奇   知   外   記

奇  知  外  記

PR

×

Free Space

にほんブログ村ランキング参加中
↓ 応援クリックお願いします ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Category

カテゴリ未分類

(331)

天の父母様聖会_世界平和統一家庭連合

(902)

天の父母様聖会

(41)

天心苑特別徹夜精誠

(80)

天心苑TV[CheonShimWonTV]

(23)

独生女考

(110)

真の父母論

(6)

家庭連合 解散命令

(32)

宗教/天地創造

(657)

韓鶴子総裁御言選集

(101)

文鮮明先生み言葉選集(講演文)

(685)

平和の母・平和を愛する世界人として

(430)

天一国摂理史

(127)

自叙伝で歌を!~「平和の母」オリジナルソング集

(38)

郷  土

(99)

石川能登地震

(20)

家庭・家族

(62)

仕事

(6)

ブログ村

(237)

平和

(173)

驚くほどの古今東西の予言書

(34)

分派(祝福権委譲と異端者・爆破者宣布ほか)

(360)

UCI、サンク

(374)

夜昼の神様

(6)

虚偽「ONE TRUHT」

(21)

ネット拉致・不正アクセス関連記事

(150)

統一運動

(251)

人権・拉致

(168)

国際勝共連合 UNITE(ユナイト)

(44)

ユナイト

(5)

天の父母様聖会_世界平和女性連合

(5)

日韓トンネル・ピースロード

(87)

日韓関係

(108)

韓国

(311)

米国

(29)

PeaceTV、U-ONE News

(219)

天苑宮天一聖殿入宮式

(16)

龍辰憲院長真の父母様の生涯路程

(11)

原理本体論

(1)

天の父母様聖会 希望前進礼拝

(1)

文鮮明総裁聖誕100周年

(22)

世界情勢

(5)

環境保護

(8)

ドラマ

(17)

韓流サッカー

(388)

サッカー

(231)

ピースクィーンカップ

(63)

ピーススターカップ

(46)

城南(ソンナム)

(68)

ソロカバ

(2)

MIRAIOH TV

(4)

PeaceLinkTV

(88)

光言社キャラクター・こうたん

(1)

韓国ニュース

(1)

真の父母論・韓民族選民大叙事詩

(4)
2021.03.25
XML
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​
「真に行きたい所」

ヨハネの黙示録 第21章 1-6節
1960年10月2日(日)前本部教会


 今日お話する題目は「真に行きたい所」です。「真に行きたい所」という題目でしばらくの間、お話します。


 より良い所を捜し求めている人間と神

 地上に生きている数多くの人々は、この時間にも自身も知らないで、より良い所を捜してさまよっているのです。地上に生きている人間がそうでありますので、地上に対しておられる神様もやはりそうであるというのです。我々が生きているこの地上が、本当に良い所ではないという事実を認定するとして、そんな中で生きている我々の個体もやはり、真のものではないという事実を、自認せざるを得ないのです。

 真の世の中と、真の自分自身ではないという事実を認定したならば、この世の中と我々に対しておられる神も、本来のお姿としておられないということを、我々は認定せざるを得ないのです。

 神様が自らこの人間を率いてこられる歴史路程において、神が人間を真のものとして苦待して来られた存在であるとして、不変の基台の上に立ったならば、我々人間も真のその立場に立つことができたのです。ところで今日、神様がそんな立場におられないので我々人間もやはり、願わざるこんな立場で生きていると見るのです。

 言い換えれば、人間が不完全な状態で、真なる姿を慕っている立場でありますから、人間と切ることのできない因縁を持っている神も、人間と共に不完全な立場におられざるを得ない、悔しい立場であることを我々は忘れてはなりません。

 天と地が慕うと同時に、天から由来するところの全てのものもやはり、真なる所を慕っているということを、歴史的に見ても、何を見ても否定することができないのです。真なる所、真に行きたい所は、現実の我々が慕っているのみならず、歴史を編んできた過去の先知者たちも慕い、また我々の後孫も慕わざるを得ない所なのです。



 我々には善を指向する良心があるとして、この良心はこのような目的のもとに動かなければならず、宗教団体であればこれもやはり、このような目的のために動かなければならないのです。心から愉むことができ、生活も愉むことができ、社会が愉むことができ、人類全体が愉むことができる「真に行きたい所」に、人生行路において出逢はなかったとしたならば、歴史が過ぎ去りまた去っても、人類に真なる幸福はあるべくもないのです。幸福を主張するどんな理念も、これは不可能なのです。

 神がおられる限り、必ず真に行きたい所、喜びで生きる所がこの地上に完結されなければならないのです。これが完結されない限り、この地上に戦争が終わらないのであり、全ての矛盾した現象を除くことはできないのです。

 このような人間を救うための救援の目標を、総体的に宗教的な言い方をすると、天国と言っているのです。ですから宗教で言っている天国、この天国回復運動が展開されない限り、我々は真に行きたいその世界に行こうにも行けないのです。神がおられるとして、このような世界を必ず成さねばならないのです。もしも人間に対して約束されたその話の目的を果たさない神であったならば、我々にそんな神は必要ないのです。


 真に行きたい所とはどんな所か

 神がおられるとして、このことを解決しなければならず、また神に従う人間がいるとして、その人間は人生路程においてこのことを引受け、やり遂げなければならない運命の道を行くのです。このようにして成された世の中を、理想世界というのです。

 もしも人間が堕落しなかったら、真に行きたい所という話は必要ないのです。なぜなら堕落しなければ、すでにその場に行っているからです。そのような世界に人間が生きていたら、復帰摂理、すなわち救援摂理ということは、我々には必要なかったのです。

 しかし人間は、このような全てのことを失ってしまいました。ですから今までの多くの英雄烈士たちも、全てを失った立場で出発したのでした。過去の多くの人々が真に行きたい所を捜すことを願い、今も捜していますので、我々は全てのものを失った立場にあるということを、否定することができないのです。それで人間が堕落しているというのです。 堕落によって、我々が願うその希望の世界とは関係がないものになり、永遠なる存在に向かって前進しなければならない心的な理念の世界は行く所ではなくなり、肉的な理念を成すのに汲々としている世界になってしまっているのです。心から願い、心が愉むことができる理念の世界、すなわち天国を失ってしまったのです。しかし心が作用する限り、必ず心が指向する目的の世界を成そうとするのです。

 それでは我々が真に行きたい所があるとして、それはどんな所なのか? それは我々が呼んでいる神に出会う所です。神に出会うと同時に、真の父母を中心とする真の家庭がある世界であり、真の兄弟がいる世界なのです。さらには真なる民と、真なる主権を中心とした、真の国であるのです。

 しかし歴史上に数多くの人々がおりましたが、神の真の姿を見た者はなく、真の父母を持った者がなく、真の兄弟を持った者がなく、真の国王と真の主権を持つ国家がないのです。ですから今日も、そのようなことを求めているのです。

 このように見る時、我々は最善の理念的な要素を、全て失った状態にあるのです。それで我々自身が、どれほど哀れな存在であるかということを感じなければなりません。こんな現実の中で生きている自分自身が、どれほど哀れであるかを感じなければならないということです。

 我々はここにおいて人生行路を新しい方向にと転換させる、基準を立てなければならないのです。現在自身が立っている立場が、どんなに幸福だとしている人間であったとしても、その幸福が永遠に継続するかといえば、そうではないのです。誰かれを問わず、地上に生きている全ての人間は、口に言えないほど哀れな者なのです。勿論、現世において哀れに生きている人間も哀れですが、どんなに権力があり、堂々たる人間であっても、彼らもやはり哀れな存在であることを感じなければならない時が来るのです。


 我々人間が面している現実

 今日の韓国の実情を見やれば、全てが生活に縛られているのです。社会的な事情に縛られているのです。解決しようにも解決できず、どうにもならない立場に縛られているのです。明日に向かう希望の心情は強いのですが、そんな問題を解決する考えさえもすることができない事情に縛られているのです。この現実が自分を永遠の幸福の福地、真に行きたい所に引っ張って行ってくれればいいのですが、むしろそれと反対の方向に、自分を引っ張っているのです。ここに争いがあり、苦痛があるのです。



