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2021.11.07
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​​​​​​​​​ 「復帰摂理の回顧」

一九八三年五月一日
韓国・第三十回協会創立記念礼拝にて


 地方におられる皆様、あるいは新しく教会に入って来られた食口の皆様、先生が初めて会う方が大勢おられますね。この中で先生を初めて見る人は一度手を挙けてみてください。

 きょうは[復帰摂理を回顧する」という題でお話し申し上げます。

 我々はよく、神のみ旨、神の摂理、あるいは救援のみ旨について話します。しかしその神のみ旨、救援の摂理のみ旨が何であるのかと、問い質すと、これぞという結論を下すのはなかなか難しいのでありますが、これに対して我々統一教会は次のように結論をiしております。神のみ旨は、神の創造理想を完成することである。簡単でしょう?神のみ旨というのは、神がこの宇宙を創造する時に抱かれたその理想、すなわち創造のプログラムを完成させることであります。

 それでは、この神のみ旨の完成された中で、一系の中心は何であるかというと、もちろん、万物の創造という内容もあるのですか、この万物の中心たる人間を中心とした理想の完成ということであります。そしてここで人間と言えば、神が一番初めに創造された我々の始祖アダムとエバのことであり、その始祖を中心として神の創造理想を実現させることが、神のみ旨の完成であります。では、この始祖を通した神の理想が何であったかと言うと、それは理想的男子と理想的女子が、理想的な家庭を成すところにあります。ところで、家庭を成すにあたってその中心は何であるかとみるときに、その中心は男子でもなければ女子でもありません。家庭というのは、結局は父母を中心とした子女からなっています。また、夫婦といえば、男子と女子からなっていますが、その結ぱれた、中心はいったい何であるのでしょうか。それは神の愛です。したがって神のみ旨は、神の愛の夫婦、神の愛の家庭完成という結論になります。

 ところで、ここで神の愛と人間の愛は何が違うのでしょうか。普通の愛と神の愛、真の愛と偽りの愛、これらはどのように違うのでしょうか。これは、ハッキリと返答するにはなかなか難しい問題です。ここで皆さんがハッキリ言えることは、神の愛というのは、真の愛というのは、永遠に一緒にいたとしてもなお一緒にいたいという愛です。そうならばいいでしょう。永遠に一緒にいても、一緒に住んでも、一諸に見ても、一緒に話をしても、一緒に感じても、一緒に聞いたとしても、なおそのようにしていたいという愛だというのです。



 それでは神が必要としておられるものは何かといえば、それは人間でありますが、神はその人間の顔を見て喜ぶのではありません。目がきれいだから好きだというのでもありません。何も美人が美しいのではありません。そのようにその人の顔かたちの善し悪しによって喜ぶのではありません。その人の中に、神が永遠に喜ぶことのできる真なる愛の対象的な価値をもっていることが重要なのであります。そしてこの価値が顕現する日、この価値が成長する日、神は初めて笑うことができるのであり、共に和動してくれる相対を初めて見付けたことになります。話をしても、一人でするのではなく相対的関係をもって話すことができるということなのです。そのような相対は、我々の人間始祖アダムとエバがなるべきでありました。そのように愛の対象として人間を造られたというのならば、その愛の対象とはどんな位置なのでしょうか。愛の対象というとき、絶対主体である神が主体だというのです。その神が絶対的価値を得るためには、絶対対象を備えなくてはなりません。それを人間を通して取りもどそうと願っておられるのです。すべてのものが必要なのではないけれども、絶対的愛、不変の愛を要求するとすれば、神の絶対的不変の愛の前において、絶対的対象の相対圈を備えなければならないのです。愛の対象とはこのような驚くべき価値をもっているのです。

​ ​そうであるならば、神と人間との関係において、神の新しい愛を中心として一番近い場所、一番高く価値ある場所を言葉で表すとすれば、なんという言葉になるでしょうか。 ​主体と対象関係は、それが出発、初めとなることはできません。主体と対象はある期間を住んでから、愛というのであって、この場合、神の愛は出発と同時に顕れるのではなく、男子と女子との愛のように成熟したときに、思春期に入って顕れてきます。それが夫婦の愛です。このように夫婦の愛というのはその中間に始まるのです。そうするとその創造の初めから出発し得るその愛の相対は誰であるかというときに、それは言葉を偕りて表現すれば、お父さんと息子の関係、それは父子の関係です。では、父子の関係とは、愛を中心としてどのような関係を結ぶのでしょうか。​それは父母の愛が原因であるとすれば、その息子というのは愛の実であり、結実であります。そしてその結実と原因とが別々に離れた所から出発するのではなく、結実として原因と一つの場所から出発するのが、私という存在であります。父母の愛を原因として、父母が現在の愛するその場所に結果として登場するのが私だというのです。それだから私は、父母の血縁的な愛の出発の根源に同席した者であり、父母の愛の結実として同席した者であります。だからこれは、原因と結果が一つの所から出発したということによって、原因的父母の愛と、自分の生命的愛の根源は同じであるということができます。そのような意味で愛を中心として父子一身という言葉が可能になるようになるのです。父子の愛ということを除いては、一身という言葉が、一体という言葉があり得ないのです。 私はそのように愛の本 質として生まれたものであるから、胎内に宿ったその瞬間から、父母の関心と愛のすべてが集中するようになっています。なぜそうなのかといえば、それは愛の結果であるためです。そして、愛で生まれ、愛を通して自分の生命に受け継いで、愛を受けながら育ち大きくなり、相対関係をもつようになったとき、相対を取り扱う上での愛が何であるかというと、父子の愛が縦的であれば、相対関係の愛は横的であります。そしてこれら縦横関係の理想的な愛の定着点が必要ということになります。それは父子の関係と夫婦の関係が一緒になるところです。ここにおいて神の理想実現がなるのです。

 もう少し説明してみましょう。アダムとエバがまず、父子の関係を神との間でもち、その次にアダムとエバが成長して、横的基準を中心として、アダムが愛する神、エバが愛するその神を中心としながら、遠く離れていたのが次第に接近するようになるのです。そしてこれらが垂直線上に集まることのできるときに入ってゆくと、これらが次に接近するとともに相対的愛が接近するようになります。すると同時に神の愛もここに、接近して入ってくるというのです。このようにして、縦的な愛、理想的な愛を中心としながら、横的な面に接ぎ合わせることのできるこの基準が決定されるとき、これが宇宙の永遠なる愛の定着地であったということを我々は理論的推理から断定することができます。

