれてこないよ。

 地区長というのは、神の立っておる所だよ。それで、その天運のその方向に一致させる為に、イエス様の弟子は十二弟子だよ。東の方に三人、西の方に三人、南の方に三人、北の方に三人、それからイスカリオテのユダというのは北の方に入るよ。うん、だから春を迎える。世界は春を迎える。世界的な春を迎えるには、世界的の春から夏、秋、冬を越えなければ生まれてこないよ。このように蕩減して、蕩減するように蕩減して、一つの地で愛したという基準を立てなければ神の国の相対基準が生まれてこない。それがないために神様がその四方の中心の立場に臨在することができないんだね。それでイエス様、三年間の苦労は何したか。十二人の為に仕えるのがイエス様の三年間の時代だよ。十二人をいかにして、東西南北、東西南北十二ケ所で、こちら一年の運勢圏を自由に何のひっかかりなしにこえないというと、一年はそりゃあ、まあ、すぎて行かないね。第二の春を迎えるようになるように現在のこ世界に国家的基準に中心として、十二人をそれを喜びの一体となさなければ世界的な十二人の基準は迎えるこができないや。わかったの? だから、ペテロなんかは青年なの? 壮年なの? 年寄りなの? それ考えてみた?ペテロは六〇代こえなければならないというんだよ。気持ちはどうだ。あんた達は、六〇代のおばあさんと結婚するという思いをもたなければならない。六〇代から、四〇代、四〇代から二〇代、二〇代から一〇代圏に入るじゃあないか。そういう基台復帰、六〇以上ならないというと昔の堕落したアダム、六千年以上のエバおばあさんの心情をとり継ぐことができる? できないの?(できない)

 だから、イエス様の弟子においては止全ての層のそれを代表した老年から、壮年から、青年ありとね。どうだ。まあ、あんた達気持知ったの。それは、ちょっと考えればいい。ちょっと考えればね。昼にはね、青少年、青年を相手にせいというんだね。夜にはね、壮年、壮婦とい老年を相手にせいというんだね。わかる? ひまあれば、あんた達、遊ぶし、寝るし、昼寝するだろう。そういうふうにやればね、昼も夜も来ても、夜には寝ないふりするんだよ。そりゃあ、さびしいよ。金を出す時には、先頭に立つんだよ。金だけ出してやって駅あんた達はもう、かえってめんどうになるや、、めんどうになるのがいいんだよ。めんどうになるのがね。あんた達、奥さんは男に対してめんどうなの? めんどうじゃないの? 子供がめんどうなの? めんどうじゃないの? めんどうなればそれは悪いんだけれど、めんどうなればなる程、自分は偉くなるということを証明するんだねよ。

 だから、中心者はたくさんの人にめんどうをみておる者が中心者、そうじゃあないの? それを自分なりに働いたら、これ泥棒だよ。泥棒だ。自分なり良かったわい。泥棒だよ。皆な利用していい、そういう者は永遠に行かないよ。そりゃあ、必らず争いがある、わかれてしまう。分かれてしまう。じゃあ、わかったの。まあ、これ結論終わったしね。

 成し遂げよう! 神の国

 復帰路程におきましては、神の国はどこから求めて行くかという場合にはね。神の国というのは遠い所から求めてくるんじゃあないよ。行くべき神の国だ。神の国は求めてゆかんじゃあないよ。それは成してゆかなければならない。そこから生まれてくるんだよ。だれよりも、それは相対者がおるんじゃあないよ。自分より、天国の法律によって、天国の理想によって、天国の人格基準において、わしは成して行く所に天国は生まれるんであって、それを追いかけて、追ってゆく所に、慕って行く所に天国はまだまだあんた達は、盗んでおらないよ。成して行く所に神の国は成立するんだよ。だから神の国というのは、戦いを残した所じゃないというんだね。

 一つになった所、一つになるには何を中心として、それはまいたのは、愛情だよ。何の愛情、人間的愛情じゃあないよ。人間的愛情はね、一時だけに終るんだね。あんた達の世の中の父母というのは一時的だね。うん、何回か反対し、親不孝した場合には親も知らんふりする。川らんふりするだろう。