 それでは今日、皆さんがこの環境において持つ親友が、真の親友ですか? 皆さんがこの環境において持つ兄弟が、真の兄弟ですか? 皆さんがこの環境において持つ父母が、真の父母ですか? 違います。違うというのです。

 堕落の因縁によって絡んでいる環境ですから、そこにある全ての親友も堕落の因縁を脱ぐことができない親友であり、父母や兄弟もやはりそうなのです。このような立場に縛られている我々なのです。

 もしも真に行きたい所で、神を中心として、本然の父母を中心として、本然の兄弟を中心とする本然の理想的な一つの家庭が成されたなら、それはどれほど幸福なことでしょうか? しかしこんな理想的な条件を全て失い、これを慕いながら観念的に考えなければならない立場におかれてしまったので、人間はどんなに哀れでしょうか? こんな哀れな人間を救うことが、神の愛なのです。こんな愛の神ですから、地上の人間が知らない間に、地上の人間が死亡圏に縛られ身もだえている間に、神は我々の背後で、あるいは前で、この道を開拓するために無限に苦労されている事実を、皆さんは知らねばなりません。

 皆さんはこのような環境に嫌気がさすつどに度に何かを憧憬し、その位置が嫌になる度に、新しい何かを考えるのです。しかしこれは皆さん自身だけが考えることではありません。そんな度に神は皆さんの背後で、あるいは前で、皆さんを本然の目的世界にと率いておられるのです。こんな神のみ手が、皆さんと共にあることを皆さんは知らねばなりません。

 この時間は、神がこんな環境にいる哀れで惨めな我々の心の門を開いて入り、我々を真の所に行かせる衝撃を与えて下さる厳粛なる時間なのです。ですからこの時間こそは、わが一生においてなくてはならない重要なる時間であることを、知らねばなりません。この時間に受けた新しい衝撃と感じたものを通して、我々はこれまでの生活を分析して自我を批判し、新しい自分として明日に向かわなければならないのです。このようなことは、皆さんの個人生活や家庭生活、あるいは社会生活を通して沢山体験することです。


 先決しなければならない問題



 歴史的な聖賢や偉人たちがこの地上に来て、人類歴史に貢献してきたことは、自分自身が優れていてそのようになったのではないのです。その人々は、環境と悪に対して敵愾心を感じ、時代を批判し、大衆のまえに新しい方向を示してやるために、天が送った人々なのです。

 歴史路程においてこのような人々を、我々の先祖たちは一度も歓迎してみなかったのです。むしろ彼らを迫害し、ついには死の峠にと追いやった事実を、我々はよく知っています。ですから図々しく頭をそらしてどんなに立派な姿だとしても、神の立場で見るならこれは許すことのできない反逆の一族だというのです。

 皆さんの体には、天の召命を受けた人々、天を畏敬し、天のために生きたその人々を殺した先祖の血と肉が残っているのです。昔そんな人々を殺した彼らだけが逆族ではなく、天に背反した彼らだけが背反者ではなく、その血と肉によるところの今日の我々自身も、そんな立場にあるのです。

 天は過去の歴史路程においてのみ役事されているのではなく、皆さんが生きている今日の現実においても、役事されておられるのです。皆さんは知らないでしょうが、天は真なる親友として皆さんを捜し求めている時もあるのです。ある時には真なる兄弟として捜し求め、ある時には父母として、師として皆さんを捜し求めたのです。しかし我々はその神を親友として侍らず、兄弟として侍らず、父母として侍らず、師として侍らなかったのです。これ以上の大きな罪がどこにあるでしょうか?

 召命を受けた彼らは、一国家を代表した者ではないのです。天上から地上に至るまで、全被造世界を代身し、創造主によって召命された人々であるにもかかわらず、地上の人間たちは背反し、迫害し、追い立てて殺し、やりたい放題のことをしたのです。このような見地から見てみるなら、我々は歴史的な血統を通して生命を受けている存在ですから、どうしょうもなく全部が、天のまえに許しを受けることが難しい背反者であり、罪人たちとならざるを得ないのです。

 罪あるところには、幸福はあり得ないのです。罪あるところには苦痛がつきまとい、苦しい事情が押し寄せることによって、破壊されて終わってしまうのです。

 地上に生きている数多くの人類は、心の底に深く染みこんだ歴史的な苦痛を、未だに精算できないでいるのです。歴史的な悲哀を、我々の体から取り除けないでいるのです。

 それではこのような歴史的な絶望、歴史的な苦痛、歴史的な悲しみ、歴史的な死亡の勢力を、どのように収拾するのでしょうか? 歴史的な苦痛を通して求め入ってくる死亡の勢力をどのように精算し、この悲しみと苦痛をどのようになくすのでしょうか?

 人類はこの問題を解決しなければなりません。これがこの時代にある我々の、切迫した運命なのです。ですから我々は心を集中し、精神を集中し、真心を注いで収拾しなければなりません。今はこのような時なのです。環境も再び収拾し、またさらには心と心情まで再び、収拾しなければならない時なのです。自分を中心として、このような生活をどのように収拾するかが、問題なのです。最後に求める歴史的な審判の関門に向かって行く人類は、この死亡の勢力を解決しなければならないのです。この問題を解決しない限り、真に行きたい所があったとしても、これは我々と何らの関係もなくなってしまうのです。それで全体を精算しなければなりません。


 神の最も大きな憤り

 我々は神がおられることを知り、神と反対のサタンがいることも知っています。サタンはどんな存在か? 歴史路程において、罪人中の最高の罪人です。これまでの6千年の間摂理されてこられた神の前に、サタンは反対してきたのです。6千年の間、一日も抜かすことなく反対し、今この時間にも反対しているのです。

 人間はどんなに悪であるといって、心では天に従うという考えをもっています。真を考えているのです。しかしサタンはこんな人間の心まで、破壊しようとしているのです。このように天の役事に反対してきたサタンですから、全世界がサタンの舞台になっていると同時に、皆さん自身までもサタンの舞台になっているのです。

 それではこのサタンを屈伏させるには、どのようにしなければならないでしょう? 過ぎ去った歴史上の罪を、精算しなければなりません。歴史上に累積された全苦痛を除去しなければなりません。時代的な苦痛が問題ではなく、歴史的な苦痛を除去しなければならないのです。このサタンを自分から追放するには、どうしなければならないか? 歴史的な悲しみから、自分が解放されなければならないのです。そうなればいいでしょう?

 世の中に恐ろしいものがあるといって、サタンよりも恐ろしいものはありません。この時代がどんなに恐ろしいといって、この時代はいずれ過ぎ去ります。しかし人間が堕落したその日から、人間から離れない一つの怨讐がありますが、これがサタン、悪魔、悪神なのです。

 我々が地上に生きている時にある怨讐がいるとして、我々はそれに対して仇を打つのです。一代で仇を打てなかったら、後代を通してでも仇を打つのです。しかし6千年の間、神を代身してこの世の君となったサタンを、人類は追放できず、一度もこの怨讐に仇を打てなかったのです。

 大審判とは何ですか? 地上の人間を全滅させることではなく、大怨讐サタンを滅ぼすことです。これが大審判です。歴史的な怨讐であり、この時代の怨讐であり、未来にも怨讐となるこのサタンを全て処断することが、大審判なのです。

 今までサタンは、真の人間になるためにゆく聖徒の道、真なる良心を持つ人々がゆく道に、あれこれと絡み付いてきました。例をあげれば、この時代にある主権国家があるとします。その国家の憲法や、その国家の理念のもとに善に、あるいは良心的に生きれば、義のある人間であると認められたのです。しかしそんな善は、どんなに認められたとしても時代が過ぎれば引っくり返るのです。そうなれば過去に善であるとされたことが、今日になっては善ではなく、今日に善であるとされたことが、明日には善ではなくなるのです。そうではありませんか? 東側が西側になることはできず、西側は南側になることはできないのです。そんな善は絶対的な善ではありません。一時的に善になることはあっても、絶対的な善にはなれないのです。木に例えて話せば、こんな善は葉にあたる善の行使にはなるとしても、枝や幹にあたる善の行使にはならないのです。