 神はどこにおられるでしょうか。「神よ、あなたはどこにおられるのですか?」と問うときに、今日のキリスト教徒は、それは神様の天の国の宝座におられますと答えることでしょう。また宝座に誰と共におられるかといえば、十二使徒、大使たちが、天国に入っていると答えるでしょう。しかし、いかにその限界にいたしても、そこに神様の愛が顕現されていないとしたならば、それは荒漠とした世界であります。 もし、天の国に王宮があるとすれば、その王宮の編成はどのように繰り広げられるのでしょうか。それは、天の国に神ご自身、どのように人を造り、天使とかを造ったからといってなるのではありません。地上を通してなされるのです。愛の夫婦の因縁を通して神が定着することのできる愛の基地から、永遠なる天上世界の理想実現にまで関係が連結されているのです。したがって、その焦点は一つであり、天の国の焦点であると同時に地上における焦点にもなっています。この焦点が二つあることはできません。では、人間を通して神の理想的愛か実現するならば、その後の基準はどこにあるのでしょうか。天の国の宝座に人間が上がって行くのではなく、神様が訪ねてきて、息子の位置に一つとなって結実することのできるものを追求するために、この宇宙を造られたのであり、人間を造られたという事実を考えるときに、人間の価値こそ、このように神の愛を中心にして、驚くべき位置にあるという事実を、今日神に仕える人たちは知らないでいるのです,

 そうであるためにこのような愛が、今日堕落した世界にどのようなものとして残っているかとみるときに、神の世界に似た本然の基準を受け継ぐことのできた父母の愛の圏内に、このような影だけでも残っているのをみることができます。 ここで統一教会の人は真の父母の理想を語るのですが、その真の父母とはどういう父母なのでしょうか。それは自分の息子を永遠に至るまで、愛することに終わりのないものであります。真の父母がそのようであるとすれば、真なる子女とはどのような子女でしょうか。それは真なる父母の愛の前に永遠無窮に、父母を愛してもなお愛が満ちあふれることのできる愛の心をもった子女であります。そのような子女が真なる孝子の名に値します。 わかりますか。では、真なる妻とは何ですか、真なる夫とは何でしょうか。アダムとエバ自体が、いつの日にか成熟すれば、これが第三者を介在しないで永遠に互いに愛の対象として愛し合うことができるようになります。そしてその初めての愛とともに、その初めての愛に年を重ねれば重ねるほど、そこにプラスされ、家庭的愛の拡大、氏族的愛の拡大を重ねてゆくことのできる永遠なる愛の対象的実体者として結び合うときにそのような夫婦は、真の夫婦であります。このような真の夫婦は神の愛に参同することができます。

 今日、学校問題が至急なる社会問題になっており、アメリカでも日本でも全世界的に問題になっています,先生というのは、父母の身代わりとなって子女を教育するときには、永遠なる愛をもって教育しなければなりません。その学級で自分が教える子女に対しては、一生の間忘れることのできないほどの愛の因縁を結ぶために努力しなければなりません。それゆえ、自分にあるすべての知識を愛と共に連結させて教える先生は、真の先生です。今日のように、生活の方便に月給を受けるために教えてあげるのではありません。愛のゆえに自分は、生活は苦しいながらも教えなければならないとして、昼も夜も訪ねて行って、自分にある知識を愛でもって永遠に伝授してあげたいそのような先生こそ真の先生であります。このようにみるときに愛国者とは、どのような人が愛国者でしょうか。自分の国が自分を良くしてくれれば愛するし、自分の国が自分を良くしてくれなければ愛さないというのは愛国者とはいえません。国はどうであろうとも、国のために永遠に働くことのできる愛の心をもって民族に対し、主権者が間違っていたならば教えて、正しく導こうとすることのできる永遠なる国のためとなる愛の心をもったその人は、真なる愛国者です。したがって、そのような愛の心をもった君主がいたとすれば、その君主は真なる君主であります。

 聖人の中の聖人は誰かといえば、知識の王権をもって現れたお方でもなく、知恵の王権をもって現れたお方でもありません,永遠なる本質的な神の愛をもって現れて、人類を救うその道があるとしたら、自分の一生はもちろんのこと、自分の一族とか自分のすべてのものを、国家までも犠牲にして人類を愛するその心に変わりがないという人であります。永遠と連結させることのできるこのような愛の心を内包し、その道をもがきながらも開拓しようとする人が、聖人中の真なる聖人です。聖人であれば皆が聖人であるのではないのです。

 それで、イエス様は神の愛を体恤してから、神の愛する男性、女性を中心として、家庭を越え、国家を越え、限界を越えていこうとされました。永遠なる愛の一つの波紋のように。静かな波の中に波紋が広がって行くように、愛の神の波紋がこの家庭を越え、国家と世界に波及してゆくことのできるような世界が、神が理想とした愛の立場であるに違いないという概念を、ここで結論づけることができます。それで神がこの世界を見るときに、この世界は堕落した財界であります。堕落した世界は何かというと怨讐という概念が介在するところです。では、怨讐という概念が介在するこの地上に、神の永遠なる愛の基を構えようとするために、怨讐を打倒してしまえ! 除去してしまえ! と、このような論法を立てたとすれば、今の歴史時代に人類が残ったでありましょうか。悪い者たちは全部除去してしまうとすれば、それは愛の本質に違反するものです。愛はすべてを消化することができるものです。たとえサタン、魔鬼といえども、完全なる愛の前には消化されるようになっているのです。どんなに不良者のような不孝の息子でも、夫婦の愛の本質的な愛に接するときには、悔い改める道があるのであり、その息子も消化することができるのです。同じく怨讐対怨讐であっても、怨讐が本質的愛を消化することができるのではなくて、本質的な愛が怨讐までも消化する能力をもっているのです。神はそれを自負するのです。そうであるために、歴史時代に宗教を通して、神は自分は愛であるというこのような標語を立ててこられました。その愛はどのような愛かというと、それは永遠の愛です。その愛の前には、すべてのものが消化されてしまうのです。『サタンよ、ありったけの力を尽くしてみろ、試験するならしてみろ』という話です。サタンは、あなたの愛の本賢がどんなに偉大であっても、我々のような悪魔のようなものは消化することができまいとみるのですが、そうではありません。神様はそれまでも消化することができるのです。

 このような対峙した歴史路程が堕落以後、私の家庭と、氏族、世界に全歴史の舞台に繰り広げられてきました。そこでは悪がいつも先に動員し、悪が優勢の座を占めてきました。善はいつも保守的であり、悪は攻撃的であります。それを知らなければなりません。そこでこの歴史は悪なる人たちがいい暮らしをするとしてもそれは愛をもってするのではありません。悪なる要素をもって、人を支配し、人の犠牲のお蔭で自分だけいい暮らしをするのです。このような世界は神の前に、神の愛の本質の世界に八つことができないのです。それはこれらを消化した場所でなければなりません。そうであるために宗教指導者は、たとえばイエス様のようなお方は、自己において何の罪のないことを自認するイエスを十字架に釘打たんとするその暴悪なローマ兵士の前に「彼らは自分が行うことがわからないのですから、ああお父様、彼らの罪をお許しください」 その言葉はとこから出てきたものでしょうか。これは知識から出たものでしょうか、権力から出たものでしょうか、金から出たものでしょうか。それはお父様の本質的愛から湧き出たということを知らなければなりません。