 神様は何年、何百年、何千年それは反対したら、反対すればするほど、どうなったの? より高い愛情でもって、抱いてきたんだ。だから、この世的な愛というものは、一時的の基準に尽きるんだって、それをそれを自分を中心に愛する人だから、もしも、犠牲になるというと、それはくずれてしまうんだよ。

 神の愛は、そうじゃありません。一時因縁を結んだ場合には、絶対因縁に向かってそれは働きかける。神自体は、自分はいやしい約束して、不利そうなそういう立場に絶対立つ場がない。立たない。立たない。ここは、ちゃあーんと神は使命を果しておるんだけれど、そういう因縁をかかえて待ちにまった、そうしてゆくんだけれど人間がすててしまう。いくら、そういう時でも知らんふりして、一回、二回、三回以上やってみて直さなかった場合には、仕方なしに神はその人間をすてなければならない。それ以上、引っ張ってゆくには神がいない。神の復帰の資格がない。そうなっておるんですよ。

 蘇生、長成、完成以上通過した場合には、天国も無視してしまわなければならない。そういうような男になっておるんだよ。仕方なしにすててしまう。あんた達、その食口に対して、天国人を作るあんた達の使命、神の身代りの立場に立ったら、そういうような心情をもたなければならない。利用しようと、一時的にあの人は、あの人の金があるから、今、金が欲しいから伝道するんだ。そんな伝道、そりゃあ、泥棒伝道だよ。情的基準、目的基準は全然成り立たない。こうなるんだよ。目的は何か。金なの? その目的が心情的じゃないというんだね。心情といったら、一時的なそういう動くものを相対基準を相手として立つ所に神の国が生まれるんであって、一時的のその要求の基準においては神の国は生まれませんよ。

 金あるもの捜して伝道する。目的はどこだ。知識だね。愛のともる所どこにある。金にある。知識にある。それなの。そうじゃない。その人を愛する。人を愛するのだから、みじめだったら、もっと愛さなければならない、というんだね。可愛想だったらもっと愛しなければならない。これは情的世界の進む道だっていうんだね。だから、人をより分けながらの伝道の仕方はその人は長くないよ。それはある一方面に行ってつきてしまう。だから、老人を見た場合には、老人を老人と見るなっていうんだね。その老年の前に自分は若いものだったら、その老年時代を行くには、青年時代を過ごし、壮年時代を過ごして老年になったんだから、わしというものは若いんだけれども、青少年の年令であるけれども、わしは青年時代のその老人の友達になってやりたい。その時から、何やって、もしも友達になったらいかばかり。いいだろう。それから、壮年時代に友達だった場合には、そういうふうにくるのに迎えて、そうして因縁を深く結んだ情的因縁をもっておったならば、このおじいさん、おばあさんをどういう目であったんだろう。そう考えるんだよ。

 だから、四位基台の情的関係があるから、過去、現在、未来を通して、愛した条件になるし、神を中心として三時代だから、四位基台になっておるよ。全てを愛される。

 世の中で一番年とったその人格者は誰か。みた場合には誰だろう。天宙的、一番年寄りは誰だ。神様だ。神だね。神様の髪が白くなっただろう。一番白くなったおじいさんである。苦労した。どの位苦労しているだろう。一番年寄りの苦労しておる。この苦労したその老人達をも、無視するというのは、神様圏に側すべき近い者達を無視したことになる。そうじゃないの。そういうふうに考えてみた場合には、その部落に行った場合にはね、まずもって、原理的に考えるんだね。だから、摂理的時代において、老年時代がある。青年時代がある。青少年時代があるんだよ。老年時代には、旧約時代、青年というの? ノアは青年というの? ノア壮年? ノアおじいさんというの? どっちがその何だ。ノアおじいさん。アブラハムおじいさん。