 ですから時代が変わるに従って、善に対する正義も変わり、悪に対する正義も変わるというのです。人間が堕落した後の世の中は、基準が行ったり来たりしますから、言うに言えない絡み合った世の中になったのです。神がおられたとして、このように絡み合った世の中を、全部善として認定するか、でなければ全部壊して再び造るか、全部切って捨ててしまうか、三つのうちの一つをやらなければならないのです。この三のうちのある一つの方法を立てなければ、この地を到底、善の世界に率いることはできないのです。


 終末に当面する問題

 神は地上の人間を、どんな条件もなしに善にも悪にもなさらないのです。勿論、善なる人間と悪なる人間の差異はありますが、その差は僅かなものに過ぎません。善の基準は神であり、悪の基準はサタンであるというのです。

 人間は善と悪の間において、善にゆくこともでき、悪にゆくこともできる立場です。それでは終末になったなら、これをどのように解決しなければならないのでしょう? 悪の主体であるサタンを取り除かねばなりません。そうすれば悪が終わるのです。すでにお話した三つの方便の中で叩き壊すとは、何を叩き壊すのでしょうか? 人間を叩き壊すという話ではないのす。最高の善である神と相反する、サタンを叩き壊すということです。このサタンだけを除けば、人間は悪なることをやろうにも、やれなくなるのです。そうじゃありませんか? 父母が善ならば、その子女も善になるのです。遺伝の法則がそうでしょう。父母が悪ならば、子女も悪になってしまうのです。悪の根が切れて作用しなくなったなら、自然的に悪は解消されるのです。

 終末が近づけば近づくほど、我々の細胞の一つ一つまで、悪が占領して入ってきているのです。ですからどんなに素晴らしいという人間であっても、その人間の細胞までサタンが占領しているのです。寝ることも食べることも全部、サタンに主管されているのです。こんな圏内で今日の世界が動いているのです。しかし他の反面においては、神を中心とした善が占領しているのです。それで二つに分けられてきているのです。

 これから神の側は最高の善に、サタン側は最高の悪に、認定されるのです。皆さん、そうではありませんか? 大韓民国の人間が全部善なる人間ですか? 大韓民国の人間は、大韓民国の人間を正しいとします。右翼の人なら右翼のやることを正しいとみます。であってもその上で見る時も、正しいかというのです。主体とある相対的な関係を結んだならば、全体的に正義だと認めたということです。その細部的なことは調整するとしてです。中心がどうかが問題なのです。

 歴史路程に数多くの人々が生き、この地上に数多くの人々が生きていますが、彼らが神の側か、サタンの側かが問題なのです。神は見えないとして、神を信じないならば、皆さんは悪の圏内から到底、脱しようにも脱することができないのです。6千年の間、もつれにもつれたサタンの金網から脱する道理がないのです。しかしながら神のみ言を信じて守り、生死の決定がなされる立場において「私は神の側です」と言うことのできる信念だけを持ったなら、滅びはしないのです。

 それでは善圏内に残るには、皆さんはどのようにしなければなりませんか?「私はこれこれの罪人です」と告げなければなりません。そのままでは残れないのです。ですから救援という名詞を立て、容赦という名詞を立てるのです。それで終末は大いなる許しを受ける時であり、また大いなる罰を受ける時でもあるのです。これを知らねばなりません。

 審判の日に、人類のまえに自分が歴史的な罪人であることを告げる者は、歴史的な善の圏内に残ることができるのです。その立場において、神の側であるとすることのできる人々は、天上天国と地上天国を主管できるというのです。罪の巣窟において漂う全てのものを精算したという立場に立ってこそ、サタンを押しやることができるのです。

 ですから罪の根が、問題なのです。我々はアダムとエバが犯した罪から、今日の時代的な罪まで負っているのです。ですから我々は「天よ! 私たちは摂理のみ旨の中で、天に背反した歴史的な宗族なのです。救援摂理のみ旨を代表し、時代時代ごとに来ては往った先知先烈たち、言いかえればアダム家庭からノア家庭、アブラハム家庭、モ-セ家庭、イエス、そしてこれから再臨主が来られたなら、そのお方まで背反した歴史的な罪人なのです」という条件を提示しなければなりません。


 希望を果たすための要件

 人間は誰かれを問わず、希望を持っています。希望を果たすためには、事情が通らなければなりません。事情を通すには、心情的な基準が立たなければなりません。そうではありませんか? 誰であっても心情と事情と希望、この三つは抜くことができません。それで聖書に、信仰と希望と愛は、常になければならないものとあるのです。

 それでは神の希望とは、何でしょうか? 神の希望とは、我々が真に行きたい所に到達して、共に生きることです。こんな世界になっていないために、我々もその希望の世界、真に行きたい所に向かって行っているのです。また神も希望がある反面、事情があるのです。その事情とはどんな事情か? 悲しい事情です。喜びの事情を持って、全天下が喜々楽々としたならば、その希望の世界は喜びの世界になったのです。しかし我々が悲しい事情に縛られておりますので、喜びの希望を求めても、風呂敷を背負って行かねばならないのです。今まではこのようであったのです。

 皆さんがどんなに祈祷を沢山して、どんなに恩恵を多く受けたとしても、希望の時や、希望するそのみ旨が、罪悪と悲しい事情圏内に生きている我々を中心としていたなら、永遠なものとして続くことはないのです。朝には変わり、昼には変わり、夕には変わるのです。春夏秋冬が変わるように、事情が千態万象に変わりますので、天の恩恵が希望の基台を得て、我々の生活を通して末長く続くということはないのです。このように受けた恩恵は、一時的な事でしかないのです。

 このような恩賜を越えて、神は世界的に恩賜を与えられるのです。恩恵を与える一人にのみ与えるのではありません。地上にいる数多くの聖徒たちに与えるのです。このように恩賜をとっても、その中で倒れる者が多いのです。しかし天は10人の中で、9人が倒れて一人だけが残っても、その人を標準にして10人を立てたのです。一人であっても、正しい形態の基準を立てたなら、これを中心として一段階上げて立て、さらに上げて立ててきたのです。このようにして数多くの宗教と、数多くの民族形態が興ってきたのです。

 我々は希望を持っています。しかし環境と事情が通じないので、これを収拾するための方法を開拓してきたのです。愛というか、主義を中心として、最後には理念統一を目標にして、生活統一から環境統一をしてきたのです。このようにして希望と事情が、善の希望と善の事情にと完全に成立して初めて、善の心情の園が建設されるのです。これがイエス様が地上に来て成そうとされ、また再臨されて成さなければならない地上天国なのです。 それでは真のその所、我々が永遠に生きるそこは、どんな所か? その所は、わが希望が相対的な価値として現れる所ではなく、わが心情と事情が共に四方性をもって現れる所です。またさらには立体性をもって現れる所です。同時にそこには全てのものを失って生きたとしても、不幸ではなく、悲しむこともない所なのです。そこは考えれば考えるほどに喜び、考えれば考えるほどに感謝し、考えれば考えるほどに押さえ難い喜びがあふれ、体に染みわたる所なのです。そのようになったなら、全てが成就するのです。


 神が苦待される勝利した息子娘

 皆さんもそうではありませんか? 心がひどく喜んでいる時は、皆なが良くはなくても許せるのです。神もこの地上の数億千万の罪人を、許してあげたいのです。罪は犯したとしても、これを許してあげたいのです。