 それで今日、み旨の解釈、あるいは救援摂理の解釈、このようなタイトルをもって話すにおいて、み旨の完成を願っていた神の時代は堕落によってどこかへ消え去ったのであります。天地万物を創造された所望の神の座には根本的な破綻を来したという事実を、今日の宗者指導者たちは考えもしないというのです。神が計画しておられたプログラムが完全に打倒されたのです、蹂躙されたというのです。それによって何か破綻したかというと永遠なる愛の理想対象圏が破綻されているということを知ることができるのに、数多くの宗教人たちは知ろうともしないのです。そういう状態に陥っているこの地上の人種、堕落した世界の人種であるのですが、純粋なる献身的愛をされる神の前に、理想的対象としていたアダムとエバが堕落して落ちていったときに、神の心情はうれしかったでしょうか。それはあり得ない話です。どれほど悲しかったでしょうか。人間の誰よりも、誰よりも悲しかったはずであり、至極、至極、悲痛であったに違いありません。その内容が深くて、その内容が価値的な内容をもてぱもつほど、悲惨中の悲惨だというのです。そのような神の失ったその息子たちを再び取りもどすために、孤独の直をなお越えて行かれるというのです。

 今、このような神をみるときに、悲運に包まれた神であり、悲痛な心情を抱いて前進の行歩を辿らざるを得ない神であられます。そのような神様の立場において、訪ねて行くとすれば何を訪ねて行くのでしょうか。神の家庭や神の国を訪ねるという話ではないのです。神の世界、神の天国を早く行って取りもどすことではないのです。それは、私の息子はどこに行ったのかということであります。私の息子、初めて生まれた愛の対象を訪ねて行くのです。そしてその息子を探した後に、娘であります。これが神の救援摂理、復帰史であります。 今日、宗教世界に再臨思想、メシヤ思想がありますが、いったいメシヤというのは何でしょうか。

 そこで、この国を探すために協助する宗教、主の宗教の代表である。ユダヤ教からキリスト教、キリスト教から統一教会の時代まで、人類歴史の上に連綿と歴史的内容をもち続けてきたこれら宗教の本質は何かというと、それは永遠の愛、これでなければなりません。真理の人が必要とされるその真理自体は何であるかというと、それは真なる道理です。真なる道理をもって、真なる道理に向かうことのできる人が必要であります。真なる真理が必要ですか? 真理が、真理が必要だというのです。真理の実体は何でしょうか。その真なる真理を求めるのは、真なる真理の実体となろうとするのは、その真理が追求する理想的要素、真なる永遠の愛を必要とするためであります。真なる真理を完成した人に出会うことによって、愛の橋が出来上がるために、その真なる人を探しているのです。歴史の中に人間たちが苦しみながら求めるその姿は、神様と同じなのであります。神の姿は真なる真理を求められる神であるのですが、その真理はどこにあるのでしょうか。いや! 真理はみなもっているのです。それを知らなくてはなりません。人間が真理と一体となればどうでしょうか。それは一つとなることによって、真の愛が宿るようになれるのです。

 真なる人を探してから、何をするのでしょうか。その女子の真なる人、男子の真なる人に会って何をするのでしょうか。その真なる人を売るのでしょうか。売るにしても男子だけ、あるいは女子だけ売ったとしても売れる所はありません。そうではないですか。神様からみればね。この世的な表現をしていますが、神が真なる男子と真なる女子を売る場合、何と引き替えに売るのでしょうか。それは男子よりももっと良い、女子よりももっと良いものがあるとすれば、神は売るに違いありません。ではそれは何でしょうか。売られていくアダムにとっても良いし、売られていくエバにでもありますが、人間はいったい何か最高なのでしょうか。目が二つあるから最高なのでしょうか。においの嗅ぎ方がうまくて最高なのでしょうか。犬の方がにおいを嗅ぐのはよほど上手です。目にしても人間は一方しか見られませんが、あの蝿のようなものは複眼になっていて、四方を見ることができるのです。どうして目を自慢することができるでしょうか。鼻を自慢することができますか? 耳を自慢することができますか?人間は話をするからといって、人だけが話をすると思いますか? 鳥だって話をしているのですよ。見えない会話をすることができるのです。なぜ人が貴いのですか? 立って歩けるから、それは熊の子だって立って歩くことができるのです。人が秀れているものは何でしょうか。それは、神と愛し合うことのできる資格があることです。「あなたは私かいなければ神となることはできません。あなたは私の父であり、私はあなたの息子である」と、主張することのできる愛の包みをもったということなのです。

 さあ、ところが皆さん、この人間が堕落することによって、神は悲惨な神となってしまいました。その悲惨な神が今日誰を訪ねてくるかというと、真なる息子を訪ねてくるのです。神が純情な愛を与えたい、その深い中に、いまだ純情を注ぐことのできなかった初愛を受けることのできるこの地上の男性はいったい誰でしょうか。そのような男性がいないために、その男性を造って、再び探し出して立てなければならなくなったのです。昔、幕らしたことがある死んだ我が息子、その息子よりも立派ですべての面において備わっている、そのような息子を再び探さなくてはならなくなったのです。そして彼を探すためには、(先に)サタン世界が奪っていったために、これを全部修繕し、故障しているならば直し、片輪になったならぱそれを全部皆完全に造って、アダムよりももっと立派な本然の息子の姿となって、神が自分の純心情の愛を、初愛を注ぎ込むことができるようにしなければなりません。神は今、そのような働きをしておられるのです。永遠に、善悪の果を取って食べると死ぬというような、そのような予告と警告を必要としない完成した立場において、あなただけの愛が必要でありますということができる、絶対であるということができるものとするためです。

 皆さんは、堕落する前の本来のみ旨の前にある、所望の神の立場のみではなく、絶望の神の立場に立つようになったそれ以後の神のご苦労を知らなけれぱなりません。そうするならば、その目には雨が降る! 自然の雨が降っても、春夏秋冬、四季にすべての高気圧、低気圧がこうなって雨が降るだろう、そういう考えをする余地がないのです。雪が降ろうと、雨が降ろうと、季節が変わろうとも、神の心の中にはこの愛の一片丹心が、永遠に向かって変わることができないのであり、いかなる迫害の環境、曲折にぶつかったとしてもその曲折を越えて、その本然の愛の力をもって動かなくてはならない神の内的ご苦労がどれだけ大きかったかということを、考えている人が誰もいません。

 さあ、そうであるから宗教とは何か、たとえていうならば、それは大きい石の山から、片寄らないで完全に丸い美しい、神の中にそっくり入っていくことができる愛の対象の息子、その石を一つ探すというのです。その石は純金よりも高く良く、ダイヤモンドより、真珠よりもはるかに良いもので、『お前こそ私が永遠に愛する』というものです。永遠に変わることなく、私がお前の話を千年、万年しても離れたくない、それほど愛することができる息子です。それで皆さんは、鼻と額と目をよくあてて、□をぴたりとつけながら千年万年暮らそう、千年万年暮らしてみても、また千年万年暮らしたい。また早く行って暮らしたい、そんなにも厭にならない息子をもったことがありますか?