 だから、過去、現在、未来、すべてを愛するような人格的基準に立たなければ、全体的復帰の歴史を神の方に引っ張っていくことができないというんだね。

 すべてに四位基台

 だから、四位基台圏だ。男を中心として四位基台、女を中心として四位基台圏を作れば、それを合わせ八人基台圏になるだろう。

 理想というものは、相対関係なくして理想が生まれてこない。だから、四位基台の相対関係は八人になるんだね。だから、八数より出発するんだね。

 統一教会の行くべき道には四位基台が必要である。個人の四位基台なくして相対理想をさずけることができるや? できないんだよ。

 イエス様の求めてきた人間も三人である、というんだね。だから死ぬ所にも三人を迎えなければならない。それは誰かというと、右の強盗と左の強盗だ。右翼というのは民主主義だよ。左翼というのがどこから出てきたかといえば、左の強盗がイエス様に讒訴した。右はイエス様に対し弁解したね。

 統一教会は、個人的において四位基台圏を組ませて、家庭的において四位基台圏を組ませ、教会圏においてそういう基台を作らなきゃならない。そして国家的圏においてそういうことをなさなきゃならない。

 これだけすれば、最後の目的は何か。

 国だよ。世界じゃないよ。

 サタンを代表した国たるものとして、それは共産圏というんだね。だから神の国を作る代表したその国は、ありとあらゆる立場において共産圏を乗り越えなければ、神の国として果たすことができない、というんだね。神の権威と神の意志に神の面子にならないというんだね。

 共産党は物的条件でもってやるんだね。共産圏が今まで発展したのは配給制度があったからだよ。サタンは外的条件でもって屈伏させるんだね。それは神様の方は心情的だね。世食統一の原動力となるものは、物的条件じゃなくて、心情的条件になるんだ。この条件は、むやみにそれを連絡させるのではなくて、四位基台圏をかかわりあいつつやっていくんだね。

 だから供物を捧げたのも四位基台だよ。神を中心として、みんなそういうふうにつながっているよ。

 だから、自分を中心として四位基台を作るとしたらどういうふうになるの? これはサタンになるよ。サタンを中心として四位基台を作るなら、それは神の国くつがえした動機だろう。だから、自分を中心として四位基台を作ろうというものは、これは神の方から見た場合には、これは恩讐だというんだね。

 だから今からの世界をいかに救うという問題だ。愛情を中心として救うのはもちろんである。愛情の心を持ったそういう者はどういう方向に行かなければならないか、というんだね。それは、自分を中心として相対関係をそれを屈伏させる立場においての愛情というものは成り立たないんだよ。

 誰よりも悲惨な道を行け

 愛というものは犠牲になる所により深く、より強く、より普遍の立場において立ちうる。例えて言えば、親が自分の子供に対して、より多く犠牲になった場合には、子供はより多い心情でもって親に向えるんだね。いいかげんに自分の利益のために子供を愛したりしたような場合には、子供は反発する。だから心情は相対基準を中心として、犠牲になるその場が多ければ多い程強くなる。それは歴史的伝統になる。それが悲惨であれば悲惨なるほどそれは世界的伝統になるんだね。

 例えば、日本の国においては、愛国者があるとすれば、金を持っておるし、すばらしい環境において果される愛国者の立場から見た場合には、同じ立場で見た場、同じ立場でありながら惨めな、すべてにおいて反対されながら、それを克服し、乗り越えて、同じ基準に立ったとすれば、その国から見た場合には、どちらを伝統の基準として立たせるや?

 それはより悲惨な立場だよ。それは悲惨な立場において、命を捧げたその愛が一つになった場合には、同じ者だったらどっち活その伝統の第一者の立場に立つか。命を捧げても銃殺されるよりは、手を切られ、足を切られ、そうやって死んだとすれば、この二人がいたら、どの人をその愛国者としての伝統の基準に立たせるや?
 より悲惨なものであればこそ最後の伝統基準として残す。こういうふうに思ってみれば世界を愛するそういう立場において世界に追われながら、世界万民のその反対する道で命を捧げ、その悲惨な運命の道を行ったとすれば、それは世界の聖人、世界的聖人になるよ。

 宗教から見たら、イエス様はそういう立場に立ったというんだね。悲惨な、苦労して行ったそういうものは歴史的心情の中心者になっておるというんだね。

 だから、自分を立たせる時にはね、自分を立たせて、環境を犠牲にさせて、自分は生き残るというのは、それでおしまいだ。

 しかし、人のために犠牲になった場合には、それはその歴史、その国家は消えて行くまでその精神を残して行くんだよ。だから、真なる心情は永遠を中心として結ばれる、という結論になるよ。

 だから、共産主義はどうか。サタン世界はどこまで続くや?