 神も地上の誰かが来て「あなたはこれこれの心情と、これこれの希望と、これこれの事情をもって人間に対して苦労され、救援の役事をされて来られたのではありませんか?」と慰めてくれることを願っているのです。歴史的な心情と事情と希望、時代的な心情と事情と希望、未来的な心情と事情と希望を抱え、勝利した姿でこの地上に現れ「アボジよ!これまでの歴史的な悲しみと恨を解いて下さい」と言うことのできる一人の人間が現れなければなりません。それはなぜ? 歴史的な罪を許して下さったからだというのです。

 歴史的であり、時代的であり、未来的な神の事情と希望と心情を通して「アボジよ!」と言うことのできる息子が来たとしたら、神はとても喜んで「どりゃ、わが息子よ! わが所願が何か」とされるのです。それではその息子は何と答えるでしょうか? その息子は死亡の世界を越えるのに、大変に骨が折れるのです。死亡の路程を開拓するのに凄まじい力がいるのです。しかし骨の折れるこの道を開拓してゆくことがアボジの歴史であり、この道を開拓するために身もだえ、死をものともせず、最後に勝利の城壁を建設しなければならないことが人類の共同運命であることを、よく知っている息子なのです。こんな息子がどうして「私を天に連れて行って福を下さり、無限に生かして下さい」と要求するでしょうか?「あなたの所願がこの地上の罪多き人類を救うことであり、6千年の怨讐サタンを屈伏させることですので、私がこれをやります」とするのです。

 心情を放って神をアボジともせず、事情を放って神をアボジともせず、希望を放って神をアボジともしてみなかったので、今日の人間がこのようにさまよっているのです。とはいっても単に神様を「私のアボジ」と言って、サタンを「やあ 、このサタンめ」と言っても、サタンが屈伏する道理がないのです。ですから天上において神が立てようとされた原則的な息子娘の基準が立ち、地上においても神が立てようとされた原則的な息子娘の基準が立たなければならないのです。この原則は、悪が主管することができないのです。その日において初めて、サタンが屈伏するのです。

 このような歴史的な大勝利の信仰者が来て、勝利の喜びを万人の前に返さなければならないのです。そのような者が来たなら、彼によって人間は審判の峠を越えることができるのです。しかしサタンだけは許せないのです。そのような時が、大審判の時なのです。火の雷を落として、地を滅ぼすのが審判ではありません。そんな神様なら、どうして愛の神といえるでしょうか? この世でもそうではありませんか? 失った子供を見つけたとかあるいは結婚式をするとか、嬉しいことがあった時には過去の怨讐も許し、過去の悲しいことも全部忘れるのです。神様も地上にいる数多くの罪人たちを、喜びを条件に許してやりたいのですが、人間を許してやれる喜びの刺激を起こさせる息子娘がいないのです。

 ご覧なさい。イエスも栄光なる姿で「アボジ、あなたの心情はこうであり、あなたの事情はこうであり、あなたの希望はこれです。神様! あなたの所願は正に成就いたしましたので、私を見てお喜び下さい」と言ってはみなかったのです。神はこれまで悲しい立場で、人間を許してきたのです。悲しみの圏内で、許してきたのです。ですから許しても、サタンがまたついてきたのです。悲しみの土台が消えない限り、許しを受けても、また罪を負い、また罪を負うのです。神は喜びのその日を迎えるために天と地、全宇宙のまえに「天よ! 地よ! わが息子を高くせよ。今日の喜びを千秋万代に末永く残るように」と言うことのできる人間を望んでおられるのです。

 今日の大韓民国もご覧なさい。第二共和国になりましたが、その前に事件に係わった人々を、喜びを条件に赦免しなかったでしょうか? 霊界も同じなのです。このようなことを考えてみる時、皆さんはこの地上が悪だといって悲しむのではなく、自分自身が解決点を見い出せなかったことに対して、悲しまねばなりません。自分自身がこれを解決できなかったなら、神はきっとこの目的を果たす実体を立ててでも、役事されることは間違いないのですから、このような者がどこに来るか分からないので、眼を大きく見開いて、精神を込めて捜し求めなければなりません。


 イエスを親友とする内容を持っているか

 皆さんを永遠なる死のどん底に追いやるために、サタンは昼となく夜となく戦っています。皆さんを地獄に連れて行こうと、サタンは昼でも夜でも休みなく戦っています。ところで皆さんはどうしますか? 食べたい物を食べ、やりたいことをみなやっています。それでいいでしょうか? それではダメなのです。よしんば体は平安な生活をしていても、心情においては昼夜なく戦っているのです。

 我々はアブラハムを信仰の祖だとしています。彼は誠精を尽くして神に侍った人です。神は彼と同じように誠精を尽くして心情の因縁を連結した、心情的な息子を要求されたのです。ですからアブラハムの真の息子は、アブラハムが生んだ息子ではなく、アブラハムの心情に従い、アブラハムが神と呼んだものを神と呼ぶことを知る人間なのです。彼が正にアブラハムの息子なのです。またイエスの心情に従い、イエスが神と呼んだその神を、アボジと呼べる人間がイエスの兄弟になるのです。

 救い主ということは、罪悪の世の中において必要なのです。救援を受けたその後では、救い主は必要ありません。その時には、親友になるのです。親友だけではなく、兄弟にもなるのです。兄弟。皆さんが腹を持って「イエス様はわが兄弟だ」と言うことのできる人間がいたなら、地獄には行きません。

 それでは皆さんは、イエスの親友だという条件を持っていますか? 歴史的イエス、時代的なイエス、未来的なイエスを親友だとする内容を持っていすか? これだけがあれば問題ありません。これだけがあれば皆さんは、複雑な環境と、事情が絡み合ったこの世界がどのように善の世界になるかということを、心配する必要はないのです。

 左右が対立している緊迫した世の中で、今日皆さんは右足は右翼を踏まえ、左足は左翼を踏まえているのです。右手は右翼を握り、左手は左翼を握っているのです。これらは互いに戦っています。戦う時には胸を打つのではなく、頭を打つのです。こんな時に、理念もなく、神もなしに戦ってはダメです。

 このような世の中を見やる我々は、その戦いの目的を解明しなければなりません。これは人間が、戦いたくて戦っているのではありません。誰が回すのかも分からず、コンパスの脚が回っているのです。コンパスの頭は他のところにあるのです。人間は、金が儲かることばかり願っているのです。

 どんな人間でも、滅びたいという人間は一人もいません。皆さん、ミョンドン街に行ってご覧なさい。物凄い眼をして、10ウオンでも損はしまいというのです。みんなが10ウオンでも利益を得たいというのです。これは誰が、このようにしたのでしょうか? 自分でこのように造ったのではないのです。自分が願えど願ったようにはならないのです。み旨の通りにならない理由は、最大の原因が自分にないからです。全てのことは天地運勢によって、その時代の四方性によって全部、複雑に起こってくるのです。


 神をアボジと呼べる者になれ

 今日、国連総会を中心として、非同盟国家の巨頭たちが集まって会議をしています。しかし全ての重大事は、人間同士だけでなるものではないのです。人間だけでやれば、結論を下す時にもぶつかってしまうのです。それで終末には、そのような事がしきりに起こるのです。しかしここに神がいるなら、我々は安心できるのです。反対に神がいないなら、不安なのです。もしも全てのものを調整する神がいるなら、ある目的を成すためにも、ある解決点をつくるためにも、ここに合うように導いかれなければなりません。でなければ安心しようにも安心できないのです。神がいないなら心配ですが、神がいるなら、ちょっと考える余裕があるのです。

 ここにおいて神が解決されるとして、必ず人間を通じて解決されるのです。神のみでみ旨を立て、神のみで解決されるなら、人間を造る必要がないというのです。神のみ旨は必ず相対的な関係、すなわち相対的な立場の人間を通して、この地上と連結されておりますので、神のみではいけないのです。直接なさることはできないのです。法がこのようになっているのです。ですから神がいる限り、世界的な終末期には神と密接な関係を持つ人間を必要としているのですが、その人間はどんな人間でなければならないか? 善なる神がおられ、罪悪のサタンがいますが、これをどのように解決するかが問題なのです。

 この歴史的なサタンをどのようにしてでも処断して、歴史的な神をわがアボジだとすることのできる者にならなければなりません。であればすでにお話しましたように、神が真の息子娘を迎えることのできる、過去、現在、未来の心情に通じることのできる息子娘にならなければなりません。そのようにのみなれば、何の問題もありません。皆さん、そうではありませんか?