 さあ霊界に行って寝るのでしょうか、食べるものが心配でしょうか。着る衣服も、「私はきょうはダイヤモンドの服を一度着てみよう」と言えば、ダイヤモンドの服を着るのです。祝福を受けた皆さん、君たちも考えてみましょう、夫と向き合って千年万年暮らしたいですか。ここで自分の心がどうであるのか、しかめっ面をするのか、千年万年暮らしたいのかを考えなくてはならない問題だというのです。反省しなければなりません。互いの本心に湧き出る愛の芽がどこに出て来るのかが問題です。そのような神の本物の息子、娘になれば幸福でしょうか、不幸でしょうか?「それ幸福だ」と言葉だけがそういうのであって、それでは知るはずがないではないですか。その場に立たなくてはわからないのですよ。

 さあ、このように見るときに、今日数多くの宗教人たちが神に対して祈祷していますが、こういうことを知っている私は、やたらに祈祷をすることができないのです。「ああ、私は監獄に捕えられています。神様、私は死にそうです。死刑にされないように私を助けてください」。私はそういう祈祷をすることができません。監獄に入ったならば、□を閉じてじっとしていれば良いのです。祈祷するにも神に申し訳なくて、祈祷しない沢にもいかないので、祈祷するとすれば、国と世界のために、あなたの所願の国と世界を探し求めていく、愛の足場を築いていくために私を利用して、ことを神は願うのであります,そのような観点で皆さんは祈祷をしなければなりません。

 それで、私、統一教会の文某という人は統一教会の先生であるのですが、私はこれくらい基盤を造るまで千遍万遍も、受難の道を歩いてきました。何も私はここで、この場で自慢しようとは思っていません。外部で私をみる場合には、文某という人は同情される場にはありません。よい位置だというのです。しかし、内部では私と一つになって、私を同情しなくてはなりません。今度来ても、死ねとだけ言うのであって、遊んで休めという話はしないのです。苦労させるというのです。これから、神の家庭(テープ聞き取り不能)

 神が願う国、理想の国であります。第三次は世界であります。第四次は、地獄の解放。第五次は神を解放しなくてはなりません。神様を解放しなくてはならないのに、神様に福をくださいというのは、まことに恥ずかしいことであります。そういう宗教は終わりの日には滅びる無力な宗教として、あってもなくてもいいというのです。神のその心情的愛を中心としたそのような所望の基準の前に、理想的基準の前に刻まれた結果のこの世界歴史であったというのであれば、その歴史世界においては必ず、このような自己中心とした何かを待ち焦がれるすべての群は退いて行くのです。当然のことだというのです。

 全部皆、個人主義に、いったいキリスト教がどうしてこのようになってしまったのでしょうか。キリスト教は家庭主義よりも氏族主義であり、民族主義であるのに、これが全部皆壊れていくのです。家庭が全部壊れていき、国がどこにあるのかというのです。社会がどこにあるというのですか。全部皆めちゃくちゃになっているというのです。それでこのレバレンド・ムーンという人は今まで何をしてきたのでしょうか。神が慕っている本性の男性が行く道を私が行ってみようとして歩いてきました。それは神が創進理想で送られた本然の男性の仕事を、愛の相対として備えることのできる不変の愛の基を探していく一つの姿であります。ここに千万事の受難が訪れ、曲折の事情が絡み合うことがあっても、ここに対して引っ張られていくのではなく、これを踏んで、無慈悲で無情な歩みであっても行かなくてはならないと盟誓して出て、歩んで来たのであります。父母の道も克服しなければなりません。妻子が反対するこの道を行くならば、それを消化するための愛でそれを克服して、努力しなければならないのです。世界的主義時代において家庭的主義を主張したとしても、その家庭的主義は世界主義に向かうことができないのです。世界的主義時代において、これに向かうことができるのは国家的主義です。天宙的主義時代においては国家的主義は相対する必要もありません。世界主義なのです。このような論法(理)によって統一教会は進んできたのであります。

 統一教会はいったい何をするものでしょうか? 神が願う一人の男性、一人の女性として考えてみましょう,この男性と女性は何の愛を中心に結ぱれるかといえば、それは神の本質的愛によってです。アダムを創造し、その創造理想として本質的愛の一つの個体完成を顕われた、その期待に一致することのできる自らの姿を達成しなければならないのであります,そうするためには、サタン世界のすべての問題にぶつかって克服しなければなりません,個人にぶつかり、家庭にぶつかり、悪なる家庭にぶつかり、悪なる氏族、悪なる国家にぶつかって、その迫害を受けなければならないというのです。民族、国家、世界の迫害も受けなければならないのです。更に、世界の迫害だけではなく霊界のすべての地獄や、すべての悪霊たちが総攻撃する迫害を受けながら、それを打倒してしまって生き残らなくてはなりません。その方法手段は何でもって! それは神の本質的愛でもってするのです。こうすることのできる歴史路程の上に、どのような努力をしても克服して進むことのできる勝利のこのような愛でなくては、神の解放にまでいくことができないとみるのです。そうであるために統一教会の文某は、何年受難の直を歩くのか、それは果てしないというのです。

 一つの次元の周期をどのように取るのかというと、これは四十年を取っているのです,なぜそうかというと、それは複雑な原理解説をするようになりますが、イスラエル民族が荒野四十年、モーセの祈祷四十年、イエスの断食四十日、このようになぜ四十を守らなければならないのでしょうか。それは摂理歴史が結ぱれたのを解くためなのです,個人から、家庭、氏族、民族、国家、世界を結んだのであるから、それで世界的四十年が繰り広げられるのです。レバレンド・ムーンという人は、あらゆるすべてのものを皆、通過しなければなりません。この世のすべてを。ここに立っている文某は成功しました。みんな本当に良かったというのです。この世の中で険しく思う何もありません。命令すればどんな困難なことでも進んでいく人々が大勢います。しようとすればできないものがありません。この基盤を築いたから良いのです。その良いという言葉は簡単な話ではないのですよ。