 自分から出発し、堕落の父母で出発したから、世界にそれは自分をうち出して、闘いあって、三者を犠牲にしながら、自分を中心として戦いあい、最後の二人までやるんだね。そういうところまで行く。

 だから、世界を救う主義はどういう主義か。

 自分を中心として、三者を犠牲にさせ歴史過程を通過してきたその結果が共産主義の世界である。こういうふうになって、自分も行くところがない。

 ソビエト共産主義は世の中から消えていくんだね。共産主義自体が世界的になれない。民主主義も世界的になれない。

 スラブ民族を中心にしてソビエトは世界制覇を夢みている。それでは世界は救われない。ソビエトより以上国を越えて、民族をこえて、それより以上民族を愛する、そういう人があった場合には、共産主義はそういう方向に愛の道を辿っていく。

 愛される道がなかった場には、民主主義もアメリカもそうだ。アメリカが先頭に立ってきたら、世界のためにアメリカは勝ったんだだけれど、今、歴史的伝統を見た場合には、第三国を助けて、自分が残った国は発見することができないんだね。しかし、それは歴史上にないだけであって、やらなければいけない。

 こういう立場から見た場合には、アメリカの民主主義は個人主義だよ。個人を尊重し、それによって国を失ない、世界を失ない、結局自分たちのためにやってきたのに。

 こういう世界において、ただ一つの道がある。それは何か。国家を超越し、民族を超越し、世界を愛するためには民族を犠牲にしても、これは行かなければならない。

 自分があった場合には、民族を乗り越えなかったら、アメリカやソビエトはもう世界の先頭に立って、世界を指導することはできない。

 自分がそういうような公的路程において、愛情を持って神の為に生きたとした場合には、そういうような個人、そういうような環境家庭そういうような環境的氏族、民族、国家がこれを成した場合には、そこで始めて神が捜してきた、求めてきた国だ。

 あんた達はそれまでにして一挙にその国を中心として愛し、一挙に世界を愛し、一挙にその家庭を愛するべき基準を持っているか! 家庭を愛したとしても蕩減の道を通さなければ氏族を愛することができない。その路程を行く時には、こういう内容をよく知っているんだけれども、その環境が成り立っていない。反対した以上はそれは個人の復帰路程において家庭の上にも四位基台、氏族の上にも四位基台、国家の上にも四位基台という基準を、これを広めて自分で上がらなきゃならない。だから宗教を中心とする四位基台、国家的四位基台を求めてきたんだね。わかったの?(ハイ)日本とか韓国とか台斜とか、神の国。それで結ばれるその情的熱意がこの世界すべてのその過去、現在、未来のサタン世界においてなき、それ以上の情的基準が民族を越えて世界の為の神の国を慕って成し得た場合に、その基準において世界をまわすことができる。わかりました?

 犠牲が神の国を築く

 この七十五人の誓い、日本のあんた達が一体となった場合には、あんた達、県を中心としてそれを祈った場合に、自分の家庭においてもそれが一番情的作りやすい所は自分の親戚だよ。だからあんた達、祝福された家庭を中心として、みんな氏族のメシヤになるというのは、それはイエス様が十字架につけられたその動機となったその基準を乗りこえた人達を許して、神様の目から許された立場なんですよ。

 あんた達どうだ! その家庭を愛するのがその社会を愛したことになるし、その家庭を愛したことが国を愛したことになる。

 そうなっていないだろう。家庭を愛しても社会という環境を愛するような環境に我々は恵まれていない。そうだろう。だからどうする? 国が問題だよ。サタンの国家を中心として世界、神の讒訴した国を乗り越える以上の心情的一致した個人より家庭、氏族、民族、国家という基準に結びつけるような、そういう勝利圏を果たした場合には、その圏内で個人が愛するその家庭夫婦が国家を代表して、愛した神の鍋いの夫婦として立つことができるよ。

 そういう基盤がなって、その基稲を我々は生命をかけて乗り越えなければ我々行くべき神の国は迎えることができないよ。

 それを成した場合には、それは横的な問題だ! 問題ないというんだね。だから最後には何んによって主管されるかというと、アダム・エバにおいて三つの天使長だよ。そうだろう?