 どんなに孝行をしたくても、父母が分からなくては孝行をすることができません。 何十年前に別れた父に出会って、一度に孝行することができますか? そのようにはできないのです。父の顔をじっと見つめ、自分が父に似ているとか、生活の感情が通じるとかが分かって、またある程度の心情の基準が一つになって、孝行をするようになるのです。一度にはできないのです。人間と神の間においても、同じなのです。

 人間が堕落しなかったなら、永遠に神の息子娘になったのです。しかし堕落することによって、神を失い、神をアボジとして侍ることができなくなったのです。

 神は僕を立て、自分がおまえの父であると教えられたのです。僕をして、天使をして教えられたのです。そのような時代が、旧約時代なのです。その次には息子として役事されました。その時代が、新約時代なのです。その次には聖霊をして役事されました。

 皆さん、聖霊が何の聖霊ですか? 母の神です。母の神を立て、役事されたのです。その次には父を立て、役事されるのです。僕にされて役事され、息子にされて役事され、聖霊をして役事されたのです。今、終わりの日には、父を立てて役事されるのです。


 主様はどのようにして来られるか

 今までのこの天地には、神の真の孝子がおりませんでした。勿論イエス様は万民のメシヤであり、天の独り子として来られましたが、この地上で神のまえに孝誠を果たせなかったのです。熱い思いはあったも環境を得ることができず、孝子の行いを成すことができなかったのです。神がイスラエル民族の前にイエスを立てた目的は、イスラエル民族を率いて行って、世界のまえに天が選んだ民族が、サタン世界のどんな民族と国家よりも素晴らしいという事実を認識させ、また世界から認定を受けるためでした。しかしイエスは認定を受ける立場で、神のまえに孝行をしてみなかったのです。

 ですから天と地を代身して、この地上で真の孝誠を果たすお方が来なければならないのです。そのお方が、再臨主なのです。再び来られる主様が、何故に来られるのか知っていますか? イエス様が地上に来られてイスラエル民族を率い、神のまえに孝誠を果たしてみなかったので、これを成すために来るというのです。神はこのような一時を願いつつ、6千年の歴史路程を来られたのです。数千年の歴史路程を転げまわりながらアボジの心情を教えてこられたのです。わしはお前の父であり、お前はこのように育ち、お前の罪が何であり、お前がどうなっているか、どんな怨讐がお前を引きずっているかということを、教えてこられたのです。

 今、皆さんはサタンが何であるかを知らねばなりません。サタンがどのようにして怨讐になったかを知らねばなりません。それで「この、サタンめ! お前は過去に天のまえに許すべからざる罪を犯したろう? 我々人間に、許すべからざる罪を犯したろう?」としなければなりません。我々はサタンの罪を知らねばなりません。サタンは6千年の間、天のアボジの役事に反対してきた怨讐であることを・・・。皆さん! 自信ありますか?

 サタンに対して「今まではお前がこの世界を統治してきたが、今お前は私の前から追い払われるのだ」とすることができますか? このようにすることのできる勝利者が来なければならないのです。

皆さんはみな聖書を抱えています。聖書だけ抱えていればいいのですか? 既成教会では、文某は聖書の通りではない、と言って非難しています。聖書の文字通り生きねばならず、聖書の内容通り、聖書に流れる心情の通りに生きなければなりません。言葉が問題ではありません。心はこうだが、言葉はこうであったり、ああであったりするのです。技術者と話をするときは、その人に相応しい適当な話をするのではありませんか? 時と場所と水準に従って表現するのです。話には内容を、内容には心情を求めねばなりません。

 サタンは神の話を条件にして、役事するのです。心情が通じない話はいくらしても、サタンが反対しないのです。それで恵みを受けたという人を見ると、本当に恵みを受けた人なのか、気違いか精神病者か、いっぺんに分かるのです。ですから神の心情に通じているか、通じていないかが問題なのです。聖書を沢山読んでいるか、知らないかが問題ではなく、み言の背後に潜む神の心情と通じているかどうかが問題なのです。神の心情に通じる立場において「この野郎」といえば、サタンもどうすることもできないのです。


 皆さんは神の勇士にならねばならない

 皆さんがどんなにイエスの顔を穴のあくほど見ても、どんなにイエスの顔に触っても、どんなにイエスと共に行っても、どんなにイエスと共に生きたとしてのも、心情が通じなかったなら全てが無意味なのです。心情を通じて触り、心情を通じて共に生きなければならないのです。

​  聖書の中心はイエスであり、イエスの中心は新郎・新婦なのです。では新郎・新婦の中心は何ですか? 新婦なのです、新婦。新婦が言葉だけでいいでしょうか?  そのみ言の中には、神の涙の刺激があります。そのみ言の中には、神の血が滲んでいるのです。そのみ言の中には、神の汗のしずくが結ばれているのです。涙と血と汗・・・それだけではありません。それだけではないのであって、死の峠まで連結しているのです。神は涙を流される度に、サタンと一大決戦をやったのです。血を流される度に、大怨讐と決戦をやったのです。死の峠を越える度に、サタンと対決したのです。こんな事実を知っていますか? 歴史をどれほど知れば、何かの役に立ちますか? 歴史に通じることのできる人間にならなければなりません。違いますか? 今、皆さんは聖書に通じ、神の涙を求めなければなりません。聖書に通じ、神の汗のしずくを求めなければなりません。聖書に通じ、神の血を求めなければなりません。聖書に通じ、逝かれたイエスの心情を求めなければなりません。​

 皆さん、神の勇士にならねばなりません。サタンは何千万回、神のまえに敵対してきました。その時ごとに神が流された怨恨の涙と、悔しくも憤ろしい峠の数々を、解怨してあげなければなりません。そのようにして、「サタンめ、お前は我々のアボジの怨讐だな。このお方は我々のアボジなのだ。この地はわが地だ。お前はわが僕と同時に、怨讐だ」と言うことができなければならないのです。今日、数多くの修道があり宗教がありますが、この問題を解決できないでいるのです。この問題を解決しない限り、この世の中には平和が来ないのです。来ないのですね。

 こんな観点から見ると、我々韓国の民謡はとても素晴らしいのです。 「月よ、月よ、明るい月よ、宵の明星のみごとな月よ・・・ご両親父母様に侍って千年万年生きて下さい」  これはどんなに素晴らしいことでしょうか? 両親父母に侍って、千年万年生きてほしかったに・・・。我々の民族はこれまで孝道を主唱してきて、孝子と烈女と忠臣を高くしてきました。数百年の間、このような民族の気風を身につけてきた皆さんなのです。今はこれがいつ結実するか否か、ということだけが残っているのです。何と共に? 天と共に結実するか否かが差し迫っているのです。これまでキリスト教徒たちが、神のためにどれほど死んだでしょうか? これがこの時に、結実するか否かということが問題なのです。 聖書を多く知っていると、自慢しないで下さい。博学だと、自慢しないで下さい。泣いておられる神であることを知って、共に泣ける息子娘にならなければなりません。天はどんなに焦り、どんなに緊張されているかを知って、切なくて身のおきどころもない皆さんにならなければなりません。アボジには痛がって死ぬと騒ぎ、苦しいと騒ぐ子供がいい子でしょうか? そんな子供は怨讐です。