 今日、祝賀の日に、きれいな服を着て、まじめに、美しくいい身装をしています。私は皆さんのように、そのような考えをもたず、そのように服を自分勝手に着ることができない人です。私は三十歳までお腹がすかない時がありませんでした。御飯がなくてそうするのではありません、自ら進んで。服がなくてそうしたのではないのです、自ら進んで。食べるものがあれば可哀そうな人に分けてあげるために。善るものがあれば、可哀そうな人に分けて与えなくてはならないからでありまし た。私は、あの黒石洞からソウル駅まで来るときには、切符を買わないで歩いて通いました。その時、電車賃が十銭でした。どこか行くのに電車でなく、歩いて行きながら十銭を小遣いとして持っていて、地上に積善を求める扶助なのであります。

 今はこれは少ないけれども、このお金が千万倍に増えて、乞食のような民族が解放の一日をもたらすことができるようにつくることを、祈祷しながらそうしたのです。呻吟するサタンの中に包囲されているこのはかない民族の事情を知っています。全民族の受難の歴史に血柱があり、血の汗が流れている自分の民族を知り、自分の親戚を知り、自分の父母を知らなくてはなりません。そうしながら日本に行きながら、下関までオーバーを被って何時間痛哭したかしれません。それは今も忘れることができません。

 その時、日本に行く、日本の婦人、韓国の人が常時行くことができる、踏み台にして行くことができる踏石が必要であれば、その踏石を、愛の情熱で燃える心情が溶けて流れる涙の跡を通じなくてはならないということを私は知ったために、私が行く道は踏石に向けて祈祷するのです。世界の生活苦にあえぐ人間相を知るために、労働もしてみたのであり、農夫労働もしてみたし、あらゆることをやってきました。息子がなくなってから、六千年恨みを抱いて、あなたの心情の前に、その何かしこりが残っているならば、この息子一人を打つことによって、千万遍殴って解くことのできるその心があるならば解いてください。そのような道を探してきました。

 そうしながら、二十代を越えて三十代、二十代の全部が終わる前に、三十になる前に私はこのような情熱に燃えたる本然のアダムの姿を代身することのできる一つの愛の本然の道を、それにさ迷う気違いにならなくてはなりませんでした。だから男子として受けることのできる受難の道を皆受けたのです。それで、私と相対することのできるものも、そのような相対的道を経なければならないとそうみているのです。

 この二人の男子、女子はこの世の受難歴史の中で、あらゆる苦難を皆通過することのでき、事情を皆解くことのできる内容をもつことのできる愛の本質をもたずしては、この歴史に宿した癌をほぐすことはできません。それを皆出してしまうことですね、統一教会の人たちは先生をみて厭なものが一つもないのです。何となくいいのです。そうするよりほかにありません。蜂蜜入りの水と、砂糖水と砂糖きびの水、この三つの水をして指で味をみるときは、砂糖きびの水、また次は砂糖水、蜂蜜水とどれを飲みますか? 舌を持った動物ならば、蜂蜜水がおいしいんですよ。

 統一教会を出発するのが、どれほど歴史的な話でしょうか。私はありとあらゆる、皆ぼろの風呂敷包みを被せられましたよ。それで、民族反逆者、それから国際共産党、それから色魔、それから真っ裸になって踊る群、詐欺師、それから、最後には暴力団の徒党、それから金日成、スターリン、ヒットラーよりもっと恐ろしい独裁者だと、この世の最たる名前は皆、次々に被せてくれました。構いません、もっと被せなさい。神様が、一番悪いという言葉は皆私に被せました。それでも、そういう名前を被って私か首を折らないで、今まで足を折らないで頑張って立っていて、汗を流し、立って死にそうになって、立ったままで頑張りながら、(その汚名を被ったまま)死ぬという法(こと)があるでしょうか。だから神は同情して仕方なく、帽子を脱がせて寝かせて死なせてくれようとするのです。何の話かわかりますか。そのように考える人なのです。大韓民国が虐待することがあっても、いったい私を歓迎しましたか。私は国を売り、悪いことをする人ではありません。国を指導し得る内容があるのです。アメリカを動かしてゆくことのできる力があります。

 また、反対があったとしても正面から蹴っ飛ばしてしまう人なのです。大胆といえば大胆な人なのです。私は大学総長だとか、社会的地位があるからという人がいるかもしれないけれど、しかし、総長だからといってその人を特別視する人ではありません。先生は、数百名、数千名の総長候補をつくる実力を もっています。大統領だからといって会えないでしょうか。ある南米の大統領候補者たちが来て、私に会いたいといっても会ってあげませんでした。このように先生は相手の立場に左右される先生ではありません。

 さあこのような話をなぜするのでしょうか。悲惨な神を知らなくてはならないから、神に従う聖人の道を行く人は、悲惨に死んでいきました。イエス様がそうであったし、すべての聖人たちで、歴史路程の上でその時代に歓迎された人はいないのです。百年、千年の歴史の後に、墓に白骨としてすべて朽ち果て灰となった後に、歴史路程に追慕の対象となったのが今までの聖人だったのです。

 ところで、聖人たちの目的がどこにあるのでしょうか。一代で成功することのできる聖人はどこにいるのでしょうか。新しい歴史時代に、死んだ後に、その死体を掘って、探して行く聖人は必要ないのです。この悪なる世界の聖人、悪なる世界を救うことのできる聖人でなければならないことを知らなければなりません。その聖人の代表者が、再臨思想によって来られるメシヤであるということを私たちはハッキリと知ったのです。メシヤは、この世界を救うことができるというのは、悲惨な罪悪の地に入って行って、それを撃破してしまい、それを正すことのできる聖人。神の一番頭痛の種であるすべての問題を独り責任をもって解放し、堂々とこの社会の悪なるものを排斥することのできる聖人。

 このような聖人でなければならないということを八ッキリ知らなければなりません。イエス様もその道を行くことができずに死んでしまいました。聖人たちは誰もが皆、同じでした。しかし、私、文某という人は、一生が追われる、捕われる場にあったとしても、私一生ですべてのことを収拾してみせましょう。天の前に、鉄石のような決意をもっている私なのです。

 一月一日、その日はその年を祝賀しなければならない日です。しかし、涙を流しながら今年も、再びこの道を行かなければなりません。そのように、大韓民国が私を嫌ったのです。三千万同胞だちは、文某氏を知ってみると、「我々が間違っていた」と言いました。日本もそうでした。そうであるために、今では私を無視することのできない段階に入ってきました。アメリカも私を無視することのできない段階に入ってきたのです。その次は、この青少年の淪落の問題です。サタンのこの溜め桶を被ってしまって全部皆肥やしの臭いをしているのを、全部皆洗ってあげて白い衣を着せて天国の宮中に入って行ける教育をして、正しい人としてあげているのです。新しい木に接いでlテープ聞き取り不能l