 堕落しなかったその基準において見た場合には、アダムとエバの前に三つの天使長が一つにならなきゃいけないんだね。国家から見た場合にはアダム・エバの国家に三つの天使長、一人はそれはどこかというとそれは中国だよ。蒋介石、だから蒋介石というのは、介石というのは石をいうんだよ。うん?

 介の字は何の字だ。それ、仲介の介だよ。仲だちの石をいうんだよ。蒋というのは何をいうの、介の象徴するその蒋、そういうんだよ。だから、蒋介石の名前は実にすばらしいんだよ。それから蒋介石のその一家を見ればね、蒋石介と蒋経国とそれから蒋緯国は三国家を立たせているんだよ。韓国は日本の方から生まれたよ。経国はソビエト系だよ。それから蒋介石は中国系だよ。みんなちがうんだ。三つの圏がちがうものが集まっているよ。それは三つの三人の天使長だから。

 日本はどうか、佐藤とそれから岸、兄弟が日本の現在まで首相になっているよ。それは、カイン・アベルと同じだよ。それが一つになる。だから中国が蘇生天使長、それからアメリカ、が長成天使長。本当はいって見てアメリカがね、第二大戦後にアメリカが、アメリカを中心として英国が既成教会、キリスト教がね、統一教会という国を持った場合にはね、英国がエバ国家になるんだよ。日本と同じ島国だよ。それが反対したんだから、反対の方に追われて行ったんだから、行ってサタン世界を奪ってこなくちゃ、捜してこなくちゃならない。そういう立場に立ったんだから、日本という問題が、サタン圏だったらその国が恵まれるようになっちゃうんだね。まわれ右をするんだね。まわれ右をするんだから結局一番のびりこのものが先頭になるというんだね。だから、日本はエバの国、日本がそういう圏内に立っておるんだから、神に恵まれるんだね。だから天使長国家アメリカが援助するだろう。ドイツもそうだよ。

 天使長では、これはサタンの悪なる天使長、そのために天使長としては、それは悪の天使長を屈服させなきゃいけない。勝利圏の天使長圏を復帰できないだろう。そうならざるを得ないよ。みんな原理的になっているんだよ。だから1蘇生天使長、長成天使長、完全天使長ね。ドイツ最後のドイツはこれは問題だ、中共も二つに別れているんだよ。そうだろう?中共も二つに分れている。それからアメリカとこれ民主主義と共産主義二つに分かれておるんだよ。それが一つにならなきゃならないよ。天使長の位置に立たない。これドイツだよ。蘇生的にわかれてるよ。これが統一しなきゃならない。そうなっておるよ。それで韓国が分かれておる。韓国はアダム国家である。これ自由世界の共産圏を中心として分かれてるよ。だからこれが三つの問題だよ。韓国と台湾と西ドイツ、おもしろい。西ドイツと東ドイツはそれは、まあ、それは成功するようになっているんだね。共に帰ることができる。こういうような立場に立った時、問題は、家庭でその忠実な生活した者が国の為に忠実な生活をした。代表して忠実な生活をしておる。そういうような民族の我々の国権を持っていない。国を持っていないんだね。だから、いくら家庭的天的立場に立ってもその民族的環境をそれを四方で歓迎されないんだね。そうだろう? 国家の保護の元で歓迎されない。だから、いくら、いくら氏族的立場でやっても、民族は歓迎されない。民族歓迎しても主権をもたなければならない。こういうことを思います時、我々の行くべき神の国という国は、一つの国を持たなきゃならない。わかったの? だから、これを求めるためには我々を祝福した家庭の基準、統一教会のこれは一つ氏族だったら氏族も犠牲にして、この氏族すべてのものを犠牲にして、一つの主権復帰のために相当な準備をして、これを解決してしまわなければ我々の安息圏というものは、平面的世界的に通ずるそういう基準が生まれてこないよ。