 信仰におきまして、最も大切なものは体恤です。体恤する時、自身も知らぬ涙を限りなく流すようになるのです。皆さんは意識を越えて涙が溢れ落ちるのを感じてみましたか? 誰かに悪口を言われ、悔しくて悲しくて、泣くのとは違います。自分も分からない惨めな心情にひたって、止めどなく涙が落ちるというのです。信仰者の本質的な生活というものは、こうであるのです。自分も知らず、苦しみが染みわたるのです。胸がふさぎ、身のおきどころもないほど、染みわたらなければなりません。わが心がそうであるのは、知ってみれば、天がそうであるからです。


 信仰において最も尊いこと

 そのようになればこそ、神の息子娘だと言えるのです。神は声を張りあげておられるのですが、意識的に聞かないで夢ばかり見ているのが息子娘でしょうか? 人類歴史6千年の間、天はどれほど切なく、どれほど多くの死の峠を経て来られたでしょうか? このような峠を経る時、我々の先祖の中に、「アボジよ、どれほど悲しいでしょうか?」と慰める人間がいましたか? 涙の同参者がいなかったのです。汗を流す場において、同参者がいなかったのです。全てが過ぎ去った後で、泣き叫び、騒ぐのです。イエスの生前に、弟子たちはイエスが流した涙を知りませんでした。イエスが流した汗と、こぼした血の価値を知りませんでした。死んでから後に分かったのです。

 終末の時代に神が人間を捜し求められるなら、どのような者を求められるでしょうか?すでにお話したように、神の胸には涙の聖殿と、やるせない心情が残っているのです。血と汗の聖殿と、死の峠が残っているのです。皆さんがこの歴史路程に同参はできないとしても、辛く切ないこの心情は感じなければなりません。ノアの苦労を考えて胸が痛み、モ-セの悔しさと切なさを考えて自分がその場にいるかのように切なく、イエスの寂しさと悲しさを考えれば、身のおきどころもないというのです。歴史は過ぎ去りますが、その当時の彼らの切ない心情を体恤し、泣くことができる親友の立場までいかなければなりません。私とモ-セの時代とは、歴史的な距離をおいていますが、心情においてはイスラエル民族を見やる度に切ない心にひたって涙したモ-セのように、涙を流さなければなりません。こんな人間が真のイスラエルなのです。歴史的な悲惨さ、歴史的な悲しい事実を聞いて、血肉に染みる何かを感じ、この時代の惨たらしさと共に同じ涙を流してアボジと呼んでこそ、歴史的なサタンに対して勝利するのです。でなければとても無理なことです。

 それでは今まで知らなかったこのような事実を、誰が教えてくれるのですか? 神は審判の門を開く時、必ずその心情を代身して示してくれる人間を立てられるのです。ですからこの地上に、そんな使命を果たす人間が現れなければなりません。皆さん、外形的に豪華絢爛、数千名が集まる教会がそんな使命を果たすでしょうか? 違います。なぜ?


 終わりの日に起こる現象

 終わりの日には、頭に油を塗って密室に入って祈祷せよと言われました。人間の言葉を聞いてはダメです。人間の言葉を聞いてはダメな時なのです。新郎の言葉のみを聞かなければならない時です。牧師も、信仰の同志も、最後の峠に来たなら自分の助けにはならないのです。自分は天国に往き、彼は地獄に往くなら、地獄に往くその人間は自分にすがりつくのです。愛する親友が水に溺れたら、助けようと水に飛び込めばその親友がすがりつくのと同じです。その時は同情することができない時です。どんな指導者も、私の命を救ってはくれないのです。そんな時が来るのです。

 このような時をまず迎える地域、国家、教団、社会においては混乱が起こるのです。牧師が長老を信ぜず、長老が牧師を信ぜず、平信徒が教団を信ぜず、教派は教派同士で信じられず、社会や政党もお互いに信じられないのです。国民が大統領を信ぜず、大統領は国民を信ぜず、民は国を信じられない中で、みな引っくり返ってしまうのです。四方を見回しても信じられない混乱した世の中です。そんな中にあって自分が自分を信じ、天が認める信仰の場を捜し求めなければなりません。

 自分のお父さん、お母さんも信じられないのです。みな分かれてしまうのです。これが民主主義です。みな分かれて、みな失ったなら、孤独につき当たるのです。孤独な立場で天の心情に接続させるのです。そんな者は何もない者のようですが、この上なくある者であり、この上なく淋しい者のようですが、この上なく幸福な者なのです。全て失い、より大きな姿にぶつかった場においてのみ、全ての問題が解決されるのです。

 今日、この世の中を見渡して見る時、さらには韓国の実情を見渡して見る時、皆さんは大学に通い、大学院に通っている? どんな博学者になっているの? 心を売渡し、心情を売渡し、善を蹂躪している皆さんです。今、韓民族は、イスラエル民族がモ-セに率いられて荒野に出て行った時と、同じ時代に当たっているのです。荒野においてモ-セが倒れた時、ヨシュアとカレブのような新しい指導者が現れたように、この地上にも新しい指導者が現れなければならない段階に来ているのです。

 それではこの時代に必要なことが何でしょうか? この民族の生きる道が何でしょう?この民族の青年男女は、ある国家的な理念、またさらには天的な理念を、心情を基盤として武装することです。このことだけ成れば、この民族は世界を指導することができるようになるのです。今、韓国が苦しみを受け、苦喪をなめていることがこの民族には悪いことのようですが、これは天が一つの中心を立てるためにこのように動かれているのです。ですから必ず韓国の青年たちを動かす新しい何かが、現れなければならないのです。

 新しい何かが現れますから、戦わなければならないのです。キリスト教、仏教、儒教、どうしょうもなく全部、争っているのです。これは我々の心が、真の行きたいその所を捜し求めるならば、今まで因縁のあるものを全て切ってしまわなければならないからです。聖書をご覧なさい。修道の道を行くなら、全てのものを精算しなさいというのです。全てのものを精算して、出発しなさいというのです。

 韓国は南北に分けられています。父母と子供が分けられ、夫と妻が分けられ、全て分けられてしまいました。教会は教会として、社会は社会として分けられています。これに対する方針が立てられなかったなら、この民族は滅びるのです。歴史を考察し、歴史的心情を探って見るなら、この時代的思潮に新しい衝撃を加えたのが、文芸復興なのです。中世の封建社会を切り開き、文芸復興を引き起こしたのです。神の心情は歴史の底辺を通して今、我々の生活の底に流れているのです。いまや我々は過ぎた歩みを振り返り、堕落する以前の人間始祖に対された、神の心情を尋ねなければなりません。堕落した我々の先祖に対する神ではなく、堕落する以前の我々の先祖を愛して、大事にされた神の心情、造られた息子娘を万物の前に、あるいは天使世界と地上世界の前に誇りたく、抱いて愛してやりたい神の心情を尋ねなければなないのです。今はこれが必要です。アダムが堕落した後の神の心情はちっとも知りませんでした。知ってみれば涙の海であり、苦しみの海であり、悲しみの海であったのです。これを知ってみれば、慟哭せざるを得ないのです。アダムが堕落してしまった場面を皆さんが体恤してみたなら、10年泣いても終わることのない、そんなこみ上げてくる神の心情があったことを知るのです。


 終わりの日に備え持たねばならないもの

 いまやこのような悲しみの歴史、苦痛の歴史は過ぎ去らねばなりません。こんな全ての悲哀の根源が、サタンと共に起こったので、これを越えるためにはまず、アボジの心情を感じてみなければなりません。 これまで聖書解説者も多く、神学博士も沢山おりました。このようなことは全て、過ぎ去らねばなりません。神学というものも、入ってみることもなかった太初のアダムとエバのように、純真無垢なる赤子の心情に入らねばなりません。聖書にも、赤子のようでなければ天国に入ることはできない、とあります。罪を負う前のアダムとエバのような立場に入らねばなりません。

 もしもアダムとエバがアボジの懐に抱かれ、アボジの頬を引っ掻いたり小突いたり、どんなことをしても良いことと認められる立場にあったなら、我々はこのような惨めな立場ではなかったのです。しかし我々の先祖の時からこのような一時をも、持ってはみなかったのです。もしも人間が真の子女になったならば、どんなに恨んでも罪にはならなかったのです。どんなに苦労の多い立場にあったとしても、恨むこともない因縁の世界が善の世界なのです。

 皆さん、聖書も必要であり、教会も必要であり、同志も必要であり、師も必要です。しかし今日、この天地が荒れ野になったのは、教会がなくて荒れ野になったのではありません。この世の中が凶年になったのは、何かがなくて凶年になったのではありません。真の人間がいなくて荒れ野になったのであり、真の心情の足場がなくて不毛の地になってしまったのです。


 大戒律の意味

 今、我々は祭壇を前において、神のまえに要求しなけばならないことは何でしょう?