 そのような男性を代身することができる一つの条件、女性を代身しても同じです。世界の若者たちを集めて新しい家庭編成をしているのが、統一教会の合同結婚式であります。その民族を初めとして行かなくてはならないそのような宿命的路程が決定しているその中に、家庭は氏族のために、氏族は民族のために、そして必ず世界を救って、天上世界に行くのです。天を全部皆率いて、霊界にまで率いて行って神が解放される所まで行かなければなりません。広大でとてつもない使命が我々の前に来て、自分を呼んでいるという事実を忘却してはならないということを知らなくてはならないのです。そうせずしては神がこの世界に臨まれることができません。「おい、レバレンドームーンの行く所に、私がついて行くよ」「どうぞ、おいでください」。この基台を造らなくてはならないのであり、我々の教会をこのように造らなくてはなりません。神が行くのは、本質的愛に和することのできるその中であります。そこで超民族的な永遠なる愛を土台として、その愛の因縁を中心にして五色人種を合わせて一つになる運動が合同結婚式であります。

 六千双というその群たちが、理由なしにここに来てこういうことをしたのではありません。世界を眺める絶望状態にあるその若者がいるとすれば、剣を差してこの時間において要件を解決し、これを発表する責任が(先生に)あるとみるのです。その群がここに飛んで来ることは容易なことでしょうか。私がお金を払ってあげてたのではなく、かえって反対です。それでは何か恋しくて訪ねてくるのでしょうか。本然の愛を願うがためです。神がそれほどまでに願われた本然の愛、本質的愛のために行くには、愛の男性と本質的愛の女性を中心として、本質的家庭形成から、氏族形成、民族形成、国家形成を経て世界に行かなければならないのです。この本質的愛の主体であられる神を解放することのできるその日まで、永遠に我々の使命の自覚をして集まったとてつもない群であったことを、大韓民国も知りませんでした。それで六千双は八十四力国から集まって来て、またもどって行くのです。喧嘩もせず、自慢もしないのです。今日、近所の婚礼でさえ話が広がって祝い事に騒ぎが起きるのですが、五色の者たちが、色とりどりの者たちが、集まりながらも、それほどきれいに事を済ませて行ったという事実はあり得ないことです。これは文某がよくやったからではありません、神がなされたのです。これは韓国文化史に、見逃すことのできない歴史的事件であったことを誰も否定することができません。否定する日には、世界人類の讒訴を受けるようになるでしょう。

 それをするのはどうしてかというと、神が願う本然の理想的男性が恋しくてするのです。神の復帰摂理歴史を回顧する場合において語る、六千年時代において、今日までの八十五万年の歴史において、一人の男性を探すことができなかったというのです。一人の男性を探して、「お前は骨の中の骨であり、肉の中の肉である」といって、「お前と私は一つである」ということができる愛の旗印の前に結束し得る父子の関係をもつことができなかったというのです。「私の愛よ、私の愛よ」ということのできる相対をもつことができなかったのです。

 皆さん、体験してみて、父母となって、その愛かどのような愛であるか説明しなくてもわかるでしょう。堕落した世界の鈍くしなびた我々の心でさえそうであったならば、本質的世界の本然の、それ自体の純粋な神の心の中の傷はどれほど大きかったでしょうか。偉大なる神として、体を起こして(堂々と)進んで行く余地のない事情をもって歩まれた神なのです。千万事情の曲折と、千万事情の悲惨なる運命に追われることがあっても、神が耐えている限り、我々はついて行かざるを得ないのです。そのような道を取ることが、逆説的な立場であるけれども(テープ聞き取り不能)的立場で(神が)消化歓迎してくれるということです。それがあるべき宗教の道であると私は確信します。皆さん、我々の噂は蔓延しました。レバレンド・ムーンのような人は、この世の枠ではかることのできない人だとそう言いました。そういうときに皆さんは、先生と言って、|テープ聞き取り不能|

 その者の主張は本物であります。その主張していた私自身が行く道は、その主張自体に場を確立したばかりでなく、それ自体の確立をするとともに、家庭が確定、自体の家庭が、未来の家庭が確定するのであり、未来の国家と、未来の世界と未来の天宙と未来の神の場を確定することであることを忘却してはならないというのです。そうであるから私は今日まで、息子を勉強させ、妻を生活させるとか、そのような家庭生活は考えもしませんでした。それはみんな自然にしてくれるようになっているのです。皆さんは、何を食べて何を着るかを心配しています。雀がどのように生きているのか、雀が、すべてのものが、私的なものを願うのは、皆異邦の人も願うのです。あなた方は先に、その国とその義のために。その国とその義とは何ですか。その国は愛の国であり、その義は生きているすべての義の過程、義を失ったために墮落したというのです。

 私は今まで百二十の国に人を遣わして、私がすることのできることをその国のためにしてきたのです。見てごらんなさい。一生がそうでありませんか。日本から迫害され、その次には北の金日成に迫害されそれと戦い、その次は李承晩に迫害され戦いました。韓国の人たちに、私が何か間違ったことをしていますか。自分の家に行って御飯をくれと言いましたか? 強盗をしでかしたのでしょうか。その次はアメリカです。私はアメリカの方向を正すために戦いました。レーガンのためにも応援しました。しかし、アメリカの行く道が険しくなったために、ワシントンタイムズを作って世界を救うための仕事をしているのです。そうすると大韓民国の人たちは、そういうお金を韓国に使ったならば、どれほど愛国者と言われるでしょうか。しかし神のみ旨は韓国だけではないのです。世界共産主義と向かいあって防衛できるのはアメリカ以外にないというのです。韓国が南北統一して、金日成を包囲してしまったということになれば、どのように中共を消化するのかということを考えなければなりません。