 だから、一国だけ果たして神の国がサタン一国家圏より以上これは愛する。それは精神的基盤において、強い誰もおかすことができないというような立場に立った一国を中心として結束した場合には、そこより世界はもう下り坂になっちゃうんだよ。わかったの? それが今、可能なる圏に波打たれるようなそういう時世圏に立っておるんだね。

 それで外的世界はそうなっているから、我々内的基準においては日本の統一教会、それから台湾の統一教会、韓国の統一教会、まあ、偶然にもね、福田さんもきておるんだよ。日本にはエバ国家だから男を行かしたよ。中国はね、韓国人が行かなきゃいけない。日本において関係もった福田さんが行ったというのは、これは摂理的にすばらしいんだね。韓国人だから、こういうようにして才台を作るとなったというのは、それは天使長だから女を通して、アメリカも天使長だったから女を通して、こういうような考えから見た時にね、実にすばらしい。それは統一教会はそうだね。韓国の歓迎の立場をずーと問いつめてるんだよ。

 最後には、心情が問題だ。心情が問題、体と良心を組み合わせる心情が問題だね。それは変わらな

心情問題。それは人間的心情というのは自分を中心としての考え方であり、神の心情は自分を中心としてじゃないよ。子供を中心として考える思想だよ。そういう思想でもって国まで乗り越えて行かなければ我々の勝利のその地上天国は生まれてこないことをはっきり覚えておかなければなりませんよ。わかりました?(ハイ)

 さあ、祈りましょう。

 祈 り

 天の御父様、今まで歴史過程の人たち、宗教人達が犠牲になってきました。それは悪主権の最高の者達が踏まれ、あるいは殺されてきたということを思いまする時、国家というものは本当に重大性を持っていることがはっきりわかりました。我々、統一教会の行かれる道というのは、国を作らなければならません。その国たるものは本然の神の愛情に立つべき永遠の因縁を永遠に残すべき、あるいは伝統において、歴史において残ざるを得ないというような不変の心情的歴史観が作られるべきであったはずだったけど、それをそこなわせる、そしてそれを失ない、また再び求めて行くには蕩減の祭物を通過しなければならない、というみじめなことがわかりました。

 しかし、我々は寺利の基準を求めて立った神の心情の国でありますから、如何なることがありましても自分を犠牲にして国のために犠牲にし、国求めるなら世界のものを犠牲にし、世界が求めるなら神のため、神は心情を中心として犠牲になりつつあるということをはっきりわかりました。自分なりの勝利青は相対的勝利圏を果たすのであり、自分なりの国家の勝利の基準は相対圏の立場に相対者のその勝利の国家をなすためであるというようなすばらしい思想を、今この歴史の方向にたどりて、その方向を果たさないというと、この世界を救う一つの道が生まれてこないということがはっきりわかりました。神は今までそういう歴史的心情の内容を持って果たしてきたんだけど、地上においてその相対者の立場を守り、そういう縦的因縁を持ってこなかったんだから、神の摂理は延長してきました。

 今ここに集まった日本の若者達は、こういう心情的伝統の内容をはっきりとわかりました。今、神を中心として結ばれた心情を気よりも尊い、何よりも貴重と思いまして自分の一生をその犠牲にさしても、この心情的基準を残して戦って行くような神の愛すべき子供となるように祝福して下さることをお願申し上げます。今回こういう来韓の期間におきまして、神の最も願われる国のために立つ勇士となり、国を守るための忠心忠誠を尽す、その神の最も愛すべき子供となるように祝福し、あるいは混うことができるような新しい覚悟をもって日本の地に帰り、神の兵士となるように守って下さることをお願いしつつ、すべての祈りを神のその真の父母の御名を通してお祈り申し上げます。   アーメン



一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

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Last updated  2021.06.20 08:43:47
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