 聖書にも 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、主なるあなたの神を愛せよ」 とあります。教会を愛せよといわれましたか? 精神を尽くして子女を愛せよ、とされましたか? 違います。数多くの教会や、教派、宗派を問わず、本質的に間違ってしまったのです。精神を尽くすことも、自分の子供のためであり、夫のためあり、妻のためであったのです。こんな法がどこにありますか? もしもそうなら、聖書の心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、主なる神を愛せよという言葉の代わりに、あなたの息子娘を愛せよとするでしょう。そうじゃありませんか? しかし聖書には、神をより愛せよとあります。 今、我々は歴史的な苦しみをのり越えなければなりません。歴史的な苦しみと、歴史的な悲しみと、歴史的な死亡圏を精算してしまわねばなりません。これを精算してこそ成るのです。歴史的な苦しみと、悲しみと、死亡圏が、自分の心に縛りつけられ、心情までも縛りつけられているのです。生活と、体と、心と、心情までも縛りつけられた天までとどく怨讐の足を払いのけねばなりません。自分の体を打っても、払いのけねばならないのです。皆さんの怨讐は、相対側にあるのではありません。皆さん自身の心に対しては体が怨讐であり、体に対しては生活環境が怨讐なのです。

 我々は歴史的な悲哀があったなら全てのものを精算して、堕落前のアダムとエバに対された神の喜びの姿を迎えなければならないのです。神は人間に対して、堕落した息子娘という感情を解消することのできる日を、首を長くして待っておられるのです。もしも息子娘を救い、神の前に立てたとして、神は彼らに対する時、お前たちは罪悪世界で罪を犯した後孫であり、そんな血統を受けた子女だという感情を忘れられるのです。そんな立場で神を神として、侍ることができるのです。罪の感情が残っていてはいけません。罪の感情を超越して、アボジの前に行くなら恥ずかしさはないのです。そんな者がいたなら、サタンはその人間に侵犯できないのです

 今日、人々は教会を求めています。よろしい。教会に来ては「歴史的な神の心情がこううであり、時代的な神の心情がこうであり、再び来られるアボジの心情がこうなのだ」ということを知って、自分も知らずに涙を流さなければなりません。このようにして、その怨讐に仇を返して屈伏させると、永遠に誓う皆さんにならねばなりません。でなければ、歴史的な全てのことを、踏み越えて行くことはできないのです。

 我々は、我々が希望し、全天宙が願い求めている「真の行きたい所」に行かねばなりません。皆さん、それについていくらか考えてみましたか? 罪を負う前の神の保護のもとに育った、アダムを慕わねばなりません。どんなに良く生まれ、どんなに素晴らしいとしたところで、彼らは堕落の宗族であり、堕落の血統を脱げない人間なのです。ですから皆さんは罪を負う前の、本然のアダムの性相を見て喜ぶことができ、その性相を通して神を歌うことのできる、そんな存在を捜し求めなければなりません。そんな心情を持った者を捜してこそ、審判によって火で焼かれてしまう世を救うことができるのです。

 原則的な観点から見る時、この問題を解決することのできる人間が、歴史路程にいませんでした。どんな英雄、どんな聖人、どんな聖賢たちも、この問題を解決できなかったのです。

 今はこれまでに信じてきた修道を捨てる時です。仏教を信じてきた人々は仏教を捨てなければなりません。釈迦自身が、この問題を解決できませんでした。どんな修道も、根本問題を解決して、神の心情と因縁を結んで来なかったので、これを再び結ぶために来られるお方が、再臨主なのです。皆さんはこのお方が、雲に乗って来ると思っているかも知れませんが、そうではありません。

 神の心情と本然のアダムの心情が、人類の心情に染みることができる道を開くための、歴史的使命を成すお方が現れなければならないが、このお方が仏教でいう弥勒様であり、儒教でいう真人であり、キリスト教でいう再臨のイエスなのです。これは名こそ違いますが、結局は一人の人間なのです。


 天国にはどんな人間が入るのか

 天国にはどんな人間が入るのか? 赤子のような人間が入るのです。ですから神がアダムとエバを造って喜ばれたその心情の因縁を、再び回復しなければなりません。天地万物を造っておいて、罪を犯す前のアダムとエバを見やって喜ばれた、その喜びの心情をどのように回復するか、ということが問題なのです。これを回復させなければなりません。

 そのためには本然の心情を持ち、歴史的な恨を全て除き、サタンを屈伏させなければなりません。このようにしてこそ「やあ、天使長よ!」と言えば「ハイ」となるのです。

 本来は僕だった天使長が、サタンとなったのです。召使の主に、主人のアダムとエバが蹂躪されたのです。それゆえ人間はこの僕との因縁を切って、神との心情的な因縁を結ばなければならないのです。でなければそこに、入れないのです。

 我々は門を開けなければなりません。何の門? 真理の門、人格の門、心情の門を開けなければなりません。聖書を中心として、根本問題を完全に解明しなければなりません。この問題を解決した後で、完全な人格の門を通過しなければならないのです。これを通過した後で、完全な心情の基準まで行かなければなりません。このような観点において、我々は今まで遠かったのです。

 今日の信仰しているという人間を見ると自分の考えが正しいと、がんとして動かないで「私は正統であり、あなたは異端だ」と言うのです。どうしてこのような結論が下せるのですか? 過去を見て下さい。初めは旧教が、新教にこの野郎めといって、どうなりましたか? 時間が過ぎていって、むしろ旧教が新教に追われています。全てのことは時間が過ぎるに従って、状況が移り変わるのです。

 今は世の中の水準が上がっている反面、教会は下がっているのです。世の中が上がる前には、教会が上がっていました。上がって、神様以上に上がったのです。それで神は世の中を上げて、教会を下げたのです。こうして中世キリスト教封建社会は壊されたのです。どの教会や教派でも、一度は勢いを得たのです。けれども下ったのです。下る時は落ちついているのではなく、悔い改めなければなりません。

 今日韓国におきまして、キリスト教は軌道圏下で全部が動いているでしょう? しかし今は、下らなければならない時に来ているのです。下れば顔も上げず、伏して祈祷などしていなければなりません。罪人であるとしていなければいけません。であれば希望があるのですが、そうではなくてジタバタすれば怪我するのです。世の中の人々が、第三者が襲いかかって打つのです。「イエスを信じているという奴を打て」ということが起こるのです。今回、南韓各地をずっと回って見たのですが、行くことごとにイエスを信じた人々がみな怨讐だというのです。ここに誰かが火をつけたら、どのようになるでしょうか? それで行く道が正しくない時は、悪なる怨讐を呼びつけて打つのです。イスラエルの歴史を見て下さい。同じことです。今日、統一教会は有難く思わなければなりません。我々はじっとしているのですが、世の中がしきりに打つので、有難いというのです。


 神を望み見て行かねばならないこの道

 皆さんは教会がくずれて、信仰するときに中心が立たなくて悶えている立場にあったとしても、落胆しないで下さい。落胆はなぜするのでしょう? 人間を見たらそうです。人間を望み見てはダメです。我々の目は、天を望み見なければなりません。もしも人間が堕落しないで根本的に善であったなら、90度以下を眺めて生きることができるのですが、堕落しましたので、目は天を望み見なければなりません。信仰者には90度以下を見ることは許されないのです。天を望み見なければなりません。ところが地を望み見たなら滅ぶのです。自分を中心として行ったなら、滅びるのです。