 不肖レバレンド・ムーンは、アメリカと日本を結んで、その背後において八十年代、九十年代とそういう働きをしながら、これを防衛できる防衛線を張ってきました。愛する神の前に、その息子として、悲しみを抱えたその父母の盾となって、「我々の父母は身に遣る悲しみを抱えているけれど、自分はもっと悲しい立場に立って、これを防御してみせる」と言い、事実そうすることができる一人の息子が、歴史上にレバレンド・ムーンしかありません。神が、「レバレンド・ムーンという人がいた、天心が探している息子だ」と、本当の息子だと呼んでサインするときこそ間違いない息子となるのです。「私はあなたの息子と呼ばれるのが厭です」と言っても、お前でなくてはならないと呼んで、称賛して愛さずにはいられない息子になるのです。三十代まで一人の男が民族が反対し、世界が反対するそのような焦点の立場に立つことによって、天をつかまえて天を慰労すると、身を震わせることのできる一人の男にならなくてはならないと決意したのです。財界万民が反対する、天を反対するその場において、私を訓練される神であることを知るときに、最後に残り得る息子になってみよう。その心でなくてはなりません。青春時代よ早く行け! 早く行け。四十の峠を早く越えよう! この峠を早く越えよう! 八十の峠が訪れてくる日には、勝敗を決定した日を、世界と共に迎えなければならない神の願いがあることを私は知っているために忙しいのです。

 今日、協会創立三十回を迎えるこの日において、昔、麦御飯もなくて食べられないで、寒い部屋で震えていたその日が忘れられません。かえってその日が天から近かった、そのようにしていても近かったのです。そのときは国を憂え、世界を憂えたのです。すべてのものが大きくなり、すべての基盤が拡大するにつれて、私という人がどのようにしているのかを知るでしょう。金を持っていようが、それは流れて行くものです。死んだときには、みんな置いて行くのです。私と相対的な夫婦、夫婦の愛、家庭の愛を中心として、その愛を拡大して世界のため、人類を愛し世界を愛すれば、それが最後に残るその国の自由圏決定の道なのです。それは共通しています。それでいつ国を考えながら、夜を明かし苦労をしたことがありますか。いつ世界の問題を身を震わせながら考えてみたことがありますか。人類の運命を誰かが解決しなければならないと憂慮の下に、先生が岐路に立って総責任をもって戦いをしてきました。どのようにみても、神の前には、レバレンド・ムーンという人がどうしてもそのような責任を負っているようです。

 今はもう、アメリカではとても有名ですよ。統一教会といってもわかりませんが、レバレンド・ムーンと言えばわかります。悪い意味での今までのイメージから、その名前が一夜にして良い名前に変わったならばどうでしょうか。生きておられる神は必ずそうされる日を準備しておられることを私は知っています。歴史時代に、統一教会の夜明けの日が近づいています。共産党が私を暗殺するための計画を至る所でやっていることを知っています。|テープ聞き取り不能―

 復帰摂理歴史の前線に訪ねて来る真なる息子がいる。今までの垢がついた、傷を受け悲痛な腫物をもった神の胸の中に、きれいに広げてあげて、あまりあるほどの純然たる愛が滝の水のように流れる私を抱いて、すべてを皆忘れるのです。かえって堕落があったことによって、幸福に暮らす神様ということができる、そのような場はないだろうかと、尋ねるのです。わかりました?

 これが協会三十周年、どんなに五十周年であっても、天下が歓迎する何かがなくてはなりません。そうすることのできる息子をもったという天の誇り得る数が千、千万にあふれるときには、そのような群たちが追求するその、三十年、あるいは五十年のその日は、讃揚すべき日であります。ここに数千名が集まってこのような祝賀の日をしたとしても、この中に一人もいない! レバレンド・ムーン以外にはいないというときには、その場は悲惨な場であることを知らなくてはなりません。

 使命を果たし得なかった祖先は蹴ってしまって、それ以上の場で神を慰労し得るそのような男性を神は探しておられます。またそのような女性を探しておられます。そのような男女が一つになって純情なる愛の圏内に地上に永遠の夫婦として立つことができます。これを土台にしてキリスト教では新郎新婦となって、婚姻の祝宴の日といっているのです。したがってその日の決定は宇宙史的なことであり、そのことを確実に決定した日は、神が喜ぶことのできる日であり、アダムとエバが喜ぶことのできる世界を悲惨な歴史の中で、継ぎはぎしながらこれを探すという神の救援の摂理の中で再現したその舞台が、祝宴の婚姻の席であったということを確実に知らなければなりません。女子たちはむろん、その場に参席することのできる自分になったでありましょうか。そうすることのできる男性と女性が出会い家庭基盤をもった神を絶対視して、純情の愛で、その人を中心として一つにな`ることによって、永遠不変の基地として残ることのできる純情の愛の基地を備えることのできる一つの礎石が、その愛の礎石が私によって置かれるというこのような基盤の下に誓約されてから、結婚式をしたのが合同結婚式であります。だから合同結婚式をしたという事実は大変な事実なのです。だから我々は行かなければなりません、慕う気持ちをもって年を取れば取るほど、躁急感を感じながら、あの山を越え、大海を越えて世界が一つにならなければならないのに、その世界を誰が連絡させるのでしょうか。

 そのような家庭同士が連合して、その家庭が神の愛に和することのできる家庭の因縁であり、氏族と民族と国家を超越してから一つの兄弟となり、神を父母と呼ぶことのできる氏族はどこにあり、国はどこにあるでしょうか。神が個人のお父様となり、家庭のお父様になるだけではなく、氏族のお父様であり、国のお父様にもならなければなりません。そのような神になるというその事実を我々は知っているのであります。単一民族主義時代は過ぎて、世界の終わりが近づいている今、体制を備えなくては世界的大共産主義の膨張に対して誰も足場を防ぐことができない時代になったために、ヨーロッパのEC圏ができたことを知っていますか? アジアはAC圏の編成を急がなくてはならない時が来ているのです。

 技術力も必要であり経済力も必要であるけれど神の愛に立脚した人こそ、過去、現在、未来の歴史の人たちの誰もが願うのであります。それで統一教会は神様主義を揚げてきているのです。レバレンド・ムーンは今まで、アメリカに行って、いる間に本当はアメリカ人が歓迎しなければならないのに、韓国の伝道者、韓国のビジネスマン、韓国の実業家といって非難されました。私が彼らより劣っているからこの事をしていると思っているのですか。神の願いあればこそ、共産主義以上、神がそれ以上サタン世界にある彼らを神側に救ってあげようと思うからこそやっているのです。世界の人類が、共産主義という暴力によって世界を支配するそのような論理体制で世界を一つに造るよりも、神を愛する法道において、愛を中心として統一することのできる思想を神は願っておられます。技術力において世界的なドイツを凌駕することができるのであります。また、経済力ではアメリカを凌駕する経済力を神も願うに相違ありません。レバレンド・ムーンはこのような考えをもっているのです。統一教会は、思想的世界においてすでに、チャンピオンになったという事実を知らなくてはなりません。すでに戦いは皆通過しました。共産主義も、民主主義も皆通過しました。これから大韓民国が科学技術の分野において私を心配する日には世界に入って行く道があるとみています。だからといって何も、協助を願っているのではありません。経済分野においても、神の願う愛の思想を中心として、超民族的超国家的な愛を中心とした世界を創ろうというのです。万民が解放を得る日、神が解放を迎える日の近いことを知っているために、共存共栄共益世界を築き、そ の解放を迎えるために新しい家族が神の前に前進するのです。戦うのです。統一教会の行く道は確実なのです。

 このような話を聞いてみて、皆さんはどこに行くのですか。家へ行くのですか。皆さん個人主義、その欲心にとらわれて倒れるのですか。私にはできません、過ぎた戦いがあまりにも悲惨であったので、過ぎた歴史はあまりにも悲惨でした。もどるにももどることができません。私はそのような道を歩いてきました。追われる身の立場を誰よりもよく知っているのが、レバレンド・ムーンです。今度、ある国の大統領候補者が来て、私に言うには「共産主義に追われるこの悲惨な自分の胸中はあなた以外知ってくれる人がないので私は訪ねてきました」。私にそのような話をしました。「そうかもっともな話だ。追われる身の立場はよくわかるとも、私が力が及ぶまで……」先生が歩んできた歴史時代において、六十の今まで太陽がありませんでした。朝に光明な陽光は天地万物が皆そこに向けて歓迎しますが、そのような世界を眺める私は、自由のない哀れな身でありました。環境を備えなければ、どこにも行くことができません。悪がどれほどひどいかを皆さんは知ってはいません。私はそのような悪いものに鞭打たれ外に捨てられました。先生の闘争歴史であります。レバレンド・ムーンの闘争歴史は悲惨でありますが、神の闘争歴史はそれ以上悲惨であることを皆さんは知らなければなりません。

 ここで、今後統一教会は第三世界時代で難所に入って行くとみるのです。私がドイツに手を付けたところ、ドイツが大きくひっくり返ってしまいました。今アメリカが大騒ぎです。思想界にこの新聞が出たと共産党が大変だとばかり騒いでいます。このように世界を激動させてどうするというのでしょう。それは、私は世界を押し上げながら神の前に走って行くのです。

 皆さん、妄想的な過去に考えていたキリスト教的なそのような信仰は、我々が改め、立て直さなくてはなりません。観念的信仰観、それ自体の居所を確実に知ることのできないそのような信仰姿勢は、放棄してしまわなくてはなりません。神は生きておられるのです。私と神とは霊的力において通じることのできる位置に立だなくてはならないのです。先生の生活の舞台において、彼と共に同じ心情的体恤圏内をもって戦っていかなければ、皆さんは敗者になるものとみているのです。その場は容易なものではありません。神を信じ万難を克服していくことのできる道、そうでなければ先生の行く道をその通りに従って行くか、その道以外にはないというのです。わかりましたか。

今回帰って来てから、三年をかけて、総動員をしました。神の座を定めることのできる家庭、先生は今そのような家庭を中心として、氏族、民族、国家編成し世界に、天宙にまで解放圏をもって神を心おきなくこの地球星にお迎えして、定座していただくために、親しく万民を冶め、「私の愛する息子、娘を、アダムとエバ時代に愛することができなかっだけれど、今は、愛してあまりあるので、私の喜びは今、千年万年、永遠無窮に継続されるでありましょう、アーメン」ということのできる神、そのような新しい神として迎えることができるように、我々は準備をしなければならないのであり、そのような神を迎えて、地上で共に生活していかなくては天上世界天国には入って行く道がないというのです。これを確実に知らなくてはなりません。わかりますか。(はい)。

 それは皆さん個人から批判し侮い改めなければなりません。昔、私が歩んできた道は、先生の生活は、金があるといってその金を私が包んでおきたくない、よく使って働く人です。借金を、百倍、千倍しても、家庭を全部捨てても、み旨一つのためにやってきました。お母様も自分の家に行くと、赤ちゃんをたくさん生んだので病気がちで、ああ、骨の節々が痛いと言っています。痛むものは痛いままにしておいてでも、行くべき道は忙しいのです。

 「出なさい」と言うときは出なければなりません。悲痛でしかありません。だからこそ、世界の地を復帰することができるのです。私はお母様にそのような話はしていません。また、先生の息子たちは何も知らない息子たちです。しかし時が来たならば、私が一つ一つ教えてあげて、場を定めてあげようとは考えたことがありません。カインを愛し、完全に世界的基準で愛さなければ、アベルを愛することのできない歴史の悲運を、あまりにもよく知っているからです。

 私のお父さん、お母さんの前に、お話を一度もしたことがないのですよ。原理の話を言うことができなかったのです。愛するお姉さん、妹、兄弟がいても、私はこのような使命をもっていると、話もできなかったのです。お母さんは息子が監獄に入ったといって、千里の道も厭わずに、月ごとに「こがし」を作って通われたお母さんです。目の前に現れたお母さんが涙を流せば―テ|プ聞き取り不能|のような号令をした息子です。

 私が行く道はあなたが永遠に天の愛の中に、感謝、讃揚することのできる天の国を探して行かなければならないのであり、世界解放のその日のために行く道であります。その膝とその肩は、千遍万遍十字架の荷を引いていかなくてはならない運命の道であると。あなたの息子とだけ思えば滅びる。そうした後から、持って来た『こがし』とか『服』とかを全部皆人に振る舞ったのです。それは嘘ではありませんよ。三十回を迎えて、これでもうレバレンド・ムーンは歴史上から消えません。あの南米をみるならば、南米のすべての為政者たちが私を追慕しているのです。アフリカでもそういう話があります。ソ連とアメリカが核兵器を中心にして戦争するのを仲直りさせようとしている人です。そのような基盤を造っています。万年を克服した、千尋の事情の曲折を克服する仕事を仕上げるために、基礎作業は皆終わらせました。

 今私が死んでも、統一教会、文某は後には天が認定するでありましよう。サタンまで認定することができるという事実を知っています。さあこのような背後の事情がどれほど複雑であるかを知って、皆さんも残る民族のため、南北の統一とアジアの統合のため、世界統一のため行かなくてはなりません。また、英雄のように、ゲリラ戦をする群と同じように、この立場に立ちながら共産党以上の実力をもって、万難環境を克服し、打開していくのに先導的責任を果たすだけでなく、実績をもって見せてあげる教材をもった皆さんとなることをお願いします。今日、三十回を迎えた歴史的摂理路程の回顧においての最も重要なことは、教材を造らなければならないということです。わかりましたか。回顧録の中に、私の歴史は千万年死なずに生き残ることのできる教材であった!こうすることのできる道を行くため、教理を確かめることが今日、三十回協会創立記念において、これが意義のある日なのです。

 そうすることを決意する人、両手を挙げて天の前に誓う人、立ってください。



一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

奇知の外の凡人 が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2021.11.07 23:14:54
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