​ 今、この時代において、我々は全てのものを収拾しなければなりません。生活から体、心、心情に至るまで全部、収拾しなけばなりません。それではその心情の基盤はどこに置かなければならないか? 神霊なる牧師におかないで下さい。神霊なる教派にもおかないで下さい。統一教会にもおかないというのです。心情の基盤は歴史路程におくのではなく堕落する前のアダムとエバの心情におかなければなりません。このようにして、その心情を通して天と共に、今日の生活感情と時代的な全ての思潮を消化させ、天と共に解決する生活をしなければなりません。このような息子娘がこの地上に現れなければなりません。 皆さん、考えてみて下さい。 聖書の創世記第1章も解決できないで、神の心情の園に入ることができるでしょうか? 創世記第二章の「生命の木」と「善悪知るの木」から解決しなければならないのです。この問題も解決できないでどのように・・・。根本問題を解決しなければなりません。知らずに何をするのか、無知であっては、完成することはできません。 信じさえすればいいのでしょうか? 信じれば成るのでしたらここで語っている人間が、このように迫害は受けないのです。このように悪口を言われないのです。​

 皆さん、他人が知らぬ迫害の道を、自ら進んで求めてきたのです。出発した道が滅びの道ならいざ知らず、そうでなかったならば、この道を初めて行ったその日の、決心を捨てないで下さい。その日の決心を・・・。

 この道を行く時は暴風雨が襲いかかり、イバラの道があるのです。しかし皆さんが望み見て行くこの道は、天の血痕が染みていることを知らねばなりません。皆さんが行く道は決して、皆さん自身だけが行く道ではありません。皆さん自身は初めて行く道ですが、神はこの道を何千万べんも行ったのです。この道にはそのお方が流された血の跡が残っていることを、知らねばなりません。

 アブラハムもこの道を行き、ノアもこの道を行き、モ-セもこの道を行き、イエスもこの道を行き、イエス以後の数多くの聖徒たちもこの道を行ったのであって、皆さんはこの道を行くのが嫌ですか? それでは天上に行って、罰を受けねばなりません。この道を行くなら、天的な伝統を立てたという心情がなければなりません。一歩を踏み出すごとに、先祖の血が噴き上がるのを感じ、イバラが自分の体に刺さるごとに、先祖の血肉を裂いたそのイバラが、わが体を裂いていることを感じなければならないのです。

 このように行った人間は、時代的な個人ではあっても、一時代で終わる人物ではありません。6千年の間、アボジと共に行く者になるのです。ですから皆さん、この道を行ったが、手錠に縛られ、牢獄の身となったとしても、恐れ多いと涙を流す人間になることを願います。「あなたが求めたこの道この場に、不肖、滅びの他にない罪人の後孫であるこの体が、こんな栄光なる場に参席できましたので、恐れ多いことでございます。数多くの殉教者たちが尊い血を流したこの基台の上に、汚れたこの身が足を踏み入れましたので、恐れ多いことでございます」としなければなりません。


 我々は必ずこの道を行かねばならない

 統一教会の勇士、皆さん! 皆さんは最後の道であるこの道を、行かねばなりません。真の行きたい所があるので、数多くの先知者たちがこの道を行き、真に行かなければならないこの道ですので、我々は必ずこの道を行かなければなりません。この道に従ったが、体は裂けて涙を流す時には、これは自分一人で流す涙ではないのです。このような道を行って裂かれた数多くの先知者が、同じく泣いた涙なのです。それで地上でそんな道を行った人間は、歴史的な生きた実体だというのです。そんな姿で神に出会って「アボジ」と抱きつくその瞬間には、天地が遠くないような感激を覚えるのです。

 誰にも悔しい心情を一言も言うことができず、心に釘を打ち込まれた天であるのです。この釘はサタンが打ち込んだのです。しかし愛の釘は、罪悪までも収拾することができるのです。

 愛するなら、相対的関係が起こらねばなりません。神が愛する息子娘があるとしたら、彼らを通してサタンまでも許してやりたいのが、神の愛の心なのです。いままで反対してきたサタンが、息子娘のまえに敬礼する日には、そのサタンを無条件に許してあげるのです。神の無限なる愛の釘は、罪悪も収拾することができるのです。神が愛する息子に対して、サタンまでも同情して慕うなら放ってはおかないのです。皆さん、審判を受けないということは、イエスを愛し、イエスのために血を流した跡があり、イエスが残した心情的な因縁を抱えて身もだえた愛の因縁があるからなのです。神もこの愛の因縁を持った存在は、打つことができないのです。

 今日お話したことはみな忘れてもいいのです。今日我々の個体は歴史の供え物です。たとえ盲目で、三つ口で、かたわであっても、彼らには先祖の遺業があるのです。彼らも天が送った貴重な供え物なのです。ですからその身が罵る時には、歴史が悲しむことを知らねばなりません。その身が悲観する時には、心情を通して天上まで悲観するということを知らねばなりません。その身が落胆する時には、天の国の数千万の人々が落胆して、悲しみに沈むということを知らねばなりません。

 皆さんがこのような事実を実感的に感じたならば、百回死ぬ恨があったとしても天を恨まないようにしなければなりません。行けば行くほど、知れば知るほど頭を下げ、ついには手ひとつ慎み深ぱ作をする、謙遜なる心を持たねばなりません。このような心情に染って1年を過ごしてみましたか? そのように過ごしたなら、その1年は皆さんのまえに永遠に残るのです。もしもこのような基準が皆さんから消えたなら、この1年は天上に行って、大きな讒訴の条件になります。恩恵を受けた人間が、この基準を失ったなら滅びるのです。滅んでも、わめいて滅びるのです。

 ですから天のまえに忠誠を尽くしたと考えず、自分がやったと考えないというのです。自分の体が裂かれても駆け出すその力は、自分自身から出てくるものではないのです。アボジの力なのです。アボジの力が動脈を通して自分に与えられているので、見えないところで主管を受けていて、その力が現れるのです。こんな観点で見れば、自分が裂かれることは、アボジが裂かれることです。ですからこのようになったと自慢することは、何にもないのです。自慢することはありません。

 皆さんはこのような路程を通って、神の歴史的な悲しみと事情を知って、また神の経てこられた全ての苦痛を体験し、新しい食口が繋がり繋がって、アボジのまえに召命を受けたのです。このようにして一つの民族を立て、一つの国家を形成し、世界的な新しい主権の世界を復帰するということが、神がこの地上の人間に対して摂理される、最後の目的なのです。その中心は何か? 堕落前のアダムとエバの心情的な基準を、復帰するということなのです。

 堕落したアダムとエバは追われましたが、我々はサタンの全ての事実を解明し、再びサタンの侵犯を受けないという心情的な基準を得て、歴史的なサタンまでも主管することのできる立場に立たなければなりません。神の心情を通して、天と地に号令するに不足のない、神の直系の息子娘にならなければなりません。こうして神から「わが息子よ、娘よ、今はわが時、わが日だ。今はわが思いのままにすることができる」と祝福を受けるその日まで行ってこそ初めてその所、真の行きたいその所に、行くことができるのです。

 皆さんは歴史的な罪状を精算して、歴史的な死亡の垣を精算して、神の創造理想を成すことのできる心情を持たなければなりません。歴史的な死亡の権勢を、歴史的な生命の権勢に、歴史的な罪を精算して、歴史的な善にと復帰しなければなりません。さらには歴史的な天の心情を立てることを知る皆さんになって、初めて真の行きたい本然の世界に行くことができるのです。

 今日以後、皆さんはこのような観点で、自分たちがどんな位置にいるかを自ら知って、聖別するときにおいて、無慈悲な闘争をしなければならないことを、肝に銘じてくれることを願います。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

奇知の外の凡人 が徒然なるがままに書く日記です。
↓↓ にほんブログ村 ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓

​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2021.03.25 21:55:21
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: